謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!54

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

終止符スレもとうとう5年目に突入!
2011年も、卑弥呼や邪馬台国について大いに語りましょう。

前スレ http://http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1293763476/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:40:56
2get
3:2011/01/28(金) 23:40:50
「漢書 地理志」 
如淳曰如墨委面在帯方東南萬里
師古曰如淳云如墨委面蓋音委字耳此音非也倭音一戈反今猶有倭國魏略云倭在帶方東南大海依山島爲國度海千里復有國皆倭種

「後漢書」
安帝の永初元年(西暦107年)、倭の國王帥升等、生口百六十人を獻じ、請見 を願う。

「翰苑」
後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至

松下見林 異称日本伝 所載「通典」
安帝永初元年倭面土地王師升等獻生口

北宋版「通典」
安帝永初元年倭面土國王師升等獻生口

「釈日本紀」 
後漢書云孝安皇帝永初元年冬十月倭面國遣使奉獻註曰倭國去樂浪萬二千里男子皆點面文身以其文左右大小別尊卑之差

「日本書紀纂疏」
倭面國此方男女黥面文身故加面字呼之
安帝永初元年倭面上國王師升献生口百六十人

倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国、いずれも畿内のヤマトを漢字表記したものだろう。
4:2011/01/28(金) 23:53:03
ケサカツの本によると

歩の起源と尺度について
奏・漢代の歩は二足つまり複歩で150センチ とありますね。

歩は面積を表す単位なんですが、これは古代中国の遺跡でも見つかってるはず。
たとえば古代中国の田んぼの遺跡があるとすると、150センチかける○○という具合になってて
詳しく知りたい人は遺跡をしらべることだね。
5日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:56:05
メ はドツボ。人間の肥溜め。
6日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:57:25
火山の噴火、天然痘の流行、インフルエンザの流行・・・
こういった災いが続いて、神武は宮崎を捨てることを決意する。
災害がなく外敵の侵入を防げる盆地、国のまほろばに移住する決意をしたのだろう。
7日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:58:08
この>>4のメって馬鹿じゃね?
中国の田んぼの遺跡で歩なんて見つかるわけねぇよ
8:2011/01/29(土) 00:02:19
鉄器に関しては、近畿の弥生時代の中期以降の遺跡で
中期後葉の京都府北部にある弥栄町奈具岡遺跡から鉄器が出土

弥生時代の後期の遺跡では
兵庫県奈かり与遺跡、伯母野山遺跡から鉄器が出土
滋賀県熊野本遺跡、あと遺跡名は忘れたが、大阪平野のほうからも出土してますよね。
9:2011/01/29(土) 00:04:09
>>7
ん?中国では田んぼが無いと思ってるの?

というか「田んぼ」じゃなく畑でもおれは別に構わないんですが・・・
ここでいってるのは「歩」に関してでして。
10日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:04:17
纏向の膨大な木器を見ても加工するための鉄器はけっこうあったと考えるのが普通だろう。
11日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:10:52
>>9
田んぼや畑の遺跡から歩って書いた田んぼや畑がめっかったのか
12日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:12:54
メ は人ミミズ
13:2011/01/29(土) 00:17:00
最近、弥生時代の開始時期が早まったという言葉をよく耳に聞きますが
奈良県文化財研究のほうでは紀元前4〜5世紀ぐらいからと示してるんじゃなかったかな(間違えてたらすまそ)。
この弥生時代の区分だが、春成氏とかの研究者によっては紀元前七世紀ぐらいからとみてる人もいるようでして
本を読んでいる人、頭がこんがらがってしまいそう。
これは弥生時代開始の定義を「社会面」でみるのか?また従来通りの土器区分によるのか、
そういったところで変わってくると思う。
近年ではプラントオパール法といって土器の内部に付く微粒子を解析した結果、稲作をおこなっていたという事が分かり、
縄文水田とかよく耳にすると思うが、そもそも各地で縄文文化と弥生文化の共存というか
同時代に同時進行していた例もあり、一概にこの時代から弥生文化が始まったとはなかなか言えない事例もあるのかもしれません。
14日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:17:05
>>6

>災害がなく外敵の侵入を防げる盆地、国のまほろばに移住する決意をしたのだろう。

神武はそんな素敵な場所があることをネット(グーグルアースでも見て)で知ったのか?
15日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:19:02
>>13

お前さんは三足土器信者か?
16:2011/01/29(土) 00:19:32
>>11
田んぼや畑の「面積」の事だよ
別に古代中国の田んぼや畑から金印が出土したわけじゃないってw
17日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:20:23
メ は在日
18:2011/01/29(土) 00:25:47

もう少し長い書き込み&勉強になるようなレスをプリーズ!

どっかでジョーカーも言ってたと思うが、史学の上田正昭の本はお薦め。
非常に分かり易く説明が書かれており、勉強になるよね。
まあ、誰かさんが「関祐二の本は難しい」とか言ってる人には少し無理と思うが・・・
(ジョーカーじゃないよ)
19:2011/01/29(土) 00:28:44
>>15
>お前さんは三足土器信者か?

なむじは誰ゾよ? (`ε´)
20:2011/01/29(土) 00:54:47
「承知縁起」のほうに

比淘蛹苣_前住国加都玉依比当ス也、又住都麻垣比淘蛹苣_也。
本坐宇佐郡安心別倉東方高岳也
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/siroztatsunosuke/comment/20090302/1236478807

とあるとおり、古くから宇佐神宮のヒメ神の在所と言われていたことが分かると思う。
で、この@「都麻垣」というのは、大分県安心院にある「妻垣神社」の事を指してるんですが、
ここの妻垣神社の前に山があるんですが、この山の上部に岩座があり、御神体がわりになってる。

この御神体の岩座をみる為に山を登ったことがあるんですが(一昨年)、
結構、疲れるので体力がある人のみにしましょうw

宇佐の謎を調べるのに、いろんな本があるんですけど、やっぱりお薦めは
中野幡能の「宇佐宮」でしょうかね。
暇な人は購入しては如何だろうか。
21日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:55:53
>>16
その面積がどうしたって
その面積に歩って書いてあったのかいな。
それとも田んぼで将棋やってて、歩でも落としてそのままだったか
22:2011/01/29(土) 01:02:38
あと行程記事をやりたい人は
「乍南乍東」狗邪韓國
「始度一海」對馬國
「又南渡一海」一大國
「又渡一海」末盧國
「東南陸行」伊都國
「東南」奴國
「東行」不彌國
「南」投馬國
「南」邪馬壹國    さて寝よう zzzzzz・・・
23:2011/01/29(土) 01:10:27
>>21
田んぼに「歩」って書いてあったのかもしれません
ていうか、あとは「モン太」とかヤフーの「原付ムシ」に聞いて下さいよw
ではさらば。
24日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:11:37
みなさん メ にレスしてはいけませんよ。
25日本@名無史さん:2011/01/29(土) 07:12:41
>>14
当時だってワンピースや海皇紀みたいな船乗りや漁師はいたから
連中が寄航したときに聞いたんでしょ
26日本@名無史さん:2011/01/29(土) 07:15:38
古代人は現代社会以上にコミュ力・リア充でないと生きていかれない世界
新聞、雑誌、テレビ、ネット、何もない世界で情報を得るには口コミonly
2ちゃんねるだけが情報源で怪気炎あげてる俺たちじゃ情弱でどうしょうもなかっただろうな
27 神  武  :2011/01/29(土) 08:04:56


  倭 国 王  に 俺 は な る !

28ポキール:2011/01/29(土) 16:49:54
どなたか教えて頂けないでしょうか。

ここに出てくる『メ』という人は何時も逃げているのですか?
29日本@名無史さん:2011/01/29(土) 16:57:27
海の彼方に理想郷があるってのは古今東西万国共通の伝説
そんな伝説を無理やり信じ込んでまで仲間を引き連れ船出しなきゃなならなかった
神武の心境がどんなだったかだな
よほど酷い目にあわされたんだろう
30日本@名無史さん:2011/01/29(土) 17:02:24
後の山田昇である
31日本@名無史さん:2011/01/29(土) 17:47:24
>>28
> 『メ』という人

彼はスレを廻すことによって2chから報酬を得ている「プロ固定」だよ。
ホントかどうか知らないが。

ネタを振ったり、アオったりはするが、
何かを言おうとしているわけではないんだ。

今回だって
「歩の起源と尺度について、奏・漢代の歩は二足つまり複歩で150センチ とありますね。」
と言ってるだけで、だからどうしたと考察を述べているわけではないだろ?
“歩”についてなにか考えているわけではないんだよ。

彼にとっては、
「自分のおかげで皆が書き込みスレが賑わっている。
 みんなオレのおかげなんだ、オレは偉い。」
と満足することが目的なんだ。

だからそっとしておいてあげよう。
興味あるネタを提示してくれたら、心のうちで感謝だけして
あとは自分で考えよう。
3231追補:2011/01/29(土) 18:03:14
念のため言っておくと
ネタを見つけてきて書き写してはいるが、
その内容についてはまったく理解していないから。
知識が無いのはもちろんだが、なにごとも体系的に把握することがない。

たまに偉そうに語ってみようとするが、
語れば語るほど住人たちの失笑とツッコミをかってドツボにハマる。
だからドツボ。
33ポキール:2011/01/29(土) 18:37:36
>>31さん、詳しい説明ありがとうございました。
34日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:57:20
メ は知能指数70いかないくらいだと思う。
35日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:32:54
IQ低いのは本人にはどうしようもないことだが、
理解もできないネタに絡んだり、それをわざわざ振ったりするのは止めれと言いたい。

御本人的には、他の邪馬台スレのように、蘊蓄垂れ回して優越感に浸ったり、
素人でも恥の?き捨てみたいな罵倒合戦を楽しみたい、つーことをやりたいんだろうが、
いかんせん、そんな器用なマネが出来るタマじゃない。

自分が理解できるネタだけでスレ回すように心掛ければ、他スレと差別化ができて、
それなりのユーザが集まって、またーりとした進行になるのになあ、と思うんだよね。
36日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:49:37
メの失敗は河童を敵にまわしてしまった事だと思う。
37日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:09:15
>>36

別に「河童を敵にまわし」ちまったわけじゃないよ。
河童は躁状態で浮きまくりのドツボを見て、そこに己の姿を発見してしまったんだよ
消える直前の河童もドツボへの対応は、「自己嫌悪」そのものだったんじゃないかなw
38日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:28:53
>>37
メと比べるのもなんなんだが、河童のそれは一本筋の通ったもの(頑固さ)があった
その辺がメと絶対的な相違じゃないかな
39日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:47:09
>>36
メが河童を敵に回したと言うより、河童がレスするたびに間違いを指摘されて、
それを頑なに認めようとしないから叩かれて、
結果自分でいたたまれなくなっただけだろう。
40日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:52:52
お前等メと河童どっちが必要なん?
41日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:04:54
ネタスレの「華」としては二人とも必要だろ。
42日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:08:20
>>39
河童さんが消えた理由は単なる悪禁で出場できないだけだろう
叩かれたぐらいで凹むような繊細な神経は持ち合わせていないと思うし、そんな繊細な神経を
そんな人だったら何年も続かない
43日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:08:31
メ は見下す対象として必要だな
44ポキール:2011/01/30(日) 00:12:11
オレの入り込む余地が無い会話が続いてる。
45唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 10:01:45
1 13.097 335 5 3。
景行天皇二七年(丁酉九七)十月己酉《十三》◆冬十月丁酉朔己酉。遣日本武尊令撃熊襲。
時年十六。
113.097とは、書紀が主張する景行27年の事である。
見かけの西暦九七年十月一三日
真の年代は三五五―九七=二五八を得る
この年で日本武尊は16歳であるから、258−15=243年が誕生日であり
243−5=238年が魏使の倭国訪問であり、この翌年垂仁は田道間守の派遣を決める。
景行元年は、最後の3を差し引いた243−3=240年が真の数字である。
つまり田道間守の帰国の年である。
倭人伝239年都市牛利とは、田道間守である。

まあどうにもならない数字でこんな説明をせねば太国倍年は存続できない。
または、どんな数字でも恣意的に自説に近づける事が可能である。
46太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 10:13:35
景行27年なら、崇神と景行が同時の時代に在位在世
してたことになり〜
そんなことはあるわけがない、ハハッ、デタラメだな。嘲笑wwwww
47太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 10:19:24
景行27年ころが崇神即位年だと稀代の妄想を言い始めた唐松山は、
即興のデタラメを作り上げている。奴が奴の自説に近づかせるための
恣意的即興のイカサマ論の産物だ。ppp それをテレ隠すためにこちらを
恣意的に近づかせるとか言い訳をして誤魔化している。土台マシなど
あるわけがないインチキだからな。

 景行27年≠崇神即位年


が真なのである。そうでないと景行と崇神は同時代在位だということ
になり、ペテンだと誰にでも ウワッハッハ〜〜わかる。ww
48唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 10:38:37
>>46
1 13.097 335 5 3。 で崇神でも景行でも主張出来るということだ。
だから、この数字を”歴史である”と言うのは詐欺師の言である。
詐欺にならないためには、別の思考と同等にならねばならない。

纒向遺跡 3世紀前期の大型建物を壊し、土盛り整地して3世紀中葉の大型建物が
築かれる。
この大型建物の建て替えが 240年を境とする、垂仁珠城宮を壊し景行日代の宮が建てられる。

49唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 10:47:53
崇神が240年頃の纒向遺跡にいた形跡は、書紀の記事から探せない。
任那建国は、魏が半島を管理する時代では無く
210年頃の伽耶建国である。だから倭人伝に 狗邪韓国は其の(倭国の)北岸と書かれる。
狗邪韓国=伽耶=任那である。
崇神は、弥生後期後半唐古、鍵遺跡が放棄された時代(崇神6年民の離散)に纒向遺跡に存在した。
50太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 10:52:01
113.097

113≠1013

しかしながら

097=97

である。即位年が重要なのである。熊襲攻撃は即位年ではない。
日本武尊は天皇即位の事実は無い。

113←崇神即位月日数 1/13 (1/13≠10/13)
097←崇神即位見かけ年 B.C.97 (097=97 とできる)
335←崇神即位実年代誘引ジョーカー数 335年

 -097+335=97+335=238年

097の先頭の0は西暦0年をも示唆し、これを省くから1年分年代
がマイナスとなり

 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年

097=97 とできるが、113=1013 とはならない。
これで景初3年【鏡】が崇神世の倭笠縫に日神、【鏡】を祭祀
した年代と整合するのだ。唐松山の景初3年=景行元年では、この
10/13の熊襲攻撃(←非即位日)とした場合を含めて、全然整合しない。
つまり奴のはデタラメである。ww
51唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 10:54:06
景行27年≠崇神即位年 が真なのである。

だから景行が240年に纒向遺跡に存在した証拠がある。
しかし崇神が240年頃纒向遺跡に存在した証拠は無い。
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 11:04:29
景行27年に景行は即位していない。
景行元年が239年【鏡】銘文年では、崇神世の倭笠縫の日神、【鏡】祭祀
の年代と整合しない。

これが整合するのは
       ↓
 崇神即位年=景初元年=237年

としたときなのである。
53唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 11:04:49
258年頃
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

九州で熊襲が背いたから日本武尊が九州へ遠征し熊襲に懲罰を与える。
九州諸国はこれ(大倭軍)を畏れ憚る。
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 11:14:41
天津金木(r=3;**はベキ)

 4πr**3/3=113.097335529・・・≠1013.097335529・・・

等号のときに不等号としちゃいかんぜ。不等号は分断してからだ。

こんなのは、コチラはスデに計算済み
         ↓
 355−097=355−97=258年=古事記の崇神没年

従って古事記の崇神没年(戊寅)は 258年 が正解である。
55唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 11:17:25
240年 正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
243年 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、
245年 其六 年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
247年 其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。

240年 景行元年 倭王=景行
247年 景行12年 景行の九州遠征

>崇神即位年=景初元年=237年
崇神5年 大量の民の死
崇神6年 民の離散
青谷上寺地の遺骨は食人を表す。
この出来事を記念して日鏡(景初3年銘)を造り鳥取の古墳に埋める。
あり得ない設定である。
56日本@名無史さん:2011/01/30(日) 11:20:25
壹與は13年毎に決めるのではないだろうか?
13歳で壹與になって26歳で引退。
今のアイドルと同じだな。
57太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 11:24:16
そうだ。オマエの設定ではあり得ないことだ。ww

オマケにどうしてそういう年代設定になるのか、42年から〜
全然説明がない。説明がないことは、宝くじを買わないで宝くじに
当たるということが、あり得ないことと同然である。

説明をするということは、宝くじを買うことのたとえとなり、
これで当選(相手側が論に納得、同意する)可能となる。それを
しないで1行ばかりの文を付加してサモ説明したふりをしても、
誰も納得はしない。説明をしたかっこうをつけてるだけで、これは
全然説明ではな〜い。
58唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 11:44:43
>そうだ。オマエの設定ではあり得ないことだ。ww

崇神を240年頃に存在させることか?

崇神が240年頃存在し、景初3年銘を刻み、正朔の文字が存在する。
この事実は、訳の解らない太国倍年は存在しないことを表す。
59太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 12:12:29
正朔などとえらそうなことは毎回前面に押し出しているが、その具体的
日数計算など示したことは全然無〜い。このことはオマエが正朔の具体的
説明が出来ないことを意味している。出したところで抽象的計算で説明
した素振り、ポーズをとるだけで、具体的説明に踏みこむ事が出来ない。

そういう抽象的反論をしたところでこれも具体性がまるで無く、暖簾に
腕押しの虚勢にすぎない。
60日本@名無史さん:2011/01/30(日) 18:37:28
で、邪馬台国は畿内で確定したの?それとも九州?
61太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 18:58:32
九州ですね。

唐松山は当初畿内兼九州節という鳥とも獣とのつかないボケ説を主張
していたが、あるときいつの間にか畿内節を言い出した。このときは、
奴はとぼけて前節を否定するという書きこみはせず、いかにも当初から
畿内節だと思わせてこの過去の節をインチキだとは言わずにとぼけて
いたのだ。www

ところが前年終わりころ、今度は無コテで九州説が合理的だとする論節
を言い始め、キマリが悪いのか、これは無コテで前二節を否定したと
いうことだ。このようにクルクル節を変えて一貫性が無く、奴の支離滅裂
の言動を信用しないことが妥当なのである。
62日本@名無史さん:2011/01/30(日) 19:07:30



九州説を信じてるやつはルサンチマンに毒されてるだけだから。





63唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 19:19:14
倭女王卑弥呼は、伊都国を傘下に置く。九州に居る。
景初3年、正始元年と重ねて洛陽を訪れた、東倭。
東倭とは大和であり、倭王とは景行である。

景行の九州遠征、関東へ日本武尊の派遣で日本は統一される。
倭人伝は云う 大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る。

3世紀半ば過ぎ、大和に巨大古墳(箸墓)が築かれ、纒向は徐々に衰退する。
64太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 20:01:16
日本武尊が日本を統一したなど、大ウソ。これも嘲笑だ。ppp

まだまだ九州には九州王朝があり、景行あたりで日本統一など出来ない。

2代前の崇神の世にて初めて畿内に勢力が充実したものであり、これから
たかが2代後でもう日本全土を統一したなどと、まるでジャイアント・
馬場が生まれて1ヶ月でもう2mを超える巨人になったとか言ってるよう
な大げさなインチキ主張であり、デタラメも甚だしい。

九州年号がうんとあるところから考察して、景行時に日本統一は出来
ない。熊襲の戦いで朝廷の勢力はかなり疲弊しており、景行の代に
日本統一などという奴は、まぁ精神病院で診てもらう推薦をあげるべき
だな。
65日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:18:39
>>64
太国は日本書記に匹敵する九州王朝の国書でも確認してからやれ。
九州がそれほどの文明国ならば、畿内王権が記紀を編纂するより早く
九州書記でも編纂して中国王朝に献上しているだろう。

妄想が先行した精神病だろう。
66唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 20:24:24
>九州には九州王朝があり、景行あたりで日本統一など出来ない。

274年 仲哀9年 渡海
この時も従わない熊襲に兵を向けている。

九州王朝とは、熊襲の王朝か?
この頃の九州各地に前方後円墳が築かれている。
九州王朝の居場所が無い。
渡海ルートは大和が管理している。だから大和に背けば鉄が手に入らない。
残るのは五島列島か琉球弧しか無い。
残念ではあるが、漁業をシノギとする民も狩猟民に含まれる。
狩猟民は農業民より可なり遅れて文字を手にする、だいたい平安時代以降であろう
この民が暦を持たなかったこと、文字を持たなかったことは倭人伝に書かれている。
だから”九州年号がうんとある”という思考は誤りである。
つまり”九州年号がうんとある”と主張しても、西暦を振れない。

67日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:28:02
太国君は自費で阿蘇を発掘でもするしかないよね
幻の都邪馬台国を目指して
邪馬台国論争で誰も押す研究者のいないマイナー地だから
予算がつかないに違いない
68日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:39:00
九州王朝というか、九州の一部を支配していた豪族くらいならいたかもね
江戸時代のxx藩の藩主くらいのイメージで大和朝廷に服属してたとは思うけど
そういう意味でなら筑紫イワイは九州王朝のBOSSではある
69日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:40:28
残念ながら大和朝廷と対等な立場の"外国"といえるくらいの完全独立した国家は存在しない
70日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:50:19
仮に九州王朝とやらが完全に独立した国として存在していたとしても
それは3世紀〜5世紀の間だけ
なぜなら3世紀には倭人伝に出てくる国々があるし
5世紀にはワカタケルの剣がPOPしてるように大和の支配下だからね
まさかワカタケルまで九州王朝の人だとは言わないよね?
剣の銘文が私は大和ですと宣言してるからね
71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 21:14:36
>阿蘇を発掘でもするしかないよね

阿蘇は、景行に従っている。
だからこの地方から鉄鏃の出土が無い。
72日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:23:53
そういえば、筑後の瀬高かどっかのやしろで、
七支刀を持っている人形が代々祀られていて、

その人形は、七支刀が発掘される以前から
あったそうで。
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 21:45:55
>>65
後代にうんと年号も出てるんだから、九州王朝の主張はおかしくない。
おまけに御本家文献の記紀に卑弥呼の記事(倭人伝からの借り物たる
神功39年の記事とかは除く)が全然無く、かたや畿内からはるばる遠方
の外国の文献たる外様の倭人伝に卑弥呼の詳細が載ってるということは、
畿内に卑弥呼の国がなかったことを物語る。

卑弥呼の活躍年代は崇神の代であり、次代の垂仁が壱与の時代であって、
さらなる次代の景行の代に景行が九州行幸時に卑弥呼の情報の確実な
ものがなさそうだったということは、景行の代に卑弥呼、壱与の女王国が
何らかのことで滅亡の危機にあったことを物語っていて、情報の把握が
得られなかったのだろう。

そしてもっと後代に、風前の灯だったこのが勢力を盛り返し、ついには
不完全から完全に近づいた王朝が成って行ったのだろう? その後の年号
のうんとあることから、九州王朝の滅亡は記紀成立直前と観てよい。

当時大陸は魏蜀呉の鼎の三分の3極支配にあり、日本も単独天下ではなく、
畿内に天皇国、九州に卑弥呼の国の二系たる2極支配があったという
ことだな。半島でさえ単独ではなく国が分立してたんだろうから、
日本も例外ではなく1極の朝廷支配ではなかったということだ。
74日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:49:23
>>73
へえ〜
畿内王がなぜ九州王の年号なんか使うんだい?
日本書紀に他国の年号が載る事実はまずないよ。

そうじゃなくて、完成形としての「九州書記」だよ。
大和王権之成り立ちを描いた日本書紀の中から無理やり
「ここは九州王朝のことだ!」と妄想するんじゃなくてね。
そこまでの文明国ならば当然中国や朝鮮の史書にも痕跡が残るだろ?
75太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 21:51:06
>>70
雄略の代はかなり朝廷は勢力を伸展させていて、崇神のころよりずっと
勢力はあったことはかたい。だから稲荷山鉄剣と九州からも同名らしい
鉄刀が出てるわけだ。
しかし雄略が全九州を支配してたわけではない。まだまだ九州でも支配
になってない地域があったということだ。
76日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:53:58
>>73
記紀を読めば神功皇后=卑弥呼
だということは普通に解る。

これを否定する理由が全く分からない。
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/30(日) 21:58:54
>卑弥呼の活躍年代は崇神の代であり、

この時代観では、纒向遺跡の説明も出来ない。
その昔、崇神と纒向の年代は合致し、箸墓は、4世紀初めと主張されていた。
この文献と考古学が合致する時代でさえ、卑弥呼ひとり説明が出来なかったから、今もこの板が健在である。

ここで考古学が50年遡上したのであれば、文献も50年遡上せねば、合致させる事が出来ない。
50年遡上した処に
210年頃伽耶建国、崇神時代の任那建国。
七支刀 369年では、16日丙午が存在しない年であり、百済は前燕に帰属する年代である。
この年代に半島占拠は否定される。
七支刀が326年であれば、半島占拠はある。
78太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 22:05:50
>>76
120年前後、年代がズレてるんですよ。それで卑弥呼は崇神の代が活躍
年代だということです。

崇神没年が318年説と258年説とがあり、景初年間は239年前後ですから、
神功が卑弥呼の代ではないということです。
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 22:08:29
>>74
だって漢字は畿内朝廷の年号群ではなかろう。
継体といっても、天皇の称号をつけたのは後代だし、大陸だって別国で
同年号のがあるだろう?
80太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 22:13:05
>>74
>痕跡
これは大陸文献にあるわけだよ。倭の五王なんでその典型だろ。
彼らは九州の王達なのさ。
81日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:14:56
佐賀県民の方に質問です。
国道263号線はずっと昔からあった路なんでしょうか?
後、佐賀大和町の地名は昔からですか?
82日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:22:32
>>76
>記紀を読めば神功皇后=卑弥呼
>だということは普通に解る。
記紀のどの部分?
とりあえずリンク貼るから教えて
http://kudara.qlookblog.net/09jingu.html
83日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:25:25
>>71
日本書紀を鵜呑みにして、景行記がそのまま事実だと信じちゃった時点でアウト。
84日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:28:20
>>74
古事記の序に書いてあるじゃん、
豪族達の持ってる記録や神話は全部かりあつめて燃やしたって
記録がないのは当時の人間のせいですよ
85日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:31:07
邪馬台(やまたい)=大和(やまと)と言いたい人は語感が似てるからだよね
でもさ、邪馬台ってのは当て字なんだよな
当時の倭人の発音が中華の役人が聞いた語感で邪馬台に当てただけなんだ
つまり、これは日本語読みの「やまたい」ではなく古代中華語の発音で読まないとダメなはずなんだがどーよ
86日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:49:38
しかもさ、三国志魏志倭人伝では、「邪馬壱国」としか書いてないわけだよな。
87日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:54:36
>>85
>当時の倭人の発音が中華の役人が聞いた語感で邪馬台に当てただけなんだ

伝聞というやつですか。
で、倭人から聞いた音いう根拠は
88日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:22:13

■支局長からの手紙:里の社 /香川

毎日新聞 2011年1月24日 地方版
http://mainichi.jp/area/kagawa/letter/news/20110124ddlk37070281000c.html

 結構交通量がある県道沿いに鳥居があるのに、境内に入ると静かでした。大きな杉が近くにある本殿は古い木造で、落ち着いた雰囲気です。周りには山があり、川があり、もちろん田畑が広がっています。まさに「里」の社、という感じです−−。

 車を走らせて、東かがわ市の水主(みずし)神社にお参りしてきました。
仏像ならぬ神像を持つ神社を紹介した「日本の神様」(畑中章宏さん著、理論社)という本に、この神社が紹介されていたのです。一般の拝観はできないとのことですが、8体もの重要文化財の神像があるといいます。
実は本を買ったのは何カ月も前で、地元の神社が載っていることも知りませんでした。たまたま1月に本を読み、神社のことを知ったのも“ご縁”と思い、出かけました。

 境内にある由緒によると、祭神は「倭迹々日百襲姫命」。姫は7歳で奈良の宮を出て、8歳でこの地に入り、成人までここで過ごして、農業や水路などの「水徳自在の神」とたたえられた、とあります。
また県が境内に立てた説明板(86年)には「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています」と。

 倭迹々日百襲姫命は、奈良・三輪山の伝説にも登場する神話上の人物ですが、宮内庁が、その墓としているのが箸墓古墳(奈良県桜井市)。
箸墓と言えば、周辺の纒向遺跡が邪馬台国の有力な候補地とされ、箸墓そのものを卑弥呼の墓とする説もあります。

 神社について、支局にある「新版香川県の歴史散歩」(96年)には「当初は水神を祀ったものと考えられ、それに……百襲姫命の伝承が付加されたものと思われる」と書かれています。
その通りだろうと思いますが、邪馬台国女王になる前の若き卑弥呼が、讃岐の里にいた、なんて想像の翼を大きく広げると、ちょっと楽しくなりますね。

 讃岐一宮の田村神社(高松市)の祭神にも倭迹々日百襲姫命が入っているといい、姫と讃岐が縁が深いことは確かなようです。

 初詣の時期も過ぎた、静かな里の神社で、はるかな歴史に思いをはせた、小さな小さな旅でした。【高松支局長・姫野聡】
89日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:49:58
三国志で、異民族の国名や人名は、現地の音を漢字に当てているのが一般だろ。
90日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:03:24
>>89
>三国志で、異民族の国名や人名は、現地の音を漢字に当てているのが一般だろ。

一般ってどういう意味?
三国志は異民族の国名や人名は、現地の音を当てるというルールや記述でもあるの?
91日本@名無史さん:2011/01/31(月) 07:57:18
地名や人名は音を文字にするのは古今東西共通どころか現代でも同じだよね
たとえば「山田」さんは(やまだ=YaMaDa)であって
マウンテン・ライスフィールドにはしないよね
「金子」さんは(かねこ=KaNaKo)であってゴールド(デン)・チャイルドにはしないじゃん
92改め ◆PWTcGEfp1s :2011/01/31(月) 08:19:44
香川県の水主(みずし)神社へは一度行ってみたいと思う。

倭迹々日百襲姫命を唯一祀る神社としてこの板でも有名なのではなかろうか。
四国に住む人はぜひともいってほしいですよね。
93メ ◆PWTcGEfp1s :2011/01/31(月) 08:51:43
>三国志魏志倭人伝では、「邪馬壱国」としか書いてない

この国の国名だが、倭の以前は「委」といわれていた。
これとなにか関係してるのかもしれないね
94メ ◆PWTcGEfp1s :2011/01/31(月) 10:04:54
いまから丁度一年前の1/31
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!45
ttp://2bangai.net/read/67105a3331c3559a1b4cccf6ccd061b7dffdb9e5b475ec8b0bd87833d75fc7ea/all

ここで私と、ローガンさん、nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ さんと名無しで
「筆法」、「倭王」で盛り上がってるねw

>景初二年記事以前は、「王」とか「女王」。
>景初二年記事以後は、「倭王」、「倭女王」と表記されてることに気付かされるはず。
>この書き方の違いを「筆法」という言葉で表したということです。

彼ら相手によくやるゎw
95メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 10:21:14
>597: メ 2010/01/31(日) 21:43:24
>>595
>あれあれ?ローガンさんともあろうお方が・・・・
>「倭王」というのはですね、皇帝に認められない限り「倭王」ではありませんよ。
>『宋書倭國伝』
>竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節
>竊かに自ら開府義同三司を假し、其の餘は咸な假授して、以って忠節を勸む。
>宋書の上表なんですが、ヤマト王権は反抗をみせる場面です。
>このように、何にしても皇帝の「許可」が必要であった。
>そして、『其年十二月、詔書報倭女王曰 制詔親魏「倭王」卑彌呼』
>まずは、「倭王」というのは、卑彌呼さんですよね。
>更立「男王」國中不服更相誅殺當時殺千餘人
>「壹與」遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還
>「男王」にしても「壹與」にしても『倭王』ではありませんよね?ここまでいいでしょうか?
http://2bangai.net/read/67105a3331c3559a1b4cccf6ccd061b7dffdb9e5b475ec8b0bd87833d75fc7ea/all

この頃のわたし、ナイスだねw 
たぶん、他の人よりも数倍勉強し、努力してるってことが伺える。
96日本@名無史さん:2011/01/31(月) 11:02:36
>>91
山田をYAMADAとするのは、先にヤマダが存在するから
山田をYAMADAと置き換えられる。

が、邪馬台国にはその先にたつヤマタイが存在しない。存在しないのであれば、
現地人の音を写したという話にはかなり無理がある。現代がそうだから、昔もそうだというのは
とてもじゃないが受け入れられない。
97日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:10:12
>>95
努力なんて誰でもしているんだよ。
最終的に必要なのは努力の積み重ねじゃなくて、センスや素質。努力でいいなら、野球界はすべてイチローだらけになる。
98日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:13:15
神武東征は多分、新燃え岳付近で火山噴火があって日向から東方へ逃げてきたんだろう。
99メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 12:27:05
>>97
じゃソノセンスや素質ってやつをみせてみろよw

おれたちがみててやるから書き込んでみww
100日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:31:41
>>95メさん。自惚れもいいですが、メさんの努力はどうして
身にならないのでしょう?普通の人なら大概なにがしかの成果として、表面にその成果が滲みでるんですけど、
メさんの努力は一向にその兆候を見せないどころか、その片鱗すらも伺い知ることがない。
ヤホーにでも赴き、一度真剣に河童虫先生にでも相談されてはいかがですか?
101日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:39:46
>>99

毎年テレビの画面でイチローがお茶の間に
そのセンスや素質を見せ付けてるじゃないか。見ていてわからないのか?

哀れな奴やのぅ
102メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 12:46:06
>>100

1年前のレスを、第三者的な目で見直したとき自惚れしてしまったということ。
君は身になってないとかいうが、私は転々と自分の説を捻じ曲げて、進化していったわけで
君が知らないだけではないだろうか?

私は、2chを専門にしている。
なぜヨソの掲示板(しかもライバルサイト)ヤフーに赴かないといけないんだね?
103メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 12:48:54
>>101

ソノ「センス」や「素質」ってやつをみせれませんって素直に謝ればいいのに・・・
ほら、おれたちがみててやるから、その素質ってやつを投稿してみろよ

104日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:56:36
>>102
自分のレスを第三者的に視観するって、それは結局自分で自分のレスを
見ている。
どんなに割り切った見方をしようが、それは自分自身であり、自分のレスを第三者的立場で見ると意識した段階で、
自分への意識の表れとなって、潜在的に深層に残ってしまい、結果
上辺だけの第三者的視観になってしまうんだよ。  
そんな事も理解できないのか?
105日本@名無史さん:2011/01/31(月) 12:58:18
>>81
>?佐賀県民の方に質問です。
>国道263号線はずっと昔からあった路なんでしょうか?
>後、佐賀大和町の地名は昔からですか?

大和町民です。
263号は三瀬峠ですね。途中の三瀬村などいくつかの古墳や
住居跡が出ていますし、一部には縄文跡もあるそうなので、
かなり昔からあった道だと想定できます。最近は大幅な道路工事が行われ、
旧道がなくなっていますが、旧道はかなり曲がりくねった道でした。

佐賀市大和町は戦後すぐの時代に春日、川上、松梅が合併して大和町になっています。
自分の調べた範囲では旧地名に大和名の痕跡はありません。

今の大和町のヤマトは古地名ではないと思われます。

ヤマトの古地名は山門郡のほうが有望でしょう。
106日本@名無史さん:2011/01/31(月) 13:01:18
>>103は相当な馬鹿。
既に見せ付けられているのを気付かない。

気付けないからセンスや素質がないと言われているのに。
107メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 13:08:35
>>104
ゴタクはいいからさぁ

邪馬台国問題を考える時の「センス」や「素質」ていう「内容のある」投稿をお願いします。
たとえば>>91>>96とかは、 現在の佐賀県でもある肥前国 山田郷説の論者の本でも読んだのか
邪馬台国をヤマダ国としていることが分かるだけでもっと細かい内容まではなしてほしいですよね。
108メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 13:12:50
>>106
だから、どこにお前さんのセンスや素質がある投稿が書き込んであるんだよ?
どれ?どれ?ww

私は、ムチながらも努力はして頑張ってますが、センスや素質なんて
とてもじゃないけどあるとは思っておりません。

しかし、君は、センスや素質があると豪語していますので(図々しいw)
そのセンスや素質がある投稿はどこですか?とお尋ねしてるんですw
109メ ◆n6LQPM.CMA :2011/01/31(月) 13:20:48
>ヤマトの古地名は山門郡のほうが有望でしょう。

横ですが、そもそも山門郡の「山門」はヤマトと読めるのかって話。
110日本@名無史さん:2011/01/31(月) 13:39:10
>>95
>「倭王」というのはですね、皇帝に認められない限り「倭王」ではありませんよ。
倭王というのは倭国の王だ。中国の皇帝に認められるかどうかは無関係。

111日本@名無史さん:2011/01/31(月) 13:56:16
>>110
倭王=倭国王というのは違うだろう。
倭という言葉は色々に使い分ける事ができるが、倭国となれば、使い道は国と制限される。
当然倭王の中に倭国王は含まれるが、かといって倭国王は倭王かと言ったら
そうではない。
112メ ◆RrLcQ/S07I :2011/01/31(月) 13:57:08
>>110
それは貴方の頭の中での考えであって倭人伝では書き分かれている。

陳寿氏は皇帝が認定する前を「王」というぐあいに、皇帝の認定後は「倭王」という具合に
表記してるんです。
たとえば>>1

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者

ここでは「男子為王」、「女子為王」という具合いに「倭王」とは言われておらず
たんなる列島の「王」という。

そして、外交記事の景初二年には「今以汝為親魏倭王」とある。
これは

『今をもって、なむじを「親魏倭王」とする』

と言ってるのであって、景初二年から、卑弥呼様のみに「倭女王」というのが授けられてる事が分かる。
陳寿氏の筆法ですね。
113メ ◆r6Isza50.E :2011/01/31(月) 14:07:14
みなさんが好きな「歩」と「里」に関してなんですが、

中国の安陽ていう所から出土した、現在南京博物館に保管されてる長さ170mmの
骨尺があるんです。
これは「商」時代のモノとされており、尺の起源を解き明かすのに大変貴重なものであり
骨尺は多少は縮むもんなんですが、そこから考えても18cmぐらいだろうといわれており、
長さ18cmといえば親指と人差し指を広げた時の間、すなわち手尺という事が分かる。

古代の尺と言えば身体尺が行われていたと言われ、体のどの部分かと言えばこの
手尺しかないだろうね。
114日本@名無史さん:2011/01/31(月) 14:25:49
>>112
それはただ公認、非公認という区別。
汝を公認する。ただそれだけの事だ。公認するということは、非公認の王の存在があるから、わざわざここに公認の証として、記録に残したに
すぎず、これをもって、皇帝が認めた者だけが王であるとは言えない。
非公式な王の存在があるからこその公認なんだよ。
その辺が読めないと、筆法なんて1000年早い。
115メ ◆nRTcGpB7cI :2011/01/31(月) 14:35:03
筆法って言い方はすこし難しくなるが、
分かり易く説明すると著者の「書き方」や「表現方法」です。
魏と倭の「冊封関係」や倭に君臨する王について、陳寿氏はそうやって、示したことがわかる。

さて、わたしはスポーツで汗でもかいてきましょうかね。 あと宜しく〜!
116日本@名無史さん:2011/01/31(月) 15:39:13
>>113
またネタ風呂敷広げやがって、また最後は逃げ出すんだろ。
この根性無しが。たまには屁理屈でもいいから根性見せてみい。

センスない、素質ない、そして根性ない。ツモれば満貫だな。
117メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 16:59:25
>>116
大体、名無しで書き込んでる
君のほうが根性無しと思うぞwwwww

マージャンとかおっさんくさいしw
悔しいならおれみたいに「尺」や「歩」、「里」に関して知ってる限りでいいので
書き込んでみろっていいたいw
118唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/31(月) 17:06:55
>>83
>日本書紀を鵜呑みにして、景行記がそのまま事実だと信じちゃった時点でアウト。

書紀には、外せない記事がある、それが
崇神5,6年の記事 新羅本紀192,3年の記事と整合する。
崇神中の任那建国 金官伽耶は、朔元年辛酉(541年)に降及仇衝朝末,三百三十載之中,
であるから、建国は210年頃。
仲哀9年 渡海 273年日食(神功元年に差し込みのアヅナイの罪)
神功49年 半島占拠 
神功49年 半島占拠は七支刀で説明される。
これまでは、369年七支刀と解釈されていたが、16日丙午の存在しない年であり
342年以降百済は、前燕に帰属する。この状態での半島占拠は否定される。

つまり書紀を信じる限り、369年七支刀は無い。では半島占拠の出来る場所は?
323年 神功49年半島占拠。東晋が東北方面の覇権をあきらめた時代であり、
慕容氏は西方の戦況が気になり東方への領土拡大をしない。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■=
東晉明帝太寧4年○月16日丙午、3月15日なら暦日、5月だと1日の狂いはあるが
東晋が東北方面の覇権をあきらめた時代には、東晋の暦の配布が無い。

つまり崇神は考古学の云う、2世紀末纒向遺跡に各地の土器=崇神10年異俗多帰。
考古学と乖離する文献(書紀)の読み方では、歴史と呼べない。
書紀と他国の文献、考古学の3者が合致するのはここだけです。
119メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 17:07:09
さあ かかって来い!名無しどもめ ガハハハハ(高笑)

こいつらビビってコテハン付けれないんだぜw コテ様に向かってな〜にセンスないとか
言ってるんだってはなしでw

120メンタンピンツモ:2011/01/31(月) 17:23:44
>さあ かかって来い!名無しどもめ ガハハハハ(高笑)

これでセンスのなさ確定
121メンタンピンツモ:2011/01/31(月) 17:29:49
>なぜヨソの掲示板(しかもライバルサイト)ヤフーに赴かないといけないんだね?

おまえ自分でプロ固定だと白状してどうすんのよ。

これで素質のなさが確定

そして何時ものようにトンズラかまし、根性がないが確定。

後はツモれば満貫な。
122メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 18:19:58
メンタンピンツモ さんとやら〜

んで、貴方の古代史はどういうのなの?
邪馬台国はどこで、どんなかんじだったのか?
それに考古学が得意なのか、文献派なのか書き込んでくれないと分かりません。

まあ、てはじめに倭人伝の「歩」、「里」からやりましょうか。
これについて、貴方の考えを書き込んで下さいな。
123ローガン:2011/01/31(月) 18:29:41
つもったら平和は無しね。
124日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:44:43
>>123
それは関西ルール。関東ルールではピンヅモ2符
12581:2011/01/31(月) 19:16:55
>>105さん
親切にありがとうございました。とても分かりやすいです。
昔からあった路なんですな。伊都国辺りとも繋がってたんでしょうね。
機会があれば行ってみますわ。
126日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:20:24
メさんも、壊れてきたなあ
127太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 19:33:56
崇神5,6年の記事は192,3年と整合しない。

この年にはまだ船舶の製造がないから、千人ものアバラ骨が浮き出て
センタク板胸部の農民がカラ手での渡海は出来ない。若狭湾に着くまで
メシが喰えず殆どが野垂れ死にだ。

船舶の出来た始めは10年余後の紀の崇神17年であり、このことは崇神5,6年
が192,3年にはなりえないことを意味している。つまり崇神5,6年には船舶
のアリバイがなく、整合性は全然無い。唐松山酋長の主張は崩れたのだ。
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 19:41:22
神功元年前年の記事は日食ではない。

紀の同年には天空暗黒の状況が日を経てとの数日間継続していたことを
記述している。つまり今回の新燃岳爆発での大噴火の大噴煙が数日間も
継続してたとか特殊な気象での大暗雲が数日間も天空に垂れこめて
いた状況があったということであって、日は数日間も継続生起しないこと
から、唐松山酋長の言動は熱帯雨林とかのジャングルで生活する蛮族の
連中の迷信同然のインチキ、デタラメの妄想であ〜る。
129日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:59:01
メ は人マムシ
130唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/31(月) 20:07:58
>崇神5,6年の記事は192,3年と整合しない。
>神功元年前年の記事は日食ではない。

現在の考古学が主張する数字である。
考古学:唐古、鍵遺跡は、弥生後期後半に放棄される。同様に放棄される住居遺跡が各地にある。
=民の離散。

同様な出来事が同時に各地で起こる。これを突き詰めると、後漢書:193年 6月寒風冬の如し。
「當溫而寒,刑罰慘也。」。
この出来事を新羅本紀の192年とする。
192年 大凶作、大量の餓死。その中で「刑罰慘也」食人が行われ、翌春には逃散が起こる。

この出来事が崇神5,6年でなければならない理由が、崇神時代の任那建国。
210年頃伽耶が建国される、これが任那建国でなければ、他に任那建国の機会は無い。

つまり太国が主張する 崇神元年=237年では、魏が半島を管理する時代に任那建国。
当然否定される。
そして、巻向遺跡(2世紀末〜3世紀中葉)で崇神(237〜257年)、垂仁、景行の説明が出来ない。
当然、半島の文献とも整合しない。
太国:崇神5,6年の記事は192,3年と整合しない。との主張は
太国倍年では、考古学の主張する年代や新羅本紀と整合することが無い。との主張となる。
新羅本紀と中国文献の齟齬は1年程度であるから、中国文献とも整合しない主張である。





131太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 20:26:18
古代人からの贈り物たる真の年代を測る天下の宝器〜〜これを
天津神算木(天津金木)という。天津神算木とは三輪山の山名たる三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺(天津菅曾)に

1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

この崇神即位年は見かけの年代であり、真の年代ではない。
大祓祝詞に曰く 「天津菅曾を本打ち断ち末刈り切りて」

 右辺=113.097335=113.0973350 --------------------@

@の右辺の先頭三数と末尾三数は 113 350 だが (350:ジャック数)

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

この 崇神即位元年=237年 以外の主張は真ではない。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 20:31:41
考古学の主張は十年、二十年後等に上下移動する可能性が多分にある。
新羅本紀とやらの半島文献は120年とかの大年代差で横揺れが激しい。

こういう状況のものはいくらでも移り行くからアテにはならず、これら
を金科玉条としても説得力は薄い。ww
133唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/31(月) 22:01:17
>考古学の主張は十年、二十年後等に上下移動する可能性が多分にある。

この様な書き込みは、太国の主張に見えるが、ただのその場凌ぎ
太国は、太国主張の”崇神元年=237年とそれを正しいとする考古学の数字の差を
主張出来ない。
これは、文献に於いても同じで、太国倍年と、新羅本紀の齟齬の数字を主張出来ない。

考古学と文献と太国倍年、この3者で整合性を得られる数字を太国倍年に合わせられるか?
合わせられなければ、”半島文献は120年とかの大年代差で横揺れが激しい。 ”と主張しても
半島文献が動いたことはない。動くのは常に書紀の年代である。
半島文献に合わせ且つ書紀の主張が通る場所。ここが肝要である。

134太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/31(月) 22:08:29
237年=景初元年=崇神元年 だとすると、239年【鏡】の銘文の景初3年
が倭笠縫の日神とその象徴たる【鏡】の祭祀の時代と確実に整合する。
239年【鏡】は考古の範疇であり、237年=崇神元年 は動かない。

すなわち  239年【鏡】←−→日神【鏡】

つまり天津神算木の計測は1年の狂いもなく正確だということだ。ww
135メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 22:52:56
>>61
>九州ですね。

なぜ、九州になるのか説明宜しくです。

>>63
>倭女王卑弥呼は、伊都国を傘下に置く。九州に居る。
>景初3年、正始元年と重ねて洛陽を訪れた、東倭。
>東倭とは大和であり、倭王とは景行である。

東倭に関しては中華思想に基づく考えなのではなかろうか?
倭が二分に分かれていたと思われる証拠みたいなのを示して下さい。
136メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 22:57:02
>>64-66
>九州年号

この「九州年号」というのはどの文献にあるやつを言ってるのだろうか?
たぶん、託宣集の事と思うが、宇佐に伝わる託宣集には「天皇家」とかかわる事柄ばかりで
とくに独立した国家があったとは思えない。
137日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:00:46
倭人伝に記述される他国が全部九州で邪馬台国だけ近畿ですか、そうですか
中間にある出雲国は無視ですか、そうですか
138日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:08:47
邪馬台国が九州:神武東征が史実になるが大和朝廷が蒙塵した弱者の子孫になる
邪馬台国が近畿:邪馬台国=大和国で中国からも認められた由緒正しい王朝になる

このことから邪馬台国が近畿でないと都合が悪い
よって邪馬台国は近畿でケテーイW
139日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:13:07
>>137
畿内王が中国に使いするのに出雲を通るなどまずあり得ない。
推古朝のときでも白村江の出兵でも山陽経由だ。

九州説は嘘言わないと成り立たないよね。
140メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 23:16:22
>邪馬台国だけ近畿ですか

誰がそんなこと言ってるの?
少なくとも私ではない。

投馬国というのは「可五萬餘戸」とあり、邪馬壹国は「可七萬餘戸」で、
奴国といえば現在の福岡県のそれにあたる(有二萬餘戸)。

筑紫の二萬戸ていう数字に比べて投馬国、邪馬壹国はかなり大人数なので
これは中国地方全体、近畿地方全体とまではいわないが、大まかにいえば
ホボ全域をさしてそう呼んだのではなかろうか?
141日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:21:19
山陽を通るなら吉備岡山を忘れるな
142日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:24:06
>>141
三世紀の国名が「吉備岡山」だったなんて馬鹿なことを言うな。
それこそ邪馬台国(ヤマト)=大和(ヤマト)で
畿内説が有利になるよ。
143メ(スポーツスポーツ):2011/01/31(月) 23:28:42
ああ、2CHでも九州説は全滅状態だねえ。

なぜ九州になるのか?太国さんに頑張ってもらいたいねW
144日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:37:27
>>142

つーか、
吉備は、吉備真備のように氏族がいるから、それなりの勢力たろ。

広島、福山、岡山の平野状況から見ても
間違いなくそれなりの勢力が居るはずなんだな。
山陽道を通るなら、あとは、宇部防府と北九州下関とか。

山陽道ルートなら、旁国にでも、名前が入ってなきゃおかしいくらいの
ものだと思う。
実際山陽道ルートで国の比定をした人もいたはず。


>畿内説が有利になるよ。
検討している段階でそんなこと気にするな。
自分は九州説だが、畿内説九州説は、検討の結果の話だ。
145日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:37:44
確か東倭は魏に銅鐸を納めたんだよね「東倭重譯納貢」
146日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:10:55
>>118
そんなミクロな話ではなくて、景行天皇が九州全体を征服するなど、荒唐無稽もいいところ。
147太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 00:18:27
>>143
まもなく寝るので、いずれ。

>>146
あいつは2ちゃんで超S級の妄想男だと想うよ。
148太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 00:26:08
>>128 訂正
× 日は数日間も継続生起しない
○ 日食は数日間も継続生起しない
149日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:26:57
>>144
魏志倭人伝に出てくる国名と一致するものを
日本の地図から探してみろ。
ほとんどが一致しない。
3世紀の地名とその後の地名がすべて一致すると思っている馬鹿。
150日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:29:31
「邪馬台国」比定諸説】
http://www.gameou.com/~rendaico/yamataikoku/hiteishiyisetu1.htm

北九州  九州北部、北部九州とも表記される。中島河太郎は、巫女説。大谷光男、川野京輔はシャーマン説。鯨清は、天照大神説。森浩一は、豪族説。井上光貞、和辻哲朗は、天照大神説。藤間生大、実吉達郎ら。
北九州沿岸  大林太良はシャーマン説。
筑後川流域  山村正夫は、女酋巫女説。阿部秀雄ら。
151日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:35:44
そもそも、魏が邪馬壱国と手を結んだのは、朝鮮半島にまで進出してきていた「呉」を牽制する目的なしに、
考えにくいだろう。つまり、邪馬壱国に、呉から防衛する一端を担ってもらうことが条件となる。
その役割を担った部隊の一つが、吉野ヶ里駐屯部隊だろう。魏は、畿内の国家などに用はない。
152ローガン:2011/02/01(火) 00:37:02
>>145

> 確か東倭は魏に銅鐸を納めたんだよね「東倭重譯納貢」

え?何それ?
153日本@名無史さん:2011/02/01(火) 07:35:09
邪馬台国近畿説が優勢なのは近畿だと儲かる人が多いから
考古学や歴史学を飯の種にしてる人が近畿には多い
真相や真実はどうでも良いのさ
154日本@名無史さん:2011/02/01(火) 07:42:24
邪馬台国九州説が根強いのは九州だと儲かる人が少なからずいるから
空想歴史愛好家が九州には多い
真相や真実はどうでも良いのさ


155日本@名無史さん:2011/02/01(火) 08:06:17
霧島山の噴火を見てて思ったんだが、古代からあのエリアは噴火被害を受けるので
農耕も牧畜もできず南九州人は強盗略奪で生計を立てていたのではないだろうか
そのターゲットが北九州や筑紫方面、瀬戸内海の両岸や太平洋側のエリア
神武東征神話はその強盗団としての戦歴を冒険物語に脚色したもの
瀬戸内海周辺の高地性集落とか海賊強盗団からの退避地
156唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 10:04:33
>237年=景初元年=崇神元年 だとすると、239年【鏡】の銘文の景初3年
>が倭笠縫の日神とその象徴たる【鏡】の祭祀の時代と確実に整合する。

しかし、239年時点で、伽耶(狗邪韓国)は存在する。
この伽耶は、任那と呼ばれた後の金官伽耶である。
魏が半島を管理する時代に、崇神世の任那建国は無い。
だから崇神は伽耶(任那)建国の210年頃の王である。

>考古学の主張は十年、二十年後等に上下移動する可能性が多分にある。
237年=景初元年=崇神元年は、昔の考古学が文献に照らし合わせて容認していた
年代である。しかし考古学はこの数字を見捨てて、独自に纒向遺跡の年代を決める。
しかし仁徳(大仙陵)はまだ動いていない。だからこの時代が纒向遺跡に合わせ動く
事は必定。纒向遺跡が動く可能性は無い。なぜならば、
現在の纒向遺跡の数字は、新羅本紀や魏書等の主張と合致するからである。

昔の主張である、百済本記に数字を合わせられるか?不可能である。

237年=崇神元年では、
任那建国が無い。
神功渡海が無い。
神功49年 半島占拠が無い。
神功49年の正しい位置は、奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 。倭臣熊彦=千熊長彦。
この癸未年で表せ 且つ 東北方面が政治的空白の時代、323癸未年である。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
157日本@名無史さん:2011/02/01(火) 11:30:19
>>152

「譯」が「鐸」に見えたんだろ。
老眼が進んでいるだろうなww
158唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 12:26:44
146〜167 桓帝(成宗) 。167〜189 霊帝

桓霊の末、韓[シ歳]強盛、郡県制することあたわず、民多く韓国に流入す。
建安中(196〜220年)、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡となす。
公孫模・張敞等を遣わし移民を収集し、兵を興し韓[シ歳]を撃つ。旧民やや出で、
この後倭・韓ついに帯方に属す。
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。部従事(役職)呉林、楽浪
もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、
臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれ
を撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。

孝霊時代(146〜164年)吉備方面に派兵
新羅本紀 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪=姫大神、ツノガアラシト来日。
韓国に流入した民は、海を越え倭国にも渡来する。
新羅本紀 193年 倭人が大飢饉となり避難民到来。
青谷上寺地遺跡の遺骨は、この時の渡来人であり、船や鉄器による文化を伝える。
新羅本紀 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。任那建国。
“二郡遂に韓を滅ぼす。”金官伽耶は建国から330年続く、滅ぼされた韓に属さない。

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
271年 泰始7年 八月丙戌,以征東大將軍衞瓘為征北大將軍、
273年 泰始9年 三月,立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔,日有蝕之。六月乙未,東海王祗薨。
鮮卑寇廣寧,殺略五千人。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。

東夷九國とは、東夷九種を9国に別ける。
倭国は倭種で成立し、後の毛人は倭国に付属する。
159太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 15:34:24
>>156
>昔の考古学が文献に照らし合わせて容認

だから合ってたんだから、それでいいわけだよ。それがそれを強行して
やるから上下に時代が揺れて、そればかりやってると、考古というのは
トンデモだということになる。どこまで考古が本当かは分からない。

1/28にも考古がトンデモの集結ではないかとの記事が、読売、朝日に
あった。これは人類発生がアフリカで今からおよそ6万年ころだという
のが通説だったが、それは大ウソで今から12万年余前だということの論説
が始まっていた。ロンドン大学の考古学者グループが言い出して、28日
付けで米科学誌サイエンスに発表だということだ。

アラブ首邦連邦のジェブル・ファヤ遺跡の発掘結果だそうだ。このこと
から、今後も考古というのはトンデモがその舞台だということが
是認されて来たのだ。6万年と12万年余とは大違いだぞ。こんな状態で
考古が50年遡上で飛びつくオマエの無用心が軽率だということを、
〜こちらはそう判断せざるを得ない。アフリカなんていうのも、怪しい
ものだ。

>しかし考古学はこの数字を見捨てて

だからオマエも考古を見捨てて、遠方で見てればよいのだ。><

考古が上下にひどく揺れるなら、半島文献なども120年前後とかの大揺れで
あり、こんなものをこうだ〜と叫んでみても、そんなものはアテには
ならない。妄想論の増幅になるだけで、いったんオマエも引っこめて、
店じまいをするのが不可欠、当然だ。ww
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 15:38:28
但し考古でもブツに年号のあるやつは、これは〜確実性に近づくから、
見捨てることは軽率だ。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 15:55:27
>>133
>半島文献が動いたことはない

動いたことがないなら、百済文献と新羅文献は内容が同一だということだ。
そうなると、オマエの言う百済文献がダメだという主張は、自語相違の
盾と矛であ〜る。wwwww

百済文献が動いてると〜オマエは主張 → 酋長してるも同然の大ウソだな。
162唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 16:04:19
>だから合ってたんだから、それでいいわけだよ。

しかし、崇神=237年では 任那建国、渡海、半島占拠が無い。
これらの事が後付けであれば、書紀自体が疑われる。当然崇神の実態さえ疑われる。
簡単に言えば、創作話の”日本書紀”となる。太国主要の年代がそれに当たる。

創作話で無い、真の歴史であれば、任那建国、渡海、半島占拠を歴史に載せる必要がある。

考古学が云う、2世紀末に崇神を配置すれば、任那建国、渡海、半島占拠を歴史に載せられる。


163唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 16:09:12
高句麗伝
342年11月前燕慕容氏は高句麗丸都を攻める。 我が兵は大敗。左長史の韓壽は我が武
将の阿佛と度加を斬り、諸軍は勝ちに乗じて丸都に突入する。王は単騎で熊谷に落ち
延びるが、將軍の慕輿は王母の周氏や王妃を追走して捕獲して帰還した。
 三十九年(369年)秋九月、王は兵二萬を以て南に百済を討伐、雉壤の戦いで敗れる。
 四十一年(371年)、百済王が三万の兵を率いて平壤城に来寇。王は城を出て戦うも流矢が的中し、この月の23日に薨じる。百済王の蓋鹵王が言うには「賊のサを斬首する」。

百済本紀は百済王の蓋鹵王以外を認める。
では何故ここにガイルが登場するのか?
164唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 16:26:43
訂正
×太国主要の年代がそれに当たる。
○太国主張の年代がそれに当たる。

崇神237年を主張しても、崇神時代に任那建国が主張出来なければ
誤りである。
と云うことで、任那建国から七支刀までを主張出来るか?
出来なければ誤りがある。書紀に誤りが有れば、書紀は歴史書物とならない。
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 16:44:19
そんなことを主張する必要はない。
何故か? 簡単だ。120年代も横揺れする半島文献に、
そういう確定をまかせることは無理であ〜る。
166唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 17:54:56
>動いたことがないなら、百済文献と新羅文献は内容が同一だということだ。

百済本紀と新羅本紀には50年の齟齬が有る。
だからラジオ氏も整合性を得ようとしている。

>そんなことを主張する必要はない。
任那建国、渡海、半島占拠を得られない、との主張になる。
七支刀は金石文、これさえ歴史に載せられない太国倍年。
何故考古学が50年遡上したか?
答えは簡単だ。
百済本紀に数字を合わせても歴史にならない。だから今
新羅本紀に数字を合わせられる年代に50年遡上した。
210年任那建国、崇神は2世紀末から210年を含む年代である。
考古学の云う纒向遺跡の最初の入植者である。


167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 18:20:28
箸墓
昔の考古学は4世紀前半辺りに比定している。
であるならば、景初3年鏡はこれより後に古墳に埋葬される。
景初3年鏡の副葬された年代は、239年より100年後となる。
これでは、崇神237年の直後の年代を日鏡で説明出来ない。
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 18:29:22
解るだろ太国よ
箸墓=3世紀半ばから後半にかけて。←今の考古学の数字
これで、日鏡の副葬も主張出来る。

しかし此処に崇神を配すと、纒向遺跡の最初の入植者が解らない。
垂仁、景行の居場所が無い。

昔の考古学を正しいとすれば、100年後の副葬になる。
日鏡程度では、主張が弱すぎる。
しかも“鉄”が大量に大和に流入している。
169太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 18:53:05
>>166
そうだろう〜齟齬があるんじゃぁ〜オマエの言う

 「半島文献が動いたことはない」

というのは大ウソだということだ。ppp

五十年遡上したって、6万年が後で12万年余ですと変わる考古の世界では、
そんなものは説得力はな〜い。つまりそれもトンデモの可能性が充分ある。

>日鏡程度では・・・
銅鐸なんぞ朝廷の重視したブツではな〜い。重要なのは三種の神器の筆頭
たる日鏡であ〜る。

237年=崇神即位年 で崇神の代の〜倭笠縫の日神とその鏡を祭祀した年代
の紀の崇神6年と整合する。つまり紀の崇神6年が

 239年=(237+2)年

あたりに来るのが当然だ。ここの2年は3倍暦で6年相当だから、非常
によく整合している。
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 19:21:50
>そうだろう〜齟齬があるんじゃぁ〜オマエの言う 「半島文献が動いたことはない」
>というのは大ウソだということだ。

「半島文献が動いたことはない」だから書紀の記事と齟齬を生じる。
七支刀を369年としても、半島占拠は否定される。←百済本紀の近肖古王と最も近い数字。

七支刀が326年であれば、半島占拠は肯定される。
この場合、百済本紀は否定されるが、新羅本紀は肯定される。

粗っぽく云えば、2者択一。
百済本紀を信じても、任那建国、渡海、半島占拠を肯定出来る場所が無い。
新羅本紀に書紀を合わせれば、これらを肯定出来る。

太国が古い年代感(百済本紀を信じる)のまま、書紀の記事を肯定することは出来ない。
太国:そんなことを主張する必要はない。
書紀の記事を肯定出来ない太国倍年の実態である。
171太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 19:47:09
百済本紀は半島文献でないか。それが新羅文献と違い、新羅文献を採ると
いうのは、半島文献の片方が動くと言ってるのも同然。
こんなんでは動いていないとは言えない。どうせオマエが恣意的に新羅
文献を肯定してるだけのイカサマだろう?
172唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 19:56:12
>どうせオマエが恣意的に新羅文献を肯定してるだけのイカサマだろう?

