【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その15
前スレ
その14
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1298138479/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
前スレで、記紀中心のレスをする派と考古学中心派の対立・論争があったが、考古学中心なら
考古学板でやれ、というのは正論。
ただし、記紀の記述をそのままますべて正しいとしての立論は、否定も肯定もできず、それ以上
の議論の発展は難しいだろう。だから、考古学・人類学・神話学などによる裏付けはぜひともほしい
ところ。
4 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 21:23:40.39
>>1 乙 こっちも色々やったがなんか規制が厳しかった。。
>>3 まあ歴史なんて所詮は「近似値」
「文献」だろうが「考古」だろうがそれを求める為の手段に過ぎない。
どちらを優位に置くとかは意味がない話。
記紀がすべて史実を書いているとする人は少ないだろう。ある部分をとりあげて
この部分にはこういう史実が反映されている、と説くのならば、その根拠を明示して
もらえれば、根拠の確かさについて議論することができる。
7 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 21:51:01.97
前スレの最後の方は妄想投稿が多くなり、かなり荒れてたから、大事な提言がスルーされてるように思う。
いくつか貼り付けてくれれば、議論に助走がつくかと。
携帯からなんで貼り付けが出来ない…
800 :はいはい定期的整理なwww:2011/05/06(金) 21:29:42.76
『欠史八代』といわれる王は果たして実在したか?…と問うた時
「実在」と言う物を何処まで記紀の記述に一致したかが問題になるが
大王と言えるような存在が記紀の伝える王統譜通りに存在したと言うのはもはや誰も考えていないだろう。
少なくとも纏向を見る限り(ゆえにこの板ではある種の連中から纏向が忌み嫌われるw)
先ずいつも言っているが纏向は位置的には崇神ではなくて垂仁・景行の宮のあったとされる地であって
崇神の宮(磯城瑞籬宮)はもう少し南になる。
恐らく”ある種の連中”は纏向を崇神ではなく垂仁・景行の宮とする方が何かと都合が良いだろうがw
仮に崇神の磯城瑞籬宮の伝承地に何がしかの遺跡が出てきたとして
それがヤマト王権の勢力の飛躍的拡大が見えるような物だとは誰も想像していないだろうwww
記紀の記述を真に受ければ開化の代までに畿内をほぼ統一してなければならず
崇神の代で四道将軍の派遣なんていう二正面作戦おろか四正面作戦と言う超絶ウルトラC
「信長の野望」も裸足おろか裸で逃げ出す神業で全国支配に乗り出している。
(しかも前哨戦とばかりに武埴安彦を叩き潰して後と言うから益々話は膨らむw)
とにかく現時点纏向がヤマト王権揺籃の地であったと言うのが常識レベルのお話。
畿内全域を統治したような王がそれ以前にいたと言うのはあまりにもリアリティが無い。
『欠史八代』は別に考古学の分野から出た語ではないが
考古学はそれを肯定していると言うのが現状。
今更わざわざいう話でもないがwww
801 :嘘800:2011/05/06(金) 21:33:12.32
で、
>>800で言った内容を考えると、むしろ崇神の実在を疑ってみても良いと思うw
と言うか実は崇神と垂仁が入れ替わっているとしたら?
(時代の前後と言うよりは、ほぼ同時代でNo1とNo2の関係)
崇神に冠せられた「はつくにしらす…」は垂仁の事ではなかったか?
纏向が垂仁の宮であるという以外にも
ご存知、倭人伝における官として出てくる序列の問題が引っ掛かる。
(このスレの人間なら大抵は分ると思うので詳しくは書かない)
まあ音韻発音は全く知らないので否定肯定どっちにせよ何がしか意見していただければありがたい。
で、じゃあ「何でそんな事をしたのか?」と言うツッコミは当然あるだろうがwww
崇神・垂仁の時代には既に後に佐紀古墳群を形成する盆地北部の勢力があって
崇神を実質的な祖と仰ぐ後に河内に進出した勢力によって今日の記紀の王統譜が作られたのではないかと…
(ついでに言うと三輪の南には雄略や武烈の宮があったとされる)
808 :日本@名無史さん:2011/05/06(金) 23:53:45.76
>>805 たしかに紀では纒向珠城宮、記では師木玉垣宮になってるな。
言われてみれば一代ごとに都をポンポン移動させるというのもいささか非効率。
>>801 >崇神・垂仁の時代には既に後に佐紀古墳群を形成する盆地北部の勢力があって
イクメさんの陵墓は伝承に従えばマキムクや柳本古墳群ではなく、佐紀盾列古墳群にあるという。
支配地ではなく故郷に陵墓を築きたかったというのだろうか?
11 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 22:05:22.40
959 :日本@名無史さん:2011/05/11(水) 00:08:02.13
少し
>>850まで話を戻させてもらうと
伝承されている墓の位置だけ見れば垂仁より先、開化の時代に盆地の北部に陵墓を持つ王が現れている事になる。
そして三輪から見て盆地の北部その更に先の山背から武埴安彦が攻めてきたと記紀にある。
そこら辺盆地北部や山代の勢力の纏向・三輪朝への参画時期と同時に確執時期を想像できるかもしれないwww
(ちなみに椿井大塚は三角の編年からすれば最古ではないと言うのも関係するか?)
巷間あるいはこのスレでも纏向を中心にして東西−西は河内・播磨そして吉備、東は東海−のことは語られてきたが
視座を南北の軸にうつす話はあまりなかったように思う。
13 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 22:26:05.57
うん、なる程。
マキムクが廃絶され河内に移る前の一時期に、佐紀盾列に移るのをどう考えるかだと個人的には思う。
東西線vs南北線の綱の引っ張り合い、主導権争いがあって、最終的に東西線が勝つ。
柳本→佐紀→河内の流れをこういう風に捉えられないかな?
14 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 02:19:58.24
モモソ媛命=卑弥呼説が事実ならば
欠史八代の天皇たちは実在した人物の可能性が高くなると同時に
一方で、彼らが、その当時の倭王の地位にあったのか
疑問符がつくよ。
つまり、欠史八代の系譜は事実の可能性が高いが
一方で、彼らが歴代の天皇にカウントして良い人物なのか?
同時に疑問符がつくわけだ。
だって、記紀の上では、モモソ媛命は、天皇(すめらみこと)の地位にあらず、
あくまでも、皇族出身の巫女の女性にすぎないから。
それが、中国の史書では、倭王ということにされ
記紀にあるミマキイリ彦(崇神天皇)のほうは、実際の政治を行う男弟だから。
15 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 03:18:15.87
現在でさえクレムリンや北京、ピョンヤン内部の権力関係は把握しにくい。
三世紀の倭(と当時の中国人が呼んだ)の権力関係を中国の史書から推察するのは難しい。
16 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 12:43:39.40
欠史八代の話をする時は、考古学やら神話学など、できるだけ具体的根拠を絡めること。
記紀の記述は正しい筈、をお題目のように主張されても、誰も納得しないよ。
2chのルールを守りましょう
考古学厨は荒らしです
荒らし、煽り、駄スレは徹底放置!
これらに反応する事は荒らしへの加担にしかなりません!!
倭人伝、記紀中心の話題は日本史板
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>>17 >>1を読め、お前がスレ違い
日本書紀、邪馬台国関連スレはこの板にあるのだから、お前がそっちに逝け
19 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 15:14:20.96
日本書紀を「捏造」とする人々は、何を根拠に箸墓古墳の被葬者を「女性」とするの?
記紀だと肝心な年代が合わないんだから
どんな説も考古学的補強がないと成り立たないでしょ
21 :
12(前スレ959):2011/05/12(木) 18:25:30.19
>>13 要するにヤマト王権の初期、所謂「三輪朝」時に既に後に
北(佐紀)に展開する集団と、東(河内)に展開する集団が対立競合していたのではないか?と言う妄想なんだけどねwww
で、更に妄想を重ねさせてもらうとw
血統的?に正統なのは実は佐紀のグループであってそれを無理やり河内朝につなげる為に出てきたのが
(一説にその原型が但馬国出石(兵庫県北部)で信仰されていた地母神とも言われる)神功皇后と仁徳の母子だとw
で更に更にこの話には先があってw
後に「南北軸」の逆襲が近江越から来た継体によってなされると…
河内朝で冷や飯食わされていた不満分子が正統派の末裔を担いだとw
書いている自分自身ですら歴史が上書きに次ぐ上書きでもうぐちゃぐちゃと言う印象なんだが(苦笑
あまり細かいところまで考えていないザルなんで突っ込まないで(はあと w
まあどの道話は纏向以後だからすれ違いな内容だな脱線スマヌ…
22 :
21訂正:2011/05/12(木) 18:27:50.03
(誤)東(河内)に展開
↓
(正)西(河内)に展開
…うーん、お箸を持つ方が右、ヨシ!w
23 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 20:32:04.63
24 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 20:45:17.64
ミマキイリ彦(崇神天皇)の時代に政治体制が大きく変わった。
というか、その前哨戦が、欠史8代の時代、
つまり、魏志倭人伝にいうところの、倭国大乱だろう?
ミマキイリ彦は、いろいろ政治改革、つーか宗教改革やっている。
25 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 20:51:13.20
ミマキイリ彦(崇神天皇)の宗教改革で重要なのは、
大物主や天照の祭り方をかえ、
あと、ヤマト最高位の巫女の地位に関すること。
このヤマト最高位の巫女が、どうも、中国の史書では
倭王とされているんだよな。
もし、このヤマト最高位の巫女こそが、真の倭王とされているとしたら
最終的には、ミマキイリ彦は、この正統な倭王を、政治の場から離して
有名無事化してしまったことになる。
26 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 21:45:09.44
>>19 実は考古学の人の大半は、箸墓=ヒミコの墓に懐疑的だよ。証拠がまったくないし。
民博は布留0を3世紀半ばのヒミコが死んだとされる時期にしてるが、それは実は急進派で、
穏健派の考古学者は布留0を3世紀後半と言っている。その場合、ヒミコの墓はマキムク石塚になるかな。
27 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 21:58:26.76
>>21 東西vs南北、というより、西南vs東北、て感じがする。
西―葛城河内吉備、南―紀伊vs東―東海、北―山城近江越丹波。
各地勢力の中間点、緩衝地帯が奈良盆地の東南部、マキムクで、そこに都(大王の奥津城)が築かれた。
その後、高句麗南下という国家的難局で、葛城吉備の発言力が増し、河内方面に中心が移る。
神功応神は筑紫地方に伝承が多く残る。筑紫地方の母子神信仰、オオタラシヒメがモデルじゃないでしょうか?
28 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:13:05.99
歴史的に見て、王都の決められ方は3パターンあって。
一つ目は、 当時一番勢力を持っていた者が、自らの根拠地近くに都を造る場合。
二つ目は、征服者が反対勢力を抑える為に、敢えて反対勢力の本丸に乗り込み、都を造る場合。
三つ目が、諸勢力の力関係が拮抗していて、その中間点、緩衝地域に都が築かれる場合。
@の例は鎌倉、安土桃山、江戸。
Aの例は室町、明治。
Bがマキムクなんじゃないかと思う。
鎌倉も関東豪族の緩衝地帯が選ばれた可能性があるが
29 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:58:47.85
神聖ローマ帝国のローマなんかも考えられないか?
諸国を統べる皇帝(選帝侯から推挙される)がローマで戴冠する
実質はそれぞれの皇帝本領が都になる
31 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 01:20:47.57
古代は天皇の代替わりごとに新しい宮を建造していた。建築の耐用年数が短かったのかもしれないし宗教的な意味合いもあったのかもしれない。
だた、大和から遠く放れた地に宮を作る場合はそれ以外の動機があるのではないだろうか?大和の豪族達を彼らの本拠地から切り離すというような。
大和に本拠地を置きそれなりの力を持つ豪族達を本拠地から離れての赴任するような形にすれば、彼らはただの官僚になってしまう。
そうすれば監視しやすいし反乱も起こせない。豪族達の既得権益と対立するような改革を行う場合や負担を強いる大規模な軍事行動を
起こす場合には好都合だ。律令国家への改革を進めた天智天皇が、大津に宮を移したのはこういう動機からではないか?
景行天皇が、近江志賀高穴穂宮に移ったことも彼が九州や関東に軍を派遣したことからすれば、決して荒唐無稽な創作ともいえないと思う。
32 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 01:30:37.95
>>26 それも変わってきているわな。
というのは、箸墓を3世紀後半で台与の墓だとか言っていた
某有名な考古学者の先生は
さいきんでは、箸墓を3世紀中ごろで卑弥呼の墓だという風に
徐々に軌道修正させてきている。
とまあ、考古学ってのは、基本、曖昧だらけで、
1年たつごとに、学者さんもたえず、考えを軌道修正しまくっている。
土器編年でやる以上は前後に相当程度の誤差をみなくちゃならない。ただし倭人伝など
に引きずられて、箸墓=卑弥呼の墓とするのは考古学的手法ではない。
34 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 01:40:38.46
巻向遺跡から、桃の種が大量に出てきたのは
卑弥呼=モモソ媛命への誘導目的かと思ったよ。
やたら、卑弥呼と桃の関係で大騒ぎだから。
考古学者の先生も、モモソ媛命=卑弥呼説に傾いているのかと思った。
あれ以降、箸墓=台与の墓説を出していた某考古学者先生は
箸墓=卑弥呼の墓に傾いてきている。
35 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 01:42:25.64
このスレは、やたら記紀の話を出すと嫌う。
まあ、たしかに纏向遺跡の話のスレだから、考古学的な話題に傾きやすい
スレだとは思うのだが、ここは、一応、日本史板のスレだからな。
考古学の板は、別にあるしな。
36 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 06:49:03.42
3〜4世紀の話をする時は考古学に軸足を置くのは当たり前の話だろう。
記紀の話も、別にアレルギーがある訳じゃなく。記紀の記載は基本正しい、のスタンスでは話が進まない。出来るだけ考古学的根拠をつけて、と言ってるだけの話なんだがな。
欠史八代=倭国大乱の時代、と何度も書いてる奴がいるが、
それならきちんと欠史のと倭国大乱の考古学的根拠を示して、と言うと、ファビョって考古学板に行け、とか。話にならない。
37 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 08:13:38.22
>>36 つーか、卑弥呼=モモソ媛命ならば、
記紀の系譜の倭人伝の記述からみて、欠史八代=倭国大乱だろう?
そう、倭人伝を無視出来ないよな。
ここの住民の一部は邪馬台国や倭人伝の話を嫌う傾向があるが、
これもよく考えてみたらおかしな話。
モロに三世紀の事なのにな。
倭人伝に倭種のことなんて詳しく書いてないからな
40 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 12:31:55.89
>>37 ていうか、マキムク以前の倭国って、そんなに大乱してたのか?君の大好きな記紀にさえ書いてないぞ?
そもそも、倭国大乱=欠史八代だと主張して、一体何を語りたいのかが分からない。
記紀に書かれていない歴史を妄想する時の参考資料にするのか?
41 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 18:08:33.83
>>40 記紀には、欠史八代というぐらいだから、皇室の系譜に関する記述ぐらいしか書かれていない。
また、日本最古の系図といわれる国宝海部氏系図でも
平安時代に京都朝廷が、海部氏・尾張氏に対して
欠史八代の世代に該当する尾張氏の当主について
書かないように圧力をかけていたことが分っている。
つまり、欠史八代の時代の出来事は、皇室にとって都合が悪かった可能性が高い。
そして、現在、注目されている箸墓古墳が、卑弥呼の墓だとしたら
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命ということになる。
記紀によると、このモモソ媛命は、欠史八代の天皇である7代天皇の皇女ということになっている。
卑弥呼は倭国大乱を鎮めた直後に倭王になったと、魏志倭人伝にあるが
だとしたら、まさに、倭国大乱と欠史八代は同時代ということになる。
42 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 18:20:21.78
モモソヒメも欠史八代も実在した証拠はどこにもない。
8世紀に書かれた記紀以外にはw
古史古伝も載ってるはずだが?
さらに四国には百襲媛の伝承があり、それが水虫治しの神社だ。
44 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 18:49:43.39
ひょっとすると空気を読まない書き込みかもしれんがw
自分としては「卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命」説にはやや懐疑的、少なくとも諸手を上げて賛成はしかねる部分がある。
先ず簡単に言ってしまうと
「古代の日本においては卑弥呼のような役割の女性は各氏族ごとにいて特異な存在ではなかったのではないか?」と言うこと
そもそも武埴安彦の嫁も戦いの前に呪詛を行い戦になってからは大坂から軍を率いて攻め込んでいる。
また卑弥呼の候補としても挙げられる事のある田油津媛は、こっちは兄妹で戦場に出てきている。
他にも例があると思うがこう言った女性がそこらかしこにいたとすれば倭迹迹日百襲媛命の「特異性」みたいなものも随分下がると思う。
次に倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼にすれば当然、武埴安彦=卑弥弓呼と言う図式になるだろうが
記紀の系譜で言えば間違いなく「身内」であって魏に報告した卑弥呼の意図がどう言うものであったにしろ
「身内の喧嘩」を冊封関係を結んだ先方に知らせるってどうよ?と言う疑問w
あと一族と言う関係以外にも地理的に狗奴国=山背(方面)と言うのも近すぎると言うのが素朴な疑問w
45 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 19:15:08.70
>>41 都合が悪かったから書かせなかった→だから欠史、て理屈も大概妄想だよなあ。
豪族たちが記紀編纂以降、正史に遠慮して書き換えたとかはいかにもありそうなことだが。
>>41 雄略、武烈の悪事がまともに記載されているので、欠史八代の史実が
殆どないのは、朝廷に都合が悪いから書かなかったとは言い難い。
当時は倍暦を行使しており、通常の暦法での計算では記事の年代に
合わない個所が多出していて、正確に年代の特定が困難のことから
記載をためらい、保留としたということだ。
それが困難とはいえ、これではないかとして卑弥呼を神功皇后にあて
たことが神功39年の記事で分かる。八代の場合はそういう不正確の
頭打ちが多い年代だったから、記載をためらったと観ている。
なお倍暦の逆算から、卑弥呼の数年前に百襲媛が死亡しており、このこと
は両者が別人であることが確認される。
47 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 19:30:50.30
記紀の説話を安易に邪馬台国に結びつけるのは、「ぼくの考えた妄想歴史」でしかない。
歴史をクリエイトする韓流時代劇のチュモンとかキムスロと同じレベル。
48 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 19:34:39.06
倭国乱、てのも、実際はどんなものかは分かっていないし。
7〜80年男王で治まっていた、てのは、おそらく玄界灘グループの奴国や帥升のこと。
あくまで中国から見て、昔から使者を送ってくる筑紫王の元、倭国が治まっていたという認識だろう。
その筑紫王体制が7〜80年続いた後、出雲の西谷や吉備の楯築などが造られ、倭国にいくつもの王権が生まれる。
倭国乱の実態は大和の内部抗争とかとは違うんじゃないかな。
>>48 >倭国乱の実態は大和の内部抗争とかとは違うんじゃないかな。
大乱といわれてしまうと、大規模な武力衝突を連想させるが、実際のところあまり武力衝突を想起させる考古遺物は少ない。
案外、戦乱とか争乱とかっていう武力衝突的な性質のものではなく、
騒乱とか混乱といった政治的対立だったり、
場合によっては疫病とか飢饉とかだったのかもしれない。
>>38 嫌うのはそこではなく
考古事実を意図的に無視した自分説を語る行為だよ
まず
>>1の概要はおそらくひっくり返ることはない
となれば、もし纏向の地に崇神を持ってくるならば、八代はがとえ実在だったにせよ
どこの出身か分からない崇神の系譜ということになる
また卑弥呼を持ってくると倭人伝の内容と考古事実の齟齬に必ずぶち当たって
今まで書かれたような、モモソ=ヒミコならとまず仮定を前提にして話を組み立てるか
あるいは倭人伝か正しく考古成果が間違っているという原理主義に陥る
ここでとりあえず質問をしよう
纏向と崇神(景行でもよい)が深い関係にあるのなら、彼の祖先はどの勢力の系譜だと考えているのか?その考古学的根拠は?
またヒミコ=モモソならば、倭人伝の記載があまりに考古事実と相反するのは何故か?
これくらいは、考古資料の恣意的な使用や無視をせずに答えられてこそ、文献を語る資格があるってもんじゃないかと思うよ
51 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 20:47:24.69
このスレの住人大半は、考古資料と倭人伝、記紀のすり合わせをしようとしてるよ。
倭人伝、記紀嫌いが一部にいるのはいるが、ごく少数。
まずその認識を改めよう。それから考古資料や比較神話学にも目を通した上で書き込みをして欲しい。
考古学嫌いは、記紀嫌いや倭人伝嫌いと同レベルだよ。
>>51 大半というか、つい最近大挙して押し寄せてきた「移民」だね
ここは元々細々と続く過疎スレで、倭人伝や記紀を中心とした話題はドン来いとかでお好きにやってもらって
その分ここは違うアプローチから纏向ひいては3世紀以降のクニの纏まりを考察するという趣旨だった
妄想用スレは別にきちんとあるんだし、わざわざこのスレに書き込む意味が分からない
もしかして、ここが畿内説の本丸だと勘違いしているのかも知れないね
53 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 21:14:30.48
畿内説の本丸だろ、常識的に考えてw
倭人伝やら記紀だけを話してても、考古学だけ話してても埒があかない。
だからこのスレがある。
考古学に軸足を置いて、なおかつ倭人伝や記紀を語る、てのがこのスレのスタンス。
考古学だけなら考古学板へ行け!って言われてしまうよ?それでもいいの?w
>>53 いや畿内説とかみたいな古い考え方なんて、どーでもいいからw
客観的に見て、場所だけ当たっていたというのが昔ながらの畿内説
これは答えだけ合っていて、途中の式は大間違いということと全く同じだよ
そりゃあ式も答えも間違いという他の説よりはましかも知れないが、それは目くそ鼻くそ
と言うか君の言う「考古学に軸足を置いて」すらいないのが、移民でわらわらやってきたから
ここならボクの妄想を読んでくれる!とばかりに勘違いして擦り寄ってきたか
畿内説の本丸に異議奉る!みたいな勘違い厨が粘着してるんじゃないかな
繰り返すが
>>1が基本なんだと思うよ
>>54 巻向は新たな発見が続いてる訳だから、移民が来るのはある意味
もう仕方がない、諦めた方がいいんですよ。
選挙王って考えはないの?
力量のある王だと纏まるけど、対立する可能性を秘めている。
王様候補が対立して困ってしまって、政治的に中立な卑弥呼を王様に祭り上げるとか。
また、神武は王になったけど、八代は王じゃなかった。
崇神以降王家と認識されだしてから、八代みんな王にしちゃったとか。
後代だが、群臣が天皇を推挙し、推挙された天皇が大臣大連を任命する手続きを踏んでたと思う。
結構筋がよさそうなんだが。
欠史八代 南北朝戦国時代
崇神垂仁 信長
景行神功 秀吉
応神仁徳 家康
58 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:43:46.57
欠史八代の話は勇み足な感じがするなあ。少なくとも考古学の資料とも倭人伝の記述とも相違点が多すぎる。
もっと記紀濃度を薄めて冷静にならないと、また反発を食らうよw
選挙とかはどうかと思うが、少なくともこのスレでは、
応神以前は一つの血統が大王位を独占していたわけではなく、
複数の有力豪族が大王位を持ち回りにしていたんじゃないか?という意見があって、
概ね賛同を得ていたんじゃないかと思う。
少なくとも複数の王統が並立していた状況は、柳本古墳群と同時期の、磐余の茶臼・メスリ山からも推測出来る。
というかね、記紀にしても文献史学の基本を踏まえてやってるという人は少ない。特に原典批判が
足りない。記紀がかかれた当時の政治状況、編纂の詳細、記紀の原資料等々、これらについてどれだけの
知識があるのか?
60 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 10:12:08.69
このスレの自称文献派が勉強不足なのは確かに感じていた。
直木孝次郎とか門脇禎二くらいはせめて読んでるんだろうな?
>>58 持ち回りはそんなに有力説でもないだろ。
箸墓から渋谷向山まで、茶臼・メスリ入れて100年で6古墳。
てことは1代16〜17年の「長期政権」で、言うなれば、
A族の長の次にB族の長が王位に就くのは17年後、C族の長はさらにその17年先まで待って、
みたいなことで、そんな不安定な中であれだけ規格性をもった「古墳文化」が全国に浸透していくとも考えられない。
それに、茶臼・メスリはその単独築造というあり方から、大王墓とは見なさない意見も強い。
>>60 直木とか門脇読んでるから妄想が膨らむようになっちゃんたんじゃないか?
というか「続日本紀」を読んで編纂の状況とか確認してる人がまず少ない。
64 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 10:41:54.69
>>61 茶臼メスリはなにせ、記紀好きが大好きな磐余地方だからなw
で、東海との窓口の位置にあり、おそらくは東国経営に携わった造墓集団の墓だろう。
一時的にこの勢力が大王位に就いてたんじゃないかと思える程の大きさだけどね。
大王墓と見做さない、とか、どういう基準なのか教えて欲しいものだ。
君の理屈から言えば、全国第4位の吉備造山も大王墓じゃないんだよね。
65 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 10:43:50.37
>>60 >直木孝次郎とか門脇禎二くらいはせめて読んでるんだろうな?
門脇って妄想歴史学者の代表みたいなもんだろうw
しかも、自分のイデオロギー実現のために、死の直前に
邪馬台国九州説の転向した老人
>直木孝次郎とか門脇禎二
こんなのいきなり読むからおかしくなるんだと思う。文献の理解にはなるべく時代の近い
古典資料から読んでいくのが鉄則。奈良・平安の文献で記紀に言及しているものを。
以前からこのスレの中に門脇信者がまぎれこんでいる。
プロじゃあるまいし『日本紀私記』なんか読んでるやつはいないだろ。
69 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 11:21:01.59
門脇が根拠のない妄想の人なのは知ってるが、考古学資料が出揃わない時期に発表してたんだからまあ仕方がない、てことでw
俺が聞きだいのは、文献派を自称する以上、最低限新書で手に入り易い門脇程度は読んでるんだろうな?ということ。
逆に聞きたいが、文献派なら最低限この人、みたいな重鎮がいるのか?
70 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 11:28:55.41
なんにせよ、神武とか欠史八代とか言ってる奴らは、どっかに消えてほしいわ。
記紀をある程度考慮するにせよ、そのあたりの系譜や説話を話題の中心にもってくる神経が理解できん。
71 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 11:57:07.77
まあ、何らかの伝承を語り部が伝えてる可能性があるから、記紀もあながち捨てたものじゃない、と思うがな。
少なくともマキムクの頃の記憶は、改変があるにしろ、何らかの形では伝えてるっぽい。
少なくとも考古学主体で妄想する分には、まあ記紀の話をしてもいいと思う。
倭人伝も外国産とは言え一応同時代資料だから、敬意を表すべき。頭から否定するのはダメだろ
>>1 の老教授によるテンプレでは
>伊都国主導というのも有力説ですし
とあり、倭人伝を必ずしも否定するものでもないと思う。個人的には初期前方後円墳の各地への
急速な伝播は、卑弥呼倭王冊封が契機となっていると考える。
73 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:15:43.19
欠史八代は8世紀の創作とまでは言わずとも、
王朝とは無縁の地方豪族を系譜にとりこんだものだろうな。
もちろん、考古資料で実在の証明などできないし、考古学に知見を与えることもない。
欠史八代は全くの架空と言っても、事実上さしつかえない。
むしろ架空と言ったほうが、学者としては批判は受けない。そういうもの。
74 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:31:06.18
しかし、畿内説で統一見解がなされれば、
日本建国の歴史を語る上で、欠史八代の話は有意義になってくる。
モモソヒメは、吉備のキビツヒコと姉弟だったというのだから、
大和と吉備の同盟関係があったことを示唆するし、考古学上も否定されるものではない。
韓国みたいに極端に歴史を捏造するのもよくないが、
エジプトのクレオパトラの実在を否定するやつはおらんだろうし、
それなら、モモソヒメも実在したし、崇神も実在したと言っても何も問題ない。
全て架空だとかいって相対化するのは、いろいろな意味でよろしくない。
逆に政治的なイデオロギーを感じる。
75 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:31:27.36
>>49 > 案外、戦乱とか争乱とかっていう武力衝突的な性質のものではなく、
> 騒乱とか混乱といった政治的対立だったり、
> 場合によっては疫病とか飢饉とかだったのかもしれない。
なるほど。
76 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:32:02.43
要は、欠史八代の宮や陵が筑紫にあれば、信用できたんだろうけど。
マキムク以前から奈良盆地に倭国の中心があったとか、とても信用できない。
てのが率直な意見。
77 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:38:47.00
キビツヒコは吉備、モモソヒメは讃岐で祭神となり、
モモソヒメの父は、唐古・鍵遺跡に宮を置き、祖父は淡路島にいた。
考古学的に何も無いと思われていた淡路島からは鉄器工房が見つかった。
8世紀の作り話と言うには、大和王権成立直前の社会の様相をよく言い表しているのではないか?
78 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:39:04.11
>>72 筑紫の立場は、三角縁が舶載が国産かで変わってくる。
舶載なら筑紫の協力は不可欠だし、国産なら筑紫はマキムク王権には参画していなかったのだろう。
個人的には、那珂八幡から三角縁が出てきてるから、筑紫は参加してたし、三角縁な舶載だと思うけどな。
>>78 三角以前の画文のルートと分布では、九州経由なのは間違いないと思うけど、
ただ筑紫の協力というより、瀬戸内連合主導で交易ルートがつくられている感じ。
80 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:53:27.53
>>76 欠史八代の宮が九州にあって、漢や魏に遣いを出してたとかいう記述があったら、
それこそ信用できんわ。
中国の古典を引用して歴史を創作したことが濃厚になる。
むしろ、魏志倭人伝と不一致な記述が多い記紀は、大和の歴史をそれなりに伝えてると言える。
欠史八代が九州を支配したなどという記述は無いし、倭国の代表として中国に使節を出した記述も無い。
このことは、欠史八代の時代が、近畿を中心とした地方政権であったことを意味する。
その頃、九州は、中国と交易があったのだろうが、それは記紀の知るところではない。
では、卑弥呼も邪馬台国も九州にあって、畿内王権とは別だったのか?という話しになるわけだが。
3世紀には、九州も近畿の庄内式土器を受け入れていたことから、別勢力とは言えない、
九州と近畿は同一の連合国を形成しており、その後、古墳時代は近畿から始まるわけなので、
卑弥呼も近畿にいたと結論せざるをえないわけであり、大きな墓に葬られた卑弥呼とは、
モモソヒメその人という結論になるのである。
81 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:59:39.58
九州説の人は、すぐに、「他方が他方を支配した」と空想しがちだ。
九州が近畿を支配することはありえても、近畿が九州を支配するなどありえない、というわけだ。
しかし、「他方が他方を支配した」という概念は、いいかげんに捨てるべきだ。
卑弥呼は共立されたのであって、強権的に他方を支配したわけではない。
1世紀頃は、九州と近畿は別勢力だったが、その後、
3世紀には、九州は、近畿の卑弥呼共立に参画した、というだけの話しだ。
おそらく、九州説の人には理解不能な話しだろうが、歴史の真実とはそういうものだ。
というか畿内ー九州で兵を出して制圧するなんて3世紀では無理。無理だからこそ中国に朝貢して
後ろ盾を得たわけだ。
83 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 13:11:57.94
地図を広げて、九州の地政をよく見てみるといい。
九州は、朝鮮半島との玄関で、だから鉄器も多く、先進文物も多く輸入された。
しかし、鉄を輸入する代金として、何が支払われたのか?
九州だけで経済が完結できたのか?
少し頭の良い経営者なら、米一俵で買い付けた鉄を、米二俵で吉備に売るだろう。
九州は吉備と交易することで、いくらでも稼ぐことができるが、
九州だけで経済を完結させても何の利益も生まない。
経済学からも、邪馬台国が九州だけというのは、およそ考えられないことがわかるだろう。
鉄器の輸入については、吉備は九州に依存していたが、
九州もまた、吉備に依存しなければ、鉄器を輸入して繁栄を続けることができない状況に陥った。
そうした交易の相互依存の強まりが、九州の独立性を薄めてしまい、
近畿の卑弥呼体制に加わる必要性に九州は追い込まれた、ということなのである。
3世紀後半に加羅で政変があったことが発掘結果からわかっている。おそらく鉄を供給していた
加羅の勢力が、直接畿内側と結ぶ事情があったのだろう。それが公孫氏の滅亡と、卑弥呼の冊封。
九州は間をスカされたと見る。畿内側は西新を中心とした交易拠点を九州に築き、伊都国を抑えに
かかる、という図式。
85 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 13:57:55.30
>>74 欠史八代の記述や系譜を過大評価するのは、韓国時代劇なみの歴史クリエイトと変わらないぞ。
86 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 14:11:30.57
考古学と齟齬が無い範囲ならOKだろ?
87 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 15:05:54.81
記紀信者ってのは、要するにこんな感じ?
↓ ↓ ↓
史実とか事実はどうでもいいんだよ。
要は日本人として誇りの持てる歴史を書けってこと。
いいか、よく聞けよ。
一番大事なことは、歴史的事実がどうであったかということではなく、
日本にとって望ましい歴史とはどうあるべきかってことだ。
愛国心のある日本人なら、そこんとこわかるだろ。
問題なのは事実がどうだったかってことじゃない。
日本人にふさわしい日本に誇りを持てる歴史を書くってこと。
88 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 15:28:03.81
89 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 16:22:14.00
きちんと文献に残されてる記述を引用して、歴史に肉付けすることは許されるのではないか?
一番してはいけないのは、記紀にも書いてないこと、考古学でも立証されてない、
オレサマ歴史を垂れ流すことだろう。
たとえば、崇神=神武だとして東遷説を唱えたり、任那の王族が日本に来てミマキイリヒコになったとか、
そういうくだらん話は、叩き潰すべきこと。
>>72 それは、「説」としか言及していない。
要するにいわゆる邪馬台国論争に対して「気を使った」だけ。
91 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 16:47:23.14
>>89 その理屈なら、記紀の編者も、俺様歴史を書いたことにならないか?
4〜500年経って伝承もかなり誤解、改変されていて、紀では卑弥呼=神功皇后、って書いてある。
記紀に書いてあることを盲信しちゃダメ
92 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 16:51:37.21
4〜500年経って伝承もかなり誤解、改変されていても、
中央豪族の諸氏が「この歴史観でOK」と受け入れたのだから、それは歴史だよ。
93 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 16:52:45.37
大体、モモソヒメがヘビの神様とまぐわった説話だの、
神武〜成務まで父子相続が十数代にわたって延々続いてる系譜だの、
そんなもの信用できるわけがない。
94 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 16:55:07.55
>>92 それは史実ではなく、7〜8世紀の中央貴族・豪族の受け入れてた認識でしかない。
それを根拠にあれこれ論じても、韓国ドラマなみの歴史クリエーションになるだけ。
>>90 しかしね、伊都国という語を使えないと不自由なんだよ。さらに前述したように、前方後円墳の
連合外への広がりは、卑弥呼が倭女王になったことによる纏向詣でのためと考えているので、
倭人伝を援用しないわけにはいかんのよね。
歴史という動物の体つきを考える上で、考古学は骨格。これを無視しては成り立たない。
ただし、骨の形状だけでは体つきを理解することは出来ない。だからそれに対して史書で肉づけをする。
筋肉が付加されてはじめて骨格がどのような動きをするのかが分かる。
考古学だけでも遺跡の時代の違い、時代をつなぐ個々の骨と骨の関係もある程度は分かる。
しかし考古学は新発見により認識が大きく変わることがある学問。骨の形が変わることがあるってこと。
恐竜の世界だって、ブロントサウルスはアパトサウルスの胴にカマラサウルスの頭が付いていた間違いであるという結論になった。
トリケラトプスはトロサウルスという恐竜の子供時代だということが分かった。
だから考古学は発掘成果によって、いとも容易に変わってしまう。
ならば、骨格の変化に合わせて筋肉の肉付けを修正しよう、考古発掘の成果に応じて文献解釈も変更しようというのが
歴史を見る者の正しい姿勢なんだろうと思う。
文献に書かれていることが絶対正しい、筋肉を絶対視するのは、筋トレしすぎのボディビルダーみたいなもの。
他人に格好よく見せるだけで、筋肉は硬く柔軟性がない。
清原の肉体改造なんてのは、柔軟性がなく運動に適さない、見た目だけの筋肉となり選手寿命を短命にする結果となった。
97 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 17:16:29.32
>>94 わかっとらんね。
現代であっても、どんなに客観的な歴史書を書こうとしても、
書いた人と読んだ人が受け入れられる”粉飾された”歴史でしかないのだよ。
どんな歴史書も、多かれ少なかれ、ファンタジーだ。
それが気に入らないなら、もはや君のほうが板違い。
98 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 17:56:48.66
>>97 その理屈、強引すぎるわw
いくらななんでも、記紀の伝承(改変されまくりの神話・説話の類)と
それ以降の歴史は同列に論じられないだろw
99 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 17:59:21.60
記紀の古い時代の内容は、都合のいい解釈とかごまかしのレベルじゃなくて、
完全な創作や虚構のレベルだからな。
100 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:03:37.62
>>99 お前も結局都合のいい俺様解釈してるだけだろw
101 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:04:39.58
どこをどう考えたら、記紀の古い方の記述を史実と解釈できるのか?
