183 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:21:35.87
age
185 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:38:36.50
失敗、age
近江厨=無限尿w
笑止wwwww
187 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:35:35.63
>>183 纏向の前に近畿王権の首都があった場所は
おそらく、葛城地方だと思うよ。
大和盆地をみれば、だいたいが想像がつくが、
王権の統制力が弱い時代は、なるべく安全保障上の有利さから
上流部に首都を置きたがるが、
王権の統制力が強くなり平和になり安定しだすと
下流部の平野部に首都を置きたがるものだ。
大和盆地においては、安全保障上は葛城のほうが利点があるけど
経済性を見たら、纏向のほうが利点がある。
188 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:48:33.11
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺。
高天の領主は、高天彦といわれる。
その神社が、高天彦神社として、御所市高天に残る。
近畿王権は、出雲を倒して、その直後
王家の一族であるニニギを、
この高天から、九州高千穂に地方官として派遣する。
それを後世、天孫降臨と呼ぶ。
189 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 15:05:43.19
葛城地方には、近江を上回るよな遺跡は無い、無いということは無かったということだ。
後漢193年6月寒風冬のごとし、新羅192,3年倭人大餓。
日本海側の遺跡では、青谷上寺地遺跡 大量の分解された人骨は食人をあらわす。
まあ大物主の日本海側は壊滅的被害を受ける。
ここで、近江の政権は終了し、大物主の初子タタネコが崇神に仕える。
そのタタネコの出身地河内の庄内式土器がこの時代の指標となる。
190 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 15:08:31.36
>>189 葛城のもあるわなw
というか、葛城のほうが遺跡も規模も大きい。
近江の遺跡っていっても、あの程度だろう?
んだんだ
193 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:36:54.04
木造建築物は残りにくい。
古墳が残ったのは単なる偶然。
遺跡が残っているから文化が高かったというのは間違い。
鴨田遺跡から東海、北陸、吉備、山陰地方の特色を持つ多数の土器が出て、しかも前漢との交流の痕跡もあるのなら、
東海道・北陸道・山陽道・山陰道を配下に置く勢力、当時の日本の最大勢力の中心・都であったのではないか、という可能性を検討してみるべきです。
さらに、そこに前方後円形の周溝墓があるのなら、前方後円墳とのつながりを考えてみるのは自然なことだと思うんですけど。
旧百余國漢時有朝見者
(金印の時のことであろう、)漢の時代に倭人が朝見してきたが、その時は百余りの国を配下に置いていた
今使謂所通三十国
今回やってきた(卑弥呼からの)使者が謂うには、つながりがある国は三十国になってしまっている
三十国に減ってしまったのは内乱んで連邦が分割されてしまったせいだろう
この百国を支配してた連邦国とはどんな国だったのだろうか?
九州だけでは百国は無理。西日本だけでもむづかしい
東日本まで含んだ、五畿七道に近い範囲だろうか?
そして、その国の中心・都はどこだったのだろうか?
その候補として、この東海道・北陸道・山陽道・山陰道と交易のあった北近江が浮かび上がってくる
誰も興味なさそうだな
考察を進めていくと自分でも想像してなかった意外な結論になって面白かったんだが
ブログででもやるか
まずはブログのやり方から勉強しなくては
ふなずしage
琵琶湖あけ
199 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 05:51:43.31
不弥国=ほみ国=おみ国、臣国 かもだ
息長氏とは沖縄と同じ南方系渡来人だろう。
203 :
j:2012/09/01(土) 14:34:41.75
205 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:44:46.96
と言ったあたりで、近畿説は店じまいするか。
206 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 16:03:53.61
いさざは絶滅したのかな
208 :
207:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
◇解説 朝鮮半島にもないタイプ
琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、
競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。
日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書
「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、
銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。
いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の
違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。
これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた
3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していた
と考えられる。
今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の
弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。
朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、
7?10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども
視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。
銅剣鋳型:国内初「双環」短剣 誰がなぜ、深い謎 大陸式と弥生、融合 文様繊細、祭祀用か
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddn041040013000c.html ◇滋賀・琵琶湖西部、日本海への交通要衝
中国北方に特有の短剣の鋳型が見つかった滋賀県高島市。これまで弥生時代青銅器の空白地域だったが、
福井県の敦賀・若狭湾岸から約30キロの距離にあり日本海ルートで中国大陸や朝鮮半島とつながる交通の要衝
だった。
琵琶湖の周囲では、24個の銅鐸が出土した滋賀県野洲市の大岩山が有名だが、遠く離れた南の対岸にあり、
上御殿遺跡の周辺では青銅器の出土はない。しかし、弥生時代の朝鮮系土器などが多数見つかり、日本海
とつながっていた。
上御殿遺跡のある「三尾里(みおざと)」には、6世紀前半に在位した継体天皇の父、彦(ひこ)主人(うし)王(おう)
が福井県から振媛(ふりひめ)を迎えた「三尾の別業(別荘)」があったとみられている。
