邪馬台国近江説◇論争に終止符!

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183日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:21:35.87
鴨田遺跡って過小評価されてませんか?
>集落は、幅2〜5mの楕円形(だえんけい)に巡る4条以上の溝に囲まれた環濠集落(かんごうしゅうらく)で、その規模は直径約100mにおよびます
>方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と土坑墓(どこうぼ)が混在しますが、中に前方後円(ぜんぽうこうえん)形の周溝墓(しゅうこうぼ)が含まれている
>東海、北陸、吉備(きび)、山陰地方の特色を持つ多数の土器
>中国前漢(ぜんかん)(約2100年前)の貨幣「五銖銭(ごしゅせん)」
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2171/index.html

大和に突然現れた纒向、それが他の地から移転してきたものだとして、その移転元を鴨田遺跡と考えるのは無理がありますか?
184日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:55:38.63
age
185日本@名無史さん:2012/01/06(金) 23:38:36.50
失敗、age
186日本@名無史さん:2012/01/07(土) 05:46:35.52
近江厨=無限尿w
笑止wwwww
187日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:35:35.63
>>183
纏向の前に近畿王権の首都があった場所は
おそらく、葛城地方だと思うよ。
大和盆地をみれば、だいたいが想像がつくが、
王権の統制力が弱い時代は、なるべく安全保障上の有利さから
上流部に首都を置きたがるが、
王権の統制力が強くなり平和になり安定しだすと
下流部の平野部に首都を置きたがるものだ。
大和盆地においては、安全保障上は葛城のほうが利点があるけど
経済性を見たら、纏向のほうが利点がある。
188日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:48:33.11
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺。
高天の領主は、高天彦といわれる。
その神社が、高天彦神社として、御所市高天に残る。

近畿王権は、出雲を倒して、その直後
王家の一族であるニニギを、
この高天から、九州高千穂に地方官として派遣する。
それを後世、天孫降臨と呼ぶ。
189唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/07(土) 15:05:43.19
葛城地方には、近江を上回るよな遺跡は無い、無いということは無かったということだ。
後漢193年6月寒風冬のごとし、新羅192,3年倭人大餓。
日本海側の遺跡では、青谷上寺地遺跡 大量の分解された人骨は食人をあらわす。
まあ大物主の日本海側は壊滅的被害を受ける。
ここで、近江の政権は終了し、大物主の初子タタネコが崇神に仕える。
そのタタネコの出身地河内の庄内式土器がこの時代の指標となる。
190日本@名無史さん:2012/01/07(土) 15:08:31.36
>>189
葛城のもあるわなw
というか、葛城のほうが遺跡も規模も大きい。
近江の遺跡っていっても、あの程度だろう?
191日本@名無史さん:2012/01/07(土) 16:17:54.16
>>187
上流・下流の意味がワカランw
192日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:27:44.59
んだんだ
193日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:36:54.04
木造建築物は残りにくい。
古墳が残ったのは単なる偶然。
遺跡が残っているから文化が高かったというのは間違い。
194日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:54:09.18
鴨田遺跡から東海、北陸、吉備、山陰地方の特色を持つ多数の土器が出て、しかも前漢との交流の痕跡もあるのなら、
東海道・北陸道・山陽道・山陰道を配下に置く勢力、当時の日本の最大勢力の中心・都であったのではないか、という可能性を検討してみるべきです。

さらに、そこに前方後円形の周溝墓があるのなら、前方後円墳とのつながりを考えてみるのは自然なことだと思うんですけど。
195日本@名無史さん:2012/01/09(月) 20:02:46.97
旧百余國漢時有朝見者
(金印の時のことであろう、)漢の時代に倭人が朝見してきたが、その時は百余りの国を配下に置いていた
今使謂所通三十国
今回やってきた(卑弥呼からの)使者が謂うには、つながりがある国は三十国になってしまっている

三十国に減ってしまったのは内乱んで連邦が分割されてしまったせいだろう
この百国を支配してた連邦国とはどんな国だったのだろうか?
九州だけでは百国は無理。西日本だけでもむづかしい
東日本まで含んだ、五畿七道に近い範囲だろうか?

