1 :
日本@名無史さん:
なんで自殺したの?
夫婦一緒にあの世行き
自殺したのは山背大兄王だよ〜ん
聖徳太子は自殺してないよ。
4 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 10:16:31
日本書紀では、死因の記述なし
釈迦三尊光背銘では病気っぽい
聖徳太子伝歴では、自殺っぽい
結論…聖徳太子の死因は不明
5 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:20:33
聖徳太子は飛鳥を離れて
晩年は一族連れて斑鳩宮にいた
最後は政治から干されてたって説があったよね
6 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:57:31
ていうか 聖徳太子って実在でないだろ それ定説
7 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:00:22
斑鳩宮と法隆寺はあの当時なら巨大な軍事施設。
下手すりゃ軍事力のつよい二重政権で、あなどれないことになるぜ。
8 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:05:50
>7
何を言ってるんだか・・・
法隆寺には土塁もなければ堀も垣もない。
当時も軍事施設には堀を巡らせ土塁を築き、
楼閣を置いて敵を見張ってたもんだ。
しかし法隆寺はただ大規模な金堂や塔が建っているだけ。
あれがどうやったら軍事施設になるんだ。
山背王がこもったら斑鳩宮は多少なりとも軍事設備があったのだろうが
これもあっさりと負けて山背王は自刃してる
9 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:47:40
膳大郎女と一日違いで亡くなってるのは
流行り病ではないかと
間人皇后も二ヶ月前に亡くなったばかりだし
天然痘とかそういう疫病ってこともありうるよ
10 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:16:18
「聖徳太子伝歴」では厩戸と妃は同日に死亡になっているね。
同衾していた厩戸と妃が朝起きてこないので見に行くと
二人とも寝室で一緒に死んでいた。
これを読むと自殺っぽくもある・・・
>>6 厩皇子(聖徳太子)の功績が作り話というのと聖徳太子はいなかったじゃえらい違いだぞ
実は蘇我蝦夷
13 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:37:10
現存する史実は当時の権力に都合良く書かれて残された物です
聖徳太子は藤原氏による架空人物モデルは藤原〇〇
14 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:58:04
架空の人物説が近年目立って来てるね。
15 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:39:25
>8
兵を収容できて
武器や食料を保管してある倉があったら
軍事施設とはいえないかぁ?
16 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:38:30
>>13 自分も聖徳太子の業績そのものや皇太子であったことには否定的だが
しかしながら法隆寺、四天王寺という飛鳥時代きっての大寺院を建てた
皇室一の仏教マニア厩戸皇子という人物がいたことは事実だと思っている。
17 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:40:31
>>15 斑鳩宮には多少なりとも施設があったかもしれんが、
法隆寺は軍事施設ではない。
堀や塀もなく、法隆寺に武器や食糧が保管してあった形跡も、
兵を収容した話も伝わらない。
とにかく、山背王、あっさり負けすぎ。
蘇我氏の力が強大だったせいかもしれんが、
聖徳太子一族は大したことがなかったんだろう。
18 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:54:37
よく銅像とか残ってるけど、実際は誰?
19 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:23:57
>>18 後の時代に聖徳太子信仰などができて作られたものだろ。
ちなみに飛鳥時代に作られたものは一つもないよ。
10人の話を同時に聞いたって
ようは話を聞いてなかったって事だよね
>>13 聖徳大使という人物でっちあげることで、藤原氏に何のメリットがあるんだろう?
>>21 中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏という悪い奴をやっつけたというために
蘇我馬子の功績を聖徳太子という人物に置き換える必要があったんだろ。
大使ってなんだよ
それなら、蘇我と深いかかわりのある聖徳太子なんて捏造せずに、
蘇我と血縁がなくて天智の祖父の押坂彦人大兄皇子の功績にすればいいのに。
24 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 20:25:16
>>23 蘇我の最大の悪事が厩戸の遺児山背王を殺したこと
にしたいからだろ。
それに押坂彦人大兄皇子は推古天皇即位時に
おそらく死亡していた。
押坂彦人大兄皇子が生きていたのに推古が即位したとなれば、
それはそれで「なぜ?」ということになる。
25 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:39:34
聖徳太子架空説は、論拠がめちゃくちゃ
ただの目立ちたがり屋が考えた盲説、無視すればいい
26 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 11:07:52
逆に聖徳太子の功績が正しかったとする方が無理が多い
推古天皇が甥の厩戸に政治を丸投げしたいのならば
なぜ天皇になるのをやめて厩戸を天皇にしなかったのか?という疑問が起こる
そうなぜ聖徳太子は即位できなかったのかということだね
聖徳太子が天皇代行ですべて自分で政治をしていたのならば
聖徳太子の死亡によって政治が混乱すべきだがそれは全くない
また、すぐに聖徳太子の代役を置くべきだがそれも置いていない
これは推古天皇が自分で政治をとっていたためだとしか考えられない
小野妹子
『日本書紀』によると大唐に派遣され、「蘇因高」 と呼ばれた。
『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
29 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:27:58
小野氏は古代から続く有力豪族、和邇氏の支流
30 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:29:51
小野妹子って近江の出身なんだね
一方蘇我は飛鳥の出身だ
31 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:44:09
>>30 蘇我は新興豪族ということになってますね?
32 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 08:33:50
蘇我氏は帰化人系という説もあるね。
33 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 10:13:53
蘇我氏が5世紀に滅んだ大豪族葛城氏の旧領をもらっていること、
葛城氏と同様に天皇家最大の姻戚として勢力を伸ばしていくことなどから
蘇我氏は稲目の登場以前に消滅した葛城氏の一派だという説がある
歴代天皇陛下が即位の後に、黄櫨染の御袍を太秦の広隆寺の聖徳太子に奉納する事になっています。
今上の御世になって、今回脱税で挙げられた相国寺有馬頼底管長が暗躍して、その風習も途絶えかけました。有馬管長は京都仏教会会長
としてただ意地悪をした。
太秦の後継ぎに娘がなるって時に京都仏教会会長の有馬に挨拶がなかったのを逆恨みして衣の下賜を妨害した。
それを知った東伏見倪下が皇居へ乗り込んで
黄櫨染の御袍を広隆寺の聖徳太子に奉納されるように陛下に申し上げた。
35 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:45:39
>>33 「葛城」の地は元々蘇我のものだったから、返してほしい
と馬子が言っていただけでは?
「継体天皇」の登場が6世紀始め。
その頃「葛城氏」が「消滅」したという。(消滅ってなんだろ。没落?)
神話では、葛城は「神武天皇」が居を構えた所ではなかったか・・・
それ以前には「ニギハヤヒ」がいた。
36 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:56:03
>>35 いや、もともと蘇我氏の所領だったところを
葛城氏にとられていたので返してくれと言ったのではなく、
葛城氏の旧領が円大臣が滅んだ後天皇家に収納されたために
蘇我馬子が推古天皇に返してくれと言ったんだよ。
ちなみに記紀に葛城氏が消滅したという記述はない。
雄略天皇の時に葛城円大臣が滅ぼされた記事は有るが、
あれほどの大豪族であれば当然支流はいたはずで、
物部氏が物部守屋が滅ぼされた後石上氏と名前を変え、
蘇我氏が蘇我蝦夷&入鹿親子が滅ぼされた後
石川氏と名前を変えて生き延びたように
葛城氏の支流がいてもおかしくない。
37 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:56:28
馬子だの妹子だの、みょーちきりんな名前ですが、
魏志倭人伝にもそんな名前、あります。
伊都国の副官、「泄謨觚(せもこ?)」「柄渠觚(へぎょこ??)」。
稲目、っぽい名前もまた魏志倭人伝に登場します
「難升米(なしめ)」、邪馬台国の使者です。
要は
邪馬台国の時代から外交を担っていた一族が
のちに和邇氏となり、小野氏・蘇我氏となっていった。
そしてまた、聖徳太子を生みだす。
38 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:01:11
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
これを隋に突きつけた政治家・小野妹子の一派を排除し
悪徳政治家蘇我氏と、聖人君子聖徳太子をでっち上げた
藤原氏って、なんだ。
>>23 厩皇子は蘇我政権の一員だったけど、
押坂彦人大兄皇子は違ったからでしょ。
まるっきり関わってない人の功績にするよりも
ある程度関わった人の比重を大きくする方が、よりやりやすい。
実際そうだったかはよく分からないけど、可能性の一つではある。
一つの画期だったわけだけど、その功績を「聖徳太子」として、
一手に引き受ける構造になってる。
蘇我一族だって、悪政布いていたわけではないのにね。
>>39 なにこの蘇我さんちのご近所さんみたいな物言い
41 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:32:30
日本書紀が「編集」されたのは、壬申の乱よりも後。
その頃ならば皇族一人でっち上げるくらい余裕でやるでしょう。
42 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:40:22
中臣鎌足(鎌子)って、蘇我稲目と仏教めぐってケンカしてる(552年〜)
なのに、乙巳の変では稲目のひ孫を暗殺してる(645年)
なんぞいな、これ
43 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:02:52
>>39 それだと、厩皇子の功績が多大に描かれただけで
聖徳太子の存在が捏造されたわけではないよね。
書紀が「聖徳太子」っていう架空の人物を創造したって大山誠一は主張するが、肝心の書紀は厩戸を皇太子とは記しても「聖徳太子」とは記してない。
こんな基本的なことを無視してやれ虚構だ、不比等による捏造なんていわれてもねぇ
厩戸を「聖徳太子」として崇めはじめたのは、法隆寺をはじめとする仏僧達でしょ
まず、太子信仰が発生し、その一部を書紀編纂時に取り入れただけの話じゃないの?
書紀編纂と共に「聖徳太子」が創造され太子信仰が発生したとするには、時期的に遅すぎるし、
尚且つ国家権力によって、何も無い所から現代にも続く太子信仰が創られたとするのは、信仰する側の人々の気持ちを完全に無視した暴論だよね
不比等など古代の権力者が好き勝手に、なんでも捏造したり抹殺したり出来ると過大評価する奴多過ぎ
なんか、近代の独裁者のイメージを勝手に投影してんじゃないかと疑いたくなる
46 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 01:00:55
?????
信仰の対象とかじゃなくて政治家でしょう?
47 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 03:02:55
聖徳太子は日本仏教の父として崇められてるよ
そもそも「聖徳」の号は、「上宮聖徳法王帝説」や法起寺塔路盤銘等からわかるように、寺院関係由来とみるのが妥当
国家として厩戸に対し正式に聖徳という諡号をおくったのなら、正史たる書紀に聖徳と記されなければおかしい
大山の問題点として、このての寺院関係の資料を法隆寺資料として一括し、全て史料的価値なしと乱暴に切って捨てたこと
聖徳太子の眉唾な超人エピソードは、役小角や空海、安倍晴明なんかにある眉唾エピソードと同種のものでしょ
いまどき、そんなのを全て鵜呑みにするような人は、研究者はもとより一般人でもそうそういないよ
それをまるで鬼の首でも取ったかのように、架空だと主張する大山はどうしようもないね
太子てイケメンぶさめん、とめキモおた? いろんな像あるょネ
49 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 09:00:46
>>45 聖徳太子信仰が飛鳥時代からあってそれが記紀にとりいれられたというのは誤り。
聖徳太子信仰は平安時代の終わりごろだから。
「上宮聖徳法王帝説」は法隆寺関係者によって仏教を広める際に
始祖厩戸皇子を美化して創作(一部は史実だよ)されたことは認めるが、
それは空海や連如といった宗教家が超人的な伝説を持つ同じことで、
それを政治権力にまで結び付かせたのは記紀の創作だろう。
ちなみに聖徳太子信仰についてだが。
それまで貴族の子弟の学問書として使われていた日本書紀の内容が、
平安時代末期に口伝で一般庶民にまで広まり、よくわからんが、昔聖徳太子という
偉い人がいたから、これを拝むといいという信仰が始まり、
各地で聖徳太子像が作られて寺に奉納され、庶民に信仰された。
つまり、聖徳生前から聖徳があがめられたという事実はなく、
記紀編纂時には庶民の間に聖徳太子信仰はないよ。
>肝心の書紀は厩戸を皇太子とは記しても「聖徳太子」とは記してない。
「皇太子」ではなく「太子」ですね。というか、大山は記紀の記載が聖徳太子であるなどとは
言ってないと思いますが。
>このての寺院関係の資料を法隆寺資料として一括し、全て史料的価値なしと乱暴に切って捨てたこと
大山は法隆寺系の史料を読み込んだ上で「「聖徳太子」というのは「厩戸皇子」という実在の人物に対する諡」
「「聖徳太子」という存在が聖人化され、超人化され一人歩きしてしまった」と言ってます。
また、聖徳太子捏造説は津田の学説など以前から存在しており、大山が唐突に言い出したことでは
ありません。
51 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:08:36
>>49 太子信仰とは書いたが、この時期に庶民レベルまで浸透した段階を想定して
使ったつもりはない。
ただ、書紀編纂時には既に、太子縁の寺院で聖徳呼ばれ尊崇されていたと主張
したかっただけ。
これだけで、大山説の前提が崩れるから。
>>50 推古紀に「皇太子及び大臣に詔して」等、皇太子と記されている。
書紀本文に記載されてもないのに、何でわざわざ聖徳太子と厩戸とを
分けて片方を架空の人物とかまぎらわし事いうかな?
おかげで、厩戸そのものが架空だと勘違いする奴出てくる。
まあ、俺も最初は厩戸の存在を架空だと論じてるんだと期待
して読んだんだが、書かれてることは先人達の史料批判の焼き直し
で、何を今更とがっかりした。
おまけに、聖徳太子を創造した犯人捜しや動機捜しがメインになってる
から期待はずれもはなはだしい。
大山の法隆寺関係資料の扱いについての批判は、講談社の日本史概説書を
はじめ、いろんな人が批判してるからもういいかな。
なんか面倒になった。
52 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 16:08:42
53 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 15:39:06.43
>>51 聖徳太子は存在しなかった=厩戸皇子は存在しなかった
と取るのはタイトルを見た人の単なる取り方の違いに過ぎないように思うが。
法隆寺と四天王寺を建てた仏教崇拝皇族厩戸の実在まで疑う人はいないからね。
「厩戸は皇太子ではなかった」
「推古天皇という女帝の治世下で、甥の厩戸という皇族がそこまで政治に関与してなかった」
が主題だろう。
>何も無い所から現代にも続く太子信仰が創られた
現代まで続く太子信仰は平安時代末期から。
飛鳥時代の厩戸信仰はせいぜい法隆寺と四天王寺の僧侶たちによるものぐらいだろう。
空海や最澄が政治家ではなかったように宗教上の崇拝者だからだと言って
厩戸を政治権力にまで結びつけたのは記紀の創作だろう。
南無観世音菩薩
大山説は720年書記成立=「聖徳太子」捏造としているが、
書記以前に成立した、風土記に美称されており、すでに、破綻済み。
他は津田説ないしは上山春平・梅原猛の不比等論パクってるだけ。
56 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 18:18:19.92
「播磨国風土記」に「聖徳王」という記述があるというだけでしょ。
それならばこれに先行する「上宮聖徳法王帝説」に「聖徳皇」の表記はすでにあるし、
日本仏教の父としての「聖徳」という尊号自体は仏教関係者の間で
記紀より以前から使われていたということでしょ。
まあ、そうだね。
大山は「上宮聖徳法王帝説」の成立を書記以降にしているから
風土記の「聖徳王」の意味は小さくない。
まさか大山、風土記の成立も書記以降にしちゃう?ww
そろそろ、聖徳太子虚構論なる珍説は終わりにしたい。
>>57 風土記の編纂が命じられたのは和銅6年(713年)。
一方、日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇だと言われ、風土記の編纂命令時期よりも古い。
しかも、日本書記は推古朝成立の「天皇記」「国記」からの引用もあると考えられており、
そう考えればかなり古い時代の記録であることは間違いがない。
養老4年(720年)は日本書記が完成し元正天皇に献上された年号。
この年に編纂開始されたわけではないので。
日本書記編纂開始時期自体は風土記の編纂開始より早くて問題がない。
仮に、蘇我氏の功績を奪い去るために、
厩戸皇子を聖徳太子に創り上げたのが事実だとしても、(仮にね)
一番、そうしたかったのは、乙巳の変直後だろうし。
風土記にしても、日本書紀にしても編纂開始はビッグイヤーではないでしょう。
>>59 となると、風土記の「聖徳王」は日本書紀に依拠したってか?
まあ、大山があくまで太子虚構論を言い張るならそう言うしかないね。
あと、古事記の「上宮の厩戸豊聡耳命」はどうするんだろ?
書記以前に、厩で生まれた?十人同時に聞いた?話が反映され、
「命」と天皇即位していない人物に使用されている件
>>61 「命」という尊号については天皇になっていないヤマトタケルに関しても
古事記は「倭建命」と言っており、天皇でない皇族の尊号として適当だろう。
厩戸もキリストをイメージさせたのは後世のつけたしで、
当時の名前として素朴であって実名であっておかしくない。
豊聡耳、まあ、法隆寺の仏教関係者は創始者の厩戸をあがめてそう言ったかもしれない。
古事記は編纂年度が序文にしか記されず、
どうしても日本書紀よりも重視されない感は否めない。
平安時代にも日本書紀は貴族の子弟たちの教科書に用いられるほどだったが
古事記はほとんど読まれていなかった。
63 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 18:48:46.88
>>60 記紀が編纂されたタイミングは乙巳の変ではなく
壬申の乱の後ですね。
天武天皇が天智天皇の弟だと信じる人は、現代ではいないでしょう。
「壬申の乱」とはクーデターです。
ならば、記紀編纂の目的は明らかです。
権威の簒奪、です。
元来の権力者の歴史は、「天武」に都合よく隠されたことでしょう。
えっ? ぼくは天武は天智の弟だと思ってますよ。
壬申の乱て672年でしょ? 古事記編纂が712年。
来年は2012年ですけど、これに当てはめると壬申の乱は1972年ですよ。
1972年当時の他人同士(しかも国のトップ)が、
2012年には「兄弟になってた」なんてちょっと考えられません。
なにも天智・天武二人だけではなく、その子女たちや親族、貴族や役人、学者や僧侶など、
大勢の人たちが同時代を生きていたのですから。
65 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 19:44:04.50
マスゴミの捏造によって、「兄弟になった」んですよ、ぼくちん。
66 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 19:57:36.78
>>63 また2ちゃんねるでときどき見かける奇特な人が現れたな
67 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:04:04.81
712年。平城京遷都の2年後ですね。
平城京とは何か。ここにもまた、疑問符が付きます。
一般に遷都の理由として考えられるのは、旧来の権力勢力と決別するため。
しかし、古事記・日本書紀で書かれているのは、その旧来の勢力のことのはずです。
68 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:06:03.22
>>65 マスゴミの捏造によって、
麻生太郎と鳩山由紀夫が兄弟になったり、
ムバラクとエルバラダイが兄弟になったり、
カダフィとアブドルジャリルが兄弟になったりしたなら、
ぼくちん、君の意見に耳を傾けてやっても良い。
70 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:12:32.17
>>68 天智と天武は兄弟ではないという
大昔の2ちゃんねる専用ネタをぶり返している
君あてだよ、奇特なゴミさん。
71 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:26:12.98
>>69 中川昭一がどうやって自殺に追い込まれたと思う??
>>71 マスゴミの捏造によって、親子でもないのに中川一郎と親子にされたから?
73 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:35:12.37
74 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:38:16.08
記紀が編纂されたタイミングは乙巳の変ではなく
壬申の乱の後ですね。
天武天皇が天智天皇の弟だと信じる人は、現代ではいないでしょう。
「壬申の乱」とはクーデターです。
ならば、記紀編纂の目的は明らかです。
権威の簒奪、です。
元来の権力者の歴史は、「天武」に都合よく隠されたことでしょう。
古事記編纂が712年。。平城京遷都の2年後ですね。
平城京とは何か。ここにもまた、疑問符が付きます。
一般に遷都の理由として考えられるのは、旧来の権力勢力と決別するため。
しかし、古事記・日本書紀で書かれているのは、その旧来の勢力のことのはずです。
新しい権力(簒奪)者=天武
旧来の権力者(の代表的人物)=天智
古事記完成(712)、国史撰定詔(714)時の天皇=天智の娘(元明)
76 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 21:29:36.48
そう、結局、皇統まですげかえる事はできなかった。
天皇家はそういう存在だった。
>>78 てめーが訊いてきたんじゃねえのか? どう思う、って。
別人なら御免。
天武も天智も悪く書かれてないじゃん…
一体何を簒奪したというの?
81 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 02:07:52.71
82 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 00:37:15.83
聖徳太子が大工さんの神様になったのはいつ頃ですか?
83 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 02:32:15.64
お金の神さんにも!
>82
「大工」さんの呼び名自体は、律令以降でしょうが
渡来系の方々なので、神格化はしなかった
「大工」さんが集団化したのは、平安のころ
鎌倉期は、聖徳崇拝の僧侶が多く出たから
その寺を建築する「大工」さんにも影響があったんじゃないかな。
庶民化するのは、やっぱり室町期でしょうね・・・。
85 :
日本@名無史さん:2011/04/04(月) 08:10:08.91
聖徳太子は複数人物のペンネームみたいなものじゃないの
実績あれど架空人物
俺は、蘇我氏の支配していた時代、天皇制は廃止されていたと考えている。
藤原氏があとで復活し、蘇我氏の功績を無理やり天皇家がやったことにする
ために聖徳太子という架空の人物を立てざるを得なかったと解釈している。
つまり聖徳太子の記述=蘇我王朝の功績の歴史と見る。
蘇我氏騎馬民族説ってないのかな?
江上氏の騎馬系の本を読んでると、
どうも蘇我氏のことが浮かんでくるんだが・・・
騎馬民族仮説自体が過去のものでしょ。
古代半島王朝系首長連合(厩戸への系譜)と
新半島系氏族(蘇我氏)との
権力闘争と思ふ。
@朝鮮半島にて農耕的に変質した騎馬系半島文化が
渡来人と共に当時のヤマト地方を中心に各地の首長を統一した。
A各首長が独自に半島文化との交流を持つことにより
半島側の情勢もからんでヤマトの求心力弱まる。
B蘇我氏による変質した騎馬的戦略
(婚姻による大王家の懐柔・暗殺など)により
主要種族・大王家など旧ヤマトの主要勢力排除される。
C弱体化した大王家の中、厩戸による仏教的理念表明される。
同時に、旧半島盟主としての大王家の再興をはかる。
D厩戸による仏教的理念は蘇我の戦略に敗れ、蘇我氏専横に向かう。
以上、ヤマト近辺の流れはこんなとこじゃないだろうか・・・。
馬の代わりに船に乗る騎馬系民族達という解釈ソ。
無理があるかな・・・?
無理が有りすぎてコメントのしようが無い。
蘇因高
「そいんこ」って発音をちょっと崩すと「すいこ」になるよな。
小野妹子(オノノイモコ)の読みを中国風であらわそうとして
蘇因高(ソインコ)になった(中国人は姓が一文字なので姓の音が脱落)
という説があるよね
夏侯とか諸葛とか司馬とかも同時代なんだが。
妹子=蘇因高=馬子
わかみたふり=田村
たりしひこ=太子
で、いいんでしたっけ?
95 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 04:02:20.55
トンデモ
96 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 12:53:00.97
トンデモか
新右翼「俺はパチンコが好きだ!!大好きだ!!あれは俺が女の子はうんこもしっこもしないと信じてた頃、好きな女の子に《俺は君の瞳にパチンコだ!》と告白した。
返事は強烈なビンタだった…未だに理由が分からない。何で俺は殴られたんだ??」
98 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 18:01:23.15
騎馬民族というと漠然としてるけど
蘇我氏はおそらく、満州族・女真族に近い系統
「空白の4世紀」に権力を握り、大阪に都を築いたのもその一派
継体天皇即位時に王位を退いたが
聖徳太子の時代には「摂政」の立場で実権を握っていた
99 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 20:41:43.61
斉明天皇3年にトカラ国(アフガンあたり?)からソグド人(ペルシャ人一派)と思われる
人達が九州に流れ着いたと日本書紀に出てきます。朝廷は早馬を使わせて
宮廷に送り届けたそうで、いっしょに盂蘭盆(うらぼん)の儀式をして先祖霊をなぐさめたそうです。
この盂蘭盆の儀式は推古朝に初めて行われたと書かれています。
盂蘭盆はソグド人のゾロアスター教の儀式のウラバンが基になっていて日本の迎え盆の
ように火を灯して先祖の霊を迎えたそうです。
100 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 20:46:41.27
それがやがてインド⇒中国⇒日本に来たそうです。
この日本に流れ着いたペルシア人一派はササン朝ペルシャの最後の皇帝ヤズデギルド三世の
王子ペーローズ二世か其の使者(司馬達等:ダーライ?ダリウス)なんじゃないかと。当時の
皇室って早馬を差し向けたくらいだから、推古天皇や聖徳太子や斉明天皇とかとササン朝って
なにか関係があるんじゃないかと。この流れ着いた一団のなかに女性がいますが、翌年だかに
娘が生まれています。たしか大津皇子と結婚してます。蘇我氏もソグド系かと思われます。
>>92 当時の中国は苗字も名前も一文字でしょ、劉備とか
玄徳っていうのはニックネームみたいなもので
字(あざな)はニックネームとは違うよ。
>>101 中国では姓ー諱という組み合わせ以外に姓ー字という組み合わせを用いた。
諱は公式文書の署名に用いられる名で普段は字を用いたりした。
蒋介石の蒋は姓、介石は字(諱は中正)。
当然、劉玄徳という用いられ方をした。
なるほど
105 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 15:31:54.15
あざなはニックネームじゃね
106 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 21:24:27.50
聖徳太子知ってる?
>蘇我大王論・聖徳虚構説の方々へ
対新羅政策の変遷と、新羅からの朝貢からみて
外交を一時期、厩戸もしくは親新羅派の誰かが
存在していたことは想像できるのでは?
蘇我氏は百済べったしのはずだし・・・。
その辺はどう考えていらっしゃるのでしょうか?
外交ってのは全方位を向いて可能性を探るのが基本では?
金春秋だって日本にしばらく滞在してたんだし。
聖徳太子は架空の人物
110 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:56:56.60
実在していたのか
していない。
112 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 01:13:02.97
落書きだな!
113 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 12:07:25.48
実在はしてないがイルカがモデル
とんでも本を鵜呑みにするなってwwww
115 :
日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:55:51.72
守るも攻めるもお金が無ければラリルレラリルレランランラン♪
聖徳太子様♪
一度や二度の遊びなら・・・♪
金は天下の回り物回り物♪
誰かこの歌の詳細知らんですか?
