1 :
日本@名無史さん:
何故、多くのスレが潰れたの。
めげずに悪党、忠臣、名将と呼ばれる楠木正成を語りましょう。
2 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 12:11:52
櫻井の別れはフィクションか?
うん。
正行、そのとき既に成人していて任官しているから。
なんか明治維新以降に名誉回復されたり持ち上げられたり
異常に高い官位与えられた人物って胡散臭さがつきまとうんだよな
うんちを使ったのって楠木正成と天草四郎だよね
やはりまともな武士の使う戦法では無いみたい
幕府もこんな奴に手を焼いてたから、
日和見してた連中に見限られちゃったんだよね。
>>3 それは皇国史観を否定したいがためにサヨが流したデマ
8 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 07:29:10
櫻井の別れの細かい状況で事実と伝説では相違があっても、
楠木正成の忠の心は、そして正成とまさつらの別れは多分事実
馬鹿に心酔しちまったせいで哀れな最期を遂げましたwwバロスwwww
10 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 18:07:24
逆臣足利尊氏が九州から攻め上がってきたとき
御醍醐が忠臣楠木正成の進言を採用していれば…。
11 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:11:06
正成じゃ全国の武士を抑えきれない
自分が守護をしている和泉、河内で動員できたのも楠木一族の数百騎だけ•••
ダメだこりゃあ
13 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:38:32
>>12 それでも足利に寝返らず、楠木一族だけが忠君を尽くしたのだから偉い
14 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:42:03
えらく時代がかってますなあ
15 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:26:20
忠君に時代は関係ないぉ
16 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:29:13
正行が無能すぎた
17 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:31:08
無能は後醍醐と屑公卿どもだろ
18 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:41:50
正成から山城と呼ばれるものが武士の間で広まったのだ。
石落の使い方が正々堂々じゃなかったのが、武士に影響し勝ちゃ〜いんだよ!!
ってことになった。 あいつは武士なのか??
>>13 妹婿の赤松を通じて寝返ろうとして、失敗した説がある
20 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:14:56
>>19 誰の説ですか?
取るに足らなそうと、釣られてしまった。(>_<)
21 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:34:43
正成がいなかったら建武の中興の偉業は不可能だった。
んなこと無い。尊氏が後醍醐についたから、全国の武士が雪崩をうって反旗を翻したんだよ。
23 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:45:00
正成が挙兵しなかったら尊氏も後醍醐につかなかった
それを言い出したら何とでも言える
25 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:23:50
何とでも言えない
26 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 11:21:45
尊氏ですら正成には一目置いていたらしい。一目と言わず井目おいてもいいかも
27 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:04:30
忠臣という意味では正成には絶大な信頼を置いてただろう
新田は寝返りかねんからな
28 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 14:54:18
新田は鎌倉討伐が素晴らしかったから凡将ではないはずだが
それ以降の戦を見るととても名将とは言えない
新田は日本版、諸葛亮だな
新田義貞 潮を引かせる自然現象を起して大勝利を得る
以降負け続き
諸葛亮 風を吹かせる自然現象を起して大勝利を得る
以降負け続き
>>27 後醍醐は正成のことを全く信頼してなかったぞ。
護良失脚と共に正成は政権中央から締め出され、その後は官位の昇進も褒美もない。
それどころか進言が真面目に取り上げられたことは一度も無い。
31 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:22:39
正成は護良と繋がっていたから排除された
という説があるが本当なのかな?
正成の留守中に護良が捕縛されていること、護良失脚と共に正成も失脚しているという状況証拠からはあり得る。
33 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:41:02
二人の連携は建武政権樹立以前に鎌倉幕府軍と戦っている時にできたのかな?
もしそうならお互い命がけで幕府軍と戦った戦友のきずなみたいな感じかな?
後醍醐天皇の夢オチなんて当然作り話だろうし、悪党が朝廷と直結しているはずもないので
護良が赤松と楠木をスカウトしてきたと考えるのが妥当だと思う。
楠木某(楠木正成では無いと思われる。親かも?)が播磨の荘園で押し込み強盗している
記録もあるので、赤松とか楠木はかなり以前から広範囲で活動していた有名な悪党だった
と思う。
日本版ロビンフッドといったところか。
35 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:45:07
怪僧文観の仲介で後醍醐が正成を味方にしたという説があるけど。
お前ら、皇国史観を否定したいがためにサヨが流したデマに洗脳されている。
後醍醐帝と大楠公は暑い信頼関係で結ばれていた。
暑苦しい関係は嫌だな
梅塩論だと、正成は尊氏と争いを起したことで後醍醐天皇を痛烈に批判し、
新田義貞を朝敵として足利尊氏の機嫌をとって和睦するように進言した。
それを却下されて兵庫への出陣を命じられ戦死した。
なぜか足利側は楠木に同情的だよね
義詮の墓のエピソードとか、とても敵方に対する扱いじゃないし
正儀が北朝帰順していた時期と何か関係あんのかね
>>39 徳川と真田信繁の関係と同じじゃないの?
懐の深さ見せつけてるんでしょ
>>38 梅松論なら知ってるけど、梅塩論なんてのもあるのか・・・・
42 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:18:40
>>38 尊氏との融和論者である正成を良く尊氏への迎撃に差し向けたなあ。
寝返ったら大変だろうに。
43 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 15:55:46
寝返りするつもりが上手く連絡とれなくて、そのまま殲滅されただけでしょ。
44 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 18:11:26
45 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:55:09
でも、寝返らなかったのは何故?
47 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:47:05
>>45 尊氏軍の中に自分の居場所が見つからなかったから
48 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 06:03:01
まるでぶよう
49 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:10:45
湊川陣没の後日譚〜現在です。
湊川の戦いで是非もなしと楠木正成公御一党が自尽の砌。
常日頃、正成公がそば近くに捧持し守護神仏として奉拝していた八幡大菩薩(八幡大神)と菊一文字の太刀(お上より下賜の摂刀(=征討将軍の証))を家臣の吉川弥六らに託す。
(不遜ながら湊川神社の伝、楠木公のモノは公ご自身には重要では無い事になります)
自尽の砌、直前まで御一党さま方の御念仏三昧が陣外へ響き渡ったと云われます。
(その際のご本尊は件の八幡さまかと愚考拝察いたします。)
夜陰に乗じて吉川弥六ら一団は重包囲された死地を脱出。苦難の末に淡路島へと逃避し隠棲。
八幡さまと太刀をを小祠に納めて祀る。後に周辺は楠木村と号す。(淡路市楠本。)
暫くして世情が鎮静したころに久留麻(来馬郷)の「旗山」に遷座し八幡宮として西暦1400に創建。爾来610年
明治初期までは社号を『旗山八幡宮』と号していましたが明治の神仏分離、判然令により以降は『松帆神社』と改称。
地元の総氏神。厄除け八幡宮と崇敬されています。
社宝は菊一文字の太刀。(国重要美術品/旧国宝)
本殿右手(上位)境内社に「仁徳天皇社」。「松尾神社」左手に「宇治の皇子社」ほか
昔日には大阪湾が一望の高台。参道には松原が広がっていました。
湊川神社(楠寺)は鬼門方向。
夏至の日の出は石清水八幡宮の方向より。(京都)
真東には大鳥大社。(少し北に大仙陵=仁徳天皇陵を臨む)〜巻向古墳。三輪山。〜伊勢斎宮蹟〜神島・・・(「太陽の道」に御鎮座)
南東には熊野三山権現。
楠木正成は、不当に貶められているように思う。
もっと太平記を読まないといけないよ。
ツッコミどころ。
何で正成如きが征討将軍の証を持っていたの?宮方総大将は新田義貞だろ。
吉川某は何で河内に逃げずにわざわざ敵地の淡路に行ったの?
結局その伝承は後世に捏造されたものだろ?
太平記には誇張や創作も多いからキチンとした史料を読まないとな。「南北朝遺文」を読みなさい。
>>51 キチンとした史料というのは、どういう定義なのですか?
「太平記」がキチンとしていなくて、
「南北朝遺文」がキチンとしているとしたら、
その根拠は、どういうことによるものなのでしょうか?
「太平記」も史料の一つであると思うのですが??
53 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:50:35
「南北朝遺文」は畿内・中部・北陸が未刊だし。
大日本史料は未掲載の史料が多いし。
個々の研究論文ならともかく総体的に南北朝を語るのに
「太平記」を無視するのはちょっときつい。
古写本の神田本とかの「太平記」なんかはどうかな?
54 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:20:04
太平記は学術論文にも普通に引用されてるが
太平記は軍記物。しょせん物語。誇張、創作が多いのも事実。
だから、学術論文では史料で裏付けしないと使えない。
56 :
日本@名無史さん:2010/09/27(月) 01:44:42
だから裏付けすれば使える
大楠公を貶めるのは反日ブサヨ。
58 :
日本@名無史さん:2010/09/27(月) 10:06:00
古文書だって偽文書が入ってるかもしれんし、
当時の日記や記録類だって間違っているかもしれない。
物語を含むすべての史料を総合的に判断しなければ駄目。
文学や芸術や宗教学や民俗学や考古学等の各分野をも視野にいれなければいけない。
歴史学は奥が深い。「軍記物は使えない」とか言っていては視野が狭すぎる。
59 :
日本@名無史さん:2010/09/27(月) 21:39:04
菊一文字の太刀は後鳥羽帝の御宇に打たせた菊一文字の内の一振り。拵えも第一級の本物。(鑑定付きの国重要美術品指定。)
淡路島は海を隔てていて敵兵も居ない(手薄な)意外な死角だったのでしょう。
帆船や伝馬船の昔の船で明石海峡渡るのはかなり困難です
(太古より速吹水門といわれた海の難所。最大海流は十数キロメートルで鳴門海峡の二十数キロに次ぐ速い流速)
重包囲網を突破するのは困難で、河内方面や陸続きの所では直ぐに掃討されかねません。
世情のほとぼりが冷めてから河内に・・・と言うのも有ったかも知れません。
実際、海流の関係で対岸には帆船で無くても渡れるそうです。
地元の昔話に淡路島から賢い犬が切れ端に乗って対岸の堺に渡る話はありますから。
湊川神社はもとより墓地として認識され取り沙汰される遥か以前から社宝、地元の宝としてあり、地名も残っていて大切に伝承されてきた事は間違い事実。
ここからは楠木正成公の故郷、千早赤阪村のある金剛山系から信貴山〜生駒山系。
陣没地の湊川など概ね御生涯の活躍の場が全て望める場所。
(京都が鬼門に当たるのは悪いシャレでしょうか)
因みに、何の因果か二キロ南には、敵方の足利尊氏が九州へ都落ちの際に風待ち(帆待ちで)立ち寄りその寺号に感じ入り験を担ぎ戦勝祈願をした「妙勝寺」(足利幕府祈願寺)があり、その際に奉納した太刀(寺宝)も残ります。
武家屋敷風の建て物と枯山水が有名。
60 :
井沢元彦:2010/09/28(火) 15:48:14
だから、その文献に書いてあることしか認めないっていう日本の歴史学がダメなんだって
61 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 16:16:52
>>51が正しい
太平記には、後醍醐天皇や楠正成が、鳥獣の化物になって登場したり、
あれは史料というより、講談の台本のようなものだ
三国志演義の類いと受けとめたほうが良い
62 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 16:36:24
「太平記は史学に益なし」とか言ったのは明治の話し。
今では東大教授でも太平記を史料として使っている。
63 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 16:38:38
64 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 18:03:07
週末は例大祭。秋祭り。
金色の神輿が二基(神功皇后と八幡さま)
だんじりも各地区より数基出場。
昔から八幡宮からは一番遠い決まった地区の布団だんじり(淡路島型)が宮付きで、御輿がお旅所まで巡幸の露払いと先導約(ほかの地区は不可)
屋根には他の地区にはない金の御幣に小さな鳥居と八幡宮の扁額。
地元では御一党の御子孫の流れと謂われる地区。
件の御社宝もご開帳。(警備員付き)
まあ、お暇なら一度お越しになって下さい。
「楠寺と湊川神社の裏鬼門にある奥の院です」
因みに「太陽の道」に有ります。真東は大鳥大社。ヤマトは箸墓古墳と桧原神社や三輪山・・・(誤差は数十メートル)
65 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 18:08:38
こちらの八幡さま。
淡路島の昔話では出雲の神さま会議(出雲詣で)に出発為さるときの島内の八幡様方の集合場所になっています。
ああ、大楠公、大楠公!
日本人は全員あなたを崇めております。
あなた様が唱えた七生報国の大和魂は今も行き続け、全日本人はいつでも中共に切り込み、命を捧げる準備ができています。
67 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 21:58:48
1回ずたぼろに殺されまくったので
あと5回くらい死滅寸前まで追いやられて
7回目でやっと思いを遂げるとかそういう企画
69 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:08:52
でも、そうはならなかったが
自分のテリトリーで戦ってた時は強かったよ。
協力者も多かったしね。
71 :
日本@名無史さん:2010/09/29(水) 14:42:35
その戦い方では「権力維持の戦い」は出来ない
楠木正成は、人類史上、最強の武将だね。
湊川の合戦に出陣するのに動員かけたけど
人が集まらなかったってのがすべてだな。
うまく時勢に乗ったが、見放されるのも早かった。
現代でいうとホリエモンかな。
ホリエモンとは、まったく正反対の人物だね。
75 :
日本@名無史さん:2010/09/29(水) 21:38:03
正成をホリエモンと一緒にするのは可哀想だ。
ホリエモンは、ライブドアの経営は逮捕された側近たちがやっていて
自分は関与してないって裁判で言ってたじゃないか。ただの飾り物だったと。
少なくとも正成は飾りものではなかった。
正成は猪木だよ。
全日本人の正義のヒーロー。
77 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 01:02:40
孫正義みたいだな
78 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 01:58:41
>>77 なにそれと思ったら正義繋がりか
でも正義でなく正成、名前は似ているか
孫がいたら正義と名付けたかも
79 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 02:35:45
楠木孫太郎正義
新聞の広告で見て気になってた
創価の機関紙?に載ってる楠木正成の漫画
やっと読めた
作画は池上遼一のアシ出身なのかな
脳内で池上遼一の絵に補正した
81 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 07:56:40
>池上遼一のアシ出身なのかな
ていうことは、水木しげるの孫弟子になるのか。
82 :
taka:2010/09/30(木) 16:07:02
こんにちわ
83 :
taka:2010/09/30(木) 16:43:14
この板の皆様、先ほどの一言スレどうも申し訳ありません。テスト投稿のつもりで書き込みしましたので。
>>49 >>59 さんの書き込み、大変参考になりましたのでまずお礼を申しあげたいと思います。
さて
>>51さん と
>>61さん、『太平記』はちゃんとお読みになられたでしょうか? 確かに仰る様に『太平記』には怨霊の
類や仏教説話の類の話しがあります。ですが、創作があったからと言って具体的な検証もせずに『太平記』があてにならな
いと断じるのはどうかと思います。
教育委員会等でも『太平記』を軽んじる風潮がありますが、例えば元弘元年の赤坂城の戦いの日付と幕府方の武将、光明寺
残篇と『太平記』巻三の赤坂城軍事はほぼ一致しております。また元弘三年の千早攻め、確かに『太平記』の幕府軍の百万
というのは大げさかも知れませんが、幕府方の武将は 楠木合戦注文 と 『太平記』で一致しておりますし、阿曾氏 や 名越
氏 等が関東から上洛しているという事からすると、幕府軍の戦力は『太平記』の記述に近い物があるという事が推測出来ま
す。
84 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 17:12:41
太平記はいろんな史料を集めてるね。
番場谷の蓮華寺過去帳とか
85 :
とんまな学者の妄説信者へ:2010/09/30(木) 21:08:55
野生の雀は働かなくても、金が無くても生けていける。それは神様が食べ物
を与えてくれるからである。人間も贅沢をしなければ同じ様に生きていける。
お米は百姓さんの汗と膏の結晶である。その苦労も知らずに感謝もしないでご
飯を食べている。
君達が働いて(百姓さんの肉体労働に比べれば遊んでいる様な仕事)得たお金は
百姓の生き血を吸って得たものである。分からなければたとえ話で説明しよう。
武士は百姓から取り立てた年貢をお金に買えてそれで生活していた。商人等は
そのおこぼれで生活していた。百姓がみんなの犠牲になってくれたから生活出
来たのである。今でも弱者の百姓を食い物にしているのである。百姓は君達の
寄生虫がいなければもっと豊かに生活出来るのである。
百姓は消費者が決めた米価でしか米は売れない。それでは、農機具の経費は賄
えない。他の職業は必要経費を引いても利益が出るのである。百姓だけが虐げ
られている。神聖な百姓の生き血を吸って成り立っている悪の経済が滅びる時
が来た。天罰てき面になる時が来たのである。
雋傑坂本龍馬では、海援隊の集合写真の向かって右から菅野覚兵衛、白峰駿馬、
陸奥宗光、坂本龍馬、岡本健太郎、長岡謙吉となっているが、私の見立てでは
謎の人物(白峰駿馬の耳の形と異なる)、千屋寅之助、山本洪堂、勝海舟(龍馬
に化けた)、溝渕広之丞、謎の人物(長岡謙吉の丸顔とは異なる)となる。海援
」隊員としては千屋寅之助(変名菅野覚兵衛)の一人が正しいだけである。山本
洪堂、溝渕広之丞は土佐藩士である。なぜ、偽の龍馬と海援隊の写真を撮る必
要があったのか。メーソンは龍馬を暗殺した為に怨霊を恐れたのである。この
写真と龍馬の立像写真と坐像写真は暗殺直後に撮られたものである。だから、
偽の海援隊の写真の中に暗殺を手助けした土佐藩士が写っているのである。龍
馬の立像写真と同じ演台に後藤象二郎が肘を掛けている。これも暗殺に土佐藩
が関わった証拠である。これらの写真は龍馬暗殺直後に撮った写真である。福
井で見つかった龍馬の写真は暗殺後数年経ってから撮られたものである(頭の
剥げ具合で分かる)。悪い事をしても神様が本当の事を表沙汰にする。
楠木正成公が、いまだに日本を守ってくださっている。
こんな人は、世界のどこにもいません。
本当にありがたいことです。
大楠公を貶すのはコミンテルン工作員の反日ブサヨミンス
88 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 18:43:23
鳩山前首相「後醍醐と尊氏が腹を割って話せばよかったのに」
89 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 00:33:56
楠木正成を嫌いな日本人は少ないでしょう。
歴史に詳しくない人を除いて。
90 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 01:16:29
興味無い人は多いけど
92 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:48:50
朝鮮人は楠木正成が大好きだってさ
元寇を撃退した憎い北条氏を滅ぼしたからね。w
93 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 14:34:39
基本的に悪党だから。
それ以上の存在ではない。
悪の意味は、なにか知ってるか?
誰にでもある悪。
悪源太義平と一緒。
皆が認める公然の悪。
まあ、仕方ねぇかで許されるレベルの悪。
>>誰にでもある悪。
>>悪源太義平と一緒。
>>皆が認める公然の悪。
この3つの悪は、意味がかなり違うと思うがな。
97 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 18:05:56
悪党は所詮悪党だ
文句あるか?
悪源太義平って木曽義仲の父親を殺害した人?
すごい乱暴な人で、最初から後継者争いにもならず、
すんなり源氏の嫡流は頼朝に決まったんだよね。
99 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:39:31
何を言ってるんだ
だからその「悪」って、「勇猛で強い」って意味なんだが。
And the whole world has to
Answer right now
Just to tell you once again,
Who's bad
102 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 21:09:18
c
103 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 23:00:05
>>102 で、その「悪」は正当な権力者だったのか?
