官位について語るスレ

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1日本@名無史さん
落ちたままだったので立てました


前スレ

武家の官位について語れ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1191035900/

とにかく官位について語るスレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1211206280/
2日本@名無史さん:2010/09/29(水) 15:14:45
>>1様、わたくし惟宗を本姓としております者でこざいます。
いまだ無位無官の身ですので、ぜひ官位を授かりたくお願いします。
3日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:27:47
すみません
そういうスレじゃないですw
4源家政:2010/09/29(水) 22:23:52
ああ、今日もほのぼのと庭を眺めるだけでおじゃるか
麿も地下公家からぬけだして堂上官に上がりたいのう
5日本@名無史さん:2010/09/29(水) 23:16:54
では椎でも拾えば?
6日本@名無史さん:2010/09/30(木) 02:38:20
>>2
口宣案

 惟宗朝臣某
   宜叙従五位下
7日本@名無史さん:2010/09/30(木) 02:41:11
>>6
上卿 >>1
8日本@名無史さん:2010/09/30(木) 02:58:42
惟宗と言えば検非違使だな
検非違使は職事の直支配だっけ?
職事弁官の屋敷に行けば検非違使宣旨もらえるんじゃない?
9日本@名無史さん:2010/09/30(木) 21:08:41
>>6様、わたくし本姓定かならざるも、女系で蒲生氏郷を祖先にもっております。
わけあって帰農し百姓の身分にありましたが、このたび官位をいただきたく参じた次第です。
よろしくお願いします。
10日本@名無史さん:2010/10/01(金) 02:13:06
官位をあげるスレじゃなくて官位について語るスレなんだが
11記憶喪失した男:2010/10/01(金) 18:00:27 BE:2658989186-2BP(791)

官位っていっても、
正一位とってるの、藤原氏と足利氏と徳川氏だけじゃん、ほとんど。
水戸黄門が正一位なのと、勝海舟が二位なこと以外、語ることないんじゃない?
12日本@名無史さん:2010/10/01(金) 19:41:04
慶長十六年、二条城で顔を合わせた北の政所と徳川家康と豊臣秀頼

どういう席順だったのだろう?
13日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:46:51
>>12
上座に北政所が座り、対等の礼を執る家康と秀頼を取り持った・・・・とか
想像ですけど
14日本@名無史さん:2010/10/04(月) 21:15:45
>>9

口 宣案

上卿 目野中納言

平成二十二年十月四日 宣旨

 藤原朝臣某

   宣叙従五位下

   蔵人右中弁兼右衛門権佐中宮大進藤原愛良
                               奉
15日本@名無史さん:2010/10/05(火) 01:09:56
>>14
すみません、薄墨紙がなくなちゃったもんで
ちょっとコンビニに行って買ってきますんで
今しばらくお待ちを

    ―-外記局
16日本@名無史さん:2010/10/06(水) 23:46:52
准大臣は官職でおK?
17日本@名無史さん:2010/10/07(木) 10:49:27
即決の官だから立派な官
18日本@名無史さん:2010/10/07(木) 12:23:35
>>17
そんなに早く決まっちゃう官なのか!
19日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:15:23
適任者がいれば即ち決するということか
20日本@名無史さん:2010/10/09(土) 23:50:39
のちの従二位准大臣、一橋民部卿治済が謀略には、とうとう田沼主殿頭どのの知略をもっても、防ぐこと能わず。
21日本@名無史さん:2010/10/10(日) 01:16:43
wiki に源方子が生前正一位ってあるけど本当なの?
22日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:04:02
wikiってどこのwikiだよ?
23日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:05:06
市議会議員になれば、官位が賜れるんじゃないの?
市議会議員で正八位でしょう。
官位を受けたいのであれば選挙にでましょう。
24日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:05:51
学校の校長は従五位上下な。
25日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:07:48
公職につきたくなければ、スポーツの一流監督になるしかねえなあ。
26日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:36:23
死後贈位じゃん。墓石に彫ってもらおか。
27日本@名無史さん:2010/10/10(日) 22:43:04
無位無官の原田大二郎
28日本@名無史さん:2010/10/11(月) 09:56:35
准大臣は大臣に准ずる待遇って意味で、官職ではないですよ。
大概は大納言の特別待遇。
江戸時代だと特定の家筋でないとなれなかったらしい。
29日本@名無史さん:2010/10/11(月) 13:08:08
准納言
30日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:31:11
准常任幹部会委員
31日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:41:25
宮様は大臣より下なの?
32日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:14:26
>>30
そ、それは・・・・
33日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:52:49
准って半端でやだね。

准尉、准将、准教授
34日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:33:21
准急
35日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:35:12
社会主義国では 「政治局員『候補』」 という肩書きがある。
36日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:35:42
プリマコフ最高会議幹部会委員候補、中央委員候補
37日本@名無史さん:2010/10/12(火) 01:23:10
プリさんも大変だなぁ
38日本@名無史さん:2010/10/12(火) 04:04:52
>>33

中二階みたいな感じが逆にかっこいい。
39日本@名無史さん:2010/10/12(火) 08:45:21
>>31
奈良時代から平安初期あたりは親王は無品でも大臣と席次では同格以上だったみたい。
江戸時代、少なくとも幕末時点では、大臣>親王。
まあ律令制度の親王はすべてが皇子だけど、江戸時代の親王なんてものは、
本来なら皇族に該当しないめちゃくちゃ遠い親戚がほとんどだし。
40日本@名無史さん:2010/10/12(火) 09:47:22
世襲宮家の話ですかい?
41日本@名無史さん:2010/10/12(火) 13:27:10
党常任幹部会委員に関するスレッド
42日本@名無史さん:2010/10/12(火) 15:01:31
宮様は伝統的に政治的発言力はあまりないはず。
43日本@名無史さん:2010/10/12(火) 20:14:37
年若い天皇を軽んじて差し偉そうに出口、ところが叱責されて青い顔した
伏見元帥宮なぞ例外中の例外というわけ
44日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:30:48
>>43
伏見元帥宮は二人いるが
45日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:36:31
最近のニュース

> 政府は8日午前の閣議で、9月14日に死去した山口信夫前日本商工会議所会頭を
> 正三位に叙することを決めた。
> 山口氏は生前、旭日大綬章を受けている。
>
> 時事通信(2010/10/08-11:09)
> http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010100800293


正三位没後追贈って長宗我部元親や松平定信と同じなんだけど、旭化成の会長ふぜいが
有名な戦国大名や歴史に残る改革をした幕府の老中と同格って違和感あるなー
46日本@名無史さん:2010/10/15(金) 02:58:27
ゲームの知識で語ってる低能がいるな
ここはおまえの来るところじゃないよ
47日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:46:42
国家公務員だと、本省課長(政令職) を5年位やれば
従四位勲四等が相場だから、安売りの感は否めないね。
48日本@名無史さん:2010/10/24(日) 17:13:24
豊臣秀吉が関白宣下を受けたときの勅書の文言
誰か知りませんか。宣旨はわかるのだが。
49日本@名無史さん:2010/10/24(日) 17:28:51
死後の贈位なんて、本人はわからないんだから、嬉しくも何ともない。
遺族にしても、そのときは名誉に思っても、そのとき限りって感じだろうし。
(遺族本人の位じゃないから)
50日本@名無史さん:2010/10/24(日) 18:06:41
わが家は正三位の血を引いている
と嬉しい奴は嬉しいと思うよ
ほとんどの家が無位無官なもんで
51日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:06:00
わが家は、從四位上左近衛権中将・肥後守の血筋にして、
52日本@名無史さん:2010/10/25(月) 02:44:36
大学の後輩が摂政従一位左大臣の玄孫
53日本@名無史さん:2010/10/26(火) 03:17:17

財政難のおり、官位官職を売りに出したらどうだ?

従一位征夷大将軍なんて、500万円ぐらいなら買いそうなやつが
かなりいそうだが。
54日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:01:01
>>53
征夷大将軍なんて一人しか出せない物は特別高額に設定しておくべき
55日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:38:31
>>53

その人が幕府を開こうとすると民主党と揉める。
56日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:22:55
皇宮警察を廃止して近衛府・兵衛府を復活させる。
57日本@名無史さん:2010/10/26(火) 10:05:36
裁判員は弾正弼を名乗らせる。
58日本@名無史さん:2010/10/26(火) 12:40:36
裁判員なんかほとんどボランティアで重い任務を負わされるわけで、
その代わりになんか官位をあげてもいいくらいだが。
59日本@名無史さん:2010/10/26(火) 12:47:24
東京都知事=武蔵守
60日本@名無史さん:2010/10/26(火) 13:28:47
東京都は京職のほうがいいかも。
61日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:36:03
築地には市正
62日本@名無史さん:2010/10/26(火) 19:49:01
東京都守護職のほうがかっこいいな。
63日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:41:17
東京も渤海みたいに「竜泉府」とかのサブタイトルをつけたほうが
かっこよかった。
64日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:50:30
いまの国家公務員には、戦前の官吏のような位階勲等はないけれども、
職階制による級や号俸はあるよね。

昔の官吏が正式なときに「従○位勲○等 何野何某」と名乗っていたように、
「○級○号俸 何野何某」って名乗ればいいのに。
65日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:28:56
>>48
wikipediaで「関白」引いたら載ってた。

豊臣秀吉(藤原秀吉)の関白宣旨(奉者:大外記)※「足守木下家文書」所載

権大納言藤原朝臣淳光宣、奉 勅、萬機巨細、宜令内大臣関白者、
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉

(訓読文) 権大納言(柳原)藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、
萬機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣(藤原秀吉)をして関白にせしむべし者(てへり)。
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る。


訓読文は「関わり白さく」という表現にしたほうがいいか?
66日本@名無史さん:2010/10/26(火) 23:22:12
>>55
幕府を開くのは仙谷だから、彼に売ればよい
67日本@名無史さん:2010/10/26(火) 23:52:10
仙谷は、日本国宮内大輔であり乍ら、中華人民共和国にも朝貢し、中華人民共和国東海省設立準備委員会中央幹部会総主事を名乗る怪しからんやつじゃ
68日本@名無史さん:2010/10/27(水) 07:19:25
日本の天子様や仙洞様をないがしろにして明帝に朝貢した
源道義みたいなもんか。しかし道義に比ぶれば象に対するアリみたいな
もんだな。
69日本@名無史さん:2010/10/27(水) 09:36:04
前スレと比べるとレベル低いな
70日本@名無史さん:2010/10/27(水) 18:03:43
>>65
その関白は名詞
勿論意は「関」し「白」する者
71日本@名無史さん:2010/10/28(木) 00:18:10
関わり白すとか関し白するって何だよ
関り白すだろうが
72日本@名無史さん:2010/10/28(木) 03:32:04
音読みして関し白するって言っても
日本語的には間違いじゃない
73日本@名無史さん:2010/10/28(木) 09:36:44
古文書の授業で訓読がわからないときは全部「す」を付けて誤魔化すあれですねわかります
74日本@名無史さん:2010/10/31(日) 22:00:06
なぜ、正一位は生前に叙位される人はいなくなったのか?
75日本@名無史さん:2010/11/01(月) 01:35:00
稀少だからこそ、有り難みもあるのです。何事もしかりです。貴金属と同じです。
76日本@名無史さん:2010/11/01(月) 09:53:17
鎌足の大織冠はさておき、令制の正一位、武智麻呂・諸兄・仲麻呂・永手、
どの系統もその後子孫繁栄してないし、そういう点もあったんじゃないの。
77日本@名無史さん:2010/11/09(火) 23:48:59
一番最高位は空けておくというのも何らかの意味があったのだろう
78日本@名無史さん:2010/11/10(水) 13:14:16
将軍の実父だからという理由で従一位儀同三司を欲しがる松平民部卿治済は赦し難いと思います
79日本@名無史さん:2010/11/10(水) 14:11:33
>>74-77
最高位に達したらもう上に昇れないし後は落ちるだけだから
というゲン担ぎみたいなもんだと聞いたが
80初心者:2010/11/13(土) 15:33:29
従五位下と正六位ってものすごい差があったのでしょうか。
奈良・平安初期において。
81日本@名無史さん:2010/11/13(土) 15:37:15
長州とか瀬戸内水軍のルーツは、嵯峨源氏や桓武平氏、奥州安倍氏、藤原北家の子孫ばかりで、むしろ、大陸側の蒙古と長々、何十世代と戦ってた長州、瀬戸内水軍は、先住民と共存してきた側で、
その、長州、瀬戸内水軍を海賊と言い後期倭寇扱いする関東人らは、朝廷囲ってきた清和源氏の公家衆と追随する関東の武家らの、そのルーツは帰化人ルーツの末裔な件。
だから、海賊王の藤原純友が反旗翻したんじゃね?

お前ら、崇拝する江戸の徳川のルーツも、大河内氏で河内氏なら帰化姓だろう
河内氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%B0%8F
河内氏(かわちし)は日本の氏族の一つ。 河内氏には以下のものがある。記述は時代順に並べてある。
西漢氏支族 [編集]
河内氏は、西漢氏の支族で朝鮮半島の伽耶地方から河内国に渡来してきた氏族。『百済本紀』に安羅日本府の倭臣として「加不至費直」という人物を記している。
河内氏は5世紀末ごろに帰化/渡来し、ヤマト王権に軍事・外交面で仕えたと考えられている。
飛鳥時代後期(7世紀後半)には河内国に河内寺(現在の東大阪市)を建立。
伽藍(がらん)配置については北から南に一直線に講堂、金堂、塔、中門が並ぶ「四天王寺式」だったと推測されている。本拠地は河内国河内郡。


大河内氏長沢松平氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_kouti.html

奥州安倍氏のルーツ、孝元天皇なんて紀元前の天皇の子孫、大彦の子筋
嵯峨天皇も、清和天皇より前の天皇だしな。
桓武天皇の子孫。
桓武天皇と百済系の母から生まれたのが、桓武平氏。

どうして、この国は、後から帰化した在日の奴らほど、先住民より偉そうにし、差別するのかね・・高天原の神々の名代のフリだろ?

宇宙の皇子思い出したわ・・W

アイヌ<try<try<try<try<・・・・<童話<在日

まぁ、これで言うと、中国もなんだが・・
倭人<try<try<try<カナダdry<・・・・<清<中華人民共和国
82日本@名無史さん:2010/11/13(土) 20:30:01
>>80
それはもうものすごい差です。旗本と御家人くらいの差?
もっとも、その頃はごく一部の例外を除いて大臣の子でも六位以下でスタートですから、
最初からその壁を越えうることが想定されていた人達もいるわけです。
と言うか、ほとんど壁になってない人もごく一部います。
しかしれでもなおかつ、最上級貴族層生まれの超エリートでも最初は原則六位以下であり、
どんなエリートでも最初だけは下級官人を経験するわけです。
ごく一部の例外、橘朝臣諸兄の嫡男奈良麻呂等。
83日本@名無史さん:2010/11/13(土) 20:59:51
>>82

> どんなエリートでも最初だけは下級官人を経験するわけです。


それは良い制度だったような気がする。
84日本@名無史さん:2010/11/13(土) 21:47:04
五位の壁、一般論としてとてつもなく厚い。
しかし、主に出自が影響して人によって壁の厚さが異なっていた。
@天皇の別勅で、最初から五位の壁をの向こう側従五位下直叙、極々希。
例えば、中臣朝臣鎌足(所謂藤原鎌足)の嫡孫豊成でも最初は正六位上。
権勢この上なかった藤原朝臣仲麻呂の子でも六位以下。
正確には一人従五位下直叙らしいが、遣唐留学生故の特例の模様。
そのせいか以後ほとんど昇進せず。
A壁は一応あるけど最初から越えることがほぼ決まっている人。
一部疎外された者を除く藤原氏とか、大臣納言クラスの子等。
六位以下の昇進同様ごく自然に五位になる人達。
Bきっちり壁になっており多少足踏みはするが、とにかく超えられる人達。
Cかなり厚い壁で結局超えられなかったり、超えられても10年20年足止め。
Dそもそも壁のあるところまでいけない。一生かけて七位以下で終わり。
位階に縁がないとかは論外としても、壁の厚さは人それぞれ。

別の分類として、外従五位下を通って従五位下昇進だとか、
さらに酷いのは外正五位下くらいまで行ってから従五位下なんて例も。
一時正六位上内部の特別待遇として、上正六位上と言う位階もあった。
85初心者:2010/11/14(日) 07:59:35
太宰権帥って実際には幽閉されていたのでしょうか
86日本@名無史さん:2010/11/14(日) 11:35:58
権帥が幽閉されたら誰が仕事するんだよ?
87初心者:2010/11/14(日) 12:02:11
いや大臣を流罪にするときに形式的につける役職だと
聞いたもんで。
88日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:02:12
少弐太宰大弐
89日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:12:11
正官と権官
90日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:45:39
>>87
おなじ権帥でも、仕事つきでちゃんと任官する場合と、
左遷で仕事ナシ監視つきでいく場合があるんだよ。

伊周と隆家の兄弟は、伊周が左遷、隆家が実官だった。
91初心者:2010/11/14(日) 14:31:32
>>90
なるほど道真や伊周の場合だけでなく実務を伴う官のことも
あったわけですね。ありがトン
92日本@名無史さん:2010/11/14(日) 16:38:28
ちなみに帥は親王が任ぜられて、帥ガいる場合は権帥は任ぜられず大弐が大宰府を取り仕切る。
実質的に権帥か大弐が現地の長になるので、俗にはこれを帥と呼ぶこともある。

流された場合の権帥も貴人なので幽閉ではなく軟禁程度。
せいぜい屋敷の外に許可なく出られないってとこ。
93日本@名無史さん:2010/11/14(日) 21:41:19
スーチーさん
94日本@名無史さん:2010/11/20(土) 08:32:57
だざいのごんのスーチー
95日本@名無史さん:2010/11/20(土) 12:49:08
菅すがは 何ゆえ みやこを放逐されて軟禁流しの目に遭い 梅の精になたの?
96日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:12:06
菅公が太宰府に行った後残された家には
ある女御のエロ画が残されていたとか。
学問だけの人じゃないようだよ。
97日本@名無史さん:2010/11/21(日) 23:41:02
その子孫(自称)が現首相(関白左大臣相当)か
98日本@名無史さん:2010/11/22(月) 00:02:26
首相(関白左大臣相当)

みたいなこと平気で言う奴はお里が知れる
99日本@名無史さん:2010/11/22(月) 00:19:28
贈正二位摂政太政大人
100日本@名無史さん:2010/11/22(月) 08:33:31
現行憲法でも摂政の定めはあるもんな
101日本@名無史さん:2010/11/23(火) 00:47:21
>>100
なれるのはかなり高貴な血筋の人だけ。
102日本@名無史さん:2010/11/23(火) 01:21:47
摂政になれるのは皇族男子だけなんだが
それを「かなり高貴な血筋の人」と言ってるのなら構わないが
何か根本的に勘違いしてるような
103日本@名無史さん:2010/11/23(火) 11:10:53
憲法には摂政は皇族でないといけないとは書いてないから
皇室典範をかえれば皇族でなくともなれるぞ
104日本@名無史さん:2010/11/23(火) 11:23:25
質問です。「公卿補任」というのはどこかで出版されている?
あるいは内容が読めるページってある?
105日本@名無史さん:2010/11/24(水) 09:29:23
吉川弘文館の国史大系、地元図書館にはあった。
全体を見ることが可能なところは知らないけど、
検索すれば一部(期間限定)を検索できるところはいくつかあるみたい。
106日本@名無史さん:2010/11/24(水) 14:05:36
百済義慈王の王子の禅広は、

新羅・唐の連合軍によって祖国が滅亡し、日本に亡命してきた。
そして天皇に仕え、天皇から「百済王」という姓を賜った。

さて時代が下って…

百済王敬福は陸奥に赴任させられた。
当時の感覚では、南極のような僻地だ。

百済王敬福は陸奥で黄金を産出し、天皇に献上した。
天皇はとても喜び、敬福を従5位から従3位に昇進させた。
百済王の冠位は、それまで100年間、ずっと「5位」。
それが、「3位」になったという事は…大出世!やったね敬福タン!

107日本@名無史さん:2010/11/24(水) 21:21:12
元帥公爵って近世以前ならどこに相当するのかな
108日本@名無史さん:2010/11/25(木) 08:48:22
どうしてこんなにバカなんだろう?
109日本@名無史さん:2010/11/27(土) 08:33:42
百済王よりゾウのほうが偉かったんだな
110日本@名無史さん:2010/11/28(日) 05:00:24
象が踏んでも大丈夫
111日本@名無史さん:2010/11/28(日) 05:51:51
因幡(山陰地方)と朝鮮半島の関係
112日本@名無史さん:2010/11/28(日) 06:06:20
「穢族は臭穢不潔な野蛮人で、中央に便所のある竪穴住居に住み、豚を飼い、
人尿で体を洗い、食器を使わず、普段は裸で、冬になると豚の脂肪を体に塗りつける」
113初心者:2010/11/28(日) 07:17:57
官と位があわないとき位が高いときは「行」官が高いときは「守」を
つけたというのは本当でしょうか。
114日本@名無史さん:2010/11/28(日) 12:03:42
官位相当 内大臣従二位
位>官 従一位行左大臣
官>位 従三位守大納言

例 正二位行権大納言兼右近衛大将源朝臣頼朝
115日本@名無史さん:2010/11/28(日) 20:50:33
>>110
あんたいくつだよ?
象が踏んでも壊れない
だろ
116日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:19:29
大勲位とか、今もあるよね、
あれって根拠法あるの?
117日本@名無史さん:2010/11/28(日) 23:54:46
>>113
>>114
ちなみに、参議は相当官位がないので「行」も「守」もつかない
118日本@名無史さん:2010/11/28(日) 23:59:45
像が踏んでも壊れんかもしれんが、
小学生のおれが飛び乗ったときは見事に壊れた
119日本@名無史さん:2010/11/29(月) 08:40:54
やせろ
120名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 09:10:44
むしろ太れ
121日本@名無史さん:2010/11/29(月) 09:26:20
>>117
例 参議従三位行左近衛権中将源朝臣義輝
122日本@名無史さん:2010/11/29(月) 13:53:07
そういえば、高校の時に踏んで壊されたな「象が踏んでも壊れない筆箱」
前のが壊れて、引き出しの奥からでてきたやつ持っていったら、
「懐かしいなあ、本当に壊れないかやってみようぜ」って流れで、
甲子園で一勝したチームのキャッチャーが思い切り踏みつけたら、
しっかりひびが入った。

123日本@名無史さん:2010/11/29(月) 14:03:59
そーっと象がそ〜っと踏むのと、
人が思い切り踏みつけるんじゃあ、
負荷のかかり方が全く違うよ。
124日本@名無史さん:2010/11/29(月) 22:57:36
>>116
各種勲章及び大勲位菊花章頸飾の制式及び形状を定める内閣府令
125日本@名無史さん:2010/12/02(木) 10:59:05
従七位下
126日本@名無史さん:2010/12/05(日) 15:49:09
>>121
それは
「従三位行左近衛権中将」
と「左近衛権中将」に対する「行」であって、
参議についているのではないと思うが
127日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:29:53
>>126
>>121は、参議にはつかず、中将の方についてる実例としてあげたのだと理解したけど。
128日本@名無史さん:2010/12/06(月) 13:03:22
結論として百済王はゾウに踏まれても大丈夫ってこと?
129日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:49:02
象が踏んでも壊れない アーム仏像
というのが、百済から来たのか
130日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:07:38
百済王家の貴族や妃、女官の最高官位は?
131日本@名無史さん:2010/12/08(水) 03:49:58
旧宮家のだれかと友達になって
彼を天皇にたてて俺を征夷大将軍に任命してもらうって可能?
132日本@名無史さん:2010/12/08(水) 09:12:18
現行憲法下で天皇は政治的には無力。
内閣の助言があればなんとかなるかもなw
133日本@名無史さん:2010/12/08(水) 12:34:15
自民党の改憲案の中に「内閣の助言と承認」を「内閣の助言」と
書き換える条項あり。
「内閣の助言がない将軍任命もなし得る」という含みがあるような
気もちらほらと。
134日本@名無史さん:2010/12/08(水) 17:44:26
旧宮家の誰かと友達になって彼をかついで吉野に立て籠もるってのはどう?
三種の神器はとりあえず手作りで。
135日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:38:42
百済王氏、初代善光(義慈王の子)が正広肆(従三位相当?)、没後贈正広参(正三位相当?
)
その子昌成が、没後、贈小紫(従三位相当)
なおこの頃の位階は実際は価値が高く、実質的には大宝令の二位以上に相当すると思われる。
あとは、南典(昌成の子とも孫とも、あるいは弟)が、従三位。
昌成の孫で、南典の弟ともされる敬福が従三位。
男の三位以上はこの程度?
女官では、桓武天皇と関係があったらしい明信が従二位。
他に女御で二位があったような。
136日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:24:13
>>133
憲法学上、国事行為について、助言の閣議決定と承認の閣議決定と
2回の閣議決定が必要という学説もあり、その紛れをなくすためではないか
(現在の運用上、助言の閣議決定が承認の閣議決定を兼ねて、
 改めて承認のための閣議決定を必要としないということになっている)

また、そもそも、国事行為と(公的行為)に関係のない
天皇家の私的行為という位置づけであれば、
「征夷大将軍に任命」してもらう余地はある
137日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:28:00
>>136
征夷大将軍が国家権力と全く無関係のものだったら、それでいいだろうけど、
国家権力の一部、とりわけ暴力装置たる部分に全くコミットしないとしたら、征夷大将軍が存在する意味自体がないのだが。
138日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:43:46
実職の、後の時代における栄典化、名誉職化なんて珍しくもないしなあ。
栄典として、関白・征夷大将軍・太政大臣あたり復活させても良いんじゃないの?
大臣病患者にはその辺を宛がっとけばいい。
鳩山あたりはそれで実務からは引退してもらうってことで。
139日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:56:32
従二位や正三位の非参議っているの?
140日本@名無史さん:2010/12/08(水) 23:59:26
>>132
ところが、実際にはそうじゃない。

国会で内閣総理大臣に指名された人物の任命を天皇が拒んだ場合、その人物は総理大臣になれない。勿論、憲法学上は違法だろうが、違法とは書いてないし罰則も無い。

かの阿久根市長のような天皇が現れた場合、政治を天皇に牛耳られることは阻止できない。
141日本@名無史さん:2010/12/09(木) 00:06:38
憲法学上違法というより、憲法学では議論がわかれてるよ。
今上天皇が国会その他の決議をすべて尊重されて承認されおられるから問題がおきてないだけで。
142日本@名無史さん:2010/12/09(木) 09:17:37
架空の話なのにずいぶん熱いなw
143日本@名無史さん:2010/12/09(木) 09:27:42
>>139
いくらでもいるよ、位階の昇進早くなっていくし、人数も増加。
それにたいして官職の方は、定員増があっても限界があり、
位階に相当する官位は不足気味になる。
いくつかパターンがあるけど。
@摂関家嫡流とか、あまりに位階昇進が早すぎて中将のまま二位。
 この辺りはそもそもが参議をパスして中納言に進むし。
A摂関家傍流とかで、位階は二位まで進むけど、ポストは回ってこない。
Bさほど家格が高くないと、位階は昇進してもそれに見合うポストもらえない。
C社家とかで、そもそもがそんな高い位階をもらえること自体が不自然だったんだけど、
 位階インフレーションで二位到達、当然のこととして参議など夢のまた夢。
144日本@名無史さん:2010/12/09(木) 10:44:30
地下官人は、何かの拍子に官位が上がっても地下のままだったの?
145日本@名無史さん:2010/12/09(木) 11:05:13
何かの拍子どころか、江戸時代の社家とかは、30代で三位が当たり前の家とかがある。
時には二〇代でも。かなりの家があるが、全体ではごく一部。
時には二位になることもあるが、地下は地下のまま。
位階と堂上・地下の概念は中世以後は連動してない。
地下から、堂上に進む方法としては、公式ルートがある。
六位蔵人の筆頭職を親子三代でやれば堂上になれるルールだそうで、
いくつか実例がある。
中には権利があっても収入が減るので断った家もあり、
そのために維新後華族になれなかった。
堂上でも三位にすら縁遠い家もある。
幕末ぎりぎりになった家は、時間切れで三位になれてないし、
それより少し前に昇格した家も、三位は初代当主だけ。
後継者がみな早死にだったせいもあるけど。
146日本@名無史さん:2010/12/09(木) 11:11:14
>>139
半家(旧家・新家問わず)の大半の家と賀茂朝臣の勘解由小路家

>>144
地下家の者でも三位に昇っている例はあるが、三位に昇る=通常は堂上家(半家)に列することではない。
蔵人の極揩ニ言うのを一代で三回やる又は三代続けて極揩ノなると堂上家(半家)に列する。
147日本@名無史さん:2010/12/09(木) 11:56:32
一代で三回ルールの方は事実上は無理だけどね。
寿命が百年以上ないとむりじゃないの?
148日本@名無史さん:2010/12/09(木) 12:36:27
一代で三回は無理すぎる
149日本@名無史さん:2010/12/09(木) 12:56:31
>>145-148
有り難う。
出世も可能だったんだね。何やら「ノンキャリ採用で高級官僚になる」(実例あり。稀だけど)を彷彿とさせるね。

>>145
堂上になるとお給料が減る? まさかね。やっぱり地位が高くなると交際費とかが増えるってことかな。
150日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:00:44
六位蔵人は重要な職なので結構な額の特別手当がある。
その他大勢の堂上になると、六位蔵人に就任できず、
事実上薄給の家禄だけでやっていかなければならず、
大幅収入減ってことだったと思う。
貧乏でも格式が高いと交際費がかさむのも事実だけど。
151日本@名無史さん:2010/12/09(木) 15:48:39
地下官人筆頭の両局の片割れ、官務壬生家。
初叙従五位下から、六位になって、六位蔵人、
退任後、また従五位下になり、そこから昇進。
通常は四位までだが、高齢か功労で時には三位昇進。
152日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:34:06
>>150
なるほど。
現代にたとえれば「管理職になったら残業代が減るわ交際費は掛かるわ、却って苦しくなった」みたいな話を彷彿とさせるね。
153日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:00:09
「行」「守」書きについて
下記の表記は正しいのか?

右近衛大将従三位兼守権大納言

蔵人検非違使従五位下守左少弁兼行備後権介
それとも
検非違使蔵人従五位下守左少弁兼行備後権介

伊豆介正六位下兼行駿河介
※伊豆国は、下国だが、令制には介は無く、
令外官となるが、相当位は無いと思うので。
154日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:06:51
高位の地下人と低位の堂上が出会ったら、どっちが上になるんだろうね。結構難しそう。
155日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:55:03
いつからそうなったのかはよくわからないけど、
江戸時代あたりだと、堂上と地下、社家の位階は別物のようだ。
同じ従三位であっても全く別の位階と考えるべき物のようだ。
位階はそれぞれの階層の中での序列を示す物にしか過ぎない?

幕末は確実、それ以前は不明だが多分江戸時代は同じだろうが、
摂家がまだ若年で少将でも、平堂上の大納言でも挨拶して、
摂家の方は乗り物に乗ったまま通り過ぎるだとか、
摂家が宮中に参内したときは、若年に子弟に対しても、
堂上が給仕するとか。

群書類従に載ってる伊勢神宮の社家の補任をみると、
祭主や大宮司より、禰宜の位階が高い場合も多い。
156日本@名無史さん:2010/12/10(金) 01:14:47
>>139です。
ご回答いただきありがとうございます。
157日本@名無史さん:2010/12/10(金) 01:29:56
地下官人って、どこで執務してたの? まさか地べたで仕事してた訳じゃないよね?
158日本@名無史さん:2010/12/10(金) 04:47:18
>>145
>堂上でも三位にすら縁遠い家もある。
>幕末ぎりぎりになった家は、時間切れで三位になれてないし、
>それより少し前に昇格した家も、三位は初代当主だけ。

大江朝臣の北小路家は頑張ったな


>堂上でも三位にすら縁遠い家もある。

半家(旧家・新家問わず)で三位参議・非参議が極位極官の家とか新家の羽林家・名家も
三位に昇るには長生きしないと無理だろうな
159日本@名無史さん:2010/12/10(金) 08:28:31
地下官人って言ってもピンキリだから。
事務系は、席についての執務だろうけど、
飯炊きあたりは土間じゃないの。
よくわからないのが駕輿丁で、仕事内容は乗り物を担ぐことのはずだけど、
実際には担がないから体力無くてすぐにへばるだろうなんて書いてある。
じゃあこの人達は何をやってたんだ?ただの肩書き?
両局の史生は歴とした官人だけど、
その他の史生はほとんどが出入り商人だそうだ。
直属上司の召使いみたいなものだとか。
地下官人も結構いろいろ。
160日本@名無史さん:2010/12/11(土) 02:48:52
>>159
地下官人というから、何やら土間で仕事してるイメージがあった。
ところで、江戸時代の朝廷って何やってたの? 公卿や地下官人って、結構大勢いたらしいけど、どんな仕事をしてたのかね?
161日本@名無史さん:2010/12/11(土) 02:54:05
六条三位と光圀が同格の件

「麿は帝の臣なり。田舎侍の徳川に従う義理はごじゃらん!」
162日本@名無史さん:2010/12/11(土) 07:06:21
マジレスすると、公家の家領を安堵するのは徳川なんだけどな。
163日本@名無史さん:2010/12/11(土) 17:36:22
あの人、まだ大臣に上る可能性がある人だから中納言どまりの光圀より
格上意識持ってたんじゃないの?
164日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:28:08
たしか光国は正二位じゃかなった?
やっぱり官位より官職が上なんかな?
165日本@名無史さん:2010/12/11(土) 20:47:30
水戸家の極位極官は従三位中納言
166日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:35:00
>>165
とすると、さすがの光圀も菊亭左大臣頼みなんだな。
ところで
菊亭は綱吉と互角?
167日本@名無史さん:2010/12/11(土) 21:48:31
やっと官位スレらしくなってきたな
168日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:07:45
>>163
大臣は無理としても、大納言ならありうる
(「一条三位」版なら、大臣の可能性はないこともないが、
  当主や跡継ぎ以外の摂関家では、大臣昇任は清華家にも劣るのでは)

>>166
官位だけなら左大臣の方が上
ただ、武家官位と公家官位では次元が違うので、なんとも言えない
169日本@名無史さん:2010/12/11(土) 23:43:02
>>168
征夷大将軍は左大臣を上回るのでは?
170日本@名無史さん:2010/12/12(日) 00:04:12
>>169
征夷大将軍は本官じゃないだろう
171日本@名無史さん:2010/12/12(日) 00:11:11
公家として無理やり比較すると将軍家は大体清華家に準ずる扱いだな。
172日本@名無史さん:2010/12/12(日) 00:12:27
>>170
じゃあ会見する時はどっちが上座?

