【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その13

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1日本@名無史さん
前スレ
その12 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284742971/

─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!

「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
2日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:04:45
3日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:09:30
4日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:15:53
「邪馬台国」は禁句にしてくれ。あと、根拠の出しようがない記紀レスもかんべん。
5日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:37:00
こんにちわ〜
ageときま〜す
6日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:01:50
台風本土上陸しゃうんじゃね?
7日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:27:43
古本祭り中止だったよ
8日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:22:07
浮上
9前スレ975:2010/10/30(土) 23:59:28
前スレで傾斜地の農耕について、いろいろ教えてくれた人ありがとう。

しかし仮に新しい土木感慨技術で傾斜地の生産効率を上げたり
それまで田を造る事自体不可能だったのが可能になったとしても
生産性においては低湿地を上回るのは流石に無理っぽいな。

少なくとも労力を投資しての見返りは低湿地のほうが大きそうだ。
(無論長期スパンにたっての計画をたてそれなりの投資ができての話だろうが)

まあこんな事を言ってたら
「じゃあ纏向なんてものが出現したその原動力はなんだったんだ?」
とスタート地点に戻ってしまうんだがw
10日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:20:02
N−P−K以外の微量元素

チタン、バナジウム、タングステン、白金
ベリリウム、ゲルマニウマム、マグネシウム
セレニウム、亜鉛、カルシウム
コバルト、銅、鉄、ナトリウム、硫黄
シリコン、アルミニウム、リチウム、バリウム
マンガン、モリブデン、ルビジウム
11日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:20:29
>>9
> スタート地点に戻ってしまうんだがw

だから(2)でいいんじゃない?
12日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:37:11
>>11
いやだから低湿地でリスク覚悟でお百姓さんが一生懸命作った作物を上納させて
「今日もメシウマ状態www」ってポジションをゲットするに至った
その力の源泉は何だったんだ?って話でw



13日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:49:10
>>9
なにか根本的にカン違いしていませんか?
低湿地というのは「日本における稲作には適していない」んですよ。
そもそもイネは熱帯植物であって、温帯での栽培は決して恵まれた環境とはいえない。
日本では、熱帯地域の雨季・乾季を再現するために水田の水量調整していて
収穫前に田んぼの水落としを行って人工的に乾季を作る。

したがって微高地や微低地を活用して水量調整することではじめて
高い収穫が得られるが、低湿地ではこれができない。
低湿地や平地の本格的な灌漑が可能になったのはもっとずっと後の時代。

したがって山間部から無機栄養分が供給され、水量制御が容易な盆地のほうが
当時は水稲栽培適地であったということ。
前スレに「盆地はまほろば」と書かれていたけれど、これはまさに至言。

稲作が排水不良の湿田から始まり、高度な土木技術体系が生まれた弥生時代後期になってから乾田へと進化した
というのは完全に誤解。
本格的な湿地土壌の水田化は、荘園開発や武士団による農業開拓の産物で11〜13世紀。
14日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:53:03
武力で大掛かりな灌漑施設を警備したということじゃろうか?
杭打ちして護岸工事して堤防作って水路作ったりしてたら
かなりの工数を費やす投資となり、武装した警備が必要なる。

流れが緩やかな水路(クリーク)に毒を流されると大変なことになるし
洪水の時には居住区に水が来ないように意図的に決壊させたり
武装勢力がやることが結構ありそうだ。
15日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:04:23
河姆渡←−−→夜郎国
低湿地       盆地
5500年前    1800年前

どちらのタイプに似ているのかな??
16日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:13:39
>>13
そうすると収穫前に水抜きができる環境が絶対条件か?

ふむ、じゃあ唐古鍵周辺じゃあどうだったんだろう?
完全に水をシャットアウトするのは難しそうな…

そうすればまだ傾斜地での棚田の方が条件としては良いのかな?
17日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:19:46
18日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:33:26
>>17
これ1〜2世紀(1900〜2000年前)なんだよね。
マキムクはこれよりも後の時代か。。。
19日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:46:59
この上のリンクで興味深いのは「弥生時代の稲作の伝播」の図で、稲作の第一次拡大圏の東限と縄文時代晩期の
凸帯文土器の分布の東限がほぼ重なってること。スレチになるのでやらないけど、読み取れることはいろいろある。
20日本@名無史さん:2010/10/31(日) 02:36:10
>>13
1 水が集まり易い低湿地は稲作に適していた。

2 低湿地は水を出すことが困難なので、後代、水路技術が発展すると低湿地以外で
 稲作がされるようになった。

マキムクは1の段階なんだよな。
21日本@名無史さん:2010/10/31(日) 04:29:27
>>12
> その力の源泉は何だったんだ?って話でw

そら、通商連合でも祭祀同盟でも、いいんでない?
22日本@名無史さん:2010/10/31(日) 04:44:32
>>20
大陸のほうでは3世紀に水車が文献に出てくる。
三国志の蜀の国。
日本に入ってきているのは、7世紀頃。近江や摂津あたりと考えられる。
持ってきたと思われるのは渡来人の秦氏。
23唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 10:20:17
>水量調整することではじめて高い収穫が得られるが、低湿地ではこれができない。

日本の8月は、乾期であり川の水量が減少する、つまり
湿地の水量も減少し乾田と成る。
24日本@名無史さん:2010/10/31(日) 10:59:43
通りすがりなんだが一言。
低湿地は日本で米作する上では全く不向きな土地だよ。
実際、大規模な潅漑設備が整わない場合にはおいては、谷川の水を利用する
棚田のほうが良田であったというのは農民の常識。
また古い時代に発達した田はおおよそそういった高低差のある小規模な河川の
周囲にあって、水はけの悪い低湿地が開墾されたのは、それよりずっと時代が新しい。

25日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:03:54
>>21
横からですまないが、結局「その力の源泉は何だったんだ?」てのが、
このスレのメインテーマのひとつでw そんなに簡単に切り捨てられるとw

昔言われてたように、「古代都市国家連合が離合集散を繰り返し、一つ頭の出た大和
(奈良盆地南東部、磯城郡〜十市郡あたり、三輪山山麓)が王権を打ち立てた」
なら話は簡単なんだが(いわゆる大和自生説)、
近年の考古学の進展で、マキムクやマキムク型前方後円墳の出現などが余りに突然であること、
地方で王権の萌芽がいくつも見られること、などから、そういった大和中心史観に対し多くの反論が出だした。

で、最近の主流は、どこか一つのクニではなく(大和自生や筑紫東遷ではなく)、
「いくつかの国々が共同して計画都市マキムクを造営した」っていう仮説。

寺沢は「明治維新みたい」と言ってるが、なぜそのような特異な事態が起こったのか?
その新国家創造に参加した勢力は?など、興味がそそられる内容。
で、そういった国家の大改革があったんだとしたら、その後継勢力たる大和朝廷にも
何らかの伝承が伝わってる筈(神武東征伝承やら崇神垂仁景行の事跡など)という記紀重視派
(妄想を羅列する人が多い)。同時代、倭国のことを記載した魏志倭人伝に、マキムクの「新国家」のことが
書かれてない筈がない、というのが倭人伝重視派(畿内説では少数)。
26日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:12:16
>>24
弥生人は水の集まり易い沖積平野へ集住して稲作を始めた、みたいに思っていたのだが。
どっちが正しいんだろ?

確かに、マキムクの初瀬川程度の小規模河川の方が、古代人にとって御し易かったとは思うが。
27日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:25:18

大和朝廷(日本国)は、纏向を陪都(副都)として、九州王朝(倭国・太宰府)によって立てられた陪朝(副王朝)。

やがて大和副朝が、663年白村江の戦いで唐&新羅連合軍に敗れて衰えた九州本朝を乗っ取り、
副朝王・天智を経て、新羅の捕虜にされていた本朝王・薩野馬(さちやま)が大宰府に復活!
勢いを盛り返し、天智の皇子を壬申の乱で破り、大和飛鳥の地で副朝を吸収合併し、薩野馬は天武天皇として即位した。

記紀は、九州本朝(天武)と大和副朝(天智)の両血統を繋ぐための偽装工作。

しかし、天武の死後、天智の妹・持統と藤原不比等によって、九州本朝・天武の皇統は滅亡し(長屋王の変)、
大和副朝(天智)の系統で占められることになった。これが天皇家の起源なのである。
28日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:27:31
>>26
Google Mapでマキムク周辺の地形を見てみたけど扇状地だね。
たしかに古代の稲作向きの土地だと思われ。

自分も以前は素人なりに低湿地のほうから稲作が発達したと思っていたのだが、
田舎のじいさんに
「水路ができる以前は棚田を奪い合っていた」
とか、地元の歴史を調べてみると、古い時代ほど集落が小河川沿いに発達していて、
大河川との間に発達した沖積平野の湿地帯が開墾されたのが律令時代以降だったこととか
知ったので考えを改めた。
29日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:39:40
そうすると唐古鍵なんかは初瀬川の直ぐ横に田を作り
そこから導水排水していて河川の氾濫リスクは否応なく高かったと言う事か・・・?

あとは傾斜地の棚田のデメリットとしては栄養素(微量元素)の流失と
区画一つ一つをあまり大きくは取れないってことかな?

纏向にそれらのデメリットを覆すような新しい画期的な土木感慨技術があったんだろうか?

まあ例の大溝もその施設の一環と解すべきなんだろうな。

30日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:48:28
>>21 >>25

正直その扇状地での新しい農法が登場したとしても
唐古鍵のような拠点集落周辺での農耕を上回るような”上がり”が出せたのかは疑問

まあ一次産業(農業)がダメなら交易とか宗教とかにそれを求めなければならないって話だがw

ぶっちゃけて言えば纏向って浮世離れした宗教特化都市と言うイメージなんだが
3世紀の日本にマスコミがあったわけじゃなし、そのありがたみをどうやって宣伝したんだってのも頭をよぎるwww
31日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:50:42
>区画一つ一つをあまり大きくは取れない
水平に保つのが比較的容易。
これが大規模な水路工事が不要な理由。

後世には石垣を積んで区画を作るため、そうとはいえなくなる。
関東平野の場合は、積むぺき礫がないので西相模や安房にしかみられない。
32日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:58:38
>>25
> そんなに簡単に切り捨てられるとw

切り捨てた? いやいや、とんでもない。

> その力の源泉は何だったんだ?

だから、通商連合・祭祀同盟。

> いわゆる大和自生説

まだ議論するべきだと思うが、どこが主導したか? という問題であって、

> いくつかの国々が共同して計画都市マキムクを造営した

ってことでいいのでは?

> なぜそのような特異な事態が起こったのか?

交易ルートの広域化、大陸との通商、中国の政治情勢、などによるのではないか。

> その新国家創造に参加した勢力は?

吉備・東部瀬戸内・山陰・北陸・東海・近畿北部・河内・ヤマトなど。
33日本@名無史さん:2010/10/31(日) 12:10:53
>>30
> そのありがたみをどうやって宣伝したんだっての

いろいろ考えたあげく、内容を図像表現した鏡をパンフレットとして配布してみた。
34日本@名無史さん:2010/10/31(日) 12:43:48
そのありがたみを、文字も読めない民衆に伝えたのが前方後円墳だろ
35日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:33:43
>>32
私個人的には概ね同意見なのだが、色々反論があるみたいで。
出来ればその結論に至る根拠を書いて貰えればw
36日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:43:22
>>32
>だから、通商連合・祭祀同盟。

通商連合と一口に言っても、マキムクの立地は、東瀬戸内というより対東海を意識した立地だというのは、
昔から言われている。大和川水運がどれだけ機能したかの問題になるが、
本当に通商連合なりが交易の拠点を求めたのなら、もっと大阪湾に近い地点に「マキムク」を造っただろうと思われる。
実際ヤマト王権が河内に進出するのは4世紀末以降だろう。

祭祀同盟も、前方後円墳祭祀の始まりが各地の葬送儀礼のパッチワークってとこからだろうけど、
マキムクで創造された前方後円墳の祭りが、各地に伝播していく状況で、
単純な祭祀連合とは違うだろう。

まずマキムクのオウが倭王に承認され、大陸利権の流通窓口となり、その利権にありつくために
各地のオウたちがその傘下に加わる、という流れのように見える。
37日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:47:16
>>32
>> その新国家創造に参加した勢力は?

>吉備・東部瀬戸内・山陰・北陸・東海・近畿北部・河内・ヤマトなど。

筑紫が入っていないけど? 九州説の人?
38唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 17:04:13
1世紀中葉、神武は大和に入る。香具山以南の小川が彊場となる。
2世紀末、纒向ことカヤ原(焼き畑)の地に各地の土器が集まる。
3世紀前葉に辻へ巨大建物が建てられ、その地で3世紀中葉の建物が建てられる。
3世紀中葉の建物の最後に箸墓が作られ、纒向は衰退へ向かう。
この後、佐紀へ古墳が作られ、河内へ進出する。
佐紀の時代の宮殿が何処にもない。これが時代の設定を難しくしている。
書紀では、成務、仲哀、神功の時代である。
神功は、磐余稚桜の宮から、佐紀へ祀られるまで。

WAKASAKURA,この文字を二つに別けると WAK,ASAKURAと”わきがみ””あさくら”を指す。
ここに充てられる古墳は、桜井茶臼山とメスリ山である。
佐紀古墳群の時代に何年を当てはめられるか?神功だけであれば、70年間がリミット。
河内の時代と箸墓では、文化が大きく違う。この事実は、古墳が日本国内の文化の発達だけでは説明出来ない
ほど大きく発達している。これを説明するためには、大量の渡来人を考える必要がある。
書紀は神功39年の出来事から、文化の渡来を説明している。
神功渡海から、40年が経過して、大量の渡来人を得て、その後に河内に巨大古墳を築くが、
400年前後の高句麗の南下で、巨大古墳の築造は1時的に止まる。
39日本@名無史さん:2010/10/31(日) 18:30:30
>>36

その通りだと思う。
古代史の専門学者にありがちなことは、
素人と同様、資料がないのをいいことにして、
>通商連合・祭祀同盟
というような抽象論(妄想論)に逃げてしまうこと。
専門家ならむしろ、
資料がないが故にこそ、
できるだけ実証的な研究を心がけるのが筋。
4032:2010/10/31(日) 18:48:21
>>35
> その結論に至る根拠

“その結論”ってどの部分? 「通商連合・祭祀同盟」?

<通商連合>
各地の土器が広域に移動していること=人の移動。
大陸の物資(鏡・鉄など)の流入。

<祭祀同盟>
各地域での前方後円墳の採用。
41日本@名無史さん:2010/10/31(日) 18:51:20
日本には1800年前から天皇家に代々伝わるスサノオの金塊があった。
鎌倉(元のフビライ)時代、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだのはその金塊量が当時世界一だったから。
室町(大航海時代)時代になって、イエズス会や東インド会社が日本にやってきたのはそのため。

ヴィクトリア女王は三浦按針ことウィリアム・アダムスを通じて、日本を植民地化しスサノオの金塊を手に入れるべく、
傀儡に選んだ家康にあれだけ最新式の武器を提供し(関ヶ原合戦&大坂の陣で圧勝)天下を取らせてやったのにもかかわらず、
家康がヴィクトリアの野望に気付いため、鎖国されて失敗!
この時のイギリスの恨みが産業革命を経て、やがて明治維新を起こすことになる。

KWSKはこちら↓
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/tomokop/sakuryaku.html
4232:2010/10/31(日) 18:57:07
>>36
> マキムクの立地は、東瀬戸内というより対東海を意識した立地だというのは

それでなにか問題がありますか?

> 通商連合なりが交易の拠点を求めたのなら、もっと大阪湾に近い地点に「マキムク」を造っただろうと思われる。

その理由は? あなたの想定する交易圏が大阪湾以西だからですか?

> まずマキムクのオウが倭王に承認され、大陸利権の流通窓口となり、
> その利権にありつくために、各地のオウたちがその傘下に加わる、という流れのように見える。

外来系土器は纒向遺跡初期からみられるので、各地域は当初から参画していたのでしょう。
4332:2010/10/31(日) 18:59:03
>>37
> 筑紫が入っていないけど?

土器が極少なので保留です。
44日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:04:34
>>14
馬の死骸投げ込まれたりねw
45日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:06:20
扇状地は末端以外は氾濫しにくい。
46日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:56:48
>>40>>43
いやまあ、なんと言うか、寺沢読んで書きました的な底の浅い議論というか。
何度も書いてるけど、私も概ね同意見なので、反論するのもどうかとは思うがw

例えば、当時のマキムクにとって、東海が最大の同盟者ならば、東海地方は前方後円墳地域であって然るべきだろう。
実際は違って、瀬戸内海地域に前方後円墳は伝播する。三角縁にしてもそう。
近藤や北條が何度も力説してるように、前方後円墳の源流は東瀬戸内地域にあって、もっと言ってしまえば
楯築が源流というのが今日の趨勢。初期ヤマト王権の代名詞のひとつ、庄内甕にしても、吉備の影響が強い。
吉備と大和の土器が河内あたりで融合して産まれたとされている。
47日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:34:27
>>46
横から参加で申し訳ないが、自分もほぼ同意見だと断った上で
纏向の立地理由は阿波・讃岐、播磨などを経て河内・大和あたりまでの、東瀬戸内交易圏が
東海・三遠などの地域交易圏との大掛かりな通商というのがまず念頭にあったのではないかと考えている。
(ここにあえて吉備を入れなかったのは後述します)

ただそれなら新集落などを建設せずとも、唐古・鍵を再開発するか
また陸路インフラの整備などが不可能な時代でもあるから、大和川河口の旧石津川遺跡あたりにしたほうがよほど理にかなっている。
そこを敢えて過去に類を見ないほどの造成工事をしてまで、なぜ新たに纏向を造ったのかというのも謎だと思うんだ。

このあたりの鍵を握るのが、吉備であり出雲であり越前であるのではないだろうか。
寺澤の言うように最初から吉備が主導したのではなく、ある程度話がまとまったところで
さらに大きな計画、つまり西瀬戸内や北部九州の各交易圏、そして日本海ルートの交易グループが越前・近江を経由して参加するといった話が持ち込まれたというか
まさに各地の利害がぴったりと一致した結果が、あれだけの土地を必要とした理由ではないかと思う。
大和川流域の弥生集落は、後期には少しずつではあるが山陰型土器や吉備型土器の出土が増えていくし
畿内内地集落は三遠土器がやはり一定量出土するわけだから
東瀬戸内と三遠の交易拡大化がトリガーとなって、雪崩を打つように次々と参加しだしたと見ているのだが。
48日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:45:43
>>43
あとまあ、外来土器の考察も単純過ぎるというか。
唐古鍵にしても、吉備や東海の土器が出土してるし、交易の証左ではあっても、
=政権参入ではないだろう。
外来土器をどのように解釈するか?は意見がまちまちで、

例えば搬入土器だとすると、マキムクの宗教的権威に贄を奉ったのかと思われる。
おそらく中身は発酵食品(魚介類の塩漬けやら酒だったのだろう)。そう考えると
交易品の内容によっては、土器を使わない場合も当然有り得る。筑紫から食品を運ぶとかはナンセンスで、
鉄や貝殻など土器を使わず運ぶものだった。で、筑紫の土器出土は少ないとも言える。
49日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:49:15
まあザックリしたお話w吉備ならそれこそ瀬戸内の海上交通を掌握して
瀬戸内海における「一大海運王国」を築く方向に向いたと言うお話ならなんとなく分かるがw
(吉備「瀬戸内の海運王に俺はなる!」)

わざわざあの内陸の纏向の立ち上げにタッチしたとも思えない。

「大和が吉備を必要としたのであって吉備が大和を必要としたのではない」と言う話なら
個人的には全く抵抗なく受け入れられるwww

纏向と言えば搬入土器の多さが語られ、それが「売り」になっているような感があるがw

それでも纏向1からその割合を順次増やしていて、最初から・・・と言う話じゃない。

5032:2010/10/31(日) 22:54:13
>>46
> 寺沢読んで書きました的な

確かに寺沢読んで書きましたが。底が浅くてどうも。

> 反論するのもどうかとは思うがw

反論?

> 例えば、当時のマキムクにとって、東海が最大の同盟者ならば、

そんな仮定はしてませんけど。

>35と>37の方ですか? だいぶ詳しい方のようですね。
上でレスしたことは前提で、纒向建設の主体はなんであったか、が主題ですよね。
そこで目下、いちばん悩んでいるのは、石塚・ホケノなどが箸墓に先行するのか? ということなんですが、
近藤、北條を読んでいるなら、それについてはどう思いますか?
51日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:56:14
ただ、今回の桃の話でも、ミニチュア土器なんかは東海系のものだろう。このあたりはどうなんかねえ。
52日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:57:29
>>43
外来土器を入植者が現地で作ったとも考えられる訳で、
その場合、マキムクに集落単位で大規模な入植者があったことになる。
支配者層は自分で土器なんか作らないからね。

で、なぜそのような人口の流入が起こり得たのか? マキムク発足と同時に始まる
大溝や前方後円墳などの大規模土木工事。その移住者を支えた経済基盤は何か?になる。

マキムクの筑紫系土器の少なさを、単純に政権の枠外だったとするのも難しいだろう。
例えば、東海は外部へ大量に土器が流出するのに対し、逆に外来土器の受け入れは少ない。
筑紫は反対に、外来土器を受け入れるのに対し、自身の土器は外部に出ない。
畿内は両方で、外来土器も受け入れるし、外部へ土器も搬出する。
この地域性の差をどのように解釈するのかだと思うんだけど、なかなか結論は出ないね。
53日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:58:44
>>50
>石塚・ホケノなどが箸墓に先行するのか?

近藤の「前方後円墳の成立」は読んだけど、これに関しては近藤の考えはムリじゃないか。
54日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:08:44
>>50
いや、詳しくなんかないですよw
むしろ、意見はほぼ同じなんで、わざと反対意見を書いてるだけで。
是非とももうちょっと詳しく自説を書いてもらいたいものですw

ホケノは阿波の有力者を葬ったものでしょう。今日の我々が思う以上に
水銀朱は貴重で、吉野川流域の阿波の首長はそれで財をなし、大和王権での
発言権があったんじゃないかと思ってます。

北條の意見にはほぼ同意で、吉備の楯築でマウンドを造るという祭祀が生まれ、
阿波讃岐播磨などに波及。その後、なぜか吉備では古墳祭祀が中断。
その後しばらくして、奈良盆地東南部で前方後円墳祭祀が創始される。
その時、葬送儀礼を主導したのが、阿讃播の地域の首長だったのだろう。
55日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:09:11
>>50

>確かに寺沢読んで書きましたが。底が浅くてどうも

それはちょっと言い過ぎじゃねえかw
王権誕生の初版は確か平成5年だから、15年以上も前の説だぞ
いまや年単位で主論が推移するペースだし、当時としては初めて旧来の邪馬台国論争から脱却した一般書だったわけだし
5643:2010/10/31(日) 23:12:21
>>48
> で、筑紫の土器出土は少ないとも言える。

そうですね。あなたが言ってることの可能性はじゅうぶんある。
ただ、それらが推測だということは、逆に言うと、北部九州が纒向建設に関与したという物証がないということ。

だから保留です。
5750:2010/10/31(日) 23:20:33
>>53
> 近藤の考えはムリじゃないか。

その理由をぜひ kwsk
5843:2010/10/31(日) 23:26:22
>>52
> なかなか結論は出ないね。

そのとおりなんだけど、そこから一歩でも進みたいですよね。

てか、そこまでわかってるなら、なんか考えてるんでしょ?

> 移住者を支えた経済基盤は何か?

大陸との交易だろうと思うが。
59日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:38:51
>>58

>大陸との交易だろうと思うが。

それは考えにくい。北部九州の経済弱体化は、後漢滅亡後から延々と続く大陸の経済混乱にあるから。
三国時代なんてのはその際たるもので、貨幣経済すらも崩壊して物々交換に戻ってしまった時代で
仮に魏や晋と交流があったとしても、基盤を支えられるだけの交易は、経済的にも物理的にも無理だろう。
半島貿易にしても同様の状況だったから、むしろ対外貿易による繁栄というモデルケースだった北部九州のバブル崩壊で
国内交易が必然的に求められたと見るべきだと思うが。
6043:2010/10/31(日) 23:38:56
>>54
> その後、なぜか吉備では古墳祭祀が中断。

そうなんですか?
楯築の次は鯉喰、その後、黒宮大塚・立坂・矢藤治山など墳丘墓はあるんじゃないですか?
6150:2010/10/31(日) 23:41:04
>>55
> それはちょっと言い過ぎじゃねえかw

“底が浅い”ってのは、自分のレスについてだよ。
62ワンポイントあどばいす:2010/10/31(日) 23:45:41
>>61

2ちゃんねるなんだから「サーセン」をつけておくべき。
6350:2010/10/31(日) 23:49:13
>>59
> それは考えにくい。

そう?
公孫氏は“韓・倭”を属するほど、けっこう対東夷政策に力をいれたみたいだし、
魏朝からの下賜品もそれなりのボリュームがあると思うけどね。
64日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:51:17
要は、マキムク王権成立前後で、何が劇的に変わったか?
それがマキムク王権という、倭国内大同団結を生み出した要因、
トリガーだったと考えるべきだろう。

考古学の知見で言えば、初めて「畿内を中心に」出土する大陸遺物が現れる。
つまりは画文帯・三角縁の神獣鏡。
それと、それまで鉄欠乏症だった畿内で、古墳に大量の鉄器が副葬されるようになる。

つまりはマキムク王権誕生の要因は、倭国内の東西交易で、主に大陸の文物や技術の需要側だった
「東」が、供給側の「西」に対抗する意味で団結を強めた結果。
更には、機能不全に陥った(倭国乱?)瀬戸内海航路の通行の安全を保障し得る新権威として、
東瀬戸内地域、畿内・東海が連立したもので、布留以降、それに吉備が乗っかったという流れ。
65日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:05:09
>>63
文献的には対東夷政策に力をいれたみたいではあるのだが、それが実を結ぶ前に国がなくなっちゃってるw
公孫氏にしてもやはり先細りで、とても東夷と恒常的な交易があったとは考えにくい。
考古学的にはもっと絶望的で、威信財的な品や文化輸入などはあったと見てもいいが
なんせとにかく韓式土器もほとんどない。まあないっつーても北部九州のものよりは出てるんだけどね。
66日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:10:08
日本が中国に期待したのは直接の交易じゃなくて
半島における利権確保、その後ろ盾だろう?

このことは後代になってもずっと変わらないと思うが・・・
67日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:13:29
生口の輸出だよ
68日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:23:10
6963:2010/11/01(月) 00:26:25
>>65
> 文献的には対東夷政策に力をいれたみたいではあるのだが、それが実を結ぶ前に国がなくなっちゃってるw

実を結んだから「是後倭韓遂屬帶方」なんでないかい?

> 公孫氏にしてもやはり先細りで、とても東夷と恒常的な交易があったとは考えにくい。

なんで?

> 威信財的な品や文化輸入などはあったと見てもいいが
> 韓式土器もほとんどない。・・・北部九州のものよりは出てるんだけどね。

交流があったとみていいんじゃない。半島と同型の木製鏃も出てますよ。
70日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:27:10
>>60
>楯築の次は鯉喰、その後、黒宮大塚・立坂・矢藤治山など墳丘墓はあるんじゃないですか?

うーん。楯築とは一線を画してるというか、先細りというか。少なくとも大王墓じゃないよね。
古墳というより墳丘墓。
楯築は、吉備が瀬戸内海交易路の盟主足らんとして造った「古墳」だと思う。
で、その流れが中断したと。
7163:2010/11/01(月) 00:43:51
>>70
> その流れが中断したと。

“古墳祭祀が中断”と言われるから、確認したのです。
首長墓での特殊器台・特殊壺を用いて行う葬祭儀礼、墳丘墓の築造は途絶えていないということです。

楯築の後継は、たしかにその権威・権力をそのまま引き継ぐことにはならなかったようですね。

で、吉備は纒向の建設に当初から参画したのでしょうか?
それとも、>47>64の言うように布留以降に乗っかってきたのだろうか?
72日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:45:15
>>69
いやそれは単なる始まりであって、結果が出たものじゃないでしょ。
公孫氏は特に晋代になってから独立独歩を目指して細々と頑張ってたけど
結局は経済破綻してしまい、高句麗という一部富裕層に主導された新興集団に乗っ取られちゃった。

ただ、当たり前の話としてそれでも半島と倭国との交易はあったんだよ。
また倭国は常に半島経営参画を念頭に置いていたとも見られる。
要はそれが畿内王権の取材源になるような規模のものではないというだけ。
73日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:57:02
>>71
単純に纏向の出土物から考えると、布留0式以前は吉備の特徴を持つ遺物はほとんどない。
これだけ見れば布留0式以降がビンゴなのだろうが(ちなみに>>47は自分)

これを単純に言い切れるかといえばまだ難しくて
このあたりは>>70のいうように、本当に中断としか考えられない状況なんだよ。
特殊器台にしても吉備だけで、あれほどの大型化や装飾化が短期間になされたのかが疑問で
要するにこの辺りはぶっちゃけ、資料不足でなんとも言いようがない。
北部九州にしても、初期型の前方後円墳が出現する地域もあれば、かなり後まで影響を受けない地域もある。
同様に吉備も楯築以降は巨大墳墓が築かれることはなかったようだが、それが吉備の衰退と言っていいのか
単なる嗜好の変化にすぎないのではないかなど、今の材料じゃあどうとでも取れる。
74日本@名無史さん:2010/11/01(月) 01:37:11
もしヤマト王権が大陸や半島との経済基盤になりうるほど貿易があったならば
出来の悪い三角縁の踏み返しなど作る必要もなかっただろうな
7563:2010/11/01(月) 01:43:58
>>73
> 布留0式以前は吉備の特徴を持つ遺物はほとんどない。

それなら、あなたの見解が正しいでしょう。
でも、石野博信著『邪馬台国の考古学』「表14 大和・纏向遺跡の外来系土器の比率」153頁 では
纒向1式の外来系土器(約10%)のうち、吉備が約20%ほどあるようですが。

> 本当に中断としか考えられない状況なんだよ。

>70氏が言うのは、楯築の権威・権力の中断でしょう。
あなたがここで言う“中断”とは?

> 特殊器台にしても吉備だけで、あれほどの大型化や装飾化が短期間になされたのかが疑問で

そうした見方があるということは知りませんでした。

> 同様に吉備も楯築以降は巨大墳墓が築かれることはなかったようだが、それが吉備の衰退と言っていいのか
> 単なる嗜好の変化にすぎないのではないかなど、今の材料じゃあどうとでも取れる。

大和に移住したんじゃないか、って近藤さんが書いてたことがありましたね。
近藤さんの本を読んでなければ、私的にあなたと同意見だったのですよ。

76日本@名無史さん:2010/11/01(月) 09:55:03
>>46
孝霊天皇の吉備征伐ってあったのかな
77太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 10:00:17
>>76
日野郡誌にあるな。
78日本@名無史さん:2010/11/01(月) 10:24:14
楯築は出雲の四隅突出墓を意識・対抗して作られたものじゃないかなって
気がするけどなぁ。だから出雲との良好な関係が途切れたから楯築のような
大型の墳丘墓を造らなくなったんじゃないかと思う。

79日本@名無史さん:2010/11/01(月) 19:47:43
時代は下るけど、吉備系の前方後円墳が出雲西部に進出して
出雲土着系の墳墓が東部で細々と命脈をつないでた様子とかみると
そもそも出雲に反発して四隅突出型墳丘墓と全く違った墓制をぶちあげたのが楯築の気がする。
で吉備の王は特殊器台という祭祀とともにマキムクに入ったから吉備本国に楯築後継の墳丘墓はあまり作られなかった。
でも後に大王墓を超える規模の前方後円墳が吉備に出現するのはご存知のとおり。
80日本@名無史さん:2010/11/01(月) 20:58:44
>>48
東海についてそう考えると、
ホケノで東海式土器、鏃が見つかったのはどう整合するの?
埋葬設備から見つかった土器だぜ?

ちなみに俺は良く分からん。
東海のその後の消えっぷりは謎。
81日本@名無史さん:2010/11/01(月) 21:04:11
>>75
吉備から神武東征みたいなことが起きて、
纏向が成立ってのは考えられないことでもない。
吉備の主筋じゃない集団によって。
とにかく吉備の影響が強すぎるくらい強い。

>>54
阿波から東海って紀伊半島横断の結び付きは想定できないのかね。
このラインは水銀朱の鉱脈が豊富。
82日本@名無史さん:2010/11/01(月) 21:17:58
マキムク同盟みたいなものが出現するにあたって、
北部九州や吉備が大和から瀬戸内海ルートを通り大陸とのルートを
確保するために重要だったのはうなずけるところなんだけど、
東海についてはなんだか必然性が薄いかんじなんだよな。
なので、マキムク同盟が結ばれた当時、東海との結びつきを強調する
必要があったのは、まさに東国征伐の真っ直中で最前線の同盟諸国との
結びつきを強調する必要があったからと妄想。
宋書の武の上表文にある「毛人」征伐はこの記憶が語り継がれたもので、
「毛人」とは「毛野国」の住民のこと。そして「毛野国」は魏書に言うところの
「狗奴国」。

なんてね。
83日本@名無史さん:2010/11/01(月) 22:00:04
>>80
はっきり言っちゃえば、日本古来のケガレ思考からすれば、葬送儀礼に従事するのは賤民の役割。
菅原道真の先祖は出雲系の野見宿禰、土師臣。後世、葬送儀礼に従事したことを恥じて、菅原氏を名乗る。
東海にしても出雲にしても、葬送儀礼に従事したということは、ヤマト大王家から一段低く見られていたということ。前方後片方墳とはそういう意味合いだったのかと思う。
84日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:21:00

■『孤高の天才 原田大六』原田イトノ監修、荒木重人編述 不世出の考古学者、初の評伝 

共同通信 2010/11/01
http://www.47news.jp/EN/201011/EN2010110101000254.html
 
 おそらく空前絶後の考古学者だろう。なにしろ在野の研究者として2つの国宝遺跡4240件発掘調査を主導し、うち1つは日本国家の起源にかかわる自説を裏付ける大発見だったのだから。
大胆な仮説と強烈な個性で学界を撹乱し、昭和という時代を沸騰させた原田大六、その実像に迫る初の本格的評伝である。

 少年期より古代史に心奪われた原田は戦後、生まれ故郷の福岡県・糸島の地を拠点に、丹念な調査と卓越した技術で考古学上の業績を打ち立てていく。真理のためには学界の権威にも臆せず噛みつく姿勢から、付いたあだ名が「ケンカ大六」。

 中でも国内最大最多の白銅鏡が出土した平原遺跡4240件は、古代史を塗り替える大発見だった。
自著『実在した神話』で原田は、記紀の日本神話は歴史的事実であり、平原遺跡の被葬者は天照大神だとする衝撃の仮説を打ち出す。
当然それは学界の大論争を招き、松本清張や梅原猛を巻き込みながら世に邪馬台国論争をはじめとする古代史ブームを巻き起こすのだ。

 評伝は資料を縦横に駆使して原田の業績と思想を略述する一方、官界アカデミズムによる不当な圧力や行政の無策ぶりを跡づける。妻イトノの証言は、この猛虎のごとき反逆児の純真一途、涙もろい横顔を映し出す。

 古代史に不案内な筆者にも一気に読み通せたのは、原田学説の気宇壮大ぶりに加え、一事に全生命を賭して生きる魅力的な人物像ゆえだ。こんな日本人がいた。その事実に勇気づけられる。

 (歴史新報社 3800円+税)=片岡義博

 ☆歴史新報社の連絡先=電話・ファクス092(861)0869〒814−0143 福岡市城南区南片江2−7−17

・表紙
http://img.47news.jp/PN/201011/PN2010110101000268.-.-.CI0003.jpg


※伊都国歴史博物館では原田大六の特別展が11月23日まで開催中。
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/dairokuharada.html
85日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:53:08

■発掘展:五斗長垣内遺跡への道 弥生鍛冶工房に注目−−北淡震災記念公園 /兵庫

毎日新聞 2010年10月31日
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20101031ddlk28040227000c.html

 弥生時代後期の鉄器工房跡が確認された淡路市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡の発掘成果と、
淡路島や周辺地域の遺跡などからの出土品などを紹介する、県立考古博物館ふるさと発掘展「弥生の鍛冶(かじ)工房・五斗長垣内遺跡への道」(同博物館・淡路市・淡路市教委主催)が30日、淡路市小倉の北淡震災記念公園セミナーハウスで始まった。
12月5日まで、入場無料。

 会場は鉄の歴史▽石器のくらし▽鉄器の普及と社会の緊張▽五斗長垣内遺跡と鉄器生産▽水銀朱の精製と鉄器作り−−などの6コーナーに分かれ、解説パネル40点と遺物約200点を展示している。

 五斗長垣内遺跡と鉄器生産のコーナーでは、鉄器工房の炉跡が見つかった竪穴建物や炉跡の写真、出土した鉄製のやじりなどを展示。朝鮮半島から伝わった板状鉄斧(てっぷ)などの遺物も紹介している。

 また淡路島や周辺の遺跡で出土した石包丁や石斧(せきふ)などの石製品、鉄器とともに出土した水銀朱関係の遺物なども展示。弥生時代の暮らしの移り変わりや他地域と交流を通じ、道具の材質が石から鉄へ変遷する様子を解き明かす内容になっている。
31日と11月7、14日には講演会も行われる。【登口修】


※シンポジウムもあります。
 11月21日(日) 13:00〜16:00
 「五斗長垣内遺跡の謎にせまる」

※パンフレット
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000001l60-att/p6krdf0000001l72.pdf
86日本@名無史さん:2010/11/02(火) 03:23:15
>>30
南米なんかだと、上がりがあって神殿ができるんじゃなくて、神殿ができてモノが集まるケースがあるみたいだし、神殿都市が突然できることはそんなに変なことじゃないのかもしれないよ。

あと政教分離の感覚を持つおれたち現代人は宗教都市っつーと浮世離れしたものだと思い込むけど、一口に宗教といっても、いろんな形態があるしね。
87日本@名無史さん:2010/11/02(火) 13:07:00

■第29回橿原考古学研究所公開講演会 〜『東アジア王墓フォーラム』開催のお知らせ〜
http://www.kashikoken.jp/

当研究所では、2ヶ年わたって行われた桜井茶臼山古墳の再発掘調査が完了し大きな成果をあげてきました。
そこで今年度の公開講演会では、桜井茶臼山古墳の成果を広く一般に公開するとともに、中国と韓国から研究者をお呼びし、最近の三〜四世紀の中国、韓国の王墓の調査研究成果も合わせて紹介し、比較検討してみたいと思います。
とくに魏の曹操高陵の発見についての報告は、本邦初のご披露となります。ふるって御参集下さいますようご案内申し上げます。

日 時:2010年11月3日(水・祝日/文化の日)  9:30開場 10:00開演
会 場:奈良県橿原文化会館 大ホール
(近鉄橿原線「大和八木駅」下車 北東へ徒歩3分)

テーマ:『東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳』

☆入場先着 1280名【入場無料・資料無料配布】

プログラム
10:10〜11:10  講 演 @ 「桜井茶臼山古墳の調査成果と意義」
                豊岡卓之【奈良県教育委員会文化財保存課調整員・橿原考古学研究所研究員】
11:10〜12:30  講 演 A 「伽耶における三・四世紀の墳丘墓と王墓」
                李 恩碩【伽耶文化財研究所学芸研究室長】
13:50〜15:10  講 演 B 「曹操高陵の発見と中国の墳丘墓・王墓形成」
                王 巍【中国社会科学院考古研究所所長】

15:20〜16:40  フォーラム (コーディネーター:菅谷文則【橿原考古学研究所所長】)

司  会  寺沢 薫【橿原考古学研究所総務企画部長】

ポスターはこちら
http://www.kashikoken.jp/event/koukaikouenkai/2010/%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.pdf
88日本@名無史さん:2010/11/03(水) 00:40:31
>>87
桜井茶臼山とメスリ山古墳は、柳本古墳群の造墓集団とは別の王統という説があるが。
その規模から大王墓であることは間違いないんだろうけど。
箸墓以降の王統が柳本と磐余に分かれ、最終的に柳本が勝利、佐紀盾列に繋がるのか?
寺沢の意見はどうなんだろ?
89日本@名無史さん:2010/11/03(水) 02:24:44
そんな近い距離で別王統とか、脳みそにウジが湧いているとしか思えんな。

これも洗脳のなせるわざか・・・
90日本@名無史さん:2010/11/03(水) 02:31:21
「古墳群ごとに別王統」とかいう考え方はほんと単純で愚かしいよね。
91日本@名無史さん:2010/11/03(水) 08:39:10
>>89-90
「近いから」とかさw 反論するのも馬鹿馬鹿しい。
実際に両者の違いをを見比べたことがあるのかね。
東遷した超絶巨大な軍事国家・大和が誕生したとかいう、記紀至上主義で考えるなら別だが。

実際のところ、初期大和王権は連合的要素が強いとされ、実際は畿内有力豪族の連合体なんだし。
複数の王統に分かれるという事態も容易に想像できると思うがな。
92日本@名無史さん:2010/11/03(水) 10:24:23
大きな違いはあるな。
大和・柳本・纏向の大古墳は群を形成している中に存在しているのに、
桜井茶臼山・メスリは単独でポツンと築かれている。
後者には「王の中の王」たる性格が見えず、王権内の有力者が、
破格の措置をもって故地に葬られたと考えるのが妥当ではなかろうか。
やっぱ後者は崇神〜景行朝における大王家の再近親豪族ともいえる、
当地に所縁のある阿倍氏の祖・大彦と武渟川別の墓だろう。
93日本@名無史さん:2010/11/03(水) 10:43:36
後の時代になっても、百舌鳥古墳群と古市や佐紀古墳群は、ほぼ同時期の築造だよな。
複数の権力主体というか派閥が大同小異で存在していたと見るほうが妥当だろう。
94日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:18:16
脱洗脳ってむずかしそうだな。
95日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:23:45
磐余の王墓は東海の玄関口に位置していて、東海との緊張状態が発生し、
対東海を担当した軍事氏族が一時的に(2代だけ)隆盛したということなんだろう。
東国方面の経略を担当した、後世の阿倍臣の祖でいいと思う。

マキムクはやはり東海を意識した立地。
もっと言えば、あくまで畿内・東海の銅鐸圏がマキムク王権の主体であって、
阿讃播の東瀬戸内地域海商小国家群と手を結んで、3世紀末に飛躍したということだと思う。
9695:2010/11/03(水) 15:26:09
ごめん。2世紀末だった
97日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:43:06
>>94
まともな反論してみなよばか
98日本@名無史さん:2010/11/03(水) 18:20:00
>別王統

所謂『王権輪番制』と言う奴だなwww

これを毛嫌いする奴ってのは大抵「年代遡上許すまじ」と言う層と重なるんだろうが…
そうすると今でも大型古墳の築造年代が大抵窮屈なものが
下手したら盆地の南北及び河内平野で「ほぼ一斉にドン」で作り始めたって話になりかねないのは
一種の皮肉なんだろうか?w

そもそも古代において「王統」とか「王朝」と言う概念が何処まであったのかが疑問。
その意味においてかつての「三朝交替説」なんてものは「万世一系」の裏返しでしか無いようにも思うが

とある筋の人達には絶大な不人気wの「緩やかな首長連合」じゃないが
王統とか言うものも一つに収斂するまでにはある程度?の期間を要したと見た方が合理的

「大王」の権威それ自体は古くからかなり確立されていたが
それを 直系子孫に継がせる為の方便=権威付け として「天皇」の号を採用したと見れば
随分、分りやすい話になると思う。

−通説では天皇の号を最初に使ったという天武にすれば自分を棚上げにして
 「今までのは無し、ノーカン、全てリセット、ここから新しい秩序な?」
 と言いたかっただろうしw

その意味において纏向ホケノの被葬者が阿波の有力者と言う説は面白いw
99日本@名無史さん:2010/11/03(水) 18:41:15
な・か・や・ま・律子さん。
100唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/03(水) 21:54:36
>>92
>桜井茶臼山・メスリは単独でポツンと築かれている。後者には「王の中の王」たる性格が見えず、

この時代は、神功が、磐余稚桜宮を築いた時代の古墳である。

ホケノ山辺りから、鉄器が副葬される。そして半島式墳墓を持つ。
つまり任那朝貢以後の墳墓である。被葬者を推定すれば、菅原(スゲカヤ)が茅原(チガヤ)に変われば
垂仁の墳墓に田道間守の殉葬となる。この時代が240年頃であれば、
任那建国は、新羅本紀209年 伽耶に援軍、この記事が任那建国であれば、
193年頃の凶作は崇神5年の出来事であり、纒向遺跡の最初の開発者となる。
101日本@名無史さん:2010/11/03(水) 22:26:53
発掘しなきゃ詳しいことはわからん。
発掘するべきだとも思わないが。
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/03(水) 22:28:59
唐松山大年増はいよいよもって古代史論的エイリアンの正体を爆発的に
現し始めて来た。まるで映画「エイリアン」の血液検査でトタンに正体
を現して天井にハリ付くシーンそのものであり、カルト・ホツマ景行教の
インチキ狂信をマル出して来た。毒キノコの猛毒のように、その妄想毒に
してやられないよう、各々方〜ご用心あれ。><
103日本@名無史さん:2010/11/03(水) 22:58:28
唐松と太国は何処へ行く?
104日本@名無史さん:2010/11/03(水) 23:03:33
ホツマツタエ専用スレでもいくのかな?
105日本@名無史さん:2010/11/03(水) 23:30:54
>>102 与太国
唐松がエイリアンなら、お前はプレデターって所だなw
専用のスレがあるんだからあっちいけ、しっしっ。
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/04(木) 10:48:54
何を寝言を言ってるんだ?
あいつは、景行が日本の初代大王だと言い出してるんだよ。これは完全な
インチキ、デタラメだ。初代大王は神武だ。こういう点を観て、こちらは
あいつを古代史論妄想のエイリアンだと言ってるんさ。><
107日本@名無史さん:2010/11/04(木) 15:56:19
>>106
お前が言わずとも唐松山が妄想だというのは、誰でも理解しとる
逆にキチガイ畿内説とはこういうものかとの生きた見本のようなもの

そしてお前は、キチガイ記紀信者の見本のようなものだから
病室で仲良く喧嘩しなw

お前らはお互い真逆の方向に向かうキチガイだから
隔離スレに幽閉されてただろ、居るべき場所に帰れ
108日本@名無史さん:2010/11/04(木) 17:56:28
罵り合いはやめれ
109日本@名無史さん:2010/11/04(木) 18:23:57
いやまあ、桜井茶臼山、メスリ山が磐余地域なんで、どうしても記紀至上主義者を刺激してまうんでしょうが。
考古学的に見て、ヤマト王権の最初の都はマキムクで、その1〜2世代後にイワレ地域に王墓が造られる。
逆にマキムクよりイワレが先なら、記紀の信憑性も上がっただろうに。
110太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/04(木) 18:39:10
>>107
記紀に故意でのイカサマは殆ど無いね。記紀の年代の相違も故意ではない。

オマエは左党の舐めすぎの津田病患者だから、オマエは唐松山とタッグを
組んで精神病院で診療医に診て貰え。オマエも欠歯八代は代歯脱多の
フガフガでないのか? あ〜ん、どうだな〜?www
111日本@名無史さん:2010/11/04(木) 19:09:58
>>109
記紀至上主義なら、「マキムク後」に磐余に王墓があったって痛くも痒くもねえだろ。
「マキムク前」で磐余地域に陵墓伝承をもつ天皇なんていねえんだから。
112唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/04(木) 21:27:39
メスリ山には、多数の鉄槍が副葬されている。
この意味は、冊封後、半島で軍隊を編成したことを物語る。
つまり 神功渡海以後の古墳である。
113日本@名無史さん:2010/11/04(木) 21:28:57
┐(´д`)┌ ヤレヤレ 今夜も唐松太国論争か
114唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/04(木) 21:38:44
倍年は、老教授氏に完全否定されたことを思い出せ、太国。

桜井茶臼山から70年後に佐紀へ神功は葬られる。
そこから40年後が、誉田御廟山。
神功70年、誉田40年の治世は不可能であるが、110年後が、誉田御廟山であり、4世紀後半である。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/04(木) 21:43:08
老教授は、コチラの書きこむ以前からの方で、いまのところ関わって
いない。余計なお世話だ。
オマエのような景行が初代大王だとか〜wインチキ論大王がオマエだ。ww
116日本@名無史さん:2010/11/04(木) 22:11:18
>>111
だってイワレって、記紀信者にとっては特別な地名じゃないの?
まあ記紀信者とまともに議論する気はないので
117日本@名無史さん:2010/11/04(木) 22:20:38
その地はイワレと言われ…
118日本@名無史さん:2010/11/04(木) 22:32:33
88888888バーカ
119日本@名無史さん:2010/11/04(木) 22:47:58
いや、記紀信者が空気を読まず、ここで書き込みをするから。
あくまで考古学に軸足を置いた上で、記紀や倭人伝をいかに解釈するかの議論。

たとえば、神武や欠史八代を語るなら、せめて葛城地方の考古学的評価を弁えた上にして欲しい。
120日本@名無史さん:2010/11/04(木) 23:51:53
と言うか宮の伝承地が纏向の範囲と一致する最初が垂仁。

崇神でさえ入らない、いわんや「欠史八代」なんて・・・と言う話だが。

複数の王統とか造墓集団の想定に噛み付いている連中は
一体いつからその王統が確立され、それを(記紀以外の)何に見るのか?
…等々を説明しなければ
  −無論、完全解明とまで行かなくても、少なくともそのモデルを提示すべき
単なるイチャモンの為のイチャモンレベル。

上記で「記紀以外」としたのは該当する時代の記紀の記述の正確さを問うているのに
その根拠として記紀をもってきたら、そりゃ「循環論法」と言う話だからw



121日本@名無史さん:2010/11/05(金) 00:16:24
普通に箸墓築造がきっかけだろ。及びその後の累世的な大古墳の築造。
箸墓築造を指揮したのが「卑弥呼」を輩出した一族の当時の惣領・崇神。
崇神の宮名は「シキ」だが、古事記では垂仁の宮も「シキ」。
纏向は磯城郡に存在する。
箸墓以前は各氏族がそれこそ「連合」して卑弥呼を斎王的地位に「共立」してたんだろ。
オオモノヌシとかアメノホアカリを祖とする連中ね。
この時点では大王(天皇)家も「大王」ではなかった。だから「欠史」なわけ。
崇神の前にも「○○天皇」って諡号してるけど、実際はやはり崇神が「ハツクニシラス」
122日本@名無史さん:2010/11/05(金) 00:33:09

■江原道華川郡で百済の巨大遺跡発見

朝鮮日報(日本語版)  2010/11/04
http://www.chosunonline.com/news/20101104000048

 3世紀に北漢江上流まで勢力を拡大か

 4大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)再生事業が行われている江原道華川郡下南面原川里の北漢江上流地域で、3−4世紀頃のものとみられる百済の巨大遺跡が発見された。

 埋蔵文化財専門調査機関であるイェメク文化財研究院は3日、原川里周辺の発掘現場で説明会を開催し、
今年5月からの発掘調査で青銅器時代の住居地23カ所や、鉄器時代から三国時代(漢城百済)の住居地120カ所など、計265の遺構があることを確認したことと、その中心となっているのは漢城百済期の集落の遺跡であると発表した。
漢城百済期の巨大な集落の遺跡が北漢江上流で確認されたのは今回が初めてで、これは百済が3世紀頃にはすでに今の華川郡周辺にまで進出していたことを示している。

 百済時代の住居地は「凸」の字と「呂」の字に似た形のものが多く、一部はぎっしりと壁に覆われ、壁に突き刺さった木や板材、屋根の垂木なども発見されたが、これらは火に燃えた後のようだった。
また遺構からは土器類、金属類、ガラス製品、穀物、武器、馬具なども数多く出土した。馬具類や甲冑などが出土したことから、この地域は外部に進出する際の拠点だった可能性もあるという。
発掘現場は蓮の栽培が予定されている地域だが、文化財庁発掘製図課のシム・ヨンソプ課長は、「文化財委員会の決定を考慮した上で、保存するかどうかも含め、適切な対応をしていきたい」とコメントした。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者

地図
http://file.chosunonline.com//article/2010/11/04/474420811161224446.jpg
123日本@名無史さん:2010/11/05(金) 01:01:36
>>121
それが穏当な畿内説かな。
石野先生の意見に近い?

卑弥呼の墓は石塚、矢塚、勝山、東田大塚の、いわゆるマキムク型前方後円墳のどれかで、
豊鋤入媛(≒台与?)が大神神社の伝承通りホケノだとしてw 箸墓は初代大王、ハツクニシラスである崇神こそ相応しい
(台与の墓でもいいけど。石野先生の説は確かこれだったような)。
「まあ陵墓伝承が混乱することはよくあることだ」ということでw

この場合、箸墓築造の布留0が三世紀後半以降になる(箸墓=卑弥呼と考えると、布留0は三世紀半ば)。

私は個人的に反対だけどね。

あと、崇神以降、世襲王朝というのもどうかなあ?と思う。
124日本@名無史さん:2010/11/05(金) 01:01:36
ホケノや石塚山を無視した論は信用ならない。
125日本@名無史さん:2010/11/05(金) 01:37:17
>>123
同じ畿内説でもこれが面白いところだね。
記紀を懐疑的に見、世襲王権の発生を遅く見る人は、
マキムク型を邪馬台国の卑弥呼・台与の墓、最初の大古墳たる箸墓がハツクニシラス(崇神)の墓と、
「説明し易すぎ」なものだったり、
纏向の箸墓が卑弥呼、萱生の西殿塚が「同族」であるはずの台与、
かと思えば、間の柳本の行燈山を「別族」崇神の墓に想定してみたり。
一方、記紀をある程度重視する>>121などは、
御陵伝承の無いマキムク型は別氏族のものであるとし、
その頃に相当する天皇家の歴史が欠史であることとリンクさせる。
結果的に卑弥呼(百襲姫であろう)や台与(豊鍬入姫であろう)を輩出した一族が
3世紀後半以降に突出するのであって、そのリーダーこそが、
百襲姫の大甥にして豊鍬入姫の父であったハツクニシラス・崇神であるとする。
古事記における「山辺道勾岡上」の記述から、ハツクニシラス・崇神の陵を
一般的には「2代目」大王墓とされる西殿塚に比定するなど、
あえて「説明し易すぎない」論を展開する。
126唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/05(金) 20:05:52
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。
「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
倭が「辛卯年」(391年)に海を渡って朝鮮半島にやってきて…
364年の時点で、新羅は倭の臣民である。だから「辛卯年」(391年)では、遅すぎる。
この辛卯年が331年であれば、323年の出来事に繋がる。

百済は340年代には大国として認識されている。
323年、神功49年 倭国は、半島を占拠し百済に領土を分与する。
331年 百済は、倭を誘い楽浪まで領土を広げる。

323年からほぼ50年前が磐余稚桜宮である。しかし書紀はこの時代の記事を欠く。
現実には313年以前の記事を欠く。
127日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:11:05
ていうか、君の考古学の知識はどれくらいのものなの?
寺沢の王権誕生とか北條村上の古墳時代像を見直す、松木武彦とか、最低限読んでるんだろうねえw
考古学の知識がないなら、今後は書き込みを控えてくれないか
128日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:30:59
まあなんと言うか、唐松山とか太国を求める人もいるだろうから、求められるスレに行けば?
と思うんだけど。
このスレは>>1を読めば分かるだろうけど、あくまで考古学に軸足を置いた人々が、記紀や倭人伝を語るスレと思ってくれw
129唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/05(金) 22:00:10
考古学で纒向遺跡の大型建物
3世紀初めの建物を壊し、土盛りをして3世紀中葉の建物が建てられる。
場所は、珠城と出来る場所である。
3世紀前半の建物は、217〜239年垂仁の珠城宮。ホケノ山古墳。
その後に土盛りをして均す、ひ(かわく)しろ(ならす)日代の宮。
240〜261年 景行の治世である。箸墓古墳。
この箸墓を頂点に纒向は衰退に向かう。
磐余茶臼山は、まだ△鏡の時代である。つまり、倭人伝の時代からあまり時間を経ていない。
そこに神功が来る。275年神功元年。
書紀の応神は、344年から41年間の出来事が書かれている。
しかし磐余で即位する、書紀に書かれていない本物の誉田の時代とは時代が違う。
だから110年後が誉田御廟山となる。
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/05(金) 22:12:36
275年≠神功元年

景行を日本初代の大王だとか言う奴の言う事は、悉くデタラメばかり。><
131唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/05(金) 22:16:42
たとえば、殉死した田道間守を葬るのに、景行の許可を得る。
この意味を考えた時。ただ死亡した人間を葬るのに天皇の許可は要らない。
では何の許可か?
垂仁に殉じた田道間守を垂仁の墓に葬る。これなら許可を得なくては出来ない事である。
だからホケノ山を垂仁の墳墓と推定する。
132日本@名無史さん:2010/11/06(土) 20:56:11
自己顕示欲の塊なんだろうな、唐松山は。
133唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/06(土) 23:30:06
箸墓と同時代に、東は、静岡県三島、千葉県市原。西は九州まで、古墳が作られる。
土盛りをするには、鉄器が必要となる。
畿内の鉄器は、ホケノ山へ副葬される。この時代にはそれ相応の鉄が畿内へ流入している。
古墳の年代から、鉄の流入は、それ程古くできない。しかしこの時代に大量の鉄器の流入がなければ
古墳時代とならない。
書紀は任那建国を崇神世とし、垂仁初より朝貢が始まる。
纒向遺跡の3世紀前半の建物の時代と重なる。
新羅本紀209年 伽耶に援軍、を任那建国とできる。
134日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:39:07
笑われていることに気づいてください。
135日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:41:42
>>134
太国と唐松山は同一人物だよ。知らないのか?
136日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:45:40
>>135
いや、彼らは異母兄弟だよ。知らなかっただろ。
137日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:46:45
>>135
同じテーマで論争してるのに主張がカブらないのは才能だな
138日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:49:56
>>137
さらに、wwwの人と、東遷厨と呼ばれる人も同一人物だ。
2chは闇の世界なんだよ。
139日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:10:42
>>138
wwwの人は、昔、那珂八幡が前方後円墳の嚆矢だと主張して、
伊都国と奴国は同じ王権だとし、伊都国東遷を糞真面目に言ってたんだよねw
まあ、流石にそんな馬鹿な主張は引っ込めたみたいだが。
140日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:20:10
>>138
まとめてYahoo!掲示板に行けばいいのにね。
141日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:27:45
>>135
> 太国と唐松山は同一人物だよ。知らないのか?

