1 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :
携帯がアク禁解除され、久しぶりに覗いてみたら
鯖がいかれちまって、過去が全て消えてた。
ま、緊急用として立てたから仲良くダベってくれ。
>>2 ありがとう。
まだPCがアク禁中で、使い物にならないから後は任せるよ。
4 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 01:22:26
まあ臨時スレ俺も立てようかなと思っていたが…
それにしても下記のスレ既に立ったみたいだが
継続スレ立てるのはdat落ちしたスレがサルベージされるか否か
しばらく様子見した方が良いんじゃないのか?
『畿内説の根拠を探ろう』
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284044278/l50 もし元のスレが復活したら重複になってしまうと思うが…
ちなみに邪馬台国関連でdat落ちした主なスレ
(専ブラにログは残っているが…)
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 80
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その11
邪馬台国はどこだ・小城甘木説
三角縁神獣鏡は何時どこで作られたのか?
【卑弥呼】倭迹迹日百襲媛命【邪馬台国女王】
5 :
ヒミコ:2010/09/10(金) 01:23:03
そちが○○○○ともうすガイジンか。わらわはガイジンが大嫌いなのじゃ。
おいおい、われわれの偉大な歴史が消えてしまったぞ
これはアレキサンドリアの図書館焼失に匹敵する人類の知的遺産の損失ではあるまいか
>>1乙です
おお、なんと神様が降臨なさっておられたとは
九州チャンピオンスレで
我々がとれほど貴方の降臨を願って雨乞いしていたことかw
やはりアク禁だったとは
>>8つづき
過去の調査では、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。
斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、
漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。
これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという意思を感じる。
斉明天皇陵と考えるほかない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)など、専門家らの意見はほぼ一致している。
一方、宮内庁は同古墳の西に約2.5キロ離れた円墳の車木(くるまぎ)ケンノウ古墳(奈良県高取町、直径約45メートル)を、文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。
「墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない」(福尾正彦・陵墓調査官)としている。
>「墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない」(福尾正彦・陵墓調査官)としている
宮内庁が守りたいのは事実じゃないことがよく分かるコメントだな
11 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 09:14:14
宮内庁指定の天皇陵などは、そのいくつかが
間違って指定されている可能性が高い。
しかしながら、今更、それを認めても、
それを買い戻すのが大変だと言うのが真相。
それらの多くが、私有地などになっていたりするからだ。
だから最近は 伝○○陵 にしてるんだろうね
13 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 10:00:55
>当時の天皇家に特有の八角形墳
何でそれが天皇家に特有だって断定できるの?
14 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 10:04:42
次のような指摘があるな。
奈良県だけではなく東京都多摩市の稲荷塚古墳をはじめ東日本など各地で少数ではあるが
確認されていることから即位した大王だけを祭る為に造られている可能性に疑いを持つ学
も多い。
15 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 10:42:05
16 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 11:18:49
つまりは、様々な意見の中、八角は「天皇が死後も国を治めることの象徴」 という
意見に飛びつけば、八角墳は天皇の墓だという考え方ができる。しかし、他の地方
にも八角墳があったとなると八角だから天皇の墓だという説は崩壊したと言わざるを
えない。
折角邪馬台国スレが出来たんだから
7世紀の天皇の陵をここに持ち込まないで
18 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 11:41:46
>>17 邪馬台国なんてもうほとんど決着したはなしだろ
素人ならまだしも日本史板でいまごろなにいってんの
>>19 決着したと言うなら、余計ここに居るのは変でしょう。
別スレ立ててそちらで議論するのがよろしかろう。
この非常時に別スレたてろって・・・・・・あんたバカぁ?
>>21 非常時って、別にアンタがスレを立てようが立てまいが
関係ないと思うよ。
現にこのスレ新しく立たってるじゃん。
ところで一体何が非常時なの?
まぁ、お互い喧嘩すんなよ。
凄まじいまでの馬鹿を見たwww
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>ところで一体何が非常時なの?
>>22 kamomeというサーバーが落ち、まだその余波が続いているのです、はい
この日本史板もついこの間まで書き込む事すら不可能でした
ところで以前あったスレ、ちゃんと復活してくれるんでしょうかねぇ(汗)
>>25 datの完全サルベは難しいという情報が入っている
例えるなら物理的な傷のついたCD−ROM状態らしい
またサルベ可能でも、作業プラス1日はスレ保持数を倍の1400にするが
作業が済むと元に戻すそうなので、あまりスレ立てると
完全復旧とともにいくつかのスレが強制dat行きになる
こうして歴史が埋もれていくわけですな
28 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 18:45:09
29 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 21:34:07
30 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 22:10:53
終止符スレはどこで塚?
31 :
九州説論者の心情を慮ってみますたwwwwwww:2010/09/10(金) 22:57:25
1だれに怒っていいのか わからないが
おれの九州説はもうなくなった
※安本がいた 古田がいた 榎がいた
松本がいた 宮アがいた 奥野がいた
論争自体が終わったと流れが変わる
その度に おれたちは とまどうばかり
かえせ かえせ 九州説をかえせ
かえせ かえせ 九州説をかえせ
2邪馬台国はどこかときかれ 答える時は
今も 絶対九州 そう答えるさ
※(くりかえし)
3そしていつでも強かった 論争の主役だった
おれの九州邪馬台国 胸張ったものさ
※(くりかえし)
(参考)
http://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw
この手のいたぶりは縦目がうまいな。
さすがに一日中掲示板に貼りついて生活している人達は詳しいですね。
たまにしか使用しない人には詳しい事情がわからないんですよ。
それに一般的な生活を送っている者にとっては、2ちゃんのサーバーが永久にダウンしようがしまいが
どうって事ないので、非常事態なんて感覚持てないのです。
>>31 返さなくても、九州説は健在だから心配するな。
35 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:38:17
そりゃあ平和ボケって奴だ
一般プラウザで見ようが、専プラで見ようが
通常とは違う事態が起こっていると察知できない奴は、要するに駄目人間ってことだ
阪神大震災のときに東西で流通が遮断され、コンビニ弁当が棚から消えたときに
「えーっ!なんで弁当ないのぉ?なにがあったのかしらないけどぉ?」
とか言ったのとおなじレベル
36 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:40:47
>>33 判らない場合は調べる
これ常識ね
普通の人なら出来る、でもそれアナタ出来ない
37 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:50:41
>>33は釣りじゃなければ、典型的なモンスターペアレントだな
>>35-36 いや、33氏の感覚で普通だと思いますが?
べつに2chは生活必需品じゃないしでそこまで重要視する必要はない
むしろ適度に距離をとっている方がよっぽど健全
39 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:51:03
で、畿内説ってまだ残っているんだっけか?
40 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:53:36
残っているどころか主流じゃね?
41 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:56:55
>>38 距離をとったかも知れないが、現状把握できずに書き込むってどうよ?
それってただのバカだよな
やはりここで生活している人は凄い。
2ちゃんのサーバーダウンの事態を、阪神大震災と同じような感覚でたとえちゃってる。
>>36 調べなくちゃならないほど重要な事と考えてないから。
2ちゃんの掲示板が様変わりしているな?と、その程度にしか一般の人は考えてないよ
別に2ちゃんなんて無くても、普通困らないだろう。
43 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 23:59:16
狂信者はいるけどな。まともに「こうこうで畿内説が正しい」って論理だった主張
は聞いたことがないぜ。
44 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:00:31
「適度に距離をとる」なら状況が分かるまでROMる。
状況も確認せずにスレを立てたがるのは
それだけ、がっついている 証拠wwwww
まあどう言おうと空気読めない馬鹿ってだけの話wwwwwww
45 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:02:00
>>42 考えていない、いや考えが及ばない阿呆でもいまが非常事態だと言うのは理解したか?
お前が言ってるのは、火事にあった家の焼け跡に来て
「ところで明日の飲み会楽しみだよね」とか言ってるようなもの
スレタイ嫁よw
>>33 >状況も確認せずにスレを立てたがるのは
それだけ、がっついている 証拠wwwww
それって俺の事?
スレ立てたのまずかったかな?
一応自分なりには今の状況を把握してるからこそ、スレが分散しないようにと「総合」とスレタイに入れて、誰も関連スレが無いうちに立てたつもりだったんだが。
やっぱり不味かったかな?
48 :
44:2010/09/11(土) 00:23:29
>>47 まあこのスレに関しては良いんじゃないかな?w
そりゃ暫くは自治スレ一つと言うのがベストなんだろうが
元々邪馬台国スレは乱立気味fだし
自重を呼びかける、或いは暫くの間のガス抜きとしても必要だろうwwwww
実際俺も立てようか考えてたし…
49 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:23:32
>>47 いやがっついている餓鬼に餌場をつくってやったと言う意味では正解。
ただそのがっついている餓鬼が
「ここは俺らの餌場だ!他のやつは勝手にスレ立てて餌食えよ!餌場そのものがなくなっても俺シラネ」などと居直っているのが問題。
レスが不味いわ。
見る価値ないねこのスレ
バカ同士が喧嘩してるだけ
52 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:28:31
>>45 だから何が非常事態なんだよ。
何時も利用していたボーリング場が倒産し無くなっちゃたら、一々非常事態と考えるのか。そりゃ普通じゃない。
普通は何時も利用しているボーリング場が無くなったら、
他のボーリング場を探す事で悩む程度だろ。
なぁ、頼むから喧嘩すんなよ。
雑談でもいいから
喧嘩だけはすんなよ。
54 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:33:57
>>52 オマエは機械が故障してまともに動かないボーリング場で
いつもどおり遊ばせろよ!そっちの事情など知ったことじゃないとフロントでごねるDQN
俺らは機械が直るまで待ってますよ、そのかわり復旧状況は逐次教えてねという地元ファン。
オマエはさっさと他のボーリング場を探しに行け
なんでボーリグ場で例えるんだよ。パチンコ屋でダダ漏れに出る台があったのに、
それがなくなったら大損だろ。この場合、出る台というのは叩き放題のアホの九州説。
こんな知能レベル低いのが揃ってるスレ他にないんだよ。
ていうか、魏志倭人伝を無視する畿内説ばかりで、おなかいっぱいなわけだが。
57 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:49:59
そりゃ事実上、畿内説一択(九州説なんて前菜にもデザートにも出てこないw)なんだからお腹イッパイにもなるわなw
58 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:51:16
>>55 それ単なる弱いものイジメじゃん
ここの九州説がバカなのは誰もが周知の事実だけど
まあHDD&SSDの状況が判明する週明けまで、下手に動かないほうがいい
ラノベ板などがパニックになっているのは、規定数を越えるスレが立った場合
過去スレ及び現行スレが一気に飛ぶ危険性があるからだ
この騒動で愛想尽かしたのなら他所に行けばいいし
俺には関係ない、そんな狭い世界のことなどどうでもいいという身勝手な考え方なら好きにするがいい
俺らはいつでも Let it be
59 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 00:55:24
2チャンネルが無くなったら、いま無職の奴らが仕方なく就職活動
するので失業率が一時的に悪化し、経済的にネガティブな材料になってしまう。
そういう意味でもいまや2チャンネルは、世の中の裏事情の大事な受け皿になっている。
すまん・・・・・・縦目・・・・・・もういい、もういいんだよ
お前なりに考えてやってるのだろうが、いまここにいるのは
いつものゴミクズ九州説とそれを弄って愉しむ常連だけじゃないんだ
ご苦労だったな、このあと飲みに行くか?
61 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 01:14:05
>>54 作り話すんなや
誰が今の2ちゃんに、いつも通り遊ばせろなんてごねたんだ?
ゴミクズ以下の畿内説しか出てこないので、まったく期待していない。
63 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 02:29:26
■若狭最古の前方後円墳か 小浜・九花峰古墳、花園大調査
福井新聞 2010年9月10日
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/23572_5.html 福井県小浜市遠敷の「九花峰(きゅうかほう)古墳」(全長約45メートル)が若狭地方最古の前方後円墳である可能性が高いことが、花園大(京都市)考古学研究室の調査で分かった。
これまで若狭と大和政権とのかかわりを示す前方後円墳は5世紀以降のものしか見つかっていなかったが、九花峰古墳はその形状から4世紀後半の造営とみられる。
調査に当たった同研究室の高橋克壽教授は「(大和政権に食料を献上していた)御食国若狭の幕開けがこれまでより40〜50年さかのぼることが推測できる発見だ」としている。
8日夜、小浜市の県立大小浜キャンパスで開かれた古墳や製塩遺跡93件の活用法などを考えるワークショップで、高橋教授が報告した。調査は8月中旬から下旬にかけて5日間、測量を実施した。
九花峰古墳は九花峰山(標高130メートル)の山頂にあり、市指定史跡の検見坂(けんみざか)古墳群の頂点に位置している。
墳丘の高さは前方部約2メートル、後円部約4・5メートルで、1975年ごろの中世山城の分布調査の際に確認された。
今回の測量調査では前方部の幅が14メートルと狭く、後円部が2段のつくりになっているなど、4世紀にみられる「柄鏡形(えかがみがた)」の古墳の特徴を備えていることが判明。
これまで若狭最古とされていた5世紀初めごろの若狭町脇袋の国指定史跡、上ノ塚(じょうのづか)古墳(全長100メートル)よりも古い可能性が高まった。
九花峰古墳は、小浜市史編纂(へんさん)に当たって90年に行われた測量調査では5世紀後半と推定されていた。当時は形状の特徴を正確につかみきれなかった可能性があるという。
(つづく)
64 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 02:31:20
魏志倭人伝には、たった一つの墓しか記述が無い。
それも、にわか作りの卑弥呼の墓だけだ。
卑弥呼の墓が、いわゆる古墳かどうかも不明。
邪馬台国にかこつけて、若狭の古墳を論じても、あまり関係が無いな。
66 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 06:55:49
いやいや、若狭の古墳が最古のものでも4世紀後半などと言われているということは
畿内説の日本海航路説は考古学的に成り立たないということだよ。
>>65 > 魏志倭人伝には、たった一つの墓しか記述が無い。
> それも、にわか作りの卑弥呼の墓だけだ。
そうかなw
一曲歌います。
♪新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ イチ ニ サン
69 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 08:26:12
倭人伝に登場する各人物達の墓は、何処と推定されてるの?
それとも卑弥呼以外は死んだら墓など作らず
海にでも捨てたか?
70 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 08:55:30
>>70 多分、日本海ルートと言うのは、朝鮮半島>博多湾>出雲>若狭湾>畿内のことだと思ってるのでは?
本当に邪馬台国なんてものがあったのか?
、支那王朝は結構遅い時代でも周辺の政権にまるで無知無頓着だぞ。
たとえば、北宋の太宗は、史書の編纂を命ずるまで、隋・唐と盛んに往来した倭と、海東の日本とが、連続した
政権だとは知らなかったし、明の建文帝は臣下の一人に過ぎない足利義満を日本国王に封じたりしている。
元朝についての誤解、中華帝国の皇帝に蒙古人の皇帝が収まって極東を支配した、という解釈は20世紀まで
続いていた。単に、モンゴル帝国に数ある一支邦に過ぎず、モンゴル帝国の支配がヨーロッパやイスラム世界
にまで及んでいたことを理解できなかった。(イスラム世界でモンゴル帝国の支配をほぼ正しく理解していた
ことはガザン・ハンの勅撰集史で判る)
清国や中共は、台湾が自国領域なのかそうで無いのか判らないまま。
こういう人種が、往来もままならない時代の外国の世相を、把握できるとは考えにくい。邪馬台国の記述に矛盾
があるのも、無理解から生ずるもので、記述どおりの政権が存在したことじたい疑わしいし。
73 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 10:05:02
日本海コースの基本的な考え方だな。
東=ひがし=ひんがし=ひむかし=日向かし
日向の名は命名者が西側にいたことを表している。
75 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 11:31:27
>【喧嘩すんなよ】
これは無理だな。
人によっては、何がなんでも公認される絶対確かな事実・記録だけをいい続けるわけだから。
事実・記録に反する考え・意見は全て駄目。となると、
妄想・私見派とは喧嘩になるだろう。
喧嘩にならなければ嘘だよ。
事実・結論を出さなければ意味がないわけだから。
76 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 13:23:39
事実・結論…といっても2chの各掲示板を見るかぎり
各人それぞれが好き勝手に自分の意見言ってるだけで
みんなで“真実を突き詰める”という姿勢に欠けていると言わざるを得ない
77 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 13:35:30
>各人それぞれが好き勝手に自分の意見言ってるだけで
みんなで“真実を突き詰める”という姿勢に欠けていると言わざるを得ない
それでいいんじゃないの。
各自の私見・オナニーを禁止にすれば、掲示板が閉鎖的になってしまうからね。
世に認められていないいろいろな角度から掘り起こさせて自由にオナニーさせてればいいじゃん。
自由って素晴らしい事だよ。
78 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 13:39:47
>>76 そりゃあ一口に九州説といっても何十いや何百とあるのだから
甘木にあったと考える人と、日向にあったと考える人の意見が一致する部分なんてゼロといってもいいからね。
そんな状態で意見交換などありうるはずがない。
みんな「我こそが倭人伝の解読に成功した。他の説はすべて間違いだ」とかたくなに信じているから
意見交換しましょうという考えの人すら邪魔なんだよ。
ましてや考古学の提唱する連合説というのは、文献の信憑性を否定しているに等しいものだから、余計に受け入れなれない。
少しでも認めたとたんに、自分のやっていることが足元から崩れ去るからね。
だから冷静な人から弄られて遊ばれているわけだから。
79 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 13:50:42
>>77の例えを借りると
オナホ派や尿道派やアナル派などが、俺のオナニーが一番気持ちいい!って言ってるだけだから
そりゃあどうぞご勝手にってまわりは思っちゃうよな。
独りで黙ってやってるんなら別に構わないけど
俺のオナニーを見てくれ!とかオマエも尿道に目覚めろ!とかわけのわからないことを大声で叫ぶのでウザがられている。
それどころか、おれの精子で子供作ってください!と公の機関に持ち込むキチガイまでいる。
断られると、政府は俺の遺伝子を抹殺しようとしている!とか言い出すから、もうどうしようもない。
オナニー(自説)はSEX(学問)ではないときっちり自覚して
学問の世界にやってくるなと言いたくはなるわな、学問板の住民としては。
80 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 14:08:48
考古学の提唱する連合説;文字資料を含まない遺跡や出土物から(判るはずのない)国あるいはクニの間の政治的、外交的
な関係を論じる現代小説。
81 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 14:18:19
畿内説:三国志や記紀などの文献は信用できないと叫び、そのことに陶酔する人々の教典。
82 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 14:47:39
邪馬台国九州説とはコロボックルを卑弥呼と称して妄想する珍説のことである。
83 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 15:28:44
>独りで黙ってやってるんなら別に構わないけど
俺のオナニーを見てくれ!とかオマエも尿道に目覚めろ!とかわけのわからないことを大声で叫ぶのでウザがられている。
それが出来ない人達が2chにやって来て、自分の考える説を論じているんだろうな。
とにかくここは自由だからね。
中には、私見や妄想は厳禁とするまともな板もごくたまにみられるけど。妄想派にはそんな閉鎖的な場は堪えられないだろうね。
邪馬台国は九州
個人の考えを排除すること自体、真実の探求からは遠ざかるものだけどな。
何があり得ない、語る必要も無い論なのかの基準も人による。
まずそういう基準、あるいは議論の方法の議論するのもアリだと思うが。
まあ論理的にあり得ない説とかはあると思うが、
所在地の説に関しては、限定する要素が多く無いから、
色々な説が現段階ではあり得る。
86 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:11:33
それが邪馬台国の場合は、論理的・物理的に有り得ない説を連呼する奴が多いから困る。
3世紀当時の鉄器で畿内を征服したとか、マジでいうやつもいるんだぜ。
3世紀の畿内はまだサヌカイトが主だったとか
3世紀の九州が一大帝国を築いていたとか、ここはそんなのばっかりなの。
もっとあり得る九州説だったら、俺らも批判や同調を交えて議論するって。
87 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:22:21
だから、私見をやめて、あり得る九州説を言え、というのは、
九州説をやめろ、といっているようなものだよ。
オナニーやめろ、といっているようなもの。
88 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:28:42
>>87 九州説って、オナニーテロリストだってことだなw
電車の中で、女子高生のスカートに精液かけるようなものかw
日本語が日本語でなかった時代の話ですからね
言葉も地域によってまちまちだし
90 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:29:46
>3世紀当時の鉄器で畿内を征服したとか、マジでいうやつもいるんだぜ。
3世紀の畿内はまだサヌカイトが主だったとか
公表されている畿内の土器編年を否定する時点で、オナニーだろう。
箸墓築造が4世紀なんて、あり得ねーってば。
91 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:44:36
後漢代の画文帯神獣鏡と庄内式土器がホケノから出てきた時点で、
どうにもならんだろう。いくら喚いたって出て来たものは出て来たもの。
92 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:45:16
>>88 あまりにも下品で、あまりにも的確な例えに糞わろたわ
93 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:50:37
>>90-91 そこでかの安本美典センセイが頭を捻って考え出した珍理論がこれ
『庄内式土器の発祥は九州だ、だから畿内の土器編年は昔のように100年繰り下げねばならない』
情けないことに、これを信じちゃう人がいるんだよなぁ。
きっと幸福の壷やら高級羽毛布団やらのローンが大変なんだろうなあと同情してしまう。
94 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 16:52:56
>個人の考えを排除すること自体、真実の探求からは遠ざかるものだけどな。
それをやらんと、収拾が付かなくなるんだよ。
私見を排除しなければ、妄想・オナニーが繰り返される。
95 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 17:12:36
>>85の主張はまさにそのとおりで正論なんだけど
その正論が通用しないのよ、悲しいことに。
たとえば俺が日向説であなたが筑後説だったとしよう。
お互い批判や歩み寄り、時には2chらしくちょっとした罵倒も交えて、比較的おだやかに議論しているところに
突然、神武天皇がBC660からその両方を支配していた!おまえらふたりとも間違い!と乱入してきて
それを一日中毎日毎日、コイツ仕事してんのかよってペースで書き込まれたらどうする?
最初のうちは無視出来ても、それでスレが消費されてしまい、肝心の議論がまるで出来なくなるだろ。
しかも困ったことに、その人はどうやら意図的な荒らしではなさそうなんだ。
書き込むことが自分の使命だとすら思っている節さえある。
他にも、あまりに有り得ない意見だったので、参加者の殆どから否定されて逆ギレし
毎日毎日同じ内容の荒らしレスを書いてピンポンダッシュして逃げる奴もいる。
そういうのが特殊な例じゃなく、日々これに悩まされているというのが邪馬台国関連スレ。
中にはスレ立て連発して、板そのものを荒らす奴までいる。
あり得る説なら普通に大歓迎だが、やはりというかあり得ない説を書く奴ほど、こういう事を平気でやる。
96 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 17:28:51
97 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 17:47:15
>>95 それが2チャンだから。
それが欝陶しいなら、2チャンから足を洗うんだな
2チャンの掲示板は、私物じゃないからな
98 :
DoW:2010/09/11(土) 18:02:01
そうね。2chというのは、実は討論の場でも学問を進めるための場でもない。むろん良スレもあるし、有益な情報を得ることも
できる。しかし、ま、そこまでだな。2ch発で、新しい学説や発見が生まれたなどということは聞いたことがないし、ほとんどの
情報は図書館で調べればわかる類のものだ。
2chは不特定多数の人が利用する掲示板だから、さまざまなレベルの人が入り混じってる。自分と同程度のレベルの人とだけ
話したいと思っても、それはムリな話。・・1日1レス程度の過疎スレでなら可能かもしれないが、それでは満足できないだろう。
レベルの低いやつは、根拠のある話もできず罵倒や中傷に終始して、周囲を辟易させるが、そいつに書き込むなという権利も
またない。あまり目に余るようなら、運営がなんとかしてくれるだろうが。むしろ、この様々なレベルが集ってグシャグシャになっ
たままスレが進んでいくというのは、勢いのあるスレの宿命であり、実社会の縮図でもある。これが嫌なら、もっとレベルの高い
場所へ行くか、自分でブログを立ち上げて人を呼ぶしかない。
俺は・・・2chは奇妙な人間、程度の低い人間、頭の悪いやつを観察する場だと思っている。ヤマト王権の発生というならともか
く、邪馬台国問題はすでに議論し尽くされているだろう。
99 :
DoW:2010/09/11(土) 18:39:10
文献史学会では、倭人伝の解読による邪馬台国の位置比定についてはすでに見切りをつけているというか、その記述からは
特定不能というのが現時点での結論だろう。まあ今後の、新たな文献が見つかる可能性はゼロではないが。さらに、邪馬台国
の所在地について、これまで畿内・九州・その他を含めて数多の説が出ており、その中のどれかに正解があることも間違いは
ないだろう。
この現状認識を最小限の共有点として議論を進めていきたいとは思うが、「結論が出ないのは倭人伝を素直に読んでいないか
らである。」という人に対しては、そのロマン溢れる心根に敬意を表するしかない。「そうかもしれません、頑張ってください。」と。
100 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 19:05:54
>そこでかの安本美典センセイが頭を捻って考え出した珍理論がこれ
『庄内式土器の発祥は九州だ、だから畿内の土器編年は昔のように100年繰り下げねばならない』
かのセンセイは京都大学卒だろう。馬鹿じゃない。
もう薄々に事実は分かっているんだろうよ。世の流れも痛いほどに肌に染みているだろうなあ。
真相が分かりつつも、反対にこのような思い付きな珍説を言わなければならない状況に追い詰められている。
哀れを感じるね・・・。
101 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 19:20:27
おもろーない。
同じ事ばっかり。
いろいろ書き込みがあるが、どれもこれも電波の無駄。
俺は「河童節」を聞きたいだけだ。
気の効いた芸術の空気を求めている。新しさを求めている。2ch時代のマティスを求めている。
三国志の2ch版異聞を求めている。
河童は文才だ。
102 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 19:27:35
>>100 薄々にじゃなく完全に判ってるみたいだよ。
ホケノ山発表の後に出した「邪馬台国畿内説を論破する」という本では
鉄鏃の出土を記載しないという禁断のテクで、九州の鉄器優位を強調してたから。
その頃から「邪馬台国の会」から会員が次々と離脱し始めて
やっきになって会員から寄付を募りはじめたら、また会員が減った。
邪馬台国商売もマキムクショックからこのかた、空前の大不況を迎えているんだよね。
103 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 19:30:21
ペテン師安本なんか、九州説論者のほとんどが、便利屋としか使ってないよ。
△鏡やら箸墓やらに大挙してドッとなだれ込む畿内説に対して同様、
多くの九州説は、冷やかに見ているんだよ。
安本は、そもそもの歴代天皇の平均在位年代とか言い出したときから、
詭弁を使って儲けてやろうと考えていたのだろう。まだ、古代史が金を
産む時代だったんだな。
106 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:09:08
>文献史学会では、倭人伝の解読による邪馬台国の位置比定についてはすでに見切りをつけているというか、その記述からは
>特定不能というのが現時点での結論だろう。
結論がおかしいな。ピンポイントでの特定はできないが、邪馬台国が九州内であることは倭人伝の記述をよく読めば判るだろ。
安本は「1代10年」論で失敗しちゃったんだな。
俺みたいに「1世25年」論で考えれば、
卑弥呼が百襲姫、台与が豊鍬入姫、
卑弥呼の大甥にして台与の父がハツクニシラス・崇神に比定でき、
邪馬台(ヤマト)国畿内説に立てただろうに……w
108 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:15:52
高く買います。
ホケノ山出土の画文帯神獣鏡と庄内式土器が3世紀半ば以前に埋められたという証拠
109 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:18:46
>結論がおかしいな。ピンポイントでの特定はできないが、邪馬台国が九州内であることは倭人伝の記述をよく読めば判るだろ。
普通の文法で読んだ場合、何回読んでも九州から外れると思うけど。
試しに、高校時代の漢文の教師にでも読ましてみなよ。
世の中、放射式だと決着がついて確定しているわけではないしな。
110 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:23:18
>高く買います。
ホケノ山出土の画文帯神獣鏡と庄内式土器が3世紀半ば以前に埋められたという証拠
大人になれよ。
111 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:27:21
伝世鏡だったら、副葬しないわけだし、
後漢代の画文帯神獣鏡が出てきた時点で、やっぱり、ホケノ山古墳築造年代は3世紀半ば以前なのだよ。
馬鹿は側面から からかったほうが楽しいお。
113 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:33:22
>普通の文法で読んだ場合、何回読んでも九州から外れると思うけど。
どうしたら九州から外れるんだよ。邪馬台国は帯方郡から万二千餘里だ。一大国(壱岐)までで9千餘里だから
残りは3千里しかない。對海国(対馬)〜一大国(壱岐)間が千里だから3千里だと200km前後だ。
114 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:36:00
>>109 九州から外れるなんてことはないよ。末盧国から東南五百里が伊都国=佐賀市付近。
そこから南水行二十日が投馬国=川内市付近。伊都国から水行十日陸行一月が邪馬
台国=南九州。全然外れてないだろ。倭人伝の記述どおりだ。
>3千里だと200km前後だ。
スレをループさせる予定調和の世界。居心地いいだろ。w
116 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:41:45
>>113 >邪馬台国は帯方郡から万二千餘里だ。
残念ながら邪馬台国は万二千余里ではない。万二千余里は女王国。
女王国と邪馬台国は別の概念だよ。邪馬台国も確かに入るがそのほかに
邪馬台国傘下の諸国も含んだ概念だ。
117 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:41:52
放射式というのは、もともと中央アジア史が専攻だった榎一雄が
東夷伝同様に、まったく行程が一致しない西域伝の行程記事の整合性を求める為に編み出した奇手だからね。
今では東夷・西域ともに、そういう読み方はしないというのが定説となっている。
ただし全くの妄説というわけでなく、至と到や有と可の使い分けや
情報(距離・方角など)の順番に法則があるなど、三国志特有のルールを発見したことは高く評価されている。
118 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:42:11
>帯方郡から万二千餘里だ。
インドネシアに着くだろうよ。
素直に計算してみい。
119 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:44:20
120 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:49:37
>>117 >放射式というのは、もともと中央アジア史が専攻だった榎一雄が〜編み出した奇手だからね。
榎一雄が最初ではないよ。安藤正直のほうが先だ。
>今では東夷・西域ともに、そういう読み方はしないというのが定説となっている。
おいおい、君が読めないからといって妙な「定説」を作らないことだ。
大勢の学者が今でも放射説をとっているよ。
121 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:50:57
鯖崩壊でふだん邪馬台国関連スレ住民じゃない人もいるようだから、簡単に説明。
>>113は「短里」という、魏どころか当時世界中のどこにもなかった新単位を発明して説明する説。
>>114はそれプラス、「放射式」という読み方で、伊都国から先は伊都国を基点にして読むという説。
どちらも文献史学では採用されていない読み方。
122 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:52:57
>>120 >大勢の学者
具体名をどうぞ。大勢ということはせめて5人くらいは挙げてね。
あ、今まで挙げてきたような嘘の人名はだめよ。
壱岐のサイズから考えて、1里=約73mだろ。
124 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:53:37
>>118 郷にいれば郷に従えって言うだろう? 中国本土の里で計算したって
だめなんだよ。
125 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 20:59:56
>>123-124 なぜ倭人伝だけ、何の注釈もなく「短里」をつかうわけ?
韓伝は長里なのに。
倭人が短里を使っていて、郷に従ったとするならば
倭人が短里を使っていた他の証拠は?
126 :
ローガン:2010/09/11(土) 21:01:10
>>111 > 伝世鏡だったら、副葬しないわけだし、
その根拠はなんですか? 和泉黄金塚の景初3年画文帯鏡は、西晋の銅銭共伴。
鏡はいくばくかの伝世後、副葬では?