正直、神経疑うわw
102 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:24:00.27
>>80 マキムク以前に、近畿に地方政権と言える程のまとまりがあった、と言い切れないのが、悩ましいところであって、
ましてや奈良盆地に王権があったことすら立証されていない。
欠史八代が眉唾なのはだからなんだよ。
ただ筑紫は弥生中期初め頃から王権の萌芽があって、何もない大和よりは信憑性があるんじゃない?程度で書いただけ。
ていうか、本当に欠史の宮や陵が九州にある、とか思ってないよw
103 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:33:06.20
>>102 欠史八代が、「天皇」の位を与えられて、日本全体を統治してた、
なんてことは、誰も思ってないだろ。
だからといって、全部8世紀の創作と切り捨て、
8世紀の人が残した日本の歴史財産を、無価値にしてしまおうなんて、あまりに左翼的。
というか、あおめは九州説か?だったら史ね。
104 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:40:00.26
欠史八代が架空とか言うのは、歴史と真摯に向き合ってるようで、
実際は、欠史八代が邪魔な存在になる東遷説だったりするから始末が悪い。
>>103 全部8世紀の創作だったなら、無価値どころかその驚愕すべき創作能力が賞賛されるだろうw
要するに物語としてはえらく中途半端に、当時の政権中枢に居た氏族を絡ませているからおかしな出来になってしまったわけで
それも簡単に透けて見えるから、史実の一部としても検討できない
つまりしたくても出来ないという扱いになったわけだ
まあどっかの家で「ウチは鎌倉から続く武家の出で・・・」とで家系図出してきて
鎌倉時代に翼とか大地とかの名前がズラリと並んでたら、吹き出すのをこらえるのに必死になるようなもんだ
106 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:50:38.91
欠史八代を否定したら、左翼やら九州説、果ては東遷説とかいろいろ罵倒されるんだなw
ていうか確かに俺は心情左翼だけど、自虐史観とかは成る程と思うし、別に天皇陛下や皇族の方々は嫌いじゃない。
邪馬台国は畿内説だが、実年代が定まらないので現在は保留中。
東遷説ははっきり違うと思ってる。神武東征伝承くらいしか根拠がない。
まあ、論理的に反論できない相手に出くわすと、レッテルを貼って勝手に相手のイメージを作り上げて罵倒する。
このスレにはそういう輩が多い。もうちょっと冷静に。
107 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:19:45.90
記紀の編纂者も、倭人伝読んで卑弥呼が誰か分からず。神功皇后に比定したくらいだから(最初の畿内説)、
3〜4世紀のことは、8世紀にまともに伝わってなかったと思うけどね。かなりの混乱が見られる。
欠史八代は、記紀でも大昔のことなのでよく分からない、という客観的な態度なのに、
倭人伝と絡めて倭国乱の時代とか、都合が悪いから削除されたとか妄想爆発だな。
108 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:30:15.12
欠史八代を語るなら、考古学的根拠を示せ。
→記紀アレルギー、記紀を否定するのは何らかの政治的な臭いがする。考古学板へ行け!
これの繰り返しだなw
いい加減、欠史八代ヲタはこのスレから撤退した方がいいんじゃない?
てか他の話題にするとか
倭迹迹日百襲媛命の事績が多く残されており、箸中山についても後代までその墓と伝承されて
きたのに対し、その父である孝霊天皇にはほとんど何の事績もなく、陵墓についてもきわめて疑わしい。
このことは何を物語るか。
110 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:49:54.24
孝霊天皇に事績が無いって、どういうおつもりでそんな発言を?
孝霊天皇は、唐古・鍵遺跡に宮を置いてた首長でしょ。
8世紀の人は、唐古・鍵遺跡について何も知見は無く、ただの田んぼになってたはずですよね?
そこに、モモソヒメの父が統治してた集落があったという伝承があった可能性を、
ことさら否定して何の益になるのですか?
111 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:53:20.95
欠史八代が後世のでっち上げ、てことだよ。
そりゃまあ、どんな人間でも木の股から生まれる筈がなく、
ハツクニシラスやトトヒモモソ媛にしても、親先祖がいたが、オウに祀り上げられた以上、庶民と同等の先祖や親では示しがつかない。
で、神の子を自称し、異常生誕を吹聴する。
各豪族が同じような始祖伝承を持っていて、それら神の子を整理、統合して縦に繋いだのが欠史八代。
112 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:57:00.21
孝霊 唐古
>>110 >孝霊天皇は、唐古・鍵遺跡に宮を置いてた首長でしょ。
根拠は?都が黒田庵戸宮だから、くらいしかないだろう。それだけで、唐古と纏向のつながりを
いうのは誤解を招くだろう。
孝霊天皇のことは「日野郡誌」に詳細の活動記事があるな。
115 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:07:29.51
>>113 いや、それで十分ですね。
箸墓だって、本当は、モモソヒメの墓かどうかわからない、モモソヒメが実在しかたもわからない。
けれども、箸墓はモモソヒメの墓だという記録があるわけだから、
箸墓は、モモソヒメの墓だと決めて良いこと。
同じように、唐古・鍵遺跡=黒田庵戸宮跡と喧伝したところで何の問題も無い。
誰が困るわけ?
116 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:10:28.04
てかさ、唐古鍵遺跡、って弥生時代全期間を通じて、古墳時代初めまで続いてるんだぞ。
欠史の一代だけが宮を置いただけで、欠史八代を考古学的に説明できた、とか本気で思ってる?
まあ、百歩譲って孝霊の宮伝承が唐古鍵の記憶を伝えてるのだとしても、もっと、橿原とか御所で遺跡が確認出来ないとどうしようもないよ。
>>115 しかし伝承では、はなから田原本に都をおいていたわけではなく、御所市から移ってきているはず。
唐古・鍵は弥生初頭からの集落で、衰退したとはいえ纏向とも共存している。
困るとか、困らないとか言ってる意味がわからないね。
艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)
伝承
孝霊天皇皇子 吉備武彦 開化天皇10年に 熊曾新羅王 と戦い、
左眼を射る。
>>81 > 1世紀頃は、九州と近畿は別勢力だったが、その後、
> 3世紀には、九州は、近畿の卑弥呼共立に参画した、というだけの話しだ。
大連立だな。ありうると思う。
120 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:20:14.47
結局記紀アレルギー君が一番の妄想野郎だった訳か。
いずれ、考古学的には唐古の勢力が中心となって纏向を建都したとか、武力で吉備を制圧した
などとみるのは難しい。
古事記には初の巨大古墳造営として記されている箸中山は一つの画期であり、この倭迹迹日
百襲媛命の代から、何らかの記録が残っている可能性があるのかもしれない。
日御碕神社(島根県)
由緒
孝霊天皇61年、月支国の 彦波瓊王 、多数の軍団を率いて襲来する。
波風荒れて賊船覆没する。
123 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:28:20.18
欠史八代の問題は、現在の記紀研究の水準で言えば、
架空、しかし畿内豪族の何らかの記憶を伝えている可能性がある。
って結論が出てるだし。
欠史=史実とか2ちゃんねるで吠えてても、誰も相手にしないよ。
124 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:28:25.15
>>116-117 いいですか?現代人は、唐古鍵遺跡が弥生時代全期間を通じて存在したことを知ってますよ?
でも、8世紀の人は、遺跡の存在など知らないでしょ。
それでも、田んぼの真ん中に、その昔、偉い人の宮があったという伝承があった。
もちろん、「天皇」ではなく、日本の統治者でもない、集落の首長程度の人物だっただろうけど、
8世紀の人は、「オオヤマトネコヒコフトニ」という首長が黒田に宮を置いていたと、記紀に書いたわけ。
そして実際に唐古鍵遺跡が発掘されたわけだから、
伝承通りに、唐古・鍵遺跡を黒田庵戸宮跡と称しても、差し支えない話し。
唐古・鍵遺跡が5世紀とか、紀元前の遺跡なら時代が合わないけど、
実際に孝霊天皇のいた時代に、孝霊天皇の宮のあった場所に、唐古・鍵遺跡が存在してるわけだから。
月支国って、馬韓の・・・??
似た国名があるそうだ。孝霊の代は大陸の孝霊皇帝のころだよ。
つまり160年〜190年あたりだな。それで調べられたい。
>>124 >唐古・鍵遺跡を黒田庵戸宮跡と称しても、差し支えない話し。
それだけでは不確かで、たいした発展性もないと思うけどね。唐古・鍵は纏向と
共存して古墳時代初頭まで存続したと考えられるので、その記憶があった可能性
はあるだろうけど、このスレの趣旨である纏向を主導した勢力がどこかという話とは
つながらない。むしろ予断を生むのではないかな。
熊野年代記
孝霊13年 天竺から文字が渡る。
129 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:42:45.96
>>127 どうやら、纏向を主導した勢力は、唐古・鍵ではない、という前提を守りたいわけね?
記紀では、纏向に埋葬された巫女がモモソヒメで、その父が唐古・鍵にいたことになってるから、
唐古・鍵の勢力が、纏向を主導したと誘導されるのがイヤというわけか。
それならそれで、証拠に基づいて論じればいいこと。
記紀では、孝霊天皇とモモソヒメは親子関係だが、実際は赤の他人かもしれない。
赤の他人だと考古学的に証明されるのであれば、記紀の解釈を修正すればよろしい。
しかし、孝霊天皇のモデルとなったであろうオオヤマトネコフトニや、
その宮までもが実在しないと決めてかかる必要は無い。
130 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:46:37.30
フトクニが列挙してる由緒や文献なんて、記紀以上に信憑性に欠けるシロモノだろ。
そんな記述や年代なんて、あとからいくらでも書ける。後世の付会、捏造だろ。
>>129 そう。唐古・鍵がかかわった可能性はあるものの、もっと広範囲の勢力により建都された
と考えるのが一般的な図式だろう。それが、唐古から纏向への単なる遷都という形にされる
のはこのスレの趣旨にあわないだろう、ということ。
132 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:49:04.60
オオヤマトネコなんて後世風の名前を持った王など、架空だとわからないのか?
タラシヒコ、クニオシヒト、ヤマトネコ、こんな後世の諡号風の名前の王や首長が実在するわけがない。
133 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:55:31.12
>>132 そういうだろうと思った。
じゃあ「フトニ」は?
後世に似通った名前の人がいるの?
フトニが古代から伝わる本名で、オオヤマトネコは後付としても、何も問題ない。
カエシネ や スキトモ というのは水稲耕作に関わりがありそうだな。
135 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:57:56.14
纒向は丹波王国の人達が造営した。
阿蘇神社
孝霊天皇9年 勅命により 建磐龍命 主神とし、同神社を創建する。
あとおそらく話が出てくるのは、孝昭天皇からの異様な長寿の点だろうな。これが神武を
古く設定したための引き延ばし説にもつながるわけだが、幸いw ここに倍暦の大家がいる
ようだけど。ww
138 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:10:00.05
唐古鍵がマキムクに参加してるのは恐らくそうだろうけど。
ただ唐古が主導してマキムク建設、までは流石にないんじゃないか?福永とかは唐古主導説みたいだが。
桜井市教育委員会は唐古の影響を否定し、田原本町は積極的に唐古の影響を肯定してるらしいw
考古学を絡めて誰か説明してくれない?
>2倍念暦の真実スレ 無コテ氏 H18.12/22
孝霊世に富士山噴火 約1800年前
富士山南麓の溶岩樹型
大淵丸火公園北駐車場東にある溶岩樹型
外径120cm 内径60cm
↓
富士山本宮 浅間大社
富士本宮浅間社記
孝霊の代、富士山 大噴火
富士山歴史噴火総解説 第2版
孝霊5年 (〜富士大縁起 調林菜葉抄 伊豆山縁起から)
纏向の外来土器は、初期に多いのが、東海・近江ー吉備・北陸・山陰 で、ここからは東西交流の
拠点としての性格が読み取れると思う。
141 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:20:45.40
>>131さんに、マキムク開発に唐古鍵が主導してない理由を解説してほしいです。
>>141 纏向が選ばれたのは、まさに東西交流の拠点としてであり、特に東海側の要請が大きかった
のではないか。そう考えれば単に一地点の勢力の主導とは考えにくい。
大陸からの物流を西から東に流すとすれば、大陸との窓口になるのは唐古の勢力とは考え
にくい、などの点かな。
このスレの住人は、数々ある邪馬台国スレに比べて客観的かつ冷静に見てるよ
マキムクが何であるか、モモソが誰であるかを知りたいだけで
邪馬台国であろうとなかろうと卑弥呼であろうとなかろうとどっちでもいい
記紀をはじめとする文献と考古学的事実の整合を取ろうとしてる人が多いんじゃないかな
神皇紀
孝霊50年 孝霊天皇 尾羽張田彦命を阿祖山太神宮宮守司長に補する。
あとは、銅鐸センターであったとも考えられる唐古と纏向の文化的な隔絶かな。むろん
農耕祭祀という点では大きく変わらないだろうけど、前方後円墳にみる墓制の変化、特に
各地の葬制が習合された形になっている点など。
146 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 21:37:40.06
>>143 >記紀をはじめとする文献と考古学的事実の整合を取ろうとしてる人が多いんじゃないかな
できない相談だな。
漢魏晋宋代と三韓時代を消した書き物のどこに史実が紛れ込んでるか。
よしんばあったところで、脈絡を寸断された断片でしかない。
考古学的事実との「整合」なんていいながら、
考古的年代や事実を曲げてまで文献に併せようとしないでくれよ。陳腐だから。
147 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:38:32.56
>>142 東海の要請が大きいとは、どのたの説ですか?
よく聞くのは、東海からは労働者を集めただけというものですが。
148 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:41:50.79
マキムクの前方後円墳に対して、東海は、前方後方墳だから、
東海が積極的に開発に参画したとは言えないんじゃあないの?
もちろん、九州からの参画なんてありえないけどね。
>>147 どなたのというわけではないが、労働者説はだいぶ変化してきてると思う。東海や
近江の勢力は大きかったし、東からくる食料も大きかっただろう。この間、桃の実が
出て話題になったが、同時に出たミニチュア土器などは東海色の濃いものだ。
150 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:45:53.27
東海は、マキムクから急に登場してきたわけじゃないですよね?
東海の搬入土器の多さは、唐古鍵でも顕著だったような。
151 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:48:01.34
弥生時代になり稲作をするようになって、共同作業の機会が増えた。
縄文の頃のように、血縁関係だけで自己完結し得た単純な時代は過ぎて、個では生活出来ず、他者との関係性が重要視されるようになった。弥生の青銅器文化、祭りはそのように解釈される。
やがて結を通じて集落内の同族意識が芽生える。今でも産土神とか氏子、親子固めの杯みたいな風習が残っているように、擬制的血縁関係が重要視されるようになった。いわゆるクラン。
複数の氏族が擬制的血縁関係を結び、同族となる。その時、神話や始祖を共有化して、それぞれの始祖の共通の親を創るか、もしくは同一人物にしてしまう。
社会が発展し広域化するにつれ、こういった同族化、神話の共有化は繰り返し行われた。
こういった流れの終着点として欠史八代を考えるべきなんだよ。安易に史実とか言う人間は反省するようにw
>>150 それはそう。見る銅鐸自体、共通文化圏といってよいようなものだし。
だからまあ、どこかの主導というよりは大陸から東国まで一本のルートを通そうとした
流れの中に中間地である纏向が選ばれたのではないか。大陸との関係は、吉備ー
山陰のラインがつけたのではないかと思ってる。
154 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:59:25.40
神社の由緒の年代なんて、後付のでっち上げなのに、何得意げに列挙してるんだろ。
日野郡誌
第四章 神社
「伯州日野郡楽々福大明神記録事」
楽々福大明神者 孝靈天皇 ノ 御后 也
福媛 ト申則 細媛
孝靈四十五年 乙卯 ニ 天下三十六 ニ割 其頃諸国一見之御時ニ西国
隠島エ御渡有依レ夫此地ニ御着有・・・・・
で、この吉備ラインが公孫氏との関係をつけて、画文鏡が流入するようになった。その後
半島の政変により卑弥呼の魏への朝貢が実現し、大陸の力を背景に伊都国は抑え込まれる。
157 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:05:53.87
>>151 わるいねえ。貴方の言うこと、全部理解したうえで、欠史八代を考察してるんだけどね。
つまり、
>複数の氏族が擬制的血縁関係を結び、同族となる。その時、神話や始祖を共有化して、それぞれの始祖の共通の親を創るか、もしくは同一人物にしてしまう。
複数の氏族が同族関係を結んだのはいつの時代?ってことを考えれば、
欠史八代の系譜は、複数の氏族が同族関係を結んだ時期を示してるわけですよ。
豪族Aと豪族Bが同族関係を持ったのは、豪族Cより前か後か、ってことをつきつめていけば、
捏造の余地が無くなるわけです。
記紀の系譜は、中央豪族を納得させられるように書かれてるわけだからね。
欠史八代から読み取るべきことは、豪族同士の交流の様子なのですよ。
そういう貴重な資料を無視してちゃあだめだな。
158 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:10:17.55
>>123 >架空、しかし畿内豪族の何らかの記憶を伝えている可能性がある。
それもどうだろうかな?
畿内以外の王の記憶伝承が入っている可能性って無いかな?
吉備だとか尾張だとか、ホケノの被葬者は阿波の実力者…なんて話もあったっけwww
>>151 の話はオホヒコと東国氏族なんかにはあてはまるように思うけどね。
160 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:11:55.14
たとえば、欠史八代を祖にする豪族は、中央豪族ばかり。
九州の豪族はいません。
神武が九州から来たことになってるけど、
もちろん、神武の子孫が、崇神であるはずがなく、後で系譜を結んだだけ。
そういうわけで、九州からヤマトにきて繁栄した氏族は誰もいないってことになる。
161 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:13:27.29
>>157 いや、そういうスタンスなら大歓迎なのでw
欠史を鵜呑みにする馬鹿に苦言を呈したまでw
162 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:19:14.35
>>160 考元→大彦 で、その大彦が筑紫国造、越国造、他七族の祖になっているが…
(ちなみにこの大彦の”便利さ”が相当怪しく感じる元なのだがwwww)
みずち神社(茨城県北相馬郡地根町立木)
孝霊3年 水神 弥都波能売命 を祀る
164 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:21:00.30
伊作なんかは、ニギハヤヒと神武が血縁だ〜なんて、
いい歳して言ってるみたいだけど、そんなわけが無いんで。
ニギハヤヒは、限りなく物部氏の創作でしょ。
物部氏は、尾張氏と同族になりたかったみたいだけど、尾張氏側から無視されて。
尾張氏の祖・天火明命=ニギハヤヒとして創作したわけで。
ここからわかることは、初期ヤマト王権に深く関係してたのは、物部氏よりも尾張氏だったこと。
これは、東海系土器の多さからも裏付けられる話し。
165 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:26:18.67
>>162 筑紫国造が、大彦を祖にしてるってあたり、東遷説じゃ説明しようが無いね。
筑紫国造自身が、「自分は、ヤマトの大彦の末裔たい」って言ってるわけだから。
>>153 東西交流の拠点として中間地点である畿内付近である必然性はあったが
その位置がマキムクであったのは偶然だった、と。
>>166 大和川水系を利用したからだろう。あとは近年目立ってきている近江との関係から。
あとは推測になるが、瀬戸内航路は北部九州勢により封鎖的な状況が続いていたんでは
ないか。それが開けて、大阪湾まで通り、あとは河内湖を経由して自然な流れという気がするが。
169 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 23:01:19.83
瀬戸内航路が、北部九州勢により封鎖的な状況にあったことを示唆する証拠は何もないよね。
>>169 ない。ないけど、弥生後期に至るまでの本州側の大陸文物の少なさ。この説の人もそれなりに
いるよ。
172 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 23:11:12.11
>>168 しかしその場合、北部九州の勢力に何のメリットがあったのかと…www
>>171 妄想ではなく、一つの説だ。日本海航路には大陸の文物が伝わった跡が見られる。
瀬戸内はその中での航路はあったが、大陸の文物が流れた形跡があまりに少ない。
山陰から機内などのルートはある。
これらを総合すれば見えてくると思うが、おそらく後漢の衰退までは北部九州により
関門海峡を封鎖されていた可能性はある。
>>172 半島ー北部九州ー瀬戸内という段階的交易を維持するためではないか。また交易ルートを
握って支配権を維持するため。この逆転を象徴するのが倭人伝の一大率。
175 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 23:19:02.54
>>173 >おそらく後漢の衰退までは北部九州により関門海峡を封鎖されていた可能性はある。
無いって。
広型銅矛の分布みてみ。北九州から四国まで分布してるから。
>>175 だから、大陸の文物に関して。つまり東瀬戸内、畿内に自由な交易をさせないという形。
ここは確かに推測なんだが、後漢鏡や鉄については厳しい統制があったのではないか。
銅原料はスルー。これが、東瀬戸内側の反発につながり、公孫氏ルートを開拓し画文が
入ってくるようになった。違うかねえ。
178 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 00:11:38.86
銅鐸文化圏vs銅矛文化圏なんて過去の説は
荒神谷や加茂岩倉遺跡の発見でとうに崩壊したものだと思ってたけど
大昔は中学・高校の社会科の教科書に堂々と掲載されてたけどな
>>64 王権内で地位的にも血縁的にも大王家に最も近しい人物が(ここでは大彦や武渟川別を想定)、
特旨を以て縁故地に単独で大古墳を築くことを許されたとも考え得るから。
だって、じゃあ茶臼・メスリ被葬者の補佐官や参謀格の連中は何処へ行っちゃったんだい?ってことになる。
吉備の造山は大王墓ではないと考えてます。
あれは百舌鳥陵山(現履中陵)とほぼ同形同大の相似墳で、設計図を共用しているとも考えられる。
だから吉備造山は、ヤマトへの対抗とかヤマトと拮抗とかいうのではなく、
被葬者たちの個人的な人間関係(公的な面も含む)の中で築かれたものではなかろうか。
それに大王墓は、代々何かしら、何処かしらのマイナーチェンジをしているのが常で、
あれほど似ている古墳の両方の被葬者が両方とも大王とは考えてません。
180 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 08:33:13.87
昨日の一連の流れ呼んでて思ったけど、
マキムクを語る上で、別に記紀のあやしげな伝承は必要不可欠ではないだろう。
大幅に改変・加工・潤色され、古伝承は断片的にしか含まれてないという前提で、
神話・説話とわりきって、参考程度にちょこっとふれることは許容範囲かもしれないけど、
真っ正面からまともに取り上げて、孝ナントカ天皇がどうだの、欠史八代がどうだの、
モモソヒメがどうだの、やりだすとオカルトやファンタジーの妄想になってしまう。
記紀のあやしげな伝承は、基本、スルーで何の問題もないと思う。
181 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:25:46.90
>>162>>165 そういうのって、のちの時代の大名系譜とかでもありがちの「仮冒」ってやつだろ。
地方豪族が上古の実在も定かでない天皇の末裔を称したりしてるのは。
あるいは、さんざん言い尽くされてることだけど、王統譜編纂過程で取り込まれた、
擬制的な同族関係だろ。
182 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:38:11.93
>>178 筑紫の広形銅矛の威信財体系とか、見る銅鐸の威信財仮説とか、聞いたことない?
183 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:42:13.74
銅鐸も銅矛も墓から出てこないのに威信財と言っていいのか?
王の威信財になりえなかった民間の祭祀具というならわかるが。
184 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:59:17.52
威信財は副葬されるケースもあるが、されないケースもあるんじゃない?
三種の神器とか
185 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 14:16:00.95
8世紀に登場した三種の神器が古墳に副葬されるわけないだろ。
186 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 14:18:26.66
威信財=副葬品じゃないだろ、という指摘なんだが
三種の神器の概念は新しいものだが、鏡、剣、玉類は個別に副葬はされてるだろ。あと、銅鐸は
集落共同体の祭祀に用いられるものだな。銅矛も似たような用いられ方をしている。
188 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 16:02:10.27
纏向遺跡から出土した銅鐸の破片は、どういう理解をすればいいのだろうか。
銅鐸は故意に破砕されたという説が強いようだけど。祭祀の切り替わりがあったと考えられ
てる。集落共同体が主体となった祭祀から、個人による祭祀に切り替わっていったというような。
銅を再使用せず、破砕して埋納するのは積極的な意志が感じられる。
三品彰英が「地的宗儀である銅鐸祭祀が北方アジア系の天的宗儀の出現によって終末を迎えた」
と書いてる。
九州などからの東征勢力が銅鐸集団を平らげてといった話もあるけど、だったら鏃や剣、焼け
落ちた住居跡などがもっと発見されてもよさそうなもの。
考古学者は文系ロマン系が多いから
どうしても宗教の変遷とかに頭が向くのだろうけど
銅鐸なんてのは熱を加えて焼かないとあんなふうに割れるもんじゃない。
水銀を取るためとか、そういう工業のための過程であるという考えのほうが
合理的じゃないかと思ってる。
191 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 17:12:07.96
>>187 いや、だから、副葬されてないんだから威信財じゃない、って主張は短絡過ぎる、て意味だから。
192 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 17:46:53.28
古墳時代は、銅鐸終焉後からだが、
銅鐸と同時期にあったような、墳丘墓ってどれ?
193 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 17:49:21.86
>九州などからの東征勢力が銅鐸集団を平らげてといった話もあるけど、だったら鏃や剣、焼け
>落ちた住居跡などがもっと発見されてもよさそうなもの。
そんなもの残るわけないやん。元寇の戦いの跡だって防塁くらいしか残っていない。それも当時の記録文書が
残っていたから元寇関連だとわかった。鏃や剣なんかすぐ拾い集められて再利用されるし、焼け落ちた住居跡
なんて戦争の跡なのか単なる火災の跡なのか判別できんだろうし、住居を再建するなり別の利用がされれば片
付けられてしまう。
194 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:01:58.34
九州からの搬入土器がほぼ皆無なのは、東征なんて無かった証拠ですよ。
吉野ヶ里だと甕棺の中からは石鏃、鉄族が見つかってるし、その他の遺跡でも鉄器などでつけられた
戦傷人骨の出土例もある。ただ、畿内は人骨そのものが残りにくいようだしね。いずれ戦闘の痕跡の
ようなものは纏向にはない。
あと過去のこのスレの論議で、纏向の宗教は農耕儀礼的で、太陽信仰を示すようなものは特にない、
という話になってる。道教はどうだろう?
196 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:13:49.31
モモが出てきたんだから、道教=鬼道教=鬼道=卑弥呼だってTVでやってたよ。
神道がアマテラスを奉ってるから太陽信仰だってのは大ウソ。
初期ヤマト王権から古墳時代を通じて、太陽信仰は主流じゃなかった。
だから、アマテラスの子孫の神武が東征したのもウソ。
日本神話は全部、天武のつくり話なんだよ。真面目に神話議論してるやつはアホ間抜け。
197 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:24:54.31
>>194 記紀の記述を出すと嫌われるだろうけど、古事記によれば神武が東征したときには阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、
吉備国の高島宮で8年過ごしたとある。こんなに長い期間ではなかったかも知れないが、瀬戸内の諸国(集落)を味方につけな
がらその土地の産品である土器などの道具、器具類、また祭祀様式なども取り入れながら畿内に入ったのではないか。
人を武力だけで支配するのは困難であり、郷に入れば郷に従うというように現地人と文化を共有したり婚姻などを行ったりと、
外交的努力も続けたのではないかな。でなければ人々はよそ者には従わなかっただろう。このような次第で九州の土器がほと
んど搬入されていないのだろう。
いの
198 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:25:39.82
鬼道にこだわりすぎだろ
大量の桃が出てきたのさえ鬼道だの神仙思想だのに強引に結び付けたがるが
ヨモツヒラサカでは桃の実を投げて追手を撃退したから儀式に使ってるんだろ
道教は・・・画文や三角の画像、東王父や西王母なんかを当時の人たちはどのように理解
していたのか。世俗的男王と祭祀を司どる巫女王による2頭政治の象徴として理解してよい
ものか?東王父が崇神天皇、西王母が倭迹迹日百襲媛命と書けば、これはもちろん言い過ぎ
になるけど。
200 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:33:20.27
>>197 そういう妄想はいらないから。
東征の結論ありきで、九州の土器の少なさを神話で説明したところで何の証明にもならない。
201 :
桃ちゃん:2011/05/15(日) 18:39:12.62
>>200 >そういう妄想はいらないから。
都合の悪い話が出て来ると妄想とレッテルを貼って避けるのね。アンタ弱虫なのね。わたし強い人が好き。
202 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:58:11.57
>>201 近畿の庄内式土器は九州に持ち込まれてるのに
九州の土器は持ち込まれませんなんて、どんな理由も理由にならないね。
204 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 19:22:53.15
>>203 >出土した土器の95%以上が東海地方西部の特徴的な形状を持ちながら、
>土器に使われた土の成文分析から、神崎遺跡周辺の土で作られたことが分かった。
>そのため、土器が東海地方から運ばれたのではなく、集落の住民が移住してきて作ったと考えられている。
これが、「人が移動した痕跡」なんだよな。
もっと勉強しろ。東遷厨
いずれ銅鐸の破砕が東征によるものだとすれば、近畿から東海地方にかけてのかなりの
広範囲を制圧したことになってしまうだろうが、そんな戦闘は戦国時代でも考えられない。
それに銅鐸廃棄以外の痕跡も必ず残るはず。
だから現在では武力による東征というのはほとんど顧みられない説になっている。残るのは
トップのみが移動した、あるいは倭国の首都機能が移転したとする奠都説ということになる。
206 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 19:59:35.12
>>205 ただ崇神の九代前の先祖が九州から来たってだけでしょ
あと、上で少し書いた高地性集落についてだけど、3世紀を見るかぎりは、ヤマトを中心として
東や北の方角へと分布していく形になる。これから見ても、九州から畿内への東征は説明しに
くい。逆に日本書紀に記載されている崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは
かなり見事に対応しているんだな。
>>206 9代前かは知らないが、水稲耕作の伝播とともに九州方面から人が入ってきたのは確かだろうね。
208 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 20:20:14.84
崇神に相当する王の祖先が、九州から来た可能性はあるくらいの書き方ならいいのに、
9代前とか記紀説話をそのまんま肯定するような書き方するから、記紀マニアは嫌われる。
あと少し耳垢の話をするけど、Wikiによれば、
>耳垢の乾性/湿性の割合は人種によって大きく差があり、日本人全体では湿性耳垢の人は
約16%だと言われている。ただ日本内でも北海道や沖縄と、本州の間で割合に大きな差があり、
北海道では約50%が湿性耳垢であるとの報告がある。これは、日本には元々湿性耳垢の縄文人
が居住しており、やがて本州には乾性耳垢の弥生人が流入したが、その影響が及ばなかった
北海道・沖縄には湿性耳垢が保存されたことによる、と説明されている。
と書かれていて、湿性耳垢のほうが優性遺伝。人類学は詳しくないので間違いがあるかもしれないけど、
この弥生人の流入の記憶が神武東征と何かつながりがあるのかもしれないと思う。
210 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 20:37:37.92
>>209 耳垢と同じで下戸遺伝子も、本州は多く、九州、東北は少ない。
これは、渡来人が、九州を素通りして近畿に流入していたことを示す。
何が言いたいかというと、九州の人は東に移動することはしなかったということ。
それより多くの渡来人が近畿に入植していったということ。
頭蓋骨の形を見れば、弥生時代の初め頃からか。
213 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:04:55.60
神話の話はよそでやれ……といいたいところだが、
>>212は、神話成立の解説だから俺が許す。
もっとお願い。
214 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:12:42.33
あと、日向神話を朝廷が採用した理由に、
仁徳天皇が、日向の髪長媛を娶ったことも関係あるだろうな。
そのときに、南九州の神話がヤマトに伝わったはずだ。
髪長媛に対して、仁徳がリップサービスで「俺の祖先も九州から来たかもしれんなあ」と言えば、
はい、神武東征神話の出来上がり。
衆目のなかでそこまで堂々とフィクションで張れるかな
216 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:26:13.15
実際、「神武東征」って、日本の公文書(日本書紀)に書かれてるじゃん。フィクションなのに。
>>214 仁徳天皇の王朝は、一種の政変でできたものではないかと思う。妃の髪長媛の墓は西都原の
女狭穂塚ともいわれるけど、これは大阪仲津山古墳の3/5の相似形とされている。
で、仲津山古墳は応神天皇妃の仲姫命のものとされる。
応神ー仁徳の代に、大和盆地の勢力から河内平野へと古墳の造営地が移動したが、日向でも
4世紀までの生目古墳群から5世紀には西都原古墳群に最大のものが移動する。こうした権力
移動は、同時期の吉備や毛野でも認められる。
218 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:33:04.78
西都原を見ても、ヤマトと日向の関係は密接だったことがわかる。
日本書紀にも、仁徳が日向の髪長媛を妃にしてることが書かれてる。
神武東征神話は、東征の史実性ということより、
ヤマト王権と日向国が同盟関係を築いていく過程の中で語るべきこと。
ヤマト王権と日向国の同盟関係の強化は4世紀以後なので、それ以前の神武東征はフィクション。
北九州からの東征もありえない。
で、塚口義信説によれば、神武東征は、この応神天皇が九州からの帰還の際に忍熊王を倒した
河内王朝成立の事情を反映している、となる。
忍熊王の反乱は、半島政策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、応神が大王家の正当な
後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。日向の諸県君一族が河内大王家の姻族と
なっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことによる。
で、神武東征・・・初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱を
モデルに構想された・・・つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身
とすることによって、自らを正当化しようとしたというもの。
>>219 >で、神武東征・・・初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱を
>モデルに構想された・・・つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身
>とすることによって、自らを正当化しようとしたというもの。
どこがどう正当化されるのかサッパリわかりましぇーんw
221 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:50:08.97
河内王朝の時代、ヤマトにも日向にも、アマテラス信仰は無かったということも、
注意すべきことだな。
天皇の祖神が、アマテラスというのも、天武のでっちあげだから。
>>220 つまり、九州から日向の諸県君一族をともなって帰還した応神軍が大和の正統王朝を倒した
んだけど、もともと大和王権は日向出身者によって作られたものだから、王権の簒奪ではない
んだよ、というようなこと。
ただこれは塚口義信説であって、俺自身はよくわからない。
>>221 アマテラスが女神である、というのは天武朝頃の創作という話はありますね。もともと伊勢の
地方神であったものを格上げして皇祖神とした、という。安本説はアマテラス=卑弥呼という
部分が基幹になっているのに、このあたりの論考がないのはきわめて不自然と思いますね。
しかし纏向からはだいぶスレチになってしまった。
224 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:07:15.13
>>219 塚口義信氏の説を挙げているが、あれは記紀などを基に想像したものだよな。
225 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:10:43.22
「正史」というものは確かに政治的な思惑が反映されるものだが、まるっきり嘘を書くことは無い。「正史」そのものや編纂者の権威に
かかわるからね。系譜だってどの豪族がどのような順番で天皇家の傘下に入ったかは、序列にかかわることだから、あからさまな嘘は
書けないよ。そもそも日本書紀に、允恭天皇の時代、「氏姓を偽るものが多いので盟神探湯をしてこれを正した」という記述があるくらい
なんだから。
なぜ記紀は、神武天皇から「人代」としたのか?これは、古代の人々が「神武以降は史実」と認識していたからだろう。
で、神武が日向を出奔してからのことは伝承されていたが、それ以前の彼の出自については不明だったのではないか?
彼は、日向の有力者でもなんでもなかった。実際、日向から彼と出発したのは兄弟と息子、あとは中臣氏の先祖だけ。
大軍勢で「東征」したわけではない。大和に来てやったことは、大和の南西部をゲリラ戦や敵有力者(ニギハヤヒ)を切り崩して
乗っ取っただけ。いわば北条早雲や斉藤道三のやったことをごく小さなスケールでやっただけだ。
もし、記紀に政治的な改変があからさまに行われたとすれば神武の出自ではないか?たとえば天孫降臨は、本来三輪山あたりだったのを
日向に改変したとかね。「神代=神話」なのだから「なんでもあり」がかなり許されるし、豪族達のほとんどは神武以降、
天皇家に従うようになったものばかりだから、彼らの序列を乱す心配もあまりないしね。
まあ、記紀の記述の絶対的な真実性はともかく、古代の人々が記紀のあらすじとほぼ同様のことを「史実と認識していた」こと、
その認識が、政治的序列や権力関係、「先例」として皇位継承その他の政治活動に影響を与えていたのではないか、ということは
ありうると思うよ。
俺個人としては、神武以降の天皇家の系譜、勢力拡大の大まかなプロセスは、だいたい日本書紀の内容どおりではないかと考えてる。
口伝だから細かな点で間違いはあるだろうけどね。
226 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:11:19.89
>天皇の祖神が、アマテラスというのも、天武のでっちあげだから。
これも記紀や伝承からの推論なんだけどね。
>>225 ただ、記紀の記述が天皇記や国記を踏まえてるとすれば、蘇我氏の時代に一回その時代に
都合のよいようにまとめられているという可能性はないですかね。
228 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:32:48.94
>>227 >>225が指摘してるように、日本神話は、所詮、氏族の序列を明文化したものにすぎないんだよ。
氏族Aは、天皇家とどれだけ近いか、氏族間の序列と身分に直結するから、
中央豪族全てのチェックが入る。
いいかげんな系譜を公文書には残せない。
氏族Bと氏族Cが共通の同祖を持ってるなら、
実際に血縁だったかはともかく、古代から近縁の同盟関係にあったと見ていい。
蘇我氏が死んだことで、蘇我氏系の氏族は多少の地位低下はあっただろうが、大きなごまかしはできまい。
229 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:43:48.41
>>228 このスレにそういう妄想はいらないから
妄想じゃないって言うんなら具体的に考古学の証拠だせ
記紀が真実を含んでいるともまったく含まれていないとも言えない
230 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:46:07.52
>>229 だったら、蘇我氏の居館跡も、妄想ってことだな。
231 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:49:38.96
一見もっともらしいこと言ってるような書き込みでも、記紀重視派の文章を読んでると、
結局、記紀の内容をおおむね肯定するような論調にもっていこうとしてる感じが鼻につく。
少なくとも応神天皇以前の系譜や説話は、創作がほとんどだよ。
あんな父子直系相続の系譜や、おとぎ話みたいな説話を史実と解釈するなんて理解できん。
創作すれば、当時の政敵に公文書偽造の弱点を握られて身の危険が
切迫する。父子直系が長く続いたからこそ、今の今まで皇統が絶えないで
来たということだ。
233 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:56:40.17
>>231 おまえも、[記紀重視派]と、ひとくくりにするなよ。
文盲と思われるぞ。
いやあどうだろう。脚色されてるとはいえ、記事のある崇神からは
全無視しなくても良いんじゃないかなあ。
たとえばタケハニヤスやサホヒコの乱といった王権内部の争い。
あれなんて8世紀の記紀編纂者にとっては(あるいはそれ以前の人間にとっても)、
別に新たに創作するようなモンでもないだろ。
実際崇神朝や垂仁朝に、そのような出来事があったとみた方が自然だ。
235 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:05:01.80
>>229 じゃあ「稲荷山鉄剣」という考古学的証拠はどう評価されるのかな?
これに刻まれた「系譜」は、
5世紀に、
畿内中央からはるか遠くのド田舎でさえ、
最大8世代(すべて父子継承とすれば)さかのぼる系譜を
文字記録する
という習慣の存在の考古学的証拠ではないの?