そう言う主張なら、百済本紀に近い太国倍年で、任那建国、渡海、半島占拠
が主張出来ない事実は何を意味する?
書紀が悪いか?百済本紀が悪いか?二者択一。
書紀が悪ければ、太国倍年の根拠を失う。
百済本紀が悪いのであれば、百済本紀に合わせても正解は得られない。
だから、任那建国を主張出来ない。

173太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 20:35:20
そんなに言うなら、オマエが動いているとかぬかす書紀の編年なんか
やめろ。半島文献だけでやってろ。つまりオマエは正真正銘の
半島文献韓日法研究家になるわけだ。ww それでいいではないか?
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 20:39:12
「韓日法」がオマエのやることだろう。ここでの「日」は日本ではなく、
日数ということだ。なんなら「韓年法研究家」でいいだろう。もっともっと
半島に徹底するんだな。 オマエはやはり半島人か〜?
175日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:42:50
この論争に愛称をつけましょう。

@唐太(カラフト)論争

A唐太国(カラタコ)論争

B太唐(タカラ)論争

C太唐(フトカラ)論争
176唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 20:50:55
有る疑惑!!
太国は,半島出身者なのか?どうしてもそう見える。
何故なら、太国の言い分と編年は、韓国が主張する数字に近い。
つまり、日本の歴史を新しい方向へ動かせば、
任那建国、事実でない、和人は奴卑として製鉄に従事した。
神功渡海、事実でない。
神功49年 半島占拠、 342年以降百済は前燕に属しており、この時代に倭が
半島を占拠することはない。
事実とは、倭は常に半島より遅れており、全てを教えてもらう事により発展した。

そうなんだろ太国。
太国の主張が何の整合性も無くただ日本の歴史を新しい方へ動かす。とは、
半島の言い分を認め日本が遅れた国として存在させたい。だろ?
倭人伝(239年)狗邪韓国は其の(倭国の)北岸である。
太国:この時代には任那は建国されていない。つまり倭人は奴卑として存在する。
177太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 20:57:36
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の 」は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これこそ本物なのだ。
178唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 21:14:35
解るか?太国
任那建国が無ければ、伽耶の土器は倭人が奴卑として
鉄生産に従事する。
そして七支刀が369年であれば、百済から下賜された物。
文化は常に百済より持ち込まれる。

これが太国倍年の歴史観だ。

210年任那建国は、崇神の関与する建国。
323年半島占拠は、百済立国を意味する。
179日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:30:16
架空の人物やオトギ話なみの記紀の説話を元にして、
数字遊びしてる連中は滑稽だな。
180唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/01(火) 21:40:08
書紀は正しい日本史である。ただし設定を間違えない場合だ。
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。遠国をまとめる為「魏の屯倉手法」導入。
260年頃(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜   ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。誉田御廟山までは110年。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 半島は空白地帯となる。半島占拠、百済建国。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
331年 辛卯年 広開土王碑。
342年 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
東夷は前燕に従属する。
  応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵。
370年 前燕滅亡。これを受け、372年 百済、東晋に朝貢。
181日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:43:54
>>160太国先生

>但し考古でもブツに年号のあるやつは、これは〜確実性に近づくから、
>見捨てることは軽率だ。

景初や正始など中国の年号入りの銅鏡が本州に於いて幾つかの古墳から出ておるのだが
これらについて太国先生は如何お捉えになっておられるか御見解をお披歴願いたい。
申すまでもなく景初や正始は女王卑弥呼存命の時代に当たるのであるが。
182メ(スポーツスポーツ):2011/02/01(火) 22:16:27
太国先生〜

「景初」や「正始」などの紀年銘鏡ですって。
コメントおねがいします。
183メ(スポーツスポーツ):2011/02/01(火) 22:21:40
>メと比べるのもなんなんだが、河童のそれは一本筋の通ったもの(頑固さ)があった

もんた(河童君)と比べるのはヨシテくれよww 
ローガンさんと比べられるのならまだしも〜
184日本@名無史さん:2011/02/01(火) 22:50:06
記紀の説話と後付のデッチアゲ年代を、無理やり中国史料や金石史料の年代に結びつけても、
空しいだけ。砂上の楼閣というか、妄想というか、数字遊びというか。
185メ(スポーツスポーツ):2011/02/01(火) 22:51:00
竪穴式住居ていうのがこういうのでして、
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/18096566.html

ようは、穴みたいなやつでして、この住居は一般的というか低い文化の地域でして
これに対するのが高床式住居でしてこういうの。
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/59315849.html
この高床式住居は竪穴式住居よりすこし文化が進んでおり、
竪穴式よりは高級というのはみなさんも御存じだろう。

そして巻向遺跡で見つかった柱跡というのは、高床式の〜巨大な柱を使ってるものでして
こういうのは祭祀場として使われていたといわれている。
この巨大柱の祭祀場がある地域というのは田舎の〜貧乏地域ではなく、
文化の進んだ地域であり、まあ、そんあこと説明しなくても御存じだとは思うが・・・
186メ(スポーツスポーツ):2011/02/01(火) 22:57:34
どんコイ坊主、おめぇ〜 こんなこと〜小学生の教科書にも載ってたし
アホーの原付虫クラスでも知ってるゾww

さて、さて、悪口も言ったしスッキリできたので寝ようかな(^-^)
zzz・・・・・・・・・
187太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 23:17:38
>>180
崇神5,6年は新羅192,3年には対応しない。
日本海の荒波を漁師でなくジャンボ船舶の製造されてない崇神5,6年には
アバラ骨の浮き出ているフラフラ・グロッキーの農民が千人もの多勢を
統率できて渡れると思ったら大間違いだ。つまりデタラメである。
船舶の始めて製造されたのは紀の崇神17年であるから、崇神5,6年には
ジャンボ船舶のアリバイが無い。まるで10年前にWindouws7を使用して
したと言ってるような言い草であり、大ウソも甚だしい。アリバイが
無いということは、唐松山の主張は軽く崩れている。つまりデタラメだと
いうことだ。

大王の臣下 伊支馬 ≠ 臣下よりえらい垂仁大王

つまり伊支馬臣下は垂仁大王ではな〜い。唐松山はまるで猿を人間、人間
を猿と言ってるようなもので、映画の「猿の惑星」同然の空想小説を
古代史論としており、やつのオツムの程度のひどさがこの論で丸見えと
なる稚拙性を露見している。つまりインチキそのものである。

神功元年前年の天空暗黒の記事は日食でないことは、紀のそこの文面に
日を経てと数日間も暗黒が継続した記載があり、断じて日食にはならない。
これは現今の新燃岳噴火のさらに大規模な大噴火により天空が数日間も
暗黒となったとか暗雲が特殊な気象により永く継続したような出来事で
あって、全然日食とは言えない。まるでニガクリタケをクリタケだと食を
薦めているような論であり、唐松山酋長の数日間継続日食論こそ破折され
るべき書きこみである。www
188太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 23:22:14
>>181
先生の漢字はいらないですよ。アマチュアですからね。

だから239年の以前、すでに鏡を祭祀するという風潮が現れてきたという事
でしょう。そして239年の後一定の間、盛り上がったフィーバーされた鏡
祭祀のくすぶりが残存していたということでしょう。1年やってハイ1年
でオシマイだというものではないと想いますが・・・?
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/01(火) 23:35:53
>>187 訂正
× Windouws7
○ Windows7
190日本@名無史さん:2011/02/02(水) 00:37:24
>>183
ここで河童を馬鹿だと評価する奴はほとんどいないが、
メを馬鹿と評価する奴は掃いて捨てるほどいる事を一日も
早く悟って、新たな生き方を見つけるのも賢い選択だ
191日本@名無史さん:2011/02/02(水) 00:37:30
日本書紀編纂時には、
古事記に書かれているような大まかな、古代の天皇の先祖の干支没年ぐらいしか
伝承が残ってなかったんでしょう?
そんなことで、日本書紀に書かれている年代を
吟味したところで、仕方がないように思うけどねw
なぜ、日本書紀の年代は具体的に書かないといけなかったと言うと
中国との外交で使用するために、無理に具体的な年代を書かないといけなかったから。
そのせいで、後世の歴史家たちが、大混乱するような記述になってしまった。
それが本当のところだろう。
よって、日本書紀の年代は基本的にほぼ無視したほうが良いと思う。
192日本@名無史さん:2011/02/02(水) 01:02:24
大和朝廷との関係を考えると畿内説
193レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 05:01:40
古事記的には九州東北部辺り説が有力。
194日本@名無史さん:2011/02/02(水) 07:31:58
>大和朝廷との関係を考えると畿内説
邪馬台国=大和朝廷と考えるの止めなさい

195日本@名無史さん:2011/02/02(水) 07:47:35
懐良親王の例を見ると、九州説もあり、だな。
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 08:52:04
>>191
>中国との外交で使用するために、無理に具体的な年代を書かないと
 いけない

これは主張の結論だけであって、果たしてそうなのかという具体的根拠
の説明が全然無い。これでは即興で君が思っただけで説得力は全然無い。

ならば外交とやらで、むこうに無理な年代を書かせればいいではないか?
なぜそうしなかったのか? 

むしろ年だけでなく月日まで書かれている記載内容が神武以降殆どで
あり、このことはその年月日時、そういう出来事があったいうことを
物語っていると観るべきだ。当時の天皇の超長寿が一見して不合理に
想えるのは最もだが、これは当時の日本が2倍年暦等を行使してたため
であって、実のところ現代人と大差ない通常の寿命であったのであり、
合理性はちゃんとあり、おかしくはない。
197太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 10:43:59
>>179
架空の人物だという根拠を示すんだな。古代天皇の超長寿は2倍暦等の行使
をやっていたことから、これの理由は架空だにはならない。おまけに紀には
神武以降詳細な年月日が記載されている。ということはおとぎや架空だとは
言えない。そういうんなら、年月日を書く必要もない。ただし神武より古い
神代は年月日がないし、これを架空おとぎだという論はコチラは否定まで
出来ない。そこはそういうことはあるかも知れない?

現今の大学卒業程度の人物でも結婚とか葬儀に関わると大安とか友引とかに
平気で拘束される。それは迷信の可能性が高い。当時の古代人はそれ以上に縁起
担ぎとか迷信にこだわるものの、現代人の高等教育を受けている連中でも、
こういう六曜だとか縁起を担ぐ。このことから記紀の史実の中に迷信伝説が
混じっていても、現代でもそんな状況だから、これは当時の風習からしても
そういうおとぎ的ものが混じっているのはおかしくはない。つまりそれを除い
た内容までおとぎ、架空だとは言えない。三輪山伝説も史実の中でゆがんで
伝説化しておとぎ架空のように一見そう感じるとはいえど、これがただちに
おとぎ、架空の創作にはならない。蛇がどうのとかいう内容もいろいろ迷信が
混じり交錯しておかしくなった説話であるものの、そこにはキチンと即位の
年月日と彼らが伝えたいものがあるということだ。

まぁ即興でオマエが断定とた小賢しい軽率の書きこみだとして妥当であるし、
さらに津田病にオマエの脳内が感染している〜症状の発露だと観るべきだろう。
198日本@名無史さん:2011/02/02(水) 12:02:08
文字がない時代の何百年も前の口伝記録をどれくらい信じられるかという問題
編纂目的が違えばわずかな成立差の日本書紀と古事記ですでに違ってしまうという
199唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 13:17:37
日本書紀に書かれている年代を吟味したところで、仕方がないように思うけどねw

書紀には纒向遺跡は、崇神からと設定されている。
であるならば、崇神は2世紀後半からである。
新羅本紀192,3年の出来事は、崇神5,6年に当たる。
210年伽耶建国。

この様な主張を書紀はしている。
200唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 13:22:17
考古学が50年遡上したら、書紀の設定も50年遡上しなければ整合性は得られない。

書紀は 箸墓250年± という主張はしていない。
箸墓は 最初の大王←考古学
景行は日本をまとめる←書紀の主張

箸墓=景行である。
201太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 14:35:59
>>198
神武以降、年月日まで記載があるということは、当時何らかの文字が
あったと観たほうが妥当である。記紀双方の違いは通常の暦法のほかに
特殊な2倍年暦等各種の暦法があり、朝廷と一般でも暦法の採用に異和
があったことからの交錯が後代に現出しこれが記紀の年代の違いにまで
現れたものであり、とりわけ記紀の年代の相違が直ちに年代の信用性を
降下させるものでもない。暦法の交錯からの発展的誤認が出たもので
あって、偽りだと軽率に遺棄すべきものだはない。年代の構造を調べれ
ば、浮かぶ瀬があると言える。

なお徐福は倍暦逆算から神武以前ではなく、欠史八代の間の年代の人物
であり、この者は当時日本に来ていたのであるから漢字は当時彼により
伝来してたと観てよく、そのころ漢字は使用出来えたと観るのが妥当で
ある。
202太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 14:42:33
>>199
192,3年は崇神5,6年には相当しない。当時千人もの〜霞喰いの仙人の所業
も出来ぬ漁師でもなく渡海経験も全然無に等しい餓鬼農民をとてもとても
日本海の荒波を越える実力など無く、船舶のアリバイは成立しない。

アリバイは紀の崇神17年以後であり、唐松山酋長の論は大インチキである。
つまりデタラメ編年の妄想強行にすぎず、評価は0点ももらえないマイナス
特大点で、今後もこれでは全く評価はされることがない。
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 14:54:35
1/28の人類発生6万年前のアフリカとの考古の起源説もデタラメであっ
たというロンドン大学考古学チームの論説が米科学誌に掲載される状況で
あり、今回の結論では6万年は大ウソであり12万5千年だということの
発表があった。つまり考古のこれまでの言う6万年がトンデモであり、
6万5千年も遡上するんでは、考古の50年遡上なんて信用はできない。

考古などと抽象的言い回しでなく、誤魔化さずに何の誰兵衛と具体的に
書きこめ。誤魔化すのはやめるんだな。景行は日本をまとめていない。
ちょっと前もオマエの荒唐無稽のこのイカサマを嘲笑していた奴がいたが
その者の批判は妥当であり、景行で日本が統一された事実はなく、紀にも
統一された記事は景行紀前後に無い。つまりオマエが勇み足でデタラメ
を付与して言ってるにすぎぬイカサマ論である。おまけに九州王朝が厳然
として存在していたわけで、景行の代に九州制覇なども出来てはおらず、
オマエの主張は軽く棄却される。
204太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 15:02:17
>>201 訂正
× 徐福は倍暦逆算から神武以前ではなく、欠史八代の間の年代の人物
○ 徐福は倍暦逆算から神武、欠史八代ころより古い年代の人物
205ローガン:2011/02/02(水) 15:50:11
>>200
>書紀は 箸墓250年± という主張はしていない。
> 箸墓は 最初の大王←考古学
> 景行は日本をまとめる←書紀の主張
> 箸墓=景行である。

書紀の主張が箸墓=景行?
紀の主張は「二年冬十一月癸酉朔壬午葬大足彦天皇於倭国之山辺道上陵」だ。
上つ道が突き当たる箸墓は「山辺道上」ではない。
206唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 17:14:25
>葬大足彦天皇於倭国之山辺道上陵」だ。

景行が葬られたとき、奈良時代に作られたであろう山辺道と同等である。
との主張になる。


七支刀 369年
16日丙午の無い年である。
342年、高句麗が前燕に攻められて以降、高句麗、百済は前燕に帰属する。
前燕の暦を使うのが妥当な時代。
書紀の主張する半島占拠は、この時代に設定出来ない。

書紀の主張する神功時代は、あづないの罪=273年日食である。
207ローガン:2011/02/02(水) 17:20:21
>>206
>景行が葬られたとき、奈良時代に作られたであろう山辺道と同等である。
> との主張になる。

山辺道と何が同等?そしてその理由は?
208唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 17:27:28
半島占拠を360年代とすると、
広開土王碑の文言は大げさであると認識される。
372年の朝貢時百済王映は高句麗に含まれる。
この高句麗に含まれる百済王映を独立させて、百済本紀は読まれる。
これにより夢村洞城の積み石塚は、近肖古王で説明されるが、
それ以前の墳墓の説明が出来ていない。
この状態が、昔の設定のままの書紀の年代感と考古学の主張する纒向遺跡(2世紀末から箸墓築造)
の齟齬と同期する。

纒向遺跡が説明出来ない書紀であれば、崇神(240年ころ)も否定される。

209日本@名無史さん:2011/02/02(水) 17:34:17
いろいろ説をひねくり回して
神功皇后やモモソ姫を卑弥呼時代に合わせにゃならんのが
苦しいところか……
210太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 17:42:28
>崇神(240年ころ)も否定される

これは否定されない。
まず考古の主張が6万5千年も狂う状況では、50年遡上と言っても全然
信用性は生起されない。

崇神が240年あたりだということは、崇神紀の倭笠縫の日神とその象徴
たる【鏡】の祭祀が紀の崇神6年であることから、239年【鏡】の畿内
から多出されることで、240年ころになることは整合性がある。

【鏡】の銘文年代の239年と崇神紀のこの【鏡】祭祀が240年ころに位置
することは、殆ど年代のズレがないと観てよい。

 240年≒239年 の【鏡】←−→紀の崇神6年日神祭祀【鏡】

従って崇神が240年ころの時代ということは、当然肯定される。
211唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 17:50:23
書紀によれば、景行は日本統一を果たす。=最初の大王。
考古学は、箸墓を最初の大王と認識する。

山辺の道は、箸墓の上流側を通る。
どうしても道の川上で無ければならない理由は無いが、もしそうでなければ
説明が付かないのであれば、箸墓築造当時道は川下側を通る。

箸墓にモモソ姫を充てた場合、崇神の任那建国が説明出来ない。
また、纒向遺跡の最初の入植者が解らない。
垂仁、景行の居場所が無い。

考古学は、辻の大型建物を3世紀初めと3世紀中葉という。
ここを珠城宮と日代の宮とすれば、箸墓は日代の宮の最後に作られ
纒向遺跡は、衰退に向かう。
成務も仲哀も纒向遺跡に宮を構えない。
212太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 17:54:25
>>206
神功紀の記事では 日を経て であり日食は数日間も継続しない。

まるでニガクリタケをクリタケだとして食せと言ってるような言い草で
あり、絶対拒否しなければならない。唐松山のこの主張は「重大なる過失」
であり、徹底して追及されるべきイカサマである。

これを否定する男は、熱帯雨林のジャングル等で低級信仰に溺れて
いる蛮族とその酋長の類である。唐松山オシデ族酋長の主張はデタラメ
であるのだ。ww
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 17:55:49
景行が日本統一したなどという記述は記紀にはない。
だというならその文を見せなさい。
214太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 17:59:43
崇神が最初の大王だというならともかく、最初の大王は神武である。
景行がハツクニシラス天皇だとの記述は記紀のどこにもない。

したがって、唐松山の言うこの主張はイカサマのペテンである。
215唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 18:07:09
書紀の主張は
崇神時代=任那建国(210年)
垂仁末、景行始め、田道間守の派遣、帰国。
仲哀9年 渡海(274年)神功元年のあづないの罪は273年の日食
神功49年半島占拠(323年)
この数字は、現在の考古学が主張する纒向遺跡と同時代である。
この西暦を50年繰り下げれば、全てが否定される。
書紀は太陰暦で書かれ、正朔の文字がある書物である。
書紀は正しい年代では無いが、太陰暦で読めなくてはならない。
方法として、19年(1章)単位の空白年の差し込み。

216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 18:30:26
崇神は4道将軍を派遣して各地にミマキの名を知らした。
だから、ハツクニシラス天皇。大和にミマキありとふれた。
まだ任那建国前で有るから鉄を持っていない時代になる。
4道将軍が崇神6年に地を捨て放浪する民を連れ帰る。
考古学は、2世紀末各地の土器が纒向に集まる。とする。
この直後に作られた箸墓(モモソ姫)が巨大になることは無い。

箸墓(モモソ姫)築造の意味は、
崇神5年の民の疫病(大凶作)で死亡した民とその時食人された民の
鎮魂の意味がある。だから民は全てが?参加する。
217ローガン:2011/02/02(水) 18:34:07
>>211
いいや。二年冬十一月癸酉朔壬午。葬大足彦天皇於倭国之山辺道上陵 は書紀の記述。
つまり、あなたの言い方を借りれば、これが書紀の主張。
違うと云うなら書紀が書かれた当時、山辺道が箸墓の西側にあった事を論証しなされ。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 18:38:22
>神功紀の記事では 日を経て であり日食は数日間も継続しない。

これは、渡海の目標である。
渡海のない太国倍年の話では無い。
渡海が無ければ、書紀の記事が疑われる。つまり歴史上で崇神=237年
との主張も出来ない。
だから太国は、金木算木で説明する。歴史の数字で無いことだけは確かである。
219日本@名無史さん:2011/02/02(水) 18:43:32
フトクニもカラマツも、もともと大前提がまちがってるのに、
いくら自己流の理論であれこれ論証しても無意味だ。

創作上の人物や説話に、数字遊びで勝手に年代くっつけて遊んでるのは、
捏造に捏造を重ねてるだけにすぎない。

タジマモリだの神功だの、そんなおとぎ話のキャラなど、実在しない。
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 19:03:40
>大前提がまちがってるのに、

書紀の主張は、纒向遺跡の最初の入植者を崇神とし、
纒向に珠城宮と日代の宮が築かれる。

考古学が主張する、纒向遺跡は2世紀末から。に崇神、垂仁、景行を当てはめれば
辻遺跡の大型建物は3世紀初め(珠城宮)の後に土盛りをし整地して3世紀中葉の宮殿
土盛りをし整地。土盛りをすれば土地は乾く=ヒ、整地=田代の代 平す。日代の宮。
書紀は正しい主張をしている。

倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?男王の斎王?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=景行 になる
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 19:05:14
>>219
創作だという根拠がまるでない。これでは津田の妄想病に伝染して
いるということだ。w 創作という八百長をすれば、当然身の危険が
切迫する。つまり創作だという考え自身がオマエの脳内と津田などの創作
そのものであ〜る。紀には年月日が確実に記載があり、これは創作には
ならない。創作ならば年くらいでも間に合う。創作を隠すために年月日
まるまる記載したというのであっても、当時の政敵に弱点をつつか
れて、当時の糾察官僚に逮捕され、島流し、蟄居、獄門等は免れない。
つまりオマエの言い分はオマエの脳内の創作である。

>>215
空白年の差し込みだと言って、その根拠史料を提示したことが現今まで
2回あったが、1回目のはたかが3年であり、幼稚な根拠だということを
まぬがれない。次には景行28年〜景行40年が1年で、その間の記載の文献
がないなどと研究未熟なことを露呈しており、これも大成経の中に
景行36年8月の五十琴姫の五十功彦命を生んだ記述があり、かように文献
が存在しており、オマエの空白年がイカサマであったことが確認
とれる。ww

>>218
>歴史上で崇神=237年との主張も出来ない
        ↑
この書きこみは、こちらへの偽計を以ての妨害行為であり、大ウソである。

これは>>210でキチンと主張できている。
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 19:09:54
>>220
大王でない臣下の伊支馬 ≠ 臣下でない臣下よりえらい垂仁大王

これが正解。つまり>>220の猿芝居論もデタラメである。

まるで西遊記の弼馬温の孫悟空が三蔵だとか言ってるような言い草で
あり、デタラメもはなはだしい。
223唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 19:25:17
>創作だという根拠がまるでない。

崇神を240年頃とすると、任那建国が無い。
渡海が無い。
半島占拠が無い。

この数字を正しいとする限り、書紀はいい加減な書物となる。
だから文献史学は50年遡上する必要がある。
224唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 19:28:04
九州の女王卑弥呼を倭国の大王と仮定すれば、大和の垂仁はその傘下となる。
これが修正されるのは、正始元年の朝貢。
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 20:42:10
その仮定は成立しない。大王は大王、臣下は臣下であ〜る。
226日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:50:27
記紀の古い時代(とくに応神以前)を無理やり中国史料にこじつけて、
妄想たくましく「ぼくの考えた古代史」をクリエイトする輩は、
韓流古代史ドラマと同レベルだな。

神話や説話をネタ元にして、物語を書きたいならフィクションとしてやれ。
227レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 20:59:11
フィーーックション!! (う〜寒いね、みなさん風邪ひかないように)

ま、フィクションはフィクションなんだけどね。俺のはシュリーマン的フィク
ションになるかもよ?将来。
モモソさんが開化の正妻で、その間の子がタケハニヤス王で、その孫(かその
子)あたりがオオタタネコだとしたら、モモソさんが、外国からは卑弥呼と
呼ばれた可能性が高い。(グズズ)

その証拠に、国東半島を見たまえ! お日様のようにまん丸じゃーないか。
(べべんべん)あんなに綺麗で大きなまん丸半島があるという事は!!!
モモソさんのお墓はその近くにあると普通は考えてみたくなるでしょう。
228レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 22:05:13
さて、またいつもの架空ですが、古事記から、仮に「石屋戸逸話」を引っこ抜
いた場合。日本書紀以降の重要要素である「天照は太陽神である」と言う要素
が必ずしも担保されなくなる。
つまり、「当時は天照は太陽担当ではなかったかもしれない」という架空筋が
発生するのだ。

さて、その場合太陽神(日神)は「じゃあ天照でないなら誰なんだ?」と言う
話になるが、ここで先代の神様のあの方々である「別天神」が重要になって
来る。この中で「日」のつく神様は二人。高御産巣日神(タカミムスビノ神)
と神産巣日神(カミムスビ神)である。この二人(ともう一人)は、古事記
に名前が出てすぐに、早々と「身を隠したまいき」となる。

そして、身を隠したくせに、石屋戸逸話にて、その子の思金神が、天照無き
神の世界の暗闇を打開しようと、集まった神々の音頭をとるのだ。つまり、
思金を担保するために石屋戸逸話が必要になったと架空すると、この逸話が
挿入される以前は、高御産巣日神→思金神の系列が「太陽担当」であった
可能性が高いと言う推論になる。最初に言ったが、思金神が高御産巣日神の
子供であると言う事は、「石屋戸の逸話でしか担保していない」のである。
ところが、不思議な事に、この高御産巣日神は、登場そうそう「独り神と
成りて身を隠しき」としか書かれていないのである。妻を持ったり子を産ん
だり(産ませたり)と言う逸話は、少なくとも古事記には一切無いのである。

つまり、「挿入される前の以前の神話のまま」だと、天照が日神である(に
なる)事は担保されてはいなかった、と言う推論になる。そして、逆に石屋戸
の逸話を挿入(俺個人は、これは景行以降と想定しているのは先述の如し)
する事により、
●高御産巣日神(日神担当)→思金神(日神担当)→天照(日神担当)
という図式が生産できる事になる。そして、天照と思金がクロスする場所こそ
「石屋戸逸話」とこうなるのだ。

つまり、景行以前は、天照は日神担当では無かった。この架空が浮かび上が
って来るのです。(これを更に強固にしたのは日本書紀の思惑である)
229日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:12:55
わお、長たらし
230レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 22:15:20
先述したとおり、天照が「スーパーウーマン」になったのは、俺の想定では
景行以降の、大和王権が完全に九州地方を管轄下に置いてからであるので、
上記の架空筋とも齟齬を生じないのである。
つまり、(俺の想定では)景行より大分前のモモソの時代には、まだ大和王権
においては「天照様は確実に太陽担当と言うワケでもない」と言う事になる。
つまり、このタイミングで「石屋戸の逸話のオリジナル」が、「大和以外で
発生した」と架空すると、筋がピッタリはまり、かつ、卑弥呼の時に日蝕が
起こった事も裏付けられる事にも成って来るのである。

古事記において「石屋戸の逸話」が、順番的にも構成的にも人物関係的にも
「多少の矛盾を生じている」のは、これが後代の挿入逸話だからなのである。
そう考える方が自然である。(と言うフィクションはいかが?)
231レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 22:35:12
思金神は、その名前から単純にインスピレーションするのは、金・金属・お金
である。そのうち、お金は流石に、「この時代に金属のお金があったか?」は
想定しズライので、無いとすると、残る二つは、金(金銀の金ネ)か金属と
こうなる。
もし、金だとしても、卑弥呼は大陸から「金印をもらっている王」なのでこの
可能性は残存し続ける。また、金属(器・剣・武具)だとした場合、石屋戸の
逸話の時に「天孫の権威と金属との結びつきが担保される」と言う筋ができる
ので、「石屋戸逸話は後代挿入という仮説」を前提とした場合、「当時まだ
大和王権は金属器と権威が結びついた組織図の頂点にはいなかった」となる。

もちろんこれは、景行頃の大和王権にとっては大いに不都合である。石屋戸
逸話と思金のリンクがなく、実際は開化の頃では、大和が出雲より優劣確定
するのは、「神話以降の時代」になってしまうからである。そうなって
しまっては、「神話までに大和>出雲は確定している」としている大和側の
神話体系が大いに崩される話になってしまうのである。

従って、「発見される金属器分類」は「開化以前」は瀬戸内海の東西で
クッキリ分かれているが、それ以降瀬戸内海の東西出土金属は融合して行く
と言う考古学上の発掘を受け入れるならば、この「思金の逸話(=つまりは
石屋戸の逸話)」が、本来は開化(とモモソ)の時の逸話であった物を、景行
頃に、「わざわざ九州から大和に、開化時代から神話の天照の頃に」と、
「移住させる」のである。この筋の可能性もまた、残存し続けるのである。
232レス長たらし毘古:2011/02/02(水) 22:44:55
さてさて、今日は「太陽神としての天照」と「思金神とは何者か」について、
フューチャリングしてみました。このフィクションの一席はいかがでしたで
しょうか?
続きは又のお楽しみ。本日はここらへんでお終いとさせて頂きます。
(カンカンカン)

あ、読み返して補足。大和が出雲より優越とするクダリに関して、これを
「金属生産の占有競争上での優越」と狭義にしてみても、発言意図からは
逸脱しません。(例えばタタラ場の占有競争とかネ)
233日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:57:04
<登場人物紹介>
 
唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学

ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査

メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般

太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論

レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ

ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事

ひとぶた(元・うましか)氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む?

名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州

水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ

神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない
234日本@名無史さん:2011/02/03(木) 01:22:06
これをみて、自分に合った人と議論すればいいと思う
235日本@名無史さん:2011/02/03(木) 01:34:13
自分は日本書紀や魏志倭人伝よりも考古学中心に話したいと思うのであれば
名無し(ジョーカー)氏やローガン氏に話しかければいいし、
魏志倭人伝解析がしたいならメ氏、日本の神々の話ならレス長たらし毘古氏、
天皇家の実年代を話したければ太国氏、唐松山氏て具合で・・・この表は便利かも
236日本@名無史さん:2011/02/03(木) 07:29:05
>天皇家の実年代を話したければ太国氏、唐松山氏

この二人は、「ぼくの考えた古代史」をクリエイトする電波、妄想だからなあw
237早沙羅魏:2011/02/03(木) 07:56:11
考古神社関係意外で、まともに論じたい人は、サガミハラハラ氏とどうぞ。
もっとも、彼は今、執筆中でそれどころではないかもしれないが。
238日本@名無史さん:2011/02/03(木) 08:43:51
>>235
>日本の神々の話ならレス長たらし毘古氏、

やめとけよ。
日本神話の学問的解釈なら、学会で考察が進んでるし。

>>228
>「天照は太陽神である」と言う要素が必ずしも担保されなくなる。

これなんか、不勉強からくる、まったくトンチンカンな解釈で、
古代には、天照大神は存在せず、7,8世紀に天の岩戸神話と共に天照大神が(太陽神)として創作されたというのが真実。
239太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 10:35:35
>>236
なに寝言を言ってるんだ。倍暦の逆算で

 崇神即位元年=237年

だよ。つまり、崇神即位年は景初元年で卑弥呼の活躍年代だったということだ。

これで倍暦で時代を降下させて行くと、

 崇神没年=259年

となる。

このことは古事記の崇神没年戊寅年が258年であったことが確認出来る。つまり
1年違いでこの258年説はほぼ真であったということだ。
このことは258年説を提唱していた那加博士、橋本増吉、菅政友、それに
静岡大学原秀三郎名誉教授の言い分がこの点においては正解だったという
ことだ。つまり318年説は成立せず、唐松山オシデ族酋長の215年説が誤りの
デタラメであったことが明らかになる。

318年説は成立しないから、こちらの年代論をおとぎ架空の数遊びだとか抜かし
て信用度を落とそうと、やっきになってる浅薄脳内野郎が必死に書きこんで
来るようだ。オマエのその類か〜?w
240日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:10:58
鷲はじゃ、このコーナーから河童どんが神隠しにおうてしまった
事が、実に悲しいのじゃよ。
こういう掲示板には、華が必要なんじゃよ。華が
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 17:53:23
>崇神没年=259年
これを支持する限り、任那建国は無い。
現在の考古学の主張する、纒向遺跡と大きく齟齬をきたす。
任那建国が無い、渡海が無い、半島占拠が無い。

これは書紀の主張では無い。

210年 任那建国、274年渡海、神功49年半島占拠。
書紀の主張を設定すると此処しかない。
つまり現在の考古学が示す纒向遺跡の年代である。
2世紀末から崇神
3世紀初頭の大型建物は垂仁、その上に3世紀中葉の景行。
242唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 18:12:46
250年頃=箸墓=モモソ姫=崇神時代。
纒向遺跡の説明が出来ない。
鉄の流入を説明出来ない。

昔の考古学の数字を使えば、箸墓=4世紀の築造。
この数字でも、任那建国、渡海、半島占拠を説明出来ない。

書紀の記述を正しいと主張する限り、これらを外せない。

前方後円形の墳墓は、3世紀になってから造られ始める。
=鉄が流入し始めたから、墳墓を大きく造れる。
開化の墳墓は弥生の墳墓であろう。前方後円形とはされていない。
250年頃=箸墓=モモソ姫=崇神時代。であれば、開化は前方後円形に成るはず。
その様な情報は無い。
243唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 18:19:03
太国: オマエは西暦0年のある暦法を知らなかっ
たからお粗末。ww オマエこんなことを2ちゃん
で言うと、オソマツ山などと言われてしまうぞ。

みなさ〜ん 西暦0年は存在しますかあ〜?
244日本@名無史さん:2011/02/03(木) 19:01:03
そもそもモモソ姫が実在の人物であるかどうかもわからないのだから、
その年代を云々すること自体が無意味だ。

あのあたりの系譜や人物は、あくまで説話や神話として解釈すべきで、
あのまんま史実と思うのは恥ずかしすぎる。
245唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 19:40:41
弥生後期後半 唐古、鍵遺跡が放棄され
纒向遺跡に、2世紀末各地の土器が持ち込まれる。
辻に3世起き始め、大型建物が築かれる。
前方後円形の弥生墳墓(石塚古墳)
辻に前期の建物を壊し、中期の大型建物が築かれる。
崇神 (188〜216年)治世68年―2章(19年×2回)=30年 この数字には1,2年の齟齬が有る。
垂仁 (217〜239年)治世99年―4章(76年)=23年
景行 (240〜261年)治世60年―2章=22年 これであれば太陰暦で読める。
つまり季節と月日であれば正しい。
192年凶作、餓死
193年 民の逃散=唐古、鍵遺跡
199年 異族多帰 各地の土器
3世紀始めの宮殿
鉄の流入により墳墓が大きくなる。210年任那建国。
3世紀中葉の宮殿。

246太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 19:42:20
>>241
任那建国は120年もズレる状況では、相手にするのは後回しで関係ない。
考古なんかまだまだアテにはならないことが、1/28の考古学チーム発表
で、人類紀元がいままでの6万年が大ウソである〜つまりトンデモで
あるとし、今から12万5千年前であるとの段が下された。

こういう類のものであるから、50年遡上なんて10年後20年後等にまた逆戻り
なんて言い出す可能性は充分ある。つまりオマエの主張は棄却するのが
相当であ〜る。だいたい考古なんて言って抽象的名称でくらまし、具体的
人名が出せない。これでは権威の威を駆りようとするおんぶ論であり、
虎の威をかりる狐同然の〜無用の論述である。
247日本@名無史さん:2011/02/03(木) 19:50:23
自演があると河童の降臨は近い
248太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 20:11:10
古代からの真の年代を測る天下の宝器を天津神算木という。これは三輪山
の山名の三輪(半径r=3の円)の 体積=表面積 の数式をいう。
三輪山のことは崇神紀に見える。天津神算木(天津金木)は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ --------------@
 4πr**2 = 113.09733552923・・・ ----------------A

大祓祝詞に曰く「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」
@Aはそれぞれ

 3≠113.097335 ----------------@'
 2≠113.097335 ----------------A’

@’から等号をまたいで(天文暦←西暦0年が入る)

 前3113年 マヤ文明元年(=前3114年の場合はグレゴリオ暦)

 A’から等号をまたいで

 2113年 マヤ文明新年代元年

マヤ暦は 来年=2112年末 頃に本年代が完了する。
249日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:18:23
カルトと数字遊びはいらないよ。
250太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 20:30:00
天津神算木は真の年代を測る古代からの贈り物であり、その示唆は崇神紀
の三輪山の説話に残っている。天津神算木(天津金木)は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺から

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

崇神の年代は見かけの年代である。ここで天津金木を分断し

 3≠113.097335

右辺数列を三分して 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の実年代誘引ジョーカー数 335年

 -97+335=238年

西暦0年を除くから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

の真の年代を得る。ここから年代下降で崇神没年259年を得るが、
1年違いで記の崇神没年258年説がほぼ真であったことが確認出来た。
251日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:49:44
だから、
なんで「西暦」が算出されるんだよ。(爆笑)

252唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 21:35:56
これまでの文献史学は“空白の4世紀”という爆弾を抱えていた。
この空白の4世紀が存在する限り、文献史学が容認されることは無い。
だから書紀の年代を数年動かしただけでは正解を得られない。

これは何故“空白の4世紀”が存在するか?という問題でもある。
答えは簡単だ、書紀が主張する任那建国、渡海、半島占拠が無い時代に書紀を設定していた。
考古学が50年遡上したことにより、文献も50年遡上する事が出来る。
その象徴が、210年任那(伽耶)建国である。
此処にある文献は新羅本紀であり、新羅本紀は半島の最後まで続く王朝でもある。
領土分与で出来、400年ほどで滅びた百済の歴史より正当性がある。
1年程度の修正ならいざ知らず、50年動くのは百済本紀であろう。
なぜならば、百済本紀に合わせた日本の歴史が正しいと出来ないから、卑弥呼も探せない。

新羅本紀が50年新しい方へ動いても、晋が幽州を分け平州を置くのは、274年である。
280年代は、東夷が9国にまとめられ、洛陽にさかんに朝貢を繰り返す。
ここで渡海しなければ、東夷の長となれない。
長でなければ百済も従わない。従わなければ半島占拠も無くなる。

それまで太国は静かにしているのが太国のとるべき態度である。
主張するなら、任那建国、渡海、半島占拠を設定するのが最低条件だ。

金木算木が太国倍年をウソであると主張している。
惨めに成るだけだから金木算木は早めに引っ込めた方が良いぞ。
253太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 22:30:34
天津金木とは未来にて多々現れる年代妄想者(←オマエのような奴さww)
からの完全なる防衛の為残してくれた古代人からの計測神器である。

オマエがいくらほざこうと吠えようと、今後の未来にオマエ級の妄想
インチキ野郎が年代を振りかざしてデタラメをがんばろうが、千年経とう
が万年経とうが、数式だから独裁者でもこれを壊すことは出来ない。

それ故、天津神算木は金剛不壊、金甌無欠揺るぎなき。これでもって
過去から未来へ真の年代が防御される。

たかが一人二人のおっさんが作ったホツマとはわけが違うのさ。wwwww
254太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 22:47:45
>>251
これは長い論述を必要をするので、詳しく論説して貴殿に分からせ
たいところだが、一朝一夕には倍年暦法の解説はやり難い。貴殿が
鷲崎さんの旧掲示板をググれて出せるならその論を読むことができる。
もう2年ばかり経つか? そのころ50回以上にわたり詳説してあるので、
探せるならやって読んでもらいたい。

簡単に言えば 崇神元年=237年 にあてがうと、その直後に崇神天皇が
同床共殿を廃して【鏡】を倭笠縫に祭祀した年代と畿内から多数出土して
いる239年【鏡】(239年は237年の2年後)との年代がほぼ一致するのだ。

つまり考古での【鏡】銘文年代と文献の崇神紀の【鏡】祭祀の年代が
237年に崇神即位年とすると見事に整合するということだ。それには倍暦
の計算も重要になって来る。そして【鏡】は天皇の最重要ブツたる三種の
神器の筆頭のものだ。これが整合するということは、崇神即位年=237年
が真であることを物語っている。
255唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 22:55:27
晋書より
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、
昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,
居襄平。咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
統縣二十六,戶一萬八千一百。

東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患,
是日亦以非罪誅俶。

文王(俶)生於東夷。文俶は東夷の中で生まれる。
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
291年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
魏が東夷を管理する時代に任那建国は無い。

東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、274年に馬韓(倭国を含む)で軍を編成したと思われる。

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
東夷九種は東夷9国となる。
256日本@名無史さん:2011/02/03(木) 23:01:05
延々と…
257レス長たらし毘古:2011/02/03(木) 23:15:26
>>238
>古代には、天照大神は存在せず

不勉強にて初耳で申し訳無いが、卑弥呼の年代、つまり想定される3世紀中に
「確実に天照がいなかった」と言う論拠は誰のどの説を参照すれば良いかな?
(ま、いなくても俺の想定は先述の如しなので、古事記視点からの3世紀中の
天照の存在は特に必要でも不必要でも無い要素ではあるが)
「確実にいない」と言う論拠が無いので、いてもいなくても景行時代頃に
「天照の大きな要素」が「大和系の神話体系」と遭遇したと言う先述の想定
は別に揺るがない話。俺の想定は以下二つともありうる状態で干している。

@卑弥呼の時代に、まだ古事記の原形(つまりこれが大和王権神話体系)に
天照は存在しない。
A卑弥呼の時代に、まだ古事記の原形(つまりこれが大和王権神話体系)に
天照のうちの「石屋戸逸話」は存在しない。

このうち「日神としての天照」は上記どちらでも3世紀の時点では大和王権神話
体系に登場しないという筋は先述の如し。「そのころから天照がいる」とする
見解に配慮し、上記@Aどちらでも可能な表現を使っていたのだが、それを
誤解するとそのように間違った指摘にもなろう。
258レス長たらし毘古:2011/02/03(木) 23:18:37
>>257続き
天照が「日本書紀以降のように確実に日神」となったのは、景行時代前後以降
の話と言う先述の俺の架空筋は、貴殿の指摘内容によって、全く揺るがない。
また、日本的な「神話形成」の特性から考えても、「無い物をスッポリ持って
来て使う」と言う事は逆に不自然が大きい。むしろ「今有るものに新しい物を
持ってきて融合」と考える方が、多神教解釈的には自然に思える。
その自然さの方を採るならば、既に卑弥呼の頃の大和王権神話体系にも「天照
の原形」が既存していたと考える方が自然。(この「天照の原形」はもっと目
立たない神で、下手をすれば性別すら女性でなかったかもしれない。なぜなら
少なくとも古事記では神話前半の神々の「性別を確定する目印」はあまり見出
されないから)
天照がスーパーウーマンになったのは景行の頃以降で古事記編纂の頃までと
想定できる。そして、最高神にまで持ち上げたのが日本書紀の作業だ。先述の
架空は「日神の要素」は景行〜日本書紀の間に天照の独自創作、もしくは天照
の原形に加味されると言う筋なので、貴殿の仰る所の「日本神話の学問的解釈
」とも大きくは矛盾はしているとも思えない。
259日本@名無史さん:2011/02/03(木) 23:29:51
長たらしいなあ…
260レス長たらし毘古:2011/02/03(木) 23:41:23
くどいようだが、なぜこの「日神要素」に拘るかと言うと、古事記の神話前半
(考え様によっては全部)が、「天照不在(もしくは天照の日神要素が欠落
)」していても「成り立つ」と言う事実があるからである。
先述どおり、最初の最初の「別天神」にて、既に「日神要素」は規定済みなの
で、その意味では無くても全く差し支えないのである。以下、別天神を列記。

@天之御中主神(アメノミナカヌシノ神)
A高御産巣日神(タカミムスヒノ神)
B神産巣日神(カミムスヒ神)
Cウマシアシカビヒコヂノ神(※漢字表記は変換難易度が高いため割愛)
D天之常立神(アメノトコタチノ神)

@〜Dの名前を見てわかるとおり、これらはもう既に「太陽のほとんどの要素
」を言い表している名前と考える方が極自然である。
つまり、古事記の神話の序盤においては「天照が日神である必要性」はほとん
ど無く、「お呼びでない状態」であるとすら考える事も可能なのである。
且つ、それから少し後の「イザナギイザナミ」要素で、「闇の世界」「地底
の世界」(しいては黄泉の世界)も規定済みである。つまり、古事記神話中盤
のメインイベントの「石屋戸伝説」は「無くても」充分に成り立つのである。

天照の日神要素が無くても、天照の血脈のみ担保できれば、そのままニニギ→
神武まで問題無く流れ着く。従って、「存在はすれど、日神である必要性は、
卑弥呼時代の古事記神話においては必ずしも無い」とこうも考えれるのだ。
261日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:04:55
古代に「アマテラスオオミカミ」などいた証拠はないが、
「アマテル」という対馬の王様がいた証拠はある。
262レス長たらし毘古:2011/02/04(金) 00:12:36
ここが大事である。つまり、「卑弥呼の時代の大和王権の神話」には「日神と
しての天照はいない」と言う事が、少なくとも「古事記上は可能」なのだ。
だとすると、「彼女が日神と成るイベント」が無ければおかしい。

ところが、これがある「架空」をかぶせると、生じるのである。

イザナギイザナミ逸話に大八島国の生成があるが、その中にこうある。「筑紫
国は白日別と言い、豊国は豊日別と言い、〜(中略)〜熊曽国は建日別」と、
それぞれ「日別」という行政区分呼称が登場する。勿論、これをそっくりその
まま「じゃあ当時そこをそう呼んだ」とうのみにするのは安易だが、大和王権
神話形成期から古事記編纂期の間のうちの、けして遅くない早い時期に、九州
は行政区分上「日別(ヒワケ)」と言う呼ばれ方をしていたと言う話になる。
さて、これら古事記における「神話の時代」に九州各地を「日別」に分類し、
そして古事記の神話の冒頭に「太陽と関連深い名前の神々」が神話の口火を
切っているのである。

そして、神話上「日別」としている地域つまり九州を、大和王権が完全に凌駕
し吸収するのはいつか?そう、景行時代頃なのである。従って景行以前には
大和王権は「まだ太陽を手に入れておらず」従って天照の「石屋戸逸話」は
まだ無く、九州を支配下においてから「大和神話の日神が新たに必要になって
来る」と言う流れが発生するのである。
その必要があるので天照を次第に「偉い神様」にせばならず「太陽の神様」
にもせねばならなくなって来るのだ。なぜなら古神話のままだと「日神」は
先述の「別天神」であり、これはどう考えても「九州(以西)」の神様だ。
だから「最初に大和地方を征圧しろと託宣した」天照に「最高神&太陽神
となるビッグイベント」が必要に成る。九州地方をも包括した後にこの必要性
が発生する。
この最高神要素&太陽神要素の二つが入っている逸話が「石屋戸逸話」なので
ある。石屋戸にかくれて世界は闇に包まれる。そして日本中の神々が困って
集結する。こう言う筋によって、天照の「最高神要素」「日神要素」は同時に
担保される。(→従ってその直系子孫の神武の権威も担保)
263日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:24:58
>>238
>日本神話の学問的解釈なら、学会で考察が進んでるし。

学会で進められた考察の成果を知るには、何を読んだら良いんだろう。
雑誌なり書籍なりを紹介してもらえないだろうか。

>古代には、天照大神は存在せず、7,8世紀に天の岩戸神話と共に天照大神が(太陽神)として創作されたというのが真実。

特に、これが論証されている論文が掲載されているものを紹介してください。
264レス長たらし毘古:2011/02/04(金) 00:30:04
あえてすごーく簡単に言うと。前大和神話(石屋戸逸話を含まず)にとって
は、石屋戸逸話は無くても成りたち得るし、大和にとって石屋戸逸話が絶対
不可欠になるのは、大和が九州を名実ともに完全に支配下に置いた後なのだ。