当時の悪党というのは
徒党を組んで押し込み強盗している集団の事で、
現代の悪人を指すような意味は無い
ちょっとワロタ
それじゃ現代の基準でも悪党だろ
106 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 14:18:05
「悪」とは・・・
権力者や保守派から見れば「秩序を乱す」「腕力を振るう」というマイナスイメージ。
反体制派や改革派からみれば「強い」「剛腕」というプラスイメージ。
107 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 14:31:55
まあ、武士=暴力団という見方からすれば「悪」はプラスイメージだろうな。
「オレ、前科5犯なんだぜ。」と暴力団員が自分が悪人であることを自慢するようなもの。
「悪党」の意味は「祭らわぬ者」と言う意味。
つまり鎌倉幕府に「祭らわぬ」から悪党。
また「悪」とは、強く逞しい「武勇」を表す言葉。
109 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:07:34
悪左府頼長、悪源太、どっちも普通に悪い意味で使われてる気もするがね
反体制の悪党は悪ではないというのは、戦後史学の左翼的なスタンスだな
オレは嫌いじゃないけど
110 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:21:22
>>108 >「悪」とは、強く逞しい「武勇」を表す言葉
それは一般の世界では通用せず、暴力を生業にしている集団で通用言葉だろう。
武士団=暴力団内部での価値観だと思う。
暴力団組長・悪太郎「おれ、腕力があるから人を殴り殺したことあるんだぜ。
それで、『悪太郎』というあだ名がついたんだ。どうだすごいだろう。」
暴力団子分・次郎「へえ。組長って強いんですねえ。オレも人を殺して『悪次郎』て呼ばれたいなあ。」
こんな感じだろう。
>>110 釣りとは思うが、念のため。
時代が違う、時代が。古典の読み方、知らんのかね。
112 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:04:37
>>111 中世の武士団=開発領主というのは昔の学説。
今は、中世の武士団=暴力集団という学説が一般化している。
ちっとは歴史を勉強しなよ。
114 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:37:59
子供は早く寝な
116 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 02:07:29
>>115 坊や、まだ起きてるのか?じゃあ、教えてやる。
高橋昌明・川合康・野口実など多くの学者が唱えている。
>>116 それって、武士在地領主論ではなくて、
武士職能論ってだけでしょ。
聞きたいのは、
武士団=暴力団かつ武士団≠開発領主を唱えている人。
そんな人いるのかねぇ。
118 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 03:23:34
>武士職能論ってだけでしょ。
武士職能論ってなんだか知ってる?
入間田宣夫「日本歴史 武者の世に」集英社
120 :
taka:2010/10/06(水) 11:00:50
あの〜 大楠公 のスレタイからはずれた議論になってきていますよ?
それに浅学で良く解からないのですが、武士職能論を否定している人に質問したいのですが、高橋氏 が唱えておられる
職業身分としての武士はまったく居なかったのか? 同様に武士=在地領主は古いと発言しておられる人にも質問したい
のですが、中世武士団に在地領主はまったく存在していなかったのか?
武士団なり武士なりの定義事態が曖昧ですし、それにそういう存在は複合的であって武士は職業身分か? 在地領主か?
じたい不毛な議論の何物でもないと思いませんか?
121 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 11:35:24
>>120 同感。
ただ、「被支配者階級である開発農民が自己の所領を守るために
武装化して武士団となり、団結して革命を起こし支配階級である貴族を
打倒して幕府を樹立し武士の世をつくった。」というマルクスの階級闘争史観
が戦後長い間主流だったのにたいしてのアンチテーゼの意味はあったと思う。
122 :
taka:2010/10/06(水) 17:38:22
>>121 ですね〜 なんでもかんでも自分達の思想と結び付けたがるマルクス主義者は少し自重してほしいかも。
ところで、楠木 の悪党という描かれ方や 赤松 のイメージって史料+小説の影響だけどその通りなのかな?
というのも臨川寺領和若松荘にて乱暴した 楠木兵衛尉、通名で官位を僭称し始めたのは室町中期から応仁の乱
の時代あたりである事から明らかに官位官職を貰っている可能性があり、さらに桐山館や楠公誕生地遺跡と言
われる館跡の立派な武家屋敷と言える規模を考えると、単なる成り上がりの成金な悪党と言うよりは名門とは
言わないまでもそこそこの身分と言う事も言えるのではないのかな?
上のレスで「なぜか足利側は楠木に同情的だよね 」と見事な疑問を持っている人が居たけど、足利尊氏公 と
大楠公 とは元々知っている可能性も考えられるのかも知れない。大覚寺統の経済の中心は八条院領で八条院領
の大半の地頭が足利荘を中心として 足利一族 で占められている事や、神戸市の教育委員会によると上赤坂城
の戦いで戦死した 平野将監 は公卿に仕える(西園寺家 で持明院統)武士であったという発表を考えると、大楠公
の一族は大覚寺統に仕える武士であり 足利方 とも以前から親密な接点があったと考えます^^
大楠公の清く正しく美しい至忠の志に、逆賊の高氏も感涙にむせったのだろう。
逆賊とはいえ高氏も日本人。日本人なら大楠公に感動しないはずがない。
大楠公に泥を塗って喜んでる輩はチャンコロかチョンだよ。
124 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 19:24:47
後醍醐が感動したと言う話を聞いたことが無い件
痛みに耐えてよく頑張った!
感動したっ!
そんな大楠木公の諫言は容れなれなかっただけどねw
127 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 16:11:13
正成「足利尊氏と和睦を…。」
後醍醐「うるさい。悪党風情が生意気を言うでない。」
128 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:15:44
南朝・北朝って南朝鮮と北朝鮮のことですか?
いえいえ北魏と東晋のことですよ
130 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 01:41:19
吾妻鏡に楠木四郎という御家人が出てくるけど
正成のご先祖様ですか?
と考えるがくりゃもいる
>>126、127
それが大楠公が大忠臣である所以だ。
不貞腐れるような小物は忠臣なぞではない。
133 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 14:57:31
平禅門の乱直後に鶴岡八幡宮に寄進された楠木郷は楠木正成と関係あるの?
楠木氏は河内土着ではなく元々鎌倉幕府の御家人説がある。
駿河の国出身とか。
足利とも元々つながりがあったのでは。
135 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:21:20
楠木氏が橘氏の系図に載ってるけど、同族なのかなあ
137 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 12:51:48
隠岐を脱出した後醍醐天皇は兵庫の福厳寺に到着します。
そこへ楠木正成が迎えにきた事は有名です。
そのとき頭痛を発し、近隣の薬仙寺の井戸水を飲むことで頭痛は治まりました。
そして薬仙寺は後醍醐天皇より、医王山の山号をいただきます。
ここで気になるのは、福厳寺の井戸水では無しに、他所から水を持って来させたことです。
●神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
薬師如来といえば、もともと医王山の山号が決まりだったような?
箔付けに後醍醐天皇伝説を作ったとか、その線は考えられないのかい?
139 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 18:32:56
>>138 史実かどうかは重要かな?
天皇家の権威付けと正成の忠義を表す伝説であるかもしれない
可能性はあるけど。
そういや日本史板はなんで落ちたの?
>>121 武士と武士団の起源については各起源説の並立&折衷論で纏めちゃ駄目かな?
>>116 臭え連中しかいねえw
せめて元木泰雄あたりにしとけよ
142 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 15:43:47
元木先生の「平清盛の闘い」買いました。
オレのような中卒でも楽しんで読めました。
有難うございました。
143 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 16:07:03
正成は諸葛孔明だね。
144 :
taka:2010/10/18(月) 12:19:20
>>138 薬師如来を本尊としている寺院で医王山の山号を持っているのは多くは無いと思います。薬師寺・醍醐寺
等々、西国薬師四十九霊場で医王山の山号は無いと思います。
ただ、だからと言ってその逸話が事実とは断言できませんが、事実なり伝説の初出なりが江戸期〜江戸期
以前だとすると当時の人が福厳寺に対してどういう見方をしていたか? という資料にはなるでしょうね。
なにせ福厳寺は京都ではなく鎌倉禅宗建長寺系の寺院でしたから。
145 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 15:32:07
楠木氏は、要害の地に砦を築いたとはいえ
ともかくも鎌倉幕府の大軍を相手に善戦したわけだし
かなりの兵力や兵站などの経済力を持っていたのだろう。
いや、兵力は全然なかったろ?
そもそも、大兵力が篭ったら、兵站大変じゃねぇかw
ただでさえ麓は鎌倉軍に囲まれてるのに、どうやって大量の
食糧運び込むんだよ。
大塔宮一派が紀伊半島全域に立て籠もった
大坂平野方面の最前線が楠木だったという感じがしないでもないが。
紀伊半島全域が兵站基地だと思える。
148 :
taka:2010/10/29(金) 18:50:36
>>145 兵力というのがどういう定義なのか? にも拠るけど、一般の説では凡そ4・500〜1000
の兵って言われていますね。
ただこれは『太平記』や『合戦注文』等による赤坂・千早両城の戦いによる戦力であって、各城
に立て籠もっていたとされる(例えば 恩智氏 や 福塚・河野辺氏 等)勢力も合わせると相当な数
にはなるかと。
149 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 18:21:01
特殊部隊に大軍を全面決戦て..
楠木は囮だった。
千早城に敵を引きつけて、大塔宮配下の各種部隊が
背後からゲリラ戦を挑んでいた。
151 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 19:10:41
その通り
152 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 10:33:34
153 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 08:51:03
かんけいないけど楠っていう木が好き
154 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 09:52:48
本当に関係なくてワロタ
三木一草
156 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 00:42:52
なぜか赤松は冷遇されたね
何故も何も建武の新政では楠木や北畠まで含めて冷遇されて、後醍醐天皇直属の素人公家が役職に就いたのですが。
赤松は護良配下と見られたから、そっちから貰えということでしょう。
武士で褒美をもらった方が少ないんだもの
直系に沖雅也
>>143 あんなクズと比べるな。
『三国志演義』で脚色されまくってるが軍事的な業績はほとんどない。
四川省の少数民族の地を侵略しようとして返り討ちに遭い、
7回囚われの身となるも許され、7回も裏切った恩知らず。
>>160 はぁ?最初の北伐は途中まで順調に進んでますが?
楠木正虎
楠公は日本で一番偉い人です
楠木正虎は、楠木氏の自称子孫であって
実際は違うと思う。
彼は大饗(おあい)氏であり楠木氏と行動を
共にした和田氏の一族というのが正しい。
和田氏は、楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠
から始まり河内から泉州和田村に居城を構え
和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)
その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)
その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。
城岸寺城とは、大饗(おあい)城の別名である。
正平七年(約六百六十年前)和田助氏の軍忠状
(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見える
ことは大阪府史、狭山町史に記載されている。
この大饗(おあい)城に居を構えた和田氏が、
大饗(おあい)氏となり、その子孫が正虎であると見る。
165 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 11:47:04
>>122 八条院領って後醍醐天皇と尊氏が対立した後はどうなったの?
166 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 15:13:09
湊川て特殊部隊に師団任せたようなもの?
正成直属の兵は少数だったろ?
本隊は新田が率いてたわけだし。
新田の元には菊池とか千葉とか小山田とかの有力大名が配属されているが、
楠木は単独だった。
楠木は河内、和泉の守護だったのに、動員かけても一族郎党しか集まらなかった。
それだけだ。どこの馬の骨だかわからん成り上がり者の配下になるのを、河内、和泉の武士は拒否したんだよ。
福厳寺は後醍醐天皇をお迎えに来た楠公の史跡として有名です。
また神戸の歴史においても重要な地位をしめます。兵庫城、兵庫津を取り囲む都賀堤の中心で、
兵庫の町を守る軍事拠点になってました。
境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
171 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 11:20:09
>>169 「後醍醐は全国の武士に動員かけても僅かの武士しか集まらなかった。
どこの馬の骨だかわからん成り上がり者の配下になるのを、全国の武士
は拒否したんだよ。」ということ?
成り上がり者というか、建武の親政の成果だろw
倒幕にあれだけ尽力した武家が糞の役にも立たない公家に
美味しい所を全部もっていかれたんだからな。
当然、動員かけたところでまた煮え湯を飲まされるのが見え見え
なんだから後醍醐サイドにはつかないよ。
173 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 14:42:04
へえ、倒幕に公家は「糞の役にも立たな」かったんですか?
じゃあ、討幕を始めたのは誰なんです?
始めたのは公家ですよ。
175 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 15:41:28
>倒幕にあれだけ尽力した武家
普通「武家」とは六波羅探題とか幕府を指すんだが…
だから「武家」が倒幕に尽力するはずがないんだが…w
「武家」は「武士」の間違いかな?
鎌倉方からも裏切りでてるじゃんw
177 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 16:04:31
頼むから「武家」と「武士」を一緒にしないでくれよ
悲しくなるから
178 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 18:50:19
この時代の公家は闘う公家だし坊門のようなアホもいたが春日顕時のような名将もいた。
北朝側には闘う公家いなかったのか?
幕府あるし必要ないといえばそれまでだが
179 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 19:11:38
基本的には貴族も武道のたしなみはあったらしいね。
藤原道長も弓がうまかったらしいし。
貴族であれなんであれ支配階級は被支配階級を抑えつけておくために、
又自分の権力を守るために武力に精通しているのは当然のこと。
だから、摂関家の息子や親王が鎌倉幕府の将軍になっても不自然ではない。
そういや護良親王の出陣図を見たら、大鎧姿で弓をもって騎乗しながら
顔だけ白塗りで眉毛も麿剃りになっててなんか笑えるんだが
北畠顕信とかもあんな感じだったの?
平安貴族には歩射の伝統があったが
射手を集めようにも技量も拙く、人も少なく、集まらず
当時は困ってたよ
その一方で京や大宰府ではストリートギャングまで弓矢で武装してたとか
183 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:26:31
永仁3年1月の播磨大部荘百姓申状に出てくる「河内楠入道」って正成の祖先なのか?
184 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 22:38:17
得宗領?
185 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:28:23
さ楠木正虎より旅行で正成はとても弱い戲裡
186 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 13:28:25
播磨大部荘の一部は得宗領
187 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 20:28:18
東京観光で皇居行ったら、大阪人の楠木正成が守ってて何だか笑えた
188 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 22:38:23
グローバル時代になんというローカルな発想w
>>183 >>186 元々、楠氏は北条氏の被官であったという説がある。
駿河出身の御家人という話らしい。
河内の豪族・悪党出身というのが間違いかもしれない。
元々御家人で北条氏の命令で得宗領の管理してたのが
造反・悪党化したのでは?とも考えられる。
190 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 20:39:19
高野春秋という史料に、元亨2年正成が北条高時の命令で紀伊国の湯浅氏を
討ったという記事があるらしいけど信頼できる話しなの?
もしそうなら楠木正成は得宗被官だったということになるけど。
191 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 06:44:22
>>160 諸葛孔明は智勇に富んだ名将名参謀でしかも大忠臣。劉備の後、
暗君によく仕え、献策を退けられたにもかかわらず、死期が迫る身で
最後のご奉公を果たすために五丈原に赴く。献策を退けられた正成が
死を覚悟して湊川に赴いたのと似てないか?
そんなこと言ってるのは三国志演義と日本人だけ。
軍師としての実績は五丈原ぐらい。
それ故、中国での人気は圧倒的に関羽で孔明は大して人気がない。
最近は日本製のゲームの影響で人気が出てきてるのかもしれんが。
関羽の人気がでたのは中国共産党が政権をとって以降なんじゃねぇの?
第四次北伐時の司馬懿の指揮はあまり冴えがなかったのは事実だね。
主力対決では撃退されるし、無理な追撃戦で名将張コウを戦死させたりと、
戦術的には諸葛亮に完全にやられている。兵力的にも優勢だったと思われる
だけに、野戦は諸葛亮は結構強かったと思われる。それが最後の北伐での
司馬懿の徹底的な持久戦、司令官を失った蜀軍を易々と撤退させるという
行動に繋がっている。諸葛亮は軍事能力が低いと勘違いしている人もいるが、
あくまでも奇襲などの奇手が不得手だったというだけで、正攻法の野戦は
かなり強かったと思われる。それが司馬懿が残して「奇才なり」という言葉
からも伺える。
>>194 持ち上げすぎると、それに反発して貶めるのがいるからなぁ。
軍事の方もその他に比べりゃ非凡だったんでしょ。
>それが司馬懿が残して「奇才なり」という言葉
からも伺える。
だから三国志演義でしょ。
劉備玄徳というどこの馬の骨とも判らぬゴロツキを漢の正統な後継者だと設定し、
後継者だから劉備が正しい、正しい劉備の作った国だから蜀が勝つべきだ、
正しい劉備の家臣だから諸葛孔明は偉いのだという思想で書かれてる。
>>196 >だから三国志演義でしょ
横レスだが、残念ながら正史の本文だ。これでお前さんが正史すら読まずに決めつけてる事が明らかになった。
なんというオチ
199 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:24:20
楠木正成のスレがいつの間にか諸葛孔明スレになっている( ̄○ ̄;)
200 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:10:45
大楠公の偉業をもっと顕彰すべき。
そうすれば日本人のモラルはさらに向上するはず。
201 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 16:34:47
戦前に称えすぎた反省に立ってるんでしょ
どうしても
「たとえ負け戦でも天皇のために命を投げ出すことこそ日本人の鑑」
となる
冷静に考えれば楠木一族を残すために
何も息子たちまで南朝に仕えさせることないのに・・・と思う
202 :
楠木正儀:2011/01/29(土) 21:17:47
北朝に仕えたけど追い出されました
203 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 14:21:27
最近は「大楠公」と敬称で呼ぶ人が減ったね。
大楠公と北畠親房卿のふたりは、敬称で呼ぶべき。
悪党ではあるが鞍替えしないその姿が日本人の心を打つんだろうな。
ロビンフッドの日本版だな
楠木なんて日本史上比類無き大悪党だろう。
偽の主上を担ぎ出し万世一系の日本の歴史に覆い隠す事ができない汚点を残した。
楠木を称えるのは、畏れ多くも皇室を偽と指弾する反日工作員だ。
207 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 21:46:53
本日(2月2日)NHK総合22時からの歴史秘話ヒストリアは後醍醐天皇、
これは、見るべきかな!
208 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 01:35:36
>205
オレもそれは感じてた。ロビンフッドが正史に名を残したみたいな。
逆賊だろ。偽帝を担ぎ出し簒奪を狙った大悪党。
210 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 06:11:04
>>207 楠木正成の後の時代ですね。
俺の脳内で空白の時代。
足利時代から北条氏、武田信玄の戦国時代辺り無知
211 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 09:08:27
>>209 ここでいう悪党の意味をはきちがえてるだろ
212 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 09:51:18
後醍醐天皇は次男坊で、大覚寺統の嫡流ですらなかったんだよな。
大覚寺統の嫡流はもともと兄貴の二条天皇の系統。
しかし、兄貴の長男皇太子が死んだのをいいことに
二条天皇の次男以下の系統を闇に葬り、今後は自分の子孫だけが天皇になると宣言した。
天皇家内でも結構浮いた人だったんだよ、後醍醐天皇って。
>>211 偽の天皇を担ぎ出してるんだから日本史上最悪の悪党で逆賊だろ
不屈の人
215 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:34:04
南北朝統一後に降伏した一族いたら即河原で打ち首かな
大丈夫。楠木一族に従うのはいないから無視されている。
足利氏に取って代われる新田一族は見つけ次第殺されて根絶やしにされたけど。
武士は負けが予想される方にはつかない
勝つと思われる方につく
人望とか能力とか家柄とか関係ない
中世は家柄、血統は非常に重要。
尊氏の下には何もしなくても人が集まる。正成の下には一族郎党しか集まらない。
血統だけですべてが決まるなら、建武の新政が失敗するはずがないが
うまくいかなったというのは、血統だけでは物事が決まらない時代に
なっていたということだろう。
北条氏には反感を抱く武士が多かったけど、鎌倉幕府の存続を望む武士は結構多かったんだろうね。
だから、北条氏から足利氏に「政権交代」して、幕府を続けるのを支持する武士は多かったと思う。
南朝についていっても、あまり将来に展望を感じないね。
>>218 それは違う。
尊氏は鎌倉時代から大大名だから巨大な家臣団を保有しいて強そうに見える。
新田も楠木も弱小武力だから弱わそうに見える。
で、他の武士団は、強そうな方に味方するから足利勢は雪だるま式に増える。
結局、直属家臣団が多い方が有利で、戦う前に勝敗は決まってしまう。
違うね。
足利氏の家臣団なんてたかがしれている。
尊氏の下には何もしなくても守護クラスの大名が馳せ参じている。
義貞には守護クラスの大名はつかなかったが、後に国人と呼ばれるような武士が配下に入った。
正成の下には一族郎党しか集まらなかった。
これは厳然たる事実。
一族郎党を束ねる人たちは家格や勢いをみるからねぇ。
好き好んで衰勢側につこうとするのはよほどのしがらみがあるか山師。
224 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:49:56
要するに「勝ち馬に乗る」
守護クラスの武士はサッサと建武政権を見限り、自分たちの権益の擁護者として尊氏を担ぎ上げた。
彼らの上に立てるのは尊氏しかいなかったから。
義貞は、家柄が良くても数年前までは彼ら守護クラスの武士のずっと格下だったから素直には従えなかった。
しかし後醍醐は、家柄が尊氏に匹敵する義貞を対抗馬とするべく、官位を上げて育成した。
正成は所詮成り上がり。単独では守護として号令をかけても誰も参陣しない悲しい現実。
226 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:46:00
要するに自分の利益にかなうなら誰でもいい
227 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:47:26
>自分たちの権益の擁護者
マルクスの階級闘争かよ w
武士はドライだからね
229 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 05:22:57
上級貴族もな
230 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:05:57
>>225 そうじゃなくて、中先代の乱の鎮圧に向かった尊氏は、
勝手に自分を征夷大将軍と自称し、
戦功を挙げた部下たちに自分の名前で恩賞を与え始めた。
本来、尊氏が率いる鎮圧軍は後醍醐天皇配下の名目で
集められた武士たちだったが(必ずしも尊氏配下の武士たちではない)
恩賞によって尊氏に忠誠を誓うようになった。
尊氏が天下を取れたのは、恩賞をけちらなかったためらしい。
その代わり、室町幕府は歴代幕府の中でも最も直轄地が少なく、
将軍御所も一番貧弱(洛中に二町しかなかった。
一番栄えた3代家満の花の御所でもその程度)。
幕府結成当初から運営費に苦しんでいた。
そんなことは無い。
守護クラスの武士は最初から尊氏につきたがっていた。
だから、箱根竹の下の戦いではこぞって宮方から武家方へ寝返っている。
宮方に残ったのは、せいぜい後に国人と言われるクラスの武士だけだ。
さらに尊氏の西国落ちでも守護クラスの武士が続々と参陣している。
尊氏は守護クラスの武士にとっては希望の星だったんだよ。
なにしろ、鎌倉を落とした後、義貞より千寿丸に軍忠状を提出する武士のほうが多かったし。
議論はいいが義満を家満と書いたり千寿王を千寿丸にするのは道誉?
