【初心者】スレッド立てる前に質問をPart27【歓迎】
1 :
日本@名無史さん :
2011/03/29(火) 01:04:42.43
2 :
日本@名無史さん :2011/03/31(木) 20:52:20.53
メンテナンス
3 :
日本@名無史さん :2011/03/31(木) 22:39:06.82
選択は日本史か世界史かどっちがいいんだ
5 :
日本@名無史さん :2011/04/02(土) 17:20:02.03
age
質問です。 外国の民族風なものに憧れてたんですけど ふと、自分の由来が気になりました。 名字の由来を教えて下さいませんか? 自分の名字は勝部(かつべ)です。島根県東部に住んでいます。 勝部と言う名字は出雲市や松江市に多いです。 出雲大社の展示品の文献にもよく勝部と言う名字が出てきます。 とりあえず名字の由来を調べるサイトで調べると 勝部 約9,800 近江国栗太郡勝部村発祥、宇多源氏佐々木氏流。ほか摂津、出雲に。 という事で出雲に多いという事が再確認できたのみでした。 その後、勝部をすぐりべと読む説を見つけて すぐり(村主、勝)というの名字の由来について調べると 渡来人や製鉄関係の仕事の人ではないかという説を見つけました。 地元は日本海側で大陸も近いし製鉄業の神を祭る神社もありますし 近江国栗太郡勝部村の名前の由来より なんとなく「製鉄関係の知識を持った渡来人」と言うほうが 説得力がある様な気がしますが いかんせん知識が少ないのでなんとも判断が付きません。 なにか私の説に解説をお願いできないでしょうか?
7 :
日本@名無史さん :2011/04/04(月) 23:58:23.30
カスペット (柄杓のような形の河) ⇒ カツベ kasp:アイヌ語で「柄杓」 pet:アイヌ語で「河」
なるほど、なんだか変に悩んでいた気分がすっかり 吹き飛びましたwww 親切有難うございますwww
>>6 ,8
待て
出雲に多い苗字の語源がアイヌ語って、不自然だろ
10 :
日本@名無史さん :2011/04/05(火) 11:46:57.86
>9 アイヌは元々は、九州以外の日本全土にいたと考えられている。 少しも不自然な話ではない。
>6ですが アイヌだとすると渡来人とはまったく反対の勢力になりますねwww
普通に考えて島根、鳥取、山口はトライ刑が多いだろうなw
渡来人がアイヌを駆逐していったわけだが
15 :
6 :2011/04/05(火) 16:02:53.78
あ、岡山って言えば 桃太郎伝説→鉄関係の人々を大和朝廷がボコボコにした説(うろ覚えです) ってのもありましたね・・・。
>>15 吉備氏はどっちだったんだろうな
ヤマト系?
17 :
6 :2011/04/05(火) 17:23:01.90
18 :
6 :2011/04/05(火) 17:28:49.70
>13 それ旧説の派生だろ アイヌは縄文系とシベリア方面の住民の混血で、原日本人というわけではないはずだぞ それに、弥生人が縄文人を駆逐したという話そのものも、いまではほぼ否定されてる。
>>19 >>13 じゃないけど弥生人が縄文人を駆逐したという話そのものも、いまではほぼ否定されてる。ってのを
もうちょっと詳しく教えていただけますか?
中国人の言う突厥、匈奴 東胡(東方の蛮人)の中には日本人も含まれますか?
>>21 >>21 トッケツとキョウドは北方騎馬民族でしょ。
東胡は朝鮮半島の北側あたりにいた遊牧民だったような。
世界史板の方が詳しい人多いかも。
23 :
日本@名無史さん :2011/04/06(水) 15:31:20.28
もともと、縄文文化と弥生文化は断絶した異文化なのか、連続性があるのか、という点では議論が分かれていた。 発掘事例が少なかった頃には連続性を見いだすのは難しくて、 まったく異なった異文化としか思えない状況だったが、 (というのも、縄文遺跡は関東から東北に多く、弥生遺跡は西日本に多くて、 同一地域での変遷を追跡するのが昔は難しかった) 発掘事例を積み重ねて、地域内の文化的連続性とか、同一時代の地域差とかを分析できるようになってくると、 縄文文化と弥生文化は連続性が大きい、断絶する要素は少ないと分かってきた。 稲作の導入を含む社会的変化に応じた文化的変遷が縄文と弥生の違いの中心であって、 人種差・民族差があったとは考えがたいのではないか、とまで言われるようになってきた。 縄文文化の要素の残存状況から見れば、渡来系弥生人の人数は在来の縄文人よりも大幅に少なかったはずだ、とまで言われている。 現存DNAの分析では縄文系と思われる遺伝子と、渡来系弥生人によって持ち込まれたと思われる遺伝子とが、 ほぼ拮抗するレベルだと思われているにもかかわらず、 文化の変遷からは渡来系弥生人の人数は少なくて、日本列島の文化に目立った変化を与えるのは難しかったとしか考えられない状況となったわけ。 これでは駆逐説は成り立たないんだよ。 それと。 縄文文化の衰退は弥生人の渡来より何百年も早くに起こった事件らしい。
古墳時代の4〜6世紀にカタストロフィー的変化があったから 弥生縄文の連続性いなんて、霞んでしまうわけだよね。
邪馬台国の風俗で入れ墨とか結髪とかのアイヌ系の文化が空白の一世紀で漢字・呉服の民族になっちゃってるよな。・
27 :
日本@名無史さん :2011/04/06(水) 23:24:36.81
看護兵?について質問させてください。 押入を整理していたところ、明治二十年ごろの写真で、軍人と一緒に看護婦そっくりの 服を着た男性が写っているものが出てきました。(ワンピース状の白衣にコックのような縦に長い帽子を被っている) この時代、男性が看護の職に就くことはあったのでしょうか?また、軍人や警察官は士族階級が少なからずいましたが、 男性ではどのような出自の人間が看護の職に就いたとかはあるのでしょうか? よろしくお願いします。。
日本は東夷だったような、南方が南蛮。 扶桑とか倭国とか別名はイロイロ有るね。
東夷は、日本のことというよりも、日本、朝鮮半島などを含めた、東方の異民族全般の総称だね 古代の中国人から見て、東の方にいる異民族が東夷 南方の異民族は、ご存じの通り、南蛮 西の異民族は西戎(せいじゅう)で、北方の遊牧民族は北狄(ほくてき)
>27 当時、軍で働く人はみんな男だった。 軍医も衛生兵も、当時はみんな男。 (高官で背広組の面々だと、ひょっとしたら女の秘書とかも抱えてたかも知れんけど)
座と株仲間の違いを教えてください
32 :
日本@名無史さん :2011/04/09(土) 16:29:57.50
宿題ではありません せっかく楽市楽座で中性的な専売性を撤廃したのに、なぜまた株仲間などという専売制度を作ったのかが気になるのです
漢字はIMEパッドでしらべられるよ 頑張って!
37 :
日本@名無史さん :2011/04/11(月) 02:03:07.87
千葉から茨城県にかけて 香取海という湾が有ったみたいですが 今回の地震で液状化した 浦安と関係有りますか?
香取は霞ヶ浦の東のこと 浦安とは位置が違います
邪馬台国沖縄説が有るって本当ですか?
沖縄説ぐらいあってもおかしくないよ 魏志倭人伝の記述通りに行くと、九州よりずっと南に出てしまうんだから ちなみに、おおざっぱにいって、南ではなく東に行くとするのが畿内説 方角は正しく、距離の記述の解釈が間違っているとするのが九州説
42 :
日本@名無史さん :2011/04/16(土) 21:07:42.33
大和時代頃の氏姓を調べていて、〜人部などが出てきますが、そういうのはどういった本で調べればよいでしょうか?
1867年のパリ万博で江戸幕府や薩摩藩はいったいどんな物を出展したんでしょうか
魏は、邪馬台国は呉の背後に存在すると誤認していた。 所在地の誤認。 だから文献の旅程による所在地推定は不可能。 魏の首脳部が想定していた「邪馬台国の所在地」は沖縄付近だが、 実際に「邪馬台国」があった場所とはまったく違う。 それだけの話だよ。
45 :
日本@名無史さん :2011/04/17(日) 08:28:05.51
戦前に農家の生まれから起業して金持ちになりたいと思う人がいた場合 どういう会社を起業するのが多かったのでしょうか? いまだとサラ金や風俗やITなどあるけど戦前の場合はどうだったの?
46 :
日本@名無史さん :2011/04/17(日) 09:58:14.46
>>45 なりたくても無理。
戦前は今以上の格差社会だぞ。
47 :
日本@名無史さん :2011/04/17(日) 11:14:07.35
成金っていなかったの?
戦前の農家出身で成金と言えるほど金持ちになった者は少ないんじゃないかな 起業するには元手がいるし、業界でうまく立ち回るには人脈や教養も必要だ 戦前は、零細な農家が大半だから、彼らは元手になる金も、借金するための担保になる資産もたいしてないし、 人脈は村の内部とか、せいぜい近くの地方都市に知り合いがいる程度、高等教育を受けている者も少ない それでも起業する者もいたかもしれないが、お店を持つことができた、とか、小さな町工場を経営した、とかなら 上々な方だろう 結局、成金と言えるほど成り上がれるのは、もともと資本のある者だけだ
下から這い上がるのが難しい時代だったのは事実だけど、それでも裸一貫から成り上がった人間は結構いる 特に海運、陸運、鉱山開発、建築、造船、航空機、そして化学工業等は下っ端や元農家からの成り上がりが多かった 顕著な例として日本15大財閥の森コンツェルンを築いた森のぶてるは漁師、石原財閥を築いた石原広一郎は農家出身だった 当然、今と同じくサラ金(高利貸し)や風俗成金もいた
金色夜叉の貫一も、お宮さんにふられて、じゃあ金持ちになってやると、高利貸しになっちゃうんだよな 貫一が農家出身かどうかは知らんけど
徴兵されそれなりの教育を受け軍隊生活でいろんな人脈が出来て、ソレを生かして という例は有る。
ほかには。 優秀な人材なら金持ちの庇護を受けて一定の教育を受けることが出来る場合はある。 その成果を返す必要があるからバクチ的に起業するのは難しいけど。
53 :
日本@名無史さん :2011/04/17(日) 18:32:38.12
海運、陸運、鉱山開発、建築、造船、航空機、化学工業、サラ金(高利貸し)、風俗 ↑ 成り上がり率が高かったのってこの中じゃどれになるの? おそらく今だとサラ金(高利貸し)かなと思うんだけど。
航空機って... 金融は、元手が必要な上に踏み倒される危険度が... 鉱山も開発資金がない人間には無理だろう。 鉱山労働からの成り上がりはなおさら無理。場所によっては罪人の強制労働を当てたりしてるほどだろ? 化学工業という分野も航空同様に新しいから、ないな。 参入障壁が小さいのは海運だけだろう。 これとて、仕入れた商品を運んでから売り払うわけで、かなりの元手は必要だが。 ってか、参入しにくそうな困難な事業ばっかりピックアップしてないか?
55 :
49 :2011/04/17(日) 21:08:16.02
みんな、「なんとなく戦前の企業はこんな感じだったんだろう」というイメージと、そこから来る推論で物事を断定しすぎ はっきり言わせてもらうと、それらの推論は事実と全く異なる 何故イメージと事実が乖離しているのか 詳しく説明したいけど、今から夜勤なので明日か明後日また来ます
56 :
54 :2011/04/17(日) 21:26:02.11
すまん、どこをどう勘違いしてたのか、江戸時代の話のつもりで答えてた。 バカス... 鉱山の件は「佐渡の金山」なんかをイメージしたものと思ってくれ。 ただ、重工業とか化学工業の規模は戦前には小さかった。 戦時中、軍需産業として庇護・拡充されたから成長した感じ。 海運の話は完全に江戸時代のこととして答えてるし、 オレってホントにうっかり者だ。 54の話は忘れてくれ。
松下 幸之助 1899年頃、父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し下駄屋を始めた。 しかし父には商才もなく店を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。 後、奉公先を五代自転車に移した。 本田宗一郎 1906年 - 11月17日、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。 1913年 - 光明村立山東尋常小学校(現:浜松市立光明小学校)に入学。在校中に自動車を初めて見る、浜松町和地山練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を見学に行き、飛行機を初めて見るなどの経験をする。 1919年 - 二俣町立二俣尋常高等小学校(現:浜松市立二俣小学校)入学。 1922年 - 高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現:アート金属工業)に入社(当時の表現で「丁稚奉公」)。 >45 こんなところで聞くより著名な起業家をググったほうがはやい
>>52 貧乏農家出身の野口英世は金の無心が得意だったというけど、ちゃんと返したんだろうか?
59 :
日本@名無史さん :2011/04/17(日) 22:20:53.27
つか戦前(大正、昭和初期)に個人経営のサラ金ってあったの?
>59 街金みたいなのは有ったらしい。
>>59 質屋→人質屋(女郎屋)的な感じで借金するケースは多かったみたいだな
女郎屋は大抵ヤクザ的な組織と繋がっててこれがまた江戸期の酒屋や蔵元や運送人夫の元締めとつるんで個人に金貸ししてたらしい。
63 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 06:08:11.63
戦前(大正、昭和初期)、日本に一旗あげに来た朝鮮人で起業して成功した人っているのでしょうか?
64 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 06:10:04.58
>>63 ですが台湾人でもお願いいます。
あと戦前来日して戦前に成功したって意味です。
65 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 01:53:32.86
66 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 20:58:46.02
弥生式土器とその後の 陶磁器は技術的に繋がり ますか?
土師器には土器と連続性があるが、消滅した。祭祀用の「かわらけ」として残っているかもしれない。 朝ドラ『ちりとてちん』に「かわらけ投げ」が出てきた。 主力は、須恵器のような焼成温度が高い陶器にとってかわられ、連続性は弱い。
>>66 粘土をこねて焼くという程度の関連性しか無いな。
>>66 縄文式土器(粘土をこねて縄の模様をつけ、野焼き)→
弥生式土器(粘土をこねて野焼きするが、上から藁をかぶせることで高温に)→
須恵器(粘土をこねて、窯で焼く。高温にすることで割れにくくなる)
ここまでがいわゆる「土器」と呼ばれるもので、日本では室町時代まで
京都のような文明地でも土器だった
70 :
69 :2011/04/20(水) 18:51:42.01
(続き)安土桃山時代から、陶磁器登場。 豊臣秀吉が朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮の技術者から技術が広まりました。 陶磁器と土器は、材料が違います。 陶器はモロリンなどを多く含む粘土質、磁器は長石、石英などを多く含む粘土質。 日本国内で弥生式土器から発展してやがて陶磁器になったというより、 須恵器も陶磁器も、大陸や半島から技術を輸入して誕生しました。 中国の歴史の中では土器(野焼き)→須恵器(窯焼き)→陶磁器(彩色) と進化しましたが、日本ではその技術を輸入しています。
奈良時代にはいり、釉薬を施したやきもの−瓷器(しのうつわもの)という−が現れます。中国唐時代に登場した唐三彩の影響を受けた奈良三彩、緑釉陶が日本最古の施釉陶器です。 これらは主として、美しく貴重なもののために祭祀用に使われました。八世紀には白瓷と呼ばれる灰釉を施した高火度焼成陶器を愛知県の猿投窯(十一世紀に無くなる)が作りました。 古代から須恵器を生産した古い窯場でありながら、今日まで続いている窯を六古窯と呼んでいます。 それは、順不同ですが、猿投窯の分身ともいえる愛知の瀬戸焼(御深井印花盃)、常滑焼(常滑抹茶碗)、それに岡山の備前焼(備前茶碗)−鎌倉後期に酸化炎に戻る−、 兵庫の丹波焼(丹波天目茶碗)、福井の越前焼(灰釉ぐい呑)と佐賀の唐津焼(中里太郎右衛門 絵唐津ぐい呑)−これは桃山時代から−を指します。 中世 平安末期から鎌倉、室町時代にかけては、昔の土師器、須恵器と釉薬を使った瓷器とが同時に使われました。土師器には瓦(遠州鬼瓦)も含まれ、かわらけ、ゆきひら等今日でも使われています。 須恵器も中世では、伝統の黒い還元炎焼成を貫いた例が珠洲焼(珠洲筒茶碗)で、茶褐色の酸化炎焼成を行ったのが備前焼(備前花生け)です。 多くの須恵器窯は十五世紀前半に姿を消しました。中世を彩るやきものは瓷器系統の窯です。 常滑焼(窯変花生け)等の東海にある諸窯、その影響を受けた越前窯(灰釉ぐい呑)等の北陸諸窯と信楽焼(信楽壷)、丹波焼(壷銘「山椒」)があります。 また伝統の猿投窯を受け継いだ瀬戸焼(鳴龍盃)は、前代の中国陶磁器の模倣品として青磁、白磁を生みました。十五世紀には瀬戸焼から美濃焼へと発展しました。 桃山時代 十六世紀、瀬戸、美濃ではこれまでの灰釉や鉄釉に加えて緑釉、黄釉、白釉(長石釉)が登場しました。 また美濃焼人間国宝の加藤卓男氏の研究によって、桃山時代を代表する織部焼(美濃焼 織部抹茶碗)が、アラビアからベトナム(織部葡萄釉石灰壷)へ伝わり、美濃へ到来した事が明らかにされました
72 :
日本@名無史さん :2011/04/21(木) 19:22:04.55
神皇正統記(岩波文庫 岩佐正 校注 2010年11月10日 第15刷)を読んで 疑問に思ったので質問 神皇正統記の仁賢帝の個所にこういう記述があったので引用する >第25代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父の皇子をころし給しことをうらみて、 >「御陵をほりて御屍をはづかしめん。」との給しを、顕宗天皇いさめましまししによりて、 >徳のをよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。 とあるが、雄略帝の御陵を破壊しようとしたのは顕宗帝であって 雄略帝の御陵の土を少し掘っただけで帰ってきた億計尊(後の仁賢帝)は 「父王の恨みからすれば確かにそうであるけれども天皇の陵をどんな理由があろうとも 良くない事である」と顕宗帝を諌めた と俺の記憶ではなっているんだがこの引用部分って北畠親房の記憶違い? それとも元ネタってあるのか?
73 :
72 :2011/04/21(木) 19:29:42.57
おっと引用の所をチト間違えた ×顕宗天皇いさめ ○顕宗いさめ
あの漫画やパチンコとは異なり史実の前田慶次と前田利家は仲が良かった というのは本当ですか。 しかも利家の方がカブキ者で慶次の方が堅物だったとか。 更に両者の年齢差は数年級だったとか・・・・
75 :
日本@名無史さん :2011/04/22(金) 06:16:15.42
>>74 そういうヲタくさい質問はヨソでやれ
ここは学問としての日本史を扱う板だぞ
76 :
日本@名無史さん :2011/04/23(土) 13:09:35.44
龍馬の「日本を今一度せんたくいたし申候」って手紙だけど 本当に幕府は外国船を修理してたの?
>>74 前田慶次に関しては信頼出来る一時資料が殆んど無く交友の有った他の武将に関する資料から間接的な推測をするしかない状況。
というわけでなんとも言えない。
ちなみに漫画とは異なり彼は沖縄に行ってない。
ミロシェビッチだが、ユーゴスラヴィアを今一度せんたくしたく候
>>77 あれは当時のNHK大河ドラマにあわせただけだから
>74 その説はオレも読んだ。 たぶん同じ本で読んだんだろう。 結論としては77の言うとおりだろう。 マンガやパチンコのあれの描写も、諸説の一つという程度の位置づけ。 どちらが正しいとか言える状況にはない。
諸説の一つも糞も無い 殆ど創作、嘘だよ 低脳が憶測で質問に答えるなよ
つか漫画やテレビのネタの質問なんか 相手にすんなよ ここは学問としての日本史を扱う板だぞ
江戸時代の藩の境って、モザイク状になってたり飛び地ばっかりだったりする って明確な境は無いとか何かで読んだけど、 「街道をゆく」でどっかの藩境跡で記念碑も立ってるみたいな記述があったんだけど、 実際はどうだったの? 藩によって違うなら、どういう基準で違うの?
日本には西欧のような城塞都市が無いのは地形の問題ですか?
大量に煉瓦を焼いて積むという技術が無いから。
普通の村の周りだって、戦国期にはちょっとした城壁で囲まれたりはしたんだよ。 江戸時代には破棄されたけどな。 ただ、ヨーロッパの城砦と違って石垣(や煉瓦、ってか煉瓦は作られてない。)の城壁は稀だったはず。 ただ、頑丈さという面で言うなら、煉瓦より版築工法の土壁の方が、戦時の堅牢さという点では頑丈なはず。 焼き煉瓦と違って雨で削れるけど。 城塞都市が未発達なのは、戦乱の時代が短かった点とか、 領主の密集度が高かったであろう点とか、別の原因を探すべきではないかな。 煉瓦は原因じゃないよ、どう考えたって。
自分は84ではないけど、日本と西欧との治安状態の違いから という可能性はありますか?
>87 中世は「自力救済」の時代で、治安という意味での差は大きくはないと思う。 ただ、仲裁を担当する機関が、恒常的ではないにしろ、活発に活動していたようには思える。 要するに幕府とかだが。 (江戸時代は中世じゃなく近世で、江戸幕府のことではないよ。) 人口密度に関しては、生産性の差とかが関係するかもしれない。 小麦よりは米の方が面積あたりの収穫量が高いし。 といっても、寒冷で生産性が低い中世には、日本だって人口密度は高くはないけども、 ヨーロッパの過酷すぎる状況よりはマシだったみたいだし。 一株の小麦の穂から、せいぜい3粒ほどの種小麦しか収穫できないって、ムチャクチャだ。 よほど広域な田畑を確保しないと、都市どころか農村さえ維持できない。(農村も城壁で囲まれてます) ということは、最も近い隣村まで徒歩で一日弱ぐらい、とかいう程度の間隔になるってトコじゃないかな? 一つの都市が束ねる農村の数を考えると、全体の人口密度はかなり低いと見てよさそう。
日本の場合は塀より濠だな 作るのが楽だし 水でも張られると塀より厄介だし
徳川光圀の娘ってなんで旗本に嫁いだの?
>>83 川を境界線にすると川の流路の変化で飛び地が出来るそうだ。(うちの地元の川岸がソレ)
A藩 川川川 B藩 だったのが
A藩川川川A藩 B藩
92 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 22:00:15.11
日本で、一般庶民でも食材に贅沢を言わなければ、とりあえず必要な栄養は充分に取れるだけの量を 腹いっぱい食べられる様になったのは、高度経済成長期からの事でしょうか?
だね それ以前は無理だった。
94 :
92 :2011/04/29(金) 23:10:04.62
ありがとうございます。やはりそうでしたか。
>日本で、一般庶民でも食材に贅沢を言わなければ、とりあえず必要な栄養は充分に取れるだけの量を >腹いっぱい食べられる様になったのは、高度経済成長期からの事でしょうか? 高度経済成長期以前の日本ではブルジョワしかおりませんでした。 ブルジョワのみが贅沢を言わなければ、とりあえず必要な栄養は充分に取れるだけの量を腹いっぱい食べられたのです。 貧乏人は自動的に死にます。 素晴らしい社会システムです。 ユトリには理解できないかもしれないので一応書いとくがコレは皮肉だぞ。
化学肥料の大量生産と現代型の流通体制が構築されないと達成できないからな。
幕末・明治初に来日した欧州人 「日本人の大多数は全員栄養失調」 昭和中期以降 「欧米の栄養学・ライフスタイル一般人も導入→成人病の増加」 昭和中期以降の概念で昭和前期以前を語る愚かしさ…
>>93 そんなことはない
>>92 「食材に贅沢を言わなければ」という条件ならば、たとえばドラマ「おしん」で幼少時代のおしんが大根飯ばかり
食べさせられていたような粗末な食生活でもいいのであれば、不作による飢饉とか戦争による物資不足などの
特殊な状況の時を除いて、ほとんどの庶民は、いつの時代も、ちゃんと腹一杯食べていた
まあ、栄養学やそれに相当するものはなかったので「必要な栄養を」という条件については微妙だが
米と雑穀が食生活の中心だから、栄養は偏っていた
ライフスタイルはともかく、栄養学の導入は大正期にも積極的に勧められたはず。 栄養学は無視して、とりあえず、食べ物の量だけでも確保しようとしていたら、 戦時中(大戦末期)の配給食はもう少しマシになっていた可能性がある。 少しでも多くの品目を確保して、栄養の偏りを避けようと苦心した形跡がある。 量的には全然たりなかったけど。 平均的な庶民よりも苦しい生活状況または戦時下なり飢饉などでなければ、 腹一杯は無理ながら、生きるのに当面は充分な程度の食事は出来たはず。 ただ... それでも充分ではなかったから、乳幼児死亡率は高く、平均寿命が短かった。
>ライフスタイルはともかく、栄養学の導入は大正期にも積極的に勧められたはず。 だから一般人と書いている戦前の日本の庶民に幻想餅杉 西洋の栄養学が絶対正しいのなら、西洋的栄養学では生命活動を維持できない禅僧は全員 こっそりと食物を接収していたはずだとでも決め付けるのかい? >乳幼児死亡率は高く、平均寿命が短かった 平均寿命の長短は乳幼児死亡率に左右されているのだからここは 乳幼児死亡率は高いので、平均寿命が短かったときちんと書くべき そして戦前の乳幼児死亡率は都市部と農村では大きな差があり 都市部での乳幼児死亡率の高さは食糧事情のみに起因しているわけではないことも記すべき
空中窒素固定のハーバーボッシュ法が1912年 コレが日本で普及した時期が問題だな。
102 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 12:02:31.02
かなりの歴史音痴なんですが 江戸時代はエコな暮らしだったとかシンプルだったと良く聞くようになりましたが なにか素人にも読める参考図書ありますか? 教えてくたさい。
外敵から煉瓦塀で防衛しなければならないような、高度で大規模な都市があまり求められなかったからじゃないかな。 農村は居住区が集中しているわけではないし、しても意味ない。 行政都市は城がその役を担う。商都なら博多や堺のような例があるけれど。 「山や川を利用する」「堀で囲む」という程度なら結構あるんだが。
>100 >平均寿命の長短は乳幼児死亡率に左右されているのだからここは 「主に」乳幼児死亡率に左右されているのは確かだが、 栄養状態が悪かったから、高度成長より以前の人は現代人よりも老化が早かった。 栄養状態が改善された高度成長期以後、急速に高齢者人口が増えてきた。 確かに医療の改善も大きいが、元気老人が増えたのはむしろ食糧事情による。
>ブルジョワって成金って意味なんだが… スゴイ物知りさんだとお見受けするがバカはバカ同士で会話すべき(苦笑 >栄養状態が悪かったから、高度成長より以前の人は現代人よりも老化が早かった 戦前の高齢坊主が血色良いのは何故? 適度の運動と粗食が老化防止に向いているのは現在の健康番組でも言われている >高度成長期以後、急速に高齢者人口が増えてきた。 確かに医療の改善も大きいが 「ペニシリン」等の医療技術の進歩だろ 「食糧事情」なんていうのは良いところもあれば悪いところもあるわけで それのみに拘りたいのであれば個人の所感ではなく根拠となる統計資料を掲示すべき
>>100 森鴎外が西洋式の栄養学を取り入れた陸軍は脚気に悩まされたもんな。
108 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 22:55:00.94
こんな話知りませんか? ・江戸時代にどこかの藩で、大規模自然災害が発生。 ・その藩の大名は災害の余りの甚大さに自力復興を断念。 ・幕府に対し、「我が藩を天領にして、家臣領民を幕府が救ってください。」 あったとすれば、 どこの藩の、いつ頃の話でしょうか?
110 :
108 :2011/05/01(日) 00:18:23.27
>>109 ありがとうございます。リンク先の文、引き込まれて一気に読みました。 なんとも壮絶な話ですね。一方で、当時と今では科学技術に格段の差があるものの、個々の人間や 幕府=政府、各自治体、民間業者の本質は変わってなかったりして。
111 :
日本@名無史さん :2011/05/01(日) 00:47:50.58
赤穂義士の神崎与五郎と箕作十兵衛との関係を教えて下さい。 親族らしいのですが、名字が違うので姻戚かとは思うのですけれど、よく分かりません。 この箕作十兵衛と箕作義林という人物とは別人なのでしょうか? 他のスレにて問うても返答がないので、よろしくお願いします。
>>111 wikipediaには神崎与五郎の父の妹の夫が箕作義林と書いてあるな。十兵衛はその子かな。
wikipediaだから信憑性はどうだろう??
114 :
日本@名無史さん :2011/05/02(月) 02:06:50.29
115 :
日本@名無史さん :2011/05/02(月) 02:09:23.86
d
1871年(明治4年)に廃藩置県が行われたのに、翌1872年(明治5年)に、琉球藩(琉球県ではなく)が 設置されたのどうしてなのでしょうか?
117 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 11:51:52.96
幕末に目明し文吉が殺されましたが、その時の殺害方法とか 屍骸の晒し方がよく分かりません。 詳しく教えて下さい。
118 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 21:30:49.25
誘導されて来ました。質問させて頂きます。 1850年に完成したとされる、幕府のスループ船「蒼隼丸」はどんな形をしていたのでしょうか。 画像が見られるサイト等を教えて頂けると助かります。
119 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:03:07.97
徳川の名がつく人で一番長生きしたのは誰ですか?
この前のお宝鑑定団で武田家文書がでておりましたが(武田勝頼時代の) 土木工事が何かの御達しでしたが、宛名は苗字がなくOO衛門とだけ 戦国期も農民は正式には苗字が名乗れない?(格式上書かないのでしょうか?) また、戦国期の軍役(これは兵員と 兵糧の2種類ですが)どちらも 負担させられるのは地侍以上に限られるのですか? 農民の場合は伝馬や年貢の負担程度?
やっぱ家康じゃね?
慶喜の方が長生きしてるよ(家康75歳、慶喜77歳) 御三家や御三卿や、明治以後の子孫とかで、もっと長生きした人もいるかもしれないけど
徳川家達は享年が78らしいから、慶喜より1歳だけ長生きだね。 (徳川宗家16代当主) その嫡男である徳川家正も78歳らしい 家正の嫡男である徳川恒孝氏は存命。第18代で現当主。 いま71歳らしいが、きっと78歳を超えるんじゃないか。 支流の面々は知らん。 が、いま見たところ、紀州藩の二代目 徳川光貞は享年79(満78歳没)らしい。 満78歳あたりが上限なのか?
旗本や御家人にも親藩(っていうのか?)や譜代や旗本の区別があるの?
125 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 21:40:19.77
黒船で有名なペリーは、鬼のような肖像画がありますよね。 人々にはペリーがあのように見えた、とされていますが、あの鬼のような肖像画はペリーを見た人が描いたんですか? それとも、誰かがペリーの噂を聞いて描いたんですか?
126 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 23:19:21.26
松下村塾って伊藤や井上とか多くの人材を輩出したけど、これは吉田松陰のおかげというより そういう派閥に属していたから明治政府の要職につけたってのあるのかな?
>>125 先日のTBSの番組では噂というか、何も情報が無いんで鬼のように描いたと説明してたな。
とっ、外様の旗本?
ソースがテレビかよww
質問です 綿甲ってあるじゃないですか あれって、やっぱ養蚕が発達してる国が装備できるものでしょうか? 天蚕の真綿でもOK?
131 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 00:07:28.65
幕末に目明し文吉が殺されましたが、その時の殺害方法とか 屍骸の晒し方がよく分かりません。 詳しく教えて下さい。
以前、上司に自分の尻を狙われ追い掛け回されて困るというような内容の 日記を書いた平安時代の貴族がいたとどこかで見たのですが、 それが誰だったか、思い出せずにいます。 内容がアレなんですが、詳細をご存じの方いたら教えてください。
>>133 藤原頼長が男色で有名だったような。
色んな奴のカマ掘ってたみたいだからその筋(裏筋じゃないぞ!)で調べてみたら何か分かるかも。
>>133 なんかあったな
頼長に孝標が掘られたって話だっけ
>>130 生産できないにしても、公益などで潤沢に入手できれば、綿甲の生産は可能。
所詮は上着の延長。だが絹で作る必要はない。
中央アジアあたりじゃ手元にある羊毛でしょうし、天蚕の綿でも作れるでしょう。
日本では綿(真綿、家蚕の綿)だったでしょう。天蚕は生産量が少なかったので
奈良時代に作られたかどうか疑問。
138 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 19:09:11.44
>>136 ありがとうございます
ウール製綿甲は目ウロコでした
やはり養蚕か購入ルートの確保って事ですね
誰がどの古墳に埋葬されたのか、わからなくなってるのはなぜでしょうか?(主に天皇家) 同時代の古事記や日本書記などの書物は残っているのに、 支配者がどこに埋葬されたとか基本的な事が記録等に残ってないのは不思議だなと思って質問しました。
>>139 まず、古事記や日本書紀を同時代の書物としているところにツッコミを入れたいところだが、それはそれとして
記紀には、どこそこの古墳に埋葬されたとちゃんと記述はされてはいるよ
でもほとんどの場合、それが現地のどの古墳のことか、比定する決め手がない
畿内には古墳なんていっぱいあるから、地名の記述だけじゃ、その地域のどの古墳なのかわからないんんだよ
そして、その後、古墳なんて維持管理せずにほったらかし
だから、その間に誰の古墳がどれかなんて、すっかり忘れ去られた
現在の宮内庁の公式な比定は、幕末・維新の頃に、割と根拠なく乱暴に推定したもの
そして、天皇陵の可能性のある古墳は、宮内庁が調査を許可しないから、ますます正しい比定の決め手がない
>140 >古事記や日本書紀を同時代の書物としているところにツッコミを入れたいところだが 初期の古墳だと記紀の編纂より500年ぐらい前。 後期古墳でも記紀より百年とかに百年前のが多い。 記紀編纂時は古墳の築造は衰退していた。 >現在の宮内庁の公式な比定は、幕末・維新の頃に、割と根拠なく乱暴に推定したもの なので、島上郡と島下郡を取り違えて推定してたり、 平城京に隣接してる古墳のハズと考えて指定した古墳は実は古い前方後円墳で、 平城京を作る際に削られただけのシロモノだったと、後になってから判明したり、 などという感じで明白な間違いが判明してるモノは数知れず。 ところが江戸時代には、その不正確な推定に基づいて、古墳の姿を復元する工事をしてしまったものも少なくない。 ただ、どの古墳にどの天皇が葬られた、という記録は、記紀に収録されているよりは詳しいものが当時はあったと考えられる。 天皇陵を祀る際に、被葬者を間違えてしまってタタリが起きたという古い記録があるぐらいだから。
>>140 141
お二人とも詳しくどうもありがとうございました!
疑問に思っていたのですが、謎が解明しました。
仕方ないとはいえ、長い間に忘れさられるのはなんだか切ないですね。
143 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 12:52:21.99
江戸時代、京都の武士がどんな仕事・生活してたのか良く分らないんだけど 江戸と似たような感じ?
