,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 73
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1275326879/
3 :
スレ立て乙です^^:2010/06/08(火) 16:24:24
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ / ┃ ↓|フクイ
丿 水行 / ̄ ┗━━━━━━━━━━━
|_ ↓/ ̄
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市 (気比の松原)
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡 (古保利古墳群)
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市 (国友鉄砲村)
\ | 川 不弥国・・・米原市 (息長稜)
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・近江盆地
(日本最大銅鐸、伊勢遺跡)
▲邪馬国 天
岩 ☆為吾国 邪馬国・・・旧信楽町
戸 呼邑国・・・甲賀市 (手裏剣=鉄?)
為吾国・・・伊賀市 (同上)
☆巴利国 巴利国・・・名張市 (同上)
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市 (辰砂・丹の産地)
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
4 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 17:46:20
【 要注意 】
このスレには、しつこく自演を繰り返すサイキック・バカが粘着しているので注意されたし
【 サイキックバカ = ジョーカーの特徴 】
論点をズラしまくる
妄想が激しく書いてもいないことを勝手に拡大解釈
やたらとwwwwwなどを使いたがり論理がメチャクチャ
痛いところを突かれるとサイキバ君と言っては逃げ、自分が不利になるとアホ馬鹿の連呼
【 サイキックバカ = ジョーカーの対処法 】
NGWordに「www」「www」を追加 (透明あぼ〜ん推薦)
これにより、wwwでお馴染みのサイキック・バカがすっきり浄化されます
5 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:07:03
>>4 悔しいのぉwwwwwwww
悔しいのぉwwwwwwwwwww
6 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:25:00
冬に生菜を食べ、海に沈没して海産物を採るのが邪馬台国の特徴だ。
だから
>>3は失格。
>>6 それ以外に否定材料がないのはよく分かったからw
冬に生菜が食べられる・・つまり邪馬台国は日本になかったとw
8 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:36:02
>>3 狗邪韓国から千里余で佐渡島って???
しかも、佐渡島から南北に市糴って???
9 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:44:29
>>7 お前みたいなおかしな奴が支持している点も、否定材料だな。
>>8 あ、それもあったねw
□狗邪韓国→千里余→対馬→千里余→壱岐→千里余→松浦半島
□朝鮮半島→佐渡島→能登半島→敦賀湾
この2ルートを混同してるんだよ。おk?
>>9 うっわ、言うに事欠いて、人格否定から入りましたよ!
12 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:46:52
人格じゃなくて、劣悪な判断力と知性を比定しているだけだが。
>>12 勝手に比定しないでよ。
自分に都合の悪いものは全部「劣悪なおかしな奴」に比定するんでしょ。
死ねばいいのに。
14 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:53:18
いや、それは悪かった。お前は単なる詐欺だった。
15 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:55:12
>>14 それで、冬に生菜を食べられる所ってどこですか?
その条件から比定地を絞り込んでみましょうよ。
しかし馬鹿ばっかしのスレになった。ローガン氏もこんなとこで書いててもしょうがないよ。
17 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:08:27
>>6 >冬に生菜を食べ、海に沈没して海産物を採るのが邪馬台国の特徴だ。
邪馬台国の、じゃなくて、倭人の風習でしょ。国は特定できないです。
ちなみに魏志倭人伝に邪馬台国は、1回出てるだけ。そこにそんな風習なんか書いてない。
>
>>3は失格。
これは同感。
対馬、壱岐、北部九州を無視した比定はおかしいですよね。
19 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:10:23
>>15 佐賀・熊本など、九州ならいくらでもあるが・・・
20 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:14:15
>>17 >対馬、壱岐、北部九州を無視した比定はおかしい
いえ、無視してませんよ。
チンジュが三国志を編纂した当時の地図には、おそらく
朝鮮半島の先には対馬、壱岐が描かれていたでしょう。
逆に言えば、それ以外の島の事を書いた文書があった場合、
それも対馬、壱岐だと勘違いした可能性は高いです。
違う島だとは思わなかったでしょうね。
21 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:18:29
邪馬台国の後継国は、阿蘇山で国家儀礼を行うのが特徴だ。
中部・北陸・近畿は無理だな。
>阿蘇山で国家儀礼を行うのが特徴
トンデモ屋さん来たー!
23 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:24:03
楽浪郡・帯方郡の位置も、はっきりとは分かっていませんね。
魏に吸収される以前、帯方郡の使者がどこから出航したかも、疑わしいです。
東へ行きたいなら、朝鮮半島の東側から船を出すのではないでしょうか?
576 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/08/03(日) 11:03:08
考古学じゃ巻向は市場だって明らかなのに、畿内説は必死だな。
畿内説では祭器場がないので 巻向では 古 墳 が祭器場になるんだと。
なんせ考古学板逃げてきた奴らだから仕方ねーw
579 名前: 569 投稿日: 2008/08/03(日) 11:25:33
>>576 それと・・・
「 祭 器 場 」 って何なんだ?
祭祀場ならニュアンスとして分かるが・・・
初めて聞いたが、念の為ググっても一件もヒットしなかったが?
それも考古学用語なのかな?
後学の為教えてもらえないかな?w
590 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/08/03(日) 12:26:47
それと「祭器場」って造語を広めてるのも同じ人ですね。
きっと「祭祀」を「さいき」って読んじゃったのねw
593 名前: 579 投稿日: 2008/08/03(日) 12:28:52
>>590 >きっと「祭祀」を「さいき」って読んじゃったのねw
な、なるほど!
それは気がつかなかったwwwwwwwwwwwwww
595 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/08/03(日) 12:37:48
祭器場クンは泣きながらお昼寝しちゃったみたいだなw
598 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2008/08/03(日) 12:56:47
まっ、「祭祀」を「さいき」って読むような香具師に
考古学がどうの語られても説得力ゼロiなわけで(笑)
阿蘇山での国家儀礼とは、河口付近で総員が直立不動し、熊本国歌である「おてもやん」を斉唱すること。なお、このときに
起立しなかったものは「アカ」として処分される。
名無しや別コテとなって煽ってる悪質なコテハンリスト
縄文人
縦目仮面
九州王朝大好き
唐松山
太国
追記ヨロ
河口→火口
28 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:36:06
>>25 九州への邪馬台国誘致を兼ねて熊本貶しか。
死ねばいいのに。
ちなみに熊本王国では「万歳三唱」 の代わりに 「ばってん三唱」を行う。
九州方言は、俺には 「ほげんもなこつどぎゃんしどげんがばい」と聞こえる。
31 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:42:47
熊本にしろ宮崎にしろ、アレと隣り合ってるからね。
災難だね。
>>16 >ローガン氏もこんなとこで書いててもしょうがないよ。
確かにローガン翁、キレかかっているんじゃないでしょうか。
封印していたローガン・トンデモ説が、断定的に噴出してきているように感じる。
それは馬鹿に向けてのものじゃなく、ふがいない畿内説諸氏にむけてのものじゃないか。
かく言う自分も、三角縁神獣鏡魏鏡説やら箸墓卑弥呼説など面と向かって語ることなどできない情けなさ。
馬鹿ばっかしになった新スレで、思い切ってみるのもエエんちゃうかな。
前スレ>985
魏書東夷伝を読めば、当時の中国人が各民族の墓制に大きな関心を寄せていたことがわかる。
これは当時の人々が(夷狄とは違う)自分達の礼(=道徳心)を顕示したかったためだと思う。
そんな彼らがひるがえって自分達の墓を語るときはどうだったかというと、
晋代の皇甫謐が記した帝王世紀に曰く
明帝顯節陵,山方三百步,高八丈。
章帝敬陵,山方三百步,高六丈二尺。
和帝慎陵,山方三百八十步,高十丈。
順帝憲陵,山方三百步,高八丈四尺。
桓帝宣陵,帝王世記曰:「山方三百步,高十二丈。在雒陽東南,去雒陽三十里。」
靈帝文陵,帝王世記曰:「山方三百步,高十二丈。在雒陽西北,去雒陽二十里。」
のように、その高さ抜きにはおられないものなのだ。
大作塚 とありながら、徑百餘歩 のみで高さに言及していないのは、
報告者が見聞した時点では、まだ仕掛かりだったということは十分あり得る。
34 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:52:33
魏志倭人伝には、蚕桑緝績とあるから、弥生の絹が出土する場所が邪馬台国だろう。
まあ、中部・北陸・近畿は絶望的だな。
35 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:54:59
>>33 その晋代の皇甫謐とかいう中国人は高いのが好きだったかもしれないけど
帯方郡の支配者は、高さにはこだわらなかったかもよ?
まあおそらく公孫氏ってのはツングース、夫余、満州系ですしね。
邪馬台国はインファント島。卑弥呼は身長3尺ほどの小美人。島の守り神であり養蚕の神でもある
巨大蛾はモスラと呼ばれる。
身長3尺→身長3寸
38 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 19:59:23
まあ箸墓みたいに、年月をかけた土盛りはしていないな。平らだったかもしれない。
39 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:00:25
>>34 弥生期の繊維製品が出土するなんて奇跡的だ
幸運に幸運が重なって保存されたレアケースだ
逆に出土しないから生産されてなかったなんて事は言えんな
狗奴国は濃尾平野、ここを流れる木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)をモチーフとして、黄金に輝く三つ首の翼ある
龍をシンボルとした勢力。その神龍の名は「近愚魏銅鑼」。
おかえり美濃もん太
42 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:14:21
43 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/08(火) 20:19:34
>>33 前スレ985を再掲
>>.話を邪馬台国に戻す。
>>卑弥呼の墓の記述「卑弥呼以死大作冢徑百餘歩」 正始八年以降に張政等が来倭した際の記事である事は云うまでもない。
>>「卑弥呼は既に死んでおり、差し渡し150m程の墓を造る」という意味である。
>>さて、中国において墳墓の規模を記す際には、高さが最重要事項であるといえる。にもかかわらず、魏志倭人伝ではその規模に言及しているのに、肝心の高さには触れていない。
>>つまり、張政等は完成時の高さが わからなかったのではないだろうか?
>>大作冢ゆえ、作冢の活況は目の当たりにしたが、完成までは留まらなかった。張政等は臺與が王になってから来倭し、その滞在はごく短期間であったものと思われる。
>>張政等は墓の大きさは記録したが、その高さには触れていない…という事は卑弥呼の墓とは、築造途中では高さが把握しづらい構造、工程を持つものである。
>>しかも、それが150mもの規模である事を加味すれば、前方後円墳と考えざるを得ない。
なるほど、高さって重要だったのですね。
>>33 で高さが書かれているものだけが引用されていますが、三国志全体ではどの程度の割合で高さが書かれているのでしょうか。
もし「実際に見たのなら高さが書かれる筈だ」というなら、見ていない可能性を考えるべきでしょうか。
44 :
ローガン:2010/06/08(火) 20:20:13
>>32 >それは馬鹿に向けてのものじゃなく、ふがいない畿内説諸氏にむけてのものじゃないか。
随分酷くなったけど前者に中にも、ちっとはましな人が居ないかなあ?ってとこです。
>かく言う自分も、三角縁神獣鏡魏鏡説やら箸墓卑弥呼説など面と向かって語ることなどできない情けなさ。
馬鹿ばっかしになった新スレで、思い切ってみるのもエエんちゃうかな。
エエんちゃう。 それに変なのはスルーすれば、いずれ多分居なくなる。
45 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:23:30
>>33 >明帝顯節陵,山方三百歩,高八丈。
これらの古墳の大きさの実測が知りたいが
ググってもメートルが出てこない。
一里300歩、あるいは360歩なら
400メートルから500メートルあるのかな?
それとも7〜80メートルかな?
>>42 へー。残るもんなんだ
甕棺に入ってたとかだろうか
畿内では、3世紀までの鉄は溶けてしまい
4世紀以降に残るらしいので
絹も3世紀以前は溶けてしまったのだろう。
48 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:28:13
箸墓が卑弥呼の墓ってことでいいんじゃないの?
邪馬台国時代の墓で、女性の墓だと伝わってるのは箸墓だけでしょ。
九州説の人は九州に卑弥呼の墓があると言ってるみたいだけど、
じゃ、その墓はどこにあるの?
ぜんぜん、伝承が残ってないじゃない。
しいて挙げるなら、宇佐だろうけど、
宇佐説なんて、九州説の中のごくごく一握りしかいないじゃない。
つまり、宇佐は間違ってるわけで、宇佐じゃなければ、
女性の墓として伝承されてるのは、箸墓しかない。
こんな明快な答えが出てるのに、いつまでも議論してるのってばかばかしいよね。
49 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:35:43
>>48 滋賀県東近江市・神郷亀塚古墳
日本最古級の前方後方墳、全長36.5m。築造年代は3世紀前半と推定されている。
後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。
50 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:42:16
>>24 これって576も含めて全部ジョーカーの自演だよねww
51 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:50:21
>>49 この「木槨」ってのも珍しいらしく、朝鮮半島・楽浪郡辺りの影響かとかなんとか。
箸墓は台与の墓。
卑弥呼に続いて、邪馬国=信楽にて執政(と言うほどの事をしたかは分からんが)。
しかし、山背(やましろ)にある巳百支(みまき)国からテロ攻撃があったため
山背から遠い奈良盆地南部に宮が移された。
で、マキムク・箸墓に続く。
52 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 20:53:49
>>51 すると、卑弥呼の墓は、ホケノとか纏向石塚、矢塚、勝山、東田大塚のどれか?
>>33 >和帝慎陵,山方三百八十歩,高十丈。
この中で一番大きいのが380歩か。
世界三大墳墓と言われた秦の始皇帝陵が350m
それよりは小さいと考えて良いのかな。
つまり380歩は350mより小さいと考えて良いのかな?
54 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:02:47
>>51 や、卑弥呼とその付き人(?)の墓が
>>49 原初の邪馬台国は近江の米産地(投馬国)が核になってるだろうから、墓も近江側にあると思う
「一歩」が成人男性の足の大きさっていう単位なら、大きさも合うんじゃないかな
あ、36.5cmの足なんてないかw
55 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:03:34
>>48 箸墓の伝説には根拠がない。たとえ女性の墓としても
また人類の半分は女性だから、特定できもしない。
箸墓の年代が卑弥呼の時代よりずっと新しいと考えられるし、
魏志倭人伝の記述より巨大すぎるので、卑弥呼の墓の可能性はないだろう。
56 :
ローガン:2010/06/08(火) 21:21:08
>>43久しぶりです。
>三国志全体ではどの程度の割合で高さが書かれているのでしょうか。
三国志には志が無いので…とりあえず33氏に追加で。後漢書礼儀志に書かれたものを
光武原陵 山方三百二十三歩高六丈六尺 。明帝顯節陵 山方三百歩高八丈 。章帝敬陵 山方三百歩高六丈二尺 。
和帝慎陵 山方三百八十歩高十丈 。殤帝康陵 山周二百八歩高五丈五尺 。獻帝禪陵 不起墳深五丈前堂方一丈八尺後堂方一丈五尺角廣六尺。
安帝恭陵 山周二百六十歩高十五丈。順帝憲陵 山方三百歩高八丈四尺 。沖帝懷陵 山方百八十三歩高四丈六尺 。
質帝靜陵 山方百三十六歩高五丈五尺 。桓帝宣陵 山方三百歩高十二丈 。靈帝文陵 山方三百歩高十二丈 。
さらに、芸文類聚にある荊州記も皇覽も墳高を記すのみ。
又、明代の喪礼考証、一品が墳高一丈八寸、品が下がる毎に二尺ずつ低くする。
周礼「漢律曰、列侯の墳高四丈 関内侯以下庶民に至るまで各々差有り」
墳墓の最重要関心事は高さ。 又後程。
57 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:30:29
箸墓が卑弥呼の墓として、
それに先行する前方後円墳は、孝霊、孝元、開化の墓と考えればいいんだな。
58 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 21:31:36
>>48 箸墓は卑弥呼の墓ではない。モモソヒメでしょ!
神武〜開化に至るまで朝廷の勢力は不充分そのものであったが、神武から
後代に至りながら次第に勢力は充実して、崇神の時にどうやら畿内統一的
に勢力が強くなり、欠史八代の末ごろにモモちゃんの神がかりとかの
おかげでこういう朝廷の権威が固まったので、このため小山程度の八代の
墓よりもかその恩恵に感謝しようと彼女の墓を大きく造ったのだと考えて
よい。彼女は女王ではなく霊力強いことで発言権は絶大だったろうし、
これで天皇が彼女をうやまったということだな。しかし女王の即位など
あろうわけもなく、彼女でさえそんな大それたことは思ってはおなかったと
いうことだ。タージ・マハルの場合は后をいとしい故に王が后の廟を王級
に建造したわけで、それでも彼女は女王ではなく、他国での前例もある。
59 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:34:24
>>58 実際にモモソヒメが女王に即位しなくてもいいんだよ。
中国人が見て、モモソが女王のように見えたら、女王って書くだろ。
アメタリシヒコの例もあるしな。
必ずしも、日本と中国の文献が一致する必要は無い。
60 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 21:37:43
>>59 アマイアマイ。天皇の活動を何故卑弥呼以上に当時の大陸人がコレを記述
しなかったのか、全然おかしいではないか。天皇(オオキミ)がいれば
女王とは書かないぜ。
61 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:42:37
畿内説もつらいところだな。
箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓とすれば、もろに記紀の記述から引用している
ことになる。記紀の記述を信用するわけかな。
さらに、そうなると、それ以前の10代はどうなるのかということになる。
一方で、倭人伝の記述とは合わないことになる。
何もかもが支離滅裂だ。
62 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:43:24
>>60 男弟が、実務を引き受ける実質的天皇(大王)だったんですよ。
で、巫女(モモソ)が神託を受け、その意見を男弟(大王)が聞くので、巫女の方が上位にみえた(女王に見えた)
このように、邪馬台国の政治は行われていたのです。
63 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:45:05
>>61 モモソヒメが女王になる前は、九州が倭王を名乗ってた。
でも、畿内中心のゆるやかな連合に九州が参画したことで、
九州もモモソヒメを女王に立てたわけ。
>>61 ん?箸中山古墳が箸墓と呼ばれているのは単なる伝承で、それが記紀にあるモモソの墓かどうかというのはもっとあやふやな伝承だろう。
これのどこが記紀の記述を信用していることになるのかな?
それと神武と欠史八代については、実在しないというのが通説だろ?
この実在を主張するのはとりあえずアマチュア好事家だけであって、学問としてはもう結論が出ている。
まあこんなことを書くと、大国あたりがまたファビョるだろうが。
65 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:50:39
箸墓の伝説の「糸が3巻き」残ってた、というのは
間違いなく巳百支(みまき)国と関係ある。
そして「ミマキ」は「任那」から来た人々でしょうね、
「ミマキイリヒコ(崇神天皇)」も。
でも、何がどうなったかは正直分からん・・ミマキイリヒコが何をしたのか。
で次の「イクメイリヒコ(垂仁天皇)」のイクメは
宮崎・日向にある生目古墳群の地名と関係あるだろう、
とすると、東遷した神武天皇のモデルでもあるのでは。
まあざっくり言うと、
卑弥呼がよく治めてくれたってんで、次も女性でと台与を立てたものの政情は不安定、
そこへイクメイリヒコ(神武)が来てやったがな〜ワシにまかせえ〜
という話じゃないでしょうか。
66 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:53:39
野菜でも花でも 春蒔き秋蒔き がある
秋蒔きの菜っ葉は 春にとうが立って花が咲く
67 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 21:55:25
上位なんかに見えやしないよ。畿内説は南も東に見えるらしく、現実遊離
の妄想。それにしては倭人伝の記事は男弟たるオオキミに関して、火の
消えたような説明書きではないか。やはりおかしいわけだ。
参画などしてれば筑紫の倭王と朝廷が連合した史実が伝なり記紀になけれ
ばならないのに、参画の具体的記事はなかろう。
詐欺畿内説は記紀でも倭人伝でも都合のいいとこだけを
虫食いのように引用する。詐欺の詐欺たるゆえん。
詐欺畿内説はさらに、考古学的事実をもゆがめ
嘘の上に嘘を塗り固めていく
70 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 22:07:35
>>64 君は津田病の空気を教育機関の上の奴とか臥海とかから入れられて
来たから、架空だろかインチキを前に押し出しているだけ。
これなど ↓ 考えてみろ。
氷川神社(武蔵一ノ宮)社伝
孝昭3年四月 創建
八代に関して、こんなのが全国にいくらでもある。だから紀の編者連の
創作ではない。津田はおそらく、こういうところを見落としていたん
だろう。
鷺バカがいるなwwwアホの一つ覚えとはよく言ったものだ
72 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:09:38
>>64 ちょっと書き方まずかったな。
要するに、どうして箸墓=卑弥呼の墓というような説が出てきたか。
大きさも違うし、形も違うし、年代も怪しい。
これは、女つながり意外に考えられない。
しかも、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼なんてのもついでに出てきた。
これまた根拠がない。
記紀の記述と倭人伝の記述に全く類似性が認められない。
根拠が薄弱だなということかな。
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 22:11:38
>>65 ミマキイリヒコは伊勢神宮創建に際し模擬鏡を同床共殿した。四道将軍
を四方へ派遣させて畿内外周への調査もさせている。
イクメイリヒコは神武じゃぁないよ。垂仁だよ。
74 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:12:37
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼だってことは、もっと宣伝していいだろうな。
まあ、一般人は倭迹迹日百襲姫なんて聞いたことないわけだし。
75 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:15:27
>>74 おいおい、根拠がないって言っているだろう。
宣伝すればいいってもんじゃない。
76 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:17:08
>>72 しかし女性の墓にしてはでか過ぎないか?