234 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:35:56
>>231−
>>232 箱根竹の下で寝返ったのは大友と塩治だけだろう。
いずれも両軍を眺めて尊氏優位と見て寝返っただけのことで、
はじめから尊氏をあがめていて寝返るつもりだったわけではない。
尚、このとき佐々木道誉も寝返った
(この人は尊氏から敵方への寝返りもしている)。
千寿王に軍忠状というのも分からん。
実際には、鎌倉を落とした直後、軍忠状は義貞のもとに集まってきた。
しかし、実際には評定は後醍醐天皇のいる都で行われることが分かったので、
都にいた尊氏に軍忠状が集まったということだろう。
幼児の千寿王に査定ができるわけではない。
千寿王は尊氏の代理。
当時は
足利氏>>超えられない壁>>新田氏
だから。
倒幕は尊氏が後醍醐についたからこそ有力御家人も雪崩をうって後醍醐についた。
その証拠に、北条高時の息子は後醍醐を恨まずに尊氏を恨んでいる。
後醍醐は尊氏の人気を知っていたから、尊氏を懐柔しつつ、義貞に高位高官と沢山の所領を与えて、尊氏の対抗馬として育成したんだよ。
尊氏に対抗できる持ち駒は義貞しかいないからね。正成みたいな馬のクソはアウトオブ眼中。
後醍醐の後醍醐たるゆえんは、尊氏ばかり見て、尊氏の支持勢力の切り崩しをしなかったこと。後醍醐の目にはトップをどうにかすれば武士は従うとタカを括っていたんだろうが。
あれで守護クラスの武士を数人優遇していれば、もう少し変わっていたよ。
後醍醐は、頼朝を甘く見た後白河と同じ轍を踏んだ。
それが貴族というものだ。
>>239 こめんな、酒飲みながら打ち込んでいるから、次々とカキコして。
読みにくいだろうが。
241 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:33:04
>>238 後白河と後醍醐は性格まるきり反対だろう。
後白河は守りのタイプ。後醍醐は攻めのタイプで伝統を全て破壊しようとする。
後醍醐の場合は、尊氏が反逆しなければ、新田や楠木や
持明院統が反逆していたかもしれない。
当時の貴族も武士も僧も後醍醐に対するアレルギーは相当強かったらしい。
242 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:26:19
持明院統が反逆て・・・
公宗考えたら否定できないか
243 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:56:31
後醍醐に心底服従していた人って側近のごく少数だろ?
後醍醐は古いものを全て破壊し、専制体制を作ろうとした。
その過激さは織田信長に近いかも・・・。
だから、周囲の人はついてゆけない。
244 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:45:53
>>241 >>243 後醍醐天皇は隠岐に流されるまで13年間も都を平和に治めていた
実績があるんだよ。
いきなりクーデターで天皇になったわけでもなんでもない。
そして、足利尊氏すら一度は後醍醐のカリスマ性に傾倒し、
自身が北条高時からもらった高氏の名を捨てて、
後醍醐の諱尊治から一字をもらい、尊氏と改名までした。
鎌倉幕府が滅んだのもこのカリスマ性の高い君主がいたからこそ。
245 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:45:51
>13年間も都を平和に治めていた
正中の変は?
当時としては最先端の学問・朱子学の素養もあっただろうし、
後醍醐天皇はかなり「英明」な君主だったのだろうね。
後鳥羽院も教養があって意思の強い「英明」な方だったというし。
だから、後鳥羽院も後醍醐天皇も独自の勢力を築いて武家に抗するところまではできた。
その人物に惹かれてついてくる人もいた。
しかし、当時の武士のニーズとあまりにもずれ過ぎている。
大多数の武士にとってあまりにもメリットがない。
後醍醐天皇は武士社会の土地制度を引っ繰り返し、混乱に陥れた時点で、
支持率はかなり落ち込んだと思う。
247 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 15:20:44
魔王 後醍醐天皇
明治政府が正成を持ち上げたのはなぜだろう?
敵の方についた方が良いってことになる。
249 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 15:54:11
>>246 だから新田が尊氏より先に離反してたら、武士の多くは新田に付き、
新田幕府が出来たと思う。
250 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 16:41:52
>>248 明治政府は武家政治から天皇をトップとして戴く政体に変わったんだから、
後醍醐天皇の為に働いた楠木は功臣だろう。
もともと足利尊氏のほうが人望・求心力があった。また、政治家としても優れていた。
建武政権でも重く用いられていた。
その尊氏がその後、建武政権で冷遇されたとき、多くの武士たちは「この政権は何かおかしい」と疑問を持つようになった。
だから、尊氏が建武政権から離反したとき、多くの武士たちを巻き込んで大きな流れになっていったように思う。
鎌倉幕府打倒の際も、尊氏が幕府から託された大軍を擁したまま離反したことが、倒幕への大きな流れとなった。
尊氏こそがこの時代の流れを作ることのできる人物であったように思う。
新田義貞に尊氏の代わりが務まっただろうか?
253 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 18:10:38
>>252 >建武政権でも重く用いられていた
>尊氏が幕府から託された大軍
事実誤認も甚だしい
>>248 倒幕運動の志士たちの倒幕イデオロギーが水戸学だったから。
彼らは自分たちを楠木正成などになぞらえたから。
255 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:42:54
というより、ただのボンクラおぼっちゃんの尊氏と
零落旧家から突如出てきた実力派の義貞のポジションが
逆だったら南北朝の泥沼みたいなことにはならなかっただろう。
256 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:24:09
新田義貞の実力とういのが今一わからんのだが
257 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:16:06
太平記そのものを読んでみたら、小説家の脚色ものじゃなくて。
258 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:29:23
勿論読んだ
259 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:30:24
楠木ら新興武士にとっては建武政権のが有難かったってだけでしょ
利害で動いただけ
>>257 太平記そのものに随分潤色がある点について
261 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:29:14
太平記は決して新田義貞を潤色していないと思うんだが・・・。
旗上げの時、鎌倉攻撃を決断したのは義貞ではなく弟の義助。
義貞が分倍河原で惨敗した時、北条氏が追撃してれば義貞の命は無かった。
義貞が命拾いしたのは北条氏の油断のおかげだといっている。
分倍敗北直後、三浦義勝が奇襲を進言したが義貞は最初反対している。
しかし、義勝の再三の強い進言で実行することになり大勝できた。
鎌倉に攻め込めたのは、義貞が剣を海に投げ入れ龍神が願いを聞き入れたからで
義貞の武略だとは言っていない。
以上、太平記は旗上げから鎌倉攻略まで新田義貞の才能を褒めてるところはほとんどない。
紛れも無いボンクラだな。
263 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:27:14
>>262 潤色している部分があったら具体的に教えて
265 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:17:36
何故そういう「感想」を持ったの?
理由を教えて
『新田義貞の才能を褒めてるところはほとんどない。』
267 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 02:15:38
褒めてるところあるの?
どの部分?
そもそも、あなたが使っている太平記は何本系?
古本?流布本?色々あるけど。
もしかして、まだ学会に知られていない太平記かな?w
268 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 02:35:10
そりゃ、新田を褒めてるところないだろ
足利直義が検閲してるんだから
269 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 03:51:18
高師直は人妻を奪うのが生き甲斐の変態
270 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 04:51:05
太平記(国民文庫)
第十四
元弘の初(はじめ)に、此(この)人さしもの大敵を亡(ほろぼ)して忠功人に超(こえ)たりしかども、尊氏(たか
うぢの)卿(きやう)君に咫尺(しせき)し給(たまふ)に依(よつ)て抽賞さまでも無(なか)りしが、陰徳(いん
とく)遂(つひ)に露(あらはれ)て、今天下の武将に備(そなは)り給(たまひ)ければ、当家も他家も推並(おし
なべ)て偏執(へんしゆ)の心を失ひつゝ、付(つき)不随云(いふ)者無(なか)りけり。
諸軍勢(しよぐんぜい)遥(はるか)に是(これ)を見て、「あないかめし、何(いづ)れも凡夫(ぼんぶ)の態(わ
ざ)に非(あら)ず。大将と云(いひ)手(て)の者共(ものども)と云(いひ)、何れを捨(すつ)べし共覚(おぼ
え)ね共(ども)、時の運に引(ひか)れて、此軍(このいくさ)に打負(うちまけ)給ひぬるうたてさよ。」と、云
はぬは人こそなかりけれ。
太平記(国民文庫)
巻第十五
韓信が謀(はかりこと)を被出しかば、諸大将(しよだいしやう)の中より、逞兵(ていへい)五十騎づゝ勝(すぐ)
り出して、二千(にせん)余騎(よき)各(おのおの)一様(いちやう)に、中黒(なかぐろ)の旗を巻(まい)て、
文(もん)を隠し、笠符(かさじるし)を取(とつ)て袖の下に収(をさ)め、三井寺(みゐでら)より引(ひき)を
くれたる勢の真似をして、京勢(きやうぜい)の中へぞ馳加(はせくはは)りける。敵斯(かか)る謀(はかりこと)
ありとは、将軍[尊氏のこと]不思寄給、……
271 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 08:34:21
新田だけでは鎌倉は落ちなかった
武士たちは足利の千寿王の下に集まったという方が正しい
勿論それを実質的に指揮したのは新田らだが
鎌倉を落とせるだけの寄せ集めの大軍を、混乱なく纏め上げたのは新田の手腕
273 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 14:33:18
大楠公が激しく顕彰されるようになったのは明治維新以降だろうけど、
以前から人気はあったよね。
276 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:52:04
そうなの?
室町時代は不倶戴天の大逆賊だったが、江戸時代に光圀が顕彰すると庶民にも知れ渡るようになる
>>273 おそらく新田は千早城攻めに参加した際に、幕府軍の混乱から
学習したのだろう。
>>277 由比正雪が楠木流を称したから、水戸黄門以前には人気が出ていたのでは?
太平記読みは人の集まりが悪くなると「正成登場!」と宣伝したという。
軍記物では源義経と楠木正成は人気者だったんだよ。
281 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:17:35
>>280 二人は共通点があるね。
華々しい戦果をあげたこと、歴史上の活動期間が短い事、悲劇的な死を遂げたこと。
真田は?
283 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:50:19
真田幸村も同じだね。
でも、義経・幸村は出自が分かってるが
正成は分からない。謎めいている。
義経と正成はどちらも当時としては斬新というか常識外れというか、
小部隊による奇襲戦のような特殊戦法を得意とした点も共通な気がする。
配下の人たちも通常の武士団といった感じがしない。
そして、頼朝・尊氏といった武家の主流への対抗馬として、
朝廷に翻弄されるところも似ているような気がする。
義経はともかく、正成は尊氏の対抗馬では無い。
神戸では今でも大楠公を祭った湊川神社を「楠公さん」と呼んで、
大楠公に対して敬意を表している。
他の地域でも南朝の功臣に対して敬うことはあるの?
関東では新田義貞公を敬うとか。
289 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 12:00:35
290 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 23:22:51
足利尊氏も一目置いたのが楠木正成候。
大楠公として祀るに相応しい。
俺なんか井目おいてさらに更に倍石を置いてもかなわない。
尊氏が怖れたのは義貞。
その証拠に後醍醐に対して兵を上げた時の理由は義貞討伐。
楠木某とかいう何処の馬の骨だかわからない輩は華麗にスルー。守護のくせに任国でまともな軍勢も集めることが出来ないのなんて論外だよ。
>>287 大阪の四条畷。
四条畷神社に小楠公を祭っている。
和田なんとかも祭られている。
和田なんとかは歯牙さん(しがさん)と呼ばれている。
四条畷の戦いで首を打たれる時、歯で刀に噛み付いたからだそう。
293 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 10:12:42
>>291 >守護のくせに任国でまともな軍勢も集めることが出来ないのなんて論外だよ。
南北朝時代はどの守護も似たようなものでしょ
少なくとも、同じ土俵上の存在じゃないのは正成も認識してたんだろうな。
じゃなきゃ自分を犠牲にして義貞を逃そうとか考えないでしょ
295 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:49:53
正成は義貞を立ててるね。「あなたは立派な大将だ。もっと自信を持って。」とか励ましてる。
後醍醐の耳元では義貞をぶっ殺せと囁いたがな。
297 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 20:27:39
正成は二枚舌
298 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 21:13:03
>>296 その話は梅松論に出てくる有名な話しだが、
太平記には全く出てこないね。
逆に
>>295の言うように正成は新田義貞に同情的だよね。
どっちが正しいのかな。俺は素人だから良くわからない。
詳しい人教えてくださいませ。(*^-^*)
やっぱり家柄とかそういう意味で自分を分かってたんだろう。
例えば、湊川から生還してたとして他の有名連中みたく
奥州や関東や北陸や九州から挙兵する正成なんて想像できるか?
300 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:36:40
>梅松論に出てくる有名な話しだが
梅松論は足利側の史料だからな〜
流れでいうと、湊川への出陣前というより、尊氏が鎌倉で反旗を翻す時に義貞を非難する訴えを出し、
義貞側がそれに反論して、後醍醐天皇がどっちをとるかという局面があったが、その時の話だと考えると、
まだしもありそうだと思えるが
湊川の段階では、もう尊氏は光厳上皇を担ぎ出しているのだから、
正成がこの期に及んで新田を捨てて足利と組めなどと進言するのは不自然に感じられるのだが
301 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 11:24:29
もともと、後醍醐と尊氏の衝突から戦いが始まったんで、
尊氏と義貞の戦いに後醍醐が巻き込まれた訳じゃないからな。
梅松論の「義貞を誅伐せられて尊氏卿を召しかへされて、君臣和睦候へかし」
と言うのは不自然に思うが。
必ずしもそうとは言えない。
後醍醐は護良親王をけしかけて尊氏を牽制しておきながら護良を切り捨てた前科がある。
護良の次に義貞を尊氏牽制の駒としていたんだしね。
新田は足利にとっては家柄では並ぶ家だから、義貞を切って手打ちという選択肢もある。
新田と足利じゃ吊り合いがとれんだろう。
304 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 13:24:47
尊氏や彼を支持する武士たちは後醍醐の政治に反対だから離反したわけ
だから、尊氏の和睦の条件は、新田を切るとかそんなレベルの条件ではなく、
後醍醐が天皇親政を止めるのが条件となる。
それは正成だって予想できただろうから、和睦を提案したとは思えない。
新田を切り捨てれば和睦できるという考えは、南北朝の戦乱の原因が
新田・足利の源氏一族内部の抗争だとする歴史を矮小化した考えだと思う。
305 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 13:37:11
ようするに梅松論は「尊氏対後醍醐」の構図を「尊氏対義貞」にすり替えたいわけ。
朝敵と見られるのは不利だからね。
現代の感覚からすれば、後醍醐の悪政に反旗を翻したのは「かっこいい」と思うけど。
文人と武人の政治主導権争いだよね。
307 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 14:29:16
>>305 「太平記」に「錦の御旗の争い」と書かれたから一概にそうとも。
そもそも後醍醐が鎌倉幕府滅亡を図ったのも、背景には両統迭立があったため。
尊氏とて、単身で後醍醐を都から追うことも軟禁することもできず、
結局北朝光厳上皇の後醍醐追討の院宣を得て、初めてこれを可能にしている。
尊氏が単身で後醍醐天皇と戦いこれに勝ったとするのは誤り。
308 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 15:36:28
で、梅松論の「義貞を誅伐せられて尊氏卿を召しかへされて、君臣和睦候へかし」
と正成が言ったというのは眉唾ということで・・・OK?
>>308 眉唾というか梅松論にはそのような記述があるという解釈でOK。
310 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 16:33:17
>>304 梅松論は尊氏の死後、足利家家臣によって書かれた室町幕府創設記。
梅松論をそのまま史実として読むと
・後醍醐は悪政
・尊氏はそんな世の中を正すべく立ちあがった
・義貞は弱く、武家たちから信頼もなかった。
一方、尊氏は強く、武家たちは昔から棟梁として慕っていた
ということになる。
尊氏の側に非や欲があったことは一切書かれないからね。
311 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 17:16:12
大河でやらないかな
312 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 17:27:43
>>310 だとすると、正成が「義貞誅伐」を後醍醐に進言した
というのも作り話ですね
313 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 17:45:00
>>312 310は後醍醐の政治に反対だから離反したということに対する反論。
むしろ、尊氏は鎌倉幕府滅亡時から幕府創設を図ろうとしていたとみてるから。
祖父の代に「3代のうちに天下を取らせたまえ」と祈って死んだとか、
足利には当初から北条に代わって幕府の実権を握りたい願望があった。
それで後醍醐の討伐に加わった。
314 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 17:49:14
>>304 後の観応の乱では尊氏は自分で立てたはずの北朝をあっさり見捨て、
南朝に降伏している。
これを見ても尊氏が担ぐ朝廷は正直どっちでもよかったのだろう。
尊氏は自身が不利になればどちらにでも寝返る。
正成がこの尊氏の性格を用いて「負けては話にならない。
ここは尊氏の望むとおり義貞を俗軍として、勝った方に乗っかりましょう」
と言ったとしても、それはそれで不思議ではない。
後醍醐はその点清廉潔癖で、一度北朝を立てた尊氏を消して許さなかったが、
尊氏のほうはブレまくっている。
後醍醐が南北の間でぶれるのか?
316 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 18:49:50
>>313 >尊氏は鎌倉幕府滅亡時から幕府創設を図ろうとしていた
だったら尊氏は後醍醐の建武政府に当然反対ですよね。
天皇親政のもとで幕府が開けるはずが無い。
>>316 だから後醍醐の野望に自分の野望を乗っけたんだろ。
最初から尊氏が鎌倉打倒して新しい幕府をつくるなんて言っても
協力するわけないじゃないか。
318 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 19:31:59
要するに尊氏は後醍醐と協力して鎌倉幕府を倒した後、
天皇親政を押し進める後醍醐と新しい幕府を作ろうとする
尊氏が対立した。そこまではOK?
319 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 19:59:29
尊氏は朝廷に政治を執る気はないと思ってたんだろうな。
だから、鎌倉幕府さえ倒せば、あっさり後醍醐天皇のもとで
足利幕府を開けると思っていた。
ところが、後醍醐天皇が自分で政治を執るなんて言い出した。
これは予想外だと離反した、そんなところだろう。
320 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 20:39:08
>>319 >尊氏は朝廷に政治を執る気はない
それは絶対ないと思う。
後醍醐は鎌倉末期に親政を始めてるが、政治に
異常なくらい熱心だったから。
321 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 20:45:33
>>320 >後醍醐は鎌倉末期に親政を始めてる
いつ?