ド田舎でさえ系譜を記録するのだから、畿内ではもっと早い世代から系譜を記録する習慣があっただろうと考えるのは
おかしいの?
それとのこの鉄剣の系譜が「兄弟継承ばかりで2-3世代しかない」とか
「血縁にとらわれない実力による継承」であるという「考古学的証拠」でもあんの?
そういや、鉄剣の銘文は、代々職掌を継いだ者を並べたものだ、なんて言ってたやつもいたな。
「其児」とあるのにさ。もうどこまで父系継承を認めたくないんだよw
237 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:11:00.70
それこそ系譜ねつ造の証拠だな
兄弟相続もない直系だけで8代続く系譜が史実なわけない
100%創作
あれはオホヒコからヲワケまでの実系を連ねたものでしょ。
尊氏−義詮−義満−義教−政知−義澄−義晴−義昭
みたいなもんで。
239 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:20:02.61
稲荷山鉄剣の八代は5世紀の創作とまでは言わずとも、
地方豪族を系譜にとりこんだものだろうな。
もちろん、考古資料で実在の証明などできないし、考古学に知見を与えることもない。
稲荷山鉄剣八代は全くの架空と言っても、事実上さしつかえない。
むしろ架空と言ったほうが、学者としては批判は受けない。そういうもの。
240 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:24:24.48
>>237 >兄弟相続もない直系だけで8代続く系譜が史実なわけない
遺伝学、統計学上の証拠でも出してくれw直系で8世代続く可能性がどれたけ低いか。
記紀をそこそこ尊重することさえ「非科学的」と馬鹿にするならな。
こらもう発掘して何が出て来たって「これも架空、それも架空」になっちまうなw
>>237 これは創作ではな〜い。
記録を創作することは公文書偽造同行使であるからして、当時も敵は
結構いただろうからこれが弱点となり、とたんに失脚の原因になる。
利害大なる事由があればやる可能性があるが、ロクをはんでいてそんな
危ない橋を渡るわけもあるまい。
昨今八百長相撲があることが判明してしまったわけだが、これも幕下陥落
するとおカネが0に近くなり、この利害が八百長をやる利害の因と
なる等ということだ。欠史の八代増やしたところで、古代中国の歴史に
遠く及ばない半端な代数であるからして、これは八王朝否 八王長 だと
は言えない。
5世紀に系譜ねつ造が行われた証拠「8世代直系の系譜稲荷山鉄剣」がある
8世紀の記紀の系譜もねつ造で間違いない
>>243 鉄剣のねつ造でパクられた古文書等は見当たらな〜い。
つまりねつ造という論は、きみの創作。
245 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:56:32.11
武寧王=嶋王の記述も創作だっていうなら、たいしたものだな。
>>244 訂正
× パクられた古文書等
○ パクられた古文書書き等の人物
眠いねぇ〜zzzzz・・・・・
247 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 00:09:09.36
記紀の伝承や説話がおおむね正しいなんて言ってる連中は、
徳川氏が新田の末裔とかいうのも、江戸大名のインチキ系図とかも信用するだろうな。
アホやな。
てか、徳川氏や新興大名が@名門・英雄の末裔を仮冒し、
A記録もおぼろげな時期に家祖が現れ(家名を名乗る)、B記事のない系譜だけの人物を連ねた後に、
C天下を取ったり藩祖になったり歴史時代に入る、ってのが、
「日本書紀」すなわち大王家の、@神代、A神武、B欠史八代、C崇神
に相当するんだろ。
249 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 00:33:30.83
>徳川氏が新田の末裔とかいうのも
それね、すくなくとも家康の祖父である松平清康の時代からそういっていたので
荒唐無稽とまでは言い切れないことがわかってる。「言い切れない」までだけどね。
しかし、家康が征夷大将軍の地位を得るためにあわててでっち上げたものではないことは確かだ。
250 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 00:52:15.78
なんかこのところの議論が、完全なスレ違いのような希ガス
251 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 08:43:05.41
なんでもかんでも、わからんかったら
「創作だ」で片づけるのが、戦後の歴史学者や考古学者の特徴。
もう、そんなんだったら、学者なんか、やめちまえ
と言いたいねw
最低、それぞれの詳細について、吟味くらいしてみろ。
たいして吟味もせずに、ひとまとめに「創作だ」なんて、誰でも言えるんだよ。
252 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 08:47:29.51
卑弥呼=モモソ媛命ならば、
欠史八代に関する系図の実在性は高くなったと言えるよ。
ただし、その一方で、当時の中国の使者たちには、
欠史八代に該当する天皇たちを倭王だとは認識せず
その親族で、ヤマト最高位の巫女だった女性を、倭王だと認識していた。
よって、欠史八代の天皇たちは実在したかもしれんが
彼らが倭王の地位にいたかどうかは、ますます疑いが出てきた。
253 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:26:39.07
見えない敵と戦ってるようだなw
254 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 10:15:46.48
松平清康なんて、素性の知れない乞食坊主が松平の庄にやって来て娘を誑かして産ませた子供と言うのがもっぱらの説だが。
欠史八代を全て史実とは言わないが、
存在自体全くの架空とする連中は、
日本の歴史を語る資格はない。
256 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 12:39:14.42
>>252 しかし倭人伝には、卑弥呼以前に男の倭王がいて、7〜80年治めていた、て書いてるし、
その男王は奴国か伊都国のオウでしょ、流石に。
欠史八代信者はこのあたりはどう考えてるの?
あと系図ってのはいくらでも偽作されるし、それは後世でも洋の東西を問わず、頻繁に見られることなんだよね。
特に神話的要素を多く含む記紀の上代より昔の系図をそのまま金科玉条のように信じる、て態度は馬鹿にされても仕方ない、と思うけど。
257 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 12:48:12.68
>>256 >その男王は奴国か伊都国のオウでしょ、流石に。
またお前か
いいかげん妄想を垂れ流すのをやめろ
反論あるなら考古資料で説明しろ
258 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 13:11:32.84
>>256 欠史八代が倭王だったなんて誰か言ってたか?
ただのヤマトの豪族の首長が系譜で繋がれただけだろ。
その系譜が作為だとしても、古代ヤマトの豪族の首長の伝承まで架空とする必要性はどこにもない。
これは伝説のオオヒコスレ再びのフラグか?
261 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 16:54:32.72
おまえらマキムクを語れよ
ここは記紀スレじゃないぞ
262 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 17:03:59.12
結論を先に言ってシメましょう。
オオヒコは実在。
しかし、崇神に仕えていた将軍という立場だけであって、
オオヒコと孝元は親子ではないかもしれない。
だからといって、孝元が架空というのは言いすぎ。
銘文がオオヒコから始まるのが興味深い
264 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 17:40:20.49
>>262 >オオヒコは実在。
>しかし、崇神に仕えていた将軍という立場だけであって、
>オオヒコと孝元は親子ではないかもしれない。
またお前か
いいかげん妄想を垂れ流すのをやめろ
反論あるなら考古資料で説明しろ
265 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 17:49:33.03
>>264 考古資料で反論とかいうけど、
オオヒコが実在したら、考古学に何か悪い影響でもあるんですか?
何もないよね。
都合が悪いのは東遷説信者だけじゃないの?
>>263 8代目の吉宗が銘文に刻むのは?
1 初代家康
2 得川四郎
3 新田義重
4 源頼信
5 清和天皇
6 神武天皇
稲荷山鉄剣銘文
辛亥の年七月中、記す。
ヲワケの臣。
上祖(かみつおや)、名はオホヒコ、
其の児タカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。
其の児、名はタサキワケ。
其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。
其の児、名はヲワケの臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケ(キ)ル(ロ)大王の寺、シキの宮に在る時、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
269 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 18:54:03.19
東国経営に関与した阿倍氏に各地方豪族が取り込まれていく過程で同族、支族化。
その結果オオヒコを系図の最初に持ってきたっぽい。
孝元を最初に持ってこないことからも、五世紀にはまだ欠史八代の王統譜は出来てなかったのだろう。
清和源氏にしろ桓武平氏にしろ、経基王や高望王ではなく、天皇名を頭に付けているしな。
五世紀には少なくとも、オオヒコの父親が大王とは思われていなかった、と考えた方が無難だろう。
270 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 19:24:24.36
271 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 20:35:18.89
>>267 これって徳川家で言えば、
吉宗公。
上祖(かみつおや)、名は家康、
其の児秀忠。
其の児、名は家光。
其の児、名は家綱。
其の児、名は綱吉。
其の児、名は家宣。
其の児、名は家継。
其の児、名は吉宗公。
と言ってるようなものか。
272 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 20:49:57.64
マキムクを語りたくないんだな、マキムクスレなのに・・・・
273 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:14:15.29
マキムクでネタをふりなよ。
274 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:19:05.86
>>270 記紀でも継体より前、特に応神以前はかなり神話的内容が散見される。
上でも誰かが書いてたが、モモソ媛は蛇と交わり、田道間守は常世国に派遣され、ヤマトタケルが死んで白鳥になる。
雄略ですら、三輪山の神を少子部スガルに捕まえさせたり、葛城山で一言主と出くわしてる。
少なくともこうした部分は、きちんとした歴史を伝えているのではなく、語り部が口承してきた神話を採録しただけだろう。
こういった説話文学と違わない内容が、各天皇の事跡として伝えられている理由は?
275 :
ローガン:2011/05/16(月) 21:21:32.44
>>267 あくまで自身の顕彰でしょう。
「儂は、雄略んとこで治世の手助けをしてやったのよ。なんでって?
そりゃあ儂の家系は大彦から続く 天下にはなくてはならん名家だからのう。
これが儂が雄略を助け働いた理由じゃ。げははは」
こんなのがいるから、後世、諸家の本辞が「既違正実多加虚偽」だとされ 帝紀撰録へと…
スレチ失礼。
276 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:21:36.17
>>274 だから、雄略も架空で、ワカタケル大王も存在せず、稲荷山鉄剣銘もヲワケの創作だって言いたいわけね?
277 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:32:56.43
>>275 ローガンも最近、衰えてきた?
「上祖大彦」という古文書が、どっかの農家の屋根裏から出てきたなら、それは虚偽を疑うべきだが、
古墳の鉄剣に刻まれてるということは、捏造の余地が無いわけよ。
剣を手に入れられる身分、銘を刻ませられる身分であり、
朝廷内でも高い地位にあって、地方の統治を任せられるほど信頼を得ていた、ということは
そういう人物は、実質的に朝廷の血縁から選ばれるものだ。
赤の他人では造反する危険があるからな。
つまり、実際に大彦、孝元の遠い血縁であっても何らおかしくないし、その可能性のほうが高いとみるべきこと。
基本的なことですが、鉄剣の銘文は文献資料ですよ。
最後に埋められた後、改変されてないことが考古学的に保証できるってだけの話で。
書いてあることが真実かどうかは、文献学的な考察でしか分かりません。
279 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:36:00.75
>>276 そこまで極端なことは言わないよwそんな簡単に割り切れたら楽なんだけどw
少なくとも記紀でも古い部分は口承文学、説話文学化してるんだよね。正しい歴史を伝えようというより、昔話としての楽しさを優先させているように思う。
特に古事記では顕著。
280 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:40:34.06
基本的なことというのは、古代社会の身分というのは、
どれだけ大王の血縁に近いかで決まるんだよ。
だから、蘇我氏は必死に朝廷と血縁を結んだのであって。
血のつながらない、全くの赤の他人が、朝廷内で高い地位につけるなんてことは無いの。
そういう現実がありながら、どうしてヲワケが朝廷と赤の他人だと思えるんだろうね?
時代離れすぎだろw
江戸時代前期と今が同じなのか?
いわんや古代をや
って事でしょう
283 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 22:25:47.21
>>274 >神話的内容が散見される
別に不思議じゃないでしょ。彼らは神の存在を信じていたのだし、文字記録ではなく口承口伝だったのだから。
伝言ゲームのように伝えられてるうちに神話的に話が変化するのはむしろ当然。
年代だってそう。農耕民族である以上、暦はあったのだろうが、それは中国の暦のように数学的・天文学的に精緻なものではなかった。
いつしか中国式の暦が使われるようになったが、記紀編纂時には、昔の暦法は忘れられてしまい、修正しようがなく
「伝承どおりに」記載したため、現代人の目からは異様な長命になってしまったと考えられる。
いつから暦法が変わったかは、多くの研究者が雄略紀としている。実際にはもっと早かったのかもしれない。履中から在位年数が
「常識的」になっているからね。大和王権が中国との本格的な外交を始めるのは「倭の五王」からだ。外交上、中国と同様の暦法を
採用した方が都合が良かったという「動機」を推測するのは決して非合理ではない。
有名なコテハンの方が、「古代は倍暦だった」として記紀の年代を確定しようとがんばっておられるようだが、
古代の暦そのものが、中国のような精緻なものではなく数学的・天文学的に未熟なプリミティブなものだったろうし
プリミティブなものでも古代に「改暦」がされたという可能性もゼロではないから、あまり実りのあるものになるとは思えんが・・・。
284 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 22:39:39.34
マキムク・・・
285 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 22:54:54.76
>>283 面白いのが、欠史八代は、記紀自体には事績が書かれていないのに、地方の神社の由緒書とかに、普通にwその事績が事細かに記述されているということ。
つまり、かなり時代が下って、記紀を読んだ各地の神主たちが、欠史八代を利用して由緒があるように見せ掛けようとしたんだろうと。
神道集にある糸妥靖天皇が人を食ってた、とかいう説話も、次が「安寧」天皇だから前代はさぞや大変だったんだろう、という妄想で書かれたものとされている。
結局何が言いたいのかと言えば、記紀の「説話」部分の大半は、後世に付け加えられたものだろう、という指摘。
更に言えば、説話部分がない欠史八代が王統譜に加えられたのはかなり新しく、説話がある崇神以降の方が逆に古い、ということだ。
286 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 22:58:37.92
天津神算木は精緻に古代史の重要年代を測る。
崇神紀の三輪山の説話は崇神に関わりあるから記述されているのであり、
景行はその関わりが崇神ほどではない。三輪とは半径r=3の円をいう。
天津神算木とは三輪の球化の 体積=表面積 の数式をいうのだ。
天津神算木
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335=113.◎97B350
○数字は数的にミワ(三輪)と読み下す。その中に
B.C.97年=崇神即位元年
があるが見かけの年代であり、真の年代は両脇の数列 113 350 との差で
350−113=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年
求められるのだ。これ以外の188年とかの編年は完全にデタラメである。
288 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 23:28:30.55
いい加減にしろマキムクを語れ
289 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 23:32:29.71
>>286 欠史八代の方が実は新しい、といういわゆる加上説。理性的な判断だと思うがな。
神話を語ってるのに証拠を出せ、とか言われてもねw
纒向遺跡の歴史は、中心部の推移から前・後半期の二時期に区分される。前半期の中心部は、
遺跡西半の太田周辺に推定される。大規模水路網はこの時期のものであり、遺跡の西辺部を
北東―南西方向に延び、初瀬川に続くと推定される基幹水路と、それから分岐して南東に延び、
箸中山古墳の方向へ続く基幹水路を中心としている。基幹水路は、遺存幅5〜6m・深さ約1.5m
を測り、矢板によって丁寧に護岸さていた。
後半期には、遺跡東半の巻野内に中心部が推定される。珠城山古墳群の北の平坦地には、
断面V字形の溝に囲まれた建物敷地と思われる大規模な区画が造営されている。そこから
西に下った場所からは、樋・槽を連ねた祭祀場が検出されていることからみて、先の区画の
内部には、居館あるいは神殿のような建物群があると推定される。
橿原考古学研究所HPより
291 :
ローガン:2011/05/16(月) 23:55:25.28
>>277 >ローガンも最近、衰えてきた?
いや、以前から、こんなもん。
>剣を手に入れられる身分、銘を刻ませられる身分であり、
それ、どこで作った剣て確定してるん?
> つまり、実際に大彦、孝元の遠い血縁であっても何らおかしくないし、その可能性のほうが高いとみるべきこと。
私は、鉄剣自体を、東国完結と考えているんですよ。もっとも古い認識しかないんで、最近の研究はしりませんが。
系譜とは、自己申告の部分が多分にあるだろうと考えている訳で、だからこその「古事記序文」だというのが上レスの意味です。
292 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:05:24.36
>>291 あなたは、
>>290にあるような、
[神殿のような建物群があると推定される]という発掘者の自己申告は信じてるんですかね?
>>292 >居館あるいは神殿
これは竪穴式住居ではなく柱のある建物くらいの意味だろう。
294 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:10:47.52
文献に疑いの目を向けるのは結構だが、
それならば同じように考古学にも疑いの目を向けるべきだね。
マキムクの実年代が不明な以上、3世紀とか希望的観測にすぎない。
話をマキムクに戻すとして、なぜ、マキムクが4世紀以後ではないのか、
論理的に説明できるならしてもらおうか?
295 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:14:48.21
神話学も知らずに欠史八代を読むから、安易に神話に史実性を求めてしまう。
プラトンの時代から非難されてたようなことが、まるで分かっていない。
人代だから神話じゃない、とか訳の分からんこと言うし。ヤマトタケルとかも神話じゃない、とか言いそうだな。
296 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:22:44.74
ちょっと前は、古墳時代は4世紀からだったはずなのに、
最近はどんどんくりあがって2世紀とか言い出しそうな勢いだ。
最近の畿内説は調子に乗りすぎなんじゃないのかね?
297 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:26:01.49
>>294 いや、だからC14とか年輪年代とかで頑張ってるわけでw
訳の分からん、一世代が25年で、とかで計算するよりもずっと科学的だと思うよw
まあ実際のところ、理化学年代もまだ誤差が大きく、反論も多い。邪馬台国の時代が土器編年でいつ頃になるかははっきり絞り込めていない。
だから現在の研究では、考古学>倭人伝になってしまっている。
298 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:35:25.55
C14とか年輪年代とかって、オカルトと同じだろ。
科学的だとかよく言えたな。
どこがどう科学的なのか、データを出してもらおうか。
>>296 なんか、朝鮮化してるんだよな。
急ぐ理由でもあるんかなw
>>296 >古墳時代は4世紀からだったはずなのに
>最近の畿内説は調子に乗りすぎなんじゃないのかね?
じゃあその昔「古墳時代は4世紀」と言われていた根拠を調べてみようなw
…しかしこのスレの「記紀アレルギー」と言うのは「邪馬台国論争アレルギー」とかなりの部分重なるんだろうなw
「邪馬台国ブーム・論争」なんて物が無ければ日本の古代史はこんな”遠回り”しなくて済んだと…
もっとも本道に戻ってくれたのはまだマシで道を見失い獣道に迷い込んだ馬鹿がこの板にはいっぱいいるわけだがwwwww
ところで”恨み節師匠”は多少憑き物が落ちてそれでもこのスレにいるような気が…
「大彦厨」に姿を変えていないか?wwwwwww
301 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:43:23.14
>>295 ヘエ〜。ならばあなたがお勉強された「神話学」なるもんの成果をご教授ください。
何故、神武から人代、それ以前が神代とされたのか。記紀の編纂者の動機は?
あるいは、「神話学」なるものからすると記紀は誰の代から「神話」じゃなくらるのか。
ところでさあ、「古代の王位継承は豪族間の連合により血縁に限らない」なんて説の「考古学的証拠」なんてあんの?
302 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:46:25.06
>>300 >じゃあその昔「古墳時代は4世紀」と言われていた根拠を調べてみようなw
小林なんとかというセンセイがそう言ってたんじゃないの?
卑弥呼が死んで、墓(前方後円墳)ができてからが古墳時代なんだと。
ところが、最近は、卑弥呼が存命中から古墳時代らしいな?
まあ、あくまで纏向スレなんだから纏向が「ヤマト王権誕生揺籃の地」として認識されている以上
「欠史八代なんてものは架空」と言ってさえ良い状況だろうなwwww
少なくとも大王と言えるような存在とは考えられない。
もし崇神に繋がる系譜の人間か否か…なんて分る術も無いだろう。
(つうか本当は崇神だって実在したかどうか分らない)
このスレの趣旨は>1のテンプレにあるように王統・皇統を遡ること云々ではなくて
王権の発生発展のプロセスを考察する事にあるハズw
記紀に出てくる人間の血縁関係なんか所詮分らない。
骨でも残っていればDNA鑑定できるのかもしれんがw
>>298 国が予算出して研究してて、なおかち世界中で同じような研究やってるのにオカルトなんだ?
バカ?死ねば?
305 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:00:00.69
>>304 データも出さずに、上からの発表を信じるほうがバカ。
考古学学会のウソつき体質はとっくにバレてるんだよ。
306 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:08:53.61
とにかく、記紀を否定してるやつは、
マキムクの卑弥呼の宮殿説も徹底否定してくれることを期待するわ。
まさか、何の証拠も無く、ただのほったて小屋を卑弥呼の宮殿だと信じるバカはいないよな?
307 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:11:11.32
>>301 自分が考古学的根拠を書け、と言われて、何も書けず悔しい思いをしたのを根に持っているようだがw
そもそも、崇神の頃の話なんて、墓誌でも出てこない限り、考古学的に説明なんて出来ないよ。
せいぜい記紀編纂時点で、神話や王統譜がどのように捉えられていたか、を考察できるくらい。
記紀に寄りかかり過ぎると人生を無駄に過ごすから、距離を置いて客観的に読んだ方がいいよ、誰の本を読んでるのか知らないけど。
あとまあ、大王位持ち回りも確かに俺が買いたが、これは確かに空想。
記紀を好意的に解釈して(嘘だと決めつけず)、古代天皇が多くの豪族の祖になってるのを普通に解釈したらこうなるんじゃない?。
本気で全部血族だったとか考えてるならかなり頭の弱い人。
また理化学的年代測定を批判すれば何とかなると思っている馬鹿が沸いているが(サイキバか?)w
まあ、稲荷山鉄剣・大彦ネタをこの纏向スレに必死に持ち込むのは一種のアンチテーゼとしてなんだろうがwww
あえて付き合えば大彦の実在を疑わざるをえないのは
もし本当に日本各地の氏族の祖と言うようなプロフが本当なら
ヤマトの文化(古墳や土器)の拡散がもっと早くに起きていてしかるべき…という理屈にならんか?w
既に各地にはヤマト王家の血筋を迎え入れるような環境があったという話なのだから…
(崇神から見れば大彦は爺さんの兄弟)
先にも言ったように現在世間一般に纏向がヤマト王権誕生揺籃の地とされている以上
どうしても無理筋なお話になると思うがwwwww
309 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:19:14.64
ほんとのこと言えば、銅鐸廃棄の原因も、実際はどうだかわからないのに、
考古学者は適当な妄想を語って、それがさも真実かのように報道されるのはゲンナリだったんだよ。
そこは、大目に見て、「そういうことも考えられるだろうな」と受け止めていたが、
じゃあ、記紀に関して「そういうことも考えられるだろうな」という話しをしたら、
どうだい?全否定だぜ?
恐れ入ったね。
だったら、こっちも、もう遠慮はしないよ?
銅鐸は、祭ってた人々によって自主的に廃棄されて、首長霊信仰に切り替わっただと?
アホぬかせ。どこにそんな証拠があるんだね?
310 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:22:29.22
>>308 あなたは、「卑弥呼の宮殿」についてどう思う?
あの柱穴跡が、本当に卑弥呼の宮殿だと
し ん じ て る の か ?
大王の持ち回りなんてねえよ。1世代1墓的に大王墓は築かれてんだからさ。
徳川が豊臣の次に大王になって、
「豊臣君、すまんけど20年後うちの次は島津君なんだわ。
だから40年……いやもしかすると前田君にも回さなきゃまらんから60年……
いやあ伊達君もいるからなあ……」
みたいな話だぜ。
大彦は崇神のおじさんだよ。十分同時代に生きた人物。
大彦の子孫が拡散するのは当然その後の時代だし、
だから前方後円墳体制の古墳文化が全国に広がるのも、
「箸墓以降の崇神朝以降」で当たり前。
312 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:36:11.91
なんか、まともに反論出来ないバカが頭カンカンになって書き込みしてるみたいだがw
記紀の話は話半分くらいで聞いてて、まあ何らかの歴史の断片は伝えてるかも?ていうのがこのスレのコンセンサスだよ。
全否定してる奴は、お互いを煽って火をつけてるだけの愉快犯。釣られるな。
313 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:42:48.33
>>309 >じゃあ、記紀に関して「そういうことも考えられるだろうな」という話しをしたら、
ヒステリー起こすのはお前の勝手だがここは記紀談義スレじゃないからなw
そこを間違うなよwww
314 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:49:46.59
記紀を全否定するつもりはないが、さすがに神武や欠史八代はないわw
まあ、せいぜい欠史の中にシキ県主家の系譜伝承が採用されてるのとか、
シキツヒコとかミマツヒコとかの首長名が断片的な記憶と推察されるくらいだろ。
あのへんの父子直系相続の王統譜は論外だ。
315 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 02:04:50.48
先日のNHKの番組見て思ったんだが、石野さんたち畿内説の人たちは、仲良しクラブというのが
ぴっちりという感じだった。
俺たち畿内説だもんね。仲良しだもんね。九州説なんか受け入れないもんね。約束だからね。
裏切ったら、仲間はずれだからね。
そんな感じを受けたな。
>>312 しかし実際の話、十のうち半分の五は真実を語り、残りの五は嘘という奴が一番扱いにくいw
いっそ一から十まで全部嘘と言う方が分りやすいwwww
>>304 だって測定値から、自説に都合の良い方に、
100年くらいは補正して発表してるんだもの。
世界中じゃなくて、奈良の話ね。
318 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 02:58:38.77
>>316 自分のこと言ってんのか?
確かにお前はわかりやすい。
319 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 03:11:40.90
マキムクにも畿内説も九州説もないだろ
いいかげんにしろ
320 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 03:12:33.92
まあ纏向に絡まず「稲荷山鉄剣・大彦」や単なる「記紀談義」を持ち込む低脳クンは
現在纏向で語られる古代史の構図が気に入らないんだろうが
だったら「プレ・纏向」とでも言える遺跡を探して来いって話だなwwww
>>315 そりゃ皆勝手にまともな候補地も示せない、
妄想全開などっかの連中とは違うよw
九州が来ると荒れる
隔離されてる意識なし
324 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 08:19:56.28
結局、マキムクをいくら掘っても、卑弥呼がマキムクにいた証拠なんて見つからない。
いくら九州説を攻撃したところで、マキムクが開発されると同時期に、
九州の僻地にいた巫女を卑弥呼として共立したと言われれば誰も否定できない。
マキムクに卑弥呼の宮殿がみつかった〜とか言っちゃったら、そりゃもうただの妄想。
科学でもなんでもないね。
325 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 08:42:24.05
たとえ3世紀に箸墓が築造されようとも、だから何?って話しで。
卑弥呼が九州の巫女で、九州と魏が通行していたのとは別に、
ヤマトで王権が生まれはじめただけ。
卑弥呼がヤマトにいた証拠なんて、どこにも無い。
だいたい、首長霊祭祀の始る時期に、巫女を共立して巨大前方後円墳を作るなんて矛盾してるんだよ。
モモソヒメなんて、神話的な逸話が多いんだから、もちろん架空の人物と考えるべき。
箸墓だって実際は男王の墓だったのさ。
326 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 08:45:38.74
>>313 人のことをヒステリーと断じるおまえは、
当然、マキムクに卑弥呼がいたことを否定するよな?
科学的にそんな証拠は無いからな。
327 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 08:57:46.13
あたりまえだろ
崇神、神功 応神も実在してない
実在した可能性が高いのは継体以降だな
328 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 09:06:17.15
よろしい。
このスレでは、今後一切、畿内説は禁止だ。
東遷説も禁止。
しかし、九州説は排除しない。
マキムクに卑弥呼がいた証拠が示せない以上、九州説を排除する理由がないからな。
今後は、マキムクが王権の礎となった過程と共に、
魏と通行してた卑弥呼率いる九州勢力との交易関係の実態について論考しようぜ。
九州勢力の考察抜きに、マキムクだけを語れないからな。
329 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 09:19:03.26
従来、考えられてきたケースは2つ。
ケース1、九州から近畿にかけて、ゆるやかな連合が形成され、卑弥呼はヤマトで共立された。
ケース2、卑弥呼は九州勢力だけで共立された。同時期に、近畿中心にゆるやかな連合が形成されつつあった。
どちらが正しいか、科学的に証明はできない。
しかし、矛盾はケース1=畿内説のほうが、大きいよな。
前方後円墳を作り始める=首長霊祭祀がはじまったあとで、卑弥呼共立は矛盾だ。
そこで考古学者は「ヒコヒメ制」なんて妄想を語り始めたんだよ。
どこにも、そんな制度があった証拠が無いにもかかわらずだ。
なにがヒコヒメ制だ?
大王となった首長に権力が一本化されたからこその首長霊祭祀だろうが。
前方後円墳が作られはじめる契機に、巫女が共立されるわけが無いだろ。
妄想もたいがいにしろよな。
九州説論は商売と関係しているから、そりゃ、必死だわな。
近頃の邪馬台国畿内説でほぼ決まりになりつつあるから。
331 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/17(火) 10:15:15.50
記紀を読めば一発で分かる。なにも難しい勉強もしないで判別できる。
これはうっちゃり等のスリ抜け論を脳内であれこれ考え出すことはもう止めて、
素直に読めばすぐ分かって来るのだ。
つまり記紀の相当年代に女王(女天皇)の在位した記事は無い。だから卑弥呼は
朝廷の女ではないと途端に分かる。そこで俗世王と祭祀王の二王がいたなどと
の、記紀に載ってない祭祀王を脳内で創作してしまう。そういう可能性の出る
脳内でのあれこれの雑念工夫をピタリと止めて、スーッと記紀に女天皇の当時頃
無いという事項を受け入れることだ。これで女王卑弥呼が朝廷と無関係と判断
出来る。
じゃぁ朝廷でない畿内の天皇国の近隣の女ではないのかと考えるに、そんな所に
女王国があったんなら当然記紀に女王卑弥呼と天皇との国同士の交易、戦争、
場合によっては婚姻等の記事が載るはずだ。しかしこれも無いわけで、これは
そんな国が天皇国の近隣になかったんだということが分かるわけだ。おまけに
吉備、出雲はどうかといえば、前者は半島からの遣使の通り道に相当するから、
そこに女王国があれば朝廷のほうに卑弥呼の国の情報が書かれて然りだが、
これもないし、後者は朝廷に近いんだからこれも記紀に載るべき範囲にあるが、
これも記載がないところを観ると、両者の地域に彼女の女王国はないという
ことだ。四道将軍の四方派遣でも卑弥呼の国に遭遇出来なかったということと
なるが、そうなると畿内でなくて朝廷との情報の行き来がない地域に女王国が
あったということが正解だということだ。さて〜
さらに箸墓が大きいことで卑弥呼の墓のようにどうしても誘引される考察に
至るが、これもインドのタージ・マハルや古代エジプトの某神殿などもお妃
の可愛さあまり大王が大王と同等かそれ以上の大きい規模での建物を造ったと
あるから、即位してないモモソヒメの墓としても別におかしくはない。だから
箸墓はまるで昆虫が食虫植物にひかれて捕まるように、卑弥呼のだと考えること
は、それにひかれる昆虫の如くに、自説が奈落に落ちること〜論の失敗を意味
するに至るとなるから、箸墓に惑わされてはならない。
記紀には九州その他に居たとも書かれてないけどな。
333 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 12:25:18.69
>>331 記紀に3世紀のゆるぎない史実が描かれていると信じるわけだな
朝廷との情報流通がない場所ってどこ?
3世紀の近畿と九州が完全に情報断絶状態にあったって根拠は何?
もう、邪馬台国は日本にはありませんでしたってことにしたら?
334 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 13:04:34.60
邪馬台国は日本にはありませんでしたよ?
中国人の妄想でしょ。方角と方位をそのまま読んだら、沖縄までいっちゃうよ。
335 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 13:17:27.71
九州に前方後円墳ができたのは、明らかに4世紀以後なんだから、
卑弥呼統治の全盛期である3世紀初頭は、九州と近畿は別々の体制だったことは明白。
ならば、卑弥呼は九州で共立さたと結論するほうが妥当。
畿内説の妄想に騙されてんじゃねえよ。
336 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 14:26:39.91
邪馬台国が日本に確実にあったという考古資料があるなら出せ
ないなら黙ってろ
337 :
ローガン:2011/05/17(火) 15:25:53.05
>>329 >大王となった首長に権力が一本化されたからこその首長霊祭祀だろうが。
> 前方後円墳が作られはじめる契機に、巫女が共立されるわけが無いだろ。
いや、共立された初代王の死が、前方後円墳の契機。
338 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 16:14:52.08
>>337 >いや、共立された初代王の死が、前方後円墳の契機。
君の空想にすぎない。
339 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 16:56:54.98
>>33 いいかげん妄想を垂れ流すのをやめろ
反論あるなら考古資料で説明しろ
340 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:03:39.54
初代王が女性だったという証拠は無い。
ヒコヒメ制が存在した証拠は無い。
どうしていままで、こんないいかげんな説が流布されてたんだか。
341 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:05:58.09
もうヤマタイコクなんか九州でもどこでも
好きなだけ好きなとこへ持ってけよ
うるさいから
マキムクのスレだろ
342 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:09:42.13
マキムクが王権の礎だとして、九州との関連性の有無は、いずれにせよ議題に上げねば始まらない。
そうだろ?
>>333 >邪馬台国は日本にありませんでした
こういう考えが、もう考えすぎで失敗。
中九州以南が朝廷と情報が滞りやすい地域だということだな。かなり
外界から秘匿されやすい〜以南の地域にあったということだ。以下
は当時の大陸、半島の遣使の交通路の線だ。だからその線のあたりには
卑弥呼の国はないと観てよい。
大陸→半島
↓
対馬等
↓
北九州→−−−−−−→畿内
中九州
南九州
上表のように北と中あたりに情報が断裂してると思える状況だったよう
だ。それがたまたま大陸人が北九州へ来て、行った事のない中以南を探索
したくなる当時のインディ・ジョーンズ的冒険旅行をやり〜ある日卑弥呼
の女王国を見つけたか、事前に北九州の住民からわずかな情報を掴んで
中九州以南へ行ったかして女王国の実体を得たということだ。
畿内から九州に至るもそこから左折して中九州以南へ行く交通路が未開
状態で、畿内と女王国の双方の情報の行き来が皆無に近かったという
ことだね。その逆に女王国から北上し、右折して畿内に行くような状況
は殆ど無だったということになる。
>>334 それは単純計算ならばそうなるから故障のないスーパー・ロボットを
製作出来て海も潜れて歩けるなら、これはあなたの言うとおりになるが、
人間は生身であるし、旅行途中のハプニングも起こりうるし、けっこう
時間がかかるんだよ。
いい地域なので道草をして宿泊するだろうし、地形が険しいので迂回
するとか、山賊海賊等がいるようなので停留し退治してから進むか
いったん後退して別の道を選択するか、途中病人が出て休むため一時
その場で回復を待ったとか、台風の襲来気候の悪化等で道草をくうとか、
いろいろ障害が出てかなり日程が延びたということだ。
345 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:36:10.67
纏向が邪馬台国、箸墓が卑弥呼の墓と言われることに対し、ここでヒステリー起こしている九州説の馬鹿どもは
とにかく九州邪馬台国の具体的な候補地を挙げて九州邪馬台国と言えば、それが大本命と言えるようなものにしてから文句を言え。
九州邪馬台国を前提にして纏向語れと言われても
その九州邪馬台国が初期の前方後円墳の出現している北部や東部(宇佐赤塚等)の範囲にあるのか?
それともその範囲の外にあるか?で話はぜんぜん違ってくる。
結局、九州説は畿内説を否定する事に血道を上げるのではなく
いわば”自律的”に自説を証明しうる物を持ってこない限り
2ちゃんの纏向スレなんかで火病起こしてクレーマーやってても埒が明かない。
もう う ん ざ り だ 。
346 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:36:44.72
太国さんは、マキムクをどのように考察、評価されてるのでしょうか?
よろしければ、ご教授ください。
347 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 17:44:36.28
前方後円墳の出現と卑弥呼の共立、あるいは世俗王と祭祀王の二元体制、ヒコヒメ体制とはそぐわないとか言っている奴がいるようだが
先ず記紀を一読しただけでも崇神と倭迹迹日百襲媛命、敵対した武埴安彦とヨメの吾田媛、九州土蜘蛛田油津媛とその兄の夏羽etc
…とやたら勇ましい女が男王と共に出張っているのが見え、もうこの時点で違和感が出てくるw
また例の倭人伝の記述だと「会同坐起には父子男女別なし」とあり、倭人伝の風俗の描写が
当時の日本の姿を正しく捉えていたものかどうかは疑問だし、首長層階級と一般人との差異も考える必要があるだろうが
日本の社会が全体としてはまだそのような段階だったと理解するに支障は無い。
そう言えば早くから王権構造ができていたであろう北部九州ですら平原王墓の被葬者は女性と言われていて
当時の日本社会の構造がうかがい知れる。
じゃあ前方後円墳等の巨大首長墓の出現頃に社会構造が一変、確固たる支配体制・王権・王統が確立したのか?
…と言えば今の日本ではそれは5世紀氏姓制度の登場を待つ…と言うのが一般的理解だと思うがw
3世紀に既に氏姓制の概念があったと言うような話は聞いたことが無いw
348 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:01:21.54
>>347 >崇神と倭迹迹日百襲媛命、敵対した武埴安彦とヨメの吾田媛、九州土蜘蛛田油津媛とその兄の夏羽etc
倭人伝の卑弥呼と弟の記述を読んだ8世紀の役人が創作しただけ
実在した考古学的証拠はない
そもそも3世紀の首長というのは世襲ではないだろう。豪族層から選ばれるだろうがね。
350 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:13:43.18
>>347 記紀なんて信じてんのか?タコ
史実だって証拠見せろと。
351 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:13:49.47
>>348 あまり考古学と言うか一つの学問に万能性を求めると
倭人伝の「すなお読み」で物理法則すら曲げかねない連中と同レベルのトンデモになるぞwww
まあその男女の組み合わせ全てが史実かどうかは分らないが
そうやってペアが頻繁に出てくる事自体古代の日本社会の記憶の残滓だと言う話ねw
352 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:26:30.94
353 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:32:42.19
神武以降、9代はあくまで説話上のキャラ。
ミマツヒコやシキツヒコは実在した首長名の可能性もあるが、実在の証明は無理。
たぶん、シキ県主家などに断片的に伝わってた、いつの時代かわからない首長名で、
時系列も系譜関係もまはや不明。記紀の系譜はあとからの創作。
崇神(ミマキイリヒコ)・垂仁(イクメイリヒコ)・景行(オシロワケ)。
この3人の王は実在の可能性がある。あくまで「可能性」にとどまるし、系譜関係も検討を要する。
成務(ワカタラシヒコ)・仲哀(タラシナカツヒコ)・神功(オキナガタラシヒメ)。
こいつらは架空だ。問題外。
応神(ホムタワケ)以降は、一応、実在とみてよい。
ただし、清寧から武烈までの4人、こいつらはあやしい。
355 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:37:31.23
オオヒコすら架空の人物だと言ってるのに、
何が実在の可能性だ?
