謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!56

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1297602585/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2サガミハラハラ:2011/03/23(水) 08:17:36.03
卑弥呼は北部九州の女王であり、記紀には登場いたしません。(風土記にも)
卑弥呼は誰か?というのは、畿内説に毒されたしそうからくるものです。
はたまた、誰かに特定しようとするのは、ある意味、なにかを特定しなければまたは
たよらなければ落ち着かないという精神不安定からくるものです。
卑弥呼は王の娘という説がありますが、可能性はあっても確定はできません。
ただ、大人の出身であることはまちがいないでしょう。

邪馬台国は佐賀県小城市甘木であったことは自明の理です。
わたしが平成3年8月12日に到達いたしました。卑弥呼の墓は、その年の
年末に発見しました。
今年は邪馬台国発見20周年です。
3日本@名無史さん:2011/03/23(水) 09:57:35.59
>>2
サガミハラハラさん、よく頑張るね...
邪馬台国=ヤマト説で固まりつつあり
その流れは変えられないでしょうが
いつまでもロマンを忘れずに自説を貫いてください。
4mirai:2011/03/23(水) 14:03:32.89
われわれが「『記紀』は歴史書である」という前提のもとにこれらを見ると、
卑弥呼ではないかと思われる女性を幾人か候補にあげることはできても卑弥呼
を確定するのはとても難しくなります。そこで『記紀』には当時の有力氏族で
ある中臣氏が誕生した時期のいきさつが物語となって秘されていると考える柔
軟さを持ってこれらを見ていくと、神武天皇は中臣氏の始祖であって(宇佐家
口伝に神武天皇=中臣氏の遠祖天種子とある)、神武天皇の東征がとても重要
な意味を持ち、その東征の中に神武天皇と敵対する勢力として邪馬台国らしい
軍団が登場してくることがわかってきます。神武天皇の東征には、その敵対勢
力が混同されて、神武天皇軍・男軍・女軍とされてもいます。また神代「国譲
り」に中臣氏の氏神建御雷之男神と伊都(いつ)之尾羽張神が出てきますが、こ
れは神武天皇と五(いつ)瀬命です。伊都(いつ?)国に常駐した一大卒を、一人
の偉大なる統率者と考えると、それは伊都(いつ)之尾羽張神=五(いつ)瀬命と
なります。また中臣烏賊津連が登場する仲哀紀の仲哀天皇、彼も五(いつ)瀬命
のことです。伊都(いつ)之尾羽張神は「天の石屋に坐す」神です。普通「天の
石屋に坐す」神といえば天照大神です。ということは天照大神=神攻皇后、さ
らには卑弥呼でもあるともいえるでしょう。そういえば神攻皇后は穴門に居し
ていましたね。穴門、ちょっと岩穴を連想させます。さらに考えて一大卒=狗
奴国王卑弥弓呼とすれば、その官キクチヒコは神武天皇であることになりま
す。卑弥弓呼という名の中の「弓」は矢を射る武器、琴は弓と同じく弦を張っ
た楽器です。五(いつ)瀬命、仲哀天皇の死は弓で射られた矢、また琴をつまび
ている最中です。想像を膨らませるともっと驚くことがわかってきます。それ
ではまた気が向いたら書かせてもらいます。
5日本@名無史さん:2011/03/23(水) 15:35:15.59
>>2

「卑弥呼が北部九州の女王」としたいのなら、

近畿の考古学をやってごらんなさい。

近畿が、「古事記」「日本書紀」に書いてある如くの、

「そのまんまの天皇家の遺跡があるにすぎない」、

ということがわかれば、

卑弥呼や女王国の居場所は、

残る「北部九州」(甕棺墓族)でしかない、

ということになるから。


そっちのほうが早いから。
6日本@名無史さん:2011/03/23(水) 15:49:24.41
邪馬台国で商売している在野の学者や作家さんには
邪馬台国九州説論者が多いし、
それをもとに、これまで本を書いたりしているから
いまさら、邪馬台国ヤマト説で確定したら
これまでの活動や本の売り上げにも影響するしね。
だから、必死。
そういうふうに考えたら、本居宣長も罪づくりなことしたなと。
7日本@名無史さん:2011/03/23(水) 16:32:54.87
>>6
ふふふ。あなたも必死。幻の畿内説が売れるかも。
8日本@名無史さん:2011/03/23(水) 17:35:21.30
>>7
えっ?

畿内説って大学教授に多いから一般人が畿内説書いても
有名教授に押されて売れないんだよな
だから一般人は別のところを比定して書く
書店や図書館の郷土史コーナーには一般人自称邪馬台国研究者が書いた
邪馬台国○○説という本がいっぱい
邪馬台国畿内説が確定したらそれはそれできついんだろうと思う
9日本@名無史さん:2011/03/23(水) 18:50:10.49
畿内説の有名教授っているの?聞いたことな〜い。
10日本@名無史さん:2011/03/23(水) 18:54:37.15
邪馬台国は吉野ヶ里だよ。
倭人伝に書かれた通りの風景が吉野ヶ里にある。
11メ(スポーツスポーツ):2011/03/23(水) 22:24:10.23
奈良県の東大寺山古墳から「中平」の年号のある鉄刀が発見されてるので
邪馬台国は奈良で間違いないだろう。

この中平とは後漢の霊帝時代の184-189年にあたり
卑弥呼共立の年と重なる。
12メ(スポーツスポーツ):2011/03/23(水) 22:31:47.32
卑弥呼共立といえば後漢書の「桓、靈間(146-184)」と
梁書の「漢霊帝光和中(178-184)」からみて、上で書いた中平年間だろう。

卑弥呼共立と中平年・・・単なる偶然ではなかろうね。
13メ(スポーツスポーツ):2011/03/23(水) 22:38:23.97
>>2
何をおっしゃる〜サガミさん
卑弥呼は三輪山伝説で有名なモモソ姫で間違いないだろう。
倭人伝に記載される径百歩とは、奈良で築かれる巨大な前方後円墳の誕生を示すものであり
巨大な古墳は奈良県に集中してるではないか。
14日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:18:32.47
>>13
巨大な前方後円墳は4世紀以降の築造だということを知らないようだな。
15メ(ねる):2011/03/23(水) 23:24:56.43
卑弥呼さんていうのは、権力者じゃなく相当な権威者やねん。

<倭人伝>
・・・以婢千人自侍

自ずから侍む

天皇家とは権威の象徴であり、ここからみても卑弥呼さんが只の地方豪族の娘ではなく
天皇家の娘という事が分かると思う。
さてさて、九州説論者さんの反論を待ちながら眠りましょうかね。
16メ(ねる):2011/03/23(水) 23:29:37.76
>>14
倭人伝に

卑彌呼以死  大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

てあるべ。
この徑百餘歩というのはだね。
直径25メートルだとかいぅてたらいかん。
まぎれもなく超巨大な前方後円墳を指してるんであって、
巨大な古墳が築かれるのは卑弥呼の死を持ってという記録がされてるんですよ。
ということは、古墳時代といえば巨大古墳の出現をもってなので、
その始まりとは250年頃というのが誰の目にも明らかだろう。
17メ(ねる):2011/03/23(水) 23:40:08.22
すこし考古学の話になるが、
昔の人々が食したのに、アワビや魚などの魚介類にシカやイノシシ、
それから犬や豚骨なんかの出土もあるよね。
中国では、犬を食してたの〜ぉ?なんてひゃなしも耳にするが、
古代の日本でも地方によっては、その習慣がアル場合もある。

たとえば縄文貝塚などで発見されるそれらの貝殻や魚骨に紛れて人骨なんてのも発見されてるが、
現在の常識からして考えられないよね・・・・
こわいこわい・・・
18日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:56:18.36
19日本@名無史さん:2011/03/24(木) 00:06:32.53
日本の考古学者さんの講演会とかみても思うのだが
戦後、日本では記紀研究が大きく停滞しているのを実感。
戦後、記紀は皇国史観の産物として目の敵にされてきたから
考古学者の先生も、記紀をちゃんと読まずに、好き勝手に推論を立てている。
だいたい、土掘りして、土器や柱の跡などを
にらめっこしていて、それだけで、歴史を推測することなど無理なんだよw
20サガミハラハラ:2011/03/24(木) 09:55:58.93
卑弥呼の即位は、諸資料を検討した結果、183年と確定しています。
あくる184年(中平年)に中国に貢献しています。その翌年の185年に新羅に挨拶にいっています。
(三国史記新羅本紀の173年は185年の間違いです)
この184年中平年のことがなにかの本に書かれていて、それをもとに古墳時代に刀に年号として刻んだものです。
21日本@名無史さん:2011/03/24(木) 10:26:48.86
新羅なんて国ないだろうがw その時代。
22サガミハラハラ:2011/03/24(木) 10:32:20.60
いえ、あったようですよ。歴史上は。
23唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/24(木) 12:54:56.38
>あくる184年(中平年)に中国に貢献しています。

後漢 183年 冬極寒 
翌184年は、凶作(たぶん麦も取れない)。黄巾の乱が始まる。
183〜193年は、天候不順。これは日本でも同じである。
特に193年の冷夏は特筆すべきもの。
年輪降水量

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
24日本@名無史さん:2011/03/24(木) 23:10:49.06
唐松山寒風如冬時
25日本@名無史さん:2011/03/24(木) 23:12:44.64
<登場人物紹介>
 
唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学

ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査

メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般

太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論

レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ

ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事

ひとぶた(元・うましか)氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む?

名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州

水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ

神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない
26レフェリー:2011/03/25(金) 21:53:53.71
登場人物紹介は必要ですか?やるなら自己紹介でどうでしょう。
27あらため:2011/03/26(土) 00:51:42.92
>183年と確定しています。

まあ、184年頃でしょうね
もしくは184〜189年の間か。
上で書いたように中平年鉄とうがな〜ぜ近畿の奈良県から発見されたのか。
九州説のサガミさんはここらへんを説明しないといけない。
28日本@名無史さん:2011/03/26(土) 02:45:28.28
東遷していったんじゃないのですか?
箸墓古墳はアソコにお箸つっこんで死んだ人の墓でOK?
29日本@名無史さん:2011/03/26(土) 06:06:19.12
箸墓古墳の箸は
現在の食事の時に使う箸ではなくて
神道で使う箸のほうだな。
30日本@名無史さん:2011/03/26(土) 07:19:39.50
>>12
>卑弥呼共立といえば後漢書の「桓、靈間(146-184)」と
>梁書の「漢霊帝光和中(178-184)」からみて、上で書いた中平年間だろう。
残念ながら、後漢書も梁書も倭人伝のほかに資料をもっていたわけではない。
つまりは倭人伝の記事をあれこれせんさくして上のような記事をつくったということだ。
しかし、倭人伝にはそんなことは書いてない。倭人伝は言うまでもなく魏志だ。
魏の時代のことを書いたにすぎん。卑弥呼の共立は220年代か230年代ということになる。

31日本@名無史さん:2011/03/26(土) 08:39:24.90
仮に卑弥呼が180年代に王位についたとしたら
その時は、まだ、彼女は少女だった可能性が高い。
32日本@名無史さん:2011/03/26(土) 09:17:46.61
だが、年已に長大は共立された時には既にという意味だ。180年代に王位についたとしたら
辻褄が合わない。
33唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/26(土) 13:11:46.50
ホ35139 ミコトのり チカラくらぶる カミのノリ スマイノサトに ハニワなし 
タエマはキより ノミはツに あひたちふめば ノミつよく
住まいの里に埴輪なし。

通常の土器と埴輪の見分けは、住居祉から出土すれば、通常の土器
墳墓からしか出土しなければ埴輪の類である。

特殊器台は墳墓からしか出土しないから埴輪。
穴を穿った壺も墳墓からしか出土しないから埴輪。
飲み食いをした、壺、皿類は、居住祉にもあるから、通常土器と分類できる。

箸墓には特殊器台が存在するから、垂仁後期以後の墳墓である。
だから 箸墓はモモソ姫の墳墓では無い。
では どの古墳から埴輪が存在するか?

矢塚古墳第1次調査では、墳丘の一部と幅約20m前後の周濠(しゅうごう)が確認され、周濠
内からは庄内(しょうない)3式期と考えられる、ほぼ完形品の土器群が出土しています。
ホケノ山古墳 発見された庄内式土器です。二重口縁壺。壷は二重口縁壺で底に穴を開けて
使えなくしてありました。

ホケノ山古墳の底に穴を開けた二重口縁壺は、埴輪の分類に入る。
矢塚古墳には見られない。とすれば、垂仁後期は矢塚古墳とホケノ山古墳の間になる。
34太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/26(土) 14:57:01.75
>>33
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜とコチラを口撃していた男が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

ホツマは、昔のそこいらにるタダのおっさんが恣意的妄想を入れながら
書きこんだもの。
35日本@名無史さん:2011/03/26(土) 20:29:25.20
>>32
年已に長大ってのは、
西暦240年代くらいの時点つーことだろう?
あの分からは、共立した時点とは読めないように思う。
36日本@名無史さん:2011/03/26(土) 21:58:53.11
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

この文からは年已長大が共立の時点のこととは断定できないな。
37唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/26(土) 22:16:09.97
>>34
>偽書といわれる書物を持ち出した〜〜とコチラを口撃していた男が〜

こんな事実は無い。有るとすれば、応神4年の記事は仁徳4年であるとか云う年代設定の仕方を
否定した事実だけだ。
この手法を認めれば、どんな数字にでも好き勝手な記事を動かすことが出来てしまう。
となれば、編年の意味を失う。だから記事のみを移動する手法を非難したんだ。
そうまでしなければ、記事と事実を合わせられないのが太国倍年で有る。

住まいの里に埴輪なし。
この主張を否定したければ、埴輪の発生から主張すれば良い。
箸墓は、3世紀半ばから後半に作られた古墳であり、最初の大王の墳墓であり、
埴輪(特殊器台)の存在する古墳である。

考古学を否定し、文献との整合性を得られていない太国倍年でどう説明するんだ?
残念ではあるが、太国倍年で歴史を語ることは出来ない。これが太国倍年の置かれた立場である。
38太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/26(土) 22:25:59.81
誤魔化しの言い訳はよすんだな。ww
天津神算木にはオマエの論は勝てな〜い。
39唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/26(土) 22:26:13.90
>>34
住まいの里に埴輪なし。
この書き込みを否定するような書き込みをするならば、
埴輪の発生から使用までを書き込めるのか?
書き込みも出来ない程度の主張しか無い太国には、自分の主張を書き込む能力が無い。
太国よ自分の主張があるのか?
40太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/26(土) 22:28:32.89
ホツマは、そんじょそこいらにいた昔のただのオッサンが書いた妄想
恣意的注入の文書なり。」
41太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/26(土) 22:33:08.45
>>37
記事のみを移動する文書が 即「偽書」との口撃 に付加は出来ない。
つまりオマエの後々(←今宵)での言い訳にすぎない。

なお記事の移動は紀でもある。神功39年の記事は神功の時代ではないこと
は間違いない。
42日本@名無史さん:2011/03/26(土) 22:44:16.40
力競べ

埴輪成し(土俵を造る)
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/26(土) 23:25:52.38
>>37
仁徳天皇が二度も二上山に登山したのも、さそり座のアンタレス☆と
その脇に輝いていた超新星☆の天上の二星を観測するためだぜ。

だから「二上山」という山名なのだ。天上天空の目立つ二つの☆が
山名になったと観てよい。

應神天皇は高臺(天文台)にも二上山にも登っていまいがね。ww
だから大成経の應神4年の記事は紀の神功39年の如く、別の時代の記事
だったということなのだ。それは二上山に登山した仁徳の
仁徳三年(紀の仁徳7年相当)=393年 の記事だったのだ。

干支の 癸巳 ↓ も合うぞ。(倍干は倍暦の干支)

皇紀 西暦 干支 倍暦 倍干 
933 273【癸巳】377 丁丑  應神4年
 ・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】 仁徳7年(仁徳三年)超新星☆発現


よ〜く上表の二行を拝め
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 09:05:58.26
>>43 同表から

應神4年の通説西暦年代は 273年
仁徳三年の倍暦西暦年代は 393年

 393−273=120年

と、干支の倍数分、年代の移動があるわけである。これは日本書紀と
三国史記の120年の各年代差と共通している。

つまりさそり座のアンタレス☆脇の超新星☆発現による上天二星☆☆
並座は、仁徳三年のことだったのだぜ。

 仁徳三年=393年

が真だったということなのだ。

仁徳天皇が二上山に2回登山したのは、この上天二星 ☆☆ を
観察するためだったのだ。高臺(天文台)に登っても住民の竈等の煙雲
に妨げられる嫌いがあるから、よく観える山上で二星を観察しよう
としたのだろうと考察出来うる。
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 10:12:35.33
>>37
>こんな事実は無い
      ↑
ホラ吹き トゥー・フェイス ww
      ↓
2ちゃん規制用 特設板
♪ 邪馬台国ドンと来い ♪ 特別編

>274:唐松山 ◆V0F34EbmQA 2010/06/18
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜。

       ↑
    これが初出だぜ。
46唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/27(日) 15:08:43.76
>仁徳天皇が二度も二上山に登山したのも、

仁徳天皇四年 民の課役を停止する。
民は疲弊している。では何故疲弊したのか?
308〜316年の永嘉の乱に出兵したためである。そして西晋滅亡と共に兵を引き上げる。
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

323年 半島占拠、領土分与
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

何故私の主張する干支と同期する文献が存在するか?
書紀の主張を認めたからだ。
210年 伽耶建国=任那建国。
239年 田道間守の派遣。
273年の日食=275年神功元年に差し込み。
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功52年 七支刀

369年 七支刀と設定しても百済本記とは整合性が得られるが、半島占拠は否定される。
つまり書紀が半島占拠を主張する限り、それを事実とする場所がたたしい歴史の設定になるのだ。

2010/06/18が初出かあ
それ以後私の主張は進んだが、太国の主張は1歩も進展していない。
任那建国の年も主張出来ていないな。
崇神による任那建国は事実でありその後の大和の発展の基礎である。
47太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 15:16:08.36
任那建国が崇神垂仁景行等のいずれの年代かは、三国史記の120年等の
年代の段差から軽く真の選別をすることは出来ない。オマエの主張は全く
信用がない。とりわけ考古関係たる千葉歴博の鑑定基準値から50年も
忍者飛びしており、そのインチキ度が露呈している。
となれば、オマエの任那編年など全然真だとの信用は無い。ww
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 15:31:59.28
>>46
神功元年前年の記事は暗黒が 日を経て と数日間も経過した記述
だから、日食とは言えない。これは少し考えれば、小学生でも日食で
ないと判別出来る。これの判別が出来ないのは熱帯の蛮族らの脳内で
あり、彼らはこれを強行に否定するだろう。またオシデ族も否定
するらしいが、現代天文学はオシデ族の言い分を棄却する。

先代旧事本紀大成経
 神功元年前年

 
  是時、昼暗く夜の如し。已に経日く復さず・・・


と、数日間も明るい天空に復せず、戻らなかったことを記述している。

つまり日食に似た事象ではあるが、数日間も日食は継続せず1〜2時間
程度であるし、太陽は欠けても10%でも残っていればかなり明るく薄明度
がまだまだ残存しており、真っ暗な状態は日食でも最大20分程度だろう。

ならば短時間での暗黒であって、日を経てということは日食ではあり
えず、これをそうだと強行することは、まるでニガクリタケをクリタケ
だから食しろと強引に勧めてるも同然であり、こちらと2ちゃんの賢民
はオマエの誤理押しの薦めを当然インチキ・大ウソだから、これを拒む
49唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/27(日) 15:45:17.73
>神功元年前年の記事は暗黒が 日を経て と数日間も経過した記述
だから、日食とは言えない。

では、どの様な事象が起きたのか?対案が示せなければこの記事は”日食が妥当”
となる。
50太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 16:41:39.24
なくても日食にはならない。

これは天空の暗雲が極めて多大な状態が数日間も継続したことを記述
したものであり、こういうことは千年、二千年の間にはたまにはありえ
ることである。もしくは火山の大噴火も言えるし、別に粉塵の記事が
なくてもこれでも不合理ではない。粉塵を書かなかっただけのことだと
いうことだ。

いずれにしろ日食にはならない。天体の運行で日食だとか朔望などを
言ってるくらいなら、日食が数日間も続かぬことくらい分かるのが、
高等教育を受けた脳内だろうが・・・。
それを否定しても、受けてる誰もがそうだとは言ってくれないぜ。ww
51唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/27(日) 18:41:41.13
>なくても日食にはならない。
任那建国が無くても 崇神元年=237年ってか?
書紀の主張を認めず、考古学の数字も認めない。

これで得られた数字が、正しい歴史とはならない。
例えば
箸墓=モモソ姫 この主張は書紀と同等である。しかし埴輪の登場は垂仁後期からである。
結論
現、箸墓はモモソ姫の時代の墳墓では無い。この事を証明するためには崇神時代の新しい設定が必要である。
崇神(188〜216年)
この設定であれば、考古学の云う纒向遺跡と整合性を得られ、他国の文献とも整合性を得られる。
書紀の主張を西暦で語るには、書紀の主張が正しく、かつ編年が正しいときだけである。

数字しか語れない太国倍年の居場所は歴史上に存在しない。
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 19:02:37.68
トゥー・フェイス
当然任那建国はあったに違いない。それがどこが真の年代かということ
は三国史記を見ても、簡単には行かないぞ。

紀の半島と日本との記事は、120年とかのこのような多大な年代の断層
があるから、オマエでも倉西女史サガミハラハラさんでも真の年代の
把握はそうは簡単には出来ない。これに軽々しく付き合うと、日本の
編年が失敗する危機に陥る。そんなものに脳内を平気で突っ込むオマエ
の軽率さに呆れるばかりだ。ww

考古ではオマエはもう千葉歴博グループの鑑定基準値から50年も逸脱
していて、何が考古だ。書紀の主張が正しいなら、5重在位とかの
紀の主張しない精神病院お薦めの妄想を言うんじゃな〜い。pp
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/27(日) 19:35:47.38
歴史上に存在する。
古代エジプトも古代マヤも1.4倍暦法を行使していたわけで、後者のほう
は現今でもこの暦を現地で使用しているマヤの後裔がいる。
またマヤ暦にはこの暦法のほかに2倍年暦をも行使しており、古代南
バビロニアでも2倍暦法は行使されていた。さらに現今でも他の地域で
倍暦行使の所があり、これを観ても古今東西倍暦を行使していたことは
結構あったということだ。

古代マヤの2倍暦はルナー・シリーズ 月暦 で、マヤ神聖文字は右片手に
小さい魔人頭らしい絵文字で、学術的には C の文字で代用されて
いる。構成は

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

とかで1年を6ヶ月の2倍暦での運用となる。1年で当然2周するわけ
で、2倍暦だから 7C〜12C というのは無い。

朝廷の場合は、欠史八代間では1ヶ月が14日間の2週間での12ヶ月運用
の2倍暦であり、少々古代マヤの月暦(太陰暦)と違いがある。
54日本@名無史さん:2011/03/28(月) 02:00:47.24
>>46

纏向遺跡の年代は、考古学では、
2世紀末から4世紀前半頃まで(190年頃〜340年頃)
と言われている。

崇神朝は、2世紀末から3世紀前葉で、(唐松山氏の言う通りでいいとしても、)

垂仁朝は、3世紀中葉、

景行朝は、3世紀後葉から4世紀前葉、とするのが妥当である。


「新羅本紀300年、倭国と国使の交換をした。」

(倭国の代表者がそれ以前と変わった形跡がある)

「新羅本紀312年、倭国王が使者を派遣して、王子の花嫁を求めて来た・・」

征服地の首長から娘を差し出させるのは、景行朝の特徴でもある。

「新羅本紀344年、倭国が使者を派遣して、花嫁を求めて来たが、娘はすでに嫁に行ったとして辞退した。」

代替わり(成務天皇?)でまた求めた?

55レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/03/28(月) 12:40:04.48
>神武天皇の東征には、その敵対勢力が混同されて、神武天皇軍・男軍・女軍
とされてもいます。
>ということは天照大神=神攻皇后、さらには卑弥呼でもあるともいえる
でしょう。

まさしくそこが中臣氏(&天武持統)の編集テクニックであり、編集意図でも
あると俺個人は想定しています。このテクニックにより、記紀上は、次の二点
の見解が「混同されやすい」構造とされます。
@ヒミコは記紀によって消された、「?氏」の祖先にして主神でもある。
これが「簡単に消せる人物では無かった」為に、その要素の一部は天照様に
融合し、その要素の他の一部は神攻皇后伝記に活用されます。
A元はヒミコの近衛海軍であったワニ氏が大きくポジショニングダウンをさせ
られ、その代替穴埋めとして、宇佐氏海軍が神武東征に大抜擢されます。

miraiさんのお立場とは真反対ではありあすが、注目争点は俺と近いものを感じ
ますので、また暇か余力があったら書き込んで下さいね。
56レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/03/28(月) 12:55:53.04
あくまでも「語彙の音感比べ」ではありますが。

「ヤマタノオロチ」は「ヤマトノオロチ」と呼べないだろうか?
そして、古来から日本では、その土地土地で有名な大蛇は「主(ヌシ)」とも
呼ばれています。この事から類推して、
「ヤマタノオロチ」=「大和の主」とも邪推した場合、スサノウのヤマタノ
オロチ退治も、又別の意味合いが浮上して来る。

その場合、記紀序盤(神話部分)で、天照様が何度も何度も裏切られては煮え
湯を飲まされた「対大和(恭順化)外交」の一環として考えても、スサノウの
オロチ退治は、時系列的にも環境的にも全く違和感が無く成って来るのです。

また、上記の私見とは対立しますが、記紀における出雲関連の逸話にて、度々
登場する「マタ」という人名地名事柄名も、マタマタ気になるところです。
特に出雲と接触し始める頃の古事記には、「マタ」という名前が頻発して来る
事も意味深です。
前大和時代(→原始大和時代)においては「マタ」と言う言葉は「マト」と
言う言葉と、音感や語訓において大きく相違無かったのではないか?とも
カングリ始めています。
57レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/03/28(月) 13:06:46.92
上記のように、原始大和において、

@大和政権にとって都合の悪くない物=ヤマト(とも呼べる名称を含む)
A大和政権にとって都合の悪い物=ヤマタ・ヤマタイ(或は類する呼び名)

と、上記のように二分した時期が、ヒミコの時代から記紀編集の時代の間に
存在したとしたら、どうだろうか?
この法則を仮定した上で記紀を読み直してみると、スサノウのヤマタノオロチ
退治は「天照権力」からの「東征(大和地方)神託」の一環である可能性や、
ヤマタイ国は「ヤマトの中の(後代)ヤマトとは認めたくない部分」である
可能性が、それぞれ高く成って来る。

つまり、ヤマタ・ヤマタイ・ヤマダ(orその他「ヤマトに近似する名称」)と
は、「昔はヤマト(その物)でありながら、今(つまり後代となった当時)は
同じヤマトとは認めたくない物」と定義した物であるとも解釈できる。
(あくまでも補足を仮定した上での類推解釈ですが)
58唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/28(月) 13:42:07.36
>垂仁朝は、3世紀中葉、
垂仁(217〜239年)である

住まいの里に埴輪無し。
240年頃 ホケノ山古墳 穴あき壺=埴輪。半島式墳墓は 田道間守の殉葬
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
晋書 正始元年 東倭重譚納具。

この思考では、邪馬台国(大和)に女王卑弥呼を設定出来ない。


59太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/28(月) 14:55:11.94
トゥー・フェイス

伊支馬≠垂仁

240年には垂仁はこの世にいないとオマエは主張してるのに、これが
等号になどなるわけがない。つまりデタラメだ。
60唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/28(月) 16:18:29.27
210年伽耶建国 この数字を認めれば、230年代に埴輪の導入が来る。
ホケノ山古墳(穴あき壺=埴輪)は、箸墓(特殊器台=埴輪、3世紀半ば過ぎ)
に先行する古墳である。
239年に存在する”伊都国を傘下とする女王国”は、箸墓(考古学は最初の大王と表記する)
の造られた時代には、大和の傘下となる。
大倭は伊都国に1大率を置き。各国を検察する。背くことは認められない、もし背けば
景行27年(255年)日本武尊16才の派遣。
日本武尊8才で派遣されることは無い。


61日本@名無史さん:2011/03/28(月) 16:35:12.06
>>36
>>36
>この文からは年已長大が共立の時点のこととは断定できないな。
文章の読み方を知らないからだよ。


62唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/28(月) 17:41:58.15
238年 魏使は伊都国までは来ている。そして後漢の時代に王と認められた
奴国王に面会を求める。
この時点で卑弥呼が共立されていたかは定かで無い。
共立された女王卑弥呼に魏使が面会?。女王卑弥呼は人と会うことが少ない。
共立された卑弥呼は魏使とは面会したくない。つまり政治に巻き込まれることを良しとしない。
代わりに、大和をあげる。
魏使は、女王国と共に大和の参加も求める。
難斗米=女王又は奴王の代表、都市牛利=田道間守=大和の代表。239年朝貢
晋書 正始元年 東倭重譚納具。240年魏使は大和を訪れる。
そしてその帰りに大和の使者は洛陽に詣でる。
そこで示されたのが、倭国統一。この受諾はマル秘事項であるから書紀に書かれない。
女王卑弥呼を代表と認めた魏にそれを覆すことはない。
倭人伝の混乱は、この辺がもととなる。
63日本@名無史さん:2011/03/28(月) 17:52:06.27
【 名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。】

『卑彌呼』は「宗教王(祭祀王)」で、隋書に言う「兄王」

『男弟』は「世俗王(実務王)」で、隋書に言う「弟王」多利思北孤に相当する。
64唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/28(月) 19:03:04.10
10,崇神 ,御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植・ミマキイリヒコイ(ソ)ニエ,磯城瑞籬宮, 
11,垂仁,伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅・イクメイリヒコイサチ ,纏向珠城宮, 
 −伊久米入日子伊沙知・イリメイリヒコイサチ。
12,景行,大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別・オオタラシヒコオシロワケ ,纏向日代宮・泳宮,。
13,成務,若帯日子    、稚足彦・ワカタラシヒコ      ,近江志賀高穴穂宮,。

多利思北孤に相当する人物は景行意外にいない。
65太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/28(月) 19:05:06.23
トゥー・フェイス

伊支馬が垂仁だというなら、240年には伊支馬はこの世にいないのに、
倭人伝にいますぐ死ぬ人物がどうのこうの書くのはおかしいではないか?
垂仁崩御が景初初期の239年なら、伊支馬がどうのこうの伝が書くわけも
あるまい? それとも伝は幽霊を書いたのか〜?ww

日本武尊は8歳で派遣はありうる。取り巻きが強固に多人数補助して
るから簡単に派遣しうる。それから数年経過するか否かで婚姻もありうる。

働きが8歳くらいでやれたから、尊を日本童男と言うのだ。童子だよ。
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/28(月) 19:08:45.73
トゥー・フェイス

じゃぁ〜  彌馬獲支  は誰になるんだ?
67唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/28(月) 20:31:07.12
>彌馬獲支  は誰になるんだ?

ヤマワケと呼ばれた人物であろう。
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/28(月) 22:13:00.56
結論だけでは、誰も納得しないぜ。ww
オマエはいつも結論だけ。
論じてるようなところは見せかけで、その実、修飾であり、正規の論述
はまるで無〜い。
69唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 12:34:59.13
>結論だけでは、誰も納得しないぜ。ww
>應神4年の通説西暦年代は 273年
>仁徳三年の倍暦西暦年代は 393年
>393−273=120年

応神天皇三年(壬辰二七三)
仁徳天皇二年(甲戌三一四)三月戊寅

通説西暦年代なるものと倍暦西暦年代なるものを同一に並べても何の意味も理解出来ない。
ただのこじつけにしか成らない。だからこじつけの結論だけでは、誰も納得しないぜ。ww

>先代旧事本紀大成経 神功元年前年  是時、昼暗く夜の如し。已に経日く復さず・・・
>と、数日間も明るい天空に復せず、戻らなかったことを記述している。

つまり書紀の主張と違うことを主張している。
これが事実であれば、太国倍年上で主張する必要があるが、それに関してはどうなんだ?
主張出来なければ、事実と認定できない。

>仁徳三年の倍暦西暦年代は 393年
この数字を用いて、仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
を何年の出来事と特定する?
東晋は372年に百済を訪れる。この時空と重ねる事は可能であるが、
413年の朝貢時にも東晋の使者が高句麗や倭国を訪れた記事は無い。
70唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 12:54:32.95
太国はいつも結論だけ。
論じてるようなところは見せかけで、その実、修飾であり、正規の論述
はまるで無〜い。

主張の否定だけで対案が示せなければ、”暗黒の日本史”を明るみに出せない。
崇神時代の任那建国は事実である。
しかし、魏が半島を支配する時代に任那建国はあり得ない。
この時代の箸墓(3世紀半ばから後半にかけて)には、埴輪が存在する。
そして考古学の50年の遡上を認めない場合
纒向遺跡の最初の入植者は崇神となるが、崇神6年の民の離散の時代になる。
この時代にはまだ船舶もなく、中国とは没交渉の時代である 。
この崇神が景初3年の銘を刻む事は無い。
赤の他人の年号をどの様に知り得たのか?
そしてこの年号にどの様な意味を見いだせるか?
崇神6年が景初3年であったと云うだけでは、刻んだ意味とは出来ない。
東倭重譚納具。これと合わせるには、魏への使者の派遣が前提となる。
使者の派遣は、田道間守が最初である。
71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 13:53:05.40
記事のみを移動する文書が 即「偽書」との口撃 に付加は出来ない。
933 273【癸巳】377 丁丑  應神4年
979 319 己卯 393【癸巳】 仁徳7年(仁徳三年)超新星☆発現
よ〜く上表の二行を拝め

拝んだところ
応神4年に超新星☆発現と書かれているが、現実の超新星☆発現は、仁徳7年の出来事である…と

つまり大成経に誤りがある。と主張する事は出来るが、この記事で仁徳7年の超新星☆発現を
補強することは出来ない。と解釈した。

記事のみを移動すればいかようにも解釈出来る。
仁徳紀と広開土王碑を重ねた場合、金石文である広開土王碑の主張が正しいと成る。
その証拠に 413年倭と高句麗の朝貢時、百済王映は、高句麗国に属す。
つまり百済と新羅を失った大和朝廷に巨大古墳を築く原資が無い。
だから大仙陵古墳は完成を見ずに工事を打ち切られる。
山肌の荒れはそのことを表す。
72唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 14:24:41.66
>>48
>神功元年前年の記事は暗黒が 日を経て と数日間も経過した記述
だから、日食とは言えない。
先代旧事本紀大成経  神功元年前年   是時、昼暗く夜の如し。已に経日く復さず・・・

この出来事が特定出来なければ、大成経は偽書と成る。
偽書と成さない為には、主張を撤回し、意味不明とし無視するしかない。
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 14:42:05.34
これはオマエの言うとおり、ホツマも大成経も基本的には偽書だよ。

だが一部においてはメリットがあることは避けられない。そして前者は5級史料
後者は3級史料だね。

ホツマとは、昔のそんじょそこらのただのオッサンが恣意的妄想を交えて
書いた文であり、メリットはあるもののインチキもだいぶ残存しており。
とりわけ田舎暦は朝廷の暦法を破壊するもののため、朝廷はこれを棄却したと
考えてよい。つまり記紀とは対象的反比例で、ホツマは権威が無い。
74唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 15:17:16.71
>ホツマとは、昔のそんじょそこらのただのオッサンが恣意的妄想を交えて書いた文であり、

太国倍年は、他人の主張(倍年)に他人の編年に合わせただけ。
これが事実なら、日本史が読めなくてはならない。
しかし任那建国も特定出来ていない。
七支刀を369年と設定しても、半島占拠は否定される。

つまり書紀の主張を書き換えて成立しているのがその数字である。
ここで一つ問題が在る。
百済本記の主張を採用した年代では、書紀の主張は認められないが
新羅本紀を採用すれば、210年任那建国などが事実となり、考古学の主張する纒向遺跡と整合する。
広開土王碑の主張も全面的に正しいと成る。

書紀の主張を認める新羅本紀。
書紀の主張が認められない百済本記。

2択問題だ。
私は書紀の主張を認める新羅本紀を正しい半島の歴史とする。
それだけだ。
75太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 18:13:19.22
オマエの任那建国など、修飾ばかりの抽象文で、何ら根拠の乏しい
インチキだと思ってよい。
インチキでないなら、もっと具体的に1〜2行、数行の抽象文で
説明したふりをせず、明確無恣意的にだれにも分かるように書きこむん
だな。餌をつけたふりの無餌がオマエの古代史論の釣り。ww

天津金木の教示では、景行は死値であり、主値の崇神即位のお助けたる
引き立て役年代。ww
76太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 19:31:10.91
天津神算木の計測は〜
景行が死値であることを確認でき、ここからホツマ絶対化を壊滅させ
るのが重要である。そしてその上にあぐらをかきたいクロビカリの唐松山
は、松本某氏を押さえてその上に乗り、虎視眈々と同書の権威化を狙う妄想
の権化であり、コヤツをシッカリと無権威に崩落させることが、記紀の安寧
には絶対に必要である。そしてホツマとは昔のそこいらのドングリの背比べ
のただのオッサンが、妄想を注入して書きこんだ文なのである。
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 19:36:15.67
伽耶の歴史の細かいところは分からない。『三国遺事』の「駕洛国記」や、『日本書紀』『三国史記』、
金石文などから復元されるに過ぎない。これらの中で盟主となったのは、「金官伽耶」と「大伽伽耶」
である。それ以外に小国が分立した。4世紀には金官伽耶が盟主的地位にあった。

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月,. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
仁徳天皇四年(丙子三一六)課役の免除。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)

三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
金官伽耶が盟主的地位になれたのは、崇神による任那(210年建国)こそ金官伽耶であった
からである。
238年 狗邪韓国(任那)が存在したから、女王の朝貢に田道間守が加えられる。
274年神功渡海も伽耶が存在するからスムーズに事が運ぶ。
正始時代に反乱を起こした馬韓にかわり東夷軍の主力と成る。
この実力が在るから百済も倭に従い半島占拠を実行する。
しかし308〜316年の永嘉の乱への負担は大きい。
一旦兵を引き上げるが、千熊長彦を派遣、323年 政治的空白の半島占拠。
崔から距離を置いたことにより、前燕に睨まれることもない。
342年 前燕は高句麗を下し、兵を高句麗に常駐させる。
これ以後 百済や高句麗は前燕に帰順する。
369年には、百済は前燕に帰順しており東晋の年号を使うことは無い。
78太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 23:44:44.11
天津金木とは三輪(半径3の円)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。
右辺の場合

 4π×3**2=113.0973355292・・・ (**はベキ)

大祓祝詞に曰く

大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置きたらはして

 3**2≠0113.09

千座とは整数第4位(千の位)をいい、分断の天津金木(不等式)に
0を置きたらはした。このとき左右辺をまたいで

 2011年 3月09日 東北太平洋沖大地震発生の2日前

さらに逆読み ← で 千座の置座に0を置きたらはさぬとき

 → 3月11日 平成23年 東北太平洋沖大地震 発生
79愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/04/03(日) 14:44:39.62
円周率の計算で有名なマチンの公式
4arctan(1/5)-arctan(1/239)=π/4
で、5と239という数が出てくる。
偶然とはいえ面白いことです。
80太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 14:50:39.65
愛知県民さん
お久しぶりです。参考になり、感謝します。
81唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/03(日) 15:47:40.89
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?朔干支を中国と同期させて検証。
西暦  年号元旦朔  増し調整   暦日 中国朔に同期させる
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯
途中省略
184年 開化元年庚午朔 19章6日 51856日 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日  己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日  乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日  辛亥
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日  癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 ★庚戌 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 ★戊午 ★は1ヶ月の狂い
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等

書紀の太陰暦と、正しい編年を中国の暦と同期させて、初めて歴史と対比させられる。
太国倍年は球体を崇神元年とするだけで、編年をあきらめた代物である。
210年 任那建国
239年 田道間守派遣
274年 渡海
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功52年 七支刀
現在 考古学の主張する纒向遺跡の年代は正しい。
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 17:35:17.99
圧縮なんぞやってた国が、世界の何処にあるのかね? ハハッ!ww

そんなものは、オマエの空想小説から生まれたものだから、世界の暦法の
どこにもな〜い。圧縮と倍暦の相違を具体的に説明したらどうだ?
半分の幅に圧縮すると、1年が半分での1年たる2倍暦とどう違うのか?

オマエの編日法では1日が現今の半日だったというのかねぇ? この
圧縮なんていう語もオマエの具体性の無いスレ民を騙すトリック語だね。
具体的実体の無い語が圧縮というケムを巻く語なのさ。

圧縮すると1日が半分の時間での半日とかなるのか? ならば2倍暦と
似てて空白年ではなかろう。1年の場合、圧縮で1年が半年での1年と
した時間に短縮だというなら、これは2倍暦を認めたことになる。どう
違うんだねぇ? どこがどのように違うのかねぇ?pp

崇神紀の説話の三輪(半径3の円)の球体化は、オマエのデタラメを
完全に防御するのだ。どんなにあがいてみても、数式だからどんな暴君、
偏見野郎から真の年代が未来まで保護されているのだ。
まっ、オマエは諦めるんだな。ww どんなことをほざいても、天津金木
の指示する年代は、オマエをイカサマだと為す〜古代からの回答である。
83唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/03(日) 18:46:52.44
太国が三輪(半径3の円)で崇神の年代を主張しても
魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
つまり狗邪韓国=任那である。

>編日法では1日が現今の半日だったというのかねぇ?
太国が主張する10日を1ヶ月と数える暦法は存在しない。
だから、書紀の主張である 太陰暦と正朔を否定して編年は得られていない。
編年をあきらめて倍年を主張して、3年分の記事で太国倍年の1年にあたる。
太国倍年の1年を書記の主張する3年に当てはめられない事は事実である。

任那建国を主張出来ない崇神世を考古学が否定する。
崇神は2世紀末から纒向遺跡に実在した。
つまり(半径3の円)で崇神世を説明しても、歴史と関係無い。
歴史と関係無いから(半径3の円)の説明をしても、重要な任那建国や纒向遺跡については無言である。
無言である。と云うことは、歴史を語れないのが、太国倍年で有ることを主張する。

例え間違いであろうとも、主張が出来て初めて編年の意味が生じる。
否定するだけなら、書紀の暦日は正しいと主張するだけでも可能である。
暦日も季節も否定された太国倍年にどんな意味がある?何もないのが太国倍年の取り柄だろ?
84太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 19:18:14.01
な〜んだ、オマエはまた圧縮の具体的説明もまたしないで誤魔化している。

だろうな、インチキ抽象語だからな。ww
85初心者:2011/04/03(日) 20:20:50.48
質問です  この太国さんと唐松山さんは何について論争しているのですか?
        読んでもさっぱり意味がつかめません。
86日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:29:15.47
>>85
二年ほどROMらないと、理解不能だろう。
87日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:31:00.88
>>85
と言うか意味が分かるようになったらお終い。
88ダブル・オー・ナイン:2011/04/04(月) 20:51:15.39
邪馬台国とも卑弥呼女王ともまったく関係の無いことを延々と突っ込みあって
いる暇な人たちだよ。
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/04(月) 22:53:53.11
>>85
これは神武即位年がB.C.660年ということにおいて、仁徳以前の古代天皇
の寿命が殆ど百数十歳になってる疑問、不合理が、唐松山は暦法を編ん
だ何者かがうんと空白年を造りその間に水増しの年代を不正多量に注入
したためにそのようなことになったという説ですが、それがしはこれを
否定してるものであり、当時の1年が現今の半年等であるという2倍暦等
を行使していたから一見こういう不合理に見えただけであるという論説
です。

>>88
なぜこういう論争をしてるのかというと、これは卑弥呼がどの天皇の代
にいた女性なのかという説と説の対立からであり、あの男は景行の代だと
いう説で、こちらは崇神の代が彼女の活躍年代だと主張してるもので、
ですから間接的になってしまってますが、卑弥呼の代を決める上で
卑弥呼と関係がある重要な論争なんですよ。
90太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/04(月) 23:13:20.16
>>83
10日を1ヶ月とする暦法は存在する。

欠史八代の天皇は8人とも月の上旬(1日〜10日)に死亡している。
これは天皇の死亡(崩御)の暦法において、八代間では1ヶ月が10日間
での暦法を行使していたということだ。即位とか立太子はこの間、2倍暦
を行使していたのであり、前者の死亡と後者とでは暦法が別々であったと
観るのが正解である。

人間の死亡は自殺、暗殺等特殊な状況がない限り、病死、事故死、自然死
の場合では死亡月日を勝手に日にちを決めることは不可能であることが
重要であり、8人全員が月の上旬死亡したことは、当時これに関しては
3倍暦を行使する1ヶ月が10日間しかなかったことを物語る。つまり
オマエの主張は折伏される。ww

なお古代マヤのハアブ暦では、1ヶ月が20日間での運用であり、かように
1ヶ月が29日とか30日(あるいは28日)でない暦法は、やろうとすれば
自在にやることが可能であり、オマエの言い分はこういう前例があること
からウソであり、通用しない。
91mirai:2011/04/05(火) 13:52:50.20
 漢風諡号で「神」の字の入る天皇は古代に集中して現れていて、神武天皇・
祟神天皇・応神天皇の三人だけです。私のひねくれた考えになると、これらの
天皇は同じ時期にいた天皇ということになります。今、神武天皇と祟神天皇の
あいだの欠史八代の天皇を除けば、単純に考えて神武天皇と祟神天皇は近い時
期に存在したことになります。神武天皇と祟神天皇はどちらも「ハツクニシラ
ススメラミコト」といわれますが、これは同時期に神武天皇が九州において
の、祟神天皇が近畿においての「ハツクニシラススメラミコト」であったと考
えればよいのです。そして『紀』神武摂政前紀は、神武東征を行うときに、近
畿にニギハヤヒがすでに飛び降っていることを記しています。つまりニギハヤ
ヒ=祟神天皇だったのです。しかも祟神天皇紀を見ればわかることなのですが、
ここにはとても重要な秘密が隠されています。次に応神天皇ですが、この天皇
は二人の人間がモデルとなって作られた天皇です。その二人とは成年期の神武
天皇と、幼少で亡くなった神武の第二子御諸別命です。
 祟神天皇と応神天皇との間には垂仁・景行・成務・仲哀の四天皇がいますが、
現在の天皇にある定義でなく、古代においては海神の女を娶ったもしくは海神
の血を受け継いだ者であれば天皇になる資格を有すると考えれば、同時期に複
数の天皇が存在してもおかしくはないでしょう。それを解くヒントが、祟神天
皇の御子である垂仁天皇と、祟神天皇が四道将軍として派遣した日子坐王
(『記』)が、同じ名の女性を妻としているということです。この意味がわかれ
ば、神代における事柄も同じように解明できるでしょう。
 
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/05(火) 14:51:31.77
モデルがいたくらいなら、崇神、応神陵を万の労働者を使って作りやしないよ。w
93日本@名無史さん:2011/04/05(火) 14:58:14.89
>>91
なんで、わざわざ、そんな面倒くさいこと
しないといけないんだよw
わけがわからないw

そもそもだな、漢風諡号が考え出されたのは、記紀が誕生して
数十年後の世だよ。
記紀が記載されたときには、まだ漢風諡号は存在していない。

94日本@名無史さん:2011/04/05(火) 22:39:31.50
>>91

「考古学」を、一通り勉強して見てください。

日本の歴代天皇は、誰一人架空の人物とする必要もなく、

現在の考古学の成果と「一致」させることが出来ますよ。

95日本@名無史さん:2011/04/05(火) 22:49:19.37
文字のない所で広域国家なんて成立するわけがない。
命令が7日位で行き渡らなくては国家が成り立たない。
マヤみたいに一日で100km走る伝送者がいれば別だが。
したがって畿内に邪馬台国があったと言う事はあり得ない話だ。
96日本@名無史さん:2011/04/05(火) 23:10:55.24
高地性集落を用いてののろし実験では、北部九州から大和まで情報は数時間で
伝わったけどね。あくまで実験だし複雑な内容はムリだけど。
97唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 11:46:33.91
>>90
>10日を1ヶ月とする暦法は存在する。

暦日に直せない事実は存在しないことの証明である。
98太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 15:06:38.15
そうだろう。オマエは暦日に直した具体事例を毎回コチラが示すよう要求
してるのに、オマエはそれを出来ていない〜
〜〜というより出来ないからだ。ppp

つまり暦日に直せない張本人は、他ならぬオマエ自身だからな。そうで
ないなら、365倍の精度の暦日をことごとく説明するんだぜ。ww
99日本@名無史さん:2011/04/06(水) 17:36:07.62
>>96

そう、その「高地性集落(烽火付き)」は、

弥生中期末〜後期初頭(纏向遺跡の200年前)には、
大和盆地内部から近畿中南部〜瀬戸内海中部まで、
完全に整備されている。

しかもそれが、「大和側」から始まって、九州方面に向けて、
伸びていることが分かっている(凸基有茎式石鏃)。

これが何を意味するか、解かるかい?


100唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 17:51:37.90
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未
この数字を説明すると
垂仁元年正月1日は
東漢獻帝建安22年 ?次:丁酉 生肖:? 西元217年1月25日(星期六)起 1月乙未朔
と同等であり
神武元年正月朔から数えて 63904日であることを表す。

つまり太陰暦で書かれ”正朔”の文字のある日本書紀は
太陰暦で読めなければ誤りがある。
10日を1ヶ月とする暦を表記出来ない事実は、10日を1ヶ月とする暦が
存在しないことを証明した事と同等である。
残念ではあるが、太国倍年は、存在しない。
太国倍年を支持する 考古学の知見も文献もない事実。
必至な姿で”三輪の円”での説明は、哀れを誘うだけ。
101太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 19:00:51.78
抽象的にこんな数字を出して説明したふりは毎回であるが、文献の日々の
数字の接続の具体性を説明したことは今の今までただの一度も無〜い。

そんな数字よりも紀の各日々の数字と干支の合理的具体性を多数説明
するんだな。示すとえらそうに言ってるが、これでは全く抽象的で
説得力は全然無〜い。クソの役にも立たない説明したふりをして
いる〜カモフラージュの数字だと判断出来る。そんなんでは説明したこと
にはならな〜い。

『東夷』の件で、だいぶ慌てふためいてたようだな。ハハッ!! ppp
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 19:07:41.03
空白年の数字を明確にした暦を表記出来ない事実は、マシが出来る空白年
の暦が存在しないことを証明した事と同等である。

つまり空白年でのマシはどこにも存在しない。オマエの脳内の創作に
よるひどいメチャクチャの妄想なのであ〜る。
103日本@名無史さん:2011/04/06(水) 19:15:59.64
>>95
アステカやインカは、文字なくても
すさまじい面積の大国だったよw

それと、少なくとも紀元前1世紀にはすでに
漢字の書かれた遺物が倭国から出土する。
104唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 19:23:40.52
編年はまず、正しい年月日の割り出しからはじまる。
書紀の記事がその数字で、考古学や文献と合致せねばならない。
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥
晋書 正始元年 東倭重譚納具。
偽書 239年の記事と合致する場所である。
魏少帝正始元年 ?次:庚申 生肖:猴 西元240年2月10日(星期一)起と同じである
(後漢に比べ1月早い)
これ以前の設定は
後漢193年冷夏
新羅本紀192年4月大雪
この記事は同じ年と想われる、しかし1年の違いがある。
この違いを特定せずに、暦日を決めることは出来ない。
崇神5年を192年にするか?193年とするか?違いがある以上一応の編年であるから
暦日までを計算しない。

太国も10日を1ヶ月の暦が有る。が太国倍年主張の基本である。
しかしこの基本を明記できない。
何故ならば、年代を特定出来る、考古学の知見、文献による特定をしていないからだ。

七支刀=369年 この設定では、半島占拠は否定される。
であるならば、書紀にはいい加減な記事がある。=書紀を編年に使えない。
どの道 太国倍年は使い物にならない。
105太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 20:02:23.50
>>103
>遺物
具体的に説明されたい。

>>104
基本の説明をしないのは、オマエの得意技!ww

オマエの 神武元年=西暦42年 では〜
〜中国文献(漢書王莽伝)の「東夷の王」の年代が合わず、不整合の
デタラメなり。こちらのほうは。これも整合している。つまり 神武元年
が西暦5年以前でなければならない。オマエのはインチキだな!!ww
106唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 20:10:56.71
書紀の記事を、考古学と文献に合わせる。

後漢書:193年6月寒風冬の如し
新羅本紀:192年4月大雪 193年倭人大餓
崇神6年 民の離散
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される

崇神11年異俗多帰
考古学:2世紀末各地の土器が纒向遺跡に持ち込まれる。

崇神世:任那建国
三國遺事卷二 :
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀:209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年(載)であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志倭人伝:239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶、任那)は存在する。

垂仁世:鉄の流入、埴輪の導入。住まいの里に埴輪無し
考古学:ホケノ山に穴あき壺(埴輪)と鉄器副葬
垂仁末:田道間守の派遣
倭人伝:239年〜都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁、伊聲耆掖邪狗=
伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁 書紀:伊聲者掖耶(伊勢のイワカ)など
考古学:3世紀初めの大型建物(珠城宮)の跡に土盛り、整地をし3世紀中葉の建物(土盛り
をすれば、土地は乾く)日代宮。
景行による九州は兵で乱を平定、関東遠征で倭国統一(大倭の成立)
107唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 20:26:32.75
倭人伝:使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
考古学:箸墓(特殊器台(埴輪)鉄器大量副葬と鏡の時代(黒塚、椿井大塚)
箸墓築造を以て纒向遺跡はゆるやかな衰退に向かう。

天文学:273年日食
仲哀9年:渡海
神功元年:273年の日食を差し込む、内乱の時代。

この様に、再編年した書紀の記事を文献や考古学で確認出来なければ成らない。
記事の一つを否定しても他の記事が残る。つまり全体を否定する為には、
他の編年により、それが正しいとできる知見が必要となる。
残念ではあるが、太国倍年には、それがない。
三輪の円は歴史と同じであっても、歴史の証明には使えない。

当時の暦の暦法で書かれたホツマを毛嫌いするのは、1ヶ月が10日の暦法が有ったことを
主張するためであろうが、表記出来ない以上、この様な暦法は存在出来ない。
存在出来ない暦法を使って編年しても正解は得られない。
欠史8代が現在と同じ寿命で30才程度で世継ぎをする。
弥生時代の寿命が40才程度であるから、著しく齟齬が有る。
108唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/06(水) 22:00:58.62
神武元年は
>西暦5年以前でなければならない。
これを認めるのが、崇神元年=237年

しかし 西暦1年は、弥生中期に埋没している。
237年以後は魏が半島を管理し、任那建国は無い。

全く歴史が語れない数字である。
この数字を繋ぐためには、1ヶ月を10日とする暦法が必要である。
109太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 22:02:24.85
>>106
192年≠崇神5年

右辺の年代では、千人もの現今の客船の1/5〜1/6もの定員を収容する船舶
はこの年存在しない。船舶が始めて製造されたのは紀の崇神17年で
あるから右辺の年に船舶のアリバイがなく、唐松山の主張は整合性が
無く、崩れる。これではダメだ。

しかも本年3/11の東日本大震災でも空腹は生命の維持に重大なもので
あり、千人の半島まで行く糧食がないし、重ねて3/11の大震災でも
ガソリンが無く遠出できす困ったと被災者が漏らしていたわけで、当時
は自動車もなく当然ガソリンもないし、さらに航空機も新幹線もないせい
ぜい馬でしか早くは到達できない。この馬でも千人分の千馬があてがえ
るわけなどなく、到底若狭湾を渡って半島への遠方へなど行けやしない。
唐松山のデタラメな論だと今回の大地震で妥当にうなずけることだ。ww

伊支馬≠垂仁

唐松山は景行元年が239年だとしこの年代が倭人伝でのメインともいえ
る年なのに、238年が垂仁崩御であるからして、その翌年に垂仁だとの
伊支馬がこの世にもういないわけで、倭人伝の伊支馬はあたかも幽霊で
活動していた不合理がミエミエであるから、重ねて臣の伊支馬が天皇
では、猿(臣)が人間(天皇)で人間(天皇)が猿(天皇の家来の臣)
に支配されてる映画「猿の惑星」さながらの空想であり、失笑のタネに
なること請け合いだ。bububububu・・・ ww
110太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 22:23:02.20
>>108
表記出来ないのはオマエのほうであり、いまだまともな空白年の年代を
オマエは具体的に表記出来な〜い。出来るなら出してみろ。ww

なお神功元年前年の神功紀の記事は日食が数日間も継続しないことから、
唐松山酋長の強行主張は折伏される。ww

先代旧事本紀大成経
神功元前年

「是時 昼暗く夜の如し 已に経日く復さず」

このように日を経て数日間も回復しなかったわけで、日食はたかが
1〜2時間程度であり、皆既日食でも太陽が90%欠けてもまだまだ
薄暗いが真っ暗ではなく完全に欠ける寸前まで明るさはだいぶ在ること
から、皆既日食でも暗黒はせいぜい10〜20分くらいしかないだろう。

そうなると日を経て復さないんだから、これは日食ではなく、上天に
大暗雲が数日間も垂れこめてたとか大噴火の煙雲が数日間続いた特殊な
気象状態だったということだ。大噴煙の粉塵の記載がなくとも大噴火
でないことにはならない。この場合は、単に粉塵まで記載しなかったまで
のことだ。日食説は完全否定される。

天体の新月だ〜満月だ〜(朔望)と計算しろと豪語してる野郎が、日食
の継続時間が数日間もありえないことくらい斎藤国治先生に聞くまでも
なく、分かることだ。ww
111太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 22:24:30.02
>>109 訂正
× 現今の客船の1/5〜1/6
○ 現今の世界最大の客船の1/5〜1/6
112太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/06(水) 22:33:27.36
>>107
ホツマは偽書として名高く、記紀を押さえてでは到底歴史の証明には
ならない。とりわけ景行が日本最初の大王というのはデタラメの極の
インチキであり、常に神州の初代大王は神武であり、未来永劫に〜
万邦無比の國體では金剛不壊に神武が初代大王であ〜る。
113唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/07(木) 18:14:40.97
>船舶が始めて製造されたのは紀の崇神17年であるから

崇神が初めて船舶を持ったのであり、これは崇神の領土が広がったことを表す。
しかし崇神17年迄船舶が無かった証明が」出来ない。
存在した証明として、青谷上寺地遺跡の絵画や岐阜県で弥生後期後半の土器に描かれている。

>ホツマは偽書として名高く、
書紀は太陰暦で書かれ正朔の文字が有る、ホツマも太陰暦で書かれている。
この太陰暦を認めたく無いために ホツマを偽書と呼ぶ。
そして倍年が有ったと主張しても 1ヶ月が10日の暦法を示すことは出来ていない。
こんな暦法が存在するならば、暦法を表記と共に使われたと主張すべきである。
その数字が−660年の書紀の暦になればあり得るかもしれない。

>景行が日本最初の大王というのはデタラメの極のインチキであり、
>初代大王は神武であり、

大和の最初の王として神武はいる。しかし時代が西暦1年即位であれば、弥生中期に埋没し
その存在は確認出来ない。
箸墓を考古学は最初の大王と表記する。
つまり墳墓が桁違いに大きくなり、同時代の古墳(黒塚、椿井大塚)は大量の鏡と鉄器の副葬。
黒塚、椿井大塚への副葬品から箸墓を推定すれば膨大な量と成る。
空前絶後が相応しいのが箸墓である。
勿論伽耶土器も同時代と成る。
任那建国(210年)から推定しても景行を於いて他にいない。
纒向遺跡は箸墓築造を以て緩やかに衰退する。

>神武が初代大王であ〜る。
これを考古学で主張出来れば良いが、考古学を無視する太国倍年では不可能である。
114日本@名無史さん:2011/04/07(木) 18:30:48.30
魏志倭人伝:
 今は使訳が通じるのは三十国
日本列島の30カ国が中国に使者を送るだろうか?

南史倭国伝:
 武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、
倭王に叙した。
 日本の国家が、新羅を始めとする6カ国を支配するだろうか?

三国史記新羅伝:
 数十回に渡る倭国の進入記事があるが、列島の国家が船団を率いて新羅に数十
回も攻撃したのだろうか?

高句麗好太王碑:
 日本が満州を拠点とする高句麗と大戦争をしたのだろうか?
(しかも近畿地方は戦争どころか、巨大古墳作りに忙しかった時代に)

後漢書倭国伝:
 倭奴国は倭国の極南界
九州北岸から金印が出た、そして倭奴国は倭国の極南界であれば、倭国の中心は
半島に有ったということではないか?