魏志倭人伝に、一大国が「方三百里」とあるのだから、短里だな。
韓伝は関係ないな。
128 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:04:16
>鯖崩壊でふだん邪馬台国関連スレ住民じゃない人もいるようだから、簡単に説明。
>>113は「短里」という、魏どころか当時世界中のどこにもなかった新単位を発明して説明する説。
全くわかりません。辞書にもありません。
一般人にも分かるように具体的数字を出して教えて戴けませんでしょうか?
>>114はそれプラス、「放射式」という読み方で、伊都国から先は伊都国を基点にして読むという説。
了解です。
邪馬台国探しって面白そう。
129 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:05:21
そもそも長里を使ったら日本に辿りつかないわけで
日本に収めるため、そして、松浦までの距離の推論から
短里が算出された。
パプアニューギニアが邪馬台国と認めるなら
その限りではないが。
130 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:06:43
>韓伝は長里なのに。
嘘言ってはいかん。
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里 とあるが、これは長里か?
131 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:06:59
>>125 韓伝の方四千里は短里だとされているのを知らないのかな?
132 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:08:16
とりあえず、短里説や放射式説は、ご新規さんが多くいると思われる今こそ
自説を丁寧に説明して、賛同者を増やす努力をするべき。
他人に説明してもらうなんて、みっともないぞ。
133 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:09:35
>>130-131 だから短里だとされているとか、誰が提唱しているの?
俺だけじゃなく皆にわかるように説明して。
134 :
130:2010/09/11(土) 21:14:07
僕は
>>125に説明を求めているのだ。方可四千里は長里(1里約430m)で書かれているのか?
135 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:14:21
>>122 安藤、豊田、榎、牧、山尾、井上、高橋、奥野、王金林なんて名前があがってるな。
学者とは言えんかも知れんが、久保田、安田らも放射説だ。
古田も放射説の変形だな。連続説ではない。
まあしかし、放射説ー連続説、短里ー公定里(この言葉は使いたくないが)などの話題は九州説諸氏にとっては安心できる自分
のフィールドだよなあ。昔ながらの、古き良き邪馬台国だ。ww
137 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:23:11
>>134 だから東夷伝のが短里で書かれていると、どうして思うわけ?
通常の長里だと九州に治まらないから、半島や松浦までの実測距離から導き出した説でしょ。
まず文献の数字が間違っているとなぜ考えない?
>>135 ご新規さんも多いのだから、フルネームでどうぞ。
ちなみに榎一雄は提唱者、山尾幸久は異端説と認識してあえて採用
王金林に至っては放射式を採用していないというのは、以前にも指摘されていたよな。
奥野正男は文献に関しては素人だぞ。
さらっと嘘をかかないように、ご新規さんの前で恥かくぞ。
138 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:23:50
>昔ながらの、古き良き邪馬台国だ。ww
今もなお九州説は新鮮だね。
139 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:28:06
長里だと九州どころか日本に収まらない。
「わが良き狼(ウルフ)」ww
141 :
130:2010/09/11(土) 21:30:38
>>137 >だから東夷伝のが短里で書かれていると、どうして思うわけ?
>>134への返答なのか?おかしいだろ。
>>125には「韓伝は長里なのに。」と書いているだろ。まともに答えてくれ。
142 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:33:00
>>141 正確には「韓伝や倭人伝のみならず、三国志に短里など使われていない」ということ。
西域伝でも、あきらかに寸足らずなのに「長々里」とか使われてないだろ。
143 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:33:58
>長里だと九州どころか日本に収まらない。
っていう事はここのスレで良くいわれるように、数字が間違っていた、という事でしょうか?
144 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:34:23
145 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:34:31
>>137 邪馬台国関連の本をある程度読んでいれば姓だけで分かると思ったがね。
それに、王金林が放射説を採用していないだって? 前に王の本を紹介した
だろうが。読み直せ。誰かが、「王は放射説のはずはない、図書館で調べる」
と喚いていたが、その後音沙汰がないな。王が放射説なんで黙っちまったん
だろう。君も調べてみたらどうだ?
146 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:40:23
万2千里×435m=5220km
鹿児島から稚内まで直線で1800km
大体日本の本州九州北海道の距離の3倍
147 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:40:28
>>143 そうではないよ。一里=430メートルとはちがった単位で書かれていると
いうことだ。
148 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:42:21
>>143 そういうこと。三国志には周辺外国への行程記事が多く載っているが
どれひとつとして、方角・距離ともに実測と一致するものはない。
普通なら、「ああこれ三国志が間違ってるんだな、まあ昔だからしゃーないか」と考える。
ところが東夷伝だけは「短里」です!と、世界中どこを探しても(他の文献を当たっても)かかれていない単位を作り出しているわけ。
ちなみに長里(魏・晋の公定里)ではそこまで届かない地域もある。
そこも「長々里」やら「長々々里」を捻り出して考えるべきとでも言うのだろうか?
149 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:43:41
>>145 邪馬台国関連の本をそれほど読んでないご新規さんに、丁寧に説明する気はないみたいだね、このひと。
150 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:46:10
>>148 じゃあ、具体的に一致しないものを10ほどあげてみて。
152 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:58:17
>> 伝世鏡だったら、副葬しないわけだし、
>その根拠はなんですか? 和泉黄金塚の景初3年画文帯鏡は、西晋の銅銭共伴。
鏡はいくばくかの伝世後、副葬では?
その4世紀に築造した古墳に眠ってる方は、実は3世紀の方だったんじゃないの。
どっちにせよ、3世紀に中国と付き合いがあった勢力なんじゃないか。
この事例をホケノに応用したとして、ホケノが4世紀築造だったとしても、眠っている方は3世紀にあった勢力だろう。
153 :
130:2010/09/11(土) 21:59:10
>>142 韓伝にしても倭人伝にしても魏の公定里(僕もこの言葉に違和感を持つが)では書かれていない。別の基準による里で書かれて
いるとしか考えられない。現代の地理で見れば倭人伝の1里は約80mである。倭人伝の行程が実際の約5倍に誇張されて書かれ
ているのか、あるいは帯方郡では約80mというのが慣行の里となっていて、魏使に随行した帯方郡の書記官がその慣行里で書い
た報告書を陳寿がそれと気付かずそのまま採用したのか、理由はいろいろと考えられるが、公定里でないことは明白である。
154 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:59:21
ちなみに何かの文献(後の時代の中国史書でもいい)に
短里を使用した例がひとつでもあれば、短里説の可能性も考えていいのだが
全く存在しないので、これは「倭人伝の記事内容は疑うべからず、批判するべからず」という原理主義から編み出されたもの。
「聖書の内容を疑うべからず」という根拠で進化論を否定するようなものさ。
>>150 そんなめんどくさいことできるかw
一致するものをひとつでいいからキミが挙げればすむことだ、ひとつでいいぞ。
155 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 21:59:38
>>149 学者の名前を羅列したって大して役にはたたんだろう。それより、王金林の説でも
教えてやろうか。
王金林「古代の日本」134頁
対馬国から伊都国までの書き方は、その行程路線が直線連続走行であることを現し
ており、今日の中国語でいうならば、すなわち狗邪韓国から対馬国・一支国・
末盧国を経て伊都国に至るとなる。・・・しかし、伊都国以降はこれと違うのである。
公式を使って表示すれば「方向、国名、距離、方向」となり、行文の中には、行程路
線の直線連続走行を表す文字はない。・・・奴国は不弥国へ行く起点ではなく、不弥
国は投馬国に通じる起点ではなく、投馬国も邪馬台国へ行く起点ではない。・・・
はっきりしていることは、伊都国はこれらの国の協同起点である。すなわち、伊都国
から始まり、その行程を中国の俗語でいう「四至法」(日本では「放射式」という)
を取ったのである。・・・私の見方は、榎一雄氏の観点と一致するものである。
156 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:05:29
>魏使に随行した帯方郡の書記官がその慣行里で書い
た報告書を陳寿がそれと気付かずそのまま採用したのか、
理由はいろいろと考えられるが、公定里でないことは明白である。
ずばり、記録をそのまま信用しては駄目だ、という事でしょうか?
157 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:08:11
書記官がどの程度の長さを一里として書いているか、それを考えて読めば
いいということだよ。そうすれば、記録を信用して問題はない。
158 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:09:44
>>152 いやホケノ山が3世紀前半築造と考えられるのは
画文帯のせいでも纏向型だからという理由だけでもないのよ。
庄内式の二重口縁壺や布留1式、さらに加飾壺や瀬戸内系大型壷、東海系中型壷など
それに吉備系の特徴を持つ鉄鏃などが出土した為、4世紀以降とは考えられなくなったということ。
これはなかなか難しいとこなんだけど、三国志は中国の知識人が読むものだから、短里で書かれていることに気がついたなら
公定里に直すべきと思われる。ところが陳寿は直していない。これはミスともいうことができるし、「原文をみだりに改定しない」と
いう原理が、陳寿の誤りを認めているともいえるわけだ。皮肉だなあ。
160 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:12:43
>公定里でないことは明白
しつこくてすみません。
だったら、どうやって、計るの? 基準がはっきりしなくて曖昧なんですよね。
魏志倭人伝ってやっかいなしろものですね。
やーめた。
本能寺スレに逃げろ!
あ、古田は三国志すべて短里説か。それだと矛盾はないかもしれないが、無理に無理を重ねた論だな。w
162 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:17:11
>>156 信用しては駄目というのは基本。
比較対比できる複数の史料を検討して、はじめて大まかな筋書きが得られる。
具体的に言うと「信長公記」には比叡山焼き討ちが一切書かれておらず
「信長紀」には見てきたように具体的に書かれている。
元々の信用度は「信長公記」がはるかに上だが、あまりに具体的だったので長らく歴史の謎だった。
これを解決したのが1979年の滋賀県教委による比叡山の発掘調査。
その結果、延暦寺周辺には焼き討ちと見られるような炭化物や、焼土がほとんどなかった。
これによって焼き討ちはつくり話と判明した。
163 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:18:58
中国にも里があるから混乱するのかも知れんが、東夷の諸国は中国とはちがうんだ
からなあ。中国とちがった単位を使用していたとしても何も不思議ではない。
164 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:19:01
>これはなかなか難しいとこなんだけど、三国志は中国の知識人が読むものだから、短里で書かれていることに気がついたなら
公定里に直すべきと思われる。ところが陳寿は直していない。これはミスともいうことができるし、「原文をみだりに改定しない」と
いう原理が、陳寿の誤りを認めているともいえるわけだ。皮肉だなあ。
人間、誰でも間違いはある。
仕方ないよ。
165 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:20:08
結局、短里は一般人には通じなかったみたいだね
166 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:25:58
>>164 公定里に直すべきだというのが思い込みだろうな。当時の知識人は、東夷で別の
単位を使用していたことを知ってたんだろう。だから、原記録をそのまま採用し
た、つまり何もミスはないと考えるべきだ。
なぜかといえば、万二千里をそのまま公定里とすれば誰かが言ってたようにパプ
アニューギニアあたりになるんだろ。中国人は皆、そんなことは分かっているは
ずだ。それなのに、一方で万二千里と書きながら一方で会稽東冶の東としている。
これはその万二千里が公定里でないことを知ってたからだよ。
167 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:27:47
>>166 会稽東冶の東というのも間違いなのだがw
168 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:33:08
少しずれてるが、彼らがどうゆう計算をしたかを考えると、理解できる範囲の
ずれだよ。
www
>当時の知識人は、東夷で別の単位を使用していたことを知ってたんだろう。
推測に推測を重ね、仮定に仮定を重ね、親亀こけたら皆こけた。ww
170 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:43:45
■ガラス玉類 大量出土
朝日新聞 2010年09月11日
http://mytown.asahi.com/tottori/news.php?k_id=32000001009110002 弥生時代後期初め(約1900年前)の遺跡「松原1号墳丘墓」=鳥取市松原=から計521点の勾玉(まが・だま)や管玉、小玉で作ったガラスの装飾品が見つかった。
県内でこれほど大量のガラス製品が見つかったのは初めて。鳥取市埋蔵文化財センターは11日に現地で説明会を開く。
松原1号墳丘墓は東西約13・5メートル、南北約12メートルで、湖山池南岸に面した標高22メートルの丘に位置する。
内外に約30基の埋葬施設があり、このうち頂上部の4基から勾玉で作られた首飾りなどの装飾品と、鉄製の刀子(短刀)や鏃(やじり)の副葬品が出土した。
ガラス玉類は九州北部と丹後地方が二大分布圏とされ、その他の地域で大量に出土する例は珍しいという。
鳥取大学地域学部の高田健一准教授(考古学)は
「ガラス玉は加工拠点の丹後地方などから持ち込まれた可能性が高い。近畿や九州との交流の歴史を知る貴重な資料になる」
と話す。ガラスは当時貴重で、墳丘墓はこの地域を治めた有力な首長の墓である可能性があるという。
今回出土したガラス玉は鮮やかな青い色を保ち、玉の配列もはっきり分かる。高田准教授は「当時のデザインも知ることが出来て興味深い」と話している。
現地説明会は11日午後1時半から。問い合わせは市埋蔵文化財センター(0857・22・0366)へ。(才本淳子)
・出土した青色の勾玉と小玉をつなげた首飾り=鳥取市埋蔵文化財センター提供
http://mytown.asahi.com/tottori/k_img_render.php?k_id=32000001009110002&o_id=9155&type=kiji
171 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 22:47:15
>>169 合理的な推測だよ。魏略を書いた魚豢も直さなかった、陳寿も直さなかった、
范曄も直さなかった。となれば、彼らには理解できる数字だったと考えるべ
きだろう。
www 現代の中国人研究家で短里などと言ってる人がいるのかな?古代の中国人には一般的な知識だったが、いつの間にか
失われたと。そして日本の一部研究者だけがその事実に気付いているわけだ。ww
今の中国人は、魏志倭人伝をほとんど研究していないから、心配するな。
それはない。現代政治で海底油田などの領土問題があるから、きちんと整理されているよ。ま、自分らに有利な部分しか
引用しないだろうが。むしろそのあたりのことを、おろそかに、曖昧にしているのが日本。
175 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:00:30
もう大勢は決まったみたいな雰囲気が漂ってるね。
この先、結局王仲殊が正しかったことになるのかな…
176 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:01:29
現代の中国人研究家であろうと古代の書籍なんて、
現代の日本人が万葉集や記紀を扱うのと同じ感覚だろう。
いや、古代とは民族的に異なる中国人の方が
自国の書籍を理解する方が、日本人よりも難解かもしれない。
177 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:02:08
伊都国から女王国までの距離千五百里というのはどの程度か、倭人伝はどの程度
の距離を千五百里といっているか、先の王金林はそうゆう考え方をしているよ。
実質的に短里を認めて考察を進めている。
公定里で計算するなんて馬鹿なことはやってないね。
178 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:03:14
>>175 >王仲殊が正しかったことになるのかな…
えっ?三角縁の話に突然変化か?
179 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:06:55
>公定里で計算するなんて馬鹿なことはやってないね。
あのー、すごく不自然な文章に見えるんだけど・・・
180 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:13:38
>>179 そうかね。君が倭人伝を読んだことがないからだろうね。
181 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:15:09
>合理的な推測だよ。
あ、そう、推測、つまり、私見ね。
>魏略を書いた魚豢も直さなかった、陳寿も直さなかった、
范曄も直さなかった。となれば、彼らには理解できる数字だったと考えるべ
きだろう。
理解できないから、直せなかったんだよ、
つうか、間違っていないにせよ、間違っているにせよ、伝わる原文に忠実になっていただけ。
182 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:17:00
>魏略を書いた魚豢も直さなかった、陳寿も直さなかった、
范曄も直さなかった。となれば、彼らには理解できる数字だったと考えるべ
きだろう。
強制、押し付けはよくない。
183 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:20:20
まあ、たとえ公定里を使ったとしても
畿内にはどうやっても辿りつかないとは言える。
だから、畿内説で最近良く出てくるのは
倭人伝完全デタラメ説
だが、完全にでたらめだとすると、どうやって畿内に行く
根拠を提示するのだろうか。
184 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:25:18
>>183 だから短里や放射説を使って、素直じゃない読みをしなければ、君の邪馬台国は九州に比定できないんだろ。
さっさと倭人伝の記述は不確かだから、参考に出来ないという畿内説と同じ考えにすればいいと思うのに。
倭人伝を捨てられないの?
185 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:26:58
>>181 >理解できないから、直せなかったんだよ、つうか、間違っていないにせよ、
>間違っているにせよ、伝わる原文に忠実になっていただけ。
君のは不合理な推測。有能な史家が、自分の理解できない文章を史書に取り
込むはずはない。まちがった文章をそのまま取り込んだら、自分のまとめた
史書がまちがいだってことになる。
倭人伝に書かれている邪馬台国を探しているのに
倭人伝を捨てて、なにを探そうとしているのだ?
邪馬台国という名前だけが欲しければ
どこにでも比定できるがね。
それこそパプアニューギニアでもね。
187 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:29:12
>だが、完全にでたらめだとすると、どうやって畿内に行く
根拠を提示するのだろうか。
倭人伝行程で畿内へ行こう、となんて考えていないんじゃないの。
何が何でも倭人伝行程じゃないからね。
畿内派と九州派とでは発想が違うんだよ。
188 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:29:51
>>184 >短里や放射説を使って、素直じゃない読みをしなければ、
倭人伝が短里を使い、放射式を使って書かれている以上、それをそのまま
読むのが素直な読み方なんだよ。素直に読むというのはそうゆうこと。
189 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:35:09
>君のは不合理な推測。有能な史家が、自分の理解できない文章を史書に取り
込むはずはない。
と思うのは自由だが、人に押し付けはしないでね。
俺はそうは思わないから。君のいう事は説得力不足。
>まちがった文章をそのまま取り込んだら、自分のまとめた
史書がまちがいだってことになる。
原文に忠実に記すのだから、それでいいじゃない。
遠く離れた島国の事だから間違っていたって誰も咎めないよ。
190 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:39:45
これ、いつまでたっても決着が付かないと思う。お互いに平行線だよ。
魏志倭人伝の行程を絶対的な根拠にするのって、無理なんじゃないの。
この辺が魏志倭人伝の限界なんじゃないかな・・・
191 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:43:37
>>190 それが判らない人がいる。
自分が素直読みなら、他の九州説は全部素直じゃない読みをしていると主張しているのにすら気付いていない。
192 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:46:34
私は倭人伝の行程通りで何の無理もなく結論がでると言ってるだけだよ。
倭人伝と関係なく、好きなところに比定したいという人とは平行線になる
ことは仕方ないね。
193 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:48:34
九州説の場合、大抵の各論の九州説は、
情報量の8割は一致する。
残りの2割で各地に分かれる。
だが、畿内説が倭人伝を捨てた場合
全く一致しない事になる。
194 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:50:15
>>193 >九州説の場合、大抵の各論の九州説は、
>情報量の8割は一致する。
>残りの2割で各地に分かれる。
それじゃあ役に立たないのではないですか?
>九州説の場合、大抵の各論の九州説は、情報量の8割は一致する。
この人たちはほんと面白い。結論が違えば、
途中までは合ってたとしてもやっぱり「素直読み」
でないことは認めるんだろう?
畿内説は、魏志倭人伝中、都合のよいところだけ2割を取る。
九州説は、魏志倭人伝中、意の通る8割を取る。
この違いだね。
197 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:53:42
>>196 8割とって結論バラバラですか、やはり役に立ちませんねえ、倭人伝。
198 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:55:32
素直に読むというのは、それが正しい読み方につながると思うからだよ。
しかし、素直に読むことを心がけても読み方を間違えることもある。
そうなると、結論がずれてしまう、間違ってしまうということだね。
199 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:57:14
さてここまで読んで、ふだん邪馬台国スレにいない方々は
短里・放射説の素直読みを支持しますか?それともしませんか?
正直なご感想をお願いします。
なりすましはこの際だからご勘弁ください。
200 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 23:59:37
畿内説って存在してはいけないような気がしてきた。
つーか、なんで畿内説なんて存在すんのよ。
201 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:03:22
日本の古代史研究の停滞は、本居宣長の邪馬台国九州説が大きな要因。
なぜか、この説を信じるやつに、極右と極左が多い。
極右は、神武東征伝承と、中国に朝貢した卑弥呼が気に入らない説。
一方、極左は、九州王朝説、反皇室思想から。
つまり、極端なやつほど、邪馬台国九州説。
ほんとう、まじで消えてほしい、邪馬台国九州説。
おまんらのせいで、日本の古代史全般が停滞しているんだよ。
畿内説が倭人伝を捨てたというのは
畿内説を捨てたのと同義である。
203 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:10:17
>>199 具体的に説明していないから判断しようがありません。
せめてどの国が今のどこなのか書いてください。
むしろ具体的に書くのをわざと避けているようにも見えます。
204 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:10:23
つまり邪馬台国論争からは下りました、とw
>>201 いやいや、畿内説のほうがもっと酷いから心配するな。
「卑弥呼などは九州野蛮人の女酋長」だの
「田舎の女酋が倭人の代表と偽り、魏に使いを送っただけ」だの、
「劣等シナ人に頭を下げた女酋長は、大和朝廷と無関係」といった
かつての皇国史観九州説はみんな、いまの畿内説に転向していったわけ。
九州説には、まともな人が残ったというオチだ。
この板の九州説というのは、畿内説にいちゃもんをつけてなんぼというか、精神的なカタルシスが訪れるというか、自分たち
同士で、バチバチやり合うなんてことは決して望んじゃいないことは「九州説チャンピョン」スレの惨状を見れば明らか。まあ、
2chの利用の仕方は自由だけどね。
日本の古代史衰退の原因の1つは、古田なるインチキ歴史家により妄想を受け入れる土壌が既にできたいたことだと思うのです。
教科書で教えない歴史があまりにも多すぎる。中国史でいえば唐の時代から歴史を教えているようなもの。
何もないところからいきなり奈良の都ができて律令政治は始まったわけではありません。
そこに至るまでの長い長い歴史の積み重ねがあって、漢字が普及する前にもそれぞれの地方ごとに文字が存在したことを学校で教える必要があります。
大人になって、いきなりそういう話を聞くと、大人の麻疹みたいに睾丸がとろけてつんのめってしまうのです。
208 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:28:32
>>206 はたから見ていてもそう思いましたね。
本当は九州説の人というふうに、ひとくくりにはできないんでしょ。
それなのにおたがい議論はしないようですね。
209 :
水銀厨:2010/09/12(日) 00:30:23
210 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:33:05
>>193 >九州説の場合、大抵の各論の九州説は、
>情報量の8割は一致する。
>残りの2割で各地に分かれる。
ちなみに2:8と言えば「パレートの法則」とか「ユダヤの法則」と言うのがあるがw
一体何処から二割だの八割だの算出してきたんだ?
知ったかぶりの厨房臭がプンプンしてくるんだが(ひょっとしてサイキバ?)
算出の根拠聞いたら不味いか?wwwww
放射状読みと連続式読み
魏使は卑弥呼の下に赴いた赴かなかった
膨大な日数は郡からのトータル所要時間
その他諸々…情報の”量”の問題じゃすまないだろうとwwww
211 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:33:43
>>205 まともな九州説は、倭人伝の素直読みなんて言い出さないよ
なかなかいい具合にスレが流れていますね。
いい傾向かと
それから、ここのスレが満杯になっても
私は次スレを継続し立てないので、後は住人さん同士で話し合って下さい。
m(__)m
では、続けて下さい
213 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:39:33
>>208 その「傍から見て」という言葉の語源なのですが、
常に時の権力から少し離れたところから、いわゆるアウトサイダーとして客観的に世の中を眺めてきた氏族がいます。
それは秦氏といいます。
「私は自分自身を客観的に見る事が出来るんです あなたとは違うんです!」 福田総理、
クールビズの先駆者羽田総理、彼らこそ傍から見ればどうのこうのということのできる秦氏の子孫なのだと思いますね。
214 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:46:33
素直な読みをしないなら、それはまともな説ではないな。
215 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 00:53:08
元九州説者が現九州説者にちょっかい出さなければ
以外と九州説と畿内説の住みわけが出来るのでは
ないだろうか?
純粋な畿内説者に溶け込めない元九州説者が、自分のポジションの揺らぎを
説を曲げない九州説者をおちょくる事で、心の安らぎを得ているのではないだろうか?
九州説を一番許せないのが、元九州説、現エセ畿内説者
216 :
ローガン:2010/09/12(日) 01:13:21
太国日記
縦目君は「太国日記」なるものを入手した。それによると…
「○月×日僕は唐松父ちゃんの言い付けでスーパーwwwに暦を買いに行った。暦は10円で売っていた。
僕は唐松父ちゃんから預かった1ドル札で払った。商品の暦一冊とお釣り40円を唐松父ちゃんに返した。」
この日記を読んだ縦目君はその日の為替レートを調べたが1ドルは100円だった。
おかしいなあ?と思ってこの話を友人の短里君に話した。すると短里君は激昂。
「太国日記に間違いなどない。おかしいと君が感じる部分、つまりレートは、その時太国君の町でのみ通用していたものだ。
現に唐松父ちゃんもその件について太国君やwwwを糾弾していない。 初めから『間違っている』と云うような考え方をする事自体が誤りだ。
太国君の町にのみ通用する為替レートがあったと考えれば、いいだけ。太国日記を素直に読む事だ。」
縦目君は、背中に寒気を覚え、何もいい返せなかった。
ローガンよ、きわめてツマラン。
218 :
ローガン:2010/09/12(日) 01:29:50
そう。それは残念。
>>216 太国さんのほうが、唐松山さんより年寄りなのではないですか?ww 太国さんはアク禁なんでしょうかねえ。
220 :
ローガン:2010/09/12(日) 01:37:13
>>219 サーバーがおかしくなっているんでしょう?規制なんてあるんですか?
毛嫌いされてるauですら、書き込み出来るんですが…
では、ご逝去されたのかも。ww
222 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 01:57:38
>>205 ほら、また極端なことをいう
邪馬台国九州説論者発見。
ほんとう、極左と極右に好かれる邪馬台国九州説ww
223 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 02:01:54
224 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 02:12:15
>>199 古代史は素人同然なのですまないが畿内説の根拠も知りたい
またその短里節というのが、魏志倭人伝を拡大解釈した説ならば
拡大解釈しない説もあるのだろうか
いずれにせよ、魏志倭人伝だけでは発見できなかった邪馬台国が
昨今の考古学の見解がどうなっているのかなど、不勉強で申し訳ないが最新の情報をお聞かせねがいたい
225 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 02:26:35
>>220 規制は今もなお継続しているようだね
それはSETTING.TXTとは違う次元で制限しているから
今もなお鯖規制が漸次発動していることからも推測できる
ただkamomeに関しては、今はほとんどカオス状態で
崩壊前の規制が生きている板と、リセットされた板がある
226 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 02:35:35
>>224 畿内説でいろいろあるけど
一番有力なのは、箸墓古墳=卑弥呼の墓という説。
この場合、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の政府というのは
日本書紀に書かれている、
ヤマトトトヒモモソ媛命と崇神天皇の政府ということになる。
つまり、卑弥呼の邪馬台国ってのは
ヤマト王権の崇神天皇時代の話となる。
227 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 02:46:51
邪馬台国時代、つまり西暦3世紀のころの日本というのは
どのような王制だったのかというと、
祭祀王と俗世王の二人の王がいる体制だったのは?と推測できる。
魏志倭人伝にも、卑弥呼とその男弟の二元体制を思わせる記述があり
日本書紀にも、ヤマトトトヒモモソ媛命と崇神天皇の二元体制を思わせる記述がある。
この場合、後に中国的な律令体制での天皇制度を導入するにおいて、
どちらの王を、歴代の天皇としてカウントするのかという
大きな問題になってくる。
まあ、ヤマトトトヒモモソ媛命は崇神天皇の父方の大叔母とされているから
彼女を歴代の天皇とカウントしても、何も問題がないのだが
卑弥呼が擁立される以前、倭国大乱よりも前に存在した男王の王統が
はたして、現在の皇室の祖先なのか?という大きな疑問が出てくるわけだ。
モモソ媛命=卑弥呼=祭祀王、崇神天皇=俗世王ならば、
倭王=祭祀王という解釈になるのだが、卑弥呼が擁立されるよりも前に
男王が存在していたそうだが、これも、おそらく祭祀王=倭王であろう。
しかし、神武天皇〜崇神天皇は、どう俗世王であり、
としたら、神武天皇〜崇神天皇の時代、彼らを上回る
祭祀王の王統が別に存在したことになる。
228 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 03:05:01
畿内説ってそんな妄想みたいな考え方でいくんですか?
どう読んでも、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは読めないな。
箸墓の時代考証も、無理やり卑弥呼の時代にあわせているな。
それから、ヤマトトトモモソ媛なんて、魏志倭人伝には一切出てこない。
230 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 03:44:07
卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命。箸墓=大市墓=神大市姫命=日女命=卑弥呼。間違いない。
231 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 04:01:03
箸墓は男性の墓だ。間違いない。
232 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 04:01:19
》》》決定;九州説チャンピョン に集まる畿内説
畿内説の根拠を探ろう に集まる九州説
住人の程度がわかって
なかなか面白い実験だった。
233 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 04:09:10
234 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 05:58:51
>>114で次のように指摘した。
九州から外れるなんてことはないよ。末盧国から東南五百里が伊都国=佐賀市付近。
そこから南水行二十日が投馬国=川内市付近。伊都国から水行十日陸行一月が邪馬
台国=南九州。全然外れてないだろ。倭人伝の記述どおりだ。
これに対し、放射式に読むのは間違いだという反論があったが、放射式に読めること
は多くの学者が認めていることで問題ないことを説明した。それ以上の反論はない。
みんな、これで倭人伝どおりに読んで九州に納まることを納得したかな?
ほかに反論があったら受けるよ。
235 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 06:16:03
魏の使節が邪馬台国九州説の人が言う行程で進むと太平洋に「ドボン!」となって行旅死亡人になります。
236 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 06:26:20
それは君の水行陸行の1日に進む距離の想定がまちがっているからだろう。
237 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 06:37:40
俺は、なぜ、皇室が欠史八代のところを
隠したかったのか、なんとなしに分ってきたけどな。
これは、卑弥呼擁立の切欠となった倭国大乱が大きな原因だわな。
あと、魏志倭人伝の邪馬台国の時代ってのは
倭国では漢字は広くは普及していなかったが
倭国政府の官僚の間では、中国王朝との外交の必要性から
漢字を使える人は、それなりにいたと思われる。
というか、西暦1世紀頃の新の王蒙の通貨が
岡山で多く発掘されるぐらいだしな。
中国の通貨が発掘されるぐらいだから
漢字なり、中国の事情にも詳しい人間はそこそこいたと思うよ。
こういうふうに考えたら、これまで長年、描きつけてきた
弥生時代のイメージとは、かなり変わったイメージになる。
238 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 08:07:30
>さてここまで読んで、ふだん邪馬台国スレにいない方々は
短里・放射説の素直読みを支持しますか?それともしませんか?
正直なご感想をお願いします。
なりすましはこの際だからご勘弁ください。
放射説は分かりますが、短里説は正直わかりません。辞書にも載っていないです。
古文献からその基準・解説箇所を引用して戴けますか?