記紀信者はバカばっかりだな。
356 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 18:44:42.43
まあ、スパッと架空とか創作と言いたいのはやまやまだが、
一応、「可能性」に言及しとかないと、うるさいのもいるしな。
だが、崇神〜景行は実在の可能性くらいあるだろ。
>>345 もう九州でより具体的だよ。畿内か九州かでせばまったわけで、もう
紀無いの可能性は0.九州で決まりだ。w
>>346 だから垂仁、景行の関係の遺跡だよ。
358 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 19:06:11.09
あるわけないだろ。
墓があるから、大王クラスの人物はいただろうが、
そいつの直系子孫が天皇とか、マジありえないから。
359 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 20:08:53.60
4世紀の首長も世襲ではないだろう。豪族層から選ばれるだろうがね。
というか5世紀すらもオオキミというか、大勢力を統治する統括首長とかもいなかったと思われるしな
361 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 21:02:31.39
>>356 可能性はある
開化〜天照も実在の可能性はある
ないことは証明できないから
悪魔の証明やね
362 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 21:18:47.85
やはり、ここは明快に架空と言い切るほうがいいだろうな。
つまりは記紀との整合性や、または記紀の記述内容の正誤を判断するには
まだ全く材料が足りないってことだね
その足りない部分を妄想で補わねばならないから無理がある
あと200年後くらいに手をつけ始めるくらいでいいんじゃないか
俺らの生きている間には、単なる仮設ですらもない
364 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 21:29:48.84
そういうこと、妄想は完全に排除したほうがわかりやすい。
365 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 22:43:15.73
記紀だけじゃなく倭人伝も架空と言い切る方がいい。
司馬氏を称えるために大月氏国に匹敵する架空の邪馬台国を創作した。
その架空の邪馬台国の記述を見た纏向政権がヤマトの名前をパクって権威付けに利用した。
366 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 22:47:30.25
倭人伝の内容がデタラメなのは、すでに常識だけどな。
なにこの一大キャンペーン
九州の大安売りか?
368 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 22:58:16.59
倭人伝は貴重な同時代文献で史だし、一級史料なのは間違いないだろ。 ただ、残念ながら外国人目線だから勘違いが多い、ということ。
それと実年代が確定せず、研究に使いにくいというのがある。
マキムクが邪馬台国と同時代に確定すれば、古代史研究もかなり進展すると思うよ。
369 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 22:59:31.23
>>368 [マキムクが邪馬台国と同時代に確定すれば]
魏志倭人伝の内容がデタラメで参考にならないという結論になるわけだが?
370 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 22:59:32.48
371 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 23:00:31.75
372 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 23:02:11.85
妄想ばっかり語ってんじゃねえよw
↓
妄想を排除したら、畿内説破綻w
↓
九州説大勝利wwww
373 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 23:05:32.17
>>372 邪馬台国なるものが日本にあったという考古学的証拠ない
ないから、ここで語るなといってんだろ。九州説とかは伊作のとこへ戻れ。
375 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 23:12:47.64
ようするに、3世紀には邪馬台国は存在せず、
マキムク王権だけがあったと。
おもしれえな。
376 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 23:15:39.56
結局、根拠出せと言われて反論できなかった記紀信者の馬鹿が、火病って連投してるだけだろ。
相手にしなくて正解。
いい加減、馬鹿丸出しの投稿は止めて欲しいものだw
377 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 01:13:31.06
>>365 >記紀だけじゃなく倭人伝も架空と言い切る方がいい。
別にそれでも構わない。
「架空である」と言う証明ができるなら是非やってくれw
邪馬台国なる物が机上の産物でっち上げだったとしても
ここで語られている纏向に見る王権発生のプロセスに大した変更は無い。
精々箸墓が男王の墓である可能性が高まるとかその程度の修正で済む。
要するに「卑弥呼」だの「邪馬台国」だの中国史書に見える固有名詞が無くなるだけのお話
無論九州説なんて過去の遺物は木っ端微塵に欠片一つ残さず消え去るわけだがw
379 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 01:57:33.39
もし倭人伝と記紀がなかったら
日本の大和王権成立過程に関する研究はどんな様相になっていたか…
「卑弥呼」「邪馬台国」に関する色気がでなかったぶんだけ
より整然と研究されたのではなかろうか?
少なくとも研究費は出ないのは確実
380 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 02:07:16.79
>>379 吉野ヶ里はそのまま工業団地になってたのかもなwww
まあ例の京大の小林佐原による年代観も出て来なかったんだろうが
それでも記紀があるから文献に引っ張られた可能性はあるんじゃないのかな?
381 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 04:08:03.50
>>379 倭人伝がなかったら、畿内考古学は成り立たない。
卑弥呼の鏡も、卑弥呼の墓も、邪馬台国や卑弥呼そのものも倭人伝からの借り物だから。
記紀も同じで、倭迹迹日百襲姫や箸墓などいろんなものを借り入れている。そのくせ、倭人伝否定、
記紀否定となるのだから、なんだかなあと思ってしまう。
考古学には古代文化の研究という持分がある。歴史学的なことに口を出すのは越権行為だと思う。
その意味じゃ、ゆるやかな連合なんてのは、自分に都合の良い作り話に過ぎないと思うな。
考古学でそんなことができるのなら、縄文時代についてもどんな国があり、どんな人がいて何をしたかを
語って欲しいものだ。
>縄文時代
これは考古学の用語。
文献史料をいくら調べても出てこない。
新しい時代区分、組みなおしたほうが良いような気がする。
考古学、植物学でも、そうとう考えが違うしな。
考古学が徐々に理系の分野に歩み寄っているといえど
もう、縄文時代、弥生時代みたいな時代区分では
説明できなくなっているだろう?
弥生時代の開始時期をいつにするのかだけでは、
もう不十分だろう?
なぜなら、弥生時代の定義すら、たえず、ころころ変わりつつある。
こんなもんは、近代の学者が勝手に作りだした考古学区分だし。
385 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 06:34:49.53
ここ普通の妄想スレになっちゃってるね。
386 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 08:37:55.83
妄想(記紀倭人伝)を排除した、考古学証拠に基づく論理的思考の場。
それがこのスレッド。
387 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 08:38:34.61
実際に見つかった遺物から推論する考古学と、本当かどうか分からない記紀内容から推論するのじゃ、意味合いがかなり違ってくるけどな。
少なくとも記紀出発は気をつけないと妄想爆発になってしまうw
少なくとも説話的要素の多い継続体より前は注意が必要。
388 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 09:20:50.11
邪馬台国なる国や崇神なる人物がいたという考古学的証拠はないかなら。
全くの架空と言っても、事実上さしつかえない。
むしろ架空と言ったほうが、学者としては批判は受けない。そういうもの。
389 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 09:36:12.15
記紀を必ずしも否定するものでもないと思う
個人的には初期前方後円墳の各地への急速な伝播は、
崇神の四道将軍派遣が契機となっていると考える
390 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 09:38:49.83
>>389 >記紀を必ずしも否定するものでもないと思う
そういう曖昧なことを言うから批判されるんだろうが。
否定できない箇所があるなら、なぜ否定できないか、説明すしてからだろ。
少なくとも
初期前方後円墳の各地への急速な伝播=崇神の四道将軍派遣
この図式は、根拠薄弱だな。
391 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 09:43:49.19
倭国大乱も架空だな。
大規模な武力衝突を想起させる考古遺物はない。
392 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 09:45:26.46
記紀は神武から日本の王者とはいってない。
神武から開化は、あくまで葛城辺りの豪族のひとつ。婚姻関係や宮の場所から勢力拡大を図っていた気配はあるが、
三輪山周辺には手出ししていない。それを攻略して大和の王となり、さらに大和の外に打って出て「畿内国家」に発展させたのが崇神。
崇神以前と以後はクニの規模も経済力も全く違う。巨大な前方後円墳の出現が箸墓から始まるという考古学的評価と
崇神からクニの規模が急拡大したという記紀の記述は、全く矛盾せず整合している。
393 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 10:12:42.45
394 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 12:15:59.30
ここまでのまとめ。
欠史八代、崇神、大彦、モモソヒメ、すべて存在しない架空の系譜。
箸墓他、前方後円墳は、大王としての権力を持ちえた人物を葬った首長霊祭祀によるものであり、
「共立された女王」の墓ではない。
無理やり祭祀王を定義したり、ヒコミコ制を唱えるのは、根拠の無い妄想。
魏志倭人伝の記述も中国人の妄想。
邪馬台国も無ければ、卑弥呼なる女王もいない。
出土する土器の多くはヤマトのもので、搬入土器は東海系が多い。
したがって、マキムクを建設した主体は、ヤマト+東海勢力である。
大王はヤマト出身から選ばれた。
ここまでは、異論はあるまい。
>>394 考古観点から見ても、異論ありまくりだろうw
もういちど
>>1をよく読め
在地型土器の変遷と、外来式の種類・用途別を加味すれば
大和から大王がなどとはいいきれないし、そもそもオオキミ(大首長)が纏向の時代に存在したのかどうかすら不明
396 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 12:34:02.74
>>394 異論ありまくりだろ
・欠史八代、崇神、大彦、モモソヒメ等の人物が存在したという明確な証拠は未発見である
・箸墓他、前方後円墳は、大王としての権力を持ちえた人物を葬った首長霊祭祀によるものである可能性が高い
→被葬者像が不明確である以上、現時点で「共立された女王」等の概念を文献から持ち込むべきではないはない
・無理やり祭祀王を定義したり、ヒコミコ制を提唱するような論理的根拠は、現在のところ乏しい
・魏志倭人伝の記述には不明瞭な点が非常に多く、同時代の資料ではあるが取り扱いには注意を要する
→したがって邪馬台国や卑弥呼なる女王の存在していた可能性はあるが、その人物を同定できる可能性は極めて低い
・現時点で出土する土器の多くはヤマトのもの(約50%)で、残りの搬入土器は東海系が最多(約25%)である
→したがって、マキムクを建設主体は不明瞭だが、運営した主体はヤマト+東海勢力である可能性が高い
・埋葬形式が各地首長墓のモザイクとなっており、被葬者と想定される大王はヤマト出身から選ばれたかどうかは不明
397 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 14:02:43.31
>>395 >在地型土器の変遷と、外来式の種類・用途別
具体的に、お願いします。
在地型土器がどのように変遷して、そこから何がわかるのか?
外来式の種類・用途から、何を目的に外来土器が持ち込まれたのか?
>>396 >埋葬形式が各地首長墓のモザイクとなっており、
具体的に、お願いします。
各地首長墓のどんな特徴が、ヤマト前方後円墳のどこの箇所に影響を与えたと見出せるか?
お答えいただければ、明瞭に見えてくるものがあるはずですね?
398 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 14:10:39.30
>>394 それは単なる君の願望、つまり妄想だよ。
>>397 過去スレ読めばいいだけだと思う
それについて延々皆が語ってきているし、そもそも老教授がもう7年も前に詳しい説明をしているから
今更具体的にとか言われても、そんなことも知らんと書いてるのかこの新参者はと思われるだけだよ
根拠とまではいかないが、ヒメヒコ制が推定されるのは画文や三角の画像。なぜあれが好まれる
のかという疑問。
402 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:07:51.75
>>399 老教授がヒコヒメ制とか言ってた頃だろ?
おまえは、「ヒコヒメ制」なんてものを信じてるのか?
考古学的な証拠を出してもらおうか?
403 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:10:32.60
>>399 根拠を書けないのは、所詮、老教授の妄想によるところが大きかったからだろ。
みんな老教授の妄想にコロっとひっかかってただけなんだよ。
違うというなら、根拠を書いてみろ。人に読ませられるような根拠が示せるのであればな。
老教授って、未だに九州説にとっては恨み骨髄の存在なんだなw
405 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:15:05.55
>>1 >北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
そもそも、「北部九州」の影響が、マキムクにどれだけあるんだね?
俺の記憶では、九州の土器のカケラがちょこっと見つかっただけだろ。
それで、広域的なゆるやかな連合が、九州から近畿まで組み込まれていたとか、
九州がマキムク開発に参画してたとか、全部、根拠の伴わない空想だったわけだ。
406 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:23:28.76
畿内説は嫌がるだろうが、
鉄器量の差は九州のほうがはるかに多い。
古代におけるGDPのモノサシみたいなもので、
4世紀になっても鉄器量の重心は九州にあったのに、
畿内中心に「市」が出来ただの、その交易連合が九州を凌駕したとか、
いったい、そういうこと示せるような考古学的根拠がどこにある?
なんにもない。全く無い。畿内説が作った妄想につきあわされていただけだ。
407 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:35:44.78
>>381 もうその辺になると歴史に対するアプローチ手段の違いって話だからどこまで行っても噛み合わない
あくまで考古学的なものを廃し文献一本でやると言うのなら
それはそれで尊重されるべき姿勢だが他のスレでやってくれないかな?
勿論「弥生時代」「古墳時代」とか言う考古学上の時代区分は使わず
舶載品の多く出る事に由来した「九州の先進性」とか言う考えもなしだ。
記述内容を疑う事はまかりならないのだから
古代の天皇は100歳以上がゴロゴロしていて神武は金鵄やヤタガラスと言ったUMAに助けられ
時代が下っても三輪の山中には人語を解する大蛇がいると…
ついでに言っておくが「欠史八代」なんてのも別に考古学からでてきた言葉じゃないし
(つまり考古学による”否定”じゃなくてむしろ欠史八代と言う考え方を追認・補完した形だな)
それ以後にも実在性を疑われている天皇はいるし
皇統譜上の人物でなくとも実在を疑われている人間は歴史上他にもいる。
固有名詞を借用したならその文献の中身について否定するなと言うのなら
もはや宗教の域だなw異端審問とか言い出しそうだwwwwwwww
408 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:36:13.00
3世紀にマキムクが登場したのは事実としても、
大王がいたかはわからないし、北九州がヤマトの大王に服従してたかはわからない。
庄内式土器が九州に拡散してるから、それがどうした?
それだけのことじゃないか。
北九州の前方後円墳の登場は、ずっと後になるからな。
しばらくは、マキムクと北九州の2極化が残っていたと見るのが、
考古学的実態だ。
409 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:46:28.99
>>394 うむ、よろしい、だいぶ分ってきたじゃないかwww
だがまだまだ甘い、継体以前の系譜なんてのも妄想だしw
あと邪馬台国自体が妄想なんだから「畿内説」も「九州説」もまとめて妄想
いわんや「東遷説」だの「九州王朝説」に至っては妄想以前の解読不明の怪電波である。
きちんと書いておくようにwww
しかし良いキャラ設定だな、できれば譲り受けたいぐらいだwwwww
で一つマジに突っ込みかけておくとだ…
>箸墓他、前方後円墳は、大王としての権力を持ちえた人物を葬った首長霊祭祀によるものであり、
>「共立された女王」の墓ではない。
少なくとも首長霊に祭り上げられた古墳の被葬者は必ずしも男王で無ければならないと言う話は聞いた記憶が無い。
そのような条件を付与した説があるなら教えてくれ。
ちなみに箸墓の他にも被葬者が女性でかなり大きい墓と言えば神功皇后の五社神古墳が全長200m台後半
手白香皇女は宮内庁オフィシャル公認の西殿塚古墳が200オーバーw考古学者が推す西山塚古墳でも100mを超える。
まあ女でもでかいお墓に入れることに抵抗無かったんだろうなwwwwwwwww
410 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:49:37.12
>>389 「四道将軍」と前方後円墳の広がりを重ねる意見と言うのは
この板じゃあ根強い人気があるッぽいがwwww
個人的には懐疑的だな。
まあ現実的な軍事行動としてリアリティの無い部分は
あくまで史実を仮託され作られたストーリーとして理解する事にしても
そもそも両者を重ねるのなら何故「筑紫」が出てこないのかと…
那珂八幡をはじめとした北部九州における早期の前方後円墳の出現が反映されていない。
その辺について説明があれば聞かせてもらいたいが…
個人的には文字通りのその方面の「道」−街道−が整備された事の反映ではないかと
(整備と言っても物理的に道路を舗装したとか言うのではなくて交易のためのルートが整備されたと言うニュアンスで)
>>406 >畿内説は嫌がるだろうが、
過去ログ読んで来い。
そんな物当たり前の如く折込済みだw
412 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:56:06.37
神功皇后は明らかに架空のキャラなので、
現在宮内庁が管理している神功皇后陵の被葬者は不明。
被葬者が男か女かなんてわからない。
手白髪皇女は6世紀の人物なので、西殿塚とは何の関係もない。
宮内省・宮内庁による陵墓比定など、何の意味もない。
413 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:01:29.05
仁徳天皇陵と呼ばれてた古墳も、仁徳天皇の墓じゃないしな。
414 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:02:21.44
>>412 だからだな古代から現代の宮内庁に至るまで男王で無くとも大王クラスの墓を想定するに抵抗が無かったというお話。
首長霊信仰の対象になるのが「男王」限定と言うのならそれは根拠が無い。
と言うかそんな話は自分自身は聞いたことが無い。
415 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:06:41.66
現仁徳陵が、百舌鳥にある大王級のビッグな古墳なのはまちがいない。
あれが倭の五王のだれかの墓なのは確実だろうし、そうなると百舌鳥に陵墓伝承のある王様が、
被葬者候補として一番妥当なんじゃないのか?
416 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:27:12.95
>>415 考古学的に否定されました。
記紀は信用できないって言ってるだろバーカ。
417 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:35:36.88
いわゆる天皇陵は名無しさんの墓。
応神や仁徳だって実在した保証はどこにもない。
418 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 18:39:08.48
騎馬民族の墓の可能性も完全に否定されていない。
とりあえず話を纏向に戻そうぜw
>>415 仮に仁徳が実在したにせよ、仁徳が在位していたと推測されるのは4世紀後半から5世紀前半が妥当な線だから
5世紀末か下手したら6世紀初頭に位置づけされる大仙古墳の被葬者ではまずないだろう
文献重視派でも雄略を押すひとが多いぞ
421 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 19:33:29.04
雄略の墓の伝承地が堺でも百舌鳥でもないのがネックだな。
このスレではマキムクを語らないと・・・
そういうスレなんだから。
ざっと読んだが、大半のレスは荒らしだね、マキムクを無視して他の事ばかり・・・
邪馬台国九州説が伊作によって追い散らされているんだな。
424 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 19:44:47.95
だから、まず、マキムクがどのように王権の礎なのか、説明しなよ。
妄想抜きでな。
425 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 20:03:34.93
そもそも、なんでマキムクって簡単に変換できない変な字なんだろう?
分り易いっちゃあ分り易いなw
憎い憎い畿内説に名を成さしめるぐらいなら
倭人伝も記紀も邪馬台国論争自体も全て妄想としてぶっ壊せ!…とw
まあそんな事をしても自分の信奉する説がドロ沼の底から浮かんでくるわけも無くwww
427 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 20:34:27.36
畿内説だって妄想抜きには成立しないからな。
卑弥呼の実在と、邪馬台国の実在を証明し、マキムクに卑弥呼がいたと証明しないといけない。
こりゃ難題だwwww
428 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 20:39:09.94
さて、記紀厨も邪馬台国厨もいなくなったようだし、
マキムクの話に戻ろうか?
マキムクが王権の礎とされるのはどういう根拠で?
429 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 20:47:24.96
10年ほど前、オレが学生だった頃は年輪年代とか
オカルト扱いだったんだが…ここのみんなは信じてるの?
430 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 20:56:24.23
ああ、あれはオカルトだな。
431 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 21:05:10.35
>>430 年代ズレてたらマキ向遺跡の議論にも影響大なんでは?
>>431 邪馬台国の話を絡めなかったら問題ないと思うよ
433 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 21:25:08.16
心配しなくても年輪年代その他の理化学的年代測定を用いずとも
「古墳時代は4世紀から」なんて大昔の年代観に戻る事は無いからw
434 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 21:32:53.28
>>429 その10年前、古墳時代の始まりはいつだって教わった?
>>404 九州説にはある程度含みを持たせてはいたが
優しい文体ながら東遷説をメッタ斬りしまくってたからな
老教授のレスがあったスレは当然面白かったが
乱立した関連スレが恨み節で満ち満ちていたのもまた面白かった
今読み返すとおそらく秋津遺跡のことをすでに当時知っていたなと思わせる箇所が随所にある
当然邪馬台国はヤマトだって。
巻向は倭国、卑弥呼の宮だよ。
437 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 22:14:38.76
しかし広義の東遷説(吉備東遷や邪馬台国以前伊都国東遷とか)はどうなんだろう?
結構色気出している学者って多いと思うが、…と言うかそっちの方が主流なのか?
>>1のテンプレにしても(複数の)外部勢力による勃興をイメージしているんだし・・・
438 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 22:16:25.61
20年前 「古墳時代は4世紀から」
↓
現在 「古墳時代は3世紀半ばから」
↓
20年後 「古墳時代は3世紀から」
↓
40年後 「古墳時代は2世紀半ばから」
>>437 >>1のテンプレはかなり大まかに分かりやすい池上彰解説みたいな感じで
再度問題提起したみたいな印象があるね
老教授も吉備影響説に近かったのが初登場の頃で
それがありなら北部九州(柳田の言う伊都国主導)の可能性も探らねばというスタンスだったし
昨年の正月にはやはり大和河内や阿波讃岐、三遠が最初の主体で、その後に徐々に吉備や出雲北九州が参加していったのではないかというように
考古資料に基づいて変遷している
440 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 22:43:05.93
纏向には各地の土器があると言うが、九州の土器は全くと言っていいほどないらしい。
纏向は大阪湾に届いたものを東海に届かせるために大和川の終点に築いたというだけの話だろ。
442 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 23:02:15.71
だよな。
水運から陸運に替わる所謂船着き場に市場が生まれ、そこに人と物が集まって富裕化→王権化したのがマキムク王権であり、プレ大和王権であることは間違いない。
考古学的には結論が出てる。
ところで、どこの国が主導したか?とかの問題提起は不毛じゃないかなあ。
あの時代の倭国は戸籍もなく人の流れは流動的で縛られていないのだろうから、
今で言うところの国や収税システムがあったのかは疑問。
単に人と物が集まった場所が、四世紀を通じてに行政システム(古墳づくりを手法にして)を整備させて、やがて国になったということではないか。
四世紀末に大和磯城以外で巨大古墳が造られていくのはその流れで説明出来るだろう。
>>441 ところが当時の大和川は今の大阪府柏原市という生駒山地の切れ目を流れていながら
奈良盆地までは段差が激しく、一本道としての水路の用をなさなかったとの論文がある
水路の便のみに着眼しても、その前からあった唐古鍵も水運という恩恵には与っていなかったにもかかわらず
纏向建造前から外来式土器が流入していたという矛盾した状況でもある
ただ大和川水系の河内側(段差のない地域)では、出雲系に特化した外来式が多く出土する遺跡や
また吉備系が多い遺跡など、それぞれ取引先が違っていたと見られる事例が多くある
444 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 23:22:48.20
大和川はいつ頃から交通路として使われ始めたんだろうか。
445 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 23:32:20.78
唐古鍵は寺川とかの船着き場として発展したとおもってたよ。
大和川が機能してなかったとしたら、マキムクの意味合いは完全に修正を余儀なくされるな。
つまりは西側、吉備や阿波讃岐播磨の要請は無視され、
生駒葛城山系を越えた奈良盆地の南西部にマキムクは造られた、と?
山の辺の道で繋がる南の吉野紀伊、北の山城近江。
プラス、初瀬川で繋がる伊勢、東海の思惑でマキムクが造られたことになるのか?
湿地帯だった奈良盆地中央が文化的障壁になっていたのだろうか?
庄内土器が八尾市とか大和川水系に濃厚に出土するのは何故なんだろう?
446 :
日本@名無史さん:2011/05/18(水) 23:41:25.99
神武天皇も大和川は使っていないな。
孔舍衛坂を越えて奈良盆地に入ろうとしている。
布留0〜1期の吉備型甕の分布は、博多湾沿岸→周防灘→松山平野→今治平野→備後東南部→吉備・播磨・摂津沿岸→
大阪湾→河内湖→大和川→大和という道筋。
一番多く出土しているのが「河内・小阪合遺跡」で45点。
分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」そして「纏向遺跡」で突出した出土がある。
次山 淳の研究による。
空気読んで、記紀の話はしばらく控えろよw
449 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 00:04:40.77
>>445 >庄内土器が八尾市とか大和川水系に濃厚に出土するのは何故なんだろう?
最初の発見地が豊中市庄内だったからそう命名されただけで
むしろ土器発祥の地では?
おそらくそうだね。
結局は大量の荷は船で運ぶのが楽だから、途中で陸揚げしたとしても大和川利用しただろう。
452 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 00:14:46.22
マキムク大溝とか考えても、マキムクは瀬戸内海航路→大和川の終着点て考えた方がしっくりくるけどな。
運河じゃなく宗教的導水施設っていうなら変わってくるけど
>>451 そうだと思う
でないと纏向の第2次開発どころか廃棄に至っても大和川水運ルートが
奈良盆地まで一本道ではなかったのに、西からの仏師搬入が行われ続けた理由が説明できない
>>452 複合的要素を有していたのではないだろうか
建造前夜までは、まず湿地帯の水抜きのための水路(埋め立て造成の前段階)
次に建設時の水路そして開始後の水運路
ただ宗教的導水施設としての側面が無かったとは言い切れないが、プライオリティはかなり低いと思う
454 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 09:06:04.89
>>453 妄想ウザイ。
証拠に基づく根拠を示せよ。
455 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 10:43:40.60
>そうだと思う
>ではないだろうか
>とは言い切れないが
>かなり低いと思う
なんだこれ?
普通の人は推定は推定だときちんと書くが
九州厨や記紀厨は、妄想を断定で書きこむから馬鹿だと言われる
ワカミケヌ(=イワレ彦=神武天皇)が、日向から近畿へ乗り込めたのは
ワカミケヌ側に大義名分があったと、記紀では記されている。
では何が記されているのか?というと、
ワカミケヌは日向の出身だが、彼の出自・先祖が、
近畿に多く存在した天津神たちと同族だったということ。
つまり、ワカミケヌ(神武天皇)は、現住所は日向だったが
本籍は近畿のヤマトにあった豪族だったので
神武東征で少数の軍隊で近畿に入っても、すんなりと受け入れられたツー話だ。
この流れでまだ妄想を書くか。
記紀には理解がある俺でも流石にスルーするわ。
459 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 12:46:40.66
そうだと思う
ワカミケヌ(=イワレ彦=神武天皇)が、日向から近畿へ乗り込めたのは
ワカミケヌ側に大義名分があったのではないだろうか
ワカミケヌ(神武天皇)は、現住所は日向だったが
本籍は近畿のヤマトにあったとは言い切れないが
神武東征で少数の軍隊で近畿に入っても、すんなりと受け入れられたから
近畿に多く存在した天津神たちと同族だったと思う
460 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 12:55:58.09
461 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 13:03:06.69
記紀を引用するなら、なるべく忠実に引用すべきだと思う。
神武天皇が東征してきたときに、奈良盆地にいたのは饒速日命とそれに仕える長髄彦。
饒速日命は神武東征の前に、高天原から天磐舟に乗ってやってきた。だから、高天原出身の神武天皇とは同族。
最初の孔舍衛坂での長髄彦との戦いでは神武軍は敗退。このとき兄の五瀬命は傷付き、やがて死去。
熊野から回り、長髄彦を破り、橿原の地で即位する。
462 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 13:12:42.72
>>461 続き。
だから、記紀的には、東征と考えられるものは饒速日命と神武天皇(神日本磐余彦)の二つがあったと
考えられる。記紀には、当然、神武東征しか載っていないが。
記紀は皇統の歩んだ場所しか舞台になっていない。高天原は天孫降臨のあと全く登場せず、
そのあとは日向が舞台になる。神武東征の後は日向も全くでてこない。
そういう意味では、出雲があれほど大きく取り上げられている理由が今一つわからないな。
高天原出身同士でも、ニギハヤヒはただの天神、ワカミケヌは天孫。
この違いは大きい。
高天の原とは、高天の平原という意味で
高天とは、現在の奈良県御所市高天に、その地名が残っている。
ここの領主は、高天彦(高天日子)といわれていて
ここには、高天彦神社という名神大社がある。
ニギハヤヒは、高天地方(御所市南部)の豪族の出身だったが、
出雲国譲りの直後、高天から河内へ降臨し、そこで領主の地位にあったが
やがてヤマト(桜井市)にうつり、
高尾張(葛城)王家=高天発祥の王朝を補佐するようになった。
が、やがて、ニギハヤヒは、初代倭王・火明命の御落胤だと
自分を主張しだす、王家を乗っ取ろうとした。
神武東征の与太は他のスレでやれボケ
>>456 よくトレーニングされた人ほど、反論の余地があることを念頭に、推定の口調で語る。
また、推論を推論として、そのまま受け入れ、理解することができる。
普通の人、つーかバカは白黒はっきりさせないと気がすまないので、推定の口調が我慢ならない。
推論を推論として受け入れる能力もない。
持論を再考する柔軟さも持ち合わせないから、さまざまな証拠を、自説のために都合良く利用してごまかす。
466 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 17:25:16.65
「〜だろう」
「〜かもしれない」
「〜と思う」
こんな論文を誰が真面目に読むんだ?バカか?
467 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 17:32:13.79
よくトレーニングされた人ほど、反論の余地があることを念頭に、
推定の口調で語るかもしれない
また、推論を推論として、そのまま受け入れかもしれない、
理解することができるかもしれない
と思う
468 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 17:46:17.57
ちょっとスレから目を離してると、
すぐ神話を自己流に解釈して妄想垂れ流す奴が出てくるなw
469 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:05:30.60
マキムクスレって、いつからカルト神話スレになったんだ?
高天原だの神武だの、皇国史観のカルトはいらないよ。
470 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:25:14.78
神武とニギハヤヒが同族なわけないだろ。
記紀をよくよめば、神武がむりやりニギハヤヒと同族を主張してるだけ。
神武の視点に立てば、ニギハヤヒからヤマトを奪う理由になる。
ニギハヤヒから見れば、征服者の神武の顔を立てれば、自分が殺されずにすむ。
そのかわりにナガスネヒコが殺されたというお話。
よくある政変劇を神話に組みいれて寓話にしただけだよ。
471 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/19(木) 18:29:38.47
纏向を倭国王権あるいは大和王権の礎の地
などということ自体がカルトだってこと
には気づいていないわけだ。
472 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:32:22.69
>>471 俺は気づいてるけど?
マキムクなんてカルトもいいとこ。
信者が集まって、ありもしない空想をしてるだけ。
473 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:34:15.07
なんにせよ、神武だのニギハヤヒだの高天原だの、
戦前戦中の国史教科書みたいな寝言はよそでやれ。
474 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:03:59.53
証拠を出せといわれたことに立腹して
言葉尻をいちいちあげつらって
証拠証拠と連呼することでしかウサばらしできない記紀原理主義者は
よそでやれ
475 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:14:33.85
証拠がなければ妄想だろ
考古学的証拠に基づく議論じゃないと意味ないよ
>そうだと思う
>ではないだろうか
>とは言い切れないが
>かなり低いと思う
476 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/19(木) 19:19:35.41
>>475 考古学的証拠の「解釈」を曲げては証拠とはいえんわなー。
477 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:24:16.78
神話厨がうざすぎる。
外部からの侵入がないなら
マキムクか葛城山麓しかないだろ
479 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:51:49.21
>>452 しかしぶっちゃけ祭祀に絡んだ導水施設にしてはいくらなんでも大きすぎるだろうと言うのが素直な感想wwww
荷の運搬の為の水路だとしてもそれを立証するような物が欲しいところ。
原の辻じゃあ「コの字」型の船着場が出ているらしいが纏向の大溝でも小船やあるいは筏を係留したような痕跡とか出ないもんだろうか?
>>479 下水としての機能を持っていたことはほぼ確実なんだけどね
大腸菌検出量の多さからもそれは十分に推し量れる
しかしそれ以前の環濠、以降の墳墓周濠も似たような状況ではあったし
川(溝)に何でも捨てるってのは、デフォの行為だったと考えたほうがいいか、死体も捨てているし
481 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 20:17:57.93
>>480 まあこれも妄想だがw
現代人はああ言うものを見ると
「それをどう使ったのか?」と想像するけど
古代人にとっては水路を自在に引いていると言うこと自体が一種のステイタスシンボルのような意味があったのかな?と想像する時がある。
時代は相当に下るがる斉明が作らせて人々が呆れた「狂心の渠」にしても実用的な意味があったもんじゃないんだろう?
(仮にあったとして費用対効果はお話にならないんだろう)
案外「古の纏向」にあった風景を再現しようとしたのかな?とも妄想するwwwww
鬼が見ていた
>>481 太陽の塔みたいなものかw
纏向には万博説(見本市説)もあるが、まあ当時からしたら戸板で囲った
直線の水路というのはかつて見たこともないものではあったろうなあ
そのハイテク感というか当時の未来都市の様相が求心力を高める要素になった可能性はあるかもね
庄内式というハイテク土器も生み出しているし
484 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 23:08:31.71
なるほど、矢板護岸の直線水路なら、かなりインパクトがあっただろうな。実用性抜きにしても。
古墳も実用性度外視の最たるものだし、無文字文化の民衆にオウの権威を知らしめるには有効だったんだろう。
大規模土木工事を行うことで、更にそれを主導するリーダーに権力が集まる、ていうフィードバックもあるだろうし。
しかし、そんな前人未到の大土木工事に民衆を参加させるには、当然見返りがなければならない。
三角縁とかの舶来の品か、鉄か、それとも現世利益だけではなく、道教による精神の平穏が貴ばれたのか。
河内方面から入ってくる製塩土器がサラリーとして用いられたのか?
485 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 23:40:41.72
いいなあ、考古学は。
いくら空想を語っても、文句言いっちゃいけないみたいだから。
486 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 00:00:16.96
考古学で考えた!はいい空想。記紀読んだ!は悪い空想なんだよ。
その違い、分かる?
つまり、記紀読んだ!は、記紀の内容をそのまま読むのではなく、自分なりに「解釈」して「改変」してしまっている点。
記紀だけが根拠な筈なのに、その根拠自体を恣意的に改変、妄想化。
本当に記紀だけで語りたいなら、全てが正しいと受け入れた上でw自分なりに解釈・妄想しちゃ駄目w
487 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 00:53:15.46
なるほど、地面の開いた穴を、卑弥呼の宮殿と言い切る考古学は、いい空想なんだな。
488 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 01:11:07.43
畿内説は何でも邪馬台国や卑弥呼に結びつける。
古墳があれば卑弥呼の墓。遺跡があれば邪馬台国。桃の種が出ると卑弥呼の祭祀。
魚の骨が出ると卑弥呼への貢物。建物が出れば卑弥呼の宮殿。
>>488 まあそう神経質ヒステリックになるな精神衛生上良くないぞww
なんだかんだ言って古代史において邪馬台国の看板は一番大衆にアピールしマスコミも大衆も先ずそこに興味を持つ。
今後とも纏向で何か出るたびそう言う話は出てくるからその度に火病起こしてたら身が持たないぞwww
それでもかつての邪馬台国ブームには比べるべくも無いんだろうがw
それこそ漫画や小説に至るまでバックアップ受けていた九州説に比べれば慎ましいものだろうw
490 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 02:32:58.05
>>487 地面の開いた穴を、卑弥呼の宮殿と言い切るのは学問
地面の開いた穴を、ニギハヤヒに結びつけたり倭迹迹日百襲姫神の宮殿と言い切るのは妄想
491 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 06:19:46.33
>>488 何も無い場所を邪馬台国に結びつけるのが九州説論者の妄想だよ。
492 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 08:31:29.53
>>488 >建物が出れば卑弥呼の宮殿。
で・卑弥呼の宮殿と卑弥呼の墓という箸墓とは600メートルの感覚しかないわけだ。
歴史的事実として、古代における墓域は王都の郊外に造られたものさ。
こうしたこと信仰上・儀礼上の常識が、考古学ではまったく考慮されていない。
だから、纏向が邪馬台国で、その那珂にある箸墓が卑弥呼の墓などと、
孫の末代まで恥となるようなことを平気でいうのだよ。
ここの連中は、「ものいわぬ」無機質なものとものをむすびつけて、
結局は推論を展開しているにすぎない。
他人の検証手法と手順をどうこういう資格などないわな。
493 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 08:33:53.60
ていせい。
卑弥呼の宮殿と卑弥呼の墓という箸墓とは600メートルの間隔しかないわけだ。
歴史的事実として、古代における墓域は王都の郊外に造られたものさ。
こうしたこと信仰上・儀礼上の常識が、考古学ではまったく考慮されていない。
だから、纏向が邪馬台国で、その中にある箸墓が卑弥呼の墓などと、
孫の末代まで恥となるようなことを平気でいうのだよ。
ここの連中は、「ものいわぬ」無機質な物と物とを結びつけて、
結局は推論・願望的空論を展開しているにすぎない。
他人の検証手法と手順をどうこういう資格などないわな。
494 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 11:13:20.57
ここの連中は、「ものいわぬ」無機質な物と物とを結びつけて、
結局は推論・願望的空論を展開しているにすぎない。
他人の検証手法と手順をどうこういう資格などないわな。
>>494 それでもいいからその独自の検証手法と手順による論証は他のスレで思う存分やれ
496 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 12:30:24.51
考古学からわかることは、マキムクが開発されたということだけであって、
その理由、動機、目的は、全くわからない。
宗教的理由で、マキムクが選ばれたのか、
交易上の利便性で、マキムクが選ばれたのか、
権力者の独断で、マキムクが選ばれたのか、
みなの意見を集約して、マキムクが選ばれたのか、
その答えは、考古学では、絶対に出せない。
なにを推論しても、証拠が無ければ、推論でしかなく、答えではない。
考古学では、マキムク開発の年代を提示することはできても、歴史を語ることはできない。
歴史を語るためには、文献という副次資料が必要だ。
いいかげん、考古学の限界を認めたらどうかね?