自称聖徳太子の弟子が25年位前にレコード出した歌らしいです。
テレビとかで聖徳太子は実在しなかったとか
センセーショナルなタイトルであおるから、それもまともに受けてるヴァカが
大量発生してんだろうけどなw
各地に残るスーパーマン的な人物の伝説はそりゃ大体は嘘っぱちだが、
大本である推古天皇の摂政、聖徳太子(厩戸皇子)は実在した。
当時の大和政権には摂政という制度自体無かったんだけどね。
厩戸皇子という人物が存在したのは文献から事実らしいが、
彼が摂政だったというのは嘘だし彼の業績と言われている
数多くの制度(憲法十七条や冠位十二階など)が、本当なのかは
未だに未知数のまま。そういう意味で、大化の改新以降に
神格化された「聖徳太子」という人物がいなかったという
大山説はそれなりに説得力がある。
大山説の否定されているのは、
記紀編纂の時に「聖徳太子」をでっち上げたって部分。
記紀より古い文が残っているとされている資料で、
記紀編纂より前に「聖徳太子」と神格化されていることが分かる。
生きている時、死んだ直後どうだったかはまだ不明。
例えば一巳の変の時どうだったかなど。
大活躍の記録が残ってるのに、墓がしょぼいからねぇ。
蘇我氏の墓とは比べ物にならんわけで、そういう説が出てくるのは道理。
120 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 11:19:47.90
>>118 記紀より古い記録では「神功聖徳法皇」でしょ。
日本仏教界の頂点みたいな言いまわしで、法隆寺の坊さんたちが使ってた。
「聖徳」自体は徳の高い坊さんの意味で記紀に先行して表現があるけど、
「太子」は記紀が初めてで、これに先行する史料で
聖徳を皇太子としているものはなかったと思うけど?
>>119 墓がしょぼいって?
現治定の叡福寺古墳のこと言ってるなら、
あれは規模も石室構造も当時最大・最高級の円墳じゃなかった?
122 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 13:54:51.24
叡福寺北古墳=直径54メートルの円墳
石舞台古墳(伝蘇我馬子墓)=南北83メートル、東西81メートルの方形墳
蘇我氏一族の墓と比べてしょぼいのは事実のようだ
石舞台が単独墓であるのに対してこちらは三人が眠る合葬墓
母と妃と一緒に3人で葬られたとされているらしい
ちなみに叡福寺北古墳はもっと時代がさがるともいわれている(聖徳墓でない可能性も)
石舞台は外堤を含めて80m級でしょ?
墳丘規模では約50m級の方墳で、叡福寺とどっこいどっこい。
それに石舞台は二段築成の可能性が高いが、叡福寺は大王系にみられる三段築成。
岩屋山式石室はもともと年代観が流動的で、
最近の牽牛子塚や越塚御門の発掘、塚穴古墳(来目皇子墓)の存在から、
ますます従来言われていた年代観(7世紀後半)は揺らいでくると思う。
叡福寺北古墳はもともと用明天皇の大后穴穂部皇女の
墓として作られたのだろ?
大后の墓なら大王系で問題なし。
息子夫婦が後から石室掘って一緒に収まっただけで。
125 :
レス長たらし毘古:2011/05/27(金) 15:38:39.92
その時期の死因が未詳なおかたがお二人。
聖徳太子・天智天皇。これがこの設問の回答と当方は想定する。なぜ、この
二人ともが「未詳」でなければならないのか?ここらへんが真犯人の可能性を
浮上させる。
仮に妄想として、聖徳太子を天智天皇(当時は皇子)の刺客が葬り、後代天智
天皇を天武天皇(当時は皇子)の刺客が葬った場合、このお二人の死因が
「未詳」である必然性が、少なくとも日本書紀以降の政治中枢構成員には
生じて来る。
実際に穴穂部皇后・厩戸皇子・膳妃が埋葬されてるかは分からないが、
あなたの言うとおり穴穂部皇后の墓として築かれたら築かれたで、
それは大きな意味を持つんだよ。つまり、あえて単純化して言うなら、
あの当時の50m級古墳の被葬者である推古や馬子と、ほぼ同格の勢力を持っていたとも考えられることになるわけだから。
夫である用明没後からもう30年以上経っているのにね。
それに、前年に亡くなった母の墓に一緒に埋葬されるというのも、
それはそれで厩戸皇子の個性や主義の表れであると言えなくもない。
穴穂部皇后(と思われる人)については斑鳩にも御墓伝承があるし、
古墳の年代的な問題、磯長墓(叡福寺)の改葬の可能性など、
いずれにしろ新しい発見でもないとより確かなことは言えないのだけれどね。
>>125 聖徳太子を天智天皇の刺客が……ってのはほとんどあり得んだろ。
聖徳太子は621ないし622年没で、天智天皇は625年頃の生誕である可能性が高いんだから。
かりに58歳説を採って614年生まれとしても、8歳の子供に出来る芸当じゃないだろうw
>>126 穴穂部皇女は蘇我馬子の姉の子で、血縁的には推古と同様。
当時一番力を持っていた蘇我氏を外戚とする皇女なのだから、自然なのでは?
夫の没後夫の庶子と再婚するなんていうミスさえ犯さなければ、
馬子によって女帝に立てられていた可能性すらある人なのだから。
で、それがなぜ厩戸と関連が?
推古天皇も先になくなった息子、竹田皇子と一緒に埋葬されていますよね。
でも、だからといって竹田皇子が皇太子だったとか、
権力者だったとかいうことには繋がらない。
私は必ずしも厩戸皇子が律令制ふうの「皇太子」だとは言ってないよ。
ただ、押坂彦人大兄皇子・竹田皇子と並ぶような有力な王子だったろう、また、
彦人・竹田が西暦600年頃までには亡くなっていそうだし、尾張皇子は厩戸よりも年少だろうし、
難波皇子らは采女腹だから、厩戸が7世紀初頭における「王族筆頭」的な立場にはあっただろう、とは考えている。
その上で、私は7世紀初頭の一連の政治・文化運動(冠位制定や遣隋使、斑鳩での仏教興隆など)を主導したのは、
厩戸だったろうとも考えている。
馬子主導だったらもう少し早い段階に行われていただろうし、馬子は中国にあまり関心が無いようにも思われるから。
非実在論では、「厩戸という王族はいたが、その地位や政治的手腕は後世創作されたもの」ということのようだけど、
そこが私の考えと「非実在論」との違い。
古墳の大きさだけですべてが語りつくせるわけではないけど、
もとの竹田・推古陵と考えられる植山古墳は長方墳で、
用明・(改葬後の)推古・馬子の墓と考えられる方墳よりは一回り小さい。
私が「穴穂部皇后墓として築かれたとしても大きな意味がある」と書いたのは、
后位から離れて30年以上にもなる人物の墓を今さら母方の蘇我氏の影響のもとで築造したというよりは(そのこと自体は全否定しないが)、
子である厩戸皇子の存在あってあの墓が築かれたのではないか、と考えた方が、すんなりするんじゃないかなあ、と思うから。
>>129訂正。
難波皇子は采女腹じゃなくて、れっきとした春日氏腹だったね。
とはいえ私の考えは変わらない。
難波皇子は厩戸よりも年長である可能性もあるけど、
厩戸優位の序列の根拠としては、一応日本書紀の物部合戦時の記事を挙げておく。
あと一応后腹と夫人腹のちがいも。
>>129 7世紀初頭の一連の政治・文化運動を推古天皇ではなく一皇子である
厩戸皇子が主導する必要がありますか?
「女帝は政治を執らない」というのは此の時代には当てはまらず、
また、推古天皇は死ぬまで天皇であり続けて中継天皇とも違います。
「聖徳太子という名前ではなかったが、厩戸皇子が記紀と同じ功績を果たしていた」
というのは今ではかなり否定された論では?
天皇の補佐役としては大臣が置かれていたのであり、
この時代の天皇でもない一皇族が官僚たちを無視してあたかも天皇のようにふるまい
独裁できる時代ではなかったはず。
推古朝は厩戸皇子が没したところで何の混乱もきたしておらず(逆に推古天皇が没した後は戦乱に)
厩戸皇子の代わりを立てる必要性もなく機能していたわけですから。
主導する必要というより、天皇の補佐役として大臣もいたし、王族筆頭として厩戸もいて、
その若い厩戸が7世紀初頭の政治を主導したと考えることのどこがおかしいのかが分からない。
単純に別の時代と比較するのはどうかとは思うが、
中大兄皇子・高市皇子・長屋王など、実質的に政治を担った皇族という例はあるわけでしょう。
それに推古朝はそれより古い時代で、官僚制とか中央集権とかへまさに移行しようという時期だから、
ゆるぎない政治体制や役職が厳然と存在していたとも思わんのです。
厩戸が官僚たちを無視したとか、独裁したとか、そんなことは私も考えてませんので。
>>132 其れを言うのならば合議制の一貫として厩戸皇子が朝政に参加していたと言うべきでは?
高市皇子や長屋王が政治を「主導」していたわけではないし、
それは天皇という並びない権力者の下で発言力を与えられた、
貴族社会の一人としてのものであったにすぎない。
ましてや、若い厩戸が当時中年の域に達していた推古とその外戚馬子の下で
政治を主導していたなんてお門違いかと思われる。
当時はまだ欽明の皇子たち・舒明の皇子たちも大勢いて、
厩戸だけが特別な地位にいたとは言い難い。
合議制の中でもリーダーシップを取る、ということはあるわけでしょう。
改めて、別の時代と比較するのはどうかと思うものの、
高市皇子や長屋王が政治をすべて主導したわけではないとしても、
皇・王族の中では突出した存在であることはお認めになるでしょう?
あなたは推古・馬子の年長コンビがいるから若手王族なんて出る幕無しと決めつけておられるようだけど、
なんで彼らの一つ下の世代が朝政に参加して(その中に有能な王子がいて)、新しい施策を打ち出し実行していくというプロセスを、
全否定でいてしまうのかが私には分からない。
135 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 22:06:00.76
>>134 高市皇子は太政大臣、長屋王は左大臣だから官僚として発言していたのであって、
皇族だから発言していたわけではないよ。
高市皇子は母親の身分が低い、長屋王は高市の子ということで
天皇になる可能性が低いから登用された事実もある。
本当の権力者なら殺されてしまうからね。
長屋王は調子に乗って聖武天皇に意見するなんて言うとんでもないことをしたので自殺させられた。
推古朝においても出過ぎた皇族がいたら粛清されただろうね。
それが厩戸なんじゃね?
厩戸は推古に殺害されたわけか
138 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 06:51:06.93
推古と蘇我はそれぞれ、
厩戸殺して、誰を天皇にしたかったの?
139 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 09:02:28.20
結局厩戸は推古朝においてそんなに発言力があったはずがないってことだよな
この時代は天皇が朝政を主導しているから
厩戸が仏教かぶれで寺を建てまくったのなんて
先進的な考えの持ち主で日本最初の仏教寺院を建造した馬子のお下がりだし
140 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 20:31:10.15
仏教ってヒトカラゲに言うけど
蘇我系仏教と厩戸・秦系仏教って
根本的に違う気がする。
話がまたヤヤコシクなりそうだが、
まだまだ氏族的で首長的な趣向が
重きを得てた時代だったと思うのだが・・
>>140 厩戸さんは蘇我一族が物部守屋討伐に行くとき同行して、
勝利祈願の代わりに仏教布教を約束してるんだが?
とりわけ具体性の高い説話の中で。
どうやったら別系統なんて思えるんだ?
>141
逆に物部討伐に若くして同行したがゆえに、
厩戸と蘇我の仏教観に亀裂が生まれたんだと思う。
悪く言えばトラウマ。
良く言えば、独自の思考のきっかけになったんとちゃうかな?
どう違うわけ?
>>143 厩戸が建てたとされる四天王寺では物部合戦で物部守屋から取り上げた
奴隷と土地が使われた(四天王寺が建つ場所はもともと物部の領地)。
これだけを見ても、四天王寺建設に蘇我馬子の協力があったことがうかがえるのだが?
(戦利品である物部の土地と奴隷を厩戸に提供したわけだから)
また、当時、日本には瓦葺の大規模建造物を建てる技術がなかったことから、
馬子が朝鮮から技術者を呼んでいる。
四天王寺にはこのような記載がないが、当然技術協力があったことが伺える。
崇峻天皇暗殺の差し金は蘇我馬子とされてるけれど、
厩戸皇子の可能性もあるのでは?
厩戸はうつ病になって一時的に推古天皇に譲ったが、
十七条の憲法までは10年かかってるわけで、道後温泉に浸かって
メンタル面の治療をしてた。
で、結局推古より先に死んだのはメンヘルのせい。
無理心中だとすれば第三夫人は気の毒。
147 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 06:20:50.80
http://shohweb.com/archives/1868.html 「聖徳太子のお顔って、あんなに優しい顔立ちではなかったのです」
いきなりこんな事を書いてしまった。
「あの聖徳太子は中国からやって来た絵を真似て、後に描いた作品です」
こんな事も書いてしまった。
「法隆寺と云うのは見事な謎に包まれていてなァ。皆が若草伽藍と呼んでいる寺には
釈迦如来像があった。釈迦如来や大日如来は仏様。
神道は共通の祖先から出たと考えられる人達の集まりである氏神様を祀ってあり、
それ故、氏によってお参りをする神様が違うのだが、ここでだ、皆が興味のある話を伝えておこう。
聖徳太子が建ててはいないがあの法隆寺は寺ぞォ。
氏とは原始社会で同じ先祖から出た血族の集まりの事を氏族と云い、
あの時代は同じ祖先から分かれたと信じる者達が多くいた。
それ故に彼の血に問題があって天皇にはなれなかったと云うのが答よ。
だが、その事を知れる証拠などは今後も見付かるまいが、若草伽藍にあった釈迦如来の光背を
もう一度調べろと言いたいのオ。」
あれ、この話し方って、中国四千年のおじちゃま。
まァいいか。
今日はお声だけで十分です。
「仏像の光背には生きておる者の思いが詰まっている。彼の最期を悲しむ者の心があそこにはある。
聖徳太子が謎だらけの人物である事は知っているなァ。
彼は50才を待たずに、47才で死んだ。用明天皇の皇子で名は(○この字が見えない。
○戸豊聡耳 何と読むのだろう?目の前に字が表れたが○が分からずにいた)うまやどとよさとみみ、と言ってなァ」
http://shohweb.com/archives/1877.html ただネ。聖徳太子のお顔が見方によったらローマ人?のようにも思えたから、不思議です。
もしかすると大昔、ローマ皇帝の使者が中国に行く時のお土産?の女性と、
その頃の中国のトップとの間にお子様が出来ていたらどうだろうかなァ〜て考えてしまいます。
倭国大乱が起きている頃のローマ皇帝って、いたのかなァ。
>>146 厩戸は四天王寺を建てるときにその近くに
なぜか崇峻天皇を祀る神社を建ててるからその可能性はあるわな
即位まもない推古天皇に偉そうに仏教概説をたれているからうつ病はないと思うが
晩年政権を追われて斑鳩にこもっていた説があるからメンヘラになって夫人と自殺はあるかも
ただし若いころのことではない
150 :
忍法帖【Lv=23,xxxPT】 :2011/07/02(土) 18:04:13.37
>>106 当たり前でしょ!!!!!!そんなこと!!!
151 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 01:14:41.12
152 :
四宮正貴:2011/07/04(月) 19:27:51.84
>>151 な〜にを言ってんの!!!!!
聖徳太子知らないのかってそんな無礼な質問があるか!!!!!
153 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 19:55:27.50
本当は景教徒だろ
聖徳太子って誰?
155 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 22:59:44.47
一萬円
156 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 08:28:03.91
>>154 聖徳という尊称が冠せられた皇太子さまの事さ。
厩戸の時代には皇太子という地位はなかったはずだよ。
小徳だな。
三人いた説
>>158 聖徳とは仏教を広めた徳のある人の事ね。
法隆寺が自分ところの寺の創建者のことをそう呼んでいたのが最初。
まあ、太子という言葉はこの頃なかっただろうね。
俗に仏教かぶれの皇族のことを指す言葉だよ。
163 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:33:18.93
聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳
164 :
名無し:2011/08/01(月) 07:16:08.32
そうなると山背大兄王は誰が殺したの?
朝鮮歴史ドラマみたいな新解釈の聖徳太子ドラマやってみろよ
命を狙われて毎回死にそうになるけど乗り越えて改革を推し進めていくの。
それ、ドラマじゃなく漫画じゃん。
169 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 22:03:21.08
漫画だと結構あるなあ
「信 般若の船」とか
実は彦人王子の方が興味深い。
梅原猛著「隠された十字架」面白かった。
聖徳太子怨霊説の嚆矢でしたね。
現在の皇太子も名前は徳仁(なるひと)親王だな
聖徳太子、知らない?
177 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 14:04:35.56
『日本書紀』には、聖徳太子という理想の聖人が登場するが、近年、聖徳太子の実在が疑われ始めている。
聖徳太子はフィクションなのか。
もしフィクションならば、なぜそのようなフィクションが作られなければならなかったのかを考えてみよう。
1. なぜ聖徳太子の実在は疑われるのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/shotoku_taishi.jpg かつて日本銀行券に使われた聖徳太子の肖像(図の中央)。しかし、この人物は別人であった。
聖徳太子は、日本史上最も有名で、最も尊敬されている人物の一人であり、かつては1万円札の顔でもあった。
しかし、歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくない。その急先鋒が、大山誠一である。
『「聖徳太子」の誕生』の中で、大山誠一は、
用明天皇と穴穂部間人王の間に生まれた
601年に斑鳩宮を造って、そこに住んだ
現在の法隆寺のもととなる寺を建立した
という属性を持つ厩戸皇子(厩戸王)の実在を認めつつ、その厩戸皇子が
冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定する。
要するに、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかった。
聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。
なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのだ。
聖徳太子に関する伝説は、荒唐無稽なものまで含めて、たくさんある。
だが、あらゆる伝説の基となった最古の史料は、法隆寺金堂の薬師像光背銘・釈迦像光背銘・
中宮寺天寿国繍帳の銘文などの法隆寺関連史料と『日本書紀』の二つに限られる。
通説では、薬師像は607年に、釈迦三尊像は623年に、天寿国繍帳は622年以降の7世紀前半に作られたとされている。
もしそれが正しいとするならば、720年に完成した『日本書紀』よりも古い、したがって最も信用できる史料ということになる。
果たしてそうだろうか。
具体的に言うと、薬師像光背銘と天寿国繍帳銘文には、「天皇」という称号が使われている。
天皇という称号を最初に使ったのは、唐の高宗で、674年のことである。
これが日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の天皇号が捧げられた。
この時代を遡る、「天皇」の語を記した木簡も出土されていない。
万葉集でも、持統帝以前の歌には、天皇という時には、大王という称号が使われている。
『隋書倭国伝』が伝えているように、推古朝時代の天皇は、「大王」と呼ばれていたはずだ。
釈迦像光背銘には、「法皇」という称号が見られるが、これは、「天皇」と仏典で釈迦を表す「法王」との合成語と考えられるので、
釈迦像光背銘も天皇号の成立以降に書かれたとみなすことができる。
この他、これら三つの法隆寺関連史料には、「法興元」のような年号や推古天皇の和風諡号や「東宮」「仏師」など、
当時使われていないはずの言葉が使われているという点をも考慮に入れると、法隆寺関連史料は、『日本書紀』以降に成立したと推定できる。
実際、『日本書紀』は、これらの史料について、何も言及していない。
ゆえに、聖徳太子伝説の最古の史料は、『日本書紀』ということになる。
成立時期を詐称しているからといって、書かれていることがすべて間違いというわけではないが、やはり信憑性は大幅に落ちる。
そこで、以下、『日本書紀』を主要史料として、これまで聖徳太子の偉業とされてきた1から4までの業績が、
本当に聖徳太子のものであるのかどうかを、検討してみよう。
2. 聖徳太子の業績は誰の業績か
2.1. 冠位十二階
まずは、冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。
「始めて冠位を行ふ」と主語なしの文で書かれている。冠位十二階という制度は、
日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。
では、誰が制定したのだろうか。
私は、聖徳太子が制定者だとは思わない。
もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。
しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。
馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。
厩戸皇子は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。
厩戸皇子の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。
だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと私は想定している。
コンプレックスとは、日本語で言えば、複合体である。
精神分析学では、憧れと反感の複合体をコンプレックスと呼ぶ。
馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、
他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。
これに対して、高貴な出自の厩戸皇子は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。
冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。
伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、
日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。
冠位十二階制度の日本への導入も、仏教の導入とともに蘇我氏らしい功績である。
2.2. 十七条憲法
次に十七条憲法であるが、これに関しては、『日本書紀』は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」と、聖徳太子の作であることを明言している。
だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。
特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。
しかし、私がそれ以上に問題にしたいのは、聖徳太子、即ち厩戸皇子は、あのような命令を有力豪族に対して
発することができるだけの権力を持っていたのかどうかという点である。
例えば、第十二条にある「国に二(ふたり)の君なし。民に両(ふたり)の主なし」は、
推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。
実は中大兄王もこれと似たようなセリフを吐いている。
中大兄王が大化の改新でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、
このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。
十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。
曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。」 厩戸皇子は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。
それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と
有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。
そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない。
こう言うと、読者の中には、聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、
摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。
しかし、厩戸皇子は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。『日本書紀』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、
「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。
最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。
また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、
「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす」という『日本書紀』の記述は間違っている。
なぜ、『日本書紀』の編者が、立太子制度が神武以来存在したと偽ったかに関しては、後で説明しよう。
厩戸皇子は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。
そのような弱い立場にある厩戸皇子が十七条憲法を公表できたとは考えられない。
十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、
飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。
2.3. 遣隋使の派遣
続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。
607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。
問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸皇子であったかどうかである。
実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸皇子には、まったく何も言及していない。
『日本書紀』は、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す」といった主語なしの文で、記述している。
遣隋使派遣における厩戸皇子の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、
隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、
跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。
是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。
[石原 道博:新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉]
日本の天皇には姓がない。
また、当時はまだ立太子制度がなかった。
しかし、隋は、中国式のスタンダードに当てはめようとしている。
『隋書倭国伝』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、
当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、
日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対に天皇の実名ではない。
それは天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、
天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、
「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。
「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。
「わかみたほり」は、後に音韻変化により、「わかんどほり」となる。
この言葉の意味は、古語辞典を引けばわかるように、「皇族」である。
隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したわけだ [多利思北孤と利歌彌多弗利] 。
なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利」は、厩戸皇子や山背大兄王に結びつかない。
この、謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。
日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。
天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、
皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。
日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。
そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、
文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。
そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。
614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。
現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。
中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。
だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。
すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。
日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。
しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。
これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、
「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。
『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。
『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。
『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。
このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。
1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。
こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。
隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、
前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。
2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。
『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。
だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、
『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、
「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解しなければならない。
さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、
『隋書倭国伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。
では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。
蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。
『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、
「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。
しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。私は、馬子だと思う。2年後に新羅使が来日した時も、
『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。
やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。
『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。
それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、
女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。
日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。
超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。
しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける
軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。
そして、それは成功した。
2.4. 文化的事業
聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。
特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。
だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。
『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。
『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。
『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。
聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である
『天皇記』も『国記』も残存していないので、その真偽を確かめる術はない。
ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、
仮に、馬子と厩戸皇子の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。
2.5. 結論
以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。
では、『日本書紀』の編者は、なぜ、馬子の業績を馬子の業績と明記しなかったのか。
なぜ、厩戸皇子を聖徳太子として聖人化しなければならなかったのか。
この問いに答えるためには、誰が何のために『日本書紀』を書いたのかを考えなければならない。
3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか
『日本書紀』の編者は、舎人親王であるということになっている。
しかし、本当の編集責任者は、藤原不比等だという説が有力である。
『日本書紀』では不比等の父である鎌足の功績がことさらに粉飾されていること、
最初は「フヒト」に「不比等」ではなくて、史書編集とのつながりを示す「史」という字が当てられていたこと、
『日本書紀』が編集されていた頃、不比等が、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに
権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。
では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。
実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。
藤原一族というのは、現代の日本の政界で言えば、経世会のような、自らは権力の表舞台に立つことなく、
傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。
鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。
しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。
『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害した。
そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。
私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。
『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。
もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、
入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。
ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。
これは一体どういうことなのか。
『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。
一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。
巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、
古書を調査して書いた本であり、無視できない。
このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。
即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。
大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と
親しくしていた媒介者がいたということである。
そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。
だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争いを利用しながら、
蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。
即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、
蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、
蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、
後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。
この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する [梅原 猛:隠された十字架―法隆寺論, 第二部第二章]。
その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。
石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が
上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。
鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。
しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。
もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、
彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、
三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。
それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、
入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。
こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣(入鹿のこと)を殺しつ」を理解することができる。
『日本書紀』の執筆者は、政治的思惑を持たない官吏である。
編集責任者である不比等は、自分に都合の良いように、部分的に修正を加えただけに違いない。
部分的な捏造は不整合を生み出す。その不整合を解消するべく、整合的な歴史解釈を再構成する時、
不比等がどのような思惑で歴史を歪曲しようとしたかが見えてくる。
不比等が目指したのは、大化の改新の正当化である。
中大兄皇子と鎌足の功績を美化するためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。
蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王の兄弟や子供たちを、
したがってその祖である厩戸皇子を聖徳太子として善玉にしなければならない。
こうして、おなじみの勧善懲悪のストーリーが生まれた。
しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、
それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。
聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れる。
それゆえ、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。
鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。
ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。
天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。
しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う
鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。
天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。
明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。
そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。
4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。
不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。
『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。
天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった
高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。
これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。
そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。
3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。
この時、不比等は、こう考えたはずだ。
自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。
これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。
不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。
鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。
だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。
白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。
怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。
歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。
だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。
そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。
そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。
不比等は、こう考えたわけだ。
かくして、聖徳太子伝説が誕生する。
聖徳太子伝説が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。
梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、
従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸皇子が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。
だが、もしも、聖徳太子を厩戸皇子という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。
古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。
その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。
例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを
同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。
それが、邪馬台(やまと)の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。
藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。
その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。
だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子伝説が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。
『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。
しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。
不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。
私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。
特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。
蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。
聖徳太子とは誰のことか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/shotoku.html
「考えてみよう。」まで読んだ。長文にもほどがある。
195 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 20:47:58.25
教科書も在日左翼に乗っ取られたからね
最近の教科書では聖徳太子のことを厩戸って名前で教えてるらしい
厩戸が本名だから厩戸にしたんだとさw
本名を重視する文化は最近のものだし
例えば、昭和天皇のことを日本人はヒロヒトとは呼ばない
本名を重視するのは歴史的にみておかしい
しかも、「厩戸」って絶対本名じゃねえだろうw
後年作られた日本書紀など神話の中で、聖徳太子の生まれた時の名前を厩戸って呼んでるだけで
厩戸が本名っていう証拠はない
厩戸って名前は神話の中にしか存在しない
長文で何度も書きこむ人って何なの?
読む気が萎えるよ。
そんな人はサイト立ち上げればいいよ。
神話もキリストの話をパクってる
聖徳太子がキリストなら
超自然的治癒力がないと
聖徳太子の存在疑われたおかげで
俺は豊聡耳の神子たんに出会えた
それだけでいい
十七条のレーザーやめて・・・
死後の称号なのにいなかった扱いしたら
天皇名すべて変えなきゃいけないじゃん。
馬鹿みたい。
ところで、アラハカってアラパキスのことかなあ。
四天王寺周辺って貿易都市だったらしいし。
201 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 01:41:51.06
大阪や奈良には聖徳太子(厩戸皇子)の伝説がかなりある
みんな他人の功績というものは無理があるな
聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。
伝説なんて他人の功績どころかフィクションだらけだろ
204 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 12:58:11.59
205 :
日本@名無史さん:2011/11/06(日) 16:01:21.73
206 :
夢幻如 ◆vaujymvCDcV. :2011/11/26(土) 03:55:21.16
いい感じのスロー進行だなあw
聖徳太子は架空の立場から参加させてもらおう。
ぼちぼちと。
こういう話は当たり前だが「日本書紀」に頼るしかないわけだ。
この「日本書紀」はどこまで信用できるかがまずポイントになる。
天皇家の万世一系を打ち出すための虚偽、虚飾に満ち、年代表記もかなり出鱈目な書だ。
これは勝者の正当性プロパガンダで「創作」が随所に入り込んだ虚実ごちゃ混ぜのものと見るべき。
決して「正史」ではない。
ここがまず押さえておくべきところだと思う。
聖徳太子の未来記ってどうよ?