倭国の本体は半島に存在し、九州にもその勢力を伸ばしていた、と考えれば納得。
邪馬台国は半島にあったのさ。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/07(木) 19:01:37.78
>>113
それらの遺跡の船舶とやらは、当然紀の崇神17年以降のものさ。ww
紀の崇神17年の記事が立派な文証で、オマエの言葉は信用度が0。

空白年とマシの暦法が存在するならば、空白年とマシの表記を主張
して具体的にその年代の各箇所を明確に示ねばならない。これが全然
表記出来ていない。つまりそんな暦法はオマエの脳内の空想であり、
デタラメである。

考古学は景行を最初の大王に認定などしていない。つまりオマエの
大ウソであり、こんなデタラメを言う奴は朝敵であり、今後未来まで
景行が初代だとの大ウソは壊滅させられる。
神州は未来永劫、初代大王は神武であり、これこそ金剛不壊で永遠に
神武であり、神武が初代大王なのであ〜る。
116メ(寝る前):2011/04/07(木) 20:44:51.42
なんだ〜あまり進んでないじゃないか。
最近、しごとが忙しくなかなか来れなかった。
やっぱ〜おれが進めないと、スレまわんないのかな・・・・
117メ(寝る前):2011/04/07(木) 20:55:14.47
考古学と記紀の話が出てるけど、そもそも考古学「のみ」ですべての歴史が分かるわけではない。
これら記紀や中国の古い文献と比較して生きるんですよね。

いつ、古代人はなにを着て、
その当時に何が流行して、鹿、豚、イノシシ、鳥、貝、魚介類などを食べてた〜とかはわかる。
118メ(寝る前):2011/04/07(木) 20:59:52.37
あいつはまだ「丗有王」 とかやってんのか。

今回の東日本、大震災で 古代の遺物かなにか〜
地面から現れてないかな。
まあ、トンネル工事や高速道路のあれじゃないから、ちと厳しいか。
119メ(寝る前):2011/04/07(木) 21:04:13.00
なんかドンコイのほうで、

新羅本記・・・・

「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘」

とかやってるよね。
こういう、外国の記事は、その当時の古い時代の〜倭(日本)の一面が観れるだけで、
たとえば雄略の時代だと、男王がTOPに立ってるんであって、
その、三世紀半葉の日本列島では女王がTOPに立っていただけのことだろう。

あ、神功皇后ではなく、それ以前だね。
さて、そろそろ落ちましょうかね・・・zzz
120名無しさん@実況で競馬板アウト:2011/04/07(木) 21:13:12.77
古事記を読み返してみた
古事記だと神功皇后って極端に言うと応神天皇を産んだってだけだね
応神天皇も驚いたことに古事記ではほとんど事跡がない
大雀(王子時代の仁徳)ばかりが活躍してる
121日本@名無史さん:2011/04/07(木) 21:20:16.67
あいかわらずメはクズだな。
122唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/07(木) 22:41:12.02
卑弥呼は共立された女王で権力は無い。
彼女自身も、共立されたことを境に人に会わない。

書紀に占める年代
神功皇后275〜344年 
応神 345〜387年
仁徳 313〜399年

神功皇后が記事に出られるのはせいぜい神功39年の仁徳即位まで
神功39年太歳=仁徳元年 ここは現実の仁徳の可能性があるが、
仁徳は313年から仁徳31年(343年)までが本人
この後を応神が継ぐ(344年〜384年)まで
この後は応神、仁徳とも記事は無い。

つまり書紀に応神の記事はあっても、実在した時代では無い。
このカラクリは允恭時代のクガダチで説明される。

123太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/07(木) 22:44:27.15
インチキ ご苦労!
5重在位は、実在しないオマエの大妄想!!
124ローガン:2011/04/07(木) 23:26:59.69
>>118
>今回の東日本、大震災で 古代の遺物かなにか〜
> 地面から現れてないかな。

なんで、そんな事云うかなあ。古代の遺物とか、どうでもいいやん。
125日本@名無史さん:2011/04/08(金) 05:49:38.44
>>120
応神天皇は、仲哀天皇の第4皇子。しかも、母親の神功皇后は側室。

応神は、仲哀天皇が死んでから産まれた。
日本書紀では死後1年で産まれたから生物学的にはありえないが、
そもそも、応神も神功も、生物学的にありえないほど長生きしている。
よく言われるように、当時、春秋歴で暦が違っていたのなら、
半年で産まれたことになるから、生物学的には、まあ、あり得るかなとw
そういうふうに考えたとき、神功皇后が30歳の時に、彼女にとって
第一子の応神を生んだとあるが、実は15才の幼妻で産んだことになり
当時の貴族たちが早婚だった可能性の高さを考えると、わりと自然だな。

仲哀天皇には、他に正室がいて、そちらが応神天皇より
ずっと年上の兄の生母。
だから、普通に考えて、仲哀の次の天皇は、その兄のほうが優先高かったはず。
生母の出自も、その正室のほうが、仲哀に近い皇族の家系だから、
やや遠い傍系の皇族で、しかも母方に渡来系の貴族が入っていた
神功皇后よりも、ずっと家格が上だったと思われる。

ちなみに、仲哀天皇には、諱(いみな)が残っていないのは
彼が急死して、ごたごたがあったから、次期後継者に
ちゃんと伝わらなくて、歴史に残らなかった可能性が高い。
当時は、言霊思想が強かったから、死ぬまで本名を世間に公表せず
生存中は、通称を公表していた可能性が高い。
本名である諱(いみな)のほうは、次期後継者ぐらいに
死ぬ直前に伝えていた可能性がある。
126河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/04/08(金) 09:37:43.92
>>124

>なんで、そんな事云うかなあ。古代の遺物とか、どうでもいいやん。


ま、所詮他人事なんでしょ
しっかし昨夜の余震にはビビりました。ずっと余震続きで身体はかなり慣れてきたんだけど、
さすがに昨夜は一瞬覚悟しましたから11日の地震より、精神的にはキツイ体験です。
たぶん、同じような強い揺れや津波を、後二三回繰り返さないと
今度の地震はおさまさないでしょうね。

やっと落ち着いたのに!タク。
127唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 10:34:30.44
>>125
『梁書』高句麗伝より
其死葬、有槨無棺。好厚葬、金銀財幣盡於送死。積石為封、列植松柏。兄死妻嫂。
厚葬を好 み、金銀財幣を最大限に死者に贈る。石を積んで封じ、周りに松を植える。
兄が死ねば兄嫁は弟に嫁ぐ。

この様な風習は、朝廷でも行われている。
例えば、安寧、懿徳は兄弟。
垂仁の子供として登場するホムツワケは崇神の子供と想われる。
成務(243年生まれ 265年死亡)
仲哀(256年生まれ 274年死亡)
仲哀は成務の子供を実子とする。現実は応神が初子となるハズであった。
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/08(金) 12:10:23.72
安寧と懿徳とは兄弟に非ず。
129日本@名無史さん:2011/04/08(金) 13:23:20.74
古代から、倭国の貴族の間では
イミナとアザナを使い分けていたことが分る。
一般的に生存中、知れ渡っているのが、アザナのほうであり、
イミナは普通は死ぬまで公表されない。
そんなわけだから、中世、自分のイミナ(本名)を知らない
忘れているような人物もいたぐらいだ。

仲哀天皇の場合、突然死だったために、彼の本名が分かってない。
わかっているのは、タラシナカツヒコというアザナだけ。
それ以外にも、先代の成務天皇も、ワカタラシヒコというアザナしか分っていない。
謀反を起こして戦死した武埴安彦も、これはアザナであり、イミナ(本名)ではない。
130日本@名無史さん:2011/04/08(金) 13:31:30.92
ただ、なんとなくだが、成務天皇や仲哀天皇のイミナ(本名)も
ある程度、想像がつく。
成務天皇なんかは、彼の父親や子供の名前から想像して
ワカワケみたいな本名だったような気がする。
仲哀天皇に関しては、まるで想像がつかんが
オシワケか、オシウスみたいなイミナが自然ともいえる。
この時代も、倭国では、けっこう、偏諱が行われた可能性が高い。
とくに、ワケとか、オシとか、ワカとか、そういう言葉の
偏諱が多いから、成務天皇、仲哀天皇にも、そういう言葉の入った
イミナだった可能性がある。
131唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 15:06:07.82
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ  諱ウヂヒトは ヨツギミコなり

諱の解るのは成務まで、仲哀から諱は不明となる。
諱の使い道
呪詛するには、本名(諱)が必要である。
祝言にも必要である。
爵受にも本名が必要である。倭王タラシヒコは諱である。
諱が不明であることは、世の中が不穏であった証拠でもある。
132唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 15:33:30.71
 【大田原】東日本大震災で、国指定史跡の湯津上の下侍塚古墳の墳頂付近の一角に、
数本の亀裂が入っていることが 28日までに、同古墳の保全活動に取り組む「松守会」
の調査で分かった。約320年前の江戸時代前期に調査した際、出土品を埋め戻した
部分とされる。現在はビニールシートで覆っているが、今後修復を迫られるのは必至だ。
133日本@名無史さん:2011/04/08(金) 18:51:33.67
成務も、本名不明だろう?
134唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 20:44:25.13
成務の本名は、ホツマにしかないみたいだな。
伊支馬=イクメ=垂仁
イクメは通称であり、本名では無い。であるならば
田道間守は、垂仁の本名を知らず通称を伝えた。
景行の場合は本名で叙勲を受ける。

135唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 20:48:44.66
ホ38053      ヰホネシモ ソヰカヒのデに
ホ38054      うむコのナ ワカタリヒコぞ
ホ38055      タカヨリは ヒノマエもふぞ
ホ38056      ウヂマロが タチでマコうむ
ホ38057      ヰココロが イムナをこえば
ホ38058      タカヨリが イムナタカヨシ
ホ38059      ナはウチト タケウチマロそ
ホ38060      キジとべば タカヨリのほる
ホ38061      ウヂマロも ウチミヤにゆき
ホ38062      ことほぎす キミよろこびて
ホ38063      イムナこふ ウヂマロさゝく
ホ38064      ウヂヒトは ヨツギミコなり
136太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/08(金) 22:10:00.47
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。

なお

 伊支馬≠垂仁

垂仁はこやつの論では238年に死亡しており、景初3年の239年にはもう
伊支馬は垂仁だと言ってるんだから幽霊の活動となる。浅薄な野郎は、
こんな幼稚な論をま〜だ頑張って出している。ppp

誰にでもおかしいと分かるデタラメだ!ww
137唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 22:52:59.18
>誰にでもおかしいと分かるデタラメだ!

任那建国のない崇神世のことか?
任那建国が無ければ、その後の大和朝廷も無いだろう。

138唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/08(金) 22:56:49.16
太国倍年には何もない。
西暦1年 畿内に神武が入った足跡が無い。
西暦240〜50年代ころ 任那建国が無い。
西暦369年=七支刀 半島占拠が無い。
武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、
倭王に叙した。
半島占拠のない畿内大王=倭王ではない。
では何が正解か?
太国:九州王朝である。
その九州王朝がない。

そもそも倍年なるものが、存在しない。
存在すれば表記出来る。存在しないから、主張はしても表記出来ない。

つまり、何もないものを正しいとする主張に、対案は無い。
対案の示せない主張は、ただのたわごと。
139太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/08(金) 23:17:27.53
マシなんぞどこにも無〜い。つまりオマエの脳内のデタラメ。ww

>西暦1年に畿内に神武が入った・・・
漢書東夷伝

 (元始5年=西暦5年)東夷の王 度大海 事国珍

これはオマエの 神武1年≠42年 であことの文証である。オマエは
うるさく日本を基点としての 東 だと頑張って言ってたからな。ww

42年の前に畿内に王国があったことになり、オマエのイカサマが露呈
する。

倍暦は古今東西、事例があるのがハッキリしている。
一番てっとり早いのが現今の時間の計測方法だ。
午前と午後の1日2回の12時間制ともう一つの計測法の24時間制のが
これだ。ミニの2倍暦法だ。ザマァ〜みろ。

こうやって、現今でも時間制で2倍暦のミニが行使されている。
当たり前だな。年数のマシはオマエの脳内の創作小説也。
140太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/08(金) 23:29:36.39
オマエは、マシの事例のまともなのをただの一度も具体的に表記したこと
が無く、表記が出来ない。

年号が多数あるから、九州王朝は存在する。
倭の五王も九州の王達。比売大神も卑弥呼の後裔で、これも九州王朝。
阿毎多利思北孤も九州王朝の人物。つまり景行は日本統一など出来て
な〜い。初代大王でもな〜い。初代大王は神武であり、神州は過去
から未来まで初代は神武であり、神武こそ初代大王の皇宗なのである。

年号

継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和

師安 和僧 金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 ・・・


ホツマは昔のそんじょそこいらのドングリの背比べのただのオッサンが、
妄想を注入して書いた文。
141太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/08(金) 23:54:32.67
>>139 訂正
× 漢書東夷伝
○ 漢書王莽伝

>>137
任那をうるさく言うなら、世界史板にでも失せろ。
ここは半島史板ではな〜い。日本史板であ〜る。取り違えるんじゃねぇ〜。

zzzzzzzz・・・
142唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/09(土) 11:16:11.10
太国は何か勘違いしていないか?
私の主張は2世紀末に纒向遺跡に存在した崇神を語っている。
勿論太陰暦で記録された崇神だ。だから纒向遺跡や文献で説明出来る。
対する太国倍年の崇神、纒向遺跡の年代や文献で説明出来ない。

つまり太国の主張する崇神は、倭人伝に書かれた松浦かその方面の”不知正歳"
漁民の王では無いのか?
九州邪馬台国の王崇神。
だから纒向遺跡や文献と整合しない。
まあ早いとこ九州邪馬台国を見つけることが先決だろ?
143日本@名無史さん:2011/04/09(土) 12:52:53.94
松と太の交換日記は果てしない、誰も入り込めない世界。
144日本@名無史さん:2011/04/09(土) 14:19:35.30
唐松山與太国素不和相攻撃歴年以死
145太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/09(土) 14:41:23.10
>>142
崇神が九州行幸した事実など記紀にない。
そんな記事は他の文献にもないだろう。
オマエの創作のインチキそのもの。pp
146唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/09(土) 18:58:52.31
(1) 弥生時代から古墳時代への移行期(3・4世紀)における東アジア世界での国際交流の
問題は、当該期における主要な研究課題となっている。例えば、いわゆる「倭国大乱」、
そしてそれ以後の西日本諸地域の動向について、朝鮮半島からの鉄素材の入手を目的と
する、近畿から瀬戸内海、北部九州にいたる集団関係の再編等が指摘されている。しかし
ながら、こうした議論の主たる材料は、初期段階の前方後円墳の分布、中国鏡の分布など
であり、具体的な各地域の集団の動向については、十分な検討や検証がなされてはいない。
また、『魏志倭人伝』には、当該期において北部九州の玄界灘周辺地域におかれた対外
交渉のための支配機構の存在が記されているが、この点についても考古資料をとおして
具体的に検討されたとはいえない。
(2) 研究代表者は、当該期に畿内から九州に展開する畿内系土器のありかたに着目し、
いくつかの検討を加えてきた。土器の型式学的な特徴を詳細に検討することにより、畿内
系土器の中にも複数の集団が読み取れることや、瀬戸内海の中国地方側では備中以西に、
四国側では伊予・高縄半島以西に拠点的な集落が形成されることを指摘した。
(3) 北部九州地域については、この時期に在来の土器様式から畿内系の土器様式に大
きく変化することが指摘されており、これまで研究代表者が行ってきた分析方法をこの
フィールドに適応することが有効であると想定された。また、玄界灘に面する福岡県西
新町遺跡では、近年大規模な調査が実施され、多数の竪穴住居址とこれにともなう畿内系
土器、山陰系土器、朝鮮半島系土器などが多数出土したことから、国際港湾都市的な性格
をもつ遺跡であることが指摘されている。この遺跡の分析を行うことによって、北部九州
の博多湾沿岸地域における朝鮮半島との交渉の実態を解明する手がかりが得られるも
のと考えられた。
研究代表者 次山 淳(TSUGIYAMA JUN)
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所・都城発掘調査部・主任研究員
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/09(土) 19:04:14.17
(1) 交流ルートの復原
@ 岡山県南部地域で製作された吉備形甕の分布形態から、日本列島における交流の基幹
ルートを読み取り、博多湾沿岸から周防灘をとおり松山平野・今治平野をへて備後東南部、
吉備、播磨・摂津沿岸をへて大阪湾から河内湖、大和川、大和というルートを推定した。
吉備形甕の分布は、結節点となる遺跡・地域を結びながら、このルートの西端である福岡
県西新町遺跡と東端の大和川下流域、および奈良県纒向遺跡に突出して認められることに
特徴がある。
畿内の内部については、吉備形甕の分布に古墳の分布と対照的な地域があることを指摘
したうえで、基幹ルートを大和川水系と考え、大和川水系の大和、河内を中心とする中心周
縁構造を読み取った。さらに、瀬戸内海の東と西の領域的なちがいを明らかにしたのちに、
畿内系統の土器の分布を重ね合わせ、吉備形甕で推定した基幹ルートとよく一致すること、
基幹ルートが領域の境界に沿ったものであること、畿内系土器が領域の内側よりも外側に
展開することを指摘し、このような方向性の明確な通交形態の形成を当該期の特質と考え
た。以上の成果は、考古学研究会第53 回総会において報告し、『考古学研究』第54 巻第3
号に発表した。
A 日本列島出土の朝鮮半島系土器について集成作業を行った成果を、『3・4世紀を中心
とする西日本出土朝鮮半島系土器資料集成』として取りまとめた。この冊子には対馬・壱
岐をのぞく九州以東の西日本において、現在までに公表された朝鮮半島系土器資料、77 遺
跡1183 点余のデータを収録した。これらには、朝鮮半島からの搬入品と考えられているもの
に加え、模倣品など朝鮮半島系の要素が認められると指摘されたものも含めている。集成
資料に関わる地名表、実測図に加え、関連する研究文献の一覧も付した。この作業から、
当該期の朝鮮半島系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、
西日本全体でみると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新町
遺跡に極度に分布が集中するようになることなどが理解された。
148唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/09(土) 19:08:11.22
@ 西新町遺跡 福岡県西新町遺跡は、福岡市の西部、博多湾に面した早良平野の東北
端に位置する砂丘上の遺跡である。遺跡のすぐ北側には百道浜の元寇防塁があり、海岸線
との近さを知ることができる。遺跡の範囲は、東西800 メートル、南北300 メートルにおよ
び、玄界灘沿岸の古墳時代集落のなかでも最大級の規模といわれている。2006 年までに、
21 次におよぶ調査が実施されており、その間に検出された弥生時代終末から古墳時代前期
にかけての竪穴住居跡は、総数で400 棟を越える。
この集落で特に顕著なことは、他の同時期の遺跡と比べて格段に多い朝鮮半島系土器の
出土と、竪穴住居跡に付設されたカマドの存在である。朝鮮半島系土器には、忠清道から
全羅道系のもの、全羅南道から慶尚南道系のもの、そして慶尚道系のものといったように、
朝鮮半島中南部の複数の地域のものがみられる。カマドはこの当時の日本では、いまだ普
及していないものであるが、80 軒以上の竪穴住居跡で確認されている。こうしたことは、
朝鮮半島から渡来した人々の居住を示すものと考えられている。
国内の土器についてみると、この時期、博多湾沿岸の地域では、日常土器の多くが、庄
内式・布留式とよばれる畿内の土器の特徴を備えていくが、西新町遺跡においても、この
ような畿内系統のものと山陰地方のものが卓越し、これに加え吉備など瀬戸内海地域の土
器も認められる。
また、板状鉄製品や朝鮮半島系のガラス小玉鋳型、ガラス勾玉鋳型の出土などは、金属・
ガラスに関わる手工業生産が集落内でおこなわれていたことも示唆している。一方で、漁
撈活動を示す飯蛸壺や石錘も多量に出土し、対外交流の窓口であるとともに、きわめて多
様な側面をもった集落であるといえる。
149唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/09(土) 19:21:39.52
西新町遺跡
弥生時代終末から古墳時代前期にかけての竪穴住居跡は、総数で400 棟を越える。
この集落で特に顕著なことは、他の同時期の遺跡と比べて格段に多い朝鮮半島系土
器の出土と、竪穴住居跡に付設されたカマドの存在である。

弥生時代終末とは、箸墓より前である。古墳時代前期はそれに続く時代。
この時に伽耶の住民が西新遺跡に居住区を造り、大和と繋がる。
255年日本武尊九州平定。
263年景行の葬儀。
274年神功渡海
150日本@名無史さん:2011/04/09(土) 21:04:31.36
永遠に続く無限ループ
このエネルギーを発電にいかせないものだろうか
151日本@名無史さん:2011/04/09(土) 23:55:23.94

人はミスをする生き物である。
ミスをしてもいいのである。
しかし、ミスを認めることが出来ない人間は、成長することが出来ない。

人が筋トレをするのは、筋繊維を「みずから」破壊しているのである。
破壊してこそ、より大きな筋肉となって再生されるからである。
「自己の説」や「先入観」を破壊することが出来ない人間(臆病者)は、
より大きな説として再生させることが出来ない。
残念ながら、いつまでも堂々巡りを繰り返すだけである。

激しく筋トレをする人間程、美しい筋肉質の体となるように、
「自己の説」を激しく破壊して改める人間程、より真実の説へと近づいていく。

「自己の説」は、いくら改めても、恥ではないのである。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/10(日) 21:32:00.52
全羅南道から慶尚南道系のもの、そして慶尚道系のものといったように、
朝鮮半島中南部の複数の地域のものがみられる。

半島占拠は323年。
153唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/11(月) 15:02:43.92
>>125
>応神も神功も、生物学的にありえないほど長生きしている。 

この時代は、允恭4年のクガダチにより書き換えられている。
だから年齢にとらわれると現実の時空が見えなくなる。
154唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/11(月) 15:08:12.35
考古学 箸墓 3世紀半ばから後半にかけて築造 特殊器台(埴輪)、布留0式
黒塚 副葬品に大量の鏡、鉄器、黄旛。
考古学 西新遺跡 庄内・布留 カマド 半島の土器。
成務(262〜265年) 仲哀(266〜274年)同じ暦の可能性アリ。
晋 266年 朝貢 
天文 273年 北陸で日食(全食) 神功元年のあづないの罪。
274年 渡海
晋書 277年より東夷九国が盛んに洛陽詣り。(倭国は東夷の一国)
神功(275〜343年)応神(344〜386年)
磐余稚桜宮(桜井茶臼山、メスリ山)から110年後が誉田御廟山。
仁徳(313〜399年)神功39年太歳が元年。(+1年で各文献と整合?)。
316(+1)年 仁徳4年 課役の停止 =半島から軍を引き上げる。
320年 神功46年 斯摩宿禰、同47年 千熊長彦派遣。武内宿禰76才?

庄内式=纒向の土器=崇神より、垂仁、景行まで。
布留式=宮が纒向から北へ移る=成務、仲哀から。
景初3年、正始元年銘。この鏡の製造は、黒塚より下る。
つまり時代的には20年以上30年後程度だろう。
では30年も過ぎて何故この年号を刻んだか?それは、大倭成立を根源とする古墳時代
大倭成立の根源が、この年の“東倭重譚納具”に有ったからだ。
155唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/11(月) 15:33:24.81
>>115
>それらの遺跡の船舶とやらは、当然紀の崇神17年以降のものさ。ww
>紀の崇神17年の記事が立派な文証で、オマエの言葉は信用度が0。

たいしたもんだ 書紀の記事は、書紀の上で正しいとしか発言できない太国。
たいしたもんだ。
自分でも使用できない太国倍年。
156太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/11(月) 15:40:49.33
神功紀の神功元年前年の記事は日食にあらず。29日余の月齢計算に
こだわっていれば、日食が数日間も続かぬくらいはすぐ察知できる。

であるからして、273年は同年とは関係ない。インチキである。

なおホツマは昔のそんじょそこいらのドングリの背比べのただのオッサン
が妄想を注入して書いた文であるから、これを金科玉条として奉りその
妄想のインチキを強行に信じる浅薄脳は〜いずれさらなる妄想を創作し、
それが本当なことだと信じこんでしまい、もうこれらの妄想から脱却
出来ない妄想に蹂躙された欠陥脳人物に生長してしまう〜そういう
ホツマとは危見な史想を脳内に植えつけるあたかも覚醒剤、大麻同然の
恐ろしいものであるのだ。
157日本@名無史さん:2011/04/13(水) 00:43:24.85

主要な大古墳と一致しない説は、
すでに、時代遅れの説だよ〜ん。
158唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/13(水) 19:46:38.67
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
平州刺史崔は数十騎を率い高句麗に出奔する。
320年 高句麗は扶余を攻める。
320年 神功46年 斯摩宿禰、同47年 千熊長彦派遣。武内宿禰76才?
321年 十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
323年 神功49年3月に軍を派遣し、百済を誘い半島を占拠、領土分与。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□
相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗
3月 扶余の流民30戸が又来降してきた。扶余と倭は相通じており年年その民を受け入れ
都や村に散置してきた。 千熊長彦はいい男で口もたつ。ゆえに住民は(国に)背いてその
言うことを良く聞いた、または百済や高句麗に帰依した。

324年 孝武帝の太元十年 高句麗が遼東と玄菟郡を攻める。前燕の慕容垂は弟の農を派遣し
て高句麗を成敗し、二郡を復旧した。
324年 近肖古王二十六年 高句麗擧兵來王聞之 伏兵於河上 俟其至急撃之 高句麗兵敗

326年 七支刀。帯方、扶余方面の民が千熊長彦に従い大量に渡来する。
331年(辛卯)頃から百済は北方へ領土を広げる(広開土王碑)

近肖古王を七支刀に合わせる。(−47年?)
159日本@名無史さん:2011/04/15(金) 19:08:23.31
纏向遺跡(190年〜340年)

楯築墳丘墓(吉備)(2世紀末〜3世紀前期)(=吉備津日子命)
「箸中山古墳」(3世紀中期)(=崇神天皇)
「西殿塚古墳」(3世紀後半〜末)(=垂仁天皇)
外山茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初)(=大伴武日)
メスリ山古墳(4世紀前期)(=イニシキイリビコ命)(後葬)
「行燈山古墳」(4世紀前期〜中期)(=日本武尊)
中山茶臼山古墳(吉備)(3世紀末〜4世紀前期)(=吉備武彦)
「渋谷向山古墳」(4世紀中期)(=景行天皇)

「古墳」と「日本書紀」は、すでに、基本的に一致している。

「考古学」を無視することは、許されない!
160日本@名無史さん:2011/04/15(金) 19:29:53.96
ガクトのブログ、ツイッターの被災者支援とSHOW YOUR HEART基金からの2億円寄付はいつニュースになるの?
売名スマ○プ中居事務所うざすぎ!
自分のところのタレントだけ何度売名したの?
ガクトの基金は怪しいとか週刊現代にたたかせといて!
161日本@名無史さん:2011/04/15(金) 19:30:05.11
一致しているというか一致させたというか
162唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/15(金) 19:38:14.65
>「箸中山古墳」(3世紀中期)(=崇神天皇)
魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
同時代の箸墓は黒塚、椿井大塚とほぼ同時代である。この時点で”鉄を持つ大和”
である。

纒向遺跡、任那建国と鉄の説明が出来なくてはならない。

庄内式土器=纒向3代の指標
210年 伽耶建国
3世紀前期の大型建物=珠城宮。盛り土(土地は乾く)をして日代宮
福岡西新遺跡 庄内、布留式土器 半島の土器
240年頃 ホケノ山 穴あき壺(埴輪?)鉄、後漢鏡
260年頃 箸墓 特殊器台(埴輪)大量の鉄器副葬の時代 布留0式

大和朝廷は箸墓以前に北部九州へ進出している。


163太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/15(金) 19:51:47.74
>>159
>「渋谷向山古墳」(4世紀中期)(=景行天皇)

単純計算式に唐松山とコチラの編年を比較すると、
景行没年は

唐松山 260年(=3世紀中期)
コチラ 322年(〜4世紀前半)

没後に陵をこさえたとすると没後10〜30年で造成とみなすと、
コチラは4世紀中期にさしかかり合理的範囲内に位置して来るが、
唐松山のでは3世紀後半になり、整合してない。これでもコチラが
合っていて、不合理はない。
164太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/15(金) 19:54:30.27
>>163 訂正
×  (〜4世紀前半)
○  (=4世紀前半)
165唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/15(金) 20:09:39.65
一致させるには、文献も一致させねばならない。

箸墓(布留0式)、黒塚、椿井大塚 同時代の古墳である。であるならば
この時代には、鉄の輸入権を大和が押さえている。
福岡西新遺跡 庄内、布留式土器と半島の土器、カマドである。
庄内式の時代に西新遺跡まで大和は進出している。
その直後に箸墓(布留0式)築造をもって纒向はゆるやかに衰退する。
>唐松山 260年(=3世紀中期) ここが庄内と布留を分ける。
166太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/15(金) 22:38:49.68
神武元年=42年 説は「漢書王莽伝」の 元始5年=西暦5年 に、唐松山
の強く言う畿内だという 東夷 の〜そこに王がいて渡海で国珍を奉じ
たとあるから、奴のでは神武東征直前たる西暦5年に畿内に 東夷の王 と
その 王国 が存在したという記録は記紀に無いことにてそんなことは聞い
たためしも無く、これ(42年説)はこの文献に背反している不合理が
確認出来るから、42年説は崩れるのだ。これではダメだ。
神武元年を西暦5年以前に設定してる説は、この文献に整合してること
になるのだ。それがしの主張では、西暦5年以前になってるから整合
している。

さらに渋谷向山古墳でもコチラの編年だと整合してるわけで、唐松山の
編年だとここでも不整合で、これでもこいつのは丸でダメ夫なわけだ。
167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/15(金) 23:16:10.95
>渋谷向山古墳でもコチラの編年だと整合してるわけで、

埴輪は垂仁以降である。
そして大量の”鉄”を持っている。
この鉄が何処からもたらされたか?
庄内式は博多西新遺跡にあり、布留式では遅すぎる。
168太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/16(土) 11:18:28.23
埴輪が出ようと、畿内と九州は別国だ。ww
混在脳内のオマエはインチキに暴走!
169日本@名無史さん:2011/04/16(土) 11:31:22.71
>埴輪が出ようと、畿内と九州は別国だ。ww

畿内が邪馬壹【臺】國で
九州は狗奴國てか。

170太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/16(土) 14:21:17.50
九州に邪馬壹国があり、狗奴国もそのへんだな。
畿内はこれまた別国の天皇国だね。
171日本@名無史さん:2011/04/16(土) 14:52:50.79

畿内は梁書に言う扶桑国であり、隋書に言う秦王国だよ。
畿内説では新王国が何処にあったか説明できまい。


172日本@名無史さん:2011/04/16(土) 15:45:37.62
>畿内は梁書に言う扶桑国であり


『扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東』
『地在中國之東』とは『建康の東』であるから其処は西都原市になるじゃろう。

西都原は畿内ではねえぞ、九州だべ。

173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/16(土) 19:42:05.76
>畿内と九州は別国だ。ww

別国だからこそ、福岡西新遺跡から庄内式が出土し
九州の土器が庄内式の影響を受けては成らないのだ。
九州の土器はその影響を受けている。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/16(土) 22:20:18.40
ふ〜ん、オマエ畿内と九州が別国だと気づいたのか〜?ww

ならば崇神が九州の王だとか景行の家来が壱与を九州へ連れていったなど
の創作インチキを製造捏造するんじゃねぇ〜。
175日本@名無史さん:2011/04/16(土) 22:26:58.95
記紀読んでも、崇神が九州の王だなんて、
どうみても読めないよなw
176女王國∋邪馬台国:2011/04/16(土) 23:15:51.32
>>175
>記紀読んでも、崇神が九州の王だなんて、どうみても読めないよなw

崇神は2世紀末から3世紀初頭に前方後円墳を携えて大阪泉南から大和に入って来た人達の子孫です。
177日本@名無史さん:2011/04/16(土) 23:48:30.12
>>176
よくもまあ、荒唐無稽な話が思いつくなw
178女王國∋邪馬台国:2011/04/17(日) 01:54:50.46
訂正

>>175
>記紀読んでも、崇神が九州の王だなんて、どうみても読めないよなw

崇神は2世紀末から3世紀初頭に前方後円墳を携えて、
阿波徳島から大阪和泉経て大和に入って来た人達の子孫です。
179日本@名無史さん:2011/04/17(日) 07:46:06.84

前方後円墳と邪馬台国はまったく関係ない。
あんな変な形していたら倭人伝に書いてない筈がない。
前方後円墳を作った連中は邪馬台国を滅ぼした。

180日本@名無史さん:2011/04/17(日) 09:06:22.57
へんな形かどうか見ないとわからん
来てないから見てないもんな
181日本@名無史さん:2011/04/17(日) 09:58:24.36

魏人が来なかったなどと言う奴は歴史を知らない奴だ。
魏人は何度も来ているよ。
182日本@名無史さん:2011/04/17(日) 11:10:32.01
沖縄に何度も行ったのか
183唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/17(日) 18:25:16.09
>崇神は2世紀末から3世紀初頭に前方後円墳を携えて、

それであれば、崇神の墳墓は、最初期の前方後円墳形を示すであろう。
大和の前方後円墳導入は、垂仁の持つ”鉄”の分与にあずかろうとする勢力が
持ち込む。
10年か20年の誤差が出る。どちらが正しいか?
184唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/18(月) 13:44:15.04
勝山古墳には、西暦200年に伐採された丸太が使われた。
まず、西暦200年とは、崇神17年造船の年?だろう。やっと遠方からの納税
の手段を確保した時期にあたる。まだ勝山古墳を築造するには時期尚早なのだ。
磯城に宮を設けた崇神の領土が広がる、宮の規模が手狭になって、造築した事が
考えられる。216年崇神崩御、磯城宮はまだ垂仁が使用している。
220年垂仁4年、珠城宮落成。これにより磯城宮の分解撤去。この木材が
勝山古墳に使われたとしたら、220〜225年頃築の造が考えられる。
ホケノ山は庄内期半ばである。庄内期とは、198年異俗多帰〜261年
景行崩御のほぼ60年間の纒向時代。この半ばには、239年垂仁崩御が来る。
勝山古墳より小さいホケノ山古墳が垂仁の墳墓であれば、それは葬儀を急いだ
為である。239年7月垂仁崩御、同11月葬儀。これまでの天皇と比べて
非常に早い葬儀である。なぜ葬儀が急がれたのか?
6月田道間守一行は郡に到着、皇帝に面会を求める。それを受けた魏は面会
を許すと共に、大和訪問を約束する。この魏使の訪問を受けるためには、
喪中では都合が悪い。だから葬儀を急いだと思われる。
魏使は大和を訪れ、大和の使者がまた洛陽を訪れる。この複数回の訪問のウラ
は何なのか?それは、魏から倭国統一の要請であろう。それを受諾した景行は
以後“倭王”の称号で呼ばれる。
185太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/18(月) 19:05:13.96
古代史創作の天才〜唐松山は
メトン周期を毎回出して月周期の計算を出して編年をああだこうだと書き
こんでいるが、月食時の天空暗黒の帳の最大時間を数日間になるんだと
いう誤計算結果を平気で押し進めている。双方月の関係の計算なわけ
だが、月食の生起時間が結局数日間つまり 24時間×n=24n時間
も継続してるんだという算出結果を正しいんだと言い張って
いるわけだ。ww (nは日数)

まぁ精神病院へ駆けこむべき計算論述であり、奴の脳内の検査が必要なの
は奴への妥当な忠告であろう。pp

>>184
またこの男は 伊支馬=垂仁 だとかぬかしており、そうなると倭人伝
の記述のメイン年数たる239年(=景初3年)に、もう伊支馬がこの世
からズラかり、倭人伝ではそれ以降幽霊の伊支馬の活躍だという訳だ。bb

まぁ奴の論は首をかしげる内容ばかりで、また創作も平気でやる悪癖が
ひどく、そういうのは小説板でやるべきことではないか。奴の書きこみ
には殆どがインチキだということだ。
186日本@名無史さん:2011/04/19(火) 14:37:13.81
邪馬台国は北九州だよ
倭迹迹日百襲姫の墓と言われる箸墓古墳は、台与の墓だ
その方が年代、出土品、遺跡の特徴的にも合う

倭迹迹日百襲姫=台与
箸墓古墳=台与の墓

大和争乱の後、大和の三輪山に王権が移ったのが崇神天皇の代で、
それ以前の三輪山は天照大神を祀っていた
崇神天皇が天災を鎮めるため、天照大神を伊勢に移し、
三輪山に大物主を祀ることで天災が静まったとされる
187日本@名無史さん:2011/04/19(火) 16:30:35.75
卑弥呼が記紀に登場する誰にあたるかによって
それに先行する徐福が誰にあたるかも変わってくるよな
188唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/19(火) 18:10:34.04
>崇神天皇が天災を鎮めるため、天照大神を伊勢に移し、
>三輪山に大物主を祀ることで天災が静まったとされる

崇神5,6年の災害、この災害を避けて近江から
大物主や伊勢(トヨケ)が崇神の元へ身を寄せる。
その後、大物主は領土を崇神に譲る。その証拠として、タタネコが崇神に仕える。
丹後の元伊勢や、近江伊勢遺跡など。
近江伊勢遺跡は唐古・鍵遺跡と同時代に放棄される。その指標が
新羅192,3年であり、弥生後期後半の出来事である。
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 18:51:16.77
天照大神を移したということはその象徴たる鏡を祭祀したわけで、この
ため畿内から239年鏡が多出するのであり、239年が日神と鏡を倭笠縫に
祭祀した崇神6年が239年あたりに年代が位置するのが相当であって、
飢饉災害では遠方に行けないのは今回の大震災のガソリンの入手困難と
糧食の確保の重要性から192,3年が崇神5,6年にはなりえず、船舶の
初めて製造されたのは同5,6年の10年余後の紀の崇神17年であるからして

 192,3年≠崇神5,6年

であり、これは動かない。

天皇、朝廷にとって最重要ブツは三種の神器とりわけ 鏡 なわけで
あり、ホツマとは天皇、朝廷にとって全然重要ではな〜い。
190日本@名無史さん:2011/04/19(火) 20:54:27.45
魏志倭人伝:「使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国」
九州、ましてや近畿の30国が中国と通訳で通じていた?有り得ない話だ。
倭人は半島にいたと考えるべし。
「倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑」
太平洋を知らない当時、中国にとって「大海」とは黄海や日本海のことだ。
大海中にある山や島。そう、まさに朝鮮半島のことだね。


191日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:13:55.32
×倭人は半島にいた
○倭人は半島にもいた
192日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:17:20.79
>>191
倭人は郡にもいたし、洛陽にもいた
193日本@名無史さん:2011/04/20(水) 07:52:00.71
>>191
×倭人は半島にもいた
○倭人は九州にもいた
194唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/20(水) 10:11:24.98
>「倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑」

238年 魏は公孫度の支配する楽浪方面を支配するため
密かに使者を半島へ派遣する。使者は半島最南端の狗邪韓国を経て倭国に渡る。
狗邪韓国は建国210年、崇神の協力を得て建国された任那である。
狗邪韓国が倭国の一部である任那と成るのは、323年の半島占拠以後である。
対馬や壱岐の海人は、帯方あたりまでの市に顔を出す。
195日本@名無史さん:2011/04/20(水) 16:30:59.76
伊都国に治す「一大率」の「率」が残って後代の太宰「帥」になったんだろう。
196日本@名無史さん:2011/04/21(木) 02:55:21.87
伊都は玄関口。
ここの検閲をクリアして
瀬戸内海を渡って畿内に入る。
197:2011/04/21(木) 20:37:35.85
なんだ〜進んでないじゃないか。

伊都は玄関口だって?
博多は〜近代まで日本の玄関口だったとかいわれてるよね。
198:2011/04/21(木) 20:58:47.47
さて帰りましょうかね・・・w

199レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/22(金) 16:00:25.07
>>91
またしても興味争点が接近しましたので、miraiさんの想定も尊重した上で
敢えて異なる架空を立論してみます。
「神」のついた御三方の天皇(神武・祟神・応神)。この興味争点は同じなの
ですが、俺はこれに神功皇后も含めて、それぞれこの「神」の字が送り名され
た御四方の天皇(及び皇族)に関しては、実在性の有無は兎も角として、それ
ぞれ「託宣の完了」を表している「人物像」である架空を考えています。簡単
に言えば以下の内容。

@神武:託宣内容=大和(地方)の恭順化
A祟神:託宣内容=九州(地方)の恭順化(=ここでヒミコと大和がリンク)
B応神:託宣内容=朝鮮(地方)の恭順化(=これは神功の時代でもある)
(※母神功皇后と子応神天皇が神としてセットでなきゃならない理由は先述)

従って、上記A〜Bの間には、出雲の「完全なる恭順化」がなければならず、
従って、大和タケルの出雲平定が後代「日本書紀」によって「この時期」に
確定されねばならなくなります。(古事記にては少し時代がずれます)

※日本書紀ではイズモノフルネの逸話の時期になり、これは上記Aとなる
(日本書紀にて「出雲」と「九州」をテレコにしようとしたと架空すると
ツジツマが合う)
※古事記ではヤマトタケルの逸話の時期になり、上記AとBの中間となる
(古事記で、「出雲の完全恭順化の時期」に狂いが生じたため、日本書紀
にてあえてA〜Bの中間に「持ってきた」と架空する思考です。何故狂い
が生じたかは、俺の過去ログ「物部・蘇我と共に消された諸氏神話」参照)
200レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/22(金) 16:21:59.49
「神」の字の付く天皇は、前大和〜古代大和における「託宣主義」を、それ
ぞれ「成し遂げた」時代を象徴する天皇(或は天皇像)と見ると、後代
(記紀)的にはツジツマがあわせやすくなって来るのです。
(※託宣主義に関しては俺の過去ログを参照下さい。あ、ちなみに俺はヒミコ
の時代を「祟神時代付近」と想定している立場です)
そして、神功の子の応神の治世以後は、上記架空の「託宣主義」は皆無と成る
のも、この観点から見るとごく自然ではあります。(結果的にその後の天皇の
御名前に「神」が付けられる事が無くなる事で逆証されます)

つまり、古事記より前の「伝承歴史(旧辞・帝紀を含むそれ以前)」において
は、上記Aに当たる(までの)託宣は以下のような物であったのが、これが
記紀を経て、出雲と九州がテレコにされたと見る架空です。

[架空による上記@ABの書き直し]

@神武:託宣内容=大和(地方)の恭順化
A’祟神:託宣内容=出雲(地方)の恭順化(九州恭順化過程はそもそも無い)
B応神:託宣内容=朝鮮(地方)の恭順化

上記A’において、「九州恭順化過程はそもそも無い」と架空しましたが、
宗主国女王が九州にいて、その当時当代において「九州が本国で大和が属国」
であると架空するならば、A’のほうが「妥当」となります。
なのに、古事記ではそこが「アヤフヤ」で日本書紀では「出雲と九州をテレコ」
にされているのが、今日まで続く「正史」とされているため、従ってヒミコ様
が少なくとも正史においては「おかくれ」遊ばしているのです。と言う架空。
201レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/22(金) 16:28:31.61
さて、この架空をお披露目させていただいたその後で、祟神天皇の「祟」の字を
もう一度見て見ましょう。「出雲」を縦書きして、くっつけます。で下を消す。

出⇒出┬→祟
┌→雨┘
雲⇒云⇒<消去=神>

あ〜ら不思議。祟る云(ウン)ですの神、という名の天皇(つまり祟神天皇)と
なりますね。「出雲の神」⇒「祟(云々)の神」と、こうなります。
ハイ、信じるか信じないかは勿論聞く人次第です。ハイ、完全に見切り発車です。
202日本@名無史さん:2011/04/22(金) 20:09:03.26
卑弥呼を「ヒミコ」なんて呼ぶのは日本人だけ。
「ピミフ」か「ビニフ」という発音の人物に中国人が「卑弥呼」という漢字を当てただけ。
はっきり言って、日本人の名前じゃないね。
203日本@名無史さん:2011/04/22(金) 20:14:10.05
そうだな、ムーミン谷の住人だろう。
204日本@名無史さん:2011/04/22(金) 20:52:24.17
>>201
示と雨じゃあ、えらい遠いなあ。
やりすぎ都市伝説の関暁夫のようにはいかんね。
205日本@名無史さん:2011/04/22(金) 21:36:54.63
>>200
漢風諱号ってのは、記紀が編纂された数十年後に書かれたものだよ。

架空のものって、なんで、そんな面倒くさいことを
具体的に色々と書かないといけないのか?
あほかいな
206日本@名無史さん:2011/04/23(土) 10:05:13.29
ついこの間のことが何でわからないんだ
宇宙は147億年前にインフレーションからビッグバンで誕生して銀河系は30億年後に
アンドロメダ大星雲と衝突して吹き飛ぶというのに

207レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/25(月) 01:28:44.64
>>204
>示と雨じゃあ、えらい遠いなあ。
例えそちらが弱いとしても、「出」の字は盛り込まれているワケです。それに
明らかに「祟神天皇」が「出雲」を暗喩しているなんて書けるワケがないから
こその隠語暗号なんですよ。つまり表記したいけど真実をソックリそのまま
表記は出来ないと言う、後代の子孫達の(先祖に対する)葛藤がそこにある。

後代子孫達にとっては祟神天皇が、「その時代にはまだ恭順していたかった
出雲の勢力(つまり出雲の化身)」であったら困るわけです。

ちなみに出雲が大和に完全恭順するのが、古事記ではヤマトタケル世代であり
これだと大分後になります。日本書紀ではこの矛盾を軽減する為に、祟神天皇
の頃とされています。つまり記紀編集世代は、この違和感を古事記編集に伴い
発掘してしまい、書紀によって解消しようとした。と想定してみる話。

>>200
>漢風諱号ってのは、記紀が編纂された数十年後に書かれたものだよ。

その理解は俺も同じですが、その理解で俺の架空仮説に何か矛盾的支障は
生じますか?生じないよね。
「祟神天皇の時代の人物・事象」を「記紀編集の時代の人たち」が「どう解釈
しようとしたか?」こそが「漢風諱号」なんですから。だから、神武も祟神も
天智もそれらの「諱号」はずっと後の古事記〜日本書紀の頃に「送られた御名
前」と考えるのが妥当でしょう。

ダイイングメッセージを犯人が特定できるように本名を書き残す推理小説なん
て見たことアリマセン。運が悪ければ犯人に見つかって消されてしまいます
からねぇ。だから、犯人には解らない方法で犯人としか特定できないような
情報を残すのが、良くある推理小説でのダイイングメッセージではないかな?
208レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/25(月) 02:21:41.08
つまり、古事記を記す上で「出雲恭順過程が遅」い事が、記紀編集時代の研究
者にとっては頭の痛い「疑問点」だったワケです。
通説どおり、古事記はある程度自己申告どおりに「旧辞・帝紀」等、過去の
歴史史料を「掘り起こして再度まとめたもの」だとした場合、「祟神の子孫」
つまり「出雲派の子孫」が「先祖代々伝えられているお話」と古事記は、
その時点(つまり天武・持統の世代)で以下の矛盾を抱えるのです。

[古事記の解釈]
九州の恭順化(東征があるのに)があり、出雲の恭順化は大分後(ヤマトタケ
ル頃)
[記紀編集時の歴史解釈(出雲派の末裔)]
九州の恭順化(東征があるから)は無く、出雲の恭順化が古事記では遅すぎ。

つまり、祟神の子孫が、神武の東征を強調し、自らを「九州から大和を東征
した者(の子孫)」と主張すればするほど、彼等の歴史上の出来事の時系列
解釈が、「九州の恭順化が存在」し「出雲の恭順化が朝鮮征伐直前である」
と言う、古事記表記の時系列とは全く矛盾してくるのです。

よって、祟神天皇のご子孫は、「大和が九州を恭順化する必要」は「東征が
あるからそもそも必要ない」とし、実際の九州恭順化(これこそ卑弥呼への
出雲グループの反逆)を、古事記のみでは説明しきれなくなる(成功した謀反
になるので:古事記・日本書紀では表記上「成功した謀反」は存在しない事と
なっている)ので、従って日本書紀によって、その時代に代替として「大和が
出雲を恭順化」した事象を入れ込みます。(⇒これが出雲のフルネの逸話)
結果的に出雲グループ祟神時代に「天下を取った」ワケですから、それで古事
記の上記問題は、少なくとも「祟神の子孫」にとっては解消されるワケです。

でその結果、外国に卑弥呼と呼ばれた女王は記紀からは解りにくくなります。
209唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 14:09:45.97
>A祟神:託宣内容=九州(地方)の恭順化(=ここでヒミコと大和がリンク)

魏が半島を管理する時代、任那建国は無い。
任那建国と出来るのは210年になる。
つまり時代齟齬の数字で日本史を考えても正解は得られない。
女王、男王を確定するのはそれからである。しかし紀記に卑弥呼は登場しない。
何故か?古代文字を漢文に直す途中で見失われたのである。
つまり 古代文字のままのホツマにはちゃんと記載されていた。その卑弥呼は
書紀では巾3尺の石になり、男王は筑紫の大木と成る。
210日本@名無史さん:2011/04/25(月) 15:01:24.30
>>208
崇神を祟神と書く根拠は?
211太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/25(月) 16:01:42.78
>ちゃんと記載
大ウソだな。オマエの創作だ。
212唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 19:06:30.54
太国曰く
×1倍、×2倍、×3倍暦が平行して使われていた。
この3者が同じ数字になる事は無い。

これこそ妄想の産物である。だから書紀の年数とこの倍年の間に倍数は
存在しない。それを誤魔化すため”西暦0年が存在するとか妄想も甚だしい
思考にはしる。

考古学の主張に整合せず、文献にも整合しない数字は大いに間違いである。
だから数字は主張しても、歴史を語ることは無い。
歴史を語れない数字なら、書紀の数字を信ずる方がまだましである。
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/25(月) 19:16:29.72
天文暦では西暦0年があるんだよ。オマエこれでよくメトンなんかやって
るな?ww まぁ当然だな、日食暗黒時間がせいぜい数分なのに、数日間
も続く計算式での算出をしてるらしいからな?pp

古代マヤ暦なんか倍暦並行行使をやってるよ。だから朝廷が並行行使
していてもおかしくはない。オマエだって、確か重用暦とか言って
たではないか。
214太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/25(月) 19:26:07.02
>>212
古代マヤ暦は1年365日の通常暦法のハアブ暦と1.4倍暦のツォルキン暦
と2倍暦法の太陰暦(学術的にC文字で表す)と準3倍暦(学術的に
G文字で表す)と1週間暦たる7日暦(学術的にY文字で表す)
等々、他に短期暦819日暦法など種々さまざまだぜ。このことは朝廷が
倍暦の複用での暦法を行使していたことに当然の合理性があるのだ。
215唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 20:14:41.58
>>214
古代マヤ暦でも何でも良い、倍暦と書紀の太陰暦の関係を説明してもらおうか。
19年を6940日とする太陰暦と2倍暦の関係は?
同じく3倍暦との関係は?
最後に2倍暦と3倍暦の関係は?

>並行行使していてもおかしくはない。
2倍暦と3倍暦で同じ日数を得られる暦が主張出来るか?
216:2011/04/25(月) 20:48:00.86
なんだ〜進んでないじゃないか。

伊都は玄関口だって?
何度も同じこと言わせるなってw
217唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 22:02:25.35
倍年があったと主張してもその実態の解明は全く進まない。
ただ”あったあったと同じ事をくりかえす。

任那建国は210年である。この年代を否定しても、それに変わる任那建国は示せない。
七支刀=369年を主張しても、ここに半島占拠は存在しない。
だから考古学が50年遡上したのであれば、文献も50年遡上せねば整合性は得られない。

つまりこれまでの年代感、崇神時代≒卑弥呼の時代 の主張はあるが文献や考古学と整合することは無い。

218太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/25(月) 22:17:38.84
そんなことより、各天皇の代のマシがどこの年からどこの年までなの
か、そしてなぜインチキ不規則になるのか?ww 説明したらどうだね?

オマエが景行に合わせられないのが倍暦法だからこれを否定して空白年の
マシとやらを考え出したわけだ。なぜか。それは景行に合わせるために
オマエが適当に年代設定をやって行けるから好都合という恣意的操作が
空白年でのマシで出来て、景行年代に合わせられるからだよ。

だからオマエはいつぞや言っていただろうが。「こちらの編年に合うなら
倍暦を認めますがね。」旨の交換条件を出していたな。純粋の根拠と
証拠に基いて論説を行う者の言い分ではないね。論説主張を交換条件で
決めるとは、オマエの本音がそのとき出てたんだよ。

ハッキリ言うが、景行の代は崇神の引き立て役年代たるお助け役の年代
なのさ。天津神算木と睨めっこしろ。重視するのは崇神とその代だ。
219レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/25(月) 23:59:20.05
>>210
鋭い指摘ありがとう。祟と崇の違いにお気付きになられた貴方もかなり
目聡い。我々は結論に近づき始めている。

崇┬→山→「山」と「ウ冠」→このたて並びは→「出」に近い
 └→宗─┴→「示」→旧字では「爾」に近い→そしてこれは「雨」に近い

貴方のご指摘からアプローチされる場合は、上記のような説明の方が適して
いたかもしれない。こちらが「祟神」と表記するのは、目聡い貴方にとって
は見抜かれてしまったようだ。

そう。だからこそ当方は、実在の人物を崇神と規定し、架空の人物を祟神と
規定しているのです。記紀による虚実を読み解く為の方法論として。
ご先祖様を「祟る神」にするワケにはいかない。だから「崇拝する神」と
なる。(つまり、崇神天皇によって駆逐された王系側にとっては、崇神は
「祟り神」とも言える:あくまでも立場論にて)
220レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/26(火) 00:02:56.73
古事記を起こした当時の研究者は、当然上記の矛盾を解明する際(つまり
更にそれから日本書紀を上梓する際)に、この「反崇神」系統の地方神話
(忘れ去られつつあった邪史)をも当然検証したであろう。そして蘇我氏の
台頭前後において、その歴史的解釈を大きく反転させられた「祟神」の
トリックにも気付いた筈だ。だから、以下のように三段階での変形となる。

出雲の神→出雨云の神=出爾の神→祟の神→崇の神(横書きだと解り難い!)

第一段階の変形が崇神以降の西日本の、反朝廷における歴史解釈
(さながら隠れキリシタンのように裏の邪史にて伝承されたのかもしれない)
第二段階の変形が蘇我氏(&聖徳太子)〜天智天皇の頃の歴史解釈
(度々の政権交代にて史料が散逸し断片化してしまう)
第三段階の変形が持統天皇(天武天皇含む)の頃の歴史解釈
(古事記(旧辞帝紀)を調べて見てあらビックリ。ウチのと違うお話だぞ?)

そして、この三つの立場論は、それぞれ「その頃の政治状況」を鑑みると
充分当てはまる可能性があると当方は邪推妄想しています。
第一段階時期においては、「崇神天皇が謀反者などと想定する事」は当然
最大タブーでしょうし、第二段階時期においては「正史が散逸混乱」しつつ
かつ、大伴金村・物部守屋・蘇我馬子などの豪族有力者が定期的に交代台頭
したので「出雲解釈が乱立・変転・散逸した」可能性が高い。

そして第三段階は、「天武天皇の謎」のサイコロの出目によっては崇神天皇
を「積極的好評価」してもおかしくない。(現に記紀にては積極的好評価)
※記紀にて「中臣氏」が上げられ、「物部氏」は結果的に下げられ、
「蘇我氏」は積極的にその評価を下げられている事は先述済み。
221唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/26(火) 17:04:55.86
>>218
古代マヤ暦でも何でも良い、倍暦と書紀の太陰暦の関係を説明してもらおうか。
19年を6940日とする太陰暦と2倍暦の関係は?
同じく3倍暦との関係は?
最後に2倍暦と3倍暦の関係は?

示せないのか?
と云うことは、「倍年は妄想である」と認めたわけか。
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 18:02:42.73
19年の計算がどうのこうの言うなら、皆既日食の最大継続時間の計算が
数分間のくらい知ってなければおかしいではないか? なぜこれを無視
するのか?www 説明しろ。

紀もだが、そう大成経にも

 是時、昼暗く夜の如し、已に経日くして復さず。
 人は常夜行く之と曰う。

とあるんだよ。数分で常夜とは言えないだがねぇ。1時間もないんだから
〜オマエはここの計算をなおざりだ。これで、それより古い上代の編年は
オマエのはデタラメの崩壊だな。ppp
223唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/26(火) 19:38:52.12
改めさんが >なんだ〜進んでないじゃないか。
と発言するのは、倍暦を支持する改めさんから、太国が発奮して
倍年と書紀の数字との関係を突き詰めるようにとの激励の言葉だ。
だから 太国は他人の事より自分の倍年と書紀の太陰暦の関係を突き詰めるのが先決。

>是時、昼暗く夜の如し、已に経日くして復さず。
これを太国倍年上で主張すれば良いこと。で何が起こったんだ?

224太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 22:22:18.67
オマエ知らないのか?
アラタメ氏は2倍暦等は否定派だ。しかし崇神没年はこちらとほぼ見解
が同じで正解だねぇ。オマエのはメチャクチャだからな。ww
225唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/26(火) 22:59:35.21
いや〜改めさんは、太国倍年は否定するが、倍暦は否定していない。
そして時代はほぼ太国と同じである。
太国倍年を肯定させるためには、数字に直さねば支持は得られない。
だから他人に絡まず、太国倍年を数字で主張出来るようがんばることが求められている。
×1倍、×2倍、×3倍この暦を平行して使える数字を主張するのが先決である。
226太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 23:27:52.67
えらそうなことを言うんじゃねぇ〜。
オマエが早く抽象的数字の羅列の編年表を、具体的にいかように空白年の
マシの不正注入の量を決めたのか、その動機は何なのか? そういう
具体性を示せない限り、いかにも俺は編日法をやってるんだと見せかけ
てるだけで、これでは多数桁の数字の羅列にてのポーズでのくらましに
過ぎない。これでスレ民が納得すると思ったら大間違いだぜ。そんなんで
は、説明出来たことには全然ならな〜い。

改め氏は倍暦を信じないと数年前毎回豪語しており、否定派だよ。
肯定だったら、彼とあんな論争にはなってないぜ。
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 23:34:08.08
空白年が何故不規則なのか、どの年の間にその空白年が各天皇の代に
各々入るのか? それと動機は何だ? 説明してもらおうか。
228レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/27(水) 01:36:13.33
つまり、女王(卑弥呼)共立時代までは、以下の組織順位。

[A]@(宗主国)北九州 > A(属国主席)出雲 > B(属国次席)大和

で、それが崇神の(対卑弥呼=対北九州)クーデターで

[B]@(宗主国)出雲 > A(属国主席)大和 > B(属国次席)北九州

となり、これが記紀編集の時代頃には、その時代から見た当時の席順は

[C]@(宗主国)大和 > A(属国主席)北九州 > B(属国次席)出雲

と、こうなるのです。で、記紀編集当時は「こうでないとおかしい」と言う
歴史認識となっていた訳ですが、なぜか古事記編集の時に(旧辞帝紀の頃から
既にかもしれないが)「出雲の完全恭順」や「北九州完全恭順」の時期に関し
て矛盾を発生させてしまった。
つまり、記紀によって、「当時の席次」が[C]のように「再構成」されて
しまったのです。[A]が[C]であったと記紀によって(故意か過失かは不問)
再構成されてしまった為に、当然[Aの@]の最高権威者=卑弥呼と呼ばれた
女性は、[C]から見るとかなり邪魔で厄介な存在となります。
229レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/27(水) 01:39:50.79
そこで、記紀からは「消された」あるいは「隠された」と考えるのが自然な
推測となって来ます。俺個人は「消す」には大きすぎると考えますので、
そう仮定すると「隠された可能性」が高い。
そして、「隠された」と過程すると、「天の石屋戸伝説」が「記紀神話」に
「浮上挿入」された先述の俺の仮定が、またしてもここでリンクして来る訳
なんです。
古事記の人皇の部には、まさか「実際の北九州の最高権威者の女王」が「隠
された」とか「暗殺された」とか「謀反で廃位させられた」とは書けません。
(なぜなら、古事記表記には、大王に対する謀反・追放・暗殺は「一切成功
しなかった」という「帝史大原則」が一貫しているからです。先述済み)

従って、「もし邪推す」れば「一番怪し」い「モモソ様」が、記紀編者に
よって「隠された」あるいは、記紀編集以前に「お隠れなさってしま」った
「北九州の女王」ではないか?と、こういう妄想架空が成り立つわけです。
(俺個人は更に誇大妄想して、モモソ様=開化天皇、或はその后と言う処
まで可能性を見ていますが:これも先述済み)
230レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/27(水) 02:09:38.99
で、あとは余談ですが、上記の妄想仮定を提案したその上には。

「東征イベントはあった」となります。

但し、「神武様お一人」が「記紀に書かれている短時間」で「完遂した」とは
当方も考えておりません。時期や主人公は確定しませんが、逆にもし「その
イベント自体が無かった」とするならば、少なくとも上記の方法論で[A]を
[C]に再構成する事は、ほぼ不可能で、不自然になるからです。
但し、[CのA]と[CのB]の席次を、[C]の如く確定する為には、「東征」は
欠かす事が出来ない要素だから、「後から挿入した」とする余地も確かに
あり得ましょう。しかし、そうすると、[A]が元々無く、スタートが[B]と
言う話になる筈ですので、東征のスタート地点は北九州である必要性は全く
無くなり、出雲のどこかか、或は瀬戸内海の東寄りの地域のどこかで済む筈
なんですね。

つまり、「東征」がゼロサムで作られた「架空エピソード」だと仮定した場合
そのスタート地点は「宇佐である必要は全くなくなり」ます。
上記[B]スタートでそれが[C]に書き換えられただけならば、寧ろ「出雲の
どこか」をスタート地点にしたほうが、よっぽど矛盾が無いし、自然です。
むしろ、そうしなかった、そうできなかった、と考えた方が自然で、そうする
と「東征(っぽいもの)はあった」としたほうが、個人的には自然に思える
のです。
231唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/27(水) 09:41:53.79
>>227
ホツマを読め、そして各天皇の治世を決めるのは、文献と書紀の記事の整合性である。
考古学=文献であるから 考古学の数字を否定する太国倍年は誤りである。
では、太国倍年は文献と整合するか?
太国の主張する”三輪の円”は文献では無い。
神武元年辛酉年庚辰朔≠西暦元年2月11日=西漢平帝元始元年 辛酉年己未朔
西暦元年に庚辰朔は存在しない。

これまでの説明で、文献と一致させたのは、七支刀=369年だけであり、太国が主張する”倍年”と
百済王朝と繋がることは無い。

232日本@名無史さん:2011/04/27(水) 10:22:20.52
モモソが卑弥呼、ヤマタイ国は大和でしょ。
ただし大和の範囲が今の奈良県とは少し異なるだけで。
233唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/27(水) 10:45:25.15
ヤマタイ国は大和で良いが
モモソが卑弥呼になると問題が発生する。
モモソ姫の死亡は、崇神世である。であるならば、崇神世=240年頃
書紀は任那建国を崇神世とする。しかし魏が半島を管理する時代に任那建国は無い
纒向遺跡は2世紀末からである。崇神が240年頃では説明が出来ない。
纒向遺跡は、箸墓築造をもって緩やかに衰退に向かう。垂仁、景行の居場所が無い。

つまり考古学が50年遡上したのであれば、書紀の設定も50年遡上せねば整合性が得られないんだ。
そして文献とも整合性を得なければ正しいと出来ない。
新羅209年伽耶に援軍=崇神世の任那建国。
これで書紀の設定も50年繰り上がる。
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/27(水) 11:15:26.16
ホツマはそこいらの妄想大の昔のおっさんの書いた妄想毒の文。

なお景行の代は崇神世のお助け役に引き立て役すぎない。
235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/27(水) 13:42:19.66
ホツマの毒など、太国が吐く毒に比べたら、薬の範疇に入る。
236太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/27(水) 13:46:48.01
景行が初代で日本統一などとイカサマをほざく奴は朝敵である。
このインチキを壊滅させねばならない。
237日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:49:13.80
おお、唐松山は足利尊氏だな。
238太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/27(水) 13:50:18.12
なお神州は過去から未来まで初代は神武であり、神武こそが初代なのである。

景行などと言う奴は朝廷の怒りを買う朝敵であるからして、このデタラメを
神州から壊滅させねばならない。
239日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:52:57.92
うむ、唐松山は会津藩だな。
240日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:53:39.06
いや、蘇我入鹿だろう。
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/27(水) 14:55:21.05
>景行などと言う奴は朝廷の怒りを買う朝敵であるからして、

がんばれ太国。
>このデタラメを神州から壊滅させねばならない。
そ〜だ そ〜だ その意気だ!!
太国倍年を使ってやっつけろ!!
242日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:20:12.13
纒向遺跡 別の大型建物存在か NHKニュース4月27日 17時40分
邪馬台国の候補地の一つとされる、奈良県の纒向遺跡で、女王・卑弥呼の宮殿とする説もある建物跡
の近くに、大きな柱を建てた跡が複数、新たに見つかり、専門家は、宮殿のような大型の建物がもう1棟
存在した可能性があるとみています。
桜井市の纒向遺跡は邪馬台国の候補地の一つとされ、おととし見つかった、3世紀前半では最も大きな
建物跡を女王・卑弥呼の宮殿とする説も出ています。地元の教育委員会が先月、建物跡から東に5メートル
の地点を発掘した結果、太い柱を据えたとみられる長方形の穴と、細い柱を据えたとみられる正方形の
穴の跡が、交互に南北に9メートル並んでいるのが見つかりました。確認された柱の跡は、出土した土器の
年代から卑弥呼の時代より新しいと推定されていますが、柱の穴の配置や作り方が、卑弥呼の宮殿とする説
もある大型の建物とよく似ているため、専門家は、同じような構造の建物が異なる時期に、もう1棟存在した
可能性があるとみています。古代の建物に詳しい神戸大学大学院の黒田龍二准教授は「宮殿のような大型
建物が異なる王の時代につくられていたことを示しているのではないか」と話しています。教育委員会は、
今後の調査で建物の規模や年代を絞り込む手がかりを得たいとしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110427/k10015591351000.html
243竹簡:2011/04/28(木) 06:40:13.03
マキムクとハシハカについて

マキムクは、古墳(ハシハカ)が異常接近しているため王都ではない。(伊作先生のHP)
ハシハカは、埴輪が見つかっているので卑弥呼の古墳ではない。(伊作先生のHP)