>>142 実は古墳だけではないのです。
平安時代も、天皇は桓武から安徳まで32代おられますが、
現陵で確実に間違いないと言えるのは、
醍醐・白河・鳥羽・崇徳・近衛・後白河・高倉の7基しかなく、
現陵の蓋然性が一応あるものから、完全に指定誤りであるもの、
散骨など薄葬によったものなど、実に4分の3以上は不確実な天皇陵なのです。
145 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 15:29:19.45
天皇の歴史について語りたいなら小林よしのりの『天皇論』は必読
146 :
142 :2011/05/11(水) 21:33:50.58
>>144 145
ありがとうございます!
平安でも埋葬場所がはっきりしてない所が多いのは知りませんでした。
このスレは教科書に載ってないような事とか皆さん色々知っていて為になります。
>>147 しかし、お前昔の人のカマ掘り調べて何すんだ?w
その時間使って女にメールしたり電話した方がww
>>148 何するって言われても…特に何も
単純に思い出せないのが気持ち悪かっただけです
150 :
日本@名無史さん :2011/05/14(土) 12:55:09.11
質問です。豊臣秀吉はなぜ、朝鮮出兵のさいに明国に出した書状で 「平秀吉」と名乗ったのでしょうか?私が知っている限りでは、秀吉の姓(苗字)は 木下→羽柴→藤原→豊臣 と変わって「平」と名乗ったことはなかったように 思うのですが。
>150 姓と苗字は違う。 明治維新までは姓と苗字は別々で、 苗字のない人を例外として(この場合は姓も苗字も持たないのが普通か)、普通は両方を持っていた。 平という姓を用いていた時期があるんだよ。 織田信長だって、苗字は織田のまま変更してないけど、 姓は藤原から平に変えてるぞ。
農家は公式には苗字を名乗らないが 姓は無い状態でも、苗字に屋号を使っていたよ。
153 :
日本@名無史さん :2011/05/14(土) 19:36:09.61
>>150 名字(姓)の推移は
中村?(?)→木下(藤原?)→羽柴(平)→羽柴(藤原)→羽柴(豊臣)
かと思うけど、実際には筑前守に任官するときに信長にならって平朝臣を名乗ったのが初めかと思うが、妻の実家の杉原氏が平朝臣を名乗っているのも関係しているかも
姓って変えられるモンなの?
>>154 信長も家康も変えてる。実力で文句を言わせないって事だけど。
朝廷に家系図を提出して、 祖先の某が○○姓なので、その子供および子孫一同(自分も含む)、全員を○○姓に変えます。 と申請する手続きで改姓できたらしい、少なくとも奈良時代には。 戦国時代に姓を変えた人たちも、方式としては、それの亜流だとおもう。
元号の改元について質問です。 国民が元号を周知するようになったのはいつからですか? 例えば645年の末端の農民でも大化になったって知ってるんでしょうか? 改元するたび使者が全国に新元号を触れて廻るのですか? ○○3年だと思ったら3ヶ月前から□□元年でしたと言われちゃうんでしょうか?
>>153 ありがとうございます。筑前守任官のときに平氏を名乗っていたのですか。
でも豊臣は朝廷から新しく下賜された姓なのだから、わざわざ古いほうの姓を
名乗る必要はないようにも思うのですが… そのへんはどうなのでしょうか?
159 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 08:50:36.14
「古いほうの姓」とは??? 筑前守任官は1575年 藤原朝臣になるのは1585年 豊臣朝臣賜姓は1586年
秀吉本人が明に対して「平秀吉」と名乗ったのではなくて、 明側が当時の秀吉を「平秀吉」と認識し、そう呼んだだけではないのか? 平秀吉という呼称は、明側から与えられた国書や明側の記録の中の表現だし。 まあ、和平交渉の中で明にあわせて小西とかがそういう呼称を使った可能性もあるが。
気になって検索してみたら、小西が明の交渉相手と共謀して偽造した「関白降表」には、 「臣 平秀吉」とあるから、やはり明側での呼び方に小西が合わせたということだろうな。
先の室町幕府諸軍が源姓であったのに対して、秀吉が平姓であることを明側が知ったのは、 日本側がなんらかの方法で平秀吉の名で伝えた可能性は十分にある。 秀吉が最初に国外(朝鮮)に送った国書と推測されるものは天正15年に遡り(現存せず)、 このときの秀吉国書が平姓であった可能性もある。 朝鮮では今も秀吉の名は平秀吉が一般的。
尚、明は現存する和平交渉一通目では「平秀吉」と呼んでいるが、 二通目、明皇帝が秀吉を日本国王に封じたときには「平豊臣秀吉」と文中で呼んでおり、 豊臣という姓をこのときに伝えた形跡がある(ただしこの時点では平と豊臣の二重姓になっている)。 明の皇帝は秀吉の家臣たちにも位を与えてるが、家臣団は皆豊臣姓。
165 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 11:38:18.45
万暦帝w 地下宮殿www
平信長、平(藤原)秀吉、源家康ときて 源平藤橘の橘を自称しなかったのはなぜなんでしょうか
167 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 23:02:35.11
さっきテレビで薩長戦争のやつやってたけど、結局どっちが薩摩でどっちが長洲かわからなかったけど、どっちがどっちなんですか?
>>166 源平藤橘とは言っても橘はとっくの昔に脱落したから忘れられた存在になっている。
>>167 何を見たのか判らんがそんな戦争は無い。禁門の変の事か?
>>167 もしかしてラストサムライか?
あれは単なるファンタジー映画だ
六条合戦に名前の出てくる薬師寺九郎左衛門と、 それ以前に没落した薬師寺与一の関係ってわかってるんでしょうか
173 :
日本@名無史さん :2011/05/17(火) 17:05:51.65
橘氏は何故か信濃の豪族が末裔を名乗ってるのが多い・・・何か信濃に任官したのでもいるのかね?
質問です。 江戸時代、日本と朝鮮は国交がありました。 朝鮮からの使者が日本に来ていたのは周知の事実ですし、 日本からの使者はソウルまでは行っていなかったようですが、国書は行っていたはずです。 で、東アジアで国書をやりとりする上で重大な問題があります。 元号はどうしていたのでしょうか? 1.両方とも日本の元号 2.両方とも中国の元号 3.片側は日本の元号、片側は中国の元号 (たとえば日本発朝鮮行きは日本の元号で、朝鮮発は中国の元号、など) 4.元号を書かず、干支だけを書く 5.その他
管玉について質問します。国内において、らせん状の管玉の出土例は今までにありますか? §←こんな感じのです
>>176 くがたま同士がチェーン状に繋がっているってこと?
178 :
日本@名無史さん :2011/05/20(金) 10:07:15.62
平田篤胤の研究にキリスト教の影響があるっていうけど、 どうやってその知識を得てたの? キリスト教関係の書物とか輸入禁止されてたんでしょ? なんとか手に入れても、キリスト教関係の内容を書いたら、 発禁になったりしなかったの? そして、その読者の国学に関心がある層なんかは、 国粋主義でキリスト教とか嫌うと思うんだけど。
>>179 鎖国中であっても中国の清とは交易があり、漢籍を読むことは奨励されていました。
平田篤胤は中国人思想家の書いた本を複数翻訳をしています。
その中にキリスト教に関する記述があり、そういったところから知識を得ていたよです。
>>175 当時、明が撤退した朝鮮に対して日本は軍事的にやや優位な状態にあり
慶長13年(1636年)、徳川幕府は朝鮮に対して将軍を日本国大君と呼ぶようにという要求とともに
国書に日本の年号を記すことを通達。1.両方とも日本の元号 です。
182 :
181 :2011/05/20(金) 19:28:24.02
尚、徳川幕府の慶長13年の通達以前は、江戸幕府との間で交わされた国書は 4.元号を書かず、干支だけを書く でした(どちらの国の元号も押しつけない)。 朝鮮国内では朝鮮の元号が使われていましたが(国王の名に在位年数)、対外的には用いられませんでした。
天パの人ってちゃんとチョンマゲ結ってたんですか?
>>183 気になる。本当にドレッドの如くうねってる人は男女共、ブサイク、ブス扱いだったんだろうか?
天パだから気になる。
>>183 椿油という舞奴さんや芸奴さんが髪を結う時に使う強い油で髪を引き上げて
強引に結んでいたらしい。
尚、日本では鬘(かつら)の歴史は非常に古くて、
平安時代の「源氏物語」にはすでに髪が薄く足りなくなってくると
かもじとよばれた人毛で髪を足していたことが知られている。
>>184 平安貴族の女とか、天パに生まれたら人生詰んでただろうなw
>>187 人生詰んでるような女の方が
現在の価値観からすればアウトドアで清潔な女だったりする
有名な古典にもちらほら
素人・初心者です。 @真田昌幸が徳川軍を散々挑発して帰りに能を舞いながら帰っていったのは一次史料にあるのでしょうか? A大坂の陣の前に家康が、真田入城を聞いて「親か子か」と聞いて震えてたのは一次史料にあるのでしょうか?
>>189 マルチか?
このスレで答え出てる
【大河ドラマ】江 〜姫たちの戦国〜 アンチスレ 52
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1306084013/ 483 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 23:05:00.54 ID:AsQ+d6Q2
史実に詳しい人に質問なんだけど、昌幸が徳川軍を散々挑発して帰りに能を舞いながら帰っていったのは本当なの?
家康が、真田出陣を聞いて「親か子か」と聞いて震えてたのは一次資料あるの?
510 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 23:29:22.79 ID:e/WmPldz
>>483 >家康が、真田出陣を聞いて「親か子か」と聞いて震えてたのは一次資料あるの?
×一次資料
〇一次史料
一次史料には無し
614 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 02:37:54.86 ID:W4m+n+Hr
>>483 家康の「親か?子か?」は完全なフィクション。昌幸がすでに死亡していたことは、お目付け役の紀伊浅野家から報告されてますので。
家に土器があるのですが、普通に水でごしごし洗っても大丈夫ですか? ずっとしまわれてて、土が沢山ついてて汚いのです。
>>184 天パのことを「逆髪」(さかがみ)と呼ぶ。
不細工扱いどころか、仏罰だとまで言われる始末。
まともな人間扱いしてもらえない。
最終的には気が狂う。
という話が謡曲「蝉丸」にございます。
>>191 鑑定に出して価値が無い事が確認されたら思い切り洗ってください。
初心者ですが、質問させてください 江戸時代の打ちこわしは 凶作・飢饉→商人による米の買い占め→米価上昇 という流れで起こったんですよね? ではこの「商人」というのは、普段から米を売っていた米屋のことですか? それとも、金持ちの豪商が転売(?)目的で買い占めた、ということですか?
195 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:59:15.91
>>194 今の学校は、そんな事ばっかり教えてるのかぁ!
>>195 すいません、学校というか、大学生です…
自力で色々調べても納得できず、恥を承知で質問させてもらいました
もう少し言うと「商人が買い占める」というのがよく分かりません
これが、金持ちが転売目的で買い占めた、なら分かるんですが
もともと米を(独占的に)扱ってる米屋が買い占める、となるとイメージできなくて
>>196 それなら分かります!
つまり米屋は買い占めではなく売り惜しみ、他の豪商が買い占めて転売ということですか?
200 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 00:18:27.91
>>194 >>198 余剰のおカネは必ず投資に回る。
ひとり二人の意思ではどうにもならない、いつの時代でも自然な現象。
商人ってのは教科書や学術書特有の言葉でね。
じゃあ、商人って一体誰のことだ?具体的に何の誰兵衛って名前を言え、と言っても
誰も居ないんだな、これが。教科書や学術書ってのはそんなもの。
都会の紀伊國屋や近江屋の蔵、掻き回しても一粒のコメも出てこないよ。
「商人」とは、すなわち、余剰のおカネ(のカタマリ)のこと。
悪い現象を「鬼」という具体物になぞらえて言うみたいなもの。
大坂に米相場が立っていてね、おカネのカタマリが、今、買い占めれば儲かるとなれば、
米という相場の抽象的な対象を集中投資するワケ。現物のコメを買うワケではない。
相場を張る者には、町人も居ればヤクザ一家も居る。
為替が発達していて全国の機関投資家から資金が張られている。
庶民が、賭場で使ったカネも米相場の資金になってるのだから、庶民も米の買い占め
に一役買ってるワケ。当の庶民自身そんなこと百も承知で賭場通い。
現物の商品としてのコメは、農村の米倉に有ります。若干量は大坂の商品蔵にも有ります。
>194 米価上昇のあと、一揆でも埒が明かない場合でないと打ち壊しまではいかないのではないかな 一揆は合法で打ち壊しは違法だしな。 江戸時代も後半には、米の先物取引ってのもあって、転売目的で買い占めるのは普通だった。 転売目的で米を買うこと自体は江戸時代初期の米商人でもやってるよ。 ひとくちに「金持ちの豪商」というけど、 こういう買い占めに参加できるほどの商人って、 幕府や大名の徴税の一部過程を担うなど、半ば公的機関でもある。 先物ってのは、今秋(または来年?)にとれる米を予め購入予約するもの。 本来は市場価格を安定させる効果もあるんだが、たまに価格高騰を加速度的に悪化させることがある。 いま原油とか小麦の値段が上がってるのもこれと同じ。
しかし伊能忠敬の商人時代の業績に飢饉に際して米を買い集めて窮民に分け与えたというのがあるが。 米問屋の売り惜しみをやめさせる為に幕府が命令する事もあったし。
長州藩の奇兵隊は身分の差別なく入れたそうですが、 その中に女性も参加していたということはあるのでしょうか。 また、それ以外にも何らかの理由で江戸時代に女性が武器を持って 戦ったというようなことはあったのでしょうか。
>>203 新島襄の嫁の八重は会津の出で鉄砲の名人だったとか。勿論若松城防衛戦で戦っている。
>>203 戊辰戦争時の会津藩には、中野竹子率いる女子ばかりの娘子隊があって、
薙刀を訓練し、会津攻防戦の際には会津城で防御に当たっています。
その中で、会津藩士の娘山本八重(のちの新島襄夫人)は銃を操り、
薙刀の娘子隊ではなく、男性の正規軍に男装して加わり戦ったと言います。
江戸時代には武家女性で薙刀の訓練は施されていたようでしたが、専ら護身用で、
男性のように銃を用いた訓練はされておらず、奇兵隊に女性が入ることもなかったようです。
山本八重は女性であることを捨てて(男装して)正規軍に加わっていたようで、
珍しいことと言えると思います。
>>203 江戸時代でってことなら、島原の乱で原城に立て籠もった中にはかなり女性もいた
>>204 ,
>>206-207 ありがとうございます。
限定的な状況が主のようですが、女性が武器を持って戦うというのも
皆無ではなかったのですね。
天草一揆の後日本のほかで切支丹一揆は起こらなかったのですか?
切支丹は日本のキリスト教徒の事だから日本の他には集団では居ないんじゃないか。
211 :
209 :2011/05/28(土) 20:10:09.86
日本の九州以外の土地でという意味です。 すみません
シャクシャインの乱は ある意味キリスト教徒の乱といえるかもしれなひ うひひひひ
>>211 そもそも隠れ切支丹自体九州以外では聞かない気がする。
214 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 02:23:46.22
>>213 大阪の
高山右近が治めていた領地には
右近追放後もキリシタンが隠れてたはず
三島郡か
217 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 15:00:41.69
豊臣秀吉が、捕虜の目と鼻を削ぐ行為を沢山していたみたいですが、 何か理由があるのですか?
218 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 16:19:47.30
>>217 朝鮮出兵のことでしたら、耳と鼻です。
武将は戦功を報告する上で、客観的証拠の提出を求められます。
武将であるならば首、歩兵以下である場合は耳や鼻でした。
戦功を決めるためにそれらを持ち帰るように支持したのです。
尚、これは日本国内でも同様でした。
秀吉の朝鮮出兵(「唐入り」と呼んでたはず)では、 戦場で様々な蛮行が行われたと言われてはいるが、 もともと、戦国時代の日本国内の戦場で行われていた以外の新たな種類の蛮行はまったく行っていないはず。 奴隷狩りなどと呼ばれてるアレだって、日本国内で恒常的に行われてたことだしな。 その意味では、民族差別的なことはまったく行っていなかったことだけは確実だ。
日本国内だって奴隷狩りは残虐行為だろ
>>220 たとえば
武田信玄は敵の敗兵を大勢金山送りにしたが
当時の尺度でそれは残虐行為かい?
>>209 だいたいにして
キリスト教徒の抵抗において最上のものは
武装蜂起ではなく殉教だから
天草の例はかなりのレアケース
しかも一揆勢は
キリスト教への改宗を
そうではない村々にも武力で強制し
それを拒んだ村への攻撃さえしている
個人的感想だが
純粋なキリシタンというより
キリスト教系のカルト宗教っぽいんだよな
>>214 ブサイク、というか奇形扱いだったかもしれんのに、
よく遺伝子が残ったよな。絶滅しても不思議じゃない気がするが。
まあ、そうなったら俺も生まれてないんだがw
>>223 貴族なんて、全体から見ればほんのひとにぎりだろ
庶民には、相手が不細工だろうが、天パだろうが、えり好みできるほどの余裕はない
遺伝子が残るのは当たり前
逆に言えば選り好み出来るようになった現代以降はブサイクは自然淘汰されてもおかしくないのか。
美意識が数世代以上の長きにわたって維持された場合ならともかく...
明治維新後に激変したけど それまではかなーり長きに渡って 美意識が維持されてるだろ
質問です。 江戸時代二百数十年間を通じてずっと、おおむね蕎麦1杯=十六文だったのですか? 物価上昇はしなかったのでしょうか?
物価は上がってるモノもあり下がってるモノもあります。 信用貨幣の時代ならともかく、当時は貨幣発行量を容易には増やせないのでインフレが起きるのは難しかったですよ。 といっても、江戸時代も末期には、半ば信用貨幣的な状況になってましたけど。
元文の改鋳が転機です。
柴田勝家など、戦国大名が明治以降に位階を追贈されていますが、これにはどういった目的があったのでしょうか?
>>225 ということは、今後数百年くらいで
日本人の(見た目の)進化が急激に進むってことか
どっから今五百年くらいだの急激だの言う言葉が出てきたんだ
今五百年だって。 今後百年ね。 ついでに数も抜けてた。
>232 ブサxブサのカップルだって意外と居るし、 淘汰が進む条件が整ってるとは言い難い気がするがなあ。 それと、美形の基準が頻繁に変わるから淘汰が進みにくいという問題も。
どんな美男美女の組み合わせでも、その血筋が持ち合わせた ブサイク×ブサイクの掛け合わせは発現し得る 生まれるのは交配した個人×個人の子ではなく、 連綿と続く遺伝子×遺伝子の子なのだから その淘汰とやらが進むとしたら、個人の望むがままの遺伝子改変が 技術的に完全に可能となり、かつ法的に解禁になった後のことであろうよ で、何のスレなのだここは
237 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 23:59:25.47
239 :
237 :2011/06/05(日) 07:41:39.30
>>238 直垂ですね。
すばやい回答ありがとうございますー。
疑問が解決できて助かりました。
>>223 >>214 です。本当に。梅雨は辛いですが、頑張りましょうw
更に髪の話題ですが、月代のあるなしの基準は何ですか?時代によるでしょうけれど、徳川家茂はなかったですが、慶喜はありました。2人とも若かったのに。
ただの好みの問題だったりするんでしょう
>>240 そうかな?家茂に無かったというのが肖像画を根拠にしてるならあれは冠だぞ。好みとか流行もあるだろう
けど剃ってるのが普通。剃らないのは医者とか学者とかくらいかな。
>241 というか、剃ってないのは「元服していません」って意味。 今で言えば「未成年」ってこと。 ただ、現代と違って、年齢で一律に元服するわけじゃなくて、職業や身分によっては年齢を重ねても元服できない。 「童形」ってんだ。 偉い人の側に仕える人とかにもよくある。 そういう人は名前も「実名」や「仮名」でなく「童名」で呼ばれるんだよな。 戦国時代だと「蘭丸」とかがこれ。
244 :
日本@名無史さん :2011/06/06(月) 13:46:07.46
で。 家茂の場合は病気治癒祈願か何かで童形に戻したんだろうか? いくらなんでも元服前とは考えにくいんだけど... ひょっとしたら病気で元服が中止(延期)されてるうちに死んだってことか? (忍法帖レベルが低くて文字数規制されたので分割しました)
えーと中世・近世の江戸エリアの川のことはどこのスレで扱っていますでしょうか?
246 :
日本@名無史さん :2011/06/06(月) 16:48:36.47
家茂は、元服しているから、普通に月代を剃っていたはずだが、 幕末も押し迫った時期になると、殿様や上級武士でも総髪の人が増えてきた。 慶喜も将軍になる前の写真は月代があるが、将軍就任後は総髪になっている。 家茂の場合は、病気で月代剃るのをやめたのと、当時の流行の両方かも。
247 :
日本@名無史さん :2011/06/06(月) 17:38:16.56
幕末の大名、幕臣、一般武士の写真をいろいろ見ていると、 文久期の竹内使節団の写真あたりまでは、ほとんど月代を剃っているが、 池田使節団になると正使の池田長発自身が総髪だな。 慶喜も、一橋慶喜として禁裏守衛総督とかやってた頃は月代を剃っているが、 将軍になってからの写真(和装もフランス式軍装のも)は総髪だ。 勝海舟だって、軍艦奉行という立場上、月代剃ってないといけないのに総髪だし、 文久期以降はけっこう緩くなってたのかね? でも、小松帯刀は総髪するために、藩に総髪願いを届けていたというから、 幕臣とか藩士の場合は、そういう手続きは必要だったんだろうな。
>>240 です。
ググってみると、サイトが1つしか出てこないんだけど、文久の改革で、月代は必要ない、というお触れが出された、と書いてあるページがあった。
文久の改革が一つの契機だったのかも。
>>241 なんで医者や学者は剃らないの?
学者っても当時の学者ってアマチュアだったりして、職業じゃない(者が多い)よね
本居宣長の肖像画では剃ってないけど、
かれの本職は学者じゃなくて医者だよね
>>249 そうだねぇ。俺が頭に浮かべてたのは前野良沢だけど彼も医者だ。
身分標識として髪型を規制する法律があったわけだが、 医者とか軍学者とかは総髪と定められてたんだっけ?
252 :
日本@名無史さん :2011/06/07(火) 18:04:24.98
御典医なんかも剃髪しなければいけなかったようで、 適塾の緒方洪庵先生は、大坂の町医者時代は有名な肖像画のように総髪だったけど、 幕府に招聘されて奥医師になると、丸坊主にさせられた。 江戸に来てほどなく亡くなったのは、それがショックだったのか? 逆に栗本安芸守(鋤雲)は、最初奥医師だったけど、士籍に列せられて旗本になると、 髪を伸ばして結髪した。 松本良順も医者のままかどうか忘れたが、最幕末期には髷を結って士装だったはず。
253 :
日本@名無史さん :2011/06/07(火) 18:51:47.72
>>185 A級戦犯で終身刑くらった連中は、講和発効後にいっせいに出所したわけじゃない。
個別に仮釈になっている。
星野は、佐藤賢了ともども、高齢者の多い受刑者の中では比較的若い方だったから、
出所が遅れたのではないか?
年下の佐藤の方が先に出所したのは、ちょっと解せないが。
254 :
日本@名無史さん :2011/06/07(火) 19:11:21.68
剃髪と言えば、旧陸軍の軍人は将校でも皇族以外はみんな丸刈りだったけど、 明治時代はみんな髪を伸ばしてたな。 なぜ、明治の陸軍軍人は丸刈りではなく、髪を伸ばしていたのだろう?
陸士出あるいは海大出と帝大出はどちらが優秀だったのでしょう?
>>249 浄瑠璃作者や落語家も近代まで剃髪でしたね。芭蕉や西鶴も。
絵師も御用絵師になると剃髪している。
仏師(絵も像も)もそうでしたが、特殊技能持ちは僧侶と同様の姿・扱い。
特に絵師などは僧階(法印・法眼・法橋)を受けていますが、技術者に授け
ることは平安後期に始まったらしい。
出身身分ではなく、身につけた技能で貴人の側にもいられる。
そういう意味で、僧侶と同じという標識でしょう。
浄瑠璃や落語の場合は、元々が僧侶の唱導由来ということもあるでしょうが、
俳諧師も剃髪した様に、堅気の職業とは違う立ち位置の表明では。
元々、僧形の芸能者(賤民)も珍しくなかった。
257 :
日本@名無史さん :2011/06/08(水) 18:19:21.13
医者とか特殊技能者は、身分の高い人の側近くにも行けるように、 僧形(俗世間の身分にとらわれない)にさせられたと読んだことがある。
それ司馬じゃねぃ?
いや、医学史の本でも普通に出ていたな。 僧位は出自身分に関係なく与えられるものだったから
詰まらんスレだ
>>254 優秀だけど丸刈りが嫌で、陸士や海兵行かずに
一般の大学に行ったやつもいそうだよねぇ
「学士様ならお嫁にあげよか」って言葉が有名だが、一般の大学卒でも尊敬されてたからな。
>255 陸士出とか海大出だと普通は軍人になるから、軍以外で優秀な人材が育つかどうかを確認できる機会は少ないだろう。 逆に、帝大出で軍人になる人間が居たとしても(そういうルート自体はある)、 陸士出とか海大出の士官ほど役には立たなかったことは間違いないだろう。 なんせ軍事に関する知識が足りんから。 ただ。 学生の間の生活費を自力で工面する必要がある帝大より、 見習い(?)とはいえ軍人として給料をもらえる陸士とか海大のほうが、 優秀な人材を募集する上で有利だった可能性はある。 逆に。 高度に教育を受けた成績優秀な生徒ってのは、たいていの場合、 ある程度は裕福な生活をしている場合が多いわけで、 そういう出自であれば在学中の生活費が大きなハンデとなる学生は少数派だったかもしれん。 結論。 陸士出とか海大出の人間で高名な学者となった人は稀、ほとんどいない。 他方、帝大出の人間が軍人として出世することも、主に能力面で困難。(人脈/学閥的にも困難だが) それぞれの専門分野内では、それに合った学校を出ている方が優秀。 相手分野に入ると役立たず。(の場合が大半だが、稀にはたぶん例外が居るはず?)
264 :
日本@名無史さん :2011/06/09(木) 17:52:01.38
で、日露戦争の頃まで陸軍軍人(とくに将官)は、なんで丸刈りじゃなかったんだ? 山県も大山もみんな髪の毛伸ばしてるけど。
265 :
日本@名無史さん :2011/06/09(木) 17:57:20.38
昨日の剃髪ネタに便乗して質問。 明治維新のあと、断髪令が出て散切り頭になったとき、 それまで月代を剃ってた人はどうしたんでしょうか? 気にせず、そのまま断髪? でも、それだと頭の真ん中がカッパ状態になってカッコ悪いし、 やっぱり月代伸ばしてから髷を切ったのかな? でも、髪が伸びるまで、何ヶ月もかかるし・・・
世の中には帽子やカツラというものもあるんだよ
ここにいる人には初歩的な質問なのかもしれないんだが 何で壬申の乱の後に地方豪族の力が弱体化したんだ?
268 :
日本@名無史さん :2011/06/09(木) 21:05:34.92
公知衆ってどれくらいいたの?
そういえば岩倉使節団で木戸や大久保等は散切りなのに岩倉だけちょんまげの写真は有名だけど、 お公家さんでも江戸時代にはもう人前で烏帽子や冠を被っていなくても平気だったのかな。
>>267 教科書的答えで言わせてもらうと皇親政治行ったから
>267 弱体化したのは地方豪族よりも中央の有力豪族ではなかったか。 都で働く有力豪族達の大半は近江都がわで、敗戦に伴って勢力削減された。 蘇我氏も物部氏も、それどころか中臣氏も敗戦によって衰えたんだぞ。 中臣氏だけは、少し後に復活した上に、急伸したけど。
272 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 07:55:51.20
273 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 18:44:19.49
質問です。 1.死を間際にした徳川家康が藤堂高虎に「そなたとは宗旨が違うからあの世で会えないのが残念だ」 と言って、言われた藤堂高虎は即座に天台宗に宗旨替えした、という話がありますが、 この話の出典はなんですか? 名将言行録? 2.「宗旨が違うと違うあの世に行く」というのは、この話が書かれた当時は一般的な認識だったのですか?
274 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 22:35:13.22
275 :
明治 :2011/06/11(土) 12:51:46.22
明治維新についての質問です。 @新政府はなぜこの時期に攘夷の禁止に触れる内容のものを出さねばならなかったのか。 A新政府はなぜこの時期に五榜の掲示を出したのか。 これらのことを教えてください。 「なぜこの時期に」について言及していただけるとありがたいです。
276 :
日本@名無史さん :2011/06/12(日) 15:26:14.52
妙な質問で申し訳ないんですが、 鎌倉時代に入って武士がそれまでの公家に変わって日本を統治するようになった と思いますが、その頃の公家には既に全国を実際に統治する実務的能力は無くなってしまっていたのでしょうか? 律令制は完全に名ばかりのものになって公家も儀式だか書類の決済だかしか出来なくなっていたのでしょうか?
>>276 鎌倉幕府の威光は西国には届かなかったらしいですよ。
>276 >鎌倉時代に入って武士がそれまでの公家に変わって日本を統治するようになった という話が通用したのは20世紀半ば頃の話らしいですよ。 鎌倉幕府が支配したのは東国武士を主体とする御家人達だけで、 それ以外の武士とか、武士以外の人々を支配したわけではない。 律令制そのものは、細部で様々な変質をしつつも、生き残っては居ます。 公家社会を従来と大きく変えたのは、鎌倉幕府よりも室町幕府の方かもしれません。
279 :
日本@名無史さん :2011/06/12(日) 17:25:13.69
どんなに贔屓目に見ても鎌倉幕府が全国支配をしたと言えるのは元寇における非常事態を口実に幕府が総動員をかけられる体制が取れるようになってから。 しかもそれもなし崩し的だったから、今まで幕府の支配を受けていなかった武士や領主たちの反感が強く、討幕勢力の一要素となった。
280 :
日本@名無史さん :2011/06/13(月) 10:37:29.33
幕末関係の本を読んでいて、「伏見は京ではない」っていうのがよく分らないんだけど 「京」ってのは具体的にどこからどこまでのエリアを言うの?
>>280 直接の回答ではないが新宿は江戸ではないと言ったら驚くか?
>280 京ってのは、たぶん洛中のことだと思う。 伏見どころか祇園あたりでも洛外だけど。 伏見は京の南に接する隣町で祇園は京の東に接する隣町、じゃないかな。 京の南は九条までのはずだから、東寺のあたりまでだね。 東は鴨川まで。ちょうど京阪電鉄の線路の西に境目がある。 北側は一条までのはずだから、 等持院とか洛星高校とか北野天満宮とかは洛外だろう。 西は朱雀大路より西が洛外のはず(右京は洛陽じゃなく長安に擬せられたから洛中に入らないよね?) かつての朱雀大路跡は現在の西大路。 ただ、朱雀大路以西は洛中じゃないとは思うけど、「京」の範囲外になるかどうかは分からん。
284 :
日本@名無史さん :2011/06/13(月) 18:49:55.80
285 :
日本@名無史さん :2011/06/13(月) 19:24:33.35
>>276 武士の世になっても律令制度自体は廃止になっていなかったので、
たとえば朝廷が派遣する国司はずっと任命されていました。
しかし、平安時代末期の院政期には国司が実際には任地へ赴かないなど形骸化し、
鎌倉時代には関東で守護地頭の台頭により税金を集められない事態となり、
室町時代以降は赴任しない名誉職のようなものになってしまいました。
戦国大名にいたっては実際に朝廷から官位を受けてなくても○○守を称する者までいました。
実際に国司が完全に廃止されたのは明治維新の時です。
>283 それは違う。 右京を長安、左京を洛陽に擬したんだ。 だから、平安京が大きく変貌するより以前、平安時代前半までなら、右京を洛中とは言ってないだろう。 右京を洛中と呼ぶようになったとしても、後代の話だろ。 質問者が言ってる時代には洛中だったんじゃないかなーと思ったから282のように書いたが。 >275 1は、幕府による開国への反発がきっかけで倒幕が起こったのだから新政府は攘夷令を出すだろうと、 多くの人は予想していたんでしょう。 が、もし誰かが攘夷決行をすれば、薩英戦争や長英戦争のごとく、新政府への打撃になる。 幕府を倒しても攘夷は行わないと早期に明示する必要があったんでしょう。
287 :
日本@名無史さん :2011/06/13(月) 23:06:25.03
>>286 どっちも的外れだな。
>>280 さんのいう「京」は「平安京」の京だろう。
左京を洛陽、右京を長安と中国の都市から取った名前を命名したのは嵯峨天皇で、
のちに左京に行くことを上洛と呼ぶようになった。
京=洛中ではないし、京=平安京、洛中=左京(平安京の東半分)。
洛中洛外図屏風のように京と洛中の言葉は使い分けられている。
>285 関東諸国のうち1/3ぐらいにあたる国では、幕府有力者が国司となることが予約済みで、 幕府からの申請で国司任命される制度となっていました。 ということは逆に、幕府にとっても国司の地位は魅力的だったとも言えます。 また、鎌倉時代には、幕府に職制は守護にせよ地頭にせよ、 幕府によって臨時で作られた特殊制度で、律令によって公的に設置されたとは認定されていませんでしたが、 建武政権が国司と守護を併設した結果、守護という職務も律令のうちと(令外官の一種と)認定されるようになったのか、 鎌倉時代よりも守護の権限が大幅拡大しました。 その結果、多くの国で、国司が守護に職務代行を頼む(もちろん、高額の手数料が発生する、ようなものです)「守護請け」が普及しています。 (守護請けが早くに行われた例は鎌倉時代末期にも見られますが普及はしていません。) 律令官制を積極的に否定する動きが明確に打ち出されたのは、 戦国時代の「分国法」が最初と言った方が適切でしょう。 今川仮名目録などが、この点では代表格でしょうか?