時代の趨勢で優位なほう?
173日本@名無史さん:2010/12/12(日) 00:26:34
>>172
それは徳川側が譲るだろう
もし全盛期の信長が征夷大将軍になったらわからんw
174日本@名無史さん:2010/12/12(日) 17:29:35
>>173
江戸城で勅使が将軍の上座に座るようになったのは1862年以降だよ。
175日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:09:13
下橋敬長著「幕末の朝廷」(東洋文庫)平凡社
を読むといい。
176日本@名無史さん:2010/12/16(木) 01:43:27
絶版で古本屋回っても見つからないから図書館からかりっぱなしです
177日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:03:26
全国にはやはり同士が居るようで、ずいぶん前に注文したけど、当時も絶版。
図書館から何度も借りて興味あるところは全部メモした。
178日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:48:21
下橋の著作物には、面白い記事がある。
序列の記述だ。これによれば上位から
関白、准三宮、太政大臣、左大臣、右大臣、親王、前関白、
前太政大臣、前左大臣、前右大臣、内大臣、前内大臣、准大臣、
聴本座宣下の前大納言、権大納言、前権大納言、権中納言、
前権中納言、参議、前参議、非参議正二位、非参議従二位、
非参議正三位、非参議従三位ということ。
現任の内大臣は、現任の右大臣の次位にはなっていないこと。
そして現任内大臣は現任でもない前右大臣より下位ということ。
いかに前官が優遇されていたということが如実にわかる。
因みに、特に席次に関して別に宣旨が下されればこれに倣うことになる。
179日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:57:37
下橋の著作物には、面白い記事がある。
序列の記述だ。これによれば上位から
関白、准三宮、太政大臣、左大臣、右大臣、親王、前関白、
前太政大臣、前左大臣、前右大臣、内大臣、前内大臣、准大臣、
聴本座宣下の前大納言、権大納言、前権大納言、権中納言、
前権中納言、参議、前参議、非参議正二位、非参議従二位、
非参議正三位、非参議従三位ということ。
現任の内大臣は、現任の右大臣の次位にはなっていないこと。
そして現任内大臣は現任でもない前右大臣より下位ということ。
いかに前官が優遇されていたということが如実にわかる。
因みに、特に席次に関して別に宣旨が下されればこれに倣うことになる。
180日本@名無史さん:2010/12/17(金) 11:37:23
>>201
PCからビヨーーーーンってHDMIケーブル伸ばせばいいんじゃないか?
181日本@名無史さん:2010/12/17(金) 14:13:19

お〜っと、
なんのロングパスだ?
182日本@名無史さん:2010/12/18(土) 23:54:14
>>179
もともと、内大臣は「権官」の大臣という意味合いもあったから、
(「数の外の大臣」という異名がそれを示している)
正規の大臣や大臣経験者の下位に置かれたとしても不思議ではない。
183日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:24:32
>>149
幕末(慶応年間)だと、六位蔵人は、合力米30石、筆頭の極臈は極臈領100石。
幕末の宮廷によると、だいたい四人で、ほぼ10年で交代するらしい。
堂上の新家はこの頃は30石3人扶持が相場らしい。気持ち昇給になるのか?
極臈分を考えると減給?
六位蔵人はなにかと役得がありそうな気がするし。
その他大勢の平堂上にはほとんど役得はないと思う。
結構な役料がある(当然相当な役得もあるだろう)伝奏・議奏は、
地下から昇格したような下の下の新家は縁がなさそうだし。
交際費を含め、格式維持にかかる経費を考えると、堂上昇格は、
純経済的にはお得じゃなさそう。
184日本@名無史さん:2010/12/26(日) 18:52:29
>>183
有り難う。
何やら地方採用の警察官を彷彿とさせるお話だね。

順調に出世して警視になった警察官、さらに能力があるとされると警視正に昇進が可能。
ところが警視までは地方公務員だけど、警視正以上は国家公務員。身分が変わって却って給料が下がることもあるし、他県への転勤も無いとはいえない。
だから警視正昇進を拒否する警視も稀ではないらしい。

堂上昇進を断る地下官人も、そんな感じなんだね。
185日本@名無史さん:2010/12/29(水) 12:48:16
官司請負制とか家職家業の問題だから警視だの警視正だのとはちょっと違うような
世襲権益を捨てて身分の向上をとるかというのは公務員の地位なんかより余程根深いものがあると思う

ちなみに戦前までは警視は奏任警察官の官名で陸海軍中佐〜少尉に相当
警部・警部補は判任で下士官相当
巡査は兵に相当するが兵がパートタイムみたいなものなのに対して巡査は判任待遇
186日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:56:04
江戸時代の給与ってのは、
石立、俵立、○人扶持とか何両とか、その組み合わせとかあってわかりにくい。
それで収入の比較がしにくい。
まず、何石とかは通常領地の収入で、領主が全部取れるわけではなく、
1石が1俵に相当するらしい。
ただ現石80石とか言うときは、領地があるわけでなく、80石丸丸もらえる。
それでこれは領地の200石に相当するらしい。
つまり、80石=200俵→1石=2.5俵の計算か?
1人扶持は概ね1.8石相当だそうだ、すると1人扶持=4.5俵か?
以上で強引に俵換算すると、堂上新家の30石3人扶持はは、
30石×2.5=75俵、3人扶持×4.5俵=13.5俵で、合計88.5俵
幕府の徒が70俵5人扶持で、同じ計算だと、70+22.5=92.5俵
徒よりやや薄給。
領地持ち堂上の最低ランクの130石、100石は、130俵、100俵。
幕府小十人の100俵十人扶持の100俵+45俵=145俵より薄給。
ちなみに与力類は、230〜120俵、同心は60俵弱から20俵弱程度。
187日本@名無史さん:2011/01/01(土) 01:27:21
壬生家なんかはある意味、地下の摂関って存在だし、
今更堂上の末席じゃあメリットないよなあ。
いやむしろ摂関以上か?5家も有るわけじゃないし。
小森は典薬頭世襲、陰陽頭の土御門と似たような感じか、
「幕末の宮廷」であえて堂上にならなかったってあげられているのが、
小森家、この家の場合はやはり経済的理由?
188日本@名無史さん:2011/01/01(土) 15:24:07
そもそも旦って朝って意味だもん
地平線からお日さまが出てきた象形
189日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:09:33
@六位藏人
※舊六位藏人 土御門,倉橋,慈光寺,錦小路,北小路二軒等
●六位藏人 四人(正六位上,省大少丞寮助近衞將監四府大少尉) 典藥頭小森,非藏人細川,同藤島,同橋本,官務壬生等
●非藏人 六十二軒+維新當時新規取立十八軒(諸大夫,無位准正六位上)
190日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:10:34
A外記方
●大外記〔局務〕 一軒 押小路(諸大夫,從五位下→正三位)
●外記(少外記權少外記)〔兼中務省〕 三軒(内一軒兼中務省)  ●史生 二軒  ●文殿 一軒  ●召使 二軒  ●少納言侍 二軒
●中務省〔天保五年再興〕 cf. 外記  ●同史生 二人
●大舍人寮 四軒  ●同史生 二人
●内藏寮〔兼造酒司〕 一軒  ●同官人 一軒  ●同史生 二人
●縫殿寮 三軒  ●同史生 二人
●式部省〔天保年間再興〕 一軒  ●同史生 二人
●大膳職〔兼大炊寮〕 一軒  ●同史生 二人
●大炊寮 cf. 大膳職  ●同史生 二人
●掃部寮 二軒  ●同史生 二人
●造酒司 cf. 内藏寮  ●同史生〔兼酒波〕 二人
●内豎〔兼主鈴〕 二軒
●陣官人 二軒
●左馬寮右馬寮 二軒
●兵庫寮 一軒  ●同史生 二人  ●鼓師 一人  ●鉦師 一人
●贊者 二軒
●使部 十軒(無位無官,上席兩三軒のみ任國掾,慶應三年一同敍從八位上任國掾)
191日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:12:01
B官方
●左大史〔官務〕 一軒 壬生(諸大夫,從五位下→正三位,主殿頭,算博士)
●史(右大史左少史右少史) 四軒  ●左史生右史生〔兼行事官内匠寮〕 一軒  ●左官掌 二軒  ●右官掌 二軒  ●召使 二軒  ●辧侍 二軒
●内舍人 三十二軒(六位「職亮」省大少丞寮助四府大尉,内海神原のみ五位)
●内匠寮 cf. 左右史生  ●同史生 二人
●諸陵寮〔慶應元年再興〕 二軒  ●同史生 二人
●大藏省〔兼木工寮〕 一軒  ●同史生 二人
●木工寮 cf. 大藏省  ●同官人 一軒  ●同史生 二人
●主殿寮 伴方 一軒 佐伯方 一軒(昇敍五位之上國守宣下)  ●同官人 伴方 一軒 佐伯方 一軒  ●同史生 伴方 二人 佐伯方 二人  ●左生火官人 伴方 一軒  ●右生火官人 佐伯方 一軒
●使部 十軒(官位外記方同樣)
●衞士 三軒(無位無官,藤井一軒のみ有位有官)
●御香水役人 二軒(無位無官)
●鉾立役人 一軒(無位無官)  ●幡鉾 一軒(無位無官)
●駕輿丁左近衞府兄部 一軒  ●同府沙汰人 一軒  ●駕輿丁右近衞府兄部 一軒  ●同府沙汰人 一軒  ●駕輿丁左兵衞府兄部 一軒  ●駕輿丁右兵衞府兄部 一軒  ●四府駕輿丁 若干人 (以上無位無官)
192日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:13:26
C藏人方
●出納 一軒(侍,正六位上→從四位上,特別に正四位下,内藏寮年預,内藏權頭)  ●御藏小舍人 四軒  ●〔藏人〕所衆 七軒
●行事所 一軒
●圖書寮 二軒  ●同史生 二人
●内藏寮官人 二軒  ●同史生 二人
●主水司 一軒  ●同史生 二人  ●水部
●修理職 二軒
●戸屋主 一軒
●上南座  ●下南座 一軒(無位無官)
●仕人 三軒(無位無官)
●釜殿 四軒(無位無官)
●衞士(官方兼務)
●御車童子 二軒  ●御車副  ●御車舍人  ●御車大工御車副  ●御車棧持  ●御車榻持  ●掛竿持 

●鎰取 (以上無位無官)
●右近衞府鼓師 一人(無位無官)  ●右近衞府鉦師 一人(無位無官)
●陰陽生(無位無官)  ●陰陽 一軒(無位無官)
●大佛師 一軒(法橋→法眼)  ●院承仕〔兼御經藏〕(法橋→法印)  ●御經藏 cf. 院承仕  ●繪所 一軒(法橋→法眼)
193日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:14:43
D女役
●一采女 一人(御末の頭尾張)  ●二采女 一人(内侍所刀自三上氏女)  ●三采女 一人(内侍所刀自山口氏女)
●主殿司 一人(六條家家來長澤妻)
●内教坊 一人 (小林氏女)
●?[門+韋]司 二人(小西氏女,津田氏女)
194日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:19:42
一呼吸
195日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:39:47
ところで。
江戸時代の朝廷って何やってたの?

大きな神社みたいな存在だったのかな。
196日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:16:55
E職事直支配
●檢非違使 八軒(舊家正六位上→正四位下(依功勞正四位上),新家從六位下→正四位下,衞門志→尉,從五位下以上彈正忠國守)
●樂人〔伶人〕 南都〔興福寺〕方 十三軒 天王寺方 二十一軒 京都方 十九軒 在江戸〔紅葉山〕樂人 十軒 (三方正六位下→正四位下(舊家八十歳以上正四位上),在江戸正六位下→正五位下,五位六位は近衞將監將曹)
●瀧口〔官人〕 三十六軒(左衞門少尉→大尉,從六位→正六位上(老年從五位下))
●左右近衞府(元稱御随身,天保五年改稱) 五十三軒(觸頭將曹→將監,その他府生→將監,番長無位無官)
197日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:17:50
F院官人東宮附官人 ※【】内は後院官人
●院廳官【後院廳官】 一軒  ●院藏人【不設置】 一人または二人(正六位上院昇殿,非藏人中上北面になり得る舊家より)  ●院所衆【後院所衆】 四軒(極正五位下)  ●院(御壺)召次【後院召次】 七軒(極正六位下)
●上北面【不設置】 十人(五位,攝家諸大夫より五人非藏人中上北面になり得る家十軒より五人) 

●下北面【後院侍】 十五軒(從六位下→正四位下)
●女院主典代【不設置】  ●女院北面(侍)【後院北殿侍】 三軒
●東宮陣頭 十四人(攝家親王家諸大夫及非藏人中上北面になり得る家より)  ●東宮侍者(攝家六位侍内舍人及左右官掌より)  ●啓内舍人  ●東宮帶刀(近衞府瀧口より)  ●主馬首 一人  ●主殿首 一人  ●主膳正 一人
198日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:18:36
G〔地下三位諸大夫〕
●兩局三位
●幸徳井兩家小森三位
●藏人五位(元六位藏人)
●元上北面(非藏人出身者)  ●元院藏人
●攝家親王家C華諸大夫三位
199日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:22:58
H神祇官陰陽寮典藥寮内膳司御厨子所上下御倉畫所預院雜色
●神祇官 十一軒
●陰陽寮 二軒(幸徳井二軒,諸大夫,正六位下→正三位)  ●同陰陽師陰陽生 六軒(七位陰陽生→從五位下陰陽師)  ●陰陽 一軒(無位)
●典藥寮 二軒(内一軒は小森諸大夫)  ●同醫師 四十軒(舊家從六位上→正四位下(正四位上は非常破格,奧家のみ正七位下醫生→從六位下醫師),新家從六位下中國介→正四位下,法體法橋→法眼(稀に法印))
  ●同醫生 二軒(中國介從六位下→正六位上→醫師)  ●同史生 二人
●内膳司 一軒  ●同史生 二人  ●同膳部 若干名
●御厨子所預 一軒  ●同番衆 一軒  ●同小預 一軒  ●同仕丁
●上御倉 二軒  ●下御倉 一軒
●畫所預 二軒(土佐二軒從六位上→正四位下左近衞將監國守介)
●院雜色 五軒
200日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:29:28
I攝家親王家諸家諸門跡殿上人諸大夫侍等
●攝家〔近衞殿九條殿二條殿一條殿鷹司殿〕諸大夫(正六位下→正三位,式部少輔權少輔治部民部兵部刑部大藏宮内權大輔少輔權少輔大宰少貳寮頭職亮司正國守)
●攝家侍(從六位下→從五位下,省大少丞職大少進四府大少尉國介(稀寮助),五位國守)
●親王家〔伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮〕殿上人(從五位下→正四位下,職大夫省大輔彈正少弼國權守權介)
●親王家諸大夫(攝家同様)
●親王家侍(攝家同様)
●C華家〔久我轉法輪三條西園寺徳大寺花山院大炊御門今出川廣幡醍醐〕諸大夫(從六位上→從三位)
●C華家侍
●大臣家及平堂上家〔中院正親町三條三條西中山〕諸大夫(從六位下→正四位下)
●大臣家及平堂上家〔中院中山柳原廣橋野宮〕侍
※諸家士分(雜掌,用人,近習,中小姓,勘定方,青士,茶道),小頭,中番,下僕
●門跡坊官〔錦織寺にはなし〕(法橋(六位)→法眼(五位)→法印(四位准三位),仁和寺門跡坊官は總在廳宣下)
●門跡諸大夫〔仁和寺梶井照高院及准門跡にはなし〕(正六位下→正四位下,輪王寺門跡諸大夫のみ從五位下→正四位下)
●門跡侍〔准門跡にはなし〕 
※御附人〔本願寺(九條家から一人),東本願寺(近衞家から一人),佛光寺(二條家から一人),專修寺(有栖川宮から二人)〕
●門跡侍法師〔大覺寺勸修寺青蓮院圓滿院大乘院(梶井)〕(法橋→法眼?)
●院家候人〔若王子(聖護院院家)住心院(聖護院院家)喜多院(興福寺院家)勝安養院(妙法院院家)理性院(醍醐寺院家)報恩院(醍醐寺院家)佛地院(圓滿院院家)〕(法橋→法橋?)
●門跡承仕〔梶井青蓮院妙法院〕(法橋?)
201日本@名無史さん:2011/01/02(日) 14:31:21
一休み
202日本@名無史さん:2011/01/02(日) 20:52:32
下南座の能勢家は、1843年(天保14年)及び1865年(慶応元年)時点では無位無官だが、
1867年(慶応3年)時点では従七位下摂津介となっている。
おそらく1866年中か1867年初頭にでも叙位任官があったんだろう。
戸屋主は、1843、1865、1867とも従七位下(ただし後に従七位上昇進有り)。
官職は、無官?・左右馬少属・近江介等。
「幕末公家集成」(新人物往来社)と「大河の釣り人」より
地下家伝の蔵人方の所には出ていなかった。
203日本@名無史さん:2011/01/05(水) 00:05:09
江戸時代の位階
18世紀半ば頃から正七位下が見られるようになるが、
それ以前は六位以上だけのようだ。
正七位下からは従六位下に進み、正七位上は存在しないようだ。
この時点では六位以下の代表として正七位下だけが復活か?
19世紀半ば頃には従七位も存在している。いつ頃からか不明。
幕末最終期に至り、従八位上下が復活。
時間切れで昇進はないが、あるいはここから正八位へ進む予定?
事実上欠位の正一位の他にも、正七位上、正八位上下、初位、外位、
等は江戸時代を通して見えないようだ。
204日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:28:56
>>203
江戸後期〜末期に渡る、復古主義の気運がこういう形で現れるのも面白い。
205日本@名無史さん:2011/01/07(金) 01:59:02
>>185
>ちなみに戦前までは警視は奏任警察官の官名で陸海軍中佐〜少尉に相当
>警部・警部補は判任で下士官相当

警視は佐官相当で、警部は尉官相当じゃねぃ?
警部・警部補は下士官相当のソース希望
206日本@名無史さん:2011/01/07(金) 10:02:46
>警視は佐官相当で、警部は尉官相当じゃねぃ?

これは戦後の話では?

戦前は
奏任=警視=士官
判任=警部・警部補=下士官
と明確に分かれていた

官吏の他の分野(↓例)で官名が大まかに分けられているのと同じ
教授=勅任・奏任
助教授=奏任
助手=判任

警察官の階級が軍隊の階級に合わせて細分化されたりなどしたのは戦後
207日本@名無史さん:2011/01/07(金) 10:32:46
昭和期まで下士官相当だったかどうかは知らないが、
「日本史総覧」(だった思う)からのコピー発見。
明治5年1月の官制には、警視警部は見えず。
同年年8月の官制では、司法省に大警視以下が見える。
大警視(七等)、権大警視(八等)、少警視(九等)、権少警視(十等)、
大警部(十一等)、権大警部(十二等)、少警部(十三等)、権少警部(十四等)、
一〜三等巡査(等外一〜三等)有り、大警視のみが奏任で、以下権少警部まで判任。
少佐が七等、大尉が八等、中尉が九等、少尉以下不明、佐官が奏任、尉官が判任。

少し前の明治4年7月の兵部省官等表では、
元帥(一等)、大将〜少将(二〜四等)、大佐〜少佐(五〜七等)、大尉〜少尉(八〜十等)、
曹長(十一等)、権曹長(十二等)、軍曹(十三等)。
この当時は、警視が少佐から尉官相当、警部は下士官相当のようだ。

明治6年5月の陸軍武官表()、同年8月の海軍武官表では、
元帥がなくなり、大将が一等、少尉が九等と一等ずつ繰り上がる。
将官が勅任で、佐官・尉官は奏任。
下士官は判任で、曹長(十一等)、軍曹(十二等)、伍長(十三等)となり、
その下に卒が有り、陸軍は二等、海軍は五等に分かれる。
208日本@名無史さん:2011/01/07(金) 10:35:50
明治8年4月の官制では、
警視庁に、大警視(三等:勅任)、権大警視(四等)以下中警視〜少警視(五〜七等)までが奏任、
権少警視(八等)以下、大〜権少警部(九〜十四等)及び警部補(十五等)が、判任。
その下が一〜四等巡査(等外一〜四等)。
なお、警視・警部とも大中少に分れ、各々権がある。

卒と等外官は一応別物だから単純比較は無理だろうとして、
大警視が少将相当、権中警視(六等)以上は佐官相当、権大警部(十等)〜警部補は下士官相当。
問題なのが、少警視(七等)、権少警視(八等)、大警部(九等)で、
官等では尉官(七〜九等)に相当するが、奏任ではなく、判任であり、
対等とは言い難いなあ。あえて言うなら特務士官みたいなもの?
まあこの時期、七〜九等は一般的に判任で、陸海軍武官の尉官だけが特例で奏任なんだけど。
209日本@名無史さん:2011/01/07(金) 11:41:16
明治初年じゃ過渡期すぎるだろ
大正〜昭和じゃないと
210日本@名無史さん:2011/01/07(金) 11:47:07
鳥取県警察史より、
明治8年10月の太政官布告で、各府県に一〜六等警部(九〜十四等)設置。
9年2月、七等警部新設(十五等?)。
10年1月、一〜十等警部に改める。官等は八〜十七等(判任)。
14年11月、府県警察の最高責任者として警部長を新設(奏任、八等相当)。
14年12月、府県警部の等級廃止、警部補新設。
これに基づき、鳥取県の場合は、八等警備以上を警部、九・十等を警部補。

東京警視庁では、7年12月警部補、14年1月巡査部長設置。

巡査、明治24年8月、等外から判任待遇となり官員の中に含まれる。

明治24年4月、警部5年以上で、判任三等以上から、高等試験委員の選考を経て警視を任用、
署長にあてる制度が始まる。ただし警視庁のみ。
明治32年1月、北海道庁に警視設置。
33年5月、各府県に警視設置し、署長にあてる。ただし全国80人以内。実際の指定は69。

明治23年府県に巡査部長設置、ただし階級でなく職名(階級は巡査:戦前はずっと)。
同年警部補廃止、43年復活。
211日本@名無史さん:2011/01/07(金) 13:38:13
明治10年11月内務省警視局
勅任:大警視(三等)
奏任:中警視(四等)、少警視(六等)、大警部(八等)、各権有り、官等は一等下。
判任:一〜三等中警部(十〜十二等)、一〜三等少警部(十三〜十五等)、
   一・二等警部補(十六・十七等)
一〜十等警視属(八〜十七等)
※この頃の奏任は七等以上が通例で、大警部・権大警部(九等)は例外。

明治14年4月警視庁
勅任:警視総監(三等)
奏任:警視副総監(四等)、一〜三等警視(五〜七等)
判任:一〜十等警視属(八〜十七等)
※他に四・五等警視(八・九等)が有り、奏任か?
※なぜか警部は見えない。

警視庁の下に巡査本部が有り、
巡査総長(五等)、巡査副総長(六等)、方面総監(七等)、
巡査長・巡査副長・巡査部長(八〜十七等)、巡査(等外)

同じく警察所、一・二等警察使(八・九等)、警察副使・書記(八〜十七等)
212日本@名無史さん:2011/01/07(金) 13:41:28
明治24年の陸海軍官階表
勅任:将官(一〜三等)
奏任:佐官(四〜六等)、尉官(七〜九等)
判任:准仕官(判任一等)、下士官(判任二〜四等)

明治26年陸海軍武官官等表
勅任:大将(信任?)、中・少将(一・二等)
奏任:佐官(三〜五等)、尉官(六〜八等)
判任:准仕官(判任一等)、下士官(判任二〜四等)
※基本的には変化ないが、高等官が一等ずつ繰り上がり。

昭和6年陸海軍武官官等表
勅任:大将(信任)、中・少将(一・二等)
奏任:佐官(三〜五等)、尉官(六〜八等)
判任:准仕官(判任一等)、下士官(判任二〜四等)
213日本@名無史さん:2011/01/07(金) 13:44:06
明治初期は時期によっても異なるが、
警視はおおむね佐官同等だが、一部将官・尉官同等有り?
警部は、尉官・下士官同等?
警部補は下士官以下の時も?って感じか。
214日本@名無史さん:2011/01/07(金) 15:22:52
大正・昭和初期だと警部(判任一等〜四等)・警部補(判任二等〜四等)
警部=陸軍准尉〜伍長
警部補=陸軍曹長〜伍長
215日本@名無史さん:2011/01/07(金) 19:38:25
明治24年5月、警視が置かれた警察署。
大阪府7、神奈川・兵庫各5等69カ所。
中国地方では、広島・山口各2、他の3県は各1。

鳥取県の警視配置
当初、鳥取警察署(県庁所在地)のみ、
大正6年、警察部に定員化、翌7年実際尉配置し2名。
大正9年、米子署(県西部の中心)にも配置し3名。
昭和期は、警察部が2名となり合計4名が標準。
時には境署(県下一の港湾)にも置かれることがあった。
ど田舎なので特に少ないのだろうが、
それほどに奏任官というのは地方では貴重だった。
軍隊で下士官になって地元に帰ってくると、
田舎の村では幅がきいたのは当然だよなあ。
明治17年当時の県内の奏任官は県令と少書記官の2名だけ。
大正期は警部補の警察署長(分署昇格に伴うもの)なんてものもいた。

216日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:16:46
下士官どころか上等兵でも地元の名士扱い。
まあ上等兵になるのも大変だけどな。
217日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:37:28
府県警察官の給与(鳥取県警察史より)
巡査給与
明治8年太政官達:月額7〜4円(1円刻みで4等級:全国統一)
明治10年太政官達:月額10円以下で各府県の裁量による。
明治14年鳥取県再置時:月額10〜5円(一等巡査は10円と8円、二等以下は1円刻みで減額)
同年末の太政官達:巡査の等級廃止、巡査給与は月額10〜6円(1円刻み5ランク)
明治19年内閣通達:巡査奉職9年以上は12円、12年以上は15円支給可能に
明治24年巡査俸級令:一〜三級(1円刻みで10〜8円):19年の特例は継続、この時同時に判任待遇に
明治30年巡査看守俸級令:一〜七級(1円刻みで15〜9円)
明治34年同令改正:甲号(巡査部長)一〜六級(25・22・20・18・16・15円)
          乙号(巡査)一〜七級(30年と同様)
明治39年巡査給与令:20〜12円、ただし巡査部長は25円まで支給可能
明治43年改正:巡査部長28〜12円、巡査25〜12円
大正7年改正:本棒は変化なし。加給5円以内(巡査は3円以内)、精勤加棒3円以内、功労加棒5円以内を新設。
大正8年改正:巡査部長45〜15円、巡査40〜15円に増加、加給等も適宜増加
大正9年改正:巡査部長80〜30円、巡査70〜30円、同上
218日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:39:48
警部・警部補給与
明治8年府県判任官以下月給表:警部は判任官九〜一四等まで、50〜15円
明治10年太政官達:府県警部は一〜十等となり、判任八〜十七等、60〜12円
明治14年太政官達:警部の等級廃止、警部補新設
          警部(50・40・35・30・25・20円)、警部補15円・12円
明治19年地方官官等俸級令:警部一〜七等(45・40・36・32・28・24・21円)
            警部補八〜十等(18・15・12円)
明治21年改正:警部一〜八等(各等に上中下の3ランク有り、75〜15円)
        警部補九・十等(15円・12円)
        この時まで、一般の判任官に対し10〜20%低額だった為改正
明治22年判任官官等俸棒級令を適用:警部は判任官一〜五等に格付け(上下のランク有り、75〜20円)
                  警部補は六等に格付け(15円・12円)、ただし同年末警部補廃止
明治24年判任官官等俸棒級令廃止、判任官俸棒級令制定:一〜十級、60〜12円
明治31年改正:75〜15円
明治43年改正:一〜十一級、95〜20円、日露戦争後の物価高騰対応
大正9年改正:160〜40円、第一次大戦の物価高騰対応
昭和6年改正:145〜40円
219日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:51:43
警視給与
明治14年太政官達で警部長(後の警視相当?)設置:奏任八等とし、月額80円・70円・60円の3ランク
明治19年地方官官制制定:府県警部長は奏任四等以下
同日地方官官等俸級令:警部長の年俸は高等官官等俸級令に準拠、1200〜400円(月100円〜33円余)
明治33年勅令:府県警視設置、年俸一級1000円〜六級500円
        同時期の警部長(明治38年事務官の警務長に改訂)は三級で1200円
        警部長は高等官四〜七等、警視は高等官六〜八等。
明治44年時鳥取県高等官年俸:知事一等4500円、事務官三等2500円、同四等2000円
               事務官補六等1000円、同七等750円
               技師四等300円、同五等30円、同六等90円、同七等30円、同八等30円
               警察部長(事務官)四等2000円、警視八等750円
技師の年俸は明らかに変だと思われるが、原史料がそうなっているそうだ。
220日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:58:04
結局、地方警視は高等官六〜八等で、尉官相当。それでも今の県警本部幹部や重要警察署署長級。
今の県警本部長に当たる、警部長・警務長・警察部長で、四〜七等で、中佐から大尉に相当。
つまり連隊長と同格以下、下手すると大隊長以下中隊長と同格程度と、官等上でなってしまう。
なお、警部長→警務長(明治38年)→職名警察部長・官名警務長(同40年)→警察部長(大正2年)と変遷。
警務長以後は警察官でなく事務官。
221日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:19:23
>>212
大将は親任官
中将は親補職(師団長、艦隊司令長官など)についている間は親任官待遇
(師団長→参謀本部次長と言う異動は職務内容はともかく、
 待遇としては格下げになる)
222日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:28:04
>>221
小沢治三郎は降格人事かい。たしか第一機動艦隊司令長官から軍令部次長だったよな。
223205:2011/01/08(土) 00:47:04
コロンボ警部(補)がLieutenant なんだよなと思って書き込んだが豪い事になってしまったな
手間をとらせてすまんかった勉強になったよ>185
224日本@名無史さん:2011/01/08(土) 01:19:51
近代史板でやれ
225日本@名無史さん:2011/01/08(土) 06:46:48
>>206
これって官立大学のでしょ。帝大はひとつあがるよ。帝大の教員は全員高等官。
官立大学の学長は勅任官だが、帝大総長は親任官。
独法化する前の東大・京大両総長の俸給が三権の長と同額だったのはこれのなごり。
226日本@名無史さん:2011/01/08(土) 13:51:54
帝大総長は勅任官一等なんだが
227日本@名無史さん:2011/01/08(土) 14:12:19
親任官待遇と混同したんじゃないの?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%BB%BB%E5%AE%98#.E8.A6.AA.E4.BB.BB.E5.AE.98.E5.BE.85.E9.81.87

これだと帝大総長は親任官待遇の資格はあるけれど、一等官在任8年が条件だからどうだろう。
ただの教授とかただの学部長とかは何等か知りませんが。
228日本@名無史さん:2011/01/08(土) 15:22:53
>>203
外位は平安時代以降は見かけなくなったような気がする。
源・平・橘・藤原・大江・菅原とかの内階コースが増えまくって意味が無くなったと思う。

正一位も平安時代はあったようだけど、平安以降は生きてる人間へ贈位されることは無くなったようだ。
正七位上、正八位上下、初位は使われていると思ったけど実際は使われていないのは不思議だな。
229日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:41:33
黒板伸夫氏の『平安王朝の宮廷社会』(吉川弘文館、1995年)によると、
初位は確認できる限りでは10世紀初頭に見えるのが最後らしい。
見えない=ないと、証明出来るわけではないけれど、
どうも道長の頃にはもう消滅していたんじゃないだろうか?
正六位上と従七位上以外の下級位階は、11世初頭でほぼ消滅したらしい。
もちろん公式に廃止されたわけではないので六位・七位希には見られ、
1119年の従七位下が最後らしい。
従七位上は、正六位上より下位の位階の代表として残ったらしい。
それも江戸初の時点では消滅してるようで、いつ消えたんだろう?

外位は鎌倉時代か、室町時代あたりまで、神職の位階として存在していた。
とどこかで読んだ気がする。
群書類従に載っていたと思う伊勢神職の補任(題名忘れた)にあったような?
多分、南北朝か、応仁の乱後の混乱で消滅したのでは?
230日本@名無史さん:2011/01/08(土) 22:22:45
地下家伝を見てると、江戸時代の地下家の叙位任官は、
初叙は10歳±数歳ってところか、7歳と11歳が多いようだ。
任官は初叙と同日か同月中が多いが、同年中とか翌年も。
これは嫡男として叙位任官の場合で。
新規取立、絶家の名跡復活、養子、兄死亡で急遽相続等の場合は、
当然もっと高齢の場合が多くなる。

正六位下〜従六位下は、16世紀前半は地下家伝によれば確認できる。
1520年代従六位下叙位、40年代従六位上昇進とか、1540年代正六位下叙位等。
12世紀以後は見られなかったようだが、いつ頃叙位が復活したんだろう?
231日本@名無史さん:2011/01/08(土) 23:24:18
>>222
親補職→勅任官一等 と言う意味では降格
232日本@名無史さん:2011/01/09(日) 10:30:19
>>227
私は自説をごり押しするつもりはありませんが、しかし私は、とくにこのたぐいのことに関してはwikiはあまり信用できないと思ってます。
以前みたときに間違いが多かったので。
http://www.geocities.jp/mor25/gochou.htm
こちらの方のサイトはどうですか。大まかにはあってるとおもうんですが。
官吏あがりの方です。
233日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:09:44
>>232
そっちのサイトの方がよほど信用できない
デタラメばかり

自説のゴリ押し云々の前にもっと勉強したら?
234日本@名無史さん:2011/01/10(月) 02:11:00
うちの旦那寺の墓地で、兵隊さんのお墓に従七位下と
石碑に書かれたのを見た記憶がある。
子供のころの記憶だから自信はないが。
この間探したが、もうなかったわ。無縁仏になって何年か
すると、墓石は、処分されるらしい。

235日本@名無史さん:2011/01/10(月) 09:01:25
うちの寺だと一角に全部積んであるな。いつ頃からのか知らないけど。
ある程度たまったら処分するのかもしれないし。
明治以降の位階は上下はなかったような気がする。
少なくとも、明治2年7月から4年頃?まで官等でなく官位相当だったころはそう。
それと、兵隊さんって、軍人一般の意味?それとも兵卒のこと?
確か少尉をしばらくやると正八位になるとか海音寺潮五郎あたりで見たような。
236日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:53:25
社家ってなんであんなに位階が高いの?
237日本@名無史さん:2011/01/12(水) 15:11:14
J社家
●社司(宮司神主祝等)
・伊勢内宮 ?軒  ・伊勢外宮 ?軒  ・鴨社 四軒  ・春日社 十七軒 (以上從五位下→從二位)
・賀茂社 七軒  松尾社 二軒(及び松尾月讀社一軒)  ・平野社 三軒  ・稻荷社 ?軒  ・住吉社 一軒  ・日吉社 四軒 (以上從五位下→正三位)
・吉田社司  ・梅宮社司 (幕末に至って各一人昇敍三位)
・石清水社 四軒 (權少僧都法眼〔五位〕→法印〔四位,准三位〕僧正〔参議〕)
●社家氏人(從五位下→正四位下)
●諸國神官(從五位下,周防長門兩國神官のみ正六位下)
238日本@名無史さん:2011/01/12(水) 15:16:54
>>198訂正

G〔無所屬の諸大夫〕
●元六位藏人 〔六位藏人を辭すれば内昇殿を停止されこのカテゴリーに移される〕
●兩局三位(押小路三位壬生三位)  〔三位に昇敍した兩局は大外記左大史を止められこのカテゴリーに移される〕
●幸徳井三位 〔三位に昇敍した幸徳井兩家は陰陽寮を止められこのカテゴリーに移される〕
●攝家親王家C華諸大夫三位 〔三位に昇敍した諸家諸大夫は本屬を離れこのカテゴリーに移される〕
●元上北面院藏人 〔仙洞が崩御すれば院昇殿を停止されこのカテゴリーに移される〕

上記カテゴリーに入れられる家は大体同格で身分は諸大夫格,伏見宮殿上人若江家とこれらの家とが地下の上位層を形成する

第一 伏見宮殿上人
第二 六位藏人
 典藥寮小森
 非藏人細川,同藤島,同橋本等(非藏人中六位藏人となる家)
 官務壬生
第三
 局務押小路(大外記,從五位下→正三位)
 官務壬生(左大史,補六位藏人,從五位下→正三位)
 典藥寮小森(典藥頭又は典藥助,補六位藏人)
 陰陽寮幸徳井兩家〔京住み及び奈良住み〕(陰陽助又は陰陽權助,從五位下→正三位)
 攝家親王家諸大夫(正六位下→正三位,式部少輔權少輔治部民部兵部刑部大藏宮内權大輔少輔權少輔大宰少貳寮頭職亮司正國守)
 坊官(法橋(六位)→法眼(五位)→法印(四位准三位),仁和寺門跡坊官は總在廳宣下)
 上北面院藏人(非藏人中上北面となる家,他に攝家諸大夫より「上北面代」として加勢手伝いあり)
その他
 C華諸大夫(從六位上→從三位)
 大臣家中山家諸大夫(從六位下→正四位下)
 諸門跡諸大夫(正六位下→正四位下,輪王寺門跡諸大夫のみ從五位下→正四位下)
 その他諸大夫格の地下官人

※三位以上に昇りうる社家や諸大夫家は禁裏女官である命婦及び女藏人を輩出しうる
 (總稱“御下樣”といわれる命婦女藏人及び御差のうち御差は諸大夫でさえあれば輩出しうる)
239234:2011/01/12(水) 17:19:09
>>235
遅いレスポンスですみません。

初めて見たのは、愚生が小学校の高学年のころ、昭和30年ころと思います。
墓石というのか御柱というのですか、独特の角錐の頂部のもので、古びた墓石
の中で真新しかったのを覚えています。

士官でも下士官でもなく、陸軍○○兵と刻まれていました。
墓石には、父上が建立されようなことが書かれていたと思います。

それから、30数年たって、何かの用事で当地を訪れ、思い出してその墓石を探
したところ墓地の隅に無縁になった墓石が積まれているところに見たときは、胸
がふさがる思いをいたしました。それも、今はもうありません。
御霊は護国の社に鎮まっておられるのでしょうが。

240日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:27:45
明治以後の位階は華族とか高等官用のものだと思ってました。
華族は従五位下初叙で年齢に応じて昇進、確か爵位で上限が違う。
って感じだったと思います。
高等官は、官等に応じて位階の上下限が決まっていって、勤続年数で機械的に昇進。
なんかそんな表をどこかで見たような気が。
ただの案で現実には施行されなかったか、一時的制度かもしれませんが。
兵卒でも功績があれば、勲等や功○級の他に位階も与えられたのかなあ?
それとも、軍ではなく娑婆の職業関係で貰われたんでしょうか?
よくわからないですね。
241日本@名無史さん:2011/01/12(水) 19:50:59
×華族は従五位下初叙
○華族は従五位初叙
ついいつもの癖で下まで打ってしまいました。
242日本@名無史さん:2011/01/12(水) 21:50:42
地下官人に関する疑問、地下官人の肩書きで、
図書寮従五位下図書大允対馬守なんてのがある。
図書寮史生正七位下大和少目とか
内蔵寮官人正六位下大炊大允とか
同従六位下加賀介とか
内蔵寮史生従六位下大隈掾とか
主水司従五位下主水佑とか。
まあ位階はわかる、後半が官なのも良いだろう。
またこの二つは単なる格付け肩書きなのだろう。
前段が地下官人としての実際の役目なのも良いとして、
これをなんと呼ぶのか?
律令制の雑任以下(史生・使部・衛士等)や、
令外の職名(検非違使・出納等)だったり、
官司名(図書寮・主水司など)の場合とか
官名とイコールの場合(大少外記・左右大史等)もあるし、
令制と無関係の名称(画所預・戸屋主・下南座等)もあるけど、
総じて、職ってことで良いの?
243日本@名無史さん:2011/01/13(木) 01:30:47
>>240
>兵卒でも功績があれば、勲等や功○級の他に位階も与えられたのかなあ

戦死された方はもらってますよ。
それから、確か昭和40年代かに、法律家改正されたせいでしょうか、戦
死公報が出た時点でもらったものより、上位の位階勲等が追贈されてるら
しいですよ。
244日本@名無史さん:2011/01/13(木) 01:32:24
>>243
×法律家改正
○法規改正
245日本@名無史さん:2011/01/13(木) 11:42:27
>>240
爵位で上限が違うなんてことはない
生きてさえいれば男爵でも従一位にまで昇れる

公爵 20歳従五位 22歳正五位 25歳従四位 29歳正四位 34歳従三位 40歳正三位 47歳従二位 55歳正二位 64歳従一位
侯爵 20歳従五位 23歳正五位 27歳従四位 32歳正四位 38歳従三位 45歳正三位 53歳従二位 62歳正二位 72歳従一位
伯爵 20歳従五位 24歳正五位 29歳従四位 35歳正四位 42歳従三位 50歳正三位 59歳従二位 69歳正二位 80歳従一位
子爵 20歳従五位 25歳正五位 31歳従四位 38歳正四位 46歳従三位 55歳正三位 65歳従二位 76歳正二位 88歳従一位
男爵 20歳従五位 26歳正五位 33歳従四位 41歳正四位 50歳従三位 60歳正三位 71歳従二位 83歳正二位 96歳従一位
246日本@名無史さん:2011/01/13(木) 14:04:44
T親王家
伏見宮,桂宮,有栖川宮,閑院宮,中川宮(文久三年二月取立),山階宮(元治元年正月取立)

門跡及び准門跡
眞言宗:仁和寺,大覺寺,蓮華光院(大覺寺の兼帶),三寶院,隨心院,勸修寺
天臺宗山門派:梶井,青蓮院,妙法院,曼珠院,輪王寺,毘沙門堂(輪王寺の兼帶・御隱殿)
天臺宗寺門派:聖護院,照高院(聖護院の御隱殿),實相院,圓滿院
法相宗:一乘院,大乘院
淨土宗:知恩院
眞宗:本願寺,東本願寺,興正寺,佛光寺,專修寺,錦織寺