497 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 12:47:46.22
マキムクが開発された理由は、以下の通り。
弥生時代も末になると、交易で富を得た豪族が各地に生まれる。
豪族同士は、より円滑な交易を求めて、交易に最適な地に市場を作ろうとした、
瀬戸内海の豪族と、東海の豪族が交易する中継点が奈良盆地であり、
唐古・鍵が弥生時代を通して物流の中心であったが、
より豪族同士が協力しあい、あたらしく「大市」をつくる合意にいたった、
東海への交易の利便性という最大勢力の東海の豪族の要請により、マキムクが「大市」に選ばれたのである。
「大市」の選定に、多少の豪族間のいざこざはあったが、
マキムク開発の責任者に女性巫女を共立することで、豪族達は同意をした。
大市の監督責任者である女性巫女を見た中国人は、「女王」と比喩して、卑弥呼として魏志倭人伝に書き記したのである。
実権を持っていたヤマトの大王も、大市の巫女に従属していたように見えたからだ。
したがって、卑弥呼は「女王」ではなく、その頃のヤマトの大王は崇神である。
前方後円墳の被葬者も、男王である。
しかし、大王並に影響力を持っていた卑弥呼は、巫女でありながら、前方後円墳をつくって葬られた。
それは特例事態だったので、魏志倭人伝にも特記された。
卑弥呼の墓は、箸墓であり、卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメだ。
498 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:00:04.48
>>497 これはすばらしい意見ですね!
貴方のおっしゃる通りと思います。
499 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 13:21:44.54
>>497 こういうのを「見てきたようなホラ講釈」というのだ。
土器には大別して3通りある。
しょのいち:運搬・貯蔵用
しょのに:生活用(生活集落趾に散在する)
しょのさん:祭祀用(祭祀で神が使ったものや神に供えたものは人間が使うわけにはいかないから、
破壊してまとめて埋めてしまう)。
土器は、その形質と「出方・捨て方」で用途や性格も分かる。
纏向の土器はどれに該当するか。用途によって纏向の性格も分かろう。
纏向考古学は情報開示しているのか。
纏向考古学は土器の種類と性格による纏向の性格をきちんと解明しているのか。
>>497のような推測だらけのストーリーでいいのなら、ほかでも誰にでもできるぜ。
500 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:28:35.01
>>497 全部が突っ込みどころなんだが、卑弥呼の墓が前方後円墳て…。
501 :
九州説:2011/05/20(金) 13:36:15.83
九州説が一顧だにされていない現状が憎い!
考古学が憎い!
畿内説が憎い!
その中心な纏向遺跡が憎い!
>纏向遺跡が憎い!
おいおいw
遺跡に罪はないよww
503 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:54:23.08
>>501 NHKそのとき歴史は動いた投票(全国)
近畿説 21,102人
九州説 35,087人
近畿地方だけに限ってみると
近畿説 7,499人
九州説 4,028人
近畿説がいくら宣伝に力を入れても、効果は近畿地方に限られているらしい。
504 :
九州説:2011/05/20(金) 13:55:10.18
>>502 同罪。
纏向全体が畿内説のゴッドハンドによって作られた嘘。
505 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 17:43:00.01
>>493 >卑弥呼の宮殿と卑弥呼の墓という箸墓とは600メートルの間隔しかないわけだ。
>歴史的事実として、古代における墓域は王都の郊外に造られたものさ。
確かに、宮は奈良県だけれども御陵は遠く離れた大阪府…なんて天皇もかなりいますね。
でも宮墓接近というか、宮と墓がわりと至近距離にある場合もありますよ。
一般化して法則みたいに言うことはできないと思います。
神武:
畝傍橿原宮。畝傍山東北陵
孝昭:
掖上池心宮。掖上博多山上陵
開化:
春日率川宮。春日率川坂上陵
景行:
纒向日代宮。山辺道上陵
天武:
飛鳥浄御原宮。檜隈大内陵
506 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 20:06:58.60
>>505 >法則みたいに言うことはできないと思います。
法則じゃない。もっと厳粛な儀礼だ。
ところでちみ。畿内説者かね。
ここじゃ目下「日本書紀など持ち出すな」という意見が横行してるが、
日本書紀のいう天皇陵を信じたうえでの意見だな。
ちみが提示した天皇陵に百歩ゆずって、
畝傍山東北陵 、掖上博多山上陵 、春日率川坂上陵 、山辺道上陵 、檜隈大内陵
これらがが各天皇の宮内にあるのか否か。どのくらいの距離なのか。
きちっと責任をもって説明してくれ。
こんな意見が出るのは初めてじゃないんだ。わらわら
>>506 >きちっと責任をもって説明してくれ。
爺さん自分で調べろや・・・
>>505 その伊作とか言う馬鹿にマジレスしても無駄だぞw
どうせ根拠なんか無い。
自分の脳内の「古代の王都とはこうあるべきですたい!」と言うオレサマ設定が拠り所なんだからwww
普通なら3世紀までの(恐らく九州ということになるんだろうが)集落において
集落の中心からよほど隔絶した距離に王墓が作られた事例を示せばいいのだがそれもしない、できない、駄ボラ吹いて逃げるだけw
妄想垂れ流してトンズラピンポンダッシュの馬鹿だからまともに相手しない方がよいw
509 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 22:00:19.31
け。
追いつめられるとヒステリックにわめくしか能がないタコども。
510 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 22:38:01.16
>「日本書紀など持ち出すな」という意見が横行してるが、
このところの騒ぎの原因は、古事記日本書紀を持ち出したことそのものではなく
古事記日本書紀を参考にして批判的に論を展開するのではなく
古事記日本書紀に書かれていることが全て事実だと妄信しているからだ
桜井の方は知らないけれど
このスレの住人はマキムク=邪馬台国なんて言ってないよ
なんで九州はカッカきてるんだか
512 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 23:18:27.57
なぜ崇神天皇は四道将軍を派遣できたのか?
↓
纏向が王権の礎の地だったから
513 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 23:38:37.17
マキムクが邪馬台国なわけないだろw
奈良盆地一帯のムラを統合して、ヤマト国=邪馬台国なんだから。
514 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/20(金) 23:45:24.35
神武天皇も欠史八代の天皇も実在しない架空の天皇です。
神武天皇陵=明治時代に築造された真っ赤な偽物。
綏靖天皇陵=小さな丘。安寧天皇陵=ただの丘。懿徳天皇陵=自然地形。孝昭天皇陵=自然丘陵。
孝安天皇陵=自然地形の中に円墳。孝霊天皇陵=ただの山。
孝元天皇陵=中期の前方後円墳×1、円墳×2。開化天皇陵=中期の前方後円墳。
この様に神武天皇陵と欠史八代の天皇陵は全部偽物です。神武天皇とか東征とか欠史八代の天皇を語る人は愚か者ですね。
古文書のに書かれている皇后・妃の父親である磯城県主葉江とは何者でしょうか?この人が天皇家の先祖だと思います。
515 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 00:06:20.50
磯城県主は、磯城≒マキムクの古代豪族だよ。
ヤマトの磯城郡にある前方後円墳は、ほぼ磯城県主の墓であって、
今の天皇家とは関係ない。
今の天皇家は、せいぜい継体以後だからな。
516 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 00:10:50.95
そんなこと言ったら、俺の実家近くの顕宗天皇陵も、自然丘陵を無理やり前方後円墳形に囲っただけだから
517 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 00:43:51.66
顕宗天皇の実在性
古くから、億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強く、
そのままには史実として信じ難いことが指摘されてきた。
伝承者として、歌舞を業として畿内を巡遊する芸能集団の存在が窺われ、
物語素材も史実とはかけ離れた芸能的世界の所産であろうという。
越前国(あるいは近江国)出身であった継体天皇の先例として播磨国出身の顕宗・仁賢2天皇を設定することにより、
万世一系的な王統譜に断層をもたらしかねない地方出身の王位継承資格者の特異性を払拭する意図があった。
>>514 津田の放射脳にしてやられた妄想の増幅そのもの。
神武以下架空ではな〜い。神武紀以降は年月日がキチンと記述されて
おり、これは空想ではないと観てよい。
空想の創作で紀を作れば、当然公文書偽造同行使で当時の政敵に弱点を
握られることになり、身の失脚が待っている。
所詮津田の妄想廟原菌にしてやられたオマエの脳内の創作であ〜る。
519 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 12:28:25.47
結局、継体より前の、説話文学まるだしな旧辞部分はいつ生まれたのか?ってことだよね。
古事記の説話的部分が武烈で終了なのが答えになる。
継体がかなり強引な王位継承をしたから、それを正当化するため「歴史書」編纂が必要になった。
それまで各豪族に伝わっていた説話をまとめ上げ、継体に都合よく改竄したのが古事記編纂の根拠資料になった旧辞。
520 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 12:28:59.94
>>509 ↑
短いレスだが、じっくり読むと笑えるね。ww
521 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 12:36:56.73
継体の改竄ポイントで重要なのが、まず第一に武烈の悪行を喧伝し、自らの簒奪に近い王位継承を正当化。
第二に自分の直接の祖(おそらく自称)である応神の神格化。
第三に本来のハツクニシラスであった崇神より、さらに昔にハツクニシラス(神武)を加上。偉そうにしている有力豪族たちの由緒を相対的に低下させようとした。
君の家庭の父親も悪事に手を染めたとして、君がなおいい子になれると、
強調して、どうだ〜? そうしてるのか?w
所詮君の脳内の創作だな。
523 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 12:56:02.97
近江や越に権力基盤(支持勢力)を持つ継体がどの大王の末裔を僭称するかを考えた時、気比神社に縁がある応神が選ばれたんだろうと思う。
息長帯媛=神功にしろ、もともとは筑紫地方に伝わる母子神オオタラシ姫信仰だったのが、
応神の神格化作業の時に息長氏の意向で創作された神話だと思う。
創作したなら、逮捕者が出て、それがどこかの古文献に載るだろうが。
そしてトリミングされて史実が戻って、載るぜ。
525 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 13:50:30.60
出雲神話も架空のおとぎ話だと考古学者の中では定説になっている
出雲神話には年月日がないと想ったが? ならば創作か史実かは、これは
分からんがね?
527 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 14:09:28.46
出雲と日向神話が記紀に挿入された理由は、意見が分かれてるのが現状。
おそからくは国津神、降伏する側の代表として、前方後円墳体制になかなか参加しなかった反抗的な態度の出雲が選ばれた。
逆に協力的な日向は皇祖神の降臨した地として尊崇された、てことだろう。
528 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 14:17:35.15
纏向に絡まない記紀談義は該当スレへ
529 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 14:19:45.61
>>525 昔はそうだったかもね。今では358本の銅剣、16本の銅矛、銅鐸6個が見つかった荒神谷遺跡、
39個の銅鐸が出て来た加茂岩倉遺跡、弥生最大級の集落遺跡である妻木晩田遺跡もあり、
考古学的にも宝庫といえる。
出雲には考古学的に見るものは何もない。神話なんて信用できないと主張してきた考古学者の
恥ずべき過去とも言える。
530 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 14:28:00.12
荒神谷出てきたの、何年前の話だよw
考古学は記紀妄想と違って学問だから、新発見で修正されるのはむしろ健全だと思うが
531 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 15:27:57.62
出雲神話が記紀にあるのは、昔から朝鮮人・中国人の間で有名だったからだよ。
朝鮮人・中国人が弥生時代から直接交易してたのは、九州と出雲だからな。
九州の宗像氏は、大国主の末裔だし。
弥生時代から中国人が聞かされてきた有名な日本神話として挿入しただけ。他の意味は無い。
532 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 15:51:00.33
老教授も30年後から見たら妄想だ
相変わらず、フトクニが誰からも相手にされてないのに、
バカの一つ覚えでアウアウ吠えてるのが笑えるなw
相変わらず、フトクニが誰からも相手にされてないのに、
バカの一つ覚えでアウアウ吠えてるのが笑えるなw
535 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 18:07:24.41
出雲王朝は大和の神話を出雲に仮託したものであり実在しないというのが考古学の常識である
536 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 18:26:19.16
考古学の名の下に都合の良い考えを振りまいているという感じがする。
考古学といえば信頼できないものという観念が芽生えるのも時間の問題かも。
何だかなあ。
考古学に対するアンチは何なんだろ?
考古学を踏まえた上で記紀を解釈すればいいだけなのに。
それができないからアンチになるのか。
古代史みたいな文献が無い時代を語るのに、考古学完全無視とか気が知れない。
たとえ考古学を踏まえた上であっても
纏向を崇神や百襲姫に関連付けるのはまかりならん
539 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:17:16.72
何で?
「考古学踏まえた上で」記紀解釈すればそうなる、てことでしょ。
妥当だと思うけどな。
確かに崇神やモモソ媛の墓と確定出来ないので、あくまで推測になる。
540 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:30:26.58
箸中山古墳は恐らく4世紀初の築造で、記紀に崇神として描かれた大王の墓であろう。また、掘っ立て柱建造物(跡)は
祭祀施設で、これも4世紀以降のものではないか。布留0式土器などの年代については専門家の間で異論があり、まだ
確定したものとは言えないようだ。
541 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:36:07.07
>>540 なんか勘違いしてるが、崇神が四世紀とか確定してる訳じゃないからw実在すら議論が分かれてるw
その文脈で言えば倭人伝だろ。
布留0は三世紀半ば〜後半と言われてるが確定ではない。だから倭人伝とのすり合わせはまだ出来ない、ていうか荒れる元になる。
542 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/21(土) 20:53:54.69
>>536 名前
>考古学といえば信頼できないものという観念が芽生えるのも時間の問題かも。
俺は、畿内説考古学のいう土器や古墳の年代など微塵も信用していない。
「あるもの」でしか語らない唯物考古学は、新しい発見があるたびにひっり変える。
日本の考古学は、主に発掘調査が可能な指定漏れの中小古墳が発する情報で、
倭国とその政権動向と倭国支配層の動向を論じている。
この考古学の欺瞞・欺詐・危なっかしさにみなが気づくべきだ。
大古墳の発掘調査が可能となれば、以外にも、
その多くは何らかの装飾が施されているはずだ。
このことが意味するものを考えるのも悪くはないな。
543 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:56:57.04
畿内の大王墓の殆どが陵墓参考地になっていて、古代史のブラックボックスになってるのはそうだが、
装飾古墳はない。
お粗末!
544 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:57:13.11
>>541 >なんか勘違いしてるが、崇神が四世紀とか確定してる訳じゃないからw実在すら議論が分かれてるw
箸中山古墳を発掘して詳細な調査をしなければ明確に言えないが、この遺跡関連の出土物の壷型土器などは4世紀以降の
ものという見解がある。崇神の実在うんぬんはさておいて、箸中山ほどの大型前方後円墳は相当な権力を有する大王クラス
の人物の墓であろう。記紀にその人物を求めればそれは崇神に相当するということだけだがね。
>布留0は三世紀半ば〜後半と言われてるが確定ではない。
マキムクの発掘調査に関わってきた関川氏は4世紀半ばのものと見ている。最近では庄内式を3世紀〜2世紀のものに引き
上げようとする向きもあるが、根拠があってのことではない。
>記紀にその人物を求めればそれは崇神に相当するということだけだがね。
ダウト
じゃあ、帥升(等)は?
記紀にその人物を求めればそれはスサノヲに相当するとか言い出すのかw
546 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:18:38.63
横から。
箸墓古墳の被葬者としてもっとも有力なのはモモソヒメだろ。
だって日本書紀にそう書いてある。記紀信者は、それは無視するわけ?
547 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:31:55.78
>>546 >箸墓古墳の被葬者としてもっとも有力なのはモモソヒメだろ。
>だって日本書紀にそう書いてある。記紀信者は、それは無視するわけ?
それは記紀信者に聞いてくれ。箸中山古墳はモモソヒメの箸墓に比定できるのかね。
548 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:34:36.68
それは30年後の考古学者に聞いてくれ
現在の考古学では比定できるとも言えないしできないとも言えない
549 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:36:26.18
>>547 箸墓、と呼ばれているよ。
そんな名前の古墳は、他には無いだろ。
550 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:36:58.61
>>546 日本書紀の記述から倭迹迹日百襲姫の墓が箸墓であるのは間違いない。
しかし、箸墓が現在、箸墓古墳と呼ばれているあの古墳かどうかはわからないってことだろう。
大仙古墳を仁徳天皇陵と呼んでいるが、被葬者が仁徳天皇かどうかわからないのと同じ。
551 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:39:08.18
>>545 >じゃあ、帥升(等)は?
>記紀にその人物を求めればそれはスサノヲに相当するとか言い出すのかw
あほか?帥升(等)は倭国王として後漢書に出て来るが、2世紀初の奈良にそのような王が居たわけがないだろ。
スサノオは奈良で大王になったか?文献にも考古学にも無知でよく書き込めるものだな。あきれた。
552 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 21:57:43.64
>>550 違うよ。
箸墓古墳には「箸墓」という固有の呼び名がある。それは無視できないでしょ、っていう話。
大仙古墳と同じじゃないよ。
553 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:07:39.14
記紀でいうところの箸墓は、流石に現在の箸墓だろう。地名や場所から言っても他に該当しそうな古墳がない。
わざわざ箸中山、とか言い換える人は厳密過ぎるというか、余計にややこしくしてるだけだと思うよ。
紀にわざわざ、昼は人が夜は鬼が造るとか古墳築造の記載が書かれるなど、箸墓は八世紀、特別な墓という認識があったんだろう。
で、考古学的にも特別な墓らしいことが分かってきた。
まあ、紀のヤマトトトヒモモソ媛の記載が正しい、とか言う気持ちはこれっぽっちもないのだけれどw
554 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:09:33.77
仁徳天皇陵だって延喜式の昔からそう呼ばれていたが、間違いだとわかった。
箸墓だって違うさ。
>箸墓は八世紀、特別な墓という認識があったんだろう。
だったら記紀編纂者が神武陵や崇神陵にしちまってもいいだろう。
そうならずに百襲姫墓としての伝承があるのだから、やはりあれは百襲姫=卑弥呼の墓だな。
彼女が存在したことによって、甥子である崇神が大王家を開けた。
北条政子の存在によって、北条氏が鎌倉幕府を牛耳れたように。
556 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:18:35.11
箸墓は一介の皇女の墓にしては大きすぎるという声もあるな。
どうみても、大王クラスだと。
>>556 欠史八代が「大王として実在していた」という認識がそうさせちゃうのでしょう。
欠史すなわち大王としての治績が残されていないのだから、
崇神以前は先祖がいたとしても一介の豪族に過ぎなかったのだよ。
その一族から百襲姫=卑弥呼が出て(巫女王として共立された≒大物主神と結婚)、のちの大王家の格が上がり始めた。
ちょうど、北条政子が源頼朝の妻となり、鎌倉幕府における北条氏の優勢が導かれたように。
558 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:36:49.62
>>556 >箸墓は一介の皇女の墓にしては大きすぎるという声もあるな。
だからさ、一介の皇女じゃないんだよ。
別格の皇女のお墓なんだよ。
箸墓は発掘しても誰の墓かわからない可能性が高いな。
560 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:43:46.59
>>559 古墳の場合はだいたい被葬者はわからない。
でも、調査すれば築造年代は絞り込めそう。
561 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:44:49.87
>>542 >「あるもの」でしか語らない唯物考古学は、新しい発見があるたびにひっり変える。
なぜこれが非難されるのかわからん。新発見があれば修正する。
自然科学であれ社会科学であれ、科学者として当たり前のことだろ?
科学に完成形はないから、常に新発見があり常に修正されていく。
こんな当たり前のことがわからないヤツがいるのか?
562 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 22:56:46.81
>>561 新発見があればひっくり返るようなことを確定的な論調で言うのが間違っている。
何かあるたびに変わっていくようなものは、普通だったら誰も信用しないだろう。
考古学者様がAと言ったからAだ。Bに変わったから当然Bだ。えっCに変わった、なら
Cが当たり前だ、という風になっていくわけかな。
そんな従順もおかしいが、変えていく方もおかしいと思う。
563 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:02:06.88
ひっくり返ることもあれば包含することもある。
必ずひっくり返るわけではないね
564 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:03:08.13
いや、学問なんてそんなものだよ。新発見で昔のことが塗り替えられていく。
記紀妄想は学問じゃないから分からないかw
565 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:04:59.09
>>557 お前はもっと考古学を勉強してから書き込むようにw
>>565 私の考えは考古学とそう齟齬を来すものではないよ。
箸墓の被葬者は吉備との関係が深いか?
568 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:19:44.44
一応言うなら、考古学者さまが何か発表して、それが妥当なものか評価されてから採用されていくんだね。
大学者さまが言ったものでも、その場限りで、引用もされていないものは多いよ。
だから、資料が引用されていても、
その後その資料が評価されているかどうかも本当は確認しなくちゃならない。
考古学者が論文や調査報告書で邪馬台国に触れることはまずない。リップサービスはするし、
一般向け新書には書くけど。記紀の引用・考察も少しだけだな。
むしろ大御所といわれる文献学者のほうが論文は推測だらけでむちゃくちゃだった。
古代史に関してはそういうのは少なくなったけどね。
571 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:39:10.66
>>555 そうじゃなくて、記紀編纂当時は箸墓と信じられてた、てことだよ。
そういう伝承があるのに、わざわざ改変は加えないだろう。
するとしたら、伝承も遺失し、分からなくなってる部分を推測で補うことかな。
つまり、箸墓伝承が八世紀に残存してたからといって、記紀の内容が全面的に正しいことにはならない。
記紀は眉に唾つけて読まないとw
>>571 >そういう伝承があるのに、わざわざ改変は加えないだろう。
つまり百襲姫という「神懸った女性」の墓である伝承が8世紀にはあったらしいわけだ。
あなたはそれを百襲姫の墓だとは考えない(正しいとは思わない)という意見だが、
私は今のうちにそこまで頑なに否定する必要も無いのでは?(確実に別人の墓である証拠が出るまでは)という意見。
573 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 23:55:15.26
>>569 考古学的には邪馬台国も卑弥呼も存在しないからね。
574 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:01:18.88
>>571 倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓がどれかってことだろう。
あの古墳を箸中山古墳と呼ぶ人がいるのは、箸墓と呼べば倭迹迹日百襲姫の墓と断定してしまう
ことになるからだろう?
575 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:25:43.66
モモソヒメは架空の人だろ。
架空の人の墓を、後世の人が、一番大きな墓ってことで、マキムクにあるのを、
箸墓と呼んだだけだよ。
文献に書かれたのは、そうしたデマが一般化された後のこと。
576 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:33:42.81
しかしまあ、何らかの伝承は残ってたんじゃない?>箸墓
言ってもマキムクはヤマト王権の揺籃の地なんだし、まったく伝わってないと考える方がおかしい。
577 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:34:20.09
百襲姫を創作したのは持統の時だろうな
578 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:41:11.74
モモソ媛は悲劇的な死に方してるから、持統は喜ばないだろ。
女帝の正当化で利用するなら、天照大神や飯豊、推古とかの方が相応しい。
ま、百襲姫創作の場合、なぜに崇神朝の人物(崇神の大叔母)としたのか?
580 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:49:49.57
推古朝の時代はまだ崇神が初代天皇だったんだろ
推古朝が崇神と百襲姫を創作
↓
天武朝が神武と欠史八代を創作
↓
持統朝が天照を創作
581 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 00:57:18.26
紀のモモソ媛は悲劇的な死に方をしてるから、
後世、否定的に見られてたのは間違いない。
特に箸で女陰を突いて死ぬ、とかは滑稽ですらある。
そもそもは箸墓の名称からの着想なんだろうけど、もともとの土師の墓、ていうネーミングが正しく伝わってなかったのだろう。
神妻だが神の子は産めなかった巫女、という否定的な伝承が残された理由は?
おそらくは直接の先祖ではなかったからだろう。
箸で女陰を突く、というのは子孫を残していないということの強調じゃないかな。
583 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 01:10:15.52
古事記でそういう死に方をしたのがもう一人いた。
天照大神が機織小屋で機を織っていると、素戔鳴尊が皮を剥いだ馬を投げ入れた。
そのために、天の機織女が、驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。
この死に方には、何か意味がありそうな気もするな。
アマテラスやワカヒルメが機織りの道具で体を傷つけて岩戸隠れするって神話がなんかかぶるよね。
585 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 01:28:25.38
だから史実でなく、創作だって。
586 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 07:40:41.47
日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期であると言われています。その当時の箸は現在のように二本一組の箸ではなく、
「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形でした。当時の箸は一般の人が使うものではなく、
神様が使う神器であり、または天皇だけが使うことを許されたものでした。
弥生末期に天皇ってw
588 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 08:24:53.13
神に仕える巫女が陰部を突いて死ぬ、ってのは日本神話で繰り返し語られるモチーフなんだよな。
陰部を突かれて神の子を授かる、ていう丹塗り矢神話がまずあって、
それの否定的バージョンがモモソ媛の話だと思う。
記紀では、三輪山祭祀の起源として、大田田根子のことを載せてるのに、何故かモモソ媛が三輪山の神妻として仕えてたことも書いているな。
祭祀用の箸というのもはたしてあったかどうかはわからない。纏向の土坑からは棒状
木製品が出土している。食器類も出ているので箸の可能性はあるが断定はできない。
三輪山の祭祀は、庄内期以前は三輪地区には芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などがあったけど、
それが庄内期を迎えるあたりで終焉を迎え、纏向遺跡としてまとめられる集落・墳墓群から構成
される大型遺跡が突如出現する。
このあたり、古墳時代の三輪地域ではほとんど古墳の築造が見られないことについて、寺沢は
纏向遺跡の支配者層が、三輪地域を神聖視したことの現れではないかと論じている。
三輪山および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物は4世紀後半頃から6世紀頃にかけての時期に集中する。
4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。
6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も
多量に出土する。
これらのことから、3世紀代には宗教的理由で三輪山周辺が禁足地となっており、それが4世紀代に祭祀形態の
切り替わりがあったと考えられる。記紀でいえば太田田根子の事績と関連性があるか。
592 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 08:38:24.44
大田田根子のが三輪氏の始祖伝承で後世追加された部分だろう。
モモソ媛は神を怒らせて不審死しているが、そもそもは三輪山伝承のひとつで、
それが紀に採取されたのだと思われる。
モモソ媛が実在して、箸墓の被葬者で、卑弥呼だったとしたらw
何故紀であのように否定的に語られるのか?が分からない。
3世紀代を巫女王あるいは男女による世俗・祭祀の分離から男王による一元支配への過渡期と
とらえたらどうだろう。ゆるやかな連合をとりまとめるためには共通の祭祀を司る巫女王が必要
であったが、それが武力による実効支配が進むにつれ世俗的男王が中心となり、巫女は男王の
支配下となってゆく。そのことが記紀の記述に反映されている可能性。
世俗・祭祀の分離があった考古学的証拠は一切ない
595 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 09:16:58.50
住居跡がさっぱりないし。
清家章が墳墓の副葬品と残存人骨を比較分析した研究によれば、女性首長は弥生時代中期
および古墳時代中期以降は存在がほぼ認められず、その間に存在する弥生時代終末期?
古墳時代前期には存在が一般的に認められる。つまり、首長権を行使することに対し、女性の
活動が活発的な時期とそうでない時期があるということ。
その原因は性別分業と大きな関わりがあると考えられ、特に戦争との関わりが重視される。
女性には戦争に関わる権能が積極的には認められていなかったため、戦争あるいは軍事的緊張
が高まる時期、もしくは政権の軍事化が行われる時期には女性は首長になりえなかったと推測
している。
庶民の住居跡がほとんどないのは纏向が祭祀センターであったためで、それだけ纏向遺跡を
外から囲む勢力が巨大であったことにほかならない。
598 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 09:25:34.61
柳田翁が言ってるように、日本文化の最古層には沖縄みたいなヲナリ神信仰があったんだろう。
卑弥呼や記紀の記載からも裏付けられる。
ヤマトにも琉球の聞得大君みたいな、世俗・祭祀を分離する時代があって、それが後代合一するのだろう。
上記した清家の研究に合わせて、環濠集落の解体および豪族居館の出現と居館における
専門的祭祀の開始を考えれば、弥生時代終末期の近畿地方においては、集落間の戦争から
脱却し、広い範囲での和平協定が結ばれたと見て取ることができる。そしてその和平時
において女性首長も出現した。これが古墳時代中期以降、ヤマト王権が各地を武力統合して
いく過程で、ついに女性首長は消え去ったという図式となる。
600 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 09:52:42.66
>>596 弥生終末期や古墳時代前期に女性首長が多く見られる、てのが不思議。
むしろ時代の変革期で、争いとか多かったと思うんだけどなあ。倭人伝の卑弥呼は狗奴国と戦ってるしさw
女性が軍事的指導者足り得なかったのはそうなんだろうけど、だからこそのヒコ・ヒメ制じゃないのか?男女で役割分担した、ということ。
あと記紀で言うならw神功も三韓征伐の時、異性装してるからw副葬品だけで男女を見分けるのは危険なような気が。女装する男性司祭者って、わりと世界中でポピュラーだしw
女性首長が出てくる弥生終末期が前方後円墳の開始時期であることからも、前方後円墳の祭りの実像に迫る良い研究だとは思う。
601 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:10:28.67
ヒコ・ヒメ制とか、男女による世俗・祭祀の分離とか、
根拠の無い妄想をたれながすのはやめろ。
602 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:14:24.75
ヒコヒメ制が前方後円墳祭祀と同時期に創始されたとするなら、
かなりイメージが変わってくるな。
つまり元々あった巫女による宗教儀礼が、宗教的権威の源泉として前方後円墳の祭りに採用されたということ。
それを経由することで、利害調整の役割をすることで、ようやく各地のオウが連合することが可能になったと。
卑弥呼共立による大同団結という倭人伝の記述とも符合する。
603 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:18:30.90
女性首長が弥生中期〜終末期にいない、てのはどうなんだろ?
かなり地域差があるように思うのだが。
畿内の弥生後期の首長墓なんて殆ど見つかってないしな。
604 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 13:40:40.45
発掘例がないってだけで、すぐに考古学者は言い切るからだめなんだよ。
発掘された遺跡がない。
↓
出雲王朝はあったかもしれないし、なかったかもしれない。
これが正しい姿。
でも考古学者は遺跡がないから出雲王朝はないって言いきってたからな、荒神谷遺跡が発掘されるまで。
606 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 14:36:33.64
いや、考古学ってのは「出てきた物を考える」学問だから仕方がない。
出てこないイコール確認出来ない、だから。考古学の限界でもある。
しかしまあ、考古学に対して怨み骨髄、って感じだが、何か嫌な思い出でもあるの?
記紀妄想と違って考古学は学問だから、具体的に反論していけばいいと思うけどなw
607 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 14:44:46.24
考古学に恨みを持つべきは畿内説じゃないか。
裏切られ続けているわけだし。
三角縁神獣鏡なんて、梯子かけて登らされて、知らないうちに梯子はずされたと
いう感じじゃないのかな。
608 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 14:52:02.20
三角縁に関しては、学者の中でも意見が分かれてるからなあ。
景初四年が出てきた時点で決着ついたようにも思うが。
三角縁に関しては
鏡を専門とする研究者以外の声が大きいのでそう感じるだけ
現在の学界で鏡を専門とする研究者がどう考えているかは
『三角縁神獣鏡研究事典』でお勉強してください
610 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:27:27.89
景初四年が、後世の偽造でも、
「景初四年」に意味があると知ってないと作れない。
611 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:39:50.60
マキムク王権は国内東西流通の結節点として繁栄してたんだけど、
西新町を通じて大陸とも交易してた筈。
マキムク王権が倭王権として国内で偉そうにしてたのなら、間違っても偽造した中国鏡をさも貴重品であるかのように配布する筈がないんだよね。
ひとつの可能性としては、筑紫と大和の関係が古墳前期に悪化して大陸物流が一時的に途絶えた時に偽作された。
612 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:43:01.46
>>609 降りるに降りられない人の苦悩の声が聞えてくる。
613 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/22(日) 15:50:14.09
「景初四年」の鏡は魏の宮廷と鏡職人との単純な連絡ミスで製造されました。
鏡職人は景初三年十二月が2回もあるとは知らなかったわけです。
新しい元号の連絡がなければ古い元号を使用するしか方法がなかったのです。
614 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:51:47.77
筑紫の那珂八幡の被葬者も、三角縁を有り難く副葬してるからな。
筑紫に偽の舶載鏡を下賜するとかは、絶対にバレるし、流石にしなかっただろうとは思うがw
三角縁は布留0以降に突然出現し、しばらくはヤマト王権の国内政策に利用されたみたいだ。
で、箸墓が卑弥呼の墓とすると、三角縁が明帝から下賜された銅鏡と考えればしっくりくる。
615 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:32:29.33
三角縁神獣鏡は数が多すぎる。森浩一氏に至っては、5万枚は作られただろうと言っている。
なのに、中国では一枚も見つかっていない。ほとんど全部日本で作られたと言っていい。
いつ作られたのか、卑弥呼時代と考えるには根拠が乏しい。
三角縁神獣鏡は、黒塚古墳などの様子から葬具と考えられるし、サイズが大きいところから、包朴子の影響を受けていると思われる。
包朴子が書かれたのが西暦317年頃と考えられるので、その影響を受けた三角縁神獣鏡が作られたのは4世紀半ば頃ではないかと思う。
包朴子も神仙思想だし、神獣鏡の模様も神仙思想を表していて、この点でも一致している。
616 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:37:46.52
抱朴子以降、ていうのが根拠薄弱なんだよねw
昔からの風習を抱朴子が書き留めた可能性はないの?
三角縁神獣鏡はマキムクで見つかってない鏡なので
話題の転換を望む
618 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:56:45.81
三角縁の考察はマキムク王権の成立過程を考察するのに必要不可欠だと思うが。
箸墓掘れば、三角縁が山のように出てくるだろうしw
しかし森先生も5万枚はふかし過ぎだろw
そんなにあったら威信財として機能しないしw
九州説の人は三角縁の価値を出来るだけ貶めたいんだろうなw
619 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 17:03:09.75
>>616 たぶん、「九寸以上の明鏡」と、鏡の大きさを書いたのは包朴子が最初だろうと思う。
>>618 箸墓に三角縁神獣鏡は副葬されただろうか?
621 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 18:58:54.67
>>618 >しかし森先生も5万枚はふかし過ぎだろw
いや出土率?を1/100とかにすれば余裕で達する数字で
それぐらいは作られたと想定しておくべきだとは思うw
ただしその事はその全てを舶載とか言い出さない限り
舶載・国産には関わらない話ではあるがw
622 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 19:08:51.15
しかし頭が痛くなるのは
このスレで稲荷山鉄剣銘文とか持ち出して欠史八代の実在性を云々言う恐らく同じ奴(例の恨み節師匠他)が
東遷説については
「纏向の出現前に奈良盆地にそのような王権構造の前身は見られない。
故に東遷してきた外部勢力により作られたと考えるのが妥当」
とか言っちゃうところだなwwww
欠史八代が記紀の系譜通り王として実在していたなら
それは纏向に繋がる王権の素地があったということだ(勢力の拡大は崇神以後としても)
一体纏向以前それに繋がる王権はあったんか?なかったんか?どっちやねんアホどもw
抱朴子は体系的にまとめた書物なので、
当然それ以前からの知識や伝承をまとめた物だよ。
抱朴子などを持ち出すのは、飛びつき学問といって、ここにこう書かれてるからこうだ、
というきわめて底の浅いもの。本来道教の呪具の歴史を調べるならそんなに簡単に
できることではない。素人だましによく使われる方法論で、安本氏なんかが得意だな。
625 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 19:55:53.89
>>624 >安本氏なんかが得意だな。
と言うかだな、いつものこのネタを投下する
>>615の「あの人」のネタ元が安本先生だろうにwwwww
安本氏自体、歴史学は素人もいいところで方法論がめちゃくちゃ。
627 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 20:17:16.81
安本はダメだよ、
ワザとムチャクチャ言ってるとしか思えない。
そもそも「抱朴子」の何処かにある大きさ以上の鏡を副葬した時の効能を書いてあるのか?
(自宅には「抱朴子」を置いていないのであるというのならどう書かれているか教えて欲しいが)
確かその効能・使い方としては自分に近づく魔の正体を見破ったり、未来を映し出したり
仙人と遭遇する為に使われたり…ということが書かれていると聞いているが・・・
ある面径以上の鏡が「抱朴子」の影響を受けたと言うのなら平原の大型鏡も「抱朴子」の影響を受け
それ以前の鏡も単純に寸法で判断できると言う話になる。
面径と言う数字を挙げていかにも客観的データに基づいているかのように見せるが
要は「 ペテンの手法 」と言うことですハイwみなさんも気をつけましょうwwwwww
>>621 いや、モリコーさんのその種の発言は
奈良時代に奈良周辺の各寺院に奉納された百万塔の現存率から
類推したものだったはずだよ
三角縁とは全くことなる環境にあるものを持ち出してる時点で
吹かしているのは明白だと思う
631 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:44:24.33
黒塚の出土状況から、画文>三角なのは分かるしさ。
委鬼も戦争で忙しかったとは言え、バリつきの三角は流石に下賜はしないでしょ。
葬儀用に大量に作らせたのが三角縁で、最初に貰った百枚を踏み返しで大量コピーしたんだと思うが。
632 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:48:36.63
>>628 安本という名前を出せば済むというものじゃないと思うし、安本氏がそういうことを言っているかどうか検索でもしてみたらいい。
まあ、都合の悪い議論を避けようというのもどうかと思う。
神仙思想は単純にいえば、仙人になって不老不死を手に入れようということ。ということで、
「九寸以上の明鏡を用いて自らを照らし 七日七晩凝視し続ければすなわち神仙を見るべし…」ということが包朴子に書かれている。
不老不死思想から死者復活みたいな考えになり、棺の周りを三角縁神獣鏡で囲み、自分を照らし続けると言う考えが芽生えても不思議ではない。
葬具としてはぴったりで、大きさからもいって、この影響を受けたと考えることは妥当性があると思う。
だからさ、抱朴子は昔からある伝承とかを書き留めてるだけで、
倭国の三角縁がそれ以降でないといけない、なんてことの論理的根拠にならない、ていうことだよ。
議論の邪魔になるから出て行ってくれ
634 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:56:38.71
はい、安本信者があぶりだされましたよ。
九州説をとるのもいいけど、安本に騙されちゃあおしまいだな。
いい年して東遷説に傾倒しちゃって、アマテラスが卑弥呼で、神武東征が4世紀だと思ってるんだろ?
