【豊臣政権】本能寺以降の織田家【近世大名】

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1日本@名無史さん
信長以降の織田家の実質的地位と形式的地位や織田家の面々(女も含む)の動き
豊臣政権や徳川政権下でどのように落ちぶれていったか語りませんか

ひとつの疑問があります

関ヶ原以後、織田家はなぜか秀頼側に肩入れしていきます
世の中の流れ的には徳川側についたほうが有利であるにも関わらずです
豊臣秀頼は織田家の血をひいてますがそれを言うなら
徳川家光も織田家の血をひいています
秀頼側なら主導権を握れるのは確かですが
沈没船の船長になってどうするのでしょう

この話題でなくても構いません。信雄のアホ過ぎる処世術でもいいですし
生き残った織田信勝の血統や他大名に受け継がれた織田の血筋でもいいですし
語りませんか?
2日本@名無史さん:2011/01/02(日) 15:59:18
秀信は物心ついた時には豊臣の天下で領地や官位を与えられてるからな。
3日本@名無史さん:2011/01/02(日) 16:21:26
秀吉がいなきゃ織田宗家の家督を信孝に奪われただろうし
そうなってたら生かしてもらえていたかも分からん

一方、秀吉の天下取りで織田家の地位は低下したもののそれは物心つく前の話だし
秀吉の地位、勢力(関白太政大臣、日本全国)は信長の生前のそれ(右大臣、中国東部〜北関東)をとっくに超えてる
しかも岐阜15万石を与えられ中納言にもしてもらってるしね
4日本@名無史さん:2011/01/02(日) 22:33:34
今から見ると、織田家の連中は
豊臣に乗っ取られてどう思ってたんだろう?って思うが、
実際には織田信長自身、斯波家と織田宗家を乗っ取って成り上がったのだからね。
案外、生かされてるだけラッキーって思ってたかもしれん。
5日本@名無史さん:2011/01/03(月) 16:50:39
織田家は、能力主義で登用してきた分、織田家の血統自体のカリスマ性が充分に出せなかったよね。
信長の子(特に庶子)と家来の格式を区別するしくみが無かったというか。
自分が信勝との関係で苦労したから、嫡庶の区別を明確にしたかったのかも知れないけど、六男以降の扱いがひどい。
それが、秀吉の織田家軽視を容認する遠因になってる気がする。
6日本@名無史さん:2011/01/03(月) 17:52:52
六男以降の扱いったって、元服は本能寺の後だし
7日本@名無史さん:2011/01/04(火) 19:00:14
後世の人間が信長〜信忠〜秀信と一連の流れでみると、
秀吉め!と思うかもだけど、秀信からすれば
信長に媚びてる秀吉を知らない上に、功績も無いのに官位と所領をくれたんだから
感謝しまくりだろ。
だから叔父の信雄なら信孝はサルごときがと思って対立してるよね。
だから晩年の信雄の心境を知りたいと思う。
8日本@名無史さん:2011/01/08(土) 13:12:03
>>7
さすがに老境の達すれば、自分が愚物だと自覚するに至ったんじゃないかと>信雄
9日本@名無史さん:2011/01/08(土) 14:06:21
秀信と信雄の関係はどんな感じだったんだろうか
信雄は信孝は嫌いだけど信忠の息子なら全然おkって感じだったんだろうか
10日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:31:47
本能寺で信忠を置いて逃げた有楽斎みたいな?
仕えるけど一緒に死ぬ気はねーよ、て感じで
11日本@名無史さん:2011/01/09(日) 05:32:58
大河の宣伝をみてふと思ったんだが、
浅井の次女の初って京極に嫁いだんだよな。
浅井と京極ってかなり因縁のある間柄だと思うんだけど、その辺を勘案してのことだったのかな?

それと、浅井の三姉妹って秀吉にとってどれほどのカードだったんだろうか?
京極は確かに名門ではあるけど、織豊政権下で目立った大名ではなかった。
三女の江も、徳川秀忠に嫁ぐ前は小大名に嫁いでいる。
信長の直系というわけでもないし、どうなんだろう。
12日本@名無史さん:2011/01/09(日) 19:31:22
「偉大な当主の幼い孫を二人の叔父が補佐する」というのは、毛利のマネだよね。
秀吉には簒奪の意図などまるで無かったということだ。
少なくとも当時の人間はそう信じたはずだ。
ところが徳川史観に毒されると・・・w

資料を正確に読み事情を公平に判断するにはそれなりの歴史的手法が必要だ。
日記に資料的価値がないという伝統を持つ我が国日本でどうやってそういう手法を開発していくか。

日記?
ブログとか称して他人に読んでもらうための日記を書く伝統の話だよ。
「おとこもすなるにきというものをおんなもしてみんとてするなり」だっけ?
ネカマの伝統も相当古そうだw
13日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:37:50
秀信の子孫について詳しい人いたら教えて下さい
14日本@名無史さん:2011/01/10(月) 01:12:22
紀州で子孫残して苗字変えたらしいが本当に子孫かは分からない
15日本@名無史さん:2011/01/21(金) 06:46:57
>>12
毛利は輝元が主で両川が従の形が保てたけど、
織田は秀信が従で秀吉が主になっちゃったからな。
16日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:05:28
>>10
信忠は逃げようと思えば逃げられた、
でも、もし捕まったら、市中引き回しの上、公開処刑され、
首を河原にさらされるーってことで自害して火をかけたんじゃなかったか。
ちなみに信長も逃げようと思えば不可能じゃなかった(実際逃げた人がいる)
でも、もし捕まれば天下の信長がさらし首、ってことで自害を選んだらしい。
有楽斎なんか捕まえられてもどうってことない雑魚だからね。
そういう人は捕まえられるリスクを冒しても逃げるってこと。
17日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:47:34
>>11
茶々が秀吉の側室になる前の三姉妹は
それほど重要なパイではなかったんじゃないか。
江の最初の夫は市の姉犬の子で従兄、
初の嫁ぎ先も父の姉の子で従兄。
いずれも父母の兄弟の子で親戚筋に嫁いでいる。

ただし、茶々が豊臣家世継ぎの母となってからは
明らかに意味合いが違う。
江の2度目以降の結婚、秀吉の甥や徳川との縁組は、
明らかに豊臣世子の叔母であることからの政治的な結婚。
茶々が秀吉の男子を産んだことで、
江は急遽重要なパイになった。

18日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:02:40
大坂の陣前夜は、織田信雄、織田信包、織田長益が城にいた
19日本@名無史さん:2011/01/25(火) 02:52:05
我等木造一族
20日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:52:11
スレ違いですけど。。
本能寺の変が無かったら、どうなってたでしょう?
信長も後20年くらいだと思いますから、
信忠は結構、優秀だったと思いますけど
カリスマ性は無いですよね〜
まだまだ戦国時代だったですかね〜?
21日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:34:40
こづくりとな 




・・エロい えへへ
22日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:30:41
>>20
毛利瀕死寸前、北条従属予定だったんだから普通に天下統一しただろ
信忠頂点なら信雄、信孝の対立もそこまで酷くはならなかっただろうし
豊臣と違って織田一門沢山居て跡取りの問題も無いし
家康も基本義理堅いから恩ある織田から天下奪うようなことはしないだろうし
23日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:28:30
>>18
ある意味謎だよな
なんか、大坂の陣の総大将に織田方がなるって噂もあったらしいし
24日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:41:33
織田も大坂の陣以降は、外戚として徳川に
接近している。
1620年に徳川秀忠次男が、忠長として元服するが。もちろん由来は秀忠と織田信長。
(浅井長政説もあるが )
これには、御台所の意向が強かったとされている。
23年には信良( 信雄の四男)の娘が忠長忠長と結婚。
晴れて徳川将軍家の外戚となった織田家は国主格従四位上左少将と言う、石高からしたら
破格の待遇を受けることとなる。

んで、家光忠長後継者争いではもちろん忠長側に
名を連ねていたらしい。

その後、家光が織田家をどう扱ったのかはわからない。
知っている人います?


25日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:26:45
織田長益はさっさと豊臣秀吉に臣従しましたが。
伊勢国津15万石を領有していた織田信包は、北條氏政の助命を嘆願したため秀吉の怒りを買い、除封改易となり、のち許され、近江国浅井郡内2万石、さらに丹波国柏原3万6千石の微禄を食む小大名に転落していた。
あげく大坂の陣開戦前に、吐血して、頓死。大野治長に青酸カリを盛られた可能性が高い
26日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:04:54
徳川の城で織田の殿様が前田の殿様に刺される
それを見ていたのは木下の殿様
27日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:17:23
>>12
> 日記に資料的価値がないという伝統を持つ我が国日本で

マジで言ってんの?
28日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:27:23
>>26
前田利昌が織田秀親を刺殺したのは「徳川の城」ではなく、寛永寺の境内ではないか
29日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:18:55
>>1
織田家の末裔たちが豊臣家周辺にいたのは
淀殿が天下人の側室として織田家の伯父、叔父たちを周辺において
積極的に取り立てたからという実態がある。
徳川家では長らく家康が実権を持ちすぎて
秀忠&江夫妻が徳川家の主導権を握れなかった。
江は姉の淀ほど伯父、叔父たちを厚遇していない。
それが江の性格によるものか(おとなしかったとされる)、
はたまた家康に意見できなかったものなのかはよくわからない。
30日本@名無史さん:2011/01/30(日) 11:55:11
豊臣政権下での織田家(秀信をはじめ信雄信包ら大名クラス)に対して、
同僚大名はどんな感じで接していたのかなぁ。結構気を使ってたのかね。
31日本@名無史さん:2011/01/30(日) 12:32:08
信包さんは空気のような人だから、いてもみんな気が付かない
32日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:09:49
秀吉が織田秀信をオマエ呼ばわりした時期はいつなんだろ。
ある日、突然、「今日から俺が主君、オマエは臣下ね」みたいな感じ?

福島とか加藤みたいなヒゲ面の荒武者が、荒々しく秀信の肩をひっつかんで
下座に引きずりおろし、秀吉に土下座させたりとか・・・

しかし、ある日いきなり、今まで「三法師さま、三法師さま」と言ってた猿顔の爺から
「秀信、ひざまづけ。ワシが主君じゃ」なんて言われたのかな。
で、荒武者に腕をわしづかみにされて、下段の間にねじふせられる秀信哀れ。

そのときの秀信の心境やいかに?
33日本@名無史さん:2011/01/30(日) 14:40:09
織田も将軍家ゴミ扱いしてるからあんまり考えてないんじゃない?
秀吉の西日本統一はあまりに迅速だし、関白となったからには身分的には主家より上だし
石高的にも主家より上。織田家を根絶やしにしてないのは将軍家に対する措置と同じだし
34日本@名無史さん:2011/01/30(日) 17:03:47
豊臣秀頼は天下人から転落後も、豊臣家の旧臣たちから大切にされ、
家康に仕えるようになった旧臣たちですら、「秀頼公に変な真似をしたら承知しないぞ」
みたいな感じはあったね。

しかし、織田秀信や織田信雄にはそんな気配は感じられない。
一時期、秀吉や家康にかつがれたことはあったが、織田家の旧臣から格別の扱いはされなかったのではないか?

それは信長と秀吉の人柄や人材登用のあり方と関係があるのではと思う。
その人柄が愛された秀吉と違って、まるで外資系金融のようなドライさで
家臣を登用した信長には、在世中はみんな競って忠節を尽くし、報酬を得た。
だが、没落し利用価値のなくなった織田家には、旧臣たちはさしたる感傷はなかったのだろう。
松下電器と外資の企業風土の違いと同じだと思う。
35日本@名無史さん:2011/01/30(日) 17:24:02
>>34
嫡子と庶子の差が最大だと思う。

豊臣秀頼は秀吉が指名した豊臣家の正統な後継者。
豊臣家の大事な嫡子であり、7歳にして従二位中納言で順調に位も進み、
迂闊な扱いができなかった。

それに対して、織田家では信長とその嫡子信忠は本能寺の変で死んでしまい、
正統な後継者が絶えた。
残ったのはもともと織田家の家督を継ぐはずのない庶子ばかり。
庶子は信長や信忠に家臣として仕えるのが筋で、
それをいえば織田家の重臣たちと同格、かわりない。
秀信(信忠の庶長子で、本来ならば寺に入れられ出家か?)
信雄(本来なら勝家や秀吉のような織田信忠に仕える織田家家臣だろう)
らは信長の生前、本来ならば織田家の家督を継ぐはずもない家来筋であり、
重んじられなかったのも仕方がないと思う。
36日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:52:49
>>34
でも秀信は官位は高かったからな。9歳で従四位下侍従で最終的には中納言まで昇ったし。
13万石の大名にしては官位だけは五大老並みだし、秀吉も特殊な諸侯として秀信を扱っていた感じがする。
旧主家の当主だからだけでなく織田家の旧臣からの目、世間の目もあるから気を使ってたんじゃないかな。
とはいえ秀信以外の織田家一門に対しては信孝を死に追いやったり、信雄信包を所領没収や減封したりとえげつない事やってるけど。

37日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:20:24
>>35
秀信は庶長子なんか?
38日本@名無史さん:2011/01/31(月) 03:21:23
>>35
本能寺の時点ではすでに信忠が当主
39日本@名無史さん:2011/01/31(月) 04:25:01
本能寺以降の織田家は一家離散状態だな
40日本@名無史さん:2011/01/31(月) 06:19:11
秀吉からみると三法師を残しておかないとそれこそ
謀反人悪逆人と言われても仕方ない状況になる。
絶頂期だから正面きってはいえないがやっぱり
史実状態でもそうやって思ってたはず。
400年たって簒奪の意思はなかったとか
そんな風にはなってるけどどうみても
えげつない。

信孝殺して信雄残すのもイヤらしいどころで
はなっからバカにして問題にはしてなかったのだろうし。
直接証拠を残さなかった秀吉と
本人が手を下しても天下静謐のためと言い切ってしまえる家康
どっちもその時点ではベストな選択ではあったに違いない。
41日本@名無史さん:2011/01/31(月) 14:50:06
>>35
ちょっと待て。
信雄は庶子ではないだろう。嫡子である信忠と同じ母から生まれてるんだから。
本当は彼は次男ではなく三男なのに、前後して生まれた信孝が庶腹だったから
信雄の方が兄になったとも言われている。

信忠亡き後の織田も、信雄がボンクラでさえなければあっさり信雄が継いで家督争いにはならない。
(いくら三法師という嫡孫がいると言ってもあの時代に赤子を当主にするなんて選択はあり得ない。秀吉のような確信犯でなければ)
そうでなかったから重臣達は嫡腹ではない信孝を推さざるを得ず、それが秀吉に付け入る隙を与える事になった。
42日本@名無史さん:2011/01/31(月) 15:43:46
>>41
信忠の母は生駒ではないという説が有力。
たとえ信忠が生駒腹であったところで、
生駒は信長の側室であって正室ではない。
信忠は信長の嫡子として扱われるにあたって、
信長の正室濃姫の正式な養子になっている。
信雄は嫡母濃姫の養子にはなっていないのだから、
信忠との差は決定的で、どう解釈しても庶子だろう。
43日本@名無史さん:2011/01/31(月) 15:54:36
>>37
当主が正室を迎え、その正室認知のもとで迎えた第二夫人以下が側室であり、
もしくは正室認知のもとで側室から生まれて初めて当主の子として認められた。
当主が正室を迎える前に侍女などに手をつけて生まれてしまった子が
庶長子ということになる。
足利尊氏の子直冬や、織田信長の兄信広などがこれに当たり、
酷い時には父子名乗りが許されない場合もあった。
信忠は正室がおらず(信玄の娘とは婚約だけ)、よって側室もいなかった。
三法師の母はこっそり手をつけた侍女か何かだと言われる。
三法師は清州会議までその動向が全く記されず、母も不明の信忠の庶長子。
信忠が三法師を織田家の家督相続者の長男として大事にしていたのならば、
明智光秀が何を差し置いてもまず殺害するであろうが、
光秀は信長と信忠を殺害すれば天下が取れると思い、三法師探索を命じていない。
三法師は清州会議で秀吉が連れてきて誰もが驚いたというくらいに
織田家内でも知られていなかった男子だった。
安土城にいたとか、信忠とともに二条御所にいたとかいうのも後の創作であり、
どうやら三法師は信忠から確実な認知も受けずに城内にいることが許されず、
城外で養育されていたらしいともいわれている。
44日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:29:28
>どうやら三法師は信忠から確実な認知も受けずに城内にいることが許されず、
>城外で養育されていたらしいともいわれている。

それも史料で明記されていない以上、後世の史家の単なる推量であって、確実とは言えないよなあ。
本当のことは、永遠に謎のままだろう。
45日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:47:02
>>44
三法師が正式な信忠の嫡子であるならば、
わざわざ清州会議などしなくても三法師が家督相続者だろう。
せいぜい、三法師の後ろ盾を誰にするかくらいを
決める会議だったはず。
三法師のことなど退けて信雄や信孝のほうが
信忠の後継者としてふさわしいと言っている辺りが
やはり三法師の出自を物語っている。
46日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:42:53
北畠信雄→バカ
神戸信孝→身分低
羽柴秀勝→家臣養子
有楽町→論外
47日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:16:09
柴田勝家がお市の方を娶ったということは、
信長の義弟として後継者になる野心があったのかな?
48日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:20:28
>>46
信包の事も思い出してあげてくれ。馬揃えじゃ信雄と信孝の間にいたんだぞ。
この人、何でこんなに大人しいんだろ?清洲会議で何かしゃべったかな?
49日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:33:10
織田信包は清州会議の時に40歳。
織田信忠の次代を決めるのには年を取り過ぎていたのかもしれない。
信長存命中には信長ー信忠ー信雄に次ぐ地位にあり、
信長の母土田御前を保護していることからも信長と同腹であった可能性が高いが。
逆に、信包が織田家の家督を狙うような性格の激しい弟であったならば
間違いなく信長に殺されていたはず。
自分を押し殺して信長の息子たちを厚遇するような性格だったからこそ
信長に可愛がられた可能性も。
50日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:35:49
信包40歳だったら秀吉勝家長秀より若いけど、当時の織田家一門のなかでは一番長老ぽいね。
それなりに所領持ってて発言力ありそうな地位にあったのに、清洲会議では全く存在感ないね…。
51日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:36:12
>>45
そこなんだが三法師が庶子と言う時点での扱いがよくわからない。
信雄、信孝も庶子とするなら実際のところ孫とどっちもどっちで
年齢差の分、跡継ぎとしては不満ということか。
それとも家督継承者としての信忠の庶子ということで少しは
その価値が上ということか。
どちらにしろ兄弟2人の跡目争いならば各家臣は難儀だろうが
三法師の扱いについてナンクセつけたあたりもよくわからないんだな。
叔父2人の自由で家臣がとやかくいう問題でもないだろうし。
信雄がそんな頭働くとも思えないし
不明解な問題だから秀吉の出る幕もあったということか。
52日本@名無史さん:2011/02/01(火) 14:47:02
>>47
柴田さんは基本織田家命の忠臣だから
53日本@名無史さん:2011/02/01(火) 14:49:42
信雄、信孝は北畠と神戸継いで実質織田家からは離れてたのが大きい
54日本@名無史さん:2011/02/01(火) 14:58:56
>>51
同じ庶子でも信雄、信孝は織田家で知らぬものはない城持ち大名。
一方、三法師は織田家内でもほとんど知られていない幼子だったという違いはあるかな。
三法師も10代半ばぐらいになって城持ちになっていれば話は違うだろうが。
というか、その頃には父の信忠は正室や側室を持っていただろうし、
三法師が寺に入れられることなく城を持てたかは微妙なところ。
55日本@名無史さん:2011/02/01(火) 17:18:52
浅井長政が離反しなきゃなーと思うのは俺だけか?
長政なら信長亡き後、秀吉、家康に睨みを利かすこともできるし
まあその前に信忠が本能寺で生き延びてたら織田の行く末も違ったのに
56日本@名無史さん:2011/02/01(火) 18:00:22
>>54
だわなぁ。
信孝死後に一瞬信雄が三法師手中にして
そこで織田家をまとめればいいとは思うのだが
すでにその時点では家臣は織田家再建というふいんきではなかったか。
なので織田家がいかに信長のカリスマ性によって支えられてたかとすると
信忠が生きてても意外とどうだったかというのもある。
ほんで織田家の兄弟の跡目争いと言うよりはかなり初期から
家臣団というか秀吉ー柴田の主導権争いというところが
あったような感じだなあ。
柴田は織田再興という立場だったろうが秀吉はなんか
いやらしい。
小牧の前に信雄が秀吉を家臣の分際で恩を忘れたかこの猿め
とかは言えなかったのかね。
言ったら逆にやられてたかもしれんが大義名分はあったようだがなあ。
57日本@名無史さん:2011/02/01(火) 19:29:56
>>55
おまえ戦国BASARAのやり過ぎだろ
58日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:09:57
>>57
やったことないぞw
長政が後見人で秀信を補佐すりゃ
秀吉も織田家の乗っ取りは難しいし
家康も迂闊に戦いを仕掛けるわけにもいかない
59日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:14:42
浅井よりも、織田家の皆さん多数囲ってた蒲生の婿殿は…
何考えてたんだろ
清洲会議の頃もその後も
60日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:30:44
>>59
婿殿はこれからの武将で本能寺の時はまだ小者でしょ
本能寺の時はオヤジと共に信長の妻子を保護したが
ただ晩年の織田家に対する思いは気になるね
秀信が豊臣家にいたわけだから
61日本@名無史さん:2011/02/03(木) 11:00:03
婿って言っても元々六角家臣だから
下手なことして一緒に織田と滅びるより
蒲生家の方が大事だったんだろうよ
62日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:46:28
長い間信長の側近だった堀秀政は信長死後の織田家の衰退を嘆いていたらしいね。
時勢の流れで秀吉に付いたとはいえ、思うところはあったんだな。蒲生も同じだろう。
63日本@名無史さん:2011/02/11(金) 13:05:31
信長と信忠及びその官僚団が一瞬にして潰滅したから織田政権維持は100%無理だろ。

結果的に秀吉に乗っ取られたとはいえ、あの時秀吉が迅速に大返しして光秀討ってなかったら、
畿内にいた織田家の残りの人間もことごとく光秀に討滅されてたかもしれないし、
その後の織田家の家名存続もなかったかもしれん。
64日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:07:29
三法師こと織田秀信家は豊臣政権で清華家扱いで五大老並み
関ヶ原で西軍方、他にも西軍方の織田家の人間は居るし
大坂の陣でも豊臣方に付いた人間が結構居る
豊臣政権って織田家の人間には居心地良かったのかねえ?
65日本@名無史さん:2011/02/13(日) 06:00:44
存外、扱いは丁寧だったのかもね。
実権だけ与えられなかっただけでさ。
66日本@名無史さん:2011/02/13(日) 09:36:28
秀吉に大人しく従えば、官位も高位につけてやって優遇してたんだろうね。
信雄信包も秀吉の意に沿わぬ事して一時は所領没収されたけど、
大人しくしてたら小大名ながら復帰させてくれたし。

67日本@名無史さん:2011/02/13(日) 10:10:07
それは、徳川政権下での豊臣も同じだったと思う。
素直に家康に臣従していれば、優遇されたろう(石高は知らんが)。
少なくとも家康・秀忠の代での取りつぶしはなかったと言える。
68日本@名無史さん:2011/02/13(日) 10:28:16
>>64
秀信は東軍方で参戦するはずだった
重臣の百々綱家らは家康に与する方が得策って考えてた
本人はどういう考えをしてたかは知らないけど
ただ会津征伐に行く軍装に手間取り最終的に西軍方に
69日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:29:51
>>68
うん
でも西軍方からの調略とも言えないような感じの誘いに乗ってるし
当人的にどう考えたのか興味深い
70日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:42:50
>>62
「織田家の久太郎」っていう糞スレが昔あったな
71日本@名無史さん:2011/02/13(日) 14:03:33
>>69
美濃、尾張を与えるだったけ?
72日本@名無史さん:2011/02/13(日) 23:22:26
もし織田秀信が東軍についていたら、本領安堵・加増されて、100万石規模の大名として存続したということだよね。
しかも、信長の嫡孫、高い官位というブランドもある。
秀信は江戸幕府において、どんな存在になっていったのだろうか?
加賀の前田クラスの領地+高家クラスの家格の高さ、といった別格の家柄になったのだろうか?
73日本@名無史さん:2011/02/14(月) 01:01:58
>>72
豊臣同様に場所が悪過ぎる……
立ち退かないと滅ぼされる可能性が
立ち退けば多分生き残れるけど
74日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:24:35
>>72
秀信は秀吉の養子だからそう上手くいかんだろう。
それに秀信は養父秀吉が死んだときに岐阜13万石の城主だったのに
なぜ家康が100万石にしてやらねばならんのだ?
家康は織田家を継いだ織田信雄も生涯京に軟禁して
任地へ赴かせないほどに神経質な男。
豊臣は滅多叩きに滅ぼしたがその前政権である
織田家もまた酷く警戒した。
信雄ばりに京か江戸で秀信の身柄を軟禁した上で
小大名としての存続ならあったかもしれんが。
75日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:47:53
家康は秀吉よりも織田家に対する思い入れは少ないだろうからね。
姉川の活躍や信康自害の理由が捏造にしても、
武田戦で有効な援軍を長篠まで寄越さなかったり、長久手で足を引っ張られたり…
関ヶ原で東軍についたとしても、20〜30万石で旧織田勢力圏から離れた場所でしょ。
奥州とか四国とか
76日本@名無史さん:2011/02/14(月) 21:38:53
>>74
織田信雄って最後の所領は大和の宇陀だよね。
大和とはいえ結構僻地だと思うけど、京に軟禁されるほど警戒されてたの?
いくら信長の血統とはいえ愚人という事は諸大名も周知だろうしw
77日本@名無史さん:2011/02/14(月) 22:57:30
>>72>>73>>74

喜連川や高家の様な扱いになる可能性はどうだろうか?
78日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:32:43
>>77
東軍に参加してたら、って話してるんだが。
戦勝側についたのに、何で万石以下まで領土削減されなくちゃならんのだ
79日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:26:03
僻地に10万石以上で押し込み
本人は江戸か京に軟禁かな?
80日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:50:40
>>78