比丘尼御所
大聖寺,寶鏡寺,曇華院,光照院,靈鑑寺,圓照寺,林丘寺,中宮寺,慈受院(曇華院の兼帶),三時知恩寺,法華寺,瑞龍寺,總持院,寶慈院,本光院

U攝家
近衞殿,九條殿,二條殿,一條殿,鷹司殿
舊攝家:松殿
武家關白:關白太政大臣秀吉,關白左大臣秀次,右大臣秀頼

・關白嫡子:
元服・聽禁色雜袍昇殿宣下・敍正五位下→從四位上(越階)→近衞權少將(剩闕推任)→近衞權中將(剩闕推任)
→從三位(越階,中將如元;三位中將)→權中納言(中將如元;中納言中將)→權大納言(聽帶劒宣下)→兼左近衞大將
→内大臣(大將如元)→右大臣(隨身兵仗宣下)→左大臣→關白内覽一座藤氏長者隨身兵仗牛車等宣下

・攝家嫡子・關白嫡孫:
元服・聽禁色雜袍昇殿宣下・敍從五位上→從四位下(越階)→近衞權少將(剩闕推任)→近衞權中將(剩闕推任)→正四位下(越階)
→從三位(越階,中將如元;三位中將)→權中納言(中將如元;中納言中將)→權大納言(聽帶劒宣下)→兼左近衞大將
→内大臣(大將如元)→右大臣(隨身兵仗宣下)→左大臣→關白内覽一座藤氏長者隨身兵仗牛車等宣下
(→太政大臣→准三宮宣下)
247日本@名無史さん:2011/01/13(木) 14:06:15
VC華
久我,轉法輪,三條(轉法輪三條),西園寺,徳大寺,花山院,大炊御門,今出川(菊亭),醍醐,廣幡
舊C華?:六波羅,鎌倉,堀川,洞院,土御門,室町
武家C華:
 羽柴岐阜中納言秀信・大野宰相秀雄,羽柴武藏(江戸)内大臣家康・武藏(江戸)中納言秀忠,羽柴大和大納言秀長・大和中納言秀保,
 羽柴備前中納言秀家,羽柴越後(會津)中納言景勝,羽柴安藝中納言輝元・安藝宰相秀元,羽柴加賀大納言利家・加賀中納言利長,
 羽柴筑前中納言隆景・筑前中納言秀秋

位階の昇敍は三位まで毎年
初敍從五位下→從五位上→正五位下→侍從→從四位下→元服・昇殿→近衞權少將→近衞權中將
→從三位(中將如元;三位中將)→權中納言(帶劒)→正三位→從二位→正二位→權大納言→兼右近衞大將
→内大臣(大將如元;廣幡は大將を去る)
(→右大臣→左大臣)

W大臣家
中院,正親町三條(嵯峨),三條西(西三條)

位階の昇敍は三位まで中置一年
初敍從五位下→從五位上→正五位下→侍從→從四位下→元服・昇殿→近衞權少將→近衞權中將
→參議(中將如元;宰相中將)→從三位→權中納言(帶劒)→正三位→從二位→正二位→權大納言
(→内大臣)
248日本@名無史さん:2011/01/13(木) 14:08:18
X平堂上
○寛延三年(1750年)官位御定
@舊家のうち然るべき家:位階の昇敍は三位まで中置一年
 ●閑院家:正親町三條(嵯峨),三條西(西三條),正親町,滋野井  ●花山院家:中山  ●中御門家:中御門(松木)
 ●村上源氏:中院
A舊家:位階の昇敍は三位まで中置二年
 ●閑院家:C水谷,四辻(室町),橋本,河鰭,阿野,梅園,小倉  ●花山院家:飛鳥井,難波  ●中御門家:園,持明院  ●御子左家:冷泉(上冷泉),冷泉(下冷泉)
 ●日野家:日野,廣橋,柳原,烏丸,竹屋  ●勸修寺家:甘露寺,葉室,勸修寺,萬里小路,C閑寺,中御門,坊城
 ●四條家:鷲尾,油小路,四條,山科,西大路  ●水無瀬家:水無瀬  ●高倉家:藪(高倉)  ●二條殿別流:富小路
 ●清和源氏:竹内  ●宇多源氏:庭田,綾小路,五辻  ●村上源氏:六條  ●花山源氏:白川  ●桓武平氏:西洞院
 ●菅原氏:高辻,五條,唐橋,東坊城  ●清原氏:舟橋  ●大中臣氏:藤波  ●卜部氏:吉田  ●安倍氏:土御門  ●丹波氏:錦小路  ●大江氏:北小路
B新家:位階の昇敍は三位まで中置三年
C元和以後取立新家:位階の昇敍は三位まで中置四年,侍從不可,極端な新家は中少將不可,參議は家の先例がなければ不可

○權大納言辭任後本座宣下→從一位宣下→准大臣宣下
 ●花山院家:中山  ●中御門家:中御門(松木),園
 ●日野家:廣橋
○權大納言辭任後本座宣下→從一位宣下
 ●花山院家:飛鳥井
 ●日野家:日野,柳原,烏丸  ●勸修寺家:甘露寺,葉室,勸修寺,萬里小路,C閑寺,中御門,坊城
 ●四條家:鷲尾,油小路,四條,山科,西大路  ●水無瀬家:水無瀬  ●高倉家:藪(高倉)  ●二條殿別流:富小路
 ●宇多源氏:庭田
○權大納言辭任後本座宣下

○藏人頭となる家
 ●閑院家:正親町,滋野井,姉小路,C水谷,四辻(室町),橋本  ●花山院家:中山,今城  ●中御門家:中御門(松木),園,東園
 ●日野家:日野,廣橋,柳原,烏丸  ●勸修寺家:甘露寺,葉室,勸修寺,萬里小路,C閑寺,中御門,坊城
 ●四條家:鷲尾,油小路,櫛笥  ●水無瀬家:水無瀬  ●高倉家:藪(高倉)  ●二條殿別流:富小路
 ●宇多源氏:庭田
249日本@名無史さん:2011/01/13(木) 14:19:58
X平堂上(續)
○大納言迄宣任の例多き舊堂上(敍爵内規)
  舊大臣家三家
 ●閑院家:正親町三條(嵯峨),三條西(西三條)
 ●村上源氏:中院
A 四位より參議に任じ大納言迄直任の舊堂上二十二家
 ●閑院家:正親町,滋野井,C水谷,四辻(室町),橋本  ●花山院家:中山  ●中御門家:中御門(松木),園
 ●日野家:日野,廣橋,柳原,烏丸  ●勸修寺家:甘露寺,葉室,勸修寺,萬里小路,C閑寺,中御門,坊城
 ●四條家:鷲尾,油小路
 ●宇多源氏:庭田
B 三位より參議に任ずといへども大納言迄直任の舊堂上三家
 ●花山院家:飛鳥井  ●御子左家:冷泉(上冷泉)
 ●四條家:四條
C 大納言迄直任の例は少ないが從一位に敍せられたことのある家
 ●閑院家:姉小路
 ●四條家:山科

○上記に記載のない家
 ●閑院家:花園,裏辻,山本,大宮,武者小路,風早,押小路,高松,園池,藪,中園,西四辻,高丘  ●花山院家:野宮  ●中御門家:高野,石山,壬生,石野,六角  ●御子左家:藤谷,入江
 ●日野家:日野西,勘解由小路,裏松,外山,豐岡,三室戸,北小路  ●勸修寺家:芝山,池尻,梅小路,岡崎,穗波,堤
 ●四條家:八條  ●水無瀬家:七條,町尻,櫻井,山井  ●高倉家:堀河,樋口
 ●宇多源氏:大原,慈光寺  ●村上源氏:久世,岩倉,千種,梅溪,愛宕,東久世,植松  ●桓武平氏:平松,長谷,交野,石井
 ●菅原氏:C岡,桑原  ●清原氏:伏原,澤  ●卜部氏:萩原,錦織,藤井  ●安倍氏:倉橋  ●大江氏:北小路
250日本@名無史さん:2011/01/13(木) 14:45:16
X平堂上(續々)
○羽林家
 ●閑院家:正親町,滋野井,姉小路,C水谷,四辻(室町),橋本,河鰭,阿野,花園,裏辻,梅園,山本,大宮,武者小路,小倉,風早,押小路,高松,園池,藪,中園,西四辻,高丘
 ●花山院家:中山,飛鳥井,難波,野宮,今城
 ●中御門家:中御門(松木),園,東園,持明院,高野,石山,壬生,石野,六角
 ●御子左家:冷泉(上冷泉),冷泉(下冷泉),藤谷,入江
 ●四條家:鷲尾,油小路,櫛笥,四條,山科,西大路,八條
 ●水無瀬家:水無瀬,七條,町尻,櫻井,山井
 ●高倉家:堀河,樋口
 ●宇多源氏:庭田,綾小路,大原
 ●村上源氏:六條,久世,岩倉,千種,梅溪,愛宕,東久世,植松

○名家
 ●日野家:日野,廣橋,柳原,烏丸,竹屋,日野西,勘解由小路,裏松,外山,豐岡,三室戸,北小路
 ●勸修寺家:甘露寺,葉室,勸修寺,萬里小路,C閑寺,中御門,坊城,芝山,池尻,梅小路,岡崎,穗波,堤
 ●桓武平氏:平松,長谷,交野

○半家
 ●高倉家:藪(高倉)
 ●二條殿別流:富小路
 ●清和源氏:竹内
 ●宇多源氏:五辻,慈光寺
 ●花山源氏:白川
 ●桓武平氏:西洞院,石井
 ●菅原氏:高辻,五條,唐橋,東坊城,C岡,桑原
 ●清原氏:舟橋,伏原,澤
 ●大中臣氏:藤波
 ●卜部氏:吉田,萩原,錦織,藤井
 ●安倍氏:土御門,倉橋
 ●丹波氏:錦小路
 ●大江氏:北小路,北小路
251日本@名無史さん:2011/01/13(木) 18:55:12
>>245
あ、どうもありがとうございます。
そう言えばそんなだった。
年齢見て男爵とか実質無理じゃんって思ったのを思い出した。
それで上限があるって脳内変換されちゃったみたいだ。
252日本@名無史さん:2011/01/13(木) 20:24:10
地下家伝の編集方針って、基本的に官か位がある人だけ?
家伝だけに、歴代官位に縁がある家については、
たまたま早死にとかで無位無官の当主も載ってるみたいだけど。
253日本@名無史さん:2011/01/13(木) 22:46:26
江戸期の官人の官歴って、
公卿は公卿補任、ごく下級をのぞく地下は地下家伝で概ねわかるとして、
非公卿の堂上の官歴ってまとまった物ってあるの?
早死にとかその他諸々で四位・五位止まりって結構居るよね。
半家あたりは、高齢と言わないまでも、
相当な年齢にならないと公卿になれない場合があるし。
254日本@名無史さん:2011/01/14(金) 02:40:01
>>245
 その官位ってどれくらいまで生きてた制度なんでしょう。
 伯爵で、60歳以上生きた(もちろん戦前に60以上到達)けど従二位になって無い人がいた気がして…。
255日本@名無史さん:2011/01/14(金) 04:26:46
>男爵 96歳従一位

華族が存在したのは約77年だから従一位は無理だ・・・
256日本@名無史さん:2011/01/14(金) 16:00:45
華族の叙位対象は、有爵者本人(つまり当主)と嫡子だったそうだ。
と言うことは本来継承予定でなかった人が、嫡子等の死亡で後を継いだ場合、
初叙が20歳ではなく、より高齢と言う事態は当然あり得るわけだ。
また、超長生きの当主がいつまでも隠居しないと、嫡孫、嫡曾孫も叙位なし?
そう言う風に初叙が遅い場合は、年限より昇階が遅れるのかも?
257日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:03:50
例えば某伯爵で当主60歳、嫡男38歳、嫡男の妻31歳とかで、
嫡男夫妻に男子無し(長男乳児期にインフルエンザで死去)、女子3人。
嫡男はまだ健康に不安もないし、男子誕生の可能性もあり養子など考えていない。
そんな状態だったのに、いきなり頓死。
あら大変どうしましょう、で急遽34歳の次男が繰り上がって嫡男に。
なんて場合は、やはり従五位に叙されるのだろうか?
翌年35歳になったからって、一挙に正四位に叙されるものだろうか?
なにかそういう事情があったのかも?
258日本@名無史さん:2011/01/15(土) 12:50:02
摂家(7歳で元服とする)と公爵の比較
従五位 摂家7歳    公爵20歳
正五位 摂家7歳    公爵22歳
従四位 摂家8歳    公爵25歳
正四位 摂家9歳    公爵29歳
従三位 摂家9〜10歳 公爵34歳

清華(7歳で元服とする)と侯爵の比較
従五位 清華3〜4歳  侯爵20歳
正五位 清華5歳    侯爵23歳
従四位 清華6〜7歳  侯爵27歳
正四位 清華8歳    侯爵32歳
従三位 清華9歳    侯爵38歳

大臣家(11歳で元服とする)と伯爵の比較
従五位 大臣家4〜6歳  伯爵20歳
正五位 大臣家8歳     伯爵23歳
従四位 大臣家10〜12歳 伯爵27歳
正四位 大臣家14歳    伯爵32歳
従三位 大臣家16歳    伯爵38歳


軒並み家格が降下したも同然
259日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:40:02
江戸時代の陰陽寮地下官人って、公卿も排出し暦道って言う家業を持つ幸徳井は別として、
残りのほとんどは土御門家の内弟子か家臣に公式に官位が与えられるようになった。
ってそう言う解釈で良いの?
なんか初代の父親は軒並み土御門家神役人って肩書きなんだけど。
この神役人って言うのがよくわからんけど、土御門の内弟子?家臣?手伝い?
なんかそんな感じの存在なのかなあ?
260日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:17:10
>>259
式神に決まってるだろ。
261日本@名無史さん:2011/01/29(土) 12:28:36
位階ではなく神階ですが、「天一位大原神社」の天一位とは正一位の上ということですか?
262日本@名無史さん:2011/01/29(土) 13:25:18
>>261
そのような神階は聞いたことがない
おそらくは大原神社が自称しているだけと思われます。
263日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:10:12
>>262
ありがとうございます。
このように書いてあった幟を見かけまして、不思議に思っていました。
264日本@名無史さん:2011/01/29(土) 20:02:20
ttp://atanote.blog109.fc2.com/blog-entry-272.html
ぐぐってみたら、↑のブログの主が宮司に直接聞いたところ「古くからの自称」という返事を貰ったそうな。
265日本@名無史さん:2011/01/30(日) 01:10:38
深い意味はないんですね…
266日本@名無史さん:2011/01/30(日) 05:49:44
>>161
天下の光圀が朝廷の権威を畏れた事件だね
267日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:22:54
日本史板に来てまで時代劇をさも史実のように語る馬鹿って何なんだろう
268日本@名無史さん:2011/01/30(日) 21:28:58
光圀が権中納言になったのは隠居してから。
綱吉に嫌われてたからねえ。
269日本@名無史さん:2011/01/31(月) 03:18:25
>>267
おまいに水戸徳川の何がわかる?

光圀の何がわかる?
270名無し募集中。。。:2011/01/31(月) 07:45:11
低能は黙っててね^^
271日本@名無史さん:2011/01/31(月) 11:52:30
誤爆?






























272日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:17:36
吉良上野介とか小栗上野介とか、武家では親王任国の介は受領って伝統から、
幕末まで国守同等として扱われたようだけど、
公家の方は、少なくとも18世紀以降は介は介に変わりないじゃない。
って感じの扱いになっているようだ。
地下官人で、父は初任加賀介、家格が上がったわけではない息子は上野介、
しかもほぼ同時期の同僚が加賀介とかあるし。
果ては寮史生親子で、上総介とどこか普通の介とかもあった。
273日本@名無史さん:2011/02/01(火) 12:43:08
江戸時代に武家以外でも受領になってたんだ。

堂上家も受領になっていたんでしょうか?
274日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:32:31
江戸幕末の七卿落ちといわれる公家の中で
錦小路頼徳は、従四位下行大和権介なんて時期もあった。
因みに、七卿落ちの時は、従四位上行右馬頭。
275日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:09:54
梅小路定明(1846〜:定徳の子):50石3人扶持
 従五位上讃岐権守(1863時点、18歳)→正五位下讃岐権守(1865時点、20歳:1867同、22歳)

倉橋泰清(1853〜:泰顕の子):従五位下因幡権介(1867時点、15歳)

七条信栄(1826〜1841、16歳:信元の長男):従五位上備中権介(極官)
七条信祖(1829〜:信元の次男)
 従四位下備中権介(1863時点、35歳)→従四位上備中権介(1865時点、37歳:1867同、39歳)

錦小路頼徳(1835〜1864、30歳:唐橋在久の子:頼易の養子):30石3人扶持
 従五位下(1851、17歳)→大和権介(1853、19歳)→従五位上(1855、21歳)→従四位下(1858、24歳)→右馬頭
 (1862、28歳)→従四位上(1862)
錦小路頼言(1852〜:頼徳の子):30石3人扶持
 従五位下(1865時点、14歳)→従五位下丹波権介(1867時点、16歳)

たまたまメモしていた例からいくつか、権守・権介だけのような。
堂上で正官の守介は居るんだろうか?
地下なら掃いて捨てるほど居るみたいだけど。
276日本@名無史さん:2011/02/04(金) 01:20:12
錦小路家は堂上家で唯一の宿禰姓
他は朝臣で占められ、真人・忌寸姓はなし。
277日本@名無史さん:2011/02/04(金) 16:38:22
>>272
地下官人の中でも諸大夫格は六位でも五位以上でも國守宣下(上總常陸上野等の介もそこに含まれる)
侍や士分は六位以下のうちは國介、五位以上に昇れば國守宣下
史生等は國掾だったかな?
家格の上昇下降という問題ではなく個人の位階の問題でないかと思う

>>273-275
莊園公領制が終了しても遙任と受領の別というのは先例となっているわけで
堂上や伏見宮殿上人は遙任(權守や權介)で
地下や武家・社家は受領(守や介)

但し山城介や山城權介は攝家諸大夫のみが任じられる(親王家諸大夫はなれない)
これは賀茂祭の山城使として參向するため
ちなみに内藏助や内藏權助も攝家諸大夫のみが任じられる
山城介と同じく春日祭・賀茂祭・石清水放生會等に内藏使として參向するため
278日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:30:04
>>275
蔵米30石で国介か・・・。
塵みたいな存在だな。でも明治以降は子爵閣下か・・・。
279日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:11:49
何か勘違いしてるみたいだけど
それは官途の始めの部分を抜き出してるだけだろ

錦小路家は元は六位蔵人・典薬頭世襲で戦国時代に堂上に昇格した旧家
極位正三位で官は治部卿や大膳大夫に任じられる

堂上では相対的に最低レベルだが
前近代の日本においてそれより上の家格が百数十軒くらいしかないことくらい知っておこうよ
280日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:06:15
>>278
いや、子爵閣下といっても皇室とかから下賜金もらってギリギリ食ってる状況。
生活レベルは江戸時代と大して変わらんのじゃね?
朝鮮貴族と違って、叙爵されるときに高額な一時金もらったわけじゃないし。
281日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:07:46
>>275は最初の部分を抜き出したと言うわけではなくて、
早死ないし、維新で時間切れで四位・五位止まりのケース。
もっと時間が与えられれば三位以上になり得たのは事実だけど。
282日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:12:17
六位国守は諸大夫限定って言うのは18世紀中頃に規定が出来て以後らしい。
地下家伝を見る限りでは、それ以前は結構六位国守は多い。
史生=國掾は幕末数十年間の実態で、それ以前はいろいろ。
最初は国介や属とかで、後に国目が通例となり、その後國掾に移行。
283日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:16:01
大膳職史生(1787年2名置く、と徳岡久視の項に有り)
大浦安能(藤原:1753〜1811、59歳:系譜不明)
 大膳職史生(1787、35歳)→正七位下(1787)→丹後介(1787)→従六位下(1794、42歳)
大浦安敬(藤原:1795〜?(1819(25歳)時点生存):安能の長男)
 正七位下(1811、17歳)→伊勢大目(1813、19歳)→従六位下(1818、24歳)→辞任(1818)→位階返上
 (1819、25歳)→辞職(1819:病気)
辻自盁(藤原:1796〜?(1842(47歳)時点生存):安能の次男:兄安敬の養子)
 正七位下(1818、23歳)→武蔵大目(1818)→従六位下(1825、30歳)→官位返上(1842、47歳)
辻当聰(藤原:1805〜1826、22歳:自盁の子?(年齢差9歳、養子?))
 正七位下(1823、19歳)→上野大目(1823)
辻盁行(藤原:1808〜?(1830(23歳)時点生存):自盁の子?(年齢差12歳、養子?))
 正七位下(1829、22歳)→位階返上(1830、23歳)
辻祐吉(藤原:生没年不詳:自盁の子):正七位下(1832)→伊勢大目(1832)→位階返上(1834)
岸本至盛(源:1821〜1852、32歳:系譜不明)※辻家の名跡継承か?
 正七位下(1840、20歳)→越後大掾(1841、21歳)→従六位下(1849、29歳)
284日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:16:51
斉藤政珍(藤原:1767〜?(1803(37歳)時点生存):系譜不明)
 大膳職史生(1787、21歳)→正七位下(1787)→日向介(1787)→官位返上(1803、37歳)
中神富徳(菅原:1780〜?(1817(38歳)時点生存):系譜不明)
 大膳職史生(1807、28歳)→正七位下(1807)→若狭目(1807)→従六位下(1814、35歳)→官位返上(1816、37歳)
 →辞職(1817、38歳:病気)
金川貞徳(菅原:1795〜1845、51歳:富徳の子)
 大膳職史生(1817、23歳)→正七位下(1817)→薩摩目(1817)→従六位下(1825、31歳)
金川弘徳(菅原:1806〜1830、25歳:貞徳の子?(年齢差11歳、養子?))
 正七位下(1824、19歳)→陸奥大目(1824)
金川幾成(菅原:1814〜:系譜不明):正七位下(1840、27歳)→大和大掾(1841、28歳)→従六位下(1849、36歳)
285日本@名無史さん:2011/02/04(金) 20:17:56
大炊寮史生(1809年2名置く、と徳岡久明の項に有り)
岡田勝厚(丹治:1784〜?(1824(41歳)時点生存):系譜不明)
 大炊寮史生(1810、27歳)→正七位下(1810)→美濃目(1810)→従六位下(1817、34歳)→官位返上(1824、41歳)
 →辞職(1824:病気)
岡田典則(丹治:1803〜?(1835(33歳)時点生存):勝厚の子)
 正七位下(1824、22歳)→常陸大目(1824)→官位返上(1835、33歳)
岡田延武(丹治:1805〜?1851、47歳:勝厚の子:兄典則の養子)
 大炊寮史生(1832、28歳)→正七位下(1832)→陸奥大目(1833、29歳)→従六位下(1840、36歳)
岡田義郁(丹治:1830〜:延武の子):正七位下(1849、20歳)→上総大掾(1850、21歳)

鈴木友高(源:1772〜1856、85歳:系譜不明)
 大炊寮史生(1812、41歳)→正七位下(1812)→尾張目(1812)→従六位下(1817、46歳)
鈴木為清(源:1822〜1851、30歳:友高の子):正七位下(1849、28歳)
鈴木以友(源:1824〜:友高の子、為清の弟):正七位下(1855、32歳)→越前大掾(1824)
286日本@名無史さん:2011/02/04(金) 21:26:28
18世紀中頃は位階の規定で、国守関係は19世紀初頭だった。
文化3年(1806年)12月20日
地下・諸家侍・社祠官等の六位の輩は国守不可、現任は追々他官に転任

ついでに諸司史生の位階は、18世紀前半に従六位下初叙の例があるが、
1750年に規定が出来て以後は従七位下初叙(当初は40歳以上、だんだんなし崩し)。
叙位からさほど立たず任官、官は一生変わらない場合が多い。
初叙後7〜9年程度で従六位下昇進、ごく希に従六位上があるが、
通常は、数十年勤続、かなりの高齢でも以後一切位階・官職とも昇進なし。
287日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:01:21
蔵人所衆
藪清明(元信易:平(元藤原):1754〜1827、74歳)
 (滝口・越前守粟津清?(平)の子:始め御厨子所小預大隅家(藤原)相続)
 御厨子所小預(1768、15歳)→従六位下日向守(1769、16歳)→蔵人所衆(1770、17歳)→従六位上(1775、22歳)
 →位階返上(1777、24歳)→正六位下(同日)→従五位下(1785、32歳)→従五位上(1793、40歳)→正五位下
 (1801、47歳)

袖岡芳景(橘:1731〜1791、61歳:上南座橘正実の子)
 蔵人所衆(1770、40歳)→従六位下大炊助(1770)→土佐守(1775、45歳)→従六位上(1776、46歳)→位階返上
 (1777、47歳)→正六位下(同日)→従五位下(1785、55歳)

土橋良種(平:1770〜?(1799(30歳)時点生存):種明の子:兄忠種の養子)
 正六位下和泉守(1792、23歳)→辞職(1798、29歳:病気)→位階返上(1799、30歳:病気)
土橋重弼(平:1785〜1817、33歳:南座対馬守橘重雄の子:良種の養子)
 正六位下隠岐守(1797、13歳)→従五位下(1805、21歳)→宮内大丞(1805)→大和守(1809、25歳)→従五位上
 (1814、30歳)→大監物(1815、31歳)

岡田康ネ(元康孝:菅原:1735〜1786、52歳)
 蔵人所衆(1771、37歳)→従六位下壱岐守(1771)→若狭守(1773、39歳)→従六位上(1777、43歳)→位階返上(1777)→
 正六位下(同日)→従五位下(1785、51歳)
岡田宝塾(菅原:1763〜1799、37歳:康ネの子)
 従六位下壱岐守(1773、11歳)→位階返上(1778、16歳)→正六位下(同日)→内匠大允(1783、21歳)→内匠助
 (1785、23歳)→従五位下(1786、24歳)→従五位上(1794、32歳)
18世紀中は六位国守、特に珍しくもないような。
所衆は、まず諸大夫クラスじゃないよなあ。
288日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:19:09
1750年の官位御定ってどこで読める?
全文を読みたいんだけど
289日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:00:22
地下家伝付録として、地下家伝5巻に収録されてるのは地下関連規定だけかなあ?
290名無し募集中。。。:2011/02/05(土) 10:10:12
>>285
どうでもいいけどこの岡田って丹党流だな
武蔵七党系図にも見える苗字
291日本@名無史さん:2011/02/05(土) 11:46:50
地下官人って諸大夫・侍・士分と身分があるようだけど
どれが侍でどれが士分?

俺に大体わかるのはこれくらい
諸大夫:非蔵人大外記左大史小森幸徳井二軒上北面院蔵人東宮陣頭
侍:出納下北面女院北面東宮侍者

六位立の並官人が侍で七位立の下官人が士分と言えるだろうか

少外記以下召使までと右大史以下召使までは侍?
少納言侍と弁侍は侍と言ってるけど七位立で実際は士分?
○○省、○○職、○○寮、○○司という肩書のある者は侍?
内豎は侍?
○○寮官人みたいなのは士分?
陣官人や左右生火官人は?
諸司史生や使部衛士以下無位無官は凡下?
陰陽師や医師は?
内舎人・検非違使・楽人・滝口・左右近衛府は侍かな

社家は初叙五位だけど諸大夫と考えていいのだろうか
292日本@名無史さん:2011/02/05(土) 15:03:26
弁侍とかの侍は身分としての侍ではなく、
仕える者って言う意味の、本来の意味の侍じゃないのかな?
摂家・親王家・門跡では、
六位侍の下に、用人・近習・中小姓・青士・茶道(以上士分)
小頭・中番・下僕等って序列。
口向役人は、小間使以上が士分らしい。
その下に仕丁(根来同心・門番等を含む苗字帯刀組とそれ以下に分かれる)
並官人は、一部諸大夫身分、大多数は侍身分、
下官人は士分って感じじゃないの?
禄がつく以前の史生とかは在任中だけ士分扱い?
無位無官組でも世襲の家は士分じゃないかな?
諸司官人は、正七位下から六位(正六位下有り)昇進で、
士分かなあ?
293日本@名無史さん:2011/02/05(土) 19:17:48
平堂上家の雑掌というのは六位を賜れない無位の侍って感じなのかな?
幕末に柳原家などに六位侍がつけられたけど
言ってみれば既存の家来に六位をもらっただけでしょ?
294日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:27:01
口向役人の役付以外の序列、中詰、使番、小間使。
中詰は、1軒だけ無位無官の新規お抱えがあるが残りは地下官人が本職。
使番は、過半数以上が無位無官、小間使(数軒)が士分の最下位とされている。
となると、無位無官でも衛士役人とか某役人と称されるクラスの地下官人は
士分では?
釜殿とか看督長は、そもそも地下官人なのか?士分じゃなさそうな気も?
だけど禄はあるんだよな、このクラスでも。
幕府も御家人の下限はよくわからないなあ。
295日本@名無史さん:2011/02/06(日) 05:00:32
>>246
文字化けしていて中国式の漢字になってますよ。
296日本@名無史さん:2011/02/06(日) 13:44:44
文字化け?
日本史板にいながら旧字体(正字)も知らんのか今の子は
297日本@名無史さん:2011/02/06(日) 14:33:10
検非違使堀川家(大蔵省木工寮を兼ねる)は一条家諸大夫格
分家の同苗堀川家は一条家分家の醍醐家の諸大夫だし

検非違使というと侍っぽいし
しかも院下北面(侍)とかを勤めてたりするのに諸大夫とかわけわからん
とにかく兼補が多すぎ
298日本@名無史さん:2011/02/07(月) 16:02:15
自衛隊の士長・1士〜3士は志長・1志〜3志にすればいいのに。
299日本@名無史さん:2011/02/07(月) 18:31:17
>>298
アホ
近衛将曹は四等官の何に当たるのか考えてみろ。
300日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:44:16
大昔、SF作家光瀬龍が角川から出してた「平家物語」の何巻だったかに、
少志は伍長か一等兵くらいなんて、とんでもを書いてたなあ。
四等官以上は最低ランクでも将校相当だと思うけどな。
衛府の尉官は、近代以後の軍隊で言えば佐官級程度かなあ。
単純には比較できないけど、そのくらいの重みはあったんじゃないの。
301日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:10:46
>>300
令制に従うとその通りだが、当時の実情を踏まえた見解だったら光瀬氏の見方もあながち外れとは言えない。
当時は、財政難克服のために兵衛府や衛門府の判官・主典を濫発して成功の対象にしていたからね。
302日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:57:25
>>298
まあ“卒”の分際で“士”とか
ネーミングした奴の顔を見てみたいと思ったことはあるな
“曹”より偉そうなのがあれだな
303日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:59:37
あ、“曹”は“下士”だからってことね
304日本@名無史さん:2011/02/08(火) 01:46:16
軍隊用語の「曹」はつまり下士官なのだが、下士官とは下級の士官の意味ではなく士官の下の職という意味だ。
305日本@名無史さん:2011/02/08(火) 01:51:09
つまり自衛官の「士」に違和感を覚えるならば、消防士や行政書士や看護士の「士」にも相当の違和感を覚えるはず。
自衛官の階級に「兵」の字を忌避する事情を理解している一般人には違和感はないと思う。
306日本@名無史さん:2011/02/08(火) 01:55:37
あえて書くけど
一般人=常識のある人
307日本@名無史さん:2011/02/08(火) 02:42:19
そもそも現在ある官名と比べるのがナンセンス
308日本@名無史さん:2011/02/08(火) 04:08:28
連投までして何が言いたいのか不明だけど…

下士官兵は昭和の初めに改められるまで下士卒と呼ばれていた。
本来下士卒という語は維新以前の下士身分(徒などの士分)・卒身分(足軽同心など)からの転用だと考えるのが妥当。
そして単に「士」と言ったら侍身分や士分のこと。
そのこと(あるいは東アジア世界における「士」という語の用法)を知っていれば
陸士(消防士なども)という言い方に疑問を覚えてもおかしくない。

疑問を覚えたら常識がある人ではないと言いたいのかね。
「卒」なのに「士」って変なの、ってことでそれこそ「あえて」言ってるんだろ。
この板が日本史板だとわからないのかな。
309日本@名無史さん:2011/02/08(火) 10:29:07
東アジア社会における士。
先秦時代、庶民よりは上の特権階級の最下層。
漢:同じ徴兵されても金持ちは衛士、庶民は衛卒。
六朝時代、最上層を含む貴族の意味と、庶民以下の下級兵卒の意味との、
両義がある。
日本の律令時代、衛士とか兵士とか、下級兵の場合が多い。
もっとも中隊長クラス(200人長)まで含むが。
文士とか武士とかは下級官僚クラスのようだ。
士は本来はある程度以上の地位だったようだが、
言葉の常として価値が下落する傾向があり、
日本に伝わる頃には、上下二つの用法があったようだ。
なんて歴史的経緯をみると、自衛隊の兵隊さんが士でも良いような気がしてきた。
それでもなんとなく違和感あるけどね。
310名無し募集中。。。:2011/02/08(火) 18:53:05
どうでもいいけど武士と侍を同義と考えるのが一般的になっちゃってるから
公家侍も武士だと思ってたり
公家侍なんて本当の武士じゃないとか的外れなこと言ってる奴を見たことある
311日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:55:16
ttp://hatouya.ifdef.jp/military/editorial/kaikyuu.html
こんなものが。
警察と弾正台・検非違使の比較も見てみたい。
312日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:18:25
自衛隊前史の時期の警備士は、尉官相当程度だよね。
その辺のとの整合性って考えなかったのかなあ?
あと、満州国の警士は巡査級だったけ?
上に警正とか警尉、警尉補、警長なんての居たような。
313日本@名無史さん:2011/02/09(水) 00:25:44
16世紀から17世紀初頭にかけて、官史と外記を兼ねる例が見えるけど、
仕事も金も人手もなくて、官方と外記方が融合しかかってたのかな?
その頃の雑務は召使青木家が一手に引き受けてたように見えるし。
314日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:07:57
外記方か官方のどちらかが出れば行事が成立するようになってたって論文か何かがあったな
中身読んでないから適当な紹介で悪いけどw
315日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:16:03
>>310
侍所、政所を「鎌倉幕府から始まる政治機構」と
学校で教えているうちは、そこのところは直らないと思う。
316日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:54:35
官職 官等 初敍位階勳等功級 官等上相當する警察の官職
陸軍大將海軍大將 親任官 正四位勳二等功三級
陸軍中將海軍中將 高等官一等 從四位勳三等功三級 警視總監
陸軍少將海軍少將 高等官二等 正五位勳四等功三級 警視總監
陸軍大佐海軍大佐 高等官三等 從五位勳六等功四級 警視正
陸軍中佐海軍中佐 高等官四等 正六位勳六等功四級 警視
陸軍少佐海軍少佐 高等官五等 從六位勳六等功四級 警視
陸軍大尉海軍大尉 高等官六等 正七位勳六等功五級 警視
陸軍中尉海軍中尉 高等官七等 從七位勳六等功五級 警視
陸軍少尉海軍少尉 高等官八等 正八位勳六等功五級 警視
陸軍准尉海軍兵曹長 判任官一等 正七位勳八等功六級 警部
陸軍曹長海軍上等兵曹 判任官二等 從七位勳八等功六級 警部警部補
陸軍軍曹海軍一等兵曹 判任官三等 正八位勳八等功六級 警部警部補
陸軍伍長海軍二等兵曹 判任官四等 從八位勳八等功六級 警部警部補
陸軍兵海軍兵 ― 功七級 巡査部長巡査


官職(階級)名は最終時

親任官は親任
高等官一等乃至二等は敕任
高等官三等乃至九等は奏任
判任官一等乃至四等は判任
※巡査部長及巡査は判任待遇
317日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:01:33
>>316
訂正(今の階級に釣られて警視正なんて書いてしまった)

官職 官等 初敍位階勳等功級 官等上相當する警察の官職(警察官/消防官)
陸軍大將海軍大將 親任官 正四位勳二等功三級
陸軍中將海軍中將 高等官一等 從四位勳三等功三級 警視總監
陸軍少將海軍少將 高等官二等 正五位勳四等功三級 警視總監
陸軍大佐海軍大佐 高等官三等 從五位勳六等功四級 警視地方警視/消防司令
陸軍中佐海軍中佐 高等官四等 正六位勳六等功四級 警視地方警視/消防司令
陸軍少佐海軍少佐 高等官五等 從六位勳六等功四級 警視地方警視/消防司令
陸軍大尉海軍大尉 高等官六等 正七位勳六等功五級 警視地方警視/消防司令
陸軍中尉海軍中尉 高等官七等 從七位勳六等功五級 警視地方警視/消防司令
陸軍少尉海軍少尉 高等官八等 正八位勳六等功五級 警視地方警視/消防司令
陸軍准尉海軍兵曹長 判任官一等 正七位勳八等功六級 警部/消防士消防機關士
陸軍曹長海軍上等兵曹 判任官二等 從七位勳八等功六級 警部警部補/消防士消防機關士消防士補消防機關士補
陸軍軍曹海軍一等兵曹 判任官三等 正八位勳八等功六級 警部警部補/消防士消防機關士消防士補消防機關士補
陸軍伍長海軍二等兵曹 判任官四等 從八位勳八等功六級 警部警部補/消防士消防機關士消防士補消防機關士補
陸軍兵海軍兵 ― 功七級 巡査部長巡査/消防曹長消防手


官職(階級)名は最終時

親任官は親任
高等官一等乃至二等は敕任
高等官三等乃至九等は奏任
判任官一等乃至四等は判任
※巡査部長及巡査は判任待遇

警視総監、大阪府警察局長、其の他の都市警察部長、北海道庁警察部長、各県警察部長
318日本@名無史さん:2011/02/10(木) 09:09:34
>>314
確か官務が欠員だった時期もあるらしいし。
本当に小人数でどうにか回してたんだな。
金がないから、行事もほとんどできず、
仕事自体がほとんどないんだろうけど。
319日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:08:59
大間書って、群書類従、続群書類従に4年分載ってるらしいけど、
他の年度のも残ってるの?
一般人に簡単に利用できるかどうかはともかく。
320日本@名無史さん:2011/02/11(金) 16:32:58
保元4年に内舎人になった源朝臣行家って、清和源氏の例の行家?
それとも別人?
時期的にはありそうなんだけど。
321日本@名無史さん:2011/02/11(金) 17:34:11
そのころは義盛と名乗ってるんじゃない?
322日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:14:46
ああなるほど、じゃあ多分別人だな。
どうもありがとう。
頼光系あたりの誰かくらいなのかなあ?
323日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:36:30
下橋敬長「維新前の宮廷生活」(『幕末の宮廷』所収,東洋文庫,平凡社)の補遺に紹介されている
旧地下官人諸大夫侍等の団体である京都桜橘財団