239 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 08:24:36
>>238 短里説について明確に書かれた古文書はないよ。なお、中国最古の天文算術書と
いわれている『周髀算経』にのっている「里」の一里が、約76〜77メートル
になることについて谷本茂氏の論文がある。(季刊邪馬台国35号)
短里説にもいろいろあるが、要するに、韓が方四千里とか郡から末盧国までの里
数表示と実距離との対比から、倭人伝は1里=435メートルとはまったくちが
った1里=80メートル前後の表示になっている、だから万二千余里や周旋五千
里もそれによって計算すべきだという考え方なんだよ。
>>234 未だにそんな数字パズルしてるようじゃダメです。
241 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 09:08:02
>>240 倭人伝は邪馬台国への行程を具体的に書いているわけだから、それに合わない所は
論外なんだよ。畿内説を提唱した内藤だってなんとか行程記事との関係を説明しよ
うとしたんだ。今はそれができないってことが明確になったということだな。
243 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 09:24:38
>>243 邪馬台国への水行10日、陸行1月は行程というより
国の移動にかかる広さだよ。
里数表記じゃないのは正確に測れてないからな。
そこに70000戸数が入る。それ位の広さの国だな。
まあ讃岐辺りから奈良盆地あたりにかけてだろう。
245 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 09:56:47
>>244 北九州(伊都国)から南という方角の点はどうなったのかな?
国の移動という意味がはっきりしないな。国を横断するという意味?
それとも、国境から都までという意味かな?
246 :
水銀厨:2010/09/12(日) 10:08:16
>>245 名前忘れてました‥
方角は単に南とあるだけですよ、起点も伊都国なのか、
半島南部からなのかという議論もあります。
つまり現状ではその程度の精度ですな。
女王国まで満二千という距離も、入り口が大分か
廣島辺りなら数値的にも合います(パズル的ですが)
私は国の移動‥国を横断する距離と考えてます。
でも仮に宮が巻向辺りなら、国境〜宮までと
同義にもとれますけどね。
247 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:24:12
>>246 起点を半島南部とするのはトンデモだと思うが。とにかく、半島南部にしろ
伊都国にしろ、そこから畿内は南ではない。東か東北だな。「現状ではその
程度の精度」とごまかしたところで、倭人伝に合っているとは言えない。
万二千里を女王国の入り口とするなら合ってるといえるかも知れんが、
そのとき周旋五千里はどうするの?
248 :
水銀厨:2010/09/12(日) 10:33:01
>>247 畿内説で説明がつかないのが方角だけなんだよ。
もっとも畿内説といっても私は瀬戸内東部説(淡路島周辺)
だけどね。
その方角も、ずっと後年ですら方角間違いの地図がある以上は
精度を疑う余地は充分すぎる程ある、単に南だけじゃね。
周旋五千里も実は四国の事じゃと思う事もある。
249 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 10:50:46
>>248 方角はだめ。陸行一月もだめ(どこからどこまで? 何で一月もあるくの?)。
周旋もだめ(九州はどうした? 本州はどうした?)
渡海千里はどうする?
合うところはまったくないように見えるね。
邪馬台国は吉備だよ吉備。
特殊器台の分布から見ても大和に移る以前は吉備に王権があったことがはっきりしている。
播磨灘を囲んで吉備、淡路、讃岐、小豆島が大きな経済圏だった。
そして卑弥呼の墓は讃岐富士だったのではないでしょうか?
計百歩というのは山頂の墓の部分だけだと思います。
251 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:02:28
>短里説について明確に書かれた古文書はないよ。
これは痛いんじゃないでしょうか・・
結局は、晋で使われていた公定里を倭人の記録に使用してしまったのが間違いの元、陳寿のミス、となります。
現代の混乱の元凶は陳寿のうっかりミスにあるのでは。
252 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:11:47
>その方角も、ずっと後年ですら方角間違いの地図がある以上は
精度を疑う余地は充分すぎる程ある、単に南だけじゃね。
えっ!
そうなんですか?
その地図を未だ見ていないので分かりませんが、
その方角を間違えていた証拠の地図は製作元、製作年代がはっきりしているものなのでしょうか?
まさか、畿内説の方によって20世紀に作られたものではないでしょうね・・・。信用できるものなのでしょうか?
253 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:12:38
>>251 >晋で使われていた公定里を倭人の記録に使用してしまった
これが思い込みだね。陳寿は晋で使われていた里を書いたわけではない。
東夷で使われていた里を書いただけなんだよ。韓は方四千里なんて書いて
いる時点で、読者は中国の里ではないということを知るんだ。
254 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:27:19
だったら、どこかで説明しなければ、
東夷に行った事ない人ならば、記録を信用するんだから誰だって間違うよ。
やはり陳寿のミスですよ。
255 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:43:03
>>254 当時、史書を読む人はそれなりに教養がある人だよ。
朝鮮半島は、長く中国が郡を置き、軍を派遣するなどしていた所だ。
どの程度の大きさか、およそのことは常識としてある。
韓は方四千里と書いてあれば、読者は中国の里ではないということ
を知る。それが説明にもなってるんだよ。
それに史書に初めて短里を取り込んだのは陳寿ではない。
魏略を書いた魚豢か、それ以前の史家だろう。
256 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 11:46:48
未来永劫残す記録としてなら、基本的に修正しない方が良い。
当時の読み物としての解説なら、修正したほうが良い
257 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:02:23
文章は誰にでも分かるように書くのが大原則だよ。
分かる人だけが分かればいいなんて、陳寿は不親切だね。
258 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:14:37
誰にでもわかるように書いたつもりの記紀も
現代の日本人には理解できなかった。
文章は未来に理解される必要性はない。最低限書かれた時代に理解されればいい。
259 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:22:47
>文章は未来に理解される必要性はない。最低限書かれた時代に理解されればいい。
書かれた時代でも分からない。
東夷に行った事ない人・知らない人は、韓は公定理にて方四千里と間違う。
260 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:42:06
高級官僚は、遠い東夷の国にはいかないものです。
と思ったら大間違い。
APEC代表者会議のように魏に冊封を受けている国の会合が各国の持ち回りで開かれていたのです。
代表者会議の下ごしらえとして高級官僚会議、実務者会議もあって、
各加盟国の官僚は実は頻繁に行き来していたのだと思います。
その迎賓館というべき施設が、琵琶湖畔の伊勢遺跡で発見されていますね。
やはり、邪馬台国は、若狭湾に上陸して琵琶湖を通って・・・というルート以外に考えられません。
周の短里は、「穆天子伝」にも使われているそうな。
魏志倭人伝を、長里で解いたらめちゃくちゃだ。
262 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:55:13
>>259 だから間違わないようにことわり書きされた後に
東夷伝が組み立てられている。
編纂する側も、やみくもに伝を組み立てているわけじゃなく、細部にも気配りしています。
263 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:15:34
>韓は方四千里と書いてあれば、読者は中国の里ではないということ
を知る。それが説明にもなってるんだよ。
なっていない。韓を知らない人はどうなる?
264 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:24:55
>
>周の短里は、「穆天子伝」にも使われているそうな。
魏志倭人伝を、長里で解いたらめちゃくちゃだ。
なんで、倭人伝では、特別に周の短里を使うわけ?
倭人里とかいうのならわからないでもないけど。
265 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:28:55
短里を語る人に聞きたい。
一里は何メートルで計算するんだ?
それで1万2千里は何メートルになる?
1里は400m
これは魏志倭人伝全体を通じて辻褄がある距離。
ただし、千里とか万里というのは中華思想に基づいた誇張だから一緒にしても意味がない。
267 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:53:27
里は、面積単位井の一辺の長さ。
268 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 13:56:28
万里を中華思想云々としたのは
ずっと後世の話で、当該時代に組み込まれるべきものではない。
269 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:04:35
>>226 いつの時代の畿内説ですかwww
わざと大昔の考古学の未発達だった江戸時代の説を紹介するなんて
この人が単にアホなのか、わざとニセの畿内説をでっちあげて貶める安本美典の真似なのか。
>>268 思ってても口に出せなかったんでしょ北方優位でw
最近、畿内の研究者も市長さんや街の歴史愛好家も利口になって、箸墓=卑弥呼の墓などと軽率なことをいう人はいなくなりました。
箸墓を卑弥呼の墓とするには決定的な証拠がまだ見つかっていませんからね。
しかし、卑弥呼の時代に畿内に魏志倭人伝の記述を一致するような遺跡が多数みつかっており、
邪馬台国は畿内にあったという総論自体はまず間違いないと確信している節があります。
まあ、それとて、九州説が邪馬台国の候補地すらまとめきれず自滅している様子を見ての余裕のポーズということでしょうか。
九州は、いつも弥生時代から国としてまとめることができず、小国同士の小競り合いばかり繰り返してきた。
だからこそ大和朝廷は畿内に東遷したわけだし、勝負は最初から決まっているのです。
272 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:35:55
273 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:41:51
結局どっちも予算獲得のために
こっちだこっちだと言い合ってるだけの出来レース・・・とか言ってみる
まあ、奈良を掘ってる学者は奈良から資金貰ってるわけで・・・
東国原が金出せば九州説を唱えて掘り出す学者も出て来るだろう
金が出る場所がメジャーになるだけ
芸能界と変わらない
276 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:55:44
277 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 14:57:03
世界遺産という観光資源で食っている街の人もたいへんですね。
人の好みは移ろいやすいし、また新たな観光資源を開発しないと、
観光客の足はどんどん奈良盆地から遠ざかってしまう。
まあ、観光資源のない地域の市長さんが工業団地を造るように
奈良の市長さんは、穴掘りをさせているわけで、
公共工事で前方後円墳を作っていたころとさほど変わっていないのが人間の営みというものです。
278 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 15:02:04
東京タワーを昭和天皇陵、
東京スカイツリーを平成天皇陵として、
大阪にも通天閣というのを建てたがその勢力は極めて弱いものだった。
あの鉄の塔は当時の天皇の権力の強さを誇示していると主張する学者が2000年後に現れないともおかしくありません。
279 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 16:16:18
>>278 世界中からすべての史料が失われるような大規模核戦争でもあり、人類が死滅して
電波の存在を知らない異生物の文明が発生したら、そう考えるかもしれないね。
>>278その前に、お前の日本語、何とかならんのか。w
281 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:49:24
>>259 間違えるような人は読む資格がないってことだろう。
最低の常識は備えてないとな。
282 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:53:35
>>265 75メートルくらいとする説もあれば、90メートルくらいとする説もある。
まあ、80メートルで計算しておけば、大過ないだろう。
283 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 17:59:14
つい最近まで文盲率が相当高そうな地域だし
ましてや当時文字を読みこなせる人物なんて、ごく一部の人だけだろう。 書の世界なんて結構狭い世界さ
284 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 18:28:24
卑弥呼=モモソ媛命ならば、
ワカミヌケ(神武天皇)は紀元1世紀中ごろ前後の人物
さらに、忍穂耳命(皇室の最初の男系の先祖)は、紀元前1世紀中ごろの人物。
よって、ヤマトが出雲から禅譲を受けて建国した
出雲国譲りが行われたのは、紀元元年前後ぐらい?
285 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 18:31:38
>>271 弥生時代を通じて、大都市が
九州から近畿へ東遷したような形跡はないし、
その意味が分らない。
神武東征伝承原理主義者は、あの神武東征の意味を分っていない。
286 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:15:19
大都市なんて移動する必要なんてない。
極一部の人が移動し、移動した地で繁栄し、支配者となれば
未来の書で東遷と言う形で紹介される。
287 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:29:23
>間違えるような人は読む資格がないってことだろう。
最低の常識は備えてないとな。
なんだ、それ?
俺様に従えか、気は確かか。
一部の人にしか分からない文章を書く方がアホーなんだよ。
賢人は誰が読んでも理解させられる文章を書く。
288 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:30:26
>>286 その移動した地で繁栄した痕跡が全く無いわけだが
九州(の、どこでもいい)特有の文化が見られる集落遺跡が畿内に全く無いからこそ、東遷や東征が否定された。
289 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 19:57:20
倭人伝を公定理ではなく短里?で読むなんて陳寿に失礼じゃないかな。
公式の記録に、賢人陳寿がそんな見たこともない単位を使うわけがなかろう。
陳寿を馬鹿にしていない?
290 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 20:26:40
神武東征、神武東征というが、
そもそも、日本書紀や古事記には、神武天皇という人物は登場しない。
神武天皇という名前は、記紀が書かれた数十年後に
後から送られた名前である。
記紀に登場するのは、ワカミケヌという名の日向出身の豪族。
しかも、彼の曾祖父のニニギは、葛城の高天(高間)の出身。
このことの意味を理解すれば、皇室の創世記の謎が誰にもわかる。
>>290 日向出身の豪族 + 曾祖父のニニギは葛城の高天(高間)の出身
一貫性がない話にしか聞こえんがな
292 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 20:47:24
>>291 そこが大きな謎だw
そもそも、ニニギの時代に出雲国譲りがあったw
しかしながら、出雲国譲りというのは、
出雲と葛城を舞台にした話なんだけど
大国主が天孫に降伏したあと、なぜか、天孫ニニギは
九州南部の高千穂に移り住むわけだ。
地理的にみて、あべこべだろう?
なぜ、出雲を降伏させたニニギが、
宮崎・鹿児島に移住しないと駄目なのか?
奈良県御所市高天の高天彦神社ってのがある。
延喜式で名神大社とされた神社。
そこに、天孫ニニギは、この高天の地から
九州南部の高千穂へいったという社伝がある。
ここから、皇室が隠したかった謎が解けてくる。
それは、播磨国風土記、旧事本紀にも、
出雲国譲りの痕跡があったということ。
ただし、そこでは主役は、ニニギではなく、ニニギの兄のホアカリであり、
彼が、義理の父親(妻の父親)の大国主を負かす話になっている。
このホアカリ、別名を天照国照彦といい、これは、天津と国津の両方の支配者
って意味になる。つまり、高天原も出雲も両方をたばねたという意味。
男の太陽神アマテルとは、彼のことなのである。
オオクニヌシが北条で、ホアカリが足利(妻は北条の娘)、
ニニギが新田で、のちの皇室(大和朝廷)が徳川といったところか。
これは言い得て妙だな。
294 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 21:19:29
古事記を編纂する時に、オオアマ(天武天皇)とオオスミ(尾張大隅)は
大げんかしたらしいしな。
オオアマ(天武天皇)の名前は、尾張氏の配下の大海氏からとったものであり、
彼は若いころ、大海氏に養育されたことも分っている。
また、壬申の乱でも、オオアマ(天武天皇)乃軍の多くは、尾張氏の軍隊だった。
だが、壬申の乱ののち、彼は尾張氏に対して冷たくなる。
295 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 21:20:28
>>287 一部の人にしか分からない文章ではないな。みんな、分かってんだよ。
だから、誰も文句を言わない。
>>289 郡から公定里で万二千里の位置が会稽の東?
陳寿は怒るだろうね。「わしはそんな非常識ではない」ってね。
新田のほうが本家筋だし、足利は将軍にもっとも近い有力御家人だし
北条は公家将軍をかついでるし、全然たとえられてない
297 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 21:59:05
このところ「ゆるやかな(首長、交易)連合」論が影を潜めているな。最新の畿内説だとか得意げに喚いていたが、
全く面白味のない論だった。
57年に光武帝に朝賀して王の印綬を受けた倭奴国王は大陸の政治状況をよく知っていたと思われる。劉秀が封禅の儀
を執り行った翌新年の慶賀の使節を洛陽まで送っている。
107年には倭国王帥升も洛陽の皇帝への献見を願いでている。このように1世紀、2世紀に既に倭国には世界(中国
大陸や半島)に目を向けた指導者が居たのである。英雄や野心的な人物も居た筈である。
「ゆるやかな連合」論は3世紀の倭国を矮小化するもので、そこには人間の息吹がなく、ロマンもなく、要するに無
機的な作り物の匂いがするだけである。
きゃあー縄文人臭いわ。
299 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 22:39:20
>>297 倭の指導者層が、その世界から流れて来たものだったら
世界に目を向けるのは自然な事。
不思議な事ではありません。
300 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 22:41:07
洛陽まで使節を送り光武帝への朝賀を行うなど、小さなクニ(集落)の首長にできることではない。倭奴国王は博多湾近辺
(糸島市、福岡市)を支配下に収めていたのであろう。当時としては図抜けた大国である。
301 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 22:46:57
>全く面白味のない論だった。
そりゃ無敵の鉄器軍団の後裔たる大和朝廷が、僅か半世紀の間に無人の野を切り開き国力をつけ
アレヨアレヨというまに日本の大部分を征服しました…なんてお話と比べたら面白みの無い現実的過ぎる話だわなwww
面白さ至上主義の与太話はゴミクズ九州説の専売特許だwwwwwwwwwwww
彼我の力の差がなければ下手にでも出る。
少なくともタメと言うことで臥薪嘗胆、時を稼いで力を蓄える。
で、その力の差が大きく開いたら高圧的に出て相手を潰しにかかる。
全土を統一するような強大な権力機構が誕生するまで
離合集散・合従連衡を繰り返す・・・
もう当たり前すぎるほど当たり前の事を言っているに過ぎない。
そもそも「ゆるやかな首長連合なんてありえない」なんていっている学者がいるのか?
まあ俺が無知なだけで知らないだけなんだろうが
ゴミクズ九州説の連中には是非その有名どころの2〜3人で良いからご教示願いたいwwwww
(無論それは別に邪馬台国九州説を主張している学者でもいいw)
こんなピンポンダッシュが可能な匿名掲示板なら良いが
リアルで歴史に携わる学者が
「ゆるやかな首長連合なんてありえない」なんて言ったら
じゃあ「ゆるやかな連合体」と言う段階をすっ飛ばした形で
ヤマト王権の発生・発展を説明できるのかと言う話で
まあ精々ここのゴミクズ九州説の唱えるような九州王朝説的な与太話にしかならないだろうと思うがwwwwwww
302 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 22:51:55
「ゆるやかな連合体」と言う段階をすっ飛ばした形で考えればいいことだ。
最初から、強力なヤマト王権の発生・発展した、それで何がいけない?
303 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 22:59:16
毎回同じことを喚いているがよく飽きないもんだな ゴミクズ爺さん。
>そもそも「ゆるやかな首長連合なんてありえない」なんていっている学者がいるのか?
キミは学者の言うことでないと信じられないのか?自分の頭で考えたらどうだ。
キミのいう発展段階は九州では紀元前に終っているのだよ。
ところで、キミのフラストレーションも相当膨らんでいるようだ。そういう状態だと早死にするぞ。
酒を飲み、タバコを吸ってのんびりすることだな。
304 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:00:19
>>302 その強力なヤマト王権は空から降ってきたのか?宇宙から来たのか?
冗談は置いといて、どうやって突然そんな奇跡が起きたんだ?
それを説明できる奇跡の理論を是非お聞かせ願いたい
305 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:01:46
>>303 で、発展段階は九州なのに、なぜヤマト政権?
東征ですか?
306 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:02:40
お題『何故ゴミクズ九州説は「ゆるやかな首長連合」に噛み付いてくるのか?』
考えられる理由その1:とにかく噛み付きやすいからw
連中のような馬鹿にとってそれは多分に抽象的で
あやふやな観念論争のレベルでケチをつけることが可能で
ケチをつけたくてしようがないアホにとって最も攻めやすい・・・と考えている。
しかし実は「ゆるやかな首長連合」は様々な考古資料を検討していけば
そうならざるを得ない必然とも言うべき物、少なくとも現在一番蓋然性のある考え方で
その理屈が出てきた背景をゴミクズ九州説のアホどもは知らない。
「ゆるやかな首長連合」を単に邪馬台国畿内説の根拠として捉えているところが既にイタさ爆発なのに気が付いていないあたりwww
考えられる理由その2:イデオロギー的政治心情的なナニカゆえw
「ゆるやかな首長連合」と言う後に自身にとって不倶戴天の敵サヨクの臭いをかぎつけ
スイッチが入っちゃうw
考えられる理由その3:”大和VS九州”の枠組みから逃れられない旧世紀の遺物だからw
九州王朝説的な考えのこの板のゴミクズ九州説にとって邪馬台国論争は
「大和中心皇国史観」と自分達「九州版皇国史観」の戦いで
どちらが勝つか負けるかのガチンコ勝負wwww
その対決の前提自体ぶち壊されるような話には到底乗っていけるはずも無いwwwwwww
307 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:05:24
>>305 まあそういうことでやんしょう。なにしろ弥生時代の畿内の遺跡出土物から見ると九州に比べて相当遅れて
いたようだからね。
308 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:09:48
>>306 ゆるやかな首長連合というのは、古代史学で言う初期ヤマト交易連合のことですか?
もっと広い意味でヤマト連合以外の連合も含めて指すのですか?
309 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:10:40
>「ゆるやかな首長連合」は様々な考古資料を検討していけば
>そうならざるを得ない必然とも言うべき物、少なくとも現在一番蓋然性のある考え方
あほらし。蓋然性という言葉を使ってみたいんだね。
310 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:11:41
ヨコからだが・・・
>>304 >それを説明できる奇跡の理論を是非お聞かせ願いたい
勿論その奇跡の理論が最低の与太話であることを十分承知であえて聞いているんだろうがwwww
そもそも連中に拠れば無敵軍団・軍事国家の必須アイテムの鉄器も古墳時代初期のヤマトにはかなり貧弱
神武軍団は鉄器を九州に置いてきたと言うアホ丸出しのお話wwwww
311 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:12:28
>>307 弥生前期ならそうかもしれませんが、中期には西日本のほとんどがほぼ同等で
逆に後期では九州の優位性は崩れているというのが基本の考えだと思いますが
何か新しい証拠などが出て、その説が浮上したのですか?
312 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:13:56
>>306 あんたの自慢話はもう秋田から、ほかへ行ってくれ。
313 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:15:25
>>310 万一そういう話だったら、もはや歴史がどうこうの問題ではなく精神状態の問題ですが
東征とか言い出しているし・・・・・・本当にそんな根拠なのですか?
>>303
314 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:15:52
>>309 負け犬の遠吠えは聞き飽きたw
じゃあ、さっさと「ゆるやかな首長連合」よりよほど蓋然性のある仮説を出してみろゴミクズ…って話だなwww
少なくともリアルの学者じゃあそんな物を言っている奴はいなさそうだがwwwww
「ゆるやかな首長連合なんてありえない」なんて言っている学者を上げてみろ…と前から言っているが
いまだに一人の名も挙がっていないw
315 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:20:19
>>310 いやあまりにありえない話を自信満々に書いているので
一瞬こちらのほうが不安になった(笑)
何か新事実や新論文でも出たのかと思ったが、どうやらただのハッタリのようだね
316 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:26:40
連合だとか同盟というものは敵対する相手があるときにするものだ。それは「ゆるやかな」と形容されるようなものではなかろう。
「ゆるやかな交易連合」とはどのようなものだ?具体的に説明してみろ。
「私たちゆるやかな連合してます」なんて碑文が見つかったのかい? 考古学信者さんよwwwwwww
318 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:29:34
>>315 >一瞬こちらのほうが不安になった(笑)
それは良く分かるwwww
>>226 >一番有力なのは、一番有力なのは、箸墓古墳=卑弥呼の墓という説。
という説。
畿内説の根拠として挙げるのならそりゃ因果関係と言うか説明の順序として逆だろうとw
畿内ヤマトが邪馬台国として考えられるから「箸墓古墳=卑弥呼の墓」というお話が出てくるのであって
「箸墓古墳=卑弥呼の墓」という説があって畿内説が出てくるわけじゃないw
まあ箸墓に百人ほどの徇葬跡でもあれば話は別だがwwwwwww
319 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:31:42
>>314 まだ言っている。少し木瓜てきているんじゃないか?学者の話でないと信じられないのかよ。自分の頭で考えろと忠告してやっているのに
聞く耳持たずか。
半島を介した大陸との交易に関わる販路及びその周辺国による紳士協定同盟
この同盟の発動により、倭の品物の物価が上がり、同時に半島への軍事的パフォーマンスも高まった。
321 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:35:36
じゃあ自分も横から
>>308と
>>313が同一人物だとみなして
日本歴史学の中で古代史学を主に専攻する者は
暦年代BC150〜400あたりを、初期ヤマト交易連合の時代と仮称している
プレヤマト連合ともいうが、これ以外にも数々の交易を主とした連合の存在が仮定されている
その後のBC400〜650あたりを、初期ヤマト王権の時代と捉えている
この王権が磐石だったとは考えられてなく、様々な変遷があったと見てよい。
ただ初期よりは政治的な結びつきが強くなっている
初期のように交易のために連合した個別のクニグニよりは、密接なものだね
大和朝廷と呼称してよい中央政権が形を整えたのはもっとあとで
人によれば平城京遷都まで遅らせる見解もある
普通は天武・持統あたり
322 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:36:53
>>319 自分の頭で考えて、その結果が東征だったのなら、それはかなりキツイと思いますよ。
323 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:37:14
>畿内ヤマトが邪馬台国として考えられるから「箸墓古墳=卑弥呼の墓」というお話が出てくるのであって
倭人伝の記述からは「畿内ヤマトが邪馬台国として考えられ」るわけはないだろ。先ずそこの問題を解決してから言え。
324 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:38:32
>>319 そりゃリアルで学者という看板を出している人間の言う事は
少なくともこんな匿名の掲示板で言いたい放題与太を飛ばしている
ゴミクズ九州説よりははるかに信用できるがそれが何か?
「自分の頭で考えろ」?
じゃあはっきり言ってやるが「ゆるやかな首長連合」という段階・構図を抜きにして
ある時奈良盆地南部に発生した勢力がアレヨアレヨというまに日本の大部分を支配しました
…なんてのは与太以外の何物でもないwwwww
あえて学者の名を挙げろといっているのは念には念を入れてのお話と
あとオチョクリが半分だwwwwwwww
www 倭人伝教だな。神棚にあげて拝むとよい。
326 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:43:13
>>317>>319 強固な政治的結びつきを持たないクニグニが、多数の交易圏を形成しており
その中のどれかが邪馬台国連合として倭王の認定を受けたというのが
学者の意見とかそんなレベルの話でなく、もはや常識だと思うが
正直よくわからん
東征とか言ってるところを見ると、本気で鉄器王国の征服などを想定しているのか?
そんな話は聞いたことないぞ、あなたの作り話か?
327 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:43:50
>>321 あのなあ、BCというのは西暦紀元前のことだよ(before Christ)。紀元後のことだったらAD(Anno Domini)だ。
鉄器て日本だとたいてい、島根か岡山だけど
329 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:46:49
>>327 おおお!素で間違った、アタマ湧いてるなオレ(笑)
訂正アリガd
330 :
324:2010/09/12(日) 23:48:41
>>324の続きとして…
しかし今更言うまでも無いが「ゆるやかな首長連合」に噛み付いてくる
ここのゴミクズ九州説って結局は大昔の畿内大和中心主義・皇国史観的歴史観と何ら変わる事が無いw
ただ全国を平定した大和朝廷のその前に「九州から東征してきた勢力の後裔たる…」と言う但し書きをつけるだけwww
まさに『九州版皇国史観』で殆ど本来の皇国史観の亜流でしかないwwwwwwww
>>329 逆に、「強固な政治的結びつき」とはどんなものなのでしょうか。
332 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:52:34
>>329 いえ脳内変換したから大丈夫です^^;
>>321ありがとうございました。
初期ヤマト連合を、ここではゆるやかな連合と表現しているのですね
わかりやすいです
333 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:54:04
>東征とか言ってるところを見ると、本気で鉄器王国の征服などを想定しているのか?
無敵の鉄器軍団による東征という話はWWWが作り出したものだろ?
ちくしょう!
まだアク禁でPC使えんわ。
鯖パンコロになったんなら、アク禁ぐらい解除しろよ。
335 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:57:32
>>324 ある時、尾張に発生した織田と称する勢力がアレヨアレヨというまに日本の
大部分を支配しましたって話を知らないらしいな。
336 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 23:59:39
>>331 初期ヤマト交易連合は、交易や文化交流で繋がっている別々のクニの同盟みたいなもの
初期ヤマト王権は、それを母胎としてクニグニのなかに序列や派閥ができて
互いが主導権争いを、様々な方法で行い始めたもの
民主党の代表選挙みたいなものを想像してみて
東征っつうか移民だったんだろ
北九州世界の拡大現象がおこっただけ
アメリカだって、インディアンを責めるために大西洋渡ったわけじゃねえ
ヨーロッパの鼻つまみが新大陸に逃げてきただけ
でも、アメリカで勢力拡大する上で局所的に在来民族との戦闘があった。
それを東征っつってるだけだろ、どうせ
フロンティア精神だなんだって勇ましいが、逃げただけなんだよ
神武とか物部の系譜も似たように北九州からくいっぱぐれて
畿内に越してきただけなんだよ、はじめは交易もするし、血もまざるが、
でも拡大するにしたがって在来民と一定の衝突があった。
その歴史にすぎんと思うのだが
ただ、アメリカとのちがいは混血率の高さ。
弥生系と縄文系の血ってのは割と混ざり合るらしくて
西日本では弥生系の比率が高いらしいんだわ
日本最古の水田跡は縄文式土器で溢れてるそうだけど
日本語の形成からも考えて、在来種の言葉が主軸になっている
にもかかわらず、血で言えば弥生系が西日本を圧倒していると言っていい。
これは、はっきしいって、渡来人が暫時的に訪れて、宿借りて、繁殖したとしか思えんよ
338 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:00:08
弥生時代は輸入鉄器で九州
古墳時代以降は国産鉄器で山陰
339 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:00:53
>>335 戦国後期と弥生後期を同列に考えても・・・
340 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:02:25
>>335 一度「統一国家」と言うべきレベルの物ができた跡のお話と
全くその土壌がなかった時のお話を一緒にするな。
…ったく一々こんな事まで言わなければならんのか
341 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:09:10
畿内説というのは訳の分からぬもんですなあ。面白くもないし魅力も無い。
342 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:10:24
>>341 真実なんて面白くもないし魅力もないもんだよ、世の中往々にしてそんなもんさ、大人になれよ
343 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:10:40
一度できたら何がちがうんだ? できたときの連中は死んじまってるぜ。
344 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:12:23
>>343 人間関係じゃね?
おまえが、転校生でクラスすべてを〆るのと
おまえがもともと地元の人間で、クラスを穏和にまとめていくのとじゃ
ぜんぜん難易度ちがうだろ
信長は調略つかってるし
346 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:16:00
>>341 真実の匂いがしないからおもしろくないんだな。
畿内教とでもいうべき状態で、理由なく信じるかどうかだけの話だから・・
戦国時代の話は馬鹿げてるな。馬や車輪のある時代だし、なにより農村が組織化されて物資調達ができる。
軍は兵農分離した(実際はそうでもないが)専門職だ。卑弥呼の時代と比べるのは正気を疑われるだろ。
348 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:20:42
卑弥呼の時代に兵農分離していないと思ってるのか?
畿内から北九州、はては朝鮮半島まで攻め込んだってんじゃないのかね。
347ってなんの反論にもなってないと気付かないのかな
350 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:21:11
>>342 真実は面白いもんだよ。畿内説は例えれば「タバコは肺癌の原因だ」という主張に似ている。この主張は面白くない。
何故なら、真実ではないからだ。タバコを吸わなくても肺癌になる人が多く、近年喫煙者は減少しているのに肺癌患者
は増えている。「タバコと肺癌の相関関係はない」・・こちらの方が面白い。
どうたとえたら、タバコと肺がんになったんだよw
352 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:22:24
畿内教ねえ・・・九州説のほうが宗教じみているけど
俺には学問vs有象無象のミニ宗教の囀りにしか見えんが
353 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:23:57
>>348 そんなこと考えているひとって、ごくごく少数の歴史に詳しくないひとだと思います。
354 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:24:58
>>345 人間関係なんてものは、どうにでもなるものよ。弥生時代だから「ゆるやかな
連合」から出発しなければならんなんてことは全くないな。最初から強権的な
支配者が出て周囲を力でねじ伏せていくということだって十分考えられる。
355 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:25:59
>>350 それ、詭弁は面白いっていってるだけじゃんか
まあ俺も詭弁のほうが面白いうと思うけど。
356 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:26:13
>>351 ついつい畿内説が癌に見えたからじゃないかな。
357 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:27:45
>>354 十分は考えられないな、もの凄く低い可能性では考えられるけど。
それより宇宙人がUFOでやってきて加勢した可能性のほうが高いくらい。
358 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:29:57
あれか、九州説というのはオッカムの剃刀で片付く程度のものなんじゃね?