因みに彼女は祟神に神託でタケハニアスの反乱を伝え、鎮圧させている。
祟神の死後、垂仁の代にサホヒコサホヒメが反乱を起こし
その後、伊勢神宮の建立者ヤマトヒメが登場している。
これは、倭国乱れ・・→卑弥呼共立→男王たつも再び倭国乱れ・・→トヨ共立
に符合しないだろうか?
78 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:20:36
>>73 同じ人がモデルなんだぁよ
「崇神(すうじん)」「垂仁(すいにん)」この名前の類似性も匂うよ
垂仁天皇(イクメイリヒコ)の業績を
崇神・神武という架空人物に割りふったんじゃないかね〜
79 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:23:03
>>77 その「サホ」がこれまた京都と奈良の境の地名。
つまり巳百支国付近。
80 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:23:50
>>76 倭迹迹日百襲姫ってのは、日本書紀によると、崇神天皇の御世に災いが多発した
時に、神懸りして大物主を祀ればよいと進言した。
また、武埴安彦の反乱を崇神天皇に進言し、武埴安彦を討たせた。
これだけ。倭人伝の卑弥呼の記述とは関連性がない。
だいたい、帯方郡に使者を送ったのは卑弥呼と書かれているし、魏の皇帝の
詔書も金印も卑弥呼に宛てられている。倭迹迹日百襲姫と卑弥呼では立場が
ぜんぜん違う。
81 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:27:40
>>80 それじゃ、アマテラスも、卑弥呼と全然似てないってことでいいね?
>>79 一度目のタケハニアスも山城の国祝園で京都と奈良の境で反乱。
かの地の元の名は鉾園。
激戦で大量の死体と武器の鉾が園のように広がっていた事から名づけられたとか。
私は卑弥弓呼はタケハニアスのことだと思っています。
卑弥呼と卑弥弓呼、名が似ているのは同族の人間であるからだと考えています
>>80 タケハニアス事変の後、
祭祀王になっていてもおかしくはない。
84 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/08(火) 22:32:34
国宝の「海部氏勘注系図」よると、卑弥呼=9世孫・日女命=倭迹迹日百襲姫命です。
また別名を神大市姫命と言います。箸墓古墳=大市墓だから箸墓古墳は卑弥呼の古墳ですね。
85 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:34:01
>>65 間違って覚えるようだから、正しておくけど、
任那の国名は、後からつけられたものだから。
崇神の名前の「ミマキ」が先にあって、渡来人に対しておまえらの国をミマナにしとけと言ったの。
こんな簡単な読み違い、2ちゃんでも恥ずかしいから。
86 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 22:34:54
>>78 (すうじん)じゃぁないよ、「すじん」だよ。似てるから同一人物だと
いうのは、まだまだ早計だ。両者は別人。稀に同一もあるが。たとえば
稲荷山鉄剣の獲多支鹵大王は雄略天皇だな。
だいたい架空ならば、紀に記載の年月日を日数までまず書きやしないよ。
これを ↓ 見てごらん。
熊野本宮 伝承 崇神天皇65年 創建
玉造稲荷神社(大阪) 由緒 垂仁天皇18年秋 創祀
87 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:38:06
>>82 うわ〜どさくさに紛れて卑弥呼誘致かいな
これだから山背の人間は^^;
>>81 卑弥呼はオモイカネ辺りの役割がふさわしいと思うよ
稚日女尊(ワカヒルメノミコト)とか
88 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:38:12
89 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 22:39:06
90 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:39:39
>>85 >任那の国名は、後からつけられたものだから。
根拠をどうぞ!
91 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:39:45
>>84 更にその日女命は葛城の姫。妹は祟神の后。
モモソと祟神の関係は義姉と義弟。倭人伝と符合する。
建内宿禰や蘇我がなぜあのような大王並みの絶大な権力を持っていたか?
この謎も上記の事が事実ならば納得できるはず。
葛城の本拠地の御所市には高天があり、
そこには広大な伝・高天原と高皇産霊神(高木神)が奉られた延喜式最高位の社、高天彦神社がある。
94 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:46:00
>>56 まずご苦労様です。でも残念ですが、おかしな所に気づきました。
桓帝宣陵 山方三百歩高十二丈
100歩が150メートルとすると三百歩は450メートル
十二丈は28メートル。
これは始皇帝陵は世界遺産でピラミッド、仁徳天皇陵と並んで三大古墳ですが、
その大きさは方350メートル、高さ76メートルです。正方墳です。
桓帝宣陵も正方墳です、これが方450メートルあったとしたら始皇帝陵より大きくなってしまいます。
逆に高さが低く28メートルですから、始皇帝陵との比較計算でいうと
桓帝宣陵は方150メートルが適当ではないでしょうか。
とすると300歩は150メートルになります。100歩は50メートルになります。
ですから卑弥呼の墓の100歩は50メートルになります。
ただ100歩150メートルとして計算した場合ですのでご注意を。
1歩1尺とすれば25m位だと思っています。
桓帝宣陵の画像を見ましたが小さく見えました。実際の大きさがわかればほぼ正確な
100歩の長さが推測できます。
>>87 ん?誘致も何も、タケハニアスは大王家と親戚ですよ?
98 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:50:59
>>91 まず、立場が似ている。女性で独身。天照大神は高天原の主宰神。卑弥呼は
女王。
狗奴国との争いは、素戔鳴尊との争いに比定できる。
卑弥呼は狗奴国との争いに窮し、帯方郡に援助を求めている。援軍は来なかったが
張政が争いの調停にやってきた。しかし、卑弥呼はその頃死んでいる。
天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に困り果て、機織小屋に裸の馬を投げ入れられると
怒って天岩戸に隠れてしまった。
特に、卑弥呼のあとを継いだ台与の代になって、男王が立ち、共に中国の
爵命を受けたというのは特筆に値する。男王と女王の並存という非常にまれな
状態だから。
これは、天照大神が岩戸を出ると、高皇産霊尊が登場することに相当すると
考えられる。明らかに、二柱の主宰神が並存している。
>>82 >一度目のタケハニアスも山城の国祝園で京都と奈良の境で反乱。
>私は卑弥弓呼はタケハニアスのことだと思っています。
>卑弥呼と卑弥弓呼、名が似ているのは同族の人間であるからだと考えています
つまり卑弥呼は山背の人間だと匂わせたいわけだ。くっさ
いつにも増して妄想合戦だなwww
似ているとか似ていないとかばかりで、じゃあどこに根拠があるかといえば
相も変わらず、俺はこう読む、いや俺はこうとばかりのマイ解釈合戦か。
果ては大国に至っては、社伝という一番信頼の置けない史料を崇め奉っている。
数多の文献学者が、日本中の社伝を精査してきたのかを知らずに
自分だけが新発見したつもりなのだから恐れ入る。
津田がどうこうではなく、津田の検証が文献学界で行われていないとでも思っているのだろうか?
その検証がすべて肯定で固められているとでも思っているのなら、明らかに勉強不足だ。
>>99 それは違う。タケハニアスは山城だが、モモソは葛城の人間だ。
あぜ臭いのかは分からないが、君の耳の裏よりはマシだと思うwww
102 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:53:41
>>98 高天原は葛城にあるんですけど?
だから、邪馬台国は大和。
>>100 そんな考え方だと歴史スレにいる理由がないね。
>>101 あぜ臭い?田んぼ帰りですか?
この頃のキョウトの呼び方は山の背後、山背なんですよ^^
そう呼ばれるだけの理由があったんです
105 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:56:40
>>103 普通に話せってことだよ。
モモソヒメが卑弥呼なんだから。
106 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 22:56:56
>>100 全国の神社等がそれぞ同名の号の天皇名で由緒等が沢山あることは、
オマエの言い草なら全部デタラメにせねばおかしいことになるが、全部の
インチキが同名号の天皇になってるはずがあるまい。津田とオマエの
ほうが最も信用が置けない。
107 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:57:10
>>102 饒速日命は、高天原から天磐舟に乗って大和にやってきたのだが…。
108 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:57:59
>>104 なぜ臭いのかと書いたが単なる入力ミスだ。そんなに揚げ足取ることでもあるまい
山城は確かにあぜ臭い。田んぼと川しかない(住民がいたらすみません)。
>この頃のキョウトの呼び方は山の背後、山背なんですよ^^
そう呼ばれるだけの理由があったんです
そんな理由はどうでもいいし。君は的外れ
110 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:59:12
>>105 えええ、モモソ姫=台与というのは
畿内説の人もコンセンサスできてるものだとばかり思ってましたが
111 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:59:26
>>107 そんな神話を真に受けるってアホですか?
天磐舟はUFOで饒速日命は宇宙人ですか?
もっと学問的に話をする努力をしましょう。
112 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:59:51
大和でどうやって、冬に生菜を食い、魚蛤を採るんだ?
>>104
詐欺畿内説の妄想は、以下永遠に続きます・・・
>>107 イザナミイザナギも妙なとこから子供生んでるしねw
>>109 いちいち訂正せんでええよ野暮ったいなあ
いやー山背、山の後ろってどこの山の後ろかと思ってたら、
信楽の山の後ろだったんですよ、スッキリしましたわ
117 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:02:56
>>108 高天原は九州ではありません。
九州では「原」は「ハル」と発音しますが、
タカアマハラ、タカマガハラ、と、高天原は「ハラ」と発音します。
タカアマハルとは発音しません。
したがって、九州ではないわけです。
しかも、文献上では高天原は葛城です。
118 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:03:14
>>111 それが学問的な話か。
要するに、高天原は大和から遠いと言いたいわけなのだが。
高天原が葛城では、そういう話はおかしいだろうということ。
>>112 今の国境を基準としてるからそんな考え方が出来ちゃうんだよ
頭を柔らかくしなさいな。葛城氏は河内も領地だったんだよ?
120 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:04:59
>>118 葛城(高天原)とヤマトは別の国です。
初心者に一から教えないといけないとは、しんどいわ。
121 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:05:46
>>81 ばかだなー
あまてらす=ももそ=ひみこ、なんだよ。
考古学者もみんなそう信じてるんだから間違いないんだよ。
いいかげん、あきらめろよなwwwwwww
122 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:08:00
>>121 ちがいます。
アマテラスは、卑弥呼よりずっと古代の太陽神、しかも男神。
ストリップで喜ぶのは男の証拠。
卑弥呼はモモソヒメであってます。
123 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/08(火) 23:08:13
>>92 卑弥呼のお母さんは谷上刀婢(たなかみとべ)と言って宝石がたくさん採れる滋賀県大津市の
太神山(たなかみやま)付近を領有する豪族の娘でした。後の日触使主の家系です。
日触使主の娘2人が応神天皇の妃になっています。
124 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:09:27
>>100 その学者らはす〜ぐ架空だとかで葬るが、どこまでそいつらの言うこと
がアテになるか、信用できない。なぜならば古史古伝もちゃんと欠史八代
の記載がある。これでは八代の天皇が架空だとは言えまい。
おまけに架空ならば、当然紀の編者らは公文書偽造同行使で当時の政敵に
垂れこまれて失脚するのは小沢さんの部下の議員の帳簿架空記載と同様、
検察に油を絞られて身の上は崩壊するから架空なんぞやる大なる利害も
ないし、彼らがこんなやばことをする動機も出て来ない。つまり架空とは
左党をなめすぎた脳内がリトマス史見視を赤化している史想脳労に陥っ
たことからの欠歯八代が代歯脱多のあわれなフガフガになったことからの
妄想なのであ〜る。
125 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:10:12
あのね
高天原は、天の高原ではなく、高いあまはらなんです。
この“あま”は天ではなく海です。
つまり高天原=高海原=琵琶湖。
ごめんねみんな。がっかりだよね;;
>>123 母が海部氏で父親が葛城氏って事ですか?
妹は葛城を名乗ってますし
完全に馬鹿スレ化してる。
128 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:11:23
たかあまがはら
天はアマと読みますね。
130 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:12:05
スクープ実証!歩も短里尺だった!!
上の方にいってしまったので再度書き込みます。
桓帝宣陵 山方三百歩高十二丈
100歩が150メートルとすると三百歩は450メートル
十二丈は28メートル。
これは始皇帝陵は世界遺産でピラミッド、仁徳天皇陵と並んで三大古墳ですが、
その大きさは方350メートル、高さ76メートルです。正方墳です。
桓帝宣陵も正方墳です、これが方450メートルあったとしたら始皇帝陵より大きくなってしまいます。
逆に高さが低く28メートルですから、始皇帝陵との比較計算でいうと
桓帝宣陵は方150メートルが適当ではないでしょうか。
とすると300歩は150メートルになります。100歩は50メートルになります。
ですから卑弥呼の墓の100歩は50メートルになります。
1歩1尺とすれば25m位だと思っています。
桓帝宣陵の画像を見ましたが小さく見えました。実際の大きさがわかればほぼ正確な
100歩の長さが推測できます。
九州でハルといえば、集落のことだ。
原っぱはハラ。ハルとハラは異なる。
で、高天原は壱岐の原の辻。
>>106 いやな、これは学問的議論じゃなくてな
社伝を信じるという貴方の立場は、単なる神道系新興宗教だって言ってるのだわ。
全国の神社の起源由来に大同2年が圧倒的に多いのは、本当にその年に一斉に建立したとか思ってるのか?
だいたい殆どの社伝は明治期から大正期に書かれた(加筆訂正などの再編集含む)というのは、もう常識だろ。
つまり記紀を読んだうえで、それを踏まえて書かれているんだよ。
またその記述をお互いに合わせようと相談している書簡まで多数確認されているのも事実だろ?
つまり神仏分離に伴って、神道としての運営に沿うように社伝のほとんどは作られた。
そして同じく明治期に、長年の神仏合宗によって失われた部分を独自解釈で復古しようとする新興宗教が多発した。
これが復古神道だ。
そして彼らは姑息にも自らを「古神道」と名乗って、さも太古の昔から存在していたかのような印象を与えようとしている。
貴方もその考え方に沿った復古神道のひとつであり
同じくホツマを崇め奉る唐松山も大正期創生である別系統の復古神道だよね。
だから2人の言い争いがヒートアップするんだ。
これは学問ではなく、教義争いなのだから。
延喜式は平安時代だっけ?
134 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:15:41
135 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:16:10
孤独オナニースレ
未だ続いてたのかw
>>124 >古史古伝もちゃんと欠史八代の記載がある。
先代旧事本紀か?それとも富士文書や竹内文書か?
140 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:19:23
あんたら、私の大事なスクープ記事上げるなw。
141 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:22:50
高天原=琵琶湖
天安河=野洲川
天安河原=伊勢遺跡
天岩戸=甲賀〜伊賀〜奈良へと続く山が折り重なる道
ついでに、近江の語源は淡海ではなく、
大臣(おおおみ)だったと思われます。
大臣って呼んでもいいよ*^o^*
>>137 えーそれ説明しなきゃダメ?ゆとらーかい?
「あま 海」でぐぐってみてよ
記紀の年代を西暦に直していくというのは知的な数字遊びとして面白いと思うけど、天皇の代数やらそれぞれの事跡をすべて
真実と見るのは電波。
143 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/08(火) 23:24:05
>>126 卑弥呼の両親は両方とも海人族です。海部氏も尾張氏も葛城氏も海人族でした。
卑弥呼のお父さんの日本得魂命は葛城地方にあった葛城高尾張の出身だと思われます。
>>128 淡海国は近江国のことですね。つまり、滋賀県です。
>>140 It doesn't matter what you think!
146 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:28:32
>>132 確かにそういうインチキもあるだろう。それにしては全国の神社の全部が
全部そうしてたことになり、しかも欠史八代の記事は古史古伝にもあり、
どこもかしこも八代の天皇号は存在している。そんなにインチキは
あるわけがない。全国の神社全部、古史古伝の作者ら全部、記紀の作者ら
全部が公文書偽造同行使をしていたというのがオマエの言い分だ。
そうなら当然同罪で全国の神社の神主らの大多数がこれで当時の官憲に
パクられてなければオマエはウラを取れたとは言えない。先代旧事本紀
大成経の編者らは油を絞られたろう。だから官憲ににらまれた作者らも
いたことは間違いない。しかしそれを全国の神社と各関連文献の関係者
の大半が逮捕訴追されてないというのが、オマエの主張の弱き点であっ
て、オマエの言い分ぼ殆どが嘘だということを物語っている。ww
147 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:29:34
>>136 古史古伝の場合は一部ですよ。こっちは全部ではないです。
148 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:31:45
>>120 なんだ、脳内高天原か。
ボクの高天原を大切にしなさいね。
>>146 すまんが何を言いたいのかさっぱり判らん。
なぜ自分のところの神社の社伝に創作を加えるのが「公文書偽造」なんだ?
家系図を捏造しても、それ自体は罪にならんぞ。
そいつを詐欺の道具などに使えば話は別だが。
>>147 その古史古伝の名前は何ですか?
いや真面目に本当にあるのなら読みたいと思ってますので教えてください。
法律論議は別なところでやれ。
152 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:35:24
>>149 ならば神社のほうは私文書偽造でもいいぜ。現代の刑法をたとえて言って
るわけであり、神社崇敬している朝廷がこれでも記紀を撹乱するとか
なんだかんだの糊塗をされて逮捕されるのは、少し前の天津教同様だぜ。
153 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:36:40
>>127 畿内説はまともな議論していたら負けるから、馬鹿スレ化が望ましいんだろう。
畿内説は宣伝第一だから、このような掲示板でも評判は落としたくないと
思っているらしい。
ホツマなんかは江戸中期に井保勇之進という人が創作した、で間違いないだろう。彼は高島郡内の神社の社伝や由来記を書く
専門家であったようだ。
>>153 九州バカ「アーアーキコエナイキコエナイ」 ですねw
>>153 お前が馬鹿スレ化させてる張本人の一人。
>>152 貴方の中では筋は通っているのだろうけど、要するに教義を疑うのは宗教的にご法度なのでやらない、批判は受け付けないということですよね。
ならばご自分の主張は宗教的立場からのものだと堂々と明記すべき。
いかにも学問でございますとばかりに偽装して書き込むから、こうやって暴かれるのだよ。
158 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:40:27
>>150 先代旧事本紀大成経はどう? ホツマも〜どう?
ただ誇張の記載は確かにあり、天皇の容貌、体躯などはオーバーに記載
しての誇張があるにはある。竹内文献は史学には不向きだね〜勧めにくい。
同経のほうは唐松山も読んでない書で、内容量は豊富。
自分の考え以外全てバカ こう思ってる奴らが集まったスレはこうなる。
161 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:46:53
まあ詐欺畿内説は、
三角縁神獣鏡舶載鏡偽装詐欺
箸墓卑弥呼墓偽装詐欺
を反省することだな。話はそれからだ。
163 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/08(火) 23:47:03
>>154 今宵は遅くなったので最後にする。同経の創作は早計の考え。確かに
色づけは〜やっているようだが、應神の条には記紀に記載のない天文学上
注視されている393年相当のさそり座の超新星☆の記事が存在し、これは
インチキでない文がある証拠だと言えると思う。ただ年代差が120年の関係
で存在してるため、ここが要注意。
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・
>>162 お前は文献でも考古学でももう少し勉強することだな。暇は十分あるんだろ。
いっぱしの口をきくのはそれからだ。
166 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:48:53
>>161 あ、そこ全部、魏志倭人伝の描写に不適格だから。
残念だったね。
168 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:51:10
むきむきパンダ
>>167 なんだい?低脳。さらに社会的不適応者。
170 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:51:38
>>169 こらこら、もうやめとけ。
君の言うように、この詐欺師連呼厨が低脳でアスペなのはもうみんな知っている。
アスペは無視が一番。
ちなみに構ってやらないとさらにむきになって延々やり続けるのが常だが、そのぶん病状は確実に悪化する。
構ってやると小康状態を保つんだ。
だから俺は構ってやらない。
>>170 ワールドカップ、盛り上がらないね。
知り合いのケーブルTVの関係者も、全然契約増加の役に立っていないと嘆いてた。
まあねえ。しかしこんなやつが将来、生活保護もらうんだろうし(今でもか)、こんなやつのネット代がまともな人の税金から出ると
思えば情けないよ。ww
>>173 でもかの大阪市でさえ、今後は職歴のない(つまり年金納付のない)者にたいしては
生活保護は支給しないとの方針を打ち出して実施してるから、もう飢え死にするしかないだろ。
スレチすまんが。
175 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:11:10
177 :
ローガン:2010/06/09(水) 00:26:52
>>94 >まずご苦労様です。
やあ、返信してくれる人がいたんですね。
>でも残念ですが、おかしな所に気づきました。
そりゃああるでしょう。貴方のような論者と話たかった訳で、ノーガードで書いたんですから。
>桓帝宣陵 山方三百歩高十二丈 100歩が150メートルとすると三百歩は450メートル 十二丈は28メートル。
> これは始皇帝陵は世界遺産でピラミッド、仁徳天皇陵と並んで三大古墳ですが、 その大きさは方350メートル、高さ76メートルです。正方墳です。
> 桓帝宣陵も正方墳です、これが方450メートルあったとしたら始皇帝陵より大きくなってしまいます。
> 逆に高さが低く28メートルですから、始皇帝陵との比較計算でいうと 桓帝宣陵は方150メートルが適当ではないでしょうか。 とすると300歩は150メートルになります。100歩は50メートルになります。
> ですから卑弥呼の墓の100歩は50メートルになります。 ただ100歩150メートルとして計算した場合ですのでご注意を。1歩1尺とすれば25m位だと思っています。
「方」ですからね。方って難しいですよ。例えば 同じ後漢書が引く漢旧儀に「長安城方六十里、経緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭。」と。
これと墳墓条が同様なら、「方三百歩」、一辺約75歩になりますが。いかが?