後醍醐天皇は即位以来、長らく鎌倉幕府との併用の中で
政治を行ってきた。
治世10年で鎌倉幕府から両統迭立により
持明院統に譲位を迫られ、それによって挙兵している。
尊氏は、後醍醐の治世さえ認めれば、
幕府との併用は可能と見ていたと思われる。
後醍醐天皇は建武の新政を始めるまで
武家を支配下に置いた政治は行っておらず、
尊氏がそれを見越していたとは言い難い。
322 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 21:15:06
正中の変は?
日本全国を支配する幕府でなくて鎌倉府みたいな政権を狙っていたんじゃないかな。尊氏。
324 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 22:02:11
>>321 結局は尊氏と後醍醐は戦う運命にあったわけだ
赤坂城趾って今どんな感じですか??
後醍醐や尊氏と同じ土俵じゃない低い身分の出で
あそこまで張り合えたのも正成の魅力だからねえ。
ぜんぜん張り合ってなどいないよ。
相手にもされていない。
かまってもらったと言えるのは新田の方だろ。
328 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:38:13
かまうも、かまわないも、戦だから尊氏は相手にせざるを得ないだろ。w
家柄が低い連中とは戦はしませんとか出来るのか?
会津の松平容保と楠木正成はよく似てる。
似てないよ。
一緒にしちゃいかん!
楠公に対して非礼だよ。
331 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 03:17:44
無類の戦略眼で先の見通しはわかっていたし、足利や赤松とのコネもあった。それでもあえて後醍醐への忠義に殉じたというのが正成のイメージ。ただ忠義に殉じたというだけなら珍しくもなかろう。
大楠公は七生報国の言葉を残しているが、容保公は大楠公の生まれ変わりかもしれん。
松平容保「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ。」
弟と二人きりで小屋にこもったのにその時の言葉が伝わってる不思議さよ
挙兵以来、日和ってない。
それが楠木正成。
337 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 20:20:57.16
自分を滅ぼした人間を、再び生まれ変わって滅ぼしたいと思うのは人情だろ
別に不思議なことは無い
「言った」「言わなかった」を論ずるのは意味が無い。
339 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:07:59.30
>>332 楠公の信奉者たちが湊川を再現して自滅したのが大東亜戦争。
340 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:11:21.64
>>339 大東亜戦争が始まった原因はだなあ。
日本の中国侵略に対し米国がハルノートを・・・
341 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:15:43.89
列強はどこも同じだからな
342 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 22:47:40.88
>>339 >楠公の信奉者たちが湊川を再現して自滅したのが大東亜戦争。
いくらなんでも歴史知らなすぎ。
今の学校は太平洋戦争勃発の原因さえ教えないのかよ
343 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:24:45.14
ゆとりの影響だな
特攻隊のことでしょう。
あれは白虎隊がモデルだった
まあ白虎隊でしょうな。
楠木正成は忠義のために自分の命を捨てた。
大東亜戦争の司令官は、自分は安全な司令部にいて、下っ端に決死戦を押しつけ
自らは何ら犠牲も支払わず、戦後も何食わぬ顔でのうのうと生き残ったというクズども。
このへんも会津の松平容保とよく似てる。
347 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 09:46:23.22
楠木は武家政権(足利)よりも建武政権の方が自分たち新興武士層の利益を守ってくれると思ったまでのことだろ
後に高師直なんかは新興武士層を取り込んで勢力を拡大することになるけどね(で旧来の足利一門や公家・寺社の利益を代表する直義と対立すると)
348 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 12:10:21.86
>>347 でも、建武政権でも鎌倉以来の大大名が登用されている
唱歌『櫻井の訣別』ってなんで創価の学会歌になってんの?
そういや創価系雑誌の電車中吊り広告でも
楠公が何たらかんたらって見出しが書いてあるのを見かけるな
thx
なんだそんな理由か。
あそこはそれ以外の理由はない。
全てはあの人中心だからなw
354 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 23:24:49.45
池田大作君は尊王なのか?
単なる英雄好き
何時の時代にも己を過去の偉人と比したがる奴がいる
ナポレオンも大好きだしね
楠木正成もナポレオンも創価学会員ですよ。
359 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 20:32:25.95
馬鹿馬鹿しい
形は足利尊氏でも、心が楠木正成なら・・・
禁門の変で京都に乱入した、真木和泉の名言。
過大評価も過小評価もせず等身大の楠木正成を語りましょう
362 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:16:45.58
特殊部隊隊長に前線部隊任す
363 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:11:07.99
元弘の乱による恩賞を反古にされるのが嫌だったから足利でなく後醍醐についただけ
364 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:21:41.15
「悪党」と呼ばれ武家政権から締め出されていた土豪の楠木を
朝廷の正規軍として認めてくれた後醍醐の恩に報いたかっただけだと思うがな。
室町幕府で幕府を支える地位につけたのは足利一門の源氏だけで
尊氏は「どこの馬の骨か分からん」武士は取り入れなかったから。
>>363 いや、護良親王が失脚した時にその与党して一緒に失脚している
足利の圧力で失脚したの?
護良親王が失脚したのは足利の圧力だから、
正成の失脚も間接的には足利の圧力ということになる。
正成が足利に敵意を持ったのはそういう理由からだ。
368 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:39:44.18
楠木正成が「尊王」か「尊王ではなかった」かという不毛な議論は止めよう。
「正成を英雄視するのは間違った皇国史観だ」という人がいるが「皇国史観」
にだわりすぎだろ。
21世紀になっても「正成は尊王ではない」と必死になって主張している歴史家がいるが
「だから、それがどうしたの?」と言う感じだね。
369 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:41:48.28
>>368 三行目間違えた。
にだわりすぎだろ。→にこだわりすぎだろう。
370 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 11:39:38.25
コミック『朝霧の巫女』第七巻に楠木正成でてるよ。
なかなかいい感じ。
371 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 16:26:27.97
なんで最後は負ける戦をしたのか?
元弘の変のような戦い方をすればよかったのに
372 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 21:15:28.14
北朝軍はゲリラ陣地素通りして後醍醐攻めるだけ
進軍妨害できるの六甲位しかない
373 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 08:31:44.17
後醍醐は吉野へ行けばいい
ゴダイゴはミッキー吉野
375 :
日本@名無史さん:2011/03/24(木) 19:52:45.29
後醍醐天皇を井沢元彦氏は
高く評価していなかったようだが
実際はどうだったかな。
戦術、戦略は、確かにイマイチかもしれないが
政治家としては?
楠木正成自身も戦力化であり 悪党出身者で 一旦はゴダイゴも
京をはなれ 尊氏ととなえた しかし公家達は反対した 正成
の方は戦術かである なぜ彼らは正成の意見にしたがわなかったか。
残念というしかない 正成も尊氏の方を評価し義貞のヤリカタ
では負ける と言ってる だがシュウヨウとして湊川でしんだ、 祈り
後醍醐は鬼神
後醍醐は悪魔の化身
後醍醐は信長に似て、日本人離れした行動力と強靭な精神力を持つ。
性格異常者と言っても良いくらい。
379 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 13:09:55.62
北朝貴族は後醍醐死後は崇徳ばりの邪神 になると震えただろうな
380 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 13:14:43.70
しかし北朝は後醍醐や南朝の天皇たちを神社に祀ってないのな
普通怨霊になるとか言って祀らないか?
なぜか武士の足利尊氏が後醍醐の怨霊に怯えて天龍寺を建ててる
381 :
日本@名無史さん:2011/03/25(金) 14:41:24.48
383 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 07:18:42.72
楠木が京都を放棄してゲリラ戦を展開する軍略を献策したのに坊門清忠が反対して採用されなかった話だろ
太平記とかに書いてあるよ
大楠公が江戸時代に顕彰されたのは徳川が新田の子孫を僭称して
南朝がクローズアップされたからか?
385 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 20:07:05.93
徳川光圀は自分を新田の子孫だと思ってたから、新田義貞は言うに及ばずという感じで大楠公を持ち上げたんだろな
386 :
日本@名無史さん:2011/03/30(水) 22:28:09.07
日本人の琴線に触れるところがあったんだろ。
今の日本人には理解できないが
理解出来ないのか...。
388 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 01:01:04.82
>日本人の琴線
水戸黄門は明からの亡命儒学者・朱舜水に楠木正成こそ日本史上最大の忠臣と教えられたという事実
日本で最初にラーメンの作り方も
向こうの人って義士とか烈士とか好きだもんな。
日本にも判官贔屓などと言った言葉が...。
忠臣蔵とかもね。
史書も誇張表現が多々あるから大陸の影響受けてる。
392 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 17:37:37.51
太平記より平家物語の方が好き
太平記はこってりと濃すぎて
393 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 22:19:27.94
太平記は後醍醐・尊氏を筆頭に正義・論理って何それ美味しいの?
だからな。
394 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 22:37:37.65
日本人のヒーローだろ?
395 :
日本@名無史さん:2011/03/31(木) 23:08:55.26
楠木正成は義を重んじる武士。
日本人には珍しいタイプだな。
だから日本人は憧れるのだろう。。。
396 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 09:46:51.49
坊門清忠
「使えぬ田舎武士めが」
397 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 21:26:18.83
名もない田舎武士だからこそ日本人の心を打つんだよ
398 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 06:52:34.56
>>396 楠木の献策を容れてゲリラ戦に持ち込み、奥州から北畠の援軍でも待っとけば、足利潰せたかもしれんのにな
400 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 16:14:48.57
楠木正成は負けて死んだから人気があるんだよ。
正成が足利を打ち破り後醍後の側近として栄達してたら
ヒーローになれなかった。
401 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 16:48:57.37
判官贔屓ですね
>>400 勝っても側近として栄達は出来なかったんじゃない?
正成は護良近習だよ。
護良と一緒に失脚している。
404 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 17:29:50.64
楠木正成は、勝利しても稀代の戦略家として
人気をはくしたでしょうね。
405 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 17:45:58.88
>>404 せいぜい黒田官兵衛か竹中半兵衛程度の人気だろうね
406 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 23:26:25.65
>>405 天皇に仕えているから、この二人より人気は上になるだろう。
407 :
日本@名無史さん:2011/04/02(土) 23:34:16.55
護良の捕縛は正成の留守中だったし、護良失脚とともに正成は中央の役職を解任されている。
大楠公が好きすぎてウンコ投げつけられたいです
410 :
日本@名無史さん:2011/04/07(木) 17:52:06.98
>>408 >護良失脚とともに正成は中央の役職を解任されてい
ソースは?
太平記
推測だよ
護良失脚とともに、正成の動向がぷっつり途絶え、北畠顕家上洛時に再び現れる。
ところが足利軍を海に追い落とす段になると新田に非協力的態度を取り、尊氏が落ち延びた。
その後も消息が途絶え、次に出るのが湊川。
413 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 20:08:35.58
正成が護良の与党だったという話しを良く聞くが
確実な史料はないの?
確実な史料は無い。
そもそも正成の確実な史料自体がほとんど無い。
正成の行動をみると、護良と強く連携していたとしか思えない行動をとっているから、湯浅党と対立して悪党となっていた正成をスカウトしたのも護良だろうと言われている。
415 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 18:52:26.35
文観が楠木正成と後醍醐を結びつけたと聞いたことがあるが・・・。
416 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 18:00:38.08
>>414 正成が護良親王の与党だったのならば、護良親王失脚→殺害後も
後醍醐天皇につき従っていたのが不明。
しかも新田を切って護良親王殺害に手を染めた足利尊氏・直義親子を
後醍醐天皇の陣に迎えろと進言している。
中央の官職を辞したならばその時点で戦線離脱するんじゃない?
417 :
416:2011/04/12(火) 18:01:33.69
足利尊氏・直義親子→足利尊氏・直義兄弟
418 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 19:26:59.06
419 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 22:24:41.93
当時の人間はそんなコマイことにはこだわっていない。
幕府の役人たちは建武政権の実務官僚として大量に雇用されている。
護良と後醍醐は単純に対立していたわけではない。巨大化する尊氏の勢力拡大には共闘している。
護良の尊氏暗殺計画の裏には後醍醐がいたのは確実だからね。
護良は責任を押し付けられて詰め腹を切らされただけ。
420 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 00:00:05.83
>護良の尊氏暗殺計画の裏には後醍醐がいたのは確実
ソースは?
421 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 01:15:15.65
寵愛してた阿野廉子が足利と結託して護良を逮捕させたんだろ
後醍醐が護良と新田と楠木、名和に尊氏暗殺を命じ、計画が露見して尊氏が後醍醐に直談判したと書いてある
424 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 10:22:40.34
>>422>>423 足利尊氏側から書かれた「梅松論」をすべて史実とするには無理がある。
(後醍醐天皇がかなり悪役。相当酷い政治をした上、
何の罪もない尊氏を一方的に攻めるという大罪を犯したために、
尊氏はやむなく正当防衛として愚かな後醍醐を追い、
誰からも大歓迎されて室町幕府を創建したとしているから)
太平記側から読めば、もともと後醍醐と護良親王の間には確執があった。
後醍醐は護良親王に僧侶として建武の新政を支えるべく何度も法体に戻るよう指示したが、
護良親王はこれを拒み、征夷大将軍を要求した。
阿野簾子との間に設けた恒良親王に皇統を譲ることを熱望していた後醍醐は、
恒良親王の異母兄が征夷大将軍となって幕府創設を可能にすることを危惧した。
すなわち、恒良親王によって武家と朝廷を統一することをもくろんでいた後醍醐は、
これを不可能にする可能性がある護良親王の処置に困り、足利尊氏に処理を頼んだ。
>>424 ふ〜ん。「梅松論」は全く信用出来ないから無視するが、「太平記」だけは真実が書かれていると?
426 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 18:15:31.90
松梅論を鵜呑みにしてるバカがいると聞いて飛んできました
427 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 18:53:37.31
太平記も足利直義の検閲が入っているから、足利の悪口ばかりが書かれてあるわけではない。
つまり、どちらも話半分でってことか?
429 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 20:03:32.86
歴史書なんて書いた人間の主観が働くのはしかたないだろう。
朝廷が編纂したものは朝廷に都合よく書く。
幕府が編纂したものは幕府に都合良く書く。
左翼・右翼が書いた歴史書はそれぞれのイデオロギーにとって都合よく書く。
だから、我々はそれらの歴史書の記述から客観的事実を見つけねばならない。
430 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 20:06:04.82
>>425 当時の公家の日記に護良親王が兵を集めているが後醍醐天皇を討つつもりらしい
という噂が都を駆け巡ったことが見えている
後醍醐天皇はこれを恐れて護良親王捕縛に動き出した
他の史料と付き合わせてもこの時期に後醍醐天皇が足利尊氏を討とうとしている
根拠が見当たらない
え?
そんな話聞いた事ないな。ソースキボンヌ。
歴史学界では後醍醐が護良に責任をなすりつけた切り捨てた説が殆ど。というか、俺はまともな学者の本でそれ以外の説聞いたことないな。
432 :
日本@名無史さん:2011/04/13(水) 22:34:04.58
「まともな学者」って誰?
433 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 17:49:29.78
倒幕のときに正成と護良が連携していたという記録ある?
434 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 18:29:34.60
>>431 そんなこと言ってる学者を見たことがない
それこそ「梅松論」こそ史実だと言ってる君だけだろ
学者の名前と本の提示をキボンヌ
435 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 18:58:04.58
>>431 梅松論の不可解なところはなぜ後醍醐が護良親王に命じて
足利尊氏を殺そうとしたのかの理由が一切書かれていないこと。
足利直義が関東に行ったら大人気だったので嫉妬したというが
それなら直義を殺すか都に償還すればよいのに当の直義には全く無関心。
結局、「先に尊氏を攻めたのは後醍醐だ」として足利尊氏を正当化するための作り話。
実際に後醍醐は中先代の乱を鎮めるために足利尊氏を関東に向かわせるまで
尊氏を信任しており、殺そうとしていた形跡がない。
436 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 19:06:50.09
後醍醐天皇が建武の新政の最初から尊氏暗殺を志していたのならば、
中先代の乱後護良親王が殺されたことを知ったので足利と敵対したという
通説も違ってきてしまう。
そもそも後醍醐と足利の対立は中先代の前からだということになるからだ。
尊氏は暗殺未遂を犯されても京でのほほんとしていたことになる。
後醍醐と尊氏の対立が決定的だったのならば中先代の乱を鎮めに
尊氏を東国にやることも、尊氏がこの指示に従うこともはず。
それこそ、尊氏が北条につくことだってあったわけだから。
437 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 21:10:24.36
「太平記」マンセー論者かよw
考えが浅すぎるよ。
護良が後醍醐を殺して何の特があるんだ?
逆賊の汚名を着せられるだけだ。皇太子どころか皇位継承有資格者ですら無い。
全くメリットがないんだよ。
護良の権威の源は「後醍醐員の息子」の一点のみ。自分の権威の源を消してどうするんだよ?
護良が目指していたのは「宮将軍」。尊氏は不倶戴天の敵だが、後醍醐は敵ではなく、克服すべき権力。
太平記なんて矛盾だらけの「物語」。史実に潤色した、平家物語と同レベルのもので、根拠もなく盲信するのはどうなんだろうな。
438 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 22:31:51.39
国史大辞典「護良親王」より
令旨を発して勤王武士の奮起を促し、楠木正成と相ならび官軍勝利の
さきがけをなした。やがて還俗して護良親王と改名した。建武新政が
始まると、帰京し、兵部卿に任じ、その声望は高く、特に将軍として
兵権の中枢を掌握する観があった。そこでひそかに武家政治の再興を
志す足利氏らによる讒のために勅勘を蒙り、関東に下され、足利直義
のもとに幽閉された。
439 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 23:06:59.13
森茂暁『皇子たちの南北朝』
「護良の直接的原因である。このことについて、護良に同情的な『太平記』は、(中略)
一方、『保暦間記』はもっと明確な護良による陰謀説を主張し、(中略)ここまで来ればもう現実離れしているとおもわれる。
護良の失脚のきっかけについて、もっとも説得力を持つのは、以下に述べる『梅松論』の説くところである。」
440 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 23:10:39.02
陰謀が露見すると、腹心たちを切り捨てて、「知らぬ存ぜぬ」で責任逃れをするのは後醍醐の常套手段。
441 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 00:04:41.89
日本の時代史10南北朝の動乱
後醍醐は尊氏追討を言い募る護良を征夷大将軍に任じることで慰留
したが、護良の専恣なふるまいと「宮令旨」がみずからの綸旨と
矛盾競合することを放置できず、翌年10月には謀反のかどで護良
を捕縛し、十一月には足利直義の押さえる鎌倉へ流した。(村井章介)
後醍醐にとって邪魔なのは武家政権を目指す尊氏と武家の棟梁を狙う護良。
尊氏自身は後醍醐を嫌っていないのがミソ。後醍醐は硬軟両刀で手懐けを計ったが失敗。
護良を使って強硬策に出て失敗。斬り捨てて、義貞を対抗馬として育成し始めた。
443 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 01:20:59.49
>後醍醐は硬軟両刀で手懐けを計ったが失敗。
?
足利は後醍醐を嫌っていないのなら、後醍醐は尊氏をてなづけるのに
成功したんじゃないの?
尊氏の周りには武家政権を望む武士が集まっている。
建武政権にとっては危険分子だ。
445 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 03:13:49.79
じゃあ、尊氏を殺したら、武士たちは義貞に集まるのかな?
正成はそう言ったな
447 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 11:47:32.23
>444
じゃあ、なぜ足利直義を関東へやったの?
