【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】

このエントリーをはてなブックマークに追加
216人間七七四年

鍋島氏と1382年に下向したとされる野田周防守を調べてみた。
鍋島清久の妻は、野田大隅守の娘であるが、この野田周防守は大隅守の祖にあたる人物と思われるが
1264年に三瀬に下向した野田周防守とは、無関係という事で話を進めてみたいと思います。

まず現在の野田姓の分布を調べると、愛知県と北部九州に特に多く、中でも愛知県一宮市
には著しい偏りが見られる。
これは、信雅親王を守護し土着した野田氏の末裔と見られ、楠木氏の末裔と言う事に系図ではなっており
南北朝時代には堺市にある野田城に居住していたとされる。
楠木野田氏の祖とされる人物は野田清房(野田四郎)といい、三瀬に下向した野田清秀の子孫
「房儀」に繋がる可能性もある。 

この野田城付近には百舌鳥という場所があるが、このあたりに勢力を誇った物集女(もずめ)氏は
「万代」「毛受」「毛須」「裳伏」「藻伏」とも書かれ、室町時代には西岡被官衆として将軍家の家臣
であったようだ。
読み方が違うが、柴田勝家に仕えた毛受(めんじゅ)氏、愛知県一宮市の毛受という小字名がついた場所
などもあることから、楠木野田氏との関係もうかがえるのではないか

この西岡被官衆には名前の通字に「泰」を使用する野田氏がいるが、熱田家系図にある
「泰重」に繋がる可能性がある。

さらにこの楠木野田氏の末裔と見られる家の家紋は、目結紋が多い事も分かっており、
鍋島氏と下向した野田氏も同じ紋を使用していたら同族の可能性が高いと思われる。