約500メートル南にある鴨稲荷山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、石棺内から朝鮮半島の王陵を思わせる
豪華な副葬品が多数出土した。継体天皇を擁立した有力氏族の長を埋葬したとみられている。
663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済(くだら)を支援した日本が唐・新羅の連合軍に敗れた後、都が
飛鳥から琵琶湖西部の大津宮に移った。朝鮮半島北部から中国東北部を支配した高句麗との連携を強めるため
だったとも言われている。新羅に滅ぼされた高句麗の末裔(まつえい)が建国し、朝鮮半島北部から中国東北部、
ロシア沿海地方を支配した渤海(ぼっかい)の使節は8?10世紀、日本海を渡って福井県敦賀市などの客館から
琵琶湖西部を通って平城京、平安京を訪れた。
このようなルートが弥生時代にもあったのか。高島歴史民俗資料館の白井忠雄学芸員は「今まで考えられていた
以上に古い時代から大陸の先進文明を受け入れていたのだろう」と夢を膨らませる。
銅剣鋳型:国内例ないタイプ出土 難波・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddm041040138000c.html
国内に出土例ない銅剣の「鋳型」1組がほぼ完全な形で出土
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130808/wlf13080820160021-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/images/news/130808/wlf13080820160021-p1.jpg 国内で初めて出土した双環柄頭短剣の鋳型滋賀県高島市(大塚聡彦撮影)
弥生中期−古墳時代初め(紀元前4世紀〜紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安(あ)曇(ど)川(がわ)町
の上(かみ)御(ご)殿(てん)遺跡で見つかり、県文化財保護協会が8日発表した。柄(つか)の先に円形の装飾が
並ぶ「双(そう)環(かん)柄(つか)頭(がしら)短(たん)剣(けん)」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布する
オルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、
オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。
青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。
弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒(こう)神(じん)谷(だに)遺跡(島根県
出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的
近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。
同協会は「特異な銅剣の製造技術が琵琶湖岸に入ってきた経緯や、鋳型がどこで造られたのか、解明すべき点
は多い」としている。
琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、
陸と海の交通の要衝だったとみられる。
倭大羅国→邪馬台国な気がする・・。
215 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 12:03:24.38
>>207これは、アメノヒボコ一族の渡来伝説と一致する。
219 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:48:57.98
近江から南九州へ行く場合、伊勢湾から出航するのが早い
鈴鹿在住の猿田彦に道案内、或いは船の手配をしてもらう可能性はある
220 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:54:46.31
因みに香具山(伊香具山)は現在の賤ヶ岳
周囲の高島、坂田は古来より知られた鉄の産地
日本書紀には伊奘諾が淡路に隠居した時、
高天原の片隅にも別宮を設けた記述がある
221 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 10:38:05.29
222 :
【神】:2014/10/01(水) 23:50:10.84
近江からだと季節によっては日本海ルートが便利。
使い分けてない?
223 :
日本@名無史さん:2014/10/02(木) 21:23:16.54
ツマンネ
ジャワ・スマトラ説とか高句麗説とかまでは言わないから
せめて東北とか、もうちょっと頑張れよw
224 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 10:16:40.61
近江は毛野国の西都。近江毛野と分家らしい名の臣もいる。
毛野国はここを拠点に朝鮮半島や満州にも進出していた。
神武は東征したのではなく、東国から西征したのだ。
卑弥呼は毛野の女王、邪馬台国とは毛野国のことだった。
これで邪馬台国問題の謎は解けた。
頭の数スレを読んだだけで、頭の良い人ならすぐ気づくはずだ。
225 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 23:24:46.16
近江から中山道を通って関東の邪馬台国に行くには1月かかったろうな。
226 :
日本@名無史さん:2014/10/12(日) 19:42:10.23
>>183 纏向の前は唐子鍵じゃないかと言われてるね。
唐子・鍵が廃絶し、纏向が出来た。
唐子鍵も、搬入土器が多い。筑前〜吉備〜河内〜近江〜尾張など、幅広い地域から
搬入されている。
近江は、後の息長氏と関係ありそうな。開化の子の彦坐王の妻に息長水依比売
(天之御影神のこ)がいるんだよな。琵琶湖の東岸北部を支配していたのかも。
祭神としている御上神社は野洲川のほとりにある。安川なのか分からんけど。
鍛冶の神様らしいから、製鉄や精銅の技術を持った一族だったのかも。
妻にしてるんだよな。
古代史の謎は「海路」で解ける (PHP新書) 新書
長野 正孝 (著) 出版社: PHP研究所 (2015/1/16)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569823513 内容紹介
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米(なしめ)が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる……。
さらに雄略帝の「瀬戸内海の航路開発」や応神帝の「海運業」、継体帝が拓いた「近畿水回廊」、「大化の改新」の陰に消された「倭京」などの謎を、
港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』の著者、竹村公太郎氏も推薦!
内容(「BOOK」データベースより)
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行なったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる…。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に
長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。