♪邪馬台国 ドンと来い♪ 86

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952日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:41:40.59
そして、吉野ケ里発表から5年ほど経って、纏向の年代が100年ほど遡り、纏向=邪馬台国が出現した。
これも無理があるが、畿内説としては他に方法がなかったと言える。
953日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:48:08.68
>>948
方保田東原遺跡もある。かなり興味深い遺跡。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/katouda.html
954日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:51:58.56
>>943
さっそく白旗をあげちゃったか

いきなり俺が触れていない隋書もってくるんだもんな
この辺専門じゃないし邪馬台国論争に関係ないと思われるのでパスしてもいいかな?

しかしまああえて答えるなら推古摂政厩戸皇子かな。

これが絶対正しいとは言わないが誰か比定される人はいるだろうな。
隋が架空の相手と文通するとも思えないしな

あと間違っても、この答えがおかしいから中国の史書は信用できず
お前の主張も信憑性が皆無とか言わないでくれよ。

これと邪馬台国論争は別の話だというのはあんたもわかってるだろうからな
955日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:52:11.54
アホなん?
考古学の関心の重心は「邪馬台国がどこか」では無いと書いてるんだが。
でも報道的には邪馬台国論争と結びつけたほうが視聴者は喜ぶからね。
956日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:55:37.23
>>951-952
この内容は「恨み節東遷厨」だな?w

こうやって>>864のようなこと(80年代前半には九州と近畿の年代すり合わせがすでにされていた)
…を何十回と言っても都合の悪い話には耳をかさないのがゴミクズレベル九州説w

あくまでピンチに陥った「畿内説」が編みだしたのが年輪年代というストーリーw

こうやってこっちの根拠を何回言ってもリセットされるのは別に俺だけが経験しているわけじゃないだろうがwww
957日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:56:02.03
>>955
考古学者も邪馬台国に関心あるよ
まあ本当はその先にあるお金だろうがね。
人々の興味を引くものであればあるほど予算がつくからね

学者も背に腹はかえられんよ
958日本@名無史さん:2011/06/01(水) 01:59:45.76
>>956
お、ジョーカーさんじゃないか
ところであんたの主張は?過去ログも教えてくれないのか?
ログにはちゃんとリセットされずに残っていることだろう
959日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:00:34.83
>>955
まあいまだに古代史において「邪馬台国」が最高の客寄せパンダであるのは間違いないw

九州でも関西でも博物館の展示や催し物とかに「邪馬台国」の文字が入るのは同じだな。
960日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:02:02.16
>>950
即位退位と崩御年。
明確に違いが出てる。
個人個人別々に計ればいいだろう、じゃなきゃ南北朝とかどーすんだよ。
傀儡でも天皇なんだからカウントしてやれよw
なんだ?万世一系原理主義者なのか?一代一人しかカウントしちゃいかんのか?
961日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:07:21.75
そもそも吉野ケ里の所謂3点セット「宮室・樓觀・城柵」なんて考古学的定義があるようなものでもなければ
構造物がそのまま出てきたという話でもない。

ぶっちゃけ工業団地に潰されるのを防ぐために記者に吹き込んだ方便w
これも何回も言ってきた話だが常にゴミクズレベル九州説にはリセットされる。


962日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:09:10.45
>>957
テレビの邪馬台国関係の番組にも良く出てくるしね。
963日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:16:17.01
>>957
そりゃ関心はあるだろうさ。
学問としてどう扱うかは別。
964日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:17:43.43
>>961
城柵は構造物が出なくても、集落を囲むような形で柱跡が出てくるからこれは判断が可能