これについてググってみたら
「平成二十二年六月三十日をもって寄付行為に定める存続期間が満了したことにより解散した」という情報を発見
去年まで存続してたのかw
324日本@名無史さん:2011/02/12(土) 06:17:30
>>323

凄いな。これは朝廷の残党だろww
325日本@名無史さん:2011/02/12(土) 08:19:16
>>323
堂上会みたいなもんか。
しかし債権がどーやらこーたらと何か穏やかでない感じ。
326日本@名無史さん:2011/02/12(土) 09:40:16
やっぱり若江さんが代表とかだったのかなw
327日本@名無史さん:2011/02/12(土) 12:46:52
民主の仕分けで発覚したか
金銭トラブルでダメになったか。
看板のつけかえで存続してる可能性もあるから
詳しい人は調べてみるといいかもしれない。
宮内庁とかに関連してきてタブーなのかね。
328日本@名無史さん:2011/02/12(土) 13:33:55
堂上家の人たちは株式会社の形式で経済基盤を築き、もう一度朝廷を作ってほしい。
社長=左大臣、専務=右大臣、常務=内大臣・大納言、取締役=参議といった感じ。

社員として地下家の人たちを雇用し、それぞれの家格・家業によって人事を決めればよい。
もちろん、極官は課長、係長くらいだろうが。
329日本@名無史さん:2011/02/12(土) 13:49:46
見たけど、
>当法人は、平成二十二年六月三十日をもって寄付行為に定める存続期間が満了
>したことにより解散したので、当法人に債権を有する者は、本公告第一回掲載
>(平成二十二年八月二日)の翌日から二箇月以内にお申し出下さい。
>
>右期間内にお申し出がないときは清算から除斥します。
債権云々は決まり文句でしょう。請求する相手であるところの財団が消滅する
わけだから、もし請求するなら期限までに請求しろ、というだけ。
後で「実は書籍代○○円を払って貰っていなかったから払え」と言ってきても
知らないよ、と。
寄附行為は会社でいう定款にあたるものなんで、そこになにか条件が書いてあっ
たんでしょうな。対象者が皆亡くなるまでとか、設立から百年でとかなんとか
と。
330日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:41:50
>>328
漏れは清和源氏だから征夷大将軍になる資格ありだな。
331日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:48:10
>>328

もう一度朝廷を作るってのはアリだろうな。

昭和天皇の葬儀の時も、後醍醐天皇以来の慣例で八瀬童子が8人出てきて
棺をかついだ。
332日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:49:49
和歌山県の場合、紀伊徳川家も大納言、古代氏族の紀氏も大納言で
形式上は同格だったはず。
333日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:55:33
武家伝奏とか議奏って、明文規定の存在はともかく、
実質的には、家格の低い堂上はなれなかったってことで良いの?
半家とかの参議にもなれないような家とかそのあたり。
334日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:41:57
>>331
代表者が参列したんだよな、確か。担ぎはしなかった。
335日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:10:34
>>333
東坊城聡長(正二位・権大納言)が武家伝奏を務めた例が
半家唯一の例ではないかなと。
336日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:03:33
>>330
日本史板の官位スレでそんな素朴な誤解を書き込むなよ
337日本@名無史さん:2011/02/14(月) 13:28:57
常陸大掾は、なんで常陸権介じゃないんだ。
常陸介は受領で駄目だって言うのなら権介で良いじゃない。
上総は、上総介なんて名乗ってるし。本来は権介だろうけど。
338日本@名無史さん:2011/02/14(月) 17:35:38
どうでもいい
339日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:55:56
じゃあなんで同じ在庁トップの河越氏は武蔵権守や武蔵介じゃなくて
武蔵国留守所総検校職なんだって話だ
340日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:03:03
「身分的周縁と近世社会8:朝廷をとりまく人びと」高埜利彦編:吉川弘文館所収の
「朝廷をとりまく人びと」高埜利彦著によると、
元禄2年(1689年)の「新撰公家要覧」の議奏5名中に、
高辻前大納言豊長(65歳)と富小路前宰相(50歳)が見えるそうだ。
高辻は菅原氏で良いとして、富小路前宰相って、富小路永貞?
1640年生まれで当時50歳で非参議従三位なんだけど。
どのみち、議奏は伝奏より若干家格が低くてもなり得たってことなの?
341日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:57:58
議奏は非参議での就任例が数例有るし、四位参議の例もあるな。
半家や羽林・名家でも比較的家格が低いと思われる家でもなれたようだ。
342日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:48:10
中園季定(閑院流:1627〜):羽林新家:130石:権中納言1名の外概ね参議まで
 正三位参議(1677、51歳)→議奏(1677)→参議辞任(1677)→従二位(1677)→議奏辞任(1681、55歳)
高辻豊長(菅原:1625〜):半家旧家:200石:正二位権大納言
 従二位前権大納言(1687時点、63歳)→議奏(1687)→議奏辞任(1693、69歳)
富小路永貞(藤原:1640〜):半家旧家:200石:各1名正従二位の外は正三位非参議まで
 従三位非参議(1687時点、48歳)→議奏(1687)→議奏辞任(1690、51歳)
五辻盛仲(源:1710〜1762、53歳):半家旧家:200石余:従二位非参議
 正三位非参議(1755時点、46歳)→議奏(1755)
豊岡和資(日野流:1764〜1819、56歳):名家新家:30石3人扶持:権中納言1名の外概ね参議まで
 正三位非参議(1810時点、47歳)→議奏(1810)→参議(1815、52歳)→参議辞任(1815)→従二位
 (1817、54歳)→議奏辞任(1819、56歳)
東坊城聡長(菅原:1799〜):半家旧家:301石:正二位権大納言
 正三位参議(1845時点、47歳)→議奏(1845)→従二位(1846、48歳)→権中納言(1848、49歳)→
 権大納言(1851、53歳)→権大納言辞任(1851)→武家伝奏(1854、56歳)→正二位(1857、58歳)→
 武家伝奏辞任(1858、59歳)
阿野公誠(閑院流:1818〜):羽林旧家:478石余:正二位権大納言まで
 正四位下参議(1862時点、45歳)→議奏(1862)→議奏辞任(1863、46歳)→従三位参議(1863時点)→
 議奏(1863:再任)→議奏辞任(1864、47歳)
長谷信篤(平:1818〜1902、85歳):名家新家:30石3人扶持:参議または非参議
 正三位非参議(1863時点、46歳)→議奏(1863)→議奏辞任(1863)→正三位非参議(1867時点、50歳)
 →議奏(1867:再任)→廃官(1867)→参議(1868、51歳)

議奏のうち比較的家格ないし官位が低そうな例を目についただけ拾ってみた。
これを見ると議奏は、堂上家出身で現に公卿(四位参議でも非参議三位でも良い)ならなれる。
家格は、羽林・名家の新家可、半家は旧家なら可。
五辻と富小路あたり(半家旧家、非参議)が下限なのか?
半家の新家の場合はたまたまないだけか、なれないのか不明?
343日本@名無史さん:2011/02/21(月) 14:05:23.52
>>293
雑掌って官位持ちの地下官人が結構多いらしい。
社会階層的には侍とあまり変わらないんじゃあ?
そう言うのは譜代なんだろうな。
代々武家伝奏・議奏になったりするような家は、
雑掌の助けが必要だろうし、抱えておく収入もあるんだろう。
あと旧家の一部の高禄の家や、金になる家業がある家とかは。
金も仕事も両方存在してるだろうし。
344日本@名無史さん:2011/02/22(火) 01:26:28.75
雑掌はどこの家にも置いてあるんだけど
345日本@名無史さん:2011/02/22(火) 08:48:03.94
江戸時代において公家の家臣団を区別する時、
大臣家以上では有位有官の家の者を格により諸大夫、侍とし、
諸大夫家、侍家以外で士分の家臣を雑掌、
羽林家以下では数家を除いて、諸大夫家・侍家はおかずに
有位有官・無位無官に関わらず、士分以上は雑掌とする。

↑ざっくりとこれでいい?
346日本@名無史さん:2011/02/22(火) 09:20:30.56
大体そんな感じだと思うけど
侍と士分でも身分は違うからな
侍は七位以下にならずに無位から六位直叙
士分は七位とか昇進しても六位とかだろうし

江戸後期に侍を附属された家はどうしたんだろ

>>293の言ってるのは雑掌はもともと(無位の)侍かそれとも士分かってことなのかな?
無位の侍というのがありうるかというのも問題だけど
考えてみれば諸大名家中の侍も侍には違いないからな
347日本@名無史さん:2011/02/22(火) 09:33:40.42
島津久光は一時は無位無官だと記憶。
348日本@名無史さん:2011/02/22(火) 09:49:32.72
当主 松平修理大夫 ←子

部屋住 島津三郎 ←父
349日本@名無史さん:2011/02/22(火) 21:39:06.15
>>347
そうそう、それでみんなが頑張って従四位下権少将を貰ってようやく江戸城に登城できたのだ
350日本@名無史さん:2011/02/22(火) 21:52:37.33
禁裏に参内するには無位無官では無理だけど、江戸城に
登城するにも一定の官位が必要なのか?
351日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:34:28.08
>350
官位というよりは、大名なら藩主の登城が原則。
幼少の藩主なら、無位無官もあるしね。
尤も、幕府から呼びつけられれば別儀。
352日本@名無史さん:2011/02/23(水) 00:33:39.23
幼少で無位無官でも席次を決める都合上
この家は諸大夫格・この家なら四品格って感じで決まっているそうだ

表高家は諸大夫格・寄合は布衣格って言うけど同じようなものか
353日本@名無史さん:2011/02/23(水) 20:56:46.88
久光の場合は、実子を斉彬にを養子に出した訳で、形として島津本家でなく前藩主でも何でもない立場。
前藩主の弟で現藩主の実父で無位無官。
そんな立場の人間達に登城を認めていたら徳川幕府の格式と威厳が保たれない。
ましてや外様大名家の傍系の登城は、正当な根拠が無ければ厳しい。
354日本@名無史さん:2011/02/25(金) 14:58:28.96
>>352
それ関連で言えば喜連川は中将格なんだとさ
無位無官なので服装は平士同然の素襖だけど

なんかの席で加賀の殿様が「無位無官のくせにすぐ後ろに座ってる奴って何なの?」って怒ってたらしい

ついでに言うと加賀の嫡子は少将でも中将の上席だとか
355日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:54:40.61
誰がどういう官位とかはわかるものなの?
色とか服装とかで。
356日本@名無史さん:2011/02/25(金) 17:04:08.88
直垂 侍従以上の料
狩衣 四品の料
大紋 諸大夫の料
布衣 布衣の料
素襖 平士及び陪臣の料

ちなみに公方様専用の直衣というのもある
直衣は雑袍宣下を受けた親王大臣大将しか着られない
したがって公方しか着られない

ちなみに大紋は直垂のバリエーション(大紋直垂)
素襖は大紋のバリエーション(革緒の直垂)

狩衣と布衣は有紋か無紋かの違い
(厳密には裏地があるかないかという違いもあるが武家では狩衣でも裏がない)
357日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:24:11.21
>>354
そこで喜連川の御所様が、
「はあ?なに?織田んとこの柴田の与力大名風情が
サルの縁故で公卿成して偉そうに、何様だ おう?」
とか言い返せば面白かったのに。
358日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:55:36.11
>>357
御所様が釣られてどうすんだよ。
どうみても釣るほうだろw
359日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:02:26.74
江戸時代の武家公卿一覧

※御三家・御兩典・御三卿・加賀宰相など家格として公卿に昇りうる家は除く
※關ヶ原の戰以後「舊官」が廢せられる以前の明治初年まで(太政官制下の左右大臣・大納言・參議等は除く)

◆松平氏
秀康 正三位權中納言
忠直 參議從三位
光長 從三位
忠昌 參議正四位下
慶永 從二位權中納言
容保 參議正四位下
◆島津氏
義弘 參議正四位下
家久 權中納言從三位
重豪 從三位
久光 從二位權大納言
忠義 參議從三位
◆毛利氏
輝元 權中納言從三位
秀元 參議正三位
敬親 從二位權大納言
元徳 參議從三位
◆蒲生氏
秀行 參議從三位
忠郷 參議從三位
360日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:09:00.32
◆伊逹氏
政宗 權中納言從三位
慶邦 參議正四位下
宗城 從二位權中納言
◆蜂須賀氏
齊裕 參議正四位上
茂韶 從二位權中納言
◆池田氏
輝政 參議正三位
忠雄 參議正四位下
慶徳 從二位權中納言
◆細川氏
忠興 參議從三位
◆淺野氏
長勳 從二位權中納言
◆上杉氏
景勝 權中納言從三位
◆佐竹氏
義堯 參議從三位
◆黒田氏
長溥 參議從四位下
◆山内氏
豐信 從二位權中納言
◆鍋島氏
直正 從二位權中納言
◆京極氏
高次 參議從三位
◆丹羽氏
長重 參議從三位
◆小早川氏
秀詮 權中納言從三位
361日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:09:48.40
◆羽柴氏
秀頼 右大臣正二位
◆織田氏
秀信 正三位權中納言
信雄 内大臣正二位
秀雄 參議從三位
◆宇喜多氏
秀家 權中納言從三位
◆福島氏
正則 參議從三位
362日本@名無史さん:2011/02/26(土) 02:21:58.63
>>356
すげぇ、画像つきでさがしてみる。ありがと。
363日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:47:03.09
江戸後期は直衣より小直衣の方を実用していたみたいだね。
慶喜も小直衣着用の写真が残っているし、同時代の親王公家の
肖像写真も小直衣姿が多い。スレ違いになるのでここらへんで。
364日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:46:58.62
>>357
喜連川だって鎌倉公方の成れの果てじゃないか
水戸斉昭の倅が最後の殿様
365日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:48:19.41
366日本@名無史さん:2011/02/26(土) 12:40:11.24
>>360

> ◆細川氏
> 忠興 參議從三位


官位はもっと高いイメージがあったので意外だ。
367日本@名無史さん:2011/02/26(土) 13:15:51.23
追加・上記以外の織豐期の武家公卿(足利義昭を除く)
◆織田氏
信長 右大臣正二位
信忠 從三位
信包 從三位
◆羽柴氏
秀吉 關白太政大臣從一位
秀勝 正三位權中納言(丹波中納言)
秀次 關白從一位左大臣
秀勝 權中納言從三位(岐阜中納言)
秀長 從二位權大納言
秀保 權中納言從三位
◆小早川氏
隆景 權中納言從三位
◆蒲生氏
氏郷 參議從三位
◆細川氏
藤孝 從二位
◆木下氏
家定 從二位

蒲生の場合氏郷も最終官位は參議從三位
つまり大名としては4代しか続かなかったが3代続けて公卿
368日本@名無史さん:2011/02/26(土) 13:43:28.67
>>367
関白秀次って正二位じゃなかったっけ?
369日本@名無史さん:2011/02/26(土) 13:54:51.26
腦内補正しといて
370日本@名無史さん:2011/02/26(土) 16:03:10.24
また文字化けしたまま書き込んでいる
371日本@名無史さん:2011/02/26(土) 16:06:45.50
低能の再来か

295 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 05:00:32
>>246
文字化けしていて中国式の漢字になってますよ。

296 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/06(日) 13:44:44
文字化け?
日本史板にいながら旧字体(正字)も知らんのか今の子は
372日本@名無史さん:2011/02/26(土) 16:47:02.06
ゆとりある世代
373日本@名無史さん:2011/02/26(土) 17:52:28.92
ゆとりのゆーとーり
374日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:26:52.55
文字化けって…
わざわざ直してるんだけど
375日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:45:14.62
本当に文字化けしたら記号の羅列になる
解読不能
376日本@名無史さん:2011/02/27(日) 01:01:53.79
2ch掲示板で旧字に変換される機能があったらむしろ超便利じゃんwww
377日本@名無史さん:2011/02/27(日) 04:47:22.30
たぶん旧字体の人と同じ人だと思うんですが、以前のスレで掲載されてた
公家の家ごとの昇進の過程を列挙したもの(位階と官職)を
再掲してもらえませんでしょうか?
結構複数のレスに跨ってた長いものだったと記憶してるんですが
保存し忘れ→いつの間にかスレ落ち という事がありました故
378日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:31:37.52

平凡社東洋文庫「幕末の宮廷」より

宮中席次(准大臣以上が公、従一位以下が卿)
 摂政、関白、准三后(前関白)、太政大臣、前太政大臣、左大臣、前左大臣、右大臣、
前右大臣、准三后(宮門跡、摂家門跡)、皇族、内大臣、前内大臣、准大臣、従一位、権
大納言、前権大納言、権中納言前権中納言、参議、前参議、正二位、従二位、正三位、従
三位の順

摂家の昇進
 従五位上(通常)→従四位下権少将→正四位下
 正五位下(現職摂関の孫)→従四位上権少将→従三位権中将
→権中納言(中将元のごとし)→権大納言(帯剣を許す)→左大将兼→内大臣(大将元の
ごとし)→右大臣(随身、兵仗)→左大臣→関白(氏長者、内覧、随身、兵仗、牛車)

清華の昇進
 従五位下→従五位上→正五位下→従四位下権少将→権中将→三位中将→権中納言(帯剣)
→正二位→権大納言→右大将兼→内大臣(通常ここまで)→右大臣→左大臣
例外、広幡家は内大臣になると大将を止める、菊亭は昇進が遅い。

大臣家は清華と同様の昇進だが大将を兼ねない、内大臣止まりでそれもすぐに止める、実
際はなれないことも多い

平堂上
 菅原一族は正六位上(道真にちなんだ単なる習慣で他家に劣るわけではない)から、他
家は従五位下から始める。昇進限度は権大納言又は権中納言、位は通常正二位まで
 中山、飛鳥井、中御門(松木)、園、日野、広橋、柳原、烏丸、甘露寺、葉室、勘修寺、
万里小路、清閑寺、中御門、坊城、庭田(宇田源氏)は功労により従一位まで昇進可能
 そのうちで中山、中御門(松木)、園、広橋は准大臣までいける。
 家格が低いと権大納言、権中納言ですぐ辞職。更に低いと位は正二位でも官は三位相当
の京官で老年でようやく参議、更に下は従二位止まり。
379日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:33:47.89
羽林家の昇進
 五位侍従→権少将→権中将→蔵人頭(一部の家のみ)→参議(中将元のごとし)→権中
納言→権大納言

名家の昇進
 五位侍従→弁官→蔵人→兼検非違使→蔵人頭(一部の家のみ)→参議(弁官元のごとし)
→検非違使別当→右衛門督→権中納言→権大納言

摂家の諸大夫の昇進 正六位下から正三位 官は省輔、寮頭、職亮、司正等
親王家の諸大夫は摂家とほぼ同格

伏見宮の殿上人若江家の昇進
 従五位下から正四位下 官は職大夫、八省大輔、弾正大少弼、国権守
清華の諸大夫の昇進 従六位上から従三位
大臣家の諸大夫の昇進 従六位下から正四位下
中山家には平堂上で唯一諸大夫が有り、官位昇進は大臣家と同様。

門跡の坊官の昇進
 法橋(六位)から法印まで、法印は本来四位の待遇だが特に三位の扱いを受ける。
准門跡の坊官(錦織寺はなし)の昇進
 法橋から法眼(五位)を経て法印まで、法印昇進は門跡より不利。
門跡の諸大夫の昇進 正六位下から正四位下、官は位階相当の京官又は国守
 なお、仁和寺、梶井、照高院及び准門跡は諸大夫は存在しない。

摂家の侍(五位の侍、六位の侍)の昇進
 従六位下から従5位下 八省大少丞、職大少進、四府の大少尉、国介、まれに寮助
親王家の侍は摂家とほぼ同格。
380日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:35:57.51

 清華、門跡、大臣家中の中院、平堂上の中山家は侍有り。また、平堂上の柳原、広橋、
野宮は幕末より山稜補修御用係の功労で六位の侍有り、官位は摂家よりやや格落ちる。
 准門跡は諸大夫、侍なし、但し下記の寺には下記の家から手伝(出向)有り。
 東本願寺(近衛家一名)、西本願寺(九条家一名)、仏光寺(二条家一名)、専修寺(有
栖川宮二名)
 摂家、親王家、清華、大臣家、門跡の侍のうち一部は諸大夫に進める

 摂家、親王家家、門跡は侍の下に用人、近習、中小姓、勘定方、青士、茶道(ここまで
が士分)、小頭、中番、下僕がいる。
(例)近衛家 近習三,四〇人、中小姓一〇人、青士二,三〇人
   一条家 用人三,四人、近習一四,五人、中小姓三人、勘定方三人、青士一〇人、
茶道二人、小頭四人、中番四人

 清華、大臣家 侍の下に近習、青士有り。近習は通常一,二名、多くて四,五人。
 平堂上は、雑掌、近習有り、雑掌一,二名、近習二,三人もいれば多い方。通常は一代
抱の近習一名(三石さん)、下僕は必ずいる。
 門跡の一部には他に侍法師(六位侍の次席)、院家候人、承仕等有り。

 院家、堂上の出身で僧都から大僧正へ、僧都は殿上人、僧正は参議、大僧正は大納言の待遇。
 准院家は堂上、地下両方有り、僧都から大僧正へ昇進。
 院室、出世、住侶は堂上、地下両方有り、僧都から僧正へ昇進。

381日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:38:10.84

江戸時代の昇進の原則(寛延三年以降)「近世公家社会の研究」著橋本政宣より

清華
 従三位までは毎年昇進、以後は旧例による。大将は40歳前後、内大臣は40歳以上、左
 右大臣は欠員次第
旧家の内しかるべき家(正親町三条、三条西、滋野井、正親町、中山、中御門、中院の七家)
 従三位までは中置1年で昇進、以後は旧例による
旧家
  従三位までは中置2年で昇進、以後は旧例による
新家の内慶長年間までに出来た家
 従三位までは中置3年で昇進、侍従は可
新家の内元和以後に出来た家
 従三位直前までは中置3年・従三位は中置4年で昇進、侍従は不可
 少将は従四位上から正四位下に昇進するころに任官、中将は従三位昇進の前年に任官、
 極端な新家は中将、少将は不可
 大・中納言、参議は家例がないと原則不可
382日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:40:26.51

講談社学術文庫「女官通解」によると、松木(中御門)は羽林の最と言われていた。

>中山、中御門(松木)、園、広橋は准大臣まで
>旧家の内しかるべき家(正親町三条、三条西、滋野井、正親町、中山、中御門、中院の七家)
 以上9家のうち、正親町三条、三条西、中院は大臣家、他は平堂上(羽林ないし名家)。
 以上のことから、中山、中御門(松木)、園、広橋、滋野井、正親町は昇進に際しては
大臣家と大差ない模様。大臣家とは名目的家格のみ高く、昇進の実態では平堂上の最上
級となんら変らなかったと言えよう。

 なお一般に羽林の方が名家より家格が高いとされているが、これは家の成り立ちが原因
で江戸時代には意識上と昇進ルート以外は大差なし。
 羽林は元々摂関家等の上流公家の分流、名家は事務官僚の家筋で最終的に大・中納
言まで昇進できることは同じでも元々は出世の速さにかなりの差があった。
 ただし、院政期に側近の受領を羽林家にかなり引き上げているので、その後はどちらが
名門とも言いがたい面がある。
383日本@名無史さん:2011/02/27(日) 05:45:04.94
以上。

>>377
>>378-382のことでしょうか?
違っていたらすみません。
384日本@名無史さん:2011/02/27(日) 10:37:15.17
官職要解は持ってるけど女官通解ってのも出てたのか。探しに行こっと。
385日本@名無史さん:2011/02/27(日) 16:32:20.04
>>377
「旧字体の人」ですが、前スレに書いた分はちょっとどうなったかわからないのですが、
>>246-250に書いた分と、私が書いたものではないけど>>383の方がコピペしてくれた>>378-382で用は足りると思います。

>>384
女官通解は品切れで定価よりいくらか高く買わされた記憶が…
内容的には古代(平安時代)中心
386 忍法帖【Lv=7,xxxPT】 :2011/02/27(日) 16:37:39.55
>>384
持ってるけど、スケベ本じゃないからな。期待するな。
387日本@名無史さん:2011/02/27(日) 18:02:32.28
377です。
文字が現在のものに直ってるので文章から受ける印象が違うのですが
概ね>>378-382のような感じであったと思います。
また、文字から受ける印象は>>246-250のようであり、(もしかしたらズバリこれ?)
両方合わせて今度こそ保存しておきたいと思います。
>>383様、>>385様、休みの日なのにわざわざありがとうございました。
やっぱ歴史好きに悪い人はいないなぁ、としみじみ思った次第です。
388日本@名無史さん:2011/02/28(月) 00:07:03.85
西園寺公望は、明治34年に正二位になって、昭和15年に亡くなるまでそのまま。
死後従一位追贈ですが、なぜ生前に従一位にすすまなかったんでしょうか。
まあ、宮中席次は大勲位>従一位なのでよかったんでしょうかね。
389日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:11:40.36
文字化けじゃなくて繁体字な。
390日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:16:32.64
>359->361
詳細な表感謝
ただちょっと疑問が
家格が固定した家光時代以降現任公卿(本官が参議以上)は御三家、前田だけじゃない?
幕末のことは知らんが
391日本@名無史さん:2011/03/01(火) 16:28:52.93
ほとんど幕初か幕末じゃない?
392日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:22:14.23
豊臣政権期は一部例外を除いて
公家成…豊臣姓羽柴苗字、初官従五位下侍従以上〜参議、一門・旧守護大名や有力戦国大名・織田一門・織田家の元同僚
諸大夫成…豊臣姓のみ、従五位下〜従四位下、織田家の付属与力・子飼いの家来
公家成できるうちの一部が清華成で中納言以上に昇れる
みたいな感じで家格として綺麗に別れてるな

それに対して松平苗字は徳川家と縁者になった時点で拝領、その後の代も初御目見とか元服に際して拝領
家というより個人に対するものという感じ
ただ山内あたりが何故拝領ならなかったのかはよくわからない
393日本@名無史さん:2011/03/03(木) 06:11:40.56
>>392

> ただ山内あたりが何故拝領ならなかったのかはよくわからない

細川はどうだっけ?
394日本@名無史さん:2011/03/03(木) 08:41:08.28
山内は松平土佐守だろ
細川は細川
395日本@名無史さん:2011/03/03(木) 09:10:27.90
細川くらいになると、やる方ももらう方も見識を疑われるからじゃないの?
396日本@名無史さん:2011/03/03(木) 09:27:12.38
藤孝・忠興は羽柴苗字もらう前は長岡苗字だった

大阪の陣が終わったとき家康に細川苗字に戻すように言われる

その後江戸に行ったら将軍に松平苗字をねだるように老中に言われる

大御所に細川苗字にしろって言われたんだけどw

松平なんて田舎臭い苗字に変えなくて済んだ

という逸話がある(事実関係不詳)
397日本@名無史さん:2011/03/03(木) 18:32:23.10
忠興の「松平?そんなんイラネ、徳川ならもらってやるよwwww」って逸話も残ってる。
398日本@名無史さん:2011/03/03(木) 22:08:59.99
「中世公家と地下官人」と「近世朝廷社会と地下官人」の間の時代、
鎌倉後期とか室町〜戦国時代あたりの地下官人ってどんな感じ?
壬生・押小路等の一部上級地下官人以外は家系が入れ替わってるみたいだけど。
399日本@名無史さん:2011/03/06(日) 00:20:00.37
賜姓って効果あるのかね。討幕運動も松平貰った奴が中心だったし。
400日本@名無史さん:2011/03/06(日) 09:53:06.33
はぁ?
効果?w
401日本@名無史さん:2011/03/06(日) 13:59:31.39
>>399

>討幕運動も松平貰った奴が中心だったし。


それは結果論で、あまり関係がないと思う。
402日本@名無史さん:2011/03/06(日) 16:03:32.56
松平の名字を突き返すくらい骨のあるやつらが、
なんで細川姓を捨てて、長岡だの羽柴を名乗ってたのだろう?

まあ、羽柴は仕方なかったにせよ、長岡はないだろ。
403日本@名無史さん:2011/03/06(日) 16:45:07.83
長岡苗字は義昭追放後に名乗ったというから信長の指示という可能性はある
当時の領地は山城国長岡
404日本@名無史さん:2011/03/06(日) 16:48:53.48
官職は定数とか上限とかあるけど、
位階は制限あるんですか?
405日本@名無史さん:2011/03/06(日) 18:02:52.70
定数規定はないはず。
時期時期でこの程度に押さえておこうぜ、って言う意識が有った時は有るだろうけど。
江戸後期の地下官人の場合は、一部明確に昇進限度が定められたことはあるが、
数の制限は定められていないはず。
406日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:25:37.91
地下家伝って三催とか一部を除いて近世までしか遡れないけど
室町〜戦国初期の地下家ってどうなってたの
山科家とか中原氏の日記に、地下官人を引き連れて儀式をやったみたいな記述があるんだけど
実際どれくらいの規模だったの?
407日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:53:02.65
もう一つ聞きたいことが(ちょっとスレチかもだけど)
「幕末の宮廷」(下橋敬長)読んでたら、近世の内蔵寮は平田家(出納)が牛耳ってる
っていう記述があって気になった。
で、実際調べてみると江戸初期の地下次第では蔵人方は内蔵寮を支配してた(うる覚え)し、地下家伝だとさらに江戸後期から内蔵権頭を兼ねるのを確認。
平田が内蔵寮を支配してたのは事実っぽい。
一方で、堂上公卿の山科家が内藏寮を家職としていたのは有名。
で、山科家の日記を見ていても平田家との関係は判然としないのですが
このニ家は完全に独立した存在で、中世以来の官司請負制の発達に伴って
内藏寮の業務の内一部が山科家に、残りが平田家その他というふうに役割分担されたと考えて宜しいのでしょうか







408日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:03:26.54
朝廷(スポンサーの幕府)に金がなくなって、雇いきれなくなって、
地下官人の方も見切りをつけて転職したんでしょうね。
戦国末期あたりだと、1人でものすごい兼職してたりするし。
そう言えば、内蔵寮は外記方と蔵人方にあるようですけど、
業務で分かれてたんですかねえ?
409日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:31:31.86
>>408梅田康夫「地下官人考」(幕藩国家の法と社会 高柳真三先生頌寿記念 所収)で読んだんだけど外記方と蔵人方の官人は
少なくとも朝廷行事の時の役割はしっかり分担されているらしい。
410日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:54:26.20
中原俊章「中世公家と地下官人」より、
>鎌倉時代に入ると主殿寮頭を小槻氏が相伝するようになり、
>主殿寮の実務も小槻氏の家人が介入するが、
>伴氏はこれとよく調和し年預を相伝知行した。

陰陽寮の土御門と孝徳井は支配関係にないし、
神祇官の白川と吉田なんかむしろ敵同士?
典薬寮の錦小路と小森の関係はよくわからない?
業務分割の場合と、お互いの立場を認めて権益のみ分割の場合と有るのかな?
対立とまではいかなくても競合関係もあるようだし。
411日本@名無史さん:2011/03/06(日) 21:52:52.76
>>410
小森と錦小路は同じ丹波氏の末裔なんだっけ?
>伴氏はこれとよく調和し年預を相伝知行した。
これで思い出したんですが山科-平田も頭と年預の関係…。
しかし平田が年預を始めたのは山科が頭を世襲する(確か南北朝時代)よりずっと昔の話。
また、山科のやってることは織手の補任等、比較的限定されている気がする。
もともと平田家が内蔵寮で幅をきかせてるところに南北朝の混乱に乗じて
山科家が「衣紋の家」として台頭、織手補任等を家業に付随する業務として認められ、
内蔵寮の被官たる織手の補任のために後付け的に内蔵頭に就任…ということなのだろうか。
妄想だが。



412日本@名無史さん:2011/03/06(日) 22:13:51.22
>>411
錦小路家と小森家は同じ丹波氏。
413日本@名無史さん:2011/03/06(日) 23:39:22.74
官司請負って言っても、完全な一氏・一家の独占ってやっぱり少ない?
世代交代が常に上手くいくとは限らないし、
補完する家(対等でなくても)がないと困ることも有るのかなあ?
414日本@名無史さん:2011/03/07(月) 00:01:59.12
>>413
左大史の壬生(大宮家滅亡後)とか…?
でも官方って所詮は弁官局の一部だし官司と呼んでいいのかどうか
四等官がある役所は頭・権頭・助・権助くらいまでがそれなりの権力を持ってることが多い気がする。
官司が複数家にまたがってるのは家格の固定期にたまたま勢力が均衡していた結果かと。
415日本@名無史さん:2011/03/07(月) 17:57:12.72
錦小路は絶家したのを小森から入って再興
416日本@名無史さん:2011/03/07(月) 22:52:30.22
時代によって違うのに
どの時代の話かわからない流れになってる
417日本@名無史さん:2011/03/07(月) 23:10:49.91
家格が固定化した中世以降とそれ以前じゃ昇進の方法もぜんぜん違う
どうでもいいが、五位蔵人と蔵人五位が別物なように、
大夫史と史大夫は別物というのを読んだんだが、定説なのかな?
ウィキペディアだと一緒になってるけど…
418日本@名無史さん:2011/03/08(火) 10:30:31.44
続群書類従に載ってる15世紀や16世紀の大間書を見ると、
下級官人は結構いろんな氏族があるけど、
あの辺は嘘くさいなあ。
超マイナー氏姓とか、名前の方が適当だったり。
16世紀の方は、従七位上多数、従七位下が二人くらい居るけど、
全部架空っぽい。
鎌倉時代のうちは実際に従七位上の位階を持つ実在の人が居たようだけど、
いつ頃消えたのかなあ。
419日本@名無史さん:2011/03/08(火) 15:12:40.60
自分ならどの官位が欲しい?
420:2011/03/08(火) 15:18:49.95
こういうやつはどこにでも湧くね
どこの城に住みたいか、とか聞いてくる
アホくさ
421日本@名無史さん:2011/03/08(火) 15:18:52.99
>>419

マニアックな官位というとなにがあるの?

秋田城介とか?

422日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:05:51.30
大奥の御年寄って官位貰えたの?
政治に参加したって聞いてるけど、政策立案とかしていたんですか?
423日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:23:17.28
御年寄であることは、叙位の条件にはならない。
政策立案は公式にはしませんねえ。
身近に使えるんだから非公式な進言とかはそれああるだろうけど。
政策立案って言うかむしろ、政策への反対運動とかの方が多いのでは?
424日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:41:18.51
って言うかやっぱり幕府官僚人事に口を出すのがメインの政治参加?
425日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:44:01.22
>>418それより初位の存在がいつの間にかなかった事にされてる件。
平安後期には既に行方不明。
426日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:47:32.72
橋本義彦「蔵人五位と五位蔵人」
初出「日本歴史427号」(1983年12月)
後、平凡社選書97「平安貴族」
にそのようなことが書いてあった。
○○大夫と、大夫○○の違い。
427日本@名無史さん:2011/03/08(火) 23:44:33.63
ttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b86671.html
今のこのスレにおあつらえ向きな本が出るようだ。
「中世朝廷の官司制度」遠藤珠紀
428日本@名無史さん:2011/03/09(水) 20:54:23.57
>>427これおもしろそう
中原氏の本と合わせて読むといいかも。
近世の朝廷までいくと、西村慎太郎氏が最近地下官人の本を出したし、武家時代の朝廷史が注目されつつあるのかな。
429日本@名無史さん:2011/03/09(水) 20:59:24.06
>>421秋田城介は武家の名誉職で有名だし全然マニアックじゃないやん。
マニアックというのは問民苦使とかそういうのじゃないか?
430日本@名無史さん:2011/03/09(水) 22:09:34.37
自演?
431日本@名無史さん:2011/03/09(水) 22:16:49.49
源検非違使義経
432428:2011/03/09(水) 22:47:37.29
>>430何かと思ったら前の書き込みが五分前だったんだな。
これだから強制じゃない板は…

433日本@名無史さん:2011/03/10(木) 19:31:49.08
>>425
日本の蔭位制度
本人の位階  嫡子    庶子    嫡孫    庶孫
一位    従五位下  正六位上  正六位上  正六位下
二位    正六位下  従六位上  従六位上  従六位下
三位    従六位上  従六位下  従六位下  正七位上
正四位   正七位下  従七位上  (正八位下) (従八位上)
従四位   従七位上  従七位下  (従八位上) (従八位下)
正五位   正八位下  従八位上
従五位   従八位上  従八位下
外正五位  (従八位上) (大初位上)
外従五位  (従八位下) (大初位下)
※()内は728年および800年の改訂

と言う感じで、蔭位では初位は外五位の庶子のみ。
考課制度が廃れてくると、初位の位階を得る機会自体が消失していったのか?
434日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:07:43.84
>>429

問民苦使はたしかにマニアックだなw
435日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:26:54.83
もみくちゃ 下級役人多かたの? 今の地方孔務員並?
436日本@名無史さん:2011/03/11(金) 00:39:06.33
>>435
こいつ前スレによく出没してた他人とコミュニケーションがとれないキチガイだな
空気読めずに馬鹿っぽい独り言ブツブツ連投する奴

とすると>>419もそれっぽい
437日本@名無史さん:2011/03/11(金) 04:14:27.44
早起きニダ>>435
ああ 北家藤原楓万呂さん申し訳なかただ(T_T)
>天平宝字2年(758年)正月西海道問民苦使に任じられ、9月に民の疾苦29件を太政官に上申、大宰府がそれに対処している。同年8月正六位上から従五位下に昇叙。 …ヰキより 平成愚民政治も見習うニダ
438日本@名無史さん:2011/03/11(金) 07:39:17.08
419 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/03/08(火) 15:12:40.60
自分ならどの官位が欲しい?


名前がかっこいい官位がほしい。
439日本@名無史さん:2011/03/11(金) 21:26:39.60
江戸時代になると武家の庶子が出家することなくなるけど。
鎌倉等の関東諸寺院の高僧とかは、どの階層出身だったんでしょうか?
京奈良の高僧のように公家階層出身者だったのでしょうか?




