【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その14
1 :
日本@名無史さん:
前スレ
その13
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1288364315/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
2 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:02:24.56
3 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 04:43:32.27
■“非大和説”関川氏が持論 橿考研で邪馬台国論争 奈良
産経新聞 2011.2.20
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110220/nar11022002350004-n1.htm 県立橿原考古学研究所(橿原市)の研究員が邪馬台国“非大和説”の立場で講演し、菅谷文則・橿考研所長と論戦する「菅谷所長と語る!邪馬台国」が19日、橿考研講堂で行われた。
会場には定員を大幅に超える約550人の考古学ファンが詰めかけた。
講演したのは、邪馬台国大和説の根拠でもある現行の土器年代論に疑問を持つという関川尚功(ひさよし)・橿考研主幹。
関川主幹は3世紀中ごろに死亡した卑弥呼の墓とする説が強い桜井市の箸墓(はしはか)古墳について「4世紀代の古墳だ」と持論を展開した。
同市の纒向(まきむく)遺跡で昨年見つかり「卑弥呼の宮殿」とも指摘された大型建物群についても
「当時は川と川に挟まれた非常に狭いところで王宮にふさわしくない」
として、
「貨泉(かせん)(中国の貨幣)など大陸系の遺物が生駒山を越えるとぴたりとなくなる。はっきりは申しませんが、(大和説は)なかなか難しい」
と語った。
その後の対談で菅谷所長は、飛鳥の宮殿と比較して纒向遺跡の中枢部は狭くないことや、貨泉と邪馬台国の年代が違うことを挙げて反論。
ただ、土器の編年については「主張がぶれないでこられた」と関川主幹の研究を持ち上げ、「決着」はつかなかった。
4 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 05:20:50.64
5 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 05:37:12.84
6 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 10:22:28.35
7 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 11:18:37.33
広形銅矛の威信財体系は認めておきながら、見る銅鐸は違うとか論理が破綻している
8 :
人豚:2011/02/20(日) 17:00:06.46
>>7
銅鐸は副葬されないからじゃないですか?
>>8 ヨコから
> 銅鐸は副葬されないから
広形銅矛も(墓に)副葬されていたってのは聞かないなあ。
「広形銅矛の威信財体系は認めておきながら」
ってのがそもそもよくわからん。
10 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 19:11:54.97
>>9 ていうか、北部九州の広形銅矛が威信財、てのは?
11 :
人豚:2011/02/20(日) 19:44:34.02
>>9-10 三雲南小路の甕棺とか、宇木汲田、対馬の塔の首遺跡等からは副葬品として銅鉾が出ていると何かで見ましたが、
これらのものは「広型」では無く、祭器と言うより純粋に威信財として所有された舶載品と言うことなのでしょうか?
12 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:02:17.70
見る銅鐸にしろ広形銅矛にしろ、センターで一括生産され、周囲に配布された、
というのが威信財体系として機能していたのでは?
という仮説であって。
畿内にしろ東海にしろ、弥生後期を通じて特定首長墓の発展が見られず、階級社会が進展していなかった、とされている。
その畿内と東海で、弥生終末期に突然王権が誕生するのは不思議、とされていた。
そうじゃなくて、その前段階に、何らかの政治的なまとまりが弥生後期を通じて形成されていたのでは?
てのが見る銅鐸を共通の祭器とした都市国家交易連合。
前スレから威信財のお話が続いているが纏向遺跡で言うとその代表は「画文帯神獣鏡」って事なのかな?
無論それが威信財であることには間違いないんだろうが、個人的にはそう言った
「一度埋めてしまえば外からは見えないw」モノより
見た者を圧倒する墳墓自体の巨大さがその威信を他者に見せ付ける役目を負う
…と言う方向にシフトしているような気がする。
北部九州の王墓からザクザクでてくる鏡と古墳の副葬品の鏡
同じ副葬品で括る前に少し考えても良いのではないかと
…って、まあこんな話はタイムとラベルでもして古代人にアンケートでもとらなきゃ分かる話ではないのだろうがwww
威信財と言わなければいいのに…w
単に、「同じ意匠を共有する集落の連合体」でいい。
そこに、権力の集中やら求心性やらを、なんとかして説明しようとして無理に持ち込むから、
威信財だの挙句の果てにはレガリアだの、無理筋の読み込みが過ぎて話が脱線する。
「数百km圏の全村に配布された、酋長のレガリア」なんて一体何だよ?
今、銅鐸のお話が出てるんでドサマギに聞くがw
以前何処かで河内(湖)周辺で銅鐸の製作にあたり集落間の分業が見られる云々
…なんてお話を見た記憶があるんだが書籍で見たのかネットで見たのかさえ覚えていない。
誰かもし知っている人がいたらそれに関し著述している書籍名やサイト名を教えていただけないだろうか?
「そもそも、そんな話聞いたこともねえよ!」と言う人は何処ぞの馬鹿の勘違いとスルーヨロw
16 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:23:49.48
威信財かどうかは仮説だから。まあ三角縁みたいなもので威信財かどうかは微妙だが、十分その可能性はあるだろう。
後期の青銅祭器が共同体の祭りの祭器から脱却して、政治性の強いものになったということ。
まあ、実際のところ、見る銅鐸くらいしか、政治的まとまりを伺える物証がないのも事実w
17 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:31:31.03
さらにいえば、後期銅鐸を配布していたそれまでの政権が、
弥生終末期に銅鐸をやめ、破壊して再利用、画文帯や三角縁神獣鏡に変えた。
おそらくは公孫氏の影響。
18 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:38:03.90
>>14 なんか、威信財、レガリアはこうあるべき、て思い込み強過ぎじゃない?
全村とか、そんな極端なこと誰も言ってないし。
誰と議論してるのやらw
19 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:49:32.45
■応神天皇陵、前方部に方形土壇 血縁者ら重要人物を埋葬か
日本経済新聞 2011/2/19
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3EBE2E39E8DE3EBE2E0E0E2E3E39180EAE2E2E2;at=ALL 日本で2番目に大きく、宮内庁が応神天皇陵に指定している前方後円墳、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、5世紀前半)の前方部頂上に巨大な方形の土壇があることが19日、2008年に墳丘を立ち入り調査した研究者らの証言で分かった。
通常は古墳の主を葬る後円部上にあり、聖域を示す結界や祭壇との説が有力。“埋葬施設の目印”ともいわれ、同古墳では後円部の天皇だけでなく、前方部にも血縁者ら重要人物を埋葬した可能性が高いとみられる。
日本考古学協会などは24日、同庁の許可を得て内壕(ごう)の土手を調査するが、墳丘本体への立ち入りは認められていない。
関係者によると、宮内庁陵墓管理委員会(考古学者ら8人)が08年秋、整備計画検討のため専門家として初めて墳丘内を立ち入り調査。
内容は非公表だが、委員の河上邦彦神戸山手大教授(考古学)によると、前方部の先端寄りに土を盛って築いた壇があった。保存状態は極めて良く、未盗掘の可能性もあるという。
後円部には神社の施設が置かれた時期があり、土壇の有無などは確認できなかった。
産業技術総合研究所の寒川旭招聘研究員(地震考古学)が、明治―大正時代に旧宮内省が作成した測量図を解析。底面の一辺約40メートル、上面の一辺20メートル以上、高さ約8メートルと推算した。
同様の方形壇は邪馬台国の卑弥呼の後継者・壱与=台与とも=の墓説もある西殿塚古墳(奈良県)や、銅鏡81枚が出土した桜井茶臼山古墳(同県)などにあるが、今回が最大。
最新の研究では、当時の古墳に複数の人を埋葬した場合、大半がきょうだいと判明している。
宮内庁は大型前方後円墳の大半を陵墓などに指定して調査を制限しており、土壇の存在は墳丘の内部を考える重要な手掛かりとなる。〔共同〕
20 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 22:32:06.57
■応神陵古墳への立ち入り調査許可 古代天皇陵で初
朝日新聞 2011年2月18日
http://www.asahi.com/culture/update/0217/OSK201102170090.html 宮内庁は17日、第15代応神天皇の陵墓に指定している応神陵(誉田御廟山〈こんだごびょうやま〉)古墳(大阪府羽曳野市)への立ち入り調査を、日本考古学協会など考古・歴史16学会に許可すると発表した。
24日に実施される。学術調査の要望に応え、宮内庁では2008年の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)から年1回の調査を許可してきたが、古代天皇陵への立ち入りを認めたのは初めて。
今回、調査が許可されたのは、墳丘本体を巡る濠(ほり)を取り囲む内堤部分。市教委などの資料によると、墳丘と内堤・外堤は葺(ふ)き石で覆われ、円筒埴輪(はにわ)列が配置されていたらしい。
立ち入り調査で発掘や採集はできないが、推定約2キロの内堤を歩いて一周し、形状などを観察する。墳丘本体の立ち入りは「濠を渡るための安全性が確保できていない」として認められなかった。
応神陵古墳の推定築造は5世紀前半。墳丘部は全長425メートル、高さ36メートルの国内第2位の前方後円墳。
墳丘の土の総量はダンプカー17万台分。表面積や体積では、世界最大級の墳墓とされる大山(仁徳陵)古墳(堺市、墳丘長486メートル)を抜き、国内最大になる。
世界遺産暫定リスト入りした「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の一つ。被葬者とされる応神天皇は実在が濃厚な大王とされる。いわゆる河内王朝の始祖とみる説もある。
宮内庁は陵墓指定された古墳について「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」として一般の立ち入りを禁止しており、学会側は05年に学術的に重要な陵墓11基を指定して要望。
宮内庁は08年から許可を出し、これまで3回、計4基の陵墓・陵墓参考地への立ち入りが実施された。
(つづく)
21 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 22:56:57.80
>>9 > 広形銅矛も(墓に)副葬されていたってのは聞かないなあ。
島原市で出てます。甕棺横から出土。
矛、剣、戈を威信財を想定する場合の根拠の一つ。
銅鐸が一貫して祭具と見做されているのは、副葬例がないため。
銅鏡の方は、北九州の古墳からの豊富な出土例から、
威信財であることがほぼ確定しているが、
銅鐸のように粉砕されている例があるのは面白い。
>>22 > 島原市で出てます。甕棺横から出土。
サンクス。「広形銅矛」「島原市」でググっても(島原のは)出てこなかったが、
代わりに対馬の塔ノ首遺跡で石棺内から広形銅矛が見つかっているというのがあった。
細型、中細型の時代には副葬されていたのだから、銅鐸とはまたちょっと違うということですかね。
24 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 02:26:26.77
広形銅矛の副葬は、確かその一例だけだったんじゃない?
かなり例外だと思う。
25 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:29:49.94
>>12 > 一括生産され、周囲に配布された
それって福永? と前にも聞いたけどどうなの?
私的には魅力的な論だと思っているが、いかんせんそれ以上に展開させるための裏づけに乏しく、
福永自身も唐子・鍵にセンターの可能性を求め、将来的な発見に期待して早10年になるんじゃないかな。
それともその後進展があったのなら教えてほしい。
ちなみに以前取り上げたときに受けた指摘を挙げておく。
「994 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:24:17
福永氏の銅鐸配布説のお話をされている方がいますが、
考古学的事実としてはそもそも唐古・鍵遺跡は、
奈良盆地東南部の中心集落であったかもしれないという程度の遺跡であって、
奈良盆地の中心集落だとか、畿内の中心集落であったということはまったく証明されておらず、
机上の空論だと思います。
また、この時期奈良盆地は、銅鐸の流通の中心でなく、
むしろ近江がその中心ではないかといわれており、2重の意味で考古学的事実に反していますね。」
配布についても、北部九州の銅鏡の例では、
「下向型」ではなく「参向型」が多かったのではないかという分析がある。
>>1の意見は、邪馬台国畿内論の先鋭的な人の意見に比べると、
ずいぶん穏健なものだけど、これでもまだ先鋭的すぎる可能性がある。
もっと共立的な共同体であって、主導した単一のグループはなかった可能性がある。
28 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 22:34:50.78
■邪馬台国の姿浮かぶ - 纒向の発掘解説
奈良新聞 2011年2月21日
http://www.nara-np.co.jp/20110221150416.html 桜井宇陀広域連合(連合長=谷奥昭弘・桜井市長)の第13回歴史文化講演会は20日、桜井市河西の市図書館で、石野博信・香芝市二上山博物館長が「纒向遺跡の考古学―邪馬台国と纒向王宮」と題して講演し、
邪馬台国の実像に迫る発掘の積み重ねを解説した。
石野さんは元県立橿原考古学研究所副所長で、約40年前に纒向遺跡の発掘調査を担当した。
講演では、纒向遺跡の命名から最新の発見までを振り返り、注目すべき発掘成果や周辺の古墳との関わりを説明。約1800年前に国内最大の都市だった纒向の暮らしや祭りを語っ…
記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】
29 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 22:48:38.81
>>6 しかし「いの・バーガ森北斜面遺跡」ってネーミングもどうなのよ?とwwww
(まあ「〜ニュータウン」とかのカタカナが入るってのは他にもあるけど
最初見たとき”猪肉のハンバーガー”を連想したw)
大阪の古曽部・柴谷も環濠を備えていたって話だったと思うが
こういった高地にある集落は流石に河川からの導水も無理だろうし
纏向を水田耕作には向かない傾斜の大きな扇状地だからって
このまま一次産業の痕跡が極めて希薄な祭祀や政治に特化した都市とするのは
やっぱ早計なのかなと…
>>29 > 纏向を水田耕作には向かない傾斜の大きな扇状地だからって
いや、それはない。
31 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 00:06:44.34
吉備や出雲は「墳丘墓を造ることで首長権力を次のオウに移譲させる」といった祭祀(後の前方後円墳に繋がる古墳祭祀)を行っていた。
対して畿内、東海、筑紫らは、青銅器を伝国の宝器として、首長権力の橋渡しをしていた、っていうことじゃないですかね?
筑紫もヒラバルではマウンドの祭祀に近そうだけど。
移譲が確認された例はない。
そもそも移譲がそんなに簡単に行われるなら、
ヤマトの古墳があんなに数が多いわけがない。
33 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 00:34:53.24
>>26 確かに福永の説。
根拠に乏しいが、弥生終末期に突然マキムクに王権が誕生した、みたいな仮説よりマシかな程度。
弥生後期の畿内の政治的空白を説明するのに、見る銅鐸くらいしかない、という事実でもある。
しかしまあ、考古学では、あくまで残った物でしか判断出来ないので、その辺りは斟酌しないと、とは思う。考古学の限界性を示している。
高床式住居は残り難く、たて穴住居は残り易い。
畿内で後期銅鐸が見つからないのは、鋳型が土製だからだし、銅鐸を破壊したから。近江富士の辺りでは、壊さず埋納したため多く見つかる。
近年、銅鐸の破片が多く見つかっているのもその証左。
>>32 それはヤマトだけでなく、どの地域も殆ど同じ状況だったように見える
もし前方後円墳だけでなく前方後方墳も含めてだが、オウの禅譲という組織的体系が出来上がっていたなら
もっと計画的に古墳(墳墓)が築かれていると思うから
実際は古い古墳の一部を切り崩したり上書きしたりなど、祖霊への尊敬を感じにくい
首長霊信仰については、3世紀から4世紀中葉については大方同意なのだが
その後の時代に至ると、他の首長霊の否定という能動的な理由より
「もうどうにでもなーれ^^」みたいないい加減な空気感がある
このあたり後世の感覚とかなり異なるのかもしれない
弥生・古墳時代の先人は、我々が想像するように信心深いイメージとはかなり異なるのかも
>>31 考古学で明らかになっているような「バラマキ状態」では、
青銅器は却って、「伝国の宝器」には成り得ないんじゃないのかねえ。
これだけ沢山出てしまうと、いくらムラの段階とは言え、首長家の権威付けには使えない。
隣のムラでも、その隣りのムラでも、同じものを持っているのだから。
(これを揶揄したのが、先のレス「数百km全村配布」なんだが…)
ただし、「ご神体」扱いならば、十分に可能性はある。どんな祭祀なのかはともかくとして、
「同じ式次第で同じスタイルのムラの祭祀を行うヨコの繋がりとしての地域統合」
を観念するほうが、妥当なんじゃないかと思う。
この点は、威信財やらレガリアやら言う前の旧説のほうが、よほど筋が良いように思える。
むしろ、真正のレガリア(三種の神器)として青銅器を用いる皇室は、実は例外なんじゃないかと思う。
皇室、物部氏などの神話は、後世の何らかの意図によるレガリアの創出だろう。
それに、そもそも剣については、草薙の剣(賢所のもの)自体、壇ノ浦の戦までは実は鉄製だったという説すらある。
青銅器を一般的な威信財扱いするのは、一旦留保すべきだと俺は思う。
結局、古代の信仰形態そのものが明らかになってないんだよな
記紀や三国志に引きずられたイメージばかりが先行して、実像については何一つ分かっていないに等しい
纏向の桃の種にしても、その発見によって初めて食用でない桃を備えて
それを喰わずにそのまま捨てていたという献花みたいな扱いだと推測できるようになったし
まだまだ未知の部分のほうが多いわけで、しかしだからこそ面白い
俺が死ぬまでに解明されないだろうなと・・・しかしだから良いという部分もある
37 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 08:44:09.87
38 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 09:34:52.95
画文帯はいくらか大事にしている形跡があるが、
三角縁は敷物扱いだからなあ。
39 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 10:46:30.38
>>36 >纏向の桃の種にしても、その発見によって初めて食用でない桃を備えて
>それを喰わずにそのまま捨てていたという献花みたいな扱いだと推測できるようになったし
桃の種の出た土抗に繋がる溝は、切り合いの関係からみて、あの宮殿が撤去された後で掘られたというこただったはずだが。
つまり 客観的にみると桃の種と宮殿に関係があるかどうかは不明と云うこと。
>>35 北部九州では、(なにしろあちらでは古墳の発掘にほとんど制限がないので)
サイズによる差別化が行われていることが、かなり明確になってきてますよ。
首長系列によって銅鏡が伝世していることも分かってきています。
そもそも数が多くなければ、広い範囲に影響力を持てないです。
銅鏡の威信財的側面を否定するのはトンデモ説ですよ。
銅鐸に関しては威信財的側面はかなり薄いと思います。
威信財は副葬したくなるものなのに、銅鐸はそうでないので。
>>38 それはヤマトの大型古墳の話でしょ。
配布主体が、地方に配布するようなものを大切にすることはないわな。
それでも象徴的あるいは宗教的なものとして副葬しているけれども。
42 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 13:54:05.73
銅鐸が威信財ではない、との根拠は、結局副葬されていない、に落ち着くんだよな。
しかし威信財=副葬品なわけじゃないし、特に薄葬文化だった畿内で銅鐸が副葬されないのは可能性としてあり得るのではないか。
特に見る銅鐸はデザインが画一的になっていて、一つの工房で集中的に製作された、と考えられている。
ここがポイント。
銅鐸が威信財だ、なんて、阿呆と違うか・・・・・・(絶句)
いったいどんな考古学の勉強をしてきたんだ
44 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 16:54:43.38
いやまあ、素人なもので。
単純にそれまで銅鐸を作って配布してた畿内勢力の中心(唐古鍵?)が、
マキムクに移転し、代わりに画文帯と三角縁を作り配布するようになったのでは?
と考えてるのですが。
>>44 > それまで銅鐸を作って配布してた畿内勢力の中心(唐古鍵?)が、
近畿式はヤマト、河内、摂津が主な生産地ですよ。
銅鐸の時代に「畿内勢力の中心」なんて…馬鹿馬鹿しい。
46 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:08:25.79
>>45 いやもう思い込み強過ぎ。古墳がなけりゃ政治体制がない訳じゃないでしょ。
弥生終末期に突然大溝が掘られ、大和盆地南東部が急に政治的求心力を持った、なんて考える方がおかしい。
考古学だけで歴史を語ろうとするからそんな歪な解釈になる。
>>35 > 青銅器を一般的な威信財扱いするのは、一旦留保すべき
「青銅器」というくくりでひとまとめに扱うのはどうかなと。
北部九州では漢鏡が流入して以降、武器型青銅器は祭祀具になった。
であるから近畿でも銅鐸は祭祀具であり、威信材はまた別のものであった。
とすればスンナリだが、実はヤマトでは首長の権威・権力を示す威信材が見当たらない。
というのが悩ましいところ。
>>33 > 弥生終末期に突然マキムクに王権が誕生した、みたいな仮説よりマシ
いや、マキムクが突然建設されたのは事実。問題なのは、
マキムクに連なる首長権力なり階級性を示す遺物が後期のヤマトに見出されないこと。
近畿地方の地域的なまとまりを示すものとして近畿式銅鐸があるが、
実はこれ、山陰の四隅、吉備の特殊器台・壺と違い、首長権力・階級性と直接結びつかない。
しかし、とりあえずこれしかないから政治性を預託した。というのが福永説だと・・・
自分でも思わぬことを書いているな。
誰か反論してくれ。
>>43 > どんな考古学の勉強を
銅鐸が威信材だという説はある。これも以前カキコしたんだが、
「644 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 22:51:09
以前、福永伸哉氏の銅鐸配布論を挙げたことがある。
で、机上の空論だ、と言われたのだが・・・
「銅鐸は共同体の祭器か」とする論があった。
(桑原久男 銅鐸と武器の祭り「古代史の論点5」)
(略)
まあ、これも机上の論なのかもしれないが、
要するに、見る銅鐸は首長の威信財だった可能性もある、ということ。」
考古学の勉強をしている(はずの)縦目仮面からのレスもあるよ。
「646 :縦目仮面:2010/03/06(土) 23:07:15
>>644 見る銅鐸の大型化は、そういった威信財に変化していった可能性もあると思う。 」
50 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:35:48.63
まあ、邪馬台国が纏向にあったなら、河内・摂津辺りも
その支配下に入っていたんでしょうね。
5世紀の倭の五王時代には河内に本拠地置いてますから。
大和王権の軍事氏族物部氏は河内に本拠地を置いていました。
物部守屋の本邸は今の東大阪市にあり、
四天王寺(大阪市天王寺区)は物部守屋が滅んだ後
厩戸皇子(一般的に聖徳太子)がその土地を奪って
物部の旧領地に建てた寺だそうです。
51 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:45:11.43
まあ「威信財」の定義によりけりなんだろうが…
(無論頂点は当然、大陸の王朝からの下賜品だろうが
じゃあ底辺は何処まで広げるのか?副葬品として出てくる農具とかw)
銅鐸、特に「見る銅鐸」に威信財的性格が付与された事は考えていいと思う。
副葬の事例がなくとも埋納される前それを所有していた人間の威信をage↑ていたのなら
威信財と言えるのではないか?
それにより「見る銅鐸」の大型化も説明しやすいだろう。
(そりゃ大きい方が見る者に与える威圧感も大きいとw)
見る→見せる→見せびらかせる銅鐸と言う事でwww
>>45 > 近畿式はヤマト、河内、摂津が主な生産地ですよ。
>44が言うのは「見る銅鐸」。福永によると突線鈕2式以後をさす。
さらに限定するなら、六区袈裟襷文と呼ばれるデザインのものを生産する
従来の工人とは別の新しい技術をもった工人群が登場した、という解釈によるもの。
それらの生産地が特定できたという話は聞いたことがないが、そうならば教えてほしい。
でも「河内、摂津」で生産された銅鐸とはそれと違うものなんじゃない?
ちなみにそのデザインはどんなの?
>>50 支配下に入っていた、という考え方は捨てるべきだと思う
あらゆる遺物と遺跡が、弥生終末期から古墳中期に到るまでも強大な権力体制の存在を比定している
>>51 見る銅鐸から見せる銅鐸に変化していった可能性については、寺澤も石野も同じことを言ってた記憶がある
ただそれが特定の首長もしくは首長霊のための祭器かどうかが疑問なので
威信財にしても例えば「首長威信財」と「集落威信財」というように分化して考えてもいいと思う
54 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 19:18:06.95
ヨコからですいません。
河内が支配下とまでは言い切れませんが、初期古墳が河内地域で見られない事実は、
河内が大和から何らかの規制を受けていた可能性があると思います。
解釈は様々ですが。
>>54 逆じゃない?
奈良東南部における纏向を含めた開発事業に、河内は多大な影響を及ぼしていると考えられている
むしろ初期前方後円墳が少ないのは、河内に余った土地がなくて造成せねば墳墓予定地に出来なかったせいだろう
現に百舌鳥古墳群の築造などは大和川付け替えとセットで行われているし
だから地盤が弱く、大仙などはなんども崩落しているでしょ
56 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 22:30:04.18
ていうか大和川つけかえって何?
江戸時代?
仁徳紀の堀江開削工事のことじゃない?
58 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 22:58:36.22
ていうかさ、百舌鳥古墳群て石津川流域だし、書いてること滅茶苦茶過ぎないか。
59 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:15:58.21
>>55 じっくりと考古学の勉強をしたか?
してないのなら、このスレには書き込まないこと
考古学どうこうじゃなくって、一般常識の欠如だろ。日本史の常識、日本の地理の常識…
61 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:53:06.73
まあな
ただある意味、非常識こそ2ちゃんのデフォとも言えるしw
いやさ、俺
>>55だけど、安井道頓の江戸期水路改修以前に
古墳期における、河川改修及び石津川と大和川の分化改修を皆知らなかったのか?
というか、百舌鳥古墳群の軟弱土壌ってのは、もうデフォで誰もが知ってると思ってたぞ
ちなみに現在の堺市ってのは、弥生遺構が点在的に出るのは丘陵地である泉北ニュータウンのあたりに限定されており
現市街地の南海堺堺東駅近くの石津遺跡のように、当時多数の河川に囲まれた三角州ぐらいしか
弥生期の中規模集落遺跡はないんだよ
百舌鳥古墳群が河川改修と一対の事業だというのは、それこそ福永どころか
佐原あたりからずっと唱えられていた説だよ
それが正しいかどうかは別にして、古代史知らんのかと言われるとは思わなんだわ
頼むぜおまいら、このスレは他の妄想スレとはひと味違うはずじゃなかったのか
63 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 00:48:12.66
■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/下 知恵絞ったドット・マップ… /奈良
毎日新聞 2011年1月26日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110126ddlk29070633000c.html ◇知恵絞ったドット・マップ「お宝」に
99年から00年へ。ホケノ山古墳(桜井市)の調査に取り組んでいた県立橿原考古学研究所の研究者は、めったにない年越しを経験した。
「大みそか、大神神社が近いので、初詣の人たちが古墳にも来るかもしれないと、遅くまで現場に残りました。
『もう大丈夫』と判断して研究所に戻ったら、周りが橿原神宮への参拝客でいっぱい。『ああ、もう正月なんやな』って」。
中国留学からの帰国直後に、調査に投入された総括研究員の水野敏典さんは振り返る。
現場の中心になったのは、今、付属博物館の総括学芸員を務めている岡林孝作さんだった。
「調査ではいくつか仮説を立て、その中で最も有望な仮説を検証するために掘る。けれど、立てた仮説が誤っていた場合、掘ってしまったところは元に戻らない。
だから、『AかBか』の二者択一になった時は『とりあえず、ここは置いておいて』と後回しにした。ものすごい遠回りな調査になりました」
そんな、できる限りの知恵を絞った調査の象徴が「ドット・マップ」。出土した遺物を埋まっていた深さを含めた3次元でデータに取り、図化した。
「鏡すら破片になって、飛び散ったような状態で出てくる。普通、床面から離れていれば、元の位置にはないと判断する。
けれど、ホケノ山では、何メートルも離れて出てくる小さな破片がくっついたので、それまでの『常識』は忘れようと考えました」
と、水野さんは説明する。
岡林さんや水野さんらのそんな努力が、鏡を砕き、木槨(もっかく)のふたの上に意図的にばらまくという類例のない祭祀(さいし)の解明にもつながった。
「普段よりずっと多く発行したんですが、大げさに言うと、一瞬でなくなりました」。
全長約80メートルで、大古墳とは決して言えないホケノ山。しかし、古墳の発生や初期国家の成立過程を考えるための多大な材料が、08年11月に刊行したこの報告書には盛り込まれている。
A4判、383ページ。大学の図書館や研究室以外では、ほとんど目にできない「お宝」だ。【山成孝治】
65 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:00:13.87
大和川と石津川の分化改修?
聞いたことないが?
どの地点をさすの?
まず地図を見て。大和川も江戸期に付け替えられる前の流れを前提に。
66 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:27:19.81
大和川付け替えも道頓じゃねえし。
何を勘違いして恥の上塗りしてんだ
>>62 安井道頓?
どうして道安井頓の名前を出す?
輪をかけてめちゃくちゃだが、あえて出すなら中甚兵衛だろ
きみは「大和川付け替え」
>>55とレスしているんだぞ
いいからもう日本史板に書き込みなんかやめろよ
2行目
道安井頓× →安井道頓〇
スマソ
69 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:38:33.25
>>62 四ツ池遺跡も知らんのか。殆ど間違い探しだな
>>69 >>62は、もはや間違い探しというより、「正しい記述は、一体何文字あるでしょう?」の世界だろうと思う。
あまりにも意味不明な記述は、逆に不安にさせるものだな。
俺も一瞬、上町台地の段丘面のカウントを1つ間違えたかと思って焦った。
確か中位面(濃尾平野で言う熱田面相当)で、
低位面(同大曽根面相当)ではなかったはずだが…と思って調べ直した。
ネットでも、
>>64程度の基礎的情報はすぐに手に入る。
確認できてよかったけどね。
>>33 > 根拠に乏しいが、弥生終末期に突然マキムクに王権が誕生した、みたいな仮説よりマシかな程度。
巻向には有力豪族がいたためしがないんですが。
>>50 > まあ、邪馬台国が纏向にあったなら、河内・摂津辺りも
> その支配下に入っていたんでしょうね。
びっくり!
73 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 19:59:35.12
>>71 凄いことじゃないか
禁足地かも知れないぜ
最近、徐々に、唐古と巻向も連動しているみたいな
説が出てきたな。
例えば?
76 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:17:53.62
■古墳で発見 最古の人物埴輪か (動画あり)
NHKニュース 2011年2月24日
http://www.nhk.or.jp/news/html/20110224/t10014273071000.html 4世紀末ごろに造られたとみられる奈良県桜井市の古墳から、人の形を表現したものとしては最も古い時期の埴輪が見つかりました。
人が古墳を守るという考え方がこの時期に広がり始めたことを示す貴重な資料として注目されます。
埴輪が見つかったのは奈良県桜井市の「茅原大墓古墳(ちはらおおはか・こふん)」で、出土の状況などから、古墳が造られたのとほぼ同じ4世紀末ごろに制作されたとみられます。
高さ70センチほどで、胴体の上に目や口の部分をくりぬき赤い色を塗った顔が取り付けられ、あごには入れ墨のような線が描かれています。
頭に三角形をしたかぶとのようなものをかぶり、胴体には盾とみられる板が貼り付けられていたことから、桜井市教育委員会は、古墳を守る兵士の役割を与えられたとみています。
埴輪は、筒のような形をしたものが3世紀後半ごろから古墳を取り巻くように立てられ始め、人の形が出現するのは5世紀前半ごろと考えられてきました。
しかし、今回の埴輪は、これまでの例を数十年さかのぼり、人の姿をしたものとしては最も古くなるということです。
埴輪に詳しい花園大学の高橋克壽教授は
「古墳の内部に『あの世』があり、人の形をした埴輪がそれを守るという考え方が、この時期に広がり始めたことを示す最高の資料だ」
と話しています。
※ただいまニュース速報+板で議論中です。 ↓↓↓
【考古学】茅原大墓古墳:国内最古の「盾持ち人埴輪」見つかる
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1298549509/
良いタイミングで前スレの話題が出るもんだなw
79 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 12:16:35.20
纏向から出た桃の種は、纏向は古事記に書かれている「ヨモツヒラサカ」である事を示している。
黄泉の国からイザナミに追われて逃げてくる時に坂の途中に生えていた桃の実を取ってイザナミに投げつけて撃退するのだ。
古代大和人は桃には死者が甦るのを防ぐ効果があると信じて桃を墓に投げ込んだ。
つまり、纏向は黄泉の国であり、そこでは死者を慰霊する祭が行われ、死者が生き返るのを防ごうとしたのだ。だから桃の種が出てきた穴は死体捨て場だった可能性が高い。
前方後円墳の方部が高く積まれるのは当初前方部は低く積まれ、遺体を後円部まで運ぶ為の通路だったと考えられている。そして遺体を後円部に埋葬した後、その通路を塞ぐために前方部は高くされる。
これも古代人は死者が生き返る事をものすごく恐れたからに他ならない。
前方後円墳と纏向の桃の種遺構投げ捨ては同一思想によって行われた。
纏向の桃と道教は関係ない。
古墳から桃の種が出土した訳じゃないけどね。
82 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 13:37:38.86
( ^ ▽ ^ )
/(^o^)\
85 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:11:22.10
今日は早く寝て 明日茅原へ見に行くことにしよう。
.../\
(^▽^)
87 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:56:17.15
おまいら頑張れ、マスゴミが味方www
89 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 00:04:15.80
>>79 そうだそうだ、桃の種一粒だって想像力でカバーだっ
90 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 11:21:27.61
>>74 そもそも直線距離で5キロの近距離で無関係、ていうのが有り得ないと思うのだが。
古墳時代の始めに唐古鍵で環濠再掘削が確認されて、
それで唐古鍵→マキムクは否定されたんだっけ?
マキムクが無人の祭祀特化型宗教都市なら、唐古鍵とかの衛星集落に人が住んでたんだろう。
三世紀末位の鍵唐古で1000〜2000人位の集落。
近くには鏡造りの神社がある。
まぁ皆まで言わずともこの地が巻向とどんな関係で、
どんな人々が住んでたかはわかるだろ。
92 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 18:31:26.48
>>90-91 唐古鍵が銅鏡製作に特化してたとすれば、環濠再掘削もあり得る話。
鏡や製作のノウハウが盗まれたり、
「実は中国皇帝から下賜されたんじゃなくて国内で作ってました」なんてバレたら大変だし。
まあ、濠の解釈の仕方は様々で、これが正しいと強弁する気はないが。
環濠掘ってるからマキムクとは距離取ってた、とか、学者らしい近視眼的考えだよ。
>>91 >まぁ皆まで言わずともこの地が巻向とどんな関係で、
>どんな人々が住んでたかはわかるだろ。
わからんから勿体ぶらず全部言ってくれ
94 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:59:37.36
>>90 唐古鍵の弥生時代晩期 古墳時代初期の変遷が、
巻向の開発とあまり連動してない。
うまい説明はまだ見つかってない。
ただしそれは「=関連が全くない」ということとは違う。
そんな事言っている電波はいないと思われる。
96 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:01:03.16
■笑顔の埴輪(はにわ)現地説明会〜奈良・桜井市 (動画あり)
毎日放送 02/26
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110226112300435589.shtml 日本最古の人型の埴輪(はにわ)が見つかった奈良県桜井市の古墳で現地説明会が開かれました。
今回発見された「盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)」は4世紀末、古墳時代中期に作られたとみられ、人物を模した埴輪としては日本最古のものです。
埴輪が見つかった奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳には朝から大勢の人が訪れ、担当者の説明を聞きながらメモをとったり埴輪の写真を撮ったりしていました。
「かわいかったです。にこっとしてるようなところがかわいかった」(説明会に参加した人)
「表情がおもしろいし、色がついてるし、盾を持っているし、今までに見たことない珍しい埴輪ですな」(説明会に参加した人)
説明会は26日午後3時まで開かれています。
97 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:50:54.96
■「応神陵」前方部に土壇 血縁者埋葬か、異例の構造
東京新聞 2011年2月20日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011022002000022.html 日本で二番目に大きく宮内庁が応神天皇陵に指定している前方後円墳、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市、五世紀前半)の前方部頂上に
巨大な方形の土壇があることが十九日、二〇〇八年に墳丘を立ち入り調査した研究者らの証言で分かった。
通常は古墳の主を葬る後円部上にあり、聖域を示す結界や祭壇との説が有力。“埋葬施設の目印”ともいわれ、同古墳では後円部の天皇だけでなく、前方部にも血縁者ら重要人物を埋葬した可能性が高いとみられる。
日本考古学協会などは二十四日、同庁の許可を得て内壕(ないごう)の土手を調査するが、墳丘本体への立ち入りは認められていない。
関係者によると、宮内庁陵墓管理委員会(考古学者ら八人)が〇八年秋、整備計画検討のため専門家として初めて墳丘内を立ち入り調査。
内容は非公表だが、委員の河上邦彦神戸山手大教授(考古学)によると、前方部の先端寄りに土を盛って築いた壇があった。保存状態は極めて良く、未盗掘の可能性もあるという。
後円部には神社の施設が置かれた時期があり、土壇の有無などは確認できなかった。
共同通信社の依頼で、産業技術総合研究所の寒川旭招聘(しょうへい)研究員(地震考古学)が、明治−大正時代に旧宮内省が作成した測量図を解析。
底面の一辺約四十メートル、上面の一辺二十メートル以上、高さ約八メートルと推算した。
(つづく)
98 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:52:26.66
99 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 08:29:51.06
>>74>>95 唐古・鍵とマキムクは連動していない、とされてたのが、最近は連動してた説が出てきた、ていうこと?
連動説にしろ非連動説にしろ、その根拠は何?
100 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:10:53.29
素人だが、連動説は田原本町教育委員会の藤田三郎さんが強く主張してるみたいですね。
唐古鍵を中心とした大和勢力が東に移住してマキムクを造ったと。
福永とかもそういう説なんだろうか?
非連動説は上でも書かれてる通り、マキムクの時期に唐古鍵の環濠が再掘削されていること、
その後古墳後期まで集落が継続することから、
唐古鍵とマキムクは別勢力、という論調だったと思う。寺沢とか外部主導を言う人はこの説だろう。
101 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:39:43.74
そもそも弥生時代と古墳時代、大和では政治宗教的に繋がりを見い出せないない、むしろ断絶がある、
てのが寺沢とかの説で、その説でいけば、唐古が巻向に移った、なんか有り得ない訳で。
唐古が大和川勢力の中心で、弥生後期を通じて政治的まとまりが育っていったとかいうのが福永説か。寺沢説とは大分違う。
昔は寺沢の外部主導説が優勢だったのが、徐々に自生説が盛り返している感じか
丁度、唐子からマキムクへ、という本を借りてきてるんだが
この本はどういう感じでしょう。
で、読本が邪馬台国関連ですな。
銅鐸の工房だった唐古・鍵
銅鐸の影が全くない纏向
これをどう説明するのか。
104 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 18:44:47.93
宗教革命。たぶん
>>101 > 外部主導説が優勢だったのが、徐々に自生説が盛り返している感じか
考古学は発掘の成果でものを言うから、その後はどちらも進展がないのでは。
3月下旬に田原本町の本が出るみたいだけど、そこにはなにが書いてあるのかな?
>>102 むしろ、あっさりと邪馬台国がらみの話を止めるもんかと思ったが?
107 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 19:52:32.59
纏向は未発掘域がまだまだ広い。
その内、三角縁神獸鏡の大規模製作工房が発掘されるよ。
銅鐸に縁のあった場所こそ、三世紀の邪馬台国の位置ではないことを逆に証明するんではないか?
銅鐸文化を少しは勉強しなさい。
108 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:07:48.22
109 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:42:28.89
>>105 いや、大和の前方後円墳が突然誕生、それまでの弥生と断絶がある→だから外部主導、て寺沢説は成り立たなくなってきてるでしょ。
結局日本全国の古墳祭祀は、吉備の楯築にしろ筑紫の平原にしろ、最近では東海の象鼻山にしろ、
大和だけに限らずすべてが突然に始まっている。
そもそもマキムク石塚と、楯築、平原との年代差もさほど無い訳だし、殊更大和の古墳だけを外部に求める必要はない。
110 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:47:59.49
>>107 頭固いなあ。巨大化した見る銅鐸が威信財として機能した可能性?について、
頭から否定、銅鐸=共同体の祭器という思い込み。
マキムクで人為的に壊された銅鐸の破片二つ目発見も、まったく無視か。
何のために、この前のNHKの特番で石野先生が銅鐸壊してたと思ってるんだよ。
威信財なら需要がなくなれば鋳つぶして再利用するのではないか?祭具だからこそ叩き壊される
必要があったのでは。
>>109 纏向大溝を無視していることからして電波臭い。
>>109 > 大和の前方後円墳が突然誕生、それまでの弥生と断絶がある→だから外部主導
そうなのか? 寺沢の主張の根拠は
弥生時代後期の近畿中心部では、前方後円形はもとより円丘墓さえきわめて例外的。
前方後円墳を構成する諸要素のなかに近畿の要素が(他地方にくらべて)ずっと少ない。
唐古・鍵と纒向の間に、権力論上つながる考古学的状況はない。
(以上、「王権誕生」より)
なんでなかったっけ? “突然誕生”はあんま関係なくね?
> マキムク石塚と、楯築、平原との年代差もさほど無い
楯築は後期後葉(鬼川市3)、平原は200年ごろ?、だけど石塚は未確定じゃなかったっけ? 寺沢の比定は庄内3。
114 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:26:11.78
なぜ、邪馬台国を議論する場合、岡田英弘説は話題にならないんだ?
ここだけやなしに、史学や考古学方面でも。
松本清張説みたいなものでも、批判するにせよ引用するにせよ、言及する学者もいるのに。
岡田氏の渡来人ついての考えは面白いと思うよ。
116 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:53:59.19
>徐々に自生説が盛り返している感じか
と言うか全てヤマトの中で完結していたと言うような自生説が否定されて
その時、針が大幅に振れてしまって「自生説は絶対NG」みたいな空気が少しまともになってきたと言う事なのでは?
「突然の変化」なんて「外部主導」じゃなくて「外部影響」で説明がつく。
唐古鍵と纏向が併行していても奈良盆地に元々唐古鍵にいた人間以外いなかったわけじゃあるまいしw
古代に集落レベルでの人口の移動なんて確認されている事例があるのか?
そう言えば『邪馬台国時代のツクシとヤマト』で、久住猛雄による須玖から比恵・那珂への人の移動の主張を
武末純一が否定していたな…
>久住猛雄さんは須玖遺跡群没落説をひどく批判して、須玖遺跡群から比恵・那珂遺跡群への人の移動を説きますが
>それは何ら証明されてませんし
>>114 > なぜ、邪馬台国を議論する場合、岡田英弘説は話題にならないんだ?
位置比定に直接結びつかないからなんじゃないかなあ。
それに岡田史観をもとに理論武装するのってケッコウたいへんなんだよ。
大規模土木技術が渡来人層によってもたらされた、とかなんとかすれば岡田史観とも
つながらなくもないけど。
>>118 > 大規模土木技術が渡来人層によってもたらされた
そのセンはあるでしょうね。
前方後円墳の幾何学的形状規格の成立には中国との交流の影響が強く感じられると思います。
岡田史観について注目すべきなのは、弥生中期後半から終末期にかけての社会変化が
列島内部での自生的発展の結果ではなく、隣接の先行文明による影響、
具体的には中国の交易を目的とする働きかけによるものである、とする点だと思うんだけどね。
>>116 大型環壕集落の時代に、
ヤマトに環壕のない集落があったというのですか?
一体何のために環壕を再掘削したと思っているの?
あきれるよ。
前方後円墳は上下を間違えた、なんて話はどうなったっけ。
上が丸くて下が方形というのを大陸から?聞き間違えて
あんな形になったというの。
だとすると最初に間違えた中央権力がいたということに
なるのだろうけどその前に間違えた説がなぁ。
しかしあの変な形はそうとしか・・
122 :
116:2011/03/01(火) 21:02:54.27
>>120 >あきれるよ。
…と言われても何が言いたいのか良く分らないのだがw
123 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 22:13:05.29
>>113 楯築や平原と石塚との差は何年くらいと考えてる?長くて50年程度、1〜2世代に収まるなら、それ程大和が遅れてたとは言えないんじゃ?
あと、例えば吉備地方で楯築とそれ以前の墓制との関連性は大きいと言えるのか?
千葉の神門5号、播磨の権現山、阿波の萩原2号の場合は?東海の前方後方墳、木津川水系の椿井大塚山は?
断絶はマキムク石塚だけの特徴と本当に言えるのか?
楯築墳丘墓に断絶があるという意見らしいが、
どこがそんなに特殊なの?