従って景行時代までは、大和神話に石屋戸逸話は無く、景行以降に石屋戸逸話
が挿入された可能性が高く成って来る。すると、その仮定の上で「その間の
時期(=つまり卑弥呼の時代)」を想定した場合、「石屋戸逸話のモデル
ケースと成り得る人物・事柄」が、他書にいるのである。それが魏志倭人伝の
卑弥呼様なのである。天照そのものとすると年代は絶対に一致しない。しかし
「石屋戸の逸話」だけは(時代を除く)人物・事柄だけは全て一致するのだ。

なぜなら「石屋戸は景行時代以降の挿入だから」と、こう架空すれば、流れと
しては全く矛盾が無いのである。
265日本@名無史さん:2011/02/04(金) 07:23:29
>>233-238
太国氏、唐松山氏の年代とレス長たらし毘古氏の日本神話

は余り信頼されてないようだw
266日本@名無史さん:2011/02/04(金) 09:13:37
>>257
>「確実にいない」と言う論拠

それは悪魔の証明といって議論では禁じ手です。

「天照は存在した」という前提で語るなら、
「天照は存在した」という証明義務が貴方にあります。

267日本@名無史さん:2011/02/04(金) 09:25:52
>>257
「確実にいない」と言う論拠が無ければ、あったと言ってもいいのなら、
旧石器捏造事件があろうが無かろうが、
旧石器時代に日本に石器人がいたと言っても問題ないことになります。

それでは学問が成立しません。
268日本@名無史さん:2011/02/04(金) 10:56:40
>>266
天照大神を信仰したという伝承が残っているのだから、
それを否定して7,8世紀に創作されたと主張するのなら、
創作説を主張する方に論証責任があるよ。
通説を否定する方が論証責任を負うのが学問の常道でしょう。
269日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:38:27
>>268
>天照大神を信仰したという伝承
そんなものは存在しなかったことは、すでに文献学で論証されています。

自分の不勉強を棚に上げて逆ギレはよくないですね。
270日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:40:50
>>269
だから、勉強させてくださいと昨夜から質問してます。>>263
よろしくお願い致します。
271日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:44:42
>>270

では、この本あたりから読むこと。

アマテラスの誕生(筑紫 申真)
アマテラスの誕生(溝口 睦子)

言っておくが、文献学の重鎮だからな。
272日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:56:22
かいつまんで言えば、
”天照大神”というのは、皇祖神と伊勢神宮は天武・持統両帝によって8世紀に創出された。
伊勢には、伊勢大神がいたが、太陽神に特化した神ではなく、川辺で祭られた自然崇拝の複合的な神。
それを天武・持統そして藤原氏が皇祖神・天照大神として8世紀に祭り上げたのだ。
8世紀の以前の皇祖神はタカミムスヒ(高木神)だった。

したがって、3世紀の王権が太陽神・女神・天照大神を祭っていたなどということはありえない。
このまえのNHKで卑弥呼が太陽神ではなく道教(鬼道)を祭ってたと解説していたのは、それが理由。
文献史学でも、考古学からも、学会では、3世紀の大和(卑弥呼)で太陽神が祭られてたなんて考えてる人はいない。

273日本@名無史さん:2011/02/04(金) 12:02:49
一番、読んではいけないのは、安本美典、井沢元彦、関裕二、
素人には人気があるが、文献史学では全く相手にされてない。
文献史学を否定するようなことを、もっともらしく書いてるので、始末が悪い。

たとえ、ひとつのテーマで、一冊だけ読んで、面白いと思えたとしても、
考古学、文献学全般をトータルで学べば、矛盾に満ち溢れた破綻した論でしかないことがわかる。

274ポキール:2011/02/04(金) 12:06:01
韓と倭、これだけが公孫から奪い取った帯方郡を中心に
その位置が書かれてあるっす。
ということは、帯方郡の仕事のメインはこれら韓や倭の支配っすね。

韓は帯方の南って書いてあって、倭人は南じゃなくて東南と書いてあるっす。このへん面白いよね
韓が南なら倭人も南でいいのに、東南としている。
倭人伝の読み解き方って、この部分に集約されるんじゃないっすか。
275日本@名無史さん:2011/02/04(金) 12:47:19
古代史って総体革命されてね?
276日本@名無史さん:2011/02/04(金) 13:06:51
>>271
紹介ありがとう。来月くらいに読もうと思います。
277日本@名無史さん:2011/02/04(金) 13:14:37
>そんなものは存在しなかったことは、すでに文献学で論証されています。

文献史学が正しければ、考古学が50年も遡上することは無い。
278日本@名無史さん:2011/02/04(金) 13:27:48
>>274
>>255 に
文王(俶)生於東夷。文俶は東夷の中で生まれる。
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
291年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
279日本@名無史さん:2011/02/04(金) 13:48:27
>文献史学を否定するようなことを、もっともらしく書いてるので、始末が悪い。

文献史学は考古学に見捨てられた事実を直視すべきである。
百済本紀を正しいとした、韓国考古学でさえ、馬韓土器は百済土器の範疇に入らない。
つまり強勢な百済の隣に弱小国家群の馬韓が独立状態で存在する。
この状態は神功49年の半島占拠と再配置の証明でもある。

半島占拠と書かれた文面を否定しても 空白の4世紀は埋まらない。
任那の文字資料が有っても、崇神時代の任那建国を認めない文献史学。
280太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 14:52:29
>>272
239年鏡が畿内からうんと出てる現況からすれば、この銘文は3世紀前半
に相当し、鏡の太陽からの反射光は太陽を想定するもので、祭祀台か
祭祀樹木に置いたり掲げたりしてたんだろうから、3世紀にすでに太陽神
祭祀信仰があったことを物語っている。
281太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 15:03:10
>>279
ホツマなんか文献史学で最初に見捨てられてるも同然さな。ww
282太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 15:06:25
>>281 訂正
× 同然さな
○ 同然だな

>>279 は、唐松山のコスい無コテの書きこみだな。ww
あいつは都合悪いと、いつもこの手を使う。
283日本@名無史さん:2011/02/04(金) 15:50:35
>>272
伊勢には斎宮というのがあって、日本書紀によると崇神天皇時代の豊鍬入姫が
最初とされている。その後、倭姫などがいて、南北朝の時代まで続いている。
つまり、伊勢で天照大神を祀る制度は、8世紀どころではなく、そのずっと前
からということになる。これは遺跡も発掘されていたはず。
284日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:04:23
日本書紀には、天照大神は崇神天皇時代、元々御殿に祀られていたとある。
威光があまりにも強すぎて、移動することになったとある。

しかし、これには大物主が関係している。災いが多発し、反乱が後を絶たず、
これらは大物主の祟りだと考えられた。実際、大物主を祀ると災いは収まった。

どうして大物主が祟るのか。大物主は出雲の神様。天津神の天皇が国津神の
大物主を守り神にするのもおかしい。
しかし、記紀の記述を見ればそれが窺える。出雲は高天原に征服されている。
それを主導したのが天照大神と高皇産霊尊。

この征服の祟りが災いをもたらした。だから、大物主を祀る。しかし、征服した
皇祖の天照大神の処遇に困った。というわけで天照大神は伊勢で祀られる
ようになった。

記紀の記述はそれなりに筋が通っている。
285日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:11:34
結局、天照大神を卑弥呼に比定するのを畿内説がことさら忌み嫌うのは、
この時代の伝承が実話に基づいているとすれば、その後の神武東征までも
実話となり、邪馬台国九州説ひいては東遷説につながるからということになる。
286日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:34:40
>>283
倭姫のことなら、それも後世の創作ということで結論が出ている。

遺跡と天照大神とは結びつかない。
287日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:36:56
>>285

安本に騙された人ですか。
かわいそうだけど、騙されたのはおまえが不勉強だからだ。
288太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 17:17:17
>>287
創作すれば現今の大相撲八百長のように、身の失脚が来るから、そんな
マネはやるわけもない。だいたいそんなことをする大なる利害なんて
考えのくい。
つまりそれは津田病に罹患した奴の、妄想からの結論である。
289太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 17:18:09
訂正
>>286だな。失礼。
290日本@名無史さん:2011/02/04(金) 17:59:22
>>273
>一番、読んではいけないのは、安本美典、井沢元彦、関裕二、

まあその中で比較するのもアレだがwwwwwwww

真っ先に脱落すると言うか既に死に体なのが安本センセイだろうなw

九州から引っ越してきた邪馬台国の後裔が後の大和朝廷の祖となった
…と言うシナリオなら邪馬台国の時代に既にヤマト王権の原型ができていたら
話の筋が木っ端微塵になるわけでwwww
故に先ず年代に関して孤独な戦いを強いられるとw

それに比べれば井沢は東遷説から奠都説にシフトし
邪馬台国と畿内ヤマト纏向が並立していても問題ないし

関も同様、年代に関する考古学的事実は受け入れていて

この両者はそれなりにご贔屓さんを獲得してやっていけるんじゃないだろうか?w
291 (´ー`)y─┛~~  ◆YK/jqQHtcg :2011/02/04(金) 18:03:14
ユダヤ人とその結社フリーメイソンリーによる経済支配に風穴を開け、
現在の様に複数の人種が経済競争できるまでに「欧州を正常化」させることに成功した。
その点において全ての泥を被る覚悟を持って遣り遂げたのであり、ヒトラー本人ゎ現在の扱ぃにも納得付くであろぅ。
第2次世界大戦以前のユダヤ人による悪行および、今も暗躍しているフリーメイソンリー(エシュロン含む)につぃて、
アメリカ建国の父の9割が、天皇が服従した占領軍司令官マッカーサーが、
フリーメイソンリー構成員であると言ぅ「事実」を日本義務教育で扱わず、
すなわち「隠蔽し続けている状況」でゎ、国家と民族と言ぅ定義を正常に判断できる成人ゎ育まれなぃ。

【フリーメーソン】ユダヤの陰謀【イルミナティ】9 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/occult/1294391749/

戦時の自国領に、特定民族の「秘密結社すなわち敵国に本拠を置ぃて居る情報網」が蔓延っておれば、
適切なる対処をするのゎ指導者として当然のことであり、それを国民が望んだからこそ
ヒトラーゎ民主政治の選挙によって正当な指導者に成れたのであり、看板に偽りなし。
目標の大半ゎ成し遂げたと言っても過言でゎなぃ。 見事であったと言ってやるべきだ。
根本的なシステムに欠陥の有る、「共産主義」などに身を売ったスターリンが生き延びたのこそ残念。
俺がヒトラーの立場なら、イギリスを占領するまでゎソ連と開戦ゎしなぃ。 その辺、なぜそうしたのか疑問に思ぅ。

「天皇狩り」提唱者ゎ、2018年までに衆議院選挙で出馬して国号を「大和(語源:ヤマタイ)」に戻すんで宜しくw(クス
現天皇を敗戦責任で斬首刑に処し、大統領制/州制/核武装に移行し、帰化しなぃ在日朝鮮人ゎ「奴隷」にする。
米英を3度に亘り焼き払う核保有量で北方領土を奪還し、尖閣油田と竹島を保全し、衛星軌道を軍事的に掌握する。

天皇制廃止・共和制樹立 1 http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1284922956/289n-

「はやぶさ」カプセル投下技術はまじやばい http://p2.chbox.jp/read.php?host=yuzuru.2ch.net&bbs=war&key=1276447598&ls=78-108n
292日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:30:03



このスレでは神話と現実の区別のつかない、頑固者というか狂信者が吠えまくってるよな。

大国、あんたのことだよ。


293太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 18:42:44
年月日があるから、神話だと言うのは早計である。
オマエが神武以後をそう言うなら、オマエは津田の増幅妄想にしてやら
れたんだよ。まぁ、神武手前の代は神話だと言うのはこれは妥当だろう?
しかし事実の含有はここでもありうることだぞ。

神武以後には年月日がある。〜
神話なら年月日はいらんだろうが。だいたいそのへんを創作する利害の
でかい理由がどこにある? そういうことをオマエはよ〜く考えるべきだ。

創作することは当時での公文書偽造同行使であるからして、現今の小沢
さんおの部下の帳簿イカサマ記載だとか大相撲の八百長だとかで、身の
失脚は眼前に来てしまう。だからそんなインチキはやってはいないん
だよ。早く津田病の蔓延から防疫したほうがいい。
294日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:53:48
皇国史観のカルトだな。
295日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:53:50
太国倍年には年月日が無あ〜い。〜
296太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 19:35:39
>>295
月日は紀年法での補助だが、有るよ。たとえば〜
崇神即位月日は 1/13 だと紀にあるが、天津菅曾(天津金木の右辺)の
冒頭にこの月日数が存在する。
297太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 19:59:59
>>248 訂正
× 2113年 マヤ文明新年代元年

上は誤りであることを発見した。
正しいのは天津金木の分断の後、千座の置座(千位:整数第4位)に
数字を置きたらはさねばならない。
天津金木は

 4πr**2=113.0973355292・・・

分断で

 2≠113.097335

千座の置座(千位:整数第4位)に数字を置いて

 2≠0113.097335

から

○  2011年 マヤ文明旧年代末年

つまり本年だ。来年(2012年)から新年代元年となる。(但しその年末)
(その来年は旧年代の残存がだいぶある。)
298日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:05:25

なんでここでマヤが出てくんの???????
299日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:19:25
西暦で計算してるんだから、マヤ暦だってアリだろwwwww

300唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/04(金) 20:31:54
マヤのピラミッドは、春分、秋分を教える。
天文を知りたければ、ここから各220日を数え、重なる部分の齟齬を知る。

弥生・古墳時代における鉄器
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/book/noji-kaken/chap_05.pdf

弥生時代後期後半、丹後半島に鉄が入る。
弥生時代後期後半とは、唐古・鍵遺跡が放棄された年代であり
纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれた年代になる。
この直後に大和に鉄が流入し、3世紀中葉から後半に掛けて箸墓が作られる。
丹後の鉄が35ヶ、古墳時代初期の大和が700ヶ単位が違う。

3世紀前半に任那建国が来ないと説明出来ない。
だから任那建国は210年頃で考古学と整合性を得られる。
崇神は、2世紀末から3世紀初頭、で纒向遺跡も説明出来る。
301太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 20:36:10
>>298
唐松山酋長の西暦0年非願望を消すため。
302唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/04(金) 21:03:06
>崇神即位月日は 1/13 だと紀にあるが、天津菅曾(天津金木の右辺)の
>冒頭にこの月日数が存在する。

計算に書紀の日付を使うことは当然である。
しかし1年の長さも主張出来ない太国倍年に日付は無い。
これは”暦の後付け”を主張する太国にとって致命傷であり、
倍年なる物が存在出来ない事を表す。

303太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 21:51:37
2倍年暦は古代南バビロニアからすでに行われて来た。

古代日本も2倍年暦を行使していたことが、雄略4年の紀と大成経の
同記事から確認出来る。同記事で、片方が秋8月でありもう片方が春2月
では、唐松山酋長の倍年暦法否定も空振りだということだ。ww

古代マヤのツォルキン暦など1.4倍暦であり、同じく古代マヤのルナー・
シリーズの月暦など明確な2倍暦である。

これはイニシャル・シリーズのマヤ神聖文字 C がそれであり、C の絵文字
の大半は片手の上に魔神か人の頭形を乗せる形状にあり、これにより
絵文字 C と確認が出来る。文字に o 形の数字を1個〜4個あるいは5数
を表す棒字をつけて1〜6までの数字を巧みに付加して

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

で学問上1〜6と C 記号で絵文字の代用表現で説を張る。

その数字は1月〜6月を意味し、C は月の意味となる。かように古代
マヤ文明も2倍年暦同然の行使をしていたということだ。

唐松山酋長の言う空白年など西暦0年以外はあるわけがなく、マシなど
というイカサマ八百長相撲星取り表編年などは同酋長の脳内の架空
たるデタラメの創作なのであ〜る。ppp
304日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:03:57
>>286
都合の悪いことはみんな創作にしてしまうんだな。
でも、畿内説でも倭姫を卑弥呼に比定する人もいるし、倭迹迹日百襲姫を
卑弥呼に比定する人もいる。これは創作ではないんだろうな。
しかも、倭迹迹日百襲姫の話を信じ込んで箸墓を卑弥呼の墓に比定したりする。
畿内説がどんなものかがわかるというものだ。
305日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:16:55
>>304

東遷説の人ですか。
バレバレですね。

まだ安本に騙され続けたいわけですか。
安本の本何冊買ったの?
306日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:30:24
しかも、安本のサギ的手法を見抜けないのに、
考古学はサギだとか言ってるんだから、笑うしかない。
307日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:30:31
>>305
東遷説だよ。でも、安本氏とは違う東遷説。邪馬台国の場所も違うし、
東遷の経緯も異なる。でも、安本説にも同意する点はけっこうある。

しかし、畿内説は個人攻撃とか思想的な攻撃をするところは以前と全然
変わっていないようだな。第二次世界大戦後は、そちらの方ばかりで
論争を避けてきたといわれる。畿内説はそういう攻撃ばかりしてわけで、
論争としては、敗者の王道を歩んできたと言える。
308日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:32:02
>>307

おや、東遷説と認めましたか。
俺は何人もの東遷説論者を叩き潰してきた。

やる気があるならかかってきなさい。
309日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:40:33
>>306
安本、安本と連呼すれば畿内説は成り立つらしい。楽だね。

ただ、論点を出さないと、論争にはならない。ただの、ののしりあいになる。
畿内説にはそういう手段しかないのか?

安本説は、明治時代から続く東遷説のまとめのようなもので独自の
ものはそんなに多くないと思う。ただ東遷説がどういうものかはわかるかも。
310日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:43:02
>>308
じゃあ、畿内説にとって天照大神とはいったいなんだ。
311日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:45:24
>>309

論点か、まず君の論がどういうものか検証が先だな。

天照大神=卑弥呼が九州の邪馬台国の女王で、
子孫=神武が4世紀に東遷して大和王権を作ったと。そんなところか?
君にハンデをやろう、邪馬台国が九州のどこかは、問うつもりはない。

他に、君の持論で言いたいことはあるかね?
312日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:46:42
>>310

畿内説と天照大神は無関係だよ。
天照大神は8世紀の創作だもの。
313日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:58:58
今、考古学会は、
卑弥呼=モモソ媛命の伏線をはっているよ。
その第一弾は、桃の種が大量に見つかったことw

モモソ媛命の名前に、桃が関係していたとなると面白いなw
モモは不老不死に関するものみたいだし。
314日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:06:44
>>311 >>312
あまり相手にする気にもならないのだが、記紀の記述における天照大神の
岩戸隠れ前と岩戸隠れ後の変化についてどう思う。
それと、梁書などの台与と男王の関係についての記述と記紀の類似性に
ついてはどのような考えを持っている?
315日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:17:23
>>314
「天照大神の岩戸隠れ前と岩戸隠れ後の変化」

おそらく、性格付けが変わったから、卑弥呼から台与になったとか、
そういうことを君を考えてるんだろうな。
もしかして、関裕二信者か?

「梁書などの台与と男王の関係についての記述と記紀の類似性」
なんの類似性も無いが、
もしかして、「男王」を「スサノオ」とか思ってるのかな?

君の考えなんてたかがしれてる。幼稚な推理ごっこだよ。

316ローガン:2011/02/04(金) 23:19:11
>>308 >>309
どっちも頑張って!
いい議論を期待。
317日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:31:37
コテハンの馬鹿げた「数字遊び」ほど、無意味な作業はないな。
オカルトな理屈で数字をいじくりまわして、もうアホじゃないかとw
318日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:33:31
>>315
天照大神と卑弥呼の類似性は、記紀の記述と中国の書物の類似性から来ている。
類似性はたくさんあるが、その一つが梁書の記述で、

「卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」というもの。

卑弥呼の宗女である台与を王と為す。その後また男王が立つ。中国の爵命を
並び受けるというもの。台与と男王が並存している様子がわかる。

記紀の記述では、天照大神が岩戸を出ると高皇産霊尊が登場する。わかると
思うがこちらも間違いなく男女の王が並存している。
むしろ、岩戸を出てからの天照大神は影がうすく、高皇産霊尊が主導権を
握っている。日本書紀には高皇産霊尊が皇祖と書かれている。

非常に珍しい男女の王の並存が中国の歴史書と記紀の双方に表れている。
同じ事を示していると考えるのが普通。
319太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 23:35:00
これは遊びではな〜い。真の年代計測の為の発表と論争なのだ。
現実に2倍暦法は古代マヤ、古代南バビロニアで行使されていたわけで、
>>303 架空創作ではないんだぜ。

オマエ、318年説なんだろう?
320日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:36:20
ていうか、太国と唐松は完全に浮き上がってるし・・・
二人の世界で仲良くケンカしてるだけ。
とくに太国は声がデカくて、唯我独尊だから目立ってるだけ。
321日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:37:52
>>318
ちょっと書き忘れたが、天照大神の岩戸隠れの前が卑弥呼で、岩戸を出て
からが台与ということになる。つまり、卑弥呼と台与の二人の女王が
天照大神ということになる。
322日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:41:51
>>318

文献の類似とかいってるけど、日本書紀、古事記は8世紀の成立だから、
なんの根拠にもならないよ。

それに、文献史学では、天照大神は6世紀以前には存在しなかったことがわかってるわけで、
君は一人相撲してるだけなんだよ。

しかも一説には天照大神は男神とか蛇神とか言われてるし、
古代にさかのぼるほど女神のイメージからはほど遠くなるわけ。
君は知らないし、知ろうともしないだろうが。


323太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 23:42:12
>>320
オマエは撹乱することが脳内なんだろう?
オマエはおそらく318年説で、こちらの論がけむったいから、数字遊び
だとか言いまわして信用度を下落させ、自説防衛をたくらんでいるの
だろう? そうならば、そういうことはオマエの為にならぬから、やめ
ろ。〜そしてもっともっと研究をしろ。
324日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:43:42
>>321

その程度の話で、このスレの連中が「はい、そうですか」なんて傾聴すると思ったら大間違いだろう。
325日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:47:17
>>322
夕方、書き込んだものがあるから再掲すると、

伊勢には斎宮というのがあって、日本書紀によると崇神天皇時代の豊鍬入姫が
最初とされている。その後、倭姫などがいて、南北朝の時代まで続いている。
つまり、伊勢で天照大神を祀る制度は、8世紀どころではなく、そのずっと前
からということになる。これは遺跡も発掘されていたはず。

日本書紀には、天照大神は崇神天皇時代、元々御殿に祀られていたとある。
威光があまりにも強すぎて、移動することになったとある。

しかし、これには大物主が関係している。災いが多発し、反乱が後を絶たず、
これらは大物主の祟りだと考えられた。実際、大物主を祀ると災いは収まった。

どうして大物主が祟るのか。大物主は出雲の神様。天津神の天皇が国津神の
大物主を守り神にするのもおかしい。
しかし、記紀の記述を見ればそれが窺える。出雲は高天原に征服されている。
それを主導したのが天照大神と高皇産霊尊。

この征服の祟りが災いをもたらした。だから、大物主を祀る。しかし、征服した
皇祖の天照大神の処遇に困った。というわけで天照大神は伊勢で祀られる
ようになった。
326太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/04(金) 23:48:07
>>322
天照大御神は神武手前の神代の人物で、超ミス・ユニバース級の美女
だよ。男性説はデタラメだ。

彼女は瓜実顔の柳腰の神々しい気品超高い小柄の女だ。通常は西洋のマリー
・アントワネットの着ていたようなドレス姿だ。その真姿を見るに、自然に
頭が下がる。8世紀の創作説は妄想だ。
327日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:51:11
>>325

そういうのは、全部7〜8世紀の創作なのです。

>大物主は出雲の神様。

これすら、いったい何の証拠があっておっしゃておられるのか?
三輪山から山陰系の土器がたっぷり出てくるならまだしも、
出てくる土器のほとんどは東海系の土器なんだけどね。

328日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:57:26
神話と現実の区別のつかないコテハンの戯れ言と数字遊びは聞き飽きた。
329太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 00:00:41
区別はしてるんだぜ。

神武手前が神話
-------------- ←(区分線)
神武以降が現実


区別はオマエはどこなんだ? 言えないと、オマエこそ区別がつかないと
いうことになるんだがね。ww
330日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:01:27
>>325

倭姫の話をするなら、
その倭姫は伊勢にアマテラスを移すとすぐに大和に帰ったそうだ。(皇太神宮儀式帳)

斎宮にしちゃ、おかしな話だね。
倭姫命世記のほうが、創作だったってことだね。
331日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:08:37
>>325

>日本書紀には、天照大神は崇神天皇時代、元々御殿に祀られていたとある。
>威光があまりにも強すぎて、移動することになったとある。

天照大神の威光なんてありませんでした。

日本書紀に、持統6年閏5月、伊勢大神が税金免除を求めるとあります。

なんと、皇祖神であるはずの天照大神が、朝廷に納める税金が払えなくて免除してって言ってる話が掲載されてます。
天照大神が皇祖神なら、朝廷が伊勢国を手厚く加護すべきでしょ。

持統天皇の時代には、まだ、「伊勢大神」は天照大神とは呼ばれておらず、
皇祖神でもなかった、ただの伊勢の地方神だったわけですね。


332日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:14:04
>>325

伊勢に斎宮を出していたのは事実ですが、
それは、天武天皇が壬申の乱に勝ってからですね。
東国の兵力を借りられたことの返礼でしょうな。

天武以前の天皇は、倭姫以後からずっと伊勢に斎宮を出していたのでしょうか?
ちょっとそういう記録を知りません。
知っていたら教えていただきたいものです。

333太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 00:15:30
風が吹けば桶屋が儲かる式の短絡的結論だな。論の付会に飛びがあるぜ。

zzzzzzzzz・・・・・・
334日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:23:05
>>325

出雲が高天原の天照大神と高皇産霊尊によって征服されたそうですが、
[出雲国造神賀詞]には、高皇産霊尊は出てきますが、天照大神は登場しません。
祝詞には、「高天」って出てくるけど「高天原」は出てこない。

「高天原」も、「天照大神」も、[出雲国造神賀詞]成立以後の創作ってことなんですわ。


335日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:46:22
出雲が高天原(九州)に征服された、なんて、神話のさわりだけ読んでればそう思えるかもしれないけど、
他の文献と着き合わせてみると、矛盾が出まくり。

出雲から銅剣や銅鐸がいっぱい出てるけど、それは出雲が高天原(九州)に征服された後なの?前なの?

前なら、出雲は、西日本中から銅鐸を献納された国ってことになるし、
銅鐸の祭りを放棄したのは、九州からの征服劇とは関係ないってことになる。

後なら、九州の邪馬台国勢力は、九州から出雲を勢力範囲にしてたことを認めることになるよね。
卑弥呼を共立した30国に、出雲も加わってたってことだね。
すると、出雲と交易してたほかの近畿諸国も無関係でいられるわけがない。
卑弥呼共立に参画するか、九州を無視するかしかない。
そして、考古学上は、近畿が九州を無視してたような様子は無いよね。
336日本@名無史さん:2011/02/05(土) 02:14:43
>>334
ネットでググってみたところ、出雲国造神賀詞に高天原は出てくるが?
337日本@名無史さん:2011/02/05(土) 02:53:11
>>307 東遷厨@怨み節

>第二次世界大戦後は、そちらの方ばかりで
>論争を避けてきたといわれる。

具体的に教えてくれw

まあ邪馬台国論争は兎角ヒートアップして泥仕合になるのは確かなんだろうがw
(安本vs古田 もその一つだったのかなw)
その辺が邪馬台国論争を敬遠する学者が多い遠因にもなっている?


かつて畿内説が避けて、そして今もまだ避け続けたきたモノの中に真実があるってお話なんだろう?w

さあ今こそ悪のキナイセツに正義の鉄槌を!www

338日本@名無史さん:2011/02/05(土) 03:58:58
>>337
神武東征神話の亡霊ってやつだろう。いまだに神話を引きずる軍国主義者
みたいな言い方をしていたらしいな。戦争体験者にしてみれば、軍国主義者の
レッテルを貼られると次にどんなレッテルを貼られるか怖かったそうな。

一時期、そういう理由で東遷説が影を潜めたんだろうな。

神武東征神話の亡霊という言い方は、けっこう最近まで見られた。

いまだに、畿内説のやり方は同じようなものだけどな。安本、安本の連呼
なんてのは完全なレッテル貼りだ。
結局、それで論争を避けてきたわけだが、最近の人間には軍国主義者の
レッテル貼りは通用しないから、畿内説にはつらいところだろうな。
339日本@名無史さん:2011/02/05(土) 07:27:28
>>338

なんだ「論争を避けてきたといわれる。 」といってもお前の
「脳内 東遷論者受難の歴史」が根拠かwwwwwww

要するに

「学説として敗北したんじゃない!
 レッテルを貼られて政治的に葬られたんだああああ!」

と言いたいわけだなw

畿内説が一気にひっくり返るような スンゴイネタ があって
それを皆が恐れて見て見ぬふりアンタッチャブルな存在として
闇から闇に葬られた

…とか、壮大なお話を期待したんだが
とんだ竜頭蛇尾 がっくりだwwwww





340レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 08:45:33
>>265
俺のは架空要素の強弱があるので、そのまま信じるのはオススメできません。
他の両氏に関してはそれぞれ持論でがんばってらっしゃるので俺からは特に
オススメも否定もないですね。各人で判断されるのがよろしいでしょう。
>>266
「悪魔の証明」である事が、最低限わかる方で安心しました。議論可能とは
思われますので、俺の架空で気になったり気に食わなかったりした場合は、
どうぞ忌憚無くご指摘頂ければ幸いです。
>>267
論点が多少ずれておられる。俺は「少なくとも想定される卑弥呼の時代」と
限定明言しているので、何も石器時代まで遡れるとまでは言っていない。
わかりやすい文章にするために過大表現でズレを大きくしても、意味合いは
変らない
341日本@名無史さん:2011/02/05(土) 08:52:05
>>336
祝詞本文には「高天」としか出てこないよ。
342レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 08:58:40
>>271
参考文献提示感謝します。両氏のうち筑紫氏の見解は、多少大陸史観を含み
すぎている感想を受けましたので、俺個人は少し毛嫌いしそうな氣がしました
ので、ジックリ調べた上で、後日必要があればコメントいたします。
溝口氏の方ですが、天照7〜8世紀出現の観点は、その論拠を伊勢神宮の月次祭
の祝詞に「天照が不在」と言う点を挙げておられるようですが、同じく伊勢
神宮の同レベルの祭りの神嘗祭においては、余裕で「天照さんは主役」級で
あります。
神嘗祭は、皇極大王の御世からスタートしていますので。この神事に「後
から天照を挿入した」と考えるのも少々違和感を覚える所が残ります。
むしろ、月次祭と神嘗祭における、「天照の役割」の住み分けともとれる訳
でして、その意味ではそれだけを持ってして「天照は天武以降」と考えるの
もイカガナモノカとも思います。神嘗祭の主軸構造を信じるならば、皇極大王
前後には「天照は上層部主要神の一人である」と言う話になるからです。

ま、「景行以降皇極以前」と言う間に狭めさせていただいた俺としては、逆に
ありがたいですが。俺の架空はこれによって揺るぐ話でも無かった訳です。
343日本@名無史さん:2011/02/05(土) 08:59:36
レス長たらし毘古も、空想を考えて書き込む暇があるなら、
当然、文献を調べる暇もあるんだろうね?

いったい、どれくらいの文献に目を通してきたんだい?
”小学生向け日本神話本”だけしか知識のネタが無い様だが?
344日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:04:59
東征とか言ってる人、まだいたんだ?
弥生時代後期〜古墳時代、奈良盆地では南九州の物産が出土してないんだよ?
南九州の豪族がやってきたならば、当然、南九州の方法で土器をつくり、
南九州の方法で統治をしたから、そこかしこが南九州だらけになるはず。
しかし、奈良盆地に南九州の痕跡はまったくないばかりか、
奈良盆地の遺跡が他からの征服者によって破壊された形跡もない。
奈良盆地の弥生時代→古墳時代は出土物の面でも継続していて大きな変化はなく、
これは他からの征服者がいなかったことを意味する。
345日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:08:36
大和が全国各地を征服した形跡はありますか?
346日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:13:05
>>345
5世紀になると畿内を中心に大規模な前方後円墳が作られ、
これが全国に広がる。
畿内が情報発信基地になっていたことがうかがわれ、
各地の酋長がその配下に入って行ったことが分かる。

逆に、畿内の大王が各地を征服した際に、地方酋長を殺して
畿内王の子孫を全国に行かせて統治したとかそういったことはなかった。
各地の遺跡も前の時代と継続しているからだ。
東征説は南九州酋長が自分自身畿内に乗り込んで畿内大王になったというのだから、
それまでの畿内王権の遺跡は破壊され、生活様式は南九州にならなけらば意味がないが、
畿内大王はどこかに移転することなく継続して畿内にいて統治したわけだ。
347レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:13:14
>>272
>文献史学でも、考古学からも、学会では、3世紀の大和(卑弥呼)で太陽
神が祭られてたなんて考えてる人はいない。

貴殿(及びその他の人)が、俺の架空を誤解されてはいないとは思うが、俺が
「天照の日神要素」を抽出したのは「当時太陽信仰が大和か非大和にあった
と言う事を言わんとしての内容ではない」という主張は、先述の如しです。
もう一度俺の架空をまとめると、

@当時(卑弥呼の時代)は大和・非大和どちらにおいても、確実なる日神要素
を保有した天照はまだ登場していない。
A天照の日神要素は、卑弥呼の時代の女王国においてイベント発生し、それが
景行大王以降〜皇極大王の間のどこかで、古事記以前の大和王権神話に組み
込まれた。

これだけしか言及していないんですよ。これは言葉どおりに受け取った上での
指摘なり、反論なり、感想なりでないと、こちらとしても対応し切れない話
となります。
いくら天武天皇・持統天皇懐疑論の俺としても、何が何でも全て一切合財が
二人のせいであるとは考えていません。彼らにしたって、「やれる改竄と
やれない改竄」があった筈だし「やって得する改竄とやると逆に損する改竄」
もあった筈なのです。それらは分けて考える必要があるでしょう。
348日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:13:16
>南九州の豪族がやってきたならば、当然、南九州の方法で土器をつくり

当然などという、そういう決めつけはやめようね
単に発掘されていないだけかもしれんし、
長い年月で、遺跡が風化したのかもしれん
349日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:23:25
>>346
>5世紀になると畿内を中心に大規模な前方後円墳が作られ、
これが全国に広がる。
畿内が情報発信基地になっていたことがうかがわれ、
各地の酋長がその配下に入って行ったことが分かる。

それだけなら、それと言いきれないでしょう
どこか別の地域に発生した前方後円墳が、畿内王権に伝わったかのかもしれませんから
350レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:24:36
ちなみに、神嘗祭においては天照は主要キャストですし、天照不在の月次祭の
主音頭をとっている氏族は中臣氏(後の藤原氏)ですね。
ここらへんも意味深い。普通に、住み分けと、祭りの性格の違いと考える事も
充分可能なのです。
例えば、今の政治の話を充分に書こうとする場合でも、必ずしも天皇陛下の
表記をする必要が無い場合も多いです。だからと言って、将来から見ての現代
つまり「当時」は「天皇陛下はいなかった」とか「政治に全く関係なかった」
と定義できるでしょうか?俺はそうも思えません。
351日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:24:37
>>342

天照大神が後世の創作という根拠はそれだけではない。

「天」という概念そのものが、中国の「天命思想」が由来のものだというのが学会の通説。
違うと思うなら、まず、天照大神と、中国の「天命思想」が別物であると論証すること。

いくらアホでも、「天皇」という言い方が、中国の天命思想の影響で7世紀に作られたものくらいは納得できるだろ?
「天皇」という称号が登場する以前に「天照大神」という名前の神がいたと思うわけ?
文献上でも、古い時代には「伊勢大神」という言い回しがされているわけですよ。
352日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:25:35
>>348
畿内の土器が発掘されているのに
九州の土器が風化して発掘されないなんて馬鹿なことはない。
九州では九州の土器が発掘されるわけだからね。
九州王は畿内を征服するにあたって
九州の武器も衣装も食糧も何も持たずにやってきて
畿内に大規模集落をきずいていた畿内王の征服ができたの?
九州から大勢の兵を引き連れてきたのならば
そこかしこから九州の物品が出土するはずだし、
全くないのは来なかったってことなんだよ。
まず、土器が風化するのか、勉強しようね。
353日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:27:40
そういえば、九州に点在する前方後円墳。
円墳なども同時期と想定されているものがあったり、
すぐ近くで前方後円墳より新しい円墳があったりするようだ。

建造時期の根拠が極めてあやふやなんで、
一概には言えないが、前方後円墳の時代さえ
あまり、墓制が統一されてるようには見えないな。

うちの近所だと、結構大きめの前方後円墳、隣町で大きめの円墳
ちっちゃな前方後円墳。
多分気づきもされていない小さな円墳もいくつか。
354日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:30:09
中国の天命思想により、天の命令によって、大王が地上を支配している根拠に使われる。

天孫降臨、神武東征、ニギハヤヒの帰順、すべてに中国の天命思想の影響が見られるのは明らかなわけでして。

「天皇」の称号が採用された7世紀に、
天孫降臨、神武東征、天照大神などの日本神話が、一気に整形されたと見るしかありません。

>>350のレス長たらし毘古は、この学会の通説にどう反論できるのかな?
355レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:30:32
>>351
ん?貴殿の弁だと、「じゃあ当時はまだ伊勢大神というお名前だった天照さん
がいらっしゃった」と言う話にしかならないのだが?
ま、そこらへんは定義の話だからいいや。先述したとおり、俺の架空の主軸は
「天照の日神要素」の確定が、皇極時代であれ、天武時代であれ、よしんば
余裕で持統時代以後であれ、このどれでも揺らがない話ではあるし。

それに、天命思想とかも全然まだ持ち出していないのだが。俺の架空を物凄く
斜め読みされてるんですねぇ。。。
356日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:31:06
>>353
その後の時代の田畑開発などで古墳が破壊され、
もともと前方後円墳だったものが円墳になっているものも多いよ。
畿内もかなり円墳が多い。
それは、敷地開発でその形状になったものの
あとで航空写真などを見るともとは前方後円墳だったと
推測されているものも多い。
357日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:33:53
>>355

自説が誤解されてると思うなら、
もっと短く簡潔に書けよ。

おまえの論は、そもそも何だ?
358日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:36:02
あれは絶対初めから円墳として作ってるだろう、
と明らかにわかるのが。御塚、権現塚古墳だね。

これはかなりでかいし、すぐお隣りの大善寺玉垂宮
(「おによ」で有名らしい)は多分関係する神社。
359レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:37:49
>>354
学会の通説が「一気に」であっても、それは現実的にはカナリ不自然が大きい
と思うよ。徳川幕府でさえ、明治維新でさえ、戦後日本政府でさえ、そこまで
大きくて達成率の高い「書き換え」は、実質的に不可能だったワケだし。
むしろ「下地がすでにあった」からこそ、「替えれる部分は替えれた」と考え
た方が自然。

ま、俺は別に学会とか学会の通説とかとは無縁な人だからどーでもええけど。

逆に、学会が正しいなら、学会がトットト卑弥呼の墓や卑弥呼の金印くらい
掘り当てればいいんちゃう?としか言い様が無い。

再三言いますが、「天命思想」はまだ俺の架空は言及していませんから、その
面での指摘や批判は、今現在ではアサッテ過ぎます。(ま、だからこそ、
「日神要素」トカ「託宣主義」トカの言い回しをしているワケであって)
360日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:38:05
>>352
それは同じ発掘場からの話
違う場所を発掘したら出てくるかもしれないでしょ
361日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:40:35
ぶっちゃけ、九州北部は前方後円墳が入ってきても
相変わらずばらばらで、今の信教の自由みたいに、
「うちは先祖代々の円墳で祀る」というところもあれば、
新方式の前方後円墳で祀るところもあったんではないか
という見解。

御塚権現塚は4世紀から5世紀と言われているが、
そのころでも、円墳式を大々的にやるような勢力が
残っていたという話。
362日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:43:11
>>341
祝詞本文って、高天能神王からが本文で、それ以前は、後の時代に付加された部分だって言うの?
363レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:48:08
>>357
あれ?最近参加の方ですか?当方は一貫して、邪馬台国は九州東北部って持論
ですが?そしてその権威が後に大和王権が「毘売」と呼んでいるお名前の権威
構造変換によって、大和大王王権に「吸収されて行った」と言う架空持論です
が。それだけですよ。
364日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:50:29
>>363

いいや、おまえは東遷説だろ。

自分で認めたよな?

だから、天照大神にこだわってるんだろうが。

365日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:56:06
宮崎の古墳群も円墳、前方後円墳入り交じってるね。
なんもかんもごった煮状態で、建造方法などが発達していって

そのうち、前方後円墳勢力が飛び出していって
前方後円墳ばかりの純粋勢力が発達する。

とみると、なんだか進化の過程みたいだな。
366レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 09:58:20
>>364
うん、東遷そのものはあったとしている想定。但し、このありかたや時期や
規模に関しては古事記(ましてや日本書紀)は「忠実にリアルを描いていない
」と架空している。

@卑弥呼逸話→日食現象逸話→石屋戸逸話(要素)
A伊勢大神→皇孫祖神逸話→ニニギ〜神武の血脈と日本支配の正当性を担保

この@Aが途中まで、@は九州にて、Aは近畿にて、それぞれ独自に神話体系
を形成し、その合流点が「古事記前後」となる。その際に、「天照」がほとん
ど今の天照になった。この想定。
別に拘っていると言えば拘っているが、拘っていないと言えば拘っていない。
367日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:03:22
九州説よりなんで、畿内説に対抗出来るような
大九州帝国を見つけ出せないかと、いろいろ調べてはいるんだが、
やればやるほど、バラバラ、独立、マイペース。

最近は九州説ばらばら論になっちまった。

弥生中期には激しい戦の痕跡があるので、
弥生後期は、多分、各勢力が自分の土地を守って、
互いに侵略しなけりゃそれでいい、というくらいの
関係にとどまっていたのでは。

それでも、倭国大乱なんかは、何かのはずみに
起こったんだろうけど。
368レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 10:04:57
なぜこの合流がなされたかと言うと、近畿大和が九州を支配下に治めたからで
あって、まぜこの合流が必要になったかと言うと、近畿大和が厳島以西を充分
に統治する大義名分が必要になったから、と、こうなる。

だからその時期は、景行大王以降で皇極大王以前と、こうなる。(広くて
スマン。但し、溝口氏によると、それは天武・持統の頃になる)と、これだけ
の違いですな。それが学会通説と仰るなら、別に学会通説に異論は無いが、
俺個人は「それだとチョット遅すぎな感を持つ」と、こう言っている話。
369日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:08:45
>>368

まだ、論をボカしてるな。
「天照」という語源は、いつ(年代)どこで(九州か畿内)生まれたと思ってるわけかね?

370日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:15:26
>>368

九州の卑弥呼の時代から「天照」という言葉が使われていた。
伊勢には伊勢大神が祭られていた。
両者の神は別物だったが、景行〜皇極後から、「天照」として統合された。

こういうことでいいのかな?
違うなら、ハッキリ違うと書いてくれないと。
371レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 10:17:20
>>369
俺が「ぼかしている」という錯覚を持たれるのは貴殿のご勝手ですが、語源は
むしろ俺の架空ではどうでもいいとまでは言わないが、少なくとも最重要では
無い。「天照」の御名前自体が、どこの「ご当地神話どおりか?」は、俺に
とっては最重要では無いのです。名前そのものの確定は天武・持統の代だと
しても、それはそれで構いませんよ。結果が確定したらその現実は直視します
よ。
俺が重要視しているのは、あくまでも「逸話」のベースとなった出来事と要素
、そしてそれらが、どう紆余曲折を経て、古事記にて取捨選択され、合流した
か、それの方が重要視しているだけですから。

まさか、古事記逸話が100%「どこか外国の逸話群からのみ取り入れた話
ばかり」とお考えですか?現在の通説がどうなっているかは存じませんが、
その想定の方が、とても不自然ですよ。
ま、100%やれるとしたら、それは聖徳太子=蘇我馬子くらいなものでしょう
な。でも彼等は古事記時代においては最早最終勝者でもないし、その意味では
そっちも考え難い。
372日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:19:32
>>366

>@卑弥呼逸話→日食現象逸話→石屋戸逸話(要素)
>A伊勢大神→皇孫祖神逸話→ニニギ〜神武の血脈と日本支配の正当性を担保

3世紀の時点で、神武東征神話は、畿内の神話として成立していたとしているのか?
それなら、東遷説ではなく、石屋戸神話だけを九州から頂いたことになるが?



373日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:19:51
wikipediaより

『日本書紀』においては複数の神名が記載されているのに対し、
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されている。
伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、
祭事の際に神前にて名を唱えるときは
天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
学術的な文書では現在では「アマテラス」と片仮名書きが慣行となっている。


アマテラスの語源は、編纂時期にはまた余り固まってなかったようだね。
374レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 10:25:34
>>370
うむ、そこはまだハッキリ断言できないので、しない。「天照」の名称だけは
まだ断言できないが、そこを「天照の部分要素」としたら、ほぼその解釈で
俺の架空はそのまま解釈されているとなってくる。
また、「合流」もこれも「段階的」と想定していて、その段階を踏んで、
最終的に完全融合確定させたのが、「日本書紀」と言う流れです。

ですので、「その流れはおかしい」と思う・考えるならば、その点を論拠を
持ってご指摘・ご批判頂ければ、浅学のこちらとしてはアリガタイですが、
コチラの言及していない点、架空筋にて掲示していない点で、ご意見受けまし
ても、こちらとしても対応しよう・その必要が無い話にもなります。
375レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 10:35:23
>>372
「石屋戸逸話」にのみ、限定して言えば(元々俺は限定していた筈ですが、
誤解されているという事は、限定しきれてなかったのかとも反省します)
そのとおりです。
東遷説は、大和王権神話・名目上血脈にとっては「不可欠要素」ですので、
それを「古事記〜日本書紀の代だけで大きくいじれた」とは想定しズライ、
と、こうなっております。ハイ。積極的東遷説でなく、消極的東遷説で申し
上げるのはまさしくそのためです。ハイ。
古事記(の少し前)くらいに、「調べてみたら、結果東遷はあったのだろう」
が出発点と架空すると、一部の人には怒られそうではあるが、理論上はそれも
ありえなくもない。
ただ、リアルで無いとしても、東遷そのものが無いと想定すると、古事記以前
の大和神話と、古事記が提唱する大和神話が、あまりに大きく相違する話とも
なるので、それは「想定しズライ」と言う感想です。
古事記と言えば、天武が天皇の座についたばかりの発行書物ですので、万一
その大事な「国史風書物」で、「大きすぎる改竄」があった場合、その王朝
を支える中央地方の諸豪族にとっては、泰山鳴動クラスの大問題となりかね
ません。天武が穏健な政権移譲によって成立した天皇では無いので、そこまで
大きな改竄はムツカシイのでは?と、こう言う類推です。
376日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:46:22
>>375
おまえの論は、わかりにくいな。

神話では、天照大神〜ニニギ降臨〜神武東征〜大和王権成立でしょ?

ところが、>>366ではこう言ってる。
>@卑弥呼逸話→日食現象逸話→石屋戸逸話(要素)
>A伊勢大神→皇孫祖神逸話→ニニギ〜神武の血脈と日本支配の正当性を担保

神武東征は、卑弥呼死後の成立とするなら、東遷説となるが、
おまえは、別系統の神話としてる。

つまり、九州に卑弥呼が存命してるとき、すでに、畿内では神武東征は完了してたという論なのか?
卑弥呼の子孫が神武ではなく、卑弥呼と無関係の神武が2世紀以前に九州から東征したということかね?
いったい、神武東征を何世紀だと考えてるのか?







377日本@名無史さん:2011/02/05(土) 10:52:40
>>351
>「天」という概念そのものが、中国の「天命思想」が由来のものだというのが学会の通説。

これ本当かな。学会の通説の自分流の解釈じゃないの。
「天」という文字は明らかに中国の天命思想からの借用だろうけれど、
そこで語られる内容自体は、天命思想とは全く違うものでしょ。
中国の天命思想で「天」という場合、天そのものが神格あるいは意思を持つ存在として考えられているけれど、
日本神話で天の字が出てくるとき、高天原にしろ、場であって、それ自体が意思を持つ神ではないよね。
文字の借用と内容の差異を混同しているんじゃないの。
378レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 10:58:04
ところが、古事記での改竄挿入が「石屋戸逸話」とか、「豊玉伝説」くらい
を、「コソ〜リ入れた」程度なら、天孫血脈は傷つかないでパワーアップ
できるし、中央地方豪族にとっても「立場論」では過半数や大多数は「ま、
その神話でもOK」と持っていけます。(特に、石屋戸神話は、神々大集合
ですので、それに参加した神を持つ氏族としては、むしろ「新たに大和神話に
列席できた♪」と言う構図にもなります)

まだ、治安が確定していない「天武〜持統」さんたちにとっては、そっちの
方が自然なような気がすると。で、それが現在の学会通説と違うと言われて
も、俺としてはどうとも言いようが無い話でありまして。

従って、俺個人は、古事記において、もし可能な改竄がなされたとしても、
それは「蘇我体制」「天智体制」の面では大きく改竄できた、した、と
しても、「それ以外に延焼するような改竄」は、むしろできない、したく
なかった、と、そう考えた方が自然だと感じるのです。
そう考えると、「東遷は大きくは、いじれないんじゃないかな?」と言う
消極的感想です。名目上の天孫の血脈にまでメスを入れたら、それはいずれ
「自分の身」にも帰ってくるブーメランとも成り得ますからね。
379太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 11:00:06
高天原はタカマガハラでもタカマノハラでもなく、タカアマハラと読む。
これは古事記の註に読み方の説明がある。

この六音は総て五十音図ア段の音韻であり、古神道的にはア段の音のこの
六音以外に存するワナサヤの四音を強調する語が高天原だということ
なのだ。

高天原とはその本来の意味は高次的意味にて上空〜大宇宙の所在を意味
したものであり、抜けてる四音は太陽神アマテラスとの繋がりか、
1年365日余での太陽公転を遠回しに意味したもので、

 366日−365.242日=0.758(←ワナサヤと読める)

の等式を示唆しているものだ。
380日本@名無史さん:2011/02/05(土) 11:01:27
>>378

いいから、はっきり書けよ。
神武東征は卑弥呼の死後なのか、前なのか?



381レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 11:06:44
>>376
>つまり、九州に卑弥呼が存命してるとき、すでに、畿内では神武東征は完了
してたという論なのか?

結論だけ言えば、そうなります。それも、大分前に。そして、その東遷が、
「元の九州における天照要素(前天照)」によって、託宣を受けたので、それ
を根拠に畿内を制圧統治したのが神武(あるいは前後の数代)で、その
イベントが、古事記の頃までには「東遷逸話」として集大成されます。

この前天照が、これが畿内では伊勢大神となり、九州では卑弥呼の登場と
重なり誤解融合されます。で、卑弥呼の逸話の多くが、「石屋戸逸話」と
して、古事記の代(かそれまでに)「再融合」します。
その理由と必要性は先述の如し。
382日本@名無史さん:2011/02/05(土) 11:19:21
>>381

で、卑弥呼が死ぬ前に東征した神武は、
卑弥呼の一族と関係ある人だったのか、無関係なのか、どっちだと考えてるわけ?

「前天照」と言ってるからには、同じ宗教観を共有してた部族の一員てところか?

卑弥呼は北九州にいて、神武は日向から東征したが、
北九州と日向は、「同じ宗教観を共有してた部族」と考えているわけかね?
383レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 11:35:32
>>382
それも先述架空を参照してもらいたい所ではあるが、それも不親切だと思う
のであえて、簡単に言うと。

>「神武が卑弥呼と関係ある人かどうか?」

古事記からによると、これは、「神武は卑弥呼より大分前代の人」であるので
その担保は取れない。(俺の想定では、卑弥呼その人は、神武より後代の開化
時代の頃の人、モモソ様が開化の正式な皇后だったと言う架空)神武にとって
「託宣を出してくれた人」は、あくまでも、卑弥呼よりずっと前の時代の、
九州東北部の「母国の神様」→これが伊勢大神となる。(この時点では性別も
確実に女性であったかどうかも古事記からは担保が取れず微妙)

> 「前天照」と言ってるからには、同じ宗教観を共有してた部族の一員て
ところか?
> 北九州と日向は、「同じ宗教観を共有してた部族」と考えているわけかね?

それは近似YES。ほぼその観点。「神そのもの」が一緒かどうかの担保は
無いが「宗教観は近い」と架空想定できる。その上で、後に他国に女王国と
呼ばれた国と宗教観を近く持つ神武一族(一代か数代にて)が、前天照の託宣
を根拠に、卑弥呼の時代よりずっと以前に近畿制圧を完了。前天照を神の一人
と仰ぐ九州東北部の母国から見て、神武当時の神武の支配地は、まだ「近畿に
ある植民地」と言う位置付けであったと架空(後にソレが逆転する)
384レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 11:43:12
超簡単に言うと、神武の数代子孫の開化の嫁が卑弥呼。と、こうなります。

この事実は、古事記(かそれ以前まで)に、公式記録からは隠されます。

あえて相互関係を、俺の架空筋から言うと、こうなりますね。ハイ。
385日本@名無史さん:2011/02/05(土) 11:53:05
>>384

ちょっとまて。
邪馬台国が九州なのに、開化の嫁が卑弥呼ってどういうこと?