178 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:57:51
>何故、忍者や僧兵のいでたちが遊牧民スタイルに似ているのか。
遊牧民に日常作業と、忍者や僧兵の作業が似ているから
180 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 01:04:55
>>177 >>94 ではありませんが、
墳墓の300歩は周囲の距離をあらわすということでしょうか。
そうなると卑弥呼の周囲100歩は、直径30歩程度ということになりませんか?
円墳に限って直径ですか?
円墳と方墳で、直径周径の測定方法が違うならば
円墳と方墳の違いが明確に記載されていなければ
大きさの記録の意味がありません。
181 :
ローガン:2010/06/09(水) 01:37:33
>>180 >墳墓の300歩は周囲の距離をあらわすということでしょうか。
はい、そう読めるものを提示したつもりです。
> そうなると卑弥呼の周囲100歩は、直径30歩程度ということになりませんか? 円墳に限って直径ですか?
方や周ではなく、徑とあるのでね。外周ではないでしょう。
> 円墳と方墳で、直径周径の測定方法が違うならば 円墳と方墳の違いが明確に記載されていなければ 大きさの記録の意味がありません。
上に貼ったじゃないですか。その規模の記し方、方と周で「円墳と方墳の違い」を、表現してるやん。
だいたい「 高さ」が…って話だったんですが。 ではおやすみなさい。
ほとんど高さがないから、卑弥呼の墓の高さを書かなかった。
箸墓が、卑弥呼と無縁である傍証だったわけだ。
183 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:32:20
大きさからすれば常識的な高さだったからだろう。
184 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:49:05
郡使が本当に卑弥呼の墓を見ているのか、ちょっと疑問でもある。
少なくとも、卑弥呼の葬儀には出合っていないようである。
葬儀を見ていないということは、墓も見ていない可能性が高い。
というのは、郡使はけっこう葬儀や墓が好きで、その様子が詳しく書かれて
いるにもかかわらず、卑弥呼の葬儀の様子には全く触れていないからである。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、
他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
なんて記述もあるわけだし。
185 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:57:02
葬儀の様子も書いてあると言うべきだろう。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、
他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
墓を見なければ、有棺無槨、封土作冢とは書けないな。
これまで注目されていないが、問題は副葬品が書かれていないことだ。魏の帝から銅鏡
を賜った卑弥呼が銅鏡に守られて眠りについたとなれば、それは必ず特記されたはずだ。
それがないということは、卑弥呼の墓に銅鏡は副葬されていないね。
186 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 03:01:25
>>185 いや、倭人伝に書かれている葬儀の様子は卑弥呼のものではなく、一般的な
ものだと思う。
187 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 06:55:05
卑弥呼が特別にちがうならば、そのことを書くはずだ。
188 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 07:56:55
>>181 レスありがとうございます
最初に頭に入れなくてはならないことは、現在の長安城は唐時代のものですから、当然8世紀の幅があれば、場所も大きさも違い
比較対象にはならないということです。
ところで、古墳の方に限って周を現すとは考えにくいです。
礼儀志の方は「方」だけで縦横の長さが示してありません。
それでは墳の大きさが表せません。というのは方がもしも周を表すのであれば
周囲の長さが同じでも形によって極端に面積が変わってくるからです。こういう書き方は
頭の良い官吏ならまずしないです。
また古墳は正方墳ですからわざわざ周囲を出さなくとも一辺だけで充分なわけです。
漢文は簡潔な書き方ほど良いよされますから、昔の人が周囲をかくような無粋なことはしないでしょう。
ですので長安城の漢代の遺跡がなければ実証しにくいですが、
この場合の「方」は周のことで誤記か誤写の可能性もあります、そして改めて縦横15里だと書いて補足しているのだと思います。
普通は縦横を書いたら周囲の長さは省くの常識ですが・・・。
その辺の検証はこれから進めていくべきだと思います。
189 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 08:02:01
>>188 ×>>181
○>>177
すみません。
190 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 10:20:17
188につづき
後漢書の歩が短里尺ならば、里も当然短里尺になりますから、
漢代長安城の一辺は15里で1、05キロほどです。周囲4、2キロです。
漢代の長安城跡をネットで見ましたが、非常に疑問を感じました。
周囲が23キロだそうです。よくみると何キロが離れた他の宮殿もいくつも含まれていました。
その外堀が囲ってあるそうですが、古くぼろぼろになった残骸のような跡しかなく田んぼが広がった場所で、
何か他の宮殿と長安城をむりやり一緒にして計ったように見えます。
それに史書に書く場合、長安城の大きさを書く場合、ほかの宮殿も含めたりはしません。
みなそれぞれ外壁跡がありますから。
長安城跡にも外壁があります。
ちなみに唐時代の長安城は周囲12キロ位のようです。少し離れた大明宮は周囲9.2キロです。
ですから漢代長安城の周囲の測定は例えれば、唐代長安城に近辺の大明宮などを足した
周囲の長さを測ったのと同じことです。ですので漢代長安城跡の周囲の長さは
長安城だけの外壁の長さを測るべきだと思いました。
周髀算経を見れば、答え一発。
192 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 10:59:52
>>190 方六十里(六十三里?)というのは面積だね。しかし、縦横が十五里ならば、その
面積は方十五里のはずだ。方六十里というのは、四角い城のまわりを含めた(あな
たの言う、何キロが離れた他の宮殿なども含めた)面積じゃないかな。
193 :
ローガン:2010/06/09(水) 16:45:00
>>188 長安城方六十里(63だっけ)、経緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭。
973頃…1畝が240平方歩100畝で1頃だから 1頃=1.4×1.4×240×100=47040u
973倍して 45769920u
15里四方…1.4×300×15の二乗=39690000u まあ目くじらたてる程の差はありません。 方六十里が面積ではなく、外周で良いでしょう。
こんな計算とか嫌いやし…論点ずれていくし…
194 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 16:47:19
千熊長彦の登場
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html より ラヂオ氏は、新羅本紀と百済本紀の誤差を百済本紀に近づけようとしています。
下記はその直訳
*AD370年- AD318年= 52年偏差.
[1409] 千熊長彦, 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, AD383年.
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年(AD383年) 1月, 水羊(修養, 癸未, AD383年)祭(私の)を行った. 光臣(狂信)を 伊伐〓(イボルチァン)で, 白花(百貨)を 稟主(稟奏)にした.
途中略。
*倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 = 倭(なぜ)の臣下 熊彦(ウングオン)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉にたくさん従った.
*千熊長彦(チォンウングザングオン)はハンサムな人でした.
上のネムルギでは 熊彦(ウングオン)で出ます. 383年に活躍した人物です.
この 383年だ時点が日本書紀紀年設定に基準店になります.
癸未年に千熊長彦の登場である、
私の主張は、新羅本紀に百済本紀を合わせるべき。です
323年=神功49年、千熊長彦。←この主張に「癸未年」が加わる。
書紀の千熊長彦を383年にすると、書紀の記事はねつ造となるが、323年なら
整合性が得られる。
195 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/09(水) 18:17:03
整合性は得られな〜い。まぁ最初のほうの根底たる後代の顯宗(乙祁)の
年代が梁書から整合していな〜い。つまりこれを放ってさらに上代を決め
たところで、編年論は崩れデタラメであ〜る。
だいたいマシというものがインチキだと分かるのは、奴が空年で不正注入
したと思っていた景行28年〜景行40年の間が左右年同一だとかまともに
考えてたあのお脳がwww
景行36年8月 五十琴姫が五十功彦命を生む
でインチキを露呈したのだ。pppppppp
>>45 >これらの古墳の大きさの実測が知りたいがググってもメートルが出てこない。
言われるとおりググってみたら、こんなん出ました。どなたか訳して下さい。
原陵-简介
汉光武帝陵,古谓原陵,俗称汉陵,为东汉开国皇帝――世祖光武帝刘秀(公元前6―公元57年)的陵园,始建于公元50年,由神道、
陵园和祠院组成。 光武帝陵南倚邙山,北临黄河,近山傍水,蓊蔚肃穆。阙门巍峨,气势壮观,神道宽阔,直达陵前,两侧石刻林立、
碑碣参差。陵园呈长方形,占地6.6万平方米,墓冢位于陵园正中,为夯土丘状,高17.83米,周长487米。
光武祠,位于陵园西侧,为光武帝的祭祀祠院,面积2万平方米,由阙门、碑廊、二十八宿馆、光武殿等组成,
构成一鳞次栉比的汉代建筑群落。
<後漢書志第六 禮儀下>
光武原陵,山方三百二十三步,高六丈六尺。
ですから、 山方三百二十三步が周长487米なら、だいたい合ってる?
197 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 20:29:52
原の陵−略説
漢の光の武皇帝陵、古い謂の原の陵、俗称の漢の陵は、東漢のために国を立てる皇帝の――世祖光武帝の劉秀(紀元前6個の―西暦57年)の霊園は、初めて西暦50年に造って、鬼神・禍福についての説から、
霊園と祠の庭は組成する。 光武皇帝陵の南は邙の山に寄りかかって、北は黄河に臨んで、近山は水に近づいて、蓊の蔚は厳かです。闕門巍の峨は、気合いは壮観で、鬼神・禍福についての説は広くて、陵以前に直行して、両側は林立することを石刻して、
石碑の参は違う。霊園は長方形を呈して、地の6.6の10000平方メートルを占める、墓の塚は霊園中心点に位置して、長487メートル夯の土丘状、ゴッホ17.83メートル、週とする。
光武の祠は、霊園西側に位置して、光武帝の祭祀の祠の庭、面積2万平方メートル、由闕門、碑の廊、二十八宿館、光武の殿などのために組成して、
ちょっと鱗や櫛の歯のようにずらりと並ぶ漢代が群落を建築することを構成する。
>>197 >原の陵−略説
ま、まさかの唐松さん。・・・と思って目を凝らしてよくよくみれば・・・。
もぉ〜、インチキするから、いっちばん肝心なところがワケわかんないじゃないですか。
ゴッホ17.83メートル、週とする。・・・ってナニ? 笑笑笑
なんだ、自動翻訳か
200 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:39:57
米山さんから雲が出た
唐松山さんから屁が出た
自動翻訳機械
202 :
45:2010/06/09(水) 20:51:32
>>196-197 おおう、中国語から翻訳するとは。さすが。
一里300歩450メートルでほぼ合ってますね。
俺の考えを聞いてください
俺は邪馬台国は九州にあったと思ってます
何でかというと、中国の文献に「邪馬台国の人間は男は皆刺青をしている」とあるからです
刺青はポリネシア系、つまり南方系の文化ですよね?
北方系でもアイヌなどは刺青をしていますが、いずれにせよ言えるのは縄文人の文化だということです
中国からの渡来系弥生人の末裔である人たちは、陸奥の国の蝦夷のことを「刺青をして野蛮な人たち」と言っています
つまり刺青をする文化は無かったはずです
もし邪馬台国が畿内にあって、それが「大和国」、現在の皇国の祖であったならば、弥生人の国でなければおかしいです
つまり俺の考えでは、邪馬台国は皇室とはまったく別の国です
どうでしょうか?
204 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:59:53
>>193 長安城の方は誤記ですよ、周のね。
他に同じ使い方があれば例に出してみてください。これしかないはず。
帝陵の方は一辺を示します。決して周囲ではありません。
ひとつ山を越えればひとつ川を越えれば言葉や風習が違うなんてのは普通
もしかして縄文時代には縄文国があったと思ってるのか?
206 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:22:56
中学生なら、九州説から入ってもいいんじゃないの?
オトナになっても九州説とか言ってると笑われるだけだけど。
207 :
縄文人:2010/06/09(水) 21:24:29
考古学が取り扱うのは、物質文化の表現である遺物であって、言葉ではない。土器の様式の変遷をどれほど精密に跡づけたとしても、
また銅鐸や銅鏡や銅剣や鉄剣がどれほど多量に出土しても、それに文字が書いてなければ、書いてあっても政治に直接関する事柄で
なければ、歴史の材料としては役に立たない。歴史に筋道を与えるのは政治だからであり、物質文化は誰にでも容易に借用できるも
のだからである。(岡田英弘氏の著書より)
208 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 21:32:49
>>207 伊作さんが人の名を騙るなと仰ってますよ。
考古学を認めないなら、文献で
百済王記?の癸未年に千熊長彦が登場します。
この癸未年は神功49年、西暦323年か383年か?
209 :
縄文人:2010/06/09(水) 21:36:08
私は考古学がわからん。だいたいが日々進化していく学説を咀嚼するのは私の頭ではまったく不可能だ。それに私は文献知識だって倭人
伝をなんとか読んだ程度のもので、他の漢籍については有名箇所以外はまるでちんぷんかんぷんだ。それに古代中国に関する知識も全く
ないに等しいのでレスは間違ってばかり。私は自分の脳内がすべて。
>>206 神武東征神話が示すように、大和の国より西にあったことは間違いないはずです
記紀には日向の国にあったとはっきりとかかれています
だから俺は邪馬台国ははじめ南九州にあってその後東に移って出雲を倒して、
大和にうつったと考えます
211 :
縄文人:2010/06/09(水) 21:47:22
>>208 私は伊作さんの名を騙ったことはないよ。私のニセモノが伊作さんを疑わせるような書き込みをしている
のじゃないか。209はニセモノだ。
>>208唐松山さん
でも唐松さん、わざわざ翻訳して頂いてありがとうございました。
>>198は、半分オドロキ、半分シャレなんで、気を悪くしないで下さいね。
213 :
斬:2010/06/09(水) 21:55:05
214 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:55:20
>>203 邪馬台国には「宮室・楼観・城柵」があったわけだが、詐欺でもなければ九州以外に持っていけない。
215 :
座羅酷:2010/06/09(水) 21:56:07
216 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 21:56:39
>>209 倭人伝を読んだのなら、倭女王と倭王の区別は付きますか?
217 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:58:41
>>203 畿内系皇室の天智を、九州系皇室の天武が支配して、新畿内政権を樹立したわけだが、
その後、天武系の血統は畿内系に排除されてきた。今の皇室はこの系統だ。
218 :
縄文人:2010/06/09(水) 21:59:59
>>216 倭女王とはもちろん卑弥呼のことだな。これ以外女性の登場人物はおらんじゃろう。倭王については倭女王と同一と見る見解多いようだが、
私は難升米が将軍から位を進めて倭王位を襲ったと見る。
219 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:00:20
>>203 >何でかというと、中国の文献に「邪馬台国の人間は男は皆刺青をしている」とあるからです
おまいの勝手な読み違えだな。
「邪馬台国の人間は皆・・・・」と書いてあったのは、何という中国の文献? 答えてみろよ。
そんなものは無い筈だぜ。
220 :
縄文人:2010/06/09(水) 22:01:03
>>218 もちろん台与は女性だが、それは後代の話。
221 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:01:12
>>210 天孫降臨した「日向=ひなた」は福岡県、神武が途中でお世話になったのは「日向=ひゅうが」の宮崎県。
>>210 うん、魏志倭人伝を読んで、そして記紀を読んでからその結論に至ったというのはある意味正しい。
(どこかのサイトや安い擬似歴史本の受け売りかもしれないが、今はそれは言わない)
でもまあ、君の主張は典型的な40年前の東遷説そのまんまだということは知っておいてね。
ところが君の考えたストーリーは、すでに考古学的事実によって否定されている。
もはやそういう単純な東遷を主張する学者は皆無だし、実はアマチュアにもすでに人気がない。
どこがどういう風に否定されたのかを書くと長くなる。
知りたければ何冊か本を紹介するので、釣りでなく真面目な問いならばレスすれば紹介しよう。
223 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 22:05:36
>難升米が将軍から位を進めて倭王位を襲ったと見る。
これなら、倭王登場以後、難升米は全て倭王に統一しなければおかしい。
よって成立しない。
>>203 刺青を九州説の根拠には出来ないと思う。
倭の風俗についての記述は、邪馬台国に限定されたものではなく、
九州で見ただけとも考えられるし、
そもそも、当時畿内に刺青の風習がなかったのかどうかすら判明していない。
それと、皇国や皇室などの表現は邪馬台国とは相容れないので、
ヤマト王権かヤマト朝廷くらいにとどめておくべき。
でも、まあ
「邪馬台国は九州にあった」と「邪馬台国≠ヤマト王権」には賛成だよ。
>>210 203の話と違うね。
邪馬台国はヤマト王権とはまったく別の国じゃなかったの?
それとも、ヤマト王権と皇室も別ということ?
まだ、考えがまとまっていないようだから、もう少し調べてみたらどう?
226 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:09:20
>>196 原陵―簡介
漢光武帝陵、古くは原陵と謂い、俗に漢陵と称す。
東漢開国皇帝―世祖光武帝劉秀の陵園であり、西暦50年から建築が始められ、神道と陵園と祠院から成っている。
中略
陵園は長方形の形をしていて、6.6万平方メートルの土地を占めている。
墓冢は陵園の正中に位置し、土を丘状に搗き固めている。高さは17.83メートル、周長487メートル。
光武祠は陵園の西側に位置し、光武帝の祭祀の祠院である。面積は2万平方メートル。
闕門、碑廊・二十八宿館・光武殿などからなる。鱗のようにびっしりと立ち並ぶ、ひとつの漢代建築群落を構成している。
後漢書 礼儀志下
光武原陵、山は三百二十三歩四方。高さは六丈六尺。
>>226 中略の部分は難しいな。何か詩文のようだ。
228 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 22:14:16
>>224 1,倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する
と書かれているだろ、つまり任那成立以後の時代である。
だから登場人物は、 官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
(ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが)
この様な人物が登場する。
229 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/09(水) 22:16:09
>>216 オマエは大王(天皇)と臣下の区別がつかない脳なんだろう。pp
>>228 韓国の記述だったらなんで「倭人の風習」とあるの?
231 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:18:12
232 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:22:48
>>210 まず、神武東征が邪馬台国の後だとする考えには、何の根拠も無い。
神話では、神武東征は紀元前であり、
九州に邪馬台国があったとしても、畿内にもヤマト王権があったとするなら、
>>203 >つまり俺の考えでは、邪馬台国は皇室とはまったく別の国です
この考えと整合性があるわけだが?
くだらんねぇ
234 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:25:21
209,213,218,220も縦目だろう。
235 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:25:56
いくらでも人為的につじつまあわせできるので長里にこだわっているけど、
後漢書以前は短里だったんだよ。もちろん歩も。
長里と勘違いしているもんだから、北はバイカル湖、西はローマ、南はインドなどと
とてつもない遠方に漢の影響力を誇示しているけど、きっと中国国内でも研究者は首をかしげている人が
いると思うけど言えないし言っても既成事実化しすぎていて証明が難しいだろう。
マキムク信者がそれ。つじつまのあわないところはたーくさんあるのに無視。
勝手に脳内でつじつまあわせ、考古学物証は好きなように年代測定。
そういうことはどんな馬鹿でもできるんですよ。
解っているのは対馬壱岐の間が千里だよってこと。これだけは動かせない。
>>232 すいません間違えました
邪馬台国=大和朝廷という考えです
邪馬台国が東にいって当時奈良にいた出雲族(物部氏)を押しのけて
国を作ったのが奈良だと思います
237 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/09(水) 22:27:44
>>228 官は大王ではな〜い。菅首相は天皇ではな〜い。唐松山の言う官の伊支馬
が垂仁天皇だとか言う話は、まるで人間(天皇)が猿(官、臣下)だとか
抜かしているようなもので、これでは猿の惑星等からでも強力な大電波の
受信をしている男ではないかと思われても当たり前。pupupu www
238 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 22:31:05
太国は虫が一番。
俺の考えだと、弥生人は南から来たんです
もとは北方系モンゴロイドだったけど、江南に降りて稲作文化を築いて、
その後南にいってポリネシアとかを通って九州に来た
だから下が長い弓とかの文化があります
しばらくは南九州にいたけど、その後東に言ったのが大和朝廷です
そのとき邪魔だった出雲人を蹴散らしました
それがスサノオの神話になっています
241 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:35:21
>>224 白村江の敗戦後、唐軍2千人が九州にやってきて、捕虜だった倭の首長=薩夜麻(天皇)をトップにして
唐の傀儡政権を樹立することになった(唐に強要された)。
唐の支配を嫌った薩夜麻の部下=天武は、薩夜麻と決別して、いったん副都のある畿内に撤退して
畿内土着皇室の天智天皇から畿内を奪って「畿内攘夷政権」を樹立した(壬申の乱)。
以来、天武の妻持統(持統自信は畿内系)、天武の子文武と畿内政権で九州皇室は保たれるが、
天智系の天皇ばかりが着任するようになって、畿内土着系皇室が今日まで続いている。
>>240 じゃあその初心者東遷説君に、きっちり教えてあげたら?
その解釈はもはや成立しない・・・と
>>241 そんなの嫌です!
何の証拠があるんですか
244 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 22:40:00
他人の説を否定しても太国倍年が受け入れられる余地は無い。
245 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:42:52
>>222がせっかく教えてくれるってんだから、彼に聞いたら?