125 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 22:31:01.32
いや、ていうか、楯築は画期でしょ、普通に考えても。
だからどこが違うの?サイズ以外に。
127 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 22:48:18.32
じゃあ逆に聞くけど、マキムク石塚はどう違うのさ。
129 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:21:19.26
マキムクは新しく造られた計画都市だから、近くに環濠集落は無いんだと思うよ。
ただ、マキムク開始時期に周辺の環濠集落が一斉に解体、縮小する流れはある。
初期古墳4つに特殊器台が見つからないことから、吉備がマキムク開始に直接関与した、ていう近藤の説は消えたと思うな。
吉備からの影響はあったと思うが、直接ではない。阿波や讃岐、播磨を経由して、いくらか変質して大和に伝播している感じ。
古墳、てのは特定地域がまとまる時に使う為政者の手段だったんだろうと思う。
共同して巨大土木工事を行うことで人心の結束を図り、また首長霊を共有するという宗教的側面もあった。
環濠も、防御の意味プラス集落内をまとめる意味合いがあった、とも言われているし。
集落同士が連合するにあたり、濠を掘るという行為の代替として、古墳作りを始めたんじゃないか。
>>123 > 楯築や平原と石塚との差は何年くらいと考えてる?
まず、石塚の築造年代は確定していないということを確認したんだよ。
それから、寺沢説の否定をしているから寺沢の比定を挙げたんだ。
それはともかく、纒向1式末から2式の古段階という橋本案を採れば、楯築と1世代ほどしか違わないことになるだろう。
> 断絶はマキムク石塚だけの特徴と本当に言えるのか?
うーん、するどい指摘だと思う。
ただ、こちらが確認したのは
「前方後円墳が突然誕生、それまでの弥生と断絶がある」
に対して、寺沢が言う“断絶”の理由は前出のものであり、“突然誕生”は関係ないんじゃないか
ということだよ。
楯築以下、挙げてもらった各例の“それ以前の墓制との関連性”が
前方後円墳とそれ以前の近畿の墓制との関連性が薄いのと同じようにやはり薄い、
というのであれば、それはぜひ提示してもらいたい。
131 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:33:52.81
寺沢の纏向型前方後円墳仮説も、疑義が出てきてるしな。そのようなタイプ分けが出来る程の画一性があるかは疑問視され始めている。
画一的になるのは箸墓以降、というのが穏当だろう。
そもそも庄内の頃のヤマト王権が、西は福岡県から東は千葉県まで、前方後円墳の祭りを主導する程の政治力を有していたとは考えにくい。
寺沢は全国各地からオウが大和に集まったので、だからそのような全国規模の権力が生まれたとしてるけど(明治維新みたいに)、
纏向型仮説の前提が崩れたら、それを証明する根拠なんて無くなる訳だし。
>>129 > 初期古墳4つに特殊器台が見つからないことから、吉備がマキムク開始に直接関与した、ていう近藤の説は消えたと思うな。
“初期古墳4つ”ってのはどれのこと?
きょう日、ホケノ山が庄内式期ってことにも疑問符がついてるんじゃないの。
133 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:12:37.63
なんか、
>>128はかつての伊都国東遷厨のような気がしないでもないwww
>全く逆です。ほぼ消滅に近い。
消滅ねえ、、、、
外部勢力による勃興と言うシナリオが描かれて随分久しいと思うが
結局いまだにこれと言うモデルの提示には至らない。
なら、その主体は外部からの影響を受けたとは言え
やはりヤマトの地元の人間らであった…と言うしかないと思うがw
134 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:18:55.55
4つで合ってるだろ。石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノの順だったっけ?
135 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:26:06.32
>石塚、矢塚、勝山、東田大塚、
そう言えば…
その「特殊器台が見つからない初期古墳4つ」と言うのは
確か葺石が確認されていないものとも重なるんじゃなかったかな?
136 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:29:06.07
そもそも近藤の吉備東遷説は、「箸墓が最初の古墳ていう仮定」から導き出されたもので、
それが崩れた今、吉備東遷とか言う人は消滅してる筈。逆に。
137 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:38:05.01
>>131 >(明治維新みたいに)、
まあ、意地の悪い揚げ足取りみたいな話かもしれないが
それって例としてはあまりよろしくないように思うw
吉備出雲を薩長にするのは言いとしても
じゃあ当時のヤマトに江戸幕府に相当するものがあったのか?
…と言う話になるしwww
138 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:53:29.07
外部主導だと、西日本を中心とした倭国連合が、なぜ東の端のマキムクを都に選んだのか?
とかいう新たな問題が出てくる。
大和川水系クニ連合がヘゲモニーを握りマキムクを造ったとすれば、マキムクの立地説明に苦慮しなくていい。至ってシンプルw
寺沢って若い頃は邪馬台国東遷説だったらしいので、その頃の考えに引きずられてる感じがするなあ。
大和中心史観を壊すために、マキムクの断続性に目を向け続け過ぎた結果か?
139 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:54:51.01
>>134 きみは古墳名を5つ挙げてるよ。自分のレス読み返してみて。
だから「4つ」て一体どれとどれなの?
140 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 01:22:50.80
ホケノが箸墓と同時期としても、その前に4つある。
ここまで書いて上げないと分かりませんか?
141 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 01:49:08.64
>>140 東田大塚が箸墓やホケノ山よりも古いというのは確定していますか?
根拠があるのならソースをお示しください。
また次の点もご意見よろしく。
石塚、ホケノ山はそれぞれかなり大がかりな発掘調査でしたから、
特殊器台(と特殊器台型埴輪)が無かった点は同意です。
しかし残る勝山、矢塚、東田大塚には、本当に無いのでしょうか?
「今のところ見当たらない」を勝手に敷衍して「無かった」とは言えないと思います。
私は更なる調査に期待し、その成果を待ちたいと考えています。
>>140 > その前に4つある
東田大塚と勝山は前方部が長いタイプで、矢塚をふくめて推定築造時期は纒向4類。
わからないと言うのも無理はないと思う。
143 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 17:54:22.13
そもそもある段階以前のものがないからと言って
それが外部から入植してきた集団によるもの
…と言うのには根拠がない。
ヤマトの人間には学習能力がなかったのか?と言う話にすらなるw
例えば今日の日本の自動車産業、航空機産業、鉄道システムetc
全てある時点からは欧米にその源流を探さねばならないだろうが
それら登場は別に日本が欧米に征服されたからではないわけでwww
まあ神話を頼みに東遷説を唱える連中に比べれば
広義の東遷説、例えば吉備東遷説なんかは一見考古資料に基いたお話のように見えるが
根本的な無茶振りは邪馬台国東遷説や「騎馬民族征服王朝説」と変わらない。
社会文化の急激な変化に王朝交代劇のようなものを見ようとする姿勢は同じ。
自説の証明・検証はヤマトにおける”断絶性”ではなくて
その当選してきたと言う地域との”連続性”に求めるのが筋だろう。
吉備東遷なら先ずヤマトに”吉備に似ている”じゃなくて”吉備そのまんま”と言うものが出現し
その後に徐々にヤマト的なものに変遷する…と言う姿が描き出されなければならないと思うが。
144 :
143:2011/03/02(水) 18:05:20.13
以下、素人の雑感書きなぐり、チラ裏。
どうもこの「纏向の勃興が果たして外部勢力によるものか否か?」についてのお話は三角の話とダブるイメージがあるw
かつて三角が舶載魏鏡であることが(まあ森浩一ら疑義は挙がってはいたものの)当たり前のように言われていたところへ
中国の学者の論文が黒船来航のようなショックを与え一気に国産説に、まるで針が反対側に振れたみたいな現象がおきたみたいな感じで
かつての「自生説」とやらが否定された時点でヤマトの主体性自体が全く考慮されないような流れになってしまっているんだろうか?w
西からの影響ばかり言われることが多いが、東海や近江など東の勢力が西を目指したことも忘れはいかんね
146 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:14:32.65
■かめ棺墓列交差、クニへの過程 吉野ケ里遺跡で確認 (動画あり)
佐賀新聞 2011年03月02日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1841938.article.html 国指定特別史跡「吉野ケ里遺跡」(神埼市郡)で、北側丘陵の尾根に沿って南北に走る甕棺(かめかん)墓列に、別の墓列が斜めに交差していることが確認された。
墓列の交差は全国的にも極めて異例で、斜めの墓列は先に形成されていた南北の墓列を避け、またぐように配置されていた。
このため佐賀県教委は「二つの墓列を整備したのは、共存か友好関係にある集団だった」と推定。
斜めに走る墓列が形成されたころは北墳丘墓ができた時期と重なることから、地域の中心的なムラと衛星集落が神聖な墓域の共有を通じて結束を深め、クニに拡大していく過程を示す貴重な史料とみて調査を進めている。
今回確認された墓列は遺跡北側の「北墳丘墓」から北北西約500メートルの丘陵部。南東から北西方向に約2メートルの幅で約130メートル伸び、大小96基の甕棺が埋まっていた。
甕棺の形式などから紀元前2世紀から同1世紀に形成されたとみられ、同3世紀ごろから形成された南北約600メートル連なる甕棺墓列と、南東から約40メートルの地点で交差している。
墓列は親族や社会階層などクニやムラの同じ集団で構成され、埋葬場所はあらかじめ決められていた。
交差した理由は判然としないが、南東から北西方向に伸びる墓列がいったん途絶え、南北の墓列をまたぎ、再び延びている。
交差地点では先に形成された墓列の甕棺を破壊した形跡もないことから、両勢力が友好関係にあった周辺のムラや共存していた同じクニの人々を埋葬したと推測される。
墓列の形成と、当時の支配者が埋葬されていた北墳丘墓の築造は同じ時代とみられ、吉野ケ里遺跡がムラからクニへ発展していく時期と符号するという。
同教委では甕棺の形式や人骨の形質などを精査、墓列が交差した意味などの解明を進める。
(つづく)
147 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:16:21.70
>>136 > それが崩れた今
それがまた「箸墓に先行して纏向型前方後円墳が築かれたていう仮定」によるものなんでない?
しかし、纏向型前方後円墳提唱者の寺沢自身は吉備主導説なわけで、
> 吉備東遷とか言う人は消滅してる筈
てのはどっから出てきたんだ?
149 :
organism:2011/03/02(水) 22:01:55.89
ここに3世紀中頃の瀬戸内海沿岸の陸上と海上の交通・交易経路を比較対照したページがあります。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_3.html#1-3-30 とりあえず始めのほうに書いてある陸上部分はおいといて(後でじっくり読んでね)、 最後のほうに書いてある当時の海上の輸送網をみてみると、これを掌握していたのは愛媛の"大三島に本拠を構える越智氏"という見方が出てきます。
このネットワークにはあちこちに重要拠点があったようで、「伊予三島」「摂津三島(茨木・高槻)」「河内三島」や、「西新町」「吉備」「讃岐」などもあります。
この中で重要なのは、古河内湖の東岸を勢力圏とする'河内三島の越智氏'です。
こんな名前は聞くのは初めてでしょうが、ここの越智氏は後の時代に「物部氏」になります。このネットワークは3世紀のものですが、おそらくずっと前の時代から存在していたのでしょう。
さて、上の状況を踏まえて ここで議題になっている吉備などの祭祀様式の影響について考えてみると、次のようになります。
まず、長く続いていた磯城と葛城勢力とのごたごたが、葛城が主導権を執る形で終焉したと考えます(環濠は不要になった)。 ここで磯城というのはもちろん唐子・鍵のことで、葛城勢力とは具体的な名前で云えばたぶん孝霊。
そして 海洋民族と関係の深い葛城勢力は各地の人や文化を積極的に導入し、巻向を作り上げた・・・・・・・・・・と言うようなことではないですか?・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・というだけでは なぜ築造に数十年を要する巨大墳墓を作る必要があったのかの説明にはなりません。
巨大墳墓は、おそらく"例の事件"で最愛の娘を失った父親の悲しみによって築造が始まった。
>>143 > ”吉備そのまんま”と言うものが出現し、その後に徐々にヤマト的なものに変遷する…
> と言う姿が描き出されなければならない
ん? 特殊器台から円筒埴輪への変遷を言っているのか?
まあ、そんなことはともかく
> ヤマトの人間には学習能力がなかったのか?
学習能力がなかったわけはないだろうが、
他地域由来の文化要素をことごとくヤマトの人間の学習成果だとするならば
それはフェアとは言えなくなる。
> 当選してきたと言う地域との”連続性”
を問うならば、ヤマト自体の前時代との“連続性”も求められるのが筋なんジャマイカ?
ちなみに宮山型特殊器台はヤマト発祥という話もあるが・・・
151 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:44:59.08
>>148 逆に聞きたいが、吉備東遷説を唱えてる学者って、今いるんですか?
近藤先生はこの前亡くなっているし。
寺沢の言うマキムク型が本当にあったか、箸墓以前の古墳に一定の規制が働いていたのか?は議論の分かれるところだが、
流石に箸墓より前にマキムクに古墳が誕生していたことを否定する学者はいないでしょ。
152 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:51:58.54
>>146 後からできた墓列が、前にできた墓列に遠慮しているようで面白いね。
敬意を払っているように見えてほのぼのした。
153 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:58:11.95
銅鐸を壊す程の、前の時代を否定する苛烈な宗教改革が、奈良盆地東南部で起きた、ていうことなんでしょう。
外部勢力がマキムクを造ったというのも一つの仮説だし、大和川水系(大和+中河内)の豪族たちが
自己改革的に新しい宗教を選択したのも一つの仮説。
どちらにしろ、弥生後期後半の気候変動による凶作、それを原因とした倭国乱に対し、
それまでの弥生の神々が対処できないとされ、
新たな宗教や政治体制が求められた、ということなんだと思う。
外部か自生かの議論は、それ程意味があるとは思えない。
154 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:19:07.11
弥生終末期の奈良盆地で戦乱の痕跡が窺えない。むしろ環濠が取り払われて平和になった。
マキムク王権の由来を考えれば、外部勢力の影響は当然あっただろうが、
やはり奈良盆地の諸勢力の談合の上で、平和裡にマキムクが誕生した、と考えるのが妥当だと思う。
神武の亡霊に惑わされては駄目。
>>151 > 吉備東遷説を唱えてる学者って、今いるんですか?
寺沢さんがそうじゃないのかい?
また、近藤氏が吉備東遷についてはっきりした物言いをしたかどうかは知らないんだ。
著書のなかで『吉備勢力「東進」説について』という章を設けてはいるが、
寺沢氏を含めた三者の「論点および資料把握は、なお不充分あるいは不明確」としている。
その後、手元にはないが別の本で、吉備に目立った首長墳墓が見当たらなくなったことについて
どうなったのかは皆さんへの宿題にしたい、旨のことを言ってはいたが。
本心はともかく慎重な(考古学者らしい)姿勢だと思ったよ。
> 流石に箸墓より前にマキムクに古墳が誕生していたことを否定する学者はいないでしょ。
この先どうころぶかわからないんじゃない?
ホケノの築造時期に疑問符がついている。
石塚についての見方はわかれたまま。
東田大塚と勝山は前方部が長いタイプ。
纏向型前方後円墳の提唱には反対意見がある。
など、検討課題は多いと思うよ。
>>150 >を問うならば、ヤマト自体の前時代との“連続性”も求められるのが筋なんジャマイカ?
いや、だからそれに答える必要がないと言うのを
>>143で説明したつもりなのだが…
わざわざ「自動車産業、航空機産業、鉄道システムetc」と挙げたのは
外部の文化・技術を吸収する時、当然あるレベルまで到達したものを頂いちゃうってお話でw
そこに繋がる”前段階”がないからそれは外部から入ってきた集団によってもたらされたと言うのは
それまで馬匹文化がなかったところに、急にきらびやかな馬具が副葬されるようになったから
騎馬民族がやってきたのだと言うのと大差ないw
ちなみに
>>116も自分だが
多分日本の古代史においてある集落から集落への人口の移動なんてのが認められた事例ってないんじゃないのかな?
(誰か知っていたら教えて欲しい)
相当にアクロバチックな話だとは思っている。
157 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:31:04.83
■祭祀場で勾玉製作を確認 松江・美保神社境内遺跡
日本海新聞 2011年03月01日
http://www.nnn.co.jp/news/110301/20110301013.html 国学院大学と島根県教育庁古代文化センターは28日、松江市美保関町の美保神社境内遺跡で古墳時代中期(5世紀ごろ)に勾玉が製作されたことを確認したと発表した。
原材料の碧玉と一緒に祭祀用の土器が出土したことから、付近が神社創建以前から神聖視されていたことを示す資料として注目している。
美保神社では文化財の収蔵庫建設に伴う1996年の発掘調査で碧玉約500点が出土。
国学院大と同センターが2010年度に詳しく調べた結果、製作途中に破損した勾玉や製作で生じた破片と判明。
1カ所に集められ、近くで高杯などが見つかったことから、祭祀を執り行うため臨時的に生産したとみている。
またいくつかの破片は、接合するとこぶし大の一つの岩に復元できた。品質の良い中央部分だけを勾玉の製造に用いたとみられるが、母岩が復元できた例は全国的に珍しいという。
当時の出雲地方は勾玉の一大生産地。良質の碧玉を産出する花仙山(松江市玉湯町)を中心に31カ所の玉作遺跡が見つかっているが、祭祀と結び付く出土例は初めて。
美保神社は国譲り神話にちなんだ「諸手船神事」などで有名。主祭神の「事代主神」は「えびすさま」として知られ、全国各地のえびす社の総本宮として、水産・海運関係者から信仰が厚い。
国学院大の加藤里美講師は「勾玉作りには広範囲を治める指導者と技術者が必要。地域を挙げた祭祀が行われていたのでは」と話している。
・勾玉を製作する際に生じた破片と判明した碧玉=28日、松江市殿町の島根県庁
http://www.nnn.co.jp/news/110301/images/IP110228TAN000177000.jpg ・一つの岩に復元できた碧玉の破片。中央部を勾玉に加工したとみられる(島根県教育庁古代文化センター提供)
http://www.nnn.co.jp/news/110301/images/IP110228TAN000178000.jpg
158 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:49:05.09
qqq
ppp (w)
160 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 01:12:40.68
>>151 > 寺沢の言うマキムク型が本当にあったか
本人が2タイプあるに変わってるはず。新聞で報道もされた。
>>143 > ヤマトの人間には学習能力がなかったのか?と言う話にすらなるw
祭祀に関するものなので、学習しただけでは済まない影響力。
>>156 移動がないって言うのなら、纏向に人がいた証拠を出さないと。
163 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 12:35:58.96
>>155 寺沢は吉備の影響の強さは認めつつも、筑備播讃みたいな言い方してなかったか?
寺沢さんの言うことも、たえず変化しているから...
165 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 15:20:13.59
そういえば今年で橿研定年らしいですが、どこへ行くんでしょう?
>>145 東海は本当によく分からんね。
東海式土器も陪塚の甕棺以外は、壕からしか出てないし。
政治的関係がないというには前方後方墳は似すぎている上に、
前方後円墳の進出も古墳時代中期には確実にある。
考古学的物的資料だけで歴史を想像することなど不可能。
168 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 17:24:51.43
>>162 は?「纏向に人がいた証拠」??
何が言いたいのか理解に苦しむ。
まさかこのスレで「奈良盆地は人影もまばらなほぼ無人の野でした」なんて話しを聞かなければならないのか?w
唐古鍵にも人はいたし、ああ言う大型拠点集落はその周辺に中小の集落を伴うのが常。
もっと具体的に言えと言うのなら、今名が挙がっている寺澤の「王権誕生」に
奈良盆地を南北に走る河川の流域に幾つもの集落を図示したものが出ていたと思うが…
>>161 >祭祀に関するものなので、学習しただけでは済まない影響力。
でもそれまでの銅鐸とかのアイテムを使っての農耕祭祀とでも言うべきものと
大型(巨大)首長墓による首長霊信仰は同じ祭祀と言ってもバッティングしないんじゃね?w
個人的にはあの「銅鐸叩き割りショー」はかなり冷ややかに見ているwww
銅鐸祭祀・・・精霊信仰+穀霊信仰かな。自然の精霊の中に穀物霊が含まれていて、水稲以外の食料割合も多かった。
首長霊信仰・・・新田開発や対外戦争の勝利、大規模土木工事などを指揮した首長の霊が穀物霊にも働きかけて、
豊作を成就させる。こんな感じか。
祭祀に使った纏向の土抗と同じものが見つからないと連続性は厳しいなあ。
>>170 そもそも連続性ってw
考古学的に物的資料でそんなもん判断がつくかよw
名柄遺跡(葛城氏の本拠地)で朝鮮式の双紐細線鋸歯文鏡と
II-2式銅鐸(いわゆる聞く銅鐸)が同じ場所に見つかってるよね。
(ちなみに似た組み合わせは朝鮮でも出土している)
たしかあの時、祭祀用といわれる土抗も見つかってるんだけど、
どんな内容だったか覚えてないわ。
>>145 近江といえば、神郷亀塚古墳の年代はどうなったんだろうね。
ホケノよりも古い可能性があるってことだけど。
木槨もあるし、ホケノとの関連性はどうなんだろうか。
>>170 祭祀土抗は北九州でも見つかってるよね。内容物が違うけど。
中身違っていいなら、環状列石に伴うものが縄文時代からある。
>>156 > ”前段階”がないから(外部からもたらされた)
そうではない。
マキムクは纒向1類期にまったく新しく築かれた遺跡であり、そこは諸勢力が共立した倭王の都するところと考えられる。
その諸勢力は畿内をはじめ、外来系土器の最多数を占める東海。阿讃播、吉備の中東部瀬戸内。
北近畿と外来系土器から山陰、北陸の日本海ルート地域。あと疑問符付きで西瀬戸内と北部九州。
これらが連合した動機が遠隔地交易という経済的なものであっても
その紐帯は宗教でありすなわちそれは祭祀同盟であったろう。
マキムクにこれら地域単位の葬送儀礼要素、吉備の特殊器台・特殊壺による祭祀、
瀬戸内の石囲い木槨・前方後円形の墳墓形態、東海の前方後方形墳墓、などが現れることについて
各地域首長の地盤から持ち込まれたというのは考え得ることだろう。
175 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:46:48.61
>>174 横からですまないが、
それって典型的な寺沢説だよね。
僕が思ってるのは、マキムクの前方後円墳の源流は、各地の葬送儀礼のパッチワークでは断じてなくて、
阿讃播の葬送儀礼を大和が採用したことだろうと思う(確かに阿讃播の葬送儀礼の源流は吉備の楯築になるんだろうけど)。
筑紫の破鏡の風習や吉備の特殊器台などは、マキムク開始時に直接採用されていないことがその理由。
吉備の葬送儀礼が阿讃播でワンクッション置くことで変質し、変質してから大和に伝わったんだろうと
筑紫の影響は唐古・鍵の時代から皆無に近い。
土器については、唐古・鍵自体は他の地域からも少ない。
青銅器を製作するなど、巻向より流通拠点的要素が強いのに。
>>173 高句麗の東盟祭との類似は石野も言及している。
→丹国→近江→
の流れだろう。
179 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:02:53.86
なぜ寺沢とか外部主導の連中は、唐古鍵とマキムクを峻別したがるのかな?
唐古鍵もマキムクも地勢から見る限り機能は同じで、大和川水運の船着場、水路から陸路、陸路から水路にに切り替わる場所。
東瀬戸内の海商小国家群、阿波讃岐播磨と、内陸部の農業国家、大和・東海との接点。
その立地条件から市場として発展したのだろう。
日本神話に見られる海と山の相剋、同化の物語も元々は唐古鍵で生まれたものではないだろうか?
唐古鍵は商取引が盛んで他地域から多くの移住者があっただろうし。
市場は、余所者同士が交流することから揉め事が起き易く、仲裁する元締めが必要とされた。おそらくは社会的地位が高い神官がその役割を担ったと思う。
仲裁者は権力を握り、やがて最初のオウになる。
マキムクは唐古鍵より一層商業や宗教に特化した感じか。
寺沢の言う外部主導って、実は唐古鍵の頃から起きてたんじゃないか?根拠はないけどw
神話
マキムクで商業
>>175 後期後葉には各地域がそれぞれ独自の首長葬送儀礼をおこなっていたのが、
古墳時代になると前方後円墳にともなう同一の規格を用いるようになった。
その契機は箸墓の築造である、ということを大前提にして考えています。
前方後円墳規格はヤマトが創り上げ、各地が(ヤマトと連合するにあたり)それに倣うことにした、
ということになるのですか。
> マキムク開始時に直接採用されていない
それはどうしてわかるのですか?
上にもあるけど、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノについて具体的にどのような想定をしているのでしょうか?
石塚、ホケノの被葬者は何者でいつ頃? マキムクの首長?
また、箸墓の被葬者が首長権を引き継いだのはいつになるのでしょうか?
箸墓以前に5基の首長墓が存在したと単純には思えないのですが。
182 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:21:39.50
>>179 > 唐古鍵とマキムク
マキムクは弥生時代を通じて人の住んでいない土地だった。
後期の終わり頃に、いきなり土木工事からはじまった。
> 峻別したがるのかな?
つまり、誰かがなにかの目的でつくったんだ。
だからだろ。
唐古・鍵で用が足りるんならつくることはなかったろう。
>>183 一応弥生時代の遺構は見つかってるけどな。
まあ自生が言える規模じゃない。
186 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 22:25:28.04
宗教と交易に特化した計画都市がマキムクってことでしょう。
もうな、ここまでくると
単純な考古学の知識だけで推測することは不可能なのさ。
でも、日本では、第二次世界大戦後
記紀の研究が事実上、停滞しているからな...
でも、纏向遺跡というネーミング自体、記紀を意識したものだからw
考古学者も、こっそり記紀をみて、推測しているわけでw
189 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 05:58:25.51
190 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 10:09:25.19
>>181 石塚がマキムクで最初の特定首長墓であることは動かし難いだろう。吉備の楯築みたいなもの。
造墓の主体は大和川水系豪族、大和・中河内連合。公孫氏の後押しで半島の鉄ルートを得て、東西交易で大いに栄える。
箸墓以前の前方後円墳は特に画一性はなく、比較的自由に造っていた。
布留0に画期があって、吉備と大和が連合、画期的な古墳、箸墓が造られる。
連合体制から一人の指導者を推戴する体制に。いわゆる卑弥呼だ。
191 :
ひとぶた:2011/03/05(土) 11:13:31.94
>>190 卑弥呼とか公孫氏云々はよくわかりませんが、
纏向石塚を造った勢力が大和川水系の豪族層と言うのは妥当な考えでしょうね。
だけど、一つ納得のいかない状況があります。
石塚以前の大和、中河内の墓制は、結局のところ集団埋葬の低墳丘墓ですよね。
いわゆる首長墓とはかなり隔たりがあります。
楯築や阿讃の墳丘墓の流れは、同時期には播磨までは来ていると思うのですが、
河内湾岸にはそれが見られないのでは無いでしょうか?
東大阪や八尾の住宅街の下に埋もれ、未だ発見されていないだけなのかもしれませんがね。
大和川水系の豪族の中にも吉備が入っちゃいますがw
>>190 > 布留0に画期があって、吉備と大和が連合、画期的な古墳、箸墓が造られる。
> 連合体制から一人の指導者を推戴する体制に。いわゆる卑弥呼だ。
言ってることがよくわからない。どういう時系列になってるの?
そのまま読めば、箸墓のあとに卑弥呼が推戴された、って受け取れるけど。まさかそうなのか?
194 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 16:20:01.58
>>192 吉備は布留0以降。
寺沢が言う庄内は、筑紫や出雲、吉備みたく各地で王権が誕生し始めたのと同じ地方レベル。
全国区になるのは布留0以降。
倭人伝との整合性はなくなるが仕方ない
>>191 ヨコから
> いわゆる首長墓とはかなり隔たりがあります
「楯築みたいなもの」と書いてあるじゃないですか。
自生説論者にはすべてが“画期”で納得がいくんじゃないですかね。
それはともかく、
> 纏向石塚を造った勢力が大和川水系の豪族層
だとして、纒向石塚の築造時期および
纒向石塚の被葬者と箸墓の被葬者との関係はどのように想定しておられるのですか?
ぶっちゃけ箸墓を卑弥呼の墓だと仮定すると、その築造時期すなわち布留0は3世紀第3四半期。
石塚の築造時期が纒向2類だとしても3世紀前葉であり卑弥呼の治世期間にあたる。
したがって被葬者は畿内地域の首長であっても倭王ではない。卑弥呼を共立した諸勢力の一員であろう。
ではホケノはどうか。小形丸底土器を重視して布留0埋葬を採るとしても、
私的には、画文帯神獣鏡と内行花文鏡という副葬鏡の組み合わせと埋葬施設の構造から箸墓以前だとみる。
したがって石塚と同様にホケノの被葬者も卑弥呼共立勢力の一員となろう。
で、その石囲い木槨は阿讃播の系統、というより萩原の直系に近い。
これはヤマトの人間が学習して造ったのか、被葬者が阿波の人間なのか?
卑弥呼の陪臣として阿波の勢力がマキムクにいたとしても別に不思議はないのではないか、とも思うが。
ちょっとよけいなことも書きましたが、ご意見うかがわせてもらえますか?
196 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 16:46:42.91
>>195 >ではホケノはどうか。小形丸底土器を重視して布留0埋葬を採るとしても、
>私的には、画文帯神獣鏡と内行花文鏡という副葬鏡の組み合わせと埋葬施設の構造から箸墓以前だとみる。
副葬鏡や主体部構造で、ホケノ山と箸墓の比較ができますか?
197 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 16:47:34.41
横から。
古墳てのが首長霊祭祀、王権継承の場、だとしたら、
最初に造られた古墳こそが重要でしょう。
陪臣の墓を先に造るなんてことはない。
198 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 17:05:28.20
倭人伝との整合性は少し横に置いておいた方がいいだろう。
絶対年代がもう少し確定するまでは。
例えば、庄内始めが二世紀半ばなら全然話が変わってくるし、
また箸墓=卑弥呼の墓にすることも、必ずしも必要なことではない。
>>196 > ホケノ山と箸墓の比較ができますか?
定型化前方後円墳は箸墓を契機とする、という考えに立脚しています。
また、箸墓=卑弥呼の墓という仮定にもとづいています。
したがって、箸墓の埋葬施設は竪穴式石槨であり、三角縁神獣鏡が副葬されているという推定によります。
>>197 > 陪臣の墓を先に造るなんてことはない。
であれば、石塚、ホケノはどう位置づけられるのでしょうか?
陪臣ではあるが箸墓以後の築造、ということはありだと思います。
箸墓以前に、石塚、ホケノの二代の倭王がいたのでしょうか?
石塚、ホケノはヤマトの首長であり、箸墓の被葬者が初代の倭王となったんでしょうか?
陪臣の意味をわかってんのか?
202 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 17:42:11.22
>>199 >したがって、箸墓の埋葬施設は竪穴式石槨であり、三角縁神獣鏡が副葬されているという推定によります。
一方は(ホケノ山は)発掘調査で判明した「事実」(画文帯などの)であるのに、
片一方は(箸墓は)、そうした何段にも前提を置いて組み立てた「推定」ですよね。
それで比較するのですか?比較できるのですか?それは考古学の方法ですか?
203 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 17:45:23.75
箸墓よりまえのマキムクの古墳、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノは、
大和川水系内の自己発展の範囲で造られた古墳。
箸墓は吉備や筑紫なども参入した全国レベルの古墳、ということでは?
204 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 17:48:53.10
陪臣→陪塚だな
>>198 > 例えば、庄内始めが二世紀半ばなら
それでも構わないじゃないですか。やってみましょう。
庄内初め(庄内1)が二世紀半ばなら、マキムクの開始は庄内の直前(庄内0)なので、二世紀前半中葉になるでしょう。
卑弥呼の共立よりあとになります。
纒向石塚は、纒向2類=纒向2式(古)=庄内1式=二世紀半ば、となり卑弥呼の墓に適合するでしょう。
>>202 > それは考古学の方法ですか?
ただの仮定ですが?
207 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 18:06:54.05
結局
>>195が言いたいのは、
箸墓=卑弥呼の墓。
箸墓より前に造られた纏向石塚等も、年代的にあくまで卑弥呼共立後の邪馬台国体制下に造られているから、
卑弥呼擁立の功臣などが葬られているのではないか?
ということですか?
卑弥呼共立が三世紀初頭?庄内が民博の言うように二世紀に大きく食い込んでる可能性もあるし
>>203 > ということでは?
その場合に、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノの被葬者と箸墓の被葬者との関係はどうなるのか?
という疑問です。
あなたはどう想定されますか?
>>207 > ということですか?
箸墓の被葬者が卑弥呼であってもなくてもいいんですが、
まず、箸墓と纏向石塚等の被葬者の関係がどうなるのか、ってことです。
ご意見お願いします。
210 :
ひとぶた:2011/03/05(土) 18:19:11.99
>>195 > > 纏向石塚を造った勢力が大和川水系の豪族層
> だとして、纒向石塚の築造時期および
> 纒向石塚の被葬者と箸墓の被葬者との関係はどのように想定しておられるのですか?
特に想定しておりません。
もちろん無関係だとか思ってるわけではありませんが・・・
纏向石塚が畿内最古の首長墓で、それが庄内の初めころだとすると、
大和川水系においては、箸墓築造以上の「画期」であったことだろうと思います。
「東遷」が、どうのこうのとは申しあげませんが、これって外部要因説を受け入れれば話は簡単になりますよね。
> ぶっちゃけ箸墓を卑弥呼の墓だと仮定すると、その築造時期すなわち布留0は3世紀第3四半期。
> 石塚の築造時期が纒向2類だとしても3世紀前葉であり卑弥呼の治世期間にあたる。
> したがって被葬者は畿内地域の首長であっても倭王ではない。卑弥呼を共立した諸勢力の一員であろう。
でも、纏向石塚が庄内初頭と言うことであれば、当時の西日本では大きさだけはトップクラスではないのですか?
> これはヤマトの人間が学習して造ったのか、被葬者が阿波の人間なのか?
> 卑弥呼の陪臣として阿波の勢力がマキムクにいたとしても別に不思議はないのではないか、とも思うが。
阿波とか吉備の影響(石囲木槨がってことではありませんが)って、既に一時代前の播磨辺りでミックスされてませんか?
なので、ホケノ山への影響も直接、間接、どちらのケースも考えられるでしょうが、
当然、阿波の王様が大和で土木工事ってのも有りだと思います。
>>210 うましかさん
けっこう気合い入れて書いたのにはぐらかさないでくださいよ。
> トップクラスではないのですか?
そうですね。で、その意味は?
なにかおっしゃりたいことがあるんでしょう?
卑弥呼のお声掛かりで気合い入れて造られたんじゃないんですかね?
>>201 > 陪臣の意味をわかってんのか?
wikiみると
> 陪臣(ばいしん)は、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。「またもの」、「また家来」とも呼ばれた。
とあるね。
その下に
> 江戸幕府の職制においては、将軍の直接の家臣を直参と呼んだのに対し、将軍家は、大名や旗本の家臣を「陪臣」と呼んだ。
ともある。
なにをもとに頭にインプットしていたのかわからないけど、ともかくよくわかってなかった。
指摘ありがとう。
213 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 18:54:28.08
石塚〜ホケノは大和川勢力の王墓でいいのでは?
で、羽振りのいいマキムクの地が、倭国連合の都とされ、吉備や筑紫、東海などとも連合、倭国王の墓、箸墓が造られたということ。
陪臣は足軽身分同様、差別対象になることがあったんだよね。「またものの分際で」とかよく出てくる。
215 :
ひとぶた:2011/03/05(土) 18:57:41.75
>>211 いや、はぐらかそうとかしてるわけでは無いのですが、
私、箸墓の想定築年代がをどの辺りに置くか、決めてないんですよね。
ただ、周りの空気に合せて、石塚>ホケノ>箸墓の順に、期間は2〜3世代くらいの感じで読んでます。
ただ、石塚は大きさと、そこに出現したインパクトから「倭王墓」でも構わないと思います。
なので、「箸墓被葬者=卑弥呼」説に合わせて言うと石塚の被葬者は、卑弥呼の前の男王かと言うところでしょうか?
ちなみに、最近の私は、ヤマト王権の成立=播磨勢力東遷説などと妄想しております。
>>213 > 石塚〜ホケノは大和川勢力の王墓でいいのでは?
となると、大和川勢力の王と別個に倭国王がいた、ということになるのかな。
ところで、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノが一系統だとすると多すぎないか?
それとも、大和の王、河内の王、摂津の王、なのかな?
217 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 19:11:12.66
話がループしてるような。
大和以外で、吉備や阿讃播でも、古墳は突然造られ始めてる。
だから外部手動、てのは違うでしょ、という反論を前提に
218 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 19:12:26.46
箸墓は4世紀築造だよ。
しかも。4世紀後半。
219 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 19:22:46.84
要は、大和川勢力は宗教改革でそれまでの祭器、見る銅鐸を壊して再利用しちゃったから、
他地域より余計「断絶」してるように見えるんだろ。
なぜマキムクの地が卑弥呼共立の時、倭国連合の都に選ばれたのか?は、東西交易で狭義の大和、奈良盆地東南部が栄えていたから。
外部主導とかアクロバティックな仮説は必要なし。
220 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 19:28:14.86
>>216 庄内の期間を80年くらいに見積もれば、けっして多過ぎることはないでしょう。
>>220 > 多過ぎることはないでしょう
正直各墳墓の築造時期はわからないんだけどね。
手元のメモでは
纒向石塚・・・纒向1式(石野・関川)、纒向3式(寺沢)、纒向1式末から2式の古段階(橋本)
東田大塚・・・周濠内や墳丘築造後の排水溝には纒向4類新の土器が含まれている。(石野)
勝山・・・・・・・纒向4類。さかのぼる可能性がある。(石野)
ホケノ・・・・・・庄内3式に位置づける案と、布留0式に位置づける案の二通りがある。『ホケノ山古墳の研究』
矢塚・・・・・・・纒向4類。(石野)
となっている。
つまり順次築造されたとすることに疑問があるんだよね。
222 :
ひとぶた:2011/03/05(土) 19:52:08.95
>>219 > 要は、大和川勢力は宗教改革でそれまでの祭器、見る銅鐸を壊して再利用しちゃったから、
> 他地域より余計「断絶」してるように見えるんだろ。
そう言うもんですかねえ。
あと、それに加えて庄内系祭祀土器の分布と旧来の集落とかも「断絶」してませんか?
> なぜマキムクの地が卑弥呼共立の時、倭国連合の都に選ばれたのか?は、東西交易で狭義の大和、奈良盆地東南部が栄えていたから。
> 外部主導とかアクロバティックな仮説は必要なし。
と言うか、外部勢力が交易品を持って進出して来たから「栄えた」ではダメですか?
>>203 自己発展と言っても、
墳丘墓は生活地域の近くに作られるものだし、
もうすこし前段階的な中規模墳丘墓が見られてもいいはず。
やはり考古学的な見地からは、マキムクは突如建設されたとしか。
>>213 > 石塚〜ホケノは大和川勢力の王墓でいいのでは?
大和川勢力というのは、葛城も佐紀も含んだ話?
225 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 20:33:10.40
まあ(将来的に土器片が出てくる可能性があるとしても)現時点では
器台の見えない古墳があるのなら、ヤマトには先ず「前方後円」をいう”形”が入ってきて
後に器台やら壺やら弧帯文が入ってきた…と見るしかないのでは?
それらの何れもが吉備から入ってきたとしてもそういった「タイムラグ」があるのは
それこそ東遷してきた入植者によってもたらされたとするにはあまり都合の良い話ではないと思うが?
自分としてはそのタイムラグをヤマトの外部文化の吸収学習のプロセスと見たい。
…こんな事言ってたら「自生説の亡霊」とか言われちゃうのかな?www
おお、マキムクスレが進んでいるではないか!
古墳より大溝が先行しているのは一体何なんだろう。
>>227 まだ十分信頼出来る建造順序があると思わない方がいいのでは。
>>225 > 器台の見えない古墳があるのなら、ヤマトには先ず「前方後円」をいう”形”が入ってきて
> 後に器台やら壺やら弧帯文が入ってきた…と見るしかないのでは?
> それらの何れもが吉備から入ってきたとしてもそういった「タイムラグ」があるのは
> それこそ東遷してきた入植者によってもたらされたとするにはあまり都合の良い話ではないと思うが?
> 自分としてはそのタイムラグをヤマトの外部文化の吸収学習のプロセスと見たい。
例えば、豊中の下池田円形周溝墓みたいなものが祖形として先に入って来て、
それから少し遅れて、特殊器台などを受け入れたと言う感じですか?
230 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 23:48:53.80
>>229 いや、インポートされたのはあくまで前方後円墳の形だと思っている。
大和で「円墳→前方後円墳」のプロセスはなかっただろうと…
加古川の西条52号墓には円墳に突出部が付いていたと言うし
大和に入る前に既に前方後円の形はできていたのだろうと…
231 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 04:34:03.17
ホケノは萩原の影響が顕著だから、阿波から来た王族が埋葬されててもおかしくない、とは思う。
阿波出身の水銀朱の商人か、古墳工事の専門家として招聘されたのか。
232 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 13:10:19.13
マキムク自生説が言ってるのは、大規模な倭国連合に先立って、まず大和川水系、大和+中河内の連合があったということなんだが。
範囲を拡げるとしても、阿波讃岐播磨の東瀬戸内くらいまで。
寺沢の言う庄内ではなく、布留こそがヤマト王権の画期であったということ。
石塚〜ホケノの時代は他地域に比べ、マキムク王権は頭一つ抜き出た程度。銅鐸を廃棄し古墳祭祀を始める、大和川水系で王権が誕生し発展していく過程だろう。
王権誕生に当たり、あくまで「大和川水系共通の」都」として、マキムクが建設された。
最初に運河が造られたことからも分かるように、物流の拠点、交易の場として造られたのだろう
(古代の交易の場は神聖な場所であることが多く、敢えて三輪山山麓が選ばれたのかもしれない)。
吉備地域が連合して王権誕生、新しい場所に楯築を造ったような現象(弥生後期後葉に日本各地で起きている)が、大和地域でも起きたというだけのことだ。
いろいろ批判があるのは承知しているがw
外部主導の人も、批判ばかりじゃなく、自説の王権誕生のプロセスを明らかにして欲しいものだ。
>>215 > 石塚は大きさと、そこに出現したインパクトから「倭王墓」でも構わないと思います。
> なので、「箸墓被葬者=卑弥呼」説に合わせて言うと石塚の被葬者は、卑弥呼の前の男王かと言うところでしょうか?
石塚の被葬者が卑弥呼の前の男王でかつ「倭王」だというのは
史料との整合性を考えるとどういうことになるのでしょうか?
>>232 考古資料にもとづいてそのように想定できるということについては異論はない。
しかし、文献史料との整合性という点で疑問があるんだ。
> 大規模な倭国連合
> 布留こそがヤマト王権の画期
とは具体的になんのことで、史料にある「卑弥呼共立」とどう関係するのか?
> 自説の王権誕生のプロセス
倭國亂で相攻伐していた諸勢力(北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニ)が
共に一女子を立て王と為し、女王之都する所としてマキムクを建設(纒向1類=庄内0=2世紀末)した。
約半世紀の治世の後、卑弥呼は箸墓に葬られた(布留0=3世紀第3四半期)。
石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノの被葬者は卑弥呼を共立し廷臣として政権を支えた諸勢力出身者だろう。
235 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 16:07:56.81
>>234 考古学的にも、自生説はまだまだ無理があるとは思うが。ていうか根拠薄、自分でいうのもなんだが。
倭人伝にすり合わせるのは、なんとでも出来ると思うよ。根拠なくても想像で補えば
>>235 > 倭人伝にすり合わせるのは、なんとでも出来ると思うよ。
ではやってみて。その想定で矛盾がなければ先に進めると思う。
238 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 16:57:46.88
>>236 唐古鍵、マキムクへバトンタッチはそのまま。
ていうか、自生説の肝は、畿内は見る銅鐸を共通の祭器とした緩やかな広範囲に及ぶ政治体制を弥生後期から続けていて、
終末期に他地域より少し遅れて結集、オウを誕生させたことにある。
弥生時代、畿内はショボいと言われるが、畿内全体で見れば、かなりの数の舶載品が出ている。
畿内全体で見ればだけど。
倭人伝でいうところの七万戸。
>>232 > 寺沢の言う庄内ではなく、布留こそがヤマト王権の画期であったということ。
いや、庄内甕が北部九州で検出されていることからみて、
画期が庄内にあることは明らかだろう。
布留の画期っていったいなんなんだ?