よくある話で、何かと因縁つけられて減封とか。
81日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:54:49
結城松平のように分割解体される予感
82日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:09:55
>>76
昔立ってたスレで信雄が大坂冬の陣の豊臣方総司令官打診されてたって聞いたな。
83日本@名無史さん:2011/02/15(火) 06:48:56
秀信が東軍方に付いてたら西軍に付いときゃ良かったと思う運命が待ってたかもな
84日本@名無史さん:2011/02/15(火) 07:46:14
秀信が東軍についたら、しばらくはその戦功によって領地を保つことはできただろうね。
でも、岐阜のような要衝から僻地へ転封されたかも知れない。
そして、何か理由をつけられて改易、2万石くらいの捨て扶持をもらって家は存続、
でも、家格の高さから高家待遇というような展開かな。

そうなると、「こんな貧乏くじを引くんなら、西軍についておけばよかった」って
思うかもね。
85日本@名無史さん:2011/02/15(火) 20:28:01
秀信には斎藤道三と蒲生氏郷の息子が家臣いたから
なんか改易は勿体ないんだよね
86日本@名無史さん:2011/02/16(水) 06:17:07
>>84
2万石あったら大名だろ。
「高家待遇」はありえない。
87日本@名無史さん:2011/02/16(水) 17:58:10
>>84
30万石ぐらいが妥当じゃない?
88日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:18:57
>>87
家康は東軍で戦功をあげた大名でもそれほどの加増はさせてないよ。
そもそも、家康は関ヶ原の恩賞を豊臣家の家禄を削ることで捻出している。
関ヶ原の一番の軍功はまず家康にあると家康自身がいい、
250万石ほどだった徳川家の石高を400万石に引き上げた。
だから、とにかく徳川家の家禄をあげることが第一で、
他の大名の取り分なんて雀の涙。
しかも、豊臣恩顧の大名が大坂夏の陣の後軒並み改易させているから
当然秀吉の養子だった秀信も改易されてたと思う。
89日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:30:38
小早川秀秋ルートで改易やね
90日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:40:02
一応信長の嫡孫だし、かと言って勢力的には脅威になる事もないだろうから、意味不明な難癖で
改易される事も無いと思うけどね。

跡継ぎもいて無嗣断絶も無いから、何らかの落ち度が無い限りは生き残ったんじゃないかと思う。
91日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:59:21

92日本@名無史さん:2011/02/16(水) 23:26:43
織田秀信が仮に東軍についていた暁には、大和國南都郡山もしくは伊勢國安濃津に20万石格にて転封された可能性大
大坂の陣後、筑後32万石
93日本@名無史さん:2011/02/16(水) 23:36:36
私が家康ならば、織田秀信は甲斐か信濃高島に転封します。
祖父総見院による甲斐国人弾圧、諏訪大社焼き打ちを忘れない土豪による一揆が再発し、秀信は佐々陸奥守成政と同じ運命を辿ることでしょう。
94日本@名無史さん:2011/02/16(水) 23:41:04
>>92
それで幕末に西国雄藩化したらバロス
95日本@名無史さん:2011/02/17(木) 00:06:01
>>94
織田は、徳川に対する恨みはないからね。
毛利や島津とは違う。
前田も黒田も細川も、「雄藩」にはならなかった。
96日本@名無史さん:2011/02/17(木) 00:25:58
山内土佐と鍋島佐賀は雄藩ではなかったのかね。
97日本@名無史さん:2011/02/17(木) 00:31:55
まあでも家康さん義理堅いから東軍に付けば潰したりはしないだろうね
でも旧織田家臣とかに担ぎだされたらウザいから大封はやらんだろうな
5万石加増で18万石ぐらいで僻地に飛ばされるも
権現様と盟友だった信長の直系子孫として将軍家と婚姻結んで家格は高く扱われる感じだろうか
98日本@名無史さん:2011/02/17(木) 08:36:45
おそらく2〇万石程度で出羽高畠、あるいは陸奥棚倉あたりに封じられよう。
ただ家格だけは家督相続時に従四位下侍従、壮年で少将、極官は従四位上中将
99日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:34:28
織田有楽斎などは信長の弟ながら徳川家康の東軍について
西軍の武将の首2つを挙げるという大変な戦功をあげながら
徳川家康から3万2000石の大名にしか取り立てられてないんだよな。
家康は織田家の直臣ではなかったことから
織田家を主家として立てる気などさらさらなく、
織田家の出身者だからといって特別な取り立てなど一切していない。
織田秀信を家康がそこまで評価していたとは思えず、過大評価。
秀信が東軍につき、更に西軍敵将の首を上げるなどの大変な戦功をあげた場合のみ
いくばくかの加領(3〜5万石ぐらい?)
東軍についただけで敵将の首がなければ現状通り、
東軍か西軍かわからず傍観で領地召し上げだろう。
織田信雄は兵を出さずに傍観していたら家康に関ヶ原後
領地を召しあげられている。
100日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:48:52
家康は秀吉が死ぬとすぐ、関ヶ原の前までに自分の味方を増やすべく
有力な諸大名と片っ端から政略結婚を結んでいる。
徳川家の娘だけでは数が足りず、ほうぼうの松平一族の娘を養女とし、
とにかくそこらじゅうの大名に養女を送り込んで義父となった。
しかし、家康は秀信は完全放置で、姻戚関係を結んでいない。
この辺りがミソだよ。
家康が織田家をかつての同盟者として秀頼に兵をあげる口実として
大事にしたいのならばまず秀信の正室に養女を送りこんでいる。
しかし、家康が織田家に養女を送り込もうとしなかったというのは
織田家と姻戚関係を結ぶ必要がないと思っていたためで、
関ヶ原で東軍につけば徳川家の姻戚として大事にされたということもないと思う。
むしろ、家康としては織田家直系が関ヶ原で西軍についたり優柔不断な態度を取ることで
いっきに豊臣と織田の両方を叩ければよいと思っていた節がある。
家康は信長にあまりいい印象がなかったらしいし。
101日本@名無史さん:2011/02/17(木) 17:25:54
>>92
伊勢と大和はどうかね
どちらも豊臣を睨む重要な地
信濃、越後、奥州が妥当じゃない?
毛利から召し上げた領地もあるか
102日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:01:27
>>95
細川はタイミングを外した感じ
広島浅野と岡山浅野も残念な感じ……

>>101
大坂に豊臣がいる間は伊勢だの、大和だのに織田秀信を置くとは思えん
東軍側についた前提だと最低でも20万石前後だろうし
103日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:03:02
あ、>>101>>92へのレスか
104日本@名無史さん:2011/02/17(木) 18:48:32
秀信の家康観、徳川観というのがよくわからないからな。
あの時点で東軍についてたら大津城みたいな
西軍との前線に岐阜城も含まれたはず。
三河モンなんかにつけるのか?
105日本@名無史さん:2011/02/17(木) 19:53:38
それなりに理解力のある人間なら
織田家乗っ取った豊臣よりは織田家の盟友だった徳川に親近感持つはずなんだがな
あっさり岐阜城落とされるし武将としては大した能力は無いようで
106日本@名無史さん:2011/02/17(木) 20:35:38
親近感など何の役にも立たん
107日本@名無史さん:2011/02/17(木) 20:45:44
>>105
あっさりか?
攻城側との戦力差が普通に作用しただけだろ
108日本@名無史さん:2011/02/18(金) 10:24:11
>>105
家康は信長に辛苦を舐めさせられてたんだよ。
辛い先陣ばかりを勤めさせられ、いつ命を落としてもおかしくなく、
また信長の直臣ではなく同盟者という立場だったために常に謀反を疑われ、
本能寺の変の時も明智軍の雑兵は家康を殺しに行くものだと思っていた。
本能寺の変で命拾いしたのは家康で、信長が生きていれば殺されてたかも。
そんな織田一族に家康は一切親近感など抱いてないって。
109日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:50:06
人質時代からのマブダチ説は小説の創作だったのか
110日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:14:08
信長死後に徳川家に接近した織田家一門って小牧長久手の時の信雄くらいだよね。
豊臣政権下でも徳川家康と親密な織田家の人間っていなさそうだし。

織田信孝も秀吉と対立するなら勝家だけでなく家康にも接近すれば良かったのに。
地理的にも近かったのに。
111日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:38:13
信長・信忠死後、織田家の家臣たちがそれぞれ思い思いに
織田家の子息たちを擁立した。
しかしそもそも徳川家康は織田家の家臣ではなく単なる同盟者。
清州会議にも招かれていないし、そもそも家臣ではないので
織田家の家督相続に口出しをする権利が一切なかった。

しかし、信雄が味方を募ってこれに乗じて秀吉をやっちゃえよ、
と蚊帳の外の家康に声をかけたから話がややこしくなった。
家康は、思いがけず織田家の家督相続争いに加わることができるようになり、
これを機に秀吉に代わって織田家を乗っ取るべく兵をあげたからだ。
秀吉も筆頭家老の柴田はともかくまさか織田家内の家督相続に
家康が絡むと思ってなかったし、本来は絡むはずもない人物だ。
信孝が織田家の家来ではない家康を頼らないのは普通の感覚。
112日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:57:13
>>105
秀吉は信長の敵を討った恩人。
織田家の子息たちにももとの主家としてそれなりの待遇を与えていたし。

むしろ、家康の世になった方が織田家の子息を
冷遇する可能性が高かっただろう。
なにしろ、家康は織田家の家臣ではないので、
信長の子息たちを主家として厚遇しなければならない理由がない。
家康の人心掌握はけして上手くはない。
三河時代からの旧臣だけを信じて譜代と呼んで厚遇し、
最期までそれ以外の大名を幕政の中心には参加させなかった。

113日本@名無史さん:2011/02/19(土) 01:45:29
どうでも良いけど徳川政権下の譜代って遠江や駿河出の方が……
純粋な三河生え抜き程、譜代大名でも石高低めだったり旗本だったりするような
114日本@名無史さん:2011/02/19(土) 09:54:26
>>113
家康は関ヶ原で自分のために兵を出してくれた
外様大名の石高を下げるわけにもいかず、苦肉の策なんだろう。
しかし、老中、大老などに選出されるのは江戸幕府を通じて最期まで
譜代などに限られ、彼らが幕政を掌握。外様はいくら石高が高くても締め出された。
秀吉が石高だけは高いが直臣でもない家康に秀頼を託して失敗したので、
家康は将軍を支えるのは石高は低くとも直臣に限らせたというところだろう。
115日本@名無史さん:2011/02/19(土) 11:10:06
>>114
いや譜代云々はともかく三河時代からの譜代なんて大した事無いのが大半で
有力譜代は遠江、駿河進出後の連中のが多いって言いたいだけなんだが……
116日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:03:01
スレ違いた゜けど丹羽長秀は信長の幼馴染で縁戚関係もあって非常に信頼されていたようだけど
信長亡き後は織田家を簒奪しようとする秀吉に力を貸してるよなあ。
本能寺の変後の織田家の行方の中で彼は結構キーマンだったと思う。
117日本@名無史さん:2011/02/19(土) 15:13:16
>>116
清洲会議では大きな役割を担ってるね
池田入道が四人の中に入ったのも関係あるかもね
晩年の信長から池田入道もかなり評価されていたらしいが
池田が四人に加わるってはまだ明らかに分不相応な待遇だよ
118日本@名無史さん:2011/02/19(土) 16:32:35
>>117
清洲会議では大きな役割を担ってるね

そうなんですよね。丹羽さんが信孝を推せば歴史は変わっていたかもしれない。
ただ晩年の行動がよくわからない。
丹羽さんは信孝が秀吉に自刃させられた後は秀吉の呼び出しにも応じず城に篭っていたとか
病死ではなく実は自殺して織田家をないがしろにする秀吉に抗議の意味をこめて病根を送った
という逸話があるので(さすがにこの逸話は実話かは不明ですがそういう逸話が出るという観点で)必ずしも
秀吉の織田家簒奪に与していたわけではない感じもするんですよね。

丹羽さんが三法師を推したのは庶子とはいえ信長の嫡流を大事にしたかったのではないか
という意見を読んだ時なるほどと思ってしまった。
後生の人は結果を知った観点から物事を捉えてしまうのですが、丹羽さんは当時はまさか
秀吉が織田家を簒奪するとは思っていなかったのかなと思いました。
秀吉が化けたのは本能寺の変以後でそれまでは有能な家臣の1人に過ぎなかった。
猿から天下人への変貌振りは誰一人予測出来なかったと思うんですよね。
織田家の為と思い秀吉に与したら「どうも違うんじゃないか」と気づいたらもう秀吉の力を
抑えられない状況になっていたのかと。
長文スンマセン
119日本@名無史さん:2011/02/19(土) 21:57:09.37
>>116
林さんや佐久間さん残ってたらもう少しマシだったろうにな
120日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:45:02.05
追放した信長がイカン。
確実に家臣団の空気が悪くなったと思う。
本能寺の変の遠因になったのではないか。
121日本@名無史さん:2011/02/19(土) 23:50:31.18
俺は信長の息子で信忠と信孝は評価してるんだけどな
信孝の軍が本能寺の変直後に兵の大量離脱が生じるが
これもなんかきな臭い(自滅以外の要因)ものを感じるんだけどな
これがなければ信孝が光秀を討伐した可能性もあるし
秀吉もわざわざ信雄を利用して信孝を自害に追い込むわけで
それだけ秀吉からすると目障りでそれなりに実力はあったと思うが
122日本@名無史さん:2011/02/20(日) 02:02:07.98
>>121
本能寺の変直後の兵の大量離脱は津田信澄を討ったのがまずかった気がするんだけど。
信澄は光秀の娘婿で信勝(信行)の子だから光秀と通じてると疑うのはわかるけど、早まった気がするなぁ。
信澄と光秀が通じていた証拠は無かったようだし。

本能寺の変起きる前までは味方同士なのにいきなり襲撃→殺害って、本能寺の変でも衝撃なのにそんな同士討ちまで起きたら
そりゃ諸将の兵も皆疑心暗鬼になって逃亡続出してもおかしくない。

123日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:08:55.67
最近じゃあ信長家中は勝手に人脈、縁組を作る傾向が酷いとか指摘する研究があるね
それとは別に秀吉が最終的に後継者争いに勝利出来たのは
信長存命中から自身の軍勢が名実共に羽柴軍団に近い代物だったからだろうが
他の織田家有力家臣と違って、信長からの寄騎と言いつつ実質的には秀吉直臣とか
秀吉が自力で味方したみたいな奴が大半で
他の各方面の信長家臣達の軍団よりか、明らかに秀吉の家臣団って臭いが強烈なんだよね
124日本@名無史さん:2011/02/20(日) 10:32:26.86
>>122
兵の大量離脱は信澄を討つ前じゃないか?
125日本@名無史さん:2011/02/20(日) 12:09:27.02
信澄討ったのって信孝と丹羽長秀という事になってるけど、実際は信孝が独断でやって長秀が事後承認したって感じがする。
長秀もその時は本能寺の変直後の混乱期だから、大人しく事後承認したけど、内心信孝への不信感はあったのでは。
で、>>118のように清洲会議で三法師支持になったんじゃないかと。
126日本@名無史さん:2011/02/20(日) 12:33:12.74
>>123
まあその後大成した武将ばかりだからね
ただ秀吉の軍団に信長の与力っているんかね?
勝家には前田、佐々、不破の三人衆がいたけど
127日本@名無史さん:2011/02/20(日) 13:16:07.18
もし関ヶ原の役後、大坂の陣の前ごろの時期、徳川家で家康と秀忠が一瞬にして暗殺される事態になったとしたら、
やっぱり織田家と同様の状態になったのかね?

結城秀康を立てる者、松平忠輝を立てる者、松平忠吉を立てる者などに、家臣団が分裂。
すると、まだ幼い竹千代(後の家光)を抱いた家臣が、「竹千代様こそ嫡孫にあらせらるるぞ」と、主張。
そこに諸大名たちが加わって…

徳川家は織田家のような末路をたどったのだろうか?
128日本@名無史さん:2011/02/20(日) 13:20:26.02
>>127
まあ秀吉みたい乗っ取る奴はいないかもな
129日本@名無史さん:2011/02/20(日) 15:11:46.44
>126
黒田は信長の直臣ではなかったか?
130日本@名無史さん:2011/02/20(日) 16:58:25.55
>>129
だよな
目付としていたのかな?
131日本@名無史さん:2011/02/20(日) 17:43:38.84
>>127
どうだろうね。。。。当然大混乱にはなるだろう。
ただ本能寺の変後の織田家のような急落はないとは思う。
天下統一は一応されている状態だしさ。まず秀吉みたいな人間はいないし。
それと良い意味でも悪い意味でも信長はカリスマ過ぎて織田家は信長あってこそだったから、
彼の死後はガタガタになったけど、徳川家はそこまで家康の力だけで支えられているわけではないから
残った家臣達がなんとか乗り切ると思う。
織田家は信長のカリスマ性で一気に飛躍出来たけど、それ故大黒柱がいなくなると求心力を失うのも早かったのが切なす。
132日本@名無史さん:2011/02/20(日) 18:00:41.41
>>129-130
黒田は秀吉が口説いて、信長が認め
改めて秀吉の寄騎にって感じだから、実質的には秀吉直臣みたいなもんかなあ?
竹中・蜂須賀・前野・浅野辺りは寄騎だけど秀吉個人との繋がりのが濃厚みたいな有り様だし
やっぱり配下の質が他の信長重臣とは違うね
133日本@名無史さん:2011/02/20(日) 18:16:38.08
そこで伊達ちゃんの出番じゃないですかぁ
134日本@名無史さん:2011/02/20(日) 20:13:28.82
>>132
蜂須賀、前野は元々秀吉と馴染みの
浅野は秀吉の縁戚だから事実上秀吉の与力だよな
135日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:15:07.37
>>130
信長が秀吉に付けた目付は半兵衛の筈
まぁ、講談チックなお話抜きにしても秀吉の目付になってたか果てしなく疑問だが
一応荒木が他の軍団における信長が派遣した寄騎大名に近いんだろうけど
謀叛で潰れたし
宮部も秀吉との仲の方が深そうって考えたら
羽柴軍団って端から秀吉ファミリーだね
136日本@名無史さん:2011/02/20(日) 23:24:01.27
話が変わるがそういや幕末の織田家は奥羽越列藩同盟の一員なのか……
137日本@名無史さん:2011/02/21(月) 02:47:07.54
>>127
つぶれないにしても徳川の天下もあぶない。
秀康が生きているってことは、まだ諸大名が大坂と江戸に参勤して両頭政治?
秀忠が将軍になっても秀頼より官位は下
伊達も、いずれ秀頼が関白になり政権につくと思っていた時期だし
浅野長政、加藤、池田輝政、前田利長、福島など恩顧大名は健在だしね。
徳川内部も本多や大久保に乗っ取られるかもしれん。
138日本@名無史さん:2011/02/21(月) 03:08:09.14
家康が征夷大将軍になる前に家康、秀忠が死んだりしたら
混乱はしても豊臣政権は続くでしょ
そもそも幕府を開いた後ですら豊臣の権威はそのままで
江戸、大坂の両頭体制で進んだし
家康の覇権にしてもあくまで豊臣政権の枠組みの中で正当性を担保して進展してるし
既に全国政権が出来てると、それを叩き潰すにしても
裏付けがないと結局政権の権威を振りかざした周囲から、フルボッコにされるだろうし
139日本@名無史さん:2011/02/21(月) 04:03:27.66
ちょっと話ずれるけどさ、

山崎の戦いがあったのが天正10年6月13日、
清洲会議があったのが同6月27日。その間、わずか2週間しかないんだよね。

2週間の間に、どうやって地方に散在している重臣たちに連絡をとり、清洲で会議をすることを決め、
人を集めたのか。そもそも清洲で会議をしようと言いだしたのは誰なのか。
全て徒歩ないし馬で移動するんだから、山崎から清洲まで移動するだけでも数日はかかると思うのだが、
武将たちはどうやって連絡をとりあい、清洲に集まったのか。
昔の人の行動ってよく考えると、結構すごいなって思うことが多い。
140日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:30:08.62
順番的には秀康だけど結城家継いでるから忠吉継ぐも早世
その弟の信吉も早死で次は忠輝さんになるわけだが
義理の親父の政宗に傀儡化されそれに怒った徳川一門衆と
漁夫の利狙う豊臣勢力で南北朝並にグダグダになりそうだなw
141日本@名無史さん:2011/02/21(月) 12:44:24.41
>>136
天童の織田家はそうだけど、丹波柏原の織田家は早くから薩長側に付いてたようだね。
地理的な違いからかな。
142日本@名無史さん:2011/02/21(月) 14:05:07.97
>>140
そもそも関ヶ原直後に家康、秀忠死亡だと
秀康は豊臣家を守る側に回りそうだしね
大体関ヶ原にしてもどちらも俺が豊臣政権の正当性によってると主張して戦った訳だし
143日本@名無史さん:2011/02/21(月) 16:32:48.78
信長書店を開店、繁盛したという

http://www.youtube.com/watch?v=m37jFUz72Ts
144日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:47:30.81
>>139
戦隊の移動は岐阜ー江戸がざっと15日なんだけど、書状の連絡で馬を
使えばかなり早い。
勝家に対してはとりあえず明智討ったぉという連絡と同時に
「はよぉこやぁ清洲でまっとるでよぉ」と連絡したんじゃないかな。
後のメンバーは近くにいたし。
日数もだが、そういう連絡書状をどうやって本物と判断したかも興味あるとこ。
口上もあったろうし複数だしてたとは思うのだけどね。
145日本@名無史さん:2011/02/21(月) 19:19:41.15
勝家に関してはやっと上杉と一応の話が着いたので
京洛に向かってたら、山崎で明智が敗北って一報が届き
既に近江方面は混乱して、安土も混乱してたのが分かってたから
織田本貫地である濃尾方面に向かったそうだが
秀吉も京まで纏めたから一旦濃尾方面に向かい
有力者が濃尾方面に集まったので、結果として清洲で会議になったんでしょ?
146日本@名無史さん:2011/02/21(月) 21:11:39.96
岐阜でもよかったのが清洲になったのは三法師がいたからなのかな。
なんかそういうのをどっかで見かけた。
147日本@名無史さん:2011/02/21(月) 23:08:12.20
>>16
>ちなみに信長も逃げようと思えば不可能じゃなかった(実際逃げた人がいる)
>でも、もし捕まれば天下の信長がさらし首、ってことで自害を選んだらしい。
それはねーだろ。
今までの人生で信長散々逃げまくりだし。
148日本@名無史さん:2011/02/22(火) 00:33:32.80
>>141
両家とも信雄の系統なのにな。
149日本@名無史さん:2011/02/22(火) 16:18:29.40
>>147
天下人となる前の信長は逃げた。
一介の戦国大名ならば、たとえさらし首になる危険性があっても
逃げられる可能性がわずかでもあれば逃げる。
しかし、天下人に一番近い地位にあった本能寺の信長は逃げられない。
首をあげられ、都にさらすことによって信長が死んだということのみならず
次の執政者が天下をとったことを世間に公言されてしまうから。
それならば自分の首をうやむやにし、自身の子息のいずれかが後を継ぐ
可能性を模索したほうがずっと良い。
150日本@名無史さん:2011/02/23(水) 07:16:07.44
「(事実上の)当主と嫡子を一瞬にして殺される」って、やっぱりダメージが大きいんだね。
家康・秀忠が殺された場合でも、やっぱりダメージは大きそうだし。
嫡子を殺されるっていうのは、「数ある息子の中から、この子に決めた」成果をつぶされること。
そして、嫡子を決める当主もいなくなっているから、収拾をつけにくいね。

織田家の場合は、重臣たちが地方へ出征していたのも痛かったのでは?
もし重臣が岐阜や安土に勢ぞろいしている状態なら、明智討伐も重臣連合で行っただろうし、
後継者選定ももう少し穏便にできたかも知れない。
意見が割れた場合は、織田家の長老格の人が最終決定する、などといった収拾もあったかも知れない。
少なくとも、秀吉の突出を防げた可能性があると思う。
本能寺の変は、非常にタイミングの悪いときに最悪の事態になった。
151日本@名無史さん:2011/02/23(水) 14:02:29.93
>>150
後見人となる人物がいないのも痛い
義弟長政がいれば空中分解は回避できたと思う
まあ謀叛しない信行でもいいけど
とにかく織田、豊臣も家臣に睨みを利かす一族がいなかった
152日本@名無史さん:2011/02/23(水) 16:11:20.76
>>151
信包
153日本@名無史さん:2011/02/23(水) 17:09:55.51
>>150
だからこそ光秀もあのタイミングで、と言うよりあのタイミングだからこそ謀叛したんでしょう
その後の秀吉と愉快な仲間達の行動が凄すぎた
154日本@名無史さん:2011/02/23(水) 19:03:21.98
>>152
信包ってほんとに何やってたんだろうなw
155日本@名無史さん:2011/02/23(水) 19:43:31.58
織田信包はあっさり秀吉にしたがっている。
案外織田家の実力を一番知っていて
信長・信忠没後は明智を討った秀吉の天下になると冷静に見ていて
何も口出ししなかったのかも。
156日本@名無史さん:2011/02/23(水) 20:10:59.18
変直後の摂津衆とか離散した丹羽軍が戻って秀吉に味方するというのも
結構大事ですでにして秀吉が相当に評価されてたことがわかる。
山崎の結果を知ってるから勝った方に味方するのは当然に思えるが
変の4〜5日前なんてなにがどうなるかわかったもんじゃない。
さすがに秀吉の天下とまでは思わなかったろうが
秀吉自体がどの時点でどう評価されてたかはよく確認しておく必要がある。
157日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:27:30.66
変事においては実力主義の家臣団が裏目に出たのかな。
譜代の重臣がもっといれば違ったんだろうけど。
彼らは織田家以上に信長に対しての忠誠だったから彼がいなくなると離反も早い。
158日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:31:33.69
>>155
信包は織田家の長老(本能寺時点でまだ40歳くらいだが)だから、信長死後はもっと自分の意見言ってもいいと思うけど、
おそらく本能寺の変で信長と信忠失った時点で織田家の天下は諦めたんだろうな。
信雄と信孝を見ても、とても織田家の総領として天下を統べる器量ではないと思ったんだろう。
秀吉に付いて織田家の家名を残す事に尽力したのかな。
159日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:51:21.31
スレ違いだけど本能寺の変後、織田宗家の所領を秀吉や勝家等重臣がわけあいこ
しているけど「ひでぇなあ」と個人的には思うのだけど、当然の行為なの?
160日本@名無史さん:2011/02/24(木) 01:44:40.05
>>159
当然ではないよね。
じっさい、ひどいことをしてたんだよ。
161日本@名無史さん:2011/02/24(木) 04:02:56.10
宗家というのが実質機能しない状況で回りに敵も多いから
とりあえずなんとかしないといけなかったからねぇ。
ほんで信孝は秀吉に助けてもらってるし信雄はアホだし
養子と言う状況含めて尾張美濃とか要所を預けたということで
それなりに考えられていたとは思う。
162日本@名無史さん:2011/02/24(木) 13:53:12.28
>>159
勝家の場合は市の化粧領の意味があったんじゃないかな・・・
それと仮に市との間に男子が産まれれば
加増分をその息子に与えるって選択肢もあるかも