樓觀はそれなりの高さなら、柱の跡がある程度広く深く、土台が固く、また支えの跡もある場合があるのでこれもある程度判断可能

宮室、これは俺にはわからんな。まあ柱跡が大きく、柱から柱の間隔が広くて
大きな立派な建物が予想される。つまり宮室だという構図だろうが
965日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:18:47.60
>>961
そうでもない。その頃の本もけっこう持っているが、畿内説と言われる考古学者も「倭人伝の国を見た」
なんて言っている。佐原真や金関恕の両氏が良くやってきていた。
石野博信さんだけはけっこう批判的で、邪馬台国なもんか、という気持ちが言葉に出ている。
どうも、石野さんにとっては、邪馬台国九州説といえば東遷説であり、騎馬民族征服王朝説を連想して
しまうらしい。
966日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:28:57.24
>>965
そうやってリアルタイムでの学者の発言を引用するなら
後に池上曽根が出てきた時の学者の発言も教えてほしいねえw

年輪年代による実年代は別にしても相対年代で吉野ケ里より古く大型建物も規模が大きかったんだからw

俺がメモしている当時の高島先生の発言(どこかの本に載っていた当時の新聞記事だったかな?)

高島忠平
「思っていた以上に古い建物でショッキングだが、
 『魏志倭人伝』によると邪馬台国は環濠に囲まれていたとみられ、これは九州に例が多い。
 近畿が九州とは別の大陸との交易ルートを持っていた可能性は考えられるが、九州説がゆらぐことはない」

まあ今日の九州説は未だに吉野ケ里のイメージで助けられているのは間違いないのだろうがw


967日本@名無史さん:2011/06/01(水) 02:39:50.40
まあどの道吉野ヶ里は庄内併行期には土器を含む土で環濠も埋められ
邪馬台国にするには古過ぎるというのは
何もゴミクズレベル九州説が呪っている「キナイセツ」じゃなくて大抵九州の考古学者の意見だろう。

そういう意味では高島先生は異彩を放っているともいえるが
「アレは盛り上げるためにわざとやっている」という説もあるが
実際本当なのでは?とも思っているwww
968日本@名無史さん:2011/06/01(水) 03:22:30.06
>>911
難波の堀江の掘削によって河内湖が完全消滅したとでも?
下記URLの中世や近世の地図を100万回眺めてみるべし

ttp://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/know/rekisi/kakawar.html
969日本@名無史さん:2011/06/01(水) 07:43:13.95
天照大神というのは天(空)を照らす神なので、太陽神ということ。
それに対し天皇の天は大空の皇。
つまり、天皇(天子といわれる)の高祖が天照大神というのはそもそも矛盾している。
天照の子は「日子」であって天の子ではない。
日本書紀はつまり以前の他勢力の歴史も自分のものとして
語っているという証のようなものですね。

970日本@名無史さん:2011/06/01(水) 08:58:49.70
>>>954

隋時代の記述も、記紀と整合性がないのに、
邪馬台国の記述と記紀を同列に扱って、
天照大神の子孫の神武が東征したから、
卑弥呼の流れをくむ神武が東征して大和王権を作ったなどという妄想をたれるのはやめろということだ。

ここまでいってわからないなら、
おまえは本物のクズだ。
971日本@名無史さん:2011/06/01(水) 09:08:38.65

天照大神=卑弥呼が否定されちゃったから、悔しいんだろうな。

もともと彼の主張の90%は「天照大神=卑弥呼」だったのに否定され、反論できず、
残り10%の「邪馬台国=九州」に必死ですがりついて勝利宣言とは、哀れというより滑稽だな。



972日本@名無史さん:2011/06/01(水) 09:19:18.10
記紀より中国文献の方を信頼するべきですね。
対外関係を処理する上で、正確な情報を書き止めなければ
ならないですから。
つまり邪馬台国のときはヒコの名は見当たるけど、アマ=天はない。
隋書にはアマの名が出てきている。
その何百年の間に変化があったということでしょう。
973日本@名無史さん:2011/06/01(水) 10:04:36.47
>>972
>つまり邪馬台国のときはヒコの名は見当たるけど、アマ=天はない。
>隋書にはアマの名が出てきている。
>その何百年の間に変化があったということでしょう。