ゆるやかな連合がゆるやかでなくなっていく皮切りって意味じゃないのか。
241 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 17:43:21.70
卑弥呼より前の男の王が、マキムク石塚〜の箸墓より前の古墳の被葬者。
弥生後期を通じて畿内は見る銅鐸を共通の祭器とした緩やかな連合を形成していたが、
二世紀半ば頃、地球的規模の寒冷化を経て、新たな政治体制が模索された。いわゆる倭国乱。
地域間競争に勝ち抜くために利益を同じくする地域(河川の水系)ごとに団結する流れが日本各地で起きる。
大和川ではおそらく、三輪山の神官がオウに推戴されたのだろう、マキムクに都が築かれる。
阿讃播を通じて吉備由来古墳祭祀が導入され、大和川水系で最初の古墳、石塚が築造される。
三世紀初頭、吉備を含めた西日本全体を包摂する倭国同盟が結ばれ、倭国乱集結。吉備から王女がマキムクに迎えられ、卑弥呼となった。
242 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 17:51:56.15
>>239 筑紫の奴国の人々が、煮炊きに便利な薄手の土器の製作技術を取り入れただけ、とも言えるから。
大和が本格的に筑紫に政治介入するのは、那珂八幡から三角縁が出土することからも分かるように、布留以降。
>>237 倭人伝の真偽を確かめる術が事実上無いわけだから
摺り合わせ作業そのものが無意味だと思うよ
卑弥呼共立や死亡の年代に無理に合わせる必要もないと思う
邪馬台国探しをやっているわけではないのだから
244 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:54:22.60
しかし時代が被る、倭国に関する文献資料を
無視する事はダメだな。
245 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:05:20.37
外部主導説、てのをまとめると、
庄内開始時に、筑紫、吉備、阿讃播などが、東海との交易を求め、マキムクの地にやってきて連合国家を作った、
ていうことなんでしょうか?
で、各地から来たオウたちが奈良盆地に入植して、畿内有力豪族になったと云う。
なかなかアクロバティックな説だが、倭人伝の卑弥呼共立くらいしか、積極的に証明する根拠が皆無。
せいぜい奈良盆地の政治的空白、宗教的断絶を声高に主張するのみ
外来土器の異常な比率の高さ
大型集落と離れていること
大溝の古墳に対する先行
などを説明するために生まれた仮説です。
自立説を唱えるには、これらにうまい説明を付けないといけないのでは?
もともとうまく説明できなくて浮上できなかった仮説なのだから。
247 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 22:04:50.12
三角縁に先行する画文帯をどう解釈するかだな。
箸墓以前、石塚が最初のマキムク王の墓というのは動かしようがないと思うよ。
それこそ根拠がねえだろw
倭国乱については、考古学的に戦争状態にあったことは確認されておらず、
それは列島各勢力が拮抗して対外的な窓口のない状態を中国側からみていった表現だろう。
したがって共立勢力を倭国全体とみることはない。
卑弥呼を共立した勢力は、阿波、讃岐、播磨、河内、大和。画文帯神獣鏡の分布範囲。
列島最大の勢力となった卑弥呼政権(=邪馬台国)は半島(=公孫政権)との外交権を握り、
庄内式期のあいだに交易権をもとに徐々に他地域への影響を強め
北近畿、吉備、山陰、東海、北陸、北部九州が順次、連合に参加していった。
卑弥呼の死を契機に各地のスタイルを取り込んだ同一葬送儀礼を共有する祭祀同盟が成立する。
そう。画文の範囲でよいように「思う。
251 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 22:43:14.36
画文帯が吉備の初期古墳で見つからないことと、石塚〜ホケノに特殊器台が見つからないことは連動してるだろ、普通に考えて。
大和と吉備の連合は、三角縁=布留以降なんだよ。
まあこの論は、画文が三角に先行して、畿内王権に配布されていた、という仮定に基づいてるんだけどw
あとは九州の画文をどう見るか?
253 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 22:57:31.96
>>246 外来土器が多いのは、交易が盛んで、入植者が多かったから、でもいいと思いますが。
巨大古墳造りに大量の労働力が投入出来るほど余剰人口を持つほどれ、マキムクは経済的に活況を呈したのではないでしょうか?
当時の倭国は戸籍などは当然なく、人々は自由に行き来していたと思います。国ごと東遷とかはかなり無理がありませんか?
マキムクとは、単に多くの人と物が集まる場所に強いクニが生まれ、オウが誕生したということ。
東国との交易の窓口という利点が、マキムク勃興を促したのでしょう。
筑紫や吉備平野と比べて、東国を後背に持つ大和は、ポテンシャル、可能性が段違いです。
宮山で画文と同じ楽浪鏡である飛禽鏡が出てるんだけど。
それから宮山墳丘墓→権現山51号→箸墓ってのも吉備編年でわかってます。
255 :
ひとぶた:2011/03/06(日) 23:33:44.33
>>230 >加古川の西条52号墓には円墳に突出部が付いていたと言うし
>大和に入る前に既に前方後円の形はできていたのだろうと…
その出来あがったものを持って河内・大和に進出してきたのが王権の主体者と思いたいのが私です。
庄内の伝播順が「播磨>河内>大和・筑紫」とかになる可能性は、もう無いのでしょうかねえ。
>>233 >石塚の被葬者が卑弥呼の前の男王でかつ「倭王」だというのは
>史料との整合性を考えるとどういうことになるのでしょうか?
あー、失礼しました。
その書き方だと石塚築が早くなりすぎて、ちょっと拙そうですね。
256 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 23:37:47.86
吉備の中心、備中で見つかってる?>画文
昔、画文の出土地を日本地図に図示したのを見たことがあるが、
吉備あたりが空白になってなかったように記憶しているが?
>>253 > マキムクとは、単に多くの人と物が集まる場所
これがなかなか考古学的には示せない。
258 :
水銀厨:2011/03/07(月) 01:20:24.58
>卑弥呼を共立した勢力は、阿波、讃岐、播磨、河内、大和。画文帯神獣鏡の分布範囲。
私も単純に女王国の範囲がその周辺だという事でいいと思いますけどね。
259 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 04:21:30.99
>>254 >それから宮山墳丘墓→権現山51号→箸墓ってのも吉備編年でわかってます。
それは誰が言っていますか?
ひょっとして考古学不勉強なアマチュア好事家の意見を孫引きしていませんか?
宮山と箸墓の関係はかなり難しい問題があるようなのでひとまず措くとしても、
少なくとも1990年代以降、「権現山51号→箸墓」などと主張している考古学者は皆無の筈です。
>>259 確かに自称アマチュアの人の意見ですが、ちゃんと考古学を勉強されて非常に詳しい
方です。
築造開始時期と完成時期を考えると複雑で、考古学者が明確に主張できる状況ではなことは
承知してますが、特殊器台を置いた時点で完成とするならばその順番であってると
思います。
権現山51号→箸墓はかなり難しいものがあるな。
(これは箸墓→権現山51号で間違いないと言っているのとは違う)
そもそも箸墓なんてちゃんと発掘調査されてないわけだから。
あのへんなら綾部山39号墳をホケノと比較した方が有益だと思う。
262 :
ひとぶた:2011/03/07(月) 13:02:02.93
>>258 画文帯よりも時代は前になりますが、
大阪湾型銅戈と呼ばれる在地青銅器が出土する、
もう少し狭いサークルが有りますよね。
そっちの方がコアな集団で、
唐古などの内陸集落は、従たる存在なのではありませんかね。
263 :
水銀厨:2011/03/07(月) 15:07:11.62
私も鍵唐古は特殊な技能集団、決して主ではないと思ってます。
コアは淡路島周辺の大阪湾沿岸部、現河内周辺の方だと。
その集団が何故徐々に奈良盆地を目指したかというと、
水害にやられたのと、奈良東南部にある水銀朱の山の存在でしょう。
>>116 ちょっと前の方にレス
武末氏はほとんど思いつきみたいな「比恵那珂裏切りの街」説というのをいろんなとこで言っているだが、久住氏はその根拠(?)を逐一否定していることが前提にあるんだけど、知ってて書いてる?。
香芝町二上山博物館シンポジウム資料集にはその久住論文があるが、学生社のシンポジウム記録には久住論文は掲載されず、武末氏の一方的な発言しかない。
久住氏の批判に何にも反論できていないんだな。
須玖の集落が激減する頃に比恵那珂が那珂八幡の築造とか再編成あるのは事実。
まあ、中枢が移ってきたというのをどう解釈するかだが、同じ時期に博多湾岸の砂丘遺跡の集落が増えて、各人口も増えるのはどう解釈するんだろ?しかも、砂丘遺跡の復活の最初は在地系土器主体なんだけどねえ。
松木氏ではないが、弥生終末(庄内平行)に、福岡平野周辺で、上位階層を巻き込んだ大規模な「ポピュレイションの移動」が起きている可能性は高いと思うけどね。
265 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 21:06:54.18
横からですが、奴国・伊都国連合説ですか?
伊都の平原王墓とか、かなり異質な気がしますが、那珂八幡に繋がるんですかね?距離も結構離れてたと思ったのですが。
奴国がヤマトと仲良くして、庄内土器の製造プラントを誘致できたり、三角縁貰ったり。西新町で鉄を渡す見返りかな?
西新町のせいで、相対的に伊都の地位が低下したのではないか?
筑紫内部でも諸勢力の立ち回りはバラバラで、
もし筑紫が一枚岩でまとまってたら、もっと大きな初期古墳が見つかって然るべきだと思う。
266 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 21:38:03.37
唐古とマキムクの、直線距離5キロですら、離れてるから別勢力、とか言われてるのに。
伊都国と奴国が同じ勢力は流石にないだろ。
まあ、交易やら同盟、移住者があったことは否定しないが。
267 :
ひとぶた:2011/03/07(月) 22:58:47.01
>>263 > 奈良東南部にある水銀朱の山の存在でしょう。
あー、お名前のとおり、最後はそこに巧くまとめられますね。
確かに、鉱産物は貴重な交易品で、付近には大和穴師の信仰拠点、穴師神社も有りますからね。
ところで、貴方が「水銀厨」なら、私は「生口厨」と申しましょうか、纏向での最大の「交易品」は人だと考えています。
初期のヤマト王権とは、ざっくり言って「瀬戸内の海賊」と「東海の人買い」の間の仲立ちをした(中継点を押さえた)勢力。
地元の大和土着勢力が「それだ」と言ってしまえば簡単なのですが、専門家さん達の意見を聞くとそうとも言えないらしい。
かと言って、東海なり、吉備なり、はたまた、筑紫なりの勢力が、ドカドカと入ってきたようなこともないと。
なので、そういった外部勢力との緩衝材となるような存在(播磨とか大阪湾の勢力ですね)が、
そこで、一旦、外部勢力からの刺激を受けた上で、大和川沿いに纏向へ進出したとか思っています。
268 :
水銀厨:2011/03/08(火) 10:28:42.86
>>267 神仙思想の影響下にある鏡の出土を、女王国の範囲と仮定する上では
水銀朱の存在は絶対無視出来ないのです。
神仙思想影響下にある点では、大量の桃の種もそれを補強する物でしょう。
もっとも鍵唐古でも以前から桃の種は少量確認されてますが、
これは昔から上流(つまり桜井方面)にあった桃の林の物と言われてましたが。
269 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 22:19:01.74
卑弥呼の鬼道=道家思想ってのは、まあある程度そうかな、とは思う。
天平の鎮護仏教みたく、国を治めるのに道教を利用したんだろう。
五斗米道や太平道のように、地球的規模の寒冷化で凶作が続く世情、倭国でも民衆の心を上手く掴めたんだと思う。
270 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 22:23:43.98
考古学における(絶対)年代観は、実は結構曖昧ないし流動的な基盤に基づいている。
マキムクの出土物や遺構にしても、古墳にしても絶対年代はいまだ確定していない。したがって、これらを
倭人伝と結びつけて議論することは不可能であり、無意味でもある。
>>269 祭祀跡はむしろ東盟祭との関連を指摘されているのに道教かよ。
邪馬台国ありきの恣意的な結論だろ。
272 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 23:10:37.84
>>271 まあ確かに、道教決めつけは学問的ではない。
しかし、神獣鏡の倭人の愛好ぶりや、倭人伝で鬼道とはっきり書いてあると、
やっぱり中国の影響が強いのかと思ってしまうんだよね。
特にマキムク王権は、公孫氏との親密関係、箸墓を漢尺で設計してることからも
中国からの渡来人の影響を強く受けてると思う。
273 :
水銀厨:2011/03/08(火) 23:10:44.73
東盟祭と桃の種や鏡の神仙思想的文様、水銀朱の存在の関係が
一致し難い部分ではありますが。
道教は豊穣も祈祷するけどねえ。
まだまだ道教って言える段階じゃないと思う。
東盟祭は豚使うけど、(騎馬民族の高句麗だからね)
纏向では出てないよね。
ただ他のものが一致しすぎるくらいしてるね。穴に関しては。
275 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 23:41:18.17
高句麗も倭国も大体同じ位に建国してるだろうし、高句麗起源と言われてもな。
そもそも、東方に巨大な女性器(商=扶桑)があって、毎朝太陽を生み出してる、
てのは東アジア古層に属する太陽神話で、別に特異なものじゃないでしょ。
ちなみに太陽は西に沈む時に西の鬼女(西王母)にバリバリ喰われて、西の空を血で真っ赤に染めるんだけど。
高句麗と倭国の東方信仰がもっと古い時代に共通、とかなら分かるけどな。
276 :
水銀厨:2011/03/08(火) 23:53:51.82
まあ3世紀末時点では道教も初期段階ですからね。
277 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 00:08:16.59
そもそも、考古学者が専門バカ過ぎるんだよ。
せめて昨今の記紀神話研究の水準、比較神話学くらいは押さえておいて欲しいものだ。古代史を語る以上はね。
原田みたいに「アマテラスの墓を見つけた!」みたいな輩が出てこないように
>>275 祭祀土抗=大穴って事で、誰もそんな大雑把な話してないw
279 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 00:25:53.06
>>278 大ざっぱですか、ふーんw
逆に訊きたいですけど、高句麗の東盟祭って、考古学的にどういったものか確認出来てるんですか?
文献とかではなく。
比較神話学とか持ち出すバカはほっとけ。
281 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 00:52:26.04
馬鹿は、専門バカの人でしょ。
比較神話学の何を知ってるの?きちんと本を読んでから批判してるんだろうな、無能
むしろ考古学者は経済学をやるべき。当時の交易の実態が何も見えてこないのは
このあたりの推論を考古学者ができないせいもある。
283 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 01:17:58.51
>>282 いや、私が言いたいのは、神話学を知らないばっかりに、安易に記紀神話に史実を求めてしまう怖さについてなんだよ。
原田大六やその弟子の柳田。森浩一など。いわゆる東遷説、神武の亡霊に取り憑かれた仮説。
広い意味では寺沢もその影響下にあると思われる。
確かに、戦後までの大和中心史観に風穴を開けたという意味では、歴史的意義はあったんだろうけど。
考古学に記紀を織り込んではいけないだけだよ。
神話に歴史的事実が反映されているか探求するのは、
それはそれで意義のある学問。
ただしこのスレでは扱わない。
邪馬台国も。
286 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 01:43:51.72
神話に史実や神話成立当時の社会状況を求める学問、それを神話学という。
要は神話学を知らない一部の考古学者が、「安易に」神話を史実と考えてしまう害悪が大きい。
比較神話学を勉強すれば、天孫降臨にしても広く北方民族に伝わるありふれた始祖王伝承だと分かるし。
広く伝わったで終わらずに、関連があるのかどうか調べるのが学問だけどね。
反論の意味が分からん。
>>283 まあ言いたいことは判るし、ある意味同意の部分もあるが
ほとんどの考古学者の記紀神話と絡める部分は、単なるリップサービスだと思うぞ
それと柳田は東遷ではなく伊都国影響説、つまり纏向黎明期から強い影響を持っていたという
北部九州参加の前倒しみたいな考え方だと思う
リップサービスに絡めて言えば
現在九州の調査・発掘現場は悲惨の一言みたいだね
九州説が下火になるに連れて自治体の予算は縮小の一途だし
地権者の無償協力も難しくなっている
まさに邪馬台国という打ち出の小槌の魔力が消えかかっているせいでね
関連スレでもよく言われるように、まともな九州説が現れて持ち帰してくれないと
このままずるずると、弥生古墳期の重要遺跡が再調査されないままに終わってしまいそうな危惧がある
291 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 22:09:38.80
邪馬台国は客寄せパンダとして最高なんだろうけど
卑弥呼=アマテラスとか、ロマン感じるよね。
柳田さんも大分軟化してきたんだ。昔は筑紫の副葬品で三種の神器がセットで出ることから、伊都国東遷を熱っぽく主張してたんだけど
この学問は金にならんからな
293 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 23:03:02.37
>>289 今も俺の記憶の残る柳田センセイの強烈な一言wwwwwww
『長らく邪馬台国を弥生時代としてきた考古学者の大罪』
>>290 まあ「まともな九州説」と言えば要するに偽僭説的なものになると思うが
(それなら現在の考古学的資料になんら反することはない)
それだとかつて九州に一大勢力がありそれが後に大和朝廷の祖となった
…みたいな壮大なお話よりはスケールダウンしちゃうからなw
そこで大衆の興味・テンションもかなり下がるんジャマイカ?wwwww
>>291 >柳田さんも大分軟化してきたんだ。
できれば詳しく…
市販の図書を幾つか読んだ印象でしかないけど
柳田と言えばそれが「三種の神器」か「銅鏡単品」かは別にして
副葬品体系が九州から大和に引き継がれた−その連続性が評価されていないことについて
結構不満を持っていると言う印象なんだがwww
>>283 そもそも、その神話学自体、かなり
怪しい学問だよ。
世界各地で類似の神話があるにも関わらず、あくまで日本オリジナル、ましてや史実、とか言うよりはマシだと思うよ。
歴史学、神話学、考古学
全て社会科学の分野であり
自然科学の分野ではない。
>>294 九州→ヤマトと言っているの?
九州から西日本全域に伝搬でなく?
299 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 23:24:01.97
このスレでは、畿内自生説が優勢なんですね。
いわゆる邪馬台国九州説で、マキムク王権と邪馬台国は別国で、
記紀でいうところの景行の頃に西征があり、筑紫が屈服、那珂八幡が築造される。
その後、半島情勢が緊迫化するにつれ、筑紫勢力による揺り戻しがあり、
それが応神東征伝承として語られてる。
二皇子を伐ち、新たな王権を樹立、
畿内王タラシ彦の忘れ形見を名乗るホムダワケが王家を乗っ取って、即位。
神武のモデルとなる。
>>1見れば分かるように共立派が多い。
ただ北九州はそれほど重要視されてない。
おまえら、あの時代の漢文の「共立」の意味や使われ方
ちゃんと知っているのか?
どうも、世間の考古学者のオッサンやらは、
あの「共立」を、現在の日本語での「共立」という言葉の解釈で
物事を考えすぎだw
>神話学
そもそも
「(邪馬台国ブーム下での大衆や様々な分野の人間を巻き込んでの)邪馬台国論争」
自体が20世紀の神話みたいなもんだからなwww
実際、考古学者や文献史学者がどれほど比較神話学とかを認知しているのかは知らないが
岩戸隠れ神話が広く東南アジアに類型が見られ、天孫降臨神話は北東アジア系
国生み神話あたりだと南太平洋にすら類型が見られる…なんて(俺でも知っている)お話は流石に知らないはずはないと思う。
「餅は餅屋」じゃないが神話を扱うなら先ず神話学だろう。
もう一般教養常識レベルのお話。
それを知っていてあえて岩戸隠れを史実に重ねるなら
(神話の原型が元からありそこに後世史実を仮託した…という形ではなく
あくまで史実を元にその神話ができたと言うなら)
某心理学者はもう詐欺ペテンの類だと思う。
まあこの手の話は邪馬台国スレで散々やっているから
このスレでやることもないが…
303 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 03:03:30.35
>>301 ゴミクズはゴミ箱に帰れ。
邪馬台国論争でオツムイッパイイッパイなんだろうが
この場合の「共立」は事倭人伝の記載に限らない。
纏向のありよう自体が「共立」と言う語に結びつく。
そこに卑弥呼がいたのかどうかに関わらず
そこにオウがいたなら神輿の如く担がれたオウであろうと言うのがその趣旨。
>>299 >このスレでは、畿内自生説が優勢なんですね。
有力と言うかよほど確たる根拠がなければ外部から東遷(or西遷)した勢力によってヤマト纏向が建てられた
…なんてシナリオには乗れないというのが少なくとも俺個人の立場w
もっぱら出てくる根拠は”大型古墳の出現に結びつく前段階の欠如”だが
そもそもそんなものは必要ないと思う。
同じような例えを繰り返して芸がないがw
例えば現在成長著しい後進国が新たに自動車産業に乗り出す時
T型フォードやそれ以前のクラシックカーから造り始めなければならないのか?
あるいは航空機産業に乗り出す時ライト兄弟が乗り込んだような複葉機から始めなければならないのか?
無論その時代から変わらない基礎理論の習得は必須だがそれは先行する国から学べばよい
一から自力で築く必要はない、ヤマトで言えば吉備だの出雲だの既に大型首長墓の出現に漕ぎ着けた”成功例”がある。
そこから学べばよいだけの話だ。
東遷説で言えば
大型首長墓の祭祀にシフトしなかった九州は論外。
吉備にしても楯築をあげるなら「じゃあなぜ双方墳でなくて前方後円墳だったのか?」とか何より
「何故瀬戸内に面した河内でもなく内陸のヤマトに来なければならなかったのか?」と言う根本的な問題があるwww
…ところで今更聞くのも何なんだがw
そもそも「自生説」なる語は誰がいつどう言う経緯で使い出したのか?
誰か簡単にレクチャーして頂けるとありがたい…
まあ「聞くは一時の恥知らぬは一生の恥」と言うことでwwwww
>>302 天孫降臨という思想は、北東アジア的な発想かもしれんが、
普通に、皇室の祖先のニニギ命が、日向に派遣されたんだろう?
その行動を、天から日向に降臨したという。
わかりやすく言えば、徳川家康が息子の徳川頼宣を紀伊の国に降臨させた
といったようなもんかw
じゃ、どこから、日向にニニギ命は派遣されたのか?
それは、高天山がそびえたつ葛城地方から
九州南部の高千穂に地方官として派遣されたというのが正解だろう?
高天の原の高天とは、いまでも、奈良県御所市高天に地名が残っている。
ここの領主は、のちの世も高天彦というふうに呼ばれ
いまでも、高天彦神社という名神大社として残っている。
>>303 やれやれ...
同時期の中国の歴史書に登場する「共立」という単語、
これらは、全て、
『ある王朝内で家督争いが起こって、その王家の家臣が話し合って
次期皇帝・国王を選出した』場合において
「共立」したと使っている。
このことから、卑弥呼の一族は、卑弥呼によって始まったのではなく
卑弥呼よりも以前、倭国大乱が起こる前から
卑弥呼の一族は、倭王の地位にあったことが分る。
つまり、卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱とは
同じ王家内部での王位継承争いだったことが分る。
のちの世で例えるのなら、南北朝の動乱や、応仁の乱に似ていると言えば良いか。
実際に、魏志倭人伝では、もともと、邪馬台国は男の王によって建国され
その男王たちによって継承されていたのが、やがて倭国大乱が起こり
女王卑弥呼を擁立して鎮まったとある。
少なくとも、魏志倭人伝の著者は、この男王たちと卑弥呼を同じ王家だとみなしている。
だからこそ、卑弥呼が「共立」されたと記載している。
もし、卑弥呼が前の倭王たちと全く赤の他人ならば、そこで革命が起こって
新しい国家が誕生したとみなし、卑弥呼が「共立」されたとは記載しないし、
また、もともと、この国は男王によって建国されたとは書かない。
なぜなら、革命が起こったのなら、男王の国と卑弥呼の国を別の国と分けて書くはずだから。
>>306 倭人伝が「正確に」倭国の状況を記していたかを確かめる術がないのに何を行ってるんだか
当時の中国における「共立」の意味なんて全く価値がない
彼らは君の言うように状況を理解したからその言葉を使ったに過ぎない
それが間違い無く事実を指している根拠などまるでない
まさに、やれやれだ
>>307 調べてなかったんだな、君は...
「共立」がどういう使われ方していたか。
中国の使者は、卑弥呼のことを邪馬台国王朝の初代国王とは認識していない。
卑弥呼の王朝を建国したのは、倭国大乱よりずっと前にいた
男王であり、その後、この王朝はずっと男王により継承されてきた。
が、倭国大乱が起こり、臨時で女王卑弥呼を共立することで、この争いは鎮まった。
倭国大乱とは王位継承戦争。
たとえるのなら、中世において、皇位を巡って争った南北朝の動乱や
将軍職を争った応仁の乱みたいなもん。
>>304 >例えば現在成長著しい後進国が新たに自動車産業に乗り出す時
T型フォードやそれ以前のクラシックカーから造り始めなければならないのか?
あるいは航空機産業に乗り出す時ライト兄弟が乗り込んだような複葉機から始めなければならないのか?
古代と現在で情報のスピードが違うし簡単に比較は難しいと思うけど、後進国で先進国を上まわる技術、品質で
自動車や飛行機をいきなり作れると思えないなあ。やはり先進国より時代の遅れたものからスタートしてって
感じだと思う。
>東遷説で言えば
大型首長墓の祭祀にシフトしなかった九州は論外。
吉備にしても楯築をあげるなら「じゃあなぜ双方墳でなくて前方後円墳だったのか?」とか何より
「何故瀬戸内に面した河内でもなく内陸のヤマトに来なければならなかったのか?」と言う根本的な問題があるwww
前方後円墳に関していえば、もともとは半島から渡来した人々によって作られた積み石塚がベースでしょう。これらは
おおよそ讃岐、播磨、纒向の順で並んでいるように思う。それからヤマトを選んだ理由を簡単に、あくまで個人的な考えだけど
出雲を避けて吉備の行動範囲の中で最も安全な場所が奈良盆地だったからじゃないかと思う。
なぜ例える必要があるのだろう。
上にもよくわからん例えを乱発している人がいるけども。
前に歴史雑誌かなんかで、偉い教授さんがいうのは、
倭国大乱って、どういう内乱だったか規模や内容が全く分らないのに
多くの人が思い込みで物事を語っていると言っていたな。
その多くが、倭国大乱を西日本全域の小国家の分裂状態をイメージする人が多いけど
その偉い学者さんいわく、ヤマト王権内部の権力闘争ぐらいじゃないかって。
>>309 石塚の墓なんて、世界どこでもあるだろうがw
まあ、前方後円墳は日本の纏向遺跡が発祥地だろうがな。
前方後円墳を作ったのは、ヤマト盆地の勢力だよ。
大和盆地の勢力が主導して、
彼らは支配下に置いていた九州から東北南部の全域から
労働者を集めて作ったんだろう?
ちょうど、大阪城や江戸城を作るのに
日本全域から人を集めてくるのと一緒。
>>306 > このことから・・・卑弥呼の一族は、倭王の地位にあったことが分る。
考古学的にこの時期の首長権は世襲制より、
有力者によって引き継がれていたとする見方が有力。
また、中国史書にある他の「共立」例が世襲にもとづく内紛だといえるのはそれが明記されているからだ。
しかし倭人伝では、卑弥呼は「一女子」とあり、その出身は不明。
むしろ他例と違い、一族以外なのだと断りをいれているとも受け取れる。
このような曖昧な事柄から史実を組み立てることは避けるのが当然。
倭人伝の「共立」と他の用例を参照して認められることは、
それが首長権のスムーズな引継ぎではなく政権の構成メンバーによる擁立だったという点である。
「このことからわかる」、などというのは、自説の立場からの牽強附会による解釈にすぎない。
>>314 >考古学的にこの時期の首長権は世襲制より、
>有力者によって引き継がれていたとする見方が有力。
それが誤りなのさw
考古学的に何が分ると言うんだいwww
それえこそ、例のゴッドハンド事件と同じだよ。
土器や遺物見ただけで、その当時の王権の制度まで分るかよww
にもかわかわらず、考古学的に...って言い方する馬鹿ものが多過ぎる。
>>314 一応、中国思想では、易姓革命が起こったら、そこで国号が変わるんだよ。
王莽が皇帝になったら、そこで、漢から新に王朝が変わる。
新しい別の国家が誕生したと解釈される。
しかしながら、魏志倭人伝によると
卑弥呼の国に関して、ずっと前に男王によって建国されたと、わざわざ書いている。
また、卑弥呼の死後も、卑弥呼の一族の台与が倭王になっていることから
卑弥呼の一族は、王統を受け継ぐ家系だったことが読み取れる。
>>315>>316 どうしてそれがわかるのか、も知らないのなら考古学に口をはさむのはやめたら?
「共立」の用例で世襲以外のものは卑弥呼の場合だけではない。自分でも調べてみたら?
>>317 いいや、「共立」は世襲の場合だけ。
中国でも、日本でも、次期皇帝の地位は基本的に
前皇帝の推薦で決まるもの。
しかし、まれに、お家騒動などで、それで決まらない場合があり、その場合、
家臣らの話し合いで共立した形をとる。
箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば
卑弥呼の正体は、ヤマトトトヒモモソ媛命。
だとしたら、倭国大乱って、欠史八代の時代あたりで起こったことになる。
320 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 23:15:22.72
ぶっちゃけ、前方後円墳祭祀を共通の祖霊崇拝にした時点で、
西日本倭国は神話や始祖王ハツクニシラス伝承を生み出して同族化してる訳だから。
共立厨の言ってることは的外れだろ
321 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 23:17:31.09
>>306 「やれやれ」とはこっちの台詞だゴミ。
その能書きは畿内説が根拠として倭人伝の共立をもってきたときにしろクズ。
「中国史書における”共立”とはそう言う意味じゃない」とな。
少しはスレによって頭を切り替えろ馬鹿者。
欠史八代のあたりで倭国大乱があり
卑弥呼(モモソ媛命)が臨時的に女王になった。
そして、平安時代、京都朝廷は
海部氏や尾張氏に対して、欠史八代の時代あたりの
尾張氏の先祖について詳しく書くなと脅していた。
つまり、倭国大乱の時代に
皇室と尾張氏・海部氏の先祖の間で何かがあり、
皇室の先祖の兄妹にあたりモモソ媛命が倭王として共立された。
そういうことではないのか?
323 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 23:56:57.03
そもそも
>>299-300 を見ればわかるが
ここで出てきている「共立」とは卑弥呼の共立ではなく
纏向を諸勢力がともに立ち上げた…というもの。
この共立厨(いつもの「恨み節東遷厨かな?この共立のネタにしても過去に聞いた記憶があるがw)は
なんとかイチャモンつけたくてアタマイッパイイッパイなんだろうが
倭人伝と被る単語は一々「倭人伝中の中国語ではなくて日本語としての…」と断らねばならないのか?
はっきり言えば九州に邪馬台国があったとしても
「纏向が諸勢力によって共立された、立ち上げられた」
と言う説には影響がない。
九州邪馬台国の卑弥呼の共立と纏向(のオウ)の共立は別で存在しうる。
…ったく脊髄反射の馬鹿はいい加減にしろと。
律令体制下の日本では、中国の方式にならって
一人の天皇を頂点としたピラミッド式の体制を良しとした。
しかしながら、律令体制導入前の日本では、それとは別の体制が
かつて存在していた。
その体制の名残が、律令体制後にも残っていた。
ひとつが、天皇の直属の官僚制度で、
祭祀を行う神祇官と、政治を行う太政官と、二つ併存していたということ。
律令体制では、神祇官を大中臣氏(藤原不比等の従兄弟の子孫)、
太政官を藤原氏(藤原不比等の子孫)が支配した。
そして、もうひとつが、天皇とは別に斎宮が代理で、伊勢で天照を祭っていたこと。
つまり、日本の本来の体制では、宗教上の権威と
政治上の権力が二つ並び立つ二元体制をしいていた。
おそらく、卑弥呼の時代も、この二元体制をしいていたはず。
祭祀を行う宗教の最高権威が倭王とされ
別に政治上の最高権力者もいたはず。
欠史八代の天皇にあたる人物たちは、政治上の最高権力者のひほうだったと思われる。
>>318 > 日本でも、次期皇帝の地位は基本的に
> 前皇帝の推薦で決まるもの。
はあ?
326 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 09:11:18.24
卑弥呼=モモソ媛命だとしたら、
倭国大乱前の邪馬台国出身で倭国を建国した男王は、
天火明命のことで、これは紀元元年前後の人でしょう?
邪馬台国(ヤマト国)は、この火明命によって建国された。
スレ違いです。
328 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 05:51:43.19
>>313 まあ、前方後円墳は日本の纏向遺跡が発祥地だろうがな。
> 前方後円墳を作ったのは、ヤマト盆地の勢力だよ。
前方後円墳のルーツは讃岐にある。
弥生時代中期には積石塚が現れ、営々と古墳時代まで続く。
その積石塚から前方後円墳が生まれる。
讃岐の古墳は極めて多様な古墳が多いのが特徴なのだ。
円墳や方墳、前方後円墳、前方後方墳、双方中円墳、等々。その多様性こそ発祥地である事を示している。
その中から前方後円墳が古代人に特に好まれて東の方に伝搬して阿波に伝わり、さらに奈良盆地に伝わったと思われる。
いきなり奈良盆地に前方後円墳が生まれたのではない。
何でも邪馬台国を奈良県にもって行きたいトンデモ学者が奈良邪馬台国神話を作ったと考えた方が良い。
畿内に統一王朝を作ったのは応神のころ。
神武東征神話は九州に生まれた応神が畿内を攻略した事を投影しているのだろう。
329 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 13:57:31.61
>>328 >神武東征神話は九州に生まれた応神が畿内を攻略した事を投影しているのだろう。
わざわざ、そんなこと投影する意味が分らないw
なぜ、そんな面倒くさいことしなきゃいけないのかw?
もう、九州説はアウトだよw
九州説はスレ違いだよ。
そもそも邪馬台国がスレ違いなんだから。
地震の話題スルーなのねここw
その日本史オタクっぷりに感服いたしました。
オタクとか関係なく、スレ違いだからね。
334 :
日本@名無史さん:2011/03/18(金) 23:34:17.57
>>324 琉球の聞得大君なんかは、日本古来のヒコヒメ制、二元体制の風習をよく残してると思う。
スサノヲとアマテラスが合同政権を打ち立てたのが、卑弥呼であり、前方後円墳体制。
母系社会(大和、東海)と父系社会(筑紫、出雲)の争いがあって、対等合併があったのがマキムク。
応神仁徳の頃に高句麗との全面戦争に突入して、軍事の指導者である父系が有利になる。
継体の頃、再度母系の揺り戻しがあって、記紀の記述に落ち着く。
紀の記述で、アマテラス、スサノヲのウケイの結果がいろいろと違うのも、父系と母系の手綱の引っ張り合いの混乱があったため。
天武系の頃は母系がやや優勢。
天智系の白壁王が皇位につき、式家が井上内親王を謀殺したあたりで父系が逆転する。
>>318 前大王が次大王を指名するのは天武持統朝以降の話でしょう。
335 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 03:19:36.93
>>334 日本はずっと父系優先だよw
中世以降、家制度のおかげで、母系的な継承も出てきたけど
基本、母系継承が行われた場合は
血統が変わったと認識されていた。
あと、アマテラスは、もともとは
男神のアマテルだったという説があるぐらいだ。
336 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 03:21:42.63
>>334 >
>>318 >前大王が次大王を指名するのは天武持統朝以降の話でしょう。
魏志倭人伝の著者たちは、三国時代の中国人たち。
彼らの世界観で、倭国をみている。
337 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 03:38:04.62
>>334 卑弥呼は一時的な女王。
倭国を建国したのは男王で、ずっと男王の時代が続いていた。
この男王も、卑弥呼と同じ祭祀王だったと思うので
おそらく、倭国では、倭王(祭祀王)とオトウト(俗世王)の二元体制だろうが、
そのどちらも男子によって継承されていたと思うよ。
よく似ている体制としては、室町時代の
天皇(祭祀王)と足利将軍(俗世王)の関係に似ている。
338 :
日本@名無史さん:2011/03/21(月) 17:44:27.75
七支刀が物部氏の石上神社から出土している。
同刀の銘文により、卑弥呼の死後100年を経た350年頃には既に倭は百済と交流していた。
なぜ、石上神社から出土したのだろうか。
339 :
日本@名無史さん:2011/03/21(月) 21:18:18.05
過疎ってるんで、記紀の話でも書かせてもらおうかw
紀の編者も、古代天皇の実年代推定には相当苦労したようで、
神功紀にある七支刀を送った百済照古王は、正しくは四世紀の近肖古王なのに、三世紀の肖古王と勘違いしている。干支二巡120年前のことと間違えて記載した。
だから卑弥呼=神功皇后ということになる。
紀の編者が意図的にやったのかどうかは分からないが、編纂過程で朝鮮、中国の史書と古代天皇の事績をすり合わせるのに苦労したようだ。
おそらくは、応神より前の天皇、崇神〜仲哀で、半島や中国とまともに外交関係をもっていた天皇などいなかったのだ。
もともと畿内マキムク王権は、大陸との外交関係なんかは全然なくて、せいぜい西新町で交易に参加していた程度。当時の外交記録なんて当然残っていなかった、ということ。それの為の混乱なんだろう。
これは三角縁国産説にも符合する。中国と直接外交関係になかったからこそ、景初四年銘の鏡なんてものが存在してしまう。
340 :
日本@名無史さん:2011/03/21(月) 21:46:43.14
倭人伝にある邪馬台国とは、やはり筑紫に本拠を置いたヒラバル王墓に連なる王権だったのではないか、と思う。
狗奴国=マキムク(吉備大和中河内東海大連合)に対抗するため、女王を共立して連合、中国皇帝の権威で復権を図る。
決着はつかず、冷戦状態が続く。
四世紀末、高句麗南下の国家存亡の時に挙国一致体制が求められ、ホムダワケが両国を統べる大王に即位、邪馬台・狗奴国の連合がなる。
吉備の車塚は前方後方墳、出土した三角縁は紀年鏡ではない。
内行花文鏡1面、画文帯神獣鏡1面、三角縁神獣鏡11面という比率。
342 :
日本@名無史さん:2011/03/21(月) 23:01:14.12
>>339 そんなことはないと思う。
ただ、日本書紀の編纂者は、古代の暦う数え方の違いを考慮せず
古代の天皇の寿命の長さを補正せずに、そのまま記そうとしているから
歴史を遡れば遡るほど、外国との記述の間に
まるで整合性取れなくなってしまったつーのが本当のところだろう?
それで、いろいろ年代の改竄しなきゃいけなくなった。
で、まずます、内容がぐちゃぐちゃになっている。
343 :
日本@名無史さん:2011/03/21(月) 23:59:16.08
>>340 そう、纏向は西は吉備、東は東海までを含めた緩やかな連合体国家であったろう。
これは、3世紀半ばの邪馬台国とは全くの別物。
邪馬台国は北中部九州に限定した、しょぼい30ケ国の連合体のこと。
344 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 00:55:37.84
>>343 なぜ、いまだに、その説にこだわる。
ようするに、天皇家の先祖が邪馬台国だと
中国の皇帝に朝貢したみたいになるのが嫌なのか?
本居宣長の國学思想の影響を強く受けているのか?
>邪馬台国は北中部九州に限定した、しょぼい30ケ国の連合体のこと。
これは戸数の話で既に不可能ですよ。
ま、スレ違いだな。
346 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 01:42:58.21
>>343 その言い方を見ると、もともと邪馬台国近畿論者だな。
やっと、負けを認めたか。
しかし、自分のこれまでの間違いを、他者のせいにしてはいけない。
自分が、学者として、どういう態度(客観性・公正さ)に欠けていたから、
これまで真実へとたどり着くことが出来なかったのか、
「謙虚」に反省する態度が必要である。
347 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 01:47:40.47
348 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 08:07:38.50
刺青をするのは海人。稲作をするのは山人(ヤマト)。
海幸山幸の物語はヤマト朝廷が邪馬台国を屈服させた物語かもね。
349 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 08:54:57.77
前から思うんだけど
なぜ、邪馬台国=ヤマト国であることが
気にいらない奴がいいるんだ?
教えてくれ?
350 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 09:31:55.41
>>343 やっと、総てのピ−スが一つに繋がったようだね。
「お目覚め」おめでとう!
負けたとはいえ、すっきりしただろう!
でも、君は、まだ早い方だよ。
自分の頭の柔らかさを、誇りに思っていいよ。
これでやっと、学問が始められるね!
351 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 09:46:30.28
352 :
水銀厨:2011/03/22(火) 10:12:08.53
やっぱりどうしても邪馬台国の話から避けられないんだね。
魏志倭人伝関連話なら、やはり鉱物を産する山の記述は見逃せません。
丹=水銀朱は散々徳島や奈良南部が産地と言ってきました。
更にあまり触れられなかったのが不思議なんだけど、
二上山は有名な柘榴石の他、サファイヤの産地でもあります。
(今でも小さい物なら採取できます)
倭人伝の記述にある青玉を翡翠とする説もありますが、
中国における青玉とは本来サファイヤのはずなんだけどね。
スレ違い話ですいません。
>>348 人面埴輪見ると、内陸の人間も少なくとも4世紀くらいまでは、
顔に刺青をしていた可能性が高い。下手すりゃ5世紀まで下る。
354 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 22:26:56.28
邪馬台がヤマトと読めることから、普通に考えれば畿内説になるんだけど。
人口七万戸とかは過大申告だと考えても、径百余歩の塚、なんてのは完全に古墳だしなあ。
一部東遷説が言う、古墳時代の始まりを四世紀に持ってくる実年代は時代遅れになってるんだろうとは思う。
355 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 22:36:21.72
箸墓は4世紀末だし、纏向は黄泉の国だよ。
人は住まず、墓だけがある。www
何の根拠も無い話だなw
357 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 22:48:46.56
纏向に人が住んでいなかったのは事実だろう。
墓と大きな掘立小屋があるだけ。
358 :
ローガン:2011/03/22(火) 22:50:29.23
>>352 小学生の頃の遠足がどんづる峰でした。「ここらは宝石があるんやで」って大人に云われて
草むらの中でキラリ と光ったので取り上げたら プラッシーの王冠だった。
359 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 23:12:02.76
>>358 私も小学生の頃、よく自転車でどんづる峰の洞窟探検に
行ってました。
皆どんづる峰の近所なのか?
俺も昔よく洞窟探検に行ってたがw
今はもうガスが発生したり自殺者がいたりして入れないらしい。
361 :
水銀厨:2011/03/23(水) 01:14:32.55
>>358 今でも博物館が夏休みとか宝探しのイベントやってるよ。
私も昔どんづる近くの採石場の横にある林で腐葉土を掘ったら
カブトムシの幼虫を大量に発見。
多分業者が勝手に飼育してたんだろうか?
362 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 01:56:13.62
日本の農耕が遅くとも4000年前ぐらいには始まっていたとしたら、
魏志倭人伝に記載されている戸数は、別に不自然ではない。
となると、古墳時代になって、それ以前とは
特別、人口増など起こってなかったことになる。
農耕時代の人口増加は緩やかだったのは世界的な常識。
となると、日本の古代史は、日本の考古学者の信憑性の薄い土器編年なる
数字を踊らされてきたことになる。
363 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 01:57:47.96
>>357 巻向にあった建築物は
身分の高い人が居住するような高床式のものが多かったということだろう?