秀吉他らの加増も光秀討伐の褒美と考えるなら、
そう酷い話でもないんじゃないかな
163日本@名無史さん:2011/02/24(木) 19:01:37.93
>>152
信包は軍事力も経済力もないね
長政なら降伏してれば大和一国を与えられたわけだから
軍事力と経済力もあるし歴戦の武将だから秀吉と家康も下手は打てない
164日本@名無史さん:2011/02/24(木) 19:14:31.88
159です。
色々ご意見ありがとうございます。
当時も所領分配は結構揶揄されていたという資料を見かけた事があり
また当主亡き後そういう状況に陥った宗家ってあんまり聞いた事で
どうなのかなと思いました。
織田家臣団は実の所氷上の上に成り立っていたのかなとも思います。
165日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:36:31.83
>>164
織田家臣団ではなく、織田権力自体が信長個人の強力な個性に
よったものだろうしそれが一種の頂点で瓦解したわけだから
その後というのはそりゃもうハチャハチャにはなるでしょうね。
我々は信長をある意味過大評価しすぎていて
これは秀吉と家康の偉大なる部分からの想定にしかすぎないのだけど
織田権力自体がそんなに組織でも政権でもなかったことを思えば
特に問題はないとも言える。
166日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:48:17.31
織田権力があらゆる問題性を含んでいたけど信長のカリスマ性で問題が先送り
にされていた状態だったのかな。
167日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:22:58.39
信忠まで本能寺のドサクサで消えたから、
大名家としての織田家が瓦解したのよ

秀吉の台頭から賤ヶ岳、小牧長久手のゴタゴタは
信長の定めた後継者で家臣全ての了承を得てる信忠の死によるもの。
家臣全てを納得させる後継者が不在だから勝家が信孝を担げば、
それに対抗する秀吉が三法師を担いだりする。

当主が後継者を定める前に死んだり、後継者を定めてもそれが若年過ぎて
指示をつなぎ止めれずに家中分裂して滅んだ家も多いね
168日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:00:07.66
徳川家で例えるなら家康・秀忠、徳川四天王にその他高級官僚が一度にパァだもんな。
どんな政権でも揺らぐワナ。
169日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:22:55.34
信雄はヘタレで人望無いのはわかるけど、信孝も人望無かったんだろうな。
イメージ的にはプライド高くて生意気な小才子って感じ。
170日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:35:19.48
>>169
信孝は一族の中の序列が信包よりも下だからね
人望を得る以前の問題だろね
少し違うけど勝頼みたいな感じかな
四国で実績を積んだ後なら家中からの人望も集めただろうね
だから本能寺の変って織田家にとって最悪な状況だよね
171日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:36:43.04
信孝は烏帽子親が勝家ってのも痛手だったかもな
172日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:08:27.91
津田信澄も悲惨だな。たまたま四国出兵の為集結した時に本能寺起きて、
光秀の娘婿なんで信孝らに疑われて襲撃されて殺されてしまった。
本能寺の時、同じような立場の細川忠興みたいに国許にいたら、妻と別居して光秀に組しない宣言したりと、
色々と手は打てただろうし、あんな悲劇は起きなかっただろう。

でも信澄は織田家一門の中でも武将としての器量はあるから、
本能寺後を上手く立ち回って、秀吉に付いたとしても、
後々警戒されて因縁つけられて所領没収か削封、下手すりゃ粛清されたかもしれんが。
173日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:35:18.32
>>172
信長は次世代を担う織田一族の躍進の場に四国を考えたんだろね
信孝と信澄が四国方面軍にいるわけだから
174日本@名無史さん:2011/02/25(金) 01:33:20.74
>>167
ドサクサで消えたというか、光秀の目的は織田政権を
瓦解させ自分が権力を握ることなので
会長は消したのに、社長が残っていてはことは成就しない
両者を同時に消せ、他の重役(軍団長)は留守(敵と対峙中)という
絶妙の機会が訪れたので下克上したわけで
そういう偶然の機会が訪れなければ、いままで通り第一の功臣(佐久間折檻状)だったろう。

175日本@名無史さん:2011/02/25(金) 01:52:16.25
これが最後のチャンスというところで見事に謀反を
成功させたわけだしもちろんその機会も光秀が自分で
作ったのではないたまたまなんだがあんだけギリギリだとなんか
ウラにあってもおかしくなさそうだなぁ。
家康は堺を発つ日、丹羽軍は攻撃に出る日、光秀もまた四国応援に
出る日、と出来すぎだもんな。
おまけに光秀はあやしげな百韻読んでるし
そんなタイミングで信長親子がすぐそばで無防備で宿泊。
信長の横死が歴史に大きな影響を与えたとして
まさに信じられないぐらいの偶然のタイミングが重なってるというか。
光秀はそのどのくらいまでをその場で知ってたのか。
176日本@名無史さん:2011/02/25(金) 01:58:33.94
でも光秀は兵力があったにも関わらず信長と信忠を同時に討っていないんだよね。
だから野望ではない気がする。
本能寺襲撃後に信忠を討ちに行っている。信長と違って信忠は逃げられるチャンス
があった、実際叔父さんは逃げているし。光秀謀反なら手抜かりはないと逃亡を
あきらめてくれた御かけで討てた様なもの。
177日本@名無史さん:2011/02/25(金) 12:48:08.73
信成と同じでなんか抜けてたんだろw
178日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:22:34.55
>>174
信長さえ死ねば織田政権は瓦解していた可能性は?
織田家当主とはいえ信忠の能力では中国・四国征討は無理で、
信長とは同盟者であった家康の動向も注目されるところ。
結局能力の傑出した家臣に乗っ取られる運命にあったとか。

信忠は死んだからこそ織田政権崩壊の責任を取らずに済んだけど、
もし生きていれば弟たち以上に
当主のくせにボケ糞言われる羽目だったかも・・・
179日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:01:43.41
>>178
ところが最近は信忠を高く評価してそのまま統一してたろうとは
よく見かける。
信長個人のカリスマ性と同一視してるようで賛同はしないが。
実際は四国九州はなかなか落ちないだろうし
もし秀吉あたりが本気を出したら逆に織田家自体がどうなってたことか。
結局秀吉ー家康あたりが突出してくるようには思うだよね。
180日本@名無史さん:2011/02/25(金) 19:32:01.13
>>179
とはいえ武田を滅ぼした後の信忠は既に領地は家中No.1で
実績も重臣たちには劣るがそこそこ積んでいるので
秀吉や家康が単独で何か行動を起こしたところでどうにかなるとは思えない
181日本@名無史さん:2011/02/25(金) 19:43:31.14
でも家康の力が大きくなったのは豊臣政権からだよね。
秀吉が懐柔の為かかなり領地や地位を与えた(そのせいで家康に野望と機会を与える事になった)。
でも本能寺の変直後の徳川家は突出しているわけではない。
そうなると秀吉の存在だけど仮に彼が天下取る事になっても相当時間かかるだろう。
曲がりなのにも信忠は家督はついでいるから余程の失態がないと追い落としにくい。
182日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:46:18.53
>>181
家康が勢力を拡大したのは本能寺の直後でしょ
織田の領地だった信濃と甲斐を平定
一揆が起こり無法地帯だったとはいえ強奪だからね
ただこの信濃と甲斐の平定がないと
家康は秀吉政権下では史実のような影響力はないような
183日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:51:46.90
>>176
まあ、別動隊が遅れただけという説もあるけどね
当然、狭いルートで大軍を通そうとすると遅くなるので分進させるわけだが
老ノ坂を通る本隊は本能寺、唐櫃越えの別部隊(明智光忠)は
妙覚寺を同時に襲うはずが、唐櫃越え部隊が進軍に難航した
184日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:56:45.56
>>181
追い落とすどころか、機嫌を取るので精一杯ふだろうw
信忠は織田の家督を継ぐ以前、岩村城攻めの総大将となって武名を上げ
家督を継いで以降は、雑賀攻めで雑賀孫一を降し
二度目の反逆をした松永討伐では総大将で明智、羽柴を率いて討伐成功
天正六年には明智、丹羽、滝川らを率いて総大将で播磨へ羽柴の後詰をし
武田攻めでは自領の美濃・尾張5万の兵を率い、家康にも指示を出し武田を滅亡
支配領国は美濃、尾張、甲斐、信濃に広がった
実務(実際の戦闘)は全て信忠が仕切っている状態だし、対抗出来る家臣はいない
信長が死んだくらいでは、全然、織田家は揺るがない
185日本@名無史さん:2011/02/26(土) 00:36:43.49
>>182
でもさあ、重臣達が宗家の領地を分配し合っているんだからどっちもどっちだわ。
織田家は急成長し過ぎて色んな問題点が置いてきぼりにされた感じ。
それが信長、信忠の死でどっと吹きあげた。
186日本@名無史さん:2011/02/26(土) 00:56:44.80
ループな話題だけどつくづく信忠まで死んだのが残念だな。
後で笑いモンになろうが生き延びる確率がわずかでもあれば逃げるド根性を教えてあげるべきだった。
ただ謀反に関しては信長も信忠も光秀を買いかぶり過ぎた。
計画性の無い謀反だったのに光秀なら完璧で手抜かりないと思っちまった。
それだけ光秀は優秀だったんだろうけど。
187日本@名無史さん:2011/02/26(土) 01:00:24.02
>>183
ソースは?
188日本@名無史さん:2011/02/26(土) 01:17:43.34
>>187
田渕
189日本@名無史さん:2011/02/26(土) 01:18:27.50
>>186
逃げる事なら天才的嗅覚持ってる信長が諦めて自害選ぶくらいだからな。
信忠が諦めるのも無理は無い。
190日本@名無史さん:2011/02/26(土) 13:21:35.69
本能寺の変の後、家臣達が織田家を大事にしていない感じがするのは
信長に人望がなかったせいなのかな?恐怖政治のせいで。
191日本@名無史さん:2011/02/26(土) 15:10:10.73
>>190
恐怖政治って感じもしないけどな
林、佐久間の重臣追放は徳川とて同じことするし
192日本@名無史さん:2011/02/26(土) 15:50:05.55
>>190
一度亡んだ織田家を復活させた立役者が、織田家に代々仕える者じゃないし(羽柴)
織田家の家督、または家督と決まっているものが一人もいなくなったので
重臣たちで後継者を決めるしかない(信孝や信雄は選ばれる側)
ここで柴田が押す信孝が、後継者に決まってれば展開は変わっていたわけだが...
信忠旧領のうち、尾張が信雄、美濃が信孝、安土など近江の一部が三法師
信長の四男で羽柴の養子が丹波の国などそれなり
分捕ったとか分け取りというが、加増分は秀吉は山城、柴田は北近江3郡、
池田は摂津から三郡、丹羽は近江から二群しかない
193日本@名無史さん:2011/02/26(土) 16:58:33.25
美濃斎藤氏も同時に滅んだ
194日本@名無史さん:2011/02/26(土) 20:47:10.26
そもそも、忠誠心なんかないんだろ。
195日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:38:56.95
宣教師達の信長評で家臣達(身辺お世話係)が異常な位に信長に恐怖して仕えている
のが幾つかある。

196日本@名無史さん:2011/02/27(日) 11:21:14.80
その割には本能寺では信長側近団は降伏したり裏切ったりはしなかったな。
忠誠心無いなら明智勢が包囲した時に、信長の首とって降伏すれば良かったのに。
197日本@名無史さん:2011/02/27(日) 12:31:43.57
>>196
側近は信長の小姓上がりが多いからじゃない?
秀吉もそれを真似て政宗の長男秀宗を小姓にしたりと
198日本@名無史さん:2011/02/27(日) 13:33:04.12
天下取った後の秀吉が信長は怖がられていたけど愛されていなかったと評していたけど
天狗になっている秀吉の評という事で割り引いても中々興味深いコメント。
199日本@名無史さん:2011/02/27(日) 16:40:33.17
織田信包は大坂の陣の直前に吐血して死亡したが、これは抗戦派から青酸カリを盛られて消されたと見るのが妥当で、それを手引きしたのは大野治長と近江屋である
200日本@名無史さん:2011/02/27(日) 17:41:06.13
>>198
ほぉーそんな発言あったのか
だから余が信長を誅した的な発言にも聞こえるが
201日本@名無史さん:2011/02/27(日) 20:54:22.79
信長は強過ぎる個性のせいで人に抱かれる感情は真っ二つに別れるわな。
嫌悪、憎悪されるか、心酔、敬服されるか。
ねねのへの手紙や黒人ヤスケのエピソードなんか知ると細やかな心配りの出来る「柔」の部分もあるけどね。
秀吉と仲の良い前田利家は死ぬまで信長を尊敬していたから好対照だな。


202日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:46:50.22
晩年の利家は秀吉を軽蔑してたきらいがある
203日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:51:49.72
>>202
娘を側室にされたからもあるだろな
丹羽も晩年は秀吉を軽蔑してたっぽいな
池田も小牧長久手で秀吉を同格扱いしてたって聞くが
204日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:56:14.57
柴田、前田、丹羽、池田、滝川と信長亡き後も
信長に対する畏敬の念は抱いていたと思うが
丹羽と池田は晩年は秀吉に加担したことを悔いたかもな
何度も同じ議論になるが信忠が生きてれば瓦解しなかったろうに
205日本@名無史さん:2011/02/28(月) 00:17:08.94
秀吉も尊敬自体は普通にしてたんでね?
利家の秀吉に対する態度は軽蔑もあるだろうが
あくまでこの友達は世話焼けるなあ程度で、なんだかんだで仲は良いと思うのだが
206日本@名無史さん:2011/02/28(月) 00:33:52.08
>>203
丹羽さんは上手く秀吉に利用された感じ。
彼の死後丹波家は難癖つけられ領地は削られるは有力家臣は持っていかれるわで散々。

>>204
秀吉の信長への思いは相当複雑だと思う。天下人になってからの信長評は相当鬱憤溜まっていた
んだろうなと思う位辛辣なものもあるし。後信長の遺児や側室にひどい事もしているし。
でも出自の低い自分を取り立ててくれた恩義を微塵も感じていないわけでもないだろうけどさ。

私等は当然歴史を知っているから例えば丹波さん辺りはなんで秀吉の支援をしたかと思うけど
まさか彼も秀吉が関白になるなんて想像もしていなかったろ。
秀吉は出世頭だったけど本能寺の変直前は織田家では5位だったみたいだし。
ホント本能寺の変の後の秀吉はスーパーサイヤ人。
207日本@名無史さん:2011/02/28(月) 00:52:02.15
>>206
でも秀吉も織田家の人を蔑ろしたかというとそういう訳でも無いな
ある意味秀信とか危険な筈なのにあの扱いだし
彼なり思い入れは深そう
208日本@名無史さん:2011/02/28(月) 01:28:00.21
>>205
秀吉は晩年に友と呼べるのは
利家だけだって語ってたらしいからね
209日本@名無史さん:2011/02/28(月) 01:28:37.65
でも信考を自刃させているし、信雄や信包を改易にしているし、信長の娘を側室にしている。
確か信長の側室をヒドイ殺し方しているし。
秀信は一応建前として立てる必要があったからね、彼は元織田家家臣として。
210日本@名無史さん:2011/02/28(月) 01:32:14.47
>>207
思い入れもあるが主家筋だから蔑ろにはできないしね
それに秀吉は血筋がネックだけど
秀信を豊臣一門に準ずる待遇で処遇することで
織田という血筋を利用しようという面もあるね
秀信の正室に誰の娘を考えてたか気になるけど
211日本@名無史さん:2011/02/28(月) 03:07:40.63
丹羽さんは山崎の時自分から離れた兵たちが秀吉が
来るとわかってまた集まってきたのをみてこりゃこいつに
ついてくのが正解と思ったろな。
そしたらいきなりスーパーサイヤ人になるしその判断は
間違ってなかっただろし逆にブイブイ言えてよかったろな。

秀吉が変後に織田家にしたことはその前からの鬱憤みたいに
簡単に言うのもどうなんだろね。
凡人にはわからない思考形態なんだろな。
212日本@名無史さん:2011/02/28(月) 03:39:09.93
上の方でも言われてるが秀吉は中国戦線を自分の部下やら同盟者やらを纏めて押し上げてるからね
独立大名としての素質の高さがポイントだったんでね?
なんか中国戦線での秀吉って織田家中の武将というより織田家の下位同盟者みたいな動きだし
やっぱり中国戦線で鍛えられたんだろうね
213日本@名無史さん:2011/02/28(月) 09:33:17.07
そういえば、蒲生氏郷が秀吉の前で、六角の太刀持ちをしたとかいう話あったよな。
自分はかつては臣下だったからとか言って。
秀吉に、以前の主筋を大事にしてくれって言いたかったのか。
それとも、別にそんなに信長信者じゃないよとアピールしたかったのか。
214日本@名無史さん:2011/02/28(月) 09:35:40.55
>>208
トップの地位にあって友達がいるだけでもすごいけどねw
信長の友達とか家康の友達とか全く思い当たらない。
215日本@名無史さん:2011/02/28(月) 09:52:53.65
>>214
家康にはいるお。
天海、別名みつひ・・
216日本@名無史さん:2011/02/28(月) 10:59:13.55
>>215
天海は家康のただの部下。ブレーン。
友達呼ばわりしたら東照宮様に殺されるぞw
光秀はないだろ。小説読み過ぎ。
217日本@名無史さん:2011/02/28(月) 17:43:00.29
>>214
信長と家康は元々領主の子だから友は無理でしょ
秀吉と利家は織田家臣という同僚仲間だから
信長だと恒興、利家、長秀が友に近い関係だろうね
家康は鳥居元忠、北条氏規が友と呼べるかも
218日本@名無史さん:2011/02/28(月) 17:45:29.70
>>213
六角は秀吉政権下で豊臣一門に準ずる待遇だったとの指摘がある
その指摘だと秀信も六角氏と関係があるようだ
だから蒲生氏郷が尚更適任者だったんだろうね
219日本@名無史さん:2011/02/28(月) 17:49:25.18
>>216
光秀はないとしてもきな臭い人物というのは間違いない
関ヶ原では大将クラスの甲冑を身に纏ってるから
220日本@名無史さん:2011/02/28(月) 18:50:54.89
>>219
まぁ、ようわからん人物なのは確かか?


しかし秀吉はスーパーサイヤ人というかマジラスボスだなw
本来は家康、というか江戸幕府初期3代がラスボスな筈なのに
221日本@名無史さん:2011/02/28(月) 19:25:48.00
>>220
単なる坊主ではないな
222日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:07:10.32
蒲生氏郷って信長の娘婿だよね、でも本能寺の変後はサクッと秀吉側に付いている。
蒲生は信長の事や織田家没落をどう見ていたんだろう。

223日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:27:25.93
>>217
信長だと恒興、利家、長秀が友に近い関係だろうね。

幼馴染でワル仲間みたいな感じかな。
でもこの3人は信長亡き後の織田家をあんまり守ろうとしている感じがしないんだよなあ。
譜代ではないから仕方無いのかもしれんが。
やはり彼らの忠誠心織田家ではなく信長だったからかな。
224日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:43:13.77
>>222
三法師を担いでたし三法師自身は大切にされ
秀吉に背く意味もあんまなかったからでね?
225日本@名無史さん:2011/02/28(月) 20:52:53.60
利家って友達としては付き合いやすい奴だったのかな?
226日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:07:35.24
元信長の側近で秀吉に重用された堀秀政は織田家没落を憂れいたらしいね。
蒲生同様に変後はすぐに秀吉に従いかなり秀吉のお気に入りだったらしいけど。
227日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:17:48.50
しかしQ太郎も蒲生も早死に…
228日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:43:03.51
織田も豊臣も天下は失ったけど、しばらくの間、当主は健在だよな。
450年も後から見たら、あれ?此奴ら忠誠心ないじゃんとか思うけど、
当時としては跡取りが必要以上に冷遇されてなれば良しとしたんじゃないの?

229日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:44:49.80
>>223
秀信が信長の嫡男なら違ったかもね
孫だから感覚は薄れるかも
信孝が四国を最低でも半分平定してたら
その実績から信孝の下で結束も考えられたかもしれないが
230日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:43:21.71
信長ファンとしては彼亡き後の織田家のあっけない崩壊がちと寂しく思いますた。
まあ、残された人間がそれなりの思いで信長を畏怖していたんだろうなあとは思う
のですが。
231日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:51:16.62
>>230
「織田家」は崩壊してないけどね
232日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:00:36.06
織田家の没落でした
233日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:18:46.70
しかし豊臣政権末期には岐阜に宗家があったし
名誉的な面では言う程没落してないかも
234日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:30:54.62
>>227
信長の元側近の長谷川さんも割りと早死に。
235日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:13:21.60
>>230
ミニ信長と評される細川忠興は33回忌に信長の菩提を弔う為に創建した泰巖寺に梵鐘を寄進したりしているから、信長が秀吉が評したように愛されない人物ではなかった
と思うけどね。
当時はお家第一だったから時流の流れの中の止むを得ない言動はあるから今の現代人の価値観では計れんのだろう。
236日本@名無史さん:2011/03/01(火) 07:51:29.16
愛してたらなんて言ったら、簒奪だのなんだの言われるからだろ。
237日本@名無史さん:2011/03/01(火) 08:51:11.84
>>235
忠興は信長の小姓やってたから愛着はあるだろうね
238日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:00:55.74
細川忠興は秀吉嫌いだからな。朝鮮行ってる間に秀吉にガラシャ狙われたし。
239日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:21:19.42
>>238
もうビョーキだなw
秀長の娘にも手を出しそうだな
240日本@名無史さん:2011/03/03(木) 07:45:08.75
ガラシャの話は俗説っぽい過ぎる。まあ、秀吉が女好きなのは本当だろうけどw
241日本@名無史さん:2011/03/03(木) 12:12:45.79
忠興が妻ガラシャに対して「秀吉に気をつけろ」
と手紙したという話はあるけれども
現実に秀吉の側室になった女性は高貴な女性が多くて
ガラシャみたいな明智光秀息女じゃあ役不足だな。
秀吉はいくら女好きでも、夫が生存している女性を
夫から取り上げて自分の側室にしてないし。
それともガラシャが「一夜限りのお遊び」相手にされることを
危惧していたということなのだろうか。
242日本@名無史さん:2011/03/03(木) 12:39:47.12
ガラシャも朝鮮の役の頃は30歳くらいか。波風立ててまで無理にガラシャを指名するとは思えないし
243日本@名無史さん:2011/03/04(金) 11:31:06.79
光秀自身も色白の美男だったらしいが
フロイスは光秀の嫡男について、西欧の王侯貴族のような風貌と書いてるし
一族は彫のふかい西欧系の風貌なんだろう
244日本@名無史さん:2011/03/04(金) 12:40:26.76
30代の欧州女は一気に悲惨になるぞ
245日本@名無史さん:2011/03/04(金) 13:13:02.49
フロイスは「女性の顔、白く塗り過ぎっ」とか言ってたな。みんな同じ顔に見えたかもなw
246日本@名無史さん:2011/03/04(金) 15:13:19.89
>>244
裁判中の革命家の娘はアラブとのハーフだが
たかじんの委員会に出てたの見たがそれが当て嵌まる
247日本@名無史さん:2011/03/04(金) 16:21:26.63
当時、日本で美形とされていたのは織田信長や市みたいな
細面に切れ長目、色白の「薄い」顔だよな。
明智光秀が美男だと書かれたものは目にしない。
ガラシャが彫りの深い西洋美人だったのならば
当時の日本人から見て美人だったのかな。
248日本@名無史さん:2011/03/04(金) 18:36:00.08
>>238
細川忠興の秀吉評って謎だなあ
でも好き嫌いで言えば秀吉の事も家康の事も似たようなもんじゃね?w
249日本@名無史さん:2011/03/05(土) 02:26:19.73
>>233
官位は五大老とほぼ同格だけど、政権の中枢からは遠ざけられてた感じだね。
250日本@名無史さん:2011/03/05(土) 02:39:20.94
信長の元家臣で秀吉に与した家臣達は関が原の戦いでは面白い位に東軍についているね。
世渡り上手だな。
251日本@名無史さん:2011/03/05(土) 03:28:52.63
>>250
東軍というか流れであって、世渡りとか、そんなモノじゃない
会津征伐は天皇や天下人秀頼からも軍資金が出た、オーソライズされた戦い
たまたま先陣で、家康にくっついていった連中が、西軍蜂起で石田憎さもあって
家康の元に結集してほとんど脱落(例外は真田、田丸など)しなかっただけ
252日本@名無史さん:2011/03/05(土) 15:39:10.76
>>251
すまん、もう少し噛み砕いて教えてもらえばありがたい。
関が原の戦いは東西どちらにつくかという事でどの大名家も苦心したというのは
真実ではなく単なる定説なの?
253日本@名無史さん:2011/03/05(土) 15:54:18.90
>>252
>>251じゃないが、そら西軍は機内で蜂起した訳で
大名としては対応に苦慮したのは間違いない、なんせ見た目勝っても変じゃない規模だし
だが法的には東軍の方が正式な豊臣政権軍と言える可能性が極めて高い
西軍は言わば君側の奸を除くと、蜂起した青年将校団のような物
一方で東軍側はクーデター討伐の名目
どちらも豊臣政権の為と主張して戦ったのよ


そう考えるとあそこまで事をデカくして見せた三成の優秀さが逆に証明されてるw
次いでになんで関ヶ原の時点で家康は豊臣を滅ぼしてないの?って疑問が
そもそも根本的に間違ってる事もわかる
254日本@名無史さん:2011/03/05(土) 19:09:19.58
>>253
ありがとう、なんとなくわかったよ。
255日本@名無史さん:2011/03/06(日) 00:34:10.34
むしろ、何で関ヶ原の時点で豊臣家は家康に
大義名分与えちゃったんだ?って話だよな。
まあ、家康に対抗できる政治力と、将来を見る眼をもった人がいなかったんだろうが。
256日本@名無史さん:2011/03/06(日) 02:10:21.36
秀吉が本能寺の変以後スーパーサイヤ人になったように
家康も関が原の戦い前後から神かがってくるわな。
サルから太閤への躍進を誰も想像出来なかったように
律義者から(真実は別として)狸爺への変貌を
誰も予測出来なかったんじゃないか。
関が原以前の家康は律義者という評価はそれ程相違してないし。
それ以後は豊臣の滅亡までいやらしさが全開だけど。
257日本@名無史さん:2011/03/06(日) 05:15:25.35
家康は律義者の仮面を被ってても、狸っぷりは全開だったよ。
多分、本能寺で信長が死んだ後から