レス読んでないから、話の流れがわかんないけど、
原陵のデータを、角川新字源の度量衡表の、一里300歩=414.72mから計算すると、
三百二十三歩は
414.72÷300×323=446.5152m
で、だいたい周長487mと合うんじゃない。
一丈=2.304m 一尺=23.04cmから計算すると
高さの六丈六尺は15.2064mで、17.83mと、まあまあの合致だと思うんだけど。
>>226 翻訳どうもありがとうございます。2chあなどれず。
>>177の
>例えば 同じ後漢書が引く漢旧儀に「長安城方六十里、経緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭。」と。
もぜひお願いできませんか。
汉长安城遗址-简 介
汉长安城遗址是西汉时期的都城遗址,位于现在西安城西北10公里处。汉长安城的城墙均为板筑土墙,墙高8米,墙基宽16米。
东城墙长5940米,南墙长6250米,西墙长4550米,北墙长5950米,共有12个城门。城内分为9个市区,街道宽阔平整,规划整齐。
长乐宫、未央宫、建章宫是汉长安城最著名的三大宫殿群。长乐宫位于城的东南部,周长约10公里。
未央宫位于城的西南部,周长约11公里。仅长乐、未央两宫就占去汉长安城内一半面积。建章宫在城外的上林苑,占地也十分广阔。
>>236 >邪馬台国が東にいって当時奈良にいた出雲族(物部氏)を押しのけて
>国を作ったのが奈良だと思います
それは、いつ頃の時代なの?
奈良というのは、平城京のこと?
249 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:50:03
>どこがどういう風に否定されたのかを書くと長くなる。
何も書けないときの逃げ口上だな。
邪馬台国が大和朝廷の元で九州にあった根拠はあります
例えば邪馬台国は本当はやまと国と読むし、
あと刺青をしていて、あと神武東征では日向の国にあったとあるからです
251 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/09(水) 22:51:31
n倍年暦は古代南バビロニア、古代エジプト、古代マヤ、アステカ、
サポテカにおいて行使されており、現今でもマヤではツォルキン暦として
バリ島でもウク暦としてn倍年暦が行使されている。これに対してマシ
は
>>195のとおりインチキだと発覚し、唐松山の言い分には権威がまるで
な〜い。マシをやってた国、地域は世界を探してみても、どこにも見当たら
ない。当たり前だな。そうんなことをすれば、王の怒りを買い、生贄、
獄門等は当選確実だ。こんなマネをする奴はいやしない。
倍年暦の逆算により
景初元年=崇神即位元年=237年
は動かない。これを保証するのが天津神算木の測りである。
252 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:55:15
>>250 古事記に大久米命というのが出てくる。
神武天皇の供をして東征した人物で、久米氏の祖といわれるのだが、この人は
刺青をしていた。神武天皇も刺青をしていた可能性があるな。
253 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:55:33
邪馬台国とは山田国。
邪馬台国は滅んでしまったけれど、邪馬台国の子孫は山田と名を変えて今も全国で活躍しています。
全国80万の山田さんには、かつて日本を支配したこともある古の女王国の子孫として、誇りを持って生きてほしいと思います。
>>249 うん?やる気になればこのスレ全てを埋め尽くすくらいわけないし、それくらいの文章量になる。
つきあってくれるっていうのならやるよ。
>>254そんなになるわけないじゃないですか
要約していってくださいよ
256 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:04:17
>>246 方ですから「周囲の長さ」じゃないですよ。
「方」は面積を表しますから。
もし周囲をあらわしたら、面積は形によってさまざまな面積になってしまいますからね。
周囲を書いて高さを書くのは幼稚園児がすることです。頭のいい役人がそういう幼稚な
ことはしないですよ。それに方墳ですから。
円の場合は径ですませます。それでわかるわけですから。
>>255 要約ならその内容を書いた本の紹介で十分だろ。
つーか金がなくてすべてwebからの情報で判断しようとか虫のいいことを考えてるのか?
論文を買え
購読して読め
それと今夜は釣りが下手だぞ。どうしたんだ?昨夜のようにうまくやれるんだろ?
258 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:08:59
開高健だって皆目坊主の日もある。
地球はどうなってしまったのだろう?
と疑う前に、自分の足元を見るべきだ。
259 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:09:38
考古学的事実とは何だろう?遺跡、遺物は歴史を示す(歴史を語る)ものか?
箸中山古墳は存在する。かなり古い時代に作られたことは分かるが、誰が何のために作ったかは分からない。
>>247 訳しました。
漢長安城遺址−簡介
漢長安城遺址は西漢時期の都城の遺址で、現在の西安城の西北10kmのところにある。
漢長安城の城墻(城壁)はみな版築(中国語とは文字が違ってるけど、同じことです)の土墻で、
墻の高さは8m、墻の基底部の幅は16m。
東の城墻の長さは5940m、南の墻の長さは6250m、西の墻の長さは4550m、北の墻の長さは5950m、
全部で12の城門がある。
城の中は九つの市区にわかれている。
街道は広く平らで、整然としている。
長楽宮・未央宮・建章宮は、漢長安城のもっとも著名な三大宮殿群である。
長楽宮は城の東南部に位置し、周長が約10km。
未央宮は城の斉南部に位置し、周長が約11km。
長楽と未央の両宮だけで、漢長安城の半分の面積を占めている。
建章宮は城の外の上林苑にあり、やはり十分に広闊である。
261 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:10:23
また「方」が有るときは面積、あるときは「周囲」というように
変わるようでは、中国の度量衡はめちゃくちゃですよ。
読み手はどうやって区別したらいいかわかりませんからね。
>>256 ただ言えないだけじゃないですかw
本の紹介?匿名掲示板の議論でそんなことを言い出したらただの時間稼ぎでしかないです
まず主張を述べてその補強として文献を挙げるならまだマシですがね
263 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:17:07
264 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:19:40
>>222 >ところが君の考えたストーリーは、すでに考古学的事実によって否定されている。
>もはやそういう単純な東遷を主張する学者は皆無だし、実はアマチュアにもすでに人気がない。
そういう言い方はもういいよ。
どういう考古学的事実によって否定されているのか、それが問題だろう。
>>256 「方」は、面積を表すこともありますが、この場合は「周囲の長さ」でしょうね。
講談社学術文庫の『長安』という書物に、次のような記述があります。
今本『漢旧儀』は「城方六十里」とし、『史記』巻九呂后本紀索隠および
『続漢書』郡国志に惹かれている『漢旧儀』は「城方六十三里」とし、
『三輔黄図』は「周回六十五里」としているが、
実測の結果は今本『漢旧儀』が最も近い。
つまり、方六十里 方六十三里 周回六十五里 と、数値はずれていますが、
同じく長安城の周囲の長さの表現です。
方○○という書き方には、面積だけでなく、周囲の長さを表す場合もあるという事のようです。
266 :
ローガン:2010/06/09(水) 23:23:00
随分進みましたね。
>>261 あ〜「方」ってややこしいです。 方一里が百個で方十里とか… だいたい高校の時、数学で留年しそうになったので。苦手。
>>260 ありがとうございました。
余計なところまで訳してもらったみたいで、いたみいります。
漢旧儀の記述にほぼ合致するので、ローガンさんの主張を裏づけることになるでしょう。
ところで 秦始皇陵-简介 もありますが、いかがでしょうか。 もういいかな?
結局逃げるんですか
>>265 方ってのは支配や防衛(の向き)を表してるんだろ。
そこから面積の概念、意味がつけられていったんだろう。
270 :
241:2010/06/09(水) 23:28:30
>>243 証拠は、旧唐書・新唐書と記紀。登場人物を挙げておくからググってほしい。
→薩夜麻=薩野馬、博麻、郭務宗、劉仁願、天智、天武
>>270 もったいつけて逃げてるだけじゃないですか・・・
東遷ねえ。案外、記紀の神武東征紀元前660年というのはいい線ではないかと思うときがある。上で「蒋門神」とかで遊んでたとき
少し書いたけど、縄文晩期とされる橿原遺跡は亀ヶ岡式土器など東北・北陸文化の色が濃く、これが西日本色に切り替わっていく
のが弥生前期頃で、水稲農耕も伝播する。この頃の事情が何かしらの伝承として残った可能性というのもあながち否定できないか
も。ただし、纏向以前から畿内と東海の関係は深い。
文身は、縄文の黥面土偶は東日本、東海・中部に多いけど、弥生のは近畿からもけっこう出てる。記紀の記述だけで何かをいう
のは難しそう。
俺らは後漢紀なんかの帝陵の記述は普通に周囲と読んでるけどね。
>>257 俺じゃないって。w
273 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:38:33
>>272 縄文時代の橿原遺跡も、弥生時代の唐古・鍵遺跡もけっこう他の地域の土器が
出てくる。纏向に各地の土器があるのも当然と言えば当然かな。
274 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:44:37
>>271 残念ながら、こういう掲示板では決着は付かない。
邪馬台国問題は、他人の意見で自分の考えを変えるようなことはまずないから。
275 :
241:2010/06/09(水) 23:49:49
>>271 ローマはなぜ滅んだか、クジラはなぜ海にもどったか、といった話を、2chで包括的網羅的に説明することは不可能だ。
276 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:50:12
>>267 たった一つの「方」を持ち出してきて周囲を表すこともあるというのは乱暴過ぎる論理だと思いますね。
後の人がその「城方六十里」のところを「城方(亦)六十里」と注意書きしていました。
亦はすべてという意味でいいのですかね。
277 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:51:44
>>274 まったくだ。
しかし、長年の努力により、多くの九州説コテハンが駆逐されていったのも事実。
多くの九州説コテハンが消えていったということは、
九州説に限界があったことを認めた人が多かったということなんだな。
>>271もいずれその仲間になるだろう。
>>275 誰も包括的網羅的に説明しろだなんていっていませんが
逃げてるだけじゃないの
279 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:53:56
そのまえに、畿内説の詐欺性が立証されてしまって、九州説は詐欺集団から去っただけだと思うが。
280 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:56:10
>>278 数学・物理学・天文学などと違い、包括的網羅的になって初めて論理の説得力があるのが文系学問の特徴だ。
畿内説が詐欺だなんていいませんが
少なくともスレタイは詐欺ですねwドンと来い言いながら逃げてばかり・・・
>>280 別に納得させる必要はないんですよ^^
そういう風に考えてレスを要するといっているならうぬぼれもはなはだしい!
俺はあなたの考えの根拠を知りたいだけです
それは列挙すれば数レスで可能でしょう
それが不可能だとすればあなたにはよほど要約能力がないといわざるを得ませんね
284 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:00:04
>>266 >>269 『周禮』 夏官職方氏 に出てくる「方○○里」という表現は、
これは内容を読むと、「一辺が○○里の四角い土地」のことですね。
三礼図という書物にも、そのような四角い図形が書かれてるようです。
「方○○里」の意味内容には、「面積」と「一辺の長さ」と「周囲の長さ」の三通りがあるように思われます。
文献の系統によるのか、時代によるのか、よくわかりません。
285 :
241:2010/06/10(木) 00:00:16
>>282 ええと、どういうレベルでのどの点についてのどういう角度からの根拠?
286 :
241:2010/06/10(木) 00:02:11
>>282 ええと先にきくけど、天皇は畿内の天皇以外いない、邪馬台国は畿内だと断定している根拠は何?
>>285 あなたコミュ障害ですか?
ホンばかり読みすぎて頭がパーになっちゃったのかな?
まあ素直に読み取れば逃げてるだけですが
288 :
241:2010/06/10(木) 00:03:37
ああ、ごめん、邪馬台国九州説でしたね。邪馬台国と大和朝廷が全く別だという根拠は?
289 :
241:2010/06/10(木) 00:05:27
>>287 壬申の乱で薩家麻は帰国したとたんに天武が九州から畿内へ行って壬申の乱を起こした現象を説明してください。
それが一つの重要な根拠です。
290 :
241:2010/06/10(木) 00:08:57
>>287 薩夜麻が帰国して筑紫都督府が置かれた時の、都督は誰なのか、都督と唐との関係はどうだったのか、説明してください。
291 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:10:17
>>284 周囲の長さはたとえば正方形、と長方形があって面積が同じでも
周囲の長さは違ってくるのは理解できますよね。
ですからこの場合の方は正方形だけを現しているんだと思います。
そうすれば周囲も面積も一致しますから。
しかし、正方形以外の形だと通用しないわけです。
上にありましたが原稜は長方形だとあります。
そうすると方323歩高○丈の場合、方を周囲と考えると
正方形と考えてしまい、面積があわなくなります。
292 :
ローガン:2010/06/10(木) 00:12:22
ほ〜ら。ろくでもないのが居なくなったら詳しい方々が戻って来た。
>>272 早期土器と水稲耕作、妄想あれどここは神の託宣に従います。
さて、上にあった「其死有棺無槨」について…槨とは棺を収める外箱。現代の考古学用語の槨と全く同じものとするのは当然無理がある。
中国墓で見つかる槨と日本の古墳の槨は同義でない事は少し調べればわかる。楯築墳丘墓に見られるのが近いものであろう。
棺は、予め造られた埋葬箇所の土と棺を遮断する構築物の内部へ収められる。 この構築物が中国文献が記す所の槨であろう。
件の「有棺無槨」 徑百餘歩と特筆された女王墓に関する記事ではないが、
仮に女王墓が前方後円墳だとして「有棺無槨」と齟齬を来すかどうか…少し書いてみます。
>>284 おれが言いたいのは、古くは
方というのは、敵や来訪者を防ぐものや行為
のことであって直接に面積や長さのことじゃないってこと。
城の一般的な説明なら、中の土地を説明する前の概要なら
広さ、つまり面積だろう。また土地を説明する前に
その国境や防衛線を強調したいなら長さになるんではないかな。
294 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:22:48
例えば
原陵の周囲は487メートル
面積は2万平方メートルと実測ではあります。
古代文献だけで推測すると
437÷4=109(一辺の長さ)
面積109×109=11881(およそ1万二千平方メートル)
で面積は1万二千平方メートルになり、実際の二万平方メートルに遠く及びません。
これでは実測して後世の残す意味がありません。
この「方」の問題は周囲と解せば実測値に合うんだよな。これを一辺と見て短里の根拠とすることも論理的には可能だけど、そう解し
ている中国の学者がいるのかな?俺はちょっと知らない。
あと、どうせアマチュアなんだから、「神武東遷」でも「卑弥呼=天照大神」でも「倍暦」wでも本人が楽しめればそれでいいと思うけど、
「これしかありえない」と思ったら、自説に不都合な情報は見えなくなってしまい、やがてはやっきになって否定するようになる。せっか
くの興味深い情報でもね。
296 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:28:47
>>297 訂正
487÷4=121
121×121=14641 でした。
>>288 俺は邪馬台国=大和国派ですが
>>289 >壬申の乱で薩家麻は帰国したとたんに天武が九州から畿内へ行って壬申の乱を起こした現象を説明してください。
中国人と交渉するために九州にいたんだから帰ったとたんに畿内に戻るのは当然でしょう
>>290 質問に対して質問で返すな
>>291 >>293 >周囲の長さは違ってくるのは理解できますよね。
その通りなんですが、長安城は南斗北斗の形を模したなどの説があったようで、
長安城が不整形で真四角でないことは昔から周知でした。
それにたいして方六十里や周回六十五里と表現しているので、
正方形のみに適用されるとも言いきれないですね。
>方というのは、敵や来訪者を防ぐものや行為
何か、文献的な根拠があるのでしょうか。
どちらかというと、「方角」の方とか「天円地方」の方などと関係がありそうな気がするのですが。
さっきの周禮職方氏にしても、読めば読むほど、わかんなくなってきて、
正直現段階ではお手上げです。
>>292 槨の問題もいろいろ言われてるけど、中国でもけっこうバリエーションがあって、倭人伝における中国人のイメージはつかみにくい
ですね。槨は棺を入れる外箱で、文献には槨に棺を入れて馬車で運ぶといった記述もあるし、実際、槨と棺を墓坑に落とし込んだ出
土例もあります。つまり移動可能なものも多いということ。
300 :
ローガン:2010/06/10(木) 00:46:02
続き。まず、有棺無槨が認知出来るのは埋葬施設構築中を実見する以外にない。言い換えれば、「どこに棺を安置したか?」を実見したと云う事。
では、前期古墳によく見られる竪穴式石室の築造工程を考えてみよう。 板石が合掌に積まれている。
木棺が残った下池山をみても、この板石と棺の間に人が入るスペースはない。当然ながらクレーンやホイストのない時代、これでは石積み後に棺は降ろせない。
棺床をしつらえた後、石積み前に棺を置いたものと思われる。 そして、石積みは棺との隙間が殆ど無いゆえ、
棺側、つまり内から外を向いて石を積んでゆく事は物理的に不可能である。 という事は、外側から棺の方を向いて石を積む以外に方法はない。
又、作業員の動くスペースを確保する必要もあり、墓壙は自体はかなり広いものであっただろう。
又、こういう手順を踏まないと多量の△鏡は並べられない。投げ入れれば別だが…
つまり構築途中のある時期、墓壙に剥き出しの棺が置かれていた事になる。そして墳墓において、有棺無槨を実見するためには この剥き出しの状態から天井が閉塞されるまでの間しかない。
つまり「棺槨の有無」を認識出来るタイミングにおける墓作りの工程は、棺の廻りに石を積む作業中であると言える。
はたして、この作業を見たとして「有槨」つまり、棺を収める外箱があると記述するだろうか?
当然、否である。 「有棺無槨」が女王墓の特徴を伝えた文かどうかはさておき、仮にそうであったとしても、前期古墳に見られる竪穴式石室は「有棺無槨」と表現されて然るべきものであろう。
301 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:48:31
>>298 >その通りなんですが、長安城は南斗北斗の形を模したなどの説があったようで、
長安城が不整形で真四角でないことは昔から周知でした。
それにたいして方六十里や周回六十五里と表現しているので、
正方形のみに適用されるとも言いきれないですね。
方六十里の後に縦横十五里があるのでそれで面積が示されています。
この場合だいだい正方形だよといっているのだと思います。周囲と縦横の長さが一致していますから。
不整形だとはいいましても、ネットで見る限り正方形に近いですよね。
だた私は他の宮も入れた周囲が納得できません。長安宮だけを言ったのだと思いますけどね。
短里派ですから。
>>300 >前期古墳に見られる竪穴式石室は「有棺無槨」と表現されて然るべきものであろう。
そう思いますね。これも前に書いたんですが、「董卓伝」では、>大風暴雨震卓墓,水流入蔵,漂其棺槨
とあって、董卓の墓の蔵が暴風雨で浸水し、棺と槨が漂ったという意味ですが、この場合の董卓の墓は「蔵ー槨ー棺」の三層
構造で、しかも棺槨は可動のものであったと読むこともできます。
>槨
要するに今日の日本の考古学で言うところの「槨」と
中国史書に見る「槨」の違いって話だな…
ところで、この内容何処かで見た気がしたんだが
(無論過去にもう何回も出てはいるんだろうが)
…今は亡き(ナマンダブ...)九州説のコテ「九州ですが」の最期にも出てきたネタだったかな?www
304 :
ローガン:2010/06/10(木) 01:23:46
>>302 私も前にあんまり腹が立ったから、それを書いて「粘土槨がプカプカ浮くんかあ〜」って、ついいってしもた事がありました。
ですがさん…ごめん。
305 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 03:17:29
>>291 長方形なのは園陵の形で、園陵の中の墓冢が長方形とは書いてない。
後漢書の「山方三百二十三歩」を、周長487メートルの墓冢と比較しているのだから、
長方形と面積があわないという批判は当たらない。
そら考古学うんぬんで云えば、畿内に九州の直接流入を示す遺物が皆無であることに尽きるわな
この時点で東征や東遷を考えることがおかしい
九州の邪馬台国は手ぶらで来てどこかに消えたんかと
妙にコテが元気なのは笑えるなwww
九州にあった邪馬台国は滅びたのですよ
邪馬台国の東遷もありません
半島から入って来た集団は九州をあらかた平定した後
平和で豊かな畿内へと一気に東進したと思われます
景行紀、神功紀はそのあたりの事情を伝えているのでしょう
309 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 07:31:45
>>306 >畿内に九州の直接流入を示す遺物が皆無であることに尽きるわな
九州の土器が畿内には少ないって話だな。しかし、畿内の土器は九州に大量に
流れ込んでいる。話は逆なんだよ。土器は物資の移動に伴って動くもの。
畿内の物資が大量に九州に運ばれた、逆に九州の物資は畿内にはあまり来てい
ない。これは九州が畿内に進出して畿内を植民地にした証拠なんだよ。
白石あたりはそれに気づかず、九州勢力が東遷、東征したならばそのときに土
器を担いできたはずだなんて思い込んだ。笑ってしまうね。
310 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 07:56:07
>>305 >長方形なのは園陵の形で、園陵の中の墓冢が長方形とは書いてない。
でしょう?そうだと思いました。
墓そのものを計っていないのですよ。
本当は真四角の墓なのに。
山方は正四角すいを表すということですよ。
312 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:18:02
文化は持ち込むさ。鏡、腕輪、いろいろあるじゃないか。
313 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:28:21
対馬が方400里で壱岐が方300里。
これを畿内説者はどう考えるのですかね。
これは周囲の長さ?それとも面積?どっちかな?
里は長里?で測るの?
314 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:28:47
ふつう、植民地って収奪する所じゃないの?
>>314 例えばベトナムにはフランス文化が持ち込まれるし、香港には英国文化が持ち込まれる。
まあこれは近代の話だから、一概に同じだとは言えないが。
しかし東遷説は、圧倒的な武力と文化先進性が九州にあったと考えるわけだろ?