一般庶民の竪穴式住居は少なかった。
364 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 14:03:45.62
このスレは葛城地方出身者が多いのか。
私も子どもの頃は屯鶴峰によく遊びに行っていた。
365 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 18:50:01.41
>>363 違うな。
高床式でも人が生活するための建物ではないと言う事は整然と並んだ柱で判る。
人が生活するなら居間、寝室、台所、厠、風呂などそれぞれに違った間取りが設定されていなければならない。
何かの行事をする為とか、一時的な寝泊まりとかの施設としか考えらえない。
>一般庶民の竪穴式住居は少なかった。
少ないのではなく殆んど無いだろ。
366 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 18:58:02.09
>>363 全くの見当はずれ。あれは箸墓築造に関連する建物跡である。しかも、考古学者の考えている(とされる)時代は古すぎる。
4世紀のものだ。東西を意識した建物の配置などは3世紀のものではない。
367 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 19:56:37.48
ここの連中は現実から目を背け妄想の中に暮らしているな。
369 :
日本@名無史さん:2011/03/23(水) 21:30:08.03
>>365 >人が生活するなら居間、寝室、台所、厠、風呂などそれぞれに違った間取りが設定されていなければならない。
で、実際にそのような間取りがされた住居跡って何処にあるんだ?
具体的に事例を挙げてくれ。
千里とか堺に五階建てのがあるね
奈良だったら平城www
居間と寝室って別れてるのか?
後の3つは戸外もしくは存在しない
371 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 09:45:50.23
日々日々、追い込まれているのが分る
邪馬台国九州説が。
ここ数年でも、その傾向がどんどん強まっている。
372 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 16:12:40.52
>>371 >日々日々、追い込まれているのが分る
>邪馬台国九州説が。
こいつ官房と現実の区別がつかなくなってやがる。
373 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 11:59:16.76
いやいや、正しい認識の方でしょう
374 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 18:06:19.75
このスレではなかったかも知れませんが、畿内説は屁のようなものだと言った人がいましたね。声はすれども姿は見えず。
言い得て妙ですね。
375 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 14:58:28.97
>>345 >>354 考えてごらん。
「奴国2万戸、水行二十日、投馬国5万戸、水行十日陸行一月、邪馬台国7万戸」
(北部九州から「出雲」を通って「大和」朝廷までの日本海ルート)
この1文が、
もともと「魏略」にはない、倭人(大和朝廷)からの新情報が、
女王国(北部九州)の記事に誤入されたものだったとしたら。
(「名前が邪馬台(ヤマト)だから」
「人口が7万戸だから」
という理由だけでは、畿内説の根拠にはならないよ)
総てが一つに繋がらないかい?
(常識的な「瀬戸内海ルート」ではなく、遠回りな「日本海ルート」であることに注意!)
(別の勢力が関門海峡を封鎖していた?)
376 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 22:01:34.90
>>374 いやむしろ、九州説の方が、邪馬台国比定地もバラバラで、もう少し何とかならないか?と思うが。
殆どが僕は倭人伝をこう読み解きました!的なものばかりで辟易する。
広域王権だったであろう邪馬台国がどこにあって、その考古学的根拠はこれ。威信財の分布状況とか、もう少しまともな論説を聴きたいもんだ。
377 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 00:16:53.43
むしろ、畿内説が巻向で一本化されているのが、むしろ不自然だと思う。
そもそも巻向にたどり着く方法がないのに、なぜ巻向と主張するのかには、
かなりの政治的な力を感じるのだが。
邪馬台国かぶれの人間には不自然にみえるかもしれんが、大和王権を考える人間には
自然なこと。
379 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 09:18:22.30
皇国史観の人間にとって邪馬台国は巻向でなければ絶対にならないのです。
380 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 11:31:20.73
>>379 そのレッテルはりは通用しないw
なぜなら、皇国史観の元凶の本居宣長こそが
邪馬台国九州説をぶちまけたからw
むしろ、皇国史観反対していた笠原氏のほうが、
邪馬台国ヤマト説だったのが、歴史の皮肉w
381 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 22:16:41.80
もうはっきり言っちゃえば、邪馬台国の候補地は絞られてきてるんだよな。
筑紫、吉備、出雲、大和、東海。
あと阿波、讃岐、播磨あたりが次に続く感じ。
宇佐、西都原は流石にないだろう。
382 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 22:02:35.64
邪馬台国九州説で考古学的根拠を探せば、弥生後期の広形銅矛の威信財体系ぐらいしかない。
弥生中期以降王権が次々誕生していたであろう玄界灘グループのどこか?に邪馬台国があったことになると思う。
畿内説はマキムク一択だが、実は九州説も考古学的には一択だろう。
広形銅矛以外で、広域な政治的結びつきを思わせる考古学的物証が、九州には存在しない。
筑紫説以外は、まずその弱点をどう克服するのか?
383 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 11:06:03.78
>広域な政治的結びつき
九州内なら、広域を考える必要がない。
384 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 22:09:23.88
九州内ですら統一的な政治的まとまりを想定出来ない時点でダメでしょう。
例えば邪馬台国=西都原だとして、日向から筑紫に至る広域政体が想定出来るような考古資料、
威信財体系などがあるのか?ということ。
385 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 22:52:07.08
>例えば邪馬台国=西都原だとして、日向から筑紫に至る広域政体が想定出来るような考古資料、
>威信財体系などがあるのか?ということ。
広域政体とは何か?よく分らない言葉だね。一国が多数の国を支配するのに威信財体系など必要ないだろう。訓練された軍隊と
優秀な武器と戦略があればよい。あるいは、進んだ官僚機構と行政手腕があればよい。武器くらいは考古資料として残るかも知
れないが、軍隊や戦略や官僚機構や行政手腕などは残りようもないだろう。
386 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 00:03:27.12
九州内はどう見ても統一的な支配体系が見いだせない。
博多春日や吉野ケ里、糸島、佐賀総座、筑後大和など、それぞれで完結している印象。
そういった政治形態を侵せば戦争になる。
政治形態を犯さない合同連絡会として、実質的に無害な宗教的象徴の卑弥呼が
擁立されたのではないか。
だから広域的な支配形態の痕跡はないと言える。
そういえば、古墳時代6世紀とされる円墳が佐賀の金立SAのちょっと北にあった。
古墳名は忘れたがぐぐるあ-すでも見える。
その頃はこのあたりはまだ前方後円墳勢力の支配下にはなかったらしい。
吉野ヶ里でも様々な地域の土器が出土してる=交流はあったのだと思う
卑弥呼も本当に女王なのかもわからない。シャーマンの可能性もあると思う
ただ大規模環濠集落が全国各地にあるから倭国大乱は全国規模と考えた方が妥当か・・・
まぁ普通に邪馬台国と大和王権は別物と考えた方がいいとは思うけど
>>386 前期後半には△が出てるって。
その頃既に畿内の影響下。
389 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 16:29:29.13
邪馬台国=ヤマト国だよ、どうみても。
吉野ヶ里のあたりは、米多国(メタ国)というふうにいわれていて、
これは旧事本紀の国造本紀にも記載されているし、
あのあたりには、今でもそういう地名がのこっている。
これは、西暦107年の倭の面土国(メタ国)の帥升で有名な
面土国のことでしょう?
390 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 16:33:05.33
西暦5年 東夷の王=高尾張(葛城)に居住する大倭王
西暦57年 倭の奴国王=博多の那の県に居住する地方豪族
西暦107年 倭の面土国王=米多国(吉野ヶ里付近)の地方豪族
391 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 16:47:08.08
北部九州、とくに福岡佐賀は、古墳の形態としても、
4世紀初頭の前方後円墳もあれば、5世紀、6世紀の円墳や方墳もある。
極めてごっちゃで、支配統一されていたような形跡がない。
さまざまな文化が入っていたのは確かだろうが、
それを一つに強制させる力はなかったようだ。
392 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 16:59:45.88
ただ単に畿内や他のところから人が移住して、
文化の担い手になったことはあるだろうが、
それは支配などというものではない。
新し物好きの豪族が、今までの祭祀よりよさげなら、
採用したところもあるといった程度だろう。
もちろん、絶対変えないという豪族もいただろう。
だから統一感がない。
393 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 18:46:06.45
歴史読本の邪馬台国特集で
魏志倭人伝から読み解く倭国の政治体制はすごく分りやすかった。
そこでも、祭祀王と世俗王の二元体制を
うまく図で説明してあった。
それとは別の章では
モモソ媛命=卑弥呼、台与=豊鋤入姫命
男弟=崇神天皇
って説についても言及してあった。
394 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 19:12:24.12
>>391 何を言っているんだ!
北中部九州は、大型甕棺墓の中に朱を塗る葬祭儀礼(=死生観)=宗教)を同じくする、
もともと不老不死を宗教とする、同族集団だったんだよ!
だから、弥生前期末〜中期初頭に、福岡平野から筑紫平野日田(ひた)まで、
一気に、一世代で広がったんだよ!
もともと「神仙思想」の「同族」集団だから、
若い「シャーマン」の卑弥呼を「共立(きょうりつ)」
することが出来たんだよ!
いつまで自己弁護しているんだよ!
「倭国大乱」は、甕棺墓族内の主導権争いだよ!
だから、弥生後期末の出雲地方に、急激に大量の鉄器が流入しているんだよ!
九州が内乱の隙に、出雲が独自に半島へのルート(宗像)を築いたのさ!
それを後に、大和王権(崇神朝時代)が征服して、「日本海ルート」が、大和王権の交易ルートとなり、そこから大量の鉄が大和王権にも流入するようになり、
景行天皇の兄が、千振りの鉄剣を作り、
景行朝の時期(3世紀末)に、台与の九州女王国は、
征服されたのさ!
395 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 19:31:53.49
倭国大乱とは、王位継承争い。
この場合の王位というのは、俗世王ではなく、
祭祀王の地位のほう。
畿内王権で初めて出雲を併合して天下をにぎったのは
ミマキイリ彦よりも十代以上前の時代。
ニニギ命の時代だ。その時に出雲国譲りがあった。
396 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 19:45:32.00
出雲は山陰で製鉄がおこなわれたから、
鉄器の産出量が多くなったのではないだろうか。
397 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 19:56:55.64
卑弥呼=モモソ媛命で仮定すれば
だいたいが、目安がつくだろう?
もともと、倭国は男王によって建国されたらしいが
その男王は出雲国譲りで天下をにぎった大倭王。
おそらく、天照国照彦のことだろう?
本名を火明(ホアカリ)という。
この火明には、ニニギという弟がいて、出雲国譲りで畿内王権が覇権をにぎった直後
九州高千穂統治を任される。
このニニギの曾孫がイワレ彦(神武天皇)であり、
その7代後にモモソ媛命(卑弥呼)がいる。
近畿説信者はなぜそこまで神話を重要視したがる・・・
そんなに皇室を正当化したいのか
399 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 20:43:08.94
>>398 九州説論者=本居宣長=國学思想=皇国史観。
九州説論者こそ、皇国史観の元凶。
また邪馬台国汚染が始まった。スレチなんだが。
401 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 21:41:36.24
所詮九州説の阿呆どもが畿内説だの纏向だのを批判しても
それで既に死体の九州説が息を吹き返すわけでもないんだがなw
402 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 21:42:59.30
九州は古墳時代以降、方形周溝墓が造られることから、
畿内勢力の傘下に入ったのは確かだろうね。
畿内王は、いち早く畿内側についた九州勢力にしか前方後円墳を造らせなかったんだろう。
404 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 22:40:41.85
ヤマト王権のやり口は山菱と同じで、地方首長同士の権力争いに積極的に介入して内部崩壊させ、
仲裁者として自らの地位を高める、といったもの。
ヤマト王権は広域連合=暴力団みたいなもので、その時一番羽振りのいい弘道会みたいな首長が大王に選ばれるといった形式だったと思う。
日本固有の責任の所在がはっきりしない体制。
三輪山麓に王権が誕生した頃は、奈良盆地東南部が権勢をもち、後に東海が力を増して磐余に大王墓が築かれ、二元体制になる。
高句麗南下に対応するため、四世紀末には筑紫が勢力を挽回し、吉備や毛野は国を分けられ弱体化。葛城王家は大悪大王と対立して滅ぼされてしまう。
その後、新羅百済の勃興で半島経営の旨味が少なくなり、征韓論が内治派に敗れ、東海越近江に基盤をもつオトドが大王に選ばれる。
磐井の乱は、征韓論側の一発逆転を狙った最後の反抗だろう。
つーか何でこのスレで【邪馬台国】を語るんだ?
専用スレが山ほどあるだろうから、そこに行けばいいのに
関係ないスレで九州説が悲鳴をあげるとか、みっともなさ過ぎ
406 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 23:33:19.41
>>386 >そういえば、古墳時代6世紀とされる円墳が佐賀の金立SAのちょっと北にあった。
>その頃はこのあたりはまだ前方後円墳勢力の支配下にはなかったらしい。
船塚、金立銚子塚を知らない考古学ど素人のタワゴト
407 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 00:20:38.70
>>406 ほう、川上の船塚を知っているとは
なかなか詳しいね。
多分前方後円墳の築山、ってのは知ってるかな?
銚子塚古墳は四世紀後半と比定されてるけど
その近くに六世紀の円墳があるのはふしぎだね。
408 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 06:52:42.31
今後は纏向遺跡のスレだから、すれ違いの話だが
倭国の歴史は、段階的に統一したのではない。
日本全体の歴史を見渡しても、統一、分裂、混乱をたえず
繰り返し。
太平の世が数百年続いたのは、徳川時代くらい。
>>407 その時代の円墳は全国的にめずらしくもなんともない。
410 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 15:29:30.32
>>409 そういうこと。
広域に墓制を強制できるような支配形態はなかったということだ。
それぞれが独立して、文化によっては受け入れ、あるいは受け入れなかった
ということだ。畿内なら畿内、九州なら九州で勝手にやっていた。
時たま交易はしただろうが。
支配していたといえるのは近隣のごく一部。
船塚、金立銚子塚はどちらも前方後円墳だな。円墳というのが何を指してるのか文意が
つかめないが、西都原のように各時代の墳墓が入り交じる墓域的な場所なら時代の異なる
古墳が近接していても不思議ではないだろう。
6世紀ともなれば古墳の持つ宗教的な神秘性は薄れていたし、政治的にも前方後円墳の
築造が権力を持つ側に許可され、設計法が供与されるといった時代ではない。
412 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 20:39:07.03
>>410 おまえ、魏志倭人伝よんでないだろう?
倭国では、邪馬台国(ヤマト国)は
北九州の伊都国に一大率設置して、諸国を監視していたんだぞ。
>>412 それが事実だとする比較文献や発掘結果がどこにある?
それより何より、ここは邪馬台国スレではない、巣に帰れ
414 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 02:38:25.50
>>408 ホントだよな
このスレだって纏向を語るスレなのに幾度と無く邪馬台国野郎に蹂躙されている
415 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 08:32:20.18
>>412 いい加減なことを言うな!
魏志倭人伝のどこに邪馬台国が
伊都国に一大率設置したなんて書いてある。
416 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 11:40:00.37
女王国は、伊都国に一大率を設置していたと
記載してあるな。
417 :
日本@名無史さん:2011/04/03(日) 18:28:58.01
女王国から北には、一大率を設置して伊都国で治めるとある。
邪馬台国とか女王国が伊都国に一大率を設置たとはないな。
418 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 02:02:47.60
「考古学だけで真実へたどりつける」と思っている人間と、
「文献と地図だけで邪馬台国にたどりつける」と思っている人間は、
「同病」である。
どちらも、真実にたどり着くことはできない。
考古学はどんどん資料が増えるけどねえ
420 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 07:37:33.03
大まかに見たら
考古学と文献史学と
中国文献と日本文献の間に
整合性がとれはじめているよ。
この時代の解明について、いっこうに見当違いのこと言っているのは
それぞれの資料についての原理主義者に多くて
細かい部分に焦点を当てすぎて、全体像見えていないやつ。
邪馬台国は俗っぽい名前だけど
纏向ってのはいいな、とても爽やかな感じがするよ
422 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 21:55:53.31
>>418 ていうか、考古学原理主義者は、実年代を言うことさえ嫌うぞ。常に土器編年でモノを言い、「実年代では考えたことがない」とさえ言ってる。
だから文献なんてまったく興味がなくて、邪馬台国なんて完全に無視。
考古学で邪馬台国を語ろうという人は、その時点で考古学原理主義じゃないよ。
423 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 15:00:09.20
>>422 ただな、なんだかんだいっても
考古学者は、その貧しい文献史学の知識で
邪馬台国の歴史を推理しているんだよ、実際には。
424 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 21:49:19.17
いやまあ、考古学に裏打ちされた推論なら傾聴に値するとは思うがな。
文献、つったって、同時代史料は外国人が書いた倭人伝一つしかない状況で、記紀や三国史記は編纂が数百年後だし、
どうしても重要度は低くなるだろう。
まずこれを認めてくれないと話にならないよ。
425 :
時事ネタに絡めてwww:2011/04/06(水) 03:15:05.48
しかし「王権輪番制」と言う言葉も今じゃあ随分説明しやすくなったんだろうなwww
426 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:46:41.83
>>425 王権輪番制? なんじゃ、そりゃw
歴史読本の邪馬台国特集は、すごく良かったよw
あれには、魏志倭人伝からみた、倭国の政治体制が図式化されていたが
祭祀王と俗世王が並立して記載されていた。
完全に、モモソ媛命と崇神天皇を意識している。
427 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:50:09.64
まあ、輪番制というよりは、神話や偉大な始祖王の伝承を共有化することで、
有力な部族同士が同族化し等しく王位継承権を持った、ということなんだろうけど。
欠史八代の事績の伝わらない天皇は、「自分たちの先祖は大王だった」という氏族が多くいて、
その主張を無視できず、やむなく記紀に載せた、てのが真相だろう。
428 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:59:49.86
たとえば日子坐王や大彦命は、地方を開拓した偉大な王として、複数の地方氏族の祖先ということにされているが、
実際は丹波や東国の豪族たちが連合化・序列化する時に生み出された架空の人物だと思われる(それぞれにモデルはいただろうが)。
大和朝廷は彼らを記紀に取り込む時に、大和から派遣された王子、という形に改変した。
429 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 17:41:58.09
>>427 そんなことないよw
記紀に書かれている豪族の出自ってのは
ある程度、本当のことでしょう?どうみても。
記紀を編纂したのは、藤原氏なんだけど、
藤原氏は自分の家系を皇別氏族にしていないどころか、
天神系最高峰のタカミムスビの男系子孫ということにもしていない。
わりと格下の神様の子孫ってことにしているんだよw
もし、藤原氏に都合が良いように家系を偽造するのなら
もっと家格の高いヒトの子孫にしているはず。
430 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 17:45:47.97
箸墓古墳が、卑弥呼の墓ならば
卑弥呼=ヤマトトトヒ・モモソ媛命のことであり、
いわゆる欠史八代の時代に倭国大乱が起こったことになる。
魏志倭人伝みても、倭国の王制って
祭祀王と俗世王の二元体制を敷いていたことが分かるから
そのへんが、倭国大乱と欠史八代の真相だろう?
記紀では、昔から一人の天皇しかいなかった書き方だけど
魏志倭人伝みたら、宗教上の王と政治上の王の二人いたみたいだしw
まあ、欠史八代の天皇たちは、おそらく、俗世王のほうだろうけど、
それとは別に宗教上の祭祀王がいたんだろうなw
431 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 22:07:19.61
>>429 ていうか、日本人の先祖の殆どが源平藤橘なのはどうしてか?とか考えたことない?
先祖を飾り立てたり、別の人に仮冒したりするのは比較的よくあることだろう。
そもそも記紀編纂の動機の一つが、豪族たちが勝手にいろいろ系図を書いてることを問題視したため。
まあ、当時の天皇から見て不都合だったからとも言えるが、当時、系図の偽作が行われるような状況であったことも間違いないだろう。
更に言えば、東国経営に深く関わった阿倍氏に、関東諸豪族が帰属していく過程で、その多くが、大彦の末裔を名乗るようになっている、などもよく言われてること。
古代日本の氏族集団がどのようなものであったかは詳らかでないが、
全て血縁関係にあったとは思えず、おそらくは社会的関係などから同族意識を持って結合した擬制的血縁集団、クランだったと考える方が妥当だろう。
432 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 22:48:08.86
>>431 たしかに全てが全部、正しいとは思わんな。
ただ、新撰姓氏録や記紀にある系譜はだいたい正しいと思う。
系図を全く偽証することなど不可能だ。
藤原氏が自分達の家系を偽証して天孫・皇別氏族やタカミムスビの
家系に偽証できなかったように。
ただ、皇室が一部、出自に関して不都合なところがあったのは事実だろう。
それは改竄まではできないが、やや曖昧な記述にすることによって
後世の人間が分りにくいようにしている。
それが欠史八代のあたりであり
京都朝廷が平安期に、籠神社の海部氏に対して、欠史八代と同時期の
海部氏・尾張氏の祖先の記述を伏せるように圧力をかけている。
つまり、皇室にとって都合が悪いのは、欠史八代の頃の
皇室の祖先と海部氏・尾張氏の祖先との関係についてだ。
欠史八代のあたりは、魏志倭人伝でいう倭国大乱の時期に合致する。
433 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:28:37.77
藤原氏が記紀編纂段階で大きな力を持っていた、という前提が間違いだと思うよ。
正確に言えば、自身の子、草壁に皇位を継がせたい持統帝が、他の天武系皇子を排除するために、
敢えて天智派閥だった藤原不比等を抜擢した、
ということ。
藤原氏が権勢を握る契機は光明子以降。
434 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:05:52.97
>>433 でも、記紀に記述する人たちの多くは、藤原氏陰謀説大好きだな...
藤原氏は自分達に都合が良いように系図を偽証したと。
でも、新撰姓氏録には、大化の改新で敗北者になった
蘇我氏のほうが皇別氏族とされていたり、
成功者の藤原氏のほうが、ただの天神系豪族とされいたり
何も藤原氏の記述だけではないんだよ。
あとな、皇室が伏せたかったのは、やはり欠史八代のあたりで、
そこは、魏志倭人伝に登場する卑弥呼(モモソ媛命)なんかにも関係している。
どうも、魏志倭人伝の記述からみて
当時の倭国の王制では、祭祀を行う王と、政治を行う俗世王の二元体制だった
可能性が高い。
おそらく、欠史八代の天皇たちは、政治を行う俗世王のほうだrぷ?
でも、それとは、別に祭祀王が存在し、この場合、形式的には
祭祀王のうが身分が高く、対外的には正統な倭王とされていたはず。
モモソ媛命(卑弥呼)は神武皇統側の祭祀王だから問題ないが
彼女が擁立される以前の、倭国大乱以前の祭祀王は
おそらく、神武皇統とは異なる王統が、その地位を継承していたでしょう?
435 :
434訂正:2011/04/07(木) 00:07:22.95
>でも、記紀に記述する人たちの多くは、藤原氏陰謀説大好きだな...
↓
でも、記紀に否定する人たちの多くは、藤原氏陰謀説大好きだな...
436 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:16:00.32
壬申の乱で活躍して、草壁以外の天武系皇子と仲がいい大伴氏なんかは、持統からすれば目の上のタンコブだっただろうな。
藤原氏の権勢自体が、そもそもその時代時代の天皇の意向を受けて、それにおもねることで裏打ちされたものだったと思う
(式家は持統〜聖武を裏切って、本来の立場、天智系皇子を皇位につけてしまうのだが)。
藤原は天皇の官房長官、秘書官の役割。初代鎌足の内臣の頃から役割は同じ。
藤原の権威は天皇の権威と不可分で、天皇の権威を否定するような禅譲やら簒奪は考えもしなかった、ということ。
437 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:42:02.72
>>423 考古学者による、纏向遺跡の遺物の出土状況の解釈が、
「日本書紀」の崇神朝の歴史内容とそっくりなのは、
考古学者が、「日本書紀」を読んで、その発想を貰っているからなのかい?
それとも、
もともと「日本書紀」が「偽史」などではなかったから、
そのままの遺跡・遺物が出ているということなのかい?
438 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:47:52.63
>>437 纏向遺跡というネーミングは
あの石野先生という教授さんが、日本書紀を読んで
そういうネーミングしているんだよ。
あと、どこに何が出るのかという推理には
日本書紀や古事記を読んで推理している。
ただ、彼らはあくまでも考古学の先生であって
文献史学の先生ではないから、歴史推理には
考古学的資料に偏重して、極端な方向に推理する傾向が強い。
彼らが日本書紀などの文献を使うのは、最初のさわりの部分だけ。
439 :
ひまわり:2011/04/07(木) 00:55:55.45 BE:1016554853-2BP(0)
a
440 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:52:29.81
>>437 >「日本書紀」の崇神朝の歴史内容とそっくりなのは、
そもそも(伝承されている宮の位置と)場所が微妙にずれているわけだがw
ぶっちゃけこのスレに乗り込んでくる恐らくは九州説の連中は
記紀との一致する事例を挙げて
「ほれ見ろ、記紀が偽書とか言うのが間違い」
と言うのがパターンだが
結局のところ「偽か?真か?」の二択にはならない。
隔靴掻痒と言うかフラストレーションが溜まる話かもしれないがそれが現実www
441 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 13:54:48.40
ヤマト王権の始まりは、神武東征からではない。
それよりも前の時代にあった出雲国譲りから。
ちなみに、倭国大乱は、欠史八代の時代のころであり
卑弥呼=モモソ媛命、狗奴国王の卑弥弓呼=武埴安彦命のこと。
442 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 18:30:37.77
弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される。崇神6年 民の離散
2世紀末 各地の土器が集まる 崇神11年異俗多帰
崇神世に任那建国
垂仁世に 鉄の流入 埴輪 ホケノ山古墳 穴あき壺=埴輪 鉄器の副葬
3世紀初めの大型建物(珠城宮)。盛り土と整地(日代宮)して中葉の建物
箸墓築造をもって緩やかに衰退する。
箸墓は最初の大王墓。
443 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/07(木) 19:18:51.55
>>442←唐松山
>>441←これもそうだろう。ww
モモソヒメを卑弥呼と言いたいのだが、唐松山というコテハンを書くと、
大ウソだとバレるから無コテでくらましているんだろう。ppp
444 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 21:35:45.69
>>437 そもそも崇神の記述とマキムク遺跡に整合性なんてあるの?場所が近いくらいでは?
むしろ崇神の伝承は、後世の人が想像で書いてるような印象を受ける。箸とか無い時代に箸墓とか、租税や船を始めて作った、とか。
445 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 22:30:25.61
>>444 食事に使う箸と、神事に使用する箸は
別物だよ。
モモソ媛命の箸は、どうみても、後者の箸だろう?
後に食事するときに使用する箸が伝来したけど
(身分の高い人は、この時代から箸を使っていたかもしれないけど)
もともと、日本での「ハシ」は、神事に使うほうだろう?
446 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 23:26:16.82
トンデモ本考えた。
古代の人々は「名前」に呪術的な力が宿るという思想を持っていた。
これは広く知られた事実である。
人の真の名前、すなわち”諱”はその人の霊的人格と深く結び付いており、それゆえ諱を直接
呼ぶ事はその人物を支配する事と考えられ、タブーとされていた。
しかし実は諱とは人にだけ存在するものではなく、この世に存在するあらゆる事物には諱が
あるとされていたのである。
それは国もまた例外ではない。
この国を表わす名前は数多い。
日本、倭国、大和、大八嶋、秋津嶋、中津国、豊葦原瑞穂国、扶桑国等無数に伝わっている。
しかしこれらは実は我が国の諱ではないのである。
我が国の諱は厳重に秘せられてきた。
それは前述の思想に基づくならば当然のこととなる。
なぜなら我が国の諱を知る事は我が国を霊的に支配する事を意味するのだから。
では我が国の諱は封印されたまま歴史の闇に消え去ってしまったのだろうか?
そうではない、我が国の諱はある家系に連綿と伝えられてきたのである。
その家系とはいうまでもない、天皇家の事だ。
いかなる権力者もなぜ天皇家の権威を超える事ができず、天皇家に取って代わる事ができなかったのかは
日本史の大きな謎の一つであるが、この事を踏まえれば答えは明らかになる。
世俗の権力者の興亡は繰り返されども諱をもって我が国を霊的に支配してきたのは常に天皇家なのである。
それだけではない。
この諱には我が国の創世の秘密も秘められているのである。
なぜなら我が国の諱とは古代史を学ぶ者は誰もが知る、ある固有名詞の変化したものなのだから。
このように書けば読者諸氏はいくつかの名を想起されるかもしれない。
それが果たして当を得ているかは追々明かす事として、まずは一介の在野の研究者に
過ぎぬ筆者が、なぜ皇室にのみ伝えられる歴史の秘密に迫る事ができたのかを説き明かしたい。
全ては九州のとある旧家の蔵に眠っていた古文書に端を発する…
えっ
448 :
日本@名無史さん:2011/04/09(土) 14:22:11.39
なになに?
449 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/09(土) 14:52:58.40
>>446 九州王朝に関するという松野連家系図のことかね?
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451 :
日本@名無史さん:2011/04/09(土) 17:38:17.99
・クダラ
・マキムク
・ヒムカ
・カラ
この辺かな?
452 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 14:27:48.93
纏向はヨモツヒラサカだっちゅうの。
墓と祭祀用の施設だけがあった。
死者が生き返るのを防ぐ桃の実が大量にあった。
その後も何も作られなかっただろ?
453 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 14:58:10.18
高千穂=高天原
纏向=黄泉津平坂か?
454 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 22:09:51.63
>>434 欠史八代は、今日の記紀研究の水準で言えば、大和周辺の中小豪族の系譜を取り込むために創られた、
と言われてるけどね。名前も後世のおくり名を適当に組み合わせただけ。せいぜい奈良盆地の神々、程度。
455 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 22:30:54.40
あと、皇別>神別と思いこんでるのもイタい。
皇位継承権の話じゃないんだから。
456 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 22:51:47.15
>今日の記紀研究の水準で言えば、
纒向遺跡の説明も出来ていない。
秋津遺跡など晴天の霹靂としか説明出来ない。
457 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 01:03:49.85
>>456 確かに、マキムク王権の頃の葛城地方は立ち位置はよく分かっていない。
葛城で大王級の墓が創られるのは四世紀末くらいで、それも古市や百舌鳥に比べると一段格下の大きさ、ヤマト王権内での序列は二位。
そもそも葛城国はサヌカイトを押さえて、縄文の頃から人が住んでいた有力な国。
奈良盆地東部の大和国からすれば、その生命線である大和川水運も、葛城国の協力が無ければ成り立たなかっただろう。
4世紀末前が神別葛城氏(葛城直)で、
4世紀末後が皇別葛城氏(葛城臣)なんだろ?
459 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 15:23:23.86
>マキムク王権の頃の葛城地方は立ち位置はよく分かっていない。
垂仁天皇二七年 興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
サホ彦の乱の始まりは、来目氏の館からはじまる。
来目氏は自領を献上したのであろう。
460 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 15:34:55.11
>>453 高千穂と高天原は異なる場所だろう?
ニニギ命が産まれた場所が、高天原で、この世の最初に現れた場所。
そのニニギ命が、出雲国譲りの後に、高天原から降臨した場所が
九州南部の高千穂。
461 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 15:37:04.48
>>454 それ、戦後の学者がいった説でしょうw?
取り込むため?って、何よ?それ?と思うのだがw
462 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 15:48:08.42
古代日本の貴族の家系は大きく分けると、天神、地祇の2つに分けられる。
天神とは、ヤマト朝廷の親藩・譜代の貴族。
地祇は、ヤマト朝廷の外様の貴族。
で、この天神だが、さらに分けると
天神、天孫に分けられ、
ヤマト朝廷の譜代の貴族は、ただの天神とされ、
ヤマト朝廷の親藩の貴族は、天孫とされた。
で、天孫だが、これをさらに2つに分けられ
ヤマト朝廷の親藩貴族で、神武天皇以前に分岐した家系は、ただの天孫とされ、
ヤマト朝廷の親藩貴族で、神武天皇以降に分岐した家系を、皇別とされた。
これらが、日本土着の貴族の家系の分類である。
また、のちに外国からの帰化系の氏族がやってきたので、それらは
諸蕃というふうに分類された。字のごとく、諸国の蕃族ツー意味だと思われる。
463 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 21:17:23.56
>>461 いや、クランとか知らない?擬制的血縁関係とかが存在することとか。
物部氏は全国各地に大量に分布してるけど、全部本当に血縁関係にあったと思ってるの?
464 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 22:23:48.04
>>463 そりゃ、中には偽称もあるだろうが...
朝廷に近いところは、まあ、おおかた真実だと思うよ。
465 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 23:18:20.64
■橿原考古学研支え40年 退職控えた4人が会見
朝日新聞 2011年3月30日
http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201103290096.html 県立橿原考古学研究所(橿原市)を40年近く支えてきた4人の研究者が今月末、定年退職を迎える。会見で印象に残った調査を語り、後輩たちに新たな成果への期待を託した。
退職するのは、1974〜76年に入所した付属博物館の松田真一館長と寺沢薫・総務企画部長、千賀久、関川尚功の両主幹。
縄文時代が専門の松田館長は
「入った当初は高度経済成長の時代で、開発に追われるように調査をした。放っておくと壊される遺跡を少しでも救いたいという思いだった」
と振り返り、
「博物館を通じて、発掘成果を県民に公表できるようになったのはよかった」
と話した。
纒向(まきむく)遺跡(桜井市)や唐古・鍵遺跡(田原本町)などを調査した寺沢部長は
「研究所の立場は全国を引っ張っていくこと。何事もマニュアル通りにするのではなく、全国の模範となるようないい調査、いい報告書をつくるという意識を常に忘れないで欲しい」
と話した。
纒向遺跡の土器分析などを担当してきた関川主幹は
「古墳〜飛鳥時代はわからないことがまだまだ多い。なぜ都が大和に置かれたのか、なぜ古墳ができたのかなど、大和が果たした役割を今後も原点にかえって調べてみたい」
と語った。
付属博物館生活が長かった千賀主幹は
「末期の病気だった年配の男性を連れて古墳を案内し、『この古墳だけはどうしても来たかったんです』とお礼を言われた時は、こういう仕事をしていてよかったと思った」
と振り返り、
「考古学の底辺を広げるような普及活動を、博物館がやっていくことを期待したい」
と話した。
・退職を前に記者会見する千賀久主幹、松田真一館長、寺沢薫部長、関川尚功主幹(左から)=18日、橿原市
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201103290095.jpg
466 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 23:33:48.90
■古代の但馬の姿鮮明に 朝来・池田古墳発掘
神戸新聞 2011年3月23日
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003889588.shtml 水鳥をかたどった埴輪(はにわ)が全国で初めてほぼ完全な形で見つかった朝来市和田山町の「池田古墳」(5世紀前半)。
周辺は「城(じょう)の山古墳」(4世紀後半)や「茶すり山古墳」(5世紀前半)などの王墓が集中する統治の中心地で、今回の発見で、古代の但馬の姿が一層、鮮明になった。
当時は中央政権が朝鮮半島の鉄資源獲得に腐心していた「倭(わ)の五王」の時代。日本海交易の利益を背景に繁栄を誇った但馬の権力者像が浮かび上がる。
池田古墳は全長141メートル。但馬最大、兵庫県内でも4番目の大きさだ。
その突出した規模と、大和政権時の古墳の形である前方後円墳を但馬で初めて導入したことから、南北の勢力圏に分かれていた但馬を5世紀前後に統一した王が葬られたとみられる。
南東約180メートルに城の山、南約3・8キロには茶すり山があり、いずれも大和政権との深い関係をうかがわせる副葬品などが出土している。
池田については県立考古博物館(播磨町)が2008〜10年度に発掘調査を実施(他の二つは既に終了)。それによって、その時々の但馬と中央との距離感の違いが明らかになってきた。
池田の前代といえる城の山は、大和政権とのつながりを示す三角縁(ぶち)神獣鏡が出土。だが円墳であることや古墳の造り方が地元の伝統を引き継いでいることから、中央とは一定の距離を保っていたと推測される。
池田の場合、今回見つかった水鳥形埴輪が非常に精巧な表現で、地元の土が使われていないことから
「大和政権中枢で埴輪を制作していた大和河内の工人が作り、運び込まれた可能性が高い。被葬者と中央との強い結び付きを示す証拠だ」(山田清朝学芸員)
という。古墳の構造にも当時、最先端の技術が使われたことが分かっており、政権中央の強力な後押しがうかがえる。
(つづく)
467 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 23:35:27.94
(つづき)
その後に築かれたとみられる茶すり山は、大量の鉄製武器のほか大和政権の将軍クラスが着用した特殊な甲冑(かっちゅう)が副葬され、政権との強い結び付きを示す。一方、円墳であり、但馬の伝統的な埋葬方法に戻っていることが確認されている。
■
残された謎は、池田の被葬者が誰かという点だ。
当時の朝鮮は中国から最先端の文化を吸収した先進的な存在。大和政権はその文化や鉄資源を手に入れようと懸命だったとされ
「畿内から日本海に至るルート上の要衝を支配する者として、政権に重用された但馬王が埋葬された」
とみる説が有力だ。大陸や朝鮮半島との盛んな交易も4世紀ごろの遺跡65 件の出土品などで明らかになっている。
一方、池田古墳は但馬の伝統的な手法で造られた城の山、茶すり山と比べ「あまりにも大和的。被葬者は中央から派遣された高位の将軍では」という説もある。
県内の古墳に詳しい大手前大の櫃本(ひつもと)誠一教授は
「日本海交易で栄えた丹後をけん制するため、大和政権が(池田を築造したころの)但馬に特別なてこ入れをしたのではないか。
今後、池田の発掘成果を詳しく分析し、政権の支配実態や在地勢力とのせめぎ合いを読み解くことで、古代の但馬の姿がより明らかになるだろう」
と期待する。(仲井雅史)
・池田古墳の現地説明会では水鳥形埴輪の複製品を並べ、5世紀前半の祭祀(さいし)の様子が再現された=朝来市和田山町(兵庫県立考古博物館提供)
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/b_03889589.jpg
神功皇后の弟の墓だな。
469 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 11:50:46.81
なんで、戦後の考古学者って
もっと記紀などの文献を重要視しない?
発掘資料だけで分るかよw
470 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 11:56:31.82
考古学って発掘するのが仕事だから。
471 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 14:23:06.30
>>470 まあ、たしかに、その通りなんだけどねw
でも、そのわりには、考古学者の先生って
専門外の歴史推理やりすぎだよね、
たいして文献を解読する知識もないのにw
あと、纏向遺跡だって、もろ文献、しかも、記紀の内容に頼って
発掘しているんだよねw
>>466 > 池田の場合、今回見つかった水鳥形埴輪が非常に精巧な表現で、地元の土が使
> われていないことから「大和政権中枢で埴輪を制作していた大和河内の工人が
> 作り、運び込まれた可能性が高い。被葬者と中央との強い結び付きを示す証拠
> だ」(山田清朝学芸員)という。古墳の構造にも当時、最先端の技術が使われた
> ことが分かっており、政権中央の強力な後押しがうかがえる。
根拠あるんかね。
ヤマトであんなリアルな水鳥形埴輪見つかってる?
まあ「全国で初めてほぼ完全な形で見つかった」ってことだからな。
一応大和では巣山古墳の水鳥埴輪が復元されてるんじゃ?
それから河内には津堂城山古墳のがある。
高さが1mを超えるデカイもので、ハクチョウをうつした可能性もあるもんだから、
ヤマトタケルの河内志幾白鳥陵じゃないか、なんて人もいる。
考古学者は文献もそうだけど、もっと経済学の知識が必要だな。いくら発掘しても
当時の交易の実態が見えてこない。これがわかってくれば、おそらく当時の政治状況も
付随してわかってくる。
475 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 19:01:48.54
文献て言っても、空白の四世紀、ていうくらいで、まともな文献がない状況だから考古学に頼るしかない。
これがまず大前提だろ?
経済学をどう古代史に活かすのかは興味深いところ。てか、経済学のどういった分析手法を活かすつもりなのやら
近代経済学というより、バーターや互酬、非市場経済についての知識。
477 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 19:19:14.53
古代を経済学的に語るなら、まず、その希少性において、労働力>土地だということだな。
人口が少なく、鉄器などで開拓できる原野が多かった時代。
大化改新以降の租庸調の時代に下っても、租は実は負担割合としてかなり低く、
権力者にとって雑ヨウこそが貴重な収入源だった。
今の感覚では分かり難いだろうけど。
経済学に文化人類学的な内容も加味されるんだけど、欧米には無貨幣社会における
交易についてのフィールドワークの記録の蓄積があるはずだし、そういった知識があれば
「この集落は玉製品加工に特化して、交易で生活を成り立たせていたと考えられます。」
以上のことが言えるだろうと。
>>477 > 労働力>土地
まあそうだけど、弥生時代はずっと人口増加社会で、自然増+渡来人もかなりの数が来ている
と思う。そこで集落の耕作地が足りなくなり、近隣との戦争が起こり、これが玉突き状に拡がって
いく。
>>477 当時は土木技術がそれほど高くないから、
農地選択は自由じゃないぞ。
481 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 21:40:33.81
農地、っていうと、真っ先に田んぼを想像しちゃうからダメなんだよ。
当時の米は、一部の特権階級が食べる希少作物。キャビアやフォアグラの類。
>>481 > 農地、っていうと、真っ先に田んぼを想像しちゃうからダメなんだよ。
阿呆?
483 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 22:49:13.92
ていうかさ、雑穀文化とか知らないなら知らないでいいけどさ。
あほとか脊髄反射じゃなくて、気の利いた反論を期待してたのだが
484 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 08:38:11.33
弥生の稲作のイメージは、稲作の適地を求めて東に漸進的に拡散していくイメージ。
少ない農地を争って玉突き、てのは誰が言ってる説なの?
485 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 09:20:06.22
ゲルマン大移動じゃあるまいし
486 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 09:41:32.08
「人間は何を食べてきたか」の中で、ジャガイモや雑穀、トウモロコシを原住民が栽培していたが、
わざと種類を混ぜてまくんだね。
気候が悪くてもどれかは採れるのと、適当に交配して、土地に合ったものが残るということのようだ。
あと気候によってブレンド具合を変えたりもするらしい。
487 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 12:18:06.72
>>485 ゲルマン民族の大移動が、
日本の古代史や考古学に与えた影響は大きいよ。
騎馬民族征服王朝説なんて、もろゲルマン族の大移動説の影響を受けている。
489 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 16:40:05.92
その説って、大分前になるな。
490 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 20:54:31.10
491 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 22:13:44.88
実は中国だってな、漢王朝の時代になってからなんだよ、
リアルタイムの歴史書が登場するのは。
でも、それ以前の歴史だって、研究しているだろう?
492 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 22:45:07.79
春秋は?
493 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 12:04:44.98
中国の確実に文献として歴史書が残っているのは
漢王朝時代に編纂された史記からで、
それ以前の歴史も、史記から知ることになる。
むろん、史記が編纂されるずっと前から
中国では文字(それぞれの地方で、漢字の原型になった象形文字)が
つかわれてきたが、明確に歴史をしるしたものは
現在には残ってないだろう?
494 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 22:07:57.53
古墳時代に入っても無文字文化で、巨大な古墳を作ることで漸く大王の偉大さを解らせた日本と、
流石に中国文明を一緒くたにしたらダメだと思うよ。
495 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 00:17:03.35
>>494 おそらく、倭国は紀元前から漢字を知っていたと思うよ。
何度も、中国と外交しているわけだから
漢字ぐらい知っている知識階層はいたはず。
でも、漢字などの文字というのは、これが下層に幅広く伝わると
それだけで、下層社会が文字を通じて、意思を一つにするので
為政者にとっては、これほど不都合なものはないんだよ。
だからこその言霊文化であって、言葉を文字にすることをためらい、
言葉を発せする、つまり、世間に意思(命令)を出せるのは
一部の為政者だけで、彼らのことをミコト(御言)といった。
ちなみに、アメリカの先住民の帝国では、いちど、文字を使用しだして
再び文字を禁止、廃止した帝国がある。
496 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 14:13:52.99
>>495 論点がズレてるような。
要は、文字が普及してない日本で、昔からの歴史がきちんと伝わるのか、って話であって。
昔から歴史書書いてた中国と比べても…てこと。
文字のこともそうだけど、頻繁に王統が変わってるなら記憶は残りにくいだろうね。
498 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 20:48:29.99
記紀では、唯一、確実に王統が変わったという記載がある。
それが、出雲国譲りの記述。
ここで、確実に王統が変わり、出雲から高天に王統が変わった。
にもかかわらず、そこから三代経て、イワレ彦が東征して
天皇になったという記述がある。不思議。
つまり、ヤマト王朝は、出雲国譲り、神武東征という
二つの建国の話が出てくる。
499 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 21:50:09.07
記紀の人代ならまだしも、神代を史実とか考えるのは止めにしてくれ。
記紀が編纂された八世紀ですら、きっちり神話の時代と認識されてるんだから。
500 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 00:20:49.94
おいおい
501 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 08:27:02.15
実際、紀で日付が載り出すのは神武以降だから。
神代は、昔々、日付が定かならない頃の話、神さまの時代ってこと。
紀は、神武以前と以後で、きちんと峻別してる。
502 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 15:24:29.29
>>499 明確に神代と分けられたのは、日本書紀からな。
古事記のほうは、明確には分けられていない。
古事記と日本書紀とでは、編纂方法や目的が違う。
日本書紀は、古事記よりも豊富な資料をもとに記載されているが、
中国に提出する外交文書の役割もあったから
無理に年代を書く必要があった。
もともとは古事記のように、編纂当時には、明確な年代など分らなかった。
503 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 21:41:20.68
日本書紀以降、って言っても、古事記編纂の時とそう時代は変わらない、と思うが。
暦年を適当に決めるなら、なぜ神武以降にしたのか?