小牧長久手前に信雄と結びついて、織田のお家騒動に介入して、
あわよくば織田家を操ろうとしてみたりねw
秀吉が天下を取った後、秀吉に挨拶に来てくれと言われれば
のらりくらりと態度を決めずに、秀吉に母と妹を差し出させてみたり…
秀吉死後には、合議で大名間の勝手な婚儀を禁じてたのを破った頃には
律義者の仮面も外しちゃってるな。恐い物が無くなったからだろう
258日本@名無史さん:2011/03/06(日) 13:08:14.40
>>257

>小牧長久手前に信雄と結びついて、織田のお家騒動に介入して、
あわよくば織田家を操ろうとしてみたりね

織田家操りの為に信雄と手を結んだのはわかるけど勝算というか織田家操りの算段はどう考えていただろう。
当時の秀吉の勢いは凄いし何より信長から引き継いだ圧倒的な軍力に兵力、経済力がある。
確かにこの戦いは戦術的には家康の勝利だけど、信雄が単独講和しなかったら物力で最終的には家康は秀吉に負けてたと思う。
上手い具合に秀吉へ自分を高く売り込めたけどそれは結果論で下手したら北条みたいになっていた可能性もあるんだよなあ。

>秀吉が天下を取った後、秀吉に挨拶に来てくれと言われれば
のらりくらりと態度を決めずに、秀吉に母と妹を差し出させてみたり…

一説には信雄の勝手な単独講和で大義名分を失って恥をかいてなかなか挨拶に行かなかったというのもあるが真実は如何に




259日本@名無史さん:2011/03/06(日) 15:14:07.36
>>223
とりあえず織田家の家名が守られてればよしとしてたんだと思うな。
関ヶ原後の加藤清正、福島正則の豊臣家に対する思いとさして変わらない気がするが。
260日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:14:06.73
関ヶ原から大坂の陣までの織田家はどうだったんだろな?
261日本@名無史さん:2011/03/06(日) 21:18:03.47
信長の子供はほとんど西軍についたから改易じゃなかったっけ。
262日本@名無史さん:2011/03/07(月) 10:58:09.96
>>258
あまり時間かけてると島津や長宗我部や雑賀に背後突かれてやばいと思うよ
263日本@名無史さん:2011/03/07(月) 11:42:18.93
>>262
家康は秀吉だけを相手にしていたけれども、
秀吉は天下統一のためにほうぼうと戦をしていたから、
本来飲めないような秀吉に不利な和睦条件でも無理に飲んで
(実母を家康の人質に送るとか、妹を先夫と離縁させて家康に嫁がせるとか)
家康と和睦したのだろう。
家康にとっては全く幸運だった。

家康が信雄について挙兵した時点で、当然家康の頭には天下ということはあっただろうね。
家康が信雄の世を補佐する心づもりがあったとは到底思えず、
秀吉との和睦交渉も秀吉の痛いところを突いて最大限自分に有利な方へ持っていった。

264日本@名無史さん:2011/03/07(月) 12:29:23.41
>>262、263
ナルホド、参考になりました。
なんとなく秀吉って楽々と天下人になったような印象があるのですがそうでもなかったんですな。
信長の土台があったとはいえ、やはり天下統一した彼は凄いんですね。
265日本@名無史さん:2011/03/07(月) 12:34:58.64
信長は人の能力を見る目は凄い高かったけど人を見る目は若干弱かったのかなと思う。
佐久間への折檻状で評価していた明智に謀反され父子共々殺されるし
秀吉には織田家簒奪されるし、目をかけていた丹羽、蒲生、堀は
信長亡き後はサクッと秀吉について織田家簒奪に手を貸しているし。
266日本@名無史さん:2011/03/07(月) 12:50:34.74
丹羽、蒲生らがあっさり秀吉についたのは
とても父信長の能力に及ばない信雄・信孝らの無能さゆえとも思えるが・・・
信雄は出自も良かったのに、勝家が三男信孝を押すとか意味不明。
信長・信忠死後、息子たちが不毛な家督相続争いをやったせいで
織田家はボロボロになった。
江戸時代でも変な家督相続争いでお家取りつぶしになった大名家は多い。
逆に秀吉が織田家旧臣をしっかり引っ張ったおかげで織田家旧臣たちの多くは
旧領を保証され、増封になった大名も多かった。
信長は天下統一の過程で死亡しており、まだまだ周囲に敵も多かったわけで、
あのまま信雄や信孝についていれば織田旧臣もろとも
他の大名に滅ぼされていた可能性すらある。
267日本@名無史さん:2011/03/07(月) 12:52:38.98
>>265
堀と蒲生はそうするしかない
秀吉政権下で大名になっただけで
当時は秀吉と対立するとか無理
268日本@名無史さん:2011/03/07(月) 13:49:19.76
秀吉傘下の織田家の家臣てどんなのいたの?
重臣層は独立大名なってしまっているけど
269日本@名無史さん:2011/03/07(月) 14:28:46.07
信孝の養父と、その相婿は、信孝を冷遇したとかいう理由で幽閉されて、一族殺されてたな。
二人とも嫁は蒲生の叔母さん。
蒲生は叔母達から、さんざん信孝の悪口聞かされて育ったのかもね。
本能寺の時点で秀吉に実子はなかったし、秀吉が天下とったら、その後継は於次だとでも思ったんじゃ?
三法師でも於次でもどっちでもいいや、アホ信雄と性悪信孝でなければ、と思ったのかね。
270日本@名無史さん:2011/03/07(月) 14:51:52.70
中国大返しで信長の仇を討ったのは秀吉だったし、
単純に信長死後、日本一強い武将が秀吉だったんだよ。
強い武将の下にはその傘下に入って領土を保全しようと
さらに次々大名が集まる、それだけの話。
秀吉はけして相手を追い詰めず、一度敵対しても寝返れば
寛大な処置を行って大名にとりたてたりする人心掌握術もあったから、
信長には敵対していた大名なども比較的簡単に秀吉の配下に入った。
織田家一門よりも秀吉の方が天下人としての器があった、それだけのこと。
271日本@名無史さん:2011/03/07(月) 18:03:47.31
>>266
勝家は信孝の烏帽子親
四国平定軍団を信長が任すぐらいだから無能ではないだろ
無能なら秀吉もわざわざ自害させることもないかと
272日本@名無史さん:2011/03/07(月) 18:23:09.88
>>265
見る目はあっただろう。自分が目をかけた部下(光秀)にやられるのは本望では?
また、秀吉が簒奪というが、織田家は三法師に家督相続されてるし、天下人はまた別で
実際に、信忠は武田征伐の六年前に織田家の家督を継いでるが
甲府に入った信長は、梨地蒔の腰物を信忠に与え、「天下の儀も御与奪」
と言ってるので、織田家の家督と天下は別と考えていた
273日本@名無史さん:2011/03/07(月) 19:25:45.29
勝家はお市を妻にして、亡き主君の義弟になることで、
自らが織田宗家に代わって天下人になる野心はあったのだろうか?

天下は回り持ちの時代、幼少の三法師や無能な信雄や信孝ではなく、
勝家自身が、史実の秀吉のようになることもありえたのでは?
274日本@名無史さん:2011/03/07(月) 20:53:04.08
>>261
でも信長の一族だから結構甘い処遇だよね。改易されても数年したらすぐ復帰してるし。信雄とか。
あと信包は西軍ついて田辺城攻撃参加もしたけど罪問われず本領安堵だし。
秀信ももう少し長生きしてたら小大名ながら復帰できただろうね。
275日本@名無史さん:2011/03/07(月) 21:25:20.42
ようするに今の現代人の感覚(ものさし)で当時の織田家家臣団の言動を計るべきではないという事かな。
なんか信長亡き後の織田家の崩壊があんまりにもあっけないので彼によっぽど人望無いのかと思った。

信長が苛烈にやったお蔭で秀吉の天下統一がやり易い部分もあったんだ。
でも秀吉は剛だけではなく柔も使って懐柔させたけど、結局やり過ぎで家康に天下への野心とその機会を与える事になった。
信長が天下取っても250万石も家康に上げるとは思えんし。歴史は結局流れる所に流れるもんですな。

>>274
秀信ももう少し長生きしてたら小大名ながら復帰できただろうね。

それはそう思う。早世(一説には自害らしいが)が残念。
276日本@名無史さん:2011/03/07(月) 21:45:12.67
>>272
幾らなんでも本望ではないだろう。
光秀の謀反は本当に青天の霹靂だったろうと思う。
当時のお公家さんの日記に光秀の京都の住まいに信長が
少人数で泊まりに来ていた記述がある。それほど信頼していた。
277日本@名無史さん:2011/03/07(月) 23:11:20.38
>>273
勝家は年齢も60越えてたからそこまでの野心は無いような気がするが。

278日本@名無史さん:2011/03/08(火) 00:53:07.98
>>274
東軍で参戦した場合の論功交渉が気になる
美濃一国は無理だろうし
279日本@名無史さん:2011/03/08(火) 03:20:10.89
>>272
秀吉は簒奪ではない、は言いすぎだろう。
家督と天下は別かどうか知らんが、
簒奪っていうのは別に家督を奪うことじゃない。
三好が細川を追って支配権を得るのだって、別に家督を奪ったりしたわけじゃないが
簒奪には違いない。
280日本@名無史さん:2011/03/08(火) 14:53:48.38
芳春院の手紙が来月公開らしいけど新発見な事柄あればいいね
江戸住み以降だからほぼ世間話だろうけど
281日本@名無史さん:2011/03/08(火) 16:23:55.47
>>277
家康も征夷大将軍になったのは60近く、
孫ほどの年齢の秀頼を滅ぼした時には71歳になっていたのだから、
年を取ったから政権欲がなくなるというのはむしろ逆の気がするな。
むしろ、今の政治家を見ていると、高齢になるほど
政権欲が高まる気もする。

ただし、市との結婚=信長の後継者というのは違うかも。
信長にはもともと兄弟が多く、妹も大勢いた、
その妹の夫たちは皆信長の後継者かと言えば違うし、
信長の娘も大勢いたがその娘婿たちが信長の後継者かと言えばそれも違う。
織田家の筆頭家老であった勝家は、若いころに先妻がいて(死別しているが)
この先妻ももともと織田家出身だったらしい。
信長の妹婿になるということは織田家の連枝に連なることで
名誉なことではあっただろうけれども、
だから信長の後継者を自負するというのは違うと思う。
282日本@名無史さん:2011/03/08(火) 17:25:36.29
勝家は政権簒奪というより織田政権再構築を目指してたんだろうな。
自分が織田家の連枝に連なって秀信とその後見人の信孝を支えようとしたのかも。

283日本@名無史さん:2011/03/08(火) 17:32:12.34
勝家はもともと織田家の筆頭家老、ナンバー2だからね。
たとえ自分が押した信孝が無能でも、
鎌倉幕府の将軍=織田家、執権=柴田家でよかったかも。
一代でのし上がった秀吉とは違って、
勝家は信長の親の代から織田家の家臣だったし
急には織田との縁を切れなかったのかも。
だから古臭い体制にこだわって負けたんだろうけど。
284日本@名無史さん:2011/03/08(火) 18:00:14.24
>>279
織田信長だって初めは義昭の臣下のような顔をしていたのに
足利義昭を京から追って政権を「簒奪」したのだから
豊臣を云々言えないってことか。
285日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:17:39.14
>>283
古い体制にこだわって負けたというより前田利家の裏切りで負けたというのが近いかも。
しずがさきの戦い(だっけ?)で柴田勝家が勝てば織田家はあそこまで没落はしなかったかも。
でも遅かれ早かれ織田政権の維持は難しくなっていったと思う。
最終的には秀吉でなくても別の誰かに政権は奪われていたんじゃないのかな。
信長しかも信忠も亡くなった時点で織田家の天下を危うく思った者は大勢いるだろう。
286日本@名無史さん:2011/03/08(火) 22:09:28.56
賤ヶ岳(しずがたけ)
287日本@名無史さん:2011/03/08(火) 22:20:57.11
>>286
ありがとう、それだ。
288日本@名無史さん:2011/03/09(水) 15:43:05.28
賤ヶ岳は前田云々よりも佐久間の暴発の時点で構えが崩れてて
秀吉につくしか生き残る選択肢なくなるだろうし裏切りはしょうがない気も
前田の前にも信孝ともども養子が裏切って岐阜取られてるしね
289日本@名無史さん:2011/03/09(水) 18:15:51.69
>>288
養子は勝豊だったかな?
岐阜城ではなく長浜城の間違いでは?
あと信孝は真っ先に攻略されたから裏切りではないね
期待を裏切るって意味なら裏切りだが
290日本@名無史さん:2011/03/09(水) 18:36:48.18
家康も秀吉同様、「(羽筑退治ののちは)三法師さま後見人として中納言さまには天下の政治をみていただきましょう」といって信雄をたきつけた可能性大
291日本@名無史さん:2011/03/09(水) 20:16:58.97
>>285
賤ヶ岳に関しては利家の裏切りがなくても秀吉が勝っていた
兵力的に秀吉が優位だったし
この時期の秀吉の戦の上手さは神がかっている
292日本@名無史さん:2011/03/09(水) 20:27:15.61
>>291
佐久間の深追いと対上杉に兵力を割いたのは痛いな
秀吉の場合毛利と和睦で長宗我部の脅威があるものの海があるし
293日本@名無史さん:2011/03/10(木) 00:42:14.42
「信長と消えた家臣たち」谷口克広

 この本を読んだら本能寺の変後の家臣たちの変わり身の早さ
 天下人となった秀吉の信長の悪口
 その理由がよくわかる
294日本@名無史さん:2011/03/10(木) 03:15:31.66
谷口さんは基本やね
この手のネタで話すスレのどこ行ってもw
295日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:13:10.17
>>294
どういう意味?
296日本@名無史さん:2011/03/10(木) 22:43:28.08
上の方で蒲生氏郷は信長に目を掛けられていたというが
信長の娘を養女にして秀吉の側室に送り込んでいる。
マジで信長って人を見る目ないんじゃないのか。。。。
297日本@名無史さん:2011/03/11(金) 00:38:28.25
>>295
いや信長政権の問題を語ってるスレだと
大体どこでも谷口さんの本が基礎知識になるなぁって意味で
谷口さんの信用度と本の出来の良さからなんでしょうけど
298日本@名無史さん:2011/03/11(金) 00:59:59.62
>>297
なるほど。
谷口さんの信長像は側面の部分をクローズアップされている傾向はあるけど
資料そのまま鵜呑みにせず検証して論理的なのが良い。

「信長と消えた家臣たち」を読むと明智の謀反はしゃーねえーなーと思う。
299日本@名無史さん:2011/03/12(土) 07:26:28.92
谷口は整理分類はいいかもしんないけど
そっから先の検討部分はあまり相手にされてない。
使ってる単語がゲーム的だからそういう層には人気
ありそうだけどね。
300日本@名無史さん:2011/03/13(日) 14:23:15.35
信長に人を見る目が無いというスレあったけど
目をかけたというか気に入った人間に対しては
目が曇るという方が近い気がする。
301日本@名無史さん:2011/03/14(月) 07:27:04.00
荒木のことかー
302日本@名無史さん:2011/03/21(月) 22:14:42.73
>>296
何ともいえないだろ。
蒲生が養女の信長息女を秀吉に差し出したのは秀吉が天下を取った後だし。
信長の娘三の丸殿は信長の姪淀殿より血筋が良いわけで、
三の丸殿が秀吉の男子を産めばその子は淀殿の子を差し置いて
豊臣の跡取りとされる可能性もある。
そうすれば、女系で織田家の天下は続いていく。
三の丸殿に釣り合うような武家というのも難しいし、
秀吉の側室になるというのはけして悪い選択ではなかったはず。
303日本@名無史さん:2011/03/25(金) 20:18:39.42
そうかあ〜?
基本娘は家臣に嫁がせた親バカな信長が娘が秀吉の側室になる事はあの世で嘆いていそう。
304日本@名無史さん:2011/03/31(木) 23:02:29.44
秀吉ー側室:三の丸殿(織田信長の子)
  −養子:羽柴秀勝(織田信長の子)
  −側室:加賀殿(前田利家の子)
  −養女:豪姫(前田利家の子)
  −側室格:円融院(宇喜多直家の正室)
  −養子:宇喜多秀家(宇喜多直家の子)
  −側室:淀殿(浅井長政の子)
  −養女:初・江(浅井長政の子)

側室と養子が姉弟とか(w
305日本@名無史さん:2011/04/02(土) 02:43:24.92
>>303
同意
306日本@名無史さん:2011/04/02(土) 02:59:42.96
円融院が秀吉と関係してたかは怪しさ全開だろ……
特にそんな仲ではなかったと思うが
史料を見ても特にそんな事は臭わせてないし
悪い意味での「俗説」の典型じゃ


秀吉の秀家への溺愛は宇喜多が豊臣の準一門化すれば良いなって話でしょ
307日本@名無史さん:2011/04/13(水) 16:07:16.30
>>303
信長は生前秀吉に実子を養子にやってるしそうでもないと思うがな
308日本@名無しさん:2011/04/13(水) 18:22:22.64
>>307
んだ、んだ。
信長にしてみれば家臣だった秀吉と親子関係になれるわけだし、
純粋な道理だけで考えたなら、むしろ抵抗は少ないと思うだ。
寧々に気を使うとか、このヘンでの抵抗はあるかもしれんがw
309日本@名無史さん:2011/04/13(水) 18:38:41.28
まあ、秀吉はエロのためというより、姫たちを庇護するという、
いわば「戦国のあしながおじさん」としての役割を果たしてたんだけどな。
310日本@名無史さん:2011/04/13(水) 19:52:35.32
加賀殿に関しては秀吉は生前に公家と再婚することを許してるくらいだからな
三の丸殿も秀吉没後だが公家と再婚してるだろ
311日本@名無史さん:2011/04/14(木) 03:02:36.07
信雄って頭はポカなのが有名だが顔は美男子だったの?
312日本@名無史さん:2011/04/14(木) 05:21:32.64
とくに記録なし
313日本@名無史さん:2011/04/14(木) 13:04:30.97
>>308
むしろ織田家でも有力家臣になって来た羽柴家乗っ取り臭いが
314日本@名無史さん:2011/04/16(土) 12:38:41.09
>>311
信孝は信長に1番似ているみたいな記録があったような
一方のカス雄の方はそんな記録もないね
315日本@名無史さん:2011/04/19(火) 16:29:20.01
織田信雄の肖像画
http://rakureki.fc2web.com/img007.jpg
織田信長に似てるっちゃ似てるが
316日本@名無史さん:2011/04/23(土) 12:03:37.03
織田秀信は高野山から追放後に野たれ死にしているみたいだけど
誰一人彼を助けようとしなかったのはなんでだろう。
再就職に成功している旧家臣もたくさんいたし、織田縁者もいたのに。
317日本@名無史さん:2011/04/25(月) 00:03:04.12
秀信ももうちょっと長生きしてれば大名復帰になったんじゃね?
信雄も関ヶ原で西軍について一時は所領没収されたけど大名復帰したし、信包も本領安堵だったし、
徳川政権は織田家には基本的に甘いだろ。
318日本@名無史さん:2011/04/25(月) 10:36:39.88
秀信さんは信長の正統後継者だから誰かに担がれる恐れもあって
秀頼さんみたいに生きてもらわれては困るよ
319日本@名無史さん:2011/04/25(月) 21:38:42.73
織田も羽柴も天皇から官位をもらってた天皇の臣下だろ
羽柴が織田の官位を追い越しただけで
何で簒奪って言われなきゃならんの?
しかも織田の正統な後継者を追放したわけでも殺害したわけでもなく
むしろ厚遇してるじゃないか
320日本@名無史さん:2011/04/25(月) 21:49:22.57
>>317
何故信包は本領安堵だったんだろう?
日和っていた信雄は改易、他の日和組みも改易。
西軍について織田一族も改易。関が原の処置はきっちりしてるのに(島津は別だけど
そこも長期戦で粘った結果だし)。
なのに西軍として戦った信包は無事なんだよな。

>>318
その時期の秀信にどれ程の価値があったかね。
321日本@名無史さん:2011/04/27(水) 09:44:18.69
>>320
織田信包は関ヶ原当時、五大老のひとり前田玄以配下だったからだと聞いた。
前田玄以は西軍に与しながら、石田三成の挙兵をいち早く徳川家康に伝えるなど、家康に内通。
その功績から、西軍でありながら関ヶ原後は家康から所領安堵された。
その下で働いていた織田信包も当然、所領は安堵された。
322日本@名無史さん:2011/04/29(金) 00:07:44.20
信雄には木造具政が後見のように着いてるけど、信孝などには内通者そんな存在いなかったの?
323日本@名無史さん:2011/04/29(金) 19:52:25.58
>>321
遅くなりましたがレスありがとうございます。

最近織田家の武将に興味があって色々調べてるのですが、名人久太郎(堀久)こと
堀秀政について調べた所ウィキに

秀政は織田家の衰退を歎いていたと後に直政が証言している。
「秀政、信長公の御子孫衰えさせ給ふを深く御歎きあり、如何なる謀事あるやも知れずと、常に御隠密の仰せを蒙りたり」
 
上記の現代訳がわかる方がいれば教えて頂ければと思います。

324日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:41:01.72
のたれじんではないでしょう
325日本@名無史さん:2011/05/16(月) 19:38:46.45
このスレとは若干時期がズレるが歴史群像の最新号の記事が明智光秀
中々興味深い視点の記事で良かった
326日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:00:59.53
スケートしてる
327日本@名無史さん:2011/06/03(金) 03:09:46.73
保守
328日本@名無史さん:2011/06/03(金) 07:07:35.34
江戸期の織田家詳しい人いないかな

前田家の子孫に織田秀親が殺させたとか
ネタは少ないかもしれないが

329日本@名無史さん:2011/06/03(金) 08:01:00.00
江戸期に織田信雄系、信包系の大名旗本、津田信澄系の旗本が集まって和解しようとしたが、結局うまくいかなかった
330日本@名無史さん:2011/06/03(金) 11:16:45.75
KWSK
331日本@名無史さん:2011/07/14(木) 00:27:09.25
織田信包は大坂の陣直前毒殺されたって話があるが
今更殺すほどの人物だったんだろうか
332日本@名無史さん:2011/07/14(木) 10:22:08.17
>>323
掘秀政は小田原北条攻めの最中病死したのだが
数年前、小田原一夜城に行ったのだが、その麓に寺がある。
そこには武士の墓と思われる五輪の塔が数墓ほど建っている。
その中央にあるのが堀秀政の墓だった。
資料で調べてみると病死したため遺体は麓の寺に葬って、髷の頭髪を領地に持ち帰ったとある。
333日本@名無史さん:2011/08/03(水) 17:14:25.40
平→源→北条→足利→織田→豊臣→徳川→薩長←今ココ!

日本国民=日本銀行(皇室)と日本経団連(薩長財閥)の使用人
334日本@名無史さん:2011/08/04(木) 21:12:06.08
むしろ西軍が勝った場合に秀信はどういう処遇だったんだろう?
335日本@名無史さん:2011/08/05(金) 07:02:05.92
美濃一国くらい与えられてたかも
336日本@名無史さん:2011/08/05(金) 08:31:12.09
秀信家・・・

信雄家・・・

信包家・・・
337日本@名無史さん:2011/08/15(月) 23:20:29.19
今日の世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーで織田信雄が取り上げられていたね
見るつもりなかったけど、信長以降の織田家が取り扱われること少ないから思わず見てしまったよ
338日本@名無史さん:2011/08/30(火) 00:17:28.32
織田権中納言秀信の弟
織田侍従秀則に興味があるが
文献が乏しいので不明な点が多々ある。
339日本@名無史さん:2011/11/02(水) 08:50:24.30
横山光輝の漫画読んでるけど
信雄ってやっぱアホだったんだな

何で秀吉が織田を差し置いて天下人に成れたのかと思ってたけど

それなりにアホだったんだな
340日本@名無史さん:2011/11/10(木) 07:53:08.21
えええ?
341日本@名無史さん:2011/11/19(土) 01:16:55.85
>>302
三の丸殿が秀吉の側室になったのって、氏郷が死んだ後じゃないの?
342日本@名無史さん:2011/11/29(火) 22:11:54.40
>>341
えっ?そうなの?
どういう理由だろう?冬姫の代わりなのかな?
343日本@名無史さん:2011/12/04(日) 22:39:36.36





ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや


その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで

まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?