だから何?
142日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:32:17
記紀の引用も、もう少し比較神話学とかの目線で語ってくれたらいいのだが。
記紀研究の今日の水準から見て、余りにも低レベルw
記紀鵜呑みは痛すぎるw
143日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:33:22
>>141
死ねや、腐れ厨坊 と言ってるんだ。
144日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:38:13
>>143
なんで?
145日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:48:44
>>139
以前「伊都国東遷厨」と呼ばれた奴がいたが・・・

はて?この板で他にそんな事を語ってた奴がいたのか?
那珂八幡が前方後円墳の嚆矢?

そもそもあれは三角が出ていて
それを画文を出している古墳より古くおくと言うのは
極々単純に考えても無理があるような気がするんだが・・・

wwwとやらはその辺どう言う説明をしていたんだ?www


146日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:49:50
落選厨涙目ww
147日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:59:00
>>145
肝心の埋葬の第一主体は、神社の下で残念ながら掘れず。
第二主体は布留以降の追葬で、那珂八幡自体は庄内期の築造。

とかだったと思う。
ていうか、俺が言ってるんじゃないからなw
148日本@名無史さん:2010/11/07(日) 02:08:13
しかし>>139はいつもの怨印の人だろうか?
コイツの脳内でwwwは一体どう言う主張をしているキャラになっている事やらwww

で、少しまじめなお話
>>95の対東海云々でふと思ったが
「ハタゴ塚」「フサギ塚」「下池山古墳」と言った前方後方墳墓が
グループとしては西殿塚を擁する「おおやまと古墳群」の中にあるがあれはどう言う解釈になるんだろうか?


149日本@名無史さん:2010/11/07(日) 02:16:22
今回の纏向の桃の祭祀で出てきたミニチュア土器は東海系の
ものだろ。東海土器が多いのは、単に人足の移動や供献ではない
のかもしれん。
150日本@名無史さん:2010/11/07(日) 02:31:15
ニニギ、ホアカリノミコト、尾張氏か。
151148の続き:2010/11/07(日) 05:12:24
仮に狗奴国=東海説をとるなら
おおやまと古墳群は狗奴国=東海との対立に何らかの決着がつけられた後のお話になるわけで

幾つか見える前方後方墳は東海地域との融和の結果なのかと…
(東海地域から迎えた入り婿や妃の墓?)
152日本@名無史さん:2010/11/07(日) 13:41:23
東海地域では物部系が国造になった伝承が多いから、
ニギハヤヒ≒ホアカリ裔が(もっと広く言えばある種の「神別」氏族が)前方後方墳の造営主体(の一つ)ではないか、
おおやまと古墳群の最寄り駅は「長柄」駅だが、神武紀に出てくる「ホゾミの長柄」は「穂積の長柄」であって、
穂積≒物部氏はこの地域と縁があったのではないか、
おおやまと古墳群の盟主墳である西殿塚古墳が、「山辺道勾之岡上陵」とされる崇神陵なら、
穂積・物部氏を母や祖母に持ち、尾張氏の妃も持つ関係から、選地の面でも頷け、
またその周囲に前方後方墳が多いことにも、納得がいくのではないか、
おおやまと古墳群の北方にある、基部が前方後方形でその上に前方後円墳が乗っかるという、
特異な、それでいて日本最大の前方後方墳である西山古墳は、
大王家から石上神宮のことを任された物部十千根の墓ではないか……
とか言ってる人がいたね。
153日本@名無史さん:2010/11/07(日) 17:14:06
なんで九州のムラが東遷せにゃならんの
154日本@名無史さん:2010/11/07(日) 17:54:53
近畿地方に未開の土地があったからじゃね。
155唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/07(日) 17:59:55
>西殿塚古墳が、「山辺道勾之岡上陵」とされる崇神陵なら、

纒向遺跡の衰退期に崇神を持ってくると、垂仁、景行の居場所が無い。
また、崇神5,6年の出来事をいかに捉えるか?

弥生後期末、唐古鍵や近江伊勢遺跡でそれまでの村落が崩壊し、再編成される。
その時新しい村落は、もう少し山に近づく。
纒向遺跡が2世紀末に開発されたときと、唐古鍵が山麓に移る時期は一緒である。
これは、村落が山麓に移るのが先か?纒向遺跡が開発されるのが先か?
では、この時期に何があったか?
183〜193年頃、後漢では、冷夏凶作が襲う。新羅本紀では、192年が倭国の凶作である。
年輪降水量のグラフもこれを裏付ける。

さてこの出来事を、書紀の何処かに当てはめなければならない。
156日本@名無史さん:2010/11/07(日) 18:24:16
唐古自体は衰退しながらも布留までつづくんだよなあ
157日本@名無史さん:2010/11/07(日) 20:23:53
東海の影響が続かない理由がわからん。
158日本@名無史さん:2010/11/08(月) 22:27:17

■弥生時代の工房跡? 小倉・城野遺跡で発見

読売新聞 2010年11月7日
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20101106-OYS8T00273.htm

 北九州市教委と市芸術文化振興財団は、小倉南区城野の城野遺跡から、装飾品の勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)を作った弥生時代中期〜後期の工房とみられる遺構が見つかったと発表した。
財団は、装飾品製造を手がけるほどの有力者がいたことを裏付ける史料とみている。

 工房とみられる建物跡は約15平方メートル。内部から勾玉や管玉の素材である水晶や碧玉(へきぎょく)を削ったときの破片(数ミリ〜数センチ)が散乱した状態で100点以上見つかった。
別の住居跡からは長さ2・3センチ、厚さ1センチの勾玉や直径0・7センチ、長さ1・5センチの管玉の完形品も出土した。
城野遺跡からは昨年度、弥生時代末期に造られた九州最大級の方形周溝墓が見つかった。墓の中心付近からは赤色顔料が塗られた2基の石棺も発見されている。

 今年度は墓の東側約5000平方メートルを調査。工房や貯蔵穴3基、竪穴住居跡26棟、土坑墓5基、多数の弥生式土器が出土した。同財団の佐藤浩司学芸員は「城野遺跡は、北九州地方を代表する有力者が治めていた大規模集落であったことがうかがえる」と話している。

・盛り上がった土の上に水晶や碧玉の破片が乗っている
http://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20101106-540375-1-N.jpg


※参照ページ

弥生時代の石棺に人物画、呪術師か 北九州・城野遺跡(朝日新聞2010年7月22日)
http://www.asahi.com/culture/update/0722/SEB201007210082.html

北九州・城野遺跡現地説明会(09.11.21) (こちら山勘研究所)
http://satoyama.blog.ocn.ne.jp/yamakan/2010/07/091121_1_bc15.html
http://satoyama.blog.ocn.ne.jp/yamakan/2010/07/091121_2_28a2.html
http://satoyama.blog.ocn.ne.jp/yamakan/2010/07/091121_3_97f9.html

城野遺跡 (北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室)
http://www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp/kicpac/bunkazai/houkokukai_j.html
159日本@名無史さん:2010/11/08(月) 22:46:47

■シンポジウム:邪馬台国の畿内説検証 考古学者ら研究成果報告−−13日 /大阪

毎日新聞 2010年11月5日
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101105ddlk27040383000c.html

 ◇13日、泉大津で

 古代史最大の謎・邪馬台国(やまたいこく)を巡り、考古学者らが討論するシンポジウム「邪馬台国論争は決着したのか」が13日午前10時から午後4時、泉大津市小松町の泉大津市民会館で開かれる。最新の研究成果を報告、畿内説を検証する。

▽女王・卑弥呼(ひみこ)が統治した邪馬台国の最有力候補地である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
▽卑弥呼の墓という説もある箸墓(はしはか)古墳
▽初期ヤマト政権の権威の象徴である銅鏡の破片が大量に確認された桜井茶臼山古墳
−−について、白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長、福永伸哉・大阪大大学院教授らが討論する。コーディネーターは金関恕(ひろし)・府立弥生文化博物館長。

 桜井市教委の橋本輝彦さんは「纒向遺跡の大型建物跡」、今村峯雄・国立歴史民俗博物館名誉教授は「放射性炭素同位法による箸墓古墳にかかわる年代測定」、奈良県立橿原考古学研究所の東影悠さんは「桜井茶臼山古墳の再調査と大量の銅鏡」をテーマに報告する。

 纒向遺跡では昨年、卑弥呼と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかっている。同時代の建物では国内最大級、卑弥呼の宮殿の可能性がある。

 定員1300人(当日先着順)。資料代500円。泉大津市民以外も参加できる。
 問い合わせは、泉大津市企画調整課(0725・33・9399)。【山田英之】


※泉大津市サイトから
http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/kikaku/culture_squall/index.html

※シンポジウム「邪馬台国」論争は決着したのか」 ちらし
http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/kikaku/culture_squall/images/leaflet_yamataikoku01.jpg
http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/kikaku/culture_squall/images/leaflet_yamataikoku02.jpg
160日本@名無史さん:2010/11/09(火) 00:28:11

■大阪府立弥生文化博物館

 ◆考古学セミナー
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html

考古学セミナー 第3回 2010年11月 6日(土)
『九州の邪馬台国事情』
坂元雄紀氏(九州国立博物館)

考古学セミナー 追加 2010年11月19日(金)午後2時〜3時30分
『邪馬台国大和説の盲点』
財団法人大阪府文化財センター 藤田憲司

考古学セミナー 第4回 2010年11月28日(日)
『東アジアの巨大墳と卑弥呼の「大冢」』
菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)

--------------------------------------------------------------------------------
場 所:大阪府立弥生文化博物館1階ホール
時 間:午後2時〜4時
定 員:170名(当日先着順 午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付)
161唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 10:58:59
▽女王・卑弥呼(ひみこ)が統治した邪馬台国の最有力候補地である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
女王卑弥呼が、伊都国を傘下に持つ以上、卑弥呼は纒向では無く、北九州にいる。

▽卑弥呼の墓という説もある箸墓(はしはか)古墳
時代的にはほぼ、正解では有るが、箸墓は、大王の墓である、卑弥呼は戦いの最中に死亡しているから、卑弥呼の墓では無い。

▽初期ヤマト政権の権威の象徴である銅鏡の破片が大量に確認された桜井茶臼山古墳
黒塚古墳には、黄旛が副葬され、鏡も副葬される。
その後まで鏡は続く、鏡の最後の時代か?
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 11:02:42
  ↑
ニガクリタケをクリタケだと同然の主張をする〜こちらに食中毒お薦めを
する男。こやつは 日食中毒 のいかれた脳内男。
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 11:04:46
はは〜ん。↑はそれがしのところを指したか〜。w

「↑」の矢の的は唐松山と訂正。
164日本@名無史さん:2010/11/10(水) 20:36:58
大乃国とカラバカ山はどっか他所へ池
165日本@名無史さん:2010/11/11(木) 21:04:38
誰も書いてなさそうなので書くが、マキムクの立地は、対東海の交易拠点などではなくて、単に庄内ガメを焼くための、良質の土と、燃料としての森林資源を求めた結果だろう。と思う。
166日本@名無史さん:2010/11/11(木) 21:36:53
>>30
一次産業(農業)論をもう一度。(・∀・)

雲南省元陽の棚田 見ておくれ!
http://www.youtube.com/watch?v=h-xHGNiO31M
167日本@名無史さん:2010/11/11(木) 21:44:56
元陽には3つ以上の宗教が並存している。
このため現代の民族区分は複数にわかれている。
よって太古の時代は争いが絶えなかった。
派手な争いをしなくなったのはモンゴル帝国が進駐し
仲裁をするようになってから。今のような長街宴が始まった。
168日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:33:20
ジャポニカの雲南省起源は一昔前だったような。

個人的には、良質の棚田ってのは、葛城地方(高尾張(小墾))こそ相応しくて、
唐古鍵やマキムクとかの奈良盆地東南部は違うように思うが。
そんなに貴重なら今でも、少なくとも江戸時代位まで維持管理されてないかな?
確かに農耕機械が入らない棚田は、後継者不足も相俟って絶滅の危機に瀕してるんだろうけれども。
169日本@名無史さん:2010/11/12(金) 01:04:14
沿海部はインディカの炭化米しか出てこないので
どうしても内陸部に共通のものを見つけるしかなくなるわけだ。
そうすると遼東と雲貴が消去法で残るというわけだ。
170168:2010/11/12(金) 02:19:17
>>169
ごめん。ジャポニカじゃなくて、稲作の起源で。

しかし、沿海部のインディカしか出ない遺跡ってどこ?
171169:2010/11/12(金) 03:05:28
インディカしか出ない遺跡は河姆渡、良渚だろう。
江蘇省、安徽省、浙江省、福建省、広東省、江西省などはインディカしか出てこない。

長江といってもジャポニカが出てくるのは屈家嶺文化などであって
水田遺構をともなっておらず、場所も湖北省や湖南省などの内陸部に相当。
焼畑で陸稲である可能性がある。楚国があった場所だ。

そして、さらに少し内陸へ進むと、雲南南部・貴州・四川南端など
夜郎王国の故地があり、ここに棚田形式が多く作られている。

またまたさらに内陸にいくと、シャングリラ地方。雲南テン王国の故地であり
さながら遊牧地帯の様相を示す。銅鐸が出土する。おそらく元の用途はカウベルだったんだろう。
172日本@名無史さん:2010/11/12(金) 18:19:41
なにこれ?
滅茶苦茶書いて、このスレの住人のレベル試してるのか
173日本@名無史さん:2010/11/12(金) 18:35:58
このスレの住人が
いかに大陸の土地勘がないか
計測されてしまうね
174日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:46:02
まあ稲作の起源論はこのスレの本旨じゃないので横に置いておくとしてw

結局のところ、当時のクニでは「山の」資源が重要で、必ずしも交通の至便な河口や川の合流地点が拠点として選ばれた訳ではない。
その延長線上にマキムクの立地を説明するのか。

もしくは、単に大王たちの奥津城、聖地として、わざわざ内陸部山沿いが選ばれたのか。

どちらなんだろ?
175唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/12(金) 19:56:21
>単に庄内ガメを焼くための、良質の土と、燃料としての森林資源を求めた結果だろう。

その前に、唐古、鍵から住民がいなくなる。
庄内ガメを焼くため、であれば起きない出来事。

193(192)年の冷夏で凶作と成る、民は餓死し、翌年にはこの地を捨てる。
そして新たな居住地として、山辺を選択する。
176日本@名無史さん:2010/11/12(金) 20:00:37
>>175
いや、いなくなってないから
177日本@名無史さん:2010/11/12(金) 20:03:04
もうりょうやっさん、ひしゃくがほしいいい。
178日本@名無史さん:2010/11/13(土) 14:35:11
>>唐松山へ

ヲシテ文献は甲乙の別が無いから、江戸の神道家が書いた偽書というのが定説です。
その結論については、あなたにとっては異議があるのかとは思いますが、その議論はこのスレで語るべきではないと思います。
いい加減のこのスレから出て行って貰えないものでしょうか?

怨霊退散!
臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!
179太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 16:47:10
偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた唐松山が、偽書といわ
れるオシデを持ち出してインチキを欲しいままに書きこんでいるのは、口と
腹とが違うものを言う〜いわば二枚舌の典型でありww、

〜〜「戦力外通告」!!
180唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/13(土) 20:35:24
ホツマが偽書であれば、突っ込み所はいくらでもある。
そこをつけば良い。

それが出来ないのは、貴方の能力が足りないことを表す。
太国よそう言うことだろ
181日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:15:42
ホツマ議論は他でやって、ということなんだが。
真贋定かならないホツマを根拠に長々書き込むのは害悪というか邪魔。

このスレは考古学重視で、昨今の研究成果を知らないていうか、
知ろうともしない馬鹿はお呼びじゃないんだよ。
唐松山さ、君には君のねぐらがあるんだろうしさ、
いい加減、立ち去ってくれないものか切に願う。誰も幸せにならないよ
182日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:20:01
>誰も幸せにならないよ

まあねw
だけど特に誰もが不幸せになるわけでもないかとww
183日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:38:42
いや、なんていうか、お互い不幸だと思うんだよね
このスレの住人の殆どが、ヲシテ文献なんて知らないか時間の無駄と思ってて、それは一生交わらないだろうし。
184太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 22:47:46
唐松山よ
オマエは 戦力外通告 をされた。早々に立ち去れ!><
185日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:49:44
↑こいつはいいのか?
186太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 23:02:17
いいんだよ。オマエも 被通告者 になりたいのか?w
187日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:04:13

■環濠集落に区画溝 平行に整然と建物跡 下古志遺跡

読売新聞 2010年11月12日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20101111-OYT8T01032.htm

 弥生時代後期〜古墳時代前期の集落遺跡・下古志遺跡(出雲市下古志町)で、環濠で囲まれた集落内を区画する溝が見つかったと、県埋蔵文化財調査センターが11日、発表した。
区画溝と方向をそろえて建てられていた建物もあり、集落が計画的に作られていた様子が初めて確認された。発掘担当者は「当時の出雲平野の拠点集落だったことが裏付けられた」としている。

 今年5月から、遺跡内の南側約3300平方メートルを調査。遺跡の中心に近い1区(約1300平方メートル)と2区(約2000平方メートル)に分けて調べた。

 区画溝は1区で出土。東西方向に延びており、幅約2・5メートル、深さ約0・7メートル。東西約15メートル分を確認した。
この溝のそばには、向きを平行にした布掘建物跡(南北4・3メートル、東西4・5メートル)が見つかった。溝と建物は同じ時期に存在していたものとみられる。

 また、2区の調査では、遺跡の南端に近い場所から、幅5メートル、深さ1・3メートルの大きな溝も見つかった。
遺跡の北側や東側では1995〜97年の調査で、集落を取り囲む環濠の一部が見つかっており、2区の溝もこれらとつながっていたらしい。
集落はこれらの環濠に囲まれた直径200〜300メートルの楕円形だったとみられる。

 同遺跡は、隣接の古志本郷遺跡や田畑遺跡と一体となって、弥生時代後期〜古墳時代初頭の出雲平野で大規模な集落を構成していたと考えられており、39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(雲南市)などとも近く、注目されている。

 発掘を行った同センター企画員の中川寧さん(40)は「溝で区画された建物は、集落の倉庫のような公的な施設だったのではないか。大きな溝も見つかり、大規模な土木工事をするだけの動員力があったことがうかがえる」と話した。

環濠につながっていたとみられる2区の大きな溝
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20101111-643464-1-N.jpg


※島根県報道発表資料
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/press.asp?pub_year=2010&pub_month=11&pub_day=11&press_cd=6461DEC8-0170-412B-8C9F-279AD4A24C11
188日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:05:44
ホツマ専用スレって番外地にあるんだね。
使えない漢字があるから放置されていても仕方ない。
ホツマツタエは日本の正史
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1286514614/

やはり歴史難民版にホツマ専用スレを立て直せば?
189日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:30:54

■大阪府立近つ飛鳥博物館 講演会「倭国連合の形成と鉄」 白石太一郎(館長)

11月14日(日)午後1時30分〜午後3時 場所/博物館地階ホール 定員/200名
         
※講演会には、当日の特別展入館券の半券または年間パスポートが必要です。
※12時より1階ロビーにて入場整理券を配布します。
http://www.mediajoy.com/chikatsu/event/tenji/2010/autumn/index.html#kouen


※開催中! 大阪府立近つ飛鳥博物館 平成22年度 秋季特別展
 「鉄とヤマト王権 −邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ−」
http://www.youtube.com/watch?v=t3QEEOnHeoU
(動画)
190日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:55:40

■弥生期末の田植え示す無数の斑点 岡山・百間川原尾島遺跡 稲株跡出土

 (動画ニュースあり)

山陽新聞 11/11
http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010111122561949

 地面に広がる無数の斑点。実は、岡山県古代吉備文化財センターが発掘調査している岡山市中区原尾島、百間川原尾島遺跡で11日までに出土した弥生時代末(約1700年前)の水田の稲株跡。一帯を襲った洪水で土砂に埋まり、株が腐った跡に砂が入り込んだものだ。

 株跡は直径5センチ程度。5?6センチ間隔で規則的に並んでおり「もみの直播(ま)きではなく、既に田植えが行われていた証拠」と、発掘を担当する亀山行雄総括副参事は斑点から歴史を読み解く。

 稲株跡は約30年前に行われた同遺跡の発掘調査でも出土。当時「全国初」と注目を集め、弥生時代の稲の栽培法や収穫量などを研究する学術資料になった。現在でも岡山県内ではほかに出土例がない貴重な遺構だ。

 一方、水田面を覆う洪水砂は厚さ約70センチもあり、収穫前に襲った悲劇の痕跡でもある。稲株跡には、稲が倒れた方向に細長く延びる“涙形”もあり、実りの秋を奪われた人々の悔し涙にも見えてくる。

百間川原尾島遺跡で出土した弥生時代末の水田跡。白っぽい斑点が稲株跡(白線部はあぜの跡)
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2010/11/11/2010111122561949-1.jpg
191日本@名無史さん:2010/11/14(日) 21:27:45

■宮内庁と町教委が同時発掘へ 広陵の新木山古墳

朝日新聞 2010年11月13日
http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201011120166.html

 宮内庁と広陵町教育委員会は12日、同町にある大型前方後円墳・新木山(にきやま)古墳(5世紀前半、全長約200メートル)の発掘現場を歴史・考古系の研究者38人と報道陣に公開した。
天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地の古墳を宮内庁と地元自治体が同時に調査するのは、2008年の百舌鳥(もず)御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市北区)に次ぎ2例目。
宮内庁の発掘は陵墓などの維持・管理が主目的で、その宮内庁と自治体の同時発掘がさきがけとなり、学術調査のための共同発掘に進めば、古代史の解明は大いに進むだろう。

 この日、発掘現場を見学した研究者は歴史・考古系15学会の38人。宮内庁の担当者から12カ所のトレンチごとに説明を受けた。このうち3カ所の延長上の周濠部を同町教委がトレンチ調査した。

 新木山古墳は大小の古墳が密集している北葛城地方の馬見古墳群の中でも、近くの巣山古墳(全長約220メートル)とともに中心的な大古墳。これまでは研究の対象外におかれてきたが、やっとデータが得られた。
岸本直文・大阪市大准教授(考古学)は「墳丘はかなり改変されていたが、中段のすそや平らな面が確認でき、全体の姿が推定できる。巣山古墳のすぐ次の段階の大古墳だろう」と話した。
(つづく)
192日本@名無史さん:2010/11/14(日) 21:29:30
(新木山古墳つづき)

 卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(桜井市)をはじめ、県内には研究者も立ち入れない陵墓や陵墓参考地の古墳が多数ある。

 宮内庁が、陵墓や陵墓参考地の発掘現場を研究者と報道陣にだけ限定公開するようになったのは1979年から。当初は写真撮影が許されないほど制限が厳しかったが、次第に柔軟になった。
2008年の百舌鳥御廟山古墳(堺市)で初めて、地元自治体との同時発掘に応じた。

 広陵町文化財保存センターの河上邦彦所長は「新木山古墳を調査すると聞いて、堺市の例があるので、広陵町でも同時発掘しようとなった」と話す。宮内庁と町教委の担当者同士が打ち合わせて、トレンチの場所などを決めた。

 だが、双方のトレンチは連続せず、墳丘と周濠の境目は発掘できなかった。
文化財保存全国協議会の宮川徙(すすむ)・常任委員は「古墳の基底部がわかる場所。基底部が発掘できれば、全体の形や大きさもわかる。もう少しでホームランだったのに」と残念がった。

 河上さんは県立橿原考古学研究所(橿考研)調査研究部長だった98年に、明日香村の「猿石」など県内3カ所の陵墓にある石造物を宮内庁と共同調査した経験がある。だが、天皇陵古墳そのものの共同発掘となると、壁は高い。

 陵墓問題に詳しい今尾文昭・橿考研総括研究員は「宮内庁は『共同発掘』と言われるのを嫌がっているが、同時発掘も事実上の共同発掘で、一歩前進だ」と評価する。(沖真治)

墳丘に樹木が茂る新木山古墳。手前は復元された三吉石塚古墳の埴輪(はにわ)列=広陵町三吉
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201011120165.jpg
193日本@名無史さん:2010/11/15(月) 02:41:19
>>13
こいつは二期作もしらんのか。
何でも書きゃええっちゅうもんちゃうで。
そもそも野生のイネ自体が温暖湿潤気候の湿地帯に自生してた。
最古の稲作地帯である河姆渡にせよ、馬家浜にせよ、全部、温暖湿潤気候の湿地帯。
今でもメコンデルタに行けば湖に腰まで浸って田植えをする原始的な水稲が見られる。
194日本@名無史さん:2010/11/15(月) 06:58:02
地理的にみて、
近畿王権は、高天山の近くの高尾張あたりから
三輪山の麓の巻向に
中心地が移っていたのは、そうぞうがつく。
その高尾張に首都があった時代に
九州の高千穂の統治を任されたのが、現在の皇室の祖先のニニギ命。
195日本@名無史さん:2010/11/15(月) 16:21:49
>>190
これは面白い遺跡だね。
196日本@名無史さん:2010/11/15(月) 19:37:20
>>193
気候の話ではなく
水のコントロールの話なんじゃないでしょうか

盆地の低地だと洪水か旱魃かの両極端が多い
河口近くのデルタと違い抜ける所がないので一旦洪水状態になると長く続く
稲にとって悪くない状態でもケアする人が住む所が無くなっちゃう
197日本@名無史さん:2010/11/15(月) 20:55:14
河口デルタは外海に面しているとポロロッカが来て全滅するぉ
198日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:09:13
なにそれ?
おいしそう!
199日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:14:48
あまぞーん
200日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:27:08

■大垣・荒尾南遺跡から掘立柱建物跡 3棟発見、倭鏡も

岐阜新聞 2010年11月10日10:05
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101110/201011101005_12117.shtml

 県文化財保護センターは9日、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡としては県内屈指の規模の「荒尾南遺跡」(大垣市)で、集落中心部とみられる場所から掘立柱建物跡や銅鏡の「倭鏡(わきょう)」、銅鏃(ぞく)などが見つかった、と発表した。

 遺跡は、同市北西部の荒尾町と桧町に広がっており、面積約17万平方メートルと推定されている。
調査は東海環状自動車道西回りルート建設に伴い、2006(平成18)年度から4年間の予定で行われていたが、調査が必要な部分が残ったため、本年度も継続された。

 今回の調査では、遺跡11件中央部などの集落中心地域から掘立柱建物跡3棟が見つかった。
それぞれ長辺約5.5メートル、短辺約4.6メートルで10本の柱で構成。同建物跡は、これまでに11棟が見つかっていたが、集落内では初めて。建物の構造やこれまでの発掘例などから居住者が共同で倉庫として利用していたと考えられるという。

 倭鏡は、直径3センチほどで今回で2枚目の出土。銅鏃は6点が見つかり、これまでの調査で出土したものと合わせると24点に上る。
東海地方で、1カ所の遺跡11件から20点を超す銅鏃が出土したケースは極めて珍しいといい、同センターでは
 「鏡や銅鏃の出土数の多さ、これまでに出土した銅鐸(どうたく)片やともえ形銅器などの存在から、この遺跡の集落が地域の拠点的な役割を果たしていた」
とみている。

 このほか、河川跡や竪穴住居跡などからは、ミニチュア土器や木製の舟、武器の形をした祭祀(さいし)の道具なども多数見つかった。

発掘調査で新たに見つかった倭鏡(わきょう=左)と銅鏃(どうぞく)=県文化財保護センター提供
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101110/201011101005_12117.jpg


※記者発表資料
http://www.pref.gifu.lg.jp/kensei-unei/kocho-koho/event-calendar/gyoji/bunkazai/araominami.data/arao1.pdf
※添付資料 遺跡全体図と写真
http://www.pref.gifu.lg.jp/kensei-unei/kocho-koho/event-calendar/gyoji/bunkazai/araominami.data/arao4.pdf
201日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:23:24
メコンデルタが温暖湿潤気候とかなかなか香ばしいことが書いてあるな
202日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:38:38
マキムクのトリガーが何なのか?、ってのが議論の主題であって、稲作起源の話は
若干ズレてきてると思うが。

そもそも、板付にしろ、唐古鍵、登呂にしろ、低湿地で大規模に稲作が行われていて、
灌漑工事やら水利争いの調整の中で権力が誕生した、ってのが弥生像。
で、それをひっくり返すような発見は見つかっていない。

じいちゃんが「棚田を取り合った」とかいう昔話で、
棚田がマキムクの主な要因となったとかいうのは、そもそも無理な話だろうとw
203日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:21:30
>>202
マキムクのトリガーというか、他地域での稲作を始めとする農業基盤のクニグニが
交易主体へと移行していくなかで、単なる個々の取引から集積セリ市場みたいな場所が

なぜか突然出来たように見える

これが謎を深めてしまっているわけで
本当は例えば北部九州内や、東海と畿内、吉備と出雲あたりのクニグニやムラムラにて
マキムクのプロトタイプ的な交易の舞台としての集落があってもよさそうなものなんだけど
ホント、そんなのが見つからないんだよな

既存の集落遺跡や交易品から、「こいつはそれに当たるのじゃないか」というのを推測でいいから挙げてくれると嬉しい。
実は古墳期になるとそれらしいものはちょこちょこ出てくるのだけど
マキムクに先駆けて、というもの(状況的でもいいし、技術的なものでもいい)って、どっか無いかな?

これが例えば北部九州にあるから九州説だとか、畿内にあるから畿内説だとかいう単純なものじゃなくてさ
マキムクがあまりにも唐突過ぎるんだよな、今の材料じゃあ。
204日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:30:42
まだ墓と祭祀施設しか見つかってない。
205日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:51:37
いや問題にすべきは、外来式土器の破格の多さ。
これがヒトの交流でなくモノのみの交流だったと限定したにせよ、規模が今までと違いすぎる。
この物流が可能になるには、やはりいくつかの段階が必要になるはずだろ。

単に前方後円墳の発祥の地というだけならば、ここまで謎にならない。
祭祀形態の集合体だとしても、余計に物流よりハイブリッドしにくい宗教観が混ざり合うには
やはりそれ以前の段階が必要になる。

よくマキムクのプロトタイプとして引き合いに出される大阪の加美遺跡にしても
確かに吉備や阿波讃岐の土器は、当時としては大量に出るが、逆に東海系は数えるほどしかない。
もし加美を東瀬戸内のプロトタイプ的役割として位置づけるならば、畿内と東海のプロトタイプがあってしかるべきだろう。
御所市の秋津遺跡にしても、どうやら渡来人文化が花開くのはマキムク第2期増設以降との見方が強いし
つまり布留0式の生誕について、材料が足りなさ過ぎるんだわ。

北部九州や南部九州からの直接の介入までも視野に入れても、ここまでモノが無いってのはどういうことかねえ。
206日本@名無史さん:2010/11/16(火) 02:02:43
逆に前方後円墳が大和オンリーのオリジナルだったら、ここまで謎にならなかったということか
確かに各地の文化・宗教観が入り混じるにはそれ相応の前段階が必要だというのも頷ける
207日本@名無史さん:2010/11/16(火) 02:04:56
纏向に到るプレステージは存在するのか?ということか
208日本@名無史さん:2010/11/16(火) 03:15:50
プレステージらしきものが北九州でいくつかあったならば、九州からの東征や東遷でとっくの昔にカタがついているのだが、それが全く無いからな。
むしろあった方が話としては簡単なのだが、無いのでどうしようもない。
東征が否定されたというより、東征では説明がつかないということだな。
209日本@名無史さん:2010/11/16(火) 16:02:59
だが纏向の成立に、北部九州の古参クニらがまったく無関与だとは考えにくい
東遷は大袈裟としても吉備・出雲あたりが仲介して、間接的にでも交易圏に参加していたと見たほうが良い様な。
でないと糸島半島が古墳期に入って劇的に変化する理由が見つからない
また初期前方後円墳が、その九州の古参クニグニとは別の地域に出現する理由にしても
単に九州不参加では説明できない
210日本@名無史さん:2010/11/16(火) 18:26:28
>>205
割合が高いだけで多くはない。
211日本@名無史さん:2010/11/16(火) 20:01:46
>>210
総数884点、うち外来式152点を多くないと?
しかも5%程度の調査でこの数だぞ
212アク禁中:2010/11/17(水) 20:27:54
>>203
プロトタイプ纏向がない理由について

列島内の物流が徐々に発展して広域の流通網が成立していった、というのではなく、
大陸からの通商の働きかけが契機となって、広域流通がはじまったのではないか。

中期まで日常物資の流通は自給自足的な経済圏のなかで事足りていたわけです。
広範囲な物流がみられたのは翡翠のような産地限定品だったのではないでしょうか。

大陸文物が各地で求められるようになり、広域流通が要求された。
その結果として列島史上初めて、広域流通網の物流拠点「纏向」が求められた。
と考えますが、どうでしょうか。
213日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:54:07

■白虎のお守りペンダントか 愛知の石座神社遺跡で破鏡出土

産経新聞 2010.11.16
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101116/acd1011161915004-n1.htm

 愛知県新城市大宮の石座神社遺跡で、弥生時代後期(3世紀ごろ)の竪穴住居跡から、中国で作られた鏡を割って「ペンダント」にしたとみられる破鏡が見つかり、調査した愛知県埋蔵文化財センターが16日発表した。

 破鏡は約2センチ四方の青銅製で、東西南北を守護する四神の「白虎」の文様の一部が残っていた。周囲はよく磨かれ、白虎の頭部やひもを通す穴の部分は欠けていた。鏡本体は中国の後漢時代(1世紀)の作製という。

 竪穴住居の近くでは、豪族の館とみられる幅約7メートル、奥行き約5メートルの掘っ立て柱の建物跡も発見された。担当者は「有力者が鏡を割り、縁者にお守りとして与えたのではないか」と話している。

 23日午前11時と午後1時半の現地説明会で破鏡も公開する。

鏡を割って「ペンダント」にしたとみられる破鏡(愛知県埋蔵文化財センター提供)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/101116/acd1011161915004-n1.jpg


※石座神社遺跡(新城市) 現地説明会のお知らせ (愛知県埋蔵文化財センターサイト)
http://www.maibun.com/top/modules/wordpress/index.php?p=89
214日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:21:36

■特別展:交通関連の遺物を展示−−唐古・鍵考古学ミュージアム /奈良

毎日新聞 2010年11月17日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101117ddlk29040471000c.html

 ◇舟のかいや木製車輪

 古代の交通をテーマにした「秋季特別展 道の考古学」が、田原本町阪手の唐古・鍵考古学ミュージアムで開かれている。発掘調査で出土した土器や埴輪(はにわ)など輸送にかかわる遺物を展示している。28日まで。【高島博之】

 同町の弥生時代の大型環濠集落「唐古・鍵遺跡」は、大阪湾から大和川を経由して奈良盆地に至る水運の要所だったとされる。

 古墳時代後期には、奈良盆地で道路交通網の整備が始まった。町内には、聖徳太子が斑鳩から飛鳥に通ったとされる「太子道(筋違道)」が現在も残る。
別の古道「保津・阪手道」と交差する付近では、飛鳥時代の倉庫群跡や奈良時代の大型建物跡が見つかっており、交通の要所としてにぎわったとみられる。

 同展では、唐古・鍵遺跡で出土した木製の舟のかい、人の顔が描かれた奈良時代の墨書人面土器のほか、天理市の東殿塚古墳(4世紀前半)から出土した3隻の舟が彫られた円筒埴輪、桜井市で見つかった国内最古級(7世紀後半)の木製車輪などを展示している。


※秋季企画展「道の考古学」 (唐古・鍵考古学ミュージアムサイト)
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html

◆関西文化の日◆
11月20日(土)・11月21日(日)の2日間は、関西文化の日で常設展・企画展ともに無料でご観覧いただけます。
215まあ妄想ですがwww:2010/11/17(水) 23:12:36
>プロトタイプ纏向

昔はそれに相当するものが「豪族居館」じゃないかと考えていた時期もありましたwwwwwwww

最初、拠点集落の中にあって言わば「お山の大将」をやっていた首長層が
やがて自らの権力を自覚し集落から出て居を構えた。
(居住空間を分離するにとどまらず他地域の首長層とも古墳と言う埋葬文化の共有で
 ネットワークを形成しだした)

その各地にできた豪族居館の更に上位の存在として、一次産業の形跡が極めて希薄な
一見さん・パンピーお断りの厳格な会員制の纏向ができたとw

しかしこれも現在のところ「豪族居館」の発展として纏向を捉えるのは無理であきらめるしかない。

ホンマ良く生物の進化で言うところの「ミッシング・リンク」みたいな問題だなと良く思うw

もっとも生物の進化(人間社会の技術革新なんかでもそうだが)は階段状と言うか進むときは
短期間に一気に進むもんだが…
216日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:31:19
纏向くはお宮さんだろう。商談もかねて各地からお参りしに来るところだ。
巫女さんのご託宣をいただいて帰る。そしてその首長は商仲間として認められ、
死んだときには鏡を副葬したり、前方後円墳に入ったりすることになる。
217日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:43:28
>>212
もし大陸文物目的ならば、よけいに奈良盆地の奥などにその窓口は作らないと思うんだけど。
やはり纏向は大陸よりも国内流通を目的としており
その窓口は通常ルートならば北部九州、もし直接畿内に持ち込むのなら越前ルートなどの海岸線近くに
窓口となるべき集落が必要になるはずだと思う。

またもし最初から大規模交易を目的としたとするならば
G20ではないが相当な数の各クニの代表が一堂に集って入念な準備の下に行われたことになる。
流石にこれは非現実的だと思う。

やはり河内や阿波や讃岐といった瀬戸内東端のクニグニの、東国への交易拠点として始まり
それが円を描くように急速に周りが参加し始めたというような、商圏拡大型というか内需拡大型じゃないかと。

>>215
纏向は初期から放棄までの約200年間を通じて、(今のところだけど)大陸や半島の土器などはあまり出ないんだよなあ。
これは北部九州のものもそうで、まるで本州・四国交易連合のようにもとれる。
まあこのあたりに九州交易連合(九州説)の成り立つ小さな隙間があるんだろうけど
肝心の九州に現在の都道府県単位の広さで活発な相互交易をしていた形跡が、5世紀になってもないんだよねえ。
九州の各有力集落が「ミッシング・リンク」を繋ぐ鍵に成り得ないというのが、よけいになぞを深めているね。
218日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:50:23
>>216
いやそれだったら纏向創設以前に、かなり広範囲の統一宗教がすでに倭国になければならない。
その総本山的意味合いも込めて造られたのなら、ここから前方後円墳が出現したりしないし
またそれ以前の各地の祭祀がバラバラすぎる。
信仰対象にしても、首長霊とみられる地域もあれば、すぐ隣の唐古・鍵は鳥をシンボルとするアニミズム的要素が強い自然宗教っぽい。

宗教統一といったような思想的支柱は元からあまりなく、結果的に纏向で合体してしまったんじゃないかな。
219日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:53:04
>>217
当たってると思うけど、巫女さんの力、評判というのもあると思う。宗教を過小評価
してはいけない。各地の首長は自分ところの巫女さんの不出来に悩まされてる面も
あったんじゃないかな。だから纏向にスーパーグレートな巫女さんがいると聞いて
・・・。wwwww
220日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:57:02
>>218
誤解だな。宗教の統一状況など四隅を除けばほとんどない。おそらくは纏向の
スーパーグレート巫女の個人的評判が高まったからだろう。長くそ地位に就いてた
ようだし。実際は交易といったところで、そんなにはないんだよ。www
221日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:02:06
>>219
いや、いくらなんでも
「本当にご神託のよく当たる巫女(能力者)」なんてのは、現実に存在しないんだよ。
なんかそれ、弥生人を馬鹿にしてないwww
昔の老教授のレスにもあったけど、宗教が浸透していくのはその教義によるものではなく
物理的、実利的な利益が付帯してこそなんだし。

纏向のスーパーグレート巫女さんも、やっぱよく外してたと思うよ。
もし本当に有能なやつがいたとすれば、倭人伝にある「弟王」による政治力や交渉力かもしれないが。
広瀬ばどはそういう存在を仮定して「英雄的イデオローグの出現」とか言ってるわけだけど・・・。
222ヒミコスーパースター♪三世紀の纏向じゃあマスコミも無かったろうし:2010/11/18(木) 00:09:25
>スーパーグレート巫女の個人的評判

問題はそれがどうやって伝わったのかだなw

>>216の言うお宮さんと言うのは後世の伊勢神宮をイメージしているのかもしれんが
伊勢の参拝がメジャーになったのは伊勢御師と呼ばれた人間の営業活動の賜物でもあったわけでw

まあ伊勢御師の話は水銀厨が詳しいかもしれないがwww
223日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:15:53
>>221
むろん評判は倭王になってから急速に広まったんだよ。どうもこちらのレスが
曲解されてるようだが、実利は当然ある。バックは公孫氏、そして魏なんだから。
224日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:17:36
>>221
あとね、当たらないのは当然で、バックがうまくやってたんだよ。
みる者少なし、だからね。
225日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:20:53
>>223
いやちょっと待ってw
倭王になったというのは倭人伝の記述が正しいとしても「景初二年」だよね。
これは西暦238年だから、君の考えでは纏向に各地のクニが集いだしたのはそれ以降という話になるぞ。

流石に考古事実に反しすぎてはいないか?
226日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:22:30
>>223
だったらマキムクにもうすこし半島や大陸からの文物が終結していてもよさそうだと思うが?
227日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:23:21
>>225
いや、最初は地元や河内、東海なんかがわりとこじんまりと作ったんだろ。
四隅連合程度の規模で。各地に早期前方後円墳ができるのは倭王になって以後だろ。
お参りにくるんだよ。www
228日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:28:30
>>226
それはそう思う。画文以外みるべき物がないんだよな。
229日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:29:34
>>227
初期前方後円墳の技術的、形式的ルーツは吉備もしくは阿波、讃岐と考えられていて
それらは3世紀初期か下手すれば2世紀末だと見られているのだが、これらもかなり初期から参加していたとするわけ?
あと>>222のいうように、それだけ迅速な情報発信は流石にむりじゃない?

まあ定型化された前方後円墳(これは纏向型も含む)が各地に出現するのは3世紀中葉から後半と見られているから
交易連合の範囲拡大が異常なスピードだったというのは確実だが。

230日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:38:07
>>229
阿波、讃岐の葺き石やら石室構造を取り入れてるのはそうだろ。まあ3世紀台には
参画してたんじゃないか。魏使が仰々しく来たりしてるし、評判は早くに広まったと思う。
スーパーグレート巫女の朝貢自体タイムリーなものだし、情報網はあったんじゃねの。
231日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:48:21
>>228
もう少し発掘が進捗すると変わるかもよ
232日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:48:43
だいたい玉加工とか特産のないところは交易といったって厳しい。
纏向詣では、地元対抗勢力に対する示威とかもあったんじゃないか。
スーパーグレート巫女の一家に入りましたよ・・・って。wwww
古墳初期の北部九州なんか、そんな感じだろ。

233日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:55:46
>>232
まあ宗教をそこまで重視するかどうかはアレだけど

>纏向詣では、地元対抗勢力に対する示威とかもあったんじゃないか。
>スーパーグレート巫女の一家に入りましたよ・・・って。wwww

纏向詣での有無に関わらず、この推測は自分も正しいと思うよ。
まさに衰退する旧勢力の影響下から逃れて、我先へと新勢力に流れていったというのは十分ありうる。
234日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:08:57
東夷伝の高句麗の条に、国中が十月に東にある大穴に集まって祭祀を行うとある。
これは収穫祭のようなものだろうけど、そんな感じのことが纏向にもあったかもしれない。
つまりお参り。wwww
古墳時代には、対抗する地方勢力の一方にだけ前方後円墳が与えられるという例が確認
されてて、これはヤマト王権の調略かいな。遠征戦のできない時代はそんな形で勢力を広め
てった。

あと当時の中国の習慣から、魏使は数百人規模で、倭から見れば大船で来ただろ。
のろし実験だと北部九州から畿内まで情報は数時間で届いたというし、長くても数年で
倭王の存在は広まったろうよ。それこそ弥生人を馬鹿にしてはいけない、だな。wwww
235日本@名無史さん:2010/11/18(木) 02:06:16
>>222
伊勢御師的存在がまさにヤマトタケルだろ。www
236日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:15:35
。www氏の仮説はなかなか面白いと思う。
少なくとも九州説連中などとはレベルが格段に違う。
本人もマジで主張しているようには思えなかったけど、そこかしこに整合性に留意した形跡が見られ
スペクタクル性もあって、凡百の古代史小説よりもはるかに面白い。

まあシャレも交えてやってくれているんだと思うが(もしかして縦目?)

1、前方後円墳に代表される複合新興宗教は、果たしてマキムク開始より先か後か?
2、魏による倭王認定が、広域連合の更なる拡大に寄与したのか否か
3、当時の情報伝達速度とはいかなるものだったのか

など、議論のネタを振りまいてくれている。
237日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:37:24
>>233
古代史だけじゃなく近世に到るまで、ヤクザの勢力争いとさほど変わりがないからね
ロマンもへったくれもないけど、人の社会の本質は弥生人も現代人もさほど変わらないと見たほうがいいだろう
むしろヤクザ社会に義理人情と営利の狭間を参考にしたほうが、より実情に近いかも知れない

菱の代紋じゃなく、マキムク代紋が、旧来の博徒の居場所をなくしたってことじゃないか
238212 即レス不能:2010/11/18(木) 17:46:06
>>217
>もし大陸文物目的ならば、よけいに奈良盆地の奥などにその窓口は作らないと思うんだけど。

窓口ってのはまた別物なんじゃないですかね。
この頃の対外通商の窓口だったのは玄界灘沿岸でいいと思います。

>やはり纏向は大陸よりも国内流通を目的としており

列島内広域流通の拠点、ですよ。確かに。
北部九州で受けて、マキムクに集積したんでしょう。

>各クニの代表が一堂に集って入念な準備の下に行われたことになる。

マキムクってそれらしいじゃないですか。各地域による共同設立なんでしょう?

>やはり河内や阿波や讃岐といった瀬戸内東端のクニグニの、東国への交易拠点として始まり

瀬戸内〜近畿〜東海の範囲内であれば、なにを交易するのだろうか。
それぞれの地域圏を超える必要および採算性が認められるものとは?

>急速に周りが参加し始めたというような、商圏拡大型というか内需拡大型

列島内部での自生的発展というのは自然な考え方ではあるけれど、
“急速な”内需拡大(もしくは生産および余剰の増大)ってこの時代、あり得るのでしょうか?
239日本@名無史さん:2010/11/18(木) 19:43:31
>急速な”内需拡大(もしくは生産および余剰の増大)ってこの時代、あり得るのでしょうか?

いいとこつくねえ。ww 俺はないと思う。人口増大期でありながら水稲耕作は
不安定。なんだっけか?日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き・・・と
賢治の時代だってこんなもんだろ。ww

まして広域から収税してるとも思えないし、地域の首長権たってたかが知れてる。
俺は交易というより各地集落のつながりには保険の意味があったんじゃないか
という仮説を立ててる。老教授は度量衡、交易レート(ルートじゃないよ)の統一
と言ってたけど、それに加えて不作の時に食料を融通し合うシステムのあった可能
性というのはどうだろ?
240日本@名無史さん:2010/11/18(木) 19:49:47
あとね、考古学だけではわからないこともあるよ。上で書いたように
優れた巫女としての評判と人前に姿を現さない神秘性、さらにして中国
から冊封された倭王なんだな、これがまた。www このことが当時の倭国
社会でどれほどの衝撃かを想像してみる必要があるんじゃないか。www
241日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:10:13
ここはオタクの広場なんだな。
242日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:13:48
うっとりとして、中には涎垂らしてるのも居て、妄想を語りあうなんて 気持ちわりい〜。
243日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:49:56
歴博が箸墓の年代を捏造した事で邪馬台国論争は終わっている。

邪馬台国畿内説は年代を捏造しなければ成り立たないほど追い詰められている
と言う事を如実に表しているんだな。
244日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:21:25
箸墓は箸墓で、卑弥呼の冢じゃない
卑弥呼の墓なら最初から卑弥呼の墓と言われているだろ
245日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:30:33
古代人は名前をたくさん持ってたようだよ
246日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:43:33
>>241 オタクじゃなくて詐欺師の広場
真実を隠そうとしてる

〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/              ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/              ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国         ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                           ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
       ヽ,  水行 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ          ┃ ↓ /
    /        ノ           ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’            ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                   末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \               奴国  ・・・長浜市
\ |        川               不弥国・・・米原市
  ∨             ☆呼邑国    投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天         邪馬台国・・・旧信楽町
               岩 ☆為吾国    
             戸             呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
            ☆巴利国        巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国               烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                    奴国 ・・・奈良盆地
247日本@名無史さん:2010/11/19(金) 13:07:41
>>240
中国から冊封されてたのは、弥生中期の須玖岡本や三雲南小路遺跡の頃からで、それ程インパクトがあったとは思えないんだが。
少なくとも九州勢力にとっては。
248日本@名無史さん:2010/11/19(金) 13:15:45
それは渡来人系の男王じゃないかな。宗教的な遺物もないし。
249日本@名無史さん:2010/11/19(金) 13:16:18
この前、奈良の観光案内書見たら、ホケノ山は3世紀後半と書いてあった。
箸墓はその後だから三世紀末か、4世紀と言う事だろう。
250日本@名無史さん:2010/11/19(金) 17:31:38
マキムクが王権の中心地として選ばれたのは、
交通の要衝、大和川水系船着場として機能したとされる唐古鍵に近く、山辺の道で奈良県北部、木津川水系、初瀬街道で東海に繋がる。
一山を越えれば吉野の杉資源を押さえられるなど。

こう一般的に言われてることで、なぜ納得が出来ないのか?疑問。
251日本@名無史さん:2010/11/19(金) 17:59:27
>>250
コメは?
252日本@名無史さん:2010/11/19(金) 23:18:19
>>250
山辺の道はどうよw
古上ツ道あたりでしょ、良く使っていたのは。
253日本@名無史さん:2010/11/20(土) 12:12:10
>>239
>>急速な”内需拡大(もしくは生産および余剰の増大)ってこの時代、あり得るのでしょうか?

>いいとこつくねえ。ww 俺はないと思う。

弥生終末期に起きた現象、全国的に急速に首長権力の強大化がみられるのは、
地球的規模の寒冷化による政治混乱、今までの弥生スタイルでは対応できず、
新しい政治形態や国づくりが模索された結果。
マキムク、卑弥呼擁立なんかもその延長線上なんだろう。

要は遠隔地交易を可能としうる、広域に権威を行使し得る首長は、対外窓口として
大陸からの鉄やら最新技術を民衆に分け与えることで「有り難がられた」ということ。
宗教なんて二の次で、やっぱりご利益がないと。

まあ「急速な内需拡大」と言えないことはない。生産および余剰の増大ではないが。
254日本@名無史さん:2010/11/20(土) 14:09:54
>>253
交易という言葉がまるで錦の御旗のようだな。一頃の九州説の三種の神器
のようだ。ww だったら、纏向を中心として、どこの集落とどこの集落が何を
どのように交易してたのか、考古学的事実を基にして言ってごらん?
255日本@名無史さん:2010/11/20(土) 14:23:34
>>254
パレース式S字甕のみを例にとっても、このスレが埋まるくらいあるぞ
256日本@名無史さん:2010/11/20(土) 14:34:41
そもそも、「巻向の特異性」を語るのに、何故そこまで大陸文物に執着するのか良く分からん。
ある意味、これこそが九州説や東アジア固有の中華思想に引き摺られている希ガス。

巻向の出土物が、他の遺跡と隔絶した特徴を持つ最大のポイントは、
畿内の遺跡のクセに、大量の東国土器が出土すること。
要するに、「アヅマ」をどう取りこんだか、「アヅマ」とは畿内にとって何だったのかだけを論ずれば、
おそらく巻向の特殊性は、ほぼ語りつくされたことになる。

巻向が、アヅマ(この場合は伊勢&尾張のこと)との交流を独占し、
畿内西国の他の勢力の手出しを許さなかったことが、
おそらく巻向の特異性の源泉であり、
かつ、後代、ここを発祥とする首長が、「東西日本を統一する」王家、
つまり現皇室になった要因だろうと思う。
記紀を見ても、皇室はもともと畿内(主導)とアヅマ(従属的)の連合政権的なところがある。
これに、神功・継体と2回に渡って、北陸系の系譜が接続導入され、
東日本全域を独占的に固めてしまった。
こうなってしまうと、いくら大陸大陸中国朝鮮と言っても、他の西国は畿内首長(皇室)に手出しが出来ない。
ロシアみたいなもので、僻地でも大量の土地を獲得すると、「大国」になってしまう。
257日本@名無史さん:2010/11/20(土) 15:00:45
>>255
これは東海との関係だろうし、それだけでは前方後円墳の急速な普及の
説明にはならないだろう。交易はむろんあっただろうが、問題は「交易」
という言葉だけですべてを説明したような気になってしまうことだ。おそらく
プレヤマト王権を中心に行われていたのは単なる交易ではない。これだけ
で、環濠集落の解体や祭祀形態が豪族居館中心に変わっていったこと等
の説明はつかない。

鉄器の重要性に関する認識が近年改まってきたように、交易についての
考え方も、もう一皮むけなくてはならないと思うね。

258日本@名無史さん:2010/11/20(土) 16:17:24
>>256
悪いがそれは記紀に引きずられすぎ。
実際はS字甕も前方後方墳も、近畿以西にけっこうな進出をしている。
纏向がアヅマとの交易を独占したとは考えにくいのよ。
それと皇室系譜とはまた別の話で、おそらく皇室発祥のほうがずっと後の時代だと考えられているから。
(別に皇室軽視ではないので、過剰に反応しないでね)

>>257
>交易についての考え方も、もう一皮むけなくてはならないと思うね。

これは同意なのだが、前方後円墳の「急速な普及」に果たして宗教や支配体制が主原因だったかどうかというのが今では疑問視されているわけ。
ヤマト王権という定義を、纏向全盛の時代に当てはめてもいいのか?ということ。
前方後円墳と副葬鏡の関係にしても分布にしても規模にしても、一定の決まりごとがあったとは言い難くなってきたから。
これが白石などが唱えた「前方後円墳体制」が下火になっている根拠でもある。

だから交易の中身についての掘り下げが重要視されるというのは、繰り返すが同意している。
この二文字で説明がつくとは思っていないよ。


259日本@名無史さん:2010/11/20(土) 16:27:18
>>250
>こう一般的に言われてることで、なぜ納得が出来ないのか?疑問。

ひとえに考古資料が伴わないと言う事じゃないかな?

ぶっちゃけた話、例えば壱岐原の辻なんかだと(交易品目であったであろう)五銖銭や貨泉の中国貨幣
銅鏡や戦国式銅剣、三翼鏃等々の舶載品があちこちから出てきて
東アジア最古とも言われる船着場があったりする。

まあ別に舶載品に限らず国内流通でも良いんだが
現時点で纏向にそう言った交易都市としての性格をいの一番に見るほどの資料が無いからじゃないかな?