まともな論理展開がひとつもないんだけど
やる気のない反論にもうどうでもよくなくなってきているみんなの図
力でねじ伏せる必要なんて全くありません。
まず、その地域の首長に贈り物をして、警戒心が薄れたころに大宴会を開く。
酒でかなり出来上がったところで、卑弥呼様が登場。
大麻の香をたき、大麻のうちわを振りながら踊り狂う。
そして、1枚、そしてもう1枚と衣を脱いでゆく。
翌朝気がついた時には、接待された首長はもう卑弥呼様にメロメロ、抵抗する気力もなくなる。
鬼道で人を惑わすとはこういうことだ。
361 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:46:55
かといって、卑弥呼もひとりだけを相手にするわけにはいかんだろ。
ほかにも相手がいるとなると、嫉妬の恨みは怖いぞお
362 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:47:28
>>353 では、どうして、畿内は北九州を傘下におさめたの?
あるいは傘下におさめた事実はないという考え方かな?
363 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:47:59
>>360 いや卑弥呼に仕えた奴婢千人の中には若いネエチャンもいただろうに・・・
是非「チェンジ」の方向で、やり手婆はすっこんでろとwww
「ゆるやか連合がだんだん強力な連合になって、ついに大和朝廷になりました」
と、ありもしない予定調和説幻想を、あたかも事実のように言いたいがための
畿内説ゆるやか連合論。もう、腹が立つやらバカバカしいやら。
畿内説は、エンゲルスに脳みそを溶かされちゃったのか?
365 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 00:51:57
なるほど、奴婢千人とはそういう意味だったのか。
366 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 01:00:27
邪馬台国が魏に送った生口都は、若い娘ばかりだと思われますね。
合成麻薬で人生踏み外した押尾のように、次々と大麻中毒の廃人にされていったのだと思います。
そういう誘惑に応じない首長は力でねじ伏せるしかなかったのです。
367 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 01:04:14
>>364 エンゲルスねえ・・・
お前は
>>306の(2)のタイプかな?(ひょっとして怨み節?)www
>考えられる理由その2:イデオロギー的政治心情的なナニカゆえw
>「ゆるやかな首長連合」と言う後に自身にとって不倶戴天の敵サヨクの臭いをかぎつけ
>スイッチが入っちゃうw
予定調和も何もそれが現実w
「最初は処女の如く」がじゃながソフトに出て
やがて彼我の力の差ができて来れば高圧的に出て弱者を併合しより力をつけていく
…もはや当たり前すぎるほど当たり前の話。
ある時奈良盆地南部に発生した勢力がアレヨアレヨと言う間に全国統一って「わらしべ長者」じゃないんだからwwwww
まあゴミクズ九州説にとってはそれは九州からの東征勢力の子孫ゆえに当たり前の話なのかもしれんがw
そんな与太は右だろうが左だろうがリアルじゃ相手にされないって話だなwwwww
368 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 01:05:17
いやいや、ゆるやか連合ってのは、あちこちに似たり寄ったりの古墳が造られて
いることを説明するための詭弁じゃないかな。大王が強力であれば、大王の真似
は許さんとなるはずだが、現実にはあちこちに大きな古墳が造られている。
ゆるやか連合とでも言わねば辻褄があわない。
共同体を超えた、流行ってのがあるからね。
古墳時代の装飾古墳も、熊本を中心として岩手県にまで拡散している。
「装飾古墳ゆるやか連合」は否定するが、
「畿内を中心としたゆるやか連合」だけは存在したという、
非科学思考に溺れないと畿内説を信仰するのは無理だ。
370 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 01:41:40
371 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 02:10:59
372 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 07:11:30
畿内説が成立するためには、畿内が3世紀前半に北九州へ勢力をのばしていたって
ことが必要だよな。しかし、山口や北九州には銅鐸は及んでいない。畿内には鉄も
さして入ってきていない。畿内が北九州に勢力を及ぼしてた形跡はないな。
>>347 戦国時代でも、豊臣秀吉が
九州や関東へ攻めのぼった場合は
海岸線を船で輸送していたよ。
3世紀の畿内政権に、船団を運営するノウハウなどないな。
376 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:03:27
畿内が征服された形跡はいっぱいあるんだが・・・
377 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:19:17
>>376 ひとつふたつでいいから、具体的に挙げてみなw
378 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:23:33
鍵・唐古の滅亡、銅鐸の埋納、鏡の頒布、副葬習慣の流入・・・・
379 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:36:46
>>378 鍵・唐古の滅亡→大嘘、古墳時代中期まで続いている。しかも再開発により発展している。
銅鐸の埋納→時代が違う。というか具体的にって言ったのにまた抽象的な書き方でごまかすw
鏡の頒布→これも具体的に。どんな種類の鏡なんだ?
副葬習慣の流入→やっとまともなのが出てきましたね。先生それは考慮してもいいと思いますが、習慣であることをついに認めたんですね。
381 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 13:58:37
九州勢力にせよ畿内勢力にせよ
互いが互いを征服するには遠すぎる。
382 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 14:00:05
>>380 影響力で言えば、河内、吉備、東海、出雲、阿讃などのほうが
地元大和をはるかに凌ぐとも考えられるんだよね。
たぶん
>>376などは、九州vs畿内の一騎打ちみたいなマンガ的発想から抜けられないのだと思う。
それは30年以上も前に消滅した考え方なんだけど、そこから時間が止まっているのかな?
383 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 15:33:53
九州の中央権力からはじき出された神武が吉備などの豪族と組んで奈良に入り、農業や土木の改善を進めたお陰で
唐古・鍵集落も再建されたんだね。しかし、まだヤマト政権だとか王朝だとか言うにはほど遠い状態だったね。
ヤマトの大王が畿内の支配権を固めて周囲に影響力を持つに至ったのは4世紀の崇神の時代だね。ここからが古墳
時代の始まりだね。
384 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 15:42:14
>>383 >九州の中央権力からはじき出された神武が吉備などの豪族と組んで奈良に入り
どこのマンガの設定だよw
>ヤマトの大王が・・・4世紀の崇神の時代だね。ここからが古墳時代の始まりだね。
崇神が4世紀かどうか、全くの空想に過ぎないし、実在の人物かどうかすら怪しい。
というか、古墳時代の始まりは崇神なんかはまるで関係なく
纏向型前方後円墳の定型化の開始時期であり、それをごく初期とみるか巨大定型化の箸中山と見るかなどの説がある。
崇神がどうとかの理由で、古墳時代が開始されるわけじゃないよ。
385 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 15:58:37
箸中山古墳は崇神とされる者(4世紀初の大王)の墓だよ。発掘調査が行われれば判るだろうよ。
386 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:05:28
>>384 日本書紀にある倭迹迹日百襲姫の箸墓伝承は崇神の時代の話だよね。
初めての前方後円墳の築造だったからあのような伝承(昼は人が作り夜は神が作った)となったんだよ。
まさに古墳時代は崇神から始まった。
387 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:06:17
>>385-386 そんな妄想を断定的に力説されてもなあ・・・真面目に付き合っていいのかどうか悩むじゃんか。
まあツッコミとして、円筒埴輪をどう解釈するわけだい?
庄内式と布留0式や1式との整合性は?
388 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:08:54
>庄内式と布留0式や1式との整合性は?
悩むことはない。それらも4世紀の物とすればよい。それでめでたしめでたし。
むしろ崇神が3世紀後半つまりポスト箸墓つまり布留初期の人物なんだよw
戦後の学者がアホみたいに系図削除とかしまくって、
その割には心のどこかで墓は現陵どおりの行燈山だろうなんて思ってるもんだから、
邪馬台国と大和朝廷は別物であるとの潜在意識も重なって、崇神が4世紀の人物になっちゃった。
そうじゃないんだよ。崇神は3世紀後半、箸墓築造を契機に「前方後円墳体制」を創出した、
弥生社会と古墳時代との画期をつくった、まさにハツクニシラス大王だったんだよ。
先行するマキクク型古墳? それは本来の磯城・マキムクの有力者の墓だ。
その頃は崇神の大叔母が「ヒミコ」として君臨していても、その家が「大王家」だったわけじゃない。
だから大王家にとって崇神以前は「欠史」なのさ。
390 :
ローガン:2010/09/13(月) 16:22:30
>>227 >祭祀王と俗世王の二人の王がいる体制だったのは?と推測できる。
> 魏志倭人伝にも、卑弥呼とその男弟の二元体制を思わせる記述があり
> 日本書紀にも、ヤマトトトヒモモソ媛命と崇神天皇の二元体制を思わせる記述がある。
> この場合、後に中国的な律令体制での天皇制度を導入するにおいて、どちらの王を、歴代の天皇としてカウントするのかという大きな問題になってくる。
欽明紀のはじめにある山田皇后の話がヒントになりませんかね?
391 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:27:44
392 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:32:48
>>379 鍵・唐古が古墳時代まで続いた確証はないよ。環濠が埋められた時点で終わりだ。
その後の人々は、皆殺しされなかったというだけか、他の人々が移り住んだのか、
どちらとも分からん。銅鐸の埋納、鏡の頒布、問題があるなら具体的に書け。
副葬ってのは常に習慣だ。習慣だけが伝わってきたのか、習慣を持つ者が入って
きたのかは別問題。
393 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 16:35:23
>>392 その環濠が埋められたのが、古墳時代中期なのだが、なんでそんな嘘つくの?
>>392>>393 ヨコですが
>環濠が埋められたのが
後期末に埋まって、再掘削されてるんだよね。
395 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 18:22:20
環濠というのはどこの集落でも、埋まっては掘り埋まっては掘りの繰り返しだね
396 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 18:28:33
まあ唐古・鍵に関しては、一旦弥生後期後半には衰退しかけて
終末期に再整備され、弥生期の3倍近い面積に拡大して古墳中期ごろに
マキムクよりやや早く放棄されたというのが判明しているからな。
そうじゃないと須恵器も弥生時代のものになってしまうよ。
魏志倭人伝によると、
もともと倭王は建国以来に男王の時代が続いたが
やがて、倭国大乱がおこって、女王卑弥呼を共立して収まった。
この「共立」って言葉は、同時期の中国で使われたのをみると
いずれも、ある王朝の中で家督争いが起こって、家臣によって
一人の王族が国王にたてられケースのみ。
中世以降の日本で例えるのなら、
南北朝時代(皇室内の皇位継承争い)や応仁の乱(足利家内部の将軍職争い)みたいなもん。
つまり、倭国大乱も、ヤマト王家内部の家督争いでしょう?
ちなみに、卑弥呼がモモソ媛命ならば、倭王=祭祀王であり、
実際の政治をおこなっていた俗世王のような存在が、イニエ命(崇神天皇)
では、卑弥呼が擁立される前、倭国大乱が起こる前に
男王のよって継承されていた倭王の地位は...祭祀王の地位だと思われ。
この祭祀王の王統は、何者なのか? ここがカギ。
神武〜崇神の前までの天皇は、俗世王であって、祭祀王(正統な倭王)ではないと思われ。
つまり、倭国の王制は、祭祀王と俗世王の二元体制だったと思われる。
後の天皇と征夷大将軍、あるいは欧州のローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係に似ている。
律令体制後の日本の官僚制度も、神祇官と太政官とにわかれ、
神祇官も太政官とも、中臣氏(大中臣氏と藤原氏)が支配したが
西暦3世紀ころの倭国では、トップの王自体が、祭祀王と俗世王にわかれていた?
399 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 19:22:03
鍵・唐古について、ウィキには次のようにある。
弥生時代後期 [編集]
集落の発展
中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。
洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。
集落南部で青銅器の製作。
古墳時代前期 [編集]
集落の衰退
大環濠の消滅。
環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、古墳時代の初めに再度環濠
集落をも形成する。ここに唐古・鍵遺跡の特徴があると、考えられている。
弥生時代前期と同様に、三個所の地区(西・北・南)を中心に居住遺構が検出されている。次の時期には
遺構数も増加する傾向にある。
井戸などの遺構が減少していることから、居住域が規模が縮小していることがわかる。
弥生時代を通じての環濠集落を放棄して、次に入った人々が前と連続するかどうかは難しい問題だが、
連続するならば、何で放棄したんだ?ということになる。違う人々の可能性も大きいな。
400 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 19:37:09
>>399 >違う人々の可能性も大きいな。
そう考えられているね。隣のマキムク同様に、終末期から外来式土器が増えて居住区もわかれているから。
ただここもやはりマキムク同様に、北九州の土器は殆どでないんだよな。
韓式土器のほうが多いくらいじゃなかったかな。
つまり、邪馬台国は渡来系の騎馬民族が打ち立てた国ということでいいですよね?
>>394 >後期末に埋まって、再掘削されてるんだよね。
スミマセン。うろ覚えでカキコしたので、混乱していたかもしれません。
「後期初頭に再掘削された中期の環濠群は、溝さらえ、あるいは再掘削されながら維持されたが、
後期末には多量の土器の投棄をもって完全に埋没することになる。
・・・ただし、ムラが廃絶したわけではなく、経営されており、
つぎの古墳時代前期(庄内期)には、弥生時代前期と同様3カ所の地区を中心に居住遺構が展開する。
続く布留期には遺構数も増加する傾向がある。」
(藤田三郎「日本の考古学」)
「なお、庄内〜布留式過渡期にも大溝が検出されている。」
(森井貞男「弥生時代の集落」)
403 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 20:42:12
>>371 >新・古代史検証 日本国の誕生」シリーズ
>古代史の上田正昭・京大名誉教授が監修
>石野博信・兵庫県立考古博物館長
>人類学者、神話学者との鼎談もあり
京大のセンセイとか、石野とか、もうこの時点で九州説にとっては焚書モンなのかな?www
しかし「人類学者、神話学者との鼎談」と言うのは面白そうではある。
「アマテラス=卑弥呼」「高天原=邪馬台国」「神武東征は史実」etc…毎度おなじみ九州説の与太話のネタを
神話学からどう解釈するかとか書いてんのかな?wwww
むろんアマテラス=卑弥呼+台与というのは多くの神話学者が認めていることだ。
この2人の女王の交代劇が、天岩戸という神話に象徴されているというのは自明な歴史である。
なぜこれを認めない、楽になるぞ。
405 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:10:17
>>404 いつもの日向厨か?
「多くの神話学者」と言うのはこれまたいつもの白鳥の事かな?w
21世紀の今日「アマテラス=卑弥呼+台与」と唱えている「神話学者」を
その代表的なところを2・3人で良いので挙げてみてくれないか?
まあ記紀の神代のお話の骨格が史実を下敷きにしたお話しなんて事になったら
「神話学」そのものが吹っ飛びかねない様なお話だと思うのだがwwwww
>楽になるぞ。
カルトの「法の華三法行」だっけ?
信者に「頭を取れ」と思考停止を迫った話を思い出したわwww
そりゃ楽にはなるかもしれんがwwwwwwwww
406 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:10:32
>>404 >多くの神話学者が認めていることだ
具体的な学者の名前をどうぞ、できれば論文名も。
407 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:12:49
ええい、こうるさい猿どもだな。邪馬台国は日向だ。倭人伝を大切に読めばここにしか
行き当たらない。日向は天孫降臨の地でもある。古代日本の中心だ。
なぜこれほどのことが理解できんのか。おまえらは頭の代わりに漬物石が載っておるのだろう。
409 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:20:07
くぴぷう。
410 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:20:27
>>408 日向厨じゃなさそうだね、彼は嘘に嘘を重ねて身を守る押尾学タイプだから
こういうのはちょっとキャラが違う。
むしろ縄文人タイプを装った縦目のなりすましか?
411 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:25:01
>>410 また興ざめするような事をw
しかし、まあ縦目が縄文人キャラを引きずっていると言うのはその通りだと思うがw
真似ているうちに中身も縄文人化してしまったか?wwww
412 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/13(月) 21:27:23
>「なお、庄内〜布留式過渡期にも大溝が検出されている。」
巻向大溝は、箸墓築造の頃にはかなり埋没しており、程なく放棄される。
と云うか巻向自体が箸墓築造をもって衰退する。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/nendai/nendai2.htm * 17 箸墓古墳の規模からみて、都出比呂志氏も「権力の成熟度を如実に示す」と考えており
(「日本古代の国家系正論序説」『日本史研究』第三四三号、1991年)、部族(国家)の連合という
性格をもつとは考えられない。その意味で、「連合の変質」という観点は重要である。政治連合とい
う弱い政治形態で、列島広域が纏まるとは考えられない。
【邪馬台国は坂本龍馬が再発見した】
こんなスレを立てようと思ったらダメだった。
天孫降臨したのは福岡県内の筑紫のヒナタであって、日向国とはまったく違う。
日向国が日本列島の中心だったことは一度もない。
>>412 >巻向大溝は
か、唐松さん・・・
纒向大溝ではなく、唐古・鍵の環濠の話です。ぐっすん。
416 :
縦目仮面:2010/09/13(月) 21:39:07
>>411 これは俺ではありません。というか、これまでの悪ふざけのせいで自業自得なのかもしれないけど、俺がやったんでないことも
かなり俺のせいになってる。www 鯖死に前の、畿内説根拠スレの野球のオーダーも俺ではないよ。
417 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:49:45
縦目らしき犯行wwwのなかでウケたのは
白波五人男のもじりと、キン肉マンネタと、バビル2世の替え歌だったw
418 :
縦目仮面:2010/09/13(月) 21:53:50
>キン肉マンネタと、バビル2世の替え歌
白波5人男は俺だけど、この二つは違います。バビル2世が何だかそもそも知らない。
419 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:56:21
>>418 じゃあ縦目以外にも才能ある奴いるんだなあ、もしかしてwww氏か?
こういうひとこそ、是非コテにしてほしい。
420 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 21:59:46
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
結論 邪馬台国は西都原
>>420 ルーツ性が半島方向に向かえばなんちゅう事は無いのよw
むしろ超大国が雁首揃えてる方向に絡むもんが出ると強烈に不味い。
422 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:10:41
>>419 >もしかしてwww
違う。無実だ冤罪だ(棒読み
そう言った才能は無い。
>>31のようなあまりウケないのが俺の作。
西都クンのコピペじゃないか、懐かしいなあ。
知らない人は知らないだろうが、西都クンというのはプラムの前に活躍してた弄られキャラのスターだよ。
>>420 宮崎県ではない。
1、都ではない「都」地名など、いくらでもある。たとえば稲都。
2、温暖だけでなく、朝鮮半島に進出できる国でなければダメ
3、△鏡は国産だから関係ない
4、邪馬台国は巨大古墳が特徴の国ではない
5、魏志倭人伝には墓が一つ出てくるだけであり、古墳群は関係ない
6、福岡県内の「筑紫のヒナタ」はたくさん出てくるが、日向国はほとんど出てこない
7、人口密度で邪馬台国は決まらない
425 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:26:17
今ふと思い出したのですが
後の世の中国の史書に
この国の王は元々筑紫にいた…みたいな記述ありませんでしたっけ?
426 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:33:14
あるけど、その場合の筑紫は九州のことだよ。
427 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:35:48
>福岡県内の「筑紫のヒナタ」はたくさん出てくるが、日向国はほとんど出てこない
どれが福岡県内の「ヒナタ」なのかな?
428 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:40:35
>福岡県内の「ヒナタ」
糸島市と福岡市西区の境辺りだろ。神武は2世紀末の倭国乱の頃にここから東征に出たんだろ。
429 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:54:17
古事記によれば、神武は「日向から発って筑紫にいかれた」とある。
と言うことは、日向は筑紫の中ではない。出発地は宮崎県の日向だよ。
430 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 22:55:29
ニニギが上陸したのは山口県ではないのか?
下関の古名「馬関(まかん)」と、朝鮮半島の馬韓は起源が同じかと思われます。
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの部族には酋長がおり、
大きな部族の酋長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼び、
集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。
431 :
日本@名無史さん:2010/09/13(月) 23:16:43
神武は日向を出発して宇佐によってますから
この場合は、まあ宮崎の方でしょうね。
記紀を見たら分るが、なんで、半島から来るんだよw
西都君のレスにいちいち反応するのは馬鹿らしいんだけどw
高天の原とは、御所市高天の平原。
高天の原とは、本当の正しい漢字は、高間の原だろう?
高天原は、壱岐の原の辻。
434 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:04:49
なかなか、ここで文字で説明してやっても、わからんものだなw
地図なり、系図なりで、説明すれば、一発で分るんだけどなw
高天の原ってのは、平安時代までは、普通に
葛城地方のあたりというのが公式見解だった、京都朝廷では。
だからこそ、延喜式なんかでも、御所市高天の高天彦神社が
名神大社に指定されている。
高天原伝承の神社は日本全国各地にあるが
ほぼ古い記録のものほど、葛城地方に集結しているんだわな。
というか、葛城地方にしか、高天原神話の由来の神社は存在しない。
たとえば、九州にある高天原伝承の神社なんて、
12世紀以降とか、後世に作られたものが殆どなんだわな。
つまり、中世くらいになると、古代の記憶が忘れ去られたわけだな。
そういう意味で、天武天皇の目論見は大成功だったと思われる。
>>430 違います。
下関周辺のことを、赤間関といった。
それが変形、そして略して、
赤間関→赤馬関→馬関
こういう変遷だ。
出雲や高千穂の神話なんて、本来大和周辺の話を
持っていって脚色した話でしょ。
近畿の王権の勢力過程を推測してみると
古代においては、ヤマト盆地には、大和湖が存在し、水にも恵まれていた。
また、ヤマト盆地は、地理的にみても、天然の要塞のような地域であり
近畿の他の地域よりも、敵から守りやすかったと思われる。
そして、そのヤマト盆地を限定した場合、
地理的に最も敵から守りやすい地域は、東南部の葛城地方(御所市周辺)であり
古来、このあたりを高間(たかま)の原と言われていた。
が、やがて、近畿王権が肥大化し、全国統治が強固になると
やや川下で土地が開けた三輪山の麓の山処(やまと)(桜井市周辺)に
首都を移転したと思われる。つまり、安全保障よりも経済性を重視しだす。
そして、海外に打って出るくらい近畿王権が膨張しだすと
ついに瀬戸内海東部の河内にも首都を持ってくる。
ただし、それは長続きしなくて、再びヤマト盆地に首都を戻すようになる。
このへん、後に豊臣秀吉の大阪政策にも似ている。
>>438 出雲はどうかは分らんが...
でも、高千穂は普通に九州南部の高千穂だよ。
つまり、皇祖ニニギは、高天原(御所市)から高千穂(宮崎)に
派遣されたことが分る。
彼に命令したのは、初代倭王・アマテル。男の太陽神アマテルとは、彼のこと。
天照国照彦(天津と国津の両方を支配した者)とよばれ、
本名は、火明(ホアカリ)という。
出雲国譲りを達成した近畿の大王は彼のこと。
古事記によると、皇祖ニニギの兄とされている。
441 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:27:38
しかし上の方で唐子鍵の環濠が埋められたのをもって征服された証と言うのがあったが
じゃあ吉野ヶ里の環濠が庄内併行土器で埋められたのも征服された証でw
池上曽根なんかはそれこそ「年輪」のように濠が幾重にも見つかっているが
アレはその度に征服されたって話なんだなwww
環濠を埋めたのは外からの征服者で
中の人間が埋め立てたと言う発想は最初から一切無いw
もう殆ど大阪夏の陣冬の陣とかの堀の埋め立て攻城戦だなwwwwwww
この手の東遷厨の思考パターンと言うのは
畿内においてある集落・地域に変化があればそれは全て外部要因(征服劇)と言うイカサマロジックで
良くてかつての騎馬民族王朝説と何ら変わらないwww
まあ考古学に寄った話の展開といいいつもの「怨み節東遷厨」っぽいが
いつも自分が怨敵として叩いているヒダリ系学者と同じようなロジックに陥っていると言うのが
横から見ていて、いとあわれ wwwwwwwww
出雲国譲りとは何なのかというと
大国主命(出雲の王)が、娘婿の火明命(近畿の高間の王)に
天下を禅譲した話であり、いわば母系継承でもある。
二代目の大倭王の香語山命は、父親が火明命、母親が天道日女命(大国主の娘)で、
いわば、ヤマトと出雲の合一の象徴でもあった。
こういう経緯があったからこそ、ヤマト朝廷は、出雲の神様も大切にした。
しかしながら、こういうふうに考えると、火明命の弟のニニギの後胤である
神武皇統(つまり、現在の皇室の系譜)の正統性が
微妙になってくることは、誰にも想像できるだろう?
443 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:37:09
得意の論理すり替えだな。誰が唐子(ママ)鍵の環濠が埋められたのをもって征服された証と
言った? 唐古・鍵の消滅と言っただけだ。
「奈良平安の頃の人間が地上の何処を高天原と見なしていたのか?」
と言う問題と
「高天原は何処に存在したのか?」
と言う問題は別。
後者に答えるなら
「そんな物は無い、あくまでフィクション、畿内大和でも九州でも無い」
でおk。
まあ3世紀の邪馬台国には関係の無いお話
…とマジレスしても神話と歴史をゴチャマゼにした世界で
「My神話」を語るのが大好きな連中が寄り集まっているのが
邪馬台国スレなんだろうが(苦笑
本来のヤマト朝廷の正統な皇統は
初代 火明命(始祖アマテル=天照国照彦、出雲国譲りで大国主から天下を禅譲された王)
二代 香語山命(ヤマトと出雲の合いの子、ヤマトの有名な山の名称にもなっている)
三代 村雲命(三種の神器の名称にもなっている)
四代 忍人命
というふうに継承されていた。
一方、火明命の弟とされるニニギ命は、
出雲国譲りによって、ヤマトの全国統治が完成した後
兄の火明命の命令で、九州高千穂の知事として派遣される。
このニニギ命こそ、現在の皇室の祖先。
446 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:41:59
>>443 恨み節
相変わらずかったるいと言うか往生際の悪い奴だな
>>392 >鍵・唐古が古墳時代まで続いた確証はないよ。環濠が埋められた時点で終わりだ。
環濠が埋められたことをもってジ・エンドとするなら同じ事だろうがボケww
>>444 それが、この高天原の話と邪馬台国の話は、微妙にリンクしているんだわな。
魏志倭人伝に登場する卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソ媛命とされているが、
彼女は倭国大乱によって共立されたとある。
この共立とは、同時代の中国の歴史書でどのように扱われているかというと、
同じ王家内部で家督争いがおこって、家臣たちによって擁立されるケース。
この倭国大乱と、ニニギ系と火明系の関係に注目しています。
ヤマトトトヒモモソ媛命は、ワカミケヌ(神武天皇)から数えて
7代目の子孫で、いわば、ニニギの子孫です。
おそらく、倭国大乱によって、正統な倭王の祭祀は
火明命の系統から、ニニギ命の系統に移ったのでは?と思っている。
ちょうど、その少し後のイニエ命(崇神天皇)の時代に
火明命の子孫たちは、現在の名古屋あたりにおちて、尾張氏になっている。
448 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:48:48
「三種の神器」で思い出したがw
そもそも3世紀の古代人って「勾玉」と「管玉」を同じ「玉」と言うカテゴリーで考えていたのか?wwwwwwwww
そこら辺はっきりしてもらわないと東遷説厨の詐欺理論と言う疑念がぬぐえませんwwwwwwww
古事記を編纂する時に、
オオアマ(天武天皇)とオオスミ(尾張大隅)が
激しく対立したとある。
やっぱり、テキストだけで説明するのは難しいな...
図なりなんなりで、説明せんと、分らん話だし。
そういう意味で、ここでレスするのは参考にはなる。
だいたい、火明命とか、いろいろ書かれても、普通の人は?だと思うし
そもそも、戦後の日本人は、日本神話の知識もないし
なかなか説明しても、ぴんとこんしな。
451 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:56:04
452 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 00:57:47
>>450 要するに天皇家や尾張氏や物部氏、忌部氏や大伴氏、賀茂氏や出雲国造…各氏族に繋がる系譜図の事を言っているんだろう?
がそもそも俺自身は太陽の神がいて月の神がいて
更に第三の存在として「蝕」を引き起こす存在がいると言う構図が海外の神話にも見られ
高天原の神話を史実を下敷きにした日本独自の完全オリジナルなんて考えていないんであまり興味も無いwwwww
>>452 いいや、天忍穂耳命からの事を言っている。
神話の神の子孫の残し方も
天忍穂耳命らから、普通の人間と同じ子孫の残し方でしょう?
しかしながら、天照とか、スサノオとかなんて、
明らかに神話の話でしょう。
剣だとか、眼からだとか、なんとか...
実際に、神社なんかでも、天忍穂耳命が初代で
それ以前のアマテラスとかスサノオなんて、それよりもずっと昔の話で
関係ない話というスタンスのところも多くある。
455 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 01:03:26
>>446 アホか。考古学者は、環濠が埋められたことをもって、衰退したとか放棄された
とか認定してるのか? 少しは考えろ。
>>440 高千穂は、福岡県の高祖山連峰。
宮崎県の高千穂とは別物。
457 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 01:18:00
>>455 は?
「環濠が埋められた時点で終わりだ」と言っているのは
>>392だぞ?
ヒステリー起こしてワケワカラン事をほざくなボケ
458 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 01:18:55
>>454 >しかしながら、天照とか、スサノオとかなんて、
>明らかに神話の話でしょう。
>剣だとか、眼からだとか、なんとか...
一部に明らかな嘘があるというだけで全否定されるのですか?
なにか重要な史実の核が語られているかもしれないのに
イザナギ・イザナミ神話とかならともかく
459 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 01:23:31
>>457 そんな読解力だから、倭人伝が読めないんだろうな。
>>445 ヤマト朝廷の初代は文武天皇だ。
それ以前の日本に王朝などない。
ただし、天照王の分岐王統始祖として、ニニギ王がおり、
さらにその分岐として神武が新王統を始めたわけだが、
文武天皇がこの両方を引き継ぐ宣言をした。
形の上では、この血統が今に続いている。
神武とか、崇神とかいうのは、記紀の原文には存在していなくて
記紀が書かれた数十年後につけられた漢字名称。
本名は、ワカミケヌとか、イニエだが、彼らがどういう地位にあったのか
実のところ分っていない。
天皇制度というのは、中国から導入した律令制度そのものだが
日本は律令制度を導入する以前は、独自の王制があったでしょう。
建物や都だって、律令制度より後では、南北を起点に作っているが
邪馬台国のころは、東西につくっていたわけだから。
462 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 20:10:00
もう宇佐だって結論でたのに・・・。
463 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 20:14:15
おいおい
>>460 それは、どういうイデオロギーで言っているんだ?
律令体制以降を、中国的な意味での王朝と解釈しているのか?
465 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 20:55:17
>>407 …で、どうなるんだ?結局
もうサルベージは無いものと思った方が良いのかどうか…
まあ俺も昔HDDトンでドライブ丸ごとイメージ化したファイルいまだに持っているが
HDDトンだ直後はパニックになるが日がたつと、ごくいくつかのファイルさえ復活できたら
あとは結構どうでも良くなるというか、むしろ「結果的に整理できたなあ」とか思ったりもするもんだがwww
466 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 21:54:55
>>465 わかりませんが現在はこういう状況のようです
以下コピペ↓
66 名前:動け動けウゴウゴ2ちゃんねる[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:26:46 ID:4oVh4RWa0
まあ、現地で復旧作業、サルベージをしたけど読みだせなかったんだから
あまり復活に過度の期待はしないほうがよさそうだ
67 名前:動け動けウゴウゴ2ちゃんねる[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:29:26 ID:KcDnTi1+0
日本へサルベージできなかったのか
68 名前:動け動けウゴウゴ2ちゃんねる[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:48:17 ID:Fm71haQq0
過去ログがすっきりしてもっと小さくなった2ちゃんねる
…次はどこを小さくするんだおっちゃん
69 名前:動け動けウゴウゴ2ちゃんねる[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:52:59 ID:npyJ5FRZ0
ドライバ違いで読めなかったっていってんだろ
馬鹿なの? 死ぬの?