前スレの最後の方で叩かれてたろ。もういい加減レスアンカーの付け方覚えろよ。
290 :
280 :2011/06/14(火) 11:04:04.55
レスくれた人ありがとう
>>281 新宿は江戸から外れてるイメージだけど、そういえば江戸も明確な境界が分らないな
>>287 難しいなぁ・・・
たとえば、8・18の政変で長州が入京禁止になったけど、どのエリアに入っていけないのか
たとえば、「龍馬が入京」とあったら、どの辺に来たという事なのか
>>290 京といえば平安京を差すのがもともとの語源だが、
安土桃山時代に豊臣秀吉が京にお土居を築いて以降、
江戸時代には概ねお土居の範囲内が京であるという認識があったとも。
お土居は北は鷹ヶ峰、南は九条、東は河原町通、西は西大路通に囲まれた区域で、
秀吉はこの周囲をお土居でぐるっと取り囲んで京城警護とした。
292 :
291 :2011/06/14(火) 11:43:39.22
>291-292 おお、ありがとう。 半端者の282=286も感謝します。 (283は前半が間違ってるので、オレと同レベルの半端さにとどまってる感じがする。 けど、朱雀大路と西大路の位置に関しては、感謝します。) 字数制限は忍法帳の仕様なので、高レベルな回答者の参加を妨げてしまう側面があって厄介ですね。 低レベル回答者に過ぎないオレの方が字数制限が緩いんだもん。
>幕末関係の本を読んでいて、「伏見は京ではない」っていうのがよく分らない 誰がどういう立場で発言したのかを言わないとまとまらないんじゃねぃ? 古い本だけど『日本都市史研究』のなかで西川幸治氏は建築史学の立場から 左京の興亡・右京の衰亡、白川・鳥羽への都市域の拡大、六波羅への発展を序章で概括的に述べておられるよ
伏見区はもともと伏見市であり 京都市に編入され、醍醐と合体して伏見区となった。
296 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 22:51:54.47
そこだよ 10年後の子供が「清水が静岡(市)じゃないのが分からない」と言っているようなもんだろ?
297 :
日本@名無史さん :2011/06/15(水) 02:21:17.00
女で晒し首になった人っているのでしょうか? 例えば有名人とか 具体的に言うと秀頼と淀が生きて捕まったら切腹→晒し首は確実?
>>297 秀頼は捕まったら処刑→晒し首だと思うが、淀は家督相続者ではないので晒し首はなし。
>>299 淀が助命されるかは微妙。
大名の母親が、息子が滅んだあと敵に捕まり殺害された例がある。
井口阿古(小野殿)=息子の浅井長政が滅んだあと、織田方につかまり
十本の手の指を数日かけて切り落とし殺害(淀殿の祖母)
幼い秀頼の娘ですら千姫の助命嘆願がなければ殺されていたとされており、
大阪城の経営に深くかかわった淀殿の助命はなかったかも。
世論を恐れて真田幸村ですら晒し首にしなかったのに、 秀頼を晒し首にするかな? 天下に見せつける意味はあるにしても、 いたずらに大阪の人間の動揺を誘うだけで、リスクが大きい割に、家康側にそれほどメリットはない。 家康の狙いは豊臣の除去自体が日本の安定であって、 豊臣を憎悪して言いがかりをつけたわけではない。 秀頼を晒し首にして新たなる復讐の火種を作る事はしないだろ
>>301 秀頼の長男国松丸は六条河原で処刑され晒し首にされているよ
幼い国松丸ですら晒し首なのに秀頼が晒し首にならないことはないだろう
真田は首謀者でないから晒し首でないだけだろ
復讐を恐れるなら国松丸を処刑したり晒し首にしたりすることもないだろうし
すでに亡くなっているかつての主君豊臣秀吉の墓を破壊することもない
家康が豊臣を憎悪してなかったというのは嘘だと思う
さらし首にされたかどうかは知らないけど、戦国時代に残酷に処刑された女性といったら、おつやの方 信長の叔母にあたる人だけど、その信長によって逆さ磔にされた
戦国時代に処刑された女性というのは結構いるんだが (有名な豊臣秀次の妻妾もそうだし) 晒し首になった女性というのは知らないな 基本的に敵将が見せしめにさらされることが多かったので 女性は対象にならなかったのかも
>>300 俺は千姫とお江の嘆願で助命されると思う。大阪城の経営に深く関わってはいるが豊臣の血筋という
訳じゃないから生かしておいても神輿にはならんだろう。
小野殿の話は知らんけど303のおつやの方と同じく信長の所行だから、信長がそういう奴という事が
判るだけ。家康も同じとは限らん。
足利義昭なんか神輿に担ぐ人いないから 信長は刺客を放ったりしてないんだよな
307 :
280 :2011/06/15(水) 12:46:13.02
>>291 なるほど、ありがとう
>>294 ドラマで、寺田屋にいる龍馬が「京にいると危ない」と言われているシーンに
「伏見は京じゃないだろ」とツッコミの感想が複数あったのがきっかけで疑問を持った
本の紹介ありがとう。なかなか奥が深そうだ・・・
>>305 家康は自分の連れ添った正室を殺しているから信長と違って残忍でなかったとは言えないと思うが。
信長すら自分の正室や側室を殺した事実は一切ない。
かつての主君豊臣秀吉の墓を破壊したり朝廷が秀吉に授けた神号を廃止したり家康は結構根に持つほうなので
(秀吉などかつての主君織田信長のために朝廷から官位をもらい墓をわざわざ作っているのに)
徳川に盾つくのが淀だったのなら殺害していた可能性は高い。
家康の血を分けた孫である千姫はともかく、江は息子の嫁にすぎず、
家康と何の血縁もないので家康が江の意見を聞くことはなかったと思う
>>302 国松丸と秀頼では立場が違いすぎるのではないか?
かたや扱いを間違えれば幕府自体が危うい状況になりかねない存在だし
戦国時代の一般的な女の処刑ってどういう手段だっけ? 切腹はないだろうから斬首? それとも縛り首
城攻めならば投石とかしてくるから、飛び道具で殺害しとく
>>309 それをいうなら豊臣秀頼と真田幸村を同列に語るほうが差がありすぎる
国松丸は豊臣家の正統な後継者であったから晒し首にされた
豊臣秀頼が晒し首にされた場合のみ豊臣御恩の大名は徳川家康に復讐しようとするが
豊臣秀吉の墓が破壊されたり秀頼のたった一人の男子国松丸が晒し首になった場合には
豊臣恩顧の武将はますます徳川家に忠誠尽くすなんて馬鹿なことはない
>>310 一般的な処刑は市中引き回しの上河原で斬首
豊臣秀次の妻妾も市中を引き回され三条河原で斬首されている
石田三成や国松丸などもこの方法だった
ただし公開処刑は天下人の権限なので地方権力者が私刑を執行する場合は
この限りではない
磔にされたおつやの方は首は取られていないとも
同じく磔にされた万福丸なども首は斬られず串刺しで殺されている
おまいら、晒し首すきだなwww 大陸では8世紀頃までで終わっている首狩族の習慣が 日本では19世紀まで続けられていたんだから やっぱ、根っから好きなんだろうな。
>306 いや、本願寺とか毛利は一応、義昭を御輿にしてはいたと思う。 迷惑だから変換したい、受け取ってくれ。と毛利から織田に申し入れたとも言うから、 毛利氏としては、御輿にしたい気持ちは持ってなかっただろうけども。 >308 側室じゃなく、城内で働く女性を複数、職務怠慢として(?)処刑したことはあったな。 >314 フランス革命時のギロチン処刑だって、いくらかは首をさらしたんじゃないか? ホントに日本だけか?
>>305 徳川家康が、武田勝頼に内通した家臣大賀弥四郎を捕えて処刑したとき、
弥四郎の妻・側室4、5人を磔にして処刑したというのがあったな。
まず磔になった妻・側室の目の前で弥四郎の十の手の指を切り落とし、
弥四郎の体を地中に埋めて首から上だけを出し、弥四郎を鋸引きで7日間かけて殺した。
妻、妾も磔にされたまま処刑されたとか。
徳川家康も結構残虐な処刑をやっている。
そういや 大坂夏の陣と家での、徳川の秀頼の呼び方って 秀頼公?それとも呼び捨てだっけ? ドラマや小説などでは、 例えば、秀頼公が自害なされました とか一応敬称をつけてるイメージがあるけど
>>307 ちなみに現在の京都市は山城国だけじゃなく、丹波国の一部も含んでいる(旧京北町は旧丹波国桑田郡)。
>>315 >フランス革命時のギロチン処刑だって、いくらかは首をさらしたんじゃないか?
公開処刑なんで落ちた首を拾って観衆によく見せる事はしたと思うが晒しはしなかったんじゃないか。
流派固有の秘剣なるものは存在したのでしょうか? 司馬遼太郎の作品や、最近だとシグルイという漫画やるろうに剣心に出てくるような必殺技みたいなものです
流派固有の秘剣とか奥義ってのは、たぶん、たいていあるんじゃないかな。 ただ、有用で役立つものかどうかは別として。 (たぶん、実戦で役立たないものの方が多かったんじゃないかと思う) 予想だけど。
322 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 00:37:26.64
江戸→明治は農民の状況は急速に変わったと思いますが 平安→鎌倉 鎌倉→室町 豊臣→徳川 と時代が移り変わったとしても農民の暮らしって具体的にほとんど何も変わらなかったのでしょうか? 支配者が変わるだけで つまり平安時代の農民と江戸時代の農民って技術の進歩などはあるが それ以外の部分では農民の暮らしはそんなに変わらない?
>>322 豊臣以前は半農半武だった農村の支配層が江戸時代には農民(庄屋)として農村に残るか
武士として官僚化するかの選択を余儀なくされたんじゃないか。
324 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 00:57:32.22
安土桃山→江戸で変わったってことか 安土桃山時代以前はたとえ農民に生まれても武士になったり 商人になったり身分は完全に固定ではなかったが 江戸時代の士農工商でほぼ固定されるようになった しかし、江戸時代にも、江戸に出てきた地方出身者に 帰農令が出ているんだよな とすると江戸時代にも生まれた農村を捨てて 都会に出てきて商売したりする人がいたみたいだ
>>324 >安土桃山→江戸で変わったってことか
秀吉の刀狩りはその為と中学か高校で習ったが、習ってないのか?
>都会に出てきて商売したりする人がいたみたいだ
飢饉があったり、年貢が厳しかったりすると江戸へ出てくる事がよくあったようだ。無宿者って奴だ。
放置すると農村が人手不足になって耕作地放棄とかになるので帰農令が出る。
江戸に来れば何かしら仕事をして日銭を稼いで喰って行く事は出来たらしい。
>>325 刀狩よりも検地の影響の方が大きいだろう
本来ならば江戸は軍事都市であって、非常時に備えてその内部で完結して自活するはずだったのだが、 意外と平和が続きすぎて、街が拡大して生産力が上がったために、労働力が足りなくなってしまった。 江戸に住めるのは武家とそれをサポートする職工(プラス商人)と決められていたのだが、 土木建築や下働きの労務者を補うために、止むを得ず幕府は外部からの季節労働者(いわゆる派遣) の導入を許可するしかなかったのだ。 ただしこの派遣社員は期間限定であって、仕事が無くなったら元の出身地に帰るきまりであった。 でも、こっそりと不法移民として江戸に住み着いてしまう奴も少なからずいた。 こうゆう人たちは定期的に無宿人狩りで炙り出され、捕まってしまうと鉱山送りになって、帰らぬ人となった。
>>326 wikipediaから引用。
『また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。
これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接
領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。』
ってことか。なるほど。
>324 人口の動向などを調べる研究からは、 江戸など都市部に住む人の過半は農村出身らしいよ。 都市部は出生率が低かったり疫病/流行病にかかりやすかったりで、 都市生活が3代以上も続くのは庶民としては難しかったらしい。 近郊農村では、都市への出稼ぎ者の影響で人口が増えどまって停滞した。 大都市から遠く離れた地域では人口が増えたから、これで地域間の人口のバランスが崩れたとか。 (薩摩や長州は増加地域の代表格) >326 検地だけじゃなくて、「農業をやってない人間を農村に置くな」という命令も出た。 つまり、自分で耕作せず地主業(のようなもの)をいとなむ、従来的な庄屋は在村できない建前となった。 守られてはいなかったらしいけど。
330 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 23:23:59.31
もし 織田信長 が 明智光秀 に 切り殺されなかったら、日本の歴史 は どうなってたの?
富士山が爆発して沈没してた
そもそも信長は勝手に自殺したのであって、 誰にも殺されていない
333 :
日本@名無史さん :2011/06/18(土) 18:36:52.12
質問です。本当は近代史板の範囲なのですがあちらには質問スレがないので… 前島密はなぜ明治十四年政変で失脚したのでしょうか? 大隈と繋がりがあったのでしょうか?
失脚ぅ? 違う。 抗議の辞任だよ。
>332 それは、まあ、そうだわな。 >330 誰も謀反を起こさないで政権が存続したか、 もしくは光秀の謀反が即座に失敗して信長が生き延びるかした場合、 史実よりも大幅に早く全国統一が達成されていた。 天正十年代前半、1585年頃までには天下統一が実現しただろう。 毛利氏と長宗我部氏と上杉氏と、たぶん島津氏も滅亡させられたのではないか、と思う。 しかし統一政権は充分に安定するだろうか? 史実の豊臣政権と同様、早期に瓦解したのではなかろうか。 ただし、瓦解の原因や内容はまったく異なっただろうけども。
その論理だと 西郷どんは別府紳助に殺されたって事になる 秀頼は淀君に殺されたって事になる 石田三成は介錯した奴に殺された事になる 三島は森田必勝に殺された事になる
信長型恐怖政治だと 信長が死んだとたん分裂だろ チトーみたいな感じで
外征はするのかしないのか 後継者戦争はあるのかないのか 信長次第だと思われがちだが信忠次第じゃないかな
何で豊臣秀吉は、誠意大将軍にならなかったのでしょうか? 農民出身地だから資格なしなの? 仮に豊臣秀頼が征夷大将軍だった場合、 石田と徳川が争って徳川が勝っても、 もはや徳川が豊臣よりも上に立つ事は不可能?
信忠が生き延びてたら後継者争いは起きてないと思う。 が、その後、政権が空中分解して瓦解してた可能性を否定するには厳しいかな。 少なくとも、史実の場合よりは長く、分裂せず存続はできるはず。 無事に何事もなく、信忠が晩年を迎えることができるかどうかは分からんけど。 外征は... まったく予想できん。
>339 東国に領地を持ってなかったから資格無し。 東国に領地を持つようになった(といっても東海地方だけだったか)ころには、 征夷大将軍より上位の(=官位が高い)関白に就任していたから、 「いまさら征夷大将軍になっても... 」という状態だったと思われ。 もし秀頼が征夷大将軍だったら徳川が征夷大将軍になるのは無理だっただろうと思うが、 (秀頼が征夷大将軍の地位を降りないとダメなはず)、 征夷大将軍への就任には元服済みという要件があったから、 秀吉の生前に秀頼が征夷大将軍になるのは無理。 まあ、その場合でも、関ヶ原の戦勝後に秀頼を将軍から別の職に栄転させる形を取れば、 徳川が将軍職を得る道はあるかもしれんけど。 ヘタなことすると豊臣恩顧の大名達が徳川と敵対する危険があったからねえ。関ヶ原直後までなら。
良くわからんが 北条を倒して、その後関東一辺も支配下においたんじゃないの? 徳川自体、豊臣直下だし もし東国うんぬんだったら織田信長も資格なし? あと足利尊氏は東国支配してたんだっけ?
>>342 足利氏の本領は上野じゃね。あ、間違えた下野じゃね。
344 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 08:03:57.96
>>341 >征夷大将軍への就任には元服済みという要件があったから、
>秀吉の生前に秀頼が征夷大将軍になるのは無理
どうでもいいが、秀頼は秀吉の生前に元服しているよ。
わずか4歳で禁裏において元服し、それまでの幼名からいみなの秀頼と称して、
従三位左中将に就任している。
従三位左中将は摂家の嫡男が元服時に受ける官位であることから、
秀吉が豊臣家は摂家であると認識していて秀頼を摂関にしたかったことが分かる。
ちなみに時代は下がるが江戸時代には8歳で征夷大将軍になった徳川家継がいるよ。
>>344 8歳は家継が死んだ年齢
家継は2歳で将軍職を継いで、その後、霊元法皇の皇女を降嫁させる話まで決定している。
>>345 徳川家継が将軍になったのは6歳だな
2歳の段階ではさすがに父も異母兄も生きてるよ
1709年(1歳)将軍家宣の四男として生誕
1712年(4歳)父将軍徳川家宣死亡
1713年(5歳)元服して家継と名乗る・征夷大将軍就任
1714年(6歳)八十宮吉子内親王と婚約
1716年(8歳)吉子内親王と結納・死亡
>342 秀吉が将軍位に垂涎してたころは北条どころか家康も敵対的だった。 家康を屈服させ北条を滅ぼした頃には関白職に就いてたから、将軍位なんてどうでも良くなってたのではないか。 信長の場合、武田を滅ぼして甲斐と信濃と上野を支配し、 しかも北条を始め関東諸将を従属させていたから、「東国支配の実質」という要件を満たした。 その直後に「三職推任」問題が出たわけだから、将軍就任は十分に可能だった。 武田を滅ぼしたことで将軍職に就任できるようになったと考えていいんじゃなかろうか。 尊氏が征夷大将軍になったのって、中先代の平定後だし、 安定支配には時間が必要だったとはいえ、東国支配はしてたはずだ。 将軍就任後にも東国支配が途切れたことがあるだけで。 幼少の将軍は江戸時代になって初めて出現したんだろ。室町時代までは、そんなことはできていない。 幼児が元服するという特殊な例は秀頼まではさかのぼれるのか。
348 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 15:28:39.06
>>347 鎌倉幕府の4代将軍、九条頼経は将軍として迎えられたとき2歳。
8歳で元服して将軍になっている。
足利義勝(室町幕府第7代将軍)も9歳で将軍になっている。
その弟の義政も8歳で将軍に…選ばれただけで就任は元服後か。
そもそも今から幕府開きまーすって宣言したわけじゃないかな。 誠意大将軍がいる政権を幕府と称してるだけだろ? だから鎌倉幕府は1185年には支配は確立してたかもしれんが、やっぱし1192年開始が正解 秀吉が誠意大将軍にならなかったから、幕府を開けなかったというのは違うのでは?
>>347 もうあんたいい加減ウザいからコテ付けてくれよ。そうすりゃNGに出来るからさ。
351 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 17:28:34.43
この話をやりだすとキリがない。 平安時代における『幕府』は『近衛大将が私的な政治を行う場所』の意味。 頼朝が右大将になったのは1189年だが、この年を採用する人はいないな。 征夷大将軍になることと、それ以前から認められていた守護・地頭を任命する権利、東国の支配権etc... 及び頼朝が武家の棟梁であるという事実などなどが融合して、 『征夷大将軍は武家の棟梁であり、幕府を開いて武士を支配できる』という既成事実ができあがった、 と捉えるのがおおむね妥当なんじゃないかと思う。 ちなみに鎌倉・室町時代は『将軍の居場所』を幕府と呼んでおり、 『政権』のことは鎌倉殿とか室町殿と呼ばれていた。 江戸幕府は、政権自体が幕府と呼ばれている。
戦前日本に天皇が脅迫されてたら 勅令は無効みたいなのなかった?
353 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 20:47:13.94
>>351 そもそも後世の歴史家が勝手に言ってるだけで
頼朝にしろ、足利にしろ征夷大将軍になって幕府を開いたって認識はあったの?
そして仮に豊臣秀頼が1599年ぐらいに征夷大将軍になったら
その時点で別に政治的システムが変わらなくても大坂幕府を開いたということになるの?
>341 仮定の話に食い付くバカには言っても分からんだろうが 足利義昭が将軍位を譲らなかったから成れなかったんだ 知らない事にシッタカしたいならコテ付けてくれ
355 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 08:48:31.92
>>351 奈良時代〜平安時代初期の征夷大将軍はもとより、鎌倉幕府以降でも、
護良親王は征夷大将軍になっても幕府を開かなかったからね。
南朝で征夷大将軍であったという宗良親王も同様。
征夷大将軍と幕府はやはり別物だろう。
むしろ、初めて幕府を開いた源頼朝が征夷大将軍(蝦夷征討軍の長官)だったので、
以降、幕府を開きたい武将が過去の例を踏襲(源姓を名乗る・征夷大将軍を受ける)
したにすぎない。
>>354 秀吉は当初征夷大将軍になりたかったが足利義昭が断ったので
なれなかったという大河の話は後世の作り話だよ。
実際に秀吉がそのような要請をしたという当時の記録は全くない。
357 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 10:48:33.26
昔読んだ教科書に「明治維新ごろは、青森県人と鹿児島県人があっても会話が成立しなかった(お互い自分の方言 しかしゃべれない)」旨の記述がありました。 質問なのですが、大人の日本人同士なら、どの地方出身者であろうと、普通は口頭及び文書による 意思疎通ができるようになったのはいつ頃からの事でしょうか?
358 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 19:23:32.36
>>357 文書による伝達は昔からできたんじゃないか。
そもそも正式な古文書は漢文が基本であり、
それ自体、中国王朝からの輸入品で日本の方言とは無縁だったから。
今だって、青森人と鹿児島人の高齢者同士が集まったら、
かなり意味不明な言葉を使うだろう。
>>357 明治になって東京の山の手言葉を参考に標準語が作られてから。
普及には国語教科書の働きが大きかったというから、その世代が大人になった頃かね。
360 :
胡挺煩堵 :2011/06/20(月) 20:05:19.53
354に言われたのでコテを付けてみた(トリップは勘弁な) >357 口頭での会話については、徴兵制の影響ではないかな。 軍隊では異なった地方の出身者が会話する必要があったから。 (基本、兵卒は同じ地方の出身者ばかり集まるけど、その上の士官は異郷出身だから。) 文章については律令によって文書政治が普及したから、 地方別・地域別の表記法が出現せず、ほぼ全国画一だったはずだ。 ただ、誰もが文章を読めるようになったのは中世以後か江戸時代以後だろう。 >356 秀吉が要請したのは「自分を猶子にしてくれ」だったんだっけ
実朝なんて初任官が征夷大将軍なんだから、逆に言えば鎌倉初期の朝廷にとって征夷大将軍なんて近衛中将とか少将と同じ程度の感覚しかなかった。
>>360 『秀吉が足利義昭に自分を猶子にしてくれと頼んだが断られた』
という記述は初出が林羅山で、同時代人の日記などに見えないので怪しい。
>>362 レスアンカーすらまともに付けられない知ったかの相手しないで。
>356 大河ドラマに織田信長が登場するから織田信長はいなかった 司馬が豊臣秀吉という人物を小説に書いていたから豊臣秀吉は存在しない NHKや司馬という権威を否定するオレスゲェーでOK? jinとかの民放も含めて十年以上時代劇をみていない俺には何を言っているのかさっぱり分からん 君、書き込む板を勘違いしていないか… >360 もしかしてバカセか? >秀吉が要請したのは「自分を猶子にしてくれ」だったんだっけ ココを学問板だと思い込んでいるのは俺だけなのか、、、 >362 検索厨の俺様最強てかw 池vs水沢論争ってなんだったんだろうとか立花の「天下静謐令」には何が書いてあるの?とか言い出すおいらがKY? 二十一世紀の匿名掲示板ではwebでググッてヒットしない事柄は存在しないんだな(苦笑
訂正 池vs水沢論争 ↓ 池vs水林論争
>>364 >NHKや司馬という権威を否定するオレスゲェーでOK?
横レスだが、何処をどう読むとそうなるのか理解出来ない。
>池vs水沢論争ってなんだったんだろうとか立花の「天下静謐令」には何が書いてあるの?とか言い出すおいらがKY?
ここは学問板だが、そういう事は知識のあるお前さんが提示すれば良い事であって、因縁つけるのは間違ってる。
367 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 09:40:04.15
>>364 356の何処を読んだら大河で言ってることは100%違うという
とんちんかんな主張になるんだ?
>足利義昭が将軍位を譲らなかったから成れなかったんだ
この説を否定されたから頭に血が上ってるの?
冷静に、どの一次史料に有る話なのか、信憑性はどうなのか、
根拠を述べたらいいだけの話なのに。
って、
>>362 さんが答えてくれてるんだよね。
江戸時代中期になってから出てきた話だって。
368 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 03:02:29.17
>>341 や
>>347 がろくに調べてない解答したおかげで指摘の応酬ばっかりの流れになったなぁ
資格に東国支配や元服が必要だとかw
369 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 03:16:04.95
というわけでこの質問はあっちこっちで結構頻繁にでるんで簡潔でいいでしょ
>>339 征夷大将軍はあくまで司令官的な官職であり政治を司るものではないのであまり関心がなかったのでは
軍事行動を起こす際には有用ですがまだ現職で足利義昭がいるというのもあるかもしれません
>>357 その教科書、よもや「新しい教科書を作る会」が出したものではあるまいな?
>>357 文語はだいたい律令時代から全国で通じるようになっています。
平安末期頃には、僧侶や武士も文語の文体は統一されていて
幅広い地方と幅広い階層で、意志疎通が可能になっていました。
平家物語や嘆異抄を読んでみれば、だいたいその雰囲気がわかるかと思います。
372 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 12:15:09.31
質問です。 自分は東北の人間なんですが白虎隊の悲劇を教え込まれても納得できません。 当時の基準で白虎隊は悲劇なんでしょうか?
>>372 一般的な見解ですが
全体の8割は生存。士中2番隊の自刃は出典がかなり不確かでフィクション性が強い。
あと元服済みで当時としては少年ではない。
一方規模にして会津の1/2以下の二本松は、15歳はすでに正規軍。
13歳〜14歳の少年隊も編成され、そのすべてが、戦死または負傷して終戦をむかえた。
戦後、若者8割以上が生き残った会津と違って、二本松藩は、
若者が戦闘の中で殆ど戦死又は負傷者になっていて復興どころじゃなかった。
それなのに援軍要請を断り二本松藩を見殺しにした会津人達は、都合の悪い事はスルーし
「会津と二本松は最後まで戦いぬいた」と高らかに叫ぶ。
374 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 12:35:49.36
>>372 他スレで似た質問があったから参考までに。
147 :日本@名無史さん:2011/04/24(日)
質問です。
池田屋事件で被害にあった志士達が京に火を放ち、天皇を奪回する計画を練っていたってのは本当でしょうか?
148 :日本@名無史さん:2011/04/24(日)
京に火を放ち、天皇を奪回するってのは、新撰組がでっちあげた冤罪だよ。
土方が壮絶な拷問で古高(近江出身の志士)に無理矢理自白させたもの。
しかも新撰組は、池田屋を直接捜索してないんだよ。
祇園で片っ端から旅籠を捜索しまくってる記録が残ってる。
つまり、新撰組は、情報キャッチ出来てなかったって事。
次に、古高を証人として、生かしておく事はしないで
早々に処刑してしまってる。貴重な証人のはずなのにな。
歴史をきちんと調べてたら、池田屋事件は新撰組が起こした冤罪事件とすぐ解ります。
京に火を放ち、天皇を奪回する計画は、土方に壮絶な拷問を受けた近江の古高の自白以外確証は一切ない。
149 :日本@名無史さん:2011/04/24(日)
>>148 おお、丁寧な回答ありがとうございます。
ついでに伺いたいのですが白虎隊の悲劇はどこまで信用してよいのでしょうか?
150 :日本@名無史さん:2011/04/24(日)
>>149 あれを史実と思い込む奴がいるから会津観光史学洗脳者がいるんだよ。
ちゃんと史料を紐解けば、白虎隊は、少年ではなく青年、
飯盛山の自刃は、お爺さん一人の証言で確証は一切ないと解る。
>>372 既に回答が付いてるけど、自刃がフィクションって、じゃぁ何で死んだのかと。あの場所で官軍と切り合った訳でも
無ければ瀕死の重傷でたどり着いた訳でもない。
唯あの時点で自刃したのは若さ故の思い込みで先を悲観したからで、その判断自体は間違いだった。指揮官と
はぐれてしまったのが悲劇を招いた。こういう事はママあるので勝手な判断はしない方が良い、という参考にしろ。
反会津の人は官軍が会津藩士の埋葬を禁じたのは嘘だと主張するけど、二本松少年隊の中には官軍の目に
触れないように隠して埋葬された為にお墓の場所が分からない人もいると聞いた。
どーも372-373は自演臭いニオイがするな。
376 :
357 :2011/06/22(水) 15:51:17.38
皆さんレスありがとうございました 文書による意思疎通が全国区で可能になったのが、私の想像より遥かに昔だったので驚きです。 良い勉強になりました。
377 :
胡挺煩堵 :2011/06/22(水) 19:27:55.66
>368 すまん。 どっちもオレだ。 だが、将軍になる前に元服するのは前提条件じゃん。 元服→官界デビュー→将軍 って順序がある。 そりゃ、順序と条件は別物だけどさ。 >364 いや、別人だす そういや、最近はいないのかな?
>377 バカセが誰か知っていて別人を主張するならかまわんがシングルのレスアンカーは俺と勘違いされて下手な事を言うと袋叩きにあうから気をつけた方がいいぞ (特に世界史板・ちょっち前は近代史板にも一人だけストーカーがいた品)バカセだったら付き合いも長いし説明してやらんこともなかったのだが別人なのね(苦笑 これまで接点がなかったわりにはちょいと口の利き方が馴れ馴れしくねぃオマエ >368 >指摘の応酬 一寸違う 壺に定期的にやってくる司馬の本を一冊も読んでいないうえに何が正しいのか判断できる知識も無いのに「司馬を否定する俺様は壺で高く評価されて当然だ」という手合い 将軍・秀吉で検索しても司馬の小説とNHKのドラマしか見つけられないから小説・ドラマの範疇でしかモノが言えない webで拾い集めたゴミが知っていることの全てだからスキームを相手に一方的に押し付けざるをえない連中とは見ているものも立っている場所も違うから話が噛み合わないだけ 秀吉の関白就任について研究者の誰もが着目しないなどということはありえない でも昔のように数レスを費やして説明しようという気力はもう無いし全ての質問に回答しようなどとも今は思わなくなったから 立花の論文を読んで俺が何を言いたいのか正確に言い当てられないレベルの香具師ならそれ以上の相手はしないことにしている 天皇・朝廷と秀吉というテーマで5や10程度の論文しか読んでいないようでは話しにならん
>>375 会津がやってることは痴漢冤罪事件起こすクソガキと同じ
相手には悪魔の証明を要求し、弱者であることを悪用し自分の主張を押し通すとこなんか
>>379 私は栃木県から会津に引っ越した者ですが良く言ってくださいました。
会津観光史学に染まらなければ批判されるなんて耐えられません。
会津厨は相手を批判するばかりで自分達の会津観光史学は批判しようとしません。
偏った歴史観にはうんざりです。
381 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:14:59.61
>>380 歴史が事実かどうかなんてどうでもいい。
観光客が喜んで金を落とせばいいだろwww
382 :
胡挺煩堵 :2011/06/22(水) 23:14:47.93
>378 >これまで接点がなかったわりにはちょいと口の利き方が馴れ馴れしくねぃオマエ それはスマン。 こちらは 忍法帖【Lv=8,xxxP】 氏を具体的に誰か知り合いと認識してるわけじゃなくて、 むしろ、誰に対してもこういう口調ってだけだったのだが、誤認させてしまったなら謝るよ。 アンカーの 「>」 は、他の板じゃシングルが普通になってるので (ダブル 「>>」 だと、htmlサイズが大きくなるとか鯖負担が増えるとかの与太話をしつこく言うヤツが居た影響か?) (あと、「2ch専用ビューワ」類を使ってると、> でも >> でも同様に表示されることもあって) めんどくさくなってシングルで慣れてしまったんだ。 (オレがよく行ってる板では、ほとんどの人が書いてるアンカーがシングルになってるし。)
>>378 じゃあもうこのスレに来ないでね^^
お前と同レベルで話せるバ…いや物知りはいないから
>>379 いや俺は傍観者だ。会津叩きも「会津叩き叩き」もどっちも不毛。
「自刃じゃなきゃ何なの?」が悪魔の証明なの?だったら証明しろとは言わんからお前の考えを書いてみろ。
何があったと思うんだ?
それともう一つ。375のどこが自分の主張を押し通してるのか指摘してみなさい。
385 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 16:28:13.12
>>377 「元服してないから征夷大将軍に就任させるのは無理」ってのが間違いで
「征夷大将軍にさせるために元服させて官位を持たせて就任させる」ってことだろ
3歳でも将軍にさせた前例もあるのに
海外在住で歴史の宿題が出たんだが 質問4つ答えなきゃないんだけど全然分かんないから たすけてけすた 1) Describe how Japanese politics of the 1920s is different to post-war politics. 1920年の政治とpost-war政治では、どのように違うのか説明せよ 2) Why did the Japanese economy grow so quickly after the war? Then, why did it slow and almost stop? なぜ、戦争の後、日本の経済はとても早く成長したか。その後、なぜ成長が遅くなりほとんど止まったか。 3) Were the changes in modern Japan prior to the war more important than the history of modern Japan after the war? Why? 近代の日本の戦争を優先するという変化は、戦争後の歴史の近代日本の方が 重要ですか?なぜ?(意味不) 4) Did everything change in post-war Japan? What in society stayed the same? post-warで全てが変わりましたか?何が社会に残りましたか?(変わっていないもの) 答えれる人お願いします。 答えてくれたらかぼちゃのケーキあげます
>>385 九条頼経が正式に将軍になったのは元服後でそれまで北条政子が義時の補佐を受けて将軍の職務を行っていた。
政子が正式な将軍でもないのに「尼将軍」と呼ばれる一因はそこにある。
とは言え、元服を早めて官職に就けることは公家社会、特に摂関家では行われていたので不可能な話じゃない。
実際に実朝の時には元服と任官が同時に行われた。勿論、当時の京都と鎌倉でそういう同時プレーは無理なので、後鳥羽上皇が「実朝」の諱を与えることで実質元服扱いをした。
388 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 21:52:01.23
バンスまじ最高っスよ、あげ〜
389 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 23:34:49.84
兄貴分にしたいのは空海 友達にしたいのは親鸞 後輩にしたいのは道元 結婚するなら最澄
>386 >海外在住 メール欄にfusianasanと入力して再質問よろしく あと高校か大学なのかそれ以外なのかを正確に 2・3は国によって回答が変わる可能性あり ぶっちゃけ教師や教科書によって回答が違いそうな質問ばかりだが…
訂正 メール欄 ↓ 名前欄
>>384 なんかナチズムに傾倒しているのか?
意味不明な雑文に反応する気が起きない。
会津厨は日本語下手すぎる。
393 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 05:23:23.97
>>390 大学生
国によって回答が変わってもおkなんで
つうか別に外れててもおkなんで
教えてくださいお願いします
>>392 何処がナチズムか指摘しなさい。何の根拠も無い誹謗中傷はお断りだ!!
そもそも俺を会津廚認定するという間違いを犯した375が悪い。
>>394 おい、ユダヤ人の定義について説明できるようになったか?
>>395 誰と間違えてんのか知らんが、俺はそいつじゃないから。
>>395 念のために書いとくが、392が何の脈絡も無く突然にナチズムとか言い出しただけで俺はユダヤ人がどうとか
何も書いて無いから。お前の相手は俺じゃない。
>>395 民族を客観基準で定義することは不可能だよ
これ、ナショナリズム研究の基本
ユダヤ人ってユダヤ教徒のことだろ
また会津観光史学洗脳者が敗北しました。 >>394さん、もう暴れないでねww
>>400 ジャップのくせにウゼエんだよ!