他人の空想に踊ろされてつまらん人生だな。
しかも安本は、金儲けで九州説をやってるただのサギ師だし。
635 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:58:56.29
>>632 牽強付会。
それこそ「妄想は止めろ」と言う話だw
そもそも「抱朴子」に書いているのは生きている人間が使う事例。
葬具としての物ではない。
これで中国で神獣鏡が同様の使い方をされていると言うのならまだ説得力もあるだろうが。
あるのか?
要するにマッチしているのは「ある大きさ以上の鏡」と言う事だけ。
「抱朴子」の成立年代が都合がいいから引っ張って来たに過ぎないと言われても仕方が無い話。
636 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 23:00:51.75
>>633>>634 畿内説は、結局は、そこに行き着くな。
都合が悪ければ排除しようとし、たちの悪いレッテル張りで済ませようとする。
637 :
日本@名無史さん:2011/05/22(日) 23:12:02.17
都合が悪いっちゃあ都合が悪い、確かに。
明らかに論理破綻してる奴が出てきたら、話が前に進まないからなw
それにしても安本のホームページ読んで書き込みする奴なんてまだいるんだ、てことの方が驚き。
邪馬台国で検索したら邪馬台国の会がかなり上の方で出てくるのが問題なんだろうw
ネットだけで情報収集するととんでもない間違いを犯すこともある、という事例。
>>637 でもそこに引かれている個々のデータ等は嘘じゃないんだよなwwww
例えば三角が中国から一枚も出ていないのは嘘じゃないし、日本で500枚以上出ているのも嘘じゃないw
「抱朴子」に書かれていると言う内容も嘘じゃないし、その成立年代についてもまあ嘘じゃないんだろうwwww
まあどこでミスリードしているのか?それが分ったら、とりあえずLvが1up!www
639 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 04:14:29.74
>>638 安本の名前を出せば批判になると考えている人間に論理なんか言う資格はないだろう。
議論避けているだけだし。
>>639 じゃあ逆に聞きたいが、抱朴子の話は、安本からの受け売りじゃないの?
まさか君が直接抱朴子を読んで見つけたこと?
641 :
水銀厨:2011/05/23(月) 08:41:39.27
抱朴子を引き合いにだすと、丹の当時の認識や詳細も判る筈なのに
何故か畿内周辺からは古くから採取、精製状況が確認されている点を
無視するのが邪馬台国の会と安本氏。
正直私が理解出来ない(信用出来ない)点です。
642 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 09:29:28.03
>>640 安本氏が包朴子について語っているかどうか知らないよ。
そちらで調べてみたらいい。安本氏のホームページもほとんど読んだことないし。
誰か同じようなことを言っている人がいたら、教えて欲しいな。
いなかったら、僕のオリジナルということになる。
643 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 10:06:23.96
>>642 どうでもいいが、安本をサギ師と見破れないようでは、
議論に必要な論理的なものの考え方はできないよ。
安本のどこがサギ的か、的確に見破った上で、なお九州説を採るというなら、
拝聴するが。
644 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 10:18:18.58
>>643 そういうのを人格攻撃と言うんだよ。
まともな議論に勝てなくなると、人はだいたい人格攻撃するようになる。
おかしいと思うのなら、具体的に論点を示すべき。
上のほうで、ひこひめ制度について語っているのがいるが
魏志倭人伝よんだやつなら分るだろうが
倭王が女王だったのは、臨時の出来事だったことが分かる。
卑弥呼以前は、もともとは倭国では
男王が即位していた。
646 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 11:07:30.05
邪馬台国で男王が即位していたのは卑弥呼の前の70年〜80年だけ
それ以前はわからない
詭弁の特徴15条
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
1.事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2.ごくまれな反例をとりあげる
「だが、尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4.主観で決め付ける
「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
7.陰謀であると力説する
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
8.知能障害を起こす
「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」
9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
10.ありえない解決策を図る
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」
11.レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」
648 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:13:21.71
ほんとに九州説は詭弁だらけだよな。w
九州説なんかどうでもいい。
ここは纏向スレなんだから本題に戻せ。
安本の本買うくらいならキャバクラでも行ってこい
651 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:02:21.34
4.主観で決め付ける
648 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:13:21.71
ほんとに九州説は詭弁だらけだよな。w
8.知能障害を起こす
650 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 15:53:36.35
安本の本買うくらいならキャバクラでも行ってこい
安本なんかどうでもいい。
ここは纏向スレなんだから本題に戻せ。
653 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:06:13.86
10.ありえない解決策を図る
649 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:16:19.61
九州説なんかどうでもいい。
ここは纏向スレなんだから本題に戻せ。
652 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:04:34.06
安本なんかどうでもいい。
ここは纏向スレなんだから本題に戻せ。
スレタイが『纏向は王権の礎の地か』だから
考古遺物に立脚した反論は歓迎するよ
王権の礎の地、九州説も出雲説もドンと来い♪
656 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:11:17.09
九州説なら、ヤマトからの圧迫を受けたヒラバル(伊都国王・帥升の裔)が筑後山門郡に移転=邪馬台国。伊都国南下により、南九州のポリネシア系住民との軋轢が生じる=狗奴国。
マキムクは東に海を渡った別の倭種。
こんな感じでどうでしょうか?
657 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:39:05.31
え?邪馬台国はマキムクですよ。
658 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 00:32:34.67
東遷説の可能性が潰えた今、九州説の唯一の可能性がヒラバルだと思うんだけどな。
ヒラバルの葬送儀礼は大和とは一定距離があるように思う。超巨大内行花文鏡はかなり異質。
大まかな流れは以下の通りではないか?
昔から大陸と交易してた伊都国が、マキムクの勃興によりその地位が相対的に低下する(弥生文化の東方浸透により、弥生文化の中心が筑紫から大和に移る)。
東国との交易は畿内マキムクに独占され、南方交易に活路を見い出した伊都国は、筑後に本拠地を移すが、結果、ポリネシア系住民=狗奴国との軋轢に悩まされるようになる。
659 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 00:36:33.36
ポリネシアっうとどのDNA、遺跡の事言ってんの?蒙古さん。
661 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 00:45:43.75
邪馬台=山門とすれば、倭国内にヤマトが2つあることになる。
奈良県南西部の大和。筑後の山門郡。
おそらくは四世紀に大和と筑紫の合一があり、倭王の地位がマキムク王に禅譲された。その時にヤマトの地名も一緒に奈良県に移ったんではなかろうか?
記紀で言えば、景行の頃。熊襲に悩まされた筑紫の女王がマキムク王に加勢を求めた。
その時に倭王位が畿内に移ったと。
662 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 00:57:03.98
やっぱり安本に騙されてるやつがいるな。
ヤマトの地名は、大宰府ができたときにヤマトから九州に移ったもの。
三輪の地名はヤマトで付けられたのに、九州にもあるだろ?
九州に三輪山があるのか?
地名は普通に奈良からの移植だよな。
664 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 01:09:47.79
>>662 みっともないからあんまり安本、安本言うなよ。
安本は甘木説。山門とは関係ない。
>>661 発音的には、邪馬台=山処=大和≠山門だよ。
三輪山の麓にあった(あるいは、広義には、王都は山の麓にある)から
山処(やまと)というふうにいわたんじゃないの?
あと、近畿周辺の平野部の低地からみて
高地である盆地にある王権だから、山処(やまと)と言われたのかもね。
666 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 09:04:25.09
上代特殊かな遣い、てやつね。
門は甲で、たしか台や処が乙になるとかで厳密に区別されてるとか。
ただ、倭名類じゅうに山門を夜万止って書いてて、止は乙。
記紀は確かに厳密にかな遣いを区別してたみたいだけど、地方ではかなり崩れてきていて、山門に当て字された時は区別されなくなってきてたんじゃなかろうか?
山門が大和の起源、てのも、ヤマト王権にとっては余り嬉しいものではないだろうし、敢えて異字にしたのかも。ひのもとの日下みたく。
服属した者の名前を奪う(献上されたという形で)という風俗が、ヤマトタケル神話に見られるが、相手の名前を奪うというのは何らかの呪術的な意味があったのかもw
667 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 10:55:59.59
ヤマトという音が最初にあって、後になってそれに漢字を当てたのだろう。
漢字は元々中国のものだから、その中国の書物からとって倭をヤマトに当てた。
いつからかこれに「大」がつき「大倭」となる。「倭」の意味があまり良くないのを知るようになると、
これを読みが同じで、感じの良い「和」にかえて「大和」となった。
普通、大和はどんなことをしてもヤマトとは読めないから。
日本の地名は地形から来ることが多いが、「やまと」というのは元々山の入り口と言う意味で、それから考えると
山門の方が意味的には合っていると言われる。
668 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 11:25:54.44
古代には、甲乙の区別があり、
甲乙の区別は、時代が下がるとに無くなる。
大和に使われるヤマトのトは、台であって門ではない。
まあ、山の股だなw
各地大和呼称の地形を調べれば?
670 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 20:52:53.42
上代特殊仮名遣いの8母音説も所詮仮説だし、結論出てるみたいに言うのはどうなんだろ?
邪馬台国山門説を否定したい人からすれば都合がいいのかもしれないけどw
671 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 21:39:44.78
8母音説も所詮仮説だと?
それなら、反証を出してもらおうか?
672 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 21:55:06.35
よく言われてるのは、ヘボン式ローマ字の子音の例。
chiとti、tsuとtu、shiとsi、fuとhu、など、当時の日本人でさえ分かっていなかった違いを、外国人は区別した、ということ。
おそらく万葉仮名を作ったのは渡来人で、倭人が区別せず使ってた細かい差を聞き取ってしまったのだろう。
673 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 22:45:13.81
個人的には、上代特殊仮名遣の議論は言語学の板でやればいいことでwやりたければスレ立てして質問すればいいw
それはそれとしておいてw考古学の話をしたいんだが。
考古学的に九州説は本当に成り立たないのか?
674 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 22:51:21.24
>>673 考古学的にでも何でも九州説は邪馬台国スレでやれ。
675 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 23:11:23.04
え?
考古学準拠なら九州説でも吉備、出雲、東海説でもドンとこい!
じゃなかったの?
倭人伝無視して倭王権を語るなんて、馬鹿馬鹿しいと思うが。
676 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 23:36:30.40
>>675 邪馬台国が九州なら、マキムクは関係ないだろ。
よそへ行けってんだよ。
677 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 23:48:51.07
>>676 なんだかなあ。
邪馬台国が九州だったとしてもさ、畿内マキムクでの王権誕生と、九州邪馬台国?が無関係だったと、本気で考えてるの?
なんでわざわざマキムク王権は、ギの年号が入った三角縁を各地に配ったんだよ。
画文帯にしろ三角縁にしろ、おそらく邪馬台国の時代に近い鏡。同時に、初めて畿内中心で出土する大陸文物でもある。
マキムク王権を考える上で、これって重要なポイントだと思うがな。
記紀アレルギーならまだ分かるが倭人伝アレルギーは痛すぎるw
678 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 00:23:54.43
畿内から王権が誕生したことと、
どの時代まで優位だったかは知らないが最終的に王権に吸収される九州。
王権の成立と拡大を考古ベースで語ることはなんら問題ないと思うけど。
考古学準拠なら九州説でも吉備、出雲、東海説でもドンとこいだろ?
単なる邪馬台国探し妄想にならなければ
真実に近付くことよりも、自説を守りたいという我執が優先されるという、ね
西暦5世紀の倭王武の上奏文みても、神武東遷を思わせるような記述はない。
あの記述からみて、近畿地方周辺から東西に版図を広げて、
国家統一したのが、ヤマト王権だったというのが、なんとなしに想像がつく。
記紀をしっかり読むと分るのだが、ヤマト王権の始まりをどこに
おいているのか、どこを王権の出発点においているのか、よく分る。
一部の人たちが、神武東征を出発点において、そこを神格化しているが、
古事記を読むかぎりにおいては、神武東征よりも前の
出雲国譲りこそが王権の始まりであり、そこでヤマト王権の前身となる
あまつかみ王権が天下を統一したのが推測できる。
そして、この、あまつかみ王権とは、葛城地方にあったことが分り
出雲国譲り戦争とは、近畿VS出雲の戦いだったことが分る。
だからこそ、倭王武は、自分の祖先は、東に西に統一したのだと言った。
681 :
680:2011/05/25(水) 06:53:28.39
しかしながら、日本書紀では、神代と人代と明確に分けられ
神武東征前後で、神代と人代に分けている。
よって、出雲国譲りは、神代のこととされ、
ヤマト王権の天皇の歴史から、微妙に隔離された出来事になってしまった。
なぜ、そうしたのかは、なんとなしに想像がつくだろう・
682 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 07:12:46.29
>>677 >畿内マキムクでの王権誕生と、
架空の造語を既成事実のように語るのがうまいなあ・畿内説の街頭香具師は。
>なんでわざわざマキムク王権は、ギの年号が入った三角縁を各地に配ったんだよ。
三角縁神獣鏡は架空の「マキムク王権」が配布したと誰が決めたんだ?
呉式神獣鏡を洛陽の尚方(魏の官製工房)でつくることは絶対にないが、
そこに魏の年号が入っている超不条理については考えたことがないらしいな。
>画文帯にしろ三角縁にしろ、初めて畿内中心で出土する大陸文物でもある。
ふーん。神獣鏡が初めて畿内中心で出土する「大陸文物」か。
そうとうに遅れていたというわけだ。しかも「大陸文物」というもの怪しい。
>マキムク王権を考える上で、これって重要なポイントだと思うがな。
マキムク王権が架空の造語だということを理解する上で重要なポイントだ。
>>678 名前
>畿内から王権が誕生したことと、
「畿内に王権が登場した」と、「畿内から王権が誕生した」は大きく違う。
畿内説は言葉のまやかしが多すぎるようだ。
>最終的に王権に吸収される九州。
大和政権は九州勢力が東遷したとするの仮説よりも実証力の弱い願望空想だ。
何を根拠にそういう甘ったれた空想を吹きまくるのだ?
>>679 真実に近づくことよりも、畿内中心にしたい矮小な自我に支配されているぞ。
683 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 07:38:42.51
>>677 神獣鏡が初めて畿内中心に出土する大陸文物であるというが。
九州を凌駕するほどの「王権」というべきものを構築・確立するには鏡だけで可能なのか。
現場の臨場感がまったく欠落しているぞ。
684 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 07:46:52.11
>>680 >近畿地方周辺から東西に版図を広げて国家統一したのが、ヤマト王権だった
だから。そうなるまでの歴史的経緯として、
人・もの・文化・技術・知識の出入り口が九州一つとかないのに、
九州と無関係に、どうやって強力かつ強大になれたというのだ?
その説明ができないだろ。
苦し紛れにいうことは「ゆるゆるの連合」だ。
その「ゆるゆるの連合」ができるほどの力はどうやって育まれたというのだ?
日本列島特有の地理地形という「物理」と、
それが規制するところの「力学」と、
これに大きく左右されてきた歴史動向に逆らう「ウソ」を宣うのもいい加減にせい。
685 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:15:10.84
王権とはいわば支配権力だな。
それは同時に、莫大な利権が伴うことを意味する。
大陸・半島とのメイン通交ルートは九州・壱岐・対馬のルートだ。
大和政権登場以来、大陸・半島とのメイン通交ルートとしたのも、
瀬戸内海・九州・壱岐・対馬のルートだ。
武力支配時代の支配とは独占を意味する。
「王権」を保証するほどの利権のからんだ海路通交ルートを、
武力支配時代において誰がどうやって支配してきたのか。
歴史動向としてきちんと説明できる奴はいまい。
畿内の倭人は飛び地的に独立して住んでいて、
大陸・半島とはろくな通交もせずに独自に先進的で強力になったのか?
それとも。
九州倭人はお人よしてせ、「どうぞ」とばかり機内の倭人に、
自由に大陸・半島とのメイン通交ルートを使わせていたというのか。
(お前たちがいう、九州は畿内勢力に吸収されることも読めずにだ)
まったく、ガキよりも程度の低い笑いぐさだぜ。
畿内中心論というものは、
弥生末期以前の歴史的土台を喪失したも同然のごたく論だ。
しかも、九州と畿内と別人種がいたかのようで、
九州はボケの集まりでもあるかのような前提でしか成り立つまい。
九州も畿内も列島倭国も日本国も、同じ倭人がつくったものだぜ。
ふざけやがって。
686 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 08:23:12.71
いやまあ、
>>1も寺沢とかも、筑紫の影響を否定してないがな。いかんせん、マキムクに九州色が薄い、という現実があるが。
マキムクに王権が誕生したのは、その立地、東西交易路の交錯点、ハブ機能が大きい。人と物が集まり富裕化、王権化という流れは自然。筑紫、出雲よりは大分遅く、吉備より少し遅れるが。
西新町で直接大陸と交易するようになってからは、新技術や文化を配分するという権能でその権威を更に高めるようになる。
687 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:40:11.78
終止符トピに書いたものを再掲する。
●東遷後の九州
九州には「○○の君」を名乗る豪族が極めて多い。
この「○○の君」は、皇別士族・皇別士族が名乗った名称だ。
古今東西を問わず、豊かな土地や要衝となる土地には、
最も信頼のおける支配者の親近血族を配したものだ。
九州はとくに、半島と大陸との通交の出入り口であり要衝でもある。
放っておけばすぐに力をつけることになるから、
力をつけすぎる者が出ないように細かく分断して「○○の君」に管理させた。
それでも磐井のように力をつける者が出る。
磐井は継体に反逆したことになっているが、
これは、継体が正統な皇位継承権をもたなかったことへの反抗だろう。
磐井は、継体天皇の命を受けて半島に出兵する近江毛野臣を邪魔してこういう。
「昔、我とお前とは伴として、肩や肘をすりあわせて、共に器を同じくして食った」。
ここでいう「伴」とは天皇に仕えたことを意味する。
古今東西を問わず、「寸鉄を帯ず」が鉄則の宮中や、王都警備には、
最も信頼のおける支配者の親近血族を配したものだ。
これは磐井が、近江毛野臣とともに前天皇に仕えていたことを示唆している。
さらには、物部麁鹿火が磐井を討ったあと、磐井の子の葛子は父に連座して誅されるのを恐れて、
糟屋の屯倉を献上することで死罪を免れることを求めた。
「父に・連座して・誅されるのを恐れて」とは、どう見ても内紛の様相である。
磐井が九州全土の支配者でこの戦いが王朝間の戦争であれば、
破れた王朝は滅亡で九州全土の処理問題に発展しているはず。だが磐井の場合は、
磐井が領有する領土の一部割譲だけで済んでいる。
これは、もともと天皇家とこれに連なる者の内輪の確執だった証拠である。「同族」の争いである。
688 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:40:45.22
●九州の独特古墳の理由
一説によると、磐井の墓は「赤緑黄の彩色で同心円文や三角文を描く石室」だという。
ならば、紛うことなく装飾古墳である。
天皇家の傍流を意味する「○○の君」を名乗る磐井の大古墳が、
九州土着勢力の特徴著しい装飾古墳であるという事実が告げるのは何か。
倭国の政権中枢が大和州へ移動したあと、支配者一族から分かれた地方豪族が、
重要な九州の地を分割管理していたことを物語るのものと私はみている。
これが、私のみた東遷後の九州の実態だ。
その装飾古墳がなぜ、異国情緒溢れる幾何学文様で飾られているのかは、
「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」という
倭人と倭人支配層に共通する「ルーツ」にある。
『民族の指紋』
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
689 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:41:09.56
●畿内説者諸君に告ぐ。
日本の考古学いま、国や地方自治体の指定から漏れた中小の古墳や、
そこから出てきた染まさな鏡の量や、
開発途中でたまたま出た遺跡でもって、倭国という国とその支配層の動向を論じている。
つまり、地方士族や豪族クラスの墓をもって、国家の動向をどうこういっているのだ。
この、考古学としては最も愚かで欺瞞に満ちた事実に気づいているのか。
仮に、大古墳のすべてが調査可能になったとすれば、
その多くは何がしかの装飾が施されている可能性を考えることも必要だろう。
倭国の支配層は紛うことなく、「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」民族であり、
装飾古墳は「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」民族のものだからだ。
大和の揺籃は確かに九州が担った。その九州の歴史を差別的かつ蔑ろにするのは、
親不孝なガキが自分独りで大きくになったとほざくようなものだ。
たったひと握りの、 「歪んだモチベーション」をもつ畿内説ヒエラルキー異存者たちによって、
われわれの遠い祖先の体験の記憶が歪められつづけている現実を質すことにエネルギーをさけ。
もうこれは完全に荒しだよな
691 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:50:30.45
●九州からの先遣開拓部隊
畿内説者がモモチャン姫を持ち出す『日本書紀』が、大和進出の経緯を書いている。
「とび」の地へ天の鳥船に乗ってやってきたというニギハヤヒが盤居するところへ、
神武が九州から天の磐船でやってきた。
二人が互いに同じ神の子であることを確認した上で、
ニギハヤヒは「とび」の地を神武に国譲りの形で明け渡す。
神武は天の磐船でやってきたが、ニギハヤヒは天の鳥船に乗ってやってきたという。
ニギハヤヒはどこからやってきたのか。神武と同じ九州からだ。
二人は同じ神の子であり同族であり、ニギハヤヒの父祖に「とび」の地の開拓と地ならしを命じたのが、
神武の父祖であることを物語っている。
古墳づくりと葬送儀礼について。
古墳づくりそのものには地域や時代によって細部で異なるが、
鏡と剣を重要な呪具とする葬送儀礼は全国統一的である。
このことは、葬送祭祀を司る人材の育成と供給が組織的・計画的に行なわれたことを示唆する。
纏向遺跡は3世紀当時は墓が集中する一大墓域であり、
ここが葬送祭祀人材の育成と供給をになったセンターを兼ねていたのではないか。
唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれていた男女司祭は明らかに九州隼人色にみちた扮装をしている。
ここは、ニギハヤヒの逸話にみられるような、
九州からの先遣開拓部隊が築いた拠点集落ではなかったのか。
692 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/25(水) 08:54:18.77
>>690 都合の悪い投稿をすると、トピズレだの荒しだのと非難するしかないらしいな。
俺ほどにもまっとうな話ほ投稿してるのがほかにいるか。
いるなら提示してみせろ。外道が
俺が登場するだけで、古代史論らしいグレードになるだろ。
>>691 その話が正解と仮定したら、その九州からの先遣開拓部隊が
やってきたのが3世紀以前だっただけの話だと思うが。
一部畿内説の論者と同じですよw
694 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 10:22:02.63
>>693 >一部畿内説の論者と同じですよw
「3世紀以前の東遷」というわけか。
いずれ「それ」をいい出すだろうことは想定済みよ。
3世紀以前の東遷など、時代の成熟度からみて無理な話だ。
3世紀半ばは・その過渡期。根回し・地ならしの段階よ。
「一部畿内説の論者と同じですよ」て、見損なうなよ。
俺は歴史を正しく見ようとしているだけで、
基本的に畿内だの九州だのと矮小なこだわりはない。
それはむしろ、正しい歴史をみたあとに明らかになることだ。
きみたちは本末転倒。畿内だの九州だのから歴史をみようとしている。
正しい歴史をみようとすれば見解の一致するところもあろう。
それこそ「限りなく史実に近い」ということだ。
ま・心をきれい・歴史に対して正直に・誠実になることだ。
心と目が濁った論説を吹くのは、畿内説の利権にむらがる輩だけでたくさんだ。
695 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 12:31:38.76
畿内説は、やっぱり正しかったな。
最初からそう思ってたんだよ。
696 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 12:41:00.96
日本書紀、古事記には、ヤマトトトヒモモソヒメという巫女がいたと書かれてる。
この巫女が、卑弥呼だとすると、全ての謎が解ける。
オオモノヌシの祟りとかで、倭国大乱がおきて、
モモソヒメがオオモノヌシを奉ることで、騒ぎが収束した。
魏志倭人伝の記述とピタリ一致する。
男弟は、キビツヒコのことだし、
狗古智卑狗は河内彦のことだし、
崇神や垂仁は、官名で登場してくるな。
九州から近畿まで、呪術的に日本を支配したモモソヒメは、卑弥呼のイメージにぴったりだ。
そして大和から日本が建国されていったんだなあ。
697 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 12:53:18.45
>>695 >>696 ほれほれ。負け惜しみの空念仏だかー。
考古学と歴史学両面から納得のいく話をしろ。
どこぞの天皇の第二機先の庶子として生まれたモモちゃん姫の墓が、
ハツクニシラスとまでいわれた崇神天皇よりもデカい墓に眠ってるてかー。
怪しげな予言を二度ばかり垂れて蛇神のカミさんになって、
果ては恥部を突いて死んだことになってしまったてか。
恥ずかし、まんま「恥墓」じゃないか。
あれは4世紀から5世紀に実在した五王の一人の墓だ。
掘れば、半島での戦利品や珍し土産のキンキラ馬具が出るに決まってる。
698 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 12:54:15.67
ヤマトトトヒモモソヒメは、幼少の頃に四国にいたと伝承されている。
四国では、いろいろ神通力を発揮して巫女として崇められていたようだ。
つまり、卑弥呼が共立された理由として四国の巫女が選ばれたということ。
四国と本州を結ぶ淡路島からは、弥生時代最大規模の鉄器工房遺跡が見つかってるから。
古代の四国周辺は、日本の中心的な工業力、経済力を誇っていたというわけ。
一方で、高地性集落などもあり、瀬戸内海の大乱を収束させるために、
四国の巫女が、卑弥呼として共立されて大和のオオモノヌシを祭るために、大和に移住したんだなあ。
こうしてみてみると、すごくわかりやすい。
699 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 12:54:20.79
第二機先→→→第二妃
700 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 12:56:53.95
ところで、ここではつい先日まで、
「記紀神話に依拠した話はするな。考古的資料事実でこい」。
とか・ゆってなかったか。
まったく、都合勝手な奴らだなー、畿内説のできそこないどもは。
701 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 12:59:37.50
四国は、忌部の本拠でもある。
当然、モモソヒメも、忌部のマツリゴトと関係し、
忌部と共に大和に移住してオオモノヌシを奉ったはずだ。
河内には大田田根子がいて、オオモノヌシの子孫として、
オオモノヌシの神主となった。
この大田田根子の子孫が三輪氏になり、三輪大社の宮司になった。
大和建国の歴史には、どこにも、九州のカゲは無いんだなあ。
702 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 13:09:08.29
大和朝廷の古代の祭祀を司ってたのは、忌部だから、
忌部の本拠地が四国というのは、軽視できない。
四国で行われてた祭祀が、そっくりそのまま大和に移植されたわけだから、
これだけでも九州からの東遷なんてありえないわけで。
東遷説を唱える人は、忌部の本拠が四国であることを完全に無視してるのが笑える。
致命的に知識の底が浅いんだな。
703 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 13:27:34.39
考古学からも、文献からも、民俗学からも、
どこからどうみても、調べれば調べるほどに、
「やっぱり、畿内説が正しかった。」
という結論になる。
2年以上古代史をかじって、まだ九州説とかいってる人は、
歴史を勉強するセンスないから。
704 :
ローガン:2011/05/25(水) 16:48:35.86
>>697 >あれは4世紀から5世紀に実在した五王の一人の墓だ。掘れば、半島での戦利品や珍し土産のキンキラ馬具が出るに決まってる。
うーん、布留0を約130年ほど下げると。とすれば、須恵器も下がり 三角板の短甲も下がるので、石人山古墳も下がるっと。
なら、ホームページ訂正しといてね。装飾古墳のところ。
705 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 16:52:55.37
>>702 >大和朝廷の古代の祭祀を司ってたのは、忌部だから、
ウソつけ。神事などに奉仕する下働き氏族で、祭祀を司ったのではない。
「古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる」。(Wiki)
>忌部の本拠地が四国というのは、軽視できない。
大和時代のことだろう。
祭具製造や神殿宮殿造営の技術者氏族がどこを本拠地としていようが、
どうだっていいことだ。詐欺師みたいなことをいうな。
706 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 17:06:13.04
704 ようよローガンくん。
>布留0を約130年ほど下げると。
土器編年なんて「変年」だ。頭から信用していない。
Aタイプの土器のはじまりから終わりの年代があって、
これに新しいBタイプの土器のはじまりから終わりの期間が重なるとする。
土器編年て奴は、いったいどこをつかまえて年代をはじきだしているのかね。
新旧の入れ替わりとは古代なればこそ、依然として旧タイプを使う集団もあったろうし、
グラデーションの重なりにも似て、
ある時点できっちり入れ替わるってもんじゃないんだぜ。
しかも葬送儀礼の場合。
すでにBタイプ全盛の時代になっていても、
葬送儀礼に使用するのはわざわざ旧式のAタイプをつくって使うってこともあるぜ。
必ずしも「その時代のもの」を使うとは限らないのだ。
ところがわが優秀なる考古学は、つねにその時代の土器を使うという、
何の根拠もない思い込み前提で語ってくれる。
土器による年代議論を傍でみている俺なんざ、奥歯で笑ってるぜ。
Wikiを参考にする時点でダメだなw
708 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 17:11:58.50
つつぎ。
そういえば、箸墓には埴輪の原型をなした埴輪が配置してあったらしいな。
どんな形状だろうが埴輪は埴輪だ。埴輪は殉葬代わるものだ。
形象埴輪になる以前の原初的な初期埴輪があったのだから、
箸墓は殉葬者を葬ったという卑弥呼の墓でははない。
おっと、殉葬はなかっただとか、倭人伝の記録がおかしいとか。
もう・そういう逃げの詭弁はやめてくれな。
箸墓を掘れば、ほぼ間違いなく馬具が出る。
規模・形状的にみても、そういう時代に造営した墓だ。
709 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 17:15:25.44
そういえば。ローガンくん。
さいきん。
卑弥呼の墓の径100余歩と箸墓の円墳部の直径とが一致するなんて、
バカけだことをいうのはいなくなったようだな。
天才が、「箸墓のサイズも6倍から6.5倍で書かれている」と、
きみたちの街頭香具師のような詐欺論法を粉砕したからかぁ? わっら・わら
710 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 17:27:45.49
すごいな、今日も畿内説の圧勝に終わったぞ。
711 :
ローガン:2011/05/25(水) 17:45:40.36
>>706天才
>Aタイプの土器のはじまりから終わりの年代があって、これに新しいBタイプの土器のはじまりから終わりの期間が重なるとする。
だからそれが、0期という便利な概念。(笑)
>土器編年て奴は、いったいどこをつかまえて年代をはじきだしているのかね。
九州の墓がだす6期漢鏡。制作は2世紀後半は確定。( 時間差を勘案して)最終のかめ棺が250年頃。
土器は西新式でこれが庄内併行。
712 :
ローガン:2011/05/25(水) 17:52:33.68
>>708 >そういえば、箸墓には埴輪の原型をなした埴輪が配置してあったらしいな。
どんな形状だろうが埴輪は埴輪だ。
いや…祭祀に使う壺の台。
>>709 >さいきん。卑弥呼の墓の径100余歩と箸墓の円墳部の直径とが一致するなんて、バカけだことをいうのはいなくなったようだな。
もうすっかり、当たり前過ぎて 言わずもがなというか。
713 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 17:55:15.55
俺が伊作だったら、恥ずかしくてサイト閉じて逃げるよ。
あ〜、伊作じゃなくてよかった俺。
714 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 17:57:51.31
>>708 >そういえば、箸墓には埴輪の原型をなした埴輪が配置してあったらしいな。
詳しく言うと、
・宮山型の特殊器台
・特殊壺(型土器)
・都月型の円筒埴輪
そんなものが箸墓の墳丘上で採取された。宮内庁書陵部の報告。
715 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 17:59:58.72
倭国王権・倭国王権と炎上する甘ちゃんに冷や水を。
黥面を施した土偶をつくったのも、銅鐸を持ち込んだのも、
環濠集落をつくったのも、高塚式古墳をつくったのも、船形木棺を使ったのも。
装飾古墳をつくったのも、みな、時代ごとに長江河口から継続的に渡来した非漢民族だ。
彼らは文身をする・お歯黒をする・文字を持たない。これが、まんま倭人だ。
縄文後期から弥生時代を経て古墳時代を築いた民族の実態は、
呉楚越の領民を構成した南蛮・荊蛮・百越といわれた民族で、
その子孫たちが倭人であり、現代でいう中国南部の少数民族たちだ。
箸墓を掘れば馬具が出るだけではなく、
被葬者の民族的故地の信仰的精神性を表現した、
蛇をあらわす渦巻き文・蛇のウロコ文様たる菱形文や三角文、
果ては玉璧をあらわす同心円文など、何らかの装飾が施されているはずだ。
716 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 18:00:15.10
卑弥呼・卑弥呼と、過剰に燃える甘ちゃんに冷や水を。
卑弥呼は鬼道をマスターしていて、彼女は190年前後に倭国の女王になった。
では、倭国で彼女に鬼道を教えた倭人がいたのか。倭国にやってきた中国人導師が教えたのか。
時間的関係と「素養」の面でどっちも不可能だ。
時間的な関係でいえば、大陸で鬼道とされる天師道と
これと根を同じくする太平道が盛んになるのは190年頃で、
この時点で卑弥呼は鬼道をマスターしていることになるから。
また「素養」の面でいえば、
森羅万象の哲学ともうえる道学を基礎とする鬼道を学ぶには、
高度な中国語的素養と広範に及ぶ知識を必要とする。
卑弥呼が倭人の娘だったとすれば、ともに望めないことである。
卑弥呼は倭国首脳たちが苦肉の策で、彼らの故地から招聘した女性。
きみたちが大好きな卑弥呼は長江流域から来たリリーフ投手にすぎない。
で・空白の世紀というトンネルを抜けたら、中国名を名乗る男王(五王)たちの時代になっていた。
日本の古代史はドラマチックだねー。
あまり卑弥呼・卑弥呼と、過剰に燃えないほうがいい。
でー? 纏向がどーしたってー?
たかだか出土した土器の産地がどうのこうので倭国の歴史を「どうこう」いうんじゃないよ。
おーっと。卑弥呼の鬼道は大陸のそれとは無関係だ。倭人の手法だ。
などと、泣きにも似た詭弁で逃げないように。
717 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 18:03:34.55
さあて。
以上が夢想・妄想・願望などとは次元の異なる歴史の真相だ。
事実は残酷だ。少しはシラけたか。
できそこないの街頭香具師ども。
718 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 18:08:14.40
畿内説って、理路整然としてて、すごく説得力があるね。
ここまで理詰めで攻められると、九州説の立場無いな。
って、いまどき、九州説を唱えてるやつもいないか。
719 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 18:13:28.23
>>718 理路整然とした返答ができなくて、
「畿内説有利」「畿内説勝利」の被せ文言を上書きするだけか。
「みせかけ」細工をするようじ・おしまいだな。
シラけたところで、こんな恥かきトピックは放置して潰せ。
720 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 18:17:09.27
うーむ坊主(畿内説)憎けりゃ袈裟(纏向遺跡)まで憎い
…式の馬鹿(目下暴れているのは伊作とか言う馬鹿)に粘着されているっぽい流れだが
まあいつもの事でもあるがwwwwwwwwwwww
先に出ていた「ヒコヒメ制」も逆説的に言えば
それがあったなら「卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命」を無理に考える必要性はなくなるとも言える。
卑弥呼や後の壱与のような女性
時に一族やクニの命運を左右するような場面で出てくる巫女がゴロゴロいたと言う話なのだから。
逆に言えば「ヒコヒメ制」みたいな物が無ければ倭迹迹日百襲媛命のような存在はかなり特異となり
それを卑弥呼に結びつける方向も、まあ出てくるだろうとw
と言うか個人的にはそれもあって「卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命」説には距離を置いているつもりwwwwww
火病おこされているゴ**ズレベル九*説さん達におかれましては
こう言う反論の仕方もあるということでご理解いただければ災いですwwwwww
イヨタン・・・・・・・・・・
若い頃の倭迹迹日百襲媛命の伝承は、四国東部に集中してるからな。
前方後円墳の原形が徳島で発見されてる点も無視出来ないないだろう。
四国吉野川を基盤にしていた古代忌部氏との関係も気になるところだ。
723 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 18:45:42.32
>>720 そんな高尚な議論を相手に求めても無理だろ。
724 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 18:48:53.80
実際、箸墓が4世紀でも畿内説は揺るがないしな。
箸墓が卑弥呼の墓じゃないって?だから何?って感じで。
725 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 18:57:36.77
実際のところ、記紀編纂の八世紀には卑弥呼が誰か分からなくなっており、卑弥呼の業績なんて大和朝廷には全く伝承されてなかったようだし。
ただ、卑弥呼と同時代の鏡とされる三角縁は大流行しているという事実。
やっぱり邪馬台国は九州にあって、ヤマト王権とは別だったんじゃないかと思う。
726 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 19:01:33.41
そう考えると、大和で共立された卑弥呼の下に、ヤマト王権が誕生したってことになるな。
727 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 19:47:23.48
ついでに・唐戸鍵遺跡の滑稽談。
唐戸鍵遺跡で復元された楼閣について。
・軒先に蚊取り線香をつけたような風情は異国情緒たっぷり。
・茅葺きか草葺き屋根の時代に、板葺きか樹皮葺きの屋根をしている。
・上階の楼観は雨が降り込んで腐り長持ちしない構造である。
・どう見ても、唐戸鍵遺跡の時代ともそぐわないし、建っている場所もそぐわない
この絵が描かれた土器の粘土や形質などの分析から、産地や作風などの特定をしたのか。
この絵が倭人の手によるものではなく、渡来人の記憶か知識で描かれた可能性はないのか。
あるいは、渡来人が持参した土器の可能性はないのか。
畿内説考古学は、こうした検証作業と手続きを踏んだ上で結果を開示し、
この絵が唐戸鍵遺跡に建っていた楼閣を描いたものとの結論に至っているのか。どや。
ろくな検証もせず邪馬台国の楼閣を匂わせんという、
畿内説一派の焦りと功名心とを象徴する記念碑だ。
俺の知っている地元民でも「恥かしい」という人がいる。
これも、畿内説考古学のやることなすことがマンガ以下だという・ほんの一例。
728 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 19:49:17.10
>>724 >実際、箸墓が4世紀でも畿内説は揺るがないしな。
>箸墓が卑弥呼の墓じゃないって?だから何?って感じで。
やけくそで開き直りか。
いろいろ手があるものだなー。
かんらかんら
729 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 19:54:25.77
伊作がいくら喚いても無理だよ。
巻向はまだまだ発掘は続くからな、
そのたびファビョっちゃ体に悪いよw
730 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 20:13:55.23
>>723 確かに箸墓が4世紀でもなにも困らないよな。
ヤマト王権の萌芽が4世紀になるだけ
731 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 20:17:20.37
>>727 はははは。
もう、それくらいしか言うこと無くなったのか。
732 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 20:21:15.57
>>730 >箸墓が4世紀でもなにも困らないよな。
降参宣言も同然だな。
ま・発掘調査できない墓をつかまえて何をいおうが、
しょせんは空論にすぎんのだ。これが厳然たる史実。
周濠から出た鐙はのちの時代に投げ込んだといい、
埴輪列があっても「埴輪ではない」という。
逃げきれなくなると、殉葬はなかったといい出す。
考古学的資料事実などとウソぶきながら、
その実は考古学的でも何でもないってことが、みなに分かればそれでいい。
733 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 20:21:53.66
畿内説はゾンビだからな。
何でもいいから仮説を立てて、論争の種を作れば良いと思っている。
論破されたら、知らん顔して次の仮説を立てるだけ。
信者がけっこういるから、何を言っても支持してくれる。
734 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 20:24:05.96
>>731 まいどまいど・視点が独特で鋭いだろ。
そうとうな刺激になってるはずだぞ。
「それ」くらいしか言うことがなくなったのは・そっちだろが。タコ
>>685 > 九州倭人はお人よしてせ、「どうぞ」とばかり機内の倭人に、
> 自由に大陸・半島とのメイン通交ルートを使わせていたというのか。
畿内系土器が出土することから、畿内の倭人は博多湾沿岸地域に来ていたのでしょう。
その目的が大陸との通商だというのは、畿内の大陸文物が増えることからの推定できます。
しかし半島からは畿内系土器が出土しないので、
通交ルートを使って交易に従事したのはこれまでどおり九州倭人だったのでしょう。
畿内の倭人は九州倭人にとってよいお客だったのではないだろうか。
736 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 20:47:35.27
九州が朝鮮半島と交易して儲けるためには、
九州以外の地域と物品の売買を拡大させないといけない。
しかし、伊作くんによると、九州は近畿にモノを売らないように制限してたそうだ。
どこの商人が大きなビジネスチャンスを逃すようなことをするのかなあ?