504 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 22:08:51.13
神話が何らかの史実を反映している、ていうのは同意なんだがな。
ただ、直接的に神武東征やら天孫降臨、出雲の国譲り、日向三代やらに史実性を見るというのは流石に違うと思うぞ。
例えば、日向三代とは、日向国造家と姻戚関係を結んだ応神や仁徳以降、
大和と日向の同族化が図られ、共通の先祖が創られた。それぞれの先祖が同一人物であるとされた結果だろう。神話の人物に亦の名が多いのもそのためと思う。
ここで重要なのは、初代天皇が即位するのは、出雲でも日向、筑紫でもなく、あくまで大和であるということ。
あくまで大和で即位した神武こそがハツクニシラスであり、神武の子孫のみが葦原中津国を統べる権利を有するという認識。
505 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 23:35:11.73
>>504 >大和と日向の同族化が図られ、共通の先祖が創られた。
>それぞれの先祖が同一人物であるとされた結果だろう。
>神話の人物に亦の名が多いのもそのためと思う。
そういうこという学者は中にはいるんだけど、ずいぶん、いい加減で
適当な説だと思うよ。
結局、力不足で、そういう、いい加減な推測しかできないみたいな...
なんで、もっと系図をじっくり読まないのかなと思う。
記紀の内容、系図をみれば、何が真相なのか、おおよそ見当がつくというもの。
506 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 07:54:19.11
系図見てて何かひらめく、ってのは電波だから、余り思い込まない方がいいと思うよw
ただまあ、なぜ日向三代が記紀神話に採用、挿入されたか?の議論は難しいところ。
普通、天から降臨した男が王になった、とかが一番分かり易い。
もしくは女性が天神の子を身ごもり、その子どもが貴種流離した上で成長、初代王になった、ていうのが半島とかにも見られるシンプルな始祖伝承。
なぜ日本の場合は、直接大和に降臨しなかったのか?それに日向で天孫が三代過ごす意味が分からない、なぜすぐにヤマトに行かないのか?
いろいろ事情があったことは推測できる。
507 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 11:22:09.46
日本書紀に書かれた継体以前の皇統は五世紀頃に各地に乱立していいた諸豪族の系譜をつなぎ合わせて作った物。
だから年代の合わない記述が沢山ある。
文字無くして正確な年代が伝わる事も無いし、その系譜が前後していても不思議はない。
508 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 11:55:46.14
>>506 ひらめくんじゃなくて、あれは、
正直に「何が皇室にとって都合が悪いのか」
ちゃんと記載されているわなw
記紀神話で言うヤマトは、最初のほうは
奈良県全域を表す地名ではなくて
あくまでも、現在の奈良県桜井市の三輪山の麓の山処(やまと)を表す地名。
一方、皇室の祖先の地の「高天の原」の「高天」とは、
のちに葛城地方と言われると地域の東南部の地名で
現在の奈良県御所市あたりの地域。ここには、いまだに「高天」という地名がある。
509 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 12:21:36.41
>>507 徐福がすでに漢字を日本に輸入していたな。字があったから、あれだけ
詳しく記紀とその年代が記載できて後代に残せることが出来たという
ことだ。文字が無いっていうのは、科学の美名で学者研究家等が葬っ
ことを大衆が毎回無い無いと教えこまれたインチキ説だよ。津田の
妄想の増幅と似たようなもの。
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 12:27:15.78
>>509 訂正
× 葬っことを
○ 葬ったことで
>>507 >年代の合わない記述が沢山ある
年代の合わないのは当時単一暦法でなく、いろいろな暦法が存在して
交錯交雑していたことが原因であり、とりわけ古代日本では2倍年暦等
の特殊な暦法を行使していたことが合わない年代断層を生んだということ
だ。
511 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 17:37:32.44
徐福は日本には来ていない。
512 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 17:39:45.02
どうして? 結論だけじゃぁ、説得力はない。
513 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 18:24:16.00
おい、議論がマキムクから離れてしまってるぞ ><
誰か軌道修正してくれ
514 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 18:38:22.94
>>507 君は古いな!
いったい、誰の説の受け売りなんだい?
纏向以後の、古墳は、明らかに一つの王朝国家の伝統だよ。
机上の空想ではなく、ちゃんと目の前にある遺物・遺跡を見ろよ。
君は、津田厨か?
515 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:41:04.56
>>507 それがまあ実態なんだと思うよ。
神武東征伝承なんてのも、初代天皇に即位する以上、それなりの功績を立てないといけないから、創作されたものだと思う。
上の兄三人が失敗して次々物語から消えていくのも、昔話によく見られる末子成功譚だし。
もともとのハツクニシラスの伝承は、西からやって来た神の子が、奈良盆地を征服して初代天皇として即位した、程度のものだったのだろう。
皇室氏の本貫地に日向が選ばれたのも、西都原など古くから大和と誼を通じていたこと。
また、畿内中央豪族や吉備、出雲、筑紫などに政治的利用される恐れがなかったことなど。
516 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:56:54.78
神武
多賀(近江)→宮崎→大和
(ホツマツタエ)
517 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 22:00:29.44
神武紀には年月日が記載されてるから、これは創作ではない。
そんなことをすれば、当時の政敵に公文書偽造の弱点を握られて
つつかれ、あとは失脚が待ってるのは軽く予想出来る。
とにかく相手を畿内で火の粉となる相手を倒さなければ天下が取れな
いので、実際戦闘はあったに違いないぜ。津田の病に脳内を冒され
ないことだ。
518 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 22:28:17.15
>>515 わざわざ創作するかよw 何のために、あういう
面倒くさい話を持っていくんだw
あとな、神武東征伝承読んだら分るけど
イワレ彦(神武天皇)の本貫地は、金剛山の裏の葛城地方だよ。
現住所が日向だっただけで、イワレ彦の出自は畿内にあるから
神武東征みたいなことが出来た。
ここは「纏向スレ」であって「記紀雑談スレ」じゃないだろうに…('A`)
520 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 08:23:24.83
マキムクを語るなら記紀は外せないと思うがな。
マキムクの発見で、記紀が、少なくとも崇神の頃からの記憶を伝えてる(何らかの形で)は確実になった。
マキムクが考古学上、ヤマト王権の最初とされ、記紀で崇神がハツクニシラスと呼ばれてることも整合性がある。
後は、神代と人代の区別もつかない電波を排除した上で、記紀の記述の検証が必要。
>>518 >金剛山の裏
裏って……
奈良の話してる時に
あんた大坂だね
522 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 13:06:39.03
大阪府側からは金剛山とよばれ、
奈良県側からは高天山とよばれていた。
523 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 13:11:23.32
>>520 神代と人代に区別されていたのは、日本書紀。
古事記では、区別されていない。
524 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 21:09:25.09
日本書紀が編纂された八世紀の人々から見て、神武以前は「神代」という認識だった、ということだろ。
古事記は違う、とか意味が分からん。
こっちが意味分からんわ
526 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 21:32:33.46
>>518 昔の倭国は、出雲国造家の家祖のアメノホヒや、尾張のホアカリ、物部ニギハヤヒなど、そこら中に「天から降臨した神の末裔」を名乗る豪族がゴロゴロいた。
それを整理、序列化していく目的で、神代は書かれたということ。
527 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 00:30:10.33
528 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 11:59:42.89
>>526 なんで、そんなこと分るんだよw
おまえの不確かな空想だろうがw
529 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 12:39:15.93
ていうか、神話を語るのに根拠を出せ、とか馬鹿か。
神話イコール史実ていうなら、根拠出せの意味は分かるがw
530 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 13:28:56.41
>>529 なんだよw
いきなり逃げるのかよw
あほくさい〜
531 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 21:44:20.33
いや、記紀の信憑性の話は考古学でしか立証できないだろ。
系図見てひらめく、とか信用してたらダメだよW
532 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 22:04:36.36
>>1 >次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
>
>「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
賛否あるにしてもこれはかなり重要な意見だと思う。
なるべくこうした点を議論しよう。
533 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 22:26:43.34
いやね、記紀や倭人伝の知識が欠落してるから、半可通な自称文献派に蹂躙される訳だよ。
例えば崇神紀にある四道将軍の記述なんかは、マキムクの頃の勢力図を比較的正確に伝えてると思うよ。
つまりは吉備、東海、越、丹波、この4つの勢力がマキムクで生まれた初期ヤマト王権の中で並立していた。
記紀では皇族将軍の末裔として記載されたということ。
534 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 23:26:49.10
>>531 考古学でも実証できないわw
科学的にみたら、土器見ているだけで、どうやって
歴史を想像できるんだw
たとえば、鎌倉時代、日本最大都市は博多と京都であり
それこそ、この時代、文献が存在しなかったら
辺境の小さな鎌倉に全国を支配する政権があったなど想像できない。
また、西暦16世紀前後、三河出身の徳川家康が
京都の天皇によって征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたのだが
この時代に文献が存在せず、陶磁器などの土器だけでは
そんなこと想像することなど、とてもじゃないけど出来ないw
535 :
日本@名無史さん:2011/04/21(木) 23:29:13.76
>>533 吉備が重要なんて、巻向政権でも想像できる事例だな。
卑弥呼と噂されるモモソ媛命の同母弟のイセサリが
吉備津彦になっているぐらいだから
巻向政権の中での吉備の存在感の大きさがうかがえるしな。
536 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 08:30:08.48
>>534 同時代史料が複数あって比較検証できるのが本来の文献学であってさ。
中世や近世を持ち出したところで意味がないのが分からないかなあ?
殷墟や二里岡遺跡が見つかって漸く史記の記述の正しさが証明された。
トロイアもシュリーマンが発見したから。
537 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 09:02:21.65
崇神は4世紀ころの人物とされている。
その時代に四道将軍を派遣しなければならない状況で九州を支配していたなんて考えにくい。
たとえ崇神が三世紀でモモソヒメが叔母だとしても、その時代に四道将軍を派遣していたのだから九州を支配していたと言うのはあり得ない。
箸墓がモモソヒメの墓だとしたら、九州とは全く無関係の政権が大和に有ったと言うだけの事だ。
538 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 12:47:47.81
>>537 考古学的に言えば、マキムクに筑紫の影響が少ないのはそう。せいぜいホケノの破鏡?くらいか。
庄内式土器や那珂八幡の初期古墳が見られることなどから、大和と筑紫の関係に大きな変化があったのは間違いない。支配、被支配に限らず。
539 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 12:55:34.52
あとまあ、四道将軍が本当に派遣されたと本気で信じてるのか?
当時の時代状況で、軍団を四方に派遣して征服するなんて芸当、ヤマト王権には無理だよ。
四地域にそれぞれ建国神話・始祖王の伝承があって、在来の勢力を退治して国を建てた、というものだった。
それを取り込んだのが四道将軍で、それぞれが大王の系譜をもつとされた、ということ。
540 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 13:59:21.62
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
崇神時代の任那建国は、210年である。
であるならば、考古学:2世紀末各地の土器が持ち込まれる=崇神11年異俗多帰。
崇神5,6年災害=新羅192,3年の凶作。
後漢193年6月寒風冬の如し。
この凶作飢餓で餓死、翌年春に逃散のピークが来る=弥生後期後半、唐古・鍵遺跡など各地の
居住区が放棄される。
崇神を別の時代に宛がうのであれば、最初に”任那建国”を設定する必要がある。
541 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 14:08:10.07
>>539 当時の時代状況自体が分らんだろうw?
あんまり、「こんなことがあるはずがない」と決めつけは良くないよ。
最近の巻向の研究の成果なんて
長年言われていた定説とか通説なんて、完全にひっくりかえっているわけだからw
542 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/22(金) 14:09:36.15
>>540←唐松山の書きこみ。無コテでケムに巻こうとしている。
崇神5,6年≠新羅192,3年
右辺当時、現今での世界最大客船の1/5〜1/6の乗員の大船舶の製造された状況
は見当たらず、右辺の年代船舶のアリバイが無い。これをしっかりと主張し、
このデタラメを破折するのだ。船舶の始めて製造されたのは紀の崇神17年で
あるから、その10年位前の右辺の年代に千人もの糧食の無く足元がフラフラの
農民が半島渡海など出来っこない。だからこれを等号とする主張はデタラメで
あるのだ。シッカリとこのインチキ論を押さえこむのだ。><
右辺の年代の飢饉災害では上述のとおり遠出は明日のメシにもありつけない千人
もの多勢だから糧食の確保は困難であり、先月3/11の東日本大震災でもガソリン
が無いので遠出出来ず糧食も少量で困っているとの被災者大勢の困惑であった。
これを見てもこやつの主張はデタラメのインチキであ〜る。
543 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/22(金) 14:27:11.49
重ねて景行の代、日本統一が成ったとか、こういう景行重視がホツマ過剰礼賛と
この男の松本某人の上にアグラをかいて古代史論のご都合の恣意的操作の欲望
欲求がこやつの超誇張の堅い堅い表れであり、記紀の朝敵たる妄想であるから、
厳しく徹底でつついてこのインチキから正史防衛をシッカリと行わねばならぬ。
いずれにせよ景行のインチキ重視がホツマの極礼賛と自己の天下取りで
あるから、奴はミエミエのインチキでも撤回はしないし、恣意的創作も超礼賛
とアグラのためなら一見デタラメ不可能なことでも平気で主張して毎回書き
こむわけで、コチラもしっかりとこのイカサマを暴露し、景行時に初代日本統一
だとかの妄想を壊滅せねばならない。これで始めて記紀の内容が安泰なのである。
544 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 15:06:08.38
文献が豊富な時代ですら、
日本は常に統一、分裂を絶えず繰り返しているわけだから、
超古代においても、似たようなことが起こっていたと考えるべきであろう。
つまり、日本はいつ統一したのかではなくて
たえず、統一していたような...分裂していたような
そういう時代を目まぐるしく起こっていた。
そういう発想が、古代史を研究している専門家の多くが持っていないのは異常。
545 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/22(金) 15:11:48.65
>>543 続き
日食が数日間も継続しない不合理を日食だと言い張り、臣が天皇には絶対的に
なれないのを言い訳を繕ってこれを改めず、さらには七支刀の銘文のX線検査
でもおおむね年号が動かない漢字を全然銘文の漢字形状から著しく離脱して一見
別だと分かる漢字の年号を強行するとか、足がフラフラのスタミナの無い飢饉
農民千人がえらく遠方に行き着いたとかのありえない不合理を徹底強行して
おかしいありえないことを認めないこいつの事由とは〜通常人ならおかしいと
自ら気付いてなんだかんだ文句を言ったり最後に捨てセリフをガン!と言い
ながら撤回するのが事の成り行きであり、こういう捨てセリフ者はくやしい
から最後にグサッと文句を言うが、結局は目が次第に覚めておとなしくなり、
論をこっそりと撤回するものだがこれは彼がら正常脳だからこういう撤回、引っ
こめ方で終焉するものだ。
しかしながらこのホツマの男はこれらの一見不合理と分かる論を彼らのように
引っこめることはなく、毎回これらの精神病院行きのおかしい論の強行を撤回
しようとしない。これはこやつがホツマが最高だ、そしてその研究を長年して
来た己れが最高の上でアグラをかけるという保身が徹底していて強固のさら
なる強固の脳内になってるから、先の論の不合理を認めることは、かような
ホツマからの保身が崩壊する利害がかかっている。そのため奴はこういうおか
しな不合理の一見して大ウソと確認できる論でも、その保身のためにガンバリ
通すわけなのだ。そういう点をコチラもしっかり把握してこやつの景行初代天皇
での日本統一というホツマ礼賛になるんだろうこのインチキ論を壊滅させ
ねばならぬ。
546 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 16:55:31.72
>>544 むしろ、当時の倭国が「1つの国」という認識があったのかさえ怪しい。
分裂、ってのは統一が当たり前という発想が前提になっている。
戦乱で分裂してた訳じゃないんだよ。
弥生時代には各地域に拠点集落があって、各地域ごとである程度自己完結してたものが、
弥生後期以降、遠隔地交易が活発化し、やがて広域に権力を行使しうる存在が出てくる。
547 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 17:51:23.55
>>546 日本のような島国は、基本的に
その島の中で、或る程度、各地方の自治をみとめた
連邦型の体制になりやすい。
なぜなら、国土を海に囲まれて、安易に敵が攻めてこれないから
強固な中央集権体制をしく必要はない。
歴史読本の邪馬台国特集でも、うまい引用があったが
卑弥呼の邪馬台国連合体制を、のちの徳川幕府に例えていたわな。
548 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 21:39:02.27
まず、系図をよくみたら、古代日本の真相は一目瞭然なのだが、
その系図を思い描けるやついないだろう?
2ちゃんのこんなとこいろに
わざわざ系図を書いて説眼しにくいけど
あの神代・皇室系図をみたら、記紀の真相は一目瞭然だよ。
549 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 21:47:01.68
吉備越丹波東海の四道将軍、イコール初期大和王権の主要構成国4つ、というなら、何故、阿波讃岐播磨が入ってないのか?
答え。阿讃播こそが、マキムク王権の中心勢力だったから。
いい加減、前方後円墳の源流が阿讃播にあって、マキムクを築いたのは阿讃播と認めたらいいのに。
550 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 22:06:58.93
なぜ、ミマキイリ彦(崇神天皇)がもう一人の初代天皇になったといわれるかというと、
彼以前の神武皇統の当主は
正統な倭国王の祭祀を継承していなかったというのが
本当のところでしょう?
魏志倭人伝でみても分るが、倭国の政治体制では
祭祀を行う正式な王と、実際の政治を行う権力者の二元体制だった。
このような権威と権力の二元体制は、文献が豊富な時代でも、日本では当たり前で
神祇官と太政官、朝廷と幕府、天皇と将軍、将軍と執権
というふうに例は豊富。
崇神はおそらく祭祀と政治の両方を支配した権力者だったんだけど
彼の大叔母のモモソ媛命(卑弥呼?)の存命中は
モモソ媛命が祭祀を行う正式な倭王、
崇神は政治を行う最高権力者の地位だったと思われ。
そういうふうに考えれば、神武〜開化天皇までの神武皇統の当主は
倭王の正統な祭祀を受け継いでおらず、でも、実質的な
政治を行う最高権力者だったんでしょう?
つーことは、神武〜開化天皇までは、これらの人物とは別に
祭祀を行う正統な倭王が別にいたんだろうなw
つーか逆じゃないか?
「崇神がもう一人の初代天皇になった」んじゃなく、神武がなったんだよ。
崇神は「古事記」「日本書紀」「風土記」において「ハツクニシラス」と称されているが、
神武は「日本書紀」のみ。
552 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 22:38:27.77
>>551 おお、そうだったのか...それ見逃していた。
そうか、やはり、神武皇統の当主で
真の意味で倭王になったのは、ミマキイリ彦(崇神天皇)からだな。
古事記の時点では、神武皇統の皇室は
自分達の先祖のイワレ彦を、初代天皇にしずらかったかもなw
おそらく、イワレ彦がいた時代、おそらく、西暦1世紀ごろは
倭王の正統な祭祀を受け継いでいたのは、
天村雲命とか、そのあたりだろうね。
553 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 17:14:00.25
イザナギイザナミの国生み神話も大阪湾周辺を舞台にしたもの。
大嘗祭の翌日に行われた八十嶋祭も、山処(磯城)の王者が、東瀬戸内海商国家群(河内、阿波、讃岐、播磨)に、大王として承認される儀式だったと思う。
554 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 09:36:09.83
>>535 吉備の特殊器台がマキムク型前方後円墳に見られないことから、吉備のマキムク参加は箸墓の布留0以降。
吉備で箸墓の相似形縮小版の浦間茶臼山が造られた頃。
前方後円墳の源流は綾部山39号や萩原などの阿讃播だろう。
東瀬戸内地域が中河内・大和と連合したのがマキムク王権の始まり。
西日本⇔東海との中継貿易で富裕化し、やがて倭国大乱を経て倭王に推戴される。
>>554 > 吉備の特殊器台がマキムク型前方後円墳に見られないことから、吉備のマキムク参加は箸墓の布留0以降。
特殊器台は葬送祭祀用の土器だから。箸墓の被葬者の生前から参加していたといえるんじゃないだろうか。
> 吉備で箸墓の相似形縮小版の浦間茶臼山が造られた頃。
宮山型特殊器台がみられる宮山墳墓の頃になるだろう。
> 西日本⇔東海との中継貿易
西日本と東海との間でなにを交易していたんだろうか? 具体的な実態を想定するのが難しい。
> 倭王に推戴される。
ホケノが萩原を源流とするとして、その築造が箸墓直前なら、
ホケノの被葬者は箸墓の被葬者の下位に位置していたと想像できる。
阿播讃はマキムク共立勢力ではあるが、その中心ではないのではないか。
556 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 15:24:02.76
>箸墓の被葬者の生前
箸墓以前の、定型化する前の古墳、石塚〜をどう考えるか、だとは思うが。
石塚は当時倭国最大の墳墓。大和で最初の王墓で間違いないだろう。
本当の王より先に、臣下が古墳祭祀やっちゃうなんてことあり得ないし。
箸墓を最古と考えて、吉備東遷を唱えた近藤の説は、マキムク型前方後円墳の発見で覆されたと思っていたが。
557 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 21:54:58.13
マキムクの画期は二段階あって、
まず庄内の初めに大和川水系の大和中河内+東瀬戸内の阿讃播の勢力(旧畿内銅鐸圏)が統合化、王政を始める。
マキムクを建設、大溝や石塚古墳を築造した。
これはまあ、筑紫や出雲、吉備で起きているのと同じ。大和の場合は範囲がかなり広いが。首長連合が更に進展して王権に至る流れ。
その大和王が筑紫や吉備、東海らに推戴されて倭王になるのが布留の時。
日本側文献を読み解いていけば、マキムクの二つの画期も見えてくる。
すなわち箸墓以降・布留期の創始者となったのが、ハツクニシラススメラミコトとされた崇神。
それ以前は「欠史」なのだから、架空の人物を9代加上したか、伝承されてた人名をタテの系図に連ねたか、
いずれにしろ、石塚とかホケノはのちの大王家とは別の他氏族が築いたものだろう。
大王家の人間ではない、それよりも前にいたニギハヤヒが、「そらみつヤマトの国」と言った、というのも示唆的である。
じゃあなんで崇神が、のちの律令国家「日本」にも繋がるような国の基礎を築けたかと言えば、
それは共立された巫女王・卑弥呼と台与が崇神を惣領とする一族の出身だったからであろう。
卑弥呼は百襲姫、台与は豊鍬入姫だろうから、崇神にとって卑弥呼は大叔母、台与は娘となる。
このような状況は、崇神自身の権威・権力の高揚にも大きく影響したはずで、
おそらく娘が在世のうちに(3世紀第V四半期か)、のちの大王家による世襲王権の確立を進めていったと思われる。
559 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/24(日) 22:45:32.23
架空の人物なんか入れれば当時でさえも公文書偽造同行使で、政敵は確実
にいたろうから、そいつらにこれを摑まれれば当然失脚の危機に陥る。
だから大した利害もないのに、ここで八王長などするわけがない。
560 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 08:19:34.77
公文書偽造…現代でさえ教科書一つとっても異論だらけだろw
561 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 09:39:18.03
上のほうで誰かがヒントいっているだろうw
架空の人物なんて、いれるわけがない。
ただ、欠史八代の神武皇統の当主は大倭王の地位にいなかった。
神武皇統の当主で、大倭王の地位にあったのは
ミマキイリ彦(崇神)から。
欠史八代の御陵候補地は、ほとんどがずっと後代の古墳か自然丘陵で、考古学的には
論じても意味のないものばかり。伝承をもとにして適当に割り当てていったのだろうが、
矢塚や東田大塚なんかにしなかったのはなぜだろうな。
563 :
水銀厨:2011/04/25(月) 11:14:51.28
欠史八代は架空ではないでしょう。
葛城方面は発掘調査さえ本腰入れれば‥
築山の古墳なんて色々逸話もあったのに。
564 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 22:25:26.27
葛城地方はマキムクの時代どうだったか?が分からない。古墳も無いし。
ただ、サヌカイトを押さえて、縄文時代から人が住んでる地域。
加茂岩倉と同じ鋳型の上牧銅鐸。高尾張鴨氏との関係、なども興味深い。銅鐸出土地とカモという地名の関連性はあるのか?
葛城の中期古墳に見られる水鳥の埴輪、導水施設、水の祭りなど。
少なくともマキムク王権の生命線であるところの大和川水運を利用するのに、葛城の首長たちの協力は不可欠だった筈。その葛城地方に何故か初期古墳が見られない。
大和国造と別に葛城国造が置かれたことから分かるように、奈良盆地西部と東部は、旧大和湖跡の湿地帯に阻まれて別国だった可能性が高い。
応神仁徳以降の大和王権は葛城が外戚として台頭し、大和と葛城の二頭体制、それに吉備が加わる的な政治体制だったように思う。
565 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 00:26:09.87
葛城地域から庄内式が出土しないことから、
マキムク開始当初は、葛城はマキムク王権に参加していなかったことが分かる。
鴨都波の首長は、当初、磯城+中河内政権からは距離をとっていたのだろう。敵対まではしないにしても。
磯城の墓制である前方後円墳は採用しなかった。
四世紀末の高句麗南下に伴い、マキムク王権の権力基盤であった半島利権が揺らぐようになる。
そこで葛城襲津彦が外征将軍として台頭。
佐紀盾列や吉備、筑紫勢力と結びついた葛城氏は、大王家外戚として大和王権の中枢部へ進出、外戚となって葛城。前方後円墳の祭りを継承し室大墓を築く。
566 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 17:49:56.04
>>562 欠史八代の頃の神武皇統の当主は、正式な倭国王ではないでしょう?おそらく。
魏志倭人伝よんでもわかるが、倭国の政治体制では
祭祀を行う正式な倭王と、実際の政治を行う事実上の倭王と
二人いたことが分っている。
唐書だったか隋書だったかは忘れたが、古代日本では
夜に神事を行う倭王と、昼に政治を行う倭王がいて
受け持っていたみたいな記述があるから、それが古来からの政治体制だろう?
>>566 >夜に神事を行う倭王と、昼に政治を行う倭王がいて
違うから。隋書も一回読むこと。
568 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 18:35:37.51
使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、
日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、
結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
高祖が曰く「これはとても道理ではない」。
ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
569 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 18:55:33.82
神代系図、皇室系図を見たら分るのだが、
皇室の最初の先祖は、事実上、天忍穂耳命からである。
そこから、皇室の万世一系がスタートする。
しかしながら、それこそ、そこが最大の謎なのだ。
天忍穂耳命が天津神の当主とした場合、
その跡を継いだのは誰なのか?という疑問。
名前の呼ばれ方からみて、天忍穂耳命の長男の天火明命へと継承されたと
みるべきであろう?
天忍穂耳命の次男のニニギ命は神武皇統の祖になる者なのだが
彼は九州南部の辺境地である日向に左遷されるのである。
>>568 つまり天が倭王の兄、倭王の弟が日=太陽、ということ。倭王は太陽が
登る前に政務を執り、太陽が昇ったら何もしない。
これは迷信に満ちて馬鹿げていると煬帝により使者がたしなめられる。
小野妹子は侮蔑的な隋の国書をわざと失くしたことにする。そして
馬鹿の国には裴世清が派遣される。
571 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:05:24.88
>>570 神話を史実と見る輩は、自分が都合のいいところしか見ないからなあ。
神武の兄、稲飯命が新羅の祖とか、海幸彦が隼人の祖、とかも全部事実なの?
八世紀、隼人の反乱や新羅と敵対した関係から、それぞれの祖を神話に取り込んで、自らの優位性を主張した、とか理性的な判断は出来ない?
結局、自分が都合よく「史実か神話か」を取捨選択してることに自分で気がついていない。救われないね
神話は何らかの史実を伝えてるのかもしれないけど、解釈しても意味ない。
考古学的な裏付けがあればまた別かも。
573 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:49:39.46
考古学に軸足を置くという古代史の基本が分かってない奴が多すぎる。
寺沢とか松木、北條、村上恭通とか、一通り基本を押さえてるのか?と聞きたいものだ。
結局、馬鹿にしてる文献軽視の考古学者と同病であることに気づいてないんだよな。
574 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:50:53.98
>>571 >神武の兄、稲飯命が新羅の祖とか、海幸彦が隼人の祖、とかも全部事実なの?
>八世紀、隼人の反乱や新羅と敵対した関係から、それぞれの祖を神話に取り込んで、自らの優位性を主張した、とか理性的な判断は出来ない?
それのどこが理性的な判断なんだよw
その解釈こそ、意味不明なんだよ。
なんで、そんな面倒くさいことしなければいけないんだ。
神武の兄、稲飯命に関しては、古事記と日本書紀では記述が違うよな。
その新羅云々の解釈は日本書紀だな。
まあ、半島の三国史記だったかに、新羅の歴代の王で
倭人の王がいたとか出てくるから、その記述を意識しているんだろうw
でも、倭人の王とは、丹波の出身であり、日向ではない。
しかも、海幸彦の話は、もとは日向ではなくて、丹波の話らしいから。
海幸彦が隼人の祖ってのは、古事記にも日本書紀にもある。
隼人ってのは、熊襲と違って、
ヤマト王権が熊襲を支配するために送り込んだヤマト人の末裔だから
まんざら嘘ではない。
まあ、系図見てインスピレーション湧く人に何言っても無駄だとは思うけどね。
576 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:06:55.90
>>574 隼人も同族なんだ、ふーんw
習俗も文化も果てやDNAまで、まったく別物だと思っていたよw
まあ試しに「服属儀礼」でググってごらん。いろいろ勉強になると思うから。
577 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:21:27.07
纒向遺跡 別の大型建物存在か NHKニュース4月27日 17時40分
邪馬台国の候補地の一つとされる、奈良県の纒向遺跡で、女王・卑弥呼の宮殿とする説もある建物跡
の近くに、大きな柱を建てた跡が複数、新たに見つかり、専門家は、宮殿のような大型の建物がもう1棟
存在した可能性があるとみています。
桜井市の纒向遺跡は邪馬台国の候補地の一つとされ、おととし見つかった、3世紀前半では最も大きな
建物跡を女王・卑弥呼の宮殿とする説も出ています。地元の教育委員会が先月、建物跡から東に5メートル
の地点を発掘した結果、太い柱を据えたとみられる長方形の穴と、細い柱を据えたとみられる正方形の
穴の跡が、交互に南北に9メートル並んでいるのが見つかりました。確認された柱の跡は、出土した土器の
年代から卑弥呼の時代より新しいと推定されていますが、柱の穴の配置や作り方が、卑弥呼の宮殿とする説
もある大型の建物とよく似ているため、専門家は、同じような構造の建物が異なる時期に、もう1棟存在した
可能性があるとみています。古代の建物に詳しい神戸大学大学院の黒田龍二准教授は「宮殿のような大型
建物が異なる王の時代につくられていたことを示しているのではないか」と話しています。教育委員会は、
今後の調査で建物の規模や年代を絞り込む手がかりを得たいとしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110427/k10015591351000.html
578 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 22:19:48.22
>>576 一般的に、熊襲は、ヤマトから見たら異民族だけど、
隼人というのは、ヤマトから九州南部に送り込まれ現地化した
人たちの末裔という認識だよ。
579 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 23:51:14.56
卑弥呼=モモソ媛命ならば、
イワレ彦(神武天皇)は西暦1世紀の人物であり
近畿王権建国(出雲国譲り)があったのが、西暦前1世紀くらいで、
天照国照彦によって建国されたんだろう?
580 :
薩摩人:2011/04/28(木) 07:12:56.34
>>578隼人というのは、ヤマトから九州南部に送り込まれ現地化した
人たちの末裔という認識だよ。
誰が言ったんだい?ヤマト(畿内)人と隼人は現在でも体格・性格(思考)
ともに共通性が薄いでごわすよ。一緒にされたら嫌でごわすよ。
582 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 12:59:34.83
>>578 冗談やめろやw誰の妄想だよそれ。ヤマト人とやらがハヤト一派じゃ無いのかよw
583 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 20:41:18.04
またマキムクから遠ざかった…
記紀一族による異民族の蹂躙
584 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 22:23:58.05
ていうか、この程度の襲来をビビるとは情けない。
585 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 08:44:08.91
>>580 人間は婚姻を重ねて血が薄まるもんだ。
現地化すると言うことは、そういうこと。
当然、畿内から九州南部に入植した人たちも
現地人と交わるわけだから。
今でも違うと言っても、くっきり分けられるではない。
双方、混ざり合っているわけだから。
だいたい、日向三代って、おもいっきり
畿内人が現地人とまじったこと表しているだろう?
586 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 10:25:46.57
考古学的に、畿内人が南九州に入植したと分かるようなものはあるの?せめて文化的繋がりが示唆される遺物とか。
根拠なしに記紀は正しい、とか言われてもなあ。
587 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 16:06:44.60
>>577 正方形。大社造じゃないか。「田の字」形。大社造は出雲大社だけ。
中国思想の取り入れで変化した、神明造より古い。
纏向は、出雲王朝の発祥の地。製鉄の島根県も出雲王朝の主要地であったと思う。
纏向の出雲王朝は、中国思想の受入れ勢力との権力闘争で敗れて、島根県の出雲より先に消えた。
三輪山とこの建物は、正確に向き合っているのだろうか。地元の人、おしえて。
おととし見つかった建物跡は正方形ではなかったが、黒田龍二准教授の説が話題を呼んだ。
つまり、等間隔の柱による間口の造り方が偶数だということ。
中国思想では、偶数だと、建物の真中に玉座しなければならない皇帝の背中に柱がくることになる。
これが、中華感覚だと気に入らない。だから、柱間隔の空間割りは奇数でなければならない。
日本も、伊勢神宮は中国思想の建物。
今回、田の字の正方形の発掘は、大事件
正方形ってのは束柱の跡形のことじゃね?
まあ一昨年発見された建物に似てるってことは間取りが偶数の可能性もあるんだろうけども。
589 :
薩摩人:2011/04/29(金) 18:16:18.65
>>585 古代の大昔にどれだけの人が薩摩にやってきて隼人になったのですか?
大勢の人が入植するための交通手段・生産を得るまでの当面の兵站・
入植するための武力(兵数・鉄製武器)など根拠となる物をお示しください
でごわす。
590 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:46:46.44
考古学的根拠を示せ
→考古学では歴史は分からない。記紀や海野系図を見れば歴史が見えてくる。
記紀の記述が正しい根拠は?
→嘘とかそんなめんどくさいことする筈がない
のループ。馬鹿の相手は疲れるよ。まともな根拠、一つでも示してみろ馬鹿
591 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:50:13.38
中華思想だと、皇帝の玉座は宮殿の真中に配置する。
宮殿建物の柱の間隔は等間隔。
そして玉座の背面には柱がこないような設計になる。
その結果、間取りは奇数。
3〜4世紀時代の日本の神道建物の間取りは、偶数もしくは正方形という説。
古事記の八尋殿の御柱の話から、部屋の中心に柱を配置して、それが神の象徴となっていた。
纏向での、一連の発掘は、
太陽崇拝巫女王朝派と中華文化の受入れ新興勢力との闘争が百年続いたと。
記紀が全部嘘ということはないだろうけど、書いてあるとおりに古代から伝わってきた
というのは考えられない。例えばアマテラスの女神としての歴史など、天武以前には
たどれない。
様々な氏族の間に断片的に伝わってきたものをなんとかまとめたのが記紀であって、
当然7〜8世紀頃の大和朝廷に都合のいい形での編纂が加えられている。南九州に
ついては、隼人の乱前夜の不穏な情勢を考慮して記述されているわけだ。
南九州では、生目や西都原の勢力のように、早くから初期ヤマト王権と結んで生き残りを
図った勢力もいたが、それが主流になったわけでもなく、5世紀頃でも、地下式横穴墓や
地下式板石積石室墓の勢力に分かれて、混沌としてまとまらない状態が続いていた。
おそらく6世紀頃と思われるが、香春から宇佐に移って一大勢力を築いていた渡来人系の
辛島氏一族が南九州へ移動して勢力をのばし始める。朝廷は8世紀初頭、南九州の支配
強化をねらって豊前国から5000人規模を大隅国に移住させるが、これに反発した住民が
辛島氏の指導の下に起こしたのが720年からの隼人の乱。
日向神話の舞台になっているのは当時、まつろわぬ勢力の根拠地とされる地域であり、内容的には
明らかな南方系神話である。つまり日向神話はもともと隼人の間で継承されていたもの。それに改竄を
加えて、隼人の朝廷への服属を正当化させるために取り込んだものが記紀の日向神話。
逆じゃないか?
ハヤトを支配する為の正当性の創作。
そこはどっちでもいいよ。
宇佐の辛島氏は、隼人の乱において、同族である大隅八幡を拠点とする辛島氏攻撃の
急先鋒となり、その勝利に貢献した。で、ここから宇佐神宮は様々な宣伝を大和朝廷に
対して行うことで力を伸ばしていく。で、和気清麻呂による神託事件へとつながっていく
わけだ。
いずれ南九州の古代史自体はそう難しいものではない。日向からの神武東征などを示唆
する証拠は何もない。
597 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 20:40:29.19
>>592 記紀が皇室に都合が悪いことが伏せられているのはそうだが
およそ、世間の学者さんの説はたいがいが見当違いの話だ。
記紀の基本骨格は蘇我馬子の頃まではできていたことは確かだと思う。それが乙巳の変
でいったんおじゃんになり、つむぎ変えられているのだろう。この当時の天皇記・国記に
南九州について記紀のような形で取り上げられていたかには疑問を持っている。
599 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 21:57:51.85
日向は西都原古墳群やら穀璧が見つかってたりしてるので、一口に「南九州」と言ってしまうのは抵抗がある。
むしろ、弥生・古墳文化の前線基地、だったんじゃなかろうか?
600 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 22:10:56.53
>>571 >それぞれの祖を神話に取り込んで、自らの優位性を主張した
山幸の兄が隼人の祖
神武の兄が新羅王家の祖
なんで天皇家が弟なんだよ
作り話なら天皇家の弟が隼人、新羅王家でいいだろ
神武東征ってのは、その後八代に渡って欠史となることや、
その次の崇神がハツクニシラスと称されていることからして、創作が多いでしょう。
しかし、箸墓以降の早い段階で、日向に畿内風の古墳が突然のように築かれるのも事実。
ひょっとしたら、崇神の何代か前に大和入りした先祖は日向出身で、吉備経由を経由して来たってのも、
まったくの作り話ではなく、崇神当時すでに日向が先祖の出身地として認識されてたのかも。
大王家における、日向−吉備−大和が、
足利将軍家における、下野足利−鎌倉−京都室町
徳川将軍家における、三河岡崎−駿府−江戸
みたいなもん。
602 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 00:02:45.03
おまえら、記紀や魏志倭人伝などの
日本や中国の文献を読めや。
読んでもいないのに、空想かたりすぎるのが多すぎる。
ちゃんと、あそこに書かれていることを体系化出来てないのが多過ぎる。
603 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 00:45:56.15
神武東征みれば分るが、十数年かかって、
日向から近畿へ東征したんだろう?
うんなわけなかろうw
しかも、畿内に入った時に、畿内には親戚がおおくいて
彼らに誘導されて畿内に入って、しかも河内上陸戦で大負けして
それでも東征が成功した。
このことの意味を理解しようや。
604 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 10:36:52.79
>>577 正方形。大社造じゃないか。「田の字」形。大社造は出雲大社だけ。
中華思想の影響を受けた伊勢神宮の神明造より古い。
纏向は、神道巫女王朝の発祥の地。製鉄の島根県も神道巫女王朝の主要地であったと思う。
纏向の神道巫女王朝は、中華思想の受入れ勢力との権力闘争で敗れて、島根県の出雲より先に消えた。
3世紀ごろから、中華思想に毒された神道に徐々に変容していった。
神主の服装も、中国服(呉服)
おととし見つかった建物跡は正方形ではなかったが、間取りが偶数のきょこうが発見され、
黒田龍二准教授の説が話題を呼んだ。
中華思想の宮殿建物の特徴は、
皇帝の玉座は宮殿の真中に配置する。
宮殿建物の柱の間隔は等間隔。
そして玉座に座る皇帝の背面には柱がこないようにする。
その結果、宮殿の間取りが奇数になるという説。
神道巫女王朝思想では建物の間取りは、偶数もしくは正方形という説。
古事記の八尋殿の御柱の話から、部屋の中心に柱を配置して、それが神の象徴となっていた。
権力志向の纏向の有力者は、皇帝(男)を奉る中華思想にあこがれ、
人が頂点ではない巫女のシャーマニズムの神道を駆逐した。
三輪山とこの建物は、正確に向き合っていると思う。地元の人、おしえて。
今回、田の字の正方形の発掘は、大事件。
605 :
水銀厨:2011/04/30(土) 11:33:16.72
一応地元の(近く)の人だが、もう少し待った方がいいですよ。
しかし線路と駅が何とかならないもんかな?
606 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 11:46:04.39
>>600 長子相続とか末子相続とか聞いたことありませんか?
知識不足過ぎるだろ、お前。
607 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 13:58:58.55
>>604 あのな、
大社造・・・身分の高い人の住まい
神明造・・・穀物の倉庫
なんだよ。
当然、巻向の卑弥呼の宮殿は、身分の高い人の住居だから
出雲と同じ大社造。
608 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 18:51:14.88
>>577 正方形。大社造じゃないか。「田の字」形。大社造は出雲大社だけ。
中華思想の影響を受けた伊勢神宮の神明造より古い。
纏向は、女人祭祀者神道王朝の発祥の地。製鉄の島根県もこの王朝の主要地であったと思う。
纏向の女人祭祀者神道王朝は、中華思想の受入れ勢力との権力闘争で敗れて、島根県の出雲より先に消えた。
3世紀ごろから、中華思想に毒された神道に徐々に変容していった。
おととし見つかった建物跡は正方形ではなかったが、間取りが偶数のきょこうが発見され、
黒田龍二准教授の説が話題を呼んだ。
中華思想の宮殿建物の特徴は、
皇帝の玉座は宮殿の真中に配置する。
宮殿建物の柱の間隔は等間隔。
そして玉座に座る皇帝の背面には柱がこないようにする。
その結果、宮殿の間取りが奇数になるという説。
女人祭祀者神道王朝思想では建物の間取りは、偶数もしくは正方形という説。
古事記の八尋殿の御柱の話から、部屋の中心に柱を配置して、それが神の象徴となっていた。
大社造の八尋殿での男女の性交は神事行為。
崇神天皇は皇帝(男)を奉る中華思想に毒された神道主義者だったので、
女人祭祀者シャーマニズムの神道の精神は完全消滅に近かった。
百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、
と『日本書紀』には描かれています。
崇神天皇の時代に疫病が蔓延した。夢のお告げやモモソヒメの進言で、大社造を建ててオオモノヌシ神を祭った。
女人祭祀者神道は太陽信仰です。三輪山はもともと太陽神の山だったといわれています。
(中華思想に毒された神道は星が重要)
女人祭祀者神道ですので、三輪山とこの建物は、正確に向き合っていると思います。地元の人、おしえて。
今回、田の字の正方形の発掘は、大事件。
609 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 20:55:41.74
>>606 8世紀には間違いなく長子相続だった
そもそも末子相続の証拠は古事記日本書紀しかない
創作なら神武〜開花も長子相続にする
610 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:36:24.76
なんだかなあ。単純過ぎやしないか?