現在、蘇我入鹿=聖徳太子説を読んでいる最中。
おそらく、ズバリ的を射ている感じがする。
色々なことをわからなくしている目的(動機)の理由付けとして納得。
>>209 もっと根元的な視点で考えないか?
それは入鹿を入鹿として認めた上での推論だよね。
蘇我入鹿という名前の人物が実在したという前提からくるわけだが
それは「日本書紀」を信じるからだろ。
多くの聖徳太子架空論も根本では「日本書紀」を信用している。
「日本書紀」しか頼る史料がないといえばそれまでだが、もう一歩踏み込もう。
「日本書紀」は信用出来ない。俺はここからスタートしたい。
日本書紀に記される歴代天皇の初代から14代までは捏造というのは異論ないと思う。
多分に創作が入っていることはこれでわかる。
26代継体天皇の没年は日本書紀では531年だが古事記では527年。
27代安閑天皇即位が534年だから日本書紀を信じるなら3年も天皇不在になる。
これは普通に考えてありえない。
応神天皇の項に294年の頃に出てくる百済の木満致という人物は
朝鮮の史書「三国史記」では475年に出てくる人物で180年くらい誤差がある。
日本書紀の年代表記も信用出来るものではないという実例になる。
日本書紀の大きな目的の一つは天皇家は万世一系という権威づけだ。
万世一系ではなかったから万世一系の創作をしなければならなかった。
その視点で見なければならない史料のはずだ。
現天皇家は渡来系というのも異論はないと思う。
渡来系権力者が王位を争った相手はほぼ間違いなく原住民系権力者だ。
万世一系になる前の時代は王位を争う王位争奪戦が繰り返されたと見るべきではないか?
渡来系大王と原住民系大王が王位を取ったり取り返されたりの時代があったはずだ。
聖徳太子は正にその時代の人物だ。実在したならね。
ここで一つ結論めいたものを出しておく。
天皇家が王位を争った相手は蘇我氏ではないのか?
つまり蘇我一族は原住民系大王家だったと俺は思う。
聖徳太子の正体は突厥の可汗達頭ですよ
>>214 「蘇我氏は渡来系だろ」という突っ込みが入るかと思いきや、同意していただけるとは。
ありがとうございます。
蘇我氏は原住民系権力者で日本書紀に書かれているような単なる豪族ではなく
ましてや天皇家の臣下ではなかった。
天皇家と王位を争った実力者で何回も王として君臨していた一族だったと思う。
これが天皇家により滅ぼされた。
そして勝者の天皇家が勝者の歴代を ”作った”
それが「日本書紀」だという前提で話していきます。
217 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 15:39:33.29
>>216 欽明朝以前の蘇我氏はどこでどうしていたと考えていますか?
蘇我馬子が葛城氏の土地について「自分の土地であり返してほしい」
と言っていることについては?
教科書では「天皇を中心とした国づくり」をしようとする太子と
「自分の一族の権限を強め」ようとした馬子が対立した
…と教えているがむしろこの時期政局は安定し
「争っている形跡」はむしろ見えない。
ましてや太子も蘇我一族も(そして天皇家も)
「親仏教」で対立軸は益々ボヤけている。
ただ
>>209のいう
「聖徳太子=蘇我入鹿」では年齢的に無理があるというか
「入鹿:中大兄皇子:山背皇子(太子の息子)」がほぼ同世代なら
むしろ「太子=蝦夷」と考えた方が自然ではなかろうか?
蝦夷が馬子や入鹿に比べて地味なのも「蝦夷の業績」が
そっくりそのまま「太子に移植」されたとするなら
蝦夷が目立たない存在になっても不思議ではない
>>217 せっかくレスもらいながら返答出来ずにすいません。
2ちゃんやる限られた時間しかない中で、他スレにかかりっきり…
ここはスローテンポOKですよね?後日ということで。
申し訳ありません。
220 :
日本@名無史さん:2011/12/02(金) 17:14:51.36
>>218 聖徳太子最大の功績とされる遣隋使、冠位十二階の頃に大臣だったのは
蘇我馬子だから、蘇我馬子の功績が聖徳太子に置き換わった、で問題ないと思うが・・・
ちなみに、蘇我入鹿・中大兄皇子・山背王は同世代ではない。
山背王は中大兄皇子の父舒明天皇と皇位を争っており、中大兄皇子(626年生)の親世代だよ。
厩戸皇子(574年生)の長子であることからも590年代の生まれだろうと思う。
蘇我入鹿は「大職冠縁起」によれば中臣鎌足と一緒に
僧旻のもとで学問を習ったとあり、中臣鎌足(614年生)と同世代。
つまり、こうなる(カッコ内は推定生まれ年)
山背王(590年代頃)−蘇我入鹿(610年代頃)ー中大兄皇子(626年生)
しかし、蘇我氏はその後も存続してるし、入鹿らがやられただけなのに、葛城王朝というのは厳しい
蘇我氏は宗家である蝦夷・入鹿がやられて権力失っただろ。
物部氏だって宗家がやられただけで傍系は石上氏として存続してるからな。
蘇我氏はどちらかといえば藤原氏の先駆者って印象だなあ
大王だったという説はちょっと取り難い。紀記に蘇我系の神話の痕跡などがあるならまだわかるが
神話の法則からすれば、傍流が残ってるのに痕跡まで消えるというのは考えづらい、出雲系ですら残ってるのに
物部などは始祖伝説があるが
蘇我氏は葛城同様、皇別(孝元天皇の子孫)扱いじゃなかったか
景行天皇〜仁徳天皇まで5代の天皇仕えたという武内宿祢が
蘇我氏と葛城氏共通の先祖
225 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 07:44:37.23
蘇我(そが)氏=サカ族=釈迦族 っていう説と、
葬り去った蘇我氏の業績として記紀に書くのはマズイので、
聖徳太子ってのをでっちあげて、そっちの業績にすり替えて、
自分達のやったこと(=蘇我蝦夷・入鹿殺害)をごまかしたって説、
結構信じてしまうんだが、どうだろ?
孝徳天皇の詔には仏教先導者として稲目・馬子が顕彰されてるし、
蝦夷・入鹿殺害を隠しているわけでもない。
西暦600年代の諸政策については、世代的に馬子よりも降る聖徳太子の方が
より相応しいとの考えもある。
馬子は馬子で6世紀末に諸事業を主導していて、
そのような人物だったら、主に太子の業績とされる600年代の諸事業も
もっと早くに着手されていただろうという考え。
ゆえに私は、業績でっち上げ・すり替え・ごまかし説ってのは、
結構信じてない。
227 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 11:07:35.47
>>226 遣隋使・冠位十二階の頃、蘇我馬子はノリに乗っている40代。
長らく温めてきた政策が、姪の推古天皇のもとで開花して不思議ではない。
蘇我馬子は稲目晩年の子だったと思われ(欽明天皇の妻となった姉たちよりかなり若い)
稲目の死によりかなり若い時に大臣になっており、6世紀末にはまだ天皇のほうが年上で、
年若い大臣があれこれ天皇を指導できなかったとみられるため。
そもそも、この時代、大王・大后を補佐するのは大臣・大連であって、
そのいずれでもない厩戸が政治に口出しできたというのは懐疑的。
推古女帝は未亡人で配偶者がいないから、この代わりに配偶者役を代行したのが厩戸と言ってる人もいたが、
厩戸が死んだあと代わりの摂政がいないのに政治が混乱していないこと、
続く女帝で未亡人の皇極天皇に摂政がいないことから、そのようなことがなかったことがわかる。
228 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 11:33:35.59
>>226 蘇我馬子の独走態勢に入ったのが推古朝からだったのでは?
推古以前の天皇のときには蘇我氏と権力を二分する物部氏がおり、
蘇我馬子は権力行使できてないぞ。
物部守屋が滅んでから即位したのが馬子の姪、推古天皇。
遣隋使は馬子じゃないでしょう。
寺なんかを見ても、馬子は朝鮮趣味なのに対し、
若草伽藍などの四天王寺式は大陸趣味。
厩戸の死後、遣隋使が帰国して新興の唐と国交を結ぶよう進言するが、
馬子の在世中は実現せず。
馬子の墓とみられる石舞台古墳も、この時代の古墳に見られる風水の思想に依拠していない。
馬子は、中国嫌い、とまでは言わないが、あまり関心は高くなさそう。
馬子は敏達朝の頃から、特に仏教導入に関してかなり主導的に動いてるよ。
それに物部が滅んでから冠位・遣隋使などの諸政策が始まる7世紀までには10年以上の年月がある。
馬子の正確な生年は不詳だが、妥当とも思われる伝承を採れば551年生まれ。
600年には数え50歳であり、決してノリノリとはいえない。
むしろノリノリの30代後半〜40代のまさに物部合戦後〜推古朝初期、
飛鳥寺建造と重なるこの時期にこそに、諸政策があって相応しい。
こう書くと、寺造りに熱中しててほかの政策は後回しにしたんだ、との意見が出そうだが、
私はそうは考えない。馬子ノリノリの時期に青年期を迎え、ブレーンを得た厩戸こそが、
中国に目を向け、冠位制など律令国家の下準備をする思想を持った人物に相応しい。
大臣・大夫とならんで王族が初めて朝政を執ったから後世に語り継がれたとも言えるのであって、
どうせ捏造するんなら、6世紀の馬子ノリノリの政策も全部厩戸のやったことにしちゃえばいい。
厩戸の年齢が合わないなら、系図を変えちゃえばいい。
皇室の直系の祖である彦人大兄の功績にしちゃっても良かったじゃないか。
蘇我って須賀とかの訛説がある。
スサノオを奉ってるしな。出雲系じゃないの?
231 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 19:50:30.80
>>229 えっと・・・
まず、四天王寺の建設は遣隋使の前。
厩戸皇子が大陸から技術者を入れて建てたわけではありません。
それから、四天王寺式の寺院建築は百済によくみられる製法です。
四天王寺は明らかに朝鮮の影響で建てられたものです。
ちなみに、現在の四天王寺に厩戸皇子時代の建物は一つも残っていません。
232 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 20:16:11.26
>>229 物部守屋を滅ぼし、権力を手中にした馬子がいきなり政権を放棄して
20歳の遠縁、厩戸に政治を丸投げするなんてことはまずありえんだろう。
蘇我馬子がその後も精力的に政治に携わっていたことは、
「天皇記」「国記」の編纂に携わったと記されていることからもわかる。
これも厩戸皇子が関わったと書かれ、本来「聖徳太子の偉業」としたかったのだろうが、
蘇我氏滅亡の際これを中大兄皇子に届け出た話を
挿入したために蘇我馬子の関与を書かざるを得なくなった。
「天皇記」「国記」を山背王は所有せず蘇我蝦夷が所有していたことで、
実質的編纂者が蘇我馬子であったことがわかる。
「変貌する聖徳太子」って大山一派が書き連ねたの
軽く立ち読みしてきたけど、ようやく大山と距離をとりはじめてる感あり。
聖徳太子信仰という太子研究の本道に立ち返れ!
大山のドロ船に乗り続けてともに水没する義理はないぞ。
大兄って天皇の子供以外で使われる事って、山背大兄以外でもあるの?
もし無いなら山背大兄は皇太子で、聖徳太子って天皇だったんじゃないの。
ビンゴです。聖徳太子は消された天皇です。
山背は皇太子。
大兄とは皇太子という意味ですよ。上代は皇族ならば誰でもなれます。
有力な聖徳太子の息子だから、推古天皇は大兄にしたのでしょう。
飛鳥時代には皇太子という制度はなかったんだけど。
隋書に記載がありますよ・・・・・。
いやいや。日本で皇太子という制度が出来たのは律令以降だから。
でも、それらしき役割は律令以前もなければ
国家は成り立たないですよね。
それが大兄でしょ。
>>238 それは皇族というのを随側が勝手に皇太子と受け取っただけ。
>>240 飛鳥時代には有力豪族と有力皇族が結びついて権力抗争をしていた時代。
だから「大兄」とは大王になる可能性を持っている皇族という意味。
皇太子というのは既定の次期天皇のこと。
「大兄」は同父兄弟の長兄を指すものと思われる。
聖徳太子もこの概念だと大兄だけど、史料上証明できない。
大兄が同時期に複数人が存在する状況ができて争いの火種となり
中大兄皇子をもって王族「大兄」が見られなくなる。
天智天皇が大友皇子をのちの皇太子制度の先駆的地位に
つけたために、皇位継承は新たなるステージに入った。
天智の定めた「不改常典」とは大友皇子を後嗣に据える
強烈な意志の現れではないか?
243 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 02:37:39.48
女帝を男と勝手に受け取ったり。
随の使者って無能すぎるな。
明の時代ですら、信長は関白で、
さらに秀吉は関白を僭称したことになってるからな。
なんか大山がわいてるな。
敏達と推古の長子で大王の位置に一番近かった
竹田は大兄と呼ばれなかったわけだが?
亡くなる前にそういう呼ばれ方してもよかったね。
そして隋書の都合の悪いところはすべて間違いや
誤字で片づけるのは愚ですな。
そのままの意味で考えてわかんないから自分の都合の良いように
曲げてるだけでしょう。
研究者のくだらんところだな。大山モードで展開するところは。
247 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 08:48:07.30
>>241 「大兄」とつかないのに天皇になった人
・敏達天皇(渟中倉太珠敷尊)・用明天皇(橘豊日)
・崇峻天皇(伯瀬部皇子)・孝徳天皇(軽皇子)・舒明天皇(田村皇子)
「大兄」とつくのに天皇になれなかった人
・坂押大兄皇子(敏達の長男)・山背大兄王(厩戸長男)・古人大兄皇子(舒明長男)
見てみると、ほとんどの天皇の諱に大兄はついておらず、一方で、
「大兄」とついて天皇になれた人は天智天皇(中大兄皇子)ただ一人。
それも庶兄に古人大兄皇子(舒明長男)があって、次男の意味で「中」の文字を加えたっぽい。
どう見ても大兄=天皇という風には取れない。
用明は池辺大兄っていう呼び名なかったっけ?
249 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 17:05:07.73
つまり、 大兄=天皇の息子 で結論が纏まったようだな。
やっぱ、聖徳太子は天皇だったんや。
お薬出しておきますね
次の方どうぞ
251 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 17:42:27.53
>>249 皇族全般だろ。
そもそも山背大兄王は天皇の子を表す「皇子」ではなく
2世「王」だし
天皇の子じゃないのになんで山背だけ大兄なのかの
論証を誰もまもとに書いてないんですかね。
天皇の子ではないが天皇の孫だからだよ。(と言っても、当時は天皇ではなく大王)
大王候補になってる長兄の皇子を「大兄」と呼んだのだからおかしくない。
254 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 09:31:03.44
天皇の長子でも大兄と言われない王子もいるのに
孫と言うだけで大兄というのは根拠が薄いですね。
255 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:12:17.82
>>253 だから〜
「大兄」とついても天皇になれない皇子が多い件
「大兄」とつかないのに天皇になっている皇子が多い件
256 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:48:51.02
>>254 この時代に天皇の子が「王」と呼ばれた例があるのかを
調べたほうがよさそうだな。
山背は「王」なんだよ?
逆に大兄なんてついたりつかなかったりそれほど重要な
部分じゃない。
あの時代の系図は嘘だからな。
天皇という言葉がない時代なんだから、
皇子の名称は後からの贈り名であることは明白。
改竄された歴史に基づいて、王と皇子は呼び分けられている事になる。
259 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 13:08:35.53
>>258 聖徳太子というのも後世の贈名だしな。
正確な呼び名は大兄もつかない厩戸だろ?
260 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 13:22:11.93
法隆寺に現れる太子の怨霊、蘇莫者
なぜ太子が大化改新以後の朝廷を恨まなければならないのか
そしてなぜ「蘇我の亡き者」と読める蘇莫者という名前なのか
ハガレンのホーエンハイムと太子がだぶって仕方ない。
トリシャが膳妃かなー。
自殺したんじゃなくて妻が死んで旅に出たんだよ。
で、残った子供が苦労してしまった。
って感じ。子供は父を許してなかった。エド。
舒明天皇は田村皇子だから、大兄は付いてない皇子だな。
天皇の子供じゃなくても皇子になるのか。
263 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 14:56:27.50
秦氏ね
大兄に絡むついでに書いちゃうけど
中大兄の「中」って、どういう意味合いなのか
ずっと疑問に思ってるんだけど。
良く上の姉姫を「大姫」とか「おおいぎみ」、末の妹姫を「乙姫」
真ん中や次女である姫を「中の姫」「なかのきみ」とか呼ぶけど
(兄橘姫とか乙橘姫、なんて例もあるし)
中大兄の場合の「中」にはどういう意味があるんだろうか。
>>264 中の君=次女と同様、中大兄=次男じゃない?
中大兄皇子には古人大兄皇子という異母兄(長男)がいるし。
ちなみに中大兄皇子は通称で名は葛城皇子。
泊瀬仲皇子
267 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 12:17:39.72
十七条の憲法や冠位十二階の制度を中央集権化ってWikiに
書いてあるけど、国家体制の法治化ではないのか?
新羅出兵は太子の亡くなった翌年、馬子のやったことだな。
268 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 15:29:51.11
>>11 >厩皇子(聖徳太子)の功績が作り話というのと聖徳太子はいなかったじゃえらい違いだぞ
じゃあ厩戸皇子の功績が全部でっちあげ、または他人の手柄だったら?
例え厩戸皇子が実在したとしても、よく知られた功績が全部他の人の業績だったら
それはもう聖徳太子=厩戸皇子はフィクションだと言うべきでしょ。
トンデモ系エピソードは論外として、四天王寺・法隆寺の原型の建立、遣隋使派遣、冠位十二階
これらのうち厩戸皇子が手掛けたものがどれだけあるのか?
それを行うだけの実権は掌握してたのかを論点にしないと。
>>268 逆に訊くけど若草伽藍が厩戸皇子の建立でないと謂う証拠が有るの?
270 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 18:23:38.02
>>269 当時、実権を握っていたのが馬子であり、制度上の王は推古だったという状況証拠。
>>268 斑鳩宮に住んだ厩戸皇子という皇族が存在したことは否定されてないんじゃないかな。
そして、斑鳩宮内に営まれた法隆寺(若草伽藍)が厩戸の創建というのもある程度の信ぴょう性がある。
法隆寺や四天王寺を建立した仏教かぶれの厩戸皇子という皇族は存在したが、
遣隋使や冠位十二階を厩戸主導で行ったとは考えがたいとされている。
(厩戸没後も推古天皇は約二十年間天皇であり続けたが、その間、全く摂政を立てていない。
推古天皇が自分で政治を執らず摂政に政治を丸投げしていたというのならば
厩戸死後速攻で次の摂政を立てなければならないはずだが現実には摂政なしで政治の混乱もない。
つまり、推古天皇ー大臣蘇我馬子の施政で安定していたということ)
272 :
268=270:2012/04/08(日) 18:50:09.07
>>271 妥当な線ですね。それがスタンダードな説になってないといけない。
はやくそうなってほしい。
>>271 一部は同意。
ただし、仏教を手厚く保護したという厩戸皇子は実在した。
かれの建立した寺院の規模から相当程度の権力のあった人物であったろう。
従って、「摂政」というのは、あながち創作とも言いがたい。
厩戸皇子の死後に摂政を置かなかったのは、天皇として安定期にあったからだろう。
一方で、十七条の憲法や冠位十二階は後世の創作の可能性が高い。
森博達の『日本書紀、成立の真実』で書かれていたが、この部分は後世の加筆で執筆者が
部分的に異なっている。
274 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 23:21:36.01
>>273 今ある法隆寺は厩戸死後、白凰年間の再建ね。
若草伽藍は金堂と塔跡が発掘されているけれども、
今日見る法隆寺ほどの規模はなかったとされている。
ちなみに四天王寺は、物部守屋が滅ぼされた後、
物部が持っていた土地に物部の奴隷を使って建設されたものと日本書紀に描かれてある。
守屋を滅ぼした総大将は蘇我馬子であり、しかも蘇我馬子の正室が守屋の妹だったので、
物部の土地と奴隷はこの馬子正室が相続する形にして蘇我氏に取り込んだらしい。
(馬子の孫蘇我入鹿は、祖母から物部の土地を受け継いだので物部大臣と呼ばれている)
となると、四天王寺の土地と奴隷を所有していたのも実際には馬子とその正室だと思われるので、
四天王寺創建者は馬子である可能性も高いとみている。
正直、四天王寺の土地と奴隷を厩戸が好きに所有できたというほうが考えがたい。
>>274 厩戸皇子は、蘇我氏の庇護のもとで活躍したというのはその通りだろうね。
馬子は神輿の上に厩戸皇子を担ぎ上げて、権勢を増したんだろう。
馬子は厩戸皇子以上に仏教に造詣が深かったかもしれないが、その死後は
馬子の業績は神輿の上にいた厩戸皇子のものとなったんだろう。
馬子は神輿の上にいた厩戸皇子を摂政にしたとしてもおかしな話ではなかろう。
蘇我氏滅亡後の時代になって馬子を持ち上げるわけにもいかず、神輿の上の
厩戸皇子が神格化されたんだろう。
276 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 23:35:24.48
>>275 天皇の補佐役としての大臣であり、推古天皇がいるにもかかわらず摂政を担ぐ必要性がない。
推古以外にも女帝は大勢いたが、飛鳥〜奈良時代の女帝は一人も摂政を置いて居ない。
(摂関常置の江戸時代には女帝に摂政はいたが)
また、推古天皇は政治を執っており(皇位継承決定権を有し、
馬子大臣に政治的意見もしている)天皇と大臣だけで充分だったろう。
摂政は置いてなくても道鏡は権勢が有ったようだ。
>>276 必然性の話にしてしまうのは議論のスジがおかしくなるよ。
「十分な必然性がある場合だけその事実はあった。」という論法だとほとんどの歴史的事実は
却下されてしまう。
摂政をしていたから摂政との記録があり、摂政という特異な存在を創作したというのは不自然で
あるというのが基本的な考えだと思う。
ただ、十七条の憲法や冠位十二階という特異な業績を後世の創作と疑う自分の立場に対しては
摂政も怪しいとは言われそうではある。
十七条の憲法や冠位十二階という創作をする基盤としての摂政という地位は認めてもおかしくはない
とも言えそう。「火のないところに煙なし」という意味で摂政くらいは・・・という感覚ではある。
279 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 07:22:11.62
>>278 「聖徳太子」以外に皇族摂政が一人も出なかったのはなぜ?
(近代の昭和天皇は別ね)
皇族摂政がそこまで重視されていたのならば、飛鳥時代の
推古以降の歴代天皇に摂政が置かれてしかるべき。
厩戸が死んだ途端、推古天皇が成熟して自分で政治を執るようになったので
摂政が不要になったということのほうが「議論のスジがおかしくなる」。
推古天皇が自分で政治を執りますといえばその時点で
厩戸摂政が必要なくなったわけでしょ。
それから、推古朝に十七条の憲法や冠位十二階の原型ができていたという根拠は?
地位としての摂政制度は飛鳥浄御原令に初めて採用されたものであり、推古朝時代にはその様な制度は無かった。
日本書紀が厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としたのは、彼の地位を高いものに見立てることで馬子の行った政治の
実績を厩戸皇子(聖徳太子)の業績にしようとしたからであろう。推古が天皇になったこと自体、馬子が主導的に
行ったことから考えても政治の中心は推古でも厩戸皇子(聖徳太子)でもなく、蘇我馬子であったとするのが
自然な理解であろうと思う。
推古は大王だけど
厩戸は天皇だったんじゃないの?
二朝並立していたのかもしれんよね。
この時代にほんとにある程度国家が統一されていたのかというと怪しい。
だって隋書は男の王の存在を書いているもの。
日出処の天子のシーンで
朝廷の力が倍増した、大王が二人になった
と馬子がビビってる場面があるけど
アレに近いことがあったんだろーと思う。
あのマンガは侮れん。
283 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 20:34:53.69
>>282 少女漫画らしく聖徳太子が同性愛者で女装癖もあり
女装すると美少女に見えるとか超能力者とか
蘇我毛人に夢中とか…
そこを抜粋するとは厨房め。
>>281 ネタにマジレス
厩戸が天皇だったのならばその嫡子山背王はあっさり天皇になれただろうね
敏達天皇の孫田村皇子(舒明天皇)と争ってあっさり負けたのは
やはり山背王が敏達の弟用明天皇の孫にすぎなかったからだよ
田村と山背が同等に置かれてやや田村優位だったのは
やはり山背の父親が大したことなかったとしか言いようがない
政変は簡単じゃないんで
抵抗勢力もいますがな
舒明天皇即位は政変じゃないよ
山背が負けて死んだのは舒明即位後しばらくたってから
288 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 23:39:41.38
厩戸皇子が冠位十二階を定めたのって
水戸黄門が諸国漫遊したレベルのお話と思っていいですか?
289 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 23:53:10.10
くだんの『隋書』東夷傳の俀國のボスの多利思北孤さんは
哆唎思北孤だから先祖が哆唎から帰国引揚げしたので
やられた故地のことぐずぐず想いを致しておったとさ。。。
290 :
日本@名無史さん:2012/04/14(土) 23:53:31.37
はるか後の明は秀吉を日本国王にしようとしたくらいだから、
向こうの日本に対する認識はその程度の物でしかない。
太子として利歌彌多弗利という人物も登場するけど、
必ずしも正確ではない可能性はあるだろうね。
太子の名前の後で冠位十二階の話題になる。
森博達の、太子の時代である7世紀には倭習はない
から、日本書紀の文章は編纂時の創作という推定は
どうなんだろう?
293 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 00:24:04.90
>>288 ヤマト王権はその頃には発足から300年前後が経過しているわけだから、
権力内部の統治機構がそれなりに整っていないはずはない。
統治機構内部での身分の上下を分けなければ政治をやれないので、細かな身分の区分は
当然のあの時代にも存在していただろう。
それを12の明確な区分にしたのかどうかだけが、問題ともいえる。
けど、冠位十二階を定めたという証拠は全然ないよね。
というか、細かな身分の区分をどうやって決めていたのか良く分からない。
294 :
288:2012/04/15(日) 01:22:30.00
>>293 言われてみればそうですわ
聖徳太子以前は階級なしでやってたわけないもんね
用語だけで常識のように丸呑みしてたけど
一歩踏み込んで考えると怪しいわ。
いいこと気付かせていただきました 感謝します
記紀神話が推古帝の代で終わっているのには、
それなりの意味があると思うぞ。
と、申しますと?