確かに日本地図広げて考えればそう言う東西の交易の接点…と言う考え方は合理的なんだろし
多数出てくるミニチュアの祭器等から宗教都市の姿を描いて纏向勃興を
「スーパーグレート巫女」のカリスマ性に求めるのもアレ過ぎる話だとは思うがwwwwww

「交易」に過重にこだわる事を批判している人間にしても
「じゃあ纏向勃興その特異性を何に求めるか?」と問われればこれと言う答えが無いのが現状ではないかとwwwww

もう、いっそのこと九州からダイレクトで持ち込まれたと思われる遺物がどっさり出て
東遷説でカタがついてくれた方がよほどスッキリするんだがwwwwwwww
260日本@名無史さん:2010/11/20(土) 16:55:26
>>259
>「スーパーグレート巫女」のカリスマ性

まあ上で書いたのは半分冗談で、宗教はそれほど重要ではないだろう。地元土着の
宗教へ影響を及ぼすのは難しいだろうね。それよりなら倭王冊封のほうがよほど大きい
と思われる。これによる地方勢力の纏向詣でというのはあったんじゃないかな。国内
でのミニ朝貢という形で。

ヤマトから地方まで兵を出すのは難しいだろうから、答礼は土木技術の供与と鏡の分与。
もしかしたら不作時の食料援助のようなこともあったかもしれない。

261日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:11:52
いつだったか伊都国東遷厨というのが出てきて詳しく説明してくれたが、漢に冊封
されていた時代の北部九州の首長墓の副葬品には一定の秩序が見られる。ところが
大陸・半島の混乱による中国からの影響力の低下で、北部九州は混乱し小国乱立状態
になった。

逆に、纏向から早期に連合していた以外の地域に影響力が発揮されてくるのは、スーパ
ーグレート巫女の倭王冊封以降と考えれば説明しやすいんだよな。そしてミニ朝貢を行った
集落は実利を得ることになる。これで、われもわれもという形で纏向詣でが始まり、急速に
倭国はまとまっていった。三角があれほど大量に出土するのも、この事情がからんでいる
のではないかな。
262日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:19:13
>>260
倭王冊封についてはもう少し詳細を皆で詰めていくと面白いと思うが
もうひとつ興味深いのは>>239(これ多分あなたのレスだよね)にある

>交易というより各地集落のつながりには保険の意味
>不作の時に食料を融通し合うシステムのあった可能性

これはかなり重視されるべき見解だと思う。
結果的に纏向とそれ以降のヤマト王権が実質的に支配力を高めた原因というのは
この保険システムにおける最大の供給側(援助側)になったからではないかと考えられる。
そうなると独占ではないだろうが、東海の生産力を仲介しながら利ざやを稼ぎ、徐々に富を溜め込んでいく複数の首長一族が畿内で台頭し
そのうちのひとつもしくは複数の集合体が「オオキミ」を生み出したという理屈も成り立つ。

この「オオキミ」が朝貢と倭王認定以前からあったのか、またそれが認定を機に権威拡大したのか
逆に物資集積が先で、その結果「オオキミ」化したのかにも関わってくる話だろうね。
263日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:30:28
>>258
俺の立論では、記紀ネタは、「記紀だってよくみれば東方につんのめっていることが読めるよ」
という傍論に過ぎないからどうでもいいよ。
皇室以前に、なんと「巻向のほうが、(皇室に対する先住民の神とされる)三輪山信仰よりも更に古い」
という、致命的な考古学知見がある以上、文献資料との単純な接続はできない。

それはさておき、
前方後方墳にしてもS字甕にしても、出土自体は畿内一円に見られても不思議ではない。
だが、基本的に、アヅマ(=東国の 『 太 平 洋 側 』←ここ重要)の文物は、
大和盆地のそれも南半分に一番濃く、そこから西へ多少の波及が見られるという感じだ。
東国と畿内を結ぶルートには、他にも木津川ルート、関ヶ原ルートなどがあるが、
多少の進出は見られるにしてもパッとせず、
巻向と伊勢平野を直結する初瀬街道(近鉄本線)ルートが、ぶっちぎりで濃厚であるのは、今のところ明らか。
突然、近江と山城に超巨大な東国系遺跡が発見されれば、
事情は全く異なってくるだろうが、そうなれば、畿内の弥生時代史自体が書き換えを余儀なくされるだろう。

巻向の勃興を探るカギは、大変にドメスティック(国内的)な話に尽きるのではないかと思っている。
大陸の文物とはあまり関係がないし、まして、中華文献が語るものは何もない。
(俺は、邪悪な権力バイブルである記紀は、邪悪な意図を考慮しながら多少参照するが、
無能な馬鹿文献である倭人伝は完全に無視する。それでも>1の解明には全く支障をきたさないと考える。)
東国との「交易」で、東国が供給した決定的資源は、
実は「人間の頭数(兵士を含む労働力)そのもの」ではないかと思っている。
264日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:30:40
・・・おそらく地方集落での首長権も安定の方向に向かったのではないか。
つまり世襲に近いシステムが出てくる。
265日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:54:12
>>262
その、食料を融通し合うシステムというのはまったく仮説もいいところなんだが、
ただ交易ということを考えた場合、越から山陰のように玉製品加工に特化してる
わけでもなく、黒曜石や製塩も何もない集落というのは多かっただろうと考えてる。
海産物などは長距離輸送は厳しいだろうし、貝の干物といってもねえ。w 

米は主たる交易品の一つだったろうが、自分たちの食い扶持でかつかつの集落も
多かっただろう。俺は弥生時代の食料における米の割合はそう大きかったとは考え
ていないが。

だから、すべてが交易を主目的として進展していったのではない、という気がする。
・・・縄文人が延々と書いていたが、洪水痕の見られる集落も多いわけだし、そのような
危急の時でも援助されるシステムがあれば地方の首長権は保たれ、安定して世襲の
方向へ向かう。これが古墳時代の豪族居館での専門祭祀という方向に繋がっていくの
かもしれない。ま、現段階では妄想なんだが。ww
266日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:58:46
>弥生時代の食料
この時代も貝塚が数多く作られており、米の割合はそれほど高くない。
焼畑をやっている痕跡があり、芋が作物の約半数を占めていると考えられている。
267日本@名無史さん:2010/11/20(土) 18:06:12
あとは倭王の権威に関して言えば、なぜ、スーパーグレート巫女の魏への朝貢が
あれほどタイムリーだったかを考えたい。俺は公孫氏からの乗り換え説をとっている
のだが、どうしてもスムーズに乗り換える必要性が巫女側にあったのだと思う。

・・・鏡は画文から三角に変わったが、主たるモチーフである神仙像はそのまま残る。
この東王父、西王母が並び立つモチーフは、案外スーパーグレート巫女の権威が
絶対的な物ではなかったことを表してるのかもしれない。www これも妄想だが。
268日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:40:00
>>262
>>交易というより各地集落のつながりには保険の意味
>>不作の時に食料を融通し合うシステムのあった可能性

>そうなると独占ではないだろうが、東海の生産力を仲介しながら利ざやを稼ぎ、徐々に富を溜め込んでいく複数の首長一族が畿内で台頭し
>そのうちのひとつもしくは複数の集合体が「オオキミ」を生み出したという理屈も成り立つ。

なんか長々書いてるけど、これって「交易」と同じ意味合いだと思うのだが。
東西交易の仲立ちとして富裕化、人と物が集まった大和・中河内に飛躍の素地があったということだよ。
269日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:52:01
>>259
>まあ別に舶載品に限らず国内流通でも良いんだが
>現時点で纏向にそう言った交易都市としての性格をいの一番に見るほどの資料が無いからじゃないかな?

いやまあ確かに無人都市とか言われてるマキムクだしw

初期前方後円墳が発掘出来なくて、マキムクの性格が分かりにくくなっていると思うよ。
おそらく掘れば、舶載品が大量に出てくると思う。弥生中〜後期の玄界灘グループ首長墓のように。
まあ、大陸との窓口である倭王位が筑紫→大和に移ったということだろう。
270日本@名無史さん:2010/11/21(日) 04:22:16
「掘ったら『俺が期待する遺物』が出てくるはずだ」というのは、
如何なる場面においても、どのような立場をとろうが愚論だろうよ。
こういうことを許せば、どんな出鱈目だって立論できてしまう。

「纏向を考えるときは、大陸のことは森羅万象一旦忘れるべきだ」というのが俺の持論で、
これは、単純に地理的条件から導かれるもの。
纏向は、とにかく大陸との交通が、「他地域(畿内も、西国レベルでも)相対的にみて」
極めて不便な「どん詰まり」にあることは、どうしても否定できない。
大和川水系がある、瀬戸内海・大阪湾がある、この交通路は栄えていた、というのは後付け論で、
それは、「纏向にたどりつける道は存在するよ。行けないわけじゃない。」という意味に過ぎず、
纏向の相対的優位性(ここも相対的だ)を基礎づける事実には、絶対にならないんだ。

昔、他スレで「平安時代の関東武士の経済基盤は、沿海州との交易だった」という変なことを書いていた人がいた。
沿海州から関東平野に、たどりつけないことは無い。
だが、地理的に見て、沿海州の交易民が、なぜ好き好んで本州最遠の僻地、
北朝鮮のノドンミサイルすら届かない(笑)、関東平野を選んで交易したのだ?という話になる。
271日本@名無史さん:2010/11/21(日) 10:36:11
>>270
>「掘ったら『俺が期待する遺物』が出てくるはずだ」というのは、
>如何なる場面においても、どのような立場をとろうが愚論だろうよ。

いやいや、それは考古学の限界性を示しているだけで、
出土するのは僅か数パーセントという謙虚な態度が必要。
そうしないと「マキムク無人論」とかに囚われてしまう。
「出ない」=「無い」、とか暴論だし、冷静に判断していかないと。

例えば黒塚発掘までは三角縁が大和から殆ど出土しないことから、
三角縁が大和を中心に分布することに懐疑的な人がいた。大和を中心にドーナッツ状に
出土してるにもかかわらずに。
大和の前方後円墳がブラックボックスになっているという厳然たる事実が横たわっている。

まず冷静に考古学の限界を認めようよ。
272日本@名無史さん:2010/11/21(日) 10:45:44
>>270
>纏向は、とにかく大陸との交通が、「他地域(畿内も、西国レベルでも)相対的にみて」
>極めて不便な「どん詰まり」にあることは、どうしても否定できない。

いやすでに思い込みがあって、弥生時代を代表する唐古鍵と距離的に近く、
そんな不便などん詰まりじゃないよ、少なくとも当時は。
273日本@名無史さん:2010/11/21(日) 11:04:06
>>267
>なぜ、スーパーグレート巫女の魏への朝貢があれほどタイムリーだったかを考えたい。
>俺は公孫氏からの乗り換え説をとっている
>のだが、どうしてもスムーズに乗り換える必要性が巫女側にあったのだと思う。

卑弥呼遣魏使が238年説もあるしね。
公孫氏攻撃中にのこのこ出掛けて行った倭人が魏軍に拉致られて、そのまま
明帝の所まで連れて行かれたというw だから土産物が少ないのだとか。

実際、239年だとしても、あのタイミングで公孫から魏に乗り換えするなんて、余りにスピーディ過ぎ、
かなりの離れ業的外交だと思うよ。
ここに、邪馬台国九州説の最後の可能性、余地がある。
大和・公孫氏・呉vs筑紫・魏 の対立構造があったんではないか?
274日本@名無史さん:2010/11/21(日) 11:49:48
>>270
>纏向は、とにかく大陸との交通が、「他地域(畿内も、西国レベルでも)相対的にみて」
>極めて不便な「どん詰まり」にあることは、どうしても否定できない。

多分、それは半分正しくて半分正しくないと思う。

”極めて不便などん詰まり”と言うのはあくまで西日本で考えた場合で
東海関東から見れば西にルートを切り開く場合、至便この上ない中継地点になるはず。

A点とB点を結ぶにはAからBに向かって線を引く以外にもBからAに向かって線を引いても良いはずで…

この「東日本からの視点」と言うのが従来の古代史に足りなかったんじゃないだろうか?
小林行雄にしても西方鏡群を(実際には古い様式のものが含まれる)東方鏡群より先に配布されたものとしたり
伝統的に(?)西日本だけでクローズドしがちだったんじゃ無いだろうか?wwwww

繰り返しになるが、纏向の勃興とその発展を説くキーとして「交易」を挙げる場合の最大の問題は
やはりその交易の実態が考古資料からは良く分らない事だろうと思う。
275日本@名無史さん:2010/11/21(日) 12:03:30
そうね。例えばある種の九州説は「東遷」という概念を用いるが、その根拠は三種の神器
副葬習慣の移動とか、銅鐸の廃棄とか他の要因で説明できるものばかりで、東遷の実態は
まったく見えてこない。「交易」についても、言葉だけが一人歩きして、それを用いることで何
かを説明したような気になってしまうことについて、十分自戒する必要があると思うね。

>>273
>余りにスピーディ過ぎ

そうかなあ。俺は半島在住の倭人と呼ばれる人がいたと思うし、列島の倭人も半島に常駐
していたのではないかと考えてる。鉄などの移入のためにね。
276日本@名無史さん:2010/11/21(日) 13:25:30
ていうか、考古学重視で説明する以上、「交易」くらいしか説明しようがないのが現実なんだが。
アンチ交易派にしても、弥生後期末から古墳時代にかけて、列島内の人と物の流れが急激に活発化した事実は
流石に認めるだろうし。
277日本@名無史さん:2010/11/21(日) 15:38:27
>>274
ところが、関東東海から見た場合、纏向は至便この上ないわけでも何でも無いんだなあ、これが。
東日本太平洋側からの視点を見た場合、
実は西から見た利便性の証明(大和川水系、瀬戸内海航路云々)より、さらに困難な論証を迫られる。

東日本から、西日本に通じる出口は、
A関ヶ原−近江ルート(東海道新幹線ルート)、B[加太−甲賀ルート(9世紀以降の東海道・草津線ルート)、
C加太−伊賀−木津ルート(関西本線ルート、8世紀の東海道)などがあり、
纏向に向かう「D初瀬街道(近鉄大阪線)ルート」というのは、相当マイナーなものなのだ。
このルートがいかにマイナーかということは、
8世紀以降、このルートが東西交通のメインルートとして歴史の表舞台に浮上することは、
近鉄大阪線敷設まで1度も無かったことから、よく分かる。

おそらくこの問題は、
「東国の側に、初瀬街道だと大変便利な勢力があり、その勢力がヘゲモニーを握っていた」
と考えることで解ける。初瀬街道で青山峠を越えたその先こそ、
S字甕の故郷である「雲出川流域」であり、こここそが「アヅマの故郷」であって、
纏向を支える最大のカギだろうと思われる。
278日本@名無史さん:2010/11/21(日) 15:41:52
琵琶湖に近い近江の国に金目教という邪教がはびこり・・・。
279日本@名無史さん:2010/11/21(日) 16:41:43
東海だけでなく近江を重視しろと言う意味か。確かに纏向1式期は大見の外来土器
多いな。
280日本@名無史さん:2010/11/21(日) 20:48:01
>>277
確かに伊勢湾沿岸地域も初期マキムクに参加していてだろう。
環濠消滅の時期も、大和と大体同じ時期だったようだし。

後世、皇祖神が鎮座するくらいなんだし、伊勢はプレ大和王権にとって
特別な場所だったとしてもおかしくない。
281日本@名無史さん:2010/11/21(日) 21:42:35
>>280
プレヤマト王権と、伊勢神宮を設置した主体がイコールとは限らないからなあ
いやこれはどっかが侵略してきたとか王朝交代ではなくね
282日本@名無史さん:2010/11/21(日) 23:24:10
>>280>>281
俺は、S字甕時代の伊勢と、伊勢神宮は絡めるべきじゃないと思うんだよなあ。
伊勢国は、伊勢神宮以前の伝承が存在しない(おそらく神宮遷座とともに抹殺された)ので、
7世紀より前の伊勢国の歴史について、
伝承(フォークロア)研究の方法で迫ることは無理。

ただ、雲出川=S字甕文化=東国文化のプロトタイプと、
纏向に向かう初瀬街道ルートが符合すること、
そして、このルートが東西交通を独占しているように見えることは、
纏向(畿内)の側というより、
東国(今の中京地方)の側の権力構造について、示唆するものがあるように思う。

つまり、東国太平洋側から畿内以西の交通は、すべて中南勢(三重県中部)に集約され、
そこから畿内へのルートが伸びていたと推測できる。
これは、中南勢の、濃尾・北勢に対する中央集権的統制がかなり強く、
関ヶ原や草津抜けのルートをとることを許さなかったことを示唆する。
やや冗談めかして言えば、
「津が名古屋を支配していた」という状態にあったことが、なんとなく見えてくる。
遺物の状況とも矛盾は来たさないと思う。

S字甕文化的な集権文化が衰退して、東国文化が東へ拡散の方向を示しだしたとき、
「新しい東国の拠点」が、信濃の山を分け入って山岳王国になるのではなく、
三遠地域(今の豊橋から浜松)に移動したというのも、示唆するものがある。
津からならば、海上交通と渥美半島の陸路双方から、豊橋は意外に近い。
283日本@名無史さん:2010/11/21(日) 23:36:11
誰かいないのかー
284日本@名無史さん:2010/11/22(月) 07:38:34
>>282

> 伊勢国は、伊勢神宮以前の伝承が存在しない(おそらく神宮遷座とともに抹殺された)ので、
> 7世紀より前の伊勢国の歴史について、
> 伝承(フォークロア)研究の方法で迫ることは無理。


そうなのか?
285日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:45:42

纏向には住居跡がない。
巨大建築物が見つかったと言って大騒ぎしたが、住居跡ではない。
一方で祭祀に使われたらしいものが大量に発掘されている。
纏向は祭祀場ではないかな。

都と言うより、秋の収穫祭のようなものを全国規模で大々的に執り行う場所であった。
だからあちこちの土器が見つかる。
土器は各地の収穫物を持ち寄ったのではないか。

その祭りが行われなくなると、大規模古墳が築造されるようになる。
ここで、祭祀を行う種族の政権交代みたいなものが起きたのではないか。
阿波とか讃岐とか吉備あたりにその起源が有りそう。

纏向を追われた一族は出雲に行った。
纏向の収穫祭祀は出雲の神在祭り、全国的には神無月になったと考えられる。
286日本@名無史さん:2010/11/22(月) 11:44:52
>>285

> 纏向には住居跡がない。


今後発見される可能性もあると思う。
287日本@名無史さん:2010/11/22(月) 12:42:39
そうだよ。
今後に出土が予想されるものを想定して学説を提唱することは大切だよ。
日本を代表する想定考古学の権威が集まって、今のマキムク=邪馬台国がある。

想定考古学に栄光あれ〜〜〜



288日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:42:05
>今後に出土が予想されるものを想定して学説を提唱することは大切だよ。

可能性で言うなら、吉野ヶ里の近くの日吉神社の境内から金印が見つかる可能性だってある。
あそこは低いがマウンドになっていて、径100歩くらいになる。
神社だから発掘は出来ないが。
289日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:48:59
学問としては今見つかっている物だけで組み立てるべきだな。
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とした小林は
中国でもいずれ三角縁神獣鏡が見つかるだろうと思っていたらしいが
結局見つからず、中国の学者に否定されて大恥をかいた。

箸墓周濠から見つかった木製輪鐙は箸墓が5世紀前後の墓である事を
明らかにしてしまったし、畿内説は可能性ゼロだな。
290日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:50:35
ちなみに安本は箸墓は4世紀後半としている。
291日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:39:52
>>280
それにしては前方後円墳の出来る時代が遅くないかい?
伊勢どころか伊賀でさえ。
292日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:49:19
このスレで邪馬台国論争をやると議論が拡散して収拾がつきません。
あくまで>>1の問題提起に沿って議論するべきでしょうね。
邪馬台国は別スレでどうぞ。
293日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:58:56
>>282
地図見て貰えば今でもなんとなく分かると思うけど、
濃尾平野の西側(大垣、羽鳥の辺りから河口まで)は昔は川の氾濫で、
恒常的な街道を営むのが難しかったんですよ。
名古屋から琵琶湖方面に抜けるのは難しかった。
だから桑名を拠点にして養老山地沿いに行き来した。
北側の養老街道と南側の藤原街道。
江戸時代になっても東海道は名古屋を経由せず、
熱田神社から桑名へ七里渡しで船に乗るくらい。

それから松坂や鳥羽から渥美半島の海路も重要です。
土器の分布を見ても陸路よりも関係が濃いです。
松坂港は現代になるまでずっと重要な港ですし。

ただ古墳時代に入ってから、
ヤマトの影響が濃くなるのはかなり時代が下る。
この辺りをどう説明していいか良く分からない。

294日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:02:10
>>286
もう十分発掘しただろw
伊勢や伊賀は戦後に破壊し尽くされたのが、勿体なかった。
伊勢や伊賀からヤマトの影響変遷を見る事ができるような遺跡発掘はなさそう。
295日本@名無史さん:2010/11/22(月) 19:46:43
>>290
箸墓の見つかった土器は、それまでは4世紀後半〜5C初め頃のものとされていた。

よりにもよって箸墓でそれが発見されたので、今では3世紀半ば頃とされている。

まあ、宗教化とはよく言ったものだな。
296日本@名無史さん:2010/11/22(月) 20:02:41
>>291>>293
問題は、不破越えというより加太越えが塞がれているようにみえることなんだよ。
加太越え(または鈴鹿峠などその周辺を越える道)こそ、後代一貫する東海道本道であって、
この道が弥生時代から東西交通のメインルートだったとしたら、
畿内側の最大の拠点は、(近江に出るが湖南か)木津の谷間か京都盆地になるはず。
水運を担うと言う点でみても、
大和川に出来て、淀川や木津川に出来ないことは無いはずなのだ。
(亀の背を越える必要が無く、山崎は渓流で済むので、こちらのほうが川のぼりは楽だ)

前方後円墳の時間差は、気にする必要は無いと思う。
というのは、中京地方は、前方後方墳の本場であって、
これはもう一つの、「東国文化の独自性」の現れとされている。
(むしろ逆に、大和盆地に濃尾勢起源の前方後方墳が大進出していることの説明のほうが重要)
「纏向の勃興を握るカギとなる地方だが、纏向本体とは、相当文化が違う」
ということで良いと思う。
297日本@名無史さん:2010/11/22(月) 22:38:42
>>285
>都と言うより、秋の収穫祭のようなものを全国規模で大々的に執り行う場所であった。

「秋の収穫祭のようなものを全国規模で大々的に執り行う」ということの意義というか必要性があるのかな。
祭祀が行われたであろうとは思われるが、それは大型古墳(箸中山古墳)の築造に関係したものではないか。
各地の土器の存在は古墳築造のために集められた人夫達が持ち込んだものだろう。こう考えた方が理解しやすい。

また、大型建物と言っても、柱はさほど大きくなく、短期間(10年前後か)の使用に耐える程度のものを拵えた
という感じである。つまり、臨時的なものという印象である。
298日本@名無史さん:2010/11/22(月) 23:36:32
>>285
別に、突然遥か彼方の島根県の話なんて持ち出さなくても、
信仰ネタについては、普通に三輪山に接続させればいいんじゃね?
考古学的に、三輪山信仰は、纏向より後の発生であることが明らかになっている。

(俺自身は、三輪山信仰の起源と意味については自説があるけどね。
東国の氏族のうち、三輪を何らかの形で起源に組み込む氏族は大変に多い。)
299日本@名無史さん:2010/11/23(火) 02:42:31
>>296
加太越えと鈴鹿峠は全然レベルが違う。
300日本@名無史さん:2010/11/23(火) 02:44:43
>>296
どうして前方後円墳の時間差は気にしなくてもいいのに、
前方後方墳大進出の方は重要なの?
表裏一体の関係でしょ?
伊賀、伊勢を支配していたどころか、
古ヤマトの支配者群の一員であった可能性すらあるのに。
301日本@名無史さん:2010/11/23(火) 15:05:59
>「秋の収穫祭のようなものを全国規模で大々的に執り行う」ということの意義というか必要性があるのかな。

全国規模と言っても吉備・阿波・東海程度だし、大したものではない。
祭祀に使われた遺物が沢山見つかっているのだから祭祀が行われた事は間違いない。
人が住んでいなかったのであれば、そこは祭祀を行う為に年に一度くらいあちこちから集まって来たと考える。
そのように考えつかない香具師はアホだろう。

古墳が作られる頃には纏向祭祀は終わっている。
纏向に古墳を作った連中と、纏向祭祀を行った連中は違うと考えた方が良いのではないかな。
302日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:29:24
>>301
水田耕作など共同作業を行った集落の民が収穫を祝う祭りを行うのは自然だが、何日もかかる遠方から集まって行う祭りなど
考えられるか?

>古墳が作られる頃には纏向祭祀は終わっている。
そんなことが言えるか?
303日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:41:38
宗教的行事だからな『以十月祭天、國中大會』

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.html
「 弥生時代、三輪地域には芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡など、色んな集落遺跡が存在していました。
逆に、北の纏向遺跡や南の初瀬地域には、僅かに弥生後期になって遺物散布地が見られるといった
状況であり、弥生当時は、三輪地域に集落が多く集まっていたという傾向が見られました。
 それが、弥生時代から古墳時代に移りかわる庄内式の時期になると、事態は急変します。
三輪地域の集落遺跡群はこの時期になって突然終焉を迎え、それより上の地層から集落の痕跡は途絶えます。
一方、北の纏向地域では「纏向遺跡」としてまとめられる集落・墳墓群から構成される大型遺跡が突如出現し、
どうやら、この遺跡が当時、奈良盆地における最大の勢力として栄えたようです。
この遺跡を邪馬台国や、ヤマト政権の前段階に比定する学者もいるほどです。」

つまり箸墓の庄内式土器が作られる頃には【突然】纏向祭祀は終焉を迎えた。
304日本@名無史さん:2010/11/23(火) 22:45:20
「秋の収穫祭」というと何だか嘘くさいが、元ネタの東夷伝・高句麗の条がこれだな。

>以十月祭天大會、名曰東盟。其國東有大穴。號隧神、亦以十月迎而祭之・・・

十月に国中が東の大穴のある場所に集まって、「隧神」を祀る・・・
纏向の祭祀は土坑の中身なんかを見ても農耕儀礼的であるのは間違いないのだが・・・。
305日本@名無史さん:2010/11/24(水) 00:06:48
>>301
時系列で言うと、纏向建造時に先駆けて造られたと見られる大溝底辺には
唐古・鍵に多く見られる鳥型木器が、単なる廃棄とするにはあまりにも大量に敷き詰められるかのように出土している。

これを旧来の宗教の破棄とみるか、逆に深い信仰心と見るかは各論あるが
布留0式が出現する層からは、鳥型木器は今のところ出土しない。

布留0式と並列する祭祀具は、代表的なのが円筒埴輪。
だがこれとて吉備式(箸中山出土)としては、やや古風なデザインを大型化したものであるとの見識もある。

纏向でどのような祭祀が行われていたのかはいまだ不明だが
ごくごく短期間の間に、真逆の宗教に宗旨替えしたかのような現象繰り返し何度もが起きていて
それ故に宗教そのものの教義や精神的主柱よりも、実理性(付属する技術など)が主であったという
ある意味無宗教(=先進文化が矢継ぎ早やに万博会場みたいに次々と集結する驚きによる唯物主義に近い)に見える状況を作り出したのではないか?

つまりそれくらい当時の列島各地の固有文化や技術というのは、各々が任意の方向に特化していたほどに先進的であったということかも。
四隅の築造技術などは、当時の半島や大陸を凌駕していた部分もあるし。

乱暴な言い方だが、纏向が結果的に技術と交易(商業的知識)の万博となって
それが畿内各首長だけでなく各地の首長間における交流(血縁の交差)をも生んだのかもしれない。
もちろんそれ以前に隣国同士の政略結婚は常にあったというのは勿論だが。
306日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:15:58
ちょっと寄り道になるが、日本の伝統月名のうち「葉月」「神無月」「水無月」などの例から、
日本の最も古い年初は、晩秋(中華暦亥月正月:史記にいう「楚正」)だったという説もある。
神無月と出雲大社の有名な話は、明らかに出雲大社が自分の祭りのPRのために創造した屁理屈で、
おそらく素朴に、収穫後の祭りが全国にあったのだろう。
天文的には冬至から1カ月程度フライングしてしまい、10月正月(楚正)のような状態になる。

307日本@名無史さん:2010/11/24(水) 01:18:41
>>306
10月が正月って、秦や藏緬系の太陽暦だよ。
308日本@名無史さん:2010/11/24(水) 02:34:23
確かに>>289の言うように
>学問としては今見つかっている物だけで組み立てるべき
と言うのが正しいのだろう。

(ただし”現時点見つかっていない”と言う事でも論の根拠ですべきではないと思うし
 >畿内説は可能性ゼロだな。
 とか言っているが九州説には如何なる材料も無いのだから可能性も何も
 そもそも説として存在しないのが現実なわけだがwwwww)

で、現在の材料だけで考えると上に出てきているような「祭礼特化型都市」のような姿(日本版ペルセポリス?w)になるのも
自然な道理だとは思うが…

そうなると一つ疑問なのが
「じゃあ、その祭礼に特化した纏向を運営していた勢力、纏向を管理保守していた勢力は何処に存在したのか?」と言うことなんだが…

纏向を後世の伊勢神宮のような空間に例えるなら
実際に政治が行われていた京の都に相当する場所があったはずで…

まあ普通に考えて奈良盆地の何処か?いくらなんでも畿内だとは思うが…
309日本@名無史さん:2010/11/24(水) 09:44:05
>>308
> じゃあ、その祭礼に特化した纏向を運営していた勢力、纏向を管理保守
> していた勢力は何処に存在したのか?」と言うことなんだが…

管理保守していた勢力は何処に存在したのか? もなにも すぐそばの太田地区に現在に至るまでずっと住み続けている・・・・・・・ という考え方もありえます。
現在住宅が建っている集落の場所は 掘れない。

http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-3_1.html
310日本@名無史さん:2010/11/24(水) 17:54:43
いや、家建て直す時に出てくれば掘れるが?
311日本@名無史さん:2010/11/24(水) 19:04:48
あのあたりで建て直すとき出てきた実例とかあるのかな?
312日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:26:34

■奈良・秋津遺跡 大和政権の重要施設か? (動画あり)

毎日放送 11/24
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101124180700409274.shtml

 奈良県御所市で、今年1月に発掘された古墳時代の「秋津遺跡」で新たな発見です。

 遺跡内の柱の跡などから大和政権に関わる大規模な重要施設だった可能性が出てきました。

 秋津遺跡は和歌山から奈良盆地に入る交通の要所にあたり、御所市で建設中の京奈和自動車道の工事現場で今年1月に見つかりました。

 奈良県立橿原考古学研究所のその後の発掘調査で、幅20センチほどの溝に立てられた板塀の中に一辺が7メートルから13メートルの建物が立ち並んでいたとみられる跡が見つかりました。

 建物群は古墳時代前期に計画的に造られたとみられ、区画は最大で一辺が50メートル以上あるものもあり、全体では南北が400メートル、東西が700メートルにも及ぶ巨大な施設だったとみられています。

 研究所では、大和政権に関わる重要な施設の可能性があるとして調査を進めています。
313日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:38:23

■秋津遺跡:大型建物群跡発見 ヤマト王権の重要祭祀施設か

毎日新聞 2010年11月24日
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101125k0000m040060000c.html

 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。

 昨年5月から約1万8500平方メートルを調査し今年1月、方形区画の一部を確認したと発表。これまでに区画が六つ見つかり、いずれも杭を打ち並べた溝の内外を、2〜3メートル間隔で打った丸太で押さえる特異な構造の塀で囲まれていた。
最大の区画は南北50メートル、東西48メートル以上と国内最大規模で、内部に南北13.5メートル、東西7メートルの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。

 区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、橿考研は「内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性がある」とみている。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀の記述はなく、古代史上「空白の4世紀」とされる。

 この施設で誰が祭祀などを行ったかについて、学者の間からは ▽ヤマト王権 ▽5世紀に大王(天皇)の外戚として栄え、この地域を支配した葛城氏につながる豪族
−−などの見方が出ている。

 現地説明会は28日午前10時〜午後3時。JR玉手駅の南西約1.4キロ。駐車場あり。雨天決行。【高島博之】

・秋津遺跡で確認された大型建物跡=奈良県御所市で2010年11月24日午前11時55分、小松雄介撮影
http://mainichi.jp/select/wadai/news/images/20101125k0000m040065000p_size5.jpg

・大型建物群跡の見つかった秋津遺跡
http://mainichi.jp/select/wadai/news/images/20101125k0000m040112000p_size5.jpg
314日本@名無史さん:2010/11/25(木) 09:33:21
こういう遺跡も調査後は道路にして潰してしまうの?
315日本@名無史さん:2010/11/25(木) 17:25:34
石野博信氏は纏向の祭祀は高句麗の東明祭に似ていると言っている。
316日本@名無史さん:2010/11/25(木) 18:33:59
>>313
土器編年的にはいつ頃なんだろ?
317日本@名無史さん:2010/11/26(金) 19:18:21
昨年の区間や建物群は布留1式後半から布留2式だったけど。
今回のも一連のものだろうから、同じだろう。
318日本@名無史さん:2010/11/27(土) 21:32:43

■秋津遺跡 現地説明会のご案内 (PDF)(地図あり)

  京奈和自動車道御所道路第7工区

奈良県立橿原考古学研究所>秋津遺跡現地説明会(2010年11月28日)のご案内
http://www.kashikoken.jp/event/gensetu/2010/akitsu-gensetsu.pdf

秋津遺跡(御所市條地区)で、古墳時代前期の大型方形区画施設と竪穴住居跡群を検出いたしました。

実施日時:平成22年11月28日(日)10時から15時 (説明は,随時行います。)
 ※小雨の時は決行いたしますが、悪天候の場合は中止といたします。

実施場所:御所市條地区 (秋津小学校より東200m付近) JR 玉手駅より南西に徒歩約40分。
 ※駐車場に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用下さい。

実施機関:奈良県立橿原考古学研究所 電 話 :0744-24-1101
      調査現場受付:090-1717-6614(当日のみ問い合わせ可)

----------------------------------------------------------------------

※参考 昨年度発掘調査の現地説明会資料(PDF)

・秋津遺跡 現地説明会資料(2010年1月24日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2009/akitsu2.pdf
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319日本@名無史さん:2010/11/27(土) 22:20:25

■象鼻山古墳群:計画的遺跡 2世紀ごろ、一斉に築造 「実力者の共同墓地か」 /岐阜

毎日新聞 2010年11月25日
http://mainichi.jp/area/gifu/news/20101125ddlk21040045000c.html

 ◇養老町教委

 養老町教育委員会は24日、同町橋爪の象鼻山(ぞうびさん)古墳群が、2世紀中ごろから後半に大規模な造成をした上で、計画的に一斉に造られた遺跡であることが分かったと発表した。
地域の有力集団が代々の統率者を葬る一般的な古墳群とは異なり、濃尾平野を中心とする広範な地域の複数の集団が、実力者を埋葬する共同墓地として利用した可能性が高いという。

 同古墳群は、濃尾平野の西端にある象鼻山(標高142メートル)の山頂周辺に70基の古墳が確認されている。
今回の調査は、山頂から直線で約200メートル離れ、標高の低い二つの古墳を発掘。16メートル四方の方墳と20メートル×17メートルの方墳が見つかり、出土した土器から2世紀中ごろから後半にかけての築造と分かった。
いずれも大規模な整地をした後に盛り土して墳丘を造っていた。

 山頂周辺では、この2基とほぼ同時期に造られた5基の古墳が確認されており、最も北に位置する1号墳(3世紀後半)を例外として、同時期に同じ方法で築造されていた。

 同町教委は「一つの地区だけで、これほどの古墳を同時に造ることはできない。濃尾平野全体の古墳ではないか。まだ内容が明らかになっていない墳墓が中腹にあり、これらの性格も明らかにしたい」と話している。

 同古墳群調査整備委員長の宇野隆夫・国際日本文化研究センター教授は
 「一斉に計画的な造墓を始めた稀有(けう)な事例であることが明らかになった。水陸交通・景観の結節点にあたる象鼻山とその周辺地域を聖地として、濃尾平野を中心とする広範な地域の複数の集団の有力者が葬られたものと推察される」
とコメントした。

 同教委は27日午後1時から現地説明会を開く。小雨決行。来年2月11日には象鼻山古墳群シンポジウムも養老町民会館で開催する予定。

※岐阜新聞写真
象鼻山古墳群の20号墳
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101125/201011250945_12254.jpg
※記事
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101125/201011250945_12254.shtml
320日本@名無史さん:2010/11/28(日) 17:23:42
秋津遺跡行った人いる?
321日本@名無史さん:2010/11/28(日) 18:55:03
行った 以上












結局のところ 去年の方形区画の続きが出ただけ。目新しいことなし
322日本@名無史さん:2010/11/29(月) 20:38:14

■畿内か九州か、いや山陰だ 古代史サミット

日本海新聞2010年11月28日
http://www.nnn.co.jp/news/101128/20101128038.html

 古代日本の邪馬台国の位置を論じ合う「古代史(邪馬台国)サミット」(山陰古代史研究会設立準備委員会主催)が27日、鳥取県境港市上道町の市民会館で開かれた。
山陰説、畿内説、九州説をそれぞれ唱える3人の研究者がパネル討論などで自説を熱く主張し、論争に火花を散らした。

 2012年の「古事記編さん1300年」やパワースポットブームを踏まえ、古代の歴史資源を観光振興に生かしたい鳥取、島根両県の行政や経済界などもサミットを後押し。
地元で「神在(かみあり)月」と呼ぶ11月(旧暦10月)に開かれ、全国から約350人の古代史ファンが集まった。

 山陰説のパネリストは、昨年末に「新説・邪馬台国山陰説−論点整理」を著した古代史研究家の田中文也氏=境港市渡町=。九州説では「邪馬台国を考える会」の奥野正男会長を、畿内説では岡山大学の松木武彦教授をパネリストに迎えた。

 田中氏は
「山陰は世界でもまれな自然環境に恵まれ、稲作文化の弥生時代には西日本の先進地だった可能性が高い。古事記、日本書紀のほぼ100%は山陰地方の話であることもそれを裏付ける。古代日本の中心地は山陰だった」
と主張。松木氏から
「政治か、経済か、どんな中心地だったのか」
と質問を受けると
「政治ではなく産業技術を伝える役割を果たしたのではないか」
と答えた。

 松木氏は、前方後円墳の規模から畿内が政治的中心だったとしながらも
「宗教的な中心が出雲にあったと思っている」
と説明。奥野氏は魏志倭人伝の検証を基に
「甕棺(かめかん)の中から遺体とともに後漢鏡が数多く見つかった」
として吉野ケ里遺跡(佐賀県)こそ邪馬台国と主張した。

邪馬台国の位置をめぐり、熱く論じ合う(左から)奥野、松木、田中の各氏=27日、境港市上道町の市民会館
http://www.nnn.co.jp/news/101128/images/IP101127TAN000127000.jpg
323日本@名無史さん:2010/11/29(月) 21:41:37

■神崎遺跡:弥生後期、移民が作った環濠集落 年明けにも国史跡指定−−綾瀬 /神奈川

毎日新聞 2010年11月29日
http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20101129ddlk14040123000c.html

 ◇土器の95%「東海」と特徴一致

 綾瀬市吉岡にある弥生時代の環濠(かんごう)集落「神崎遺跡」が今月、国の文化審議会の答申を受け、年明けにも国史跡として指定される見込みとなった。
環濠集落全体が残る全国的にも数少ない遺跡で、住民が東海地方から集団移住したことを示す土器も出土し、当時の社会変動を知る貴重な資料として注目されている。

 神崎遺跡は相模川の支流・目久尻川に面した標高24メートルの台地にあり、面積約5000平方メートルで1800年ほど前の弥生時代後期の環濠集落。
周囲に防御のためにめぐらされた濠(ほり)の幅と深さは約1・8メートルで、断面はV字形になっている。これまでの調査で竪穴建物が9棟確認され、全体で15棟前後あると推定されている。

 特徴は、縦穴建物の様式が関東地方ではあまり見られず、出土した土器=写真・綾瀬市教委提供=の95%以上の形状が、愛知県東部から静岡県西部周辺の地域で見られる特色を持つこと。
土器の材料となった土の成分を分析した結果、遺跡周辺の土で作られていることが分かり、東海地方から人々が集団で移動してきたことを裏付けた。

 弥生時代は稲作と金属器の使用が始まり、国家の成立へと向かった時代。水田となる耕地や輸入品であった鉄器の獲得のため、国内各地の集団は緊張関係にあったとみられ、防御拠点の性格を持つ環濠集落が全国に出現したとみられる。
市教委の文化財担当者は「揺れ動く社会情勢を背景にして、東海地方から関東地方への集団移動につながったと推測できる」と話している。【長真一】


※参考 文化庁報道発表
 ■史跡等の指定等について(11月19日)
http://www.bunka.go.jp/oshirase_other/2010/pdf/shiseki_shitei_101119.pdf

3 神崎遺跡 【神奈川県綾瀬市】

神奈川県の中央部付近を流れる相模川の支流目久尻川に面した標高24m,沖積地との
比高差約11mの台地上に立地する,南北103m,東西65m,面積5,000 uほどの弥生時
代後期の環濠集落。環濠は,幅・深さともに1.8m前後で断面V字形を…(以下略)
324日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:18:12
>>315
>石野博信氏は纏向の祭祀は高句麗の東明祭に似ていると言っている。

まあ石野本人も全体の印象ってレベルで具体的な根拠はあまり無く
ツッコミかけるのも意味が無いのかもしれないがw

高句麗=半島=北東アジア系と言うのはどうなんだろうか?

個人的には祭祀にしてもまだ”非・北東アジア系”の文化が色濃く残っていたのではないかと想像もするんだが…

まあこれも大した根拠があるわけじゃないが強いて言うなら
他でもない倭人伝の卑弥呼や壱与といった存在。

無論、中華フィルターがかかっている事を十分に考慮しなければならないが
何らかの形で政治にコミットしていたのは間違いないところだろうが
そう言う文化って北東アジア系の中にあるものなのかな?

話は変わるが先の九州場所もモンゴルマンが優勝したが
相撲も北東アジア発祥だったと思うが
埴輪に力士をかたどったものが出てくるのも5世紀からだったか?w
325日本@名無史さん:2010/11/30(火) 21:18:49
高句麗を遊牧民族と比較してはいかんよ。農業の重要度ははるかに高い。
326日本@名無史さん:2010/12/01(水) 00:47:16

■紫と黄色のガラス玉、伊都国王墓の遺跡から出土

読売新聞 2010年11月30日
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20101130-OYS8T00235.htm

 中国の「魏志倭人伝」に記された伊都国の2つの王墓がある糸島市の三雲・井原遺跡から出土したガラス小玉の中に、国内では極めて珍しい紫色と黄色の小玉が含まれていたことがわかった。
市教委文化課は「海外から渡来したもので、伊都国が対外交流の中心であったことを示す資料」としている。

 小玉は、紫色が奈良文化財研究所(奈良市)、黄色は福岡市埋蔵文化財センターで、X線での分析や顕微鏡による観察を行った。

 市教委によると、紫色の小玉は直径約1ミリで、2006年度の調査で2つの木棺の中から、中国製の銅鏡と一緒に185個が出土した。マンガンで着色されたカリガラスで、通常はインドから東アジアにかけて分布している。

 黄色の小玉は直径約5ミリで、04年度の発掘調査で甕(かめ)棺の中から4個が出土した。鉄で着色されたソーダ石灰ガラスで、通常は西アジアから北アフリカ、ヨーロッパに分布している。

 いずれも着色の成分は、当時の日本では使われていなかった。中心に穴があり、ひもを通して首飾りにしたと考えられるという。

 同課の江崎靖隆主任(34)は「弥生時代後期の国内では作ることができないもの。中国大陸から渡ってきたものと推測される」と話している。

・紫色のガラス小玉(糸島市教委提供)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20101130-975069-1-N.jpg

・黄色いガラス小玉(糸島市教委提供)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20101130-975092-1-N.jpg
327日本@名無史さん:2010/12/01(水) 01:12:34

■環濠の底に多数の棒 わな?祭祀用? 原の辻遺跡

西日本新聞 2010年11月30日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/212794

 壱岐市芦辺町の国指定特別史跡「原の辻遺跡」でこのほど、県教委による発掘調査の現地説明会があり、本年度の成果を地元住民らに説明した。

 遺跡北西部から出土した環濠(かんごう)跡(幅約2・5メートル、深さ約60センチ)の底に、竹のような植物で作られた長さ約20−25センチ、太さ1−1・5センチの棒が多数打ち込まれているのが発見された。
棒は土中の先端が斜めに切られており、約2平方メートルの範囲に約150カ所、不規則に打ち込まれていた。

 県教委は
 「棒が弥生時代のものかどうかは科学分析の必要がある」
とした上で、棒の目的について
 「魚を捕るわなや祭祀(さいし)など、想像はできるが全国的にも例がないので分からない。民俗学的な見地も取り入れて調査したい」
としている。

 遺跡南側の発掘調査では、幅5メートル、深さ1・8メートルの環濠遺構が発見され、同遺跡の周囲に多数の環濠が張り巡らされていたことをあらためてうかがわせた。
弥生後期のものとみられる約3メートル四方の住居跡と、そのそばに子どもを葬ったとみられる甕棺(かめかん)も出土した。

・遺跡北西部の環濠の底で見つかった無数の竹状植物が刺さった跡。印の棒の横に黒い穴の跡が見える
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20101130/201011300002_000.jpg

・底に無数の細い棒が打ち込まれていた環濠跡
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20101130/201011300002_001.jpg


※長崎県埋蔵文化財センターサイト 原の辻遺跡 発掘調査現地説明会 (2010.11.22更新)
http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/upfile/setumeikaiPDF035.pdf
328日本@名無史さん:2010/12/01(水) 01:20:01
「謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!51」
から貼り付け。レズ411。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290169246/

---------------------------------------------------------------------------

 時間と空間および歴史の所有をめぐる両極性
   −沖縄・大和・北海道の対比から−

               東海大学文学部歴史学科考古学専攻 北條芳隆
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/arch/pdf/jikukan-ryokyoku.pdf
(以下引用。9ページ)

5.「大和」原景観の誕生

前方後円(方)墳の空間配置

 西暦3世紀の後半に巨大前方後円墳は誕生する。舞台は奈良盆地の東南部である。そのときここで何が誕生したかといえば、前方後円(方)墳を活用した独特な空間配置であった。
図10に模式的な俯瞰図として示したのでご覧頂きたい。右下に大きく示したのが最古の巨大前方後円墳である箸墓古墳であり、『魏志倭人伝』[石原訳1951]に記載された卑弥呼の墓ではないかと指摘される。……
329日本@名無史さん:2010/12/01(水) 03:17:52

同じく「謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!51」
から貼り付け。レス421。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290169246/

---------------------------------------------------------------------------

で、読んでいくとこんなことが書いてあったぞ。終わりの方

>たとえば西暦3世紀の後半に倭王権が直面することになった喫緊の課題は、
>魏王朝の構築してきた歴史とどう向き合うかであった。この時点において高
>度に抽象化された時間表示装置をそのまま受け入れることは、王権としての
>政治人格の放棄に直結する。そのため相当強引に政治「始祖」を創出するこ
>とで当面の危機をしのいだのであろう。その強引さは『魏志倭人伝』の女王
>卑弥呼の埋葬記事に端的にあらわれている。そこには「殉葬者奴婢百余人」
>と明記されているからである。多大な犠牲を強いて政治「始祖」を誕生させ
>る前方後円墳祭祀が考案され、以後一定期間累積的に反復させたとみるべき
>であろう。
330日本@名無史さん:2010/12/01(水) 22:58:06
殉葬百人と言うのは大げさに書いたんだろう。
実際に殉葬百人の墓など日本にない。
九州には数人程度の殉葬墓が見つかっている。
魏志はこれを大げさに百人と書いた。
径百歩の墓も大げさだな。
当時の中国の皇帝の墓でも例えば劉備の墓は径60m位だ。
331日本@名無史さん:2010/12/02(木) 03:57:21
>>330
殉葬は魏志のみならず日本側の文献にも出てくるから確実に行われていたに違いない。
考古学は殉葬百人を否定できるほどには発掘調査の積み上げをやっていないと思われ。
ところで、

>九州には数人程度の殉葬墓が見つかっている。
>魏志はこれを大げさに百人と書いた。

それなら君の言うその九州の墓が卑弥呼の墓ということになるのだが一体どこなのだ?
332日本@名無史さん:2010/12/02(木) 17:39:24
>>331
>古学は殉葬百人を否定できるほどには発掘調査の積み上げをやっていないと思われ。

おかしな事を言う。
「否定するための積み上げ」って何なんだ?w

あくまで「出てきたモノ」で理論を構築して行くのが考古学って言うジャンルじゃないのか?

大体「日本側の文献」と言うのなら記紀の事を言っていると思うが
そこに書かれているのは埴輪の起源に絡んでのお話で
埴輪は殉葬の代替品として書かれている。

ならば殉葬も埴輪が置かれた墓域内にあったと見るが道理だと思うが
そのような事例は聞いた事が無い。

箸墓にしても書き起こされた測量図等を見ても「殉葬百人」が推測できるようなモノは特に無いと思うが・・・

まあ>>328の「東海大学文学部歴史学科考古学専攻 北條芳隆」のお話は
徇葬が言わば卑弥呼の「ハクづけ」の為に実際に行われたとしている点にしても
牽強付会に過ぎると思うがw
333日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:37:21
吉野ヶ里の北墳丘墓には複数の遺体が埋葬されており、
DNA検査の結果それぞれに血の繋がりが無いと判っている。

つまり、他人が一緒の墓に入っている。
そしてその遺体の一つは副葬品から見て間違いなく吉野ヶ里の女王だ。
吉野ヶ里が邪馬台国であるかどうかはわからないが、
九州には殉葬の風習があった事だけは確かだな。

福岡の墓でも方形周溝墓の周溝に甕棺が複数埋められていて、
殉葬では無いかといわれている。
334日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:56:22
>>333
一つの墓に複数の埋葬施設があるなんて事例なら他にもあるだろうさ。
(単に複数の埋葬施設と言うのなら前方後円墳にもある)

そんなものをもって徇葬の跡と言うなんて根拠が無い。


335日本@名無史さん:2010/12/02(木) 18:58:56
>>333
>DNA検査の結果それぞれに血の繋がりが無いと判っている。

思い出したが、それって初め高島センセイは両者に何らかの血縁関係があって
それで卑弥呼と壱与と言う筋書きで勇んでDNA鑑定にかけたんだっけ?wwwwww

336日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:12:38
九州説はなんでこんなに必死なんだ?殉葬にしても確定とされたものは
どこにもない。トンデモを積み上げるほどに信憑性が薄れていく。
337日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:47:59
まあチト話は逸れるんだが・・・

現時点において明確な徇葬跡が見つかっていないと言うのも個人的には不思議w

まさか古代において現在のような人道主義みたいなものがあったわけじゃ無し。
338日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:05:37
>一つの墓に複数の埋葬施設があるなんて事例なら他にもあるだろうさ。
(単に複数の埋葬施設と言うのなら前方後円墳にもある)

前方後円墳の複数の主体は夫婦か親子に限定される。多くても三つだろう。
ところが吉野ヶ里の物は夫婦でもなく、親子でも無い7つほどの遺体があるのだ。
女の墓だ。
奴婢を殉葬したと推測できる。
339日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:23:33
>>338
>前方後円墳の複数の主体は夫婦か親子に限定される。多くても三つだろう。

「夫婦か親子に限定される」
ほう、初耳だな。どうやってそれを論証する?

「多くても三つ」
おやおや、自分で考古無知を晒すアホが居たか。w
340日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:26:01
九州説の馬鹿が入り込むとスレのレベルが一気に低下するな。
341日本@名無史さん:2010/12/03(金) 00:21:41
>>317
古墳に対して祭祀施設が少し先行するのが共通する特徴なのかね。
342日本@名無史さん:2010/12/04(土) 10:42:37
少なくとも九州には複数の殉葬墓がある。

畿内からは殉葬は見つかっていない。

悔しかったら箸墓発掘するんだね。

埴輪の由来を書紀では殉葬を無くすためと言っているが、
箸墓には既に埴輪が存在しているから、発掘しても殉葬が見つかる可能性は
無いけどね。
343日本@名無史さん:2010/12/04(土) 12:37:10
>>342
> 少なくとも九州には複数の殉葬墓がある。

確実に同時期の埋葬と思われる例が有るのですね。
検証させていただきたいので、具体例を御呈示ください。

> 埴輪の由来を書紀では殉葬を無くすためと言っているが、

>出雲国之土部壱佰人自領土部等取埴以造作人馬及種種物形献于

垂仁紀で野見宿禰が発案したのは人馬の形象埴輪ですよね。
これは、4世紀以降に登場する土器群です。

> 箸墓には既に埴輪が存在しているから、発掘しても殉葬が見つかる可能性は無いけどね。

まさか箸墓でそのようなものが発見されていると思われていたのですか。
箸墓の埴輪と言うのは、壺型と器台が融合して出来た吉備伝来の円筒埴輪ですよ。

344日本@名無史さん:2010/12/04(土) 13:27:51
>>342>>343

考古学はさておいても>>342氏の意見は文献的に不可解と思う。

日本書紀によると;
 崇神紀に(崇神在位中に)モモソヒメの死で箸墓が造られ
    ↓ ↓
 垂仁紀に(垂仁28年に)ヤマトヒコの墓で殉死が行われ
    ↓ ↓
 垂仁紀に(垂仁32年に)皇后ヒバスヒメの死に勅令で初めて殉死をやめ人物の埴輪が作られる。

こういう順番なのだからヒバスヒメ以前の古墳は殉葬があった筈だ。
345日本@名無史さん:2010/12/04(土) 13:57:09
>>342は、己の無知為るがゆえの思い込みから『悔しかったら』とかほざいてるので、これはサイキバ認定だねw
346日本@名無史さん:2010/12/04(土) 14:16:11
>悔しかったら箸墓発掘するんだね。

こういう書き方をする時点で話にならないやつだろ。
347日本@名無史さん:2010/12/04(土) 16:48:57
…と言うか

『悔しかったら徇葬の風があった事を証拠を発掘してこい』

だなw

殉葬と言うのだから全く同時期に埋葬されたと言う時期の問題
徇葬者と言うのなら勿論病死なんかじゃない、強制的に命を絶たれたことを証明するような殺傷痕等
…etc etc

一つの墓域内に複数の埋葬跡があったら徇葬と言うなんてあまりにも馬鹿げている。

もう邪馬台国九州説でアタマイッパイイッパイで自分が何を言っているのか分からないのだろうw
348日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:10:39
>箸墓の埴輪と言うのは、壺型と器台が融合して出来た吉備伝来の円筒埴輪ですよ。

円筒埴輪ならそつくりの陶器製の物が伽耶から出ているんだが、
精度は半島の方が高い。大きさからいって実用品だったと思われる。
実際には半島から来たんではないかな。
箸墓が五世紀なら半島と時期は重なる。
△や○、□、の穴があって意匠まで同じだ。
半島では土師器は軽視されているから見つかっていないが、
探せば3、4世紀の物も見つかるかもしれん
349日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:17:16
>>348
>半島では土師器は軽視されているから見つかっていないが

どういう理屈だよ、このうすら馬鹿ww そのまま5世紀にしときゃいいじゃないか。
脳がないのか?www
350日本@名無史さん:2010/12/06(月) 00:21:25
応神天皇や仁徳天皇が4、5世紀初頭なのに箸墓が5世紀な訳ないし
だいたい、応神、仁徳の時点(400年頃)で半島へ進出していたのは
広開土王碑でわかっていることだしね。
3世紀に巻向で巨大勢力があり、4世紀に河内へ移って5世紀に飛鳥へ戻った
変遷があるからね
351日本@名無史さん:2010/12/06(月) 00:32:48
>>350
盆地北部の佐紀を忘れないであげてねwww
352日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:27:23
>>350
ケチをつけるわけではないが、それは応神や仁徳が実在の人物だという前提だよね。
大仙を例にとると、築造が5世紀初頭まで遡るかはかなり疑問があるし
(もちろん後世の墳墓比定が誤りであるとの可能性も考慮した上で)
>>351が言うように佐紀古墳群と、百舌鳥古墳群がほぼ同時進行で築造合戦をやらかしていた可能性も極めて高いことから
そのあたりのものを箸墓4世紀築造(まあさすがに5世紀はない)の否定に使うのは無理だと思う。

むしろ一番わかり易いのは、円筒埴輪が4(5)世紀のはずねえだろってとこだろうね。
353日本@名無史さん:2010/12/06(月) 09:35:40
>>352

http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html

ここの後ろの方に初期天皇と、古墳の築造年代の対応表が出てる。
現在の築造時期の編年はそれほどおかしくないと思うが
354日本@名無史さん:2010/12/06(月) 10:22:30
>>353
× 初期天皇と、
○ 初期天皇の在位期間と、
355日本@名無史さん:2010/12/06(月) 10:42:35
>>348
半島から直接箸墓に来たと言うの?
文様の研究から言ってもそれは不可能だろ。
356日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:49:41
半島ではそのへんの畑から土器片がごろごろ出てくる。
だれも気に留める事がなく、邪魔なガラクタとして処分されている。
円筒型埴輪の原型だってその中にまぎれていないとも限らない。
日本なら、特に畿内では韓国ではガラクタにされているような土器が出ようもんなら大騒ぎになる。

韓国では経済に余裕がなく考古学なんか注目されていなかった。
近年になって経済的な余裕が出来てくると共に発掘が進んできたがまだまだだ。
韓国の主な遺跡の発掘成果は日本が統治していた時代に行われたものだ。
自前の発掘が進めば新しい成果も現れるだろう。

357日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:02:48
>>356
かの国の考古学会の現状を知らなすぎ
358日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:38:40
韓国もそうだが北の楽浪なんかどうなんだろうか?w
そっちの方はもっと絶望的だと思うがwww

しかし何だかんだいって日本は考古学に対する一般人の関心が高い方なんじゃないのか?