会津を馬鹿にすんな!!!
>>401 あらあら、次は大虐殺でも持出すのかしら?
>>402 ダマレジャップ!!!
大虐殺は事実なんだよ!!!!!
自演乙
質問です。 昔は、出産時の死亡例が多かったですが、どういった認識だったのでしょうか? 例えば、前田利常と珠姫とか、北条氏政と黄梅院とか、子沢山夫婦だと、仲が良かったという以外に、もしかして、出産による殺人を狙ってたんじゃないか、とか穿った見方をしてしまいたくなって。 出産させて合法的に?殺してしまえ、ということはなかったんでしょうか? 避妊という認識は無かったんだと思いますが、本当に全くなかった? 出産でお気に入りの妃が亡くなって出家した天皇とかを考えると、妊娠を避けたかった、ということは全くないんでしょうか? 妊娠を避けるという選択肢や知識(妊娠してからから流すのではなく)は全くなかったんでしょうか? 平家物語の小宰相は、出産自体を恥だと語っているし、じゃあ妊娠すること自体は?と疑問に思います。その時代だと穢れの考えもあるとは思いますが。 死亡率の高さもあるし、女性自身は妊娠を喜べたんでしょうか?
>>405 母体の死亡率も高いが、乳幼児の死亡率も高いんだから、どんどん生ませないと跡継ぎが残らないだろ
たくさん子を産ませるのは、特に殺人を狙ってのことではなく(なかにはそんな人もいたかもしれないが、
そんなのは現代にだって殺人犯がいるのと同じようなもんだ)、跡継ぎを残すため
>406 たしか、新生児の1割ぐらいが1年以内に死ぬ。 生き残ったうちでも1割ぐらいが7歳(数え年で)までに死ぬ。 それ以後でも多少は死ぬことがあるが、成人してからの突然死は少ない。 成人する前に死ぬのが(1年以内とか7歳までとかを含めて合計で)2割前後。 って感じだったっけ? 母体の方も、出産時および出産後に死亡する率は数パーセント程度だが、 平均出産回数と積算すると、およそ1割ほどの女性は出産時か出産直後に死んでたんではないか。
質問です。 権門体制論とそれにまつわる論争ってどうなったのですか。 結局今のところ、中世日本(平氏政権ないし鎌倉幕府〜信長・秀吉まで)における 武家政権と寺社勢力と院・朝廷・貴族との関係はどのように捉えられているのですか?
>>407 成人前の死亡率が約2割 母体の出産による死亡率が数%というのが
いつ頃の話かわからないが、その数字を元にざっと計算すると
人口安定の時代なら平均出産回数3回 明治〜戦前の産めよ増やせよでも5回ぐらいじゃね?
そうするとおよそ1割の女性が出産で死亡はちょっと多すぎない?
手元に資料無いが、1900年ごろの母体死亡率で0.05%ほどだったかな。 現代だと十万人に二、三人。 江戸時代以前は資料見てないけど、0.1%超えたら相当な死亡率でしょう。 1割はちょとありえんね。
412 :
411 :2011/06/30(木) 20:28:15.02
訂正 昭和25年(1900年)→昭和25年(1950年) 1950年時点での母体死亡率が10万人に176人。
>411 それ、「出生10万人あたりの」だ。 江戸時代同様の「一人で平均5回の出産」で想定すれば、 女性10万人のうち880人ほどが出産に伴って死亡する計算になる。 0.88%だな。 江戸時代の危険率を、その10倍程度の桁で見積もることは、それほどおかしくないと思うんだが。 感染症を防ぐための消毒技術が未発達だったんだから、 出産時の傷口からの感染で重症になる危険度は相当なものだったんじゃないか。 (ちなみに、消毒技術はヨーロッパの方が遅れていたっぽい) >409 >人口安定の時代なら平均出産回数3回 明治〜戦前の産めよ増やせよでも5回ぐらいじゃね? いや。 新生児の2割近くが成人する前に死亡するんだから、 平均出産回数3回だと、女性の全員が出産しても人口の増加はまったく無理。 ちょっと災害や疫病が起きれば人口が激減したまま回復できなくなる。 長期的には人口が安定しているように見えても、増減は常にあるわけで。 平均4人が最低限だと思うよ。 実際には、大都市圏では未婚率が高くて出生率が低いから(というか、女性の人数が絶対的に足りないだけだが) それ以外の地域で出生率が高くないと、人口を維持することさえできない。
>>411 帝王切開よりも、重要なのは消毒
19世紀中頃のオーストリアの医師ゼンメルワイスが、産褥熱の原因が産科医や助産婦の手からの感染であることを
発見し、手を消毒することによって、母体の死亡率が格段に下がることを発表した
まだコッホらによって近代細菌学が発達する前だったこともあって、その理論は発表当初は医学界で無視され(認め
てしまうと、医師自身が多くの母胎を「殺していた」ことになってしまうから受け入れられにくかった)、消毒の普及には
時間がかかったが、それによって母体死亡率は劇的に減少した
>411氏のリンクを見ても、>415氏の示すリンクを見ても、407の内容を否定するものとは思えない。 出生10万人あたり という記述だから、 一人が5回の出産を経験すると想定したら女性(母体)の平均では、 10万人(平均5回出産で出生50万件)あたり2000人、2%となる。 1900年頃でも2%以上の女性が出産によって死亡していたわけで、 江戸時代以前なら死亡率がずっと高かったことは確実。10%オーダーは非現実的な異常値ではないだろう。 あと、 所得が低めの「低所得層」に相当する人は、初婚年齢が高かったので 出生数が少なめ(平均4人)だったらしいが、 所得は栄養状態に直結するファクターなので、産児死亡率に大きく影響する。 兄弟のうち一人以上が死産または幼少期に死亡、程度の状況は普通だったと思っていいだろう。 (多数派と言うほどではないだろうが過半数以上) でも、もっと確実な論拠で否定されたら、従うつもりはある。 409や410の見解では弱すぎて従えない。
>>414 消毒が有効なのは安全に出産したその2〜3日後に母親が感染症により死亡するのを防ぐことだけ。
そもそも難産により産中、もしくは産後すぐに死亡する妊婦に対しては全く有効ではない。
一般的に妊婦死亡率には安全に出産できたものの感染症により
産後2〜3日から数日で死亡したケースは含まれていないことが多い。
昔はそもそも安全に出産することが難しかったので、
これを解決するのに大いに役立つ帝王切開(子宮を切開する外科手術により出産)の普及は大きい。
>416 他者に論拠求めるのでなく、あなた自信が、持論の根拠を出すのが先ではないかい? 実際、あなたの出してる数値って推論でしかないじゃない。
ウォーターマークはこれからもずっと消えないのか( 'A`)
>新生児の半分ぐらいが成人前に死亡し 家康の息子たちが死にすぎるのも そう考えると不思議じゃないのか......
日本における自然崇拝と禅の合体って何?
ざっとFAQと過去ログ見て載っていなかったので質問です。 よく平安時代の美人の基準は現在と違い下膨れ云々といわれますが、 現代的な美女は美しいとされていない、不細工という扱いだったのですか?
424 :
胡挺煩堵 :2011/07/03(日) 12:52:56.09
スマートな美人ってのは有り得ないだろ 古代には、スマートってのは貧しさと同等だから。 白粉を厚く塗ってるのが美人って基準だって、 「高価な白粉をふんだんに使える財力」という指標でもある。 仮に現代と共通する指標があるとしたら、顎の大きさかな? 顎が大きくない方がいいと思われていた可能性はある。 手の込んだ柔らかいものを主に食べたことを示すからな。 腰のくびれは和装に合わないからってんで、むしろ寸胴体型が好まれたという話。 「スタイルがよい」の基準も現代とは大違いだ。
貴人の顎が柔らかいものばかり食べて発達しなくなったのは近世以降だよ。 平安時代は貴族でも主食は強飯(こわいい)だったし 都には海がないから干した魚や肉ばかり食べていて顎は発達していたはず。 平安時代の美人図を見てもむしろ顎は発達している。 顎が小さいのが美人とされだしたのはどんなに早く見積もっても戦国時代だろ。 お市やお犬の肖像画は今見ても美人の部類だ(ただし、二重顎)。
歴史じゃなく美術で習ったんだが、美人の条件で国も時代も超越して共通なのは、顔が小さいことだそうな。
あと、平安時代の貴族社会での美人の基準で忘れてならないのは、髪の長さだな
ちょっとだけ便乗させてもらうと 釣り目鉤鼻は大袈裟に書かれたものだと思う。現代の漫画も目がデカすぎて大袈裟でしょ。それと同じだと思う。 涼しげな目をした、豚鼻とか鷲鼻ではない鼻で、そしてぽっちゃり(柳原加奈子はちがうぞ)、色白、みたいな、多分現代の美人も通用する美だったんじゃないかな。
ゲームを元にした話題で申し訳ないんですが 幕末の各藩の石高を元にしたシミュレーションゲームのシナリオをすると 将軍家がすぐに滅んでしまうんですが、徳川将軍家400万石でも、外様大名を敵に回すと実際は弱いんでしょうか? 400万石といっても、関東に集中してるわけではなく、日本全国に飛び地として分散してますし。
本来なら、幕臣である譜代大名とか一門衆である親藩大名は、 外様大名との戦いの場面では幕府に味方するものなんだよ。 譜代大名とか親藩大名の石高も足し合わせたら400万石どころじゃないでしょ。 もっとも。幕末の政治情勢では、幕府に味方しなかったヤツもいたけどね。 そうそう。 江戸時代に入ってからの開発、石高増強で生産高を増やした度合いが、 幕府側よりも外様の方が大きかったっぽいので、パワーバランスが崩れてはいるよ。 それと。江戸や大坂などの大都会の周りは人口が停滞していたし、 大都会から遠い辺境部は江戸時代後半にも人口が伸びてたんだ。長州とか薩摩とかね。 都市部は出生率が低くて、周辺からの人口の流入によって支えられた側面があって、 大都市は人口を飲み込む規模が桁違いだったから、周辺数カ国もの広い範囲で人口が停滞(微減)した。
戦国時代、茶の湯って実際はなんであんなに広まったの?
432 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 21:24:02.82
最近日本史に興味を持った超初心者ですがまず全体の流れ把握するのに
一冊目としておすすめの本はないでしょうか?
>>1 のまとめサイト見たのですがブックガイドは世界史のみでした・・・
できればイラストなど多く途中で挫折しにくいものでお願いします。。。
>>432 山川の日本史
通説且つ常識が最初の一冊には一番だし、日本史選択者はベースとして習得している。
最近出てる 週刊まんが日本史みたいなのはダメ?
>>434 史実無視で日本史を娯楽と為すのなら小説や漫画やドラマで良いと思う。
美化され脚色された人物が大活躍するほうが楽しめる。
石ノ森章太郎のはガチだと聞くが
438 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 15:34:47.00
史実の列記を教科書で淡々と読んでいっても面白くないわな。
>>432 の方が望む要素に「途中で挫折しないもの」ってのもあるし。
教科書で学ぶ日本史の授業を楽しんでいたって人って少ないんじゃないかな。
歴史ネタで楽しむって感じなら脚色やヒーローヒロイン仕立でもいいんじゃないかな。
教科書だと武田信玄とか前田慶次は活躍しないし静御前やクノイチも出番は無い。
なので、初心者なら各時代のヒーローを主人公にした物語を時代ごとに選択して読めばいいと思うよ。
一般的に歴史ネタで雑談する場合、創作された楽しく面白い話がメインだから。
その上で機会を見て史実の歴史を修めるほうがいいと思う。
NHK大河ドラマのお江は 全部史実の歴史
無駄な長文 3 行 で まとめてちょ
>439 ドラマなんだから脚色9割でしょ 脚色を割り切ることができない困ったちゃんの人には楽しめない。 (それはオレだ
「江」の場合は脚色が異常過ぎて相当の人が置いてきぼり状態だけどな。
>>438 >まず全体の流れ把握するのに一冊目としておすすめの本はないでしょうか?
戦場における死者の10〜20%は同士討ちだそうです。 伊達氏の分国法『塵芥集』には、『合戦場で味方に殺された場合も討ち死に同様として扱う』 という条文があるそうです。 で、質問です。 日本史上で名の通った武将で、『戦場で』『誤って味方に』殺されたのって 松平清康以外で誰かいますか?
質問お願いします。 豊臣秀次についてググると、切腹の原因の一つとして、 一の台とお宮のことを菊亭晴季が秀吉に直訴した、ことが原因の一つではないかと書かれているサイトが多数ありました。 が、出典が載っていません。秀次事件の原因の一つかどうかは置いておいて、本当に菊亭晴季が直訴した事実はあるんでしょうか?書状や当時の人の日記などは残っていますか?
>>444 大坂の陣で伊達軍が誰か殺してなかったかな?
447 :
日本@名無史さん :2011/07/13(水) 04:18:07.76
琉球のことは、どのスレがいいのでしょうか
>>446 神保某(名前忘れた)なら万石以下だし、「名の通った」とまで言えるかどうか・・・
伊達も「誤って」殺したわけじゃないしねー
『戦場で崩れるような奴は味方じゃないからー、
敵と一緒にやっちまうのが伊達家の 家 風 なんでー』
そう豪語したらしいぞ。しかもそれでお咎めなし。さすが伊達。
日本人は彫りの深い顔立ちの在来の縄文人と渡来ののっぺり顔の弥生人の混血だとしたなら、 朝鮮人や中国の漢民族は弥生人のみで縄文の血は入ってないの?
彫りの深い顔立ち
アイヌ、ケット人、モヒカン族、チェロキー族、
そうでもない顔たち(ただし広面低顔)
縄文人、チュクチ人、カムチャッカ人、ナホバ族、アパッチ族、全羅・済州・慶尚の韓国人
浙江・福建・広東・広西・江西の中国人
カンボジア人、ベトナム人京族、ラオス人、タイ人タイ族
のっぺりした顔たち(細面高顔)
渡来人、満洲民族、陝西・四川中央部・甘粛・青海・寧夏の漢族・回族、チベット民族
カザフ民族、キルギス民族、東部蒙古民族(契丹人起源?)
のっぺりした顔たち(広面高顔)
北部蒙古民族、ブリヤート民族、エベンキ民族、オロチョン民族、カナディアンイヌイット
>>450 縄文人の血は結構入ってそうだが、アイヌとは違うんではないかな?
そもそも縄文人が日本列島で発生したのではなければ、どこから来たのかって事だからな。 氷河期につながっていた大陸からなのか、海洋を渡って来た民族なのか。 アメリカ先住民やイヌイット、南洋の民族、大陸からの移動民、その全ての混在。
オサマ・ビンラディン「おれさまを、暗号でアパッチ族のようなモンゴロイドの名で呼ぶとわ 許せん」
名のある武将は殺してないけど たしか家康か秀忠も冬の陣似たようなことしてなかったけ? 真田丸の戦いで敗走する前田だったか越前松平だったかの軍勢の一部が徳川の本陣に流れてきて 陣形が乱れて本陣まで混乱すると困るから、なだれ込んでくる軍勢撃ち殺しとか 記憶が合間でスマンが どっかでこんな話見たことがある。
457 :
胡挺煩堵 :2011/07/17(日) 00:25:46.54
まあ、 敗走する味方が自陣へ逃げ込んでくる場面では、 よほど巧妙な采配を振るえなかったら自軍も巻き添えで壊滅しかねんわけで、 実質的には敵に攻め込まれてるも同然だしな。 そもそも、上位の権力者に動員されただけの武将にとっては、 敗走して自軍の方へ逃げてくる味方なんぞ、自分と利害関係があるような特殊例を除けば、 たいていは赤の他人なわけで、それを救援するために部下(自軍)を犠牲にするようなお人好しな武士はいない。 のが戦国時代の常識だろう。 逆に言えば、逃げ道を間違えたら味方に殺されると覚悟した上でなければ、 味方の陣地内へ逃げ込むことなんかできなかったとも言える。 要するに、負けそうになっても踏みとどまれって事だ。 退くも地獄、とどまるも地獄。というとこか。
>>455 夜襲の場合の同士討ちは仕方な気がする。
459 :
日本@名無史さん :2011/07/18(月) 19:14:31.84
夜襲かけられて同士討ちてのはよくある話だが かけた側が間違って同士討ちてのは運悪かったな
ちょっと誰か教えてください。 大名成立過程について毛利氏と織田氏について軽くでいいので教えてもらえませんか? もしくは、詳しく書かれているようなサイトなどを教えてください。
軽くなのか詳しくなのか、悩むな。
大名ってのは、元の意味としては、経営規模の大きい領主ってこと。 「大名田堵」とか「大名小名」(大名も小名も、という意味で並べて表記してるだけだが)とか そういう用例が古いわけだ。 するとだな。 織田荘とか朝倉荘とかを経営する荘園領主となった時点で「大名」なわけ。 もちろん、守護大名でもなければ戦国大名でもない。 そもそも朝倉氏や織田氏がいつごろから荘園領主としての大名化を果たしたかは、詳しくは分からんしな。 え? 戦国大名になる過程を教えて欲しいって? 省略しないで「戦国大名成立過程」と書くべきだったな。
明治に入って国民は皆苗字を持つようになり、好きな苗字を名乗っていたそうですが、 この時例えば近衛、九条、徳川、毛利、島津みたいな上位階級の苗字や有名な苗字を 家や血の関係の無い人が勝手に名乗る事はあったのでしょうか。
知らないのに勝手な推測で答えるけど、そういうこともあったんじゃない? おそらく良識のある人はそういった家に遠慮して避けただろうけど、遠慮なんてしない人はいつの時代にもいたはず まあ、名乗ったからといって、その家名を利用した詐欺でもするのでなければ、たいして実利(勝手に名乗られた 家の方から見れば実害)もなかったと思うけどね 近所の人たちは、あいつがその苗字を名乗ったのは維新以後って知ってるだろうし
>>460 毛利氏 周辺の同じような規模の国人領主との同盟関係を利用した
織田氏 守護代として尾張の実権を握り、守護を傀儡として擁立した
ちなみに大名っていえる程度の織田家ってだけだといっぱいあるので、たぶん本家筋であろう織田家の場合。
465氏への補足もしくは追加 毛利は同盟小名との婚姻関係を利用して巧妙に乗っ取りを推し進めた。 元就時代、実子の隆景と元春を小早川氏と吉川氏の当主に仕立てることで、 勢力を更に拡大したんだよな。 でも尼子氏やら大内氏との同盟(および離反)を巧みに行って、 大きな合戦のたびに勢力を拡大できたことが大きい気がする。 まあ、危うく攻め滅ぼされる寸前の時もあったけど。 織田氏の場合。 織田の本家筋はともかく、信長の祖先については詳細不明。 守護代の子孫というわけではなさそうなんだよな。 たぶん、守護代になった初代の人(織田常松入道)の親族の子孫ではある。たぶん。 幕府の奉行衆の一員として京都と尾張を往復してた(または主に在京の)人ではなかろうか。
>信長の祖先 タイムスリップした自衛隊員だと聞いたけど サニー千葉とか名乗っていたような覚えが
468 :
日本@名無史さん :2011/07/24(日) 19:56:12.29
日本史というか歴史学が好きな方達にお尋ねしたいのですが(この板にいる方はほとんどそのような方達ですよね) 私は歴史を学ぶことにあまり魅力を見出せずにいるのですが、みなさんはどうしてそんなに歴史が好きなのですか? 今から大学受験をするので、せっかく勉強するなら歴史を学ぶことの良さを知りたくてお尋ねしました。
469 :
胡挺煩堵 :2011/07/24(日) 20:10:03.21
女好きの男に向かって、「お前はなぜ女が好きなのだ?」と訊く 車好きの男に向かって、同。 果ては、 メシの好きな人間に対して「お前はなぜメシが好きなのか」と訊く そういう野暮な質問は、適切な解答が付く可能性は低いだろう。 ところでお前さん、水は好きか? 水が無くても生きていける? オレは大好きだ。毎日何リットルも水を飲んでるよ。
>>469 まだ未熟な自分にはわからないところも少なくないですが、丁寧なご返答が頂けて嬉しいです。
ありがとうございます。
水はなくてはならないもの…です。
でもきっと、こんなに沢山日本史が好きな人がいるんだから、どうにかして自分もその魅力に気づきたいんです。
今はまだ気づけないでいますが、日本史の良さを知ることができたらもっと幅が広がる気がして…
日本の道徳観念に日本の神道的自然崇拝が与えた影響ってある?
明治期より前は、各地でそれぞれの事情があるのでよくわからない。 とりあえず伊勢関連でいく?
>>470 469と被るけど、好きに理由は無い。好きになりたいという事なら自分が興味のある分野から
入るのはどうだろう。漫画とかゲームとか。俺は元々本が好きだったから、子供向けの読み物の
太閤記とか曽我物語とかが入り口だったな。
歴女の彼女を作ってみるのも良いかもしれない。
どういうところが好きかって質問は無茶だと思ったが、 好きになりたいと思うなら、すでに何か興味を持ち始めてるのかもしれない。 >でもきっと、こんなに沢山日本史が好きな人がいるんだから、 という点については、たいていの趣味はそういうものだから... 入り口として、歴史系ゲームの解説本とか、わりとメジャーじゃないかな。 まあ、創作とか誤謬も少なくないけど。 教訓とか教養と思って読むと、読んでて楽しくないのですぐに飽きる。 >471 道徳観念に関しては、神道よりも仏教の影響の方が大きい。 というか、神道そのものが仏教の影響をあまりにも大きく受けすぎていて、 原型をうかがい知ることが困難なほどだよな。
浄明正直っていつからあるんだろう
476 :
日本@名無史さん :2011/07/25(月) 16:48:06.41
高橋紹運の読みってしょううん?じょううん?どっちが正しいの?
>468 恋愛と同じ もっともらしい理由の後付けも可能だけど本質的には意味がない あと高校までの受験日本史と歴史学は全く違うものだから受験の息抜きなら学研の漫画や歴史をテーマにした少女漫画でも関心のあるものを読めばいいと思うよ >469 >オレは大好きだ。毎日何リットルも水を飲んでるよ。 通風だから毎日2g以上飲んでいるとかw 一応検索ワードね「水中毒」
>>478 ググると話自体は出てくるけど出典は不明ですな。仏教的には仏ごとに浄土を持っているので、
帰依する仏が違えば浄土も違うとは言えます。でも日蓮宗は天台宗の影響を受けてるらしいから
浄土が違うってことも無さそうな気がするんだけど、よく判りません。
480 :
日本@名無史さん :2011/07/25(月) 23:17:17.90
阿波国と安房国 昔の人は紛らわしいと思わなかったのかね。
>>479 徳川家康が亡くなる直前に藤堂高虎が改宗した話もそれが背景にあるのかしら?
482 :
481 :2011/07/26(火) 07:57:22.10
レスよく見ていなかった その話をしていたのですね、すいません。
>>481 藤堂高虎改宗の出典は分からんが、藤堂高虎が若いころ日蓮宗の寺を自ら創建し、
晩年には天台宗の寺を創建しているのは事実らしい。
藤堂高虎は天正16年(1588年)藤堂家の菩提寺として日蓮宗上行寺を創建
藤堂高虎が生前創建し、葬られた藤堂家菩提寺寒松院は天台宗寛永寺(徳川将軍家菩提寺)の塔頭
家康が天台宗だという話であるが、実は家康が定めた徳川家菩提寺は浄土宗の増上寺だった。 「徳川実紀」によれば、家康は江戸の浄土宗増上寺で自分の葬儀を行い、 三河の浄土宗大樹寺(松平家の菩提寺)に位牌を置くよう遺言して死んでいる。 その後の将軍も増上寺と寛永寺に葬られている。 ちなみに天台宗寛永寺が徳川家の菩提寺になったのは3代将軍家光の時で、家康の時ではない。 浄土宗増上寺 徳川秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂 天台宗寛永寺 徳川家光・家綱・綱吉・吉宗・家斉・家定
家康は本当はフリーメーソン
親と先祖の話になりまして… 私は青森在住なのですが、ご先祖様は 備前の国の刀工だったらしいのです。 お殿様の転封(?)で共々青森にきたらしく その時に名字をもらったとのことです。 富山は行った事もないのですが、それならば この盆休みでも行ってみようかと思っています。 ときに、このお殿様とは誰でしょうか。 色々調べてみたのですが、歴史には疎く いまひとつわかりません。 どなたか詳しい方おねがいします。
>>486 備前は富山じゃなくて岡山だな。日本刀の備前長船とか有名だけど、青森に転封した殿様は知らん。
青森の殿様って言ったら戦国時代から居る津軽氏と南部氏しか判らん。
蒲生じゃないか?
福島県(の周辺で90万石だっけ?)に行った蒲生や宮城県に行った木村など、 西日本から東北に行った豊臣期の大名はいるが、青森県には行ってないよな。 それよりも、だ。 東北地方などに在住の外様大名が、大阪の陣とか関ヶ原とかで滅んだ大名家の子孫とか有力家臣・著名家臣を召し抱えた例は多い模様だから、 そういう方面じゃないか? 備前にいたが滅んだ大名(または家臣)の子孫が召し抱えられたときに、 その人物の旧臣が随従したんだろう。という感じがする。
490 :
486 :2011/07/28(木) 00:59:46.21
お三方ありがとうございます。
実家と言うか本家は青森市のど真ん中なので
古地図とかで調べればわかるかな?
同じ時期に青森にきたご近所さんは
お殿様のカミシモを仕立てる仕事だったそうで
それを生業に出来るような時代かと思います。
>>489 さんの読みがちかいのかな?
ちなみに母方は蒲生氏領で鋳物職人だったそうです。
いまでもお寺さんに鐘や半鐘があります。
>>490 蒲生氏領って言っても蒲生氏郷は会津を中心に福島県周辺だし、その後は宇都宮に行って
最後は伊代松山だよ。苗字を貰った家臣とかかなぁ?(いっぱい居るらしい)
492 :
486 :2011/07/28(木) 01:42:24.49
>>491 母方は大正まで会津にいて、その後秋田に行ったそうです。
父は会津訛りを笑われて「会津っぽ」とあだ名をつけられたそうです。
母方はあらかたわかっているのですが
父方のほうが短命家系なのもあっていまひとつ
はっきりしないんですよ。
皆さんの意見から蒲生氏について色々調べてみたのですが
お殿様からいただいた名字は松の字がつくので
(ちょっと特殊な名字なので書けませんが)
お殿様=蒲生氏かな?と思えてきました。
493 :
486 :2011/07/28(木) 01:44:11.57
訂正です 誤 父は会津訛りを笑われて 正 母は会津訛りを笑われて
>>492 「苗字を貰った家臣とかかなぁ?」と書いたのは蒲生の苗字を貰った武士がいっぱい居るらしいので、
その誰かが蒲生氏を離れた後、青森で津軽氏に仕えたのかなぁと思ったのでした。
(青森市は津軽領だったようです)
忘れてましたがご先祖様を調べるにはお寺の過去帳が大きく役に立ちます。
495 :
486 :2011/07/28(木) 02:13:58.99
>>494 >その誰かが蒲生氏を離れた後、青森で津軽氏に仕えたのかなぁと思ったのでした。
なるほどです。
大昔聞いた話だと、実家も本家もお寺さんも焼けた
大火事があったらしく
資料が残ってないらしいんですよ。
父方の祖父は三度も火事に合う不運男でw
(すべてもらい火)
お盆には毎年お寺さんに行くので聞いてみます。
残ってない説も父親の話のみなので残ってるかも
知れないですね。
ありがとうございます。
江戸期に青森市周辺へ大名が転封してきた例は無いですね。 江戸期以前だと室町期の浪岡北畠氏なら西日本との繋がりも無くは無さげ。 普通に考えるなら、津軽家家臣森山信真による青森の町づくりで、西から招聘された家系ではないでしょうか。 関西あたりから移住奨励で商工人を集めたそうです。 弥七郎の子孫も油川に屋敷を作って代官してたらしいので、殿様と言うのは森山家のことじゃないかな。 信真以前の森山家が津軽家の譜代だったのか、新参だったのかまでは知らないので、調べてみるのもいいのでは。 新参なら、他の方の意見ともつながるかもです。
497 :
486 :2011/07/28(木) 02:58:26.73
おお!新しい見地ありがとうございます。 県立図書館でも行ってみます。 この板に書き込むのもおこがましいくらい 疎いので感謝してます。 なんとなく、カミシモの仕立て人や刀工が 成り立った時代なので江戸期かなあと思ってました。 ちなみに母方は大元は刀鍛治であったそうです。 何か大きな戦の鎮魂のために鐘を作る鋳物職人に 転職したらしいです。
>>497 いや刀工は平安時代からあるんじゃね。裃もググったら戦国の頃から広まったようですよ。
499 :
486 :2011/07/28(木) 04:31:23.96
カミシモで色々ググってみたんですがそうみたいですね。 ただその殿様のカミシモ仕立てだけで 青森くんだりまで着いていくのは、お殿様の 金か人望か時代なのか…と思いは及ぶ訳で。 カミシモ=礼装みたいなイメージなんですけど違うかな? まあ、年一くらいの服のために着いてこいってのもすごいし 着いていくのもすごいなあとw 刀工もカミシモ屋(?)も殿様専属ではなく 一般にも商売してたんでしょうけどね。 それまでの土地を捨ててついて行く心持ちとは イカバカリヤと。 余談ではありますが、カミシモ屋の末裔は デパートのイージーオーダーで寸法採ってますw
>>499 wikipediaによれば「その後、戦国時代の進取の機運にのって、享禄年間から天文年間頃には
すでに平時の略礼服としても用いられるようになった。」という事なんで、これを信じるならば年一じゃ
無さそうですが。
>>485 マジレスすると、それだと家康がフリーメーソンの創設者に……
平安貴族(女性でも良い)の日記で、何か面白い話はありませんか?
>>501 お前、フリーメーソンの最大の秘密を、
そんなふうに気軽に喋ったりすると、
闇に葬られるぞ
メーソンジャパンの実行部隊の裏柳生に
気をつけるんだぞ
>>502 なぜ平安京貴族限定なのか分からないけど、2ちゃんでわりと人気なのは、
藤原頼長『台記』→漢文なので読みにくい
室町時代のものだけど、
後深草院二条『とはずがたり』→日記、というよりは、自伝(創作ではないか?という意見もある)。和泉式部日記とは違う変態感が漂う。何とも言えない感がある。
結局 キツネ目の男は宮崎学じゃなかったんですか?
>>499 >同じ時期に青森にきたご近所さんはお殿様のカミシモを仕立てる仕事だったそうで
>ただその殿様のカミシモ仕立てだけで青森くんだりまで着いていくのは、
>まあ、年一くらいの服のために着いてこいってのもすごいし
------------------
えええっ?ごく普通のことじゃないですか。
大量生産の既製服がない時代。それも裃(現在のスーツに相当)なら、
専属の仕立屋がいないほうがオカシイ。
「中央で修行した一流の仕立屋」っていうレベルじゃないと招かれません。
仕立屋の本懐です。そりゃ青森でも蝦夷でも行きますよ。
彼らにとっては仕事着ですから相当数要りますし、服の下げ渡しがある。
繕いや仕立て直しもある。何より、裃だけが対象じゃないし、一人だけの為に働く
わけじゃありません。多忙ですよ。
女性の方が年上夫妻というとどういう人たちがいますか?5才以上離れてる例が知りたいです。夫婦仲が良かったか悪かったかも。 後一条天皇と威子 藤原頼経と竹御所 徳川秀忠と江 後深草天皇と皇后?中宮?公子 藤原頼長と幸子 これくらいしか思いつかない。以上はわりと仲が良かったとされてますが、他に例はありますか?
510 :
486 :2011/08/03(水) 03:35:22.12
>>508 486です。
あれから色々調べまして色々わかりました。
裃屋について。
裃は今でいうモーニングとか燕尾服に近いものだったようで
袴屋と裃屋は別だったようです。
いわゆる殿中でござるみたいな長袴専門の。
裃屋はお家専属。袴屋は武士用みたいな。
ま、需要の問題でかはわかりませんが、裃屋も
その後袴屋になったらしいですが。
淡谷のり子の弟が書いた随筆があり、この袴屋についての
描写がありました。
青森一の面白じいさんだとw
そのひ孫がいま40歳越えの友人です。
私の先祖は
>>496 さんの言うとおり殿様=森山氏だったようです。
ご指摘のとおり油川にいて能代に。
その後青森に戻ったらしいです。
511 :
日本@名無史さん :2011/08/04(木) 23:35:33.26
売券の文書読みがつまらなくて仕方ありません。 四至を読んでも、権利のない物件をみている土地家屋判定士のようで しょうがないとおもうのですが
なら読まなきゃいいだろとしか答えようがないが
醍醐天皇、村上天皇の延喜・天暦の治に宇田天皇の寛平の治が入ってないのはなんでなんだぜ? かなり日本語おかしいけど誰かお願いします
延喜・天暦を理想としたのは平安後期以後の貴族たちの過去に対する憧憬であって現実の政治内容で理想とされた訳じゃないから。
キマグレンだぜ
516 :
日本@名無史さん :2011/08/05(金) 10:42:53.28
>>513 摂関や幕府の力を排除し天皇親政を実現したことで
醍醐・村上天皇の世は後世の手本とされた。
宇多天皇のときには藤原基経が関白としており
その力の排除に失敗しており(阿衡事件)
摂関の力を排除できなかったんじゃなかったか。
>>509 それ以外にも女性が5歳以上年上の夫婦は結構ある
堀河天皇&中宮篤子内親王(女性が19歳年上)
関白藤原忠実&継室源師子(女性が8歳年上)
鳥羽天皇&皇后藤原泰子(女性が8歳年上)
高倉天皇&中宮平時子(女性が6歳年上)
後鳥羽天皇&中宮九条立子(女性が7歳年上)
将軍足利義満&御台所日野業子(女性が8歳年上)
調べればまだありそうだが・・・
>>516 従来の通説ではな
だが、現在の定説では摂関自体が常設化されたのは冷泉天皇以後だから、延喜・天暦に摂関がいないのは当たり前の話。
朝廷の実権を握っていたのは藤原氏の左大臣であって、当時の朝廷が親政であったというのは昔の人の幻想に過ぎなかった。
519 :
日本@名無史さん :2011/08/05(金) 23:15:50.73
京都の藩邸について質問です。明治維新関連の本を読んでいて疑問に思いました。 江戸に藩邸があるのは参勤交代があるからわかるのですが、なぜ京都に藩邸があるのでしょうか? 最初は、幕末になってから建てられたのかと思いましたが、そうでもないようです。 薩摩や長州など、参勤交代の途中で天皇に拝謁する決まりでもあったのかなと思いましたが、尾張の藩邸もあります。 今思いついたのは、京都所司代などの役職につく譜代大名の藩邸なのかな、ということです。 この考えで正しいでしょうか?