よって、マキムクとハシハカは残念ながら邪馬台国論争の枠外となります。
畿内説の皆様が今後も邪馬台国で論争するためには、新たな邪馬台国候補の捜索(創作?)が必要です。
244日本@名無史さん:2011/04/28(木) 13:35:03.63
近すぎるからダメというのが理解できないのと
埴輪どうこう以前に出土品が祟神の時代のもののはず
245日本@名無史さん:2011/04/28(木) 13:37:39.15
単に台与の宮殿が見つかっただけだろ。
246日本@名無史さん:2011/04/28(木) 13:45:09.11
考古学者は
奈良県御所市の秋津原周辺、
三室、室、名柄、南郷を調査するべきだ

葛城の中心部が全くの手付かずだ
247日本@名無史さん:2011/04/28(木) 14:00:07.39
>>246
ただよくわからん豪族居館跡が出てくるだけだよ。
248日本@名無史さん:2011/04/28(木) 14:52:29.17
古事記とか日本書紀は大化の改新以前の記録は偽書なんだから無視しろ
249竹簡:2011/04/28(木) 14:56:58.35
>>244
古代、王都や都の近辺に墳墓は築造されなかった。一般的には現在の距離で
10km以上は離れている。

卑弥呼の墳墓には殉葬者100人が一緒に埋葬されている。
埴輪は殉葬者の代わりなのでここでハシハカは卑弥呼の古墳ではなくなる。

よって、マキムク・ハシハカセットは、邪馬台国・卑弥呼と違う者となる。

卑弥呼の墓には埴輪は存在しない。

250日本@名無史さん:2011/04/28(木) 15:37:29.62
ん?地元民だが
結構離れてるけどな(笑)

例えると
平城京と平城天皇陵はめちゃ近いぞ
2`mも…ないぞ。
251日本@名無史さん:2011/04/28(木) 15:43:12.23
>>249
遠い近いで違うと断定するのは早計だし根拠がない。

それにモモソは天皇ではないし。
そんなテキトーな法則には当てはまらない。
埴輪だって後で置くことも可能だし、
その時に人身御供の鎮魂として
埴輪を置いた可能性も否定できない。
252日本@名無史さん:2011/04/28(木) 15:52:49.56
埴輪って、都月型のことか?あれが人の代わり?だいたい徇葬例ってどこにあんだよ。
九州でも東海でも、環濠と墓域が10kmなんてないだろ。
253日本@名無史さん:2011/04/28(木) 15:58:29.96
>>249
そんなに自分の無知を晒さなくてもいいよ。
254日本@名無史さん:2011/04/28(木) 18:00:50.29
なんかさ纒向ってさ掘れば掘るほど邪馬台国時代とかけ離れる遺物が沢山
出て危険じゃね。そっとしておいた方がいいような・・・
255日本@名無史さん:2011/04/28(木) 18:17:20.50
>>254
まるで邪馬台国時代の遺物が分かっているような言い方ですね。
256日本@名無史さん:2011/04/28(木) 19:05:41.03
あの連中は自分が恥ずかしくならないのかな?
257日本@名無史さん:2011/04/28(木) 19:07:25.04
九州説とか畿内説とか関係なく、何が出るか楽しみだろう。
258日本@名無史さん:2011/04/28(木) 19:24:32.52
結局邪馬台国はヤマト朝廷だったという事だろ。
259唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 09:11:47.68
>近すぎるからダメというのが理解できないのと
>埴輪どうこう以前に出土品が祟神の時代のもののはず

墳墓と王宮が近いのは古代日本王家の特徴である。遠方に墓を築くのは、中国の
伝統。なぜ遠方に墓を築くのか?朝廷がころころ変わる中国で、墓を長く残したいのであれば
なるべく王都から離し、墓荒らしから守るという意味がある。

箸墓を崇神時代と主張したければ、240〜60年頃に”崇神時代の任那建国”を主張する
必要がある。
書紀の主張は、崇神時代=任那建国=後の任那日本府の下地
垂仁時代=任那より鉄を得て、鉄刀を蓄える。
景行時代=九州平定。

箸墓は、鉄が大和に流入した証拠である。
魏が半島を管理する時代に任那建国があるか?無ければ、崇神時代と断定できない。
文献で任那建国を主張出来るのは、210年頃の伽耶建国である。
つまり纒向遺跡は、2世紀末の崇神から始まる。
260日本@名無史さん:2011/04/29(金) 11:23:15.54
伊作先生こちらにもどうぞ

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1303990803/
261伊作先生だけど。:2011/04/29(金) 11:27:10.48
>>260
リクエストに応えて。>>243 で竹簡が原典とは違ったことを書いてたな。
引用するならば、もっと原典に沿って正確にしたほうがいい。
妙なことをいうから、原典とは違ったところでの揶揄が飛び交うのだ。

霊を祀る廟を王域に設けることはあっても、墓域は王都の郊外に設けられたものだ。
これが、信仰上・祭祀儀礼上の歴史的事実だ。 王都だったところにのちの時代に墓を築くとか、
墓域だったところにのちの時代に王都や宮を築くことはあっても、
同時代の王の墓は同時代の王都には築かない。
王都・王宮と2キロだろうが10キロだろうが距離は関係ない。
墓域と王域を明確に区別した事実こそ重要なのだ。

(ただし、仏教を国策として導入して以降、巨大墳墓の造営をやめ、
競うように市中に大寺院を設けるようになった時代はこの原則から除外。
考古資料と時代と本質などをセグメントできずに「混同した反論」をしないように)。

●王都に墓はつくらない。
纏向遺跡が卑弥呼の王都であれば、箸墓は卑弥呼の墓ではない。
箸墓が卑弥呼の墓であれば、纏向遺跡は卑弥呼の王都ではない。
歴史的事実にほほかむりして欺欺を吹聴してきた畿内説の自縛・自爆だ。

纏向遺跡をいくら掘っても、 ここが一大墓域としなった時代(4世紀初頭)の墓作り祭祀・葬送祭祀と、
祭祀人材の育成と供給を担ったセンター証拠しか出てはこない。
棟持ち柱の神明づくり遺構は、祭祀に際して降臨した神が
一時的に住む神殿の痕跡だ。
祭祀が終われば抜き取って、また別の祭祀のときに建てる。 これを繰り返していたのだ。
262唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 11:42:30.53
開化天皇 遷都于春日之地。葬于春日率川坂本陵。

墓域が王都から離れていると主張しても、
この時代の春日をどれだけの領域とできるか?
王宮も墳墓も春日の地である。
263伊作先生だけど。:2011/04/29(金) 11:46:26.29
「王都に墓はつくらない」といえば、
目先の利く専門家ならば「はた」と気がつくはずだ。
これで、纏向邪馬台国説・箸墓卑弥呼の墓説は、ド・ボ・ン。

地図学者が持ち出したコンチキ図しかり。
洛陽では絶対につくらない呉式神獣鏡しかり。
これに追い打ちをかけるように伊作先生が唱えた、
洛陽では絶対につくらない神獣鏡に魏の年号がある時空を超えた不条理。
そしていま、「王都に墓はつくらない」という伊作先生の爆弾。

不弥国から先、30回も停泊し、30回も宿泊するという
超バカげた続け読みをしながら、
この間(女王国以北、畿内説では女王国以西)の
距離も経由国も、その戸数の一つも「略載」されていない不条理には返答できず。

畿内説のやることなすことは、どこかマンガ的で間が抜けているぜ。
264伊作先生だけど。:2011/04/29(金) 11:48:20.13
こんなもんでいいか?
265唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 11:51:34.32
ホ32193 メのソフカ カスガイサカワ ニイミヤコ
ホツマに於いては、開化の都自体が春日率川である。
極端に言えば、王宮に開化の墓を造る。
266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 11:57:57.60
この辺が、王都が移動しない中国と王都が移動する大和。
同一の思考では成立しない。
267唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 12:47:57.71
>洛陽では絶対につくらない神獣鏡に魏の年号がある時空を超えた不条理。

晋書 正始元年 東倭重譚納具。
この年号の鏡が前方後円墳から出土する。つまり意味をこじつければ、
この朝貢をきっかけに畿内大和が全国統一。そして各地に領主を派遣する。
つまり根源の年号を刻んだ鏡であるから、大和の支配の象徴たる前方後円墳から出土するのである。

書紀は全国統一を景行時代とする。つまり崇神時代=卑弥呼と主張してもそれを裏付ける資料は存在しないのである。
この資料が存在しない時代に”九州邪馬台国説”などがある。
210年伽耶建国(任那)を認めては、九州邪馬台国は存在できない。

240〜60年頃魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
369年七支刀 16日丙午が存在しない年であり半島占拠も否定される年代を正しいと主張する。
この編年を考古学は見捨てて、50年遡上する。
268太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/29(金) 14:26:34.63
>>265
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。

なおホツマは昔のそんじょそこいらにいるドングリの背比べのただのオッサンが
勝手な妄想を入れて書いた文であ〜る。
269唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 15:29:13.45
その太国は
全国の神社等の由緒伝承等
大成経等
使い物にならない文献を持ち出して正しいと言う。
持ち出しても太国倍年で再現出来れば良いが…
太国倍年が正しければ、太国倍年から書紀の太陰暦が再現出来なければならない。

太国倍年から書紀の太陰暦の再現は出来ない。よって誤りがある。
270レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/29(金) 15:46:42.89
>>243
>マキムクは、古墳(ハシハカ)が異常接近しているため王都ではない。
(伊作先生のHP)
ハシハカは、埴輪が見つかっているので卑弥呼の古墳ではない。
(伊作先生のHP)

その点は同感です。当方の仮説「北九州・出雲・大和」三分の立場からする
と、箸墓は北九州王権から見ると、北九州を首都とし、大和に派遣された、
出張先出先機関の関係性になります。従って埋葬品は、殉教者や奴婢などの
奴隷ではなく、埴輪となります。(簡素化されてしまったワケです)
当方仮説による処の謀反者=祟神からしてみれば、「北九州の女王(或は
その派遣した人物)」の為に、最大限の埋葬をしてやる必要は全く無いの
です。但し、大和でも出雲大社等にも見られる「怨霊信仰」は共有している
ので、「祟られては困る」のです。従って「埴輪を埋葬」します。

つまり、箸墓は大和が北九州に対する「怨霊封じ」となります。出雲大社が
大和の出雲に対する「怨霊封じ」であったように。

あと、上記の延長上で、当方は纏向は、「逆大宰府」と想定しています。
(大和から見て→北九州大宰府、これの逆が北九州から見て→ 纏向が大宰府)
271レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/29(金) 16:28:35.75
さて、今、新たに着目しているのは、「北九州・出雲・大和」三分の傍証集め
です。ちなみに、古事記をなんとなく眺めてみて思ったのですが、(知ってる
人にとっては今更な話かもしれませんが)所謂「音・訓・大和読み」で古事記
の、祟神天皇より前の登場人物や地名は「三分類」できそう、と言う点です。

北九州関係=音読みそのまま近音漢字を当てこんでいる(例:イワレヒコ)
出雲関係=訓読みで人名地名を当てこんでいる(例:少名毘古)
大和関係=訓読みイメージが近意漢字を当てこんでいる(例:大和、クスバ)

これをそれぞれある程度「三つの独立した文化」と想定した場合。
@漢字を音でそのまま「倭人分布域」に取り込んだ立場=北九州
A漢字を訓でそのまま「倭人分布域」に取り込んだ立場=出雲
B音・訓、どちらの捉え方を「倭人分布域」で取捨選択=大和
と、このように上記三分類が想定できます。
@は古事記の神話部分の、特に九州が関与している項目で如実ですじ、Aは
古事記の出雲が関与している項目で如実です。また、記紀や魏志倭人伝等
当時の書物(と思われる物)全般において、この@Aの項目は、なんとなく
「そのように分類できそう」な気もします。
あと、Bに関しては、古事記後半や、日本書紀でその傾向が見られますし、
現存する近畿の地方名などにもそのまま残存している物も有ります。

然るに、Bに関しては、寧ろ、「古事記を研究して(編集して)」みると、
「出雲表記(訓表記)」と「北九州表記(音表記)」とが「それぞれ別個」
であったので、当時研究者としては「困った」と想定してみる事ができます。

従って、この「出雲表記」と「北九州表記」を一旦「共有できる人名地名に
翻訳する」作業や「取捨選択する」必要性が生じ、その為に「漢字で表せる
大和言葉」が「必要になっていった」と、こう考えると、Bの成立も、かなり
「妥当な話」とも成って来るワケです。
272レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/29(金) 16:30:23.05
また、上記@Aが「漢字に対する違う立場」と言うのも、これが、当時北九州
と出雲が、「異文化の同一国家」でも「異文化の別国家」でもどちらでも
無く、「同文化の別国家」(神話の共用・非共用はここでは不問)であった事
の証左となるワケです。つまり、北九州と出雲は、少なくとも祟神の時代まで
の「数百年間」程度は、それぞれ、お互いに緊張感のある「ライバル国家」で
あったと考える方が自然なのです。
(従って、天照とスサノウの対峙を記している古事記神話は、大筋は信用
可能ではないか?と言う結論になって来るのです。)

では、何故に魏志倭人伝に「出雲」は「解るように登場」していないのか?
それは、晋との外交開始までに、「北九州」と「出雲」の上記の「分国」は
「大国との外交」の為に「連邦国家」を「装った」からと想定してみると、
魏志倭人伝に「出雲が解りやすく登場していない理由」も「倭人達が卑弥呼
を共立した理由」も、これらは、記紀と倭人伝の三書共に、「矛盾が無く」
なって来る気がするのです。
273日本@名無史さん:2011/04/29(金) 16:49:03.14
痩せ蛙(竹簡) 負けるな 伊作ここにあり

縄張りを捨て 故郷を捨て 一匹狼となった 侠客伊作の登場です。
いかなる立会いを見せてくれますか 乞うご期待!!

274日本@名無史さん:2011/04/29(金) 17:14:58.06
おお!是非見たいな
275レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/29(金) 17:19:10.10
そして、更に上記から邪推を発展させるとその延長上には「大和王権」のその
後の倭人分布域における「発言力」の増加がある。共立の音頭をとったのが
大和であるならばこれも妥当になる。(俺個人は、「共立」して外交を乗り
切り、然る後に祟神がクーデターと言う筋は先述済み)

奇しくも祟神〜景行時代に「大和王権」はこの三つの大いなる「倭人文化域」
を「併合=統合」する。これは記紀やどの外国文書とも符号する歴史情勢。
(倭の五王時代は、景行〜神功時代の後に位置し、大和建の熊襲建・出雲建
との逸話も時系列どおりとなり、五王時代に瀬戸内海文化圏にて巨大古墳が
乱立するのも妥当となる。朝鮮半島に巨大古墳が存在するのも同上)
(※但し日本書紀においては出雲建の件はそれ以前の祟神時代の出雲のフルネ
の逸話へと、つまりもっと早かったと「挿げ替えられる」のである。先述済)

この邪推だと、卑弥呼が北九州の女王であり且つ共立された存在であり、どち
らも可能。そしてその「融合体」を卑弥呼の死(或は卑弥呼権力の衰退)を境
に、祟神(大和の被支配民のリーダー)&大毘古(出雲派閥の近畿影響力大の
有力者)がクーデターにより奪取する。

祟神大王と大毘古は、(実際四道将軍を配置したかは別としても)その後彼等
の祖先が「我々世代よりもっと早期時代に、大和王権は開始されていた」と、
古神話を再編成し、卑弥呼の逸話を封印し、金村・守屋・馬子などの、「家臣
豪族」の台頭を経てこの「卑弥呼」の存在は完全に薄まって行く。
だが記紀を編集する際に、或は、魏志倭人伝を見てしまった遣隋使・遣唐使に
よって「当時は同文化異国の女王」が厄介な存在として、当時の研究者の前に
再登場する。
そして、持統天皇〜元明天皇の両女性天皇の、自らの立場固め継承固めの為、
「卑弥呼の時代の女傑」は、その大きな二つの要素を、それぞれ、天照様と
神功様へ「分割付加」させられるのである。これにより、卑弥呼と呼ばれた
女性は、少なくとも日本の国史からは結果として完全に「隠される」。
めでたしめでたし。と言うお伽噺はいかが?
276伊作先生だけど。:2011/04/29(金) 17:29:59.28
>>273
>いかなる立会いを見せてくれますか 乞うご期待!!
この場合「立ち回り」というのだ。タコ
ツラ洗って出直してこい。

>>274
>おお!是非見たいな
こんなもんで・どや。
277 忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/04/29(金) 17:34:17.49
日向説(西都原説)がネットで急速に上がってきたね。
278日本@名無史さん:2011/04/29(金) 17:35:21.34
おう!

しかし、長たらしの文は長いな・・・
279:2011/04/29(金) 17:56:56.60
>倍暦

昔の一年というのは「春」と「秋」からなっていて、
今でも神社などにソノ名残はあるだろう。
半年で一年、12カ月で二年という数え方など考えられない。
280:2011/04/29(金) 17:59:07.66
>改め氏は倍暦を信じないと数年前毎回豪語しており、否定派だよ。
>肯定だったら、彼とあんな論争にはなってないぜ。

おっしゃるとおりで、倍暦なんていうのは
あっちゃ〜ならん。 私は否定派だねぇ。
281日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:06:23.37
>>276
すんません。「立ち回り」には「立ち回ること。工作すること。」という意味があって伊作親分のことだから
そんな意味にとられかねないと思ってその言葉の使用を控えさせて頂きました。
282:2011/04/29(金) 18:07:21.94
>卑弥呼の墳墓には殉葬者100人が一緒に埋葬されている。
>埴輪は殉葬者の代わりなのでここでハシハカは卑弥呼の古墳ではなくなる。
>よって、マキムク・ハシハカセットは、邪馬台国・卑弥呼と違う者となる。
>卑弥呼の墓には埴輪は存在しない。

それは人物埴輪にかぎってですよね?
箸墓周辺から円筒埴輪ではなく殉葬者としての人物埴輪が見つかって例を上げてくれって言いたい。
283:2011/04/29(金) 18:12:28.12
>>258
>結局邪馬台国はヤマト朝廷だったという事だろ。

結局、そういうことになりますな。

>>261
>王都に墓はつくらない

作ってるじゃん

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=12
284:2011/04/29(金) 18:19:31.32
>「王都に墓はつくらない」といえば、
>目先の利く専門家ならば「はた」と気がつくはずだ。
>これで、纏向邪馬台国説・箸墓卑弥呼の墓説は、ド・ボ・ン。

作ってるってw

>洛陽では絶対につくらない神獣鏡に魏の年号がある時空を超えた不条理

倭専用に造ったんでしょうね・・・・
ハンバーガーにしてもアメリカと日本とでは大きさが違う。
自動車にしても左用ハンドルと右用ハンドルとがあり、
トヨタ自動車のハイブリッドカーがアメリカ人向けにつくっつ得るあれと同じだよ。

>不弥国から先、30回も停泊し、30回も宿泊するという
>超バカげた続け読みをしながら、この間(女王国以北、畿内説では女王国以西)の
>距離も経由国も、その戸数の一つも「略載」されていない不条理には返答できず。

いえいえ、昔っていうのは現在と違って、
距離を「日数」として数えてたの。ただそれだけの話よ。
285日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:23:44.43
>>283
そうだよ。だから吉野ヶ里は王都じゃないんだよ。
あれは単なる環濠集落で地方都市
286日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:29:40.34
竹簡は伊作ではなかったのか?
287太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/29(金) 18:50:21.57
>>269
ホツマは景行までしか記述がなく、しかも七五調の文字制限での詩文で
あるからして大成経の豊富さと較べて狭小であり、これではホツマこそ
使い物になり難いもので、さらに偽書といわれると言ってたオマエが
ホツマという偽書といわれるもののシンチュウ級のものを黄金級だと
デッチ上げ、オマエが松本某以上にあぐらをかきたいその座としたい
欲望がかくかくの日食が数日間続く計算となったとかなれない天皇に天皇
の部下が天皇になってそれがすぐにも幽霊で活動してるとかのイカサマ
の因となったもの。これがホツマにしてやられたオマエの脳内の実体。ww
288太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/29(金) 19:00:35.61
>>280
貴方もミニ2倍暦を行使してます
貴方の腕時計を見れば 午後3時 は 15時 です。
時計の1日は 12時間制 と 12×2=24時間制 となっております。
289唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/29(金) 19:29:54.41
吉野ヶ里の良いところは、久留米祇園山古墳が近いところである。
祇園山古墳は、九州で最初の畿内形墳墓であり、百人以上が葬られて居る。
290伊作先生だけど。:2011/04/29(金) 20:51:16.45
>>282
>それは人物埴輪にかぎってですよね?
欺詐をいうでない。
人物などの象形埴輪が登場するのは古墳時代の初頭か?

>箸墓周辺から円筒埴輪ではなく
埴輪であれば何形でも埴輪だ、着庭は殉葬に代えたものだ。
ももちゃん姫と箸墓が登場する書物に書いてあることだ。

>>283
>作ってるじゃん
欺詐をいうでない。
おびただしい瓶棺と墳丘墓のある王都などない。
吉野ケ里を王都とした上での、汚い欺詐だな。
吉野ケ里は倭国王の王都というのか?

>>284
>作ってるって
欺詐をいうでない。

「洛陽では絶対につくらない神獣鏡に魏の年号がある時空を超えた不条理」
>倭専用に造ったんでしょうね・・・・
どこで?
洛陽の尚方で呉の鏡ょつくったてか。
正当王朝の威厳も体面もあったもんじゃないわな。
考古的にも、洛陽出土の鏡に神獣鏡は一枚もない。
呉ではほとんど神獣鏡が出土する。
291ローガン:2011/04/29(金) 21:09:15.94
>>290
>考古的にも、洛陽出土の鏡に神獣鏡は一枚もない。

それは言い過ぎ。
河南省洛陽焼溝漢墓160号出土環状乳神獣鏡 など。
292伊作先生だけど。:2011/04/30(土) 02:20:50.14
>>291
やれやれ・また言葉尻・あげ足かー。

環状乳神獣鏡など、学術的にも呉でつくられた鏡であることが明白だろ。
しかもこの場合、漢代の墓にたまたま埋納されていた流通鏡であって、
魏の尚方でつくられた可能性の有無の話とは無関係だ。

たしかに、「洛陽出土の鏡に神獣鏡は一枚もない」といったからこそ
言葉尻して返したのだろうが、こんなのが何枚あろうと、
俺の主張する「神獣鏡は魏の尚方ではつくらない」という見解とは無関係だな。

洛陽の魏代の官製鏡工房趾へ行って、
つくりかけの粗末な神獣鏡の山でもみっけてこーい。
293伊作先生だけど。:2011/04/30(土) 02:41:22.44
なおいえば。

日中の学術社会が神獣鏡はで呉で製作された呉式鏡だとコンセンサスしているのに、
日本の畿内説者の一部が、三角縁神獣鏡は魏がつくって卑弥呼与えた鏡だとしてきた。
中国の権威の一人が「これは倭国製である」と主張してもなお、
「魏がつくって卑弥呼与えた鏡だ」といい張ってきた。
そのことを、きみたち畿内説の素人諸君も含めて反省して懺悔すべきだな。

これで、神獣鏡に関する一件も、ド・ボ・ン。
294筑紫の民:2011/04/30(土) 07:36:08.52
邪馬台国畿内説を信じている人って、5000万年前に神が天地創造を
したという聖書の教えを信じ込んでいる西欧人と似ているね。
西欧人の聖書は絶対=畿内説の記紀は絶対
聖書を無視した進化論は許さない(西欧)=記紀を無視する九州説は許さない(畿内)
295日本@名無史さん:2011/04/30(土) 08:00:27.33
つまらん、誰と戦ってるんだ?
296日本@名無史さん:2011/04/30(土) 08:01:05.96
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1302188236/895
>895 名前: 闘将・伊作 投稿日: 2011/04/27(水) 15:43:54.93
>ものは試しだ。その覚悟があるならば、
>不当な誹謗・侮辱・名誉毀損・妨害にあたる発言をしてみろ。
>よい前例を見せる開拓者になれるかもぞ。はははー

      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < 伊作の刑事告訴マダ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/


297唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/30(土) 12:58:39.56
>記紀を無視する九州説は許さない(畿内)

崇神が240〜60年頃←これを正しいとする文献は皆無である。
景行240〜61年 この九州征伐が倭国乱を終焉し大倭成立である。

時代錯誤を前提とする 九州邪馬台国説。
298太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/30(土) 13:13:20.64
>>297
オマエのほうこそ、文献がないだろう。ww

景行は「大足彦」であり、「大倭足彦」ではな〜い。景行は日本統一は
出来な〜い。

オマエのは畿内説と九州説とご都合により、手のひらを返す如くコインの
表を裏にするインチキの名人ではないか。pp なるとオマエこそ時代錯誤
だと自認したことにな〜る。
卑弥呼女王が九州にいて邪馬台国が畿内などというのは、エリザベス女王
が日本に住んでるとかのインチキ論で、これこそスーパー・ガールの
如き空でも人為的に飛ばない限りのデタラメ説だ。
299日本@名無史さん:2011/04/30(土) 14:00:49.30
いや、何年かに一度スーパーガールは現れる。
影響力は千差万別だが。

最近だと中森明菜は凄いと思った。
暇な人は『中森明菜 マリオネット』をググってくれ。

半世紀、俺は彼女を過小評価してた。。
300唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/30(土) 14:14:34.46
太国も自分の編年を持っているんだろ?
三輪の円は文献でもなければ考古学でもない
七支刀=369年 16日丙午の無い年であるばかりでなく
半島占拠という書紀の主張まで否定されている。
書紀の記述が否定されては、書紀と文献が整合するとは言い難い。

だから 太国倍年は否定される。
239年 田道間守を派遣。この年に垂仁は死亡する
だから 240年景行元年となる。

太国倍年が正しければ文献と整合する場所を占めせるのか?
武寧王(嶋王)の誕生さえ違約がある。
301太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/30(土) 14:23:56.86
>>300
数式は文字で書いて初めて効果が現れるから、これは文字の羅列で
あるからして文献になる。しかも恒久永続的に不変である。

それは中には暗記暗唱で超暗算をやる凄い人もいるが、数式は
文字で書かれるのが通例であるからして、三輪はそのまま文献たり
うる。オマエが破壊しようとしても暴君が壊そうとしても、絶対に
無とは出来ない金剛不壊のものである。

武寧王は通常半島文献の関わりだから、日本生まれをいえど120年
±α の年代差があり、そんな点をああだこうだ言うのは〜鼠捕り
にかかる間抜けな鼠同然の行為であ〜る。ppp
302唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/30(土) 17:11:21.60
>数式は文字で書いて初めて効果が現れる

パイの計算式が示されていない。
ゼロの概念が無い日本に於いてゼロを使用するのは明示に静養数学が登場してからである。
それでも西暦0年は存在しない。

まあそれを無視して、崇神元年=237年を認めても、
×1倍、×2倍、×3倍暦が同時に存在するべき数字が主張されたことは無い。
1年365日をこの3っつの数字で表せるのか?
表せなければ、太国3倍年を主張出来ない。
×1倍年とは書紀の太陰暦なのか?1倍年が太陰暦で有ればさらに複雑になる。
可愛そうではあるが、数字で示せない暦法は存在出来ない。
太国倍年から書紀の太陰暦は再現出来ない。この事実は倍年は存在しないと云うことである。

303太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/30(土) 17:33:57.02
>>302
オマエは暦法を知ったかぶって、西暦0年のある暦法の存在も知らな
い野郎だったわけだな。ww よ〜く編日法なんてやってられるもんだ。

西暦0年がないのがグレゴリオ暦であり、これを天文暦でやるときは
西暦0年が入るんだぜ。天文暦ではこれのみオマエの言うマシが1年
だけ入るのだ。ここだけはオマエの言うマシがあるわけだ。しかし他に
そんなマシなんぞどこにもないんだよ。

1個だけ存在するマシの西暦0年が無いなどとオマエが言うのは滑稽
至極だな。pupupu・・・

数字で示せない暦法だと得意になるんなら、日食の暗黒時間の時間暦計算
を出して数日間の暗黒計算値が出たんだとは、とんだインチキだな。
えらそうに数字で示すようなポーズは上っ面だけのもの。
この計算式からの暗黒時間の現実の算出をするんだな。

宿主君よ。ホツマ寄生虫は一体何匹その脳内にとり憑いて
いるんだね?bububu・・・
304レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/04/30(土) 21:01:51.64
さて、スーパーガールと言えば。スーパーガールを必要として、それを産み
出した、持統・元明天皇の功績は、良くも悪くも大きいが、特出すべきは、
寧ろ「それ以前の隠された数々の女帝」や「記紀が既に儒教的男尊女卑観も
内包している」これらの二点であろう。

このニ要素があるために、本来なら、「この人は問題無く女性」と表記できる
事が、大昔の基礎データからは「男女どちらか不明」で、「その人を女性と
確定する傍証が取れない」場合は、「男の大王」と暫定せざるをえなかった
のが、記紀時代の研究者から見た、「開化大王」と邪推する事も可能である。

個人的には、神代七世から継体大王に至るまでの天孫様方の中に、実際は女性
であるが、傍証が取れずに暫定的に「男」とされた人物(或は人物像)も
少なくないのではないか?と邪推している。

長子相続・兄弟相続・末子相続・女性相続、相続のこの四形式を、「切り
替え」そして「当て嵌めて」、記紀を再検証しない限り、現代人は、記紀の
編集者の「当時の編集意図」と「当時の固定概念」に翻弄されるばかりなの
です。そして、翻弄されたままだと、記紀が一言も言及していない「邪馬台
国」は、更に遠い幻にしかならないのであります。
305日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:58:45.38
ハイキングウォーキング
306日本@名無史さん:2011/04/30(土) 22:02:30.53
>>299
このスレで
伝説の歌姫が出てくるとは(笑)
307太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/30(土) 22:09:10.35
>>300
239年に垂仁が死亡するということは、オマエは伊支馬が垂仁その人だと
言うんだから、景初3年という倭人伝での最重要年代にもう伊支馬が死ん
だということを認めたことになる。即ち景初3年に、もう伊支馬はオマエ
の説では即刻幽霊で活動をしていたことになる。wwwww
308太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/30(土) 22:41:56.77
>>302 宿主
未だかつて編年の核心の具体的説明をそっぽ向けにしている。
これでは唐松山空年のデタラメが発覚するから、いつも抽象的数字の
羅列をして、さ〜も説明したふりで誤魔化すポーズでの年表で虚飾に
終始して核心の実体が無い。

つまりだ〜〜
唐松山空年では書紀の太陰暦は再現出来ない。この事実は空年は存在
しないと云うことである。
309唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/01(日) 10:07:26.24
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは
記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和3年 :丁未年1月庚申朔 西元347年1月28日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年を神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
庚申朔と辛卯朔は1ヶ月の誤差
癸未朔と癸丑朔は1ヶ月の誤差

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の朔干支から肖古王が算出され、それが百済本記に使われた事を
否定出来ない。
百済本記の近称古王末頃、文字を得て記録する。342年に百済は大国として存在する。
文字や記録が無い大国は存在しない。
記事の間違いとする思考もあるが、事実であれば、建国を意味する。
323年 神功49年半島占拠、領土分与であれば、ここが百済建国となる。
七支刀の文言は、文字を得た証拠であり、文章はまだ拙い。
310太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/01(日) 10:12:51.97
神功紀の神功元年前年の記事は 日を経て とあり、 分を経て とか
一歩譲っても 時を経て とも書かれていないことから日食に似ては
いるものの、全然日食にはならない。これはニガクリタケとクリタケとが
似てはいるが、全然別物である。
311日本@名無史さん:2011/05/01(日) 10:22:11.78
太国、唐松山両氏はどっか一カ所でやってくれ。
312唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/01(日) 13:43:13.02
崇神時代 240〜60年頃 「任那建国と」書かれているが任那建国は無い。
神功52年 369年 「半島占拠」と書かれているが、半島占拠は無い。

記事を否定するのは、時代を少し変えただけで可能である。

273年日食を275年神功元年に差し込み。
時代を違えたり、読み方を変えれば,簡単に否定出来る。
だから、書紀の記事は正しいとして、その読み方と時代を特定する必要がある。

だから「あった」という主張に対しては、時代を違えても「あった」と読めなくてはならない。

太国が「数日の暗黒」と読むのであれば、その出来事を「あった」と云う主張でなければ反論に
ならない。
太国倍年に対しては、「太陰暦の増し」が正しい。←対案で太国倍年を否定している。

百済本記が正しく無いと主張すれば、何故正しく無いか?を主張する。
それが正しい姿勢である。
313太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/01(日) 13:56:11.30
>>312
どんなに言い訳しようと、天文学の鉄則と神功紀の神功元年前年の記事
から同年記事は日食にはならない。これをまだどうのこうの言って
るようだから、まぁ精神病院でオマエの脳内の診療が必要ダ。ww

マシが正しければ、殆ど事例が出せないのはおかしいではないかね?

今の今まで3回きりだぜ。ww
1回目のはたかが3年のマシ、3回目のは1年前後だろう。
2回目のは大成経と歴史徴でオマエの大ウソが露呈した。

つまり唐松山空年は空想小説そのもののインチキなり。pp
314レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/01(日) 17:14:46.26
その意味でも聖徳太子は政治哲学界のスーパーモンスターと言わざるを
得ない。

聖徳太子の青春時代は、まさしく「有力豪族台頭時代」なのである。大伴金村
・物部守屋等の有力豪族が、権力を集中し、権威(つまり大王)を蔑ろにして
まつりごとを縦にする時代が長く続いていたのが7世紀大和政治の前提条件で
ある。

それを前提とした場合、太子&馬子が、新たに天孫神話を再編成した「旧辞
・帝紀」が、「どのような性格を帯びていたか?」は、これを前提とすると
ある程度察しがついてくる。竹内宿禰以降、有力豪族が入れ替わり立ち代り、
自ら好むと好まざるとに関わらず、名目上の側近として大王に侍る条件に
おいて、当然、大伴氏、物部氏等の「かつての有力豪族」の氏神神話は、
日本の神話そのものを度々「大幅改竄」しており、かつ、太子と手を組んだ
蘇我氏も、それ(改竄)を行なう潜在的可能性を多大に秘めていたのである。

だから太子の歴史観は、常に「台頭豪族と大王との権威権力の葛藤」こそが
最も最重要な「政治哲学の課題」と成って来るワケで。これは直接そのまま
書かれているワケではないが、古事記・日本書紀からも充分に類推できる
話でもある。

従って、太子は、蘇我氏の目の前で「物部の氏神」を抹殺する必要が生じる
のである。これは「蘇我氏」に対するけん制も含む政治哲学上の意味合いが
篭められる。「蘇我氏が物部氏と同じ事をやったらこのようになるぞ」と言う
みせしめにもなるのである。物部氏の氏神は、太子と馬子の駆引きによって
「日本神話から抹消された」とする架空が、ここに発生する。
315日本@名無史さん:2011/05/01(日) 17:16:06.10
日蝕の記録が数日などとながすぎるというが、古代の日蝕の記録で実際の数分の(つまり短い)記録があったら提示してくれ。
長い記録しかないとすれば、古代では日蝕は何日か暗闇が続いたと表現していたということになる。
316レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/01(日) 17:36:41.45
太子は、物部の氏神(これを大物主=三輪山の先住の神=出雲神話における
重要神の一人と仮定)を天孫神話から抹消したと言う仮定である。

そしてその為に、太子の頃でさえ風化しつつあった「開化時代に卑弥呼と
呼ばれた女傑」は、結果として完全に天孫神話からお隠れ遊ばせると言う前提
条件になるのである。然る後、この前提条件の上に「記紀作成の為の研究」が
開始される。太子も馬子もいなくなった時代にだ。

太子がいかに個人像としては聖人君主だったとしても、「権力者」は「その
権力構造の再構成」の為には「ある程度前任者と似た事をせざるを得ない」
太子&馬子も、金村や守屋達の、つまるところの「権力者の前任者」達が
行なった「日本神話の塗り替え改竄」を、適宜に行なったであろう事は、これ
は疑い様も無い。(勿論、記紀にしても況やである)ましてや、記紀の記述や
後代の資料により、「太子が漢籍に優れていた」点も明白であるし、太子の
代名詞でもある「十七条憲法」すら「漢籍や朝鮮書籍をモチーフにした物で
ある」事もこれも否定しようが無い。
つまり、太子は「豪族が大王継承を脅かす」前提時代にその青春時代を送り、
「ある程度大陸文化の文化文明」に通暁し、「当時では優秀な知識人」で
あった。この三要素はどこからも否定の証言は現れないのである。

もし有能なら権力を握った後、物部氏の氏神を「そのままにしておく筈」が
無いのである。

あえて簡単に言うならば、卑弥呼を日本神話から抹消した勢力の氏神を、後代
の聖徳太子が抹消したのである。これが今回の俺の架空の骨格である。
そして、太子が結果として出雲の神々を悉く抹消してしまったが為に、さらに
後世の「記紀編集者達の時代」に、大和中央と出雲地方との、「出雲の地方
神話を巡る矛盾の調整」に「膨大なの時間と労力が必要となる」のも、これで
頷ける話となるのである。
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/01(日) 17:42:34.69
分ではないが、刻だと〜

日本紀略後編六
天延3年7月1日辛未、日蝕あり。十五分の十一、或いは皆既という。
卯辰の【刻】に皆既、墨色のごとくにて光なし。

           「星の古記録」斉藤国治著 39頁 による

975年のだそうだ。
318日本@名無史さん:2011/05/01(日) 17:45:48.56
すくなくとの記紀編纂の時代以前のはないでしょう。
古代でもあたらしい時代になりますと、客観的に記録するようになっておるようです。
319太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/01(日) 17:49:24.43
>>315
それでは今度はコチラが問う。

日蝕とあって、分、時、刻でなく、明確に数日間も日蝕が続いたと
ある具体的記録を出してくれ。神功元年前年の記事には「日蝕」と明確
に書かれてはいない。
320レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/01(日) 17:52:21.82
ま、ここからは完全に独創的な架空で、賛同は期待しないが、簡単に言うと。

@有力豪族台頭時代に、ヒミコと呼ばれる女性は「開化大王」と「モモソ姫」
とに、その逸話の主要素を二分される。(同時に出雲要素が格上げされる)

A聖徳太子が「開化大王」を「男王」と暫定し、「モモソ姫」を謎の怪女と
規定。(同時に出雲要素が格下げされる)

B記紀編集者が「開化当時の君臣関係から」「開化大王の子孫血脈」を
「再構成」し「家系図しか残っていない子沢山の男の大王」とし、それ以外の
「ヒミコ要素」は、「モモソ姫の怪伝説」と「天照の天の岩屋伝説」と「神功
伝説のほんの一部」にと、結果として三分割してしまうのである。
321レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/01(日) 18:27:59.17
開化大王がなぜ「開化」と送り名されるのか?それは「開き」「化けた」時代
だからである。卑弥呼の外交は、まさしく、「開いて化けた」とも言える。

開化大王はなぜ「子沢山」なのか?開化(&モモソor=モモソ)の死後、
クーデターによって王権を奪取した祟神大王は、開化の子孫を乱発して血脈の
インフレを起こす事により、自らの権威権力を担保しようとした。

モモソ姫は、何故屈辱的な死を遂げなければならないのか?モモソの子孫が
後世に存在していては、祟神以降の「大王皇族」にとってはかなり不都合。

この上記三要素を前提とした場合、モモソ姫は、開化大王本人か、もしくは
開化大王との間に「皇子」を産んだ有力皇后となる。

本人の場合、卑弥呼=開化が魏志倭人伝の如く「外交を行なう」であろうし。
皇后の場合、卑弥呼=皇后のモモソが夫の大王が他界し、その子供がまだ幼い
場合は「外交を行なう」のも全く不自然は無い。
そして、開化大王なら「当時の瀬戸内海文化圏において共立され得る」可能性
も充分に高い。淡路島(及び瀬戸内海の海上利権)の当時の有力者であるモモ
ソの家系は「北九州の権威」として共立されてもこれまた矛盾を生じない。

そして、モモソが卑弥呼であったら困る人物が、聖徳太子であり、従って
開化は太子の時代に「男王」と暫定される。
そして、開化が卑弥呼であったら困る人物が、記紀の編集者に命じた天皇達
であり、従ってモモソの怪伝説は更に「誇張」され、「対外的めくらまし」に
用いられるのである。この段階で、恣意的にか、或は結果としてかは不問で
あるが、「卑弥呼」は「記紀」からは「お隠れ遊ばす」となる。
但し、それをそのまま「お隠れ遊ばす」とした場合、倭人文化圏的な「怨霊
信仰」からしてみれば「祟られる可能性」が生じて来る。従って、祟られない
為に、「天の岩屋戸伝説」を挿入し、更に豪華絢爛に脚色する事によって、
怨霊をなぐさめつつ、天孫と地方神との関係性も、新たに再構成されるのだ。
つまり「暗に匂わす」事によって「怨霊を宥める」と言う方法論が図られた。
322レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/01(日) 18:46:38.40
この「怨霊をなだめる」という手法は、簡単に例えるならば、

@きちっと記述すると、当代的に内外的にいろいろ困る江戸時代の将軍がいる
とする。
Aだから、そんな将軍は外交的には「いなかった」としたい。
Bでも「いなかった」とすると内務的には色々矛盾を生じるし、怨霊も怖い。
C従って、逸話だけ「皆が大好きな室町時代の偉人的逸話」に同封する。
D外交的には「存在しない」が内務的には「きちっと調べて邪推すればこの人
かもしれない?」と言う人物が浮き上がると言う表記法によって、国史が最終
編纂される。
323日本@名無史さん:2011/05/01(日) 20:57:54.28
>>321
どうでもいいけど

>「開き」「化けた」時代
って
「音」を「楽」と書いて音楽、だとか
「親」は「木」の上に「立」って「見」る

みたいな漢字の解し方だな。
324日本@名無史さん:2011/05/01(日) 22:15:43.97
神功皇后摂政元年の記事はその現象から日蝕とみられる。また、日向の国風土記のニニギ降臨の時の現象も日蝕とみられる。
日蝕という言葉は中国からの文化がかなり輸入されてからつかわれるようになったものであるから、古代の古い時代では現象等の説明から判断するしかありません。
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/01(日) 22:48:50.96
肯定の事由が抽象的であり、これでは肯定の具体性が薄い。

神功元年前年の記事には暗黒が数日間継続した旨の記載があることから、
これは日蝕とは認められない。日蝕の場合は、その暗黒時間はたかが
数分間であり、とても常夜の状態とは言えぬ短時間なわけで、このことは
日蝕説は成立しないと観るべきである。

日食説はニガクリタケをクリタケだとの食を勧めてるような論であり、
両者は似てるとはいえど、全然別物だということと同然である。
326日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:42:04.48
だから古代の古い時代のひとびとは、日蝕は実際の数分ではなく数日続いたように伝承してきたということです。
その証拠に、古代の古い時代にも日蝕があったけれど、実際の数分としての伝承はないでしょ、というわけです。
327太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 00:02:51.12
そんなんならば、斉藤国治さんなどの天文学者がとうの昔に日食だと
断じてるぜ。日本最古の日蝕文献はもっと後代だよ。

日食が数日間続いたと書かれた古文献を提示しなさい。
神功元年前年の記事には明確に日蝕との記述はないのでね。これでは
提示にならない。
328唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 08:27:25.90
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。
及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。
是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。
同11月、軍を再編する。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。文俶を詣でる東夷。
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅 神功38年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
316年 西晋滅ぶ。仁徳4年 課役の停止。
329唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 08:29:30.96
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

260年頃 景行40年以後(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
273年日食 神功元年に差し込み。
274年 仲哀9年 死亡した天皇仲哀をそのままに渡海する。
天皇の死より渡海が優先される。そして渡海先で軍事調練が行われ、新羅などが倭に従う。
つまり、晋が平州を再編した事と関連がある。それは、246年頃 魏の治世手法に反対する
馬韓が郡に攻め込む。間もなく鎮圧されるのであるが、半島の治世の為、郡の軍隊が半島
を検察して廻る。晋の時代になって、平州が再編されると、この検察行為を倭に肩代わり
させるための渡海要請(命令)である。伊都国に1大率を置き九州諸国を検察する大倭。
この行為を半島で行わせようという事だ。
冊封された倭国の租税として、半島を検察する軍隊の派遣。その見返りとして、洛陽詣で。
倭国にとっては、軍を派遣した対価として文化、文物を得る。
この相互依存関係が崩れたのが“永嘉の乱”である。晋はこの戦のため郡に駐留する
自国軍を西へ移動する、その空白を埋めるために倭国は軍隊を増員する。増員分は勿論
持ち出しである。
316年西晋滅亡。仁徳4年課役の停止とは、軍隊の引き上げである。
320年神功46年 斯摩宿禰を卓淳國へ派遣。半島情勢の把握。
323年神功49年 百済を誘い半島占拠、領土分与=百済建国。
半島占拠が簡単にできたのは、渡海以後この地を検察していたためである。
330唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 08:39:52.10
>神功元年前年の記事には暗黒が数日間継続した旨の記載があることから、
>これは日蝕とは認められない。

太国よ 数日間継続した旨 この様に理解するのは各自の勝手である。
しかし この出来事が神功元年にあったと書紀は主張している。
だから、神功元年に数日間継続した暗黒、このままでは何のことか理解出来ない。
だから具体的事象を何が起きたか?それが神功元年に起こった事が証明されて
初めて”日食”を否定出来る。

そういうことだから、ただ数日の暗黒と読める事象が神功元年に実在し無ければ
ならない。
神功元年日食
晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。
則日暉炳。日夜有別。
昼暗きこと夜の如し。すでに日(昼間)を多く経る。時の人曰く 常の夜の如し。
即ち日のカゲがきらめく。日(昼間)を夜(闇)が別ける。

即ち日のカゲがきらめく。全食かそれに近い日食である。
江戸時代まで「日」は「昼間」であった。だから日々を夜が別ける、では無い。
日々を夜が別ける。では記事にならない。
331唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 08:52:38.43
とりあえず、有ったと云う主張であるから、何が起きたかを推定して差し込む必要がある。
273年 北陸で全食。これが日食の計算結果である。
数日の暗黒?火山の噴煙で「日のカゲがきらめく」事は無い。昼間が夜の如き暗雲もない。
日食であれば、その様な出来事があったと確認出来るが、他の事象では確認出来ない。
だから「日食があった」の主張を覆すだけの出来事を主張出来ていない。

神功元年に数日の暗黒は無かった。
神功49年(七支刀369年)に半島占拠は無かった。
この様な主張は書紀の主張では無い。有ったと云う記事があれば出来る限りそれに従わねば
ならない。
332日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:03:39.87
>>327
古文献に書かれてることそのままを読み取って絶対的に信用価値のあるものと考えるなら、
邪馬台国なんていちいち論じる必要もないことだと思うけどな。

日蝕なんざ古代のアホどもが大げさに感じたのか、もしくはそう書いたのかもしれんだろ。
333日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:07:31.56
>>327ですから、日蝕という言葉は、中国と通交するようになってから、入ってきた中国語であります。
よってそれ以前の伝承には日蝕という言葉はでてきません。日が消えたとか、昼暗くなったとか日食の現象をもって伝承しているのであるから、そのげんしょうから、我々は
日蝕かどうか判断するしかありません。
ちなみに皇后が和歌山県御坊市小笹に滞在したという201年3月朔日には、小笹で皆既日食がありました。
334日本@名無史さん:2011/05/02(月) 10:21:27.90
日本書紀は、個々の記録は信用できるとしても、
それらの記事が換骨奪胎・つぎはぎであることは判明している。
(神功紀に卑弥呼と壹与を挿入しているあたりが一例)

したがって、記述をそのまま利用するのは意味がない。
日食の記事そのものは信用できるとしても、
それが書かれている対象時期にあったとは断言できない。
335日本@名無史さん:2011/05/02(月) 10:40:24.97
そうです、よくわかりましたね。
神功紀の201年の日蝕は新羅本紀にのっているものなのです。
紀の編者はそれをみて、神功元年を201年としたのです。
和歌山の小笹に日蝕の伝承と神功皇后の伝承が有り(本来別々であるが伝承されているうちに混合された)
その時期を新羅の日蝕記事をあわせたのです。つまり、この時の日蝕は新羅をとおり、更に小笹も通過したのです。
まさにおどろくほどの偶然です。
336日本@名無史さん:2011/05/02(月) 11:02:29.69
この時とは201年の日蝕のことです。アズナイの罪の伝承を生んだ日蝕の年代は不明です。
神功皇后の小笹滞在は35
337日本@名無史さん:2011/05/02(月) 11:03:11.45
神功皇后の小笹滞在は356年です。
338太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 11:22:53.99
神功元年前年の記事は冷静に読むべきで、うっちゃりを考えてはならない。

日食はたかが数分間の出来事であり、記述の常夜と到底言える長さではなく、
短時間の現象である。これを日食と言うことは今朝のニュースでもやって
いたが、焼肉を食べて中毒死したごとくニガクリタケをクリタケだから食せと
強行に勧めているも同然であり、ここの日食だという論は古代史論での重大な
過失であるといえる。それに噴煙でもその隙間から太陽がきらめくのは当然
あるわけで、豪州のヨーク半島での超大雲のモーニング・グローリーの如く
日本列島を包むくらいの大雲があり、こんなのが当時天空を覆えば、
数日間も継続するわけで、まれにこういう現象があるということなのだ。

よって、日食説はカルト・ホツマの魔説での勧誘だから、みな騙されずに棄却
するのが正解である。
339mirai:2011/05/02(月) 12:29:38.84
91で私が記した事柄に対していろいろと批判等があるようですが、考えを
少しまとめてみましたので下に記します。
 神武天皇は塩土老翁から東(ひむがしのかた)に美(よ)き地(くに)があり、そ
こに饒速日命(ニギハやヒノミコト)が飛び降っていることを聞き、その饒速日
命のいる地(くに)を得ようと東征を開始します。そして神武天皇と対峙した饒
速日命に仕える長髄彦(ナガスネビコ)は「天より降った饒速日命が私の妹三炊
屋媛を娶って子があり、名を可美眞手命(ウマシマデミコト)といいます」と
語っています。私はこの長髄彦こそが九州から物部一族を率いて近畿に東遷し
てきた本当の饒速日命本人であって、彼が東遷してきた地の有力豪族の首長長
髄彦に自分の妹を娶合せて子があり、彼らの後ろ盾になっていたと考えるので
す。つまり饒速日命と長髄彦、この二人の間には「名前の交換」が成されてい
たと見るのです。これがわからないと私が饒速日命(本当は近畿の有力豪族の
首長長髄彦)と同一人であるとする祟神天皇と、その同一時期に存在した垂仁・
景行・成務・仲哀の四天皇がどんな関係にあったかを知ることはできません。
 従来通りならこれらは親─子─孫等等へと続く天皇系譜になりますが、私は
そう考えません。私はこの順序は実際には近畿における彼らの地位の優先順位
であると考えるのです。
 私は祟神天皇の「四道将軍の派遣」の物語に出てくる彦坐王が垂仁天皇と同
じ名の女性を妻にしていると指摘しました。これは私に、祟神天皇以下に続く
垂仁・景行・成務・仲哀の四天皇が「四道将軍の派遣」の物語に出てくる彦坐
王(あるいは丹波道主命)・大彦命(=吉備津彦であろう)・武渟川別・武埴安彦
と同一人であることを暗示していると思わせたのでした。つまり垂仁=彦坐王
・景行=大彦命・成務=武渟川別・仲哀=武埴安彦、ということです。この続
きは後程記します。
 
340唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 13:30:33.29
ニニギは天磐船より降り立つ。 戻ることが出来る。
ニギハヤヒは天磐船より飛び降りる。もはや戻ることは出来ない。
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 14:01:01.37
日食
273年 5月 4日 大和での食率0.944 かけ始め15:51:34 最大16:56:39 終了17:55:41
計算上、この日食は北陸で全食である。
そして気長姫(神功)は北陸から九州へ向かう。神功が日食に遭遇した記事を元年に差し込む。
273年を神功元年とした場合、神功52年七支刀=326年=半島占拠のお礼。
2年の齟齬。
古代日本で太陰暦が使われており、景初3年の朝貢が田道間守であれば
240年 景行元年壬申朔 2章(19年×2を足すと書紀の長さになる)
262年 成務元年甲申朔 3章
266年 仲哀元年庚寅朔 0章
275年 神功元年丁酉朔 神功52年七支刀=326年を得る。
書紀の主張である“正朔”は正しい、神功元年の「あづないの罪」は273年の日食である、
神功49年の半島占拠は存在し、そのお礼として七支刀がもたらされる。

書記の主張を全て認める事の出来る数字である。ただし元年日食は差し込み記事となる。
342日本@名無史さん:2011/05/02(月) 14:12:55.31
トンデモ満載だな
複数人物が一人の人物に投影されたとかw
そういうのが多いんだよ
記紀の謎が解読できないから、もう、なんでもアリみたいなw
343太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 14:17:48.62
いくらそんな計算結果を持って来ても、皆既日食の暗黒時間はたかが数分間の
計算結果となる。すなわち神功紀の 日を経て との記述と整合しておらず、
これではその編年はクズれたも同然のクズ論である。

学会でそんな主張をすれば嘲笑されるのも同然の精神病院行きのインチキ論
だ。正常の脳の者は〜そんなニガクリタケがクリタケだと強行して食べろとか
勧めているも同然の危険妄想論には騙されないぞ。

断じて日食にはならな〜い。
344太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 14:20:34.87
妄想ホツマ虫の宿主たる唐松山は 239年 に伊支馬が死んで幽霊での活動を
している論を展開してるらしい。まぁ〜幽霊が活動してる編年では、精神病院が
いい住家となるらしい。ww
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 14:29:25.29
>>333
神功の代より以前に、徐福が日本へ来てるから、神功の頃に日蝕のような文字
があってもおかしくはない。彼が漢字を広めてると観て可である。

>>341
なおホツマとはそんじょそこいらの昔のただのオッサンが妄想を勝手に注入
して書いた文であり、その古代史的妄想毒には唐松山以外の者もしてやられ
ないよう用心警戒されたい。
346日本@名無史さん:2011/05/02(月) 14:48:05.55
徐福日本伝来説は嘘くさい。
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 14:54:20.51
>>343
>断じて日食にはならな〜い。

書紀は神功元年に”あづないの罪”があったと主張している。
日食でなくとも良いが、その出来事を神功元年にあったと主張出来れば良い。

数日の暗黒が神功元年にあったと主張出来なければ。この出来事は273年の日食である。
348日本@名無史さん:2011/05/02(月) 14:59:34.30
349太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 15:14:26.89
日を経て では、いかなる事由を言えど、紀のそこを出す限り 日蝕 には
ならない。

シンチュウと黄金とは似て非なるものである。神功元年前年の記事は日蝕のよう
に見えるが、日を経て という数日間の継続は現代天文学で完全に否定される。

同学はホツマより優先順位が上である。それは月とスッポンの差だ。

ニガクリタケをクリタケだと言ってるも同然であり、これを食せと言って
る如き宿主のオマエの魔言には騙されない。そうだろう。239年に幽霊が活動
してるんだとか、猿の惑星創世記の論では、学会で嘲笑されるのがオチ。

原田実氏が景行重視のオマエを酷評したのも妥当だ。重視するのは崇神なり。
なお景行は崇神の引き立て役お助け年代であることが天津神算木から一目瞭然
であ〜る。
350唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 15:55:09.15
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに 垂仁90年2月詔 香具を求めに
タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ 田道間守 常世に行けよ 我が思う
クニトコタチの ミヨのハナ コソコホサシヱ 国常達の 御代の華。 99年甲寅
アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ 7月8日 垂仁崩御137歳
ミコのモハいり ヨソヤヨル ハニタテモノしシハスソカ スガラフシミに
ミヲクリの タビもかゝやく カミのミユキぞ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる 明年春 2月に帰る
タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 田道間守 時至9ヶ月24日後
カクのキヨサホ カグヨサホ もちきたるマに 果木の木4棹 果草4棹持ち来る間に
キミまかる ミヤゲなかばを ワカミヤえ なかばをキミの ミササキに さゝげもふさく
これゑんと はるかにゆきし トコヨとは これ得んと 遙かに行きし 常世とは
カミのかくれの をよびなき フリをなじむの 神隠れの及び無き、“振り”を馴染むの
トトセぶり あにをもひきや しのぎゑて 10年ぶり 何思いきや 凌ぎえて
さらかえるとは 更変えるとは。(暦の更新)
スメラギの クシヒによりて かえるイマ すでにさります …
ホ37225 モトヒコに ユルシハたまひ 田道間守の葬儀をモトヒコに許す。

常世とは神隠れの及び無き  239年魏明帝崩御が暦の数字に影響を与えない。
垂仁崩御(90年=99年)暦の数字に影響を与える。
大和〜洛陽往復約10ヶ月。帰着は景行元年春3月。
田道間守の葬儀を許すとは? 垂仁陵への殉葬の許可?
ホケノ山に半島式墳墓。
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 16:13:35.05
ホ37225 モトヒコに ユルシハたまひ モをつとむ ハナタチバナが
サツキまつ ヨハにうむコに ミコトのり ムカシのヒトの オをとゝむ オトタチバナと
ナをたまひ にたるスガタの ヲシヤマに とつぐハハコも おんめぐみ ふかきゆかりの
タメシなるかな

田道間守の遺児オトタチバナ姫は景行元年生まれ、同じく景行元年生まれの日本武尊。
景行27年 日本武尊16歳 景行28年にオトタチバナは日本武尊へ嫁ぐ。
352唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 16:37:01.07
オトタチバナと日本武尊の遺児もワカタケルである。←仲哀では無い。
誕生を推定すれば、256年冬頃である、そして、ここから50年後辺りが
大彦から数えて8代目(19年程度で世継ぎをした場合)の誕生。
埼玉の稲荷山鉄剣銘だ。
353太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 19:16:51.07
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

ホツマとは、昔そこいらにいるドングリの背比べのただのオッサンが、
妄想を恣意的に入れて書きこんだ文である。
354太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 19:34:29.67
>>346
徐福のもたらしたという半両銭が各地で発見されてるという。これらは
始皇帝の代に鋳造されたと学者が認めているという。例えば、熊野市歴史
資料館の半両銭もそれだ。半両の文字がある。

伊作さんが教えてくれたのか? 徐福の金印が富士で発見されているそう
だ。徐福関係の墓も九州に存在するという。金印だから文字付きだな。

佐賀県からは「阿房宮朝硯」の文字ある硯が出ている。
これは始皇帝関係の宮だそうだ。こういうことから漢字が神功の時代
よりも以前に日本に存在していたということだ。

漢字が来ているということは、「日蝕」の文字が神功より以前でも
書けるということだ。
355日本@名無史さん:2011/05/02(月) 20:12:40.15
あのね、徐福が日本にきたかどうかの論争があるけど、徐福渡来説の弱点は日本で文字が発見されていないことなのです。
356唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 20:18:06.17
ホ38013 フホヤヨヒ キビツヒコがメ  景行2年3月 吉備ツ彦が娘
たつキサキ ハリマのイナヒ オイラツメ 立后 播磨のイナヒ オイラツメ
ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず 内宮の時に 垂仁90年6月孕みて生まず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに  21ヶ月 経て師走望 碓端に
モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト 餅放して 双子生む
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ

垂仁90年6月から21月後が景行2年3月になる。
小碓(日本武尊)は景行元年12月の生まれであり、誕生発表は2年3月立后と同時である
357日本@名無史さん:2011/05/02(月) 21:33:05.53
開化天皇は、桃の花が咲き乱れる桃源郷村、麗しの大和盆地へ遷都し、百襲姫との恋も開花させたのでしょう。
358太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/02(月) 21:44:56.71
>>355
>>354のとおり発見されてるということだな。
硯は文字を書く道具だぜ。

>>356
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書と言われる書物を持ち出した〜〜。
359唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 21:56:45.03
開化がぞっこんだったのは、父親から譲られた妾、イカガシコメだけだ。
しかも彼女には、父親孝元との間に子供もある。忍信は、この二人の子供である。
当然彼女は妾の身分であるから、別に正式な妃もいる。
にもかかわらず、イカガシコメにぞっこんの開化は二人の間の子供を強引に
跡継ぎとする。
崇神(庶母)とはそういうことであるから、百襲姫に間男が存在しても
相似る者同士である。
360:2011/05/02(月) 22:45:27.46
>>285
>吉野ヶ里は王都じゃないんだよ。あれは単なる環濠集落で地方都市

どこかの先生が環濠の形によって都市なのか、地方都市なのかってはなしがあったよね。
たとえば吉野ヶ里の環濠集落という円形の柵は三世紀までで
その後代は柵が取れて中の建物だけの格好になるんだけど・・・

そして、吉野ヶ里が仮に地方として考えても中央のソレをモデルにしたに違いなく
王都と墓が近くにあっただろうことが想像できる
361:2011/05/02(月) 22:47:59.29
>>290
>人物などの象形埴輪が登場するのは古墳時代の初頭か?
・いえいえ、埴輪は殉葬者の代わりなので箸墓はないという
反論として、人物埴輪ではないので・・・いったまでですよ。

>おびただしい瓶棺と墳丘墓のある王都などない。
>吉野ケ里は倭国王の王都というのか?
・私の考えでは、吉野ヶ里は中央ではない。
でも中央(ヤマト)をモデルにしたにちがいないはずで
王都の近くには墓が存在するんであって・・・・

>どこで?
>洛陽出土の鏡に神獣鏡は一枚もない。 呉ではほとんど神獣鏡が出土する。
・どこでかはまだわかりませんが、おそらくは朝鮮半島のどこかかもしれない。
当時の倭内部では三種の神器といわれる鏡、玉、剣が人気があって
国内最大の出土を誇ってるのが三角で、文献にも卑弥呼の鏡百枚という記載があって
分懸念と考古の両面での一致があるでしょう。
362唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 23:24:54.13
住まいの里に埴輪なし。
つまり 墳墓にしか存在しない土器が埴輪の範疇になる。
石塚は詳しく解らないが、たぶん埴輪は存在しない。
ホケノ山=穴あき壺=埴輪=庄内式
箸墓=特殊器台=埴輪=布留0式≒260年代
祭祀に使われても、穴が開いていなければ、壺は居住区に存在する=埴輪では無い

福岡西新遺跡には、庄内、布留式土器と半島の土器が共存する。
この庄内式は景行時代であり、箸墓築造後しばらくして神功渡海。
363唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/02(月) 23:27:32.48
壺に穴を開けて飾る≒割れた鏡。
どちらも現世では使い物にならない。
364日本@名無史さん:2011/05/03(火) 00:47:37.18
俺は人生において日食は経験したことがあるが
何日も夜と見まちがうような大雲とやらにでくわしたことがない。
なぜ日食の場合は「そんなの日食じゃないよ!数分だよ!」ってなるのにそっからの展開が
「…もしかしたら大きい雲だったかもしれないよー?」になるんだww
そっちのほうがおかしいだろwwそれこそ妄想だわw
365太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/03(火) 11:00:26.35
当たり前だ。そんな自然現象は滅多に起こらない。だが稀にはそういう大雲が
起こる場合がある。だから紀に載ったわけだ。毎回起こる現象なら、そんなこと
を記載する必要もなかろう。東日本大震災だって始めても経験だぞ。じゃぁ
この大震災が起こる前の3/10までは、大震災は妄想になるなのか?w

経験がないのは否定するのが人間の悲しいサガであり、妄想しやすいのが
未経験というものではないのか。日蝕は数分の現象であり、数日間も継続
する現象ではない。これを数日間のほうだという主張こそ、妄想だろうが。
366:2011/05/03(火) 15:21:01.56
>俺は人生において日食は経験したことがあるが