記紀の時に全てが作られたとか思ってる?
天皇記や国記、帝紀や旧辞の元になるものは、もっと昔に書かれてるだろ。
直木孝次郎なんかは、磐余の地名に注目して、雄略の頃に神武に繋がる伝承が作られた、としている。
個人的には、尋常ならざる相続の仕方をした継体の頃に、なんらかの歴史書が作られたのではないか、と思う。歴史書を作る、てのは自分の王位継承を正当化するために編まれることが多いからな。
611 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:53:44.30
それって何の証拠もないただの空想だよねww
612 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 22:57:10.61
大なり小なりそんなものなんです
613 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 23:10:11.13
わざわざ、あういう面倒くさい伝承を
なんで作らなきゃいけないんだよw
何もないところから伝承を創作するのなら
もっと、もっともらしい伝承作るでしょうよw
なんで、わざわざ、日向から東征したみたいな不自然な伝承を作るのだw?
614 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 23:15:19.44
記紀を読んでない奴が多いが
一応、記紀が編纂された時点では
「神武天皇」「崇神天皇」みたいな「漢風諱号」は記載されていない。
これは、記紀が編纂された後の数十年後におくられた名前だ。
記紀の原文には、「イワレ彦」とか「ミマキイリ彦」という名前の人物が
皇室の先祖にいたとしか記載されていない。
これらの人物に、後から「漢風諱号」で「○○天皇」と名付けたにすぎない。
よって「○○天皇」みたいな呼び方は、歴史を推測するのに
へんな思い込みが持ち込んで、目を曇らせる結果になるだけだと思うよね。
615 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:02:09.53
また、記紀編者「メンドクサイから嘘書かない」て理屈か。
まともな根拠示してみろよw
それは常識でしょう。
むしろ、記紀に価値を見出さない連中に限って、
神武だの崇神だの応神だの「神」がつくのは王朝交替があった天皇だ、
などとアホげなことを言ったりする。
617 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:21:30.23
いや、そうじゃなくてさ。考古学的根拠示さないと誰も相手にしないよ、ということ。
619 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:31:35.39
記紀の言うことを絶対に信じろとは言わないが
かといって、どこにも文献に書いていないことを
21世紀の現代人が適当に推測するほうが、より信憑性がないつーことw
30世紀の未来人が歴史研究した場合
20世紀、21世紀の人間の記紀研究よりも
8世紀の記紀のほうをリアルタイムに近い文献資料として
遥かに評価するだろうね。
620 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:37:01.60
>>617 考古学という学問を、歴史学において過大評価しすぎると言うこと。
たとえば、鎌倉時代に文献がないと仮定して
この時代の土器やらなんやらの考古学資料をみても、
鎌倉時代、東の辺境の小都市の鎌倉にあった政権が
日本全国を武力で統治したなど推測できない。
それこそ、考古学的資料だけ見たら、この時代の二大都市は
博多と京都であり、海外文化を先進性と見るのなら
博多に首都があっても不思議ではないくらいだ。
621 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:38:36.51
結局のところ歴史書ってものは、その時代時代の権力者の都合がいいように書かれてしまう。
我々は眉に唾つけて読まないといけない。
大伴→物部蘇我→皇親政治の流れで、かなり歴史は改竄されただろう。
622 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:39:12.98
21世紀の人間の推測にそれなりの根拠があれば別だけど
ほとんどの推測が根拠のない妄想、願望だからなあ
だな。
「20-21世紀の学者さんの言ってることこそ史実」なわけないもんな。
色々議論を戦わせるのはよろしい。
だけど「現在の考古学ではこうこうこういうのが定説」なんてのを
金科玉条のごとく信奉するのはやめた方がいい。
624 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:46:01.43
何か勘違いしてるようだが、記紀が何らかの改竄がされてても、昔の記憶や伝承が残されているということでその重要性は確かだよ。
別に貶めるつもりはない。
ただかなり混乱が見られるし、記述が史実かどうかは冷静に判断すべきということ。恣意的にならないようにな。
少なくとも考古学や比較神話学とかも勉強した上で読むべきもので、
記紀だけを読んでても分からないことが多い。
625 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:47:38.79
>>620 たしかにそうだ
考古学だけでは歴史は語れないってことだな
626 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:47:53.20
>>621 大伴氏、蘇我氏の実力など、たかがしれているよ。
とにかく、歴史を解読する能力がなかったら
「これは改竄されている」なんて誰にでも、いえることだよw
歴史学とか考古学なって、プロとアマの障壁の低い
つまらない学問だ。
こんなこと、理系の学問では、まず考えられない。
627 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:52:13.57
相変わらず「記紀ネタ雑談スレ」になってるなw
「神武」だの「欠史八代」だのも少なくとも纏向遺跡から見ればやはり架空の存在だった可能性が強いと言う結論にしかならんだろうに…w
(まあ「実在」というのをどのレベルまで求めるかによるだろうが)
記紀を中心に語りたければ他のスレにいけよと・・・
せめて唐古鍵が欠史八代のうちの一つでも良いからヒットしてれば良かったんだろうがwww
628 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:53:41.80
徳川時代に文献がなかったら1000年後くらいには
吉宗が家康の4世孫というのは嘘っぱちだ
紀州の有力な豪族が将軍職を簒奪したんだ
なんて言われるのかな
629 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:55:11.01
>>620 文献学、てのは、複数の史料を見比べて、同じことが書かれてる→史実、という厳密な学問だよ。
史実が書かれてる割合が高い→一級史料ということ。
少なくとも記紀でも神話的要素が多い、継体以前の部分は、頭から史実とか言っても相手にされないよ。
マキムクの発見で漸く、崇神の頃が史実を含んでる、当時の記憶を何らかの形で伝えている可能性が出てきた。
王権誕生の地が橿原か葛城なら、記紀の信憑性も上がるのだが、残念ながら違うようである。
630 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:55:53.20
>>627 いや、だから、ならないよw
考古学的資料で何かが分るかよww
631 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:58:15.46
最近の邪馬台国の本とかよく売っているが
それでも、卑弥呼=モモソ媛命説が有力になっているが
だとしたら、倭国大乱の時期=欠史八代の時期
ってことになるんだよなw
632 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 02:15:24.36
古代はまともな文献がないから、考古学>文献になるんだよ。
同時代文献が複数ある中世・近世持ち出しても意味がないと何度言っても分からないんだな、お前はw
「考古学で歴史は分からない」とか言ってる輩に限って、まともな考古学の本を読んでないんだよな。
批判する前に実際読んでみたら?と思うのだが。敵をきちんと知ってから攻撃した方がいいと思うぞ。
最低限、寺沢の「王権誕生」とか、北條村上らの「古墳時代像を見なおす」とか読んでみたら?
>>629 ていうか、橿原や葛城に王権があったとされる時期が「欠史」であることに
意味を見出す人もいるんだよ。
>歴史を解読する能力
高校生的発想だな。
誰の本読んで影響受けたのか知らないが、もうちょっと広い視野で物事を考えた方がいい。
>>631 そうだね。「倭国大いに乱れる。歴年主無し」の時代。
で、巫女王に「共立」されたのがおそらくまだ少女だった卑弥呼=百襲姫。崇神天皇の大叔母にあたる。
まだ大王(天皇家)の男系先祖が「大王」でも「王」でも無かった時代。
ゆえに「欠史」。
636 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 02:25:36.20
欠史八代の研究で重要なのは
最近の纏向遺跡の研究の成果で、卑弥呼=モモソ媛命ならば、
倭国大乱の時期と、欠史八代の時期が同時期と言うことになるんだよ。
しかも、例の日本最古の系図といわれる国宝海部氏系図でも
平安時代、丹波の海部氏の当主が、京都朝廷に系図を提出した時に
欠史八代の天皇と同時期に生きたであろう海部氏・尾張氏の当主のことを
書くなと脅しをかけられ、そこだけ削除して京都朝廷に提出していた
(実際は、別にこっそり、その部分も書いておいた系図を長年、隠し持っていた)
つまり、欠史八代の時期は、倭国大乱で王位継承争いが勃発していた可能性が高く
しかも、皇室(神武皇統)と尾張氏・海部氏の間で
なにかゴタゴタがあったことだけは、およそ推測がつくんだな。
いまだに、三種の神器の天叢雲剣は
尾張氏が支配した熱田社のほうに本物が保管され続け
皇室が保管しているのは、そのレプリカにすぎなかったり。
「書くな」と脅された証拠は無いんじゃないか?
それと厳密に見ていくと、必ずしも「欠史八代の時代だから削られた」とも言えないのではないかな。
私は記紀をある程度重視する人間なのだが、
それでもね、天皇家が、欠史八代の時代に尾張・海部(いわゆるホアカリ系)と双璧で争うほどの力を持ってたとは思ってないんだ。
天皇家の当主が力を持つのは、卑弥呼の大甥で、台与の父親という系譜関係にある崇神天皇(3世紀後期)の時と考えている。
だからそれまでの天皇家の歴史は「欠史」なわけ。
それに、天皇家史のバイブルともいうべき日本書紀からして、「天皇家よりも前にヤマトにいた有力者」の存在を認めているわけでしょ。
ちなみに私は、ホアカリ系を軽視しているわけではないよ。
前方後円墳よりも早く隆盛を見せる感のある前方後方墳の造主の多くは、ホアカリ系(およびその分身とも取れるニギハヤヒ系)だと考えている。
638 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 02:48:33.54
自分は、ホアカリ≠ニギハヤヒ
だと思うけどね。
ニギハヤヒは、ホアカリのクシミタマだと自称しているぐらいだから
自分は、ホアカリの形見(御落胤?)だと言っていたんだろう?
しかも、高天原(御所市高天?)から河内に降臨したぐらいだから
それは、ホアカリとは別人物でっしょう?みたいな。
だから、物部氏は自分の家系を天孫としていたのに
新撰姓氏録では、天神であって、天孫ではないことにされている。
まあ私もイコールでは見ていないけれども……。
一応私のヤマト政権(王権)のイメージは、鎌倉幕府と比較すると次のような感じ。(あくまでもイメージ)
・オオクニヌシ系(三輪・磯城県主など=纏向型墳丘墓造主?)………鎌倉将軍家
・ホアカリ・ニギハヤヒ系(尾張・海部・穂積・物部など=前方後方墳造主?)………坂東八平氏(梶原・畠山・和田・三浦など)
・ニニギ系(大王家=前方後円墳造主)………北条執権・得宗家
・その他の氏族(大伴・中臣・忌部・倭など=纏向型墳丘墓造主?)………非平氏の氏族(大江・三善・安達・宇都宮など)
・大物主神………源 頼朝
・倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)………北条政子
・崇神天皇………北条義時
・出雲国………京都朝廷
・国譲り神話………守護・地頭の設置などによる全国支配
・大王家祖(神武)の大和入り………在庁官人としての北条氏の東国(伊豆)入り
・神武東征神話〜武埴安彦や狭穂彦の乱………有力御家人の粛清〜北条氏内部での争い
・欠史八代………北条氏の詳らかでない先祖系譜
朝から出かけるんでもう寝ます。また夜中にでも覗きに来ます。では、おやすみ。
640 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 09:27:17.58
>>577 正方形。大社造じゃないか。「田の字」形。大社造は出雲大社だけ。
中華思想の影響を受けた伊勢神宮の神明造より古い。
纏向は、女人祭祀者神道王朝の発祥の地。製銅や製鉄の島根県もこの王朝の主要地であったと思う。
纏向の女人祭祀者神道王朝は、中華思想の受入れ勢力との権力闘争で勢いをなくして、島根県の出雲より先に消えた。
2世紀ごろから、中華思想の取り込み派が、縄文時代からの女人祭祀者神道(太陽信仰神道)とせめぎあいを始めた。
8世紀ごろには女人祭祀者神道の思想は見る影もない状態になってしまった。
おととし見つかった建物跡は正方形ではなかったが、間取りが偶数の遺構が発見され、
黒田龍二准教授の説が話題を呼んだ。
中華思想の宮殿建物の特徴は、
皇帝の玉座は宮殿の真中に壁を背面にして配置する。
宮殿建物の柱の間隔は等間隔。
そして玉座に座る皇帝の背面には柱がこないようにする。
臣官たちは皇帝に向かって平伏する。
その結果、宮殿の間取りが奇数になるという説。
女人祭祀者神道王朝思想では神体は部屋の中央に安置。壁よりに安置することはない。
間取りは、正方形、もしくは偶数を好むという説。
古事記の八尋殿の御柱の話から、部屋の中心に柱を配置して、それが神の象徴となっていた。
大社造の八尋殿での男女の性交は神事行為。
崇神天皇は皇帝(男)を奉る中華思想に毒された神道主義者だったので、
女人祭祀者シャーマニズムの神道の精神は軽んじられていた。
百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、
と『日本書紀』には描かれています。
崇神天皇の時代に疫病が蔓延した。夢のお告げやモモソヒメの進言で、大社造のミヤを建ててオオモノヌシの祟りを鎮めた。
女人祭祀者神道は太陽信仰です。三輪山はもともと太陽神の山だったといわれています。
(中華思想に毒された神道は星が重要)
女人祭祀者神道ですので、三輪山とこの建物は、正確に向き合っていると思います。地元の人、おしえて。
641 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 10:03:27.17
古代はまともな文献がないから考古学>文献になる
ということは仮に文献があれば文献>考古学になる
考古学だけでは本当の歴史は分からないんだよ
文献がない時点でしょうがないんだけどね
考古学だけで全てが分かるわけではないということは注意しておかないとね
>>636 >倭国大乱の時期と、欠史八代の時期が同時期
同意。
しかし 卑弥呼=百襲姫 に非ず。ただし両者はほぼ同時代の人物である。
643 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 11:02:40.81
考古学で全てが分かるなんて誰も言ってないと思うが。
そんなことより少しは考古学の本読んでから書き込もうなw
てか、記紀や系図を信じる人は書いてあることが真実だから、いくら考古学的事実と反していても
考古学のほうを認めない。この溝は絶対に埋まらないだろ。
>しかし 卑弥呼=百襲姫 に非ず。ただし両者はほぼ同時代の人物である。
でもあまりに逸話や記録に、卑弥呼を思わせる条件が
揃いすぎなのは事実ですからね。
断定は出来ないが、今のところ有力な候補者ですよ。
646 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 11:51:06.04
記紀信者は1〜2世紀の倭国ですでに広域王権があったみたいに言ってるけど、そんなものは見つかってないんだよ。
庄内以降の土師器の広域分布とマキムク型前方後円墳の発生・伝播が、広域王権の誕生を物語っている。それが倭人伝の卑弥呼共立の時代とどうやら近いらしい、てことで世間で話題になってるんだよ。
まずこのあたりの現実を認めてくれないと話にならない。
考古学に拒否的で読もうともしないんじゃ自家中毒。一生妄想の世界に生きろ、というか。
んー古墳時代になってからも、ヤマト王権は後代の奈良一国の範囲すら完全に制しては
いないんだよね。広域支配というには雄略天皇の頃まで待たなくてはならない。
早期の前方後円墳のある地域は纏向建都にかかわった拠点集落と、あとは卑弥呼の倭王
冊封により纏向詣でをしてきた首長の集落だな。これは前方後円墳が広がったのが240年
以降と考えられること、同心円状の伝播ではなく飛び地のように伝わっている場所があること
などから妥当だと考える。
648 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 12:06:46.62
そもそも紀で崇神は紀元前の人とされていてる。紀の註では卑弥呼=神功皇后だとしているし。
崇神を君が3〜4世紀の人に当て嵌めてるのは、実は、あくまで考古学的見地からなんだよね。
考古学が信用できないなら、使っちゃダメなんでは?w
それは考古学ではないだろう
650 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 13:57:16.86
考古学がおかしいんじゃなくて
考古学を恣意的に利用してる人がおかしいだけ
651 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 17:49:12.71
考古学を知らずに、これは恣意的、これは恣意的じゃない、とかどうやって判別するの?
結局、自分の考えに合う考古学は認めるけど、合わないものは無視という、非常に「恣意的な」態度になってませんか?
652 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 20:27:18.36
>>647 そんなこと分らないよw
巻向王権は、紀元3世紀、少なくとも
北九州から関東ぐらいまでは領国化していたとしても
おかしくはないと思うね。
自分なんかは、巻向王権の前身の高尾張王権は
紀元0年前後位には、九州から関東ぐらいまでは
勢力圏にしていたと踏んでいるよ。
奈良盆地の橿原や竹内で、交易自体は
縄文以前からの物が確認されてるしな。
東北から九州までのが。
あほか?橿原遺跡の縄文人は、弥生初期には東に追いやられてる。
>>654 あのな、ポイントはその位昔から橿原・竹内が
交易の重要拠点で、遠方との交流が盛んにあるという事だろ。
記紀上での重要ポイントでもあるしな。
656 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 21:56:39.93
竹内文書と変わらないレベルだな。五十歩百歩。
記紀原理主義の馬鹿馬鹿根拠なしに妄想垂れ流す。
倭人伝ですら卑弥呼共立と書いてるのに、卑弥呼以前に九州から千葉県までの統一王権が存在したんだ?
ところで九州から千葉までの根拠は?
もしかして君の嫌いな「考古学の」庄内式土器の広域分布からじゃないだろうな?
>>655 だから、稲作が始まった頃に縄文文化は一掃された。縄文時代から交易は盛んだったが
相手集落を武力統合するのとはまったく違うんだよ。
>>656 君も大概だと思うよ‥
さすがに卑弥呼以前に九州から千葉県までの統一王権がなんて
主張はしないが、重要地にそうした交易跡が存在する点は
結構無視出来ないと思うけどね。
竹内なんて塩の交換拠点だしな。
659 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 22:06:29.16
>>655 残念ながら、奈良盆地で弥生後期の王権誕生のプロセスは謎。
筑紫や出雲みたいに、特定首長墓の発展が見られない。
少なくとも橿原には初期古墳が見られず、イワレヒコで磐余地域を見ても、せいぜい桜井茶臼山、メスリ山が最古。
マキムク石塚と比べると随分新しい。
あと、最後の可能性として葛城山の尾根の先とかに古墳が見つかることを祈るしかない。可能性は低そうだけど
石塚が築造されるまで、奈良盆地にオウはいなかった。族長社会だった、というのが考古学的結論になっている。
660 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:07:32.46
>>658 いや、葛城の重要性は否定してないよ。
応神仁徳以降は、大和・葛城の二頭体制だったと思ってるし。
ただ、マキムク初期にどの程度の役割を果たしたかは疑問なんだよね。やはり庄内土器が出ないのが痛い。
マキムクを始めたのは大和東南部の磯城(狭義の大和)と中河内、それに阿讃播だと思う。
大和川水運で船荷を遡上させようとすると、川の両岸から引っ張らねばならず、葛城勢力の協力は不可欠。
しかしまあ、マキムク初期には距離を置いていたのだろう。
661 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:35:30.70
こういう原理主義の馬鹿が出てくると
一気にスレがつまらなくなるな
だよな、記紀原理主義者が出てくるとスレが一気につまらなくなるよな。
663 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 01:09:35.84
おまえ必死だなw
664 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 01:24:17.50
こういう記紀原理主義者を排除した上で、神武東征や欠史八代を語りたいのだが。考古学や比較神話学を用いてね。
記紀の狂信者のせいで、日本史板で記紀のことを語ろうとするとアレルギーを起こす人が出てしまう。
何とかならないものか
665 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 02:16:34.01
第26代・継体天皇以降を実在確実とする説
第15代・応神天皇以降を実在確実とする説
↑
ここまで良心的考古学者
ここから記紀原理主義者
↓
第10代・崇神天皇以降を実在確実とする説
第初代・神武天皇以降を実在確実とする説
そらあ一昔前の学者の説そのまんまやないか。
少なくとも「崇神以降実在説」は原理主義から外してやってもいいんじゃないかな。
1世代25年で遡れば崇神は3世紀後期壮年の人物となり、
箸墓や古墳時代への突入期(のちの「日本」に連なる国の出発点)とも被るし、
纏向遺跡が廃絶する4世紀前期は、まさに晩年纏向から離れたという伝承をもつ景行朝に相当する。
次の成務は佐紀古墳群に葬られるが、ここにはその時期の大王墓として五社神古墳がある。
仲哀は旧来応神との断絶が云々されるけど、最近の古市古墳群の年代観では
現応神陵が実際に応神朝に相当する人物(5世紀初頭頃死去)の墓であることをむしろ積極的に否定できない状況にあり、
かつ古市古墳群には、これに先行する大王墓や準大王墓が2世代存在し、
それは記紀の仲哀やその父・小碓(ヤマトタケル)の河内志紀の陵墓伝承ともマッチする。
よく、古墳前期から中期の変化の象徴が古市古墳群など河内の大古墳の出現であり、
そのバックには新王朝の創始者・応神の姿を多かれ少なかれ意識してる人が多いと思うけど、
私はちょっと見方が違ってて、全国的に見られる中期への変化のきっかけは、
景行朝や成務朝における「諸国のワケ」や「国県の長」配置伝承として語られる
ヤマト王権による地方整備事業にあるのではないかと考えている。
まあ、こんなこと書くとまた記紀原理主義だ!などと言われてしまうのだろうけどw
つまるところは、かなり伝説的・物語的ではあるものの、崇神以降は簡単に切り捨てるべきではない、というのが私の意見。
「切り捨てろ」までは行かなくとも、記紀の中に歴史時代と「それ以前」とを切り離す境界線があるとすれば、
それは欠史八代と崇神の部分であろうと思う。
端から見ても、記紀原理主義者とか言ってる人が一番痛いな。
つーかどっちも痛いがな
669 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 14:16:02.48
崇神以前も実在の人物だろうw
架空の人物を作り出す意味合いが分らんw
ただ、あの欠史八代の人物とかが、
本当に正統な倭国王の地位にあったのかどうかは分らない。
670 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 20:07:45.63
>>577 纏向で大社造の遺構発見は、大事件だと思うけど。
671 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 21:43:25.50
崇神以前は、実在と創作が混在している。
シキツヒコとかミマツヒコみたいな名前は、実在の小首長の名前の可能性もある。
一方、タラシヒコとかクニオシヒトなんて後世風の名前は架空の存在。
シキ県主家との婚姻関係や、欠史八代のおくり名から推察するに、
断片的に名前だけ伝わっていた首長名と、彼らが祭祀していた神霊名をもとに、
パッチワーク的に父子相続の系図を「創作」したものと思われる。
天皇名やシキ県主の名に実在の首長名が「断片的」に伝承されていたものが、
王統譜編纂の段階で利用されたものにすぎない。
672 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 22:26:15.52
>>667 同意
原理主義って言ってる奴が原理主義なのが笑える
673 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 22:33:11.03
要するに、記紀の内容を全面的に信用するのも、
全面的に否定するのも両極端ってこった。
こういう古代の年代記や王統譜ってもんは、史実そのままではなく、
後世の述作や改変があるのは洋の東西を問わず、みられるわけで、
記紀に書いてあるまんま、全部史実だとか実在だとかいうのは馬鹿げてるが、
一方で史実が伝承や説話の中に形を変えて残っている場合もあるわけだ。
674 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 22:42:59.24
シュリーマンみたいなこともあるわけだしな
何らかの真実が含まれてる可能性ってのはかなり高いと思うよ
念のために言っておくと記紀が全て真実だと言ってるわけじゃないからね
そう言っておかないと曲解して怒りだす人がいるから
675 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 23:43:37.23
普通に読んでみて、紀は「一書に曰わく」と複数の書の記載内容を併記するなど、出来るだけ客観的に書こうとしてるんだよね。
逆に言うと、複数の書物で書いてあることが全く違っていて、どれが正しいか(あくまで天皇側から見てかも)分からなくなっていた。
それを一本にまとめようとしたのが、日本書紀編纂という事業なんだよね。だからかなりの年数がかかった。
最後までどれが正しいか分からなかった箇所は、潔く併記した、ということ。
日本書紀の書いてることは絶対正しいとかいう原理主義者より、紀の編纂者は余程理性的な態度なんだよ。
676 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 23:52:31.61
大体のコンセンサスは得られたみたいだね。
つまり記紀は何らかの形で正しい歴史を伝えている可能性がある。
それを考古学で実証していければ、てことで。
同じ古代史好きという狭い村の中でいがみ合っていてもしょうがない。
677 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 00:06:37.18
記紀の話で寄り道し過ぎたんで、そろそろスレの本題、マキムクの話に戻ろうか。
せっかく新しい発見もあったことだし
>>677 だよな、シュリーマンとかの嘘話だしてくる奴まで出てきたから
常連さん頑張っておくれってとこだな
679 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 09:24:11.54
また変な奴が出てきた・・・
680 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 16:31:27.04
マキムクの大型建物が神殿だとして、そこにやはり大和王がいたんだよね。
無人都市マキムクとか言われてるけど、マキムクの役割って何だったんだろう?
大和王の奥津城か、王に対する貢ぎ物で交易拠点として機能したのか。
神殿にいたのが王かどうかは不明
巫女の可能性のほうが高い
三輪山の麓と考えると、やはり巫女が妥当。
大量の桃は、神仙思想の影響がやはり有ると思う。
683 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:10:20.80
巫女の王だったんだろう?
あと、ミマキイリ彦(崇神天皇)が初代天皇とされるのなら、
欠史八代の時代には、それらの神武皇統側の天皇たちは
本当の大倭王ではなかったわけだから
別に正統な倭王がいた可能性がある。
そんなわけから、崇神時代の途中(崇神が初代天皇と言われる)までは
別に正式な倭王がいて、そいつはモモソ媛命しか考えられないんだから、
その時代、巫女が倭王になっていたと思うのが、一番可能性が高いでしょう?
684 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:12:14.56
相変わらず、記紀原理主義者は無根拠な妄想を書き散らすなあ。
685 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:32:41.71
いちいち記紀に出てくる固有名詞を出さなきゃ気が済まない奴がウザイ。
ミマキイリヒコくらいならまだしも、神武や欠史八代なんて問題外だろ。
とりあえず、記紀の説話上の固有名詞は出さなくても話はできるだろ。
686 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:36:39.59
倭人伝を読めば、卑弥呼以前は男王だったみたいだけどね。
卑弥呼以前の倭王については、漢委奴国王の奴国や、面土国の帥升とか、
おそらくは奴国や伊都国などの玄界灘グループだったと思うよ。
弥生終末期のマキムクまで、大和は特定首長墓の発展が見られないことから、王権誕生は筑紫、出雲、吉備より遅かったとされている。
687 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:49:27.84
マキムク以前の畿内勢力の政治的まとまりを考古学的に証明しようとすると、
福永がいう、見る銅鐸を共通の威信財として都市間連合してた、という仮定くらいしかない。
その場合、唐古鍵が銅鐸製造センターで、畿内ブロックの中心だったことになるのだろう。
ただ、残念ながら、唐古鍵にも特定首長墓が見当たらず、
688 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 17:56:11.89
>>685 漢風諱号は、記紀の原文にも書かれていない。
和風諱号のほうが、より正確な歴史解明につながるだろう。
和風諱号には、歴史の謎が解ける手掛かりが満載だ。
それを最初から吟味もせず、切り捨てている奴は
愚かだとしか言いようがないね。
689 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:01:39.88
>>668 >卑弥呼以前の倭王については、漢委奴国王の奴国や、面土国の帥升とか、
おれは、そうは思わないね、
奴国とか、面土国とかの王は、地方の豪族レベルの王だったとしか思えん。
卑弥呼よりもも前に倭王は、やはり、ヤマト盆地の王であり
少なくとも、北九州から関東までの広域圏を覇を唱える倭王だったと思うよ。
ただし、記紀に登場する数々の動乱や、魏志倭人伝にある倭国大乱などからみて
たえず、反乱が起こっていて、必ずしも、中央集権がうまくいってなかったと思う。
だからこそ、西暦57年の金印を得た奴国は
漢の奴国とはせずに、漢の倭の奴国王とされ、
奴国の上にわざわざ倭という上位の存在を意識させるものになっていた。
ちょうど、西暦57年は、畿内王権が混乱していた時期だとおこうね。
690 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:02:34.34
>>685 神武はともかく、少なくとも欠史八代の
時代は問題外ではないでしょう。
>>687 巻向以前、畿内において特定首長墓なら河内にあるでしょう。
>>689 広域圏に覇を唱える倭王は箸墓以降だと思うね。
卑弥呼よりも前にヤマト盆地の王がいたとしても、
それはあなたの言うところの「地方の豪族レベルの王」だと思う。
692 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:20:19.03
マキムク以前に河内に特定首長墓なんてないだろ?
どの古墳のこと言ってるの?
693 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:28:32.58
纒向遺跡 別の大型建物存在か NHKニュース4月27日 17時40分
邪馬台国の候補地の一つとされる、奈良県の纒向遺跡で、女王・卑弥呼の宮殿とする説もある建物跡
の近くに、大きな柱を建てた跡が複数、新たに見つかり、専門家は、宮殿のような大型の建物がもう1棟
存在した可能性があるとみています。
桜井市の纒向遺跡は邪馬台国の候補地の一つとされ、おととし見つかった、3世紀前半では最も大きな
建物跡を女王・卑弥呼の宮殿とする説も出ています。地元の教育委員会が先月、建物跡から東に5メートル
の地点を発掘した結果、太い柱を据えたとみられる長方形の穴と、細い柱を据えたとみられる正方形の
穴の跡が、交互に南北に9メートル並んでいるのが見つかりました。確認された柱の跡は、出土した土器の
年代から卑弥呼の時代より新しいと推定されていますが、柱の穴の配置や作り方が、卑弥呼の宮殿とする説
もある大型の建物とよく似ているため、専門家は、同じような構造の建物が異なる時期に、もう1棟存在した
可能性があるとみています。古代の建物に詳しい神戸大学大学院の黒田龍二准教授は「宮殿のような大型
建物が異なる王の時代につくられていたことを示しているのではないか」と話しています。教育委員会は、
今後の調査で建物の規模や年代を絞り込む手がかりを得たいとしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110427/k10015591351000.html
694 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:34:40.26
>>691 何年か前に、長野県で
近畿地方で製造された鏡が出てきただろう?
それは、たしか、紀元後1世紀のものだったと思う。
それで、現地の発掘に携わった考古学者が
自分のこれまでの考えを変えないとみたいなこと言っていたでしょう?
695 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:41:40.18
崇神天皇の時代の疫病の話は記紀にあります。
三輪山の大物主神が、天皇のお祭りの仕方に不満をもたれたために起きた。
今回、見つかった遺構は、正方形の大社造ではないかと思います。
崇神天皇が、三輪山と向き合うように建てた神殿跡では?(住まいの宮殿ではない)
696 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:47:10.99
697 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:51:53.04
なぜ、ミマキイリ彦(崇神)が、天照と大国魂を恐れたのかというと
出雲国譲りの約束を微妙に破ったからだろう?
つまり、神武皇統が大倭王になるのは、大国主との約束を破る意味があった。
>>692 加美遺跡の大型方形周溝墓なんかは、
特定首長墓の嚆矢と言っていいのでは?
699 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 19:58:12.94
神武なんて固有名詞が出ると、一気にスレのレベルがダウンするな。
700 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:12:01.48
701 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:13:50.49
説話とか伝承上のキャラは、それ相応の扱いで十分。
まして神武(イワレヒコ)は、伝承上というより創作上のキャラだし。
とりあえず神武は端において置こう。
703 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:59:16.64
704 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:09:33.04
イワレ彦は倭王の地位にいない。
おそらく、当時の倭王の地位にいたのは
天香語山命か天村雲命あたりだろう?
イワレ彦は、天村雲命からみたら、日向国主を任していた傍流の一族で、
その日向国主家の中でも更に傍流の四男坊だったが
ちょうど、初代大倭王の天火明命の御落胤を自称する
ニギハヤヒによるクーデターがおこって、
その時に、イワレ彦の兄のイツセ命が吉備の高嶋の代官の地位にあって
イワレ彦も兄に従って、そこに赴任していた。
距離の近く、ニギハヤヒの反乱軍の鎮圧で功績をあげ
それからは、宗家たる大倭王家を助け、実際の政治をみた。
705 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:16:10.94
神話と歴史を混同するのかよ・・・
706 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:51:15.83
記紀原理主義の馬鹿は、考古学の話についていけない馬鹿だから相手にしない方がいい。
また「考古学で歴史は分からない」とか言って、中世や近世を例に出してくるだろうけどw
707 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:55:10.78
「記紀の内容は全て正しい。なぜわざわざ嘘を書くような面倒くさいことをするのか?」
的な発言もそろそろあるだろう。
彼の妄想の根拠はこの二つだけだからw
上の方で勧めた考古学の本は読みましたか?
708 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:10:02.73
>>707 そんなこと言ってませんw
それを言うのなら、21世紀の人間が記紀を否定することも嘘っぱちです。
リアルタイムから千年以上後の人間に何が分るんだよ?
結局のところ、どこまで正しくて、どこまで間違いかなんて
永遠に分らん話だ。
709 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:15:40.82
そう悲観的になるなよw
記紀の正しさを実証していくのも考古学の仕事なんだからさ
710 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:22:19.98
>>709 記紀の正しさを実証していくのも考古学の仕事なんだからさ
そりゃ「捏造」てやつですね!
711 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:32:43.30
記紀と系図読んで妄想逞しくしてても、世間の人は誰も相手にしないよ。
崇神が3〜4世紀だと君の妄想の手助けしたのも考古学だろ?少しは勉強しないとw
712 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:38:49.25
>>711 崇神が3〜4世紀だからこそ、記紀の正しさが分かってきたんだろうがw
しかも、卑弥呼=モモソ媛命だったら、なおさら、欠史八代に焦点が当たる。
モモソ媛命は、欠史八代の中の系図に登場する人物なんだからw
713 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:41:09.95
君の大好きな紀には、崇神は何世紀の人と書いてあったのさ?
ここまで書かないと分かりませんか?w
714 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:43:05.18
戦後の左翼史観の奴にとって、最近の纏向遺跡の研究の成果は都合が悪すぎるw
ただ、一方で一部の本居宣長・國学思想原理主義者とっても、
纏向遺跡の研究の成果は都合が悪すぎるのだよ。
そこが、左右どちらとは言い切れない複雑なところ。
715 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:46:43.51
>>713 魏志倭人伝を読めばわかるけど、卑弥呼(モモソ媛命)の時代の倭国では
春耕秋収で1年と計算し、四季で一年と数える暦を使ってなかったことが分る。
記紀の時代感も、初期のほうは春耕秋収で1年と計算しているから
そうとう、実年代がずれてしまっている.
716 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:49:49.58
>>714 左も右もないよ。本当の古代史を知りたいだけ。
私なんか現代の天皇陛下を中心とした徳のある日本国を素晴らしい国と思っているけど
「倭国は実は九州だったのではないか?」と思っているし
つーか、記紀原理主義を罵倒してる奴の方が日本書紀の神武紀元に縛られちゃってる不思議
718 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:55:46.02
いや、ちゃんとスレ読めば分かると思うけど、記紀原理主義をバカにしてるだけだから。
神話なのに(可能性高いのに)、史実とかバカだろ、普通に考えてw
欠史八代は神話の項じゃないぞw
720 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:04:37.05
記紀論争も邪馬台国論争も単純に左右で区別できない。
分りやすい例を出して言うけど
纏向遺跡の研究のせいで、邪馬台国=大和説が有利になったおかげで
西暦3世紀の時点で日本の大半を統合した王権があった可能性もが出てきた。
そうすると、一部の左翼で、日本国家主義を否定してきた学者らが
それはまずいと、邪馬台国九州説の支持を表明した人もいる。
彼らは、日本は統一国家ではない、地方に割れるべきという、反国家思想
反中央集権思想が強いから。
その一方で、右派でも邪馬台国九州説を主張する人がいる。
彼らは、邪馬台国=ヤマト国であり、卑弥呼が天皇家の人間であると
天皇家が中国に朝貢したことになり、
それは、まずいので、邪馬台国九州説を主張する。
これは、本居宣長の國学思想の影響を強く受けている。
また、別の右翼の邪馬台国九州説は、神武東征・神武紀元を絶対視して
彼らは、邪馬台国の卑弥呼はアマテラスで、神武は後に畿内に東征した
という史観を好む傾向が強い。
このように、邪馬台国論争は、左右を単純に分けることはできない。
721 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:08:37.67
つーか、欠史八代を語るには、考古学的発見が少な過ぎるんだよね。
畿内、弥生中期後半までは他の地域と同じように特定首長墓の発展が見られるのに、
肝心の弥生後期はすっぽり抜けて、マキムクで突然巨大古墳が造られる。
これをどう解釈するか?だよな
722 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:11:00.62
>>719 それ誤解しているアホが多い。
記紀を批判するわりには、記紀をちゃんと読んでいない奴の多いことw
欠史八代は神話ではないよw
神武を境にして、その前後で、神話と非神話を分けている。
これが、日本書紀だ。
一方、古事記のほうは、神話と非神話を明確には分けていない。
>>721 やっぱりその時代に何らかの変革や騒乱があったと
考えるしかないのでは?
戦闘かもしれないし、場所的に洪水等の災害も考えられる。
724 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:16:00.67
>>721 そもそも、欠史八代というぐらいだから、記紀にも記述が少ないのよ。
ただ、崇神紀には、欠史八代の系譜に登場する人物が
どっさり登場し、モモソ媛命も、その途中の人物である。
725 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:17:32.86
>>723 卑弥呼=モモソ媛命ならば、
卑弥呼擁立の原因になった倭国大乱とは
もろ、欠史八代の時代に起こったことになる。
>>722 確かにね。記紀に限らず倭人伝等でもそうだが、
批判する割にはホントに読んでるの?
という人を見かけるからな。
727 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:06:38.52
記紀も倭人伝も記紀信者より余程読んでるよ。
読んだ上で話してる。考古学、比較神話学も勉強した上で。
記紀信者も少しは考古学を勉強した方がいいよ
>>727 >記紀も倭人伝も記紀信者より余程読んでるよ。
そんな証明不可能な事を匿名掲示板で言い切られてもね‥
729 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:22:43.02
じゃあ試してみれば?
試すって何をw
自信があるなら以降トリ付けてコテ名乗れば?
731 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:41:33.31
じゃあ勝ってやるから「お前から先に」鶏つけろよ。
記紀原理主義とかさあ
>>731 誤解されては困るけど、俺は記紀原理主義者じゃないしな。
(欠史八代は神話の項じゃないと書いたが)
コテ付ければ試すも何も、書き込み内容で
その人のレベルは判るから、という意味だからね。
733 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:57:14.32
考古学を勉強もしないで、古代史の真実を知りたい、とか笑えるw
僕は一切考古学の本を読みませんが、記紀や海部系図を見て、古代史の真実を知りました、てか?
734 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 01:03:35.28
>>732 逃げたか。
本当に読んでるの?と聞くから、君よりは読んでると思うよと答えた。
鶏つけて証明して、というから先にお前がつけろ、と言っただけなんだがな。
>>683 > 巫女の王だったんだろう?
根拠は?
「王」の意味するところは?
>>734 別に逃げはしないけどね。
じゃ、トリは要らないから神武の紀と記の畿内における
侵攻ルートの差がある事の、君なりの考察を簡単に教えて。
なんだ、まだ答えないのか?
詳しいのなら参考にさせてもらおうと思ったのだが。
もう寝るわ‥
738 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 08:26:12.17
面白い展開だな。
神武の侵攻ルートに記紀でそんなに違いはなかったと記憶しているが。
その違いをどう考察するのか逆に聞きたいところだ。
単にどっかの資料を見ただけでなく、
よく読んでる奴ならわかるだろう。
紀伊半島の経由ルートは微妙に異なる。
で、これは神武伝承が地方豪族の一部を組み入れた為の矛盾、
もしくは編纂者の解釈の訂正による違いと推定しているが。
はあ。
なんかそれがどうした、って感じなのだが。
まぁ俺は大体記紀原理主義者ではないが、
仕事上ある程度目を通している。
わからないならそれまでだなw
欠史八代を神話期だなんて言ってる奴では所詮無理。
考古学の本を読め、か…
当たり前だろそんなのw
俺は元々発刊してる側だし。
742 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:07:57.36
豪族たちの始祖伝承は、いかにして自分たち氏族が大王に仕えることになったか、を物語るもの。
今日の記紀研究の水準では、欠史八代は、大和の中小豪族の始祖伝承に見られる大王の名前を縦に繋いだもの、というのが相場。
欠史八代に無理に史実性を求める態度は危険だよ。
欠史八代の実在の当否は現在のところ不明である。だから、これを元に何らかの推論を
組み立てることは大きな誤りにつながる可能性がある。
考古学的な裏付けのほとんどない話だから、避けるのが賢明だと思うね。
但し欠史八代の間に、巻向やその周辺の話が
出てくる以上は、これを無理に避ける事はないだろう。
盲信はダメだが、何らかの事情は反映している可能性がある。
745 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:25:22.94
>>741 神武東征の話をしたいのかと思えば、あの程度の話を自慢げに語られてもね。
神武東征でも、日向から大阪湾に至るまでは単なる航程記事。地名の羅列でしかない。
しかしそれ以降の奈良盆地征服部分は、急に具体性が出てくる。何らかの史実が反映している可能性があるだろう。
746 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:33:16.70
欠史八代の問題は、無いものをどう語ればいいのか?の問題。
確かにマキムクの発見で、崇神垂仁景行あたりの大王は本当にいたらしい蓋然性が高まった。
しかしそれ以前になると、まったく考古資料の裏付けもなく、また文献の記載もない状態。
マキムク以前に超古代王権があったとか、馬鹿にされても仕方のないレベルだろ。
747 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/04(水) 10:34:46.62
日野郡誌に詳しい孝霊天皇の活動記事がある。
748 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:56:56.83
とりあえず、記紀の神武説話や系譜をそのまんま史実のようにみなして、
マキムク論議に絡めてくるのはやめてほしいわ。
その手の連中を記紀原理主義とか皇国史観って、言いたくなるのもわかる。
>>748 >その手の連中を記紀原理主義とか皇国史観って、言いたくなるのもわかる。
ていうか、それもちょっと違うんだよねw
ここで「記紀原理主義だ」と非難されてる代表格の人は、
「記紀の欠史八代によって隠されてしまった王権の歴史」があると言っているのであって、
むしろある意味「反皇国史観」にあるんだよ。
肝心の巻向に関する文献資料は、記紀の他何があるの?
それとここは本来日本史板だよ、
考古学なら他に板があるという事を忘れないでね。
何事もバランスを大切にな。
751 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 12:31:06.26
とはいえ、その記紀の説話や伝承を丸々史実のようにみなして、
系譜に出てくる人名や続柄全部を事実とみなしたり、
説話の内容全部を史実の反映とみる狂信者が2chには多いからな。
古代史系のスレでコテで暴れてる太いのやらカラいのやらw
752 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 16:45:25.59
>>742 その解釈じたい、
現代人たちのファンタジー小説と一緒。
何の根拠もない説だ。
753 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 16:52:12.49
ここは日本史板であり、考古学板ではない。
だから、纏向遺跡の話をするのなら、記紀の話も一緒にするのが普通。
なんか、一部の戦後左翼史観の連中が
最近の纏向遺跡の研究の成果で、記紀のことが見直されつつあるから
苛立っていることは、よく分るのだがw
べつに、記紀に何も隠されていないとは言っていないw
でも、記紀は、目に見えて史実を改ざんしているともいえないのだがw
そもそも、日本書紀には、様々な説を併記して記載しているわけだし
古事記、日本書紀という異なる史書を同時に残したわけだから
凄く公平な態度ともいえるw
>>753 >記紀は、目に見えて史実を改ざんしているともいえないのだがw
気違いかお前は?史実と思ってるのか?病院行けよ。
755 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 17:38:32.68
>>754 改ざんしているか、改ざんしていないかなんて
そんなの、ドチラトモ言えんだろうw
ただ、少なくとも、西暦8世紀の時点で、残されていた伝承を
まとめ上げていたのが、日本書紀。
だから、一書、一書というふうに、様々な説を併記している。
完全に改ざんするのなら、一つの説しか載せないw
756 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 18:06:39.97
そもそも日本書紀が全部正しい、とか言うなら、話はそれで終わってしまう。
結局、ここは正しくてここは正しくないとか選択しなければならない。としたら、恣意的にならないように、考古学で実証できることが重要になってくる
757 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 18:27:29.35
一書、一書といったって、出典を明らかにしているわけではないし、
一書が目立つ神代の部分は、どう考えても史実ではなく、創作や説話の領域だしな。
いろんな神話や説話を併記してあるからといって、それがそのまま史実ではない。
一書、一書にまぎれさせて、アマテラスの創作などを目立たなくしているだけ。
759 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:00:47.95
初期の古代豪族は、姓を名乗る文化はなかったが
それでも、彼らは、氏族という概念を理解しており
それぞれの氏族の長(代表)には、「アメノ」という称号が与えられていた。
また、同じ一族でも、新たに氏族を分家させて独立する場合に
やはり、新しい氏族の長には、「アメノ」という称号が与えられた。
そういう風に考えた場合、皇室の系図から見えてくることがある。
皇室の最初の先祖は、事実上、アメノオシホホミミ命ということになっている。
むろん、彼にも「アメノ」という称号がある。
では、その次、アメノオシホホミミ命から、家督を継承したのは誰か?