九州の卑弥呼と、畿内の開化が3世紀初頭に婚姻してたというわけ?
386太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 11:59:25
隠すわけがなかろう。なぜか?
神功39年で卑弥呼の記事が書かれている。だから隠したとは言えない。
妄想だな。
387日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:03:08
時を超えて存在する 超時空巫女 卑弥呼 www
388レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:11:42
>>385
スマン。そろそろ離籍なのだが、ご質問は感謝。
俺の妄想架空上は、政略結婚です。どっちもが他のどっちかを「飲み込もう」
とした政略結婚です。卑弥呼(=これを、怒られそうだが、モモソ様と架空)
を正式な妻にした開化は、その死後、「畿内と東北九州」に禍根を残します。

開化の死後、近畿は「女王国」に政略上は飲み込まれかけます。そして、これ
に対しレジスタンスを起こしたのが祟神&大毘古の畿内(の出雲派閥系)の
グループです。ここからは妄想200%ですが、開化と卑弥呼の子がタケハニヤス
王と呼ばれ近畿にて「大王になりかけます(あるいは一旦は大王になった)」

タケハニヤス王の乱〜沙本の乱のトータルが、「卑弥呼亡き後の倭国大乱」と
なる架空です。

倭国大乱の最終勝者は祟神&大毘古なので、タケハニヤス王は皇位継承に不服
で乱をおこした人となり、紗本毘売は兄の紗本毘古の皇位継承戦争に利用され
・巻き込まれてしまった皇后となってしまいます。
389日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:11:49
>>383

>俺の想定では、卑弥呼その人は、神武より後代の開化時代の頃の人、モモソ様が開化の正式な皇后だったと言う架空

>>384

>超簡単に言うと、神武の数代子孫の開化の嫁が卑弥呼。

おまえは分裂症なのか知らんが、言ってる事がむちゃくちゃ。

開化の嫁がモモソヒメで卑弥呼なのか?
卑弥呼は畿内にいたのかね?
それなら畿内説になるわけだが?
390レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:17:55
>>389
淡路島で、会わじ。つまり、もし、この政略結婚が後代まで双方納得できる
円満な政略結婚であったなら、「あう島」であったかも知れない。

嗚呼、逢坂の関は許さじ。

当時は余裕で「通い婚」です。開化が、淡路や厳島、もしくは旅行好きで、
東北九州まで、惚れた女性に会いに行くほど、ロマンチストだったのです。
うんうん。
391レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:22:11
しかし、祟神&大毘古グループにとっては、そもそもそんな婚姻も、ましてや
そんな子供(これは架空です)を「近畿として認めるワケにはいかーん!」

従って、淡路島は逢瀬島ではなく、逢わじ島、と、こうなるワケです。
392日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:24:54
>>388

おまえの論を解読するのが一苦労だな。

ようするにだ。
九州の邪馬台国(女王国)に卑弥呼がいて、
畿内に開化がいた。

九州の卑弥呼と畿内の開化が婚姻した。卑弥呼は、モモソヒメと同一人物。
畿内は九州勢力に飲み込まれそうになったが、祟神&大毘古が反乱して大和王権を興し、九州と力関係が逆転した。
これが卑弥呼死後の大乱で、勝者は大和王権だったと。

邪馬台国は九州にあり、
卑弥呼(モモソ)の存命中は、開化は、九州〜淡路島で通い婚していたわけか。

これで、おまえの論を理解したということで、いいかね?
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 12:25:09
>>381
>結論だけ言えば、そうなります

ここんところにおいては正解だな。
394レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:31:28
>>392
しぶしぶながらでも、一旦はご理解は頂けて幸いです。その理解で当方はOK
です。
但し魏志倭人伝の「卑弥呼着任の経緯」を見てみると、魏晋の外交筋がどう
思ったかは別として、卑弥呼(=モモソ)の拠点は、その母方の母国の淡路島
であったと想定されます。但し、この方が、魏晋の外交筋と謁見なさった場所
は九州東北部です。従って、魏志倭人伝の道筋の最終目的地は九州東北部と、
こうなります。(女王国はこの場合、どう後代に伝わったかは別として、その
支配領域は、九州東北部〜瀬戸内海〜淡路島)と、こうなります。

魏晋と会うときは、その西端の九州東北部で会い。
開化と逢うときは、その東端の淡路島で逢う。 と、こうなります。
395日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:33:55
結論すると、結局
「卑弥呼は畿内のヤマタイ国にいた」
という事だろ。
396日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:41:22
>>394

魏志倭人伝には、卑弥呼は独身と書いてあるが、
魏志倭人伝の記述は、ほとんど信用できないというスタンスでいいわけだね?

東の海を隔てた倭種のことはよくわからないという記述もあるが、これも正しくなかったと。
397レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:41:52
>>395
いや、そこは少し俺の架空とは違って来ます。

卑弥呼は当時は畿外の「おひと」だったのですが、政略結婚の経緯と、祟神&
大毘古のクーデターによって、「畿内のおひとかのように言い伝えられるよう
になってしまった」と言う見解。

卑弥呼までは、邪馬台国>大和王権 で、卑弥呼の時に政略結婚 で、祟神&
大毘古が最終勝者となったものだから、政略結婚のイイトコドリだけして邪馬
台国そのものを「元々大和王権の範囲内だったんだよ」と主張したのです。

卑弥呼の時は邪馬台国(=ヤマト国)の政治重心は九州東北部〜淡路だったの
ですが、これが祟神の時にはヤマト国(邪馬台国?ナニソレ?)の政治重心は
畿内へと移ります。
398レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:49:10
>>396
>魏志倭人伝には、卑弥呼は独身と書いてある
>東の海を隔てた倭種のことはよくわからないという記述

ええ、彼ら(卑弥呼サポーター)にとっては「独身」で、良かったのです。
当時から「二枚舌外交」ですから。
「東の方の国と政略結婚しました」「東の国はこう言う国ですよペラペラ」
なんて情報は、西の方の国には「隠す」と言う外交手段もアリウルかと。
いやむしろ、隠したりウヤムヤにしたりするのが自然かと。「近畿のうまみ」
が大きいとするならなおさら。ただでさえ、出雲と長年近畿を奪い合いしてた
でしょうから。出雲以外に「更なる競争者」は欲しく無い筈ですね。九州東北
部にしても。
399日本@名無史さん:2011/02/05(土) 12:57:57
ようするに、レス長たらし毘古くんは、
純粋な九州説でもないし、東遷説でもない、
ただ畿内説とは言いたくないだけの人のようだな。


九州の卑弥呼と畿内の開化が婚姻してたというのだから、
卑弥呼共立の30国に畿内参画してたということだから、
言ってる歴史観は畿内説となんらかわらん。

卑弥呼が九州にいたから九州説と言ってるだけで、
考古学に疑問を呈してるわけでもない。
400レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 12:58:57
女王様も、女ですから、古今東西の全ての女性と似たような特性があったと
考えると自然です。
あくまでも場合によってはですが、例えば、カレシがいるのに、「いいえ私に
カレシはいませんよ」と言う女性も少なからず多からず、確率発生します。
「女」王としての、この処世術特性を、最大限活用されると言う「女王様」は
これも、古今東西、ある程度の確率でいらっしゃいます。
西の国の人へは「いえ、私は独身です」と言っておいた方が得だった、とも
妄想架空できるワケで。(母系社会と言う前提なら)
401レス長たらし毘古:2011/02/05(土) 13:11:29
>>399
そう理解されても結構。古事記ベースなので、解釈的には畿内説に近いかも
しれない。しかし、地理的には九州が近い。これは、「魏志倭人伝ルート」
の解釈で、「九州東北部に辿り着く可能性が高い」と考えるからです。

これを総合すると、俺の架空筋が有力となって来ます。

古事記の神話期の主たる場面は「西瀬戸内海」なのですから。これとも符号
します。神話時代の「登場範囲」から逆に想定すると、九州東北部を重心と
する範囲と想定する方が自然に思えます。
402日本@名無史さん:2011/02/05(土) 13:23:41
>>401
卑弥呼共立の30国に畿内も参画してたということだから、
邪馬台国連合の範囲は、九州〜東海。
これは畿内説と同じ。

ただ、卑弥呼が九州にいたから、畿内説と言わないだけ。
話を整理するとそうなる。

のこる問題は、「どうして卑弥呼が九州にいたことにしなければいけないのか?」ということ。
おまえは、文献の解釈からそう信じてるのだろう。

文献がどこまで正確なのか?
魏志倭人伝すら正確でないと認めてるおまえは、何を帰順に卑弥呼=モモソ=開化の嫁などと言えるのかね?
架空と言って置けば許されると思ってるのかな?

403日本@名無史さん:2011/02/05(土) 13:40:47
>>352
土器土器というが、例えば、徳川家康が江戸で幕府を開くとき、三河あたりから
土器をどっさり持っていくのか?
江戸から三河あたりの土器が大量に見つかるのか?

そうじゃないだろう。土器なんてのは地元で調達すればいい。あるいは、
周りから土器職人を連れてきて作らせればいい。
だから、土器職人の出身地が重要になる。そう考えるのが普通だろう。

神武東征があったとして、九州から重たい土器をたくさん担いでやって
くると考えるのが無理がある。東海あるいは吉備あたりから人をたくさん
連れてきて土器を作らせればいい。そう考えれば、その地方の土器が
見つかるのもうなづける。
404日本@名無史さん:2011/02/05(土) 13:45:06
モモソ=卑弥呼説なら、
普通に畿内圏(吉備、丹後、大和)の女性、
というのは明白だと思うけど。

神功皇后だって葛城周辺の出だしな。
405日本@名無史さん:2011/02/05(土) 13:48:51
>>403
続き、
そのように考えれば、神武東征のとき、神武天皇は吉備に三年(日本書紀)
あるいは八年(古事記)滞在していたわけだから、吉備の人間を連れてきた
可能性があり、当時の奈良盆地で吉備系の土器が見つかるのも納得がいく。
406日本@名無史さん:2011/02/05(土) 13:55:51
つまり神武東征らしきモノがあったとしたら、
それが瀬戸内海を舞台とした倭国大乱、
それが倭人伝で記載されたとみるのが普通だな。

どちらにしてもヤ三世紀のマタイ国とは大和の事でOKですよ。
407日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:07:25
>>405

東海の土器が多いのだが、神武は大和をとびこえて東海から人を連れてきたのかね?
408日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:07:46
>>406
原田大六さんの説に近いな
409日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:08:15
古事記に、神武天皇に伴ってきた大久米命のことが書かれている。
顔に刺青をしていて、それを見た大和の三輪に住む伊須気余理比売は
奇妙に思ったとある。

どうも大和では、刺青の風習はなかったらしい。
倭人伝の「男子無大小皆黥面文身」の記述と矛盾する。
しかし、神武天皇に伴って東征してきた大久米命は刺青をしていた。ひょっと
したら神武天皇も刺青をしていたのではないかとも考えられる。

こういうことが古事記に書かれていることは、古事記の信憑性を考える上で
重要だと思われる。
410日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:10:15
>>405

それに大和でみつかる各地の土器は4世紀から急に増えるわけじゃないから、
いずれにせよ東遷説はなりたたないぜ。
411日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:12:08
>>407
纏向に関しては、神武天皇との関連性について疑問があるな。
記紀の記述からすれば、その前の饒速日命との関連を考えた方がいいかも
知れない。
ほとんど未開の奈良盆地に最初にやってきたのは饒速日命で、開発のために
東海地方から人をつれてきた可能性が高いと思う。
412日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:14:53
>>411

東遷説は成立しないとなんどいったらわかるんだ?

413日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:20:45
>>412
東遷説がいろんなことを一番合理的に説明できる。
記紀の記述もそうだし、銅鐸の消滅や鏡文化の浸透も説明できる。
古墳は、元々近畿地方にあったものではなく、ある時期を境にいっせいに
全国に波及していく。これも鏡文化と連動していると考えるのが妥当だろう。
414日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:23:15
>>413
>東遷説がいろんなことを一番合理的に説明できる。

小学生なら無理も無いな。


415日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:26:56
>>409
続きだが、記紀の信憑性といえば、神武東征のときに神武天皇が到着した
草香村白肩津も興味深い。記紀が編纂された当時、ここは内陸部になっていた。
つまり、後に陸地になる河内湖が神武東征の時にはまだ存在していたことが
窺える。こんなことが後世に想像で書けるとは思えない。
416日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:27:05
邪馬台国は九州にあって、卑弥呼が女王で天照大神で、
卑弥呼が死ぬと、天岩戸神話が出来て、
(卑弥呼は独身なのに)子孫の神武が大和に東征して、
銅鐸文化を駆逐して、前方後円墳を作って全国に広めましたとさ。




こういう話が、教科書に載ったらうれしいんだろ?

417日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:31:15
>>415

で?
神武は、ナガスネヒコにけちょんけちょんに負けて、紀伊に退散してますな。
兄弟を戦死させるほどだったわけだが、
無敵の鉄器軍団は、以外に弱かったんだねえ。

418日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:35:25
>>417
神武天皇が戦った相手は饒速日命系。
饒速日命は、天岩舟に乗って高天原からやってきた。
神武天皇も高天原系で、記紀にも天神の子同士で同族と書かれている。
長髄彦も、どうして同じ天神の子同士で争わなければならないのですかと
言っている。
419日本@名無史さん:2011/02/05(土) 14:55:08
紀をベースに語っても、国産みは明白に淡路島からですよ。
視点はあくまでも瀬戸内海だから。
九州からの東遷説なんてどんな理論武装しようが成立しないね。
420唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/05(土) 16:49:40
>饒速日命は、天岩舟に乗って高天原からやってきた。

ニニギの命は、天岩舟から降り立った。
饒速日命は、天岩舟から飛び降りた。

ニニギの命はまた天岩舟に戻ることが出来る。
饒速日命に戻るところは無い。

ちゃんと読んでくれ。
421唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/05(土) 16:57:42
伊勢風土記より
天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨(ともがら)、
膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ、
且(また)、天日別命に勅りたまひしく、
「天津の方に國あり。其の國を平(ことむ)けよ」とのりたまひて、

ナガスネ彦は、九州王朝の罪人。
スサノオでさえ殺されなかった。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 18:43:36
九州王朝を否定してた.いた男が、今度は九州王朝肯定だとよ。ppp ppp

畿内兼九州説の男が畿内節だと言い出して、昨今無コテで決まり悪いの
か、今度は九州説でないと説明つかないだとか抜かしていたが、まぁ〜
脳内がウルクル考え変更ばかりで支離滅裂なんだろう?www
423太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/05(土) 18:48:44
>>422 訂正
× 否定してた.いた男
○ 否定していた男

奴も少しは九州に目を向けないとデタラメ論になると、考える暇が
出て来たのか??
424日本@名無史さん:2011/02/06(日) 00:57:35
>>318
>天照大神と卑弥呼の類似性は、記紀の記述と中国の書物の類似性から来ている。
>類似性はたくさんあるが、その一つが梁書の記述で、

>「卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」というもの。

>卑弥呼の宗女である台与を王と為す。その後また男王が立つ。中国の爵命を
>並び受けるというもの。台与と男王が並存している様子がわかる。

これは恥ずかしいレベルの誤読w

「並受中國爵命」とはここで登場している卑弥呼、台与、男王が
みんな中国の王朝から冊封されているという意味
そもそも男王が立ったのは台与の「其後」であって
台与と男王が並存しているなどとは読めない

ちなみに「其後復立男王」というのはいわゆる「倭の五王」のこと
425日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:11:53

トヨタン・・・・・・・・・・
 
426日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:12:47
>>415
>続きだが、記紀の信憑性といえば、神武東征のときに神武天皇が到着した
>草香村白肩津も興味深い。記紀が編纂された当時、ここは内陸部になっていた。
>つまり、後に陸地になる河内湖が神武東征の時にはまだ存在していたことが
>窺える。こんなことが後世に想像で書けるとは思えない。

河内湖は淀川や大和川の堆積作用によってその規模を縮小しながらも
江戸時代の大和川付け替えまではその名残が深野池や新開池として残存していた
奈良時代でも日下は草香江(深野池)の岸辺だよ
427日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:25:55
>>403
>土器土器というが、例えば、徳川家康が江戸で幕府を開くとき、三河あたりから
>土器をどっさり持っていくのか?
>江戸から三河あたりの土器が大量に見つかるのか?

古代末〜中世以降は確実に専門的な集団が商品として
土器などを製造するようになっているので
江戸と三河を例として取り上げるのは不適当

>そうじゃないだろう。土器なんてのは地元で調達すればいい。あるいは、
>周りから土器職人を連れてきて作らせればいい。
>だから、土器職人の出身地が重要になる。そう考えるのが普通だろう。

この時代はそもそも「職人」がいたのかどうかが問題
在地ではなく他地域からもたらされた土器の中には
土器の土も他地域のものが使われているものがあるので
そうしたものは土器そのものが運ばれていると考えざるをえない状況

428日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:33:13
外来土器か、外来土器をまねたものなのかは胎土分析をすればわかる。
429無識爺さん:2011/02/06(日) 05:28:17
どなた様もおはようさんです。 邪馬台国関連のスレに来たのは初めてです。
いやぁこういうスレがあるんですなぁ。
私、30年以上も昔の若い頃にちょっと関心を持っていたことがありますが
安本さんや古田さんのご本を少し齧ったくらいで、その後はずっと今日まで
遠ざかっていました。 邪馬台国論争、いやぁ懐かしいです、ほんと。

あ、年寄りの懐古ひとりごち、失礼。
430無識爺さん:2011/02/06(日) 06:41:47
朝刊でも読もうかと思ったのですが
まだどなた様もご就寝中でしょうから、爺さんの世迷言を少し…。

まだ、この54スレをざっと斜め読みしただけですが、現在では
邪馬台国畿内説が優勢で九州説はどうも苦戦のようですね。
どっちが正しいのか興味津津ですが、ド素人の私が昔に思ったことは
いずれの地にあった、あるいは別の地にあったにせよ

1、「倭」の卑弥呼が他国の複数の史資に記されている以上、実在の人物は確実。
  ならば邪馬台国も確実に日本国内にあった。

2、他国史資には「卑弥呼の」使いが○△…してきた。「卑弥呼が」□×を願ってきた…と。
  卑弥呼は国の実権ある最高権力者の位にある者として外交政治に臨んでいた。 
  これはまごうことなく自国内の地位をそのままに反映していると看做してよい。
  (ですので今流行のトト…モモ…とかいう舌を噛みそうな女人は
   卑弥呼ではない。 なぜなら、トトモモさんは国を代表する最高権力者ではなかった…)

3、記紀ともに人の名前や年代に間違いや政治的な思惑から粉飾歪曲や間違いは十分にありうる。
  しかし、古事記は別としても日本書紀は正史であるから「事柄」は信憑性が高いであろう。
  とりわけ国家の形成に重要な歴史的な事柄は人々の記憶にも長く残るだけでなく
  外交的事柄、対外戦争の帰趨などは相手国がある以上出鱈目・捏造をやりにくい。
 (ですので、東征や半島占拠、任那府などは規模や内容や年代はともかくとして
 そのような歴史的事柄はやはりあったと考える方が、証拠が乏しいとして退けるよりも
  よいと思うのですよ、爺さんは…) 

まぁ、やっぱり世迷言ですけど…。 それにしても皆さん勉強されてますねぇ。驚き。


 
431無識爺さん:2011/02/06(日) 06:54:24
あ、2は昔思ったことではなく、このスレを読んで思ったことです。失礼。

それと、私、九州出身なんですが九州って(特に北九州地方)神功皇后の
事跡や逸話は多いんですが、それ以外に古代の偉大な女人の口伝などはほとんど
聞かないんですよね。まぁ無識な私の寡聞かもしれませんが。あるいは一部の地域の国王で、しかも古すぎて皆の記憶から
消えてしまっているのかもしれませんが。 畿内ではどうなんでしょう。

432無識爺さん:2011/02/06(日) 07:44:40
いいんですかね、新参者のド素人が続けて書いちゃって…とか言いながら続けてますけど。
これまでにも私同様のど素人さんたちからの既出レスかもしれませんが、お尋ねします。
どなた様か詳しい方、教えて下さい。

1、狗奴国は邪馬台国と対抗するために外国勢力と同盟関係にあったのでしょうか。
  それを窺わせるような資・物料が出てきているのでしょうか。
  私、不思議だったんです。もし邪馬台国が北部九州で狗奴国が中九州、とくに熊本地区なら
  邪馬台国に対抗して自分たちも海を渡って大陸に応援を頼むよな〜って。
  これ、畿内の内陸部なら外国勢力との連携ないのはわかりますけどね。
  また、そんな国が狗奴国のバックとして大陸にあったのなら当然倭人伝の狗奴国の
  箇所に出てきたでしょうしね…。 なんでないのかな。狗奴国孤軍奮闘ですよね。

2、邪馬台国が大和政権の前身だとすると、ひとつ解せないんですよね。
  あれほど国の存立の必須条件、錦の御旗とするほどに大陸のバックを
  願っている邪馬台国だったのに、記紀には大陸をバックにしたい!
  自分の権威づけに名実ともにサポートして欲しい!という姿勢が大和
  政権には皆無なんですよね。 記紀編纂時はそうであっても、それまでの
  時代の歩みに大陸大国の恩恵といった表記がほとんどないのはどうしてでしょうか。






433無識爺さん:2011/02/06(日) 08:07:25
3、それから、これは感覚的なことなのでモロ笑われそうですけど
  九州人は関西人と肌があんまり合わないんですよ。嫌いじゃないですよ、ええ。
  私の親戚も関西人でいますから。 でもね、どうもまるっきり違うよな〜って。
  それなのに地名は確かに北部九州と大和とは合うところが多いんです。
  先日参詣してきた太宰府のすぐ後ろにある筑前続風土記にも記されている
  竈門神社の座す宝満山(九州一登山者が多い山です)なんて古代は三笠山と
  呼ばれてたそうですし…。とにかく三輪とかなんとか合うのがとても多い。
  長い年月が経ってるのにこれだけ合う地名が多いのはやはり感覚的に普通じゃ
  ないです。実感としてそう思います。

ん〜、邪馬台国が九州にあって東遷したとしても???だし、もとから畿内だとしても
やっぱりド素人の爺には???なんですよね。無識は情けなかーです。

  
434無識爺さん:2011/02/06(日) 08:09:22
あ、大陸の文化的な恩恵ー仏教伝来とか漢字とかは別ということで…。
435無識爺さん:2011/02/06(日) 08:38:54
もう朝ですけど…どなたか書き込まないんですかね。 いいですか、書いてって、もう書いてますけど。

どうでもいいことですけど…。
私ん家の家計じゃない家系は代々四国の宇和島藩の武家だったそうです。 
父から聞いた話ですが。 −で、寛政の頃からのご先祖様の名前なんか残ってまして
なんでも元々は東北仙台の方らしくてご先祖様が殿様が宇和島藩主になるので
ついてきたらしいんですね。そう仙台伊達家のもう一方の伊達家です。
私、大人になってもそんなこと関心なくて宇和島としか記憶してなかったんです。
で、あるとき時代劇をTVで見てて伊達家の片割れが遠く宇和島にやられるという
ところがあって、それを見て「あっ…あ、そうなのかウチは伊達藩だったのか」って。
それまで伊達藩なんてのも知らなかったんです。ただ明治になって宇和島から出た
曾爺様が九州に来たってことぐらいしか。

あのー、長々とすみません。何が言いたいかって言いますと、400年前の昔ぐらいなら
人はかなり正しく出来事や来歴を限られた信頼できる身内には伝えていけるってことです。
記紀の編纂時から見て卑弥呼の時代は思ったほど昔じゃないし、文盲が多かったとはいえ
その分、口伝の類は今よりもはるかに豊富でしかも確かだったんじゃないかと…。
はい、長く駄文をすみません。<(_ _)>
436日本@名無史さん:2011/02/06(日) 08:56:52
結構いけてるやん
437日本@名無史さん:2011/02/06(日) 08:59:03
もう終わった?

残り少ない人生を邪馬台国で浪費しないほうがいいよ。
特に九州説(笑)
438無識爺さん:2011/02/06(日) 09:03:35
>>436

おおっ、おはようさんです。 ありがとうです。(^.^)

>>437

はい、終わりました。 はは…ま、確かに残り少ないですが。
面白そうなスレなので当分居ようかと…。
年寄りをいじめないで下さいね。(^.^)
439日本@名無史さん:2011/02/06(日) 09:36:29
メ は人ミミズ
440日本@名無史さん:2011/02/06(日) 09:49:07
>>438

まともな話をしたいなら、まともな本を一読してきてくれないかな?
文献がらみで離したいなら、
「日本書紀の読み方」(遠山美都男編)がおすすめ。
文献史学会の常識が身につく。

無知なまま、自分の空想を語ってボロクソに叩かれるのは時間の無駄ですよ。
441日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:36:55
>>432-433
1.
狗奴国の実情について、狗奴国の場所が全く定まってないので、検討しようがありません。
東海地方という説が有力ですが、そうなると、大陸との関係を考えることは難しい。

2.
記紀が、大陸を権威付けにしたいという記述が無いのはなぜか?
おそらく、どこの発展途上国でも自国の歴史書で、宗主国の威を借りて建国を語るようなことは無いのではないでしょうか?
「○○国の歴史書では××国の権威をかさにきて建国の様子が書かれている」一例でも知っていますか?
どこの国でも建国の歴史でも、自国の王を褒め称えることから始まるはずです。
歴史書とはそういうものです。

3.
地名の一致のことなら、大宰府ができたときに中央の役人が大勢九州に行きましたから、
そのときに奈良の地名を九州につけたと考えられれます。
三輪の地名は明らかに奈良のものなので、九州に三輪の地名があるなら、
九州の地名がオリジナルではないという証拠です。


442愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/06(日) 10:46:34
>>432
2.について
5世紀の「倭の五王」時代には、大陸をバックにしたかったようですけどね。
うまく行かなくて独自の小帝国を目指したのでしょう。
倭の五王については太国氏のように九州王朝と考える人もいますが、
武=雄略(〜タケル)だけでなく
済=允恭(〜スクネ→スクフ→救済)
珍=反正(ミズ〜→見ず→珍しい)
賛=應神(ホム〜→誉める)など組織的に名前が一致することや、
彌=仁徳、讃=履中とすると應神・仁徳の「兄弟」を除いて系譜も一致すること、
記紀にも應神〜雄略時代に「呉」との交流が書かれていることから
私はヤマト王権と考えています。
443無識爺さん:2011/02/06(日) 10:47:12
>>440

参考書籍のお勧めありがとうございます。 
ーで、ちょっと遠山美都男氏についてググってみましたが気鋭の古代史家なんですね。
初めて知りました。 是非読んでみたいと思います。

ただ、読んでいないうちから申すのもなんですが、この先生は
1、卑弥呼には政治的実権がなく弟が持っていた。
2、女王ではない

ーと別の著書で説かれているそうですね。 

うーん、どうなんでしょうか。 両方とも440様の仰る文献重視の観点から
見ても論外なように(あ、碩学への失礼は重々承知の上ですが(^_^;))思うのですが。

理由) 上にも書きましたが、卑弥呼は国を代表して外交を行っています。
    外交とは政治そのものであり宗教的なものだけを司る者が使者を
    【自分を代表者として】国外へ送ることはないと思います。
    何よりも邪馬台国の現地に滞在していた魏の使者が卑弥呼以外の
    最高政治権力者の名を報告していません。少なくとも倭人伝には見当たりません。
    卑弥呼が政治的にも最高権力者だったと見る方が文献的にも素直な解釈だと思います。
    それに、伝聞ではなく在倭の駐日大使?である魏の役人が【女王】だと御国に報告
    している文献事実を「そうではない、誤解で女王ではない」と覆す方が私には無理筋の
    ような気がします。 
    そのような方が書かれた本で文献を読む正しい常識が身につくでしょうか、やや不安です(^_^;)
    
    ですけど、親切なお勧めとご忠告は感謝します。ありがとうございます。  
    ちょっと不快な反論めいたレスになってすみません。
  
    送ると弟が
444日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:51:32
>>430
>なぜなら、トトモモさんは国を代表する最高権力者ではなかった…)

>記紀ともに人の名前や年代に間違いや政治的な思惑から粉飾歪曲や間違いは十分にありうる。

前段と後段で、考え方が矛盾してますね。
記紀に粉飾や間違いがあることを認めるなら、モモソヒメが「国を代表する最高権力者ではなかった」などと決め付けられるはずがありません。

恣意的に、文献の記述を「あれは正しい」「これは間違い」などとやりだすと何でもありになります。
無駄な議論の応酬になります。

ここで事実としてあるのは、魏志倭人伝も、記紀も、記述の全てを信用できないということです。
極論を言えば、邪馬台国という国があったかどうかもわからず、卑弥呼という女王もいたかどうかわからない。
モモソヒメも創作かもしれませんし、古代の天皇は、当然実在しませんでした。

ならば、3世紀の日本の実情を知る手がかりは、考古学のみであり、
考古学の成果によって、3世紀から畿内を中心に王権が生まれつつあったことがわかっているので、
中国の歴史書に3世紀の倭の女王が書かれているなら、それは畿内の女王だと結論するしかありません。

九州に、畿内王権とは独立した九州王権があってそこに卑弥呼がいたというなら、
3世紀の段階で、九州と畿内が政治的に断絶していたことを証明する必要があります。



445日本@名無史さん:2011/02/06(日) 10:58:09
>>443

日本という国は特殊な政治状況があって、
江戸時代でも実質は武士が支配していますが、一番偉い人は天皇です。

現在でも、日本の王は天皇で、外交官は天皇に挨拶にいきますが、
実質的には政治を担ってるのは民主党です。

中国の歴史書に、卑弥呼が女王と書かれていても、
政治的実権が全て卑弥呼にあったと言えるものではありません。
446日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:09:47
>>443
>文献を読む正しい常識

正しい常識とは「文献を素直に読む」ことではありません。
文献を批判して疑ってかかる、否定してかかることが、文献の正しい読み方です。

そして、どうしても否定しきれない要素が見出せたなら、そこに真実があるわけです。
447無識爺さん:2011/02/06(日) 11:23:07
うわわ…
いろんな方がレスで回答下さってありがとうございます。
ちょっと返信レスがついていけなくて、慌てています。

>>441さん

1、まだ、大陸の影を窺わせるものは出ていないのですね。ありがとうございます。
2、>「○○国の歴史書では××国の権威をかさにきて建国の様子が書かれている」一例でも知っていますか?
  勉強不足で詳しくは知りませんが、我が国は某大国の縁戚であるとか出自の流れを組むとかなら
  普通に多くの国の史書でもあるんじゃないでしょうか。
  ちなみに建国話ではないですが、某国の「大清属国」の国旗なら知ってます。
  
3、奈良の役人が大勢…同じ地名を付けた。ですか。九州以外にも奈良の役人は行ってますが
  他所へ行った役人は他所ではやらなかったのでしょうか。 
  当然に奈良の地名かどうかに議論の余地があるからこそ問題提起されていると思えるのですが。
  それに北九州の地は日本国の中でもっとも早く(つまり古く)開けた土地といってもよいと思います。
  そこに新たな地名を植え付ける方が他所の未開の地に植え付けるよりは難しいと思うのですが。
448日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:23:16
>>443
至極真っ当な感想だと思います。


>>445
3世紀の状況を江戸や現代の政治状況から類推するのは無茶ですよ。
特に武家政権以降、天皇と実力者の二重構造は日本の常道になってる観があるけれど、
よりはるか昔の3世紀まで、同じだった証拠は何もないから。


>>446
>文献を批判して疑ってかかる、否定してかかることが、文献の正しい読み方です。

それは違うでしょ。文献批判ってのは、疑うとか否定することじゃないでしょ。
倭人伝の記述だけでは、政治的実権が卑弥呼ではなく弟にあったなんて、
断言しようがないのに、そう言い切るのは、
文献批判じゃなくて勝手な想像ですよ。
449無識爺さん:2011/02/06(日) 11:23:57
>>442さん

五王については全く無識です。 よくわかりませんがありがとうございます。

>>444さん

>記紀に粉飾や間違いがあることを認めるなら、モモソヒメが「国を代表する
>最高権力者ではなかった」などと決め付けられるはずがありません。

決めつけているわけではありませんが、記紀を一応正しいものとして素直に読めば
卑弥呼は最高権力者でトトモモさんはそうでないと言えますよね。
ーというだけなんですが。

>恣意的に、文献の記述を「あれは正しい」「これは間違い」などとやりだすと何でもありになります。
無駄な議論の応酬になります。

仰るとおりですね。気をつけたいです。

>考古学のみ 
その考古学が全く当てにならないと言われているのではないのでしょうか。
文献も検証なしの過信は×ですし、考古学も厳しい科学的な検証を受けなければ
結論つけるのは早計の誹りを後世に受ける惧れがありますよね。
それと、私は九州王朝があったとか考えていません。今のところ九州説も畿内説も
どちらかに手を上げるだけの知識もなにもありませんので。

丁寧なレス、ありがとうございます。

450太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 11:24:37
勿論全部正しいとは言えないことは確かだな。が〜、
疑ってかかってばかりいると、架空創作だの考えにはまり、道を誤る。
古代史の文献は探偵小説ではない。
451無識爺さん:2011/02/06(日) 11:25:50
>>442さん

五王については全く無識です。 よくわかりませんがありがとうございます。

>>444さん

>記紀に粉飾や間違いがあることを認めるなら、モモソヒメが「国を代表する
>最高権力者ではなかった」などと決め付けられるはずがありません。

決めつけているわけではありませんが、記紀を一応正しいものとして素直に読めば
卑弥呼は最高権力者でトトモモさんはそうでないと言えますよね。
ーというだけなんですが。

>恣意的に、文献の記述を「あれは正しい」「これは間違い」などとやりだすと何でもありになります。
無駄な議論の応酬になります。

仰るとおりですね。気をつけたいです。

>考古学のみ 
その考古学が全く当てにならないと言われているのではないのでしょうか。
文献も検証なしの過信は×ですし、考古学も厳しい科学的な検証を受けなければ
結論つけるのは早計の誹りを後世に受ける惧れがありますよね。
それと、私は九州王朝があったとか考えていません。今のところ九州説も畿内説も
どちらかに手を上げるだけの知識もなにもありませんので。

丁寧なレス、ありがとうございます。

452無識爺さん:2011/02/06(日) 11:27:21
かぶりました。失礼しました。

これから出かけますので降ります。
453日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:38:49
遠山美都男氏について知らない人が多いのかな?

学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士後期課程中退。学習院大学文学部助手、学習院大学講師を経て、学習院大学・立教大学・日本大学非常勤講師。
(Wikipedia)

NHKなんかで、古代歴史特番をしたときなど、解説者として出演もしてる。
一番、尊敬され信頼されている、古代史研究の第一人者ですよ。

その人の研究を素人がああだこうだ言えるわけですか?
実のほど知らずもたいがいにしないと自分が恥をかくだけです。
454日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:46:54
>>453
NHkなんかで名を売ってる時点で、逆にちょっと不安を覚えるんだけどな。
少なくとも、倭人伝からは
>1、卑弥呼には政治的実権がなく弟が持っていた。
>2、女王ではない
とは断言できない。
まあ、想像として書く分にはいいけれど、
こうだったと断言してしまうと文献学ではなくなる。
455日本@名無史さん:2011/02/06(日) 11:50:40
卑弥呼が政治的実権をすべて握ってたなんて、畿内説はおろか九州説でも、
そんなこと考えてる人はいないでしょ。

誰かいるの?
456唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 12:14:15
卑弥呼は329年朝貢の時の大王である、しかし
翌年の正始元年の朝貢は大和であり、倭王と呼ばれる。
457日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:34:00
329年?
458日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:36:53
無識爺さん 初登場おめ

30年前の邪馬台国論争か
459太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 12:39:16
239年のミス書きこみか? 多分そうだろうが?
奴は頭が転倒したのかと思ったが?
460日本@名無史さん:2011/02/06(日) 12:41:41
うぉお 愛知県民さんだー!

数多くの歴史を作った有名人の登場ですが
影が薄いのか・・・みなさんの反応がイマイチw
461太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 12:49:07
>>442 愛知県民さん
五王が天皇だと考えることで、彼らと貴方の考える対応する天皇での
編年をやってみるといいですよ。合わないとなれば、天皇ではないことと
なりますが。
462唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 12:58:23
訂正 
×卑弥呼は329年朝貢の時の大王である、
○卑弥呼は239年朝貢の時の大王である、
スマソ

卑弥呼をモモソ姫として、纒向遺跡を説明した人はいない。
モモソ姫は、伽耶建国210年以前の人間である。
つまり崇神は任那建国前の”鉄を持たない”纒向遺跡の王である。
時代は弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される。=崇神6年
2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が集まる。=崇神11年
この時点でモモソ姫の箸塚。
210年 伽耶建国 =崇神世の任那建国。
崇神末から鉄が纒向遺跡に流入する。
纒向の墳墓が大きくなる=石塚等。

463愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/06(日) 13:24:36
>>460
最近は数学板に名無しで書き込んだりしています。
久しぶりに気になったので。
太国さんに聞いてみたいですが、古神道では円周率計算も進んでいたのですか?
通説では江戸時代に関孝和が正131072角形を使って小数第11位まで算出したとされていますが。

>>461
そうですねえ。年代以前に、應神と仁徳の関係も合わないですよね。
應神については日本書紀に埋葬記事が無い問題があったり、
古事記と日本書紀で應神と仁徳の記事が入れ替わっていたり、
謎が多いことは言えますが・・・私の説も仮説です。

>>462
箸墓は2世紀末まで遡上ですか?
464唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 13:37:25
>應神と仁徳の記事が入れ替わっていたり、
神功皇后 275年〜344年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場は少し後。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
  応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。名前の入れ替えがある。
   新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず、ウジノワキイラッコへの嫁ぎ?
   新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退、応神かイザホワケ?か
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。初期は仁徳であるが後期は名前の入れ替え。
364年 新羅、倭兵が大挙して侵入。仁徳五三年(乙丑三六五)新羅へ派兵。
372年 百済へ東晋の册封使、仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神天皇二八年 371年 高麗王遣使朝貢。

西暦になおせば入れ替わる。
これは、書紀が允恭時代のクガダチで説明される。

465唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 13:52:42
モモソ姫の葬儀には、別の意味が込められている。
それは、唐古・鍵遺跡が放棄された問題とからむ。
193年 前年の凶作は春に飢餓の頂点に達する。ここで行われるのが 食人。
環濠の中で、それは行われ、最終的に環濠から人々が消える。
この餓死、食人の法要として、箸塚=モモソ姫。大量の民が石を積む。
唐古・鍵は清掃されたが、民が戻ることは無かった。
466日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:01:34
三河の田舎大名が天下を取って260年も続いたように、神武も当初は九州の小豪族に過ぎなかった。
それが東征する過程で犬、猿、雉に象徴される豪族を服従しては家来にし、勢力を拡大していった。
アレキサンダー大王の東方遠征もジンギスカンの蒙古大帝国も、征服した部族を手足として使う才覚に優れていたことが成功の要因。
アレキサンドリアは古都だけれど、世界の中心とするほどのものではないし、ジンギスカンのような遊牧民はそもそも定住地というものがない。
だから、九州の神武出発の地である高千穂には大した遺跡が残っていないのだ。
しかも、高千穂は朝鮮半島から渡来した神武の祖先が一時的に移り住んだ地で、都を置くには十分な人口扶持力がなかった。
そのために、野口さんのような冒険家の先兵隊に神仙の住む桃源郷村=奈良盆地を探させたのだ。
467唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 14:04:17
239年に伽耶(狗邪韓国)は存在する。
この時代に崇神を配しても、任那建国は無い。

だから文献史学は、考古学の云う50年遡上に付き合わねば、整合性を得られない。
468日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:08:42
纒向で大量の桃の種が出土して、そこが吉備からやってきた百襲姫の都だったことがはっきりしたし、
特殊器台の分布からしても、神武は、吉備勢力を征服した後、吉備の先進の文化を受け入れてそれを活用している。
奈良盆地に桃の木を植林してそこを桃源郷村に変えたのだろう。
469唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/06(日) 14:18:04
卑弥呼の墓に100人の奴卑の殉葬
モモソ姫の墓に100人の遺骨の副葬

青谷上寺地遺跡の100人の遺骨は濠に捨てられ、自然の猛威がそれを覆う。
470愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/06(日) 14:30:34
寺沢薫氏は「王権誕生」で纏向と吉備・播磨・讃岐など東瀬戸内とのつながりを第一とし、次が北部九州、
近畿の要素はずっと少ない・・・としながら
「筑備播讃」というキャッチフレーズでは「筑」を先頭にしているので、何らかの意図あり?と思ってしまう。
吉備・播磨とのつながりでは、古事記の欠史八代、特に安寧・孝霊の記事が注目される。
淡路島生まれのオオヤマトクニアレヒメ、その親はワチツミ(ワタツミ?)で二人の娘がいて孝霊に嫁ぎ
息子・吉備津彦の西征。国生み神話や神武東征に似ている。
讃岐にモモソヒメがいたという田村神社の伝承も面白い。
471太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 14:49:49
>>463 愛知県民さん
古神道は古代の当時の朝廷の信仰でしょう。神武紀には179万余年の記載
もありますし、神代関係では八百万神とか 8000000数 も登場していま
すし「太兆」(フトマニ)の漢字にも兆 1000000000000数 もその漢字
には存在します。また仁賢天皇は億計尊と称し、億 1000000000 の計算
をするぞという尊称です。出来たんでしょうね。古代マヤなんかべらぼう
に大数を計算してますし、けっこうやってできてたと想いますよ。
472愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/06(日) 15:05:04
考えてみると日本書紀の暦日干支にしても、1360年間とか遡って合っている。
干支の間違いがところどころにあるが、後に影響は与えていないという。
この辺りは議論のあるところですが、また・・・
GRRR・・・
473太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 15:06:02
>>463 愛知県民さん
天津神算木の数式は、それがしの感ずるところ、その使用はいまのところ
天津菅曾(右辺)30桁迄です。それより狭小な31桁以降の使用があるのか
どうかは、いまのところ不明です?

さて倍暦の終焉は天津神算木(天津金木)から(r=3;**はべき)

 4πr**3/3=113.09733552923・・・
  4πr**2 = 113.09733552923・・・

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3=113.097335
 2=113.097335

1/13 B.C97年 崇神天皇 即位 はいつもの通り、これの主値です。ここで

 右辺末尾335の逆数 533 から左辺の2または3 を加えると

 533+2=535年=倍暦終焉末年=宣化即位年
 533+3=536年=恒久的通常暦開始年=宣化元年

 
474太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 15:24:55
>>473 訂正
× 2=113.097335  3=113.097335

○ 2≠113.097335  3≠113.097335
475日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:17:39
九州にあったと思うよ 
畿内説も東遷もありえない
九州にあった大和朝廷とは関係ない国だよ
まきむくはすじん天皇の都だから
大和朝廷が北九州を支配下に置いたのは神功皇后のときでずっとあとだよ
まきむくが伊都国や奴国を支配していたという証拠でも出たの
476日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:43:21
女王国との境界線は奴国ですから。
邪馬台国はヤマトと隋書にかかれてるわけだから無関係ではないな。
477日本@名無史さん:2011/02/06(日) 20:18:17
邪馬台国が大和国に滅ぼされたのだとしたら
邪馬台国に住んでた人たちはどこに行ったのですか?
478日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:48:50
>>477

そういう考え方から抜け出すべきだね。

1世紀までは九州と畿内は別のクニだった。
しかし、2世紀末に、九州と畿内は同盟を結び、
畿内の女王・卑弥呼の率いるヤマト王権の傘下に入ったということ。

九州はヤマトに滅ぼされたわけじゃない。
ヤマトと同盟することが利すると九州は考えたのさ。

九州から見たら、九州は、朝鮮半島勢力と、近畿勢力の狭間にある小国でしかないってことを、
地図をよくみて理解すべし。
479日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:14:08
>>429
うれしの先生ですかw
あんたただ者じゃないでしょお〜。
480日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:31:35
>>478
半島、中国と独占的に交易出来るメリットは、簡単には手放さないだろうね。
近畿勢力?が自生で発生し得るのかは?だが、東アジアの政情と関連づけられるかどうかだね。
481日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:37:24
>>480

でも、4世紀には確実にヤマト王権の傘下に九州は入りましたが?

3世紀と何か状況が違うんですか?
482日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:54:13
>>481
4世紀に「ヤマト王権」が成立していて、九州を傘下?に入れていたと仮定すると、
2世紀末?〜4世紀も状況が同じことになるのですか?
483日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:55:49
>>432

1、狗奴国は、邪馬台国軍により海外との密通を阻まれていたことでしょう。
  それでも呉国は日本列島や朝鮮半島に出没し、チャンスを狙っていたことでしょう。

2、大和政権は、九州政権系天武天皇が唐軍や従唐する倭軍に荒らされた九州を
  嫌気して、畿内に樹立した国家です。生粋の「反唐」政権ですから当然です。

3、天武に支配された畿内土着勢力は、徐々に九州政権系人脈を排除することに成功、
  根っからの畿内人が支配するようになり、文化の九州化を阻止しました。
484:2011/02/06(日) 23:05:48
原田大六氏は「実在した神話」の中で、伊都国の平原墳墓の主を巫女的な要素を持つ
女王と推察し、被葬者を玉依ヒメ、又の名を大日孁貴尊(おおひるめのむち)としました。
そしてこの遺跡から赤メノウ製管玉(国宝)が出土しています。
http://www.stonesbazar.com/items/7894.html

伊都国歴史博物館で展示されてるものを生で観てきたことがあるんですが、
本当に素晴らしいもので興味有る人はいってほしいね。
そして古事記の豊玉ヒメが夫である日子穗穗手見命に向け、妹の玉依ヒメに与えた歌があって

赤玉(あかだま)は 緒さへ光れど 白玉(しらたま)の 君が装ひし 貴くありけり

上記した伊都国王墓の出土品とこの古事記の赤玉は関係があるのかもしれない。
485日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:14:10
皆さん「夏の大三角形」ってご存知?
夏の夜空に明るく輝く星3つ。それを結ぶと三角形になるんだけど
その内の1つ
はくちょう座のデネブは1800年前の光だそうですよ、あなた。
卑弥呼が活躍してた頃生まれて、長〜い事旅してきたんですな。
論争に疲れた時・辛い時・二日酔いのムカつき時なんかには
この星を見上げしみじみしたらどうでしょう。

今見えるかはしらないけども。
486日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:15:46
>>479
>あんたただ者じゃないでしょお〜

スルドイ。
なんせ当時倭から魏に銅鐸を納めたことを発見した人です。
487日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:24:36
>>486
残念ですよお〜あなたの洞察は。
水どうでしょうですよぉ。
488無識爺さん:2011/02/07(月) 00:06:57
>>479さん、486さん

う、うれしの先生? どなたですかその方。
>魏に銅鐸を納めたことを発見した人…え、えっ(@_@;) 
冗談にきまってますよね。新人からかいの。
混じりっけなし、正真正銘のモロただの爺です。

>>483さん

432,433への回答ありがとうございます。
1、狗奴国が九州南部なら大陸国と通じることを邪馬台国が阻止することは難しいと思います。
  海岸線を封鎖することはできません。
2、>大和朝廷は生粋の「反唐」政権ですから当然です。
  え? 白村江で戦いはしましたが、大和政権は唐とは良い関係に腐心しましたよ。
  日本書記が成立した少し前にも阿倍仲麻呂や吉備真備などが遣唐使で行ってますけども。
3、東遷が事実なら畿内で次第に土着化したのは事実でしょうが、…うーんどうなんでしょう。
489日本@名無史さん:2011/02/07(月) 00:41:41
倭人伝そのものが創作であるという疑いってないの?
つか、逆に言えば当時の日本の情勢を物語った真相であるという保証はあるの?
490日本@名無史さん:2011/02/07(月) 00:41:49
>>483みたいなトンデモにまともにレスしてるようじゃダメだなあ。じいさん。
491日本@名無史さん:2011/02/07(月) 02:20:38
>>489
魏志倭人伝は、中国の正史であって、しかも皇帝が登場して外国の王に冠位を
授けたという外交上の記録なので、最も信頼できるものといわれるな。
492無識爺さん:2011/02/07(月) 02:36:08
>>489

ま、その、ニューフェースですし…((^_^;)
493無識爺さん:2011/02/07(月) 02:46:55
訂正: >>489 → >>490さん

ところで邪馬台国の読み方はこの30年で収斂してきたんでしょうか。

494日本@名無史さん:2011/02/07(月) 03:27:06
個人的にはヤマタイなんて言い方は
今は便宜上使ってるだけだな。

ヤマイチでもヤマトでもどちらでも。
ヤマイチなら箸墓が大市と呼ばれる場所との関連性もある。
495日本@名無史さん:2011/02/07(月) 08:02:01
>>493
相変わらずヤマタイコクだろう。
畿内説としてはヤマトにしたほうが良いように思うし、むしろこだわりそうな
ものだが、どういうわけかヤマタイコクのままだな。

ひょっとして、九州説が現実味を帯びてきたとき、ヤマトでは東遷説に
なってしまうからかもしれないな。
496日本@名無史さん:2011/02/07(月) 08:53:10
>九州説が現実味を帯びてきたとき

ちょっと考えられないけどなw
497日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:19:44
後漢書に載ってるのは「邪馬臺国」
「臺」と「台」は当時は別字。

「台」はトと読めるが、「臺」はトと読めない。
万葉集、日本書紀でも「臺」をトと読んだ例はない。
498日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:50:40
>>488
1、狗奴国は九州南部ではないでしょう。
  海岸線の封鎖ではなく、密通の阻止をしたはずです。
2、土着畿内政権は、「親唐&親新羅」政権です。
   九州系政権は、「嫌唐&嫌新羅」政権です。
3、天武系(=九州政権系)天皇は、桓武天皇あたりで断絶します。
499日本@名無史さん:2011/02/07(月) 10:01:44
寺沢薫氏は「王権誕生」で纏向と吉備・播磨・讃岐など東瀬戸内とのつながりを第一とし、次が北部九州、
近畿の要素はずっと少ない・・・とする。こんな中で、どうして畿内説が成立すると思うのかな。
500日本@名無史さん:2011/02/07(月) 10:16:34
>>495 
変わってませんね。読み方まだ合意するには至ってないということですね。
ヤマトと読むと畿内説は東遷の可能性を残すことになって都合が悪いということですか。
なるほど。 
たしかに九州にはヤマトと呼んでいる(呼べる)地名がいくつもありますが畿内には一つしかないですよね。




>>498

密通ですか…(^_^;) 
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 10:20:39
192年 倭国大餓 青谷上寺地遺跡では食人が行われ、この少し前に渡来した人々の
社会(日本海側の鉄器文化)が崩壊する。
210年 任那建国
217年 垂仁元年
これ以降 吉備・播磨・讃岐などは、鉄を求めて大和に集まる。
502太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 10:42:49
217年≠垂仁元年

記の崇神没年=258年 説がほぼ真であり、
垂仁元年はおおむね1〜2年後であるから、上(1段目)の不等式が
正解である。

258年ということは、菅政友、橋本増吉、那珂博士、原静岡大学名誉教授、
改め氏の考察がほぼ真だったということになり、酋長の主張は成立しない。
503唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 10:47:08
崇神没年=258年で任那建国が無い。
504日本@名無史さん:2011/02/07(月) 11:00:53
ところで、卑弥呼は邪馬台国の女王にして邪馬台国を含む周辺連合国家の女王という位置づけですよね。
邪馬台国はもともと男王が治めていたが…とありますので卑弥呼が初めて邪馬台国の女王になったことは
確実ですが、そこで私が昔疑問に思っていたことは、倭国が乱れ戦が続いたために周辺連合国家が共立
して卑弥呼を倭国の女王とした記述です。
これってどう理解すればいいのでしょうか。つまり

卑弥呼は邪馬台国の女王になった後に連合国家の代表にもなった(A)
連合国家の代表に邪馬台国の卑弥呼が選ばれたことによって代々続いた邪馬台国の男王から
邪馬台国は女王を戴くようになった(B) どっちなんでしょう。
ーというのは倭人伝に記術は邪馬台国の王について「もともと男王だった」とか説明して
書き始めているのに、いつのまにか連合国家としての代表として女王が共立された…という
記述に変わってますよね。だから「えー、これどっちのことなんだ?」って思ってたんです。

普通は、「もともと邪馬台国は男の王が続いたが【邪馬台国(内)】がうち続く戦で乱れたので
初めて女王を立てることによって争いが納まった。」って書きますよね。邪馬台国の女王の話だから。
それが連合国家の女王になってるんですよね。でも、邪馬台国の女王とされてる。
だから?両方なのだろうけど、なんだかよくわからんな?と思ってるんですが。

どなたか教えてください。
     
505日本@名無史さん:2011/02/07(月) 11:13:40
それと、これに関連してですが
倭人伝を読む限り「倭」国とはこの邪馬台国連合国家全体(広義の邪馬台国?)を指して
いるようですが、そうすると卑弥呼の後を継いだ壹與といのはどの国から
選ばれたのでしょうか。 昔の私の知る限り豊能出自は当然に邪馬台国とされて
いたように思うのですが、それって連合国家の2代目女王なんだから卑弥呼と同じ邪馬台国(狭義)
から選ばれたとは限らんよなーと思ってました。何かこれについての専門家あたりの見解や議論は
あるのでしょうか。 なにせ浦島状態ですので(^_^;)。
506無識爺さん:2011/02/07(月) 11:19:38
コテ忘れてました。
>>500、504、505は私です。すみません。
507太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 11:20:07
>>503
無いのはオマエの妄想説からだ。関係無い。どうせ120年も断層があるん
じゃぁ、向こうの年代が動くのは当たり前。いつまでもやってろ!ww

原静岡大学名誉教授の言い分の〜258年説がほぼ真だ。
508日本@名無史さん:2011/02/07(月) 11:29:13
>>504-505

そんなこと聞いてどうするの?

空想で答えることはできるが、すぐに誰かから反論が出るだろうし、
誰の意見が正しいかなんて、あなたがどうして判断できるわけ?

専門家は、そういう無駄な議論はしないよ。
509唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 11:31:52
>卑弥呼を倭国の女王とした記述です。これってどう理解すればいいのでしょうか。

後漢の時代まで倭国=奴国であった。
魏が訪れるのも当然奴国である。しかし奴国は乱の中で疲弊し、大王を名乗れない。
そこで 北九州を中心に卑弥呼を共立する。
魏使は、伽耶を通って倭国へ来た。伽耶は任那である。
魏使は、大和(邪馬台国)の同行を求める。
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?男王の斎王?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
510唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 11:34:24
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。部従事(役職)呉林、楽浪
もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、
臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれ
を撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。
金官伽耶 ,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.

二郡遂に韓を滅ぼす。と云われる中で、伽耶は建国330年 曲,永無違者。王朝が転覆することは
無い。
だから210年 伽耶建国=任那建国=文献は50年遡上する必要が有る。
511日本@名無史さん:2011/02/07(月) 11:35:10
>>509

ほうら、この人が何か語ってるけど、
「おいらはこう思った」ってだけで、答えになってない。
そういうレスがあふれかえるだろうが、
議論の何の進展にもならない。
512日本@名無史さん:2011/02/07(月) 11:36:46
>>500
あんまり地名にはこだわる必要無いと思うけど。
ヤマトなんて地名はヤマダを含めるとそこら中あるし。
513唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 11:41:55
>名誉教授の言い分の〜258年説がほぼ真だ。

太国も他人のフンドシを借りて相撲を取るのか。
210年 任那建国
274年 渡海
323年 半島占拠

その御仁は、この3点をどう言っている?
514太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 12:05:51
>>509
大王より身分が低い〜臣下の伊支馬 ≠ 臣下よりえらい垂仁大王

これをイコールと言う奴は、猿が人間だとか言ってるようなもので、
まるで弼馬温の孫悟空が三蔵法師だと主張してるようなもので、映画の
「猿の惑星」さながらの無史実の創作であ〜る。ppp
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 12:08:36
魏が韓を滅ぼす。
これ以降半島諸国は、魏、西晋の帯方郡の一部として存在する。
倭国も同様である。
316年西晋が滅ぶまで、東夷九種は、東夷9国として管理される。
308年 永嘉の乱。当然東夷軍も参加する。316年 西晋滅ぶ。
仁徳4年 疲弊した民を見て調役の停止。倭国は軍隊を引き上げる。
321年 神功47年 千熊長彦派遣。
516日本@名無史さん:2011/02/07(月) 12:08:58
>>500

>>512も書いてるが、「山田」は近畿に多い。
邪馬台国をヤマトと読んだところで、東遷説など最初から成立しないので関係ないよ。

というか、30年前の議論を現代も引きずってるってどうかと思うよ?じいさん。
九州説はとっくに廃れて、畿内説で決定してるって現実をみなくちゃ。
新しい情報を自分でどんどん調べないとボケるだけだ。

517太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 12:10:14
>>511
そのとおり。あいつは結論だけ こうだ〜と書きこむだけで、どうしてそう
なのかという具体的説明はしたことがないんだよ。つまり残りの1〜2行
程度の各文は、説明したふりのくらまし書きこみであって、それは結論の
飾りであって説明したように偽装しているだけのもの。
518日本@名無史さん:2011/02/07(月) 12:14:12
>>504-505

このように、誰かが意見すれば誰かが反論してくる。
その意見の中身に、納得できる知見があれば別だが、個人的空想の域を出ないだろ?