なのにその植民地にしたはずの畿内に、九州の文化が持ち込まれていないのは何故なんだ?
それどころか畿内で花開くのは、吉備や東海の影響が強い文化だよね。
316 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 08:40:19
やはり、畿内と九州は
「関係ない」が正しい。
そりゃ、庶民の物々交換くらいは
ほそぼそとやっていたかもしれないけど
317 :
241:2010/06/10(木) 09:20:43
>>297 文系学問において、一言証明を求めるな。
318 :
241:2010/06/10(木) 09:24:03
>>297 膨大な文献や事実に対して、少ない仮設で多くのことを矛盾なくリアルに描写できるものが文系学問における真実である。
文系の証明とはそういうものである。
319 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:23:25
>>241は九州王朝説じゃん。
無視しとけばいいよ。
320 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:37:37
>>313 面積。長里ではかる。事実と合わないのは倭人伝が不正確だから。
321 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:41:53
地方で租庸調を土器やらなんやらに詰めて
都市で消費するんだから
東海式土器が畿内で沢山出るなら
東海から畿内に物流が流れているんだろう。
九州の土器は畿内から余り出ずに
九州で畿内の土器が出るなら
畿内から九州に物流の流れがあったんだろう。
322 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:47:53
>植民地にしたはずの畿内に、九州の文化が持ち込まれていないのは何故なんだ?
この認識がおかしい。銅鐸を埋めて鏡になった。鏡や武器を副葬するようになった。
腕輪を大事にするようになった。鏡を初めとするこれらは、もともと九州に始まった文化だ。
323 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:59:29
>>320 「方可四百餘里」や「方可三百里」とは一辺が四百餘里、三百里の土地の意味だ、面積を指す場合もあるが面積とは限らない。
面積と特定する根拠は?
倭人伝に限らず東夷伝の里は通常の里とは違った統一された単位であり不正確では済まされない。
324 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 11:21:07
一辺が四百餘里、三百里の土地の意味ではなく、一辺が四百餘里、三百里の正方形
に相当する面積という意味ですよ。
けして実際の土地が正方形だといっているわけではない。対馬をみれば分かるでし
ょう。
325 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 11:28:03
魏使は狗邪韓國から末盧國までは船で移動しているのは確実である。
邪馬台国へ向かう魏使は途中にある對馬國や一大國には港に立ち寄った程度で島内まで散策する時間はない。
魏使は對馬國や一大國を海上から見たのであり
海上から見た島の一辺の長さが四百餘里、三百里だと表現したと考えられる。
326 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:02:26
>>324 もともと一辺が四百餘里、三百里の土地の意味で、
漢字にuのような文字がないので面積も意味するようになったのですよ。
327 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:38:33
>>308 それ、要するに騎馬民族征服王朝説ってやつだろうw?
もう、無理だってw
西暦3世紀の邪馬台国は、ヤマト国のことであり、
のちのヤマト朝廷のことだから。
卑弥呼の正体は、ヤマトトトヒモモソ媛命のことだから。
328 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:40:25
>>297 天武天皇は九州に落ちたのではない。
彼は、大和国の吉野に隠居していた。
329 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:58:26
>>327 >西暦3世紀の邪馬台国は、ヤマト国のことであり、
のちのヤマト朝廷のことだから。
根拠も無く断定するなよなwww
330 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:04:24
>>329 というか、そういうふうになってきているだろうw
卑弥呼の正体は、ヤマトトトヒモモソ媛命だろう、どいうせ。
331 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:05:25
>>320 私も方は面積だと思います。でも里は短里で計ったほうがピッタリします。
長里で面積を試算したら実際とは大幅に違っていた。対馬は実際の16倍、壱岐は実際の30倍になりました。
短里で面積を試算したら、対馬は実際の二分の一、壱岐は実際よりやや小さめになった。
長里で計るより短里で計ったほうがずっと実際に近い。
また対馬から壱岐までの距離の千里も短里の方がほとんど近い数値。
長里では全然合わない。
総合的に判断すれば「短里計算」の方が土地を比定する場合便利だということがわかります。
「方」が面積をあらわすというのは下で証明されると思います。
王制: 方千里者,為方百里者百
332 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:12:12
オオアマ(天武天皇)が生涯をかけて対立したのは
尾張大隅でしょう?
なぜなら、近畿王権の真の創始者は、この尾張氏の祖先である
火明命(天照国照彦)。
この火明命の弟に、ニニギ命という弟がいて
九州南部の地方官を任されていた。
このニニギ命の曾孫が、若御毛沼命(神武天皇)
333 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:17:13
>>331 「方」が面積をあらわすのは否定しません
しかし、「方」には面積ではなく一辺の長さが四百餘里、三百里の土地をあらわす場合もあるということ。
倭人伝の場合には魏使は島の面積を知りえないので島の外寸です。
>>327 騎馬民族征服説には多々無理があります
個人的には騎馬民族征服説はありえないと思っています
景行天皇や神功皇后は朝鮮半島南部(高天原)から渡来した「倭人」だと思いますよ
「倭人」とはもともと江南、朝鮮半島南部、九州北部から南西部にかけて住んでいた
海洋民族ではなかったかと思っています
335 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:26:43
>>334 はあ????
高天原とは、葛城地方の高天の原だ。
つまり、近畿地方だ。
おそらく、初代倭王とは、この高天原の王だった天火明命だろう。
彼の弟のニニギ命が、九州南部の統治にまかされた。それがニニギ命。
336 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:32:48
けっこう、みんな、記紀とか、ちゃんと読んでないやつが多い。
高天原とは、現在の奈良県御所市高天あたりのこと。
そこから、現在の九州南部の高千穂に派遣されたのが、ニニギ。
そこで、三代ほど、ここで知事をしたのが、
ニニギ命の曾孫のワカミケヌ(神武天皇)。
じっさい、記紀を読んだら、神武は近畿に入るとき
私の出自は、あなたたちと同じで、天津神だとかいっている。
また。大阪湾に上陸する時も、わたしは天津神の出自なのに
天津を向いにして戦うのは良くないとも言っている。
337 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:37:43
338 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:59:43
>>336 記紀の筋さえ知らないやつがよく言うよ。
天孫・瓊瓊杵尊は、高天原から日向の高千穂に天下った。
瓊瓊杵尊のひ孫が神日本磐余彦(神武天皇)。
神武天皇が東征を決意したとき、「東に良い土地があると聞く、恐らく日本の
中心だろう。ここに行って天下を治めたいと思う。そこに高天原から天磐舟に
乗ってやってきて飛び降りたものがいる。饒速日命だろう」ということに
なっている。
神武天皇と饒速日命が同じ天神の子であることは、弓矢が同じであることから
証明されたが、饒速日命は、天神が本当に気にかけておられるのは
天孫系の神武天皇だということを知っていて、末代まで仕える事を約束した。
これが物部氏の祖だとなっている。
神武天皇が戦った長髄彦は、地元の出身なのだろう。天神の子ではない。
言ってもわからないだろうということで殺された。
339 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 14:24:42
>>338 なんで、関係ない話をしてるの?
高天原は神話上の話であって、
その神話を伝承してたのが葛城で、何もおかしくないでしょ。
340 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 14:31:22
高天原って、延喜式とか、平安時代の書物などでは
葛城の高間(高天)の地のことって出ているんだよな。
平安時代ぐらいまでは、京都朝廷の公式見解だったが、
時代がたつごとに、それが忘れ去られていった。
ちなみに、出雲国譲りの話は、播磨国風土記にあるよ。
播磨国で、出雲と近畿王朝が戦争した話。
古来から、播磨国は、中国地方と近畿地方の緩衝地帯。
ここで、出雲の大国主が、義理の息子(娘婿)の火明命に降参する話。
ちなみに、古事記では、大国主が降伏した後、火明命の弟のニニギ命が
九州南部の高千穂へ降臨する話が登場する。
341 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 19:06:53
>>331 >「方」が面積をあらわすというのは下で証明されると思います。
>王制: 方千里者,為方百里者百
「方」が面積を表すのだったら、方千里の面積の土地は、方百里の面積の土地10コぶんだろ。
例えば、1000u=100u×10
方百里の者が百と矛盾する。
王制の記述は、方が面積ではないことを証明してるよ。
だから王制の「方」は、一辺の長さか周囲の長さのどちらか。
一辺千里の土地は、一辺百里の升目100コに区切れる。
周囲千里の正方形の土地は、一辺が250里。周囲百里は一辺が25里。
一辺250里の正方形は、一辺が25里の正方形100コに相当する。
おまえ、数学の成績「1」だったろ。
343 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 19:20:37
>>342 前にも書いたが、こういうレスは意味ないだろ。
間違いだと思うなら、どこが間違いかストレートに指摘すればすむこと。
おまえ、数学の成績「1」だったろ。
↓
どこか間違い?
↓
間違いは云々
↓
その指摘は云々
議論が始まるまでの2レス無駄。
議論が目的ではなくて、他人を貶めて自己満足を感じたいだけなんかな。
>他人を貶めて自己満足を感じたいだけなんかな。
これは2chの存在意義の一つともいえる重大な機能です。
ここを学術的な議論の場などと思ってはなりません。ここはゴミ溜めです。あるものは学会ではだれも相手にしない東遷を説きます。
またあるものは中国史学会の哄笑を買うであろう、魏晋朝短里説などを持ち出します。これは日常生活における鬱屈を吐き出すため
の一つの方便です。さらにまたあるものは病勢にまかせて畿内説詐欺を連呼します。またあるものは他人の罵倒に終始し、あるもの
は名無史の化けて、他人を陥れる工作をします。それが2chです。
「王制: 方千里者,為方百里者百」の文章だけをを素直に理解すれば
「1辺1000mの土地は、1辺100mの土地の百個分である。」となるよね。(今便宜的に里→mとしてみた)
つまり、「方千里」とは「1辺千里の土地の面積」の意味となる。
347 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 19:55:38
349 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:15:05
スマンね。いきなり
>>341を見てあきれかえってしまったもんで。
>>342>>343 をまったく見てなかった。
方千里が方百里の百倍だってことに気づかない奴がいるとはなあ。
350 :
341:2010/06/10(木) 20:31:49
>>349 すまん。君が何を言っているのか、理解できない。
341は、方千里が方百里の百倍だってことから、
方は一辺か周囲かって話をしてるんだけど。
「王制: 方千里者,為方百里者百」⇒百倍となるなら面積
「王制: 方千里者,為方百里者十」⇒十倍となるなら周囲
事実は前者。
近江の伊勢遺跡が邪馬台国で決まりみたいですね。
千里なんていうのは、例えば、阿蘇山の草千里とか、
大阪千里入タウンのように広いことを表す常套句。
そんなものに惑わされているなんてアホかね?
アホちゃいまんねん、・・・・
354 :
ローガン:2010/06/10(木) 21:06:23
>>351 「方一里為井、井十為通、通十為成、成方十里」
※一辺一里の正方形十個並べて井。井を十個積んで成。成とは方十里である。
「成十為終、終十為同、 同方百里」
※成を十個並べて終。終を十個積んで同。同とは方百里である。
「同十為封、封十為畿、畿方千里」
※同を十個並べて封。封を十個積んで畿。畿とは方千里である。
例えば、ここで使われる方〜里とは、正方形の一辺の長さでしょう。議論の足しになれば…。
>>207 縄文人
>それに文字が書いてなければ、書いてあっても政治に直接関する事柄でなければ、歴史の材料としては役に立たない。
最近名無しか成り済ましの縄文人が、トリップなしで登場して、岡田英弘を引用するとは信じ難いが。
岡田氏の論は徹底的に詳細な文献批判と、現実の文明成立過程の考察を経た上で、
東アジア全体を俯瞰した大局的な視点で展開する史観であって、
概論的に読めるけれども、ひとつひとつの論旨にも細かい裏づけがあって展開されているものなのだ。
だてに考古学を軽んじた台詞を吐いているわけではないんだよ(時代的な制約があったのはもちろんだが)。
書いてあるもので勝負するというなら、岡田氏のごとく「史記」「漢書」「三国志」「後漢書」に記紀その他、
あらゆる文献から裏づけをとった上で立論していただきたい。ただ想像するだけでなく。
>>355
ただ岡田氏の主張は、岡田史観とも呼ばれる特異なものであるということは併記するべきだね
個人的には嫌いではないが
>>356 >岡田史観とも呼ばれる特異なものであるということは併記するべきだね
では。
Wikiにうまくまとめてあったと思うので、そちらを参照されたし。
ただし、特異なものかどうかは、個々の判断にまかせたい。
私的には下記と同様の考え方で、しごく当たり前だと思うよ。
「倭人社会における銅鏡の政治的利用の長い歴史が、中国王朝の権威や政治システムに触れたことに端を発しているとすれば、
いち早く文明化した地域から影響を受けながら社会の複雑化がすすむという「二次的国家形成」の特徴を示す好例として
これを意義づけることも十分に可能なのである。」
(福永伸哉)
358 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 21:53:05
>>207 は縦目さんのなりすましだろう。
縄文人ドンにはあの文章は書けない。
>>357 俺も嫌いじゃないとかくぐらいだから、まあ肯定的な立場だと思う
ただ客観的な評価は、一行でいいから入れるべきだとも思うんだ
>>357で入れてくれたようにね
ここのダメ九州説連中などは、さも自分の支持する考えが定説であるかのような誤魔化しを平気でするだろ?
貴方は冷静な論者ではないかと思ったので、老婆心ながらレスした
360 :
縄文人:2010/06/10(木) 21:53:44
>>355 >だてに考古学を軽んじた台詞を吐いているわけではないんだよ(時代的な制約があったのはもちろんだが)。
それはそうだろう。私とて考古学を軽んじているわけではない。ただ、遺跡や出土物から分かることには限界が
あると言っているのである。遺跡や出土物は、年代が明確であれば、その時代に用いられていた物についての情
報を与えてくれるから極めて有用である。しかし、事が政治的な歴史となればもの言わぬ遺跡や出土物は主役に
はなり得ないのである。
207は「考古学的事実は九州説が成立しないことを示している(要約)」というような書き込みに対して反省を
求めるために書いたものである。
>>358 唐松さん
>縄文人ドンにはあの文章は書けない。
そらそ〜でしょ。あれは岡田さんのコピペでんがな。
>>360 縄文人
>反省を求めるために書いたものである。
でた〜! ホンモノ? ねえ、ホンモノなの?
>>360 そういった大層な定義を持ち出す話でもないわな。
単にすでに滅んでしまった説を強弁するから、もうそいつが成立しないという普通の事を言われただけだと思うよ。
やれやれ、またコテで出てこなくてはならないか。ww
>>358の唐松山さんの言ではありますが、
>>207は縄文人(真正)の文章だと
思います。これは前々からの彼の自論で、彼の説はことごとく考古学的事実に阻害されるため、かつ最新の考古学成果を学習する
能力および気力もないための一種の恨み節です。つまりは同時代の邪馬台国に関する単一資料である倭人伝から、考古学的事実
によらず自由に説を組み立てたいとする彼の願望から発したものでしょう。
364 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 22:14:51
>考古学的事実は九州説が成立しないことを示している.
でも文献史学も九州説が成立しないんですが。
もちろん邪馬台国ね、卑弥呼は九州以外では成立しないから。
365 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 22:21:07
千熊長彦の登場
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html より ラヂオ氏は、新羅本紀と百済本紀の誤差を百済本紀に近づけようとしています。
下記はその直訳
*AD370年- AD318年= 52年偏差.
[1409] 千熊長彦, 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, AD383年.
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年(AD383年) 1月, 水羊(修養, 癸未, AD383年)祭(私の)を行った. 光臣(狂信)を 伊伐〓(イボルチァン)で, 白花(百貨)を 稟主(稟奏)にした.
途中略。
*倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 = 倭(なぜ)の臣下 熊彦(ウングオン)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉にたくさん従った.
*千熊長彦(チォンウングザングオン)はハンサムな人でした.
上のネムルギでは 熊彦(ウングオン)で出ます. 383年に活躍した人物です.
この 383年だ時点が日本書紀紀年設定に基準店になります.
癸未年に千熊長彦の登場である、
私の主張は、新羅本紀に百済本紀を合わせるべき。です
323年=神功49年、千熊長彦。←この主張に「癸未年」が加わる。
書紀の千熊長彦を383年にすると、書紀の記事はねつ造となるが、323年なら
整合性が得られる。
七支刀は、326年泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■である。
これで神功紀は、信頼できる日本の歴史となる。
366 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/10(木) 22:24:51
ノギヘンのX線検査の結果の■を「寧」とすると整合性が得られ
るのか?bbbbb
367 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:28:57
>>364 漢籍は畿内説を否定しているし、邪馬台国は漢籍にしか出てこない。
368 :
縄文人:2010/06/10(木) 22:31:21
>>363 またまた縦目が知ったふうなことを書き込んでからに。私の説を阻害する考古学的事実など提示を受けた
こともないぞ。君等のいう考古学的事実とは恣意的な解釈や想像の産物ばかりだからな。
ところで、私は今吉永小百合似の美人や八頭身美人達に囲まれてゆったりしているところだから下らんレス
で私を呼び出さないでくれ給え。
>>368 www 吉永小百合ですか。あまり夢中になると目が見えなくなったりしますよ。
370 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:52:44
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
邪馬台国など新井白石が看破したように
九州の片田舎の弱小連合国家に過ぎず、卑弥呼など九州の女酋に過ぎませんよ
私の住む河内に遺る偉大なる遺跡群をあんな弱小国家の遺物だと思われること自体に虫唾が走ります
畿内に勃興したヤマト朝廷は邪馬台国とも九州とも無縁のものです
だいたい倭人条を見ても邪馬台国など野蛮で文化程度の低い蛮族国家ではないですか?
南の狗奴国程度に手を焼いて魏に救援を求めるなど文化程度の低い蛮族国家にお似合いの大失態です
畿内の銅鐸文化は邪馬台国などの好戦的な蛮族とは一線を画す高いレヴェルの文化です
私は個人的には邪馬台国とは無縁であったであろう、この銅鐸国家のほうに興味があります
たまたま九州にあったというだけで漢籍にその名を遺した邪馬台国などよりも
この銅鐸国家のほうが遥かに高い文化レヴェルを誇っていたことでしょう
そして、この銅鐸国家を滅ぼしてくれた蛮族が一体どこの何であったのかに非常に興味があります
銅鐸国家万歳!あれほどの平和的で高い文化が西から来た馬鹿どもによって消滅させられたことに
怒りとせつなさを感ずる者です
>>368 >私は今吉永小百合似の美人や八頭身美人達に囲まれてゆったりしているところ
うゎぁお〜、恣意的な解釈や想像の産物にかこまれている、じょおむぉんじんだあ〜!
岡田説を読んだんですよね?
じゃあ、倭国は中国人華僑の鬼道ネットワークが形成したアムフィクチュオニアでいいですよねっ!
373 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 23:01:55
現実はばあさん相手と言うことだから、焼き餅焼くな。
374 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:02:48
375 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:03:19
しかし論争史を俯瞰するなら考古学に大きな期待をかけてきたのは
むしろ九州説だろうなwwww
がいつからか風向きが変わってしまったから
ここの九州説の連中としてはこれを切り離すしかないわけだ
…と言うかサイキバや東遷厨初め今の「考古学」に対する恨み節は
ここの九州説の一大テーマwwwwwww
まあこの知ったかぶりの虚言癖のある縄文人とか言うクズは
自身が考古学的なものを引用しているからその全面否定も
”タテマエ上”出来ないだろうが都合の悪い部分は切り離したいのが見え見えw
ここの九州説は全ておいて、そう。
人口の問題じゃあ「歴史人口学」
神話の問題じゃあ「比較神話学」
紀元後にも奈良盆地のに巨大湖があったという話アホの縄文人の与太なら「地質学」…etc
都合の悪い話は全部無視するしかない。
「あーあーあー聞こえない」状態w
いや、そもそもこいつらの” 自称w文献史学 ”というものが
まともな物かどうかと言う話でwwww
376 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:06:30
>>372 >吉永小百合似の美人や八頭身美人達
それは、大国さんの言葉以外の何者でもない。
377 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:07:12
>>371 その九州の女酋長が、列島の最高首長なんだから心配するな。
378 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:07:25
しかし、このwwww氏がどんな説なのか全く分からんな。
ほんにおぬしは屁のような。
379 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:08:24
>>375 畿内説は詐欺で成り立っている説だから、九州説のことなど心配するな。
>>376 >それは、大国さんの言葉以外の何者でもない。
エ? ダイコクさんてだれ?