440日本@名無史さん:2011/03/14(月) 00:14:32.15
頭頭なんていと欲しけれ
441日本@名無史さん:2011/03/16(水) 22:01:37.76
大間書享徳2年:1453年より、
兵部丞高官望
刑部丞刑部周秋
同   宮内達
宮内丞工部請
大炊允御炊家之
掃部允掃守申允
造酒令史酒人聖也
主水令史氷上多年
これだけ並ぶとなんだかなあ
442日本@名無史さん:2011/03/16(水) 22:55:05.26
官位をあげるスレって、どこ?
443日本@名無史さん:2011/03/17(木) 10:06:05.59
>>427の本、多少は遅れるにしても出版されると良いなあ。
ほんと、これからどうなっちゃうんだろう。
444日本@名無史さん:2011/03/17(木) 12:53:48.00
>>431検非違使は別当とか大尉(判官)とかつくので確かにそれじゃ変だろうけど
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani112.html
ここによれば、問民苦使の長官はそのまま「問民苦使」になってるんだぜ
正しいのかはしらんけど
というか知らない官職が多すぎてワラタ
比較的有名な?押領使とか追捕使はどーなってたんだろ
445日本@名無史さん:2011/03/17(木) 14:44:38.64
ちょっとずれるかもしれないが

たまに「検非違使佐」や「検非違使大尉(判官)」などを官名か何かと勘違いしていて
ともすれば「左衛門大尉」などと別物のように誤解している人がいるけど
これらは正確には「検非違使」という職に補せられた「左衛門佐」や「左衛門大尉」などのこと

ちなみに諸所・諸使の「職」はプロジェクトチームやタスクフォースみたいなものであって
「官」と違い本来長官次官判官主典などの区別も官位相当もない

官のアナロジーとして○○使長官などと称されていることはあっても本来の四等官(四部官)と同じものではない(役割的には似たものだとしても)
蔵人頭が蔵人所の長官と説明されている場合に至っては明確に誤りで噴飯ものというほかない

>>444のサイトなどは無理やり官位相当を当てはめたりしているがそれは相場みたいなもので官位相当の規定ではない

またよく見かける官位相当表では参議が正四位下相当のように書かれていたりするが参議に官位相当はない
446日本@名無史さん:2011/03/17(木) 15:56:08.99
諸所使等の職に官位相当がないはその通りだが、
長官次官判官主典の区別がない、は乱暴な表現では。
アナロジーというのも疑問。
実際に通常の官と同様に長官、判官等が任命されている場合もあるし、
現に長官として役割を果たしていればそれは長官なのでは。

そもそも所や使を全てひとくくりにするのは無理がある。
単に常設でないだけの臨時官司もあれば、
官司と性格が異なる場合もあるだろう。
そんな一刀両断出来るような物ではないと思うが。
447日本@名無史さん:2011/03/17(木) 16:01:00.78
続群書類従第10集下:公事部20に享徳2年(1453年)と書かれた大間書が見える。
ただ中身を見ると、下記のようにふに落ちない点がある。

権中納言藤原言継:山科言継(1507〜1579:1537従三位:正二位権大納言)か?
 〃  藤原季遠:四辻季遠(1513〜1575:1537参議:正二位権大納言)または、
         阿野季遠(生没年不詳:1451参議、1473出家:従二位権中納言)か?
尾張権守小槻伊治:大宮伊治(1496〜1551、56歳:1544尾張権守)か?
また注記に、去天文7年、同天文8年、同天文12年等の年紀が見える。
以上から、実は天文13年(1544年)分ではないのか?
権中納言任官の年が確認できてないけど。
448日本@名無史さん:2011/03/18(金) 15:06:42.27
単純に「使」と言っても官と職があるだろ

勘解由使は官で検非違使や按察使は職
「勘解由長官」のように「使」字を去って長官などの字を加えるのは官
官名の上にそのまま乗っけて「検非違使左衛門権佐」「按察使権大納言」のように書くのは職

諸使という場合は官は含まないことが多い気がする
官には官位相当があり四等官もある
職にはそれがない
449日本@名無史さん:2011/03/18(金) 18:17:36.42
>>447
『公卿補任』見たら、2人とも天文13年任官で合ってる。
450日本@名無史さん:2011/03/29(火) 02:27:36.80
>>337
多気致幹 多気権守・河内守・薩摩守(系図)
下妻弘幹 悪権守(吾妻鑑)
吉田清幹 摂津守・多気権守(系図)
鹿島成幹 肥前(権)守(系図)
鹿島親幹 徳宿権守(系図)
烟田秀幹 武蔵守(文書)

多気権守・悪権守・徳宿権守は常陸権守でしょ?
451日本@名無史さん:2011/03/29(火) 13:40:06.18
それを常陸権守と断定していいんだ
親王任国に権守っているんだ
フーン
452日本@名無史さん:2011/03/29(火) 15:28:20.94
スレ読んだら下橋さんの「幕末の宮廷」って結構有名なんだね。
自分はなんかあの下橋氏の話し方が好きだ。
頭中将が苛められる話とか面白いというのもあれだが、現代からすると興味深い話が多い。
ちょっとスレチかな
453日本@名無史さん:2011/03/29(火) 20:06:37.77
松平問ミクシー定信
454日本@名無史さん:2011/03/31(木) 10:15:38.53
名家の新家って、蔵人にも弁官にもならないのが多いけど、
単に本家の歴史的経緯で名家になってるだけなの?
確か少将になった人も居たような、羽林みたいな。
菅原氏とかは、半家なのに弁官になったりするし。
455日本@名無史さん:2011/03/31(木) 17:14:40.06
羽林家でも弁官になる人はいるし
456日本@名無史さん:2011/03/31(木) 21:47:28.40
つまり、羽林は近衛中少将を経て昇進する家、
名家は弁官を経て昇進する家って言うのは、
家格成立期に該当する話であって、
少なくとも近世の時点では現状と適合しない解説、
ってことで良いのかな?
457日本@名無史さん:2011/03/31(木) 23:35:52.75
守が置かれた後にも国造が居た国があったっていうのは何でだぜ?
458日本@名無史さん:2011/04/01(金) 12:17:38.18
>>457

名誉職みたいなもんでしょ。
459日本@名無史さん:2011/04/01(金) 12:18:20.55
>>457

というか出雲国造家はいまでも残存しているはず。
460日本@名無史さん:2011/04/01(金) 15:17:47.62
ただの神職の職名
461日本@名無史さん:2011/04/01(金) 16:03:39.37
>>460

いや、廃止の官報とか出ていないんだよ。

司馬遼太郎もエッセイでそう指摘していた。
462日本@名無史さん:2011/04/01(金) 16:37:34.62
令の規定にはないし事実上の廃止では?
令制以前の官職が廃止を告示されていないって他にそういう例あるかな
463日本@名無史さん:2011/04/01(金) 22:02:57.30
現憲法では宗教的官職の設置は認められないだろうから、
憲法前文に、「この憲法に反する、詔勅や法律は無効・・」と
あるから、官報に公示しなくても現憲法施行と同時に廃止と
解釈するべきでしょう。
464日本@名無史さん:2011/04/02(土) 00:36:51.28
そもそも養老律令を廃止する旨の法律が出された事実もないのだが。
465日本@名無史さん:2011/04/02(土) 02:38:53.14
何故現行憲法の話にまで下らないといかんのだ
前近代の話だろ
466日本@名無史さん:2011/04/02(土) 05:54:46.56
>>462
> 令の規定にはないし事実上の廃止では?


しかし今でも「出雲国造」を名乗る人物が存在している。
467日本@名無史さん:2011/04/02(土) 12:13:32.35
いまだに現役で頑張る村主を名乗るスケート選手もいるしな
468日本@名無史さん:2011/04/02(土) 12:16:07.47
国家の法令上存続してるか否かの話で
「名乗る人物が存在している」とか言い出す馬鹿って何なの?
469日本@名無史さん:2011/04/02(土) 15:07:51.66
貴族制度が廃止されたヨーロッパの国でも、個人的に爵位を名乗ってる末裔はいる。
そんなもんだろ。
470日本@名無史さん:2011/04/02(土) 16:19:29.06
令制下・令制以前のどちらの国造も官職ではない
廃止はされてないし、大宝・養老令にも出てくるよ
大宝令以降にも出雲以外の国造はいるし、任命も行われてる
471日本@名無史さん:2011/04/02(土) 16:57:46.44
爵位は名乗るのも禁止されてる国もある。
旧王家が未だに叙爵してる例もあるけど。
472日本@名無史さん:2011/04/02(土) 18:18:22.73
未だに貴族制度が残っている国はどこがあるんだろ?
473日本@名無史さん:2011/04/02(土) 18:52:02.90
日本史板に官位スレがあるのに世界史板に爵位スレがないのは何故か
474日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:30:11.35

>>466

いつの時代も狂人はいる。現代でも征夷大将軍を名乗る奴は存在する
「征夷大将軍 武田猟徳院」でググって見なwww
475日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:36:28.80

今の時代、ローマ皇帝を名乗ろうが、天皇を名乗ろうが
ルパン三世を名乗ろうが、カラスの勝手

476日本@名無史さん:2011/04/02(土) 22:52:49.22
じゃあ、内閣総理大臣名乗ることにしよう。
477日本@名無史さん:2011/04/02(土) 22:56:06.91
犬田かよ!
478日本@名無史さん:2011/04/03(日) 11:24:51.99
現存する官名を詐称すると、軽犯罪法違反でぱくられる。
関白、大政大臣、征夷大将軍はセーフだが、
摂政、内閣総理大臣は、アウト
479日本@名無史さん:2011/04/03(日) 12:27:02.15
摂政は今後置かれることがあるのかね
480日本@名無史さん:2011/04/03(日) 13:52:10.52
内閣総理大臣は駄目として、
首相なら良いのだろうか?正式な職名じゃないし。
あと、日本国王とか、大日本帝国皇帝とか、国家元首とか国家主席とか。
481日本@名無史さん:2011/04/03(日) 19:04:58.35
実際に「天皇」を名乗ってた過去に人間は何人もいたけど、
軽犯罪法で捕まったという話は聞いてないなw
まあ軽犯罪法は余程のことでなければ適用しちゃいかんってことになってるからね

482日本@名無史さん:2011/04/03(日) 19:56:02.14
宮内大臣や内務大臣、大蔵大臣は現存しないから大丈夫。
483日本@名無史さん:2011/04/03(日) 20:53:51.94
足利将軍家の末裔と江戸幕府の将軍家末裔が先祖達が征夷大将軍だったと言ってもセーフ。
484日本@名無史さん:2011/04/03(日) 21:05:31.67
清少納言の少納言ってなに?
485日本@名無史さん:2011/04/03(日) 21:24:21.43
>>474
出雲国造は歴とした神官の職名だろうが
なんたら神宮大宮司とかなんたら神社宮司と名乗ってるのと変わらん

その武田某の例とは根本的に違う
486日本@名無史さん:2011/04/03(日) 22:35:56.79
大納言
487日本@名無史さん:2011/04/05(火) 02:11:38.29
>>480
>内閣総理大臣は駄目として、
>首相なら良いのだろうか?正式な職名じゃないし
キャップ)首相の呼称についてご質問がありました。
正式名称は「内閣総理大臣」か「首相」のいずれかですが、紙面では字数の少ない首相を使うと決めています。
他国の「首相」も同様です。「総理」は日本語では略称なので、口頭では使用しても紙面では使いません。
ttp://twitter.com/asahi_kantei/status/34188700124450816
正式な職名じゃないけど正式な名称ではあるみたい

>>451
『今昔物語集』の藤原維幾、『公卿補任』の橘安麻呂など自称・他称で常陸守を名乗る常陸介って案外いるよ
というか正守が任ぜられないと権守は任ぜられないとか?
ちなみに
『新編常陸国誌』の多気氏項には「致幹常陸権介に任じ、多気権守と称す(戸村本真壁系図)」とあるけど
常陸と同じ親王任国、上総の上総介常澄・広常・秀胤は上総権介に任官しているが上総権守を称してはいない
下総権介が千葉介、相模大介が三浦介なんだから
多気権守や徳宿権守は多気や徳宿に館を構えた常陸権守と考えるのが自然では


ところで上流貴族が任ぜられる権守・権介と在庁武士が任ぜられる権守・権介って職掌・職権は同じなの?
488日本@名無史さん:2011/04/06(水) 16:43:17.44
常陸(権)介が常陸(権)守と名乗る例はあるのはよく知られているが
わざわざその例を引いておきながら
>多気権守や徳宿権守は多気や徳宿に館を構えた常陸権守と考えるのが自然では
と結論付ける意味がわからん

それに常澄・廣常らの「上総(権)介」は世襲官称のようなものだから
常陸権介が常陸権守と名乗るのとはまったく事情が異なる

史料を引っ張ってくるのは結構だが推論がお粗末すぎる

というかまず上総・常陸・上野などに権守が置かれたかどうかを明らかにしろよ
489日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:05:58.23
>>483
徳川はともかく、足利は現存してるのが古河公方家と阿波公方家だからなあ。

確かに将軍の末裔なのは本当だけど、あんまりピンと来ない。
490日本@名無史さん:2011/04/07(木) 04:08:35.66
阿波公方家も現存していたのか。
491日本@名無史さん:2011/04/07(木) 09:57:41.64
足利義昭の子孫もどこかにおるんじゃないのかと想像したり
492日本@名無史さん:2011/04/07(木) 13:55:17.67
高家宮原氏も残ってるはず
493日本@名無史さん:2011/04/07(木) 19:59:30.13
>>492
古河公方(喜連川)家に2回養子を入れたね>宮原家。

女系とはいえ足利成氏から血が繋がっているのも大したもの(古河公方家は水戸徳川家の血筋)。
もっとも、阿波公方家のほうは男系男子で血を繋いでいるそうだけど。
494日本@名無史さん:2011/04/07(木) 22:09:05.56
宮原弾正太弼どのと大友近江守どのは吉良邸茶会の客なり
495日本@名無史さん:2011/04/09(土) 09:39:25.93
「中世朝廷の官司制度」は4月20日か、
確か4月15日の予定だったから、震災の影響は5日か。
まあその程度は仕方ない。
496日本@名無史さん:2011/04/09(土) 10:28:18.26
「総理」ってもともと内閣総理大臣以外にも使ってたけど、今ではどうなんだろう。
もっとも太田光は堂々と総理大臣名乗っていたが。
497日本@名無史さん:2011/04/09(土) 14:15:24.41
ゆうひが丘の総理大臣
498日本@名無史さん:2011/04/10(日) 01:05:57.08
>>496
元は「内閣を総理する大臣」という意味なのかな?
499日本@名無史さん:2011/04/10(日) 02:06:10.95
>>488
ttp://www.geocities.jp/okugesan_com/minamoto-daigo.htm
>*4信頼 民。上総権守。

ttp://www.ksky.ne.jp/~matu-3/22abo.html
>安保常陸守憲祐(宗繁の子)
>  十二月六日「其方在陣(結城城攻め)に長陣のため、戦線を離れていく武士が
> 多いのか「安保常陸権守(憲祐、宗繁の代理で出陣している息子)は残留した旨、
> 総大将上杉清方の連絡を受けた憲実がその旨を安保憲祐にたいへんありがたいこ
> とであると御礼を述べた。なお、この時期安保氏は、上杉氏の被官になっていたと
> 思われる。(上杉長棟書状)(峰岸純夫『中世の東国』)
年欠(1440年)の上杉憲実書状(安保文書)

「正六位上行下総権介平朝臣常胤」(1161年2月27日付け「正六位上行下総権介平朝臣常胤解案」)
「・・・就于上総介常晴男常澄之浮言・・・」(1161年4月1日付け「下総権介平申状案」)
「前権介平常澄解。申請印東御庄。本家御裁事・・・」(年次不明「平常澄解」)
常胤は正式任官だけど叔父や従兄弟は世襲の私称官なんだ、きっと

権守を名乗らない(大・権)介だらけだから、権守を名乗る(大・権)介の例が欲しいなあ
500日本@名無史さん:2011/04/10(日) 02:09:07.18
>>488
大河戸重行 下総権守  武蔵国人  大河戸権守を称さず
宇都宮経綱 尾張権守  下野国人  宇都宮権守を称さず
長沼宗行 駿河権守  下野国人・淡路国地頭  長沼権守を称さず
小田高知 尾張権守  常陸国人  小田権守を称さず
曽我時信 遠江権守  曽我権守を称さず
大高重成 伊予権守  大高権守を称さず
土肥高実 美濃権守  土肥権守を称さず
土屋教遠 備前権守  土屋権守を称さず
大河戸隆行 下総権守  陸奥国人  大河戸権守を称さず
標葉清実 三河権守  陸奥国人  標葉権守を称さず
茂木知貞 越中権守  下野国人  茂木権守を称さず

平安末〜南北朝にかけて探してみたけど所領と受領が異なる場合、名字+権守を名乗っていない
501日本@名無史さん:2011/04/10(日) 02:36:48.14
>>499-500
>常胤は正式任官だけど叔父や従兄弟は世襲の私称官なんだ、きっと
>権守を名乗らない(大・権)介だらけだから、権守を名乗る(大・権)介の例が欲しいなあ

「きっと」の意味がわからん
根拠のない推定とかやめてほしい

史料を引っ張ってくるのはいいんだが
おまえは根本的に思い違いをしていて
無根拠な思い込みを元にそれに見合った史料を探そうとしてるようにしか見えない
守を名乗る介の方がイレギュラーなのだと何故思い至らないのか

常陸国などの親王任国は介が実質的な長官だから守と名乗るあるいはそう呼ばれることはあるが
それ以外の諸国でもそうだと決めつける根拠にはならない

それに千葉介・三浦介・印東(上総)介・大内介などは在庁トップって意味もある
「権守だったら地名+権守と名乗る」みたいな変な思い込みも捨てた方がいい

それとこう言ったからと言って「「すべての」在庁トップは地名+介を名乗る」みたいな早とちりはするなよ
例えば武蔵国の在庁トップは武蔵国留守所総検校職
502日本@名無史さん:2011/04/13(水) 15:38:29.67
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503日本@名無史さん:2011/04/15(金) 08:54:08.83
>>1
わたくし母方の家系が帰農していたものの桓武平氏良文流であります。
このたび官位、官職をいただきたく参じました。
できれば武蔵権介をおねがいいたします。
504日本@名無史さん:2011/04/15(金) 23:59:12.47
スレも半分も過ぎてるのに官位をあげるスレと勘違いした奴が現れるとは
505日本@名無史さん:2011/04/19(火) 00:30:35.40
>>504
どこに行ったら官位官職をもらえますか? 官職は武蔵権介がいいのですが…
506日本@名無史さん:2011/04/19(火) 08:56:54.92
>>505
お前、つまらない人間だな
507日本@名無史さん:2011/04/19(火) 10:30:47.43
地下家伝見てたら「南都寺侍」ってのがあって、
平安時代から続いている下級官人のようだけど、
どういう存在なの?
どういうわけか歴代任官はされるが、叙位はないみたいだけど。
平安期とか六位以下の叙位は記録に残ってないだけかもしれないけど、
江戸期とかは実際に叙位がないのだと思う。
他にもそう言う下級官人はいるけど、
江戸後期になると七位等に叙位されるようになっている。
もしかして、使部や駕輿丁のように慶応期に叙位があった?
508日本@名無史さん:2011/05/01(日) 22:25:36.26
いまの正治にも庶民にもいるょね従三位さまにひれ伏すみたぃな本末転倒ぞくぶつhttp://www.youtube.com/watch?v=qqK1oxkdUsU&sns=emm(._.)m
509日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:07:12.41
>>501
千葉介・三浦介・印東(上総)介・大内介などは在庁トップ

介がどうして在庁トップなの?
510日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:20:36.04
>>509
いまの正治みたく現地ゆかづ都でコントロールしちょるからやろ、トプかみ守 ようにん遥任や
511日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:25:52.68
>>509
逆だろ、在庁トップが私称したのが
千葉介とか(地名+介)の始まりって意味だろ。
512日本@名無史さん:2011/05/01(日) 23:44:21.42
そもそも三浦介とか千葉介ってナニ?
そんな官職あるの?
相模介とか下総介なら知ってるけど
513日本@名無史さん:2011/05/03(火) 02:41:27.42
せめて在庁官人でググってから書き込めよって奴ばかりだな
GWだからか
514日本@名無史さん:2011/05/03(火) 16:26:04.71
>>513
>ググってから

このスレはウィキのレベルより高いんです
515日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:07:45.36
中郡権守頼経(大中臣氏)。
多気権守宗基(常陸平氏)。

ともに親王任国である常陸の豪族だけど正官でなく、権官なら守(権守)に任じられていた事例もありか。
516日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:14:49.18
>>514
だから低レベルな質問するなって言ってるんだよ
ググってろ

>>515
それが実際に常陸権守に任官したものだという根拠は?
自称でないという根拠は?
実際に任官したものだとして他国の権守でないという根拠は?
517日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:14:28.65
>>516
人に根拠聞いてねえで自分で調べろ バカ
518日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:10:19.39
>>517
おまえ馬鹿だろ
おまえがそう考える論拠を提出しろと言ってるんだ
高等教育受けたことないのか?
519日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:52:11.01
>>518
論拠も根拠もクソもねえ
テメエの知識もスッカラカン
初等教育からやりなおせ
520日本@名無史さん:2011/05/04(水) 01:50:37.01
>>519
何だ養護学級の子か
君みたいな子はこういうところに来ない方がいいよ
521日本@名無史さん:2011/05/04(水) 03:38:13.93
>>451
そうだよ
522日本@名無史さん:2011/05/04(水) 05:37:29.27
会津中納権
523日本@名無史さん:2011/05/04(水) 09:44:24.15
まあまあ
議論とは時には白熱するものです
落ち着いたら再開しましょう
524日本@名無史さん:2011/05/04(水) 10:24:22.54
>>517>>519は議論なんかできてないだろ
それ以前の問題
525日本@名無史さん:2011/05/04(水) 11:44:42.44
>>524
なに仕切ってんだお前
526日本@名無史さん:2011/05/04(水) 11:56:17.62
馬鹿は発言しないでね
527日本@名無史さん:2011/05/04(水) 12:37:52.13
自覚のないバカが本当の馬鹿
528日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:10:31.46
論拠を求められてもそれを示せないどころか
それを示す必要性すらも認識できていない奴に議論する資格はない


>論拠も根拠もクソもねえ

これを言ってしまった時点で自分は知的にカスですと自己紹介したも同然

こう説明されてもまだ理解できないんだろうけど
529日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:28:36.37
>>528
あ〜ぁ〜 どこまでバカかと
「論拠は?」「根拠は?」とか人のレスにケチばっかつけてねえで
史料あげて反論しろって言ってんだよ
頭カラッポで具体的な史料を挙げて反論できねえんだろ?
530日本@名無史さん:2011/05/05(木) 01:14:52.49
馬鹿でも理解できるように説明したつもりだったんだがどうやら本格的に知能が低いらしいな
これが理解できなければ知的障害者認定して構わないくらい詳しく説明してやるから以下を読んで自分の低能ぶりを自覚しろよ

歴史学のみならず議論一般の常識としてある主張には論拠や典拠が伴わねばならない
必ずしもそれを明示的かつ網羅的に書く必要はないが求められたら提示しなければならない

頭が悪すぎて俺が何を質問したかも理解していないようなので繰り返すが
>>515に云う中郡権守某や多気権守某が実際に常陸権守に任官したものだという根拠
・それが自称や通称でないという根拠
・実際に任官したものだとしてそれが下野権守や武蔵権守などの他国の権守でないという根拠
これらを精査せずこれらが「常陸権守に正式に任官した」ものであるという無根拠な前提の下に
そういう「事例もあり」と安易に結論づけることは多大な問題がある

常識で言えばおまえは主張をした時点で立証責任が生じているわけだが
俺が>>516で根拠を明示するように要求したところ
おまえは恥ずかしいことに自らの主張に「根拠も論拠もクソもねえ」と告白してしまった上に
「ケチばっかつけてねえで史料をあげて反論しろ」と愚劣な遁辞を吐く始末
531日本@名無史さん:2011/05/05(木) 01:15:35.06
ここでのポイントは以下
・おまえは論拠を求めることを「ケチをつける」ことだと勘違いしているようだが実際には議論一般では当然のことだ
・論拠を求めて質問をしているのは当方でありそれに応答せずまた立証責任を果たさない相手の質問に直ちに答える義務はない
 簡単に言えば「質問に質問で返す」ようなあからさまな愚事を犯す前におまえがまず論拠を示さなければならない
・おまえはどうも「自分が知っている」ということが根拠であり「相手が知らない」ということが質問を回避できるポイントだと勘違いしているようだが
 おまえがどうやってその知識を獲得し主張を構成したのかを示さない限りそれは「論拠」とは呼ばれえない

以上のことはまともに考えれば当然わかることであり教わりさえすれば理解できることだ
自分の知能の低さとレスの恥ずかしさを自覚して今後二度と書き込まない方がいいよ
それができずに尚も低能と無恥をさらすようなら知能の発達に重篤な障害をもつアレだと判断せざるをえない
532日本@名無史さん:2011/05/05(木) 04:06:02.48
横だが、
根拠だの証拠だのと尤もらしいこと語ってるが、
逆に言えば、文章が冗長なわりにコイツもそればっか長々と語ってるだけで十分内容空っぽじゃんw


いずれにせよ
粘着質ウゼ!
533日本@名無史さん:2011/05/05(木) 09:37:18.81
話が理解できない低能がいるな
534日本@名無史さん:2011/05/05(木) 10:32:33.52
(ノ゚O゚)ノ有てんきょ典拠様(゜o゜)\(-_-)
_(._.)_かばヤナ無典拠カ(ーー;)
m(._.)m御冠位さまm(__)m

535日本@名無史さん:2011/05/05(木) 12:16:34.50
ソースは何でもウィキペヂアW♪
536日本@名無史さん:2011/05/05(木) 15:58:48.25
中郡氏のは網野善彦氏が見つけ出した史料でしょ。
それを「論拠」に野口実氏などプロの学者たちも、桓武平氏や清和源氏なんかと絡めた学説出してる位だから、それ自体が一つの「根拠」「傍証」としてみなされてるんだろう。

537日本@名無史さん:2011/05/05(木) 18:48:16.16
以前、鎌倉時代の史料(鎌倉遺文・日記類・公卿補任等)から
各国の「権守」を見つけ出して一覧表にしたことがあるけど
親王任国(上野・上総・常陸)の「権守」は一つも無かったなあ。
完璧じゃないから断言はできないけどね。
ただ、ややっこしいのは「上野介」を「上野守」呼ぶ場合が結構ある。
それから「前上野介」を「上野前司」とも呼ぶ。
又、「前■■権守」も「前■■守」も、両方「■■前司」と呼ぶから
混乱するねえ。あと貴族の日記類では「権守」と「守」を書き間違えたり・・・。
538日本@名無史さん:2011/05/05(木) 18:55:56.17
>>537追加
だから、例えば系図を書くとき意図的に史料操作して親王任国の
「常陸介」を、「常陸介」→「常陸前司」→「常陸権守」と持っ
てくることも可能かもね。
539日本@名無史さん:2011/05/06(金) 00:25:34.15
このスレはレベル高いな
>>530>>531のような小学生レベルもいるが
540日本@名無史さん:2011/05/06(金) 01:52:49.10
低能が恥をさらしたのを誤魔化そうとして必死だな
541日本@名無史さん:2011/05/06(金) 10:15:23.53
>>540
議論についてゆけない落ちこぼれ
542日本@名無史さん:2011/05/06(金) 13:38:15.72
>>541
ん?悔しかったの?w
543日本@名無史さん:2011/05/06(金) 15:21:30.24
>>542
かわいそうに
544日本@名無史さん:2011/05/06(金) 16:08:26.28
かんみw
545日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:25:47.61
>>543
やっぱり悔しかったんだw
馬鹿は馬鹿にされて当然で悔しがる資格すらないんだから分際を弁えて黙ってればいいのに
それとも何故馬鹿にされているか未だに理解していないのか?
論拠を示さずに妄想だけで論定しているから馬鹿にされているって気づいていないのかな?

おまえが早く自分が低能であることを自覚できるように経緯を丹念に追って説明してやると
おまえは>>450で「多気権守その他は常陸権守でしょ?」などと自分でもよくわかっていないことを暴露している
そこで俺は>>451で系図に表れていないことを勝手に論定する危うさについて軽く釘を刺したつもりだったが
おまえは>>487で自ら「致幹常陸権介に任じ、多気権守と称す」の記述を引いておきながら
何をトチ狂ったのか上総権介や下総権介その他の例といっしょくたにして「多気権守その他は常陸権守と考えるのが自然」と暴論を展開し
俺が>>488で再び指摘したにも拘わらず>>499では更にわざわざ自ら引いた史料の意義が失せるほど粗末な推理能力を発揮してしまい「きっと」などと断定してしまった

史料を出しさえせば史料からは読み取れないことをナイーブに妄想してそれだけを根拠に論じても構わないとでも勘違いしてるのか?
その史料から「何故」そう論定できるかを説明することが議論上の最重要な問題のはずなんだが
それを示唆した>>501を踏まえず(またはまともに読まずにあるいは理解できずに)更に>>515のような馬鹿丸出しのレスなんかしやがった
だから俺は>>516で具体的に質問してやったわけだがそれを踏まえてさっさと論拠を示して回答しさえすればこれほど突っ込まれて恥と醜態を曝さずに済んだはずだ
546日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:28:58.23
この期に及んでも質問に回答できないどころか自分の立論のどこに問題があるかも理解できないというのは推理能力に重大な欠陥があるんじゃないか?
おまえに史料の読み方を教えたのはどこの五流大学だ?
それとも実はゼミで「君の推論には無理がある」とよく言われていたのに最後までそれが理解できなかったんじゃないか?
仮にそうだとしたら一種の障害の恐れがあるから病院で検査してもらった方がいいぞ

少なくとも今おまえは俺の今までのレスを理解できていないことが明白だからちゃんと熟読した方がいい
あと>>537の指摘もよく読んだ方がいい
似たことは既に俺も言っているんだけどね

それと>>532
俺は内容以前のことを問題にしてるから指摘が思い切り的外れなんだよ
まあ知的レベルがこんなに低い奴がそう何人もいるわけないけど
547日本@名無史さん:2011/05/06(金) 22:52:24.00
>>515
は俺だが、上のその他の権守云々のレスしてる人とは別人だよ。

ただ別スレで上がってた人物名だから可能性を論じてみた。

ただそれだけ。
548日本@名無史さん:2011/05/06(金) 23:19:41.01
正式な官職としては親王任国の権守は存在しないと思ふ。
しかし、鎌倉時代に上野介だった北条宗宣を「上野守宗宣」と
言っている古文書が現存するから、常陸権介を常陸権守と言っている
可能性は否定できない。(史料は見たことないけど)
しかし、あくまでも他人が言う「通称」であって正式な官職ではない
から、北条宗宣が自署する時は「上野介」と書いている。
549日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:03:43.59
>>546
ご愁傷様です
550日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:44:30.91
>>515>>517が別人であるとしても
というよりもそうであったならば尚更>>517は話もわからずに軽率に口を挿んできた計り知れない間抜けということになるが
それとも>>515だけが別人で>>517はやはり「多気権守=常陸権守」と無根拠に論じてた奴なのか

別人であるにせよないにせよ>>517が「何故そう考えるのか」という当然の質問に対して
「自分で調べろ」という馬鹿丸出しの的外れなレスをしてしまう底無しの低能であることに変わりはない
質問する以外にどうやって相手が「何故そう考えるのか」を調べるというのか
少しは考えてからレスしてほしい

とにかくこういう恥ずかしい低能として生まれなくて良かったと心から両親に感謝したい
551日本@名無史さん:2011/05/07(土) 09:58:44.25
基地外粘着馬鹿に生まれなかったことを、両親に感謝したい。
552日本@名無史さん:2011/05/07(土) 11:28:33.11
低能の言動には度しがたいものがあるな…

相手のレスの趣旨に即して具体的かつ論理的に反論できずに
自分が言われて悔しかった言い方をそのまま言い返すしかできないってことは
自分が馬鹿だということに気づいてしまったけど認めたくないという心性の表れなのか

それとも馬鹿にされているのはわかっても何をどう馬鹿にされているのかが理解できなかったから
とりあえず理解できた部分だけをそのまま言い返せば何とかなるとでも思っているのか

それとも自分にとって圧倒的に都合の悪いレスは意識の外に排除するようにプログラムされているのか

いずれにしてもちゃんと理解できていればこの期に及んで負け惜しみ同然の罵詈に終始するなんてことがあるわけもないけど
低能にまともな反論を期待するのも酷なのかも知れないし
精々足掻くだけ足掻いて低能っぷりの上書き強調と恥の上塗りに励んでほしいな

これで終わりにします
553日本@名無史さん:2011/05/08(日) 03:59:09.00
>>548
なるほど。
現代社会でも、「課長代理」「担当課長」や「部長代理」「担当部長」
のことを「代理」や「担当」を外して呼ぶことが多いですしね。
特に平社員がとしては、その場に本当の課長・部長がいないなら相手を
持ち上げて呼びますね。
国司 官制大観_律令官制下の官職に関するリファレンス
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_gekan_kokushi.html


さま(゚_゚など官位相当表で診ると じゅ5位上&下 6位上下 この冠位は 院政期や 南北朝期など 京の政権の激動期には 上皇さまm(__)mの院宣 を含め 激しく 上下し 、
さらに 大中小国も 地政学的にも みやこからの遠近とは別の価値が 各時代で 現実には 違っていて
官位が現地で 最優先され 官職名はそれを補う 意味くらいの地域も あった鴨
555日本@名無史さん:2011/05/08(日) 12:49:28.88
介は国守遙任の時代には事実上の長官となり、介を守と称することが、
特に知行国では一般的であったらしい。 国史大辞典【国司】より

益々混乱するなあ。遠江介を遠江守と称する場合もあったのか。
556日本@名無史さん:2011/05/08(日) 15:01:56.96
>>553
昔も今も変わらないね。
でふと思いついたんだけど、中世の国司とかは1年とか2年とかで
どんどん変わっていったね。それって今の大臣と同じ。
民主党政権が始まって一年半ぐらいだけど、ずっと同じ人が
大臣やってるのは北沢防衛大臣くらいだろう。外務大臣や財務大臣なんか三人目だし。
557日本@名無史さん:2011/05/08(日) 18:25:24.66
>>556
いいたとえ 正治は昔(江戸よりは前の各時代) 変動激し 上役人たちもたいへんだったろ 今の高級役人も正治権力者に びびらされたり 左遷されたりするのも

記録も隠蔽されたり 処分されたり 都や地方の天災できえたりと
558日本@名無史さん:2011/05/12(木) 00:57:35.96
凄い事になってるな

>多気や徳宿に館を構えた常陸権守と結論付ける意味がわからん
>常澄・廣常らの「上総(権)介」は世襲官称
>上総・常陸・上野などに権守が置かれたかどうかを明らかにしろよ
所領と受領が異なる場合には名字+権守を名乗らないと考える根拠(>500)
広常の従兄弟の常胤らが下総権介に正式に補任している証拠
上総権守源信頼・安保常陸権守憲祐

>「権守だったら地名+権守と名乗る」みたいな変な思い込み
ミスリード乙だなあ
地名+権守を名乗らない武士をリストアップすることで
地名+権守を名乗る武士は、その地名がある国の権守だと論証しているんですが
559日本@名無史さん:2011/05/12(木) 00:58:15.24
>自ら「致幹常陸権介に任じ、多気権守と称す」の記述を引いておきながら
>何をトチ狂ったのか上総権介や下総権介その他の例といっしょくたにして
>「多気権守その他は常陸権守と考えるのが自然」と暴論を展開し
「権介に任じ〜」は戸村本真壁「系図」にそうあるか、宮本元球がそう考えたという意味しかない

>粗末な推理能力を発揮してしまい「きっと」などと断定してしまった
「常胤は正式任官だけど叔父や従兄弟は世襲の私称官なんだ、きっと」を断定ととるのか
2つ↑など、わざとミスリードしてるのかと思ったけど、素ですか?

親王任国の権守も認められないとなると親王任国の知行国主はどうなっちゃうんだろう
560日本@名無史さん:2011/05/12(木) 00:59:20.92
確かに徳宿権守は近世の系図にのみ見える
(同系図では徳宿権守の父に肥前権守、息に武蔵権守、甥に出羽権守)

多気権守は近世の系図以外に1347年成立という「奥州後三年記」
鎌倉末〜南北朝期にかけて成立したといわれる中条本「桓武平氏諸流系図」など

下妻権守は系図以外に吾妻鏡に2件
1192年8月9日条の「下妻四郎弘幹〈号悪権守〉」と1195年3月10日条の「下島(ママ)権守太郎」

・所領と受領が異なる場合には地名+権守/介を名乗っていない
・親王任国でも権守が補任されている
・上総権介広常・秀胤が上総守・上総権守と記載された例はない

また徳宿権守と下妻権守の生きた時代、下妻弘幹ら常陸平氏一門によって
信太荘・村田荘・下妻荘・小鶴荘などが鳥羽院とその周辺に寄進されている


>>536
中郡権守も系図だと思う>「大中臣氏略系図」の頼経/中郡上総権守(関白師通の落胤の子という位置づけ)

>>548
正確には任官ではなく補任されるものらしいですね>権守
561日本@名無史さん:2011/05/12(木) 01:00:19.80
最後に「常陸大掾系図」から受領を称す人名を抜粋しておこう
良望/常陸大掾
貞盛/陸奥守
繁盛/陸奥守
維幹/常陸大掾
為幹/常陸大掾
繁幹/上総介
致幹/薩摩守、多気権守
広幹/悪権守
清幹/摂津権守
成幹/肥前権守
親幹/徳宿権守
秀幹/武蔵権守
胤幹/出羽権守

常陸大掾や上総介はそのまま大掾・介としたが、常陸(権)介だけは権守にしたかった
または致幹・(広幹)・親幹は地名権守にしたが、清幹・成幹・秀幹・胤幹は地名権守にしなかった
もしくは致幹・広幹・親幹は常陸権守だった
どうなんだろうね、まあもういいか、罵倒されるだけだし
562日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:27:29.39
>>560
>親王任国でも権守が補任されている

ソースは?
563日本@名無史さん:2011/05/13(金) 00:56:03.96
>>487
>ところで上流貴族が任ぜられる権守・権介と在庁武士が任ぜられる権守・権介って職掌・職権は同じなの?