そして、その国の中心・都はどこだったのだろうか?
その候補として、この東海道・北陸道・山陽道・山陰道と交易のあった北近江が浮かび上がってくる
196日本@名無史さん:2012/01/11(水) 20:20:11.87
誰も興味なさそうだな
考察を進めていくと自分でも想像してなかった意外な結論になって面白かったんだが
ブログででもやるか
まずはブログのやり方から勉強しなくては
197日本@名無史さん:2012/01/27(金) 10:59:29.00
ふなずしage
198日本@名無史さん:2012/02/09(木) 21:33:14.97
琵琶湖あけ
199日本@名無史さん:2012/02/23(木) 05:51:43.31
>>183
息長氏と関係ありそうかもだ
200日本@名無史さん:2012/02/23(木) 10:17:53.58
不弥国=ほみ国=おみ国、臣国 かもだ
201日本@名無史さん:2012/02/25(土) 10:34:30.75
息長氏とは沖縄と同じ南方系渡来人だろう。
202日本@名無史さん:2012/04/02(月) 19:36:07.57
>>155-156
琵琶湖の湖底遺跡は湖をぐるりとめぐって100以上確認されてるそうだ。
203j:2012/09/01(土) 14:34:41.75
204日本@名無史さん:2013/03/18(月) 20:22:19.44
【調査】琵琶湖の湖底 湖底遺跡、変色、エビ大量死500匹 新型探索ロボットが発見
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1363514357/
205日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:44:46.96
と言ったあたりで、近畿説は店じまいするか。
206日本@名無史さん:2013/04/30(火) 16:03:53.61
いさざは絶滅したのかな
207日本@名無史さん:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
「謎だらけ」滋賀作で国内初の銅剣鋳型出土 弥生期に中国オルドス式
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1375978844
銅剣鋳型:滋賀で出土 国内例なく、中国式に類似
http://mainichi.jp/feature/news/20130809k0000m040067000c.html
http://mainichi.jp/graph/2013/08/09/20130809k0000m040067000c/image/001.jpg
http://mainichi.jp/graph/2013/08/09/20130809k0000m040067000c/image/002.jpg
http://mainichi.jp/graph/2013/08/09/20130809k0000m040067000c/image/003.jpg
http://mainichi.jp/graph/2013/08/09/20130809k0000m040067000c/image/004.jpg
 国内では出土例がないタイプの短剣の鋳型が琵琶湖西側の上御殿(かみごてん)遺跡(滋賀県高島市安曇川町
三尾里)で見つかった。握りの柄(つか)の端に円環が二つ付く双環柄頭(そうかんつかがしら)型で、8日発表した
県文化財保護協会によると、弥生時代中期から古墳時代初め(紀元前4世紀?紀元後3世紀ごろ)の銅剣鋳型
とみられる。中国・北方地域の遊牧民が使ったオルドス式銅剣と類似するが、朝鮮半島にも例がなく、弥生時代を
中心とする東アジアの青銅器文化の広がりや交流ルートの見直しを迫られそうだ。