Wikipedia 村上天皇のところで >天皇号を持つ天皇は、村上天皇以後、江戸期の光格天皇まで900年近くの間なかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。 ってあるけどどういう意味?解説お願いいたします
521 :
日本@名無史さん :2011/08/06(土) 01:40:37.34
質問です。 何故左翼は、皇族の名をカタカナ書きにするのでしょうか。
おなじWikipediaの「諡」の項目を一読してください
523 :
522 :2011/08/06(土) 01:47:09.71
524 :
日本@名無史さん :2011/08/06(土) 11:47:16.71
飛鳥時代から平安時代までの朝廷が動員可能な兵力はどれくらいでしょうか?
525 :
日本@名無史さん :2011/08/06(土) 12:50:15.22
>>519 いいえ、それらの大藩は幕府の役職には決して就任しないのが本来の徳川の体制です。
そもそも守護も幕末に「京都守護職」として島津久光と松平容保が任命されただけです。
つまり、大藩が朝廷との折衝上保持していた藩邸が幕末の朝廷の地位向上で肥大化し、小藩も設置するに至ったものです。
>>525 回答ありがとうございます。
最近、急に歴史に興味が湧いてきて手当たり次第読んでいるので、「大藩」という言葉は知りませんでした。
知識が穴だらけなので勉強になります。
wikipediaの「京都所司代」を見ても、たしかに薩摩や土佐出身で就任している人はいないようです。
ところで、さらなる疑問が湧いたのですが、「大藩が朝廷との折衝上」というのは具体的にどういう内容なのでしょうか。
役職上の必要性もないのに、朝廷と接触する必要があったのか、また、それを幕府が認めていたのでしょうか?
527 :
日本@名無史さん :2011/08/06(土) 17:05:40.98
>>518 冷泉天皇の代以前は摂関が置かれないのが当たり前だったのならば
それにもかかわらず摂関を置き藤原氏に屈服した清和・陽成・光孝・宇多が理想とされないのは
ますます当たり前のことになるが
>>526 大藩(特に外様の)が朝廷と結びついて幕府に対抗する力を持つ事を警戒して、勝手に接触しては
ダメという事になってた筈なんだけどな。
>>529 そうなんですよ。
乏しい知識で考えるのですが、江戸の藩邸は参勤交代という制度上必要なわけだから、
それは幕府による藩の統率の一環。
ところが、京都の藩邸となると、幕府にとって無用もしくは有害だと思うのです。
これが京都所司代など役職を遂行する上で必要であれば、幕藩体制の一環と考えられます。
しかし、どうもそうではない。
とすると、京都の藩邸は単に各藩の便宜のためなのか?一国一城令などで築城が制限されていたのに、
自藩以外に藩邸を勝手に置くことができたのか?
>>529 ちなみに江戸の藩邸は基本、幕府から与えられたものです。
>>527 >それにもかかわらず摂関を置き藤原氏に屈服した清和・陽成・光孝・宇多が理想とされないのは
>ますます当たり前のことになるが
いや、実際に摂関が置かれなくても醍醐期の藤原時平や村上期の藤原忠平は摂関とほぼ同様の権限を振るっていたから
摂関がいない=天皇親政という概念自体がそもそも根拠がない
それ以前に現代の政治家で延喜天暦が理想だと言っている人間がいるのか?
>>517 >>509 です。
ミーハーな?質問に答えてくださってありがとう。
堀河天皇と中宮篤子は全く知りませんでした。しかも(事実はどうか分かりませんが)仲が良かったようですね。
特に中宮にしたからといって、後ろ盾やメリットがありそうな人でもなさそうだから、やはり仲が良かったのか。
興味深いですね。参考になりました!
533 :
日本@名無史さん :2011/08/07(日) 15:50:51.04
>>531 関白がいた、しかもその排除に失敗した宇多天皇を
それほど理想の天子にしたい理由がわからん。
>現代の政治家で延喜天暦が理想だと言っている人間がいるのか?
全く意味不明。
どこから平成の政治家の話が出てくるのか。
>>522 サンクス 明治以前 その間の天皇のことは〇〇院と呼んでいたのね
オカルト要素が入るので、キライな人は読み飛ばしてください。 以前、徳島県の勝瑞城跡の近くに何年か住んでいた時の話です。 ちなみに引越ししてきたときには、城があった事は全く知りませんでした。 その家でこんな夢をみました。 薄暗い森の中を、血だらけでケガをして、重い足を引きずりながら 戦国時代の甲冑を着た男や、着物をきた女性が大勢でどこかへ向かってる。 場面は変わって海。木の船が何艘かあるんだけど、全員は乗れない。 ぎゅうぎゅうに船に乗って、乗れない人は船のヘリに掴まって泳ぎながら どこかの島を目指して進む。 また場面が変わって、時代劇で見るみたいな着物を着た(何故かお姫様だ!って思った) 20歳前後の女性が泣きながら「小豆島に帰りたい」と悲しそうな顔をする。 あまりにリアルな夢だったんで、目が覚めてしばらく動けなかった。 そんで、後日ネットで自分が住んでる土地の歴史についてしらべてみた。 すると、今まで全然気づかなかったんだが、すぐ近くに城跡があった。 でも、その女性についての記述はなく、なんとなくモヤモヤしてます。 バカな話を書き込むなよ。と不快に思う方もいらっしゃるとは思いますが 泣いていた女性の事が何故か凄く気になります。 勝瑞城について、なにか思い当たるフシがある方がいらっしゃったら教えてください
>>535 貴方を貶める気はない事を最初に断っておきまます。
貴方が気に留めたのは夢の中の人達が貴方に何か訴えようと働きかけたんじゃないか。
ならば無視してしまうのは気の毒だし供養にならない。そんな責任感でしょうか。
私が思うに敗残兵が重い甲冑を着たまま敗走するとは思えません。
移動の邪魔となるだけではなく、甲冑が落ち武者狩りの目印且つ戦利品ともなります。
集団の敗走であれば、しんがり以外は軽装で落ちるのが普通でしょう。
貴方の夢はドラマのシーンのを彷彿とさせます。創作された「夢」の可能性が高く気にされる事はないと思います。
>>535 地元なら図書館で調べるのも楽しいだろうな。
間違っても「知り合いの霊能力者」とか「知り合いの宗教家」に相談しないほうがいいよ。
全否定じゃないけど御金が供養になるなんて事は無いから。
>>519 京都に藩邸は、藩主が滞在するのが主な目的ではなくて、京都に藩士が駐在する拠点として設けたと考えればよいのでは。
では、京都になぜ滞在するのかといえば、公家との交流・京都の文物の収集・藩の産物の取引のためなどです。
現在の大使館とか、JETROが海外にあり、現地の情報を集めたり、自国の宣伝をやったりするのと同じ。
同じように、経済の中心だった大阪などにも蔵屋敷などの藩の施設があって、藩士が駐在している藩は多いです。
>>538 回答ありがとうございます。
大阪は堂島米相場があり、各藩の蔵屋敷が置かれているので藩邸があるのはある意味当然なのかなと思っていました。
つまり、米を中心とする経済統制を図る幕府の意図と合致すると思ったのです。
天皇の居住する京都に藩邸を置くのは、大阪に藩邸を置くのとは意味が違って、幕府からすると藩と朝廷が結びつくのは
避けたいところだろうから、なぜ京都に藩邸が当たり前のようにあるのか不思議だったのです。
京都も経済が発展していて、そこに藩邸を置くことは経済的な意味があったのかな、と538さんの回答を読んで思いました。
結局、自藩以外に藩邸を置くことは比較的自由だったということなのかなと今は思っています。
徳川吉宗が経費削減の一環として、 「大奥から若くて美しい女中を選んで参れ」と言って、 その女中達を「若くて美人なら今後の身の振り方には困らないだろう」 とクビにした、という話は実話ですか? よろしければ出典も教えてください。
>>536 >>537 ありがとうございました。
ずっと引っかかってたので、そういってもらえてスッキリしました。
自称霊能者とかは、全く信用していないので大丈夫です
>ぎゅうぎゅうに船に乗って、乗れない人は船のヘリに掴まって泳ぎながら >どこかの島を目指して進む へりに掴まれる程度の小船ならぎゅうぎゅうに乗り込んだりしたら沈んじゃうよ 舷側にしがみ付く水兵の手を刀で切り落とす士官が出てくる映画を昔観たんだが 題名が出てこないorz
543 :
日本@名無史さん :2011/08/09(火) 01:46:08.69
公家にせよ武家にせよ、元の姓を名乗らなくなるのはなぜ? 藤原氏が一条二条その他を名乗るようになって藤原のなんとかと 名乗らなくなったり。 平も源も鎌倉時代はいたのに、いつの間にか名乗らなくなってますよね。 分家が土着してその土地の苗字をつけるのはわかるんですが、 本家の姓を名乗る者がいなくなるのは、なんでなんでしょう?
ん? 名乗ってたよ?
545 :
日本@名無史さん :2011/08/09(火) 02:03:26.15
同姓が多いから、区別のために地名などを名乗ったのが苗字 貴族なんて藤原氏ばかりだから、そうでもしない特別がつかない。 公的な儀式や文書では姓を名乗る。 徳川朝臣源家康
>543 明治維新まで、みな姓と苗字の両方を併用していますよ。 公文書では姓しか書いてないし。 明治時代に戸籍法が作られた際に、 姓と苗字のどちらか一方しか記載できなかったのが大きく影響したんでしょ。 武士達が姓を用いずに苗字のみを用いるのは、 マンガと時代劇と教科書の中だけですよ。
547 :
日本@名無史さん :2011/08/09(火) 03:21:34.32
琉球王国に「花当」という舞童子が本当に居たんですか? 美貌を武器に出世するというからには、男色関係を利用したのでしょうか? 支那からの冊封使を歓迎する為に、化粧して踊ったというのが もしも事実ならば、とうぜん閨房相手もつとめていたんでしょうね。 詳しい記述のある書物とかあったら、教えて下さい。 琉球王国の歴史も「日本史」に含まれてますから、お聞き致しました。 他のスレで質問しても回答を貰えなかったので是非ともよろしく。
>>547 御免なさい。
日本史選択でも琉球王国史は全く勉強しません。
受験でも琉球王国史は必要ないので知らない人が大半だと思います。
沖縄の学校でも日本史は習っても琉球王国史は習わないのではないでしょうか。
本当なら琉球王国史も日本史として習うべきなのでしょうし、
琉球の王族も天皇と同じように存在していたのだと認識すべきなのでしょう。
549 :
日本@名無史さん :2011/08/09(火) 15:45:52.60
>>547 琉球王朝には「花当里之子」という役職がありました。
(里之子とは若い男子が任じられる官職名。里之子→親雲上→親方と出世していく)
花当には美男子が集められましたが、男色があったかは定かではありません。
沖縄の民話には、美しい花当里之子に琉球王の娘(王女)が一目惚れし、
恋歌を詠みあったとか、中には駆け落ちしたという内容の話もあります。
ただし、国王の閨坊に侍っていたという話はないようですね。
550 :
日本@名無史さん :2011/08/10(水) 07:49:00.28
歴史を知らなすぎるので、勉強し直そうと思うんですが、おすすめの本などが あったら教えてください。
受験生じゃないなら何でもいい。 興味を持った本じゃないと読破できないから。
私も最近歴史に興味が湧いて、読書に勤しんでいます。 私がお勧めなのはブックオフとアマゾンのマーケットプレイスです。 ブックオフは店舗で105円コーナーの「日本史」のところを漁ると結構あります。「新書」も結構歴史関係は多いです。 またオンラインなら150円でかなり充実した冊数があるので、検索を利用するといいと思います。 1500円以上の購入で送料無料になります。10冊ほど注文すると数日後に宅配で紙袋に詰められて届きます。 福袋を開ける時のようにとてもワクワクします。 アマゾンは「1円」の価格に対しても輸送費が250円かかります。同じ書店で数冊一度に注文しても250円×冊数の郵送費が 必要です。少し納得いかないのですが、色々と大人の事情があるようです。ただ、私は「輸送費が無料」で「250円+価格=実質価格」 と勝手に読み替えて躊躇せずに注文しています。 歴史のことを古本で学習することに抵抗がある人もいると思います。情報が古いのではないか?みたいな。 しかし、技術書とかではないので、それほどドラスティックに内容が減じることはあまりないと思います。 しかもネット時代ですから、wikipediaやamazonのレビューなどを参考にすれば、その本の信憑性は補完できると思います。
それよりも、古本のメリットの方が多いです。(1)値段が安いので、「読みにくい」と思ったら気にせず飛ばし読みができます。 私は「つまらない」と思ったら、さっさと次の本を読みます。(2)値段が安いので、どんどん書き込みができる。wikipediaなどで 得た知識を本に書き込んでいます。あるいは時系列に迷ったら、遠慮せずに空白部分に書き出しています。 ボールペンで書きこんでいますが、間違えたら横線を引いて書き直します。 (3)逆に新鮮な驚きがある。たとえば「土人」のようなタームを大学教授が平気で使っていたりします。 また「蒋介石(1887〜 )」とあったりして「おお、生存中の執筆なのね。」と驚いたりします。 (4)執筆後の事情から客観的である。たとえば1991年のソ連崩壊後に書かれた書物の場合、いわば「後出しジャンケン」が 可能です。しかし、それ以前に書かれた本の場合、読み手である私たちが客観的に筆者をジャッジできます。 そもそも「古本」に対して、抵抗がある人もいると思います。ただ「お札」や「硬貨」よりは ずっときれいだと思います。
Wikipediaで補完て本気か
wikiを本気にするお子様が増えたんだよ 前はちゃんとした学問板だったのに・・・
>>550 学習まんがの日本史
小学館のものが俺は好き
>>554 >>555 552を書いた者です。wikipediaについて補足すると、私自身wikipediaを盲信しているわけではありません。
TVbrosという雑誌に「ウィキナオシ 本人確認」というページがあるのですが、毎号楽しみにしていたりします。
ただ、一方で有効に利用しているのは事実です。「wikipedia」という字面に過剰反応する必要はないと思います。
そもそも、私は「古本」の問題点について言及したわけで、それは情報の鮮度ということです。
上のレスを書いた時に念頭にあったのは、たとえば「旧石器捏造事件」のようなケースです。
この事件が明るみ出る前に出版されている本には、当然ながらそのことについての言及がないわけです。
その辺りはネットで補完できるよ、ということです。
あえて言えば、最近のwikipediaは「要出典」や「だれが?」などの注意書きがあるので、下手な専門家が書いている本よりも
客観性があると言えなくもなかったりします。もし、「具体的に」wikipediaの「これがダメ過ぎ」みたいなのがあれば
後学のために、是非教えてほしいほどです。
>552 >歴史のことを古本で学習することに抵抗がある人もいると思います。情報が古いのではないか?みたいな。 >しかし、技術書とかではないので、それほどドラスティックに内容が減じることはあまりないと思います。 せいぜい20年程度ならいいけど、40年以上前のモノは、別の本と組み合わせて多角的に読み込まないとマズいよ。 発行日が新しいのに中身が古いという本(再刊とか再録)もある。 昔の全集とかを文庫や新書にして低価格化したヤツに多い。 そういうのは、内容に定評があったから再刊されてるわけだけど、 元の出版日より20年とか、時に30年も経ってから文庫になってるから、 その発売から更に十年・二十年と経つと、結構な古さになってしまう。 新しい研究と組み合わせたら、その欠陥も解消されて丁度いい。 入門者必読とも言われる中公文庫の日本史とかな。古いけど必携の書。 もとの全集(?)の執筆・刊行が70年前後、実に40年も前だ。 >557 >あえて言えば、最近のwikipediaは「要出典」や「だれが?」などの注意書きがあるので、下手な専門家が書いている本よりも >客観性があると言えなくもなかったりします。 注目度の低い項目だと、おかしい内容でも異論が寄せられないまま放置されるから注意。
>>558 言われていることはよくわかります。
実は今読んでいるのが、中公文庫の「日本の歴史(旧版)」だったりします。
初版が文庫の時点で1970年代ですから、読む前は少し「大丈夫かな?」と思ったりしました。
「執筆後に新たな事実が判明していたりするんだろうなぁ」と。
だから、気になる点はネットで調べたりしながら読んでいるのですが、何というか全然古臭くない。
まぁ、私の知識不足なのかもしれませんが。それよりも、とにかく面白い。
当然、絶版だったりするわけですが、アマゾンのマーケットプレイスでは大量に出回っていたりします。
これを「古いから」という理由で敬遠している人がいるとしたら、勿体ないと思ったわけです。
また、新書なんかも回転率が速いのか、出版されて10年も経っていないのに、ブックオフやアマゾンのマーケットプレイスで
数百円で手に入れることができたりします。もう「10年」程度で「古い」という感覚なのかなと。
>注目度の低い項目だと、おかしい内容でも異論が寄せられないまま放置されるから注意。
たしかにそうだと思います。「日本の歴史 18 幕藩体制の苦悩」に「三河の大一揆」という独立した項目があって、
3ページほどの記述があります。以前訪れた地名があったので、興味を持ち検索しましたが、
全くヒットしませんでした。ネットの情報の偏りを目の当たりにした気分でした。
だから、高校生とかには古本はあまりお勧めできないかもしれません。ただ、社会人で趣味で日本史を学びたい人、
時間に余裕がある人、ツッコミ力のある人には古本はお勧めだと思っています。
>古本好きさん それだけ歴史好きなのなら(2chも含めて)インターネットの情報は参考に留めるべきでしょう ネットサーフィン(死語?)は観光情報を集めるのには有意ですが学問的には全く信用できません 十年以上この板に居る私が断言しますが今回貴方にレスを付けた人は貴方とさしてかわらない素人です 専門教育を受けた日本史専門家が現在の日本史板質問スレで回答することはまずありません 私も何年か前に質問に回答することは止めました 現在の日本史研究を鑑みると対象が細分化されていることと書き手の質の低下はどうしても否めません 実名は挙げれませんが読後に「だから何?」と感想を抱くことが多いですね 旧制帝大の教育を受けた方方の著作の方がひろい教養に裏打ちされていて読み応えがあるように思えます かくいう私も古本好きで四半世紀前に発行された同一の著者・同一の出版社・同一のタイトル本が 初版・増補版・改定増補版と所有していますが読み比べるのもまた一興だと考えております 「最新の本を読めばすむこと」とのレスが付きそうではありますが私はそういう考え方には同意できないです 昔は公立図書館で一定の手続きが必要なので素人の方には取っ付き難かったのですが 近年では超大型書店にて『日本史研究』等の学術団体が発行している雑誌で最新の研究情勢の確認は気軽に出来るようになりました ただ素人の方が趣味で取り組まれていることにそんなことが本当に必要なことなのか疑問です 2chというところは基本的に他人の揚げ足をとるために手薬煉ひいて待ち構えているところであって学問を語り合う場ではないです 昔は三戦(三国志・戦国時代)板という防波堤があったのですが95年以降垣根が低くなる一方で最近では昔の三戦板で相手にされない輩が この日本史板で回答者を任じているのが現実です 自らの足で歩き回って古本を捜し歩く時代と比較すれば現在ははるかに便利になりました そうした利便性をアピールなさりたいのでしょうが「ネットで検索すれば事足りる」と本を読まない世代が大半の日本史板住人より 少数ではありますが年齢層の高い住人のいる世界史板の方が趣旨に賛同するレスが帰ってくるのではないかと思います
訂正 95年以降 ↓ 05年以降
562 :
日本@名無史さん :2011/08/11(木) 01:50:00.08
なんで鎌倉幕府の北条氏って、源氏の血を次々抹殺したんですかね? 素直な実朝を暗殺(見殺し?)する理由もわからんし、北条政子が 我が子を殺されて、よく黙っていたものと不思議。 源頼家まで殺されてるのに。
>559 >実は今読んでいるのが、中公文庫の「日本の歴史(旧版)」だったりします。 それはよかった。 当スレを含む広い範囲で、初心者がとりあえず読破しておくべき基礎入門として、 強く薦められている必携書です。 数年前にはリファイン版が、やはり中公文庫で発刊されておりまして、 巻末にわずかながら追記があります。 >560 >十年以上この板に居る私が断言しますが今回貴方にレスを付けた人は貴方とさしてかわらない素人です 何故バレた? (いや、バレバレだけど) >昔は三戦(三国志・戦国時代)板という防波堤があったのですが 板そのものは今もありますけど、もはや防波堤にはなってませんね。 現に僕とか(すんません)
>>562 実朝暗殺に関しては北条氏は黒幕と完全に決まったわけじゃないぞ(確かにかなり怪しいとは思うけどね)
まあ北条氏が黒幕と仮定した上で回答すると、京都の公家文化にあこがれて朝廷にすりよる実朝が、関東の武家政権と
してはジャマになってきた
もともと鎌倉幕府は、武士たちが、自分たちの土地に関する権利を京都の中央権力から守りたい、という思いから
頼朝を旗頭にして樹立した政権という性格もあるので、将軍の過度の朝廷への接近は彼らには裏切り行為に見えるわけ
もう源氏を旗頭にする必要はない、後は俺たち北条家が武家政権の舵を取る、ということだろう
あと、政子にしても、内心ではわが子を殺されて怒っていたかもしれないが、文句を言えば死んだ子が 生き返るわけでもないし、彼女が北条家に逆らったところで、彼女自身にも鎌倉幕府にもデメリットばかりで メリットは何もない 下手に実家に逆らえば、彼女自身が頼家のように幽閉されたり殺されたりしかねないからね けっきょく事後承諾の形で黙認する以外どうしようもなかったろう
>>562 実朝については、黒幕は三浦氏で北条義時も一緒に始末する予定だとする説も有力です。
義時は急病を理由に欠席して、義時の代役の人が殺されている。
頼家については、頼朝時代からの幕府首脳ではなく、側近を重用しようとして反発をかい、
外戚の比企氏の勢力が増大していくのを嫌ったため、おとなしい実朝に替えようとしたといわれています。
「わしが殺った!」(ゴルゴム)
>>566 ちなみに義時の急病自体を吾妻鏡の創作とする説もある。
将軍暗殺と言う武家の棟梁としては余りにも不名誉な事実が武士の失態であることをぼかそうとしたという見方らしい。
亀レスで、しかもスレ違いの気もしますが…
おそらく
>>554 氏と
>>555 氏に対する私の
>>557 のレスを読んでアドバイスをくださったのだと思います。
正直、その2つのレスを読んで「何でwikipediaごときに過剰反応してるのよ。」「2chで『学問』て!」と思いました。
ただ、私の書き込みが誤解を招く書き方だった気もしましたし、もしかすると私が考えている以上にwikipediaに問題があるのかもしれない、
と思って
>>557 のようなレスになりました。
これは私の信念なのですが、頭のいい人というのは「具体的」に思考します。一般的なこと、抽象的なことしか言えない人、書けない人は
実は何もわかっていなかったりします。「wikipediaはダメ」と一般的な批判を書いている人が、どの程度の思考力を持っているのかは、
「具体的にどの部分ですか?」と尋ねればいいのです。賢い人、できる人というのは、私の経験上、「具体的」なことを尋ねられると
喜んで説明してくれます。
>>557 の最後のパラグラフはそういう意図で書いたものです。決して、
wikipediaなどのネット情報を盲信しているわけではありませんので、ご心配は無用です。
そもそも私は
>>550 さんの質問に対して私の考えをレスしたわけで、特に「共感」を求めたわけではありません。
ただ、本当に心から古本の良さを実感しているので、それを伝えたかったというのはあります。
きっかけはブックオフでたまたま見つけた「中村隆英」という人の「昭和史T」「昭和史U」でした。
購入して読み始めると、意外に面白い。自分のあいまいな知識が整理され、さらに新しい知識が入ってくるのが
わかりました。読み終わった後、とても充実感を覚えると同時に「でも、これ105円×2=210円で購入したんだよな」
と思いました。読後の充実度と値段のギャップに目眩がしそうでした。去年の10月のことです。そこから古本に嵌っていきました。
おそらく
>>550 さんは「古本」は頭にないと思います。それは私自身、学術的なことは「the newer, the better.」と思っていたので、
よくわかります。しかし、
>>560 さんも書かれているように古本のほうが読み応えがあることも多いのです。
それ以外にも、「安い」というメリットは大きいです。週刊雑誌以下の値段ですから、気軽に書き込みもできるし、
つまらなかったら読まなきゃいいし。小学生が教科書の人物に髭を書きこむような感覚で、たとえば山岡鉄舟の写真に
「アンパン食いてぇ〜」とフキダシを書き込んだりしています。
ですから560さんの言うところの「古本好き」の範疇からは私は少しずれているかもしれません。
ただ古本にはまってから読書量が一揆に増えましたし、頭も整理されました。
「歴史を知らな過ぎる」「勉強し直さなきゃ」とか、肩肘を張らずに気軽にどんどん読めばいいですよ、
というのを
>>550 さんに伝えたかったのです。
571 :
569 :2011/08/12(金) 11:18:27.82
肝心なことを忘れていました。
569は
>>560 さんへのレスです。
>>569 2chごときのレスでなんでそんな過剰反応してるの、という反応が返ってきますよ。
少し勘違いしてませんか?問題はあなたがWikipediaを信じてるか信じてないかではないですよ。
もともとは歴史を知らない人が読むおすすめの本、ということでした。
そこであなたが古本コーナーで探すといいよというレスをしたわけです。
そこまでだったら、それで終わりになってたと思います。
でもあなたは「歴史を知らない」という人にWikipediaで補完すればいいと言ってしまった。
あなた自身はWikipediaを頭から信じている訳じゃないんでしょう。それは分かります。
でも他の人はどうでしょうか?質問のレスした本人以外にも、このスレを見てるだけの人はいるでしょう。
そういう人があなたのレスを見てWikipediaで補完し、そしてそれが間違った情報だったら?
その人がWikipediaを信じるか、信じないか、それは分かりませんね。
Wikipediaについて過剰反応だとお思いなのでしょうが、Wikipedia発の間違った情報はネットを通してさも真実のように広がっていきます。
そしてそれを修正するのは難しいことです。一度流れた情報は消えませんから。
572です。文章読み直したらかなり嫌味な文章でした。ごめんなさい。
ごめんで済むか 切腹せい
いや、言っている内容はもっともだ 「そこまで長文にしなくてももっと簡潔に書けるだろ、長文はうっとうしい」とは思うが
>古本好きさん ……だ・か・ら、2chで煽られたごときで剥きになりなさんな…って wikiだからとそれを理由に馬鹿にする手合いはwiki以上に信用できないwebの情報が手掛かりだったりします まぁ「山野野衾」という以前日本史板にいたコテのように私がwikiの記述を確認して問題がないのでコピペとリンクを貼っているのに 小馬鹿にした態度をとる例外的なコテもおりましたが、当人は現在では世界史板でwikiからの情報を活用なさっていますので 当時は単に私に対して含むところがおありだったのでしょう(苦笑 ともあれwikiからの引用は是是非非で論じればすむ話ではないでしょうか 其の為には多数の著作を読もうとなさる貴方の姿勢には何の問題もないように見受けられます 繰り返しになりますが2chというところは、愚かな人間が自分より見下せる相手を見つけるための場所でもあります 具体性にかける煽りレスにはスルーを推奨いたします 是までに身に付けられた知識とwikiの記述が整合性を保てるか否かを貴方自身が得心できるのなら それは教養とよんでもさしつかえないでしょう くだらない遣り取りで時間をさくぐらいであれば建設的な事柄に時間をさかれてはいかがでしょうか 単純な煽りレスは気になさる必要はないかと存じます まぁ、ここまでの流れををみて私が思うことをぶっちゃけ一言で言うと「荒らしに餌を与えないで」といったところですね あと感覚的な問題ですが私は「パラグラフ」という言葉を前後との関連性が薄い独立した段落と理解しております(議論するつもりはありません感覚の問題です) ので文章に脈絡なく英単語を挿入することは控えられたほうがよろしいかと 小言めいておりますが学生が社会人になって最初に注意されることですので心にお留めいただければ幸いです
>>576 色々ご忠告ありがとうございます。ただ、正直に言えば
>>560 のレスがなければ569以下のレスはしていませんでした。
560は「>古本好きさんへ」とあるので私へのレスだということはわかりました。ただ、日本史板に来て1ヶ月未満の私には
560に書かれていることは正直あまりピンときませんでした。
ただ、560さん自身がこの板で辛い目に会われたということは伝わってきました。
その経験から私に忠告をしてくれているのだろうということもわかりました。
ですから、最初はスルーしようと思っていたのですが、それでは失礼かと思ったのでレスをしました。
パラグラフについての忠告、ありがとうございます。私としては「アドバイス」と同じくらいの日本語だと思い、
つい何も考えずに書いてしまいました。「忠告」と書いたほうがいいですね。
ただ、その「山野野衾」氏とどういうやりとりがあったのかは知りませんが、私から見て576さんにも
少し問題があるような気がするのです。たとえば、
>>560 >今回貴方にレスを付けた人は貴方とさしてかわらない素人です
というレスです。たしかに、私は素人ですが、これだけ面と向かって言われると少し照れてしまいます。
これは私の偏見ですが、学校の先生(特に高校)に多いタイプのように思えます。学校では「教師」と「生徒」ということで、
上下関係が明確です。それが当たり前になって、学校外で、生徒以外の人に対してもついつい「教師」口調になってしまう。
それが相手に不快感を与えていることに気がつかなかったりします。
たった二つのレスしか頂いていませんが、他にもそのような箇所が複数あります。
おそらくその山野氏とのやりとりの一因になったのではないでしょうか。
「パラグラフ」のお礼に私からもご忠告差し上げましたと書くと嫌味すぎるかもしれませんが。
付和雷同という言葉が大嫌いな私は2chで辛い目にあったことなんぞはありませんが 何の知識もないのに「思い込み」「決め付け」だけで自己主張する子供が近年とみに学問板で増大してきており そういう連中に辟易していることは否定しません 随分と嫌味たらしい文章になったのは子供扱いされたからでしょうか? もしそうなら謝罪しましょう 私としてはwiki云云の話を打ち切ってもらえればそれで満足です
579 :
日本@名無史さん :2011/08/13(土) 01:38:27.68
>>578 実はwikiの話はもう少し続けたい気がありましたし、それを打ちきらなければならない義務もないと思います。
それを当たり前のように主張するところが「先生」口調だと思うのです。ここは578さんのブログではないのですから。
ただ、板歴の長い578さんの意見を尊重して以後レスはやめます。
>子ども扱いされたからでしょうか?
私としては「されたからでしょうか?」ではなく「したからですね」と書いてほしかったところですが、
おそらくこれ以上書くと人格攻撃になるのでやめますね。
うざ
581 :
日本@名無史さん :2011/08/13(土) 03:47:00.03
相手が謝罪しても、文句を言い続けられる大人の人って素敵です。 やめると言っても近日中に又戻ってくる。に、5300ウオン。
582 :
日本@名無史さん :2011/08/13(土) 13:39:14.07
>相手が謝罪しても、文句を言い続けられる大人の人って素敵です。 男と断定できる根拠もないし、女だとしたら珍しくないよな。
もしかすると誤解があるかもしれないので、ひとこと言うと、
>>574 は私ではないよ。
>>579 はもちろん私ですが。
ハイハイ、この話はもうおしまい 次の方ー、質問をどーぞ
585 :
日本@名無史さん :2011/08/14(日) 00:53:45.06
同志社、立命館。入試問題おかしくないか。 早稲田に比べりゃマシらしいけど範囲が広すぎる。
早稲田は論外 立命は満点を取らせたくないだけ 同志社楽勝 最近は違うのか?
588 :
日本@名無史さん :2011/08/14(日) 09:21:02.59
>>587 あんたすげえな。
同志社の日本史問題を一般教養の範囲と言える人達には楽だろうが
山川だけではカバーできない文化史なんてやっていたら時間がなくなるわ。
南北朝期の九州を通史的に記述してある本を探しています。 九州南北朝戦乱と、九州太平記は読みました。 それ以外でおすすめの本があれば教えてください。
吉川弘文館、戦争の日本史シリーズの南北朝の巻は、 九州を扱った部分の割合が高めではあったが、それでも2割余ぐらいだったかなあ... 全国の中での九州、みたいな感じで視点を広げるには良さそうだが (九州におけるトピックの、全国史の中での位置づけ、みたいな意味で。) 九州だけを扱うものと比べると見劣りは避けられないかも。
>>591 ありがとうございます。読んでみます。
できれば九州各地域の諸豪族の動きや、
畠山義顕や斯波氏経の政治の仕方などが
知りたいのですが、難しいでしょうか。
自分なりに調べた限りでは
川添昭二さんの中世九州の政治・文化史、
工藤敬一さんの中世古文書を読み解くー南北朝内乱と九州
という二冊を見つけたのですが、読んだことある方、
いらしたら感想を聞かせてください。
>>592 ごめん。私は分からない。載ってるとすれば徳川実記あたり?
大奥の人員削減はおそらく史実なんだろうけど、嫁の貰い手〜は推測のような気がする。
>>592 大石慎三郎著の「徳川吉宗とその時代」に「美女五十人お払い箱」という項目があって、その話が出ています。
ただ、元々の出典は記されていません。ただ、そのことが書かれている段落の直後の段落に以下の段落が続きます。
(Q)そのときの美女組かどうかわからないのが残念だが、奥女中のなかに一人だけ吉宗の
気に入った娘がいた。彼は家来に命じて是非にと交渉させたが、、「親が定めた男がいる
から」と断られてしまった。普通なら大いに立腹するはずのところが、吉宗は少しも怒
らず、望み通り暇をつかわし、おまけにお祝いだといって三百両をくれてやったと『徳川
実記』では吉宗をほめたたいている。(UQ)
この記述を類推解釈すると『実記』に書かれているのかもしれません。あるいは反対解釈すると、むしろ
『実記』には書かれていないかもしれません。
いずれにせよ、大石氏の上の著書(中公文庫)にはその話が書かれています。ただし
「〜といったという。」と書かれているので、出典があったとしても史実か伝聞なのかは
不明なのかもしれません。
俺も出典は知らないから答えられない。無視してる訳じゃないのよ。
597 :
日本@名無史さん :2011/08/17(水) 11:39:06.97
後北条が武田征伐前の織田信長には臣従の意を示したのに 秀吉には臣従しなかったのは何故ですか?