この間、噂になった鹿児島からの皆既日食かな?
どうだろう?
367日本@名無史さん:2011/05/03(火) 15:26:45.07
だったら真っ暗になったじゃなくてでっかい雲が出たって書いとけよwwww
368太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/03(火) 15:38:42.51
雲の場合でもその莫大ならば、天空は暗黒になりうる。
今それがしの地域は雨が降ってるが、真っ暗ではないもののまだ
昼間なのにかなり暗い状態だ。

現今でも豪州のヨーク半島では、モーニング・グローリーという日本列島
が大半包まれる超大雲が生起するという。こんなのが日本で起これば、
数日間も停滞することが、2000年、3000年も経てば、その間に稀にはこう
いう異常気候が出現することがあるということだ。だから紀に載せたん
だえろう。
369太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/03(火) 15:41:27.15
>>368 訂正
× だえろう
○ だろう

1〜3年位前だったか、バクダッドで少量だが降雪があったという。
これなどもあそこでは珍しいんだろう。
370レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/03(火) 17:22:34.56
>>339
記紀が、「出雲と大和の関係順序や出来事を多少改竄している」と仮定した
場合、ご指摘のように、ニギハヤヒ・ナガスネヒコは、開化頃の人(つまり
は卑弥呼時代の人)と言う可能性も発生して来るのは否定しません。先述
どおり、俺個人は「ナガスネヒコは生き残った」と仮定しているので、貴殿の
その仮定における分岐も当方は否定しませんが、当方としては、その生き
残ったナガスネヒコの勢力及び子孫と言えども、邪馬台国とは直接関係無い
と言う仮定です。関係が有るとしたら、卑弥呼の代よりずっと前に邪馬台国
から派遣されて着任したと類推できる、むしろ黒歯国の方では無いだろうか。
但し、貴殿の仮定も毎回楽しみにしていますのでまた時々お披露目ください。

>>357
>麗しの大和盆地へ遷都し、百襲姫との恋も開花させたのでしょう。
まさしくそのラブロマンスなのです。神武さんも、九州の奥さんの子と大和の
奥さんの子とがその後覇権を争う事になりました。普通に読めば奇しくも故事
を再びなぞった(歴史は繰り返す)話しだし、うがって読めば、実は開化の事
を記紀時系列上は先代の事として描いたとも邪推できる。
371レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/03(火) 17:44:35.98
>>346
>徐福日本伝来説は嘘くさい。
古事記上、最も徐福と疑わしい人物として、当方は、「少名毘古」を想定して
おります。この想定の上に立つと、その後大国主が国づくり(つまりは国を
発展させた)事が妥当となりますし、瀬戸内海倭人分布域における「外交」
がその後翻弄されていった(特に卑弥呼の勝手恭順外交)事とも自然に
つながりますし、また、当時の大和及び出雲においては、古事記を見る限り
「偉い人の名前はイワレも長い、つまり、お名前も長いはず」と言う慣習から
みて、「徐福」と言う名前はその来日艦隊の規模から考えても「少名すぎ!」
と言う感想を持ったとしても、これまた違和感は無い。

>>359
>イカガシコメにぞっこんの開化は二人の間の子供を強引に跡継ぎとする。
貴殿の解釈は否定はしないが、当方はその「強引」が不自然と感じる。また、
ぞっこんなのに、子供が二人と言うのもいささか不自然。王室ラブロマンス
で言うなら、マリアテレジアやヴィクトリア女王などは、非常に子沢山で
ある。したがって当方は、貴殿の解釈は否定しないが、イカガシコメの子供は
「実力行使」で「皇位を獲得した」という邪推も余地が残ると言う感想です。
更に言えば、開化本人が「実際は誰にぞっこん」だったかは、当方は今件に
おいては(つまり卑弥呼論議においては)重視していません。最重視すべき
は、「結果として開化と誰の子が継承したか」だと思うのです。これは、歴史
上の人物のみならず、三流ゴシップ紙にいたるまで、古今東西、男は、Aの
奥さんには「おまえが最愛だよ」と言い、Bの奥さんには「いやおまえが最愛
だよ」と言う物です。それをどちらも信じるからこそ、「後継争い」が生じる
ワケであり、してみれば、「ぞっこんであれ」ばあるほど、「後継争い」は
熾烈になる可能性が大だと、野卑な俺としては思うのです。
372レス長たらし毘古(がんばろう日本):2011/05/03(火) 18:09:54.64
>>364
>俺は人生において日食は経験したことがあるが何日も夜と見まちがうような
大雲とやらにでくわしたことがない。

「日蝕論議」に関して、当方は重要視していないのであくまでも野次馬として
感想のみ申し上げます。
@何日も続いたのはなぜか?⇒火山大爆発による噴煙で日光が遮られた。
A記紀でなぜ「日蝕を思わせる表記になっていった」のか?
⇒それこそが、「日売」階級の創設(先述済)によって記紀以前の神功以降の
皇族が「新たに創設しようとした天照概念」そのものを象徴してるのでは。
B結果として、記紀の頃には「あれは日蝕だったのだろう」と言う解釈が主流
となってしまった。(⇒これが日本書紀以降の基本解釈となる)

「暗闇に包まれる」のは、天の岩屋戸伝説のみならず、スサノウのイザナギ
(の命令)に反抗(サボタージュ)する時にも発生している神話現象です。
ただ、スサノウはどう考えても「太陽とは結びつかない」ので彼の逸話には
日蝕要素は加算されなかったとも考えられる。
つまり、当時の神話としては、アマテラスもスサノウも「一旦は暗闇に包まれ
る」と言う点では奇しくも「一致」しているワケでありますし、彼等が「同時
代人」であることを考えれば、「九州〜出雲一帯が闇に包まれた」と想定でき
ます。暗闇が広範囲で長時間で二系統の逸話両方に載っている事を考える場合
暗闇は確かにその時あり日蝕よりも大火山の噴煙の方が適していると思える。
そしてアマテラス(スサノウ)時代から記紀編集時代までの間に「日蝕がアマ
テラスとリンクした大事件があった」と類推すると、少なくとも架空上は自然
な歴史現象の流れと考えられると思う。その大事件こそが卑弥呼(=モモソ)
の時代。。。あ、あくまでも妄想、妄想。

(※先述済とした点を補足説明。「日売(ヒメ)」は「毘売(ビメ)」の発展
変化した(させられた)権威概念で、その権威概念は神功皇后以降に作られた
とする考え方に基づきます)
373日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:30:25.66
>>368

モーニンググローリーは、横に長いだけで全天を覆うようなものじゃないよ。
その横の長さもせいぜい10`くらいじゃないかな。
374:2011/05/03(火) 22:55:43.54
どすこい どすこい どすこい ♪

邪馬台国はなかった・・・の古田だっけ
彼は非常に細かく研究してるのはわかるんだけど
(彼以上に研究熱心な人おる?)
邪馬臺國ではなく邪馬「壹」國とし、大和朝廷以前に九州王朝があったとしてるのは間違いだね。
375:2011/05/03(火) 23:03:08.63
佐原さんだったか
弥生時代の食事の研究をしてて
あれは大阪だったっけな・・・
博物館に「卑弥呼の食事」ていうのが展示されており
それによるとアワビとか焼き魚とかハマグリとか〜
けっこう豪華なんだけど、私たちも旅館などいったら出てくるような
食事だよね。
ちなみに私は、九州国立博物館で展示されてるのを見に行ったことがある。
大阪まではいっとらん。
http://matome.naver.jp/odai/2125792091911284140/2125798912828211982
376:2011/05/03(火) 23:11:53.71
今年のゴールデンウィークにどこか古代史の旅に出かけた人とかおるん?
私は最近いろいろと忙しくどこも言ってないし、本もろくによんどらん。
どこ行きたいんだけど近場で探そうかな(あと2,3日ある)

2,3年前だったかな、宮崎の奥にある、天照大神が天の岩戸に隠れられた伝承のある
高千穂へ行ったことがあるんだけど、八百万の神が天の安河の川原に集まったとかいう
場所もあってけっこうお薦めできる。
九州に住んでる人はぜひ1度は行ってほしいゎん。
377:2011/05/03(火) 23:29:31.49
いまアク禁なのでここで代行してもらってる。

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/accuse/1304412670/

箸墓から出土の埴輪は人物埴輪ではない。
したがって九州説論者の「卑弥呼の墓=箸墓」批判にはなっとらんようだ。
さてではそろそろ・・・zzzz
378唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/03(火) 23:33:39.33
>昼間なのにかなり暗い状態だ。

晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。
則日暉炳。日夜有別。
昼暗きこと夜の如し。すでに日(昼間)を多く経る。時の人曰く 常の夜の如し。
即ち日のカゲがきらめく。日(昼間)を夜(闇)が別ける。

かなり暗くとも”夜”の暗さは無い。

仁徳天皇三〇年冬十月。時口持臣沾雪雨。以經日夜。
日を経る為には、日夜が必要である。又は
以經多年。や爰太子薨之經三日。3日と書かれれば、複数日になる。

重要なのは、その出来事が”起こった、在ったと説明出来なければならない。
379太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/03(火) 23:52:35.02
ニガクリタケをクリタケだといういかような勧めには乗らないね。
今日も某焼肉店での食中毒で死人と「た
380唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/03(火) 23:54:22.13
ホ32196  イムナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコアメの スメラギと タミにをがませ
 ハハもあげ ソフのキサキも さきにあり あくるキナヱを ハツのトシ 
ナトシハツソフ イキシコメ たてゝウチミヤ これのさき キミめすときに
オミケヌシ いさめもふさく
開化7年 イキシコメ(孝元から貰った妾)を内宮とする。

ホ32212 うむコあり つらなるヱダの ヲシマコト ハハはたがひぞ 
忍信は孝元の子であり母は、イキシコメ。
またこたえ アにツキひとつハハはツキ シモメはホシよこれをめす 
また答え 天に月1つ 母は月 下女は星よ これを召す。
なげきていわく オオンカミ アメノミチなす ヨヨのキミ つぎうけをさむ
アメヒツギ ナンヂがマツリ いさめずて をもねりキミを あなにする ココロきたなし
キミいかん わがミオヤカミ はなれんや ケガレはまづと いゝをはり かえれどキミは
これきかず ミケヌシオヤコ つぐみをる

開化は下女イキシコメを内宮とし、その子共崇神を世継ぎとする。
アにツキひとつハハはツキ 天に月1つ。
あづないの罪 ア=太陽、ヅ=月 太陽と月が重なる罪。
罪の中身は、地上から光が無くなる。
381太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/03(火) 23:56:54.13
>>379 書きこみ中断ミスの為、続き
ホツマ妄想寄生虫の宿主よ〜

その店で食中毒により死人及び多数の有毒者が出た。

オマエの日食妄想毒の勧めには絶対載らないぜ。
もう即興の作戦を練って書きこんで、スレ民を騙すのはもうやめるんだな。
382太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 00:00:42.40
宿主

ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

日を経て の記載は数日間日蝕が続いたという記載であり、うっちゃりで
みんなを欺く毒紀の古を食せと言うのはやめるんだな。

〜騙されはしないぜ。

zzzzzzzzzz・・・・・
383唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 00:09:04.12
太国倍年は、数日の闇が必要である。
これが説明出来なければ、太国倍年は存在出来ない。
魏が半島を管理する時代に、任那建国は無い。
こちらの説明も出来ていない。
七支刀=369年 この数字では半島占拠は否定されている。

書紀の記事、主張を認めなくては、書紀を正しい歴年に直したとは出来ない。
何故ならば、数字を変えただけでこれらの出来事は、正しいとできるからである。
384唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 00:20:08.38
>〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

ホツマの書き込みが気になってしょうがないだろう。
書紀の”正朔”の文字は1ヶ所だけだから無視出来たが
ホツマから日付を消すことが出来ない。悔しいだろ。

そして書紀の月日を消したら、書紀の日付を再現出来なくなった。
だから悔しいだろ。
385唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 01:21:25.79
発掘調査現場から(247回) 広報「わかざくら」 平成22年7月掲載
・箸墓古墳の外濠状遺構

纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃〜後半に築造された
最古の定型化した前方後円墳として、また日本列島における最初の大王墓として、
全国的にもよく知られている古墳です。

箸墓は最初の大王墓である。そして布留0式の指標。大量の鉄を大和が持った証拠でもある。
福岡西新遺跡には、庄内式から布留式、半島の土器とカマド。
つまり、庄内式の時代に九州は、大和の領国となる。

残念ではあるが、崇神時代では無い。
386唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 01:24:50.45
275年 神功元年(辛巳二〇一)二月◆爰伐新羅之明年春二月。
313年 神功三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。
316年 仁徳天皇四年(丙子三一六)三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。
321年 神功四七年(丁卯二四七)夏四月。遣千熊長彦于新羅。責以濫百濟之獻物。
323年 神功四九年(己巳二四九)春三月。以賜百濟。於是。其王肖古。及王子貴須。
323年 仁徳天皇十一年(癸未三二三)。新羅人朝貢。則勞於是役。
324年 神功五十年(庚午二五〇)夏五月。千熊長彦。久■等至自百濟。
324年 仁徳天皇十二年(甲申三二四)秋七月辛未朔癸酉。高麗國貢鐵盾。鐵的。
326年 神功五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。
329年 神功五五年(乙亥二五五)。百濟肖古王薨。
343年 神功六九年(己丑二六九)冬十月戊午朔壬申。葬狹城盾列陵。
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)春正月癸丑朔丁卯。立大兄去來穂別尊爲皇太子。
344年 応神天皇元年(庚寅二七〇)春正月丁亥朔。皇太子即位。☆是年也。太歳庚寅。
349年 仁徳天皇三七年(己酉三四九)冬十一月甲戍朔乙酉。葬皇后於那羅山。
350年 応神天皇七年(丙申二七六)秋九月。高麗人。百濟人。任那人。新羅人。並來朝。
353年 仁徳天皇四一年(癸丑三五三)春三月。是時百濟王之族酒君无禮。
359年 応神天皇十六年(乙巳二八五)春二月。王仁來之。
362年 応神天皇十九年(戊申二八八)冬十月戊戌朔。時國樔人來朝之。因以醴酒獻于天皇。
363年 応神天皇二十年(己酉二八九)秋九月。並率己之黨類十七縣而來歸焉。
365年 応神天皇二二年(辛亥二九一)春三月甲申朔戊子。天皇幸難波居於大隅宮。
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)夏五月。新羅軍潰之。殺數百人。即虜四邑之人民以歸焉。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
374年 応神天皇三一年(庚申三〇〇)八月。官船名枯野者。
374年 仁徳天皇六二年(甲戌三七四)夏五月。以死御船也。
387日本@名無史さん:2011/05/04(水) 06:20:12.60
みんな倭人が住んでいた「大海中の山島」に騙されているね。
3世紀の中国人が太平洋の存在など知らず、黄海も日本海もみな「大海」と呼んでいたことを
知っていれば「大海中の山島」の意味する場所は一つしかない事に気づくだろう。
それは多くの山と島を持ち、黄海と日本海に囲まれた朝鮮半島だけさ。
388太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 09:58:55.84
朝敵の 宿主 よ。

正朔だとか、表むきはご立派だが、その論の内容はカルト・猛毒ホツマ紀成虫
に同化してやられたイカサマ論。

オマエの勧めるクリタケに見せかけたニガクリタケたる日食論に、コチラは
永劫に食することはな〜い。
今朝も神奈川で6人並びに北陸で60人あたりの食中毒患者と死亡者の報道が
TVでなされていた。そのインチキ論の日食説は猛毒妄想論。ニガクリタケを
食すればどういうことになるか、一目瞭然だ。そを(その論)を体内脳内に
入れろと言っても、コチラはそうは問屋は卸さない。

騙されないぜ。2ちゃんのスレ民を欺くのはもうオシマイにしろ。

神功元年前年の記事は 日を経て と明確に数日間とあり、断じて日食には
ならない。どうだ〜、オマエ、昨日は精神病院にかけこんだか〜?
389太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 10:08:02.20
ニガクリタケとクリタケとは似て非なるものである。双方よ〜く似ては
いるが、前者は猛毒だ。
今回の焼肉食中毒で県警は捜査本部を設置し、過失致死容疑で捜査を
開始したようだ。毒死させた責任は重大である。

神功元年前年の記事は 日を経て と明確に数日間も暗黒が継続した旨
記述してあり、ここにニガクリタケかクリタケかの判別の如く、日食か
否かの判別が出来る。これを踏みにじっているオマエは論説での重大
なる過失であり、デタラメだということだ。

なお、ホツマはそんじょそこいらの昔のただのオッサンが妄想毒を恣意的
に入れこんで出来た危険性を有する文書。
390唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 10:15:28.20
ホ30033 ツクシのタネコ モをおさめ 筑紫のタネコ(アメタネコ)喪を納め
ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて  世神祀りて 処々 河内を兼ねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは ワウミの 治めしむ。大物主は 近江の
ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも  大国宮を 作り替え 北陸、越の国も
サホコみな タミをおさめて しつかなり  出雲皆 民を治めて 静かなり
いまアマキミの クラヒなる   神武即位

神武元年は、西暦42年 弥生中期を後期に変えた。大和東南部に入った神武だけでは
それほど大きく世は動かない。畿内、西日本全体が一時に動く。
ホ09124 サホコクニ かえてイツモの クニはこれ 
細矛国=神庭荒神谷=出雲
河内=アメタネコ
近江の大国宮=近江伊勢遺跡=大物主や伊勢?
丹後=大風呂遺跡=伊勢、トヨケ? 角鹿笥飯大神の“ケ”はトヨケのケ?
北陸、越の国=糸魚川の翡翠。
崇神の領地=大和南部から紀伊全体。

全体として弥生中期の銅鐸は埋納され、弥生後期の銅鐸が造られる。
神庭荒神谷で銅剣が埋納された時期は、神武即位直後か、神武崩御による手研耳の乱である。
391日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:17:36.00
ほ〜ら偽書といわれる書物を持ち出したったらはらほろひりほ。
392太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 10:25:14.71
崇神紀には三輪山の説話がある。これは半径3の円(←三輪)を示唆したもの
である。その球化の 体積=表面積 の数式を天津神算木(天津金木)といい、
古代史の真の年代を測る天下の宝器であるのだ。違える編年は出鱈目である。

天津神算木(天津金木) r=3

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はべき)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97B350

マル数字 B ◎ がまず注目すべき数字で、三輪(ミワ:三〇)を示唆する。

マル数字の中に B.C,97年 崇神即位年 の見かけ年代が位置する。真の年代は

 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

と、計測される。崇神元年は景初元年だったのだ。これ以外の編年は悉く
デタラメである。

天津神算木からその主値は崇神であり、景行はA.D.130年にて死値であり、
景行年代は崇神の代の引き立て役たる〜お助け年代になることが把握される。
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 10:30:57.81
>>390
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男が〜

偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

景行の年代は崇神世の引き立て役年代。年代の主役は崇神の代であ〜る。
九州王朝は記紀成立直前まで存在しており、このころ朝廷が日本を統一した。
九州王朝の存在から景行の代、日本統一は全然出来ない。
394太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 10:44:13.72
漢書王莽伝

 元始5年(西暦5年) 東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず

とあり、唐松山の主張では東夷は九州ではなく強く畿内だということから、
西暦42年前の西暦5年に畿内に王と王国があったこととなり、そんな形跡は
古文献に見当たらないことから、唐松山の主張は明確な矛盾を孕んでいる。

つまり奴の主張はインチキだということだ。なお239年にはもう伊支馬が幽霊で
活動してるとか日食が数日間も継続する明確なでデタラメをゴリ押しで主張
にはげんでおり、悉くがイカサマの集合論であ〜る。
395唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 11:10:36.06
悔しいだろ 太国倍年では、弥生中期に埋没する神武即位
ホツマは、神庭荒神谷遺跡や近江伊勢遺跡の存在を示唆している。
それに対し、太国倍年は、弥生後期さえ説明出来ない。
弥生墳墓の人骨は、男≒38才、女≒27才をピークとする。
この時代に朝廷だけ現在とほぼ同じ年齢で子を産み、崩御する。←何を考えているんだ?

>九州王朝は記紀成立直前まで存在しており、
大和王朝から鉄の分与を受ける、九州王朝か?
九州の何処に存在したのだ?

239年 垂仁末田道間守の派遣。これが大和朝廷から中国に派遣された最初である。
東夷とは、中国の都から見て東方周辺の国である。魏の時代で東夷9種、その中に邑国が数百
>元始5年(西暦5年) 東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず
これを説明しろと云うのなら説明しましょ。正しいとする確立は低いが。
この頃、九州では、神武が使用した太陰暦が編まれる。
その太陰暦で崇神をあらわすと、アスス58年=神武元年=西暦42年であり、この時点で
暦は伸長されている。

悔しいだろ太国
神武前紀も引き延ばされている。
396太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 11:20:29.42
ひとつもくやしくはないねぇ〜。
オマエがくやしいからオマエがコチラにそんな語句を連発してるわけだ。
オマエの本音が出たのを、くらますためにコチラに振り向けただけのことよ。pp

天津神算木をみれば、景行世が崇神の代の引き立て役のお助け役年代なのが
一目瞭然だな。ww 西暦42年の抗弁もオマエの脳内の即興の言い訳であり、
なんらウラ付けもあるわけがない繕うためのノン・メリットの言い草。ww
397唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 11:21:36.10
274年 神功渡海
渡海に先立ち熊襲征伐(佐賀県方面)を行ったわけであるが、熊襲は放って置いても
渡海さえ成功させれば、熊襲も従う。←これが大和朝廷の認識だ。
そして、渡海、半島占拠へと続く。
倭王武の上表文は、畿内王朝の文言である。
くやしいだろ太国
七支刀=369年 半島占拠は無い、だから倭王武は九州王朝←太国の主張。
書紀をいくら書き換えても存在しない九州王朝。
この九州王朝の存在位置さえ主張出来ない 太国倍年。
398太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 11:25:51.07
宿主

年号が多数あり、九州王朝の存在はオマエの妄言を頑丈に否定する。

オマエがくやしいから、「くやしいだろ」とその脳内から吐露して出てるもの
で、オマエのくやしい本音が滲みでたものだ。ww

なお、ホツマとは、そんじょそこらの昔のおっさんが恣意的妄想を入れて書い
た文であり、まぁ5級史料に留まる。
399日本@名無史さん:2011/05/04(水) 12:07:33.59
>渡海さえ成功させれば、熊襲も従う。←これが大和朝廷の認識だ。
大和朝廷がこう認識してたと伺わせるような資料あんの?
400日本@名無史さん:2011/05/04(水) 13:08:08.25
「今夜はクリタケ」まで読んだ
401:2011/05/04(水) 13:27:43.55
>>387
大海中の山島にどのように騙されているん?

>>385
>残念ではあるが、崇神時代では無い。

崇神時代ではなく景行時代だという証拠でもあるんですか?
402:2011/05/04(水) 13:29:37.15
倭人伝に卑弥呼に贈られた「卑弥呼の鏡」百枚。
この百枚をモデルにして、作られた鏡も多いだろう・・・
日本全土で出土数の高い鏡ってなんだっけ?(三角に決まってるがw)
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 14:26:47.10
>>399
然後遣吉備臣祖-鴨別,令擊熊襲國.未經浹辰而自服焉. 
吉備臣〔きびのおみ〕の祖先の鴨別〔カモノワケ〕を熊襲国〔くまそのくに〕に派遣した。すると、あっという間に自然に服従した。
熊襲は放っておける。

>>401
210年任那建国 ここが崇神時代、つまり考古学の云う纒向遺跡は崇神からである
239年 垂仁が田道間守を派遣する。
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
273年日食、神功元年に差し込み。

晋書 正始元年 重譚納具 畿内大和の朝貢
239年倭女王は、遣使する。難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
その次使として田道間守が存在し、正始元年に大和が鏡を受け取る。
240年景行元年

魏が管理する時代に任那建国は無い。
新羅 209年 伽耶に援軍。ここが任那建国の指標である。

ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は癸未年を383年と言うが、383年では中国東北部が空白でない。
404唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 14:31:20.27
東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。

公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文王(俶)生於東夷。東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、291年 文俶は惠帝
(290〜306)に仕える。
魏が東夷を管理する時代に任那建国は無い。
東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
東夷九種は東夷9国となる。

280年から290年迄の東夷朝貢を省略。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
405唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/04(水) 14:38:35.26
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

274年の渡海は、大和が伊都国で行った警察行為を、半島にて行う。
晋の要請(命令)による渡海であり、三韓征伐とは、この地での警察行為を云う。
命令の実行は、天皇仲哀の死より優先する。
406太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 15:03:31.42
>>403 宿主

>晋書 正始元年 重譚納具

ところが

 邪馬台国ドンと来い 85
>56 唐松山 2011/03/16

>晋書 正始元年 【東倭】 重譚脳具

として 東倭 を今回都合が悪いので削って消している悪をやっている。ppp

奴は以前 東倭 を畿内だと強行して主張していたのだ。

同>56のその後の文

>神功の渡海は274年 倭国統一から20年ほど後。晋の要請による渡海であれば
> 東夷の親玉 として君臨・・・

と、畿内の神功を 東夷の親玉 だと言っており、九州説をここでも否定して
たということで、奴は東夷を畿内だと考えていたわけだ。

それが>>395では
>東夷とは、中国の都から見て東方周辺の国

だと、コインの表裏を換える手の平を返す如きインチキをご都合により平気で
やっているのだ。


また伊支馬が239年に幽霊で活動していたとまだ主張している。ww
407日本@名無史さん:2011/05/04(水) 18:35:55.36
誰か太松の専用スレを立てておくれ。うるさくてかなわん。
408日本@名無史さん:2011/05/04(水) 18:58:35.76
日本書紀考察スレって、ほぼ太国と唐松山しかいないから、あれを専用スレとして使えばいいと思う。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284823092/

むしろ、あっちでもこっちでも同じことやってるのが意味わからん。
409日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:54:07.72
>>407
太松をあなどってはいかんぞ。
専用スレ程度に押しこもるレベルではないわ。

どころか、2chだけで猛威を振ってる訳でもないぞ。
君もちょっと調べれば、ネット中あらゆるところで、
太松の大活躍を見ることができるであろう。
410日本@名無史さん:2011/05/04(水) 20:10:04.02
太松サガミはどこの掲示板でも恐れられているな。
411mirai:2011/05/04(水) 21:50:08.18
339の続きを書いてみます。
神武即位前紀を見ると、近畿での地位の優先順位は饒速日命(その正体は近畿の
有力豪族の首長長髓彦)―可美眞手命(長髓彦の子)―長髓彦(その正体は九州か
ら近畿に物部一族を率いて東遷してきた、物部の首長饒速日命)となります。こ
れを祟神天皇以下に続く天皇系譜にあてはめてみると、祟神(『紀』の饒速日命
)―垂仁(可美眞手命)―景行(『紀』の長髓彦)まで埋まります。そこで私はさら
に次のように推測してみます。
 祟神(『紀』長髓彦の妹を娶す)―垂仁(『紀』饒速日命の子可美眞手命)―景
行(『紀』長髓彦)―成務(『紀』長髓彦の子)―仲哀(『紀』長髓彦の姉を娶す)
というようにです。成務紀にはその記載記事の少ないことから、成務天皇の行
動は、同じ景行天皇(『紀』長髓彦)の御子日本武尊(『紀』長髓彦の子)の行動
として記されていたと見ます。景行天皇の「大足彦」、大きい足ならば長い髓
(すね)を持つということで「長髓彦」であると考えても良いのでは、と思って
います。その御子ならば「稚足彦」とされるのもうなづけます。
そして祟神、それ以下に続く四天皇が同一時期に存在したとすれば、祟神紀の
倭迹迹日百襲姫命、景行紀の倭姫命と神夏磯媛、仲哀紀の神功皇后は、同じ一
人の女性が各天皇及び記事ごとに名を変えていたと考えられます。
412日本@名無史さん:2011/05/04(水) 21:52:45.36
>>411
おまえのファンタジー小説に興味はない。
413サガミハラハラ:2011/05/04(水) 22:00:25.55
>>410 私もですか? 控え目におとなしくやってるつもりですが。
414日本@名無史さん:2011/05/05(木) 01:39:07.74
雲で真っ暗になるって、
曇りを通り過ぎて大雨だな。
普通、大雨とか嵐とか記述するだろ。

火山の噴煙なら地層に証拠が残る。
これも普通、火山の噴火と記述するしな。
415日本@名無史さん:2011/05/05(木) 03:51:34.51
>>414
噴火を認識できないくらい離れた火山の噴煙が流れて来たとも考えられる。
アイスランドの火山噴火の噴煙でヨーロッパが日照不足になり、
飢饉が発生してフランス革命が起こったという。
416日本@名無史さん:2011/05/05(木) 07:25:33.78
核戦争があったんだろう
417サガミハラハラ:2011/05/05(木) 08:13:23.38
確かに火山爆発の影響で飢饉が起こったりするが、夜と間違えるほど暗くはならないよ。
(火山のちかくでなければ)。
418日本@名無史さん:2011/05/05(木) 09:29:01.48
しかし、日食で何日も暗くなるなんてことも無いしな
419日本@名無史さん:2011/05/05(木) 09:38:19.49
真っ暗でも、日照不足でも、
噴煙が地層に残る。
だから、
噴火があったというなら、とっくに地層で調査されてる
420太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 11:00:41.56
サガミハラハラさん
日食は数日間も継続しない。これは太陽、月、地球に極度の異変等が
あり、またその大きさが大きくなったとか太陽、月等の間の距離が大きく
変わったとか公転、自転などでデカイ異変が出来た等の人類の生死に
関わるくらいの天体の大異変が起こらない限り、これは絶対の鉄則だ。

貴方はまるで原発事故前の東電関係者の原発絶対安全だとかいう主張同然
の書きこみが、夜と間違えるほど暗くはならないという言い草だよ。
貴方の経験則の中で未体験だということが否定に回ってるだけのことで
あり、夜と間違えるほど暗くはならないというのは相対的不生起の考察
であるわけで、今、日本のだれもが未体験だった大地震からの原発四つ
の炉の大事故が起こる前は起こるわけがないと貴方が言ってるような
もので、説得力はない。
421唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/05(木) 13:32:42.58
あづないの罪 という名前のある出来事であり、
神功一行はそれを知らない。近くの村の老人は知っていた。
422サガミハラハラ:2011/05/05(木) 13:46:28.20
前にも言ったが、古代の古い時代の人は数分しか続かない日蝕現象を数日つづいたように誇張して伝承してきたのです。それが証拠に古代の古い時代の日蝕現象の伝承で、実際の数分ぐらい(当時は時間に分などなかったが)
しかつづかなかったような伝承がありますかといってるわけです。
ないということは古代の古い時代の人達は、数分しか続かない日蝕現象を、数日間も続いたように誇張して伝承するのがあたりまえだということになるわけです。
423太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 13:54:28.77
>>422
>誇張
そんな根拠、古文献がどこにあるのかね?
そういうのがあるなら、あなたが先に提示するでしょう?
それが出せないなら、あなたの恣意的採択だね。
424唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/05(木) 14:43:31.38
「已經多日」を「すでに日(昼間)を多く経る」と読む。これでは説明不足であるから
即ち「日夜有別」で同じ事を説明している「日(昼間)を夜(闇)が別ける」。
「日々を夜が別ける」は通常の出来事であり記事に出来ない。
「已經多日。」終止符が付いているから、これだけで独立した事象である。
晝暗如夜。=已經多日。=常夜行之也。=日暉炳。=日夜有別。=あづないの罪。
全てが独立しており、同一の出来事を表す。
勝手に終止符を取って、連続文とする事はできない。
425太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 14:54:21.13
宿主

日食は常夜にはなりえない。
たかが、数分の暗黒だ。

ということは、日を経て とは、まともに数日間経過したとの真面目な
記述だ。うっちゃりなんかの記事ではな〜い。

つまり 常夜 という語が文字そのまま、日を経て の記述が数日間経過
したとの意味の補強になっている。すなに読み下すのが正解だという
ことだ。日を経てとは 刻を経て、分を経て の意味でないことが 常夜
の語句ではっきりしている。

つまりこれを日食だという奴は、ニガクリタケをクリタケだとか軽はずみ
に主張する重大なる過失であって、こういうことを.強行するオマエは
 過失致史消 たる大きな過ちである

日食だとは、今回の焼肉毒死傷事件から古代史的猛毒食論そのもの。><

宿主よ。もう2ちゃんのスレ民を騙すのはよすんだな。
426サガミハラハラ:2011/05/05(木) 15:32:50.01
文献ですか?古事記日本書紀です。
記録者は、伝承者の言葉をそのまま、または意味を変えずに記録したのです。
427唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/05(木) 15:37:46.77
晝暗如夜。=あづないの罪。
已經多日。=あづないの罪。≠数日。
常夜行之也。=あづないの罪。≠普通の夜
則日暉炳。=あづないの罪。
日夜有別。=あづないの罪。≠数日。

全てが独立しており、あづないの罪で説明出来なければならない。
晝暗如夜。=あづないの罪。=日食による闇(夜)
已經多日。=あづないの罪。=1日(昼間)の間に闇(夜)が入る
常夜行之也。=あづないの罪。=常の夜行(天体の行)なり(昼間に起こるから罪)
則日暉炳。=あづないの罪。=日のカゲがきらめく=日食
日夜有別。=あづないの罪。=日(昼間)を夜(闇)が別ける。

あづないの罪=日食(全食又はそれにに近い)。
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 17:14:26.60
日食は犯罪ではな〜い。日食は天文現象であり、これは犯罪ではない。

どうだ〜精神病院へ駆け込んだか〜?pp

>>426
全然抽象的で説得力はな〜い。
サガミハラハラさんよ。貴方は教師なんだから、学的に裏づけのないこと
を、抽象的言い草で糊塗し、誤魔化すことは好ましくないぜ。唐松山
より妄想度が少ない貴方が、こんないい加減な言いわけで、日食でも
ないことを日食にすんなよ。こんなんじゃぁ〜、教職免許を返上せねば
ならんぞ。
429太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 17:36:27.49
ホツマ伝は、そんじょそこいらの昔のただのオッサンが妄想放射脳を
恣意的に挿入して書いた危険史想の書。

ホツマ伝とは妄想放射脳を発する「唐松山原史力・ホツ伝書」たる
危険史想の書である。各々方はこのイカサマ説から各位の脳を防備
することが妄想放射脳の危険回避に繋がる。

数日間日食が続くと奴が言う紀の神功元年前年の記事からの同説は危険で
あるからして、ニガクリタケをクリタケだとするのと同然の奴の
インチキ説であり、シッカリ否定出来るのが 日を経て の記述であり、
これを奴は日食だと猛毒説お勧めの重大なる過失論を放射している。

また紀のそこの文には 常夜 とあり、日食は最大数分間の暗黒であること
が現代天文学の鉄則であり、ホツマの放射脳から各位の脳を護る文が
この 常夜 の文字である。数分間の日食では 常夜 だとはとても
とても言い難いほと短時間なり。

昨日今日、猛毒肉で3人が死亡した過失致死傷事件で、ケーサツは
捜査本部を設置した。相似たニガクリタケをクリタケだとして第三者等
に食して死なすと、当然捜査本部設置事件で捜査が開始される。天空の
暗黒を書く紀のここの文は日食と相似てはいるが、日食ではない。
日食説とは今回の毒肉食を食べる勧め同然の紀見なインチキであり、
唐松山に絶対騙されてはならない。
430日本@名無史さん:2011/05/05(木) 19:14:39.96
そのころ中国では日食の原理が判っていて、日食の予測も出来ていた。
中国と付き合っていた邪馬台国内でも原理までは解っていなくても、その事で責任を取らされたなんてバカな話はないだろう。
431日本@名無史さん:2011/05/05(木) 19:35:48.77
そういえば、三国志の中に、
日食の予想がはずれて、予報官に責任をとらすのとらさないの
という一幕があったな。
432:2011/05/05(木) 19:39:47.53
>>403
卑弥呼の活躍したの時代とは、
私や太国がいうように「崇神時代」なのか? 
唐さんがいう「景行時代」なのか?
少し考えて見ましょう。
上のほうでも書きましたが・・・・卑弥呼の死の際には、殉葬を行っているようで・・・
この殉葬というのは、後代でいう人柱とか該当するのでしょうかねえ。
日本文献でみると古事記や日本書紀の崇神条、はたまた垂仁条にあるんでしたっけ。
考古学で言うと殉葬の代わりとした人物埴輪が仁徳天皇時代らへんからでしたっけ・・・

ここからいえることは、景行時代よりも崇神時代のがその可能性は高いのではなかろうか?
433:2011/05/05(木) 19:49:13.20
日本国家の誕生というのは、紀元前二、三世紀からその芽が出来始まり
皆さんの扱っている三世紀の卑弥呼の時代、四世紀の応神・仁徳天皇時代、を経て
五世紀の雄略天皇時代、七世紀の天智・天武・持統天皇の時代にほぼ完成させてるんであって、
その間には長い年月が流れておる。
たとえば、「日本」「天皇」という言葉が始めて使われだしたのが、670年だったかな、
記録上では、天智・天武天皇の時代にこの称号がもちらレル用になったといわれている。
噂では、推古天皇や聖徳太子のころには既にあったという説もあrことはあるんですけどねえ。
434:2011/05/05(木) 19:57:22.66
んで、邪馬台国の字は〜こりゃ「ヤマト」のことなんですけど・・・・
古事記や日本書紀をみるかぎりでは、「倭」という字をヤマトとよんでいたらしい。

たとえば、日本書紀では倭迹迹日百襲媛命ですが、
古事記になると「倭」を「夜麻登」登母母曾毘売命 とよんでいる。
この前読んだ本にもこのことが書いており、倭=ヤマトという当時の日本列島人では
常識なことが現在では、倭=九州王朝 だとか間違った解釈がなされてるのは悲しいですよね。
435:2011/05/05(木) 20:08:30.70
私は<ひさびさに実家に帰って(仕事から解放)ねえ。
暇だったので戦国武将の本をデスね・・・少しばかし読んでいたんですよ。

天下統一のために各豪族が争うんですけど、いつの時代も上下関係といいますが、
頭を下げたくない、人の命令を聞きたくない、人の上に立ちたいとかで
争いが起きるわけですよ。
政略結婚、時と場合には上長の命令で、自らの妻を上長に差し出したり(女を抱かせる)、
その妻・子を上長の命令で嫌々ながら殺したりするわけですよ・・・

いや、いや、昔の一夫多妻制が羨ましい〜と思うかも知れませんが、
そこには勝者(争って勝ったもの)が許されてるんであって、
昔の社会は、現在の平和な社会では考えられない世の中だったのかもしれません。
なんせ〜上長に自分の女を抱かせないと「切腹」なんて話もたまに聞きますからねえ・・・
邪馬台国時代というのも、現在の社会というよりもちょっと前(戦国時代)とかの
厳しい社会と似たような感じなのかもしれませんよね。
436日本@名無史さん:2011/05/05(木) 20:23:01.26
ちょっと邪馬台国本の批判をさせて貰いますが、
私の邪馬台国なんとか・・・・というタイトルの本を高い金を払って
購入したんですけど、もうねえ、ヒドイ!(><)ってモンじゃない!
まるっきり素人集団の集まりが、寄って集って『共著』というんですか、
デタラメばかり書いてあって、せっかく高い金を払って購入したにもかかわらず、
途中で読むのを辞めてしまったのですよ(ムカつき過ぎて)w
みなさんもそんな経験ありませんか?w
437唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/05(木) 20:30:02.77
100人の殉葬を指すならば
久留米祇園山古墳しかない。しかしこの古墳は景行が行宮を置いた時代であり
男王の死亡と重なる。
438日本@名無史さん:2011/05/05(木) 20:40:45.41
>>436
だから本は最初から買わないのですが、
サイトでもムカつき過ぎて読むのを辞めることがあります。
439唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/05(木) 22:00:34.17
>>436
でもね 読まなきゃ何にも解らない。そしてメチャクチャな論?が書かれている。
そこで、本を反面教師として、何がおかしいか?を考える。
しかし、全てがおかしいから、とっかかりがない。
440サガミハラハラ:2011/05/05(木) 22:12:51.71
ところで太国さん、倍歴とも関係するのではと気付いたんですが、歩測の件ですが、
日本の一歩は中国の半分、つまり中国の一足ですよね。これ年を倍にしたのと関係あるでしょかね?
441太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 22:16:43.27
そこまでは分からんね?

歩罡(罡斗の足どり)はどうなんだろう?

今日は遅いから、明日でも道教事典でも調べてみるかね?
載ってないかな?
442太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/05(木) 22:23:59.70
中国というより、日本古来の秘密たる ウラゴト(卜事) には歩みが
年代と関わることは知っている。実地の歩行の意味ではないがね。
歩行といえば歩行だから、歩罡とどうにか意味合いが通じる。
それで、おそらくそれがし以外は知ってる奴はいないだろう。

それをやると、崇神が卑弥呼の年代だという秘密が明解に分かるのだ。
つまり、それがしは最初から古代史の重要個所の答えを見ているんだよ。
それは秘密の 卜占 のやり方を知った奴が分かるものだ。
443:2011/05/05(木) 22:59:14.25
>>436
私も購入しようかと考えてましたが、幸い図書館にあったので
読んでみましたが、パラパラめくって5分ほどで終わりました。
なるべく図書館を利用するつもりです。
今、予約待ちが7冊有ります。
444日本@名無史さん:2011/05/06(金) 04:16:16.97
倭の五王の時代にも、倭王武が中国の皇帝におくった上奏文では
私の先祖は東に西に勢力を拡大させ、
海を北にこえて勢力を広げたとか言っているから
普通に、ヤマト王権というのは、近畿を中心にして勢力を拡大させたんだよ。
九州から東遷してはいないし、その意味が分らない。

でも、記紀には神武東征伝承とかあるんだよな。
しかし、あれよく読んでみたら、神武東征よりも前に
出雲国譲りがあって、ヤマト王権の先祖が全国を統一しているんだよ。
その内容をよく読んだら、出雲国譲りとは
出雲VS畿内の戦争なんだ。
これだと、倭王武の上奏文の記述は正しいことになる。
445日本@名無史さん:2011/05/06(金) 04:30:43.82
畿内から海を北に越えて何処にたどり着いたんだよ?東西、海を北越の基準点w
446日本@名無史さん:2011/05/06(金) 04:51:41.32
>>445
朝鮮半島へ軍事介入したこと言っているんだろうが...

ここで、注意しておかねばいけないのは、
神武天皇とか崇神天皇とかいう名前は、記紀の原文には書かれていなくて
記紀が編纂されて数十年後に後から送られた漢風諱号だということ。
漢風諱号をみていると、この人物は絶対に天皇だという固定観念で見てしまうが
和風諱号でみたら、必ずしも、そういう断定した見方が出来なくなる。

447日本@名無史さん:2011/05/06(金) 05:17:07.99
先祖の話だからそこに無い方角から来たんじゃないのかよ?w
448日本@名無史さん:2011/05/06(金) 08:01:16.76
>>447
日本語で話せ。何が言いたいのか、よく分らん。
449日本@名無史さん:2011/05/06(金) 08:05:03.04
なかなか、2ちゃんで文字だけで語っても
イマイチ説がつかんだろう?
450日本@名無史さん:2011/05/06(金) 08:51:42.80
>>448
「海を北に越えて」が可笑しな表現だと言ってんのよ。御先祖の話しにしろテメェの話しにしろ。畿内にルーツ性を持つ集団が朝鮮半島を「海を越えた北」だと認識出来るのか?
451唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/06(金) 18:26:34.21
ホ34252 ムソヰホフヅキ 崇神65年
ミマナクニ ソナカシチして 任那国 ソナカシチして
ミツギなす そのミチノリは 貢ぎなす その道程は
ツクシより キタえフチノリ 筑紫より 北え 2000里
ウミへだて シラキのツサぞ 海隔て 新羅の南西ぞ。

キ=東、ツ=南、サ=西、ネ=北。
452太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/06(金) 18:48:43.62
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

なお、ホツマは昔のそこいらにいるタダのおっさんが恣意的妄想を
注入して書いた文であり、妄想入りということは信用性が極度に低下
せざるを得ず、さらに危険史想の書。
453日本@名無史さん:2011/05/06(金) 19:05:45.60
おまいら隔離スレから出てくるんじゃない
454日本@名無史さん:2011/05/06(金) 20:25:32.38
>>453
この終止符スレが太国と唐松山の隔離スレではないのか?
455日本@名無史さん:2011/05/06(金) 20:59:05.28
この狂信者二人は古代史スレどこにでも出没するから、油断がならない。
456日本@名無史さん:2011/05/06(金) 21:02:05.89
>>455
だから同一人物なんだってば。両面宿禰だ。
457唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/06(金) 21:55:59.23
いやあ〜 >>452 が何度同じ事を書き込むか?見ているんだ。
同一の書き込みは、みんなの迷惑。
458唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 07:33:11.08
欽明天皇二年(五四一)四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。…
恐致卓淳等禍。〈等謂喙己呑加羅。言卓淳等國有敗亡之禍。〉
聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使相通。

速古王(近肖古王)。貴首王之世。 この時代に半島占拠。
安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使相通。
323年 神功49年 半島占拠。
323年 仁徳天皇十一年(癸未三二三)是歳。新羅人朝貢。則勞於是役。
324年 仁徳天皇十二年(甲申三二四)秋七月辛未朔癸酉。高麗國貢鐵盾。鐵的。
541年 大不孫(大不遜)。
呑加羅。 加羅の王子が新羅に降る。さすれば、卓淳等國有敗亡之禍。

三國遺事卷二 より
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅 209年 伽耶に援軍。(新羅本紀+1年が正しければ、211年任那建国で数字はピタリ)

七支刀369年。この数字で半島占拠が成立しなければ、百済本記に間違いがある。
まあ この数字で半島占拠が成立することは無いだろうが。
459サガミハラハラ:2011/05/07(土) 08:02:22.81
あー、その本ねー。わたしも一緒にとさそわれましたが、おことわりしました。
けどひきうけていれば、このような悪評はなかったかもしれません。私の部分はいいことがかいてある。かっくて気にして邪馬台国論争にきわめて有意義な一石を投じるものだと。
460日本@名無史さん:2011/05/07(土) 08:07:03.19
かっくて気
461サガミハラハラ:2011/05/07(土) 08:34:43.70
かっくて気→画期的のタッチミスでした。

462太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 09:40:04.46
>>457
>同一の書き込み

オマエは曲学の徒氏の板に、>>458 と同一書きこみをしている。
迷惑だというオマエこそがそういうことをしてるわけだ。
ふざけるな!><
463唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 10:46:59.79
ホ27067 フトタマの マコミカシヤを ツマとして ウマシマチうむ
ナガスネは ヲモノトミなり
ホ29015 ナガスネが まゝにふるえば さわがしく ハラノオキミは
カテとゝむ かれにナガスネ フネとゝむ ヲヲモノヌシが うたんとす

ホ34187  キミトミと はかればいわく クニフクの マゴシホノリツ
これよしぞ カフべのミコブ マツノキミ セイヒタケヰタ
ヤソチカラ いさみはげしく ミコトのり シホノリヒコを
ミマナオシ ゆきとくにむく ミチツカサ かえればよしと
カハネたまひき

長脛彦は、大物主の臣であり、ニギハヤヒ(天皇の臣)と共に
筑紫を出奔する。(天磐船から飛び降りる)
任那建国の副えとして、国葺の孫ホシノリツが選ばれ、姓(かばね)を
賜り、ホシノリヒコを名乗る。
“彦”のつく、現地人はいない。
神武東征前に、大物主がナガスネを討とうとして、軍を差し向けるが
成功せず、神武軍がそれを達成する。
大物主は近江に入植し、神武は大和南部に入植する。
畿内全体に、九州からの入植者がある。ここが弥生中期と後期の分かれ目
となる。
464太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 10:56:19.74
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

ホツマ伝は〜景行が初代で日本統一したなどというイカサマを主張し
正史を踏みにじる危険史想であるからして、シッカリと正史を護らねば
ならず、こやつからのこのイカサマ論を完全に葬るべきなのだ。

なお日本統一は記紀成立直前のころであり、初代は神武であり、神武
こそが初代なのである。皇宗は神武であり、景行は日本永劫にわたって
皇宗には絶対にならない。
465唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 12:04:56.51
>なお日本統一は記紀成立直前のころであり、

前方後円墳の全国展開は、大和が全国を統一した証拠である。
その統一は、箸墓築造直前である。
福岡西新町遺跡の庄内式土器は、箸墓(布留0式)の前である証拠であり
同遺跡の布留式土器は、神功渡海の証拠であり、半島の土器がそれを物語る。
神功渡海により、意気、対馬の渡海ルートは大和に押さえられ、九州王朝のカゲもない。

541年伽耶が新羅に降る。ここから製鉄が日本国内で始まる指標である。
まあ3世紀半ばから後に九州王朝は存在しない。だからこの時期の遺跡で”九州王朝”と
出来る遺跡は皆無である。
年号が存在すると主張しても、数字が振れなければ、意味不明の熟語でしかない。

箸墓の体積はホケノ山古墳の20倍である。つまり築造には、ホケノ山の20倍以上の労働力を
動員した。
ホケノ山は、削りだし。箸墓は全てを盛り上げる。労働力は20倍ではきかない。
最初の大王墓である。
466太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 12:55:45.79
そなものは証拠にはならない。九州王朝でもそんな陵墓くらい造れる。
467太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 13:00:29.29
遺跡は今回の大震災等の災害、人為的荒し、盗掘等で消える可能性は
充分在る訳で、表見的での皆無は遺跡がないということにはならない。
468日本@名無史さん:2011/05/07(土) 13:15:50.67
>>465
>541年伽耶が新羅に降る。ここから製鉄が日本国内で始まる指標である

とんでもない。納得できない。

たとえば、あのワカタケルの鉄剣の通説が「辛亥年 471年」だからねえ。
もっと前に、日本での製鉄は始まっているだろ。
でないと、半島への強い影響力や倭国大乱の歴史が成り立たない。
鉄=軍事力ということを忘れてはならない。

また、半島では鋳鉄しか作られていなかった。
「日本のまつろわぬ民(水澤龍樹著)」や「青銅の神の足跡(谷川健一著)」などの
資料によると、砂鉄から鋼を作る踏鞴吹きの製鉄は、江南から海の道により伝播したという。

半島南部から鋳鉄を輸入したことはあったが、半島から製鉄を学んだわけではない。
469日本@名無史さん:2011/05/07(土) 13:32:34.37
製鉄の炉跡は広島県小丸遺跡で3世紀代、ただし年代はまだ検証が必要。砂鉄ではなく
鉄鉱石を原料に使用。本格的に吉備で始まるのは確かに6世紀頃だけど。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51878267.html
470唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 15:36:16.66
国内で鉄がまかなえたのは、奈良時代になる。
3世紀代、に製鉄があったとしても成功はしていない。
調査報告書で「一基は鉄鉱石を使った三世紀の円形炉」と公表した。」
製鉄が成功していれば、単体でなく、炉も連続しなくてはならない。
471唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 16:09:41.80
>あのワカタケルの鉄剣の通説が「辛亥年 471年」だからねえ。
考古学が50年遡上した影響は、稲荷山鉄剣にも影響する。
大彦の孫、磐鹿六雁は景行に仕える。←この事実からも雄略時代になり得ない。
弥生墳墓の男性の葬儀は38歳程度をピークとする。世継ぎは19歳程度。

210年任那建国 大彦、武淳川
216年 任那より朝貢
239年 ホケノ山 この辺りより鉄の副葬 六雁、タカハシワケ
250年代 九州から関東、東北までが大和の領地となる 全国統一
263年 箸墓 景行の葬儀。鉄器の大量副葬の時代
274年 渡海 倭軍は半島で警察行為
323年 3月から半島占拠 この7月に新羅の朝貢。半島占拠に武力は最小限 百済建国
大量の民の渡来
342年 高句麗が前燕に大敗 これ以降高句麗、百済は前燕に帰順。平和な時代
巨大古墳築造の競争
370年前燕滅びる 372年百済王楽浪太守
400年前後 高句麗の南下 404年百済に高句麗軍が駐留 百済、新羅は高句麗の属国
413年 倭、高句麗は東晋に朝貢 百済王映は高句麗国に属す。
倭の領土は、伽耶と馬韓
雄略時代 ガイル王が駐留高句麗軍に挑むも敗戦 百済は領土を狭めて倭に従臣する
472太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 16:50:47.83
>>468
>辛亥年 471年
この年代が 獲加多支鹵大王=雄略天皇 と関わる事から、この銘文が
ある。

倍年暦法の計算では

 471年=雄略元年

を算出している。であるからして、雄略即位の年代を鉄剣銘文に入れ
たのは大王名からもハッキリしている。

ということは、 宿主 の主張が不整合のうわ言であることが自明に
分かるのだ。ww つまり 宿主 の編年がデタラメであることを
意味する。そして貴殿は 宿主 の不合理を指摘したということなのだ。
473唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 17:01:03.62
168年 ホ32138 ヰホセミナ ウチウツシコメ うむミコは ヤマトアエクニ ヲヲヒコぞ
196年 ナツキコカ ヲヲヒコをして コシのオシ
196年 タケヌナガハを  ホツマオシ
230年 垂仁?25年 タケヌガワケ   アヘタケヌガ 伊勢に入る 伊勢の風早国
247年 景行12年 ヲホのタケモロ 九州へ
256年 景行40年 日本武尊 関東遠征
257年 ミサシクニ サカムノクニと モトヒコに ナつけたまわる
ナもアツマモリ ヲホイソに ヤシロをたてゝ カミまつリ 
 カワアヒのノに ヲホミヤを たてゝまつらす ヒカワカミ
 イクサウツハは チチブヤマ
258年 景行53年ムツカリ カシハトモべと ナをたまふ ヲホヒコのマゴ イワカなり
261年 成務天皇 … 264年 仲哀天皇
273年 神功皇后… 323年 応神天皇
366年 仁徳天皇 … 400年 履中天皇
途中 略す。
457年 雄略天皇
意冨比こ→多加利足尼→弖巳加利獲居→多加披次獲居→多沙鬼獲居→半弖比→加差披余→乎獲居臣
168年→→188年→→→208年→→→→228年→→→→248年→→→268年→→288年→→308年
20年で繋ぐと こんなもの。
ムツカリは、現在 高橋神社に祀られている。
継体朝 笠原使主と同族小杵の争い。使主勝ち武蔵国造となる。
474太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/07(土) 17:24:53.44
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

「ホツマ伝」 の妄想は正史を破壊させる危険性を孕んでいる。

神功元年前年の記事は日食ではないことが、 日を経て という
数日間の暗黒を意味する語で確認できる。その記事の記述は一見、日食
に思えるが、日食は数日間も続かずたかが数分間の現象であるからして
日を経て にはなりえず、記事の 常夜 の形容には程遠いほど短時間
だ。つまり日食にはなりえない。

これを日食だと強行する 宿主 の言動は、まるでニガクリタケが
クリタケだと言い張っているも同然であり、このインチキは危険史想
の因たる 宿主 「原史力 ホツ伝書」の放射脳による危険な妄想の強固
な増幅から発せられるのだ。

「毒紀ノ古」を食すれば毒死するに至るほどの猛毒だ。

インチキな日食説は、今回の生食菌毒死事件を見て想い起こす危険な
史想であって、この食中毒は「妄想説での日食中毒」の危険性を成程と
各位の脳内に想い知らされる重要事件だ。

「月」は ニクヅキ の漢字たるツキヘンの漢字の出来を想起させ
られるが、宿主 からの強行「妄想日食説」は古代史論での「食中毒」
を産む危険な主張と観てよい。日食中毒から正常な脳を護られたい。
475唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/07(土) 19:02:18.95
天皇と大彦の系譜が同じなら、
意冨比こ→多加利足尼→弖巳加利獲居→多加披次獲居→多沙鬼獲居→半弖比→加差披余→乎獲居臣
開化→→崇神→→→→→垂仁→→→→→→景行→→→ 日本武尊→→→仲哀→→→応神→→→仁徳
476唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 09:41:31.65
>ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男 が〜

太国の主張を何故否定したか? それは、記事のみを動かした編年を正しいと主張したからだ。
記事のみを動かす事が正当なら、それは編年とは呼ばない。
いまだにその主張を捨て切れていない、だから 太国倍年は、編年では無い。

>日食は犯罪ではな〜い。日食は天文現象であり、これは犯罪ではない。
已經多日。=あづないの罪。≠数日。
則日暉炳。=あづないの罪。=日のカゲがきらめく=日食。
区読点がある。区読点を無視した読み方である。その区読点を無視しても出来事を特定出来
ていない。だから太国の主張は通らない。
日食は犯罪ではない、罰だ。あづないの罪に対する罰。

>「ホツマ伝」 の妄想は正史を破壊させる危険性を孕んでいる。
「ホツマ伝」と同じ長さの太陰暦として書紀を編年する。この主張を否定するためには
書紀の”正朔”の文字を無視する事により成立している。
”正朔”の文字を無視する理由を”後付け”と主張するが、書記の主張を”後付け”と
読んだら編年の正当性が疑われる。
つまり、太国倍年に正当性は無い。

これらを無視しても、
書記の主張=考古学の知見=文献で説明出来ればまだ良いが
太国の主張 「考古学は当てにならない」。「半島の文献は当てにならない」。
しかも中国の文献も使用しない。
もはや 太国倍年がよって立つものが何もない。

477唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 09:45:03.77
景行(240〜261年)この時代に倭国統一
ホ38314  フソヰホフミハ タケウチに ホヅマしるべの ミコトのり キタよりツガル
ヒタカミや カグのヤカタに ミチをきく
ホ38343 フソナキの ソミカもふさく ヒタカミは メオのコカミを アゲマキに 
ミをあやどりて いさみたつ すべてヱミシの クニこえて まつろはされば とるもよし 
クマソそむきて またをかす カナツキソミカ ミコトのり ヲウスミコして うたしむる 
ヲウスもうさく よきイテを あらはつれんと ミナもふす ミノのヲトヒコ ひいでたり
ホ38386 ツクしより フナチをかえる アナトキビ わたりあらふる モノころし
ホ38390 フソヤホの キサラギハツヒ マキムキの ミヤコにかえる
景行25年6月8日 武内宿禰に 関東東北の巡察を命ずる。
同27年9月13日 関東日高見 なども領土とすることを決定。その時熊襲がまた背いた
ので、小碓を九州に派遣。
その帰り道、吉備穴戸も平定する。
同28年2月1日纒向遺跡へ帰還。これにて西方は全て大和の領土と成る。

ホ39003 マキムキの ヒシロのヨソホ セミナツキ ホツマさわげば サカヲリの 
タケヒのぼりて ミカリこふ
ホ39017 ときヤマトタケ をたけびて ニシむけマなく またヒガシ
景行40年7月 酒折(甲府)から平定の準備が出来た知らせが届く(景行27年には
関東、東北の調略は決定事項)。
日本武尊は、伊勢で兵を整え、関東へ出発する。(景行28年=同40年)
478唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 09:47:06.24
続き
ホ38111 ヲホのタケモロ キのウナデ モノベナツハナ このミタリ
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ
まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ
よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ 
ヰオノにうつし つかえしむ
ホ38351 ヲウスもうさく よきイテを あらはつれんと ミナもふす ミノのヲトヒコ
ひいでたり カツラキミヤド つかわして めせばヲトヒコ イシウラの 
ヨコタテをよび タゴヰナギ チチカイナギを ひきつれて したがひゆけば
景行12年、景行の九州遠征に同行。大彦の武士(北陸)、紀伊、物部。
同20年 五百野姫と共に伊勢(武淳川の系)が九州へ。
同27年 小碓は美濃の兵を連れて、九州へ。

考古学:濃尾・伊勢湾沿岸の土器は、九州から関東まで広がる。
千葉県木更津市の高部30号・32号の前方後方墳形墓は、この様な動きに伴って現れる。
479太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/08(日) 10:51:45.80
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜また偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

日の影がきらめくのは、暗雲がいったん薄くなれば起こりうるから、
そんなものは日食の根拠に直接はならない。そんなのは傘雲でもあるわけ
で、木漏れ日の日の射すのもそれと同様のことだ。ということは
なおさら大暗雲の継続途中断続して、暗雲の薄いときに日光が大雲の間
から射したまでのことよ。

日を経て には常夜の語もわきにあり、到底数分間で終わる日食がここの
神功元年前年の文とはなりえない。つまりニガクリタケがまだクリタケ
だと強引に言い張っているスリヌケ論を書きこんでいるわけであり、
オマエの食中毒的妄想での日食中毒論の強引主張であって、これに利巧
な2ちゃんのスレ民は騙されない。オマエの過失は重大であり、当然
 矯正掃詐 でオマエの過失をここで咎める。

今回の生肉毒死事件で捜査本部が設置され、警察は強制捜査に乗り出し
た。これもズサンな食肉調理の行使が人間を過失致死傷に至らしめ
た重大な過失であろう。ホツマを生で脳内に入れこみ信じると、妄想の
部分が増幅されてインチキ論の強行主張となり、その重大な過失は
この書が 危険史想の書 だと認定されて然りであるのだ。

オマエに仮に弟子が出て編年の教授をしていてこれに弟子が気づけば、
まがい物と気がついて、弟子らは去っていきだろう。ww 弟子もこんな
論にいつまでも騙されるほど間抜けではない。日食説は成立にない。
480太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/08(日) 11:08:54.03
>>476
オマエはマヤの文献を使用しない。であるから倍暦行使の古代マヤ暦を
なおざりにした。オマエの編年は数字だけ出して単なる羅列に終始し一見
説明したふりをしたポーズをとっているが、その実体は全然説明が無く、
説明したふりの文の修飾にて無説明を説明したことにくらがえをやり、
カモフラージュして皆を欺いている。これでは餌をつけない釣りであり、
第三者(大魚)の説得(釣りにかかる)は得られない。つまり大魚は
無餌ではかからな〜い。

コチラは中国文献を使用している。オマエはマヤ文献を使用していない。
だからマヤの2倍暦(太陰暦 C)をなおざりにした。

梁書によれば 永元元年=499年 であり、紀の顕宗の年代とは14年差が
ある。このことは倍暦逆算により14年差が出るコチラの論が整合して
ることを意味する。おまけに倭人伝の239年が崇神年代になる論をコチラ
は展開済みであり、このことはコチラが中国文献の使用を意味する訳で、
オマエの使用しないという文は大ウソの糊塗であり、コチラの信用度
を故意に下落させる虚言をしたことになり、これは古代史論の悪事で
ある。ウソはやめるんだな。結局はオマエの信用度の下落に繋がるのだ。
481日本@名無史さん:2011/05/08(日) 16:03:31.91
>結局はオマエの信用度の下落に繋がるのだ。

太松の信用度は?信用している人手を挙げて!
482日本@名無史さん:2011/05/08(日) 17:15:59.35
2012年、人類滅亡が真実味を帯びてきた今日この頃、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか?
日本列島を太平洋に引きずり込み、低地にある世界の主要都市を一呑みにするような巨大津波が起これば、
マチュピチュを標高2000mまで隆起させるような地殻変動が過去になんども起きたことを納得することでしょう。
邪馬台国は、かつて九州と陸続きだった現在の沖縄付近にあったのだ。

483太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/08(日) 17:27:23.18
マヤの長期暦の13バクトゥンの完了の時ということですな。

女王国は九州ですね。
484唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 17:50:04.21
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永伸哉
、筆者は布留式期の箸墓古墳築造の画期性を重視してこれ以降を古
墳時代ととらえるため、庄内式期は弥生時代終末期という理解になる。庄
内式期の実年代は画文帯神獣鏡の年代観などからおおむね2世紀末から3
世紀半ばまでの60 〜 70 年程度と考えている(福永2001b)。

。久宝寺遺跡竜華地区では庄内式古段階から布留式古段
階の方丘系の墳墓が約60 基確認されており、このうち1基が前方後方形
の久宝寺44 号墳である(森屋・亀井編2007)。時期は庄内式末から布留式最古段階。
久宝寺南3号墓は一辺約8mの方形墓にごく短い突出部を付したもので布
留式最古段階(赤木ほか1987)(図3−H)。