344日本@名無史さん:2011/12/23(金) 09:16:40.31
織田一族の戦死率は異常
長島一向一揆で何人死んだことか
345日本@名無史さん:2011/12/24(土) 11:42:24.20
江戸時代の織田家関連の事件で目立つのはこれかな。

前田采女利昌が寛永寺で織田監物秀親を
刺殺したのって
松の廊下から10年たってないな。
346丹後宮津藩の永井尚長:2011/12/30(金) 13:55:56.55
やはり儀式のように緊張状態を強いられる場面では大名が発狂しやすいと思います
347日本@名無史さん:2011/12/30(金) 16:30:11.57
公家は既知外だらけってことか…
348日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:45:01.74

349日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:48:08.67

350日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:48:18.59

351日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:48:30.29

352日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:48:41.88

353日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:55:41.28

354日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:57:35.82

355日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:58:11.59

356日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:00:15.97

357日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:01:19.03

358日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:28:30.51

359日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:33:46.42

360日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:42:44.75

361日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:49:17.39

362日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:50:05.79

363日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:50:28.37

364日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:54:50.67

365日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:56:05.50

366日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:56:55.19

367日本@名無史さん:2012/01/27(金) 03:57:07.94

368日本@名無史さん:2012/01/27(金) 04:04:55.23

369日本@名無史さん:2012/01/27(金) 04:05:36.65

370日本@名無史さん:2012/01/27(金) 04:21:25.91

371日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:04:54.82

372日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:05:20.11

373日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:07:03.70

374日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:11:01.32

375日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:11:29.74

376日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:12:48.46

377日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:14:34.50

378日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:27:26.32

379日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:29:33.45

380日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:30:12.49

381日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:30:24.25

382日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:30:35.83

383日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:30:46.47

384日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:30:57.51

385日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:31:08.68

386日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:31:21.72

387日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:31:34.77

388日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:31:54.29

389日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:32:05.84

390日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:45:44.29

391日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:45:59.68

392日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:46:13.96

393日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:46:30.16

394日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:46:44.98

395日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:46:56.95

396日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:47:12.22

397日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:47:26.05

398日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:47:40.25

399日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:47:53.07

400日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:48:04.78

401日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:48:15.52

402日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:50:37.03

403日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:50:48.83

404日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:51:03.36

405日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:51:17.23

406日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:51:30.19

407日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:51:42.28

408日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:51:54.53

409日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:52:05.67

410日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:52:17.46

411日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:52:29.11

412日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:52:39.67

413日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:52:51.24

414日本@名無史さん:2012/01/27(金) 14:53:02.36

415日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:04:15.56

416日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:04:26.19

417日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:04:36.18

418日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:04:46.73

419日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:05:03.82

420日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:05:19.72

421日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:05:30.35

422日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:05:43.46

423日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:05:54.58

424日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:06:07.27

425日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:06:20.09

426日本@名無史さん:2012/01/27(金) 15:08:37.01

427日本@名無史さん:2012/01/27(金) 16:12:48.04

428日本@名無史さん:2012/01/27(金) 16:15:16.81

429日本@名無史さん:2012/01/27(金) 16:37:37.30

430日本@名無史さん:2012/01/27(金) 16:37:50.28

431日本@名無史さん:2012/01/27(金) 18:01:32.05

432日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:21:49.61

433日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:23:20.70

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512日本@名無史さん:2012/01/28(土) 18:59:02.97

513日本@名無史さん:2012/01/28(土) 18:59:22.05

514日本@名無史さん:2012/01/28(土) 18:59:46.57

515日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:00:16.64

516日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:00:35.06

517日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:00:52.98

518日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:14:05.75

519日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:48:00.69

520日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:55:56.84

521日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:56:45.50

522日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:59:09.04

523日本@名無史さん:2012/01/28(土) 20:37:28.91

524日本@名無史さん:2012/01/29(日) 00:09:18.41

525日本@名無史さん:2012/01/29(日) 00:14:09.89

526日本@名無史さん:2012/01/29(日) 01:26:41.41

527日本@名無史さん:2012/01/29(日) 01:59:38.87

528日本@名無史さん:2012/01/29(日) 02:24:55.21

529日本@名無史さん:2012/01/29(日) 04:22:51.83

530日本@名無史さん:2012/01/29(日) 04:23:29.28

531日本@名無史さん:2012/01/29(日) 05:06:46.19

532日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:27:12.41

533日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:51:17.21

534日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:52:19.65

535日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:34:03.10

536日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:34:44.78

537日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:40:16.49

538日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:41:30.57

539日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:42:36.45

540日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:07:37.49

541日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:18:14.09

542日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:27:16.35

543日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:32:28.03

544日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:34:37.27

545日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:37:49.21

546日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:41:10.69

547日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:09:47.54

548日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:16:23.47

549日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:24:47.35

550日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:26:15.26

551日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:27:57.78

552日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:43:12.69

553日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:46:07.55

554日本@名無史さん:2012/01/29(日) 21:47:24.40

555日本@名無史さん:2012/01/29(日) 22:12:51.89

556日本@名無史さん:2012/01/29(日) 22:14:22.21

557日本@名無史さん:2012/05/01(火) 09:42:52.94
三好や足利将軍家・管領細川の没落に比べたら
織田家はまだマシだと思えてくるよ
558日本@名無史さん:2012/05/01(火) 22:40:33.14
秀信なんていう屈辱的な名前で元服してるのになぜ西軍についたんだろ・・・。
家臣筋の羽柴姓を下賜されるなんて更に屈辱の極み。
559日本@名無史さん:2012/05/02(水) 00:17:49.10
信長の下の息子もそろって豊臣方についてんな

秀信とか下の世代は秀吉の織田家簒奪をどう感じてたんだろう
560日本@名無史さん:2012/05/03(木) 00:58:06.69
江戸期の織田家
地味にお家騒動多いな
561日本@名無史さん:2012/05/03(木) 08:00:47.12
秀信の立場からしたら
大名にしてもらっただけでも御の字だろ

秀吉が明智光秀を討たなかったら
一族根絶やしにされてたかもしれないし
秀吉が秀信を担がなかったら
信孝の系統が宗家を継いでいって
秀信は出家か殺されてたかもしれないし
562日本@名無史さん:2012/05/03(木) 08:16:55.03
昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
563日本@名無史さん:2012/05/03(木) 15:43:39.88
まあ、物心ついた時には、羽柴様様のご時世なれば
564日本@名無史さん:2012/05/03(木) 19:28:26.05
秀信にしたら織田家家臣時代の秀吉なんて知らんし恩人ですらあるな
秀吉も相当だが領地全没収のうえに高野山送りとか家康もひでぇことしやがるな
信長もまさか秀吉に羽柴の姓を押し付けられ家康に織田家嫡流滅亡させられるとは思ってもなかったろうな
信長信忠どちらもまとめて葬られるようなことをした信長がいけない
本当の忠誠度なんてゼロなのに
565日本@名無史さん:2012/05/03(木) 23:08:50.55
信雄も豊臣に怨み持っても良いはずなのに
関ヶ原では西軍について人が良いやら
566日本@名無史さん:2012/05/06(日) 08:49:58.59
関ヶ原で家康に味方してもただ家康の天下取りを手助けするだけだろ
家康は豊臣家を滅ぼして織田家の天下にしてやるつもりなどないし
本能寺の変がなければ家康は信長に殺されていた恨みとばかりに
豊臣時代以上に織田家の徹底粛清かけているから
信雄など関ヶ原の時ただ傍観していただけなのに家康に粛清されている
豊臣時代のほうがたとえ秀吉に敵対した者でも織田家一門は優遇されている
567日本@名無史さん:2012/05/06(日) 16:14:10.90
信雄も転封を拒否しなきゃ100万石の大名だったものを
しかも内大臣という高位
568日本@名無史さん:2012/05/06(日) 20:17:38.38
信雄にもっと求心力がありゃ
小牧長久手で池田恒興に見限られ、妹婿の蒲生氏郷にはボコられ
可愛そうになってくるな。
569日本@名無史さん:2012/05/06(日) 22:00:24.05
池田恒興は恩義と褒賞を天秤にかけて褒賞が重かっただけじゃない?
信雄じゃなくても、織田を見限って羽柴に鞍替えしているだろう・・・。
570日本@名無史さん:2012/05/06(日) 22:26:09.19
恒興はその報いか信雄相手に戦死してるんでまだ許せるが
そのほか旧織田家家臣団、誰か殉じろよ
571日本@名無史さん:2012/05/06(日) 22:43:03.85
信雄は信長の嫡男じゃないしそういう教育も受けていない
俄かに家督を相続した者が家臣掌握に失敗するのは武田勝頼当たりも同じ
信雄は優柔不断に秀吉に寝返って死ななかっただけマシだったんじゃないのか
下手に織田天下にこだわると秀吉とガチ勝負で切腹だったかも
572日本@名無史さん:2012/05/06(日) 23:08:45.82
信雄は織田宗家の家督を相続できなかっただろ
573日本@名無史さん:2012/05/07(月) 08:41:42.98
>>572
信雄は小牧長久手の和睦(寝返り)条件として織田宗家になっている
574日本@名無史さん:2012/05/09(水) 18:55:14.99


織田信成が織田信長の子孫って本当?【5代目】

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1305714112/



575日本@名無史さん:2012/05/09(水) 21:30:29.31
信孝が、信雄の家督継承に賛成してたら、どうだったんだろうな。
秀吉が三法師を押しても、信雄・信孝が一致協力してたら容易には織田家を乗っ取りきれなかったとも思うんだが。

もっとも、三法師・羽柴秀勝を擁する秀吉派と信雄・信孝を擁する旧主流派が争うパターンもあったのかな?
576日本@名無史さん:2012/05/10(木) 07:50:35.82
>>575
清州会議に参加した織田家重臣は四人。
柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興。
織田信孝を推す柴田勝家VS三法師を推す羽柴秀吉の構図は有名だが、
すでに主君仇討の功績もあって丹羽長秀と池田恒興は秀吉側だった。
この構図ではいくら信雄と信孝が結託しても無理。
清州会議では信雄は候補にすら上らず、賤ヶ岳の戦いで信孝が切腹した後、
小牧長久手で徳川家康に擁されたにすぎない。
577日本@名無史さん:2012/05/11(金) 16:54:13.62
柴田勝家って織田家を守ろうとしてたの?
それとも秀吉みたいに実権握って自分が織田家に取って代わろうとしてたの?
578日本@名無史さん:2012/05/12(土) 00:38:59.72
>>576
>小牧長久手で徳川家康に擁されたにすぎない
小牧長久手はあくまで秀吉vs信雄だよ(家康は雇われ外人助っ人)
賤ヶ岳の戦いで信雄を宗家に祭り上げ
宗家(信雄)vs反逆者(信孝:柴田)ということで戦ったわけだが、
祀り上げた信雄が勘違いして主人ずらをしだした。
もともと一時的に担いだだけなので小牧長久手が発生という流れ。
局地戦(小牧や長久手)では勝利もあったが秀吉が物量で一個一個拠点をつぶす作戦に変更
尾張では加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城などがあいついで落城したが家康は救援出来なかったw。
伊賀・伊勢方面でも蒲生氏郷などの秀吉別働隊に負け続きほとんど占領されてしまった。
結局、信雄は伊勢半国と伊賀を割譲して秀吉の家臣となり、家康は人質を出すハメにw。
このままやってたら信雄・家康とも滅亡だったので講和をありがたいと思わないといけない。
579天皇家 織田 繪璃奈(横濱・野島えり) 會理主宮:2012/05/12(土) 09:17:14.91

偽のヒトラーで南京大虐殺の主犯「西太后の所からモンゴルに逃げた芝と笵襤」と
「徳川埋蔵金を奪い、逃げた酒元鬣魔とその妾」の子供達が 第二次世界対戦を開戦させ(魔女狩りの魔女の末裔)、
原爆を製造、投下させた家族と親戚が
横須賀に 「無差別爆撃」等の脅迫で集めた 世界中の要人(全国連メンバーや世界中のFreemasonryを含む)や著名人(BIG-NAMEばかり!)を人質に 籠城しながら
サイバーテロと電子操作のプログラミングや偽の情報で 大量虐殺を繰り返している。

震災も事故も内紛も戦争用薬物「人肉カプセル」の製造や虚偽での薬物投与をさせたのも 自民党名等の偽の差し入れに薬物を混入したのも 「枯葉剤」を考案し、ばら蒔いた一族が神奈川県に籠城中の一族である。

織田 繪璃奈(横濱・野島えり) 會理主宮
札幌啓北商業高等学校の野島(横濱)えり
Freemasonry & MicroSoft co.USA tp.

еопое=еёжЭЮЯабЧЦХЛθ
=νγδεζθ=γδεζηθ
弖十=優多野手頭=帝跿(徒)=衞鴉隴=野慈蚕=獲狸乃雉懷=Eleonora de' Medici
chocolat@湘南台 de' 闇将軍@藤沢市
ゲームサイト モバゲーでは八犬伝でした。

立て籠り一族とは「朝鮮総連・怩岷鬥」と名乗る「元従軍慰安婦多数」の犯罪組織。
私の名や徳川一族の末裔の戸籍を使うのは 立て籠り「朝鮮総連」の不法滞在の親族のみ。

徳川 隆盛 竜王 隆鐓 Rio Rock-Filar と
織田壽茂 鎧王 鎧颱(信長) の子孫
壞閼髏 繪鴉路 薈亜炉 衞鴉隴 壞椏鏤
580日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:58:42.20
>>578
>賤ヶ岳の戦いで信雄を宗家に祭り上げ
それは違うな。
賤ヶ岳の戦いの頃織田宗家だったのは引き続き三法師(後の織田秀信)。
幼い三法師の後見人に誰がなるかで信雄と信孝が争ったのが賤ヶ岳の戦い。
信雄には羽柴秀吉、信孝には柴田勝家がついた。
賤ヶ岳の戦いで信雄と秀吉が勝利した後も、
信雄は織田宗家である三法師の後見人になったに過ぎない。
織田家とその重臣たちが混乱している最中にこれ幸いと領土拡大をした徳川家康と、
三法師後見人である自分よりも秀吉の権力が増すのを警戒した織田信雄が結託して
秀吉の排除をしようとしたのが小牧長久手の戦い。
581日本@名無史さん:2012/05/19(土) 00:05:30.35
>>569、570

あの時代は家ではなくて個人へ忠誠を誓うのだから信雄じゃなあ。。。
天下統一した豊臣家でさえ大阪の陣の時に現役大名は誰も味方しなかった位
だから仕方ないのかも。

家康は何だかんだありながらも大阪の陣の後に何の役に立ったのか
わからない信雄に5万石をやって大名にしてあげてるからいい狸親父だと思うけどね。
兵を出してお金使って命がけで戦ったのに褒美が名器の茶碗だけという
大名もいる位なのに。
582日本@名無史さん:2012/05/30(水) 00:09:47.52
>>581
城より茶碗望んで断られたやつもいるよね
583日本@名無史さん:2012/05/31(木) 04:34:04.48
いくら信雄信孝が手を取り合おうが誰も味方しないだろ
584日本@名無史さん:2012/06/16(土) 10:58:47.03
>>581
織田信長のまぎれもない実子である織田信雄が大坂の役の豊臣方総大将では
家康もやりづらかっただろう
織田・豊臣に恩恵を受けた大名がほとんどなのに
豊臣を滅ぼすだけでなく織田の公子まで害することになる
信雄が家康に寝返ってくれたことはそれなりにありがたかった
その効果は茶器を与えられた大名と同程度であるはずがない
585日本@名無史さん:2012/06/16(土) 15:33:16.42
>>584
織田家の当主の秀信は西軍だし、容赦なく落城させられてるし、戦後は高野山に追いやられてるんだが。、
もはや、織田も豊臣も関係ないと思ったから仕掛けたんだろ
586日本@名無史さん:2012/06/16(土) 15:34:38.57
関ヶ原ですらそうなんだから、大坂の陣なら余計に
587日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:40:00.08
>>585
秀信は西軍総大将ではなくそれほど重い処分が下ると思ってなかったのに
家康がかこつけて処分したのだろう
豊臣家総大将が織田信雄なら話は別だ
家康はかつて織田信雄を担いで秀吉と戦ったこともあるのだし
なんともやりづらいだろう
588日本@名無史さん:2012/06/17(日) 17:14:55.88
>>581
それはそうだけど
徳川家に忠実な徳川家臣見てると織田・豊臣の大名は節操ねえなと思っちまう
589日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:39:17.76
>>588
家康の祖父は自分自身の家臣に殺害されており、家康父にもその説がある。
徳川家歴代家臣が必ずしも主君に忠実だったわけではない。

織田家・豊臣家は三法師や秀頼といった幼主の登場で家臣に付け込まれた。
家康は長生きで幼主を出すこともなく家臣に付け込む隙を与えなかったというだけだろう。


590日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:07:28.74
>>589
広忠が横死後
幼君の竹千代を人質に取られながらも松平家支えた三河武士の忍耐力
591日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:06:49.27
>>590
三河武士が耐えたんじゃない。
当時三河は今川家の支配下に入っていたので、三河武士を今川が支え、養ってたんだよ。
そして、元服した家康を領国へ帰してあげた。
三河武士が人質にとられた幼当主の代わりに自治を敷いていたわけじゃない。
592日本@名無史さん:2012/06/18(月) 18:46:43.77
>>591
今川家的には、

三河国守護=今川氏
岡崎城主(有力国人)=松平氏

ってことで末永く今川家を盟主としてくれれば満足だったってこと?
593日本@名無史さん:2012/06/18(月) 19:10:38.31
>>592
岡崎城主松平広忠が死ぬと、すぐに今川家より岡崎城代が派遣され、
岡崎城は今川家の支配下に置かれた(実質今川領になった)。
先岡崎城主の嫡子であった家康には今川義元の姪築山殿を娶らせ、
家康を今川一門とすることで納得させようとした節がある。
594名無しさん脚:2012/07/11(水) 20:34:37.32
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http://unkar.org/r/dcamera/1295698193
595日本@名無史さん:2012/10/25(木) 15:44:23.61
七代将軍までは織田家の血筋であったこと、一時は天下人と目された織田家であったゆえ國主格と遇されたが、出羽國高畠に移封され、待遇も剥奪された
596日本@名無史さん:2012/10/29(月) 01:02:43.57
武家清華家だもんな
597日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:07:09.58
>>596
意味不明
598日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:45:03.77
秀信をオマエ呼ばわりした時期はいつなんだろう?
ある日、突然、今日から俺が主君、オマエは臣下ね、みたいな感じ?

福島とか加藤みたいなヒゲ面の荒武者が、荒々しく秀信の肩をひっつかんで
下座に引きずりおろし、秀吉に土下座させたりとか・・・

ある日いきなり、今まで「三法師さま、三法師さま」と言ってた猿顔の爺から
「秀信、ひざまづけ。ワシが主君じゃ」なんて言われたのかな。
で、荒武者に腕をわしづかみにされて、下段の間にねじふせられる秀信哀れ。
中国の簒奪とかではありがちのシーンだが、そんなにドラマチックな光景だったのかな?
599日本@名無史さん:2012/11/05(月) 08:57:42.41
>>598
何年前のコピペだよ
600日本@名無史さん:2013/03/31(日) 19:36:02.82
秀吉が織田家を蔑ろにしたみたいなこと言う奴いるけど
織田家よりも権威のある朝廷から秀吉が関白太政大臣をもらって
信長の右大臣を超えた時点で主従逆転は仕方ないだろ

むしろ秀信は若くして権中納言にしてもらって清華家となっているから
家格的には落ちてないし、公家のように完全にお飾りというわけじゃなく
中規模大名クラスの領土も安堵してもらっている
豊臣政権が続いていたら将来的には加増も祖父の官位に並ぶ可能性すらあった
前政権の子孫をこれほど厚遇した例は古今東西なかなかないだろう?
秀信には豊臣家に感謝こそすれ恨む理由は何もないよ
601日本@名無史さん:2013/03/31(日) 19:56:38.52
なら初めから官位もらわなきゃいいだけ。
あともらった後でも秀信成人後に秀信を養子にするなりなんなりして関白を秀信に与えればいいだけ
秀吉は天正12年あたりから必至に朝廷に献品したり寺社衆への領土安堵やら寄進状やら出しまくったり
正親町親王の即位問題で注力して朝廷に貢献して自分から関白もらいにいった上に
秀信成人後も秀信に元の主君とも思えないようなハナクソみたいな領土与えて
豊臣後継者としての資格も全く与えなかったために関が原合戦時も秀信は蚊帳の外で政権争いの道具にもなれず
単なる西軍武将の一人に埋没して家康に改易されて終わってる
602日本@名無史さん:2013/03/31(日) 21:52:03.27
別に秀吉に天下をとる意思がなかったとかそういうことを言ってるわけじゃない
でも一般的な簒奪とは違ってありえないほど織田家に優しい
というか天皇の臣下だという建前からすれば
織田家の家格は維持されているのだから何の問題もない
領地も若さと実績を考えれば要地に十分すぎるほどもらっている


平家、鎌倉将軍家、北条得宗家、足利将軍家、細川京兆家、三好宗家
一時的にでも政権を担った武家が
その後どうなったか考えれば秀吉の厚遇ぶりは破格
603日本@名無史さん:2013/04/01(月) 00:22:37.80
>>598
ある日突然、
今日より余が主じゃ。秀信、わしの股をくぐれ。
それとも嫌ですか三法師さま。
それなら帰られて遠慮なく挙兵しなされ。
さあ二つに一つ、好きな方を選ばれよ。
こんな感じじゃなかったのかな?
604日本@名無史さん:2013/04/01(月) 00:30:33.78
>>602
> でも一般的な簒奪とは違ってありえないほど織田家に優しい

領土奪っておいて姫君をみんな犯して、ありえないほど優しい、ね・・・
605日本@名無史さん:2013/04/01(月) 01:14:44.65
滅亡した家の姫君なんて雑兵に犯されて終わりだわな。
それが関白様の側室になれたんだから感謝するべき。
606日本@名無史さん:2013/04/01(月) 01:41:43.24
秀信と秀吉の地位が転換したのは、
参議任官時?
権大納言?
内大臣?
それとも関白でやっと?
607日本@名無史さん:2013/04/01(月) 01:55:00.91
秀信と名乗ったころ。
608日本@名無史さん:2013/04/04(木) 05:41:26.28
>>603
三法師さまがいつの間にか三法師どのになって、
秀信と名乗らせたときはむろん最初から秀信どの。
命令口調ではなく生涯、年長の優しい後見人のような感じだったと思う。
初代秀吉はなにかとそのへん気を使ってるはず。

余は生まれながらの将軍じゃ、となんかのドラマで三代家光が言ってたじゃん。
やはり三代目にならないと。
609日本@名無史さん:2013/04/04(木) 20:31:25.90
>>608
その秀信が周りからどう見られていたかといえば、関ヶ原のあと一門も旧家臣も誰一人援助せず
文字通り野垂れ死にした事実が現しているな
610日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN
信長の子にも自分の片諱与えまくりで、何かやりすぎの感もあるな>秀吉
信吉はともかく、信秀なんて結果的に祖父と同名になってるしw
611日本@名無史さん:2013/09/09(月) 13:01:58.26
>>601
天下統一の功績は秀信ではなく秀吉のもの
織田信長が天下統一と朝廷工作に成功し関白になっているのならば
織田家当主秀信も関白の要求ぐらいはできるかもしれんが
信長は右大臣が極官なので秀信が関白を望むのは無謀というもの
庶長子の生まれで本来織田家の家督を継げたとも思えないのに
秀吉から祖父信長の岐阜城を与えてもらい
秀吉存命中は大封を持って安泰な生活を保障されたのだから良いほうだろう
家康が秀頼・国松らにしたことと比べてみろw
612日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:59:53.62
>>611
いや、秀吉は信長が広げてきた版図を信長が光秀に殺された隙をついて主殺しを討つ大義名分を利用して
棚ボタ的に火事場ドロしただけ。
元々織田家家臣であり織田家の後継者を秀信に定め、秀吉はあくまで後継という立場をとってるからには
織田家臣として仕えなければ道理に合わないわけだし、そもそも元々重臣達との合議制で織田家運営を行う事に清洲会議で決まったが
秀吉が野望をむき出しにして秀信をなおざりにし、信孝を殺し信雄にいちゃもんつけて攻めこんで和議を結んだと思ったら大した理由もなく
改易し、秀信にもハナクソ程度の領地をやっただけで主筋を絶えさせた張本人なわけ。
本能寺の変も、変の情報が1.5日であの距離を即座に伝わり、また秀吉が内容の正否を審議する事なくすかさず行動を起こしている事から考えて
状況から考えて秀吉が画策した可能性が非常に高いと思われる。
613日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:02:05.77
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
614日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:03:18.54
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
615日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:06:46.45
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
616日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:10:16.09
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
617日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:12:05.67
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
618日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:13:07.57
信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
619日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:14:38.02
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
620日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:18:35.36
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
621日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:20:05.86
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
622日本@名無史さん:2013/09/14(土) 12:14:41.69
なげーんじゃ、ボケ!
623日本@名無史さん:2013/09/14(土) 13:09:59.60
>>612-621
秀吉はひでぇ奴だな
624日本@名無史さん:2013/09/14(土) 15:54:35.68
信長の孫を岐阜において大名にしてやった秀吉
秀吉の子をチンピラのような言いがかりをつけて殺した家康


せめて国松だけでも生かしておいたら後世において
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して
大坂城をいったん平地化するまで完全破壊してからの新大坂城建設と、
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。

織田家は信雄親子も有楽斎親子もみんな豊臣擁護側のリーダーとされていたし。
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。
どんだけ織田家は家康が嫌いなんだよレベル。
625日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:42:11.25
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
626日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:44:17.19
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
627日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:48:11.96
家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後秀吉は信雄にいちゃもんつけて攻め込むが、苦戦しまくって本願寺顕如使って必死の取り成しと、苅田の応収で、なんとか和議を
結んだがその後いつの間にか配下としてこき使う。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
628日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:48:52.53
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
629日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:49:29.55
恩を受けまくった信長を暗殺し、織田家を権謀術策で崩壊させた秀吉の所業は
武士としてあるまじき行為だな。
630日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:53:10.15
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
631日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:41:36.15
家康は信長から恩を片鱗も受けてないとかw

では秀吉からは?

このスレに常駐する家康ヲタは異常w
632日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:56:06.54
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
633日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:17:25.91
>>632
コピペ馬鹿w

負け戦続きの家康は駿河を貰っただけでも信長には御の字だろ。
信玄にびびって19歳で切腹するはずだったのに。
どうせなら信長の助けを一切借りずに自力で武田を滅ぼしてから
領地を要求するのが筋。
634日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:28:08.03
バーカ織田が武田に勝って滅ぼしたのは
長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
635日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:31:12.44
長年寡兵でろくな援軍もなく大国武田の侵略に耐え抜いてきた徳川の功責からすりゃ駿河だけではなく甲斐信濃もあげていいくらいだからな。
636日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:55:55.73
>>634
家康厨ってなんでこんなに重症の馬鹿なんだ?