武田征伐前の織田信長には臣従の意を示した当時の後北条は関東での戦況が劣勢で、 かなり苦境に立ってたからという点もあると思う。 それと。 後北条側の目算として、織田が自分たちを抹殺しようと考える可能性を考慮する必要がなかった、 今後、織田の勢力が伸びてきても、自分たちの勢力がこれ以上は衰退することはないと考えられた点があるのでは。 秀吉時代には、全国統一を目前にした秀吉が後北条氏を抹殺する危険、 だまし討ちで首を取られる危険が無視できなくなっていた(要するに疑心暗鬼?) から、秀吉側の要求を呑むのが難しかったんだと思う。 後北条氏の当主みずから京都に赴いて臣従の態度を明確にすることが要求されたから。 じゃないかな。
599 :
日本@名無史さん :2011/08/17(水) 19:41:21.15
1945年8月15日に日本が降伏した理由は「米国の原爆投下」か、それとも「ソ連の参戦」か。
>>592 実紀中の『有徳院殿御実紀附録巻十八』にあります
御自分で確認して下さい
>>599 「ポツダム宣言を受諾しても国体は護持できる」と天皇が言ったから。
そうだな、政治家も軍人も決断出来なかった。
>>598 島津も長宗我部も大減封にはなっても首は取られて無いじゃん。
秀吉の北条攻めの直接の原因は、北条家に属する沼田城代が、真田家の名胡桃城を攻撃したこと 北条にしてみれば、その辺りはうちの縄張りという意識があったし、これぐらいで秀吉も怒らないだろうと 甘く見ていたのかもしれん が、秀吉はすでに関東奥羽総無事令を発していた つまり、関東や東北の大名たちに、天下人たる秀吉の許可なく勝手に戦をするな、という命令で、 北条のしたことは明白な違反、それで秀吉はこれを北条攻めの口実とした
同様の事を島津も長宗我部もやらかして大減封されたけど首は取られて無いじゃん。 北条ビビり過ぎ。
>>604 なぜこの話で北条がビビってるってことになるんだ?
ビビってなかったから、関東奥羽総無事令に違反したんだろ
>>605 いや598がだまし討ちが怖くて頭下げに行けなかったって言うからさ。
スレの流れも見てね。(ハァト)
>>604 秀吉が関東・奥羽総無事令を出すのは、九州平定戦の直後の1587年
というか、西国を実力で平定して、それだけの力があることを示してみせたからこそ、東国の大名たちに対しても
「おまえら、わしに無断で勝手に戦うな」と一方的に命令しても、従うようになったと言うべきだろう
「同様のことを島津も長宗我部もやらかし」というのは、適切ではない
>>607 『1585年(天正13年10月)に九州地方、1587年(天正15年12月)に関東・奥羽地方に向けて制定された。』
>>607 『この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を
禁じる書状が届けられた(「惣無事令」)。』
長宗我部はやらかしてないけど、島津はやらかしてる。
>>595 Qに描かれる美談は江戸時代の他の文献だと逆に
吉宗が気に入った女中を召し上げようとすると女中は夫がいると言って断ったので
怒った吉宗は女中の夫を呼んで無理矢理離縁させ女中を側室にしたという話になるんだな
吉宗の側室8人という数はけして少ないほうではないし
吉宗が醜女を召したというのも和歌山から連れてきた側室古牟が不美人だったかららしいがよく分からん
コ川実記はどうも美談が多い
そりゃ公式記録は不都合な事は書かない事もあるでしょ。
教科書レベルの質問ですみません。 江戸幕府についてですが、教科書には幕政改革でよく財政改革をしたとか書かれてますけど 実は日本全国の改革ではなくて、江戸幕府直轄領400万石の中での話で 親藩・譜代・外様の中までは手が突っ込めなかったと知りました。 江戸幕府400万石の財政改革であり、他の藩には全く関係ないと。 この認識が正しいのかどうか自信がありません。 ご存じの方、教えてください。
>>610 公式記録だから明君・美談仕立てになるのは当たり前。公正中立なわけがない
鳶魚だと、吉宗はひどい女たらしになっている
自分個人的にはどちらでもないと思っているが
>>612 諸藩はそれぞれ独自の行政権があり、幕府がどうこう出来るものではありません。水戸黄門が
印籠出しても治外法権です。財政も幕府と諸大名は独立してます。だから基本的には関係
無しですが、諸藩は幕府の意向をある程度酌む事が期待されていますから全く無視という事でも
ないです。
極端な例で吉宗の享保の改革に逆らった尾張藩主徳川宗春が参考になるかもしれません。
>>614 それは少し違う
確かに原則では「自分仕置」と言って藩内のことは自分で処理できた。
だが、その藩の上に立つ藩主を幕府が統制することで藩が幕府の方針を公然と否定するような政策を採ることは不可能だった。
例えば、武家諸法度違反における大名の改易、妻子を人質に取って参勤交代させるなど、藩主に心理的圧迫を加える政策を採ることは可能だった。
>>615 だから全く無視は出来ないって書いたけど?
617 :
日本@名無史さん :2011/08/23(火) 08:45:49.69
>>613 そんな当たり前のことを改行して強調する
お前の「どや顔」ぶりに引いたw
610はただ吉宗の他の逸話を紹介しただけじゃん
どっちが本当だとも言ってないのに
お前が何を本当と思おうがどっちでもいいし
最近この板に来た者だけど、日本史板の質問スレって、なかなか難しいと思う。
質問に答える人よりも、質問を契機に自分の知識を取り出して、それをいかに見せるかを競うみたいなところがある。
一度質問したんだけど、回答を読んで勉強にはなった。ただ、質問それ自体にはだれも答えてくれなかった。
そもそも、質問自体も日本史という性質上、答えにくいものが多い。数学や英語など実学と違って、正解が存在するのかもよくわからない。
>>595 のレスは私なんだけど、そもそも、細かいエピソードに対して
>実話ですか?
という質問をされても、当時生存していない人間が答えるのは難しいと思う。その後
>よろしければ出典も教えてください。
とあって、
>>592 で困っているようだから、少しでも役に立てばと思って回答した。
「でも、出典があるから実話、というわけでもないよな」と思いながら。
完全にチラ裏になったけど、
>>600 の回答を見たときは感動した。私が「初心者」だからだろうか、
日本史板にはすごい人がいるんだなぁと思った。
>>612 私も「初心者」だけど、享保の改革は幕府の財政赤字を解決しようとする改革だから、各「藩」の改革は目的の射程外
なのだと思う。たとえば「上米の令」は当然各藩に関係があるわけですが、その目的は「幕府」の歳入増加であって、
各「藩」の歳入増加とは無関係ですよね。参勤交代の軽減により歳出減少になったとしても、そのこと自体は副次効果というか。
各「藩」の財政改革は、やはり各「藩」が行っていたのだと思う。吉宗自身、将軍就任以前に紀州藩の財政改革を成功させているし、
それがそもそも将軍就任のきっかけのひとつになったのではなかったろうか(ここら辺、知識曖昧なまま書いています)。
たとえば、現在は小泉政権で「郵政改革」で郵便局を民営化すれば、日本全国一律に効果が及びます。
橋下大阪知事が「大阪の郵便局は今まで通り官営にします」なんてことはできない。そういう「改革」のイメージで
「享保の改革」を考えると見誤るような気がします。
622 :
日本@名無史さん :2011/08/26(金) 16:08:03.43
鎌倉幕府が倒れるとき、なんで御家人はなだれを打って 後醍醐天皇側に着いたんですかね? 北条氏に不満あったのはわかるけど、後醍醐側についたら 昔の朝廷にいいようにされていた時代に逆戻りすると 思わなかったんでしょうか?
>>622 実際に功績のあった武士をマルッと無視するとは普通思わないでしょ。
624 :
日本@名無史さん :2011/08/26(金) 17:33:30.07
>>623 普通に恩賞もらえると期待してたんですね。
ところが相手の頭の中が平安時代で止まっていたと。
>>624 そういう事。そういう意味では後醍醐はドンキホーテと一緒だな。
ゴダイゴdisってるやつらは 小林よしのりの「天皇論」でも 読んどけ
戦後、平仮名と片仮名の役目が入れ替わったのは、どうしてなのでしょうか?
小林よしのり?笑うとこ?
学校で歴史をきちんと覚えなかったゆとりなんですけれど戦争中の話を調べてる間に日本史に興味が沸いたので 図書館にありそうで歴史を知らない人間でも好奇心を擽られる様な本かテンション上がる本か教科書よりは偏って居ないざっくりした内容が分かる本を教えてもらえませんか?
631 :
日本史@名無史 :2011/08/27(土) 22:23:26.74
日本史上の一人の人物に絞ってレポートを書かなくてはいけないのですが、おすすめの人物とかっていますか? 自分自身、人物一人ひとりに関してはそんなに思い入れがなくて決めかねています。
>>631 誰でもいいんじゃない?
興味ある人物がいいとは思うけど。
調べ易い人物は史料も多いが、研究も多いから掘り下げないと評価されない
マイナーな人物は史料も論文も少ないから苦労する
質問お願いします。 昔の人(幅広すぎてごめんなさい)の移動距離は何で何人位でどの位の期間だったんでしょうか? 例えば東海道を移動する時、歩きなのか、牛車みたいなものか、駕籠なのか? 女性の一人旅とか、まさかないとは思いますが、危険は無かったんでしょうか? 一般の人の生涯で最も遠くまで移動した一日の移動距離は?参勤交代時の一日の移動距離など。 のようなことが知りたいです。 歩いて移動するイメージが強いのですが、牛車や馬の方が効率がいいのでは?と思ったので。
>昔の人(幅広すぎてごめんなさい)の移動距離は何で何人位でどの位の期間だったんでしょうか? まず、質問は、落ち着いて書くように 「移動距離は何で」というのは意味がわからない 「何人ぐらいで」って言われても、1人旅の人もいたし、グループでの旅行もあったし、軍とか大名行列 のような大集団の移動もあった 「どの位の期間」と言われても、目的地までの距離によるとしか答えようがない
日本は山が多いので、街道はどうしても山道、坂道が多くなり、また、そういったところでは 道幅は狭く、道自体も曲がりくねっている そういう道に牛車、馬車といった車は向かない もちろん、駕籠なら大丈夫だが、それもまあ、一般の旅行者は、疲れた時や急ぐ時に 短い区間だけ利用した程度で、基本は徒歩 大名行列のお殿様なんかは、自前の駕籠と担ぎ手がいるけどね あと緊急事態の急ぎ旅で駕籠を乗り継いでいくことはあった たとえば、赤穂浪士の浅野内匠頭の刃傷事件の第一報を赤穂の国元に伝えた使者がそう 事件が3月14日で、第一報が赤穂に届いたのが3月19日だから、江戸・赤穂間を5日ほどで 結んだ
>>634 「移動距離は何で」は、「移動はどんなツールで」の間違いです。
歩きか駕籠か牛車か他にも何かあるんでしょうか?
「何人くらいで」というのは、おっしゃるように、一人旅の人がいたのかどうかが、主に知りたかったことです。いたんですね。女性の一人旅もあったんでしょうか?
海外では現代ですら何かあれば略奪などが盛んなのに、昔から日本は安全で親切だったんですかね。
「どの位の期間」は、
>一般の人の生涯で最も遠くまで移動した一日の移動距離は?参勤交代時の一日の移動距離など。
この部分のことで、上手く説明できてないんですが、伊能忠敬とかは別として、平均的な旅行とか、距離がネックで行くのを断念したのか、などです。
あー何だか上手く説明できない。すみません。訳が分からなかったらスルーしてくださって大丈夫です。
>>635 ありがとうございます。
そうか。山が多いし、コンクリートもないし、車は確かに向かないですね。
牛車などは優雅なイメージでしたが、かなりガタゴトしたんでしょうね。
赤穂浪士の使者が駕籠に乗って移動したのは初耳でした。
江戸〜赤穂(700qくらい)を5日かかったと考えると、中国大返しの京都〜岡山(200qくらい)の使者を本能寺の変の後1日で捕まえて、10日かけて帰ってきたのは、秀吉が黒幕、というよりは、手柄を大きく報告したようにも見えますね。
本当は4日後に知って7日かけて帰ってきた、とかだったのかもしれないですね。
しかし、江戸〜赤穂700qを人力で一日100q以上移動するって!すごいですね。
参考になりました。ありがとうございます。
>>636 安全かと言えば必ずしも安全ではない。峠などには賊が出る事もしばしば。江戸時代とか治安の
良い時代には役人が賊を退治するけど、例えば駕篭に乗ったら人気の無い所でおろされて金を
脅し取られるといった事もある。雲助でググれ。
江戸時代になるとお伊勢参りというツアーが大流行で今の日本人の旅行がツアーなのに繋がっている。
でもツアー代は個人では払えないからお伊勢講という仕組みも生まれた。お土産の習慣もこのとき出来た。
距離という事で言うと旅ではないけど大田南畝が休みの日に江戸のあっちからこっちの方をぐるっと
回って歩いた話が何処かに書いてあった。詳しい事は覚えてないけど、結構な距離歩くよ。
>>637 早駕篭は特別便で、使者を最短時間で送り届ける為のもの。一挺の駕篭を六、七人で担いで宿場ごとに
交代です。しかもすごく揺れるから乗ってるだけで命がけ。舌を噛まないように手ぬぐいなどを噛み締めて、
転げ落ちないように吊りひもを握りしめて乗ります。しかも昼夜兼行です。江戸時代の街道整備が背景に
あって初めて可能です。
>>635 赤穂浪士の浅野内匠頭の刃傷事件の第一報を赤穂の国元に伝えた使者は大変だったね。
携帯電話があれば
江戸家老「殿さんが刃傷やらかしたよ」
国家老「は?まじで?どうなりそう?」
江戸家老「将軍様ブチキレなんで多分改易」
国家老「荷物整理しておくよ。ところで殿さんは?」
江戸家老「知らん。たぶんどっかで留置されてる」
で済むのにね。
640 :
胡挺煩堵 :2011/08/29(月) 00:20:29.55
早駕籠って、現代の感覚&コスト的に言えば、 航空会社に掛け合って特別便を動かしてもらうほどの高額な交通手段だよな? 本当に緊急だから、という特別の場合にしか使えん。 常用の交通手段は、 単に個人移動するだけの場合でも、少なからぬ区間を船に乗ったりした。 徒歩と比べ費用が高いので、金に余裕がないと無理だったかも。 しかし、貨物輸送の場合だと。 一人で運べる荷物の量が限られてるから、 船で運ぶより徒歩の方が安く済む場面なんてほとんど無くて、 ほとんどの場合に舟運が用いられた。
641 :
日本@名無史さん :2011/08/29(月) 01:46:41.94
助郷役について、わかりやすい説明のあるサイトを知りませんか?
>>638-640 >>633 です。ありがとうございます。
私の実家の近くにある峠があって、亡くなった祖母が昔は追い剥ぎがいた、という話をしていたのを思い出して、昔っていつの話だったのか?と思い、懐かしくなって質問しました。
ぐぐってみたら、鎌倉時代の話だったようでw自分の目で見たかのように話していた祖母は何だったのか、と唖然としてますが。
雲助は、タクシーの運転手を雲助呼ばわりして問題になった人(政治家?)もいましたよね。
駕籠に乗ってるだけで命がけというのもすごいですね。
船は盲点でしたが、徳川慶喜が大坂?から敗走?する時は確か船でしたっけ。
とても参考になりました。
643 :
日本@名無史さん :2011/08/29(月) 14:51:32.95
>>643 見れません。他のロダに上げてください。
645 :
日本@名無史さん :2011/08/29(月) 16:05:19.71
>>645 3枚目はもっと明るく・大きく撮れませんか?
肝心の年月日・場所がよく見えませんので・・・
見えるところだけ
□□□□□□□□三月十五□
□□□□□□山中ニ於テ発掘
石斧
太古□□□□□コロボックル
人種の使用セル石斧ならんか
1行目は 寛保三年癸亥三月十五日 じゃね?
648 :
日本@名無史さん :2011/08/29(月) 18:23:34.56
寛保三年癸亥三月十五日 ■石古城山中ニ於テ発掘 石斧 太古此地に住せルコロボツクル 人種の使用セル石斧ならんか
650 :
日本@名無史さん :2011/08/29(月) 21:34:16.58
ここでいいのかちょっとわかりませんが質問させてください。 「信長の野望」などのゲームでは、捕虜にした武将を自分の配下に加えることができるのですが…。 史実上で、敗れて捕らえられた武将が主家が滅んだわけでもないのに裏切って敵方の家臣になった実例とかあるのでしょうか?
>650 多い。 むしろ、それが普通。 戦国時代も後半になると、主家を裏切らない武将の比率が上がっていくけども、 それが多数派になるのはもっと後だったはず。
>>651 そうなんですか。ありがとうございました。
653 :
日本@名無史さん :2011/08/30(火) 00:05:56.35
>>649 ありがとうございました。 一度年代鑑定してみようと思います。レス消費して申し訳ないですが、この市場価値ってどの位なんでしょうか。 やはり、使っていた家系はまずわからないでしょうから、こういったものは国保有財産になるんでしょうか。
度々すいません。
>>653 画像を見る限り、多分、扁平片刃石斧ってやつで弥生時代のものだと思う
市場価値というか、そもそもこういうものの市場はないと思った方がいいよ
所有権については、現時点であなたが所有しているものならばあなたにある
処分を考えているのならば、あなたの地元かお祖父さんの故郷の教育委員会に寄付すればいい
換金をのぞむならヤフオクが手っ取り早いかな
>>650-651 むしろ、敗れて寝返るような武将なら、敗れる前にとっくに寝返っているのが普通
というか、戦国時代の戦いは、敵軍のそういう武将を事前に調略するところから始まる
>>655 なるほど・・・言われてみれば確かにそうかもしれませんね。
ありがとうございます。
>653 >市場価値ってどの位なんでしょうか 採取した地層が不明なその種の埋蔵物は無価値 >国保有財産になるんでしょうか 権利関係はそうとうにややこしくなりそうだけど誰も所有権を主張しないと思いますよ 経緯が分からないけど土地所有者から無断で持ち出したものであれば窃盗です 無論時効にはなっていますがこれは断言はできません
658 :
日本@名無史さん :2011/08/30(火) 01:17:11.57
コロポックルってなに!?
ググれ アイヌの伝承に登場する小人とだけ言っとく
660 :
日本@名無史さん :2011/08/30(火) 09:25:24.91
>>654 >>657 ありがとうございました。
祖父は色々話をしながらこういった品を沢山くれました。 手放す気はあまりないのですが、何百万とかって価値だったら流石に考えてしまうので伺ってみました。 すごくスッキリしました、レス下さった方々ありがとうございました。
wikiを見たら、伊藤博文が暗殺者のカテゴリに入っていたんですが、一体誰を殺したのか書いてありませんでした。 伊藤が誰かを暗殺したことなんてあったのでしょうか?
>>661 ここで wiki を持ちだすと馬鹿にされるから止めなさいww
文久2年(1862年)に、国学者・塙次郎忠宝(塙保己一の子)を暗殺している また、同年には、英国公使館の焼き討ちにも参加している
ちなみに、暗殺の理由は、「幕府の命令で、孝明天皇廃位のために天皇廃位の前例を調べている」という噂を信じたため 実際には、塙忠宝が調べていたのは、外国人の応対の前例だった
前から思ってたけど、塙次郎暗殺のソースって何?本人が語ったの?
宿題を2chですませる時代なんだな
yahoo知恵袋にはたくさんいるがな>宿題をネットで済ませる生徒 チラ裏 この前、yahoo知恵袋の日本史カテで、 『私は中学生で、夏休みの宿題で武田信玄について調べています(中略) 武田信玄の面白いエピソードがあったら教えてください』 ってのがあって。例の「男に送った浮気の弁明手紙」の話を書いていい物か、小一時間悩んだ。
おk
670 :
日本@名無史さん :2011/09/04(日) 00:58:22.53
大学で史学を学んでいる学生です。 中世史を専攻しているのですが、「権門体制論」や「荘園公領制」といった 中世史の研究の中で提唱され、メジャーになっている学説等について整理したいのですが、 お勧めの本があったら紹介してほしいです。 できれば、どういう順序で読んだら良いかがわかればそれもお聞きしたいです。
671 :
日本@名無史さん :2011/09/04(日) 05:28:33.32
庄屋宅には門塀、式台付玄関、書院造りが許されているそうですがあくまで作る作らないは 主人の裁量しだいなのでしょうか? 夏に某豪農宅にお邪魔したのですが四脚門、豪壮な江戸期の書院造りが見られましたが 式台付玄関は見られず。 改築の際に壊したのか作らなかったのか・・・
674 :
胡挺煩堵 :2011/09/04(日) 17:56:28.32
>671 塀が「一国一城令」の規制対象に含まれたから (塀は城壁扱いとなり、これを持っていると城として扱われる) 塀を半分壊して半周だけにし、 その外の堀も同じく半周だけ残して埋めた。 という地域の方が多かったのではないかと。 あとは、地域差。 直轄地と大名領内の違いもある。
675 :
日本@名無史さん :2011/09/05(月) 00:39:23.51
他スレ(南部氏)で小田原参陣の話が出たんですが、 奥羽の大名に参陣しろとどうやって触れを出したんでしょう? もしかして勝手に京都で宣言して、知らなくて来れなくても不可で、 所領没収みたいなスタンスだったんですか?
>>675 そんな一方的に宣言する訳無いでしょ。手紙を持った使者が行ってる筈です。
>675 奥羽の大名といっても、中央(京都)との連絡なしに完全自立・独立してたわけではなく、 いくらかではあるが、連絡体制があった。 実際、本能寺以前の織田政権の頃にも、滝川を通じての連絡が成立していた。 小田原攻めのときは、ほとんどの大名は上杉を通じて連絡を取った。 というのも、関東以北の諸大名の大半は、上杉もしくは北条のいずれかと交流があったから。 上杉と交流が無く北条のみと交流があった大名に対しては、徳川を通じて連絡した模様。
678 :
日本@名無史さん :2011/09/06(火) 01:04:30.00
2点質問があります。「日本の歴史(旧版) 21 近代国家の出発 色川大吉」を読んでいると、 内閣制を伊藤博文が創設する際に、 (Q)現存の太政大臣三条実美をどう始末するかという難問があった。 伊藤はここで黒田に赤恥をかかせるような小細工を弄したが、けっきょくは天皇と国の印璽を管 理し、閣外にあって直接天皇に助言する資格をも つ「内大臣」という新しい職をもうけ、三条をそこに祭りこんだ。(UQ) とあります。この黒田は黒田清隆のことですが、「赤恥をかかせるような小細工」とは何のことでしょうか? もう一つは、この黒田清隆の夫人のことですが、憲法発布の式典に出席した「深川小町」こと「タキ夫人」について 説明されているサイトはあるでしょうか。検索しましたが、清夫人ばかりがヒットします。
681 :
日本@名無史さん :2011/09/06(火) 08:05:56.52
質問です。 知り合いの先祖が、武蔵国薗田(園田?)の出身とのことらしいのですが、 武蔵国薗田についてネットで調べてみても何もわかりませんでした。 何か御存じの方、調べ方を御存じの方などおられましたらお教えください。 あるいは、より相応しいスレがあったら誘導よろしくお願い致します。
>>681 ネットで全てが解決するわけではない。
最初に角川の日本地名大辞典を見るべし
それに太田亮の姓氏家系の類
683 :
日本@名無史さん :2011/09/06(火) 10:06:17.67
>>682 レスありがとうございます。
素人ですし、これ以外で今後地名や家系を調べることもありませんので、
辞典や専門書の類を買うわけにもいきません。
田舎在住ですので、公共図書館もつつましやかなものです。
そういう事情ですのでよろしくお願い致します。
>>681 ざっとみたが武蔵国内には薗田(園田?)地名は存在しない
園部ならある。
>>これ以外で今後地名や家系を調べることもありませんので、
では、ごきげんよう
685 :
日本@名無史さん :2011/09/06(火) 19:33:11.79
>>684 わざわざ、調べていただいてありがとう。
うーむ、無いですか。
687 :
686 :2011/09/06(火) 23:00:02.67
ゴメン 変換間違ってた 北薗部村 南薗部村 ね
知り合いの先祖をなぜ調べる必要が? と聞いてはダメなのね。
自称素人で興味もなさそうなのに、調べたい ← www
その目的を知りたい。知合いに隠れて調べているようで、あまり気持ちよくはない。 何も考えずに回答する人にも違和感を覚える。 なんて、言ってはダメなのかね。
691 :
日本@名無史さん :2011/09/07(水) 18:12:49.89
>>686 お手数をおかけしました。ありがとうございます。参考にさせていただきます。
>>688-690 先祖を調べるというのは、人によってはセンシティブな問題なんですね。
あらためて認識しました。しかし、何か世知辛い感じがします。
ちなみに、部落差別との関連なんかを連想して疑っておられたんでしょうか?
知り合いというのは、パソコンを使えないお爺ちゃんです。
江戸末期から明治時代くらいの先祖の事がネットに出ていて、
教えてあげたら喜んでくれたので、
それならもう少し古い所もと思ったのですが、ネットでは全くわかりませんでした。
そういうことなので、わからなくても別に構わないのですが、
自分自身、大学時代に文献学を専攻していたので、
解らないとなると、もどかしい気分になってしまいます。
専門分野だったら、本を買うのも吝かではないのですが、
日本史は門外漢なんで、買うまではしたくない。
高いお金を出しても、その後使い道がないから。
が、気にはなる。
ということで、2chで聞いてみました。
>文献学を専攻 最近はこんな言葉で通じるのか?
自信で碌に調べもせず、それ以上調べる気もなく、結果わからなくても問題無い。 典型的なおしえて君じゃないか。普通だったらこんな質問者には誰も回答しないぞ。 それを皮肉レスに対して「世知辛い」とか「部落が」とか、何勘違いしてんだよ。問題があるのはお前の態度だ。 親切な人が少し調べてくれたんだから、後は黙って消えとけ。
>>691 文献学って何だか知らないけど、本を買えなんて一度も言ってないよ。
図書館にリクエストすれば、相互貸借で余所からでも取り寄せてくれる。
自分で調べられないことに中途半端な親切心は無用だよ、相手が老人にせよ。
部落問題なんか頭をかすめもしなかったよww
>>691 私は関西出身だからか、部落問題がまず頭をかすめた。
その後、嫌いな人の素性調査みたいなことかな、とか。
あるいは、「俺の先祖はねぇ、」といつも自慢する人が周りにいるのかな、とか。
とにかく「目的」を説明しないで、いきなり「知り合いの先祖」についての調査法を尋ねることに違和感を覚えた。
しかも、スレの誘導まで依頼しているので、よほどその「知り合い」の「先祖」が気になるんだなと。
「目的とか、いちいち言う必要あるの?」と言われれば、それは考え方の違いというしかない。
たとえば自分の住民票を取る場合でも身分証の提示を要求されたりする。他人の場合は
「使用目的」を尋ねられる。あるいは申請書に記入欄があったりする。勝手に他人に自分の住民票の写しを取られるのは
やはり気持ちいいものではないので、当然だと私は感じる。
>>691 さんが自ら「部落差別」と書いているわけで、つまり「センシティブ」な問題であることを自覚しながら
不用意な質問をしているという気がする。「あらためて」というのも、自覚していたことを認めているわけだろう。
インセンシティブだと感じる。
その「お爺ちゃん」とどういう関係か知らない。ただ、その「お爺ちゃん」が喜んだのは、内容ではなく、
あなたが自分を気にかけてくれたという事実に対してではないだろうか。その「お爺ちゃん」がおいくつなのかは知らないが、
今まで別に先祖のことをさほど気にも留めずに何十年も生きてきたわけで、「園田」について調べても
「ああ、これはずっと知りたかったんだ。ありがとう。」となるのかなぁ。
本心では「頼んでもいないのに、なんで人の先祖を調べるのか?」と思いながらも、本音を言うと
あなたとの距離ができるのを恐れて黙っているだけかも。
696 :
日本@名無史さん :2011/09/08(木) 09:03:14.51
戦国期の武士の定義を知りたいのですが・・・ 侍・・・公家の領地の管理をしているもの 武士・・・自分の領地、知行地を持っているもの 郷士・・・年貢等一部免除された地主 地侍・・・戦時に兵員、兵糧等軍役を果たす こんな感じでしょうか?
697 :
日本@名無史さん :2011/09/08(木) 14:18:01.90
プライドは低いより高い方が良い!!在日だろうが日本人だろうがこの島のせめて半分、いや4ぶんの1の人間が俺ならばと、常日頃から俺は思うよ。とびが鷹をうむ!!
>>697 日本では謙虚が美徳です。
仏教と農耕民族である影響が大きいと思います。
699 :
日本@名無史さん :2011/09/08(木) 21:45:11.39
>>696 そもそも群雄割拠の時代なのだから、名称も権能も地域でばらばらなのが
当たり前であって、国や領主や時期も限定せずに、侍・武士・郷士・地侍
と言った定義が出来るとは思えない
>>697 プライドという自分中心主義は
心に苦痛を与えることになると
お釈迦様も仰せである。
日本人は今こそ
仏教の精神を取り戻すべきであろうな。
ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチした内容 1 人生は公平ではない。それに慣れよ。 2 世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。 君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。 3 高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。 携帯電話(当時は高かった)を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。 4 先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。 5 ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない。 君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。 それはチャンスと呼ばれた。 6 君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。 7 君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。 そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、 君らがどんなにいけてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。 親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。 8 学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。 学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、 正しい答えが導き出せるまで、何度でも機会をくれる。 実際の人生とは全く似ても似つかない。 9 人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、 ほとんどの雇用主は君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。 10 テレビは本当の人生ではない。 現実では、人は喫茶店にいつまでもいられるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。 11 オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。
702 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 19:25:40.43
ぐぐってもわからなかったのでお聞きしたいのですが 伊豆諸島を琉球人、または琉球王国が植民したという事実はあるのですか? 前にニュー速で伊豆諸島で虐殺行為を行った琉球土人とか変なレスを見かけたので。
>>702 ありません。
ただ、八丈島というのは源為朝伝説以降の時代には
大東諸島との交流があったといわれています。
八丈島は島伝いにいけない所ですが
鎌倉時代以降は幕府からの代官が派遣されております。
南大東島をサトウキビ栽培で開発したのは、八丈島の出身者です。
玉置半右衛門という人が発起人です。
桓武天皇の東北支配について教えてください。なぜ東北支配に力を入れたのかを調べたのですが分からなくなりました。 自分ではというか何かで見たのですが、墾田永年私財法で口分田が自由に手に入るように→土地足りなくなる→新たな土地を開拓するために東北支配を狙う という流れかと思っていました。 しかし色々と調べてみると、平安京から見て東北側が不吉なために蝦夷を討伐しようとした、という説をいくつか見ました。 どちらがより正しいのでしょうか。中学生に教えるならどちらで教えるのがより妥当なのでしょうか。
当時の奥州では伊治呰麻呂の乱(780年)以降反乱が続いていたんだから鎮圧するのは当然。 呰麻呂の乱の頃は多賀城辺りまでしか支配が及ばなかったし、その支配力も十分なものでは無かった。 だから多賀城周辺の豪族である呰麻呂の反乱であっさりと多賀城が落ちる事態となり、朝廷の権威は 失墜した。それが呼び水となって各地で蝦夷の反乱が起きた。これを放置すれば勢いに乗った蝦夷が 南下してくる可能性だってある。やがて蝦夷方には英雄阿弖流為が現れ征夷大将軍田村麻呂が これを制圧するのに802年まで掛かった。
>>704 いろいろな理由が複合していたのだと思います
土地が欲しかったというのも、重要な理由の1つでしょう
土地の他にも、東北の物産、特に金を欲していたはずです
大陸の唐などに対する対外的な威信として、蝦「夷」を従えているのだという実績が欲しかったということも
あるでしょう
呪術的なことが信じられていた時代ですから、鬼門の方角を平定したかったというのも、理由の1つでは
あったろうと私は思います
が、中学生にその説を教えるのはどうでしょうね?
誤解を招くというか、他の理由をいっしょに教えても、そういういかにもウケそうな理由ばかりが印象に
残って、呪術的理由だけで攻めたかのように覚えられかねませんから、この理由は言わない方が無難かも
しれません
>>705 >>706 ありがとうございます。
余計なことは言わずに、反乱を起こさせないため、土地がほしかったから、くらいの簡単な説明で流すことにします。
708 :
日本@名無史さん :2011/09/12(月) 00:49:37.48
他人様の質問に便乗して。 墾田永年私財法で自分の土地を得た農民はその後は どうなったんでしょう? ずっと独立自営農業者としてやっていけたんでしょうか。 それとも何か大勢力に飲み込まれたかな?
>>708 農民の土地じゃなくて開発領主の土地ですよ。
710 :
日本@名無史さん :2011/09/12(月) 05:40:06.52
江戸期の京都って幕府領ですか?
>>710 山城国という意味かな?
天皇領・公家領・寺社領・幕府領・旗本領・藩領なんでもあると思う。
詳しくは旧高旧領取調帳を参照
平安京じゃないの?
713 :
日本@名無史さん :2011/09/12(月) 12:54:29.38
>>711 実は江戸幕府には郷士という職制はないって(八王子千人同心は農民)話で
以前大河ドラマで話題になった京都の壬生郷士は代官所に浪人であるという証明(戦国期の
記録等かな?)を毎年することで郷士として認められた。
それで一体どこの藩かな?
>714 たぶんだが、713は>696 あたりに対するレスじゃなかろうか。 アンカーの数字が、明らかに間違ってる。
>>712 平安京と言っても区画が完全に崩壊しているから平安京とは言わないだろう
日本の新左翼は国家神道のことで神道非難してるけど 垂加神道は新左翼の好きな朱子学じゃないの?
新左翼が朱子学?
719 :
日本@名無史さん :2011/09/13(火) 01:00:36.84
>>709 ということは、坂東平氏みたいな人たちがこの法律に当てはまるわけですか?
平民が勝手に荒地を開墾して個人農家になって「ここは俺の土地だ」じゃなくて。
少なくても教育勅語が朱子学なんだから、何がどうつながっていても驚かない
>>719 全く無かったとも言えないけど誰かに取られる可能性が高い。
結局は「寄らば大樹の影」という事になる。
>>720 教育勅語が朱子学だったら、新左翼が朱子学を好きになるの?意味がわからない。
>>722 むしろ新左翼は陽明学だろ?
何を言っているんだお前は?
>708 実のところ、用水路を引いて灌漑設備まで全部作った完全な新規開墾じゃないと、 完全な私有は認められない法律だったからね。 既存の灌漑設備を流用した開墾の場合、本人の代に限って私有を認められるだけ、だったはず。 だから、かなり多くの人間を動員して組織的に開墾を行わない限り、 本人が死んだら残った土地(遺産)は国のものになってしまったわけ。 個人農家による永年私有農地の開墾は事実上不可能と言っていい。 もっと後、中世に入ってくると、721氏の言うように、 権力ないし軍事力を持つ人間による侵害(横取りとか)が増えるんだけど、 これは開墾の話題とは別の話じゃないかな。 もっとも、いずれにせよ個人農家による農地取得は困難って点は変わらんね。
726 :
日本@名無史さん :2011/09/14(水) 11:35:06.82
合戦が終わった後の戦場の戦死体って一体誰が後片付けするのですか?