>上流貴族
ってか、言いたいことは「京の諸大夫クラスの公家(=中央貴族)と在庁豪族とでは〜」っていうことだと思うけど、
同じ権守・権介でも、中央貴族が任じられた場合は原則その役職に相当するサラリーが出るし、
在地豪族が(在庁として)任じられた場合は、逆に自領の寄進や成功の結果として、ということなのでは?

つまり、「お上から受けとる」のと「お上に支払う」の違い。

ただ、平正盛なんかがその典型例だけど、中央の諸大夫貴族でも受領任官は成功の結果だったりするからややこしい。

ただ中央貴族の場合は、例え成功による任官だったとしても、サラリー自体は役職相当のものが貰えたんじゃないかと。
564日本@名無史さん:2011/05/13(金) 09:50:24.74
まさに成功報酬だなw
565日本@名無史さん:2011/05/13(金) 11:40:05.16
カネ払って下級の官位を買うことは可能だったはずだが。
566日本@名無史さん:2011/05/13(金) 22:35:25.74
後代になると、最高の官職と家格を金で買った人物がでてくるのだが。
567日本@名無史さん:2011/05/13(金) 23:48:07.27
>>563
権守の報酬ってどのくらい?
鎌倉武士が権守になっても朝廷から報酬もらえたの?
568日本@名無史さん:2011/05/14(土) 01:48:47.92
守でも権守でも、正規の報酬以外のところでの収入とか色々ありそうだな
569日本@名無史さん:2011/05/14(土) 22:45:12.22
>>566
豊臣秀吉のこと?
570日本@名無史さん:2011/05/15(日) 04:39:15.71
>>567
律令制がきちんと機能してればの話だが、守の職封(給料)は大国でも2町(石高換算だと20石くらい)程のはず。
権守についてはよく分からんが、正守と正介の中間くらいと考えるのが妥当か?

571日本@名無史さん:2011/05/15(日) 06:40:44.57
>>570
権守は正官と同じだよ
むしろ、実際の職務を行わないで経済的な待遇だけを与えるために権官を遥任した公家もいるわけだし。
572日本@名無史さん:2011/05/15(日) 08:49:18.57
職分田・公廨田(官職につく報酬)

位田(五位以上)

功田(なんか勲功を建てた時)

これが律令官人が公式に得られる収入の最大限だよな?

ただし、やり手の受領になるとこれ以外にも様々な「副収入」を手にすると。
573日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:11:21.34
中山信名=新編常陸国誌
宮本元球=常陸誌料
なんちゅう恥ずかしい間違いだ
574日本@名無史さん:2011/05/20(金) 23:58:41.22
素朴な疑問だが
参議兼近衛中将は「宰相中将」で
参議兼大弁は「参議大弁」と
宰相と参議とを使い分けているのは何故?
575日本@名無史さん:2011/05/21(土) 00:37:21.96
どうでもいいけど参議は補職なので兼とは言わない
「参議左近衛権中将」
「参議左大弁」
などと表記する
576日本@名無史さん:2011/06/06(月) 21:07:38.41
おらっ >>1のしょうさい だせ!
577日本@名無史さん:2011/06/06(月) 23:26:40.62
非蔵人と蔵人所雑色と蔵人所衆ってどう違うの?
特に非蔵人と雑色。
どちらも六位蔵人に進むみたいだけど。
時期によって名称が異なる?
出身階層が違う?
578日本@名無史さん:2011/06/07(火) 21:15:56.71
>>576まさかポケモン板と勘違いしてこんなスレに…
次回作でゴイサギポケモン出ないかな
579日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:27:16.83
官位とは多少ずれるけど質問です。
伊勢神宮の禰宜で、「三禰宜」とか「三員禰宜」とかあるけど、
これは同じものですか?違うんですか?
580日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:46:03.77
院政期あたりの武士の官で内舎人あたりが最低ランクってことでいいの?
帯刀とか武者所とかは官じゃないんだろうし。
内舎人も厳密には官じゃないかな?
そうしたら、馬允くらいが最低ランク?
将監、衛門尉、兵衛尉、馬允等はやっぱり左の方が格上?
衛門はともかく、兵衛尉は大少の差はほとんど意識されてない?
581日本@名無史さん:2011/06/10(金) 05:00:32.67
582日本@名無史さん:2011/06/13(月) 12:43:23.84
>>581
くだらん
583日本@名無史さん:2011/06/13(月) 22:42:51.47
兵衛権佐→近衛少将・侍従→近衛中将→権中納言→権大納言・近衛大将

名門貴族の子弟だと初任官がたいてい兵衛だな。
584日本@名無史さん:2011/06/14(火) 08:28:04.24
兵衛府と衛門府の関係は微妙で、
本来の官位相当では、衛門>兵衛(ただし改訂後は同等)
督は、通常兵衛から衛門に転じる(名家やその前身)ので、衛門>兵衛
尉も同様(こっちは武士を含む侍クラス)
なんだけど、佐は、名門貴族は、兵衛、二流が衛門って感じだ。
585日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:48:09.57
ユキチカがチェルシーに勝つくらいむずかしい
586日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:58:35.28
平安後期の有名人はだいたい兵衛佐から官歴スタートしてるね
摂関の嫡子ぐらいになるといきなり近衛少将か
587日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:12:16.40
何となく検非違使に関係してるような気がする。
督は衛門でも兵衛でも別当を兼帯することがあるから本来の衛門>兵衛。
衛門権佐は検非違使を兼帯するから実務家じゃないと無理。
衛門尉も検非違使を兼帯することが多いから兵衛より上。
588日本@名無史さん:2011/06/15(水) 22:58:48.45
徳川将軍家世子が、いきなり大納言任官というのは、破格というか、なんというか。
589日本@名無史さん:2011/06/16(木) 23:35:41.09
源朝臣定(816〜863、48歳:嵯峨第6源氏:淳和天皇猶子:母は女御百済王慶命)
 源朝臣(828、13歳)→従三位(832、17歳:直叙)→参議(833、18歳)
これが公卿直任の先例かな?
590日本@名無史さん:2011/06/17(金) 12:22:32.35
聖徳太子とか大友皇子は?
皇族のままだけど
591日本@名無史さん:2011/06/20(月) 03:29:46.67
会津中納言
592日本@名無史さん:2011/06/20(月) 18:30:36.09
丹波大納言
593日本@名無史さん:2011/06/20(月) 19:51:59.92
加賀大納言
594日本@名無史さん:2011/06/20(月) 19:55:44.93
本座宣下
595日本@名無史さん:2011/06/20(月) 21:55:19.72
伊勢中納言
596日本@名無史さん:2011/06/21(火) 07:45:11.47
仙台中納言
597日本@名無史さん:2011/06/21(火) 23:40:01.54
丹波大納言と伊勢中納言は人間ではない
598日本@名無史さん:2011/06/21(火) 23:49:31.44
ちょっと教えてほしいんだけど。
中世の古文書を見ると、差出者も宛名も官職名だけで実名が
書かれていないのが多い。当時の人は官職名ですぐに分かるんだろうけど
今の自分達には誰が誰に送った手紙かさっぱりわからん。
官職名と実名が一覧になっている本とか出版されてるのかな?
例えば正応3年の右京大夫なら藤原●●とかすぐにわかる一覧表が載ってる本とか。
599日本@名無史さん:2011/06/22(水) 04:02:58.39
官位と官職は関係あるの?
600日本@名無史さん:2011/06/22(水) 06:09:14.45
官職+位階=官位
601日本@名無史さん:2011/06/22(水) 07:56:12.44
>>598
きいたことないなあ・・・。
中世も後期末期になると官職受領は僭称で
土豪に等しき者が勝手に名乗りしてるし、それらまで
まとめるとなると気の遠くなるような作業だ。
602日本@名無史さん:2011/06/22(水) 11:50:52.38
地方官では、随分前に出された本に平安鎌倉期の国司の一覧表があった。
古文書は無視して日記や記録類からだけ採録したはなはだ不十分なものだったけど。
京官で全ての官職が網羅されているのは見たことない。
検非違使とか外記とか部分的には出てるが。
603日本@名無史さん:2011/06/22(水) 19:52:03.65
元となる記録文書が完残してないから
無理だろうな。
604日本@名無史さん:2011/06/22(水) 20:20:53.22
記録や古文書の断片的な情報をつなぎ合わせて行けば
ある程度復元可能だろう
専門の研究者は個人的にそう言う表を作ってるんじゃないの?
そうでなきゃ研究論文書けないだろう。
605日本@名無史さん:2011/06/23(木) 14:26:47.29
官職と位階は相互関係があるの?
「xx位○でないと大納言・征夷大将軍に任ぜられない」とか・・・?
606日本@名無史さん:2011/06/23(木) 15:01:28.83
官職と位階はセットなの?
607日本@名無史さん:2011/06/23(木) 16:12:58.05

>>598

1〜2ケ村の領主でも○○守を名乗っちゃうような時代なので
全国規模では無理無理
ごくせまい領国で、ある時期だけのものなら調べた人が作っているだろう
608日本@名無史さん:2011/06/23(木) 19:29:28.66
>>607
中世前期の朝廷なら可能じゃね?
定員一名の頭・助・輔なんかはあるていど分かりそうだが。
609日本@名無史さん:2011/06/23(木) 20:33:10.23
>>605
高校で「官位相当制」って習わなかったかい?
日本史や古文の教科書の巻末資料などに一覧表が記載
されていたと思うが。
610日本@名無史さん:2011/06/23(木) 20:55:15.39
僧綱に関してだけど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E5%B8%AB
>僧綱の官位として僧位が定められ
とあるけど、僧位が位階に当たり、僧綱(僧官)が官職に当たるってこと?
611日本@名無史さん:2011/06/24(金) 17:02:13.66
>>599-600 「ナントカの守」が全然違う土地にいたりして江戸時代には
有名無実になっていた。薩摩の守くらいかな一致しているのは。
612日本@名無史さん:2011/06/24(金) 23:11:15.14
>>610
僧位≒位階
僧官≒官職

僧綱は僧官の中でも上位の僧正、僧都、律師のことを指す
613日本@名無史さん:2011/06/25(土) 02:43:16.34
>>612
ありがとう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E6%AD%A
こっちに
>僧官(日本では僧綱という)として僧正、僧都、律師の3つがあり
とあったからてっきり 僧綱=僧官 なのかと。
614日本@名無史さん:2011/06/25(土) 22:41:29.16
上位の僧位も僧綱だね
法印、法眼、法橋の僧位にある人も僧綱
615日本@名無史さん:2011/06/26(日) 03:07:04.45
羽柴筑前守
惟任日向守
616日本@名無史さん:2011/06/26(日) 03:17:40.25
織田弾正中
617日本@名無史さん:2011/06/26(日) 05:54:46.01
>>601
でも中小国人でも上京して将軍家に奉公してるようなのは、本物だよね。

>>611
それは室町時代からだよね。直臣級はみんななにかしらの官位をもらえるようになった。  
618日本@名無史さん:2011/06/26(日) 11:49:07.94
以前の大河で「毛利元就」があったときに、家臣のことを調べていたら
国人領主に過ぎない毛利家のそのまた家臣たちがそれぞれに受領名を
いっちょまえに名乗っているのにワロタ。今の行政区域で言えば
寒村の村長、いや自治会長ぐらいの勢力版図しかないくせに。
619日本@名無史さん:2011/06/26(日) 20:31:13.36
大大名の重臣クラスなら受領名名乗ってるのって普通じゃね?
620日本@名無史さん:2011/06/27(月) 00:26:46.89
江戸時代の大名の官位について、従五位下は圧倒的にあるが、正五位がないのは何故?
621日本@名無史さん:2011/06/27(月) 00:43:15.80
>>619
618は大大名になる以前の国人領主時期のことを言っているのだろう。
622日本@名無史さん:2011/06/27(月) 07:27:49.64
戦国期に何々守とか言われても違和感覚えないのに
まともな感覚で、戦国時代や江戸時代の「〜守」を見ると滑稽でわらえる
まあ如何に幕府や朝廷の力が衰えたか凄く実感できるけど。
623日本@名無史さん:2011/06/27(月) 10:51:07.47
↑↑日本語でよろしく
624日本@名無史さん:2011/06/27(月) 11:00:54.59
江戸時代の各藩の家臣の官位は藩主を通して朝廷に申請していたの?
それとも藩主の許可があれば自称しても良かったの?
625日本@名無史さん:2011/06/27(月) 11:06:38.29
武家の官位を決めるのは幕府
武家諸法度参照
626日本@名無史さん:2011/06/27(月) 13:11:53.87
陪臣の官位も幕府が決めるの?
627日本@名無史さん:2011/06/27(月) 13:42:20.32
陪臣で官位もらえるのって10人前後しかいないじゃんw
628日本@名無史さん:2011/06/28(火) 14:55:17.70
629日本@名無史さん:2011/06/28(火) 18:08:45.82
征夷大将軍には官位相当はない。
一般に将軍(副将軍・権副将軍含む)は五位以上帯位者から補職された。
征夷大将軍等大将軍は、四位以上の場合が多かった。
慣習的には将軍は五位以上、大将軍は四位以上と言う基準は有ったのだろう。
世襲制になると世代交代がうまくいかず若年者が就任することも生じ、
その結果若年でまだ位階が低いことも起きてきた。
結果、五位の征夷大将軍も存在する。
神祇伯も本来の相当位は四位で、四位以上の帯位者が任じられていたが、
同様に世襲になると五位の神祇伯も居る。
官位相当が崩れても、官と位の相場は有るんだよな。
あくまで慣習による相場だから、時期によっても異なるけど。
630日本@名無史さん:2011/06/28(火) 19:37:59.71
ー真田幸村(信繁)は本当に叙爵されたのかー
ネットや、色々な本にも記述されているのだが、
真田左衛門佐幸村は叙爵(従五位下に叙位)されているのだろうか?
安房守昌幸と伊豆守信幸については、
文禄の叙位で、安房守昌幸が緒大夫(従五位下)、真田信幸が従五位下伊豆守に任ぜられたと朝廷側の記録に残っている。
幸村については何ら記録がないのに、”父兄と同じ扱いで叙位されたのではないか?”という希望的な憶測しかない。
五万七千石の小大名の部屋住みでしかない幸村が、父兄と同じように叙爵されたというのは考えにくい。
岳父である大谷吉継の嫡男大学助吉治でさえ叙爵されていない。
五位であるかどうかというのは、身分的には大きく違う事だから、正確な記述が必要だと思う。
また、書状に豊臣信繁と署名された事実はあるらしいが、主君から姓を許される事と叙爵される事は、全く別問題なので、これは当たらない。
誰か記録されている事とか知っている人いますか?

631日本@名無史さん:2011/06/28(火) 19:52:01.29
>>630
全然知識がないのですけど、当人は何と自称してたんですか
632日本@名無史さん:2011/06/28(火) 23:16:37.69
叙爵の記録は知らないけど、書状等でも五位相当の「左衛門佐」と呼ばれていて、
任官はしていたんだろうから叙爵されていたんだろう、ということでしょうね。
633日本@名無史さん:2011/06/29(水) 09:46:24.13
歴名土代も16世紀末あたりは歯抜けのようだし、
口宣案とか残存率ってそんなに高いとも思えないし、
日記等も記事内容は記主の関心次第であって、
叙位任官についてすべて記されているわけでもない。
記録がないから叙位がないとは言い難い。
そう言う場合は結局確実にはわからないとしか言いようがない。
類例とか状況証拠によって可能性が高いとか低いとか、
あくまで推論レベルの問題でしょう。
634日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:24:46.33
江戸時代。石高低いのに、なぜか官位は高い大名はいるが、その逆はいただろうか?
635日本@名無史さん:2011/06/29(水) 19:47:42.81
>>632
>、書状等でも五位相当の「左衛門佐」
この場合の「左衛門佐」は、真田家の誰であるかを識別するための官途受領名だから、実際の任官とは関係ない。
同時代では、有馬直純が同じ「左衛門佐」を名乗っている。

>>633
豊臣時代の武家の任官記録は、絶家した大名家でさえ大半が残存していると見て差し支えない。
叙爵されることは家の誉れであるから、菩提寺の系図・過去帳にも必ず記載される。

>日記等も記事内容は記主の関心次第であって、叙位任官についてすべて記されているわけでもない。記録がないから叙位がないとは言い難い

記録がない以上、叙位されていないというのが歴史としての記述だと思う。
また、父兄の叙位の記録と合わせて、”この時に幸村も” という形で記されている事が多々ある。

>あくまで推論レベルの問題でしょう。
そこなんですよ。
小大名の部屋住みの立場・名家の出でもない幸村が父親と同じ位に叙せられる事が考えにくいのです。
また、岳父の大谷吉継はらい病を患っていて、当時では大谷親子と結婚する事は、業病を引き継ぐとして敬遠されました。
大谷吉継は妻も低い身分で伝わっておらず、子の吉治も同じです。
縁組みそのものが良縁とは言い難く、閨閥は全く持って期待できないのです。
一方、兄の信幸は家康の養女(本多忠勝女)を娶り、形式的には徳川の婿・沼田城二万七千石を預かる真田家嫡子ですから、父親と同位となりえたのでしょう。
歴史好きであれば、幸村が叙位されたとは推定できかねると思うのです。
636日本@名無史さん:2011/06/29(水) 22:10:27.12
>この場合の「左衛門佐」は、真田家の誰であるかを識別するための官途受領名だから、実際の任官とは関係ない。
これは単なる推測ですね。権威の及ばない田舎であれば格別、伏見や大坂で「左衛門佐」を公然と
称していた以上、名乗る許しを主家から受けていたと考えざるを得ないわけですが。官位を家の
序列づけの道具と位置付けていた豊臣政権下で私称を許すことは、「記録が残っていない」こと
以上に考え難いわけですから。
想像ですが、部屋住みであっても、人質として主人の側近として出仕し豊臣姓を許されるといる
訳で、小性としての新規の召出しに近い形ということはないんですかね?江戸時代に入ればきわ
めてありふれた形ですけど。
637日本@名無史さん:2011/06/29(水) 23:44:47.69
>>636
>名乗る許しを主家から受けていた
ですから、この官途受領名と朝廷から正式に任官することとは別問題なのです。これは父安房守から許可されたと考えるのが自然です。
豊臣政権では大谷刑部・石田治部・・など彼らも叙爵されていますが、正式に任官したわけではありません。
他方、侍従・近衛中少将・参議以上の公卿官位などに任ぜられた大名・武将は正式に位記宣命を受けています。


例えば、父安房守、嫡子伊豆守が四位に任ぜられていたりしたなら、
次男の幸村が五位というのもあると思うのですが、
当主や嫡子と、次男が同じ位を持つというのが考えにくいというわけです。
638日本@名無史さん:2011/06/30(木) 09:25:45.67
>豊臣政権では大谷刑部・石田治部・・など彼らも叙爵されていますが、
>正式に任官したわけではありません。
これだと官名名乗りは叙位が前提のように思えるけど。
叙位と正式の任官も別問題でしょう。

639日本@名無史さん:2011/06/30(木) 13:39:11.12
石治少、備前中納言、大刑少、小摂らはきちんと叙任、叙勲されておる
640日本@名無史さん:2011/06/30(木) 16:20:49.25
叙勲?
641日本@名無史さん:2011/06/30(木) 20:21:25.27
>>639
>備前中納言
これは正解 あとは違う。
>>638
>これだと官名名乗りは叙位が前提のように思えるけど。
叙位と正式の任官も別問題でしょう。
その通り、官命名乗り=官途受領名です。
五位=叙爵・・・五位は通貴といって、五位になれば貴人の列に加わるとされていますから、大変重要な事です。
豊臣政権では、秀吉の奏請など正式に任官したものは、羽柴◦◦侍従・小松宰相・大崎少将・・など侍従、近衛府の中、少将、参議、中納言、大納言、内大臣が、正式な任官だと確認できます。
一例
上杉景勝 
養父謙信の許しで、弾正少弼を名乗る(秀吉に下る前)
上洛後、秀吉の奏請で従五位下に叙せられ、右近衛少将任官、あとは出世コースで、越後宰相から会津中納言と呼ばれる。
長宗我部元親
官途名は宮内少輔、俗に長宗我部宮内少輔を名乗る。
上と同様、秀吉に下った後、従五位下侍従に任官
公的には、羽柴土佐侍従と名乗る。
642日本@名無史さん:2011/06/30(木) 21:31:07.56
>叙位と正式の任官も別問題でしょう。
五位以上の官に、無位のまま正式に任官するなんていうことが有りうるんですか?
>>637
>これは父安房守から許可されたと考えるのが自然です。
少なくとも周囲の諸大名から「左衛門佐」と呼ばれている以上、「父からの許可」
なんていう私的な許可ではあり得ませんね。追認であれなんであれ、豊臣政権下
で公然と称することを許されているわけですから。
643日本@名無史さん:2011/06/30(木) 21:53:53.22
>>641
羽柴藤吉郎の「筑前守」と、天正12年(1584)の従五位叙爵も
同様に考えればいいのかな?
644日本@名無史さん:2011/07/01(金) 07:38:05.75
>>642
>五位以上の官に、無位のまま正式に任官するなんていうことが有りうるんですか?
名乗る事は多々あります。任官はありえません。叙爵が先です。
>少なくとも周囲の諸大名から「左衛門佐」と呼ばれている
呼ばれているわけでなくて、名乗っているわけです。
官職名そのものは重要な事ではありません。
父の「安房守」兄「伊豆守」など、本来なら六位相当の低い官職であり、
逆に幸村の「左右衛門佐」は、室町幕府管領畠山家など、
武家の名門が任官してきた官位です。
上杉景勝も、上杉弾正などと呼ばれていましたが、秀吉のあっせんで少将任官後、越後少将と呼ばれています。
名乗りの官職名そのものはさしたる事ではありません。
また周囲の諸大名から見て、幸村は地位的には明白に格下であります。

>豊臣政権下で公然と称することを許されているわけですから
公然というより、真田家の誰という事の識別・名乗りです。
上に上げた、長宗我部元親は従五位下侍従に叙任されましたが、普段は長宗我部宮内少輔と呼ばれていましたし(秀吉からの消息でも)、福島正則も同様に侍従でありながら、左衛門大夫と呼ばれていました。
一方、公卿(三位以上、あるいは参議)相当の任官者、及び近衛府の将官は別格にて、大大名、豊臣家ゆかりの者などはこれにあたり、彼らは以前の官途受領名は名乗らなくなります。
645日本@名無史さん:2011/07/01(金) 07:44:23.93
>>643
「筑前守」は信長の許し(意向)を受けたものですので、同様です。
余談ですが、秀吉はこの筑前名乗りを、自分に降伏した前田利家に与えていて、彼も公卿(加賀宰相)になるまで、前田筑前守利家を名乗っています。

646643:2011/07/01(金) 16:26:30.82
信長在世中に遡って史料にあたると
「併、内々御心持侯ふや、御家老の御衆、友閑は宮内卿法印。タ庵は二位法印。
明智十兵衛は、惟任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、
丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり」(信長公記)
とあって、「宮内卿法印」「二位法印」「惟任日向」は一つのグループにされている
→「惟任日向」も公式任官である、としか読めないのだが?
647日本@名無史さん:2011/07/01(金) 19:14:19.90
>>646
「惟任日向」は従五位下に叙せられています。
法印位は僧侶の位ですから、武家官位とは趣を異にしますが、四位以上ものでなければ、内昇殿は許されないのが常ですから、文官のトップの彼らが叙位されたものです。
また惟住こと五郎左は、信長の叙爵の勧めを固辞して、姓だけ頂いたとあります。
648643:2011/07/02(土) 08:29:28.22
ウーン、この先議論を進めるには史料にあたらないとダメか。誰か図書館に行けるひといます?
この四つの筆頭に「信繁」の名があるかどうか。

下村效「天正 文禄 慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」(『栃木史学』7、1993)
同 「豊臣氏官位制度の成立と発展−公家成・諸大夫成・豊臣受姓−」(『日本史研究』377、1994)
黒田基樹「慶長期大名の賜姓と官位」(『日本史研究』414、1997)
佐藤孝之「加賀藩年寄の叙爵をめぐって」(橋本政宣編『近世武家官位の研究』、続群書類従完成会、1999)
649日本@名無史さん:2011/07/08(金) 00:23:12.42
終了
650日本@名無史さん:2011/07/08(金) 00:41:41.92
再開
651日本@名無史さん:2011/07/08(金) 19:25:34.42
>>648
日本史強の国立大図書館に行かねばならないね・・
黒田基樹先生の著述には、幸村(信繁)の叙位については触れられていなかった記憶がある。
今のところ、有名な武将であるが、真田幸村の叙爵については、確たる記録・ソースは見当たらないという事か
652日本@名無史さん:2011/07/08(金) 22:07:59.35
こちらで訊けば宜しいのでしょうか?
古田織部こと古田重然は天正13年従五位下、織部正を受領したはずなのに
なぜ慶長19年自筆書状(陽明文庫蔵)では織部助なのでしょうか?

653 忍法帖【Lv=19,xxxPT】 :2011/07/09(土) 01:16:19.57
永島福太郎「古田織部助」『日本歴史』一六二参照
654日本@名無史さん:2011/07/09(土) 07:50:06.95
>>652
織部助が正しい。
仮名は佐介であり(信長の”三郎”や、秀吉の"藤吉郎"のようなもの)、天正十三年七月に叙爵され、官途受領名”織部助”を名乗った。
これにより、俗に"古田織部"と呼ばれるようになったため、”織部正”と混同されて伝わったと思われる。
官途名そのものはさほど重要な事ではないのだが、
茶人として名高い古田が”織部”と名乗っていたのだからとて、
長官である"正"であろう如く後世の勘違いが大きく広まった。
655日本@名無史さん:2011/07/09(土) 21:14:55.31
織部の次官は、正式には織部佑だよね?
656652:2011/07/10(日) 00:41:12.62
>>653-654さま
有難うございます!
657日本@名無史さん:2011/07/10(日) 10:44:25.33
江戸時代初期(延宝三年)の古い墓の戒名の下に「六位」と刻まれています。
この頃の六位という官位は何なんでしょうか。
ご存知の方教えて下さい。

658日本@名無史さん:2011/07/10(日) 11:37:53.27
文字通り 六位の位だよ。
地下官人の家の墓か?
659日本@名無史さん:2011/07/10(日) 11:54:22.52
質問です
日本史における官位って家格と切り離せないじゃない?
官職が家業のようになってると思う
日本史上で中国史のように実力本位の官制が敷かれる余地というか
可能性はあったの?
660日本@名無史さん:2011/07/10(日) 11:57:07.90
>>657
六位とは「正六位上・正六位下 従六位上・従六位下}の位のこと
おそらくその人は生前に六位の位まで昇ったんだと思う。
661日本@名無史さん:2011/07/10(日) 14:12:29.84
>>659
可能性としては織豊政権あたりかな。
662日本@名無史さん:2011/07/10(日) 17:50:56.03
>>655
その通り。織部 佑(じょう)とよむのが正しい。
官途受領名は正式に任官したわけではなく、単に〜家の誰々という識別記号のようなものの程度と考えてよい。
だから介であろうが守であろうが、内記、主水、衛門大夫・左右近大夫(室町時代には無くなっていた)、右左京、忠であれ弼であれ、組み合わせも多彩だったわけです。
しかし、主君と同じ官途受領名は許されません。


663日本@名無史さん:2011/07/10(日) 17:54:04.13
>>657
旗本でいうと、上から2番目であり、布衣という身分です。
家柄が良かったり、目付などの役職を得た旗本です。
664日本@名無史さん:2011/07/10(日) 18:08:23.54
蔭位が制度通りに行われたのはいつごろまでですか?
出来れば五位あたりの事例について教えていただきたいです。
665日本@名無史さん:2011/07/10(日) 18:17:00.28
>>659
堂上公家はその通り。
金品で官位を買ったり、朝廷・室町幕府への貢献で官位を賜ったのが戦国時代
さしたる名家ではないが、高位高官になった一例
大内義隆 従二位 兵部卿・大宰大弐
村上義清 正四位上 左近衛少将
朝倉義景 従四位下 左衛門督
毛利元就 従四位上 陸奥守
毛利隆元 従四位下






織田信長 正二位 右大臣
秀吉 家康 言わずもがな
666日本@名無史さん:2011/07/11(月) 13:52:51.21
>>665
当時は武家官位の時代じゃないから、ワリ食って昇進できない公家が出たんだろうな。
667日本@名無史さん:2011/07/12(火) 23:47:35.10
確かに秀吉や秀次が関白の間は、五摂家から摂関はでないわけだし
668日本@名無史さん:2011/07/13(水) 03:24:30.28
秀吉が秀次に関白を譲った時に摂家側から抗議とか無かったのかな?
669日本@名無史さん:2011/07/13(水) 06:42:48.80
あった
マネーで押しきった
670日本@名無史さん:2011/07/13(水) 06:43:47.58
>>668
たとえようもないほど大きな不満があったろうが、抗議などしたら命が危ないから黙認するしかなかった。
秀次失脚後も、関白職は豊臣氏が世襲するものとして、
豊臣政権が健在なうちは他の五摂家の誰も任じられる事はなかった。(秀頼のため)
関ヶ原の戦から三ヶ月後、晴れて元の五摂家に関白職が戻ってきた。
671日本@名無史さん:2011/07/13(水) 07:44:41.02
>>670
実際、近衛家から流人を出しだし
672日本@名無史さん:2011/07/13(水) 09:53:46.74

>>657
>>江戸時代初期(延宝三年)の古い墓の戒名の下に「六位」と刻まれています。
>>この頃の六位という官位は何なんでしょうか。
>>ご存知の方教えて下さい。

ケチな書き方しないで、戒名全文を示して欲しい

単なる誤読に10,000ペリカ



673日本@名無史さん:2011/07/14(木) 00:07:24.41
もし豊臣家の摂関世襲が続いていたら
摂関家ってどうなってたんだろう

清華家と同等になってたのかな
674日本@名無史さん:2011/07/14(木) 07:39:32.66
>>673
摂関家世襲が清華家と同格について?
675日本@名無史さん:2011/07/14(木) 08:16:56.58
>>655
正確には織部司は次官は存在せず、織部佑は判官。
官司のナンバー2=次官って考えれば、実質そうだろうけど。
官制上はあくまでも判官。
まあこの時期の実のない官司だとどうでも良いことだけど。
676日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:39:26.88
平安末期鎌倉頃だと、下位の位階は正六位上と従七位上だけらしい。
すると事実上正六位上=六位って感じか。
それならスペースの関係とか、堀賃けちって六位ですませるかも。
少なくとも江戸期になると、再び六位の正六位上から従六位下までそろっているようだ。
その場合従六位上下ならあえて省略するかも。
上にあるように幕臣で布衣の可能性もあるかも。
677日本@名無史さん:2011/07/14(木) 20:09:42.22
>>664
それが確認できる例は、奈良時代ですらほとんど見いだせないのでは。
六位以下の叙位が確認できる例自体がほとんど(まったく?)みられないし。
さらにそれが蔭位であることが確認できる例に至っては……
蔭位制度の手直しは800年まで数次にわたり改訂されているので、
その頃までは間違いなく維持されていたのだろうが。
11世紀くらいになると、六位以下の位階の多くがほとんど消失している。
と言うことは、その頃までには律令通りの厳密な蔭位制度は崩壊しているだろう。
もっとおおざっぱな事実上の蔭位制度は有るかもしれないけど。


あと12世紀くらいだったか、同族間の序列の決定条件として、
年齢、本家分家関係の他、理念場の蔭位が問題にされている例があるようだ。
678日本@名無史さん:2011/07/16(土) 09:46:55.73
たとえば平朝臣将門なんかも、本来なら八位程度の蔭位対象のはず。
父は鎮守将軍ってことは当然五位以上だろうし。
それもずっと田舎でくすぶっていたのであればともかく、
とにもかくにも都に出て有力者のコネもある。
結局無位無官のままだったらしいけど、任官の方はともかく、
叙位は有ってしかるべきだろうな。
やはりこういう周辺部から崩れていくのかなあ?
679大宮伊治:2011/07/16(土) 19:52:56.48
「皇族以外で蔭位ではないかと思われる例」
藤原四兄弟の初見の位階は、蔭位の規定に合致しており、蔭位だろう。

武智麻呂の長子=不比等の嫡孫豊成の初見の位階の正六位下(723時点20歳)は、
贈正一位不比等の嫡孫の蔭位だと考えられる。
ただし規定の21歳より早いらしく、特別待遇ではある。

房前の次男=不比等の庶孫永手の初見の位階従六位上(737時点、24歳)も、
贈正一位不比等の庶孫の蔭位だと考えられる。

石上朝臣宅嗣の初見の位階正六位下(751時点23又は24歳)は、
祖父贈従一位左大臣麻呂の嫡孫としての蔭位ではないだろうか。

都宿禰腹赤(元桑原公:789〜825、37歳:外従五位下桑原公秋成の子)
 814年26歳時点で大初位下(上とも)、父は796年の外従五位下昇進。
 外従五位の蔭位は大初位下であり、蔭位ではないだろうか?