そのとおり。
天皇の名に「天」がつくのは、欽明天皇(天国排開広庭)から。
つまり、河内王朝=倭の五王まで「天」の意識は無く、
継体以後〜欽明にかけて「天」を兄とする思想が生まれたということと。

この時点で、天照大神=女神は、存在しなかったのだよ。
これが文献の正しい読み方だ。

974日本@名無史さん:2011/06/01(水) 10:19:09.32
>>902

>伊勢神宮の歴史を見れば、天武・持統期以前は伊勢大神であり男神としての性格を持つ一地方神だった。

天照大神が伊勢の地方神なのは常識ですな。

継体天皇が、尾張の目子媛を娶ってることから、
「アマ」の語彙が越〜東海からもたらされたと見ることも出来る。
河内王朝時代にはアマの語彙が無かったのだから。

東遷説の連中は、むりやり九州に起源を求めて
天照大神=卑弥呼などとほざいてるようだが、
文献史学的にも文化人類学的にも、ちゃんちゃらおかしい話。
975日本@名無史さん:2011/06/01(水) 10:21:25.35
>>957
九州説の人も九州の発掘のためにやむを得なく
九州説にしがみついているのかなと同情する時もあるが
成果は出ているのかね?
976伊作:2011/06/01(水) 10:30:28.42
『隋書』倭国伝は、『日本書紀』が成立する100年も前の記録だから、
創作のない生きた見聞記録だと評価できる。
その『隋書』倭国伝は、太陽神は男だったことを伝えている。

「使者言、倭王以天為兄以日為弟。天未明時出聴政跏趺坐。日出便停理務云委我弟」。
これは倭王が3人兄弟だったというのではなく風俗について述べているのである。
使者が答えた内容から判断すれば現代にいう風俗ではなく
祭政(国家祭祀と政治)に関する信仰的「しきたり」みたいなものである。

そこで倭国の使者は、天(天帝)を至上の神とし、太陽神をその次としている。
しかも太陽神は「弟」というのだから男性神である。
この時点では倭国の太陽信仰も男性神だったことが分かる。

ということわ・天照大神という女性神わ・
8世紀に成立した『日本書紀』の創作した神様で・
『日本書紀』の作者がこれに卑弥呼をダブらせたかどうかなん・どうだっていいことだよ。
ダブらせていたところで、しょせん片方は架空の存在なんだし。
架空の存在について、史実検証を旨とする学者・研究者が、
史実検証論説の中で言及することじゃない。

おれ・九州説だけど。なんか・文句ある?
977伊作:2011/06/01(水) 10:33:50.66
>>974
>東遷説の連中は、むりやり九州に起源を求めて
>天照大神=卑弥呼などとほざいてるようだが、

おれ・東遷説だけど。
天照大神=卑弥呼などとほざいていないけど。文句ある?
『日本書紀』の作者が架空の天照大神に卑弥呼をダブらせたかどうかなんて
どうだっていいことだよ。
978日本@名無史さん:2011/06/01(水) 12:19:17.65
>>970>>971
>隋時代の記述も、記紀と整合性がないのに
え?俺の発言一つでそこまで信頼するの?お前俺の信者か何かか?

お前らが勘違いしてるのか知らんが一言言っておく
天照天照って俺「天照=卑弥呼」に主眼おいてねーから
ってかそんなこと一言もいってねーから。

俺の主張はだ
倭人伝に記される、絹鉄が3世紀九州で大量に出るが畿内に出ない
しかし4世紀これが逆転する。そして絹鉄だけでなく、皇室の三種の神器に相当するものもしかりだ。
また畿内の銅鐸も消滅するしな。大和で同じ勢力がずっと保持されているのなら、銅鐸が消滅するのはおかしい。
これまでなかった、絹やら勾玉やら鉄剣やらこさえた別の勢力に取って変わられたとみるのが妥当。

けどこれだけじゃ東遷があったなんて認められないな。
九州の勢力が畿内に物品を持ち込んだだけかもしれんしな。(銅鐸消滅はおいといて)