727 :
日本@名無史さん :2011/09/15(木) 00:37:52.67
>>724 墾田永年私財法について、学校でそこまで教えてくれますかね?
俺みたいにこの法律を
「北の国から」や「大草原の小さな家」
みたいな零細開拓イメージで捉えていた人もいるんじゃないかな?
石田三成と、加藤清正福島正則の仲ですが、最終的にすごく険悪になるのは周知として、 ある程度まではそれなりに良好だったという主張を見たのですが本当でしょうか。 もちろん秀吉子飼いの家臣として強力をしないわけはないけど。
>727 高校の日本史Bは知らんけど、 それ以外だったら724のような内容は教えない だから、そういう零細開拓のイメージで捉える誤解はむしろ主流かも。 ほとんどの人はそのように勘違いしたまま忘れ去る。たぶん。
>>726 付近の住民や寺社が集めた上、供養・埋葬します
合戦後現地が安全であるならば遺族が引き取りに来ることもあります
(例えば1864年の下仁田戦争における高崎藩死者の遺体は、一旦下仁田住民が集めておいたところに、参戦者遺族が引き取って高崎に持ち帰りました)
>新左翼は陽明学だろ ソース希望
733 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 05:24:05.40
流れぶったぎってすんません 近現代の史料をたくさん扱っている書籍とかってありますか? 出来たら口語訳や解説等がついてるとありがたいのですが…
明治初期の太政官制における太政大臣についてですが、 この太政大臣は、それまでの名前だけで実務を持たない官ではなく、 のちの内閣総理大臣のような国の実質的なトップとしての職務を持ったポストを 想定されていたものだったのでしょうか。 唯一太政官制における太政大臣となった三条実美は結局活躍することなく、 内閣制に移行したようですが。
>>734 三条実美は人に敬われないのには敏感だが、意思決定能力が足りないのでそういう人を付けるポストは
そういうもんだと思います。初めから長く続けるつもりは無かったでしょう。
>>735 ありがとうございます。
内閣制度移行は自由民権運動など国民の要望を受けてのことだと思っていたのですが、
政府でも初めから何かしら太政官制ではない別の制度に移行するつもりだったんですね。
>>736 新しい政府はどうあるべきか調査する為に欧米を視察する訳ですから太政官制なんて中途半端なものは
一時しのぎでしょう。議会の開設だって民権運動の影響もあるけど、視野には入ってた筈です。
738 :
726 :2011/09/16(金) 16:50:20.51
>>737 なるほど、言われて見れば確かに。
「省」が残ったのだから、制度や職務が変わっても名称だけでも「太政大臣」を残してしても良かったのにと
思ってみたのですが、政治制度を根本から変えるのだから名称も“一新”する必要があったのでしょうね。
Wikipediaより 1945年8月2日 ポツダム会談終了 1945年8月6日 広島へ原爆投下 1945年8月9日 長崎へ原爆投下 1945年8月10日 御前会議でポツダム宣言の受諾を決定 1945年8月14日 御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明 1945年8月15日 玉音放送で終戦が告げられる これだけ見ると、2日に会談が終了した後、6日・9日に原爆が落とされて、 10日になって慌ててポツダム宣言受諾を決定したってことですよね? 2日時点でポツダム宣言受諾していれば、数十万人は死なずに済んだのでは、と思うのですが。
>>740 結果論ではね。
ポツダム宣言は7月26日に出て、鈴木貫太郎首相はこれを「黙殺」すると発表した。
これが外伝でIgnore(無視)と伝わった。鈴木首相の意図は『特別の注意を払わない』
くらいだったらしいが……まぁそれは余談。
一方で鈴木首相はソ連の仲介で条約による敗北的終戦を目指していたが、
それもソ連首脳がポツダムに向かったため「時間がかかる」と返答があり、
8月6日に広島原爆、8日にソ連参戦、9日に長崎原爆。
ソ連参戦がきっかけでポツダム宣言を巡る御前会議になったわけだから
……たぶん、その前だときっかけがない。
戦争は結婚に似ている。始めるのは簡単だが、止めるのはとても難しい
―ナポレオン・ポナパルト―
>>740 その時点では無条件降伏を決定出来る人が居なかったのです。無条件降伏という事は戦勝国による
処分を受け入れるという事ですからみんな怖くて出来ません。原爆が落ちても沖縄が酷い事になっても
決められず、結局昭和天皇の御聖断という事で受諾が決まったのです。
743 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 20:07:52.95
大谷吉継は江戸時代にも普通に人気があったそうですが、 なぜ当時から人気武将だったのでしょうか? 徳川家康ともそれなりに親しかったのにわざわざ西軍に属すことを選んだ、 極悪人扱いがデフォの石田三成の友達、業病云々……と、 悪人に仕立て上げられてしまう材料はいくらでもあります。 今でこそいいは話扱いの石田三成との友情物語も、 「逆賊同士の友情物語」ということにしてしまえば いい話でもなんでもなくなってしまいますし、徳川政権の安定を考えれば、 「『逆賊』は徹底的に悪人扱い」ということになってもおかしくないはずです。 なのに色々な話を聞くと、徳川の世であった江戸時代でも 大谷吉継は仁将として人気があり、悪い話はほとんどと言っていいほど残っていないようですが、 なぜ大谷吉継はあまり悪人扱いされず、また、当時の人々の間でも人気があったのでしょうか? 大谷吉継が嫌いというのではなく、悪人に仕立て上げらけてもおかしくないポジションにいた武将が、 なぜ江戸時代でも普通に人気があり、評価もされていたのかが気になって質問しました。
ハンセン病の人を悪人扱いできない
>>740 ポツダム宣言は、「これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ」とは言っているけど、
「原爆を落とす」とは言っていない
原爆は極秘で開発されて完成したばかりの秘密兵器なのだから、広島・長崎への投下は、
日本政府・軍部にとって完全に想定外の事態
>なのに色々な話を聞くと、徳川の世であった江戸時代でも >大谷吉継は仁将として人気があり、悪い話はほとんどと言っていいほど残っていないようですが、 大谷吉継の江戸期に於ける評判について、どの地域のどの階層なのかで違うのではないでしょうか。 現代人の情報力は発達したメディアに基づきますが、江戸期ではそれは望めません。 貴方が吉継について「色々な話を聞いた」その方こそが、その疑問に答えてくれるに相応しい人ではないでしょうか。 一般的に、地元なら良い話も悪い話も人間についての事ですから双方あるはずです。 良い話だけが伝わるのは物語や劇のように伝達者の意図が関与している可能性も考えられます。 吉継が江戸期に知名度が高いとの事ならば伝えられた事跡は人気と共に創作されていったのかもしれません。
>>743 別に大谷吉継に限った話ではない
真田昌幸・幸村親子、長曾我部盛親、後藤又兵衛基次など、徳川に敵対して滅んだのに人気のあった武将は
他にもいる
戦った当事者たちに「敵ながらあっぱれな武将」と実力や人格を評価されていたこともあるだろうし、最終的に
負けているから庶民からは判官贔屓されたってこともあるだろう
>>747 質問です。真田親子とかは分かるけど、長宗我部盛親って江戸時代は評判よかったの?
江戸時代に評判が良かった人って何かしら芝居とかで現代に影響してることが多いけど、
長宗我部盛親の良い評判ってロクに現代に残ってないような。
>>740 10日の所謂「聖断」の時ですら、聖断で押し切るしかないくらい戦争継続派の発言力は強かった。
>>743 武田信玄など特にそうだが、「あの大権現様ですら手こずった(または負けた)ほどの武将」というのはある程度持ち上げないと、
「あんなのに負けた家康プギャー」ってなる。
寛和の変で、疑問に思うのは、出家したぐらいでなぜ天皇の地位を諦めなければならないのか? ということです。「やっぱり出家や〜めた」とは言えないのか、と単純に思ってしまいます。 「天皇」なのだから。 そもそも「退位」というのは、それなりの手続きを踏まえなければならないのでは?この場合、手続きに不備があって 「退位」の無効を主張すればよいのではないか? 考えたのは、「神道」と「出家(仏教)」はそもそも両立しないので、「出家」の意思を示した段階で、自動的に「皇位」を失う ということなのかということです。 日本の歴史でしばしばわからなくなるのは、「実質的権威」がどこにあるのか?ということです。 「形式的権威」という箱だけあって、中には何も入っていないみたいな。 政治を動かしているのは「一体だれなのか?」という疑問です。(現在でもまさにそうですが)
>>750 神道と出家が両立しないというよりも、両立しないのは、俗界での地位と出家
当時は、出家したら、建前上は、俗界の地位は捨て去ることになる
天皇も、いわば公の地位だから、退位手続きに不備があろうと、手続き自体をしていなかろうと、
出家をするということは、その地位を放棄すること
だから「やっぱり出家やーめた」と還俗したとしても、その時にはもう天皇ではなくなっている
還俗後にあらためて重祚することは理論的には可能かもしれないけど、それこそ手続きが必要
その頃には次の天皇も決まっていて、藤原氏の有力者がその後ろ盾となっているだろうから
難しいだろうね
>>750 >「やっぱり出家や〜めた」とは言えないのか、と単純に思ってしまいます。
「やーめた。」と言ってもその時にはもう一条天皇が即位していて言わば梯子を外された状態です。
どうする事も出来ません。
>この場合、手続きに不備があって「退位」の無効を主張すればよいのではないか?
そこまで法治が徹底してる時代じゃないです。
>日本の歴史でしばしばわからなくなるのは、「実質的権威」がどこにあるのか?ということです。
>「形式的権威」という箱だけあって、中には何も入っていないみたいな。
「形式的権威」と「実質的権力」です。権威は天皇にあるけど権力は藤原の某が握ってたり
武士が握ってたりです。
>>751 ,
>>752 回答ありがとうございます。だいぶスッキリしました。
私が疑問に思ったのは、どの時点で「形式的権威」が花山天皇から一条天皇に移るのか、ということでした。
花山天皇が、
(1)出家の意思表示をしたとき
(2)退位の意思表示をしたとき
(3)現実に出家をしたとき
(4)その他
このいずれなのだろう?ということです。私の読んだ本には軽く触れてあるだけなので、(3)のように読み取れる。
そうすると、次に「出家」と認定されるのはいつ?という疑問が沸いてきました。これも道兼に騙された当日のように
読めたので、「髪の毛を切った」時点で「出家」とされるのかなと。とすると「形式的権威」というのは
天皇の「髪の毛」にあるということ(笑)? その程度で「形式的権威」が移るのであれば、「実質的権力」を持っている人の
さじ加減でどうにでもなるのではないかと。
後で調べると、道兼に内裏を連れ出されたのが6月23日、花山天皇の退位、一条天皇の即位が6月30日。
「出家」で自動的に「退位」ということではなく、その後道兼が三種の神器を押さえていたということ。
これは、もしかすると常識なのでしょうか?ここがよくわかっていませんでした。
つまり、(4)その他(三種の神器の移譲など)ということなら私の疑問は完全に解決です。
単なる知識不足だったかもしれません。
>>753 剃髪した時点で出家した事になる。でもまだ後戻り出来る。
後戻り出来ないようにする為には一条天皇の即位が必要。
即位の形式を整える為には三種の神器が必要。
花山天皇の退位が30日なのは多分一条天皇の即位に合わせて、後付けで決められてるのだと思います。
形を整える為に。
三種の神器は天皇の位の正当性を保証する物ですが、委譲の時点で権威が移るという事でもないです。
即位が必要と思います。
レガリアである神器が渡っちゃったら後戻りは無理だろ?
流れ切ったらすみません。 鎌倉幕府が鎌倉に本拠地を置いた理由について質問があります。 大きく地形、八幡、京都からの距離といったものが理由だと思うのですが、地形的要因で海はどう関係しているのでしょうか? 海からは攻められにくいということですか?それとも貿易でもしていたんですか?
北条や三浦とのパワーバランスじゃないのかな?
>>755 その辺は実例を知らないので何とも判断つきません。
>>756 鎌倉は土地が狭いのに本拠地にしたのはやはり天然の要害だからだと思います。
海からは攻め難いという前提があるから新田義貞の伝説も生まれる訳です。
>>754 回答ありがとうございます。ただ、回答を読んで、また疑問が生じてきました。
一条天皇はどうやって「即位」できたのでしょうか。たしかに、花山天皇は「出家」している。
道兼によって「三種の神器」は一条天皇の手元にある。この2つの事実があれば十分とも考えられます。
しかし、そこに花山天皇の「意思」は必要なかったのでしょうか?あるいはその時点でも道兼に騙されていることに
気が付いていなかったということでしょうか。花山天皇による「譲位」は必要なかったのでしょうか?
>>759 花山天皇の意思も譲位も必要無いと思います。出家(=退位)と三種の神器で形式上は十分という事だと思います。
もちろん騙された上での事ですから全く問題無いという訳でもないので「変」として記録されているのだと思います。
761 :
日本@名無史さん :2011/09/19(月) 00:14:49.20
鎌倉は不健康なやつらを集める何かがある。 とくにメンタルが不安定な芸能人が移住してきてスローライフとか言いながらナマケモノ生活をしてるイメージ。
>>760 回答ありがとうございます。ただ、正直よくわからないです。
花山天皇の「退位」というのは出家と自動的に生じるわけではないのですよね。
仮に、23日から30日の間、つまり一条天皇の「即位」前に花山天皇が「出家はとりやめた。皇位は譲らない。」
と主張した場合、どうなるのでしょうか。
つまり「出家」=「退位の意思」ということではないでしょうか。 花山天皇も道兼に騙されたことに気がついたが、出家を取り消すことはなくかった。 ある意味、自らの意思で出家を決意したということだと思うのです。 それは政治的な力学がすでに不可逆な状況にあったということもあるとは思います。 それでも、形式的にであれ花山天皇の譲位の意思があったから、一条天皇の即位が可能だったと 考えないと、おかしいと思うのですが。
素人でよくわからないので質問です。 (1)卑弥呼は古墳時代なのですか? (2)卑弥呼の時代に朝鮮半島の南端は日本の支配下にあったのですか?
>>765 1.以前は古墳時代はもっと後と考えられていましたが、近年は「古墳の築造年代がもっと遡っていいのではないか」
「最古級の箸墓古墳が卑弥呼の時代でもおかしくないんではないか」という流れになってます。
2.魏志倭人伝を見る限りでは半島の南端にあった狗邪韓国が倭の北の端と認識されていたようです。
>>766 回答ありがとうございます。
(1)議論中というところなんですね。
(2)浅学で「狗邪韓国」というのは知りませんでした。魏志倭人伝に書いてあったのですね。勉強になりました。
>>756 鎌倉には、かつて頼朝の父の義朝の屋敷があった(まあ、各地にあったんでしょうけど)ので、
元々の地盤の一つだったのと、初期の挙兵からの支持者で有力御家人の三浦氏に近かったという点から
選ばれたのだと思います。
おっしゃっているように地形上の利点(三方向を山に囲まれて侵入を防ぎやすい)もありますし、
海上については三浦氏や梶原氏が水軍を持っていたので、その軍事力で防衛できるという判断だったと思います。
>>734 活躍することなく・・・というのは語弊がないかな
もちろん殊更に事績を評価するわけじゃないけど。
実務レベルの役人が実権を持っているとはいえ,決裁は太政大臣が最終的にはやるわけで
教科書的には名前だけちょこっと出るだけだけど,決して名誉職というわけではないはず
「○○が××をやりました」という記述の裏で何人もの人間が関わっているというのが実際。
そこに(実権はともかく)国政のトップだった三条が関与してないわけはないよね
明治初期は決して「薩長藩閥」が確立してスタートしたわけではないし,
公家層が,いわゆる元勲を排除するような動きもいったん見せてる。
王政復古の建前もある。
といったようにもっと複雑な状況の中でできた採用された官制じゃないかな
私的意見ばかりですみません。
>>763 三種の神器が東宮に渡った=践そ
新帝が即位する=即位の礼
三種の神器がひとたび新帝に渡った以上、先帝が即位の礼までの間に騒いでも
譲位は覆らなかったのでしょうね。
「大鏡」にも藤原兼家が途中で花山天皇の気が変わらないよう、
花山天皇が内裏から出るとすぐさま三種の神器を孫の一条天皇のところへ
運び込んだという記述があります。
>>770 回答ありがとうございます。
>「大鏡」にも藤原兼家が途中で花山天皇の気が変わらないよう、
やはり「気が変わらない」というところが重要だということではないでしょうか。
つまり、仮に三種の神器がいまだ花山天皇の手元にあって、かつ「気が変わって」いれば
やはり譲位はなかったと考えないとおかしいと思うわけです。
>>769 でも征韓論の時みたいに重大な決断を迫られると何も出来ない人だよね。
773 :
日本@名無史さん :2011/09/20(火) 23:05:07.11
曽我兄弟の仇討ちって、何で日本三大仇討ちに加えられてるんでしょう? それほと見事なストーリーってわけでもないし、敵役の工藤が必ずしも 悪者ってわけでもなく、どっちもどっちの一族内の内訌にしか 思えないのですが。
工藤祐経が悪役かどうかはどうでも良いのです。それを言ったら鍵屋の辻の方だってどうなの?? 将軍の頼朝が富士の裾野で開いた巻狩りには名立たる御家人が数多く集まっています。その中に たった二人で乗り込んでやってのけたのが見事でなくて何なのか。と逆に訊きたい。
775 :
日本@名無史さん :2011/09/20(火) 23:38:51.48
もしも朝鮮戦争でアメリカが韓国政府を見殺しにし、 朝鮮半島全土が共和国によって赤化統一されていたら、 その後の東西冷戦下に行われた北朝鮮の韓国に対する嫌がらせが、 日本に振り向けられ、 日本は史実よりも毎年の防衛費を多く負担しなければならない状況に陥るのでしょうか?
>775 そりゃまあそうだろうけど、 同じ発想で、アメリカが日本も見殺しにして日本が中国とソ連に分割占領されると想定するのと同じぐらいに荒唐無稽な喩えとは言える。 共産主義勢力の拡大が当時のアメリカにとって最重要課題だったから、 韓国防衛はアメリカの面子にも関わる重要問題だよね。 あの時点で韓国を見殺しにするということは、 共産主義勢力の拡大を黙認し放置するのと同義。 結局は、その次のベトナムで失敗することになったとは言え、 あの時点では韓国の滅亡を許すことは有り得なかっただろう。
777 :
日本@名無史さん :2011/09/21(水) 01:30:26.12
>>776 東側の国同士で争わせると言う発想は無いの?
ソ連、中国、ベトナムは互いに仲が悪かったし、
ソ連は北朝鮮に頭を抱えていたし。
778 :
日本@名無史さん :2011/09/21(水) 01:39:01.33
米帝の所為で、日本は大変なお荷物を抱える事になった
>>771 花山天皇が内裏にいるうちは譲位にはならなかったでしょうね。
実際、花山天皇が内裏にいる間は一条天皇は即位できていません。
花山天皇が三種の神器を置いて内裏から出た時点で譲位決定です。
「気が変われば譲位が食い止められたギリギリライン」は
内裏にいるという時点。
三種の神器を置いて内裏を出たら、それ以降は気が変わっても
譲位は覆りません。
それは違うでしょ。内裏を出たって「ちょっと外出しただけ」で通る。 出家して退位の意志を示したという形があって初めて一条天皇の即位が可能になる訳で。
>>779 回答ありがとうございます。
ということは、天皇は
(1)在位の間は内裏から外出は不可能だった。
(2)在位中に内裏から外出する場合は三種の神器を携帯する必要があった。
のいずれかだということでしょうか?御幸の時には三種の神器も持ちだされていたのですか?
セキュリティの点で考えれば、かえって危険な気もするのですが。
それに道兼が三種の神器を一条側に移したのも「念のため」にすぎないことになりませんか。
あるいは内裏から外に出るのを促すため?
やはり少しおかしい気がします。
>776 何の知識もないなら黙ってろバカ >1950年1月12日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。 >それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」) 朝鮮戦争の米軍介入はマッカーサーとトルーマンの面子というくだらない理由 面倒だから詳細は自分で調べろ
>>782 >朝鮮戦争の米軍介入はマッカーサーとトルーマンの面子というくだらない理由
Really?
Or do you really believe it literal?
北が攻めてくると思わなかった、と言うかソ連と中国がバックアップすると思わなかったって話は聞いたことあるな。
>782 その発言はアメリカ政府内でコンセンサスを得られていないものであって、 むしろ暴走のようなシロモノだったんだろ。 20世紀中葉(大戦終結以前から)の米国務省は米政府内における対ソ協調派の牙城みたいな状況だったし。
発言の影響 南進への対応 現実を無視して特定の観点から朝鮮戦争をながめることに意義があるなら785の発言は間違っていない むろん国務省が戦間・戦後にどのような指向性をもっていたかについて間逆の見方もありうる 俺は785の全文に賛同しないことをいちおう付言しておく
質問が「もし〜」と完全に「仮定」の話だからね。断定的な回答をするほうがアレだと思う。
そもそも質問の体をしながら、自分で結論を示しているわけで、純粋な「質問」ではない。
そのことを
>>776 さんはわかっていて、その「結論」に対して「とは言える」「だろう」と断定を避けながら
反論しているのだと思う。
それに対して断定的に批判している
>>782 はなんだかなぁ、という気がする。
「もし〜だったら」という質問には、そもそも答えようがない。その点を理解した上で知的ゲームとして
答えるならいいけど…
・知的ゲームとして、架空の世界の歴史を学問板の質問スレで部外者への警告(会話の前提が事実無根)なしに内輪で楽しむ ↑朝鮮戦争の知識が皆無の人間を騙す事が目的だとしか読み取れない悪質な書き込み ・785のように前スレ末からシングルレスアンカーを使用して素人見解を何度も繰り返すことに固執する バカセというコテが誰なのかは知っているらしい自称日本史板初心者 ・事実と嘘を明確にする それぞれがそれぞれのやりかたで2chを楽しめばいいんじゃねぃ? 誰かのやっていることに全員が従えとでも言いたいのか>787 俺は誠実な回答者として2chに十年間奉仕してきたのだから次の十年をどうするかは俺が決める
それは勝手に決めていただいてかまわないけど、何をそんなにカッカしているのかさっぱりわからない。
何か妄想にとりつかれているのでは?
>会話の前提が事実無根
この「会話」って何?
>・785のように前スレ末からシングルレスアンカーを使用して素人見解を何度も繰り返すことに固執する
> バカセというコテが誰なのかは知っているらしい自称日本史板初心者
何のことですか?
>>785 に書かれていることの正否はともかく、流れには乗っている。
それに対して、いきなり「前スレ末から」とか「バカセ」とか「自称日本史初心者」とか
>>785 から読み取れないことを書かれても、なんだかなぁ、という気がする。
私は正真正銘の初心者だけど、日本史板ってこんな人が多いのね。
自己評価が異常に高いというか。以前も「十年以上」この板の住人であると述べた上で
「何年か前に質問に回答することは止めました」と語っている人がいた。
「それが何か?」と思った。
>>789 >「それが何か?」と思った。
横レスだが、そこだけは俺も同感だ。
>この「会話」って何? 君が楽しんでいるらしいゲーム 楽しんでいるところを邪魔して申し訳なかった謝罪しよう 満足できた? >何のことですか? 三者三様 前スレから俺に粘着している…あ〜いぃ俺の妄想だ 満足できた? >私は正真正銘の初心者だけど、日本史板ってこんな人が多いのね。評価が異常に高いというか。 運動会は全員並んでゴールイン人は皆平等であるべきなんだよねゴメンネおじさん配慮が足りなくて 満足できた? >「それが何か?」と思った。 昔は三戦板で議論が起きると「日本史板の人に聞きに行こう」と恰も学生が職員室へ聞きに行くかのようなやり取りがあったが 04年ぐらいから崩れ始めココ数年は別スレで(多分君が)書いていたように776レベルの書き込みが増えてきたという経緯を踏まえて俺の不満を述べたのだが この板は君が許可した種類の感想だけを書いてよいというルールが何時の間にか成立していたんだね ごめんオジサン気付かなかったよ 満足できた? じゃ〜ね躾のできてない餓鬼に付き合うのはここまで 俺は俺の遣り方で楽しまさせてもらうから御機嫌よぅ〜
マジで意味がわからない。
多分「男には自分の世界が有る」な人なんだろう。
掲示板って匿名だから、自意識が文にダイレクトに出てしまう。 匿名掲示板で「十年」とか「餓鬼」とか、自分の年齢が上であることを暗示させてしまう人は、 結局、実生活でも「年上」であることでしか相手を説得させることができていないのではないだろうか。 それが掲示板では通用しないので(当たり前だよ)、必要以上にイライラしてしまうのでしょう。
>793-794 たぶん、>788,792氏が言う >・785のように前スレ末からシングルレスアンカーを使用して素人見解を何度も繰り返すことに固執する ってのはオレのことだと思う。 お前の駄文は読みたくないからコテハン付けろ、と言われたこともあるけど、 それを言ったのも>792氏かな、多分。 >前スレから俺に粘着している…あ〜いぃ俺の妄想だ ううむ。粘着? 自意識の高い人かいな? それとも、この部分だけ、オレのことは入ってないんかな? こちらは特に誰かに粘着して投稿したことはない。 どの投稿とどの投稿が同じ人なのか、という点すら気にしてないんだが... ちなみに、当方の特徴(自分で把握できてる範囲)は、 ・一人称が不統一。というか、変わりすぎる。(オレとか当方とかを多く使う他、自分とか僕とか...) ・言葉遣いも不統一 >792氏(たぶん)からの指摘も事実無根ではない物が多いから、他にも特徴は多いんだろう。 >俺は俺の遣り方で楽しまさせてもらうから御機嫌よぅ〜 楽しくもないのに読みに来るような掲示板じゃないから、何か楽しみ方を見つけるのが正解だよね
右翼やカルト宗教が絡むと荒れる。 異なる価値観を悪だと思い込んでいるから。
それは左翼も同じ。 というか総括と称する集団リンチを 自己システムに組み込んでいる分だけ たちが悪い。 何事もほどほどが一番ぢゃよ。
内容から見て、右翼とかカルト宗教とか左翼とかは関係ないと思うけどな。 単に傲岸不遜なだけじゃないか。 元学校教師とかにいるタイプ。かなり年配者だと思うけど、世間慣れしていない感じが文面から漂ってくる。
800 :
日本@名無史さん :2011/09/24(土) 11:19:52.19
え〜と纏めると、2ch初心者だから日本史は教科書程度の知識しかないからと枕詞を置いておけば、無問題。 2ch初心者で日本史は教科書程度の知識しかない僕より、無知がいるよ。と書いて他者を不愉快にさせても問題無い。 2ch初心者で日本史は教科書程度の知識しかない僕には、優しくしてくれなければいけない。上から目線はホビロン。 2ch初心者で日本史は教科書程度の知識しかない僕が、要求したら全員が従わなければいけない。 で、O.K? 昔は「三年ROMってろ」で黙らしていた厨だよな… そういえば最近はどこの板にも、こういう厨対応のテンプレは見かけなくなったね。
PCの電源を入れたとき作動してくれてありがとうと礼を言う人間は皆無だが OSが立ち上がらないと機械に文句を言う人間はいる 質問者にとっての回答者は便利な道具という認識なんだろ(苦笑 もしくは御客様である初心者の質問者に無礼をはたらくなとかそういう認識かな >世間慣れしていない感じ 世間慣れしていれば上手に必要な情報を引き出すだろうね 朝鮮戦争に興味がなくて自分で調べようという意欲は無くても、マッカーサーとトールーマンの確執に少しだけ関心をもった住民の知る権利を 壷初心者であると宣言すれば何を言っても許されると勘違いした御子様は奪い去ったわけだ そして御子様は言う「僕は悪くない。問題があるとすればそれは常に僕いがいの誰かだ」と…
あぁ背伸びしたがる御子様だからこうか「この葡萄は酸っぱくて食べられない」
この手の人って、自分が賢いと思っているので「お前の考えていることは、俺には手に取るようにわかるんだよ」
というのをやたらアピールする傾向がある。「で、OK?]とか「満足できた?」とかね。
実際は的外れなことが多くて、何が言いたいのか相手に通じない。でも、当人は「俺は賢いんだよ」ということに
一片の疑いも持たないので、通じないのではなく、「相手のレベルが低いから、俺の言うことが理解できない」と思っている。
自意識が肥大化しているので、防衛意識以前に、自分の間違いにいつまでたっても気がつかないのね。
少なくとも、
>>782 のレス内容は、その文体も最低だし、言っている内容も噴飯ものでしょう。
勉強量は多いと思うけど、本質的なことを何一つ掴めていない人だと思う。
いつまでその話題引っ張るん?
>>792 を書いた後に、まだレスをするのが恥ずかしいことだと気づいていないんだよね。
792がレスをやめれば、この話題は終わるよ。
他人の回答を理由も示さず罵倒したり、まるで自分の庭であるかのように、自由気ままに自分語りするのは
いい加減やめてほしい。鬱陶しいから。
807 :
日本@名無史さん :2011/09/24(土) 23:27:51.19
, '"~`> _ |~~`! ,、 く`、 ,、く` 、 , '" ,、 "' 、 '、 ヽ .| ! ./ `ゝ 〉 ゝ ヽ ヽ 、ノ , '" , '" "'、 "' 、 ヽ ヽ ! ! / 〃 〃 〃_ く`、`´ , '" , '" ゝ "'- 、 ____ヽ, '"_! !' 、/_, へ ,- 、, -'" __., ` . ヽ ヽ、 <´ , -、"─‐──‐'´_,、 〃 ヽ-------, 、-------‐ゝ ヽ、__., / } i ヽ ヽ. `'´  ̄ ̄! i ̄´ ``' / . ヽ、 / / .. } i ヽ i 、── ┘ └─'´` 、 , '" ,. ! 、 ヽ、 / / ,' ,' `'´ `ー─ ┐ ┌──'´ , '", -'" ! i ゙ 、 ヽ、 / /,、. __ノ / _____」 L__, へ、 , -'", -'" i .! ヽ、 7 / /`ヽ ノ ヽ-------------------' `'´ L.-' `'´ `‐、' `ー'´
808 :
日本@名無史さん :2011/09/24(土) 23:28:04.75
く`"'- 、 !~`i , '"゙、 ヽ 〃______.! !___へ、 ,'"'-、 〉 7 ,へ、 `'ヽ_________ゝ 〉 / く` 、 ,へ、__/ 'ー'´ヽ、 ヽ、 `ゝ,、 .-、 /`ー、 i ,' ヽ ヽ、 ヽ _ ,-‐ '´_... _ `、'/ ,' ', ', ,' ,' . i { ヽ ヽ `'´/ ,' <´_. , ~`> . / ,'. ', ', ,' ,' i { , ", ', ', ,' ,' ´<_..'´~` 、‐、/. ,' ', .', i ,' i ',/ / i_..-' / / , ‐、 '、 ,' i ', i / . i /_ , ' ,' { (._ __ '、 ', ____'ー'´_i /_ ,へ、 ヽ } く ,' ヽ、 ` ̄´ ヽ. i_...i _________/ `~´ `´ `ー----‐ '´
えーと。 質問です。お願いします。 嫁入り婚になってから、戦いやクーデタで嫁が死亡した例はありますか?(お市の方、豊臣秀次一家以外でお願いします) また、婚家ではどのようなポジションだったんでしょうか?人質的だったんでしょうか?もしくは意外と優雅だったりして? 婿入り婚時代では長屋王の妻の吉備内親王や、藤原仲麻呂の妻が亡くなっていますが、自分の家が戦場だから仕方ないですよね。 黄梅院も家康の娘で北条に嫁いでいた人も離縁で、亡くなってはいません。 子供が戦っていた淀殿、宗教上の理由で細川ガラシャは亡くなったことは、ある意味仕方ないと思います。 赤橋登子、春林寺殿、は勝ち組(春林寺殿は怪しいですが)にいましたが、立場が気になります。 亡くなった方、時代によって違うとは思いますがどのような立場だったかを知りたいです。
>>769 返信が遅れましたが、ウィキペディアの太政大臣の項目に「三条が権力をふるう機会はほとんどなかった」
と書いてありましたので、ということはあまり活躍できなかったのかなと思いそのように書きました。
>実務レベルの役人が実権を持っているとはいえ,決裁は太政大臣が最終的にはやる
ということはやはり形ばかりとは言え最終的な政策の承認やゴーサインのようなものは出していたわけですね
>>809 おつやの方
織田信長の叔母
秋山信友に降伏して結婚したが、信長により逆さ磔にされた
北条夫人
北条氏康の娘で、武田勝頼の妻
天目山付近で、夫勝頼と共に自害
清円院(華渓院)
長尾政景の娘で、上杉景虎の妻
御館の乱で自害
鶴姫
常山城主上野隆徳の妻
毛利元就に包囲され、自ら槍で戦った後、自害
>>809 待て!細川ガラシャが死んだのは宗教上の理由じゃないぞ。耶蘇教は自殺禁止だから自害出来なかった。
だから家老に殺してもらった。死んだ理由はたぶん人質になるのを拒否したんだろう。だとしたらそれは
宗教上の理由では無い。
>>811 ありがとうございます。勝ち組、生き残り組の立場については分かりますか?
春林寺殿は応仁の乱終結のために政元と一緒に山名屋敷に出向いたりもしてますよね。婚家で、ある程度権力があったんですかね。室町期は正室はめちゃくちゃ地位が高いイメージはありますが。
>>812 あ、すみません。言い方が悪かった。
ただ、忠隆の正室の千代が逃げられたことを考えると、消極的自殺なのかな、とも思います。どっちにしろ宗教上の理由ではないですね。
>>810 >婿入り婚時代では長屋王の妻の吉備内親王や、藤原仲麻呂の妻が亡くなっていますが、自分の家が戦場だから仕方ないですよね。
吉備内親王の場合、彼女が天皇に近い血縁者でその息子たちが有力な天皇候補になりえたために藤原氏に排除された
(どちらかというと彼女たちが殺害の主な対象者)という面が強いかと。
長屋王の他の妻子は助かったりしてますし。
>>809 藤原仲麻呂の妻は処刑だったはず。
死亡した妻が処刑だったのか自殺だったのかで理由は異なるかと。
吉備内親王は姉の元正太上天皇存命中の事件だったので
さすがに自殺してなければ命は奪われなかったかも。
>>815 そもそも長屋王一家が自殺したと言うのは一種の公式発表であって、本当はどんな死に方だったのはを確かめる術はない。
そもそも、長屋王にかけられた嫌疑が本物だったら律で認められた「貴人の自殺」が認められる犯罪じゃない(大宝律が養老律の規定が異なる可能性はあるが)。
令はともかくとして、律を適切に運用できる体制が整ったのは10世紀以後とかなんとか... ということは逆に、長屋王の事件の頃には律の適切な運用はできていなかったことに。
>>816 創作になるけれど、永井路子の「美貌の女帝」でも、元正上皇が長屋王夫婦が本当に自殺したのか疑うシーンがある。
それだけ、異常な事件なんだろうな。
819 :
日本@名無史さん :2011/09/27(火) 00:08:54.79
どうして"お金持ちのお嬢様"キャラはたいてい金髪なんだろう?