推古と太子の時代というのは、つまり日本の国の
土台が完成した時代であるということだ。
記紀神話編纂はもっと後の天武の号令だろ。
推古と太子のイメージに較べると、後の天武の方が
ずっと古代的で、時代が逆さまみたいに見える。
「万世一系の天皇の御国」を唱えるにはやっかいな
話になるんで、太子というのは頭の痛い存在だったり。
しかも、天皇は男であるのが当たり前と決め込んでる。
明治になって廃仏毀釈をやったし。
黙ってしまったな?
301 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:05:23.71
日本は早くから王権が背景に退いて実力主義の社会体制になった。
宮廷文化は栄えなかったが、一方で非権威主義的で大衆の識字率の
高さに象徴されるような人民の自由な文化が発達したとも言える。
302 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 12:21:33.54
「徳」の文字を冠するは死後に祟る怖い(ややこしい)存在(貴人)に奉るのが通例。
聖徳太子は非業(不慮)の死を遂げた為政者達に祟る存在だったと思われ。
303 :
古事記1300年:2012/05/04(金) 16:12:12.47
夫人の看病して一緒に死んだんだろ。古代人にあるまじき夫婦愛だな。
304 :
古事記1300年:2012/05/04(金) 16:19:09.14
古事記は推古/太子時代で終わりながらその事績については一切、
口を噤んでいる。ここに日本古代史の語られざる二重性を見る。
305 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 22:27:56.33
>> 302
だとすると、仁徳天皇も、恐れられていたの?
前から気になっていたんだけど…。
306 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 23:11:23.12
系譜を素直に信じたら、現皇室が敬う理由はない仁徳朝。
307 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 11:47:51.54
諡号の徳の字について、井沢元彦は聖徳太子が祟って以降慣例化して、後鳥羽院(最初は顕徳院だっけ?)まで続いたと言っている
ただ、上の方でも書いてるが、聖徳と贈ったのは僧侶達のようだ
書紀本文には太子を聖徳とは書かれてないが、推古紀の太子死亡記事の後に、
僧慧慈の太子追悼の言葉の中に
「玄なる聖の徳を以て、日本の国に生れませり」
とあり、
やはり、太子ゆかりの僧侶たちが祭り上げた可能性が高い
まぁ、慧慈の言葉が書紀に載ってるように、朝廷の書紀編者が法隆寺などの太子に対する尊崇を取り入れると同時に、
徳の字の諡号で鎮魂する方法をあみだしたと考えられなくもないが、
ちょっと整合性をとるのは難しいかな
308 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/05/06(日) 22:29:44.08
聖徳太子や仁徳天皇に肖ってやるから納得しろよみたいな意味があるのかもね。
武烈聖武桓武あたりの淡海三船近辺に徳へのコダワリを考えてみれば
後付け臭さがキツすぎる。
309 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 23:53:40.96
夢殿 救世観音 まっ
まぶしすぎる
310 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 11:22:36.99
欲求不満でムラムラしてる時は、夢殿に篭るといいよ
運がよければ、救世観音様が女体化してHなことしてくれるかもしれんよ
運よくH出来た人はレポートよろ
311 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 12:14:01.12
夢殿って奈良時代の建物だろ
312 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 22:45:10.66
推古と馬子が邪魔になった太子を殺したってのはないの?
摂政なんか不要だぜ、みたいなノリで。
聖徳太子は自殺っぽいな
死ぬ寸前に急いで自分の墓を完成させているし
314 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 00:51:23.32
聖徳とは本来四国阿波に存在する王子。
それが倭人伝の男王の名だね。
それを知った家康が徳川を名乗り
阿波を徳島に変えさせたんだよ。
阿波が徳島に変わったのは明治時代なのだが
徳島藩の成立は関が原の戦いに遡るけどw
藩が成立するのは明治時代だ
318 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:44:57.38
何で明治に藩が成立?
って釣りだよな。
聖徳太子を知りたければ、秦河勝に聞くがよい
奴は何でも知っている
320 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/05/20(日) 22:24:16.40
まあほぼ同一人物だし(新説
聖徳太子は本来阿波の国の王だよ、名は違うけどな。
これで随書倭国伝の記述とも矛盾が無くなる。
法隆寺周辺の地名は現在も阿波。
当然所縁があるからだよ。
藩が県に代わっただけ
阿波国は現在も存続してる。
淡路島の「淡路」は「阿波へ至る路」という意味
豆な
それじゃ本当に豆のような知識だw
325 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 11:38:58.29
この間読んだ本に聖徳太子は法王だったって書いてたよ
日本書紀には捏造があるけど
権威を高めるような捏造がされたんじゃなくて
低めるような捏造がされたんだって
国王として隋の使者にも会ってるしね
飛鳥のほかに斑鳩に町を作って宗教的な権威として
実質国王レベルの権力を持ってたんだってね
326 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/05/27(日) 17:29:51.71
その場合、蘇我馬子はどういう立ち位置なの。
アワの王=倭国王、聖徳太子。さて本当の名は誰の事かな?
解かる奴はもう解かってる、本当の墓も。
328 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/05/27(日) 23:35:54.27
解かる
どうやって変換すんだコレ。
ちなみに私は太子町在住者、でも聖徳太子の墓はここじゃない。
こんな事言ってれゃ地元に住めないな。
でも墓はやはり奈良県側だ。
330 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 08:50:26.24
>>325 「上宮聖徳法王帝説」を根拠とした「法王」ならば
仏教を広めた偉人という程度の意味だがな
そもそも法隆寺の僧が書いたものだし
聖徳太子信仰の発端て一族を根絶やしにした一派の子孫が相次いで変死したんで
祟られたと思ったからなんじゃなかったけ?
太宰府天満宮のあの人と同じなのか
>>331 聖徳太子信仰自体は平安時代末期に庶民の間から起こったもの
貴族の学問書であった「日本書紀」の内容が次第に庶民にも知られるようになり
「昔、一人で十人の人の言うことを聞いた聖徳太子という偉い人がいた」ということで
寺に聖徳太子像(元服前の童形をしている)を祀って崇拝した
菅原道真のように朝廷が怨霊を恐れて神号を与え神社に祀ったわけではない
親戚の寺(有力古来ある程度有名)に、
聖徳太子と達磨大師が勝負して、
太子は10語聞き分けたが達磨は9語しかわからなかったということを描いた
掛け軸があるんだけど、
オカルト板的に言うと史実だったりしてね。
334 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 02:16:35.60
聖徳太子がいた時代は、蘇我物部間の崇仏廃仏論争と、それが要因で
おきた戦争があり、天皇が殺されて晒されたり、女帝がはじめて
誕生したり、時代背景をみても、実に激動の時代であったね。
当時は、蘇我氏が実質的な権力をにぎってたってのは
確かなんだろう。で、推古天皇はお飾りと。 その二者が
いれば、当時の権力図についてはおおまかな見取り図が
かけるわけだろうが、ここで太子がどの程政治にかかわり
あったかで、見解がわかれるわけだな。
聖徳太子非実在説では、太子が推古天皇の摂政になったって
話も、虚構だと否定してるんかな。
>>331 関連で、山背大兄王一族は、世襲政治にならないように易占の凶方に行って
虎に頭食べさせて自害したんだっけか。
山背大兄王が自害させられたのは、蘇我氏との関係が
悪化したからって、読んだことあるなぁ。 蘇我氏と太子は
どういう関係にあったか、一般的には協力して改革をすすめた
ということになっているが、単純な関係ではなさそうである。
339 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 08:39:14.49
聖徳太子を祀ったと言われる法隆寺夢殿にある救世観音像は
天皇家や藤原家が祟りを封じ込めるために頭を杭で打ち抜いたうえ
白布でグルグル巻きに巻いたとのことだが、厩戸皇子には天皇家や
藤原家を恨む理由がない。(蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害したからという文章があるが、
だったら蘇我家を滅ぼした天皇家や藤原家は恨まれるどころか感謝される筈。)
その救世観音像には「阿毎多利思比子」と書かれているが、
これは隋書倭人伝に書かれている九州王の名である。
これは事実ですか?
救世観音像には「阿毎多利思比子」?
>>336 そもそもこの時代に摂政の必要性がない。
推古天皇がお飾りで実質的な政治は執らず、摂政に丸投げしていたのならば、
厩戸皇子が死んだ時点で新たな摂政を立てなければ政治が回らなかったはず。
しかし、厩戸皇子死後、摂政は立てらなかったにもかかわらず、政治の混乱は一切なかった。
推古天皇がお飾りだというのも偏った見方。
敏達没後、天皇家の皇位継承決定権を持っていたのは一貫して大后炊屋姫(後の推古天皇)であり、
馬子すらその意に逆らうことはできず、また、
推古天皇は在位中叔父である馬子が葛城氏の土地を収公しようとするのを(葛城氏は馬子の母方説がある)
拒否したり、天皇としての実務を行っている。
341 :
水銀厨:2012/07/06(金) 12:29:24.10
アマタリシヒコは九州王ではない。瀬戸内、阿波の王だよ。
隋書倭国伝にも「アワキミ」と書いてあるだろ。
342 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 13:19:44.61
たとえ阿波の王でも
何で何も関係ない法隆寺の救世観音像には「阿毎多利思比子」と
書かれ祀られているのでしょう?
何か祟りでも恐れてる?
>>342 聖徳太子は無念の死を遂げたから怨霊になったのかな?
youtubeでみたんだが、
仏像そっくりのアフリカ人が殺害されてるの見たよ・・・
西方浄土ってアフリカを救えってことじゃねえの?
345 :
水銀厨:2012/07/06(金) 14:10:46.56
何故法隆寺に?という謎のヒントになるかもしれないが、
あの辺の地名は今でも阿波だ。水運の要所だし。
南へ下ると讃岐神社もあるように、
瀬戸内周辺とは元々縁が深い場所柄なんだよ。
聖徳太子と阿波って関係深いよ
詳しく書かないけど
>>338 厩戸皇子は当初は蘇我馬子の娘刀自古娘と結婚して蘇我氏の本拠地飛鳥に住んでいたが、
おそらくは刀自古大郎は早世。その後、膳大娘を娶ると膳氏の本拠地であった斑鳩へ移り住み、
斑鳩宮を建てて死ぬまでここに住んだ。
膳大娘は厩戸が「一緒に葬られよう」といったほどの寵妃で、厩戸と看病をしあって同時期に没した。
厩戸が寵妃の出身である膳氏とべったりになったことで蘇我氏と溝ができたとみられている。
山背王はもともと厩戸が蘇我刀自古娘に産ませた長子で、蘇我氏を外戚としていたのだが、
厩戸が膳大娘に産ませた異母妹の春米女王を正妃に迎えてやはり膳氏の本拠地斑鳩宮に住んでいた。
蘇我氏の後見を受けられなくなったのは言うまでもない。
348 :
ローガン:2012/07/06(金) 16:13:05.23
>>339 >天皇家や藤原家が祟りを封じ込めるために頭を杭で打ち抜いたうえ
頭光が支柱を持たず本体に取り付くのは、金堂四天王に同じ。7世紀中頃辺りまでの、特に「正面観」を意識した造形。
>白布でグルグル巻きに巻いたとのことだが、
秘仏となっている事が確認出来るのは確か、12世紀の七大寺巡礼私記。
白布が巻かれたのがいつかは不明。東院縁起には天平十一年(739)に行信が造営した東院に安置とあるだけ。
>>340 厩戸皇子を摂政にたてたのは、厩戸皇子が頭よくて才能があったからという
ことになっているので、他のひとじゃ摂政がつとまらなかったと、そういう
ことだろうよ。 それに厩戸皇子は、没後前には、もはやほとんど実際政治に
かかわっておらず、信仰に没頭し、夢殿にこもっていたと、伝承はつたえて
いるので、当然、実際政治のうえに、混乱はほとんどなかったろう。
推古天皇も、完全に馬子にコントロールされてたわけじゃないだろうが
ほとんど馬子のいうこと聞いてたようだね。 確か「今まで私はなんでも
馬子のいうこと聞いてきたが…」という風な発言をしていたね、推古天皇は。
>>347 膳部ってことは、料理がうまかったのかいな。 蘇我氏と疎遠だったわけだ
厩戸皇子の晩年は。
350 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:39:15.75
>>349 晩年、厩戸皇子を政治から遠ざけても何も問題が起こらなかった、
つまり摂政などいなくてもなんら政治に支障がなかったということだよね。
葛城県割譲要求の際に、推古天皇は「(馬子)大臣は私の舅(叔父)であるから、
言うことはなるべく尊重してきたが・・・」みたいなことは言っていたが、
馬子に政治を代行させて報告もさせてなかったとも言ってないよね。
さまざまな政治案を提案するのは馬子だったかもしれないが、
政治決定権は推古天皇にあった。
>>350 >つまり摂政などいなくてもなんら政治に支障がなかったということだよね。
そりゃ太子の後半生だけみてりゃそう思うかもしれないが、前半は
いろんな政治改革やってるわけでね。 憲法制定したり、冠位を
つくったり、遣隋使をおくったり。 これらの業績を太子に仮託するならば
太子が摂政にあったとでもしない限り、辻褄があわないだろう。
まあ、憲法制定や冠位の制定は、そもそも太子の発案なのかという
問題にくわえて、もっと後代につくられたのではないかという問題も
あるな。 しかしまあ、遣隋使の派遣は、年代的に確定していると
いえるので、このような外交における大きな政策転換があった同時期に
内政面でも大きな政策転換がともなったと考えるのは不自然では
あるまい。
>馬子に政治を代行させて報告もさせてなかったとも言ってないよね。
というか、政治を代行してるのは太子という建前になってたからね
書紀において。 馬子のポジションってのはどんなんだろうな。
類型としておもいつくのは、闇将軍とかそういう表にでてこない
裏から権力をあやつる裏ボス、近い例でいえば田中角栄みたいな存在?w
推古天皇が皇位についた経緯というのも、馬子が推したから
皇位につけたようなもんでしょ。 馬子の推挙なかりせば
推古天皇はそもそも天皇になれなかった。 となると馬子と
推古天皇の力関係がどうであったかも、おのずから
推し量れようというものだ。
353 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:02:39.05
>>352 穴穂部皇子は天皇になろとして炊屋媛を犯そうとしたという記述があるよ。
天皇決定権が先代敏達の大后である炊屋媛にあった証拠。
馬子に決定権があるなら、穴穂部皇子は馬子の娘でも犯してたろ。
354 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:07:43.04
>>351 十七条の憲法は後の時代の言葉が使われるなどあの時代の実物である保証はないよ。
冠位十二階、遣隋使も馬子や推古天皇の政策ではない保証がどこにある?
記念すべき第一回遣隋使(西暦600年)のことは中国史書には記録が残るのに
日本書紀ではすっとばされている。
有名な小野妹子を遣わしたのは厩戸が飛鳥を去り斑鳩に移住した後。
推古と太子は脚色された架空の存在なんだよ。
>>353 馬子の娘を犯したりしたら、かえって馬子の怒りを買うだけで、なにも
いいことないじゃないかw 意味不明だろそんなの。馬子という
権力者の怒りをわざわざ買う必要がどこにある? 穴穂部皇子が
馬子に殺される時期がますますはやまるという、そういう結果にしか
いきつかないだろうw
それに、穴穂部皇子が天皇になるためには、是が非でも炊屋媛を
犯さねばならないって、そんな前提条件ないし。炊屋媛があまりに
美人なので、犯したいとおもった、そっちが主な理由かもしれない。
穴穂部皇子と物部氏は、あいついで蘇我氏に滅ぼされて、蘇我氏には
もはやライバルはいなくなるわけだ。政争の過程をみれば、だれに
権力が集中するようになっていったかは、一目瞭然w
>>354 日中関係の外交記録で、日本史書にはなくても、中国史書にのってる
って、それはある程度信憑性あると考えていいんじゃないの。
日本資料が全面的に信頼できて、当時の中国史書はまったく信頼
できないとするならば、遣隋使の記録は後世の捏造であると
いえるんだろうが。
それとも日本書紀の筆者には、遣隋使の記録を記録したくない
何か特別な理由でもあったのかw
>>350 そうすると幕末の長州藩主は家臣の提案には何でも「そうせい」と答えるそうせい公だが、
お前さんの定義では桂も高杉も要らなかった訳だ。
359 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 23:18:46.87
>>356 日本書紀に穴穂部皇子は天皇になろうとして炊屋媛を犯そうとしたとはっきり書いてある。
美人と言っても炊屋媛はすでにこのとき敏達との間に7人もの子供を産んだ33歳の経産婦。
一方、穴穂部皇子は20代だったとみられいくらなんでも他に相手はいるだろう。
馬子に天皇決定権があるなら、穴穂部は天皇になるために
馬子に婿入りしようとするのが普通。
馬子が娘を献上してくれないなら犯して妻にすればいい。
360 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 23:21:19.37
>>357 だから、日本書紀側がおかしいと言っているんだよ。
中国史書の記す通り、600年の遣隋使は史実だろう(学会も同意見)
しかし、なぜ日本書紀が省いたのかと。
十七条の憲法の信憑性同様、
日本書紀の記述を全面的に信用できないと言ってるんだよ。
>>359 馬子は大王家の血筋じゃないんだから、馬子の娘と結婚したって
血統によるカリスマ、権威は得られないだろうw まあ、馬子の
娘と結婚すれば、有力豪族である蘇我氏の庇護がえら得るだろう
から、それは生き残るうえで利口な作戦だったかもしれない。
結局、排仏派の物部氏と穴穂部皇子はくむわけで、あとから
みれば、蘇我氏とくんどきゃよかったのにと思えるが、それは
単なる結果論なわけでねw 物部氏のほうが勢力強いように
おもえたんだろうな当時は。
穴穂部皇子が炊屋媛を犯したところが、すでに用命天皇が
擁立されてるわけで、用命天皇を廃して、自分が天皇になるためには
武力で政権転覆はかる必要がいずれにせよ避けられなかったんじゃ
ないか? 本当に穴穂部が天皇になる気だったのなら。
>一方、穴穂部皇子は20代だったとみられいくらなんでも他に相手はいるだろう。
ひとによって好みはいろいろだからねえ。 穴穂部皇子はきっと
年増の未亡人が好きだったんじゃないかw
>>360 そりゃー、全面的に信頼できる記述なんてないさ。 記述の
信頼性は相対的な問題だし。 しかし日本書紀がまったく
信用おけないって、そうともいえないよねw
君が日本書紀より中国の史書のほうが、より客観的で
より信用がおけると考えているのなら、遣隋使の派遣は
そのより信頼できる中国の史書に記載されており、信用
できない日本の史書には書いてないのだから、つまり
歴史的事象の信用性はより高まったわけだ。
結構なことじゃないかw
600年の第一回遣隋使って、国書をたずさえていなかったというね。
国書をだすようになったのは、第二回以降とか。
第一回のときのやりかたが、国書をさしだすこともしらない
蛮人のやりかたに見えるってんで、これは国の恥であるから
隠さねばと、書記の編集者が考えたとか。
おれ日本書紀の悪口言わない方がいいと思うよw
天体いくつあんだっていう
消え
365 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:12:28.21
>>361 炊屋媛を妻にした上で、武力転覆なら有利に思えただろうね。
穴穂部皇子は小姉君の子で、その姉堅塩媛を母とする炊屋・用明のほうが有利だったのだろう。
用明の大后は穴穂部の同母姉で、当時皇族の妃を得ることは重要だったから。
先代大后の後夫となることは皇位継承でも優位に働いた。
用明大后穴穂部皇女(厩戸の母)は夫用明天皇が死ぬと即
用明天皇の庶子(厩戸の兄)と再婚してるだろ。
366 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:14:28.97
>>362 遣隋使第一回の記述が省かれるなど、日本書紀の記述が正しくないことが
証明されているんだよ。
で、なぜそれが日本書紀の記述は信用できないわけじゃないことの証明になるんだ?
意味不明。
>>365 たとえ炊屋媛を妻にしなくても、用命天皇の政権を武力転覆
できたら皇位につけたろうよw しかし逆はなりたたないだろうな。
多少有利になるかもしれないといえ。用命天皇蘇我物部の戦争で
物部側が勝ったてたら、穴穂部が皇位につけたろう。 まあ、戦争の
前に蘇我氏に殺されてるんだが。
>>366 書いてないというのは、記述がそもそも無いということな
わけで、記述が嘘であるとか間違いであるとか、そういう話は
記述があることが前提なんだよw だから前提がちょっと
違うのさ。 記述がある第二回遣隋使については、記録が
あるから、どういう様子だったかわかるし、他の資料と
つきあわせることもできるわけだがな。
368 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 14:52:47.74
霧島から見える穴?から
韓国岳(ちんぽ)を突っ込んでいた「皇族」(春族)。
やべ〜
369 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 23:21:37.15
>>367 >用命って誰?
穴穂部皇子が大后炊屋媛の夫になったら、蘇我馬子も尊重せざるを得なかっただろうよ。
炊屋媛は馬子の姪で、この2人は協力タッグ組んでたんだから。
用明天皇を武力転覆するには蘇我氏を味方につけるのが一番だ。
それから、都合の悪い記述を意図的に丸ごと削除するというのは普通にあるから。
例えば、「続日本紀」からは殺されたはずの橘奈良麻呂の記述が丸ごと削除されている。
奈良麻呂が殺されたことを国家編纂の「続日本紀」が知らなかったわけではなく、
嵯峨天皇皇后橘嘉智子が、先祖の悲惨な末路を意図的に削除させたと言われている。
(別の史料により、奈良麻呂が殺害されたことが確認できる)
嘘や間違いがあった場合だけが意図的で、記事を丸ごと削除するのは意図的でないなんて
まったく文献史学を無視している。
>>369 しかし実際には穴補部は物部氏のほうについたわけでねえ。
名門の有力豪族だから、こっちについたところが間違いでは
あるまい。物部氏は蘇我氏を新興のなりあがりとして
見下していたような風もあるね。
>記事を丸ごと削除するのは意図的でないなんて
>まったく文献史学を無視している。
記事を削除するのは、削除しようとする意図があるから
削除するんで、意図があることそれ自体は否定しないさ。
たとえば奈良麻呂は本当は殺されたのに、自殺した、あるいは
老衰で亡くなったと記事に書いてあったら、その記事は嘘あるいは
意図せざる誤りによるといえるが、ただ筆者がそのことについて
書き記さず沈黙した、あるいは記事を削除した、それだけなら
嘘をついたことにはならないと、それがいいたいだけだよw
371 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 10:58:28.35
>>370 見下すも何も・・・
穴穂部皇子の母親は蘇我馬子の姉だし、物部守屋は妹を蘇我馬子の正室にしている。
物部が蘇我を見下していたなら蘇我系の皇子を担いだり、妹を差し出したりせんだろw
蘇我馬子の母方は名門葛城氏だったと推測されているし(葛城所領割譲問題)。
穴穂部皇子は叔父蘇我馬子の後見が欲しくて大后炊屋媛の夫になろうとしたが
炊屋媛から拒絶され、三輪逆処罰を馬子と守屋の2人に打診したにも関わらず、
穴穂部皇子のあまりの理性のなさにあきれた叔父馬子にもそっぽをむかれてしまった。
結果、穴穂部皇子は物部に頼るしかなくなってしまった。
遣隋使第2回目を第1回目として書いたのは明らかな嘘だろw
随書に載っている第1回目は実は用明天皇のときのことだったので
聖徳太子の発案とするために推古朝の第2回目を初回と
意図的に嘘を書いた可能性が高い
372 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:41:33.33
>聖徳太子って
蘇我馬子、入鹿、トルコ人、アマタシリヒコ、高市皇子・・・
一体あなたはホントはだれ?
>>371 >物部が蘇我を見下していたなら蘇我系の皇子を担いだり、妹を差し出したりせんだろw
そうかね? そうともいえないんじゃない。 書紀には、馬子と守屋がとても
仲悪いことを示唆する挿話がいくつかあるね。 守屋が馬子をあざ笑って
「雀のようだ」といえば、馬子はおかえしに守屋が身を震わせるありさまを
「鈴が鳴るようだ」とからかってみたり。むしろ仲の悪い実力者同士だから
こそ、対立が激化を抑えるために、妹を差し出したりするって、そういう
ことがありそうだよね。 他の例としてすぐに思いつくのが、十市皇女だな。
大海人皇子の娘であり、大友皇子の后になったが、壬申の乱では
父親と夫が争うことになったという。もちろん、蘇我と物部の場合も同断
だよね。だからさー、妹を差し出したからといって、物部と蘇我の仲は
睦まじかったなんて考えるのは、馬鹿げてるよねw
>>371 >遣隋使第2回目を第1回目として書いたのは明らかな嘘だろw
書紀の原文をみてみると
秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事
これを読むと、初めて使いを大唐に送ったとは、どこにも書いてないし
使いを送ったのは何回目とも書いてないし、以前に使いを送ったことはない
とも書いてないし、この文を解釈するだけじゃ、以前に大唐へ使いを
送ったことはないと断定するのは無理だろうよw
この文を読んでわかるのは、いついつどこへだれそれを
つかわしたって、ただそれだけでね。 それが何回目で
あるとか解釈するのは、書いてないことを無理に補わないと
読めないと思うんだよねw
みなさんは神様の正式名称をちゃんとよんでるの?
たしかにそれ読んでたら神様みたいな国語能力付きそうだけど
377 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 08:30:27.04
>>374>>375 ふうん?
じゃあ、遣隋使は聖徳太子の事績ではなく、欽明朝に最初にいったかもしれない、
敏達朝に最初に行ったかもしれない、ということを日本書紀が認めているというんだね。
聖徳太子の功績って何?
冠位十二階も十七条の憲法も聖徳太子と関係ない可能性が高いよね。
それ以前からあった可能性があるもの。
378 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 08:32:13.73
「最初に」と書いてないことってたくさんあるもんなあ。
冠位十二階も十七条の憲法も、「今、最初に決めました」とは
どこにも書いてないから。
聖徳太子が最初の摂政というのも嘘なんだね。
最初に摂政になったと書いてないから、用明や敏達の頃にも
誰か摂政がいたんだろう。
倭というか、邪馬台国の卑弥呼の時代からいるでしょ。
弟が女王を補佐して執政してるんだし。
>>377 >冠位十二階も十七条の憲法も、「今、最初に決めました」とは
>どこにも書いてないから。
憲法十七条や、冠位十二階を太子以外の誰かが以前に
定めましたって、資料が別にあるのなら、太子以外の誰かが
以前に定めたのであると推定するのはありだろうがねw
そういう資料が何もなけりゃ、書紀は憲法制定や冠位制定の
功績を太子に帰しているってことでいいんじゃないの。
まあ、憲法や冠位が後世に制定されたのではないかって
批判はあるが、その批判も決定的とまではいえないね。
だから、太子が書紀のいうとおり、憲法や冠位を制定した
可能性は以前あるだろうよ。
381 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 09:42:34.82
>>374>>375 「最初」とわざわざ書かなくったって、遣隋使の初出が2回目なんだから、
記紀はこれを初回として扱ってるんだよ。
他の初物もいちいちこれが最初です、なんて断ってないから。
そして、意図的に一回目を省いた。
お前の論理は無理がありすぎる。
>>381 初めて遣唐使を送ったと書いてあるのに、実は以前にも送っていた
ということがあったなら、書紀の記述はあやまりか嘘といえるが
ただ遣唐使を送ったとだけ書いてあって、以前にも遣唐使を送った
ことがあるならば、ぎりぎり嘘ついたことにはならんなw
383 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 12:13:00.07
>>373 守屋と馬子は仲悪かっただろ
ただし物部が蘇我を「見下していた」という証拠はどこにもないがね?