だったら、逃げずに討てよw
信長の援軍もだめだ、家康が単独で武田を討たない限り
甲斐信濃を家康が独り占めできるわけないだろ
織田信長に出陣の足労を願っておいて馬鹿すぎる
ろくな働きしなかったくせに
637日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:56:30.80
>>636
お前は本当に馬鹿だな
大国武田に単体で立ち向かうとか初めから無理ゲーなんだよ。
当時の徳川なんて三河+遠江7割程度だし
信長の畿内平定戦にいやいや付き合わされてるし
織田が武田に勝って滅ぼしたのは
長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
>>ろくな働きしなかったくせに

アホかお前w
長篠合戦時も鳶ヶ巣山砦を落とし勝利のきっかけをつくり
三方が原のときも織田の大軍は瞬殺されて使い物にならなかったが徳川軍は敗北後も浜松城に篭もり武田方は攻略諦めてるし
武田崩れの時も高天神城の時も徳川や北条軍の働きで武田は崩壊しただけで
織田方なんて何もやってねーよボケ
徳川の働きからいったら旧武田領全部徳川にやっていいくらいだわアホ
638日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:01:09.65
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
639日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:11:10.19
例えていうなら徳川さんや、北条さんが長年頑張って弱らせておいてクタクタに疲弊しきった所を
後からその喧嘩に協力もろくにしてなかった織田さんがズカズカ入っていって弱りきってた武田さんを殺し
武田さんの財産遺産土地全て奪ったから徳川さんからしてみりゃ恩どころか
迷惑きわまりねーだろボケって話だろ。
640日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:24:32.36
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
641日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:41:24.42
>>640
武田は長篠で事実上滅んだよ。あとは、自主的には何もできていない。
上野方面へは半独立の真田昌幸が武田家の名を借りてやっているし、
遠江での徳川相手に撃退するどころか、逆に防戦一方で、それも次々落城する有様。

で、何故織田家が武田を放置したかというと、武田の領土は戦略的価値が低く、軍事力も
長篠で事実上崩壊し、ゾンビと化していたのでまるで脅威ではなく、家康に牽制させて
おけば済むと考えていたし、事実その通りだった。

信長は複数の戦線を抱えており、畿内が最重要だったしね。事実、武田を攻める余力が
出来た時に、あっという間に滅ぼしている。
642日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:45:45.91
長篠合戦の後織田方が奪回したのは東美濃の数城のみで、しかもこれは半年もかけて攻囲しても自力では落とせず
騙まし討ちにしただけ。
遠江の諸城も数城奪回しただけで他はろくに奪回されておらず、逆に武田方は戦力たくわえ出す天正9年頃から関東遠征で北条を押しまくっている有様
643日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:47:58.74
北条に対して武田が圧倒的に優勢で
上野が武田のものとなってしまう・このままでは当方が滅亡してしまうのではないかと氏政が嘆いている。
大した被害もないが北条も反撃していて天正8年5/15に都留郡に侵入した氏照を西原合戦で撃退してるが甲斐府中がいつ攻められるかわからんことを受けて天正9年1月から新府城の築城が開始されてる。
この時点では織田の脅威などまったく想定されてない。
(当時の武田は猿ヶ京攻略成功と沼田攻略中や田中城攻撃に失敗した家康が掛川へ逃げるのを追撃したり、武田水軍が伊豆を襲撃しまくりで氏政も伊豆から逃亡。10月には利根川を渡り武蔵本庄の氏政の陣へ肉薄した武田軍にまた氏政逃亡し12月に沼田城攻略成功)
天正9年には3/17に北条軍が甲斐へ進入し上野原市にあたる棡原で武田軍が撃退してる。
その一方で外交戦では武田・佐竹同盟に里見も参加の意思を示してるし
北条水軍の本拠地伊豆長浜城を武田水軍が大破している。
長期に渡り苦戦していた徳川が砦を構築したやっと高天神城が落ちたものの、その周囲の武田方諸城や砦は健在なまま。
こんな状況で織田に備えて新府城を作ったなど暴論以外の何ものでもない。
甲斐府中にとっての安全保障を脅かしてるのは
突発的な北条側のヘタレ奇襲であって織田じゃない。
9月に完成した新府城だったが10月の伊豆の韮山攻撃で新府移転が延期になるなど
対北条戦略進展で新府移転まで延期される始末。
11/16に佐竹も武田に呼応して出陣してるが
伊豆対陣で北条が陣から出ず、見切りを付けて武田は撤兵して12/24に新府城へ入城してる。
644日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:48:58.56
そもそも織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
2/11に信忠が岐阜出陣しており2/14に浅間山大噴火が観測され武田領国大混乱のドサクサ紛れに火事場泥棒同然の織田軍が信濃へ侵攻。
645日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:50:00.06
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
646日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:50:51.68
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
647日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:54:06.98
>>642-645
結局後の武田の動向をみると長篠合戦では全くといっていいほど武田はダメージを受けていないが
北条徳川との攻防や北条の甲斐侵攻に備えた新府築城、また甲江同盟詐欺による防衛解除の所への騙まし討ちで滅んだと見るべきだな
織田は悉く棚ボタで武田を崩壊させただけで実際に頑張ってたのは徳川と北条。
648日本@名無史さん:2013/09/16(月) 23:33:30.23
武田は織田そのものでは無く織田のパシリ如きにやられたってことか…
649日本@名無史さん:2013/09/16(月) 23:36:43.18
織田徳川同盟の場合パシリの徳川の方が強いからな。
650日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:20:56.22
秀吉や勝家が中国地方や北陸地方を切り取っている間に
せめて関東進出ぐらいしとけや、家康w
家康が主君同然に仕えていた今川義元が死ぬと
信長に泣きついて庇護を求め
信長存命中はほぼ織田領拡大に貢献せずって弱すぎるだろ
651日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:35:35.91
秀吉…衰退しきった守護の赤松や小寺や山名など雑魚しかいない上に
尼子残党が頑張ってて織田の援軍貰いまくり&味方になった南条・宇喜多・草刈らが毛利の大軍を一手で受け
ほとんど火事場ドロ状態で楽な戦ができた秀吉。にもかかわらず鴨城攻防や熊見川や八濱合戦で大敗し、美作から駆逐される醜態っぷりw

柴田は御館の乱やその後の内戦や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦し上杉が信濃に派兵した隙をついて
居留守泥棒的に行った魚津城攻めではロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北 越中中部で苦戦する織田軍w
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生

景勝>>>>>>柴田

大国武田相手に単体で援軍を全く貰うことなく長年敢闘し武田を弱らせた上に
滋賀の陣・姉川・金ヶ崎・上洛・長島侵攻など信長の畿内平定に大いに活躍した家康。

はっきりいって信長が畿内で版図広げられたのは100%家康のおかげ。

家康がいなけりゃ包囲網相手に粘るどころか東の抑えが聞かなくなって武田に瞬殺されて終わりだろうな
652日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:37:51.00
上杉謙信は1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝したので柴田勝家の4倍以上の統率値が妥当
柴田が90なら謙信は360くらい。

長家家譜(織田側)

そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、


信長不在で4万人を動員している。その後、秀吉の離脱、退却などいろいろな説があるが、
おそらく隠蔽したい真実があるのだろう。

長家家譜によると
長連龍は進軍を望んだが、秀吉には真実を打ち明け、秀吉が撤退していることになっている
ここで謙信は先に松任(石川県松任市)まで南下している
更に柴田勝家は水島まで進軍している(石川県白山市水島町)
手取川を渡り謙信の陣まで約1kmまで進み、数的優勢の状況で、
撤退を判断するというのは軍事的にありえないのでは無いだろう。

戦後、柴田だけでは北陸防衛が不可能になったために
織田軍最大兵力の七ヶ国の与力を信長から与えられていて
畿内軍として石山本願寺攻囲の指揮官をやっていた
織田家No2の佐久間信盛まで北陸防衛に派遣されてる。
しかも毛利の攻勢に謙信の死が確定が事実なら信長自身が毛利攻めに行くと書いていて
信長自身も謙信への備えで動けなかった。
653日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:41:10.77
>家康がいなけりゃ包囲網相手に粘るどころか東の抑えが聞かなくなって武田に瞬殺されて終わりだろうな

その前に斉藤攻略すらできるか怪しい。家康が独立してからも今川は全く衰退しておらず、遠州騒乱が起こってようやく
今川の衰退が進むわけだからね。上洛戦でも姉川でも金ヶ崎でも滋賀の陣でも助けまくってやったおかげで
ピンチを脱して版図拡張を棚ボタ的に信長はできただけなのに織田領拡大に貢献してないとか何馬鹿な妄言吐いてんだかw
654日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:42:01.13
信長が勢力を楽に伸ばせたのは畿内での有力諸侯が1561年に 十河一存 斉藤義龍 1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興 1564年 安宅冬康 三好長慶 と次々に死に、謙信・信玄・直正もガチで戦うと
大敗したが、滅亡寸前の所で相手の病死に助けられるなどはっきりいって棚ボタで拡張しただけだよ。

北畠も斉藤も六角も上杉も三好も足利将軍家も信長とは関係なく内訌で勝手に崩壊しただけだし
信長の力量とか人事とかの問題ではなく単なる棚ボタとしかいいようがないね。
655日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:43:23.69
信長は信玄存命中は劣勢一方だったからな。
三方が原で佐久間平手滝川水野の大軍を大破されて
畿内でも当時のトップ4のうち二人を殺されて戦力不足になり、
もはや誰が味方で誰が敵かわからない、兵糧も物資も兵数も不足しているなどといって嘆いている有様だし
家康はよく援軍も全く出さないアホ織田を見捨てないであげたと感心するわ。
信長は家康にはもっともっと恩賞出すべきだったな。
656日本@名無史さん:2013/09/17(火) 00:44:47.31
信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし
657日本@名無史さん:2013/09/17(火) 22:41:37.37
光秀は信長を殺してないよ。殺したのは秀吉一派!
658日本@名無史さん:2013/09/20(金) 15:05:05.36
【静岡】男子バレー部で体罰、部員の頬を十数発平手打ち ネットに動画が投稿される-浜松日体高★9






http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1379653346/
659日本@名無史さん:2013/09/20(金) 19:49:32.45
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
660日本@名無史さん:2013/09/22(日) 20:24:04.84
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
661日本@名無史さん:2013/09/22(日) 23:26:45.08
三河マルチって1年くらい前から湧いいてる?
662日本@名無史さん:2013/09/23(月) 20:40:31.92
http://toppy.net/special/dubai0.html

「名古屋が元気」

こんな言葉をよく耳にします。名古屋以外の大半の日本人は、この言葉の裏に「トヨタが元気なだけで名古屋自体がなんぼのもんじゃい」という意味を込めて使っているにもかかわらず、
ほとんどの名古屋っ子は何を勘違いしているのか、名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。



>名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。



どこの田舎モンだよw
663日本@名無史さん:2013/09/24(火) 11:53:11.63
三河の田舎もんの尾張コンプレックスは異常w
664日本@名無史さん:2013/09/24(火) 12:27:21.69
      ハ,,ハ
     ( ゚ω゚ )   スレチお断りします
    /    \
  ((⊂  )   ノ\つ))
ε≡Ξ (_⌒ヽ
      ヽ ヘ }
 ε≡Ξ ノノ `J
665日本@名無史さん:2013/09/24(火) 12:37:01.25
田舎臭い名古屋が恥ずかしくしょうがないコンプレックスだろw
666日本@名無史さん:2013/10/07(月) 13:31:07.20
名古屋市がなぜ田舎の岡崎市にコンプレックスを抱くのか
岡崎市民はなぜ一日中名古屋市民叩きの連投を行うのか
667日本@名無史さん:2013/10/07(月) 15:40:19.66
こっちセリフだろがw

何で極力、尾張徳川家の影響を隠そうとするんだよ、恥ずかしいのか?w
三英傑で、名古屋の成り立ちに信長秀吉が関与したような印象操作するなよ、みていて痛々しいわw

260年、三河武士がどのよーに統治して幸せだったが、感謝気持ちでまとめて、町起こしに使え

東京では、ここが家老の酒井氏の屋敷だったとか、大名の松平氏の屋敷だったとか箔付け利用してるだろが

名古屋も遠慮なく利用しろよ
嫌なら無理強いはしませんがw
668日本@名無史さん:2013/10/07(月) 15:47:03.33
尾張嫌いの信長にすがり付いてでも、どーしても負けたくない気持ちは分からないではないが
中世〜近世、西三河の隣で幸せだったと素直に感謝出来ないから、馬鹿にされる
素直に感謝は洗練された儀礼だ、出来ない奴は育ちの悪い田舎者
名古屋人は田舎者だろうがw



尾張守護
・高師泰→土岐氏→今川氏→斯波氏

尾張国知多郡分郡守護
・一色氏

尾張国海東郡分郡守護
・中条氏(三河国高橋荘地頭)→一色氏

尾張国愛知郡那古野(現在の名古屋城あたり)地頭
・足助氏(三河国足助荘荘司)→今川氏
669日本@名無史さん:2013/10/07(月) 20:13:14.41
>>667
どうして君の大好きな徳川家は
御三家のひとつを岡崎においてくれなかったの?

3代住めばもうそこが故郷らしいよ
だから尾張藩主も4代目以降は尾張出身になるよ
670日本@名無史さん:2013/10/08(火) 06:02:17.45
だったら、さっさと尾張徳川家で町起こし、箔付けやれよ
ノロマ猿め

間抜け、岡崎藩主は幕府の幹部だろ
三河は全域が、足利将軍家の神聖なる御料所だったのを踏襲したんだろうな
足利将軍家から幹部へのご褒美は、三河の領地だったからな
671日本@名無史さん:2013/10/08(火) 06:52:09.19
マヌケ狸め

岡崎市民は本多か水野で町おこしやれ
名古屋市民の尾張徳川家など恐れ多いわw
672日本@名無史さん:2013/10/08(火) 06:53:34.30
尾張徳川家より織田信長や豊臣秀吉のほうが
人気あるんだものw

岡崎市民は地味にやってろよ
673日本@名無史さん:2013/10/08(火) 07:36:47.80
岡崎と言えは、源頼朝、高師直、足利尊氏、足利義満と、誰を押せばいいのか決めきれないからなw
めんどくさいから、オカザえもんだ
674日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:47:00.59
>>673
どれも岡崎出身じゃないしw
675日本@名無史さん:2013/10/08(火) 14:50:03.05
田舎者の発想、名古屋で生まれたら名古屋人だぎゃ〜か?w

つーか義満以外は、何処で生まれたか不明だろが


名古屋人が、尾張徳川家について極力隠そうとする、このことだけで、お前らの負けだ
ウリナラファンタジーで妄想虚勢をはり、常に負けるもんかの対抗心で生きているから、いびつな性格に育つんだよw
お前らは朝鮮人かっつーの


今度、名古屋城に秀吉の銅像とか、笑い殺すつもりか?w
676日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:05:10.59
頼朝、尊氏、師直は三河で生まれた可能性あるわな
生まれていたら、発狂するだろうがw
三英傑が陳腐化するだぎゃ〜、名古屋飛ばしだぎゃ〜となw
イチイチ対抗心持つなよ、お前が相手をしている三河は、全国民平伏す国だ
三河の上にたって、日本で一番偉くなった気になりたい気持ちはわからんでもないがw
名古屋人は田舎者だからなw


可能性がある足利尊氏の生誕地


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
677日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:50:26.76
>>675
どこで生まれたか不明なら全員岡崎生まれにしていいって

どこまで岡崎市民は史実を冒涜すれば気が済むのか
678日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:50:52.47
>>676
頼朝は三河じやなくて尾張の可能性じゃないか?
679日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:17:14.20
>>675
それぞれの出身地

源頼朝ー山城国(京)。ただし尾張説があり、尾張国熱田神宮の傍に頼朝産湯の井戸がある
高師直ー下野国
足利尊氏ー下野国
足利義満ー山城国(京)
680日本@名無史さん:2013/10/08(火) 20:24:55.66
織田美濃守
織田越前守
織田大和守
織田近江守
織田山城守
織田伊勢守
681日本@名無史さん:2013/10/09(水) 01:45:48.39
>>679
そんな事実はない
義満だけは伊勢貞継の屋敷で生まれたのがハッキリしている
伊勢貞継は伊勢俊継の孫だな
682日本@名無史さん:2013/10/09(水) 01:51:41.00
伊勢氏(初代・藤原俊継) 滝山寺縁起


■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

伊勢氏(初代・藤原俊継) 滝山寺縁起


■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
683日本@名無史さん:2013/10/09(水) 13:36:18.43
>>681
馬鹿だな。
足利義満は伊勢貞継の京屋敷で生まれている。
伊勢貞継の京屋敷があった場所ははっきりしていて、
京都の春日東洞院ね。
どう考えても義満は山城国生まれだろ。
684日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:31:53.82
だから京都だと言っているだろw
お祖父さんの俊継と三河との繋がりの紹介したまでだ
685日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:33:32.51
>>684
源頼朝も高師直も足利尊氏も、三河で生まれてないんだが?
686日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:38:08.07
生まれた所がどーのこーのは、田舎モンの言うこと、これみた三河の王様だったとわかるだろ


足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
687日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:38:53.38
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
688日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:48:25.15
義満の前の王様は高一族、後を引き継いだ義満が、責任を持って、旧領の処理をした
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する

高氏所領
・三河国額田郡菅生郷 ・三河国額田郡比志賀郷・三河国額田郡政所 ・三河国額田郡矢作東宿・三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)

■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(愛知県岡崎市)地頭
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲った(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(愛知県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進した

■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷地頭
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(愛知県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(愛知県岡崎市)大勧進
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(愛知県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持
689日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:50:42.74
>源頼朝も高師直も足利尊氏も、三河で生まれてないんだが?



どこで生まれたか不明だろw不明なら繋がりが重要になる
690日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:55:01.97
藤原季範(額田冠者、初代三河の藤姓熱田大宮司)の年表


【1090年】父:藤原季兼(三河四郎、藤原季範と三河に住みながら尾張目代を務める(尾張守は父親の従兄弟の藤原資良))、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる

・藤原永頼→藤原保相(三河国司、碧海郡志貴荘立券)→藤原資良(尾張国司)
・藤原永頼→藤原能通→藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)

【1101年】父:藤原季兼(三河四郎)死去
【1114年】神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) 、三河から京に移り住む
【1130年】母:松御前、三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
【1137年】神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
【1140年】夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡滝、愛知県岡崎市)内に蓮華寺建立、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷を寄進する
【1145年頃】娘:由良御前が源義朝の室になる
【1147年】娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)

・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝

【1151年】長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
【1152年頃】娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源義康(足利義康)の室になる

【1153年】娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源義兼(足利義兼)を産む(生誕地は京都もしくは三河)

・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(藤姓熱田大宮司)→娘→源義兼(足利義兼)

【1155年】死去する
691日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:57:07.32
どこで生まれたかなど興味もないが、三河で生まれた可能性が高いわなw



正確には、頼朝は元大宮司の娘の子供だからな
家督を五男に譲って、数年後に自分の菩提寺内に寺を建てていると言う事は、三河に帰って、真の姿である三河武士に戻ったのかもしれん
つー事は由良御前が頼朝を生んだ時の父方の実家は、三河の屋敷と言う事になる


【1137年】神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
【1140年】夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡滝、愛知県岡崎市)内に蓮華寺建立、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷を寄進する
【1145年頃】娘:由良御前が源義朝の室になる
【1147年】娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
692日本@名無史さん:2013/10/09(水) 15:52:52.29
>>668
足利氏先祖伝来の主要所領は下野国の足利荘。

足利氏の所領など、千葉県を中心に、神奈川県・岡山県・愛知県・石川県・福岡県にもある。
なんで三河だけ抜き書きするの?
全国の所領抜き書きしろよ。
693日本@名無史さん:2013/10/09(水) 15:55:28.44
>>690
藤原季範の父は尾張国目代。
藤原季範の別邸跡と呼ばれるものは名古屋市熱海区にある。

三河に熱田神宮の所領があったからと言って、
熱田神宮はそもそも尾張国にあるのだし、
季範屋敷跡と呼ばれるものも尾張の熱田神宮の傍だよ。
694日本@名無史さん:2013/10/09(水) 15:59:42.13
織田家スレを荒らす名古屋コンプレックスの
スレタイを読めない白痴岡崎馬鹿は何とかならんのか
695日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:28:35.30
>>693
源頼朝の母方一族

■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官(伊勢権守令)として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(長男の娘))は源義康の正室となり、足利義兼を産む


>藤原季範の父は尾張国目代。

三河武士が三河に住みながら尾張目代を務めたんだろ

>藤原季範の別邸跡と呼ばれるものは名古屋市熱海区にある。

季範の別邸ではなく大宮司の屋敷だろ、ただ季範は住んでいた三河から京に移り住んだ

>三河に熱田神宮の所領があったからと言って

熱田社漁はないよ、あったのは父親の季兼が自ら開発した所領、
696日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:35:33.48
>>692>なんで三河だけ抜き書きするの?
ほかのとこいろいろ探してもないんだよね、事実上三河が本貫だからね

■1234年、鑁阿寺大御堂を建立
(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏
(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘
(大勧進)阿闍梨了心
(雑掌・奉公人)藤原朝氏(野田朝氏、野田大宮司、嫁は足利義氏の姉)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→野田朝氏
(雑掌・奉公人)源季能
(雑掌・奉公人)小俣禅阿(鶏足寺別当)
(雑掌・奉公人)大平惟行
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→瀧口惟忠→大平惟行
(雑掌・奉公人)高階義定
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→惟重→義定
(雑掌・奉公人)大進円憲
(雑掌・奉公人)佐野範綱
(雑掌・奉公人)真下広経
(雑掌・奉公人)小野有家
(雑掌・奉公人)藤原兼資

■鑁阿寺 旧多宝塔跡
藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)が、父である野田朝季の供養のために造立した供養塔、多宝塔供養導師は、足利義氏の息子、最信

野田朝季(野田大宮司、朝比奈義秀と戦い戦死)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季
最信(勝長寿院別当)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏→最信
697日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:38:16.65
>>604
お前はさっさと、尾張徳川家で町起こし、箔付けやってこいよw
恥ずかしいからからといって隠すなよ、田舎モン
698日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:42:33.61
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)



三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)



当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw
699日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:50:06.63
>>696
>ほかのとこいろいろ探してもないんだよね、事実上三河が本貫だからね

あまりにも無知すぎるw
嘘のコピペばっかり貼るな
700日本@名無史さん:2013/10/09(水) 16:56:45.91
じゃ具体的に書いてくれよ


大体な家時の位牌の没年が間違っている時点で明らか、足利などどーでもいいんだよw

何故なら俺たちは源為朝の子孫と公言していたからなw


今川貞世
「義兼は源為朝の子供、義康が引き取った」(難太平記)


足利尊氏
「源為朝は、当家の祖神」(梅松論)


一門だけでなく、尊氏本人からも、実は足利とは無関係じゃん、と言われているだろうw
701日本@名無史さん:2013/10/11(金) 11:23:56.85
本能寺以降の織田家の転落ぶりは、
世は無常というより、信長のカリスマ頼りの家だったんだなという印象。
702日本@名無史さん:2013/10/11(金) 12:22:37.56
カリスマがなく、恐怖と暴力を背景に強圧的に統治していたから人心が無かった。
末期に至るやカルト教団じみていき、家臣の反逆で死んだ。
703日本@名無史さん:2013/10/11(金) 13:00:40.98
>>701
信玄亡き後の武田に比べたらマシかも。
704日本@名無史さん:2013/10/11(金) 15:30:22.93
はっ?信玄死去10年も持ってるし、
最後は浅間噴火と同時に織田軍の侵攻が開始され
噴火も甲斐滅亡の怪異だと風聞が流行りまくって
武田が織田と戦わずして自壊しただけじゃんよ。
705日本@名無史さん:2013/10/11(金) 17:02:39.11
>>704
10年もってるといっても、比較相手の織田は滅亡してないし、
江戸時代にも大名家として永らえている。
武田は信玄公逝去から3年後の長篠の合戦以降は衰退の一途で、江戸時代を待たずに滅亡したからな。
見性院が再興させた龍芳系の武田家も高家止まりだしな。
706日本@名無史さん:2013/10/11(金) 17:57:19.75
井伊直政の家臣団は嫡男井伊直勝が引き継ぎ、
次男の井伊直孝には武田信吉死後の武田旧臣達が付けられ、
さらに秀忠近習に家康から任命され徳川軍の赤備隊として期待された。
そして直孝は家光後見役となり、
実質、大老として幕政を主導した。
家康が直孝をやたら贔屓し期待をかけ武田旧臣まで付けて赤備を許していたことから、
家康のご落胤説もあった。
707日本@名無史さん:2013/10/11(金) 20:11:23.00
よって井伊家こそが徳川幕府の大老、大政参与たる執権にござんす
708日本@名無史さん:2013/10/11(金) 23:10:42.50
土井、酒井、堀田も大老になっているし
井伊家だけの独占じゃないよね
709日本@名無史さん:2013/10/11(金) 23:52:26.42
外様筆頭
710日本@名無史さん:2013/10/12(土) 08:29:17.07
徳川の先陣争いで井伊直孝に激怒され水戸黄門徳川光圀も涙目。
711日本@名無史さん:2013/10/12(土) 08:48:20.15
>>710
その遺恨が
後の世で桜田門外の変に
712日本@名無史さん:2013/10/14(月) 13:06:53.18
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
713日本@名無史さん:2013/10/14(月) 15:29:22.14
織田も豊臣も一族に有力な武将がいないから衰退したね
浅井長政が信長から離反せずに信長亡き後に一族の後見人として
お目付け役になれば、秀吉もあそこまで勝手な真似はできないと思うけど
あと信孝が軍団長として一定のキャリアがあれば
もう少し違った展開になったと思うけどね
714日本@名無史さん:2013/10/14(月) 22:49:23.09
>>713
信長は息子12人いたのに息子たちが勝手に家督継承争い始めたら
ただの妹婿に過ぎない外様の浅井長政が織田家の内政に口出しできんだろ
715スケーター知っている?:2013/10/27(日) 23:35:09.78
のぶなりいるはず…
716日本@名無史さん:2013/11/08(金) 23:22:16.27
岡崎基地外が必死になっている滝山寺縁起や数々の眉唾ものの由緒は
民話と同じ創作ファンタジー
大半が戦国末期から江戸初期に源氏・足利家に擦り寄りたい
徳川家が捏造・改編させたもの
岡崎の中世の古文書で国宝・国重文指定は皆無で出鱈目
717日本@名無史さん:2013/11/09(土) 16:14:37.06
サゲるなアゲていけよw
擦り寄るとか何の為に?w
悔しい気持ちが滲み出ているなw
金のシャチホコ磨いて落ち着けよw
718日本@名無史さん:2013/11/09(土) 16:16:27.97
あー。
人生 下天の

なんだっけ
719日本@名無史さん:2013/11/09(土) 20:35:36.37
まぁアレだ、部外者の名古屋は太平記スレに出入りするなよ
くだらないセンゴクでシコシコやっていろ
720日本@名無史さん:2013/11/10(日) 06:37:54.50
浅井長政がいたら徳川家康と同じような立場になるんじゃないの?
721日本@名無史さん:2013/11/10(日) 12:43:15.20
>>692
>足利氏先祖伝来の主要所領は下野国の足利荘。
基本中の基本だよな

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B2%AB
>足利氏:下野国足利郡足利庄(源義国の二男、足利義康を始祖とする)


>>696
お前バカ丸出しだな
>事実上三河が本貫だからね ×
 妄想上三河が本貫だからね ◎
722日本@名無史さん:2013/11/10(日) 14:55:28.85
wikiかよw

いずれにせよ、バンナ寺の家時の位牌没年間違えるとか終わっているだろがw
誰も間違いを指摘し修正しなかった意味がわかるだろ?w
723日本@名無史さん:2013/11/10(日) 18:41:50.58
>事実上三河が本貫だからね
てかこの日本語変だろw
>>722
カスレスつけて
シラッと話題をすり替えるなよw
724日本@名無史さん:2013/11/10(日) 20:23:22.39
みっともないからwikiを貼り付けるのはやめろよな、馬鹿にされるから


三河の熱田大宮司家の縁者として三河守護になれて、三河を本拠にしただろ
これが事実上の本貫地の意味だ
文句あるか、万年パシリの尾張猿


つーか万年パシリの尾張猿と足利は関係ねーじゃん
何で万年パシリがしゃしゃり出てくんだ?
図々しい田舎者とは名古屋にぴったりの言葉だな
725日本@名無史さん:2013/11/10(日) 21:27:30.59
>>693
藤原季範も尾張出身だしね
当然藤原氏熱田大宮司家の本貫地も尾張

>712
>・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作
頭が腐っているぞw
726日本@名無史さん:2013/11/10(日) 21:59:49.04
またwikiか?w
尾張生まれの資料はない、

お前はwikiは信用しすぎだ、尾張の田舎者だから
727日本@名無史さん:2013/11/10(日) 22:04:56.51
ばーか、元をたどれば尾張とやらも関西だろう

元々、斯波氏は碧海郡碧海荘を本拠にした足利さん
足利姓を禁止された時に碧海荘は御料所に組み込まれて、東北の紫波郡しかなかったから、しょうがなく斯波氏なんだろ


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
728日本@名無史さん:2013/11/11(月) 19:47:19.85
秀信をオマエ呼ばわりした時期はいつなんだろう?
ある日、突然、今日から俺が主君、オマエは臣下ね、みたいな感じ?