 過去に国内で出土した銅剣は、中国東北部の遼寧(りょうねい)地方から朝鮮半島に伝わった遼寧式銅剣が祖型
とされ、ほとんどは剣身と柄を別に作る。
 一方、今回の鋳型は剣身から柄頭までを一体鋳造するタイプで、専門家は、春秋戦国時代(紀元前8?同3世紀)に
現在の中国・内モンゴル自治区の辺りを中心に使われたオルドス式銅剣との類似を指摘する。
208207:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
 ◇解説 朝鮮半島にもないタイプ
 琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、
競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。
 日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書
「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、
銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。
 いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の
違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。
 これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた
3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していた
と考えられる。
 今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の
弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。
 朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、
7?10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども
視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。
209日本@名無史さん:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
銅剣鋳型:国内初「双環」短剣 誰がなぜ、深い謎 大陸式と弥生、融合 文様繊細、祭祀用か
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddn041040013000c.html
 ◇滋賀・琵琶湖西部、日本海への交通要衝
 中国北方に特有の短剣の鋳型が見つかった滋賀県高島市。これまで弥生時代青銅器の空白地域だったが、
福井県の敦賀・若狭湾岸から約30キロの距離にあり日本海ルートで中国大陸や朝鮮半島とつながる交通の要衝
だった。
 琵琶湖の周囲では、24個の銅鐸が出土した滋賀県野洲市の大岩山が有名だが、遠く離れた南の対岸にあり、
上御殿遺跡の周辺では青銅器の出土はない。しかし、弥生時代の朝鮮系土器などが多数見つかり、日本海
とつながっていた。
 上御殿遺跡のある「三尾里(みおざと)」には、6世紀前半に在位した継体天皇の父、彦(ひこ)主人(うし)王(おう)
が福井県から振媛(ふりひめ)を迎えた「三尾の別業(別荘)」があったとみられている。
 約500メートル南にある鴨稲荷山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、石棺内から朝鮮半島の王陵を思わせる
豪華な副葬品が多数出土した。継体天皇を擁立した有力氏族の長を埋葬したとみられている。
 663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済(くだら)を支援した日本が唐・新羅の連合軍に敗れた後、都が
飛鳥から琵琶湖西部の大津宮に移った。朝鮮半島北部から中国東北部を支配した高句麗との連携を強めるため
だったとも言われている。新羅に滅ぼされた高句麗の末裔(まつえい)が建国し、朝鮮半島北部から中国東北部、
ロシア沿海地方を支配した渤海(ぼっかい)の使節は8?10世紀、日本海を渡って福井県敦賀市などの客館から
琵琶湖西部を通って平城京、平安京を訪れた。
 このようなルートが弥生時代にもあったのか。高島歴史民俗資料館の白井忠雄学芸員は「今まで考えられていた
以上に古い時代から大陸の先進文明を受け入れていたのだろう」と夢を膨らませる。


銅剣鋳型:国内例ないタイプ出土 難波・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddm041040138000c.html
210日本@名無史さん:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
国内に出土例ない銅剣の「鋳型」1組がほぼ完全な形で出土 
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130808/wlf13080820160021-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/images/news/130808/wlf13080820160021-p1.jpg
国内で初めて出土した双環柄頭短剣の鋳型滋賀県高島市(大塚聡彦撮影)

 弥生中期−古墳時代初め(紀元前4世紀〜紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安(あ)曇(ど)川(がわ)町
の上(かみ)御(ご)殿(てん)遺跡で見つかり、県文化財保護協会が8日発表した。柄(つか)の先に円形の装飾が
並ぶ「双(そう)環(かん)柄(つか)頭(がしら)短(たん)剣(けん)」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布する
オルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、
オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。
青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。

 弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒(こう)神(じん)谷(だに)遺跡(島根県
出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的
近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。
 同協会は「特異な銅剣の製造技術が琵琶湖岸に入ってきた経緯や、鋳型がどこで造られたのか、解明すべき点
は多い」としている。
 琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、
陸と海の交通の要衝だったとみられる。
211日本@名無史さん:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
銅剣、国内初タイプの鋳型 滋賀の遺跡で出土
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG08036_Y3A800C1CR8000/
 中国の華北や内モンゴルに分布したオルドス式銅剣の特徴を持つ双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が
国内で初めて滋賀県高島市の上御殿遺跡で出土し、県文化財保護協会が8日発表した。弥生中期〜古墳時代前期
(紀元前350〜紀元後300年ごろ)のものとみられる。
 九州などで出土している細形銅剣は、中国の遼寧式銅剣がモデルで、朝鮮半島を通じて伝わった。オルドス式は
朝鮮半島にも出土例はなく、中国から日本海ルートで伝わった可能性があり、青銅器流入の見直しを迫る発見
となりそうだ。
 鋳型に彫られた銅剣は柄頭にある双環など中国の春秋戦国時代(紀元前770〜同221年)のオルドス式と似た
特徴がある。同協会によると、上御殿遺跡は日本海まで約30キロと近いことから、九州を経由せず、日本海を
通じて大陸と交流した可能性があるという。