それは、彼の第一皇子のアメノホアカリ命だということが分かる。
一方、彼の第二皇子のニニギ命には、「アメノ」という称号がない。
つまり、ニニギ命は、兄のアメノホアカリ命の傍流という位置づけであり
族長のホアカリ命に管理される立場にあった。
このニニギ命とは、出雲国譲りの直後、九州南部の高千穂に飛ばされた者であり、
また、イワレ彦(神武)に曾祖父にあたる者なのだ。
760 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:15:10.91
神話とファンタジーはよそでやってくれ。
禁止
762 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 20:19:03.09
アメノで始まる神の名前、一番多いパターンだろ。
こいつ馬鹿過ぎやしないか?
763 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 21:43:04.84
>>759 一見、何が言いたいのか、よく分らんかったけど
よく吟味したら、なるほどとは思う。
まあ、おまえの説が正しいかは知らんけどね
>>762 おまえ、
>>759に対するレスだとは思うが
いちおう、やつの言っていることを、ちゃんと理解してから
レスしろ。
765 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 22:59:52.17
じゃあアメノウズメとかもそうなのかいな。あほらしい
766 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 23:18:26.42
結局、自分の妄想が正しいことを証明しようとしながら記紀読んで系図見てるんだよね。
まずそれが、甚だ恣意的であることに気づかないと。
自分は記紀の隠された真相に気づいてる、みたいな気持ち悪さがあるよね。単なる妄想なのに。
しかしまあ、記紀をそのまま読まず、自分勝手に「解釈して」読んでるわけだから、そういう意味では記紀原理主義ではないのかもしれないがw
記紀の系図で重要なのは、その系図にある人物なりの通称。
あれで、少なくとも、その人物の地位が分る。
記紀が編纂された時代には、その通称の意味が分らなくなって
記紀編纂者は、たんたんと、伝承にあった名前を記載したのであろうが...
そこで、皇室の意図した内容(歴代天皇が顔ぶれ)との
大きなギャップが出てしまっているw
記紀にある通称をみたら、たしかに、神武、欠史八代の天皇が、
正式な大倭王の地位にいなかったことが分かる。
また、その次の崇神天皇や垂仁天皇も、その地位としては不完全だったことも分る。
神武皇統で大倭王としての地位が確実になったのは、景行天皇からである。
768 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 00:44:35.83
欠史八代は、あのとおりの順番・続柄で全員が実在してたとは思えない。
また、実在の可能性がある首長も血縁関係があったとは限らない。
実在の可能性のある首長名のほか、神霊の名や創作上の王名も混じっている。
シキ県主の祖と血縁関係にあった小首長の名が断片的に伝えられてたものが、
本来の系譜も続柄も事績も忘れられた後世になって、大王家の王統譜に組み込むため、
無理やり父子関係の系譜に組み立てられたとみるべき。
>>768 >また、実在の可能性がある首長も血縁関係があったとは限らない。
自分はあれだけ、父方、母方の両方の関係まで、詳しく書いているのだから
あそこに書かれていることは、大かた、正しいのではと思っているよ。
記紀に書かれている和風諱号の通称を見たら、
(まあ、神武天皇なんかは、イワレ彦の前に
オオヤマトなんてつけているが、まあ、これは後世の人間、つまり、
記紀の編纂者側の人間の後続けであろうと思うが、
それ以外は、わりと、伝承にあったことを、そのまま記したのであろうと思う。)
初期の天皇たちは、倭国で大倭王の地位にいなかったことは、大方、想像つく。
また、逆に、卑弥呼と噂される、モモソ媛命は大倭王の地位にあった可能性が高いと思う。
それ以外に注目されるのは、欠史八代の天皇で孝安天皇(ヤマトタラシ彦)がいるが、
記紀では、彼は6代目の天皇ということになっているが、
実際は、彼の兄のアマタラシ彦のほうが正式な倭王についたことが分り
それにたいして、別の王統との間で、戦争が起こった(倭国大乱)
ことも、だいたい想像がつく。
記紀が根拠とか言ってるけど、その肝心の記紀を「自分なり解釈で」読み替えてるんだよな。
で、考古学的裏付けもない。
完全に妄想以外の何物でもないだろ。
巻向が注目されるのも記紀の記述があるからだけどね
だ・か・ら・
記紀を完全無視する必要はないけど、
記紀に書いてある通りの系譜関係や説話の時系列をそのまんま史実とみなしたり、
架空の人物などいない(キリッって態度がおかしいんだろ。
あくまで、伝承や説話は史実が何らかの改変を受けたものであり、
史実そのままではないし、後世の潤色やら述作が相当みられることは認めないと。
773 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 11:18:00.86
記紀のことを書いてもいいけど、最低限、考古学を絡めて書いてよ。
記紀を読んでて思いついたことを書くとか、「隠された真実に気づいた」的な気持ち悪いこと言われても
774 :
772:2011/05/05(木) 11:33:39.73
>>773 そういう考古学メインのスタンスで進めてほしいのに、
記紀の説話・伝承内の固有名詞や出来事をやたらと書く連中がいるもんで、
釘をさしたくなった。
考古学的知識が殆ど無いから書けないんだろう
あれこそ日進月歩の世界だから、常に最新情報を得ていないと生半可なことは書けない
シュリーマンが本当に文献を根拠にトロイの遺跡を発見したとか信じているくらいの知識レベルじゃ無理
このスレを読んでたら
少なくとも新刊本並みのヨタばかりじゃあないってわかるだろ
※若干2名は除く
777 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 19:11:07.53
>若干2名
一人はフトクニ。一人は名無しで神話を史実のように長文で語ってるやつか。
778 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 21:08:15.98
倭人伝、考古学、記紀のすり合わせが、どこまで出来るのか?だよね。
倭人伝と考古学は、実は現在、近しい解釈になってきている。
卑弥呼共立と、マキムク広域王権の誕生が、同じ二世紀末から三世紀初頭のことになってきていて、どうやら同一であった可能性が高くなってきている。
まあ確かにC14年代やら年輪、spring8をどこまで信用するかなんだけど。
779 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 22:36:35.34
あとは記紀のどの時代に当てはめるのか?なんだけど、ここで箸墓がクローズアップされる。
欠史八代があるとすれぱ、箸墓以前のマキムク型前方後円墳の被葬者、ぐらいしかない。
残念ながら、カシハラやカツラキには発生期の古墳は見当たらない。
欠史八代は残念ながら考古学では否定されている。少なくとも大王ではなかっただろう。
日向三代も西都原古墳がもう少し古かったら、少しは可能性があったんだけどな。
それには概ね異論はないのだが
それがイコール崇神は実在した、神武始め八代も実在したというオカルトパズルごっこ大好き連中が
思想とか関係なしにええじゃないか状態で舞い上がってるからな
もうちょい冷静になれよと、畿内説が結果的に正しい=記紀は正しいではないんだと、そううことだわな
782 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 22:59:22.54
>>781 これも重要な視点なんだけど、特殊器台などの吉備の影響はあくまで箸墓以降なんだよね。おそらく
>>782 箸墓とどっちが古いかはよくわからない。ただし規模は1/4以下。
特殊器台の使用に関してはヤマトでは天理市中山町にある中山大塚古墳が最も古く、
箸墓や弁天塚の宮山型はここで使用された特殊器台を元に製作されたと考えられる。
784 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 23:28:23.57
特殊器台の最古は箸墓だと思っていたがな。中山大塚の方が古かったんだ。
しかしまあ、箸墓、西殿塚、中山大塚、弁天塚は大体同じ時代で、吉備と大和の連合以降、その記念碑として造られたものだろう。
記紀でいうところでは、おそらく吉備津彦、トトヒモモソ姫の時代。孝霊元開化の頃か。
大和が吉備の協力で東瀬戸内の海賊を討ったのが桃太郎の原型になったんではないかな?w
>>783 > 特殊器台の使用に関してはヤマトでは天理市中山町にある中山大塚古墳が最も古く、
> 箸墓や弁天塚の宮山型はここで使用された特殊器台を元に製作されたと考えられる。
ソースと編年の根拠プリーズ。
「形態と文様を指標にとると、弁天塚例を他から引き離すことができる」
という見解がありますが。
786 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 23:48:43.20
電波を承知で書くが、実は「孝」の字を含む天皇は吉備の影響が強い、とか
788 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 00:44:08.55
紋様の違いだけで、特殊器台を編年してしまうのは危険だと思うけどな。
倭人伝と記紀のすり合わせでいえば、
倭人伝の西暦240年代と記紀の崇神紀10年前後の記述が
同じだという指摘は、戦前からあったんだよ。
卑弥呼=モモソ媛命説がそれ。
ただ、これだと、長年、定説とされてきた
考古学上の土器編年が大きな狂いが生じる。
しかしながら、そもそも、土器編年とは相対年代でしか推測できず
絶対年代は割り出せないもの。
にもかかわらず、日本の考古学では、長年、土器編年で絶対年代を
決めつける手法が教科書化されてきた。
それを打ち破ろうとしたのが、2003年の歴博の研究発表。
まだ、定説とされてないが、これにより、
箸墓古墳=卑弥呼の墓という説が、いっきに注目され出した。
>>788 これはあくまでも特殊器台そのものの比較であって、古墳の生前造営や器台を古墳が
できた後に並べた可能性を否定するものではないので、古墳自体の新旧はなんとも
言いがたい。橿原考古学研究所の見解どおり三者ほぼ横並びと見るべきなのだろう。
792 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 19:12:48.85
まだ神武がどうの孝なんちゃらがどうのとか言ってる奴がいるのか。
そういうファンタジーはよそでやってよ。
いや、ここがお似合い
794 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 19:26:45.83
>>792 いい加減ルールを守れ
記紀中心の話題は日本史板
考古学中心の話題は考古学板
お前にふさわしいのは考古学板
100回音読しろ
●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
考古学(仮)@2ch掲示板
○人類の遺跡・遺物に関する学問=考古学、およびその関連分野について語る板です。
○人類史・遺跡に関わらない話題については、より相応しい板があるかもしれません。
それぞれの話題に応じて適した板を選びましょう。
●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
http://kamome.2ch.net/archeology/
795 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 19:53:01.76
桓武天皇以前の話は実在していた天皇もあるだろうが皆怪しい。
系図振りかざしてもいつの時代の人物か判らない。
796 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 19:59:42.38
記紀の説話(フィクション)は文学か神話の板でやってくれ。
実在性も怪しい、説話キャラのファンタジーこそ、日本史板には不要。
797 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 20:18:33.42
基本的に日本史板にいるのは考古学板でボコられて逃げてきた知識のない奴だけだから
799 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 20:40:09.20
考古学板はIDつくけど
ここは付かないから自演の宝庫
800 :
はいはい定期的整理なwww:2011/05/06(金) 21:29:42.76
『欠史八代』といわれる王は果たして実在したか?…と問うた時
「実在」と言う物を何処まで記紀の記述に一致したかが問題になるが
大王と言えるような存在が記紀の伝える王統譜通りに存在したと言うのはもはや誰も考えていないだろう。
少なくとも纏向を見る限り(ゆえにこの板ではある種の連中から纏向が忌み嫌われるw)
先ずいつも言っているが纏向は位置的には崇神ではなくて垂仁・景行の宮のあったとされる地であって
崇神の宮(磯城瑞籬宮)はもう少し南になる。
恐らく”ある種の連中”は纏向を崇神ではなく垂仁・景行の宮とする方が何かと都合が良いだろうがw
仮に崇神の磯城瑞籬宮の伝承地に何がしかの遺跡が出てきたとして
それがヤマト王権の勢力の飛躍的拡大が見えるような物だとは誰も想像していないだろうwww
記紀の記述を真に受ければ開化の代までに畿内をほぼ統一してなければならず
崇神の代で四道将軍の派遣なんていう二正面作戦おろか四正面作戦と言う超絶ウルトラC
「信長の野望」も裸足おろか裸で逃げ出す神業で全国支配に乗り出している。
(しかも前哨戦とばかりに武埴安彦を叩き潰して後と言うから益々話は膨らむw)
とにかく現時点纏向がヤマト王権揺籃の地であったと言うのが常識レベルのお話。
畿内全域を統治したような王がそれ以前にいたと言うのはあまりにもリアリティが無い。
『欠史八代』は別に考古学の分野から出た語ではないが
考古学はそれを肯定していると言うのが現状。
今更わざわざいう話でもないがwww
801 :
嘘800:2011/05/06(金) 21:33:12.32
で、
>>800で言った内容を考えると、むしろ崇神の実在を疑ってみても良いと思うw
と言うか実は崇神と垂仁が入れ替わっているとしたら?
(時代の前後と言うよりは、ほぼ同時代でNo1とNo2の関係)
崇神に冠せられた「はつくにしらす…」は垂仁の事ではなかったか?
纏向が垂仁の宮であるという以外にも
ご存知、倭人伝における官として出てくる序列の問題が引っ掛かる。
(このスレの人間なら大抵は分ると思うので詳しくは書かない)
まあ音韻発音は全く知らないので否定肯定どっちにせよ何がしか意見していただければありがたい。
で、じゃあ「何でそんな事をしたのか?」と言うツッコミは当然あるだろうがwww
崇神・垂仁の時代には既に後に佐紀古墳群を形成する盆地北部の勢力があって
崇神を実質的な祖と仰ぐ後に河内に進出した勢力によって今日の記紀の王統譜が作られたのではないかと…
(ついでに言うと三輪の南には雄略や武烈の宮があったとされる)
802 :
嘘800:2011/05/06(金) 21:36:59.73
ちなみに
>>798 と同じ事を言っていたこの板では有名な”あのお方”がいるw
>考古学じゃ巻向は市場だって明らかなのに、畿内説は必死だな。
>畿内説では祭器場がないので 巻向では 古 墳 が祭器場になるんだと。
>なんせ考古学板逃げてきた奴らだから仕方ねーw
803 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 21:44:48.19
あと上の方で「比較神話学」という言葉が出てきているので少し意見してみるがw
記紀を 神代=神々の世界 と 人の世 と明確に分けるんじゃなくて
間に両者が入り混じった時代を設定する方が良いと思う。
例えばギリシア神話だと「神々の時代」から下って
ヘラクレスやペルセウスあるいはアキレウスと言った半神半人の「英雄の時代」と言う物がある。
古事記バージョンのヤマトタケルや蛇神と交わった倭迹迹日百襲媛命なんか
まさにそのカテゴリーなんじゃないかと思うwww
804 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:32:18.67
神々と人の間には、確かに神と人のあいのこが必要になる。
ギリシア神話で言えば、あらゆる部族が最高神の子孫になりたくて、
結果ゼウスは人間の娘を孕ましまくる好色な神になってしまった。
比較神話学で言うと、こういう結論になる。
崇神の磯城瑞籬宮伝承地ってのは後世につくられたものでしょう?
古事記では垂仁の「纏向」も崇神と同様「師木」になってるんだから、
むしろ「絶対に崇神と垂仁の宮はかけ離れたところにある」という論理は成り立たないよ。
御承知だろうが、「纏向」は磯城郡にあるから。
806 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:41:48.84
ちょっと目を離してると、フトクニみたいなカルト記紀信者やその同類が湧いて出るな。
807 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:47:23.45
神と人の間って実は重要なんだよね。
つまりは王が王たる由縁を物語る大事な部分。
神の子を名乗ることで自分が人の子であることを否定。それが一般人と自分とは違うという宗教的権威の源泉になる。
ナザレのイエスも同じ主張を用いて、反発したユダヤ教徒に殺されてしまうんだけど。
>>805 たしかに紀では纒向珠城宮、記では師木玉垣宮になってるな。
言われてみれば一代ごとに都をポンポン移動させるというのもいささか非効率。
>>801 >崇神・垂仁の時代には既に後に佐紀古墳群を形成する盆地北部の勢力があって
イクメさんの陵墓は伝承に従えばマキムクや柳本古墳群ではなく、佐紀盾列古墳群にあるという。
支配地ではなく故郷に陵墓を築きたかったというのだろうか?
809 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:40:07.96
イクメさんて誰のこと?
まさかイクメイリヒコイサチのことですか?
810 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 02:18:06.38
卑弥呼=モモソ媛命ならば、欠史八代の天皇たちが
本当に正統な倭王の地位にあったのか疑わしくなる。
なぜなら、皇室の一族であるが、天皇ではなく巫女のすぎないと皇女を
中国は大倭王と認識していたことになるから。
また、この場合、欠史八代=倭国大乱と時期が重なり、
やはり、欠史八代の時代に王位継承争いが起こった時代と重なることになる。
神武は兎も角、巻向と記紀と欠史八代は切っても切れない関係ですよ。
812 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 15:09:06.74
欠史八代の宮も陵も、マキムクから離れてるじゃん。
なんで切っても切れないみたいになるの?
813 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 16:09:38.62
>>812 おまえ、桜井市周辺に行ったことないのか?
離れているとか言っても、せいぜい5キロ前後範囲だろう。
すぐ、そこだ。
だいたい、纏向遺跡は、北九州から関東までの全域からの
交易品が大量に出土するんだぞ。
そんな纏向遺跡で、せいぜい5キロしか離れてない範囲は
ほぼ同じような地域みたいなもんだぞ。
814 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 16:13:37.45
え?五キロはないんじゃない?
もっと離れてるだろ。
>マキムクと橿原、御所市
815 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 16:29:58.73
磯城と、高市郡・葛城が同一地域ですか。ふーん。そんなこと言い出したら何でもありだな。
816 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 16:51:00.01
モモソ媛命の父親の宮って、
田原本町だったかな?
あれは、だいたい5キロぐらいでしょう?
葛城だとかで、15キロくらい。
そんなもん至近距離だろうw
纏向遺跡なんて、巻向から500キロ以上離れた
巨大連合体の可能性大なのに。
817 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 16:54:08.75
「記紀を僕はこう読みました、根拠はないけど」みたいな書き込みはいい加減止めてくれないものかな。
まず第一にさ。記紀だけを根拠にするなら、記紀を「自分なりに解釈」して読み替えちゃだめw
紀で「崇神が紀元前の人」と書いてるなら、そのまま、ありのままに受け入れなきゃなw
>>816 孝霊天皇だね。田原本の黒田なんて正に磯城郡だからな、
モモソ媛や吉備津彦とも縁の地だし、鏡作神社も近い。
大体唐古・鍵から出る桃の種は元々上流の桃林から
流れてきた物だろうと以前から推測されていたからね。
俺の中では巻向と鍵・唐古はセットで考えてたしな。
819 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 17:10:19.33
唐古鍵とマキムクがセット、ていうのは、結構反論が多いんだけど、俺もまあ基本的には賛成なんだよな。
唐古鍵とマキムクの距離の近さと、大和川水運の船着き場、という立地条件は殆ど同じ。
唐古鍵の首長層は古墳こそ造らなかったけど、最初の奈良盆地の権威者だった可能性は高い。
しかし欠史八代が史実をそのまま伝えてるとかは流石にないw
欠史八代というと、反射的に葛城王朝と結びつけるのは止めて欲しいね。
少なくとも鍵唐古と巻向なんて至近距離だよな。
821 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 18:15:41.28
とりあえず、欠史八代とかの話題はもういい加減にしてほしいわ。
所詮、説話だし、説話の分析は文学や神話学の方でやってくれ。
記紀は日本の歴史書だよ?
それに欠史八代は神話期の話ではない。
まぁ嫌ならスルー、堪えられないなら考古学板へどうぞ。
823 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 19:04:12.10
記紀の内容がすべて史実と思ってるなら、おめでたいな。
大体、ヘビの姿をした神様が夜な夜な通ってくるとか、神話以外の何物でもないわw
神代と人皇の代の線引きなんて、説話を改変・述作した記紀編者による便宜上のもんだろ。
内容で判断しろよ。
誰も全て事実なんて言ってもないしな。
で、巻向という文字は何という文献にあるの?という話だな。
発掘物のみを頼りに一から歴史話を組み立てるの?
それこそ妄想、ファンタジー小説だわ。
崇神・垂仁・景行の3代はアリとしても、
さすがに神武やら欠史8代を話題にするのはなあ。
欠史8代なんて、ありえない父子相続の系譜の上、
後付で各氏族の先祖にされてるだけだし。
上のほうでも出てたけど、断片的に伝えられてた首長名に、
あれこれ後付でくっつけて人為的に創作した系譜だろ。
826 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 20:56:48.84
欠史八代の話をするにしても、考古学の知識0だから反発されるんだよ。
もうちょっと勉強してから書き込もうw
誰も考古学の話自体してないのに知識0ってw
828 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 22:00:00.59
巻向の創始者の崇神天皇くらいからようやく実在論が定着しつつある。
紀年法についても讖緯説によって皇紀はほぼ解ける。
神武天皇から崇神天皇までの流れは、
今のところ古い学者や学説が生き残っていて、
稲作起源についても遺伝子研究で結論が出ているのに、
日本から朝鮮半島への伝播説を認めないくらいだから、
七割がたは否定論のままだろうが、
いずれ記紀の流れは歴史的な大まかな流れとして認められるだろう。
天武以前×→雄略以前×→崇神以前×、
とくれば後ひと息で神武天皇までいきつく。
戦後の長い旅はようやく終わろうとしている。
ちなみに「邪馬台国、卑弥呼」と巻向はまったく関係がない、
というよりも「魏志倭人伝」のどこをどう読んだら、
巻向と結ぶつくのか、もっともらしくデンパ説、トンデモ説を
とりつくろっているだけのもの。
829 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 22:13:10.55
ていうか考古学の知識0なのは認めるんだなw
記紀の知識も大したことないし。ていうか、自分で勝手に記紀を解釈して読み替えてるだけの妄想。
少なくとも学問じゃない。ファンタジーとかのがお似合い。
てか、たいがいは自分の説が最初にあって、それに合うように記紀をねじ曲げて
解釈する人が多いんだけどね。神武の三世紀東征とか。
831 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 22:21:04.58
>>822>>827 だからさ。君が崇神を3〜4世紀の実在の人物、って考えた根拠は何?
考古学でしょ?
紀には紀元前の人、って書いてあるんだしさ。
古代史は記紀だけじゃ話が進まない、てことを早く認めなきゃ。
いい加減大人になろう。
マキムクの黎明を語るスレだろ
「ボクの考えた記紀解釈」してくる特攻隊はともかく
みんなでその話題につられてどうする
完全に論破されてる「僕の記紀解釈(妄想)」w
崇神は3世紀中〜後期の人物だよ。
年代の確かな平安〜江戸期の天皇家は26〜27年サイクルで世代が交代している。
およそ四半世紀で1世代、300年で11世代となるわけだが、
これを6世紀前期実在がほぼ確実な継体から遡らせれば、崇神は3世紀中〜後期の人物となる。
次の垂仁・景行ともシキ・マキムクに宮を置いたとの伝承があり、
崇神〜景行の代は纏向遺跡の「後半期」に相当するであろう。
系譜的にも大叔母に百襲姫、娘の豊鍬入姫がおり、それぞれ卑弥呼、台与に相当するものと思われ、年代的にも相応する。
勝手に系図削除をし、かつ邪馬台国と大和朝廷とは別物との先入観から、
崇神を4世紀の人物にしてしまった戦後の学者たちも、たいがい恣意的だよ。
835 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 22:49:06.38
記紀を無理に否定して巻向の何について語りたいのかね?
邪馬台国を語るのに倭人伝を参考にするな、と言ってるようなモノかw
そんなに考古学の話したいなら考古学板行けば?
>6世紀前期実在がほぼ確実な継体から遡らせれば
それ以前の天皇は実在が確実ではないんだろう。だったら代数も信用できないはずだな。
>>834 なんじゃその怪しげな年代測定法は?安本さんのやつですか?
試しに君の周りにいる人にその話をしてごらんよ?頭おかしいと思われるから。
838 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 23:01:59.89
当時の医療技術や寿命から考えて、父子相続が連綿と続いたとは考えにくい。
逆に仁徳の下の世代、履中、反正、允恭以降の兄弟相続は急にリアルになる。王統譜で信用できそうなのは、このあたりからか。
おそらく古代日本では、新しい王は「前王の子供である」と血縁的擬制がなされていた、のだろう。ヤクザの親子固めの杯みたいなもの。
その儀式が行われたのが、前方後円墳上だったのだろう。
>>831 勿論考古学抜きで古代史は語れない、当然だろ。
しかし記紀抜きで巻向も語れない、それだけの事だな。
840 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 23:10:33.43
>>839 そこまで分かったなら次のステップに行くよ。
記紀の内容で(特に継体以前は)、どれが正しくてどれが正しくないかを判断する時、記紀の内容から判断するだけではどうしても恣意的になってしまう。
そうならないように、考古学とのすり合わせが必要になってくる。
これは理解できるかな?
>>840 何を偉そうにw
最初から文献解釈は考古学とのバランスを
取ることが大事と言ってるはずだが。
大体文献解釈同様、考古学自体も万能ではない。
神の手事件があるようにな。
842 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 23:26:02.68
>>841 考古学が万能なんて誰も言ってないよ。
特に昔は殆ど分かってなくて、日本の成り立ちは倭人伝解釈+貧相な考古学資料くらいしかなかった。
邪馬台国論争とか、その頃の名残りだよね。
お前は分かってるならまあいいけどw
俺の代わりに「僕は記紀をこう解釈した(考古学抜き)」を諭してやってくれw
考古遺物の状況から文献内容の真偽を議論するならともかく
文献の記述が全て正しいという前提で考古遺物を解釈しようとするから
おかしなことになる
844 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:11:06.99
>>838 稲荷山鉄剣の直系の系譜も信用できないってことか?
845 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:13:27.75
横から。
「記紀の伝承と纏向など畿内の遺跡」・・・・みたいな別スレを立てた方が宜しいと思う。
ざっとレスを見たのだが、そのほとんどが、このスレのローカルルール(
>>1)からは逸脱している印象だ。
846 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:21:06.99
847 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:29:39.63
獲居臣は当主の系譜を記さずに直系の系譜を記した。
神武〜崇神も当主の系譜じゃなく直系の系譜なんだろ。
848 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:30:02.93
発生期の古墳、石塚、勝山、矢塚、東田大塚とかが、マキムクに集中してることから、
マキムクがヤマト王権の揺籃の地であることは動かしがたい。
ていうか、奈良盆地にそれ以前の古墳が見当たらない。この時点で欠史八代の記事は眉唾。
マキムク〜橿原や御所市を5キロ以内とか言って、無理やり欠史八代をマキムクに絡めようとした馬鹿はちゃんと謝るように。
849 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 01:49:19.36
850 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 03:07:47.05
851 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 03:42:36.83
まあ今後欠史八代が
「欠史じゃなくてやはり実在したんだ」と言われるぐらいリアリティを持つとすれば
「プレ・纏向」ともいえるものが見つかって
それが畿内一円に影響力を持つような規模であったと推測されるものだった場合だろうな。
今のところ可能性としては唐古鍵の例の「銅鐸製作の一大センター」と言う仮説ぐらいだろうか?w
何れにせよ纏向がヤマト王権の発生揺籃の地と言う認識がされている中では
「欠史八代はやはり欠史だったんだ」と言わざるを得ない状態。
考えられるのは崇神(のモデルの人物)以前の王を総花的に並べたか
崇神に繋がる人物を無理やり王にして並べたか…
852 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 04:12:15.01
福永の唱える、見る銅鐸を共通の祭器とした首長連合、ていうやつね。
弥生後期、地域間競争の高まりから、筑紫では広形銅矛、吉備では特殊器台、出雲は四隅突出型墳丘墓を共有する文化圏が形成される。
畿内・東海は見る銅鐸。
で、見る銅鐸の畿内東海の通商連合がマキムク王権の核になる。
喧嘩するな
854 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 07:21:30.61
ミマツヒコとかシキツヒコとかいう首長はいたかもしれんが、
オオヤマトネコだのクニオシヒトだの、そんな8世紀の諡号風の名前の首長名は、
明らかに創作されたものだろ。
断片的に伝わってた首長名と後世の創作キャラのごちゃまぜ、パッチワークだよ。
奈良県は今後記紀万葉プロジェクトというのやるからな。
記紀の説話と考古学をリンクさせる方向だから。
今のうちに記紀アレルギーは何とかしといた方がいいかもねw
856 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 10:19:14.87
記紀アレルギーなんてないよw
記紀を独自解釈して長々と妄想を書くから、「せめて少しは考古学絡めて書いて」と言ったら、考古学の知識0だから書けないと居直り。
挙げ句の果てに、考古学板へ行け、みたいなこと言われて困惑してるところw
ここは日本史板だから、考古学中心のレスのみで進行できないのは当然。
ただ、このスレのできた趣旨(老教授による文献との分離)を考えれば、主張には
考古学的な裏付けがほしい。考古学でなくとも、主張には論理性と裏付けとなる根拠
が必要であり、それがなければ根拠の確からしさについて議論することはできない。
記紀は伝承を記録した8世紀の文献であり、それに書かれているというだけでは根拠には
ならない。
858 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 10:44:34.79
記紀を解釈するにしても、もう少し遠慮気味に書けば、これほど叩かれることはなかったと思うけどw
長々書いて根拠なし。記紀が根拠と言いながら、独自解釈で読み替えてるw(ここ重要)
で、せめて考古学とか根拠らしいものはないの?と聞いたら、
「考古学のこと話したいなら考古学板へ行け!」
だもんな。話にならない。
考古学板に立てれば解決する話ではないのでしょうか
田中良之氏による埋葬人骨の分析結果によると、
前期古墳における前方後円墳の被葬者には出産経験のない女性が含まれていたり、
同棺埋葬のふたりがキョウダイばかりで占められるといった事実がみられ、
男系の世襲制が確立していたとするには疑問がある。
記紀で仁徳以降に兄弟継承が見られるのに、それ以前がすべて親子継承なのは不自然。
纒向遺跡時代の伝承を織り込んで創作されたとして、
所謂纒向型前方後円墳の被葬者たちの記憶を欠史八代としたのかも。
861 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 10:59:19.82
神武〜欠史八代については、8世紀の記紀編者たちにどういう存在だと思われてたか?
くらいなら、まだ議論の余地があると思うけどね。
まず、奈良盆地内では西部の葛城方面が先に開けていた、という認識があったよう。
その後、三輪山周辺→河内、てのは大体考古学とも一致。
神武〜欠史八代が、皇統を古くするために創作されたのか、何らかの源資料を基に
記述されているのか、その折衷なのか、それすらもわからない。記紀とはそういうもの。
863 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 11:23:32.04
淡海三船が一括献上した漢風シ号も、その字義を考えることで、ある程度8世紀の朝廷の歴史認識を伺うことが出来るだろう。
オクリナ、ってのはあくまで後世からの評価になってる訳だし。
欠史八代で言えば、孝昭孝安孝霊孝元と「孝」の字が4代続くのが異質。
事績が伝わらない天皇だったので、父子相続をきちんと続いていることを評価して孝としたのか。
864 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 13:02:19.75
崇神は、神様をきちんと祀った。
垂仁は殉葬を止めさせた、仁を垂れた。
景行は華々しく外征を行った。
成務、各地に国造を置くなど、地味だけど務めを果たした。
仲哀、不慮の死を遂げた。
など、事績に応じてオクリナが贈られている。
孝の字にも何か意味があるんだろう。
「孝」
字の上は『土』で、十一(11)を示唆か?
斜め線 / は11を切る意で、暦で11日以降の日をカットしたことを
言いたいようだ。つまり3倍年暦(当時の1ヶ月が10日間)での暦法が
あったということだ。『子』は小さくなることで月が30日(28日等)
あるところ1/3の10日間になったことを暗示したのであろう。〜
(また当時は他に、2倍暦の並行行使もあったようである。)
〜ということは、こういう号を考えた者が、倍暦の秘密を何らかで知って
たということを物語る。
倍暦は仏伝ころまでだから、それ以後の孝徳の号をつけたのは上の者
とは別人だろう。
866 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 13:12:37.09
架空の欠史八代の天皇を理解するのには皇后・妃の実家を理解する必要がある。
記紀の独自解釈は過去にもフルボッコにされて、記紀の解釈スレってのを立てて分離したことがある
今回もまた「僕の考えた記紀解釈」が登場したので、せめて考古学的根拠に裏打ちされたことを書けという流れ。
でもマトモな記述はなく「考古学のこと話したいなら考古学板へ行け!」だって。
わけがわからないよ。
>>837 夜勤だったもんでレス遅れ御免。
安本の年代法とは違うよ。あれは、昔の天皇の平均在位年数は10年程度だから、
その計算で行くと神武が3世紀後半でアマテラスがヒミコの年代になる、とかいったトンデモ。
系図の親子も兄弟もあったもんじゃない。全部10年でカウントしている。
私のは、記紀系譜の「世代」を尊重したもので、これは
>>834にあるとおり他の時代にも概ね当てはまる。
まあ25歳くらいが子供を作る平均適齢だから当然と言やあ当然なのだが。
なので、四半世紀ごと1世代で単純に記紀の時代を遡らせると、だいたいその壮年期は↓
武烈・継体世代(6世紀前期)/清寧・顕宗・仁賢世代(5世紀末〜6世紀初)/安康・雄略世代(5世紀後期)/
履中・反正・允恭世代(5世紀中期)/仁徳世代(5世紀前期)/応神世代(4世紀末〜5世紀初)/仲哀世代(4世紀後期)/
成務世代(4世紀中期)/景行世代(4世紀前期)/垂仁世代(3世紀末〜4世紀初)/崇神世代(3世紀後期)
となり、意外にもこれは考古学的知見に一致する(考古学的知見に反しない)部分が多く見受けられる。(
>>666参照)
逆に、戦後多くの知識人が一斉に声をあげてきた記紀系譜への懐疑って、どれほどの根拠があったのよ?、ってのが率直な感想。
孝霊皇帝 後漢 12代皇帝
在位期間 168年 - 189年
孝霊天皇 第7代天皇
>>869 孝霊天皇の号をつけた者がおおむねで孝霊皇帝の代と合う年代だと
知ってたのだということだから、ほぼそれであtt
>>870 書きこみミスで中断 ご免!
〜ほぼそれで合っているもようだ。
872 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 16:01:17.50
記紀の古い部分の系譜や父子関係が正しいという大前提で語ったり、
欠史八代の漢風諡号が、業績や人となりを反映したものとか妄想するのは、
いい加減、このスレから消えてほしいね。
873 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 16:31:53.37
いや、漢風シ号が業績や人となりを表現してるのはそうでしょ。
後世の人が評価して贈ってるんだし。
874 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 18:53:48.37
実在の、業績がはっきり残ってる人ならね。
実在かどうかもあやしい王、仮にモデルとなる首長が何人かいたにしても、
正確な業績も人物像もわからないような得体のしれない存在に贈った諡号なんて、
普通に考えて、淡海三船が適当につけたシロモノでしょう。
>>867 まぁある程度は諦めてもらうしかないね。
現実に考古学板がある以上は。
考古学に関してのみを議論したいのなら板違いには間違いない。
そう諦めるしない。古代に関しては、学会では記紀の記述のみを根拠とした論など
相手にされなくなってもう数十年になる。しかしこの2chはそのような人たちのたまり場
であるのだ。太国、唐松山と同じ次元の人がたくさんいるのだよ。
877 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 20:34:08.74
2ch歴史板は狂信者やカルトや国粋主義者のたまり場なのかよ。
878 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 21:44:11.42
いやさ、少しは考古学やら比較神話学とかを含んでる意見なら耳を傾ける価値があったんだけど。俺はどちらかと言うと記紀重視派なんで。
しかしまあこれだけ煽っても何も出てこない、ということは本当に何もない奴なんだな。
単に記紀読んで妄想して(もしくは妄想した人の本を読んで妄想して)夜勤してる奴でしかない、ということか。
太国とかと一緒でスルーするしかないようだ。
また記紀アレルギーが始まったのかw
880 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 22:05:05.61
記紀アレルギーというか、記紀妄想アレルギーというか。
妄想は学問板には相応しくないから出て行って欲しいものだ。
881 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 22:18:21.12
欠史八代と唐古鍵をリンクさせる、というならまだ妥協の余地はあると思うけどな。
福永の言うように、本当に唐古鍵が見る銅鐸の製造センターで、なおかつ銅鐸を周囲に配布して畿内ブロックの権威として機能したのだとすれば。
記紀が編纂された8世紀にその頃の記憶が残っていたのかどうか?
だ・か・ら
なんで唐古鍵とその後の王権とを結びつける必要があるのだ?
なんで欠史の時代に歴史性を見ようとするのだ?
883 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 22:50:37.44
それはヤマト王権の成立を物語る大事な部分だからだよ。
少なくとも今のままでいけば、政治的空白に近い奈良盆地に各地から大挙人が押し寄せて王権を作った、という話になる。
寺沢とかが言ってるように。果たして本当にそうなのか?
唐古鍵がマキムクに移行したのだとすれば、マキムクは記紀にも書かれていて信憑性は割とある。
その前はどうか?てならない?
唐古鍵がマキムクに移行しなかったんじゃないの?
885 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 22:59:15.25
まあ、そうかもしれない。福永と寺沢の見解の相違でもある。
マキムクの頃の唐古の環濠の再掘削で、マキムクと唐古は別、という意見も確かにあったし、その可能性は否定しないよ。
祭祀の部分だけ唐古鍵から分離したって考えてる考古学者はいますか?
少なくとも唐古・鍵で主に行われていたと見られる木製祭器による祭祀が
人の字水路の底に沈められていた以外は、纏向との祭祀関連は見られないわな、今のところ
ということはもし纏向に崇神を当てはめようとするなら、それ以前の直系が唐古・鍵にいたとか想像するほうが無理筋だろう
それとも記紀に残されていない宗教改革があったと強弁するつもりだろうか
>>882 記紀の欠史の時代に本当に考古遺物がないのかを
考古資料と照らし合わせて真剣に議論するならだれも文句いわないよ
でも実際には考古資料完全無視でただの妄想垂れ流しだから
これだけ文句が出てるんだろ
889 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 00:03:23.35
銅鐸の破片が見つかってることから、破壊して再利用してたんじゃない?>マキムク
わざわざ壊すことにどういう意図があったのか?
890 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 00:14:27.72
マキムクは突然出来たんじゃなくて、やはりその前段階があると思うんだよな。畿内ブロックの都市国家連合のようなものが。
今のところ、見る銅鐸くらいしか証拠はないんだけど。
マキムクの石塚が突然、とか言っても、吉備の楯築も突然だし、時代もそう変わらない。
昔こう言ったら、吉備も大和みたいに他国から征服されて…って説明されたことがあったが、そんなものなのか。
>>890 昔がいつのことなのかは知らないけど
>>1にあるように
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね
これは2chですらも、もう7年以上前からの認識だよ
892 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 01:43:33.61
ソクラテス・イエス・ブッダでさえ実在した証拠がないのに
欠史八代が実在したはずないだろw
『ソクラテス・イエス・ブッダ』フレデリック・ルノワール著
今から2300年前にアテナイ(アテネ)に住んでいたとされる哲学者ソクラテス、
2000年以上昔にパレスチナに生まれたとされる神の子イエス、
そして、2500年ほど前に北インドで暮らしていたとされる目覚めた人ブッダ。
冒頭に掲げるのは、地上の多くの人々の集団意識に大きな足跡を残したこの3賢人は、
はたして実在したのかという疑問である。答えは「否(ノン)」。
3人が歴史上、確かに存在したという決定的証拠は実は一つもないのだと、
フランスの作家で宗教ジャーナリストでもある著者は断言する。
謎に包まれた3賢人によって伝えられた言葉、行動、業績などを細かく追いながら、
人生の意味と真の幸福の正体を探る。(神田順子、清水珠代、山川洋子訳/柏書房・2415円)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110508/bks11050807480002-n1.htm
893 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 02:52:10.86
唐古鍵が存在した時代
ヤマト盆地には、この唐古鍵と似たような集落が
他にも多く存在したらしいよ。
そのなかで、この集落は偶然、保存よく残っていただけの話。
894 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 05:43:04.91
>>892 宗教学者とかそういう学者もいるけど
世間一般的には、イエスもブッダも実在したとみなされる。
ただ、後世に伝えられる実像と実際の実像には大きな開きがあるだろうと。
欠史八代の天皇だって、彼らが後の天皇のような存在だったかは別として
あのような系譜で実在した可能性は大いにある。
というか、そう見るほうが自然だろう。
>>892 欠史八代を否定するにしても結局は妄想じゃないかw
巻向はやはり鍵唐古とセットと考えるに賛成だな。
本当に目と鼻の先で、水路でも一本だ。
896 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 08:25:06.30
>>895 いや、マキムク以前に全国規模の王権があったとか、日向に派遣されたニニギとか、アメノがつく名前は王位の正統、とかが妄想。
以後慎むようにw
897 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 08:31:28.11
神武から成務まで十数代の父子直系相続の系譜なんて、
あの時代にありえないわw
仁徳系以降の兄弟相続中心の系譜と比較すれば一目瞭然。
稲荷山鉄剣みたいに、ただ人名羅列してるだけならまだしも、
ご丁寧に后妃や兄弟姉妹まで書いて、完全に父子相続に仕立て上げてるから、
余計にウサンクサイw
>>896 そんな事一度も書いた覚えないが。
妄想癖なら君の方が長けてそうだねw
899 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 22:29:09.48
>>898 じゃあ君以外の記紀妄想の人だったんだねw
試しに君の記紀妄想が聞きたいなw
欠史八代肯定してる時点で五十歩百歩だろ
わかったぞ。欠史八代は決死隊に似ているな。これは古代に地球を訪れた核融合宇宙船の
故障を決死の覚悟で放射能被曝した現地人を顕彰するために、宇宙人が歴史操作をして
名前が挿入されてあるんだ。
902 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 22:51:59.72
天孫降臨とか、まさに地球外生命体がUFOに乗ってやって来て文明を伝えた史実を神話として物語ってるんだよねw
弥生中期、紀元前の倭国で、日本列島を包摂するような超古代国家が成立するためには、地球外生命体の力が必要だものねw
903 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 22:57:07.67
>>902 まあ確かに、そうとでも解釈しないと、天から人が降りてくるとか説明できないからな。
妥当だと思う。
904 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 23:58:37.87
記紀妄想をからかうのはこれぐらいにして、そろそろ本題に戻ろう。
唐古鍵が畿内勢力の拠点集落ではなかったという指摘。
弥生の拠点集落で大きいのありますか?