不毛な議論を誘発させて、あなたにどんな利益があるというわけ?
519太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 12:15:33
>>513
それはコチラの言う台詞だ。ww こちらには独自に天津神算木がある。

他人のフンドシを借りて名を具体的に出さずに抽象的ぼかし名の「考古」
のフンドシをしめて、ああだこうだのデタラメを書きなぐるのがオマエの
やり方だ。

説がほぼ同一だから掲げているわけで、これがフンドシを借りることには
ならない。古代史論のフンドシ担ぎもオマエだな。ppp
520唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 12:17:11
>大王より身分が低い〜臣下の伊支馬 ≠ 臣下よりえらい垂仁大王

238年 魏使が伊都国を訪れた時点で倭王は、奴国王である。
この時点で大和が認められることは無い。認められたのは
正始元年の朝貢で大和王権が倭王と記される。

つまり倭国伝は東夷九種のうちの一種である倭種を一国にまとめる
魏の関与が書かれている。
その最終章に
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

晋の時代 倭国は東夷9国の一国。
521太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 12:22:23
>>520
オマエは無コテで、こっそりと九州説でないと不合理の旨ウスウス気が
ついて来たような書きこみをやってたではないか?

そうなると卑弥呼とその女王国は畿内にないことを遠回しに認めたわけ
であり、垂仁は畿内にいて九州行幸とかやってないんだから、九州説から
伊支馬が垂仁には全然ならない。
522唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 12:24:42
>大王より身分が低い〜臣下の伊支馬 ≠ 臣下よりえらい垂仁大王

太国がこれを主張すると、この時点で
太国が主張する九州王朝は潰える。
523唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 12:47:25
女王卑弥呼は伊都国を傘下とする。九州だ。しかし
邪馬台国は大和政権である。

つまり倭人伝は、
大和政権と奴国を応援し、日本統一を果たす。
景行の時代になる。
晋の時代には、東夷軍として半島に存在し、西晋が滅ぶと
軍を派遣し、半島を占拠、再編成する。
この時作られた百済は倭の属国として存在し
400年前後の高句麗の南下で、百済、新羅は高句麗の傘下となる。
5世紀に大仙陵は築けない。
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 14:04:56
>>522
寝言はもう結構だよ。オマエ、少し前九州王朝も認めたそうではないか?
そうならば、王朝の件でこっちにあたるな。説の撤回だから、ことごとく
オマエのせいではないか。ww
525太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 14:06:47
>>523
オマエは九州王朝を認めていて、なぜ景行が日本統一などと荒唐無稽の
大うそを吹くのか?
526無識爺さん:2011/02/07(月) 14:31:13
>>508
>誰の意見が正しいかなんて、あなたがどうして判断できるわけ?
正しいかどうかの判断やジャッジはできませんが、いただいた回答を自分なりに
納得できることはあると思います。 
そのために疑問に思ったことをお尋ねすることは構わないと思いますけど。

>>509
??よく理解できません。でも回答ありがとう。

>>512
歴史は人間によるある時ある場所における出来事の記述です。場所の特定に地名
研究は欠かせません。
特別に拘るわけではないですが、古地名の確定や来歴、また呼称の変化などを
考察、議論することは歴史の研究にとって重要だと思います。

>>516
>畿内説で決定している
決定などしていないから、このスレが延々と続いているのでは。
この両日、少し調べただけでなんとも言えませんが、マキムク遺跡群と箸墓が
、それに炭素14同位元素による科学的知見がクローズアップされただけで
3鏡の問題やルートの解明など邪馬台国論争の諸問題はなんら解決をみていませんね。
30年前の議論から本質的には変わっていないように思います。
527日本@名無史さん:2011/02/07(月) 14:40:25
>>526
>いただいた回答を自分なりに納得できることはあると思います。 

それが本音だろ。

本当は、事実がどうかは関係なく、自分の思ってることと同じことを、
他人に言ってもらって安心したいだけだ。

自分の思ってることと違うことは間違いだと決め付け、
自分の思ってることに近い話には耳を傾ける。
それが、真実かどうかなんて確かめるつもりもない。

>決定などしていないから、このスレが延々と続いているのでは。

決定してないと、思いたいだけだろ。
本音は、畿内説を認めたくないってだけだ。
それなら素直に自分は九州説だと認めたほうが自分に素直じゃあないのかね?
さも、公平な目線をもとうとしてるかのような、欺瞞はやめろ。

さらに言えば、畿内説の不備をあぶりだそうと虎視眈々してるんじゃないのかね?
それは無駄な努力だし、こっちは、お見通しなんだよ。じいさん。


528無識爺さん:2011/02/07(月) 14:41:27
九州説で時間を浪費するなというご忠告や、畿内説で決定されているといった
ご意見をいただくのですが、私自身が納得できる説が探しても見当たりません。
畿内説の決定打というのは具体的に何を指されているのでしょうか。
倭人伝の行程のみは畿内説に有利ですが、記されている習俗、埋葬方法、狗奴国
との位置関係など全体として九州説の有利さを否定するしっかりした反証は検索
してもでてきません。 かといって九州説を支持してるわけではないですけど。
529日本@名無史さん:2011/02/07(月) 14:42:29
畿内説で決定しているとは笑えるね。末盧国から東南五百里、唐津から東南に
約四十キロあるけば佐賀市付近だ。倭人伝どおりに行けばそこが伊都国。
そんなところから畿内に向かうのはきわめておかしい。となれば、畿内説は伊
都国が佐賀市付近であることを否定してみせなければいかんけど、できるかな?
八世紀ころに方向違いのところにあった怡土郡の名前だけではあまりにも弱いぜ。
530日本@名無史さん:2011/02/07(月) 14:49:26
>>528
30年前で知識が止まってるとしても、
出雲から大量の銅剣(九州的祭祀文化)や、銅鐸(近畿的祭祀文化)が出てることは知ってるだろ?

それが意味することは、弥生時代末期に九州と機内は断絶してたわけではなく、
出雲を介してつながりがあったということだ。

それならば、魏志倭人伝に出雲国のことが書いてないのはおかしいだろ。
卑弥呼共立の30国の中に出雲も含まれていたはずだ。

九州説を正しいと思うのは結構だが、
「卑弥呼共立の30国の中に出雲も含まれていた」ということは最低限認めるべきだと思うが、いかがかな?
当然、それを認めれば、九州説の崩壊につながることは明らかだがな。

531水銀厨:2011/02/07(月) 14:51:38
>>529
まぁ畿内説といっても色々な訳ですよ。
私は瀬戸内東部中心説。山口、大分辺りから
奈良盆地にかけてが女王国としてますが。
532無識爺さん:2011/02/07(月) 14:59:37
>>530
畿内に邪馬台国があったとして出雲と交流があったことが
どうして倭人伝に出雲の記載が一切ないことがおかしいことになるのですか。
九州〜瀬戸内海〜畿内のルートを通って行ったとすれば出雲なんぞの記述が
なくても不思議はないと思いますが。
当然だと思いますが。
また、出雲は倭国のなかに含まれるのですか? 倭種ではあるでしょうが
倭人伝は倭の国についての記述ですよ。狗奴国のように対立しているとかの
特段の事情があれば別ですがそうでなければルートから大きく外れていれば
無視されていても問題にするには当たらないのでは。
533日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:02:56
出雲が山陰で通過していないとしても、
山陽側の広島、岡山などは、記録されていてもいいはずだな。

距離的に、その辺りに休息滞在してもいいはずだ。
534日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:05:35
>>532

すると、畿内説を採用したとしても、出雲は卑弥呼共立に参画していなかったと考えるわけかね?

結構な話ですな。

それでは、一応、あなたの見識をお聞きしますが、神話は好きですか?
神話は事実を投影してると思いますか?思いませんか?

「出雲の国譲り」神話や、「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」について、
事実の反映と考えますか?事実と思うなら、神話の成立年代はいつごろと思いますか?
それとも、全く作り話と考えますか?

535無識爺さん:2011/02/07(月) 15:08:49
>>553

そうですよね。私もそう思います。
第一、畿内説でも九州の不弥国から邪馬台国までの途中にある国は
投馬国一カ国だけしか倭人伝には出てきません。
瀬戸内海ルート通りにいったとしても九州から畿内まで一カ国しかないのに
山陰の出雲? 倭国でもないのに書くわけないと思いますが。
出雲がないから九州説崩壊ですか。 無理ですね。
536日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:15:33
>>535

あんまり老人を追い詰めたくはないけど、ハッキリさせましょうや。

>出雲がないから九州説崩壊ですか。 無理ですね。

3世紀の出雲が、九州や畿内と断絶した国と考えているなら、
いわゆる出雲神話は3世紀の状況を神話として投影されたものではなく、
3世紀以前の話でもないし、
4世紀以後の作り話と、お認めになりますね?

もちろん、出雲の国譲りが作り話なら、天孫降臨も神武東征も、ひっくるめて作り話ということで納得されますね?
537無識爺さん:2011/02/07(月) 15:17:55
>>534

はい。畿内であったとしても卑弥呼擁立に出雲は参画していないと思いますよ。
出雲の国譲り神話はなんらかの事実の反映だとは思います。
ですが、上述したように出雲は倭人伝にいう倭国の範疇外だと思われますので
卑弥呼の擁立事件とは無関係だと思います。

国譲り神話の成立年代ですか。わかりません。わからなくてもこの件に関しては
無問題だとおもいます。

538日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:19:07
九州説からすれば、倭国とは九州のこと。それ以外の本州や四国は「また国あり、
倭種」にすぎないんだよ。
539水銀厨:2011/02/07(月) 15:24:20
九州を単独の島として見れるか?
という大きな疑問がありますけどね。
本州東部とは共通生存圏でしょう。
540日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:25:13
>>537

結構です。

では、、「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」についても、
これは完全に作り話ということで納得されますね?

4世紀以後、出雲が政治的中心になったことはありませんから。
541無識爺さん:2011/02/07(月) 15:26:00
>>536
出雲が九州や近畿と断絶しているとは思っていません。
ですが、倭人伝にいう倭国には入らないから記述がなくても無問題だと
言っているだけです。 このことから4世紀行こうの作り話だとか…の
他の命題は導き出せません。

出雲の国譲りに今興味はありませんが、お尋ねですので。
出雲の国譲りが作り話だと仮定すれば、天孫降臨も神武天皇もどうして
作り話確定になるのか論理的に説明してください。 
ケーキが嫌いなら饅頭もチョコパフェも嫌いだと認めるかと言われているようで
返答しかねますが。
542日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:29:01
>>541
まず、>>540から、あなたの見識をお聞かせください。

「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」についても、
これは完全に作り話ということで納得されますね?

543無識爺さん:2011/02/07(月) 15:33:27
>>540

>では、、「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」についても、
>これは完全に作り話ということで納得されますね?
>4世紀以後、出雲が政治的中心になったことはありませんから

??? 神無月の伝承が作り話かどうか、私にはわかりません。
    なぜ「納得されますか」と仰るのかもわかりません。

出雲の神話が成立するかどうかが、邪馬台国の位置論争とどうかかわってくるのか
なぜそれが貴方が私に何度も念を押されるほどに重要なことなのかが私には
さっぱり???です。 
544日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:37:25
>>543

お答えできないわけですか?
あなたが神話に対して、何らかのこだわりがあるなら、
論理的な話をしようとしても無駄になるので、確かめておきたいのですがね。

たとえば、邪馬台国の卑弥呼が天照大神のモデルだとか先入観を持っていると、
全く話がかみ合わなくなりますから。

日本神話と3世紀の状況は「関係性がわからない」として、
神話上の出来事を引用して歴史を語るつもりはない、ということでいいですか?
545無識爺さん:2011/02/07(月) 15:40:13
要するに、出雲の地に倭国の連合国の首長(王)=神々が集って
倭国の王を決めたと仰りたいのだと思います。

ですが、何度も申しているように出雲は倭人伝では出てきませんし
出てこないのはルートに外れていることもあるでしょうが、何より
出雲は倭国の一国とは看做されていないからです。
ですから、倭国の女王を出雲で選ばれたこともまず無いと見るべきでは
ないでしょうか。 
出雲に集って話し合ったという神話が事実の反映だとしても卑弥呼擁立とは
無関係だと思いますよ。それに神無月に神々が集うというのは毎年の行事と
されています。このことからも違う事実であろうと推測できますが。
546日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:41:05
>>542

まず、542氏が、 どういう意図を持ってこの質問をするのかを説明すべきでしょう。

>「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」についても、
>これは完全に作り話ということで納得されますね?

この質問をなんのために行うのか。この質問によって何が決まるのか。
それがわからなければ、回答者に取って、質問に応えることそのものが無意味です。

547日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:43:10
>>545

そこまで、考えがまとまっておられるなら、
「神無月に出雲に日本中の神様が集まって会議をするという伝承」についても、
完全に作り話ということで納得できるはずですがね?

どうして、「この神話は作り話だ」と、歴史から切り離すことを躊躇するのですか?

548日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:44:06
典型的なディベートのテクニック。
それも圧迫面接と同じような手法だな。
およそ、対等に議論をするためのものではない。
相手を打ち負かすための手法。
549無識爺さん:2011/02/07(月) 15:45:50
>>544
>神話上の出来事を引用して歴史を語るつもりはない、ということでいいですか

参りましたね。どうして私の歴史問題のスタンスを決めつけようとされるのですか。
神話に関しての知識も乏しいですから、神話についての問題は是々非々で
ケースバイケースで考えるしか私には方途はないです。
神話への一貫した姿勢など私にはありませんし、たとえあったとしても
それが事実の検証議論にどれほどの影響があるかを予め測ることなど出来るもの
ではないと思いますが。 
550無識爺さん:2011/02/07(月) 15:52:09
>>547

ある神話が特定の事実の反映でないことが仮に明らかになったとして
どうしてその神話が全くの作り話であることの証明になるのですか。
特定の事実の反映でないことの証明でしかありませんよね。

出雲の神話についてはこれ以上は不毛の議論のように思います。
551日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:52:35
>>550

こちらが聞きたいのは、
「神話上の出来事を引用して歴史を語るつもりはない」
「神話上の出来事を引用して歴史を語りたいこともある」

あなたが、どちらのタイプの歴史愛好家なのかを確認したいのですよ。
後者では論理的な話ができず、話がかみ合わなくなります。
ご自身のことですから、わかるでしょ?

552日本@名無史さん:2011/02/07(月) 15:53:32
>>547氏の自説を披露してもらいたいものですな。
553無識爺さん:2011/02/07(月) 16:06:27
>>551

最初からそうお尋ね頂いた方が早かったですね。
是々非々で、と申しましたように場合によっては神話に話が及ぶのも有りだと
思いますし、古代史から神話・伝承の類を切り捨てることは正しい歴史研究の
やり方ではないと私自身は思っています。シュリーマンの例もあるように
神話はヒントを提供してくれることもありますし、事実の傍証としての価値も
有り得ます。無視できないと思います。

また、論理的に議論をすることと神話を扱うかどうかとは無関係ではないでしょうか。
神話を扱っても論理性があれば議論は成り立ちますし、逆もまたそうです。
それから私は歴史愛好家と言えるほどのものは全くないです。
554日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:11:22
>>553

それは、それで、結構なスタンスでしょう。

しかし、あなたは東遷説ではないとおっしゃいました。
歴史に神話を絡めたとき、東遷説は歴史を合理的に説明できるように見えると一部の人は思っています。
あなたが、そう思わないことには、何か理由があるはずですよね?

何が、理由で、「東遷説は納得できない」と考えておられるのか?
555無識爺さん:2011/02/07(月) 16:14:29
>>554
>あなたは東遷説ではないとおっしゃいました

え? 申していませんが。 何番のレスのことを仰っておいでですか。


556日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:17:40
>>555
>>433
>ん〜、邪馬台国が九州にあって東遷したとしても???だし、

失礼ですが、東遷説も納得すれば東遷説に傾倒することもあるという、そういうことですかね?
557無識爺さん:2011/02/07(月) 16:25:17
私自身の問題でこのように長々とスレを消費するのは恐縮ですが
先にも書きましたが、私自身はどちらの説も今のところ???です。
九州、畿内どちらの説にも長・短があり短の合理的な説明が昔と変わらず
解決しているとは認め難いからです。
新たに有力候補として近年膾炙されるトトモモさん=卑弥呼説にしても
倭人伝にいう卑弥呼像とあまりにかけ離れています。たとえ時代が重なったと
しても現状ではとても首肯しうることは私にはできないかと。
九州説も行程の?疑問が今だにうまく説明できていませんよね。

私は九州人ですから邪馬台国が九州にあればという心情はあります。
若い時は特にそうでした。ですがこの歳になって改めてこの問題に面すると
真実はどうなのだろう?という思いの強くなっていることに気がつきます。

どちらでもいいのです。本当のところどうなんだろうねーというだけです。
ですから昔の疑問などを思い出しながらこうしてレスを書いている次第です。
私自身の有り様についてはご放念下さって結構かと思います。


558日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:28:57
>>557
はぐらかされるとは思わなかったなあ。

「東遷説も納得すれば東遷説に傾倒することもある」とjは、言えないんですか?

何か、隠してるのは貴方の方じゃないんですかね?
559無識爺さん:2011/02/07(月) 16:29:19
>>556

>東遷説も納得すれば東遷説に傾倒することもあるという、そういうことですかね

はい、はい。 全くそういうことです。
560無識爺さん:2011/02/07(月) 16:30:51
557は556の返信ではないです。タイムラグです。
もう宜しいでしょうか。 降ります。
561日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:31:30
>>559

了解。こちらも納得。
562日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:53:45
神が無というのも不思議な話で、神はその月に不在なだけで、無ではない。  最初からその土地に神など存在して
いないのであるならば、無と言えるが、一時的にいないのは無ではなく不在だぜ
563日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:55:27
記紀を読むとわかるが、出雲の国譲りは実は征服物語。

高天原の高皇産霊尊と天照大神は、何重にも刺客を派遣し、ついに大己貴神は
国を譲ることを約束して姿を消す。
記紀で大きく取り上げられる出雲の国譲りが、実は高天原と出雲の大規模な
戦争であったことが窺える。

時は流れ、崇神天皇の時代になって、出雲の大物主神が祟り神となって
現れる。出雲の国譲りの怨霊と考えると合点がいく。

疫病が蔓延し、災いが多発し、反乱するものが後を絶たなかったとある。
そこで、大物主を祀ると災いは収まる。これ以降、大物主は皇室の守り神と
なる。一方で、皇室は、皇祖である高皇産霊尊と天照大神の処遇に困る。
出雲征服の張本人でもあるからである。

御殿に祀られていた皇祖は、威光が強すぎるという名目でよそに移される。
564日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:57:04
魏志倭人伝は朝貢している卑弥呼を倭国の女王とし狗奴国(倭人の国)を対立勢力と見ている。

これは、魏に朝貢している国とそれを拒否する国という分類でしかないのでは?
つまり、魏は卑弥呼を女王と認めたが、倭国では必ずしも王と認められたわけではなかった。

つまり、卑弥呼は贈り物をしたことで、それを朝貢ととられ思いもよらぬ「親魏倭王」の
称号をもらってしまったので、まわりの疑心暗鬼にさいなまれ死なざる得なくなったと。
565日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:07:04
歴史という物は私はある意味”科学”と思っておりますよ、ええ。
しっかりとした証拠の積み重ね、一足飛びに事実にはつながりません。
犯罪捜査と一緒でしょうか。文献学・言語学・地質学・考古学・民俗学
DNA学?・神話学・気象学・化学・物理学etc etc...
要は証拠の積み重ねなんですね、奥さん。
神話だけでは真実の歴史は見えないわけですが神話がまったくのでたらめではなく
ある実際に起こった事柄が含まれている可能性があるというのは周知の事実。
他の証拠と照らし合わせ整合性を持つ時、証拠の一つとして輝くんですよ、奥さん。
だからね神話を全くの作り話としか思わない人の方が論理的でないですよね。
というか561さんは話のもって行き方に問題ありですなあ。
566日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:17:27
魏の国的には「親魏倭王」の金印が絶大な効力を発揮して、その主が倭国を治めたことにしたいだろうが、
倭国あるいは大和国的にはアホか。という話だったのでは、現代日本に照らし合わせてあり得る。

本居宣長や新井白石も怒っていたし。
567日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:20:29
>>565
>というか561さんは話のもって行き方に問題ありですなあ。

ん?
隠れ東遷説のじいさんをあぶりだしただけだけどね。

隠れ東遷説の人って、「東遷説ですか?」と聞いてもハッキリ答えてくれないわけ。
そういう人は、心の奥底では九州説を信じてる根深さがあるから、議論しても時間の無駄になるわけ。

東遷説なら、東遷説と自己認識させてから議論したほうがスムーズなんだよ。
自分の間違いに気づくのが早くなるからな。



568日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:25:17
神功皇后はそのアホかのおもいが凝縮した存在だな。実在か否かにかかわらず。

日本は中国によって認められた国ではなく、天照大神によってつくられた神国だ!
が古事記、日本書紀の執筆動機。

じっさい、y系統遺伝子の分布の構成から、大陸に支配された国ではないことが証明されている。
569唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 17:33:38
後漢書、志、大寒。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
194年 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

新羅本紀
192年 4月大雪
193年 倭人が大飢饉となり避難民到来

年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

このグラフでも183〜193年ころに降水量が少ない、この事実は、
日本に於いても冷夏であったことを表す。

考古学は、弥生後期後半、各地の遺跡が放棄される。青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。
200年頃から纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。という。
210年頃 伽耶建国。三國遺事卷二 より。
この時代を書紀に重ねると、崇神時代しか無い。
570日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:35:08
>>567
そういうことを先に言えば、相手をする無駄がなくなったのだがな。
571日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:39:35
斉明天皇や天智天皇を強力に支持した勢力は縄文D系統だろうし。
その因子が高千穂や紀伊半島に色濃く存在していたのでは。その連合の象徴が神武天皇。

そして、国内的にはO系統因子が大陸との政治的結びつきを断ち切ることでD系統因子と融合していったと。
熊襲成敗はその融合を拒否し、大陸と政治的に結びついた勢力の成敗だな。
572日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:40:03
>>570

先に言っても、あの人は(隠れ東遷説)という本心を言わないだろうよ。

「九州説か、畿内説か、どちらでしょうね〜」なんて、表面的には言ってるけど、
そういう人は、十中八九、心の底では隠れ東遷説。
本人は自覚がないのがやっかいなんだよ。



573日本@名無史さん:2011/02/07(月) 18:20:51
>>557
新たに有力候補として近年膾炙されるトトモモさん=卑弥呼説にしても
倭人伝にいう卑弥呼像とあまりにかけ離れています。

少し情報が古いのではないか?
最近あまりに卑弥呼像とダブるのでクローズアップされて来た訳です。
なんといっても「神大市姫命」で「日神」「日女命」ですから。
574レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 18:31:01
>>534>>563
横槍ですので、あくまでも感想のみ申し上げます。

@面白い切り口での問題提起、大変感慨深く、それぞれのご見識を拝聴させて
いただけて、各人に感謝です。
Aその上でなんですが、所謂、古事記ベースの九州東北部説の俺から言わせて
もらうなら、「記紀ベース」の場合は、当時の出雲を「空欄」にしても、総論
は成り立つのですが(何故なら記紀が担保するワケですから)、この「記紀を
一旦度外視する」場合は、独自総論において、「何らかの出雲の定義」は、
これは必要不可欠になるかと思うんですよね。

ま、俺の場合は、出雲風土記や記紀における出雲の表記を無視する気は皆無
ですので(場合によっては個々の箇所の信憑性は疑いますが)架空筋において
は現在の所、これらに関しても33%程度は解釈説明可能ですので、その意味
では、俺にとっての出雲問題は少ないですが。

ただ、「記紀は廃する」で「個々解釈重視」の場合、その持論の一貫性と、
例え根拠はなくても出雲に対するある程度の解釈は無いと、そこは到底信憑性
を感じえなくなります。

なぜなら、当時出雲は無視できない勢力である可能性が高いし、また、後代の
奈良時代においても、出雲大社の「ずばぬけた大きさ」は、日本で1〜2位を
争うほどです。(雲太、京ニ、とも言われているそうですし)

最低限、出雲大社の大きさと、神無月(神有月)の解釈規定程度が無いと、
(しかもそれが記紀をあまりベースとしていないなら)俺個人としては、
そのような持論説は、矛盾が大きく一貫性が無い物ととしか見てとれません。
そう言うアプローチは、全てのご都合解釈を可能にしてしまうからです。

あくまでも感想ですが。
575レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 18:33:34
あ、奈良がニで、京三だったっけ? 間違ってたら、スマン。
576レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 18:41:43
これは、まだ外堀は埋めておりませんが、先述の「石屋戸要素」こそが、
「出雲の神有月の神々集合」の要素ではないかと、門外漢の三流推理をして
います。
つまり、石屋戸逸話を挿入する事によって、当時の出雲で過去から当時に
かけてまで行なわれている「神々集合」(そしてそれは将来の現代まで続け
られる)を「大和神話」に代替挿入するワケです。だから、古事記(まで)の
神話部分に「石屋戸逸話」が「挿入された」

こう考えると、総じて自然なのです。ハイ、完全に思いつきだけの見切り発車
です。(ニッコリ)
577日本@名無史さん:2011/02/07(月) 18:48:13
>>574
一応、ことわっとくけど、>>534>>563は、別人だから。


>>534は、俺。
個人的には、記紀の出雲神話の成立年代は不明だが、出雲風土記の国引き神話よりは、新しく創作されたもの。
出雲風土記の国引き神話は、弥生時代(ヤマト王権成立前)まで古くみつもってもいいだろうと思う。
「神有月」も、かなり後の時代の創作(出雲大社の布教のため)であり、出雲に神(首長)が集まって会議をした事実は無いだろう。


578レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 18:49:01
つまり、大和王権としては、一旦は「出雲の土着信仰=神々集合」を禁止した。
(もしくは、禁止しようとした)しかし、土着信仰は禁止しきれなかった。
従って、大和〜出雲の関係性が有る程度確定した後、出雲の大和王権の統治の
折衷案として「大和神話に組み込まれた」こう考えれば、至って自然です。

この組み込み作業の一つが「石屋戸神話」の「神々集合要素」です。(他にも
探して見れば、まだまだ沢山有るかもしれませんネ♪)
579日本@名無史さん:2011/02/07(月) 19:01:36
記紀にあるスサノオのヤマタノオロチ退治とか、そういう大事件が、出雲風土記に記載されてないのが大きな矛盾。

神話を歴史に重ねて、新たな歴史の真実を探るという手法は間違いのもと。
歴史が定まってから、神話成立の背景を推測することはできたとしても。


580レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 19:02:21
>>577
あ、>>534>>563とし、「〜」を使ったのは、「その間の人全部に対して」と
言う意味でこの記号を用いました。記号の用い方がここの慣習とズレていたら
そこは申し訳無い。

> 「神有月」も、かなり後の時代の創作(出雲大社の布教のため)であり、出雲
に神(首長)が集まって会議をした事実は無いだろう。

そうですか、確実に無かったのですか、それは邪推推理的には残念ですが、
貴重な情報をありがとうございます。神々集合は仮におっしゃるとおり後代
だとしても、魏志倭人伝の魏晋の外交官が「航路途中に出雲の勢力に関して
何の記述も残していない」と言う事実は存在しつづけるワケであって。この
点は、以下の二つの立場の方には、俺個人としてはある程度解釈説明が
いただければ幸いです。

@魏志倭人伝の途中航路になぜ出雲が登場していないのか?登場しているの
なら、それはどの部分か。
A当時の「出雲」は、当時の大和王権、もしくは当時の九州勢力とどのような
関係性であったか。或は、出雲の勢力は当時は全く取るに足らない勢力だった
のか?

この上記二つが充分に説明頂けない前提なら、少なくとも門外漢の三流邪推
架空師の俺としては、納得はおろか、とりあえず理解する事すらできません。

あと、これは全くの感想ですが、「俺とは違うから俺と間違えるな」と
おっしゃるなら、そろそろ匿名をやめるという選択肢もあります。ま、別に
他人様のネット・2chアプローチの方法論までトヤカク言う気もコッチには
全くありませんが。
581レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 19:14:31
>>579
逆に、だからこそ古事記で「神話部分」と定義なされているのでしょう。
神話部分では「実際歴史事象」の「諸所の要素のみ」を、最終勝者の大和だけ
が、自分に有利なように「再編成した」としても、それは全く先祖不遜にも
なりませんし、従って「他氏」に対して「巨大な神殿」を建てて、鎮魂や祟り
を鎮める必要が発生して来ます。

つまり、「出雲神殿の大きさ」こそが、「出雲の土着信仰を大きく書き直した
」ことを逆証するワケで。ま、ここは井沢氏のウケウリですが。(注、俺は
井沢信者ではありませんがw)

古事記が神話部分を「皇紀(つまり歴史)」としないのは、そのような
トリックだと解釈すれば、少なくとも大和王権的には、全く問題ありません。
神話で「書き直した部分」にあたる、「書き直された他氏」は、懇ろに神社
を建てて、鎮魂・祟り避けの祭事をちゃんとやり続ければいい、と、こう言う
構図になります。
582日本@名無史さん:2011/02/07(月) 19:21:22
>>580

>@魏志倭人伝の途中航路になぜ出雲が登場していないのか?登場しているの
なら、それはどの部分か。

個人的には、投馬国だと思う。邪馬台国(大和)へのルートは瀬戸内海かもしれない。
朝鮮半島の海人は、出雲を地勢的に知らないわけがないので、「倭種」などという表現が使われるのは不自然。
出雲が朝鮮半島と関わりが深いのは疑問の余地が無い。


>A当時の「出雲」は、当時の大和王権、もしくは当時の九州勢力とどのような
関係性であったか。或は、出雲の勢力は当時は全く取るに足らない勢力だった
のか?

出雲国は、卑弥呼共立には参画していたはず。大和からは山陰系の土器も多く出土している。
具体的な出雲の勢力規模は、検討の余地が大きい。

なぜ、出雲大社が大きいのか?という疑問には、学会でも一定の答えはないはず。
邪馬台国より研究の面白みがあると思うね。


583レス長たらし毘古:2011/02/07(月) 19:35:13
>>582
> 個人的には、投馬国だと思う。邪馬台国(大和)へのルートは瀬戸内海かも
しれない。

なるほど、そう言うアプローチも面白そうですね。今度、途中瀬戸内海ルート
とかも機会があれば調べてみたくなりました。貴重な着眼点をありがとうござ
います。

> なぜ、出雲大社が大きいのか?という疑問には、学会でも一定の答えは
ないはず。

邪馬台国を探す際に、出雲は「空欄でヨシ」とする考え方は、俺個人として
は、とても物足りなく感じます。記紀ベースなら、記紀がそこを担保するから
最悪空欄でも全く構わないのですが、記紀をベースとしないお立場の方が、
当時の「出雲」を避けて通るのは、これは少し違うかな?と感じるのです。

仮に「無視できる程度」で「だから魏志倭人伝もそれを無視(軽視)した」と
仮定するなら、少なくとも、三世紀後半において、出雲勢力は「無視できる
程度・軽視できる程度」と言う結論になりますが、そこが違和感を大きく
せざるを得なくなります。こう言うジレンマが発生するのです。
58431追補:2011/02/07(月) 20:20:35
>>504
> 邪馬台国はもともと男王が治めていたが…とありますので

そんなことが・・・どこにありますか?
585584:2011/02/07(月) 20:40:08
なんか変になってしまった。

>>504
> 邪馬台国はもともと男王が治めていたが…とありますので

そんなことが・・・どこに(書いて)ありますか?
586日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:36:27
それは長髄彦(別名、大毘古とその弟の安日彦一族)のことですか?
大毘古は関東に移り、稲荷山鉄剣銘文で有名になったように、大王を佐冶していました。
一方、安日彦の方は、東北地方に移住し、後に朝廷と対立することになります。
587日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:37:41
>>582
出雲大社が大きいのは、大和朝廷が係わっているからだろうな。
>>563にも書いたが、出雲国譲りの際の鎮魂の意味がある。

こういうのはけっこう多い。例えば、西暦720年頃に、大和朝廷は大規模な
隼人征服を行う。首を百ほど取ってきたといわれる。その後、災いが多発
する。これは隼人に対する残酷な仕打ちの祟りだということで、鎮魂の
ために宇佐神宮が整備される。

菅原道真も同じで、道真が死んだあとに災いが多発する。道真の祟りを恐れ、
その鎮魂のために建てられたのが太宰府天満宮。
588日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:41:03
>>585
倭人伝に書かれている。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼

その国、元また男子を以って王となす。住まうこと7,80年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年。すなわち一女子を立て王となす。名を卑弥呼という。
589唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/07(月) 21:46:08
大毘古は、そのまま福井を治める、
その子武淳川は伊勢に入る、その流れが”カザハヤ(風早国=伊勢)
大彦の孫六雁(磐鹿六雁)は、景行に従い関東へ遠征する。
高橋神社に祀られる。
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
590日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:47:00
>>587
>これは隼人に対する残酷な仕打ちの祟りだということで、鎮魂の
  ために宇佐神宮が整備される

ちょっと違うけどね。辛島氏でググれ。
591日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:52:45
>>504
戦乱に明け暮れて屈強な男子が激減した首長国群のなかで、
特に軍事力がひ弱な女王を抱いた首長国こそ、
戦後のまとめ役国家としてふさわしいと選ばれる状況は
国連事務総長の出身国が、軍事大国以外からよく出ることに似ている。
卑弥呼の女王就任が先で、邪馬壱国が首長国連邦宗主国となったのが後、
と考えたほうが合理的だ。
592日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:06:42
>>504
元々男子の王がいた。それが7,80年たって乱れる。

普通に考えれば、王の後継者がいなくなり、あるいは王の誕生に反対する人が
多く、そのために争いが起きたと考えられる。
そこで、とりあえず卑弥呼を王にすることにより皆が納得し、争いも収まる。
ということではないだろうか。

それを裏付けるような出来事が卑弥呼の死後も起こっている。
男子の王が立ったが、国中が不服で、千人が殺されるような争いが起きる。
そこで、台与を王にすると国中がついに定まる、とある。
593日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:15:46
>>588
> 倭人伝に書かれている。

「邪馬台国はもともと男王が治めていた」と書かれていますか?
594日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:22:57
>>589

風早国は伊予国じゃないの?

595日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:25:14
>>593
書かれているのは、

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼

其の国が何を指すかということだが、まあ邪馬台国かあるいは倭国かの
どちらかということだろうなあ。倭国の大乱あるいは倭王・卑弥呼について
書かれている部分だから。
596日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:30:15
>>593
横からだが、ネチネチせずに、自分の意見をスパッと書け。
597日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:49:51
結局、畿内説の言う、各地の豪族が連合政権?を樹立し、新しい都である
纏向を建設し、卑弥呼を王として共立した、というのと合わないということ
だろうな。
598日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:01:26
卑弥呼の死後にまた乱れたということは、中央集権制度の構築に失敗したか、
構築しようとせずに、卑弥呼のカリスマに頼り切っていたということだろう。

中央集権制度がずっと成立しなかった可能性もあるが、もし成立するとすれば、
男王で乱れるのを抑えきれないという経験をしたあとで、
台与の時代に成立の努力がされたものとおもわれる。
599日本@名無史さん:2011/02/08(火) 01:51:59
まあ中央集権構造を目指した最初の試み…と考えても良いのかも知れないけど
実際はとてもそこまでいかなくて連合体の体裁をとるので精一杯

…ってところだったのでは?
600日本@名無史さん:2011/02/08(火) 02:04:54
畿内説の方、九州説の方。邪馬台国を探すにはどうしたら良いでしょうか?
急がば回れという言葉もあります。「伊都国」をもっと徹底的に調べるなんて
どうでしょう。
倭人伝にも書いてありますがここは郡の使節が行き帰り必ず滞在する、
女王が魏や韓国などに使いを送る際に寄る港、などから当時から
かなり先端地域と思われます。当然通訳の人や漢字が読み書き出来る人も居たはず。
もしかしたら漢字で書かれた物がでるかも。邪馬台国と交易した物も。
一大卒も居ました。
前原市に比定されていますがここにねぇ「シト」や「トマリ」なんて地名が
あるのよ。怪しいでしょ。
601600:2011/02/08(火) 02:14:53
続き。
もうひとつ問題点があります。”発掘するお金”です。
発掘にはお金が掛かりますがここは一つどうでしょう、”卑弥呼””台与”
グッズを販売する。彦にゃんの様に可愛いらしくして。
映画も作ります。ハリウッドに頼みます。イメージはレッドクリフの倭国大乱
卑弥呼とアマテラス神話を絡めて(事実はともかく)台与が女王になるまでの
ストーリー。難升米役は「東幹久」で決定。タイトルは「ライジングビーナス」
でこれらの収益で発掘金に当てます。
こんなんでましたが。
602日本@名無史さん:2011/02/08(火) 02:17:58
伊都国となじみがあり、密接な関係のあった処だから、本州説ならば、まず丹国だ。
6032浪中:2011/02/08(火) 18:18:40
前原市は現在糸島市と改称しております。ここが倭人伝に登場する伊都国だとする論者が多いようですね。王墓級遺跡や楽浪土器の
出土の多い集落遺跡など考古学的に重要な地域だということと、古地名の怡土との語呂合わせから比定されたようですね。

ただ、僕には腑に落ちない点がいくつかあります。糸島市の三雲南小路遺跡からは金銅製の四葉座飾金具や前漢鏡などが出土していて
王の墓があったと推定されています。金銅製の四葉座飾金具は木棺の飾り金具だそうで、漢の皇帝が王クラスの者に下賜する品だそう
ですから、被葬者は王と認められた者でしょう。

しかし、漢の時代に関する史書に登場する王は後漢書に記述された倭奴国王(漢委奴国王)と倭国王帥升だけで、伊都国王は登場しません。
伊都国の名前も見えません。また、伊都国の伊都はイトとは発音されないから怡土とは関係ないという説もあります。

そういうことで、僕は糸島の地は倭奴国王の領地の一部だったのではないかと思います。

604日本@名無史さん:2011/02/08(火) 18:26:10
前原の伊都国は地政学的に福岡と密接な関係があり、
また、関係を持たなければならない位置にあるとは言える。

糸島は博多湾の入り口に当たり、ここを信頼できる勢力に任せないと
博多湾の価値がなくなるからである。

もし、伊都国と奴国が不仲になれば、
すぐさま奴国は伊都国を潰すことになるだろう。
605唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/08(火) 18:27:59
>>594
宇治郷 (伊勢二所皇太~宮~名秘書裏書:參考)

風土記に曰はく、宇治の郷は、風早の伊勢の國度會の郡の宇治の村の五十鈴の河上に、
606唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/08(火) 18:35:28
>>600
>畿内説の方、九州説の方。邪馬台国を探すにはどうしたら良いでしょうか?

書紀を正しい編年で読む事が第一である。

250年=箸墓=崇神世
この状態では、日本各地に邪馬台国を設定出来る=ピンボケである。
時代の設定が悪ければ、この様にピントが合わない。
607日本@名無史さん:2011/02/08(火) 18:44:38
>>603
なるほど鋭い考察ですな深い知識もある。ただ者じゃないですな、あんた2浪じゃなくて先生じゃないですかぁ。そうでしょうぉ
>>604
なるほど。確かに郡の使者もここに滞在するし
よって一大卒はここに居て、魏の後ろ盾が
あることをちらつかせていたとも取れる。
608日本@名無史さん:2011/02/08(火) 18:51:55
>>605

ただの枕詞にどんな意味があるの?
609日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:10:30
>>603
> そういうことで

<どういうこと>なのか、さっぱりわからない。
「漢の時代に関する史書に・・・伊都国王は登場しません。 伊都国の名前も見えません。
 ・・・怡土とは関係ないという説もあります」

「糸島の地は倭奴国王の領地の一部」だと思うことの理由になるのか?
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/08(火) 19:44:04
伊賀國號(二) (風土記殘篇:參考)

伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の~、始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。
611日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:56:34
前原市(現在糸島市)にある高祖山は、高天原の祖がここに生れたことを、
遺した山だと思います。
612日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:01:48
一応、太祖高祖は、創立者が太祖、発展させた中興の祖を高祖と呼ぶようです。
そして、篠栗に太祖山、糸島に高祖山。

イザナギが最初なんで太祖
その次に生まれたイザナミが高祖で、一応の話の筋は通っていると思います。
613日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:12:01
高祖を高天原の祖と考えると、高祖は天照大神のことのように思います。
614日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:22:44
>>610
かざはやに何の意味があるんだっつーの。
615日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:48:03
あてつけかもしれないが、前原を前に高天原があった場所とも読み取れて面白い。
616日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:05:49
>>613
高とは高句麗王の国姓だ。高は、高貴なものという意味の敬称、もしくは接頭語として使われていた。
高祖の「高」も同じ使われ方をしている。
そして、天原とは、内海、つまり大きな湖のことだ。
つまり、高天原とは、高句麗人が住んだ高貴な湖のある土地という意味。
古奈良湖に間違いなかろう。
6172浪中:2011/02/08(火) 21:30:15
>>609

ご指摘の部分からだけで言っているのではありません。603を簡略に言い換えます。
事実として下記の3点があります。
1.三雲遺跡から漢の皇帝から王に下賜される金銅製棺飾り金具が出土している。
2.漢の時代に倭の王として史書に記載されているのは倭奴国王と倭国王帥升だけである。
3.伊都国王や伊都国は漢時代のことを書いた史書には出て来ない。(金銅製棺飾り金具を下賜された王が伊都国王であれば
 なんらかの痕跡があってもよいのでは?)

こういうことを勘案すると、糸島の地はAD57に光武帝から印綬を授けられた倭奴国王の領地の一部であったとした方がよいと思われます。

6182浪中:2011/02/08(火) 21:37:15
>>612

あの、失礼かも知れませんが、高祖山の高祖の読みはタカスなんですけど。太祖や高祖の祖はソですから関係ないと思います。
619日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:40:33
>>616
琵琶湖
620日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:01:06
伊都国の前原が高天原の祖、天照大神が生れたところとすると、
イザナギノミコトがあやしく不思議な子、オオヒルメノムチを
まだそんなに離れていない高天原に送ったのかも知れない。
621日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:10:26
620は日本書紀、神代上の国生みの項の一書(第十)を参照しました。
622日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:17:53
>>617
1.糸島の地では、三雲南小路遺跡→井原鑓溝→平原と歴代の首長墓が確認されています。
2.魏代を記した史書に書かれている王は伊都国王である。
3.奴国の王は魏時代のことを書いた史書には出て来ない。

こういうことを勘案すると、糸島の地は伊都国王の領地あったとした方がよいと思われます。

以上はあなたと同じような推論をしてみたつもりですが。
623日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:44:33
メ は人ゴキブリ
624日本@名無史さん:2011/02/08(火) 23:11:47
目は陽気なメキシコ人。本名は、ホセ・メンドーサ。
6252浪中:2011/02/08(火) 23:18:29
>>622
>1.糸島の地では、三雲南小路遺跡→井原鑓溝→平原と歴代の首長墓が確認されています。

そうですね。ただし、それは倭奴国王と帥升系王に関わるものかも知れませんね。

>2.魏代を記した史書に書かれている王は伊都国王である。

倭人伝には「世有王、皆統屬女王國」と書かれていますね。倭人伝に書かれた王は3人いますが、伊都国の王だけ名前が
ないですね。

>3.奴国の王は魏時代のことを書いた史書には出て来ない。

当然ですね。後漢の時代には倭奴国王や倭国王帥升がいましたね。倭奴国王は「奴国の王」ではないと思います。匈奴
という呼称がありますが、倭奴国は倭国と改称する前の名称でしょう。倭の地の王として漢が当時糸島を含む福岡平野
一帯を領地とする王に漢委奴国王の印綬を授けたのでしょう。魏の時代にはその倭奴国の名称も無くなっています。

これでは伊都国が糸島にあったとする根拠としては弱いように思います。



626日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:20:32
>>618
言葉が足りなくてすみません、いちおう高祖神社の近所が実家なんで、
読みは分かっています。大丈夫です。

神話そのものがここが舞台かどうかは証明できませんし、
多分違うでしょう。そしてはじめは高祖神社のタカスは
何かの当て字だと思っていました。

しかし、飯盛神社の由緒を見ると、福岡平野を挟んで
高祖と太祖の両翼が意識されているように見えます。

立花山や日向(ひなた)峠、これらの名前が神話を元にして
繋がっているのです。多分気がついていないだけで
もっと神話に関係するものはあるのでしょう。

いつの時代かわかりませんが、神話を元に
命名した人がいるのでしょう。

逆に、福岡平野の地勢を元に、神話が作られたのなら
狂喜乱舞するところですが、可能性は低いでしょうね。
627日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:27:26
大和王権=邪馬台国 畿内説
地方の豪族=九州
628日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:28:00
「祖」を「ソ」とか「ス」とか読んでるなら、
新しい時代のものだよ。
漢字の音読みだからね。
朝鮮語由来かもしれない。
629日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:09:46
>>625
いわれてみるとそうですね。松浦半島は弥生の頃は現在よりも北まで
陸地だったから、方角は問題ないと思ったんですけどなんで「陸行」、
なのか腑に落ちなかったんですよね〜。とすると伊都国は厳木町あたりですか。
あっでもマツラ川で行けますね。う〜ん謎だ。
630日本@名無史さん:2011/02/09(水) 03:35:59
なるほど伊都国は面白いですな。"伊都"は"いと"とは読めないと(洒落じゃないですよ)
では"いた"ではどうでしょう。平原遺跡のある、まさにその付近にその地名があります。
まぁ昔からの地名かどうかしりませんけど(^_^;)
おやすみなさい
631サガミハラハラ:2011/02/09(水) 09:07:11
東南に松浦川をさかのぼっていくと多久盆地に入ります。
そこの真ん中あたりに中小路というところがあり、そこの庄集落が伊都国(イタコク)の都だったところです。
632日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:35:21
>>625
2浪中さんの意見に興味を持ちますが、逆に伊都国が糸島に無かったとする根拠としても弱いように思います。
伊都国は倭国乱の後に生れたクニとすれば、伊都国が「漢時代のことを書いた史書には出て来ない。」ことも
納得できます。
633日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:38:54
水行なら船を持ってますから、出来る限り船で言ったほうが楽でしょう。
なので、唐津湾の一番奥まで船で移動し、松浦川を行けるところまで行ってそこから上陸。
逆に一度陸行を始めたら、別の船を調達するというのは大変なので、
出来る限り陸行する。

しかし、筑後川河口付近を通って南東や南に行こうとすると
湿地帯や川が多いので、ここでなんとか船を調達したのではないかと思います。
筑後川上流域まで行くとかなり遠回りなので。

これがウミ国からの水行ではないかと思います。
634日本@名無史さん:2011/02/09(水) 09:51:33
神話にこじつけるなら、
奴国の歴代首長の墓所が伊都国とか?
635伊作ちゃんなのさ:2011/02/09(水) 10:20:37
邪馬台国ドンと来い、抽象的中傷論者が多くて議論にならんだった。
ここを覗いたら、私の知ってるハラハラシゃんはいるし、伊都国についての議論があるようで。

「卑弥呼の時代に伊都国に王がいた」とする意見に対しては決定的な否定論拠がある。
▼「世々王有り。皆女王国の統(す)ぶる属す」。
この一文が、王が存在していたという現在形表現ならば、
30年を一世代の区切りとする世という表現は使わない。
世(代々)という時間的広がりと脈絡を意味する世代表現をしている以上は、
歴代の王たちについて述べていると判断しなければならない。
▼簡潔かつ饒舌をもってよしとする中国歴史書の性格に鑑れば、皆という複数表現も使わない。
皆という複数表現をしている以上は、歴代の王たちについて述べていると判断しなければならない。
(卑弥呼の50年近い在位期間のうちに伊都国王が次々に交替したという詭弁も予測されるが、
そうした根拠のない願望論を一蹴するのが次の事実である)。
▼王朝とは極めて厳格な階級制度でなる。その史官も階級には極めて厳格である。
確かに、女王国や狗奴国の記録は官名よりも先に現存する最高位の王について触れ、
そのあとで官名を紹介している。
これが常道なのだが、伊都国の場合は官のほうを先に紹介して、歴代の王について触れている。
このことが、王は現存しないことを証明している。
 
以上の三つの根拠に基づけば、「過去には歴代の王がいた時代があったが、
みな女王国の前身たる(7〜80年続いた男王たちの倭国)に属してきた」と、
過去の経緯の説明であると読まなければならない。当然、卑弥呼の時代に伊都国王は存在していない。

1000余戸ほどで王を担いだ有力国家など現実には存在し得ない。
100余国あったものが大乱のあと30国程度に整理統合された時点で、
1000余戸ほどの拠点集落になったというところではないのか。(『魏略』のいう万余戸は度外視)
636日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:00:30
世有王とは、対関係になる無王の存在を表現しているだけ。
こちらの伊都は有王だが、もう一方の伊都は無だと。それがここで表された有無の関係。
637日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:09:30
>>635
これについてはお見事、と言っておきたい。

>1000余戸ほどで王を担いだ有力国家など現実には存在し得ない。

これについては常識的に納得出来るものだ。現実に王墓は邪馬台国より古い時代になるし、
この地勢で、奴国に対する独立は保てない。王がいるとしても奴国の属国に近い地位となるだろう。
638日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:11:13
世とは世の中。
有王の世の中。
639日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:22:22
<登場人物紹介>
 
唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学

ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査

メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般

太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論

レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ

ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事

ひとぶた(元・うましか)氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む?

名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州

水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ

神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない
640伊作:2011/02/09(水) 12:29:37
伊作氏  最強の九州説者。ただし、畿内説よりも九州北部説を嫌悪する。
641ポキール:2011/02/09(水) 12:44:42
>>635

>この一文が、王が存在していたという現在形表現ならば、
30年を一世代の区切りとする世という表現は使わない。
世(代々)という時間的広がりと脈絡を意味する世代表現をしている以上は、
歴代の王たちについて述べていると判断しなければならない。


ちょっと違和感を覚えるっす。
世を時間の広がりと捉えるなら、世○○なんて書かないで○○世ではないっすか?代々と続くものは○○世で、一つの区切りとしてるっす。
そうなるとイサクさんの言われていることは根底から躓くことになるっす。
642伊作:2011/02/09(水) 13:03:36
「世(代々)という時間的広がりと脈絡を意味する世代表現をしている」と書いているわけで、
「世を時間の広がりと捉える」だけではありません。

「そうなると」てあーた。
自分の間違った解釈を土台に2段論法してどうしますか。


『後漢書』倭伝はもっと明確に「世世」と書いてます。はい
国皆称王,世世伝統
国皆王を称し、世世統(す)ぶるを伝う。(いわゆる一つの伝統じゃありませんぜ)
中国の漢籍注も日本の文献学者も世を「世々」と読んでいる。

で。・あーたの
>世○○なんて書かないで○○世ではないっすか?代々と続くものは○○世で、
>一つの区切りとしてるっす
という、よくは意味の理解できない論法がおかしいこと・理解できましたか?
643伊作:2011/02/09(水) 13:07:55
>言われていることは根底から躓くことになるっす。
こういうセリフは、きっちり詰めたあとで、余裕をもっていうことです。

意見の正否というものは、述べた人間ではなく第三者が判断するものでね。
自分の意見の正否を自分で判断して勝手に結論づけてどうしますか。
644ポキール:2011/02/09(水) 13:42:04
>>642
おバカな俺にそんな難しいこと言われてもわかんないっす。なんせ中卒なもんで。
でも、違和感を覚えたから覚えたって言ったっす。


>『後漢書』倭伝はもっと明確に「世世」と書いてます。はい
国皆称王,世世伝統
国皆王を称し、世世統(す)ぶるを伝う。(いわゆる一つの伝統じゃありませんぜ)
中国の漢籍注も日本の文献学者も世を「世々」と読んでいる。        
後漢書とここにどんな因果関係があるっていうんすか?後漢書に世有王の世は世世だよって書いてあるんすか?
645日本@名無史さん:2011/02/09(水) 13:50:16
異策は本題に触れず相手のミスを指摘することで
話を逸らす作戦か?

相変わらずずるさだけは一級品
646日本@名無史さん:2011/02/09(水) 13:56:03
>>635
王がいるから国と呼んでいるんじゃないのかな。
後漢書には、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統 とあるし。

王がいなくなるというのは、よその国に統合されることと同じだと思うが。
647日本@名無史さん:2011/02/09(水) 13:58:30
>>635 >>637
倭人伝では、伊都国のみならず、対馬国、一支国、奴国、さらに投馬国、邪馬台国
さえも官で表現しているのでクニであっても卑弥呼の時代、王は名乗っていなかった
ことが分かります。

しかし、伊都国は一大卒を置いたと記すように、倭国王、卑弥呼と近い関係にあるよ
うみ見えるので、たとえ千余戸でも距離のちかい奴国の下とならず地位を保てたの
ではないだろうか。
648日本@名無史さん:2011/02/09(水) 13:59:01
>>646だけど、>>644とちょっとかぶったな。
649伊作:2011/02/09(水) 14:20:16
おかしいな。自分のサイトのURLを載せると投稿拒否になるのかな。

仕方がない。文字数の加減で、分けて書くのもつらいし。
失礼だとは思うけど、あとは私の「伊都国疑論」に目を通してほしいですね。
話題の核心について触れています。

サイトタイトル『邪馬台国・奇跡の解法』
ページ左の「最新記事」の欄に「伊都国疑論」というのがあります。
ここに、伊都国偏重論・伊都国前原論に対する孤独な挑戦を掲載しています。

伊都国偏重論・伊都国前原論の人も、反論用意(理論武装)のために一読を。
よろしく。
650日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:21:03
>>635
>▼「世々王有り。皆女王国の統(す)ぶる属す」。
>この一文が、王が存在していたという現在形表現ならば、
>30年を一世代の区切りとする世という表現は使わない。

これの意味がわからん。ちょっと解説してくれ。

>>644
漢文では、世には世世と同じ意味になる用法があるよ。
そのとき訓読では、伝統的に世でも「よよ」と読むよ。
651伊作:2011/02/09(水) 14:29:22
>後漢書に世有王の世は世世だよって書いてあるんすか?

中国の漢籍注も日本の文献学者も倭人伝の世を「世々」と読んでいる。 
後漢書の場合、「世々」を世ではなく「世世」と書いている。
世と書いても世世と書いても、「代々、歴代」という意味ですよ。



これ以上の説明はかんべんして。
652ポキール:2011/02/09(水) 14:36:29
>>650

>漢文では、世には世世と同じ意味になる用法があるよ。


このおバカな俺でもそれは知ってるっす。
でもすべてがそれにあてはまるわけじゃないっすよね。
たとえば世界、これが世世界になるなんて話きいたことがないっす。

世が世世と同じ意味で使われるなら、最初から世世と書けばいいわけで
東夷伝の中にも世世がでてくるから、ここは世と世世は使い分けると考えたほうが自然じゃないっすか?
653日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:39:47
>>652
じゃあ、「よよ」ではない「世」の意味は何?
654ローガン:2011/02/09(水) 15:00:31
>>635
> 邪馬台国ドンと来い、抽象的中傷論者が多くて議論にならんだった。

ここもドン来いもメンバーは同じ。以前は「俺がスレ主、ドン来いには書くな。」って人がいたけど…
まあ、レスが付くって事はみんな歓迎しているんですよ。ゆっくりしていってね。
655日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:11:10
ポキール君って、ひょっとして、かなり昔にいたあの人じゃないかな。
656日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:26:59
>>654
>以前は「俺がスレ主、ドン来いには書くな。」って人がいたけど…

スレ主ってのは確かにみんなに代わってスレ立ての労をとってくれる、その点は感謝したい
だが他スレに書くななどと強制するような、そんな私物化じみた命令ができる権限なんてスレ主にあるわけがない
657日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:58:25
伊都国は“齊き国“であるのか?
658伊作:2011/02/09(水) 16:08:24
ポキールさん。

>世が世世と同じ意味で使われるなら、最初から世世と書けばいいわけで
>東夷伝の中にも世世がでてくるから、
>ここは世と世世は使い分けると考えたほうが自然じゃないっすか?