後醍醐はご丁寧に寵妃阿野簾子の皇子を直義に託して一緒に関東へ送っている。
尊氏を殺せば当然直義も後醍醐に反旗を翻し、後醍醐が一番大事にしている
阿野簾子の皇子が足利にまず殺害される可能性は当然にあったのに。
448 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 17:20:41.07
新田の鎌倉退去以降、関東では足利氏による実効支配が着々と進んでいた。
関東の武士と足利氏の間に打ち込む楔として成良に白羽の矢が立ったわけだが、同母弟の義良も奥州の支配者として下向している。
当時の後醍醐の脳裏には、輝ける未来はあったが、絶望的未来など微塵のかけらも存在しない。
後醍醐の頭には、最悪でも、形式上ではあっても宮将軍のように関東武士の主君となる成良、北条氏のように実権は握っても傅く足利氏という図式しか無かったはずだ。
また、成良を委ねるのは飴と言えるね。
449 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 21:43:03.09
>>448 足利直義を関東へやったのは後醍醐の意志。
それほどに関東と足利の癒着が心配なら、足利をやるはずがない。
しかも、中先代の乱の鎮圧のために兄の尊氏まで向かわせている。
一連の行動が矛盾しすぎ。
>>449 じゃあ、後醍醐の意向に反対して誰かが無理やり決めたとでもいうのかよ
451 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 20:05:58.23
後醍醐はり護良を危険だと思っていた
護良の次は尊氏が危険になった。
一難去ってまた一難・・・
護良なんて、命奪うほどの危険性はないよ。
六波羅の軍勢から逃げ回る事しか出来なかった護良と一夜にして六波羅を壊滅させた尊氏のどちらが危険かと聞かれれば、言うまでもなかろう。
453 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 22:16:47.37
読みが浅い
尊氏は皇位につけないが護良なら可能
454 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 22:17:37.80
>>450 後醍醐は建武の新政初期、足利を危険視していなかったから
直義を関東にやったんだろう?
後醍醐の意志に反して直義や尊氏が関東へ勝手に下ったとでも?
455 :
日本@名無史さん:2011/04/18(月) 23:48:24.22
>>453 あんたのほうが浅すぎるよ。皇族が全員皇位継承権を持つとでも思っているのか?護良なんて産まれた時点でも完全に蚊帳の外だよ。
何で出家させられたのか考えたこと無いのか?
後醍醐自身が傍系でただの代打だったのに、さらにその庶子の護良なんて全く無理。義仲が担いだ北陸の宮並みに冷笑されるだけ。
しつこいようだが、護良の唯一すがることができたのは「後醍醐の息子」という肩書きだけなんだよ。
護良が望んだのは征夷大将軍。だから尊氏と対立したんだよ。
>>454 だからさ、敵視していないなら直義だけやるだろ。なんでわざわざ成良を付けたと思ってんだよ。
足利の関東支配に釘をさすためだろうが。直義だけがひょっこり来れば、関東の武士は新たな関東の支配者は足利だと思うだろう。形式上の存在とはいえ、成良が来ることで、関東の支配者は成良で、足利はそれの補佐役に過ぎなくなるんだよ。
足利を「頼朝」にせずに「北条氏」にするための策が成良を付けることなんだよ。
456 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 00:11:25.96
だから読みが浅いんだよ。
「皇位継承権」なんか意味無いのは天皇家の歴史を見ればわかるだろ。
その時々の諸条件でどんどん変わっていく。
457 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 00:37:31.02
やれやれ。本気で言ってるの?
くどいようだけど、護良は後醍醐がいなくなると存在価値自体が皆無なんだよ?
護良のもとに集まってる輩なんて取るに足らないのしかいないんだよ。
たとえ、護良が後醍醐殺しても、数日内に殺されてしまうぞ。たちまち後醍醐取り巻き、尊氏、持明院統に袋叩きにされるのは明白だろ。
なんのためにそんな意味が無い事するんだよ。
458 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:05:34.19
>護良は後醍醐がいなくなると存在価値自体が皆無
後醍醐が隠岐配流中でも護良が倒幕運動を押し進めていた件。
459 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:13:49.61
後醍醐が存命であったから、後醍醐の代理人として令旨を乱発したんだよ。
護良の令旨は後醍醐の意志を代行していると見られていたからだよ。だから後醍醐は、後に護良の令旨を無効としたんだよ。
後醍醐死んでいたら、護良の令旨なんて何の効力もないただの紙屑。
もっと物事を深く読もうな。ペラッペラのその場しのぎ浅知恵で考えるな。
460 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:14:09.04
>>455 >足利を「頼朝」にせずに「北条氏」にするための策
新しい北条氏にする?
じゃあ、何のため北条氏を滅ぼしたん?
461 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:14:10.84
明日も仕事だからもう寝るな。
462 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:17:10.84
>>459 >護良の令旨は後醍醐の意志を代行していると見られていたからだよ。
>だから後醍醐は、後に護良の令旨を無効としたんだよ。
はあ〜?
後醍後の意思を代行してるんだったら無効にする必要ないじゃん w
463 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:26:09.24
>>460 小中学生の喧嘩じゃないんだから、「尊氏くん嫌いだから絶対口聞かない」「尊治くんいじわるだからもう遊ばない」というペラッペラの単純明快に物事を一色で染められるわけ無いだろう。
後醍醐も尊氏も大人なんだからさ、君みたいに表面だけの薄っぺらな事象だけ見ているわけではない。
お互いに先の先を読みながら、硬軟両策と妥協の産物が成良と直義をセットで関東に下すという決定なんだよ。
後醍醐からすれば、尊氏の暴走を防止するブレーキを付けられた。
尊氏からすれば、後醍醐から豪華な首輪をつけられながらも実質上の支配権を得た。
ということで妥協しあって、お互いにその次の手を練っていたんだよ。
もうほんとに寝るからな。
464 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:30:46.90
>>462 お前本当に馬鹿じゃないか?
後醍醐と護良は倒幕という大筋では合致していたが、細かい相違点があったんだよ。
今じゃないんだから、携帯で後醍醐と護良が連絡取ってるわけ無いだろ。
特に、勝手に護良が武士に恩賞を約束していたのが後醍醐としては許せなかったし、それを間にうけた武士が恩賞を求めて殺到してきたから無効にしたんだよ。
本当にオレ、あした会議あるんだからよ、いい加減にしてくれよ。
465 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 01:42:27.12
>>464 >後醍醐としては許せなかった
だろ?
やっぱ後醍醐は護良が許せなかったんじゃないか www
>>465 幸せそうな単細胞だな。
後醍醐は護良の令旨を無効としながらも、護良が僭称していた征夷大将軍に補任して、尊氏を牽制している。
世の中は、お前さんが思っているような薄っぺらで単純明快なものでは無いんだよ。
社会人になればわかると思うが。
おやすみ、坊や。夜更かしすると授業中に居眠りして先生に怒られるぞ。
久しぶりにいい流れだ
結果的に面白いQ&Aになっている
>護良の令旨は後醍醐の意志を代行していると見られていたからだよ。
>だから後醍醐は、後に護良の令旨を無効としたんだよ。
鎌倉幕府を倒幕した後の恩賞の分配で、護良の令旨を持った人や後醍醐の令旨
を持った人が恩賞のを受けようとしたが、令旨で貰える領地が被ったり、功の
無い人間が恩賞を受けて、功ある人がもらえなかったりと、大混乱になった。
だから混乱を収める一環として護良の令旨を無効にしただけです。結局、混乱
は収まるどころか、ますます混乱した。所詮、後醍醐は日本を収める器量は無
かったということ。恩賞の配分は部下に任せきりで、その部下もまとめられずに
次々と辞退してたようだしね。
武家社会全盛のせいか、お互いのエゴというか武家の誇りが顕著。自分
が倒幕に一番貢献したという見栄と、武家の棟梁になりたいという意識が
護良・尊氏・義貞の間にあったんじゃないの?
470 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 09:26:24.81
>>466 後醍醐は幕府を否定し、朝廷による政治を目指していた。
護良親王の征夷大将軍は幕府の可能性を認めるもので、けして大歓迎で任じたものではないんだが?
太平記や公家の日記を読めば、後醍醐と護良親王の間のそごが分かるよ。
政治の中心であるべき後醍醐皇太子の異母兄が征夷大将軍であることの危険性とかね。
令旨じゃなく綸旨だな。結局、失脚したのも反尊氏の為に集めた武士の狼藉と、尊
氏を倒す為の武士を集めようとした行動を、反後醍醐の行動だという濡れ衣を着せ
られたためだしな。身柄が足利に預けられたのを見ると、尊氏・直義の陰謀だろう
な。
後醍醐天皇が福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。
臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡
として有名です。また神戸の港の歴史におい
ても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、
起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃
寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲
庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕
にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福
厳寺に合併されています。
473 :
忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/04/27(水) 12:24:37.01
株
474 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 01:43:59.66
>>471 >反後醍醐の行動だという濡れ衣を着せられたためだしな。
>身柄が足利に預けられたのを見ると、尊氏・直義の陰謀だろうな。
こんな低レベルの陰謀に引っかかるなんて、後醍醐はよほど頭の悪い人だったんでつね w
あとから
結果がわかっている後世から見れば、歴史上の出来事はみんな「バカなこと」。
477 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 09:52:34.35
>>474 後から後村上天皇に服属した尊氏・直義も馬鹿だけどねw
478 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 17:52:09.83
>歴史上の出来事はみんな「バカなこと」
昨日のお前もバカだったん?
479 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 17:58:16.40
いつの日もバカですが?
>>478 未来を見通せる超人のあなた様から見たらただの馬鹿ですよ。
481 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 18:42:26.20
歴史を知ると未来が見える
バカには無理だけど
ああ忠臣楠公
483 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 23:39:39.44
忠臣蔵
正成は素晴らしい武将だけど、下につく人間を間違えた。
後醍醐は日本の頭領になれるほどの器ではなかったし、時代も武家社会へと
流れていた。
>>484 主君が優れているかどうかは、正成には問題ではなく
誰が、正等の日本の元首かが問題で、それに使えるのが義と
考えたのではないだろうか。
>485 正等→正統 使える→仕える
判官贔屓と言われながらも贔屓されてない。
いや、寧ろ嫌われてる道誉。
488 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 17:06:48.98
尊氏の人気の無さは異常、、、
489 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 18:54:04.13
義貞の存在感の無さは異常
490 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 18:56:28.65
義貞は存在感あるよ
鎌倉を攻略したんだから
491 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 20:14:07.23
正成は忠臣なんだろうか?
後世、そう創作されただけで、本人は思うがまま生きただけだろ。
忠臣じゃないの?なんで思うがまま生きたと思うの?
494 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:03:26.24
だから思うがまま忠臣として生きたんだろ
>>493 湊川でも勝つ気まんまんだった気がする。
その頃には空気読めない子になってたと思う。
まだいたの?って感じじゃね。
496 :
日本@名無史さん:2011/04/30(土) 21:36:50.85
497 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 00:19:25.65
坊門さえいなけれぱ
変わらんな
498 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 00:51:12.28
日本人は悲劇が好きなんよ
だから、喜劇でも悲劇にしてしまうんよ
実際、合理的に考えれば正成の行動は喜劇だ罠
499 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 01:02:08.21
天皇が配流中に親王が新政権樹立したら
その親王が帝位についてもおかしくないわなあ。
護良の話し?
>>495 勝てる戦じゃなかったろ。お前こそ空気読めない子だよ。
>>501 勝てるいくさじゃなかったかどうかは当時は解らない。
あとから、物語としてそう創作されただけ。
桜井の別れと同じだよ。
悲劇のヒーローとして創作されたんだよ。
>悲劇のヒーローとして創作
創作じゃなくて正成自身が悲劇のヒーローを演じてるんじゃね?
人間って悲劇のヒーローを演じる場合あるじゃんか。
ハタで見てると「臭い芝居すんなよ」と思っちゃうけど。
>人間って悲劇のヒーローを演じる場合あるじゃんか。
あんたにはあるだろうが、他の人にはほとんどない。命がかかっている戦で
そんな演技を演じる暇があるかよ。
>勝てるいくさじゃなかったかどうかは当時は解らない。
>あとから、物語としてそう創作されただけ。
ホントに何も知らないくせに難癖付けに来てるだけなんだな。中学レベルの
歴史も知らないなんて、話にもならない。
507 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 16:36:05.00
武士にとっては戦場が晴れ舞台やで
演技しなくてどうするん
諫言したけど用いられなかったし、今更、節を曲げるわけにはいかんし、
負けるだろうなと解っていても、やむにやまれぬナントカ魂ってヤツだろ。
>>506 小説は史実じゃないぞ。
太平記は、あくまで軍記物語な。
>>508 おまけに湊川の戦いの直前に、尊氏との和睦を進めて謹慎をされてい
る。義貞の援軍に来たら早々に京都に逃げるし、哀れだなと思う。ナントカ
魂とやらが解るけど、哀れでならない。
物語だが史実も含んでいる
太平記は史学に益なし
明治時代かよ
太平記に蓮華寺の陸波羅南北過去帳が載ってるけど
原本失われていたら貴重な史料ということになる
小説を史実と思ってる痛い子がいますね。
梅松論は史実?
歴史に事実なんか存在しない。
歴史とは歴史学者が書いた物語なんだから。
太平記と変わらない。
自分の妄想に同意者がおらず、逆に否定されると荒らし始めて・・・子供
かよ。太平記が事実に脚色されている部分があるなんて、誰でも知っている
ことだ。それを前提にやってるのに、いちいちアホか。
>>518 だよな。
現代の歴史学者が書いた歴史書だって結構デタラメだよなあ。
琵琶法師が語る源平合戦は史実かね?
史実も入ってはいるが創作された部分が大半と理解しながら聞くのが当然。
太平記も同じだよ。
522 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 18:35:51.12
>>521 今の大学教授と鎌倉時代の琵琶法師は同レベルだよ。
脳内妄想の物語を延々と喋りまくる
523 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:18:16.54
桜井の別れも史実だよな
歴史学者(中世史)が軍事史に首突っ込むと
軍記物以上のファンタジーに
525 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:55:47.16
南北朝統一後北朝に仕えた末裔はいなかったのか
北畠なんて反乱起こしても生き残れたのに
歴史学者の中には小説家が舌を巻くほどの創作論文を書く人いるからなあ
足利氏の検閲があったであろうし、だから新田義貞なんかはなんか冴えない
ところが多いのに、同じ後醍醐側の正成は評価が高い。
晒された首を家に送り届けるといった配慮まで受けているのは、足利氏の方
からも一目置かれていたのだろうか?
529 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 09:52:17.14
>>足利氏の検閲があったであろうし、だから新田義貞なんかはなんか冴えない
ところが多いのに
それでも太平記では、
>>270なレベルなんですが。
>>528 甘く見られていたからだよ。
新田が徹底的に弾圧されたのは、それだけ足利の脅威だったという事だ。
531 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 22:44:16.90
没落同族を馬鹿にしてたからじゃ
楠木は比較対象は赤松
北畠が生き残ったのは大河内流が幕府に忠実だったから
木造流なんて裏切りまくり
楠木も最後は北畠を頼って伊勢に落ち延びて、弱小国人に。
それすら信長に攻められて維持できずアボン。
最後の当主は本願寺に逃げて消息不明。
その嫡男はとらわれて秀吉になぶり殺しにされて断絶。
悲惨な末路だな。
事実に基づくフィクションです。
でいいだろ?
後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした
535 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 14:18:39.93
>>535 楠木の末裔の最後だよ。
知らんのか?
楠木オタとして失格だぞ。
538 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 00:01:26.14
足利は「新田は足利の催促で挙兵した」みたいなこと後醍醐に言ってるしな。
539 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 22:46:11.70
足利にはピリッとした奴がおらん
足利義教なんかピリッとしているだろ
541 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 01:43:47.70
足利直義はどうよ?
542 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 12:24:54.18
バカにしていた同級生の男と再会
娘に見られながら言うことを聞く
543 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:08:43.36
足利と新田の立場が逆なら
あるいは尊氏と直義の立場が逆であっても
ああまでグチャグチャの動乱にはならなかった
に違いない
544 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 22:30:54.46
まぁ尊氏が一番のクズ野郎だったことは間違いないな
545 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 23:48:40.62
実力行使の時代なんだろう
裁判なんかやってもラチがあかない。
546 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 16:37:21.23
惣領の甚六は足利尊氏をもとにして作られた言葉
547 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 21:59:20.34
楠木の子孫ならまだ続いているが
僭称ならね
男系子孫は断絶。
女系子孫は甲斐荘氏のみ。
550 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 15:27:43.66
女子系とはいえ子孫が残ったとは初耳。
>>550 勉強が足りん。
徳川幕府の大身旗本だぞ。
家康からも認められた女系子孫。
女系は子孫とは見なされない。
かいしょう
全部打っていないのに送信してしまった。
甲斐庄氏を正成の子孫と言っている香具師は、アイコを天皇にして万世一系の輝ける皇統を断絶させようと陰謀を巡らせているコミンテルンの手先の民主党員だけ。
>>553 男系子孫は断絶してるから仕方ないだろ。
明治政府が爵位を与える為、楠木家の子孫を探した事があった。
自称子孫からの名乗りは一杯あった。
が、調査したところ子孫と認めるにたる家はなかった。
>>554 家系図なんてでっち上げも多いしね。
源氏の子孫だの平家の子孫だの
誰誰天皇の子孫だの適等、
1000年も前だったら先祖の数もかなり多くなり
天皇の血筋が一人くらい交じっていてもおかしくはないけど。
556 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:56:59.00
正慶二年三月廿二日於招提寺記 沙門照遠
当此正慶二年閏二月一日大塔宮軍勢吉野給処、出羽入道相具数千騎勢発向、
彼山内之坊舎尽焼失、仍宮以下落散。其時取百二十人の首、懸吉野河辺。
其後、楠合戦既及六十日、未見勝負、其間死人不記数。
正慶2年閏2月1日護良親王が軍勢を率いて吉野に楯籠もった。それを二階堂道蘊が数千騎の軍勢で
攻め落とし、吉野は焼かれ、親王は落ちていった。そのとき討ち取った120人の首を吉野河の辺にかけた。
その後、赤坂城攻防戦は六十日に及んで続き、いまだに勝負を見ない。戦死者は数を知れないという・・・
当時の坊さんが写経の奥書に書いたもので合戦の状況を語る生々しい記録だね。
楠木正成の大活躍は太平記の創作で
実際は激しい戦闘など無く、幕府軍は
持久戦で遠巻きに城を包囲していただけ
という人がいるけど、実際激しい攻防戦
があったわけだな。
千程の小勢を万余の兵で囲んでおいて
何もしないなんて銭の無駄
手弁当の鎌倉の御家人がする筈ないのにな。
嗚呼忠臣大楠公
560 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 16:36:09.79
楠木正成が戦国時代に生まれたら
上杉謙信と並ぶ清廉な、そして優れた軍略家になったかもしれない。
みんな聞いてくれよ!俺の名前正成って言うんだぜ!楠木とマジ親近感覚えるわwwww
562 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 18:26:40.63
毛利時親の弟子だったって事実かな
毛利も南朝の忠臣だ
>>560 それはあり得んな。
楠木クラスの中小国人は大名に仕えないと生き残れなかった。
せいぜい竹中半兵衛や黒田官兵衛だろ。
雑魚武将の1人だろ。
565 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 18:59:57.83
>>562 当時の毛利は六波羅評定衆の家柄
楠木氏特宗被官説が事実なら六波羅での上司と部下だったんじゃないのか
566 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 22:32:27.46
鎌倉末期の駿河国の坊さんも楠木正成の活躍を書き残しているから
正成の大活躍は当時すでに世人の語り草になっていたようだ
太平記の作者の勝手な創作と言う事ではない
逆に言えば太平記の主要登場人物として描かれるくらいなんだから
当然それなりの活躍はしてたんだろう。
568 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 20:28:13.19
ゲリラとしたら大活躍だもん
それを前線の決戦に回したのが失敗
現代でいうとウサマビンラディンに相当する。
ゲリラとしては活躍したが、通常の合戦ではダメ。
湊川では兵も集まらず、見放されていた。
やはり司令部がショボかったというところに落ち着くわけだな
571 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 23:04:03.98
財力ないしあれは後醍醐レベルもラスボスやろ
ゲバラやカストロがゲリラ系だが二人とも富裕層だっけ
ん、
あの湊川前の正成の献策ってどうだったんだろう。あれを却下したせいで
坊門が腐敗貴族の象徴みたいになってるけど・・・。
坊門氏はその場にいた公家の気分を正直に言ったわけで
正に腐敗貴族の象徴的存在に違いない。
>>573 たいした献策じゃないから却下されただけだろ。
正成は過大評価されてるから、まるで起死回生の献策したように思ってる奴が多すぎ。
禿胴
どっちにしろ南朝の劣勢は止められないし、尊氏と後醍醐の政治路線はまとまらない
あの後醍醐をなんとかしないとダメだw
まあ三木一草のメンバーでは尊氏には勝てんわなあ。
所詮山岳ゲリラのプロに過ぎないし。でも尊氏が多々良ヶ浜で死んでいたら
建武の新政がずっと続いていた可能性は十分あると思う。義貞では一族や家臣団が
しょぼ過ぎて自分で独り立ちして独自の政権を作る事は無理だと思う。
579 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 17:47:31.73
後醍醐がトップじゃだめだろう
いやあ後醍醐もただものじゃないから何だかんだグダグダになりつつ
15年くらいは続いてたと思う。
多々良ヶ浜での神風は本当に尊氏にとって運が良かった。
尊氏が消えてたら後醍醐vs北畠が見られたのだろうかw
>>581 それはない。
所詮北畠は公家だし、武家を蔑視していたから。
斯波か新田か結城、北条だろ。
いずれにしろ尊氏よりかなり小粒で、武家政権を打ち立てても、室町幕府よりかなり弱体になったであろう。
583 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 00:36:08.74
南北朝時代の北条氏はどの程度の軍事力があったの?