無論それにはかつての邪馬台国論争が一役買ったし
あと「日本人は何処から来たのか?」
みたいなルーツ探しも好きだよなwwww

359日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:42:53
韓国はぜんぜんましだよな。
中国の辺地なら農家の人が勝手に掘って売ったりしてる。
何か出ても踏みつぶして工場に。
北朝鮮はお手上げ、まともな歴史学者はいない。
360日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:47:22
北朝鮮は、逆に重機を入れて開発するだけの国力が無くなっているから安全じゃね?w
中国はなんだかんだいって広すぎるんで、全部つぶすのは無理w

一番ヤバいのは韓国だろう。日本に匹敵するレベルの高密度の開発をやっている上に、
土地が隆起しないため洪積台地や河岸段丘に乏しい朝鮮半島は、
日本列島より居住適地が少ない地形なので、
凡そ遺跡の出そうな土地は荒らされていると言っていい。

そして、有名なことだが、韓国には、理系はともかくとして、
文系の学問というか文系の知性が全く存在しない。
あるのはウリナラマンセーという妄想だけなので、
どんな出土品が出たかさえ、「超時空太閤ヒデヨシ」によって滅茶苦茶にされてしまう。
本当に、東アジア古代史の、考古学上のミッシングリンク状態になっているのは、
北朝鮮でも満州(中国領)でもなく、実は韓国のような気がする。
掘り起こされて人為で壊されるのが一番痛い。
361日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:57:07
>>357-360 ということらしいですよ >>356 のザイニチ君
362日本@名無史さん:2010/12/07(火) 06:56:29
>>356
>半島では……円筒型埴輪の原型だってその中にまぎれていないとも限らない。

もう、何度もでたらめをレスしないでください。
円筒埴輪、朝顔形埴輪の起源が吉備の特殊器台、特殊壺にあることは、すでに定説です。
変遷は列島の中(西部瀬戸内〜畿内)で連続的に完結しており、当該期の半島からの要素は皆目見当たりません。
以下のファイル(講演会のレジュメ)を読んで、もし解らない用語や知らない遺跡名・古墳名があれば、それはあなたの勉強不足です。図書館へ行って勉強してください。
http://www.city.okayama.jp/contents/000060646.pdf
363日本@名無史さん:2010/12/07(火) 08:25:33
特殊器台とか言う名称だが、なぜこのようなものが作られたかはっきり判らない訳だ。
本当は何か実用品として作られ、次第に祭祀用品になって行ったのでなければおかしい。
実用品であった時代がなく、突然このような変なものが作られた、と言うのは
何処かに実用品であった時代があって、そこから伝搬して来た可能性を考える必要がある。
そう言った事に考えが及ばない日本考古学の限界がある。
364日本@名無史さん:2010/12/07(火) 11:37:15
>>363
>そう言った事に考えが及ばない

とっくに考えられています。・・・あなたが知らないだけで。
365日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:46:40
>>363
> 特殊器台とか言う名称だが、なぜこのようなものが作られたかはっきり判らない訳だ。
> 本当は何か実用品として作られ、次第に祭祀用品になって行ったのでなければおかしい。
> 実用品であった時代がなく、突然このような変なものが作られた、と言うのは

アフォかw
実用品としての壺と器台が、祭祀用具として特化したのが、特殊壺と特殊器台だろうがw
366日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:49:43
多分「器台」と言う意味がわ分ってイナイのでは内科徒wwwwwwwwwwwwww
367日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:50:37
>>365
わからんよ。最初は生け贄の首を載せたり、血を受けたりする
実用品だったかもしれない。wwwwww
368日本@名無史さん:2010/12/07(火) 19:56:18
まあ特殊器台にしろ古代の出土品に関しては
半島にその期限となるような原型があるのではないか?
なんて考えるのは常識のお話で…

で、ふと思ったんだが吉備じゃあ特殊器台なんかじゃなくて石にも弧帯文が刻まれているわけだが
半島に弧帯文のようなデザインを刻んだ遺物って出ているんかね?

369日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:20:33
>>368
ところが、「起源たる原型は、必ず日本列島の外に存在するはずだ」という「常識」自体が、
実は半ば都市伝説というか、一種の神話だったりする。

一足先にこの神話の原理主義に嵌って、身動きの取れない糞学問になり果てたものに、
「日本語の起源論(日本語の言語学的系統論)」というものがある。
「日本語の起源は、日本の外のどこかにあるはずだ」
という唯一神の信仰から、「神様探し」が始まった。
当然、「常識」に従い、最初は朝鮮からスタートする。
だが、まともな研究者なら、朝鮮語は無理とすぐに分かる。
ここから、ありもしない神様を世界中に探す流浪の巡礼の旅が始まる。
モンゴル、インドネシア、チベット、インド、スリランカ、インドシナ、
果ては中近東や南米にまで、神様探しの巡礼は進んだ。だが神様なんていなかった。

今の通説的見解は、
「(印欧祖語と同じレベルで)日本祖語を話す集団が、西日本に存在した。それより以前の探求は無理」
というもの。
日本の外に起源なんて無かったわけだ。
370日本@名無史さん:2010/12/07(火) 20:37:32
>>369
念のために断っておくが海外にその類似・起源・原型を求めた結果
ほぼオリジナルであると言う結果になる可能性を否定し

何でもかんでも起源を海外に求めるつもりはないので誤解なきようにwww

>>348>>356の言わんとするところは畿内の特殊器台円筒形埴輪は吉備にルーツを置くものではなく
(期待値としてはw)5世紀に半島からダイレクトに畿内に持ち込まれたものとしたい…って事なんだろうwwwww

まあ例え土器の欠片でも弧帯文と見えるようなものが出てりゃ
半島起源説もとっくに出ているんだろうが…

371日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:07:23

■起承転々:2世紀の古墳群 /岐阜

毎日新聞 2010年12月7日
http://mainichi.jp/area/gifu/tenten/news/20101207ddlk21070092000c.html

 先月27日、養老町橋爪の象鼻山(標高142メートル)に登ってきました。象鼻山古墳群の現地説明会があったのです。好天に恵まれ、多くの参加者がありました。

 この古墳群の築造時期は「2世紀中ごろから後半」とされています。古墳時代より前の弥生時代で、日本に邪馬台国があったとされる時期です。
実は私は、この2世紀の時代にはあまり詳しくありません。前任地は京都だったので遺跡取材の機会はあったのですが、かかわったのは古墳時代や飛鳥時代、奈良時代といったものが多かったからです。

 「象鼻山古墳群って古いなあ」と思うと同時に、その時代のイメージがすぐにはわいてこなかったので「現地を見たい」と思い立ちました。

    □    □

 この古墳群は、山頂から中腹にかけて70基の古墳があります。いずれも築造時期がほぼ同じで、町教委は「分譲地のように大規模に造成し、その後に一斉に墳丘の築造を始めた」とみています。

 一般的な古墳群は、一つの地域の有力者が代々葬られていってできるものですが、それとは性格が違いますね。より広範な地域での複数の有力者の共同墓地だった可能性も指摘されています。

 今回の現地説明会では、山の中腹の急な斜面に造られた古墳を見て回りました。途中、眺望の素晴らしさに見とれました。
濃尾平野が遠くまで見渡せ、「当時の人たちにとって特別な地だったのかもしれない」と、ここに古墳群を造った意味が分かるような気がしました。

 もう一つ印象に残ったことは、今回の発掘調査が、古墳の中心である棺の部分をあえて掘っておらず、周辺のトレンチ(溝)にとどめていたことです。
1800年以上も残った遺跡をできるだけ破壊せずに調査して、将来に残していこうという気持ちが伝わってきました。

 古墳の中には内容が不明なものもあり、全容をつかむのはまだ先のようですが、地道な調査を積み重ねて、歴史ロマンを“発掘”していってほしいものです。【岐阜支局長・三野雅弘】
372日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:50:35
狗那国は水害との戦いだったんだな
373日本@名無史さん:2010/12/08(水) 13:15:12
>>369
日本語のルーツは高句麗語に決まってんだ露。
まあ、その前に満洲・扶余語が最初の源流だろうが。
374日本@名無史さん:2010/12/08(水) 13:55:28
>>373
日本語のルーツは北ゲルマン語群に決まってるんだ欧。
まあ、その前はゲルマン民族大移動の頃のノルド祖語が源流だろうが。
375日本@名無史さん:2010/12/08(水) 14:44:39
日本語のルーツは南回りの縄文語と北回りのアルタイ語のミックスだ倭奴
376日本@名無史さん:2010/12/08(水) 14:59:04
>>373-375
日本語のルーツはイカ語に決まっているでゲソ。
まあ、その前は鞘形亜綱語→十腕形上目語が最初の源流じゃなイカ?
377日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:44:48
邪馬台国まで侵略されてるw
378日本@名無史さん:2010/12/08(水) 21:54:25
>>370
日本語起源論という学問の歴史の、もはやギャグレベルの「珍道中」というか「喜劇的崩壊」は、
もう少し突っ込んだ事柄を、学問的態度として示唆しているんだよ。

それはおそらく、

当の海外に「類似品」が出土するまでは、海外にその類似・起源・原型を求めてはいけない

ということ。
類似品が出る前から、類似・起源・原型をいきなり海外に必死で求めるから、
日本語起源論のような、おバカな新喜劇が展開されることになる。
インドヨーロッパ祖語の発見は、
英語なりフランス語と、植民先のインドのサンスクリット語が類似しているという事実の発見から始まった。
「西ヨーロッパ人が、突拍子もなくヨーロッパ祖語をいきなりアジアに求めた」というわけではないんだ。
379日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:14:34
>>378
>当の海外に「類似品」が出土するまでは、海外にその類似・起源・原型を求めてはいけない

まあ周辺地域から孤立独立した言語と言うのは他にもあったと思うが(イベリアのバスクとか)

結論としては特殊器台半島起源説も半島から何か出てからものを言えと言う話で良いなwwww

ちなみに、その事例と全く逆、馬鹿みたいに海外の類似を無視するのが
東遷説で言われる「天照=卑弥呼、天照の神話は全て史実が下敷き」と言うようなものだなw

太陽神が岩戸・洞窟に隠れた為、世界が真っ暗になり人間や神々があの手この手で
これを引きずり出すと言う話は普通に東南アジアにあり
中には鶏の鳴き声を使うなんて何処かで聞いたようなものもあるw

凡そこんな事は常識レベルなのに何故か邪馬台国論争が絡むと視野狭窄どころか完全な盲目になるw

・・・ったく邪馬台国が絡むとろくな事が無いwwwwwwww


380日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:22:10

■とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海【1月30日】

鳥取県観光情報 10/12/09
http://yokoso.pref.tottori.jp/dd.aspx?itemid=45458

鳥取県の青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡、兵庫県の五斗垣内遺跡等の弥生時代の鉄器文化の歴史、弥生時代の新素材「鉄」の流通の実態に迫るシンポジウムを行います。
兵庫県で開催されます。鳥取県内、また関西地区の方、ぜひお越しください。

■日時:平成23年1月30日(日) 午後13時から16時50分
■会場:明石市生涯学習センター(アスピア明石北館)9階ホール 住所:兵庫県明石市東仲ノ町6番1号

■プログラム
記念講演「倭人伝を紐解く」 講師:西谷 正(九州歴史資料館)

パネルディスカッション「鉄のみち 明石海峡と日本海」
 コーディネーター: 村上 恭通(愛媛大学)
 パネリスト:
  高尾 浩司(鳥取県教育委員会) 玉木 秀幸(鳥取県立むきばんだ史跡公園)
  種定 淳介(兵庫県立考古博物館  伊藤 宏幸(淡路市教育委員会)
 総評:石野 博信(兵庫県立考古博物館)

■申し込み方法
 @住所A氏名B電話番号C参加人数を明記の上、往復はがき、またはファクシミリにて下記まで申し込みください。
■申し込み・問い合わせ先:
 〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1 兵庫県立考古博物館 弥生文化シンポジウム係
 電話:079-437-5589 FAX:079-437-5599
■定員:280名(先着順)
■参加費:無料 ※事前申し込みが必要です。

詳しくはこちらから→添付PDF(2522kb)
http://yokoso.pref.tottori.jp/secure/45458/tetunomiti.pdf
381日本@名無史さん:2010/12/10(金) 17:25:25
日本語の祖語と同類の言葉を話す集団が大陸にも居たかもしれないが、度重なる戦乱による
離合集散で消えちゃったから、日本語が孤立してるように見えるんだろうな

満州語も絶滅寸前だし
西太后も中国語で会話し満州語はしゃべれなかったらしい
382日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:27:32
>>363
アホ、無知を晒して恥ずかしくない?
383日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:22:01

■城野遺跡:「ハイテク玉作り」仕事の跡発見−−弥生時代終末期 /福岡

毎日新聞 2010年12月11日 
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20101211ddlk40040373000c.html

 ◇おしゃれの職人の工房あった!! 九州・山口で2カ所目

 北九州市教委などは10日、小倉南区の城野遺跡で弥生時代終末期(2世紀末〜3世紀)の装身具だった「玉」を製作する工房跡を発見したと発表した。
工房跡の発見は九州・山口地方では、03年に見つかった糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡に次ぎ2カ所目。【仙石恭】

 工房跡が見つかったのは、同遺跡の住居跡が集中する東側地区。2カ所の住居内のそれぞれ縦約4メートルと横約2メートル、縦横約4メートルの土中から、水晶約900点と緑色の碧玉(へきぎょく)約100点が出土した。
削り・磨き・穴あけなどの各工程を経た5ミリ〜4センチ程度の石、削りかすの破片が含まれていることから、市教委などは工房跡と判断した。

 市教委などによると、水晶は市内の山から、碧玉は山陰地方から運んできたとみられる。工房跡には炉の跡もあり、火を使って作業をしていた可能性もあるという。

 市芸術文化振興財団の佐藤浩司学芸員は「当時のハイテク技術だった玉作りができる集団を抱える集落があったと推測できる」と話している。

 ■今日のことば

 ◇城野遺跡
 北九州市内で最大規模の弥生時代の集落跡。09年2月、遺跡南西部分で九州最大級の方形周溝墓と箱式石棺2基が見つかった。1基には幼児とみられる人骨が残っていた。城野医療刑務所の跡地で、これまで約2万平方メートルを発掘調査した。


※参考 財団法人北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室サイトから(昨年11月)
http://www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp/kicpac/image/gensetu4/hakkutsunews74.html
384日本@名無史さん:2010/12/13(月) 21:51:38

■考古学「現場で習得」 - 奈良で俳優・苅谷俊介さん講演

奈良新聞 2010年12月12日 
http://www.nara-np.co.jp/20101212112145.html

 俳優で日本考古学協会員の苅谷俊介さんが11日、奈良市登大路町の県文化会館で「土と役者と考古学―纏向遺跡と歴史ロマン」と題して講演。
考古学研究を始めたきっかけや24年間調査・研究している桜井市の纏向遺跡の発掘調査の成果を紹介し、考古学と歴史ロマンあふれる奈良の魅力を語った。

 11日から同館などを会場に始まった臨床検査技師の学術集会、第50回近畿医学検査学会の第50回記念公開講演会として催された。

 刈谷さんが本格的に考古学研究を始めたきっかけは、当時所属していた石原プロモーションの社長だった俳優の故石原裕次郎さん宅の建て替え工事に伴う発掘調査。
弥生時代などの遺跡が出てきて、自身と同様に考古学に興味をもった石原さんと朝方まで考古学の話を語り明かしたエピソードなどを紹介。
また
 「10歳くらい下の研究者に怒られながら勉強し、40歳で初めて発掘の報告書を作成した」
と遅れて考古学の世界に入ったゆえの苦労にも触れながら、
 「すべて現場で覚えた。そのことには自信がある」
と話…

  記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】

考古学研究の魅力を熱く語った苅谷俊介さん=11日、奈良市登大路町の県文化会館国際ホール
http://www.nara-np.co.jp/photo/f9657f0e9b94584ffbf48c0a9f487873.jpg
385日本@名無史さん:2010/12/15(水) 00:15:34

■弁財天古墳群、現地で説明会 鯖江、墳墓や山城確認

福井新聞 2010年12月11日
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=25279&storytopic=5

 福井県鯖江市教委は11日、同市東部の弁財天(べざいてん)古墳群で発掘調査の現地説明会を開いた。
市学芸員は
 「弥生時代末期(3世紀前後)から古墳時代前期(4世紀前後)にかけての墳墓や古墳が尾根上に40基前後連なっていることが明らかになった。山城も確認できた」
と中間報告。住民ら約40人が参加し、調査方法や進行状況などについて学んだ。

 同古墳群は落井、磯部、乙坂今北町にまたがる弁財天山(標高120メートル)にある。
周辺一帯の「今北山古墳群・磯部古墳群・弁財天古墳群」は市指定文化財で、中でも今北山古墳群にある前方後円墳(全長76メートル)は丹南地域最大とされる。
市は3古墳群の時代や古墳の数を明らかにし、国指定文化財への格上げを目指そうと、今年8月から3年計画で発掘調査を始めた。

 説明会では墳墓が想定される場所などに掘った幅70センチの発掘溝「トレンチ」を見学。墳墓や溝の断面を観察し、出土した土器や地質の違いなどを学んだ。
人の出入りを妨げるような深さ3メートル以上の大きな溝もあり、学芸員は「伝承でしかなかった、中世のものと思われる山城も確認できた」と説明。
参加した小谷正則さん(57)=落井町=は「地道だが、きちんとした形で調査が進められていることが分かりよかった」と話していた。

 今後は今北山、磯部両古墳群も調査し、3古墳群のできた順序や県内、丹南地域での役割などを明らかにしていく。

・発掘調査中の現場を見学し、墓穴の痕跡について学ぶ住民=11日、福井県鯖江市の弁財天山
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/photos/20101211194752_1578302601.jpg


※参考 今北山古墳群・磯部古墳群・弁財天古墳群(63基)(鯖江市ホームページ)
http://www3.city.sabae.fukui.jp/vod/takara/6/bunkazai/87.html

※参考 今北山・磯部・弁財天古墳群の検討会(鯖江市まなべの館のブログ)
http://ameblo.jp/manabe-yakata/entry-10699713258.html
386日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:09:39

■「主」埋葬の痕跡なし 岡山・湊茶臼山古墳(動画あり)

山陽新聞 12/15
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010121507430052/

 古代吉備屈指の大型前方後円墳、岡山市中区湊(みなと)の湊茶臼山古墳(墳長135メートル、5世紀初め)に“主(あるじ)”を埋葬した痕跡がないことが、岡山市教委の発掘調査で14日までに分かった。
中心埋葬がない古墳としては全国最大規模。古代吉備勢力の歴史の理解にも影響を与える事実だけに、理由をめぐって考古学界に謎を広げている。

 同古墳は岡山市街東郊の東山丘陵に立地。国の史跡指定を目指し、同市教委が2008年度から4年計画で発掘調査している。

 竪穴式石室など中心埋葬の確認を目的に、後円部墳頂の平坦(へいたん)面(直径約8メートル)を掘り下げたところ、中心部で直径約3メートル、深さ3・5メートルの巨大な盗掘坑が出土。
中心埋葬に到達する深さにもかかわらず、石室石材や棺を覆う粘土、副葬品といった埋葬施設の痕跡が全く見つからなかった。

 一方、墳頂平坦面の周縁部では、木棺を粘土で覆った埋葬施設2基(長さ7メートルと4・5メートル)が確認された。

 亀田修一岡山理科大教授ら現地を視察した考古学者の間では「中心埋葬はもともとなかった」との評価が大勢。周囲の2埋葬は「主の一族ではないか」とみられている。

・湊茶臼山古墳の後円部中央に開けられた盗掘坑。埋葬施設の痕跡は一切見られない
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2010/12/15/2010121507430052-1.jpg
387日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:23:49

■播磨と邪馬台国の関係考察 播磨学研究所が出版 

神戸新聞 2010/12/15
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0003675987.shtml

 播磨学研究所(姫路市)は昨年度開いた特別講座の講義録「播磨から読み解く邪馬台国」(神戸新聞総合出版センター刊)を出版した。播磨と邪馬台国や卑弥呼のかかわりについて考察している。

 同研究所などは昨年5〜11月、「最新考古学事情‐播磨から『邪馬台国』を展望する」をテーマに計10回の連続講座を開講。上田正昭・京大名誉教授や石野博信・県立考古博物館長ら第一線の研究者を講師に招いた。

 講義録では、西条52号墓(加古川市)や綾部山39号墓(たつの市)を、卑弥呼率いる邪馬台国政権を担った有力者の墓と推定。
播磨は瓢塚古墳(姫路市)など、阿波、讃岐と同様多くの前方後円墳があることから、3地域の連合勢力がヤマト政権を支えたのではないか、などとしている。

 四六判。288ページ。1785円。県内の主要書店で販売。神戸新聞総合出版センターTEL078・362・7138

出版された「播磨から読み解く邪馬台国」
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/Images/03675988.jpg
388日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:33:16
なんで巻向のスレに邪馬台国が入ってくるんだ?
389日本@名無史さん:2010/12/17(金) 23:56:25
>>386
「痕跡なし」は表現強すぎないか?
まだ「発見できず」くらいだろ。
390日本@名無史さん:2010/12/18(土) 11:55:36
>>389
発表内容からは、「確定」とみるしかないでしょ。
普通に考えれば「入居予定者」さんが、お亡くなりになる前(又はお亡くなりなった時)に埋葬できない事態(没落)が生じたんでは?
391日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:16:21
>>386岡山市中区湊(みなと)の湊茶臼山古墳

つうことは、古墳の主は船乗り集団のボス
で古墳は生前つくってたわけなんだが
主が瀬戸内海を航海してたとき
暴風雨で船ごと沈没しちまって
遺体を引き揚げられなかったわけだ
392日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:52:22

■シリーズ遺跡を学ぶ:3期刊行完結

2010年12月16日 毎日新聞
http://mainichi.jp/enta/book/news/20101216dde018040061000c.html

 「遺跡には感動がある」をキーワードに、1冊で1遺跡を紹介する新泉社の「シリーズ遺跡を学ぶ」の3期の刊行が完結した。1、2期と合わせて、シリーズは計75巻(ほかに別冊2巻)になった。来年4月から4期の刊行が始まり、約2年後には計100巻になる予定だ。

 全巻オールカラーで、写真や図表が豊富なのが特徴。最新の研究成果がわかりやすい表現で解説され、発掘現場に立ち会ったような臨場感を楽しめる。各巻1575円。

 3期の最終巻は『浅間山大噴火の爪痕 天明三年浅間災害遺跡』(関俊明著)。ふもとの村々をのみ込んだ1783年の火山災害の生々しい跡をたどりながら、災害を語り継ぐ意味を探っている。


※以下新泉社サイトから

●シリーズ「遺跡を学ぶ」第1期全31冊
http://www.shinsensha.com/iseki.html

●シリーズ「遺跡を学ぶ」第2期全20冊
http://www.shinsensha.com/iseki-2.html

●シリーズ「遺跡を学ぶ」第3期全26冊
http://www.shinsensha.com/iseki-3.html
393日本@名無史さん:2010/12/20(月) 22:44:30

>>386湊茶臼山古墳 別報


■せっかくの大型墳、中の主役見つからず 湊茶臼山古墳

朝日新聞 2010年12月18日
http://mytown.asahi.com/areanews/okayama/OSK201012170133.html

 墓に入るはずだった豪族は、どうなったのか? 「湊茶臼山(みなとちゃうすやま)古墳」(岡山市中区)の中心部には誰も埋葬された形跡がないことが、市教育委員会の発掘調査でわかった。せっかくの古墳が、墓として使われなかった可能性が高いという。

 古墳は、全長約130メートルの大型の前方後円墳。市中心部と西大寺方面の間の操山丘陵にあり、5世紀前後に作られたとされる。

 円形をした丘陵部の中央を掘り下げたところ、直径3メートル、深さ3.5メートルの円柱状の盗掘跡を発見。だが、古墳の主を埋葬するために使ったはずの、棺や石室の跡がまったく見あたらなかった。

 この時期の古墳では、もっと深い位置に埋葬することは考えにくく、古墳の主は埋葬されずじまいだった可能性が高いという。数メートル外側には木棺があった形跡が見つかったが、親族や家臣など「脇役」のものらしい。

 市教委によると、この規模の大型古墳で「主役」の埋葬跡がないのは全国的にも珍しいという。古墳を築造した豪族は、遠征先で戦死か病死でもして遺体が戻らなかったのか、それとも政変で権力の座を追われ、どこかでひっそり亡くなったのか。

 担当者は「吉備の歴史を探る上で貴重な史料になる。発掘は何もないとがっかりするのが普通だが、今回は何もないことが発見だ」と話す。

 現地説明会は23日午後1時半〜3時。問い合わせは市教委文化財課(086・803・1611)。(柏崎歓)
394日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:08:07

■畿内か九州か 邪馬台国論争 橿考研の研究員ら、自説を展開 奈良

産経新聞 2010.12.23
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/101223/nar1012230257000-n1.htm

 ■25日から4回シリーズ

 近年の考古学の成果で邪馬台国畿内説が勢いづくなか、邪馬台国九州説に立つ県立橿原考古学研究所の研究員らが自説を展開し、激論を交わす「菅谷所長と語る!邪馬台国」が今月25日から4回シリーズで、同研究所講堂(橿原市畝傍町)で開かれる。

                   ◇

 江戸時代から続く邪馬台国論争だが、昨年には桜井市の纒向(まきむく)遺跡で卑弥呼の宮殿の可能性があると指摘される大型建物群が発見され、大方の考古学者は畿内説論者といわれる。

 そんな時勢に九州説の立場から反論するのは、25日の初回に登場する入倉徳裕・橿考研総括研究員だ。「それでも邪馬台国は九州ですよ」とつぶやいた一言が菅谷文則所長の耳に入り、今回の企画に「引っ張り出された」という。

 香川県出身で広島大卒という地理的に“中間的立場”の入倉さんは「魏志倭人伝を素直に読めば九州。畿内説の根拠になっている土器の年代にも疑問点がある」と話しており、邪馬台国は吉野ケ里遺跡もある「筑紫平野のどこか」との見解を示している。

 2回目以降に登場する研究者とテーマは、
▽藤田三郎・田原本町文化財保護課長補佐の「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」(来年1月29日)
▽関川尚功・橿考研主幹の「纒向遺跡の年代観と邪馬台国問題」(2月19日)
▽寺沢薫・橿考研総務企画部長の「纒向遺跡と邪馬台国」(3月19日)
で、いずれも午後1時半〜3時半。入場無料で定員300人。
 問い合わせは橿考研((電)0744・24・1101)。


※橿原考古学研究所所長トーク『菅谷所長と語る!邪馬台国』
http://www.kashikoken.jp/event/other/2010/sugaya-talk_yamataikoku.pdf
395日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:18:48

■特別陳列:「卯」にちなんだ骨や臼、杵を展示−−橿考研博物館 /奈良

毎日新聞 2010年12月23日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101223ddlk29040596000c.html

 来年のえと「卯(う)」にちなんだ考古資料や民俗資料を集めた特別陳列「十二支の考古学 卯」が、橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館で開かれている。来年1月16日まで。

 ウサギは、古くから貴重なタンパク源として狩猟され、毛皮も利用されていた。田原本町の弥生時代の大規模環濠集落「唐古・鍵遺跡」から出土したウサギの骨を展示。
天理市の前方後円墳「下池山古墳」(3世紀末)から出土した銅鏡は、ウサギの毛とみられる毛織物の袋に入れられていた。

 日本では月の模様をウサギが餅をついている姿に見立てることにちなみ、県内の遺跡から出土した臼と杵も展示。
古代中国では、ウサギが臼と杵を使って不老不死の「仙薬」を作ったり、横でヒキガエルが手伝う姿が副葬品に描かれており、パネルで解説している。

 月曜、27日〜1月4日、11日休館。問い合わせは同館(0744・24・1185)。【高島博之】


※特別陳列「十二支の考古学−卯−」開催要項(橿考研博物館サイト)
http://www.kashikoken.jp/museum/top-koushin/tenrankai/pdf/usagi.pdf
396日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:47:34

■山持遺跡:紀元前1世紀〜1世紀に製作、楽浪土器出土−−出雲 /島根

毎日新聞 2010年12月23日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20101223ddlk32040576000c.html

 ◇きょうから歴博で展示

 県埋蔵文化財調査センターは22日、出雲市西林木町の山持遺跡で紀元前1世紀〜1世紀に朝鮮半島北部で製作された楽浪土器を発掘した、と発表した。
九州北部以外での楽浪土器の発見は珍しく、県教委文化財課は「出雲平野と大陸の交流が密接で、この地域が当時の対外交渉で重要な役割を果たしていたことを示す重要な史料」としている。

 楽浪土器は紀元前108年〜313年に朝鮮半島北部にあった楽浪郡で作られた土器。国内で出土した300点近くの大半は九州北部で、本州では同遺跡で出土していた破片8点と、松江市鹿島町沖の海中から引き上げられた1点のみしか確認されていなかった。

 調査は昨年5〜10月に実施。土器はほぼ完全な形のつぼ(高さ約17センチ)で、縄文土器や弥生土器などを含む層から出土した。

 土器は、12月23日〜1月10日は県立古代出雲歴史博物館で、1月15日〜2月13日は出雲弥生の森博物館で展示される。【細谷拓海】


※出雲市高浜T遺跡・山持遺跡から出土した遺物について(島根県埋蔵文化財調査センター)
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/press.asp?pub_year=2010&pub_month=12&pub_day=22&press_cd=08FA6C86-CF65-4CC6-BBCD-718A2178B714

※山持遺跡 出土した楽浪土器(176KByte)
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/files/ED67FB39-293D-4EBF-B51C-C7EE73A4C5A4.pdf

※山持遺跡 - 島根県遺跡データベースシステム
http://iseki.shimane-u.ac.jp/search_detail.php?id=5734&page=9&search_kbn=fudoki&fudoki_siteclass=5&target=site
397日本@名無史さん:2010/12/26(日) 00:05:54

■弥生前期の貯木場跡出土、丸太200本 本高弓ノ木遺跡

朝日新聞 2010年12月25日
http://mytown.asahi.com/areanews/tottori/OSK201012240105.html

 鳥取市本高の本高弓ノ木遺跡から弥生時代前期(約2500〜2200年前)とみられる貯木場跡が見つかり、約200本の丸太が姿を現した。
弥生時代の貯木場跡はこれまで大阪府東大阪市の西ノ辻遺跡(約2千年前)が最古とされていた。調査している県教育文化財団は「当時の木材加工の工程を知るうえで貴重な資料」と言う。

 丸太群は調査地にある延長約70メートル、幅約20メートルの水路跡を約1メートル掘り下げた砂層から出土した。直径20センチ前後が最も多く、最大は直径80センチ、長さ11メートルのケヤキ材だった。
いずれも枝打ちや樹皮をはぐ加工が施されていた。根もなかった。財団の浜田竜彦副主幹は「近くで伐採した丸太を水中で貯木していたと考えられる」と話している。

 同じ地層から因幡地域で未確認だった弥生前期の特徴を持つつぼの破片(縦横各15センチ)が出土し、年代推定の手がかりとなった。ほかに石おのの柄に加工中とみられる木の棒(長さ1.1メートル、直径4センチ)も見つかった。

 弥生時代の木製品に詳しい鳥取大学地域学部の中原計准教授は「丸太ばかりの集積跡は非常に珍しい。当時は器や柱材など何にどの樹種を使うか決まっており、近くの集落が自家消費するためにためていたのだろう」と話す。

 現地は山陰道の鳥取西道路建設に伴って2009年度から調査が始まり、これまでに弥生後期の四隅突出型墳丘墓に似た盛り土が出土した。丸太は輪切りにして複数のサンプルを取った後、盛り土で覆う。

 25日午後3時から一般公開がある。小雨決行。悪天時は27日午前10時に順延される。問い合わせは財団(0857・51・7553)へ。(中田和宏)

・因幡地域で最古とみられる弥生土器(左)と縄文時代末期の深鉢の破片
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201012240104.jpg

・直径80センチ以上のケヤキ(中央)など約200本の丸太材が出土した貯木場跡=鳥取市本高の本高弓ノ木遺跡
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201012240103.jpg
398日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:51:02
>大方の考古学者は畿内説論者といわれる。
一部の学者とマスゴミが騒いでいるだけ。
巻向は巻向だけのものという前提で調査すべきもの。
399日本@名無史さん:2010/12/28(火) 11:41:29
九州説を認めると神武東征神話に歴史的根拠がある事になるので、一部マスコミが頑なに認めないだけ。
そのマスコミは、朝日も毎日も関西発祥で、畿内説の総本山・京都大学の影響を受けた。
また九州説の東大への対抗意識もある。
絹と鉄の出土状況を見れば、畿内説は成立し得ない。
400日本@名無史さん:2010/12/28(火) 12:52:48
読売や日経が九州説論者なのですか。
西日本新聞は九州説なのですか。
401日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:16:02
内容が考古寄りなんでこのスレで質問させてもらいたいんだがwww

箸墓の周濠って現在はホケノのような後円部に比べれば前方部の部分が
極端に狭い形が想定されていると思うが

あれって何か理由があるのかな?
宗教的な理由とか、あるいは土木工法・実用的な理由とか…

まあ以下は根拠のない妄想だが…
ホケノぐらいだったらその狭い部分に臨時に橋を渡して
そこから入って祭祀を行っていて
箸墓にはその名残が形だけ伝わったとか…
で、それも定型化された巨大古墳のプロトタイプの箸墓で終わり
全体的には釣鐘型?のような形に収束すると…


402日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:34:52
地名の相似なんかは東征の証拠に近いぐらいとは思うけど
あれは最近はどう解釈されてるの?
403日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:50:24
>>401
前方部は円形周溝墓の陸橋部から発達した、
また、葬送祭祀を行う円丘部への墓道であった、とすれば
そのなごりでいいんじゃないのかな?
404日本@名無史さん:2010/12/29(水) 02:01:34
>>401
理由はわかってない。
巻向型前方後円墳ってのがあるのかどうかも不明。
405日本@名無史さん:2010/12/29(水) 18:39:44
>>402
地名の相似なんて、現状ではどんな解釈でも出来る。
406日本@名無史さん:2010/12/30(木) 03:09:31
>>401
「ホケノのような後円部に比べれば前方部の部分が極端に狭い形」というのは、
いわゆる巻向型前方後円墳ってやつなんだが、
>>403にもあるとおりにこの説を提唱した橿原考古学研の寺沢先生自身が
このところの初期墳丘墓の相次ぐ発見から、今ではこの説に懐疑的となっている。
407日本@名無史さん:2010/12/30(木) 14:37:57
>>394
単に知識の足りない所員を吊るし上げるだけに終わらなければいいが。
408日本@名無史さん:2010/12/30(木) 17:03:31
>>407
で、稔りある討論が関西社会の縮図の橿原研で出来たのか?
409日本@名無史さん:2010/12/30(木) 19:48:41
>>407 >>408

つぎの第二回目が面白そう。

▽藤田三郎・田原本町文化財保護課長補佐の「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」(来年1月29日

これまでは "マキムクのみ"に視点が置かれてきたが、少し客観的に唐古・鍵からマキムクをみるとどうなるかと言うこと。

それはつまり・・・・あっ! なにか小耳にはさんだような気もするが・・・・・リークすることになってしまうかもしれないので、なにとぞご勘弁を。
ふ〜ん ぬわるほど! そうすると、マキムクはあの人たちだけで築造したということになるのか。 ゴラッ! 他人の独り言を盗み聞きするんじゃネエ
410日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:52:36
>>394
>「それでも邪馬台国は九州ですよ」とつぶやいた一言が菅谷文則所長の耳に入り、今回の企画に「引っ張り出された」という。
>>407
>吊るし上げ

要するに、その、なんだ、第二の高島センセイを生み出すんじゃないのかと言うことナノカ?wwwwww


>>409
>あの人たち

まさかとは思うが畿内より外ひょっとして瀬戸内を横断してやってきた入植者とか言うお話じゃないよな?w
411日本@名無史さん:2010/12/31(金) 08:42:45
入倉徳裕氏をググッてみたけど
橿原では珍しく文献屋さんに近いスタンスの人のようだ。
つまり文献資料を比較精査して、当たりをつけて発掘という今日では稀少種となったタイプの人で
主な成果としては、続日本紀の記述からの平城京の十条発掘など。
専門はその時期の坊条制や古墳編年などらしいから、九州説の人も参考になるんじゃないかな。

しかし橿原はなんでもありで面白いなw

>>410
高島センセは確信犯的九州説だし、誰よりも吉野ヶ里が邪馬台国とは無関係だと知り抜いているのに
ああいうことをニヤニヤしながら言う分、食えないジジイだよね。
412日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:27:51
関西も、佐原さんが居た頃までは比較的マトモだったんだが。
413日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:53:15
>>411 高島センセは確信犯的九州説

それはもう 大学の時に「九州説は誰もいないからおまえがやれ」といわれて以来ずっと天職としてやり続けているわけで
、畿内と九州に分かれてボケと突っ込みの掛け合いマンザイを演じることで 一般社会の歴史学への関心を引きつけたということではきわめて功績 大。 と、 大阪人の私は思います。
414日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:27:33
>>411
>>413
少なくとも、邪馬台国連合とは無関係ではないことだけでもマシというものだけどな。
415サガミハラハラ:2011/01/01(土) 00:33:12
吉野ケ里の北内郭に卑弥呼はいたのですよ。
北内郭は新しく王位についた卑弥呼の居住用住居としてたてられたのです。
高島センセは、吉野ケ里の望楼から邪馬台国が見える、といっておるので、当時、足下の吉野ケ里が邪馬台国の都だと気づいていないのです。
本をお送りしましたので、吉野ケ里に卑弥呼がいたという説はご存じかと思います。本よんでれば。 
416日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:54:19

奈良県桜井市から、「あけおめ!」
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/index.html
417日本@名無史さん:2011/01/01(土) 01:18:23
なんか 新年早々 足下から気色の悪いゾンビが這い上がってきたぞ
縁起でもない 南無阿弥陀仏おめでとう!
418日本@名無史さん:2011/01/01(土) 18:57:30
巻向からまた大規模建造物か?だって。
419日本@名無史さん:2011/01/01(土) 19:27:41
またNHKスペシャルにぶつけるのか
420日本@名無史さん:2011/01/01(土) 21:00:23
春から本格調査だな。
この周辺は今後も何が出るかわからない状態。
421日本@名無史さん:2011/01/01(土) 23:59:02
予算編成の時期だし、なにか出してくるはずだわね。
ここ掘ればいいって情報を。
422日本@名無史さん:2011/01/02(日) 00:06:57
しかしまあ、168回も税金使って、それなりの成果は得られたのかね?
あと何回続けるんだろう。
関係者も、発掘費用出なきゃ食えないから必死だろうけど。
423日本@名無史さん:2011/01/02(日) 02:57:51
そりゃ金ないと発掘なんて出来ないからね。
成果が不十分だと思うなら>>422が寄付したら?
424日本@名無史さん:2011/01/02(日) 03:20:28
纏向遺跡発掘の成果は相当あったよ
425日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:39:47
今の桜井市の市長って纒向遺跡の調査を公約に上げてなかったっけ?
だからそれなりの予算はつくと思うけど。

ところで今年は老教授氏は登場しないの?
426日本@名無史さん:2011/01/02(日) 12:56:31
邪馬台国ブームに繋がれば後十年は掘ってられるだろ
427日本@名無史さん:2011/01/02(日) 17:13:53
今回は桃の種が主な成果かな。
428日本@名無史さん:2011/01/02(日) 17:22:58
油虫は柿の種の夢を見るか?
429市長:2011/01/02(日) 23:24:50
 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 市長就任後、任期四年の最終年を迎え、また、10月に新副市長も就任し、気持ちを新たに職員一丸となり、市政運営を進めてまいります。市民の皆様や市議会議員の方々のご支援・ご協力をお願いします。

 さて、市の財政状況は、平成19・20年度共、普通会計決算において赤字を計上し、大変厳しい財政状況でありましたが、
平成21年度には、行財政改革による経費の削減、国の交付金の活用、さらに、市民や市議会議員の皆様方のご理解・ご協力により、3年ぶりに単年度黒字を計上することができました。
しかし、累積赤字の状況は変わらず、福祉の予算も年々増加していますので、引き続き財政再建に取り組み、数年後を目標に累積赤字の解消を目指します。

 このような厳しい状況ですが、将来を担う子供たちの安心・安全のため、桜井小学校の改築事業を含む小・中学校の学校耐震化事業に取り組みました。また、昨年の4月には中和幹線が開通し、国道165号の渋滞緩和と利便性の向上を図ることが出来ました。

 残念なことといえば、昨年3月には、五歳児が両親からの虐待により亡くなるという大変痛ましい事件がおこりました。
今後そのようなことがおこらないためにも、乳幼児健診の未受診児や保育所・幼稚園の未就園児らの健康管理などを目的とした、乳幼児フォローアップシステムを導入し、業務の迅速な対応が出来る体制づくりを、現在進めております。

 新年早々堅い話となりましたが、昨年は、平城遷都1300年祭が、大極殿をメイン会場にして盛大に開催されました。県外からも多くの観光客が、本市へもお越しいただきました。さらには、天皇・皇后両陛下が長谷寺を訪問され、両陛下をお迎えする光栄にも恵まれました。

 また、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡では、三世紀中ごろの穴から大量の桃の種が見つかりました。古代の中国や日本で不老長寿などの効果があると信じられていた桃が、祭祀に使われていたとみられ、女王・卑弥呼と関連付ける発表がされました。
私は、益々、この地に女王・卑弥呼が君臨していたとの確信を持ち、新年の夢をふくらませております。

 本年も市民の皆様にとりまして良き年となりますようご祈念申し上げ、年頭のご挨拶といたします。
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/sityou_p.html#1
430日本@名無史さん:2011/01/02(日) 23:54:48
楽浪郡、高句麗や公孫氏ゆかりのものばかり出続けたら、困るだろうなあ。
431日本@名無史さん:2011/01/02(日) 23:59:21
なんか このスレ桜井市に乗っ取られそうな予感
432日本@名無史さん:2011/01/03(月) 17:58:28
桜井市行政も発掘に協力的なのは良い事じゃないか。
433日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:30:38
うん。
市長が積極的だからこの市の埋文担当者は恵まれているよね。

これが逆の自治体だと、調査もせずに遺跡は破壊されるよ。
434日本@名無史さん:2011/01/03(月) 20:45:01
>>422
>あと何回続けるんだろう。

千回でも二千回でも続けるべき。

とっくに論争なんて終わった邪馬台国なんてものに関係あろうがなかろうが
この日本の国家としての原型が形成された場所であると言うのは認知されているのだから。
それをやめる道理が無い。

と言うか>422の言う「成果」とは何なのか?
考古学の発掘を 『徳川埋蔵金』 と同じように考えているんじゃないのか?w

緊急調査(行政発掘)は年間1万件に達するらしいが
別に「お宝探し」の為に行っているわけでもないだろうに…

まあ邪馬台国に絡めて報道される纏向がこの板の
” ある種の特殊思想の連中 ”に嫌われるのは仕方が無いがw

いや邪馬台国を抜かしてもヤマト王権の始まりの姿としても
連中の(ト)シナリオからしても都合が悪いんだろうがwww
435日本@名無史さん:2011/01/03(月) 20:58:48
>>397
>財団の浜田竜彦副主幹は「近くで伐採した丸太を水中で貯木していたと考えられる」と話している。

これでふと思い出したのは以前テレビで現代の宮大工だったかが
池を作ってそこに丸太を浮かべて保存して
なんでもそうする事によってヤニが抜けるらしいが
勿論それはコストがかさみ現代では”贅沢な”やり方らしいのだが…

まあ木材は切り出した直後よりある程度の時間年月を経た方が強度が増す。
そんな事は古代人も経験上知っていて数年程度は伐採から使用までのタイムラグはあるんだろうと思っていたが
200本の丸太があったと言うのは常時ストックがあったんだろうか?

そうなると年輪年代で出た伐採時の年代を仮に正しいとしても
それが使用されるまでの時間も相当に幅を見なければならないんだろうか?
(ゴmクzレベル九s説が喜びそうなはなしだがw)

周濠の底から出てきた板切れなら兎も角
木棺に使用された丸太ともなると、それこそ「とっておき(の古木)」を出してきたとか?w

436日本@名無史さん:2011/01/04(火) 00:29:52
別に、唐古・鍵遺跡あたりも過去に遡る木材を使ってなかったっけ?
437日本@名無史さん:2011/01/04(火) 11:14:46
>>405
それはそうだけど、場所や方向まであそこまで似てると、偶然たまたま、で
片付ける方が厳しくないかな。
それが学会や定説というのなら仕方ないけど、「都合の悪いのは全部例外」
というお約束と一緒でなんだかな〜、とは思う。
438日本@名無史さん:2011/01/04(火) 18:10:39
ただ相似だけでは弱いから、地名移転を裏付ける証拠がほしい。
それが得られてないから、過度に証拠として提示できないだけ。
439日本@名無史さん:2011/01/04(火) 21:06:21
ん?九州説の新説?
440木の精:2011/01/04(火) 21:53:38
>まあ木材は切り出した直後よりある程度の時間年月を経た方が強度が増す。

木材には成長応力が存在するので伐採後しばらくの間はその成長応力のために外部から作用する力の方向によって強度が低い
場合がある。また、細胞壁が飽水状態であると成分(ヘミセルロースや非結晶性セルロース)の結合力が弱いので乾燥状態に
比べて強度が低い。水中貯木の間は細胞壁が飽水状態に保たれ、立木時に受けていた外力も除かれるので、成長応力が徐々に
取り除かれる。但し、飽水状態では強度は低いのでその後徐々に乾燥させることによって強度が高まる。
441日本@名無史さん:2011/01/04(火) 21:54:34
地名の一致…なんて安本の邪馬台国東遷説の定番ネタ

スレ違いだ。他にある邪馬台国スレでやれ。

その地名の中に『纏向』とかがあるのか?
442日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:00:54
纏向は墓地である。出土した建物跡は臨時的なものの跡であり、各地の土器は墓作り人足が持ち込んだものである。
443日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:23:44
>>442
よくそれが判ったねえ。
「墓作り人足」ではなくて、「ゆるやかな首長連合」から参加したメンバーなのね。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-3_1.html
444443:2011/01/04(火) 22:33:21
>>442 「出土した建物跡は臨時的なものの跡であり」

それを「殯(もがり)の宮」と言う。 書き忘れてた。
445日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:47:12
>「ゆるやかな首長連合」から参加したメンバーなのね。

ぎゃはは・・・正月早々から冗談ばっかし。
446443:2011/01/05(水) 10:40:31
>>442 >>445 ぎゃはは・・・正月早々から冗談ばっかし。

キミは九州幻想派の人だったのか。 間違って自分とこへボールを蹴り込んでしまったオウンゴールというやつね。 図星を指されてちょっと焦ったぞ。 間抜けなやつだ。

> 「ゆるやかな首長連合」から参加したメンバーなのね。
> ぎゃはは・・・正月早々から冗談ばっかし。

おそらく 今の時点では畿内派の人の大半も そう思うだろうね。
「ゆるやかな首長連合」についてはこれまでは漠然とした抽象論だったが、今年あたりから少しずつ具体性のある論議になってくるのではないか。
1月29日にその話が出るかどうか? >>394 >>409

情弱ってヤーネー
447日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:08:20

■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/上 「石囲い木槨」と判明 /奈良

毎日新聞 2011年1月5日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110105ddlk29070320000c.html

 「難しかったですね。それだけに、やりがいがあり、ありがたい調査でした」。
桜井市箸中。卑弥呼の墓説もある箸墓古墳の東約200メートルにあるホケノ山古墳。99年秋から調査を担当した県立橿原考古学研究所付属博物館の岡林孝作・総括学芸員は、こう振り返る。

 95年11月〜96年2月に桜井市教委が実施した第1次調査で、箸墓古墳より古い可能性がある全長約80メートルの前方後円墳と分かった。
岡林さんが担当したのは、橿考研を中心にして奈良盆地東南部の探究をテーマに設けられた大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会が実施した調査。目的は埋葬施設の全容解明だった。

(つづく)
448日本@名無史さん:2011/01/05(水) 16:11:07
(毎日新聞 ホケノ山古墳/上 つづき)


 後円部の中央で発掘を始めたのは9月14日。3日後の17日には、人のこぶしぐらいの石が出始めた。

  「表土をとると、いきなり石が出てきたから、『さて、何やろう』と思った。それで、石を一つ外すごとに、全部、チェックしていくという、とても細かい調査になりました」。
その過程で、その石の中に、木造の構造物があったらしいことが分かってきた。
 「だけど、そんなものは類例がない。大きな木造の構造物で思い浮かんだのが木槨(もっかく)で、木槨といえば『楯築(たてつき)』となったのです」

 楯築は岡山県倉敷市にある遺跡。76〜86年に岡山大学が調査した、弥生時代後半(2世紀末ごろ)の全長約72メートルの墳丘墓だ。
この墓の埋葬施設が、木の板で壁をつくり、ふたをする木槨だった。調査を指揮したのは、古墳研究で一時代を築き、一昨年、84歳で死去した岡山大名誉教授の近藤義郎さんだった。

  「すぐに近藤先生に連絡し、来ていただいた。
先生には特段、何も説明しませんでしたが、僕らが木槨の側板だと思っている断面のところへ行って、側板の下の礎板を探し出した。それで、僕らも、自信を深めました。近藤先生がそう見たのなら、間違いなかろうと」

 最終的に、木材で木の部屋をつくり、その周囲に河原石を横み上げて「石囲い」を設ける二重構造をした「石囲い木槨」であることが判明。
「石囲い」は長さ約7メートル、幅約2・7メートル、深さは1・5メートル程度。内部には、長さ約5メートルのコウヤマキ製の長大なくり抜き式木棺を納めていた。

 当初は類例がないとみられていたが、調査を進めていくうちに、萩原1号墳(徳島県鳴門市)や黒田古墳(京都府南丹市)も同様の埋葬施設だったことが分かった。
岡林さんは言う。
 「最初は類例はないと思っても、さまざまに知恵を絞って、いろいろな人に見てもらい、情報をやり取りすることで、だんだん固まってくるという貴重な経験ができました」

 調査を始めたのは99年9月10日。調査区を埋め戻し、すべての機材の撤収を終えたのは、翌00年9月20日になっていた。計377日の充実した調査になった。【山成孝治】
449日本@名無史さん:2011/01/05(水) 23:06:14
>>437
仮に地名の相似があっても、どっちが先かもわからんでしょ。
だから単なる妄想ネタ、どうとでも解釈できる。
まあどちらにしてもスレ違いだな。
450日本@名無史さん:2011/01/06(木) 20:58:21
>>449
さんきゅ。
実は、西遷じゃないの、というネタもあるものだから
ちょっと聞いて見たくてね。
どうとでも解釈できる、というあたりが中世とは少し
方法論が違う感じで新鮮だった。
スレチがいはあやまりまふ。
451日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:00:44
それ、地図に奈良と大宰府の位置を入れてみればわかるよ。
おそらく後代に大宰府の官人が奈良にちなんで付けたものが多い。
452日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:28:02
>>443
>「ゆるやかな首長連合」から参加したメンバーなのね。

墳墓造営の為に労力を日本各地から集めたと言うのなら「ちょっとまってくれ」…と言いたいw

労力の提供と言えば後の租庸調の庸か?(実際には”代わりとして”物品を納めていたらしいが)

それが奈良盆地のみならず畿内全域すら越えて全国区であったというのは
いくらなんでも現時点では飛ばし杉なのではないか?wwwwww

このスレ的にはそこら辺どう言う見解が主流なのかな?
453日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:54:24
古墳時代の開始期を3世紀にするからおかしなことになるのだ。箸中山古墳は崇神とされる大王の墓だろ。4世紀の築造だ。
墓作りは四道将軍達が連れて来た捕虜や奴隷を使って行われたのだ。
454日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:27:41
>>453
>箸中山古墳は崇神とされる大王の墓だろ。
>4世紀の築造だ。
>墓作りは四道将軍達が連れて来た捕虜や奴隷を使って行われたのだ。


よろしければそれぞれ推論の根拠をお示し願います。
箸中山古墳=崇神の墓説は、ほとんど耳にしませんので。
455日本@名無史さん:2011/01/06(木) 22:37:30
>>450
高天原(畿内)のニニギが伊勢のサルタヒコに導かれて九州南部に軍事侵攻したってこと?
456443:2011/01/06(木) 23:09:57
>>452 >>452

> このスレ的にはそこら辺どう言う見解が主流なのかな?

「このスレ的」とかいう統一見解みたいなものはないようです。
あくまで個人的なものとして書きます。

「墳墓造営の為"だけ"に労力を日本各地から集めたと」ということではないような気がします。
この時代(たとえば孝霊あたり)から 坂上田村麻呂の時代にいたるまでの
"軍隊"と言うものの性格をどのようにとらえるか? と言う問題だと思います。
わたしは"戦闘専門集団"と言うよりは、"武力付きの耕作地開発デベロッパー集団"
と捉えた方がよいのでわないかと考えています。 もちろん 抵抗勢力があれば戦闘はするでしょうが、 普段は 侵攻地での農地の開墾や
灌漑施設の整備なんかをやっていたのではないかと考えています。 そしてそれによって増えた収穫のうちからいくらかを税として提供しろと言うことではないのかと考えます。
たとえば神功遠征時の 裂田の溝(さくたのうなで)造成とか 元年二月の忍熊・カゴ坂による古墳築造のふりをした待ち伏せとか、どうも 軍隊は土木工事も担当していたと考えられる節があります。 ほかにもイッパイ例がありますが、ここではご勘弁を。

・・・というようなことで、捕虜や奴隷ではなく、各首長から供出された"それなりの自主性を持った人々"と見るべきではないかということです。。
457453:2011/01/06(木) 23:33:22
>>454
箸中山古墳は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓として管理されているが、崇神紀の箸墓にまつわる物語は創作である。
理由:内容が荒唐無稽であり、当時には箸は使用されていなかったと考えられること、および「墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていること
から竪穴式石室が作られていた可能性があるという。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大
坂山(二上山)の石ではない。(Wiki)」ということからも倭迹迹日百襲姫命大市墓ではないと考えられること。
あれほどの巨大墳墓は姫命には相応しくない。大王のものとしか考えられない。
458日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:39:53
3世紀の頃に多人数の捕虜や奴隷を抱えて養っていけるような権力などないだろう。
おおかたは纏向を中心とする首長連合から集められた人数と、あとは倭王を表敬した
クニからの人数。で、その人たちが地元に帰って小規模な前方後円墳を築いたという
とこじゃないの。
459日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:40:15
>箸中山古墳は崇神とされる大王の墓だろ。

箸中山古墳は、鉄が畿内に流入してから造られる。
鉄の流入は、垂仁からである。

>崇神紀の箸墓にまつわる物語は創作である。

崇神紀の箸墓を箸中山古墳とするからおかしくなる。
箸中山古墳には、埴輪が存在する。
460443:2011/01/06(木) 23:50:28
>>452
書き忘れてた

> それが奈良盆地のみならず畿内全域すら越えて全国区であったというのは
> いくらなんでも現時点では飛ばし杉なのではないか?

簡単に言えば、 邪馬台国がヤマトであるならば、遣使の始まった2世紀後半には ヤマトは
すでに九州に至る安定した連絡経路を確保していたということです。
誰もあんまり言わないが、これは畿内説が成り立つための必須要件です。
その経路の国々+阿波、尾張、但馬などが構成メンバーだと考えています。

これに関しては現在HPの改訂・準備中なので、一月ほど待ってください。
待てなければ ちょっと古い中途半端なやつですが・・・・・・

http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_3.html#1-3-30
461日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:50:37
いずれね、前方後円墳の全国的な急速な伝播というのは単なる交易関係では
説明がつきそうもない。これは卑弥呼の倭王冊封による影響と考えたほうがいい
だろう。纏向を訪れた首長たちは、そこに前方後円墳と王権を見たんだな。
瀬戸内と東海が結びついた時点が王権の出発点だったんだろうが、魏からの認証
により、大きく地方を巻き込んで回転し始めたんだよ。
462日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:55:07
>3世紀の頃に多人数の捕虜や奴隷を抱えて養っていけるような権力などないだろう。

捕虜や奴隷を働かせずに養うなど有り得んだろ。労働力であり財産だ。まあ、箸中山古墳築造は3世紀の話ではないけどな。
463日本@名無史さん:2011/01/06(木) 23:59:34
捕虜や奴隷を働かせて、大人層は左団扇というわけか?
ない、ない、そんなもの。3世紀当時の集落跡を見ればわかることで、
一握りの権力者と庶民しかいないよ。どこのおとぎ話だ?
464日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:43:15
>>456
正直に言えばそんな人材を供出する各地の勢力が気前が良すぎるだろうとwwww

じゃあヤマトが各地の勢力に”供出させた”となると
果たして3世紀にそこまでの権力を持っていたのか大いに疑問。

号令をかければ各地から兵を集められるって話だろう?

465日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:51:38
どうも三国志演義の世界と日本の戦国時代をまぜこぜにして3世紀頃を
考えてる輩が多すぎる。学校の歴史も、7世紀以前までは概論をやめて
考古学的な集落モデルを学ぶ、とかにしたほうがいいのかもしれんな。
466日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:57:38
>>465
いや、三国志とか戦国時代とかじゃなくて
やはり後世の大和朝廷のイメージに引っ張られるんじゃね?

勿論、完全無関係でないのがややこしいところなんだろうがwww
467443:2011/01/07(金) 01:16:18
>>464 号令をかければ各地から兵を集められるって話だろう?

それがちょっと違う。
かならずしも ヤマトの支配下での供出ということではなくて、連合勢力として、ヤマト自身を含めて人員の分担と考えた方がよいのではないか。
つまり ヤマトによる全国支配という形に"なし崩し的に"なる前の 本来の"おだやかな首長連合"。
468日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:43:07
>>463
>3世紀当時の集落跡を見ればわかることで、 一握りの権力者と庶民しかいないよ。どこのおとぎ話だ?

どこの集落跡を見れば判るのだ?捕虜や奴隷を収容所みたいなところに集めていたとでも言うのか?
墓作りや工事などで働かせるが牛馬のような扱いはしない。それなりの住居も与えたのだ。捕虜や奴隷を働かせるには
それなりの待遇をしないと暴動や反乱が起るからな。
469日本@名無史さん:2011/01/07(金) 21:48:28
まあ何にせよ例の搬入土器については何らかの解答が必要なわけで

俺自身はそれは古墳造営の為じゃなくて纏向で行われていた祭祀に参加する為に
各地からやってきた人間がもってきたんじゃないかと考えているが
(古墳造営自体は地元の人間が主体)

古墳造営の為の人間を喜んで供出したと言う説にしろ
何故そんな求心力があったのか?と言うことだよなあ。
470443:2011/01/07(金) 22:02:31
>>469
> 俺自身はそれは古墳造営の為じゃなくて纏向で行われていた祭祀に参加する為に
> 各地からやってきた人間がもってきたんじゃないかと考えているが
> (古墳造営自体は地元の人間が主体)

だから 1月29日まで待てとあれほど・・・・・・・

> 古墳造営の為の人間を喜んで供出したと言う説にしろ
> 何故そんな求心力があったのか?と言うことだよなあ。

オレは「人間を喜んで供出した」とかいっていないぞ、
奴隷とか捕虜とかと比較すれば"それなりの主体性を持って"参加したと言っているだけだぞ。
471日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:14:32
>搬入土器については何らかの解答が必要なわけで

崇神10年 異俗多帰。
472日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:25:13
>>467
墳墓造営のための労力を提供したのは誰か、という問題ですね。

それが屯田兵のようなものかどうかは置いといて、
連合を構成する各地域の首長層が自分とこの人員を持ち寄った、ということですか?