藤原朝臣行道(789〜854、66歳:従三位楓麻呂の孫、従五位上城主の長男)
 817年29歳時点で正七位上、祖父は774年時点で従三位昇進。
 三位の庶孫の蔭位は正七位上であり、蔭位ではないだろうか。
680日本@名無史さん:2011/07/17(日) 23:28:42.46
武家でも蔭位ってあるの?
681日本@名無史さん:2011/07/17(日) 23:46:02.09
律令制度化においては武家なんて概念はないので、
蔭位の適用にについて武家だからといって区別されることはない。
社会の実態として武家なるものが出現し、存在を認められる遙か以前に、
蔭位制度の実態は失われており、
実際問題として武家が蔭位の適用を受けることはなかったと思われる。
江戸期の大名が従五位下直叙なのは、蔭位じゃなく家格の問題だろうし。
682日本@名無史さん:2011/07/18(月) 00:53:00.31
蔭位でもらえる初位から7位までが叙されなくなって久しいからね。
683日本@名無史さん:2011/07/18(月) 07:50:54.71
結局ある程度レベル以上は、コネで蔭位より有利な位階を得られるようになっていくんだろう。
だからその階層は蔭位制度が形骸化していっても痛痒はない。
一方蔭位がないと位階を得にくいやっとこ五位等ぎりぎりの階層は、
文句言っても相手にされない。
棒禄すらまともに出なくなっていく状況では、だんだん形骸化するよな。
一一世紀以後の六位と七位はやはり階層差があったんだろうか?
684日本@名無史さん:2011/07/18(月) 08:41:06.09
五位は一応貴族だから、貴族がやるべきではないレベルの仕事をやらせるために六位が必要だったんじゃないの?
685日本@名無史さん:2011/07/19(火) 22:13:07.04
>>673
豊臣家によって官位が独占され、藤原氏自体が没落していった可能性が
大。
686日本@名無史さん:2011/07/19(火) 22:22:19.76
あのやり方だと大大名もそれなりの官職もらうしな。
藤原氏はいいとこ大納言までだな。
687日本@名無史さん:2011/07/19(火) 22:33:14.43
まあ摂家や清家は無くなっても良いんじゃないの。
摂家が朝廷運営の中核になったのは徳川の政策だし、
名家と地下と女官だけいれば朝廷は運営できる。
あとの上の方は装飾品だから武家が成り代わっても問題ない。
って言うか、普通の国なら間違いなくそうなる。
688日本@名無史さん:2011/07/19(火) 23:47:38.46
江戸時代は摂家以外の堂上家は仕事なんてもらえなかったし
689日本@名無史さん:2011/07/20(水) 09:18:47.91
公家そのものがほとんどいらない
なんの役にも立たない新家が多過ぎ
690日本@名無史さん:2011/07/20(水) 11:05:30.65
まあそれでも上層は武家伝奏や議奏の人材プールとしての存在意義が多少はあるが、
下層の堂上(羽林や半家の新家)とかは官人としての仕事はなにもない。
枯れ木も山のにぎわいの装飾品。
養子製造用の人材プールとしてのみかすかに存在異議あり?
家業の継承って言っても、あれも正直どうでも良いようなのも有るし。
他の家が片手間にやっても良いようなのとか、地下で十分なのとか。
691日本@名無史さん:2011/07/20(水) 11:07:09.39
宿直要員としても半分くらいで良いのじゃないのか?
692日本@名無史さん:2011/07/20(水) 15:31:10.43
>>687
摂家と清華家は参議に任ぜられない家柄だしな…
693日本@名無史さん:2011/07/20(水) 15:59:29.69
もっとも朝廷そのものが武家政権の装飾品で有るとも言え、
装飾部分こそが最重要部分だとも言いうる。
694日本@名無史さん:2011/07/20(水) 17:31:42.40
>>690
牛とか馬の権利とか・・・
695日本@名無史さん:2011/07/20(水) 19:43:07.09
新家の設置はむしろ、装飾としての価値を維持して貰いたい武家政権(豊臣・徳川)の意向だからな。
696日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:07:49.59
ウィキペディアで真田昌幸を閲覧した。
官位について、とても事実とは言えないような記述があった。
天正六年に真田昌幸が従五位下・安房守になった・・・
安房守を名乗ったのがこのころとしても、五位に叙せられた記録は約二十年も先である。
天正六年と言えば、まだ武田家の一家臣であり、主君勝頼さえ官位を賜っていないのに、先方衆の真田昌幸が官位を賜る道理がない。
官位だけではないが、人気武将の主観的・希望的な記述がウィキペディアには多々ある。
ネットで簡単に調べられるのは良い点だが、出典が全くもって不明な事・TVドラマの脚本のような事などを事実のように記述しているのは、多いに問題だと思う。
ウィキペディアを信用する事なかれ・・・
697日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:25:48.68
>>692
?
698日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:29:43.16
>>696

所詮Wikipediaだから(笑)
この板にもWikiを盲信する人多いけどね〜ちょっと調べれば間違いに気付くんだけどね
699日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:36:14.65
>>697
いきなり権中納言へ
700日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:54:17.49
参議に任ぜられない家柄

1.摂家と清華家(参議素っ飛ばして中納言へ昇る)
2.半家(極官が非参議止まりの家以外)


参議に任ぜられる家柄

大臣家、羽林家、名家、半家(極官が大納言・中納言・参議の家)
701日本@名無史さん:2011/07/20(水) 23:21:05.80
まさに徳川家康は皇室はともかく摂家を初め、公家たちにとって
救世主だったな。
豊臣家による摂関の世襲が続くと、過去の藤原家のように豊臣家も
血が分かれてと豊臣○家、豊臣×家ができてそれに伴う、新しい家格、官位の序列化ができて旧摂家や公家が淘汰されただろう。
家康が禁中並公家諸法度で天皇公家を縛ったが、身分の保障を与えた
からな。
702日本@名無史さん:2011/07/21(木) 06:41:28.21
>>698
そういうのは出典付けて修正してやらんと、
外国語版に翻訳されたら、それこそ世界的被害になるぞ(苦笑)

だが、そういうのに限って「『歴史群像』の第何号に載っているから間違いないキリッ」とか言う奴がいるからな。
703日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:52:24.95
清華家はどういう基準で決まったの?
藤原氏だけでなく源氏もいるし。
旧家だけでなくて新家もいるし。
704日本@名無史さん:2011/07/23(土) 10:32:27.49
>>1

我が父方は鎮守府将軍であった藤原秀郷公の末裔でありますが、
南北朝時代に落ちぶれて、最終的には戦国時代に池田輝政公に仕え、維新まで代官所詰めの郷士として血脈を繋いでまいりました‥

維新後は、卒から平民ではなく士族となり、なんとか先祖の名を汚さずには済んだものの
永らく無位無官の家ではありましたので、そろそろ先祖の名を辱めることのないよう、1度くらいは官位を授かりたく罷り越した次第です。

何とぞ佳き官位を戴けますようよろしくお願いいたします…
705日本@名無史さん:2011/07/23(土) 10:59:06.72
700超えて今更官位を与えるスレと勘違いした人が現れたのか
706日本@名無史さん:2011/07/23(土) 13:31:15.97
旧家は摂家傍流中で巧いこと院政期に外戚になれた家がなれた感じ。
結局大臣大将になれたのは主にそう言う家だし。
村上源氏も摂家傍流みたいなもの。
と言うか実態としてそう言う家ができあがり、
それを清華と称するようになった。
新家は清華クラスの家格相応に位置づけられたわけであり、
時の政権がそうする価値があるって認めたってことでしょう。
当然過去の例は参考にはしてるだろうけど、
基準と言えるほどのものは無いのでは。
707日本@名無史さん:2011/07/23(土) 13:45:33.77
中世くらいだと太政大臣に昇ったことのある家が清華と目されている気がする
室町殿もそうだし
708日本@名無史さん:2011/07/23(土) 18:22:37.08
>>701
豊臣秀次家と豊臣秀頼家が関白を交互に持ち回りしたりして?
709日本@名無史さん:2011/07/23(土) 19:47:41.02
>>703
藤原道長系の五摂家嫡流以外、大臣等を歴任した父母共に家柄の良い家が、
数十年のうちに家格として認められるようになったと思われる(いきなり、あなたの家は清華です となったわけではなく、時を経て慣例的に認められた)
源氏は、院政期以来、宮廷貴族として栄えた村上源氏の嫡流が、久我と称してこれまた同じパターンといえる。
最後の広幡家は、天下人たる武家(織田・豊臣・徳川)と密接な関係があり、祖父が正親町帝の皇太子でもあったから、正親町源氏と称され、皇族の桂宮家別家ともされたため、清華とされた。

要は歴任してきた官職を基としたわけです。
710日本@名無史さん:2011/07/23(土) 19:53:53.46
>>704
>代官所詰めの郷士
せめて知行四百石程度の奉行職を拝命すべし
それなら従六位下を与えてもよい
711日本@名無史さん:2011/07/23(土) 21:52:56.13
>>710
口宣案を宜しく
712日本@名無史さん:2011/07/23(土) 21:53:57.92
>>710-711
スレ違い
713日本@名無史さん:2011/07/24(日) 00:27:54.20
広幡家祖の忠幸王、後の源忠幸は尾張に世子ではないが入り婿って
感じだったのかな?
714日本@名無史さん:2011/07/24(日) 00:35:00.08
>>709
総論では、そんなところだと思う。強いて補足すれば、


倉本一宏氏の著書の中にあった「内大臣沿革考」で、内大臣への任用理由が
家格の萌芽という見解があったが、それを勘案すれば、筆頭大納言から順送りで
内大臣に任官できた家(閑院流、花山院流、村上源氏)に絞られた。

『中世史研究』第34号?に、准大臣の定着と家格についての詳論があったが、
その中では、時代が下るにつれ、上記の家に属する公卿が増えたので、
大臣任用資格を摂関家と上記の家の嫡流を優先することとなった。これで、
大臣昇任が後回しになった公卿(藤原伊周以来2例目の准大臣となった堀川○○)
に対する「慰め」のポストとして准大臣が用いられた。
(その後、准大臣の性格も変化して、(上流)平堂上家に対する名誉職となった)

そのころには、清華家の嫡流は参議を経ずに中納言任官というしきたりがあったらしく
村上源氏では、その「特権」を持っていたのは久我家だけで、村上源氏で、大臣任官、
源氏長者の座を久我家と争っていた中院家、堀川家はその「特権」は既になかったようである。
(大将任官については不明)

閑院流や花山院流では複数の家が、清華家の座を維持できたが、村上源氏では
久我家だけが清華家の座を維持できた(その嫡流争いに負けた家が「大臣家」
となった)のは、よくわからないが。
715日本@名無史さん:2011/07/24(日) 01:26:40.27
>>713
それは俺も疑問だった
なんで皇族で宮家当主でもないのに出家せずに結婚もできたんだろうかと
716日本@名無史さん:2011/07/24(日) 01:56:32.37
醍醐と廣幡が何故家を立てられたかということ自体が疑問
しかも清華として

摂家や親王家の連枝だからなんて理由にならないはず
そんな人はそれまでもそのあともたくさんいたわけだから
何か特殊な事由があったのか
717日本@名無史さん:2011/07/24(日) 02:04:21.64
>>716
親王家の連枝は幕末までは後にも先にも広幡しか無いだろ
しかも広幡は清華にならずとも諸王としては存在できたわけだし
ほっといても伯王家みたいになったんでねーの?
718日本@名無史さん:2011/07/24(日) 02:13:25.41
え?
親王家に複数の男子が生まれたことないの?
719日本@名無史さん:2011/07/24(日) 02:31:09.44
>>718
大半が幼年のうちに出家してた
忠幸王は家を立てずに中年まで諸王のままだったという点で全く違う。
720日本@名無史さん:2011/07/24(日) 05:38:58.24

正親町天皇 ━━━ 誠仁親王 ━━ 八条宮智仁親王 ━┳━━ 八条宮智忠親王 → 宮号を桂宮とする。明治初期断絶。
                                     ┃
                                     ┣━━ 良尚入道親王
                                     ┃
                                     ┣━━ 忠幸王(広幡家始祖) → 明治を迎える。
                                     ┃
                                     ┗━━ 殊光院(西本願寺の良如の元へ嫁ぐ)

忠幸王が臣籍に連なり、広幡を家名にしたそうだが由来がよくわからん。
忠幸王自身、皇族時代に広幡宮と名乗ってたことでもなさそうだし…


721日本@名無史さん:2011/07/24(日) 07:57:32.96
摂関家(豊臣家)
清華家(武家清華家+旧摂関家+旧清華家)
羽林家(国持大名)
名家(その他公家)
半家(その他大名+旧半家)

官位にも限りがあるからだいぶ没落してそう
722日本@名無史さん:2011/07/24(日) 08:10:01.34
忠幸王、徳川義直の猶子となって姫と結婚してるんだな。
義直とは主従関係はあったのだろうか?名古屋での身分的位置は?
そもそも姫が上京せずに忠幸王が名古屋に下って生活しているというのが
どういった意味を持っているのか・・・。興味は尽きない。
723日本@名無史さん:2011/07/24(日) 08:30:06.80
>>721
摂関の上に更に何か拵えて豊家独占にしちゃうかもよ
724日本@名無史さん:2011/07/24(日) 08:40:19.31
大臣家って中途半端だよね。
725日本@名無史さん:2011/07/24(日) 09:12:40.95
相続=再興の形をとったけど、松殿家は九条家庶流だよね。
道基の方はおそらく豊臣秀勝外孫ということが理由なんだろうけど、
忠孝の方は摂家庶流以外に理由があるの?
確か道基の時は摂家、忠孝の時は清華って聞いたことがあるけど、
このころだと公式に格付けされるもの?
726日本@名無史さん:2011/07/24(日) 12:04:30.53
>>722
徳川義直って息子1人だからそのスペアとかかな?

もし光友が早世してたら尾張藩主源忠幸が誕生したかも
とか妄想もできる。
727日本@名無史さん:2011/07/24(日) 12:55:27.23
藤原四兄弟の全滅とか、江戸期の五摂家で適任者どころか適例者が一条家だけ、
なんて例をみると、安定的に適任者を出すには五家が必要最小限なんだろうか?
とすると、摂家の分流はむしろ必然だった。
王(天皇・将軍・大名等)は幼少でも良いけど、補佐役はそれじゃまずいもんな。
728日本@名無史さん:2011/07/24(日) 12:56:40.41
>>726
その場合、将軍家継承権はどうなるんだろう。
729日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:19:53.62
>>727
藤原4兄弟死亡時の豊成や仲麻呂は30代だったから既に幼少ではないけどな
730日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:44:44.44
>>727
松殿師家なんて例もあるが。
731日本@名無史さん:2011/07/24(日) 18:19:14.22
>>728
家綱の後嗣として有栖川宮擁立論もあったことだし継承候補としては残るんじゃない?
でも>>726はただの妄想だからあまり気にしないで
732日本@名無史さん:2011/07/24(日) 22:10:25.39
>>719
だからこそなんで出家せずに家を立てられたかって話をしてるんだけど
733日本@名無史さん:2011/07/24(日) 22:13:55.27
鎌倉時代に摂家将軍や宮将軍の先例があるから、将軍継承以前に摂家や宮様には将軍になる格が問題なく備わっていると解釈すべきではないだろうか。。。
734日本@名無史さん:2011/07/24(日) 22:34:28.95
>>728
その頃はまだ将軍と言うより宗家継承権が定まっていないから
どうにでもなるのではないかな?(将軍職が継承されると
言うより宗家当主が将軍に任命される感じ)
秀忠は男子が中々生まれなかった時は、娘婿の松平秀康の
息子を後継者に考えていたこともあったし。
735日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:05:28.15
>>732
なら問題とすべきは忠幸王がどうして家を立てられたかじゃなくて
どうして出家せずに済んだのかだね。
中年になるまで出家せずにいた時点でいずれ家を立てるのは自明だし。

それについては確かに疑問ではあるが。
736日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:18:24.60
>716
醍醐家は父親の一条昭良の無茶ブリじゃなかったっけ?
遅くに生まれた子だったから通常のように出家させるのもかわいそうだし、適当な養子先もないから
分家させてやりたいって。だから叙任したのも摂家の子供にしてはかなり遅かったはず。

廣幡もなぞが多いよね。義直に娘婿として名古屋に迎えられているけど、結局は京にもどって
廣幡家を立ててる。そのわりには後継ぎのことを考えてなかったのか、死後の養子になって
家禄を半減させられてる。

どっかの論文に書いてあったけど、義直に京志向があって息子の嫁は将軍家からもらったけれど
娘の婿には公家からという気持ちがあってもらいうけたのではないか。とあった。
京姫の母親は側室だけどもともと東福門院の侍女だったので、そのあたりからのコネで八条宮の
部屋住み弟をもらいうけたと。少しあとだけど鷹司信平が紀州の姫をもらって旗本になっていることもあるし
そういうのも狙っていたんじゃないかと。

だけど、京にもどって各方面に働きかけて臣下として一家を立てた。
737日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:20:29.87
>>735
兄貴のスペアでしょ。子供ができなかった時のための予備。
738日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:25:35.56
じゃあ何故他にそういう例が少ないの?
739日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:31:18.36
>>736
親王家の方が清華家よりも格上だろうになぜ臣籍降下したんだろうね
親王家にならなかったんじゃなくてなれなかったのかな
前例の無い諸王家なんかになるよりは清華家のほうがよさそうだが
740日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:40:04.49
要は巡り合わせがよいか悪いかだけの差でしょう。
所詮人事は人間が決めること、決まり通りに行かないのは良くある話。
一見同じような状況でも、人間関係の好悪とか力関係とか、
貸しが有るだとか、負い目が有るだとか、気が弱いだとか、
そんな偶然でいくらでも変わってくるだけ。
と、思考停止する方法もある。
741日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:53:38.19
>739
親王家に「なれなかった」
最初、後継ぎのいない松殿家を継ぎたいと義兄光友を通じて幕府に願い出ていたが
八条宮家としては新たに親王家を立てたいと根回しして、光友経由で幕府に願い出たけれど
これも不可能との返事。どうしても公家として朝廷に仕えたいということで、幕府は臣籍降下の上
清華として家を立てても良い。ということになり廣幡家が誕生。
742日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:08:12.00
確かに、同じ新家の醍醐家は左右大臣の任官者がいるのに、
廣幡家は内大臣までで左右大臣の任官者がいないのも異例
廣幡家が設立された江戸初期は、大臣家でも異例の右大臣
任官があった時代。
743日本@名無史さん:2011/07/27(水) 00:46:04.23
清華家と大臣家の違いってあんまりない気がする
744日本@名無史さん:2011/07/27(水) 09:26:50.43
むしろ大臣家と羽林上位との差があまりないような。江戸時代限定だと。
つうか江戸時代限定だと名家上位との差もたいしてないな。
745日本@名無史さん:2011/07/27(水) 09:31:31.12
もっとも名家は五位蔵人・蔵人頭を経験しなければいけないので、
順番待ちで正五位・正四位で管理の期間滞留することになる。
幕末頃だと親子そろって正五位とかざら。
746日本@名無史さん:2011/07/27(水) 16:37:42.32
文禄元年(1592)、左大臣の近衛信輔が辞官して豊臣秀次にとって代わられて
以降、慶長5年(1600)に九条兼孝が関白左大臣になるまで、公家最上位は
菊亭晴季の右大臣で摂家の大臣はいなかったんだな。
しかも晴季も秀次連座で文禄4年には流罪になってるし。
摂家清華家受難の期間だね。
747日本@名無史さん:2011/07/27(水) 16:43:23.42
>>746
秀吉死後は内大臣源家康が最高位www
748日本@名無史さん:2011/07/27(水) 21:12:35.38
左右大臣が空位だったことって、秀吉没後以外にあったの?
749日本@名無史さん:2011/07/27(水) 21:35:25.30
>>748
調べた訳ではないが・
左右大臣が空位というのは有り得ないし、あってはならない事態
少なくとも左か右どちらかの大臣がいなければ、朝議が開けない。
まあ太政大臣がいれば、可能といえば可能だが・・・

関ヶ原の時に、石田三成らが小早川秀秋に関白職を約束したという話しがあるが、これがまかり通りかねないというのが、この当時の異常きわまる事態を表している。
家格なき一武士の倅だった秀秋が!!!中納言さえ勿体無きことである。

徳川が武家と公家をきっちり区別してくれてなければ、武家清華ばかりの台閣となっただろう。



750日本@名無史さん:2011/07/27(水) 23:26:26.51
>>744

そのおかげで、明治時代の華族制度発足時には、大臣家は「准清華家」
ではなく、「上流平堂上」の扱いで、伯爵どまり
751日本@名無史さん:2011/07/28(木) 05:48:01.71
摂家が断絶してなかったら七摂関家ってことになってたのか
近衛・九条・一条・二条・鷹司・松殿・羽柴
752日本@名無史さん:2011/07/28(木) 08:05:59.53
>>749
実力者が高位を占めるという、有るべき姿になったはずということですね。
753日本@名無史さん:2011/07/28(木) 11:21:00.52
武家清華も…と書こうとしたら>>247に既に書いてあった
754日本@名無史さん:2011/07/28(木) 12:28:49.83
江戸時代堂上の実質的家格って
摂家
ほぼ歴代武家伝奏・議奏足りうる家
時々武家伝奏・議奏を出す家
まれに武家伝奏・議奏を出したことがある家
武家伝奏・議奏と全く無縁の家
摂家以外は境目が曖昧だとしても、こんな感じか?
755日本@名無史さん:2011/07/28(木) 15:24:03.90
その辺は韓国人歴史家(何故日本の公家社会を?)が書いた江戸時代の朝廷
研究書が分かりやすかった

大臣以上が如何に権威があるか
常時大臣に就任できる摂家が大別格
清華ですら随分格落ち(清華内でも家格差あり)
大臣家は舐り内大臣でしょぼい

それより地下官人で伴と佐伯の末孫が健在だったのが驚きだった


756日本@名無史さん:2011/07/28(木) 16:18:56.83
江戸時代以降、羽林家・名家で内大臣になった公家

元和4年(1618)  広橋兼勝(武家伝奏)
寛文元年(1661) 清閑寺共房(武家伝奏・永年勤仕により任官)
貞享5年(1688)  中御門宗条(東山院外祖父)
享保11年(1726) 中御門宗顕
延享5年(1747)  烏丸光栄(和歌興隆に功有り)
   
757日本@名無史さん:2011/07/28(木) 18:31:36.40
席次が摂関→現任太政左右大臣内大臣→親王→前大臣→准大臣→従一位
現権大納言→前大納言
758日本@名無史さん:2011/07/28(木) 21:27:12.74
宮中座次

攝政關白(内覽一座氏長者等宣下)
准三后(前攝政關白)
三公(太政大臣>左大臣>右大臣)
准三后(門跡)
親王
前攝政關白
攝家前三公(前太政大臣>前左大臣>前右大臣)
諸親王(三世以下)
清華家前大臣(前左大臣>前右大臣)
内大臣
前内大臣
准大臣
從一位
本座
權大納言
前權大納言
權中納言
前權中納言
參議
前參議
非參議(正二位>從二位>正三位>從三位)
759日本@名無史さん:2011/07/28(木) 22:10:46.18
>>758
豊臣秀次を切腹させた豊臣秀吉は、さらにこれの一段上だったわけか・・・
太閤でありながら現任摂関よりえらいときた。
760日本@名無史さん:2011/07/28(木) 22:51:32.45
>>758は江戸時代のものだけど
太閤は
>前攝政關白
のところに入るはず
761日本@名無史さん:2011/07/28(木) 23:20:22.42
そもそも藤原摂関家だって「大殿」の方が藤氏長者よりも偉かった。
762日本@名無史さん:2011/07/28(木) 23:37:04.20
天子の代行者たる現任関白を切腹させる
その妻子らを罪人として斬首
日本史上、これをやった(できた)のは、豊臣秀吉のみ
公家・武家ともに、なんと恐ろしやと震え上がったであろう


763日本@名無史さん:2011/07/28(木) 23:40:01.57
確かに他は免職にはしても命まではとってないな。
764日本@名無史さん:2011/07/29(金) 00:05:38.46
義経が斬首したのは三位の公卿どまりだったしなあ
765日本@名無史さん:2011/07/29(金) 00:43:58.53
とっても大好き、どら右衛門♪
766日本@名無史さん:2011/07/29(金) 01:06:55.05
太閤秀吉は、一座だけは秀次に譲らなかったの?
767日本@名無史さん:2011/07/29(金) 02:25:01.09
出家するのが嫌だったのかね…
768日本@名無史さん:2011/07/29(金) 10:15:14.93
清少納言の少納言とはなんですか?
少ない...
769日本@名無史さん:2011/07/29(金) 12:10:59.32
従一位と権大納言の間の「本座」って何?
本座宣下って時々見るけど
770日本@名無史さん:2011/07/29(金) 12:50:05.52
>>769
権大納言の職にある者が功労により、権大納言を辞めた後も権大納言の座次を許された者のことです。
前権大納言は通常、現任権大納言の下座に着きますが、本座宣下を許されると現任権大納言の上座に着きます。
元々は権中納言や参議にも本座はあったらしいですが、いつの間にか権大納言だけとなった。

内大臣以上に昇れない羽林家・名家の上層の家格の家の者が宣下され、本座宣下された者は後に従一位宣下され、さらに一部の家では准大臣宣下される。
逆に言えば、原則的に本座宣下されなければ従一位宣下されず、従一位宣下されなければ准大臣宣下されない。


本座宣下の資格ある家

1.本座宣下 → 従一位宣下 → 准大臣宣下の家(大臣家に次ぐ)
― 羽林家:中山家・中御門(松木)家・園家
― 名家:広橋家

2,本座宣下 → 従一位宣下の家(上記に次ぐ)
― 羽林家:飛鳥井家・庭田家(宇多源氏)
― 名家:日野家・柳原家・烏丸家・甘露寺家・葉室家・勧修寺家・万里小路家・清閑寺家・中御門家・坊城家

771日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:33:13.55
前官礼遇みたいなもんか
772日本@名無史さん:2011/07/29(金) 16:03:30.07
「功労により」とかいうから実力で許されるのかと思えば、
本座宣下も家格がなきゃだめなのか
773日本@名無史さん:2011/07/29(金) 17:45:46.70
>>768
官職名の場合上下関係を表すのに、なぜか大小ではなく大少と表記される。
日本の場合はお手本の中国がそうだからまねをしただけのようだが。
本家中国でなぜそうなったのかは不明。
つまり少納言は字義通りには下級納言と言うことになる。
清少納言の場合は女性なのでむろん当人が少納言になったわけではない。
通常は近親(父)とかが少納言の場合にそう称されるらしいのだが、
少なくとも清少納言の父は少納言にはなっていないらしいし、
他の近親、祖父とか兄弟も少納言になったことは確認できない。
もっとも父親ほどには経歴がはっきりしているわけではないので、
少納言になっていないとは断言ではできない。
つまり清少納言の少納言が何に由来するのかはよくわからない。
774日本@名無史さん:2011/07/29(金) 18:01:58.99
公卿補任によると藤原道長が986年に少納言になっているし、
このころまでは結構上級貴族あ少納言になっているようだ。
すると清原氏程度では少納言は無理かも?
775日本@名無史さん:2011/07/29(金) 18:58:41.58
上級貴族の場合は少納言ってより、蔵人少納言が人気みたいだな。
蔵人式部丞や蔵人兵衛佐みたいに蔵人であることが重要ぽい。
学者系の出世止め少納言とは意味が違うぽいね。
776日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:24:23.08
>>770
前スレからのコピペじゃん

195 : 日本@名無史さん : 2009/07/21(火) 01:04:45
>>194
功労により、権大納言を止めた後も権大納言の座次を許された者のことです。
前権大納言は通常現任権大納言の下座に着きますが、本座宣下を聴されると現任権大納言の上座に着きます。
もともと権中納言や参議にも本座はあったらしいですが、後に権大納言だけに限定されます。

概ね内大臣以上に昇れない羽林家・名家のうちの上層の家格の者が宣下され、本座宣下された者は後に従一位宣下され、さらに一部の家では准大臣宣下されます(下記一覧参照)。
逆に言えば、原則的に、本座宣下されなければ従一位宣下されず、従一位宣下されなければ准大臣宣下されません。

但し、徳川家齊の実父徳川治済(一橋徳川家第二代)は従二位(前)権大納言から従一位に直接昇叙、後に准大臣宣下されており、本座宣下がなされた形跡がありません。
因みに家齊の男子である徳川齊順(紀伊徳川家第十一代)を養子とした徳川治寶(紀伊徳川家第十代)は紀伊家の極位極官である従二位権大納言から正二位に昇叙、後に従一位宣下されています(齊順本人も正二位に昇叙している)。
これらの例外的措置は徳川家齊の権勢によるお手盛りと思われます。

■本座宣下→従一位宣下→准大臣宣下の家(大臣家に次ぐ)
―羽林家:中山、中御門(松木)、園
―名家:廣橋

■本座宣下→従一位宣下の家(上記に次ぐ)
―羽林家:飛鳥井、庭田
―名家:日野、柳原、烏丸、甘露寺、葉室、勧修寺、万里小路、清閑寺、中御門、坊城
777日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:31:34.49
清少納言の場合はあだ名みたいものって可能性はないかな?
定子が、「あなたはわたしの少納言よ」とかって感じで。
778日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:46:12.09
>>770
>>776
???
一体どっちが正しいのか?
779日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:53:03.16
江戸期の場合は、武家官位はそもそもが公家と別立てだし、
本座宣下みたいな細かいところには拘らなかったんじゃないの?
だいたいが細かい区分が必要なほどに武家大納言は居ないし。
780日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:07:47.92
>>776
と思ったらこっちが正解か
781日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:16:00.68
>>774
上級貴族の少納言ってある意味通過点でしかないから、きちんと職務をやる少納言は別に必要。
782日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:55:19.81
元局務の舟橋家なんかは堂上に列した後はよく少納言になってるな
783日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:58:56.96
もしかしたら初学者の人の役に立つかもしれないしログ貼っとくか

武家の官位について語れ
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/history/1191035900/

とにかく官位について語るスレ
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/history/1211206280/
784日本@名無史さん:2011/07/30(土) 09:09:10.70
○○卿法印とかの○○卿は官名?
宮内卿とか大蔵卿とか治部卿とか言うやつ。
それともただの通称?
785日本@名無史さん:2011/07/30(土) 11:30:24.35
三位以上の事じゃねーの?
786日本@名無史さん:2011/07/30(土) 14:27:11.42
787日本@名無史さん:2011/07/31(日) 10:09:40.17
>>785
それは無さすぎる
788日本@名無史さん:2011/07/31(日) 19:34:01.69
>>427を図書館で借りて読み始めた。
むしろ、ショックだったのは著者マジで若い。
有名人で言えば安室奈美恵と同じ年だなんて……
読み始めたばかりで難だが、中身も結構面白いけど。
789日本@名無史さん:2011/07/31(日) 20:16:14.13
790日本@名無史さん:2011/08/01(月) 15:54:44.47
楠木正虎が就いた「式部卿法印」って何か知りたくて来たら
>>784でも質問されててびっくりした。

「式部卿法印」と「式部卿」は違うものなの?
楠木正虎は松永久秀の祐筆を務めた武将、武家という事を考えても
楠木氏の家格からいっても
式部卿になんてなれる家柄じゃないよね?大名でもないんだし。
だけど実際、「式部卿法印」になってる。

それはどういう官位、また立場なの?
791日本@名無史さん:2011/08/01(月) 19:45:40.90
律令体制の軍事って不思議だな。
兵部省と馬寮と六衛府と征夷大将軍等の臨時将軍職と国司指揮下の軍団ってどういう指揮系統で
結ばれてたんだろう?
792日本@名無史さん:2011/08/01(月) 20:16:19.48
なにか時点でも叙す、なる、称す、っていろんな表現があってよくわからない。
法印自体は僧位なんだけど、
○○卿の部分はなんだろう。
@官職である
A公式に称すること許された称号
B法印なら適当に名乗って良い称号
C場合によって違う、つまり正式の任官と単なる名乗りがあるようなもの
などいくつ考えられるけど、どうなんだろう。
15世紀くらいからはあるようだけど、いつ頃から有るものだろう?
793日本@名無史さん:2011/08/01(月) 20:22:17.31
>>791
兵部省…武官の人事とか武器を司る。実戦は担当しない
馬寮…朝廷の馬の飼育
六衛府…宮殿を守護する禁軍
臨時将軍職…実戦を担当する
国司指揮下の軍団…実戦を担当する。有事には将軍の指揮下に入る

ってとこかと
794日本@名無史さん:2011/08/01(月) 21:17:57.36
昔から宮内卿律師とかいるじゃん
795日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:13:08.36
>>793
ありがとう。
本格的な戦争になった場合は臨時将軍職の官位を上げて、事実上の防衛軍指揮官とするイメージかな。
六衛府は天皇親征、もしくは宮城防衛の予備戦力。
国司の元にある軍団は平時の養錬を目的にしてて、国司は大きな戦争で軍司令官にならない。
省は現代にも通じる軍政を司る。

やっぱ整理してみると案外合理的な組織体系なんだと納得した。
796日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:15:15.79
将軍は防衛軍指揮官じゃなくて遠征軍指揮官
六衛府は警備兵力であって親征なんて想定してない
797日本@名無史さん:2011/08/02(火) 16:34:00.05
平安前では近衛将、兵衛督(名称は違うが)が征討将軍に任じられてたはず
平将門の征東大将軍もそうだったけ
798日本@名無史さん:2011/08/06(土) 14:43:57.11















                               クソスレシュウリョウ















799日本@名無史さん:2011/08/07(日) 21:56:39.98
主馬判官って、主馬首兼検非違使判官らしいけど、
そうすると、主馬首そのものは衛門尉と同程度の地位ってことなのかな?
800日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:06:13.58
左さがみ介とん平あげ
801日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:15:59.18
>>799
その通り。
六位相当でありますが、重要なのは検非違使にて(本官ではないのですが)、
その中での誰であるかを識別するため主馬をつけたものです。
平家物語に主馬判官平盛国の名があります
802日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:55:12.36
所謂清和源氏は鎮守府将軍にはほとんどなってないようですが、
何か理由があるんですか?それともたまたま?
803日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:26:48.73
>>802
えっ?
804日本@名無史さん:2011/08/08(月) 22:33:39.38
>>802
えっ?
805日本@名無史さん:2011/08/09(火) 15:36:47.34
>>755

> それより地下官人で伴と佐伯の末孫が健在だったのが驚きだった


佐伯は武家も公卿も崇拝していた弘法大師のコネかな?
806日本@名無史さん:2011/08/09(火) 15:40:03.13
>>795

> 六衛府は天皇親征


天皇親征は少ないよな。壬申の乱の天武は即位していなかったし。
雄略も謀殺はしたが親征はしていないのではなかったか?
807日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:10:48.24
名前の官職のかきかたについて質問です。
名前と官職を記す場合、「大石内蔵助良雄」のように家名と諱の間に官職を記す書き方をよく見ますが、
ttp://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_kanshoku.html#Shomei
このサイトを見ますと、まず官位を記してから名前を記すように書かれています。
この2通りの書き方に何か違いがあるのでしょうか。
また、官職を家名と諱の間に記す場合、位階はどのように記すのでしょうか。
808日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:23:35.78
>>807
>「大石内蔵助良雄」のように家名と諱の間に官職を記す書き方をよく見ます
この場合の内蔵助はいわゆる官途受領名といって、
大石家の誰々である事(この場合は当主)を示すためのもので任官したわけではありません。
紛らわしいですが、スレの630あたりから読んでみて下さい。
809日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:31:49.17
>>807
>ttp://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_kanshoku.html#Shomei
>このサイトを見ますと、まず官位を記してから名前を記すように書かれています。
本来ならこれが正しいわけです。
しかし下って戦国時代以降ともなると、武家も多く官位を得たり或は私的に名乗ったりで書式に一貫性が無くなってしまいました。(朝廷側の書式は変わりません)
810日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:22:37.94
>>808-809
ありがとうございます。
そういえば公家は官職を名前の間に挟んで呼ぶことは見かけないようにに思い不思議だったのですが、
公家は正式に任官されるのが普通で受領名を賜る必要がなかったからでしょうか。
811日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:56:44.10
石川五右衛門っても、衛門府の官職もらったわけではない。
うっかり八兵衛でも、兵衛府とは何の関係もない。
812日本@名無史さん:2011/08/19(金) 06:28:04.71
>>810
>公家は正式に任官されるのが普通で受領名を賜る必要がなかったからでしょうか。
その通り。官途受領名を名乗る必要がないのです。
武家の場合は城持ちになったり、重臣の列に加わったりする事が契機となる事が多いです(賜名は主家からの恩賞の一部でもあります)が、私的に名乗っただけの形もまた多く、単に箔付けと言えなくもありません。
たとえば、佐竹氏は代々常陸介を自称していますが、実際に任官したわけではありません。
813日本@名無史さん:2011/08/19(金) 12:47:14.12
>>812
ありがとうございます。
調べていてもなかなかわからなかったのですっきりしました。
814日本@名無史さん:2011/08/20(土) 09:23:19.70
>>809
このサイトにあるのは公文書の話で、奉書等を含む私文書はまた別ではないですかね?
特に、大石内蔵助良雄なんていう書き方は、署名というよりもメモ書きや系図等での書き
方でしょうし。
日記等の私的な文書であれば、貴族の日記でもたとえば四条大納言<公任>(諱を注
釈のような形で記す)というような書き方はあるし、「藤大納言」「源宰相」「右大将」等々、
官職名を名前のように使うのはごく普通にやられていますね。
815日本@名無史さん:2011/08/20(土) 13:05:17.86
大石内蔵助良雄の表記は
藤原の氏や朝臣の姓を略して表記しており、
このことは暗黙の諒解事項です。
姓と氏を併記すれば
大石内蔵助藤原良雄朝臣
となる。
大石は無位なので、藤原朝臣とはならず
諱のあとに朝臣を付すことになる。
他の例(行守書きを添えて)
徳川三河守従五位下源家康朝臣(四位以下の位階なので諱のあとに朝臣付記)
徳川従二位行権大納言源朝臣家康(三位以上の位階なので諱の前に朝臣付記)
816日本@名無史さん:2011/08/20(土) 13:27:02.54
口宣案のような私文書風のものだと、公的な文書であっても
「上卿 四条中納言」というような書き方は普通にある。
公家か武家かということよりも、文書の性格で違うのでしょう。
817日本@名無史さん:2011/08/20(土) 14:41:10.94
口宣案の叙任事項では、元来、苗字(例えば、松平とか真田など)の記載は無く、
氏(藤原とか源とか)、姓(朝臣など)、諱での表記が基本です。
尤も、実際の文書例では、姓が省略しているものもある。
上卿の場合は、苗字と官職名あるいは、
特定の官職名(例えば、別当中納言。この場合は検非違使別当で中納言の意味)での表記が基本。
この表記のみで、人物が特定出来るので
詳細に表記する必要性がないというところから来る。
818日本@名無史さん:2011/08/20(土) 23:27:14.72
口宣案の叙任記述では、江戸時代になると
苗字(松平とか藤堂とか)を付記した口宣案も登場してくる。
これは、人物を特定する必要性が出てきたためである。
例えば、源の氏と姓で諱のみの表記だと、
どの人物なのか特定がしにくくなってきた現実から来る。
819日本@名無史さん:2011/08/21(日) 11:08:29.36
松平ですら個別化難しいけどなw
あと口宣で上卿は「日野中納言」みたいに家名+官名表記だねー
820日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:13:26.30
>>819

確かに、姓+官名だと、「藤中納言」は何人もいそうなので、
誰だか分からなくなる。
821日本@名無史さん:2011/08/22(月) 19:11:41.52
>>820
しかもある程度の根拠があれば、基本的に名乗りは自由だった。
日野中納言なんて日野流であれば、誰が名乗ってもOKだったし(勿論、嫡流に断って名乗ったり、先に名乗っている人間に遠慮する場合もあったが)
822日本@名無史さん:2011/08/23(火) 00:34:21.88
>>815
六位以下と無位には朝臣は付さない
単に藤原良雄

それに大石内蔵助(藤原)良雄と苗字・通称(官途名)・(氏)・諱を繋げて書く機会などは僅少だと思われる

普段は大石内蔵助だけで事が足りるしそれは大名や旗本でも同じ
柳営などでは「松平安芸守」「浅野内匠頭」ばかりが使われるし一般にも諱が知られていないということは普通

大石レベルの武士だと朝廷の公式文書に書かれることもないから
「藤原」や「良雄」は元服時などの稀な機会や系図くらいでしか出番はないと思われる
普段呼ばれることもないから読みが伝わらないことも多い

また>>815では徳川家康を例にしているがこういう書き方だと「徳川」などの苗字は付されない
付記・註のような形で小さい字で書かれることはあるかも知れないが
823日本@名無史さん:2011/08/23(火) 00:47:31.20
>>820
室町時代だと「藤中納言」「藤宰相」などのように書かれている場合ほとんど長良流高倉家の人という印象がある
これは俺が見た史料の範囲に限るのかも知れないけど
「藤中納言」だけで通じるというのは伝統的経緯があったというか慣習化されていたというのはあるかも知れない
824日本@名無史さん:2011/08/23(火) 05:31:33.93
>>823
>>427に挙げられている本に公家の称号についての論文が載っていて、
歴代(?)の藤中納言一覧表がついていた筈だけど、
うろ覚えだが、日野流とかの人も多かった記憶がある。
825日本@名無史さん:2011/08/23(火) 08:11:34.87
近世になると「藤原姓井伊氏直孝」みたくもうごちゃごちゃに
表記している例もあるね。
826日本@名無史さん:2011/08/25(木) 22:12:03.73
女官はなんで主典がないの?
男官は、まず次官、次に判官が省かれて、長官と主典だけの官司もあるけど、
女官は軒並み主典がなくて、次に省略されるのは判官。
つまり長官と次官だけの例が多い。
これはなぜだろう?
827日本@名無史さん:2011/08/25(木) 22:55:48.87
御家人と御内人って、直臣と陪臣っていう差はあっても、
侍身分って意味では同じカテゴリー?
それで、官位を得られるかどうかは、
結局成功に応じられる財力があるかどうかの差だけ?
828日本@名無史さん:2011/08/26(金) 14:05:02.32
来月のレキドクが名家の特集だけどなにか
面白い話になってたらいいね。
それか間違いとかをさがしたりして。
829日本@名無史さん:2011/08/27(土) 01:17:38.98
>>827

あなたは一番だいじな事を見落としてますね
830日本@名無史さん:2011/08/27(土) 22:59:44.64
比較的最近の中世史シリーズの概説編みたいなのを読んでいたら、
 検非違使の別当(長官)が中下級貴族の兼任職だったので、
 佐(次官)は検非違使に属する武士の統括役として「廷尉」と称されて、
 武士が競ってなりたがる職だった。
 義経が「廷尉」に任じられて頼朝怒りを買った話は有名。
のようなことが書いてあったんだけど、
別当は中級はともかく下級貴族じゃないと思う。
下級貴族の定義によるにしてもね。
佐も貴族でしょう、って言うか佐経験者が別当になる例も多いし、
別当とそんなに階層差があるようにも思えない。
佐も「廷尉」と呼ばれたようだけど、義経のは尉の方だよね。
武士が佐に任じられた例はあるの?
佐(次官)と書いてあるから尉と佐の書き間違いとも思えないし。
史学者でも官職方面に関心が薄い(推定)とこんなものなの?
831日本@名無史さん:2011/08/28(日) 08:44:35.65
使別当→公卿(中納言)クラス
使佐→殿上人クラス