467 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 22:27:48
後漢書帝紀にある以下の記事
1.(中元二年)春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴國王遣使奉獻
2.(永初元年)冬十月 倭國遣使奉獻
1は57年の倭奴国王による光武帝への朝賀、2は107年の倭国王帥升等の献生口160人。
倭奴国王は(王莽に追われて?)北部九州に逃れて来た中国の人間を部下に持っていたのではなかろうか。
劉秀が封禅の儀を執り行った翌年の正月に朝賀するというタイミングの良さは大陸の事情に精通した人間
の存在を思わせる。そうであれば、倭奴国はかなり進んだ社会体制を持つ国だったのかも知れない。
>>467 >倭奴国はかなり進んだ社会体制を持つ国だったのかも
後漢のほうから呼んだんじゃないのかなあ?
じゃあそろそろドン来い!を立てますか。
面白いAAを出してくれたら、それで行きます。
470 :
日本@名無史さん:2010/09/14(火) 23:07:14
>>468 そうかも知れないし、倭奴国から自主的に出かけたのかもしれない。何れにしても、両者に外交ルートがあったと思われる。
>>470 >何れにしても、両者に外交ルートがあったと思われる。
だったら倭奴国は「外交」を示す遺物が出土する地域なんでしょうね。
472 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 06:54:38
>>471 金印、璧、鏡、銅、鉄それらが外交を示す遺物だろう。
473 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 07:39:30
遺物は動産だから、遺物が直接外交を意味するものじゃないよ。
漢の倭の奴国だから、漢の奴国ではないことが重要なんだよ。
つまり、中国は、奴国という存在の上に倭の存在をしっていたということ。
実際に、山海経や漢書なんかにも、
中国と倭の外交の存在を示す記述があるし。
で、57年の時点では、倭国の中で不穏な情勢があって
中国は、奴国に金印を与える結果に至ったのではないのか?
東に海があり冬も温暖な日向の中心西都原が邪馬台国の跡
476 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 12:00:01
漢の「ゐど國王」だね。
普通なら「漢委奴王」と刻む筈なのに変だね
外蕃に対して「國」を付けた例が無い
479 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 15:23:36
>>473 不動産で直接に外交を意味するものってあるのか?
王が君臨する「国」ですらない「國」だということだね。
部族集団レベルの扱いかな?
ちなみに宮崎=日向は、漢や魏と国交がない地域であり、
委奴でも邪馬台でもない。
封泥だと箱が開けられた後はその場に捨てられて残るだろうけど、
邪馬台国の時代には使われなくなってるようだ。
482 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 17:16:11
確かに日向は大陸との関連深い物ってあまりないよね。
483 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 17:28:25
玉璧が出てるのを知らない?
484 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 17:38:05
>>480 「国」が「國」の新字体だってのは知ってんだろうな。
>>481 邪馬台国の時代に封泥が使われなくなっているというソースは何?
黄色い絹に朱印を押すという記述は北魏の魏書か初出というのを読んだことがある。
あと、簡牘が完全に廃止されるのが隋の時代というのも読んだ記憶がある。
だとすると、三国志の時代には、まだ封泥は使わざるをえないんじゃないのかなと思うけど。
486 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 18:38:28
>>480 >王が君臨する「国」ですらない「國」だということだね。
>部族集団レベルの扱いかな?
キミのレベルはどの程度かな?
1世紀の倭奴国は糸島市、福岡市、春日市と筑紫郡を版図とする大国だったということが分からんのか?
487 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 19:00:13
外交など政治的な事は、文献で知るものだから
国という字は、秦代以前からあるだろ。
>>483 出土の来歴自体、不確定要素が多いけどね。
南九州から出る玉は、揚子江流域の国から貰ったんじゃないかなあ。
漢や魏じゃないと思う。
邪馬台国は何のことはない、大宰府にあったのだ。
しかし、そのことを隠すために大和朝廷は遺跡を徹底的に破壊してしまった。
建物跡はもちろん、出土物、石碑や粘土版などのかけらさえ何一つ残らないほどに徹底ぶりは、もう病気としか思えない。
いったいどうしてここまでやる必要があったのだろうか?
それは、邪馬台国の歴史そのものを乗っ取るためなのだ。
藤原不比等はこうして歴史を作り変えてしまったのだ。
493 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 21:09:26
ノ⌒ヽ,
γ´⌒ ヽ,
//""⌒\ )
i / ⌒ ⌒ ヽ )
. !゙.(・ )` ´( ・)|i/
. | (__人_) .|
\ `ー' / ようこそ、ドン来いスレへ。
/∇y:::::::\ [ ̄ ̄] この水道水はサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。
|:::⊃:|:::::::::::::| |──|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| うん、「また」なんだ。済まない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ 仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
∇ ∇ ∇ ∇ /./| でも、スレタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
┴ ┴ ┴ ┴ / / .| 「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|/ .| 殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | そう思って、このスレ立てを決めたんだ。
(⊆⊇) (⊆⊇) (⊆⊇) |
|| || .|| | じゃあ、畿内説以外の注文を聞こうか。
./|\ /|\ /|\
藤原不比等は人にあらず、鬼だ!非人だ!
495 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 21:41:21
>>491 しかし 大和朝廷=日帝三十六年 のノリだなwwwww
496 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 22:21:36
>>490 持衰に関連して「その行来・渡海、中国に詣るには・・」とあるのは、魏王朝では
ない別の中国王朝と通交していたことをうかがわせるね。とにかく、南九州が中国
本土と通交し、中国王朝から諸侯として認められ穀璧まで与えられていたというこ
とは重大だ。南九州に北九州に劣らない大国があったということだな。
497 :
ゴミクズ九州説ブーメラン自爆劇場:2010/09/15(水) 22:52:09
>>496 >中国王朝から諸侯として認められ穀璧まで与えられていた
考古学資料で古代の政治的状況が判るという幻想に囚われているのが哀れだ。
畿内には有り得ない立派な玉が南九州から出ている事実は、畿内説から激しい嫉妬がくるなあ(笑
499 :
日本@名無史さん:2010/09/15(水) 23:46:28
あの璧は、直径が近代日本の1尺ぴったりだから模造品くさい。
500 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 00:06:05
>>498 別にレアなお宝の自慢で張り合っているわけじゃないから
ゴミクズ九州説は勘違しないようにw
でその璧は”いつ”日本にもたらされたのかな?
その根拠は?
ぶっちゃけ北の半島ルートか南の東シナ海ルートかによっても話は随分違ってくるがwww
畿内説にイチャモンつけるときには考古資料からの考察と言う手段そのものを否定もするが
自説与太話ぶちまけるときは
「出土状況が分からない物は考古資料としての価値が下がる、もしくはその事を十分考慮する必要がある」
と言うイロハのイの字すら無視。
どんな与太でも飛ばし放題wwww
いい加減にしろ馬鹿
あれは大正時代に中国のどっかから
持ってきた説まである。
>>498 そう、ありえない、大体紀元前2世紀の物だし。
それに出土状況があまりに不明確なので
九州説でも声を大にして言えないんだよ。
502 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 00:24:24
いやー、そんなに悔しがるとは・・・
503 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 00:28:55
じゃ、ついでに西都原から家型埴輪や舟型埴輪が出ていることも言っておこうか。
504 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 00:30:04
>>503 えらく露骨な釣り針だな。
一体何世紀のお話してるんだよ・・・
505 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 00:37:46
紀元前から紀元後まで、他に類例のない立派な物が出ているということで・・
魏からもたらされた詔書は、絹に書かれた物だったんだろうな
でも、女王→皇帝 の親書は木簡か竹簡だったはずだ
刃物で削ると改竄できるから、金印を押しても意味が無い
だから、箱に収めて紐で封をして、結び目に封泥をほどこして、本物の証明とした
親魏倭王の封泥は中国でこそ見付かるべき物なんだ
或いは、下賜した金印の版元というか、写しがあった筈だ、でなければ比較できない
肝心の3世紀がなあ・・・・・・・・
奉天承運としか言い様が無い
>>506 絹に書かれたと推測する根拠は何だろう。
魏が成立するまでは、詔書は簡牘に書かれていたんだけど、
それが魏になって絹になったという記述でもあるんだろうか。
510 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 12:29:46
弥生時代の「弥生」とは知ってのとおり単に東大の住所。
「弥生時代」ではなく朝鮮半島各国の「開拓時代」が実は正しい。
511 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 12:50:05
「中国が鏡を送った」という記述があるというのは
「中国の貢朝システム」から考えると
「鏡の生産地(畿内)に鏡を送る」というのは不自然
「鏡を貢物として献上する」という記述ならまだしも
512 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 22:57:31
×中国が鏡を贈った
○中国に鏡を贈った
鏡は倭の特産輸出品だったのだ
513 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 23:42:02
なんと!?
そうだったのですか?? と一応言ってみました
>>510 あほかw。
日本の農業って、稲の遺伝子から言って
中国南部起源のものだろう。
しかも、それは、紀元前4000年くらい前ぐらいには
既に日本に伝わり始めたもの。
ここ最近、だいぶん、考古学の常識が変わりつつある。
よく弥生時代を紀元前1000年くらい前からになってきているが、
単純に農耕時代を始まりと考えるのなら
紀元前4000年くらい前からとしたほうが正解だわな。
邪馬台=ヤマト
卑弥呼=モモソ媛命だ。
ちにかく、邪馬台国九州説には二つの考え方の奴が支持していて
左翼では、九州王朝説の観点から支持し
右翼は、神武東征原理主義の観点から、これを支持している。
正直、極端な奴ほど、邪馬台国九州説を支持しているのだ。
だから、ファンタジー好きな小説も、のきなみ
邪馬台国九州説が大好きなのだが、
真面目が学者の多くは、圧倒的に邪馬台国ヤマト説なんだわな。
いや、そういった基地外は、みな畿内説に転向していったから心配するな。
>>517 じゃ、今や学会では殆ど相手にはされてない
きみの邪馬台国九州説を説明してもらおうじゃないか?
基地外からはマトモな奴が基地外に見えるという話
520 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 01:25:11
その前に学界を支配しているという畿内説を説明してくれてもいいけど。
九州説はぜんぜんバラバラだけど、
畿内説のほうも、九州説よりは一枚岩だが、
でも、人によって微妙に意見が違う。
でも、一番、いわれているのが、
魏志倭人伝に登場する邪馬台国は
日本書紀に登場する崇神天皇時代のヤマト朝廷だという説かな。
むしろ、ヤマトだのヤマタイだのというゴロ合わせはあてにならない、
というのが今の傾向じゃないか?
>>523 考古学者の先生は、正当な学会ではそういう話はされていません。
そういうのは、正当な学問では邪道だから。
でも、私的な会合では、そういうことをよく言う。
>>522 それたぶんビンゴです
このスレ、なんだか面子が一新したようなので、
行路の図解貼らせてもらいますね
526 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 07:23:26
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ┏━━━━━┓ ┃ ↓|フクイ
丿 ┃↓ 高天原 ┃ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,┗━━━━━┛
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・近江盆地
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
527 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 07:35:35
>>526 これが畿内説? なんと無茶苦茶な(汗)
奴国はどう考えても福岡平野でしょうし末盧国は松浦郡のはず
挙句の果ては対馬が佐渡島・・・とは(汗)
邪馬台=ヤマト=山処=三輪山周辺=桜井市周辺
高天=高間=高尾張=葛城=御所市周辺
529 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 07:46:02
>>527 帯方郡の使者は、朝鮮半島付け根の東側から出発してたんですよ。
それを、魏が自分達と通じてたように見せるために、
北九州ルートに書き換えたのが「魏志倭人伝」。
だから末盧国以降は全然たどれなくて、ナゾになってたわけです。
530 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:10:06
>>529 だからって何故に佐渡島が対馬に?
朝鮮半島からの東から渡るとしても危険があまりに大きすぎる
やはり航海の安全性という点から考えても
魏からの使者が上陸したのは九州北岸というのが妥当
出雲半島から辿るというのならまだ幾らか説得力もあるように思うが
531 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:26:58
>>530 魏の人が行ったのは九州北岸だよ?
内陸の人間は、朝鮮半島を東に超えたところに
「楽浪の海」があるとは想像できないでしょ
帯方郡が日本海に面していたなら、
わざわざ半島西から出発して、朝鮮半島を迂回するって発想のほうが奇妙。
532 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:46:53
これは畿内説でも特殊な例だろう。
534 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 09:56:50
>>532 そんなの邪馬台国九州説くらいしか信憑性ないよ
後漢書に「倭人は楽浪東南大海の中にあり」とある。
少なくとも楽浪郡は日本海に面してた。
>>533 うん、特殊だね。だって「真実」だから。
今までの畿内説なんていう近畿の恥と一緒にしないでね、
南とは東のことだったとか、なんのウワゴトかと
536 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 10:10:32
>>534-535 ・・・はぁそうですか
これはもう人それぞれの解釈の仕方としか言い様が
それでは、あなたの言う「真実」の説とやらを聞かせてもらえます?
どうせ最初からそのつもりだったんでしょ?
人それぞれの解釈の仕方で歴史が左右されちゃかないませんよ
既存の「説」の中に正解があったなら、もうとっくに認められてるはずです
539 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 10:43:19
といいつつもう少しつっこんだ話もさせてもらお
(別板で書いたのをコピペ)
楽浪郡を治めてた公孫氏が、まず先に日本に来ました。
しかし匈奴の「アマテラス」達に抵抗されて、ナンバーツーの座に甘んじます。
これが魏志倭人伝の「伊都国の王」であり、日本神話における「スサノオ」です。
ゆえに、「近江」の枕詞「さざなみの」には「楽浪の」という字が当てられます。
そして、葦原中国こと大阪(魏志倭人伝の狗奴国)が邪馬台国傘下となり、
この楽浪郡公孫氏の「ニギハヤヒ」が治めることになります。
その後、帯方郡公孫氏の軍勢が南がら狗奴国を討つべく、南九州に上陸。
でもその後がたいへん。
狗奴国じゃない国を制圧しながら進むはめに。
で、孫の代だかなんだかでやっと、既に邪馬台国の一部となっている大阪に着。
これが神武天皇ですねん。
ニギハヤヒと「俺が天孫だ!いや俺こそ天孫だ!」って押し問答してますが、
これは要するに、楽浪公孫氏と帯方公孫氏のやり取りなのね。
アマテラス直系のナガスネヒコは追い出されて津軽へ行きました(>_<
というわけです。ご清聴ありがとうございました。
>>535 そう思うなら畿内説を名乗らない方がいいですね。
本来の畿内とは微妙にズレてますから。
541 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 10:59:15
542 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:07:35
スレの流れが日増しに幼稚化してるような
気がする。
543 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:07:40
>>539 匈奴 = モンゴルに女王を戴く習慣なんかありましたっけ?
それに公孫氏は呉に通じようとしたことがバレ滅ぼされたんじゃなかったですか?
伊都国の勢力自体は一千戸程度と記述されており、
そんなナンバーツーの実力を持てるほどの下地があったとは思えません
>ニギハヤヒと「俺が天孫だ!いや俺こそ天孫だ!」って押し問答してますが、
>アマテラス直系のナガスネヒコは追い出されて津軽へ行きました(>_<
この二点に関してはまだ納得できる部分もありますが
まぁ面白い説ではあると思いますけど^^;)
544 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:28:16
>>543 「公孫氏」は一人残らず滅んだなんて、分かるもんじゃないですよ。
どこかへ去ったとしても、魏側に都合が悪ければ書かないでしょう。
ナンバーツーって言っても・・・まあツクヨミの方が上かも知れませんが。
(ツクヨミは月齢を数える人たち、つまり稲作民です。いわゆる弥生人)
字が書けて外交が出来て、いざとなりゃ間者を斬ることも厭わない勇猛さがあって、
ということで、高い地位ではあったでしょう。
>>526図の「伊都国」辺りには、100基を超える古墳があります。
アマテラス=匈奴は、モンゴルではないですよ。
おそらくスキタイに近い遊牧民です。
習慣で女王を戴いたのではなく、その方が国が治まるとの判断でしょう。
ついでに・・・日本神話の「黄泉」の国とは黄河流域のこと。
当時、公孫氏=スサノオは大陸にも未練があった、と。
大阪に入った公孫氏は、のちに「漢氏」と呼ばれます。
漢字を持ち込んだのも、実はこの人達だったでしょう。
日本人が自ら漢字を持ってきたんですよ。
545 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:38:07
もしかしたら、卑弥呼はアマテラス一族からは出てないかもしれないですし。
日本神話で重要な役割を持つ「オモイカネ」というのは、
縄文系の人たちの氏神だという気がします。
力のある者ではなく、より思慮深い者を王に立てた、そういう可能性もある。
「王」というより「長老」ですね。
546 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 11:57:21
>>544-545 まぁ面白い説であることと、
けっして日本神話を軽視しておられない点は認めます
九州説と畿内説ともに譲り合わず、なにも進展が望めない状況である中
正直あまり画一的な説ばかりでも面白味がないですし
色々と自由な発想で想像を巡らせるのは大変良いことだと思います
今後も自説の補強に邁進なさってください
>>546 べつに勝ち負けとかじゃないんで、どうぞパクってください。
この説で特許取ろうとも思ってませんしwww
「面白い」ではなく、実際そう考えれば辻褄があうでしょ?
548 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 12:10:00
>>547 まぁ正直
かなり突拍子もない大胆な説であるなとは思いましたがw
結局いつもの妄想話だろ。
550 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 13:15:23
はじめは自分でも信じてなかったですけどね^^;
邪馬台国への使者は琵琶湖を通った!なーんちゃって。とかいいながらw
でも考えていくと、むしろその方が自然なんですよ。
大阪人の際立ったメンタリティーとか
甲賀・伊賀が忍者の里だったとか(鉄製の武器を自前で作ってますね?)
滋賀県湖北のさびれ気味な町に、古墳が異様にあるとか
佐渡島の方言は関西弁に近いらしい事とか
フシギなことが、いろいろと解決しちゃうんですよ。
邪馬台国までの道程なんか何の根拠にもならんよ
大陸の巨大な勢力に対して、自国の場所を正確に教えるわけがない
そんなことをしたら、どうぞ攻め滅ぼしてくださいと言っているようなものだ
普通に考えれば、実際よりもずっと遠くにあるように記すだろうね
距離的に当てはまる場所が見つかったのであれば、そこはもう行き過ぎ
552 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 13:53:12
>>551 そう、だからこそ伊都国の王が公孫氏一派ってのがミソ
>実際よりもずっと遠くにあるように記す
水行20日とか言ってるね。見栄はりすぎ。
553 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 14:00:24
>>550 >甲賀・伊賀が忍者の里だったとか(鉄製の武器を自前で作ってますね?)
ポカーン(゚Д゚)ボーゼン
もう相手すんなよ
556 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 14:06:42
まさか、忍者がタウンページめくって、
鉄加工業者に手裏剣を発注したとか思ってないよね?
558 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/17(金) 16:13:45
殉死はどうするの
560 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/17(金) 16:25:04
殉死?
畿内の殉死と九州の殉死とでは、必ずしも時代が同じとは言えんですね。
561 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 17:23:47
まともな畿内説の説明をして欲しいな
562 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 18:24:37
563 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 18:27:24
日経
纒向遺跡、大型建物跡近くで桃の種2千個以上出土
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、昨年確認された
大型建物跡(3世紀前半)の近くから祭祀(さいし)に用いたとみられる土器や木製品、2千
個を超す桃の種が見つかり、同市教育委員会が17日発表した。
桃は古代中国の神仙思想では邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の
遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の
実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。
>>562 卑弥呼の祭祀に、桃(もも)
ヤマトトトヒ・モモソ媛命
貝塚と一緒でただのゴミ捨て場だったりして
566 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 18:42:38
纏向遺跡=桃=倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)=箸墓古墳
567 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 18:43:25
纏向遺跡=桃=倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)=箸墓古墳=卑弥呼=邪馬台国
>>563 学生さんだね。
社会に出ればわかるけど冤罪も罪のうち、疑わしきは罰するってのは法治国家の不文律だよ。
モモソ媛はやっぱり桃から由来している可能性出てきたね。
中国神仙思想との関連性も高い。
570 :
399:2010/09/17(金) 19:42:43
3世紀前半だなんて、いい加減なことよ。
古代を舞台にした小説って
邪馬台国は九州説ばかりだね。
卑弥呼=モモソ媛命と仮定して書かれた小説はない。
572 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 19:45:01
3世紀前半の桃の種?嘘だろ。桃栗3年と言うぞ。
3世紀の倭国の宮殿って、どうなんだったのかな・
朱(水銀)が重視されていたから、真っ赤だったかもしれんな。
神社の鳥居も真っ赤だし。
まあ、屋根は茅葺メインだから、伊勢神宮の建物みたいだっただろうけど。
574 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 19:51:19
>>562 この桃核のC14測定をして欲しいところだね。
これまで桃核のC14は4Cになるものばかりで、畿内説の連中はこれを無視してきたが、
2000個も出てきては無視できないだろう。
畿内説はもはや宗教と化した観があるが。
575 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/17(金) 19:52:04
576 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/17(金) 20:03:28
577 :
新しい人:2010/09/17(金) 20:04:41
>>575 ちらっと読んだけど、下記の部分でもうばかばかしくなって読む気が失せた。
これらをまとめると、以下のようなことが言えます。
・倭人伝には末盧国から福岡平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には末盧国から佐賀平野へ抜けるルートが書かれている
・倭人伝には2度の使いがあったことが書かれている
ここから導き出される結論としては、
1)魏の2度の使いは、共に福岡平野へ抜けるルートを通った
2)魏の2度の使いは、共に佐賀平野へ抜けるルートを通った
3)魏の2度の使いは、福岡平野へと佐賀平野へのそれぞれ別のルートを通った
の3つのうち、最後の3)になるでしょう。
他の2つの候補は、考えにくいものであることが良くわかるのではないかと思います。
なんでそんな結論が導けるのかね。結論なんか出せないだろ。
桃の種が出てきたくらいで、想像力豊か過ぎるだろ
>>574 どうみても宗教度では九州説の方が上でしょ。
580 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 20:09:11
>>576 箸中山古墳は崇神の墓です。4世紀前半の築造でしょう。大型建物も同じ時期でしょう。ぐふふ。
>>575 ×今まで誰もまともな反論をすることができないでいる説ですw
○今まで誰にもまともに相手をしてもらうことができないでいる説ですw
582 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 20:13:18
桃の種の放射性炭素を測定して、4世紀半ばになったらどうするんだろう?
やっぱりホケノ山のときのように無視するのかな?
2000個もあってこんなに大々的に報道しても、やっぱり無視・・・
それが畿内説クオリティーと言ってしまえばそれまでだが。
宗教と呼ぶことすら、宗教に失礼な感じがするね。
>>582 3c半ばだったら九州説の連中はどうするのかな?
いつものようにまたファびょるだけでしょうね。
なぜ畿内でないと困るのか
なぜ九州でないと困るのか
この視点で考えると歴史を無理やり捏造している連中の顔があぶり出されてくる
585 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 20:25:56
>>582 >宗教と呼ぶことすら、宗教に失礼な感じがするね。
当たり前だろ。世界の主な宗教は数億人レベルの信者がいて、テロの要因にまでなる。
纏向信者がどのくらいいると思ってるのかな。
586 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/17(金) 20:27:58
>>580 しかし 崇神を4世紀とできる文献は無い。
崇神5,6年=新羅192,3年と同等である。
任那建国=崇神時代=209年 新羅が伽耶に援軍を送る。
ツノガアラシトの来日= 173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪=姫大神
587 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 20:45:03
>>586 古事記の崇神天皇没年干支は戊寅年。これを信用すれば318年。すなわち4世紀初。
588 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/17(金) 20:46:12
173年 ツノガアラシト来日、ここから1代ほぼ20年で繋ぐと
応神の誕生は273年頃になる。
273年には日食があった。これを神功元年のあづないの罪とすると、
孫の仁徳は313年即位、86年後の399年に葬られる。
書紀の主張はこうなのだ。
589 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 20:50:58
>>577 畿内説も沈黙しているし、九州説もトンデモしか出てこないようだから、まともな
九州説を紹介しよう。
まず、多くの説は、伊都国の比定をまちがえてるね。正解は、佐賀大和だよ。
@ まず末盧国からの方角と距離。佐賀大和はぴったりだ。
A 末盧国で上陸したのは船ではいけない所だからだ。怡土では理解でき
ないが、佐賀大和なら上陸するのは当然ということになる。
B 南水行とは何のことかを考えよう。乍東とか乍西を言わず、いきなり南への
水行を言うのは有明海を南下することしか考えられん。白鳥が「有明海航行」
と言ったことは間違いではないんだ。となれば、伊都国はどこに比定するか
細かいことは抜きにしても有明海沿岸であることは当然となる。
伊都国が佐賀大和ならば、そこから先は放射式だ。放射式は、文献史学者の多く
がその正しさを認めている。しかも、既に海辺に出た以上、伊都国から先へ行く
必要はない。となれば、水行二十日の投馬国は薩摩川内。水行十日陸行一月の邪
馬台国は小林市か都城市付近ということになる。
記紀伝承は正しかったというわけだ。
590 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/17(金) 20:56:26
書紀の読み方 その2
273年 神功元年(2年ほど齟齬があるが)磐余稚桜宮
その70年後佐紀楯列に葬られる
その40年後が誉田御廟山である。
つまり書紀は書き換えられている。
しかしその時代は書かれた年数どおりである。
>>589 可能性はあると思うけど
「邪馬台国=熊襲」説はなかなか受け入れられないと思う
真実を探求する学問の世界においても、心理的障壁というものは影響が少なくない
592 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:19:53
船でいけないという意味だが、潮流の問題、敵対勢力の問題、聖地に外国人を入れてはいけないといった宗教上の問題。
現在では想像もできないような理由で陸路を使った可能性がある。
古代史を現在の常識で解こうとするところがそもそも誤りでありなのです。
みんな、目が曇っている。
593 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:22:43
>>591 何のために南九州の人々を熊襲なんて言ったのか、それを考えてみるべきだな。
為政者は、自国内の人々をけして蔑んだりはしないものだ。蔑めば、その人々
から無用の反発を受けることとなる。国内の平和は保たれない。
記紀が南九州の人々を熊襲と呼んだのは、そこが特別の地域だからこそわざと
蔑んだふりをしたんだよ。白村江の戦いに敗れ、唐から攻められることを考え
邪馬台国を蔑んでみせることでヤマトは生き残ろうという深謀遠慮だ。
俺以外全員馬鹿!
596 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 21:27:36
日向以外全員大馬鹿
597 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/17(金) 21:37:44
>>587 258年もほうです。これがほぼ真ですね。
アフリカを脱出したモンゴロイドは、ヒマラヤ山脈の手前で
北回りと南回りに分かれた。
南回りはデカン高原に長くとどまったため時間を要した。
一方、来た周りはモンゴル高原で、馬に乗ることを覚え、移動速度が早まった。
そして両者が再び出会ったところが日本列島。
寒地適応を成し遂げた北回りのモンゴロイドは瞼だけではなくチンポの皮も長い。
三輪山の大物主は、北回りで先に日本列島にたどり着いた寒地適応したモンゴロイド。
チンポの皮が長く、ズリ剥けの蛇を守護神とするところがその証拠ではないでしょうか?
599 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/17(金) 21:47:11
600 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/17(金) 22:20:18
>>587 >古事記の崇神天皇没年干支は戊寅年。
そのまま信用するなら、他の天皇も信用せねばならない。
例えば226年を崇神天皇没年干支は戊寅年とする。
雄略の崩御年齢は、それ以前の天皇と比べて大きい、数字を加増することにより
中国の干支と同期させたとすれば、己巳年迄を 489−226=263年であり
479−216=263年の私の主張と同じ長さになる。
他にも同じ長さになる天皇はいるが、その場合226年=戊寅にならない。
=CHOOSE(MOD((A4+66),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((A4+68),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
こんな式で遊んでみたら?
書紀には”正朔”の文字が有る、太陰暦だ、太陰暦は19年の積み重ねである。
書紀から19×n回を差し引いても”正朔”である。
601 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 22:24:25
>>562-563 【読売】纒向遺跡に桃の種2千個…3世紀、祭祀に使用?