しかし補足材料として、朝廷も東遷があった(神武東征)ことを認めてると書いてあるんだ。
中国も倭奴(佐賀県)が大和朝廷の前身であると認めてると主張している。

反論できないからって、人が勝手に天照=卑弥呼とか言ってると仮定して
そこだけ叩くってやめてくれるかな?w
架空のことを作って叩くより、考古学的見地を叩いてくれよw

それとあんた畿内説だろ?俺だけばっかに語らせずあんたの説もほざいてくれよ
979日本@名無史さん:2011/06/01(水) 12:24:40.09
>>974
>東遷説の連中は、むりやり九州に起源を求めて
アホか。
東遷説の連中はまず、邪馬台国九州説があるんだよ。
そしてその後邪馬台国はどうなったのかで、消滅説・発展説・東遷説やらなんやらの中で
東遷を主張してる奴が多いってだけだ。
順序が逆だよあんた
980日本@名無史さん:2011/06/01(水) 13:02:16.76
>>926
考古学的に出土品やその分布状況などを考えると無理のない説ではあるが、ちょっと荒唐無稽だな。
981sss:2011/06/01(水) 13:39:49.01
>>971
そりゃあ、否定する人もいるだろう。畿内説は畿内説である限り否定する運命にある。
認めることは東遷説に宗旨替えすることだから。

いつものように、天照大神=卑弥呼(+台与)の根拠をあげると次のようになる。

一、まず、古代の日本に女性を中心とする体制があったことを中国の歴史書、日本の記紀が裏付けている。
二、共に独身であることなど、巫女的な性格が良く似ている。
三、卑弥呼を日御子と考えれば、天照大神と共に、太陽に関係あることがわかる。両者とも鏡に深い関係がある。
四、岩戸に隠れる前の天照大神は一貫して素戔鳴尊に苦しめられる。一方で、卑弥呼は狗奴国との争いに苦しめられる。
五、天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗に成り、卑弥呼が死ぬと、跡継ぎをめぐって千人あまりが殺される。
六、天照大神が岩戸を出ると、高天原は元のように明るくなり、台与が王になると国中が定まる。
七、天照大神が岩戸を出た後、高皇産霊尊が登場し、共に高天原を治める。台与が王になると、男王が立ち、
共に中国の爵命を受ける。

もし、反論する気があるのなら、他に適当な人物を挙げて、これより良く似ていることを指摘すること。
982日本@名無史さん:2011/06/01(水) 13:46:40.02

トヨタン・・・・・・・・・・
 
983日本@名無史さん:2011/06/01(水) 13:50:28.86
>>981

やっとコテハンつけて登場か。

おまえをあぶりだしたかったんだよ。

伊勢神宮には問いただしてみたかね?

「伊勢神宮で奉ってる天照大神は、九州の卑弥呼がモデルですよね?」ってさ。

まだ、恥ずかしくて聞けてないのかな?

きみが信念を持って、天照大神=卑弥呼だと思ってるなら、
伊勢神宮の宮司に、本当のことを教えてやるべきだし、参拝者にも、
天照大神=卑弥呼だと教えてやるといい。チラシとか配ってさ。
一般大衆に、天照大神=卑弥呼だと知らしめることが、きみの人生の最終目標なんだろ?
違うとは言わせないよ。

天照大神=卑弥呼という説が、一般に浸透しなければ、
君の人生は、無駄に終わるわけだ。悔しいだろ?惨めだろ?な?