やっぱ、ニートには、経済ってものがわかってないんだな。
737 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 20:57:18.29
九州は、朝鮮半島と近畿との交易の中継で、繁栄してきたんだよ。
1世紀までは、それで九州の王が倭王を名乗れた。
しかし、2世紀も終わりになると、九州の経営は近畿との交易なしには成立しなくなる。
それに加えて、漢が滅び、公孫氏が登場したりで、朝鮮半島との交易が混乱する。
九州は、交易のうまみを失い、経済の中心が近畿に移行する。
そして、マキムクという新しい市場が生まれた。
九州もマキムク経済に従うしかなくなり、マキムクで共立された卑弥呼を女王と認めるしかなくなった、というわけ。
わかったかな?
738 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:00:36.16
>>737 弥生時代の近畿地方には、大陸との交流の痕跡がほとんど見られないのだが。
739 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:04:06.98
やれ、畿内には九州を支配する力は無いとか、
九州が武力で畿内に東征したとか、
そういう次元の話を、畿内説の人は全然考えてないの。
もう、九州説とはリアリティの次元が全然違うの。
武力で、他方が他方を支配したとか、そういう事実は無いの。
近畿の交易の中心がマキムクに集中し、気が付いたら、マキムクの首長が、日本の王になってたと。
そういうことなの。
740 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:07:52.73
>>738 近畿が大陸と直接交易できたらおかしいでしょ?
現代とは違って、飛行機も、外洋船の荷を積みおろしできる港も整備できてないんだから。
近畿は、吉備と交易し、吉備は九州と交易し、という隣同士のクニが交易してただけ。
九州は、近畿と交易したくない!と拒んだところで、それは不可能。
商人にとっては、交易相手は多いほうが儲かるんだから。
742 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:17:06.24
>>741 そうだね。貨泉の価値を知ってる商人は交易してたんじゃないの?
743 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:18:44.83
やっぱり畿内説のほうが正しいことがわかった。
744 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:33:24.36
畿内は西新町で直接交易に参加してたんじゃないの?
隣同士のリレー貿易が主体なら、マキムクに西日本全体に影響を与えうるような広域王権が生まれる必然性がないと思うのだが。
あとまあ、筑紫から大和に中心が移ったのは、東海勢力への関東進出の影響だと思う。
東海の鉄の販路拡大が巨利を生んだ。
大陸利権を各地に分配することで求心力を維持するという、倭国世界の体制が、
東海により倭国世界が急激に東方に膨張。中心地が筑紫→大和にポールシフトしていく流れ。
筑紫の伊都女王は南九州に販拡を目指すが、予想外の熊襲=狗奴の抵抗に遭う。最終的に大和王に助勢を乞う(景行紀)。
745 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:35:08.09
貨泉があって良かったね。おめでとうって言えばいいのか?
前漢鏡や後漢鏡、玉類などの装飾品とか、あるいは鉄器とか、そんなめぼしいものはないだろう。
あったとしても、九州あたりのおこぼれ程度のものだろう。
746 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 21:36:54.90
>>735 だからすでにゆったろ。
●機内に九州と対立拮抗する勢力があったとした場合。
瀬戸内海の通交蛇口を絞られたら、日本海側が表日本で、
瀬戸内海側の裏日本は、孤立して後進地に甘んじるか、
九州勢力にくみして「おこぼれ」を頂戴するしかない。
●現実は、機内に九州と対立拮抗する勢力があったのではない。
畿内も九州と同族で、吸収の息のかかった開拓集団がそちこちにいた。
これが史実だった証拠に「戦わずして列島統一」が実現したのだ。
そもそも、畿内王権だの九州勢力だの、対立だの吸収だのというのがおかしいのだ。
畿内説はそもそも、九州に敵対して喧嘩を売る形で成り立っている。
そのくせ、手に詰まると「ゆるゆるの連合」だなどといいやがる。
日本列島は、海を制した海人が最初から一貫して牛耳っていたのだ。
747 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:37:57.51
九州説は視野が狭すぎてダメなんだよな。
748 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:39:37.01
>>746 >畿内説はそもそも、九州に敵対して喧嘩を売る形で成り立っている。
えーと。それどこの畿内説?
誰からそんな話し聞いたん?
749 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:42:39.08
まあこのスレじゃあ九州説に喧嘩を売るどころか「邪馬台国」そのものを
「NGワードにしろ!」という声が上がるほどだからなw
それでもこの伊作とか言う馬鹿をはじめ一方的にインネンつけられて被害を受けるだけだwww
750 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:47:11.11
ほんと、九州説って迷惑だよなあ。
751 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:57:05.03
おいおい、九州説のネガキャン止めてくれ。九州説=伊作=基地外になるじゃないかw
寧波の乱でも、大内と細川がガチ喧嘩したが、勝った大内が畿内の交易路を閉鎖するなんて事態になっていない。
少し考えれば分かることだが、大陸側からしても交易相手は多い程良い。値を吊り上げられる。
瀬戸内海航路がたびたび機能不全に陥るのは、広域権力の不在で海賊が横行したからだろう。
752 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:08:54.32
安定した交易の要求から、マキムクで王が生まれたという理解でいいね?
753 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:09:22.34
わかってないようだから再掲する。
●機内に九州と対立拮抗する勢力があったとした場合。
瀬戸内海の通交蛇口を絞られたら、日本海側が表日本で、
瀬戸内海側の裏日本は、孤立して後進地に甘んじるか、
九州勢力にくみして「おこぼれ」を頂戴するしかない。
●現実は、機内に九州と対立拮抗する勢力があったのではない。
畿内も九州と同族で、吸収の息のかかった開拓集団がそちこちにいた。
これが史実だった証拠に「戦わずして列島統一」が実現したのだ。
そもそも、畿内王権だの九州勢力だの、対立だの吸収だのというのがおかしいのだ。
畿内説はそもそも、九州に敵対して喧嘩を売る形で成り立っている。
そのくせ、手に詰まると「ゆるゆるの連合」だなどといいやがる。
日本列島は、海を制した海人が最初から一貫して牛耳っていたのだ。
自説を繰り返すだけの基地外、九州説の面汚し、消えろ馬鹿
755 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:15:20.56
756 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:18:36.72
つまり、2世紀末に、ヤマトで卑弥呼が共立されたというわけか。
わかりやすい解説ありがとう。
757 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:20:19.92
>>752 >安定した交易の要求から、マキムクで王が生まれたという理解でいいね?
出し抜けをやられるほどに与えるバカはいない。
九州倭人をバカにするのもほどほどにせい。
758 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:22:39.72
>>754 >自説を繰り返すだけの基地外、
そういうてめえは、自説といえるほどものがあるのか。
あるならそれを開示してみろ。
電柱の影で遠吠えするようなマネして面白えか。タコ
759 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:23:43.58
さてさて。
畿内説も・もはや空念仏だけになったな。
なーにが纏向王権だーい。
760 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:26:53.55
マキムクで女王が共立されたら、
九州倭人をバカにしたことになるの?
意味不明。
誰か詳しく説明して。
761 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:28:49.11
貨泉もわりとあちこちからごく少量出てくるわけだが、
通貨として使ったのか、威信財として使ったのかを切り分けないとな。
数個だとただ単にめずらしいもの扱いだろ。
762 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:29:39.93
伊作のシンパもいなくなっちゃったし、
もう九州説はあきらめたら?
世の中、もっと面白い研究テーマはいっぱいあるよ。
もっと他のことを研究すれば、畿内説しかありえないことが、自然にわかるというもの。
763 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:33:44.83
マキムクで独自に王が生まれるようでは、
それを許すほどに自由交易をさせていた九州倭人が、
よほどのタコだった論理に帰結する。
この論理循環がわからんか。
何の利害も損得もない「畿内か九州か」だけで、
これだけ譲らないし・感情的にいがみ合ってるんだぜ。
支配権という利権がからんだ通交と交易を野方図にしていたとするのは、
現代人の傲慢か愚かさゆえの見解だな。
ちっとは分かったか。ぼんくら
764 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:35:40.56
>>762 と言うか九州の考古学はそんな邪馬台国だの
ましてやゲテモノの邪馬台国東遷説だの九州王朝説だのがなくても十分に面白い。
何故、弥生末期九州以東に巻き起こった大型首長墓による祭祀の文化が起きなかったのか?
何故、東側の宇佐や日向といった地域がヤマト王権(広域首長連合)と早くから結びついたのか?
九州説の連中は九州愛が足りないwwwwww
765 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:36:36.45
>>763 九州倭人は自由交易をさせなかったんですかー。
どうやって?
関門海峡の封鎖?
へーすごいね。
常時、壇ノ浦の合戦状態だったんだよ!
767 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:42:05.33
>>766 >常時、壇ノ浦の合戦状態だったんだよ!
鉄器で優位に立ってた九州に対して、
常時、壇ノ浦の合戦状態を維持できた近畿勢力もすごいな(笑)
768 :
やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 22:47:35.16
>>764 >九州説の連中は九州愛が足りないwwwwww
もっと大きな視点で「倭国愛」があるんだ。器が違うわなー。
>>765 >九州倭人は自由交易をさせなかったんですかー。 関門海峡の封鎖?
畿内・瀬戸内勢力との対立があればそうする。
関門海峡を封鎖すれば、畿内に独自の王権が生まれる可能性はゼロだ。
畿内説のバカたれどもは、この超現時から完全に目を背けている。
だが事実は、多くは九州の域のかった勢力だったとゆってるのだがな。
769 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:50:37.15
どのみち、ヤマトで卑弥呼が共立されたことは、ゆるぎない事実だろうな。
770 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 22:55:40.16
>>769 その、卑弥呼の正体だけど、ヤマトトトヒモモソヒメという四国出身の巫女。
四国ではいろいろ伝承が残ってる。
四国は忌部の本拠地で、忌部は古代からヤマト王権の祭祀を司っていた。
だから、忌部とヤマトトトヒモモソヒメは四国からヤマトに移り、マツリゴトを担当したということになる。
いわば、ヤマト王権の故郷は四国ということだな。
771 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:03:12.72
さすがに九州と畿内は遠いよ。
前方後円墳作れるくらいに、人を動員できる畿内勢。
それを屈服できるだけの兵隊と食料の遠隔輸送。
近場から調達もできるけど、それをやると
それ以外の敵が増えてしまうという悪循環。
だいたいどこだって弱小の間は友好的なもんだ。
少なくとも口先だけはね。
反抗できるくらい力をつけてから敵対するんだよ。
772 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:06:32.56
ヤマトトトヒモモソヒメの弟が、吉備のキビツヒコ。
四道将軍の一人として、ヤマト王権に仕えたが、実際の出身は吉備だろう。
吉備や四国(讃岐)といった瀬戸内海の勢力が、ヤマト建国に寄与したということだな。
九州は関係ないけど。
773 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:15:55.11
ヤマトトトヒモモソヒメの墓とされる箸墓には、
吉備由来の埴輪が並べられていたから、伝承と整合性がある。
前方後円墳の原型も徳島にあるという説がある。
前方後円墳の設計を忌部が担当してたようだ。
774 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:23:39.58
瀬戸内海由来の前方後円墳に対して、
東海由来の前方後方墳があるが、前方後方墳の設計はどの氏族が担当したのか?
これがよくわからない。
東海の豪族で有名なのは尾張氏くらい。
前方後方墳は、出雲にも東北にも見られる。
出雲、東北に進出した神様としてタケミカヅチ、フツヌシがいるが、これは物部氏系だから、
前方後方墳は、物部氏が設計したのかもしれないが、よくわからん。
物部氏も尾張氏と近縁のようではあるが。
775 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:26:44.12
実際、マキムクから出土する外来土器は、東海が多く、
山陰、吉備となってるから、
そうした勢力が、前方後円墳、前方後方墳の設計に関わったと見るのは自然だろう。
九州?なにそれ?
776 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:29:03.52
>>774 前方後方墳は九州(例えば吉野ヶ里や那珂)にもあるw
777 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:37:03.85
九州も近畿の墓制を受け入れたということか。
東海発祥の墓制が吉野ヶ里にあるのって面白いね。
778 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:43:55.79
そういや、九州から近畿に影響を及ぼしたものって何も無いな。
カメ棺も、九州だけだし。
九州人って、九州から外に出て行かなかったんだろう。
779 :
日本@名無史さん:2011/05/25(水) 23:52:21.23
銅矛だって、近畿から出てくるわけじゃない、
九州勢力の先遣隊が近畿を支配してたとか、伊作の言ってることは空論すぎるんだよ。
もうちょっと勉強してほしいなあ。
780 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 00:01:12.50
纏向の土器は、地元を除くと半分が東海系か。吉備系は7%ということで少ないな。九州系はほとんど0。
これは遺跡の土器ということなんだろうな。ところが古墳になると吉備系が増えるらしい。
ひょっとすると、遺跡と古墳は一緒にするのではなくて、分けて考えた方がいいのかもしれないな。
781 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 00:57:30.09
いやだから基地外の伊作を九州説の代表みたいに見るのはやめてくれw
穏健でまともな九州説は東遷説とか言わないし、マキムク王権を認めた上で議論してる。
マキムク勃興で相対的に地位を低下させたヒラバル後裔の筑後山門が、四世紀、古墳前期頃に大和に併合された。というのが俺の説。
宇佐や西都原の九州東部は古くから畿内勢力との関係が深く、
逆に筑後や肥後の西部、有明海沿岸部は畿内とは一定距離を置いていた。
後代の磐井の乱に連なる地域。
782 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 08:06:10.90
まずいことには目を背けてスルーか。
そうして、よくもまあ空念仏をほざくぜ。
稲作、黥面土偶、文身、銅鐸、銅鏡、環濠集落、横穴古墳、
高塚式古墳(円墳・方墳・前方後方墳・前方後円墳、船形木棺、
巫女形埴や装飾古墳の幾何学文様、お歯黒。
みな、時代ごとに長江河口(銅剣・銅矛など一部は朝鮮半島)から継続的に渡来したものだ。
人・もの・文化・技術・知識の出入り口が九州一つしかないのに、
これらが、九州を飛ばして先に畿内に伝わったとか、
畿内に独自に発祥したことを論証できる奴はいるか。
人・もの・文化・技術・知識の伝来はすべて西からだ。
これを時系列の線でとらえるのが科学というものだ。
前方後円墳やら鏡を点でとらえて、それが畿内から広がったとするのが畿内説の考古学だ。
限定エリアの土器をつかまえては「勢力」判断に直結する詐欺論法。
それはまるで、大きな水田趾が畿内で見つかったからと、
物理的な人とものの流れを度外視して「稲作は畿内から広がった」というのも同然だ。
こうした短絡的だまし論法を連発してきたのが畿内説なのだ。
日本列島特有の地理地形という「物理」と、 それが規制するところの「力学」と、
これに大きく左右されてきた歴史動向に逆らう「ウソ」を宣うのもいい加減にせい。
お前たちがいくらウソと詭弁と方便を弄しようと、世人はもう騙されない。
いま、この天才の『列島支配一元論』とこれに基づく東都説こそ最強の正論だ。
783 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 08:20:27.10
>>781 聞き捨てならねーな。
>基地外の伊作を九州説の代表みたいに………
てめ。九州北部説を垂れるウソつきの類いか。
>穏健でまともな九州説は東遷説とか言わないし、
穏健なのが「基地外の伊作」などというのか。喧嘩売ってるようなもんだが。
>マキムク勃興で
どうやって勃興したというのだ。東遷しか方法はあるまい。
>相対的に地位を低下させたヒラバル後裔の筑後山門が、
平原のちんけな方形周溝墓をつくったのが「勢力」だとでもいうのか。
方形周溝墓そのものが土地・武器を持つことを許されなかった職能集団の墓だろう。
あれは渡来人鏡職人の墓だな。わらわら
>四世紀、古墳前期頃に大和に併合された。というのが俺の説。
架空の勢力をつくった上での架空論じゃないか。
>宇佐や西都原の九州東部は古くから畿内勢力との関係が深く、
当然だ。畿内に進出して根づいたのも九州から入った倭人だから。
んー? てめ。日向偏重の九州説かー。
>筑後や肥後の西部、有明海沿岸部は畿内とは一定距離を置いていた。
どういう距離だ。
>後代の磐井の乱に連なる地域。
「○○の君」を名乗る豪族は、天皇家から分かれた皇別氏族だ。
筑後や肥後の西部、有明海沿岸部といわすせ、九州南部をのぞく全土に「○○の君」がいた。
これらはみな「同族」だ。まともな九州説を自認するなら、つまらん偏見論を垂れるな。
これ以上俺とやる気なら、ハンドルつくってこい。雲助とか「ごまのはえ」とかよ。
784 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 08:26:29.33
>>781 方形周溝墓なら、熊本のうてな遺跡に、平原1号墳の2倍のサイズのものがあるぜ。
てめーらは目を背けて見ようともしないだろうがよ。
それによ。「うてな」は臺と書くが、
ウソまでついて勝手な歴史を語る輩には、これもまぶしくて正視できまい。
伊作もしつこいな。東遷らしきモノがあったとしたら三世紀以前の事。
物部=メロヴィング朝
天皇=カロリング朝
火明=クロヴィス
神武=大ピピン
崇神=小ピピン
787 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 10:53:14.83
>>785 >東遷らしきモノがあったとしたら三世紀以前の事。
「時代の成熟度」というふかーい意味分かるか?
追いつめられて時期を早くしたい気持ちは分かるが、
時代の成熟度の面で逆に可能性がなくなる。
788 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 11:11:15.97
東遷は1日にしてならず。
●淡路島と本州がつくる海峡を防衛管理できる軍事力・水軍力がそなわったとき。
●同時に、大阪湾の広大な湿地帯を開発開墾する道具と水利土木技術が備わったとき。
●それが同時に巨大な古墳を築く道具と土木技術がそなわったとき。
●それはとりもなおさず、半島からの労働力誘致を含めて、労働力の確保が可能になったとき。
●さらには、毛人勢力を関東以北に押し込めて、畿内の安全が確保されたとき。
そうしたあと、徐に都建設が始まる。
東遷とひと口にいうが、一代や二代で実現可能な事業じゃない。
789 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 15:17:09.40
伊作くんによると、東遷は、何世代にもわたって徐々に行われたそうだが、
九州のカメ棺は、近畿に広まってない。→九州の人が近畿に移り住まなかった。
九州の銅矛は、近畿に広まってない。→九州の人が近畿に移り住まなかった。
九州の土器は、近畿に広まってない。→九州の人が近畿に移り住まなかった。
九州の漢鏡は、近畿に広まってない。→九州の人が近畿に移り住まなかった。
東遷したというなら、4世紀に一気に東遷したと言った方がまだ素直だな。
790 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 16:42:59.40
>>789 >4世紀に一気に東遷
机上空論ならありだろうな。
俺の考える東遷は、王都建設だけで10年以上はかかる。
3世紀半ばの先遣開拓部隊の派遣から数えれば200年がかり。
空白の4世紀末から5世紀初にやっと実現する。
そ。東遷事業が落ち着いたあと本格的に半島への介入がはじまり、
五王が歴史の舞台に登場するわけだ。
九州のカメ棺、九州の銅矛、九州の土器、 九州の漢鏡て、
俺のいう先遣開拓部隊派遣(3世紀半ば)以降の時代に合致するのはどれだ?
俺は考古に疎いんだ。おしえろ。
奥まった場末に土着していた倭人に鏡を配布したのも先進の九州人だ。
九州の息のかかっていなかった土着のじゃがいも倭人は、
粗末な呉式の神獣鏡になぜか魏の年号が入っているのをありがたがった。
わらわら
791 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 17:21:25.36
いま、「邪馬台国ドンと来い」でみたが。
縄文時代は奈良盆地は巨大な湖があったらしい。
湖だったとされる範囲には、確かに縄文遺跡がない。
弥生末期になって開拓の手が入ったらしいが、弥生遺跡もこの範囲には少ない。
唐戸・鍵遺跡が古い部類のようだ。
こうした湿地帯の開墾もまた、有明海の開墾技術をもった倭人か、
会稽あたりの膨大な湿地帯開墾を経験した渡来人でなければ無理だろう。
いずれにしも、奈良盆地の開拓にも「外からの技術」が介在している。
この技術とて九州を飛び越えてくることはなかろう。
大和勢力自生説・纏向王権自生説。纏向文化自生説。やはりマンガ以下だな。
792 :
やはり天才の伊作:2011/05/26(木) 17:25:06.53
外山、登弥、鳥見山。
この「とみ」「とび」のつく所は桜井市の三輪山にも近いが、
ここが神武とニギハヤヒの逸話の地だろう。
やはり、ニギハヤヒの逸話は九州が派遣した先遣開拓部隊の物語かなー。
793 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 18:06:08.87
>>792 でも、ニギハヤヒは、九州の習慣であるカメ棺も、銅矛も持ち込まず、
九州の土器も持ち込まず、作らず、漢鏡も持ってこなかった、というわけですね。
ははははははは。
794 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 18:16:29.37
>>789 甕棺の分布は九州でも一様ではなく、地域によって盛衰に差がある。例えば熊本の場合は、発生するのは早かったが、
衰退するのも早かった。佐賀や福岡で最盛期を迎える頃には熊本の甕棺はなくなっている。
甕棺は、良い状態で発掘されるから遺物も残るわけで、その意味では甕棺が多く作られたところは有利かもしれない。
近畿地方で矛が見られないのは致命的かも、倭人伝には、「兵用矛、楯、木弓」とある。邪馬台国に関係あるなら、
矛はたくさん見つからないといけないだろう。
相変わらず異民族の蹂躙を受けるマキムクスレ
困ったなあ
このスレの住民の大多数はマキムク王権の萌芽について知りたいのであって
仮に真実が”ヒミコなんてどっかのパッパラパーであることが判明し、マキムクは4世紀の成立だった”としても
受け入れると思うんだけどな
このスレでは、ヒミコやヤマタイコクの同定とかよりも
マキムクから広がる前方後円墳体制がどうやって形成されたかに興味があるんだから
九州説を排除して邪馬台国を語りたいだけのスレ
だからこの板に固執する
797 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:31:23.82
>>795 確かに、卑弥呼の邪馬台国がマキムクにあろうが九州にあろうが、大して違いはない。
緩やかな連合説を唱えるなら。
西新町で、畿内と九州が等しく大陸と交易していたとして、畿内は呉や公孫氏に、九州はギに乗ったんではないか、と。
結果的に公孫氏は滅亡し、畿内はギの年号の鏡を大量に偽造し、自陣営のつなぎ止めに躍起になる。
798 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:32:41.47
>>765 そうはいっても、
九州から東遷してきたというバカがいるかぎり、
マキムク王権の萌芽についてまともな話はできんだろうよ。
799 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:38:14.16
800 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:44:47.93
九州東遷なんて、もうとっくに否定されてるし。ていうか記紀の神武東征くらいしか根拠ないからw
しかし畿内以外の他地域から「複数で」入植した、はまだ元気で、備筑讃播とか東海など。河内は大和川水系でイコールヤマトだから、他地域からは外れるんだろうけど。
801 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:18:03.34
近畿の商人は西進町に出向いてるのに、あんまり漢鏡を買い付けてこなかったのな。
>>800 > 河内は大和川水系でイコールヤマトだから、他地域からは外れるんだろうけど。
中河内地域では、纒向と同時期に、新興の集落が各所に登場し、
ここでは外来系土器としては山陰系のほか、吉備、讃岐、阿波系の瀬戸内地域の土器が多い、そうです。
それらの集落が、大和盆地東南部地域への一方通行的な流通に関与したと指摘されて、いるそうです。
瀬戸内海ルートの終着点として、河内への入植もあったのでしょう。
803 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:57:16.60
>>802 画文や三角を買い付けてたんじゃない?三角国産説なら違うんだろうけど。
>>803 河内に初期古墳が見られないことから、河内=大和でいいと思う。敢えて分ける必要はない。
しかし、吉備の影響は箸墓以降だし、東海は前方後方墳にして畿内との差異を強調。筑紫の影響は元々少ない。
ホケノがあるから、阿波讃岐播磨の石積墓はマキムク初期に影響を与えてたかもしれないが。
ヤマト王権の初期段階は大和中河内連合でいいと思う。
>>803 東海地方は前方後方墳って解釈はどこからきた話?
関東の出現期古墳は軒並み前方後方墳だし、近江にも分布が多い。
西山古墳新山古墳なんか奈良盆地。
三遠式銅鐸なんかと違って、前方後方墳は
東海地方のメルクマールにはならないような気がするんだが。
805 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 22:16:05.44
前方後方墳を狗奴に比定するのは元々俺は反対だった。東海は畿内の最大の貿易相手国で、元々が同じ銅鐸文化圏。
一時的に対立することもあったかもしれないが、倭人伝の「素より和せず」では少なくともなかっただろう。
また前方後円墳>前方後方墳という序列も違うと思う。単なる形の違いだけ。
出雲が前方後方墳を受け入れてるから、そのような格付けがあったと言われてるが、単に征服者であった東海勢力の墓の形を押し付けられただけだろう。
806 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 22:27:19.31
前方後方墳は、吉備にも多いよね。
>>804-805 狗奴国=東海としてそこに無理に対立構造を見出そうとするのは
これも邪馬台国論争の悪しき影響だと自分個人は思っているw
>単なる形の違いだけ。
雑煮の餅に角餅を用いるか?丸餅を用いるか?…ぐらいの差ではないかともw
まあ半分冗談で半分本気で思っているwwww
808 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 22:43:53.19
天円地方の概念が3世紀に伝わって、
前方後方墳=国津神系
前方後円墳=天津神系
という説もあるな。
809 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 00:34:51.39
>>804 前方後方墳の祖形、墳丘墓が西東海(尾張平野)が
発祥だろ。
810 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 01:03:34.03
方形周溝墓は弥生時代中期には近畿で始まり
伊勢湾岸・東海→南関東→北関東と弥生時代を通じて東遷・拡大している
確かにこの過程で東海地方で巨大化してはいるが東海オリジナルではない
八条北遺跡や観音寺本馬遺跡とか橿原市でも出土している
いや、前方後方形の墳丘墓は濃尾平野のが一番古いとされてる
銅鐸王朝はあったのか?なかったのか?
前方後方墳と前方後円墳の違いは何から生まれたのか?
これらが解らないと纏向は王権の謎も解らない
>>803 > しかし、吉備の影響は箸墓以降
その根拠はなんですか。宮山形特殊器台でしょうか。
大和の宮山形の初現は中山大塚であり、中山大塚は箸墓に先行するというのが橿考研(豊岡)の見解です。
ただし、宮山形の創出にあたっては、吉備の影響を受けた大和の工人によるものだと考えられるそうです。
さらに、宮山形は都月形に先行するものではなく、両者は併存したものだということです。
> ホケノがあるから、阿波讃岐播磨の石積墓はマキムク初期に影響を与えてたかもしれないが。
ホケノの築造時期について、小形丸底壺が当初から供献されたものであり、布留0だという見解が出ています。
> ヤマト王権の初期段階は大和中河内連合でいいと思う。
マキムクと同時期に、外来系土器の比率が高い新興集落が中河内に出現し、
奈良盆地東南部への物流にかかわっていたのです。
814 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 14:58:08.39
>>813 中山大塚が箸墓より前でも、マキムク開始期までは遡らないでしょう。
最初の石塚に吉備の影響が見られないのが重要だと。
やはり、石塚はマキムク最初の王墓であり、重要度が高いのでは?
あとまあ、中河内がマキムク王権自体の可能性もあるのでは?という意味で書いた。
815 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 17:05:53.21
千葉の成田風土記の丘にピラミッド型古墳があるが、あれは方墳なのか?
816 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 17:46:09.73
817 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:50:59.69
>>816 周濠はあとから混入する可能性あるし、確実に築造年代を推定できるものではない、と。
あと弧帯文1つで吉備の葬送儀礼の影響、とか言われてもなあ。やはり特殊器台が出ないと。
庄内の頃は吉備の影響は少なく、布留で急に影響がデカくなる。
普通に考えて、吉備はマキムクに途中参加だと思うが。
818 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 19:26:28.09
例えば、出雲の墓から吉備系の土器が出てきたとしても、
普通は、出雲の首長の葬儀に、吉備の首長が参列した、程度の解釈で、
出雲の葬送儀礼が吉備を受けている!にはならない。
これはまあ東遷説の影響で、昔は、大和マキムクの従来文化との隔絶、外来性を殊更に取り上げ、声高に主張する時代があった。その名残りを引きずってる。
819 :
伊作:2011/05/27(金) 20:38:14.92
土器・どき・ドキ・どき………。
武力支配者がその拠点を移動するのに、いちいち自前の土器をもって行くかー?
俺なら、祭祀土器にしろ生活土器にしろ支配地の庶民に作らせるぜ。
なんかこう、足し算・引き算的な拙劣な発想だが、
一つ詭弁材料をみつけると、潰されるまでいい続けるのが畿内説の生き方らしいな。
820 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 21:46:05.12
>>817 吉備の参画時期については逆に吉備における大和的要素の登場はどうなんだろう?
確か”くびれ”のところから出てきた弧帯文が祭司の重要なアイテムだったのか?
レギュラーだったのか?ゲストだったのか?で話は違ってくるんだろうがwww
結局「前方後円墳」そのものが吉備に発生を見るものじゃないんだよなあ…
821 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 22:03:47.60
>>820 吉備が前方後円墳体制に参加したのは間違いないが、
吉備単独で完成された「前方後円墳」そのものが移動してきたというのはもはやムリ
近藤義郎センセイじゃないんだから
近藤義郎
822 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 22:14:08.26
纏向の場合は、各地の土器があるというのが妙に強調されて、連合だとの主張がなされる。
しかし、圧倒的に多いのはやはり地元の土器だし、外来で言えば東海地方が圧倒的に多い。
逆に九州の土器はゼロに近い。ということは九州は連合に入っていないのか?
九州の入っていない邪馬台国連合なんて味噌の入っていない味噌汁だろう。
桃の種が見つかれば卑弥呼の祭祀関連というような偏った解釈ばかりで畿内説は成り立っていると言える。
ここはなんで邪馬台国の話になってるの?
纏向=邪馬台国なのか、それとも違うのか、って考えてる人が多いからじゃないの?
825 :
伊作:2011/05/27(金) 23:54:25.43
ありもしない悪知恵を絞る小市民ども。
鏡の数で倭国の政権中枢の位置を欺詐しかと思えば、今度はドキの種類と数ときたか。
支配者が拠点を移動するのに、バカ重たい土器など持っていくものか。
現地・支配地の庶民につくらる。
纏向に限定した居部的土器論に集中するが、
大和全体が同じ比率になっているのではあるまい。
纏向に土器職人が集まっただけのことだろうが。
武力支配者が真っ先に持って行くのは、先端の武器とこれをつくる鉄材と鍛冶技術だ。
そもそも、鉄材の出入りと鉄器と鍛冶技術は「国家機密」ともいうべき統制対象だ。
だからこそ、鍛冶工房は距離的・空間的に隔離された所へ設けられる。
生産地と消費地は別ものだ。
鉄の武器と鉄材と鍛冶技術は、九州とは無関係にどこから畿内に来たというのだ。
そんなものの出入りまで九州勢力は野方図にやらせていたとでも思うのか。
そんな調子では、武力闘争時代にまともな国家の構築も維持もできまい。
弥生の鍛治弘法の中心地が熊本であることは考古学的な事実だ。
鉄材の産地が朝鮮半島南部だったこともしかり。
鉄の武器も鉄材も鍛冶技術はみな、九州勢力が持ってきたのだ。
たかだか、場末の墓づくり祭祀集落にすぎない纏向の土器がどうこういうが、
生活と祭祀用途の土器が王権国家の所在を決めるとは、どこの小悪党がいい出したのだ?
バカバカしい。
そんなことで騙せると思っているのなら、世人をそうとうにナメてるぜ。
826 :
伊作:2011/05/27(金) 23:56:41.15
この天才が現れたからには、畿内説考古学の欺詐はもう通用しないと思え。
九州の狂信者を演ずる畿内説の工作員の気がしてきた
そうでないとここまで酷いデムパは飛ばせないだろ
828 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 01:17:22.66
なにかレスしようかと思ったけど、めんどくせ。
830 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 02:42:25.56
>>823 纏向遺跡に関する新聞発表では、常に「邪馬台国の最有力候補地である纏向遺跡」との前書きが着く。
根拠もないのに、纏向が邪馬台国だという宣伝を続けているのが間違っている。
>>830 文句があったら新聞社に直接言ってください。
ここでヒステリーおこして八つ当たりされても迷惑なんですが・・・
832 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 02:56:56.23
ムーな人たちがヤマタイ国に興味を持つのは別にいいよね。
歴史研究に金が流れるから。でも、ヤマタイ国がどこかって話は、
東アジア古代史において興味深いテーマではあるけど、
日本古代史においてはそんなに重要なテーマじゃないよね。
ってスタンスが大事なんじゃない?このスレでは。
833 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 03:16:25.66
834 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 07:21:43.13
マキムクが邪馬台国の有力候補地なのは間違いないと思うがな。
あとまあ、倭人伝に頼るしかなかったヤマト王権の成り立ちの話が、考古学で出来るようになっている現状、倭人伝を煙たく思う気持ちも分かる。
俺自身は山門説だが。
835 :
求む!まともな九州説www:2011/05/28(土) 08:08:06.78
さて「ゴミクズレベル九州説」どもによる既視感2万%な万年ループネタも飽きたので
「まともな九州説」を相手にその御高説を聞いてみたいw
「まともな九州説」の条件としてとりあえず以下をあげさせてもらう。
条件1)…九州邪馬台国と纏向の並存を前提とする。
条件2)…倭人伝について当然基礎史料とするのは構わないが行程記事等については
「正しいかもしれないし間違っているかもしれない」と言う姿勢であること。
無論「そんな条件もはや畿内説じゃねえか!」と拒絶反応起こす奴がいるだろうが
そういう奴はこの件はスルーしてくれて構わない、つか、むこうに逝け。
で、「まともな九州説」に聞きたいのが以下3点。
質問1…先ずは比定地、漠然と九州ではなくて何処か?
それを行程記事の解釈以外に補強するような材料はあるのか?
(別に考古資料に限定しない)
質問2…ヤマト・首長連合との関係(敵対的、友好的、そもそも首長連合のメンツだったetc)
質問3…4世紀以降のその邪馬台国がどうなったか?(武力により平定された〜緩やかに併合した、ウルトラCで応神東遷とかw)
836 :
835:2011/05/28(土) 08:16:58.04
837 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 09:02:59.52
>>835 こら、本物ジョーカー。
不利だからって畿内説仲間呼びに来たな。
「やまどん」に帰れ
838 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 12:02:09.82
邪馬台国九州説の立場からマキムクを語るというスタンスもあると思うがな。
倭人伝の行程記事からの推測は確かに不毛だが、マキムクの王権誕生に九州邪馬台国は関与したのか?は重要なポイントだと思う。
839 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 12:40:18.98
>>837 事実として同時代の大型遺跡が発掘されている以上は、
いわゆる邪馬台国九州説論者はそういうスタンスを取らざるを得ないと思うんだがな。
つまり魏との交流は、
九州の広域首長連合の代表として交流を図ったのか?
マキムクを含む大日本連合の代表としての交流だったのか?
それともこの時期に誕生し拡大するマキムクに対する弱小政権がその存続を賭けて助けを求めたのか?
九州は日本の中心であったと、期待と妄想で胸が膨らみブラが破れ恥ずかし乙女な九州説論者にとって
理論再構築は一苦労だと思うけど。
840 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 12:58:49.93
>>839 >マキムクを含む大日本連合の代表としての交流だったのか?