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀中頃の穴から
桃の種約2000個や竹製のかご6点が出土したと、市教委が17日発表した。
桃の種が1か所でこれほど大量に見つかる例はないという。桃は、古代の中国や日本で不老
長寿などの効果があると信じられ、祭祀(さいし)に使われたとみられる。
桃の種は、昨年11月に出土し、邪馬台国の宮殿の可能性もあるとされた大型建物跡から約5
メートル南の穴(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ0・8メートル)で見つかった。大型
建物を区画する柵跡を壊しており、建物の廃絶後に掘られたらしい。当時の桃はピンポン球ほど
で、果肉が残ったものや未成熟のものもあることから、食用ではなく、かごなどに入れて供えた
とみられる。
纒向遺跡で出土した大量の桃の種=笹井利恵子撮影
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100917-617242-1-L.jpg 【朝日】纒向遺跡から祭祀用?桃の種2千超 邪馬台国有力候補地
女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
(2世紀末〜4世紀初め)で、大型建物跡そばの穴から2千個を超す桃の種が出土した。
市教委が17日、発表した。桃は古代、魔よけなどに使われたとされ、市教委は「祭祀(さいし)に
使った後に捨てた可能性がある」とみている。
纒向遺跡からは昨秋、3世紀前半では最大の建物跡(東西約12.4メートル、南北約19.2メー
トル)が見つかり、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいる。市教委は7月から、建物跡を取り囲むと
みられる柵(さく)列の延長を確認するため南側を発掘調査。
その結果、建物跡の南約5メートルで、楕円(だえん)形の穴(東西約2.2メートル、南北約4.3
メートル、深さ約80センチ)が見つかり、2千個以上の桃の種(直径約2.5センチ)が埋まっている
のを確認した。
纒向遺跡から見つかった大量の桃の種と竹ざるの遺物=奈良県桜井市、森井英二郎撮影
http://www.asahicom.jp/culture/update/0917/images/OSK201009170082.jpg http://www.asahi.com/culture/update/0917/images/OSK201009170085.jpg
603 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/17(金) 22:34:04
景初3年=239年=崇神3年
とせねばいけない。この年の銘文の△鏡がうんと出土している。この年は
崇神の同床共殿策からの倭笠縫に日像鏡(ヒガタのカガミ)を祭祀して
その模擬二次鏡を殿内に奉安した崇神2年(紀の崇神6年)の翌年であって、
景初3年鏡はこの出来事から人民に下命されて多く製造された3次鏡なので
あるから、崇神2年(紀の崇神6年)の翌年になるのである。
となれば
崇神即位元年=237年=景初元年
であることが分かる。
ここから3倍年暦で年代を下降させれば
崇神没年=259年
を得る。これは古事記の没年干支からの258年説が真であることを意味
するのだ。1年違いで整合している。
>>602の続き
竹ざる6点(直径30〜60センチ)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、
いずれも祭祀に関連するという。市教委は土器の形から穴は、卑弥呼と同時代の3世紀中ごろのものと
みている。桃の種は弥生や古墳時代の各地の遺跡で見つかっているが、1カ所でこれほど大量に出るのは異例。
古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。3世紀末の中国の史書
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は卑弥呼が倭国(わこく)を鬼道(きどう)(呪術)で支配したと記し、鬼道を
道教とみる説もある。辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行った
のではないか」と話す。
現地説明会は19日午前10時〜午後3時。問い合わせは同市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ。
----
ここまで
想像力がたくましい
「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行ったのではないか」
>>602 この桃が三世紀半ばの物だとしたら、当時中国神仙思想の影響が
巻向にはあった事が確実だね。
【産経】蘇る卑弥呼の「鬼道」 不老長寿の仙薬か
倭国女王・卑弥呼(2世紀末〜3世紀前半)がいたともいわれる纒(まき)向(むく)遺跡(奈良県桜井市)の
大型建物の“軒先”に掘られた穴から、ザクザクと出土したモモの種。古来、不老長寿の薬効や魔除けの
呪力(じゅりょく)を持つと信じられた果実だけに、専門家たちは2千個という数の多さに驚きを隠さない。
「国家的規模の祭(さい)祀(し)を示す」との見方で一致し、「鬼(き)道(どう)に事(つか)え、能(よ)く衆を
惑わす」と中国の歴史書「魏志倭人伝」に描かれた卑弥呼の呪術に迫る発見だとの声も上がっている。
金原正明・奈良教育大教授(植物考古学)によると、モモは弥生時代に稲作とともに国内に入ってきた。
現在の大きなモモは明治時代に日本に入った種類で、江戸時代まではスモモかウメほどの大きさだったという。
金原氏は「1カ所から出るモモの種は多くても数十個ほど。千個単位は全国に例がない」と驚く。「天皇に
よる新(にい)嘗(なめ)祭(さい)の原初形態のような国家的な儀式だったのだろう」と推測する。
「大型建物の中でモモを盛ったカゴをいくつも並べ、卑弥呼が行った祭(さい)祀(し)の情景をありありと思い
浮かべさせる」と感嘆するのは辰巳和弘・同志社大教授(古代学)。モモは、中国・前漢の武帝に特別なモモを
与えたと伝えられる道教の女神、西(せい)王(おう)母(ぼ)の神仙世界を象徴する果実で、「不老長寿の願い
が込められた卑弥呼の『鬼道』の姿を具体的に表したものだ」と明言する。
一方、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は、1片だけ出土した弥生時代を象徴する銅(どう)鐸(たく)
の破片に着目する。纒向遺跡周辺の弥生遺跡の最近の調査で、卑弥呼が登場する時期に銅鐸が破壊され、
再利用されたことが分かってきている。「卑弥呼は銅鐸を破壊して弥生の神を否定し、モモに象徴される神仙思想
(=鬼道)を引っさげて登場したのだろう。明治時代の廃(はい)仏(ぶつ)毀(き)釈(しゃく)にも似た宗教改革を
断行したのではないか」と語った。
607 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 22:41:26
卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて、これ以上積み上げることができない数が
奇数だったら豊作になるとか。www 偶数だったら生贄を殺す。
イザナギ・イザナミ両神の時代という日本神話の初期の段階で桃は厄除け
の大儀を任じられてたからな。
考古学って偉い学者先生の発言すら、単なる妄想じゃねーかって突っ込みが入るレベルだよな
桃というのは兆の木、兆とは占いの亀の甲のひび割れの事で、
漢字でも甲骨文字から由来の一番古い漢字の一つだからな。
611 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/17(金) 22:59:40
>>577 >>なんでそんな結論が導けるのかね。結論なんか出せないだろ。
文章が理解できないなら解説してあげますよ。
どこまで理解できたのか、どこからが理解できていないのか、書いてください。
>>581 ここには理解できる人が少ないようですから。
反論というと縄文人とwwwの「2つのルートはない」というものしかなかったでしょうか。
彼らは2つのルートという想定をすることが出来ないだけだったのですけどね。
612 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:05:14
何か言ってやれ。
日本人どこから来たんだ?18
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1284044793/ 539 :出土地不明:2010/09/17(金) 20:04:18 ID:vJs0HbAf
>>518 高句麗の開祖の話なら丁度今やってる朱蒙って向こうのドラマが面白い解釈しているね。
熊は出てこないけど、養父がクムアって名前の扶余の王だったり、
実父である将軍が洞窟に閉じ込められて熊みたいな風貌になってたり。
しかし塩に苦労する扶余って一体どこの内陸国よ?
それにしても熊だの国を開く土地を探す三足カラスだの、なんかどっかで聞いた話に似ているのが面白い。
>>528 奈良盆地は古代まで大きな湖があったんじゃないの?鳥はいっぱい居たんだろうな。
540 :出土地不明:2010/09/17(金) 20:54:33 ID:TugMQhO+
>>539 飛鳥とか斑鳩かな
湖は有ったみたいだね、それに大阪一帯は湿原で人が住めない状態だった
古墳時代の説に大阪を持ちだすと笑える状態になる
アスカは明日香とも書く
明日香には益田磐船とか変わった巨石が多く
初期の大和王権からは巨石文明の匂いもするね
>ここには理解できる人が少ないようですから。
誰もそんな自己満パズル興味ないんだよw
>>605 は?なんで?
俺も桃食うけど中国神仙思想の影響なんてないよ
>>614 確かに君には影響ないよ、本来は仙果で食用が主ではない。
616 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 23:26:36
>>611 2ルート厨
>wwwの「2つのルートはない」というものしかなかったでしょうか
はて?そんな事言ったかな?
2ルートどころか3ルートでも4ルートでも別に可能であり
(複数の原資料からなる可能性は否定できないしむしろそう考える方が自然)
そうやっていけば何処にでも比定地を持っていくことができると言う旨を言ったと記憶しているが?www
…しかしやっと弄ってもらえる人間が出たじゃないか、おめでとうw
まあ、賛同者で無いのは残念だが、対象が釣れるまで頑張れwww
あらまあ
また元通りの工作パラダイスですのねー
>>615 「桃と一緒に中国神仙思想が伝わったに違いない」
「なぜならば中国神仙思想において桃は仙果だからだ」
って自家撞着してないか?
いや、可能性を否定するつもりはないけど
論理的には何の証明にもなっていないぞ
619 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:23:03
これで詰んだなw
>>618 少なくとも可能性があるという事でいいんですよ。
証明、検証はこれからですから。
△鏡や水銀朱に次いで、神仙思想の影響下にある事を
証明する物が増えた事には間違いないですから。
ならなぜ倭国は神仙を崇めている国だと記述されなかったんだ
622 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:35:52
桃って漿果だから酒にはしやすそうだね。
数千個の種なんて普通じゃ考えにくいから
カメか何かにいれて発酵させたんじゃないかな。
中国の白酒みたいに土を掘って発酵槽にしたことも
考えられる。
>>621 倭は卑弥呼という女性を崇めている国
天が女を王に選ぶ筈がないので共立と苦肉の解釈をしている
624 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:46:32
>>622 まあドングリや栗みたいな堅果類のように日持ちはしないだろうからな。
流石に2000と言う数は纏向の人間がスイーツ好きだったと言うだけでは解釈つかんだろうw
なんで歴史関係の議論では根拠や理由を求められると
一件関係がありそうで、実は論理的には無関係なことを言い出す奴が多いんだろう?
文系だからロジックというものを理解できないのか?
数年かけて2000個溜まったのかもしれんよ
628 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:58:32
>>626 日本の歴史を操作したがってるのが、論理性が欠けた人種だから
>>621 鬼道を用いるとは書かれるんじゃないの?
箸墓古墳が卑弥呼の墓としたら、卑弥呼=モモソ媛命
そういう風に考えたら
紀元前1世紀
出雲王朝から禅譲され、高間・高尾張(現在の御所市)に全国王権を誕生する。
初代倭王・天照国照彦(火明命)
紀元後1世紀
二ギハヤヒが、火明命の櫛玉(形見=御落胤)をなのり
妹の兄のナガスネヒコとともにクーデターを起こす。
そこで、3代目倭王・村雲命は、一族であり日向で分家していた
五瀬命・若御毛沼命(神武)の兄弟に援軍を頼み、これを鎮圧。
これにより、若御毛沼命は、本家にあたる倭王家の補佐をし、自らが政治をみ
イワレに居をかまえ、イワレ彦をなのる。
この間、倭王家の権威は失墜し、全国各地で独立的な動きが勃発。
倭の奴国王の金印もこの時期。
631 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:10:19
桃に注目するのは、もろ、
ヤマトトトヒモモソ媛命に誘導したがている証拠だな。
あと、数年経てば、卑弥呼=モモソ媛命という認識が
広がるかもしれんな。
自画自賛乙
634 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:12:25
>621はバカなんだろw
モモにだけは注目するな!
絶対に隠蔽しろ!
モモソ姫なんて単語を絶対に言うな!
636 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:17:12
>>621 まあタテマエとして「怪力乱心を語らず」とでも言うか
道教自体がぁゃιぃ宗教なんだろうw
そもそも魏は五斗米道に手を焼いていたりもするからな
637 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:19:07
伝説はほんとじゃった!
>>635 まあ場所が場所だけに2000個も出りゃ注目されるよ。
桃に注目なんて、絶対に狙っているわw
考古学の先生ww
モモソ媛命と神仙思想か...
桃と朱(水銀)と丹山(水銀の出る山)
全部、神仙思想つながり。
でも少なくとも記紀の編者は「桃」との関連性を意識せずに字を当てているわけだよな
642 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 01:35:33
意外と「事実は小説よりも奇なり」かもですよ
本当はこういうことって、ごくごく単純な事なのかも
モモソ媛の命名の由来も単に「桃が好きだったから」とかw
>>606 >卑弥呼は銅鐸を破壊して弥生の神を否定し、
>モモに象徴される神仙思想(=鬼道)を引っさげて登場したのだろう。
>明治時代の廃(はい)仏(ぶつ)毀(き)釈(しゃく)にも似た宗教改革を
>断行したのではないか(キリッ
こんなのが博物館長してるとか頭痛がするわ
つか兵庫県まで探しに行かなきゃ、コレを言う人いなかったんだねw
スイーツ女王ww
>>643 >つか兵庫県まで探しに行かなきゃ、コレを言う人いなかったんだねw
石野さんは元々巻向掘ってた人だろw
桃自体は日本でも縄文時代から食されてきた果実だからな
弥生時代後期になって中国から栽培種が移入されたからといって
神仙思想まで同時に入ってきて定着したものとは限らない
少なくとも栽培種の移入前は、日本人にとっての桃は単なる食い物として認識されていたはずだ
それが栽培種の移入を境に突然、仙果として特別視されるようになったかどうかは微妙なところだな
モモ(百)はツクモ(九十九)より1つ大きいから、目出度くはないんだよね
陰陽道で100は逝っちゃってる数字だし
小説ができるよ。
邪馬台国畿内説の小説だと、三国志の時代と、崇神天皇の時代の小説になるなw
魏の国の使者が、モモソ媛命にあいにいく。
そうしたら、許乃国(コノ国=狗奴国)の武埴安彦命が
外戚の河内彦(コウチヒコ=拘右智卑狗)にそそのかされて
反乱をおこしたシーンとかw
まあ、秦の始皇帝は、東方に蓬莱の国があって
神仙がいると信じていたが
なんと、その東方では、暦が異なっていて
それで長寿だったにしぎなかったというおちw
ただ、その蓬莱には、丹や桃が良く取れ
神仙がいると思われましたとさw
銅鏡の造型は神仙丸出しだ
魏志倭人伝によると、倭国には丹が多くある。
丹=水銀
神仙思想つながり。
桃も神仙思想つながり。
神仙=須弥山=三輪山 だったんだろ
卑弥呼が山麓で祈ってた
やがて神仙は人工の山である前方後円墳に受け継がれた
明日香では須弥山石がつくられ権威の象徴とされた
神仙思想で重要なのは、倭国はかなり古い時期から
中国との交流があって、中国の思想も入っていたのでは?ということ。
なんでも、山海経によると、周王朝と倭国は外交関係に新しいから。
だから、倭国では、かなり早い時期から漢字の知識がある人もいるのでは?
と思うんだがな。
だって、漢字を知らずして、外交できないじゃん。
一般に広くは普及しないが、外交にもかかわる階級や層では
漢字の知識がる人ぐらいいただろうし。
しかも、神仙思想も倭国に入ってきて、また、中国の歴史事情にも詳しく
呉の太白なんて名前も知られていたことにビックリ。
実際に、紀元前後の遺物に、漢字が記されたものが出てくる。
その時点で漢字に触れているわけだ、一応。
崇神天皇は戸籍とったらしいから、
当時の役人の中に漢字の知識がある人がいても、不思議ではないよ。
で、その後の日本では神仙思想があまり定着しなかったのはなぜ?
>>654 一応、神社の鳥居って、赤いじゃん。
朱は木造建築物の防腐になるから、
そういうところで、神仙思想がいきているともいえる。
>>654 国中が仏教に帰依したから
須弥壇に仏像が安置され、山そのものから釈迦を崇拝する思想に変わった
>>654 飛鳥、奈良時代なんて影響下にあると思うけど。
ヤマト盆地見たら
軍事的に守りやすい地域は、
現在の御所市(高天、葛城)のあたりなんだよね。
初期の王権がここで出来たのには、納得です。
しかし、王権の全国支配が安定しだすと、
経済性を重視しだして、やや開けた場所に首都を移す。
それが、三輪山の山処(ヤマト)のあたり。(現在の桜井市)
奈良時代の修験道で多くの山岳が開山されている
660 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:04:38
>>653 つか、日本人は呉の太白の子孫つーウワサよね
>>654 道教の影響ってのは実際は色々あるんでは
天皇って名称だって
>>660 山海経にも、倭と周が交易していたとあるらしい。
周王朝は、春秋戦国時代にも、力はないが
中国の正統王朝として存在していたからな。
その頃に、倭国と確実に交易していただろう。
邪馬台国:モモの種大量出土 最有力候補地・纒向遺跡
http://mainichi.jp/select/today/news/20100918k0000m040107000c.html 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、3世紀中ごろに
掘られた穴「土坑(どこう)」からモモの種約2000個が見つかった。モモは古代祭祀(さいし)
で供物に使われ、1カ所で出土した種の数では国内最多。卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)
の晩年から死後の時期に、モモを大量に使った国家祭祀が行われたことを示す成果と言える。
17日発表した市教委によると、発掘調査は09年11月に確認された大型建物跡(3世紀前半)
の南側465平方メートルで実施。建物を囲む柵列がさらに28メートル東に長いことが確認され、
土坑も見つかった。
土坑は南北4.3メートル、東西2.2メートル、深さ80センチの楕円(だえん)形。モモの種が
まとまって見つかり一度に埋めたとみられる。一緒に祭祀用具とみられる土器や竹で編んだ
かごなども発見。果肉が残った種もあり、市教委は食べたものではなく、モモを竹かごに盛って
祭祀に使った後、土坑に埋めたとみている。
モモは、中国の道教で不老長寿や秩序を象徴する神、西王母(せいおうぼ)の食べ物。日本
には弥生時代に伝わり、食用以外に不老長寿や厄よけのため祭祀に使われた。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、卑弥呼は戦乱の倭国を治めるため「鬼道(きどう)を行い、
人々をひきつけた」とある。辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「鬼道は道教を反映したもの
で、モモを大量に使った祭祀で西王母をまつった可能性がある」としている。【高島博之】
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された
大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀(さいし)に用いたとみられる2千個を超す桃の種や
大量の土器、木製品が見つかり、同市教育委員会が17日、発表した。
桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡
でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や
纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。
桃の種などが出土したのは大型建物跡の約4メートル南。楕円(だえん)形の穴(南北4.3メー
トル、東西2.2メートル、深さ80センチ)からは文様を刻んだつぼや、祭祀用とされるミニチュア
土器、ヘラ状・筒型など様々な木製品やかご、獣骨が出土した。土器や木製品のほとんどは
意図的に破砕されていた。
桃の種類は分析中だが、一部に果肉が残り、未成熟のものがあったことから実の状態で埋
まった可能性が高い。
穴は建物跡などの周囲を巡る柵跡と重複しており、市教委は、これらの施設群が廃絶した後
の3世紀中ごろに掘られたのではないかとみている。
祭祀の後、用いた道具を破砕して埋める行為は縄文時代以降、広くみられる。市教委は「周辺
で何かの儀式を営み、用具を破砕して、かごに盛って供えていた桃と一緒に埋めた」と推測する。
大型建物跡は復元すると南北約19メートル、東西約12メートルで、当時の国内では最大規模。
過去の調査で見つかった建物跡や柵跡と方位や中心軸が一致し、施設を整然と建てた国内最古
の例とされる。邪馬台国畿内説に立つ専門家からは「卑弥呼の居館では」との声も出ている。
現地説明会は19日午前10時〜午後3時。
弥生時代の祭祀って桃や獣(の骨?)を供えてたのか?
これで小説書けないか?
不老不死をめざして、三国志時代の中国から
倭国を目指すとかそういう話。
そこでは、崇神天皇とかモモソ媛命のいた時代だった。
小説小説としつこいな
自分で勝手に書けばいいだろ
チラシの裏にでもな
卑弥呼が道教でいうところの鬼道なんか行うわけがないだろ
それ以前にはほとんど接点がないのに、一体誰が教えたって言うんだよ
古神道の祈祷を漢文で表わすのに「鬼道」の言葉を使っただけに決まっているだろ
なんでこういう馬鹿が専門家面して発言力を維持していられるのか不思議でならない
>>668 >それ以前にはほとんど接点がないのに、
接点は、恐らく、あったかもしれない。
ない、と決めつけない方がいいと思う。
670 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:57:58
中国への渡海とあるな
中国が道教を知っていたとは思わないけど
まあ、多少、影響を受けいていたんじゃないの?
その程度だと思う。
たとえば、丹とか桃とか不老長寿と関係がありという
ことぐらいは、よく知っていたでしょう。
672 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:08:27
神獣鏡の神仙世界は古神道か?w
卑弥呼の鬼道は神獣鏡と同じ世界だ
もはやオマエが思う古神道ではない
673 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:12:37
道教の発生は、中国古来の巫術もしくは鬼道の教、不老長生を求める神仙思想を基盤としている。
>>669 接点があったことはわかっている
だから「ほとんどない」と書いた
そのときの下賜品は記録が残っているが、道教の文書などは含まれていない
可能性があるとすれば使者を通じた口伝であるが、鬼道という特殊な性格上、それはほとんど考えられない
100歩譲って、そのときに鬼道を覚えたと言うのであれば
そもそも卑弥呼は魏へ使者を送る前に何十年も女王の座にいたわけで
それまで鬼道を知らずに何をやっていたかという新たな疑問も発生する
675 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:20:10
倭人伝の書く倭人社会が北九州に限定されるならば北九州説になる。九州全体
ならば、宮崎や熊本も候補に入ってくる。畿内説を主張するならば、まず倭人
社会が畿内を含む少なくとも西日本全体という証明が必要になる。
676 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:23:12
魏へ使者を送る前に、「中国への渡海」があった。
677 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:23:17
「ヤマト」トトヒモモソヒメ
ヤマト=倭
つまりモモソは倭人
ヤマトは倭人の国
>>672 結構いいところを点く
銅鏡が入ってきた時点で古神道は終わったと思うよ
だけどそれは道教の鬼道でもないと思う
679 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:29:56
道教の鬼道自体前提がオカシイ
鬼道は道教が出来る以前からあった
>>679 それはそうだが、それじゃあ何と表現すればいい?
魏志倭人伝に記されている「鬼道」について議論しているのに
単に「鬼道」と書いたら区別がつかなくなって意味が通じなくなってしまうじゃないか
「中国の鬼道」と書くと、対に「日本の鬼道」の存在を連想させて誤解が生じると思ったので
正確さには欠くがあえて「道教の鬼道」と表現したわけだ
用語の正確性は大事だが、俺にはうまく表現できなかった
そこは「察してくれ」としか言いようがない
681 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:44:53
道教の発生は、中国古来の巫術もしくは鬼道の教、不老長生を求める神仙思想を基盤としている。
当時、道教が盛んだったから、道教の鬼道が注目されてるんだろう。
単純に弥生時代に西日本を統一する権力が発生するとは思えない
683 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:09:21
倭人は山島に依りて国邑をなす。畿内を含む島となれば本州。本州が島だということ
を使者らは認識していたのか? もし、そこまで認識していたとすれば、その本州の
北は寒い北海道だということも認識していたであろう。本州島が南に垂れ下がってい
るなどという誤認識はありそうにない。どうしても、矛盾がでてくるように思う。
684 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:16:32
大陸でいう鬼道と、
魏志韓伝で鬼神や天神を祭ってるのと、
倭人伝がいう鬼道。
韓伝は大陸の思想が入る以前の古俗のままなのかもしれないし、
これすら鬼道と呼ぶかもしれない
それこそ日本でいう「古神道」の類例かもしれない
でも倭人伝が言う鬼道は、単に倭人固有の土地の祭祀宗教の古俗か?
神獣鏡を始め、物証的にそんな事は考えられない
この時代明らかに大陸的思想が蔓延し影響を受けまくっている
大陸に宗教カリスマが登場して道教教団が出来たように
列島にもカリスマが登場した
それは教団道教そのものではなくても
道教誕生直前レベルの思想レイヤーを大筋で共有している
だからこれを見て、「鬼道」と呼んだ
それはもはや「古神道」ではなかった
神獣鏡が物証って
頭大丈夫か?
邪馬台国=畿内でなければ成り立たない根拠で
邪馬台国=畿内を証明しようとする馬鹿
なんでこんな奴ばっかりなんだ?
687 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:34:42
何処にも仏教思想の痕跡がないなら兎も角、仏像があるのに、
「○○に仏教を信奉したと書かれているが、これはオカシイ」
「仏像はインテリアとして飾っていただけで、神様を祭っていたに違いない」
「仏教徒のインド人が、神様を祭っている日本人をみて、仏教を信じていると書いただけ」
なんて事には、蓋然性が無い
>>683 当時の世界観は、まさか赤県神州のままではなかろうが、
中国本土の他に大陸があるという認識はあったのか疑問だ。
だとしたら、実際に測量して島だと確認したわけではなく、
最初から島だという先入観を持ってたとしてもおかしくはない。
現代人の地理感覚でモノを考えるとわけにはいかないんじゃないか。
今でもGODを神と訳しているではないか
何十年も女王をやってきた宗教指導者がたかが鏡を貰ったくらいで転ぶわけないだろw
691 :
日本史@ななし:2010/09/18(土) 04:49:53
これから先
邪馬台国⇒ヤマトコク
卑弥呼⇒ピメカ
と読め!
当時の倭人の言ってるのをちうごく人が漢字をあてはめただけなんだから
なを「ピメカ」の「ピメ」は「比売」とも書くぞ 「カ」は住処の「処」
場所を表すコトバで、尊いヒトを指すときにこういうふうな表現をするのはむかしから一般的
「ピメカ」は「姫さま」って意味だね。したがって「卑弥呼」は固有名詞でない。
「邪馬台国」の「卑弥呼」は「ヤマト国の姫さま」ということだよ。「倭比売」とも書くわけだ
この件に関してはこれで終わり
692 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:54:29
何処にもキリスト教思想の痕跡がないなら兎も角、マリア像があるのに、
「神国日本である日本人がキリスト教を信奉したと書かれているが、これはオカシイ」
「マリア像はインテリアとして飾っていただけで、日本の神様を祭っていたに違いない」
「キリスト教徒のスペイン人が、神様を祭っている日本人をみて、キリスト教を信じていると書いただけ」
「『キリシタン大名は、なかった』(税込み1980両)を読んでなかった秀吉の空耳勘違い」
なんて事には、蓋然性が無い
693 :
日本史@ななし:2010/09/18(土) 04:54:40
鬼道=説明不能なぁゃιぃ力
銅鏡を使うから古神道ではないというのはミスリードだね
道教・密教・仏教の影響を受けたものも分類上は古神道だよ
それ以前の古神道と区別したいなら、新語とその定義づけが必要になる
695 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:59:51
>>693 おそらくは原始的な神道もどきだとは思いますが
中華思想がいけない
ちゃんと正確に表記せず蔑称を使ったりするから混乱してしまう要因になる
日本の仏教は神道だし
697 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:05:20
大辞林 第二版 (三省堂)
こしんとう ―しんたう 【古神道】
後世の儒教・仏教など外来思想に影響される以前の日本固有の神道。主に記紀・祝詞(のりと)・万葉集などの古典に表れた思想を中心とする信仰。
698 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:06:00
>>688 別の大陸の存在なんてことを言ってるのではなく、
ユーラシア大陸につながっているかどうかですよ。
つながっていないという認識があって、島という
言葉がでる。
>>692 お前は神仏習合や七福神をどう説明するんだ?
>>697 用語の定義と分類上の定義は異なる
分類上はグレーゾーンを許容できないのでこのようなことが起こる
だからわざわざ「分類上は」と言っているのに
701 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:12:56
記紀以前に既に仏教・道教・儒教の影響を既に受けている場合は、古神道と呼ぶのか?
(記紀以前には)仏教・道教・儒教などの外来思想の影響がない時代の
神道があったという前提が「古神道」の言葉を発明した側の本義だろ
だからその定義では卑弥呼の呪術・宗教は、「古神道」と呼ぶことは出来ない
実は外来思想との接触は思ってた以上に早かった
>>699 それは「神道」であって「古神道」じゃない
702 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:20:23
天武あたりは卑弥呼のポジションを弁えてたんだろうな
>>701 古神道じゃないから何だ?
古神道が道教の影響を受けたら道教になるわけじゃないだろ
>>687や
>>692でミスリードしていることだけは確かだろう
704 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:30:44
.-、 _
ヽ、メ、〉 r〜〜ー-、__ ________________
∠イ\) ムヘ._ ノ |
⊥_ ┣=レヘ、_ 了 | え−−い、纏向はいいっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐ ム _..-┴へ <
| |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒', ヽ. | 九州説を映せっ!九州説の戦い振りをっ!!
(三 |`iー、 | ト、_ソ } ヽ |
| |`'ー、_ `'ー-‐' .イ `、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | `ー、 ∠.-ヽ ',
__l___l____ l`lー‐'´____l. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .| |
|| |__.. -‐イ
|| | ノ/
705 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 05:33:01
卑弥呼がやってたのは今の時代に目にする神道でもなければ
外来思想に感化される以前の古神道でもなかった
魏志倭人伝は古神道を指して鬼道と呼んだ訳じゃなく、
大陸での鬼道を指して鬼道と呼んだ
仏教が神道でないように、キリスト教が神道でないように
卑弥呼の鬼道は古神道ではなかった
卑弥呼の鬼道は神道だ
>>702 天武?
チョンにそそのかされてクーデター起こしたものの
後を治められずにフェードアウトした人?
708 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:02:32
それは老荘を道教と呼ぶようなもんだ
709 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:04:44
老子は「道教」を説いたのかね
最近はあまり銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなったけど
俺はやっぱりあったと思うんだな
そりゃ今では各地で銅鐸も銅矛も出土するようになったけどさ
やっぱり出土する割合が全然違うんだよね
じゃあなんで銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなったんだろうね?
それはね、この時代に二つの文化圏があっては困る人たちがいるからなんだよ
そう、それは邪馬台国=畿内説の人たちなんだ
だってそうだろ?
畿内の勢力が九州の勢力の地元を通って大陸に行くことなんてできっこないんだから
環壕集落も九州には大規模なのがいくつも発見されているのに
畿内では規模と時代が怪しいのが最近やっとちょっとだけ見つかっただけなんだから
銅鏡だって勾玉だって圧倒的に九州でたくさん出土しちゃってるんだ
そう、三種の神器はみんな九州が起源ってことになっちゃう
これで畿内と九州が異なる勢力だってことになったら
邪馬台国=畿内説としては大打撃なわけ
南九州の熊襲となんか対立しようがないの
だって間に別の勢力がいるんだからね
もうね、必然的に邪馬台国=九州ってことになっちゃう
だから最近は銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなっちゃったんだよ
711 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:32:35
>>710 素晴らしいです、私ひさびさに感銘を受けました
邪馬台国が畿内にあったとしたらさ
勢力の拡大のしかたがバランス悪いんだよね
西や南には遠方まで勢力を拡大してるのに
東や北にはちっとも手を伸ばそうとしないの
いきなり銅鐸も捨てちゃうし、もうわけがわからない
でもね、もし邪馬台国が九州にあったなら、話は簡単
南の熊襲を服従させ、三種の神器をもった征服者が銅鐸文化圏を配下に納めながら東遷
畿内に辿り着いて西日本の統一を達成
ここに大和朝廷が誕生したってわけ
東遷の理由は大陸の勢力から距離をとりたかったからかな?
713 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:42:42
当時の邪馬台国は狭いよ。
岐阜(美濃)、福井南部、滋賀、三重、奈良、京都少々
その程度。
大阪すら範囲外、そこが狗奴国だからね。
>>707 大海人皇子(天武)は、渡来人ごときに
そそのかされたぐらいで、大友皇子と戦い、政権とりにいかない。
これは、戦後の歴史研究の悪いところだよ。
大海人皇子(天武)とは、どういう皇族だったのか、少し調べればわかるのだが
彼は、熱田社の尾張氏の配下の大海(オオアマ)氏に養育された皇子だったから
大海人(オオアマ)皇子と名乗っていたわけで。
壬申の乱の時、オオアマ(天武天皇)はどこにかくまわれ、
誰の軍に支援されたのかというと、それは、熱田社の尾張連の邸宅にかくまわれ
半数以上が尾張連の軍隊で戦っているのだ。4万のうちの2万が尾張軍だったか?
よって、オオアマがそそのかされたとしたら、
それは尾張氏にそそのかされている可能性が高い。
こういった事例は、それ以前にも多くて、
景行天皇、神功皇后、継体天皇なんかが権力を取る場合でも
熱田の尾張氏の支援があって、政権を取れたと言われているのである。
しかしながら、大海人皇子が政権を取ったとたんに、
彼は、尾張連に対して、そっけない態度に出るのだ。
彼は、兄の中大兄皇子の時代に、熱田社から預かって
かえそうにしなかった天叢雲剣(草薙の剣)をなかなか返そうとしなかったり、
その他にも、天武朝が編纂した日本書紀には、尾張氏の活躍がばっさり
けずられていたりした。
715 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:47:17
>>714 尾張氏の活躍がばっさりけずられた?
物部氏は尾張じゃないの?
天武天皇が、記紀の編纂などでも、眼の敵にしていたのが、尾張氏なんだな。
そして、それは、系図についてのこともある。
平安時代も、京都朝廷が、尾張氏やその傍系の海部氏らに
欠史8代と同時代の人物について、書くなと脅しをかけていたことがわかっている。
欠史8代とは、あのモモソ媛命(卑弥呼?)の前後の時代の系図。
尾張氏の先祖をさかのぼれば、皇祖ニニギの兄とされている
火明命(天照国照彦=天津と国津の両方の支配者)にたどりつき
その嫡流の子孫が、尾張氏なんだな。
3種の神器なんかでも、尾張氏が、天叢雲剣の本物を保持し
皇室が保持していたのは、そのレプリカだったりしている。
火明命は、天照国照彦=「天津と国津の両方の支配者」ともいう。
男の太陽神アマテルとして、祭られていたのは、彼である。
播磨国風土記をみたら、大国主が娘婿の火明命に降参する話が出てくる。
出雲国譲りした時の主役は、彼だったのでは?