だったら、2chで文句いってないで、伊勢神宮に行って、ちゃんと問いただしてこいよな。

「伊勢神宮で奉ってる天照大神は、九州の卑弥呼がモデルです!間違いありません!」ってさ。
で、宮司がどんな顔するか、報告してくれよ。

984日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:01:18.27
アマ=安曇
985日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:03:05.85
>>983
こいつ・・・
なんか可哀そうだな・・・

何故2chの見ず知らずの人の人生勝手に決めつけて勝手に優越感に浸ってるんだ?
ここは論争を楽しむところなんだから、普通に論争すりゃいいものを人格否定までしだすんだもんな

何か嫌なことでもあるんならこんなとこ書き込んんでないでカラオケなりスポーツなりで発散してきたほうがいいと思うぞ?
986日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:03:47.91
>伊作

東遷説のくせに、天照大神=卑弥呼説を採用しないのは、まあ、評価してやるよ。

天照大神が架空の伊勢の地方神であることと、東遷説そのものは、何にも矛盾しないからな。

しかし、>>981が、これだけ列挙して、天照大神=卑弥呼説の根拠を述べてるわけだし、
君も>>981を否定するなら、相応の理由を述べる必要もあるんじゃないかなあ?

しかし、今後、君も>>981に習って、やっぱり天照大神=卑弥呼説を採用したとしも、別に俺はかまわんよ。
君の自由だし。

987日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:08:30.23
あまは たかあまがはら
高天原なのが一般的。

東遷も卑弥呼より遥か前の話なので
どうでもいいってのが畿内説の俺のスタンス。

卑弥呼はモモソで
卑弥弓呼は同族のタケハニヤス。
弟王は義弟の祟神。

倭国再び乱れるは
サホヒコサホヒメの反乱。
イヨは伊勢神宮建立のヤマトヒメ
988日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:11:10.79

イヨタン・・・・・・・・・・
 
989日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:12:46.10
畿内説にしてみれば、卑弥呼のころは天の意識がなく、
後に天を兄とする思想が生まれたとして、邪馬台国はヤマト王権の前身
でずーっと一系だと理解したいようだけど、
邪馬台国は九州で新勢力に服従し取り込まれた、ととらえたほうがいろいろ
つじつまが合う。やまたのおろち退治とか、大国主の国譲りとか、、、にみえるように。
東遷したのは邪馬台国ではなく邪馬台国を服従させた新勢力が東遷したということでしょう。
ひょっとしたら、その東遷も他勢力のしたことで、自分の歴史として記紀にとりこんだ
のかもしれないし。
というのは唐書には小さな日本が大きな倭国を合併したとある。普通は大きな国が
小さな国を合併させるけど、これは逆ですね。小さくても財力、武力が
相当大きかったのでしょうね。
990sss:2011/06/01(水) 14:16:12.56
>>983
だから、お前は天照大神は誰だと思っているのかな?
名もない人物か、それとも架空の人物か。
そんな得体の知れない人物を伊勢神宮は祀っているのか?
相当に伊勢神宮を愚弄しているな。
991日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:17:52.00
>>989

九州の邪馬台国を服従させ、大和に移り住んだ勢力があったかもしれないな。

現実的には、吉備国東遷説というのもあるが、
そういう現実的な議論がなされないのは残念だよ。
水銀さんが、それに近いか。

992日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:20:34.58
>>990

天照大神は、伊勢の地方神だよ。

伊勢神宮が認めてるわけだが?

人のことはいいから、おまえは、人生かけて卑弥呼=天照大神を証明しなよ。
卑弥呼=天照大神と、自分ひとりが信じたまま、惨めに老人になって死にたくないだろ?
993日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:20:59.80
>>936
>そこに対応するのは恐らく「其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」
そんなものに対応させてどうするんだよ。私がいってるのは、境界の尽きる所を書いている以上、
始まる所が示されているはずだということ。そして、それが万二千里だということだよ。

>女王國とはなんや?何との境界や?って状態でしょうし
読み進めれば分かるってことね。

>固有名詞なら名称を勝手に変更するのはおかしいでしょう。
>これを代名詞ないし普通名詞だとすると、勝手に改変があっても納得ができるというもの。
代名詞だとか普通名詞だとかいってみたところで、途中で呼び方を変えるのが不自然なことには
変わりないよ。