久宝寺南1号墓(図2−F)は、墳丘の南半分が調査区域外にあるが、一
辺12 mあまりの方形主丘部に幅6.5 m、長さ4.5 mの方形の突出部を付け
た前方後方形のプランに復元でき、墳長は16 〜 17 m程度になる(一瀬編
1987)。主丘部のほぼ中央に、墳丘主軸を直交する方向で木棺直葬が検出
されている。副葬品は認められない。時期は後期末から庄内式最古段階前
後にさかのぼる。明確な突出部を有するものとしては大阪平野ではごく初
期の例である5)。

画文帯神獣鏡と同じく庄内式期に列島への流入が始まる上方作系獣帯鏡も
文様は簡素になっているが神獣鏡の仲間である。
485日本@名無史さん:2011/05/08(日) 18:06:02.68
>>482
もん太くん文体変わったね。
486唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 18:07:54.45
久宝寺南1号墓は、古式庄内式であり、タタネコが崇神に仕え始めた時代である。
久宝寺南3号墓は、日本武尊九州遠征ころの墳墓。
魏から銅鏡下賜は、正始元年(240年) 景行(240〜261年)

庄内式は2世紀末から6,70年。箸墓(布留0式)をもって古墳時代に突入。
崇神11年から景行崩御までが庄内式であり、景行時代に全国統一。
259年頃 九州王朝は大和に吸収される。
487唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 18:20:00.39
 庄内式〜布留式古段階の周溝墓群が広がる大阪市加美遺跡(図3−J)
では、46 基が調査された。22 号墓が円形プランの周溝を持つほかは、方
丘系で占められている。突出部を持つものは庄内式新段階の14 号墓で、
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係
墳丘は長さ15 m前後の前方後方形になる(田中1986)。埋葬施設は削平
を受けており不詳である。加美遺跡において埋葬施設が残存していた方形
墓の中には副葬品を持つものが2基ある。2号墓は一辺8m程度、舶載内
行花文鏡片と管玉を副葬する庄内式期の方形墓である。

日本武尊の墓は、伊勢能褒野、大和、河内の3ヶ所、前方後方墳が
河内と東海地方に多く分布する。
488唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 18:38:40.18
庄内式期の摂津では六甲南麓から猪名川、
淀川の流域に至るほぼ全域で円形墓が著しく卓越していることがわかる。
大阪平野の円丘系の墳墓は、弥生時代後期以降に中部〜東部瀬戸内方面からの影響
により登場したと考えられる(岸本道1999)。その意味では、大阪平野の
北西部に位置する摂津地域が西からの影響を受けやすく、よって円丘系の
墳墓が普及したという説明も一応は可能である。しかし、弥生中期までに
方形周溝墓を普遍的に営んでいた摂津地域の集団が円丘系の墳墓スタイル
を採用するにはそれなりの意志が働いたことであろうし、

173年ツノガアラシト来日、210年任那建国、216年任那より朝貢
円丘系の墳墓は、伽耶の影響か?
489唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 18:42:35.93
 庄内式期の畿内において、最も有力な円丘系首長墓を築いたのが大和盆
地東南部であることは、桜井市ホケノ山墳墓(橿考研編2001)や一連の
纏向墳墓群の調査(橋本編2006 ほか)によって実証的にも疑いのない事
実となった。円丘系墳墓の伝統のなかった大和盆地東南部では、この時期
に至って首長層が円丘に突出部を付けた前方後円形の厚葬墓を築造する動
きを開始する。そして、こうした墳墓形態に着目するなら、前方後円形の
有力墳墓の築造が続く大和盆地東南部と親縁性が認められるのは、大和川
を介して連結する河内地域ではなく、意外にも北部の摂津地域であったと
いう理解が導かれるのである。
490唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/08(日) 18:51:27.60
 中・南河内では、1期の前方後円墳が不在であるだけでなく、2期になって登場
する地域最古の前方後円墳も富田林市真名井古墳、柏原市玉手山9号墳な
どのように墳長60 m台のものにとどまっており、大和盆地東南部の前方
後円墳はもとより、山城南部、摂津、そして吉備などと比較しても規模が
小さいことは否めない事実である。
 摂津の状況はこれとは対照的である。淀川流域の高槻市岡本山古墳(120
m)、六甲南麓の神戸市西求女塚古墳(95 m)などのように1期から100
m級の前方後円(方)墳の築造が開始される。後者は発掘調査が行われて
三角縁神獣鏡7面、革綴冑の可能性がある小札片などが確認されており、
初期大和政権と関連の深い威信財を持つ重要古墳であることが判明してい
る8)。

神功元年の内戦は、渡海派と残留組に別れる。
以後40年間の記述は極めて少ない。
491太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/08(日) 19:20:50.79
>>486 宿主

239年=景初3年 に、伊支馬が幽霊で活動してたんだそうだね。ppp
492唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/09(月) 20:37:39.50
 北河内では、天野川東岸の交野台地西端に立地する枚方市中宮ドンバ遺
跡が重要であり、平野部からの比高約30 mの丘陵上に、周溝を持つ方形
墓が2基ならんで検出されている(大竹1988)(図4−M)。北の1号墓
は南北約22 m、東西約18 m、周溝幅約3mの大型方形墓で、周溝の1カ
所に陸橋部を設ける構造、南の2号墓は南北8.8 m、東西推定約9mの規
模である。1号墓の中心には組合せ式木棺を直葬した埋葬施設があり、棺
内から鉄剣1、鉄ヤリガンナ1、棺底からやや浮いた状態で超大型の柳葉
式鉄鏃2などの副葬品が検出された。後者は棺蓋上に置かれていた可能性
がある。時期は、2号墓周溝から出土した加飾二重口縁壺などから庄内式
新相と判断される。

庄内式新相(箸墓直前)において、
鉄器は副葬時代に入っている。つまり鉄の需要を満たした上での副葬である。
240〜50年代には、鉄の副葬がかなり一般化する兆候がある。
任那建国、同朝貢はこれ以前でなければ、鉄の説明ができない。

庄内式新相から布留式土器は福岡西新町遺跡の主要土器である。
庄内式の時代に九州北部へ進出する大和朝廷。
土器の編年は、鏡の編年からも正当性がある。
だから考古学の数字は正しい。

布留式の時代、河内は衰退し、摂津はそのまま繁栄する。=神功渡海後の内戦
その後河内に巨大古墳が造られる。=323年半島占拠の結果。
巨大古墳の終焉。=高句麗の南下。
493日本@名無史さん:2011/05/09(月) 23:08:49.48
494日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:00:25.08
>>463
ニギハヤヒ
ハラ宮(富士)→アスカ
495日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:05:32.94
ナガスネヒコ
大和
496サガミハラハラ:2011/05/11(水) 10:06:39.79
ところで倭王の名前についての一考
卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼について
卑弥呼卑弥弓呼
どちらにも卑弥がついています。
こういう場合、卑弥は名前というより、美称といったほうがいいでしょう。
497奇跡の伊作:2011/05/11(水) 10:13:13.90
○○ヒコ、○○ヒメと、
倭人支配層や有力者の子女が用いた命名法の典型的な実例だと思うがなー。

しかも、二人は「素不和」だよ。
素は、本や舊の「もともと・かつては・むかしんら」とは違って、
もっと根源的な意味をもつ。
ここは、誰しも触れたがらないアンタッチャブルの世界のようだが、
俺ははっきり、こみう名言してきた。

二人は血縁関係にあったはずだ。
498サガミハラハラ:2011/05/11(水) 10:36:04.28
となると女王の本名は呼で男王の本名は弓呼となります。

ところで話は跳んで、倭人伝には官と王が出てきますよね。
この違いはなんでしょうか?
官と王ではどちらが偉い。
行程記事の中で官の名はでてきますが王の名はでてきませんよね。
そして、狗奴国だけが王の名がでてくる。そして官もあり、狗古智卑狗という名が登場する。
499奇跡の伊作:2011/05/11(水) 10:37:34.48
>>497  誤植だらけを・ていせい

○○ヒコ、○○ヒメと、
倭人支配層や有力者が子女に用いた命名法の典型的な実例だと思うがなー。

しかも、二人は「素不和」だよ。
素は、本や舊の「もともと・かつては・むかしから」とは違って、
もっと根源的な意味をもつ。
ここは、誰しも触れたがらないアンタッチャブルの世界のようだが、
俺ははっきり、こう明言してきた。

二人は血縁関係にあったはずだ。
500奇跡の伊作:2011/05/11(水) 10:45:52.55
>>498
>となると女王の本名は呼で男王の本名は弓呼となります。
オタク。相当にデキの悪いしとのようだね。
本名てなに? 姓名込みの名なのか、名だけなのか。
それすら議論する必要があるはずだが。

>官と王ではどちらが偉い。
やはり。相当にデキの悪いしとだ。

>行程記事の中で官の名はでてきますが王の名はでてきませんよね。
ちゅこく人がやってきた当時は、卑弥呼と卑弥弓呼以外に王はいなかったの。

>狗奴国だけが王の名がでてくる。
あるとき、王を号して女王に属しなくなったの。

>そして官もあり、狗古智卑狗という名が登場する。
狗奴国は王を戴く国だから、その国に官がいたのは当然なの。
狗奴国の王が狗奴国に置いた官なの。

これを女王が任命した官だと思うと、オタクのような愚問が芽生えるわけで。
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/11(水) 11:30:50.46
魏の東夷隷属手法として
東夷を9種とし、その頂点に王を置く
例えば小国の王を邑君、邑長。その頂点に辰王を置く。
倭国においては、頂点に女王卑弥呼を置き、小国の王を”官”と記載する。

女王卑弥呼は乱の国々の代表である。当然卑弥呼共立に加わらない勢力も存在する。
この状態で倭国を隷属させることは出来ない。
魏は倭国統一とその隷属を求める。それが黄旛の下賜となり
卑弥呼、男王の死、そして壹與を立てて乱の終息。
乱の終息は倭国統一を表す。箸墓は倭国統一のシンボルである。
だから考古学は、箸墓を最初の大王と表記する。

けっして九州内、または畿内のみの出来事では無い。
箸墓(布留0)の前、庄内式は2世紀末から6,70年である。
倭国統一が庄内式の最後に達成される。福岡西新町遺跡の庄内式は、その時代の遺物である。
書紀で云えば、景行時代であり、この時代(崇神時代として)に任那建国は無い。
502:2011/05/11(水) 11:46:22.12
>卑弥呼と卑弥弓呼?

親せき同士かも知れないね
ゲンコムシじゃないけど〜陳寿さんは読んでいる人に
わかりやすく、その漢字をあてた。

>官と王ではどちらが偉い。

政治体制にもよるんだろうが・・・・基本的に官より王様のほうが偉いのは当たり前。
503:2011/05/11(水) 11:54:29.55
唐さんが、箸墓の被葬者が最初の大王言ってるが・・・・
箸墓の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命で彼女の墓は奈良県の纏向遺跡にありますよね。
彼女が活躍した年代は三世紀っていわれており、邪馬台国の女王卑弥呼と同一人物説が根強くある。

邪馬台国時代というのは日本建国にとって重要な関わりがあって
この卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命はゆるがないものだろうね。
504日本@名無史さん:2011/05/11(水) 11:58:09.21
>倭国においては、頂点に女王卑弥呼を置き、小国の王を”官”と記載する。

>官と王ではどちらが偉い。

王は国のトップ。主権者のことだ。これがいなければ独立の国にはなれない。
官というのは、王から任命されて王に代わって政治に当たる人。つまりは役人。
倭人伝が書いているのは、大臣クラスの官だけだが、実際には官は大勢いる。


505:2011/05/11(水) 12:01:07.79
>>504
あのね。
倭国には王様っていうのが3人いるんだよ
相模氏はその3人の王と官とをくらべたんじゃないかな。
506:2011/05/11(水) 12:12:43.98
話は変わるが・・・おめーら「主任」って役職あるべ?
あれ、カッチョコいいべか?ショベーよな?

「王」と「官」にしても、この現在の役職とにたようで
一概にどちらが上位か・・・・その当時の人々に聞いてからじゃないとわかりましゃえんゎんw
507日本@名無史さん:2011/05/11(水) 12:57:09.27
>倭国には王様っていうのが3人いるんだよ
3人しかいないと思ってるんだろ。30国あるからには30人いるんだよ。
後漢書にだってそう書いてあるだろ。

508日本@名無史さん:2011/05/11(水) 13:24:01.62
歴史読本??だったかなんか、魏志倭人伝からよみとく
卑弥呼の時代の倭国の政治制度では
祭祀を行う倭王と、実際の政治を行う男弟の
並立体制みたいな図解で説明してあったぞ。
これって、モモソ媛命とミマキイリ彦(崇神天皇)の二元体制のまんま。

この体制を、西暦8世紀の人間が
どのように記そうとしたのか、気になる。
西暦8世紀は、律令体制の導入時期であり
一人の天皇による絶対体制をしいた時期だから。
509卑彌呼の都は筑紫平野:2011/05/11(水) 14:06:52.28
會稽の海外には東鯷人がいた。
會稽の海中にも島々がある。舟山群島である。

一方、會稽(紹興)は杭州湾の奥深い浅瀬の海の近くだ。
文身をして潜水漁法ができる場所ではない。
「斷髮文身以避蛟龍之害」の風習のある會稽は、
海中の舟山群島(東シナ海)に面した會稽の東岸である。

會稽の東岸は、會稽の東の治政地、即ち會稽東治である。


「會稽東冶」でも「會稽東治」と意味は同じ、「會稽の東の治政地」の意味。
その地域を支配するにあたり、
治水を伴う場合は「治める」、
治水を伴わない場合は「冶める」となるが本来の用法。
冶の例 「冶金」「冶歩」「冶容」
510太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/11(水) 14:28:17.94
最初の大王は神武である。神武が初代大王であり、景行の代は崇神の
引き立て役兼お助け役年代である。なお景行は初代ではない。
511唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/11(水) 15:07:20.44
百済本記 近肖古王
369 高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる
371 高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死
372 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)
375 高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)
375 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)

晉書卷一百九   載記第九   慕容皝慕容翰 陽裕 より
342年 高句麗は敗れ、前燕軍が駐留する。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
これ以降、前燕に帰順する東夷(高句麗、百済等)

369年にはまだ前燕は存在し、軍が高句麗に駐留する。
この高句麗と百済が争う時代では無い。
またこの時代に文字を得て、記録を残す百済。これでは342年時点で大国百済
は存在出来ない。文字として記録される以上それ相応の大国百済でなければならない。

323年 神功49年 半島占拠。領土分与により百済建国。
324年 前燕は遼東の高句麗を攻める。
324年 (371 高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死)
平壌城は、帯方郡であり、高句麗の領土では無い。
326年 神功52年 七支刀。 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、(3月16日丙午が存在するが乱の時代であるから暦に
1日程度の齟齬)
前燕に帰順する百済が東晋の年号を刻む事は出来ない。また369年は16日丙午が存在しない。
この時代に百済は文字を得る。(それまでの百済は、記録を必要としない程度の集団)
512唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/11(水) 15:09:38.84
329年 神功55年 百濟肖古王薨。
372年 百済に東晋の使者が訪れる。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月。高麗王遣使朝貢。
仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。

百済本記と新羅本紀の間には50年ほどの時代齟齬が存在し、百済本記を正しいとした場合
新羅本紀は無視される。しかし上記の様に修正されるべきは、百済本記である。
だから、考古学は編年を50年ほど遡上させ新羅本紀を正しいとする年代感を示す。
崇神時代=卑弥呼の時代、これを裏付ける文献は存在しない。
399年 垂仁90年(同99年)田道間守(都市牛利)の派遣。新羅本紀もこの数字と
整合する。
513太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/11(水) 15:28:16.61
その文献は存在する。
日本書紀の崇神6年に、日神を倭笠縫に祭祀したと厳然と在る。
朝廷の最重要物は皇祖の「日像鏡」である。

これのため畿内から景初3年鏡が多出するわけだ。つまり紀の崇神6年
ころが景初3年(=239年)に相当する。
ここから

 237年=崇神即位元年

は堅い。

ここの239年に幽霊の伊支馬が活躍してるとぬかす野郎は〜ww 、
全然整合してない完全なデタラメだということだ。
514太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/11(水) 15:35:24.52
つまり卑弥呼の年代は崇神のころだということになるのは、これから
当然なのである。つまり景行にはならな〜い。
景行の代は崇神の引き立て役のお助け年代だということだな。

なおホツマ伝は記紀の主張と片外れに〜景行が初代だとかいう朝敵を
実績のあるインチキの危険な史想を生む粗悪な文献であり、5級資料で
あるから、その使用にあたってはよ〜くトリミングをし、景行が初代
だとかの大妄想を肉除して〜初めて使用が出来うる危険な書であ〜る。
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/11(水) 15:36:03.93
履中天皇六年(乙巳四〇五)二月癸丑朔。悲哉。吾兄王何處去耶。
この記述は、404年帯方界に攻め込んだときの、戦死、行方不明者を捜す話しとすれば、
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
こちらは、413年高句麗と倭が東晋に朝貢した翌年の話であり、新羅が高句麗の属国で
あることを認めての行動である。
つまり413年 倭王讃=允恭。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月。有内亂。ここまでが“讃”
陳、済が、允恭天皇四二年(癸巳四五三)まで
安康天皇元年(甲午四五四)=興
雄略天皇元年(丁酉四五七)=武となる。

275年 神功元年 仲哀の死をめぐり、渡海派と残留組の間で内乱が発生する。
庄内期を支えた南河内は破れ、大きな墳墓は造られない。
対する、播磨、摂津は、勝ち残り、墳墓を築く。
神戸市西求女塚古墳(95 m1期)に見られる画文帯神獣鏡2、上方作系獣帯鏡(六像式)1、
舶載A段階三角縁神獣鏡3、舶載B段階三角縁神獣鏡3を含む副葬鏡群。
中・南河内地域では6面の画文帯神獣鏡(寛弘寺10 号墳は半円方形帯神獣鏡)対して、
古相三角縁神獣鏡はA段階のものを欠き、B段階の3面のみになる。

三角縁神獣鏡類は、継続的にもたらされる。つまり継続的に魏、晋と通好が存在する。
魏置東夷校尉,居襄平(東夷9種)。278年 咸寧4年3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
東夷9国(9種)に倭国が含まれなければ、鏡が継続しない。
4Cになると、傍製鏡ばかりになる。291年で洛陽詣での終了、又は308年永嘉の乱。
312年新羅より花嫁を迎える。323年半島占拠。326年七支刀。343年半島の政治
的安定。372年百済による東晋への朝貢。(東晋の使者は倭国を訪れる)。
516ローガン 九州説:2011/05/11(水) 15:54:53.41
ネタ投下。
むかしの隆盛など見る影もなくなった九州説… 敢えてそちら側に立って畿内派と議論してみたい。

当時の倭国とは中北部九州、瀬戸内、近畿を包括した緩やかな連合体であった。
そして各ブロックの首長の上に倭王なる人物がいた。この倭王とは「共立」というシステムに基づいたものであろう。
この「共立システム」の端緒は定かではないが、女王誕生時に機能していたところをみると、画期はそれ以前、システム構築を標榜する側が反対派を駆逐した…と考えてみてはどうだろう。
その過程が 倭国乱であったと。
続く。
517ローガン 九州説:2011/05/11(水) 16:19:09.76
続き。 しかし乱収束後、緩やかとはいえ広域にわたる連合体がいきなり、こぞって共立システムの樹立をしたとは考えにくいのではないか?
倭人伝からは、官、副官、大倭、一大率といった広域倭国の担当者が機能している様子がうかがえる。
倭国乱収束後、共立王下の広域行政システムの構築に際し、古くから 「王」と呼ばれる人物がいた地域のリーダーシップはかかせなかったのではないか?
早くから、特定個人墓を作っていたような地域が、王権のマニュアルを持っていたと考えて、それが広域のシステム作りに反映されたとするならば、中心となったのは言うまでもなく新参の大和ではなく、北部九州であろう。
この緩やかな連合体下における北部九州のリーダーシップとはまた、当然、王共立そのものの主導権である。
卑弥呼は九州勢力下の人物であろう。
518日本@名無史さん:2011/05/11(水) 19:09:36.08
>>516-517 老眼翁ご乱心つかヒマなんやな

まあ分ってやっているんだろうが…、その話は
「理論的可能性は0ではない」 と言うことで否定のしようがない話。

肯定も否定もできないただの「絵に描いた餅」

できればその画餅にリアリティを与える何かしらの考古資料でも出して欲しいところ。

つうか以前やはり畿内説の人間でまともな九州説を組み立ててみると言うスレがあって
そこで何とかストーリーに具体性を持たせようと「破鏡の風習」とかやがて吉野ヶ里に現れる「前方後方墳」の分布とか
色々試したがどれもうまく行かなかった。

ここは一つ老眼翁の知恵で何か良いネタを出してもらえないだろうか?w


519日本@名無史さん:2011/05/11(水) 19:16:40.26
ここも相変わらず、コテハンの数字遊びの場になってるんだなw
520八幡:2011/05/11(水) 22:38:16.15
まともな九州説大歓迎!
ローガン教授頑張って
521日本@名無史さん:2011/05/11(水) 23:05:26.93
>まともな九州説大歓迎!
八幡てまともな頭持っとるんか?
522ローガン:2011/05/12(木) 00:07:59.59
>>518
>まあ分ってやっているんだろうが…、

勿論。

> 「理論的可能性は0ではない」 と言うことで否定のしようがない話。肯定も否定もできないただの「絵に描いた餅」

それ言うなら纏向もそうじゃない?根底にあるのはあくまでも「土器の集散」だけでしょう?
勿論、比類なき土器の集散がある事は事実なんだけど…じゃあその自然発生ではない「計画的建都、弥生都市纏向」の前段階を何に見るか?
アバウトな言い方で悪いが、例えば近藤先生が吉備東遷を想像したのも、その辺りではないの?
緩やかな連合体の秩序構築にどこの勢力がイニシアティブを執ったか?って事で。
だとしたら北部九州に一日の長があるのはいちいち資料挙げるまでもないでしょうに。

>「破鏡の風習」

黒塚発掘調査の際、「完鏡副葬が祭祀(サイシ)の変革」とかいってなかった?では桜井茶臼山古墳はどうなんって話。
平原王墓との風習の連続性の存在を、認めざるを得ないのではないかなあ?
523日本@名無史さん:2011/05/12(木) 06:56:27.09
だが、伊都国が一大率の検察に畏れおののき、古墳時代に入って北九州全体が
衰退の一途をたどるということになると、とてもそこに邪馬台国を想定するわ
けにはいかないでしょう。
524唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/12(木) 14:44:28.52
>根底にあるのはあくまでも「土器の集散」だけでしょう?
2世紀末、各地の土器が纒向遺跡に集まる。
この時期、博多湾沿岸の地域では、日常土器の多くが、庄内式・布留式とよばれる畿内の土器の特
徴を備えていくが、西新町遺跡においても、このような畿内系統のものと山陰地方のものが卓越し、
これに加え吉備など瀬戸内海地域の土器も認められる。
庄内式は、2世紀末から6,70年間。

ここを書紀の記事にあてはめれば、崇神11年異俗多帰。
箸墓(布留0式)までである。

箸墓(箸中山古墳)=モモソ姫で異俗多帰は説明出来ない。
庄内式は、福岡西新町遺跡に存在する。
ここを書紀の記事にあてはめれば、景行12年から同27年日本武尊の派遣である。
であるならば、
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する、
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
この様な読み方が出来る。

525日本@名無史さん:2011/05/12(木) 15:48:20.61
唐松は天才だなあ。倭人伝の読み方に関しては右に出る者はいないであろう。自由自在に読みこなす。
このような才能は教育や学習で得られるものではないだろう。まさに天賦の才と言うべきだ。
526ローガン 九州説:2011/05/12(木) 16:03:57.80
>>523
>古墳時代に入って北九州全体が 衰退の一途をたどるということになる

たしかに。
しかし その古墳時代とはいつから?が論点になりませんか? 奇しくも、ちょうど邪馬台国時代の辺りが境目になりそうな。
又、倭が中国史書に見えない時代…所謂「空白の4世紀」をどうとらえるか?
前方後円墳秩序や銅鏡分配から見えるのは、4世紀における明らかな王権の伸長。
にもかかわらず、よく云われるのは「外交を手控え、内政強化を図った時期」 これは疑問ですね。
そうではなく、連合体内で九州から大和へ主導権が移行する時期にあたり、外交未経験の大和王権がもたらせた「空白」ではないかと思います。
勿論、現在いわれる考古資料の年代観とは承知。
527唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/12(木) 16:21:10.10
ローガンさん
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永伸哉
このファイルをネットからダウンロードすれば、鏡の編年がある。
鏡の流入は、卑弥呼から引き続き輸入される。
鏡の輸入が途絶えるのは
291年8王の乱、又は308年永嘉の乱。
しかし
仏像鏡はさらに新しい。この辺の編年は無いが、初期△縁の編年がある。

528ローガン 九州説:2011/05/12(木) 16:22:15.51
そのネックとなる年代観についてです。
現在、布留0期相当といわれる古墳から多くの三角縁神獣鏡が出土。△鏡は畿内派でも国産が主流でしょう?
しかし、この布留0期相当古墳の権現山51から出た△鏡の芝草文様が、景元四年(263)銘の魏鏡と類似。
「△鏡は国産」としてタイムラグを考慮すれば、布留0は下がる。又、布留0期の古墳が持つ△鏡に、たんに「葬具」ではない「威信材」的な性格を考えるなら、伝世期間の考慮が必要になり更に下がる。
最初の大王墓とされる箸墓も布留0。壱与以降、連合体の主導権が大和へ移ってからの王の墓であろう。
529唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/12(木) 16:27:10.08
ついでに
科学研究費補助金研究成果報告書 平成21年3月31日現在

こちらが最新の庄内式土器の分布。
530日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:34:06.92
>>528
景初四年の鏡が景初四年と関係あるとは限らない。
作ったものに古い年号をつけることは可能だから。
景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土した島根県の神原神社古墳の年代は4世紀中頃となっている。

http://www.bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara%20jinja.htm

布留0の年代としては、こちらの方が妥当だと思われ…。
531ローガン 九州説:2011/05/12(木) 16:38:10.02
>>530

>>528
> 景初四年の鏡が景初四年と関係あるとは限らない。

いや…景初ではなく…
532日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:40:14.09
>>531
景元?
そんなの初めて聞いた。
533日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:42:57.74
>>531
文様が似てるって、それは年代の根拠にはならないと思うが。
534ローガン 九州説:2011/05/12(木) 17:35:49.01
>>533

じゃあ、岸本編年、新納編年の矛盾点を指摘してみて。
535日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:30:34.17
今老眼翁が言っている話の大まかな枠組みは要するに「緩やかな首長連合」の中で初期においてイニシアチブをとったのは北部九州であって
それを推測しえる・それに蓋然性を与える根拠は北部九州には半島大陸との外交ノウハウの蓄積があり実際豪華な副葬品を出す王墓もある
…と言う事だと思うんだが

もし自分がこの話を始めて聞いた人間だとしたら即座に持つであろう疑問は以下の様なものかな?

(1)先ず初期段階であろうが北部九州がその連合体の中にあってイニシアチブをとったと言う目に見える形跡が無い。
ぶっちゃけ分りやすい話を作れば
例えば初期の神獣鏡が九州に集中的に出土するとか言う事例でもあれば
それが後に畿内を中心に大量にばら撒かれる事になっても初期には連合体の中心が北部九州にあったことは納得できる。

(2)そもそも北部九州における王権システムと後の緩やかな連合体を形成するシステムってコンセプトが違くね?
これもぶっちゃけた話、九州の王権と言うのは「俺こそ最強、アイアムボス、お山の大将!」と言う分りやすい形であってw
それを納得させるような王墓もあるわけだが…
初期の前方後円墳がそれこそ”飛び飛び”で広範囲に展開するシステムとは根本的に違うと言うか
後者は一気に広範囲に展開できる反面、脆弱な部分を持ち合わせる危険性もあるわけで(強力な”面的”支配をできない)
要するに「緩やかな連合体の秩序構築」には北部九州の保持していたであろう旧来のシステムを用いる事は(根っこから異質で)そもそも無理だったと。

やや観念的に過ぎる話で申し訳ないがwww
536日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:36:30.27
3世紀後半から4世紀の古墳時代はじめの北部、東部九州というのは、畿内式の前方後円墳と
三角鏡をいただいて喜んでる小集団しか考古学的には見えない。さらに中部に向けて、畿内式の
豪族居館が広がっていくという。
537日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:42:10.56
>>536
>豪族居館

しかもその最古の物は福岡平野でもなく佐賀平野でもなく大分の日田に出現してるんだよなあ・・・
538唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/12(木) 19:07:43.09
九州で最初の畿内形墳墓は、久留米祇園山古墳でしょ。
しかし九州考古学の数字は纒向遺跡の年代と整合しない。
539遊撃的論客・伊作:2011/05/12(木) 19:09:43.03
>>530
>景初四年の鏡
>景初三年銘の三角縁神獣鏡

神獣鏡は呉式鏡の典型的なデザインで、魏都・洛陽の尚方でつくられることはない。
240年当時は敵国として対立していた呉の鏡を魏がつくることはない事実と、
洛陽出土の鏡の様式からしても「絶対つくられない」と断言できる。

(伊作説)その洛陽の官製鏡工房ではつくられるはずのない呉式神獣鏡に、
魏の年号が刻まれているという考古学的超不条理を考えることが先決だろう。
540ローガン 九州説:2011/05/12(木) 20:34:17.68
>>535
しかし、桜井茶臼山古墳から寸法取りすれば、未調査の前期大型古墳は、完鏡ではなく打ち割り鏡副葬と考えて良い。
明らかに「王」というものに対する精神性は北部九州由来のものでしょう。

>要するに「緩やかな連合体の秩序構築」には北部九州の保持していたであろう旧来のシステムを用いる事は(根っこから異質で)そもそも無理だったと。

上で書いたような理由で土器基本の年代観が下がれば、解決するのでは?
纏向Tが卑弥呼の時代としたら、銅鐸国ですよ(笑)。 さておき資料的にはいかがかなとは思うけど、宣化紀の詔で
玄関である筑紫は応神の頃から、大和王権下で使者の接待役を務めていたと。
では、それ以前は大和の配下ではなかったとしたら、やはり4世紀に変革があったか…?
541日本@名無史さん:2011/05/12(木) 21:09:24.04
>「緩やかな連合体の秩序構築」

武力による強制支配あるいは戦闘そのものの痕跡は残り難い。遺跡、遺物の何が「緩やかな連合体」の存在を
示すと言うのか?

>初期の前方後円墳がそれこそ”飛び飛び”で広範囲に展開するシステムとは根本的に違うと言うか
>後者は一気に広範囲に展開できる反面、脆弱な部分を持ち合わせる危険性もあるわけで(強力な”面的”支配をできない)

「初期の前方後円墳がそれこそ”飛び飛び”で広範囲に展開する」のは
広範囲に及ぶ領域の支配体制として要所に有力者を配置した結果とも見ることができる。「ゆるやかな連合」という幻想を
捨てないと硬直した見方しか出来なくなる。これだから畿内説が馬鹿にされるのだ。
542日本@名無史さん:2011/05/12(木) 22:12:49.46
>>540 老眼翁

つうか正直言うとそもそも鏡片がヒエラルキー構成のためのツールだったのか?と言う事からして疑問。

勿論、完鏡と鏡片では価値を比べるべくも無いし
福永も画文を頂点に 大・中形中国鏡→小型中国鏡→小型倣製鏡→鏡片・銅鐸片・小銅鐸 と言う「青銅器序列」を書いているんだが…

例えば副葬されている三角にしてもT〜Zの分類である古墳にはTからWまで揃っていて
ある古墳にはUとWの言わば「歯抜け状態」で副葬されていたりと
分りやすく言えば被葬者の生前の甲斐性(w)や入手機会に恵まれていたか否か等が大きく作用していて
鏡の配分によるヒエラルキーの構成と言う明確な意図が見えないと言うか…

九州だったらそこら辺明確な序列が見出せるのだろうか?
543日本@名無史さん:2011/05/12(木) 22:25:19.93
>>541
一つ面白い事を言ってやるとだw

実は大和より西にも結構『前方後方墳』てのはある。

湯迫車塚、権現山51号、西求女塚etc

前方後円墳を単純に支配者の征服の証、記念モニュメントとしてみたらおかしな話だw
「飛び飛び」はありえないんだろう?www

単純に陣取りゲームで外に向かって版図を拡大すると言う硬直した見方しかできないのがゴミクズレベル九州説の限界w

ここでは大口叩いても、現実には歯牙にもかけられていないのがこの板のような旧い九州説の姿w

早く洗脳から解けるといいなw


544日本@名無史さん:2011/05/12(木) 22:51:30.92
>>543
541を九州説者の見方だと勘違いしているようだな。理解力のない畿内説者はこれだから困るのだ。
541は考古学的資料の見方についての初歩的な心構えのようなものだ。要点は支配体制などの政治構造を示す
古代の遺跡、遺物は殆ど無いということだ。

したがって「ゆるやかな連合」も「中央集権制」も現在までの考古学資料で論じても実りは無いのだ。それにも
拘らず一部の考古学者が唱えた「ゆるやかな連合」に惑わされているのがここのゴミクズ畿内説なのだ。

545遊撃的論客・伊作:2011/05/12(木) 23:05:53.45
>>544
俺みたいに、ゴミクズ九州説を矯正する九州説者がいるのだから、
ゴミクズ畿内説をたしなめたり矯正したりする者がいてもいい。

わはは。痛快だ。

「支配体制などの政治構造を示す古代の遺跡、遺物は殆ど無い」には、
いささか異論がないではないが。
546太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/12(木) 23:22:10.48
古代からの真の年代を測る贈り物たる天下の宝器。インチキ妖魔の編年
を判別出来る古代人からの宝物。これが天津神算木(天津金木)である。

天津神算木とは崇神紀の三輪山の説話に古代人が秘めたものであり、
半径r=3の円(三輪)の球化の 体積=表面積 の数式をいい、数式で
あるから暴君であろうといかなる人物もこれを破壊できぬ未来へ伝達
される真の年代を得る計測の宝器である。
天津神算木(天津金木)

 4πr**3/3=113.0973355292・・・

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97B350

三輪はまた丸数字B◎を示唆している。二数の中に主値たる〜
B.C.97年 崇神即位年(見かけの年代)の数がある。右辺二桁目には死値
A.D.130年 景行没年 があり、景行の代が主値崇神のお助け年代と解る。

崇神即位の真の年代は右辺丸数字の両脇の数列 113 と 350 との差による。

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年
547日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:35:11.77
>>546
そんな古代の人が、に西暦の数字が分かったのですか?
548太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/12(木) 23:41:10.01
神武の兄弟は外国へ行ってるからね。向こうがコチラに合わせれば、
あり得ることだね。
549日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:45:00.66
>>548
そのころ西暦はまだなかったでしょ。
作られたのは、六世紀ごろからじゃなかったかな。
550日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:46:01.56
>>544
よほど邪馬台国論争に考古学が口を挟むのが気に入らないんだなw

考古学と言うジャンルの全否定みたいな話だが
極端な事を言えば文字のないあるいは解読されていない古代文明でもその政治形態がどのようなものであったかはある程度は推測されている。

古墳の広がりの範囲、スピード、密度等々で言及できる事はある。

現時点お前が気に入らない「緩やかな連合体」と言うのが一番蓋然性を持つと言うだけの話。
それを上回る仮説を出すなりするならともかくちゃぶ台をひっくり返すような真似をされても困りますって話だよ阿呆www

551日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:47:35.97
>>549
おまけにイエスの誕生した年と数年はずれているらしいからなwwwww

552太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/12(木) 23:50:21.29
>>549
古代マヤ暦なんぞ

 B.C.3113年(天文暦)=マヤ暦元年

と把握されている。西暦で逆算するわけだ。

なおグレゴリオ暦だと B.C.3114年 だ。
553太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 00:03:01.10
>>551 ジョーカー
なお、このことから 崇神没年=318年 がインチキだと判明する。ww

正解は 258年説のほうだ。

なお天津金木と倍暦逆算の双方から

 崇神没年=259年

の真の年代を得る。
554日本@名無史さん:2011/05/13(金) 00:44:59.42
>>550
そう、考古学は推測だから。
三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った百枚の鏡だという推測も可能。
国産だという推測も可能。
倭人伝の卑弥呼の鏡だということを前提に、分布の中心にある畿内が邪馬台国だという推測が出来る。
推測に推測を重ねた危うい論法が考古学的な畿内説ということになる。

ゆるやかな連合も、元はといえば倭人伝などの倭国の大乱、卑弥呼の共立から来ている。推測を重ねる
考古学もやはり文献の記述がないとどうしようもないということだろうな。
卑弥呼の墓にしても同じ。にもかかわらず、文献の都合の悪い部分は否定する。
555日本@名無史さん:2011/05/13(金) 01:03:10.18
>>554
なら文献だって「これは正しい」と言う推測の上に成り立つって話だなw

「科学は反証可能な仮説体系」と言う台詞があったがwwww

まあ、あくまで文献一本でやると言うのならそのスタンスは認められるべきだろうが
恐らく殆ど発展性の無い物になるだろうw

書いてあることが本当かどうか確かめる術さえないw
基本邪馬台国論争は倭人伝の単一史料だ。

「考古学」と言えばここのゴミクズレベル九州説は直ぐに拒絶反応を起こすが
恐らく論争史を俯瞰すれば九州説の方が考古学に寄ってきた部分が大きい。

そもそも九州説論者がすがる「弥生時代の九州の先進性」も考古学の賜物だったわけでw

都合が悪くなったからと言ってヒステリー起こしてちゃぶ台返すのもいい加減にしろとwwwwwwww

556日本@名無史さん:2011/05/13(金) 08:38:47.59
考古学は、まず「邪馬台国」「卑弥呼」という言葉を捨てろ。
話はそれからだ。

出土物を、その出土状況に忠実に分析すれば良い。
文献学者におもねってはいかん。
557サガミハラハラ:2011/05/13(金) 10:40:04.93
>>496>>498の続きになります。
倭人伝に諸国の官名が書いてありますが、肝心の王名がありません。(若干の例外を除く)
王がその国で一番えらいのであるならば、王の名をかくはずです。
とすれば、官とは事実上の王ということになります。
数少ない王名で卑弥弓呼について考えます。
王と官が同じであるならば、狗奴国の王の名はクカチヒクとなるはずです。
美称の卑弥をつけると、ヒミクカチヒクとなります。(卑弥弓呼の弓はキュウであるからクともききとれる)
狗奴国は邪馬台国に敵対しておりますから、魏の敵国ともなります。狗奴国の情報は狗奴国の敵である邪馬台国側から入手したものでしょう。
となると、邪馬台国の人は狗奴国王のことはよくいわないでしょう。
となると、ヒミクカチヒクと丁寧にいわず、ヒミクカと呼び捨てのようにいったかもしれません。
よってわたしは狗奴国王ヒミクカと官のクカチヒクとは同一人物であるとみます。
それでは倭人伝の邪馬台国の官の伊支馬はどうなのでしょうか。
もしこれが邪馬台国の王の名であるならば、女王卑弥呼はどうなるのでしょうか?卑弥呼の本名はイキマなのでしょうか。
ヒミが美称だとするならば、卑弥呼の名は呼となるはずです。
イキマには呼の音ははいっていないようです。
一方問題は、官の名の記載はいつおこなわれたのかということになります。
卑弥呼の時代でしょうか?次の壱与の時代でしょうか?
壱与とは幼少名のようです(13歳で即位)。となると長じて改名したとも考えられます。
そしてイヨのイを残してイキマと改名したとも考えられます。
よって邪馬台国の王の名はイキマであり、幼名は壱与であるとなります。
と以上夢想してみましたがいかがでしょうか?
558日本@名無史さん:2011/05/13(金) 11:03:55.72
オツカレ
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 11:22:40.89
科学研究費補助金研究成果報告書
次山 淳、古墳時代初頭の瀬戸内海ルートをめぐる土器と交流

1,当時の海岸線に接して倉敷市上東遺跡があり、この遺跡では、弥生時代後期の
「波止場」状の遺構が確認された。
2,纏向遺跡では、南関東、東海(駿河・尾張)・北陸・近江・河内・北四国・吉備・
山陰・西部瀬戸内・九州など非常に多くの地域の土器がみられる。
3,これら大和川下流域の遺跡群には、前述のように、きわめて多くの吉備形甕がも
たらされており、10 点以上出する遺跡が9 遺跡もある。外来系土器には、このほか
に、山陰、阿波、讃岐、北陸、東海、南関東など各地の土器があり、朝鮮半島系土器
の出土も知られている。
4,北部九州における土器の畿内化の現象は、博多湾沿岸ばかりでなく有明湾沿岸
地域にもおよび、この時期の北部九州にみられるきわめて特徴的な現象である。
5,現在までに公表された朝鮮半島系土器資料、77 遺跡1183 点余のデータを収録
した。これらには、朝鮮半島からの搬入品と考えられているものに加え、模倣品など
朝鮮半島系の要素が認められると指摘されたものも含めている。…当該期の朝鮮半島
系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、西日本全体で
みると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新町遺跡に
極度に分布が集中するようになることなどが理解された。

@波止場は、準構造船の存在。青谷上寺地遺跡とあわせると、新羅193年の渡海は
そこそこ可能である。(崇神5,6年災害)
A景行時代以後である。(大倭成立は、257年ころ)
B纒向に属す。しかし275年神功元年、渡海派と残留組の内戦で、南河内(大和川
下流域)には古墳が造られない。(273年日食)
C景行、日本武尊、神功の熊襲。(250年代に九州王朝は纒向に吸収される。大倭が
1大率を置く)
D3 世紀後半以降は、神功渡海以降。(274年渡海。1大率の行為を半島で行う)
560太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 12:16:37.08
ほほう〜、否定していた九州王朝を今度は肯定したわけだね。
宿主
まぁツー・フェイスはご都合によって否定肯定とくるくる替わる二枚舌
か〜。ww

なお年号があるということは九州されてはいない。吸収なんぞどこの
文献にもないオマエの恣意的ご都合の言い訳そのもの!
561太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 12:23:09.00
神功元年前年の記事は 日を経て と数日間の暗黒を記述しており、
しかも 常夜 とあることはかなり長期にわたって夜の状況が継続して
る形容のものであり、日食の暗黒はたかが数分間であるからして、明確に
ここの記事は日食にはならない。

なお遺跡の船は紀の崇神17年以後のものであり、最初の造船で乗るのは
造った連中か天皇あたりであり、しかも空腹千人分の糧食がない農民の
行ける範囲は狭小であり、遠出は不可能である。すなわち

192,3年≠崇神5,6年
562唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 12:45:52.59
この集落で特に顕著なことは、他の同時期の遺跡と比べて格段に多い朝鮮半島系土器
の出土と、竪穴住居跡に付設されたカマドの存在である。朝鮮半島系土器には、忠清
道から全羅道系のもの、全羅南道から慶尚南道系のもの、そして慶尚道系のものとい
ったように、朝鮮半島中南部の複数の地域のものがみられる。

3世紀後半から、半島中南部の土器が西新町遺跡から出土する。
この事実は、神功渡海が3世紀後半であり、半島中南部と関係を持つ。
半島占拠は約50年後である。(書紀の数字から4世紀後半にはもって行けない。)
楽に渡海出来て、楽に半島占拠を達成するには、
晋による渡海要請(天皇仲哀の死に優先する)半島における警察行為
240年代馬韓の反乱、これ以後魏は軍を派遣してこの地を統率する。
晋に時代が変わり、その業務を大倭が肩代わりする。
320年代政治的空白となった半島中南部を占拠する。
50年近く警察行為を担った大倭に対抗する勢力はこの地に存在しない。
563唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 13:04:20.50
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ 
コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ
ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ

250年代 景行20年 伊勢の五百野姫を軍隊付きで筑紫に送り込む。
女王壹與と大倭の一大率の派遣。
これ以後 九州王朝は存在しない。
564日本@名無史さん:2011/05/13(金) 14:01:48.22
>>555
日本に限らず、歴史は基本的に文献だから。壬申の乱も磐井の乱も考古学じゃ出てこないだろう。
源頼朝も足利尊氏も考古学的には存在しない。
戦国時代や明治維新の複雑な様相も考古学でわかるわけがない。これを考古学で探ろうとすればとんでもない事になる。

古代のことは、文献では限りがあるから考古学が出てくるのも仕方がないところがあるし、物的証拠としての
考古学の価値を否定するものではないが、考古学は、大上段に振りかざすものではなく、あくまで補助的なものとして捉えるべき。
でないと、戦国時代を土器で語るようなとんでもなく無謀なことをする結果となる。
565ローガン 九州説:2011/05/13(金) 15:34:51.86
>>542
いや >>540
>しかし、桜井茶臼山古墳から寸法取りすれば、未調査の前期大型古墳は、完鏡ではなく打ち割り鏡副葬と考えて良い。
>明らかに「王」というものに対する精神性は北部九州由来のものでしょう。

は、完鏡と鏡片の比較ではなく、埋葬時に打ち割る精神性の源は、九州にあると言う事。
又、鏡の話でいくと岡村編年で言うところの5期漢鏡(1世紀後半)は、 九州以東で急増しています。
この東方拡散はちょうど「倭国王帥升」の時期にあたり、大量入手による分配が倭国王によりなされた。
その分布域が倭国。つまり、北部九州を頂点とした広域連合体が2世紀初頭には既に存在していた。
(岡村秀典 考古学からみた漢と倭 を参考にしました)
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 15:49:57.14
宿主
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃して
いた宿主が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

九州王朝は年号の多出から、景行の代以後の存在は堅い。つまり景行が
日本を統一したなどとは、宿主のホツマの毒の景行賛美化の極超誇張が
景行を代々で最高の大王としたいインチキの想いに至り、行ってはならない
線を超えて暴走した危険な史想の根付いたもので、このインチキ誇張賛美を
徹底して葬り去る必要がある。

九州年号

継体 善化 正和 発倒 僧徳 同要 貴栄 結清 兄弟 蔵和 師安

和僧 金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 光元 定居 倭京

仁王 聖徳 ・・・・・
567ローガン 九州説:2011/05/13(金) 16:02:14.48
昨日の>>528
三角縁神獣鏡が国産ならば、出現期の巨大古墳は早くとも4世紀である事を明らかにした。
よって国産説の方々は九州説支持にまわる事になったであろう。
568唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 16:37:59.99
西暦478年、武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大
将軍倭国王」と称します。使持節とは、占領地の軍政官の位で、都督は軍隊の総括官の位です。

太国は、倭王武を九州王朝と主張する。
しかし任那は、崇神以来大和の友好国であり、3世紀半ばで九州王朝は消滅する。
神功49年に半島中南部を占拠し、百済建国。渡海ルートは大和が管理する。

何故か?
崇神世=237〜260年頃 半島を魏が管理する時代に任那建国は無い。
神功52年=369年七支刀 360年代に半島占拠は無い。
しかも雄略時代の嶋王誕生さえ認めない。
当然だろ 太国倍年から書紀の太陰暦は復元できない。
5世紀末に九州王朝の存在を主張しても、王都さえ無い。
年号を主張しても、数字が無い。数字が無ければ年号と主張出来ない。

太国が書紀の記事、主張を認めない理由は、ただ太国倍年が正しいと主張するためだけである。
何故正しいのかは、私は知らない。
569唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 16:51:47.73
>出現期の巨大古墳は早くとも4世紀である事を明らかにした。

邪馬台国九州説、卑弥呼畿内説の欠点は、今の考古学の数字を認めない点にある。
では、文献はどうかというと 七支刀=369年であり百済本記に合わせるが、
書紀の主張する”半島占拠”は否定される。
だから中国の文献や新羅本紀と整合しない。
箸墓=モモソ姫で年代を得ても、纒向遺跡の説明も出来ない。
だから垂仁、景行の居場所もない。
箸墓は、埴輪(特殊器台、穴あき壺)を持ち、大量の鉄を持つ時代の墳墓である。
任那建国前に大和に鉄が流入したという主張は、書紀の主張では無い。
570ローガン 九州説:2011/05/13(金) 16:56:35.09




専修大学が「BL(ボーイズラブ)小説研究」の授業を開講中、音読や各自の意見を口頭で発表する機会も
http://hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1305269996/1-100



571太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 16:56:42.20
遺跡は今回の大震災のように壊滅するのが時の成り行きであるから、王都
がないは九州王朝がないにはならない。オマエがこれを言うなら景行より
前の代に九州王朝の存在を>>559で肯定していたオマエの同王朝の王都も
存在しないことになり、オマエのその論も矛盾だということだ。ww

任那建国がオマエの言う年代に合うのかの保証はまるでない。つまり
そんなものはあてにはならない。

唐松山空年は今の今までまともな成程という事例を示したことはなく、
1回目はたかが3年間のを空年だと主張していたがこんなのも3年位の
記事空白では空年の存在にほど遠く空年の証拠にはないらない。次に
景行28年〜同40年を空年にて同28年と同40年が同一年だとかの主張も〜
その間に景行36年8月と景行39年の記事が大成経とラヂオさんの提示の
歴史徴にあるわけで、これも空年ではないということが判明しておる。
あとは天皇の崩御と次帝の即位の間の1年程度だったか〜これを空年だと
言い張っていたが、これも1年前後では紀元前660年までの神武即位年
の空年の事由にしては年数が著しく少なく、説得力は全然無いに等しい。

このことは今の今までまともな具体的空年の個所を提示出来たとは
言えず、所詮宿主空年が文字通り宿主の脳内の空論だということを露呈
している。ハハッ、インチキ論だということだな。ww
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 17:16:51.13
宿主空年から書紀の太陰暦は復元出来ない。さ〜も数字の羅列を出して
計算したふりのポーズを見せかけているだけで、具体性のないスレ民を
ケムにまく上っ面のインチキであると観てよい。

なぜ復元出来ないか? それは年代の間に空白日とか暦法の改変のため
その接続に断裂があるからであり、単純計算したくらいでは真の年代に
たどり着けない。暦年はそんな単純なものではないのである。

ということは、単なる宿主のやる編日法では真の年代は真っ暗の
メチャクチャ不明となるだけであり、だから編年法という「編日」では
なく、編年で年代を決めて行かなければ合わなくなるのだということだ。

美濃もん太氏も宿主を批判していたが、編日法では要領が悪い旨書きこん
でおり、「編日」では細かすぎて大量の干支の接合を日ごとにせねば
ならず、簡単にはこれが出来ず、失敗だけが待ってるということだ。

>年号を主張しても、数字がない

継体16年、同20年、同25年、宣化1年、欽明2年、同13年、同15年・・・等
で、朝廷の年代と九州王朝の年号との年代間隔が各判明するということだ。
573日本@名無史さん:2011/05/13(金) 18:16:38.31
>>565 老眼翁
>埋葬時に打ち割る精神性

自分としてはそこに明確なヒエラルキー・システム構築の意図を見出せるものでなければ根拠に上げたくないな。
精神性という抽象的なものになるとそれこそ今
「邪馬台国に考古学用いるのはけしからん」と言っている奴が「恣意的解釈に過ぎる!」と喜んで噛み付きそうだwwww

青銅器にしろ土器にしろそのデザインもしくはその使い方に込められた「精神性」のような物も伝播するのであって
それも「(鏡を割るという)文化・風習の伝播」として説明がついてしまうような話に思える。

もっと明確な「統治システム」をヤマトがツクシから引き継いだ…という物が欲しいところw

後、漢鏡7期編年のお話だと5期における国内体制は仮にその解釈でいいとしても
問題の7期において邪馬台国が九州にあったというのなら
九州にはもう少しがんばって数(総量かもしくは特定の様式の鏡の数)出して欲しいところw

なまじ5期や、それどころじゃないぶっちぎりの3期の栄光がかえって7期に入っての凋落振りを示しているとしか見えないw


574唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 19:30:38.02
>王都がないは九州王朝がないにはならない。

で、倭王武の上表文は書紀の主張でもある。
神功元年には、渡海ルートをおさえる大和。
その証拠として福岡西新町遺跡(3世紀後半)がある。
273年の日食もそれを支持する。

太国倍年
 353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
この数字を支持する”数日の暗黒”
で、この主張は成功したのか? 完全な失敗だろ?

日本列島において、漢鏡3期とされる、前漢時代の鏡の出土地は、北部九州が中心である。
その後、漢鏡5期とされる、一世紀代後半の鏡は、九州以東にも拡大する。
さらに漢鏡7期とされる、二世紀後半から三世紀の鏡は、その出土地の中心が九州以東に移る。
問題は、この出土地の変遷を、どのように解釈するかである。

神武元年は、弥生中期と後期を別け、このルートに乗って漢鏡5期が分布する。
神武元年の説明出来ていない太国倍年だろ? ここも失敗か?
であれば、倭王武を九州王との主張まで全てが失敗の連続である。
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 21:09:50.66
神功元年前年の記事は 日を経て と日数が継続して暗黒の状態で
あるから、これは完全に日食ではな〜い。オマエに弟子がいてまともなら
ばこの不審に気がついて、オマエに猜疑心を燃やすだろう。それでオマエ
がまだ日食だということを固持するならば、オマエのその弟子は呆れて
去っていくぜ。ww まっ、外人なら直接漢字とカナの紀を読めないから
騙され続けるだろうがね? 日食なんぞニガクリタケをクリタケだとか
主張してるようなもので、妄想の危険な解釈そのものである。コチラは
例の肉食中毒事件の怖さを知ってるから、そんな日 食中毒の勧めには
乗らないんだぜ。
576ローガン 九州説:2011/05/13(金) 21:13:43.71
>>573
>それも「(鏡を割るという)文化・風習の伝播」として説明がついてしまうような話に思える。

打ち割りは儀式。それを伝播と片付けるなら、墳頂祭祀(サイシ)も単なる伝播?
「吉備の影響など無い」という意味と取れますが…いかが。

> もっと明確な「統治システム」をヤマトがツクシから引き継いだ…という物が欲しいところw

あれば、勿論。古代なので資料不足は否めない。

>なまじ5期や、それどころじゃないぶっちぎりの3期の栄光がかえって7期に入っての凋落振りを示しているとしか見えないw

3期頃はまだ、地域交流が未熟ゆえ、九州に留まったものと理解。
5期頃には以東へ拡散。7期漢鏡は、洛陽焼かれ供給不足になり、楽浪が抱え込んだため、倭への流入が減少。
近畿が増加するのは、潤沢な原料を背景に制作を始めたため。で どう?
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 21:19:24.15
書紀には上奏文は載ってない。つまり書紀の主張というのはオマエの
デタラメであ〜る。

神武元年=42年 の説明が出来ないのが、オマエの漢書王莽伝の
元始5年の 東夷の王 の記事であ〜る。オマエは東夷は畿内だと以前
強行して主張していたが、この前は赤恥を隠して九州に鞍替えした
のはスレ民がみな読んでいる。ww

しかも 大陸文献の 東夷 の文を削る悪事をして論を張り、2ちゃんの
みんなを欺いているのだ。もういい加減、空年のまとなのも出せないん
だから、引っこめたらどうだ?
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/13(金) 21:30:55.45
>遺跡は今回の大震災のように壊滅するのが時の成り行きであるから、

九州王朝の王都とは、家1軒程度の大きさなのか?
それが大水で流されたから九州王都は存在しないと。
579太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 21:31:49.75
>>577 訂正
東夷 の文→東倭 の文
580太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/13(金) 21:35:19.91
>>578
>大水

災害だから、大地震、台風、戦争での焼き討ち、破壊、遺跡の品の盗掘、
などなどいろいろある。遺跡は消えやすいものだ。オマエの言う九州王朝
の王都はどうなんだ?
581日本@名無史さん:2011/05/13(金) 22:47:00.26
九州王朝のお音は、玄界灘を渡った朝鮮半島南部にあったのではないだろうか?
582日本@名無史さん:2011/05/13(金) 23:03:53.49
ローガンさんがネタ投下してるけど
正直、九州説と遊ぶのは飽きた。
同じところをどうどうめぐりしてるだけで進歩ないしな。

関裕二くらいに「大和のトヨ(神功)が九州の卑弥呼を殺した」というくらいの妄想してくれないと、
ツッコミようもないというか。
583日本@名無史さん:2011/05/13(金) 23:16:02.58
>>582
その程度の妄想、このスレじゃ日常茶飯事だろ
584ローガン:2011/05/14(土) 00:00:01.12
>>582
>同じところをどうどうめぐりしてるだけで進歩ないしな。

そう? ここの九州説の人達があまり言わない事を選んで書いてみたつもりだったんだけど…
残念。
585日本@名無史さん:2011/05/14(土) 00:12:32.86
伊作みたいなバカ丸出しな九州説なら、こっちも暇つぶしに相手しようかって気にもなるけど、
ローガンさんの九州説は穏便すぎて、議論が深まらないと思われ。

やっぱ、ウケる九州説を練らないとダメなんだろうな〜
卑弥呼勢力が東征したとか、クナ国の残党が東征したとか、って話になるなら、
「アホかwwww」って返せるのに。




586日本@名無史さん:2011/05/14(土) 03:06:46.70
ヒミコってアマテラスの事なんでしょ?
587日本@名無史さん:2011/05/14(土) 06:30:28.67
>>584
あなたのネタは、やっぱり畿内説の感覚が抜けてないってことで、おもしろくないんだな。
広域のゆるやかな連合なんてものを考えるのは根本的にまちがっているんだ。
九州説の出発点は、倭人伝の描く倭が九州だ、それが30国に分かれていたんだってことが
基本。欲張って、瀬戸内だ、畿内だと関係のないところを広げた話をしてもだめだ。
588遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 06:52:32.27
九州説・伊作
ローガンに代わって、今度は俺が相手になろう。

1●九州からの先遣開拓部隊の話
畿内説者がモモチャン姫を持ち出す『日本書紀』が、大和進出の経緯を書いている。
「とび」の地へ天の鳥船に乗ってやってきたというニギハヤヒが盤居するところへ、
神武が九州から天の磐船でやってきた。
二人が互いに同じ神の子であることを確認した上で、
ニギハヤヒは「とび」の地を神武に国譲りの形で明け渡す。
神武は天の磐船でやってきたが、ニギハヤヒは天の鳥船に乗ってやってきたという。
ニギハヤヒはどこからやってきたのか。神武と同じ九州からだ。

このことは、二人は同族であり、ニギハヤヒの父祖に「とび」の地の開拓と地ならしを命じたのが、
神武の父祖であることを物語っている。

とび・外山・登弥という地名はどこにある?
唐戸・鍵も纏向も、互いの機能こそ違っても、
こうした経緯を経てできた九州勢力の進出拠点だっとみるべきではないのか。
589遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 06:52:58.26
2●東遷後の九州
九州には「○○の君」を名乗る豪族が極めて多い。
この「○○の君」は、皇別士族・皇別士族が名乗った名称だ。
古今東西を問わず、豊かな土地や要衝となる土地には、
最も信頼のおける支配者の親近血族を配したものだ。

九州はとくに、半島と大陸との通交の出入り口であり要衝でもある。
放っておけばすぐに力をつけることになるから、
力をつけすぎる者が出ないように細かく分断して「○○の君」に管理させた。
それでも磐井のように力をつける者が出る。

磐井は継体に反逆したことになっているが、
これは、継体が正統な皇位継承権をもたなかったことへの反抗だろう。
磐井は、継体天皇の命を受けて半島に出兵する近江毛野臣を邪魔してこういう。
「昔、我とお前とは伴として、肩や肘をすりあわせて、共に器を同じくして食った」。
ここでいう「伴」とは天皇に仕えたことを意味する。
古今東西を問わず、「寸鉄を帯ず」が鉄則の宮中や、王都警備には、
最も信頼のおける支配者の親近血族を配したものだ。
これは磐井が、近江毛野臣とともに前天皇に仕えていたことを示唆している。

さらには、物部麁鹿火が磐井を討ったあと、磐井の子の葛子は父に連座して誅されるのを恐れて、
糟屋の屯倉を献上することで死罪を免れることを求めた。
「父に・連座して・誅されるのを恐れて」とは、どう見ても内紛の様相である。
磐井が九州全土の支配者でこの戦いが王朝間の戦争であれば、
破れた王朝は滅亡で九州全土の処理問題に発展しているはず。だが磐井の場合は、
磐井が領有する領土の一部割譲だけで済んでいる。
これは、もともと天皇家とこれに連なる者の内輪の確執だった証拠である。「同族」の争いである。
590遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 06:53:55.21
3●九州の独特古墳の理由
時は6世紀。九州各地に装飾古墳が展開する時代である。
一説によると、磐井の墓は「赤緑黄の彩色で同心円文や三角文を描く石室」だという。
ならば、紛うことなく装飾古墳である。
天皇家の傍流を意味する「○○の君」を名乗る磐井の大古墳が、
九州土着勢力の特徴著しい装飾古墳であるという事実が告げるのは何か。

倭国の政権中枢が大和州へ移動したあと、支配者一族から分かれた地方豪族が、
重要な九州の地を分割管理していたことを物語るのものと私はみている。
これが、私のみた東遷後の九州の実態だ。
その装飾古墳がなぜ、異国情緒溢れる幾何学文様で飾られているのかは、
「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」という
倭人と倭人支配層に共通する「ルーツ」にある。

『民族の指紋』
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
591遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 06:57:03.61
4●心ある畿内説者諸君に告ぐ。
君たちはいま、国や地方自治体の指定から漏れた中小の古墳や、
開発途中でたまたま出た遺跡でもって、倭国という国とその支配層の動向を論じている。
つまり、地方士族や豪族クラスの墓をもって、国家の動向をどうこういっているのだ。
この、考古学としては最も愚かで欺瞞に満ちた事実に気づいているのか。

仮に、大古墳のすべてが調査可能だったとすれば、
その多くは何がしかの装飾が施されている可能性を考えることも必要だろう。
なぜならば、倭国の支配層は紛う子となく、「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」民族であり、
装飾古墳は「文身をする・歯を黒く染める・文字をもたない」民族のものだからだ。

大和の揺籃は確かに九州が担った。その九州の歴史を差別的かつ蔑ろにするのは、
親不孝なクソガキが自分独りで大きくになったとほざくようなものだ。
そんな斜視的で偏向的の姿勢で、ほんとうの日本の歴史を語れるのか。

日本人として心あるならば、
たったひと握りの、
「歪んだモチベーション」をもつ畿内説ヒエラルキー異存者たちによって、
われわれの遠い祖先の体験の記憶が歪められつづけている現実を
質すことに時間とエネルギーをさけ。
592日本@名無史さん:2011/05/14(土) 07:22:47.51
おはよう卑弥呼
593日本@名無史さん:2011/05/14(土) 07:59:07.39
>>588
普通にそれは畿内説の一部の人の論と変わらないけど。
ただそれが三世紀よりも以前にあった話で、それが倭国大乱。
594日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:10:35.00
神武東征は1世紀の話しで、邪馬台国は大和ってことで全て説明できるのに、惜しいな。
595日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:42:24.69

九州説を語るなら、伊作みたいに、ストレートに、
ルサンチマン(主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情)をあらわにしないとな。

畿内説学者はウソをついて権力を握ってるんだ!
真実は隠されてるんだ!目を覚ませ!立ち上がれ!畿内説のウソを暴け!
九州説は間違ってない!卑弥呼は絶対に九州にいたのだ!