381 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:11:40
というか九州説は「無人都市」とか纏向憎しでレスしてくるのが多いけど、本来は3世紀倭国の全体像の問題で、これは考古学的
知見は今後積み重なっていく一方だからね。
382 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:14:53
もちろん全ての学問には知りえる限界がある。
「不確定性原理」とか「不完全性定理」とか…いや良くは知らないのだがw
考古学で言えるとしたらどうも3世紀頃までには
既にヤマト王権(の前身?)のようなものが既に出現し
広域連合体とも言える体制が出来上がっていた…と言う所までだろう。
これが果たして邪馬台国のと同じ物かどうかについては何ら保証は無い。
別にそれとは別に九州に邪馬台国を頂く連合体があっても矛盾はしない。
が、その九州に卑弥呼の共立をうかがわせる様な統合の動き。
魏に冊封された事をうかがわせるような威信財の集中や量的変化等々が全く見られない。
(…出てくる話は時代の違う「志賀島の金印」や「装飾古墳」w)
この状況ならそりゃ九州説が絶滅危惧種になっても不思議ではないって話wwww
383 :
ローガン:2010/06/10(木) 23:15:08
>>378私も一度 聴いてみたいですね。 批判のキレは鋭いので私なんかより頭のいい方なんでしょうが。
如何せん、「こう考える」って部分が見えてこない。 勿論こんなとこでアホらしくて書けるかあ〜って言われれば、それまでですが。
384 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/10(木) 23:22:03
385 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:22:55
>>383 彼は「ゆるやかな連合」説だったな。
最初は、それを主に主張していた。
386 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:24:01
>>385 ゴメン、「ゆるやかな首長連合」だった。
>>378 一読すれば誰だって判るぞ
ゆるやかな連合説だ
ちなみにこの板では便宜的に畿内説という言葉が使われるが
自称九州説の畿内説批判は、なんというか現実からかなりズレているんだよなあ
モモソヒメが卑弥呼だと主張しているとか
南を東と読み替えているとか
内藤VS白鳥というか、昭和にタイムスリップしたのかと思うほど、文句も古臭いんだよね
どこで何を読んだら、こんなに古い情報を得られるんだろってくらい古い
俺らがwindous7の話をしているなかに、MS-DOSしか知らん奴がまぎれこんだような感じだ
388 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:25:13
>>382 >その九州に卑弥呼の共立をうかがわせる様な統合の動き。
吉野ヶ里に戦闘で傷ついた遺体がいくつも発見されています。
これが倭国乱の傷跡でしょう。時代的に。
吉野ヶ里には2000もの甕棺墓があります。
また遺体には朱丹を塗った跡が見られます。
倭人伝の記述に一致しており、誰が考えても畿内説より九州説のほうが
圧倒的に文献的にも考古学的にも優位にあります。
389 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:27:53
>>383 別に特記することも無い極々一般的な畿内説(大和説)の範疇。
ただ「分からないことは分からないで良い」と言うのが基本芸風なのでwwww
だから「箸墓=卑弥呼の墓説」もとらないし
そもそも卑弥呼の墓なんて特定できないだろうとw
倭人伝の記述も実際の検分に基づくもの怪しんでいる…と言うか疑っている。
また三角の製作地論争も現時点では態度保留。
魏代の洛陽周辺の銅鏡製作環境がハッキリしなければどう言う判断も出来ない…と言うのが基本的スタンス。
まあ見るべき物は特に無いと言うか
九州説の連中によく言われるように
「単なる学者の受け売り」って所だなw
もっとも別にオリジナリティで勝負する必要も無いと思うがwwwww
>>388 いやそれは「統合の動き」とは全く関係ない話ばかりだよね
反論するなら、弥生終末期には九州にはこれこれこういう統合の動きがあったと具体的に出さねばならない
そこで関係ない話を持ってくるってのは、それが九州説の限界だからかな?
それとも君の限界?
391 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/10(木) 23:32:56
>>382 >>魏に冊封された事をうかがわせるような威信財の集中や量的変化等々が全く見られない。
魏に冊封されたら”必ず”威信財の集中や量的変化等々が見られなければならない、
という君の考えが間違ってると何度いえば分かるのかね?
それはともかく、君の説を聞きたがってる人が多くいるようだから書いてあげたら?w
392 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:37:11
>>387 古代史に英語はいらんか。いや、常識はもってないと・・・
393 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:38:23
>>387 >ゆるやかな連合説だ
そもそも「ゆるやかな連合」に対立する概念は「邪馬台国九州説」じゃ無くて「九州王朝説」だわなwwww
「ゆるやかな連合」と言うのは邪馬台国のお話ではなく
その後の日本の古代史全体にかかるお話で
仮に邪馬台国九州説を唱えるような学者でも
それを否定したらここの九州説で出てくるような
「4世紀に既に強力な中央集権国家が出現していた」
「実は記紀は日本全体を支配していた九州王朝から分かれた畿内王家がその歴史を捏造した書」
…なんてデムパビンビンの方向にならざるをえないのではないか?wwww
394 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:42:25
>>391 ざっと読んだけど、で、結局、その後邪馬台国はどうなったわけ?
395 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:42:57
>>390 戦闘跡は統合の動きの倭国乱と関係あります。時代も一致します。
倭国乱のあと卑弥呼が共立されたのですから。
歴史は文献と考古学的物証、科学的証明(骨の分析など)を重ねて検証するものです。
九州には倭人伝にちなんだ地名、環濠、戦闘の跡、墓、伝承などが
多く残っています。圧倒的に九州説が優位です。
396 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:44:47
>>391 二 ◆.L.MXSPOgc
相変わらず布教活動も空振りに終わっているようだがw
少しは他人に弄ってもらえているのかな?wwwww
まあ「威信財の変化」でなくとも良いぞ?
要は
「本当に九州に邪馬台国なんて物があったのかその痕跡は?」
と言う話だから。
考古学によって畿内説が強化されていると言うより
むしろ”消去法”で畿内説が支持されているのが現状だろうと思うがwwww
397 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:45:30
例えば前方後円墳の広域伝播にしても、九州説から出てくるのは「墓作りは政治とは関係ないから勝手に遊ばせておいた」とか
「征服した人民支配のために労働させた」とか頭の痛くなるようなものばかりで、まともな思考ではない。「倭人伝を素直に読んで、
東南がどうたらこうたら・・・」とかそれが好きならしょうがないが、全体像が全く見えていない。
398 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:45:36
>>395 何よりも倭人伝どおりに進んで邪馬台国を比定できるってところが強みだな。
>>395 だからなんで関係ない話題を繰り返すのだって?
その倭国乱のあとに共立された時点の話をしてるんだろ?
だから「統合の動き」を示す遺物やそこから推し量れる傾向があるのか?ということだ。
それと
>九州には倭人伝にちなんだ地名、環濠、戦闘の跡、墓、伝承などが多く残っています
君、考古学どころか文献学にも暗いだろ
どこかのホムペや安い文庫本の受け売りにはもううんざりなので、まともな話しをしてくれ
>>393 >そもそも「ゆるやかな連合」に対立する概念は「邪馬台国九州説」じゃ無くて「九州王朝説」だわなwwww
そう言われりゃそうだな
今では九州説もゆるやかな連合の存在を前提とする考えのほうが主流だし
ここの九州説やら東遷説が、現代の九州説にすらついて来れていないだけだった
401 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:56:41
>「統合の動き」を示す遺物やそこから推し量れる傾向があるのか?
それは銅鐸の消滅、古墳の展開、その副葬品だろうな。
>>401 0点
すべてにおいて内容に具体性がない
その3項目をひとつずつ具体的に述べよ
403 :
日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:59:01
巨大古墳だって、畿内あたりの銅鐸文化からは生まれないと思うな。
404 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:00:46
>>399 >その九州に卑弥呼の共立をうかがわせる様な統合の動き。
>魏に冊封された事をうかがわせるような威信財の集中や量的変化等々が全く見られない。
統合の動きこそ、戦乱の跡と見られる傷ついた遺体の数々が物語っています。
威信財といったら銅鏡、刀など。また絹の布はしも甕棺から見つかっています。
また白珠、青玉の首飾りなども多数出土しています。
>>404 いやどこまでズレてるの、君?
それともどこがズレているのかすらわからんのか?
弥生終末期の話をしろと何度言わせる気だ?
406 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:03:06
吉野ヶ里遺跡一つを見て、朱だとか戦乱跡とかいって倭人伝と対比したところで何がわかるというわけでもない。最近話題になった
伊勢遺跡にしたって本が書けるくらいには倭人伝との共通点がある。しかし実際は、考古学では遺物・遺跡単体でいえることはそん
なに多くはない。
>>401 頭いいなあ。まったくそのとおりで、銅鐸の消滅は卑弥呼の鬼道=前方後円墳の祭祀 に取って代わられたのだろうし、副葬品の鏡
などは、北部九州勢力がヤマト王権に屈した証ということだな。ww
>>403 それは(銅鐸文化とか言ってるのは見当はずれの古さだが)
ゆるやかな連合説も同じ考えなんだよ
というか、そこが出発点のひとつでもある
408 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:04:39
>>405 これが弥生末期の話です。
3世紀終わりまでの。
>>408 マジ?マジなの?爆笑だな
九州は3世紀末まで甕棺ですか・・・・?
普通の百科事典でいいから、もういっぺん読み返してみ
410 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:14:11
>>409 知らないの?ネットでくぐってみたら?
吉野ヶ里の甕棺は3世紀のものもあることは学者が証明していますよ。
411 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:14:35
>>408 おそらく中学生なのだろうが、一例をあげると、伊都国ともされる糸島の潤地頭給遺跡で発掘された玉造工房跡は、松江市の平所
遺跡・富山県福岡町の下老子笹川遺跡などと共通性のある造りになっており、北陸からの工人の移住が読み取れる。・・・このような
数多くの事例を複合的に組み合わせてみていくのが考古学的知見というもので、君が語るような単純なものじゃない。たいへんな勉強
量が必要だし、それだって確実に言えることは多くはないんだ。
412 :
ローガン:2010/06/11(金) 00:17:11
>>410 なんとまあ・・・ここまで浮世離れしているとは。
それなら吉野ヶ里が邪馬台国なのかい?
それと吉野ヶ里の3世紀の甕棺は、損傷遺体と全く関係ないでしょ?
高島さんですらそんなアホなことは言ってないぞ
414 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:20:20
>>411 >それだって確実に言えることは多くはないんだ。
つまりは、畿内説を立証しようとしても、考古学は役に立たないってことよ。
415 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:21:34
>>411 そういう君たちは中学生以下の知能しかないようですね。
時代錯誤もいいところです。
たいへんな勉強量がまったく無駄になっていると思う。時間の浪費。
416 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:23:27
>>413 損傷遺体のまったく出ないことを悔しがっているみたいだね。
いいじゃないの、平和だった証拠なんだから。
417 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:23:58
>>412 ローガン
まあ単なるスレの賑やかしの名無しとして扱ってもらって結構wwww
ただ「箸墓=卑弥呼の墓説」「三角魏鏡説」と
この板の畿内説でもキャラが立ってる老眼翁は
「九州説ホイホイ」と言うか「弾除けの為の人柱」と言うか
重宝している部分があるんで今後もがんばって下さい・・・とwwwwwww
418 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:25:01
>>415 www 負け惜しみはまだ見所がある証拠だね。俺は現役の国立大生だから勉強はムダにはなってないつもり。本気でやるなら一般書
ではなく論文や調査報告を読むことを勧める。
>>414 少なくとも、古い九州説と東遷説の不成立は立証されたよな?
「少なくとも九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと考えるものはいない」
これは九州国立博物館副館長で、國學院大学史学部教授の、柳田康雄の有名なセリフ
420 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:27:10
>>413 吉野ヶ里遺跡から戦闘で傷ついた遺体がいくつも出たのは確かな情報です。
また3世紀の甕棺があることもネットでよみました。
吉野ヶ里の甕棺は2000ほどあります。その戦闘遺体が甕棺にはいっていたかどうかは
不明ですが他の戦闘遺体と共同に葬られた跡が吉野ヶ里にあるのですから、
同時代と見ることができます。
>>413 また意味不明なレスを・・・
たぶん畿内で損傷遺体が出土していないことを指しているのだと思うが
またもやそれも関係ない話だな
倭国乱があったことそのものが、今では完全に疑われているということすら知らないのか?
422 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:31:48
>>418 あなたは勉強が足らないですよ、はっきりいって。
それにこんなとこで身分を明かさなくてもいいのに。
>>420 情報源はネットかあ・・・それじゃ間違うのも仕方ないと、まあリア厨らしいから勘弁してやるか
吉野ヶ里出土の甕棺内にあった損傷遺体の実年代は
早く見て0年から50年、一般的には100年前後と見られている
また3世紀のものと見られる甕棺は、共同墓地遺構とは別の場所からの出土で、子供用のもの
当然その中に威信財は一切入っていない
まあ学校の図書館あたりでも、この程度のことは書いてある本はあるだろうから、読んでみてね
424 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:34:26
と言うかだな…
じゃあ吉野ヶ里を邪馬台国か卑弥呼共立に関わった30カ国の内の一つのクニとしよう。
が年代をどんなに頑張って下らせても庄内併行期には衰退しているのは明らかなんだから
魏に冊封されてその恩恵の形跡どころの話じゃない。
衰退マッシグラってどう言うことやねん?
…と俺みたいな素人でも思うわけだがどうなんだ?wwwww
425 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:36:28
>>419 考古学者ってのは、その程度の頭しかないんだろう。
考古学者の言うことをまともに受け取っていてはだめだな。
奴らの意見はいらん、事実のみが役に立つんだ。
426 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:38:06
>>423 中国史書では2世紀半ばとありますから、其の頃だと思われます。
100年前後の比定に限りなく近いではありませんか。
学者の年代測定にしては珍しい。
しかも吉野ヶ里は、古墳期に入ると共同墓地のひとつをぶち壊されて
前方後方墳を造られたりしてるわけだ
これを突き止めたのは、かの高島さん
あの人は吉野ヶ里=邪馬台国とかの電波とばし役を演じているけど
その実たいへんな見識と実績を持つ超一流の考古学者だから
429 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:41:39
>>422 俺の身分はコテで書いてるときから知られてる。剣道部とかも。ww 吉野ヶ里なら、まず発掘調査報告を読むこと。そのうえで最盛期
の年代や人口推定、他の遺跡との交流関係、威信財である遺物の種類や量、これらを調べてみるといい。一般書でセンセーショナル
に取り上げられる、楼閣や戦乱跡とは違う実態が見えてくるだろう。
>>425 へー、柳田の言うことが受け入れられないのに、なぜ彼が主となって調査した玉や朱の発表は信じるの?
>>426 100年が近いって・・・意地になってどうするのよ
431 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:42:24
>>424 女王国以北は女王国が派遣した一大率に徹底的にやられていたところだ。
吉野ヶ里もまさにその以北の国の一つ。倭国の乱で女王国にやられたんだ
から、衰退するのも当然だわな。
何の疑問もないことだろうが。
>>431 じゃあ女王国の墳墓は、前方後方墳なのかい?
もうちょっと考えてからレスしてよ
433 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:45:23
>>427 >前方後方墳を造られたりしてるわけだ
アレって何なんだろうな?w
しかし高島センセイは
>>419で柳田センセイの言う”九州の考古学者”に入ってないんだろうか?
まあ若き日には奈文研にもいたりしたからカウント外ってことか?wwwww
434 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:49:43
>高島センセイ は周囲に温かく見守られてるんだろう。特に佐賀の観光への貢献度は下手な政治以上。まあ、よい老後を過ごしてほしい
ということじゃないか。ww
>>433 はっきり言っちゃうと、高島センセは吉野ヶ里が邪馬台国だとか、本心では小指の先ほども考えていないから
その証拠に、一般向けの本や説明では吉野ヶ里を強調するけど
正式な論文で邪馬台国に触れたことなど一度もない
あの人は言うなればスポークスマンを買って出てくれているわけで
そうやって大袈裟な煽りをいれて話を盛り上げないと、発掘調査そのものが出来なくなるからね
だから実は九州説が衰退して一番困っているのは、九州の考古学者
邪馬台国かもしれない!という決め台詞の神通力が通じなくなってきているからね
436 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:51:30
>>424 吉野ケ里と纏向は年代が違う。
纏向を卑弥呼時代とすれば、吉野ケ里はその前になる。
逆に、吉野ケ里を卑弥呼時代とすれば、纏向はその後になる。
纏向を卑弥呼時代とする畿内説の言い分がそうなるのは当たり前。
しかし、その根拠がない。
吉野ケ里の方が倭人伝の記述と合っている。つまり、考古学的にも
吉野ケ里の方が妥当ということになる。
違うのかな?
437 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:52:15
>>432 女王国の墓が一種類とは限らんよ。妙な先入観をもたんことだ。
438 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:53:45
>>430 100年前後は限りなく近いですよ。史書では2世紀中七、八十年間倭国は互いに攻めあっていたとあります。
>>436 >逆に、吉野ケ里を卑弥呼時代とすれば、纏向はその後になる。
すれば・・・って、ならないよw
そんなこと主張している奴はいねえって
織田信長が江戸中期の人間だって言ってるようなものだわ
で先に書いたように高島さんは、違うと知っていながら宣伝担当として吉野ヶ里説を触れ回っているのだから
その辺は考慮してあげてくれ
あのひとは本当に尊敬されているんだよ、そんな嫌な役目をあれほどの大学者が引き受けてくれているのだから
ゆるやかな連合、ってのがこの板の流行なのか?
まあそういうのがあるとしたら、それは
大陸利権で結びついた、いわばお伊勢参り連合だろ。
北陸、東海から伊勢湾経由で大陸との関係を持とうとした国々だな。
魏志倭人伝には、出雲、丹波、難波、三重 とルートが書かれているよ。
伊都は丹波ね。裏出雲ともいうか。
441 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:57:10
>>434-435 そう言えば高島センセイ「卑弥呼の墓かもしんない」って腹案(w)持ってたよな?
アレってどうなったんだ?
ひょっとして吉野ヶ里の何処かの墳丘墓?だったのか?
442 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:57:40
>>438 訂正 ×2世紀中七、八十年間
○七、八十年前
>>437 前方後方墳って、どんなのか知ってるの?
>>440 流行つーか、学会もそうだけどアマチュアの間でも主流説
>>441 その辺りがあのおじいちゃんの面白いところで
自分で前方後方墳だと断定しておきながら
卑弥呼の墓かもしれないと、一般人には言うわけですよwww
446 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:04:38
>>445 ええっ!
吉野ヶ里の「前方後方墳」ってマジかよ?wwww
>>442 それ、「前」に訂正したらよけいに意味が通らなくなるよ
もっとも具体的に実年代を推定できるのは魏略逸文だから
史料から推定するならば、倭国乱は実年代100から180年あたりであって
別に前と訂正する必要なし
「相攻伐すること歴年」と男子王の在位期間をリンクさせればの話だけどね相攻伐すること歴年
ところがこの平成の世では、すでに倭国乱が実際にあったかどうかが疑われているんだわ
またどういう状況を指して乱と呼んだのかなどもね
本当に「相攻伐する」状態だったのかなどは、もう腐るほど論争が積み重ねられている
448 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:15:36
>>447 まあ、どれもくだらん解釈だから、気にする必要はないさ。
449 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:16:54
>>447 知ってるつもりだが、それがどうかしたか?
>>449 知ってるのなら「前」とかに訂正する意味ないじゃんか
451 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:27:01
>桓霊の間
これも本当に正しく年代を伝える物かどうか…
これって一つの枕詞・常套句のような物であるとも聞くが…
漢籍に詳しい人の意見を聞いてみたい
まあ「倭国大乱」この年代がかつての主流だった年代観の一つの根拠だったっりしたわけで
ある意味考古学が文献に振り回された(と言うか勝手に自縄自縛に陥った)
典型例なのかな?wwwwwwwww
452 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:33:39
453 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:35:14
>>451 桓霊の間の解釈がまちがってんだよ。榎の説を確かめてみろ。
>>451 考古学から離れて文献考察に絞っても、魏志に採用されなかった箇所だからね
あと魏略逸文がきちんと原文を写したという保証がどこにもないし
そのあたりはまだ三国志の2冊の写本は、一応原文を忠実に写そうと努力しているとは見られているけど
でもって今夜の九州説の主張は
邪馬台国は吉野ヶ里で、卑弥呼の墓は前方後方墳
つまり邪馬台国連合(倭国)の範囲は、北中部九州から東海、関東にまで及んでいて
そのなかで複数の墳墓形態を採用していたということだね
この板の他の九州説が怒り狂いそうな内容だなwww
>>453 ま た 榎 か
前に言ったろ、マイノリティ説をあえて主張するなら、それが正しいとする根拠を先に紙面を費やして述べろと
456 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:40:52
>>454 当然、九州の初期前方後円墳の出現は
その前方後方墳の後って話だよな?