>萬二千里は、伊都國ないし投馬国からの距離ではないので不自然ではないでしょう。
そうかね。無理してない?
私は郡からの距離だからといって離れたところに書く気にはならないな。

>間に狗奴國の記事もあるので、連合国家女王國を説明するにしてもタイミングは不自然でしょう。
間に狗奴国の記事? 不自然だと思ったら、その読み方を疑ってみたら?
間に狗奴国の記事が入らない読み方もあるだろ。


994日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:32:27.62
そろそろ次スレ立てないと、苦労するぞ
995sss:2011/06/01(水) 14:37:26.12
>>992
伊勢の地方神って…。天照大神は皇祖神だろう。
天照大神は元々は宮殿に祀られていた。

崇神天皇の時代に、災いが多発し、反乱するものが後を絶たなかった。
これは大物主神の祟りということで、大物主を祀ると災いは収まった。
以後、大物主は皇室の守り神となる。

そこで、天照大神は遠ざけられ、結局、伊勢に祀られることになる。
どうして皇祖神が遠ざれられるようなことが起きたのか。

これは、いわゆる出雲の国譲りと関係する。出雲の国譲りは征服戦争で、張本人が
皇祖の高皇産霊尊と天照大神だった。出雲は破壊され大物主は祟り神となる。
こういう経緯だから、皇祖神ながら天照大神は伊勢に遠ざけられてしまった。

時系列的にも妥当だと思う。
996日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:40:56.67
>>993
>>そこに対応するのは恐らく「其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」
>そんなものに対応させてどうするんだよ。私がいってるのは、境界の尽きる所を書いている以上、
>始まる所が示されているはずだということ。そして、それが万二千里だということだよ。

「始まる所」は此処じゃないかい。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、「到其北岸狗邪韓國」、七千餘里



997日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:43:58.66
190以前     各地における天候不順、食糧不足などによる争乱多発。

190年頃     東海勢力、東瀬戸内勢力、河内や地元大和の勢力の連合により纏向遺跡が建都される。
           卑弥呼の共立。銅鐸祭祀の終焉。

200年代前半  石塚など早期の前方後円墳の築造開始。公孫氏への朝貢、画文の輸入開始。

240年頃     卑弥呼の魏への朝貢、吉備、山陰などの連合への参画、初期の三角輸入開始?
           卑弥呼倭王冊封により各地首長による纏向詣でが始まる。全国的な前方後円墳の展開。
           
           西新を中心とした大陸との交易。対狗奴国(東海)戦争、東海の影響力低下。
           一大率の設置?庄内式土器の北部九州への流入。

250年頃     卑弥呼死亡、墳墓造営。男王擁立。東日本に高地性集落出現、東国への勢力拡大。
           

260年頃     台与共立。九州での環濠集落の終焉。
           北部・東部九州への影響力拡大。南九州生目勢力と連合。

270年代以降  ヤマト王権の成長、国産三角製造。
     


998ローガン:2011/06/01(水) 15:19:55.58
>>972
>つまり邪馬台国のときはヒコの名は見当たるけど、アマ=天はない。
>隋書にはアマの名が出てきている。その何百年の間に変化があったということでしょう。

「日出處天子致書日沒處天子無恙」なので、隋と対等である事を主張した記述。
であるから当然、名乗らない。しかし隋は称臣不明なんて認めないから
「倭王姓阿毎、字多利思比孤」と称号を個人名扱いした。
玄宗が聖武帝の個人名を「主明楽美御徳」と呼んだのに同じ。
999太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/01(水) 15:22:10.44
>>981
卑弥呼を天照大御神とすると、239年あたりが神武以前の時代となるわけで、
これだと神武以後歴代天皇の在位期間が当分の間、スシ詰めになる不合理が出る。

したがって卑弥呼は天照大御神に非ず。
1000日本@名無史さん:2011/06/01(水) 15:26:17.49
太国がマトモなことを言った・・・SSSは太国以下・・・
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