一番現実的なのはコレだな。
で、卑弥呼は九州のどこかで共立されてたと。
しかし、九州説の諸君は、畿内を邪馬台国連合に入れるなどまっぴらごめんだろう。
邪馬台国が滅ぶのもイヤだ、というわけで、東遷説という夢を見るしかないと。
841 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:16:02.60
いやまあ、九州説からすれば、畿内勢力の九州支配が三世紀にそこまで進んでいなかったと思うんだよね。
後世の大宰府みたいな権能を九州邪馬台国は持っていて、畿内と対立まではしないまでも、一定距離を保っていたんじゃないだろうか?
宇佐や西都原などの九州東部は、早くから畿内に靡き、前方後円墳や方形周溝墓を受け入れてる。
邪馬台国と呼ばれるのは筑後や肥の国と呼ばれた九州島西部の地域で、
六世紀に磐井の乱の震源地になる場所。
842 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:33:09.53
記紀で言えば景行紀の西征の時、九州邪馬台国はマキムク王に降伏したのだろう。
筑後の田油津姫とかが、九州邪馬台国の後裔。
邪馬台国は九州征伐の記念品として三角縁を奪取。踏み返しで増やし、全国各地に配布して大和>九州を主張しようとした。
九州邪馬台国が三世紀に一時的に持ち直すのは、公孫氏・呉と結びついた畿内勢力に対し、、筑後邪馬台国はギと結びついて一発逆転を狙ったのだろう。
結果的に西晋は八王の乱で衰退し、倭国内の力関係を逆転させるまではいかなかった。
843 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:37:28.58
>>835 自分にとって都合の良い九州説を求めるなんて最低。
>>838 九州に邪馬台国があろうがなかろうが関係ないと思うけどね。たとえ九州に邪馬台国があったとしても
こちらに影響を与えるほどの勢力ではないと思う。それより出雲などの山陰の勢力の方が影響力が大
きい気がする。
845 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:38:38.05
846 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:42:09.94
>>843 卑弥呼は魏から倭王と呼ばれているし、29カ国が卑弥呼に従っていたとある。
小さな勢力とは思えないが。
847 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 13:53:28.45
マキムク王にとって、ギから親ギ倭王に任じられた九州邪馬台国女王は、目の上のタンコブだったと思うがな。
ギの年号が入ってる三角縁とかをマキムク王権が配布してるのは、かなり邪馬台国を意識してのことだろう。
848 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 14:01:38.71
九州と畿内の間は
近攻遠交策のように、雰囲気悪くならなきゃそれでいい。
畿内が特に周辺の他の地域より鉄が多いと言う事実はない。
畿内は鉄がほしかったんだろうけど、出雲を攻めることはできても、
九州を攻めることはできなかったと言えるだろう。
魏から継続的に影響をうけてるように見えず、自ら文化を発信するわけでもなく、それでいて
九州以外の地域の文化の影響を受けまくりの状態で、とても大きな勢力があるようには
感じられない。
確かに、文化の通り道だったかもしれんが、まさしく通り抜けただけの感じ。
851 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 14:38:59.28
いやまあ、筑紫のヒラバルとかは、結構な王権だったと思うけどな。
弥生中後期の筑紫、玄界灘グループの繁栄は考古学上間違いなく、漢委奴国王や倭面土国帥升が筑紫の王権だったことは間違いないだろう。
最低このあたりは押さえた上で書き込んでねw
卑弥呼の先代とかが長い間かかって大乱の後、卑弥呼に至りて一部を
残し九州統一に近い状況になったもので、それだけ長い時間がその間に
経過している。それがたかが1回くらいの九州行きの景行が、途端に九州
統一したなどと、デタラメも甚だしく、まるで東京スカイ・ツリーが
たかが数日で完成したとか主張してるも同然であり、景行の九州完全統一
と日本統一論はイカサマの極のペテンである。
853 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 14:54:45.59
>>850 通りぬけって、通り抜けてどこに行った。
近畿地方は、漢式鏡は届いていないし、鉄もおこぼれ程度。何も届いていないし。
財物を貯めこんだのに国家の発展に活用できず
征服された北九州諸国ってことか。
855 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 15:51:24.56
逆だろう。何にもないから征服された近畿部族という感じ。
856 :
www:2011/05/28(土) 18:05:48.59
相変わらず
「鉄があるから進んでいるンダー、強いンダー」
式の馬鹿丸出しのゴ*ク*レ*ル九*説が後を絶たないが
いい加減その程度のバカはこのスレから消えてほしい。
古代において国力といえばそれは当然人口に直結するだろうが
(軍事兵法で言えば「勝は大兵にあり」だ)
鉄の出土量と集落の規模や数が比例・親和性をもつとするようなデータは見たことがない。
むしろ人口は九州や近畿より東海や中部が多いとするものもある。
今日の身の回りの新しく登場してたテクノロジーとかを想像しても分かるが
イノベーションというかどんな新しい便利ツールが登場してもある程度普及をしないと社会を変えない。
自動車が登場してもそれが大衆に普及して「モータリゼーション」とか言われる段階になって初めて大きく社会を変える。
鉄の場合、弥生時代では九州ですらその「臨界点」に達してなかったのだと思う
鉄の普及度とそれが古代社会に及ぼす影響について参考になる意見を頂けるとありがたい。
鉄器より土木技術のほうが生産には優位だろう。鉄器があれば巨大土木技術は
より行いやすいだろうが、木製の鋤・鍬でやってのけたのが纏向だ。
むろんこの時代は軍事より生産のほうがはるかに優先される。
858 :
www:2011/05/28(土) 18:20:07.27
お題『九州から見た纏向』
初期前方後円墳(所謂纏向型)が出現する地域を首長連合参加地域としたら
3世紀に大陸半島との交易の窓口であった博多湾周辺地域はその連合体の参加地域になる。
が、かと言って3世紀に畿内ヤマトがその物流を意のままにコントロールしていた?となると
どうしても疑問符を付けざるを得ない。
過去に何度も言ったが確かに古墳時代に入って東国に鉄が急激に流入していくが
少なくとも3世紀の段階においてはやや低調なスタートのように思える。
他スレで纏向の羽口に言及した石野の発言を切り取ったものを書いたので以下に転載。
>・というのは鍛冶の専門的見地からいうと勝山古墳の羽口は機能性を疑う羽口なのです。
>・ですから下手な人が教えにきたらそう言うことが起こるのかもしれませんが
> 僕はそうではなくて模倣の模倣の結果が勝山古墳の羽口と考えているわけです。
>・筑紫に比べると纏向の羽口は下手くそらしいのですが
> それにしても三世紀代そういう技術的なことをマル秘に属するようなことを教えてもらっているとなると
> 筑紫とヤマトを敵対的にとらえるのはおかしいのではないか
纏向でも鍛冶技術は「これから」だったようだw
結論から言えば3世紀の北部九州の首長連合参加は実はヤマトより九州側に利があったのではないか?
…というのが現在自分の想像するところ。
首長連合に参加した北部九州の勢力(具体的には福岡平野、奴国が最適か?)は
魏の後ろ盾と関門海峡伊東の首長連合の後ろ盾(こっちは張子の虎でも可w)をもって九州の他地域に臨むことができる。
(早い話、九州の敵は九州だったとw)
859 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 18:31:27.79
本論には関係ないんだけど「古墳時代に入って東国に鉄が急激に流入していく」というところは
根本的に認識が誤っていて、実際のところは国産鉄であって「流入」じゃない。
そしてこの国産鉄がいつごろから存在しているのか?
三原市では小丸遺跡という弥生時代末期の遺跡がある。
ここでは製鉄遺構が発掘されていて、鉄滓には微量金属としてマンガンが含まれている。
両備地域の鉄鉱石はマンガンを含んでいるので、おそらく原料は近所から採掘されたものを使用している。
採取された鉄の量としては少なかったのは間違いないが、それでも弥生時代末期には国産鉄が存在した。
これは、マキムクを考える上でも、いわゆる九州説論者にとっても大きな問題。
当時すべての鉄原料は大陸や朝鮮半島に依存していて
鉄貿易量が日本列島内の勢力関係の決定要因であるという説、
あるいは、鉄を求めた広域連合という説は、双方とも見直しを迫られるのではなかろうか?
その点では、このスレの水銀厨の視点は評価している。あまり賛同できないが。
860 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 19:59:50.07
弥生後期、列島最大の鉄器生産地は阿蘇だった。鉄素材を輸入していたのなら、わざわざ阿蘇まで持って行って
鉄器を作り、また各地に持って行くというのはあり得ないので、阿蘇で製鉄が行われていたと見られる。
事実、阿蘇あるいはその周辺の集落では精錬鍛冶の痕跡が多く見られる。
村上教授によると、下前原遺跡、諏訪原遺跡、方保田東原遺跡、小糸山遺跡、尻遺跡、二子塚遺跡、西弥護免遺跡、狩尾遺跡。
これらの遺跡で製鉄が行われていたと見られている。
861 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 20:29:18.23
>>859 >あるいは、鉄を求めた広域連合という説は、双方とも見直しを迫られるのではなかろうか?
俺は畿内説だが、昔から鉄器の優位性など信じてない。
いかに多くの物流の「問屋」でいられたかが、国力につながったはずだ。
いつの時代であってもだ。
>>860 愛媛大の村上恭通先生のお仕事ですな。
それ以外にも列島各地の弥生時代製鉄遺構にも言及してるね。
京都府京丹後市峰山町 丹後扇谷遺跡
石川県七尾市 奥原峠遺跡
千葉県八千代市 沖塚遺跡
発掘によってどんどん弥生時代歴史観は変化していて、
決して北九州だけが鉄を独占していたわけじゃない。
これから歴史を考察するには、全員が鉄中毒を脱しなければならない。
上二つは日本海ルートだろうけど
千葉から出るとなぁ
列島中で普通に流通していたとしか言えないな
864 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 21:29:56.08
九州説なんで、阿蘇や熊本から製鉄遺跡が出るのは大歓迎なんだが、
けっきょく、製鉄跡そのものは5世紀から6世紀で、
「それ以前にさかのぼることが期待される」
でとどまっているのが多すぎる。
信頼できるそれ以前の製鉄遺跡はあるかな?
866 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 21:33:37.91
あと、製鉄遺跡と書いてあって、HP見に行くと、
鉄器加工遺跡だったりする。
HP書いている人も、製鉄と鉄器加工の区別ついてないのね。
867 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 21:36:57.51
>>865 おおう!!、これはしらなかった。
縄文製鉄遺跡とは。
すこし勉強させていただきますね。
>>867 それ縄文じゃない。
弥生時代遡上論で紀元前800年は弥生時代入りしてしまった。
869 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 21:48:03.81
鉄が弥生から古墳時代に転換するファクターでないのなら、それに代替するものは何?
先進土木技術?鏡などの文物?
畿内や吉備がわざわざ西新町まで出張って、購入していたものは?
鉄以外に考えられないが。
870 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 21:59:55.89
>>864 弥生時代からあるよ。
5世紀、6世紀というのは近畿地方の感覚だろうと思う。
最初に製鉄が行われたのは、近畿地方に間違いない、だから近畿地方の製鉄跡が日本で一番古い、
みたいな考えから出たんだろうと思う。
前方後円墳だって、近畿地方が最初と決めているが、そうでない可能性だってある。
というか中世の製鉄設備が縄文遺跡の上に造られていて、二つの遺構が被さって発掘されただけ。
872 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:06:14.60
伊都の元岡遺跡も5世紀なんだよな。
それより古い今宿遺跡は鉄器加工で。
元岡と今宿は、現地の感覚からすれば、割と近所
>>869 そりゃ古墳じゃね。
もしくは巨大古墳が意味を持つ社会に発展したこと。
時代の区分を「物」によらせる理由は無いだろう。
874 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:07:36.78
>>871 苦し紛れの言い訳も発掘レベルでは否定される
鉄は鉄として発掘されるわけじゃない
酸化鉄を還元して作る過程で炭素が混入してくるからそれを分析している
中世の遺構が被さって発掘されても鉄の年代は決定できる
875 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:09:29.26
>>870 >最初に製鉄が行われたのは、近畿地方に間違いない、だから近畿地方の製鉄跡が日本で一番古い、
>みたいな考えから出たんだろうと思う。
なにそれ?
ほんとに近畿が古いの?
876 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:10:05.74
>>870 そういう可能性もないとは言えないから、
実際にはもっと古いかもしれない。
それもあってか、信頼できる弥生製鉄遺跡は
いまのところ無い。
877 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:12:34.31
>>875 近畿地方よりも早い製鉄は認めだがらないということだよ。
認めたくないという気持ちかな。近畿が最初でないと嫌だという感覚。
878 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:14:58.60
>近畿が最初でないと嫌だという感覚。
は?いつもの「キナイセツガー」の被害妄想なんじゃないのか?
仮に近畿だとしても日本海側だと思うが…
879 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:16:48.84
880 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:19:33.48
>>877 俺は畿内説だが、製鉄は普通に九州が先というのが常識だと思ってた。
どのセンセイが近畿の製鉄を古いといってるの?
村上氏はどんな見解?
881 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:20:48.90
鉄が希少金属だからこそ、日本各地に古くから製鉄遺跡があるんじゃないかと思うんだけどな。
大陸からの鉄の交易権が筑紫・出雲・吉備を強国たらしめた。
あと、鉄器の効果は、木製品製造加工にこそ役立ったんであってね
認めたがらないとか、陰謀とか言われると冷めてしまうな。
レッテル張りする奴とはそもそも議論が成立しないし
そんな事は政治家に任しとけばいい。
883 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:24:49.92
出雲が浮上したのは山陰で製鉄ができるようになったからだと思う。
良い鉄鉱石(カンナガシによる砂鉄採取)と森林資源(木炭)だろう。
伊都の元岡遺跡は海岸の砂鉄層だそうである。
いまでも海水浴場では砂鉄層がわかる。
884 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:29:42.20
>>880 >>879に書いてあるが、吉備、ヤマト周辺、東海の鍛冶遺跡は貧弱ということらしい。
阿蘇などは高度な鍛冶遺跡で、分業体制も進んでいたとある。
885 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:42:35.82
>>884 阿蘇が最も初期の鍛冶遺跡というのが、考古学上の見解ということですね?
こりゃ、九州説はつけあがるな。w
886 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:44:18.35
ホケノの鉄器副葬の多さからも、当時鉄器が珍重され威信財として機能してたことが分かるのに。筑紫を相対的に貶めるために鉄を無価値な物にする作戦なのか?
鉄=国力じゃないのは百も承知だし、交易の親元が権力を握ったのはそうだとは思うが、
各地が鉄を希求し、鉄が遠隔地交易から入手する外無い以上(国内の少量生産では追いつかない需要があった)、遠隔地交易の安定をもたらす広域王権が要請された、ということだろう。
それが弥生から古墳への転換点だと思う。
887 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:45:53.70
製鉄が遅いとなれば、それ以前は輸入鉄であり、
そうなると鍛冶遺跡が九州のほうが古いのは、まあ必然だろう。
888 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:51:48.32
畿内説の考古学者も必死になって鉄器を探していた。
なかなか見つからないので、畿内では鉄は溶けてしまうとか、畿内の鉄は廃品回収が進んでいたから
出てこないのだ、という説を立てていたのは有名。
そういう説は無理だとわかって、ついに、鉄はたいした物ではないという見解になったらしい。
>>874 で、その重藤遺跡出土の「酸化鉄と炭素の分析」とやらは、何時、どこで、誰がしたのかな?
当然、知っているわけだよねw
890 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 22:55:39.48
>>886 4世紀以後も、鉄の絶対量は九州のほうが多い。
鉄と王権は関係ないというデータが出てるわけだが。
君は九州王朝説かね?
>>888 今宵も変わらぬこの調べ
恨み骨髄五臓六腑にしみわたる
ご存知纏向スレの地縛霊
恨み節東遷厨先生による恨み節〜
892 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:05:24.79
893 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:10:58.09
ある地域で鉄器量が一定以上あがれば、そこで王権が生まれるというなら、
九州が100で近畿が10だとしても、5以上で王権が生まれるなら、
近畿でヤマト王権が生まれる根拠となる。
しかし、5以上で王権が生まれるという根拠は無い。
九州説では、九州が100で近畿が10だと、ヤマト王権は生まれないとしているわけだから、
王権が生まれるための鉄器量は、10以上と考えているのだろう。
しかし、4世紀以後も、九州が100で近畿が10という鉄器量はかわらない。
しかし、ヤマト王権は生まれている。
数字のトリックに惑わされるな。
鉄器量と王権誕生は無関係だ。
解析したのは千葉のやつとかだから
重藤については知らない
というより重藤遺跡なんてこのスレで初めて知った
895 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:15:33.61
畿内説の考古学者が、畿内に鉄がないはずはないとあれだけ言い張っていたのに、
えっと思うまもなく、態度は一変、
>>890のように、「鉄と王権は関係ない」と言い出す始末。
これでは、鉄があろうがなかろうが関係ない事になる。
全てがこの調子だったら、考古学的な証拠なんて無意味になる。
あっても畿内説の根拠になり、なくても根拠になると言うこと。
邪馬台国論争にとって考古学が無意味だということが良くわかる。
>>886 >筑紫を相対的に貶めるために鉄を無価値な物にする作戦なのか?
この議論の最初から鉄は輸入一辺倒じゃなくて
早い時期から少量ながら国産されていたと書いてあるじゃないか。
被害妄想だぞ
898 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:19:17.17
鉄器量と王権誕生が関係あるとしてもだ。
九州が100で近畿が10であっても、5以上で王権誕生の要件が満たされるなら、
ヤマト王権誕生は不思議なことでもなんでもない。
ようするに、数字に惑わされるなということ。
899 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:20:01.02
>>886 いや、だからな、じゃあ弥生時代から古墳時代へ
初めて畿内を中心に全国規模に分布する遺物は何かといえば
それは「鉄器」じゃなくて銅鏡(画文)なわけよ。
確かにそのモデルが一番収まりが良いというか
俺だってそれが一番すっきりすると思うし
それに対抗しうるようなモデルがないとさえ言っていいと思うが
この単純明快な事実がある以上、鉄資源の再分配の役割により王権が起きたというシナリオはどうしても成り立たない、残念ながらw
900 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:20:31.94
>>890 いや、山門説。九州邪馬台国は四世紀のある時期に畿内マキムク王権と合一した(併呑された?)のだろうと思う。
>>893 いや、俺の言いたいことが全く伝わってないというかw
鉄がないと王権が誕生しない、とかじゃなくて、希少物を分配する交易の親玉が権威者となり、王権化するということ。
901 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:22:11.67
>>895 >邪馬台国論争にとって考古学が無意味だということが良くわかる。
そりゃそうだろ考古学は最初から邪馬台国論争なんてしたくないんだから、
勝手に「キナイセツガー」「キュウシュウセツガー」って粘着されてもたまらん。
現在の説が完成されたものではないからこそ、
発掘が相次ぐたびにその証拠を踏まえて何度でも自説を再考するんだよ。
発掘事実から理論を組み立てていくだけ。
902 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:24:55.91
>>900 ヤマト王権が4世紀以後、鉄を分配したというデータはない。
村上のデータでは、東海はむしろ鉄器が減っている。
903 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:25:01.65
>>888 >畿内の鉄は廃品回収が進んでいたから出てこないのだ、という説…
実用の利器がどういう場合に地中に残って出土してくるか、は、もっと考察してみるべきだ。
904 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:25:34.28
>>895 恨み節
学問は漸進するものだ。
時に膨大な労力の成果を無慈悲に否定することになっても
それに耐えられないならおよそ学問と名のつくものは趣味であってもやらない方がいい。
まあお前が個人的に受けた精神的苦痛に対し
「 謝罪と賠償 」を求めて裁判起こすのは勝手だから好きにしろwwwwwww
905 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:28:51.64
>>903 確かに遺物の考古学的な年代は、廃棄された時期ということになるが、それはどこでも同じだから。
906 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:30:39.67
しかし村上の本に鉄の普及に関しては
「受容側の事情により異なる云々…」みたいなことが書いてあって良くわからなかった記憶がある
まあ俺の理解力がアレなだけかもしれないがwwwww
単純な東進のモデルを考えないほうがいいんだろうなあ…
907 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:30:49.48
>>901 いや、考古学者の先生は、確定していない実年代じゃなくて、土器編年で語りたがる。実年代が分からない以上、倭人伝から距離を置こうとするのは当たり前。
慎重さを期して、思考停止になるのは学問的に仕方がない側面は確かにある。
しかし2ちゃんねるに巣くってるようなド素人が、学者を気取り、思考停止してるのはどうなんだろうと思うよな。
倭人伝から逃げず、立ち向かえよw
908 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:32:28.56
>>907 倭人伝に立ち向かうのはいいが、距離だの方位だので、九州に邪馬台国を求める手法は不毛すぎる。
909 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:33:08.18
>>907 >思考停止してるのはどうなんだろうと思うよな。
そろそろ70年代80年代から21世紀へ進んでみませんか?wwwwwwww
910 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:35:28.11
>>899 さっき859で
「鉄を求めた広域連合という説は、双方とも見直しを迫られるのではなかろうか? 」と書いた
賛同者がいてうれしい。この時期最大の威信財は銅鏡だね。
交易というと実用品を求めたという考えになりがちだが、実際のところは日本側が大陸に求めたのは
なぜか実用品の「鉄」ではなくではなく威信財たる「銅鏡」だったように思える。
不思議なもので、歴史的にはずっと交易品に関しては日本は変なものばかりを輸入し続ける。
古代中世を通じて銅銭と書物ばかりを輸入し続ける。銅銭なんて国産してもいいものをなぜかずっと。
つまり銅銭そのものではなく、舶来製品であるということに意味があるかのようだ。
要するにこの時期に交易して欲しがったものは、実用品ではなく「キラキラの舶来品であるという価値」としか思えない。
911 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:35:44.70
>>904 明日をもわからぬ考古学で、何か語れるものがあるのか?
良くそんな足元の定まらないものを根拠に出来るな。
ゆるやかな連合も、そのうち考古学者の気まぐれで、即、全面訂正か?
912 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:37:55.69
>>911 根拠が変わって自説を訂正って恥ずかしいことか?むしろ当たり前のことと思うが。
913 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:38:14.33
考古学偏重派の中には、倭人伝が憎過ぎて、邪馬台国は存在しなかった、とか言い出す奴もいる始末で。異常なことだなあw
邪馬台国がどこにあって、土器編年でいつ頃に当たるのかを考察するのは、考古学の仕事のひとつだと思うのだが。
914 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:40:45.94
>>913 考古学の結論が畿内説だが、どうして受け入れないのだ?
915 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:43:06.64
>>910 ていうか三角縁が国産説が根強くある中で、それはないんじゃない?
画文帯ならまだ分かるけどさ。
916 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:45:52.77
>>914 いろんな資料や情報を客観的に解釈して、その末に畿内説が導かれたものではなく、
全ての資料を畿内説に都合よく解釈しているから。
畿内説に合っているものだけが正しくて、合わないものは間違っているという立場だから。
もちろん、一般的な考古学に対して言っているのではなく、畿内考古学に対する意見だが。
917 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:51:47.08
>>914 考古学者で畿内説確定、とか言ってるのは少数派だろ。白石先生とか。
大多数の考古学者は、邪馬台国が畿内であっても特に問題はない、程度の認識で、かなり冷めてるよ。
918 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:52:01.02
>>916 そんな抽象的なことを言われてもね。
都合がいいわるいとか、具体的に何のことを言ってるのかね?
919 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 00:20:53.69
>>915 交易が遮断されてしまったがゆえに画文帯への憧れが昂じて
ついにを三角縁を国産化してしまったという説
苦しいか・・・
>>894 重藤遺跡のBC700年代と言う判定は鉄と同時に採取された木片のC14値です。
BC700年代の製鉄施設じゃ、中国との先後関係も怪しくなってしまいますよ。
921 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/29(日) 00:34:32.15
貨幣の代わりとして鉄のインゴットである鉄鋌が日本中に流通してたのだから鉄など珍しい物ではありません。
>>920 その数値を信じても、その木片が「BC700年代に生きていた木材」であることを示しているだけで
製鉄が行われた年代そのものではないんだよね
植物は生きているうちは炭素を取り込み続けるから
炭素年代をピンポイントで測定できたとしても樹齢100年の木に由来する試料からは
100年分の幅の中で数値が出てしまう可能性があるということはあまり意識されていないね
923 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 03:40:44.11
中国に鉄が入ってきたのが戦国時代で、紀元前4〜3世紀くらいじゃなかったかな。
日本にそれより前に鉄があるというのは考えもの。
鉄なんて別に重視されてないだろ。
925 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 09:55:59.05
鉄を異常に重要視した昔に対する反動なんだよな、おそらく。鉄を過小評価するのも違うだろう。両極端に走らず、中道になれないものかw
畿内で弥生後期に石器が少なくなるのは、鉄器が普及したから、と昔から言われていたが、今はなかったことになってるの?
四世紀以降、東海の鉄がむしろ少なくなってる、てのは、東海=狗奴国説に有利なのかもな。三角縁が余り出ないのとも符合する。
俺は狗奴国=東海でいいと思う。最初から纏向の建都に深く関わった東海の影響が強くなりすぎた
ので吉備などの他の連合に排除されたのではないか。
927 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:14:09.38
まあ、山門説からすれば、確かに畿内吉備と東海は対立してたのかもしれないが、別に邪馬台国と狗奴国にしなくてもいいように思う。
ていうか時期が少しズレないか?
対東海が緊張状態になった時に東海の玄関口の磐余の造墓集団が力を持ち、磐余の王墓×2が造られた。
石塚〜箸墓の倭人伝の邪馬台国の時期より少し後、次世代あたりにならないか?
卑弥呼の死後男王が立った、というのが対狗奴国戦争の後で、その後も台与の登場まで
争乱が続いたとすれば不自然ではない気がするが。
929 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:48:12.55
>>928 対狗奴国戦争がいつまで続いたか?で確かに変わってくるな。
卑弥呼(箸墓)の死後の男王が磐余で、柳本が台与という解釈もあり得る。
しかし邪馬台(大和)と狗奴(東海)が倭人伝で「もとより和せず」と書かれてるのが引っ掛かる。
東海は当初大和と蜜月だっただろうと。
930 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:52:36.16
あとまあ、伊都国の王が邪馬台国に代々仕えていた、という下り。
大和が筑紫を昔から支配していたなんて、考古学的には有り得ないことで。
畿内説が倭人伝から目を背けたくなる気持ちも分かるw
931 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:58:49.89
伊都国の王が邪馬台国に代々仕えていたなんて書いてあったか?
932 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:05:35.70
世王あるも皆女王国に統属す
伊都国に治す一大率というのは卑弥呼の魏への朝貢後設置されたもので、半島の
軍事力を背景としている。このねらいもあったため、卑弥呼は魏と関係をつけるのを
急いだんだな。
934 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:14:24.07
しかし、今では何にもない度田舎に、かつて日本の中心となる王朝があったとは信じられません。
画文は卑弥呼朝貢以前の公孫氏からの鏡だが、このときにすでに北部九州を経由して
近畿に鏡が流れ込むルートができていた。おそらく加羅の力を借りていたのだろう。
それが大陸の交渉相手が魏に変わって、一大率を設置して大陸からの文物を管理するように
なった。交易の窓口は西新が中心で、伊都国は一大率により常に監視された。
936 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:24:43.84
>>932 それは、卑弥呼が共立されたことと矛盾するよな。
937 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:29:51.65
那賀八幡は大和から派遣された属州都督の墓、という説があるしな。
筑紫の大和合一をいつの時期とみるか?でかなり変わってくる。
ちなみに紀で言うと、景行の頃になるんだけどね。
190以前 各地における天候不順、食糧不足などによる争乱多発。
190年頃 東海勢力、東瀬戸内勢力、河内や地元大和の勢力の連合により纏向遺跡が建都される。
卑弥呼の共立。銅鐸祭祀の終焉。
200年代前半 石塚など早期の前方後円墳の築造開始。公孫氏への朝貢、画文の輸入開始。
240年頃 卑弥呼の魏への朝貢、吉備、山陰などの連合への参画、初期の三角輸入開始。
卑弥呼倭王冊封により各地首長による纏向詣でが始まる。全国的な前方後円墳の展開。
一大率の設置、西新を中心とした大陸との交易。対狗奴国(東海)戦争、東海の影響力低下。
250年頃 卑弥呼死亡、墳墓造営。男王擁立。東日本に高地性集落出現、東国への勢力拡大。
260年頃 台与共立。九州での環濠集落の終焉。
北部・東部九州への影響力拡大。南九州生目勢力と連合。
270年代以降 ヤマト王権の成長、国産三角製造。
939 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 12:41:13.23
平原が作られた後で、筑紫はヤマトの連合に参加したのかな?
940 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 12:43:02.35
>>934 今、飛鳥はど田舎で蛙が鳴いているがかつては日本の首都だったんだぞ。
奈良もど田舎ではないが高層建物など何も無い(マンション以外)。
>>939 一号墓が権勢を持ち得た最後の伊都国王ではないか。その後も王は続いたが、伊都国の参画は
台与の後ではないかな。
942 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 13:26:08.31
>>936 矛盾だったら、一大率も矛盾する。
女王国より北を以って特に一大率を置き諸国を検察する。諸国これを恐れ憚る。
943 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 13:32:43.95
>>942 一大率が九州とは限らないだろ。
京都かもしれんし。
944 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 13:38:45.56
>>943 今更だが、一大率は常に伊都国に置かれている。
伊都国が九州であるのは間違いない。
九州に到着して「東南陸行五百里到伊都國」だから。
まあ、この「東南陸行五百里」を文字通りに解釈したら、近畿地方は完全に蚊帳の外だが。
>>934 まあ気にスンナよ。当時の海や沼地が、
今では高層ビルが林立している場所が多いんだから。
946 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 14:02:35.09
一大率は、吉備のキビツヒコだろうな。
九州は、まず吉備に軍事的に支配されたということだろ。
947 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 14:11:40.15
そういうことか。
まず、西進町にキビの商人が出向き、
キビ商人の安全確保のために、キビの兵が常駐するようになった。
そして、キビの兵の大将が睨みを利かせてるうちに一大率と認識されるようになったんだ。
948 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 14:31:02.11
西新町だった
949 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 14:38:10.36
しかし、現実問題として、伊都に一大率がいても、
どこに睨みを利かせるんだって感じだな。
あそこは博多湾の喉元であり、博多湾の出入口を
押さえる場所。
いわば、税関や入出国管理局。
950 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 14:55:29.32
どおみち、一大率が睨んでた諸国に、山陰や吉備が含まれてたことは確実。
九州説はとっくにおわってる。
951 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 15:37:01.93
畿内説は、完全に「邪馬台国は近畿地方である」を大前提にした演繹法的な思考で成り立っているな。
「倭人伝は近畿説に沿っているか?」「沿っていない」→「倭人伝は間違っている」みたいな。
考古学上の知見を受け入れられない九州説ってイメージだなあ。
954 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 16:43:23.12
>>951 考古学上の事実に、倭人伝が合わなくなったってことだよ。
かといって倭人伝が九州説に沿っているかといえば微妙なとこだしなあ
956 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 16:57:42.14
そもそも倭人伝の記載内容が日本列島の状況を正確に反映しているとは思えないから
本居の時代から300年近く論争してるわけで
【執着】と【詭弁】
958 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 17:41:55.62
三角縁国産説はどうなの?
マキムク王権が伊都に一大率を置くくらい、大陸との交易を支配してたらわざわざ国産を作るかな?
959 :
水銀厨:2011/05/29(日) 18:11:22.01
それだけ数多く必要という事でしょうかね。
あんな大陸に需要のないものをそう大量には作ってもらえないんじゃないか。銅原料を
輸入して、あとは踏み返しでちょんちょんちょんと。
まあ技術を持っていれば自分たちの好みに応じて
外区・内区好きなように組み合わせて作るのが一番良いわなw
962 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 18:29:06.27
西新町は鏡を求めて集まったとか言ってたけど?
やっぱり鉄?
963 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 18:48:48.71
三角縁神獣鏡って中国では2 - 3世紀の時代に、紹興近辺でしか出土しないってホント?
長江河口だよね
魏が何で長江河口(呉)の物を倭にプレゼントするの?
それとも魏が倭にプレゼントした鏡が三角縁神獣鏡って話しがそもそも嘘なの?
964 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 18:51:05.82
結局のところ、3世紀のマキムクが大陸交易を押さえてた、とかは幻想だよ。
三角→国産
鉄→九州中心
伊都に一大率を置いた山門が倭王として大陸との窓口になっていた。
ただ、交易を閉ざした訳ではなく、西新町での交易は許可した、というところだろう。
965 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 18:59:56.57
するとやはり魏志倭人伝の東の海の倭種は東海〜関東のことでしたね。
966 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 19:09:56.19
近畿地方から東の方に行くときはいちいち伊勢湾渡っていくのか?
967 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 19:15:06.32
>>954 考古学に倭人伝が合わないってそんなむちゃくちゃな。
基準になる倭人伝に合わない考古学の方がおかしいだろう。
968 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 19:22:48.15
>>966 まあ、実際のところ、大和は初瀬川沿いに東海と交流してたみたいだし。伊勢北部はヤマトと連動してたようだ。
969 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 19:26:07.00
>>966 近畿から関東まで、歩くか、船かで考えれば船しかないだろ。
東海道五十三次でも宮宿と桑名の間は船だったよね
桑名=狗奴国
972 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 20:09:09.07
>>966 ヤマトタケルも伊勢湾、東京湾を船で渡っていたな。
それでヤマトから近い方を上総(千葉)、遠い方を下総(茨城)と名づけた。
>>964 つまり、紹興の三角は九州で生産されたものが輸出されたってことか?
974 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:14:24.10
>>954 ちょこっと修正すれば合うんじゃないか。
土器編年じゃなくて、
C14国際基準曲線にあわせるとかすれば。
975 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:43:06.33
>>963 厳密に言えばその紹興近辺で出たというのは同向式で三角じゃないんじゃないのかな?
まあ三角というのはあくまで日本の考古学での定義だから
中国で出たらそれは三角じゃないともwww
三角縁は中国では出土してないってのは読んだ事がある。
福島第一原発はチェルノブイリのようにはならない
978 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:49:41.21
まあ舶載説の立場でシナリオを描くなら
戦乱が続いて洛陽の銅鏡制作組織も壊滅。
神獣鏡の意匠をもつ工人が荊州あたりから流れてきて工房を再開。
そこで新しくデザインされたのが三角。
どの道、魏代、洛陽周辺でどのような鏡が作られていたのか分からないと話は進まないwww
考古学の世界って欺瞞がいっぱいなんだね
おそらく、旧公孫氏の領域で画文を作ってた職人に外注したんだろ。何も尚方作がすべてという
ことはない。
981 :
ひとぶた:2011/05/29(日) 22:09:46.40
>>975 平縁、斜縁の神仙画像鏡、神獣鏡です。
縁の断面はどうみても「三角」には見えませんね。
983 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/29(日) 23:04:54.22
斜縁と三角縁は区別がつかないと聞いた。このスレじゃなかったかなぁ?
984 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 00:02:10.57
>>972 日本武尊は、相模から東京湾を渡ったが、伊勢湾は渡っていない。
伊勢湾を渡るというのは、尾張を無視することになる。日本武尊の奥さんは尾張にいるし。
それにしても、畿内説ってのは…。
>>910 実用品の「鉄」と、威信財たる「銅鏡」とは、
それを求めて入手し流通(一方は配布)させたのが、それぞれ別ものだったと考えられるかもしれない。
古墳前期になっても(実用)鉄器の分布状況は逆転していないのだから、
マキムクが求めたのはあくまで威信財だったのではないだろうか。
986 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 03:01:18.29
1978年に曹操の一族で会稽の太守であった伯父の墓から「時に倭と盟して
賊(黄巾党と思われる)を伐った」という銘がある遺物が出土して
いる。この倭は会稽にあった倭人の居留している勢力と考えられているが
どちらにしろ、このことにより魏は倭国が侮れない勢力、もしくは影響力
を海洋勢力として半島など極東に持っていたと考えていたと思われる。
よって倭人伝にあるように倭国は大国と考えられており、纒向の規模を考えた
場合、そこが邪馬台国であったかどうかは別にしてその存在は正確に
魏に伝わっているのは間違いなく、またこれ程規模な連合都市国家は他に存在は
してないという事実は無視できないのでは?
> 正確に伝わっているのは間違いなく
なんてよく言えるなw
988 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 08:48:01.36
>>980 それだと、黒塚の画文>三角の扱いが説明できない。
黒塚のことを考えると、
・画文が大陸からの鏡 (公孫氏のみなのか、魏もなのか不明)
・三角は国産でヤマトの象徴
ってのがよさそうだけど、
この辺は大きな古墳発掘するたびに覆るからねえ。
もちろん畿内説前提でね。
990 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:23:27.15
>>988 >黒塚の画文>三角
数の違いだろ
配るほどある三角、貴重な画文
991 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:29:47.44
画文帯神獣鏡は江南地方の鏡だろう?つまり、呉の鏡。
992 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:39:09.09
王 仲殊さんは、三角縁神獣鏡を呉の工人が日本にやってきて作ったものと
言っていたし、三角縁神獣鏡も呉の系統だろう。
ということは、画文帯は呉が滅亡した西暦280年以降に、呉人によってもたらされ、
それを元に日本で作られたのが三角縁神獣鏡だろうと思う。
>画文帯は呉が滅亡した西暦280年以降に、呉人によってもたらされ
ありえないな。画文についての中国科学院の見解は岡村編年よりも古い。
994 :
水銀厨:2011/05/30(月) 19:47:16.87
まぁ△は一部を除いて国産でしょう。
>>989 黒塚から纏向よりずっと遠い椿井大塚山でも、
黒塚とほとんど同じ鏡の構成数だったんだから、
この時期の古墳はほぼ同じと想定していいだろ。
>>992 何故「ということは」になるのかサッパリ分からない上に、結論もおかしい。
ヤマトは呉との交流で青銅鏡を作る技術を得ていた
ところが何らかの理由で呉との交流が途切れ、魏との交流に鞍替え(景初2年)
魏の年号に倣い景初の年号で三角縁神獣鏡を作り始めた
これでどうだい?
呉と交流してたのは、出雲〜九州の勢力(伊都国?)
ヤマトはそれに対する反乱軍
んんんー、我ながら見事な仮説だ!!!
998 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/30(月) 20:46:40.37
パーン!
(#‘ω‘ *)
⊂彡☆))Д´)
>>997
>>998 おいおい、理由もなく無下に否定するなよ、、、
わたしに幸せがくるのはいつ? ねえいつなの?
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