妹を差し出すのは相手が同等だと認めていたからだよ
明らかに生活レベルが劣る所に親族を嫁がせるかね?
384 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 12:18:23.30
>>380 たまたま遣隋使に関しては第一回目が中国の史料に残っていたからよかったようなものの、
中国の史料に書いてなければ第二回目が第一回目と結論づけられることになる。
ましてや冠位十二階や十七条の憲法が海外の史料に残されることなんてまずないよね?
おたくの言ってることの矛盾が分かるかな?
蘇我馬子は森喜朗のイメージ。
>>383 守屋が三輪逆を殺したあと、馬子が「天下の乱れは近い」と嘆いたのを
守屋が「汝のような小臣の知るところではない」と応答したって記録があるね。
小臣ってのは、馬子をさげすみ、みくだしたいいかただよねw
>>384 >ましてや冠位十二階や十七条の憲法が海外の史料に残されること
>なんてまずないよね?
そりゃ国内資料だからねそれは。海外に資料として残る可能性は
外国記録よか低いだろうよ。 まあ、海外資料として遣隋使の記録が
あるっていっても、それが正式の遣隋使であるか断定はできないね。
国内資料と国外資料で派遣したことが一致している遣隋使とちがって
当時の政府が正式な遣いとは認識していなかった可能性は依然として
あるわけでね。
汝小臣之所不識也って、日本書紀の補注にも、「馬子をさげすんだ
言葉」って、でてくるね。
しかしまあ、607年の遣隋使にしても、国書の内容が隋書には
載っているのに、書紀にはなぜか載っていないって、不審といえば
不審だよね。 その次の遣隋使のときの国書は、内容が書紀に
載ってるってのにね。
>>386 >小臣ってのは、馬子をさげすみ、みくだしたいいかた
ただの悪口だろ
馬子は守屋から雀に例えられるほど小柄な人だったらしいから
守屋という人は物部合戦の際にも馬子に嫁いだ実妹が兄に味方せず
情報を守屋に漏らさなかったらしい
身内にも見放される思慮のない人だった
390 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 01:35:11.34
曹操みたいだな馬子
>>389 注には、「馬子をさげすんだ言葉」とあるから、とりあえず注の
意見を採用しておくわ。
なんか書紀には実の妹が、馬子に守屋を討たせたって噂が
当時巷間に流布された、みたいに書いてあるね。
鈴付けたらよく鳴るだろうな。
393 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 20:06:42.27
>>370 蘇我は新興じゃないだろ?
武内宿祢の末裔なんだから
穴穂部も蘇我所生だしなあ。
>>393 武内宿禰は結構名がしれてるけど、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に
つかえ、年齢は200歳以上という正体不明の人物であるから、実在してるか
どうか疑わしいという説があるなw
それに武内宿禰から蘇我稲目までは、たいしたことやってないし
稲目、馬子の代から急速に勢力を拡大したとみれば、新興勢力と
いっていえんこたなかろうw
仏教という当時の最新思想を推したところも、なにか新興とよぶに
ふさわしい気がするねえ。
1,000人規模の村社会だったらどうだろう。
397 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 07:23:21.23
>>395 新興豪族がいきなり大臣となって欽明天皇に娘を差し出し
所生の子を天皇として即位させることのほうが無謀だと思うが。
蘇我稲目以前は何をしていた人たちだと思ってんの?
>>396 いつの誰についての話さ。
>>397 普通の豪族だったんじゃないの? 稲目以前は、あまり記録が
ないようだね。それが稲目、馬子と続いていくあいだに、非常な
有力豪族となっていくと。
蘇我氏は渡来系と関係が深いという風によくいわれるね。
稲目以前の蘇我氏には、韓子とか高麗とかいう名前も
みえるしね。渡来系の豪族であったのが、崇仏排仏論争で
もって、権力を壟断する立場にまで急速に上り詰めてった
って、そんなイメージだな。
蘇我は元々海人族、嶋大臣だからな。
当然半島や大陸との交流を持つ一族の末裔だろう。
はっきりいうと卑弥呼の周辺に繋がる一族であり、
積極的に仏教を受け入れるのは、道教の下地があるからだろう。
400 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 08:13:56.69
>>398 その「普通の豪族」という意味さ。
武内宿禰は大和王権に仕えていたが、それならば蘇我氏は
どこを本拠地として誰に仕えていたのか。
なぜ、欽明王朝のときに大臣にまで昇進したのか。
個人的には蘇我氏が朝鮮系渡来人だとは思っていない。
それは、馬子が葛城の地を先祖伝来の地として推古天皇に割譲を求めていること、
蘇我氏の飛鳥時代の本拠地飛鳥が葛城と隣接していることなどから
5世紀に天皇家と姻戚関係を結んだ葛城氏と関係の深い氏族だったことが分かるからだ。
また、朝鮮系渡来人は飛鳥時代にも頻繁に来ているが(朝鮮王の末裔である百済氏など)
日本の天皇家は大臣クラスの厚遇で迎えたことは一度もない。
>>399 嶋大臣か。蘇我馬子の家には池があって、そこには嶋があったというね。
池だけでもたいしたものなのに、さらに嶋があったとは、かなりの豪邸であるね。
馬子のときに、そこに邸宅を構えたということは確からしい。 豪邸を
取り壊すのがもったいないから、大海人皇子がそこに住み着いたり
したんだろう。
>>400 >どこを本拠地として誰に仕えていたのか。
大和の高市郡あたりを本拠地にしてたという説があるね。
他にもいくつか説はあるが、おおむね大和にいて天皇に
使えていた豪族なのではと思われる。
>なぜ、欽明王朝のときに大臣にまで昇進したのか。
欽明朝では、任那の問題が重要視され、仏教伝来という
重要なイベントもあり、対外関係が重視されて、渡来系と
関係の深い蘇我氏が重用されるようになったと想像
しているね俺は。
402 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 09:09:50.37
>>401 大和朝廷に仕える豪族だったのに記録に出てこないのはなぜかね?
渡来系だというなら、いつ渡来したかが不明w
しかも、仏教伝来のときに蘇我稲目はすでに大臣で欽明天皇に意見しており、
稲目の大臣登用は仏教伝来の前。
そして割譲問題の大伴金村失脚のずっと後だろう(金村失脚は継体朝)。
>>402 馬子に比較すれば記録が僅少ってだけで、全然ないわけじゃないさw
蘇我氏の祖であるという伝説的人物、武内宿禰については
書紀にあれこれ記事があるし、稲目の祖父にあたる蘇我韓子に
ついても、雄略天皇に命じられて、新羅征伐にむかったという
記事があるね。
渡来系というはっきりした証拠はないが、半島とかかわりが深かった
というのは、上記の記事からもうかがえるね。
>>402 稲目が大臣になったのは、仏教とは関係ない?
任那問題が議論され、対外関係が重要視されたというのは
否定しないんだな。 じゃあ、それが稲目が大臣になった
もっとも大きな理由と言うことでいいじゃないかw
405 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 10:05:54.29
>>404 お前の目は節穴かw
任那問題は継体朝だと書いてるじゃん。
しかし、稲目は継体天皇のとき大臣になれず、安閑・宣化朝でも大臣になれなかった。
稲目が欽明天皇のときに大臣になった理由にはならん。
406 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 10:08:32.23
>>403 対外征討の記事なら物部にもあるよ。
だったら、物部も渡来系なのか?
日本書紀には欽明以前に渡来系が来て大和朝廷につかえた記事は見当たらないし、
せいぜい、雄略天皇の妃として朝鮮媛が送られてきたことが書かれるくらいだ。
(家臣が奪って通じたため、処分されたが)
>>405 >しかし、稲目は継体天皇のとき大臣になれず
だからさー、継体朝で任那問題の取り扱いがうまくいってないと
感じられて、対外関係であらたな人材を登用することを迫られ
欽明朝で、稲目を大臣にしたんじゃないのw
>だったら、物部も渡来系なのか?
物部氏も欽明朝では対外関係にかかわっているが、あまり
手際がよかったようには思われないねw
つまり物部氏は名門豪族ではあり、国内の反乱鎮圧などにおいては
多大な功績があったが、対外関係には疎かったと。 こういう風に
想像できる。
>>407 下から二行目、 物部氏も継体朝では〜 の間違い。
410 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 10:44:18.92
>>407 なぜ継体朝では登用されなかったの?
で、安閑・宣化朝では?
大臣は内政の最高責任者であって、対外専門官ではないよ?
従来、葛城氏などの天皇の母系しか任命されなかったのに
史料に載せられないほど身分が低い蘇我氏が突然
ナンバー2の地位にまで上がれた説明になっていない。
>>410 >なぜ継体朝では登用されなかったの?
>で、安閑・宣化朝では?
継体を擁立したのは、物部氏や大伴氏で、蘇我氏はまだこのときは
たいした勢力でも無かったから、登用されなかったんだろう。
安閑・宣化朝でも、だいたい同様だったろうと想像できる。
で、任那問題がニッチもサッチもいかないんで、あらたな人材を
登用しないと、どうしょうもないと天皇が判断したんだろうよ。
>大臣は内政の最高責任者であって、対外専門官ではないよ?
内政だけじゃなくて、対外問題だって責任があるでしょ、大臣には。
ところで、当時は大臣だけじゃなくて、大連っていう役職もあり
物部氏がついていたのだが、大臣が大連をさしおいて最高責任者の
役職だったっていう資料はあるの?
412 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 11:05:25.51
>>411 無理があるよなあ。
そもそも、大臣は内政全体の総括責任者なのであって、
外征なんかどうでもいい。
欽明朝に朝鮮出兵や遣隋使をやったならともかく、外交上
日本側からの働きかけは一切ない。
大臣と大連は立場上は並立。
ただし、大臣は天皇の母方であることが大半で、
天皇に対する発言力は大連より高いことが多い。
>>412 >外征なんかどうでもいい。
へー、じゃあ、外政全般の最高責任者って誰なのさw
今の内閣総理大臣だって、内政の最高責任者であるが、外交問題全般に
おいても責任はあるんでね。 内政と外交の責任が完全に分離していたと
考えるほうが不自然だろうw
415 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 12:55:51.10
>>413 天皇だ。馬鹿たれ。
>>414 馬鹿だな。
日本の総理大臣は外務大臣出身者じゃないと駄目だと思ってるのか?
で、欽明朝に外征専任担当大臣になった蘇我稲目は
それまでの外征に疎い閣僚たちとは違って
どんな画期的な方法で海外と接したの?
>>415 へー、じゃあ、外政の最高責任者は天皇で、内政の最高責任者は
大臣なんだーw 内政には天皇、全然責任負わないっていうんだー
当時の体制において。 本気でいってんのw
天皇が仏像礼拝の可否をもとめたとき、稲目は仏像礼拝を肯定し
物部尾輿は反対したそうな。 仏教導入の可否は内政問題であると
同時に、外政問題でもあり、蘇我氏が仏教導入に賛成したことは
それまでに例のないことであるねw
>>415 日本の総理は外務省出身で無くても、外交関係における
結果については責任ありますが? まったく反論に
なっていないね、その主張。
418 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:35:52.93
>>416 天皇は内政と外政の最高責任者だね。
そもそも、蘇我が外政だと言い出したのはお前だろう?
で、能なしの蘇我は自分で故郷の朝鮮から仏像持ってくるでもなく、
百済王が仏像送ってきてくれるのを気を長くしてひたすら待ってたわけだ。
そして天皇に信仰しましょう!といったらあっさり欽明天皇は物部の意見を入れて
私は新興しないと言われてしまった。何のための蘇我外政大臣?
419 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:36:52.49
>>417 蘇我が外政担当だと言い出したのはお前だから、
最後まで自分の意見に責任を持ちましょう。
>>418 仏教導入については賛成意見もあり、反対意見もあり
天皇はそのあいだで何度もゆれ動くわけでね。 蘇我氏が
一貫して仏教導入を主張していたことには違いないね。
あたらしく大臣になったばかりの蘇我氏が仏教導入主張しても
守旧派の反対が根強ければ、そう簡単に導入できる
わけがない。常識で考えろw
>>419 蘇我は外政に強いのを見込まれて大臣になったのではないか
とはいったね。蘇我が外政専門として登用されたといったことは
ないねw
421 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:49:12.08
>>420 常識で考えてないのはそっちだろw
そもそも新興の蘇我氏が大臣になったならそれこそ戦乱ものの騒動があるべきで
仏教導入失敗程度の騒ぎじゃないだろ。
朝鮮勢力が天皇の母方がなるべき大臣に突然なるなんてありえないし。
422 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:51:04.89
>>420 これまで何の実績もない小豪族だった蘇我氏が
朝鮮系渡来系であることを理由に欽明天皇に大抜擢を受けたのであれば
肝心の外政で天皇の支持を得られないのでは何もならない。
で、能力による自由な人材登用ってこの時代にありましたっけ?
>>421 まあ、武内宿禰の時代はおいておくとして、それ以降、稲目の時代に
初めて大臣になったというならば、新興という形容はそんなにおかしく
ないだろう。
>>422 そりゃー、天皇に能力あると見込まれたなら、抜擢される可能性は
あるだろうよ。
じゃさー、おまえさんはなんで稲目が欽明の代に大臣になれた
っておもってるのよ。 その理由は?
425 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:57:23.75
>>423 蘇我以外に能力によって登用された例を挙げろ。
そういう例が散見されるはずだよね?
実際には血族登用しか行われていないけど。
426 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:59:59.18
>>424 だから、天皇がほかに抜擢した例は?
天皇に近侍している豪族たちなんて蘇我を除いて
河内王朝の頃からほとんど変化がないんだがね。
で、蘇我が大臣になれた理由。
蘇我氏が葛城氏の支族だったからだよ。
推古紀に書かれてあるだろ?
427 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 20:03:48.04
>>423 そんなに帰化人好きなら東漢氏のほうが適任じゃないのか?
こっちはバリバリの学者軍団。
外政にも強そうじゃんw
>>425 蘇我氏にしても、まったくどこの馬の骨かわからないのを
能力のみで登用したわけじゃないからね。血筋はそれなり
だったわけでね。
血筋がいくらよくても、失敗すれば責任を問われることが
あるのでね。任那問題の失政で、責任をとわれて失脚した
豪族もいたね。 そういう風に以前の有力豪族が失脚して
いけば、新しい有能そうな連中を登用するしかなくなるだろうw
まー、仏教導入を主張した氏族って他におもいあたらないし
そういう点においては、蘇我氏って例外的な氏族といえるんじゃ
ないの?w
429 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 20:05:12.17
>>423 継体朝に来日した五経博士というのもいる。
大臣が帰化人枠ならこちらこそ登用するべきだよね。
>>426 はい? 蘇我氏が葛城氏の氏族だからなれた? そんなら
河内王朝のころから、蘇我氏は大臣になれたはずだが、なんで
欽明朝のときにいきなり大臣になったの?
>>427 帰化人は別にとりわけて好きじゃ無いぞw 大臣が帰化人枠だなんて
主張したことは俺は全然ないが。 渡来人と関係が深いのではないかと
いったことはあるがね。
431 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:16:49.22
>>430 とんでも説のやつ・・・
蘇我は葛城の傍系で主家がほろんだから大臣になれたんだろ。
雄略朝で葛城本流がほろんだ後、大伴氏が一時的に力を持った。
その大伴氏も継体朝で失脚したから葛城系の蘇我が再び大臣に返り咲いた。
小豪族が少々渡来人と血縁があったか仲が良かったかぐらいで
天皇が自由自在に大抜擢して大臣にするなら、皆渡来人の嫁持つわw
432 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:18:36.88
蘇我氏は欽明朝の頃から物部氏を凌駕がするくらいの
土地と軍事力をすでに持っていたからね。
貧しい小豪族が天皇の慈悲だけを頼りに登用されたなんてありえない。
>>431 >その大伴氏も継体朝で失脚したから葛城系の蘇我が再び大臣に返り咲いた。
大伴氏が失脚したのは、百済への任那4県割譲問題が原因という
じゃないか。 つまり対外関係の処理のまずさが原因なんで、後任は
当然、そこを補える人物でなければならんだろうw
稲目の嫁は渡来人だったのだっけ? 渡来系と関係が深い、海外事情に
通じている必須条件ともいえんだろうw 渡来人の嫁って。
>>432 >貧しい小豪族が天皇の慈悲だけを頼りに登用されたなんてありえない。
だからさー、当時の国外事情に通じていることをみこまれたんではと
仮定をのべたんだがね。稲目が天皇と姻戚関係をむすんだのも
大臣になった後の話だろう。 だから天皇と姻戚関係があったゆえ
稲目は大臣になれたと述べるのは、順序が逆になるんじゃないか。
国外事情に通じていたというのは、つまり当時の海外ではみな
仏教をあがめているって話だな。 それが当時における国際的な
趨勢で、日本もそうするべきだって意見ね。そうすることが対外
関係を改善する根本的な方法であるって、そういう含みでものを
いったんだろう。
で、いろんな対立はあれど、結局仏教をいれるって方向に大勢は
すすんでいくので、稲目の言い分は間違っちゃいなかったw
>>433 稲目の嫁が渡来人だというのはお前の妄想。
そんな史料どこにもないよw
稲目は大臣になった後で娘を差し出したというのも不明。
欽明天皇は即位したのが31歳の時だから、
稲目が娘2人を差し出したのが先だった可能性も高い。
>>434 で、小豪族の蘇我氏はどうやって飛鳥時代に
物部氏に匹敵するくらいに領土を拡大したんだ?
小豪族が大臣や大連につけた例を挙げろと言っているのに
いつまでたっても例を出さずにすっとぼける。
>>435 >稲目の嫁が渡来人だというのはお前の妄想。
稲目の嫁が渡来人なんて、こちらは主張した覚えないんだけどw
誰もいってないことが君には聞こえるわけ? ちょっと病院に
いって診てもらったほうがいいんじゃないの? もちろん頭の方ねw
>稲目は大臣になった後で娘を差し出したというのも不明。
武内宿禰は別として、稲目以前には大臣になった蘇我氏はいないので
嫁をさしだしたのが前だろうと後だろうと、いずれにせよ、稲目の代に
天皇家とかかわりが深まったというわけだろうな。
>>436 蘇我氏は小豪族ではなく、普通の豪族だったかもね。小とか中とか大とか
比較の問題だし。把握する権力が大きくなればなるほど、財力も高まるのは
見やすい理でね。こんなの例をあげて説明するまでもないくらい、自明な
ことだと思うがねw 権力を握れば、利権の流れをコントロールできるので
みるみるうちに財がたまるって、あらゆる場所と時代で、似たようなパターンは
診られるね。
馬子のときに嶋の宮の大豪邸にうつりすんだというのは、蘇我氏に権力が
集中するようになるにつれ、蘇我氏の財力も大きくなったことを示す典型的な
エピソードだろう。
439 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 21:20:09.73
>>438 おいおい、この時代は朝廷からの扶持でまかなう公地公民制じゃないのでね。
豪族は自分の私領から上がる収入で生活していたわけだ。
自分の私領を広げるには戦争するしかない、
しかし、蘇我氏は戦で領土拡大した形跡がない。
後の時代の荘園制と勘違いしてるんじゃねえかw
440 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 21:25:14.38
>>438 頭がおかしい奴の相手してると疲れるなw
蘇我は小豪族じゃなかったかもしれない、
中豪族かもしれないし大豪族かもしれない?
お前、自分の主張全部破棄してるじゃねえかw
蘇我氏が大豪族の血筋だという説を必死に否定していたくせに、
今度は「大豪族だったかもしれないね」って馬鹿かw
441 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 21:27:01.63
>>437 再び自説否定。
蘇我氏が娘を差し出したのは大臣になった後だと自信満々に433で書いていたのに
どっちかわからなくなったみたいだ。
442 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 21:29:35.00
>>437 お前が稲目の嫁は渡来人だったのだっけと書いたから
それはお前の妄想だと言ったんだよ。
自分が書いたことも忘れる痴呆症かw
他人に病院に行けだと?
自分が書いた文章すら忘れる暴言を吐くくそじじいは2ちゃんねるで
遊んでるんじゃねーぞ
>>439 蘇我氏は戦争もやってるね。確か蘇我氏が物部氏を滅ぼしたあと
物部氏の領地や財を入手したって記録も確かあったろう。 物部氏との
戦争によって、蘇我氏の財はますます大きくなったと。 間違いじゃ
あるまい?
>>440 平均的にみれば、大豪族の部類にはいるかもしれないが
物部氏などの政権中枢にいた豪族たちほどの大豪族では
なかったろう、っていいたかっただけさ。しかしまあ、豪族ってのは
一般的に勢力が強い氏族のことをいうのだから、小豪族とか
形容矛盾のような気もするなぁw
>>433 そういえば蘇我稲目が大臣になったのは、宣化天皇のときって
いうことだね。 稲目が天皇に娘を嫁入りさしたのは、欽明天皇の
ときだから、宣化天皇のときに稲目が大臣になったという記録を信じる
ならば、やはり大臣になったのが先で、天皇と婚姻関係を結んだのは
後ってことになるんじゃないか?w
>>442 それはおまえさんが、誰でも渡来人の嫁もつわw などといったからさ。
で、こっちは渡来人の嫁がどうしたとは全然いってないのに、そんなこと
いきなりいいだすから、渡来人の嫁について、何か知ってるのかと
考えて、突っ込んでみただけさ。
自分でいいだしたことにツッコミいれられて逆上するとか、まさに
逆ギレというのがふさわしいねw やはり精神的に不安定なようだ。
445 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:01:38.13
>>443 誰が物部合戦の後の話をしてるんだw
物部といえば大連を世襲する大豪族だ。
その物部に勝つくらいの私領を蓄えた方法はなんだ?
戦じゃないよねw
446 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:04:13.69
>>444 蘇我稲目は宣化天皇のときに大臣になってない。
で、自分のミスを指摘されたら「精神的に不安定」?
437の文章を読んでご覧。
痴呆症になってるのはお前のほうだね?
いいから、マジで病院へ行け。
447 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:05:19.83
>>443 >>444 しかし、こいつは昨日もそうだがすぐにレスを返してくるなあ。
2ちゃんねるに常に常駐しているニートっぽいな。
>>445 そうだなあ、大臣になってから、財力を着々と蓄えてきたんじゃ
ないかな。大臣の地位ともなれば、相当な財力が蓄えられる
だろうからねえ。 で、稲目の時代から馬子の時代になって
ようやく物部氏を滅ぼすことができるくらいの実力を身につけたと。
>>446 日本書紀には、宣化元年に「蘇我稲目宿弥をもって、大臣とす」とある
そうなんだけど。 今、宣化記が手元にないから確かめられないんだけどね。
>>447 おやおや、おなじみニート認定ですかw 別に常駐してるわけじゃないがね。
450 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:26:45.68
>>448 大臣になったら、給料が上がると思ってるだろ。
この時代は公地公民制でないことぐらい、小学校の社会科で習わなかったか。
豪族は私領から上がる税で暮らしていたのであって、
収入を増やすにはほかの豪族から土地を奪うしかない。
他の豪族だって生活かかってるのだから渡すわけがない、だから戦しかない。
しかし、蘇我は物部合戦まで戦をしていない。
大臣になったから給料が上がるわけじゃないんだぞ。
勘違いがひどすぎる
451 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:32:19.90
>>449 宣化紀についてはこちらで確認してやった。
稲目が宣化朝で初めて大臣になったことは認める。
しかし、宣化朝は2年4か月で終了だ。
だから、お前の主張する「稲目の娘が嫁いだのより稲目が大臣になったの先」
ということが決定づけられていない。
で、常駐しているわけじゃないならなぜ直行ですぐレスを返す?
気持ち悪すぎるんだが
>>450 大臣や大連になっても、なんにも旨みがなかったの当時は?
それなら、誰もやらんでしょ、そんな責任ばかり重い役職w
>>451 いやいや、宣化帝の時代は、欽明帝より前でしょ。 宣化帝の
時代に稲目が大臣になった、稲目が娘を天皇に嫁入りさせたのは
欽明帝の時代だった、みんな正しいと仮定すれば、大臣が
先なのは、当然正しいとなるわけだろうw
おまえさんだって、今は直行ですぐにレスかえしてるじゃないか。
鏡で自分をみて気持ち悪くなるなんて気の毒なw
もうオチたのかな〜 俺はちょっと外出するぞ。
455 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:31:24.12
>>452 この時代の豪族が天皇から給料もらったとでも?
何のために律令制度で公地公民をやったんだよw
456 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:33:25.03
>>453 欽明天皇29歳の時に宣化天皇即位
欽明天皇31歳で即位
宣化が欽明より後などどこに書いてある?
欽明天皇は29歳まで未婚だったと?
年齢的には稲目の娘との結婚が先でも全然おかしくない年齢だろ
457 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:36:30.31
>>454 蘇我が宣化以前、記紀にも描かれないような
活躍もしない+中央豪族との血縁もない無名豪族でありながら
大抜擢を受けた根拠がまだ示されてないw
100人の棟梁程度のやつがいきなり権力の中枢に登用されたら
数万の人を動かせる物部や大伴にさっさと滅ぼされてただろ。
蘇我稲目が当初から物部相手にでかい態度に出ることができた根拠がない。
あと、稲目の娘が産んだ皇子女たちは稲目の財力によって養われていたから、
蘇我氏は将来の天皇たちを養育することができる大富豪だったわけだ。
458 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:37:03.87
>>455 おまえの職業は、サラリーマン?もしくは公務員?
ちょっと教えて貰えないですか?その発想の貧困の出処が気になったので。
>>455 律令制以前は、公地公民じゃないから、豪族が土地を増やすのは
戦争以外の方法では不可能だって? そんなことあるかねえ。
むしろ公地公民時代より、もっと権力者、大臣や大連がいろんな便宜
はかるのは、簡単だったろうとも、おもってしまうがねえ。そもそも
公地公民の時代だって、私腹を肥やす役人はたくさんいたというのに
そうでない時代は、そんな役人いなかったって、そっちのほうが
信じられないよねえ。
蘇我馬子の代に、馬子が葛城の土地を譲るように、推古天皇に
要求して、断られたという話があるが、これはつまり別の土地
だったら、受け入れられる可能性もあったと、そういうことだろう。
馬子の望みはそれまで何でも聞いてきたとまで、推古天皇は
いってたしね。 何でも望みを聞くとまではいかずとも、便宜を
はかってもらえるだけでも絶大な効果ってあるよね。
>>456 >宣化が欽明より後などどこに書いてある?
逆逆、宣化が欽明より前なんだよ。宣化天皇は28代の天皇で
欽明天皇は29代の天皇だからねえ。
んで、宣化天皇元年に稲目が大臣になったと書紀にはある。
それで、宣化元年は536年と。欽明天皇が稲目の娘を妃に
したのは、欽明二年541年と書紀はいうから、どっちが先かは
年号が読めればわかるよね。
欽明天皇には妃が何人もいたので、稲目の娘を妃にする
以前は独身だったというのは、必ずしもそうとはいいきれないよねw
>>457 蘇我氏は、大臣になる以前から、物部氏に匹敵する、あるいは
それを凌駕する大豪族だったっての? まあ、そういう可能性も
あるが、なんら資料らしい資料がなければ、推測の域をでないよね
それも。 まあ、豪族であったにせよ、大臣になってから権力と
財力を拡大させていったのは間違いないだろう。
>>458 夜勤? いやはずれ。 思い込みが激しいよね。
>>459のひとも
君の発想が貧困だと指摘してるが、まったくそのとおりだよねw
>>460 蘇我馬子が推古天皇に割譲を迫ったのは
葛城が先祖伝来の土地だったからだと日本書紀に書いてあるだろ?