って、憎しみを込めてやらないと、九州説として賞賛されないんだよなあ。

で、世の中には3通りの九州説がある。

A.本気で九州説を信じてる人。(太国、サガミハラハラ)
B.根底にルサンチマンがあり、畿内説を批判するがゆえに、九州説に傾倒してる人。(縄文人、sss)
C.商売で九州説の本を書いてる人。(安本、関)

伊作は、Cになりきれなかった、Bってところ。

596日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:51:36.96
九州説への対応は、いろいろあるけど、

Aの人→他人の趣味にいちいちケチをつけるのも無粋なんでスルー。
Bの人→暇なときに、おちょくって遊ぶ。
Cの人→本屋で立ち読みしてニガ笑い。

問題なのは、B,Cに騙されて九州説信者になった無垢な人かな。
なるべく丁寧に九州説のデタラメさを指摘して洗脳から覚めさせてあげたいけど、なかなか上手くいかない。
信者は、自分の意見は持たないから、論破は簡単だけど。


597唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 10:03:38.56
4,北部九州における土器の畿内化の現象は、博多湾沿岸ばかりでなく有明湾沿岸
地域にもおよび、この時期の北部九州にみられるきわめて特徴的な現象である。
5,現在までに公表された朝鮮半島系土器資料、77 遺跡1183 点余のデータを収録
した。これらには、朝鮮半島からの搬入品と考えられているものに加え、模倣品など
朝鮮半島系の要素が認められると指摘されたものも含めている。…当該期の朝鮮半島
系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、西日本全体で
みると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新町遺跡に
極度に分布が集中するようになることなどが理解された。

C景行、日本武尊、神功の熊襲。(250年代に九州王朝は纒向に吸収される。大倭が
1大率を置く)
D3 世紀後半以降は、神功渡海以降。(274年渡海。1大率の行為を半島で行う)

残念ではあるが、庄内式の終わりまで続かなかった九州王朝。
3世紀後半には、神功渡海があり、半島各地の土器が出土する西新町遺跡。
景行の政治手法は魏から学んだ屯田制である。
これにより各地へ配属されるのは、景行の実子と義理の親子となった者
だから子供が80人にもなる。
神功の渡海の実態は、晋の要請による渡海であり、半島で1大率の行為を
肩代わりするため、この行為を50年近く続けたのだから、占拠もスムーズにゆく。
598唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 10:18:15.08
ニニギは天磐船から降り立つ。戻ることが出来る。
ニギハヤヒは天磐船から飛び降りた。もはや戻れない。
だから神武などに追われる身であり、トビが舞い降りた神武に理がある。
599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 10:36:19.80
親子関係で結ばれた主従関係には大きな欠陥がある。
それは、親が決めた世継ぎに口を出せない。
世代交替と共に主従関係が薄れる。
この欠点が噴出したのが、仲哀の死である。
仲哀の死により、渡海派と残留組の間で内乱が起こるわけであるが、
この世継ぎは正当なものではない、だからどちらとも主従関係を結ぶことも
出来る。
それが形となって現れるのが、誉田御廟山と大仙陵の近くて遠い関係。
600唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 10:56:18.70
誉田御廟山と大仙陵の近くて遠い関係とは、まず応神の生まれは渡海の年
274年である。磐余稚桜宮指標は、桜井茶臼山、メスリ山である。
そこから110年後が誉田御廟山。
対する仁徳の即位は、274年生まれの応神が40歳ほどで死亡した後の
313年からであり、葬られるのは399年である。
384年の誉田御廟山と399年の大仙陵。近くて遠い関係である。
601太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 11:07:20.37
250年代に九州王朝は朝廷に九州されておらず、景行の九州行幸でも王朝を
滅ぼした記事はな〜い。つまり確実に残っており、これが年号で文武の代まで
継続したことは年号の多出から明白である。このことは景行が日本統一なんぞ
出来てなかったことを意味する。

なお景行は崇神の代のお助け役年代を引き受けている。
602日本@名無史さん:2011/05/14(土) 11:12:52.58

zip 中学生 ロリぱい で検索!

603唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 12:38:01.09
>>601
その程度の歪んだ読み方で、倭王武を九州王と出来るのか?
任那はミマキが建国に関与した為の読み方。
神功49年に半島占拠があったから、大和の領土となる。

倭王武の上表文はそれを事実であると主張している。
いいか、太国倍年が倭の五王を特定出来なかったからといって
九州王にはならない。ただ太国倍年が誤りであることを表す。
雄略天皇五年(辛丑四六一)六月丙戌朔 孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。
仍名此兒曰嶋君。
雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬。高麗王大發軍兵。伐盡百濟。
武寧王墓誌銘 寧東大將軍 百濟斯麻王 年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩 
到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申 安登冠大墓 立志如左
百済本記475 年  高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す。

523年(癸卯)−461年(辛丑)=62才(満なら63才)
雄略紀の間違いを認めても1年程度である。墓誌は金石文である。

太国倍年 353癸丑 神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)暗黒の数日
470庚戌  雄略即位 安康崩御。
太国倍年の数字はこの様に全てで文献と整合を得られていない。
この数字を使えば、全ての正しい数字までをも否定出来るが、対案を示せない。
そして書紀の主張まで否定しなければならなくなる。
崇神世=任那建国。魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
神功49年=360年代。 この年代に半島占拠は無い。
倭王武の上表文は、任那と半島諸国は倭が管理する。
倭王武が九州王となる事は無い。
書紀の主張を認めないで世継ぎだけ正しいとする主張は正当性を欠く。
604太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 14:38:43.73
宿主
>歪んだ
笑わせるな。wwwww
歪んだ読み方はオマエの得意技ではないか。ppp 日 食中毒のインチキは
その典型だ。

数週間前九州王朝を否定していたオマエが、手の平を返すように
北九州王朝の存在を言い出したその後に再び九州王朝を否定し、今度は
ここでまた九州王朝を肯定しており、このようにクルクルクルクル空中
でコインを回し投げするいい加減なインチキ野郎だと確認出来る。

毎回換わるのはその時に応じてご都合によるわけで、数日前否定して
今朝は肯定では、その間に大した研究なんぞしておらず吸収だとの裏取り
あるいは文献、資料等の調べ、検証もしていない即興で創作の書きこみが
オマエの吸収したという文である。そこには短い日数の否定から肯定と
なり調べなどあるわけもなく、ただ景行のインチキ極超誇張賛美を護る為
の脳内で想い巡らした新作の小説にすぎず、真の史実を破壊する危険な
史想そのものである。

こういう景行過大視をオマエが言い張って終生継続しても、今後コチラ
の論の書きこみにより、神州から朝敵たるオマエのイカサマ論を葬り去
ってやろう。なお景行は全然日本統一は出来ておらず、この天皇世は崇神
の代のお助け役の代であ〜る。勿論景行当時、九州王朝が朝廷に吸収
された事実はない。
605太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 14:48:15.01
そのくらいで建国に関与したことにはならない。

そうだというなら、オマエは唐の建国に関与したのか。してるわけが
ないだろうが。それとも松山市とかの市の創立に関与したのか。ww

じゃぁ百済は百襲媛が建国したのか。

〜精神病院で脳内を検査してもらえ。
606ローガン 九州説:2011/05/14(土) 16:28:42.10
>>585>>587
うーん、面白くないかあ。では、趣向を変えて質問といきましょう。
「漢鏡分布の変遷」という岡村秀典氏の図を見たことあるでしょう。自身の漢鏡編年の期別で西日本地図上の出土地に印をつけた図。
これ見ると、6期は北部九州に濃密。7期第1段階は全体にバラけ、第2段階は畿内に濃密に分布。
一見して倭の中心の移動が読み取れるように書かれています。
しかしどうでしょう?この図はあくまで最終の処分地を表したものであり、
作られてすぐに入手。しかも移動せず一カ所で伝世を前提としないとこの地図は意味をなさない。
では メスリ山や大和天神山、これらの5期漢鏡は同地で200年伝世した事になる。という解釈でいいのだろうか?
伝世は約半世紀が、基本的な考え方だったのでは? 畿内に濃密に分布する画文帯鏡も4世紀に入手(もしくは制作)でいいのではなかろうか?
607唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 16:41:25.17
東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
もしこの中(東夷九種)に倭国が含まれなければ、渡海の機会は失われる。

* (正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
* 七年春二月、幽州刺史毋丘儉討高句驪、夏五月、討wai[扁水旁歳]貊、皆破之、韓那奚等
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。この11月に 晋は、軍を再編する。
是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
291年 8王の乱
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
608唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 16:53:35.68
魏の時代は東夷9種、晋になり東夷九国
278年には東夷九国が出そろう。この時期の遺跡が、西新町遺跡である。
291年迄は頻繁に訪れていた、洛陽詣でが8王の乱、永嘉の乱で不可能となる。
永嘉の乱では、鏡どころではない。
342年以後、百済、高句麗等は前燕に帰順する。
考古学の50年遡上を認めるのは、鏡の年代感からも支持された結果である。
609唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 17:22:04.62
いいか 太国よ
私が、七支刀=369年を否定するのは、書紀の主張である“半島占拠”が
否定されるからである。
しかし雄略時代で見てみると、百済本記と書紀の記事は整合する。
だから雄略紀を疑うことは出来ない。
太国の主張は、七支刀=369年を支持し、雄略時代に整合している記事を否定して
成り立つ。
当然他の文献で整合性が主張出来れば良いが、太国倍年を支持する文献は存在しない。
だから、書紀の主張を九州倭王武と主張しても、上表文は書紀の主張する大和王の実
績の域を出ない。九州王都は存在しない。
こんな主張が正しいと出来ない事は太国も承知しているだろ。
倭の5王は大和の王である。これを支持、表記出来ない編年は誤りである。
よって太国倍年は、ゴミ箱行きの運命しか残されていない。
対案1つ示せない太国倍年、対案が示せない事実は誤りのある証拠である。
610日本@名無史さん:2011/05/14(土) 17:25:57.61
>>606 ヨコですが
> これらの5期漢鏡は同地で200年伝世した事になる。という解釈でいいのだろうか?

岡村秀典氏の解釈では北部九州「以外の地域では鏡を墓に埋葬する風習がなく、宝器として長くそれを伝世した」
でいいみたいですが。

いいのだろうか? と言うからにはよくない理由があるみたいですね。

岡村氏の判断基準は型式的なまとまりでしょう。そこから
一括入手、一括処分を想定しているのだと思います。

そうではない可能性はいくらでも言えるでしょうが、
そうなれば不合理なトンでも説(三雲南小路が委奴国王墓など)を認めなくてはならなくなるのではないだろうか。
611太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 17:34:29.45
支持する文献はいくらでもあ〜る。例えばホツマの妊娠期間もそれだ。
雄略4年の紀と大成経の記事もそれだねぇ〜。

かたや宿主空年の支持できる文献なんぞどこにもな〜い。pp まともな
空年の事例を宿主はただの一度も示すことが出来ていな〜い。無いから
だ。ww

空年なんぞどこにもないからな。そんなイカサマ年をマシなんぞ
すれば、当時の政敵に弱点を摑まれて身の失脚だ。それに元通りに年代
を矯正されてしまう。それはそうだろ、暦はいつその事実があったか
数字でハッキリ正確に決めるためのものだからな。空年は宿主の妄想
の果て。勿論西暦0年は特殊なので例外だがな。

なお景行の代は崇神世のお助け役なり。
612日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:24:38.14
>>587
>あなたのネタは、やっぱり畿内説の感覚が抜けてないってことで、おもしろくないんだな。

はい想定内の反応おなじみのパターン出てこの話も終了だなw
こうやってリアルで通用しそうな九州説を組み立ててもこの板の九州説の人間からしたら
「そりゃ実質畿内説じゃねえか!」…という事になるらしいw

>広域のゆるやかな首長連合なんてものを考えるのは根本的にまちがっているんだ。

今まで何十回言ってきたか分らんが今後何百万回言っても馬鹿は理解しないんだろうが
「ゆるやかな首長連合」なんてのは「邪馬台国畿内説」に留まる話ではない。
(逆に言えばこいつらにとって自分達の特殊な歴史観以外は全て”畿内説”w)

確固たる中央集権構造が出てるまで長く諸勢力が離合集散合従連衡を繰り返し
時に「反動」で後退もしつつ進んでいった…なんてのはもう今の日本人の歴史理解の基本の基本のそのまた基本。

ここで反発するような奴らには「1+1=2」が通用しない相手に数学の話をするようなものだwwww
じゃあ実際九州説を唱えているような学者でいいから
「広域のゆるやかな首長連合なんてありえない」と公言し
イチャモン言うだけでなくそれに代わる歴史観を提示している学者っているのか?有名どころの2・3でいいから教えろ。

俺が ゴ ミ ク ズ レ ベ ル 九 州 説 と言う所以であるwwwwwww
613日本@名無史さん:2011/05/14(土) 18:34:15.21
>>595-596

そう、俺がこの板で「ゴミクズレベル」と分類してやっている連中にしたら
仮にリアルで通用してもそれこそ「畿内ヤマトの後塵を拝する」ような形は絶対に受け入れられないw

「ぼくが かんがえた きゅしゅうやまたいこくが さいこうさいきょうなんだ」
と言う餓鬼じみたコンプレックスの裏返しがその根っこにあるw

614唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 19:05:00.22
>雄略4年の紀と大成経の記事もそれだねぇ〜。

嶋王の誕生を表記するとき、雄略天皇五年(辛丑四六一)が使えない太国倍年。
この手法を大成経で否定した。

記事と太国倍年は整合しない。雄略5年誕生で齟齬の出る太国倍年。
太国倍年雄略が正しいと何処で主張出来るのだ?
615太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 19:09:19.87
嶋王が日本人なのは半島人ながら日本で生まれたことからで、同王の
暦年は半島の暦だから紀と三国史記の100年以上の年代差の如く年代差が
あることは軽く予想でき、嶋王の年代が合わないのはおかしくはな〜い。

むしろ特定できたとするオマエのほうに疑念、眉唾が出る。ww
616日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:12:27.88
しかし老眼の組み立てようとした九州説と言うのは結果的には
九州(邪馬台国・伊都国)東遷説と同じような構図になっている気がするw

まあ老眼説の場合は人の移動を伴わず「盟主権」のようなものが九州から畿内へ移動したと言う事なんだと思うが…
(政権交代っちゅうやつやねw)

やはり「畿内ヤマトはワシが育てたby北部九州」として後の畿内ヤマトにおける九州の影響を抽出して
「ヤマト勃興直前には九州に邪馬台国があった」と言うのなら
同じように吉備や阿波・播磨・東海etc…の影響を抽出できたならそれらのクニグニを邪馬台国とするロジックも通用する話になるのではないか?

つまり本来の東遷説の証明プロセスを逆行した形ではないのかとw

(良)九州に邪馬台国を見つける→畿内ヤマトと比較→東遷があったと言い切れるほどの共通項、それがダイレクトに持ち込まれた事実を見つける→東遷説の証明

(悪)九州邪馬台国東遷(政権交代)があったと仮定→畿内ヤマトから九州的なる物を抽出→九州に邪馬台国があった。
617ローガン 九州説:2011/05/14(土) 19:25:54.31
>>610
いや、だから、伝世幅なんて誰にもわからない。ケースバイケースって事でしょう?
なら、ああいう図の書き方は誤解をまねくような気がします。入手時期とは全く関係ないんだから。
ただ「4世紀に作られたであろう古墳から、5期から7期の鏡が出てくる」という事がわかっているだけ。
いつ入手したかわからない以上、使えないんじゃない?
4世紀中、すでに厚葬がすすんで、鏡副葬が常態化していた頃なら、被葬者自身が入手した鏡を墓に入れたではなかろうか?
例えば新山の帯金具みたいな…。なら、伝世幅は最大で半世紀。
618唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 20:31:02.36
>>615
雄略天皇二一年(丁巳四七七)春三月。天皇聞百濟爲高麗所破。

この記事は、国内の記事だ。
太国の主張を取り入れると
雄略21年の出来事を雄略8年に聞くことになる。
歴史が逆立ちしてどうする?
619日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:32:51.02
鏡の編年自体に、信用性がないってことはないの?
620太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 20:34:21.61
国内と言ったところで、高麗とあるではないか。ww
高麗は日本か〜? オマエ精神病院へ入院しろ。
621五月雨 太郎:2011/05/14(土) 20:48:26.15
だから近畿説の人は単に九州説の批判をしていれば良いのではなく、自分の
近畿説を証明した上で九州説批判の論拠として示さないとただ誹謗中傷して
いるにすぎなくなるんだよ。
まず近畿説の最大の弱点である「東の海」の存在を立証しろ。これができな
い限り近畿説は成立しない。過去に近畿説の歴史学者達のだれ一人、立証で
きなかった課題をまず解決せよ。
巻向をほじくった橋本氏は、あれは巻向から邪馬台国の証拠を見つけるため
ではなく、あのまま新宮市まで掘り続けて近畿の東に海を作りたいために掘
リ続けているんだ、という噂を聞いた。ほんまかいなー。アッハッハッハッ
ハー。



622遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 21:12:19.27
>「東の海」の存在を立証しろ。

奴らにはできない相談・というよりも・も求めるほうが無茶。
なぜならば、
何と書いてあろうが東に向かって大和まで来たことにしてしまう奴らだから。
その点では正論が通じない。

あのね。
文献では畿内説は無理だととっくに悟った連中は、文献を放棄した。で
コンチキ図・神獣鏡・箸墓年代繰り上げ・纏向掘り・年輪年代法・炭素年代法と、
手口がバレても性懲りもなく次々に欺詐を繰り出してきたわけ。
これらに共通するキーワードは、「畿内説で栄達を遂げた人間」。
彼らは、死ぬまで畿内説を叫ぶ義務と宿命がつきまとうわけ。
で・別段熱くもない講演会の壇上でも、額に汗して「畿内にあった」というわけさ。

悲惨なる醜態………。
この板に登場する輩も大同小異。見苦しくわめくしか手がないのよ。
623ローガン 九州説:2011/05/14(土) 21:16:05.28
>>619
> 鏡の編年自体に、信用性がないってことはないの?

岡村「私は漢鏡7期を第1段階と第2段階とに区別しています。第2段階は画文帯神獣鏡ですね。
それから、上方作などの浮彫式獣帯鏡を第1段階にしています。ただ、この二段階編年は鏡のほうでは決めがたいので、
出土する古墳をちょっとカンニングしているわけです。」(シンポジウム三角縁神獣鏡 p.156)
つまり出土する古墳の後先で区別したと。
小山田氏に突っ込まれた部分。
624日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:24:11.59
>>621
>まず近畿説の最大の弱点である「東の海」の存在を立証しろ。

奈良県の東が東海地方と呼ばれてることも知らんのか。
小学生からやりなおしたほうがいいな。
625日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:26:07.54
>>622 嘘・大袈裟・紛らわしい 再生不可能のゴミクズ 伊作

>これらに共通するキーワードは、「畿内説で栄達を遂げた人間」。

ところでその中には九州の柳田も含まれるのかな?w

てめえの書いた駄文が世の中から一顧だにされないからって
世を呪っても救われないぞゴミクズwwwww
626遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 21:31:46.52
>>624
>奈良県の東が東海地方と呼ばれてることも知らんのか。
ぬぁー? いつからよ。

>>625
俺は、俺の目の黒いうちに評価してもらえるとは微塵も思っていないし、
そんな矮小な期待も野心もない。
無欲の学問が対象だ。崇高で高潔だと前に書いたはずだがな。

下卑た下等動物よ
627日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:36:59.42
東海といえば伊勢の海のことだろう?
邪馬台国が紀伊半島で、末盧国(敦賀湾周辺)から陸路でたどり着いたとすれば
南ということで方角も所要日数も正しいことになる。
素直に読めば、他の説は出てこないと思うのだが。
628日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:37:09.40
>>626 かつての邪馬台国ブームの幻影を追いかけるボケ爺 伊作

それほど立派な事をほざくのならこんなネットで馬鹿丸出しアホなネタで
畿内説(と言うより今日の史学・アカデミズム全体)にイチャモンつけるようなモネはするなクズがw

畿内説にいくらイチャモンをつけてもそれで九州説が復活する事は無い。

これだけは覚えておけドアホウ。


629遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 21:41:33.77
>>628
>畿内説にいくらイチャモンをつけても

理不尽な攻撃・罵倒・イチャモンをつけたるのはてめえらだ。
俺は相手なりの人だ。
てめえら畿内説の片棒担ぎどもと同じ土俵でやるは、
てめえらと同じ水準でやるしかなかろう。もんくあるか?

下等動物野郎
630唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/14(土) 21:50:03.69
>>615
>嶋王の年代が合わないのはおかしくはな〜い。

書紀の主張は、嶋王も武寧王も合っている。
それを書き換えなければならない理由がない。
太国倍年なる物は、歴史と関係が無い。この場合 合わないのはおかしくな〜い。
ということですな。
631日本@名無史さん:2011/05/14(土) 21:59:13.34
>>622 ポン作
>神獣鏡・箸墓年代繰り上げ・纏向掘り・年輪年代法・炭素年代法と、

まあこの伊作とか言うボケ爺のみならずこの板の九州説って畿内説にイチャモンつけるにもこのレベルw

今の畿内説にとって三角の舶載or国産は問題ではない。
むしろ現状国産説の人間の方が多いだろうw

今後、箸墓やホケノの年代がどう動こうがそれで庄内の始まりを4世紀にもっていくような年代観になる事は無い。

年輪年代法だの炭素年代法と言った理化学的年代測定法とは別に年代観の見直しのトレンドが進行していたことすら知らないw

ネットやセンセーショナルな説を売り物にした本には
そう言った批判が書いてあるからゴミクズレベル九州説のアホは直ぐに飛びつく
大抵は書いてあること自体は嘘ではないがそれのみで結論を出すとトンデモな方向に行き着く。

まあゴミクズレベル九州説に徹底的に無いのは情報リテラシーって奴だなwwwwwww
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/14(土) 22:05:29.19
宿主
合ってるなら、神功39年の卑弥呼の年代も合うはずだ。
だから紀の半島の記事はあてにはならな〜い。オマエは即断の○抜けを
やりたいのか?ww
633日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:09:18.28
>>612
>>広域のゆるやかな首長連合なんてものを考えるのは根本的にまちがっているんだ。

>今まで何十回言ってきたか分らんが今後何百万回言っても馬鹿は理解しないんだろうが
>「ゆるやかな首長連合」なんてのは「邪馬台国畿内説」に留まる話ではない。
>(逆に言えばこいつらにとって自分達の特殊な歴史観以外は全て”畿内説”w)

>確固たる中央集権構造が出てるまで長く諸勢力が離合集散合従連衡を繰り返し
>時に「反動」で後退もしつつ進んでいった…なんてのはもう今の日本人の歴史理解の基本の基本のそのまた基本。

ふ〜ん。「ゆるやかな首長連合」というのは「諸勢力が離合集散合従連衡を繰り返し 時に「反動」で後退もしつつ進んで いく」
状態のことか?それは知らなかった。へえ〜。それなら「ゆるやかな首長連合」などと紛らわしいことを言わねばいいのにね。
畿内説というのはそんな紛らわしい言葉で成り立っているんだね〜。あほらし。
634日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:13:04.69
>>633
だったらお前がベストなネーミングして広めろボケw

別に誰もその語に固執してないだろうが
字面だけ見て脊髄反射で噛み付いてくる阿呆にあわせる必要も無いって話だなwwwwwww
635遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 22:15:42.69
>>631
>年代観の見直しのトレンドが進行していた

弥生時代後期の50年ほど女王を勤めた人物の墓を、
古墳時代の280メートルの前方後古墳にズラし合わせる輩のすることだ。
たいていのことではもう誰も驚かない。

奥歯で笑うだけのことよ。
636遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 22:18:52.10
>>634
俺がベストなネーミングをしてやったろう。
「ゆるゆるの連合」。
何の効力もない・ゆるゆるに弛んだ連合な。

あってもなくても・お・な・じ。
637日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:19:46.10
>>634
>だったらお前がベストなネーミングして広めろボケw

そうかい。ではお言葉に甘えて。 「ゆるふん連合」ではどうかな。
638日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:22:32.33
>>635 馬鹿作
まあお前は>>631で言っている事が何の事か分らないだろうなw

別に分らなくていいからリアルでそんな事を言ったら大恥かくのはてめえだという事を覚えておけ阿呆w



639日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:23:40.84
>>634
>別に誰もその語に固執してないだろうが

老眼がいるだろが。おめ〜は眼が見えないのか?それとも字を読む能力がないのか?
640日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:27:52.72
>>636-637 ゴミその1その2
>「ゆるゆるの連合」
>「ゆるふん連合」

正直それで広く認知されればそれでも良いんだがwwww

しかしガキが先生にあだ名つけてはしゃいでいるノリだなw

「緩やかな首長連合」に変わる概念を念頭にそれを良く表した語を期待した俺が馬鹿だったw
やはり字面にしか噛みつけないアホの軍団w

相手の低脳ぶりを失念していたわwwwww


641日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:29:16.02
>>639
は?

老眼が「”緩やかな首長連合”と言うネーミングじゃないと嫌だ」とか何処かで言ったのか?www
642ローガン 九州説:2011/05/14(土) 22:30:01.76
>>633横失礼。
>>確固たる中央集権構造が出てるまで
> それなら「ゆるやかな首長連合」などと紛らわしいことを言わねばいいのにね。

定義を共有しないから違和感があるんじゃない? 想定するエリアにもよるけど「確固たる中央集権」って…
私的には徳川時代。それゆえ、そこへ至る歴史認識として充分首肯できる書き込みだと思うんですが。


ああ、しゅこうで変換したら、やはり首肯より酒肴のほうがええなあ。
643遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 22:30:43.01
>>638
じゃ・この「深〜い」意味分かるか?

「弥生時代後期の」50年ほど女王を勤めた人物の墓を、
「古墳時代の」280メートルの前方後古墳にズラし合わせる輩のすることだ。
644日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:33:08.74
>>638
遺跡や土器などの製作や埋納の実年代を正確に求めることは非常に難しい。箸中山古墳の正確な築造年代を
明らかにする科学的手法は未だ確立されていない。おまえはそのことは知っているのか?

645日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:34:15.37
>>642 老眼翁
>私的には徳川時代。

個人的には律令制の完成w

646日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:35:17.44
>>644
>>631を読めアホ
647日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:36:27.52
律令制がどこまで地方に機能したものか。
648日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:42:13.11
>>642
あのね。「確固たる中央集権構造が出てるまで長く諸勢力が離合集散合従連衡を繰り返し  時に「反動」で後退もしつつ進んでいった…
なんてのはもう今の日本人の歴史理解の基本の基本のそのまた基本。」なんてのは当たり前の話なのよ。
それに異議をとなえているのではないのよ。「ゆるやかな首長連合」などという紛らわしい概念が不要だと言っているのよ。
649遊撃的論客・伊作:2011/05/14(土) 22:43:16.55
ドブ芥のジョーカーよ。

賢明なる世の良識たちが畿内説考古学のいうことを信用しなくなったのも、
それが趨勢にになってしまったのも、少なくとも俺たちのせいじゃない。

畿内説を標榜・宣伝・無理に推進する考古学者関係者たちが、
長年かけて築いてきた唯一の「成果」なのだ。

その事実を棚にするのもいい加減にせい。
650日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:43:49.60
>>646
631を撤回しろアホ
651日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:44:31.71
>>648
>「ゆるやかな首長連合」などという紛らわしい概念が不要だと言っているのよ。

どう紛らわしいん?

652日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:51:08.08
>>651
633の言うようなことなら「離合集散合従連衡を繰り返す連合」とすればいいだろ。「ゆるやかな」では
武力による強制も衝突も無い連合という印象を与えるだろ。
653日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:55:07.94
>>652
長いw

つうか「ゆるやか」と聞いて血の一滴も流れない
…そんな理想的な国家群像を想像するようなアホにあわせてやる必要は無いw

甘えるのも大概にしろwwwww
654ローガン 九州説:2011/05/14(土) 22:55:46.11
>>622
> >「東の海」の存在を立証しろ。

> 奴らにはできない相談・というよりも・も求めるほうが無茶。

天才が何言ってるの? それ異人譚の段落やん。それとも倭人伝に一言一句間違いなどないと云うの?
…私は陳寿を信じ通した… て事?
655ひとぶた:2011/05/14(土) 22:56:35.03
>>648

つまり、「卑弥呼の王国は中央集権的体制にちがいない」と思ってるわけですね。
656日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:58:00.39
>>653
だから「ゆるやかな首長連合」という言葉を使うなと言っているんだ。ばかめ。
657ローガン:2011/05/14(土) 23:00:33.60
>>653
> 長いw

ああ、笑た ああ可笑しい きょういちや。
658日本@名無史さん:2011/05/14(土) 23:04:17.25
>>655 人糞 あ、間違った ひとぶた
>つまり、「卑弥呼の王国は中央集権的体制にちがいない」と思ってるわけですね。

>>648をどう読めばそういう理解になるの?そんなことを言っているのではあ〜りません。
だけど、倭人伝の記事には一大率が諸国を検察していて諸国も畏憚していると書かれているから、かなり
中央集権的にはなっていたんじゃないかな。
659ひとぶた:2011/05/14(土) 23:23:35.64
>>658
>一大率が〜かなり中央集権的にはなっていたんじゃないかな。

でも、「当時の中国人がそう言う国家間しか持ち合わせていなかったから」と私は解釈して済ませてしまいます。
ゆる連論的には、卑弥呼も、多分一大率の機能を担う伊都王も、そして、吉備の首長も並列的な存在です。
660日本@名無史さん:2011/05/15(日) 00:09:39.32
畿内説のいう広域連合でも、
南部九州、北部九州、山陰側、山陽側、畿内、東海と文化圏は多種多様

九州説の北部九州連合でも、北部九州内ですら多種多様

実際問題として、かすかに関係が認められるという程度で、
実態はゆるゆる連合なんじゃないんかね。

古墳時代以前に、のちの王権を意識させるような
広域支配の痕跡ってなにかあるかねえ?
661日本@名無史さん:2011/05/15(日) 00:30:28.58
文字が無くて広域国家なんて有りえん。
インカなどのように一日100km以上走り、縄の瘤に暗号を刻んで五日で500k圏に命令を伝えると言った事が無ければ。
少なくとも北九州の範囲だろう。ひとつの国家としてまとまれたのは。
662ローガン 九州説:2011/05/15(日) 00:34:53.06
>>659
義憤高じ九州説の応援やってます。よければお付き合いを。

>ゆる連論的には、卑弥呼も、多分一大率の機能を担う伊都王も、そして、吉備の首長も並列的な存在です。

一大率についてですが、大=渠なので「渠率」。
毋丘倹伝に「寇婁敦遣弟阿羅槃等詣闕朝貢、封其【渠率】二十餘人為侯」と出てきます。
烏丸の寇婁敦は弟の阿羅槃を遣わし、闕に詣で朝貢させた。其の渠率二十餘人を侯にとりたてたと。
寇婁敦らが引き連れて降伏したのが五千人。その中の部族の長達を指して「渠率」と呼んでいるようです。
大率=渠率なら、卑弥呼と並列は解せないように思います。
>>662

伊都王が機能を担うとしても、イコール一大率にはならないでしょう。
一大率は伊都王に支援され、ゆる連全体の海上交通を仕切る勢力(多分水軍)と言わせてください。
倭人伝での文理上でも両者が同一格とは読めないでしょう。
664日本@名無史さん:2011/05/15(日) 01:20:03.02
>>617
> 伝世幅なんて誰にもわからない。ケースバイケースって事でしょう?

それは「いくらでも言えるでしょうが、そうなれば不合理なトンでも説を認めなくてはならなくなるのではないだろうか」
と思うのです。

私的に問題としたいのは「5期漢鏡は同地で200年伝世した事になる。という解釈でいいのだろうか?」の部分。
“型式的なまとまりがあるから一括入手”という推定の是非です。

> いつ入手したかわからない以上、使えないんじゃない?

7期第2段階以降の舶載鏡を入手したのが北部九州だったとしても、
それを自分たちで副葬せず(できず?)大半が畿内で副葬されたことは情勢の変化を示してると思いますが。

> なら、伝世幅は最大で半世紀。

入手先が厚葬の風習がなかった先祖からで問題ないのでは。
665どくだみ:2011/05/15(日) 01:36:03.83
>>662
ローガンさん、お久しぶりです。
面白いことやってますね。

以前の接の宿題、放ったままですみません。
二ヶ月たって議論の記憶が曖昧になってますが、
そのうち過去ログを見てレスしようと思ってます。
666日本@名無史さん:2011/05/15(日) 09:26:59.12
渠=大なの?
頭とか首領とかそういう意味でないの?
667ローガン 九州説:2011/05/15(日) 11:33:51.42
>>664
>私的に問題としたいのは「5期漢鏡は同地で200年伝世した事になる。という解釈でいいのだろうか?」の部分。
> “型式的なまとまりがあるから一括入手”という推定の是非です。

ですから、あの図の書かれた前提に、「作られてすぐ入手、場所を変えず伝世」があると云うのを、理解したうえで見ないと。
と思うんですよ。
その前提の正否が論点ではないでしょうか?上で引用した書では、小山田氏は議論の中で、所有者の変更の可能性に言及しています。

>7期第2段階以降の舶載鏡を入手したのが北部九州だったとしても、
> それを自分たちで副葬せず(できず?)大半が畿内で副葬されたことは情勢の変化を示してると思いますが。

それは最終処分地の事ですね。
巨大古墳に大量副葬が常態化した、4世紀に集めた結果と考えてはいかがですか?
240年到着の百枚と等式で結ぶのは早計ではないでしょうか?
668ローガン 九州説:2011/05/15(日) 11:36:39.66
>>665
>ローガンさん、お久しぶりです。面白いことやってますね。

いや、お恥ずかしい。又、色々教えてください。
669日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:23:37.44
データをどう分析するかで、いくらでも恣意的解釈できるからな。
というかローガンは何がしたいのかハッキリ言え。
670ローガン 九州説:2011/05/15(日) 12:35:18.07
>>667に補足。
岡村氏の図から、読み取れるのは単に期別の鏡の出土状況であり、第一所有者の分布ではないという事。
制作後、即入手、移動せず伝世は確定事項ではありません。
ゆえ、単純にこの図から、画文帯鏡が濃密に出土するエリアが邪馬台国だと論じる事は出来ない。
伝世についてなどの、クリアすべきハードルがあると云う事です。では又後程。
671日本@名無史さん:2011/05/15(日) 12:41:50.68
鏡の編年は難しい。伝世とか、いろいろあり過ぎて。
ホウ製鏡の判断も難しい。鋳上がりが良いから中国産とも言えんし。
今の考古学の水準では、鏡の編年をもとに古代史を語るのは時期尚早。
672日本@名無史さん:2011/05/15(日) 13:53:37.43
結局、一番信用できるのは土器編年だけ。
畿内説圧勝じゃ。
673日本@名無史さん:2011/05/15(日) 14:17:14.93
やっぱり、墨書の残る木簡が出てこないと。
邪馬台国の文字が見えれば完璧ですが、
帥升などの役職名だけでも見えれば・・
674日本@名無史さん:2011/05/15(日) 15:10:42.11
>>667
> 「作られてすぐ入手、場所を変えず伝世」・・・の正否が論点ではないでしょうか?
>>670
> 伝世についてなどの、クリアすべきハードル

天神山古墳の5期の10枚。
「前後の漢鏡4期や漢鏡6期の鏡をふくまない、この10面の型式的なまとまりからみて、
 各地からよせあつめたものではなく、まとまった状態でもたらされ」
たとみる解釈が伝世肯定の論拠のひとつだと思います。

岡村さんもいきなりあの図を出すわけじゃなく、
上記を含む、伝世だと解釈できる事例をできるだけ列挙したあと提示しています。
675日本@名無史さん:2011/05/15(日) 15:26:34.58
伝世というからには、それなりの根拠が必要だと思うが…。
ただの年代合わせでは困る。

一貴山銚子塚古墳の方格規矩四神鏡と内行花文鏡は200年ほど伝世されたと
されるが、これは手慣れというか手擦れがひどい事を根拠にしている。
676唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/15(日) 16:12:30.59
PDFファイル
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永伸哉
摂河泉出土の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡 より

3C前葉
上方作系獣帯鏡(六像式)、画文帯環状乳神獣鏡、画文帯神獣鏡、画文帯求心式神獣鏡、
半円方形帯神獣鏡。
3C中葉〜3C末
魏・景初三年画文帯神獣鏡、魏・顔氏作画文帯環状乳神獣鏡、魏・青龍三年方格規矩四神鏡
魏・半円方形帯同向式神獣鏡、舶A ・吾作四神四獣鏡、舶A ・唐草文帯四神四獣鏡
舶A ・吾作三神五獣鏡、舶A ・吾作四神四獣鏡、舶B ・吾作徐州銘四神四獣鏡
舶B ・陳是作六神四獣鏡、舶B ・波文帯盤龍鏡、舶B ・吾作四神四獣鏡
舶B ・陳是作五神四獣鏡、舶B ・吾作三神四獣鏡、舶B ・唐草文帯四神四獣鏡
舶B ・櫛歯文帯四神四獣鏡?、舶B ・文様帯四神四獣鏡?舶B ・獣文帯四神四獣鏡
舶B ・波文帯盤龍鏡、舶B ・新作徐州銘四神四獣鏡、舶C ・吾作四神二獣鏡
舶C ・獣文帯三神三獣鏡、舶C ・唐草文帯二神二獣鏡、舶C ・唐草文帯三神二獣鏡
舶C ・獣文帯二神三獣一虫鏡、舶D ・獣文帯三神三獣鏡、舶D ・波文帯三神三獣鏡
4C前葉〜後葉
・獣文帯三神三獣鏡、倣V ・獣文帯三神三獣鏡、倣T ・唐草文帯三神二獣鏡
倣T ・鳥文帯三神三獣鏡、倣T ・獣文帯三神三獣鏡、倣U ・獣文帯三神三獣鏡
倣U ・獣文帯三神三獣鏡、倣U ・獣文帯三神三獣鏡、舶D ・波文帯三神二獣博山炉鏡
舶D ・波文帯四神三獣博山炉鏡、舶D ・波文帯神獣鏡、舶・三角縁神獣鏡(鏡式不明)
倣U ・獣文帯三神三獣鏡、倣T ・獣文帯三神三獣鏡、倣V ・吾作三神三獣鏡
倣V ・吾作三神三獣鏡、倣T ・唐草文帯三神三獣鏡、倣T ・獣文帯三神三獣鏡

240年 卑弥呼の鏡は後漢鏡が主となる。その後も継続的に鏡は輸入される、だから
きっちり別けることは出来ないが、舶載A~Dが輸入される。
(倭国は東夷九国に含まれる)
274年神功渡海、3世紀後半さかんに東夷朝貢。
4C(308年永嘉の乱)に入ると倣製鏡が主流となる。
677唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/15(日) 16:47:23.26
九州説の欠点は、今の纒向遺跡年代より50年遅れる。
そうすると、どうしても
308年永嘉の乱(鏡の入手不可)この時代も継続的に鏡を入手せねばならない。
乱の終了時には、中国東北部に関心を示さない東晋。
343年百済、高句麗は前燕に帰順、370年前燕滅亡、372年東晋の使者が
百済を訪れる。
永嘉の乱から60年以上の空白期に仿製鏡を造らずに何処から入手するのか?
678日本@名無史さん:2011/05/15(日) 17:56:28.42
>九州説の欠点は、今の纒向遺跡年代より50年遅れる。

唐松は漢文だけでなく日本語の天才でもあるな。凡人(一般の日本人)には何のことか解らぬ文章を書ける。
679唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/15(日) 18:28:02.77
わからんか?
研究課題名(和文) 日韓出土土器による3・4世紀国際交流の研究 より
、朝鮮半島系土器の極度の集中や遺跡内の住居に多数つくられたカマドが周辺集落に
普及しないことは、朝鮮半島系の要素に対する一定の管理がおこなわれたと考えるこ
ともでき、『魏志倭人伝』の記述と比較可能な事象である。北部九州における土器の畿内
化の現象は、博多湾沿岸ばかりでなく有明湾沿岸地域にもおよび、この時期の北部九州
にみられるきわめて特徴的な現象である。

最新の考古学は、西新町遺跡の分析をした。その結果は、
庄内式がこの遺跡に進出し、布留式土器の時代には、半島各地の土器が同遺跡に
存在する。
箸墓=布留0式の指標=260年代(250年±10年より10年遅くする)
九州説は、箸墓を4世紀にして成り立つ。
ここを基本として鏡の輸入を考えた時、308年永嘉の乱←この時代も鏡を
輸入し続けなければ成り立たない説なのだ。
680日本@名無史さん:2011/05/15(日) 18:44:34.53
>最新の考古学は、西新町遺跡の分析をした。その結果は、
>庄内式がこの遺跡に進出し、布留式土器の時代には、半島各地の土器が同遺跡に
>存在する。

庄内式土器の発祥の地は北部九州かもしれんな。
681日本@名無史さん:2011/05/15(日) 19:43:37.92
>>680
>庄内式土器の発祥の地は北部九州かもしれんな。

そう思いたい学者が何十年も調べても、九州発祥の証拠は出てないわけだが。
682日本@名無史さん:2011/05/15(日) 21:52:32.56
>>681
庄内式土器の発祥の地は何処なの?それは何で分るの?
683日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:06:17.95
結局いじり易い畿内の年代と違って九州はいじりにくいw

畿内の年代だけいじって九州の方は諦めるとなると

「古墳も土師器も九州発祥!」と言うことにせざるをえないwwwww

なんと言うか一つの嘘をついてそれをカバーする為にまた嘘をつかざるをえなくなって
ドンドン自縄自縛のドツボに入っているのが「邪馬台国東遷説」みたいな九州説www

安本センセイが九州の考古学に喧嘩を売っている所見た奴いるかい?wwwwwwwwwwww
684日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:10:15.38
庄内が九州発祥として、年代が東征につごうのよい350年頃とすると、西新遺跡なんかも350年頃
になるのかな。九州考古学はめちゃくちゃになるな。
685日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:31:47.38
>>684

近畿地方でも、弥生時代の朝鮮半島の土器は発見されるがごくわずかで、渡来人の居住を物語る土器ではなく、容器
として運ばれてきたものであろう。しかし、古墳の造り方や副葬品の種類や扱い方には弥生の伝統で理解できないも
のも数多く、ここに渡来人や渡来系情報の存在が読みとれる。弥生時代に北九州へ渡来してきた人々が、やがて近畿
地方へも移っていって、古墳を築くのである。近畿地方で渡来人が急増するのは、古墳時代中期の4世紀末から5世
紀初め頃である。各地の遺跡からは、各種の朝鮮半島系土器がまとまって見つかり、かなりの密度で渡来人が居住し
始めたことがうかがえる。このことは、それまでの渡来人が王権直属の知識人や一部の工人に限定されていた状況か
らみれば、大きな変化と言える。この北九州から近畿への大移動が、やがて神武東征に象徴される、「西からの文化
・技術・武装集団の伝播、移動」として人々の記憶に残った可能性は大である。
http://inoues.net/ruins/nishijin.html
686日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:42:54.04
?意味がわからんな。4〜5世紀であれば九州の土器は庄内からずっと変化しているんだが。
渡来人が増えたのはそのとおり。
687日本@名無史さん:2011/05/15(日) 22:51:18.69
>>682
庄内式土器ってのは、1965年に田中琢によって提唱された土器様式、とある。
田中琢は、京大から奈良文化財研究所なのでバリバリの畿内説だろうな。
大阪府の庄内遺跡から名前を取ったらしい。

けっこう広範囲から出土しているらしいが位置づけが難しく、弥生時代と
古墳時代のどちらに含めるかなどいろいろ議論のあるところらしい。

詳しく知っている人はあまりいないんじゃなかろうか。
結局、考古学的なものは、専門家のいうことを鵜呑みにしなくてはならない
ようなところがあるな。
688ローガン 九州説:2011/05/15(日) 22:58:29.61
>>674
いえ、何も岡村説を全否定なんて生意気を言っている訳ではないのです。
「漢鏡各段階の分布」は、あくまでも岡村氏の伝世解釈(制作後、即入手、移動せず)が前提の図であると言っているのです。
だから、そういう前提を知らずして、図だけをみて画文帯鏡が濃密に分布する地域が邪馬台国、というようなのは論外だ。というのがこのたびの主張です。
又、岡村氏は7期第1段階は自然な流通により入手したものゆえ、広範囲に分布。
続く2段階は畿内集中、前方後円(方)墳からの出土が多いことから、
「政治的関係を取り結ぶ体制が畿内に形成されたことをものがたる。(中略)その分配関係は卑弥呼の共立によって成立した政治体制にほかならない。」(考古学からみた漢と倭p.236 岡村秀典)
第1段階はネットワーク型、第2段階は王権による分配という変化に卑弥呼政権の誕生を見るとしています。
ところがどうでしょう。第1段階と第2段階という編年作成の根拠が、広範囲に散らばる鏡種を第1段階、濃密に分布する鏡種を第2段階だというのです。
上で書いた「出土する古墳をちょっとカンニングしているわけです。」(シンポジウム三角縁神獣鏡p.156)とは、こういう訳です。
循環論法でしょう。
689日本@名無史さん:2011/05/15(日) 23:58:22.51
ローガンも九州説ごっこ続けるなら、
庄内式土器について何か語ってよ。

690日本@名無史さん:2011/05/16(月) 01:06:51.73
畿内説は庄内式土器の時代を卑弥呼の時代と考えているわけだろう?
となると、庄内式土器の時代に古墳があるかどうかは卑弥呼時代が古墳時代か
弥生時代になるかの分かれ道となるわけか。
畿内説にとってはけっこう重要かも。
691日本@名無史さん:2011/05/16(月) 01:31:09.65
弥生時代と古墳時代の線引きってことに、
もはやそれほどの意味はないぞ
692日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:01:27.51
弥生時代とか縄文時代とかなんて、
近代の学者らが、勝手に定義した考古学上区分だ。
どこからが弥生時代でどこからが古墳時代なんて、
そんなもん現代の学者の神学論争にすぎない。

そもそも、弥生時代ってのは、もとは弥生式土器の時代という定義だったのに
それが、のちに農耕開始時代と定義され、さらに最近では、水稲時代に限定した開始時期とされているんだろう?
しかも、土器編年も常に変わっていて、土器編年からみた
弥生式土器開始時期も変わってきているし
また、縄文式土器の時代にすでに水稲農耕がおこなわれていたり、
弥生式土器と縄文式土器の中間型の土器の時代まであったとか

もう、かなり混乱してきているというか...
693日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:04:43.52
>>692
元々、政治的なゴマカシ。分子生物学やネットの普及でケツに火がつき始めたんだろw
694日本@名無史さん:2011/05/16(月) 13:35:38.71
>>692-693

なるほど。

すると、キミらは、
縄文時代の、ある日突然、弥生人がやってきて、
「それじゃあ、来年から、みんなで弥生式土器つくって、稲作はじめますから」ってんで、
弥生時代に切り替わったと思ってたわけか。

ゆとり世代は怖いな。
695日本@名無史さん:2011/05/16(月) 14:44:39.03
>>694
だから、国立朝鮮博物館やら学者が今迄そう言ってただろ。
696ローガン 九州説:2011/05/16(月) 14:55:54.34
>>689
> ローガンも九州説ごっこ続けるなら、庄内式土器について何か語ってよ。

だから、こないだから言ってるやん。三角縁神獣鏡を国産としたら布留0が下がるって。
布留0は庄内式やん。
697日本@名無史さん:2011/05/16(月) 15:14:03.89
西新式は?
698日本@名無史さん:2011/05/17(火) 05:47:29.15
いつ弥生時代が始まったのか論争する以前に
そもそも、これまでの考古学上の区分法で
定義すること自体、無理が出てきているだろう?
とくに、弥生時代の定義が変わりすぎだ。
土器編年だけが大きく変わってきているだけではなくて
弥生時代の意味合い自体がかわりすぎ。
もともとは、弥生式土器が使用され出した時代という定義だったのが
そのうち農耕が開始された時代に変わり、
さらに、農耕でも水稲が開始され出した時代という定義になってきているんだろう?
弥生式土器の有無とは関係ないのに、弥生時代という名称が生き続けている。
699日本@名無史さん:2011/05/17(火) 06:06:15.44
大陸移民のシンボルとしての弥生、だからだろ。
日本人の源流を大陸に求めたいモワッとした勢力が
いろんな分野で共益になるから支持してるんだよ。
水耕が源日本にあったとしたら、また違う理由で弥生となる。
700レス長たらし毘古:2011/05/17(火) 12:18:25.15
さて、久々の考察成果。今更ですが「おそらく」と思いながら古事記から欽明
天皇(第29代)の家系図を再確認。すると、やはり以下のとおりでした。
欽明天皇のお子さんのうち、天皇になられたお方は以下四名。(継承順)

@敏達天皇(30) A用明天皇(31) B崇峻天皇(32) C推古天皇(33)

※@は家系上は今の天皇陛下にもつながります。Aは所謂聖徳太子の父。
Cは現在の古代日本史学上の通説では初代女性天皇と呼ばれています。

さて、この四人ですが、それぞれ母親が問題です。母親は以下のとおり。
@息長真手の娘の比呂比売 A宗賀稲目の娘のキタシ比売 Bキタシ比売の
叔母の小兄比売 C宗賀稲目の娘のキタシ比売

そうです。つまるところ大きく分けるならば、@は息長系であり、ABCは
宗賀系(古事記では蘇我の事を宗賀と表記)と、二分できます。そして皇位
継承はその後、@の子孫へと結果的に受け継がれて行く訳です。

つまり蘇我イルカには、聖徳太子の子の山背大兄王を殺害する必要もメリット
も無く、逆に、@の孫であるジョ名天皇(&その長男の天智天皇)の方が、
動機もメリットも圧倒的に大きい。
天智天皇の皇子の頃の流血事変に関して、イルカ殺害は書紀も隠してはいませ
んが、また一方、イルカ殺しに荷担したと言われる蘇我の石川の倉山田麻呂を
皇子の頃の天智天皇殺害した事もこれまた隠してはいない。
つまりこの二つは自他共に認める「(皇子の頃の)天智天皇」の所為です。
そして、山背大兄王(=蘇我系の唯一の後継)がいなくなったら一番皇位継承
に近づくのが、中大兄皇子(=天智天皇=息長系)その人なのです。

さて結論に近づいてきましたが、この「息長」さん、俺の文章では度々出て
きますし、それでなくとも、もうこの板の方々はお気付きですね?そう、神功
皇后こそが、「息長」系の伝説における黎明の偉人なのです。(発祥は開化
天皇のお孫さんの息長宿禰さんです)
701レス長たらし毘古:2011/05/17(火) 12:50:14.31
さて、してみると、この「記紀の発祥」時点における、天智&天武の関係性が
やはり重要になって来ます。
天武さんには諸説あり、中では「とんでも系」も空想歴史としては面白いのも
ありますが、俺個人は、やはり天武さんは天智のいろと(異母弟)と言う
可能性が高いと見ています。おそらく、年齢は天武の方が上でしょう。
しかし、母方のみ「真実を明かせない事情があった」と仮定すると、さて、
天武さんを巡る記紀上のかなり多くの「矛盾」が解消される事になって来る。

IF。。。「まさか、天武天皇のお母様が宗賀系とは言える筈がない」

で、付記なんですが、石川倉山田麻呂のお子さんですが、天智天皇に殺されて
しまっているんですよね。
対朝鮮戦争では忠実にタッグを組んだ天智天皇&天武天皇(当時は皇子)は
当時はまだジョ名天皇(両お方の父)の遺言が強烈に家臣団に残っているワケ
ですから、組むであろうし、組んだ方が得だし、当然組むのです。
しかし対朝鮮戦争も泥沼化し、戦争継続か停戦かと言う外交上の分岐と、兄弟
相続をとるか長子相続をとるか、の所謂生活慣習の分岐点も到来しています。
従って、その「内外の全ての矛盾の総決算」が、次の天武天皇の時代には必要
になって来ます。まさしく、そう言う時代に、多氏の太安万侶によって、
古事記の草案は献上されます。そして、この多氏、俺個人は「意富氏」と架空
しております。「意富美和の神がオオタタネコを神主に三輪にまつられたのが
崇神の頃」と規定するのが古事記の時代です。
そして、意富→多→大の変換で考えると、意富美和→大(美)和ともとれる。

意富氏、前出雲氏(オオクニヌシ系)、前大和氏(ニギハヤ系=物部系?)、
崇神系、息長系、宗賀系、中臣系。。。
ここらへんの支持母体、つまり「同氏族で同神を祖先神として敬う集団」の
「時代時代における関係性」こそが、記紀のトリックを再検証する目安に
なるかもしれない。そして、その架空の上にしか、邪馬台国のマホロバは登場
し得ないのであります。
702レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 15:50:32.88
従って、原書の日本神話歴史(意富氏による)は、古事記編纂までに都合最低
でも5回は塗り変っている(口伝口承も含むため書き換わりでなく塗り代わり
と表記)と仮定する。以下、その手順。

@意富氏伝承→後出雲伝承・・・崇神&大毘古体制下による
A後出雲伝承→息長氏伝承・・・神功皇后&竹内宿根体制下による
B息長氏伝承→物部氏伝承・・・継体天皇体制下による息長氏弱体化による
C物部氏伝承→蘇我氏伝承・・・蘇我&聖徳太子体制下による
D蘇我氏伝承→息長氏伝承・・・天智天皇&中臣鎌足体制下による

そして、更にその後、日本書紀編纂において、最後の調整がなされる。

E息長氏伝承→書紀の伝承・・・これが平安時代から見た日本古代史となる。

そして、まさしく@の塗り代わりの時期こそ、卑弥呼さんの時代に相当する
のである。
703レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 16:00:49.83
そして、上記の@〜Dのそれぞれの元氏族伝承は、以下のように変転する。

@の意富氏の伝説は、後代Bの時期に、オオタタネコの伝説が代入される。
Aの後出雲氏の伝説は、後代Cの時期に、出雲の表記として分断代入される。
Bの息長氏の伝説は、後代Dの時代に、大幅抑制された形で古事記に伝わる。
Cの物部氏の伝説は、後代Eの時代に、祭祀伝承という形で記紀外に規定。
Dの蘇我氏の伝説は、後代古事記からは大幅削除され、拾遺難解となる。
Eの息長氏の伝説は、Dの時代に散逸された為、研究によって記紀に表記。

さて、これが記紀の比較による、可能性の少なく無さそうな架空である。
704レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 16:14:35.31
卑弥呼を祟神直前の、共立された女王様(女大王様)と仮定した上で、では
卑弥呼の逸話に限って、@〜Eにおいて、どのような変転となったか、だが。

@では、卑弥呼の存在は完全に正史から外される。
Aでは、卑弥呼の存在を正史以外から研究し始め、代わりに出雲伝説を代入。
Bでは、卑弥呼の存在を天照の格上げに活用する。石屋戸伝説の拡大挿入。
Cでは、卑弥呼の存在の正史以外の要素を祭祀としてのみ現在まで保管。
Dでは、宗賀氏伝承と関わる大幅な部分を削除し、他の有力氏族に割り振る。
(ここで、不可解な卑弥呼は不可解な天照や研究途上の神功になぞらえられ)
Eでは、今や外国書物にのみ存在する卑弥呼は、恐らく天照か神功であろう、

となる。結果として卑弥呼の痕跡は、天照要素・神功要素・百襲要素・祭祀内
残存と、四分割されるのである。勿論、海外向けパンフレットでもある正史
日本書紀から簡単に「卑弥呼は誰々である」と「わかっちゃったらいけない」
のである。
705レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 16:53:37.44
ここで注意すべきは、記紀において即位前の皇子と即位後の大王は「別人格」
であると言う点である。
だからこそ、天智天皇のいくつかの表記せざるを得ない直接の殺戮は、全て、
「皇子の時代に行なった物」となるわけである。スメラミコト(=大王)は
大王になるべく有資格であるからこそ、大王になる(記紀ではその法則)
ので、大王となった者は徳と天命が完備されている筈(記紀では以下同)と
言う記紀特有の方法論である。
(ここらへんが、山背皇子の殺害犯人を蘇我系にしなければならなかった理由
でもある)

しかるに、卑弥呼本人も、当然、立位前と後は、「別人格」になり「別名」
でもある筈。つまり「Aが立位し、死後Bを諡号」と言う記述さえ削除して
しまったならば、A=Bであると言うことは判別不能となるのである。

後出雲王権の祟神&大毘古チームは、Aの立位の事実自体を否定したが、後代
そのチームの末裔が神功によってその座を追われるにより、「Aが誰か?」
研究が、当時の「知識人的常識」によって、必要となってくる際に、

@立位したB⇒血脈は当代まで引き継がれて、その子孫は当代大王。とし、
ABの実政治⇒語られるのがタブー。とし、
更に後代
B上記@はB’になり、Aは別人Cとなる。Cは実際政治を行なうも、Aは
ヒメであるから、実際政治は行なう筈が無いと言う後代認識になってくる。
706日本@名無史さん:2011/05/18(水) 16:54:51.70
ううう長たらし
707 忍法帖【Lv=14,xxxPT】 :2011/05/18(水) 16:58:16.91
オレは自慢だが、長たらし毘古のレスはまともに読んだことはない (キリッ
708レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 17:04:24.19
更に後代、恐らく古代的女帝概念の形成(推古頃)と共に、Bが女帝であった
可能性は完全否定されるワケである。ここで完全に、B’は男王=開化と
なり、Cの政治上の実績は抹消され、Aは女性のヒメ=政治には直接関与
してはいないが宣託をし怪伝説を残すシャーマン百襲ヒメとなるワケです。

卑弥呼の女性要素は全て百襲となり、卑弥呼の大王要素は全て開化となる。
そして、その実績は記紀の時代からはとっくに先代において抹消されている。
この原形が、用明&推古&聖徳太子(つまりは宗賀による擁立グループ)
の頃に、所謂大陸的男尊女卑概念に日本古来の男女観を多少折衷した形で
形成されて行くワケである。結果開化は女帝である筈が無いとなる。
(※1:そこで安心して推古天皇が正史上最古の女帝と規定できるのである)
(※2:この頃、神功皇后が天皇立位は無く、懐胎天皇を懐胎した皇后となる)
(※3:しかし、開化の血脈は、確実に当時の当代の現大王に繋がっていな
ければならない⇒開化の外交上の縁戚関係を、そのまま血縁関係と解釈。
これはつまり今で言う、義理の縁類関係を実際の血縁関係に代入して書き直す
という例えになる。但し、当方はここで血縁が途切れたとは定義しない。逆に
外交上実子を他子として一度は放り出したのを、本人か後代の人が、いや
あの人も子供でしたよ、と言う事も充分あり得るからです。実子を外交上
輸出しておくという可能性ね。これにより、卑弥呼は「子無し」でも全く
問題無い話になる。晋に子供輸出外交を行なう気が卑弥呼には全く無かった
ダケとも解釈できるのである)

その後更に後二回、塗り替えられるのである。わからなくなる筈である。
709日本@名無史さん:2011/05/18(水) 17:08:20.27
<DIV class=entry-body-text><FONT
color=white>自称天才とは誰のこと?<BR>無駄なことはしたくないから。<IMG
src="http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_z.gif">
710レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 17:25:47.09
ま、またしても長々書いてしまいましたが、これらは、古事記をベースに日本
書紀と比較してみるだけで、可能な拡大解釈および邪推なんだよね。
で、この拡大解釈&邪推によって、魏志倭人伝と初めてリンクできるとなる。

瀬戸内海の西に共立された女王国があったとすれば、それに対し、前出雲・
前大和・前北九州が関与していない筈が無い訳であるが、逆に言えば、魏志
倭人伝が「共立されていた」と言うのも、これまた下心が無い筈も無い話
なのである。晋から見て「共立された」女王が、そこにいたダケなのである。

そして、その女性は、古来からの意富氏伝承の「シャーマン奥義」をたまたま
継承していただけなのである。後代、記紀の時代までに、このシャーマンの
奥義とその血筋は、記紀の女傑の数々のシャーマン的逸話や大王の血脈に
「編入」されていく事になるのである。

大切なのは、記紀も魏志倭人伝も、そのどれももが、「九州が倭人の聖地の
ルーツである」と言う事は否定していないのである。つまり、古代倭人に
とっても、「権威の総本山」は、大分長いこと豊日別(古事記における九州
の事)に存在している筈なのである。
711レス長たらし毘古:2011/05/18(水) 17:55:58.68
俺個人は、古事記における、沙本毘売が、「私のアトガマは誰々にしなさい」
と後継指名する点を注視するが、その段階では既に崇神&大毘古王権において
東の毘売でもある「日売」は、ご存命中なのである。(トヨスキイリ日売か
ヌナキノイリ日売かトヲチノイリ日売かがそれに相当)従って、後継指名の
うちの長女ヒバス比売だけが「比売」となり、ヒバスの次の妹が「毘売」
となり、その更に妹が「日売」でかつ「毘売」でもあるのである。

つまり、この時点で、初めて「毘売」「日売」の南北朝にも相当する、二ヒメ
時代は終了するのである。(東の日売、西の毘売、の東西朝と言った所か)
二ヒメ時代が到来した直後の(東の)「日売」は、崇神の娘にして、古事記
では最も先に表記されているトヨスキイリ日売が初代と考えるに妥当だ。

そう。卑弥呼が開化(=百襲)なら、トヨはトヨスキイリ日売となる。
魏志倭人伝曰く、女王の記述、女王崩御後の大乱、そして実際は沙本の乱を
終えてから訪れる「毘売日売闘争の終焉」によって、倭国大乱は終了する。
その際、「大乱は無かったとしたい」最終勝者側の子孫(これが古事記の
この時代に関する分析となる)は、「後継トヨスキイリ日売」の日売着任を
もって、この闘争の終了とした。
魏志倭人伝側は沙本毘売側を支援していたので、沙本毘売側の敗北後に、
シブシブとこの闘争の決着を「認めざるを得なかった」のである。その悔しさ
が「女王崩御後に大乱が長く続いた」と言う表記で代弁される。彼等からして
みれば、「大乱が長く続いた」も「トヨが後継のヒメになった(シブシブ)」
も、どちらも、偽らざる真実なのである。
ヒバス比売の妹達が「日売」と「毘売」を両方持つのは、この闘争の完全決着
を物語っている。
712唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/18(水) 18:30:17.88
弥生後期後半に唐古などの居住遺跡が放棄される。
後漢書 193年冷夏=新羅192,3年=崇神5,6年の災害。(6年逃散)
2世紀末 各地の土器=崇神11年異俗多帰、河内陶邑のタタネコ。
庄内式土器=河内陶邑。(6,70年間)
210年 伽耶(任那)建国。新羅本紀、三国遺事。ホツマ崇神58年

新羅192年が崇神5年であれば、崇神元年は188年より後と出来ない。
新羅209年がホツマ崇神58年であれば、崇神末年は219年を越すことは無い。
つまり崇神治世は、32年以内である。
崇神治世68年を1/2にしてもまだ長すぎる。
崇神治世68年−2章(38年)=30年。この数字であれば、太陰暦は崩れない。
ただし崇神1代で1暦の場合であるが…。
いずれにせよ崇神世と同期出来る文献はここにしか存在しない。
崇神世の任那建国は正しい。
713唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/18(水) 19:09:29.15
崇神を 188〜217年とすると
垂仁治世99年−4章(76年)=23年
垂仁 218〜240年 田道間守の派遣を景初3年で説明するためには、1年の齟齬が有る。
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁

景行治世60年−2章(38年)=22年
景行 241〜262年 庄内式土器の年代感と同期する。
1年の齟齬(崇神5年=新羅192年の場合)崇神5年=後漢193年であれば2年の齟齬。
崇神の生まれ(庶母)が関係しているとすれば,開化60年−3章(57年)=3年この数字に
1,2年加算される。
倭国は、250年代に景行により統一される。
その場合の倭人伝の読み方は
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ
よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし
つかえしむ
西新町遺跡の庄内式はこの時代を表す。
714太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/18(水) 19:20:01.11
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

宿主説曰く〜伊支馬が景初3年には幽霊で活動してたんだとさ。ppp
715太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/18(水) 19:31:52.00
九州王朝の存在から、景行は日本統一が出来てな〜〜い。

なお景行の代は崇神の代のお助け役の時代であることが、天津神算木
から確認出来ている。

伊支馬≠垂仁天皇
716日本@名無史さん:2011/05/18(水) 19:49:04.50
景行天皇ってどんな立場の人間だったんでしょうかね。

畿内の人間という前提で、筑後から熊本を回ったとすれば、
地元勢力も気にしないほどの少人数で、物見遊山やった程度なのでしょうか。

軍を率いていれば、地元勢力も黙っちゃいないだろうと思うのです。
そして地元勢力を黙らせるくらいの軍を運んでくるのは容易ではないというか、
事実上不可能だと思います。また、もし軍を持っているとすれば、
景行西征譚くらい書かれてもいいほどのものだと思います。

しかし、筑紫平野の要所、高良大社に仮宮を設けたとすれば、多分支配者
に近い状況なので矛盾するのです。

しかしヤマトタケルの話では関東方面の征服譚も書かれています。
該当する人物が畿内にいたことも間違いないと思います。

従って九州内征服譚と、関東征服譚は別人の業績で、
それを合わせた話と思っているのですが、どうでしょうかね。
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/18(水) 19:52:26.65
インチキ年代を祓いに祓って、日本古神道からの真の年代が内外に示され
る。天津神算木とは崇神紀の説話にある三輪山の三輪(半径r=3の円)
の球化の 体積=表面積 の数式をいうのだ。右辺の主値は崇神即位年月日
であり、死値には景行没年がある。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)

1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  A.D.130年 景行没年(第二桁目から)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97B350

○数字は数的にミワ(三輪)と読む。間に崇神即位年 B.C.97年 がある。
真の年代は○数字の外枠数列 113 350 の差

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

で求まるのだ。当然、崇神元年が188年とはデタラメなり。
718唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/18(水) 21:18:04.17
ホ38105 アフミヅキ クマソそむきて ミツギせず ヲシテさゝけて
ミカリこふ ハヅキモチより ミユキなる ナのヰカいたる スハウサバ

景行12年 九州王朝の要請により 九州へ向け出立する。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。 景初3年に引き続き朝貢する。
これ以後に登場する“倭王”とは、景行にあたる。
この後も複数回の朝貢。その真意とは、
倭国を冊封したい魏は、乱の平定と倭国統一を望む、その為の後方支援として、
軍の編成から治世方法(魏の屯田=屯倉)までをも伝授される。
この準備期間が238〜247年頃までである。
景行が九州遠征前には、黄旛下賜は決定事項となっている。
この最初の年に九州の卑弥呼の死?2,3年後に男王の死
景行が筑後平野に仮宮を築いた時期である。
久留米祇園山古墳はこの時の墳墓である。
255年 熊襲がまた背く。日本武尊16歳の九州行、翌年には関東遠征。
ここで倭国統一。
箸墓260年±10年とみれば ,263年景行の葬儀。
719唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/18(水) 21:25:20.99
舶載鏡=魏、晋鏡、卑弥呼240年から308年永嘉の乱までにもたらされる。
仿製鏡=308年 鏡の輸入が不可能な時代に入る、だからこの鏡が国産で造られる。
この鏡の年代は考古学の主張する年代でもある。
だから、箸墓の年代を引き下げると、舶載鏡の年代が308年以後まで続く事になり
説明が出来なくなる。
考古学の主張する纒向遺跡の年代は正しい。
720唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/18(水) 21:28:59.82
景行は九州王朝の要請で九州へ出発するのであるが、
要請したのは、卑弥呼でなく男王である。
共立された卑弥呼はカヤの外。
721日本@名無史さん:2011/05/19(木) 00:03:05.00
>>716
景行天皇が九州にやってきた本来の目的は熊襲征伐。
それなりの軍隊を持っていたはず。日向に宮を築いて長期間熊襲と戦った。
九州には、豊の君、火の君、筑紫の君などの豪族もいたはずだが、衝突する気配は全くない。
後の磐井の乱のような、命運を賭けた戦いが何度もあっていいはずなのに、そのような
記述は全くない。

それどころか、九州の敵といえば決って熊襲なのもなんか気になる。
九州には他に強敵はいなかったのか。
やはり、熊襲以外の九州は、縁があるというか、最初から仲間だったと考えるのが妥当な気がする。
722日本@名無史さん:2011/05/19(木) 06:50:20.34
>九州の敵といえば決って熊襲なのもなんか気になる。
大和に対抗する九州の大勢力、すなわち邪馬台国をクマソとして描いたと
いうことだろう。
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/19(木) 12:30:29.86
>>718 朝敵

ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

クマソだけが九州の族ではな〜い。景行の代に景行が日本を統一した事実
はな〜い。オマエの景行極超賛美とホツマ発見の松本某人の上にあぐらを
かきたいオマエの莫大な名誉欲が景行を日本統一者にインチキのデッチ
上げをしたデタラメ論である。オマエのイカサマ論からコチラは正史を
しっかり防備する。
724太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/19(木) 12:38:45.30
なお景行は初代ではな〜い。初代は神武である。神武こそが皇宗の初代で
あり、景行は崇神の代のお助け役の時代の天皇である。


ホツマは昔のそんじょそこいらにいるタダのオッサンが妄想を入れこんで
書いた〜景行がインチキの日本統一したとかの暴走論を生んだ危険史想の
書であり、このデタラメからシッカリと正史の防衛を図り、かような
インチキ説を言うこの朝敵の論をわが神州から葬らねばならない。
725レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 15:42:26.25
そして、天武さんによる古事記が登場する前の、所謂「蘇我氏による国史」は
いかがな物であったか?