一方、皇祖ニニギは、出雲国譲りの後、なぜか、九州高千穂に飛ばされるのである。
717 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 06:58:44
>>716 >平安時代も、京都朝廷が、尾張氏やその傍系の海部氏らに
>欠史8代と同時代の人物について、書くなと脅しをかけていたことがわかっている。
そんな重要機密どうやってわかったんだΣ(・ω・ノ)ノ!
あんた一体何者だ!?
>>715 物部氏と尾張氏は別扱いだよ。
海部氏は尾張氏の分家筋という扱いだが...
ただ、物部氏側は、自分達は尾張氏の分家だと主張していた。
(皇室、尾張氏サイドは認めてなかったみたいだが)
ちなみに、物部氏の先祖のニギハヤヒって、
火明命と同一人物なのでは?という説がある。これは、物部氏が主張していた。
しかし、それを皇室は認めてないんだな。尾張氏も認めてないらしい。
火明櫛玉二ギハヤヒというらしいが、櫛玉は、奇魂が本当で、これは形見
という意味があるらしい。
つまり、火明櫛玉二ギハヤヒとは、火明命の奇魂(形見)のニギハヤヒ
ってのが、正しい名前らしい。
ニギハヤヒは、自分は火明命の形見(遺児?)だと主張していたらしい。
しかし、それを、皇室や尾張氏は認めなかったらしい。
>>717 アマゾンで本をさがせば。
金久さんの海部氏系図の本は両書です。
京都朝廷が、欠史八代と同時代くらいの、
海部氏の系図に登場する書かないように圧力をかけていたことが分る。
「ただし、海部氏はこっそり残していた)
それにしても、卑弥呼は倭国大乱で政権とったんでしょう?
その卑弥呼がモモソ媛命だとしたら、欠史八代の中ごろ位に
倭国大乱がおこったことになるね。
その時代のあたりの尾張氏の系図が、皇室にはやばかったことになる。
そして、皇室と尾張氏の先祖が分れたのが
忍穂耳命の息子たちの時。
兄の火明命の子孫が尾張氏。弟のニニギの子孫が皇室。
火明命は、別名が天照国照彦で、出雲国譲りさせて、
全てを支配した人物だと分る。
一方、ニニギのほうは、出雲国譲りの後、九州高千穂に飛ばされるのだ。
721 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 07:15:07
そのくらいにしとけ名古屋人
クシナダヒメは三重県松阪の櫛田川の姫で、オロチは尾張人。
だから草薙の剣が尾張産なのは正解。
わるいけど、ヤマト国側から見たらそういうことなんだ。
物部は吉備限定なのかな。
どっちにしても吉備と尾張は同祖だわ。でーれーえれーでよ。
大国主は出雲から来て、隣の吉備の大物主と手を組んだ。そういうことだわ。
まあ、別にいけど、凄いこといってしまったは。
ちなみに、尾張氏の名前は、どこから来ているのか諸説ある。
尾張ってのは、「オハリ」って開墾するっていうような意味がある
だから、一般名詞が起源だとは思うが
葛城の古名が、高尾張だったということが、日本書紀にはそう書いてある。
どうも、尾張氏の先祖は、そこの出身だったが
欠史八代のころに、葛城から濃尾平野にくだっていたことが分る。
>>721 吉備ツ彦は、モモソ媛命の弟の子孫でしょう?
だから、物部氏と同祖とは、おもわない。
関係が深かったとしても、同祖ではない。
724 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 07:22:39
>吉備ツ彦は、モモソ媛命の弟の子孫でしょう?
は??
もうたいがいにして
725 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 07:30:28
そうそう、吉備と尾張の両方に「桃太郎伝説」があるものね。
故地から日本を見て「島に住む鬼を退治して、大都会を作るんだわ!」
そういうこと。
皇室系図みたら分るけど、
モモソ媛命の弟は、吉備ツ彦だよ。
また、モモソ媛命の伯父さんにも、大吉備。。。って名前の人が出てくる。
ヤマト王権が、吉備を重要視していたことが分る。
モモソ媛命の弟の吉備津彦。
この名前は、吉備の支配者って意味だから、あくまでも通称。
彼の本名は、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)
つまり、イサセリが本名。
729 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 07:45:51
うん、だから記紀っつーのは
大海人=尾張≒吉備=物部 +藤原氏
このラインに都合がいいように捏造されてるわけよ、
ニギハヤヒが物部の始祖とかさ。
モモソ姫って名前も桃太郎に引っ掛けたのかw
730 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:27:10
>>710 そのとおりでしょうね。銅鐸文化圏と銅剣銅矛銅鏡の文化圏があった。
あるとき、銅鐸が消えて代わりに矛が持ち込まれ、銅鏡がばらまかれるようになった。
こうなると、結論は見えてるからですね。
731 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/18(土) 08:29:22
>>616 魏の使いは2度しか書かれていないというのに、3ルートでも4ルートでもですか。
頭の悪さ晒し乙w
君はせいぜい考古学者のいってることをオウム返しに言っている程度の価値しかない人間なのだから
下手な考えを書いて頭の悪さを晒すのは、あまりしないほうがいいよ。
そういえば、最近は「蓋然性」を連呼してるけど、まさにバカの一つ覚えw
「蓋然性」の根拠に蓋然性がないから、周りが「こいつ何いってるの?」と思ってるのは分かってるか?w
>>729 批判するのは、構わないがちゃんと読んでから批判しろ。
自分に都合が悪いと「捏造した」なんて、戦後左翼の歴史家の典型。
733 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:36:26
自分の嫌いなものは全部左翼認定か
734 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:38:22
右翼左翼言っているやつに限って
どっちかに偏っている。
「天照国照彦」なんてあからさまなパクリネームだし・・・
天照大神と大国主の両方ゲットだぜ!みたいなさー・・・
もうね(ry
なぜ、わざわざ、記紀などに
そんなところで、そんな名前を使わなきゃいけないんだよw
皇室の男系の直系の先祖でもないのにw
737 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:42:12
日本人の7割が右寄り(その中の一割が凱旋右翼)
だから仕方ない
平均的に見て愛国心が強いんだよ
最近の纏向遺跡の研究の成果で、
記紀に書かれていることが証明されつつあるから
それを否定してきた人は必至なんだわな。
739 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 08:45:47
なんやかんや理屈をつけて、原文の意味を否定する読み方はだめでしょうね。
740 :
水銀厨:2010/09/18(土) 08:46:36
巻向周辺は宗教都市で、中国神仙思想の影響が強いと
言ってきたので、桃が大量に出土した事は大歓迎。
大筋では「脚色された事実」なんだけど
ちょいちょい、偽造が入ってくんのよ。
こんなエライ神様がいました。で、これが俺らの先祖な。
みたいな感じで。
纏向遺跡は、後の藤原京くらいの規模だから、まだまだ発掘できてない。
倭国では、一般には漢字は普及していないけど
紀元前から中国と外交関係があったから
普通に漢字を理解できる官僚がいたと想像できる。
呉の太白とかいう歴史も知っていたし、
倭国の使者が、自分達たちのことを、中国風の官職名で「大夫」
と自称していたぐらいだから。
だから古事記より日本書紀の方が信用できるよ。
簒奪派閥は漢文が得意ではなかったようで、名前のすり替え程度で済んでる。
古事記にしかないエピソードとかは、まあかなりアレだね。
中国の三国志の時代、
魏、呉、蜀のそれぞれの首都って、どれくらいの大きさがあったのか?
詳しい人いませんか?
>>744 このスレは、皆それぞれ勝手な想像で語るスレです
>>736 アマテラスを伊勢に持っていくためだがね〜
崇神天皇は、天照を宮中から追放して祭っている。
その追放されたところの神社が残っているが
なぜか、主宰神が、天照国照彦火明命。ニニギの兄。
アマテラスは、もともとアマテルだったという説の根拠。
崇神天皇がおそれていたアマテラスとは、本当はアマテルで
自分達の先祖ではなくて、自分達の先祖のお兄さんだったというおち。
崇神天皇=ミマキイリヒコ ね。
「神武天皇」はこの崇神を元に、初代天皇の年代を繰り上げるために創作された、
なんて説はよく言われるけど
東征して初代天皇となったのは、宮崎県の「生目」から来た
垂仁天皇=イクメイリヒコ。
崇神もダミーです。
>>749 そう解釈する人がいるが、まったく理由が分らん。
>>750 「神武東征」が、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代よりも前の出来事
というのはあまりに不自然だから
神武天皇って名前も、西暦8世紀中ころに人間が作った名前で
彼の本名は、ワカミケヌでしょう?
卑弥呼の国は、もともと、男王の時代がつづいていたんでしょう。
その男王もまた、卑弥呼と同じで祭祀王だったはず。
一方、卑弥呼(モモソ媛命)時代の崇神天皇は、
祭祀王ではなく、実際の政治を粉う俗世王だったと思われ。
だとしたら、神武〜崇神までは、祭祀王ではなく、俗世王だったはず。
ということは、神武とか欠史八代のころ、これらの天皇は
実際の政治をおこなう俗世王だったが、
倭王家の祭祀を継承する正統な倭王は、別にいたことになる。
>>752 「邪馬台国」の時代に、すでに万世一系の皇統が始まっていたなら、
なぜ女王を共立する必要があった?
756 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 09:32:32
祟神天皇が天照を宮中から追放したというのはどうも違うのではないかと思うのです。
太陽と同じように西から東へ絶えず移動し続けるのが太陽信仰のあるべき姿。
北緯34度32分=太陽の道に沿って古代遺跡や神社仏閣が集中するのもそのためです。
むしろ、祟神の支配から解放されたとみるべきではないだろうか?
757 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 09:36:59
>>754 辻褄合わせようとしたら、こんな風によくわからん話になる。
「神武東征」は「邪馬台国」よりも後。これが解。
758 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 09:43:00
神武東征は卑弥呼の時代より古い。
>>755 卑弥呼が、モモソ媛命ならば、
卑弥呼共立のきっかけになった倭国大乱は
欠史八代の時代に起こったことになる。
ちなみに、「共立」ってのは、同時期の中国の史料では全て
「同じ王朝内で王位継承問題が発生して、結局、家臣の話し合いで
王位が決まる場合」
普通、国王や皇帝は、前皇帝が次期皇帝を決めるもの。
それが、決まらなかった場合、家臣が共立して決める。
ちなみに、王統が変わる場合は、革命であり、その場合は
共立なんて言葉は使わない。
魏志倭人伝をみれば分るが、卑弥呼の王朝は、彼女が初代ではなく
そのもっと前に、男の王によって建国されている。
あと、なかなか文字情報では分らんと思うが、
忍穂耳命を頂点として、尾張氏、皇室の系図をみくらべたら、
その謎が良く分る。
760 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 09:57:33
卑弥呼が初代でいいですよ。神武もその前がウガヤフキアヘズ尊の神皇と
言われていたが、神武を初代としている。
>>759 跡継ぎ争いで倭国は大乱しちゃうの?
庶民はいい迷惑ね
ヤマトの初代倭王は、火明命でしょう?
彼が初代ヤマト王であり、
二代目が香語山命
三代目が村雲命
火明命は、長い間、大和の始祖のアマテルとして祀られていた。
この火明命には、ニニギ命という弟(兄という説もある)がおおり、
アマテル(火明命)の命令で、九州高千穂で九州統治をまかされる。
このニニギ命の曾孫が、ワカミケヌ(神武天皇)
>>761 中世の南北朝時代や応仁の乱もそうだったじゃん。
跡目争いで、大戦争。
764 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 10:07:24
どこに初代に即位した記事があるんだろう?
魏志倭人伝をみれば分るが
男王の時代が数十年〜倭国大乱〜卑弥呼共立〜再び男王〜台与擁立
という流れだが、
これら全部、同じ王朝内の出来事として、とらえている。
もし、王統がまったく変わったのなら、革命がおきたこととされ、
別の国が誕生したとなる。
766 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 10:10:08
記紀にこだわってもねえ。辺境開拓団の話にすぎないんだから。
>>764 播磨国風土記に、出雲国譲りの痕跡があり
大国主が、娘婿(義理の息子)の火明命に
「禅譲」した記述がある。
768 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 10:12:33
禅譲って即位か? どのへんに国があったと言うんだろう?
>>765 そんなガチガチの王制だったとは思えんなー
漢の時代には使者が通じる国が100あったけど
倭国大乱後は30になったっていうじゃん、それなりの事が起きてる。
銅鐸終了もそのタイミングじゃないの?
皇室や日本の起源の土地とされる高天の原の高天とは
本当の正しい漢字は、高間(たかま)であり、
それは、後世、葛城の高間の地とされているところ。
ヤマト盆地の西南部にあり、地理的にも、初期ヤマト王権が
ここに居を構えていた理由が良く分るよ。
軍事的に一番守りやすい地域だから。
ここには、高天彦神社があり、明治天皇が東京に行く直前も
ここの神社に報告して言っている。
>>769 記紀とか読むと分るが
出雲国譲りで初めてヤマト王権が全国支配したとなると、
その後、神武東征とか、欠史八代(倭国大乱のころ?)とか
いろいろあったから、この王権は、たえず戦乱の時代だったことが分る。
ちょうど、中世、南北朝争乱、応仁の乱、戦国時代と
中央に京都朝廷、足利幕府があったのに、全国統治がたえず崩壊していた
時代に重なるわな。
772 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 10:18:58
古事記の註に天はアマと読むよう特別の指示がある。だから高天原とは
タカアマハラ と読むのが真である。
高天彦神社のところは、奈良県御所市高天
>>772 たかあま の はら
のほうが、より正しいかもな。
>>771 なんのこっちゃ。
なにがどう重なるのかサッパリ。
弥生時代は、国同士で銅鐸と米を交換しあって、米がたくさん採れる所が
「都」みたいな感じでゆるくやっとったわけよ。
そこへ異民族がきて、従うの従わないのという事になって、倭国大乱。
で、卑弥呼共立。
>>774 たか あまはら ですよ
776 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 10:37:58
>>774 「の」は入れないのが正解。高天原とは大宇宙の某状態を意味する語で
あって、地上でこの語句を使用するのは二次的、三次的なものである。
天照大御神の高天原の場合は二次的地名であって、本来の高天原とは
これまた別物である。神社名に使用してるのは三次的なる場合である。
>>777 高天原の天安河原でヤオヨロズの神が集会してた。
10月が神無月ってのは、米の収穫期だから。
各国の長が集まって、収穫物を分け合ったのよ。
780 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 10:46:11
倭国はたしかに百余国が三十国にまとまった、要するに征服されてしまった国
がかなりあったということとだろう。
しかし、一方で、邪馬台国は、765の言うとおり続いてきているみたいだね。
倭国の乱を勝ち抜いたってことだろう。
781 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 10:54:56
弥生時代、
都というか農協的な拠点になっていたのが、出雲と近江。
>>780 食料豊富な所は、むしろ一番初めに押さえたいところだから。
近江にヤマトがやってきて「ヤマト国」になったわけさ。
782 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 11:02:43
783 :
日本史@ななし:2010/09/18(土) 11:14:11
桃の種なら・・・個人的に弐百超持ってるぞ。b( ̄▽ ̄)
食った果物のタネはほとんど収集にまわしてるから ^^;
>>780 100余国って、旧事本紀のまんま。
あと、倭王武(雄略天皇)の上奏文でも、
倭の国数は100余国。
ちなみに、邪馬台国連合30余国以外にも
倭人の国は存在していたみたいだね、おもに東国中心に。
それらの東国の国は、70くらいあったのかもね。
その東国の親分が、葛城(高尾張)から濃尾平野に追放された
尾張氏の連合だったら、いろいろ萌える。
皇室と尾張氏の因縁は、紀元前1世紀から
紀元12世紀まで続いた可能性あるな。
786 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 11:17:53
出雲の方にも(弥生人よりは)アグレッシブな民族が上陸して、
吉備とも提携して、国を拡大してきた。
で、大阪(葦原中国)まで来たところで「国譲り」。
出雲とヤマトは連合した。
マキムクはその頃にできたんじゃないかな、だとしたら
桃の種ってのは岡山土産ってことで、なかなかよく出来た話。
>>786 記紀が正しのなら、出雲の神様は
もとは、葛城(高天原)の出身。
>>786 とにかく、きみたいな意見が多いのは、
それだけ、戦後の日本人は、記紀を読んでないのが多いということ。
>>787 それは正しくないです。
後に大和朝廷に入ってきた人達は、高天原を実在する場所ではなく
架空の、神話上の場所にしたかった。
だから逆に、むやみやたらとありがたい場所に仕立てあげた。
畿内説って基本的に整合が取れてないんだよね
で、苦しい解釈論を振り回した挙句に
最後は物証の方を畿内説に合わせて改竄する
九州説の説得力が強いとは言わないけど
畿内説については既に学問の体をなしていない
791 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 11:37:04
持統天皇の和風諡号が「高天原廣野姫天皇」というのは
つまり、そういうこと。
近江大津宮を築いた天智天皇の娘だから。近江生まれだから。
>>789 古事記を読んだら分るが、神話と非神話の境界線はない。
境界線を明確に分けているのは、日本書紀のほう。
高天原とは、葛城地方の地名で
あくまでも近畿地方の地名。
記紀を読めばわかるが、ヤマト(三輪山周辺)と高天原は至近距離。
なんで高天原の場所を断言しちゃってるの?
馬鹿なの?
>>790 九州説なんて既に村おこしのネタでしかないのだが。
読めばわかるくらいなら誰も苦労はしないw
この世に最初に現れた地である高天原とは、
現在の金剛山の麓の地。
金剛山は、河内側の地名で、後世つけられた名称であるが
ヤマト盆地側からは、高天山とよばれていた。
まあ、とにかく、みんな、記紀や神話について
あまりにも無知だわな。
話の構造とかわかってないだろう?
小学生にも分るように、ちゃんと図なり絵なりで説明しないと
分らんでしょう?
ちなみに滋賀は思いっきり「近畿」ですよ。
「畿内」には含まれませんがw
現在の神道で桃を供えたり祭祀の後に祭器を壊したりすることってあんの?
杯を叩き割って出陣するとかそういう感じな
予備知識なしで普通に考えたら九州だよな
高天原=御所市あたり
ヤマト=桜井市あたり。
もともと、皇室の王朝は
紀元前1世紀に御所市で発症し、
紀元2世紀には、桜井市に中心を移した。
ちなみに、神武東征は、紀元1世紀だろう?
>>799 じゃあダメだな。
畿内なら河内、摂津、和泉が入らないと。
改竄だらけの記紀なんぞよりは魏志倭人伝のが読めるわ
>>805 魏志倭人伝と記紀の間に整合性が取れているの。
桃が中国で仙果であることをいいことに
無理やり祭祀と結びつけ
邪馬台国=畿内と強弁しているだけ
現実は単に桃の種が見つかったというだけのこと
日本人が縄文時代から普通に食してきた桃
その種が出てきただけで、これだけ乱暴な解釈をしなければならない畿内説論者の必死さは、
これまでに重ねてきた数々の詭弁に説得力が皆無であることを自覚していることの証左
>>809 まだやってんの
そう、畿内説はゴリ押しだよ
どうせ、あと数年経ったら
日本古代史を混迷にしていた邪馬台国九州説論者なんて
全滅状態でしょう?
今の若い学者で、九州説論者となえるの、ほとんどいない。
九州説が人気あるのは、歴史読み物や歴史小説の話だけだから。
812 :
水銀厨:2010/09/18(土) 12:04:45
>>800 皇居には今も古代種の桃(先の尖った奴)が植えられてますけどね。
唐古・鍵遺跡にも桃の種は出ているけど、初瀬川上流(つまり桜井周辺)で
栽培された物とされています。
畿内が優位なのは奈良以来寂れて遺跡が良く保存されてるド田舎だからなだけです
>>813 出ました!負け犬九州説お得意の「○○を掘れば邪馬台国は見つかるはずなんだぁ(泣)!」w
当時、九州にも畿内にもそれなりに大きな文化が存在した
そしてそれぞれの文化は互いの影響を受けながらも、独自の特色を有していた
これは九州と畿内にそれぞれ異なる勢力・権力が存在したことを示している
どちらの勢力が先に大陸へと辿り着くことができるか?
そもそも当時の畿内の勢力は大陸へ辿り着くことが可能であっただろうか?
816 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:09:40
漢書註で如淳曰
在帯方東南萬里の萬里は、帯方郡と倭人の住む地の距離を表すものではなく
「異民族」と言ういみです。
帯方郡の南の東に在る異民族
と言う意味です。
>>815 九州にナニモノかがいたとしても、不仲でなければ航路は使えるし
越の国から日本海を渡ることだって出来るし
818 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:13:54
卑弥呼がいた都の跡は出てこない。
紫香楽宮の、大仏建立予定地跡(建設途中で中断)の下に眠ってる。
たぶんね。
そこはずっと昔から「内裏野(だいりの)」と呼ばれてた。
819 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:14:42
バットで桃や他の果物潰して
酒作ってたんじゃないの
土器もいろいろ出てるようだし。
これが酒造りに都合がよい土器かどうか
調べたいな。
>>817 使えねーよ馬鹿
何をしに海を渡ると思ってるんだ?
ただの桃塚
ゴミ捨て場
数年分の種が溜まっただけ
土器はミニチュアで上の棒みたいなので祭祀の後たたき壊すようなものでは
獣の骨も生贄だったのなら今の神道とはちょっと違うのかね
桃も建築物を壊した後に埋められているのがなんだろうという気はする
>>821 古墳の玄道から見つかった、とかならそれらしかったんだけどねえ
ただの食べカス状態で祭祀がうんぬんはかなり無理があるわ…
九州説の考察スレも欲しいな
825 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:27:01
帯方郡を経由すれば、大陸に出入りするのは畿内勢力であろうが
九州勢力であろうが、関係ありません。
しかし、大陸側が正式に付き合いをするのは、どちらか一方だけ 大陸側はお客を拒む事はしないが、大陸側から来客するのは一方の勢力だけです。それが当時の基本外交です
いい加減に大陸基準で考えるのやめれ
よく2ちゃんねるで自分でも信じていないトンデモ持論を発表して
ディベートの練習をする奴がいるけど
畿内説論者って、あいつらと同じ臭いがするんだよな
>>828 なんでそんなにシナをありがたがる必要が?w
830 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:37:24
>桃が中国で仙果であることをいいことに
>無理やり祭祀と結びつけ
二行目で破綻w
>>829 当時はそういう時代だったのよ。
ありがたがっているのではなく、そうする事が自然な時代だった。
>>830 幼稚園児の会話じゃないんだから、破掟してると言うならその理由ぐらい書いてやれよ。
>>831 神話でも、ゾンビが出る黄色い水の国呼ばわりしてるけど
桃を使った祭事で再び衆目の元に現れた卑弥呼率いる邪馬台国が、
戌(犬)の方角にある出雲、酉(雉)の方角にある吉備、申(猿)の方角にある讃岐を率いて
丑寅の方角にある尾張(鬼が島)の鬼を退治に行きましたとさ
ん、どこかで聞いたことのある話しだなw
837 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:50:25
2000個の仙果から祭祀を連想
何処に無理やりなんだ?w
無理やり「無理やり」と決め付けてるだけだろw
>>698 海を渡って壱岐対馬と島づたいに何日もかけて船旅をして、
そうやって到達した国が自分の住んでる中原と地続きと考えますか?
ユーラシア大陸を地図で見ているから、そんな発想が出るんじゃないかな?
839 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:52:08
ところで
祭 祀 っ て 何 ?
誰か説明しとくれやす
建物跡からはあまり生活臭が無いんだろ
建築物の大きさや配置から考えてなんらかの宗教的な施設なんでないの
わからねえ・・・
生活スペースじゃない所で桃食ったら宗教なのか・・・
今、自分はPCの前で梨を食っているが宗教的行為なのか?
844 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 12:59:36
>土坑は南北4.3メートル、東西2.2メートル、深さ80センチの楕円(だえん)形。モモの種が
>まとまって見つかり一度に埋めたとみられる。一緒に祭祀用具とみられる土器や竹で編んだ
>かごなども発見。果肉が残った種もあり、市教委は食べたものではなく、モモを竹かごに盛って
>祭祀に使った後、土坑に埋めたとみている。
市教委の見立てで問題ない
生活スペースにゴミを捨てる馬鹿はいない
846 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:02:09
建物跡の南6mぐらいのところっぽいけど
北側でも出るかもね
岡山人がカゴに盛って持って来たんじゃねーの
埋めるとこまで祭祀に含まれてたんだろ
鬼道の術者に相応しい
桃が豊作だったので、みんなで集まって収穫祭をやりました
ただそれだけです
桃と邪馬台国とが何の関係があるんだよw
邪馬台国の時代って、三国志の時代だが
この時代の魏、呉、蜀って
どれくらいの規模なんだ?
たしか、魏の洛陽とかは、かなり大きかったと思う。
卑弥呼=モモソ姫=桃太郎
855 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:13:47
火病起こすなよ九州人w 征服されて大和の人間に女房や娘にチンポの1つや2ついれられたからって
仕方ないだろw 案外よろこんでいたかもよヒャハハw
>>852 桃が神仙思想と直結する仙果だからだよ。
858 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:15:56
論理的じゃないと言えば
魏志倭人伝を書いた奴って全然論理的じゃないよな
こいつ馬鹿だったんじゃないだろうか?
おかげでこっちは大変な騒ぎになっちまってるよ
860 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:18:41
も〜もたろさん、ももたろさん♪
おこしにつけた〜、きびだんご〜、ひとつわたしにくっださいな〜♪
もしかして桃太郎のルーツも、
従来言われてる吉備津彦じゃなく実はこのへんから来てたりしてw
つまり水銀厨さんの大勝利という事ですね。
>>857 日本では縄文時代から普通に食ってる
わざわざ大陸の文化を持ち出して解釈する意味がわからん
邪馬台国が神仙思想の影響を受けていたなんていう資料は存在しないにも関わらず
「邪馬台国は神仙思想の影響を受けていたに違いない」
「桃が出てきたということは、この地域は神仙思想の影響を受けていたに違いない」
「つまりこの地域が邪馬台国であったに違いない」
・・・って
最初から最後まで全部想像じゃねえかw
馬鹿馬鹿しい
ところが卑弥呼は親魏倭王印をほしがるほどの大陸厨だったのですよ 残念でしたw
中国では鬼道=神仙思想という認識だったのか?
倭国の風俗に神仙思想の描写はあるのか?
865 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:29:51
意外と徐福伝説あたりがキーポイントのような気も
>>863 大陸厨の卑弥呼さん一族が、大陸ではとっくに蛮習として禁止されていた殉死を行うとはこれいかに
>>862 当時2000個の桃を食用で消費するような集団が巻向にいたのかよw
周辺には丹もあるんだし、普通は神仙思想を連想するだろ。
868 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:30:29
あの大型建物跡は縄文時代の建物じゃないからなw
何で読んだか忘れたが、三韓諸国にも「鬼道」の記述はあるらしい
>>864 後の時代になれば多少は出てくる
だけどこの時代は桃の種だけ
縄文時代から食されてきた桃の種だけ
桃の種が出るまでは神仙思想がどうこう言う奴なんか皆無だったw
マキムクに直接大陸文化(神仙思想)が流入したのでない限り、桃祭祀はまだ各地で見つかる可能性はあるな
岡山人が得意げに大量に持って来たんだってば
873 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:38:42
たかが桃の2000個くらいなんだよ
うちのばあちゃんでも一人で梅干し2000個くらい漬けるぞ
独りで頑張ってるヤツのお説によると、巻向人はゴミを分別回収していた、ということらしいw
バロスwwww食い散らかしたゴミなら一緒くたに出てくるわw
えっ?
九州厨ガクブルw
878 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:48:26
九州でも桃の種がいっぱい見つかるといいですね^^
桃の種が出てきたおかげで
一夜にして卑弥呼は大陸厨にされてしまったなw
さすが捏造畿内厨
金印貰う親魏倭王卑弥呼は倭人伝の最初から最後まで大陸厨じゃんw
九州厨の倭人伝では違うらしいw
桃の種だけ腐らず残っただけじゃね
九州では銅鏡・銅矛・勾玉・大規模環壕集落がたくさん出るんだから
たかが食い物のカスなんか出なくたっていいだろ
884 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 13:57:11
大ヒット商品「三角縁神獣鏡」の図柄だって言わずもがなの神仙思想じゃないですか
別に巻向の桃を例に挙げるまでもなく、倭国全土に神仙思想、大陸ブームが起きていたのは間違いない
>>835 岡山と香川と奈良と愛知には桃太郎の伝承はあるんだな
島根にもあるのか?
>>884 >倭国全土に神仙思想、大陸ブームが起きていたのは間違いない
つまり神仙思想は邪馬台国の根拠にはならないということですね
神仙思想の影響下にある物は三角、水銀朱、桃と揃ったね。
モモソに箸墓、三輪山とくると、どんなバカでも
ここが国家形成で重要な場所だと理解できるよなw
後は桃が3世紀半ばの物と証明されればいい。
888 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:12:13
結論からいうと 古墳時代から大都会岡山は桃を生産するハイソな街だったということだね。
魏が外交した異民族の国家では
金印は、倭国と大月氏国だけ。
いずれも、人口規模が大きい大国だから。
それ以外は、格下扱い。
ああ、おまえら駄目だ 駄目だよ 話にならないね。
卑弥呼さんが大陸厨で、親魏倭王印を望んだ ・・・それ自体は事実だ。
だが、機内厨は重大な事を忘れている!
親魏倭王印はどこで見つかったかを! そういうことだ。 機内でなく、九州は志賀島の田畑で偶然見つかった!
つまり、卑弥呼は親魏倭王印を「受け取っていない!」し、みつかった金印自体が九州である理由はなんだ!
巻向に桃があった! 神仙思想があったという畿内厨は「なぜ卑弥呼が親魏倭王印を志賀島にとどめたのか?
あるいはなぜ九州の孤島にあったのか巻向説では証明ずる必要があるッ!
>>890 頭おかしいんじゃねえのかお前
もう一度自分の文章をよく読み返してみろ、それでわからなければお前はホンモノだ
>>889 そう、冊封使がもたらした金印の中でも別格の代物・・・・王権の裏付けともなる代物を
畿内に持ち込まず、なぜか江戸期まで志賀島の田畑で時と共に忘れられていた・・・・。
畿内説では巻向にあった王権がそのまま大和朝廷になったというが、王権の裏付けと
なりえるコレほどまでに重要な金印がなぜ放置されたままなのか!
畿内厨は答える必要がある!
卑弥呼は弟以外には顔を見せず引きこもって暮らしてたわけだからその間は大きな祭祀を取り行う事は出来ない。
大きな祭事があったとすれば卑弥呼を引きずり出す時しかあり得ないな。
(祭祀と祭事を使い分けてることには注目してくれ)
>>891 頭悪いわね ズバリ言うわよ! 「邪馬台国は畿内の王権ではなかったから 金印を畿内に持っていく必要は無かったの!」
理解できた?
さらにッ! 巻向にあったとする王権がそのまま大和朝廷になったと主張するなら、魏志倭人伝でいう、
「卑弥呼の死後国中が乱れたとあり、 千余人が死んだとある記述を説明できないッ!」
896 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 14:31:51
卑弥呼の記事は九州のことだから、畿内の出来事でない。
897 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:35:31
今回も九州派の勝利か・・・・。畿内派ざまあw
898 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:37:29
>>731 2ルート厨 ◆.L.MXSPOgc
>魏の使いは2度しか書かれていないというのに、3ルートでも4ルートでもですか。
ん?
だから梯儁・張政のその資料が更に何らかの伝聞等に基きかかれていた可能性って話だが?