城島遺跡は桜井茶臼山古墳築造のベースキャンプではないか、
という説があるようですね。出土土器は
「東海をはじめ河内・山陰・近江などの地域の特徴をもつ、
 口径が30センチ近い土師器甕の大型品が目立っていた。」
そうですが。
473日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:36:20
>>471 崇神10年 異俗多帰。

今マキムクの造営とかは2世紀後半の話をしているわけで、
崇神のおそらく3世紀中頃とは時代が違う。
それい どこからかやって来た得体の知れん連中を
いきなり神聖な神殿に入れると思うかね?
474唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 22:38:20
>墳墓造営のための労力を提供したのは誰か、という問題ですね。

この時代、鉄の分与権は大和大王にある。
米を集めても消費仕切れなければ、何処に向かうか?
475日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:41:33
>>472 墳墓造営のための労力を提供したのは誰か、という問題ですね。


墳墓と例の宮殿は別けて考える必要がある。
宮殿は2世紀後半には完成しているし、
箸墓はそれ以後に築造されたようだし。
476日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:48:30
>>474
コラッ! 唐松
鉄なんか関係ない。
余計な与太を飛ばして、かき回すな。
おまえは九州説へ帰れ。
477469:2011/01/07(金) 22:51:11
まあ搬入土器の件で言えば縄文時代とかなら
例えば魚が川を遡上するのを狙っての漁とかで
他地域からも人が集まる…と言う話しがあるが

例の桃の種なんかも季節感たっぷりだw
日本人が「期間限定」の文字に弱いのは当時からだったんだろうか?www

今後の発掘により「纏向詣で」の中身が解明される事に期待w
478443:2011/01/07(金) 23:20:19
>>477
> 例の桃の種なんかも季節感たっぷりだw
> 日本人が「期間限定」の文字に弱いのは当時からだったんだろうか?www

せっかく"古代ロマン"とかにひたっているところを邪魔して申し訳ないが、
"例の桃の種"は宮殿が撤去された後のものだぞ。
それが宮殿と、関係あるのか、ないのかは不明・・・・という冷ややかなリアリズム。
479日本@名無史さん:2011/01/07(金) 23:22:28
>>469
>何故そんな求心力があったのか?

でっかい墓を築くのは、その墓に葬られる首長(もしくは首長霊という観念)に求心力があったからでは?
480469:2011/01/07(金) 23:26:58
>>478
ん?別に宮殿とセットにして考えていないが?
良く分らないツッコミだなw

それから>>470の件についてはそれぐらいの意は汲んでいるから
要するに派遣される人間も「やる気満々」だったって話だろう?w

481443:2011/01/07(金) 23:48:49
>>480
まっ そーゆー事ですね。ドーモ
いつのまにか スレの流れとして、古墳と宮殿がこんがらがってしまったような・・・・・
もう寝ます
482日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:27:58
やっぱ殆どの人がそう考えるわけか。
確かにすでに縄文期から集落内でのヒエラルキーは存在していたわけだけど
他の地方を支配するような広域権力ってのは、弥生期以降からもずいぶん経たないと機能不可能というかあり得ないんだよね。
そういった単純な力の支配ではなく、各地域の利権や思惑が一致したゆえの経済的要因の結果が纏向なんだろうね、やっぱり。
483ローガン:2011/01/08(土) 16:36:19
>>479
>でっかい墓を築くのは、その墓に葬られる首長(もしくは首長霊という観念)に求心力があったからでは?

どうでしょう?
私は、死んだ王の求心力というより、後継王の共立に参加する意思表示が、先王の墳墓造営じゃないかなあと思いますが。
484日本@名無史さん:2011/01/08(土) 21:46:30
>>479>>483
墓が被葬者の生前に築造されたか死後に築造されたかによって求心力の在処が異なるのではないかな。
485日本@名無史さん:2011/01/09(日) 16:38:19
>>446
> 「ゆるやかな首長連合」についてはこれまでは漠然とした抽象論だったが、
> 今年あたりから少しずつ具体性のある論議になってくるのではないか。
> 1月29日にその話が出るかどうか? >>394 >>409

そんなこと簡単に言えるわけ無いだろ…
486日本@名無史さん:2011/01/09(日) 16:49:16
>>483
>死んだ王の求心力

死んだ王が神(首長霊)として崇められるなら、偉大な王はより強力な霊力をもつ神と認識されるのでは?

>共立に参加する意思表示

共立に参加するメンバーの数は先王の影響力によるのでは?

私的には
楯築がそれまでに比べて隔絶して大きいのは楯築の大王が、
箸中山が大きいのは箸中山の被葬者が、大きな求心力(支配力などではなく)をもっていたからだと思いますが。
487日本@名無史さん:2011/01/09(日) 17:52:37
求心力と言っても、蜀の諸葛亮の墓ですら径20mmだというのに、
倭の有力者の墓は、気違いじみた大きさになる。未開性の裏返しとも言えるが。
488日本@名無史さん:2011/01/09(日) 18:18:04
2ミリメートルだって?
489日本@名無史さん:2011/01/09(日) 19:15:23
と言うか権力を所持していたのが被葬者なのか?
それとも古墳を築いた喪主さんwなのか?

…と言うような問題は個人的にはあまり興味がないと言うか
そりゃ被葬者も喪主さんもどっちも権力持ってただろうと
古墳自体はその継承を目に見える形にする意味もあったんじゃね?と

それよりその権力・求心力の基盤がなんだったのか?

軍事力だったのか?経済・流通だったのか?はたまた宗教だったのか?
(無論それらが完全に分離していたとも思えないが)

その辺のところを議論していただけると個人的にはありがたいw

>>487
>未開性の裏返しとも言えるが。

まあチョットずれてるんだろうねw
ここからイケイケドンドンで更に古墳は巨大化の一途を辿るわけでwww

490443:2011/01/09(日) 20:55:12
偉大な王はより強力な霊力をもつ
491日本@名無史さん:2011/01/09(日) 20:56:02
>>489 それよりその権力・求心力の基盤がなんだったのか?

【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その13
このスレのタイトルそのままやんけ!

>>483-489

「偉大な王はより強力な霊力をもつ」とかで王の求心力と墳墓の大きさが比例関係にあるのは出現期の前方後円墳だけに言えるのではないか?
あとは組織動員力の整備・充実とかの要因で勝手にふくれあがるだけ。
求心力どころか、嫁ハンに逃げられてしまうと言う遠心力が働く仁徳において墳墓が最大になるというのは皮肉なもの。
492486:2011/01/09(日) 21:13:55
>>490>>491
少し誤解されてしまったようです。

>死んだ王が神(首長霊)として崇められるなら、偉大な王はより強力な霊力をもつ神と認識されるのでは?

というのは
「偉大な王」は(死後)、「より強力な霊力をもつ神(首長霊)」と認識される。
という意味で言いました。

わかりにくい文章をかいてしまって、さーせん。
493水銀厨:2011/01/09(日) 21:47:11
この地の権力・求心力の基盤は「丹」だろう。
古墳の主が水銀朱なんてのもあっただろうに。
494日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:10:54
>>492
そもそも 「首長霊」とか言うムツカシイ言葉は使わない方がよいのではないか?
これは学会の慣用句みたいなものだと思うが、おそらく次のような意味で使っているのだと思うが、

× 穀物霊(自然崇拝) → 祖霊崇拝 → 首長霊崇拝

わたしは次のように理解した方がよいと思う。


           首長霊崇拝 →    表層的・現世的
      祖霊崇拝 → → → → →
穀物霊(自然崇拝) → → → → → →     深層的

簡単に言えば、古墳に納められるような身分の高い「やんごとなき人(止むこと無き人→不老不死の人)」が「オレはずっとい生きているんだぞ」というのをアピールするための"きわめて現世的な示威装置"が古墳な訳で、それほど深い宗教的理由とかは無いのではないか?古代の死生観 ↓
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html
495486:2011/01/09(日) 23:44:34
>>489
>その辺のところを議論していただけると個人的にはありがたいw

まず自分がやれ。

箸中山だとややこしそうなので楯築でやろう。
それまでの首長墓に比して隔絶した規模と(葬送儀礼の)質をもつ楯築がなぜ築かれたか?

その後の特殊器台・特殊壺の分布から考えて、楯築の被葬者が吉備一円をまとめたのだろうとは思われる。
しかし、楯築の副葬品をみると武力の行使といったものはうかがえないのではないか。

いっぽう楯築の近くにある岡山市津寺遺跡は後期末に集落が再構築された(?)らしいが、
西讃岐系・次いで因幡系・播磨系と河内系の「多量の外来系土器が出土している。」そうだ。
また終末期からは「吉備型甕は、西は北部九州から東は奈良盆地にいたる広い範囲で出土する。」

後期後半から終末期の大陸文物の出土状況をあわせて考察すると、
楯築大王の「権力・求心力の基盤」は、中部瀬戸内以東の地域を糾合し、
瀬戸内海航路の安定的な交流をもたらしたことにあるのではないか。

いかがでせう?
496日本@名無史さん:2011/01/09(日) 23:55:12
島根県西谷墳墓群の吉備系土器
四国松山平野、今治平野の吉備型甕
497日本@名無史さん:2011/01/10(月) 00:55:51
>>495
> 箸中山だとややこしそうなので楯築でやろう。

あの〜 楯築・津寺だともっとややこしそうな気もするんですけど〜

つまり「楯築の主は倭人伝に記された2世紀後半の倭国の大乱のヒーローであった。」

はいお仕舞い。 アリィー? 簡単に説明してしまえた。 こんな事でいいのだろうか?
そもそも 倭国の大乱とはなんじゃい? 「武力の行使といったものはうかがえない」?
でも大乱があったと書いてある? 海上輸送力の増大? この時代には遠隔地への遠征は不可能?

なんやさっぱりわかりまへん
498495:2011/01/10(月) 01:44:44
>>497
> あの〜 楯築・津寺だともっとややこしそうな気もするんですけど〜

理由は?

> そもそも 倭国の大乱とはなんじゃい? 「武力の行使といったものはうかがえない」?
> でも大乱があったと書いてある?

うかがえるんですか?

> 海上輸送力の増大? この時代には遠隔地への遠征は不可能?
> なんやさっぱりわかりまへん

あなたの言うことが。
499日本@名無史さん:2011/01/10(月) 13:07:36
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇   〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常? 中平年間
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。遠国をまとめる為「魏の屯倉手法」導入。
260年頃(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜   ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。誉田御廟山までは110年。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 半島は空白地帯となる。半島占拠、百済建国。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
500太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/10(月) 15:10:15
唐松山酋長の奴、何か分からんが、またまたか〜? 無コテで妄想を
書きこんでいる。
501太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/10(月) 15:14:13
なお、 紀の崇神5,6年の記事は192,3年に対応しない。
船舶が製造されてないから、農民千人がカラ手の餓鬼同然で大陸渡海は
出来ない。殆どが若狭湾に着く前に空腹で野垂れ死に!!
従ってオシデ族唐松山酋長の迷信である。
502太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/10(月) 15:30:20
大王の臣下(家来)伊支馬 ≠ 臣下より偉い 垂仁大王

上式は等号にはならず、右左辺は全然別人であ〜る。

等号というのはまるで映画の「猿の惑星」同然の創作であり、猿(臣下)
が人間(大王)より上であり人間(大王)が猿(家来)以下という
メチャクチャ.のデタラメ論年表なのである。

こういう同酋長の迷信インチキ年代を祓いに祓って大祓いを敢行し、日本
古神道の真の年代 ↓ が天の八重雲の雲間から煌く太陽の如く確定する。

 237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

このことから 景初3年(239年)鏡が畿内から多出する事由が、紀の
崇神6年の倭笠縫へアマテラスオオミカミとその象徴たる鏡の祭祀に
あったということ判明し、上の等式の整合性が見出されたのである。
景初元年を景行元年あたりにすると、239年鏡の多出の事由が紀に見当たら
ないことから、唐松山酋長の文言が迷信に冒されてるデタラメであること
が、不整合のためミエミエとなる。
503ローガン:2011/01/10(月) 16:17:16
>>486
>死んだ王が神(首長霊)として崇められるなら、偉大な王はより強力な霊力をもつ神と認識されるのでは?

なら、偉大なる王の祭祀が、その場所において連綿と続く筈では? 箸中山にしても都月型以降は墳頂での祭祀は無いような。

>私的には 楯築がそれまでに比べて隔絶して大きいのは楯築の大王が、
>箸中山が大きいのは箸中山の被葬者が、大きな求心力(支配力などではなく)をもっていたからだと思いますが。

ある期間の後、立ち入らなくなるのは次王墓へ祭祀が移ったのではないですかね。
首長霊とは、先王霊。先王を如何に大袈裟に祀れるか?が、現王の求心力であり、
その墳頂での儀礼こそが正式な王の交代のイベント。
清寧紀、武烈紀などにみえる「壇」に繋がるものでは無いか? とか、思ったり…
504486:2011/01/10(月) 20:39:54
>>503
>なら、偉大なる王の祭祀が、その場所において連綿と続く筈では?

そんなふうには思ったことがありません。

>都月型以降は墳頂での祭祀は無いような。

無いようですね。
ですから、首長霊は特定の人物に固着するものではないのだろう、と考えられます。

>次王墓へ祭祀が移った

葬式は死んだ人の墓でやるでしょう。

>首長霊とは、先王霊。

“カミ”とみなされるようになった重層的に連なる代々の祖霊、と思っています。

>王の交代のイベント

霊威を引き継ぐのですね。

>現王の求心力

現王は先代の威光を自己の求心力を高めるのに最大限利用しようとした、でしょう。

・・・被葬者の求心力が大きかったからでっかい墓が築かれた、と単純なことしか考えていません。
「求心力」とは具体的には>>495のようなことを考えています。
505日本@名無史さん:2011/01/10(月) 22:12:12
>>486 “カミ”とみなされるようになった重層的に連なる代々の祖霊、と思っています

なんか "古墳"と"神社"の役割をごちゃ混ぜにしているような気がしますが?
"古墳"と"神社"の違いを説明していただきたいのですが。
506日本@名無史さん:2011/01/10(月) 22:36:27
古墳祭祀で不思議なのは、築造直後は盛大に葬送儀礼とかやってるみたいなんだけど
その途端まるで忘れてしまったかのように、荒れるに任せるというか放置状態になるんだよね。
まさに穢れの場所つまり『ケ』の土地になってしまったかのように。

まああれだけ乱造すればメンテが追いつかないというのは判るのだが
今のところ解体調査した古墳では、追葬以外の例で新規にというか例年祭祀を行っていたような形跡が見当たらないんだよな。

もっと後の時代になって書記に天武が神武陵に祈願したというのがあるが
あれとて現・神武陵ではなく平城京建造で破壊された四条古墳という説のほうが有力だしね。

という意味では、古墳という場所というか装置には>>486のいうような重層的な連鎖という宗教観は希薄なんだよね。
むしろ穢れの場所としての隔離的な装置という気がしてならない。
507504:2011/01/10(月) 23:57:59
>>505
>説明していただきたいのですが。

や、やってみましょう(未消化につき言葉足らずは、さーせん)。

>"古墳"と"神社"の役割をごちゃ混ぜに
>"古墳"と"神社"の違い

“カミ”という言葉が出てきたので、神社を連想したのですね?

ここでいう“カミ”は、(私的には)弥生時代に人々が豊穣や集落(共同体)の安全を祈り祀った神様を想定しています。
それは、アミニズムに由来する霊的存在が地霊と穀霊としてカミと観念されたものと、
祖霊が共同体守護のカミとして観念されたものが一体化し、
首長権力の発達にともない、亡くなった首長の霊がカミとして祀られる段階をむかえたものです。

古墳はお墓ですが、「古墳」と定義されるより以前の時代の、古墳のように土盛りしたお墓を
「墳丘墓」と(古墳と区別して)言います。

後期後半の吉備の首長墓である楯築弥生墳丘墓からは、被葬者の葬送儀礼をおこなったと思われる遺物が検出されました。
出土した土器から、儀礼の内容は「共飲共食儀礼を中心とした祭祀であるとみられている」そうです。
また、それ以前より集落から出土する器台という土器がマツリで使われただろうと思われることから、
集落でおこなわれていたカミ祀りと同様なことが楯築の葬送儀礼でおこなわれたと考えられます。
それはつまり、亡くなった楯築の被葬者がカミとなったと観念されたということだろうと。

カミを前にしての共飲共食とは、相嘗という神事と同じでカミの加護を受け、一体化を念じたものだろうということです。
すなわち楯築での葬送儀礼は(楯築に限らず以後の首長墓での葬送儀礼、また箸中山以後の古墳での葬送儀礼も同様に)、
「“カミ”とみなされるようになった重層的に連なる代々の祖霊」の守護を受け継ぐ、首長の引き継ぎ儀礼、ではないかということです。
508486:2011/01/11(火) 00:10:31
>>506
> まるで忘れてしまったかのように

やることやったあとは忌避されたのでしょう。
古墳が登りにくいのも、楯築の突出部が最後に溝で画されたのも、
聖域化するためではないんですかね。

>>486のいうような重層的な連鎖という宗教観

そんなこと言いました?
509日本@名無史さん:2011/01/11(火) 00:27:07
>>506

それで言えば、木槨なんか何れ朽ちて崩落する事が予見できたはずで
上部に積み上げた石は下の空間を埋める為に予め乗せられたんだろうか?

(もし先の>>435 >>440で言った様な木材の経年変化すら理解していたのなら
 それはより強く想像できるわけで)

その「隔離」(≒えんがちょwww)の方向性は箸墓以後
更に外界と墓域を隔離すべく大きくなった周濠に見ることができるような…

纏向型の中には前方部の部分等部分的には濠が見られないようなもの
周濠自体確認できていないもあるが…

510505:2011/01/11(火) 00:32:38
>>507
自分自身が書いていることをあまり理解しておられないようだ。

神社というのは、文字を持たなかった古代人にとって その一族の存在のアイデンティティー・正当性を確認するための施設で、そのために祖先の歴史を保存してある つまり"氏神"ということです。
あなたの言う「カミを前にしての共飲共食」とか「なんとか霊」とかいうのは 現代に至るまでこの神社において執り行われている。
その通常神社で執り行われる儀式が >>506 も書いているように 短期的な示威装置にすぎない古墳で執り行われる必要があるのか?
それを説明してくれと言うことです。
511与太話その1:2011/01/11(火) 00:46:35
>>495
>まず自分がやれ。

じゃあ烏賊与太話だがwwwww

先ず最初に言ってしまうと
王権と言うか連合体発生の主要因は、軍事的側面が強かったのだろうと。

『経済・流通』にその答えを見出そうとして
鉄等の舶載品の流通をコントロールしたのがヤマト勃興のキーだと言う意見は
根強いものがあるんだろうが
そもそも何故それをコントロールできるようになったのか?と言う問題があるわけで
根本的な解答になっていない希ガス。

「今日から俺が鉄の流通を仕切るからヨロシク」
と言って皆が納得するはずもないwwwwww

じゃあ次に『宗教のチカラ』
例えヤマトに余程カリスマ性のある人間(卑弥呼でも可w)が現れ
余程魅力のある宗教が興ったとしても
後世の伊勢や出雲等々の御師と言った宣伝・営業マンがいたわけじゃないだろうし
勿論、3世紀の倭国じゃマスコミもなかったわけで
 ♪ジーザスクライスト スーパースタ〜 w

 (与太話その2 に続く)



512507:2011/01/11(火) 00:50:59
>>510
>古墳で執り行われる必要があるのか?

(古墳は)
前首長の霊威を引き継いで、次代の首長となったことをアピールするのに
効果的な「示威装置」だから、じゃないんですかね?

それに、まだ神社なんてなかったんじゃないですか?
楯築も鯉喰ものちに神社になってますから。
513与太話その2:2011/01/11(火) 00:58:55
勿論『軍事』と言ってもヤマトに無敵の軍団が突如出現し
周辺を併呑していった…なんて話ではなくてwww

倭国大乱と記された戦乱の時代があって
少なくとも西日本一帯は極度の緊張感に包まれた。
(瀬戸内は海上から集落を強襲するにももってこいだった)

その緊張の中で皆が先ず考えた事、最優先事項は
「勢力を拡大して天下をとってやる!」なんて事じゃなくてw
どうやって今日明日を生き残るか?

自国の安全保障の為の協定を近隣の勢力と結ぶ事で
それが首長連合の端緒ではなかったのか?

まあ現代で言うと核の抑止力「相互確証破壊」みたいな?wwwwww
514505:2011/01/11(火) 01:32:32
>>512
なんかご都合主義の寄せ集めやね

> それに、まだ神社なんてなかったんじゃないですか?

そうすると太古から連綿と続くしめ縄を張っただけの聖域とかは神社ではないとでもおっしゃる。 神道は最近になってできた説ですか?

> 楯築も鯉喰ものちに神社になってますから。

古墳の後に神社が作られる場合には、 いちど本来の伝承が途絶え、後世になってから なにか判らないおどろおどろしい畏敬の対象として崇拝されていると見なせる場合が多い。
つまり古墳と神社には継続性はきわめて薄い。
楯築・鯉喰の祭神に古墳の被葬者を示唆するようなものでもあるのですか?
515ひとぶた:2011/01/11(火) 01:48:38
>>510

貴方の「神社」と言うのは、「恒久施設=建築物=社殿(及びその周囲の神域)」のことですね。
つまり、現行の神道オブジェとその様式だと。

だけど、現行神道の神事だって、常に恒久施設の中だけで行われているとも思わないです。
穀霊祭祀と言うことから祈年祭のような姿を想像しやすいですが、
祭事の中には大祓のように生活領域で行うもの、神輿渡御のように神域外で行うのが当然のもの。

古墳で行われたであろう「祭祀」だって、現代でも清祓だの祀祭だのと言って同じように行っているところです。
社殿が無かったり、社殿に収まらないような祭事は他のフィールドで行うのは当然で、
現行神道と直接つながるかどうかさえ不確かな古墳時代人の祭祀が墳墓において行なわれても別に構わないはず。

ここにいる大半のユーザの考えは、上ようなものだと思います。
なので、神道にお詳しい>>510氏の感覚で、それは違うだろうと、仰られても「はー、そうですか」としかお応えできません。
逆に、もう少し、祈年祭、新嘗祭など現代における穀霊祭祀や神式葬の歴史などを御教示いただければと思います。

516505:2011/01/11(火) 02:12:43
>>515
> 貴方の「神社」と言うのは、「恒久施設=建築物=社殿(及びその周囲の神域)」のこ> とですね。 つまり、現行の神道オブジェとその様式だと。

いいえ 全然違います。 >>514 に書いてあるとおりです。 あなたは ものすごくとんちんかんな突っ込みをしている。

> 現行神道と直接つながるかどうかさえ不確かな古墳時代人の祭祀・・・・・
> ・・・・・・ここにいる大半のユーザの考えは、上ようなものだと思います。

ギョェー! 現行神道と直接つながるかどうかさえ不確か そんなこと聞いたの初めてです。 ぜひその繋がらない理由を説明してください。 あなたが想像で勝手に呼び出した「ここにいる大半のユーザ」とかいうう背後霊と一緒に
517ひとぶた:2011/01/11(火) 07:19:22
>>516

> いいえ 全然違います。 >>514 に書いてあるとおりです。 あなたは ものすごくとんちんかんな突っ込みをしている。

いいえ、ちゃんと>>514も踏まえて書いてますよ。
ようく読んでください。

「恒久施設」と言う表現が適切でないと言うなら「神のための恒久的領域」と言いなおしましょう。
「聖域」と「俗域」と言ったら通じるのかな。

>あなたの言う「カミを前にしての共飲共食」とか「なんとか霊」とかいうのは 現代に至るまでこの神社において執り行われている。

つまり、世俗では、祭祀は行われてはならない、「カミのヤシロ」と祭事の場は完全に一致しないとならないと。
そう言う主張と理解しますが、これは正しい理解ですか?

私は「田楽」みたいなものの方が、古い祭祀の姿を残している(それ自体は平安期までしか遡れませんが)のかなと考えています。
で、変な叫びを上げてますが、祈年祭や神式葬の歴史については語ってもらえないのですか?
518日本@名無史さん:2011/01/11(火) 11:44:44
紀元前1世紀〜紀元後1世紀ぐらい、近畿王権の最初の倭王は、
本名がホアカリという名前の王であり
彼は、妃の父親である出雲王から出雲の領国を譲渡・禅譲される形で
はじめて、倭の大王になった。(播磨国風土記より)
彼は通称を天照国照彦といいい、文字通り
天津と国津の両方の支配者(=出雲国譲りを実現した王)とよばれていた。

このホアカリを初代倭王アマテルとしてカウントし
このホアカリと、天道日女命(大国主の娘)の間に産まれた
カゴヤマ命を二世大王として継承させることによって(近畿と出雲の合一)
近畿王権の大倭王としての正統性は保証されていた。

そういうふうに考えた場合、このホアカリの弟(兄という説もある)である
ニニギやその男系子孫である現皇室の正統性に疑問符がつく。
ニニギは、出雲国譲り直後、兄のホアカリの命令で、九州南部の統治を任されていた。
このニニギの子孫は、後に近畿本国で、ホアカリの御落胤(クシ玉)となのる
ニギハヤヒという人物のクーデターがあったので、それを鎮圧すべく
近畿本国に移り住み、やがて、ホアカリの子孫を助けて政治をするようになる。
それが、記紀で言う、神武〜孝昭あたりの時代だな。
519日本@名無史さん:2011/01/11(火) 12:49:16
せっかくの議論が・・・・・・・・・・・しらけるなあ
520日本@名無史さん:2011/01/11(火) 13:47:15
もともと、倭国では男王によって建国され...
やがて、歴年争い、卑弥呼を共立させて、鎮まった。

この建国した男王とは、天照国照彦(火明命)のこと。
卑弥呼(モモソ媛命)によって、倭国は再統一。
521日本@名無史さん:2011/01/11(火) 16:08:24
モノノケ氏いい加減にしろ
522ローガン:2011/01/11(火) 16:42:21
>>507
>カミを前にしての共飲共食とは、相嘗という神事と同じでカミの加護を受け、一体化を念じたものだろうということです。
>すなわち楯築での葬送儀礼は(楯築に限らず以後の首長墓での葬送儀礼、また箸中山以後の古墳での葬送儀礼も同様に)、
>「“カミ”とみなされるようになった重層的に連なる代々の祖霊」の守護を受け継ぐ、首長の引き継ぎ儀礼

たしかに、楯築では共飲共食の儀礼があったのでしょう。 しかし時代が下れば相嘗は行われなくなります。
吉備において祭祀が変更しています。壺の焼成前穿孔は、明らかに相嘗を拒否しています。
そして大和へは、その変更後の祭祀が入ってきます。箸中山で行われたのは、共飲共食など伴わない 底抜け壺を使ったしかも、一過性の儀礼です。
楯築での祭祀と、箸中山以降は同じではありません。
523507:2011/01/11(火) 19:45:58
>>522
焼成後穿孔でありながら粉々に砕いて遺棄されたことの意味を考えて、
楯築もまた象徴化祭祀であったのだという見解に到ったことについてはどう思われますか?

楯築に並べられたのも孔空きの壺だったのです。
524512:2011/01/11(火) 20:13:18
>>514
>しめ縄を張っただけの聖域とかは神社ではないとでもおっしゃる。

おっしゃってませんが。
>神社というのは(中略)するための施設
と言われたので「施設=建築物=社殿(及びその周囲の神域)のこと」(byうましか)、
だと、・・・思いますよねぇ、うましかさん。

>神道は最近になってできた説ですか?

知りません。

>楯築・鯉喰の祭神に古墳の被葬者を示唆するようなものでもあるのですか?

どうでしょう? 聞いたことはありません。

「しめ縄を張っただけの聖域とか」は
神社であって
=「一族の存在のアイデンティティー・正当性を確認するための施設」であって、
=「祖先の歴史を保存してある」のであって、
「つまり"氏神"ということ」
なんですか?
525495:2011/01/11(火) 20:28:51
>>513
史料をもとに語られるとは予想外。
その史料事実が考古資料によって確認されるのであれば話は簡単だが、
そうでないのは百も承知のはず(だから与太なのだろうが)。

>倭国大乱と記された戦乱の時代があって

あったことについては(ただし「乱」)否定するものでもないが、
(そうなると論点は)そりゃどんなものだったのか? って話で。
そうなった原因はなんだと思うの?

>どうやって今日明日を生き残るか?

というのは巻き込まれた側はそうだろうけど、
乱を起こした張本人たち(がいるなら)は何考えてるんだ?

おもいがけずでっかくなっちまったなあ、とか?
それとも、自然発生的に西日本一帯でいっせいに紛争が勃発した?
526日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:54:42
>>525
>そうなった原因はなんだと思うの?

後漢朝の衰退。
それに伴う北部九州を頂点にしたヒエラルキーの崩壊。
戦乱の火はもず九州にそれがやがて西日本一帯に広がる。
と言うシナリオかな?ありがちだがw


まあ与太と言うのはこれと言った根拠がないからなwwwww

例えば高地性集落をその大乱に当てはめる事ができるかどうかも怪しい
(かつて佐原編年における年代観の根拠の一つだったがw)


…しかし今の神道ネタのお話は論点が何処にあるのか良く分らない。
誰か解説してくれw

そもそも神道なるものの定義がはっきりしないというか

「仏教伝来以前から日本にあった信仰の総称」ぐらいゆるい括りなら
そりゃ古墳時代、弥生時代あるいは縄文時代からの連続性はあるだろうって話になるがwwww
527ローガン:2011/01/11(火) 21:18:15
>>523
勿論、壺の穿孔だけではなく、「供献・分配・飲食」用と考えられる土器の量も明らかに違います。
近藤氏が著作に引用した「新本立坂」(1996)に拠れば
楯築は特殊壺10数個体以上 に対して高杯を中小土器類が、計8〜9種 120個体以上。
宮山古墳(墳丘墓)では特殊壺8個体以上に対して、高杯と思われる土器が一つだけ。
明らかに吉備において、祭祀が変化しているのです。 この相嘗の真似事すらしなくなった(飲食用の土器を用いない)祭祀になってから大和に入って来るのです。
吉備で既に、形骸化が完了したものが大和に入ってきた訳で「相嘗儀礼」として入って来たものを大和が咀嚼したものでは無いと思います。
又、のちほど。
528メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 21:21:13
ん?君等ゎ難しい単語並べて分かりにくいんだよ。

「神社」というのは、神の宿るところ。
「古墳」はというのは、無くなった人を葬るところだろうw
全然ん違うじゃんw
529メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 21:26:48
しめ縄を張っただけの聖域って・・・ バカか?wwwww

神社もしらないのかw
530505:2011/01/11(火) 21:29:52
古墳での祭祀の議論がなんかグダグダになってきたな。もう一度始めに返って整理します。

古墳(とくに巨大前方後円墳)においては >>506 「例年祭祀を行っていたような形跡が見当たらないんだ」や
ローガンさんの「箸中山で行われたのは、共飲共食など伴わない 底抜け壺を使ったしかも、一過性の儀礼です。」から考えて、祭祀は被葬者個人に対するものと考えられるのではないか?

これに対して、「重層的に連なる代々の祖霊」(氏神)とかに対する祭祀は通常神社で行われる。

・・・・・というごく常識的な推測を書いたまで。

ここのスレは考古学に軸足を置いて2世紀後半の歴史を扱う場所だと思っていたのですが、巨大前方後円墳は何の目的で築造されたか知らない人がいるのではないか? なぜ考古系では「宗教施設」ではなく「示威装置」と表現される場合があるのか理解していないのではないか?
531505:2011/01/11(火) 21:50:48
ローガンさんが急に生き生きしてきましたね。
532メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 22:02:43
>古墳での祭祀の議論

ここのスレの内容、オモシロソウだね。
楯築遺跡?今、本開いたが〜近藤義郎が本をだしてるみたいですね・・・
墳頂に巨石と斜面に立石があり、どうたら書いてるね。
533523:2011/01/11(火) 22:14:17
>>527
>土器の量も明らかに違います。

承知しています。「前方後円墳の成立」第2部第2章表2表3に出ていますね。

>祭祀が変化している

「首長霊継承儀礼」(と仮に呼びます)は楯築が初めてですよね。
それまで集落で行なわれていたカミ祀りである共飲共食形態をもちこんだのですが、
それは当初から象徴化された祭祀だったわけです。

以後この儀礼が続けられていくにつれて共飲共食形態が形骸化するのは、
儀礼的な形式化のためであり、異質なものになったのではないと思いますが。

>形骸化が完了したもの
>「相嘗儀礼」

両者が「違うもの」だということですね。その「違い」を説明してください。
534日本@名無史さん:2011/01/11(火) 22:21:35
よしよし、この調子で議論の続行望むぞ。
ホアカリ厨は出入り禁止じゃ。
535メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 22:23:35
>>530
考古学専門ではな〜いが、

古墳にある祭祀跡に関してはよく分かってないのが現実。
とにかく、ここで祭祀が行われていたよう・・・という具合に説明してると思う。
そして、>>528でも書いたように「神社」と「古墳」は別物。

>巨大前方後円墳は何の目的で築造されたか知らない人がいるのではないか?

君以外みんな知ってるってw 
これは、どの本にも書いてると思うんだが、「当時の倭が大陸へ大見栄を張った」とか
「力の誇示」だろう。
536メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 22:31:15
「力の誇示」というのはだな・・・・

近畿ヤマト政権による、ボクシングの亀田兄弟じゃないが
「どんなもんじゃい!」ていうのだろう。
又は、「あなた、日本語ワカリマスカ?」じゃなくってw、
「ぼくらはデッカイドウ」てやつだろうww
537日本@名無史さん:2011/01/11(火) 22:44:03
言いぶりはいただけないが、>>528は結構重大な問題を提起しているように思う。

議論の出発点として、
「自然神の信仰」と、「祖先霊の崇拝」は、切り分けないといけない。
この2つは、基本的には概念的に別物だ。
もちろん、世界の神話には、ある一族の祖先をたどると
太陽だったり月だったり狼だったり熊だったり鳥だったりすることはごく当たり前のことだが、
これは、「一族の系譜の『始点』を、更に上から上書きして侵されないようにするため」の
一つの普遍的な神話編纂技術で、
「処女懐胎」などと、基本的には同じもの。
イエス・キリストが処女懐胎しているのは、「イエスの実父の一族」を名乗る一族が現れて君臨することを防ぐため。
処女懐胎すれば、男系は「神→イエス」となって、「イエスの上の系譜」が無くなる。

本題に戻れば、神社と古墳は混同してはいけない。
神社は祖先の廟かもしれないし、自然神の神殿かもしれないが、古墳は確実に墓だ。
538日本@名無史さん:2011/01/11(火) 22:45:39
ドツボの纏向スレデビューかwww
539525:2011/01/11(火) 23:05:24
>>526
>それに伴う北部九州を頂点にしたヒエラルキーの崩壊。 
>戦乱の火はもず九州にそれがやがて西日本一帯に広がる。

「北部九州を頂点にしたヒエラルキー」が「西日本一帯に広が」っていたってことかな?

それから、「後漢朝の衰退に伴う」「まず九州」ってことは、
(ヒエラルキーの頂点にいたのはイト国だろうから)
イト国内での謀反?・・・でも共同体間での首長交代はみられるんじゃないかな(三雲・井原→平原)。
他国の造反?・・・でも3世紀になっても王は伊都国にいたんだぜ。

>神道ネタ

少なくとも私的には神道なんて語ってないんだが。

>論点が何処にあるのか

でっかい墓が築かれるのはナゼか、じゃなかったっけ?
バランス・オブ・パワーで担ぎ上げられた“抑止力”の象徴のためにでっかい墓が築かれるのか?
540日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:11:09
これねえ・・・どうしても武力とは思えないんだよなあ。3世紀ころの戦傷人骨に残った
鏃等の産地をみても近隣のものばかり。むしろ、遠隔地に武力を行使できないという
条件の元で拠点となるクニを統率しようとする動きがあって、それが現在のわれわれの
目から不可解な感じに見えるんではないかという気がする。
その中で、前方後円墳築造法の供与とか、威信財の分与とか、外的権威の行使
(魏の黄幢とか)がストラテジーとして用いられたんじゃないかと思う。
541日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:11:11
>>539
>でっかい墓が築かれるのはナゼか、じゃなかったっけ?

違うだろ

>>506やローガンとかは古墳とは極めて一過性であり
その巨大さは基本、被葬者の権力に帰すると考えていて

それに対して
「いや、それはそんな”パーソナル”なものじゃなくてもっと”パブリック”なものだ」
と反論している奴がいて、そこが対立点じゃないのか?

個人的には墓誌もない古墳は前者の
「一過性の記念イベント(イベントの後は示威装置として残る)」
…みたいな考え方が腑に落ちるwww
542539:2011/01/12(水) 00:25:38
>>541
> 「いや、それはそんな”パーソナル”なものじゃなくてもっと”パブリック”なものだ」
> と反論している奴がいて、そこが対立点じゃないのか?

ローガンに反論しているやつがそんなこと言ってんのか?

> 「一過性の記念イベント(イベントの後は示威装置として残る)」
> …みたいな考え方が腑に落ちるwww

そうだよな。
543日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:26:54
まあこんな「古墳で行われてい祭祀」なんて話になると
勢い神学論争みたいになるが…

俺はもっとある意味即物的な見方をしているw
(てか形而上学的な論争までやったらキリがないwww)

「共食儀礼の形骸化」」に関しても
オウの中で更にヒエラルキーが出来れば
そのアタマ一つ二つ抜け出たオウが車座の中に飛び込んで
回し飲みとかできんでしょとwwwwwww
544日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:27:04
古墳築造の理由は何とも難しいけど、死者への祀り=生者の権威付け という図式が
あったのだろうと思う。つまりは次代の首長権相続者の承認とか、首長同士の序列の
確認とか。
だから共食儀礼の形骸化というのはうなずける話ではないかと思う。ここにシャーマン
の神託というのがどうからんでくるのかがまた難しいけどね。
545日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:48:21
>>541
おまえ全然違うぞ。

> >>506やローガンとかは古墳とは極めて一過性であり

ではなくて

>>506やローガンとかは古墳の"上で行われる葬送儀礼"は極めて一過性であり

何でそんなボケかます。
546日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:52:34
・・・4世紀の古墳時代に入っても、近隣との対立関係を抱えていると考えられる
クニが多く、面の支配は成立していないと思う。それが大勢力につくことで対立集落の
優位に立とうとする一つの動機付けになってるんではないかと思う。あと、この時代は
クニ内部での首長権が世襲というわけでもないようだから、クニ内での権力固めにも
外交的な功績が必要だったんだんじゃないかな。いずれにしても、戦わずして首長連合
の力が増していくという状況があった、と。
547日本@名無史さん:2011/01/12(水) 00:53:06
>>545
まあ古墳と言う「ハード」は消え去るわけじゃないんだから
それぐらいの意は汲んでくれよw
548ローガン:2011/01/12(水) 00:59:47
>>533
>それは当初から象徴化された祭祀だったわけです。

それについては、私の考え方は書きました。論点とはズレるので再掲はしません。

> 以後この儀礼が続けられていくにつれて共飲共食形態が形骸化するのは、
> 儀礼的な形式化のためであり、異質なものになったのではないと思いますが。

吉備で形骸化した後のものが入って来たと考えている訳です。
そしてその後、都月型を経て円筒埴輪に盛大化する変化に、元々あった筈の「相嘗祭祀」が反映されていない。
これは、形骸化に至る過程を経験していない故、そもそもの「相嘗祭祀用アイテム」とは異質の変化を遂げたんじゃ無いかなあと考える訳です。
549ローガン:2011/01/12(水) 01:20:26
>>541
>>506やローガンとかは古墳とは極めて一過性であり その巨大さは基本、被葬者の権力に帰すると考えていて
> それに対して
> 「いや、それはそんな”パーソナル”なものじゃなくてもっと”パブリック”なものだ」
> と反論している奴がいて、そこが対立点じゃないのか?

元々は、マキムクの宮殿の話題でしたが。「古墳の規模の大小は被葬者の徳」 的な主張があったので
私は、古墳造営とは次王の共立参加の意思表示で、如何に大袈裟に先王を祀れるか…がイベントとしての墳頂祭祀であると反論した訳です。
550日本@名無史さん:2011/01/12(水) 01:23:28
>>549
では、はっきりと生前造営ではないと。
551ローガン:2011/01/12(水) 01:47:21
>>546
>それが大勢力につくことで対立集落の 優位に立とうとする一つの動機付けになってるんではないかと思う。

同意。此の指とまれ に対して、様子見をしていた者までが、
船に乗り遅れるなとばかりに、大勢についたのが 共立参加という実態だったのではないですかね。

>>550
> では、はっきりと生前造営ではないと。

寿陵は 何世代か後、ヤマトの基盤が出来てからでは? ではおやすみなさい。
552533:2011/01/12(水) 12:10:57
>>548
>再掲はしません。

楯築の土器は焼成後穿孔です。しかしそれは儀礼終了後に粉々に砕かれて遺棄されていました。

儀礼に使用した土器を二度と使えないようにするためならば、ただ粉砕するだけでよいはずなのに、
なぜわざわざ底に孔を空けたのか? そう考えたとき、この孔は使用する以前から空けられていたのだ、
ということに気がついた。というような旨のことを近藤が書かれていました。
そのとおりだろうと思います。

楯築では孔空きの土器が並べられていたのです。そこでは実際に飲み食いはされなかった。
カミを招くために、共飲共食祭祀の形態をとってはいますが、
それは共飲共食祭祀そのものではなく、象徴化された儀礼だったのです。

儀礼は漸次形式化してゆき、共飲共食形態は(飲み食いしないのだから当然)省略化・形骸化します。
しかしそれは異質なものになったのではなく、同質なものの変化・変遷だと思います
(相嘗と異質なものになったとするなら実際の共飲共食をやめた楯築の時点でしょう)。

>元々あった筈の「相嘗祭祀」が反映されていない。

酒を入れた壺を器台に載せてカミに捧げ、そのあとその酒をいただく。それが「相嘗」ならば、
特殊器台・特殊壺は相嘗を反映している(象徴化したもの)、といえると思います。
この、特殊器台の上に特殊壺を載せたセットが形骸化したもの、が朝顔形埴輪なのだから、
そのころまでは反映していたのだと思います。

以上、>>507
>古墳での葬送儀礼も同様に
と言った理由です。
553ローガン:2011/01/12(水) 16:21:15
>>552
>それは共飲共食祭祀そのものではなく、象徴化された儀礼だったのです。
> 儀礼は漸次形式化してゆき、共飲共食形態は(飲み食いしないのだから当然)省略化・形骸化します。

そう、その省略化、形骸化は吉備の中での流れ。以下引用
「それらのことは、共飲共食の相嘗がほぼ完全に形式化ないし形骸化・象徴化したことを示しています。
としますと、おそらく相嘗が儀礼の重要な一部として伴ってなされたと考えられる首長霊の継承儀礼自身も、形式化・形骸化・象徴化が進んでいた可能性が高まります。
しかし、ここが大事なところですが、形式化・象徴化が進んだからといって、祭祀儀礼そのものが衰退したわけではありません。
かえって盛んに、儀礼的に盛大になっていきます。」(近藤義郎前方後円墳に学ぶ。p,69)
引用冒頭「それらのこと」とは、焼成前穿孔に変化すること及び、飲食用と思われる土器が激減またはなくなってしまうことを指します。
墳頂祭祀は、吉備で「ほぼ完全に近く形式化ないし形骸化・象徴化」した状態のものがヤマトに来るのです。
簡素化した祭祀がヤマト入り以後、盛大化しますが、元々の祀りが復活した訳ではなく、異質なものに変化しています。
勿論、ルーツを辿れば楯築に行き着く事を否定する訳ではありませんが。

>以上、>>507
>古墳での葬送儀礼も同様に と言った理由です。

わかっています。見解が少し違うだけです。
554日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:36:14
>>529 ドツボ
> しめ縄を張っただけの聖域って・・・ バカか?wwwww
> 神社もしらないのかw

オマエ それを大三輪神社の正面で周りの人に聞こえるように大きな声で言ってみろ
なにかあと捗るぞ
555日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:52:47
>>554
ワラタwwwwwwwwwwwwww
556:2011/01/12(水) 20:13:52
おまえ、そもそも「大三輪神社」ってスペルはなんだ?w

大神神社(三輪神社)の事を言ってると思うんだが、
三輪神社(三輪神社)の御神体そのものが三輪山であり、本殿をもたず、
拝殿のみとpなってるのは、ここに書き込んでいる人全員が承知のことで
あまりにもレベルの低いコメントはヨシテくれょwwwwwwww
557552:2011/01/12(水) 21:40:53
>>552

× 近藤が書かれていました。

○ 近藤さんが書かれていました。
558日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:02:42

■百余国の一つか…鳥取の遺跡で前漢「星雲文鏡」

読売新聞 2011年1月12日
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110112-OYT1T01013.htm?from=navlp

 鳥取市の弥生集落跡・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で、中国の前漢時代(紀元前1世紀)に作られた青銅鏡「星雲文鏡(せいうんもんきょう)」の破片が見つかったと、鳥取県埋蔵文化財センターが12日、発表した。

 星雲文鏡が弥生遺跡で見つかった例は九州で8例あるが、本州では初。同センターは「集落が本州でいち早く大陸との交易拠点として栄えていたことを示す」としている。

 鏡は直径6・9センチの円形で、見つかったのは全体の約4分の1の扇形(重さ33・2グラム)。表面に多数の突起があり、雲や星座のような文様が確認できる。断面を磨いた跡があり、割った後に装身具として使われたらしい。

 京都大人文科学研究所の岡村秀典教授(考古学)は「集落が、中国の史書『漢書』地理志にある倭(日本)の百余国の一つとして認知されていた可能性が高くなった」としている。

・鳥取市の青谷上寺地遺跡から出土した星雲文鏡の破片
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20110112-716089-1-N.jpg


※鳥取県埋蔵文化財センターサイトから
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=152555

※今回出土した星雲文鏡を含め、青谷上寺地遺跡で出土した青銅鏡9面(ただし1面は保存処理のため写真パネル展示)を、青谷上寺地遺跡展示館のリニューアルオープンに合わせ、1月15日(土)から1月30日(日)まで、同展示館で特別公開します。
559ん?:2011/01/12(水) 22:04:57
>>551
>>546
>>それが大勢力につくことで対立集落の 優位に立とうとする一つの動機付けになってるんではないかと思う。

>同意。此の指とまれ に対して、様子見をしていた者までが、
>船に乗り遅れるなとばかりに、大勢についたのが 共立参加という実態だったのではないですかね。

どうもよく分かりませんね。共立参加とは何ですか?>>546 は4世紀の話をしているようですが、その頃の共立参加とは
どういうことですか?

若しかして卑弥呼が倭王に共立されたというあの「共立」みたいなことですか?卑弥呼以後は倭王は共立によって立てられ
たのですか?
560ひとぶた:2011/01/12(水) 23:03:38
>>552

>相嘗と異質なものになったとするなら実際の共飲共食をやめた楯築の時点でしょう

壺と器台のセットが大型化され、墳丘墓に配置された時点で実用性は無くなりますから、
これ、基本的に同意(”神社”氏には、「祭祀の場」のとらえ方に疑問がありますが)します。
ただ、共食儀礼自体は、集落において壺と器台を使わない形で継続していると思います。
霊の食い扶持をどんな器に盛ったのかは判りませんが、飲み食いは祭の定番ですので。


561日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:56:28
♪酒が呑める 酒が呑める 酒が呑めるぞ〜
 呑める呑める呑めるぞ〜 酒が飲めるぞ〜

 古代は古墳の上で酒が呑めるぞ〜

 呑める呑める呑めるぞ〜 酒が飲めるぞ〜

562日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:02:55
穴あき土器がどんな形状か知らないけど
酒を発酵させたり、漉したりするのに使えないかな。

固体発酵で蒸した穀類を発酵させて、
水を注いで滲みでてきたアルコール入りの
液体を回し飲みするような器具が、
小泉武夫先生の本に載ってた。
563552:2011/01/13(木) 00:22:11
>>553
>異質なものに変化しています。

(楯築での祭祀と大和での祭祀が)どう異質なのか。
「相嘗がほぼ完全に形式化ないし形骸化・象徴化したこと」をもって異質といえるのか、
ずっと考えましたが、よくわかりません。
また、ローガンさんがどうしてそう考えるのかも理解できませんでした。
象徴化というグラデーションはあるけれども祭祀の本質は同じものが、楯築から朝顔型埴輪まで一貫して連続していると思うのです。

引用された本は最近までのメイン読書本でした。引用箇所は95年の講演。2000年に追加補訂の文章です。
68Pにこうあります。
「実は向木見型のある時期から、もう壺には酒が入らないことになっていました。」
この時点で近藤さんは、まだ楯築が象徴化された祭祀であることに気づいていません。

「前方後円墳の起源を考える」164P
「じつは象徴化は立坂型の段階で始まったのではないか、と訂正したい。(中略)
 やがて向木見型以後では焼成前から底抜けの壺が作られ、祭祀時に受け器が激減またはほとんど皆無となるのは、
 思うに当然なことである。」(2002年5月11日記)

私的にはこれが近藤さんの著書では初めてでした。 ローガンさんも当然この本は読まれているとは思いますが、
引用された文章から推察して、考えの違いはそこにあるのかなあとふと思いました。

「特殊壺・特殊器台から始まって円形埴輪・朝顔型埴輪まで変遷を辿ってきたが、大小の変化はあっても、
 その間は一貫して祭祀的な連続を示した。それは象徴化を遂げた楯築弥生墳丘墓に代表される立坂型特殊壺・特殊器台以来、
 墳丘の周りに賑々しく立て置き、それを飲食物供献・共飲共食祭祀の象徴として、
 首長への讚仰と別離に参列する、あるいは仰望する集団成員に応えようとしたのである。」
(「前方後円墳の起源を考える」P186)
564552:2011/01/13(木) 00:38:58
>>560
こんにちは〜。いまのハンネは呼びにくくて都合ワルいですぅ〜。

>共食儀礼自体は、集落において壺と器台を使わない形で継続していると思います。

特殊器台・特殊壺が出現するころから、集落での器台は出土しなくなるそうですよ。

デワまた。
565ローガン:2011/01/13(木) 00:48:44
>>559
> どうもよく分かりませんね。共立参加とは何ですか?>>546 は4世紀の話をしているようですが、その頃の共立参加とは どういうことですか?

ありゃ。4世紀限定でしたか。ついウッカリ。

> 若しかして卑弥呼が倭王に共立されたというあの「共立」みたいなことですか?卑弥呼以後は倭王は共立によって立てられたのですか?