これを邪推するにあたり、古事記の神話中に「分断されてワケワカメ」に
なった神様を探す事で、この謎の鍵は見つかってくる。

個人的に注目している人物(神)として、天尾羽張(アマノオワハリの)神
様とタケミカヅチ様です。
当方は、いくつかの三流歴史小説を眺めながら、次の四つを架空した。

@天尾羽張とタケミカヅチは親子で、天尾羽張は思金神と兄弟なのでは?
A天児屋(アマノコヤネ:中臣の祖神)とは、天尾羽張かタケミカヅチでは?
Bタケミカヅチは出雲の国譲りの後に、言代主(コトシロヌシの)神の一族と
その世代、もしくは子孫のどこかしらの世代で結婚し、その子孫が武内宿禰
(蘇我の祖先)なのでは?

そう、これらの架空の筋について、少し説明して行きたいと思う。勿論、ここ
は卑弥呼畑である。だが、これらの架空は、勿論卑弥呼につながる話なので
ここで語るに相応しい部分だけにできるだけ限定しようと思う。
726レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 15:56:48.89
勿論、これらの前提となるのは、「出雲の国譲り」は、そのものか、或は
それに類する物があった、とする設定なので、まずそこからが不信な方は特に
読んでいただく必要は感じない。

まず、天の石屋戸の話において、天小児屋(アマノコヤネ:中臣の祖神)が
ピックアップされすぎている事と、記紀の時代における中臣氏の重要性とを
比較して、「ちょっと上げ過ぎじゃない?」と感じた点は先述した。

俺個人は、記紀は「大きくは塗り替えていない」と言う感想なので、ならば
記紀編纂の時代と言えども、塗り替えは適度に限定的だった筈だ。歴史現象
で言えば、大化の改新は「蘇我がいなくなった」話であるし、またその後代
の歴史現象として、中臣氏の子孫である藤原氏が、時代の寵児として隆盛を
極めるのは、少しでも日本史を目にした事のある方にはお馴染みであろう。

すると、「中臣氏」には、「何ができ」「何をした可能性があるだろうか?」
と俺は邪推する。大きく変えたら日本古代神話(古代史も含む)の骨格が
大いに曲がってしまい、余計な変更があれば、朝鮮戦争で深手を負った日本も
中臣鎌足の天智天皇への信頼感のみにて担保されている当時の中臣氏の立場
も、両方とも大きなダメージを生じかねないのだ。
従って、大きな塗り替えはほぼ不可能と思われる。ならどうするか?

そう、蘇我氏の先祖神を棄却し、代わりに中臣の先祖神を代入するのである。

これなら、全体や皇統や各有力氏族に影響する事無く、蘇我を下げ、中臣を
上げる事が可能なのである。
727レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 16:23:05.69
つまり、古代神話と古代史のうち可能な範囲で蘇我と中臣をとりかえばや記
なのである。
この邪推架空を行なうと、さて、中臣の祖先は天小児屋であり、これは石屋戸
伝説から始まり、天照系神話の中盤肉付け部分の重要キャラクターなのである
が、重要キャラクターの割には、天小児屋の出自や血縁環境に関する古事記
における充分な説明は意外と少ない。

また一方、同世代の神様で、これまた古事記では不親切なくらい出自と血縁
関係が未説明の神様がいらっしゃる。そう、それが出雲の国譲りの総大将の
タケミカヅチである。
タケミカヅチは、古事記によると天尾羽張の子とあるが、この天尾羽張が、
「誰の子?」「どんな神様?」と言う説明も、これまたタケミカヅチの武勇伝
に比べると、残念ながら古事記では圧倒的に貧弱な物である。そして、タケ
ミカヅチの後裔に関する記述もほとんど無い(表面上は皆無)と言っていい。
(それゆえ、タケミカヅチは東国を中心に「ものすごーい神様になる」と
言った思わぬ副産物もあったが)
728レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 16:24:45.05
さて、そこで、その親爺さんの天尾羽張さんが「誰の子(あるいは誰の子に
相当する立場・世代)か?」と考えるに、思金神世代あたりが妥当なので
ある。(もちろん世代が同じでも、まだそれだけでは血縁とまでは言えない)
しかしここで、天尾羽張を、もういちど、「音」で考えてみよう。
「天のおわぁり」・・・→「天の尾張」→「天の終り」
そう、天(=高天原)から見て、「天領域の終り」と考える事ができる。
従って、その子供タケミカヅチが、「国境派遣将軍」になるのも、これまた
全く矛盾も無いし、神武の東征が「国内問題に過ぎない」ならば、神武の
加勢に「自分が出陣しないで、側近のフツダマを派遣する」のも、これも、
対外戦争軍団(タケミカヅチ)と治安機動隊(フツダマ)と言う当時の役割
分担と考えると、矛盾無く自然に繋がるのである。そして、後年、東国が
タケミカヅチさんを「従わないと攻めて来る怖いオッサン」として印象に
残ってしまうのも、これまたむべなるかなと言う話でもある。
(余談だが、大和建による熊襲・出雲のそれぞれの「建」の名受けに関しても
同様に、この建ミカヅチの逸話から考えると、ごく自然な流れになる)

例え原初は天照系とは無縁の神様だったとしても、「記紀編集時期までに」
どこかの段階で、この武勇伝英雄を、積極的に天照神話体系に「組み込ま
ない方が不自然」なのである。また、天照本朝と出雲と大和(当時は葦原国)
との関係性の説得力においても、組み込んでおいて然るべき筈なのだ。
だが、古事記の現実は、タケミカヅチは「良くわからない神様」なのだ。
729レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 16:39:07.42
さてそこで「不自然なまでによくわからない」タケミカヅチ(&天尾羽張)
を、天小児屋(アマノコヤネ)に、先述の架空により、そっくり代入して
みよう。

[古事記]高木神→(子)天小児屋(兄弟思金)→(その後中臣氏再登場無し)
[代入後]高木神→(子)天尾羽張(兄弟思金)→(子)建ミカヅチ(対出雲)

これで、建ミカヅチが前半はスッキリつながる。そして、あとはその後半部分
であるが、その後古事記には全く登場しない「中臣氏」に対し、蘇我氏は
割と早く登場する。そう、開化の前帝の孝元大王の子孫にあの有名な武内宿禰
が早々に登場するのである。
(武内宿禰は、その子供の一人に蘇我宿根がいるなど、その後の有力・中間
氏族を多数排出する、言わば大王のブレーンの一族の太祖である)

こうして、タケミカヅチは、出雲の国譲りに出発するのだ。出雲では、既に
大国主(の世代)は、死んだ後か、生きていても隠居の身であったと想定
できる。出雲側の主勢力は、大国主の子供の世代と古事記は伝えている。
また、天照系神話から見て、この世代はニニギと同世代か、或は直前。
730レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 17:08:19.32
古事記における前出雲神話の血縁関係は、非常にわかりずらくなっている。
大国主にしても、別名別名、また別名の連続だし、その子供も、何人いるのか
誰がどれなのかが、これまた解釈がよくも悪くも分かれる。

とりあえず、ここでピックアップするのは、出雲の国譲りなので、言代主と
建ミナカタと言う、建ミカヅチと戦った、大国主の二人の子供に焦点を当て
ようと思う。
あくまでも古事記では、建ミカヅチは、まず大国主の所に行き。「国譲り」に
同意するか?を尋ねに行く。すると、大国主は「私は従いますが、子供が何
と言うやら・・・」と、いかにも政治的な回答である。
そこで、建ミカヅチは有力な子供の一人、言代主の近隣まで尋ねて呼び出し、
「従うか?」と尋ね「従います」と言う回答を得る。この場面での大きな
軍事衝突は特に古事記に書かれていない。
だが、頭のいい(と言うか抜け目の無い)建ミカヅチは、大国主に再度回答
を求める。「これでもう出雲は全て国譲りに同意したと考えて良いか?」
すると、大国主はしぶしぶ「まだ建ミナカタがおります。彼が何と言うやら」
731レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 17:12:24.00
そこで、建ミナカタの所に言った建ミカヅチは、まず「力比べ」を行なう。
(古事記からは建ミナカタが大国主の子孫血脈体系には見られないらしい)
これは、軽度以上の軍事衝突があったと考えると自然。その挙句に建ミナカタ
は、命乞いをし、「ここから出ません。芦原国(奈良)にも行きません」と
誓わせられる。
現在、諏訪大社・鹿島大社に、この建ミナカタと建ミカヅチが両方とも祀られ
ている事から考えて、彼の言う「ここ」が諏訪以東であると考えるのが自然。
勿論、古事記上は、であるが。
(古事記では、建ミナカタはここで登場が終り、その後パッタリいなくなり、
しばらくしてオオタタネコの逸話の際に、名前だけヒョッコリ現れる)

そう、とりあえず、何が言いたいか?だけを言うなら、言代主は瀬戸内海の
どこか(北部か東部)で生存し続け、建ミナカタは諏訪以東の東国で生存し
続けるのである。これは、ニギハヤヒやトミビコなどとの戦い、つまり神武
東征にも、近いシチュエーションある。とするならば、ニギハヤヒの子孫
ですら、その後大物氏族の物部として皇統記の陰日向に頻出するのに、なぜ、
(東国蟄居の建ミナカタは別としても)言代主の子孫や建ミカヅチの子孫は、
それほど出て来ないのであろうか?たまたまだろうか?
この不自然さは、先述の架空でも懸想しない限り、説明が付かないのである。
732日本@名無史さん:2011/05/19(木) 17:13:14.29
そしてミカズチ・キッドはブラック・ミナカタをツームストン・ドライバーで葬りさる。
733レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 17:46:50.33
さて、国譲りそのものの有無は兎も角として、卑弥呼以前に(そろそろ卑弥呼
を出しておかないとここで肩身が狭いので)国譲りがあり、九州王朝が出雲
王朝より格上で、ある程度従っている、と言う前提が無いと、魏志倭人伝に
おける出雲の表記の薄さ(あくまでも印象薄と言った意味ではあるが)が説明
でき無いのである。

逆に国譲り、或はそれに近い出来事があったと仮定した場合、卑弥呼の時代
ですでに、「女王国以外に特に特出すべき近隣国家はあるか?」と魏晋の
外交官に尋ねられた場合、出雲の説明はほとんど皆無で自然なのだ。
外交上は「属国なのでうちのお庭です」と言う話にしかならない筈である。

つまり、出雲国譲り(前九州王朝に対して)があったと言う前提で考えると、
北九州王朝のヒミコ(の国人)と魏晋の外交官とのヤリトリラブレターでも
ある魏志倭人伝は、大枠ではスムーズに繋がるのである。
だが、古事記はここらへんが断片的である。ここが頭の痛いところだが。

さて、ここで、断片ついでに、じゃあ、断片化している古事記のニニギ〜神武
〜開化の、一番大事な時代であるが、断片化を、先述の架空Bにてつなげて
みよう。そして、こここそが、「中臣の祖神を蘇我の祖神と置換したが為」に
おこってしまった「断片化である」と架空してみるのである。

建ミカヅチの子孫と言代主の子孫が、皇統の周囲を衛星の如く付き従い、
どこかで血脈が結婚し、その子孫の一人が「武内宿禰になった」と言う架空。
これをまあ、戯れに妄想してもらいたい。
734レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 17:50:21.08
もしそうなら、「敗者の神話である出雲神話」が、消されもせず、天照体系
に組み込まれるでもなく、天照〜ニニギ〜神武の一貫した神話に、有名な
エピソードと大事な血脈のみ、断片化しながらも途中挿入されねばならな
かったか?
それは勿論、武内宿禰〜蘇我稲目(馬子の先祖)まで、営々として、この氏族
が陰日向に皇統に侍っていたからである。(フヒト以降の藤原氏と皇統との
関係性のように)
だから、蘇我氏&聖徳太子の政権下では、国史(及び日本神話)では、ここら
へんの「断片化」は、もっとスムーズに「つながっていた筈」なのである。
だがしかし、中臣の祖神の置換代入により、ここらへんが「テンデバラバラ」
になってしまった。なぜなら、置換代入の際に、少なくとも古事記上は、
蘇我の祖先を「武内宿禰までしか遡れない」ようにしてしまったからだ。

旧辞・帝紀においては、建ミカヅチ&言代主から始まり、武内宿禰に至る
までの間が、むしろスムーズにつながっていたのでは無いだろうか?
(もちろん蘇我氏のサングラスによるフィルターを通してだが)

中臣がこの置換代入をして、中臣氏を上げ、息長系の神話の最初の山場である
天照の石屋戸伝説を自氏ご都合的に肉付けしてしまったが為に、こうして、
蘇我氏の神話体系は分断され、蘇我氏は「神話からでは無く」「あくまでも
人の歴史から登場」する氏族へと繰り下げられた。
それだけなら、まだ良いのだが、更に、これは中臣や天武や持統の意図した
事かどうかまでは言えないが、結果として、「意富氏」の神話体系や血脈関係
も、同時の「歴史上拾えない物」となってしまった。
そう、意富氏(及びその神話や伝説)の最後の仇花こそが、百襲であり、開化
(或はその有力皇后)であり、これが魏志倭人伝をして異国人に「卑弥呼」と
呼ばれた意富氏最後の女傑シャーマンだったのである。
(その後意富氏にとってかわった息長氏も女傑が必要になるので、神功皇后
の伝説もボリュームアップされるのは、虚栄心による対抗意識と考えれば
これまた自然なのである)
735レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 18:08:17.34
意富氏の末裔の太安万侶に、「古事記草案」の命が下ったとき、最低でも
恐らく以下の三つの特命が、本人(或は実際の書き手)に降った事だろう。

@意富氏の百襲(=卑弥呼)の外交は、今(古事記編纂の頃)を通じて
よろしくないので、できるだけ実在性は減らす事。(但し伝説逸話や祭祀関連
はOK)
A蘇我氏の先祖を「神」の建ミカヅチ神でなく「人」の武内宿禰にすること。
B上記で不都合が生じた場合の代役を中臣の祖神を当てる事。

@はもう、多分意富氏の末裔本人でも拾い切れないほど断片化していたので、
比較的楽であったろう。しかし、A〜Bはかなり難しかった筈であるし、
その結果、古事記の神武〜開化の間は、逸話伝説はほとんどなく、血脈のみ
を淡々と書き連ねた形式となる。その後出雲風土記の上奏にも当然時間が
かかるようにもなる。
(余談になるが、神武〜開化の間が長子相続でなく、兄弟相続であったの
ではないだろうか?と言う架空も現在構想中)

そして、この特命によって生じる全ての諸藩の矛盾の矛先が必要になる。
だがそれも勿論事前に用意されている。そう。古事記内でも述べられている
とおりに。
「昔の神話や国史は、蘇我氏滅亡の際に、蘇我氏と一緒に燃えてしまった」
とある。古事記を信じて、「そうか、残念だな」と思うも良し。ちょっと
疑って「あれ?本当に蘇我氏が燃やしたの?」と思うも良し。

最初に言ったとおり、これはあくまでも架空ですから。信じるか信じないかは
貴方次第です。
736レス長たらし毘古:2011/05/19(木) 18:19:02.02
さて、この架空の上にヒョイとのっかって見た場合。
・その後中臣鎌足(の子孫)の勢力が一旦急にしぼみ。
・その孫中臣(藤原)不二等が、汚名返上とばかりに、日本書紀を作り上げ。
・その不自然さを何とか改善し、中臣神話をスムーズな物にしようとした。
これらの三点すら自然に繋がるのです。

無理をしすぎたため、中臣鎌足は、当然他の(古来からいる)有力氏族の間
からは「浮いた」人になった筈ですし、「蘇我氏が中臣氏に代わったダケ?」
と思われても仕方有りません。また、古事記は「国外的パンフレット」として
は、とてもその体を保っておりません。(なぜなら上記の矛盾群)
従って、王朝そのものも、「日本書紀」の編纂が必要になりますし、その際に
可能な限りの「逸話群検証」を行なったであろうし、皇統側も、不完全とは
言え、自分が詔を発して編纂させた古事記を正当化擁護せざるを得ません。
従って、その大任(にして、元はと言えばの他氏への苦情処理)として
不二等を日本書紀編纂の中心人物に当てねばならなくなるのも、流れるほど
自然なんです。
737日本@名無史さん:2011/05/19(木) 18:29:35.31
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
架空の上に架空を重ね、
そこから何か結論が導かれたとしても、何の説得力もなし。
738日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:02:35.96
>>1
孝元天皇の皇子、大彦命=素戔嗚尊の妹が卑弥呼=天照大神だから、孝元天皇の子大彦命の末裔で部門の奥州安倍氏だから嵯峨源氏や桓武平氏に後の清和源氏が取り込む為に討伐しに来た。
だから、正当な男系天皇は、天照大神の兄だった、素戔嗚尊筋の奥州安倍氏の末裔に成る。
安東氏は、貞任の死後の子供をアイヌの叔父が引き取ったから、祖先を、安日彦命や悪路王としている。
安倍晴明筋の土御門氏筋は、孝元天皇筋の大彦命とし、部門の奥州安倍氏の途絶えている系譜も示している。
素戔嗚尊の子孫には、谷氏→秦氏と言う系譜があるので、
素戔嗚尊筋の家は、谷姓=秦氏と成るようだ。
天皇家の姓は無い訳ではなく、大陸の満州族王族の秦氏で正解なのだろう。
日本姓で正当後継を現す時には、谷姓に成るのだろうね。
739日本@名無史さん:2011/05/19(木) 19:24:58.06
おそらく、谷氏は、源氏姓なので谷氏と表現していると思われる。
嵯峨源氏筋の佐々木源氏流宇多源氏だからだろう。
同じく、奥州安倍氏の宗任筋に嵯峨源氏渡辺氏諸流の松浦氏に入った、松浦(安倍)高俊の血筋に、波多氏があり、その諸流に谷の付く氏族がいる。
素戔嗚尊の正当後継秦氏を示す事が、日本の君主を現すのだろう。
740日本@名無史さん:2011/05/19(木) 20:07:09.51
しかし老眼翁ががんばって九州説演じたのに見事に徒労に終わったなwwwwwwwwwwwwwwwww

ここの九州説に言わせりゃ「畿内説的発想」から抜け出ていないとの事w
恐ろしくハードルが高いwww

まあ九州説で最強なのは九州説の原点でもある『偽僭説』これに勝る物は無いだろうw

ただし3世紀の首長連合に属していながら尚且つ魏に自分が盟主と偽僭したと言う
いわば首長連合から見たら「背信行為」をやったと言う形でw

これなら連合体の中で初期にイニシアチブをとったと言う根拠を示す必要は無い。
言うだけなら元はタダだwwwww

お話としては見事に完結するwどうだ?wwwwwwwwww
741ジョニー・デブ:2011/05/19(木) 20:58:19.42
↑何を言いたいわけ?
人の批判をする前に、自分の邪馬台国論をきちんと言ってみろ。
742日本@名無史さん:2011/05/19(木) 21:05:49.97
スサノオが高天原から新羅経由で邪馬台国に来てるから、孝元天皇は、高天原=満州=北斉に居たのでは?
日本=邪馬台国を卑弥呼に委ねて。
スサノオは、卑弥呼を追って日本に来たと考えられる。
743日本@名無史さん:2011/05/19(木) 21:07:58.62
スサノオが冥府に追いやられた先が、安倍氏の奥州だったのでは・・?
744日本@名無史さん:2011/05/19(木) 21:11:16.46
大彦らの桃太郎伝説が朝鮮半島でも語り継がれてるのは、伝説の地が、半島で、鬼が島が、日本の何処かだと推定出来る。
745日本@名無史さん:2011/05/19(木) 23:46:21.39
>>740

畿内説の思い上がりが敵を増やすんだよ。

死ぬ前に九州説に転向した学者もいたよなあ。
746本田:2011/05/19(木) 23:57:00.47
『漢語文法論』(古代編)、(中古編)全2冊
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=52873
* 著者:牛島徳次
* 出版社:大修館書店
* ジャンル:専門書
* 登録日:2011/02/19 00:21
* 復刊リクエスト番号:52873
747日本@名無史さん:2011/05/20(金) 00:51:09.81
>>745
>死ぬ前に九州説に転向した学者もいたよなあ。

で、だからどうしたって?w


748日本@名無史さん:2011/05/20(金) 00:54:38.70
畿内説の時代は、もう終わったんだよ。
749日本@名無史さん:2011/05/20(金) 00:59:51.55
>>748
妄想はいいからw

いくらここで畿内説にアホ丸出しのイチャモンつけても九州説が復活することは無いぞw

自説の強化に努めよ低脳どもwwwwwwwww

「すなお読み」しかないのならそれもよし。

じゃあせめてどれが真の「すなお読み」かチャンピオン決めてくれやwwwwwww
750日本@名無史さん:2011/05/20(金) 01:06:59.30
>>740
本居宣長は、倭人伝を読んで邪馬台国は九州だと考えた。しかし、記紀によると大和には朝廷がいる。
神功皇后がいる。当時の年代観ではそうなる。魏から倭王と呼ばれるのは神功皇后しかいない。
だから、偽僭ということにならざるを得なかった。それだけの話。

年代観が代われば、当然東遷説が出てくる。
751日本@名無史さん:2011/05/20(金) 01:25:28.07
そもそも今時『邪馬台国東遷説』なんて唱えているの

(もはや引っ込みがつかなくなっている)安本先生の他に誰がいるんだ?
752日本@名無史さん:2011/05/20(金) 06:50:35.91
>本居宣長は、倭人伝を読んで邪馬台国は九州だと考えた。
倭人伝を素直に読んでいたんだな。確かに原点に戻るべきだろう。
753遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 08:43:35.97
>>751
>『邪馬台国東遷説』なんて唱えているの……他に誰がいるんだ?
ここにいるがなー。希代の天才が。

ただし、俺の場合は日本書紀などに一切頼らず、
地理・物理・気象・軍事そして「時代の成熟に即した王都の変遷」という、
極めて現実的な視点から導き出したものだ。

左巻き台風の害が少ない東高西低の立地で、
巨大津波の害が少ない豊かな内海を控えた背山臨水の吉地は、
熊本平野と大和盆地しか日本列島にはないんだ。
両者は諸条件的にまったくの相似形をしている。

3世紀にやってきた魏の大型楼閣船をみたとき、
大陸から直接大軍を載せてやってくる可能性を実感した。
目先の利く者ならば、
海上に幾重もの防衛網を敷いた奥地への引っ越しを考えるだろう。
幸いにも、古来から王都を置いてきた熊本平野と相似形の立地があったわけだ。

こんなもんで・どや。
754日本@名無史さん:2011/05/20(金) 09:10:03.22
要するに東遷説を唱えてる人間は馬鹿しか居ないというわけねw
755遊撃的論客・伊作:2011/05/20(金) 09:27:08.05
>>754
正論を正視する勇気のない奴が、ほざくでない。
756日本@名無史さん:2011/05/20(金) 10:53:58.88
ばかばっか
757日本@名無史さん:2011/05/20(金) 10:54:44.56
なんだ、名無しに反論するやん
758日本@名無史さん:2011/05/20(金) 10:55:07.19
 
759日本@名無史さん:2011/05/20(金) 12:25:02.10
畿内説の東遷説批判は、反則気味のレッテル張りが続いた。
まともな議論を避けようという雰囲気がある。今でも同じだが。

「最近、神武東征神話の亡霊とも思える邪馬台国東遷説が一部で取り上げられているが、
古墳の出現に先立つ、畿内第五様式の段階に、北九州勢力の東遷を推測させるような、
とるにたる考古学的資料は全く認められない」(田辺昭三・佐原真(弥生文化の発展と
地域性、近畿、「日本の考古学V」1966年))

昔からこんな雰囲気で、「神武東征神話の亡霊」という言葉が盛んに使われた。
現代人にはあまりぴんと来ないが、戦争体験者にはかなりこたえる言葉だったらしい。
そのせいか、戦後の九州説は、九州王朝説のような説が多くなる。

それにしても、東遷をうかがわせるような考古学的資料は全く認められないと断言する
わりには、唐古・鍵遺跡、三角縁神獣鏡など畿内説の考古学的仮説は、次々に
破綻してきて、信頼性は地に落ちた感がある。

また、何が出てくるかわからない考古学で、全くないと断言すること自体が異常だと思うが。
760日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:04:34.29
ここの九州説の大半の頭の中

九州>魏>半島>九州以外の倭の地域

こんな感じだろw
761日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:14:47.21
>>760
関門海峡から東は旧石器時代ともw
762日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:20:22.50
>>759
で、なんで東遷と邪馬台国を一緒にしたがるの?
これまたお得意のミスリード?
763日本@名無史さん:2011/05/20(金) 13:51:30.38
>>737
>架空の上に架空を重ね、

その点は仰られる通りなので、その弁も理解は可能です。但し、当方の架空の
ほとんどは、@先人が既に部分的に仰られた点、やA古事記を古事記の文法で
きちっと解釈すると可能性としては残存する、この二種類の架空だけです
ので、それぞれ思いつきのみでゼロサムで架空した物では無い点だけは弁明
させていただきます。
だが、これらの架空に架空を重ねると、スムーズに一つの筋としてつながる
と言う点だけがこちらの主張です。
@天の石屋戸(等のイベント)は後代脚色され、肉付けされた
A出雲の国譲り(等のイベント)はあった
B神武の東征(等のイベント)があった
C卑弥呼(かもしれない)女傑が、開化時代の頃に瀬戸内海の西岸にいらっ
しゃった可能性
この四点が、古事記(+可能性架空)から「筋としてつながる」と言うだけ
のお伽噺です。
長文の最初に、「読む必要ないですよ」と前置きしていましたが、少なくとも
途中までは読んでいただけたようで、その労力には感謝します。
状況証拠だけで立件できない昨今でもないですし(ま、裁判は別でしょうが)
できれば「この筋」の「ここが致命的に間違っている」の指摘も添えて
いただければ尚ありがたかったのですが。。。
764あ、レス長です、恐縮です:2011/05/20(金) 13:58:54.09
>>763はレス長でした。恐縮です。
あと、恐縮ついでに、先日の長文中の誤字訂正。

>>731の9行目
>(古事記では、建ミナカタはここで登場が終り、
→(古事記では、建ミカヅチはここで登場が終り、・・・の間違い
>>736
>中臣(藤原)不二等
→中臣(藤原)不比等・・・の間違い

訂正してお詫びいたします。
765日本@名無史さん:2011/05/20(金) 14:17:48.65

【サッカー】「ビッチを具現化した女と一緒に来てる」アディダス女性社員がハーフナー・マイクをツイッターで中傷し炎上→厳正処分へ★20

1 :ばか太 ★:2011/05/20(金) 13:34:09.71 ID:???0

ヴァンフォーレ甲府の長身FW=ハーフナー・マイク。
オランダ出身で、94年に家族で日本国籍を取得した父=ディド・ハーフナー
(GK/名古屋グランパスエイト、ジュビロ磐田などで活躍)の息子であり、
日本初の親子Jリーガーとして複数のクラブを渡り歩いたが、
昨シーズンは、J2得点王にも輝き、甲府のJ1昇格に大きく貢献する目覚しい活躍を遂げた。

今シーズンが楽しみな23歳のマイクは、すでに6試合で3得点。
18日には一般女性と入籍を発表したばかり(入籍日は5月16日)と順風満帆だったが、
そんなマイクが、入籍したお相手とみられる女性と共にアディダス銀座店を訪れた際、
ある問題が起こり、ネット上は大騒ぎとなっている。

なんと、店員の女性が自身のツイッターでマイクに悪口雑言の限りを尽くしたのだ。
掲示板上では、店員の女性も特定され、すでにその女性はツイッターもmixi も退会しているが、
該当するツイッターでは、来店したマイクに、
「そいえば今日マイクハーフナーが来た。ビッチを具現化したような女と一緒に来てて、
何かお腹大っきい気がしたけど結婚してんの(^ω^)??」、
「帰化したからハーフナーマイクかwアシュトンカッチャー劣化版みたいな男が
沢尻劣化版みたいな女連れてきたよwとりあえずデカイね、ホントにwww」などと、
とても店員とは思えないツイートを行っていた。
766レス長たらし毘古:2011/05/20(金) 14:37:57.93
>>740
もう既に書かれてしまっている指摘ではあるが、
[当時には]北(北東)九州が本国、奈良盆地が属国、(出雲も属国)
[古事記は]当時から奈良が既に九州から「正式な託宣を受けた」後継と主張

と言う関係性なら、それは別に「偽僭」には当たらない話になる。卑弥呼は
「共立された」方だそうなので、当然その共立選考者は、大和+出雲+九州
等の所謂瀬戸内海文化圏(更に可能性で拡大すると東国の一部も含むかも)
となりうる。(国のリーダーが共立されると言うことは、既にその直前には
一旦、本国としての九州の権力が不安定になっていると言う筋になるので、
少なくとも魏志倭人伝の記載に近い政治環境にはなる)

この場合、魏志倭人伝前後に「倭」と呼ばれた地域の少なくとも名目上の盟主
は、この「共立された大王(女性もありうる)」でもおかしくないと、この
筋もありうる。(あくまでも魏志倭人伝サイドから見た解釈だが)
記紀の時代以降の大和王権が、殊更に「倭」と呼ばれることを嫌い、あえて
「日本」を称したのも、これも整合性がつく。
魏志倭人伝は「共立」と考えた。
古事記は「奈良が正統後継で、北九州は(祖先の地だが)当時既に属国」。
と、それぞれ、こう述べているパラレルに過ぎない。とも考えれる。
767レス長たらし毘古:2011/05/20(金) 14:56:35.12
>>743
そちらの筋も面白そうなので、いつか調べてみます。
但し、当方は、諏訪以東の東国における大和の古代神話体系との関係性は、
(何分古事記ベースな者なので)以下のように想定しています。
先述した、出雲の国譲りにおける、大国主の子供のうちの二人、A言代主
とB建ミナカタ、このお二方ですが、それぞれ、古事記では以下の特性。
A:天照軍との戦闘は無く、シブシブ恭順。Aは死んではいない。
B:天照軍との戦闘の後、シブシブ恭順。Bも生存可能性アリ。Bは出雲の
(古事記上)大国主の子孫の家系図には見出せない。

この事から、以下の話が自然に思えます。
A(言代主)は、天照の領域内で、恭順して存命。子孫を残す。
B(建ミナカタ)は、天照の領域外で、恭順して存命。子孫を残す。
そして、Bが恭順して存命し、子孫を残したのが、諏訪以東の東国と考えると
その子孫血脈の先端に、奥州の安倍氏が、誠か名前だけか継いでいたと。

この筋だと、大国主は勿論スサノウの子孫ですので、「スサノウ」の血脈が
(もしくは例え名目上だけでも)繋がっててもおかしくない話にはなります。
768レス長たらし毘古:2011/05/20(金) 15:12:34.09
この筋だと、記紀の時代より、ずっと昔に、既に「The建ミナカタ」は、古事記
以前から、「大和の研究者から見た出雲の大国主の子孫家系図」から抹消され
ていても全く不自然は無いのです。(ひょっとしたら、最後まで恭順せず、
ずっと後に四道将軍や大和建が東国遠征をしなければならなくなったと言う
大筋も、これも自然になります)

古事記に建ミナカタが「抹消」されてしまったとしても、従って、地元の
建ミナカタのお名前や、前出雲神話は多少なりとも残存するのです。勿論
意図的に敢えて残したケース(古事記に反発して)もあるでしょうし、逆に
意図せず(先祖代代そう言い伝えてきたから)というケースもありましょう。
ここらへんが、所謂地元特有神話を調べる面白さかもしれませんね。
769唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 17:15:57.23
卑弥呼=崇神時代。これを正しいとする文献は皆無である。
だから、纒向遺跡一つ説明が出来ない。
まず風呂敷を広げる前に、卑弥呼=崇神時代で纒向遺跡の説明をするのが先決。
これが出来ずに風呂敷を広げても意味が無い。
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 17:30:58.93
卑弥呼≠景行年代

これは天津神算木からの計測で決まり。景行は崇神世のお助け年代なり。

なお紀の崇神6年の倭笠縫に天照坐皇大御神とその象徴たる 【鏡】 を
祭祀したことにより、ほぼ同年で景初3年鏡(239年鏡)の多出が裏づけら
れた。つまりちゃんと崇神紀の文献に載っているわけであり、キチンと整合
している。古神道と朝廷にとって最重要物とは三種の神器の筆頭
たる 【鏡】 であり、景行では多出の事由は整合しな〜い。
771日本@名無史さん:2011/05/20(金) 17:37:14.32
>>763
>ほとんどは、@先人が既に部分的に仰られた点、やA古事記を古事記の文法で
>きちっと解釈すると可能性としては残存する、この二種類の架空だけです

先人の文献史学では、アマテラスは、7世紀以後の創作であると判明している。


>できれば「この筋」の「ここが致命的に間違っている」の指摘も添えて
>いただければ尚ありがたかったのですが。。。


だから、あなたの説は、致命的に、土台から間違ってる。

772太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 17:43:20.63
創作すれば、公文書偽造で当時の政敵に弱点を握られる。
よっぽどの利害がない限り、そんな身の危険を冒す必要もない。

創作したという主張は、その者の脳内の創作である。
773日本@名無史さん:2011/05/20(金) 18:00:42.14
>>753 腐った女以下、ゴミクズ九州男児 伊作
>海上に幾重もの防衛網を敷いた奥地への引っ越しを考えるだろう。

で、その幾重にも敷かれた「防衛網」とは何処に見られるんだ?
同じように白村江で大敗を喫し近江にトンズラした天智天皇の事例なら
九州から畿内に至るまで多くの山城が築かれたのが確認されている。
(基肄・唐原・長門・安芸・常・鬼ノ・城山・屋島・高安…)
無論それらの山城は以前からあったものを再整備した物もあるだろうが
3・4世紀にそれほどのラインを想定して山城等防衛施設が築かれたとか言う話は聞いたことが無いが…

そして引越し先の大和の地にも最終防衛として当然相当厳重な防衛施設を築いたんだろうがそれは何処に見られるんだ?
言っておくが纏向なんか人によっては「開放的で緊張の色が見られない」とか言う始末w
(九州説側に立てば狗奴国との緊張の色が見えないと突っ込みどころにもなるw)

先の白村江の時の例で言えば、そもそも白村江大敗以前に既に
飛鳥に隋の脅威に対する緊張の色が甘樫丘の発掘調査等々で浮き上がっている。

熊本から引っ越したと言ってもスッカラカンのゴーストタウンにしたわけでもあるまい?
当然、熊本邪馬台国も厳重な防衛施設が築かれた事だと思うがその痕跡は?

「九州から畿内まで連なるはずの防衛ラインは見えません」
「引越し先の防衛施設は見えません」
「残してきた元の本国を防衛する施設も見えません」
与太も大概にせえよアホw
774日本@名無史さん:2011/05/20(金) 18:02:48.54
しかし本当「九州王朝説」と「邪馬台国東遷説」はこの板の九州説における2大電波だな。

そもそもこんな連中に「邪馬台国九州説」と言う看板名を名乗らせていいのか?

そりゃ九州説自体もう絶滅危惧種どころか事実上絶滅しているんだろうが
それでも過去多大な知性がつぎ込まれてきて論争の一方の雄どころかある意味主役だったわけで

いくらなんでも最期の姿がこれではあまりにも可哀相だwwwwwwwwwwww
(まあリアルならもう少し現実にあわせて東遷説も奠都説にシフトしてるんだろうが…)

与太も大概にせえよアホどもwww
775日本@名無史さん:2011/05/20(金) 18:03:39.20
明らかにわかる防衛網っていったら
やっぱり大宰府だね。
776日本@名無史さん:2011/05/20(金) 18:04:39.34
>>759 恨み節
>東遷をうかがわせるような考古学的資料は全く認められないと断言するわりには、

現時点で全く見つかっていないのなら「認められない」と言うしかないな。
何か問題でもあるのかな?

将来そんな物がでてきたらその時修正すれば良い話。
新しい資料による見直し・漸進を否定したらおよそ学問という物が成り立たない。
これも何か問題があるかな?

「恨み節」となえる暇があったら現在の認識を覆す資料を探して来いと言うだけの話です、ハイww
777唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 18:25:26.94
>最重要物とは三種の神器の筆頭たる 【鏡】

三角縁鏡など葬儀のための副葬品以上の地位は与えられていない。
砕いて墓穴に放り込む程度の品だ。
 
778唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 18:38:46.83
纒向遺跡とは、2世紀末に各地の土器が持ち込まれる。
その時代から6,70年後に箸墓が造られ、布留式と成る。
庄内式土器は、2世紀末の纒向遺跡に存在し、末までには、九州にまで存在する。
舶載鏡(魏・晋鏡)を説明するためには、308年永嘉の乱までに輸入されなければ
説明が出来ない。
4世紀は仿製鏡の時代である。
つまり、考古学の主張する纒向年代は動かせない。
その中で、2世紀末に各地の土器が集まる。←崇神11年をここに設定すれば
纒向遺跡の説明は簡単であるが、この設定を使わずに、
卑弥呼=崇神時代で崇神11年異俗多帰を説明せねばならない。
しかも任那建国まで説明されなければ、書紀の主張とする事が出来ない。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 18:50:39.12
>>777
朝敵=宿主
認められている。オマエが結論だけ書いたって、何の説得力もな〜い。ww

だから今でも伊勢神宮に八咫の鏡が祀られているのだ。

神州は不滅なり。
780太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 18:57:01.50
>>778
任那は半島だ。半島文献の板にでも行け。

なおホツマは昔のそこいらにいるタダのオッサンが恣意的妄想に励んで
その妄想を注入し〜景行が日本統一だとかのデタラメ論を産ん
だ危険史想の書であり、このインチキ妄想論を神州から葬り去るのだ。

九州王朝が文武朝廷のころまで厳存しており、景行は日本統一が出来て
いな〜い。なお景行の代は崇神の代の引き立て役の世であ〜る。
781日本@名無史さん:2011/05/20(金) 19:01:47.62
>>776
近畿地方である時期に大きな変化があったのは事実で、銅鐸の消滅や九州弥生文化と近畿古墳文化の連続性。
あるいは近畿弥生文化と近畿古墳文化の非連続性はかなり昔から言われてきたこと。
これを否定するために、東遷の根拠は全くないと言い切ったわけだろう。

しかし、ほとんど無根拠に、箸墓を卑弥呼の墓に比定したり、纏向を邪馬台国に比定する
考古学(畿内考古学)が、上に示した根拠を頭から否定してしまうのがおかしいと思うが。
長年にわたって、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であると主張してきた前歴もあるし。

それとも、お前が箸墓が卑弥呼の墓であり、纏向が邪馬台国である根拠を示してみるか?
782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 19:33:53.39
>任那は半島だ。半島文献の板にでも行け。

後に任那は倭国の領土となる。それは323年神功49年の半島占拠からである。

太国の如く百済王朝に七支刀を合わせても正解は得られていない。
この状態でも半島の言い分を100%認める太国。
783唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 19:52:05.70
太国よ、もう太国倍年が存在しないことは明白だ。
それが解っていて、半島の主張を擁護する。
その真意はなんなんだ?
日本の書物 日本書紀の主張する正朔を否定し、春夏秋冬が3回で1年になる
こんな暦法がそんざい出来るわけが無い。
そこまでして半島の主張を認めねば成らない 太国。
その真意は何処にあんの?
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 20:19:03.32
宿主=朝敵
唐松山空年はどこにも存在しない。まぁ西暦0年は特殊でそうだがね。ww

@3年の空年を出したが、これではB.C.660年までの残りの空年を説明
 するのにえらくえらく物足りない。ww

A景行28年〜同40年が空年だと抜かして両端の年代が同年だとか抜かし
 たが、これも大成経と歴史徴に間の年代が存在するんじゃ、オマエの
 主張はデタラメだということだ。

B垂仁と景行だったか、天皇没年付近の1年あるいは数ヶ月を空年だとか
 主張していたが、これも@と同様以下で、3年にも足りず、これでは
 B.C.660年までの空年とやらの主張には全然全然物足りず、説得力は
 丸出ダメ雄だ。ww

それ以外.空年を提示することは今の今まで出来ないわけで、これは
宿主空年が存在しないデタラメあることの証拠である。pp
785太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 20:22:59.48
>>783 宿主

正朔を否定してるのは他ならぬオマエだよ。

オマエは紀の暦年に不正注入のマシがあると言ってるんだから、紀は
正朔でなく不正朔だと主張してることとなるわけだ。正朔なんぞ、オマエ
の論では大ウソの不正注入朔であり、自語相違のインチキそのものだ。ww
786日本@名無史さん:2011/05/20(金) 20:48:19.86
>>781 恨み節
>九州弥生文化と近畿古墳文化の連続性。
何の話かな?
実際それに拘っているのは柳田あたりだろうが
それでも彼の年代観で平原王墓とホケノで半世紀、軽く2世代は隔たっている。
これを埋める物はいまだに無い。
そうそうお前の説じゃあホケノって殆ど5世紀だったかな?wwww
副葬品の鏡で連続性云々言えるなら吉備とも連続しているだろうし阿波や播磨とも連続していると言えるなw

>あるいは近畿弥生文化と近畿古墳文化の非連続性

「連続性」を検証して見せろ。

そのロジックは5世紀急激に馬匹文化が現れたが国内にそれに至る物が無いから
それは騎馬民族が持ち込んだ…というものと同じ。
畿内説あるいは考古学が過去にどのような変遷・間違いをしてきたかと
だからと言って現在邪馬台国東遷説が否定されている事が将来必ず復活するなんてことは全然別の話w
そもそも邪馬台国東遷説なんてお前が憎みまくっている『 考古学(畿内考古学) 』じゃなくて
九州の考古学者が否定するだろうw
柳田いわくw

 「 長年、邪馬台国を弥生時代と言ってきた考古学者の大罪 」








787メ(すぐ落ち):2011/05/20(金) 21:53:00.79
>>516 ローガン 九州説
>ネタ投下。
>むかしの隆盛など見る影もなくなった九州説… 敢えてそちら側に立って畿内派と議論してみたい。

あら ローガンさん、
九州説論者にでも持説を打ち砕かれ九州説に鞍替えしたんですか?
なんだ弱いやつだな アハハ

>共立

男王同時の対立から、喧嘩両成敗と言いますか、
女性の王、すなわち 戦わない女王を共に立て、
現在でもあるでしょ・・・・争いあいがある場合、第三者を〜てやつは。
788日本@名無史さん:2011/05/20(金) 21:56:10.48
>>786
おやおや、
>箸墓が卑弥呼の墓であり、纏向が邪馬台国である根拠を示してみるか?
については無視か?

例えば、鏡については九州弥生と近畿古墳で明らかに連続性が認められる。
銅鐸については、断絶が見られる。

これを東遷の証拠と考えることが出来るし、そう考える人も存在する。
むしろ、一つ一つ根拠を論じていくのが筋で、真っ向否定してかかるものじゃない。
三角縁神獣鏡魏鏡説のようないかがわしい仮説でも、九州説はそれなりに議論してきたはず。

考古学は元々解釈の学問というか、仮説を立てるもの。だから、箸墓も纏向も成り立って
いるわけだろう。頭から否定してレッテル張りに終始してきた畿内説はおかしいと
思っているわけだが。
789唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 22:06:11.23
>5世紀急激に馬匹文化が現れたが国内にそれに至る物が無いから

古墳時代初期と中期を別けるのは、大量の渡来人である。
この大量の渡来人は、323年神功49年半島占拠が指標である。
無政府状態の半島中・南部を占拠する倭軍、まだ帯方、楽浪は安定していない
戦争の影に怯える現地住民、その住民の帰属を住民の自由意思と演説する千熊長彦
その千熊長彦に従って自由意思で渡来する住民。
とりあえず彼らが牛馬の文化を持ち込み、
413年、高句麗と倭が東晋に朝貢する。ここから、金銀と騎馬、馬具が高句麗より
もたらされる。
ガイル王が高句麗と対峙するまでは、百済を属国とする高句麗と倭国の間に戦争は無い。
790メ(すぐ落ち):2011/05/20(金) 22:10:53.82
>>517
>しかし乱収束後、緩やかとはいえ広域にわたる連合体がいきなり、こぞって共立システムの樹立をしたとは考えにくいのではないか?

天皇家の得意技「共立」でしょうな。

>倭人伝からは、官、副官、大倭、一大率といった広域倭国の担当者が機能している様子がうかがえる。
>倭国乱収束後、共立王下の広域行政システムの構築に際し、古くから 「王」と呼ばれる人物がいた地域のリーダーシップはかかせなかったのではないか?

官、副官、一大率は卑弥呼の政治下で置かれた政治機関でしょうが、
大倭に関しては「大いなる倭」でヤマトのことでしょうね。

>早くから、特定個人墓を作っていたような地域が、王権のマニュアルを持っていたと考えて、
>それが広域のシステム作りに反映されたとするならば、中心となったのは言うまでもなく新参の大和ではなく、
>北部九州であろう。

前方後円墳以前の墓については、各地方で風習があったように、
ハツクニシラススメラミコトこと祟神天皇時代をもって、
全国で統一されていきますよね。
ということで「各地方でばらつきがある」というだけでしょう。

>この緩やかな連合体下における北部九州のリーダーシップとはまた、当然、王共立そのものの主導権である。
>卑弥呼は九州勢力下の人物であろう

北部九州ってどこです?スグ岡本?一世紀でしょう・・・・
箸墓、祟神天皇陵、景行天皇稜は巨大なので
あれが造られる以前にも畿内はリーダーということになる。
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 22:15:20.20
>春夏秋冬が3回で1年

これは3倍年暦ではないね。こんなことを主張したことはな〜い。
オマエ、倍暦とはどんなものなのか知らないようだな?

そうだろう。ww 斉藤さんから習って大威張りのオマエが、天文暦にては
グレゴリオ暦と違い西暦0年を使うのだということを・・・。
792唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 22:23:52.47
ホ39382 ヤマトタケ シナノキソヂは ヤマたかく タニかすかにて
ツヅラをり カケハシつたひ ムマゆかず

景行41年に馬が登場する。
箸墓(260±10年)の濠より鐙が見つかる。
大和における馬の登場は、田道間守からの複数回の朝貢と重なる。
この馬も魏の軍事指導の一つであろう。


>天文暦にてはグレゴリオ暦と違い西暦0年を使うのだということを・・・。

太国倍年が天文暦なのか?
793メ(すぐ落ち):2011/05/20(金) 22:24:05.31
>>535
九州は大陸と近いからね〜
ところで、おたくのいう九州北部って具体的にどこのことを言ってる?
豊前石塚古墳かい?w

>>540のこれは何を言ってるんでしょうねえ・・・・・
倭人伝というのは三世紀の倭(日本列島)のことが記載されており、
その中に卑弥呼さまは一大卒というのを設けてるでしょう。
ということは四世紀ではなく、それ以前の三世紀においても北部九州は支配下にあったことがうかがえる。
794唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/20(金) 22:30:59.38
垂仁天皇元年(壬辰前二九)正月戊寅《二》◆元年春正月丁丑朔戊寅。
垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月癸酉《二》◆十一月壬申朔癸酉。
垂仁天皇二年(壬辰前二八)二月己卯《九》◆二年春二月辛未朔己卯。
垂仁天皇二年(壬辰前二八)十月◆冬十月。更都於纒向。是謂珠城宮也。
垂仁天皇三年(甲午前二七)三月◆三年春三月。

太国倍年の3倍年は、書紀3年分の記事を以て、1年と主張している。
垂仁元年辺りで見れば、垂仁3年迄に春が3回登場する。
つまり
太国倍年1年の間に季節は3回めぐる。
795メ(すぐ落ち):2011/05/20(金) 22:34:39.90
>>588-591
馬鹿な遺作が、九州説について語ってるんだが、
何を言ってるのかサッパリ掴めない。

神武が九州から近畿へ遷都したんだろ?
神武は三世紀の後ではなく、それより前だろう。
ということは卑弥呼の都は九州のわけないじゃないか!
冷静に考えよう、九州説論者諸君。
796太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 22:36:19.49
そんなものは後付けだということが、紀と経での雄略4年の記事で明解だ。

後で付けたんなら、倍暦に無知な紀の編者が四季の誤認で四季をつけて
書かれたことは充分予想される。つまり不合理はない。
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 22:41:08.66
>>792
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

西暦0年を知らなかったオマエは、斉藤さんの落第生だな。wwwww
そうだろう? 日食暗黒継続時間計算式で、数日間の継続の計算結果を
得たそうだからな。ppp
798日本@名無史さん:2011/05/20(金) 22:47:22.96
>>795 daメ
>神武が九州から近畿へ遷都したんだろ?
>神武は三世紀の後ではなく、それより前だろう。
>ということは卑弥呼の都は九州のわけないじゃないか!
>冷静に考えよう、九州説論者諸君。

どう読めば遺作の説がそのような話になるんだ〜?メという人物は何者だ?小学生か?
799日本@名無史さん:2011/05/20(金) 22:54:10.73
メ は知的障害があるんだ。
800メ(すぐ落ち):2011/05/20(金) 22:54:43.36
>>798
おれはねえ
邪馬台国は奈良で起こる大和朝廷の前身で
邪馬台国は「畿内で決まり」と思ってるんだよねえ。
だから九州説論者の人は、畿内説である人に「なぜ九州になるのか」
わかりやすく説明してほしいんだゎん。

おたくが、遺作の代わりに説明できるのか?w
801日本@名無史さん:2011/05/20(金) 22:55:55.58
>>797
落花生にみえた
802太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/20(金) 23:04:00.01
宿主よ

雄略4年において

 紀は 春2月
 経は 秋8月

である。

これは2倍暦での後付けだということだね。そうでなければ、いずれも
春なら春、秋なら秋と、双方同じ季節になるのが当然だ。それが丁度半年
の断層が在る。後付けという氷山の一角が出たのだ。

おまけに 雄略 は

 紀 62歳
 記 124歳

で、記は紀の丁度2倍の宝算だ。このことは2倍年暦の行使が当時存在
したことを物語り、紀の季語が後付けであることを意味するのだ。
803日本@名無史さん:2011/05/20(金) 23:18:08.50
ひむか
日向
804神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/20(金) 23:54:36.37
倍歴・倍干だって、あるわけないでしょう。馬〜〜〜〜〜〜〜鹿!ですね。放射能に脳ミソを汚染されたらしい。
805ローガン:2011/05/21(土) 00:35:24.96
>>788
>一つ一つ根拠を論じていくのが筋で、真っ向否定してかかるものじゃない。

あ。これ、同意。

> 三角縁神獣鏡魏鏡説のようないかがわしい仮説でも、九州説はそれなりに議論してきたはず。

いつ、どこで?

> 考古学は元々解釈の学問というか、仮説を立てるもの。だから、箸墓も纏向も成り立っているわけだろう。

そりゃそうだ。

>頭から否定してレッテル張りに終始してきた畿内説はおかしいと思っているわけだが。

被害妄想じゃないか?
そもそも「頭から否定してレッテル貼りに終始してきた」ようなものがなんで通説として支持されるん?
806日本@名無史さん:2011/05/21(土) 10:06:44.49
畿内説って通説か?
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 10:36:48.33
>>804 半玉
倍暦に干支があるのは、オマエが勘注系図を示して持ち駒をこちらに
くれたことからだね。ww
オマエが教えてくれたも同然なのさ。

なお倍暦は古今世界各地で行使されていることが確認でき、これは現実
に存在している。最も詳細が分かり行使されていたものの典型は、古代
マヤの太陰暦であり、そのマヤ神聖文字により長期暦の石碑等にこれが
見られる。学術的には C文字 で示されてるもので、この絵文字は
右片手の上に魔人の人頭の横顔が乗っている形状であり、文字の脇には
棒と小○による数字がある。

これは現今の半年(6ヶ月)で一巡するから

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の六つがあり、2倍暦だから7月〜12月までの 7C〜12C というのは
ない。これで1年で2巡することとなる2倍暦法である。現今の日本古代
も2倍年暦を行使していたことは疑いない。

またオマエもミニ2倍暦たる時計短針の回転での12時間制と24時間制を
使っており、オマエの主張はそれこそ絵空事であ〜る。
808日本@名無史さん:2011/05/21(土) 11:07:55.37
マヤ文明の予言によれば人類は2012年に滅亡するのだけれど、
そのキッカケとなる大災害が起きるといわれているのが2011年5月21日。つまり今日だ。
もし、今日なにかとてつもないことが起きたなら、そして、
もし、2012年12月21日に人類が滅亡したなら、あなたのいう倍歴とやらを存在を信じることにしよう。
809太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 12:21:26.51
いまのはマヤの予言をやってるんではないですが・・・。
810唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 13:30:34.67
雄略天皇五年(辛丑四六一)六月丙戌朔◆六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。
雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬◆廿年冬。高麗王大發軍兵。伐盡百濟。
雄略天皇二三年(己未四七九)四月◆廿三年夏四月。百濟文斤王薨。

475 百済  高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す
477 百済  三斤王即位サンキン(壬乞、文周王の長男 幼年につき解仇が実権)
479 百済 東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)

嶋王誕生は、日本の記録であり、461年の出来事と出来る。
百済が大敗するのは、476年で1年の誤差。
百濟文斤王=三斤王と解釈すれば、479年の崩御で誤差は無い。

>おまけに 雄略 は 、 紀 62歳、 記 124歳
古事記の124歳から書紀の62歳が“倍年の証拠”とはならない。

太国倍年 470庚戌  雄略即位 安康崩御
つまり太国倍年は、太国の主張する 470年雄略即位と、書紀の主張を正しいとする
2重暦か?
しかも九州王武は、書紀の主張である半島での実績を、自分の先祖の出来事とする。
九州王朝は大和の分家か?

>倍暦に干支があるのは、
倍暦の干支は、60進数なのか?であるならば、60進数で説明出来なければならない。
書紀は、”朔”を基準に季節と日付を主張している。勿論干支は、60進数である。
1ヶ月10日の暦を主張しても、書紀の”朔”に合わせる術が無ければならない。
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 13:49:23.96
オマエは書紀の年代に【不正】のマシが挿入されてB.C.660年まで拡張され
たと主張してるんだから、書紀は【不正朔】だと主張したも同然であり、
これでは正朔だとか抜かすオマエは自語相違のインチキ論であろうが。ww
812太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 13:58:30.62
>>810 宿主
倍暦の証拠になる。宿主空年の証拠にはならない。空年なんてオマエの
空想そのもの。

雄略4年はピタリ半年であ〜る。
それとも同4年は春と秋が一緒に来たというのかね?ww
笑わせるな。
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 14:14:45.38
宿主
>2重暦か
それは言えるだろう。雄略当時は通常暦を行使してたのさ。それが
允恭が反正ら引き継いだ2倍暦法を、おそらくは病気のためだろう、
半島の医者に治してもらったことで、当時半島が通常の暦法を行使して
いたことで倍暦を停止して允恭元年に戻り通常暦をふりつけたのだが、
そのまま安康、雄略に持ち越されて行ったが、允恭世では最初は2倍暦だ
ったわけで、これが立ち消えにならず、雄略世まで巷あたりで2倍暦法が
残って行使されていたのだ。

だから二重暦という二つの暦の並行行使があったということだ。

>干支
これは60に決まってるよ。質問するまでもないだろう。
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 14:19:20.26
>合わせる術
オマエが宿主空年を合わせて、こうだと説明するのが先だろう。><
人をつつく前に、オマエが空年での説明しないはとは何事だ。
815レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 15:11:29.00
[ネタ提供] 景行年代についての古事記上の矛盾点

俺個人は、あまり興味も関心もないので、対岸から双方のご意見の応酬を拝聴
している者ですが、先日、古事記を眺めてて、面白い「矛盾点」を発見し
ましたので、この論争のそれぞれの見解を伺えれば幸いです。

この矛盾は、知っている人には幼稚な話かもしれませんが、景行と大和建の
関係性です。古事記では以下の二点が、(少し場所が離れて)堂々と併記され
ております。
@景行の子供の一人に、小礁命(オウスの命:倭オグナとある)がいる。
(オグナ=大和建を担保するのは大和建の熊襲・出雲征伐の話だけです)
A景行は、大和建の曾孫の女を娶っている。
これ、同世代人として、可能かな?それとも読み間違いかな?