倭人伝と言う史料が二つの報告書(?)と言う複数の資料からなり、その資料が更に複数の資料からなる…と言う可能性。
そうやって理屈上はドンドン「階層構造」を増やせるワケだw
まあ馬鹿にはこの程度の応用もできないのか…
自説に自由度を与えた理屈が更なる自由度を与えてしまうと言うのは
『暗号解読ゴッコ』に終始しているゴミクズ九州説の自爆パターンだなwww
と言うか、お前が
「投馬国の記事の部分には沖縄への道程の情報が混入していた可能性がある」
…としていなかったかな?
少なくともその時点で採用された元ネタは「3ルート」なわけだがwww
>せいぜい考古学者のいってることをオウム返しに言っている程度
負け犬のゴミクズ九州説の捨て台詞の典型だなw
別にかまわんぞw 何もお前みたいなゴミクズのように
『オリジナリティあふれたアイデアの発表ゴッコ』しているんじゃないからw
中身には具体的に反論できず、それで何かしら言い返したと思っているアホの姿が哀れwwww
899 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:43:31
>>606 >一方、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は、1片だけ出土した弥生時代を象徴する銅(どう)鐸(たく)
>の破片に着目する。纒向遺跡周辺の弥生遺跡の最近の調査で、卑弥呼が登場する時期に銅鐸が破壊され、
>再利用されたことが分かってきている。
…これって俺が別スレで書いた
>そもそも「見る銅鐸」の出土事例自体が製造拠点と言うにはあまりに少ない。
>(と言うか纏向の突線チュウ3or4(双頭渦文片)の1例ぐらいか?)
…のことかな?
故意に破砕されたと思われる銅鐸の例なんてこれと唐古・鍵の2例ぐらいしか知らんが
僅かなレアケースとも言える物を殊更に強調するからここのゴミクズ九州説東遷厨みたいに勘違いする人間が出るんだろうなwwww
(まるで古墳時代の始まりに奈良盆地のあっちこっちで銅鐸を一斉に叩き割り始めたみたいなイメージw)
もしゴミクズ九州説東遷厨の人間で破砕銅鐸の事例を何十件と知っている奴がいたら教えてくれ。
きちんとしたソースの提示があれば上記の言は取り下げるからwwwww
900 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 14:45:53
とにかく記紀には卑弥呼に相当する天皇の代あたりに、女天皇(女王)の
在位した記事はなく、そのころ畿内は朝廷の勢力下だから別国もなく、
天皇が世俗王に対して卑弥呼が祭祀王だとかいいっても、祭祀王が世俗王
たる天皇と並行して畿内に双方が幅をきかせていたという記事も全然
なく、ということは当時の朝廷の勢力下である畿内に一王(天皇のみ)しか
いなかったと観てよい。
つまり卑弥呼は畿内の女天皇でも祭祀王でもなく、九州の女王だったという
ことである。畿内は当時男王(男の天皇)だけの支配だったということで
ある。
901 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:49:48
九州説をゴミクズと強調しなければ
自説の存在を維持できない説って、惨めやのう。
902 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:50:31
上の方で、纏向で出てきた「桃の種」から始まって「道教」に付いて色々話が出ているがw
確かに今日の我々の周りですら道教のもたらしたものその残滓は容易に探せるほどだが
国対国で日本側が中国に道士の派遣を要請したりした事はなく
鑑真の伝記『唐大和上東征伝』によると玄宗皇帝が遣唐使に道士を日本に連れて行くように
遣唐使に命じたが遣唐使は日本では道教を信仰していないとしてこれを断った事が書いてあるとか…
もし卑弥呼の代に道教が国教のような扱いだったとしたら
日本史の中で極めて異例な事になるんだろうなwwwwwwww
903 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:52:20
新聞記事だと桃は弥生時代に入ってきたと書かれてるけど
904 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 14:56:46
>>902 そもそも奈良時代以降は天皇の葬式も仏教だったんだよね
日本は神の国って嘘に決まってるよね的な論理展開?
道教と仏教は意外と近いよ、というより
道教は後年仏教も部分的には取り入れてるし。
蘇我が仏教をいち早く推進したのも案外道教的な立場だったりして。
>>898って、かなり屈折した幼少期を送ってきたのだろう。
顔の見えない掲示板で馬鹿を連発し、相手を罵倒する。幼少期生活において反発出来なかった鬱積が、このような
相手の顔が見えない場で弾け飛ぶ。
たかが歴史を扱う掲示板で、相手を馬鹿にしそこまで罵倒する理由が他にあるだろうか?
哀れにさえ映る。
907 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 15:06:01
Jack か〜。w
三国志では倭人伝以外では、五斗米道の張魯やその母親とのからみで鬼道が出てくるね。
晋書では、「鬼道淫祀」とか「鬼道惑衆,妖巫破俗」とかあるし、
道教というよりも、中央政権が認めない民間祭祀をひっくるめて鬼道と呼んだんじゃなか。
それとは別に、漢の武帝が封禅の儀式をしたときの祭壇には「八通之鬼道」が作られた。
八方向に通じる神霊が通る道が作られたというのと、
先日の古墳が八角形だったのが確認されたという話は無関係じゃないような気がした。
やっぱり中国から宗教思想が輸入されて、その影響で墳墓が八角形になったのかな。
>>905 道教と仏教のクロスオーバーって話なら
一番手っ取り早いのは誰もが知る『西遊記』じゃないかな?
まあ「桃の種の件」はそれでもって道教に結びつけるのは些か牽強付会だとも思うが
学者がその可能性に言及したとて、すぐさま脊髄反射で噛み付くほどでも無いと思うwww
>>908 「八角形」と言えば信長の安土城とか?www
まあ道教的なものなんて歴史上にも今日自分達の身の回りにも腐るほどあるわけだが
>902で言ったように、それが国教的な扱いをされた事は無いわけで
なんかクリスマスに日本中でツリーが飾られ、ケーキだのチキンだの七面鳥だのが盛大に食われて
クリスマスソングが街中にガンガン流されても、別に日本人がクリスチャンじゃないと言う現実を思わせるwww
卑弥呼の「鬼道」も案外
「祖霊信仰〜首長霊信仰」「穀霊信仰〜豊穣祈願」に「道教的なモノ」を加えた
ゴチャマゼ・チャンポン的なモノだったんじゃないかとwwww
910 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:10:12
それで巻向を邪馬台認定してしまうんですか
九州も負けずになんか掘出してほしいんですが
911 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:14:24
間違いなく桃酒だな。
酒は祭祀にはつきものだ。
口かみ酒と比べれば、うまい酒だろう。
>>910 勿論認定はするわけないですw
しかしこの地の環境が、神仙思想的な影響が
ないとはいえないのは確実じゃないの?
桃2000個なんて数百キロあるので、実のまま捨てれば
もう少し広い体積が必要。
壺か穴に入れて発酵させ、あとで種だけを濾し取れば
大量の種をまとめて捨てることが出来る。
2000個だとかなり大型の発酵槽になるので
穴を掘って内側を処理する中国の白酒と同じ作り方であろう。
だいたい、よっぽど変な宗教でもなければ
これだけの桃を食わずに埋めるなんてことは
考えにくい。普通は神に供えたあとは
食ってしまうはずだ。それだと種は1カ所には
集まらない。
914 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:34:07
>>912 要するに大新聞をはじめとするマスコミの頭が悪いということですね
皇室と邪馬台国をどうても関連づけよという指令でももらってるんでしょうか
巻向に魏の知らなかった勢力、王権があったかもという発想がマスコミにはゼロ
決定的証拠が出ない限りは邪馬台国の場所なんて何処でもいいんですがね
916 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:47:25
>>914 マスコミはどうしても皇室を中国の下に置きたいんだろうな。
918 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 16:50:29
ピーチワインおいしいよ。
>>914 あなたは邪馬台国ではなく、出雲国について調べるべきです
あのさ、新聞はじめ皆誤解曲解してるけど
邪馬台国≠卑弥呼の墓 だよ。
邪馬台国は行政の中心地、伊都から少なくとも1ヶ月歩かないと
いけない僻地なんだから。
魏志倭人伝の文章を読んでも、風物は伊都を中心に書かれているんだから
伊都の近辺、奴國か不彌國の近くに墓は造られたはず。
伊都国=idum国=idumo国=出雲国
922 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:08:01
>>915 何度だったか一定の度数超えちゃうと違法になるぞwwww
923 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:14:32
桃だけで作ったワイン売ってるから買えよ。
違法は駄目よ。
925 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:31:29
>>913 まあ三輪と言えば「うましさけ」だからなwwwwwww
酒への連想は容易だと思うw
>>924 伊都国=izum国=idumo国=出雲国、でもいいよ
魏志倭人伝の倭国の地名・官名・人名は全て当て字だってことは理解しとかなきゃな
シナ人がduとzuを区別出来なかったとしても仕方がない
記紀に伊都国に該当する地名って他にある?
927 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:46:58
伊都はイタリアの都のことじゃないか。邪馬台国はエジプトかも知れん。
928 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 17:56:59
929 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 18:27:04
今や埋蔵文化財センターもまったく信用がなくなった。
>>926 >魏志倭人伝の倭国の地名・官名・人名は全て当て字だってことは理解しとかなきゃな
それを理解していない人はいない。
これまでも語呂合わせは幾つか考えられたが、
仮説どまりで証明まで行けないから、決め手になりえなかった。
そのことこそ、理解しとかなきゃと思うんだが。
931 :
ローガン:2010/09/18(土) 18:51:49
>>921 > 伊都国=idum国=idumo国=出雲国
都の音変化 tag-to-tu タかトかツか?
魏略西戎伝に「浮屠」 屠の音変化は dag-do-t'u
ブッダ(サンスクリット語)の音を当てたとすれば、dag
ブッド(パーリ語)の音を当てたとすれば、do
このどちらかであり、tuの音ではない。 都は屠と同様の音変化をしているので魏代の音は、タかト。ツはないでしょう。
>>926 あなたは記紀の中に住んでいるんですか?
記紀に出てこない地名は存在しないんですか?
ていうかヅとズなんて現代日本人も区別してないけど
当時は区別してたのか?
「づ」と「ず」の区別は漢字だと分かりやすいんだけどな
ぽん酢(ず)と焼津(づ)
もとが「す」と「つ」だから、それを濁音にしたものだから
でも先に話言葉として広がっていた人名とか地名だと後で漢字を当てるからなぁ
英語のLとRのような発音、イントネーションの違いで「ず」と「づ」を使い分けていたらそれに当て字されてしまって同時の使い分けのされ方を確認するのは難しいかもな
du だったら でゅ じゃないのか
どう転んでも出雲が伊都国になることはないけどな
>>932 ローカルな地名ならそれでもいいよ
でも伊都国は北方防衛を任されてる大国なんだよ
それなのに記紀に出て来ないってのは・・・
シナから見えるけど倭からは見えない超時空要塞国家が倭を守ってたのか?
桃は酒に使ったという意見もありますが、
民を惑わすには酒は有効ですからね。
あと水害の多い土地に植えるというのもあります。
どちらにしろ
937 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 19:13:20
「末盧国」これも当て字かな。普通は当て字なら「卑奴母離=ひなもり?」のように
一字一音になってるはずだが、これはそうでない可能性が高い。
倭と界を接する「弁辰涜廬国」との関連もあるかもしれない。
>>934 ドイツ語のウムラートみたいな発音は今でも日本語では表記できないよね
939 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 19:27:32
私、夢を見ました。
ベトナム(越南)から船が北東へ向かい、台湾、沖縄、屋久島、種子島、鹿児島、にたどりついたそうな。
今から1800年ぐらい前じゃ。
鹿児島から、険しい海路と陸路を進むさなかに、良く似た船が、座礁しておった。
中から、見たことのある同胞に近い人々が出てきた、
皇帝の命で、この島に来たと。
しかし、もはや、これ以上は進めず、あなた方と一緒に探検したいと。
続く、
940 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 19:30:46
あとは官名ではないだろうが「持衰」これも漢語として読める。奇異な倭の風習として
以前から中国に伝わっていたのかもしれない。
このように倭人伝には当て字(音借)でない部分があり、それには意味があると思われ。
「伊都国」は伊都国人が字を読めたっぽいから
意味も込みで字をあててるだろうね
出雲国=イズモ国=ヅマ国=投馬国
九州厨の狼狽ぶりが笑えるw
出雲が北方防衛を任されてたとなったら九州説の根底が崩れるからなwww
伊都国=イト国でOK。
中古音でそう読む。
これは、福岡県の糸島。
出雲国は、投馬国のほう。
中古音で、ヅマ国。
魏志倭人伝よむとわかる、投馬国とか、邪馬台国とかは、水行○日って
感じの書き方で、かなり遠いところにあることが分る。
魏志倭人伝の航路は、日本海沿岸航路だと思われる。
947 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 19:45:43
「日本書紀」によれば、伊覩(いと)県主の祖五十迹手が八尺瓊、白銅鏡、十握剣の
いわゆる三種の神器を仲哀天皇に献上したとされる。
一部の九州説では、三種の神器の副葬習慣の畿内への移動は東遷の証の一つとされる
ことが多いが、書紀にはこのように九州勢の服属のしるしと明記されている。
書紀は卑弥呼を神功皇后に擬しており、その夫・仲哀天皇の在位を西暦192〜200年と
とるならば、この記述は2世紀末の卑弥呼共立直前の伊都国王のヤマト王権への服属
を伝えている可能性がある。
上代語8母音説とかあったな
949 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 19:59:49
平原1号墓は2世紀末の、権威を持った最後の伊都国王のものであった可能性がある。
柳田氏のいうように、副葬の多数の破砕された銅鏡のほとんどを倭国製とみるならば、
何らかの要因で大陸の文物が手に入らなくなった伊都国の最後のあがきとも考え
られなくはない。そしてこの後、糸島には畿内系の土器が流入し、王墓級の墓は
作られなくなる。
畿内説の何が凄いって
まだ頑張れるとこが凄い
>>947 日本書紀編纂時は、古代の年代が分らなかったんだよw
だって、古代の人間は、やたらと寿命が長かったからw
>>947 伊覩の元は伊蘇みたいだね
となるとサ行かその濁音だね
となると、伊都はイズになるのか
なんか矛盾してこない?
柳田康雄は、自分のことを異端だと言っているw
そういうことだ。
彼の説など異端。
954 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:09:32
>>951 そのようなことを言ってるのではない。日本書紀編者が卑弥呼朝貢を
神功皇后の事跡かと捉えてるのならば、それと同時代に伊覩(いと)県主の
服属が記載されているということ。
955 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:15:27
>>953 柳田が自分のことを異端というのなら、それは伊都国東遷説のことを指している
のだろう。これに対して、武末純一・福岡大教授は、
「ヤマトで伊都国系の土器が出土しておらず、伊都国の集団が移住した痕跡が認められない。
卑弥呼を共立した一員であっても、主導したとは思われない。」と述べている。
956 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:16:07
539から続いている、
彼らは福建省あたりから、出たそうな。
1週間さまよってこの浜に打ち上げられたが、言葉が通じず、みんな逃げてしまった。
我々の使命はこの国の長に、交易を求めることなり。しかし、通訳が死んでしまい途方に暮れている。
では、ご同道とあいなった。
我方は、この国の通訳を琉球で求めた。(注1、古代琉球磁石)
続く、 面白くなると思います。
そう言えば妻という地名が九州にある
>>954 魏志倭人伝を読めば分るのだが、
西暦3世紀の倭国では、四季という概念がなく
春耕秋収で1年と計算していたらしい。
だから、やたら、長寿の人がいたそうだw
だからこそ、古事記にも、古代ほど、やたら長寿の天皇いるのだ。
ただ単に、暦の数え方が違っていただけ。
しかし、日本書紀は、
中国との外交でも使う編年体で書かれた史書だったから
詳しく年代を書く必要があった。
当然、魏志倭人伝の記述と、日本側の古伝との間で
整合性をもとめるしかなかったが、
魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼に該当する人物が想像がつかなかった。
そこで、一番、年代が近い神功皇后の記述に求めるしかなかった。
では、なぜ、整合性のとれる人物が分らなかったのか?
簡単な話、日本書紀が編纂された西暦8世紀は、
現在と同じで、四季で1年と計算していたのだが
西暦3世紀のころは、二季で1年と計算していたのだ。
当然、年代がずれてしまっていたのだ。
よって、日本書紀の編纂者は、卑弥呼を神功皇后と解釈したが
実際は、ヤマトトトヒモモソ媛命こそが、卑弥呼だったと思われる。
九州説あっけなく終わったねw
960 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:23:09
>>958 倍歴厨か。太国の仲間だな。www ならレスした俺が悪かった。
どうも理解力が不足しているようだが、別に書紀の年代論をしてるのではない。
書紀の編者が、
卑弥呼=??神功皇后 と疑っていて、神功皇后と伊覩(いと)県主の服属は
はっきり同時代。だったら卑弥呼と伊都国のヤマト王権への服属が同時代で
あった可能性があると言っているのだ。
つまり桃の喰い過ぎで寿命が長い神仙の国だと倭人伝は言いたかった?
962 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:33:19
で、考古学的にも卑弥呼共立の2世紀末頃から、平原1号墓を最後に伊都国の
権威は見られなくなる。これは伊都国が人口的に衰退しているということではなく、
あくまで王墓級の墳墓が消えるということ。そして畿内系の土器が流入していく。
これはやはり大陸との交易ルートが断たれたためと考えたい。そして卑弥呼朝貢の
頃には、倭人伝にある、
>世有王皆統属女王國 という状況に陥る。
魏略に邪馬台国も不弥国も投馬国もないのはなんでだぜ?
964 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:42:47
あとは記紀の年代論など得手ではないが、古代の天皇の寿命が長いのは、
国の歴史を古く見せようとして、神武天皇の即位を前660年に設定してしまった
ための引き伸ばしと考えるのが妥当ではないか。
だから、実際は 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫 であったとしても記紀編纂時には
その記憶が失われており、卑弥呼朝貢を自分たちが調整した年代が3世紀となる
神宮皇后の事跡と考えてしまった可能性がある。
965 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:46:31
自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
倭人は大陸厨
966 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:51:01
956より
注1の琉球磁石は、赤道から下、所謂コリオリ的磁石が伝わっていた。(方位逆転=そんなに正確ではない)
当時のアジア西部の言語は、インド以東と以西では川や山脈を挟むと変化と転化する。
お前、何を言いたいのか?とお叱りが聞こえますが、魏志倭人伝はご承知のように伝聞記載、それ以降は転載連続。学会
従って、古代語と方位と、かすかな歴史的(日本側の)伝聞(おそらく神社)によって推考しか手立てが無く、あらゆる手法が荒唐無稽と処理されるのも詮無いことと考えます。
私は、タイ、ベトナム、南部中国、中国本土で仕事の傍ら、学生時代に憧れた邪馬台国を、もっと海流にそった南から追い続けています。
続く。
967 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:51:45
倍暦については、そもそも3世紀の倭国に暦などあったとは考えられない。一部の
渡来人が使用していた可能性はなくもないのだろうが、暦などというものはあまねく
世に広まってなくては意味がない。3世紀の倭人に暦を作るだけの天文計算ができた
とは思わない。
「日本書紀」によれば、倭国が百済に対し暦博士の来朝を要請したのが6世紀の出来事。
わが国には星や月に関する神話が極めて少なく、これは天文を見て暦を作成するという
ことが自力ではできなかったという証拠になるだろう。
968 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:52:47
<三国志・呉書・巻二・呉主伝・孫権条>
黄竜二(230)年の春三月、(中略)、孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて(次のように)言ってい
る。
「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に、童男童女数千人を連れて海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、(徐福一行は)この島に留まって帰らなかった。代々続いて数万家にもなり
、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。会稽の東の県人は海に出て風に流され、(そのまま)移って亶洲に行った者もいる」
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。だが、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。
969 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:57:07
秦や呉は列島厨だった
970 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 20:58:22
>西暦3世紀のころは、二季で1年と計算していたのだ。
であるならば、年ごとに季節で分けられなければならない。
こんな事実は無い。
よって、>ヤマトトトヒモモソ媛命こそが、卑弥呼だったと思われる。
は否定される。
例えば 崇神5,6,7年の記事のためには、3年の歳月が必要である。
971 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:59:01
さらに、倭人伝の記述である、
>其人壽考或百年或八九十年 ・・・つまり寿命が長く、100歳、80〜90歳がもしも倍暦に
よるものであり、実際はその半分の年齢であるのなら、陳寿は倭国で倍暦が用いられていることを
理解しないまま記述していることになり、倭人伝が不確かなもの」であるという一つの証左に
なってしまうんだよなあ。www
972 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 21:04:20
日本書紀には倭国大乱の話も無ければ台与の話もない
大和勢力には関係のない別の地域での出来事だったからなのか、
それとも日本書紀が書かれた時代に500年前の出来事は何ひとつ伝わっていなかったということなのか、
そもそも三輪山の麓の古墳築造年代がどんどん古く鑑定されていくことに全く問題はないのか、
巻向邪馬台国説にはまだまだ個人的には違和感ばかりがつのる
973 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 21:09:19
>其人壽考或百年或八九十年
この時代の天皇の平均寿命は40才
その時、タタネコは80才近くまで生きた、だから3代に仕える。
974 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 21:12:59
実年代論か。歴博のC14は、あそこまで年代を絞って言うのは難しいだろう。
また年輪年代は、現時点では正しいとも間違ってるとも言えない状態だから、
これを根拠として採用するのは難しいだろう。ただし、前に誰かが書いていたように、
北部九州の土器編年との並行関係から、畿内の土器を新しくすると、同時に九州の
土器も新しくなってしまう。
975 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 21:26:31
年輪年代は、正しい。
年輪年代は、纒向遺跡の最初の開発者を崇神とする。
一昔前の設定が正しい、この場合モモソ媛は箸墓では無い。
その代わり、新羅本紀と崇神は良く対応するようになる、
反対に百済本紀とはマッチしない。
崇神5,6年の記事は、新羅192,3年の記事である。
百済本紀の年代は韓国考古学も年代を設定できていない。
日本の土器編年が50年ほど遡上したことにより、百済土器とは50年の開きが出た。
つまり一昔前までは、百済土器と庄内式は同じ土俵であったが、歴史の正解を得られなかった。
モモソ媛=卑弥呼は、その時代の思考である。もし正しければ、正解は得られていなければならない。
>>972 倭国大乱中の一つの動きが神武(に仮託された大王家の祖)の大和入り。
台与は実質的な大王家の祖である崇神帝の娘・豊鍬入姫命。
977 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 21:31:27
>>964 歴史を古く見せたいなら、B.C.660年位では到底大陸には追いつかない。
向こうは夏、殷とか三皇五帝まであり、この位ということは、古く見せ
たいからではない。原因は倍暦行使をしていたからで、これを知らず編年し
B.C.660年まで伸びてしまったということだ。
>>967 神皇紀には、ウガヤフキアヘズの世に殷暦の伝来が記されている。
978 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 21:33:05
出たな妖怪。www
979 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 21:35:58
>>975 まあ、韓国の土器編年とのすり合わせも進んできてますから、おっしゃることが
正鵠を得ているかどうかはそのうちわかるでしょう。
980 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 21:37:44
崇神5,6年の記事は新羅193年にはならない。この年まだ船舶がないので、
空腹百姓が千人も渡海は出来ない。渡海が出来るのは船舶が始めて製造出来
た崇神17年以降でなければない。唐松山の主張は紀の崇神17年の記事で
齟齬が見られ、奴の説は崩れている。こんなのは常人なら誰も信じては
くれない。
太国君は常人なのか?www
982 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 21:59:18
>>971 雄略4年(日本書紀)
「4年の【春2月】、天皇、葛城山に射猟したまひ、忽に長き人の
来るを見、・・・」
雄略4年(先代旧事本紀大成経)
「4年、【秋8月】辛卯朔、甲午(4日)、葛城山に射猟う。時、長大人
見れ・・・」
上を見よ。双方の同記事の年月において、半年の差が在る。おまけに同記事
で春が秋だという。これは魏略の倭の「春耕秋収」の記事が2倍年暦の
存在を言ったのだことをウラ付けているのだ。
983 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 22:08:58
>韓国の土器編年とのすり合わせも進んできてますから、おっしゃることが
正鵠を得ているかどうかはそのうちわかるでしょう。
残念だが余り期待は持てない。
ソウル夢村土城の墳墓は、積石塚を近肖古王からとするが、それ以前に築かれた
封土墳や前方後円墳を無視している。
もし積石塚が近肖古王であれば、武寧王が封土墳で在る事の説明が出来ない。
積石塚こそ高句麗の墳墓であり、この時代50年を欠くのが百済本紀である。
韓国の正史は、王朝の続いた新羅本紀が正しい、と云うことですよ。
新羅本紀に日本の歴史を重ねると、神功49年(323年)倭は半島を占拠し、百済に領土を
分与する。
この記事が正しいことが証明される。
韓国はこの事実を認めたく無い。だから、韓国の歴史が明かされることを望まない。
今のままなら、倭国を百済の下における。
984 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 22:09:16
>>982 雄略天皇の寿命
古事記 124歳
日本書紀 62歳
この数字もさらに2倍年暦の存在の補強文証となる。
但し、雄略の代は通常暦であったが、反正の代の2倍年暦を引きずって
いた允恭の代で、天皇の病気からか半島を見習って倍暦を廃止し、通常暦法
に戻した事からその後続の代は通常暦法になったもので、反正の世の2倍
年暦は傍らでの行使が残存し、これが紀と大成経の雄略4年の記事に出て
いるのである。また記の寿命が紀の寿命の2倍になっているのもそのため
である。
985 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 22:14:47
例えば下記の様なやりとりが、私と韓国人のラヂオ氏の間で交わされた。
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚
ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
340年代には百済は大国として存在する。
この事実を韓国人が認めると思うか?
それ以来彼の書き込みは無い。
倍歴ってそんなおかしな考え方じゃないと思うけどな
第一段階:暦が入ってくるが、倭人は一年を春から秋、秋から春と理解して計算し始める
第二段階:後年再度大陸と交流した時に年代のずれを知り、年代を遡らせることで対処する
第三段階:後年再再度大陸と交流し、その際に一年の意味を理解し遡って修正するが、紀元は修正できず欠史は重複記載することで埋められた
第一段階・第二段階の年代を特定し、第三段階を解きほぐすことで正確な歴史が見えてくると思う
俺は面倒臭いからやらないけど
一年のめぐりなんぞは、寒さ暑さだけでもわかるし
船を使ってれば、命の綱だ。
倍暦だのなんだのは、自然科学に無知な学者もどきのたわごとに過ぎない。
自然科学に無知な倭人たわごとを、自然科学を知った学者もどきが解読してあげなきゃね
989 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 22:32:15
>>987 現今では、2倍年暦はパラオで古田先生グループにより、その存在が
確認とれています。
古代での2倍年暦は、南バビロニアで行使されていました。たわごと
ではありませんぜ。古代マヤ、アステカ等では1.4倍暦が行使されて
いました。マヤの場合は、現今でもグアテマラのキチェー族がこれを
行使していますよ。
990 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:35:19
■段状に大規模造成か 養老町の象鼻山古墳群、調査委発表
岐阜新聞 2010年09月15日
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100915/201009151003_11674.shtml ◆山頂部と周辺、同じ2世紀代築造
養老郡養老町橋爪の象鼻山古墳群で第5次発掘調査を行っている象鼻山古墳群調査整備委員会(委員長・宇野隆夫国際日本文化研究センター教授)は14日、発掘対象の12、14号墳の調査結果を発表した。
山頂部とその周辺の墳墓の築造が2世紀に集中、似た築造方法で作られたとみられ、宇野委員長は「丘陵の形を人工的に段状に造成し、計画的に整備したと考えられる。全国でも類似例がないのでは」としている。
象鼻山(140メートル)には大小70基の古墳・墳墓がある。第4次調査までに山頂付近の4基が発掘調査され、1号墳は県内最古級で3世紀中ごろの前方後円墳。
残りは2世紀中ごろに造られた可能性が高いことが判明している。
5次調査では古墳群の全体像を調べるため、山頂から数十メートル南東に下った斜面にある6基を対象とし、このほど12、14号墳の2基の調査を終えた。
12号墳から出土した土器片は2世紀後半の制作で、2基の築造方法は先の4基と同様、斜面を平らに造成して盛土を施していたことが判明。
この時期の古墳群は自然の地形を生かした築造が一般的だといい、象鼻山では指導者が相当大規模な土木事業を行ったことが想像されるという。
12号墳は約18メートル四方の方墳、14号墳は直径16メートルの円墳であることも分かった。この時期の円墳は同古墳群で2例目だが、東海地方でほかにないという。
委員の赤塚次郎愛知県埋蔵文化財センター調査課長は「これほどの作業には大規模な動員と土木量が必要。地域を越えた大きな力を持つ指導者の存在を感じさせる」としている。
19日午後1時から現地説明会が開かれる。問い合わせは養老町役場の生涯学習課、電話0584(32)1100。
・造成した地面から高く土を盛ったことが分かった象鼻山12号墳=養老郡養老町橋爪、同山
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100915/201009151003_11674.jpg
二倍歴って農耕絡みなんじゃないの?
当時の倭国で二毛作なんて出来てたの?
992 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 22:40:18
>>991 そこは定かではないですが、2倍年暦は祭祀暦の可能性が強いと
想います。通常の暦法が農耕暦ではないですか?
マヤの1.4倍暦(ツォルキン暦)は祭祀暦でして、マヤの通常暦法
(ハアブ暦)は農耕暦ですよ。
993 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 22:40:53
>倍歴ってそんなおかしな考え方じゃないと思うけどな
魏志に書かれた“正歳”とは、二十四節季の事だ。
魏志に書かれた場所は松浦近辺の海洋民族のこと。
彼らが二十四節季を使った漁をするか?しないだろ、満ち引きに関する太陰暦の部分だけだ。
だからその後に、時節をもって市に参加する、と表記される。
当時の市は、10月10日から二日間とか決まっていたのだろう。
それから女王への文書伝送に間違いは無い、との記載もある。文字は読めるのだ。
崇神紀には“正朔”の文字もある。
可能な方法としては、太陰暦は19年7閏の積み重ねである、さすれば、空白の年19年を
一つの単位として何回差し引いても、正朔で読める。
多分この方法が正解だと思う。
994 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 22:46:16
唐松山の主張の
景行28年〜同40年は1年であるというのは、
先代旧事本紀大成経の
「景行36年8月 五十功彦命誕生」
の記事で奴の主張は崩れている。おまけに景行28年〜同40年は19年間
ではなく、
>>993の言い分も崩れている。
995 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:57:45
わからんけど、古代の暦は当然太陽暦だったろう。これは太陰暦とは違って
ズレていくことはない。古代の農耕には、秋分・春分がだいたいわかればそれで十分だろう。
渡り鳥 や 開花などの生物季節を用いて、大雑把な時期がわかれば種蒔きはできる。
太陰暦が用いられるようになったのはずっと後代だろうよ。新月(朔)から満月(望)の月相を
見て日を数える必要に迫られた頃の話で、3世紀にはその必要もない。
一年おきに行われるお祭りとかあるよね
倍歴使ってた時代からの名残りなんじゃないかと思ったりする
997 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/18(土) 23:04:43
>古代の暦は当然太陽暦だったろう。これは太陰暦とは違って
太陰暦と違って、記録をしなければ得られない。
太陰暦は月を見れば日にちが解る。
998 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/09/18(土) 23:05:27
>>993 >魏志に書かれた"正歳"とは、二十四節季の事だ。
いいえ違います。
正歳とは、新しい年を刻む。と言う意味です。
999 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/18(土) 23:09:44
神皇紀
「人皇第一代神武天皇元年。太陰暦を太陽暦に改め、三十日を一月と
し、十月を一年と定め給ふ。
緊急に立てたスレも残すところあと僅かになりました。
スレに参加して下さった住人さんに感謝し、このスレを閉じたいと思います
長らくありがとうございまして
何時の日か出会えることを祈り。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。