所詮「北条氏の残党」程度の存在だったのかな
>>582 まあこの中なら新田かなあ。
義貞が討ち死しなかったら(あれは顕家や正成と違って事故的要素が強い)逆転の目はあったのか?
というかこの面子なら武家政権じゃなくて室町すっ飛ばして戦国時代になっただけな気がするわ。
そうすると信長登場まで250年近く戦乱の時代か。
あとスレ違いだとは思うんだけど一つ質問?吉良と斯波ってどっちが格上?
>>585 斯波。
鎌倉時代から、本宗家当主が幼少だったりすると、斯波が名代を務めていた。
>>583 まそうだろうな。中先代でも瞬殺されたし、その後尊氏が急いで
京に取って返してるのに時行がいきてるのに何の行動も起こせてない。
南北朝争乱期でも完全に南朝の配下の一武将になってるし
中先代の原因になった後醍醐天皇暗殺計画も京の公家がみんな無反応だった
しかし北条=自民 後醍醐天皇=民主だとしてどっかに尊氏はいないのかな
大楠公万歳!
591 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 08:00:21.86
なんとなく正成が金九と対談したらどうなるんだろう・・・と考えてみた
592 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 02:38:35.43
あまりにも忠臣ぶりが喧伝されてなんか白けて事績を過少評価してたけど
(太平記の合戦の記述など馬鹿ばかし過ぎる、話としては面白いが・・・)
改めて考えれば武将としての器量、政治センスは当時としては卓越した人物と思わざるを得ない
>>436 尊氏は中先代の乱を鎮めるために派遣されたのではない。
弟直義を救うために独断で東下したんだ。そして、帰京命令が出ると
従おうとしたが、直義が「せっかく虎口を逃れてきたのだから戻っては
いけない」と引き止めた。そこへ、護良親王殺害の報に接した後醍醐天皇は
尊氏追討令を出す。尊氏は出家して恭順しようとした。ところが、直義が
「例え尊氏が出家しても赦さず討伐せよ」という綸旨を偽造して尊氏に見せた
ので尊氏は「一族の浮沈はこの時にあり」と言って、髻を切った頭で
出陣したんだよ。
594 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 18:50:06.96
楠木正成公は湊川の戦いで是非もなしと自尽の砌、
日ごろ守護神仏と崇めたまいし八幡大菩薩(八幡大神)神像(石清水八幡宮に参詣記録があるのでこの時に御分与か?)と
主上より御下賜の菊一文字の太刀を、家臣の吉川弥六に託します。
吉川弥六ら一団は四面楚歌、重包囲の死地を夜陰に乗じて突破して、
苦労の末に舟を仕立てて対岸の淡路島へ渡り
託された御神像と太刀を小祠に納め祭り、隠棲。
後に一帯は楠木村(兵庫県淡路市楠本地区)と呼ばれる。
時勢沈静化を得て、御神体と菊一文字太刀を遷座し八幡宮を創建。(1399)
旗山八幡宮と号す。現、松帆神社。
(明石海峡を望む岩屋八幡宮にも同様な由緒が有ります。)
旧東浦町域(南部、釜口地区を除く/)と旧北淡町東部の総氏神。
祭礼は10月第一日曜日。
社宝は菊一文字(国指定重要美術品/旧国宝並み)。(祭礼日のみ公開)
南隣の西念寺(薬師如来)は元神宮寺。
京都〜湊川神社周辺は鬼門。
東西線は三輪山を中心とした「太陽の道」、対岸、大鳥大社〜三輪山〜斎宮蹟〜神島。
真南に伊勢久留麻神社。・・・この南北線は古代の畿内の西結界の模様。
・・・伊勢久留麻神社は元来、八幡宮の位置(三輪山の真西)に鎮座か?)
久留麻神社(久留神)は楠木一党には重代の氏神に当たる模様。
・・・美具久留御魂神社(富田林市鎮座の「最古の出雲大神を祀る式内名神大社」=出雲大社(713年ころ創建と日本書紀の紙片の片隅にゲロ)より遥かに古い)
は、楠木正成公らが深く信仰した一族の氏神の一つ(楠木正成公らは社殿の修築などを行っています)。
ここの御分霊(久留真神社/鈴鹿市白子鎮座(欽明天皇年間創建))の更にご分祠が伊勢久留麻神社(来馬明神)。
・・・敏達天皇14(585)年5月5日。勧請/創建。鎮座祭並びに鎮花祭/天然痘(行疫神)封じ、玉体平癒祈願祭。
by物部守屋大臣ほか
>>592 楠木の悲劇は戦だけでなく政治能力も伴っていたこと。
さりとて公家の中で発言権があるわけじゃないし、
従五位の下河内守じゃどうしようもない。
特に新田を評価しない人物評価眼は立派だ。
>>595 尊氏との妥協案なんて後醍醐天皇は端から飲む分けないでしょ
新田排除の献策=後醍醐押し込めと同義、梅松論の言いたいことは
楠木正成ですら後醍醐天皇を見放しつつあったという論調
正成は出来た人物だったから、大義に殉じたわけだけどさ
597 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 07:30:14.92
井沢元彦氏の逆説の日本史で述べられているところでは、
ダメな君主に忠義を尽くしたことに
楠木正成の人気の秘密があるらしい。
何を今更。
平成の世。
世代の断絶。
600 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 21:31:30.69
坊門清忠のバカヤロ
601 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 11:18:22.96
>>597 足利家は源氏3代滅亡後は源氏嫡流とも称した血統の良い武家の嫡流
楠木正成のような土豪が勢力を握るには出身を問わずにおそばに置く
後醍醐天皇のような主君の下以外ではありえなかったんだよ
考えてみれば天子さまが合戦で土豪の意見を聞くなんてまずありえないことだし
血統の良さを自負する足利尊氏は自分の側近は血族で固めて
土豪クラスの身分の低い武士など無視だしね
602 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 01:02:15.45
歴史教育の難しさ
・戦前は神様(日本人の鑑)
・戦後はその反動か脇役扱いでほとんど教えられない
江戸時代の芝居では義経と並んで国民的ヒーローなのだが・・・
ヒーローって言ったって、義経同様虚像が一人歩きしていたものだから
太平記ではヒーロー扱いだが…
実際は護良失脚で終わった人だから
ぶっちゃけ湊川の戦死に価値なんかないだろ。
重要な戦いはそのあとの比叡山が絡んだ京洛の合戦なんだし
南北朝時代の為政者や有力武将のことを詳しく調べ発表するのは
ためらいが有るのだろうか。
南朝か北朝のどちらかを良く言いどちらかを悪く言うのもためらわれるし、
北朝を悪者にしたら今の皇族を不当ということに繋がり、
南朝を悪者にしたら楠木正成らヒーローを貶めすことだから。
夢を夢のままにしておこうということなのかも。
唐突に何言ってんだろう?
中世日本のマスード
610 :
日本@名無史さん:2011/11/08(火) 15:38:46.64
あげ
611 :
日本@名無史さん:2011/11/08(火) 19:47:56.92
>>605 明治〜昭和生まれの研究者の中には
神格化された南朝武将たちを貶めることに対して抵抗があるかもね
大河で「太平記」をやるときも「あの時代は難しいのに」
とかいろいろ言われたもんだ
戦前までは足利尊氏は国賊扱いだったしな
612 :
通りすがりのHTT:2011/11/08(火) 20:01:40.68
歌にも有るよね、〜青葉茂れる桜井の花のわかみのゆうまぐれ
子のした影に駒止めて世のよ行く末をつくずくと慕う鎧の袖の柄に
散るは涙かはたつゆか〜ってね。
613 :
通りすがりのHTT:2011/11/08(火) 20:04:26.24
泣ける話だよ
614 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:26:51.40
>>609 無職だけど新聞紙で甲冑作って一人でチャンバラごっこしてる俺こそ本物の歴史ファン
>>612 櫻井の別れはフィクション。
正行、そのとき既に成人していて任官しているから。
617 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 14:17:49.50
なんで湊川みたいな中途半端なところで防衛してるの京防衛なら山崎だろ。
だいたい楠軍突出しすぎだと思う。
太平記の楠正成は武将というより軍師的な立位地だからな。
618 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 14:55:02.94
だから南朝方総大将新田義貞の失策とされてるんだろう
事実関係は分からんが
新田義貞は曲がりなりにも鎌倉幕府御家人出身の貴種
一方楠木などほぼ庶民に近い土豪
当時悪党と呼ばれた庶民不良集団の親玉みたいなもん
悪党が後醍醐天皇にあれこれ意見を申し上げることに対する
内部の反感もあったかもしれないし
悪党って不良集団なの?
620 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 16:41:26.56
若狭島津氏のような守護経験ある名門も悪党になってるかならな
621 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 17:37:00.53
>>619 朝廷にも幕府にも属していない私営武装集団は
現代風に言えば不良だろうな
622 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 20:00:56.84
楠木や新田が負けたのは武士達が後醍醐政権を支持してないから
武士達が天皇の専制政治なんか認めるわけが無い
>>617 京都防衛が目的じゃない。
楠木に出された命令は
「新田を手伝って足利を蹴散らしてこい」
ハナから無理難題。
624 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 20:12:17.35
>>621 朝廷にも幕府にも属さない武士団って沢山いたんじゃないの?
特に西国では。
>>622 南朝が負けたのは新田や楠木が馬鹿だからじゃない
後醍醐が馬鹿だから。
後醍醐は義貞・正成・親房・顕家などから面と向かって罵倒されてるものな。
臣下にこれほど痛罵されっぱなしの天皇も珍しい。
626 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 21:26:57.94
>>622 公家の殆どからも嫌われてた。
後醍醐個人を支持した当主クラスは近衛経忠くらい
627 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 10:12:58.95
>>625 後醍醐天皇って自分で戦の指揮してたか?
後醍醐天皇の敵は本来足利尊氏ではなく尊氏が頂点にかついだ光厳上皇だったのだが
光厳上皇は足利軍の総大将ではなく尊氏に戦は丸投げしてたよね。
後醍醐も新田義貞に丸投げしてたように見えるが。
そりゃ後醍醐がただのお神輿に納まってたならその比較も説得力があるんだが・・・
629 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:45:22.20
後醍醐本人は戦地で指揮したりしてないよね
せいぜいお飾りとして幼少の自分の皇子を尊氏や義貞に
預ける程度
>>627 指揮云々の問題じゃなく、後醍醐の実行した天皇専制政治に武士たちが反発した。
だから、後醍醐の味方になる武士が少なかった。
>>627 根本から間違ってる気がする。
後醍醐天皇の本来の敵は、足利を総大将とする不平武士。
光厳上皇はただ単に担がれただけの本当のお飾り。
632 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 12:14:11.42
楠正成の進言をすべて実行すれば建武の新政は続いた。
633 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 14:02:58.79
貴族官人武士僧侶全ての層に嫌われたからな
各家の相続争いがなきゃ尊氏存命中に滅亡してた
634 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 15:27:17.82
>>631 光厳上皇は自分の意思で尊氏陣営に逃げ込んでおり、はっきりと
「自分を擁立して後醍醐に対抗してくれ」と意思表示してるんだがな。
どっかでのほほんと暇な隠居生活していた上皇を
尊氏が勝手にどうかお飾り天皇になってください担ぎ上げたと思っているのならば
それこそ根本から間違っており勉強不足。
足利尊氏は朝敵だ
>>635 その朝敵に擁立された偽帝の子孫の明仁はエセ天皇
立花多門様、大内浅茅様
謹賀新年
南北朝時代は難しい
太平記のように、南朝方を美化して書けば、左翼から叩かれる
逆に、南朝方を少しでも悪く書けば、右翼から叩かれる
どう転んでも叩かれるので、誰もこの時代に触れなくなる
司馬遼太郎でさえこの時代は描かなかった
このままでは楠木正成が忘れられてしまう
今の子供たちは戦国武将や三国志の武将は知っていても南北朝時代の武将は全然知らない
この英傑を歴史に埋もれさせてはいけない
>>638 楠木は一番輝いていたのが護良と組んで悪党を束ねて天王寺で暴れていた頃だからな。
それでも六波羅を制圧できなかったのがな…。
守護職をもらったけど地元の武士を組織化できなかったから湊川でも兵力は少なかったし、
当時の有名な悪党達に多い荘園経営ブローカーは土地の収益には敏感でもその後の
守護大名のように住民を被官にして支配するというところまでいけなかったのが限界を露呈
して早々に退場することになったんだろう。
大河でまた太平記やってほしいけど、
今大河作ったら楠木がゲリラ戦でなく、たった一人で敵を無双するような展開になりそうで怖い。
忠盛無双見てそう思った。
643 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 00:02:08.52
とりあえず楠木正成は少数精鋭部隊の長としては有能だったけど、
大軍を率いたときは平凡ってことかな。
で、足利尊氏がその逆みたいな。
兵法家であっても将器も門閥も大将の器ではなかったのだろう
知識も教養もあったので悪党としては破格の出世をとげたのだろうが
それが邪魔して勝ち馬にのれなかったと思う
645 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 00:15:51.56
一匹狼(笑)
646 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 10:29:45.35
>>643 楠木が河内から連れてきた自兵は忠実に従ってくれただろうが
悪党出身の楠木では身分があまりに低く
建武の親政下の武将たちがついてこなかったのだろう
後醍醐に戦略を告げる参謀として用いられるなら有効だったろうけど
それも身分社会に生きる公家たちによって遮られた
太平記の楠木と後醍醐の夢の話のような特別な関係なんか全部虚構だから。
楠木は御内人配下の御家人出身で、有力者のために働いて成り上がった鎌倉末期の
典型的な悪党だよ。大河の素朴な土豪などではなく朝廷とつながり、官職を持つ
富裕な新興階層だよ。楠木をはじめとする新興階層を積極的に利用したのはこの連中に
土地を報酬にする令旨を乱発した護良であり、後醍醐はむしろ対立する立場だよ。
対足利で実質的な軍事指揮官を担ったのがよそ者の新田なのは後醍醐が赤松や楠木
のような畿内の武士たち(横領した土地の所有権の認定を求める悪党たち)を嫌っていたからだよ。
楠木正成の後世への影響ってのは、ほとんど伝説が媒体になってる
ようなもんだな。
水戸学の大日本史、頼山陽の日本外史、楠木伝説の江戸時代における
媒体者といえば、この二著だよね。
649 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 14:11:29.43
徳川の先祖(新田)は偉大だった。ついでに一緒に戦った楠木も偉かった。
これが江戸時代の公式の価値観な。
明治以降、徳川が朝敵とされて、そもそも南朝史観を広めたのが
誰だったのかが忘れ去られたという皮肉。
650 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 14:26:54.27
>>649 新田はそれほど英雄視されてない。
水戸学の祖水戸光圀は新田ではなく専ら楠木崇拝だし。
楠木正成が死んだという湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』
という石碑まで建立している。
家康は先祖が新田って称してたんだっけ? あれは多少なりとも根拠あるの?
新田と楠木って、そんなに仲良くなかったって話もあるなあ。
楠にとっては、敵は尊氏ではなく、むしろ新田であったと。
つまり水戸史学が反徳川への思想的基盤を提供する種子が
当初から既に内包されていたとw
654 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:31:25.67
本来の世良田って北朝方だよな
師直派として基氏に消されたけど
>>653 幕末では徳川一族の大半が家斉の種ばっかりになっていて
水戸は浮いた存在になっていたからな。
水戸が反幕になったのではなく幕府が水戸を排斥したのが原因だろ。
戦争中は「鬼畜米英」、ところが原爆落とされて一瞬のうちに同胞を何十万人も虐殺されたのにこれに報復するどころが、
戦後は「ギブミーチョコレート、アメリカは戦後最大の友好国」と去勢された家畜のごとき従順ぶりでアメリカに尻尾振ってすり寄る
薄汚い白人の白ブタには頭が上がらない、東海に浮かぶ島の未開の野蛮人らしい卑屈さをあらわにしている倭猿
黄色のアジア人が一番優秀だからな
白豚はデブだし陽に当たるとイタイイタイ騒ぎだして身体じゅう真っ赤
お前は吸血鬼か!と思うほど目も皮膚も軟弱www
クロンボは身体能力は凄いがアフリカの現状を見て分かる通り
理性も知性もない糞土人
やはりアジア人が最も優秀なんだよ
白と黒の極端な肌の色した馬鹿どもは超劣等人種
>>655 水戸学が朱子学と結びつき各地の藩校でこれを学んだ志士たちが
討幕に動いたのは事実だよ
水戸光圀の始めた水戸学と幕末の水戸藩主が紀伊派に敗れて蟄居させられたこととは
関係がない
スレをそこそこ読んだが、楠木正成結構癖のある人で鎌倉幕府の被官の可能性もあるとか、けして尊皇一筋ではなさそう
長い全国的内戦で暗い時代だった筈だが、地元でも塩谷氏や三隅氏が太平記に出てきた
意外に民衆の生活は貨幣経済の浸透や農業技術の向上でやや明るくなった?
660 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 01:09:53.69
江戸後期と同じ
庶民は平均的に豊かになるも貧富格差も増加
支配者層は困窮
ちんちん切り取られたの?正成って?
御家人のように土地からの収入を当てにしている階層はつらい時代だが商業・流通に権益を持つ層
はのしあがった。楠木、赤松は代表といっていい。
日本の中世は鎌倉末期の悪党の蔓延、室町期の徳政一揆、それに便乗した暴動の頻発から
統治は矛盾が多い。
663 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 18:38:55.03
結局最後は北畠の鉄砲玉に使われ一族滅亡か
でも御内人につかえる御家人なんて微妙なところから「英雄」にまでなれたのだから
たいしたものだよ。奇跡といっていい。
悪党がこの時代を代表する存在なんていうが実際の悪党もピンきりで所領を失って
ホームレス状態なんてのがほとんどだからな。天皇の御所襲ってそこで自害とか悲惨
だわー。荘園の本所の権力抗争の戦争代理をやって用が済めばぽいとか当たり前だからな。
665 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:21:18.52
名も無き存在が2代に渡り英雄ということでは確かに凄い
後南朝になってからは北畠と神宮との利権争いの幕府への取引材料として便利に使われている印象
666 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:47:08.51
高野春秋編年輯録の元亨2年8月条に「保田庄司ム叛、北条高時
之命仍使楠正成討亡之。此旧領賜正成也。」というのがあるけど
高野春秋にしか出てこない資料だが、どこまで事実なんだか。。。
保田が高時に謀反をおこしたので楠正成に命じて滅ぼした。
そして高時は保田の領地を正成に与えた・・・という内容のようだが。
667 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:02:38.15
正成公は天皇より摂刀(出師命令の証。復命の際には返還)を与る征討将軍。
この摂刀「菊一文字太刀」(国指定重要美術品/旧国宝)は正成公の守護神で有った八幡大菩薩(八幡大神)神像(御神体)と共に湊川から家臣に託されて逃避を果たして現存。
遥かに湊川、摂津、和泉故郷の河内を一望する地に御鎮座。
新田義貞公は太平記と梅松論で評価が真逆だけど
楠木正成公はどちらでも高く評価されているよね
正成が隠岐配流前の後醍醐に見出されて仕えるようになったという話はほんと?
大塔宮の活動地域と楠の勢力圏が重なるんだけど、大塔宮にリクルートされたんじゃないの?