これらが同時に成り立つ為には、大和建は二人以上いるか、景行年代の古事記
解釈が間違っているか、と言う話にも成りかねません。(その他、俺が馬鹿)
つまり、大和建Aと大和建Bがいて、大和建Aが景行の祖父世代頃にいて、
大和建Bが景行の子供で、大和建Bが大活躍の後大和建の名を継いだ(襲名)
(つまり、大和建は役職名説ね)と言う話か、あるいは景行大王と大和建には
本来親子関係は元々無く後々親子と認識(&表記)されるようになったのか。
(この場合は、景行世代は大和建世代より数世代前と言う話にもなる)

お茶を濁してしまって申し訳無いが、日本書紀以外で上記の矛盾を解決する
方法をご存知の方は、何かしらヒントをヨロスク。え?古事記を読むのを止め
ろ?それも無しの方向で。
816日本@名無史さん:2011/05/21(土) 15:15:43.14
ヤマトタケルなんて創作だってことが常識なのに、
矛盾もクソもないわ。

もっと、誰がなんのために創作して、記紀に挿入したかを、考えてみ?
817唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 15:17:34.75
>>812
>雄略4年はピタリ半年であ〜る。
太国倍年
470庚戌  雄略即位 安康崩御
493癸酉  雄略崩御

太国倍年上の雄略4年が半年であろうとかまわないが
上記の数字上でどう説明すんの?
818唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 15:28:41.32
>>815
>これらが同時に成り立つ為には、大和建は二人以上いるか、景行年代の古事記
解釈が間違っているか、と言う話にも成りかねません。

書紀の記載記事を正しいとして編年した場合
神功、応神は、そのまま110年の時空を必要とする。
仁徳紀は、この2名と重なりながら87年の歳月を必要とする。
となれば、この時代を中心として、世継ぎの異常が存在する。
つまり現実の世継ぎを架空の世継ぎに重ねると、どうしても重複する部分が出てしまう。

だから書紀の記事がどこを指すか?編年を優先し、世継ぎを無視しなければ語れない部分が生じる。
819レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 15:33:07.42
あと、「共立」に関する話題があったので、あくまで私見を。

@開化(&その大后=古事記では削除されているモモちゃん)が、対魏晋外交
上共立された。(開化本人は死ぬ直前、or死後orそもそも開化=モモちゃん)
Aその後魏志倭人伝に書かれているのと似た外交があり。
Bその後、モモちゃんと大王との子の建ハニヤスの乱により、大后モモソ王権
が、崇神&大毘古gpにて駆逐される。(このgpがモモソの後継者にトヨ:トヨ
スキイリ日売を立てる)
C崇神gpに反抗する沙本毘古(&サホビメ)gpが長年にわたり、魏晋の後援を
得ながらゲリラ戦争を持続。やがて、緩やかに敗北。(敗北が決した以降に
魏志倭人伝が書かれるので、BCを向こう解釈で表記される)
Dある程度おちついた時点で、崇神gpの子孫が、あの頃を振り返り、開化外交
(即位の事実だけは語り継ぎ)を部分否定した。
E古事記の時代までに、開化外交を完全否定した。開化前後の「大和」と
卑弥呼の「倭」とを、切り離し、全く違う物と解釈した。
820レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 15:41:07.48
>>816
いや、「誰が何のために創作」に関しては、別に普通に読み取れる。意富氏と
息長氏の伝説が、交錯する血脈地点の「英雄」だからね。もしかりにゼロサム
創作でも、あるいはそれに近い偶像があった上での脚色かであっても、その
どちらかなのかは、それはご指摘の通りなんだけど。
でも、創作か脚色なら、なおさら、「上手くやる」筈じゃない???
でも、同項目同世代表記で、何世代もずれるようなオオポカ、やるかな???
そこがキニナルだけなんですね、こっちは。
もしオオポカなら、なぜに古事記の最終監修人である朝廷はこれを見過ごした
か?がキニナルし、オオポカでないなら、その表記の真の意味するところが
重要になってきます。ハイ。
821レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 15:50:53.81
>>818
はい。日本書紀のこの頃の時代の編年性には、あまり信頼が持てないと言う
感想は共有します。ただ俺が持ってきたのは、「古事記のみから」「古事記内
のみで生ずる矛盾」なんです。(俺の思い違いならそのほうが楽だが)
記紀比較からでも、これらの年代は確かにムツカシイ話ではありますね。
古事記の段ですでに「大断層」がずれてるなら、日本書紀が古事記をベースに
書かれたならこちらも当然ズレざるを得ないワケでして。
その意味で、「日本書紀以外で」と先に断わっておいたのです。あ、レスは
ありがとうございました。
822唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 15:57:11.65
竺志米多国造(ちくしめたのくにのみやつこ)(佐賀県三養基郡・肥前国三根郡米多郷)
志賀高穴穂の帝の御世に息長公(おきながのきみ)と同祖の稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたの
みこと)の孫の都紀女加(つきめか)を国造に定められた。

継体を応神5世孫では説明出来ない。
稚沼毛二俣命の孫が安康時代であれば、継体に繋ぐことは出来る。
その場合 稚沼毛二俣命は誰の子?
823唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 16:03:49.41
>C崇神gpに反抗する沙本毘古(&サホビメ)gpが長年にわたり、魏晋の後援を

崇神時代に任那建国。
垂仁末に田道間守の派遣が大和からの最初の朝貢である。

書紀の主張するこの2点は重要である。
崇神を魏・晋の時代に宛がっての”任那建国”は無い。
また2世紀末からの纒向遺跡の説明が出来ない。
824レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 16:14:12.26
>>818>>821の続き)
特急によって見た風景と、鈍行によって見た風景を、後でまとめて一つにあわ
せると、いろいろチグハグが生じ、そのたった一つが、俺が提起した先述の
矛盾なのかもしれませんね。ま、そこは考慮した上でなんですが。

そうすると、今度はじゃあ血脈を検証してみようと言う流れになって、確認し
た所、大和建さんの、意富氏及び息長氏とに関係する血脈で、キニナル点が
いくつか。古事記では建の子供で息長田別王さんがいらっしゃいますが、この
母が「ある妻」だけの表記なんですね。そして、建さんのお母さんが、ちょっ
とわかりずらい方なんです。(どっちも辿れなーい!)
「なぜ建さんが必要」か、と言うその「なぜ」を追求しようとしても、古事記
はここを煙に巻いてしまうんですね。してみると、この「矛盾」、どう考えて
も「意図的」にしか、見えて来ないのです。妄想だとイインダケド。
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 16:18:41.80
>>818
>この2名と重なりながら

紀は応神仁徳の代に重複在位の記述はない。従ってオマエの論はインチキ
である。デタラメの極だ。ウワッハッハ!wwwww

5重在位したと本気で思ってるなら、精神病院へかようんだな。pppppp
826レス長たらし毘古:2011/05/21(土) 16:37:52.06
>>822
ヒントありがとうございます。そっちも調べてみます。
>>823
ヒントありがとうございます。ただ、当方は無意識的に任那建国の具体想定は
まだ避けていますので、ただしかし、大局的には、いつかどこかで任那建国は
なければおかしいとは思ってはおりますが。
もし万が一仮に古代史上のある王国の政治経済中心が九州だったとした場合、
地勢的には、朝鮮半島や沖縄・台湾・リャオトン・チンタオ等は、関連して
来る可能性はなきにしもあらずではあります。

してみると、意富氏の女傑のモモソさんの時代には、外つ海としての朝鮮半島
のイメージしかないのに、息長氏の女傑の神功さんの時代には、朝鮮半島で
筒三神に戦勝祈願を行なう、言わば「マイグラウンド」イメージなワケで。
この間の出来事(と古事記がしている)の象徴的人物の大和建さんが、こうも
大断層ズレを起こしているのが、古事記を読む上では困ったもんです。
とりあえず、ご提案いただいたとおり、
> 志賀高穴穂の帝の御世に息長公(おきながのきみ)と同祖の稚沼毛二俣命
(わかぬけふたまたのみこと)の孫の都紀女加(つきめか)を国造に定められ

辺りを調べてみようと思います。感謝。
827太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 16:40:15.66
>>817 宿主
オメエこそ 宿主空年 で説明をしろい。
どこに空年があるのか?
たとえば

 「景行の年代の 景行11年〜同20年 までが空年です。」

とか

 「神功の年代の 神功16年〜同30年 までが空年です。」

等々具体的に提示して、その空年の明解な事由と両端年の干支がどれこれ
とどれこれで一致していて、これが空年になりますとか言うことが出来
ないならば、オマエの 宿主空年 は無いものと当選確実であ〜る。
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 16:44:09.42
>>816
>誰がなんのために創作

これは君が言うべきだろ。どこの誰かね? そしていつごろ何の動機で
創作したのか? いつごろ当時の公文書偽造同行使で逮捕されたのか、
創作偽造の発覚はどの文で露呈したのか?
829唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 17:26:28.86
応神の占める位置
274年 神功渡海、この年応神が生まれる。
3世紀後半、西新町遺跡に半島のカゲ。
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)春正月癸丑朔丁卯。立大兄去來穂別尊爲皇太子。
344年 応神天皇元年(庚寅二七〇)春正月丁亥朔。
400年 履中天皇元年(庚子四〇〇)春二月壬午朔。皇太子即位於磐余稚櫻宮。

履中天皇五年(甲辰四〇四)春三月戊午朔。於筑紫所居三神見干宮中言。何奪我民矣。
履中天皇六年(乙巳四〇五)二月癸丑朔悲哉。吾兄王何處去耶。
404年帯方界に攻め込むが敗退。
405年その戦死者や行方不明者を捜索する。

274年生まれの応神
343年に大兄去來穂別尊爲皇太子、しかし翌年即位したのは応神と記される。
そして応神の子二俣王は履中時代に生まれ、継体5世孫と説明される。
830日本@名無史さん:2011/05/21(土) 18:03:06.15
数字遊びはいらないよ
831日本@名無史さん:2011/05/21(土) 18:05:03.03
カラマツは数字遊び
フトクニは大前提からしてトンチンカンなズレまくったボケ発言連発

ここは狂信者の妄想ばかりだな、おい。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 19:12:20.97
>>829 宿主
応神が生まれた等々と主張しても、その根拠と具体的解説がない限り
常人なら誰も信じやしな〜い。ww これに説明したそぶりの飾りの語句
を並べてるだけで、これは核心の説明ではなくオマエのインチキ・ポーズ
であ〜る。つまり評価は何も無い。

おまけに宿主空年の解説により各天皇の代のどこからそこまでの間の年代
が空年なのか? その説明がここ数年書きこみを見てるが、ただの一度も
ないわけで、結論だけ書いて〜こうだ〜と毎回わめいても、餌をつけない
釣り同然であるかして、だれもシカトでの信じないで終わりだ。オマエの
書きこむ腕が疲れるだけ。
833唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 20:48:45.65
神功渡海を容認出来る考古学の知見は
3世紀後半、西新町遺跡の布留式と半島の土器である。
この3世紀後半から、神功49年半島占拠を考えると
326年に七支刀が来る。
320年頃は、西晋が滅び、中国東北部が政治的空白域となる。
神功49年の記事を見ても、戦争状態から半島占拠とは認められない。
ただ軍を派遣した程度で従えて行く。
この状態が正しければ、渡海から整合性を得る必要が有る。
神功の渡海に仲哀の死は阻害要因とならない。
最も簡単な渡海であれば、それは、晋の要請による渡海であり
伊都国に置かれた大倭(大和)の1大率、この行為を半島で行う。
倭人伝に書かれた、従順な倭人を統一して冊封する。その為には
軍編成や治世方法を伝授する。もし誤って倭軍が背いても半島に
影響を与える心配は無い。
魏は東夷9種とし、晋は東夷九国として冊封する。
この時代が舶載鏡の時代であり、
308年から仿製鏡の時代となる。
この時代の河内を見れば、閉塞する中・南河内と古墳を造る摂津・北河内。
庄内式の時代をリードした南河内の衰退は、神功元年の渡海派と残留組の
対立だろう。
この出来事は、箸墓築造から10年ほどしか経っていない。
834唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/21(土) 20:59:30.81
つまり、古墳は渡海派が広める。しかし負けた残留組が滅びたとは認識出来ない。
例えば、渡海の年に生まれた応神が即位したとは思われない。
だから半島占拠の後に“応神”が登場するが、その登場は70年の後の即位である。
仁徳の即位は313年であり、応神の子供の可能性はあるが、399年大仙陵に
葬られるまで生存していることは考えられない。
巨大古墳は、半島占拠の結果であり、高句麗の南下で終了する。
835太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 23:20:04.53
フフン、多量の修飾語でいかにも編年の説明をしたように見せかけて
いるのはまたかと言いたくなるところで、本質的説明はただの一度も
今の今までしてなかったわけで、上っ面の飾り文をうんと書いて説明を
したふりをする〜またしてもポーズにすぎない。

相変わらず餌をつけないで餌がついてるように偽装してるだけであり、
評価は0にもならない最低である。

宿主は結局、空年の具体的年代間を把握してなかったねと〜このごろ
奴の足元がマル見えになって来たわけで、この年代間を追究しないで
論を張ってきてたのだということだな。ウワッハッハ!
ヤツの手の内が見えて来たな。空年の持ち駒が無かったわけだ。
だ〜から説明出来ないわけだぜ。

えらそうに、言うことだけは虚勢を張りなから万の要求と批判をするが、
なんのことはない、どこからどこまでだという空年の把握がまるで
出来てなかったわけだな。ppppppppppppppppppppppppppppppppppp
836太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/21(土) 23:56:58.50
唐松山という男は脳内がカルト・ホツマ虫に支配されており、その脳が
宿主になっているということだ。

奴は倍暦を否定し宿主空年を頑張り通す事由とは、倍暦の編年だと卑弥呼
の代を景行の代に合わせられないという利害が奴の空年の主張に行き着く
動機なのだ。奴は(奴の妄想の)景行を他の天皇以上にカリスマ化したい
わけで、それはホツマの極超賛美と奴の松本某人の上に昇ってアグラを
書きたい〜言いかえればホツマ絶対化による古代史論古代史編年での天下
をとれるとりたいという過大な奴の名誉欲に空年での編年がホツマ絶対と
自己の天下を完全に支える大黒柱たるものだということなのだ。

空年だと、その具体的空年の年代間の位置を後付けにできるわけで、
先に牽強付会でも、とにかく諸々の古文献と考古からの景行に位置付ける
材料を探し求めてこれを集め、各年代位置を決めこむ。だから空年の
在所が第三者のコチラからは不規則丸見えで、おかしいったらありゃ
しないというギコチなさが所々に見え隠れするわけだ。

それが日食が数日間も継続しないのにこれを強行して科学の鉄則でも
曲げようとしない訳で強引に主張をするのがこれで、あるいは絶対に天皇
になれない臣が天皇にコジつけてもしてしまうとか、銘文の字形の一部
から絶対的に不可能な漢字を指定して七支刀の年代をゴリ押しするとか
の、将棋でいえば生角を横に動かすことも平気でやることを当然のように
振舞う等々、劇、映画での忍者の高飛びのようなこういうことを論といて
固めているわけである。そこで超無理にもこうやって決めこんだ各々年代
の間に空年があるとする〜ここを消極的主張にとどめ、そこの空年という
ものは、先に年代決めこみだから、各空年が不規則になるわけで、さらに
空年具体的設定を後回しにしたから、各天皇の在位の間の空年という個所
を明確に決めが出来なくなってる訳だ。だから今の今まで何回提示を要求
しようと、成程と言えるその空年個所を説明しないでとぼけていると
いうことなのだよ。pupupupupu・・・・・
太国 ◆yVAs7uaYlY さんよ。あんた専門家だから聞きたいが

30キロは歩いて「2日」かかるでOKか?
838唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 09:46:33.62
>>813 >干支 これは60に決まってるよ。質問するまでもないだろう。

垂仁天皇元年春正月丁丑朔戊寅。丁丑朔を239234日とした場合
垂仁天皇元年冬十月癸卯朔癸丑。癸卯朔は239500日 29日で1ヶ月
垂仁天皇元年十一月壬申朔癸酉。壬申朔は239529日
垂仁天皇二年春二月辛未朔己卯。辛未朔は239648日
この時空は、閏月を含み1年と1ヶ月で414日である。
つまり、1ヶ月が10日の暦とか、1年が4ヶ月の暦法は
書紀に登場しない。
この数字を“後付け”と主張しても、
後付けをするための“元と成る数字”が存在しない。
3倍で29日は得られない。

書紀は崇神世の任那建国を主張している。この主張を認めるためには
210年伽耶建国と設定する必要がある。(新羅本紀、三国遺事)
魏が半島を管理する時代に任那建国は設定出来ない。
箸墓築造時には、大和は大量の鉄を保有している。
書紀の主張は、垂仁時代から任那の鉄を保有する。
箸墓は、それ以後の築造であり、ホケノ山の鉄器も任那の鉄である。

210年任那建国
216年任那より朝貢
239年ホケノ山
363年箸墓 布留0式の指標
西新町遺跡は庄内式から布留式の遺跡である。3世紀後半。
景行は庄内式の時代に九州平定を終え
布留の時代に神功渡海。
839唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 10:06:58.02
数字を誤魔化して引き延ばし、太陰暦で表記されたのが日本書紀である。
引き延ばして太陰暦になる倍数は存在しない。
だから“倍年”の類は否定されるのである。
太陰暦を誤魔化すことの出来るのは、太陰暦だけである。
誤差は、不自然な1日程度であれば、
正しい太陰暦に、架空の太陰暦を差し込む。誤差は1日程度であり
キッチリ区分することは出来ないが推定することは出来る。
840唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 10:08:05.64
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)元年春正月丁丑朔戊寅。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)冬十月癸卯朔癸丑。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔癸酉。
218 垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
219 垂仁天皇三年(甲午前二七)三年春三月。
220 垂仁天皇四年(乙未前二六)四年秋九月丙戌朔戊申。
220 垂仁天皇五年(丙申前二五)五年冬十月己卯朔。
222 垂仁天皇七年(戊戌前二三)七年秋七月己巳朔乙亥。
224 垂仁天皇十五年(丙午前十五)十五年春二月乙卯朔甲子。
224 垂仁天皇十五年(丙午前十五)秋八月壬午朔。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)廿三年秋九月丙寅朔丁卯。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)冬十月乙丑朔壬申。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)十一月甲午朔乙未。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)廿五年春二月丁巳朔甲子。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥朔丙申。
228 垂仁天皇二六年(丁巳前四)廿六年秋八月戊寅朔庚辰。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)廿七年秋八月癸酉朔己卯。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)是歳。興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
230 垂仁天皇二八年(己未前二)廿八年冬十月丙寅朔庚午。
230 垂仁天皇二八年(己未前二)十一月丙申朔丁酉。
231 垂仁天皇三十年(辛酉一)卅年春正月己未朔甲子。
232 垂仁天皇三二年(己亥三)卅二年秋七月甲戌朔己卯。
233 垂仁天皇三四年(乙丑五)卅四年春三月乙丑朔丙寅。
234 垂仁天皇三五年(丙寅六)卅五年秋九月
235 垂仁天皇三七年(戊申八)卅七年春正月戊寅朔。
236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。
238 垂仁天皇八八年(己未五九)八十八年秋七月己酉朔戊午。
239 垂仁天皇九十年(辛酉六一)九十年春二月庚子朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)九十九年秋七月戊午朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)冬十二月癸卯朔壬子。
841太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/22(日) 10:20:24.50
宿主
〜した場合ではは仮定でありオマエの計算が合っている信用度は例の日食
が数日間分暗黒が継続だとの日食暗黒継続時間計算式からの算出結果を
得たということと、これに因み現代天文学の鉄則を否定するオマエの計算
など、全く信用は出来ない。そんな計算をどうやってしたのか、その
多数桁の数字でさもやっているように見えかけのポーズをとってるケム
に巻くにすぎぬ説明書きであって、そんなものの正解たる根拠はまるで
無い。日数は八代統計表から空白日が多大にあるわけで、オマエがそんな
計算を単純にやっても真の年代には全然ならない。

なおホツマはそんじょそこいらの昔のただのオッサンが恣意的妄想を
勝手に入れて書いた〜景行が日本統一だとか初代だとかぬかす〜インチキ
を産ました正史を破壊する危険史想である。過去に津田が古代天皇の
架空を論じてこの妄想が根付いて今でもそのへんの天皇を創作した架空
だと結論だけで決めこむ妄想人の増幅をさせた危険な論だった訳で、これ
がずっと増幅していまや正史を撹乱させたのだ。

これと同様のイカサマたる景行誇張増幅のホツマ紀生虫からの宿主の危険
史想を今のうちに根絶やしにし、津田の二の舞いの危険なこの妄想の論を
徹底して葬らねばならない。景行が日本統一などイカサマのデタラメ論
であり、唐松山という虫の宿主のかような論は正史を破壊する危険な
主張であって、津田の論に根付く前に厳しくこの論を葬り去る必要が
せまられる。宿主の危険史想を事前に察知したらしい原田実氏は以前
歴史読本某号にこれを憂え、そのまずい論を批判していたが、まことに
氏の言うとおりで〜そのとおりである。
842日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:25:38.23
二人はとても幸せそうですね。
843日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:27:03.29
>>842
だから同一人物だと云ってるだろ。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/22(日) 10:28:43.71
>>839 宿主
>数字を誤魔化して引き延ばし、太陰暦で表記されたのが日本書紀である

 そうならばオマエの言う紀が 正朔 だという主張は上と矛盾して
 いてオマエの自語相違であり、ここにもコインの表裏を使い分け
 る不正行為論をオマエはやっているということだ。つまり今回の上の
 書きこみは紀が 不正朔 だという主張であって、言ってることが
 過去と現在とは手の平を返した如くであり、時に応じて正だ不正だと
 くるくる替えているこやつの脳内の実体が見てとれる。ww

 つまり日本史板のコテハンの中で、最高級の極超S級のデタラメ野郎
 だということが露呈する。精神病院へ行くんだな。
845日本@名無史さん:2011/05/22(日) 11:40:41.85
*=*=*= 古代史論争として今や著名な「太松論争」 *=*=*=

      /  ̄ ̄  ̄\      リWWWWW入
     /    (ヘリノノ \    /;r:::::::_::::::::::::::\
    /\   \  / |   i::/' ̄ ̄ ̄ ̄~ヾi::l
    ||||||   (・)  (・) |   |::| \   / ,...|::|
    (6------◯⌒つ |  С--( ^ );:( ^ )--つ
    |    _|||||_ |   { ヽ :::(_ _)..: :  ノ
     \ / \_/ /    \  -===-  ノ
       \____/      \____/
  唐松山             太国
  得意技/七支刀=369年  得意技/天津金木 4πr**3/3
846唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 12:58:45.41
>得意技/七支刀=369年 

この数字で 神功49年半島占拠が肯定されることは無い。
この数字は、半島占拠を否定する連中が使う数字である。
その連中は、崇神=箸墓=卑弥呼 の如き編年を主張するが
半島を魏が管理する時代に”任那建国”も無い。

そして、書紀の主張は認められないから、どのようにでも解釈して良いと考える。

書紀の主張する 任那建国は210年。この数字から纒向遺跡は、崇神・垂仁・景行
が庄内式と重なる。
274年 渡海
323年 半島占拠
326年 七支刀
書紀の主張を出来事として認める事が出来るが、世継ぎに異常が出る。

出来事が正しいか?世継ぎが正しいか?の2択問題である。
847日本@名無史さん:2011/05/22(日) 13:05:12.06
>>845
オレのイメージでは、顔が逆。
848日本@名無史さん:2011/05/22(日) 13:22:58.79
今や著名な「太松論争」
いっそのこと、劇画書籍化したらどうだ?
お前らに立ち向かえるトンデモ論客はいない。
河童にしろ、伊作にしろ、他にしろ、とても足元に及ばない。
849太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/22(日) 14:10:09.63
>>846 宿主
>半島占拠を否定する連中が使う数字である
オマエのは、オマエの脳内のホツマ占拠を肯定するオマエが使う数字
である。
850レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 14:20:35.44
>>771(あ、レスを見落としてた、スマン)
>先人の文献史学では、アマテラスは、7世紀以後の創作であると判明して
いる。

古事記の天照は、ゼロサムの創作か、それとも前天照があった上での上塗り
脚色か、の違いまで判明している?判明してたら考えんでもないけど。仮に
ゼロサムなら、こちらも架空の再検証をしなきゃならないのも当然だが、
上塗りされるまえの天照があった場合は、まだ俺の架空は残存する。

>だから、あなたの説は、致命的に、土台から間違ってる。

どこの土台ですか?そこを具体的に言ってもらわないと、俺も回答できない。
851日本@名無史さん:2011/05/22(日) 14:22:55.87
ここ見ると、いい加減、数字遊びのキチガイじみた妄想は打ち止めにして、
まともな歴史の勉強、一からやり直せよと言いたくなるな。
852レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 14:54:52.20
てことで、とりあえずここで、自他の為に、古事記から拡大解釈した、以下の
王朝交代(一応、血脈は途切れていないと言う前提での王権交代って意味で)
を土台として仮説。(あくまでも奈良地帯に限定)

@前出雲王権の奈良派出所(主催:長スネ毘古、登美毘古、言代主、建御雷)
A神武王権(主催:長スネ毘古、神武、神八井、&大国主の子供の誰か)
B意富王権(主催:淡路〜安芸宮島〜北九州の有力者意富氏の派出所)
C崇神王権(主催:崇神大王&大毘古→後代武内宿禰)(意富氏→息長氏)
D応神王権(主催:神功皇后&武内宿禰→後代息長宿根)
E継体王権(主催:息長氏・物部氏・平群氏(→後半大伴氏)・蘇我氏)
Fトヨ王権(主催:蘇我氏・推古大王・聖徳太子)
Gジョ明王権(主催:息長氏・中臣氏・大伴氏・橘氏・百済の渡来人)
H天武王権(主催:蘇我氏・息長氏・大伴氏・橘氏)

で、当方はBの時代が卑弥呼と同年代時代と言う想定ね。
853レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 15:02:44.68
つまり、瀬戸内海海上交易独占者が意富氏であり、その意富氏の一番正統な巫女
が、魏志倭人伝に「女王国」と呼ばれた九州東北部の女王に共立された、と。
こうなります。ハイ。(異論反論、常時多いに承ります)
854レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 15:12:15.62
なぜ、この海上交易が、共立に有利に働いたか?これですが、勿論、九州
のみ・出雲のみで、魏晋に対抗できる筈が無いと言う理由も大きいですが、
それ以上の大きな理由として、「それぞれ、九州・出雲のみでは、独立採算
経営が不可能」と言う理由が最大と想定します。

九州のみでは権威はあっても人頭(&木材)と鉄器テクノロジーが足りず、
出雲のみでは鉄器テクノロジーはあっても人頭(&木材)と権威が足りず、
大和のみでは人頭(&木材)はあっても鉄器と権威が足りないのです。

従って、大陸と対抗(ましてや対立)するためには、どうしてもこの三地域
を媒介する瀬戸内海海上交易な「不可欠」となるワケです。
855レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 15:19:44.00
魏晋の黒船の来航にビックリした、当時の日本のプチリーダー達は、苦肉の
漸次策としてヒミコと呼ばれた女性を共立しますが、この共立選出システム
は、結果として後代のそして古事記の代の大和王権まで継続する形で、結果的
に政治システムとして継承されて行くのです。
但し、必ずしもヒミコ外交方針に賛成の人がその後の奈良の大王王権に座った
ワケでは無いので、上記架空のそれぞれの王権交代(王朝交代を含んでいるか
いないかは、ここでは不問)によってヒミコ外交の是非は二転三転する。
この結果(少なくとも古事記では)ヒミコと呼ばれる女性は探し難くなる。
856唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 15:31:35.23
海上交易は庄内式の時代に展開し、西新町遺跡にまで進出する。
この先に伽耶の鉄があるわけであるが、鉄の流入は垂仁からであり
その鉄の分与を求めて中国地方から東海までが纒向遺跡に集まる。
庄内式土器=2世紀末から6,70年間。
崇神を3世紀半ばに配しても、纒向遺跡の説明が出来ない。
また、任那建国が説明出来ていない。
考古学の数字は、舶載鏡の時代観でも容認されている。
崇神=箸墓=卑弥呼は成立しない。

崇神5,6年=新羅192,3年
崇神11年異俗多帰=2世紀末各地の土器=河内陶邑のタタネコ=庄内式の始まり
210年 任那建国
239年 都市牛利=田道間守
247年〜 景行の九州遠征、日本武尊の派遣
大倭は伊都国に1大率を置く。
274年 渡海 西新町遺跡の半島の土器、カマド
857日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:32:33.44
>今や著名な「太松論争」
いっそのこと、劇画書籍化したらどうだ?
お前らに立ち向かえるトンデモ論客はいない。
河童にしろ、伊作にしろ、他にしろ、とても足元に及ばない。

どういう風に切り込んで行けばいいのかわかんねえからな。
それにしても、よくもまあ、論争が続くわ。


858日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:39:08.29
>>850
アマテラスのモデルになった神は、伊勢の地方神ということがとっくにわかってる。

だから、あなたの説は根本から間違ってる。
859レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 15:46:54.57
( =_=)ノ そこで、耶馬溪〜高千穂〜日田の九州聖地デルタが浮上して
来るワケなんです。ハイ。
意富氏の重心がもし北九州なら、当然加那(朝鮮半島の先っちょ)は必要不可
欠になります。なんと言っても意富氏の得意技は「海上交易利権」ですから
ね。もし仮に、海上交易の重要拠点を掌握していくのが意富氏の本願で、瀬戸
内海の海上利権を独占していた意富氏の政治拠点がその西岸、つまり北九州
辺りだった場合、加那は当然「抑えておくべき港」となります。もしその時点
の当時で「抑えていなかった」としても将来的には当然欲しい港とも言える。

この時代に意富氏が、断片逸話として、「東征逸話」や「スサノウによる
イザナギ流刑(近江か淡路)の逸話」を保有していた(知っていた)ならば、
これらも、当然共立候補として充分有力に働いた可能性が高い。
また一方、天の河の誓約(天照とスサノウの和解)において、厳島の女神様
が誕生する件から類推すれば、神話時代(ヒミコ時代よりずっと前)に、
前九州王権と前出雲王権の国境線は、安芸の岩国辺りに引かれていたと想定
可能。つまり、前九州王権が「関門海峡」を入手していた可能性が高い。
(後代、意富氏の海上利権は、和邇氏や息長氏へと変遷して行く)
860日本@名無史さん:2011/05/22(日) 15:56:28.06
>>859
>可能。つまり、前九州王権が「関門海峡」を入手していた可能性が高い。

伊作もそうだけど、九州勢力って、ひとつじゃないよ?
北部九州も一枚岩でなく、
博多、宗像、宇佐はみんな別勢力。

だから、「関門海峡」を入手してうんたら、は、間違い。
少なくとも、博多を支配下に置いていた九州勢力は、「関門海峡」を入手してなどいない。
考古学的、文化的事実。

遠賀川の東西で、文化が全く違うんだから。
861レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 15:59:20.27
>>858
ん?それは貴方がアマテラスが男神だったと考えている事の吐露ですか?
ま、それはそれで、こちらとしてはどちらでもいいのだが。ま、そういう想定
の方にとっては、俺の言う所の天照さんを、天照さんと前天照さん(原天照
さん)と、二つにお考えしていただければ、それほど大きな問題ではない。
また、当方の天照解釈は、大分前にこの板でもコッテリ架空説明を行なって
いるので、そちらを参照されたし。
天照と前天照を、同一視しても、別視しても、どちらでも、俺の架空には
大して差は生じない。元々、天照さんは日本書紀以降にて現在のイメージが
確立したという設定で俺も話してきたはずなんだが。。。
天照さんのネタ元となった、原天照さんが、伊勢の地方神お一人の筈が無い
のである。大和王権の成長に従って、近隣の屈服させた前ローカル王権の
「天照さんを肉付けする要素」を融合させた後の天照さんが、古事記の天照
さんとなっているだけに過ぎないとも想定できるし。
862レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 16:14:01.44
>>860
あくまでも「古事記から類推」というベースですので、ご指摘は理解します。
また、当方は「当時の博多勢力」がこれが即ち意富氏であるとは、全く言及
していない。古事記上は、ヒミコ時代の大分前に九州側勢力と出雲側勢力の
「境界線」が厳島辺りに想定できるとしただけ。もちろん、その境界線は、
その後可変だし、境界線を想定した双方が、ソックリそのままヒミコの時代
まで両方共権力を維持できたとも思っていない。
(ちなみに、当方想定の「意富氏」の発生は、あくまでも神武(っぽい誰か)
より後の時代になります。共立をもってBが発生した直前直後と想定)

古事記の時代の研究者は、今の我々以上に「天照探し」をした事でしょう。
蘇我側はトヨタマにそれを見出したかもしれないし、息長側はニニギの祖母に
それを見出したかもしれない。伊勢神道の信奉者は伊勢神宮にそれを見出し
たかもしれない。そして、古事記までの「国史っぽい物」が上記の各王権
にて作成される度に、天照さんは、変転し、形成されて行ったとも想定可能。
863日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:28:31.27
>>862

>「天照探し」をした事でしょう。

してません。

アマテラスを祖神としてたのは、近畿の一部の豪族だけです。
尾張氏、物部氏くらい。

また天皇家の祖神は、アマテラスではなく、タカミムスビです。

アマテラス探しをするなどという動機はどこの誰も持っていないわけ。
7世紀に、伊勢の地方神を皇祖神に作り上げただけだから。
864レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 16:31:13.52
つまり、意富氏の巫女の共立着任をもって、新たに「関門海峡はどこに所属
するか?」の問題が、当時の王権(及び初豪族)に発生するワケです。
すると、その解釈は出雲側と九州側で領土解釈の相違を発生させる可能性も
高いワケです。崇神大王の婚姻関係が、極めて「出雲っぽい」事からも、
これらの所属問題は(当方想定の短期王権)ヒミコ時代以降、更に二転三転
しかねないのです。
865日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:31:17.71
また、アマテラスが男神とされたのも、7世紀の話しで、
持統以後、女性のイメージが強くなった。
866日本@名無史さん:2011/05/22(日) 16:34:13.51
>>864
>崇神大王の婚姻関係が、極めて「出雲っぽい」事からも、
どこがどう、出雲ぽいのか?

文献で語るなら、きちんと文献から引用すること。
867レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 16:54:44.63
>>863
>アマテラスを祖神としてたのは、近畿の一部の豪族だけです。尾張氏、
物部氏くらい。

すばらしいご指摘をありがとうございます。まさしく、この尾張氏・物部氏が
当方も重要焦点の一つです。
そして、上記の@〜Hの王権交代において、この物部氏伝承の神話や尾張氏
伝承の神話が、神話上の、時に重要ポスト、時に左遷ポスト、とその順位立場
が変転した事が、この架空の骨子とも言えましょう。@〜Hの前半については
たしかに邪推の域を越えませんが、少なくとも後半においては、中央政治に
おける物部氏と尾張氏の「興亡」は、ある程度古事記等から抽出出来る。
そして、古事記直前の王権であるFのトヨ王権は、まさしく、「物部外し」
を最大限可能な限り行なった可能性が高い王権。つまりトヨ王権下の「神話
国史」においては、物部グループが信じるような形態での天照さんは、当然
ありえず、左遷されていた可能性の方が大きい。
左遷されていたならば、当然物部の隔世された当時の(古事記の代の)子孫
は、自他の伝説の諸所から「天照さんってこうだったんじゃない?」を拾い
集めて再構築しなければならなかった筈で、その再構築の作業の末に生まれた
のが古事記なんです。(で、天照さんは九州系の所謂東征存在派と合体した)
(注:ここで限定はしませんが、この合体は、この時代にあったか、それより
以前の時代にあったかは、ここでは不問)
さてそうすると天の尾羽張(尾張系?の祖)さんや、天の児屋(中臣系の祖)
さんは、果たして古事記直前までは、本当に古事記神話でのお二方のありかた
だったのかな?と言う点も、当然古事記では担保出来ない案件となって来る。
(天の児屋と建御雷との交換の可能性は先述済み)
868レス長たらし毘古:2011/05/22(日) 16:57:02.43
>>866
あ、そこは長いので、大昔の俺のレスを参照いただくか、今度にします。レス
ありがとう。今日は当方都合にてこのくらいで。後日いつか必ず。
869太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/22(日) 17:15:55.42
>>856
崇神5,6年≠192,3年

左辺の当時、船舶がないから千人もの渡海は不可能である。
つまりデタラメだな。

船舶の始めて製造されたのは、紀の崇神17年であるからして、飢饉で
飢えている農民の大量渡海は出来ない。これは本年3/11の大地震の
被災者がガソリンもなく遠出出来ないと嘆いていたことからも、宿主の
主張は退けられる。つまりインチキだ。当時は自動車もガソリンもなく、
なおさら遠出は出来ない。若狭湾に至る途中で飢餓のため野垂れ死に。

したがって宿主の主張の論は野垂れ死に同然に崩れる。
870唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 17:30:14.97
>>869
>崇神5,6年≠192,3年

この数字は、崇神11年異俗多帰を2世紀末各地の土器が纒向に集まる。
及び任那建国 新羅209年、三国遺事541年で建国330年
より推定される。

どんなに”倍年”を主張してもそんな物はどこにも存在しないし、
倍加して得られる太陰暦も存在しない。
しかも纒向遺跡の説明が出来ない、
考古学の主張する時代を動かして 説明しようとすると、舶載鏡の説明が出来ない。
文献が無い。
自分で文献なる物を製造して主張しても誰も相手にしてくれない。
崇神天皇元年(甲申前九七)春正月壬午朔甲午
崇神天皇元年(甲申前九七)《十六》◆二月辛亥朔丙寅。
1月1日(壬午朔)から数えて、2月16日(丙寅)まで45日
日々の干支は、正しい太陰暦を表す。
871日本@名無史さん:2011/05/22(日) 18:54:25.74
>今や著名な「太松論争」

確かに日夜激戦を繰り広げているのは知っているが

正直何が争点なのかいまだにさっぱり分らないwwwwww
872太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/22(日) 19:04:34.82
空年なんか、オマエはまともな事例を出したためしがない。どんなに
頑張っても宿主空年は存在しない。
オマケに天津神算木の計測とコチラの倍年暦法の逆算とは1年の狂い
もなく一致した。天津神算木は皇祖皇宗の御威靈の宝物である。

当然初代は景行ではなく神武であり、神武こそが初代、皇宗なので
ある。皇祖の御靈代は鏡であり、天津神算木から238年の景初2年が
倭笠縫に皇祖とその御靈代たる 鏡 を祭祀した時代であり、このため
景初3年(=239年)鏡が畿内から多出するのである。オマエは皇祖の
鏡をないがしろにする朝敵であり、ホツマとはそこいらの昔のオッサン
の恣意的内容を書き入れた妄想の多い危険な史想の書であり、断じて
景行日本統一などと言うインチキたる朝敵論をわが神州から葬り去る。
873日本@名無史さん:2011/05/22(日) 19:13:29.75
>>833
>神功渡海を容認出来る考古学の知見は
>3世紀後半、西新町遺跡の布留式と半島の土器である。

布留における半島の要素とは何を言っているのかよく分らないが

それを強調したいなら普通は次代の「須恵器」だろうな。
要するに日本で作られた陶質土器なんだから・・・

(一般に布留に現れた特徴でよく言われるのは山陰北陸と言った日本海側の特徴)

しかし唐松にマジレスするのも超久しぶりだなw

太国と唐松、共倒れしてくんねえかな?wwwwwwwwwww
874唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/22(日) 19:48:11.29
>>873
科学研究費補助金研究成果報告書
次山 淳、古墳時代初頭の瀬戸内海ルートをめぐる土器と交流
北部九州における土器の畿内化の現象は、博多湾沿岸ばかりでなく有明湾沿岸
地域にもおよび、この時期の北部九州にみられるきわめて特徴的な現象である。
5,現在までに公表された朝鮮半島系土器資料、77 遺跡1183 点余のデータを収録
した。これらには、朝鮮半島からの搬入品と考えられているものに加え、模倣品など
朝鮮半島系の要素が認められると指摘されたものも含めている。…当該期の朝鮮半島
系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、西日本全体で
みると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新町遺跡に
極度に分布が集中するようになることなどが理解された。

これが現在の考古学の知見である。
神功渡海を遅くすると、舶載鏡の説明が出来ない。
875日本@名無史さん:2011/05/22(日) 19:54:16.39
記紀の年代を恣意的にいじくって悦に入ってる狂信者の数字遊びは今日も続くのであった。
876日本@名無史さん:2011/05/22(日) 20:21:45.56
よって、どこまでもどこまでもどこまでも「太松論争」は続くのであった。
終わりはない。
日本の夜明けはいつなのか?

877日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:26:00.39
>>875
ま、純粋に書紀を信じれば、神武天皇即位は紀元前660年だしね。
勿論、俺は歴史事実を語ってるわけではないよ。
史料事実をそのまま語ってるだけだよ。
妄想を排除した「記録だけ」を語ってるだけ。
878日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:33:51.26
それはそうとして、
太国の倍暦論は本にしてみても良いんじゃないか?
そういう論もある、という事で。
言語をいじくっているさっぱり意味のわからん奴らよりは文化的だろう。
879日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:42:00.31
>>878
出すとしたら(「ムー」を出版している)学研かな?w

880日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:47:55.86
たま出版
881日本@名無史さん:2011/05/22(日) 23:05:02.82
>>871
もう4年も続けてるんだぜ

882日本@名無史さん:2011/05/23(月) 00:08:20.12
孝元天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87
大彦命(おほひこ=大毘古命)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-2.htm
倭の女王卑弥呼
http://nanamihantaro.rakurakuhp.net/i_637487.htm
魏志倭人伝、卑弥呼の本名:少名日子建猪心命 - なぜ、邪馬台國なのか、間違いではないか。七海は、魏志の邪馬壹國、即ち倭女王卑弥呼について書きます。 - Yahoo!ジオシティーズ
http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/nanamihantaro/view/20090907/1252267398
883日本@名無史さん:2011/05/23(月) 08:26:06.37
おぉ、太松論争か、迫力があるなぁ、
太国が本を出すって、いつなんだ? 教えてくれ。
俺は勿論買うよ。
884日本@名無史さん:2011/05/23(月) 08:44:42.40
>>845
アンカーしてくれないと分からんバイ
885日本@名無史さん:2011/05/23(月) 08:57:41.61
唐松山             太国
  得意技/七支刀=369年  得意技/天津金木 4πr**3/3

なかなかの論客と見ました。
他スレから来たのだけど、古代史関連にはユニークな方が居られます。
まだ、他に個性的な方が居られるんですかね・・・


886日本@名無史さん:2011/05/23(月) 13:42:35.35
古事記に出てくる天照大御神が卑弥呼でしょ。
卑弥呼の死後、3〜4世紀に東征があって、近畿に大和朝廷ができた
と考えるのが自然だ。

ただ、天皇家とは別に血も家系も繋がって無いと思うね。
ま、繋がってるかもしれんけど。
どっちか分からんけど。

887日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:07:45.72
天照大御神は男神なので、それはないですね。
888日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:11:22.75
>古事記に出てくる天照大御神が卑弥呼でしょ。
卑弥呼の死後、3〜4世紀に東征があって、近畿に大和朝廷ができた
と考えるのが自然だ。

考える、だけでは実証にならない。
記録の数字を計算してみるなりしなければね。
仮説→実証ではなくて、
実証→本説とならなければ誰にも認められない。

個人的な妄想を聞いてもしょうがない。
889日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:15:15.26
なんで、高天原の神様が人間になるんだ?

天照大御神は高天原の神様
卑弥呼は地上界の人間

素直に文献を読もう
890日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:22:52.22
「文献は嘘を書いている」という考え方は、
「国は嘘をついている」という戦後左翼の考え方を文献学に持ち込んだ結果だろうなあ。

権力者は嘘をつく
記紀は権力者がつくった
だから記紀は嘘だ
891日本@名無史さん:2011/05/23(月) 14:36:49.40
於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉

序文に堂々と嘘書くよーって書いてあるようですが
892日本@名無史さん:2011/05/23(月) 15:34:14.89
>>891
「嘘書くよー」なんて一言も書いてない。それを「嘘書くよー」と読んでしまうって、
朝廷が都合のよい偽りの「正実」で事実を塗り替えようとしてるっていう先入観があるせいでしょ。
「権力者は嘘をつく」の典型的なタイプ。
893日本@名無史さん:2011/05/23(月) 15:35:29.83
神話なんてもんは、だいたい何かしらの事件や事実が基になって
その話を神だのと絡めて作り話にした物が多いでしょうねえ。
だから卑弥呼を天照大神として後世に言い伝わった可能性は大いに有る。
共通点も多いしね。
894日本@名無史さん:2011/05/23(月) 15:55:09.20
>>893
天照大神は共立されていない。
スサノオノミコトは「海原をしらせ」と命じられており、
高天原をしらす天照大神の統治を助ける存在じゃない。
むしろ高天原で暴れた。
天照大神と卑弥呼の共通点なんて、他人の空似程度だろう。
895日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:26:31.38
>神話なんてもんは、だいたい何かしらの事件や事実が基になって
その話を神だのと絡めて作り話にした物が多いでしょうねえ。

何いってるんだよ。
神話は本物だ。
日本は神国だ。
左翼は去れ!
896日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:34:37.31
>>895
神だの天だの、そんなもんが現実的に存在するわけないじゃん。
そーゆーオカルトを語るスレじゃ無いでしょ、ここは。
897日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:49:28.07
そう、だから、神話は御伽噺という事で、
御伽噺の天照大御神を歴史上の人物である卑弥呼にするのはやめましょう。
オカルトを語るのはやめましょう!
898:2011/05/23(月) 16:52:55.11
>>885

>>25で登場人物を紹介してるよ

で・・・・神話についての話題が出てるが
古いものは尊いという考えからきてるものだろう。
スサノオの事にしろ、ごく普通の日常生活を反映したもので
カッコよく表現してるだけじゃないだろうか?
899:2011/05/23(月) 17:03:01.18
今年は邪馬台国論争大会〜ないみたいだね。
東日本大地震の影響かな・・・
900日本@名無史さん:2011/05/23(月) 17:12:22.67
どの学者も、しょせんは仮説に過ぎないじゃん。
テメー自身が見てきたわけじゃあるまいし。
証拠が少なすぎて話にならない。
901日本@名無史さん:2011/05/23(月) 17:16:22.63
FBI超能力捜査官 ジョー・マクモニーグルが、卑弥呼の生誕地長門を透視!
卑弥呼の出身部族の拠点と祭祀場を現地調査。出雲には卑弥呼の大伯父がいた。



これはどうよ?w
んなわけ分からねー仮説ばっか言ってる東大教授よりもコッチの方が信じられるな。

902日本@名無史さん:2011/05/23(月) 17:36:15.84
なわけねーだろうよ。
903日本@名無史さん:2011/05/23(月) 17:41:06.31
>どの学者も、しょせんは仮説に過ぎないじゃん。
テメー自身が見てきたわけじゃあるまいし。
証拠が少なすぎて話にならない。

つーか、厳密にテメー自身が見た事だけを語れよ。
史料に書いてある文字。
発掘調査結果。

あまてらす が卑弥呼とかってテメー自身が見てきた事じゃないだろう。
そういうのを妄想と言うのだよ。
904日本@名無史さん:2011/05/23(月) 18:05:20.12
これを観れば一発で
卑弥呼(中国名)=天照大神(日本名)、
邪馬台国→徳島県
がバカでも分かるじゃん。

ttp://www.youtube.com/watch?v=O3fHE7Kn4Qc&feature=related

九州派も近畿派も

「ぐぬううぅぅ・・・口惜しいぃぃー!
俺の信じてた物が・・・研究に捧げた一生が・・・学者としての名誉が・・・」

と意地張って見ざる聞かざるしたくなる気持ちも分からなくはありませんがね。
しかし真実は1つだから。
んなもん、間違ってる低脳学者の名誉なんぞ知るかよwゴミに等しいっつーのw
詐欺師みたいなもんだから学会から追放でイイよw
905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/23(月) 19:21:11.65
允恭天皇四年(乙卯四一五)九月己丑《九》◆四年秋九月辛已朔己丑。詔曰。上古之治。
人民得所。姓名勿錯。今朕踐祚於茲四年矣。上下相爭。百姓不安。或誤失己姓。或故認
高氏。其不至於治者。蓋由是也。朕雖不賢。豈非正其錯乎。羣臣議定奏之。群臣皆言。
陛下擧失正枉而定氏姓者。臣等冒死。奏可。
允恭天皇四年(乙卯四一五)九月戊申《廿八》◆戊申。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。
或帝皇之裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其
實。故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。

書紀に書かれた世継ぎは、盟神探湯の結果である。
特に異常なのは、渡海後の内戦の結果であり、允恭自身も24年の内乱から記事が無い。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)435年は、5王のつなぎ目でもある。
906日本@名無史さん:2011/05/23(月) 21:02:49.57
邪馬台国が四国で、何の問題もないない。

モモソヒメ=卑弥呼は四国にいたことがわかってるし。
907日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:05:31.70
邪馬台国は四国だ。
四国に比べたら、近畿、九州は可能性が低すぎる。証拠も小さすぎる。

近畿説も九州説も、その学者のくだらない、安いプライド・意地で
日本の国家的な歴史の研究を邪魔するのはやめて欲しい。
学者をかたる資格無いよ。
ただ邪魔なだけじゃん。足引っ張ってるだけじゃん。

908日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:06:46.65
うん、俺も邪馬台国は四国だと思ってたよ。
909日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:20:18.52
まあ、畿内説は方角が合わないし、九州説は日数が合わない。
だったら、その中間に位置する四国が名乗りを上げてもいいだろう。
日数は間違っていないとか、方角は間違ってないとか、無理読みされるよりはいいわ。
910日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:34:25.72
じゃ四国って結論でいいね。
解決した。
長きに渡る論争が今を以て解決しました。
皆さん、長らくホントにどうもお疲れ様でした。
911日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:00:02.44
ほんとにみなさん、お疲れ様でした。
四国で決着して本当によかったです。
912日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:07:31.78
**** 以上、すべて私の自演でした ******
913日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:15:11.25
>>910, >>911
わかったからもうおやすみ。明日もちゃんと学校に行くんだよ、ぼうや。
914日本@名無史さん:2011/05/23(月) 23:41:24.81
おじちゃんはどうして無職なの?
915日本@名無史さん:2011/05/24(火) 07:16:36.92
>>786
柳田いわくw
 「 長年、邪馬台国を弥生時代と言ってきた考古学者の大罪 」

柳田は馬鹿です。
馬鹿の言うことを真に受けてはだめです。
916日本@名無史さん:2011/05/24(火) 20:42:04.69
>>915
>柳田は馬鹿です。
>馬鹿の言うことを真に受けてはだめです。

いや、そもそも1世紀の半ばに後期の始まりを見るというのは九州の考古学の伝統?だったわけだがw

どうしてもほざきたいのならそこは
「九州の考古学は馬鹿です」
とでも言っておけゴミクズレベル九州説wwww

今の考古学の年代観を引っ張っているのは他ならぬ九州の考古学だぞw

流石に柳田も名指しはしてなかったと思うがその「大罪を犯した考古学者」と言うのは
ここのゴミクズレベル九州説どもにとって「悪のキナイセツ」のラスボス、京大の某先生達を頂点にした学者達の事だろう多分wwww

結局、邪馬台国ブーム時の多くの九州説と言うのは
自分達の論敵である畿内説の学者が編み出した年代観に乗って
それで畿内説を攻撃するというなんとも今からすれば滑稽な図だったとwwww




917唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/24(火) 21:56:54.54
1世紀の半ばが弥生後期の始まりであり、神武即位と重なる。
卑弥呼は、弥生後期末葉である庄内式と重なる。
庄内式は、崇神、垂仁、景行の纒向3代である。

918太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/24(火) 22:31:41.73
東夷の王の西暦5年の文証で、オマエの論はオシマイだな。ww

字を削ったくらいだから、相当ショックだったわけだ。だからあの時
コチラにくやしいかの連発をしたのも、オマエのギリギリしてた精神状態
が発露されたということだな。ww
919唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/24(火) 22:59:14.40
>東夷の王の西暦5年の文証で

西暦5年当時の畿内は、弥生中期の中の1年であり
神武東征の足跡が無い。
その足跡も残せない王が、東夷の王なのか?
たぶん百余国の1国であろうが、それが神武であるという文証を出したらどうだ。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/24(火) 23:15:50.39
宿主
考古は津波の如く説が転倒する。参考にするのは結構だが、それ決まり
には必ずしもならな〜い。
オマエは、古代史での藤村某を想起するような文の字を削る〜論説での
悪事をしたのだよ。><

消えろ!!
921日本@名無史さん:2011/05/24(火) 23:33:45.25
>>916
ゴミクズレベル九州説ども

古代史を捏造する機内説学者やお前は
古代史のガンだ。
うせろ。
922太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/24(火) 23:38:21.20
>>919
オマエの解釈では畿内だったわけで、都合が悪くなると九州に鞍替え
するいい加減のデタラメなやり口を平気でやるわけだ。ww

オマエのその変更解釈では、九州だというなら 「西夷の王」 で
なければおかしいではないかねぇ?ppp

漢書王莽伝の西暦5年のは当然41年より古いわけで、これには
「東夷の王」となってるんだよ。オマエ、オマエの説がおかしいとは
想わんのかね?
923日本@名無史さん:2011/05/25(水) 00:20:25.67
>>909
>九州説は日数が合わない。
九州説の連中がいう放射説だと日数は合ってるそうだよ。
924日本@名無史さん:2011/05/25(水) 00:53:44.10
卑弥呼と神功皇后って存在した時期が丸々かぶってるじゃん。
どっちが正しい歴史なんだ?
925神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/25(水) 01:17:24.39
邪馬台国九州説の人の主張で行程日数を検証すると人間の歩くスピードはダンゴムシより遅いことになります。
926日本@名無史さん:2011/05/25(水) 01:29:12.72
>>924
神功皇后は、日本書紀では西暦201年〜269年だったかな。これは古すぎる。
神功皇后の三韓征伐と好太王の碑文の記述を同じものと見て、神功皇后の時代は4世紀終わり頃と考えるのが普通。
次の応神天皇や仁徳天皇を倭の五王の最初の倭王とみなしても、これで神功皇后と年代的に繋がる。
927日本@名無史さん:2011/05/25(水) 01:40:32.70
>>925
具体的には?
928神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/25(水) 01:46:18.72
>>927
あなたは庭に出てダンゴムシを捕まえてスピードを計測して見てください。
九州説の主張する人間の歩くスピードよりダンゴムシのほうが速いですよ。
929日本@名無史さん:2011/05/25(水) 02:24:00.47
卑弥呼を口伝えに後世に語り継がれていくうちに
天照大神として神話化した可能性は?

卑弥呼には天照大神同様、弟もいたし、生涯宿敵である狗奴国の卑弥弓呼もいたし。
930日本@名無史さん:2011/05/25(水) 02:25:55.62
福島市と郡山市とその周辺地域の妊婦、乳児、できれば15歳までの子供を避難させろ
政府は避難指示しろ、つーか市長がしろ
子供を殺す気か!!!!
931日本@名無史さん:2011/05/25(水) 02:44:13.28
卑弥呼が伝説として残っているとしたら誰になるかを考えれば天照大神だろうな。
逆に、天照大神が実在の人物の反映としたら誰かということになればやはり卑弥呼しかいない。
でも、これは邪馬台国東遷説そのものなので、東遷説を認めない人はこれも認めない。
932日本@名無史さん:2011/05/25(水) 02:51:01.40
>>929

>>894に書いたように、卑弥呼の男弟とスサノオノミコトでは、存在の性格が違いすぎる。

天照大神を祭っていた巫女が死んで、その墓所が天照大神の祭祀場になるということはありうる。
その場合、あたかも巫女が天照大神として祭られているようではあるが、両者は別存在。
933日本@名無史さん:2011/05/25(水) 04:49:34.26
>>916
柳田って、九州の考古学者で邪馬台国九州説を唱える人は一人もいない、と言ったんだっけか。
考古学的に邪馬台国は存在しないというのがまともな考古学者の立場で、その意味じゃあ、
柳田の方が異端だし、そういう言い方をするのがおかしい。
934日本@名無史さん:2011/05/25(水) 08:23:40.24
>>930確かに福島氏とその周辺の市町村は、本来なら避難しなければならないほど汚染されている。
しかし、そうするならいったい何十万人の人が避難することのなるのか?
いったいどこに避難できるのか。不可能な話だ。
935日本@名無史さん:2011/05/25(水) 13:54:57.82
邪馬台国は関東だという思想言論の自由もある。
936レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 15:56:45.31
>>866
>崇神大王の婚姻関係が、どこがどう、出雲ぽいのか?

古事記によると、崇神大王の皇后(大后・側室の、所謂妻の序列はここでは
不問)が、次の三人。(古事記記載順)
@遠津年魚目目微比売(トホツアユメマクハシヒメ)
A意富阿麻比売(オオアマヒメ)
B御真津比売(ミマツヒメ)
で、これらの縁戚関係は以下の通り。
@’木国造荒河トベの娘(遠津氏は、出雲の末裔の一人に遠津山岬帯神が崇神
世代の近隣世代にいらっしゃいます:古事記の出雲大国主の末裔家系中に在)
A’古事記には、この意富阿麻比売本人を「尾張連の祖」としているが、その
少し前にも「尾張連の祖」と称されている方がいる。それは、孝元大王に嫁入
りした葛城の高千那毘売の兄(or姉?)の意富那毘。当方は、この縁戚は
直接的に出雲系と関与するとは考えていないが、「意富氏」を架空している
上で、この意富那毘と、その前世代の意富ヤマトクニアレ比売との、記載され
ていない関係性を重視する。
B’この御真津比売は、先述したとおり、その直前記載において、同名異人か
あるいは、記載の矛盾の発生かの、どちらかの可能性しかない人がこの人に
あたる。これらはその親(もしくは祖父)は、どちらも「色許(シコ)」の名
を持つ。(伊迦賀色許売命や、内色許男命)そして、これらの縁戚は、穂積臣
の祖となっており、この穂積臣の祖は、古事記上は以前にも登場している。
古事記ではニギハヤヒの息子のウマシマヂの命が「物部連&穂積臣の祖」と
なっている。ニギハヤヒは出雲系(スサノウ〜大国主系)の神様でもある
可能性を指摘する人も多い。また、Bはその子が次の大王垂仁を産んでいる。

つまり三人妻のうち、当時世代「木の国」が出雲神話にも登場する重要な土地
柄と言う点も考えれば、@は古事記上は出雲末裔と関係が有る可能性が有り、
Bはウマシマジ→ニギハヤヒを、もし大国主系列の子孫体系の中に存すると
仮定した場合、これら@とBの人物は出雲っぽいと考えるには値すると思う。
937日本@名無史さん:2011/05/25(水) 16:05:34.12
証拠を出せや!証拠を!
938レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 16:08:28.15
追記するならば、このAの意富氏の名前を持つ方も、崇神大王王権が近畿での
権力を確固たるものにしようとするならば、当然「意富氏」のネームブランド
は大事である。しかし、この意富阿麻比売との間の子は、どちらも「日売」
「日子」を付されているが、どちらも「大王」は継いでいない。(大王を継い
だのは先述通り、ミマツ比売との間の子である)

この三人の妻から考え、当時が通い婚で有った事も併せ考えると、崇神大王
は、出雲系のバックグラウンドの上に近畿に王権を構え、その近畿での王権を
固める為に、意富氏(淡路〜瀬戸内海)の亜種とも婚姻した。と想定すると
崇神政権がある程度その後に安定期を築いた事も自然になってくる。
(亜種と仮定仮設したのは、あくまでも当時は意富氏は意富ヤマトクニアレ
比売〜ヤマトトモモソ毘売の血脈の方を本家としていたと言う想定による)
939レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 16:17:14.92
>邪馬台国は四国

この論議もいくつかあったようですのであくまでも私見感想を。古事記の拡大
解釈ベースの小生としては、邪馬台国の立地可能性を現状では九州東北部〜
瀬戸内海と、(申し訳無いが)広く想定しているので、その範囲の「西岸」
として、淡路〜四国北側〜(播磨)〜摂津河内等も、想定内です現状。
940日本@名無史さん:2011/05/25(水) 16:37:49.18
千葉県北西部の我孫子市で見つかった
日本最古級の古墳はどうよ?

俺も千葉県北西部のその辺りに住んでるんだけど
どーりで昔からオカシイと思ってたんだよ。
子供の時から友達なんかと実家の畑とかを掘り返すと
土器や貝塚がワサワサ出てきたりしてさ。
あれ歴史的価値あったよ絶対!
941やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 16:40:43.04
>>932
天照大神には二人の弟がいた。
荒ぶるスサノオと目立たないツキヨミ。

卑弥呼にも二人の弟がいた。
荒ぶる卑弥弓呼と卑弥呼の政治を手伝っていたという名もない弟。

こんなんで・どや。歴史話が大きく転換することになるぞ。わらわら
942レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 16:40:43.70
ちなむに、崇神大王と上記B御真津比売との間の子(全部で12人だそうです)
のうち、古事記に名称記載がある方が6名。そのうち一人が垂仁大王(先述)で
すが、他のうちの一人に千千都久和比売(チチツクワヒメ)と言う方がいらっ
しゃいます。この「千千」と言うお名前ですが、近隣先代において孝霊大王の
后の一人に春日千千速真若比売がいて、その間の子が千千速比売だそうです。
「千千」の名前は、これらの世代中には、古事記ではここしか出てきません
が、千千速比売の縁戚関係の記載は一切ありませんので、果たして「何故
御真津比売と崇神大王の子の一人」が「千千」を「名乗れるのか?」が、残念
ながら古事記からはその理由が拾えません。
御真津比売の子が「千千を名乗る」ためには、千千速比売と、その近隣世代の
内色許男命が結婚でもしていない限り(つまり伊迦賀色許売命の母が千千速
比売、もしくはその他の「千千」を名乗れる女性の可能性)御真津比売と崇神
大王との間の子に「千千都久和比売がいる事」の説明がつきにくくなります。
この「春日の千千ブランド」も、孝霊大王との縁類関係から考える限り、
「淡路(or近江)の意富ブランド」とかなり同じくらい高いブランドである
可能性も高い。(あ、これはここでは少し余談だったかな?)
943日本@名無史さん:2011/05/25(水) 16:47:22.69
うん、
スサノオが卑弥弓呼、
ツクヨミが卑弥呼の世話係してた弟、
そーゆー見方もあるな。
944レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 16:52:57.61
あ、>>936の補足
>B’(御真津比売(ミマツヒメ) 縁類関係)これらはその親(もしくは
祖父)は、どちらも「色許(シコ)」の名を持つ。(伊迦賀色許売命や、
内色許男命)

古事記によると、大国主の数ある「別名」のうちの一つに「葦原色許男神」と
言う別称がありまして、また、別に「宇都志国玉神」と言う名前もあります。

前者は「色許」と言う名称が入っていますし、後者は音だけで考えますと、
「ウツシク・ニタマの神」となります。内色許男命は「ウツシコオのミコト」
同人とまでは言う気はありませんが、「何カシラを継いでいる」ので「名前
(の一部)を継いでいる」と邪推する余地がここに生じるのです。
945レス長たらし毘古:2011/05/25(水) 17:03:38.52
先述したとおり、当方の想定としては「出雲読みと大和読み(と九州読み)」
の最終的な融合は古事記以降日本書紀前後と想定していますので、この
音だけは「ウツシク、ウツシコ」と言う名前を継ぐ者が、初代は大国主(別名
:宇都志国玉神・葦原色許男神)で、その子孫の一人が内色許男命、と想定
することが可能と考えるのも、強ち邪推だけとも考えにくい。
従って、当方は、崇神大王の王権が、前出雲王権をそのバックグラウンドと
して成立している可能性余地を想定するのです。
946やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 17:23:25.52
>>943
>スサノオが卑弥弓呼、 ツクヨミが卑弥呼の世話係してた弟、
>そーゆー見方もあるな。

卑弥呼と卑弥弓呼、兄弟のような命名法。そして二人は「素不和」。
どう見たって血縁関係を匂わせる描き方だ。

ただし、これは昔からアンタッチャブル。
誰もが気づくことなのだが、誰もが触れたがらなかったことだ。
かの「安い本」じゃなかった安本氏もノータッチでやり過ごしてるだろ。

これに踏み込むと、筑肥山地を超えて、九州中部の熊本に踏み込まなくちゃならんしなー。
九州北部に卑弥呼を押し込めたい向きにとっては、非常なまずいことになるしな。
わらわら
947日本@名無史さん:2011/05/25(水) 17:42:46.65
ツクヨミってのは、オオゲツヒメのことで、
四国の神様ですね。

やっぱり四国説は強いなあ。

948日本@名無史さん:2011/05/25(水) 17:53:29.22
>卑弥呼と卑弥弓呼、兄弟のような命名法。そして二人は「素不和」。
>どう見たって血縁関係を匂わせる描き方だ。

チミの学識の程が窺い知れて、興味深いですなァ
949やはり天才の伊作:2011/05/25(水) 18:08:55.04
>>948

『倭人伝』は、体形化された辞書もなかったろう1800年も昔に、
文字の読み書きという作業のできる超能力者が、
豊富な知識と卓越した史観と考証眼でふるいにかけて編んだ、
文学性とドキュメント性を併せ持つ書き物だぜ。
読者対象はお前らのような日本語もろくに書けないぼんくらじゃなく、
簡潔に省略された文字間・行間を知識で埋めながら読むことのできる中国人だ。

なめた書き込みをするんじゃないぜ。
950日本@名無史さん
アマテラスは男神だから、卑弓弥呼がアマテラスだよ。
でもって、卑弥呼がスサノオ。

スサノオは、実は女だったんだよ。