名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm ■ 嵯峨源氏の起り
桓武天皇の次の嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
これが嵯峨源氏の始まりであるが、ではどうして源という名字を与えたか?
それは中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子「賀」を西平侯に任じた時に、「卿(あなた)と朕(わたし)とは家系の源が同じである。
そこで今より源を氏とせよ」と言って源姓を与えたのに倣った。
佐賀源氏を遠祖する名字: 渡辺(摂津国西成郡渡辺村)・松浦(九州肥前)・宇久・五島(長崎五島列島福江島)
831 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 02:07:10.90
>>826 >明治天皇の生母。
>中山慶子(旧姓:松浦愛子)中山慶子
大嘘つき!
中山慶子には「旧姓」などなく、生まれた時から中山慶子
832 :
831:2011/12/21(水) 02:08:23.18
あ、訂正はいってたのね
ごめんなさい
>>832 いえいえ
ぺディアには、系図が無かったので、何度か読み解かないと語弊し易いから、ついやっちゃってて・・
因みに、家は、松浦出身の島谷氏のようです。
ついでに言うと、母は、旧姓:大西で
名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm ■ 甲斐源氏の武田氏
源義光は常陸介の後に甲斐守に昇進し、甲斐の国に赴任した。
義光の次男義清は常陸国那珂郡武田(茨城県勝田市)に住み武田冠者と呼ばれたが、甲斐国に配流され、その子の清光が辺見庄(北巨摩郡)に住んで辺見氏を名乗った。
清光の次男信義が武河庄武田(韮崎市)に住んで甲斐の武田氏の始祖となった。
信義の甥の長清が中巨摩郡小笠原に住んで小笠原氏を称し、長清の弟の光行は中巨摩郡南部に住んで南部氏を名乗った。
小笠原氏は後に信濃国深志(長野県松本市)を本拠とし、その後明石から小倉に移封され幕末を迎える。
南部氏は光行が頼朝の奥州ぜめの勲功で陸奥国北部を与えられ、後に盛岡を本拠地とした。
※ 小笠原氏は後に小笠原諸島を発見し、小笠原諸島の語源とされる。
香川県 大西 田中 高橋 山下 山本 大西は小笠原一族の大西家に由来する。
の大西のようですので、小笠原諸島を発見者小笠原氏と小笠原諸島を探検した島谷の間の子が私のようです。W
案外、私にネットストーキング行為してるのは、この、小笠原氏の人間・・家の母方臭いですW
東宝の代表取締役社長。
14代目:2011年 島谷能成氏
阪急阪神東宝グループとは・・
第二次世界大戦がはじまると、戦時統制の一環として小規模企業を整理・統合する戦時企業統合が始まり
内閣情報局の指示によってこれがさまざまな分野で進められていった。
映画業界でも1942年、新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした合併が行われ
1942年、新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした合併が行われ
「大日本映画製作株式会社」(大映)が誕生。
東宝、松竹、大映3社体制が成立した。
文化放送、ニッポン放送と共にフジテレビジョンを開局。
840 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 03:23:37.52
エイベックスグループ社長
松浦勝人
エイベックス所属
松浦亜弥
島谷ひとみ
841 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 08:29:50.78
ZARDの坂井泉水=蒲池幸子
松田聖子=蒲池法子
842 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 12:40:51.39
安倍晋三
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#797
なな 2000/04/28 22:20
嶋谷市左衛門について調べました!
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/bbs/kakolog/log8.html 私は江戸時代後期のことなら少しは分かるので。
幕命で探検などした人は、よく帰還後に幕臣に取り立てられたりするでしょう?
よって「寛政重修諸家譜」なら手がかりがあるかと思ったの。ところがどっこい、無かった。
で、このままでは図書館に来た意味がなぁ〜い!と、棚にあった資料に当たってみたのです。
「長崎県大百科事典」
●島谷市左衛門 しまや いちざえもん ?〜一六九〇(元禄三)
泉州堺の人。江戸時代前期の探検家。オランダ人カスパル・スハルベルヘンによって遠近法
測量術を伝えられた長崎奉行所与力・樋口清右衛門から「規矩元法」の伝授を受け、島谷流
航海術に優れる。一六六九年(寛文九)末次平蔵の命で唐船を模した船を造り江戸に回航した。
一六七五年(延宝三)幕命を受けて代官・伊奈忠易らを乗せて伊豆下田を出港し、小笠原諸島
を調査・探検し珍獣、奇木を持ち帰り将軍に献上した。
●末次平蔵政直 すえつぐへいぞうまさなお 長崎代官を務めた朱印船貿易家。
●末次船絵馬 現在は長崎市歴史民族資料館に寄託。
●スハンベルヘン 出島商館外科医。
●航海術
・・・また島谷市左衛門定重は一六七〇年(寛文十)『オランダ系航海術』を著した。
その子孫の島谷市左衛門尉父子は一六七五(延宝三)小笠原諸島探検を行った。彼らが長崎と
かかわりがあったと考えられるのは、一六八八年(元禄元)徳川光圀が蝦夷探検を試みた際、
長崎からアストロラーベ(天文観測儀)をはじめとする天測具や磁石、海図の類を取り寄せ、
航海家・崎山市内を船頭にしていることから判断でき、当時わが国でも西洋式航海術が細々
ながら存続していたことが知られる。
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……以上から判るのは、まず長崎の人ではないということ。一介の漁師でもない。
島谷という名字を持ち、いみなを持つ、それなりの家柄。そして興味深いのは親子代々
通称を市左衛門と名乗ってきたらしいこと。「島谷市左衛門」は一人ではなかった!(笑)
江戸時代以降の島谷家については、崎山市内〜徳川光圀〜水戸藩のラインで調べられそうです。
ただ一人、幕臣・伊奈忠易は「寛政諸家譜」にありまして、これも縁というものでしょうが、
この人の後妻が水戸家臣の娘だったりするのです。あとは「島谷流航海術」について洗うこと
ですね。倭寇とのつながりなら、なにか思いがけないこぼれ話にぶるかるかもしれませんよ。
で、「泉州」と出たところでちょっとゾッとする偶然を……。
「姓氏家系大辞典 第二巻」
●島谷 シマヤ シマタニ
泉州の名族にこの氏あり。河盛仁平の女婿を島谷安三郎という。
また銀座由緒書に「平銀見役、島谷八之助、島谷八次郎」等見え、また伊勢、志摩にも存す。
……この島谷氏について調べられれば、時代的に松浦党との接点も見つかるかもしれませんね。
今回はこれ以上調べていませんが、上記の島谷姓三人の素性も手がかりになるかもしれません。
なんだかだいっても江戸時代の史料じゃないのよね。現代の、よくある一般的な本じゃぁ〜ん!
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