謎呼ぶ短剣、柄の先に二つの輪 滋賀の上御殿遺跡で出土
http://www.asahi.com/culture/update/0808/OSK201308080105.html
http://www.asahicom.jp/culture/update/0808/images/OSK201308080108.jpg
上御殿遺跡で出土した双環柄頭短剣の鋳型=滋賀県高島市、加藤諒撮影
http://www.asahicom.jp/culture/update/0808/images/OSK201308080107.jpg
2枚の鋳型をそれぞれ使った短剣の完成予想図=滋賀県教委提供
http://www.asahicom.jp/culture/update/0808/images/OSK201308080229.jpg
上御殿遺跡の地図
http://www.asahicom.jp/culture/update/0809/images/OSK201308080250.jpg
東アジアの銅剣
212日本@名無史さん:2013/09/20(金) 14:43:38.78
須恵器に刻字 日本最古 能美・和田山古墳群で出土
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2013092002100018.html
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/images/PK2013092002100113_size0.jpg
「二年」と刻まれた高坏ふた=石川県能美市で(同市教委提供)
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/images/PK2013092002100114_size0.jpg
「未」と胴体部分に刻まれたつぼ=石川県能美市で(同市教委提供)
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/images/PK2013092002100115_size0.jpg
  和田山古墳群  石川県能美市平野部に点在する「能美古墳群」の一つ。3世紀後半〜6世紀前半に築造された
前方後円墳や円墳など計23基が発見されており、うち19基が現存。北陸では唯一、六鈴鏡(ろくれいきょう)や
鈴付銅釧(すずつきどうくしろ・腕輪)が出土している。隣接の末寺山古墳群とともに「和田山・末寺山古墳群」の
名称で、国史跡に指定されている。


須恵器:国内最古、5世紀末に文字が刻まれ…石川で出土
http://mainichi.jp/select/news/20130920k0000m040047000c.html
 須恵器は、古墳時代の4世紀末ごろから作られ始めた。文字が刻まれた古墳時代の須恵器は、これまでに
桜生(さくらばさま)古墳群(滋賀県野洲市)で6世紀後半?7世紀半ばの小型のつぼが、また野々井古墳群(堺市)
で6世紀ごろと推定される鉢のような器の破片の出土例がある。
 一方、今回の須恵器が作られた5世紀の出土例の中には、埼玉稲荷山古墳(埼玉県行田市)の銘文入り鉄剣
などがあり、各地で本格的に文字が使われていたと考えられている。


文字、5世紀に広く普及か 須恵器に「未」「二年」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905R_Z10C13A9CR8000/
213日本@名無史さん:2013/10/27(日) 21:04:52.37
倭大羅国→邪馬台国な気がする・・。
214日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:04:45.35
http://www.youtube.com/watch?v=wuDOebvhhe0
南端の北に南端はある
215日本@名無史さん:2013/12/07(土) 12:03:24.38
>>207これは、アメノヒボコ一族の渡来伝説と一致する。
216日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:57:15.42
2014/1/9付
日本古代史への旅(1)九州?大和?活発な論争 邪馬台国いまだ謎 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO65033090Y4A100C1BE0P00/
 日本の古代史研究で新たな発見や新説の発表が相次ぎ、邪馬台国の所在地や国の成り立ちをめぐる論争も
活発だ。歴史地理学者の千田稔氏に日本古代史の争点についてつづってもらう。…

2014/1/16付
(入門講座)日本古代史への旅(2)新王朝築いた?継体天皇 宮転々、背景に国際情勢も 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO65338010V10C14A1BE0P00/
 古代日本でその即位について議論が繰り返されてきた天皇がいる。26代の継体天皇だ。論点となっているのは、
それ以前の王権との関係。『日本書紀』に継体天皇は15代応神天皇の5世の孫とある。記紀だけで応神天皇の
5世の孫とは断定できないが、7世紀に成立した『上宮記(じょうぐうき)』の系譜からみると確かに応神天皇の
5世の孫になる。…
217日本@名無史さん:2014/04/08(火) 08:20:39.54
伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史@ ? 「北と南の潮流」
http://www.youtube.com/watch?v=QBrJiES8DAo