紀にみえる豪族の推挙による天皇即位も、共立ではないですか?
566564=552:2011/01/13(木) 01:15:40
>>560
> 壺と器台を使わない形で

疲れていて大事なところを見落としてましたね。失礼。
567ローガン:2011/01/13(木) 01:47:44
>>563
>楯築での祭祀と大和での祭祀が)どう異質なのか。
> 「相嘗がほぼ完全に形式化ないし形骸化・象徴化したこと」をもって異質といえるのか、
> ずっと考えましたが、よくわかりません。

では単刀直入に。ヤマトは、墓における相嘗祭祀儀礼の変遷を経験していないと云う事。
受け入れた(もしくは接収した)段階で、「相嘗が儀礼の重要な一部として伴ってなされた」(既引用文)という付帯部分が、すでに影を潜めており、
首長継承儀礼に使われる単なる道具と捉えていたのでは無いか?と思うのです。
少し時代が下れば、円筒埴輪は立錐の余地なく、墳頂を囲みます。ここに本来特殊器台が持っていたであろう相嘗の精神性を求める事に違和感があります。
勿論、そう思うだけで、確たる根拠はありませんが。

568505:2011/01/13(木) 19:27:59
>>560 (”神社”氏には、「祭祀の場」のとらえ方に疑問がありますが)

どうも根本的な食い違いがあるようですね。
なぜかと考えてきましたが、
どうも ここで墳上祭祀を論じている人たちは墳墓の築造期間とか、殯宮でのモガリの期間の祭祀を考慮に入れていないのではないかと思えてきました。 皆さんどうなんでしょう?
私は継承儀礼を含めて 重要な葬送儀礼は殯宮で行われ、墳上では最終段階の送りの儀式だけが行われたと考えています。 その例は持統紀元年あたりから書いてあります。
墳墓の築造期間≒モガリの期間 も従来漠然と考えられていたより遙かに長い数十年という数値が出てきています。 ↓に年表あり。

http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html
569563:2011/01/13(木) 21:17:18
>>567
すこし解ったような気がします。

>相嘗祭祀儀礼の変遷を経験していないと云う事。
>本来特殊器台が持っていたであろう相嘗の精神性を求める事に違和感があります。

ということは「異質」とは、やはり相嘗との異質性であり、

>変遷を経験していない
>受け入れた(もしくは接収した)

そして、ヤマトに移った時点が画期である、と。

上記からは(儀礼の)主催者の変更を想定していると受け止められます。吉備は少なくともイニシアチブを放棄していた。

ならば“古墳の大きさ”の議論でのズレも解ります。
被葬者それ自体は共立諸勢力の神輿であり彼女自身が主体的に求心力を発揮したわけではなかった、と

そういうことだったのではないでしょうか。
570日本@名無史さん:2011/01/13(木) 21:55:25
九州から東の方に行くに従って物は大きくなる。

銅鐸がその例だ。銅鐸その物は朝鮮から入って来た。
無紋式銅鐸とか、朝鮮式小銅鐸とか言うが、九州から沢山出ている。
これはおそらく牛の首にぶら下げるカウベルじゃなかったかな。
九州に入ってくると、牛がいないものだから子供の遊び道具になった。
朝鮮式銅鐸に九州では装飾を施した。
これが次第に東に移って行く。
吉野ヶ里から出た銅鐸の鋳型で作られた銅鐸が出雲で見つかっている。
出雲ではこの銅鐸の一大産地になる。だが出雲ではまだ畿内ほど巨大化していない。
これが近畿地方に入ると巨大化を始める。
三遠の方に行くとさらに大きくなるな。

おおよそこのような経過をたどっている。
古墳もそうじゃないかな。
九州に始まった古墳は東に行くうちに次第に大きくなった。
古墳が纏向から始まった如く言われているのは疑問がある。
571ローガン:2011/01/14(金) 00:29:27
>>569
>すこし解ったような気がします。

それは何より。駄文を読んで頂いた事に感謝。

>被葬者それ自体は共立諸勢力の神輿であり彼女自身が主体的に求心力を発揮したわけではなかった、と

「彼女」ですね。

よく「パッチワーク」と表現する人がいます。私も同意なんですが、
発生期にはそのマニュアル作成にイニシアチブを発揮した部分があったのではないですかね。
たしか箸墓の特殊器台の砂礫は足守川辺りのもの…
572日本@名無史さん:2011/01/14(金) 01:00:56
前方後円墳とは盾を伏せた形をしている。つまり、もう戦いませんという不戦
の形を表している。
573569:2011/01/15(土) 09:21:52
>>571
念のためにふた言。

「被葬者それ自体は共立諸勢力の神輿であり彼女自身が主体的に求心力を発揮したわけではなかった」
というのは同意見なのです。そのうえで
「でっかい墓を築くのは、その墓に葬られる首長(もしくは首長霊という観念)に求心力があったからでは?」
とレスしました。
ローガンさんの考えは既知でしたから、突っ込まれたときナゼか?わからなかったのです。

また、吉備についてはそうであると決めつけているのではありません。
ひとつのシナリオを検討している段階なワケです。

>砂礫は足守川辺りのもの…

それは初めて知りました。まあ職人が吉備の人でおかしくありませんから。
574日本@名無史さん:2011/01/18(火) 17:51:02
そもそもかなり時代が下っても天皇選びは合議制だからね。
弥生晩期から大きな争いの痕跡もないし。
575ローガン:2011/01/18(火) 21:14:06
以前、どこかで書いたんですが…
銅鐸とは祭器である。その時代の民は銅鐸を通じて神を感じていた。
当時の首長とは、祀りの主催者。抜きん出た存在とはいえ、全体の一構成員でしょう。
ところが、祖霊信仰となると、首長は死後祀られる対象となる。つまり首長(王)になると云う事とは、死後 神になる事を約束された立場を得る事。
神となる前首長を盛大に送るという行為は、次代には自身も同様に祀られる事への期待。しかも存命中は最も神に近い存在となれる。
「 祖霊とは神である」神と繋がるものとは王である…という意識の構築の為、王と神の間にあるような祭器に神意を見いだす事を放棄したのでは無いかと思います。
576日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:20:35
銅鐸を 珍棒でつるし上げることのできる精力を持ったものが集落内で王として認められた。
豪族達は競ってスッポンやウナギを食べ、精力の平均値が上がってきたので銅鐸はだんだん
大型化していったのだ。
577日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:34:53
馬鹿丸出し。
それだと卑弥呼のような女帝はできないだろ。
578日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:56:00
>>577
アホウか?卑弥呼の頃に銅鐸はない。すでに祭祀形態が変化している。さらに言えば、精力比べを
するのはあくまで世俗的男王であって巫女ではないのだ。

絵画銅鐸の場合は、王が銅鐸を珍棒で吊してくるくると回す。そして亀の絵柄が正面を向いたら亀を
捕ってくるというようなクエストを命じることになる。
579日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:54:14
巨大化する銅鐸にチンポが耐えられなくなった。
→女帝の擁立
基本的にはこういう流れか。
580日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:00:56
チンチンはチンポコとも言うが、なら銅鉾文化圏では銅鐸の代わりに銅鉾を使ってたのだろうか。
581日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:11:17
>>580
> 銅鐸の代わりに銅鉾を使ってたのだろうか。

ふむ、使い方は似たようなものだと推察される。
582日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:12:39

■橿原考古学研究所所長トーク
            『菅谷所長と語る! 邪馬台国』

奈良県立橿原考古学研究所(PDFファイル)
http://www.kashikoken.jp/event/other/2010/sugaya-talk_yamataikoku.pdf

「菅谷所長と語る!平城京とその時代」の所長トークが好評のうちに終了しました。
今回は、皆様のアンコールにお答えし、邪馬台国の核心に迫ります。所員が自説を展
開したあと、所長と激論を交わします。

日時:
2010年12月25日(土)13:30〜15:30
   入倉徳裕「邪馬台国九州説の立場から」
2011年1月29日(土)13:30〜15:30
    藤田三郎(田原本町教育委員会)「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」
2011年2月19日(土)13:30〜15:30
    関川尚功「纒向遺跡の年代観と邪馬台国問題」
2011年3月19日(土)13:30〜15:30
    寺澤 薫「纒向遺跡と邪馬台国」

場所:奈良県立橿原考古学研究所 講堂 (近鉄畝傍御陵前駅下車 徒歩5分)

※入場無料、資料無料配布。定員300名
※博物館の関連展示はありません。
※4回連続出席者には修了書を授与します。


奈良県立橿原考古学研究所
  所在地 〒634-0065 奈良県橿原市畝傍町1番地
  TEL 0744−24−1101 FAX 0744−24−6747
583日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:30:51
特別陳列 開催要項

■埴輪のはじまり ‐大和の特殊器台とその背景‐

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(PDFファイル)
http://www.kashikoken.jp/museum/top-koushin/tenrankai/pdf/haniwa.pdf

「埴輪」は古墳時代を象徴する考古資料で、各地の古墳にはさまざまな形の「埴輪」が立て並べられ、墳丘を飾っていました。
その「埴輪」の起源として考えられているものが「特殊器台」と呼ばれる、弥生時代後期の吉備で祭祀に用いられていた、特殊な文様や赤彩が施された大型の器台です。
これが初期ヤマト王権の墓制の中に取り入れられ、「埴輪」へと変化をとげます。
本展覧会では、近畿で出土した埴輪の成立に関する資料を一堂に集めて展示します。また、吉備の特殊器台の代表的な資料もあわせて展示します。
そして、大和で特殊器台が登場するようになった背景や、特殊器台から埴輪への移り変わりの過程を考えていきます。


会 期 : 2011年2月5日(土)〜3月21日(月・祝)

開館時間 : 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休 館 日 : 毎週月曜日 *3月21日(月・祝)は開館。

主 催 : 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
後 援 : 毎日新聞社大阪本社 / (財)由良大和古代文化研究協会

会 場 : 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 特別展示室

入 館 料 : 大人400円(350円)、高校・大学生300円(250円)、小・中学生200円(150円)
※( )は20名以上の団体

*65歳以上の方、外国人観光客および付き添いのボランティアガイドの方、身体障害者およびその介護者の方は無料。(それぞれ証明するものをご提示ください。)
*期間中の土曜日は県内小・中・高・特別支援学校生は無料。


(関連行事・展示品へつづく)
584日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:40:26
(つづき)

関連行事 :

◆プレイベント展示 2011年1月27日(木)〜2月4日(金) 奈良まほろば館2階

◆名古屋講演会
2月6日(日)愛知大学車道キャンパス
徳田 誠志氏 (宮内庁書陵部)「箸墓古墳と東海の前期古墳」
岡林 孝作 (当博物館)「埴輪配列についての一試考」 (発表順)

◆講演会
2月27日(日)
安原貴之 (当博物館) 「埴輪の起源(仮)」
青木勘時氏 (天理市教育委員会)「西殿塚・東殿塚古墳について(仮)」 (発表順)

3月13日(日)
関川尚功 (当研究所) 「纒向遺跡の特殊器台形埴輪(仮)」
坂 靖 (当研究所) 「埴輪の誕生」 (発表順)

◆遺跡見学会
3月12日(土) 午前10時 JR万葉まほろば線 長柄駅 集合 ※少雨決行、昼食持参
西殿塚古墳塚、中山大塚古墳、箸墓古墳などを巡ります。


(展示品へつづく)
585日本@名無史さん:2011/01/19(水) 01:06:20
(つづき)

・主な展示品(*はレプリカ)

◆器台・壺/上東遺跡・甫崎天神山遺跡、◆特殊器台・特殊壺/西江遺跡、◆特殊器台形埴輪/矢部B42号墳【以上、岡山県教育委員会所蔵】、

◆特殊器台片/楯築弥生墳丘墓・立坂弥生墳丘墓、◆特殊器台形埴輪片・特殊壺形埴輪/権現山51号墳【以上、岡山大学考古学研究室蔵】、

◆特殊器台*・副葬品類/宮山墳墓群、◆大型・小型弧帯文石*/楯築弥生墳丘墓【以上、岡山県立博物館蔵】、

◆特殊壺片・特殊器台形埴輪片/箸墓古墳、◆特殊壺片・特殊器台片・特殊器台形埴輪片/西殿塚古墳、◆楕円筒埴輪片/行燈山古墳、◆円筒埴輪片など/渋谷向山古墳、◆楕円筒埴輪/佐紀石塚山古墳【以上、宮内庁蔵】、

◆特殊器台形埴輪・鰭付円筒埴輪など/東殿塚古墳、◆特殊器台形埴輪片・円筒埴輪/波多子塚古墳、◆円筒埴輪/西殿塚古墳【以上、天理市教育委員会蔵】、

◆特殊器台片/東郷遺跡【大阪府教育委員会蔵】、

◆特殊器台形埴輪片/萱振遺跡【(財)八尾市文化財調査研究会蔵】、

◆特殊器台形埴輪片/西川遺跡【尼崎市教育委員会蔵】、

◆特殊器台形埴輪片・特殊壺形埴輪片/壺笠山古墳【滋賀県立安土城考古博物館蔵】、

◆円筒埴輪・朝顔形埴輪/布留遺跡【天理大学附属天理参考館蔵】、

◆特殊器台片・特殊器台形埴輪片・円筒埴輪片/中山大塚古墳、◆特殊壺・特殊器台・特殊器台形埴輪片・二重口縁壺/葛本弁天塚古墳、◆円筒埴輪片/メスリ山古墳【以上、当館・当研究所蔵】


奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
http://www.kashikoken.jp/museum/top.html
586日本@名無史さん:2011/01/19(水) 12:55:58
12 出土地不明[] 投稿日:2011/01/19(水) 08:35:03 ID:6eHDCcTH
全国4位の巨大古墳、人口激減期に築造
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110118-OYT1T01092.htm

全国4位の規模を誇る岡山市の造山(つくりやま)古墳(5世紀前半、全長約350メートル)が人口の激減期に築かれていたことが、
松木(まつぎ)武彦・岡山大教授(考古学)の研究で分かった。

地域の人口が増加したことで大規模な古墳築造ができたとする定説を覆す成果として注目される。

岡山県の瀬戸内海沿岸で出土した弥生時代末から古墳時代の住居跡1011戸を約70〜100年ごとに細分して、変遷を分析した。
その結果、347戸と最も多かった弥生末〜古墳時代初頭(2世紀後半〜3世紀前半)から、古墳時代前期前半(3世紀後半)には174戸に激減。
同前期後半(4世紀)には47戸と最少になり、造山古墳が築造された同中期前半(5世紀前半)も58戸と低調だった。

3世紀は、ヤマト王権が纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を拠点として、奈良盆地南東部に大型の前方後円墳を築いた時期。
だが4世紀前半に纒向遺跡は急速に衰退、5世紀にかけて岡山のほか大阪や群馬などでも全長200メートルを超える巨大古墳の築造が始まった。

587日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:42:15

■好評受け販売実現 - 纒向遺跡“名物”木製仮面クッキー

奈良新聞 2011年1月19日 
http://www.nara-np.co.jp/20110119181039.html

 桜井市の纒向遺跡で出土した木製仮面をかたどったクッキーが、JR三輪駅前の「軽茶テラス三輪座」で今月から販売されている。逆おむすび形の輪郭や切れ長の目は出土品にそっくり。考古学ファンはもちろん、三輪山登拝の女性にも人気という。

 同クッキーの誕生は2年前。当初はコーヒーに付けるサービス品だったが、同店を運営するNPO法人「三輪座」(川端規央理事長)が客の要望に応えて販売を始めた。

 地元物産品を販売していた三輪座が喫茶コーナーをオープンした際、川端理事長の妻、稔子さん(49)が記念品として考案。来店者から好評を集め、自家製クッキーを販売している市内の福祉施設に製造委託することで販売が実現した。

 纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地で、木製仮面は祭りに使ったと考えられており、稔子さんは「纒向遺跡を知らない人もおり、クッキーを通じて桜井をPRできたら」と話している。

 木製仮面クッキーは大3枚入り280円、小5枚入り300円。三輪座は午前10時から午後5時まで営業。水曜定休。問い合わせは、電話0744(43)5621。


記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】


・販売が始まった木製仮面クッキー。中央は仮面の模造品=桜井市三輪の三輪座
http://www.nara-np.co.jp/photo/ac5175b0804ca7bc24ec90fc45636092.jpg
588日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:48:09

■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/中 地味な資料「鉄鏃」に注目 /奈良

毎日新聞 2011年1月19日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110119ddlk29070584000c.html

 県立橿原考古学研究所総括研究員の水野敏典さんは、研究所などが99年9月から1年以上にわたり実施したホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査に加わった。「すごく地味な資料なのですが、私たちは鉄鏃(ぞく)に注目しました」

 長さ4〜5センチの鉄の矢じり。「分厚くてお尻が丸く、見たことがない変な形をしていました。類例を探すと、いくつもあったんです」。
弥生時代と古墳時代をつなぐ時期の墳墓群として著名な宮山遺跡(岡山県総社市)。京都府南丹市の園部黒田古墳や千葉県市原市の神門5号墳などでも見つかっていた。

 さらに注目したのは「『へ』の字形鉄製品」の大量出土だ。これも、最も古い段階の前方後円墳である浦間茶臼山古墳(岡山市)や、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡を大量に出土した椿井大塚山古墳(京都府木津川市)などに類例があった。

 「鉄鏃は消耗品だし、『へ』の字形鉄器は用途も分からない地味な資料。しかし、各地の墳墓で副葬品として納められているのだから、偶然の一致ではありません」。
水野さんは、弥生から古墳時代への過渡期に築かれた墳墓が、墳墓祭祀(さいし)を共有するネットワークを広範囲に築いていた事実を重視した。大事なのは珍重さではなく、共通性だというのだ。

 最後に、水野さんが取り上げたのは、やはり鉄鏃。それも中央を走る稜線「鎬(しのぎ)」だった。
 「刀のような鎬がある鏃は見たことがありませんでした。『新型』の生産に取り組んでも、1回きりで終わったり、途中で『廃盤』になるものもある。鎬のあるこの鉄鏃はおそらくテスト品で、これっきり製造されなかったのでしょう」。
そう考える水野さんは、こう締めくくった。
 「人々が作り、使っていたものである遺物は、各地域や人々がどんな関係を結んでいたかを知る貴重な材料になります。だから、遺物は、目立つものより、ささいなもののほうが確実な証拠になるのです」【山成孝治】
589日本@名無史さん:2011/01/20(木) 00:34:46
” ”付きだけど纒向=邪馬台国とNHK

”邪馬台国”を掘る
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110123.html

一昨年、奈良県の纒向(まきむく)遺跡で邪馬台国の女王・卑弥呼の王宮きょ
いわれる巨大な建物群が発掘された。纒向は、東西2キロ/南北1.5キロの
巨大遺跡。弥生時代末期の3世紀、突如建設された日本列島の中心都市だっ
たことが明らかになり、邪馬台国の最有力候補地とされている。

去年夏、古代史最大の論争に決着をつけるべく建物群の周辺で更なる発掘が
行われた。特に期待されたのが王宮跡のすぐわきで見つかった長さ4メートル
の穴。王宮内で使用された貴重品を納めた“聖なる井戸”と推定されており、邪
馬台国の決定的証拠になる中国の魏王から卑弥呼への贈り物を封じた印(封
泥)や、魏との外交木簡が探された。

発掘現場からはここにあった国が諸国の連合国家であったことを示す土器、
人為的に破壊された銅鐸、そして2000個を超える多数の桃の種などが出土
した。これらは何を意味する物なのか。「倭国大乱」と呼ばれる内戦に直面した
王たちが、新たな大王を「共立」したという王権誕生の謎、そして弥生時代の
古い宗教を捨て、新たな国家統合のシンボルとなる宗教を創始したことが判明
してきた。

果たしてここを卑弥呼の邪馬台国とする決定的な証拠は発掘されるのか?
番組では、纒向遺跡の発掘に密着し謎のベールに包まれた実像に迫る。
590日本@名無史さん:2011/01/20(木) 00:57:17
>>589
情報乙。放送日時もここに書いておくよ。


2011年1月23日(日) 午後9時00分〜9時49分
総合テレビ

NHKスペシャル
”邪馬台国”を掘る 〜100年論争に決着はつくか〜(仮)
591日本@名無史さん:2011/01/20(木) 17:54:02
なんか番宣で道教寺院が写ってたような

それにしても木簡の出土を狙ってたみたいだけど出ては無いんだな
592日本@名無史さん:2011/01/21(金) 19:15:09
 邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の
纒向(まきむく)遺跡で、昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))
の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋められていたことが分かり、桜井市教委が21日、
発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた祭祀(さいし)の状況も浮かび、
市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。

 土坑(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ80センチ)は大型建物跡(3世紀前半)の
約5メートル南で、3世紀中ごろの穴と推定される。

 市教委が土坑内の土嚢(どのう)400個分の土をふるいにかけ、動物の骨や歯と9760点
の植物の種を採取。骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・
奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。

 結果、動物は魚類のマダイ、ヘダイ、アジ、サバ、コイ科、ほ乳類のニホンジカ、イノシシ、
ネズミ、鳥類のカモ科、両生類のカエルの10種で、植物は73種類を判別した。植物の
約半分は食用で、2765点のモモを筆頭にイネ、アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタンが多く、
果実酒原料のニワトコやサルナシもあった。

 また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できる
という。

 分析で使われた種や骨は桜井市立埋蔵文化財センターで22日〜2月27日に展示される。

 ■和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)の話 「すべてが神饌(しんせん)
として供えられたのかは検討が必要だが、各地から色々な食材が集まっているのは
面白い。纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことを改めて明らかに
したことが重要だ」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/art11012117300064-n1.htm
593日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:01:55
桃の種の時から思っていたが
やはりゴミ捨て場だったか。
594日本@名無史さん:2011/01/22(土) 00:59:13
大量に動植物系の遺物が出土する場所ってのは
ほぼ例外なくゴミ捨て場だよ、貝塚がそうだろ。
土器にしてもゴミ捨て場からの出土ってのが多いんだぜ。
そんなのは誰もが最初から判ってる。
問題は、捨てられた物そのものの内容と量。
595日本@名無史さん:2011/01/22(土) 02:09:26
なぜか「無人都市」に集まるグルメな食材の数々・・・ミステリーやなwwwwwwwww

しかし

>また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できるという。

例の種の分析はしてたんだな・・・

採取場所は周辺か
文字通り「桃源郷」ってわけかw
益々纏向の「浮世離れ度」に拍車がかかりそうなw

596日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:16:58
大型建物跡の近くにゴミ捨て穴があるのはなんでだろう。

大型建物を日常的に使用しているなら、
ゴミ捨て場はちょっと離れたところに持って行きそうなものだが。

それと魚の骨や動物の骨の状況が知りたいね。
保存食の塩辛や魚醤作ってる可能性もある。

果実は酒をつくっていた可能性も非常に高いな。
597日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:35:12
普通に考えて祭祀跡だろ

淡水魚が出てるのは当然流通経路が水運で発達している事の証明だな。
周辺に桃の林、これは以前から指摘されていた事で
地元の伝承にもあった。古代中国の思想的影響はやはりある。
598日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:42:59
纒向って見所あるの?
纒向博物館てのはないの?

だれか教えて。
599日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:45:28
当時の海がどういう状況かわからんが、
巻向から25km程度はありそう。
条件がよければ一日で行くだろうが、
荷物持ってたら、二日はかかるかな。

タイやアジサバは干し物か塩蔵だろうね。
600日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:55:05
崇神天皇は中国から渡来した徐福集団ではないのか?
そして纏向に神仙の地、桃源郷を見つけて移り住んだ。
その後も秦に故地を追われた斎や呉の住民を住まわせたのです。
601日本@名無史さん:2011/01/22(土) 10:23:03
まだ数%しか発掘してないから博物館どころか何もないよ。
駅は無人だし。
ただし周辺は古墳の宝庫だが。
602日本@名無史さん:2011/01/22(土) 10:53:42
>>600
徐福集団とは年代が合わないでしょ。ただし思想的
影響を受けた子孫というのは可能性有るでしょう。
603日本@名無史さん:2011/01/22(土) 12:58:17
>>601
まだ数%しか発掘していなかったのですか。
だとすると、いずれは、邪馬台国や卑弥呼と書かれた石碑が発掘される可能性が高いのではありませんか?
そうしたら、大きな邪馬台国博物館や卑弥呼記念館を建てて、この一帯が世界遺産に登録されれば、
東京スカイツリーのような賑わいになりそうな気がします。楽しみです。
604日本@名無史さん:2011/01/22(土) 13:01:44
邪馬台国とか卑弥呼とかどうでもええ。
実に下らん。
605日本@名無史さん:2011/01/22(土) 14:19:11
夢のない人ですね。プッ
606日本@名無史さん:2011/01/22(土) 14:27:37
何でそれが夢があるとかないという話になるのか分からんな。
ファンタジーの話をしたいのならそっち系のスレッドでやってくれ。
607日本@名無史さん:2011/01/22(土) 14:30:06
日曜のNHK特集の解説見ると、発掘関係者は漢字の書かれた木簡とか石版とか印の発見を目指してるっっぽいね
608日本@名無史さん:2011/01/22(土) 14:35:37
大和政権の始まりは知りたいが、邪馬台国に関してはあまり興味はないな。
609日本@名無史さん:2011/01/22(土) 15:09:13
>>604
どうでもええよなあ。つうか露骨に有害。
唯一の効能は、「卑弥呼!邪馬台国!」という呪文を唱えると、
馬鹿な記者と馬鹿な考古学愛好家の妄想ロマンが爆発して大騒ぎするため、
カネが集まり土木工事が止まって、遺跡の保護・研究に資することだけなんだが、
この効能は計り知れないと思うww

>>592
モモは在来植物じゃない(原産地は中国大陸の奥地)わけで、明らかに植栽というところが気になる。
本来は、黄河文明において宗教的に珍重された樹種なので、
(詩経の有名な「桃之妖妖」など)
これが纒向で行われたことには、それなりの意味があるように思う。
610日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:12:02
当時は大和川は現在の生野区や東成区や東大阪市にあたる河内湖か河内湾
に流れこんでいた。
海は住吉大社など上町台地が海岸線だった。その突端の岬に大阪城がある。
そしてこの大阪城は元々、巨大な前方後円墳があってその堀などを利用して
建てられたらしい。石山本願寺と言われていたのも石山=石で葺かれた古墳の可能性も。
611日本@名無史さん:2011/01/22(土) 19:21:57
>>610
纒向とは直接の関係は無いが、大阪城(石山本願寺)=前方後円墳跡地説は、眉唾だと思う。
というのは、あそこは、豊臣秀吉が移転させるその時まで、生国魂神社の境内(神域)そのものだったからで、
前方後円墳の跡地が、これほどの由緒ある神社の神域になり変わるのは不自然。
「神域自体に墓は建てられない」というのは、日本の在来信仰の基本だろう。
ここを完全に踏み外す例は、大和盆地にも見当たらない。

おそらく、石山の「石」というは、「生国魂神社の磐座」だったのだろう。
上町台地の上に自然状態で巨石があることは、地質学的に無理なので、
極めて古い時代に、周辺のどこか(生駒か六甲山系だろう)から巨石を運んで据えたと思われる。

同じような事情は坐摩神社にも言えて、こちらには磐座らしきものが御旅所(元地)に現存する。
(由緒は疑わしいという異説もあるが)
612日本@名無史さん:2011/01/22(土) 21:22:59
桃は植栽しないとうまく育たない植物なので
人為的に広まった可能性はかなり高いと思うのだが、
wikipediaによると縄文時代の遺跡からあるらしい。




613日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:09:43
秀吉は桓武天皇稜を潰して伏見城を建てたらしいいよ。
桓武天皇といえば平安京を造った人だよ。
614日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:37:22
>>611
同意。
三輪山自体には古墳がないことでもわかるように、神の依代としての御山信仰が先にあって、
前方後円墳は後からやってきた渡来人勢力の影響を受けて作られたもの。
615日本@名無史さん:2011/01/23(日) 02:40:55
というか、現在の大阪城つまり石山本願寺跡は難波京跡でもあるから
万一あそこに何らかの古墳があったにせよ、難波宮造営の際に破壊されているはず。
その難波宮放棄からずいぶん時代を経て石山本願寺が経った訳だから
仮に「石山」が人造の盛土だったにせよ、古墳とは無関係の後世の産物ということになるね。
616日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:35:29

■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着

毎日新聞 2011年1月20日
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110120dde012200019000c.html

 ◇古代史最大の謎に迫る

 歴史学者、白鳥庫吉と内藤湖南による邪馬台国論争から100年の昨年、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で発掘が行われた。
NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」では、3カ月間の発掘調査に密着。出土物の分析と取材をもとに、古代史最大の謎に迫った。【岩崎信道】

 纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロの巨大遺構。09年の調査では、卑弥呼が生きていた時代にあたる3世紀前半の地層から、東西に軸をそろえる王宮跡が見つかった。
弥生時代末期の3世紀に、突如建設された日本列島の中心都市だったことが明らかになり、謎に包まれた幻の国・邪馬台国の最有力候補地とされている。

 邪馬台国論争に決着をつけるべく、昨年7〜10月、建物群の周辺で桜井市教育委員会による発掘が行われた。注目は3世紀半ばに掘られた土坑の調査。王の実像を知ることができる出土物が期待された。
その結果、纒向が連合国家であったことを示す土器や人為的に破壊された銅鐸(どうたく)などが多数出土。特徴的なのは、2000個以上のモモの種だ。
モモは古代祭祀(さいし)で供物に使われたとされ、1カ所からこれほど多数出土したのは国内初という。

 これらは何を意味するのか−−。

 番組スタッフは発掘調査に密着するとともに、中国取材や気象考古学の研究を交えて謎に迫った。その結果、魏志倭人伝に記述された、卑弥呼が用いたとされる呪術「鬼道」の姿が、浮かび上がってきたという。

 ミステリアスな展開。番組は、邪馬台国=纒向遺跡を証明し、論争を決着させる内容まで踏み込めるのか。

 増田秀樹プロデューサーは「九州説、近畿説の争いは、まだ続くでしょう」と意味深に笑う。

 「一つの穴から何千点という出土物が出てくる様子をカメラにとらえたので、発掘ドキュメントとして楽しんでいただきたい。さらに、モモの種という想像もつかなかった物が意味することを解明していくプロセスが見どころです」

 放送は23日午後9時から。
617日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:53:31
>>615
難波宮造営で、「前方後円墳を破壊する」ことは、ちょっと無理じゃないか?
というのは、前後期難波宮の位置はどちらも完全に特定されているが、
大阪城とは微妙にずれている。だからこそ遺跡が残ったんだけど。
(まともにかかっていたら、豊臣・徳川が大阪城造営で完全に潰してしまっていたはず)
そして、前方後円墳説を唱える人は、
難波宮の位置ではなく、大阪城本丸(特に豊臣本丸=今の地下配水池)の位置に、前方後円墳を想定する。

日本書紀に、孝徳天皇が難波宮の造営のため
「生国魂神社の鎮守の森を伐採した(不敬であるという非難のニュアンスがある)」
という記述があるが、おそらく「神域の南西端の一部を伐採した」ということだろうと思う。
これは、難波宮の正確な位置が発掘されるまで理解できなかったことなので、
古い研究にはさまざまな記述があるが、今はほぼ明らか。

難波宮の造営思想は、「大唐帝国型(北端部宮城型)」で、
生国魂神社神域=石山を、軸線がずれるものの、後世の風水でいう「座山に背負う」形になる。
おそらく、孝徳天皇も聖武天皇も、「石山の本体=生国魂神社神域の中核」には手を触れていない。
618日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:58:35

放送開始まであと2時間!!!


■日本古代史最大の謎に迫る 23日・NHK「“邪馬台国”を掘る」


 日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国に迫るドキュメンタリー「“邪馬台国”を掘る」が23日午後9時から、NHKで放送される。

 2009年、奈良・纒向(まきむく)遺跡で巨大な建物群が発掘された。
この遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及び、弥生時代末期の3世紀、突如建設された都市だったことがわかり、邪馬台国の最有力候補地と目されるようになった。
さらに昨年夏、建物群周辺の発掘が行われ、人為的に壊された銅たくや2000個を超える桃の種などが出土した。

 果たして、邪馬台国所在地を巡る長年の論争に決着をつけるような証拠は発見されたのか。
 番組では発掘現場=写真=に密着し、その成果を検証しつつ、纒向の実像を描き出す。

(2011年1月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20110120-OYT8T00621.htm
619日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:02:19
>>597
> 淡水魚が出てるのは当然流通経路が水運で発達している事の証明だな。

海水魚の間違いか?
周り川だらけだろ?
620日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:04:26
最初からごみ捨て場だと思ったよ。穴の形が悪すぎる。
続報もなかったしね。
621日本@名無史さん:2011/01/24(月) 08:52:32
NHK見たけど青銅器は銅鐸の破片だけ、鉄器に至ってはまったく出てないの?
祭祀といってもあまりにも微妙な気がした
622日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:17:39
纏向は完全な宗教都市で政治の中心ではなかったのかもな
623水銀厨:2011/01/24(月) 10:44:59
>>621
宗教都市なら実用的な鉄器、武器の類は重要ではないでしょう。

>>622
仮に神仙思想に影響されているとしたら、
人の気配は少ない方が良いはずです。
624日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:12:47
鉄器がないとあんな巨大な古墳を造るのは不可能。

平和になってから都市を作ったのなら鉄器がなくても不思議ではない。
また、鉄は繰り返し再利用できるしね。
吉野ヶ里は戦乱の最中の遺跡だから鉄器が出てくる。
625水銀厨:2011/01/24(月) 12:14:09
まあ巻向周辺から実用的な鉄器の出土や、
大量の住民が住んでいたような、生活臭のする
形跡が確認出来る可能性は低いのでは、と思います。
626日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:14:32
なら鉄器が周辺のヤマトの遺跡からは九州みたいにぼこぼこ出てくるん?


あとこれはヤマトに限らないけど文字資料が全く出てこないのが不思議だね
朝貢してたのに全く無し
言霊信仰があったと言っても日本での欠落ぶりがあまりにも不自然というか
交易のあった朝鮮とも断絶してる
627日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:19:37
畿内の鉄器は山陰で製鉄が確認されるようになってから
多くなるような印象がある。
628日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:24:08
>>622

古代は祭政が未分離。(祭政一致)
629水銀厨:2011/01/24(月) 13:09:59
畿内の鉄器なら大和より河内以西で確認される
可能性が高いでしょうか。
最近は淡路島でも痕跡は確認されつつあるし、
信貴山周辺も初期製鉄の拠点でしょう。
630日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:10:40
巨大な宗教都市があって住居はない。
このミステリーの方が邪馬台国なんかよりずっとおもしろい。
631日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:25:40
纏向の大型建物跡?を卑弥呼の宮殿とか言っているらしいけど、他に回りに
建物の跡が見つかっているのかな。宮殿が一つだけぽつんと、というのは
普通に考えておかしい。

倭人伝には、たくさんの女の召使がいたらしいから、そういう人の住むところも
必要だろうし。そのほか、政治の中心ならいろんな施設が必要だろう。

また、城柵を厳かに設け、常に人がいて守衛す、というのとも合って
いないような気がする。

こういう条件がそろって始めて卑弥呼の名前が出てくるべきだと思うが。
632日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:28:20
>>624
> 鉄器がないとあんな巨大な古墳を造るのは不可能。

おいおい。
せめて農具の木具、青銅具、鉄具の利用状況くらい調べろよ。
そもそも最初期の古墳は地形を利用したものだし。
633日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:33:38
>>631
> 倭人伝には、たくさんの女の召使がいたらしいから

「唯有男子一人給飮食」だぞ?
634日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:42:06
>>631
発掘はまだ3パーセント程です。
635日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:40:43
>>631
吉野ヶ里遺跡の方がよっぽど合ってそうだな
なんかNHKで纏向の大型建物の遺構を見たらえらく小さく感じた
636日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:53:14
纒向よりもっと西、田原本町の唐古鍵遺跡や鏡作神社の方が青銅器や鉄器が埋まっていそうな気がする。
637日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:57:44
唐古・鍵はもう掘りつくしたと思う。畿内説は纏向の前はあそこが中心だったから。
出てくるのは石器ばかり。石器が出てくるのは金属器が普及していない証拠だから。
638日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:10:07
>>635
纏向は2009年に発掘が始まったばかり。
遺跡の大部分はまだ地下に埋まっている。
今年の春から隣の部分を発掘開始で、
全容解明にはまだ時間がかかる。

吉野ヶ里は発掘が終了した遺跡。
奈良は遺跡が多いから纏向だけに
予算を充てられないんだよ。
639日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:11:21
>>637
>唐古・鍵はもう掘りつくしたと思う。

ほう。そう思う理由は?
640639:2011/01/24(月) 15:21:51
>>638
>吉野ヶ里は発掘が終了した遺跡。

やれやれ。互いに相手の方は、嘘でも≪もう調査済み≫にしたいのか。w
佐賀県教育委員会は、「現在もなお継続した調査が行われている」と言っているのだが。
641日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:27:47
>>639
まだ掘っているのかな?
以前の畿内説は、唐古・鍵 → 纏向の、いわゆる自生説だった。
なお、当時の年代観では、纏向は300年以降とするのが定説だった。

というわけで、相当な年月をかけて掘り続けているはず。
でも、自生説も廃れ、唐古・鍵が話題になることもない。
邪馬台国論争での唐古・鍵の役割は終わったな。
642日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:49:54
>>640
吉野ヶ里はいわゆる王宮ならびにそれに付属する建物、
柵や楼閣の発掘は終わっているよ
今掘っているのは王宮の堀の外の墓地。

まだ王宮が発掘されただけで王宮の周辺建物が一切掘られていない
纏向と一緒にされてもw
吉野ヶ里でまだまだ纏向以上の王宮が発掘されると思ってる人なのかな?
643日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:55:51
>>642
まだ発掘が進んでいない、つまり実態が良くわかっていないのに卑弥呼の王宮
という言葉が出てくるのがおかしいわけでもあるのだが。
644639:2011/01/24(月) 15:58:01
>>637
>唐古・鍵はもう掘りつくしたと思う。

唐古・鍵遺跡の推定遺跡面積は何平方キロで、
そのうち遺跡指定地面積は何平方キロ、
で、そのうちの発掘調査済み面積が何平方キロ・・・・・
こういう数値を君が挙げなくてはならないのと違うか?

それで計算して、もし90パーセント以上も発掘が済んでいるのなら
「ほぼ掘りつくした」ぐらいは言ってもいいかもしれないが。

要するに君は実証ということをせず、いいかげんな思い付きを口に出すわけだ。
学問板には不要な人間。
645日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:02:54
>>643
吉野ヶ里をしのぐ国内最大規模の建物跡が発掘されたからだろ。
つまり君は、纏向から現在発掘された以上の規模の建物が
今後、発掘されると踏んでいるわけか。
まあ、可能性はなくはない。
646日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:04:28
>>644
では、学問板に必要な人間らしいそちらが詳しい数字を挙げてくれ。
そんな完璧な数字を出せる人がこんなところにいるわけないだろう。

要するに、畿内説の期待を一身に背負ってきた唐古・鍵の役割は終わったと
いうこと。それとも唐古・鍵に何か期待するものでもあるのかな。
647639:2011/01/24(月) 16:07:17
>>642
>吉野ヶ里でまだまだ纏向以上の王宮が発掘されると思ってる人なのかな?

されるともされないとも思っていない。
要は
「未発掘地が残っているかぎり、そこから何かが出るかもしれない、事前には確たることは言えない。
未発掘があるのに勝手に≪調査済み、掘りつくされた≫なんて言うな!」との立場。
648日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:08:23
>>647
吉野ヶ里はもう建物は掘りつくされたよ。
今掘ってるのは堀の外にある墓だって正式発表されてるよ。

正式発表を覆すのかいw
649日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:23:28
1年ほど前に吉野ケ里に行ったときは
住居跡が発掘されている最中だったな。

家の中のかまどの近くに、子供のものと思われる小さな甕棺。

家族と離したくなかったのかな。
650日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:09:39
邪馬台国(卑弥呼時代)は大規模な戦が何度もあった為、環濠、矢板柵があるはずだけど、纏向遺跡にはありますか?武器は出土しましたか?亡骸から戦いの痕跡は出てきましたか?
651日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:27:55
中国が既にレッドクリフの時代に、
吉野ヶ里もマキ向もチンケなかやぶき屋根の建物なんだよな。

冷静に見たら、スマトラあたりの先住民の高床住居と変わらない。
652日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:30:56
奈良時代くらいまで、竪穴式住居が使われてたらしいからな。

三国志時代の中国の一般庶民の住居はどんなもんだったんだろ。

城郭の中はそれなりに立派だろうけど。
653日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:53:59
>>650
マキムクは環濠集落じゃないので。
弥生以来の環濠集落とは一線を画してる。
倭人伝の記述を読む限り、卑弥呼は環濠集落の中で庶民と一緒に暮らしていたというより、
古墳時代の豪族居館のようなものに住んでいたと思われる。
654日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:16:12
邪馬台国論争はよそでやれ
655日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:41:49
>>653
マキムク→邪馬台国とは関係なし→畿内説代表>>653発言→了解
656日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:25:23
邪馬台国に興味がないので卑弥呼がどうとかいう話はつまらなかった。
ただ、3世紀頃、道教信仰に変わったので銅鐸が打ち捨てられたというところはおもしろかった。
657日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:29:28
纒向人が道教を信仰してたなら、前方後円墳の前方部は大地を表し、
後円部は天を表すという説には以前より説得力が出てくる。
658日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:36:07
しかし本当に道教なのかねえ?
659日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:43:13
「3世紀頃、道教信仰に変わったので銅鐸が打ち捨てられた」→これは根拠がない。思い込みの可能性のほうが大

古代のある倉庫が火事にあって、保管してあった銅鐸が火災の温度で固くなって、その上に焼けぼっくいが落っこちて
銅鐸が割れて、それが埋まって1400年後に現代人が発掘しただけかもしれない。その可能性のほうがよっぽど高い。
660日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:07:28
故意に焼かれたか火事かはどうでも良い。
銅鐸が捨てられ、その後新たに作られることはなく、銅鐸祭祀が消えたということは確か。
同時期に大量の桃の種が纒向に集められた。
661日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:20:39
>>660
銅鐸の破片が見つかった場所深さと、桃の種が見つかった場所と深さで何がわかったのですか?
みんなで食べた桃の種を残飯捨て場にまとめて捨てただけという仮説のほうが説得力ありますよ。
火事で焼かれて破片になった銅鐸の後も、銅鐸を使用した祭司があった可能性はありますよ。
662日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:35:18
邪馬台国はどこかという問に俺はこう答えたい。
それは、縄文時代から長く人が住んでいた痕跡が残っているにもかかわらず、
いまだに十分な発掘調査が行われていない場所だ。しかも、つまり盆地に違いない。

それで気がついたのが京都だ!
京都御所や二条城こそ最後の邪馬台国の候補地だ!
663日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:01:05
見たよNHKの番組。

一番興味深かったのは倭国大乱は異常気象が原因。干ばつと洪水で食料が不足したためというところ。

それが鬼道をあやつる卑弥呼のまつりごとでおさまったという話しだけど、
実は卑弥呼出現後も異常気象は続いていた。

ここに注目すると、
倭国大乱が実は鬼道でおさまったのではなくてそれがきっかけにしかすぎないと推定できる。
その後、古墳時代へと進展するわけだが、この古墳からわかることは土木技術の大きな進歩です。

つまり、土木技術の進歩によって、堤が作られ、ためい池が作られ
異常気象でも灌漑用水が確保できるような社会が可能になった。

鉄器による武力では北部九州勢が優勢だったが、土木技術の進歩によって食料の確保つまり
兵站能力において畿内が大きく進歩した。それが倭国大乱に決着をもたらしたと。
北部九州から遠征して畿内を制圧するには兵站能力が非常に重要なので、そこでの劣勢は
散発的な戦では勝利しても、遠征を長期化しかかる地域を制圧することは不可能である。
兵站能力で勝った畿内の勢力がその後に同等の鉄器を持つに至った段階で北部九州も制圧したと。

土木技術の進歩のきっかけをもたらしたのが卑弥呼の墓の造営で、鬼道を使って戦から造営へと
宗を導き。その後の大王が灌漑用水を確保するための土木技術(兵站能力)を誇示したのが古墳群であると。
664日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:07:45
宗は衆のまちがいでした。

魏志倭人伝の記述からすると、執筆者は卑弥呼には面会していない。
北部九州で聞いた伝聞を推定で書いたように思われるので、

北部九州の勢力からすれば、なにやら変な儀式にこって、
変なものを造営している怪しげな奴らという認識だったのでは。
665日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:56:03
土木技術の進歩は鉄を使用した吉備で起こったんだよね。その吉備は大和
朝廷にやたら娘を送って結びついていた。
666日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:03:34
>>651
そのイメージが間違いだろう。魏の使者が来て普通に過ごしているのだから
そこまで差があるような状況でもなかったと考えるべきだろう。
倭人伝でも宮殿があって云々書いてるし。少なくとも吉野ヶ里のような
弥生に毛が生えたような土人風ではなかったと考えるべき。
667日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:06:05
昨夜の番組の中の石野センセイによる銅鐸叩き割りショーの件w

つうかだな、そもそも時代がヤマトじゃ銅鐸祭祀のピーク終わった後だろうと…

あれじゃあまるで昨日まで拝み倒していた銅鐸を叩き割ったかのようなお話だw
それとも銅鐸の第一次埋納ピークを3世紀卑弥呼の時代に持ってくるってお話か?ワケワカランwwwwwww

土坑から出てきたアレは恐らく
埋納されたものが掘り返され、あるいは集落に保管されていたものが砕かれて再利用されて
それでも一種”供養の為”にその破片の一部が持ち込まれたって所じゃないのか?





668日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:06:51
>>663-664
うーん。どうなんだろ?
その土木技術の進歩が、なぜ筑紫を素通りして吉備や大和にもたらされたのか?って疑問が湧くよな。
ていうか、まさか、その最新土木技術は大陸由来じゃなくて、吉備や大和で発明されたと考えてるの?
669日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:11:34
昨日の穴はゴミ捨て場にしか見えなかったけどな。
670日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:22:37
岡山の北部は砂鉄産地で鍛冶が発達してたんだね。で、吉備は朝鮮半島の
部(べ)という労働組織を取り入れて発展したんだね。いわゆる、人を徴用
して生産をやらせるという勤め人。
農具に鉄を使うようになったから飛躍的に農業や土木灌漑技術が進歩した。

大和の鉄は近江と吉備から調達していた。
671日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:24:41
>>668
そこが疑問なんだよね
ただ圧倒的に発掘頻度の低い山陰山陽で
筑紫をすっ飛ばした形で最新の大陸伝来と思われる土木技術が次々と出土し
それがまた播磨あたりをすっ飛ばして河内・大和などに現れるってのは、今のところ動かし難い事実だから
この飛ばされた地域かまた迂回ルートで伝来が確認されるのかが判らない
本当に飛ばされているのかもしれないし

ただ筑紫に関しては本当にすっ飛ばされたと見て良い
本州で花開いた最新土木技術が4世紀あたりから北部九州を手始めに
中南部に広がって、やがてそれが主流になり弥生九州の面影はなくなってしまうから
これは侵攻侵略ではなく、文化間のハイブリッド化だと思うけど
経済的な侵食ってのはあっただろうな
672日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:25:51
>>668
大陸には巨大な古墳はないですよ。だいたい雨もにほんほど降らない。
673日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:27:54
>>669
だから何で大型居館のすぐ側に
桃の種や海産物という「廃棄物が特殊かつ限定されたゴミ捨て場」があるのかって話であって
何でも捨てていいよという環濠や廃棄穴ではないからみんな悩んでるんだから
もう少し考えて書き込んでよ
674人豚:2011/01/25(火) 00:30:54
>>669

 やはりゴミ溜めでしょうね。
 あまりに雑多な食材が入り混じってますから。
 祭祀に関係するとしても今で言う地鎮祭の鎮め物とか言う性質のものじゃないです。
 強いて言えば地鎮祭の後の直会(つまり酒宴)の残飯でしょうか。
675日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:34:43
>>672
前方後円墳、特に箸中山クラスを造る技術というのは
それこそ日本各地のそれまでの墳墓や環濠で培われたものの集大成だから
そういう意味では纏向発祥と行ってもいいかもしれないが
各地の技術の大元はやはり大陸や半島経由であることはほぼ間違いないだろう
ただ各地に部分的に伝わった技術が、その地域特有の進化を遂げて
地方墳墓形態の特色を形作るのに大いに影響したわけでもあるので

大陸経由→各地方で進化→纏向で複合化になるのかな
676日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:38:54
>>674
江戸時代あたりの廃棄穴がイメージにあるのかな?
他では例を見ない雑多な食材しかも大和では捕れないものが多数出てきたから
各地の連合説がまた強化されたわけなんだが
地鎮祭とか、そんな時代にやってた形跡なんて一例もないよ
677日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:39:19
そもそも最新の土木技術って何?まさかイコール古墳って考えてないよね?
古墳を造るかどうかは単なる文化の違い、国の形の違いだと思うが。
678日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:41:20
>>671
朝鮮東部由来と考えれば、「筑紫飛ばし」もそんなに奇異な話ではないんじゃないか?
対馬暖流の流れ方とも一致する。
朝鮮東岸→山陰(出雲)→山陽(吉備)→畿内
このルートだと、筑紫は「西に外れてしまう」ことになる。
要するに長崎新幹線状態ww

だが問題は、朝鮮側の説明が難しいことで、西に中国本土を望む上に、
東側に偏って脊梁山脈のある朝鮮半島は、
どうしても開発が西高東低になる傾向がある。
なぜ東岸から?という話。

いきなり吉備と畿内というのなら、自生的問題も考えられる。
この2つの地域、「まとまった平野がある」「雨量が少ない」という共通項がある。
梅雨に土砂降りになる九州を制圧するだけの技術ではなかったから、
筑紫では「中途半端」過ぎて受け入れられなかったとも考えられる。
679日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:42:24
そう言えば日本で始めて地鎮祭やったのって
”あの”持統じゃなかったっけ?w
680日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:44:18
ところで銅鐸の破片て言ってたけど、ちゃんと形になるほど見つかったのかね。
破片一個っきり?一個なら壊して捨てたってのも違うだろ。
681日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:48:16
>>667
あれはNHKの編集が悪いというか、まあそうとしか見えなかったわな
銅鐸破壊方法と纏向はイコールで結ぶものじゃないのだが
おそらくそこまで専門的にやると、ほとんどの視聴者がついていけなくなるからじゃないかねえ

未だに鉄器がどうしたとかが九州説の核みたいに言われてたのもアレだったし
銅矛銅剣どころか鉄剣まで武器扱いで、いつの九州説だと突っ込みたくなった

多分NHKスペシャルをみるほとんどの視聴者の知識レベルにしても
銅鐸・銅矛文化圏とか鉄器で侵略とか、まだそのあたりだろうから

しかし冒頭近くで「魏志倭人伝には詳しい場所は記されていない」と言い切ったのには笑った
こいつは倭人伝の行程記述は役に立たないという意味だから、倭人伝原理主義者涙目だな
682日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:49:22
ところで、浦島太郎の伝説はキビツヒコが朝鮮から来た温羅(ウラ)を征伐
することから始まっているけれど、この温羅っていうのは、たたら衆で山を
焼いて鉄を作るので恐れられていたのかもしれない。
そして、キビツヒコの姉はあのヤトトトヒモモソ姫である。
683日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:52:15
>>678
半島東部からの直接ルートというのは、実は俺も考えたが
同じ理由で今のところ棚上げ状態ですわ
ただ筑紫では帯に短しの技術だったというのは瞠目すべき意見だと思う
ちょっとそっち方面の可能性も踏まえて再検討してみるわ、ありがとう
684日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:58:00
いやさ、最新の土木技術やら鉄器で畿内が勃興するのは平野の面積的に必然なんだろうけど。
それは弥生後期を通じての百年単位のスパンでの話。弥生終末期にマキムクが突然誕生する説明にはなってない気がするが。
685日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:00:09
新情報である魚の骨については、広域的交易の証でもあり
保存食としての加工も確立していたということだろうけど
最初の大量の桃の種ってのが未だに不可解なんだな
普通は種は栽培用に別に使用するわけで、捨てたりはしなかっただろうし
やはりこれも干し柿ならぬ干し桃にしたものの種だったのかね

銅鐸片については、件の穴からは一個に復元できる量は見つかってないはず
これも復元できるほどの量が出てきたら、銅鐸破壊の祭祀が行われていたと考えてもいいのだが
まるであちこちにばら蒔いたかのように、ごく少量しかでないんだよね
686日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:08:04
銅鐸は破壊後、再利用でしょう。
それで鏃か鏡を作ったんではないか?
破鏡とか呪術的意味合いとは違って、完全なる銅鐸の否定。
大和で何故か見る銅鐸が見つからないのはこのせい。
687日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:11:28
もしかして、倭国大乱は浦島太郎の鬼退治の可能性もあるね。
姉がヤマトトヒモモソヒメ=卑弥呼で、弟キビツヒコが卑弥呼を支える弟。
688日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:14:17
>>677
その文化の違いによって、発達する技術が特化するってことだろ。
方墳を造る技術と円墳を造るそれとは、全く互換性がない。
いっけん円墳のほうが簡単に思えるけど、葺石を使わずに盛土を維持する技術が不可欠になる
ゲームで言うならADVの方が作りやすそうで3Dは難しそうにみえるけど
3Dデザイナーには2Dブラフィックは描けないのと一緒。
689日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:17:02
>>686
再利用なら、少量にしても廃棄穴から出土するってのが不可解だわ
再利用すべき破片を捨ててどうする
690日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:22:07
銅鐸片に関しては>>667の推論が今のところ妥当な気がする
691日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:24:36
>>671
最新の富をもたらす土木技術と、習俗、文化はセットであったと。
坂上田村麻呂のとった戦略もそんな感じだった。

投馬国=出雲(物部氏)、狗奴国=熊野(紀氏)との争いが、ヤマト周辺であり。
卑弥呼は出雲勢力の系統であるのに対して、当初は出雲勢力が優勢で邪馬台国の主力となった。
そこへ熊野系である天皇家の男系勢力の巻き返しがあり。結果的に融合した。当時の対立は
九州vs畿内の争いではなく。日本海勢力vs太平洋勢力。こう考えると神武東征の際に
熊野勢力と結びついたかの説明ができる。また魏志倭人伝で南に下るのと混同した理由に
こじつけることもできる。つまり九州でも南北争いがあり、南の勢力は熊野文化圏の一派。
その熊野文化圏と出雲文化圏が共闘したことで、北部九州の武力に優れた勢力を制圧したと。

たしか紀氏は秦氏を傘下に迎え入れた氏であり、土木技術に優れていたはず。
(秦氏の伏見稲荷大社は紀氏の神社である藤森神社の所有地に建てられたということらしい)

纏向では、中東の産物もでていたはずなので、大陸との交易をになっていたのが秦氏。
秦氏がすべて列島に避難してきたのは大陸、半島の政治情勢の変化による。

出雲勢力のもたらした文化と、熊野勢力がもたらした土木技術。
その二つの勢力を結びつけた秦氏の通商能力&大陸での最新の知識。が大和朝廷のルーツをもたらしたと。

国譲り神話にあるのは、土建技術(出雲大社)と国の統治権(文化)の交換と融合。
八岐大蛇は洪水をもたらしたんですよね確か。

>>675
大陸の技術をもたらしたのは秦氏。それを列島の風土に有効に利用できる活用をして、
灌漑用水確保や洪水を制するように、アレンジするきっかけを作ったのが卑弥呼の時代。
大陸の風土と日本の風土は大きく違うので同じ技術から派生しても必要な技術が違うと思う。
古墳時代の大規模古墳はその象徴的存在。
692日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:24:49
もう誰も突っ込まないから。桃太郎ね。
桃太郎の前、吉備津彦の伝承が讃岐方面にもあるのは面白い。
そこでは吉備津彦が海賊を退治してトトヒモモソ媛を助けるのだとか。
これなんか、意外と古い伝承じゃなかろうか。
吉備と東瀬戸内、阿波、讃岐、播磨は古代より繋がりが深い気がする。
693日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:33:10
>>692
列島を制するには瀬戸内勢力の取り込みが重要だったんですよ。
だから邪馬台国は桃を奉った。というのは無茶ですね。
694日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:36:22
熊野系っていうのは、琉球から海伝いに渡ってきたグループじゃないかなぁと。
695日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:49:11
桃太郎=モモソヒメ=桃=鬼道=マキムク=邪馬台国
リンクしたね
696日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:51:24
「前方後円墳が新しい土木技術の集大成でそれを内外に見せ付ける為のもの」

…と言う内容には正直少し違和感を感じる。

>>586に吉備の造山古墳が人口の激減期に築かれていたと出ているが
河内の巨大古墳にしても日本が半島における利権を失った頃にできている。

むしろ「権威・求心力の建て直し引き締め直し」のために造られたとした方が理解しやすい気がする。

そう考えれば纏向の箸墓も卑弥呼の晩年狗奴国と争い、卑弥呼の没後混乱した時期に
その「権威・求心力の建て直し引き締め直し」の為に造られたと。

697日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:55:21
あんなチンケな穴が祭祀に関係あるわけない。
祭祀跡と言われる掘っ立て小屋横の土坑よりもチンケなのに。
出てきたものもゴミばかりw
いい加減に無理やり邪馬台国と絡めるのやめろ。
掘っ立て小屋の方がずっと重要。
698人豚:2011/01/25(火) 02:11:53
>>676

> 江戸時代あたりの廃棄穴がイメージにあるのか

いや、江戸の時代のそれはイメージできませんが、ゴミを穴に埋めて処分するのって
何時の時代でもあるんじゃないんですか?
あと「地鎮祭」は、無理やり祭祀遺物に結びつけた場合の例えです。

699人豚:2011/01/25(火) 02:21:16
>>685

> 最初の大量の桃の種ってのが未だに不可解なんだな
> 普通は種は栽培用に別に使用するわけで、捨てたりはしなかっただろうし
> やはりこれも干し柿ならぬ干し桃にしたものの種だったのかね

纏向モモの品種はわかってるんですかね?
現代で人気の白桃とかと比べると一本当りの収穫量は少ないでしょうけど、
毎年の収穫量を考えれば、タネモモなんて、そんなに必要ではないでしょう。
だから、ほとんどの種は捨てられて当然ではないでしょうか。

大量な果肉の方は、どのような用途で消費されたかは皆目わかりませんが、
「干しモモ」と言う保存法が有ったのなら、これも長距離輸送に耐える交易品になりますね。
ただ、件の土抗周辺はモモ花粉が濃密に検出された、とも聞いていますので、
「地場モノ」のなのでしょうね。
700日本@名無史さん:2011/01/25(火) 02:34:16
漿果類は「干し桃」は無理ですな。
ピーチワインに代表されるような酒か
壺を用いたジャム様なものならなんとか。
701日本@名無史さん:2011/01/25(火) 03:31:05
>>685
ただでさえ腐りやすい魚を、わざわざ生駒山を越えた盆地にまで運んで加工するなどということはありえないのです。
桃は稲のような草ではなく木の実なので種桃なんか必要ないのです。
桃を主食にすることも考えにくく、ただでさえ住居跡が見つからない纒向で
あれほど大量に桃の種が出てくるのは奇妙です。
桃は食料としての栽培でなくやはり宗教的なものに使用されていたと思います。
702日本@名無史さん:2011/01/25(火) 05:19:59
>>699
今の桃は長年にわたる品種改良の結果だから、それとはぜんぜん違うらしい。
野生の桃ということで、梅のような感じに見えたのだが。

種だけが大量に出てきたわけで、その用途を証明するようなものは出て来て
いないわけだからなんとも言えないな。
祭祀用ということなら、長年にわたってということになるのかな。まさか、
一回限りの祭祀ということもないだろうし。
703日本@名無史さん:2011/01/25(火) 05:56:58
もし継続的な祭祀用途なら、逆にもっと大量に複数の層から見つかってもいいはずだが
土坑の底のほうからまとまって出てきたのみなんだよね>桃の種
それとゴミ捨て用しかも腐臭のきつい動植物を大量に破棄した土坑を
何年も使ったりしないだろうからすぐに埋めただろうし
そういう意味ではもし継続祭祀ならば、あちこちで同様の土坑が見つかるだろう
祭祀用か支配者層のご馳走だったかに関しては、今後発掘されるだろう同様の性質を持った土坑の中身によると思う
704日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:42:33
纏向祭祀は古墳族に滅ぼされたのだよ。

銅鐸祭祀は纏向祭祀族に滅ぼされ、ほどなく古墳祭祀族がやって来て纏向祭祀は滅び銅鐸が作られるようになった。
纏向祭祀が滅びたのは50年程度ではないかな。
705日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:57:17
>>704
ということは、記紀的には纏向祭祀族が饒速日命で、古墳祭祀族が神武天皇かな?
706日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:58:07
発掘された土器は実用性のないミニチュアサイズで底に意図的に穴が開けられてて、祭祀用と考えられる
707日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:31:24
底に穴が開けられてた土器の写真か図はないかな?
発酵させた酒を濾す道具じゃないかと疑っているんだが。

ミニチュアで使えないサイズならどうしようも無いが。
708日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:41:11
日前神宮・國懸神宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE

垂仁天皇16年に現在地に遷座。

伊勢神宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE

垂仁天皇25年3月に東の美濃をめぐりて伊勢国に至る。

日前神宮・國懸神宮が、出雲系と熊野系の融合前の紀氏の神社で、
出雲大社は紀氏が造営した物部氏のための神社。融合後に伊勢神宮ができて皇室の氏神となったと。


ちなみに
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによって
それは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませる。

出雲大社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE
709日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:47:43
>>703
柵と時期が違うよ。
建物と同時期と考えるのは早計。
710日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:05:02
普通、ちゃんとした宮殿のすぐそばにゴミ捨て場を作ったりしないだろうから、
それ以前のものか、工事中の一時的なゴミ捨て場だろうな。
711日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:40:39
>>707
ほれ、
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/serch/cult/ritu/05-082d.jpg


唐古・鍵の物だけどwwwww

纒向のは見にくいかなw
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/images/image-3/0919-22.jpg
712日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:50:39
菅総理に物申す
http://kakalov.cocolog-nifty.com/
713日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:57:43
>>711
ありがとうございます。

上の写真の唐古・鍵のものは、中央にひとつ穴が開いてるのかな。

下の写真の奥の黒いのはよくわからない。
一番手前の土器のピンで差したような穴も、作られたときの穴なのかな?
714日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:38:02
最後の復元シーン?で桃がいっぱい置いてあったが、1回に2000こ使ったわけではあるまい。
何十年かかけて2000個たまった、のかな。

それと銅鐸破片だが、たくさん破壊してそのうちの大量の破片の一つがでてきたか
667のいうように少しのものを破壊したうちの一つが出てきたのか。
なにせ破片一個と言うのはたまたまとしたら有り得ないような偶然だから
そのあたりの考古的考え方はどうなんだろう。

供養のために破片、というのは少ししっくり来ないけどね。ごめん。
そもそも本当に銅鐸でいいのか、というのも教えておくれ。
715日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:46:00
>1回に2000こ使ったわけではあるまい。

1回で2000個使ったんだろ。あの土光坑を何十年も使うわけはない。
銅鐸片は昔のがたまたま紛れてたのかもしれん。
716日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:39:02
なんつーか邪馬台国は九州にあったとして
もしも中国に「自分の国が倭を統一した」とか
嘘言っていたとしてもわからんよね。実際は
畿内のヤマト王権の方が全然強くて邪馬台国
は風前の灯だったとしても
717日本@名無史さん:2011/01/25(火) 14:33:50
>>710
宮殿という前提が間違っているのかも。

>>716
別に統一したとは書いていない。狗奴国は属していないと書かれているし、
東に海を渡ったところにまた国がある、皆、倭種という具合に女王国とは
別の系統であるかのような書き方がされている。
718日本@名無史さん :2011/01/25(火) 15:34:21
地図を90度回転させた本州(関西)説ならば、
東に海を渡ったところは佐渡。
南の黒歯国、裸国は蝦夷。
719日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:43:05
>>714
祭祀で土坑を再利用ってのは豊富な前例とは違うしな。
土器の穴あけとも矛盾するような使い方。
基本的に祭祀には一度しか使わないと思ったほうがいいでしょう。
それなりの具体的根拠がないと再利用を推定するのは難しい。
再利用が想定されるのならごみ捨て場でしょう。
このくらいのゴミなら古墳の堀から出たことがいくらでもあるし。
720日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:34:09
>>718
>東に海を渡ったところは佐渡。