〜〜超えられない壁〜〜

使判官→諸大夫・侍クラス

諸大夫(受領)最上層の源平の武士が兵衛佐になるというのはいくつか例があるけど
少なくとも平安末期で検非違使衛門佐という例は見たことがないな
832日本@名無史さん:2011/08/28(日) 11:24:30.53
貴族=公卿級以上って定義なのかな?
検非違使尉→佐→別当と歴任した希有の人平時忠も武士に含んでるとか。
833日本@名無史さん:2011/08/28(日) 14:44:50.27
検非違使で衛門佐を兼帯の場合、権官の佐が就くのが例。
例えば、検非違使左衛門権佐。
検非違使別当、佐(兼官も含めて)及び大尉は公家。
検非違使少尉は武家。
検非違使大志・少志は下級公家
といったすみわけが基本。
尤も、平清盛は検非違使別当の履歴あり。
834日本@名無史さん:2011/08/28(日) 16:10:44.85
平清盛は白河院落胤(真実はともかく)として武家扱いではなかったのでは?
だから太政大臣になれたと思ってます。
835日本@名無史さん:2011/08/28(日) 20:50:04.48
清盛の場合は個人的な抜擢人事での官位昇進と言うより、
家格自体が上昇したんだろうな。頼朝の場合も。
836日本@名無史さん:2011/08/28(日) 20:52:47.97
検非違使尉は、現代的用語で言うと、いわば事務系、法務系、警務系とでも
言いうるものがあった。
そう言う認識で良いの?
837日本@名無史さん:2011/08/30(火) 00:05:55.77
尉は四等官の判官であるから、
基本的には、当該官庁の監察。
主典の作成した文案の審査が主な職掌。
後段の文案云々が大尉の公家。
前段の監察が少尉の武家
といった暗黙の諒解事項として
分担した。
こういったことから、大尉には明法博士を
兼帯させることもあった。
838日本@名無史さん:2011/08/30(火) 03:40:46.43
>>834
> 平清盛は白河院落胤(真実はともかく)


これは本当に御落胤だったのだと思う。
839日本@名無史さん:2011/08/30(火) 12:03:12.41
>>838
清盛は落胤でなかったところで
・白河院寵妃祇園女御猶子で白河院と疑似親子関係にあった
・軍事力を武器に娘を次々と政略結婚で摂関家に送り込んで介入し
事実上公家社会の筆頭摂関家の口を封じた
・義妹の平滋子が後白河の寵妃となったことで
高倉天皇を盛り立てる外戚として清盛が選ばれた
というだけで十分太政大臣になれたと思うぞ
840日本@名無史さん:2011/08/30(火) 21:56:23.52
従七位上は少なくとも一三世紀後半頃まで実在の人物らしいのが見えるけど、
鎌倉時代中は実際に機能していたのだろうか?
雑任から昇進する人が最初にもらえる官位ってところか?
正六位上と帯している官職に大差はないように見えるから、
初任は七位、次任以降は六位とかって区分なんだろうか?
侍は最初から六位ってところで身分上の等差があるのかな?
841日本@名無史さん:2011/08/31(水) 20:47:16.52
室町時代応仁以前だと、守護代クラスの重臣層くらいまでは任官できた、
ってそんな感じですか?
842日本@名無史さん:2011/08/31(水) 22:01:23.08
前に群書類従だったかで、奉公衆の名簿みたいなものをみた気がするけど、
あれに出ていたなんとか衛門尉とか、かんとか兵衛尉とかは、
正規任官?ただの名乗り?
843日本@名無史さん:2011/08/31(水) 22:39:43.88
守護被官は普通に官途書出のような気もするが
ただ斯波・畠山のように何代か三位に達したり昇殿する人が出てくる准公卿クラスの家だと
家臣が従五位下なんたらの守でもおかしくないかも

奉公衆はまちまちだけど家によって六位から五位の官に任じられるケースは多かったみたいだ
844日本@名無史さん:2011/08/31(水) 23:28:50.97
>>838
おれは逆。
当時の歴代天皇・皇族と清盛の似絵肖像画比較したら全然別系統の顔。
845日本@名無史さん:2011/09/01(木) 07:58:55.47
番長ってどれくらいの人がなるんだ?
奉公衆の一部がやるのかな。
846日本@名無史さん:2011/09/01(木) 10:26:12.56
>>844
あれさ、情報操作的にわざとそう描かせたというのは考え過ぎ?
当時は絵からしか後に顔を知ることはできないし
似てた部分があったら極秘裏であった以上は絶対に
そういう部分はカットしたと思うのだよね。
貴重な肖像でウソを描かせるとも考えにくいという意見も
あることはあるんだが。
847日本@名無史さん:2011/09/01(木) 11:37:58.17
>>846
「似絵」なんだから全く別人の顔に描く意味がない
そもそも清盛だって桓武平氏であることを誇りにしてたんだから
天皇家と顔の系統が似ているのならば進んで描かせたと思うが
もともと同時代の史料にも「白河院と清盛の顔は似てた」
なんてどこにも買いてない
848日本@名無史さん:2011/09/01(木) 17:48:04.35
まぁ、議論する気はないが
「つまらないものですが」と言って出されたものを「つまらないものだ」
「記録で本人が語ってるのだからまちがいない」「自分に不利や損なことを
言う訳がない」と解釈するようなものでなかなかこそばゆい意見は多い。
自分としては似てるかどうかも判断しようがないし
ご落胤かどうかも判断のしょうがない。
ただそれなりの本でもそれなりに触れられているのが少し
面白いと言うだけ。
849日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:04:55.95
>>843
う〜ん、つまり将軍直臣は中堅どころでも官位をもっている場合は多いが、
陪臣の場合は例外的ってことか。
江戸幕府も基本的にはそれを踏襲したわけかな?六位は叙さなくなってるけど。

850日本@名無史さん:2011/09/01(木) 21:29:07.56
鎮守府の軍監・軍曹とかって院政期くらい以後は武士なの?
851日本@名無史さん:2011/09/01(木) 21:41:47.85
例えば畠山修理大夫やら土岐左京大夫やらの守護大名は官職の格が高いとはいえ結局諸大夫なわけだよね
諸大夫の家来が諸大夫になるなんてことは論外の沙汰だと思う
公卿・殿上人クラスならまだわからないでもないが
852日本@名無史さん:2011/09/01(木) 21:49:05.65
位だけあって官の無い人って物理的に存在したの?
853日本@名無史さん:2011/09/01(木) 21:54:44.94
桂昌院とかじゃないかな。
854日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:00:18.11
>>852
え?
855日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:07:05.62
そういう場合は散ってしまうんだな
856日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:07:52.62
>>852
無位の官は存在しなかったが…
857日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:12:12.49
>>852
位だけで官職が無かった例はある。
逆に無位で摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・准大臣・大納言・中納言・参議に任ぜられた例は無い。
858日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:04:26.65
散位という
859日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:29:51.19
悲惨議
860日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:33:09.39
中国の九品の場合は、官職の等級なので、一品とか九品だけでは肩書きにならない。
よってポストがない者も散官など名義だけの官職をもっている。
それに対して日本の位階は、人を等級づけるものだった。
基本的には位階を持つものが任官の有資格者という位置づけ。
位階だけもっていて官職がないものは最初から想定されていた。
逆に位階が無く任官することは通常はあり得ない。
もっとも郡司主政・主帳等ごく下級の官職は無位での任官はあり得た。
また、江戸時代地下官人のうち下官人中でも下級のものは無位有官の場合がある。
ただし、江戸時代中期までは七位・最末期までは八位の叙位がなされなかったので、
それ以前は七位ないし、八位相当と認識されていたのかも?
861日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:02:56.30
堂上家の家格

--------------------------

摂家
--------------------------

清華家(旧家)

--------------------------

醍醐家(清華家・新家)
広幡家(清華家・新家)
大臣家(旧家)
一部の羽林家・名家

--------------------------

その他の羽林家・名家

--------------------------

羽林家・名家(新家)

--------------------------

半家
半家(新家)
862日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:09:21.72
中国の九品も起原は朝礼での並び順だから別に品階だけでもいいんだけど
納まりが悪いから散官みたいなのがあるんじゃないか
863日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:23:25.69
>>861
>>246-250が詳細
864日本@名無史さん:2011/09/02(金) 10:36:52.24
品階も元々の成り立ちは任官資格でもあるんよね。
官職を品階で等級づけて、どの程度の品階までなら
成りうるくらいの能力があるか人物を格付けする。
よって実際に任官している官はそれより低いことが多い。
あくまで限界値って感じで。
ただし日本の位階制度が直接モデルにしたと思われる
随唐の頃にはその機能は失われていた。
モデルは半島由来だと言う説もあるけど。
865日本@名無史さん:2011/09/02(金) 22:01:08.53
たまたま、なんだろうけど、
なんで細川は左京大夫じゃなくて右京大夫なんだ。
通常左の方が格上でしょ。
866日本@名無史さん:2011/09/03(土) 00:03:57.62
タマタマ
867日本@名無史さん:2011/09/03(土) 10:33:59.68
細川一門みてると、
右京大夫ー右馬頭ー右京亮ー右馬助ってラインがあるような?
868日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:10:11.77
将軍だって右大将じゃんw
869日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:49:58.82
左京大夫は四職家によく見られる。
単に細川家との対応なのかもしれんけど。
870日本@名無史さん:2011/09/03(土) 21:37:36.99
>>868
足利将軍家は左馬頭が初任官だろ
871日本@名無史さん:2011/09/04(日) 21:45:41.95
山崎家盛って従五位下左馬允らしいけど、馬允で五位って珍しいんじゃないの?
それともそうでもない?例外的だったらなにか事情があったのかなあ?
安藤信友が右京進から右京亮に進んでるのも珍しいような。
これもなにか事情があったのかなあ?
872日本@名無史さん:2011/09/05(月) 02:36:33.47
綱重と綱吉の兄弟が左近衛権中将兼左馬頭と右近衛権中将兼右馬頭だった気がする
有職故実では兄弟が同時に近衛中少将だった場合左右で分けるという例らしいが
馬寮まで左右で分けるというのはなかなかないんじゃないか?

あと松平清武だったかが右近衛権少将兼右近衛将監というわけのわからない官位だったはず
873日本@名無史さん:2011/09/05(月) 03:14:44.90
>>720
>忠幸王が臣籍に連なり、広幡を家名にしたそうだが由来がよくわからん。
>忠幸王自身、皇族時代に広幡宮と名乗ってたことでもなさそうだし…

尾張国の地名からでは?
874日本@名無史さん:2011/09/05(月) 08:18:46.22
>>872
>馬寮まで左右で分けるというのはなかなかないんじゃないか
なるべく対等に扱ってるってことを形にしたかったんだろうな。
誰の発案なんだろう。
馬頭なのは、最初から家綱後継を意識してるのかも、
は考えすぎだろうな。
いくら病弱でも最初から子供できないって決めつけまでは。
875日本@名無史さん:2011/09/05(月) 08:22:49.86
>873
京都にも広幡って地名あるとおもう。
平安初期に「広幡中納言」っていたくらいだし。
876日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:00:20.00
>>874
子供の有無というのが最重要課題だから
決めつけというか考慮してたぐらいのことは言っても
いいと思うけどね。
877日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:11:28.03
足利義維だって左馬頭だったじゃん
将軍家連枝の官位として適当だと思われたんじゃないの
878日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:26:26.15
鎌倉公方の場合の左馬頭は連枝の意味合いかな?
足利義維の場合は将軍家連枝というより、次期将軍前提の任官では?
879日本@名無史さん:2011/09/05(月) 18:59:26.90
徳川綱重と綱吉の官位を左中将・左馬頭、右中将・右馬頭に
任官した例は中々、興味深い。
一体、誰がこれを起案したのか。
時の老中か、侍講か、
そちらの方が気になる。
さらに、襷がけの任官方法もある。
左近衛権中将兼右馬頭、右近衛権中将兼左馬頭
といった具合。
880日本@名無史さん:2011/09/06(火) 22:52:04.47
>>290
だって越後屋がぁ〜
静まってくれないんだもん
881日本@名無史さん:2011/09/07(水) 01:48:30.23
どこの誤爆かおじちゃんに話してみなさい
882日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:10:57.71
尾張 右兵衛督
水戸 左衛門督
田安 右衛門督
吉井 左兵衛督
明石 左兵衛督
喜連川 左兵衛督 右兵衛督
883日本@名無史さん:2011/09/08(木) 18:46:25.13
>>882
喜連川は自称だろwww
まあ幕府を通さないほうが格上って感じもあるけど。
884日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:43:37.92
だから何?

ていうか喜連川は口宣案等を受けないが幕府から左兵衛督や左馬頭などの公称を許されている。
幕府を通さないどころではない。

そもそも「○○守」などの官称は、侍従や少将などの殿中の序列に関わる官とは扱いが異なり、
機能上は「新太郎」などと同じ通称の一種であり、いわば「名乗ることを許されていること」に意味がある官(ちなみに諸席打込の場合喜連川の殿中の座次は中将の格)。

実際にこうした官称は幕府の許可を受ければ口宣案の発給手続前にも名乗り始めることができる。
特に「喜連川左兵衛督」などは有象無象の従五位下無官(諸大夫)のナントカの守よりも由緒がある。
諸大夫の大名旗本らが守名乗を許されているのに「無官」やら「朝散大夫」などと称される意味を少しは考えてみるといい。
885日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:44:22.76
喜連川家は徳川家との主従関係があるのかどうかはっきりとしない。
886日本@名無史さん:2011/09/08(木) 21:10:00.05
頓珍漢なこと言い出さないでくれる?
誰もそんなことを問題にしてないから
887日本@名無史さん:2011/09/08(木) 21:12:53.64
鎌倉公方の流れをくむ喜連川氏が特殊な待遇だったことは確かだ
でも足利の血統が絶えた時点でどうでもいい家のような気がする
888日本@名無史さん:2011/09/08(木) 21:33:21.17
足利義昭の子孫が足利氏嫡流
889日本@名無史さん:2011/09/08(木) 21:40:54.13
>>887
足利聡氏は古河公方足利成氏の子孫だよ。女系だけど。
890日本@名無史さん:2011/09/08(木) 21:44:39.38
日本史板で血統に比して家の連続性を軽視するとは。
891日本@名無史さん:2011/09/08(木) 22:37:57.35
>>888
おらんがや
892日本@名無史さん:2011/09/08(木) 22:39:12.07
喜連川は徳川に知行をもらってお目見もして
大名になる以前は交代寄合や高家の扱いだったのに
主従関係がはっきりしないというのはちょっとな

ただ喜連川がそう称してるだけじゃないのか
893日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:00:22.82

加賀前田家も、内向きには徳川家とは主従ではなくて客分と自称、
ただし徳川家からは普通の臣下扱いだよね
894日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:04:12.31
>>890
家の連続性が重視されたのは本当だけど、血統も結構重視したんじゃないかな。

将軍家定の後継選び、家だけ見ればむしろ慶喜のほうが将軍に相応しい。慶喜は一橋家、家茂は紀州徳川家。

でも、当時ですらそんな理屈は通らなかったよね。慶喜が水戸の血筋というのは紀州派の絶好の口実になった(勿論、そんなの口実だけど)けど、それに対して「慶喜は一橋家の当主だ」と反論した人はいない。
895日本@名無史さん:2011/09/09(金) 01:31:21.85
>>892>>893
喜連川は藩主に参勤交代の義務が無い(正月に江戸に挨拶行くだけ)。正妻も嫡子も喜連川在住。御用金も免除。自動任官(徳川の許可不要)。

軍役も人質も負担金も全部免除で、官位の統制すら受けない。これじゃ部下とは言えないよ。
変な喩えだが、ヤクザの「客分」みたいな感じかな。

一方の加賀はといえば、こういう特権無いよね。
896日本@名無史さん:2011/09/09(金) 01:37:12.32
任官しないのに自動任官とか意味わからん
しかも臣下と部下を区別できないとか
897日本@名無史さん:2011/09/09(金) 06:44:13.32

喜連川は医者や絵師の官位と同じで制外あつかいなんじゃない?
幕府は医者の一部には○○卿とか御三卿並の名乗りを許してるよ。
室町以来の伝統・慣例ということで、黙認状態
898日本@名無史さん:2011/09/09(金) 10:11:10.50
もし豊臣氏が存続してたならかつての主筋としてやはり客分扱い
してただろうか?官位の極官も御三家並で。
でも織田家には容赦なく低い扱いだけど。
899日本@名無史さん:2011/09/09(金) 10:22:15.81
主筋とかじゃなくて、家康は名家が好きなんだよ
足利傍流の喜連川、息子信吉に名跡を継がせた武田、
吉良?丹羽?
900日本@名無史さん:2011/09/09(金) 12:20:27.61
豊臣は公家になれば良かったんじゃないの。清華か大臣家程度の。
ただし公家としては破格の1万石程度とか。
あるいは千姫の子がいれば外孫として一門扱い、松平の名乗りを許し、
大阪城は出て広島あたりで50万石程度の准御三家待遇、
ただし将軍位継承権なしとか。
水戸の代わりに補佐役も良いかも、異姓の方が補佐役としては使いやすい。
901日本@名無史さん:2011/09/09(金) 13:55:45.00
>>900
公家だとしたら摂関だろ。関白二人も出したんだから。
902日本@名無史さん:2011/09/09(金) 18:38:49.74
>>900
いずれも豊家が受け入れるなら徳川としては異論はなかったんじゃねえかな?
伊達政宗が家康にそんなこと言ってたな。
秀頼を家康の下で養育して数カ国の太守にすりゃいいんじゃね?みたいな提案。
903日本@名無史さん:2011/09/09(金) 19:49:39.95
>>884
諸大夫の名乗りに相当する御三家御三卿当主の名乗りというか官称って、中納言とか大納言になるのですか?



904日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:34:13.79
尾張→右兵衛督
紀伊→常陸介
水戸→左衛門督
田安→右衛門督
一橋→刑部卿 民部卿
清水→宮内卿 式部卿

参議以上になると上記の兼任を去り
単に尾張大納言とか紀伊中納言とか水戸宰相とか田安宰相中将とか呼ばれる

関係ないけど御三卿は元から官位を持っていた人が養子に入ったりという場合でない限り
初叙任従三位左右近衛権中将→参議(中将如元)→任権中納言(中将を去る)
というパターンが多い

尾張紀伊は初叙従四位下→従三位左右近衛権中将→参議(中将を去る)→権中納言→従二位権大納言

水戸は初叙任従四位上左右近衛権少将→正四位下→従三位左右近衛権中将→参議(中将を去る)→権中納言

ついでに加賀は初叙任正四位下左右近衛権少将→左右近衛権中将→参議(中将を去る)→従三位権中納言


公家社会では参議に補せらると中将を止める家よりも中将如元の家の方が家格は上なので
三卿>三家ということなのか?
905日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:07:46.92
極官が上ないし同等なんだから、普通に考えれば三家の方が上でしょう。
906日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:54:18.06
面白い視点ではある
907日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:46:58.10
やっぱり水戸というのは少し特別扱いされてたということか。
908日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:05:04.48
>>904

加賀前田家は参議が極官ではなかったか?
909日本@名無史さん:2011/09/10(土) 08:37:12.86
光圀は隠居してから権中納言を贈られたから、
お祝いをしなかったくらいだしな
910日本@名無史さん:2011/09/10(土) 08:44:09.36
仮に豊家が受け入れても家康は許さなかったと思う
911日本@名無史さん:2011/09/10(土) 14:31:23.99
>>908
初代利長は豊臣家大老として権中納言、二代利常は幕藩体制下で権中納言、
三十一で亡くなった三代光高が左近衛権少将どまりだったのはしかたないとして、

従三位参議だった四代綱紀は、老年になれば先例どおり権中納言になれると思っていて、
吉宗もそのつもりだったが、老中たちが反対して吉宗が押し切られ、結果「前田家の極官
は参議」と最終的に確定したのは享保八年(1723年) の綱紀八十一歳の隠居時だったと
いう話。
十二代斉泰が権中納言に返り咲いたのが安政三年(1856年)だから、134年の有効期限
の定めだったわけだけど、こういう場合、「前田家の極官は参議」と簡単に言い切ってしま
っていいものかどうか?
912日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:26:23.53
老中が反対というか、水戸徳川家に憚ってというのが
当時の空気であったろう。
なにせ、水戸家は色々とお家の事情があって
綱條亡きあと、中納言への任官が遠い退いていたからな。
913日本@名無史さん:2011/09/11(日) 05:06:17.53
>>911
利家は大納言だったのにねえ。
914日本@名無史さん:2011/09/11(日) 12:03:37.51
豊臣時代の官位は無茶苦茶だったからね。
915日本@名無史さん:2011/09/11(日) 12:46:13.76
徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利・小早川などは
清華に列したにしては内大臣・大納言・中納言は低いと思うが
916日本@名無史さん:2011/09/11(日) 12:49:10.89
シロウトで悪いがみなさんが官位に詳しいのは
日本史の中のどういう部分というか感じで学ぶの?
例えば鎌倉に詳しいとか織豊の専門家とか
いると思うけどそういう方たちが通史で官位に
詳しいとも限らないと思うので。
917日本@名無史さん:2011/09/11(日) 13:15:02.24
一概にそうともいえないような、後の時代だけど爵位に見る家格バランス、
江戸時代の公武の婚姻関係とかから考えると、
豊臣時代の官位の方がむしろ家格の実態に近いとも考えられる。
徳川の方が抑制しすぎの気もする。
無城の小藩主でも非参議三位、国持ち大名は納言級でも不思議はない。
将軍とその他に大きな段差をつけたかったってのはわかるけどね。
918日本@名無史さん:2011/09/11(日) 13:25:13.42
>無城の小藩主でも非参議三位、国持ち大名は納言級でも不思議はない。

豊臣時代でもこんなことありえないだろ
いわゆる大老クラス以外の国持はほとんど侍従で少将中将参議がちらほらいる程度

そもそも家格の問題と軍事力・財力等の問題は直接関係ない
大名クラスでも武家はほとんどが諸大夫クラスというのが日本の身分観念上妥当というところだろ
919日本@名無史さん:2011/09/11(日) 13:58:50.13
流れとはあまり関係ないけど、羽柴苗字の授与と公家成(侍従以上任官)はかなりの確度で相関関係がありそうだ。
羽柴苗字を与えられて公家成していないのは滝川雄氏など初期の例外を除くとほとんどいない。
逆に公家成していて羽柴苗字を与えられていない者もほとんどいない。

するといわゆる武家関白制の武家の序列は大雑把にこう分類できる。

・武家関白家(秀吉・秀次・秀頼)
・武家清華(従五位下侍従〜四位少将〜四位宰相中将〜三位中納言〜二位大納言〜内大臣) 豊臣姓羽柴苗字
 ※羽柴大和家・織田・徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利・小早川
・公家成(初叙任従五位下侍従〜四位少将〜参議) 中将任官はあまりいない・たまに三位・豊臣姓羽柴苗字
・諸大夫成(初叙従五位下〜極従四位下) 豊臣姓のみ(羽柴苗字なし)

これが江戸時代の武家官位制に影響を与えたと言えるかもしれない。
改めて資料を参照したわけではないのでメモ書き程度として見てくれ。
920日本@名無史さん:2011/09/11(日) 19:55:22.97
>>915
そうとも言えるが、秀次没後は関白・左大臣など誰も任官していない。
右大臣菊亭晴季罷免後は、内大臣徳川家康が台閣トップであり、まさに異常事態といえる
921日本@名無史さん:2011/09/11(日) 22:54:24.28
>>915
武家清華は内大臣〜中納言ってことになってたのかな?
それとも豊臣政権が続けば武家清華から左大臣、右大臣も誕生したのか
922日本@名無史さん:2011/09/12(月) 00:39:07.73
>>921
あまりに短期間だったので「家格」ができようもなかったから何とも言えないが
あえて「武家清華」という言葉を使わずに言えば、豊臣政権下では

武家関白 :関白
徳 川 家:内大臣
豊臣秀長家:大納言
五 大 老:中納言 

となっていたことからすれば、武家関白家の「連枝」ができれた時点で、
その連枝の左右大臣任官もあったかもしれない。

ただ、これもあくまで「可能性」のレベルで、実際は連枝でも内大臣どまりで、
左右大臣は公家に対する「大臣枠」として残したかもしれない。

場合によっては、「連枝」を内大臣家にして、徳川家を准大臣に格下げの上、
さらには、複数の准大臣宣下という方策も考えられる。
923日本@名無史さん:2011/09/12(月) 01:09:40.38
ただの妄想かよ
924日本@名無史さん:2011/09/12(月) 01:35:07.78
豊臣政権下で、秀長の存命中は、家康と同時昇進(大納言まで)だったが、家康は、左近衛大将、左馬寮御監といった栄職
にも就いていて別格だったように思う。
925日本@名無史さん:2011/09/12(月) 06:25:31.06
清華成っていうけど中納言や大納言どまりなら羽林家、名家クラスだよね
926日本@名無史さん:2011/09/12(月) 21:47:27.47
平安初期までと違って、官位に絶対的な価値なんかないでしょう江戸時代は。
楽人はよく正四位まで上るが、従四位下の老中や所司代以上だなんて、
幕末期ならともかく、それ以前は本人だって思わないでしょ。
伊勢の禰宜とか二位・三位になるけど、四位の島津や伊達の上なの?
五位の御付武家にへいこらしてる口向役人には四位もごろごろ。
官位の上下が階層の上下と直結していないわけで。
大まかに別れた身分内部の細分化程度の意味しかないんじゃないの?
江戸期の官位なんてものは。
927日本@名無史さん:2011/09/12(月) 21:52:40.68
象とかキリンが従四位
狐や木なんか正一位です
928日本@名無史さん:2011/09/12(月) 22:57:53.54
ゴイサギは正五位
929日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:01:42.83

赤穂浅野家が潰れた時、将軍の朱印状は収公されたが
「内匠頭」の口宣案等は放置・・・
当時の意識としてはそんなものだったのだろう
930日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:21:25.94
序列の上下を決める目盛として機能すればよいのであって、
絶対的な偉さとは無関係でもよかったということ。
931日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:21:52.32
浅野内匠頭が改易になったが
解官となった史料を管見乍ら知りえない。
932日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:26:59.17

そもそも武家が解官されて、口宣案が取り上げられた例を知らない
御教示を乞う
933日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:51:39.95
>>927
平安時代には猫が昇殿を許されたりする例もあった。
934日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:56:17.87
そもそも江戸時代の公家は、口宣案なぞわざわざもらったりはしなかったというね。
発行する方も公家のは手数料が定額で赤字だから嫌がったとか。
935日本@名無史さん:2011/09/13(火) 00:12:11.38
口宣案自体が伝達の口上のアンチョコだから発行しなきゃいけないものでもないしな

赤字ってのは確か紙代とかがかかったんだよな
936日本@名無史さん:2011/09/13(火) 02:01:18.20
薄墨紙って高かったのか
937日本@名無史さん:2011/09/13(火) 03:06:07.52
口宣“案”というように、あくまでも写し・草案だからね
938日本@名無史さん:2011/09/13(火) 09:48:22.02
口宣案は古典籍を扱う店やたまにヤフオクなんかでも出品されているが、
口宣+位記+(官宣旨)のフルセットはなかなか出回らない。
939日本@名無史さん:2011/09/14(水) 13:45:12.64
ヤオフクにまでや。
いくらぐらいなんだろ。
940日本@名無史さん:2011/09/15(木) 00:41:06.22
>>939
江戸時代の地下官人クラスの口宣案、叙位と任官2通を1万ちょいで
落としたことある。地下家伝に照らし合わせて「ああ、これだ・・・」と
一致した時、ちょっとテンションあがったw
941日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:08:17.45

俺の場合ヤフオクじゃないけど、ちょうど100マソで手に入れた。
口宣案だけじゃなく諸々の古文書込みだけど。諸々の古文書は別にしても、
口宣案等を得る為に支払った官金の領収書(内訳が書いてある)とか、口宣案
を入れた包み紙も附属していた。包み紙は立派な和紙で結び方も分かった。
そんなこんなで高いとは思わなかった
942日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:27:51.62
>>941
時代はいつごろですか?
943日本@名無史さん:2011/09/16(金) 08:06:45.95
>>942

江戸後期、幕府有司のもの
944日本@名無史さん:2011/09/17(土) 00:22:43.57
誰か>>916に答えてやれよw
945日本@名無史さん:2011/09/17(土) 06:08:46.13
>>944

論旨不詳で、答える必要を感じない
946日本@名無史さん:2011/09/17(土) 14:06:13.20
個々の時点の専門家さんは多いけど、官位の専門家?
というのは日本史を通史で見ないと理解できないだろうから
そういう「官位学」みたいなのがあるのかなって。
で、個別の時代、事象で意見、解釈が別れてるような論点を
そういう幅広い視点をもった方に聞いてみたいな、とはいつも
思うので、ここだとスレチになるしどうやってどこでみなさま
勉強されたのかなって。
947日本@名無史さん:2011/09/17(土) 20:53:05.15
>>946

意訳『みんな官位に詳しいけど、どうやって勉強したの?』でいいかな?
948日本@名無史さん:2011/09/17(土) 22:29:37.57
「官職要解」講談社文庫を嫁
949日本@名無史さん:2011/09/18(日) 01:38:31.85
官位についてどうやって勉強したのか?またはどうやって勉強するのか?というのは、
今までこのスレでは抜け落ちてたけど非常に面白い論点かもしれない。

確かに日本史研究者でも官位についての知識はデタラメだったりすることもあるし、日本史研究全体として見れば補助知識としてしか見られていない。

まとまった入門書と言えば実質的に『官職要解』だけだし。
950日本@名無史さん:2011/09/18(日) 01:54:10.53
有職故実(上)講談社文庫もいいかも
951日本@名無史さん:2011/09/18(日) 09:11:22.55
それだけでは坂上石楯みたいな大躍進や、戦国期の左京大夫乱発がわかんないしな。
今谷明の「戦国大名と天皇」は手続き的なことに触れていて、なかなか役に立ったな。
952日本@名無史さん:2011/09/18(日) 10:12:21.48
野村忠夫氏の「古代官僚の世界」塙新書
同「日本官僚の原像―太安万侶の日常生活から現代の官僚制度を考える」 (二十一世紀図書館
残念ながらどっちも絶版のようだけど。
律令制度に基づく官位昇進についての一般向けの本、どちらも新書。
なお、当然だけど専門書も何冊もある。
あとは新人物往来社が時々官職本だすね。後に本に成ることもあるし。
953日本@名無史さん:2011/09/18(日) 12:46:04.47
令の規定だけわかってても仕方ないというのが官位を勉強する上でのネックだな
ほとんどの人はそこで止まっちゃうけど
954日本@名無史さん:2011/09/19(月) 11:01:53.93
信長の野望の知識で関白は正一位とか言ってる馬鹿よりはマシ
955日本@名無史さん:2011/09/19(月) 12:23:21.50
>>954
あれって、新しいシリーズだと守護や将軍にも官位相当があったりする。
ttp://hima.que.ne.jp/kakushin/yakushoku.html
956日本@名無史さん:2011/09/19(月) 12:38:58.93
ひでえな
957日本@名無史さん:2011/09/19(月) 13:24:54.61
将軍ならまだしも管領とか守護はめちゃくちゃだな
958日本@名無史さん:2011/09/19(月) 14:05:33.47
まあ官位の相場みたいなものはいつの時代でも有るんだけどね。
それと正式な官位相当は一応別物だし。
959日本@名無史さん:2011/09/19(月) 14:14:23.16
>>955
>正一位征夷大将軍
>従二位管領
>従三位関東管領

( ゚д゚)

(つд⊂)ゴシゴシ

(;゚д゚)

(つд⊂)ゴシゴシ
  _, ._
(;゚ Д゚) 何じゃこりゃ!!
960日本@名無史さん:2011/09/19(月) 16:41:06.18
管領とか関東管領は相場すらも全然違うのでは
961日本@名無史さん:2011/09/19(月) 21:56:26.87
管領は四位まで進める(三位もあり)?
関東管領は概ね五位ってところ?
ところで次スレ立てるのは970か、980くらいですかね?
962日本@名無史さん:2011/09/19(月) 22:02:20.78
そう考えると、徳川幕府の武家官位というのは、案外合理的だったのかもしれない
963日本@名無史さん:2011/09/20(火) 15:02:46.27
日本史板に以前あった官位を与えるスレも信長の野望の官位ベースだったな
こいつら馬鹿かと思って見てたけど
964日本@名無史さん:2011/09/20(火) 17:47:35.05
965日本@名無史さん:2011/09/21(水) 07:35:51.82
同和支配を無くす為に役立つスレですねっ!
上層階級から、このような話題で、系譜無き同和一掃を推進すべき時だね。
966日本@名無史さん:2011/09/21(水) 23:09:16.73































967日本@名無史さん:2011/09/22(木) 21:48:09.06
おまえらが官位についての本(教養書?)を書くとしたらどういうこと書く?
968日本@名無史さん:2011/09/22(木) 23:17:47.13
新人物往来社から「日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本」なんて出てたんだな
969日本@名無史さん:2011/09/23(金) 00:23:53.19
>>968
そのシリーズの別の本で、江戸時代の大名の家格についての記事、
特に一般向け書籍で国持大名の定義をあそこまではっきり書いたのは
初めて見た
970日本@名無史さん:2011/09/23(金) 01:47:42.07
kwsk
971日本@名無史さん:2011/09/23(金) 09:08:22.47
言うまでもなく自分では書けないけど、蔭位制度崩壊の状況とか、
その後どういう形で位階が叙されていくことになるかとか、
下位の位階がどのように消滅していくかとか、その辺知りたい。
972日本@名無史さん:2011/09/23(金) 13:52:52.61
官位スレ住民の総力を結集して官位についての本を書こうぜ
973日本@名無史さん:2011/09/23(金) 14:21:03.68
位階は摂政関白お稲荷さんからときわ台のお巡りさんまで網羅しないとw
974日本@名無史さん:2011/09/23(金) 22:19:12.30
ウェブ上の公卿大辞典が有ると良いな。
「公卿補任」も誤りや欠落多いし。
六国史、補任もの、歴名土代等、日記等で、
できうる限り修正したやつ。
本当は五位以上があれば良いし、
できれば全官人網羅が有れば最高。
975日本@名無史さん:2011/09/23(金) 22:25:54.73
めちゃくちゃ贅沢なこと言ってるなw
976日本@名無史さん:2011/09/23(金) 22:44:48.05
でもそういうフリーのデータベースが有志によって作られて利用できるとしたら素晴らしいと思う
どうせなら地下家伝とかもお願いw
977日本@名無史さん:2011/09/24(土) 12:07:52.68
>>969
>そのシリーズの別の本
「日本史に出てくる組織と制度のことがわかる本」新人物往来社
これ↑のこと?
978日本@名無史さん:2011/09/24(土) 21:09:50.71
>>949
まさにそのとおり。
官位だけじゃなく氏姓とかの根本的な知識がないような論も
多いようなきがして。
こないだも「豊臣は藤原である」とか書いてあって意味がわからない。
それで古文書とかには直接当たってるとか、デタラメというのか
最近の本はそうなってるのか謎なんだ。
979日本@名無史さん:2011/09/24(土) 22:47:22.44
官位を勉強するときは氏姓も勉強したいものだな
980日本@名無史さん:2011/09/24(土) 23:46:09.92
>>949-950
それで思い出したんだが、
「増補改訂 日本古代官職辞典」復刊のお知らせ
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68319912
981日本@名無史さん:2011/09/24(土) 23:49:19.31
>>976
こういうのが参考になるかな

『賀茂祢宜神主系図』データベースの作成と近世上賀茂社家の基本統計調査
http://www.cr.chiba-u.jp/~yamamoto/fswiki/reprint/2008yamamoto_mitarashi.pdf
982日本@名無史さん:2011/09/25(日) 12:52:48.38
そろそろ次スレ立てないと拙いのか?
983日本@名無史さん:2011/09/26(月) 02:19:11.71
保守
984日本@名無史さん:2011/09/26(月) 07:14:22.87
>>1
わたくし母方の家系が帰農していたものの桓武平氏良文流であります。
このたび官位、官職をいただきたく参じました。
できれば武蔵権介をおねがいいたします。

985日本@名無史さん:2011/09/26(月) 07:32:57.29
>>984
この慮外者め、そちが偽り申していることは>>503で明らか
よって、>>984を斬罪に処する。
986日本@名無史さん:2011/09/26(月) 13:24:51.54
>>984
>>3を読め低能
ついでに>>963を読めカス
987日本@名無史さん:2011/09/26(月) 19:07:46.89
このスレの>>1ですが今日(というか日を跨いで明日)の深夜帰宅したら次スレ立ててみます。
もし立てられなかったらごめんなさい。

普通にPART2でいいですかね?
テンプレ案とかないですよね?
議論している暇もないけど。
988日本@名無史さん:2011/09/26(月) 19:26:37.35
あんまりひねると逆に変な人が増えそうだから普通でいいのでは?
989日本@名無史さん:2011/09/27(火) 01:56:32.83
すみません…規制で立てられませんでした…。
どなたか立ててください。

タイトル
官位について語るスレPART2

本文
※官位を与えるスレではありません

前スレ
官位について語るスレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1285730195/

元祖スレ
武家の官位について語れ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1191035900/

とにかく官位について語るスレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1211206280/
990日本@名無史さん:2011/09/27(火) 04:02:39.09
>>989 ↓既に立ってる?

官位について語るスレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1316995515/
991日本@名無史さん:2011/09/27(火) 15:16:33.70
何故リンクを貼らないのか
992日本@名無史さん:2011/09/27(火) 15:37:19.21
            し
      り          ま
   断                 す
お         ま   す        お
       し         !
            ,ハ,,ハ        断
      り     ( ゚ω゚ )
         ((⊂ノ   ヽつ ))    り
      断    (_⌒ヽ
       ε≡Ξノノ `J    し
         お      ま
             す
993948=503:2011/09/27(火) 17:44:25.67
誰か官位・官職を与えられる人に官位・官職を与えるスレを作ってほしいです。
994日本@名無史さん:2011/09/27(火) 18:07:16.81
>>993
うっせーよ。官位は現役の栄典だから詐称は犯罪だぞ。
995日本@名無史さん:2011/09/27(火) 18:45:43.14
自分のスレ番も間違えるような奴はすっこんでなさい
996日本@名無史さん
埋めてよし