どうやら、誰しも同じように書くものという先入観があっての発言らしい。
ま・『後漢書』を例にしたのは私だから、もう一度対応しておこう。

中国では現在でも、標準語が複数あるような国でね。
漢字とて複数の意味があって、同じことをいうにもぜんぜん別の文字を使ったりする。
誰しも同じように書くとは限らないわけ。
世と書いて世々と読ませる手法もあれば、世世と書く手法もあるってことさ。
ぶ厚い本を編集した人なら分かると思うけど、最後の末尾まで編集長が一人で書くことはない。
歴史書とて助手や弟子にふり分けて書かせる。多くの色んな人間が関与しているから、
個々の感性も混じるし、必ず決まったように同じ書き方をするわけじゃないのよ。

とくに『後漢書』の場合、儀礼破りの不手際があって宣城太守に左遷された笵曄が、
太守職の合間に先行する複数の『後漢書』を整理してまとめている。
中の東夷伝の末尾の倭伝は助手か部下が書いたらしいから、
使い分けるた考えるのが不自然なんだよ。 単に書き方の違いさ。
659伊作:2011/02/09(水) 16:15:16
見落としていたな。

>これの意味がわからん。ちょっと解説してくれ。
王がいたという現在形表現ならば、 「王あり」でけっこう。
王が複数いたわけでもなかろうから、「女王国の統ぶるに属す」と単数表現になる。

王がいたという現在形表現ならば、世も皆も無用・ということ。
660日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:47:40
>>659
なるほど。
でも、そこは女王在位現在の伊都国王を含めて歴代の伊都国王の話だよ。
女王即位以前にも致し現在もいると。
661日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:49:43
「歴代の王は伊都国から出していた」
という意味では同じじゃなかろか
世王と読んでも世世王と読んでも
662唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/09(水) 17:52:14
「世有王、皆統屬女王國」
>世(代々)という時間的広がりと脈絡を意味する世代表現をしている以上は
>みな女王国の前身たる(7〜80年続いた男王たちの倭国)に属してきた

世間という空間的広がり=諸国の王による共立。

後漢書、志、大寒。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」
この凶作で天下が乱れ始める。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
194年 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

倭国乱も後漢と同時に乱れた可能性が大きい。
7〜80年前から乱れ始め、卑弥呼の共立により一応の終息を見るが、魏としては、
倭国を冊封したい。
倭人伝とは、東夷九種のうちの倭種(倭国)統一譚である。
晋は東夷九種を東夷9国として冊封する。
663日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:55:50
>>653

>じゃあ、「よよ」ではない「世」の意味は何?

これはちょっとずれてるかもっす。
俺がいま取り上げているのは日本語の「よよ」じゃまくて、中国の古い書物に書かれている「世世」っす
日本語の「よよ」って「よ」の連用化で、「世世」は「世」の連用っすか?
おれは違うと思うッす。
だってそうじゃないっすか
日本語には活用があって、動詞が活用す「世」の活用は「世世」という新発見にならないっすか?
俺、頭弱いから難しいことは言えないっすけど
664ポキール:2011/02/09(水) 18:00:56
ごめんなさい。名前が消えてました >>663は俺っす
665唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/09(水) 18:05:56
晋書より
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、
昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,
居襄平。咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。

(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
東夷九種は東夷9国となる。
666ポキール:2011/02/09(水) 18:16:49
>>658

>どうやら、誰しも同じように書くものという先入観があっての発言らしい。
ま・『後漢書』を例にしたのは私だから、もう一度対応しておこう。

中国では現在でも、標準語が複数あるような国でね。
漢字とて複数の意味があって、同じことをいうにもぜんぜん別の文字を使ったりする。
誰しも同じように書くとは限らないわけ。


俺が言ってるのは違うッす。
後漢書に書いてある「國皆稱王世世傳統」と倭人伝の「世有王」を同じとして、世が世世になるのかって事です。

>中国では現在でも、標準語が複数あるような国でね。
漢字とて複数の意味があって、同じことをいうにもぜんぜん別の文字を使ったりする。
誰しも同じように書くとは限らないわけ。
世と書いて世々と読ませる手法もあれば、世世と書く手法もあるってことさ。
ぶ厚い本を編集した人なら分かると思うけど、最後の末尾まで編集長が一人で書くことはない。
歴史書とて助手や弟子にふり分けて書かせる。多くの色んな人間が関与しているから、
個々の感性も混じるし、必ず決まったように同じ書き方をするわけじゃないのよ。


それはわかったっすが、それが三国志にも当てはまるっってわけじゃないっすよね
イサクさんの言ってることは一般論で、それがすべてに共通したものだとということでは
ないと思うッす
667日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:16:53
>>663
日本語の話はしてないよ。
伝統的通説は、「世有王」を「よよ おうあり」と訓読し、「代々王がいる」と解釈するわけ。
でも、ポキール君の考えは、東夷伝で世世と世を使い分けているというのでしょう。
だから、ポキール君は「世有王」を「よよ おうあり」と読まず、
「代々王がいる」とは解釈しないわけだ。
すると、この「世」は具体的に何を意味しているのかという質問だよ。
倭人伝の中の「世有王」の「世」を現代日本語に訳してみてよということだね。
668ポキール:2011/02/09(水) 18:40:41
>>667
>日本語の話はしてないよ。
伝統的通説は、「世有王」を「よよ おうあり」と訓読し、「代々王がいる」と解釈するわけ。


してるっすよ。
訓読している時点で日本語っすよ


> 倭人伝の中の「世有王」の「世」を現代日本語に訳してみてよということだね。

了解っす。>>667さんみたいにすればいいっすね

「世有王」=「よ おうあり」と訓読し、「統率王有り」と訳すっす。
俺の場合「世」は統率と訳してるっす



669ポキール:2011/02/09(水) 19:01:53
>>668追記しまっす
世は統率と訳すって言われても何の説明しないとまずいっすよね
だから説明するっす。 頭弱いんだから細かい事までは突っ込みなしっすよ

俺ちょっと調べたんすが
「世」って古文では「丗」って書くっすね? これは十の三つを省略した形なんですってね
で、その十は 一爲東西 h爲南北 則四方中央備矣。て書いてあるッす
東西南北と中央を備えたもの三つ分が
この「世」には含まれている事になるっす
で、「三」とは何かと調べると、天地人之道也と書いてあるッす

これら調べたものを総合すると、四方と中央とは支配力。
支配力が天地人に及び備える。という意味が世には含まれ、おれは「統率」と訳したッす
670日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:10:21
>>625
>これでは伊都国が糸島にあったとする根拠としては弱いように思います。

そうですね。ただしここはあなたと同じように考えてみたのですよ。
「こういうことを勘案」すれば、別の結論を導くこともできるということです。
ご自分の推論も他の人から観たらどうなのかの参考になるかと思いますが。

さて、「根拠」と言われましたが、

>それは倭奴国王と帥升系王に関わるものかも知れません
>倭奴国王は「奴国の王」ではないと思います
>倭奴国は倭国と改称する前の名称でしょう
>当時糸島を含む福岡平野一帯を領地とする

以上についての「根拠」は書かれていませんね。 「論拠」ではなく「根拠」です。
671伊作:2011/02/09(水) 20:16:35
ポキール さんへ。

663 の投稿。
>東夷伝で世世と世を使い分けているというのでしょう。
これで、いってる意味が分かったよ。失礼した。
確かに、東夷伝の中で、東沃沮伝と韓伝に「世世」が登場するね。
▼東沃沮伝「戸五千、大君王無く、世世邑落に各(おのおの)長帥有り」。
▼韓伝「辰王は常に馬韓人を用いて之を作(な)し、世世相い継ぐ」。
「世世」と書いた例は少ないが、「世」と書いた例は同じ魏書のそちこちに登場する。
▼世襲爵土(世々爵土を襲ぐ=代々爵位と封土を継承した)。
▼世作盟主(世々盟主を作す=代々盟主を務めた)。
世と世世。同じ東夷伝の中でなぜこういう現象が起きたのかは分からん。
だからといって、「世」と「世世」が別の意味に書き分けたことにはならない。

ちなみに、世だけではなく、たまたま提示した用例の中に「各長帥有り」で、「各=おのおの」という文字も登場するけど、各各と書いた例もある。
▼魏書・王粲「故人各各有心耳」▼呉書・甘寧「時諸英豪各各起兵」
「世と世世」「各と各各」。同じ歴史書でなぜこういう現象が起きたのかは分からん。
だからといって、別の意味に書き分けたことにはならない。

>「世」って古文では「丗」って書くっすね? これは十の三つを省略した形なんですってね
世の文字の象形は、十を三つつなげた形らしいよ

>で、「三」とは何かと調べると、天地人之道也と書いてあるッす
十を三つつなげたのであって、「三という文字」の意味にするのは飛躍だね。

>おれは「統率」と訳したッす
世という文字のなりたちは、三十年を一世代とした時代をいうのだよ。

ほかの所でも一字・一字にこだわって解釈する手法をみているが、自分で迷路をつくってそれに自分が迷うようなことになり兼ねないね。
672日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:18:13
>>635
> 卑弥呼の時代に伊都国王は存在していない。

おもしろい問題提起だと思う。

韓伝弁辰の部分も「官」の説明が先にあり、辰王は後出だ。
しかも「世世相繼」ともある。

辰王もすでにいなかったということか?

> みな女王国の前身たる(7〜80年続いた男王たちの倭国)に属してきた

「其國本亦以男子為王」
とは伊都国のことだと考えているので同意できない。
673ポキール:2011/02/09(水) 20:25:47
>>671
俺みたいな馬鹿に付き合ってくれてありがとうです

>ほかの所でも一字・一字にこだわって解釈する手法をみているが、自分で迷路をつくってそれに自分が迷うようなことになり兼ねないね。

迷路に入り込むほどこだわってみたいっす。こだわるって相当な学力が無いと出来ないことっす
はんぱな知識じゃこだわれないっすから
674伊作:2011/02/09(水) 21:25:26
>韓伝弁辰の部分も「官」の説明が先にあり、辰王は後出だ。
>しかも「世世相継承」ともある。
むずかしい方向へ行くねー。この場合はチト趣向が異なる。
URLを入れると投稿を受け付けないので、サイトタイトルで紹介する。
手数だけど先にそれをみてもらってからにしよう。
『邪馬台国奇跡の解法』というサイトのカテゴリ一覧にある
「江上波夫氏の騎馬民族説批判」というページ(合計ページ)をよろしく。

>「其国本亦以男子為王」 とは伊都国のことだと考えているので
はじめて目にする意見だけど、議論の希望があけば・受けるよ。
675伊作:2011/02/09(水) 21:31:02
>付き合ってくれてありがとうです
作為・恣意・意図的誤解・小細工といったものがまじらない純粋さがあるからね。
だいたいにおいて、邪馬台国論にちょっかいを出す人には「色気」を感じるけど、
ポキール さんには純粋さがある。

その純粋さこそが、いちばん大切なことなんだよ。
間違いでも何でもいい・思った意見をぶつければ、必ず正解が返ってくる。
仕事でも勉強でもそうだけど、
そうやって少しずつ糧にしていくいう方法もあるよ。

ただ世の中には、ためになる返答を返してくれる親切な人とそうではない人がいる。
676ポキール:2011/02/09(水) 21:51:37
>>675
イサクさん、それはかいかぶりすぎっす。
俺は純粋なんかじゃなくて単純なバカなだけっす。
俺は別に邪馬台国なんかに興味ないし、ただ少しでもこのバカ治そうって考えてるだけっす。
通知表はいつもアヒルの行列だったし、これじゃ世の中通用しないし。
イサクさんみたいに頭のいい人から俺みたいなハズレ者みると
純粋に見えただけっすよ。作為的な事したくても、そこまでの能力ないっすよ。
677日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:00:13
>>635
卑弥呼の時代、伊都国に王はいなかったとする考えは、奴国等も同様として賛同できます。

ここで「世々王有り。皆女王国の統(す)ぶる属す」が卑弥呼共立前の伊都国の代々の王のこととした場合、
他の奴国なども共立以前には王がいただろうから、伊都国のところでのみで述べていることの理解が
困難です。 どのような解釈方法がありますか?
678伊作:2011/02/09(水) 22:38:10
>どのような解釈方法がありますか?

文章というものはおもしろいものでね。
「いちいち書かないで悟らせる」「あえて書かないことによって強調する」
なんて手法がいっぱいある。私は「それも」仕事としているからよくわかる。
文才は理屈ではなく天性の部分があるから、分からない人には何年経っても分からない。

だから現代でも、文章を操り・文章をつくり・
ストーリーを構築する人たちは特別な存在としてみられるわけでね。

さて倭人伝の場合。
倭国30ヵ国の中で、狗奴国の場合だけ「女王に属さず」とあるけども、
ということは、他の28ヵ国は女王に属していたと告げているわけです。
それが文章・文脈・行間というものです。

で・卑弥呼の在位した現在において、
倭王たる卑弥呼のほかに「王がいた」と名言しているのは狗奴国だけです。
ということは、ほかに王を称した存在はいなかったのです。
6792浪中:2011/02/09(水) 22:38:45
>>670
レス有り難うございます。
論拠ではなく根拠ですか。なんだか難しい議論を挑まれているようで心配ですが、

辞書を見たら、「論拠:論証において、ある事実の真偽を判定する根拠となる事柄、根拠:判断・推論などを成り立たせるよりどころ」
とあります。厳密には違いがあるのでしょうが、ほぼ似たような使い方をされるものでしょう?

「>それは倭奴国王と帥升系王に関わるものかも知れません」
これは糸島にある王墓が誰のものであるかという推定に関わるもので、「漢時代に関わる史書に名前が出ていない伊都国および伊都国王
のものとするのと、後漢書に登場する倭奴国王や倭国王帥升系のものとするのの比較です。僕は後者の可能性が高いと思いますが、断定
せずに「かも知れません」と控えめに述べたものです。

「>倭奴国王は「奴国の王」ではないと思います」
これは、漢の皇帝(光武帝)が王の印綬を授けた相手は倭の中の一小国であったとは思えないからです。少なくとも倭の中で覇権を有す
るような代表者(倭の王と呼んでもよい者)に与えたのではないでしょうか。劉秀が封禅の儀を行った直後に朝賀の使節を送った才覚
と実力が倭の王者と認められたのだろうと思います。

680日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:38:50
>>674
> 手数だけど先にそれをみてもらってからにしよう。

読みました。

> はじめて目にする意見だけど

目新しいものではありません。

「其國本亦以男子為王」とは『後漢書』の「倭國王帥升」のことで、
「住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王」のち
「世有王皆統屬女王國」として「伊都國」にいる

と考えています。
6812浪中:2011/02/09(水) 22:39:47
679の続き

「>倭奴国は倭国と改称する前の名称でしょう 」
光武帝は北方の匈奴に悩まされて様々な懐柔策をとっています。北の厄介な連中匈奴に対して大人しい倭の連中を倭奴とよんだのでしょう。
それで、倭奴の国を倭奴国と呼んだのではないかという推測です。それが帥升の登場で倭国になったと いうわけです。

「>当時糸島を含む福岡平野一帯を領地とする 」
倭奴国が光武帝に朝賀を行った目的は貿易の権利を独占するためだったと推定されます。楽浪群を通じての貿易ですが、この貿易の権利を独占
すれば莫大な利益を手にすることができたでしょう。光武帝から王と認定されたことは貿易の独占権を与えられたことになります。
他の国もその貿易の独占権を欲しがったとでしょうから競争になります。倭奴国王がその貿易の独占権を獲得したということは、半島への海路
を確保していた(制海権を握っていた)ということです。それには他国に優る国力が必要です。国力は食糧生産力と人口と技術力(航海術など)
によります。そういうわけで倭奴国王は「糸島を含む福岡平野一帯を領地にしていた」のではと思うわけです。
682日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:49:41
日本書紀は新羅からの渡来人が新羅の神話を下敷きにして書いたフィクション文学小説。
実史を織り交ぜるので、多少フィクション小説の様に見える部分もありますが、基本的にはSF小説のような体裁です。
もともと歴史書だとはどこにも書かれてはいないのです。
683伊作:2011/02/09(水) 22:58:48
>読みました。
お手数をおかけしました。

>「其国本亦以男子為王」とは『後漢書』の「倭国王帥升」のことで、
>「住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王」のち
でしょうね。107年に登場した帥升以来、男王たちの時代が7〜80年続いた。
という解釈でだいたいコンセンサスができつつあるようです。

>「乃共立一女子為王」のち
>「世有王皆統属女王国」として「伊都国」にいる

これにはまいった。
断章取義とはまた違って、関係のない文章同士を結びつける手法ですね。
「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王」は、
卑弥呼が女王になるまでの経緯として、かつて倭国と呼ばれた時代の話です。
「世有王皆統属女王国」はこれとは無関係で、伊都国の「沿革」を述べている文節です。

これをくっつける手法そのものが間違いだし、
女王の所在についてはまだまだ触れるどころの話じゃない文章でしょう。
で・のちに、邪馬台国の説明に入った所で「ここが女王の都する所」と名言している。
文章構成というものを、めちゃくちゃにして解釈するものじゃありませんよ。
684ポキール:2011/02/09(水) 23:00:24
>>678
イサクさん。ついでにもう一丁いいですか?
それって「其南有狗奴國、男子爲王」のことっすよね。
ここ面白くないっすか? 「男子爲王」って 有王でも在王でもないっすよ
しかもわざわざ男子といってるっす
ここは王を強調しているのじゃなくて「男子」を強調しているように俺には感じるッす
男子を王とすることがこの狗奴國には重要な事で
これは女王を意識しているからこその「男子」と俺はよみたいっすが
685日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:00:50
>>679
> ほぼ似たような使い方をされるものでしょう?

そんなに難しく考えてませんでした。
「根拠」は推論のもとになるなんらかの事実で、「論拠」は頭の中で思うことというようなつもりで使いました。
辞書によると違っていたようですね。

「可能性が高いと思います」とか「思えないからです」は頭の中のものでしょう?
686あらため:2011/02/09(水) 23:02:29
なんだ、なんだ たかが〜伊作さんが来たぐらいで大騒ぎして〜

「是非ご発言」とか「貴方のファン」だとか2chが舐められるような発言はよしてょw
(そんなに凄い人じゃないってw)

まあ、歓迎はするが〜2chには邪馬台国スレが二つあって、終止符スレの名無しと
どんコイスレの名無しの「質」に差があるのだろうかね・・・
687ポキール:2011/02/09(水) 23:09:07
「男子爲王」と男子を強調しても、これは決して女王への対抗意識ではなく
男子を王としなければならない理由があって男子王を爲した。
そう読めなくないっすか。
女王ではいけない何かがあるから「男子爲王」ってことっす。
6882浪中:2011/02/09(水) 23:18:43
>>685
>「可能性が高いと思います」とか「思えないからです」は頭の中のものでしょう?

そうです。僕の判断です。
689日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:19:38
>>683
> 関係のない文章同士を結びつける手法ですね。

結びつけるつもりはありません。関係のない文章です。
自分の考えを簡単に表したつもりでした。

「倭國亂」は「帥升以来の男王」が衰えて起ったもので、
「相攻伐」した者達は「帥升以来の男王」とは別に「一女子を王と為」したのです。

残った「帥升以来の男王」は「世有王皆統属女王国」だということです。
690あらため:2011/02/09(水) 23:29:32
最近では、長たらしさんとか記紀を得意としてる人が多いせいか
日本書紀・古事記のレスが多いですよね。ところで、みなさんはどの本を使ってるの?

ちなみに私のが、日本古典文学大系 日本書紀
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2869549

古事記 新潮日本古典集成
http://www.shinchosha.co.jp/book/620327/

だよ〜ん 同じモノを持ってる人おるのかな〜?
691あらため:2011/02/09(水) 23:34:45
伊作さんがどうやら、私と議論したがってるようなので
すこし相手してやろうか(おまぃら舐められぱなしだしw)。

私は、終止符スレにも、どんコイスレにも両方書き込むんんだけど
どっちかというとここのスレを専門としてるのでこっちでお願いします。

で、伊作さんの邪馬台国九州説てどういうのなんですかね?
692伊作:2011/02/09(水) 23:44:28
>伊作さんの邪馬台国九州説てどういうのなんですかね?

その手には乗らん。
どこへいっても、ひょうひょうと質問投げるだけじゃないか。
693日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:50:49
>>691あらためはボラ魏ノールでも相手してればいい。

ボラ魏ノールに沈められる悪寒がするがな
694あらため:2011/02/09(水) 23:53:46
>>692
たしか〜貴方は「倭人伝の里数は6分の1」とか間抜けな事を言ってたひとでしたよね?

「周」「漢」「三国」「晋」の時代と渡り、中国の墓からは物差が発見されている。
長さの基本は「尺」なので、あなたのいう六分の一説とやらは〜
6分の1サイズの物差が発見されないかぎり成り立たない。
695伊作:2011/02/09(水) 23:58:35
ポキール さん。

>男子を王とすることがこの狗奴国には重要な事で
>「男子爲王」男子を王としなければならない理由があって男子王を爲した。
>女王ではいけない何かがあるから「男子爲王」ってことっす。
これは、卑弥呼と卑弥弓呼の「基より不和」と関係するだろうね。

以下は私の推論。二人は血縁者だとみている。

倭人はある程度漢字言語を使っていたらしく、
大倭・大率・持斎などは倭人がつけた名称ということになっている。
その線でいけば(私が20年前に唱えたけど)、
狗奴国は舊奴国(旧奴国)で、古豪・倭奴国以来の旧臣が支えた国。
倭人伝に登場する国で「奴」がつく9ヵ国は、
大乱のあと古豪・倭奴国勢力が分散させられたもの。

>「男子爲王」って有王でも在王でもないっすよ
>女王ではいけない何かがあるから「男子爲王」ってことっす。
卑弥呼が女王になって数十年後に、卑弥呼に対抗して男王を立てた雰囲気がある。
「卑弥弓呼こそが正当な王位継承者だ」となんとかね。

いじょ。たあいのない推測。
696あらため:2011/02/09(水) 23:59:26
うはははは ヤフーって 

倭人伝の記述「丗有王皆統屬女王國」の「丗有王」を
30人の王がおっぱいおるぅぅぅー>< とか読む〜人ばかりじゃんw
697伊作:2011/02/10(木) 00:01:43
>6分の1サイズの物差が発見されないかぎり成り立たない。

そういう度量衡が存在したとはいっていない。
誤解した上での反論は疲れるぜ。

事実は事実として、倭人伝の数値は6倍から6.5倍で書かれている。
それだけのことだ。短里などという造語連と一緒にするな。
698あらため:2011/02/10(木) 00:11:33
当時の日本列島には「王」ていうのが三人ほどいて

一人目は、伊都國の「王」の「丗有王」で
二人目は、狗奴國の王「男子王」
三人目は、女王 卑弥呼の「女子爲王」で・・・ 列島には王が三人いたことになる。
で、倭国の盟主、すなわち「倭王」として認められたのは「親魏倭王」の卑弥呼さま。

大倭は「大いなる倭」と読むのがただしく「一大率」「持衰」というのは、
伊作さんのいうとおりで・・・倭独自の名称ですよね。
699あらため:2011/02/10(木) 00:15:24
>>697
いやいや、その前に、中国での里に関する長さ(面積)の単位に「六分の一」になるという
物的証拠が発見されてないだろう。

ぐだぐだ言ってないで、「物的証拠」持ってきて下さいな。
700あらため:2011/02/10(木) 00:21:24
「里」というのはですね、「歩」が基準になっている。
その「歩」はね、「尺」が基準ですね。

漢志
古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里

いわゆる、里は1800尺というてるんですが、
この「里は1800尺」というのは、歴代変わっていない。

漢代とか古代においてもこの定義が使われてるということ。

あと天文学ですが、太陽までの距離を知るために「周髀算經」の計算を用いたのはいいんですが、
「里」を使うときは、尺が基準ですから徒歩でしょうねぇ。
伊作さんのいう六分の一の「短里」ていうんですか?w まずは証拠を出して下さいよ。
701日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:27:38
>>700
河童の真似事か?
格好わるいぞい。
702日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:30:14
>>699
馬鹿だねえ、短里だって長里だって一尺の長さは同じなんだよ。
703日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:31:19
MIXIにも邪馬台国コミュがあるけど、そっちで話したりしないの?
専門家もいるから、腕試しにはいいんじゃない?
なにも、2ちゃんでアマチュアを相手にしなくても。
704ポキール:2011/02/10(木) 00:33:25
>>700あらためさん。

>漢志
古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里

なんか面白そうな事が書いてあるみたいっすね?
705伊作:2011/02/10(木) 00:41:28
>「物的証拠」持ってきて下さいな。

お角違いの要求だな。文献考察ごとに物的証拠などとタコ野郎。
文献的証拠だたくさんだ。それはもう出してあるから、てめえで探せ。
お前ら畿内説どもは、自分のほうから論証らしいことはせず、
相手に論拠だせとばかりいうが、何を考えてるんだ。

議論らしい手順を分で議論らしいことをいえこの野郎。
706あらため:2011/02/10(木) 00:46:05
古代史の真実を追う上で、文献的記録と物的証拠との照らし合わせというか、
それらの一致を得て、はじめて真実に近づけるのではなかろうか。

伊作さんの言ってることは、倭人伝に記録されてるんだから、
全て間違いない と言ってるようなもんで・・・・
それなら倭人伝の記述「出真珠、青玉」の講演でもしてくださいなw
さ、さ、 どうぞ。
707日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:52:34
畿内説は、三角縁神獣鏡詐欺やら箸墓詐欺など、詐欺が常習的だから、「証拠証拠」と騒ぐクセがついてるのさ。
708あらため:2011/02/10(木) 00:53:25
>>701
なんで私がモン太君の真似ごとなんてしなきゃならんのだね。
それに〜議論にカッコイイも、悪いもない。

>>702
そもそも短里、長里なんて言葉は無い。
古なんとかって人が勝手に作りだしたものなんじゃないかな。

>>703
なんだ〜その専門家てw どこもアマチュアだろうw

>>704
面白いですよ〜まあ、ここの記事を読んでいたら、いろんな投稿があると思うし、
興味がアル投稿があったら、ご自身で調べてみるといいですよ。
709あらため:2011/02/10(木) 01:00:29
伊作さん

もちろん、私は畿内説何ですが、その畿内説の根拠としては、
倭人伝の記述に「徑百餘歩」とあり、これは卑弥呼の墓で・・・・
みなさんも御存じのヤマト王権の最高巫女〜
三輪山の大物主神を祀る倭迹迹日 百襲姫命の箸墓のサイズが一致する。

それに対して、九州説論者さんは、卑弥呼の墓でさえも示さないではないか。
ここは九州説論者代表として、伊作さんに答えて貰いましょうか。
710伊作:2011/02/10(木) 01:10:05
バカばかしい。
卑弥呼の墓が築造時のまま残っているという前提での意見なのだろうが。
「卑弥呼の墓が築造時のまま残っている」と論証してからいえ。

お前たちは受け売り衒学畿内説は、思考深度浅いうえに認識不足というか、
詰めが甘いまま、それを土台に話をしかけてくる。

>倭人伝の記述に「径百餘歩」とあり、これは卑弥呼の墓で・・・・
いまどき、こんな古くさい「恥墓」説をのたまうタコがいるかー。
711伊作:2011/02/10(木) 01:12:47
●あっちに書いたばかりだが、こちにもバンカーバスターを落としてやる。

纏向遺跡の1.5×2.0キロ四方が邪馬台国だという。
ここには、卑弥呼の時代を匂わせる古墳時代前期初頭などという
都合のいい時代区分の大古墳が12基あるらしい。その他大小の無古墳が無数。
ほてからに。そこにある建造物が卑弥呼の宮城だという。

●同時代の王都に同時代の王の墓はつくらない。これが歴史的事実だ。
●墓まみれの王都など・どこにもない。

古来、王都と墓域は信仰的に別もので、墓は王都の郊外につくられる。
ところが纏向邪馬台国説によると、女王の宮城と女王の墓が目と鼻の先だ。
纏向周辺は、三輪山を中心とした墓域・葬送祭祀の「都」だろう。

なへにが卑弥呼の墓だー。ターコ。
712あらため:2011/02/10(木) 01:20:43
>「卑弥呼の墓が築造時のまま残っている」と論証してからいえ。

現在、高度成長期に伴って新幹線とかテレビ、パソコン、それから携帯電話など
ハイテク機械が普及されてる世の中では、大規模は工事、高速道路を作る為に自然を破壊したりだとか
考えられるが、この列島で大きなそういうトンネルを掘るだとか、高級住宅街を作るとかしたは
明治、いや昭和に入ってからだろう。
明治期以前の日本列島には自然のモノや古墳が壊されてなかった。
そして倭人伝の記述から卑弥呼の墓のサイズが読みとれて、
これは150メートル以上の規模だということは疑いは無い。
明治期まで古墳は、破壊されてなかったので卑弥呼の墓が残っているのが当たり前。
713伊作:2011/02/10(木) 01:29:26
めんどうだ。俺の論説をみて勉強せい。
URLを受け付けないからサイトタイトルで。

『邪馬台国・奇跡の解法』
カテゴリ一覧にある●従来の問題点を質す「批判の章」の中に
「卑弥呼の墓疑論」というページがある。そこにすべて書いてある。

一つずつすべて、論理的かつ科学的に潰してから。恥墓が弥呼の墓だといえ。
そうしたら相手をしてやる。
714あらため:2011/02/10(木) 01:30:32
纏向遺跡というのは、当時の畿内の中心地と考えられていて、
別に巻向遺跡の小さい範囲(数キロ単位)の中に倭人伝の記述「可七萬餘戸」が
あったわけではない。

ちなみにこの七萬餘戸というのは「七万人以上」の意味を指してるンですが、
「邪馬壹國」と差したその範囲は非常に広く、この大きな範囲の中に七万人以上いたダケ。

>●同時代の王都に同時代の王の墓はつくらない。これが歴史的事実だ。

これは今回の巻向遺跡の巨大な祭祀場跡発見で、こんなこと言えないはずなんだけどな〜
ヤフー専門にしてる人ってチト時代遅れしてる人が多い。

>●墓まみれの王都など・どこにもない

逆だろw 墓と王都が離れた例のがないよw
715あらため:2011/02/10(木) 01:37:03
>そうしたら相手をしてやる。

あら、そうやって逃げるんですねw
さて、私と議論するのが、伊作さんじゃ〜まだ役不足というのが判明した所で
そろそろ寝ましょうかね。 
あとは、みなさんで zzz・・・
716伊作:2011/02/10(木) 01:41:52
>逆だろw 墓と王都が離れた例のがないよw

なるほど。恥知らずだから恥墓が卑弥呼の墓だといえるんだ。
いまどき、そんなのに騙されるバカがどこにいるか。
●墓まみれの王都など・どこにもない●
これがいずれ畿内説を根底から破壊することだろうよ。

いいから。俺の論説で勉強しろ。反論準備のためにも必要だぞ。
717日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:57:39
>>716

根拠に乏しく、飛躍が大きいので、話になりませんな。
暇つぶしに相手してあげてるだけだから、感謝しなよ。
718伊作:2011/02/10(木) 02:14:04
>暇つぶしに相手してあげてるだけだから、
それって、ふつーは「逃げ口上」ってんじゃなかったか?

>根拠に乏しく、飛躍が大きいので、話になりませんな。
ここでは細かく長く欠けないだけ。すべては俺のサイトに書いてある。
本気で潰す自信があるなら、黙ってても俺の論旨を研究するだろ。
だが、俺のサイトを細かくみようという奴もいない。それで、非難文言だけはたっしゃだ。

自信たっぷりに多勢を相手に蹴散らしてる俺はすごいだろ。
719日本@名無史さん:2011/02/10(木) 02:36:55
>>718

読んだけど、論拠が何もなくて結論だけ。

がっかりだよ。もっと中身がある人とおもったのに。
720伊作:2011/02/10(木) 08:11:16
>根拠に乏しく、飛躍が大きいので、話になりませんな。
>暇つぶしに相手してあげてるだけだから、感謝しなよ。
>読んだけど、論拠が何もなくて結論だけ。
>がっかりだよ。もっと中身がある人とおもったのに。

なさけない奴ら。抽象的な否定文言しか書けんだろ。
ちゃんとした論客ならば、「どこかどう」ときちんと批判してくる。
俺のは構造的かつ論理的だ。「どこかどう」という隙がなかろう。
何よりの特徴は、不正・小細工・まやかしがない。
だから、これまでのとは違ってつつく所がない。図星だよな。かんら・かんら
自信たっぷりに「読んでつついてこい」という意味が分かったろう。

むなしく、かつて通用した「負けないそぶりの板口上」をアピールするのみかー。
みぐるしいぜ
721伊作:2011/02/10(木) 08:14:42
02:14:04 すべては俺のサイトに書いてある。
02:36:55 読んだけど、論拠が何もなくて結論だけ。

たかだか15分で読み切れる内容じゃないぜ。
口先だけ、否定文言を並べてるだけ。っての丸みえだ。この野郎
722日本@名無史さん:2011/02/10(木) 09:47:22
>>678 伊作さんへ
レスありがとうございます。
しかし納得のできる回答ではありませんでした。「世王有」の王が卑弥呼共立以前の王であれば皆女王国と次に女王を持ち出すことは無いでしょう。

「世々王有り。皆女王国の統(す)ぶる属す」に私なりに次の()に示す行間の意を挿入すると理解できることが分かりました。
(高祖山に遺したように、高天原の祖、オオヒルメムチ、又の名天照大神、又の名卑弥呼を輩出した、伊都国の王家は今も)代々王を継承し
皆女王国に統属し(従っている。)

卑弥呼は年すでに長大としても、代々の王はそんなに多くなく、糸島に見つかった王墓の数ほどだったので、世世有王でなく世有王と記した
のでは無いだろうか。
また女王国に属する奴国など他の国は、女王共立後、女王の下でまた王を名乗る矛盾を解消して、王は官としたか王は廃位され女王国から官が
派遣されたが、伊都国の王は女王を輩出したので王を継承することができたのでしょう。
であれば、女王国に統属すると記す現在形も納得できます。また王が官の下に置かれても、あるいは官の後に記載されても、名誉を保てたことでしょう。

記紀によれば天照大神の父、イザナギノミコトは代々の王ではなく一代で国生みしており、伊都国が後漢の書に登場せず新しい国のように
見えることと符号してきます。
以上のようなことから、卑弥呼の時代、伊都国には王が代々いたと考えます。




723日本@名無史さん:2011/02/10(木) 10:26:32
>>715
与作じゃ役不足って、お前役不足の意味理解して使っているのか?
その様子じゃ理解なんてしてないだろうな。そんな奴が歴史語っているうちは、まともなディベートなんて成立しないだろうな。
724日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:05:15
この程度じゃ役不足なんでしょう。
もっと立派な役をつとめてもらわないと。
725日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:07:36
伊作がどういうタイプの論客か。カマかけて調べていたけど、
おおよそ見切ったよ。

純真な古代歴史愛好家ではなく、他人の論には一切迎合せず、ディベートを目的として楽しむタイプ。
ディベートによって蓄積した資料をサイトで書き連ねてるわけだ。

でも、サイトに書かれてるのは資料だけで、肝心の自説の論拠がない。
論敵を論破するためだけの資料であって、自説を証明するための資料では無いからだ。
彼の結論が飛躍してるのは、そういうわけなんだな。

相手が真面目な人なら、丁寧な受け答えしないと失礼だけど、そうじゃなくて、
伊作は罵倒も含めてディベートを楽しんでるタイプだから、多少の罵詈雑言も気にせんでしょ。

726日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:16:42
純真な奴は弐チャンなんかにこないしぃ
727伊作:2011/02/10(木) 11:24:56
>おおよそ見切ったよ。
よくいうぜ。俺は、お前などの経験則でつかまえられるほどありきたりでも単純でもないぜ。
そいうお前らを見切ってやろうか。
盗んだ品物を握った腕を掴まれてるのに、「証拠を出せ」とわめく万引き同然だな。

こっちは、構造的かつ論理的に構築した論説をもって議論しているし、
投稿制限範囲内で書ける分量の論拠は提示している。
書けない分量の論説は、オープンに開示しているから見て突いてこいというのに、
ろくに見もしないで、具体性のない抽象的な否定文言をならべるだけだ。
本当にロンパしようという意思があるならば、こっちが隠していても探してみるだろう。

よーするに、本当の議論などする気はなく、この場の体裁を保ちたいだけだろう。
たぶん、議論し方も知らないはずだ。
何のオリジナリティもない、巷間に流れる説を連呼してるだけのタマだろが。
WEBに徘徊する手合いに一番多タイプだな。

>相手が真面目な人なら、丁寧な受け答えしないと失礼だけど、
俺はまじめな研究者でまじめな論客だ。事実、論拠らしい論拠を提示して、
論らしい描き方をしてるのは俺だけだ。

寄ってたかって罵倒をはじめたのはそっちだ。
俺はいわれ放しにされる男じゃないから、相手の質と態度にあわせてるだけだ。

まだ・なんかいうことあるか。ていさい野郎
728日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:27:08
>>727

>よくいうぜ。俺は、お前などの経験則でつかまえられるほどありきたりでも単純でもないぜ。

ほら、もう、「自分は純真な古代歴史愛好家じゃありません」と自分で認めたじゃない。

そんなに簡単に誘導尋問にひっかかってどうするの?
729伊作:2011/02/10(木) 11:27:53
>カマかけて調べていたけど、

カマで何だ。ずいぶん自惚れた発言をするな。
かっこつけ専門のクチか?

>純真な奴は弐チャンなんかにこないしぃ
くるけど、汚れた銀蝿どもに毒されるんじゃないのか?
730伊作:2011/02/10(木) 11:39:51
>「自分は純真な古代歴史愛好家じゃありません」と自分で認めたじゃない。
得意の都合勝って解釈だな。
俺は複雑で単純。繊細にして大胆。思考回転スヒードはgoogleのエリートなみ。
天分の文才をもつ天才だ。

人間という奴は、出方をみれば、
それまでの人生で接してきた人間の幅が分かるものだよ。

>そんなに簡単に誘導尋問にひっかかってどうするの?
薄い口論手口を使ってかっこつけるなよ。んーなの・さんざん体現済みなんだぜ。
731唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 13:30:47
>倭国の盟主、すなわち「倭王」として認められたのは「親魏倭王」の卑弥呼さま。

では何故?女王と倭王が存在するのか?
女王の死後男王が立てられる。
正始元年 倭王は朝貢するが、女王の死亡はもう少し後
卑弥呼死→男王→壹與=伊都国を傘下とする。
大倭は伊都国に一大率を置き各国ににらみをきかす。
時代は景行、日本武尊の直後である。
考古学50年遡上は、210年任那建国。
239年時点で伽耶(狗邪韓国)は存在する。
この直後半島は、魏が管理し任那建国は無い。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,
文王(俶)生於東夷。文俶は東夷の中で生まれる。
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。文俶は274年頃から東夷校尉を勤め291年 文俶は惠帝に仕える。
この間に東夷は洛陽を頻繁に訪れる。

732伊作:2011/02/10(木) 13:57:03
唐松っちゃん。
しさしぶりだね。相変わらず達者なようだ。

俺は、どんな説でもあっていいと思うし、徹底的に叩こうともおもわない。
無邪気な説は無害だしね。
ただ、小細工したりウソをついてまで自論を推進しようとか、
不必要に攻撃してくる奴は許さない。断固として戦う

唐松っちゃんは他人をどうこういうことなく、
自論を大人しくならべるだけだから、別に害とも嫌ともおねわないし。
論旨も使う道具も違えど探求する同道よ。ま・がんばれや。
733日本@名無史さん:2011/02/10(木) 14:12:47
論拠を言わず、結論からまくしたてる伊作よりも、

論拠から述べる唐松のほうが、筋の良い人とは言えるな。
734伊作:2011/02/10(木) 14:27:43
733 名前:日本@名無史
往生際がわるいぜ。
このごにおよんでも、そういう下卑たことしか書けないらしい。

着内説外道常套手法で、事実とは正反対のことをいって人物像をでっちあげ、
それを観客に刷り込もうというやつな。観客もそれほどバカじゃないぜ。

観客をなめるなよ。タコ
735伊作:2011/02/10(木) 14:33:00
さて。まともな反論もなさそうだし、つまらん。
そろそろ消えようか。





といえば、





背中に向かって吠えるようなことをするタコがいるんだろうなー。



わらわら
736日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:15:57
伊作って、太国と芸風がとっても似てる。
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/10(木) 15:24:33
???
738ローガン:2011/02/10(木) 16:29:18
>>722横失礼。
>「世々王有り。皆女王国の統(す)ぶる属す」

この統屬ですが、三国志にいくつか見えます。
●魏書張恭伝「衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而【統屬】郡」 宦官の大権力者唐衡の弟は京兆虎牙都尉となり二千石の禄で郡の指揮下にはいる
●魏書梁習伝「西部都督從事【統屬】冀州總故部曲」 ヘイ州が冀州に合併されたので、梁習は改めて議郎西部都督従事に任命され冀の元の部族は指揮下にはいる
●蜀書李厳伝「留護軍陳到駐永安皆【統屬】嚴」 諸葛亮は護軍を永安に駐留させ、護軍全ては李厳の指揮下にはいった
●蜀書黄忠伝「裨将軍仍就故任【統屬】長沙守韓玄」 曹操は黄忠を裨将軍とし、元の任務を行わせ長沙太守の韓玄の指揮下においた
●蜀書費詩伝「王沖者廣漢人也。爲牙門將【統屬】江州督李嚴」 王沖は牙門将となり江州督の李厳の指揮下にはいる
●蜀書季漢輔臣賛「將軍住公安【統屬】關羽」 ビ芳は将軍となって公安を住み関羽の指揮下にはいる。
続く。
739ローガン:2011/02/10(木) 16:42:10
以上のように、統屬には、「AはBという立場(構成員)で有りながらCの指揮下にある」という意味を読んでもいいのではないでしょうか?
翻って倭人伝…
「世有王皆統屬女王國」ここまでの登場人物は「王」「女王」「官、副官」です。上記ABCに当てはめて読むと
「今、国に王はいるが、官副官達は、女王国の指揮下にはいっている」となります。
統屬しているのは官副官達だと思います。
7402浪中:2011/02/10(木) 16:53:52
あ、ローガンさん此処に居られたんですか。探していたんですよ。ドンこいスレに僕のレス入れてますからお返事をお願いします。頼りにして
いますので見捨てないで下さい。
741伊作:2011/02/10(木) 16:54:59
ローガンくん。「〜の統ぶるに属す」と提唱したのは俺が初めてだよ。
まったく同じことを俺がサイトに公開しているが、こっちのほうが詳しいようだ。

同じ『三国志』に登場する統属という用法を検証して、どういう意味解釈を採るべきかを確認する。
・『魏書』夏侯淵:夏侯淵が正始中に夏侯儒に代って征蜀護軍となって、
征西 (征西将軍)に統属した。
・『魏書』桓範: 兗州刺吏の桓範は冀州牧に転属になると聞いたが、この時の冀州は
、桓範の後輩にあたる鎮北将軍の呂昭に統属していた。
・『魏書』梁習: 建安十八年、議郎・西部都督從事は冀州に統属した。
・『魏書』恭子: 衡弟が禄高2000石の京兆虎牙都尉になって郡に統属した。
・『蜀書』黄忠: 曹操に取り立てられた行裨将軍は、長沙太守・韓玄に統属した。
・『蜀書』費詩: 牙門将の王沖は江州督の李嚴に統属した。
・『蜀書』楊戲 :蜀の将軍・士仁は関羽に統属した。
▼「皆統属◯◯」が登場する記録
・『蜀書』李嚴: 前将軍の李嚴が江州に駐屯したが、護軍の陳到らはみな李嚴に統属した。
・『晋書』逖伝:董瞻、于武、謝浮等それぞれ数百の兵(?)を抱えた十余の部隊は、
みな豫州刺史・張平に統属した。

これらで分かる通り、主語たるものが「◯◯に統属した」という受動的表現である。
つまり、地位の低いほうや権力・権限の小さいほうが、地位の高いほうや
権力・権限の大きいほうの統率に属したという用法である。
従来は「統属する」「統属した」と読まれてきたのだが、これでは日本人には意味が通じない。
中国語には統属という成立単語はない。必然的に単語・熟語ではなく用法との判断になる。
そもそも、統と属という相反する動詞を並べた統属をどう解釈すべきなのかが、
これまできちんと整理されていなかった。
そこで、私は「〜の統ぶるに属す」と読むことにしている。
これがいちばん分かりやすい読み方だろうと思う。
『三国志』の用例から得られたところを翻訳すれば、
「〜の統治下に属す」「〜の統率下に属す」「〜の指揮下に属す」という意味である。
742伊作:2011/02/10(木) 17:00:16



どだローガンくん。
説明の仕方も理路整然としてて正攻法で・どうに入ってるだろ。


で・結論が違うのはなぜだ?
きみの得意の・自説に有利なほうへ誘導するまやかし法か。わらわら
743日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:09:33
>>741
「〜の統ぶるに属す」って誤訳じゃないかな。
「に属す」である以上、「〜の統ぶる」は「属」の目的語だから、
「〜の統ぶる(こと)」のような名詞形の省略でしょう。
「AはBに属す」は、漢文では「A属B」だから「統属」ではなく「属統」の語順じゃないと
「〜の統ぶるに属す」とは読めないよ。
744伊作:2011/02/10(木) 17:25:52
話の仕方を知らないど素人は無礼なのが多いなー。

自論や反論の説明が終わったあとでこういう文言を書けばい。
>「〜の統ぶるに属す」って誤訳じゃないかな。

いきなり頭にもってくるから無礼な発言になるんだ。
しかも、なにこれ。
>「〜の統ぶる」は「属」の目的語だから、
>「〜の統ぶる(こと)」のような名詞形の省略でしょう。
自分のいってることが自分でわかってるのかね。
俺にはさっぱりだ。
正反対の意味をもつ動詞を重ねた場合の読法だとことわってるのだが、
その片方が何で「名詞形の省略」とか意味不明の説明になるんだ。

誰にも分かるように説明しなおしてくれ。
745ローガン:2011/02/10(木) 17:44:27
>>741
>まったく同じことを俺がサイトに公開しているが、こっちのほうが詳しいようだ。

だから〜三国志を書いた人物が記した用例を書きだそうと、注記引用文を出さなかったんですよ。
そのサイト訂正したほうがいいですよ。曹爽伝と夏侯淵伝は注記だから。
746日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:47:32
>>744
まあまあ、興奮せずに。
短いレスじゃあ、最初に結論を持ってきた方が、何を主張しているかわかりやすいでしょ。
ヤフー掲示板みたいな形式なら、縷々理屈を並べて最後に結論でも良いけど、
ここは短いレスの遣り取りが基本だから、簡潔明瞭な方が良い。

日本語で「〜に属す」という意味に訳すなら、「〜」の部分は漢文では「属」の目的語になる。
だから、漢文では目的語は動詞の後ろだから、「属〜」の語順でなければならない。
「女王国の統ぶるに属す」ならば、「属女王国統」の語順じゃないといけませんよということ。

尚且つ、日本語は「〜に属す」という場合、「〜」の部分は普通は名詞だよね。
「統ぶる」がまんま動詞なら目的語にはならないから、
「統ぶるに属す」を日本語として成立させるためには、
「統ぶる」の後ろに何か名詞化する要素が省略されていると考えざるをえない。
でないと日本語でOK?の状態になりますよということ。
747ポキール:2011/02/10(木) 18:01:10
>>744 口を挟んでいいっすか?

俺、漢文なんてよく理解できてないっすが、

「世有王皆統属女王国」

ここの「統」は副詞で、「属」は動詞で、(すべて女王国に属す)と訓読し

皆全面的に女王国に属する と訳すのはだめっすか?
748伊作:2011/02/10(木) 18:26:19
>曹爽伝と夏侯淵伝は注記だから。
ありがと。あいきょう。用例の提示。それだけ。
で・結論はどうなんよ。
749伊作:2011/02/10(木) 18:40:53
>短いレスじゃあ、最初に結論を持ってきた方が、何を主張しているかわかりやすいでしょ。
いきなり否定文言から入るのが多くてね。

>「女王国の統ぶるに属す」ならば、「属女王国統」の語順じゃないといけませんよということ。
はははー。笑うよ。正しい漢文にしたいなら「属統女王国」だろう。

ごちゃごちゃゆってるけど、俺はこうことわってるんだぜ。
従来は「統属する」「統属した」と読まれてきたのだが、これでは日本人には意味が通じない。
中国語には統属という成立単語はない。必然的に単語・熟語ではなく用法との判断になる。
そこで、私は「〜の統ぶるに属す」と読むことにしている。
これがいちばん分かりやすい読み方だろうと思う。

何も、正しい漢文読みとはいっていない。たぶん古語用法だろうと思う。
隋書の「自竹斯国以東皆附庸於倭」もそうだな。
ただ「附庸」と読んでいるがこういう単語はないから、「変わらず(普通に・同じく)倭に付す」と翻訳する。
日本人に分かる読み方ということだ。その上で、「〜の統治下に属す」「〜の統率下に属す」「〜の指揮下に属す」という意味である。とい説明してるわけだ。

で・きみ。
この俺の翻訳提起に対してケチつけたはいいが、きみはどう読むのか。結論の提示がないな。
けきくは、否定文言から入ったとおり、否定するそれだけのことか。
750ローガン:2011/02/10(木) 19:10:42
>>740
>ドンこいスレに僕のレス入れてますからお返事をお願いします。頼りにして
> いますので見捨てないで下さい。

いや、1日千里とか主張した覚えが無いので なんと返信したらよいのやら。
751日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:32:40
>>749
系統って言うでしょ。この統は「すべる」とか「おさめる」とは違うよね。
統属の統の意味は、系統の統の方だと思うよ。
命令系統とも言うしね。
だから、これを「すぶるにぞくす」と読んでは、意味を変えてしまうことになる。
意味を変えてしまうから、漢文にもどした時に語順が変わっちゃうんじゃないかな。
日本語になじまない言葉だから、「とうぞく」と、そのまま音読するのが一番良いでしょう。

>はははー。笑うよ。正しい漢文にしたいなら「属統女王国」だろう。

「女王国の統ぶるに属す」は、どうやっても「属統女王国」にはなりませんよ。
「女王国の統ぶる」は「女王国」が主語、「統べる」が動詞だから「女王国統」の語順にしかなりません。
それに属するんだから、「属女王国統」にしかなりません。
752伊作:2011/02/10(木) 19:43:20
>系統の統の方だと思うよ。

成立単語・熟語は、
それを構成する文字の意味よりも優先する。
熟語の意味よりも、一字一字の意味を動向いうのがいるが、それは間違い。
この場合、熟語たる系統を持ち出して、
そこにある統という文字の意味に合致させようとは邪道。

わからん人だな。
今回の俺の主旨は熟語の意味ではない。たぶん古語用法だろう統属という、
相反する動詞をくっつけた「用法」の解釈というよりも翻訳の話だ。
中国語文法の話でもない。俺はそれほど文法に詳しくはない。

その俺にしても、
「女王国の統ぶるに属す」を漢文すれば「属女王国統」とは笑うぜ。
753ローガン:2011/02/10(木) 19:48:42
>>748
>で・結論はどうなんよ。

国には王がいる。その配下の人物達は、広域倭国における官副官として、その指揮下にある。
用例から探るとこんな感じ。
754伊作:2011/02/10(木) 19:52:48
>国には王がいる。
どの国よ。
世々て何よ。
主語たる伊都国はどこへ行ったのよ。

んー?

伊都国には王がいる。
その配下の人物達は、広域倭国における官副官として、その指揮下にある。てか

そのまんまじゃん。
歴史書に記録するほどのことはない。あたりまえの話じゃん。
755日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:31:02
邪馬台国(1世紀-3世紀頃)
卑弥呼(X-248年。倭迹迹日百襲媛命。倭国大乱後の親魏倭王(連合国女王)。第七代・孝霊天皇の皇女。墓は箸墓古墳)
台与(235年-X。豊鍬入姫命。倭国女王。壱与。卑弥呼の親族。初代斎宮。晋に朝貢。第十代・崇神天皇の皇女)

邪馬台国は奈良県。1世紀頃には存在が確認。卑弥呼が即位したのは3世紀頃。
倭国大乱以前は、九州地方が倭国の中心地だったかもしれない。
同じく高度な文明を持っていた王国が出雲。大国主やスサノオも実在の人物。
756日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:58:24
>>752
「女王国の統ぶるに属す」って、「女王国の統治に所属する」って意味じゃないの?
757日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:00:10
>>747 ヨコから
> 皆全面的に女王国に属する と訳すのはだめっすか?

A統属Bは
Aが独立したポジションを保ったままBの指揮・命令系統下に入ることだと思うよ。
イサク&ローガンの文例から検討・判断すべし。
758唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 21:08:28
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命。=248年

これでは、任那建国が無くなる。
邪馬台国(奈良県)が3世紀に大きくなったのは、任那建国により
半島の鉄が大和に流入したため。
つまり 210年伽耶建国=任那建国である。
崇神は2世紀末から3世紀初期の王。これが考古学が50年遡上した実態である。
759日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:13:02
>>668
ポキール君、昨日はちょっと所用でレスできなくて失礼しました。

>「世有王」=「よ おうあり」と訓読し、「統率王有り」と訳すっす。

まず、基本的なことから。
通説では、主語の伊都国が省略されていると考えるわけです。
「伊都国世有王」(伊都国は代々王を有する)
だから、伊都国が主語、世が副詞、有が動詞、王が目的語です。

さて、ポキール君は世を統率と訳したということですが、それは文中で何の役を果たしているのですか。
世と王の間に有という動詞がはさまってるので、「統率する王」のように、王を修飾するとは考えられません。
主語とすると統率が王を有するという変な日本語になります。
「統率王あり」の統率って、何ですか?

それから、「一爲東西 h爲南北 則四方中央備矣。」は、説文解字という本の十に関する説明です。
その世に関する説明は「三十年爲一世」です。
なんで十の説明は採用して世の説明は採用しないの?
760日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:26:24
>>759にちょっと補足。
「伊都国世有王」(伊都国は代々王を有する)
なんだけど、国が王を有するというのは直訳で、
日本語としては不自然なので、
「(伊都国には)代々王がいる」というふうに、
王を主語にして意訳するのが普通です。
761伊作:2011/02/10(木) 21:37:44
>「女王国の統ぶるに属す」って、「女王国の統治に所属する」って意味じゃないの?

よーく分かったねー。
そーゆってるんだよ。じつわ
762ポキール:2011/02/10(木) 21:53:08
>>759
返信してもらって感謝っす。

>その世に関する説明は「三十年爲一世」です。
なんで十の説明は採用して世の説明は採用しないの?

だってここで扱っているのは「世」であって「一世」じゃないっす
「三十年爲一世」じゃなくて「「三十年爲世」なら取り上げたっすよ

>さて、ポキール君は世を統率と訳したということですが、それは文中で何の役を果たしているのですか。
世と王の間に有という動詞がはさまってるので、「統率する王」のように、王を修飾するとは考えられません。
主語とすると統率が王を有するという変な日本語になります。
「統率王あり」の統率って、何ですか?