スレ違いだがこれは卓見。
佐渡には重要な玉造り遺跡がある。鏡も。

>南の黒歯国、裸国は蝦夷。

船行一年だからこちらは却下。w
721日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:53:24
>>671
>最新の大陸伝来と思われる土木技術

>>677にもあるけど、それ具体的になんのことを言ってるんですか?
墳丘墓の大型化のことなのかな?
古墳はそれでもいいと思うケド。
722日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:54:40
>>674
>あまりに雑多な食材が入り混じってますから

あれ?そうなの? 番組では、出てきたもの=供物、で余計なものはなかったように見えたけど。
供物だと考えられるもの以外のなにが入り混じっていましたか?
723日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:58:54
大抵のものは供え物と言い張ることが可能
724基本事項の確認:2011/01/25(火) 19:03:05
前スレより

74 :水銀厨:2010/09/19(日) 19:05:04
昼から説明会に行ってきたのだが今日は結構暑かった。
午後からだった為か思ったほど混んでませんでしたけど。

橋本氏の説明の要約は報道のとおりだが、
桃は2000と発表してるが、実際は4cに溝が造られていて
土抗が破壊、数は3000〜4000個はあっただろうとの事。
725基本事項の確認:2011/01/25(火) 19:04:02
その2

90 :水銀厨 :2010/09/20(月) 01:22:21
桃に注目が行くのは仕方ないでしょうね、あの数では。

銅鐸の破片については、遺構近くの古墳時代後期の包含層から出土です。
比較的大型の突線鈕式銅鐸と思われる物ですが、
S47年調査の際に出土した破片との関連性に注目されているようです。
726基本事項の確認:2011/01/25(火) 19:07:27
その3

137 :日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:35:25
■纒向遺跡:モモの種出土、現地説明会 古代史ファン、熱心に聴き入る−−桜井 /奈良

毎日新聞 2010年9月20日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100920ddlk29040270000c.html

市教委文化財課によると、弥生時代に国内に入ってきたモモは現在よりも小さなものだった。
出土した種のうち数十個には皮を含めて果肉が残っていた。未成熟の種もあり、
食用ではなく祭祀の供物として集められたとみられる。
727日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:14:05
最初の段階で、魚の骨には気付かなかったようで、
のちに土を細かく振るうことで魚の骨を確認している。
かなり小さな破片だったと想像できる。

干し魚のレベルなら、かなり大きい骨が残るはずなので、
多分魚醤である可能性が高い。

728日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:48:10
>>724-726
さんくす
つまり桃は食用とは考えにくく、種が捨てられたのではなく果肉ごと食べずに捨てられたということか
729日本@名無史さん:2011/01/25(火) 20:31:02
>>715,719
なるほどね。
というとその1回しかなかった祭祀、というのがその銅鐸破壊儀式
みたいになるのかね、ほんでその聖なる?儀式だから本殿のすぐそばに
埋めた、と。そうすると破片がまぎれこんでてもおかしくはないのだけど
そんな歴史の転換点の重要な祭祀時のゴミ?とか跡がでたというのは
これはこれですごい発見じゃないか。
詳しい人教えてね。
730日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:24:48
すごいとかどうとか、そういう修辞は必要ないです。
731日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:06:07
アジアカップサッカーを見ていると、
日本と朝鮮は、民族的に非常に近いということ、そして、古代から好敵手だっただろうことがよくわかる。
日本と朝鮮は、どちらかが一方的に支配していたとかされていたといった関係ではもちろんなく、互いに影響しあって今日までやってきたのだ。
732日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:23:59
銅鐸の破片は、桃や骨・土器の出た大型土坑とは別のところから出てるはず
733日本@名無史さん:2011/01/27(木) 06:15:02
へ〜、テレビでもそうだったっけ。
見落としてたか。
でも捨てに行く時に落ちた、ってとこか。
734日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:48:20
TVは電車の中ワンセグで見ていたので、途切れた箇所も多くはっきりとはいえません

現地説明会では、壊した時に散らばった破片を見落としたのかなぁといった説明でした
サイズは37×32mmですから
735日本@名無史さん:2011/01/27(木) 16:28:41
>>732
うん、全然別のところ。そもそも古墳後期だし。
736日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:26:39
古墳後期に銅鐸破砕?
流石に時代が違い過ぎないか?
そもそもマキムク放棄が前期末だった筈じゃ?
737日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:40:43
卑弥呼系の邪馬台国を大和朝廷が乗っ取ったんだよ。
だから、卑弥呼はアマテラスとなり神話の世界へ押しやられた。
738日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:59:17
>>721
測量技術のことでしょ。

これがないと正確に造れないし。
水をためるとなるとどこからひっぱってくるかの検討を含め、場所の選定ができない。
ちなみに京都の琵琶湖疎水は測量によって京都盆地のほうが琵琶湖より低いと論文を書いた
その東大生であった田邊朔郎が抜擢されて作られた。

あとは、高い堤や堀を掘るには土質に関する知識がなければ不可能。
くずれない築堤や法面を作るのは相当な経験則も必要。
また火山灰や砂の多い地層では水が底抜けすることがある。
最近でも水がたまらないダムとかで物議をかもしてたし。

あの前方後円墳は、大きな堀と高い堤。正確な形。
洪水に合わない地域への造営と当時としては相当先進的なものだったはず。

時代が進んで条里制の都の造営にもちいられた四神は測量の基準とするものを決めるために使う。
だから平安京の朱雀を巨椋池という説があるが、測量では使えない低地はありえない。
ここらあたりは中国では常識らしい。よって平安京の朱雀は甘南備山です。
739日本@名無史さん:2011/01/28(金) 08:07:53
>>663
>鉄器による武力では北部九州勢が優勢だったが、食料の確保つまり
>兵站能力において畿内が大きく進歩した。それが倭国大乱に決着をもたらした。
>北部九州から遠征して畿内を制圧するには兵站能力が非常に重要なので、そこでの劣勢は
>散発的な戦では勝利しても、遠征を長期化しかかる地域を制圧することは不可能である。
>兵站能力で勝った畿内の勢力がその後に同等の鉄器を持つに至った段階で北部九州も制圧した。

まるで第二次世界大戦のドイツ軍とソ連軍の関係そのままだな(´・ω・`)。
740721:2011/01/28(金) 19:48:28
>>738
>測量技術のことでしょ。

なるほど。ありがとうございます。

>大きな堀と高い堤。正確な形。 洪水に合わない地域への造営と
>当時としては相当先進的なものだったはず。

同意です。

ついでにおたずねしますけど、
この測量技術が>>671の言うように、山陰→山陽→河内・大和と伝来した、といえるのでしょうか?
または、「あの前方後円墳」、と山陰の(大型化した)四隅突出形墳丘墓、吉備の楯築弥生墳丘墓は
同様の「最新の大陸伝来と思われる土木技術」によって築造された、といえるのでしょうか?
741日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:18:51
唐古鍵の環濠も結構大きく、総立法メートル換算では確か二百メートル級の前方後円墳と同じだったと思いますが。
唐古鍵の時代の土木技術と比べて、マキムクの運河や古墳に、そんなに大きな飛躍があるものなんですか?
742日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:24:50
>>737
継体で復活するけどね
743日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:49:20
>>739
こうゆう言説を時々見るけど、考古学で分かる範囲での現実は違うんだよね。
弥生後期に日本各地でクニ、オウが誕生、群雄割拠で戦乱に突入していくんだけど、
最終的に突然マキムクが生まれ、それは戦争によるものではなく、比較的に平和裡にもたらされた外交的決着であったらしい。
倭人伝の卑弥呼共立記事とも符合している。

実際、筑紫は古墳こそめぼしいのがないが、古墳前期を通じてその力を失っておらず。
筑紫が大和の下風に立つのは、倭の五王以降の話だろう。
744日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:08:01
>>739
「魏志倭人伝」を読み返してみたが、
邪馬台国の兵は武器として矛、盾、木弓を用いたというんだね。
矢の先には竹や動物の骨、あるいは金属をつけていたと。
同時代に九州で主流であったと思われる武器、鉄の刀剣の記述がない。
これは邪馬台国が九州でないことの傍証になるかもね。

745日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:13:35
>>744
外国人の見聞記は、自分たちと同じものは気にもせず、違うものに目が行くと
いうことがある。鉄以外の武器を使っていたら、ひょっとしたらそのことに
ついて書かれていたかもしれない。
746日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:18:26
>>745
矛も盾も木弓も中国にあるだろ。
特に珍しいものではない。
747日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:43:52
>>743
大乱の結果として歴史的に先進地域の北九州が没落して、
新しい移民国家大和にマキムクが建設されたんじゃないか?
大和が北九州を征服したのではなく、あくまで政治的に。

大戦後にヨーロッパが没落して、
アメリカに設置された国連に似てる気がする。
748日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:53:51
>>746
木弓については、下が短く上が長いと書かれている。これは珍しかったん
だろうな。
749日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:54:04
>>747
だから、九州の土器・武器が纏向で発見されないことが
纏向が移民国家ではないことを裏付けてるんじゃなかった?
750日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:57:27
畿内で鉄器生産の跡

京都市埋蔵文化財研究所の調査で、京都市右京区西院清水町の西京極遺跡で弥生時代後期(1世紀後半〜2世紀初め)
に鉄器を生産していたとみられる炉の跡や、加工する際に出た小さな鉄片約100点が見つかった。

読売新聞2010年9月8日の記事

↑これによれば、畿内でも纏向に先行する1〜2世紀に鉄器生産が始まっていた。
畿内にも鉄器があった=九州が3世紀における文明国家で武力が強かった
とは言えないみたいだな。
751日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:02:06
>>750
鉄器に関しては、近畿地方で最も進んでいたのは近江周辺というのは常識。
奈良盆地が遅れていたというのも常識。
752日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:07:22
淡路島で国内最大級の鉄器製造工房

兵庫県淡路市(淡路島)の垣内(かいと)遺跡で、鉄製の武器などを作った弥生時代後期(1世紀中頃〜3世紀初め)
の鍛冶(かじ)工房跡10棟(最大で直径10・5メートル)が見つかり、市教委が22日、発表した。
円形や方形をした建物跡の中央に高温で赤く焼けた炉跡があり、周囲から鏃(やじり)やその未完成品、
鉄片など計75点、砥石(といし)などの製作道具がまとまって出土し、生産の様子を復元できる。
弥生時代最大規模の鉄器生産工房で、周辺に製品を供給した有力な生産拠点だったとみられ、
鉄器の製作や流通ルートを解明するうえで重要な発見となる。

読売新聞2009年1月23日記事


とにかく、畿内でも弥生時代に鉄器生産は行われており、
九州にしか鉄器がなかったとか思ってる人は明らかに間違い。
753日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:08:13
>>751
邪馬台国近江説の荒らしの人はもういいよw
近江から出てないしw
754日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:26:59
>>753
ん?近江説一人じゃないんだ?
でも鉄はどうでもよくない?米の方が重要でしょ
755日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:33:27
>>754
近江説の人は一人だよ。
2つのスレを掛け持ちしてるだけでしょw
756日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:40:50
琵琶湖は農耕の邪魔になるらしいwwww
757日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:41:52
>>755
>>751は別人だしさ。
この人は近江で鉄を生産してたって言ってるだけだけど
758日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:45:38
>>756
史料も上げられない幼稚園児のお前さんの言うことじゃないよな。
文体同じで分かりやすい。
759日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:46:35
>>757
もうひとつのスレの話題をこっちでもしてるんだから同一人物だよ。
向こうの憂さ晴らしをこっちでやるのはやめてくれる?
760日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:50:29
>>757
そのとおり、近江が邪馬台国と関係あるとは全く思っていないが、近畿地方で
鉄器の普及などが進んでいたのは近江と言っているだけ。
761日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:54:33
で、これはたぶんまた別の滋賀県民>>756
滋賀県民的に「琵琶湖が農耕の邪魔になる」はかなりウケル。
その発想はなかったわ。
762日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:54:58
そう淡路島じゃなく近江らしいwwwww
763日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:19:28
>>760
近江の遺跡から鉄器は出ていない。
素人はいい加減黙ってくれ。
764日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:22:35
淡路島と近江を間違えてるのかな?
この滋賀県民・・・
765日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:36:40
>>762 この笑いのツボは私も分からん
766日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:43:26
http://ohmikairou.org/col15.html
近江の古代製鉄について

古くから「近江を制するものは天下を制する。」と言われ、権力者の争奪の的となった
近江は、地政学上の好条件を備えた国であるばかりでなく,古代における近畿地方最大の
鉄生産国でもありました。
767日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:48:30
>>766
その史料は白鳳時代〜奈良時代の遺跡。
近江の弥生時代の遺跡から鉄器は発見されてないから。
768日本@名無史さん:2011/01/29(土) 00:50:56
>>766
これいつの時代の話だよ。せいぜいが古墳後期だろ。原料供給があったから産業が
製鉄に特化した。何の不思議もない。
卑弥呼の時代にどっからどうやって鉄をもってきた。で、それはどうなった?
769近江説:2011/01/29(土) 00:54:44
華奴蘇奴(かねすな)国で、原材料を採掘しました。
取り出した貴重な鉄は末永くリサイクルして使いました。
770日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:05:57
何の根拠もない絵空事。
771近江説:2011/01/29(土) 01:13:36
根拠はこちら。>>766
今でも鉄くず拾いのおっちゃんとかいるでしょー
もったいないでしょー
772日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:22:06
>>771
弥生時代の史料を出せ。
ボケ。
773近江説:2011/01/29(土) 01:25:25
>>772
そう、でも、弥生時代から連綿とリサイクルされて受け継がれた場合
弥生時代から使ってたって痕跡なんて、残らないよね

その辺どうなんかな。捨てられた場所が「遺跡」になるんでしょ?
774日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:27:53
>>773
生産現場には鉄くずが散乱する。
一つ残らずかき集めることなど不可能だ。

そして、鉄の鋳造には大規模な施設が必要だ。
で、近江から発掘されているのは早くても飛鳥時代。
それ以前には施設がなかったのだから作りようがない。

どうも近江説のおばちゃんが来てから
邪馬台国スレが初心者スレになっている。
あっちでやられたからってこっちに来るなw
775日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:34:19
「製鉄はしていました。しかしリサイクルをしたので何の痕跡もありません。」
これだと議論自体が不毛もいいとこだ。近江でなくともどこだっていえることじゃないか。

むしろ、日本海から近江へのルートを想定するなら、なぜ丹後の鉄が入らなかったのかを
考えた方が有意義だろう。それが学問的な方法。
776日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:39:48
>>774
初心者というかしどろもどろになってはるだけやん
施設が「なかった」証拠なんてないでしょ?あるの?

>>775
丹後人と気が合わなかったからではないですか?
777日本@名無史さん:2011/01/29(土) 01:52:02
しかしアレだな…

日本海ルートの鉄が近江に届いていなかったなら
いわんやヤマトに届いていた事は無かろうと言うのは普通に推測される?

ヤマト纏向への鉄の流入はやはり瀬戸内ルートと言うことで。


>近江厨

つうかね纏向に絡まず近江説や近江の先進性やらだけを強調したいのならスレ違いだ消えろ阿呆
778日本@名無史さん:2011/01/29(土) 08:31:59
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)

988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)

990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)

じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)

ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
779水銀厨:2011/01/29(土) 09:27:21
2-3世紀のヤマトというか、畿内の鉄器補充先とすれば、
今確認出来る痕跡では瀬戸内東部、信貴山辺りでしょう。
780日本@名無史さん:2011/01/29(土) 10:23:02
長浜には国友鉄砲村があったし
近江に鉄加工(しかも鋳造)の技術を持つ集団がいたのは確か

でもこのスレは何故そんなに鉄にこだわってるんだ?
781日本@名無史さん:2011/01/29(土) 11:04:01
>>780
そりゃおめえ、あれだ

卑弥呼は鉄で出来てたからだよ

アイアンメイデンってな……






おい静か過ぎるぞ!!!
782水銀厨:2011/01/29(土) 13:02:00
メタルのニューウェーブと言われてたのも懐かしい話だ。

>>780
このスレの人は特に鉄を重視してる訳ではないでしょ。
783日本@名無史さん:2011/01/29(土) 15:25:37
>>780
邪馬台国近畿説的に言えば、九州説との関係上、鉄はどうでもいい事になって
いるわけだからなあ。
でも、大和よりも近江の方が鉄器普及は進んでいたといわれると気になるらしい。
784日本@名無史さん:2011/01/29(土) 16:23:07
>>781
じゃあ男弟はアイアン・マンか・・・
785日本@名無史さん:2011/01/29(土) 17:52:04
どうして鉄器がそんなに重要なのかわからんね。
ピラミッドだって、銅器だけで作ったわけだし。

786日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:34:35
邪馬台国はスレ違いだよ。
787日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:31:01
そうだよ、このスレは邪馬台国について語るスレではない。
纒向にあったのは邪馬台国とは別の政権だ。
788日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:07:46
>>787
で、その九州の邪馬台国は、畿内王権に滅ぼされたことまで認めるのかね?
789日本@名無史さん:2011/01/29(土) 23:51:13
>>788
畿内王権に滅ぼされたという根拠は?
そのころ北九州とマキムク地域の交流はほとんどなかったんじゃないか?
790日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:00:07
つうかだなこれもスレ違いだが…

ゴミクズレベル九州説のアホどもは何か勘違いしているみたいだが

纏向が「邪馬台国」の看板背負って事実上一人横綱の状態なのは
ひとえに九州にその対抗馬が無いから。

ここで「キナイセツ憎し!」でみっともない怨み節をいくら歌っても現実は変わらない。

791日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:34:05
987 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)

988 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)

990 :日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)

じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)

ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
792日本@名無史さん:2011/01/30(日) 00:55:31
一人横綱って、自称横綱ってだけの話だろうに。
793日本@名無史さん:2011/01/30(日) 03:47:51
>>703
俺も上にあるように地鎮祭の類、起工式か完成式の祭祀のゴミ穴と考えたいね。
想像をたくましくすれば、出土した木製の剣は地神を鎮めるまたは邪気払いとかね。
その穢れで捨てるとか。今につながる割り箸文化みたいなもんもあったかもしれん。
また道教での長寿の桃は後の神器勾玉の命を守るという所で性格も似ている。
書紀景行帝記を見る限り、鏡は降伏の印、支配権の印でもあるから、支配権の
変換で銅鐸片に結び付けようと放送ではしてるが、妄想気味の俺でも少し無理が
あると考えている。
794日本@名無史さん:2011/01/30(日) 04:43:27
>>792
九州には力士がいないんだから仕方がない
795日本@名無史さん:2011/01/30(日) 07:33:35
>>789

ならば、九州の邪馬台国は勝手に自滅したわけか。
796日本@名無史さん:2011/01/30(日) 09:50:50
九州勢力は、白村江の戦いの寸前まで生き残っていたではないか。
磐井の乱こそ邪馬台国最後の聖戦、筑紫王朝こそ邪馬台国の流れをくむ九州最後の王朝だったのだ。
797日本@名無史さん:2011/01/30(日) 10:00:56
>>796
九州王朝説は該当スレでやれ

ゴミはゴミ箱に
798日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:01:32
>>797
【復活】それでも邪馬台国は九州にあった【不滅】 スレを立てました。

ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1296352108/l50

しかし、その結果、書き込みが全くなくなってしまって過疎スレになってしまったようですね。プッ
799日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:21:26

■支局長からの手紙:里の社 /香川

毎日新聞 2011年1月24日 地方版
http://mainichi.jp/area/kagawa/letter/news/20110124ddlk37070281000c.html

 結構交通量がある県道沿いに鳥居があるのに、境内に入ると静かでした。大きな杉が近くにある本殿は古い木造で、落ち着いた雰囲気です。周りには山があり、川があり、もちろん田畑が広がっています。まさに「里」の社、という感じです−−。

 車を走らせて、東かがわ市の水主(みずし)神社にお参りしてきました。
仏像ならぬ神像を持つ神社を紹介した「日本の神様」(畑中章宏さん著、理論社)という本に、この神社が紹介されていたのです。一般の拝観はできないとのことですが、8体もの重要文化財の神像があるといいます。
実は本を買ったのは何カ月も前で、地元の神社が載っていることも知りませんでした。たまたま1月に本を読み、神社のことを知ったのも“ご縁”と思い、出かけました。

 境内にある由緒によると、祭神は「倭迹々日百襲姫命」。姫は7歳で奈良の宮を出て、8歳でこの地に入り、成人までここで過ごして、農業や水路などの「水徳自在の神」とたたえられた、とあります。
また県が境内に立てた説明板(86年)には「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています」と。

 倭迹々日百襲姫命は、奈良・三輪山の伝説にも登場する神話上の人物ですが、宮内庁が、その墓としているのが箸墓古墳(奈良県桜井市)。
箸墓と言えば、周辺の纒向遺跡が邪馬台国の有力な候補地とされ、箸墓そのものを卑弥呼の墓とする説もあります。

 神社について、支局にある「新版香川県の歴史散歩」(96年)には「当初は水神を祀ったものと考えられ、それに……百襲姫命の伝承が付加されたものと思われる」と書かれています。
その通りだろうと思いますが、邪馬台国女王になる前の若き卑弥呼が、讃岐の里にいた、なんて想像の翼を大きく広げると、ちょっと楽しくなりますね。

 讃岐一宮の田村神社(高松市)の祭神にも倭迹々日百襲姫命が入っているといい、姫と讃岐が縁が深いことは確かなようです。

 初詣の時期も過ぎた、静かな里の神社で、はるかな歴史に思いをはせた、小さな小さな旅でした。【高松支局長・姫野聡】
800日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:43:06

■弥生の出雲、渡来人が住んでた? 発掘調査シンポ

朝日新聞 2011年1月24日
http://mytown.asahi.com/areanews/shimane/OSK201101230073.html

 最新の発掘調査の成果を基に古代出雲の謎を探る企画「掘った!わかった!弥生時代の出雲!」(県埋蔵文化財調査センター主催)が22日、出雲市大津町の出雲弥生の森博物館であった。
講演とシンポジウムを通じて、朝鮮半島や中国大陸、北部九州との交流によって繁栄したことがより鮮明になった。

 福岡大の武末純一教授は「弥生時代の日本海交流」と題した基調講演で、弥生時代の大規模集落跡の山持(ざんもち)遺跡(出雲市西林木町)から朝鮮北部製の楽浪土器が出土したことについて、
 「倭(わ)国のクニの成立に先進地中国の影響があった。中国漢代の楽浪郡から渡来系の集団が出雲に来た証し」
との仮説を展開した。

 シンポジウム「弥生時代の出雲と朝鮮半島の文化交流を考える」では、川原和人・埋文センター所長が
 「出雲では他地域の土器が数多く出土する。鉄、漆、玉、水銀などの産業を示す遺跡もある。楽浪の人々が住んでいた可能性も出てきた。日本海交流が繁栄をもたらしたのではないか」
と問題提起。金武重・韓国中部考古学研究所長も
 「出雲に楽浪人が居住した可能性が高い」
との考えを示した。

 また武末教授は、荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣について
 「九州では(鋳造に)石の鋳型を用い、近畿では石型から土型に変化する。楽浪は土型だ。荒神谷が石か土かが焦点になる」
と今後の調査、研究への期待を語った。(岡田和彦)

・シンポジウムでは、弥生時代の出雲について議論がされた=出雲市大津町
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101230071.jpg

・楽浪土器。紀元前1世紀から紀元1世紀ごろ、朝鮮半島北部の楽浪郡で作られたとされる
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201101230070.jpg
801日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:23:46
以下>>592の別報・関連記事

■卑弥呼が集めさせた? 骨や種、数万点 奈良・纒向遺跡

朝日新聞 2011年1月21日
http://www.asahi.com/culture/update/0121/OSK201101210108.html

 女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、約10種類の魚や動物の骨、約70種類の植物の種が見つかり、同市教育委員会が21日、発表した。
骨や種は一度に埋められたものとみられている。
古代の遺跡から、まとまってこれほど多様な骨や種が見つかった例はなく、研究者は祭祀(さいし)の供え物が埋められた可能性が高いとみている。

 骨や種が出土したのは、東西約2.2メートル、南北約4.3メートル、深さ約80センチの穴(3世紀中頃)の中からで、2009年11月に見つかった3世紀前半としては全国最大の建物跡の南約5メートルにある。
この穴からは、すでに2千個以上の桃の種や、祭祀に使われたとみられる小さな土器などが出土していた。今回は掘り出した土を洗い流したところ、数万点の骨片や種などが出てきたという。

 主に2、3ミリの小片で、煮炊きしたり、すりつぶしたりするなど調理した形跡は確認できなかったという。

 魚はマダイ、アジ科、サバ科の魚、イワシ類、コイなどと見られる淡水魚の5種類。動物はニホンジカ、イノシシ属(ブタを含む)の動物、ネズミ類、カエル類、カモ科の鳥の5種類。
骨や歯は約1千点にのぼり、8割以上が魚。ネズミ類やカエル類の骨の量はわずかしかなく、自然に混ざったものとみられている。

 植物のうち、栽培されたとみられているのは、イネやアワなどの穀物、桃、ウリ類、ヒョウタン類、アサ、エゴマなど10種類だった。
(つづく)
802日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:25:02
(朝日新聞つづき)

 杉山林継(しげつぐ)・国学院大名誉教授(祭祀考古学)は
 「神への供え物である神饌(しんせん)とみられ、神道祭祀の源流だろう。これだけの種類を集められたのは纒向遺跡に相当な権力者がいた証しではないか」
とみる。(渡義人)

     ◇

 遺物は22日から2月27日まで、同市芝の市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)で展示される。

・纒向遺跡から出土した魚や動物の骨、植物の種など=21日、奈良県桜井市、日吉健吾撮影
http://www.asahicom.jp/culture/update/0121/images/OSK201101210117.jpg

・図版
http://www.asahi.com/culture/update/0121/images/OSK201101210125.jpg
http://www.asahi.com/culture/update/0121/images/OSK201101210124.jpg
http://www.asahi.com/culture/update/0121/images/OSK201101210123.jpg
803日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:57:05
>>592の別報・関連記事

■山海の幸、お供えか 纒向遺跡 骨や種子を大量確認

日本経済新聞 2011/1/21
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C93819695E0E3E2E6E78DE0E3E2E3E0E2E3E39180EAE2E2E2;m=96948D999D9C819A9B9C8D8D8D8D

 邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡を調査中の奈良県桜井市教育委員会は21日、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)付近の穴の土を分析したところ、
タイなどの海水魚やシカなどの獣の骨約千数百点と、コメや麻などの種子約9800点を見つけたと発表した。
人が食べた形跡はなく、祭祀(さいし)の供物とみられる。

 穴では昨年、大量のモモの種が見つかっている。
内陸部の遺跡で、海水魚を含む多種多様の“山海の幸”がまとめて出土するのは異例という。初期ヤマト政権の発祥の地とされる同遺跡が、広域交流の中心だったことを裏付けると共に、古代祭祀の実像を探る重要資料となりそうだ。

 穴があったのは大型建物跡の約4メートル南。タイやイワシ、アジ、サバなどの海水魚、コイ科の淡水魚の骨があった。イノシシやカモの骨も出土。いずれも一部の骨しか無く、投棄時すでに解体されていた可能性がある。

 種子はコメやアワ、アサ、コウゾ、ウリなど。モモの種は最終的に約2800個あったことも確認した。
土壌を花粉分析したところ、モモの花粉を大量に検出。同市教委は「周辺に、祭祀に用いたモモを栽培していた畑が広がっていたのでは」とみている。

 穴では祭祀用の土器や筒型・剣形などの木製品が破砕した状態で大量に見つかっている。出土状況から、1回の祭祀に用いた道具や供物をまとめて捨てたとみられる。
「モモは邪気を払い、不老長寿を招く」とする、古代中国の神仙思想との関連が指摘されている。

 出土品は22日〜2月27日、同市立埋蔵文化財センターで展示される。
(つづく)
804日本@名無史さん:2011/01/31(月) 00:58:04
(日本経済新聞つづき)

 ◆辰巳和弘・同志社大教授「広域支配示す」
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819695E0E3E2E6E48DE0E3E2E3E0E2E3E39180EAE2E2E2;bm=96958A9C93819695E0E3E2E6E78DE0E3E2E3E0E2E3E39180EAE2E2E2

 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話

 神への供物は特別な品。交易で集めたのではなく、各地からの献上品だったはずだ。供物の多様さは支配地域の広さを示す。
古事記や続日本紀に、天皇の支配を表す「食国(おすくに)」という言葉がある。服属する地方からの献上品を食すことが支配者の象徴とする思想だが、その源流が纒向遺跡にあるのではないか。


 ◆纒向遺跡とは
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819695E0E3E2E1848DE0E3E2E3E0E2E3E39180EAE2E2E2;bm=96958A9C93819695E0E3E2E6E78DE0E3E2E3E0E2E3E39180EAE2E2E2

 纒向遺跡

 弥生時代終わりに出現した巨大集落跡。仮面や鳥形などの木製品をはじめ、祭祀に関連する様々な遺物や遺構がみつかっている。
関東から九州まで広域から人と物資が集まった様子を示す土器も多数出土し、全国規模の交流の中心地だったとみられている。
一昨年見つかった大型建物跡は当時、国内最大級。「卑弥呼の居館では」との説も出ている。
805日本@名無史さん:2011/01/31(月) 01:08:27

■纒向遺跡:大量出土の動植物の骨や種 土分析4カ月、貴重な成果−−桜井 /奈良

毎日新聞 2011年1月22日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110122ddlk29040514000c.html

 ◇職員の作業実る−−市教委

 桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の動植物の骨や種。市教委が大型建物跡(3世紀前半)近くの穴「土坑」から持ち帰った土に混じっていたものだ。
この土を昨年9月から4カ月かけて詳細に調べ上げたことが、王の支配地域の広さを示す貴重な成果につながった。【高島博之】

 猛暑が続いた昨年8月。市教委の橋本輝彦係長らは、土坑の下から絶え間なく湧き出す地下水をポンプでくみ出しながら、小さなシャベルで丁寧に土をすくい上げ、遺物が混じってないか確認して土のうに詰める作業を続けていた。

 昨年9月、土坑から祭祀(さいし)に使ったとみられる大量のモモの種が見つかり、橋本さんは他にも供物があるかもしれないと考えた。
土のうは約400袋に上り、職員8人がふるいを使って泥を選別したところ、大量の動物の骨や植物の種子が見つかった。
橋本さんは「纒向遺跡の中心的な場所で行われた祭祀の様相が具体的に描けるようになった。思った以上の成果だ」と喜んだ。

 詳細な分析には、金原正明・奈良教育大教授(考古学)と宮路淳子・奈良女子大准教授(同)が当たった。
見つかった骨の約8割が魚で、そのうち約7割は海の魚。宮路准教授は「県内では弥生時代の唐古・鍵遺跡(田原本町)や縄文時代の橿原遺跡(橿原市)でも海の魚の骨は見つかっているが、今回の多さには驚いた」と話す。

 また、加工された木材ではヒノキが最も多く、金原教授は「ヒノキは加工が難しく、鉄器が普及していない弥生時代は利用されていない。纒向では鉄器を利用できる状況にあったのでは」と指摘する。
806日本@名無史さん:2011/01/31(月) 02:12:07

■木材は敷居と垂木 - 高級材のヒノキ/纒向遺跡

奈良新聞 2011年1月25日
http://www.nara-np.co.jp/20110125094815.html

 邪馬台国の有力候補地とされる桜井市辻の纒向(まきむく)遺跡でモモの種などと一緒に見つかった3世紀中ごろの木材が、建物の敷居や垂木(たるき)であることが、市教育委員会などの調査で分かった。
王宮中枢部にあった建物の一部とみられ、当時では珍しいヒノキが使われていた。一帯の特殊性がさらに強まったと言えそうだ。

 板は長さ約70センチ、幅約20センチ。神戸大学大学院の黒田龍二准教授(日本建築史)が用途を検討し、敷居と結論づけた。柱の形に合わせて丸く加工され、扉の両側に付ける板「方立(ほうだて)」を留めたとみられる2本の溝があった。

 敷居から推定でぎる扉の幅は約30センチと小さく、倉庫の可能性があるという。先端がヘビの頭のように加工された棒状の木製品は軒の垂木と判断した。

 出土した穴の北側では3世紀前半の大型建物跡が見つかっており、大きさの異なる4棟が軸線をそろえて東西に並ぶ。

 黒田准教授は「4棟のいずれかだった可能性が高く、非常に興味深い」と話している。

 材質を分析した金原正明・奈良教育大学教授(環境考古学)によると、当時の纒向遺跡周辺は照葉樹林で、ヒノキは手に入りにくい高級材だった。加工も難しく、「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」と言う。

 同遺跡では、古墳の周濠(しゅうごう)などでもヒノキ製の木製品が出土。市教委の橋本輝彦・文化財係長は「弥生時代に比べてち密な建造物を造る技術が纒向遺跡の時期に確立したのではないか」と話している。


記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】


・扉の敷居と分かった木材
http://www.nara-np.co.jp/photo/ec00df89294d6c680048e38b3d3d0962.jpg

・垂木とみられる棒状の木製品=昨年9月、桜井市辻の纒向遺跡
http://www.nara-np.co.jp/photo/d685647752b8a23e2873550dd3582d40.jpg
807日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:13:21
>>801
>  植物のうち、栽培されたとみられているのは、イネやアワなどの穀物、
> 桃、ウリ類、ヒョウタン類、アサ、エゴマなど10種類だった。

栽培されてないものには何があるんだろう?
またどちらが多いのだろう?

>>806
>  材質を分析した金原正明・奈良教育大学教授(環境考古学)によると、当時の
> 纒向遺跡周辺は照葉樹林で、ヒノキは手に入りにくい高級材だった。加工も難
> しく、「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」と言う。

宮や巨大墓地が想定されている場所で、
効率性を前提に推論を重ねるのはどうかと思う。
効率なんか考えていたら古墳なんか作れない。
頑張りゃw 鉄器なんかなくても加工できる。
808日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:22:09
鉄器がなければ銅器を使えばいいじゃない。

鉄ほどじゃないけど、青銅の硬さはなかなかのものだよ。
809日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:50:36
ホケノでの大量の鉄器副葬から見ても、また京都や淡路島で弥生後期〜末期の鍛冶遺跡が見つかっている以上、
マキムクに鉄が無かったとかの議論は暴論であって。
むしろ、従来言われてたように、弥生後期、畿内で石器が減少するのは、鉄器のある程度の普及に原因があると考えた方がいい。
そりゃまあ、九州と比べたら、まだまだ大和の鉄は過少だろうが。

大和の遺跡で鉄が見つかり難いのは、記紀の石上神宮の記載のように、鉄器がクニで一括管理されている状況を想定すればよい。
鉄製農具の国家一括管理、ってのは、平安の御代まで続いていたようである。
810日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:29:30
鉄製農具そのものを勘違いしている人もいるかも
出土量の多い北部九州にしても、木製の鍬の先端部分に装着するいわば鉄の部品付きの形状で
鉄の板に握り棒がついた後世の鍬はまだ登場していない

つまり鉄器の最も有効な使い方は、木製農具の加工用具であり
鋼鉄のような強度がないため、剣の大きさにすると簡単に折れたり曲がったりするものだった
山口県で出土したものも、刃渡り10センチほどの小刀で、これが当時の実用鉄器としての適正な大きさだったろう
811日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:34:26
>>744
鉄の刀剣は実用武器ではないからね、これは魏にしても
鏃は硬い盾には有効だったかもしれないが、そもそもそんな盾や鎧があったかどうか
しかも高級品である鉄鏃をぽんぽん打ち込んでくれるのだったら
前線のひとりやふたり死んでもお得な貰い物だったろうなあ
今の感覚ならダイヤモンドの鏃を気前よく撃ち出してくれるようなものだろう
812日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:29:31
>>809
どの位あったかは別として、鉄があったのはいいと思うが、
ホケノで「ヒノキを加工する鉄器」が見つかったことはないので、
ヒノキがあったから「鉄器が使える工人集団」は言いすぎでしょう。

鉄鏃、素環頭大刀、鉄刀、鉄剣、U字、へ字くらいでしょ、ホケノは。
連合王権が想定されるのに、武器が多いのはどういう事かも考えないといけない。
倭人伝の「大乱」に安易に結びつけるのではなく。

ヒノキがあるから「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」はひどすぎると思う。
813日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:00:14
北部九州でさえ、鉄器武器は福岡佐賀熊本だけで、
他からはほとんど出てこないからな。

農具は腐るほど出るが。

鉄器武器に関しては、畿内の淡路島のように、それぞれの勢力が
製造と保持を一手に抑えていたのではないだろうか。

農具は一般農民が使うものだから、できるだけ回収して再利用するにせよ、
数が多くなればどうしてもそこらに捨てられるものもある。
814日本@名無史さん:2011/02/01(火) 22:19:38
吉備や畿内、東海の躍進の理由は、その後進性にあるという都出や福永の説が当たっているんじゃないか、と思うのだが。
往々にして、文化先進地域は小国乱立の事態となり、むしろ辺境地域で巨大な王権が立ち現れてくる、というのが歴史法則としてある。
巨大王権、専制国家というのは後発地域で誕生し易い。
文化的隷属関係にあった後進地域での先進地域への反発、対抗する意味での連合化、一人のオウを担ぎ上げ、中央集権化する流れ。

縄文以来の族長社会が続き、階級化が進まなかった吉備や大和、東海だからこそ巨大王権が生まれ得たのではないか。
815日本@名無史さん:2011/02/01(火) 23:39:52
>>814
> 縄文以来の族長社会が続き、階級化が進まなかった吉備や大和、東海だからこそ巨大王権が生まれ得たのではないか。

前半はともかく、巨大王権なんてどうしたら想定できんの?
816日本@名無史さん:2011/02/02(水) 00:58:30
弥生、縄文というのは、西暦元年前後には、殆ど無関係でしょう?
弥生時代の始まりを紀元前10世紀、
農耕自体の始まりを紀元前40世紀くらいまで遡らせるようになった現在においてw
徳川家康の天下統一が、縄文と弥生の対立とは無関係だったようにw
817日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:41:46

■すっぽり雪に覆われた復元建物。積雪は、多ところで10センチ近く積もった=31日午前8時半ごろ、吉野ケ里歴史公園

佐賀新聞 2011年01月31日
http://www.saga-s.co.jp/var/rev1/0131/0191/SP2011013199000030.-.-.CI0002.jpg
818日本@名無史さん:2011/02/02(水) 02:56:50

■唐古と纒向は連動 - 橿考研で邪馬台国講演会

奈良新聞 2011年1月30日 
http://www.nara-np.co.jp/20110130105236.html

 県立橿原考古学研究所のシリーズ企画「菅谷所長と語る!邪馬台国」の第2回は29日、橿原市畝傍町の同研究所で、田原本町教育委員会の藤田三郎・文化財保存課長補佐が「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」と題して語り、
 「唐古と纒向は連動していた」
と、邪馬台国大和説を補強した。

 田原本町の唐古・鍵遺跡は大和における弥生時代の盟主的集落だったとされる。
 「唐古なしに纒向は成立しなかった」
と藤田さん。
武器や鏡などの出土品を挙げて
 「大陸の文化や技術は九州止まりではなく、すでに弥生前期から唐古・鍵遺跡に入ってきている」
と指摘。翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)を納めた褐鉄鉱容器にみられる道教思想を示し、
 「卑弥呼が行った『鬼道』(魏志倭人伝)の素地が唐古・鍵にあった」
と関連付け…


記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】


※橿原考古学研究所所長トーク『菅谷所長と語る!邪馬台国』(PDFファイル)
http://www.kashikoken.jp/event/other/2010/sugaya-talk_yamataikoku.pdf
819日本@名無史さん:2011/02/02(水) 10:30:42
道教思想ってのはどの部分だろう。
容器の文様でも解析されたのかな?

> 翡翠の勾玉を納めた褐鉄鉱容器にみられる道教思想
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/serch/cult/ritu/09-1.htm
820日本@名無史さん:2011/02/02(水) 14:57:24
さすがに意味は無く言ってるだけだと思う。@畿内説
821日本@名無史さん:2011/02/02(水) 18:32:39
>>819
> 道教思想ってのはどの部分だろう。

えっ?
“解説シート(PDF形式/新しいウィンドウ)”をクリックして読むべし。
822日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:30:31
>>821
「唐古・鍵ムラの人が褐鉄鉱の中の粘土を仙藥として使っていた な ら ば、2000年前の弥生時代に中国の神仙思想を
理解していたことになります。」と書いてあるね。

「使っていたならば」という仮定での話だよね。翡翠の勾玉を納めるための容器であった可能性は実際に翡翠の勾玉が中から
出て来たということで納得できるが、褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていたということは全く分からないよね。中国で使
われていたから唐古・鍵でも使われていたとするのは飛躍しすぎだろ。
823日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:46:03
>>822
> 「使っていたならば」という仮定での話だよね。

そうですね。

> 中国で使われていたから唐古・鍵でも使われていたとするのは

だれがそんなこと言ってんの?

で、「翡翠の勾玉を納めた褐鉄鉱容器にみられる道教思想」
というのがなんのことかは理解できたんだろ?
824日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:05:29
>>823
>だれがそんなこと言ってんの?

中国における(褐鉄鉱の中の粘土の)仙薬としての利用の話と結びつけて道教思想と言っているだろ。それは
「 中国で使われていたから唐古・鍵でも使われていた」としてはじめて言えることだろが。つまり 中国で使
われていたから唐古・鍵でも使われていたという文言そのままを言ってはいないが、実質として言っているのと
同じことだ。
825日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:25:48
「禹余粮」なんか道教思想では食物だろ。
褐鉄鉱容器に勾玉が入っていたら食べ物ではなくなる。
あれを道教思想なんて頓珍漢な事を言うやつは馬鹿だ。

勾玉が入っていたんだから何かしら呪術的な意味は持っていたかもしれんが、
中国の道教とは全く関係ない。

判ったかね低脳くん。
826日本@名無史さん:2011/02/03(木) 08:48:13
うん、
褐鉄鉱容器を道教思想と直結させるのは、飛躍しすぎだね。

たとえ、当時畿内に道教思想が浸透していたとしてもだ。
827日本@名無史さん:2011/02/03(木) 22:07:42
いやまあ、畿内説の人にとって、マキムクが大陸の影響を受けてたのは自明の話だし、箸墓が漢尺で設計されてるのもその補強材料になっている。
九州説の人が言う短里説なんて有り得ない話で。
鬼道=道教で、マキムクは画文やら三角縁をレガリアにした道教都市であったということ。
まだまだ議論の積み重ねはいるだろうけど
828日本@名無史さん:2011/02/03(木) 23:11:04
>>825
>中国の道教とは全く関係ない。

それは「褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていなかった」と証明されてはじめて断定できることだろ。

>>824
>唐古・鍵でも使われていた」としてはじめて言えることだろが。

使われていたかどうか不明な段階で
褐鉄鉱容器と道教思想との関連について言及することは別におかしくない。
したがって、

>中国で使われていたから唐古・鍵でも使われていたとする

というのは、一人よがりにすぎない。
自分ででっち上げてそれを否定してみせ、さも間違っているかのように言ってるだけ。
829日本@名無史さん:2011/02/04(金) 09:32:07
>>828
>それは「褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていなかった」と証明されてはじめて断定できることだろ。

それは悪魔の証明といって議論では禁じ手です。
「褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていた」という証明義務が貴方にあります。

「使っていない」と言う論拠が無ければ、使っていたと言ってもいいのなら、
旧石器捏造事件があろうが無かろうが、
旧石器時代に日本に石器人がいたと言っても問題ないことになります。

それでは学問が成立しません。

830日本@名無史さん:2011/02/04(金) 11:38:31
九州説って江戸時代になって突然出てきた話で
しかも、日本の皇室が中国に朝貢するわけがないので、
九州の女酋長の話を書いただけだという話が

朝貢していた九州の女酋長が東遷して日本を支配した話になるというとんでも理論でしょ。
831日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:46:43
このスレはドン来いスレ、卑弥呼スレと比べてまともなのに
邪馬台国と言い出す奴が出てくると突然レベルが下がるな
832日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:30:59
そりゃそうだろ
まともじゃない連中から離れるためにこのスレがあるのだから
そこにまともじゃない連中が入り込んできて、まともじゃない話を持ち込めば、当然レヴェルは下がる
833日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:57:32
>>817
雪に覆われた吉野ケ里か…
なんか幻想的ですらある写真だなw

今更な素人丸出しと笑われるかもしれないがw
昔から素朴に疑問に思っているのは古代人はどうやって暖をとったんだろう?と…

特に高床式の場合足元から寒さが上がってくるような感じじゃなかったんだろうか?
まあ「手あぶり土器」なんてものもあるが高床じゃあ、まさか部屋の中に大きな炉を造る訳にもいかなかっただろうし…

834日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:02:38
夏は高床式はよさそうなんだけどねえ。
冬は竪穴式のほうがいいかもね。

ただ、竪穴式は梅雨に水が地面から滲みでて来そうだ。

季節によって住み替えたりしなかったのかね。
835日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:10:09
東北で積雪2メートルとかなるけど、
竪穴式だと埋もれちゃうじゃん。
どうしてたんだろ?
836日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:29:19
>>835
現在の豪雪地域に「合掌造り」が残っているが
あんな感じで屋根の勾配をきつくとって意外と積雪には強かったんじゃね?www

837日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:44:09
>>829
>証明義務が貴方にあります。

「褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていた」なんて主張はしてませんが?
838日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:11:20
>>829
> 悪魔の証明

「中国の道教とは全く関係ない」と断定する場合には
「褐鉄鉱の中の粘土を仙薬として使っていなかった」事実の立証が必要なのは当然。
839日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:15:54
>>831-2
いやまあ、邪馬台国の話はしたくない、倭人伝に頼らなくても、大和王権の成立は語れるという考古学者は多いみたいですね。
実年代なんて言わずとも、土器編年で十分だと。若手の学者に多い。理化学年代はまだ信用できないという慎重派。
むしろ石野とかの昔の考古学者の方が頭が柔らかい。
邪馬台国ってのは間違いなく三世紀の日本に存在してた訳で、その歴然とした事実から逃げること、倭人伝を無視するのは違うだろうと
840日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:20:45
総体革命されてんだろ
841日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:47:55
>>839
歴然とした事実でも何でもないよ>邪馬台国の「実在」

博多の南方500km、会稽の東に広がるのは、太平洋海底の琉球トラフ。水深2000m近い深海底だ。
邪馬台国は海底帝国だったというのならいさ知らず、まさか>>839もそんな趣旨ではあるまい。

邪馬台国は、何らかの里程操作を行わない限り、地球上の人間の王国として、実在できない存在なんだ。
これは、何らかの年代操作を行わない限り、地球上に実在できない日本書紀の天皇在位と実は全く同じ。
「里程の後付け操作」という、なんともいかがわしい人為操作を行って初めて、邪馬台国は実在できるんだ。
この事実は、畿内対九州の対立の初期段階のほうが、よく自覚されていたように思う。
最近の「実在論者」は、そもそも最初に里程の恣意的操作が立論の大前提であることを、忘れているように思う。

すべての「邪馬台国実在説」は、里程を操作しない限り、この地球上に絶対に成立し得ない。
すべての「神武天皇実在説」が、年代を操作しない限り、この地球上に絶対に成立し得ないのと同じ。
842日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:55:54
馬鹿馬鹿しい。
正史だから間違い無いとかいう倭人伝原理主義者と変わらない言い種。
大月氏の記述とかもまったくの出鱈目なんですか?そうですか。
843日本@名無史さん:2011/02/05(土) 01:00:22
倭人伝の行程距離がおかしいのは、伝聞ミスなどの錯誤、誇張などの作為、前代の書物などから
誤った地理観を持っていた、などいろいろ考えられるだろう。
844日本@名無史さん:2011/02/05(土) 01:14:01
ヤマト王権、マキムク遺跡を語れよw
845日本@名無史さん:2011/02/05(土) 02:18:12

総体革命されてんだろw
846日本@名無史さん:2011/02/05(土) 08:54:33
邪馬台国ありきで話をするとおかしくなる
847日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:08:50
>>841
魏志倭人伝の記述と日本神話を一緒にするなよ・・・
今の天皇は神の子孫だよか、天照大神は実在したとか
本気で思ってる人かよ・・・
848日本@名無史さん:2011/02/05(土) 09:27:54
倭国とは、朝鮮半島南部から九州北部一帯に点在する都市国家群のことだったのではないでしょうか?
この時代、朝鮮とか日本といった国境などなかったのですから、同じ商習慣を有する交易圏としての都市国家連合が国であり、
同じ文化や食習慣、宗教を持ったいわゆる扶余系の「倭人」の住む地域という意味だったのだと思われます。
ツングース系民族の南下でその勢力の中心を朝鮮半島から日本本土に移して行ったのが日本の国の成り立ちで、朝鮮と日本は道祖だったのです。
だから、今の朝鮮半島にも「倭人」の子孫も暮らしていますが、多くはツングース系の民族やジンギスカンの子孫と混血し、
日本人との違いが大きくなってきました。
849日本@名無史さん:2011/02/05(土) 11:53:35
>>847
「天孫降臨」というのは、「王の系譜を初代で打ち止めにする(初代の先祖を基点とする王統を生じさせない)」
神話学上はごく陳腐な手法で、キリスト教の「処女懐胎」と機能的には同じもの。
(キリスト教の場合、ユダヤ教との対立をベースに、イエスをも神にする必要があったから、
親も子も打ち止めにして「天孫一族」の出現可能性を封じた上で、
イエスまでを、三位一体で神にしてしまう(ニケーア公会議の正統解釈)わけだけどね。)

このような、神話学の穏当な解釈を前提とすれば、
初期の天皇の実在性は、邪馬台国の実在性とトントンくらいになる。
初期の天皇の実在が疑わしいのは、
ホモ・サピエンスとして生存不能な長さの在位年代が軒並み記述されているからであって、
天孫が降臨したからではない。
他方、魏志倭人伝には、実際の日本列島の地理上、
この世界における存在が不可能な里程をいくつも重ねることを前提に邪馬台国が記述されている。

邪馬台国というのは、そもそも実在が疑われるレベルの話であることに、このスレの人くらいは気づいて欲しい。
今の考古学者が「ヤマタイコク!ヤマタイコク!」「ヒミコ!「ヒミコ!」と連呼するのは、
これを唱えると、「予算がついて土木工事が止まる」、大変にご利益の大きい「魔法の呪文」だからなんだよ。
850日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:05:18

■特別陳列:埴輪の起源に迫る 原形は吉備の祭祀土器−−5日から橿考研博物館 /奈良

毎日新聞 2011年2月3日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110203ddlk29040547000c.html

 埴輪の起源に迫る特別陳列「埴輪のはじまり−大和の特殊器台とその背景」(毎日新聞大阪本社など後援)が2月5日から、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で始まる。
埴輪の原形とされる吉備(岡山県と広島県の一部)の祭祀土器から、埴輪へと発展していく過程を最新の発掘成果を交えて紹介する。3月21日まで。

 日本書紀(720年成立)は、埴輪の起源を第11代天皇・垂仁天皇の時代としている。
天皇は皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓を造る際、従来のように人々を埋めて殉死させることをやめ、粘土で人や動物などの形象埴輪を作って並べたとされる。

 しかし、各地の発掘調査の成果から、形象埴輪は埴輪の中で最も新しいタイプであることが判明。日本書紀の逸話は創作とみられている。

 弥生時代、吉備の集落で祭祀の供え物を入れていた壺とそれを載せる器台が大型化。弥生時代後半(2世紀後半)に墓の上で行われる葬送儀礼の道具になった。
供え物を載せる機能は完全に失われ、「特殊壺」「特殊器台」と呼ばれる。

 墓に特殊壺と特殊器台を置く例は、吉備以外で東は滋賀県、西は島根県で確認された。
奈良県内では卑弥呼(248年ごろ没)の墓と説もある箸墓古墳(桜井市、3世紀中ごろ)など古いタイプの古墳で見つかっている。

 3世紀後半〜4世紀前半、天理市の大和(おおやまと)古墳群では、特殊器台を簡略化して大量生産できるようにした「円筒埴輪」も並ぶようになった。古墳時代が終わる7世紀まで、さまざまなタイプの埴輪が作られた。

 同展では、吉備で出土した壺と器台、葛本弁天塚古墳(橿原市)の特殊器台と特殊壺の実物、宮内庁が管理する箸墓古墳や西殿塚古墳(天理市)から見つかった特殊器台や円筒埴輪の一部を展示。埴輪がどう変化していったかを紹介している。

   ◇

 2月27日、3月13日の午後1時から、橿考研1階講堂で学芸員らによる研究講座が開かれる。月曜休館(3月21日は開館)。入場料は大人400円、高校大学生300円、小中学生200円。【高島博之】
851日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:16:39
>>850続報

■埴輪のはじまり:430点の資料陳列 きょう開幕−−橿原 /奈良

毎日新聞 2011年2月5日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110205ddlk29040543000c.html

 埴輪(はにわ)の起源に迫る特別陳列「埴輪のはじまり−大和の特殊器台(きだい)とその背景」(毎日新聞大阪本社など後援)が5日、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で始まる。
2世紀後半の祭祀(さいし)用土器から、5世紀の古墳に並んだ埴輪までの変遷を約430点の考古資料で紹介する。3月21日まで。

 埴輪の原形は、弥生時代後期(2世紀後半)に吉備(岡山県と広島県の一部)で供え物を入れるのに使った土器とされ、岡山県倉敷市の上東遺跡から出土した壺(つぼ)とそれを載せる器台を展示している。

 宮内庁が陵墓として管理し、普段は非公開の箸墓古墳(桜井市)や西殿塚古墳(天理市)から採取された初期の埴輪片など約160点も並んでいる。
月曜休館(3月21日は開館)。入場料は大人400円、高校大学生300円、小中学生200円。【高島博之】


※奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
   特別陳列 開催要項(PDFファイル)
◆埴輪のはじまり ‐大和の特殊器台とその背景
http://www.kashikoken.jp/museum/top-koushin/tenrankai/pdf/haniwa.pdf ‐(>>583-585
 
852日本@名無史さん:2011/02/05(土) 21:38:48
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 特別陳列 
 「埴輪のはじまり−大和の特殊器台とその背景」
関連行事 :

◆名古屋講演会

2月6日(日) 13時
愛知大学車道キャンパス (名古屋市東区筒井2丁目10-31)

・徳田 誠志氏 (宮内庁書陵部) 「箸墓古墳と東海の前期古墳」
・岡林 孝作 (当博物館) 「埴輪配列についての一試考」
(発表順)

http://www.kashikoken.jp/museum/top-koushin/tenrankai/pdf/haniwa.pdf
http://www.kashikoken-yushikai.jp/reikai/reikai2010.html
853日本@名無史さん:2011/02/06(日) 13:24:39
丹国、近江(伊勢遺跡等)からの勢力と、
播磨、讃岐、阿波の東瀬戸内の勢力が、人的、物的資源を求めて流入した。
纏向はアウシュビッツを神聖化させたような処。
854日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:47:36
>>850
> 従来のように人々を埋めて殉死させることをやめ、
> 粘土で人や動物などを作って並べたとされる。

が、今で言う「形象埴輪」であると考えるのは早計では?