福島とか加藤みたいなヒゲ面の荒武者が、荒々しく秀信の肩をひっつかんで
下座に引きずりおろし、秀吉に土下座させたりとか・・・

ある日いきなり、今まで「三法師さま、三法師さま」と言ってた猿顔の爺から
「秀信、ひざまづけ。ワシが主君じゃ」なんて言われたのかな。
で、荒武者に腕をわしづかみにされて、下段の間にねじふせられる秀信哀れ。
中国の簒奪とかではありがちのシーンだが、そんなにドラマチックな光景だったのかな?
729日本@名無史さん:2013/11/11(月) 21:11:35.74
>>727
スレ違い
歴史白痴は地方版岡崎スレでオナってろw
730日本@名無史さん:2013/11/11(月) 23:47:37.19
白痴はお前だろw
お前は、藤原季兼を殿上人とか言っていたわなw
同姓同名を間違えるるな、間抜け
ググるはいいが、ちゃんと確認しろよ、尾張猿
731日本@名無史さん:2013/11/12(火) 07:12:41.22
>>676 >>691
お前面白いなw
ウリナラファンタジーでオナる
朝鮮人とそっくりだわw
732日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:59:41.11
ウリナラファンタジーとか?w
頼朝は名古屋ど生まれたぎゃ〜、細かい事は詮索すなだぎゃ〜、のがよっぽどウリナラファンタジーだろw
名古屋に頼朝ゆかりはないだぎゃ〜、三河にいけだぎゃ〜か?w
733日本@名無史さん:2013/11/13(水) 22:56:22.66
三河岡崎の恥さらしは
裏を返せば京都や足利や尾張に対してコンプレックスの塊
734日本@名無史さん:2013/11/14(木) 00:48:50.38
恥さらしとは、名古屋城でうろちょろしている、おもてなし武将とやらかい?
名古屋城と信長秀吉は関係ないだろうがw
江戸時代に、とうとう本格的に三河武士に調教された事実を隠蔽するしたい気持ちは分からないわけではないが
世間一般、それはコンプレックスと言いますよw


コンプレックスと言われて面食らうが
流石は、劣等感が極限に達した人間の見本と言われる名古屋人、コンプレックスに敏感でつねw
735日本@名無史さん:2013/11/23(土) 22:48:59.59
三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
736日本@名無史さん:2013/12/22(日) 17:50:00.83
見日同じコピペ貼ってる三河人は菅沼遼太?
本能寺以降の織田家と源頼朝の外祖父に何の関係があるんだか。
スレタイが見えない?
737日本@名無史さん:2013/12/22(日) 21:33:59.38
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て尾張になる



ダサいダサ過ぎるw
738日本@名無史さん:2013/12/22(日) 22:28:44.06
秀次の話もせにゃならん
739日本@名無史さん:2014/01/10(金) 23:32:19.43
関東御分国とは源頼朝が直々に文化レベルを考慮して選んだ土地である
即ち、各々が同レベルの文化圏であるとお墨付きを与えたとみなすことができる
関東御分国には以下の国が指定されている

三河 
上総 千葉w
伊予 愛媛w 
豊後 大分w
下総 千葉w
備前 岡山w
備中 岡山w
陸奥 ド田舎
信濃 ド田舎
越後 ド田舎

三河の文化レベルなんてガチで千年前からこんなもの
背伸びするなよw

実はもっとひどいことが判明しており、三河は関東御分国でも
単独国司という扱いで「うどん県」と同様の扱いだった

単独国司
三河守 源範頼
讃岐守 一条能保 香川w

他にも頼朝同様ブス専足利尊氏は上記の土地に加え群馬や栃木といった土地を好んだ
尊氏は三河を群馬と栃木と同レベルの文化圏とみなしていたことになる
740日本@名無史さん:2014/06/18(水) 10:52:09.26
このスレ、最初の流れは良かったのに、気が付いたら長文コピペでズタボロになってるな
741日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:34:03.71
三河馬鹿による日本史板・大河板での荒らしが酷い
742日本@名無史さん:2014/09/29(月) 17:03:11.89
>>713
秀次は秀吉自身で粛清したんだから自滅だろ
信包は信孝より馬揃えの序列が上で織田一族の筆頭格だったのに
織田政権を維持するために動いた形跡が皆無なのが何とも
743日本@名無史さん:2014/09/29(月) 17:54:19.17
信忠や信房が死んでしまい生き残ったのがあの2人だからな…
もうどうにでもなれっていう気分だったのかもしれぬな
744日本@名無史さん:2014/09/29(月) 19:14:23.58
信孝も先走って信澄殺したり天下人の器とは思えないしな
745日本@名無史さん:2014/10/01(水) 02:26:05.95
土田御前に(北条政子のような)もっと権力があれば、
孫・曾孫の家督争いや有力家臣団の争いに対して抑えが
聞いたんだろうけどね。
実家系である土田氏&生駒氏にもっと信長が権力をやっ
てればな…。

濃姫は縁者の明智家が謀反人だから、例え実力があったと
しても、発言権はほとんど無くなってるんだろう。
746日本@名無史さん:2014/10/01(水) 06:49:31.73
>>745
濃姫と光秀がいとこだっていうのは後世の話
光秀は出自不明
江みたいに実家が滅亡しても養家の豊臣家が婚家の敵となって滅ぼされても
江戸城でデカい顔していた正室もいるのだから単に織田家の女性に力がなかっただけだろう
土田御前に発言権がないのに濃姫に発言権があるはずもなし
747日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:01:55.79
そういえば土田御前の実家の素性はよくわからないし、秀信の母親も謎だな
748日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:06:17.63
謎ばっかりだな
749日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:10:48.04
>>745
なぜ生駒氏が出てくるのかわからんが
信忠実母説を取ってるわけか
だいたい生駒氏は本能寺の変のずっと以前、永禄2年に徳姫を産んだ際
産後の肥立ちが悪くて信長より先に死んでるのでこの世にいない
750日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:55:34.82
>>746
土田御前に発言権があればそもそも信勝の謀反を阻止できたはず
751日本@名無史さん:2014/10/01(水) 21:13:16.96
>>750
信勝じゃなくて信行じゃ?

あれは土田御前自身が信長に手を焼いて
信行の家督相続に加担してたって話じゃなかったか
752日本@名無史さん:2014/10/01(水) 21:28:00.15
>>751
信行という諱は一次史料では確認できず、
信勝、達成、信成しか確認できないんじゃなかったっけ?
753日本@名無史さん:2014/10/02(木) 22:41:13.95
 土田御前の母方が生駒氏という説や、兄弟が生駒氏に養子に行ったという説があるなど、
土田御前の近親には間違いない。
754日本@名無史さん:2014/10/03(金) 12:22:48.64
信忠は正室がいなかったけど
生駒氏から正室を迎えようとしてたのかな
755日本@名無史さん:2014/10/03(金) 20:23:13.43
それだけは絶対にない>>754
756日本@名無史さん:2014/10/03(金) 21:40:53.56
信忠の正室は普通に松姫が治まったろ
恋愛どうのは抜きにしても源氏名門の血を引く姫だからな
757日本@名無史さん:2014/10/03(金) 22:59:14.19
織田幕府開府を見据えるなら松姫を正妻にするのが一番無難だからね
ただそうなると問題は穴山の処遇だなあ・・・
758日本@名無史さん:2014/10/04(土) 16:57:56.93
長篠後の織田家にとって武田の娘など何の価値もない
織田信長は養女を摂家に嫁がせているのだし
その気になれば信忠に摂家の姫でも娶れたはず
759日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:41:43.52
なぜ家康が源氏に拘ったのかで考えればわかるんじゃね? 
加えて実家が滅んだらメリットないというのはゲームの話だわな
760日本@名無史さん:2014/10/05(日) 07:43:38.55
>>759
家康は自分の家系図を源氏に繋げたと言うだけで
源氏の正室を娶ってないじゃん
正室2人は早々に御臨終だし幾らでも娶れただろうに
家康の側室たちは家臣の娘やら庶民までいてかなり身分低いよね
761日本@名無史さん:2014/10/05(日) 07:44:06.90
織田は平氏なので源氏の嫁はいらんよね
762日本@名無史さん:2014/10/05(日) 09:26:17.58
武田家を滅ぼした後は織田家と釣り合うだけの大名がいなくなったから
あえて正室は置かなかったってとこか
763日本@名無史さん:2014/10/05(日) 09:39:14.76
>>757
穴山は適当な時期に粛清コースだろう
信房だっているし武田の血を引く可能性が非常に高い信房の子供も
2人いたんだし松も勝頼や盛信の娘を連れているんだから
つなぎとして利用はしてもそこまでだったろうな
連れていた娘も信忠や信房の養女にすれば養父として甲信を
統治経営する大義名分は十分に成り立つからその時点で穴山は用済み
764日本@名無史さん:2014/10/05(日) 11:59:59.18
>>760
なぜ側室からみた下淫話まで持ち出すのかはわからんが
要は源氏を称するために家系図詐称策を用いたか婚姻策を
用いたかの違いだけとも思えるが。
織田は後者が徳川は前者が其々好都合と判断したとしてもなんら
不思議じゃないぞ、各々の当時状況では。
765日本@名無史さん:2014/10/05(日) 14:21:18.61
>>763
長篠では突然の撤退で陣形が崩れて馬場ら重臣を死なせ
討伐では離反だから信長が信用したかは疑問だよね
766日本@名無史さん:2014/10/05(日) 14:39:50.18
>>764
信長も系図詐称で平氏を称しているよ
そもそも平氏の家になぜ源氏の嫁?

死んでも源氏の嫁が欲しければ
キに高貴な公家が幾らでもいるし
何も敵対した武田に限らん
767日本@名無史さん:2014/10/05(日) 14:57:45.90
まずは公家と武家と幕府について勉強し直しておいで
768日本@名無史さん:2014/10/05(日) 17:56:53.34
>>766
武家源氏の血でも武田以外にもあるのに、馬鹿がいるw
769768:2014/10/05(日) 17:59:31.69
アンカの付け直し>>767

武田スレにいた武田ヲタがいるね
武田は日本一の血筋を誇る源氏の中の源氏w
その息女となれば天下を狙う者ならば誰もが狙う貴種
信忠も家康もその息女と結ばれて嫡子を産ませようと必死だったなんてw

それなら信玄の息女があんな窮状に陥らんだろうに
770日本@名無史さん:2014/10/05(日) 19:08:03.42
ったく誰だよ菅沼を召喚した奴は
771日本@名無史さん:2014/10/06(月) 06:38:29.10
最終的に血脈はフィギュアスケーター信成君に受け継がれたわけだから良かった。

彼は子供を作ったし織田血脈は安泰だろう。
772日本@名無史さん:2014/10/06(月) 09:26:44.17
>>766 清和源氏の河内源氏でないといけないんじゃない。それも、義家流がいいん
だけど、色々あって義光流でいいやということで。
773日本@名無史さん:2014/10/06(月) 10:00:22.44
>>768 じゃ、清和源氏の河内源氏の義家流 義光流 その他 その後に
大和源氏 摂津源氏 それが終わったら 清和源氏以外の 主だった武家
源氏の流れを汲む武将をあげてみてください。
774日本@名無史さん:2014/10/06(月) 10:30:24.99
>>771
あれは家康が源氏を名乗ってる以上に胡散臭いぞ
775日本@名無史さん:2014/10/06(月) 12:05:38.06
要は下に貼ったコピペみたいなことなんじゃねーの?

76 :日本@名無史さん:2014/08/29(金) 09:13:23.04
なるほどー、織田家臣団に対しても示しがつくわけだからな
それで予想以上の働きで成功したから天下もと言ったと
で、源氏名門武田の姓と血をひく松を信忠の正妻におさめれば
公家達に文句を言わせずに織田幕府開府へ大手状態だからなあ
そのあかつきには必ず武田家再興もセットにすればなお心象よろしと
776日本@名無史さん:2014/10/06(月) 17:49:27.58
 傍流で良ければ、大傍流になるけど、幽斎の親戚筋貰えばいいと思う。
777日本@名無史さん:2014/10/06(月) 18:18:06.78
そもそも、信長って 足利義昭の御父だったよな

もう少し義昭の面倒みてたら 家系に不自由する事もなかったろうに
778日本@名無史さん:2014/10/06(月) 19:51:31.46
わざわざ義昭に頼らなくても、秀吉が近衛前久の養子になったみたいに
家系なんてどうにでもなる
779日本@名無史さん:2014/10/06(月) 20:09:53.96
>>778 秀吉は義昭に猶子にしてもらえなくて仕方なく前久の猶子になった。
780日本@名無史さん:2014/10/07(火) 02:58:31.32
そりゃ江戸の記録だから
あんまり信憑性はないけど。
781日本@名無史さん:2014/10/07(火) 06:52:47.96
そもそも、征夷大将軍なれなきゃ
関白にはもっと成れない
少なくとも江戸時代に そんなこと言えないわな
782日本@名無史さん:2014/10/10(金) 12:18:20.96
>>779
秀吉が義昭の猶子になろうとしたって一次史料にあったっけ?

家康も偽系図出しただけで義昭の猶子になどならずに征夷大将軍になってるわけだし
秀吉が征夷大将軍になりたければ適当に源氏の家系図に繋げればいいだけだよね
783日本@名無史さん:2014/10/10(金) 17:48:12.24
考えると、秀吉家康に取って最悪なのは
足利義昭を義理とはいえ 【将軍の父】にする事やろな
結局足利幕府が形を変えて復活するだけだし

何気に英断
784日本@名無史さん:2014/10/10(金) 17:59:02.87
>>782 秀吉が義昭の猶子になろうとしても、義昭が承諾しても、源氏長者
が空位でそれを承認する人がいなかったため頓挫したということであろう。
785日本@名無史さん:2014/10/10(金) 18:42:20.75
そもそも、家康はどうやって源氏長者になったんだ
自己申告?
786日本@名無史さん:2014/10/10(金) 20:09:00.85
家康は祖父の清康の代から源氏を名乗っていて、別に征夷大将軍になりたいから源氏を名乗り始めたわけじゃない
途中で藤原氏を名乗っていたらしいが
787日本@名無史さん:2014/10/10(金) 21:23:19.48
>>784
源氏長者は空位じゃない
戦国時代には公家の久我氏が大臣位で源氏長者を兼ねていた

ちなみに源氏長者は源氏で最も高位の者が自動的に就任する
徳川家康は朝廷から高位に任じられたために久我氏から源氏長者の座を奪った
788日本@名無史さん:2014/10/10(金) 21:26:48.50
>>786
家康は途中で藤原も豊臣も名乗っている
征夷大将軍になるときに源氏を名乗ったのはやはりわざとだろ
姓が何でもいいなら藤原でも豊臣でも
それで征夷大将軍申請すれば良かったわけだ
789日本@名無史さん:2014/10/10(金) 21:28:58.09
>>786
自称なら徳川に限らずいくらでもいる
790日本@名無史さん:2014/10/11(土) 10:18:31.02
>>785 >>786 >>787 >>788 家康の例だが、源氏長者の14代将軍足利義栄が住所不定
のため近衛前久が機転を利かせて藤原氏に緊急避難させた。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F
791日本@名無史さん:2014/10/11(土) 14:21:57.31
秀吉のときはまだ足利義昭が現任の征夷大将軍だったので猶子になるか退任させるしかなかったけど、
家康のときは征夷大将軍がいなかったのでどうにでもなった、ということもある。
792日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:11:43.24
近衛モンは本当に頼りになるのう
793日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:18:31.78
五摂家筆頭ですから
794日本@名無史さん:2014/10/11(土) 20:48:23.40
近衛文麿が前久くらいの器量があったなら、戦争は阻止できた。
795日本@名無史さん:2014/10/12(日) 05:58:40.86
>>791 たしか、義昭の将軍退位が1588年だけど、その時は秀吉も関白になって
いたし。豊臣姓をもらっている。源姓にして将軍になる必要がない。 
796日本@名無史さん:2014/10/12(日) 11:33:44.28
>>794
それは、ケネディならベトナム戦争を止められたと同じ理論だと思う
797日本@名無史さん:2014/10/12(日) 14:16:33.69
>>797 前久なら「蒋介石を対手とせず。」とかいわんだろうし。宇垣内閣を成立
させていただろう。
798日本@名無史さん:2014/10/12(日) 16:16:27.72
>>797
前久が偉人なのは
同意だが、世論や軍部との関係考えると ヤッパリ止められんよ

前久も義昭と対立して 信長包囲網に加わったし
799日本@名無史さん:2014/10/19(日) 04:55:32.40
【会社の即戦力の定義とは】
「社会の一員として人々の役に立つ価値を提供すること」


会社にとって喉から手が出る程欲しい人材とは、
この求められる価値を提供するために、解決すべき
課題を正しく共有し、一緒になって価値を生み出す
ことが出来る人材なのです。

JALグランドサービスという会社は自分が気に入らないと思う人間には粘着をし
暴言や恫喝 それから揚げ足取りをし人を人と思わずとことん人格否定をして退職に追い込みます
現状として アルバイトで入ってきた人が3か月以内にいなくなることが多く人の出入りが激しいです

それどころか社員も現実いじめによって退職に追い詰められてしまっています
人が足りないといっている会社なのに無責任な総務部の人間は辞めたらそれだけ補充すればいいという安易な知能しかなく
パワハラなどの事件が起きても相談する窓口はあるものの形だけで文句があるなら
排除する 会社を辞めさせるという 辞職に追い詰められた人もいます

上司のパワハラ 恫喝 仕事を一人だけさせない←自分がやられましたなど
悪質な苛め 嫌がらせで会社にこれないようにしようとします
それでもきたら 仕事をさせず 一日中立たせたりするのです
それを見て見ぬふりをする人や自分も苛めてもいいんだと勘違いをし暴言や怒鳴りちらす人もいます
そしてこういう暴露を隠すために辞めさせるときにインターネットに変な書き込みをしない
会社にとって都合の悪いことはかきこまないという契約を書かされます
もっと詳しいことは下に書きます
800日本@名無史さん:2014/10/19(日) 04:56:04.35
JALグランドサービスは貧乏性でテーブル拭いて汚れたタオルを次の清掃場所
さらに次の清掃場所にもっていって汚れたタオルを使えっていってきた
タオルからはなんともいえない臭いが漂い色もケチャップやなんやらがこびりついていて汚かった
お客さまのためにを毎日言っている会社なのになにこれ? 矛盾してるよね?
青タオルはウンコがこびりついていて汚い それをキレイなタオルといいラバーのほかギャレー
床のゲロ掃除などさまざまなところで活用している
バケツにそのタオルを濡らすとき気持ちが悪い バケツもすごく汚いよね
バケツ洗っているところみたことがないし
JALはこんな会社です
白タオルは生乾きで蒸れた悪臭がしている それでお客様がつかうテーブルを拭いているんだから
あのテーブルは菌をひろげているようなもんだ
801日本@名無史さん:2014/10/19(日) 04:56:32.89
中国系列の飛行機を掃除していたとき 班長 その他数名が仕事中喋ったりふざけて遊んでいました
私はラバー(トイレ)を夢中で掃除をしていていました
そのときトントン トンと私の肩を叩く人がいたので振り向いてみるとその飛行機のクルーの一人が
目を吊り上げて私の前に立っていました
そして私に「あの人たち 口を動かしてばかりで仕事しない 注意してきてくれ」と私にいいました
私は急いで係長にそのことを報告しにいきました 班長はその横で口を緩ませてヘラヘラしているだけでした
他社からあいつら喋ってばかりで仕事をしないといわれても恥じもなく 適当な仕事を他社に見られても平気な
JALグランドサービス
このことでその飛行機会社からは信用を失い二度とJAL系列に仕事を任せないと
決断してくれることを切に願うばかりである
802日本@名無史さん:2014/10/19(日) 04:57:05.83
俺がJALグランドサービスで働いて10ヶ月ぐらいバイトで経った頃
課長が代わって千代っていう馬鹿課長になったんさ
前の課長はまだ部下 したの人間の言い分も聞いて器のでかさがあったけど
その後きた千代って言うのがとんでもなくアホ
俺が周りの係長とかに苛められているという事実も今まで周りから不愉快な言いがかりや
暴言などを耐えていたという状態も知らず俺を悪い奴と決め付け絶対俺をやめさせると
いい 毎日のように粘着し ついには俺を会社から追い出すという暴挙にでた
「お前みたいな使えない奴を長くいさせるよりかは訴えられて賠償金を払ったほうが安くすむ」という暴言も吐かれた
それから「俺は今まで自分が使えないと思った奴を辞めさせてきた」と俺に豪語したこともあった
803日本@名無史さん:2014/10/19(日) 04:57:37.29
車の中で機内のお菓子を食べたりしていたよ
あと係長が機内においてあった古新聞を一人で別の仕事をするとき車の中に持ちこんでいた
これ二つともやってはいけないこと
飛行機の中の物は外に勝手に持ち出したらいけないのにもしかして係長になったら許されるとおもってんのかな?
フィロソフィとかつくってもなにも役に立たないね
こんなことばかりやってるからJALグランドサービスは屑会社とか馬鹿会社とか言われるんだよなw
804日本@名無史さん:2014/10/19(日) 08:44:45.84
>>788
鎌倉幕府の藤氏将軍みたいに将軍になるためには源氏じゃなくてはいけないなんてことはない
805日本@名無史さん:2014/10/19(日) 08:54:22.10
ただそういった知識があまねく知れ渡っていたとも思えないねえ。
ごく一部の知識層が白といえば黒も白になってしまっていなかったのだろうか?
806日本@名無史さん:2014/10/19(日) 14:21:54.70
>>804 確かに北条が頼朝の血に拘るんなら、九条三寅なんだけど、源に姓を換えさせて
いない。しかし、秀吉が幕府を開かなかったのと家康が源氏に拘るのがおかしい。
知恵者の前久さん、何姓でもいいならそこまで複雑なことやらなかったはず。
807日本@名無史さん:2014/10/21(火) 15:25:06.52
上杉謙信と言い近衛モンはマジ四次元人脈
808日本@名無史さん:2014/10/30(木) 13:22:47.06
織田家って高家に列せられているけど織田信長の子孫て幕府の典礼とか熟知してたの?
畠山家等々室町幕府の中枢にいた家は詳しかっただろうけど、尾張の家臣の家臣の織田家
って、ただの田舎者出身だよねえ?。

そういや吉良も三河だな。吉良って常時在京してたの?。
今川は公家の方から駿河に多数下ってたから典礼に詳しかっただろうけど。
809日本@名無史さん:2014/10/30(木) 13:45:48.98
幕府の典礼か?w
幕府の典礼を仕切ってたのは信州小笠原氏だぞ
810日本@名無史さん:2014/10/30(木) 13:47:38.84
武家としては大成はしなかったが文化人としての小笠原家は有名
811日本@名無史さん:2014/10/30(木) 13:55:25.36
伊勢宗瑞は室町幕府の政所の伊勢氏出身なんだな
今川家家督騒動のときに京都に訴え出てきたときに
今川家と伊勢氏の交流が始まったとか
812日本@名無史さん:2014/10/30(木) 14:09:42.40
808
織田氏は越前の神官勢力が始まり
新田義貞が越前で斯波氏の軍勢によって殺された
ときに尾張に移って奉行を務めたのが起源
813日本@名無史さん:2014/10/30(木) 15:05:00.01
美濃ってのは摂津源氏が勢力を伸ばしたところ
土岐氏とか、光秀が本当か知らんが明智氏を名乗って
源氏の末裔とか言ったのはこの摂津源氏の子孫を名乗
ったってこと
814日本@名無史さん:2014/11/01(土) 07:56:43.82
>>813 光秀は若狭の刀鍛冶の子だの帰化人だとか色々ありますな。
815日本@名無史さん:2014/11/03(月) 16:38:38.24
>>214
遅レスだが、晩年の氏真さんが家康にとって損得勘定抜きの友達だったみたいよ。
まあ、ウザがってる面もあったようだが、そういうのも含めてのお友達。
816日本@名無史さん:2014/11/11(火) 19:23:46.36
家康にとって織田家の一族は、豊臣氏同様に警戒すべき存在だったが、
今川家や氏真さんはもはや警戒心を持たずに接することのできる相手だったんだな。
817日本@名無史さん:2014/11/12(水) 08:41:36.18
今川を警戒したんならとっとと殺すわな 氏真
818日本@名無史さん:2014/11/15(土) 07:43:40.00
家康は桶狭間のあと、上杉謙信方式で氏真の養子になって、
今川元康になって源氏を名乗ったほうがよかったと思う。