鴨都波遺跡とか東大寺山は唐古鍵より少し落ちる。
離れた池上曽根とかは唐古鍵クラスだろうけど。
八尾、久宝寺周辺は掘ったらまだ何か出るよ。
土砂堆積が多い土地柄だから、下には何あるかまだわからん。
欠史八代か、ある部分は史実を反映してるだろう。
でなきゃあんなに具体的地名や名前が記述はされないだろう。
906 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 08:46:13.11
神話時代の創作逸話「倭迹迹日百襲媛」。
百ちゃん姫というのは孝霊天皇の第二妃が生んだ庶子だ。
この怪しげな女性の死後、崇神天皇の陵がつくられるが、
「ハツクニシラス」といわれ、格も比較にならない崇神天皇の陵が、
孝霊天皇の庶子たる百ちゃん姫の墓よりも小さいのはなぜだ。
失笑を誘うような詭弁抜きで説明できるものがいるなら・やってみれ。
要するに、創作された「つくり話」だ。
日本国の揺籃と黎明を担った実際の歴史を語るのに、
したり顔で、脈絡のない創作神話を持ち出すことのバカさ加減に気づけ。
時代の成熟度的にも物理的にも、
巨大化へ向かう段階的ステッフプという人間心理的にも、
そして、「祭祀規模の拡大」という状況環境的にも、
前方後円墳登場初期に、いきなり箸墓が誕生するわけがなかろう。
失笑を誘うような詭弁抜きで「あった」と説明できるものがいるなら・やってみれ。
「考古学的に」「宗教学的に」というセリフが飛び交うが、
考古学的にも信仰的儀礼上からも「墓まみれの王都」などない。
この初歩的な歴史的事実を無視して唱えられてきたのが纏向・邪馬台国説なのだ。
誰だ。こんなクソトピック立てた奴は。
伊作もバカだな、このスレで邪馬台国はむしろNGワードw
908 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 09:35:52.88
信用がおけない畿内説考古学。
ちゃんと描かれた地図が何枚かある中で地図学者が持ち出したのは、
12世紀に朝鮮で描かれた「逆さコンチキ図」。
で・「古代の中国人の地理認識はこうだった」という欺詐。
魏都・洛陽の尚方では絶対に造られることのない呉式神獣鏡に、
あろうことか、魏の年号が刻まれている超不条理。
で・「呉式三角縁神獣鏡こそ魏が卑弥呼に造って贈った鏡だ」という欺詐。
墓域は王都の郊外につくられるという信仰儀礼上の事実無視。
で・「纏向が邪馬台国でその京域内にある箸墓が卑弥呼の墓だ」という欺詐。
卑弥呼の宮城跡だという大型建物遺構と箸墓は目と鼻の先というわけだ。失笑
畿内説考古学のいってきたこと・やってきたことは、
実はまったく考古学的ではなかった。これが歴然とした事実だ。
畿内説考古学のいう土器編年はまったく信用がおけない。
その土器編年に依拠した古墳築造年代もまったく信用がおけない。
畿内説考古学のいう古墳年代など、クソくらえだ。な
909 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 09:41:31.74
あれはどうなった。
4世紀だか5世紀に造られた古墳の一部を削るようにして、
3世紀半ばに「ボケの山古墳」が築かれたという・はなし。わらわら
天理大学に箝口令を敷いたのか?
天理大学の所見が間違っていたという報道を目にしたこともないが、
まずい話は沈黙・黙殺でやり過ごす手か?
いつもいつも・事実が判明するたびに恥をかいてきたの畿内説なのだ。
910 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 09:59:35.18
妄想大王の伊作先生が降臨したぞ。
電波に触れてはいけないので総員退避だ!
911 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 10:11:50.38
>>907 じゃ、畿内中心古代史観を潰してやろう。
>「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体であるヤマトが新設され
>それが王権の礎になった」。
これは、西暦100年代後半には、
日本列島の勢力趨勢は畿内を中心にしていたという理屈か。
ならば問うぞ。
半島と大陸の出入り口は九州である。
人・もの・文化(知識・情報・技術)は、出入り口ほど濃厚で遠くなるにつれて希薄になる。
九州勢力が関門海峡の通交を絞っていた時代には、この傾向は一層強くなる。
必然の物理的・力学的現象として、九州勢力が最も先進的で力を誇ることになる。
出入り口が一つしかなかった時代に、瀬戸内の奥の大和が九州勢力を出し抜いて、
独自に先進的で強力になれた可能性はない。
瀬戸内の奥に大和勢力なるものがあったと万歩譲って「時代の成熟度」という観点から、
100年代後半に瀬戸内の奥の大和勢力が九州まで沿革支配していた可能性もゼロだ。
んー? こういえば・またぞろ「ゆるゆるの連合」か?
武力支配次第の「支配」は独占を意味する。海を制する者が列島を制するのだ。
列島統一支配という莫大な利権のかかった通交ルートを
「ゆるゆると仲良く共有した」などという願望詭弁はなしにしようぜ。な
912 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 10:13:49.80
沿革支配→→→遠隔支配
タージ・マハルとか古代エジプトの某神殿などは、お妃を可愛がって
たことから大王級とか以上の大きいそういう建造物を造ったというから、
そういう箸墓のようなことはおかしくはない。まぁこういうんで大王の
位まで譲渡したという話は聞いてないが、箸墓が特大でもとりわけ
不合理ではないがね。
伊作さんが津田妄想病の残菌を保有していたとは驚いた。
あれは創作ではないよ。
瀬戸内海と日本海
どっちが裏で表なんだろねwww
916 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 13:27:19.22
>>914 太国しゃん
>津田妄想病の残菌を保有していたとは驚いた。
汚い比喩はよしてくれ。一度だけ反応するが、たのむから俺にからむのはやめてくれ。
『日本書紀』の記録を真に受けて古代史論を展開する向きには
俺の見解は都合の悪い見解だろうが、これは正論だよ。
『日本書紀』を書いたのは滅亡百済からの亡命漢人だが、
彼らは歴代の中国正史に目を通しているにもかかわらず、
また倭国の支配層も幾ばくかは自らの祖先の歴史を知っていたにもかからず、
漢魏晋宋代の歴史を完全に抹消した。
中国天子を奉る朝貢外交の建て前から「臣」とへりくだって外交をしていた時代を消して、
「日出る所の天子が日没する所の天子に」と、一人前の口をきくようになった時代から書き始めている。
だから、漢魏晋宋代の歴史がなく、いきなり隋(唐)が登場するし、
半島も三韓がなく百済・新羅・任那が登場する。
つまり、漢魏晋宋代の歴史を神話時代のこととして作り変えている。これもまた厳然とした事実だ。
どだい。作り替える必要がなければ漢魏晋宋という時代とその時代の史実と事象が登場してしかるべきだ。
消したということは作り変えたということだ。あたり前の理屈だろう。
こんな書き物をとりあげて、漢魏晋宋代の歴史事象とか年代とか、
とくに、『三国志』倭人伝の時代や人物にあてはめる作業に、
いささかでも意味があるとは俺は思わない。
かつて、サルトルがこういったものよ。
「何びとからも自由でありたいと欲するならば、何びとをも解法しなければならない」。
わずか3人の社会でも、誰かが誰かの自由を束縛すれば、そこはもう自由ではなくなるのだよ。
俺はこれを「相対的自由の関係」と呼んでいる。言論は自由だ。自論を自由に述べることはいい。
だが、自論に反する意見や都合の悪い意見が出たからと、
何の筋も通さず反意だけを意思表示するのは大人じゃない。
筋を通さない反意(論拠を提示ししない反論)は議論にも革新にもならない。
何万の人数を揃えて架空創作の墓を造るほど朝廷は呑気ではないで
しょう。w 貴方の妄想だね。
918 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 13:56:02.34
>>917 >架空創作の墓を造るほど朝廷は呑気ではないで しょう。
『日本書紀』のいう墓の比定を信用してのことかい。ならば妄想というよりも錯綜だ。
くり返す。
作り替える必要がなければ
漢魏晋宋という時代とその時代の史実と事象が登場してしかるべきだ。
漢魏晋宋という時代を消したということどういうことか。考えてみ。
ちゃんと説明すれば、小学生でも理解できる理屈だぜ。
俺に反意を表明するならば、ここのところをきちんとした論理で崩すことだ。
さもなければ、くだらん横はなし。
919 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 13:56:40.01
>>915 >瀬戸内海と日本海どっちが裏で表なんだろねwww
俺の画期的な『列島支配一元論』によれば、
九州勢力が関門海峡の出入りを絞っていた時代は、瀬戸内海が裏日本で日本海側が表日本だ。
妻木晩田や出雲がそのことを証明している。
九州には二つのルーツがあった。
長江河口からの直接ルートと、壱岐・対馬を経由した朝鮮半島経由ルート。
どっちも、九州がターミナルであり出入り口だ。
ある時。すなわち九州勢力の東への進出が経本格化したとき、関門海峡の蛇口が全開になる。
ここではじめて、瀬戸内の通行量ががドッと増える。
四国と大和州の高塚墳(円墳・方墳・前方後方墳・前方後円墳)の動向も、
その視点でとらえることが可能だろう。
唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれていた男女司祭は、明らかに九州の隼人色の濃い扮装をしている。
これは、九州勢力の先遣開拓部隊の集落の可能性を示している。
『日本書紀』の記録をとりあげる向きには、ニギハヤヒとナガスネが盤居した「とび」の地(先遣開拓地)を
無血開城か国譲りに似た形で神武に引き渡したことを思うといい。
まさに東遷前夜。この場合、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じた人物が神武の祖先だ。
両者は同族か祖先の代からの支配者と臣下の関係というわけだ。
3世紀末には関東にも高塚墳が登場するが、
このことは、そうした信仰的精神性をもった勢力がかなり早くから進出・開拓に着手して、
3世紀末には安定支配と安定収穫を実現していたことを物語る。
むろん、四国・瀬戸内・東海とてその例外ではない。
ということは、3世紀初頭(卑弥呼の時代)にはそうした動きがすでにあったことを意味する。
唐戸・鍵遺跡も纏向遺跡をその観点からいえば、九州勢力の先遣開拓集落だ。
920 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 14:30:47.43
独りごと。
俺は太国と唐松山の研究姿勢や見解について、
とやかくいったことはない。言論と研究の自由を尊重するからだ。
だが、俺の研究姿勢や見解に汚い比喩でもっていちゃもんをつけるならば、
俺もいう。だが、これをいえば決定的にになることを断っておく。
漢魏晋宋という王朝の名の一つも出てこなければ、
それぞれの時代の歴史が登場しない「部分」は、少なくとも歴史記録ではない。
ただの物語だ。
921 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 16:10:44.59
コテハンは無視出来るので害はない。
そういう意味では、名無しの記紀妄想(仮名)の方が害悪があるよ。
そんなことをする動機もまともなのは見当たらないでしょう?
あくせく十年二十年かけて万の労働者を使って疲労させ、創作人の陵墓を
造るなんてね。その間大量の糧食を消費させ、そんな無駄なことをして
までも創作架空の人物の陵墓を造るわけがないでしょう?
伊作さんよ、記紀は探偵小説ではないですよ。
923 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 17:54:48.58
>>922 やはり錯綜してる。
墓は、現実に生きた人物の墓だ。だが、創作歴史書のいう人物の墓じゃない。
なぜならば、創作歴史書は史実とは別のことを書いた創作だからだ。わかるか?
創作歴史書が、実際にある墓を架空物語の人物の墓に割り当てたのだ。
その創作歴史書のいうことを真に受けて、
「万の労働者を使って疲労させ、創作人の陵墓を造るなんてね」。
とは、前後関係と考え方の錯綜以外の何ものでもない。
錯綜した浪花節なら、その程度の論理循環整理もできない奴に吹け。
ただの物語りをとりあげて、人物比定や年代合わせに熱中するタイプとは、
そもそも取り組みのスタンスが違う。
この話は打ち切りだ。
924 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 18:28:06.49
記紀の説話や系譜が丸々史実だと信用している人が、いまどきまだいたんだなw
天然記念物級だわw
コチラは丸々じゃぁないですぜ。
だいたい年代だって記紀には違いがあるしね。それに神武の前の神代は
史実か否かの判別は困難だ。しかし百襲媛とかは崇神あたりの人物で、
これは神代ではなく年代が書かれてるわけだから、これは単なる創作
とは言い難い。
卑弥呼と彼女はほぼ同時代の人物で、両者にまず付き合いはなかっただ
ろう? それもそのはず卑弥呼は畿内ではなく、九州の女だからね。
ただ媛は四国へ渡ってるから、九州も言ってるのでないかという説を
言う方には完全否定まではしないがね。まぁ付き合いはないと想うよ。
926 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 19:20:51.27
神武以降の歴代をみんな実在と考えたり、その説話に史実性を認めてる時点で、
ファンタジーとしか言いようがない。
927 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 19:33:28.82
俺の問題提起はもっと重大な意味をもつのだが。
太国の横ちゃりに引っ張られて見失ったか。
伊作さんが迷惑そうだから、いったん保留よ。
>>926 年月日があるところは、史実と観るべき。
イカサマ創作を書けば、当時も敵は多いと観るべきことから、そいつら
に弱点を握られることになる。つまり公文書偽造で身の失脚が待って
いる。こういうように現実を考えるべきで、創作すれば葬られる。
こんな次第で
このスレは考古資料に基づいた議論をすることになってるわけです。
930 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 20:10:03.83
いい加減ルールを守れ
記紀中心の話題は日本史板
考古学中心の話題は考古学板
100回音読しろ
●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
考古学(仮)@2ch掲示板
○人類の遺跡・遺物に関する学問=考古学、およびその関連分野について語る板です。
○人類史・遺跡に関わらない話題については、より相応しい板があるかもしれません。
それぞれの話題に応じて適した板を選びましょう。
●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
http://kamome.2ch.net/archeology/
931 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 20:12:01.67
年月日なんて、あとからいくらでも捏造できるんだがw
まして、日本書紀に結実する国史編纂なんて最高権力者(天武天皇)の命で、
朝廷として行ってた偽史捏造プロジェクトだったわけだしw
932 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 20:16:16.67
>>930 ここは考古学板かい?
俺は考古学的見地から、
纏向=邪馬台国説、箸墓=卑弥呼の墓説の
バカバカしいほどの欺詐を指摘しているのだが。
933 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 20:18:42.04
掘り返して・こんなん出ましたァー・なんてバカづらする以前の、
考古学的・歴史学的・常識的知識の観点からの指摘だ。
934 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 20:24:59.00
まあ、記紀妄想に取り憑かれた人たちは横においといて、話を元に戻そうかw
唐古鍵とマキムクはどういった関係だったのか?
935 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 20:44:09.37
936 :
伊作先生だけど。:2011/05/10(火) 21:00:34.44
>>935 じゃここは何なんだ。どのジャンルにきっちりはまるんだ?
「纏向は王権の礎の地か」てのは、何を議論する場なんだ・この野郎。
937 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 21:03:54.19
うげ、ゴミクズレベル九州説の中でも飛び切りのゴミクズ伊作の基地外が降臨してるのか…
結局「記紀アレルギー」と言うのは言い換えれば「邪馬台国論争アレルギー」と言っても良くて
こう言う「ワシの考えた古代史ストーリー」の垂れ流しの場所になることに対しての嫌悪感なんだろうがw
>>911 >必然の物理的・力学的現象として、九州勢力が最も先進的で力を誇ることになる。
この馬鹿が「物理的」だの「力学的」だの知ったかぶりでほざくのは更に内容がくだらない印だなw
>>911 >入り口が一つしかなかった時代に、瀬戸内の奥の大和が九州勢力を出し抜いて、
>独自に先進的で強力になれた可能性はない。
小学生レベルの発想。
結局中国を統一した秦は周王朝に関わりの無い辺境の地であった。
なまじ旧来の文化にどっぷり浸かった地域より”しがらみの無い”地域の方がパラダイムシフトのような物を起こしやすい。
そもそもその理屈なら日本側の入り口より更に先、半島が常に先進的で強力だったと言う理屈だなw
九州は結局良くも悪くも「弥生」から抜け出せなかった。
巨大首長墓の祭祀を通じて地域の連合体を形成すると言う列島規模のムーブメントに九州は乗れなかった
(あるいは乗らなかったのか?)
…ここらへんの認識は最低でも持って貰わないと話にならない。
938 :
軌跡の伊作:2011/05/10(火) 21:20:24.12
>>937 >その理屈なら日本側の入り口より更に先、
>半島が常に先進的で強力だったと言う理屈だな
誰が半島から先進の文化をら入手したとゆってるか。
先進の中国が相手だが、半島はそのルート上にある。
倭国の政権中枢がどこにあろうが、不変の道理だ。クソ野郎。
で・俺が提示した、考古学的・歴史学的・常識的見解に対する、
考古学的・歴史学的・常識的見解での反論はなしか。泣きを入れてるだけだろが。
どうせ泣きなら、もっとマシな泣きを入れろ。
939 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 21:25:13.33
>>938 ゴミクズ伊作
>先進の中国が相手だが、半島はそのルート上にある。
もう少し考えてから書けこのリアルボケ爺w
その先進文化の伝播ルート上で”上流”にあるからこそ九州が本州四国に対してアドバンテージ持つってのがキサマの理屈だろうが。
だったら同様に中国により近い半島がアドバンテージ持つ理屈だなwww
もう一度やり直せ馬鹿者
940 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 21:36:47.53
しかしこの伊作とか言う太国と変わらないレベルの狂人はヤフーを叩き出されて
2ちゃんのこの板に来てあっちスレこっちのスレでデタラメかいてはトンズラの繰り返しだがw
例えば…
>考古学的にも信仰的儀礼上からも「墓まみれの王都」などない。
>墓域は王都の郊外につくられるという信仰儀礼上の事実無視。
「わしの考えた古代国家像」は良いからその『考古学的』な根拠を挙げてみろカス。
3世紀までの古代の日本で宮と墓が隔絶した場所に作られている事例の数々をだ。
今まで一つでもあげたことがあるのか?
結局は全てにおいて根拠のない思い込み、リアル 気違い の妄想以外の何ものでもない。
941 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 21:57:55.34
>>904 >唐古鍵が畿内勢力の拠点集落ではなかったという指摘。
そもそも畿内全域に影響力を及ぼすような大型拠点集落が纏向以前にあったのか?と言うのが疑問。
それこそ当選説論者がよく言う銅鐸を共通の祭器に戴く「銅鐸連合」のようなものがあったのかと…
>>931 下表のようにね〜
〜そうならば、こんなふうに日数を左寄りに集めるわけもあるまいがねぇ。
なおさらおかしいと思わせる偽造法だということになる。表のあちこちに
創作が分からんように分散して注意をそらす隠匿をするはずだ。
【紀の欠史八代の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
上表は、当時2倍年暦を行使していたのだよ。
943 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 22:36:24.40
また狂信者のタワゴトか。
数字遊びはいらないよ。
944 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 22:39:23.06
>>942 太国 ◆yVAs7uaYlY
いい加減にしろ気違い。
その倍暦が纏向にどう関係あるんだ?
あるのなら関連付けてレスしろ。
とにかく古代史のスレに見境無く同じことを書きなぐるのは止めろドカス。
遊んでるんじゃないぜ。
これをよく見ろ。創作、偽造ならば、分からないように表の全体に適当
な感じで数字をランダムに分散するはずだ。
遊びはいらないの文句は論説、反論ではないぞ。
>>944 能書きを垂れるんじゃねぇ〜。
これは卑弥呼の時代がどの天皇の時代なのかを考える上で、重要なのだ。
よくよく考えろ。
>>945 太国 ◆yVAs7uaYlY
いい加減にしろこのリアル痴呆症老人。
ここは纏向について語るスレだ倍暦の与太は他でやれ
それに巻向の時代が西暦で何年ころかも気にかかる。
>>947よ、オマエ
は特定出来るのか〜? ぁ〜ん? 〜答えてみろ。
949 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 22:51:10.74
>>941 普通に考えて、東大寺山は丸邇氏の根拠地で、鴨都波は葛城氏のそれ。
寺沢は庄内初期の移住者が土着化して畿内有力豪族になった、みたいなことを言ってたけど、どれも弥生の拠点集落由来の豪族じゃないかと思う。
彼らは山城やら近江、東海に進出するけど、その記憶が四道将軍伝承になったんじゃないかと。
畿内に超巨大拠点集落があったんではなくて、畿内勢力全体では筑紫以上の国力があり、それが結集することでマキムクが生まれ、
吉備、筑紫、出雲を凌駕し得たということだろう。
犬国 ◆yVAs7uaYlY
お前とか伊作kとか
そうやって来る日も来る日も同じことを古代史スレと見れば見境無く書きなぐって
それでその与太が認められるとでも思っているのかゴミクズが…
アホの一つ覚え
>>942の件に関しても古代の年中行事で月前半に集中する事例を出してやったが忘れているんだろうなw
少なくともそれほど奇異な現象ではない。
とにかく思えのほざいている事は与太以外の何者でもない
どうしてもほえたければお仲間のいる九州説スレでやれドアホ
オマエはジョーカーか〜?
このごろ書きこんでなかったが、被災したのかと思ってたぜ。
そうでなかったわけだ? 今夜はwがえらく少ないな?
オマエがいくら頑張ったって、畿内に卑弥呼の国はな〜い。
まぁ〜諦めるんだな。
諦める〜〜そうなれば、
ジョーカー 終わりをよくす とでも〜〜たつ鳥 あとを濁さずで
オマエの評判が回復するぞぅ〜。
952 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:05:57.05
コテハンが来ると科学vs宗教の論争みたいに不毛になるなあ。
コテは現実に相手にされない馬鹿だから無視した方がいいな
>>950 【漢籍 潤色】日本書紀総合考察スレ【古伝妄信】ジョーカー? 08’9/7
>930
ひょっとすると太国に引導を渡せるか?
「古代史の基礎知識」吉村武彦編集
・・・・・・・・・・・・・・・
コレだな?
954 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:13:44.28
まともな学者からは相手にされないような珍説奇説は、
自分のブログでやればいいのに、なんであちこちのスレで暴れるんだろうね。
フトクニは。
955 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:14:02.48
>畿内に超巨大拠点集落があったんではなくて、畿内勢力全体では筑紫以上の国力があり、それが結集することでマキムクが生まれ、
>吉備、筑紫、出雲を凌駕し得たということだろう。
いくら畿内勢力の数が多かったとしても誰かが纏めなければ烏合の衆だろう。問題はそのような事の出来る権力者の存在を示す考古学
的資料(弥生後期の王墓など)が畿内には存在しないことだな。
ん?
>>954 スマンな。
今夜は伊作さんへの簡単な反論だ。しかし迷惑そうだから、うちきった。
本来は唐松山のインチキ編年論退治だ。ホツマが危険史想で、放置でき
ないからだよ。
〜今はジョーカーが迷惑そうだから、今夜はオシマイ。ご免!
zzzzzzz・・・
957 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:26:48.42
ま、常識人からみれば、唐松もフトクニも五十歩百歩の記紀厨で妄想家なんだけどね。
どっちも、隔離スレか自分のブログに閉じこもっててほしいわ。
958 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 23:29:07.45
>>955 それが集まったから画期になったんだと思うよ。
弥生から古墳時代へと変わる転換点だから。
直接の原因は弥生後期後半のグローバルな寒冷化により、今までの弥生社会が成り立たなくなり、
巫女の共立という荒業で大和中河内が合一したこと。
鉄資源を希求する時代背景が、遠隔地交易を主導するリーダー層に権力を付与し、やがてオウとなり古墳に祀られるのが弥生後期のおおまかな流れなんだけど、
筑紫出雲、少し遅れて吉備に、希少物を独占することで権力が生まれるというプロセスが伝播し、
更に遅れて東瀬戸内、畿内東海に伝わったということだろう。
後進地方の方が社会が単純で、国家権力が強大になる、てのも相場。
少し
>>850まで話を戻させてもらうと
伝承されている墓の位置だけ見れば垂仁より先、開化の時代に盆地の北部に陵墓を持つ王が現れている事になる。
そして三輪から見て盆地の北部その更に先の山背から武埴安彦が攻めてきたと記紀にある。
そこら辺盆地北部や山代の勢力の纏向・三輪朝への参画時期と同時に確執時期を想像できるかもしれないwww
(ちなみに椿井大塚は三角の編年からすれば最古ではないと言うのも関係するか?)
巷間あるいはこのスレでも纏向を中心にして東西−西は河内・播磨そして吉備、東は東海−のことは語られてきたが
視座を南北の軸にうつす話はあまりなかったように思う。
960 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 00:22:03.34
タケハニヤスヒコなんて面白い存在だと思うんだけどね。
ハニヤスヒコって実はトイレの神様の名と同一で、糞袴の地名起源説話とも通じる。
おそらくは謀反人を貶めて改名したもので、本名は別にあっただろう。
ヒミココだったりしたら楽しいのだがw、狗奴国は東海、てのが現在の相場だし、なかなか難しいのかな?
961 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 00:34:35.60
>>960 貶めたにしては一応は皇族の男子として書かれているのも不自然だが武烈の例もあるしなあ・・・
しかし樟葉の住人にはその地名の由来って知られた話なのかな?www
962 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 00:50:23.24
けっきょくのところ罵詈雑言だけで、
まともな反論を書ける奴はいないようだな。
相手にされず、寂しくなって出てきたかw
話についてこれないなら、無理して出てくるなよw
964 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 00:59:53.98
外道をまとめて処断。
>>939 >その先進文化の伝播ルート上で”上流”にあるからこそ
伝播のルート上ではなく、通交のルート上だ。
勝手に誤解して、その誤解に基づいてわめくでない。気違い野郎。
もう一度やり直せクソ野郎。
>>940 :
考古学的にも信仰的儀礼上からも「墓まみれの王都」などない。
墓域は王都の郊外につくられるという信仰儀礼上の事実無視。
>「わしの考えた古代国家像」は良いからその『考古学的』な根拠を挙げてみろカス。
考古学的根拠に基づく超学術的な意見だ。
根拠のない奴に限って「根拠を挙げてみろ」とわめく。
この俺の論説に抗し得る専門家は一人もいない。やっても薄識を笑われるだけだ。
>3世紀までの古代の日本で宮と墓が隔絶した場所に作られている事例の数々をだ。
だから。仏教が入ってきて巨大な古墳づくりをやめて、町中に寺を築くようになる時代以前に、
宮と墓が普通に同居していた事実を上げれば良いのだ。できないくせにわめくな。タコ
>結局は全てにおいて根拠のない思い込み、
結局は全てにおいて根拠のない者のはかないわめき。
>気違いの妄想以外の何ものでもない。
気違いの暴走 以外の何ものでもない。
965 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 01:03:48.25
畿内説の共通点。
追いつめられて返答できなくなると、なりふり構わずヒステリックにわめく。
もちろん、罵詈雑言の箇条書きになる。わっら・わら
>伊作
誰も読んじゃあいないのに張り切って長文(内容はスカスカ)を書くこいつは馬鹿だなあ、とw
釣り糸垂れたらすぐに食いつくし、からかい甲斐があるw
まあ、またこのレスに触発されて長文書くんだろうけど、誰も読まないのでw
ていうか馬鹿に付き合ってる程暇じゃないので。
967 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 01:25:23.40
>>964 妄想爺 伊作
>宮と墓が普通に同居していた事実を上げれば良いのだ。できないくせにわめくな。タコ
と言うか以前に吉野ヶ里でも纏向でも集落の中心・大型建物から墓の距離を示してやったぞ?
もう忘れたのか?痴呆症爺さんよw
で、どうせ「そんな物は王都じゃない」と言う反論だろうが、
そもそもお前の妄想定義による「ぼくのかんがえた王都」とやらがあったと言うお話で
結局 根拠が無いアホの戯言。
自分の「脳内基準」でハードルを引き上げるだけ引き上げておいて現実を否定しても気違いの戯言でしかない。
この伊作と言う馬鹿は万事につけてこれだ。
968 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 01:52:11.35
969 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 01:53:20.24
畿内説の共通点。
追いつめられて返答できなくなると、なりふり構わずヒステリックにわめく。
畿内説の危機管理上からも、真剣にわめかざるを得ないわけだ。
わっら・わら
970 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 02:12:32.26
>>969 自惚れだけは超一流のボケ爺 伊作
>畿内説の危機管理上からも
ひょっとして自分が畿内説と言うか現在のアカデミズムに脅威を与えうる存在とか妄想しちゃっているのかな?
少しは現実を見ような?www
まあこのスレに来る馬鹿に共通する病気だがw
972 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 06:41:25.25
>>960 そういう相場はないよ。
狗奴国は東海説は、考古学者の一部の先生が主張しているが
かれらは、単純に魏志倭人伝の記述から、大まかに想像して
そういう説をあげているんでしょう?
漢字の音韻でみたら、狗奴国王の卑弥弓呼は、
武埴安彦命の可能性が高いけどな。
山城の宇治の旧名は、許乃国(このこく)といったそうだし。
あと、狗奴国の副官ってのは、拘右智卑呼だったかいうそうだが
これは、河内彦のことだと思われる。
973 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 09:32:17.35
>>970 >畿内説と言うか現在のアカデミズムに脅威を与えうる存在
そうだ。明らかに畿内説に脅威を与えている。
素人市場では、すでに俺の提起した呉式神獣鏡に魏の年号という不条理説。
墓域は王都の郊外につくるもので、墓だらけの王都などない説が定着しつつある。
加えて考古科学ともいうべき視点から、
年輪年法や炭素年代法などが欺瞞に満ちたものであることも盛んに騒がれている。
畿内説が、コンチキ図以来一貫して欺瞞と欺詐によって推進されてきたことが、
社会認知として定着し始めているのだ。
世人はバカではない。まして、WEBツールの普及でさらに利口になってきている。
いまどき「騙しの考古学」など通用するものか。
いつまでも世間の空気を読めない時代遅れともだけが、畿内説を叫ぶのだ。
田吾作も出てきたときはもう少しまともだったが
いまや完全に電波
人間って相手にされないと気が狂うんだな
>>973 どうでもいいがここ邪馬台国スレじゃないから
纏向について語れ粕
976 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 11:27:37.43
>>975 >纏向について語れ粕
だから。纏向については、考古学的・歴史学的・常識的知識に基づいて語ってやったがな。
「墓だらけの王都などない」
「3世紀築造の墓だらけの纏向遺跡は3世紀の王都ではない」
「唐戸・鍵遺跡は、のちの装飾古墳にも見られる幾何学文様の衣装を着た司祭が隼人色の強い祭祀を行なっていた」
「唐戸・鍵遺跡は九州勢力の進出拠点か先遣開拓のための集落である」
「纏向遺跡は、倭国の墓づくりと葬祭センターである」
「大型建物遺構は、祭祀人材の育成・供給センターである」
これでいいか?
977 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 11:41:19.21
纏向は王権の礎の地ではない。
九州の西都原古墳群、塚原古墳群と同じ、倭国の国葬センター的墓域でしかない。
そこからほどなく大和州に登場する倭国王都からみても「場末」だな。
のちのち、大和州では天皇が代わるたびに宮をそちこちに築くが、
それでも、かつて墓域があったところに築いた事例は極端に少なかろう。
はい。このトピックも役目を終えたところで、放置して潰せ。
978 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 13:27:07.13
>>973 うんじゃ、世間の大半が、邪馬台国畿内説なのに、
おまえ、どうするんだ?
979 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 14:57:20.61
奇跡の伊作ってやつのブログ
昔、見たことがある。
とにかく、なんて横柄な奴なんだって印象が残っている。
まあ、やつの思惑とは大きく異なり
世間は邪馬台国ヤマト説で決まりなんだが...
>>976 さっさと鬼籍に入れゴミクズ伊作
>「墓だらけの王都などない」
>「3世紀築造の墓だらけの纏向遺跡は3世紀の王都ではない」
馬鹿の脳内定義、嘘、妄想、一切の根拠なし。
そもそも3世紀になって墓域と首長層が住む区域が隔絶した地域に築かれるようになったという根拠(先行モデルのようなもの)が無い。
(豪族居館の出現ですら三世紀末の小迫辻が最古と言われている。布留式最古相らしいので庄内には遡らないようだが)
>「唐戸・鍵遺跡は、のちの装飾古墳にも見られる幾何学文様の衣装を着た司祭が隼人色の強い祭祀を行なっていた」
ドアホウwww装飾古墳が登場したのはいつだと思っているんだ?
装飾古墳ネタはゴミクズレベル九州説の定番w
もし九州発祥を謳いたいなら
先ず明らかに纏向より古い年代の物からそのデザインを探し出し纏向のものと比較して共通性を見出す手順を踏むのが筋。
中学生から日本史やり直せボケ爺。
>「唐戸・鍵遺跡は九州勢力の進出拠点か先遣開拓のための集落である」
言うのも馬鹿馬鹿しいほど根拠なし。
むしろ九州のカラーが希薄な為に東遷説の否定材料になっているのが現実。
夢でも見ているのか? 寝言は寝て言えドカス。
>「纏向遺跡は、倭国の墓づくりと葬祭センターである」
百億歩譲って、よしんばそうだったとしてその墓を作り祭祀を主催した勢力は何処にいたか?
まともに考えれば同じ奈良盆地、少なくとも畿内。
九州が造営運営したなんて痕跡根拠は何も無い。もはや気違いの戯言レベル。
どうしてもほざきたいのなら、遠く畿内大和の纏向をコントロールした九州のそのクニが何処にあったか根拠を添えて言ってみろ。
『 ワシの考えた古代日本をデザインした偉大なる大九州王朝 』の本拠地は何処ですか?ボケ爺。
結局何から何まで頼るはてめえの妄想「オレサマ定義」しかない。
客観的な根拠足りうるような物は微塵も無い。馬鹿○出汁wwwwwwwww
981 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 18:00:39.37
>>977 さっさと鬼籍に入れ 伊作 + 似たような連中ども
>はい。このトピックも役目を終えたところで、放置して潰せ。
畿内説が憎い妬ましい、自分達から見たらその象徴たる纏向の名を冠したスレが目障りで仕方が無いのかな?www
お前らのようなアホがこんな所でいくらイチャモンつけても現実は変わらない。
それによっててめえらの説が世に認められるようになることは無い。
むしろそのピンぼけたイチャモンは自分の馬鹿さ加減を開陳しているだけ。
他人に貶められて馬鹿なんじゃなくて、その中身が馬鹿だから馬鹿と言うだけの話。馬鹿自身の問題。
この伊作とか言う奴の書いた電波本がどれくらい売れたのかは知らないが
世に伊作の名が知られていないのは畿内説があるから…と言うよりその中身に問題があるんだろうよw
とりあえず「と学会」で扱ってもらう事を目指しましょうwww
982 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 18:16:35.21
>>980 「3世紀築造の墓だらけの纏向遺跡は3世紀の王都ではない」。
3世紀の墓にまみれた纏向遺跡が3世紀の王都ではあり得ないという意味なのだが、低能児は錯誤して返す。
>3世紀になって墓域と首長層が住む区域が隔絶した地域に築かれるようになったという根拠が無い。
「唐戸・鍵遺跡は、のちの装飾古墳にも見られる幾何学文様の衣装を着た司祭が隼人色の強い祭祀を行なっていた」
>ドアホウwww装飾古墳が登場したのはいつだと思っているんだ? 装飾古墳ネタはゴミクズレベル九州説の定番w
「のちの装飾古墳にも見られる」と書いているはずだがな。低能児
>先ず明らかに纏向より古い年代の物からそのデザインを探し出し纏向のものと比較して共通性を見出す手順を踏むのが筋。
何をゆってるんだ。小学生の作文からやり直せボケ低能児。
「唐戸・鍵遺跡は九州勢力の進出拠点か先遣開拓のための集落である」
>言うのも馬鹿馬鹿しいほど根拠なし。
唐戸・鍵遺跡史ユッド土器描かれた司祭は九州の隼人色の強い扮装をしている事実。
「纏向遺跡は、倭国の墓づくりと葬祭センターである」
>よしんばそうだったとしてその墓を作り祭祀を主催した勢力は何処にいたか?
九州からやってきた。
>遠く畿内大和の纏向をコントロールした九州のそのクニが何処にあったか根拠を添えて言ってみろ。
九州から遠く離れた僻地でどうやって王権ができるのかを説明してみろ。
>『 ワシの考えた古代日本をデザインした偉大なる大九州王朝 』の本拠地は何処ですか?
俺は大九州王朝説など微塵も容れない人だが。
>結局何から何まで頼るはてめえの妄想「オレサマ定義」しかない。
>客観的な根拠足りうるような物は微塵も無い。
いやいや。お前がいい実例だが、罵詈雑言を投げるしか手がないのが畿内説の事情だ。
983 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 18:22:48.90
>>981 >畿内説が憎い妬ましい、
嘲笑してるわけさ。考古学・古代史学の恥さらし。
>自分達から見たらその象徴たる纏向の名を冠したスレが目障りで仕方が無いのかな?www
考古学・古代史学の恥さらしは・やめてほしいわけさ。
>お前らのようなアホがこんな所でいくらイチャモンつけても現実は変わらない。
てめえらのようなタチの悪い害宣連がいくらわめいても「騙し」は通用しない。
>それによっててめえらの説が世に認められるようになることは無い。
そんことは微塵も期待していない。並べる論はすべて畿内説否定のための論拠だ。
>むしろそのピンぼけたイチャモンは自分の馬鹿さ加減を開陳しているだけ。
いやいや、畿内説の騙しのテクニックをずいぶん暴いてみせたぞ。
>この伊作とか言う奴の書いた電波本がどれくらい売れたのかは知らないが
ぜんぜん。自論を正式に発表したという「証拠」のためだから。大きな世話だ。
>とりあえず「と学会」で扱ってもらう事を目指しましょうwww
騙しの畿内説考古学わりは遥かにマシだぜ。
ほれほれ。ヒステリックなわめきがまだ足らんぞ。低能児
馬鹿伊作をからかうことで連投を誘い、スレの埋め立てをさせる、
という遊び?
985 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 18:30:32.56
うんうん。俺が去ったあとは閑古鳥。
そちこちのトピックで証明済みさ。
986 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 18:41:58.25
>>982 九州のゴミクズ 伊作
>「のちの装飾古墳にも見られる」
”にも”と言うからには先ず3世紀の物を出せクズ。
装飾古墳とか出すもんだからチブサンとかで有名なあの色彩、幾何学模様の事でも言っているのかと思えば
土器に描かれたシンプルな線画で両者の共通性を見出すなんて話は聞いたことがない。
やはりキチガイの戯言。
>九州からやってきた。
脳内シナリオは根拠にならんぞアホ。
そんな事真言宜しく百万回唱えてもキチガイの戯言でしかない。
>九州から遠く離れた僻地でどうやって王権ができるのかを説明してみろ
実際に九州から遠く離れた大和で王権は発生し
そこに九州の関与を示すような物はないといって良いのが現実。
九州の関与が無ければ王権ができないと言う理論は無い。伊作とか言うキチガイの脳内は別にしてw
>俺は大九州王朝説など微塵も容れない人だが
九州王朝説と東遷説を足して2で割って電波で発酵させただけのゴミクズがお前。自覚しろw
987 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 18:47:48.98
凡そこの伊作とか言う馬鹿から持論の根拠について述べられた記憶が無いw
ひたすら自分の脳内定義が拠り所。
と言うか本人にとってはそれが「自明の理」であって証明すると言う作業は必要ないのだろうwwww
988 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 18:49:20.07
>土器に描かれたシンプルな線画で両者の共通性を見出すなんて話は
>聞いたことがない。 やはりキチガイの戯言。
いやいや。気違い沙汰はてめえのほうだ。
考古学を標榜するわりには、
都合の悪いことは考古資料をも無視するのか。とんと知らんのか。
気違いの心理は読めんから分からんが。わらわら
>九州の関与が無ければ王権ができないと言う理論は無い。
だから。
九州勢力の関与がなくても大和に王権ができるという事実を示せばいいのだ。
それができないで結論的空論ばかりいうから物理と論理と力学で説明すれば、
「九州の関与が無ければ王権ができないと言う理論は無い」などという
泣きにも似た情けないことしかいえんのだろが。
わあわあいうほど、逼迫した状況であることをさらすだけだ。
はい、これでここも閑古鳥な。お前らとの会話はつまらん。
989 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 19:02:06.47
>>988 負け犬伊作
>古学を標榜するわりには
別に考古学を標榜した覚えは無いが
少なくとも自分の主観で単純に「これとこれは似ている」と言うだけならそれは考古学でも他の学問でもない。
理系でも文系でない、伊作と言う馬鹿の妄想に過ぎない。
具体的な資料、その画像でもだし両者が偶然の一致では済まされないほどの共通性を説明するでもなし
自分の脳内真理を書きなぐるだけ。
まあこれが伊作と言う馬鹿の芸風なんだろうがw
>九州勢力の関与がなくても大和に王権ができるという事実を示せばいいのだ。
先ず現実にヤマト王権が発生しそこに九州の関与を見る必要が無い以上
関与があったことを立証すべきはキサマの方だ阿呆 。
「人類の文明の発生が宇宙人の関与がなくても可能だった事を示せ」
と電波飛ばしているのがこのキチガイwww
990 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 19:04:00.32
>>987 >凡そこの伊作とか言う馬鹿から持論の根拠について述べられた記憶が無いw
これ。学術的に通用する明確な論拠を提示されたことを隠すための詐欺発言な。
ま・まぶしくてまともに見ることができになかったのだろうさ。
>ひたすら自分の脳内定義が拠り所。
見あきた常套句だぜ。
正論を正視できず逃げ回っているのはてめえらだ。
>証明すると言う作業は必要ないのだろうwwww
ちゃんとした論の手順と手法を踏んでやっているが、
「ちゃんとした論の手順と手法」を知らないと分からないものよ。
てめえらこそ。
幾つかのピントのズレた遺跡を、さらに時代ずらし合わせて
後ろめたさを自覚しつつ鬼首もので「これだ」というだけで、
証明するという作業は何一つしていない。
どや・害宣ゴミクズ。
俺のバンカーバスターが効いたろう。
もう勝負はついているのだ。見苦しくあがくな。
991 :
奇跡の伊作:2011/05/11(水) 19:10:17.54
>>989 >現実にヤマト王権が発生し、
僻地で「どうやって誕生したのか」を説明しろとゆってるが。
>そこに九州の関与を見る必要が無い以上
「必要がない」 こそ、お前の脳内願望だろが。
必要があるなしではなく、王権が誕生した経緯を歴史滝に説明してみろ。
>関与があったことを立証すべきはキサマの方だ阿呆 。
ほれほれ。ようきゅうされたことを論証できない脳細胞貧弱ものが、
相手に「証明しろ」といって切り返す。論拠があれば誰しも黙って提示するものだ。
切り返すのは証明できない証拠。こんな単純な理屈にも気がつかないどタコが。
992 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 19:16:44.68
まあ何の根拠も出せずに逃げ回るしかないのがこの伊作とか言う馬鹿だがw
これで弥生時代末期の九州にこの馬鹿が妄想するような
首長層の居住区と墓が隔絶した距離にある集落があれば
まだ古代における王都(権力者の住む特別な場所)の一つのモデルとして候補にも挙げられるだろうが
なにせ伊作と言うキチガイは
「墓まみれの王都はありえない」と脳内設定を繰り返すだけ
993 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 20:14:17.73
伊作が去るとスレが過疎るのではなく、
伊作が居ると当分皆来なくなるんだよな。
そんな事すら判らない伊作w
そもそもヤマトが古墳文化へ移行しようとする時
巨大首長墓の埋葬文化や祭祀を通じて首長間の連携を強め
連合体を形成すると言うシステムを学ぶとしたら、それは吉備とか出雲等であって
そもそも九州にはその文化そのものが無かったわけで
元から九州を勘定に入れることすら不可能w
そうすると後は結局、副葬品体系のネタしかないがそれも文化の伝播で説明がつく
特に神獣鏡が国産であった場合九州の関与できる度合いは益々下がる。
むしろ九州が大和に強い影響力を持つシナリオには舶載説のほうが都合がいいのかもしれないwwwww
995 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 20:32:04.83
ヒラバルにはあっただろ、流石に。
破鏡文化は筑紫発だろうし、古墳文化にまったく影響を与えなかった、は流石に。
996 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 20:40:49.05
>>995 いや平原王墓も念頭には置いているが方形周溝墓で一辺が十数メートルだろう?
前方後円墳の直接の祖とするには無理があると思うが・・・
破鏡にしても古墳文化の必要不可欠な構成要素とも思えない。
997 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 20:46:00.25
破鏡は東瀬戸内以東には余り入ってきていないのかもな。
ホケノは破壊してたみたいだけど。
そろそろ次スレをお願いします
前スレ その14
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1298138479/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して考古学をベースに議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
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(注1)纏向遺跡は奈良県桜井市にある大規模遺跡です。纏向遺跡に”九州説”はありません。
(注2)「魏志倭人伝」と「僕の考えた記紀解釈」は他のスレでどうぞ
999 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 20:59:51.59
なんで、ヤマトが僻地になるんだよ、遺作さんよw
そりゃ、あんたの思い込みだw
墓まみれの王都は、ありえないっていうけど、
普通に、平安時代以降の天皇とか、同じ京都市内に
墓があったじゃんw
1000 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 21:00:55.57
ちなみに、遺作ってやつは、電子書籍出していたなww
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。