>  しかし、各地の発掘調査の成果から、形象埴輪は埴輪の中で
> 最も新しいタイプであることが判明。日本書紀の逸話は創作とみられている。

古い時代から後の世に残らない焼いてない粘土人形があったかもしれない。
855日本@名無史さん:2011/02/07(月) 00:52:12
>>854
まあ「無いものを有ると仮定して悪魔の証明を求める」というがすぐ上にあったが
この形象埴輪の問題に関しては、最初期からすでに多種多彩な表現形式が確立しているので
何らかの埴輪以前の同様のデザインの物が存在したと考えてもいいと思う

ただ粘土人形でもいいかもしれないが
木製面などがそのルーツとしてあり、例えるならこれが2D表現で
形象埴輪はその3D化だと見たほうが自然に流れが掴めそうに思う
粘土人形があったとすれば、その3D製品である形象埴輪のプレゼンとして
「こんなん作りますた、使こうてみ」と提示したものかもしれないね
856日本@名無史さん:2011/02/07(月) 01:43:17
日本の伝統的には、わら人形だろうな。
857日本@名無史さん:2011/02/07(月) 02:02:29
古さで言えば縄文時代の土偶があるが、土偶がそのまま古
墳時代の人物埴輪に結び付くかと言うと……まず駄目だな
858日本@名無史さん:2011/02/07(月) 02:12:06
>>850
しかし、日本書紀には殉葬の様子が詳しく書かれている。
これは創作では書けないとだろう。恐らく、当時の人に殉葬の記憶があった
ことは確か。後になくなったとすれば、止めたきっかけというのもあったはず。
それが形象埴輪というのも十分に考えられると思うのだが。
859日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:20:52
形象埴輪の起源は直接中国からだろ。

始皇帝陵とかあるし。
860日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:31:55
そもそも殉死がはっきりしている発掘例がないからねえ。
副葬品のない陪塚がそうじゃないかって言われる程度で。
861日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:17:22
結局のところ、記紀が編纂された8世紀には、すでに埴輪の起源がよく分からなくなってた、ということなんだろう。
倭人伝の卑弥呼の墓の記述を読んだ記紀の編纂者が、適当に空想を膨らましたのか。土師氏の始祖伝承にそういったものがあって、それを取り入れたのか。
どちらにしても、卑弥呼の墓の殉葬百人、てのが本当か?ギからの使者が実際に見たのか?は今のところ不明。
862日本@名無史さん:2011/02/08(火) 03:43:32
垂仁天皇の埴輪の起源のところにこのように書かれている。

治世28年冬10月5日、活目入彦五十狭矛天皇の母の弟の倭彦命が死んだ。
11月2日、倭彦命を身狭(むさ)の桃花鳥坂に葬った。

このとき近習の者を集めて全員を陵の周囲に生き埋めにした。ところが日が
経っても死なず昼夜無きうめく声が聞こえた。しかしついには死んで腐って
いき、犬や鳥が集まってきて食べた。

天皇はこのうめき声に心を痛め群臣に詔していった。

生きているときに奉仕してくれた者を亡者のために殉死させるのは心苦しい。
古い仕来りといっても、良くないことは従わなくともよい。これから後は
殉死を止めるようにしよう。
863日本@名無史さん:2011/02/08(火) 04:38:25

■象鼻山古墳シンポジウムを開催します

養老町 更新日2011年01月24日
http://www.town.yoro.gifu.jp/view.rbz?cd=886

 ◇邪馬台国時代の象鼻山 〜古墳出現の背景を探る〜

 発掘調査から得られた新たな発見をふまえ、邪馬台国時代の象鼻山について、日本の考古学会を代表する講師陣に討論していただきます。象鼻山古墳群が語りだした倭国大乱の時代に、あなたも触れてみませんか。

■日時 2月11日(祝・金)13時〜16時45分(開場12時30分)
■会場 町民会館
※予約不要・参加無料

■講師陣
石野博信氏(香芝市二上山博物館館長・兵庫県立考古博物館館長)
   著書『邪馬台国と古墳』、『古墳時代史』ほか

赤塚次郎氏(愛知県埋蔵文化センター副センター長)
   著書『幻の王国・狗奴国を旅する 卑弥呼に抗った謎の国へ』

宇野隆夫氏(大学共同利用期間法人 国際日本文化研究センター研究部教授)
   著書『東アジアと「半島空間」−山東半島と遼東半島−』、『ユーラシアの古代都市・集落の歴史空間を読む』ほか


※もう少し詳しい案内

■象鼻山古墳群シンポジウムの開催について。(養老町教育委員会)
http://www.tagizou.com/main/news/zoubisinpo.html

※チラシ
http://www.tagizou.com/pdf/100211symposium.pdf
864日本@名無史さん:2011/02/08(火) 07:26:23
>>862の記述みたいに、生き埋めにされた人が何日か生きてるみたいなことが有り得るんかな?
手足を縛って首だけ出してる感じ?もし本当ならかなり悪趣味な殉葬の方法だけど。

>>858がいうようにはリアルには感じられない記述だと思うのだが。

865日本@名無史さん:2011/02/08(火) 09:46:53
丹国系の人に殉葬の伝承があるのが気になりますね。
866日本@名無史さん:2011/02/08(火) 10:02:55
>>864
魏志倭人伝には卑弥呼が死んだときに
生口(奴隷)千人が殺されたと書かれてあるから、
このようなことはあったのだろう。

犬や鳥が集まってきて食べたというから、
完全に土に埋まった状態ではなく、首から上は出ていたのでは?
人間は絶食しても一週間ぐらいは死なないらしい。
867サガミハラハラ:2011/02/08(火) 10:44:11
この殉死の話であるが、本来は殺して(絞殺が多い)から埋葬するものであるが、
この風習は古来からとはいっても大和にはなかったようである。
この時代大和朝廷は九州を配下に入れ、九州邪馬台国の風習や伝承が大和にしられ、一種の九州ブームがおこっていたようである。
それで卑弥呼の葬儀のときのことをしり、そのまねをして、殉死させたようなのである。
ところが聞きかじりであったが故に、生きたまま埋めると勘違いをしてかような悲惨な状況になったものである。
868日本@名無史さん:2011/02/08(火) 13:20:14
>>897

いいかげんな妄想たれながすんじゃねえよ。
869日本@名無史さん:2011/02/08(火) 14:03:22
>>866
卑弥呼のときの殉葬は、「殉葬者奴婢百餘人」とある。
やはり、殉葬されたものが百人ほどいたということになる。
870日本@名無史さん:2011/02/08(火) 14:33:53
>>866さん
>魏志倭人伝には卑弥呼が死んだときに
>生口(奴隷)千人が殺されたと書かれてあるから、

ここは読みに866さんの勝手な解釈が入っていると思われる。「殺された」の部分。

>>869さんが示されたように倭人伝本文では

>「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩■葬者奴碑百餘人」(■=人偏に旬)

であり、「殺す」のような字は入っていない。

お付きの者や家臣たちの自発的な殉死、後追い死であった可能性も、いかほどかは考慮しておく必要があろう。
871日本@名無史さん:2011/02/08(火) 14:49:21
>>870
>866さんの勝手な解釈が入っていると思われる。「殺された」の部分。

というか、>>866はそもそも倭人伝をよく読んでないだろ。w
生口、千人・・・・・ともにデタラメな引用。
872日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:17:08
奴碑が自発的に死んだとは思いにくいな
アステカみたいな生贄文化があったのでは
873日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:42:04
ではなぜ生贄の亡骸が発掘されないのか?
874日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:49:00
殉死はしても、卑弥呼と一緒の墓に入ってないのかも
875日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:21:18
>>870
多分、彼は、「卑弥呼が死んだあと、男王が立ったが、国中不服、相誅殺、
当時千人を殺した」という文章とごっちゃになっているんだろう。
876日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:22:43
>>874
結局そういうことになる。
殉死者が卑弥呼の墓に生きながら埋められたなんてどこにも書いてないし、
実際、弥生や古墳時代の墓に多数の殉死者が埋められたという形跡は見つかっていない。
埴輪の起源も、円筒埴輪には一切触れず、後発の形象埴輪の物語になっているし、
そもそもの埴輪の発生地であるところの吉備ではなく、出雲を起源としているのも考古学的に否定されている。

結論としては垂仁紀は眉唾ということ。

877日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:29:11
>>876
思うのだが、円筒埴輪なんて埴輪に入るのかねえ。
あれは勝手に考古学者が埴輪の名前をつけてしまっただけのような気もする。
用途も違うんだろうし、意味も違うような気がする。
いわゆる形象埴輪こそが本来の埴輪なんだろうと思うが…。
878日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:29:58
そもそも形象埴輪が埋められている例ってあるの?
879日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:32:24
>>877
ここでいう埴輪ってのは学術用語だから仕方ない。
古墳と墳丘墓の違いとかさ。
全て墳丘墓と呼んで、前方後円墳丘墓としてもいいわけだけども。
880日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:20:03
>>877
しかしまあ、形象埴輪がマキムクで見つからない以上、垂仁紀の記述に信憑性がないのは議論を待たないと思うが。

古墳中期以降、葬送儀礼に携わった土師氏が形象埴輪を作り出した。
それが後世、土師氏の子孫たちによって先祖を顕彰する意味合いで、
埴輪起源伝承が生まれたと思われる。
確かに出雲の形象埴輪は、見返り鹿とか見事なんだけど、残念ながらそれはマキムクの頃の話ではない。
881日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:09:56
>>877
いやいや、「埴輪」って字の意味を考えてごらんよ
「埴」は土のことなんで、「土のわっか」てことだよ
古墳マニアなら見たことあるかもしれないけど
墳丘に円筒埴輪が埋まってる状況はまさに「土のわっか」が並んだ状態
「埴輪」という名称の起源は円筒埴輪だと思うよ
882日本@名無史さん:2011/02/09(水) 01:38:34
>>881
漢字伝来数百年前の事象に「(漢)字の意味を考えてごらんよ」って、幾ら何でもそりゃあり得ないwww
皆本当に中国好きなんだねえww

ただ、推論自体はそんなに変わらないけどね。
*pani waの語源分析となるだけの話。niには母音の甲乙は無いので、*panuか*paniかは分からない。
*panai, *pana, *paなどの、土に関連する姉妹語根があるところからみても、
一応、*pan-もしくは*pa-という、「ローム」または「赤土」という意味があると考えられるので問題ないとは思うが。
問題は後半の方。
waについても、本当に「円状に結ばれた形」を指すのかどうか再検討が必要。
語根が短すぎ、しかも母音が単純なので、解析が大変に難しい。


883日本@名無史さん:2011/02/09(水) 02:22:21
日本書紀には「埴輪」の文字が出てくるが、次のように書かれている。

野見宿禰はただちに出雲に使者を出して土部百人を呼んだ。そして埴土で
人や馬やいろいろな物を作らせ天皇に奏上した。
野見宿禰> これからは、この埴輪を生きた人の代わりに陵墓に埋める事を
後世の決まりとしましょう。
天皇> お前の便法はまさに我が意を得たものだ。今から後は陵墓には
必ずこの埴輪を埋めて、人を損なわないようにしよう。

埴輪は最初から人や馬の形をしていたと窺える。しかも、出雲の土部に
作らせたとか。
円筒埴輪の場合は、特殊器台からの発展でこちらは吉備系かな。
884日本@名無史さん:2011/02/09(水) 08:43:28
だから〜、人や馬型の埴輪がマキムクから見つからない以上、垂仁紀の埴輪起源説話は誤りでしょう、
と言ってる訳です。
何とも、会話が噛み合わないな
885日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:35:57
>>883
記紀にどう書いてあるかなんてのは、此処の住人は全て先刻ご承知で
その記述がどうやらかなり間違っているという話なんだよ
垂仁の埴輪起源説そのものが間違いか創作か、あるいは垂仁が治めたのが纏向宮ではないなどね
886日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:30:57
神話学的に穏当に考えれば、次のようなパターンだろうなあ。

1 皇室に、「昔、殉死があったが、廃止された」という伝承があった。
(何時のころ廃止されたかは分からない。そもそもそんなものは無かったのかもしれず、
 皇室が、殉死を要する部族を服従させる必要に迫られたとき、皇室が自らの威光を伝えるため、
 「朕の一族にも古には殉死があった」と言う必要があったのかもしれない。)
2 大和に、兵馬俑など、人の代わりに人形を作って墓に埋める中華帝国の話が伝わっていた。
3 ハニワは、殉死の代わりだという伝承が作られていた(1と2の合成)

4 編纂当時、ハニワといえば土師氏の職分だった
5 土師氏には、「出雲」から製陶技術を持って渡来したという自らの伝承があった(出雲が島根県とは限らない)
6 埴輪ネタとして、土師氏を賞賛するエピソードを日本書紀に書き込みたかった
7 土師氏の氏族伝承の時期は、ちょうど垂仁朝と符合した

1〜7までを合成して、>>883の記述が書かれた。
これなら、纒向から殉死の人骨も形象埴輪も出てこないのは当然。
887日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:00:01
大化の薄墓令でわざわざ殉葬を禁止してるから、古墳時代を通じてそういった習俗はあったんだろう。

埴輪起源伝承で何故、垂仁朝が選ばれたのか?は、垂仁の末裔とされる遊部君が葬送儀礼を管掌したことと関係がありそうだ。
記紀信者は倭人伝信者と同じくらい気持ち悪い
888日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:03:56
>>887
でも、古墳から(埋葬者以外の卑賎の)人骨がゴロゴロ出土って、聞いたことあるかね?
天皇陵とされる古墳以外は自由に発掘可能で
(継体稜のように、比定の誤りから実質的に自由に発掘できる天皇墓さえある)
それでも、殉死の例が目立たないということは、
他の大化の改新関連ネタと同様、大化の薄墓令の内容も、若干疑わしい。
正直、大化の改新に関しては、
前期難波宮が造営されたこと以外、怪しいことだらけでよく分からん。

なお、2段目には同意するよ。垂仁朝のところに埴輪伝承が載ったのは、
いくつかの氏族にとって、ここに載せるのが都合がよかったという政治的判断だろう。
基本的に、神話というのはこうやって解体してゆくものなんだよなあ。
889日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:10:32
江戸時代でもお城建てる時に人柱とかあったんでしょ?
890日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:45:03
大化の改新については語るとスレチになりそうだが、まさに同意
だいたいもう何年も前から「大化の改新」という言葉も内容も、教科書には載っていない
クーデターである乙巳の変はほぼ史実のようだが、あとは難波宮遷都以外は創作というか史実のねじ曲げがあるとの見方が有力なため

なので大化の薄墓令にしても、鵜呑みには出来ないし
それ以前に殉死が常態化していたかどうかも全く不明
とりあえず弥生から古墳期すべてを通じて発掘例はひとつもない、九州にも山陰山陽にも無論畿内にも

ただ倭人伝記述をかなり好意的に捉えたならば
墳墓完成後に別の場所で奴婢などが殉死させられ、別の場所(共同墓地など)に葬られたという解釈は理論的にありえるし
それを魏志が「殉葬」と表現した(あるいは推定伝聞のため、実際の現場は見ていないなど)は考えようと思えば考えられる
しかし物証は一切無いし、もっと蓋然性の高い考え方が存在する
シンプルに「魏志倭人伝が間違えた」というもの
891日本@名無史さん:2011/02/10(木) 05:20:50
>>880
>しかしまあ、形象埴輪がマキムクで見つからない以上、

嘘を書くな。
纏向遺跡から形象埴輪が出土している。報告書も出ている。

おのれの無知を恥じろ。
892日本@名無史さん:2011/02/10(木) 08:27:29
人型じゃなかったら意味ないじゃん
893日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:52:10
つーか、纏向遺跡内にある古墳、箸墓やらはいずれも陵墓比定地のために
宮内庁が立ち入り禁止にしていて発掘調査できないんじゃなかったか?
というか、奈良盆地にある大きな古墳は大概陵墓比定地で
研究者でも立ち入りできない。
894日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:56:09
陵墓比定地も自由に調査できるなら、もっといろんな物が
見つかると思うが。
陵墓比定地が一つもなく、調査できない古墳は一つもない
九州と比べても・・・
895日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:30:40
大化の薄葬令も疑うとになってるのか。
もちろん確認は必要だが、ちょっと見直しブームになりすぎな感じもあるな。
896日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:03:45
>>890
>発掘例はひとつもない
石棺の中に大事に納められた高貴な大王の遺体ですら、
骨が完全な形で出土するのは稀だからなあ。
ましてや、石棺にも収められず、殉死を命じられた奴隷たちが
土壌にむき出しに放置されていたとするなら、
まず確実に遺骨は残らないだろう。

大化の改新の内容が疑われるのは、
もっと後の時代の出来事を先行して書いている可能性が
高いことぐらいだろう。
日本が早くから近代化したことを示したいがためのもので
内容自体が荒稽無塔なわけではないと思うが。

897日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:06:27
>>896
そこはすでに>>890は、低い確率でありえるかもと書いてあると思うのだが。
というか

荒稽無塔(こうけいむとう???)って何だ?

荒唐無稽(こうとうむけい)を勘違いして覚えてたのかな?
898日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:41:41
結局のところ、垂仁紀の、少なくとも埴輪起源の記述は信用出来ない、ってのは分かって貰えたのかな?

神話や伝承はその時代ごとの要請で、いくらでも改変され抹消され得る。悪意はなくても、言葉で伝えていく内に、どんどん現代の要素を取り込んでいってしまう伝言ゲーム。伝承や神話はナマモノなんだよ。

千変万化する伝承を文献に記述するということとは、文献が編纂された時点、まさにその瞬間の伝承を、まるでフリーズドライのように後世に伝えること。
899日本@名無史さん:2011/02/11(金) 02:27:59

■象鼻山古墳群シンポジウム「邪馬台国時代の象鼻山―古墳出現の背景を探る―」

期日:2011年2月11日(金・祝)
時間:13:00〜16:45(開場12:30)
会場:養老町民会館、岐阜県養老郡養老町石畑(駐車場有り)
※ 参加無料・予約不要

【基調報告】
・中島和哉「邪馬台国時代の養老町−象鼻山古墳群と日吉遺跡の調査成果を中心に」

【討論前半】
・石野博信「邪馬台国と象鼻山」
・赤塚次郎「象鼻山が語る狗奴国の風景」
・宇野隆夫「天地思想と象鼻山」 

【討論後半】
・象鼻山古墳群はなぜ造られたのか ・象鼻山古墳群を造った人々は誰なのか  ・象鼻山古墳群はいつ役割を終えたか ・邪馬台国時代とは  ・象鼻山は今後どうあるべきか

 石野博信・宇野隆夫・赤塚次郎・中島和哉

※チラシ
http://www.tagizou.com/pdf/100211symposium.pdf

養老町教育委員会 養老町の歴史文化資源サイト
http://www.tagizou.com/main/news/zoubisinpo.html
900日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:12:09
>>880
> 形象埴輪がマキムクで見つからない以上

必ずしも狹義の「形象埴輪」である必要はないので、この条件は間違い。

>>884
> 垂仁紀の埴輪起源説話は誤りでしょう、

「誤り」とまで、言うことは出来なくて、
考古学上の根拠はない、土師氏に関連して作られた伝承の可能性がある、
とまでしかいうことが出来ない。

あなたは言葉が軽すぎる。
なお私は垂仁紀の記述は信じてません。
901日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:36:40
>>900
形象埴輪の件は書き方が悪かったのは認めるが、

>考古学上の根拠はない
こんなの当たり前のこと、わざわざ断りを入れないとダメなのか?

なんか揚げ足取りされてるだけのような。
902日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:27:24
細かいところはいいのに、
結論のところでつい口が滑ってるのが気になったので書いただけ。
気にしないで。
903日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:24:53

■象鼻山古墳群に専門家ら持論 養老町でシンポ

岐阜新聞 2011年02月12日
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110212/201102120944_12943.shtml

 象鼻山古墳群シンポジウム「邪馬台国時代の象鼻山〜古墳出現の背景を探る〜」が11日、養老郡養老町石畑の町民会館で開かれ、発掘の成果を踏まえて専門家が同古墳群について意見を交わした。

 町教育委員会主催。同古墳群は同町橋爪の象鼻山にあり、70基の墳墓が分布。
調査によると、主に2世紀中ごろ(弥生時代後期)から5世紀後半(古墳時代中期末)に造られ、2世紀中〜後半には大規模な造成も行われていた。他に例がないとして注目されている。

 シンポジウムには400人以上が参加。兵庫県立考古博物館の石野博信館長、愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎副センター長、国際日本文化研究センターの宇野隆夫教授が講師を務めた。

 町教委の中島和哉学芸員が基調報告し、3人が専門分野から同古墳群について考えを述べた。
ディスカッションで赤塚氏は
 「東西の土地柄の境目となるこの場所で、新しい時代を迎えた先祖が結束し新たな決意をした場所では」
とし、かつて邪馬台国と争った狗奴国(くなこく)が濃尾平野にあったとの考えを示した。
地域における古墳群の在り方について宇野氏は
 「遺跡は守るだけではない。活用できる空間にして」
と助言した。

・象鼻山古墳群について考えを述べる専門家=養老郡養老町石畑、町民会館
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110212/201102120944_12943.jpg
904日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:57:24
なんであんなに似てるんだろうね。
前方後円墳と前方後方墳。
905日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:04:39
>>904
> なんであんなに似てるんだろうね。

なんでだろうね?
ちがいは丸か四角かってとこだけだろうね。

弥生時代の墓はもともと方形だったんでしょ?
それが、終わりごろに丸いのが現れた。

なんで丸くしようと思ったのかな?
906日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:27:14
作り易いから
907日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:32:15
>>906
> 作り易いから

それに気がつくまでずいぶんかかったんだな。
908日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:36:46
と言うより
ある意味ブレークスルー的な何か(爆)
909日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:41:57
方形周溝墓や四隅突出と楯築以降の墳丘墓じゃ、埋葬主体の位置付けが違うだろう。
前方後方墳と前代の低墳丘墓の結びつきはないんじゃないのか?
910日本@名無史さん:2011/02/13(日) 11:42:41
>>904
いや両方とも長い年月の中で風化したがゆえに、外見上似ているように見えるだけだよ
実際は>>909の言うように主体が全く違うし、当然それ故に工法も異なる
また後円墳は主体部の階段状部や前方部が築造時期によって大きく変化するのに対し
前方後方墳はおよそ100年の間、ほとんど変化がない
その間は技術的にもどちらが造りやすいというのは基本的にない
むしろ方形なぶん後方墳のほうが楽かもしれない
新築時には、どうみても同じには見えなかっただろう。当時は航空写真なんて無いしね

敢えて似ているというか共通点は、前方部(長突部)を付け足したというところ
ちなみに厳密には、円に円を足したいわば前円後円墳や、円に方を足した前円後方墳と見られるものもある
初期前方後円墳を纏向型と一括りにするのは実は少々危険だということが判明し始めているが
これらの異種から何らかの定型(定番)に統一する嚆矢となったとは見ていいだろう
911日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:52:41
×前方後円墳
○司祭場付円墳

円墳か方墳かというのが重要。
四隅突出型だの前方付きだのというのは派生的なものに過ぎない。
912日本@名無史さん:2011/02/13(日) 13:25:30
すでに繰り返されているが、
法形周溝墓や、出雲の四隅突出墓///東海関東の前方後方墳や近畿由来の前方後円墳は、
まず関係がないというのが一段目だと思う。
特に、出雲の四隅と、東海の前方後方が全く無関係というのが重要で、
「神社祭神名」原理主義者(つまり、東国の出雲神は島根県民(山陰人)の実際の移住を示すと信じる説)以外は、
この点も異論は無いと思われる。

その上で、前方後方と、前方後円の違いの問題になるんだろうなあ。
特に、大和盆地における相互の影響の与え合いは認められるように思う。
(そこに先行する墓がある、それを見ている、ということ自体が、影響の源泉になる)
前方後方は、いわばフォードT型式で、(島根以外)何処のものも何時のものも、同じ形式で大小があるだけ。
でも前方後円は、いわばGMのモデルチェンジ・スタイルで、
時代・集団によりモデルチェンジが行われて、多様な型がある。
913日本@名無史さん:2011/02/13(日) 15:57:43
三輪山周辺というのはどうみても典型的な出雲集落だ。
1.出雲人が集落を造るとき、まず、目印になる円錐形のご神体山を決める。
2.飲料水を確保するため、山裾にある「泉」を探す。出雲は、「泉」なのだ。
3.そして泉を中心に集落を形成する。出雲は、居住み(いすみ)でもある。
4.鬼をの侵入を防ぐため、山頂の岩に鬼の目を刻む。

鳥越憲三郎の言うところの倭族の末裔であるアカ族の村に「鬼の目(ダレ)」という「*」の形を9本の竹で作った呪物がある。
それと同じ米印が三輪山の山頂の石に刻まれているのを見た人はいるだろうか?
出雲とは、長江は四川盆地にあった三星堆文化の流れを汲む稲作集団だろう。
914日本@名無史さん:2011/02/13(日) 16:01:07
>>913

三輪に四隅が作られなかったのは、どうして?
915日本@名無史さん:2011/02/13(日) 16:34:58
>>913
>鳥越憲三郎(笑)
916日本@名無史さん:2011/02/14(月) 13:55:00
ニュース23にでてる奴か
917日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:48:12
廻間SZ01墳丘墓(愛知)と、纏向石塚古墳とどっちが早いんだろうね。

前方部を持つ方墳と円墳は直接的な影響関係にあるのか、
それとも別の共通の祖先があるのか、
それとも祭壇部や陸橋部が別々に、つまり無影響で、前方部に変化した
進化論で言うところの平行進化に相当するものなのか。

918日本@名無史さん:2011/02/14(月) 21:10:56
>>917
> 廻間SZ01

ムっ、オレのメモにはSX-01となっていた。クルマの名前と混同していたのかな?

築造が廻間1式0段階なら(廻間1式は庄内0、1併行だろ)、
こっちのほうが早い?
919日本@名無史さん:2011/02/14(月) 22:38:42
>>915
鳥越の「神々と天皇の間」の葛城王朝とかは流石に電波だとは思うが、
倭族論とかはなかなかいい線いってると思うのだが。
最近の著作読んでる?

倭族の特徴である高床式住居は痕跡が柱だけになるので、タテ穴式に比べて遺跡として見つかり難い。
マキムクで住居跡が見つからないのとも関連はありそう
920日本@名無史さん:2011/02/14(月) 22:42:32
真面目な話しなんだけど、高床式住居の人は竈をどうしてたの?
921日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:09:42
>>919
倭族関連は面白いと思う。

>>920
白川郷の合掌造りと同じですよ。
ただしずっと後の時代まで竪穴式と併存です。
922人豚:2011/02/14(月) 23:38:23
>>920

高床式住居といってもカマドの有る部屋は土間だと思いますよ。
近世になってもそれは変わってないでしょ。
923日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:47:38
>>922

すると、土間が見つからないと居住区とは呼べないわけで・・・
924日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:56:57
そういや、子供の時、両親の実家に土間とかまどあったなあ。
おやじの田舎には、もう使われていない五右衛門風呂まだ残ってるわ。
925日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:59:54
確かに竈問題はあるな。
鳥越がフィールドワークした雲南とかの「倭族」の高床式住居、竈はどんな感じなんか
926日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:12:49
しかし、人が住む以外の建物を作るということは、
余剰な生産力があるということだから、それはそれで注目に値すると思うんだけどね。
建物を建てて利用してた人は、必ず徒歩圏内に住んでたわけだし。
927人豚:2011/02/15(火) 00:55:24
>>923-925

庄内期はまだ裸火炊飯が主流じゃないんですか?
日本でカマド炊飯が主流になるのは古墳前期もかなり進んでからでしょう。
928人豚:2011/02/15(火) 01:00:50
>>925

> 鳥越がフィールドワークした雲南とかの「倭族」の高床式住居、竈はどんな感じなんか

東南アジアの高床住居集落(けっこう奥地の話ですね)の現代でもその調理風景などは、地面に穴掘ったりして屋外で調理してますね。
929日本@名無史さん:2011/02/15(火) 03:15:07

http://blogs.yahoo.co.jp/aichanzw0725/14874456.html
から引用。
(※注 「カマド」の箇所は「炉」と読み替えた方がより適切と思われ……引用者)
------------------------------------------------------------------

日本の学者先生たちは……
高床式の建物の柱跡が見付かると、それはみな倉庫か神殿だと決めつける。
そういう場合もあったとは思う。
しかし私は、もし倉庫や神殿だったとしても、それは倉庫や神殿だけでなく、弥生人の住居でもあったと思うのだ。

日本の学者が高床式建物を倉庫か神殿ときめつける理由は、そこにカマドの跡が残っていないからだという。
日本の学者の多くはカマドは地面に作るものと決めてかかっているらしい。
それを知ったときは笑ってしまった。
高床式の住居の中で煮炊きなどできないという先入観があるのだろう。

しかし、東南アジアで今も高床式の住居に住んでいる人たちを見てくればいい。
彼らは高床式住居の中で上手にカマドを作って煮炊きしている。
そのカマドの跡が残らないのは当たり前なのだ。

…こういうのを書くと、往々にして変なメールが届く。
「素人のくせに何をバカなことを書いているのか!」
「根拠もなしに勝手な説を並べ立てるな!」
「あんたのようなやつはこの世界から消えろ!」
と手厳しい。
考古学や言語学の先生か学生らしき人たちがそういうヒステリックなメールを寄越すのだ。

素人が何をどう考えようと勝手だと私は思う。……
930929:2011/02/15(火) 03:24:13
>>925
>鳥越がフィールドワークした雲南とかの「倭族」の高床式住居、竈はどんな感じなんか

(「竈」ではないが)「炉」だったらこんな感じ

中国雲南省 タイ族
http://members.jcom.home.ne.jp/1314195101/travel/travel1-3/photo3_02.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/1314195101/travel/travel1-3/photo3_04.htm

タイ中北部 カレン族
http://www.monotsukuri.net/chiangmai/karen/karen.html
931929:2011/02/15(火) 03:39:41
※参考(動画)

国指定重要文化財 村上家(富山県南砺波市)
http://www.youtube.com/watch?v=716hjbcfF70&feature=related
(囲炉裏に注目)
932日本@名無史さん:2011/02/15(火) 08:36:43
柱穴を住居跡と判断することは難しく、それに比べてタテ穴は容易、ということなんだろう。
さらにいえば、高床式住居が適しているのは、浸水が多い湿地帯だろうし、そういった場所だと柱穴は余計に残りにくいと
933日本@名無史さん:2011/02/15(火) 22:11:34
竈、炉について…

『考古学の世界』 小林達雄監修 山川出版社 より

>獲物の魚や小動物を手にした男達、竪穴住居の炉辺で待つ母親と子供達。
>住居のほぼ中央に地炉が設けられ、その周りには串刺しの魚が突き刺してある。
>これは博物館や郷土考古館の立体展示で良く目にする光景だが、こうした常識的なスケッチに最近疑問符がつけられるようになった。
>縄文家族の火を用いた調理の場は、住居の内とは別の一画に設けられていたらしいのである。

結局のところ我々は古代人の衣食住に関しても本当のところ良く分っておらず
多分に想像で補っている部分が多いんだなあと実感したw

おなじみ「無人都市論」における根拠は多分

 生活の痕跡が無い=調理場の痕跡がない(竪穴式は中央の炉がそれであるという認識)

…だと思うが何のことはない古代のキッチン事情なんて本当のところ良く分っていないと言うオチwwwwwwwww

934日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:03:16
ん、?
少なくとも吉野ケ里では、普通に炉の跡がありましたが。

畿内の住居跡からは炉は見つからないのか?

暖房と調理に必要なものだと思ってた。
逆に家の中にないと不自然。
935日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:17:58
>>933
煙道が竪穴式住居に見つかってるのに?
高床式はないみたいなんだけども。
936日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:18:05
>>934
竪穴式住居からは、吉野ケ里や畿内など関係なく日本中で確認されているよ
今問題にしているは、高床式と見られる掘っ建て小屋や大型建築物内での炉の話

吉野ケ里でも南北内郭内で炉があったかどうかなんて判らんし
そのまわりにも炉はなかっただろ

だいたい竪穴式内で火を炊くと、火災を起こす危険性大で
事実出火した跡も多数見つかっている
夜中に火をくべるのなら、誰かが寝ずの番をせねばならんし、それは明治時代でも同じだった

ズレまくってて話にならん
937日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:21:05
高床式が住居じゃなくて、ただの倉庫なら、
当然かまどは確認されないでしょうな。
938日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:25:45
なんだかんだ言っても、ある程度の土の厚みは
優秀な断熱材なんだな。

雨季には水が湧くという欠点はあるが。

高床式を作る技術があってもなかなか住居にならないのは
これが原因。
939日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:26:13
>>937
とだとしたら吉野ケ里にしてもあれは神殿でも王宮でもなく
ただの倉庫だってことになるね

何しろまわりすべてを発掘しても、炉はおろか炭や灰の廃棄跡すら見つからなかったから
環濠に捨てた跡すら無いし、わざわざ環濠外に出て捨てに行ったのか?
糞尿は遠慮無くそこらに捨てているのに
940日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:30:33
ん、?
住居の話じゃなかったのか?
いつの間に神殿の話になってんだろう?
941933:2011/02/15(火) 23:30:51
>>934-936

いやだからだな。
その「炉」で調理がされていたかどうか?って話。

先に転記した文章の続きもその炉で暖を取り更に宗教的な意味もあったのではないか?とする意見を載せている。

実際のところ、じゃあその竪穴式住居の中央にあった炉の周辺から調理していた痕跡
例えば炭化した穀物やら魚の骨だのが出ているんだろうか?

あれば後学の為に教えてくれ。

942日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:35:01
住居の中で火を炊き、暖房に使う。
当然出来る範囲で調理にも使うだろう。

調理だけを外に出したい理由は何?
943日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:35:09
>>940
おいおいここは纏向スレだぜ
何で竪穴式の炉の話などせにゃならんのだ
纏向で竪穴式は見つかってないだろ

だからあの掘っ立てや大型建物がもし住居や居館などなら
おそらくそのまわりから炉が見つかるだろうって話だ
その形跡が全くないのなら、倉庫だった可能性も高くなり
また為政の場として昼間だけ使用ってことも考えられるわけだ

ホントに頼むよ
944日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:37:56
>>942
住居でない場合だろう
他所で調理して持ってくるんだよ
その可能性についての言及なのに、さっきからズレまくってるよ
945日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:41:23
なるほど、そのうち調理場跡なんかが発掘されるのかな
946933:2011/02/15(火) 23:41:53
まあ俺が言いたいのは

「竪穴式ですらキッチンは内蔵じゃなくて外付けだった可能性がある」

…って話ねw
つうか中央の炉で調理と言うのは囲炉裏のイメージを引っ張ってないだろうか?w



947日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:45:45
派手な火力が必要な調理とか、牛の丸焼きとかだったら
外でやらざるを得ない。(牛いたっけ?}

でも簡単な調理なら中のかまどや囲炉裏でやってもいいよね。
948日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:45:55
>>941
弥生後期後半では、竪穴式内で「調理」していた可能性は極めて低いと見られている
ただお湯を沸かして暖を取っていた可能性はあるが、あくまでも可能性で物証はない
手焙式土器などが暖房具ではないかという仮説だから

なぜ可能性が低いかというと、後期後半ともなると住居の外に囲炉裏型の炉が一般的に使われるようになるから
逆に竪穴式内の炉は小さなものになってゆ

なお流石に前期中期といえども炭化した穀物やら魚の骨は確認されていない
登呂遺跡なんかのイメージ図にある「竪穴式内で串に差した魚を焼く」なんてのが考えにくくなった理由でもある
949日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:49:09
>>945
正直、住居外に調理場を作るなら、石三つで用が足りるしな。
飯ごう炊さんとかしたことある?
きちんとした竈がなけりゃダメ、っていう考え自体がすでに極論だと思うよ。
950日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:50:37
もう一つ興味深いのは、これが古墳時代に入ると屋内での調理が復活する
おそらく最大の理由は、庄内式という小さな火力で煮炊できる薄い土器が開発されたため
庄内式(あるいは庄内式と同型のもの)が普及する地域で、これは顕著に見られる
畿内大和、河内や北部九州など
951日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:51:31
吉野ケ里では、囲炉裏式ではなくて、住居の壁に沿った、かまど式の炉でした。
その周りに石が積んであったので、煙突も石で作っていたかもしれません。
952日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:53:46
>>949
むしろ、かまどの存在はススや炭の残骸で調べる。
石三つでもね。
953日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:54:20
>>949
いや今まさに問題にしているのは、その石三つで作ったようなキャンプ竈のこと
ある程度の時期は使うはずだから、地中を掘ったり石を組んだりでs,跡には焼土と炭化物が残るだろ
これはまさに飯盒炊爨したことあるなら判ると思うが
2,3日の滞在じゃなく常時そこで生活しているわけなんだから
あちこちに焼土跡があって然るべきなの
954日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:56:24
吉野ヶ里は黒っぽい炭が残ってましたよ。
955日本@名無史さん:2011/02/16(水) 00:00:43
いやまあ普通に考えれば、冬場ならともかく夏の気密性の高い家の中で煮炊きしてたなんていうのは考えにくいと思うのだが。
兼好法師も言ってるように、日本の酷暑はかなりのもんだよ
956日本@名無史さん:2011/02/16(水) 00:06:50

「かまど」

この言葉をみんな勝手な意味で使ってるから議論がかみ合わねえと思うぞ。
石三つのキャンプかまど・・・ってww、それ、考古学のかまどと同じ意味に使っちゃいかんだろ。w
「屋外に石三つで作った簡易火床」ぐらいにしとけよ。

>>943
>纏向で竪穴式は見つかってないだろ

見つかってるよ。
957日本@名無史さん:2011/02/16(水) 00:11:46
しかしまあ屋内に調理場がないと、雨の日は困るわな。
集落内で共同で使う、簡単な屋根を設けた調理場とかはあったのかも。
958941:2011/02/16(水) 00:12:17
>>948

ご教示感謝。

ところで津軽三味線の奏者といえば盲目の人が多いのは
幼少の頃囲炉裏から出る煙で目をやられる事が多かったなんて話を思い出したw

排煙設備ってのも中々大変だったんだろうなwww

959日本@名無史さん:2011/02/17(木) 19:40:46
ところで唐松山の持ちネタの一つ、黒塚古墳の黄幢残骸の話はどう思うかな。
960日本@名無史さん:2011/02/17(木) 19:41:42
おっと、貼り付けを忘れた。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53170552.html
961日本@名無史さん:2011/02/17(木) 20:17:07
それよりも、鳥越の「倭族論」そのものが、すんなり認められていることに驚いてしまった。
俺に言わせれば、倭族論こそ、ちょっと古い説だと思うんだが。

「言語」と「人種」の系統論が、ダブルコンボで、倭族論を完全に否定してしまう。
どちらかだけなら、まだ議論は成立し得るが、
両方が、それも真っ向から否定してしまうと、文化的類似から如何なる意味でも「◯◯族」を導くことは出来ないと思う。
端的に言えば、
「日本語は、江南「倭族」の習俗を伝えるタイ・ガダイ系言語ともビルマ系言語とも、言語的系統が全く異なる」
「日本人のGm遺伝子は、「倭族」の習俗を伝えるいかなる民族とも全く異なる」
この2つが重なってしまう。
特に致命的なのは、文化語彙(鳥越が力説する倭族の習俗そのものを指す語彙)について、
倭族の主力たるタイ系言語と、日本語が全く無関係であること。
日本語の系統論は、魑魅魍魎なんでもありの世界だが、さすがにタイ語(タイ・ガダイ語)と比較する論考は見たことがない。

これは、いわゆる「照葉樹林文化論」に対する、一つの重大な警告だろうと思う。
照葉樹林文化なるものは、単一のエスニックグループが伝えるものではなく、
気候風土の一致により、重層的に伝播・淘汰・定着した、一定の習俗の集合体ということで、
人種とも言語とも関係がなく、従ってエスニシティとは関係がない、ということなんだろう。
962日本@名無史さん:2011/02/18(金) 02:51:27
>>948
カマドが竪穴式の壁に埋もれ外に出ていくのは古墳時代も中期以降だろ。
全般的に無駄な断定が多いよ。
963日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:47:08
>>904
前方後円墳の最初期の土器の分布でも確認できるように、
やはり東海とはかなり濃い関係にあったんだと思う。

倭人伝の邪馬台国と狗那国との争いに引っ張らえて、
犬猿の仲だったように考えるからおかしくなるだけで。

少なくとも古墳時代前記の間は
伊勢と密なつながりがあったのではないか。

964日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:14:32
>>963
意外にも、東海の前方後方墳のほうが、その発生が完全に自生的であることが証明されていて、
畿内の前方後円墳のほうが、ミッシングリンクが残るんだったんじゃなかったかな?
時間軸さえ立証されれば、「東海影響説」の存立の余地は有り得そうだね。
(俺は、個人的には途中まで並行進化だと思うけれど…)

少なくとも、伊勢平野(から濃尾平野)と大和盆地は、明らかに密接な関係を結んでおり、
かつそれは明らかに友好的だったと思われる。
あの倭人伝以外のどんな考古学的資料も、濃尾伊勢が畿内と敵対していたなどという証拠は出てこない。
965日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:08:43
>>961
倭族仮説はすでに否定されてるんですね。勉強になりました。

ただ、雲南起源は流石にないとしても、長江中流域で誕生したであろう水稲栽培、青銅祭器、刺青の文化が、
長江下流域→山東半島→朝鮮半島を経由して日本にもたらされ、弥生文化となった、
てのは今日有力な考古学の説ですよね。

倭人も呉の太伯の子孫を自称してるし、恐らくは呉や越の影響を強く受けた、極めて近しい文化スタイルだったと思う。
言語や人種は違ったとしても。
966日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:28:01
>>963-964
東海と畿内は弥生後期、同じ銅鐸文化圏なんだよね。
最近は北部九州や出雲でも銅鐸が見つかって、銅鐸文化圏を否定する輩が多いけど。

弥生後期二百年を通じて起こったことは、要は首長権力の高まり。
遠隔地交易が盛んになり、クニ同士の交流、対立が激しくなった。地域間競争を勝ち抜くため、利益共同体である近しいクニグニが連合化していく流れ。
連合化するにあたって、共通の祭器や葬送儀礼をもつようになり、
それが出雲の四隅突出型墳丘墓であり、筑紫の広型銅矛、吉備の特殊器台。
畿内東海は見る銅鐸だったということ。
967日本@名無史さん:2011/02/19(土) 01:37:02
>>966
>銅鐸文化圏を否定する輩が多いけど。

「圏」と言う概念は今も生きているんじゃないの?

ただそれに”中心”があってそこから四方に伸びている…ようなイメージが否定されてるんであって。
968日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:03:23
日本製テレビは世界中に行き渡り、日本製自動車世界中を走りまわり、日本製カラオケセットで世界中のうたが歌われている。
特にカラオケセットは宗教儀式になくてはならない神器の一つであり、世界の宗教は日本から広まったと言えましょう。
969日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:33:33
>>965
素人ですまないが
水稲に関しては長江下流から島伝いに直接というのが今は主流ではないかと
刺青に関しても縄文土器にその痕跡がある以上渡来文化じゃないのでは?
970日本@名無史さん:2011/02/19(土) 11:21:32
>>969
島伝いってのが主流なの?
朝鮮半島を経由しないっていう意味?
971日本@名無史さん:2011/02/19(土) 11:31:34
>>969
半島ルートと南方ルートの両方があり、主に西日本の日本海沿いの縄文集落で
自然交配に近い形で日本独自の種が生まれ、寒冷地にも対応できるようになったというのが
今の主流の説じゃなかったかな
要するに、どっちからも来たと
972日本@名無史さん:2011/02/19(土) 11:53:43
台湾で稲作がいつから始まったか、わかってないの?

台湾で稲作が始まれば、沖縄〜南九州まで伝わるのに50年はかからんだろ。
973日本@名無史さん:2011/02/19(土) 12:41:14
板付の、朝鮮半島に類似した磨製石器や石庖丁など、稲作が半島経由なのは動かせないと思うが
974日本@名無史さん:2011/02/19(土) 12:42:50
筑前板付に渡来した「狭義の弥生稲作」は、北方経由でFAだったんじゃないか?
遺物の系譜からみて、完全な北方経由(北部朝鮮経由)だったと思われる。

だが、稲と稲作の渡来は、明らかに1回限りではなかったということが重要で、
板付に弥生稲作が渡来した当時、すでに別ルートによる「縄文稲作」が九州には定着していたし、
その後、別ルートによる農耕文化とイネ品種の渡来があったことも確実。

想像力を逞しくするなら、おそらく次のような経過を辿ったのだろう。

1 熱帯ジャポニカが南回りで渡来した(縄文稲作)。西南日本は気候ギリギリで、粗放農業にとどまった。
2 北部朝鮮から、弥生稲作(狭義)が渡来した。寒冷地適応した稲作で、見た目のスペックは優秀だったが、
 高温多雨の西南日本の気候とは必ずしも適合せず、1と長い時間をかけて混交した。
3 古墳時代になってから、本格的に江南の稲作文化が渡来した。一番気候が適合していて応用は容易だった。
 しかし、1&2で文化のベースは出来ているので、文化の上書きとなっている。

倭族論というのは、おそらく3の共通性だと思われる。だから、1または2さらには0(純正縄文)をベースとする
人種や言語が全然一致しない。
975日本@名無史さん:2011/02/19(土) 12:51:38
>>967
いや、広形銅矛は中心があって配布された、とされてるし、威信材、レガリアとして機能してたのだろう。
見る銅鐸も、それまでのまちまちな聞く銅鐸とは違い、デザインが画一的で、原料が同じなため、
一括生産、一括配布が想定されている。

同じ威信材を共有することで、各地の都市国家連合は結束を固めた。暴力団の大紋みたいなもの。
976日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:27:55
>>963
> 前方後円墳の最初期の土器の分布でも確認できるように、

kwskプリーズ。
伊勢湾周辺地域からの土器の移動のことですか?
977日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:29:54
>>964
> 東海の前方後方墳のほうが、その発生が完全に自生的であることが証明されていて、

ソース,プリーズ。
978日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:36:51
>>975
> 一括生産、一括配布が想定されている。

これもソースを知りたい。福永?
979日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:38:01
伊賀、伊勢、美濃の前方後円墳は新羅の古墳そのもの。
壬申の乱は大海人皇子を担いでの新羅派によるクーデターだったのだ。
新羅からの渡来人は東海地方を支配していたし、畿内を支配していた百済系王朝とは古墳時代から敵対関係にあった。
980日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:02:38
>>975
広形銅矛も“見る銅鐸”も、決して威信財、レガリアなんかではない。
あなたは学術用語に対する理解が足りていない。
981日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:03:57
>>977

つ【廻間SZ-01】

専門板だからこれで十分だろう。既出だけどね。
982日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:33:36
>>980
違うと言い切られても、その根拠書いてよ。
例えば、後世の三種の神器はどう?
983日本@名無史さん:2011/02/19(土) 15:10:57

王位継承の儀式とレガリア

神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承の儀式である。
王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀を含んだ儀礼として劇化される。
それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有しており、
人としての死あるいは一定期間の隔離や隠遁、次いで王権のレガリアを身につけた王としての再生、そしてそれを公衆に披露するという一連の儀式として行なわれることが多い。
その意味から、王権の永続性は王のレガリアによって象徴されることが多いといえる。

 ヨーロッパの王権に見られる王冠・王笏・宝珠、
 西アフリカのアシャンティ王国の「黄金の玉座」、
 日本の天皇制における「三種の神器」、
 中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽、
 セイロン島(スリランカ)における仏歯

などはいずれもレガリアとみなされる。

東アフリカのバントゥー族系の諸王国では王権のレガリアは太鼓であった。
また、『アーサー王物語』ではエクスカリバーと称するレガリアが登場する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9#.E7.8E.8B.E4.BD.8D.E7.B6.99.E6.89.BF.E3.81.AE.E5.84.80.E5.BC.8F.E3.81.A8.E3.83.AC.E3.82.AC.E3.83.AA.E3.82.A2
984日本@名無史さん:2011/02/19(土) 16:47:04
確かにレガリアは言い過ぎ。首長権力の増大とリンクはしてると思うが。
一括生産、周辺に配布されてる状況から、威信財と見做して良いと思う。
まあ、仮説だけど。
985日本@名無史さん:2011/02/19(土) 17:10:27
まあ埋めちゃったらレガリアじゃないよなwwwwwwwww
986日本@名無史さん:2011/02/19(土) 17:17:52
いや、銅鐸とか銅矛などの青銅祭器が否定されただけの話。
987日本@名無史さん:2011/02/19(土) 17:25:32
>>985
叩き割るのは?
988日本@名無史さん:2011/02/19(土) 17:50:00
最初は「祭器」という解釈だったのが、
「じゃあ、どんな神をどんなふうに祀っていたのか?」と問われて答えに窮し、
「これは世俗の威信財」であると言い換えるようになり、
さらに暴走して「地方の首長に配布されたレガリアである(すでに主述が矛盾している。配布するレガリアなんてイミフ)」
となってしまったわけで、
結局のところは、コジツケに過ぎたということに尽きる。

「同じタイプの金属器をコミュニティーで共有する地帯」

という、考古学上否定出来ないところまで撤退すればいいんじゃないのかね。
これだけで、文化圏と交流の事実は、それなりに説明できる。
989日本@名無史さん:2011/02/19(土) 18:21:40
上位の国から与えられる場合があるんじゃないか?>レガリア
金印や璧などは?
要は稀少性の問題で、誰でも作れたり入手出来てはいけないだけ。
990日本@名無史さん:2011/02/19(土) 18:27:13
>>989
どうなんだろうね?
仮にそのアイテムを継承しても権威はその「上位の国」の信任があってこそだろうし・・・
991日本@名無史さん:2011/02/19(土) 21:24:24.57
 昔から、身分を表すために特別な人や機関などから贈られる品物があります。
例えば、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の皇帝から贈られた金印がそうで、与えられた人の身分を表します。
このような品物は、簡単に複製ができないように高価な材料を使って、凝ったデザインに仕上げられています。
社会学や考古学の研究者は、このような品物を「威信財」と呼んでいて、古墳などの古い墓を調査していると、思いがけずこのような威信財を発見することがあります。
(以下略)
http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/bunkazai/bunkazai01.htm
992日本@名無史さん:2011/02/19(土) 21:34:13.32

威信財

 威信財とは本質的に社会の「外部」からもたらされるものである。
その理由は権力の源泉が「外部」に存在すると信じられているからであり、そのような神話における王権外来起源説は、オセアニア、インド=ヨーロッパ、アフリカを通じて広く分布している。

 フィジーの「外来王」神話では、共同体の外部である海の彼方からやってきた若者が、島に住む老人の娘と結婚し、代わりに「鯨の歯」を老人に与え、島の首長として即位するというモチーフが語られる。
この神話では、外来の首長と在地の共同体との間で「威信財」と「女性」が非対称に交換され、共同体の支配権が首長に委譲されるという構造が描かれている。
すなわち権力の源泉は共同体の「外部」にあり、それは「異界」「天国」「祖先の地」として観念的に理解されている。
そのため首長は、長距離交易によって威信財を獲得し、それを共同体の内部に分配することで、共同体の「内部」と「外部」を往還し、神話を「再演」することによって権力の再生産をおこなう。

 ここでは「男・女」「海・陸」「外部・内部」「首長・在地民」といった二項対立がみられる。これは時にトンガの王権のように「聖・俗」二重王権の形を示すこともある。
そのように顕著な形でなくとも、威信財が重要な役割を果たす社会では、多かれ少なかれ政体は二重的な構造を示す傾向にある。
なぜなら、「内部」は権力起源を「外部」に依存し、逆に「外部」は権力の承認を「内部」に依存せざるを得ないからである。
そして首長は「内部」と「外部」の間に位置する「境界人」であり「異人」としての役割を果たす。
しかし周縁はどこまでいっても周縁であり、「外部」ではない。したがって首長は、自らの権力の源泉を「外部」に求め続ける限り、自身が権力の源泉にはなりえないというジレンマを抱えている。
そのため、威信財システムから「脱却」することによってこそ、首長は権力の源泉を自身に取り込むことができると考えられる。(石村 智)

http://blog.goo.ne.jp/archae-graphy/e/8a450d93c65942eaccdc5bff165a6c9f
993日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:18:08.80
>>992
その通り、威信財はちゃんと「外から」来ないとダメなのさ。
そうしないと、神話学でいうゼロ・パラダイム(概念系譜の始点)を作れないので、
首長の系譜的権力にとって何の足しにもならず、
いくら高価そうなものでも、威信財にならない。
隣のムラに配っている銅鐸といったようなレベルでは、首長の威信もへったくれもないんだよ。
994日本@名無史さん:2011/02/20(日) 00:12:27.16

■弥生期山城に定住!? 高地性集落四国最大級

読売新聞 2011年2月18日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20110217-OYT8T00981.htm

いの・バーガ森北斜面遺跡

 いの町是友の丘陵地で見つかった弥生時代中期末(1世紀前半〜2世紀)の「バーガ森北斜面遺跡」で、
新たに竪穴建物跡6棟や周囲に巡らした柵跡などが出土し、高地性集落としては四国最大規模となることが分かったと、県埋蔵文化財センターが17日、発表した。
急斜面の上に築かれた高地性集落は、有事の際に立てこもる軍事的な〈山城〉だったというのが通説だが、今回は武器とともに、煮炊きの炉や斧(おの)など生活遺物も見つかっており、同センターは
 「集落間の争いが絶えず、平野に住めなくなった人々が恒常的に住み始めたのではないか」
としている。(大舘司)

 同遺跡は仁淀川支流の宇治川左岸の標高約40〜80メートルに広がり、1957年に見つかって以来、県教委などが断続的に調査してきた。
これまで竪穴建物跡は4棟だったが、昨年5月以降の調査で、標高42〜58メートルに建物跡6棟と柵などの柱穴314基が出土。
集落の範囲が東西450メートル、南北300メートル、13万5000平方メートルあることが分かった。四国の高地性集落では最大級の紫雲出山(しうでやま)遺跡(香川県)などに匹敵するという。

(つづく)
995日本@名無史さん:2011/02/20(日) 00:15:14.16
(バーガ森北斜面遺跡 つづき)

 斜度約40度ある急斜面が、4段に造成され、4棟の竪穴建物跡が出土。
1区画は奥行き約5メートル、幅約20メートルあり、のろしを上げるための炉、石や鉄の矢尻、敵に投げるため丸く加工した石「投弾(とうだん)」などが見つかった。
同時に、煮炊き用とみられる炉や約1万点の土器片が出土し、日常的に人々が生活していたことが分かった。
農具とみられる鉄斧(てっぷ)も見つかった。尾根上の竪穴建物跡では、砥石(といし)や石材などが見つかり、工房とみられる。

 鉄の生産技術は弥生時代中期に大陸から伝わったとされるが、鉄斧は国産品の形で、近くに鉄製品を作る工房があった可能性も出てきた。
土器の9割は四国南部特有のへらで装飾したものだったが、瀬戸内地方の甕(かめ)などもあり、他地域との交流をうかがわせた。

 同センターの吉成承三・調査第2班長は「仁淀川流域を代表する集落と言える。東の山には同時期の朝倉遺跡(高知市)などがあり、山伝いに集落が広がっていったことが考えられる」と話した。

 現地説明会は19日午後1時半〜3時(小雨決行)。

 【高地性集落】 見晴らしが良く、稲作に不向きな山や丘陵に築かれた集落。のろし台、矢尻などが出土し、厳重な堀を備えた例もあり、軍事施設とみられてきた。弥生時代中期以降、畿内や瀬戸内海沿岸に多い。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀の日本で「倭国大乱」があったと記され、争いに備えるために造られたとされている。
ただ近年、会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県)のように住居跡が出土する例もあり、臨時の軍事拠点というよりも、人々が日常的に生活していたことが分かってきた。

・急斜面に築かれ、生活で使われた土器などが見つかったバーガ森北斜面遺跡
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20110217-377893-1-N.jpg

・国産とみられる鉄斧
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20110217-377903-1-N.jpg
996日本@名無史さん:2011/02/20(日) 02:00:27.95

■高松山山頂に遺跡か、県教委と厚木市教委が現地視察/厚木

神奈川新聞 2011年2月17日
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1102170038/

 厚木市愛名の高松山山頂で17日、県教委と厚木市教委の職員5人が遺跡100+ 件の有無を確認するため、歴史考古の研究会「歴史古街道団」(宮田太郎団長)や地元住民ら23人とともに現地を視察した。

 山頂で、宮田団長は職員に高松山で採取したという土器片を見せながら、「発掘調査をしないとわからないが、かつて遺跡100+ 件のあったことは間違いない」と話した。
斜面を指さしながら、形状は逗子市、葉山町の長柄・桜山2号墳などに似ていると解説した。

 歴史古街道団は2000年前後に、高松山山頂で前方後円墳らしき、急斜面を発見。09年5月には独自に測量を実施し、4世紀中ごろの古墳の可能性もあることがわかったという。

 昨年11月には県、厚木市職員が現地踏査した。だが、この時点では土器片は見つからなかったという。
今回の現地視察を踏まえ、市教委は「斜面や山道周辺を含めて、再び踏査する」と話している。本格的な調査に乗り出すかは現段階では決まっていないという。


・高松山で採取したという土器片を職員に見せる歴史古街道団のメンバー=厚木市愛名
http://news.kanaloco.jp/common/user/news/photo/1/110217/7_200527.jpeg


※参考

長柄桜山古墳群 (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A1%9C%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

国指定史跡 長柄(ながえ)桜山(さくらやま)古墳群 (逗子市)
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syakyou/new%20bunkazai/kofun/kofun.htm
997日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:17:47.86

■巨大「卑弥呼」 博多駅に啓示!?

西日本新聞 2011年2月18日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/227377

 3月12日に九州新幹線鹿児島ルートが全線開通するJR博多駅の在来線中央改札に18日、高さ1・8メートル、重さ約100キロの巨大な博多人形「卑弥呼(ひみこ)」が設置され、除幕式があった。

 博多人形商工業協同組合(武吉国明理事長)が新幹線全通を迎える博多駅の新たなシンボルにしてもらおうと、博多人形師の川崎幸子さん(67)=福岡市中央区=に依頼し、約1年かけて制作。

 卑弥呼は左手に剣、右手に鏡を持ち、神の啓示を受けている神秘的な場面をイメージした。

 JR九州の唐池恒二社長や武吉理事長ら関係者8人がガラスケースに入った卑弥呼を除幕。川崎さんは「博多駅を訪れる多くの人に見てもらい、卑弥呼のイメージを膨らませてほしい」と話していた。

・JR博多駅の中央改札口に展示された大きな博多人形・卑弥呼。右は人形師の川崎幸子さん=18日午前10時20分すぎ
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20110218/201102180017_000.jpg
998日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:24:22.20
>>997

ただいまこちらで議論中
(ニュース速報+板)

【福岡】巨大「卑弥呼」博多駅に現る
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1298010287/
999日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:50:13.83

■皆さん 桜井市マスコットキャラクター
       《ひみこちゃん》の誕生日をご存知ですか?

桜井市サイト(更新:2011/2/15)
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/sityou_p.html

 わたしの誕生日は、2月22日 です!(年齢は永遠の12歳)
 昨年6月に、皆さんへのお披露目以降、市内外で桜井市のPR活動に全力で取り組んでおります。
 これからも「きらりと光る さくらい」のPR活動にがんばりますので、みなさん応援よろしくお願いします。

(今までの主な活動)

2010.6 歴史観光フォーラム
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/photo/sityou125.jpg

2010.11 ウォーキングフェスティバル
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/photo/sityou126.jpg

2011.1 消防出初式
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/photo/sityou127.jpg


桜井市マスコットキャラクター
  《ひみこちゃん》
http://www.city.sakurai.nara.jp/sityou_p/photo/sityou128.jpg
1000日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:52:19.74
次スレ

【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その14
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1298138479/
10011001
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