…九州の考古学者パニックにならんのかな?wwwwww
>>456 そうなるよなwww
だから纏向でもマバカ古墳とかのほうが先になっちゃう
おまけに卑弥呼は東海出身の巫女ということにもなる
たぶん前方後方墳も九州が発祥だとかいう気なんだろうけどね
そりゃあ考古学を憎むわなw
458 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:44:52
>>455 素直に読めばいいんだよ。倭人伝に「桓霊の間」なんて言葉はない。
後漢書は「桓霊の間」に倭国大乱とは書いているが、「桓霊の間」で乱が終結した
とも、それが卑弥呼の共立時期だとも書いてはいない。
459 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:48:10
倭人伝には、「ゆるやかな連合」も「威信財」も出てこないな。
「絹」とか「蚕」「魚蛤」「鉄鏃」は出てくるけどな。
>>458 ま た 素 直 に 読 め ば か w
しかし冗談抜きで、後漢書の記述を部分的に採用して年代を決めるという手法に賛成しないのは同意
だから「倭国大乱」とか何の疑問なく使っているのは、きちんと史料を読んでいないということだね
そこはこちらも素直に同意するよ
業界の指示で歪んで読めば、畿内説になる。
歪んで読まないと、九州説になる。これは仕方がないな。
462 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:52:33
>>459 つーことは「威信財」の有無は邪馬台国とは無関係という立場だね
なかなか潔く九州説の重要部分を捨てたね
464 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 01:53:50
倭国の大乱の時期については他の文献にもあるだろう。
一番短いのは梁書。漢霊帝光和中と書かれている。
>>462 そういうことなら了解です。そんな程度の間違いは誰にでもあるから気にしないで
それならこちらのレスもまた内容が変わるだけから
>>464 そのあたりの後世の資料になればなるほど詳しくなるんだよね
だから何を元ネタに具体性を持たせたのかが、これまでに膨大な時間と人を費やして議論されてきた
でも結論は出ないまま今に至るということで、倭国乱の具体的な時期については文献学からは棚上げ状態だね
467 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:00:52
>>466 時期は、倭人伝からも推定できる。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年
とある。
その国、元また男子を持って王と為す。これは西暦107年に後漢に朝貢した
帥升と考えられる。倭国が乱れたのは、それから7,80年後と解釈できる。
漢霊帝光和中とも合うし。
468 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:04:40
>>464 梁書は思い切って漢霊帝光和中まで繰り上げた、そのかわり、共立時の卑弥呼が
婆さんでは具合が悪いので、梁書は「年已に長大」を削ってごまかした。
後漢書と倭人伝は、共立時の卑弥呼を「年已に長大」としている。そこが重要な
ところだ。
469 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:12:47
>>468 年すでに長大は、共立時ではなく、郡使がやってきたときのことだろう。
470 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:17:17
>>469 それは文章の読み方として無理。基準時は「已に」の前に書かれている
と考えて読む必要がある。となれば、共立の時が基準時だ。
471 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:19:56
>>470 では、「自爲王以來、少有見者」、王となって以来見たものは少ない、は
どうなる?
これは、明らかに共立時の話ではないと思うが。
472 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:25:00
有男弟佐治國
男弟があり、補佐して国を治める。
これも、共立時の話とは思えない。
473 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 02:27:18
やはり、西暦180年代頃、卑弥呼は女王に共立された。その年齢は台与と同じ
くらい、つまり10才そこそこだったと考えるのが辻褄が合う。
474 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 06:42:16
>桓霊の間 というのは、後漢の衰退と倭国乱をリンクさせた後代の解釈の一つという気がするけどね。何らかの新資料があったと
いうのは疑わしい。
475 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 07:08:58
>>471 >>472 どちらにも「已」という文字はない。自爲王以來のことだとわかる書き方
になっている。だから「年已に長大」と同列に論じることはできない。
あなたは素直に読んだときに、「年已に長大」は共立の時を基準にした話
だと思わなかったかな? おそらくは、そう思いながら、一方で、共立の
時が西暦180年代のようだと思い、それと辻褄を合わせるべく、使者訪問時
を基準にするという考え方にたどりついた(同調した)んだろう。
その無理をしたところがまちがいなんだよ。
476 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 07:50:21
魏志倭人伝をちゃんと読もうや。
倭国では、もともと建国以来
男王の時代が続いていたんだけど、やがて、争いが起こって
女王をたてることによって、鎮まったとある。
つまり、卑弥呼の王朝は、卑弥呼が最初ではなくて
その前にいた男王が最初だったんだが、
そのうち、王権内部で戦乱が起こり(おそらく、王位継承争い)
それで、女王卑弥呼を擁立して鎮まったちおある。
この倭国大乱は、14世紀の南北朝時代みたいなもんだろう?
そして、卑弥呼が、箸墓のヤマトトトヒモモソ媛命ならば、
倭国大乱とは、皇室系図で言う欠史八代の時代に起こったことになる。
そういえば、平安時代、京都朝廷は、海部氏に対して
欠史八代の時代あたりのことは詳しく書くなって、
圧力を受けていたことが分かっている。
(おそらく、海部氏の本家筋にあたり熱田神宮の尾張氏も
同じような圧力を受けていた可能性が高い)
477 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 08:06:38
卑弥呼の年については後漢書と魏志では微妙に違います。
後漢書 年長不嫁 嫁がないとあることから未だ嫁になってもいい年、年長は昔は20代過ぎでも嫁に行くには年長でした。
魏志 年已長大 年はすでに長大(年寄り)
比べてみるとわかりやすいですね。
で魏志が倭国を訪問したのが240年頃なので共立時を180頃とすると
60年が過ぎています。したがって240年の頃は80歳位で、その後すぐに
亡くなったのですね。
>>476 >そして、卑弥呼が、箸墓のヤマトトトヒモモソ媛命ならば、
その根拠は何でしょう?
479 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 08:29:53
>>478 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命説というのは、
昔から有力な説の一つだよ。
現に箸墓古墳の被葬者は、宮内庁では、この皇族の女性ということだし。
魏志倭人伝の西暦240年代の倭国の情勢と
日本書紀の崇神紀の治世10年前あたりまでの記述は
非常に似通っていると言う人も多い。
で、もし、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命だとしたら、
ヤマトトトヒモモソ媛命というのは、7代目の天皇とされる孝霊天皇の皇女だから、
とうぜん、倭国大乱は、欠史八代の中ごろ位にあったのでは?という推測もできる。
実は、平安時代に書かれた日本最古の系図である海部氏系図では
京都朝廷が、海部氏・尾張氏などに、「欠史八代」あたりの記述は省けと
圧力をかけていたことが分かっている。
で、海部氏のほうは、京都朝廷に提出したには、その部分を削除して提出していた。
そもそも、それよりも前に、天智天皇や天武天皇が尾張氏ともめまくっていて
古事記が編纂されるとき、天武天皇が男神アマテルの存在を薄め
あらたに女神アマテラスを創始したという説もある。
その古事記が編纂される以前に、大和で神格化されていた男神アマテルとは、
正式名称が天照国照彦(天津と国津の両方の支配者)といい本名を天火明命といい、
皇室の祖先のニニギ命の兄上とされていたりする。
この天火明命こそ、尾張氏・海部氏の祖先なのだ。
480 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 08:59:55
いろいろレスを読んでいると
記紀を根拠にして卑弥呼だけ中国史書から拝借するのでへんなことになるんだということがわかりました。
箸墓のヤマトトトヒモモソ媛命はまだ若いうちに亡くなりましたよね。
それに史書では夫も婿もいないとあるのに記紀では大国主の妻になりました。
基本的なことがまるで合いませんね。
多分ヤマトトトヒモモソ媛命と大国主の話は他の神話で何度も語られている
国譲りの神話の形を変えたものですね。おそらく書記の編者も中国史書の卑弥呼
をモデルにして書いたのだと思われます。
記紀にいっさい卑弥呼も邪馬台国もでてこないのは畿内王朝が邪馬台国とは無関係だったことを
物語っています。
>>479 >卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命説というのは、
>昔から有力な説の一つだよ。
有力であった、その根拠な何でしょう?
自分で納得できる根拠がありますか?
私はどうも納得できないのですが。
482 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 10:05:17
>>476 >欠史八代の時代あたりのことは詳しく書くなって、圧力を受けていたことが
分かっている
どうして、どのように分かったのか? 具体的詳細に説明せよ。
483 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 10:42:57
>>480 >記紀では大国主の妻になりました。
違う。古事記には記載がなく、日本書紀に記載がある。
ただし、ヤマトトトヒモモソ媛命が結婚したのは、大物主(三輪山の神)
大物主(三輪山神)=大国主の和魂≠大国主命
よく、勘違いされるが、大国主命は人であろうが、
大物主は三輪山であって人ではない。
つまり、モモソ媛命が大物主と結婚したという記述は
モモソ媛命が三輪山の祭祀をつかさどっていたという記述であって
人間との結婚という意味ではない。
げんに、モモソ媛命は大物主の顔を見たことがなく、
大物主は夜にだけ会うという記述になり、実際に顔を見たら、蛇だったという記述になっている。
要するに、モモソ媛命が夜中に三輪山の祭祀を行っていた途中に
蛇に遭遇して、おどろいて、しりもちして、箸でマンコをついてしまって
事故死したという内容になっている。
484 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 10:50:49
>>482 欠史八代と同時代であろう海部氏・尾張氏の歴代の当主の名前が
ばっさりと削除されていたわけ。
しかしながら、海部氏は、隠れて、その部分の記述も残していた。
(ただし、海部氏の系図も完全には信じられないといわれている。
やはり、平安期に書かれたものであって、その時代、海部氏も自分達の祖先の
話はかなり薄れていたと思われる。また、海部氏は自分の家系を天火明命の
嫡流のように扱っているが、どうみても、熱田の尾張氏のほうが嫡流であり
尾張氏の分家筋が丹波に赴任して海部氏を継承していたというのが真実ぽい)
つまり、欠史八代の時代以前、正統な倭王の祭祀を継承していたのは
尾張氏らの先祖のほうだった可能性が高い。
その時代は、神武皇統は、倭王をサポートして実際の政治を行う男弟のような存在であろう。
が、そのあたりの時代で、神武皇統が、尾張氏の先祖から倭王の祭祀を奪ったと思われる。
それが倭国大乱と思われる。
485 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/11(金) 11:03:51
>>394 読んでいただき、ありがとうございます。
邪馬台国のその後については、どの文献にも書かれていないので想像するしかないのですが、
南の狗奴国に負けて邪馬台国連合から狗奴国九州連合のようになったのではないかと考えています。これが3世紀後期。
その後4世紀後半に、畿内ヤマト政権によって九州もその傘下に入ったのではないでしょうか。
486 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/06/11(金) 11:07:20
>>396 そんなことより
「ぼくのかんがえたさいきょうのきないせつ」
では狗奴國は南九州なんじゃなかったのかい?w
>>480 大国主って特定個人だと思っているのかw
>>487 ポイントはそんな瑣末な問題じゃないだろ
489 :
水銀厨:2010/06/11(金) 11:17:36
>要するに、モモソ媛命が夜中に三輪山の祭祀を行っていた途中に
蛇に遭遇して、おどろいて、しりもちして、箸でマンコをついてしまって
事故死したという内容になっている。
これは要するにモモソ媛の事を辱める目的、
もしくはモモソ媛には直系の子孫がいないという点を
強調したいのだろう。
記紀において卑弥呼の事はなるべく触れたくない、
倭人伝においての卑弥呼には子孫がいないという記述‥
モモソ媛=卑弥呼なら辻褄が合う部分だろう。
490 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 11:24:13
>>484 これで圧力を受けていたことになるのか? いささか論が飛んでいないか?
>>489 >なるべく触れたくない
紀の神功39年等も、触れたくないなら記述しないはずだろうがね?
その解釈はおかしくないか?
491 :
水銀厨:2010/06/11(金) 11:27:12
>>490 問題なければ注釈扱いにせず、堂々と記述すると思いますね。
492 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 11:31:02
モモソ媛は三つ子であった。
そのうちの一人が大物主へ嫁ぎ、若くして亡くなる。
もう一人は、三輪神?へ仕え、崇神紀に登場する。
最後の一人は早世したのであろう。
ホ32021 ヤマトクニカが ミツコうむ ナはみなヤマト モモソヒメ
記紀を編纂した裏の目的は、
1:我が政権は唐に刃向かった政権ではない
2:我が政権は漢籍に出ている歴史ある政権の後継政権である
を両立させることにある。
卑弥呼かと錯覚する人物を、いろいろ配置してあるのは意図的工作。
494 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 11:37:51
>>491 そのとおりだが、あれは外国古文献だが、紀の元となった数々の古文書
たる原書群に卑弥呼の情報がなかったならば、問題の有無以前のことで
あり、これは紀のどこかの天皇の代の中に載せられっこがない。
だから触れたくないというのはそういう原書群の中に卑弥呼とその女王国
の内容があって載せるのに不都合があった場合に限られるし、問題が
あるならばその問題が何だったのか記載しない触れたくない根源の動機、
状況が確信的に知れないと、触れたくないという主張は成り立ちにくい。
>>485 邪馬台国が狗奴国に負けたのではないかという意見には同感です
496 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 11:45:46
>>492 オマエ得意の基点ズラしはしないのか?
オマエ流だと、これでは第三子の意味も考えてよい。また月満ちて
生んだとなれば、これの満つの意味とも基点ズラし。ができる。
さらに丑三つ時に生まれたとも、オマエなら強引にうっちゃる。
つまりオマエの得意であるスリヌケ、ウッチャリがいくらでも
可能である。オマエはそういう基点ズラしは自分の場合はやら
ないのか〜?pp ww
497 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 11:55:25
七支刀 のぎへん
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
太国さんが、これを主張すると、
太国倍年は、この数字を正しく表記出来ていないから、
太国3倍年は、間違いである。と主張するんですね。
またく同感です。
498 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 12:02:12
>>484 尾張氏の嫡流が熱田の。とは天火明命の 嫡流が濃尾平野にと
言った方がいいなぁ。二世紀後半頃か。
499 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 12:32:48
大和の始祖、嫡流・天火明命は倭国大乱後、濃尾平野に辿り着き
前方後円墳とは少し違う前方後方墳を造営して行く。形の違いは
権威の表れとプライドらしい。
500 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 12:38:40
天火明命の 嫡流は、
神武世に手研耳(母はアビラ媛)の子供を宿した、イスキヨリ媛がヤヒコに嫁ぐ
そこで生まれたのが、天忍男。
ここから続く。
>>489 >モモソ媛=卑弥呼なら辻褄が合う部分だろう。
そんな論理、お笑いレベルだと思わないか?
502 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 12:54:01
前方後方墳は大和、天理市 ここに本拠を置く大和大国魂だろう。
503 :
水銀厨:2010/06/11(金) 13:06:12
>>494 その為の注釈扱いだと思います。
>>501 記紀の内容を真面目に検証する時点で素面じゃ無理。
504 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 13:10:08
葛城多遺跡ここは、神井八意(ミシリツ彦)の本拠地である。
ここの前方後円墳導入は少し遅れる。
少し南に降ると久米がいる。
垂仁に出てくる久米の邸宅。ここでサホ媛が登場する。
開化から崇神への譲位がスムーズに行われなかった事を意味する。
手打ちは、景行の紀の国である。
505 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 13:13:38
>>497 言ってないことを言ってたような書きこみをするな。間違いなどと主張
なんかしていないゼ。
オマエは七支刀の銘文の■が「寧」と読むんだと、X線検査の鑑定結果
のノギヘンをそう解釈してるんだろうが。ww
どこの惑星からの電波の受信なのか? X線星では物理的屈折でノギヘン
がウカンムリ字→「寧」に変化するらしいな?プププ・・・
506 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 13:16:26
前方後方墳は大和に、勿論そうだろうが
前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている。
507 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 13:17:07
>>503 >その為の
ここんところ、意味不明。
いま一度、どういうわけで注釈なの?
508 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 13:35:34
509 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 14:00:15
>>505 >オマエは七支刀の銘文の■が「寧」と読むんだと、X線検査の鑑定結果のノギヘンをそう解釈してるんだろうが。ww
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
太国は二文字目をノギヘンである、と主張するんでしょ
でも太国倍年の神功52年にその年度を充てられていない。
と云うことは、裏返せば、太国神功紀は間違いであるとの主張となる。
太国倍年
861辛巳 353癸丑 神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
929己丑 375乙亥 神功崩御
この神功52年に、 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■が来る。
510 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 14:26:40
私(日本)もラヂオ(韓国)さんも
百済本紀と新羅本紀の間には、5,60年の誤差があると主張しているんですよ。
これは、例えば中国の書との誤差でもある。
これらを正しい年代にしなければ、卑弥呼も解らない。
中国の書では、百済は240年代には大国として存在している。
書紀の七支刀は、その百済が大国となる場所を明示したものである。
七支刀を別の時代に設定すると書紀の神功紀は、ねつ造記事となる。
この出来事をねつ造とする限り、古墳時代を考える事は無駄である。
511 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 14:28:47
晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕
太寧末326年,拜平北將軍,進封朝鮮公。廆卒,嗣位,以平北將軍行平州刺史,督攝部內。
咸康(335年-342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,
2824
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,
347年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,
340年代には百済は大国である。
512 :
縄文人:2010/06/11(金) 15:11:23
>>375 私は夜行性ではないのでこのレスは仕事の休憩時間に見たのだが、375は何か勘違いをしているようだな。
私に恨みごとを述べているが、もしかして奈良湖問題で私にやりこめられたことを根に持っているのでは
なかろうか。
唐古・鍵の集落が存在していた頃の奈良盆地の(現在の)標高40m前後以下の部分は湖沼状態であった。
これは唐古・鍵遺跡の濠が水没した痕跡を示していることから証明される。
唐古・鍵遺跡は山裾からは遠く離れた、なだらかな平地部の微高地を成す所に存在する。水は低い
ところへ流れるものである。微高地にある唐古・鍵の集落が河川の氾濫で水没することはその集落
より高い天井川がなければ起こり得ない。ところが、その微高地およびすぐ側には天井川の存在を
示す遺構はない。
ということは、水没の原因は湖水の増水による水面上昇ということになる。こんな簡単なことも
375は理解できないで地質学がどうのこうのと見当違いのことを述べ立てる。地質学の問題では
なく、地形、地勢の問題なのである。
513 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 15:18:18
アホウが性懲りも無く・・・しょうけら。
514 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 15:32:29
>唐古・鍵遺跡の濠が水没した痕跡を示している。
これを認める事と、この事象により
>標高40m前後以下の部分は湖沼状態であった。
を認める事は少し違う。
排水溝の狭い大和は、さらに低い湖沼状態でも起きうる。
515 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 15:59:11
>>513 反論できないからアホウ呼ばわりか?情けない奴。
516 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 16:41:21
>>509 >ノギヘンであると主張
オマエ相変わらず脳の回転の歯切れが悪いな。ww
主張という類のものではない。x線検査結果がノギヘンだとの鑑定だ。
オマエのはそれに優先して『寧』だとかの論を強行してるんだから、どこか
宇宙の果ての彼方にx線星、電波星とかがあって、そこから向こうの天体
ではノギヘンがウカンムリになる大電波の屈折等があって、これがノギヘン
をウカンムリにする物理的結果が出テるから『寧』が正解だとの交信を、
かの電波星人らから受けているんならばppppp、これはなるほど『寧』の
字の可能性があるとユンケル肯定せにゃ〜ならぬ。プワッハッハ!www
517 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 16:42:05
>>510 おまえ、その韓国人に毒されているだろう?
中国の史書には、西暦240年代には百済は存在していない。
518 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 16:46:17
519 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 16:50:36
>>486 二 ◆.L.MXSPOgc
残念だが俺の言っているのは精々先人の説を取捨選択した程度でオリジナルじゃない。
それに「さいきょう」なんていった覚えは無いな。それは俺の芸風じゃないw
(狗奴國の比定の他、三角製作地、卑弥呼の墓、魏使のルート
…どれも自説をぶち上げてそれが唯一の答えなんていった覚えは無い)
もっとも何処ぞの馬鹿は
「ぼくのかんがえた 2るーと ごちゃまぜは ほうがくも きょりも
ていせつ となっているくにも そのままの さいきょうせつ なんだぞお」
…みたいな事をほざいていた気がするがw
で、
嫌味の一つでも言って誤魔化したつもりなんだろうが
(狗奴國を出せば俺が困るとでも思ったのかな?)
結局、文献を解釈した結果である九州説を考古学その他によって蓋然性を持たせることが出来ないって事だなw
別に「威信財の変化」でなくても良いし、いやその前に考古学的な物に限らなくても良い。
お前以前、てめえの興味・趣味が色んな分野に広がるとか自慢げにほざいていただろう?w
(ここら辺は縄文人とかぶるかな?)
何か一つぐらいネタを出せんのか?
馬鹿丸出しの脊髄反射でケチレスつけるより
きちんと本筋で反論してみろよゴミカスwww
結局、この馬鹿にしてもそうだが
ここの九州説は「なんで現在九州説が下火どころか絶滅寸前なのか?」と言う
自己の置かれた立場を分析する脳味噌が無い。
(故に陰謀論に逃避したり、現実と乖離したピンボケ言ったり、幼稚な反発に終始したりするw)
520 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 17:04:57
>結局、文献を解釈した結果である九州説を考古学その他によって蓋然性を持たせることが出来ないって事だなw
それは畿内説についても言えることではないか?
あ、そ〜か。畿内説は文献では成り立たなかったね。わり〜わり〜。
で、畿内に邪馬台国があったという考古学的根拠ってあんのか?