蘇我馬子がほかの土地を天皇にねだれば認められたなら
記紀からその文面を抜き出して書け。
文献読まずに妄想で「こうだったらいいな♪」っていう書き込みばっかりだな。
>>461 そう書いてあるだろ、文盲。
欽明天皇の前に2年4か月即位してたのが宣化天皇だから、
欽明天皇29歳の時だ。
稲目の娘の入内が後か先かは決定打とならない。
結局お前の言う「宣化天皇のときに稲目が大臣になったのならば、
欽明はまだ幼かっただろうから稲目の娘の入内が後」とはいえない。
29歳の欽明は複数の妻を持っていて当たり前だから。
>>462 天皇の皇子女は母方の財力によって養われたからね。
蘇我が零細豪族でも娘を入内できたと思ってんの?
まあ、零細豪族が大臣に任命されても他の大豪族たちが許してくれた
(蘇我はほかの豪族に攻められたりしなかった)
と妄想している僕ちゃんには思いつかないか
466 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 02:37:20.87
遣隋使、17条の憲法の後
はあまり話題にならない。
467 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:26:07.86
厩戸王といえ。聖徳太子などいない!
ちなみに厩戸王の史料上の初見は何?
>>463 蘇我氏の先祖は葛城氏であるといわれるが、葛城氏は大泊瀬皇子、のちの
雄略天皇のときに滅ぼされているので、葛城氏の所領もそのとき大王家に
ほとんど没収されたのではないかといわれてるね。蘇我氏がそこをほしがったのも
先祖の土地だったという意識があったからかもしれないね。
蘇我氏の発展過程について書かれた本を読むと、物部氏に追い落とされた大伴氏が
反物部、親蘇我になったので、大伴氏の支配地域に浸透するようになった、と
書いてあるね。蘇我氏は渡来人集団を支配し、財政管理においてすすんだ大陸の
方法をとりいれたといわれるね。それが蘇我氏発展の一因となったと。
まあ、蘇我氏の先祖が有力豪族の葛城氏であったことが確かだとして
有力豪族だったのは雄略天皇のころの話で、稲目のころまで大勢力を
維持していたとみるのは無理な話だね。
仁賢〜武烈で葛城氏系の王朝が復活したのが、蘇我氏の台頭の前提要因という
説もあるね。
蘇我氏が葛城氏であったのが、蘇我氏台頭の要因のひとつとはいえるが
それだけで蘇我氏の台頭をすべて説明できるかというと、これは疑わしいと
なるのだろう。 そもそも葛城氏の始祖である葛城襲津彦が対朝鮮の軍事
外交にかかわった人物として伝えられているので、蘇我氏が外来の文明文化の
摂取に意欲的であったとして、なんの不思議も無いな。
>>464 何言ってるのかよくわからんなw
宣化天皇のときに稲目が大臣になった、その次の天皇である
欽明天皇のときに、ひきつづき稲目が大臣になり、稲目の娘を
娶ったと書紀には書いてあるんだから、これをそのまま受け取るなら
稲目の大臣就任が先なことは明白なんだけど。
書紀には欽明天皇が稲目の娘をめとったのは欽明二年と書いてあるからね。
宣化天皇のときに、稲目がすでに娘を欽明天皇に嫁入りさせていた?
なんの証拠もないじゃないかw 欽明の年齢が29歳だったとか
宣化の時代にすでに稲目が欽明に娘を嫁がせていたという主張に
たいして、なんら傍証になりえないね。欽明が大王になったから
嫁を嫁がせる意味があるんで、欽明が大王になる以前から、稲目は
欽明に目をつけてたっていうの? それならそういう風に書紀が書いた
としても、別におかしなことはないが、そういう風には書いてないんでね。
>>465 新興勢力の蘇我氏は物部氏にくらべれば、ぜんぜん零細、劣弱であったと
俺の読んだ資料には書いてあるよ。
物部氏の勢力が浸透した地域は、四十四国九十一群におよび
完全に他氏を圧倒していたそうな。
蘇我氏の分布地域は、奈良時代の資料によれば、二十国二十八群で
あったが、物部氏との対決時代には、これよりもずっと少なかったと
推測されるのだそうな。
>>466 聖徳太子って、後半生はほとんど何にもやってないよね。
聖徳太子の功績を厩戸皇子に仮託する意図があるなら
後半生にも、いろいろ功績を付加しそうなもんであるが。
この点について、太子虚構説をとなえる誰かが納得のいく
説明をしてるんだろうか
>>467 「厩戸皇子」の初見は日本書紀だろう。
472 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 08:48:31.05
>>471 逆に聖徳太子の功績が事実なら後半生にも精力的な功績が並ぶでしょ。
実際には別人の功績を聖徳太子に仮託したから
最初の頃に集中して書いてしまった。
聖徳太子の功績として残ってるものはすべて、
天皇家に、明らかに国家主権がなかった時期に行われた善政部分だけ
を聖徳太子という存在がやったことにして万世一系のスタイルを守った、
言わば上書きした歴史としか考えられないであります。
>>472 別人って誰だろうね? 当時の人間で、そういう業績を太子に仮託された
可能性があるのは蘇我馬子くらいしか思いつかないが…
太子虚構説では、そもそも太子の業績のほとんどは、書紀の制作時に
捏造されたものだっていうんだから、太子に業績を仮託した人物というのが
存在しないわけなんだ。あとからいろいろ業績でっちあげるなら、全生涯に
わたって、満遍なく業績をちりばめるのではないだろうか、やはり。
>>473 記録にあらわれた太子の事績においては、太子は大王家の権力強化を
めざしてたね。それが善政か否かは別問題であるとして。
最初に制定したもので国が治まってるなら
大きくやることはないと思うけど
平和なんだもん
476 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 01:10:33.61
神教を弾圧し仏教を推し進めた実力者は渡来人かその血筋と見るべきだろう
477 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 09:49:40.44
>>474 十七条の憲法=のちの用語がつかわれており、推古朝のものではないとされる
推古朝にあったことが確実なのは遣隋使と冠位十二階
蘇我馬子のほか、推古天皇の施策も聖徳太子に置き換えられているとみられる
そもそも聖徳太子が完全政治代行するくらいなら聖徳太子が即位していただろう
聖徳太子が死んだ後、摂政は置かれなかったが、政治の混乱は一切ないのだし
>>395 昔の人は大変長生きで、倭姫は800年生きた仙女。
中国の本(仏教、列子など)で、人の一生の500倍の寿命がある天人とかかかれてるけど、あれもしかしたら実話かも・・・
中大兄皇子も長い事即位しないで孝徳天皇の皇太子、更に斉明天皇の皇太子として実権を振るい、
斉明天皇の死後も皇太子として称制していたけどな。
480 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:32:34.52
>>479 長らく大化の改新に勝利した20歳の中大兄皇子はただちに政権を握り孝徳・皇極は傀儡とされていたが
近年の研究では乙巳の変に軽皇子がかかわっていた説が強い
つまり乙巳の変に勝利し正当に皇位についた孝徳天皇は傀儡ではなく政治の実権を握っていただろうということ
続く皇極天皇も68歳という高齢ながら息子らに任せることなく白村江の戦いで自ら筑紫に出兵していることからも
中大兄皇子の傀儡政権だったとは言い難い
皇太子制度確立が確認されるのは天武朝の草壁皇子以降
>>475 太子の時代はそれほど平和とはいえないね。内紛があったし。
>>477 >十七条の憲法=のちの用語がつかわれており、推古朝のものではないとされる
十七条憲法に対する用語からの批判は、津田左右吉と森博達がやってるそうだね。
津田の批判は、「国司国造」という制度は、推古時代にはなかったんじゃないかって
批判ね。これについては坂本太郎が反論してるそうで。
森の批判は十七条憲法には倭習が強い、正格で立派な漢文とは言い難いってんで
だから太子の書いたもんじゃないと。十七条憲法の漢文がとても立派なものだって
いった学者は、確かで吉川幸次郎で、森の説は吉川の説を通説の代表とみなして
おり、それへの批判といえるか。しかしまあ、倭習が強い、漢文に間違いがあると
いうだけじゃ、憲法の本文は8世紀につくられたと証明された、とまではいえないね。
>>478 初期の天皇も非常に長生きしたことになってるね。欠史八代の天皇とかね。
非常な長生きした伝説上の人物というと、初期の聖書に伝えられている人物
なんかもそうだね。
>>477 >そもそも聖徳太子が完全政治代行するくらいなら聖徳太子が即位していただろう
聖徳太子が摂政になったとされる時点では、誰が即位するか決める決定権を
もっとも多くもっていたのは馬子だったろうからね。聖徳太子が自分で即位したいと
おもっても、決められないだろうそれは。聖徳太子を摂政に推したのは、おそらく
推古天皇で、蘇我氏の勢力に対するバランスをとるために起用したと、書紀の
記述からは、そんな風に印象される。太子と馬子は協力して政治をおこなって
いたが、微妙に一致しないところもあったと、そういう風にいわれるね。
>聖徳太子が死んだ後、摂政は置かれなかったが、政治の混乱は一切ないのだし
蘇我氏をめぐる政治的混乱というのは、太子の死後もあったでしょ。太子の一族が
蘇我氏に滅ぼされたとか、あるいは大化の改新において、蘇我氏が大化の改新で
権力の中心から追い落とされたとか。摂政という制度も、蘇我氏をめぐる権力
バランスの変化の中で要請されたひとつの制度という風にみえるね。
推古天皇の前に即位した崇峻天皇は、馬子のいうこと聞かないので
馬子に殺されて、その死体は放置され、誰にも埋葬されたなかったと
いう話があるね。あれも馬子の権勢を示す挿話であるね。
つまり天皇より馬子のほうが権力もってるってことを内外に
示すことになるわけだな。崇峻天皇の死と推古天皇の即位は。
馬子がそれほど絶大な権力をもっていたのなら、なぜ馬子自身が
天皇家を廃して、名実ともに最高権力者にならなかったのかって
疑問が湧くが、いくら馬子に絶大な権力があっても、それをやれる
ほどには、他の豪族からの支持はなかったってことだろうな。
485 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:11:39.41
>>484 藤原氏が天皇を挿げ替えることができるほどの権力を持ちながら
天皇をほろぼしてなり替わろうとしなかったのと同様
>>485 藤原氏、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏と続く日本史における
権力者のプロトタイプといえるかな、蘇我馬子は。
487 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:15:31.66
>>482 誰が天皇になるかを決める権限をもっていたのは馬子ではなく、大后炊屋媛。
穴穂部皇子が天皇になろうとして炊屋媛を犯そうとしたという記述からもそれが分かる。
そもそも、厩戸皇子って、物部合戦では蘇我馬子配下の武将の一人として出陣し、
蘇我馬子の娘を娶ってた人だよ?
義父である馬子の独裁を止めるために推古天皇が起用したっていうのがありえないわけで、
ずっと馬子の庇護のもとで育った人。
488 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:26:31.76
>>482 >蘇我氏をめぐる政治的混乱というのは、太子の死後もあったでしょ
推古朝における政治の混乱を言っているのであって。
聖徳太子が実質的な天皇であり執政者ならばそれが死ねば
代わりの摂政をたてなければならないが立てられていない。
厩戸皇子の子山背王は舒明天皇との天皇位争いの末殺されたのであって、
この人が推古朝で政治代行していたわけではない。
>>487 崇峻天皇も推古天皇も馬子に推挙されて天皇になったとされているので
馬子の推挙なかりせば、天皇になれたとは思えないね。
大后炊屋媛が誰が天皇になるか決定する権限をもっていたら、崇峻天皇が
即位するまえに、自分が即位することを決定するんじゃないかw
聖徳太子が蘇我氏に近くなければ、そもそも推挙の時点で蘇我氏の
賛同を得られないだろう。推古天皇自身も蘇我氏に近いから推挙されたので。
推古天皇は馬子の姪ではあり、馬子に推挙もされて、ほとんど馬子の
いうことを聞いてきたが、完全ないいなりというわけでもなかったらしい。
ってことは、太子が蘇我系だから、馬子とのバランスとれないってことも
ないだろう。
490 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:28:22.43
>>481 「隋書」に冠位十二階と遣隋使は触れられているが
十七条の憲法には触れられてないからねえ
日本書紀=全部史実だとすると神様も史実になりそうだ
>>488 摂政としての太子は後半生には実質的な政治活動なにもやってないから
つまり摂政が廃されたところで、実務上はなにも問題ないだろう。
太子の後半生は馬子とうまく協調できなくて、実際の政治活動から
遠ざかったという説もあるね。
>>490 遣隋使が隋書に載ってるのは当たり前で、遣隋使がどのような地位の
ものかを示す必要もあるだろうから、冠位制度について載っていても
不思議はないな。 十七条憲法については、隋書に載っていてしかる
べきという根拠は、遣隋使や冠位制度ほどは自明ではないねw
日本書紀は全部史実ねえ。誰もそんなことはいってないが。
史実もあれば、あやしい部分もあると。そしてそれらは学説の
変化にしたがい変わっていくと、それが常識的な考え方では
ないのかなw? 十七条憲法の作成が史実ではないというのは
まだ確定しているとは言い難いだろうよw
神々についての話は、事実性の問題についてはおくとして、そのような
伝承があったということは、どうやら確かではないか。
まあ、伝承がいつ誰によってつくられたかについても論争はあるね。
日本書紀の時代に大幅に編集されてつくりなおされたか、伝承は
もっと以前の時代から伝わってきたものと、それほどの違いはないと
考えるべきか。 神話の伝承をめぐる議論は、ここがもっとも大きな
争点といえるだろう。
まあ、神話伝説の編集は太子の時代には既にはじまっていたという
話もあるなぁ。 天皇記、国記の編集は太子の時代になされたと
書紀はいうね。
495 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 10:54:50.08
>>492 神話はともかく、孝徳朝の「改新の詔」あたりは実話だと思ってるんだろうな。
十七条の憲法が史実だという意見は主流ではないということを言っているだけで、
「十七条の憲法は間違いなく史実ではないことが確定している」なんて一言も言ってないんだが?
「隋書」に冠位十二階が載っていることをどう説明するんだろうね?
憲法なんてものがあるんだったら、日本は真っ先に隋にアピールしたと思うが。
496 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 10:56:16.31
>>493>>494 神話は限りなく史実に近い伝承で
淡路島はイザナギとイザナミの最初の子供だと信じている話は分かったよ
何回にも分けて連投するほどのことでもない
>>495 >十七条の憲法が史実だという意見は主流ではない
俺は史実でないとの意見が主流だということすら怪しいとおもうがw
主流とか傍流とか、見方次第でどうにでも変わるからな。
十七条憲法が史実でないことが確定していないなら、史実である
可能性はあるわけだな。じゃあ、史実であると仮定しても、それほど
その仮定は不合理とはいえないね。
>憲法なんてものがあるんだったら、日本は真っ先に隋にアピールしたと思うが。
たとえば隋の人間が、倭の使者に自国での地位を聞いたりしたとき
倭ではこういう風に位階性で地位を決めてます、と答えたので、その
ように隋書に書いたのかもしれないな。 倭から積極的に位階性を
アピールしたから載ってるとは必ずしもいえないんじゃないかねえ。
倭に憲法があるかどうかとか、隋の人には興味がなかったから
質問もしなかったと。こういうことも考えられるねw
憲法があるならアピールしたはずだ、ってそれはやはり
あやしいな。 法律制度、律令制度によって政府が運営される
ようになるのは、もっと先の話で、憲法つくったからって
それにもとづき当時の政府が運営されたかというと、これは
誰でも疑問を抱くのではないかな。
>>496 日本列島はイザナミイザナギが混沌をグルグルかき回して
つくりあげたって、現代の日本人だって大抵誰でも知ってるよねw
これが伝承ってやつだね。
位階制位階制と… IMEに覚えさせておこう。
501 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:09:25.03
たんにサヨクな奴が否定したいだけだろ
502 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 18:55:31.79
>>497 天皇の権限を取り上げる摂政がいたというのは
それこそ左翼的な発想
504 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 01:36:22.19
新羅系の秦氏が太子と親しくしていた
屯倉が太子時代にしばしば設置
遣隋使や冠位十二階・憲法十七条で天皇の権威高揚
天皇を尊ぶ宮廷儀式の導入
蘇我氏の政治じゃこんなことしないだろ?
なんとなくのイメージだが、
聖徳太子は安倍さんに重なる俺的に。
506 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:34:57.22
>>474 聖徳太子の事績って書かれてあるのは史料の上でも十七条の憲法だけだよ。
冠位十二階は、日本書紀では誰が作ったか主語が書いてない。
上宮聖徳法王帝説では大臣が天皇と共に授ける側に回っていることから(冠位の上)
蘇我馬子の関与が言われている。
ちなみに冠位十二階は推古11年だが、「日本書紀」の記述により
推古8年に聖徳太子は天皇や馬子のいる飛鳥を離れ不便な斑鳩宮に移っており、
政治力を失っていたとみられても仕方がない。
507 :
506:2012/09/30(日) 16:39:26.62
遣隋使も、「日本書紀」に主語がなく誰が派遣を発案したのか書かれていない。
「日出処の天子・・・」の有名な文書は子供向けの漫画や本で聖徳太子が作ったことにされているが
史料にはそんなことどこにも書いてない。
>>506 >聖徳太子の事績って書かれてあるのは史料の上でも十七条の憲法だけだよ
推古紀には、他にもいくつか太子関連の記事があるが、だいたい仏教関連の
記事だね。 仏像を諸臣に礼拝するように諮ったとか。
冠位十二階を太子が定めたという風にいわれるのは、太子が摂政になったとき
万機をゆだねられたと書紀に書いてあるから、それとの兼ね合いでだろう。
だから、推古朝の主要な事績には、太子が関与していたはずであると。
まあ、推古朝では太子と蘇我馬子が推古天皇を補佐して政治をしたと
いう風によくいわれる。来目皇子が筑紫で亡くなったとき、天皇は大いに
驚いて、聖徳太子と蘇我馬子をよんだと書紀には書かれているね。
天皇が重要な決定するときは、このふたりが関与していたということを
意味しているのだろうこの記事は。
それにしても推古紀では、太子の活動は伝説をふまえて、かなり詳しく
述べられているが、一方の重臣である蘇我馬子は何をやっていたのか
ほとんど書かれていないね。これはやはり太子を前景にして、馬子を後景に
押しやろうという書記編集者の意図があるのであろうか。
509 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:53:30.53
>>508 推古朝の政策はすべて聖徳太子がやったことなら、すべて主語抜きでもいいはず。
それなのに、寺を建てたとか仏教の講義したとか、十七条の憲法だけは
「皇太子」がやったとはっきり名指ししているんだよ。
意図的だよね。
冠位十二階や遣隋使はわざと主語を抜いて、誰がやったかを書かない。
後世の人が勝手に聖徳太子がしたことにしているのであって。
蘇我馬子や推古天皇の政策であっても史料的に矛盾はどこにもない。
>>506 >推古8年に聖徳太子は天皇や馬子のいる飛鳥を離れ不便な斑鳩宮に移って
書紀によれば、太子は推古9年に斑鳩宮を造営し、そこに住んだと
いわれるのは、推古13年だね。
>遣隋使も、「日本書紀」に主語がなく誰が派遣を発案したのか書かれていない。
書紀では太子は非常に頭のよい天才という風に書かれているから
ああいうオリジナリティのある文書というのは、当然太子が書いたはずだと
そういう風に考えられているわけだな。 太子はいろいろな学者について
学び、文才もあったから、当然、当時における重要な文書は太子が書いた
はずであると。しかしまあ、あの例の文書実は馬子が書いたとか、ありうる
かなぁ。馬子に文才があったって、そういう資料がないから、馬子が
書いたというようには、想定しないんだね誰も。
>>509 十七条憲法は太子が書いたが、他の政策は天皇と太子と馬子が
合議してやったと考えれば、別に矛盾はないだろう。
まあ、太子自身も十七条憲法で、重要な事柄は話し合って決めろと
書いているから、太子が当時における重要な施策をひとりで何もかも
決めたとは、やはり考えがたいんじゃないの。
>>510>>511 聖徳太子は同時に10人の言葉を聞くことができたとは史料にあるが
文才はないんじゃないの?
他に聖徳太子が書いたとされるものはないのだし。
重大な政策は合議制で決めろというなら、十七条の憲法も
合議で決めただろうしね。
>>512 何いってるの? 太子のことなんも知らないんだなおまえ。
太子は三経義疏を書いたと伝えられているのを知らないのか。
あれが本物かどうかについては、昔から論争があるが、太子が
書いたと伝えられてきたことは間違いないな。
つーか、
>>512みたいなことほざいて平然としてるとか
基礎知識がなさすぎるよねw
まあ、
>>512みたいのは論外。そもそも歴史を論じる資格がなさそう。
>>512-
>>515 連投御苦労。
三経義疏の漢文体と十七条憲法の和文体に共通点はないが?
三経義疏が書けたなら十七条憲法も書けたとかいう理由がない。
>>516 十七条憲法が和文体? ますますわけわかんないこといってるな。
あれは漢文体にきまってんだろw 和習があるとかって話なら
三経義疏にも結構漢文の間違いがあって、日本人の書いた漢文
らしいといわれることはあるがね。
それにおまえさん、こういったわな。
>他に聖徳太子が書いたとされるものはないのだし。
書いたものがないって話しかしてないじゃないか。和文体とか
漢文体とか、自分の間違いを後から取り繕うためにだしてきた
話だろうがw
十七条憲法が和文体とか、いったいどこの誰がそんなこと
いったのか、是非出典を示してほしいもんだねw
致命的な間違いを口先で取り繕ろうとして、ますますドツボにはまるって
典型的パターンだな。
書けば書くほど、頭の中身がお話にならないことをさらけ出す
>>516であった。もう寝たほうがいいよ。枕を涙の雨で濡らしてさw
>>517 十七条憲法については、森博達なんかは書記編纂時に挿入された創作記事の
1つとするんだよね。その根拠が、漢文としておかしいという点などにある。
倭習が多用されているからと言って、後世の創作という決め手にはならないだろうが、
ちょっと引っかかるね。
>>521 十七条憲法創作説ってのは、江戸時代の狩谷 ?斎にはじまる
そうで。それなりに歴史ある説であるね。 ?斎は、わざわざ
憲法の全文が書紀に引用されているのは、異例であり不自然で
あるとして、書紀の文飾であろうと考えたらしいが。
まあ、疑いがなけりゃ学問の進歩ってないから、疑わしい可能性の
あるものは、みんな疑ってみるのはいいことだよw
書紀が憲法を全文引用している理由というのは、書紀の記述に既に
顕著である太子信仰、太子崇拝の傾向の一環として捉えるのが
適切だろうと思うね。
書紀では、太子が亡くなったあと、諸臣から天下の百姓にいたるまで
父母を失ったかのように嘆いたと書いてあるが、天皇でもない一皇子の
死がここまで大袈裟に書かれている例は他にないものね。
でまあ、太子信仰の発生というのは、書紀以降の話か、それとも
書紀以前からあったのかという問題についてだが、やはり資料が
少ないし、なかなか断定は難しいとおもうね。
書紀以降に太子崇拝がおこなわれてきたことは確実といえるんだが。
>>523 森博達の分類によるとあの部分の原文は中国人が書いていて、当時の中国音に
対応した漢字を使用している。
しかし、太子関係の記述は日本人が加筆していて、使用する漢字が違う。
んで、十七条憲法も同様に倭習にまみれていて、加筆と見られている。
冠位十二階も同様に加筆と見られている。
歴史的事実なら加筆される以前の原文に書かれていて然るべきで事柄であること、
それらが大量に加筆されていることと、それが一定の見地からなされていること、
十七条憲法や冠位十二階を裏付ける木簡などが出ていないことなどからは、
後世の創作を疑う十分な理由がある。
けど、森さんは大山が嫌いとw
>>524 原文を書いた中国人は太子についてほとんど知るところがなく
太子を聖人にしたい誰かが、あとから太子関連の記事を捏造して
加筆したと。そういう可能性もあるが、すでに流布していた太子
伝説を書紀に加えることを望んだ倭の誰かが、太子関連の記事を
書いたとも考えられるな。
>歴史的事実なら加筆される以前の原文に書かれていて
>然るべきで事柄であること
太子関連の記事は歴史的事実というよりは、伝説にちかいものが
多く記されているからねえ。中国人にとってはどうでもいい伝説でも
日本人にとっては重要だと、加筆者が考えたのではないかw
冠位については、隋書にも記事があるから、単なる書紀における
創作とは見なしがたいだろう。
十七条憲法については、書紀以外の資料となると、上宮聖徳法皇
帝説くらいなのかなぁ。実質書紀以前の資料はないにひとしいし
十七条憲法が刻まれた木簡が簡単にでてくるとも思えないしねえ。
まあ、俺の印象からすると、書紀編集時に創作されたものなら
いろいろな先行文献からのつぎはぎがもっと目立つんじゃないかと
おもわれるなぁ。 儒典や仏典からの引用は、現行の十七条憲法にも
みられるけれど、先行の資料からそのまんまコピってきたような
文章はないんじゃないか。これはただの印象論だけどね。
>>527 俺も冠位十二階については、十分にあり得ると考えている。
王朝が続いていていれば何らかの職制があったはずで、雄略あたりから職制を
整えてきたという事実もある。
遣隋使を契機に中国風のアレンジをしたというのもありうる話である。
十七条憲法については、著名な学者が「美しい漢文」とか褒めちぎっていた反発で、
実は文法はデタラメで中国音にも沿わないことが、創作にまで拡張した面がある。
しかし、同時代の証拠はなく、その後に20条にしたり、一部を変えたという話もないし、
似たような訓戒を出した例もなく、引用されたものもなく、オーパーツ的な要素が強い。
>>528 十七条憲法がなぜ十七条なのかについては、陰陽の理に
もとづいているという、なにかこじつけめいた説を何人かの
学者が述べているようだね。
足利尊氏の建武式目が十七条であり、徳川幕府のつくった
公家諸法度が十七条なのは、十七条憲法を意識していたからだ
という説があるねw
これ書いとくよ
偉大な人物には複数の神が守護している。日本書紀の主語なしもそのへんじゃね?