670 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:09:52.42
兵庫県神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後のえた頭の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。
楠木正成のスレがあったんだー。
歴史とか全然興味が無いけどw
俺の実家が甑島で、墓の紋章が菊水。
楠木正成と直接的には関係ないかも知れないけど。
ちなみに武家屋敷とかもあるよー。
お金と時間と興味があれば来てみてw
田舎だがw
正成大先生英雄北条政子がウザいから何とかしてくれ
兵衛。
674 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:01:11.18
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
676 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 17:38:09.46
松帆神社由緒。
楠木正成公の守護神、自念仏で有った八幡大菩薩(八幡大神/由縁は石清水八幡宮参詣の砌に受領か?)と
遺愛の太刀「菊一文字」(国指定重文/旧国宝並み。後鳥羽上皇院政の砌、福岡某の御作)は
湊川合戦の御一党自尽の砌、家臣の吉川弥六らに仮託され
吉川弥六ら一団は夜陰に乗じて敵方重包囲の死地を抜け出し苦難の末に淡路島の北部へ逃避。
小祠をもって鎮祭し隠棲(辺りは後に楠木村と号す/現在の淡路市楠本地区)。
時勢鎮静の後の西暦1399年秋吉日に津名郡来馬郷の旗山の佳地に新たに八幡宮を創始し遷座、鎮祭。旗山八幡宮と号す。
旧東浦町地域の殆どと旧北淡町の一部分(併せて現淡路市の四分の一近く)の総氏神とされています。
明治以降は神仏分離の影響から松帆神社と改称。
主祭神は誉田別尊(應神天皇)。仲哀天皇。神功皇后。
本殿両脇の玉垣内の末社に高良神社。宇治皇子社。仁徳天皇社(東対岸に仁徳天皇御陵)。松尾神社。
社宝は伝楠木正成公遺愛の菊一文字の太刀(国指定重文)。
神紋は橘紋。
祭礼は10月第一日曜日。(元来は10日?)
淡路島型布団ダンジリと岸和田型のダンジリが花を添え(内一台は古来、宮付きダンジリと言われて一目を置かれる地区のもの。金の御幣と共に唯一、扁額の「八幡宮」付ミニ鳥居がのります。)、
二機の華麗な金色の神輿(男神さま、女神さま、と言われる)が渡禦。
氏子には世界的大企業の創業家等や文楽の創始者ほか。
因みに、この四キロほど南下した釜口地区には歴史のイタズラか
仇敵、足利尊氏有縁の古刹、妙勝寺(足利(室町)幕府祈願寺)が有ります
尊氏公らが時局与せず九州へ敗走の砌、
たまたま沖合に風待ち、帆待ちで噂を聞きつけて立ち寄った寺が「妙勝寺」。
尊氏公はその「妙に勝つ」と言う寺号に大変感じ入り
縁起を担ぎ太刀を奉納して捲土重来を祈願。
祈願の賜か僅かの期間で見事大勢を巻き返して実権を掌握して征夷大将軍となり
幕府を開府以降、幕府の祈願寺となりました。
妙勝寺は、寺院には稀有な武家造りの建築様式と武家風の枯山水の庭(県史蹟指定)が有名。
677 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 12:33:36.16
歴史は素人ですが、皇居前広場の馬に乗った銅像の人ですね。
678 :
重要無名文化財:2012/07/16(月) 00:27:07.76
それにしても、今の皇室が皇室であるのは、全て足利尊氏の御蔭、
本来ならば、楠正成ではなく、足利尊氏の銅像を建てるべきだろう。
後醍醐天皇は大覚寺統の傍流、本来、一期十年で、後は後二条流の正嫡に譲るとの約束で皇位に就けた人。
約束を破ったせいで、結果的には、その後の皇室は持明院統が独占してしまった。
日本史上からみれば皇統の統一は結構重要だ。
そう言う意味では後醍醐様々だろう。
680 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 18:53:14.95
>>678 後醍醐がせっかく皇統統一したのに足利尊氏が持明院統持ち出してきて
以降約60年間皇統分断させただろ?
今に続く持明院統の功労者という点ならば足利尊氏より
西園寺実兼のほうが数段偉いぞ
武田鉄矢と赤井英和は兄弟に見えない
682 :
重要無名文化財:2012/07/18(水) 00:28:02.21
後醍醐は、自分の血筋で皇位を独占したかっただけ。
皇統統一なんて上品な意図から出たものではなかった。
まあ、結局、本流の後深草の血筋が皇位を独占し、それが現在も続いている
わけだが。
683 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 07:47:49.74
>>682 そもそも天皇は世襲なんだから自分の血筋で皇位を独占する気のなかった天皇など
過去に一人も存在しない。
それに、後深草は本流だったわけではない。
この時代の皇統は家父長である上皇の意思によって決まるが、
後深草は父後嵯峨と母大宮院の意思によって皇統を外され、
弟の亀山即位後、亀山皇子の後宇多が立太子し、本流と定められた。
しかし、亀山に妹を冷遇された西園寺実兼が西園寺家巻き返しをかけて
後深草の庶子伏見を後宇多の後にねじ込んだ。
これが二朝分裂の原因。
684 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 21:22:00.97
湊川の戦いはよく逃げた新田が卑怯だと言われるけど
逆になぜ楠木正成が逃げなかったのかが不思議だ
新田軍が後退するのは見えていたはずだし、はじめから勝ち目などない戦
普通なら新田軍と共に後退して京まで落ち延びるべきでないか?
そういうところからも、楠木正成にはラディカルな思想家の雰囲気が確かにある。
686 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 23:27:04.53
後醍醐天皇と楠木正成は朱子学徒だからな
常に大義名分第一で融通がきかないのが朱子学徒の印象
楠木は新田を逃がすために足利軍を引きつけたんだよ。
新田がいなくなると南朝の軍事指揮をとれる武士がいなくなるからね。
楠木正成は逃げるもうまい印象だけどね
死んだふりして実は逃げてるとか滅多にできる芸当じゃない
そして湊川の戦いでも部下を逃がしてるし、そもそも一か八かの突撃をしなければ全軍で逃げるチャンスもあったはず
逃げられたのに逃げなかった、つまり湊川の戦いを自分の最期だとはじめから決めていたように思える
あ〜お〜ばしげれるさくら〜いの〜♪
ところで正成の子孫はいないの?
691 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 19:44:59.33
これだけレスがないということは
2ちゃんねらや有名人にはいないみたいだなw
自称子孫はいくらでもいるだろうが実際の子孫は解らん
楠木正成は天皇制ファシスト
どちらかと言えば反武家政権なだけで御輿は何でもよかったんじゃないのかな
それは違うんじゃないかな
正成自身の出自はともかく、いわゆる被差別民などの熱狂的な支持も含め
天皇側であったからこそだと思う
御輿として天皇以上のものは存在しない、そして明確な倒幕の意思を持った帝は後醍醐以外に当時いない
いくら後醍醐のやってることが無茶苦茶でも、後醍醐より優秀な旗印は存在しえない
凄いジレンマを感じる
後醍醐天皇って倒幕直後に死ぬなり最低でも花山院から脱出できずに幽閉された
まま死んだら、性格は奇天烈だけど優秀な天皇って評価で終わってたのかな。
南北朝は後醍醐のわがままからはじまったようなものだから
早死にすれば大覚寺統の衰退はもっと早く訪れていただろうから
明治の南朝正閏論も起きず今よりも評価は下がると思うよ。
後醍醐が死んで大塔宮が生きればあるいは……
後醍醐天皇が暗君だったからこそ大楠公の忠義がそれだけいっそう称えられるんだよ。
立派な主君に忠義を尽くすのは簡単だからな。
そういう意味では後醍醐帝のおかげで一番得をしたのは、
尊氏じゃなくて正成なのかもしれないなあ
>>701 死ぬ気だったとか忠節とかは半分嘘でも、後醍醐天皇の下(本当は護良さんだけど)
じゃないと自分の存在価値がないと言う認識は本人にもあったんだろうなぁ〜とは
予測できる。
703 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 12:56:52.85
なんだか後醍醐天皇って民主党政権みたいだな
無茶苦茶な政治をやって支持失って追放されるし
704 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:39:43.59
>>703 後醍醐は隠岐に流されるまで13年間はキで平穏無事に治天の君を勤めてたぞ
鎌倉幕府滅ぼして公武合体政権を作ろうとして失敗したが
マニュフェスト全く無視して3年半で崩壊した民主党とは違うわ
705 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 22:45:21.85
湊川の重包囲の死地から脱出した楠木党の落人一団は
艱難辛苦の末に淡路島北東部に逃避して隠棲。
(後に楠木村と号す。現、淡路市楠本地区/さらに昔には平家落人が隠棲。平家塚が某有名観光地の片隅に坐す)
主君からの遺嘱であった守護神の八幡大菩薩(八幡大神/石清水八幡宮に参詣の砌に拝受か)と伝、公が遺愛の太刀(主上より下賜とおもわれる摂刀?/菊一文字の太刀)を小祠に捧持、奉安。
後に社地を移し八幡宮を創建(1399年)、旗山八幡宮と号す。
(三輪山、大鳥大社の真西、仁徳天皇陵は真東からチョイと北(境内社に仁徳天皇社)//湊川から京都は鬼門方向。千早赤阪、金剛山系は東南東に一望。)
明治の神仏分離により社名変更されて現在に至る。
同様な由緒が島の北端、明石海峡を望ぞむ岩屋八幡神社にも有ります。(上陸地?)
蛇足なトリビアですが、何でもこの周辺から海流に任せて船をだす(漂流する)と潮目の条件にもよりますがどうやら対岸の大阪の堺辺りに漂着するそうです。
地元の民話にも、木っ端に乗って海を渡ったと思われる白犬(リアルには人)の話が有ります。
↑
それ捏造だと思うわ。
後付け感満載だし。
映像作品が少ないのは軍国主義の象徴にされたせいで
今の時代にしづらくなってるのかな?
南北朝時代って映像化少ないよね。面白そうなのに。
>>707 ウヨにとっては黒歴史だもん。
天にニ日無く、地にニ君無しのはずなのにね。
さらに今の皇室は逆賊に拾われた傀儡の子孫ときている。
戦前もボカして曖昧にしてごまかしていたし。
クリスマスの朝っぱらからウヨウヨ言ってるのかよ。寂しい人生だな
なんで北朝系なのに南朝正等とか言い出したんだろうね。
>>710 水戸肛門がそう言い出したから。
奴は、本物の三種の神器を持っていたかで正当か偽物かをきめていた。
だから北朝は逆賊傀儡の偽物。
義満が南朝を騙して三種の神器を奪い、北朝は偽物から正当に。逆に神器を奪われた南朝は偽物になった。
三種の神器って見てみたいけど実際どんなものなんだろうね。
たしか義経が剣をなくしてるんじゃなかったけ?
それじゃぁ、まるで義経がどこかに落としてきたみたいじゃないか。壇ノ浦で平時子が持って入水したあと
見つける事が出来なかっただけの事だ。
しかしそれは宮中に伝わる形代で、本物は熱田神宮に有るとも言われている。
江戸時代に神官がこっそり見たけど祟りで死んだという話も有る。
鏡も本物は伊勢神宮にある説と宮中に伝わっていた説が有る。宮中に伝わっていた物が本物か形代か
判らないが、度重なる火災で半ば焼失し、原形を留めていないらしい。
714 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 17:54:08.67
天皇制ファシズムや天皇専制って言葉は第2次大戦時の日本よりも
後醍醐時代の日本に相応しいと思う
実際、後醍醐天皇は宋王朝のような皇帝専制を目指していたし
(貴族階級が没落したため、中国皇帝の権力が一番強くなった時期が宋王朝の時代)
結局失敗して天皇が指導的な立場で政治を行う事は二度と無かった事を考えると
(精々、昭和天皇が降伏の際に意見を述べた程度)
南北朝時代は日本の君主制が転換期を迎えた時期だったのかな?
>天皇制ファシズム
こんな馬鹿な歴史造語を最初に使っちゃうと
どんな立派な意見を言おうがまともに読む気にならん件
すごいバカっぽい造語でワロタw
国体明徴宣言というまさにそれを実際にやっちゃたおバカさんがいるんだけどね。
718 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:39:06.21
ファシズムは近代資本制の全般的危機の時期にあらわれたテロによる反動、という定義だからね。
天皇制ファシズムという造語は、別に自分は使う気はないけど、まさしく昭和恐慌後に対するもの。
そこまでバカっぽくはないだろう。もちろん、南北朝時代に使えばおバカさんだけどね。
馬鹿な学者のオナニーに踊らされたおバカさん乙!
719は717宛てね
>>718 >ファシズムは近代資本制の全般的危機の時期にあらわれたテロによる反動、という定義だからね
誰だよそんな馬鹿な定義を言っているのは
721 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 00:21:26.17
昔のマルクス・レーニン主義の公式定義だよw
もっと正確に言うと、全般的危機の時代における金融資本のテロ独裁、ていったんだけどね。
たしかに、一面的に偏っているとは思うが、近代史にもある程度詳しい人ならそんなに馬鹿な定義とまでは思わないんじゃないかな。
マルクス=エンゲルスの理論上思想と、ロシア型共産主義の違いぐらいは抑えておこうね
君の言っていることはロシア型共産主義下の枠組みで、且つ枢軸国のみをファシスト国と認定して以降の話だろ
せめて丸山真男ぐらいは引っ張り出してくれ
ソ連を「ファシズムの砦」と喧伝していたこともあったんだが…どう思う?
>(貴族階級が没落したため、中国皇帝の権力が一番強くなった時期が宋王朝の時代)
世界@名無史さん 投稿日:2012/12/27(木) 10:51
>世間に流布している誤解・間違った視点
2ch内で流布している誤解・間違った視点の一例としては、明代史の見方だな。
明代中期以降には、貨幣経済の浸透、産業の発展、文化の発展など
中国史において転機となる重要な出来事が多く見られるにもかかわらず、
ろくな皇帝がいないという理由だけで、明代中期以降のことが今までまともに語られたことがない。
724 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 02:08:29.83
ふつう、「マルクス・レーニン主義」といったらレーニン・スターリンによって歪曲された「ロシア型共産主義」のことを指すんだよ。「レーニン」と「エンゲルス」の違いも知らないのかな。
それに、そんなことのちがいがどうのこうのという話が
>>721のどこに関係があるのかね。
そもそも、天皇制ファシズムという造語は、ウィキにも出てないようだが志賀義雄によるものであって、その場合のファシズムの使用法として、まさに、
>>722君のいう「ロシア型共産主義」の公式定義を紹介しているだけなんだが。
もっとも、ウィキによると、「丸山眞男によるファシズムの定義がコミンテルンによる定義と同じであるとの批判」もあるらしいがな。
いずれにせよ、スレの流れを読めないぶっとんだ読解力だよ。
>ふつう、「マルクス・レーニン主義」といったらレーニン・スターリンによって歪曲された「ロシア型共産主義」のことを指すんだよ。「レーニン」と「エンゲルス」の違いも知らないのかな。
一生懸命ググってお勉強したけど、自分で何を書いているのか、何を主張したいのか、弁証能力が足りないということは読み取れた
723は何を言おうとしてるんだろう?「明代はろくな皇帝が居ない」と「中国皇帝の権力が一番強くなった時期が宋王朝」
との間に何か矛盾が有るのか?
727 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 12:18:22.04
ここは楠木スレだ、
>>725-726のように、自分が読解不能なレスにいちいち無内容なチャチをいれて粘着してムダにスレを浪費するのは止めてくれ
それは723にも言ってやれ!!
729 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 20:01:55.57
武将としては有能なの?義経とどっちが戦うまいの?
>自分が読解不能なレスにいちいち無内容なチャチをいれて粘着してムダにスレを浪費するのは止めてくれ
じゃ、きっちりと説明してやるよ
>>724 「天皇制ファシズム」という用語は、日本の左翼が自分たちのイデオロギーを押し付けるために、自分たちの都合の良いように色眼鏡で「歴史」を捏造するために造った言葉にすぎない
だから俺は
>>722で、「ファシズム」という用語の本質論を問うている
それに対して
>>724は、何を問われているのか全く理解できずに、こちらの使用した「用語」を検索し、見つけた「言葉」での対応に終始している
つまり、こちらの投げ与えた餌を拾い食いしている状態であり、当然のことだが、反論ですらなく自らの無知を曝け出す結果になった
今日では、世界恐慌から最速で経済を回復させた高橋財政がマクロ政策の成功例とされていることを知らず、
高橋財政が昭和金融恐慌を収めた後に、左翼学者による「ウルトラナショナリズムの勃興」がなされていることも知らない
つまり、こちらが言おうとしている事も、自分が詳述しようとしていることも、全く理解できていないということだ
>>724は、左翼学者の尻尾にしがみ付いている蝿にすぎない
本来、政治・思想で語るべき演説を、日本史板で口にした
>>714は「天皇制ファシズム」という用語を使用したことで
自分が、「歴史」を色眼鏡で語る愚か者の一員であることを宣言したのだという事に、自覚的であって欲しいね
「ファシズム」という用語の意味も知らずに使っている愚か者共はスレ違いではなく板違いだということ
日本人の鑑・大楠公のスレを荒らしているのは、やはりチョンかシナ人なのかな。
大言壮語のハッタリ屋の煽動に載せられるB層はいつの時代にもいるものさ。
皇国史観のマスコットでしかない「英雄」を未だに褒めちぎることしかできん輩は
今は商業マスコミがもてはやす信長や龍馬の礼賛をしていればいいんだよ。
730は高橋是清が財政出動をやめて軍部に殺された史実を直視したほうがいいよ。
「世界恐慌から最速で経済を回復させた」なんて三流評論家のつまみ食い歴史ではなく
結局ナチス同様戦争にしか解決策がなくなってそのための天皇制ファシズムであり、それを
推し進める諸条件である当時の日本の農村の構造への理解ぐらいしてほしいよ。
>B層
レーニンやエンゲルスの名前を出すときは、著作を相当読み込んでいなければフルボッコされるというのに、webで逐次検索しなければ何も言えない程に無知を露呈したり、
学術書や学術的な討論は、一冊読めば理解できるという性質のものではなく、数十冊の背景知識がなければ読み解けない知識の圧縮であるという学問の常識も知らず、
愚かなボクチャンが読んで理解できないのは相手が悪いと、低学歴の中学生のようなことを言って怒り出したり、変だと思ったら、2ch低学歴者の巣窟、ニュー速板から迷い出てきた低脳ちゃんか…
イデオロギー有りきで歴史を捻じ曲げて解釈するわ、
>>718に対応して「高橋財政」を持ち出せば、
>天皇制ファシズムであり、それを推し進める諸条件である当時の日本の農村の構造への理解
と、立地点の異なる三者を括りつけるわ、ハチャメチャだな
時代遅れの左翼が書いた駄文を表面的には理解できても、日本農村の構造的な問題としてニューディールの失敗を詳述しても、関連性を理解できず、
公明党や左翼学者がニューディールを礼賛しているからという理由だけで、聞く耳もたないだろうし…
餌を一つ投げ与えてやろうかw
大型書店へ行けば、アベノミクス=高橋財政としたリフレ系の書物が複数冊あるから、読んで勉強してくれ
>>732 さぁ732、ニュー速板で大量に掻き集めたアベ叩きのコピペを吐き出せ
学問板の住民に、ニュー速板の住民の質の低さを見せ付けてくれw
コピペの相手なんかヤル気ねぇから、732の独壇場だ〜
やれやれ……、いっちゃってるね。今後はスルーということで。
735 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 10:26:26.07
大軍を率いるって事は出来なかったのかな。
奇襲とか篭城とか専門の武将なの?楠木って。
>>733 やれやれネトウヨは煽ればすぐに正体を表すねw
リフレ系の書物w、世界中の企業を買いたたけると思っていた、円高を礼賛していた三橋某を持ち上げるおバカさんよw
日本が戦争に負けて真っ先に天皇制をはじめとするお前の大嫌いなイデオロギーに手をつけられた歴史も理解できんような輩は
アキバで安倍や麻生、橋下のようなヒトラーの出来損ないを持ち上げて騒いでおればよいのよ。
733のような知恵の足りない火事場泥棒的に勝ち組になれると思っている輩は太平記で
六条河原の落首で皮肉られたおのぼりさんに過ぎんよ。いつの時代も人間は変わらんものだねw
>>735 正成が天王寺で幕府軍と渡り合っていた頃は相当な人数がいただろうけど
この連中の新恩給付や所領安堵は護良経由で出されたものだからその後
の護良失脚で正成はこの連中に報いてやることができなり、その時点で
正成は武士団の棟梁として終わってしまった。
保守
個人としては自分の依って立つものを守るために命張ったのは素直にスゴイと思うよ
実際に都に尊氏入れる初期案でも勝てたか微妙ではあるけど。。。
>>77-79 朝鮮人ってきもい
いちいち日本人とくっつけるな
かってに禿でおなっとけ
742 :
日本@名無史さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
楠幸村について語りましょう。
ふてくされて湊川で新田から離れて自滅しただけの地方豪族だよ。
三木一草の呼び名のように当時からしてあまり好意的に見られて
いなかった。守護職も途中で交替しているように能力的にも
かなり誇張されている。
並みの豪族よりはずっと優れてるとは思うけど
敵である足利尊氏が指導者としての粒が小さいので
その反動で美化されすぎた可能性はあるんだろうな
745 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 02:13:24.29
マッカーサーが、楠木正成の銅像を残したのは何でやろ?