そのほうがインチキ源氏呼ばわりされなかったと思う。
819日本@名無史さん:2014/11/15(土) 08:14:04.34
>>818
そして上杉家や細川家のように養子同士が家を分裂させるんか
820日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:26:32.12
>>818 >>819 秀吉にしろ家康にしろ石見吉見氏を使わんかったや?
821日本@名無史さん:2014/12/11(木) 19:27:50.48
家康の下で生き残り高家となった氏真は
戦国大名としてはダメだったが、世渡り上手だな
822日本@名無史さん:2014/12/23(火) 00:28:53.57
蒲生氏郷や徳川忠長の系統が長く続いていれば
織田の女系としては大領地でいられた。

でも
能楽を舞う織田信雄
茶を点てる織田有楽 
の男系は大名で残れたので良しか
823日本@名無史さん:2014/12/25(木) 20:07:59.21
織田の女系ならしばらく800万石の国主家に残ってたじゃん。
824日本@名無史さん:2014/12/25(木) 20:50:32.32
おそらく信長の女系という意味だろう
825日本@名無史さん:2015/01/19(月) 17:49:35.21
信長の女系は800万石の国主家に残っていないだろ
徳川秀忠に嫁いだ江のことなら信長の父信秀の女系
市は信長の子孫ではないし
826日本@名無史さん:2015/01/19(月) 18:33:04.31
信長の血統と言いたいなら>>822に長益が入ってる時点で間違いだし。
827日本@名無史さん:2015/01/22(木) 15:59:00.44
>>826
どこに長益が入ってる?
828日本@名無史さん:2015/01/28(水) 23:19:23.05
織田本家は朝日新聞に「養子の正ちゃん」を連載
(正ちゃん帽やショタコンなど流行語を生む)
した

そのためか
Kの国の法則が発動したのか不明だが
平成で断絶してしまった
829日本@名無史さん:2015/01/29(木) 22:07:17.17
結果はともかく豊臣の福島加藤浅野みたいに
秀信のために尽力した織田普代の大名っているの?
830日本@名無史さん:2015/01/30(金) 21:09:30.86
>>829
浅野は尽くしてないよ。浅野幸長は露骨に反秀頼の態度を取っている。
ついでに、浅野幸長と池田輝政は秀次妻子の墓を建て供養している。
秀頼に喧嘩を売っているも同然の行為だ。だからこそ、ともに秀頼の隣国に置かれた。

加藤、福島は最後まで秀頼を捨てられず、福島に至っては大坂の陣で
秀頼につこうとしたため軟禁され、戦後改易されている。
831日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:46:36.02
秀次派だった?
832日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:32:31.83
>>831
秀次の正室の兄の池田輝政は言うまでもなく、浅野幸長ももろ秀次派。

秀次事件後、池田輝政が助かったのは父恒興の天王山の戦いと清州会議で功績があったから。
それでも、石田三成、増田長盛とも池田家の三族皆殺しを主張するほど危険視されていた。
もちろん、秀次正室である妹は他の妻妾とともに処刑されている。

浅野幸長は秀次との縁で事件後能登流罪となり、秀吉が死に、家康の口添えがあるまで
許されなかった。
833日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:52:17.23
たしか、生き残った秀次の娘は鹿角藩岩城家に嫁いで子孫は江戸時代も大名だったはず。
浅野氏や池田氏とは交流あったのだろうか?
834日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:56:47.38
岩城家は、
鹿角藩じゃなくて亀田藩だった。
訂正。

真田信繁と秀次の娘の子孫の三好氏も江戸時代生き延びたはず。

女系だが、
豊臣家は豊臣秀次の子孫と羽柴秀勝の子孫は現代まで残ってるようだ。
835日本@名無史さん:2015/01/31(土) 01:07:39.11
せめて秀次だけへの処分にしておけば政権内部の亀裂も深くならなかっただろうに
出家させるくらいでは戦国時代を生き延びた秀吉には安心できなかったのかな
836日本@名無史さん:2015/01/31(土) 01:50:35.69
頼朝と同じ失敗してるのがなんとも・・・・
837日本@名無史さん:2015/02/01(日) 14:31:47.99
>>829
尽力となるかはお任せするけど岐阜城落城後に家康の怒りを憚り
秀信達は放置方向でとする流れの中で輝政は最終的には土下座までした
らしのだがやっとこさで受入れ先を見つけ生活費他など全面支援してる。
あと高野山で秀信を受け入れた寺は井伊家と懇意にしていたところで
これも輝政が井伊経由で懇願したと伝わる話もあるらしい。

>>832
若御前は処刑されていない。
838日本@名無史さん:2015/02/01(日) 16:19:47.59
ほう、池田は織田宗家にも義理は尽くしてたんだな
やはり池田氏は織田庶流だったのも大きいか。

江戸時代も西国将軍といわれただけある。
江戸初期に限定していえば上方に一門で100万石近い所領があるというのもすごい。
839日本@名無史さん:2015/02/02(月) 00:21:21.61
>>837
自分の寺にまで家康の火の粉が飛んでくるのを嫌がったからとか
陰で家康や正信が手を回していたからとか諸説あるけど断固拒否や
門前払いまであって輝政はとても嘆きかつおまえら織田にすっげえ世話に
なったことだってあっただろうがと激オコモードでもあったらしいな。
これが遠因なのか受入れてくれたお寺とは代々懇意にしていて寄付や寄進を
やっているけど他のお寺はスルー状態に近かったんだとか。

あと他スレ情報によると松姫のお寺とも池田家は付き合いが
あったらしいから律儀というかなんというか。
840日本@名無史さん:2015/02/02(月) 14:07:18.93
池田は他にも家老として召抱えていた斎藤家(道三の息子系統)が
阿弥陀寺で新五達の追善供養をすると知って使者とお金を出したり
勲建神社へもやってたりするんだよね。
けどここまでやっていても秀信関係以外には案外クールというw
841日本@名無史さん:2015/02/02(月) 14:14:08.98
徳川家をも巻き込んだ佐々さんと違って、
やはり御輿がサンスケ殿ではだめなのかw
842日本@名無史さん:2015/02/02(月) 15:30:09.25
池田なんて名字だせーよな

うじゃうじゃいすぎてな。
843日本@名無史さん:2015/02/02(月) 17:04:48.17
>>840
輝政は秀信の赦免を家康に何回か頼んでいたというから
信雄に関しても何か言って欲しかったw
844日本@名無史さん:2015/02/02(月) 20:26:11.54
確か督姫も協力してくれていたんだっけか。
前読んだ本でこれ知って督姫のイメージがすごい変わったなあ。
それと何となくだが輝政は信雄(信孝もかな)を嫌っていたイメージがある。
お家の一大事だというのに弟と諍いするわ、親父と兄貴を無駄死に
させたようなことしてるわなんやかんやで…。
845日本@名無史さん:2015/02/02(月) 20:34:36.54
なるほど
織田の凋落は本能寺後の兄弟げんかも一因だからな
846日本@名無史さん:2015/02/03(火) 13:26:43.75
輝政は小牧で恒興と元助が戦死したことで当主と嫡男を同時に亡くし
嫡男の子供はまだ幼年という信雄と似たような状況に陥っているし
同じ次男同士だから余計含むところはあったのではないかと。
信長が恒興んちみたい生母関係なく普段から子供達同士仲良くなるよう
徹底的に教育しておいてくれればなあ…。
847日本@名無史さん:2015/02/03(火) 19:32:22.57
歴史にifは禁物なのも無茶も承知だが織田家のためで考えたら
秀信の養育は池田と松姫に頼めばまた違ったのかなと思う時がある
秀吉と家康はすごい嫌だろうけど
848日本@名無史さん:2015/02/04(水) 13:53:01.12
松姫ヲタがいるがそもそも松姫は織田家に入輿してないじゃん
婚約も破棄状態で織田家からの援助もなく武田滅亡後は貧困生活してた
849日本@名無史さん:2015/02/04(水) 15:00:23.41
松姫とか武田の女性に養育頼めば
織田秀信は保科正之のように育ったのかもしれない
乱世の世には能力が合わない気はするが
850日本@名無史さん:2015/02/05(木) 00:01:15.81
外見は信長に似てたって言うし
福島や池田は高評価してるから
能力はあったんじゃないか秀信は
851日本@名無史さん:2015/02/05(木) 00:05:44.06
関ヶ原で東軍についていれば岐阜30万石ぐらいで残れたか
852日本@名無史さん:2015/02/05(木) 14:11:28.00
>>847
それは俺も思ったことがある。>池田と松姫が養育
しかし、仮にそうしたとして秀信が良い意味での信長気質でありながら
信忠のような温和さもあり、時には裸姿で馬に駆け乗って敵に攻め込む
ちょい待てやなこともやるような勇猛果敢な武田武士節を併せ持ち
かつ内政や築城上手な武将に育ったとすると秀吉や家康にさっさか
潰されるのは間違いないのもまた事実でなあ…。
853日本@名無史さん:2015/02/05(木) 14:15:36.11
前田利常のように国元と江戸で名君とバカ殿の顔を使い分けるしか無い
854日本@名無史さん:2015/02/05(木) 14:18:29.07
>>847
家康は武田家の乗っ取りを図って自身の息子を武田家の跡取りとし
これも夭折すると秀忠の隠し子を跡取りとするという大義名分があったが

織田秀信は織田家の継承者であって武田の継承者ではない
なぜ保科正之のように徳川名乗りを許されなかった傍系のように
武田の女性たちの手によって武田家継承者として育つんだ
855日本@名無史さん:2015/02/05(木) 14:25:15.13
穴山さんは運が悪かったな・・
運良ければ江戸時代も武田継承者だったのに・・
856日本@名無史さん:2015/02/05(木) 23:43:15.05
>>853
そうなのだけど秀信にそういう器用さがあるとは思えないのがつらい
857日本@名無史さん:2015/02/06(金) 15:07:26.58
前田家など最初から天下を狙ったこともなく
常に恭順恭順で来た家だろ

信長存命中は織田に絶対服従だった家康なのに
織田家嫡流の秀信が利常同様家康に人質を差し出し
徳川を織田家末代までの絶対的主君と崇め
けして織田が徳川を差し置いて天下を狙わないことを世間に公表して
徹底服従するべきというのもなあ
858日本@名無史さん:2015/02/06(金) 19:17:22.10
結局信長と信忠が遺した所領を少しでも多く守ろうという考えより
少しでも多く分捕ろうという考えが勝った連中ばかりという…。
甲信なんてやりようによって織田がそのまま引き継げたかもしれないのに
北條と徳川が取り合い始めたと思ったら信雄と信孝が仲裁して和睦とか
兄貴が遺したもんを何他家に渡してんだよって感じだわ。
859日本@名無史さん:2015/02/12(木) 20:58:44.97
信長と信忠が死んで三法師は庶長子で嫡子扱いされてなかったし
自分が織田家家督を継げると思っちゃったんだろうな
860日本@名無史さん:2015/02/13(金) 15:55:49.42
>>851 福島がいった後の清洲あたりか?
861日本@名無史さん:2015/02/16(月) 17:33:58.68
>>847 
でもな、信松院には秀吉から松あての書状もあるという驚愕の事実 
以前行った時にじっくり見てこなかったから詳しい内容なんかは 
わからなくて申し訳ないんだが。
862日本@名無史さん:2015/02/17(火) 01:05:39.54
信長ないし信忠からの書簡もあれば完璧なんだがないのかな
863日本@名無史さん:2015/02/17(火) 02:39:12.78
>>861
それ本当の話?なんで秀吉が?
花押とかもあったの?宛名は松と信松尼どっち?
864日本@名無史さん:2015/02/17(火) 09:09:02.35
>>861
家康からの書状の間違いじゃないの?
当の信松院の公式ホームページを見ても秀吉公ゆかりのものを
所蔵しているとは書かれていない
秀吉から松姫への書状があるなら寺としては一級の宝物だろうに
865日本@名無史さん:2015/02/17(火) 15:47:32.63
信松院の宝物といえば織田の紋が入った四角形状のものあったな…。
平皿にも置き(敷)台にも蓋にも見えるけど寺でも用途など詳しいことは
わからないとの話だった。
とても大事に扱われていたらしく目視でも保存状態がすごくいいのが
わかるし家康からのもの(膳器一式)より大切にされていた感じで笑えたw

>>863>>864
横からですまんが秀吉書状所有は武蔵國の風土記にも記されているし
俺も見たよ、今も公開しているかは知らん。
信松尼あてで秀吉の署名と花押入り、お墨付きと差出は杉原。
すべてかな書きだから女性向け書簡なのか確か。
消息文じゃないかってことらしいけど未調査との話だった。
今は書簡研究とか盛んになっているし小さいお寺だと保管環境とかに
限界があるから正直八王子市に頼んで保存修復なんかもかねて一度
文化財の専門家に調査してもらいたいと思った。
866日本@名無史さん:2015/02/17(火) 17:14:00.24
杉原通してるということは公的というより私的っぽいね
秀吉だからまさかとは思うけど側室になれみたいなこととか
おねの話し相手にならない?みたいなことでも書いてあるのかな。
867日本@名無史さん:2015/02/17(火) 18:06:29.45
内容不明じゃあ驚愕の事実ってほどでもないが>>861
868日本@名無史さん:2015/02/17(火) 20:02:48.43
内容以前に秀吉が身内(杉原)使ってまで出家後の松姫に誼を
通じようと書簡を出していたこと自体が驚愕の事実なのではないの?
秀吉と松姫の話ってあるようでないことだし秀吉研究でも
松姫に書簡を出していたなんて話はないわけだし。
869日本@名無史さん:2015/02/18(水) 00:37:49.48
>>865
へえーばりばり武田な寺なのにそういうものもあるのか。
信忠と婚約した時に使われたものだったらおもしろい。
それにしても公開していないもしくは把握していないだけで
他にもなんかありそうな感じのするお寺だ。

>>866
知恵袋に秀吉は信松尼に還俗を促していたと書いてあったが…。
870日本@名無史さん:2015/02/18(水) 11:16:35.09
>>865
秀吉は何という名前で署名してた?
それによって手紙を出した時期がおおむね分かるはず
871日本@名無史さん:2015/02/18(水) 11:18:54.49
>>869
その話は知恵袋以外に根拠がないようだ
872日本@名無史さん:2015/02/18(水) 23:37:45.30
というか知恵袋って三法師は(母親の家格が低いから)出自が低いと
書かれたことに対して生母の塩川の娘(と断定)は正式に信忠と祝言を
あげた正妻で武田家と同等な家柄で摂津の名家だから三法師の出自は
低くないと堂々と書かれてあるようなところなんだがなw
873日本@名無史さん:2015/02/19(木) 10:25:36.96
>>865
未調査というなら本当に秀吉の書簡なのかということを含めて未確定なのかもしれんが
もし実物なら所領安堵に関する書類か何かだろう
花押は公的文書にしか入れない

私信に花押を入れることはまずなくここの松姫ヲタが期待するような
信忠婚約に関する手紙や秀吉からの恋文でないことは明らか
874日本@名無史さん:2015/02/20(金) 02:17:54.63
>>870
羽柴
875日本@名無史さん:2015/02/20(金) 14:42:25.27
>武田家と同等な家柄

信忠と祝言や正妻とあるから甲斐武田家をさしていると思われけど
この頃の塩河が甲斐武田と同等なんてまず有り得ね。
876日本@名無史さん:2015/02/20(金) 18:28:32.10
五カ国を抱える大名家と摂津の一国衆にすぎない家を
同等と語るようなアホには寝言は寝て言えでおk
そもそも三法師は母親の家格が低い庶長子だから秀吉も担げたのであって
家格が高い正妻が産んだ嫡子だったらあそこまで家中が割れ争うなんて
ことはまず起きないわな
877日本@名無史さん:2015/02/21(土) 13:34:31.14
成り上がる前の織田家と同程度の家柄で釣り合いが取れるんじゃねw
878日本@名無史さん:2015/02/22(日) 04:17:17.19
>872で興味もって知恵袋をいろいろ見ていてすごく気になったことだけど
この件に限らずでいつから側室=妻という認識に変わったんだろ・・・。
879日本@名無史さん:2015/02/25(水) 15:45:46.48
変わったというか公共電波のように不特定多数が見聞きできるような場で
妾や庶子といった言葉をおおっぴらに使うと声が大きい面倒くさい人が
絡んできやすいから広義でそういう認識考証にせざるを得なくなっている
現状があるから鵜呑みしてさも正しいように流布しているだけでは?

因みにドラマの信長協奏曲で妾という言葉が出てきたことがあったけどその時も
実況やつぶやきなんかで妾という言葉使っていいのか?という指摘が
入ってたり視聴者ご意見としても紹介されていて個人的にとても驚いた。
880日本@名無史さん:2015/02/26(木) 02:05:58.61
>>843->>844
大久保長安関連の書籍に長安が願い出て家康もあまり良い顔をせず
本多らの反対姿勢もある中で岐阜奉行になれたのは池田夫婦が
後押しをしたからみたいなことが書いてあったが関係しているんかな。

他にも長安は秀信が力を入れていた鵜飼関連も尽力したり政策なんかも
秀信の意思を継ぐがごとくな形で統治していたそうなんだがそれは秀信が
高野山から下山したら岐阜に住まわせゆくゆくは自分の配下という形には
なるものの再び岐阜の統治ができるようにという腹づもりがあったらしく
その準備も密かに進めていたようなことも書いてあった。
大久保長安事件に連座した信雄家臣の記録にらしきことが書いてあるらしい。

なんていうか大久保長安事件はよく長安が武田家を再興させようと
画策していたと書かれてあるが同時に首謀メンバーとして詮議された
輝政(督姫も疑われていたとか)もまた織田家(信忠流)を
再興させようとしていたのかもと思うとなんか萌えた。
881日本@名無史さん:2015/02/26(木) 10:51:34.00
天下の総代官長安 織田秀信 武田 安房里見 小田原大久保 

西国将軍池田


そうそうたる豪華メンバーだな
882日本@名無史さん:2015/02/27(金) 00:19:36.57
>>880
一説に岐阜城開城の説得時に輝政は秀信に家の復興を約束したとも
言われているし高野山へ追放になった北條氏直が一年位で赦免され
下山しているという前例があるから秀信も同様にできるとふんで
輝政と長安の間で何かしらの約束があったのかもなー。
そしてそこには信松尼の影も感じる。
883日本@名無史さん:2015/02/27(金) 07:50:16.83
>>880
大久保長安事件は、日本に当時世界帝国だったスペイン軍を引き込もうとして
失敗した典型的な売国事件の説が大きくなりつつあるけどな。

そもそも、信忠流の再興だけで、あれだけ大々的な事件になるとは思えない。
やはり、世界帝国スペイン絡みだろう。伊達政宗は良く逃げたと思うけどね。
池田輝政夫妻はスペインとは無関係だったんだろうね。
884日本@名無史さん:2015/02/27(金) 10:36:08.28
秀吉が晩年、信長の亡霊に怯えていたという話が残ってるから、
秀吉自身は織田家を虐げたという自覚はあっただろう。
それなら当の織田の生き残りも恨みを抱いて、機会あれば豊臣打倒に動いても
よさそうなのに、関が原でも大阪でも、あまりそういう動きはしていない。
天下を取り戻すのは無理でも、ある程度の返り咲きを狙っても良さそうなのに。
秀信が東軍についていれば、あの変なスケーターに信長子孫などと称されずにすんだだろうな。
885日本@名無史さん:2015/02/27(金) 10:54:22.89
織田有楽は大坂の冬の陣のドサクサで織田信雄を大坂の大将にして城乗っ取り考えてたとも
有楽の子で頼長も大坂の実権を狙ってたとも

このニ家は大名で残れたので
野望持ちながらもうまく立ちまわったほうなのだろう
886日本@名無史さん:2015/02/27(金) 12:29:26.42
>>883
誰も信忠流の再興が大久保長安事件の理由とは書いていないし
売国事件というのも事件概要や処罰などに矛盾や不可解な点が多すぎて
むしろ否定傾向の方が強いじゃん。
887日本@名無史さん:2015/03/01(日) 23:53:17.43
かつて織田が滅ぼした武田の遺臣が仇敵織田を助けるような
動きがあったらしいという話は歴史の皮肉でおもしろい。
その織田も甲斐にいた遺臣達の間で葡萄栽培が盛んに
行なわれるよう動いていたという話もある。

信長や信玄はあの世でこれらをどう見ていたんだろうね。
888日本@名無史さん:2015/03/02(月) 12:28:46.19
山崎の合戦の後、柴田勝家が市と結婚して故信長の義弟になったわけだが、
勝家自身が信雄や信孝を倒して、織田王国の後継者になる意志はなかったのだろうか?
889日本@名無史さん:2015/03/02(月) 12:49:30.63
9層天守あったらしい
北庄幕府の誕生だな
890日本@名無史さん:2015/03/02(月) 15:27:28.59
本能寺の変の時勝家は61歳
ライバルの羽柴秀吉はまだ36歳
信雄や信孝は子か孫に近い
勝家が後継者にしていた甥に才覚がなければ
また戦国に逆戻りするだけだろ
891日本@名無史さん:2015/03/02(月) 16:01:38.17
>>888
信長の実弟も生きている状態だから無かったと思われ
もしあったなら準一門みたいな立ち位置で信長のみならず
道三の血筋も抱えていた池田の懐柔取り込みを積極的に行って
地固めをすると思われるけどそういう動きもないし。
892日本@名無史さん:2015/03/02(月) 18:47:51.93
池田対策はやろうと思ってもやらなかった可能性もある。
というのも恒興はよく褒美で動いたように書かれるけどそれ以前に
孫由之の実祖父が明智に付いたから由之の命もある意味まだ
危ない状態だった可能性が否定できずでそれを餌に実質隠居状態の
恒興を巻き込んだのではないかという見方もあるんで
もしそうなら柴田はその事情を察して池田は動かないと判断し
やらなかった可能性も否定できまい。
893日本@名無史さん:2015/03/03(火) 11:45:33.94
>>888
信長って兄弟姉妹が20人ぐらいいたから
妹の一人と結婚したからって即後継者にはなれんだろう
信長の息子娘も20人ぐらいいたから
娘の夫たちも後継者に名乗りを上げる裁断になってしまうし
894日本@名無史さん:2015/03/03(火) 12:10:39.09
血縁重視ならば、

織田政権の管領?蹴鞠相手?細川信良にも柴田勝家同様にチャンスあるということだな・・・
895日本@名無史さん:2015/03/03(火) 13:09:05.75
お犬(細川信良室/信長・市の妹)って
本能寺の3か月後に死んでるんだよね
896日本@名無史さん:2015/03/03(火) 16:57:16.83
>>892
池田といえば信長が信房に池田の娘を娶らせているけど人質時代の
子供達(勝良と覚兵衛)はどこで誰が養育していて本能寺の時は
どこにいたんだろ?
897日本@名無史さん:2015/03/04(水) 04:20:10.83
安土から日野へ避難した時の様子が書かれている中にある御台と君達という
記述の君達が勝良達じゃないかというのはなんかで読んだなあ。
これだと安土で御台が養育していて本能寺も安土ってことになるが・・・。
898日本@名無史さん:2015/03/04(水) 10:08:24.77
信房って池田の娘を娶ってから7か月ぐらいで本能寺で死んでるよな
899日本@名無史さん:2015/03/04(水) 17:17:54.08
そんな短期間でも池田の娘との間にも子供がいる信房君
子供の数も3人は確定で未確定入れると4-5人にはなるらしい
本当に享年16歳前後なのか疑問がわく
900日本@名無史さん:2015/03/04(水) 20:55:39.84
前田に仕官したのと池田に仕官した以外って誰?
901日本@名無史さん:2015/03/05(木) 00:17:40.32
一人は福井の寺の初代住職(寺名忘れた)。
寺に伝わる話ではこの住職は勝長の息子らしい。
もう一人は4代目将軍家綱の乳母で後に大奥年寄りになった川崎こと真珠院。
こっちは川崎の娘渓心院(大奥では外山)が書いた渓心院文書に母は
信長五男の息子川崎(伊勢)新太郎正元女と書いてあるそうだ。
ただどうも信長の五男といえば信房だから信房の末裔として書かれているらしく
実際に信房ないし勝長とは書かれていなくてあくまで信長五男となっているから
もしかしたらお次秀勝ないし他の誰かの可能性は否定できないと個人的見解。
902日本@名無史さん:2015/03/06(金) 01:43:55.59
信房にしても秀勝にしても他にしても信長の息子の末裔ってことなら
信長の血を引く女子の乳を飲んで育った子が将軍になったとは
なんかとても興味深い。
903日本@名無史さん:2015/03/06(金) 10:14:18.62
>>901
家綱乳母の川崎(真珠院)は川崎六郎左右衛門の娘なんじゃ?
家光生母である江の姉・初が若狭に常高院を創建した時に
尽力した家臣が川崎六郎左右衛門
その娘が家綱誕生時に乳母に選ばれた
川崎の娘が外山なのはその通りだが
904日本@名無史さん:2015/03/06(金) 14:35:00.08
いくつかの大奥本にも901さんと同じように娘と書いてあるよ。
でも前にちょっと調べてみたら祖にあたる伊勢正元は信長五男の末子と
なっていて桂城(愛知県あま市)城主。
この正元の子供が川崎家へ婿入りしてそこで生まれたのが真珠院みたいよ。
だから家綱の生年なんかも加味して考えると真珠院が正元の娘というのは
ちょっと厳しいと思う。

あと901さんも指摘しているけど自分も川崎が信房の末裔とするのは
ちょっと短絡的かなと思う。
小浜市史で出された論文や光雲寺というお寺に残る文書、そして
京極家と川崎家の関係などを考慮すると秀勝のような気がする。
905日本@名無史さん:2015/03/06(金) 14:44:05.63
信長の実子の羽柴秀勝の子孫残ってたのか・・

本当ならば
凄い大逆転劇だな
906日本@名無史さん:2015/03/06(金) 23:52:42.28
信房を四男、秀勝を五男とする説もあるからなあ
907日本@名無史さん
信長実子・秀吉養子の秀勝の男子が川崎に婿入りしたなら
かなりの格落ちじゃね