狩谷エキ齊による上宮聖徳法皇帝説の考証はよんでないけれど
太子が十七条憲法をつくったということだけ伝わって、内容はその
伝承をもとに、書紀の編集者が創作したという可能性だって
ないこたなさそうだ。 まあ、書紀の編集者がいろいろ創作してた
可能性はあるにせよ、完全な無から有を創作したわけではなく
元になった資料が何かあったという可能性も十分ありそうだな。
それはきっと法隆寺を建てた誰かじゃないか。書紀には法隆寺を
誰が建てたかのはなぜか書いてないが… 太子以外で法隆寺を
建てた可能性のあるのは、やはり蘇我馬子くらいしか思いうかば
ないが…
>>531 法隆寺の僧侶に十七条の憲法のもとを作らせたというのはありそう
だいたい、日本で一番重んじなければならないのは天皇でも摂政でも大臣でもなくて、
「仏・法・僧」だなんて坊主が考え付くことでしょ
>>530 十七条の憲法は主語ありだよ
「皇太子(聖徳太子)」とはっきり主語が書いてある
一方、冠位十二階や遣隋使は主語なし
これは聖徳太子の施策ではないということだね
>>532 まあ、憲法の文章には、儒教的要素もかなりはいってるそうだから
当時の知識層が書いたことには間違いないだろうな。
>>533 主語がなくたって、誰かがやったことには違いないので、省かれた
主語の内容を考えると、それは当時の朝廷であると考えるのが
一番自然だな。 当時の朝廷の施策に太子がもし関与していた
とするなら、冠位十二階や遣隋使の施策にも、太子が関与していたと
考える余地はある。
まあ、遣隋使や冠位制度は実際には馬子の政策で、太子の時代に
蘇我氏が政策の主導権を握っていたことを、書紀の作者が隠したくて
主語を省いたとか、そんな可能性もなきにしもあらずだがね。
>>529 「皇室制度」「天皇制」「天皇家」などの造語を使う奴は100%韓国人だと思って間違いない
皇室は家ではない
したがって廃止も取り潰しも出来ない
これらの造語を使うのは「廃止」したがっている奴らだけ
聖徳太子が天皇になれなかったのは母親の穴穂部間人皇女が
景教(ネストリウス派キリスト教)徒の波斯人(ペルシャアーリア人、コーカソイド、白人)で
聖徳太子もハーフだから赤髪碧眼になっちゃって人種差別されてたからじゃないの。
間人(はしひと)はそのまま波斯(はし)人って事らしい。
皇族が白人と結婚するような事があったとして、白人っぽい顔したハーフを現代でも天皇にできるだろうか。
ましてや聖徳太子の時代は、飛鳥時代だ。
537 :
聖徳太子:2012/11/09(金) 23:12:50.51
「妙法蓮華経」という経典は、思うに、さとりに向かうあらゆる善をおさめとって、これをさ
とりを得るための一因となす実り豊かな田地であり、限りある寿命を永遠の生命に転ずる不死の
妙薬である。
釈迦如来がこの人間世界に出現された意義を述べるならば、まさしく、人びとにこの「妙法蓮
華経」を説いて、あらゆる善がさとりの一因に帰するという道理を身につけ、無二の大いなる仏
果を得させようと願われたからである。
しかしながら、人びとが過去世から積んできた善は微々たるものであり、かれらの心は無知で
あり、能力も愚かで劣り、五つのけがれがすぐれた教えを信ずる人となることを妨げ、六つの心
の覆いが智慧の眼を覆っているから、これらの人びとは、直接、一乗教の説くところの因果の大
理を聞く能力がないのである。それゆえに、釈迦如来は時宣にかなって、まず最初に、鹿野苑
(ミガダーヤ。現在のサールナート)において、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えをそれぞれ説き、人
びとの求めに応じた教えによってかれらにさとりを得させたのである。それ以来、如来は無相の
理を説いて、すべての人びとがこれを修めるようにすすめるとともに、ときにはまた中道を説
いて、それぞれの人を指導したのであるが、それでもなお各自の能力を考えて、三乗の教えによ
って仏果を得ることを説いて、人びとを仏道に入れるべく養育してこられたのである。
その結果、人びとは年月を経過するにしたがって、仏の教えを受けて修行したから、しだいに
かれらの了解が深まって、如来が王舎城(ラージャグリハ。釈尊当時のマガダ国の首都)で説法した
もうたとき、一大乗の教えを聞くに適する心を起すにいたり、ここではじめて、如来がこの世
に出現したもうた大いなるみこころにかなうこととなった。そこで、如来はあらゆる徳性を具え
た身体を動かし、みずから口を開いて、あらゆる善がさとりの一果に帰するという理<万善同帰
の理>を説き明かし、もって無二の大いなる仏果<莫ニの大果>を人びとに体得させられたのであ
る。
538 :
聖徳太子:2012/11/09(金) 23:13:50.06
「妙法」というのは、原語で薩達磨(サッダルマ)という。そのうち、「妙」というのは、粗雑を
絶ったという意味のことばであり、「法」というのは、この経に説くところの、あらゆる善が一
因となってさとりの一果を得る教えのことである。すなわち、この経に説く一因によって一果を
得るという一乗の教えは、かつてその昔に、さとりの因と果に関して粗雑なものを説いたところ
の、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えに比べて、はるかに超えてすぐれているから、「妙」と呼ぶ
のである。
「蓮華」というのは、原語で分?利(プンダリーカ)という。この花の性質は、花と実が同時に
実ることである。そのように、この経も原因と結果が同時に成立することを明らかにしており、
それは蓮の花と同じ意味をもっているから、蓮華が譬えに用いられているのである。
「経」というのは聖教の一般的な名称であり、仏のことばをたたえる呼称である。しかしながら、
「経」というのは漢語であって、原語は修多羅(スートラ)という。「経」の意味は、「法」または
「常」という。聖人の教えというものは、時代や民俗がどんなに移り変わっても、また賢人がつ
ぎつぎと世に出ても、その教えの是非を改めることができないから、、「常」といい、人びとにと
って守るべき軌範となるものであるから「法」という。
ところで、経典の題目というものは、名づけられた理由が必ずしも同じではない。ある経典は
ただ単に教理を題名としたり、また単に譬えを題名としたりしている。ある経典は教理と譬えを
ならべて題名とするものもあり、ただ単に人名を題名とするものもあり、また人名と教理をなら
べて題名としているものもある。いま、この経は上に「妙法」といって「法」をとり挙げ、下に
「蓮華」といって、「譬え」をとり挙げている。そして、「法」と「譬え」を二つならべて題名と
するから「妙法蓮華」というのである。この題名の原語を完全に記すならば、薩達磨分?利修多
羅(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)というべきである。
539 :
聖徳太子:2012/11/10(土) 14:45:30.70
和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、
悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たち
ともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのず
からものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の
最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法
理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうも
のだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。
王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は
地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよ
う。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君
主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)
の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の
和は自滅してゆくことだろう。
政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。
上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪を
おかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶
民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。
540 :
聖徳太子:2012/11/10(土) 14:46:01.89
官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。
1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえるこ
とが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中
になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞
きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての
道にそむくことである。
悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行を
みたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼ
すするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の
者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももってい
ない。これは国家の大きな乱れのもととなる。
人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢
明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世
の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。
事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が
出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、
いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。
官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅう
かけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、
はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。
541 :
聖徳太子:2012/11/10(土) 14:47:29.07
真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、す
べて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。
群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。
心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても
怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手
がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。
自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そも
そもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでも
ある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ
自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見に
したがって行動しなさい。
官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞は
かならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たち
は、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。
国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の
主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命
されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人
民から私的な徴税をしてよいものか。
542 :
聖徳太子:2012/11/10(土) 14:48:26.68
いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や
出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していた
かのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。
官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を
嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこば
ず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年
の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなく
ては国をおさめることはできない。
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心が
おきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果とし
ては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で
「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。
人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月〜
12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときで
ある。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなけ
れば、何を着たらよいというのか。
ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かなら
ずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれ
ない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
聖徳はイルカのことだよ
十七条の憲法を作ったのも、冠位十二階をつくったのも、初めに遣隋使を出した(600年)時に
、隋の文帝に、日本は神話などで政治を統治する未成熟な国として指導が必要との屈辱的な
扱いをされたから。
それで、リベンジでお寺や十七条の憲法や冠位十二階などを作って、小野妹子を隋に派遣した。
これくらいのことはしてもおかしくないし、なんで作り話という話が出てくるのか不思議。実際に
お寺(四天王寺、法隆寺)は残ってるしね。
547 :
愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/03/16(土) 12:07:39.50
リベンジしたのは倭王阿毎多利思比孤。
別種の附庸国・日本の聖徳太子は倭の冠位をアレンジして取り入れただけと思われる。
隋書倭国伝によると倭国では八十戸毎に伊尼翼を、十伊尼翼毎に軍尼を置き、軍尼は百二十人いた。
一軍尼は八百戸で、魏志倭人伝の小さな国の程度。律令制の郡に当たると思われる。
全体の戸数を計算すると九万六千戸となり、「十万戸ばかり」という記事とほぼ一致する。
軍尼の数は、宋書倭国伝で倭王武が上表した「毛人」と「衆夷」の合計121国ともほぼ一致する。
全国の589郡に比べると少なすぎるが、西海道・3島の99郡にはかなり近いようだ。
548 :
水銀厨:2013/03/16(土) 14:35:51.11
聖徳太子と推古天皇像は倭国の卑弥呼(もしくはトヨ)と
弟王をモデルにしているのは確実でしょう。
推古とは文字通り古きを推し量れという事。
じゃ、アマタリシヒコとは誰なのかというと、
個人的には実績を亡き者にされがちな彦人王子ではないかと思ってます。
勿論単なる妄想に過ぎない話ですが。
549 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 11:08:35.75
百二十郡は畿内じゃ多いし
阿蘇山もあるから九州だな
550 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:01:35.36
厩戸は出生不詳を意味する暗号
551 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:16:52.41
>>545 >>544はおかしくないよ。
蘇我入鹿・蝦夷親子の蝦夷って重臣にしては如何にもおかしいだろ?
本名では無く記述者が貶める為に創作した名前なんだよ。
聖徳太子と蘇我馬子(これも出雲風に聞こえるが北九州なのを揶揄した可能性有り)に照らして物部を弾劾し排除して権力を獲得した癖に物部の利権を乗っ取ったら何の事は無い、すっかり物部化した腐敗権利者ってね。
聖徳太子や蘇我馬子なんて名は後世のなでしょ。
553 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 15:59:44.67
アメタリシヒコは九州の王。
彼にはリカミタフリという太子がいたから聖徳太子にあらず。
554 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 16:03:55.60
>>552 だからそれそれw
やはり口伝が多かったし説教話に改変されがちだから、
反対勢力の後裔が編纂した場合になんかにはどんな名前付けられるか分かったものじゃないって事w
はっきり言って、仏教化などは、相当な力量と指導力がないと成し遂げられない。
聖徳太子的な実行力のある人がいないと時代は変えられない。
それを、いないというとんでも仮説をたてて、調子にのるのは愚か者のすること。
10人の話を同時に聴けるなどの神話的なことは、眉唾的な話として脇においておいて、当時の
日本は語り部のような人が宮廷にいて、古来からの昔話を口承で語り継いでいた。
口伝とか言うけど聖徳太子の時代にはもう文字による記録取りがとっくの昔にはじまってるんだよなぁ・・・
557 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:04:37.39
兄と妹がセックルした結果生まれたのが聖徳太子
馬子が貶められているなら、馬小屋の皇子もかなりのものだよ。
559 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:56:50.92
560 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:58:44.44
>>558 大胆な説では本当の皇子は幼少時に死去して居て蘇我氏中の出来の良い令子か奴卑がすり替わって朝仕したとすらされている
>>556 とっくに始まってはいるけど、ずっと後の天武天皇の時代まで口承が続いていたと古事記の序文に書いてある。
木簡出土例見ても7世紀第U四半期が最古で極少なんだよな。
第V四半期に増え出して、律令政治・文書行政への展開で第W四半期は激増する。
もちろん7世紀第T四半期に遡る文書の存在も無いとは言えないが、
まあこの時期「文字による記録」が日常化・常態化していたとは思えないわな。
口承をしている語り部は、めちゃくちゃ記憶力のいい人がなってたらしい。
564 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:56:56.12
金石文だと5世紀くらいからか?
565 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 23:14:20.89
明治は廃仏で始まって、太子が名誉回復したのはやっと戦後。
平成に再び失脚したから、研究は案外と薄かったり。
566 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 00:37:24.93
アマタリシヒコ・・・日本の記紀風な表記をすると「天足彦(命)」
567 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:58:25.84
太子は戦後は復権したが左翼は日本史には不熱心だし、右翼は天武派。
568 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:00:44.63
女性天皇の執政とか保守は遁走するからなw
569 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:18:00.80
>『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、
>記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されて
>いる。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、
>『古事記』を編んだ。
以下は『古事記』の天武天皇による序文
>帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、
>後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
これは、正確には序文ではなく、阿礼に誦習を命じた時の天武の意図を、
元明天皇の時に太安万侶が字起こししたということ。
口承しか存在しなかったということではないように読める。暗唱するというのは、
文書記録とは別の意義がある。
古事記が推古天皇で終わっているのは、これが聖徳太子の編纂した『国記』
(序文中の「旧辞」類に含まれる)が基盤になっているからであろうと解釈する。
『天皇記』は序文中の「帝記」、乃至は後代に伝わる『上宮記』に相当する。
元明天皇は女性天皇であるからして推古時代に思い入れがあった可能性
はある。
570 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:26:17.38
元明天皇の次の元正天皇も女性天皇であり、この時代に
日本書紀が完成した。
きっかけを作ったのは天武だが、今の形に文書化されたのは、
後の女性天皇時代ということだな。
571 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:46:51.68
太子の『国記』は古事記の基盤になっている可能性は高いが、
古事記そのものではない。古事記には、はやり天武の影が
濃い。
572 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:56:19.18
天武が稗田阿礼に誦習を命じた時点では、「旧辞」と「帝記」は
推古時代までで終わっていた。太子が基礎資料を作ったから。
だから稗田阿礼の暗誦は推古で終わる。
序文は太安万侶による上表文なので「天武天皇による序文」というのは正しくない。
「天武天皇の詔(みことのり)の概要」と書くべき。
諸家が所持する帝紀、旧辞に異同が多くなったのでそれらを照らし合わせ誤りを正して稗田阿礼に覚えさせた。
後から文書化するつもりだったが実行出来なかった、という事だったと思う。
あるいは漢文または不完全な日本語で書かれた難解文書の“正しい読み方”を稗田阿礼に覚えさせた、という説も有る。
574 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 15:39:39.81
日本語の書記読解の面倒な時代には、語り聴かせの
仕事というのはそれ自体、意味がある。
語り聴かせには、資料はまとまっている必要がある。
文書化の方は別に日本書紀として結実した。
古事記序文では、たまたま偶然に稗田阿礼という記憶力抜群の舎人が
いたので、天武天皇は特に誦習を命じた、ということで、この時代は口承
だったというようなことは何にも書いてない。
特に書いてないのはそれが珍しい事ではなかったからだ。
577 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:19:56.92
稗田阿礼は、能力で抜擢された特任役職みたいなもんだろ。
で、稗田阿礼の口誦を元明天皇がたまたま字起こしした。
これに肉付けする形で、資料を通史化したのが日本書紀。
肉付け?
書かれてる内容が結構違ってるんだが。
580 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:41:14.41
モモソ姫のところとか? 古事記では裸の女の子が
日本書紀ではお姫様に書き直されてる。
紙伝来の歴史から見る必要もある。
日本書紀によれば、推古時代の610年に高句麗の僧侶曇徴という
人物が渡来して、この人物は紙と墨を作るのが上手だったとある。
太子と馬子が『国記』と『天皇記』を奏上したのはそれから十年後。
それ以前にも紙も墨もなかったわけでもなかろうが。
582 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:39:53.39
天武天皇の在位は673-686年。
天武が川嶋皇子以下に資料整理(令記定帝紀及上古諸事)を
命じたのが681年。
別に天武が稗田阿礼に誦習を命じた時期は不明だが、同時期と
考えても何ら問題ない。
元明天皇が稗田阿礼の暗誦を文書化したのが契機となって、
通史の必要が感じられるようになった。で、古事記を基礎にして
日本書紀が編集されたが、元ネタがバレてしまうんで日本書紀
には古事記は一切、登場しない。
そこから古事記偽書説が生じる。分かりやかろう?
583 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:34:58.41
日本書記を完成させた舎人親王は天武の息子であるし、稗田阿礼の
仕事ももともと天武の命で為された。舎人親王が日本書記の基礎を
古事記に求めて何ら不思議なことはない。
584 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:08:05.34
稗田阿礼・・・ひえ・た・あれ。・・・日得た吾=日の本の実権を掌握したのは私でつよ。(笑)
>>578 日本書紀には「一書に曰く」というのが一杯併記されていて、基づいた資料が複数有ったらしい事が
判るように書いてあるので、それを全部稗田阿礼が記憶していたというのも考えにくい話である。
586 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:07:29.25
平城京の下には破壊された王族、もしくは
有力者らしき古墳が沢山あるそうだな。
まぁ色々歴史を書き換えてるのは間違いあるまい。
587 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:04:07.84
稗田阿礼は日本書紀でなくて古事記。
系図はなくなりやすいな。日本書紀の別巻も紛失されたし、
蘇我入鹿が討たれた時も『国記』しか持ち出されなかった。
588 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:07:22.32
『国記』救出についての話は古事記の存在も無視する日本書紀が
ソースだから真相は闇。
589 :
日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:31:59.16
国記と天皇記が蘇我本宗家にある云々の行は、
実は蘇我本宗家が倭大王家であったという事を白っと暴露しているのと同じ。
これら二書はいくら専横を極めた(とされる)とは言え一臣下が保有出来ない性格のもの。
590 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 09:47:46.43
太子は馬子の甥だろ。
生まれたのもたまたま馬子の屋敷。
聖「徳」太子だろ?徳島=阿波の太子だよ。
家康が何故徳川を名乗ったのか?
阿波を徳島に換えたか?は倭国の中心が阿波にあった事を知ったからに他ならない。
592 :
水銀厨:2013/03/27(水) 12:53:14.40
倭国伝にあるアマタリシコはアウキミ=アワノキミ、
なので聖徳太子で正解なのですよ。
太子が瀬戸内辺りに逸話を多く残してたり、
現法隆寺辺りの地名が阿波だったりとかね。
問題は聖徳太子の実像は誰か、推古天皇や
蘇我の存在はどうなるのか?という事でしょう。
正直この辺りの歴史は相当改変されているとしか思えませんね。
593 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:06:54.47
は?
倭国伝の太子はリカミタフリだろ?
ワカミタフリかもしれんが
この時代には太子くらい伝記のたくさんある人物はいないな。
595 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:40:29.38
隋書と日本書紀って、名前があう日本人がいないよね。
聖徳太子って実在でないなら
「日出づる処の天子より 」は誰がかいたの?
597 :
水銀厨:2013/03/27(水) 14:39:01.78
前にも記しましたが、隋と交渉していた実力者は
私は彦人王子という説をとりますね。
血統的に問題なく、広陵と呼ばれる程の墓を持つ権力者なのに、
聖徳太子が登場すると記録が皆無なのは妙ですから。
権力地盤が瀬戸内や大阪湾周辺、二上山周辺なのも色々ありそうです。
セルスレッド6の霊能者日記が終わったので、昨日から今日の朝にかけて私の前世の
〇〇〇〇を守護霊の最強の地球外生命体に霊視してもらった。霊視の結果、いろいろな
ことがわかった。いろいろな学説があるので恨まれそうなので具体的な内容は書き込みする
のがためらわれる。私は自分の前世を全部ではないがダイジェスト版で守護霊の最強の
地球外生命体にみてもらう予定。謎のある時代につぶされた寺への御参拝などいろいろ
みてもらった。〇〇〇〇も〇〇〇〇も霊能者になっている。ある時期からずっとみてもらった。
具体的に内容を書き込むと恨まれそう。霊能者になると自分の前世は霊視できる。
このスレッドを今から真面目にみる予定。
599 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:18:52.75
600 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:25:17.30
>>597 蘇我氏全盛期だぞ? 外交なんか担当出来るはずないじゃん。
これだから研究薄いってんだ。
601 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:25:54.49
基本的な資料の扱いも出来ないで歴史研究なんか無理だろ。
602 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:27:55.05
イデオロギーに目がくらんでるから当たり前のことが
見えないバカが学会で神様面してるだろ?
即位してから霊視した。霊視していろいろわかった。本当のことを書き込みすると
恨まれそう。私は本当に〇〇〇〇の生まれ変わり。霊視をして消耗してさっきまで
寝ていた。謎の側近がいるのもわかった(名前もかけるが書き込みできない)。
恨まれそうで書き込みできない。霊能者で自分を霊視してある説を主張して物議を
醸している人もいるらしい。とにかくこれをやると恨まれそう。
604 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 16:13:05.26
歴史の研究でなくてイデオロギー論争だからな。
今更、皇国史観やる気はねえよ。
605 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:35:51.20
今更、キチガイ史観押しつけんなコラ
一匹残らず地獄の永遠の火に投げ込んでやる。
この虫けらどもめ、許すと思うなよ?
606 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:40:00.53
天皇制ファシストは殺せ。
607 :
水銀厨:2013/03/27(水) 17:50:01.60
蘇我の全盛で実力者といったところで、
正確には馬子や蝦夷の墓でさえ断定出来ないんだけどね。
また彦人王子の血統は後々天皇家でも重要なのに
どんな人物かさっぱり記述がない。
物部守屋を討ったのも彦人王子の舎人なのにね。
この辺は色々改変や操作があるとしか思えないですな。
608 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:14:35.85
古代史の歴史上人物の大半は断定や特定化は難しい!
聖徳太子を無きものにしようとしているのは韓国朝鮮人・在日・団塊サヨだろ!!
意図が見え見え!
609 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:19:44.74
天皇制ファシズムで偉そうな面するのが、ヒルズ族?
殺せ命乞いはさせるな。
610 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:21:24.39
血の海を作れ
611 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:25:00.11
金融天皇制!
612 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:29:05.97
天 皇 制 が お 客 様 の 理 想 的 な
投 資 環 境 を 提 供 し ま す。
613 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:40:32.40
おまえらテンちゃん商法でぼろもうけや
救世観音
761年(天平宝字5年)の記録に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、
聖徳太子の等身像ともいわれて秘仏であったが、明治17年アメリカ人の学者
フェノロサと近代美術の先駆者、岡倉天心によって像を幾重にも覆っていた長い
白布が除かれ広く世に知られるようになりました。当時、この秘仏の白布をとる
ことは、聖徳太子の怒りに触れ、大地震が起こると言われていました。そして天心
とフェノロサが布をとるとき、法隆寺の僧たちは恐れをなして、逃げていったと言い
ます。
明治20年代は、24年の岐阜M8以後、5年でM7超が四回か・・・
〇〇〇〇の前世を霊視して歴史上の謎がとけた。なぜ聖徳太子が英雄と
呼ばれたかわかった。なぜいないとかいわれるか謎がとけた。
具体的には書き込みできない。〇〇〇〇の前世の霊能者セルスレッド6が
強い地球外生命体(固定された)のおかげで強くなったので延々前世を霊視した。
そのせいで歴史上の謎がとけた。珍説なので書き込みできない。
なぜいないといわれるかわかった。霊視でわかった事実で本当にわかった。
恨まれそうでつらい。凄いことがわかった。
地震は日清戦争の頃だが。
「怨念説」は別に某哲学者の創作でも何でもないわけだね。
617 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 02:00:57.86
ここは東の果て、日出処。
ふんふん…
618 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 09:10:18.36
エベンギ韓国朝鮮人が日本の文化歴史を崩壊させる悪性のウィルスだとはっきりしたな!!
奈良は土地を均す=平城になった訳だ。
つまり破壊された古墳類は何かというと‥
620 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 11:34:12.81
中継ぎで皇后から立てられた推古が36年もの間、在位すること
になった。以後、二世紀近くの間に皇極、持統、元明、元正、
考謙(称徳)と女性天皇の多い時代になる。
記紀神話もこの時代になった。太子は日本書紀でも評価は低く
はない。
621 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 12:22:17.10
腕力だけで物事を片付けようとしている内は、
文明というのは発展しないものだからな。
明治以後の万世一系の男根天皇制には
都合の悪い歴史ではある。
推古天皇の時代は武闘派の馬子と知性派の太子が
脇を固めてたからな。
最近の風潮を見ていても、柔弱なだけの女性リーダー
とかでは良いことはない。
太子信仰の高まったのは天武・持統時代。
太子色の薄まった時代だからか。
太子信仰の高まりは法隆寺再建の最中か。いや、仕方なしに
資料を引っ張り出した。
歴史学者の見方では随書で「日出処の天子」云々とやった多利思
比狐(タリシヒコ)は太子と考えて問題ないらしい。次期天皇
としての摂政は準天皇的な地位であると。
最近の推古天皇像はほとんど傀儡
容姿端麗で立ち振る舞いに乱れなし。晩年の太子もいない時
代に馬子の要求も蹴っている。
欽明に三男一女あり。敏達、用明、崇峻、炊屋姫(推古)。
欽明後に三人の息子が次々に皇位に就いた。後を継いで炊屋
姫は異母兄である敏達の皇后の地位から天皇になった。複雑
な時代だな。
627 :
水銀厨:2013/03/28(木) 18:46:17.06
推古天皇と国政を補佐する聖徳太子像なんて、
卑弥呼と弟そのまんまですよ。
二人共トヨの名が付いてるのも注意点です。
まぁ倭国古来の制度そのままですな。
628 :
日本@名無史さん:2013/03/28(木) 19:16:23.64
磐井の乱まで倭国は九州と見る。
実際には馬子時代だ。
推古天皇だって傀儡で36年もやれないだろうが。
630 :
水銀厨:2013/03/29(金) 09:01:03.15
倭国の中心は九州ではなく淡路島周辺が中心でしょう。
で、その辺りに太子の基盤があったはずです。
実際兵庫県たつの市に太子町、対岸の四国に厩戸の地名があったりね。
津波で流されるよ。
百済記では日本が朝鮮出兵しながら国家統一を進めて行った
らしいのが四世紀後半。
五世紀は倭の五王が宋に朝貢を続けてる。俗に応神朝って呼
ぶやつだな。応神は九州生まれの伝説がある。
五王の最後に当たる武、雄略のものと考えられる宋への上奏
文では支配下の百済に高句麗が干渉してくることで愚痴をこ
ぼしている。
雄略の名前が認められる金石文は関東と九州で見つかってる。
正史はこんなところか。太子の家系図と言われる『上宮記』
は、応神朝が途絶え
たのを応神傍系五代目の継体が継承したとしてる。
応神五代というのは倭の五王に倣ってるのか知らん。
磐井の乱は継体時代だな。
百済支配が弱くなっていた継体時代に、朝廷が朝鮮支配を挽
回しようと出兵したら九州で反乱が起きた。
当地の有力豪族であった磐井が新羅と組んで朝廷の出兵を阻
もうとした。
記紀では応神時代に西文首(書記担当の渡来人家系)の始祖
王仁が論語を持って来たとされる。それで金石文もある。
継体時代にも渡来人によって儒教が盛んになった。
応神 おうじん
王仁 おうじん
中国系の王氏が半島にたくさんいた時代だと。
ともかくも朝鮮出兵を始めたら渡来人が増えるのは自然な話
ではある。
古事記では応神から神話臭さが薄くなっている。
王仁は楽浪郡に多かった漢人豪族である王氏の出であって、
応神朝の五王が一世紀に渡って中国に熱心に朝貢し続けたの
もその影響か知らんね。
中国の記録での倭の五王の名前が中国風なのも、
漢人の影響の強い系統だからと考えられる。
漢人王朝説だな。
641 :
愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/03/30(土) 11:06:32.49
>>595 隋使の裴世清を迎えた「大礼哥多[田比]」は定説通り額田部(ぬかたべ)連比羅夫だろう。
「小徳阿輩臺」は定説がないが、恐らく阿倍鳥臣と思われる。
難波での歓迎行事に阿倍鳥臣は出ていないが、隋書と日本書紀では行事の日付にズレがあるので
飛鳥に入る十日前に、書紀に書かれていない歓迎行事があったのだろう。
難波に着いたときのことは隋書では「海岸に達す」のみで片付けている。
阿倍鳥臣の冠位は分からないが、物部依網(よさみ)連抱(いだき)が並んで出ている。
抱の冠位も分からないが、15年後の記事に小徳物部依網連乙等が出ているので
抱と阿倍鳥臣が小徳としても不自然ではない。
そんなわけで、7世紀まで九州王朝はちょっときついかな
と考えています。
642 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 01:31:06.45
このあいだTVでペルシャ人でゾロアスター教とかんけいあるみたいってやってた。
応神朝が断絶して朝貢も止めてたのを太子が対等の立場で
再開したのだね。
朝貢ではないから国内記録にも残る。
644 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:53:43.84
応神朝は朝貢してないけどね(^-^)
してないことにしてあるんだろ。
聖徳太子と言へば平家か。
天孫降臨で始まった皇統が余所の国に朝貢したら駄目だろ。
オーソリチーに傷が付く。
記録がないから書けなかっただけだろ。
卑弥呼は書いているんだから。
五王時代の中国史書は記紀編纂時には伝わってないから、
写すこともできなかった。それだけ。
アッハッハ、中国の記録の話してどーする?