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史 A 「磯を求めて」
http://www.youtube.com/watch?v=Zqi-Mm_Z1Ec

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史B 「二倍年歴」
http://www.youtube.com/watch?v=TC2escyfFQo

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史C 「俾弥呼の実像(その1)」
http://www.youtube.com/watch?v=tSNueB5KB3w

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史D 「俾弥呼の実像(その2)」
http://www.youtube.com/watch?v=Aia6i1evxrg

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史E 「俾弥呼の実像(その3)」
http://www.youtube.com/watch?v=nnCzdyj6q2M

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史F 「崇神天皇の時代」
http://www.youtube.com/watch?v=eX0kE4U7Qxc

伊藤恭と輝く瞳ラジオ〜日本の本当の歴史G 「倭の五王と磯城宮」
http://www.youtube.com/watch?v=AZlj0V_g9xQ


〜Kまで

【dailymotion版】
古田武彦史学 その1 北と南の潮流
http://www.dailymotion.com/video/xrkym0_%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E5%8F%B2%E5%AD%A6-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E5%8C%97%E3%81%A8%E5%8D%97%E3%81%AE%E6%BD%AE%E6%B5%81_people?search_algo=2
218日本@名無史さん:2014/06/27(金) 19:56:16.75
邪馬台国のたねあかし 〜本当の邪馬台国近江説〜
http://yamatokoku.shiga-saku.net/
219日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:48:57.98
近江から南九州へ行く場合、伊勢湾から出航するのが早い
鈴鹿在住の猿田彦に道案内、或いは船の手配をしてもらう可能性はある
220日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:54:46.31
因みに香具山(伊香具山)は現在の賤ヶ岳
周囲の高島、坂田は古来より知られた鉄の産地
日本書紀には伊奘諾が淡路に隠居した時、
高天原の片隅にも別宮を設けた記述がある
221日本@名無史さん:2014/10/01(水) 10:38:05.29
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。

http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
222【神】:2014/10/01(水) 23:50:10.84
近江からだと季節によっては日本海ルートが便利。
使い分けてない?
223日本@名無史さん:2014/10/02(木) 21:23:16.54
ツマンネ

ジャワ・スマトラ説とか高句麗説とかまでは言わないから
せめて東北とか、もうちょっと頑張れよw
224日本@名無史さん:2014/10/04(土) 10:16:40.61
近江は毛野国の西都。近江毛野と分家らしい名の臣もいる。
毛野国はここを拠点に朝鮮半島や満州にも進出していた。
神武は東征したのではなく、東国から西征したのだ。
卑弥呼は毛野の女王、邪馬台国とは毛野国のことだった。
これで邪馬台国問題の謎は解けた。

頭の数スレを読んだだけで、頭の良い人ならすぐ気づくはずだ。
225日本@名無史さん:2014/10/05(日) 23:24:46.16
近江から中山道を通って関東の邪馬台国に行くには1月かかったろうな。
226日本@名無史さん:2014/10/12(日) 19:42:10.23
>>183
纏向の前は唐子鍵じゃないかと言われてるね。
唐子・鍵が廃絶し、纏向が出来た。
唐子鍵も、搬入土器が多い。筑前〜吉備〜河内〜近江〜尾張など、幅広い地域から
搬入されている。

近江は、後の息長氏と関係ありそうな。開化の子の彦坐王の妻に息長水依比売
(天之御影神のこ)がいるんだよな。琵琶湖の東岸北部を支配していたのかも。
祭神としている御上神社は野洲川のほとりにある。安川なのか分からんけど。
鍛冶の神様らしいから、製鉄や精銅の技術を持った一族だったのかも。