気付かなかっただけ。
タダの見落とし。
747 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 04:08:19.85
河内のクムガン山山麓のお寺までマッカーサー見に来るのか?w
とても大阪とは思えないかなり辺鄙な山の中やぞw
748 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 07:24:22.05
楠木正成公らが湊川で自尽に際して公が身近に置き自念仏、守護神としていた
八幡大菩薩(八幡大神)と遺愛の大刀と伝わる菊一文字(後鳥羽上皇の院宣により打ち出されたうちの一つ。後醍醐天皇〜の摂刀か?)を
家臣の吉川弥六に託す。
夜中、楠木党の陣中より末期の念仏が遠く聞こえたと伝わる。この八幡大菩薩に奉っての事か?
吉川弥六らの一団はそれらを奉じて夜陰に紛れ重包囲の死地を脱出。
苦難の末、船を仕立てて淡路島に渡り八幡大菩薩と遺愛の大刀を祠に納め祀り、隠棲。
後に、楠木村と言われ、又世を憚って楠本(淡路市楠本)と改めた。
湊川合戦〜60年程経過した1399年に、三輪山の真西、明石の岩屋神社の真南にあたる来馬郷(久留麻)の旗山 に遷座奉り八幡宮を創建。 旗山八幡宮と号す。後に、明治の制により松帆神社と改称して現在に至る。
同じ伝承が岩屋八幡宮(史跡、石の寝屋古墳の麓)にもあり、分祀したと思われる。
749 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 07:52:14.24
松帆神社の北東、丑寅の鬼門がマンマ湊川神社。〜京都。
東南東は故地の故郷、千早赤阪、金剛山系。
真南に伊勢久留麻神社(延喜式内小社。淡路三ノ宮。来馬大明神。伊勢大神宮)。
何故か楠木正成公の駒止松の伝説(勅使が留めたとも)が残り、
現在は三代目の若松があります。碑を良く見たら、駒止松ではなく『駒留松』、、、クルマ!
愚考するには、楠木正成公らの氏神の一つが富田林市の旭丘鎮座の美具久留御魂神社。(下水分神社。崇神天皇の勅による創建。出雲大神荒魂を祀る)
同じ久留の音があるのはほぼ同じ神。一党の氏神筋として崇敬したと思われる。
要するに楠木正成公らが転戦して行った故地が遠望出来、往時を偲ばれる場所が松帆神社!?
750 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 14:39:59.41
松帆神社の北東、丑寅の鬼門がマンマ湊川神社。〜京都。
東南東は故地の故郷、千早赤阪、金剛山系。
真南に伊勢久留麻神社(延喜式内小社。淡路三ノ宮。来馬大明神。伊勢大神宮)。
何故か楠木正成公の駒止松の伝説(勅使が留めたとも)が残り、
現在は三代目の若松があります。碑を良く見たら、駒止松ではなく『駒留松』、、、クルマ!
愚考するには、楠木正成公らの氏神の一つが富田林市の旭丘鎮座の美具久留御魂神社。(下水分神社。崇神天皇の勅による創建。出雲大神荒魂を祀る)
同じ久留の音があるのはほぼ同じ神。一党の氏神筋として崇敬したと思われる。
要するに楠木正成公らが転戦して行った故地が遠望出来、往時を偲ばれる場所が松帆神社!?
↑
そういう後付の捏造起源を垂れ流すのはやめろ。
神社の由緒なんて何でもありだし。
おそらく明治になって捏造したんだろうな。
753 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 09:05:39.76
>>747 東京の皇居の前にデカデカと立っているが?
皇居のランドマーク見たいになっている
754 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 09:15:19.06
>>735 新田義貞が宇都宮や菊池なども含めて、常に率いていた兵力が2万くらいだし、
楠木正成が京都の戦いの時に率いていた5千ぐらいの数字は妥当だと思う
湊川の時は数百と少ないが、四條畷での正行は3千ぐらいだから、正成は
湊川へ行くのに戦力温存して少数で向かった可能性もある
(河内に温存した兵で、京都入りする足利勢の側面、或いは背面を狙う可能性)
755 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 14:25:30.98
明治13年に贈正一位とされた楠正成の
この宣命(策命)本文はどの資料に掲載されているのか?
探しているがわからない。
756 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 23:35:58.52
「滅私奉公」
757 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 23:37:21.08
自民党の手本である!
758 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 01:10:14.03
悪党と言えば石原か?
あんな石像あったら共産党好きになるわな…
759 :
妻夫木似:2014/01/04(土) 22:08:54.79
大河ドラマ「太平記」OP〜鎌倉炎上〜
http://www.youtube.com/watch?v=Svdmp0mxlhE ↑何度見ても震えの来る「太平記オープニング」www
あれからもう23年が経過したんですねえww
いやはや、ブッキーも光るイケメンへと進化(深化)を遂げる訳だなぁw
この動画とは違うんだけど、足利尊氏と後醍醐天皇が醍醐寺で初めて出会う場面は強烈なインパクトだったなあww
後醍醐天皇が扇子に筆で詩を書いて、扇子を飛ばしたところ、庭園の陰に隠れていた尊氏に命中し、天皇と
目が合ってしまった(ウホッ♪)という、設定www
「小野僧正殿、その者、この俊基の供にて候えば心安き者にて・・・」←しびれるうううwwww
片岡孝夫さん(当時)の超甘いマスクと文観役の麿赤児さんのいかつい風貌も印象的ww
そして番組の終わった後の「太平記のふるさと(一分程度の紀行)」も懐かしいw
BGMも郷愁を誘う旋律で、山根基世アナのナレーションも素晴らしかったですねww
あれを超える大河ドラマはもう出て来ないでしょうねプップ
760 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 14:33:07.26
楠木正成の子孫って
いるんですか?
761 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 14:34:25.17
758
過去の人物と重ねるのやめたら?
762 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 14:36:58.81
760
いるだろ
楠木正行の子孫だか北朝側に寝返ったのがいたはず
戦国時代にも名前が見えるわ
そもそも今や「悪党」というのは実態のないレッテルにすぎないと言うことが、ほぼ定説になってるだろ。
「悪党楠木正成」論はもう成り立たない
764 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 19:00:00.94
楠木正成-楠木正儀-楠木三郎正澄-三女(藤原氏の養女へ)-一休宗純
ウィキペディア編集者ジャムリンによる日本史板での自作自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
>>760 北伊勢で信長相手に500人で戦い一端撃退してるよ(楠木正具)
>>760 男系の子孫はいない。族滅した。
男系は、戦国時代末期に伊勢の国の楠氏が滅亡してからは後継と言える子孫はいない。
女系は、甲斐荘氏が残った。江戸時代にも生き残り、幕府に仕えて旗本になっている。
明治政府が楠氏を表彰しようとした時に、子孫の調査をした。
自称子孫と名乗り出る人は一杯いた。
が、調査してみると正統な子孫である証拠を示せる人はおらず、子孫無しと判断され、表彰される事はなかった。
戦国末期に自称子孫を名乗り、楠氏の朝敵認定を取り消した楠木正虎というのがいる。
が、楠木正虎は、楠木氏の自称子孫であって実際は違うと思う。
彼は大饗(おあい)氏であり楠木氏と行動を共にした和田氏の一族というのが正しい。
和田氏は、楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え
和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)
その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)
その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。
城岸寺城とは、大饗(おあい)城の別名である。
正平七年(約六百六十年前)和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見える
ことは大阪府史、狭山町史に記載されている。
この大饗(おあい)城に居を構えた和田氏が、大饗(おあい)氏となり、その子孫が正虎であると見る。
769 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 08:41:35.24
つまり、楠木正成の子孫は居ないということですね。テレビで、歴史上の人物の子孫がよく出てるけど
楠木正成の子孫って出てるの見たことないし。Wikipediaって本当に嘘ばっかりですね。
770 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 07:12:45.34
質問。
楠木正成は鎌倉時代の人なんですね。驚きです。
どう考えても明治時代の名前でしょう?
名前を見れば、明治と思う人が多いだろうな。
771 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 09:22:06.07
男子の系統ばかりが子孫だという狭い考え方をするから子孫が見つから
ない。女子の系統を探せば楠木正成の子孫はいるはずだ。考え方が狭い
ねぇ。
重要なのは子孫じゃなくて家だからね。歴史上は女系軽視は仕方がない。
>>771 女系子孫は、はっきりしている。
女系は、甲斐荘氏が残った。
江戸時代にも生き残り、江戸幕府に仕えて旗本になっている。
774 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 11:43:43.54
つまり、居ると言う事ですか?それなら、大日本帝国時代なんかに色々な事に使われたのでは?
アホの子か?
いわゆる子孫と言われるのは男系子孫なんだよ。普通は。
楠木氏は男系子孫は断絶しているから、明治政府も表彰しなかった。
そういう事。
女系子孫は、甲斐庄氏。
楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦部郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来する。
楠木氏の一族ではあるが、室町時代に河内守護であった畠山氏に降伏し、その家臣となり、本領安堵された。
戦国時代前期に甲斐庄隆成、戦国時代後期に烏帽子形城城主でキリシタンであった甲斐庄兵右衛門正治の名が見える。
正治は畠山家重臣で烏帽子形城城主であったが、畠山氏没落とともに烏帽子形城を失った。
主家とともに没落した正治は流浪ののち、時期は定かではないが徳川家康に仕えている。
その子、甲斐庄喜右衛門正房も徳川家康に仕え、御家人として家名が存続した。
大坂の陣では河内の地理に詳しいことから道案内をつとめ、加増を受けて旗本となった。
一説によると、本能寺の変の際、堺から三河へ帰国する家康に同行した河内の土豪で、家康の警護をした恩賞として、
旧領復帰(2,000石)と加増(2,000石)で4,000石の旗本になったともいう。
777 :
日本@名無史さん:2014/05/03(土) 20:56:02.73
ただ、血を継ぎし人は居るんだ… 女系でも。
今日は、憲法記念日で右翼だらけだったから、子孫が政治家で能力もそこそこあったら何か怖いですね… 今の日本は、昔そっくりとお年寄りは皆言いますし
>>777 だから、血統ではなく家が問題。それに一概に血統が公正とは限らない。養子で
優秀な人が入る場合もあるし、日本は女系でも養子には寛容なところはある。
779 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 00:18:29.36
ねーよ馬鹿 息吐くように嘘こいてんじゃねえよ
うちのばあちゃんは自称子孫。旧姓楠木で家紋が菊水
そんでもって家系図まであるらしいがただの楠木フリークだったって事でしょうか?
↑
残念ながらただの捏造です。
おばあちゃんは悪くない。
捏造した先祖が悪いんや。
782 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:34:04.19
>>768 >和田氏は、楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠から始まり
やっぱり楠木氏じゃん
↑
アホか?
楠木氏から枝別れした一族なのは事実だが、楠木氏の後裔ではない。
784 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 12:35:57.69
まあ、確かに。これだけの人物なのに一度も子孫をお見受けした事が無いという事が全てでしょう。
785 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:54:55.55
楠流門下生では由井正雪が有名だけどさすがにもう楠流名乗るのいないだろうなあ
786 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:57:20.20
室町時代にはちゃんと子孫がいたし道場みたいのがあった形跡はあるのよ
787 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 08:51:52.91
楠木正成って、嫌う人多いんでしょ?
楠木正成は明治時代が似合う名前。
789 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 13:31:12.86
凄い人なのに、華がないのと
時代的にマイナーなのと 取り上げるのが、難しいということもあり
地味…
英雄とは思えない…
790 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 20:42:52.21
南北朝自体人気ないから、どうしようもないね
791 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 21:25:48.44
>>790そう、でも太平記は凄い面白いし
大河ドラマも良かった
まあ、かなり大げさに
なってるし
正成も美化され過ぎてるけど
大河と北方謙三の太平記ものは良かった
793 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 01:11:05.91
>>792 大河は隣国みたいに主人公マンセーだったので気持ち悪かった
本物の足利尊氏は精神障害(躁鬱)の人だったように言われているのに
北方謙三の太平記ものは俺はダメだったな。
あの人、現地取材とかフィールドワークとかしてないなと感じた。
現地見てると思えない表現があるんだよね。
気になったわ。
795 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 08:34:51.80
>>794古典の方も、鎌倉の軍勢百万とか
もう、ギャグみたいだけど面白い
三国志の赤壁の戦いを連想させるし、正成も孔明とダブるけど
華がない…
正成が孔明みたいな、イメージだったら凄い人気だろうな
NHKの太平記は真田太平記と並ぶ傑作ドラマだと思う。ただ太平記の吉川節は俺は好きなんだが説教臭いといって嫌う人もいるね、まぁ793のように見てもいないドラマを(何処かの民族のような)レッテル付けで全否定するのは論外としてw
ただ正成の扱いだけはいただけない…
NHKに出演を打診された武田鉄矢は、なんちゃってサヨに被れているから「右翼の代名詞のような正成なんか演じられるか!」と最初は断った
NHKもそこで引けばいいのに「気のいい河内のおっさんを演じるだけでいいから出演して欲しい」と武田鉄矢のために脚本を書き換えたんだよなぁ
北方は三国志を執筆するのに既存の三国志小説は読んでいないと書いておきながら、きっちり吉川三国志から拝借しているお茶目な人だけど、
太平記ものは本当にフリーダムに書いちゃってるから、なんちゅうか軽いというか哲学がないというかフツーの小説という感じ
三国志のような作風でもう一度太平記ものを書いてくれると面白いのを書いてくれるかもしれない
気のいい河内のおっさんの正成像が好きだったけどな。
美化してるって言うけど、まぁそこはドラマだと思って南北朝ファンも多目にみてほしい
楠木正成の子孫は居ないらしいけど、
うちの先祖の墓の家紋が菊水で、代々「先祖は楠木正成」と聞かされてた
そんな人が全国には沢山いるんだろうね
そう。
・楠木正成がメジャーである事
・直系子孫が絶えており文句が来ない事
から、詐称が非常に多い。
残念だけどね。
800 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 10:26:28.90
正成は右翼っぽく後世の人に脚色されているが、思想的には穏健派に違いないと
思います。
801 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 12:32:40.11
>>799自称子孫で、本物の子孫を困らせてる
織田信成みたいには、いかないよね
楠木正成の子孫は、居ないんだから
802 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 12:39:23.69
楠木正成の自称子孫(血はつながっている可能性はあり)は
割りと遅くまで出てきただろう?
たとえば、松永弾正に仕えていた楠木正虎とか、
由比小雪とか、観阿弥・世阿弥の一家とか
それに楠木一族だって、根絶やしにしたわけじゃないし
803 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 14:41:25.06
>>802まあ、血をひいている人はいるでしょうが
家系的には居ないし
居たら、大日本帝国時代とかに色々利用されてますよ政府も探したけど、見つからなかった
残念ながら居ないみたいです
804 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:09:32.37
>>803 ありがとうございます
後世になっても自称する人間は割りにいたと思うのですが?
たとえば楠木正虎の一族なんかどうなったのでしょうかねぇ
楠木正虎なんか本当に血が引いているかどうかはともかく、
松永弾正に仕えて、そこそこ出世して朝廷にも口が利いたから、
楠木正成の朝敵認定を取り消させたのですが?
あの一族はどうなったのでしょうか?
それと、あの平将門の子孫、藤原純友の子孫、安倍宗任の子孫
物部守屋、蘇我氏の子孫、平家一門、源義仲の子孫、鎌倉北条氏
の子孫等の反逆者の末裔を称する人たちは明治になっても多数残って
いたようなのですが、楠木正成の子孫と張ったりでも名乗る一族は
本当に出なかったのですかねぇ?
>>795 人気でなくてよかった
作り話を歴史的史実だと勘違いするの続出する所だった
806 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 17:27:45.12
>>800 穏健派っつーか、本来は政治とは無縁な職業軍人的な性格なんじゃないかな
新田を切って足利と和睦するよう具申したり
京に足利軍をおびき寄せて補給路を断つ戦術を提言したり
結局これらの案が採用されなかったのは、楠木正成に政治力がなかったからとも取れるし
807 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:12:44.28
北方太平記物は正成ageで道誉ageで顕家ageで尊氏もそれなりだから、
負の部分はすべて義貞が担う凄まじい帳尻合わせになる。
義貞が戦下手というのは他のフィクションにもありがちな設定だが、
北方にかかると、それに加えて、戦が怖くて逃げだす卑怯者扱いにされる。
悪党という歴史用語も理解できない連中が集まるスレ
810 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 22:18:26.26
>>804自称、子孫を名乗る人たちは沢山居たでしょうが
楠木正成の子孫は、居ないので
どれだけ言っても嘘だし 自称でしょうね
楠木正成の父親の墓ってどこにあるの?
あと戒名ってわかります?
812 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 10:25:45.86
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813 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 12:27:49.13
>楠木正成の子孫は、居ないので
加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘(松平親忠正室)→ 松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
814 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 13:53:06.88
徳川氏の祖先は流れ者のくそ坊主。
815 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 14:53:02.79
徳川氏の祖先は流れ者のくそ坊主。
816 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 14:58:41.95
由井正雪は楠家の娘婿
江戸時代までは家名は存続
その後は不明
817 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 15:14:55.02
>>817 大嘘じゃん。
楠木正季は湊川の合戦で兄・正成と刺し違えて自害した。
太平記では、有名なセリフを残して。
「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」って奴ね。
だから捏造だね。
楠木正成の子 正儀の次男に正之って人物はいる?
820 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 23:45:32.53
>>820 楠木探訪録 その93 尾三遠楠氏末裔系図
の正之さんだと思うが、
このHPは何の資料を元に書かれてるんでしょうか?
妄想でしょう
楠木家の子孫が怪しいと言われるのは理由がある。
昔から系図屋という商売があり、先祖を名家にくっつけて家系図を捏造する商売があった。
特に滅亡大名は直系の子孫がいない事もありクレームがつかないのでターゲットにされた。
楠木家は正成のネームバリューがあったが為に格好のターゲットにされた。
多いのは、江戸時代に武士が先祖を捏造したパターンと明治新姓の時に庶民が姓を名乗るときに
家系を捏造したパターン。
戦国時代末期とか江戸の初期とかになると太平記が広く読まれ、
悲運の名将・忠臣として、楠木正成を崇拝する機運がありました。
だから、楠木の子孫を名乗る輩も多く現れたのです。
楠木家の子孫を明治政府が探した事があったが、自称子孫は多く名乗り出たが調査して
子孫であると認定された家は1件もなかった。
つまり客観的な証拠がなく思い込みとか先祖の言い伝えとかで子孫であると思い込んでるのが多い。
特に家系捏造した家は、捏造した時の当主はニセ子孫を自覚しているが、3代もすると捏造を忘れて
ニセ系図を元にして、正当な子孫であると言いだすのが多い。
824 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 20:06:47.63
楠と橘はどっちも植物で似てるといえば似てるんだよな
825 :
日本@名無史さん:2014/12/08(月) 15:39:49.79
何気に、手記で後醍醐の事 めちゃくちゃけなしてる
とある北海道ローカルラジオのCMで楠正成の名言として
「めずらしきものにまことすくなし」という言葉が紹介されていました
しかしこの言葉や楠正成、名言等で検索しても全く引っ掛かりません
この言葉は本当に存在する物なのでしょうか?
827 :
日本@名無史さん:2014/12/10(水) 03:50:51.01
嗚呼忠臣大楠公
828 :
日本@名無史さん:2014/12/13(土) 04:51:52.70
今だと手軽に、競艇なり競馬なりオートレースが有るが昔は命がけだったんだなぁ