やっぱりお金持ちだと髪も金になるんじゃないのか
821 :
日本@名無史さん :2011/09/27(火) 19:22:35.31
それって日本史板で語る話題?
人の創造力は無限なのだよ
823 :
日本@名無史さん :2011/09/28(水) 09:43:21.35
結局、「K」ってなんで自殺したの???
日本の世間一般に地球が球体だという常識が浸透したのはいつ頃ですか? それ以前の日本人はどういう世界観を持っていたんですか? 平面説があったんでしょうか?
中国の道教やインドの仏教は平面説だから、当然平面説
信長は宣教師に地球は丸いと言われたとき 理に適うと答えたそうだし沿海部の住民には常識だったんじゃねぃ (確か)36Km以上(アイ ポイント 1m)の距離を直線で見通せれば大地や水上が平坦でないことは見ればわかる 船のマストや旗指物は常に頂点から見えはじめ徐徐に全体が見えてくる 陸地であれば起伏もあるが平面である水上で生活している者は経験上分かっていたはず 変な宗教教義のない我が国では当たり前すぎて話題にならなかったと思われ
須弥山が中心にある世界の南にある贍部洲が人間の住んでる処という須弥山世界観を知らなかったら 孫悟空は東勝神州の生まれだとか言われても理解出来ないだろ
須弥山思想自体は日本でも古くから知られていた。 『日本書紀』推古天皇20年条に天皇が宮殿に須弥山を模した山を築かせたと記されている。
引き篭りの俺様が最強の物知りなスレはココですか?
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832 :
日本@名無史さん :2011/09/29(木) 17:52:59.47
よくテストに出て、回答にこまるんですが 日本初の政党内閣って隈板内閣なのか原内閣なのか・・・・ 「本格的な政党内閣」って書いてる場合は原内閣なんでしょうが。
>>823 生きていれば先生に復讐してしまいそうな自分がいやだったんだろう
ふと疑問に思ったんだけど、 徳川御三家 尾張と紀伊は国名なのに、 何で水戸だけ常陸じゃなくて水戸なの?
1、藩の名前自体が俗名だから、なんとでもなる 2、紀州藩・尾張藩がほぼ一国治めたのに対して、水戸藩が常陸一国治めてるとは言い難いから
尾張藩は名古屋藩、紀伊藩は和歌山藩ともそれぞれ呼ばれるしね
838 :
日本@名無史さん :2011/09/30(金) 11:26:47.14
じゃあ時代劇の「水戸様は〜」とかは大ウソなの?
>>838 普通の大名の場合、領地名でなくて官職名で呼んだみたいだから
(例えば肥後細川家の藩主なら越中守様となる)
他の中納言と間違う可能性がない場合は中納言様かもしれないけど、
加賀前田家の藩主で何人か中納言がいるから、そういうときは、周囲は水戸様と呼んだのでは?
>>838 庶民がそんな呼び方をしたことはあるがね
俺が知る例だと高崎藩を「高崎様」とか
841 :
日本@名無史さん :2011/09/30(金) 19:21:38.53
江戸時代、江戸の武士については良く本に載ってるけど 京都で働いてる幕臣はどんな仕事をしていたの?
>>841 朝廷の監視というのもあるけれど、
社会水準が高かった京都周辺では裁判などが多かったし、関東と比較して西国に近いから西国方面の情報収集など、多岐にわたっている。
>>557 それは巷に溢れてるゲームが西軍キャラをイケメンにしているからだね
実際は東軍の方がイケメン武将が多い気がする
844 :
日本@名無史さん :2011/09/30(金) 23:05:54.96
江戸時代だと町人が武家になるには株を買う手口がありましたが、 逆に武家が町人になれたんでしょうか? 家を継げないし養子の口もない、望みのない武家の男子が 商人になったり職人になって市井で生活できたんでしょうか?
下級武士の庶子が商家に養子として入り後を継ぐ、 ってことはあった
>>845 その場合武士の身分は失われ、商人の身分となってしまうわけだが
>>844 はそういうケースを聞いてるんじゃないのか?>商人の身分となってしまう
江戸時代の武家が町人になることはいくらでもある
絵師や戯作者、医師なんかにも、武家出身の人間はいたし
十返舎一九なんか武士の子だ
藩が戦力としてアテにしてるのは当主と嫡子だけだし
コメディーお江戸でござるの解説で町人になりたい武士が武士になりたい町人と身分を交換してた と聞いた気がするが自信ない
ところで、士分株を買う場合、どこから買うんですか?
>>850 武士に持参金という名目でお金を払い、養子にしてもらう。
株を売った武士は隠居を願い出て、息子が跡を継ぐ。
藩によっては、直接武士身分を金で買えるところもあったようだ 盛岡藩では、60両で農民でも藩士になれた 幕末に近い天保の頃になると、その相場が1/3の20両にまで値下げされて藩士身分の大バーゲン
薩摩藩の麓には、郷士下人は住めたのでしょうか?
>839 加賀前田家なら何人か居る可能性のある中納言ではなく、「加賀守」で特定じゃないか? 水戸徳川家なら中納言で特定するんじゃないかね。 常陸介は紀州徳川氏が使ってて(藩祖がもともと水戸に封じられていたときに常陸介に なっていたため、それを踏襲)、尾張は右兵衛督の名乗りがあるし。
>>842 ありがとう
面白そうだな。何か参考になる本は無いだろうか・・・
>>851 ありがとうございます
その息子というのが株を買い養子にしてもらった町人、農民ということですか
あれ? 水戸藩主は中納言じゃなくて権中納言だろ。
そうだな。武家の官位は権官が有る場合は権官になるらしい。
と言うか、江戸時代には大納言も中納言も正官は置かず権官のみしか置かれなくなってる 武家が権官のみなのは、禁中並公家諸法度で決められてるはず
>>858 >その息子というのが株を買い養子にしてもらった町人、農民ということですか
そうです。 本人がお金を出さなくても、実の親がお金を出して、息子を武家の養子に出すということもありました。
>>861 公家の場合は、大中納言とも南北朝の頃から権官ばかりで正官は任命されなくなったと、
官職要解にも書いてありますね。
863 :
日本@名無史さん :2011/10/02(日) 21:29:25.15
薩摩藩が他国者が入れないというのは有名なんですが 昔やった光栄の維新伝(?)というゲームでは、薩摩と、なぜか佐賀(肥前)藩が入国禁止になってたんですけど 佐賀も他国者入国禁止だったんですか?ぐぐってもよくわからないので、教えてください。
伊藤博文や、木戸孝允、井上馨は芸者と結婚しましたが、当時芸者とはどういう仕事だったのでしょうか? 私は、宿などに泊まったりする時に身の周りの世話、遊興的な世話、性的な世話をする人たちだと思っていました。 家政婦兼売春婦みたいな。今でいうキャバクラ嬢よりももっと性的サービスに従事していたイメージです。本当のところはどうだったんでしょうか? また、結婚に反対されたりはなかったんでしょうか?
おまんこを売る商売だろ。
>>863 佐賀藩は、他藩との交流や住民の移住を制限していて閉鎖的だったみたいです。
何でそうなったのかとか、詳しい経緯はよく知りませんけど。
佐賀藩は関が原では元々西軍だったり、島原の乱で抜け駆けして幕府に怒られたりしているし、
内部に竜造寺一門や支藩の半ば独立した領地が多数あって、幕府の監視や外部勢力の介入による混乱を恐れたのかなあ。
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ25 この続スレってもう出来てますか?
>>865 やっぱりそうですよね。
昔、プロ野球選手がソープ嬢と結婚することになった時、相当叩かれて破談にまでなったことを考えると不可解で。
要は、今風に言えばAV女優が総理大臣と結婚する、くらいの話ですよね。
流行りだったりしたんですかね?身請けできる=金持ち=見栄がはれる、みたいな?
何だか少し気持ち悪い。
824です、レスありがとうございます
須弥山って↓こういう概念が仏教が広まる過程で一般庶民の頭にあったんでしょうか?
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Shumisen.jpg それと並行して
>>827 の経験則も成り立つという…?
寺子屋や藩校などの学校はほとんど文系知識のようなイメージがあるんですが
自然科学分野の講義はあったんですか?
いつ頃から教えられるようになったんでしょう?
ドラマで勝海舟が地球儀を見せて説明する場面がありますが
一般大衆レベルそういう「これが世界か」ってなった時期があるはずだと思うんです。
明治の義務教育になってからでしょうか?
現代人は小学校入学前後くらいには一般常識で「地球」を理解してますよね?
当たり前過ぎて「習って初めて得た知識」ではないので昔の人の感覚がうまく想像出来ません。
長々失礼しました。
>>868 芸妓と娼妓は別もんだ。今でも芸妓は存在する。適当言わんでくれ。
>>868 いくら初心者でも、気持ち悪いから、二度と日本史板に来ないで欲しい
>>870 そうですね。その図の右の方に金輪際と書いてありますが、これに由来する金輪際やその図では
忉利天しか書いて無いけど他に幾つも重なってる天界に由来する有頂天などが慣用句として
使われている事からしても常識的に知られていたんじゃないでしょうか。
寺子屋は基本的に読み書き算盤です。藩校は四書五経とかでしょうね、多分。でも会津藩の
日新館にはプールも有りました。
船が陸地に近づくと富士山の頂上のみが見え徐徐に麓が見えていき最後に港が見える ↓ 視程の良いとき何故近くの港より遠くの山頂のみが見え麓は見えないのか陸上にて考える ↓ 地球は丸いという事実につきあたる 日本人は猿なので自分で考えない中国人や西洋人の書いたペーパーのみを学ぶ ↓ 古代・中世にもインターネッツに類したものがあり全ての住民が情報を共有していたが 中国人の書いたペーパーに地球は丸いと書いたものは存在しなかった ↓ 自分の目で見たものを信じない 自分の頭で考えない紙に書かれたもののみが此の世の真実 故に西洋人に教えられるまで日本人は地球が丸いと信じていた どっちでもいいんじゃねぃ
訂正 故に西洋人に教えられるまで日本人は地球が丸いと信じていた ↓ 故に西洋人に教えられるまで日本人は地球が平らと信じていた
877 :
日本@名無史さん :2011/10/05(水) 01:13:37.65
戦国期の武田家等の保守的な地域だと軍役って庶民にも課されるのですか? 軍役というと士分の気もしますが・・・
戦国期に士分なんてものはないよ 武士と農民に明確な区別や境界はなかった 武士も自分の領地の田畑を耕してたりするし、農民も出稼ぎ程度の感覚で兵として戦に出ていた
879 :
日本@名無史さん :2011/10/05(水) 04:05:49.03
うーんちょっと古い。最近の研究だと年貢の変わりに、もしくは減免と 引き換えに軍役でまかなう家を武家、年貢のみを負担する家を農家という らしい、ただ北条家の領地内の研究らしいのと、最近妙に近世的な見方で 歴史を語るのが少し気になる傾向。 あと、武田は訓練されていない兵を嫌うので保守的な割には兵農分離してる気もする。
日本史とは関係ないと思うんですが、教えてください。 図書館と神保町、歴史研究にはどっちが向いてるでしょうか? 司馬先生が神保町に通い詰めていたという話はよく聞きますが。 私は金持ってないんで、図書館ですませてますが。
>>880 神保町行って一日中立ち読みするつもりですか
迷惑だからやめて下さい
882 :
日本@名無史さん :2011/10/05(水) 20:24:04.10
すみません!俺のことです! 死んできます!
>>880 『歴史研究』って何?
歴史小説を読むこと?
高校の復習なら図書館と言わず独学でも出来ると思う。
テーマがあれば、おのずと道は決まってくるかと?
>>880 神保町、いいんじゃない
無料客寄せになり、他の客を呼び込み、売り上げに貢献する
パパス「」
マジレスしとくと司馬さんのような大金持ちは 馴染みの書店へ電話「高杉晋作の本が欲しいのだが」 すると古書店組合が在庫を探し持ち寄ってくる 司馬邸へダンボール数箱が送られてくる 全本お買い上げ
>>886 坂の上の雲のときはすごかったらしいが。
神保町の一つの書店ごと買ったのかというぐらいとか・・・
トラック数台とか。
888 :
日本@名無史さん :2011/10/06(木) 11:07:00.04
ものすごい速読だったらしいし、知人と話してる間間に一冊とか
歴史物を書くならトラック1台分ぐらいの史料を読めってのは聞いたことがあったが、 トラックってのは誇張表現かと思ってた ホントにあったんだな、そういうの
えっ 40フィート・ハイキューブ・コンテナ一杯分なの?
司馬は学窓で日雇いバイトなんかやらなかったろうから そんな糞知識ひけらかしても分かんないんじゃねぃ 日本語でo.k.
北条政子の政略結婚って結局何がどうしてどうなったの? 御成敗式目の起請文て名文に思えるけど評判悪い?
結局
>>880 は何がしたいんだ?
司馬さんみたいに小説書いて儲けたいのか?
>>893 北条政子は恋愛駆け落ち婚だが政略結婚って何の事?
アイヌ、琉球、対馬の人間って普通に日本語とかわかったの? それとも全然別にコトバで通訳なしでは全く通じなかったの? 特に対馬の場合日本と韓国の両方に中間点でコトバとかどういう状態だったのかなと
アイヌ語は日本語とは別系統、琉球語も日本語の方言か別の言語か はっきりしないくらい違う。さらに両方とも村ごと、島ごとの差が非常に 大きかった。本土の人間と交易などで接触の機会が多い人以外は まず日本語を理解できなかっただろうな。 対馬方言はそれらに比べれば十分に日本語。ただ若干の単語を 朝鮮語から取り入れたり、逆に釜山方言が日本語の単語を取り入れたり している。
まあ、かつては日本語自体、江戸時代の移動制限のせいで、言葉の差異が地方地方で大きかったからな サツマイモ兵が何言ってるか 会津では分からなかったほど
「汝や知る都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落る涙は」 という歌で知られる、飯尾彦六左衛門尉常房という人物は、 室町幕府の右筆・奉行人だったと聞きましたが、 国史大辞典の室町幕府奉行一覧の項には、 それらしい名前が見当たりません。 この人物は、本当に室町幕府の奉行人だったことがあるのでしょうか?
西郷と桂って会話って成り立っていたのか? 篤姫と堺雅人がやってた将軍とか 伊達正宗と島津って話す機会もあっただろうし
江戸時代の武士には参勤交代があったので、江戸の言葉が共通語として機能していた
>>900 大名の嫡男はみな江戸育ちだから、共通の言葉を話すから通じるでしょ。
逆に、たまたま嫡男が死んで田舎育ちの弟が跡継ぎになって、「我らと同じ言葉を話すお殿様」ってことで
藩士の間で人気が出たってエピソードもあったような。
まあ、そんな人間でも上流階級同士で話通じないと外交・儀礼上支障があるから、後から勉強してでも理解しようとするだろう。
ヨーロッパの王侯貴族がラテン語やフランス語を九通の言葉として使ったり覚えたのと同じで。
京都では会話の中で「先の戦争で」というと太平洋戦争のことではなくて、応仁の乱のことだったりするらしいですが さすがにこれは都市伝説というか、ある種のジョークですよね? いくら京都に歴史があるからってローマとかエルサレムに比べたらひよっこみたいなもんじゃないですか。
>>903 それは共和制ローマの時代はまだ日本自体無かったから当たり前だろ。
1、2行目と3行目になにか関係あるのか
>>903 第二次世界大戦の戦火の最中でも京都だけは空襲を受けなかったから
焼け野原になった他の大都市に対するブラック・ユーモアだろ
「先の戦」といっても応仁の乱を知っている人など生きてるはずもないしね
洛中が焼けた一番近い戦といえば幕末の禁門の変(蛤御門の変)だし
負けた長州藩が洛中を撤退する際に京の長州藩邸に自分たちで火をつけて逃げた
この火災が類焼して洛中の半分が焼け野原になった
確か、長生きしていたお婆さんに新聞かなにかがインタビューしたら、戦争の話が どうもかみあわなくて、よく聞いてみたら、そのお婆さんが語っていた戦争とは 戊辰戦争のことだった、みたいな話が司馬遼太郎の小説で紹介されていた気がする それが、応仁の乱にまで誇張されたのかも
>906 たしか、米軍の空襲(戦略爆撃)作戦の総責任者が、 原爆投下を広島や長崎じゃなく京都にしようと目論んでて、 威力の確認のために通常の空襲をしないよう命令してたんだよね。 その上の、政府寄りの将軍から京都への原爆投下だけはダメだってつよく指示されて、 とりあえず保留にはしたけど、京都への透過を実は諦めてなかったから通常の空襲はしなかった。 空襲帰りの機体が残った爆弾を捨てていったり往復コースを外れて迷った機体が単独で爆弾投下したりしたから、 まったく爆撃されなかったわけではないみたいだけど、 いちおう京都への空襲は禁止されていた。原爆投下実験のために。 あと一週間ほどポツダム宣言受諾が遅れてたら3発目の原爆が京都に落とされてたらしいんだよね。
>>910 そう言えばそうだったな
だからこそ、アメリカは無理にでもソ連を参戦させようとしたわけで……
でも仮に京都に原爆落とされて、文化財がすべて灰燼に帰していたら 戦後の反米感情は半端なかったろうな。 京都に原爆落とさなかったのと天皇を戦犯に指定しなかったのは戦後の円滑な占領統治を睨んだうえでも、良い判断だったよ。
偏見とかデマ抜きで終戦まもなく、朝鮮系の人が暴れたり不法占拠をしていたというのは本当なのでしょうか? 本当だとしたら警察や地元のヤクザとかは手をこまねいていたんでしょうか? あと歴史の闇かもしれませんが、以上のようなことについて書かれた書籍やフィクションも含む戦後混乱期の小説などはないですか?
>>913 台湾経由で入ってきたサウスチャイナの連中モナー
昔の人は髪をどうやって留めていたんですか? 女性のすべらかしなら和紙でも留められたと思うんですが、結っているような髪型とか、男性の髪とかは和紙で可能だったんでしょうか?何か伸縮性のあるものでも使っていたのでしょうか?
笄
こうがいですか?辞書で見てみたらかんざしのようなものだそうですが、男性もですか?和紙とか布のようなものかと思っていました。
>>913 たとえば、名古屋では名古屋駅新幹線口を出てすぐのあたりに朝鮮人街がある。
そして朝鮮人の主張によると、彼らは強制連行で連れてこられて奴隷的扱いをされていたそうだ。
果たして超一等地の土地を合法的に入手できるような金銭を貯蓄できたかどうか。
ちなみに、朝鮮人が日本に来るのは戦争が始まるまでは基本的に禁止されていました。
>>918 >ちなみに、朝鮮人が日本に来るのは戦争が始まるまでは基本的に禁止されていました。
初耳ですが、なんという法律で、何年に制定されたのでしょうか?
ついでに、”基本的に禁止”されていない、来日が認められる目的とはどんな理由ですか?
法律なんだからはっきりと判りますよね?
正確には、「渡航の許可が簡単には出なかった」か。 法的な根拠はあったか無かったかはよく分からん。 実際結構な数が日本にやってきたし。 そもそも関東大震災の朝鮮人虐殺6000人なんて単純に言って10万人規模での人口が居ないと無理だし。 まあ捏造なんだけどね。 緩和された理由は戦時体制による本土の人手不足。 1企業が朝鮮で人を集めて日本で働かせるのを許可。 2上の行為を国が積極的に斡旋。 3それでも駄目だったから国民徴用令の例外としていた朝鮮人を徴用するようになったのはもう昭和19年も半ばを過ぎた頃。
>2上の行為を国が積極的に斡旋。 >3それでも駄目だったから国民徴用令の例外としていた朝鮮人を徴用するようになった さりげなく根拠のない嘘を混ぜ込んでいるが、質問者と解答者の自作自演?
じゃあおまえさんが訂正してくれ。 官斡旋と徴用については。
>>921 何その矛盾した論理
朝鮮人虐殺が嘘なら日本本土には来なかったってことにならないか?
925 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 11:13:50.72
源氏とか平氏とかの時代から、南北朝とか戦国時代にかけての歴史が よくわかりません。本を読んでも名前が似てて、お坊さんかと思ったら悪い人だったり、 親子とか親戚でも敵になったり、同じ名字なのに敵味方いろいろで、ついていけません。 そこで、頭の中で主要人物だけでもキャライメージができるように、何かこういう時代を通覧したような 映画とか漫画ってないでしょうか? 幕末から明治については、そんな感じで知ることができ、私ですら、今では西郷大久保さん、桂小五郎さんから 人切以蔵まで顔と声が浮かぶようになっています。 同じような調子で、源平とか南北朝、戦国時代も知りたいのですが。
926 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 12:03:16.81
唐書に小国日本が宗主国倭国を征服して新統一国家を「日本」と言う国号にしたとか、 逆に倭国が日本国を合併したと書かれてるらしいのですがこれはどう言うことですか?
>>925 吾妻鏡や太平記を漫画化したものがありますよ。
好きな絵柄のをえらんでみたら?
929 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 13:49:24.25
平安末期から戦国時代って 通しで考えてみ?一冊じゃすまないし それぞれが面白い時代だよね。 お坊さんの悪いのは平成になっても飲み屋で群がってる。 それに親子兄弟血筋を絶やさないために わざと敵味方になったケースも有るし親戚程度は裏切るしね。 映画は無理だと思うが漫画ねえ?日本史で一番面白い時代なんだし活字で読んだほうが良いんじゃあるまいか?
>>926 「或云」という中国側の伝聞形でかかれている部分ですね。
日本側からの情報というよりは、中国人があれこれ推測して書いてる可能性があるでしょう。
(国名が変わるというのは中国では一大事で、最大の関心事であったろうから。
但し、倭も日本も、日本においては「やまと」と読まれていた)
「旧唐書」の参考資料となったとも考えられる「唐会要」や、
それらよりも成立の古い「通典」などを参考にしてみることをお薦めします。
>>926 もっと新しい時代の宋や明あたりの史書でも、日本について不正確なことが記述されていたりすることもあるので、
古い時代の中国の史書の日本の記述を全面的に信用するのは危険だよ
邪馬台国論争でも、魏志倭人伝の記述を全部信用して解釈しようとする人がよくいるけど、ある程度は、不正確な
伝聞情報やいいかげんな推測も元にして記述されていると考えるべきなのだ
問題の唐書にしても、「なんか、倭人は自分たちの国を日本と呼んでるけど、なんで?」「そりゃーおめー、あれだ、
たぶん、もともと日本って国が倭と別にあって、征服するかされるかして一緒になったんじゃね?」「そっかー、
きっとそうだなー」程度の適当な推測で書かれたんだろ
でも草燃えるとか総集編しか残ってなかったりしない?
ここからトンデモルート 「功名が辻」→「江」→「琉球の風」→「新撰組!」
>>933 去年だか一昨年に全話発掘された。CS放送でも二度ほど放送されてる。
DVD化はしていないのでNHK行って見るかCSで流れるのを待つしかないけど
936 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 17:30:01.27
水戸藩が南朝が正統だと主張した意味がわからん。 一体何の得があるのか。 そもそも北朝だって天皇家の血筋には違いないし、 北朝正統のが実態に即してるのに。
937 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 17:56:55.77
>>936 儒教の影響だろ。
負け色が強くなっても主君をけして裏切ってはいけないという。
もともと江戸幕府はその前の幕府である室町幕府を否定するために
足利尊氏が主君後醍醐天皇を裏切って打ち立てた室町幕府に対する批判があった。
楠木正成を称えることは、大名たちが何があっても徳川将軍家を裏切らない
忠節を誓わせることにつながると信じていた。
江戸時代中期以降、尊王思想につながったことは予想外。
>>936 「風雲児たち」では三種の神器を持ってる方が正統と判断したと書いていたけど、実際はどうなのかな。
>>935 へー。やっぱり視聴者が録画していた物が提供されたとかですかね?
>>936 徳川家が新田の子孫と標榜していたことと関係あるんじゃないの。
建前上・形式上の祖先が新田流得川家ということになっていて、
南朝消滅時に流浪の果てに松平郷にきたことになってたから。
南朝を持ち上げる理由は他に考え難いと思う。
みなさんありがとうございました。 とりあえず今からブックオフとツタヤに行ってきます。
足利幕府を否定する必要がそんなにあったとも思えない 豊臣政権なら、悪く言っておかないと、「滅ぼした徳川はひでー」ってことになるけど、足利幕府を滅ぼしたのは 徳川ではなく織田なんだから、その必要はない 幕末に、倒幕側の志士が将軍への嫌がらせとして、京都で足利尊氏らの木像の首をさらした事件があって、 幕府側がこれに激怒していることからみても、徳川幕府にとって、足利幕府は特に否定や批判の対象ではない
942 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 20:07:58.55
>>939 それだったら水戸学元祖の水戸光圀あたりは
何を差し置いても真っ先に新田義貞を顕彰する碑でも建てるはずなのに、
光圀が専ら傾倒したのは楠木正成なんだよな。
光圀は楠木正成が死んだという湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」という墓碑まで建てている。
(明治時代に現地は湊川神社になっている)
水戸光圀が南朝に傾倒したのは徳川家の祖先が新田を公称していたためではないよ。
光圀がたたえたのは専ら楠木正成で、新田氏にはあまり興味を示していない。
楠木正成自体は、生きていた頃から相手方からも能力・人格面での評価高いから、 南朝正統論とは別に、個人的に光圀が特に好んだってだけかもしれない。 滅んだ主君に最後まで尽くした相手の忠義を称えるってのはこの時代の武士でも普通にやる行動でしょ。 徳川家が武田遺臣の子息を探して召抱えたりとかしているし。
徳川家は、北条や今川の遺臣も取り込んでいるが 水戸徳川は、武田の遺臣が多いのかもしれぬ。
>>938 そう。NHKのサイトで呼び掛けたら、提供があって、草〜のプロデューサーが
持ってたのと合わせて全話が確認された。
946 :
日本@名無史さん :2011/10/11(火) 23:54:14.61
936だけど皆さんどうも。 倒幕に使われたのは水戸藩としても意外だったんですねw 俺はまた、なんで親藩が反徳川運動のバイブルみたいなものを 編纂したのかと疑問だった。
みなさんありがとうございました。 とりあえず明日ブックオフとツタヤに行ってきます。
>>924 朝鮮人は大正時代にすでにある程度居た。
その方法は多くは密航。ただ渡ってしまえば、同じ大日本帝国の統治の元なので強硬に追い返されることも少なかった。
6000人虐殺は嘘だけど、200人以上は確実。
数の問題じゃないというなら、まず確実に嘘である6000人を主張している連中に、数なんて関係ないのに揚げ足取られるような主張をするなと言ってきて。
それからなら話聞くわ。
>>939 >>942 水戸は朱子学にどっぷり浸かってたからその朱子学の権化のような生き様の楠公びいきなんじゃないの?
あと北畠親房の神皇正統記あたりも影響してそう
wikiで申し訳ないけど、朱舜水が楠木正成こそが何トカって推した、みたいに書いてあった。 しかし、南北朝って南朝が正統派だと言えない時代とかがあったんだね。知らなかった。南北朝とか、正統派はどちらか説とか、読んでみたけど、wikiですら理解できない自分に危機感w
戦国時代の合戦のそれぞれの死者一覧みたいなものってあるのでしょうか? ぐぐってもwikiでも無かったので教えてください
大抵の合戦は死者少数。 負傷者それほど大したことない。 人数的に多くを占める下っ端は、わざわざ殺す価値もない上に、結構すぐ逃げるから。
>950 南朝が活動してた当時は、「両朝並立」程度の認識が主流で、 南朝正統説を本当に信奉してる人は南朝幹部のごく一部。 南朝幹部でさえ、大半は、北朝型に自分の居場所がないからやむを得ず南朝支持してるだけ。 室町時代後半からは、(旧)南朝支持の人は完全にいなくなった。 室町後半から江戸時代前半には、北朝正統が常識だったわけ。 江戸時代後半になっても、南朝正統論は一部のとんがった人以外にはメジャーじゃなかったと思うけどね。 南朝正統論が本格的に普及したのは明治時代の話。
南朝正統論を否定する連中は 小林よしのりの「天皇論」でも読んで勉強しろ
南朝正統論を今否定するやつなんているのか? 当時どうだったかはともかく。
>954 あんなゴミを読むバカの気が知れん。
957 :
日本@名無史さん :2011/10/14(金) 16:33:28.62
なんで室町幕府の足利家って領地少なかったんですかね? 将軍家で山城くらい? 平家や北条や徳川みたいにあちこちに足利の領土を持ってれば もっと安定したと思うのに。
958 :
日本@名無史さん :2011/10/14(金) 16:44:57.11
>>953 それも違う。
大部分の人間はどっちが正統かは一切問題ではなくて
自分に有利になるほうについただけ。
家督相続問題なんて天皇家内で日本史上何度も起こっており
結果、力で勝って政権を取ったほうが正統になるのが当然。
武家社会でも嫡流が駆逐されて傍系が残ることは良くある。
どっちが三種の神器を持つ嫡流でどっちが傍系かなんてどうでもいいこと。
力で勝ったほうが正統だから。
>>957 鎌倉末からの動乱の原因の一つが、土地所有に対する武士たちの不満にあり、後醍醐天皇の建武の親政の失敗も
そこのところを理解していなかったからなわけで、足利尊氏としては自分のために戦ってくれた武将たちに気前よく
土地を与えたり、安堵してやったりせねばならなかったのが一つ
また、室町初期は南北朝の動乱が激しく、各地に南朝側の勢力もあり、幕府は全国を掌握していなかった
で、幕府の直轄領が少ないから、幕府が自前で動員できる兵力も少ない、だから戦では守護大名の力を借りねば
ならないし、そうなると勝って得た土地も戦功のあった大名に与えてやらねばならいという悪循環
気がつけば、南北朝問題が一応解決された義満の頃には、細川氏、山名氏、土岐氏らの有力守護大名が巨大な
領地を保有し、強大になっていた
江戸時代の時代劇で、ポニーテールみたいな髪型があるけど あれは何て髪型?茶筅髷? 古写真とかだとああいう髪型は見ないけど、実際はやってなかったのかな
>957 本当に少なかったのか? 1万箇所をこえる多数の荘園を領有してたんじゃなかったか? もちろん、直轄領とはいっても、家臣に経営や管理を任せるわけで、 奉行衆の領地とか奉公衆の領地とかの形式になるわけだが。
尊氏は何かにつけて気前が良すぎたよね その結果が山名や細川をはじめとする守護大大名とでも言うべき者たち 室町幕府が終始安定しなかったのはこれが原因 そしてその教訓を生かしたのが徳川家康の政策 ほんとに家康はたいした勉強家だと思うわ
963 :
征天皇大将軍 :2011/10/15(土) 00:18:29.41
南朝本当就是正統 日本人心態不良,支持尊氏忤逆后醍醐帝 那个天皇御反?古今未有の怪談て
964 :
征天皇大将軍 :2011/10/15(土) 00:56:30.63
對于后醍醐天皇の一生對国家の復興做出了不可替代の貢献 百度の网民給予極高の評价 對于后醍醐天皇の励精圖治,賢良の才楠木正成の輔佐に, 古今聖君烈臣の美談を九州四海に傳唱する。万古流傳。。。 百度网民至今在网絡上對后醍醐天皇頻頻悼念,緬懷這徫大的聖君, 那壮志難酬的悲壮凄美的一生,相信有朝一日,朝敵必誅,還万古一片清白。。。
上司が死んで、上司の子供に権力が移行せず、 その後にいきなり部下だった人間がその上司の子供の上司になるってケースは 信長→秀吉が有名ですが 下剋上全盛期でもクーデターとか反乱など武力以外で 部下が上司の領地を丸ごと乗っ取るケースって他にあるのでしょうか?
>>965 龍造寺隆信の戦死後の鍋島直茂
まあ、隆信の死後すぐに直茂が龍造寺の領地を乗っ取れたってわけじゃないけど、秀吉だって
柴田勝家を倒して権力確立するまで時間かかってるわけだし
御成敗式目とか北条一族って現代では評価高いの?
連投スマン 平安時代の女流文学で 勝負パンツ的な話なかったっけ?
970 :
日本@名無史さん :2011/10/15(土) 20:48:31.03
>>966 龍造寺の場合、一応龍造寺家が断絶するまでは形式上は鍋島は家臣だった筈
もっとも、秀吉・家康が安堵した所領が鍋島の方が圧倒的と言う時点で……
一応佐賀藩内で龍造寺一族は結構幅をきかせていたとも聞くが。 そういえば、結局直島に臣下の礼を取った龍造寺の当主って誰なんだ? 隆信の子供?孫?
>>969 総髪って、月代剃ってないのじゃなかったっけ
974 :
日本@名無史さん :2011/10/16(日) 19:05:14.66
田舎大名の家臣でも「○○守」「○○介」と名乗ってますけど これは何故ですか?朝廷か幕府から、名乗っても良いと許可を得てるのですか?
連投すみません。 大名が名乗るのはわかるのですが、家臣が名乗れるのは何故でしょうか。 ぐぐってもよくわからなかったので教えてください。
>>974-975 御三家(御三卿ふくむ)・前田家以外の陪臣が名乗っていたら
それは自称・僭称です
すみません。戦国時代の話でした。 どうなのでしょうか。
自称です。
>>974 ,975,977
一回で済むところ、三回書く馬鹿
>>974 戦国時代に
1〜2村の村長レベルの武士が、敵国や数多の関所や山賊・盗賊を凌いで、
京都まで行って官金を納め、何の効力もない紙切れを取ってくると思うかい?
無事に紙切れを持って帰って来れるかい?
982 :
日本@名無史さん :2011/10/16(日) 21:19:53.15
埋め立てにご協力いただきありがとうございました。
官位の授与には長〜い歴史と、その間の変遷がある。 ここで全部語るわけにはいかないw。 戦国時代はごく一部の例外を除き、『自称』だと思えばヨロシ
984 :
日本@名無史さん :2011/10/16(日) 21:27:31.00
ほらほら、もっと書き込めw
さあ、どんどん埋めよう
988 :
日本@名無史さん :2011/10/16(日) 23:19:26.57
南無阿弥陀仏
989 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 00:17:32.33
テンプレ貼ったが、次スレ指定忘れた
>>991 ありがとう。乙。
次スレ指定はまた次の機会でいいんじゃない?今回も間に合ったし。