妻にしてるんだよな。
227日本@名無史さん:2014/11/12(水) 01:44:06.40
2014/11/11
【京都】 “卑弥呼の墓”と類似、古代史解明の鍵に 京都・五塚原古墳 [京都新聞] [転載禁止](c)2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1415700032/
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141110000032
228日本@名無史さん:2014/11/15(土) 06:59:46.89
2012/9/6
大和政権の権勢、新潟まで 弓や銅鏡の副葬品出土
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG06050_W2A900C1CR8000/
 新潟県胎内市にある日本海側最北の前期古墳「城の山古墳」(4世紀前半)から、畿内の強い影響がみられる
漆塗りの弓や矢を入れる靫(ゆぎ)、銅鏡などの副葬品が見つかり、同市教育委員会が6日に発表した。
 日本海側でこれまでに同様の副葬品が確認されたのは、石川県七尾市の国分尼塚1、2号墳が北限だった。
大和政権の影響範囲の広がりを裏付ける発見で、発掘指導委員会委員長の橋本博文新潟大教授(日本考古学)は
「大和政権が東北に対する前線基地として有力者を取り込み、権勢を示す財物を渡していたことがうかがえる」
としている。
 市教委などによると、城の山古墳は楕円形の円墳とみられ、長径約41メートル。副葬品として黒と赤の漆塗りの弓
が1点ずつ、漆塗りの靫1点、銅の矢尻6点、銅鏡1点、翡翠(ひすい)製の勾玉(まがたま)1点などが見つかった。
武具や装身具、工具の組み合わせが畿内の古墳とよく似ているという。

 城の山古墳は2005年の調査で前期古墳と判明し、大和政権と関係があるとみられていた。新潟県内の前期古墳
は古津八幡山古墳、菖蒲塚古墳、緒立八幡神社古墳(いずれも新潟市)などがあるが、盗掘や調査途中のため
副葬品の全容は明らかになっていない。