記紀神話の時代の日本人には歴史を正確に残すという近代人
的な習慣がなかった。それは統治の具に過ぎなかった。
責めても仕方ないだろう。
あ、近代人おらんか。
スマンカッタ…
651 :
日本@名無史さん:2013/04/02(火) 11:48:30.92
テレ東の世界遺産ミステリーで竹中直人が案内してた。
聖徳太子の母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)ペルシア人。
ペルシャ語を専門とする大阪外大の名誉教授の井本氏いわく
はしの「は」とは漢音で「ぱる」、「し」は「しーぐ」、ぱる・しーぐ=ペルシャ人。
聖徳太子のいとこの蜂子皇子の肖像画は黒い肌にデカイ鼻でどうみても外人。
飛鳥の水落遺跡は水の仕掛けがササン朝ペルシアの首都ペルセポリスにそっくり。
これだけ証拠があれば間違いないですね。
私は霊能者で一日中いろいろ聞こえている。結界バリアー進化戦で最強の地球外生命体と
合体できるようになり法力戦で負けることは考えられなくなった。大宇宙の力で法力戦の防御
では圧倒的に強くなった。事情によりセルスレッド6の霊能者日記20がおとされ暇になり、ある
霊能者が自分の前世を守護霊に霊視してもらい話題だったので、私も守護霊の地球外生命体
に聖徳太子と御縁がある〇〇〇〇の前世を霊視してもらった。そうしたら教科書から消えたり
した事績などが霊視できた。霊視すれば聖徳太子は毎日ようにでてきていた(はじめから聖徳太子
とは呼ばれていない。新説だが聖徳太子とすでに呼ばれていた。〇〇〇〇は聖徳太子と途中から
呼んでいる。)私が霊能者として強くなったのでおかしなことがおこっている。聖徳太子はいなかったは
あきらかに間違い。地球外生命体の最強の守護霊が聖徳太子はみえていると言っている。
いろいろ消えた事跡は書き込みしたいが物議をかもすのが確実で書き込みできない。
本当は書き込みしたいがやめておく。誰にも言えないような秘密でつらい。本当に凄いことが
わかっている。蘇我馬子とも当然何度も会っている。これも地球外生命体はみえている。
私には言葉で最強の地球外生命体の守護霊が霊視の結果を教えてくれた。
寺や事跡が本当にでてきている。書き込みしたいがつらい。
霊視について。私の強力な地球外生命体の守護霊は現代の日本語は覚えた。
私の前世をランダムに霊視するとわからない日本語が多数でてくるらしい。
聖徳太子編についてはわかりやすい日本語を使っているらしい。私の前世は
セルスレッド6の霊能者日記に書き込みした。現代の言葉は元々奈良や京都の
言葉らしい。なにを言っているかよくわからないのも多数あるらしい。超人空海は
今にも通じる言葉をつかっているらしい。言葉のことがいろいろ今日わかった。
私が古典の勉強をしないとつらい可能性もある。〇〇〇〇の前世はなぜかわかりやす
かったらしい。今とは違うが意味はわかったらしい。私の強力な地球外生命体の守護霊
が言葉の壁について教えてくれた。田舎にいるのもあるのでなにを言っているかわからない
のがあるらしい。霊視の問題について述べた。私が英語を忘れたので私のイギリス編は
絵巻物しかわからないらしい。とにかく奈良や京都が先進国だったことがあるらしい。
霊視してもらってこのあたりのことがわかった。
霊視の言葉について。皇室の生まれ変わりについては現代の言葉に近いので霊視しても
意味が通じるらしい。天皇の生まれ変わりの霊能者が他にもいるらしく霊視をすれば
なにを言っているか守護霊がわかったらしい。現代の日本語は皇室が発祥の可能性が
高い。現代の日本語は何天皇かわからないが命令して普及させた可能性が強くないか。
現代の日本の標準語は皇室が元々の可能性が強い。天皇の生まれ変わりは霊視を
自分でしたり霊能者にみてもらおう。
>>651 聖徳太子は別に飛鳥には特に縁が深い訳でもない。
基盤は斑鳩や河内飛鳥だったはずだが。
聖徳太子が頭いいのは父親の用明天皇が仏教取り入れて
哲学的な仏教思想を勉強したからだろ
太子信仰てのが、だんだんとキリスト信仰の日本ローカル版
みたいに見えて来たぞ。
死ぬまでにボチボチと太子の勉強しとくかな。
史実の太子を云々して太子信仰を頭から排除する奴が多いが、
それじゃ生きた歴史はつかめない。
十七条憲法
二に曰わく、篤く三宝を敬え。
三宝とは仏・法・僧なり。
則ち四生の終帰、万国の極宗なり。
何の世、何の人か、この法を貴ばざる。
人、尤だ悪しきは鮮し。
其れ三宝に帰せずんば、何を以てか曲がれるを直くせん。
とんでもない悪党は少ないのだから良く説いて分からせろと
いう実際的な視線が素晴らしい。
662 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 10:10:09.67
663 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 16:55:06.20
日本書紀では、太子が送ったのは遣隋使じゃなく遣唐使でしょ?
664 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 07:19:22.32
太子じゃなく、明らかに推古女帝が主導してる。
665 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 07:26:19.37
推古天皇に主導することなど出来ない。
せいぜい蘇我氏を褒め称える歌を作るくらいで完全な傀儡。
後継天皇の決定すら天皇の意思より蘇我宗家の意思が上である。
666 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 08:51:49.19
じゃ、アメタリシヒコは蘇我馬子?
俺は九州王朝説w
馬子がタリシヒコで天皇だとすると、
蘇我氏がアマノ氏になるってことだろ。
なら、蘇我の子孫は皇族扱いしなきゃいけないんじゃないか。
でもそんなそぶりはないんじゃないか。
中公の日本の歴史シリーズの文庫再版したんなら、世界の名著も
丸ごと文庫化して欲しいね。中途半端な新書版でなしに。
太子の有り難き憲法十と七条を拝しつつ、平家物語など
ボチボチ読ませて頂きたく候
(-人-)
アマタリシヒコはアマテラスとも読めない?
天照らす彦ってか
聖徳太子=聖人=アマテラスの生き返り→アマテラシヒコ とか。。
太子の実在が疑わしいなら、奈良平安に実在の人物はいなくなるって。
最近はキリストのマボロシ化工作員ともあんまり議論しなくなったな。
中公の日本の歴史シリーズは太子にはそれ程の関心は寄せて
ないな。十七条憲法も、各条後半を省略してつまらなくして
あるくらい。
朝廷の人物はあんまり高く掲げたくない戦後知識人のブレーキ
だな。
平家物語の解説でも太子信仰の話なんて全く触れられない。
日本の歴史シリーズの著者たちの時代からすりゃ何ともおぞ
ましい世界になったもんさ。
今や、日本の歴史研究を左右するのは広告会社だ。
広告史観の時代。
金融史観か? 歴史はカネの力が書くものだ。
法隆寺や四天王寺は誰が作ったかだよね。小野妹子の子孫は、京都の池坊とか存続してるし、
石舞台古墳は蘇我馬子の墓らしいし、近くに馬子の宮殿跡も発掘されてる。
この頃は、漢字も流入し、紙もあるしちゃんと文字で記録しているはずだから、捏造しようがないと
思うけど。現に、官位十二階とか文字情報として正確に残っている。
681 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 23:26:31.85
そういえば、官位についても時代によって色々変遷している。
大徳、小徳、大仁、小仁といったものは、中国から持ってきたものだが、
これらの古冠に対して、後に再整備される新冠は別の字が当てられている。
また、聖徳太子の官位一二階は、中国の組み合わせと比べて、
順番が違うという。
682 :
日本@名無史さん:2013/04/15(月) 07:22:21.79
隋書と日本書紀で冠位の順番が違うのだが?
683 :
日本@名無史さん:2013/04/17(水) 15:15:42.40
だから九州王朝だって(^-^)
軍尼と伊尼翼もあるし
九州王朝は無いな、倭の本拠地は瀬戸内海阿波周辺、九州は支局だよ。
聖徳太子の伝承も瀬戸内海周辺に多いですね。
685 :
日本@名無史さん:2013/04/17(水) 18:21:37.60
隋書によると、「日出る処の天子」で、煬帝にけんかを売ったのは、
多利思比孤であって、聖徳太子でもなければ、厩戸皇子でもない。
ついでに、推古天皇でもなければ、額田部皇女、豊御食炊屋比売命でもない。
「あまたらしひこおおきみ」は代々の天皇の一般称として何ら問題はない。「多利思北孤」を「多利思比孤」と
訂正したものもあるが、どちらにしても同じことである。「ホコ」であれ「ヒコ」であれ、「垂(足、帯)日子」を相手が
そう聞き取っただけのことであり、「あまたらしひこ」は天孫のことである。字名にすぎない多利思北孤なる人物が
ほかにいるわけではない。いるとしたら、雄略天皇のことであろう。
日本の史書に「あめのたらしひこ」ってでてくるんだっけ?
688 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 11:23:47.27
紀記には出てこないね。
あと、ワカミタフリとか。
ただ、全く日本語として意味を成さない単語ってわけじゃないから、それなりに推測はできる。
ようは、一般名詞として使われたのか、固有名詞として使われたのかだ。
689 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 15:08:14.29
時代違うが、孝安天皇の兄が天足彦
掘らないかな。
どうせ子孫なんていないわけだろ。
>>691 人はいつか必ず死ぬ。責任は取らせてやる。
たかが千四百年前の人物だ。そんなにしつこく疑って見ることもない。
アメタラシヒコは、姓がアメ、字がタリシヒコだっていうんだが
姓がアメというのは、単に天皇家の一族であるということを
示してるだけで、実際に姓がアメの一族がいたわけでは
ないんだろう。
696 :
水銀厨:2013/04/21(日) 09:56:16.38
以前にも書きましたが、この年代の人物なら
彦人王子に注目する必要性があります。
後の皇系に繋がる、非蘇我系の人物で有力者。
基盤となる地域も聖徳太子と被ります。
なのに歴史上からは抹殺されてる点は要注意のはずです。
>>662 薄くなっていったのは何年も前の話で最近は復権してるんだぞ。
ソース元もそうだが数年おくれの話題を今更のように扱ってる。
聖徳太子がいなかったら日出ずる処の天子のメールは誰が出したって事になるのかしらん?
タリシヒコだろ
分かった!
あの書簡がとっても国際問題になっちゃったから誰の業績にもしようがなくて
゛聖徳太子゛ってことでオブラートに包んじゃったとか。
ま、厩戸の仕業だろうけど。
701 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:43:06.88
逆手!逆手!諸手ってのもあるみたいだがw
702 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:47:57.08
あほすなあ!
胡人の方だぜ、日本からきた方じゃねえもんよ
703 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:50:48.21
〜700年ころまでは遠征軍みたいのが源氏だか平氏の一党がきて日本に渡ってるんだよ
704 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:55:59.02
だから東国の方にヨーロッパ人の血が流れてるのは当たり前なの
705 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 16:16:57.79
渤海が消えたときに騎馬民族つながり消えたろ
多分、縄文のころから混じり合ってる
706 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 16:20:47.46
歴史変えたってよりもいらないから消したって方が正解でねえの?
707 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 16:44:28.32
聖徳太子はイエスキリストの教えを説くための造られた架空人物と思われる。
聖徳太子は馬小屋で生まれたとされていますが、皇家の血をひくものが馬小屋で生まれたとは考えられません。
聖徳太子の出生はイエスキリストに類似しています。
書簡を中国に送ったのも、「神の教えを説く者」は日本にいると世界に知らしめるためにおこなわれたものと想像します。
ヨセフちゃんはなんで陣痛始まったマリアちゃんを馬小屋に突っ込んだんや?DVちゃうん?
旅の途中で陣痛が始まったので手近に有った馬小屋に連れ込んだ。
>>708 ヨゼフの実家に住民登録に来たところ宿屋がいっぱいだったので
夫婦は馬小屋に泊まっていた
ヨゼフはDVどころか自分に身に覚えがないのに勝手に孕んだ妻のマリア(処女懐胎)
を受け入れる寛大な男だよ
当時はな、結婚前に生まれた子供は全部私生児扱いだから。
別に他の男の子供とか、処女懐胎というわけではない。
普通にやりまくってたビッチカップルってことだよ。
>>710 イエスは大きくなったら肉屋に似るのか魚屋に似るのか
それ以前にイエスが生まれたのは「家畜小屋」であって
「馬小屋」じゃないだろう。
海外で、よく、イエスが生まれた様子を表した絵やジオラマがあるが
イエスの脇にいるのはロバや牛や羊だ。
ええい伏蔵の話題はないのか・・・
法隆寺の七不思議のうち、唯一歴史的に意味がありそうなネタなのに・・・
以下、問題と私の考えを書くよ。
1 現・法隆寺と伏蔵(と呼ばれる地表から地下にかけて存在する、石を組み合わせた構造物)はどっちが先に作られたか。
現・法隆寺が出来た後に伏蔵が作られたと仮定するのは、法隆寺における伏蔵の位置があまりにフリーダムに過ぎるので、ちょっと無理。
したがって、現・法隆寺以前から、伏蔵はあったはず。
2 伏蔵は聖徳太子が作ったという言い伝えは本当か。
これが本当なら、なぜ、現・法隆寺は、聖徳太子が作った伏蔵を
無視する形で、作られているのか、説明つかないと思う・・・。
3つの伏蔵の位置は、二等辺三角形になるようなので(どこかの
サイトに正五角形の3つの頂点になるという説明が書いてあり、
それらしい図面があったが、要は二等辺三角形の位置にあるという
説明だった)、伏蔵の規則的な位置取りを伽藍の配置に生かすことは
できると思うので、全くそうしていないということは、現・法隆寺の配置を
設計した人は、伏蔵のことを知らなかったか、知っていても無視する
考えであったことは確実。
したがって、現・法隆寺設計当時、伏蔵(と呼ばれる構造物)は、
聖徳太子が作ったとか、そういう言い伝え・伝説はなかったと考える
のが自然。
3 じゃあ伏蔵って何なの?
信仰の自由の下、今後も科学的な調査ができそうにない
伏蔵だけど、今も、一般人が見える範囲で、構造物の大きさ、
構成する石の形状等についてメモをとることはできるはず。
で、メモをとって、そのデータを、近畿にある西暦600年代以前の
構造物、具体的には古墳や廃寺、石舞台等の遺跡のデータと
比較して、類似性があるかないかを調べるというのが一つの方法だと
思う。
暇ができたら、自分で調べるんだけどね・・・
>>713 「聖書」にイエス・キリストが生まれたのは馬小屋だと書いてあるよ
ただし当時のベツレヘムは水の便が悪かったために水を大量に飲む馬を飼っている家は少なく
多くは砂漠地帯でも買いやすいロバや羊だった
そのために海外絵画にはロバや羊が描かれることになった
だからと言ってキリストが生まれたのは「家畜小屋」というのは正しくない
聖書には馬小屋だと書いてあるから
>>717 聖書のどこに「馬小屋」と書いてあるのか、
書いてあるというなら、場所を示してよ。
ちなみに、
キリストは、乳飲み子であるときに飼い葉桶に寝かされていた
(『新約聖書』ルカによる福音書第 2 章第 12 ? 16 節)
という記載はあるけれど、飼い葉桶があるのは、
馬小屋とは限らないので、馬小屋と断定する根拠にはならない。
まあ常識的に考えたって、敬虔なキリスト教徒が、
聖書に「馬小屋」と書かれているのに
ロバや羊を再現するわけないよね。
(教会も監修しているだろうし。)
聖徳太子の話も聖書の話も、
新資料が出てきて、
従来の通説の見直しは必至・・的な展開キボン。
聖徳太子だったら、伏蔵の中から、
天皇記(大王記)、国記が出てくるとか、
聖書だったら、仮説的資料であるQ資料に対応する書物が
出てくるとか、夢が広がるのだけれど。
あちらの方は死海文書みたいな形で出てくる可能性はある。
こちらの方は難しいと思う。
723 :
日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
つか聖徳太子って日本にいたんじゃねえだろ
724 :
日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
朝鮮だのいうのがでてきそうだがそれは違うだろといいたい
聖書に馬小屋だなんて書いてねーよw
726 :
日本@名無史さん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN
聖徳太子は朝鮮人。まあ、在日三世くらい。
花郎は飛鳥時代のジャニーズ
ミロク菩薩はジャニーさん
>>726 半島って何時頃から朝鮮扱いなんだろうな?
まあ在る意味朝鮮人とか言える可能性はあるが
>>728 昔の半島人といえば百済とか高句麗とか新羅とか・・・
唐や時代は下って蒙古軍の侵攻に乗じて、北方遊牧民であるエベンキ族が侵入してくる前の話だ。
百済の王家から人質として預かっていたのだろう。
そのまま結婚して2世3世屠世代を重ねるうちに勢力を増していく。
中臣鎌足や坂上田村麻呂もそういう立場の渡来人(の子孫)だろう。
中臣鎌足が渡来人(の子孫)とかw
励めよ
731 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
在日とか渡来人とか有利に進めたいやつ多いんだな
タタラシってただの製鉄技術者だがなにを夢みてるんだよ
中臣は神道系だからね・・・
物部守屋と中臣勝海が組んだりしてたし。
>>731 百済代3王子の渡来人、多々良氏→大内氏
最後まで頑張れなかったヘタレなおっさん
735 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 14:16:13.99
http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013111601002158.html 隋王朝・煬帝の墓と確認 考古学の「重大成果」
【北京共同】中国考古学会は16日、江蘇省揚州市で会見し、
同市でことし3月に見つかった二つの古い墓が
約1400年前の隋王朝の皇帝、煬帝と妃の墓であることが確認されたと発表した。
「重大な考古学上の成果」としている。中国の通信社、中国新聞社が伝えた。
二つのれんが製の墓は不動産開発の工事中に発見。
一つは長さ約25メートルで墓誌のほかに玉器、銅器などの副葬品が100点余りと、
50歳前後とみられる男性の歯などが出土した。
墓の形、当時の最高級品を含む副葬品の特徴などから煬帝の墓と認定したという。
2013/11/16 21:48 【共同通信】
何か文字資料が出ているといいな・・・
隋書倭国伝の元資料とかさ・・・
漫画ゴラクの「白竜」で「聖徳太子」を
みる日が来るとはw
>>735 ビッグニュースだな
遠慮無くかつての皇帝の墓を研究できるってのは羨ましい
739 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 17:48:39.33
入鹿は横暴とか言われてるけどそうなのかな?って思う。
確かに自殺に追い込んだりはしたが、それが確たる証拠として表舞台に伝播するはずがない。
そもそも天皇のような振る舞いなんて、天皇になれなくても実権は握ってるんだからする必要もないのだし。まあ客観的に見ればそうなのかな?
教科書とかだと「臣、罪を知らず」なんて酷い言い訳みたいだけど、脚色or捏造しすぎた歴史なんて当てにならないから少し同情する。
741 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 09:22:25.30
猿丸太夫が山背大兄王の子孫という説と
猿丸太夫の名前が小野猿丸という説がある
小野氏が聖徳太子一派の残党を匿う可能性はあると思う
742 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 09:58:36.04
聖徳太子は実際にはいない伝説上の人物。
事実天皇陛下の家系には、分裂症の気はない。
743 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 16:35:32.19
>>730 鎌足自身は渡来一世であり
乙巳事変(←韓流呼称になったねw)が古豪による王政復古であるとするのは天武と不比等に依る捏造であり
天智天武皇統と藤原氏は百済系渡来人です
古豪による王政復古なら
百済系渡来人である蝦夷入鹿すら見捨てた滅亡百済に入れ込んだり
白村江での大敗後に唐軍が北九州に駐留し監視使節団が都にやって来た時期に在来豪族の白い眼を避けるかの様に難波京〜近江京と引き籠もる由縁が有りません
中臣姓は大化改新の後に鎌足が都合が良いとして取得したもので下手すると藤原姓より後かも知れません
奈良時代がバリバリ中国様式になったのも後世に武家が実権を得た後もなかなか公家を蔑ろにできなかったのも藤原氏が百済人で外交に長けていたからです
744 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 17:02:20.02
吉田茂も鎌足に倣って日本の安全保障政策を決定したのかも知れませんねw(敬称略)
745 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 17:09:38.07
解釈改憲などと云った拙速に外交勘定を台無しにする低度の政治的判断は早く退けられて欲しい案件です
賢者は歴史に学び
愚者は経験に学ぶと云う
而して朕は歴史に学ぶのである
ビスマルク(独)
746 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 04:58:34.60
異母兄妹がまぐわって生まれた子供
747 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 00:45:57.17
鎌足=百済系渡来人なんて電波は関裕二ひとりで充分間に合っています。
百済無いのでお引き取り下さい。
748 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 22:28:48.83
太子の事績が創作というなら、推古女帝も実在したか怪しくないか?
随の裴世清が謁見した大王はタリシヒコだったという。
子沢山だったのに彼女の子女は殆ど一代限りで、唯一の孫の橘大郎女の血統も上宮王家と同じタイミングで消滅している。
749 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 22:44:17.89
>>748 タリシヒコの記述がある第一回目の遣隋使を派遣したのは用明天皇だろ
聖徳太子を偉大にするために日本書紀では推古朝にずらして書いた
日本書紀には隋書にある第一回遣隋使の記述がない
まあ、タリシヒコが後宮に5〜600人の女を侍らせていたとはとても思えんから
隋書の記述がすべて正しいわけでもないが
750 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 22:57:05.89
>>749 第一回はそうかも。でも謁見したのに性別間違えるのはいくらなんでも変じゃないか?
751 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 10:50:30.57
>>750 倭王は姓はアメ、名はタリシヒコというだの、
後宮に5,600人の女を侍らせているだのという記述があるのは
第一回遣隋使のときだよ
日本書紀の記述では裴世清は難波の迎賓館に宿泊していて
一度はキへ赴いて倭王に書を提出しているものの
倭王に直接面会した記述がない
752 :
植物園:2014/08/12(火) 16:52:30.38
聖徳太子って天才なんだろ
現代に産まれていたら、どんなふうになっていたんだろう
753 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 00:41:22.37
血筋良く学問が出来、理想主義者。
鳩の元首相みたいかもしれませんよ
754 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 19:20:59.70
東大寺長老 森本公誠老師の「私の履歴書」(日経新聞)8月9日を読んで、大発見があった。
イスラム教の始祖ムハマドと聖徳太子の在世期間は見事に重なる。
つまり、二人は同一人物だったのだ。
厩の皇子という名前は古代ユダヤ教やキリスト教の影響がありあり。
今、NHKニュースで話題の飛鳥時代の8段組ピラミッド型方墳、都塚古墳こそ聖徳太子、つまり、ムハマドの墓だ。
755 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:17:20.85
>>753 政治家や経営者としてはうまく行かなそうだな
パワーゲームを捌けた感じではないし
756 :
日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:29:50.42
晩年は嫁さんの実家の斑鳩に引きこもってた
ミトラ教(英語:Mithraism)は、
古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラスを主神とする宗教である。
普通、ミトラ教は古代のインド・イランに共通するミスラ神の信仰であったものが、
ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変え、主にローマ帝国治下で紀元前1世紀より5世紀にかけて発展、大きな勢力を持つにいたったと考えられている。
※ミトラ教は、キリスト教と弥勒菩薩信仰に大きな影響を与えた
聖徳太子は弥勒菩薩を信仰していたので
間接的にミトラ教から大きな影響を受けていたと考えられる
・太陽神ミトラスは洞窟の大きな岩から産まれた
・旧約聖書では、イエスキリストは洞窟で産まれたことになっている
※馬は洞窟で飼われていたので、洞窟のことを厩と呼んでいた
つまり、厩戸皇子の「厩」とは「洞窟」のことであり
「戸」とは「大きな岩」のことである(アマテラスの岩戸隠れも有名)
ここからわかることは
聖徳太子が厩で産まれたというエピソードは、ミトラ教からの影響であって
キリスト今日からの影響ではない
景教にとりこまれたあとのミトラ教エッセンスなら、
ありえるだろうが、
もとのミトラ教えは影も形もあるめえ
すでに7世紀だよ、記紀や聖徳太子は
761 :
日本@名無史さん:2015/01/20(火) 18:35:27.94
・冠位十二階・十七条憲法・遣隋使の派遣
これらは聖徳太子の事跡とされるが異説も多い。
厩戸皇子なる人物に時の為政者が自らの政策を
正当化する根拠として後世に創作された伝説を
付加し神格化する事でその後継たる自分達の神
格化を目論んだのである。
池田大作も然り。
池田大作も同様に公明党や創価学会の左翼運動
を鼓舞する為に創作された伝説的存在に過ぎず、
仮に池田大作が存在したと仮定した場合生涯300
個以上もの称号を授かったという事になってし
まうのだ。
戦中に戦争反対していたとされるが記録によれば
創価学会は戦争に反対していたのでは無く「自分
達を信じなければ戦争に負ける」と主張していた
のであって資料的な矛盾も多いと言わざるを得ない。
総本山の日蓮正宗ですらその存在を否定してい
る事も興味深い事実である。
また池田大作完全架空説とは異なりモデルにな
った人物が居る筈だという半架空説も存在する。
その場合、池田大作の実家墓は真言宗であると
され本尊も偽造した物で単なるカルト教団の教祖
に過ぎなかったというものである。
762 :
日本@名無史さん:2015/01/20(火) 18:40:53.63
キチガイが騒ぎだしたってのが真相だろ
ほんとてめえの教義あたりに結びつきゃどうでもいいんだろ
763 :
日本@名無史さん:
聖徳太子は蘇我馬子。