たぶんここは俺の間違えっすね。どこかで間違えたっすよ


>世が副詞

ちょっと聞いてもいいっすか?
「代々の」って形容詞っすよね?
763日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:58:47
>>761
だったら、なんで「属統女王国」になるの?
「女王国の統治」は「女王国之統治」、これが省略可能だとすれば「女王国統」で、
どうやっても「統女王国」にはならんよね。
「統女王国」なら逆に「女王国を統べる」になっちゃうよ。



それと、これはちょっとお願いだけど、レスアンカーってのを付けてくれると見やすくて有りがたい。
>>761」こういうやつ。
半角の「>」二つの後ろに、相手のレスの番号を書くの。
専ブラつかってるんだったら、クリックするだけでレスアンカーつく機能があるけど。
そんで、レスアンカーのうえにポインターを持ってくと、
そのレスがポップアップで出てくるようになってるんで、
いちいち前に戻らなくても良いので便利ですよっと。
764日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:15:44
ポキールさんと2浪中さんは若しかしたら同一人物じゃないか?キャラを違えて別人になりすましているけど。
765日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:21:32
>>762
>だってここで扱っているのは「世」であって「一世」じゃないっす

でも、世の文字の説明として「三十年爲一世」と書いてあるんだよね。
三十年が世の意味でないとしたら、許慎さんは間違って書いたのかな。
中国人って、百じゃなくて一百って書くんだけど、一百は百と同じ意味だよ。

>「代々の」って形容詞っすよね?

日本語文法に詳しくないので、厳密に正しい自信はないけど。
「代々」という名詞に助詞の「の」がついて連体修飾語になってます。
名詞を修飾する意味で、形容詞も連体修飾語なので、
「代々の」も形容詞的に働くと考えていいかな。

それで、「(伊都国)世有王」では、世が有という動詞を修飾する副詞として働いてる。
「代々の王」と訳すと、世を、王という名詞を修飾する形容詞と解釈したことになって、
原文とむじゅんする。
だから「代々の王」とは訳せないのです。
766日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:22:11
いや、きっとポキールさんの正体は河童さんだってw
767伊作:2011/02/10(木) 22:23:51
▼「女王国の統ぶるに属す」って、「女王国の統治に所属する」って意味じゃないの?
これは、俺の翻訳した「意味」の話だ。

>だったら、なんで「属統女王国」になるの?
これは、俺の翻訳に対して「それならこう書くはずと」あんたが妙な漢文の例を出したから、
それならば・こうじゃないのと出した奴だ。………酔ってるのかい。

翻訳した文章をとりあげて、それならこう書くはずという横そのものがおかしかったのだょ。
わからん人だなあ。

>「女王国の統治」は「女王国之統治」、これが省略可能だとすれば「女王国統」で、
どうやっても「統女王国」にはならんよね。
俺はそうはれいじしなかったろ。いつ変わったんだい。

>「統女王国」なら逆に「女王国を統べる」になっちゃうよ。
変わったまま展開しても意味がないね。

いったい・なにをゆってるんだね。もうよしてくれよ
768日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:24:05
いやいや、改心したもん太くんだってw
769日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:32:31
>>767
>いったい・なにをゆってるんだね。もうよしてくれよ

だから、そもそも「女王国の統ぶるに属す」と読むのが間違いだと言ってるのだよ。
間違ってるから原文に復元できないと言ってるの。

「統」の字だからといって、条件反射で「統治」や「統一」を連想して
「すべる」と考えてはいけません。

>この場合、熟語たる系統を持ち出して、
>そこにある統という文字の意味に合致させようとは邪道。

そうおっしゃるが、系統という言葉は「すべる」という訓では理解不可能でしょう。
つまり、「統」という漢字の意味には、「すべる」という日本語では表せない意味もあるわけ。
そして、統屬の統は、まさに「すべる」ではない意味で用いられてるの。
だから、「すぶるにぞくす」という読みは間違いですよ。
770伊作:2011/02/10(木) 22:35:39
765の日本@名無史くん。

俺は「統属」という文言の比較検討材料として、
最もふさわしいと思われる三国志の用例を10個ほど出して、
理路整然と「統ぶるに属す」のが日本人には分かりやすかろうと、
翻訳してみせた。

その翻訳が間違いだというのなら、
きみはどう読みどういう意味に解釈するのかを出しなさい。

それ正否の判断もつく。やってくれ。しゃらくさい
771日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:38:44
>>766
>ポキールさんの正体は河童さん

それはないわ

>>768
>いやいや、改心したもん太くんだってw

もっとないわw
772ポキール:2011/02/10(木) 22:49:24
>>766さん。>>768さん。

その河童さん、改心したもん太くんって誰っすか?
河童さんというネームはレスの中で時々見かけるっすが、ちょっと掻い摘んで教えてくれないっすか。
773765:2011/02/10(木) 22:49:27
>>770
再度お願いだけど、765などの番号の前に >> を付けてください。
専ブラ使ってるんで、レスアンカーがあれば見落とさないです。
危うく見落とすところだった。
伊作さんがわかりやすいように、こんどから名前欄に765と入れておきますよ。

大体は>>769で尽きてるんだけど。
中国語を正しく日本語に翻訳すると、翻訳文を正しく中国語訳すれば原文が復元できる。
原文が復元できないということは、最初の翻訳が間違ってるということ。
それは同意できますか?
774日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:54:52
>>681
>北の厄介な連中匈奴に対して大人しい倭の連中を倭奴とよんだのでしょう。

ほかに「○奴」という呼称はないので、匈奴と倭奴を対置させるのは安易だと思います。
また、倭人という呼称があるし、このときだけ「倭奴」を使用したというのは不可解。

>領地

領地という言葉には異和感がある。
糸島と福岡は中期後半以来の拠点集落が継続しており、両者の関係はちょうど「統属」にあたるのではないか。

印綬下賜については同意見ですが、国力の源泉は通商だったでしょう。
775伊作:2011/02/10(木) 22:55:21

769 の日本@名無史くん。

>「統」の字だからといって、条件反射で「統治」や「統一」を連想して 「すべる」と考えてはいけません。
おかしな方向へむかう雰囲気だが、きみは何か。俺の大嫌いな「伊都国前原偏重組」の人か?

きのう。『後漢書』の用例でも出したが、「世世伝統」を何と読む。
俺は「世世統ぶるを伝う」で、「代々支配権を世襲した」と呼んだが、どだ。
これも「統の字だからといって、条件反射で統」や統一を連想して 「すべる」と考えてはいけません」
か。
……そろそろ怒るぜ。

何でもいいから、能書きを垂れたんだ、
「統属」をどう読んでどういう意味に解するのか提示したまえ。


今度は逆に俺が料理してやる。
776伊作:2011/02/10(木) 22:58:37
773 >それは同意できますか?

きみ。中国語できるのかね。中国語の古文はどうだ。
日本で学んだ高卒程度の中国語ふりかざして、
きーたふーなことを並べてるのら、承知しないぜ。
777伊作:2011/02/10(木) 23:06:24
769 の日本@名無史くん。

早いとこ。きみのいう「統属」の読みと意味を提示したまえ。

むにゃむにゃと逃げるんじゃないぞ。承知だな 

きみが俺の大嫌いな「伊都国前原偏重組」だったら・なおやかましくいうぞ。

778日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:14:05
>>711
>同時代の王都に同時代の王の墓はつくらない。

以前、縄文人がイサク説を参照して議論を展開していたが、
かれは仁徳天皇陵と難波高津宮を根拠にしていた(と思う)。

弥生中期後半には墓域は集落に隣接しており(池上曽根遺跡など)、
北部九州の王墓と目される三雲南小路遺跡もそうだった。

それが時代を経るにしたがって距離をとっていったのだろうが、
纒向の場合はどうなのか、ビミョー。

>仏教がはいってきて、町中に寺をつくるようになった時代も除外。 
>墓のあった所に王都をつくったのも除外。 
>古い王都に墓をつくったのも除外。

れいがいじゃない一般化し得る、論の拠り所となる実例はなに?
779伊作:2011/02/10(木) 23:22:05
>縄文人がイサク説を参照して議論を展開していたが、

そうかい。俺も有名になったもんだ。
俺のサイトも、ホームぺーじ時代から通算でアクセス合計36万超えたしな。そかそか。
縄文人さんとやら、出てきて一緒にすくらむ組んではどよ。

で・なに。
纏向が邪馬台国じゃないって説が、いま評判になってるんだって?  そかそか
780ローガン:2011/02/10(木) 23:45:28
>>754
>そのまんまじゃん。 歴史書に記録するほどのことはない。あたりまえの話じゃん。

上っ面だけ読んだらだめ。王の配下が、king of kingsの指揮下。
外来の使者は王の事は知らないが、官副官達の名は知っている。これが共立システムの一部が見受けられる部分。
伊作ちゃんらしくもない。お疲れだな、きっと。
さておき…どくだみさんの降臨?
781ポキール:2011/02/11(金) 00:05:25
誰も河童さんや改心したもん太くんの詳細について説明してくれないっすか?
782日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:06:40
佐賀県の国道203号線ですけど昔からの道ですか?付近から縄文遺跡や
弥生遺跡は発掘されていますか?古くからの道なんでしょうか?
マツラ国から伊都国への道はここを使った様な気がするんですけども。
後の時代奈良時代や鎌倉時代など朝鮮半島から来る人は佐賀付近に行く際は
このルートを使ったんでしょうか?それとも大宰府方面から来たのでしょうか?
教えてチャンですみません。
783765:2011/02/11(金) 00:11:22
>>777
「伊都国前原偏重組」が何なのか知らないけれど、むにゃむにゃと逃げたいなw
なにしろ、この統には適当な訓が伝わってないから。
要するに統属の統って、系統の統と意味的に同類だと思うんだけど、
系統の統を日本語に訳すとしたら何になると思う?
まあ、そういうわけで「とうぞく」としか読みようがない。
意味は、しっくりくる日本語が無い状態。
妥協して「所属」で良いんじゃないの。

まず、統の意味だけど、説文解字の段玉裁注は、淮南子を引いて
繭をほぐす糸の始めが本義であるって言ってる。
いろいろ引いて説明するのが面倒なので、
大漢和の意味を羅列して代用するけど、
「大筋、親糸」「血筋などのすじ」「いとぐち」「はじめ」「もと」「もとづく」「のり」「すべる」
といろいろな広い意味がある。なんでも「すべる」一辺倒で始末をつけるわけにはいかないよ。
そもそも、糸の原義からして、たくさんの物を一つにマトメルという意味から考えれば、
日本語で「すべる」と訳せる場合でも、そこに日本語のような上の者が下の者に対するという
上下関係を含むのかさえ即断していいのか疑問に思うよ。
784日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:19:16
>>780
上から降臨じゃなくて、下から生えてきました。どくだみだから。
どくだみ酒は高価で、しばらくやめてたんですが、最近また飲んでます。美味しいです。
785日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:21:16
>>781
> もん太くんの詳細

13 :口上師:2010/06/13(日) 15:14:54
さらに最も注意すべき人物として「美濃もん太」を取りあげます。
彼は邪馬台国は7世紀頃に存在した国としていたようでしたが、筆者もきちんと理解できているかの自信はありません。
いずれまともな論争に関心がないのは前述の二人と同様です。
彼のレスの内容の特徴として、時代・場所の混乱、美濃に対する郷土?愛、
恐竜ー人類同時生存説などのムー的事象への強い興味などがあげられるでしょう。
また携帯からの異常な速度と量の書き込みを矢継ぎ早に繰り返すため、それまでの話の流れは完全におシャカになり、
その後の十数時間が彼のレスで埋め尽くされる場合もあります。
また、彼のレスは他とのやりとりはなく、基本的に自分の考えの羅列であり、コミュニケーション障害が疑われます。
専用隔離スレもありますが、人の多いこちらのスレに立ち寄ることが予想されます。
彼の出現したスレが彼のレスにより徹底的に蹂躙される様は、まさに「ゴジラ」を見る思いですが、
最近その出現の頻度は減っています。
786日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:31:28
>>781
> 河童さんの詳細

452 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/21(月) 00:58:16
>>446 もう少し詳しく書けば

三度の海を越えた末廬もやはり大海之中にある倭人の住む島。
「…有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人…」
・四千餘戸は場所問わず散在し、草木は生い茂り前人も見えない地。
「東南陸行五百里到伊都國」
しかし、そんな環境であるにもかかわらず、五百里ジャストと言うこれまで餘里を用いた表現とは違う表示の仕方。
つまり、悪環境の土地柄であるにもかかわらず、末廬の港から五百里と測量出来る道は確保されていると言う事です。

末廬は島ではあるが、先の二島とは違い東南の方位に広がる陸地が存在し、港かそれに沿う地形と道が存在していた。
その確保された道は末廬國域だけでも、歩測量五百里。その先に伊都國域が続く。かなり大きな島のようだ

末廬國は四千餘戸も散在しているにもかかわらず、草木生い茂り、不見前人と全く生活道路の影もない。
住人がいれば必ず往来の為の道路は出来、不見前人と言う状態にはならない筈、
伊都に延びる道だけは測量可能なほどの状況。
つまり、末廬には伊都に延びる一本の幹線しか設けず、住人に道路を作る事を許可しない 特殊環境な地域ではないか?

末廬の港に着いた入国者は なにがなんでもこの道を通らなければならないシステムを感じる。

飛行機を降りた入国者は、矢印に従い入国審査を受ける通路が末廬の港から伊都に通じる道。周りの草木は通路の壁。

だから末廬には官が存在しない。
存在させる必要のない
自然を生かした伊都までの通路。
他国の者が一歩道を逸れれば 草木が生い茂る迷路。

道に従い進めば自然と伊都のイミグレへと
787ポキール:2011/02/11(金) 00:32:14
>>785さん  感謝っす

「改心したもん太くん」じゃなくて「美濃もん太」って名前なんっすね
788ポキール:2011/02/11(金) 01:11:50
>>786さん。 無理言って手数掛けさせて感謝っす

この人スゴっ。>>786さん、これどっから拾ってきたッすか?全文が見たいっす。
789日本@名無史さん:2011/02/11(金) 01:30:01
>>788
河童虫という人は、言語虫という飲み屋のおじさんの弟子です。
言語虫という人は、ワシの説で国語学がひっくり返ると言いきる強烈な電波さんです。yahoo掲示板に棲息してます。
河童虫さんは、電波さんの弟子なので、2chに来て強い電波を発信します。
高卒だそうですが、とても熱心なので知識は豊富ですが、
いかんせん電波なので変な説ばかり唱えます。
そのため失笑されたり、嫌われたり、応援されたりします。
誤りを指摘されても絶対に認めず、もうこんなスレ来ねーよ、
と捨て台詞を残して去るということが何度かありましたが、
しばらくすると戻ってきました。
最近はアク禁らしく、見かけません。
790日本@名無史さん:2011/02/11(金) 01:33:35
>>788
> 全文が見たいっす。

これは自分(>446)へのレス全文。元ネタはゲンゴムシ。
791ポキール:2011/02/11(金) 01:52:14
>>789さん。>>790さん。 感謝っす。


河童さんて河童虫さんていうんっすか。
美濃もん太さんや河童虫さんって、相当キャラ濃そうっすね。でも高卒の人が出入りしてたんだと聞いて
少しホッとしたっす。俺、高校の勉強についていけずに中退者だから、こういう大卒の集まりみたいな場所は
少しコンプレックス感じていたっすよ。でも河童虫さんのレス見て少し気分が和らいだっす。高卒でもぜんぜんいけてるっすよ。
792日本@名無史さん:2011/02/11(金) 04:16:38
>その確保された道は末廬國域だけでも、歩測量五百里。
二百里ぐらいから伊都国域ということだって考えられるだろうに・・・
793日本@名無史さん:2011/02/11(金) 07:37:32
>この人スゴ
>知識は豊富ですが

河童さん、出てくるなら今がチャンス
794日本@名無史さん:2011/02/11(金) 09:03:27
「世有王皆統屬女王國」。国々には世襲の王がいる。諸国は皆、女王国に統属する。
皆を歴代の王と読む説が多いようだが、皆は共にの意味だ。時代が異なる王が共に
ではおかしい。
795唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 09:30:44
丗有王皆統屬女王國
倭人の世界に王有り、皆女王国が統率し属す。
その属す王(諸国の王)が女王を共立する。諸国の王は“官”と記される。
 
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 官有伊支馬。
邪馬台国は女王に(寄る、属す)所の都である。女王が居住するとは書かれていない。
女王の共立には拘わっていないが、女王支持のスタンス。
官(諸国の王)に伊支馬(イクメ)有り

魏置東夷校尉,居襄平,
魏は東夷校尉を置く、襄平に居す。
796日本@名無史さん:2011/02/11(金) 10:22:52
>諸国の王は“官”と記される。
一つの国に王が何人もいるということになるな。
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 10:28:14
官は大王(天皇)の子分であり、百官などという。
大王は官を従える官より上の統治者であり、官は大王ではない。

大王(天皇)≠ 官
798怒りの伊作:2011/02/11(金) 10:54:09
783 のタコ。俺はあたま・きたぞ。

>要するに統属の統って、系統の統と意味的に同類だと思うんだけど、
なーにが「系統の統」だ。ここは文脈からも「統治の統」とゆってるだろが。
どっちが正しいか良識ある観客に聞け。

どだい無茶な解釈しておいて、
>系統の統を日本語に訳すとしたら何になると思う?
これで筋の通った議論をしてるつもりか。

きみの高卒以下の漢文講釈説明をみれ。

>まあ、そういうわけで「とうぞく」としか読みようがない。
>意味は、しっくりくる日本語が無い状態。
「とうぞく」と読むから「意味はしっくりくる日本語が無い状態」なんだろが。タコ
中国語にもない「統属」を熟語的に「とうぞく」と読むことに対する問題提起をしたんだ。
これにいちゃもんつけてむにゃむにゃと、腹立つ書き込み繰り返しやがる。

で・これがきみの解釈か。
>妥協して「所属」で良いんじゃないの。
属は「所属」で統は「系統」で、いったいどんな解釈になるのか。そこをいわんか・タコ

>日本語で「すべる」と訳せる場合でも、そこに日本語のような上の者が下の者に対するという
上下関係を含むのかさえ即断していいのか疑問に思うよ。
意味わかんねーよ。

同じ歴史書の用例を10個も並べてきちんと判断したことなのだが、
俺が出した用例10個を、きみの流儀で全部解釈してみせろ。
どうせ無理だと思うが、できなかったら・あっちいってろ。
799日本@名無史さん:2011/02/11(金) 10:57:58
王は主権者、普通は国に一人だ。官とは王から任命されて王に代わって
政治を行う者だ。したがって、大勢の官がいる。
800怒りの伊作:2011/02/11(金) 11:01:47
老眼くん。

>国には王がいる。その配下の人物達は、広域倭国における官副官として、その指揮下にある。
>上っ面だけ読んだらだめ。王の配下が、king of kingsの指揮下。
上っ面もなにも、はじめから説明不足だろう。
たぶん、卑弥呼・伊都国王・官吏を伏せて説明してるのだろうが、具体的に当てはめて説明しろ。
詳しく説明するとボロが出るから逃げてるだろう、きみらしいところだ。

>外来の使者は王の事は知らないが、官副官達の名は知っている。
>これが共立システムの一部が見受けられる部分。
なにこれ。「共立システムの一部が見受けられる部分」て。
老眼的公式なら、他人には分からんぞ。

誰にも分かるような説明の仕方をせんか。事情があって・できんてか?  んー?
801伊作:2011/02/11(金) 11:06:58
ポキールさん。

よけいなお世話をするけど、河童にのめり込むのはよしなさい。
俺のいう「自分でつくった迷路に自分で迷う」ことになるよ。

観察してると、あなたは文字の意味に興味がいくタイプのようだから、
彼とサイクルの合う部分があるとは思うけど。それだけに心配するね。

個人的にいえば、俺にとっちゃ河童は過去の存在だし。
802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 12:22:25
>官とは王から任命されて王に代わって政治を行う者だ。したがって、大勢の官がいる。

通常の思考ならその通りであるが、
239年時点で、九州と畿内大和に共通の王はいない。
しかし魏の思考は、倭種として1国と捉える。
そこで、伊都国を傘下とする女王を倭種の大王とすると、大和の天皇もその配下となる。
しかし魏使は、共立された女王卑弥呼で倭種を冊封出来ない。
女王卑弥呼は魏国に対応するために乱の中で共立されただけ、権限は無い。
晉書卷一 東倭重譯納貢,
東倭とは、九州倭国(女王国)に対する東の倭=邪馬台国=大和である。
つまり魏は倭種を九州と大和に分け対応する。 倭王=大和の王
大和の王と九州王(女王の次の男王)は協力して倭種統一を進める。
女王の生前に黄旛授与の動きもそれを表す。
女王が死んだために再び倭国が乱れたわけでは無い。
803太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 13:26:52
通常での思考が正解妥当! うっちゃりは滅多に利かな〜い。
804伊作:2011/02/11(金) 14:18:26
さて、熱帯魚水槽の大掃除が終わった。
統属の統は「系統の統」だという能書き野郎の返事はないか。
じゃ、798に対するとどめだ。

何度も要求したが、己の解釈に後めたさを自覚しているとみえて、
とうとう最後までいわなかった。要するににこうだろう。
▼「伊都国の歴代の王はみな女王国の系統に属す」
こういう解釈を吹きたかったわけだろう。

スパッといえば簡単にカタづいたものを、ふにゃふにゃと遠回しにいいやがって。
統属の統は「系統の統」で正しいかどうか、「検算」だ。
同じ魏書に登場する用例をみな、その読みで読んでみせろ。

魏書/夏侯淵……至正始中、代夏侯儒為征蜀護軍、統属征西。
魏書/桓範………是時冀州統属鎮北、而鎮北将軍呂昭才実仕進、本在範後。
魏書/梁習………州并属冀州、更拝議郎西部都督從事、統属冀州、総故部曲。
魏書/張恭………衡弟為京兆虎牙都尉、秩比二千石而統属郡。
魏書/倭人………有千余戸、世有王皆統属女王国

どうだ。
開口一番、無礼な口上から入った奴だけあって、
結局はろくでもないいいがかりだったな。
805唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 15:05:27
>>803
王と呼ばれる者が国王である必要は無い。”王”も爵位のうち。
 宗室
 安平獻王孚子邕 邕弟義陽成王望 望子河間平王洪 洪子威 洪弟隨穆王整 整弟竟陵王楙 
望弟太原成王輔 輔弟翼 翼弟下邳獻王晃 晃弟太原烈王瓌 瓌弟高陽元王珪 珪弟常山孝王衡 
衡弟沛順王景
806太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 15:29:18
天皇はその王ではな〜い。
であるから、臣は大王ではな〜い。
807唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 15:34:48
>天皇はその王ではな〜い。

”天皇”と云う尊号は何時造られた?
808太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 15:44:27
じゃぁオオキミと言ってやろう。
オオキミは臣ではな〜い。
8092浪中:2011/02/11(金) 15:54:02
>>774
>ほかに「○奴」という呼称はないので、匈奴と倭奴を対置させるのは安易だと思います。
>また、倭人という呼称があるし、このときだけ「倭奴」を使用したというのは不可解。

匈奴と倭奴は僕の推測として書いたことですが、

>○奴」という呼称はないので   
匈奴は後漢書には出て来ませんか?

>また、倭人という呼称があるし、
後漢書のどこに倭人という呼称がでているのでしょうか?

>領地という言葉には異和感がある。
僕もそう思いますが、他にうまい言葉が見つからなかったものですから。
倭奴国王は傘下の倭人の国を統率していたのでしょうが、それら彼統率国のものでない、倭奴国王自身の支配地域の意味です。

>印綬下賜については同意見ですが、国力の源泉は通商だったでしょう。
漢との交易の独占権を獲得すれば国力が増したと思いますが、その交易独占権を獲得する前の段階の話として論じておりました。
810ローガン:2011/02/11(金) 16:01:57
>>800
>誰にも分かるような説明の仕方をせんか。

では、繰り返します。陳寿が書いた「統屬」は上で提示した通り。
その用例からみると「AはBに所属する」という意味では無く、「AはBに所属したままでCの指揮下に入る」という説明の際に筆者は「統屬」としている。
では倭人伝の「統屬」 登場人物は「王」「官副官達」「女王(国)」これをABCに当てはめると、
「官副官達は王に所属したままで女王の指揮下に入る」 これ以外に無い。「爾支泄謨觚柄渠觚は、伊都国の構成員であるが、広域倭国の官吏である」という事。
これがもし、武力制圧によるものであれば、官副官はヤマト派遣の人物。もしくは、降伏した王か…
勿論そうではなく 現地の王が、広域連合体維持のパイプ役として、子飼いの人材をヤマトの指揮下に付けたという事。
つまり、この「統屬」からは、卑弥呼→伊都国王という直接の上下関係ではなく、共立王を支えるべく連合体運営に寄与している様子。正に「緩やかな連合体」がみてとれる。



811唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 16:02:23
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。

この時代半島は、邑君か邑長でしかない。
倭国には、同時に倭女王と倭王が存在する。
同時に存在する以上、それ相応の距離を隔てなければ両立できない。
洞人物とするには、何故書き並べる必要があるか?を述べる必要がある。

太国は“倭王武”を九州の何処かの盆地の王と主張するが、それでは
半島の邑君より領土が狭くなる。あり得ない思考である。
>オオキミは臣ではな〜い。
邑君より偉いのか?

812太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 16:02:40
古代マヤの2倍暦法は、イニシャル・シリーズの月暦として、マヤ神聖
文字にての暦を編んでいた。

この文字は片方の手形の上に奇怪な魔神人物頭の横顔での頭字体で表現
され、この文字をマヤ学者は神聖文字に変えて C で代用呼称をしている。

この月暦はルナー・シリーズといい

1C 2C 3C 4C 5C 6C

で半年分6ヶ月を表現し、6ヶ月だから 7C〜12C というのは存在しない。
つまり2倍暦なのだ。

これらが古代マヤの遺跡の主に石碑(ステラ)で、神聖文字として書き
こまれているのだ。ほかに同暦ではツォルキン暦という1.4倍暦が存在
しており、当然通常の1年が365日のハアブ暦も並行して存在行使されて
いた。マシなどの不正水増し挿入など当時すれば、王の怒りを買い、当然
チャックモールの上で心臓をえぐられて殺害されてしまう。であるから、
マシなんぞやるやつなどいるわけがないのだ。唐松山の論は架空の奴自身
の創作であり、現実に存在しないインチキである。
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 16:07:28
>>811
国の大きさ小ささは関係な〜い。いまでもバチカンなどは小さい国な
わけだ。そこに法王がいる。
814唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 16:25:35
九州で倭女王卑弥呼が魏により認められる。
辺境の地大和に魏の使者は来ない。しかし大和も女王の朝貢に同行する。
その時天皇は倭女王より上の位は与えられない。
バチカンの如く宗教を抑えるのは女王である。実務だけでは王位は授与されない。

で、九州王朝は何処に存在したんだ?
>半年分6ヶ月を表現し
2かい使えば1年をまかなえる。

太国主張は、1回使用の1倍暦、2回使用の2倍暦、3回使用の3倍暦
これが混在している。
しかも全てを太陰暦で表記する。不可能である、だから太国も使用方法を主張しない。
出来ないものは、主張も出来ない。
815日本@名無史さん:2011/02/11(金) 16:45:04
>>809
>>○奴」という呼称はないので
> 匈奴は後漢書には出て来ませんか?

「ほかに“○奴”という呼称はないので」です。
厄介な奴(=匈奴)、大人しい奴(=倭奴)、ならほかにも○○な奴(=○奴)がいるものではないか、
と思ったのです。

> 後漢書のどこに倭人という呼称がでているのでしょうか?

でていません。

> それら彼統率国のものでない、倭奴国王自身の支配地域の意味です。

なるほど。私的には
各地に首長墓とみられる遺跡があることから“「統属」にあたるのではないか”と考えます。

> その交易独占権を獲得する前の段階の話として論じておりました。

了解です。
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 16:48:46
オマエこそ出来ない。今回もオマエは垂仁のインチキらしい年代表を
出したが、どうしてそうなるのか、単に年代の羅列の結論でのこうだ〜
との主張だけを出すだけで、その具体性ある説明はまたまた書きこみには
存在していない。このことはオマエの言う日数の説明も出来ないことを
意味し、露見させている。

出来ないものは、主張も出来ないと言ってよい。
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 16:55:07
>大和に魏の使者は来ない

魏の使者が来ないんなら、倭人伝は畿内(大和)のことを書いたんでは
ない。
そうなると垂仁は九州行幸をしてないんだから、魏の使者からの情報とか
による倭人伝に大和の垂仁の情報が入るはずがない。

ということは倭人伝の伊支馬が垂仁になるわけがなく、

 伊支馬 ≠ 垂仁

が真なのであ〜る。
8182浪中:2011/02/11(金) 17:09:31
>>810ローガンさん

伊作さんへのレスに横から口を挟んで申し訳ありませんが、ローガンさんの説に理解できないところがありますので質問させて下さい。

問題のところは下記の文ですが、
東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

ローガンさんの解釈では「AはBに所属したままでCの指揮下に入る」という説明の際に筆者は「統屬」としている とのことですが、
上記倭人伝の文でローガンさんの言われるCが女王國であることは分かりますが、Aが何故「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」になり、
Bが王になるのか分かりません。上記文では「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と「世有王 皆統屬女王國」の間に「有千餘戸」の文字が
入っています。

つまり、上記倭人伝の文は官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」は文意の上で関連はなくそれぞれで
完結した内容を持っているということです。したがって、統属の主語は皆(世有王の王)ということになりますが。いかがでしょう。

819ポキール:2011/02/11(金) 17:11:27
話がややこしくなって俺には理解出来ない世界に入ったみたいっす。

というわけで、
王達がみな女王国に属していたなら、皆属女王国で済んでしまうことっす。
しかし、それでは話がまとまらず統の文字を追加で、皆統属女王国で文が出来ているっす。
ということは、女王国に属す。だけでは説明不足で、属すのありかたに、追記事項をそえないと説明出来ない属し方だった。
で、その特徴というのが統という在り方っう事っすね?
統を追加した属し方が、ここに書いてある内容っね
820添削くん:2011/02/11(金) 17:19:23
>>819
> 在り方っう事っすね?
> 書いてある内容っね


在り方っつう事っすね?
書いてある内容っすね。


在り方っちゅう事っちゅね?
書いてある内容ね、ウフッ
821唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 17:19:58
238年 魏使は伽耶(狗邪韓国)を経て九州へ渡る。
伽耶=任那である。
魏使は、共立された女王に大和も加わることを要請する。
239年 垂仁90年正月に田道間守を遣使に選ぶ。
倭国の王を卑弥呼と認定した魏使に於いては、大和も女王の配下と成る。
240年 約10ヶ月後 田道間守は魏使を伴い帰国する。
景行は使節を派遣し、魏の要請に耳を傾ける(倭国統一の持ちかけ)。
この時点で大和(東倭)を倭王と認定する。=景行
正始元年春正月,東倭重譯納貢,
822ローガン:2011/02/11(金) 17:22:46
>>818
だから、上で用例を提示したんですけどね。もう一度貼っておきます。
この統屬ですが、三国志にいくつか見えます。
●魏書張恭伝「衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而【統屬】郡」 宦官の大権力者唐衡の弟は京兆虎牙都尉となり二千石の禄で郡の指揮下にはいる
●魏書梁習伝「西部都督從事【統屬】冀州總故部曲」 ヘイ州が冀州に合併されたので、梁習は改めて議郎西部都督従事に任命され冀の元の部族は指揮下にはいる
●蜀書李厳伝「留護軍陳到駐永安皆【統屬】嚴」 諸葛亮は護軍を永安に駐留させ、護軍全ては李厳の指揮下にはいった
●蜀書黄忠伝「裨将軍仍就故任【統屬】長沙守韓玄」 曹操は黄忠を裨将軍とし、元の任務を行わせ長沙太守の韓玄の指揮下においた
●蜀書費詩伝「王沖者廣漢人也。爲牙門將【統屬】江州督李嚴」 王沖は牙門将となり江州督の李厳の指揮下にはいる
●蜀書季漢輔臣賛「將軍住公安【統屬】關羽」 ビ芳は将軍となって公安を住み関羽の指揮下にはいる。
「屬」なら、あなたの言う通りかもしれないが、「統屬」となると3種の登場人物が必要。 というのが今回の主旨なんです。
8232浪中:2011/02/11(金) 17:43:15
>>822
>統屬」となると3種の登場人物が必要。 というのが今回の主旨なんです。

そこが分かりません。例えば、
●蜀書費詩伝「王沖者廣漢人也。爲牙門將【統屬】江州督李嚴」 王沖は牙門将となり江州督の李厳の指揮下にはいる
のどこに3種の登場人物があるのですか?

それから、僕の質問の核心は「倭人伝の文は官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」
は文意の上で関連はなくそれぞれで 完結した内容を持っているということ」からローガンさんの言われることは当てはま
らないということなのです。肝心要の問題には口をつぐまれるのですか?もっと真面目な方かと思っていたのに残念です。
824唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 17:53:03
>くそれぞれで 完結した内容を持っているということ

倭人伝は、区読点が無い書物。
だから皆、自分で区読点を付けて読み下す。
区読点の付け位置の違いにより、解釈も異なる。
825ローガン:2011/02/11(金) 18:33:17
>>823

> そこが分かりません。例えば、
> ●蜀書費詩伝「王沖者廣漢人也。爲牙門將【統屬】江州督李嚴」 王沖は牙門将となり江州督の李厳の指揮下にはいる
> のどこに3種の登場人物があるのですか?

ひょっとしたら三国志とか、読んで無いの?李厳が、牙門将に任命したとでもいうつもり?

> それから、僕の質問の核心は「倭人伝の文は官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」
> は文意の上で関連はなくそれぞれで 完結した内容を持っているということ」からローガンさんの言われることは当てはまらないということなのです。

伊都国関連の記述ではないという主張かな?何故、「皆」が官を指さないと言い切れるの?
826唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 18:39:10
もん太君 資料
163 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/12(水) 23:29:58
>>162
九州王朝の主張は、あれ意味が解らんすよ
熊蘇王朝の事じゃないんでしょ?
記期では神功天皇が朝鮮を統治する際に筑紫に宮を構えてたとあるけど、この時の宮の事でも無いんでしょ?


なんかつまり「今の日本は九州にあった王朝が日本列島を制圧して統治した国であって日本の発祥は九州」見たいな事が言いたいんすよね?
あれ聞く旅にまるで日本は大陸や半島から来た移民が統治した見たいに聞こえて、日本をバカにすんなって思うよ
あんなもん間に受けたら、じゃあ天孫以前の話は朝鮮半島での出来事かよってなるし

「発祥」に拘る意味も俺には良く解らんし

同じ民族の国家なんだからどの時代に何処に都や朝廷があって誰が治めてたのかってだけじゃんね
827伊作:2011/02/11(金) 18:43:55
●欺詐告発暴露

>陳寿が書いた「統屬」は上で提示した通り。
陳寿が書いた「統属」は どういう意味か、黄身が提示した魏書の用例を再確認する。

>その用例からみると「AはBに所属する」という意味では無く、
そうかー。よくみてみ。
細かい所に違いがあるが、もうくどいので、きみが再掲した所に補正を交えて簡潔にするぞ。

▼魏書/ 張恭
衡の弟が禄高2000石のA京兆虎牙都尉となり、B郡に統属した。
▼魏書/梁習
A議郎・西部都督從事・梁習は、冀州の元の部隊とB冀州に統属した。
▼蜀書/李厳
A護軍・陳到らはみなB李嚴に統属した。
▼蜀書/黃忠
A行裨将軍・黄忠は、B長沙太守の韓玄に統属した。
▼蜀書/費詩
広漢出身のA牙門将・王沖は、B江州督・李厳に統属した。
▼蜀書/楊戲
広陽出身の士仁は将軍とり、公安にとどまり関羽に統属した。


つづく
828伊作:2011/02/11(金) 18:45:17
>「AはBに所属したままでCの指揮下に入る」という説明の際に筆者は「統屬」としている。
どれも、主語たるAがBに統属したという文章で、どこにCという第三者が登場してるか。

>「AはBに所属したままでCの指揮下に入る」というこの造作解釈で
てきとーな解釈を既成事実のようにして、「物語」をどんどん進めるわけだな。

>登場人物は「王」「官副官達」「女王(国)」これをABCに当てはめると、
>「官副官達は王に所属したままで女王の指揮下に入る」 これ以外に無い。
>「爾支泄謨觚柄渠觚は、伊都国の構成員であるが、広域倭国の官吏である」という事。

ぶぁははー。空論とウソの連発。
●爾支、泄謨觚、柄渠觚は、卑弥呼の倭国が配属した官吏だろが。

>「屬」なら、あなたの言う通りかもしれないが、「統屬」となると3種の登場人物が必要。
というのが今回の主旨なんです。

だ・か・ら。どこに、ABC三者がからむ用例があるか。
自分で用例を提示しながらいうのに、抵抗はないのか。例によってヘタなマンガ以下だ。
「緩やかな連合体」という回答を得るための計算数式づくりなにら、もっとうまくやれ。

知能程度が知れるぜ。
829伊作:2011/02/11(金) 18:50:46
>李厳が、牙門将に任命したとでもいうつもり?
そうはゆってないだろ。
A王沖は広漢の人なり。牙門将と爲し、B江州督・李厳に統属す。
cなどという第三者はいないとゆってるのだ。

>何故、「皆」が官を指さないと言い切れるの?
王のことだから。
830伊作:2011/02/11(金) 19:06:05
なんだかわけの分からない王が伊都国にいて、
その下に卑弥呼女王がいて、その下に官吏がいるって図式をいいたいらしい。
だが、伊都国に王などいない。

かつては王がいて、代々にわたってみな女王国(の前身たる倭国)の統治に属していた。

大乱のあと、100余国あったものが30国ほどに整理東郷されたら、
その伊都国は1000戸ほどの拠点集落に縮小していた。

ちょん
831日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:47:43
●蜀書李厳伝「留護軍陳到駐永安皆【統屬】嚴」

この文では主体となるの諸葛亮が抜けてるから解り難い
諸葛亮は李厳を永安から江州に移したけど護軍の陳到はそのまま永安に留め、
引き続き江州都督李厳の統制下においた、と言うお話
832ポキール:2011/02/11(金) 22:01:00
>>830 イサクさん。

>大乱のあと、100余国あったものが30国ほどに整理東郷されたら

それはちょっと違うと思うッす

倭人伝には
舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。と書かれているッす
ここで書かれた「舊百餘國」とは漢書に書かれた「分爲百餘國」を受けてのものっすね
漢書に書かれた時代は前漢、後漢と二分する前漢の時代
後漢に対して「舊」とし、この百餘國は漢時代の舊に相当する前漢だと言っていると思うッすよ
三十国とは魏の時代、魏と交易する国の数で
ただ倭人が住むという百餘国という国の数とは比較できない数字っす
だからこの百餘國とこの後出てくる三十国は国数の変化とは関係ないっす
833あらため だよん:2011/02/11(金) 22:07:55
チラッと読ませてもらったが
伊作さんの>>741>>749
>「〜の統ぶるに属す」
>従来は「統属する」「統属した」と読まれてきたのだが、これでは日本人には意味が通じない。

これは問題ないかな。
この人よく調べてるよ うん。
834765:2011/02/11(金) 22:14:28
>>798
伊作さんが「しょうちせんぞ」なんて凄むから、ちょっと真面目に調べてましたw
なんだか伊作さんがしびれを切らしてるようなので途中経過を書いておきましょう。

まず、三国志魏書の管輅伝注引く別輅伝に

「彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」

とある。易の彖伝の言葉を引き、「乃統天」について、「それ統は属なり(統=属)」と言ってる。
日本人の一般的な意識として、「統」は上から下を統率する。
「属」は、下の者が上の者に所属する。
ところがそれが統=属だと言ってる。
すると、統と属の意味に上下関係は無くなってしまう。

これに飛び付いて結論としてしまえば、何のことはない、
同じ意味の統と属を重ねて熟語化したもので「すぶる」も「系統」も関係ない、
たんなる所属という意味の単語でしかない。
僕も伊作さんも考えすぎだったということになる。
ただ、これは易説にかんする発言なので、
額面通り訓詁小学の説と受け取って良いか慎重になる必要がある。

そこでもう少し、考察。
さらに同じ周易の言葉について、説文の段注は「鄭注云う、統は本なりと」を引いてる。
今の易の訳本は王弼注によってるので「天をすぶるなり」と読んでるけど、
後漢の鄭玄に従えば、「統天」は「天にもとづく」ということにある。
上位から下位への「統」が、逆に下位から上位に「もとづく」意味になる。

ここまでで、「統」に、「上から下へ」「下から上へ」「上下関係無し」の
三種類の意味用法が存在することがわかる。
いままで「統属」の意味でもめていたのは、
「統」は上位者から下位者だけと思われていたからで、
そうではないとなれば「統属」は所属の意味でなんの問題も無い。
835765:2011/02/11(金) 22:15:10
これで、結論と行きたいけれど、まだちょっとひっかかってる。
例えば、禮記の曲禮の注に
「臣統於君」
という文がある。調べてみると、こういう「統」の使い方はけっこうある。

三國志 ?書 
權詔有司諸事一統於恪,惟殺生大事然後以聞。為治第館,設陪衞...

後漢書 董卓列傳第六十二
拜卓破虜將軍,與盪寇將軍周慎並統於?。

これらも「下から上へ」の「統」の用例かもとおもうが、
歴史的な訓読法がわからないので、もう一つ自信もって断言できないでいる。
わかれば判断しようがあるけれど、だれか知ってる人いないかなあ。

それから領属という言葉があって、統属と同じ意味で使用されている。
メモしわすれたが「領は統なり」だか「統は領なり」だかの語があって、
領属と統属は同じと思われ、領属の用法にも目を配る必要があるでしょう。
最終的に、統と領の用法を綿密に調べて、「下から上へ」「上下関係無し」について
ゆるぎない証拠がそろってから、はじめて結論とすべきだと思います。
836あらため だよん:2011/02/11(金) 22:25:18
>だが、伊都国に王などいない。
>かつては王がいて、代々にわたってみな女王国(の前身たる倭国)の統治に属していた。
>大乱のあと、100余国あったものが30国ほどに整理東郷されたら、
>その伊都国は1000戸ほどの拠点集落に縮小していた。

これも問題なし。
只、伊都国の戸数に関しては、翰苑の「戸万餘」を過去ととらえてるようで
ここは誤記という考えの人もいるのはたしかだけどね。
837765:2011/02/11(金) 22:35:21
>>798
伊作さん

>>日本語で「すべる」と訳せる場合でも、そこに日本語のような上の者が下の者に対するという
>>上下関係を含むのかさえ即断していいのか疑問に思うよ。

>意味わかんねーよ。

上下関係の問題、意味がわかりましたか?

>同じ歴史書の用例を10個も並べてきちんと判断したことなのだが、

これは>>741のことでしょうから、内容を検証してみましょう。

>これらで分かる通り、主語たるものが「◯◯に統属した」という受動的表現である。
>つまり、地位の低いほうや権力・権限の小さいほうが、地位の高いほうや
>権力・権限の大きいほうの統率に属したという用法である。

そのとおり。

>従来は「統属する」「統属した」と読まれてきたのだが、これでは日本人には意味が通じない。

そのとおり。
838日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:39:42
大国主一族ぁ ♪
北へーっ また北へーっ またまた、北へーーーーーぇ とやっていってしまいました。

蝦夷!! (⌒ε⌒)

おれも河童くんや原付虫くんみたいに
卑弥呼のはおっぱいが二つで 一人、二人、、オッパイ ぉるるうううううううううううううううううううううう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(⌒ε⌒)┘

て言おうかなー↑
839765:2011/02/11(金) 22:40:02
つづき

>中国語には統属という成立単語はない。必然的に単語・熟語ではなく用法との判断になる。

間違い。伊作さんが三国志だけで7つほど用例を拾ってるでしょ。
台湾中央研究院の検索でも66個ほど用例がヒットする。
これだけ使われてれば、熟語ですよ。大漢和にも収録されてる。
それに現代中国語では、まさに伊作さんの言うように
「統括と隷属」という意味で統属という単語が辞書に載ってますよ。

>そもそも、統と属という相反する動詞を並べた統属をどう解釈すべきなのかが、
>これまできちんと整理されていなかった。

統と属が相反する動詞だというのは、伊作さんの思いこみじゃないですか?
理由は上の >>834 >>835 で説明したとおりです。
もうちょっと慎重な検討が必要でしょう。

>そこで、私は「〜の統ぶるに属す」と読むことにしている。

こういう風に、語と語の関係や語の働きを勝手に変える読み方は慎むべきでしょう。
有王を「王有り」と読むように、品詞を変えて訳すことはありますが、
これを妄りにやると、誤訳の原因になります。
840日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:43:33
うんうん
841765:2011/02/11(金) 22:52:14
今回、統属を調べていて知ったんですが、
「軍人勅諭 明治15年陸軍省 達乙第2号」にも統属という言葉が使われていたんですね。
ということは、戦前の日本人は、統属という言葉に慣れ親しんでいたんでしょうか。
その当時は、統属をどういうニュアンスで理解していたんでしょうかね。
聞いてみたいけど、戦前を知ってる人が2chにいるかなあ。
842あらため だよん:2011/02/11(金) 22:55:05
伊作さん

畿内説王道派の方が 相手になってやる!てよw →>>639
しっかし〜大勢からレス付けられて羨ましい限りだww
843伊作:2011/02/11(金) 22:56:56
765よ。

うだうだはもういい。
すぱっと答えられんような所へ今度から横ちゃりするな。
844伊作:2011/02/11(金) 22:58:58
あらためょ。

俺はこの4日間。
一人で畿内説のタコどもを蹴散らしてるが。

また・風に吹かれてしばらく飛び回ってろ。
845あらため だよん:2011/02/11(金) 23:00:38
>すぱっと答えられんような所へ今度から横ちゃりするな。

本当だね。
こういうのはスパッと答えて南畝の世界。

>だから「代々の王」とは訳せないのです。

代々の王 とは書いてないけど・・・代々の王でヨチ ちゃんちゃん。
846あらため だよん:2011/02/11(金) 23:02:27
>>844
>一人で畿内説のタコどもを蹴散らしてるが。

蹴散らされてる方じゃないのかい?ww
847765:2011/02/11(金) 23:06:41
>>843
伊作さんの好きな、論理的かつ科学的なレスじゃないですかw
しっかり読んで、論理的かつ科学的に反論してくださいよ。

スパッと答えれば、伊作さんの「すぶる」は間違い。
僕の「系統」も間違い。
何のことはない、「統は属なり」で、たんなる所属。
848伊作:2011/02/11(金) 23:06:50
>現代中国語では、まさに伊作さんの言うように
>「統括と隷属」という意味で統属という単語が辞書に載ってますよ。

なら話はおわりだ。
統属の統ほ系統の統とほざいた戦後処理がのこってるが、間違いをみとめて懺悔したか。
そんな文言は見当たらないが、
ウソつきがウソを通すためにウソを重ねるごとく雄弁だな。

人は、言い訳・自己弁護には雄弁になるものよ。
849ポキール:2011/02/11(金) 23:07:17
>>836あらためさん。

>只、伊都国の戸数に関しては、翰苑の「戸万餘」を過去ととらえてるようで
ここは誤記という考えの人もいるのはたしかだけどね。


俺の考えを述べるッすね

倭人伝の「千餘戸」は客観的な数値で、翰苑の「戸万餘」は見た目というか樣じゃないっすか?

「萬餘戸」じゃなくて「戸萬餘」と書いてあるのでそう考えたっすよ。
850あらため だよん:2011/02/11(金) 23:10:56
>帥升

馬鹿だなー 天皇家の王に決まってるでしょ。

>大古墳

日本建国の話だな。
日本誕生は奈良から始まった。
851伊作:2011/02/11(金) 23:11:56
765 よ。もう俺にからむな。お前はつまらん。
852あらため だよん:2011/02/11(金) 23:14:12
>俺の考えを述べるッすね

伊作さん 聞いてやって〜おれは疲れてる ちゃんちゃん
853765:2011/02/11(金) 23:18:30
>>848
>なら話はおわりだ。

現代語で古語が理解できれば、古語辞典はいりませんよ。

>もう俺にからむな。お前はつまらん。

論理的科学的に反論できなくなったのでしょうか。
まあ、文献学なんて、はたから見ればつまらんものでしょう。
でも、コツコツ積み上げて理解に至ると、結構楽しいよ。
854伊作:2011/02/11(金) 23:19:54
あらためお前。

ちっとは手応えのある奴かと思ったが、
俺を意識して避けてたわけがわかったぜ。

意味のない投稿はやめとけ。さもないと無視する。
855日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:21:08
無視しろよww
856伊作:2011/02/11(金) 23:36:33
さてポキールさん。
こり件も話せば長くなるし、私のサイトに詳しく書いています。ここは端折って説明。
「舊百余国、漢時有朝見者」は、後漢代の情報だよね。
しかも、後漢書よりも先に三国志が感性してるから、後漢書を見て書いたわけじゃない。

「舊百余国………今使譯所通三十国」
「舊百余国」とあるから、「今は百余国じゃない」というのが文章に隠れた意味です。
その上で「今使譯所通三十国」とある。

これが30国がそれぞれに魏と通交していたのであれば、
魏の朝貢管轄部署で聞き取り調査をしているから、
「その他の傍国は略載できない」とはならない。
また、天子の支配領域のそとにある異民族の朝貢は、
化外慕礼といって王朝の自慢だから、
必ず帝紀に年月入りで記録するはずだが、それがまったく記録されていない。

この二つの理由によって、使譯を通して把握している所では30国ということでしょう。
私は30国が九州だけだったとは思っていないし、
倭人伝も女王国の東にも倭種の国があるとゆってるわけで。
だから、「30国ほどに整理統合された」と書いたはずですよ。

一つ忠告。
自論を述べて相手の意見を論理的に否定しきる前に、
いきなり「違う」とか「間違い」とかいう文言で入らないほうがいいよ。

おやすみ。
857日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:42:51
>>841
軍人勅諭を知っていたわけではないが、統属の統は集めるという意味だ。
したがって、統属は単に服従するではなく、統率下にはいることを意味する。
ローガンの二重支配に入るという説は誤りだね。
858伊作:2011/02/11(金) 23:53:35


765 よ。頭から俺のを間違いだといい。俺に反論されて回答できず。
結局はてめえの土素人解釈が間違ってたことに気づいたわけだ。
で・手足の裏に汗かいて調べたら、比較的新しい時代の日本の漢和辞書に載ってることが分かった。
中国語の古語辞典に熟語として載ってたら熟語だといえるさ。
そのあたりをごっちゃにして、今度は用法じゃく熟語だという。外道が
中国語だ。中国の古い辞書にない古い熟語があるかタコ。

中央研究院の用例など、とっくの昔から活用してる。
そこに数十の用例があるのも知っている。
歴史書は文章伝世だから後世が真似て使うようになる。意味の変化もままあるものだ。
だから、公正を期すために、同じ歴史家の手になる三国志からの用例を見せた。
それで検証手法としては十分だろが。
きちっとして、てめえなどに注文つけられるようなことはしてないぜ。


てめえの間違いをつくろうために、「私も間違いだがあなたのここは間違い」などと、
今度は「古語用法だろう」という発言をつかまえて、60幾つもあるから熟語だと。
ばか野郎。用法だって歴史家は何度でも使う。数の問題じゃねー。

くだにねー野郎
859ポキール:2011/02/12(土) 00:01:54
>>856イサクさん

色々学ぶ相手に対して話し言葉で問いかけるのは、先日太国さんからも指摘されたように
たいへん失礼な事かと思いますので、これからは出来る限り
自分の話し言葉で返信する事を改めます。

どれだけ上手く会話する事が出来るかわかりませんが、以後改めて返信させてもらいます。
860765:2011/02/12(土) 00:13:45
>>857
>ローガンの二重支配に入るという説は誤りだね。

僕も、ローガンさんの説は無理筋だろうと思います。

>>858
まあまあ、伊作さん興奮しないで。
怒ってるだけで、全く論理的科学的反論になってませんよ。
861伊作:2011/02/12(土) 00:21:52
765

『 』つけるな。かっこ
馬脚をあらわして醜態をさらしてるのお前のほうだぞ。タコ
俺の詰問にまともに回答できず、矛先をずらしあらぬことをいう。
そこをつかれたら、負けないそぶりの定番板口上。これな

>全く論理的科学的反論になってませんよ
自分の立場をつくろったつもりだろうが、
論理的科学的でないのはお前だということをすでに証明してある。

それにしても、名無し顔なしで出ているくせに、
体面だけは保とうとするのはどういう心理なんだ? こもの

862765:2011/02/12(土) 00:23:35
>>861
>論理的科学的でないのはお前だということをすでに証明してある。

どこに?
863ポキール:2011/02/12(土) 00:25:00
>>856イサクさん。

早速ですが反論させてもらいます

>「舊百余国、漢時有朝見者」は、後漢代の情報だよね。

そうとは限らないでしょう。三国志以前に後漢書の存在はありませんが、漢書は存在していました
漢書は前漢以前の時代を扱った書であり、その中に倭人に関する記事があることはイサクさんもよくご存じかと思います。
そしてその中に「分百餘國」という倭人に関する情報が書かれているので
三国志倭人伝に書かれている「舊百余国」を受けたと言う事を否定するわけにはいきません。


>「舊百余国」とあるから、「今は百余国じゃない」というのが文章に隠れた意味です。

私はそうは考えません。
「今」とあるので、その「今」と対関係になるのは「舊」ではなく「昔」だとおもいます。

「舊」とは、倭人伝に出てくる漢と言われた時代で説明すれば
漢は前漢と後漢という二つの時代に区別する事が出来、その漢という時代範囲を区分する区分基準を観点とする時
前漢時代を「舊」として、後漢時代を「新」と区分けする「舊」ではないかと考えています

漢の時代に倭人の住む国から朝貢に訪れたとここには書いてあるので
これは前漢後漢という区別なく、魏の時代の前の時代という意味で用いられていると思います
その漢の時代の前漢時代の倭人の住む国は「百餘國」に分かれていたと言う意味かと
この「百餘國」という数値をここに書けるのも、三国志以前に漢書が編纂されていたからと、そして前漢ではないかと判断できるのは
この「舊」という文字が百餘國の前に付いているからです。
864伊作:2011/02/12(土) 00:27:45
765 よ。

まさか。河童じゃあるまいな。
相手をバカにしたようなセリフで「負けないそぶり」する手が少しにてるぜ。
865ポキール:2011/02/12(土) 00:32:33
>>863で間違いを見つけたので直させてもらいます。

間違ってる所

>「舊百余国」を受けたと言う事を否定するわけにはいきません。

訂正後

>「舊百余国」がそれを受けたと言う事を否定するわけにはいきません。
866765:2011/02/12(土) 00:36:29
>>864
河童さんと一緒にしないでくれw

「負けないそぶり」もなにも、>>834>>835に具体的に書いてる。自説の不安点まで添えてある。
現時点での結果を全部さらけだしてるよ。
伊作さんが正しいのなら、
>>837,839で僕がやったように、一つずつ挙げて論駁すればいいでしょ。
867ポキール:2011/02/12(土) 00:39:53
>>854イサクさん。

>まさか。河童じゃあるまいな。
相手をバカにしたようなセリフで「負けないそぶり」する手が少しにてるぜ。

どうしてみんなお俺の事を「美濃もん太」とか「河童」って言うんだろ?
俺は最初からポキールです。
ポキールは河童じゃないとだめっすか?