2014/11/12付
清流彩る、謎めくヒスイ 新潟・糸魚川市 大断層、特異な地形育む
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO79551040R11C14A1EL1P00
http://www.nikkei.com/content/pic/20141112/96959999889DE5EBE7E7E3E2E6E2E3E3E3E3E0E2E3E6979EE382E2E2-DSKKZO7955105011112014EL1P00-KN2-5.jpg
 北陸新幹線の金沢への延伸が来年3月に迫った。ヒスイの産地として知られる新潟県糸魚川市も、
首都圏からのアクセスが大きく改善する地域の1つ。国内で最も早く、貴重な自然遺産に親しめるとして
認定された「世界ジオパーク」へ、新幹線開業前に一足早く出かけた。
□   □
 JR糸魚川駅から車で40分ほど。うっそうと木々が茂った山道を行くと現れるのが、国の天然記念物と
なっている小滝川ヒスイ峡だ。姫川の支流にあたる…
229日本@名無史さん:2014/11/15(土) 07:11:35.92
2012/10/28
東大寺宝冠に弥生時代の勾玉か 1000年受け継ぐ?
http://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2701K_X21C12A0AC8000/
 東大寺法華堂(奈良市)の本尊・不空羂索観音像(国宝、8世紀)の宝冠を飾る1万数千点の玉類に、
弥生―古墳時代のガラス玉が多数使われていることが分かり、分析した中井泉東京理科大教授(分析化学)らが
27日、発表した。
 中でも勾玉(まがたま)1点の成分は、弥生時代に多く輸入されたガラスの特徴を示しており、最も古く考えると、
約千年間、権力者に代々受け継がれた“お宝”が宝冠に使われた可能性もある。
230日本@名無史さん:2014/11/16(日) 21:36:52.72
>>207-211
2014/11/13付
「王族の剣」鋳型初出土 福岡の遺跡、紀元前2世紀
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO79632440T11C14A1CC0000
http://www.nikkei.com/content/pic/20141113/96959999889DE5EBE4E1E0E6E6E2E3E1E3E3E0E2E3E69191E2E2E2E2-DSKKZO7963245013112014CC0000-PB1-1.jpg
2014/11/13
「王族の剣」鋳型が初出土 福岡の遺跡、紀元前2世紀
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12H5D_T11C14A1CC0000/
 福岡県春日市教育委員会は13日までに、市内の須玖タカウタ遺跡で、王族クラスが持つ権威の象徴
とされ、握り手から刃先までが一体になった「有柄銅剣」の石製鋳型が見つかったと発表した。
弥生時代中期前半(紀元前2世紀)のもので、朝鮮半島由来といい、このタイプが見つかるのは
朝鮮半島も含めて初。青銅器を量産できる日本最古の土製鋳型も大量に出土した。
 遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」にも登場する青銅器生産の先進地、奴国(現在の福岡市付近)の
中心部にある。市教委は、奴国の高度な生産技術を示す貴重な発掘成果だとしている。
 市教委によると、有柄銅剣は吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳丘墓で見つかるなど、
有力者の威厳を示す青銅器。中国の内モンゴルなどに由来し、形状が異なる「オルドス式銅剣」タイプ
の鋳型は上御殿遺跡(滋賀県)で1点だけ出土している。朝鮮半島系の銅剣は九州などで出ているが、
鋳型は未発見だった。
 今回、見つかった鋳型は大部分が失われているが、握り手を中心に長さ13.2センチ、幅2.7センチ。
一部が熱によって黒く変色しており、実際に鋳造した可能性が高い。
 石製鋳型は、ほかに矛や銅鐸(どうたく)をつくるものが5点確認された。一方、土製鋳型は剣や
中国の武器に由来する「戈(か)」の鋳型など24点。うち4点は一つの戈をつくるために組み合わせて
使用したとみられ、鋳造の工程が分かる重要な発見という。
 鋳型のほとんどは竪穴住居の内部に掘った穴から見つかった。
 調査を指導した柳田康雄・元国学院大教授(考古学)は「質、量とも一級品。福岡平野が早くから
青銅器生産の中心地だったことが裏付けられた。有柄銅剣の鋳型は、吉野ケ里遺跡で見つかった
銅剣のもとになる型だった可能性もある」と話している。〔共同〕
231日本@名無史さん:2015/02/28(土) 02:55:27.76
>>216
2014/1/23付
(入門講座)日本古代史への旅(3)聖人・聖徳太子はいなかった!? 「書紀の捏造」説、反論材料も多く 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO65691810S4A120C1BE0P00/
 近年、聖徳太子(574〜622年)は実在しなかったという問題提起について議論がおこっている。信じて疑わなかった
聖徳太子がいなかったとなると、胸に空洞ができた思いをする人もいるにちがいない。…

2014/1/30付
(入門講座)日本古代史への旅(4)天皇号はいつから使われたか 文献・出土史料で諸説 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66052750Z20C14A1BE0P00/
 わが国で、いつごろから「天皇」という称号が使われたかについては確かな答えがない。
私見では舒明朝
 天武天皇(在位673〜686年)の時代には天皇号があったと見るのが有力だが、使われ始めた時期については、
文献史料によるか出土史料なども考慮に入れるかで見解は分かれる。推古天皇(同593〜628年)にまで
さかのぼるとする説もあるが、私は舒明天皇(同629〜641年)に始まったのではないかと考えている。
232日本@名無史さん
古代史の謎は「海路」で解ける (PHP新書) 新書
長野 正孝 (著) 出版社: PHP研究所 (2015/1/16)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569823513
内容紹介
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米(なしめ)が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる……。
さらに雄略帝の「瀬戸内海の航路開発」や応神帝の「海運業」、継体帝が拓いた「近畿水回廊」、「大化の改新」の陰に消された「倭京」などの謎を、
港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』の著者、竹村公太郎氏も推薦!

内容(「BOOK」データベースより)
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行なったという。耶馬台国が畿内の内陸にあった場合、
彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、
交易は主に日本海側で行われたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人の身になって丹後半島の遺跡に身に置けば、
鉄と翡翠で繁栄する「王国」の姿が見えてくる…。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に
長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。