ポキールじゃ駄目なら河童に名前変えますか? 間違えられているのは河童虫さんだから
河童に名前変えても紛らわしいだけで済むっすよね
868日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:44:05
説明が論理的かどうか、主張が合理的で首尾一貫しているかどうかということが歴史を確定する必要十分要件ではないのです。
あえて言えば、より近い真実ということであって、ひとつの視点だけで歴史を確定できるものではありません。
文献がの残っていない時代に、京都が都で江戸に幕府が置かれて、政治・経済の中心だったというような複雑な事情を証明できるでしょうか?
九州と奈良は、まさにそういう関係だったのではないかとわたしは考えます。
卑弥呼の住む都は九州にあって、政治や経済の中心は畿内に移っていた。
大田田根子の子孫を三輪山に呼び寄せたのは、天皇を京都御所から江戸城後の皇居に住まわせたのに似ている。
これが真実に近いと思います。
869伊作:2011/02/12(土) 00:44:10
ポキールさん。
俺が河童じゃないかといったのは、統属について議論してる男だよ。
かんちがいしないでほしいね。

765 よ。 まさか。河童じゃあるまいな。
相手をバカにしたようなセリフで「負けないそぶり」する手が少しにてるぜ。

と書いてるでしょ。
870765:2011/02/12(土) 00:44:33
>>867
いやいや、ポキール君。
伊作さんは、僕のことを河童じゃあるまいなと書いてるんです。
ポキール君のことじゃないから、気にしないでね。
871ポキール:2011/02/12(土) 00:46:03
>>864イサクさん。

>>864は俺に言ったんじゃなかったっすね。誤解してごめんなさい。
おれ、先日から「もん太じゃないか河童じゃないか」と言われているので
少しその言葉に神経質になってます。

間違ったレスを書いたことをお詫びします。ごめんなさい
872伊作:2011/02/12(土) 00:47:34
別件でポキールさん。

あなたの「舊百余国」についての意見への返事、これは長くなるねー。
あした。その気になったら、やろうと思うけど。

どこからどう説明すれば分かってもらえるやら。
前漢代の話からやらんといかんようだから、気分的にしんどいね。
873日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:53:19
>>869 ヨコ失礼
> かんちがいしないでほしいね。

レスアンカーつければいんじゃないですか?

>>ってやつ。
874日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:56:53
>>864伊作さん
>まさか。河童じゃあるまいな。
>相手をバカにしたようなセリフで「負けないそぶり」する手が少しにてるぜ。

伊作さんは河童さんをご存じだったのですか?

伊作さんは2ちゃんねんるをいったいいつ頃から見ておられたのですか?

伊作さんはいつ頃から河童という人を知っておられたのですか?

知られた当時こ、2ちゃんねるの日本史板に伊作以外の名前で、或いは名無しでレスを書きこまれていたのではありませんか?
875日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:00:20
>>874


与作はアホーで河童と面識ある。
876日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:01:11
>>874 ヨコから
> 伊作さんは河童さんをご存じだったのですか?

Yahoo!で知ったんだよ。
877日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:05:49
>>876日本@名無史さん

あなたは伊作さんですか?

もし違うのでしたら、なぜ伊作さんの事情をご存じなのですか?
878日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:08:32
禿作、ボロが出たなwwww
879765:2011/02/12(土) 01:08:40
伊作さんってご老体なのかな。
怒って書いてる文章が、太国老人の雰囲気によく似てる。
880日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:12:52
>>876

>ヨコから

これが白々しいなwwwwwwww
881伊作:2011/02/12(土) 01:14:54
河童虫も知ってるし、その師匠の言語虫もよーく知ってる。
河童虫とはyahooで接触してた。
でも、俺もサジを投げて「教示」しないと決めた。

それ以来、彼は俺にとっては過去の存在だ。いじょ


どうでもいいけど、
女子学生の井戸端噂以下の、下世話が好きなのが多いな。
程度というものが知れる現象だ。
そんなことしか興味がないのか・銀蝿ども
882伊作:2011/02/12(土) 01:17:48
>怒って書いてる文章が、太国老人の雰囲気によく似てる。

詮索すきもほどほどにしろ。下卑た所行だ。
疑心暗鬼になるほどに、なりすまし、ダブりが多いってことなのか。

俺はめんどはご免だから、めんどうになったらいつでも引くぜ。
883日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:21:34
ひょっとしたら「プラム」さんも知ってない?
884765:2011/02/12(土) 01:22:02
>>882
なりすましとは思ってないよ。
太国老人は倍暦を愛しすぎてるから、なりすましなんかしないでしょ。
ただ、雰囲気がよく似てるから、同じくご老体かなと思ったまで。
885日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:23:27
>>883
プラムか
886日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:30:20
ここでの河童の知名度は羨ましいほど異常スグル
887765:2011/02/12(土) 01:30:32
伊作さん
文献学の反論が、餅つきの相の手みていにポンポンできるとも思わないので、
まあ、気長に待ちます。
>>834,835に何か反証が見つかったら、また教えてください。
それでは。
888日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:32:29
>>884

>太国老人は倍暦を愛しすぎてるから

褒め殺しですか?
889日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:33:47
>>877
> なぜ伊作さんの事情をご存じなのですか?

Yahoo!を観たから。

>>880
> これが白々しいなwwwwwwww

なにが? 割り込むときは大概つけてるが。
890日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:37:56
wwwwww
891伊作:2011/02/12(土) 01:38:04
ところで、俺はいったい何人を相手にやってるんだろか。
くだらんのは、これからどんどん虫するぞ。

相手をしてほしかったら、まともなことを書くことだ。
それでふるいにかけてやる。
892ローガン:2011/02/12(土) 02:16:04
>>827
>黄身が提示した魏書の用例を再確認する。

ごめん。飲み会で遅くなった。 前後を読みなさい。一番わかりやすい例を書くよ。
蜀書黄忠伝「黄忠字漢升、南陽人也。荊州牧劉表以爲中郎將、與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州、假行裨將軍、仍就故任、統屬長沙守韓玄。
先主南定諸郡、忠遂委質、隨從入蜀。自葭萌受任、還攻劉璋、忠常先登陷陳、勇毅冠三軍。益州既定、拜爲討虜將軍。
建安二十四年、於漢中定軍山?夏侯淵。淵衆甚精、忠推鋒必進、勸率士卒、金鼓振天、歡聲動谷、一戰斬淵、淵軍大敗。遷征西將軍。是?、先主爲漢中王、欲用忠爲後將軍、諸葛亮?先主曰「忠之名望、素非關、馬之倫也。
而今便令同列。馬、張在近、親見其功、尚可?指。關遙聞之、恐必不?、得無不可乎!」先主曰「吾自當解之。」遂與羽等齊位、賜爵關?侯。明年卒、追諡剛侯。子敍、早沒、無後。」
荊州牧の劉表は黄忠を中郎将とし、自身の甥、劉磐と共に長沙悠県を守らせた。
曹公が荊州を破り、黄忠を、裨将軍とし、元の任務のまま長沙太守の韓玄の指揮下にいれた。
A黄忠 B曹公 C韓玄
ではお休みなさい。
893伊作:2011/02/12(土) 11:46:01
ローガンくんへの返答。

>曹公が荊州を破り、黄忠を、裨将軍とし、元の任務のまま長沙太守の韓玄の指揮下にいれた。
んーなことは百も承知だよ。
それをいうならば、どの伝に登場する人物Aも、みな誰かが任命してる。
任命されたAが、任地のB上官の統率の下についたという文章だ。
「A黄忠 B曹公 C韓玄」て、勝手に決めるなよ。
話のプライオリティからいえば、任命したのは曹操、任命されたのは黄忠、
黄忠が従った上司が韓玄。それだけのことだ。
統属に関する解釈議論なんだぜ。
「A行裨将軍・黄忠は、B長沙太守の韓玄に統属した」で文句はなかろう。

自分で提示した中で、たった一つ例外的に「自論に合いそうなの」をみつけて、
絶対数において自論にそぐわない事例が多いにもかかわらず、
たった一例を勝手に序列づけて提示する。バカバカしい悪あがきだな。


俺のここでの議論や返答には、ある共通点がある。それは、
きみのような小細工手法を暴く内容が多いということだ。
それほどに小細工を弄する輩が多いってことでもある。
894伊作:2011/02/12(土) 11:48:45
●ポキールさんへ。
あなたの「舊百余国」についての意見への返事、
ここじゃ量的に無理なので、新しく掲示板つくって、
そこに書いておきました。ご欄ください。

●天才の掲示板本日開店●
説明画像アップ可・文字数制限なし。
自分の投稿の文字や文章の訂正・変更・削除が自在。
疑問・質問・異論・反論なんでも。
まじめに・じっくりやりとりする人のためのスペース。
http://8242.teacup.com/isaq/bbs


ほかのみなさんも・いらっしゃい。
とはいっても、邪魔が入らず1対1での場だから、
やってくる度胸のある奴は少なかろう。
895人豚:2011/02/12(土) 12:47:03
>>825

横します。

> > それから、僕の質問の核心は「倭人伝の文は官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と「有千餘戸」と「世有王 皆統屬女王國」
> > は文意の上で関連はなくそれぞれで 完結した内容を持っているということ」からローガンさんの言われることは当てはまらないということなのです。
>
> 伊都国関連の記述ではないという主張かな?何故、「皆」が官を指さないと言い切れるの?

三国志における「統屬」の意義については、ローガンさんの見解が正しいかと思うのですが、
やはり「皆」は、直前の「世有王」を指すかのようにも思えます。
間に別文が挟まっていれば「官」に及ぶとは読みづらいのです。
そこで、いっそうのこと「千餘戸」も含めて「皆」だと言っていただいた方が理解しやすい。

 「世」・・・今
 「皆」・・・王及び配下、住民
 「統」・・・まとまって

「世、王有るも、皆(王たちは)、女王国に統(ともども)属す」

私にはこのように読めます。
現在の刊本での校勘が正しいと仮定しての珍読ではございますが。
896伊作:2011/02/12(土) 12:55:18
>珍読ではございますが。
珍読だよ。
500里を100里そこそこに、東南を北東に変え、
それでいて伊都という国名だけは採用して、ねつ造解釈を推進する。

そこまでしなくちゃ、伊都国偏重論し成立しなのよ。
北部九州説ともども、ろくなもんじゃないぜ。
897日本@名無史さん:2011/02/12(土) 13:00:22
>>895
皆が国々なのか王達なのかははっきりしないが、伊都国についての記述は「有千餘戸」で
一段落し、「世有王」からは対馬国から伊都国までの共通事項と読むのが正解だろう。
898唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 13:38:04
よ〜のなか ば かなのよ〜。
同道巡りは世の習い。
899人豚:2011/02/12(土) 13:56:00
>>897

> 皆が国々なのか王達なのかははっきりしないが、伊都国についての記述は「有千餘戸」で
> 一段落し、「世有王」からは対馬国から伊都国までの共通事項と読むのが正解だろう。

確かにそう読む方もいらっしゃいますね。
ただ、それだと、奴国、不彌国はどうなのか、対馬なんかに「王」が居て、大国奴には居ないのか、と言う疑問が生じます。
この2国(投馬を含めると3国)と伊都以前に記される国々とはどこが違うのか、特段の記述は無いかと。
一大率の存在など、別格を示すような記述があるのは伊都だけだと思います。
900ローガン:2011/02/12(土) 15:01:42
>>893
やっと理解できたのかね。手間のかかる。

>話のプライオリティからいえば、任命したのは曹操、任命されたのは黄忠、黄忠が従った上司が韓玄。それだけのことだ。

そうだ。それが統屬だ。B曹公が、A黄忠を裨将軍とし、元々の任務、長沙ユウ県の守護を命じ、C韓玄の指揮下においた。
これを、倭人伝に置き換えりゃいい。B伊都国王は、A爾支泄謨觚柄渠觚達を連合体運営を担う職に任じ、C女王国の指揮下においた。だ。

> 統属に関する解釈議論なんだぜ。

筆者本人が使った統屬の例を、課題の解釈に利用したまで。ごく当たり前の手順だ。
901唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 15:21:55
一大率の存在

一大率が最初から存在すれば、国は乱れない。
一大率を共立された女王が置くならば、各国は女王を共立しない。
902伊作:2011/02/12(土) 18:17:59
>B伊都国王は、
卑弥呼の時代に伊都国に王はいない。

>A爾支泄謨觚柄渠觚達を連合体運営を担う職に任じ、C女王国の指揮下におい。
上のバカ解釈を受けた2段論法など間違いの増幅リレーじゃないか。意味なし。

きちんと構造的に考えた上でのねつ造か。近視眼的なねつ造か。
で・そのバカ論法でいくと、他の国の官も伊都国王が任命したのか。
狗奴国の官はどだ。
903ポキール:2011/02/12(土) 18:54:40
>>895人豚さん。お尋ねします。

「有王」の対になる「無王」という存在はいったいどこにその答えを求めればよろしいのでしょうか?
「無王」という存在(対象)があるから「有王」という存在が成り立つと言うのが私の考えです。
904唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 19:05:04
倭国大乱 歴年無主。
905ローガン:2011/02/12(土) 19:16:29
>>902
>上のバカ解釈を受けた2段論法など間違いの増幅リレーじゃないか。意味なし。

単なる罵倒につき却下。

> 他の国の官も伊都国王が任命したのか。

現地王の任命。

> 狗奴国の官はどだ。

勿論、狗奴国も温度差は違えど連合体の 一員。
906ポキール:2011/02/12(土) 19:41:29
>>904唐松山さん。返信ありがとうございます

>倭国大乱 歴年無主。

「王」ではなく、それは「主」です。 
主は王だとする意見が有るかと思いますが、その変換は飽くまでも個人判断の域を出るものでは
ありませんし、
ここでは主部を伊都国と特定する事ができません。
「有王」と書かれた部分の主部は伊都国で、その伊都国で「有王」という記述が描かれているのです。
907伊作:2011/02/12(土) 20:49:45
906 よこから失礼。

きみが資料とする『三国志』も、王とか天子とか皇帝と認めているのは魏だけで、
呉は「呉主権、三嗣主(三人の後継主)」で、
蜀は「先主備、後主禪」といった書き方をしている。
厳密にいえば、そもそもは王は天子・皇帝のことだから、
それ以外を主と書くのもまた、書いた人の感性と考え方によると思う。

一元的視点で断定するのは危険だね。
908唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 21:03:39
「主」とは、諸国王の上に立つ統一倭国王。
この大王が立てられなくなって歴年、女王卑弥呼を共立する。
つまり、お飾りであろうと女王卑弥呼は倭の大王の位である。
この下に統属される、諸国王が「官」と書かれる。
例えば大和であれば、
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 (ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが) 
彌馬獲支? ヤマワケ?

こんな感じかな。

909765:2011/02/12(土) 21:31:54
>>903
なんで無王が気になるの?
なにか世有王を理解するのに無王が決め手になると考えてるのかな。
910愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/12(土) 21:48:05
>>908
「獲加多支鹵大王」(ちょっと違う?)から見ると「獲支」ワケ?
私は「水沼別」かと想像しています。
伊支馬は植物の名に由来する「イケマ」でしょうか。
911人豚:2011/02/12(土) 21:49:28
>>903

はじめまして。

> 「有王」の対になる「無王」という存在はいったいどこにその答えを求めればよろしいのでしょうか?
> 「無王」という存在(対象)があるから「有王」という存在が成り立つと言うのが私の考えです。

えー、問いかけの御真意が、ちと読み取り難たいのですが・・・
倭人の地で王の有る国と無い国があって、それはどこかと言うことでしょうか?
悩んだ末の解釈ですが、検討違いの返答になったらごめんなさい。

倭人伝で官名が伝わる8カ国(對馬、一大、伊都、奴、不彌、投馬、邪馬壹、狗奴)の中で、
「王」が関わるのが、3カ国(伊都、邪馬壹、狗奴)、フツーに考えて、その他の国の状態が「無王」ですよね。
以上が回答。

ただし、私的には「無王」の国の「官」も実際は首長層で、場合によっては「王」と呼べる存在だったかと。
なので倭人伝での「王」か「官」かは、その字義ほどの違いは無かったと思います。
912ポキール:2011/02/12(土) 21:52:49
>>909さん。
無王を気にしてはいけませんか?
そして私の問いをもう一度読み返してみてください。私の問いは>>909さんが思っている疑問とは違った疑問を問い掛けていることに気付くはずですから
913日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:58:25
>>912
気にして悪いことは無いよ。
人豚さんも>>911でいってるように、>>903のレスでは問いかけの真意がよくわからないので、
どういう答えを求めてるのか質問したまで。
914伊作:2011/02/12(土) 22:01:59
905 ローガン





プッ。
915太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 22:06:44
大王よりえらくない 伊支馬 ≠ 臣下よりえらい 垂仁大王
916765:2011/02/12(土) 22:17:10
>>912
例えば、唐松山さんのレスに、それは主であって王ではないと答えてるよね。
だとしたら、ポキール君が何を王と考えて質問してるのかがはっきりしないと答えようがないと思うよ。

そもそも王は中国の君主を指す称号だったのが、
戦国時代には各国の君主が王を名乗るようになる。
始皇帝が皇帝の号を定めて以降、
皇帝の下に置かれる称号になった。
中国の周辺首長にも皇帝によって冊封された王がいる。
一方で、かってに王を名乗る者もいる。
イギリスの君主はイギリス王と表記されるけれど、
これはkingであって王というのは便宜的訳語だし、
中国皇帝に王の称号をもらったことはないので、
イギリスも厳密にいえば無王の国。

無王を気にするのが悪いというのではなく、
王という言葉で、どういう状況を想定して質問しているのかわからないと
答えられないから聞いてみたのです。
917ポキール:2011/02/12(土) 22:25:21
>>907イサクさん。

>一元的視点で断定するのは危険だね。

その考えはわかりますが、私は「主」と「王」は違うと言う視覚で確認できる現実を言っているのです。
主や王をどう捉えるかでは無くて、実際に違うでしょと
その現実に対しイサクさんは

>「厳密にいえば、そもそもは王は天子・皇帝のことだから、
それ以外を主と書くのもまた、書いた人の感性と考え方によると思う。」

という書いた人の感性という確かめようもない抽象的なものでその答えとしています。
やはりここは視覚ではっきりと確認できる違いなんだから、その答えも視覚で確認できる回答でなければ
ならないと思うのですがどうでしょう?

>一元的視点で断定するのは危険だね。

確かに一元的な視点で断定する事は危険だと思いますが、一元的な視点で考えると言う行為も必要なことと思います。
一元的に物を見て、一元的視点で解決できない時にはじめて一元的ではない考え方に広げることが出来るからだと思います
918ポキール:2011/02/12(土) 22:34:56
>>911人豚さん、返信ありがとうございます。

人豚さんがレスしたように「フツーに考えて、その他の国の状態が「無王」ですよね」
とした場合、「世有王」などとせずに「有王」であって「世」は必要ないと思うのですがどうでしょう?

仮に「世」=今、と解した場合
その対的関係になるのは「昔、王無し」となり、他の国との関係ではなく
伊都一国だけの今昔をベースとした「有無」という事になると思うのですが

ようするに、そういう文章の捉え方も有りではないかということです。
919ポキール:2011/02/12(土) 22:43:53
>>916
>王という言葉で、どういう状況を想定して質問しているのかわからないと
答えられないから聞いてみたのです。


言ってることは理解できました。返信ありがとうございます。

さて、「王」という言葉は状況想定しなければならない言葉でしょうか?
私は「王」は「王」としかみていません。(というよりも難し事はわからない)

それよりも「王」という言葉を解するに

>そもそも王は中国の君主を指す称号だったのが、
戦国時代には各国の君主が王を名乗るようになる。
始皇帝が皇帝の号を定めて以降、
皇帝の下に置かれる称号になった。
中国の周辺首長にも皇帝によって冊封された王がいる。
一方で、かってに王を名乗る者もいる。
イギリスの君主はイギリス王と表記されるけれど、
これはkingであって王というのは便宜的訳語だし、
中国皇帝に王の称号をもらったことはないので、
イギリスも厳密にいえば無王の国。

という認識をや知識を持たなければこの「世有王」という解釈は出来ないのかということです。
私はただ、「王」と「主」はどうみても同じには見えないよね。という話です。

920人豚:2011/02/12(土) 23:26:45
>>918

> 人豚さんがレスしたように「フツーに考えて、その他の国の状態が「無王」ですよね」
> とした場合、「世有王」などとせずに「有王」であって「世」は必要ないと思うのですがどうでしょう?

無くても文章には成りますね。
私は、漢文読めない人なので、このネタに深くお付き合いできないのですが、

> 仮に「世」=今、と解した場合

そうは読まない人が多いのですが、取り敢えずそうしておいてください。

> その対的関係になるのは「昔、王無し」となり、他の国との関係ではなく
> 伊都一国だけの今昔をベースとした「有無」という事になると思うのですが
> ようするに、そういう文章の捉え方も有りではないかということです。

そうですね。
漢代の九州ナンバーワンは、伊都では無く、奴だと言う考えがありますから。
921765:2011/02/12(土) 23:31:02
>>919
>さて、「王」という言葉は状況想定しなければならない言葉でしょうか?

正史に王と書かれていると冊封を受けてるはずという人もいるだろうし、
辺境国家の首長も王と書くという立場の人もいるだろうし、
ポキール君が「主は王ではない」と言ったので、そこら辺を問題にしてるのかと思いました。
それに>>912を読んだら、世有王の問題じゃないと言ってるようだったので、
もしかして文明論というか王権の発生を問題にしてるのかもとも思いました。

それは、さておき、

>私はただ、「王」と「主」はどうみても同じには見えないよね。という話です。

文字は別物ですね。でも、別の文字が場合によっては同じものを指すということは納得いきませんか。
たとえば、皇帝と天子と人主。これらは文字は違いますが、漢籍では同じ存在を指してます。
他にも、天皇とお上(おかみ)とスメラミコト とか 日と太陽 とか 月と太陰 なんかもそう。
逆に、文脈によって太陽がお日様ではなく夏の意味だったり、太陰が月ではなく冬の意味だったり、
天子と書いてあっても、中国の皇帝の意味だったり日本の天皇の意味だったりします。
だから、文字が違うから別のもの、文字が同じだから同じものと、単純には割り切れないですよ。
922日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:48:59
ヤフー掲示板の「馬鹿」「カス」「テンチュウ君」「谷本計算」とかいう
罵りあいのレベルよりはマシなのは確か。
923日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:50:08
>>899
>対馬なんかに「王」が居て、大国奴には居ないのか、と言う疑問が生じます。
国という以上、王はいるものだということが常識です。
当然、奴国にも王がいる、しかし、奴国の王が世襲なのか否か、そこに触れていない
ということでしょう。
924日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:55:44
日本列島は、百済や高句麗から渡来人が来るまで、ほとんど人の住んでいない未開の地だったのです。
人が住んでいたのは海岸沿いの入江と中小河川の瀞(トロ=水の流の緩やかなところ)だったのです。
人々は、葦舟で移動し、川魚や貝などを取って暮らしていました。それが縄文人の子孫です。
古事記や日本書紀は、百済の歴史に出雲神話を混ぜた程度のつくり話ですから、史料に値しません。
925伊作:2011/02/12(土) 23:57:03
922 
一時期静かになったけど、近年はまたひどくなった。
何度「やめよ」といってもやまないんだから・どうしょもない。
俺だけじゃなく、辟易して去った人も結構いるよ。
一時期90を超えたトピックも今ては半数だ。

その度合いこそ違え、「ドンと来い」も似たような傾向はあるよ。

926日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:57:50
ちとドンコイのほうに行ってたが
ここのスレも進めて行きましょうかね。

>漢代の九州ナンバーワンは、伊都では無く、奴だと言う考えがありますから。

成人用の甕棺墓でいえば奴国の中心地といわれた春日市の「奴国の丘」の甕棺墓も
大きいですが、なんといっても佐賀県から出土したモノが大きいですよね。
927日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:03:12
山内丸山遺跡のように数百人(500人以下が通説)すんでたらしい遺跡もあるが、
文時代の狩猟採取生活では、そもそも高密度に人は住めない。

そこに弥生人が来れば、ほとんど未開の新天地じゃないかな。
928伊作:2011/02/13(日) 00:07:07
>ここのスレも進めて行きましょうかね。

こっちもそろそろ「おいとま」しようと思う。
「ゆるやかな連合」を潰す手だてを考えなくちゃ。

勉強になったよ。邪魔したね。
929日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:10:12
>>925
YAHOO掲示板は詳しい人も居るんだが
何といってもあの罵り合い・罵声の連続で読む気にもなれないというか。
真面目に議論したいなら2chのが良いですよ。
「ドンと来い」は馬鹿が多いがw まあ、口が悪いというだけで
それは性分として受け止めるしかないと思う。
930人豚:2011/02/13(日) 00:12:48
>>923

> 国という以上、王はいるものだということが常識です。

そう言うお考えがあってもよろしいかと思いますが、
私には倭人伝では、そして同じ東夷の韓伝でも、全ての国が王を戴いていたとは読めないのです。
931あらため:2011/02/13(日) 00:21:32
お、久しぶりに覗いたらワッシーさんが投稿してるね。
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=79&summary=on

932ポキール:2011/02/13(日) 00:25:11
>>921

>たとえば、皇帝と天子と人主。これらは文字は違いますが、漢籍では同じ存在を指してます。
他にも、天皇とお上(おかみ)とスメラミコト とか 日と太陽 とか 月と太陰 なんかもそう。

そのたとえはここに当てはまるものですか?
皇帝と書いていたものが次には天子と書かれていた。
異質な登場人物の台詞なら片方が天子と言いい、もう片方が皇帝と表現する事があるでしょうが、この場面で
「王」と「主」を同じ意味で使い分ける視覚で確認できる事実はなんでしょうか?
「765さん」の考えでなく、目に見える現実としてお答え願えないでしょうか。
933あらため:2011/02/13(日) 00:26:04
>承和縁起(844年作の弥勒寺建立縁起)につき補足説明します。
>『・・・今坐宮號菱形小椋山也 比淘蛹苣_前住国加都玉依比当ス也 
>又住都麻垣比淘蛹苣_也 本坐宇佐郡安心別倉東方高岳也 大帯姫者気長足姫尊御霊也』

>これは、宇佐神宮三祭神の応神・比売・神功が菱形小椋山(亀山)に現れた経緯を示し、次のように分けられる。
>@応神: ・・・今坐宮號菱形小椋山也
>A比売: 比淘蛹苣_前住国加都玉依比当ス也
>B神功: 又住都麻垣比淘蛹苣_也 本坐宇佐郡安心別倉東方高岳也 大帯姫者気長足姫尊御霊也
>すなわち、@は一の御殿の応神が鷹居社(712年)から小山田社(716年)を経て725年に菱形小椋山へ移ったことを述べた後に、
>「今は菱形小椋山に鎮座する」と記す。

>Aは二の御殿の比刀i比売)大御神が前から菱形小椋山に住んでおり、比刀″痩チ都玉依比当スと記す。
>Bは三の御殿の都麻垣比淘蛹苣_=大帯姫者気長足姫尊(神功皇后)で、都麻垣比淘蛹苣_が本々は宇佐郡安心別倉東方高岳に鎮座していたと記す。
>要するに、一の御殿の応神は725年に小山田社から、三の御殿の神功(大帯姫)は823年に安心別倉東方高岳から菱形小椋山へ移って来たのです。
>そして、二の御殿の比唐ヘ前から菱形小椋山に鎮座していました。
>ただし、二の御殿の「比淘蛹苣_」と三の御殿の「都麻垣比淘蛹苣_」は名前が似ており紛らわしい。
>承和縁起は二の御殿「比淘蛹苣_=国加都玉依比当ス」、三の御殿「都麻垣比淘蛹苣_=大帯姫(神功)」とし別人とする。
>まあ、私に言わせれば、二の御殿「比刀#レ弥呼・台与の実像」、三の御殿「神功=卑弥呼・台与の虚像」なので、紛らわしいのは無理からぬことです。

さて、あっちにもいってきましょうかね・・・
934日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:34:56
>>930
国というものは、主権者と領民と領土からなります。3世紀ころの主権者というのは
王以外にはありません。国という以上、必然的に王は存在するということです。
それに、後漢書をご覧になりましたか? 倭国では全ての国主が王を称しているとあ
ります。
935あらため:2011/02/13(日) 00:44:04
>「終止符スレ」と「どん来いスレ」の違いはなに?

あっちは考古学全般スレ(土器とか)
こっちは古代史全般スレ(各文献もやる)
936日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:44:09
>>933
最近からだが少し透けてきているぞwww
937あらため:2011/02/13(日) 00:45:04
>>936

透明人間ですか?w
938日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:46:06
>>935
>こっちは古代史全般スレ(各文献もやる)

それってスレ違い上等ってことじゃ・・・

939あらため:2011/02/13(日) 00:50:15
ん?いや、いや、どっちも邪馬台国はテーマなんですが、
こっちは古代史専門が多く、向こうは考古学専門が多いだろ?

色分けされてるじゃん
940人豚:2011/02/13(日) 00:52:31
>>934

> 国というものは、主権者と領民と領土からなります。3世紀ころの主権者というのは
> 王以外にはありません。国という以上、必然的に王は存在するということです。

私は貴方の「国」の定義を否定するつもりはありません。
ただ、倭人には、その定義は採用されていないと思っているだけ。

> それに、後漢書をご覧になりましたか? 

残念ながら、後漢書も貴方の定義を採用していないようですね。
「国」に「王」が存在するのが「必然」と認めるなら、わざわざ「國皆稱王」などと書く必要もないわけですから。

ちなみに私の倭人伝での「王」と言うコトバに対する印象は>>911あたりを御参照ください。
941日本@名無史さん:2011/02/13(日) 01:01:42
>「国」に「王」が存在するのが「必然」と認めるなら、わざわざ「國皆稱王」
>などと書く必要もないわけですから。
王が存在したからといって、それが「王」と称するか、別の呼称を使うかはま
た別問題なのですよ。

942日本@名無史さん:2011/02/13(日) 01:10:48
>>937
あらためがもしポキールだったら少しは見直すんだがなwww
943人豚:2011/02/13(日) 01:17:29
>>941
> >「国」に「王」が存在するのが「必然」と認めるなら、わざわざ「國皆稱王」
> >などと書く必要もないわけですから。
> 王が存在したからといって、それが「王」と称するか、別の呼称を使うかはま
> た別問題なのですよ。

そうですよ。
別問題です。
例えば、後漢書辰韓伝では、12カ国の各頭目を渠帥と表現し、諸国が共通して戴く辰王のみを王号で表記しています。
貴方の「国」の定義がどうであれ、他人はその人なりの定義をもって「国」と言うコトバを使うのです。
ただ、それだけの話です。
では、さようなら。
944日本@名無史さん:2011/02/13(日) 01:20:14
>>942

ぜんぜん違うだろうw
945あらため:2011/02/13(日) 01:33:49
宇佐神宮史 巻一の四二三ページによると、
「八幡宇佐宮縁起」(到津文書)には「同五秊ニ二ノ殿造立」
「八幡宇佐宮繋三」には「天平五年酉癸 初て比淘蜷_の細殿を造る」とある。
到津文書は十五世紀、八幡宇佐宮繋三は元和三年(1617)の成立で時代は下るが、この「初て」という言葉が気になる。

投稿してきました ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=79&summary=on
今日はもう遅いので寝ます・・・zzz
946765:2011/02/13(日) 02:06:36
>>932
>伊都一国だけの今昔をベースとした「有無」という事になると思うのですが

これを言いたいがために、「無王」が伊都国以外の他の国を指すことになっては具合が悪いんですね。
だから主は王じゃないと言い張るわけだ。
それでは、いくら用例を挙げても納得はしないですね。
こちらが納得しました。

でも、前提の

>仮に「世」=今、と解した場合

が成り立たないから、伊都国に昔王がいなくて今いるという話にはなりませんよ。
947日本@名無史さん:2011/02/13(日) 10:21:31
「王」と「主」の違いをここで講演してくれ
948ポキール:2011/02/13(日) 10:42:44
>>946さん、返信ありがとう。

>これを言いたいがために、「無王」が伊都国以外の他の国を指すことになっては具合が悪いんですね。
だから主は王じゃないと言い張るわけだ。     

私はこれだという自分の主張なんてないから、具合が悪い事なんてありません。
今昔の話しも「仮に」と前提したものだしね。
ただ、いろいろな観点から見ることが出来ると言いたかっただけです。

しかし王と主の違いは別です。これは視覚の問題で、これが同には絶対に見えないからです。見えますか?
949唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 11:11:27
>王と主の違いは別です。これは視覚の問題で、これが同には絶対に見えないからです。見えますか?

天皇(スメラギ)は王を称していないから、倭王武は天皇でない。
国主と書けば国王では無い。

文字上の視覚では、違いが出ても、他人にその違いを説明出来ないだろう。
950765:2011/02/13(日) 11:14:35
>>948
では、ひとつ質問させてください。
なぜ、無王ではなく無主と書いたのでしょう。
ポキールさんの推測で結構ですので、ひとつ教えてください。
参考にさせていただきたいです。
951唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 11:50:09
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。部従事(役職)呉林、楽浪
もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、
臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれ
を撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。
馬韓は西にあり。
凡五十餘國あり。大国は万余家、小国は数千家、総じて十万余戸。辰王は月支国に治し、
臣智は優呼として、臣雲遣支報・安邪[足叔]支濆・臣離兒不例・拘邪秦支廉の号を加う(?)。
その官に、魏率善邑君・歸義侯・中郎將・都尉・伯長あり。
辰韓は別れて十二国となる。その十二國は辰王に属す。
馬韓に50余国有り、王は、辰王のみであり、諸国王は、邑君。
その配下に、難米率善中郎 牛利率善校尉の如き臣下がいる。
韓が滅ぼされる前には、邑君は諸国王を名乗っていたであろう。

伊都国王が辰王クラスであれば、女王卑弥呼の共立は無い。
卑弥呼が共立されて、伊都国に居住する可能性は存在する。
この場合、伊都国を傘下とする女王卑弥呼と捉えれば、女王以外に伊都国にも邑君クラスが
存在する。
卑弥呼の存在する場所は、相攻伐歴年の30国の内であれば、何処に立てられていても良い。
952太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 12:19:55
>>949
>倭王武は天皇ではない

じゃぁ〜何なんだ?

>天皇(スメラギ)は王を称していないから、倭王武は天皇ではない

天皇(スメラギ)は臣を称していないから、垂仁天皇は臣 伊支馬ではない。
953ポキール:2011/02/13(日) 12:28:36
>>950さん、返信ありがとう。

>なぜ、無王ではなく無主と書いたのでしょう。

それは概念の違いかもしれませんし、主と王は別の体制だったからではないでしょうか。
954愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2011/02/13(日) 12:37:16
14世紀ですが、南朝の征西将軍・懐良親王が明から「日本国王・良懐」として封ぜられた例があります。
古代も似たようなことはあったかもしれません。
955日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:48:46
>>953
うーん、概念の違いかあ。具体的には、どういうことなんだろう。

主と王が別の存在だから、わざわざ文字を変えて読者にわかるように提示したと。
しかし、王とはどういうもので、主とはどういうものか、注釈がないということは、
当時の読者は、文字を見ただけで両者の内容を理解できたはずだよね。
そこは、どう思ってますか?
956日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:55:11
>>791
>こういう大卒の集まりみたいな場所は 少しコンプレックス感じていたっすよ。

ここにいる半分以上の人は、大卒ではなく
君と同じ、大卒の人の文章て丁寧だなーって思ってる連中で
大卒に見えてしまうのはそれだけ歴史の勉強をしてるて事だと思う
957ポキール:2011/02/13(日) 13:01:07
王と主の違いを言えば、
王は先生と生徒の関係で、主は一般生徒と生徒会の関係。あるいはクラスの生徒とクラス委員の関係。

簡単に言っちゃうと、王は縦の関係、主は横の関係。
958765:2011/02/13(日) 13:10:59
>>957
昨夜からのリクエストの「皇帝と書いていたものが次には天子と書かれていた。」例だけど、
多すぎて、とてもここにコピペできない。
中央研究院の検索は使えるでしょ。
あれ、最近仕様が変わってわかりにくくなってるけど、左上の進階の所をクリックすると
4語まで同時にand検索できるようになってるから、帝 天子 上 人主 で検索して自分で見て納得してください。


>簡単に言っちゃうと、王は縦の関係、主は横の関係。

今日は、あと二つだけ質問。
漢字を見てこういう関係だとわかる理由は何ですか。
それと、
>異質な登場人物の台詞なら片方が天子と言いい、もう片方が皇帝と表現する事があるでしょうが
これだと別の表現をしてもよくて、なんで有王と無主は同じじゃないといけないと考えるのでしょう。
959日本@名無史さん:2011/02/13(日) 13:19:33
>>958
質問の補足。>>932>>948

>「王」と「主」を同じ意味で使い分ける視覚で確認できる事実はなんでしょうか?
>しかし王と主の違いは別です。これは視覚の問題で、これが同には絶対に見えないからです。見えますか?

というふうに問いかけてるということは、同じ意味にせよ使い分けるにせよ、
その根拠は視覚で確認できる事実であるということでしょう。
王は縦の関係、主は横の関係というのは、どういうふうに視覚で確認できる事実なんでしょう。
960ポキール:2011/02/13(日) 13:28:07
支配者と民とは縦社会にだから、この支配者は王と言えるが
王同士の世界で、その代表となれば
これは横の関係になるので主。

という事ではないでしょうか。
961ポキール:2011/02/13(日) 13:39:34
>>959さん、返信ありがとう。

>というふうに問いかけてるということは、同じ意味にせよ使い分けるにせよ、
その根拠は視覚で確認できる事実であるということでしょう。
王は縦の関係、主は横の関係というのは、どういうふうに視覚で確認できる事実なんでしょう。     

いいえ、これは私の推測にすぎません。推測を求められたからこそ述べたまでのこと。
あくまでも私の主張は視覚でして、この視覚で捉えられるものが同じだとする事実をとうているだけです。
962765:2011/02/13(日) 13:42:46
>>960
それは先入観でしょ。
30の国があって、その国々の王の代表が選ばれるという情報は、
國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國
からしか得られません。
それで、大倭王は主ではないと主張しているんだから、
倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。
の主が王たちの代表だって、どうやってわかるんですか?
文字が違うから主は王ではないと主張するなら、
倭と倭国だって意味が違うと考えなければならないし。
倭には30国あっても、それが倭国のこととは言えなくなる。

あ、さっき今日は2つと言ったのに、また質問してしまったw
963765:2011/02/13(日) 13:45:50
>>961
>いいえ、これは私の推測にすぎません。推測を求められたからこそ述べたまでのこと。

ええ、推測で良いんです。そもそも3世紀という遠い昔のことですし。
3世紀の人が、主と王を視覚で捉えてどのように意味の違いを判断したと推測しているのでしょうか。
964ポキール:2011/02/13(日) 14:13:31
主と王は違うという認識さえ出来れば
その理由なんてどうでもいいことです。

違うと認識することによって、ではその違いは何?という疑問に発展するからです。
この部分が最初から
王と主は意味が同じで、書いた人の好みでランダムに使い分けられてるなんて言われたら
何も先にはすすまないような気がしたから一石を投じたまでです。
965唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 14:25:58
>倭と倭国だって意味が違うと考えなければならないし。

魏の思考はそれが正解なんだろう。
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、

魏は諸韓国を国と認めない、だから邑君や邑長の称号となる。
ただし、それらの長として、辰王が存在する。

倭国伝で無く、倭人伝とするのは、魏は東夷九種と捉えたうちの倭種。
ただ文章としてまとめるなら”王”の称号を使う方が理解しやすい。
程度でしょう。
966日本@名無史さん:2011/02/13(日) 14:48:45
>>965
>魏の思考はそれが正解なんだろう。

おそらく、そうでしょう。
それに関連して、後漢書だと三十許國の王が皆冊封を受けてるように読めるけれど、
倭人伝は、その辺、曖昧ですね。

あと、上の方でどなたか、邪馬台国・伊都国・狗奴国以外には王がいなくて、
官が王のようなものだろうとおっしゃっていたけど、
それは違うような気がするなあ。
伊都国で有王と書いたのは、皆統属女王国を特筆するためで、
有王を特筆するためではないと思います。
967伊作:2011/02/13(日) 15:31:05
966

「冊封」を・どんな意味で使ってるのかね。

誤解と拡大解釈のまま使う素人が多すぎるようだが。
968日本@名無史さん:2011/02/13(日) 17:27:28
967 名前:伊作 :2011/02/13(日) 15:31:05
966
「冊封」を・どんな意味で使ってるのかね。
誤解と拡大解釈のまま使う素人が多すぎるようだが。


これを現代和訳してみると

俺の意にそぐわない使い方をしている奴がいる。となります。
969日本@名無史さん:2011/02/13(日) 17:55:36
>>968

いや、明らかに>>966の漢文能力はおかしい。
「冊封」と言う言葉の意味を理解していないか、はたまた漢文そのもが読めないか、と言うレベル。
もしかしたら、インチキ古代史本に書いてある日本語自体が読めず(つまりサイキバ級)、勘違いの受売りをしているかだ。

ただ、>>967には、ここに居座り続けるなら、いいかげんに>>(アンカー)の使い方を覚えてくれ、と言いたいな。
970伊作:2011/02/13(日) 18:01:44
>ここに居座り続けるなら、
なんの。これだけは質しておかなくちゃと思ってよ。
視点が違ったまま、分かったよーなことを吹くのが多いから。
971日本@名無史さん:2011/02/13(日) 18:13:14
>>970

ここは、たまに来てお子ちゃま達にイタズラしたり、偏執的な暇老人の相手をする、
まあ、ボランティア精神が要求されるスレッドだ。
あなたの手法は、新ネタを披露しても、ワンパターンなんで直ぐに厭きられる。
次に来るときは、ひねり方を変えて、ついでにアンカーの使い方も覚えてらっしゃい。
(しかし、本物氏がアンカーを使えなかったとから伊作=縄文人疑惑は、解消されたね)
972伊作:2011/02/13(日) 18:34:44
971
>あなたの手法は、新ネタを披露しても、ワンパターンなんで
またぞろ具体的には指摘できず、抽象的中傷か。
それにふさわしい態度で応対するぞ。

おれのはすべからく論理的かつ構造的だ。
あたま悪いくせにねつ造を試みるど素人とはわけがちがう。やっかむな。

一つの論考・論説をまとめて構築するだけの能のないのが、
断片知識をひっさげて、突っ込めそうなところで断片衒学するのが掲示板だ。
そこで知ったふりの利口ぶりしてるのがいかほどものか。
てめえのその矮小なモチベーションと程度とを鏡に映してみれ。
973伊作:2011/02/13(日) 18:38:48
>(しかし、本物氏がアンカーを使えなかったとから
>伊作=縄文人疑惑は、解消されたね)

恐ろしくKYかもの分かりが悪いか洞察力が欠落しているのか。
芸術的なほどに執念深いタイプなのか。
このごに及んでもそんなくだらないことを引きずってるのか。
お里が知れるぜ。
974765:2011/02/13(日) 18:49:28
>>967
俺が認めてないんだから、西嶋定生なぞの作った言葉を使うな。ですか?
それと、なんで頑なにレスアンカー使わんの。

>>969
>いや、明らかに>>966の漢文能力はおかしい。

僕の漢文能力と西嶋定生に何の関係があるのでしょうか。
まあ、漢文能力に関しては、具体的にレス番号を挙げて、
どういう風に読めてないのか指摘してくれないとね。
漠然とおかしいと言われても、なんとも返しようがない。
975日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:44:49
 ┌─────────┐
 │ 伊作、カッコイイ! │
 └──∩───∩──┘
      ヽ(`・ω・´)ノ
976伊作:2011/02/13(日) 19:50:13
>俺が認めてないんだから、西嶋定生なぞの作った言葉を使うな。ですか?

それ誤解だね。
西嶋氏が唱えた冊封をどう理解してるのかね。
実質的な属国関係をいう造語じゃないよ。

「冊封」を 誤解と拡大解釈のまま使ってるんじゃないかという質問なのだが。
977伊作:2011/02/13(日) 19:54:24
●ポキールさんへ。

>王と主は意味が同じで、書いた人の好みでランダムに使い分けられてるなんて言われたら
私の説明がたりなかったものか。これを最後レスにするね。

『三国志』は、後漢朝の献帝から禅譲を受けた正当王朝を魏とみなし、
これに対して呉の孫権と蜀の劉備を「天子=王」とは認めなかったとみえて、
呉主(孫権)、先主(劉備)としている。
(実際には孫権も劉備も天子を号していた)。
この場合、『三国志』本紀の担当者は、古来の考え方で王を天子・皇帝とみなして
魏と呉蜀とを書き分けているものと思わなければならない。

こうした例みる限り、「書いた本人にとては」主と王は違うことになる。

同じ歴史書でも、本紀(帝紀)と伝の末尾の倭国に関する伝とを、別の人間が手がけている。
そのせいで、本紀と伝では一つの名称でも使われている文字が違っていたりする。
とくに、文字表記の「異同」「不統一」は頻繁にみられる。

『後漢書』の場合、宣城太守に左遷された笵曄が、
太守職の合間に先行する複数の『後漢書』を資料としてまとめあげている。
そうした中で、『後漢書』の伝の末尾の倭伝は弟子か部下に書かせたものとみえて、
かなりの頻度で間違いや誤読による意味違いがある。
 
つづく。
978伊作:2011/02/13(日) 19:56:37
●つづき。

『後漢書』倭伝のいう「主」と王の意味が違うかを考える前に、
「なぜ主と書いたのか」を考える必要がある。
これに限らず文字表記の「異同」「不統一」は頻繁にみられる。
それには、その記録の信憑性を冷静に検証することが求められる。

・前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、使驛して漢字に通じる者30国。
 (紀元前108年から30国がみな前漢朝の都長安まで
驛馬を乗り継いで派遣したと誤読している)
・30ばかりの国はみな王を称し、世世統ぶる(統治権)を伝える。
 (30国ばかりが王を自称したのであって、
『後漢書』倭伝の担当者が王とみなしていたわけではない)
・その大倭王は邪馬台国に居る。
 (倭国を束ねる王を大倭王と表記したようである)

・桓霊の間倭国に大乱、更(こもごも)相攻伐し、主なくして年を歴る。
 (この主とは、倭国を束ねる大倭王のことだと思われる)。

ここに登場する王の中で、諸国の王と大倭王は明らかに違う。
では、大乱れの間は不在だった大倭王をなぜ「主」と書いたのか。
王とは異なる意味があって使ったのか否か。

私の結論からいえば、あなたはご不満かもしれないが、
よくある「異同」か書いた当事者の使い分けで、
ことさら意味を問題にすることではないと思う。
979伊作:2011/02/13(日) 19:58:02
975

 ┌─────────┐
 │ 伊作、カッコイイ! │
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      ヽ(`・ω・´)ノ

だろろろろろろろー。
もっとゆってくれ。
980969:2011/02/13(日) 19:59:48
>>974

>西嶋定生に何の関係があるのでしょうか。

おいおい、行き成り西嶋定生とか言いだして何のつもり?

>それに関連して、後漢書だと三十許國の王が皆冊封を受けてるように読めるけれど、

この書き方だと後漢書を読んで解釈したのは君自身だろう。
人のせいにしちゃいかんだろうが。

このスレで君が何がしかの漢籍を訓読しているかどうか知らんが、
私が君について述べた予想は3ッあったはずだ。

 1 冊封と言う言葉の意味を知らない
 2 漢文が読めない
 3 日本語が読めない

他の二つには反応しないところを見ると、冊封の意味は理解しているつもりで、
日本語の読解も人並みにできると思ってるんだね。

981ポキール:2011/02/13(日) 20:16:03
>>977>>978イサクさん、返信ありがとう。

イサクさんは本丸は攻めないのでしょうか?イサクさんのレスを拝見して思った事ですが、
確かに本題の外堀は埋めたようですが、肝心の本題には触れていない様に見えます
それとも外堀を埋めることを以って本丸を落としたと解釈するのが
今の歴史学なのでしょうか? 私みたいなお馬鹿な者にはそのように見えてしまうのですが

これはイサクさんだけに限らず、全体的にそうした流れに見えます。
982巨匠・伊作:2011/02/13(日) 20:28:50
きみへのレスは最後のつもりだったけど。
本丸とか肝心の本題てなに。おしえて


それと、何か考え違いしてるようだけど、
この手の作業は外堀を埋めることが重要なのだよ。それが大半さ。
外堀を埋める作業が手抜きだったり、カラ埋めだったりではむしろ、
本丸までは攻撃の手勢も矢玉もとどくまい。逆にそんなのばかりだけど。

外堀を埋めることなくり、結論だけをいうのが一番簡単なんだよ。
983巨匠・伊作:2011/02/13(日) 20:30:22
ところで、


『後漢書』倭伝のいうところによれば、


卑弥呼以前の男王たちは、邪馬台国に居たんだね。




にひひー






984765:2011/02/13(日) 20:34:25
>>976
>それ誤解だね。

それは失礼しました。
いまウィキペディア見てみたけど、「名目的な君臣関係」と説明してあるし、
伊作さんが心配するような実質的属国関係を想定してる人は、
普通の日本人にはいないと思うけど。
寡聞にして知らないけど、そういう説を唱える人もいるんですか。
たしかに今後、対中関係がこじれると、大陸の学者が利用して、
日本は中国の属国だと言いだすかもしれない危惧はありますね。

>>980
>それに関連して、後漢書だと三十許國の王が皆冊封を受けてるように読めるけれど、

これに反応したのか。
伊作さん・ポキールさんたちとのやりとりをずっと見てて、「コイツおかしい」ってずっとつぶやいてたのかと思った。
漢文は読める。日本語はネイティブ。冊封はウィキペディアに書いてある範囲から出ない。
それで、何が問題?
985巨匠・伊作:2011/02/13(日) 20:57:42
>それで、何が問題?
●今度は・きみが・誤解して使ってる奴に・正しい認識を・促してやればよい。

後進や後世のためになることを継承(受け渡し)すめのが伝統だ。
悪例や悪し習慣を伝えるのを伝統とはいはない。

>たしかに今後、対中関係がこじれると、大陸の学者が利用して、
>日本は中国の属国だと言いだすかもしれない危惧はありますね。
いい所に気づいたね。
ただしい歴史認識があれば、学者の間で解決できる問題さ。
だが、冊封を誤解してる学者もいるから困る。

中国という国は、王朝の歴史をみれば分かるが、
体面と建前と序列と手順でなり経っている。
何ごとも正当化できれば「侵略的開拓」も平気で推進する。

そのあたりのツボを抑えた外交手腕・ほしいね。
そのためにも、正しい歴史を語る必要があるのだよ。話題ずれか
986巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:03:41
いやいや。

横ちゃりするだけの外道とは次元違いの高尚なことゆっちゃった。


あははー




987765:2011/02/13(日) 21:06:11
                   
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『オレは前のレスを書きながら、
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        伊作に親しみを感じていた。』
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何をされたのかわからなかった…
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        最初、伊作さんの罵詈雑言のレスをみて、
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ       ウワー、感じ悪い人来たなーと思って。
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    実際レスの遣り取りして、まあ、いきなり、それ誤訳で始めた僕も悪かったが、
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    思った通りの罵詈雑言。
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }   それなのに親しみが湧くなんて。
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ    今では、太国老人くらいには愛くるしく感じられる・・・遠くにいるからだけど。
                              人間って不思議。



冗談はさておき、ネットでは、もう中国が沖縄の権利を主張するような書きこみを見かける。
尖閣の漁船体当たりをみると、沖縄も、「まさかー」と油断してると何かされそう。
988巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:19:13
も・いっぺん・いいかな。

 ┌─────────┐
 │ 伊作、カッコイイ! │
 └──∩───∩──┘
      ヽ(`・ω・´)ノ
989巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:23:28
>もう中国が沖縄の権利を主張するような書きこみを見かける。

「朝貢外交すなわち臣従」 などと、半端知識をふりまいてきた奴ほど、
そういう問題が起きたときに何もしないのさ。

ここに、熊襲の末裔が頑張るわけの・片鱗でもかぎとってくれるといいな。
990日本@名無史さん:2011/02/13(日) 21:44:06
>>984

> >それに関連して、後漢書だと三十許國の王が皆冊封を受けてるように読めるけれど、
>
> これに反応したのか。
> 伊作さん・ポキールさんたちとのやりとりをずっと見てて、「コイツおかしい」ってずっとつぶやいてたのかと思った。
> 漢文は読める。日本語はネイティブ。冊封はウィキペディアに書いてある範囲から出ない。
> それで、何が問題?

念の為に訊くが、WIKIの「冊封」の定義って
「称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係」ってことで良いのかな?
日本語ネイティブなんだから、書いてあることの意味はちゃんと理解しているんだろうね。
貢物を届けるだけじゃ冊封関係は成立していないからね。

で、後漢書のどの部分を読むとこの定義に適うと読めるのかな?
その部分を提示してほしい。「三十許國」と言うところがミソだからね。そこのところ理解してね。
991ポキール:2011/02/13(日) 21:47:32
「天子」と「皇帝」の違い、表現の違いって

天子と書いても皇帝と書いても同じ人物にたどり着き、天子も皇帝もおなじ味意味だと言う事は出来るけど

天子って「民と天子」という関係で、民は天子の臣では無いし天子は民の主人でも上司でもない。
皇帝って「臣と皇帝」という関係で、臣は皇帝の部下であり、皇帝は臣にとっての主人でありじょうしでもある。

天子も皇帝も一部では同じ意味な部分があるが、観点を変えると
まったく違った答えを導き出す事が出来る。

王と主の関係もまた皇帝と天子の関係と同じように、主と書いても王と書いても
同じ人物にたどり着くことが出来、そういう意味では「王と主」は意味は同じで表現が違うだけと言えると思う。

でも、観点を変えてみると
王というのは階級社会に於いての王という地位であって、それは「王と臣」という関係で
「主と従」という関係ではない。
主と従の関係は主と従以外の概念は存在しないが、王と臣という階級制度には
それ以外の概念が存在する。たとえば臣ではない民。

992次スレです:2011/02/13(日) 22:10:47
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!55
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1297602585/
993日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:33:45
で、「主と従」という関係はわかったの?
994日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:35:47
のこり6
995ポキール:2011/02/13(日) 22:41:14
>>993さん。
アンカーがないので、その質問が私に対するものかどうかは分かりませんが
レスの中で「主と従」の関係を書いているのは私だけだから
私への質問として受け取りお答えします。

主と従の関係はわかったのかという質問ですが、わかりました。

それは先ほども書いたように、主と従の関係は主と従以外の概念は存在しない
ということが分かりました。
996日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:42:01
卑弥呼が魏に使いを出して成功したのが狗奴国との不和を結果的にもたらしたか。
997文献の鬼・伊作:2011/02/13(日) 22:52:26
>卑弥呼が魏に使いを出して成功したのが狗奴国との不和を結果的にもたらしたか。

のおー。
卑弥呼が魏に使いを出したのは軍事支援要請が目的ね。
皇帝の詔書の文言は、軍事支援承諾宣言。
狗奴国との紛争は、それ以前から続いていたということさ。
まーたゾロ・攻撃専門のタコ野郎どもは「証拠をたぜ」というだろうが、
天子・皇帝というものは神格化された存在だからね。
公式発言には人間くさいストレートな言い方はしない。遠回しにいうのさ。
かつての日本天皇もそうだった。
これ。文献の鬼がいうのだから・まちがいない。

もうここも1000スレッドで終わりだ。
998日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:55:36
次スレで

あらため 対 伊作 の邪馬台国論争でも
みなさんに観て貰いましょうかね
999日本@名無史さん:2011/02/13(日) 23:00:03
伊作さんは文献の鬼らしいので
その文献とやらで鬼っプリを見せて下さいよw

のこり1
1000日本@名無史さん:2011/02/13(日) 23:00:48

トヨタン・・・・・・・・・・
 
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。