521 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 17:25:34
七支刀は、邪馬台国スレでは、やや擦れ違いだが
この問題で、日韓の学者(というか、とくに韓国の学者)が
大きな間違いを犯すのは
あくまでも、二国間にとどめて解釈しようとするからだ。
これは違うのである。
あくまでも、倭国と百済の関係においても、中国が最大の主役なのである。
つまり、この時代、東アジアでは
中国にいかに認められるかに、かかっており、
対中国外交においても、倭国、百済、高句麗が、
激しい外交戦を展開しているのである。
百済という国家は、
西暦4世紀前半まで
朝鮮半島に存在した中国楽浪郡の中国人の亡命者を多く抱えた国家であり
現に、倭国に亡命してきた百済の王仁も、
楽浪郡にいた中国系の楽浪王氏の出自と言われている。
522 :
521続き:2010/06/11(金) 17:27:31
百済は西暦4世紀の建国から早い時期に、中国に使者を送り、
中国皇帝の臣下になることにより、百済は自身の地位を向上させている。
一方、倭国は長い間、中国との関係を断絶させており、
倭国で知られている外交に使う漢文も、宋の前の王朝の時代のものである。
だから、倭国はこの時代、百済にいた中国系学者を招へいして
時の中国王朝・宋に対して、何度も地位の向上を約束させようとしている。
その地位とは、朝鮮半島南部における軍事指揮権である。
これに対して、中国は当初はなかなか認めようとしていなかった。
なぜなら、百済は中国皇帝の直接の臣下だからであり
倭国が百済を軍事指揮下に置くことなど認められるはずがないのである。
しかし、倭国は西暦5世紀において、さいさん、中国に外交攻勢をしかけ、
ついに、西暦479年に、中国は倭国に朝鮮半島南部の
軍事指揮権を認めさせることに成功したのだが、
この朝鮮半島南部からは、百済王朝だけは除外されている。
百済は中国の直接の臣下なので、これだけは、中国は認めるわけにはいかなかったのである。
>>520 しかし畿内説は今や学会の主流
かたや九州説は全滅寸前
この事実はいかんともしがたい
ここは否定しようにもできないわな
だから学者がこぞって間違えているとか、学会全体で詐欺にいそしんでいるとかの陰謀論に走るしかない
ところが何度も書くが、まともな九州説は決してそんなことは言わないんだな
まともでない九州説だからこそ、必死に考古事実を無視して中傷に終始する
ちなみにまともな九州説は、素直に読めばとかの戯言も言わない
考古事実を下敷きに、きちんと現在も論陣を張っている
524 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:06:57
>>519 絶滅寸前なのは畿内説なんだよ。三角縁神獣鏡以来、根拠がないから。
だから、畿内説はみんな必死になっている。
もう、宣伝だけに力を入れている感じがある。
前後関係だけの土器編年に年代を取り入れてごまかそうとしている。
ど素人ならともかく、ちょっとかじったことのある人はみんな知っている。
畿内説がちゃんとした根拠を示すのを期待しているよ。
>>524 ちょっとかじったくせに、そこまで無知というのはどういうことだろう。
現実を認めるのが怖いだけだろ。
こう書くと、それは畿内説だろと脊髄反射しか出てこないのだろうけどwwww
526 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:10:00
>>523 >まともでない九州説だからこそ
ここ2chだから。はっきりいって、ダメ人間、引きこもり、ボケ老人、役立たずの巣窟だから。他の板見ても昼レスのなんと多いことか。
サイキバもそうだが、同じやつが1日中書いてる。ネット中毒の基地外のふき溜まりなのよ。
>>526 だろうな、ここまでアホな九州説が勢ぞろいしているところなんて、ネットでも珍しい
Yahooでもどこでもいいから、他の掲示板を一度でも覗いてみるといいと思うよ
ここの九州説がすべからく如何に時代遅れでありえないか良くわかるから
多分他所では、畿内説どころか九州説から「お前帰れ」といわれるレベル
528 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:16:02
だからここの九州説は「患者」として考えねばならんし、「東遷」「九州王朝」「短里」「倍暦」などというのは一つ一つの病状と見て
よい。畿内説は、カウンセリングや精神分析をするつもりでこの人たちとあたっていかなきゃならんのよ。
>>389 www
>そもそも卑弥呼の墓なんて特定できないだろうとw
纒向が 女王之所都 ならば、3世紀代の纒向古墳群のいずれかが、
卑弥呼の墓であることの蓋然性はじゅうぶんある、と言えるんじゃないかねえ?
そこまでについても「分からないで良い」のかい?
530 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:30:27
発掘しないとわからないし、発掘してもわからない可能性が大。木簡や黄幢、人骨などは残らない可能性が高いし、金印が出た
ところで九州説はあれこれいうだろう。昨夜は吉野ヶ里厨が来たけど、一つの遺跡・遺物でいえることはたかが知れてる。しかし、
年月は発掘成果を積み重ねて、全体像をおのずと浮き上がらせる。
>>528 俺にはその役目は重荷過ぎるわ
そこまで行くと、医師と家族の協力が必要なんじゃないかね
まあ俺からの助言は、他の掲示板に行って他の九州説を読め
そこでここに書き散らされている九州説が、如何にありえないかに気づいてくれってことぐらいだな
畿内説を否定する前に、他のまともな九州説に触れてくれ
532 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:31:04
>>528 そうだよな。まともな議論では九州説には太刀打ちできないからな。都合が悪い話を持ち出す奴は罵倒しまくって
話題をそらすに限る。これからもこの手で行こうぜ。
533 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:36:12
>>532 罵倒というか、「御行奉為」というところ。
>>532 いや普通の九州説とはいい議論が出来ている
ここの九州説が特別にダメなだけだから
君は九州説から仲間に入れてもらえないレベルだというのは自覚してくれ
536 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:52:50
537 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:04:54
というか・・・いつも考えるのは九州説も少しはループ回避に協力してくれということだな。スレが暇になってくると東遷厨が出てきて、
「銅鐸消滅」「三種の神器」「庄内土器の編年」などを撒き散らす。スレを「東遷はあった」というムードにしたいんだろうが、その後が
続かない。「環濠集落攻防戦」とか「弥生水軍」とかいう面白そうな話なら歓迎なんだが、「金鵄」や「八咫烏」を持ち出されてもなあ。
538 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:17:53
>ループ回避に協力してくれということだな。
どうゆう話題にしたいんだい。畿内説の得意なところって何だ?
539 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:30:26
>>538 畿内説というか、東遷なら「神武旅団の戦闘の実際(戦備・補給・移動)」とか、「3世紀倭国に見る強権統治システム」とかやって
ほしい。この手のことは本来 安本が書くべきとも思うが。
540 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:40:19
>>539 そりゃ困ったな。神武なんてのは、紀元前7世紀の話として書かれているんだ。
そんなものが実在していたはずはない。東遷? 隋使がきたときも、都は九州に
あったんだよ。東遷なんぞしていない。
そう言えば、畿内説は弥生末期に朝鮮の鉄が欲しくて北九州を攻めて勝ったという
筋書きだったかな? 連合国の間で、そのときの兵士はどうやって集めたんだ?戦
闘の実際(戦備・補給・移動)」は? その戦闘の考古学的証拠はどこにあるんだ?
541 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:42:59
神武軍は河内上陸戦で大敗。
神武は長兄をこの戦争で失っている。
で、命からがら、和歌山方面から上陸している。
>>540 >そう言えば、畿内説は弥生末期に朝鮮の鉄が欲しくて北九州を攻めて勝ったという
>筋書きだったかな?
そんな筋書きの畿内説などいないだろう。
白石の鉄ルート奪取説にしても武力によるものだとは仮定していない。
そういうのも含めて、正しい認識を持ってもらいたいんだ。
543 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:46:15
>>540 卑弥呼=モモソ媛命ならば、
神武さんは紀元1世紀位の人物でしょう、たぶん。
また、神武東征戦争の実態は
近畿本国での内戦に、近畿王権の九州分家だった神武が
援軍として駆けつけたのが実態でしょう?おそらく。
544 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:48:42
>>540 攻めて勝った、というか公孫氏や魏と結んでの大陸からの圧力説をとるね。あとは食料移入ルートの封鎖。
545 :
キッチン:2010/06/11(金) 20:08:07
素朴な疑問なんだけど、卑弥呼は何のために朝貢したの?
「親魏倭王」印や銅鏡が欲しかったの?
狗奴国との争いを有利に進めるため?
なんかイマイチよくわからないんだけど、誰か易しく教えて〜
546 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:08:47
あとは宗教的権威というか・・・このあたりはよくわからないけど、巫女である卑弥呼が倭王を拝したのは、国内における宗教的統合
に与する意味が大きいのかと。これは鬼道が魏に認められたということではないんだけど。
547 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:21:02
>>545 確かなことなど、何もわからないよ。
ただ、中国側からみると、これは、もろ三国志の時代だから
三国志関係の研究成果から見たほうがよさそうだ。
倭国内部の情勢は、いまいち、分ってないことが多いわけで。
倭国大乱が何なのか?狗奴国の乱が何なのか?も分ってない。
(まあ、狗奴国の乱とは、武埴安彦命の乱のことと解釈できると思うよ。)
中国側からみると、三国時代も終盤に突入し
魏が北方政策に力を入れ始めたころ。
北方では、公孫氏が独立化しており、これは、かつての漢王朝の四郡に
再編しなおそうとしていた時代。
548 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 20:22:19
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,癸未年、千熊長彦の登場。
この時代は、倭、百済、高句麗が同じ土俵上である。
この時代を書紀に求めれば、神功49年の千熊長彦になる。
323年頃、東晋は、洛陽奪回をあきらめる、半島方面は空白の地帯となる。
そこで東夷軍として存在していた倭軍(千熊長彦)は、半島の再編成をする。
領土の一部を百済に分与する。
その地の住民や役人は、自分の意志で、行き先を決める。
そして多くの人々が倭国へ渡来する。
3年後に七支刀がもたらされる。326年
この数字は275年神功元年で得られる。
だから倭国乱は崇神時代では、早すぎる。
、句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,340年代の記事である。
七支刀もこれ以前でなければ、書紀の記事と整合性を得られない。
>>545 まあ出来るだけ易しく・・・かなりざっくり端折るから追記ヨロ。
まず第一には朝鮮半島つまりは帯方郡との円滑な交易ルート確保の後ろ盾となって欲しかった。
また魏の半島南下政策に下手に逆らうか無視したりすれば、倭国も攻め込まれるという危惧感があり
先に柵封体制に下ることによって身の安全を図った。
またこの邪馬台国を中心とした倭国連合体が、決して面として各地域を統括していたわけではないので
狗奴国に限らず敵対勢力や関係を持とうとしない勢力も多数いた。
これらに対する権威付けとなると考えた。
ただあのショボい朝貢の割には、魏は様々な意味で渡りに船の申し出だったはず。
なので、蝦で鯛を釣ったと評されるほどの好待遇と下賜品をゲットできた。
ただこの朝貢と邪馬台国についての最大の謎は、位置問題などではなく
台与の晋への朝貢以降、中国史書から記述が消えるという点にある。
これほどの好待遇を受けながら、それが長続きしなかったのか、あるいは再度混乱状態に陥ったのかは今のところ定かではない。
550 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:26:34
>>545 朝貢の景初2年、3年説はあるにしても、魏への朝貢は直接的には公孫氏滅亡によるところが大かと。邪馬台国が公孫氏と結んでいた
としても、そうでなかったとしても、新たな半島の覇権と結んで都合の悪いことはないのでは。魏側からの朝貢を勧める示唆があった可
能性も否定はできないと思う。
>>550 >>549だけど
>魏側からの朝貢を勧める示唆があった可能性も否定はできないと思う。
これはその通りだと思う。
なんにせよ、ひとつやふたつの理由ではなく、かなり複数の意図や思惑が交錯した結果だろうね。
552 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:33:47
あとは、邪馬台国が公孫氏との朝貢関係などがあったとしたら、
>景初2年8月23日、公孫淵父子をはじめ廷臣を斬首、更には遼東の成年男子7000人を虐殺した。その首は堆く積まれ京観(高楼)
と呼ばれた。(Wiki「公孫淵」の項)
この連座を怖れたとか・・・魏には倭に派兵する余力はなかったと思うし、このあたりは文献派ではないのでなんともいえないが。
>>545 他の人が真面目に答えているので、ここではトンデモ説をご披露しよう。
卑弥呼は呉のスパイだったんだな。
魏と戦争中だった呉は公孫氏を通じて魏の動向を探っていたのだが、
公孫氏が魏に滅ぼされたため、邪馬台国を通じてスパイ活動を行ったのだよ。
無論これはトンデモ妄想なので、信用しないようにw
554 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 20:46:27
238年、公孫氏を倒した魏は東夷をまとめることを決意使いを各地に派遣する。
魏使は秋に開かれる郡の市に来ていた倭人に倭国までの道案内を頼む。
半島最南端に付くと『倭の北岸狗邪韓國に至る』任那です。ここで大和の情報を得て、
倭国に向かう。とりあえず松浦呼子まで来たが、案内人は、西岸を回って狗奴国へ帰るため
魏使は下船する。ここから陸路で伊都国へ向かおうとするが、獣道同然のため断念し
新たに、伊都国方面へ向かう船を探す。この船便を待つ間に、この地の風物、風俗を記録する。
伊都まで来た魏使は、奴国王へ使いを遣ると、現在の倭国大王は、女王卑弥呼であると、返事が
帰ってくる、そこで魏使は改めて、大和国王を含めた朝貢団の派遣を要請し、
そこで冬を越し、帰郡する。
そこまでの道程で見ためずらしい風俗である海人の記事を博物誌の一つとした。
海人は月齢を元に漁をする。だから24節季は必要ない。
24節季を知らないから『不知正歳』と記録する。
555 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 20:47:08
卑弥呼は大和垂仁(イクメ)に朝貢団に加わるよう要請する。
要請を受けた垂仁は田道間守を派遣する事とし、239年正月に発表する。
冬に洛陽を訪れた朝貢団に対し、魏は、未だ見ぬ大和を訪れるため。再度使いを倭国に派遣する
事とし、田道間守に同行、240年春に大和へ到着する。
そこで魏使が見たものは、王朝の交代とホケノ山である。
ここで魏使は、大王(帯彦)に倭国の統一を要請する。
これを承諾した景行は、魏から治世方法として「屯倉」を教わり、軍の編成から、戦の仕方までを
伝授される。
全てを吸収した景行は、247年?いよいよ乱の国九州へ乗り込む。
あと
>>546についてだが
これも大きな謎で、朝貢の時点で本当に卑弥呼に倭国を統治する能力や地位があったのかにしても諸説ある。
これは広域交易連合説の立場からは当然だが、九州地域限定の狭い範囲での邪馬台国連合説にしても
鬼道と称された卑弥呼の宗教祭祀に統一されていたのかどうかが、かなり疑わしい。
それゆえ祭祀王と為政王が存在する体制であったとする見解や
各クニによって細部の違いがある倭人の宗教観を乱暴に鬼道という言葉でまとめられたと考えたり
実情は卑弥呼は傀儡にすぎなかったのではないかなど、様々な説がある。
これらは近年の各地の発掘成果から、統一された宗教観というのが考えにくいという見解が元になっている。
前方後円墳や銅鏡にしても、各地で採用の温度差があり、統一感に欠ける。
557 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:53:05
558 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:58:29
>>556 >統一感に欠ける。
これはそのとおりで、地元の祭祀形態を禁じるなどということはなかったろう。、例えば卑弥呼が倭王の地位を得たことで、各地にいる
シャーマンの中で特に優れたものであることを、他に印象つけるための戦略とか・・・??
559 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/06/11(金) 21:06:03
>>550 つまり、公孫氏に朝貢に来ていた邪馬台国の使節が魏の侵攻部隊に拉致されて魏の洛陽に連行された。
そして魏に朝貢で訪れた使節に偽装させられた。と言うわけですね。貢物が貧相ですから。
>>558 これはもう完全な私見なんだけど、卑弥呼がその「霊力」で共立されたとかではなく
どこかの有力なクニの息のかかった存在だったのではないかと思う。
つまり倭人伝に出てくる、唯一接見できる弟王というのがそのクニのオウもしくは有力な身内。
さらに妄想は進んで、箸中山がトヨの墓だとすれば、そのあたりから特殊器台が台頭するわけだから
トヨは吉備の息のかかった巫女だったとか。(別に箸墓=トヨの墓は単なる例えなのでそこに噛み付かないように)
つまり連合に参加した有力首長たちは、内部での権力闘争や主導権争いに終始しており
そういった意味でも決して一枚岩などではなく、むしろ各クニがゆるやかな交易連合を結び合いながら
虎視眈々と君臨を狙っていたというのが、7世紀に至るまでの実態ではないかと思う。
いうなれば派閥集合体でもあり地元利益最優先でもある、複合派閥政党のようなものだと理解してくれればいいかもしれない。
561 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 21:22:14
>>560 >卑弥呼がその「霊力」で共立されたとかではなく
まあね。そもそも実効的な「霊力」なるものがあったとは思えんし、>自為王以来少有見者 というのは神秘性を高めるテクニック
かも。
>>559 確かに >男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈 というのは、>男女生口三十人・白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹
に比べて貧弱で、何らかの事情を考慮すべきなのかも。
562 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 21:22:56
交易連合というのは何なのだ?お互いに利があれば交易は成立する。連合など必要ないだろ。
563 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 21:31:05
>>555 要請なんかしちゃいないぜ。インチキ野郎だな。ww
オマエの作文で何の価値もない。
564 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 21:37:29
弥生時代の大和地方(奈良)には住民が少なかった。集落遺跡も少ないし、銅鐸などの銅器や鉄製器具の出土数も少ない。
こんなことでは3世紀はおろか4世紀でも大和王権が育つわけはない。後の大和王権といわれるようなものは外から来た勢
力が築いたものだろう。
現に纏向スレには閑古鳥が鳴いている。それが動かぬ証拠だ。
皆さん、ありがと〜
>>546 >あとは宗教的権威
やっぱ、そういうことなんですかね…
>>547 >確かなことなど、何もわからないよ。
ですよね〜
>>549 >円滑な交易ルート確保
>身の安全を図った
>権威付け
>好待遇と下賜品をゲット
結構メリットがあったんですね
>>550 >魏側からの朝貢を勧める示唆があった可能性も否定はできない
なるほど。魏にはどんなメリットがあったんでしょうか?
>>551 >なんにせよ、ひとつやふたつの理由ではなく、かなり複数の意図や思惑が交錯した結果だろうね。
マツリゴトは今も昔も変わらないのかもしれませんね。
>>552 >その首は堆く積まれ
怖いですね
>>553 >卑弥呼は呉のスパイ
面白いです
>>562 経済の基礎講座になるのだが、軽くやろうか?
まず君と私の二者のみで交易をするとしよう。
この場合は単なる物々交換で十分で、通貨なども必要ないし、お互いが納得すれば内容にも問題は生じない。
ところがここにもう一人参加したとしよう。
すると米一升と麦一升五分が適正だろうという、三者間での「相場」が必要となる。
それより先に、一升の定義が必須であり、度量衡の統一が前提となる。
さらにこの三者が、北九州、吉備、大和だと仮に例えてみると
北九州←→吉備←→大和と、吉備を介する取引しかほとんど方法がなかった時代がまずある。
この場合は特に度量衡を北九州と大和で統一する必要はない。むしろしないほうが吉備の利ざやは大きい。
ところが時代は下って、北九州と大和が吉備を介さずに直接取引をするようになった。
さらには出雲や東海や関東や北陸までも入り乱れて、お互いに直接遠隔地に向けて交易するようになった。
この時点で「為替」の概念が発生する。
こうなれば同じ度量衡を使用し、相場と為替の共通概念を共用する交易連合が誕生したとみなすことが出来る。
この連合に参加したクニは、参加しないクニよりもはるかに物流が発展し、結果この連合を維持する方向へと自然に向かう。
つまりゆるやかな交易連合の真の母体は、参加した各クニなんだ。
567 :
キッチン:2010/06/11(金) 21:44:05
皆さん、ありがと〜
>>554-555 そういう裏話(?)もいいですね
>>556 だんだん難しくなってきましたね…
あとの方々もレスできませんが、ありがとうございます。
>>561 >自為王以来少有見者 いうのは神秘性を高めるテクニックかも。
この手法が卑弥呼オリジナルとは考えにくいんだよね。
有名な例だけど島根県の古浦砂丘遺跡や種子島の広田遺跡、熊本県のトンカラリンなどは
人為的に変形させられたシャーマンだと見られる頭蓋骨が出土している。
これは中国の纏足のように、生まれてすぐに輪や板で頭部を圧迫して人工的奇形を作り出しているんだね。
こんな仕打ちをされたシャーマンが人前に出られるかどうかもそうだし
何よりも正常に知能が成長したかどうかすら疑わしい。
これは南方に多く見られる人為的変形ではあるが、一方北方でもまた出土例がある。
見えない王の正体は、こういう者たちだったのではないかと思う。
つい近代日本でも同様の風習が行われていたというのは、柳田國男の「一つ目小僧、その他」に詳しい。
こんな妄想を恥ずかしげも無く語ってるくせに畿内説は盲目的に信じるんだね
いやだからこそか
>>569 難しい話について来れなくなったのなら、無理にレス入れなくてもいいよ。
571 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:08:06
>>549 そういうことは、あちらの事情も考えないと。
卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのは、ちょうど明帝が亡くなったころで、
実権を握っていたのは曹爽。
ところが、卑弥呼が死んだ頃、西暦249年には司馬懿のクーデターに遭って
曹爽は殺されている。
こういう魏の事情は日本にも大きな影響を与えたと思われる。
572 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:11:28
>>542 なんだ? 畿内説の筋書きははっきりしないってのかな?
倭国乱の実際(どことどこだ? 戦備・補給・移動)」は?
乱の考古学的証拠はどこにあるんだ?
573 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:12:35
>>568 そうね。変形頭骨とまではいかなくても、多くの貝輪を腕につけたシャーマンの事例などは、日常生活は不便で食事も給されないと
できなかったかも。>唯有男子一人給飲食伝辞出入居処
>>566 古代、日本列島から普通に沿海州や揚子江下流域、南米と行き来している。
「吉備を介する取引しかほとんど方法がなかった時代がまずある。」なんてことはない。
あるとすれば、江戸時代になって初めて起こった商業の閉鎖性だろう。
>>571 魏晋南北朝時代とも五胡十六国時代とも呼ばれるこの時期の中原にしてみれば
もう東の果ての島国などにかまっちゃいられないというのが実情だったのかもしれないね。
576 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:16:12
>>556 卑弥呼はうまく統治していたと思う。大乱のあと、女王になって以来、
狗奴国との抗争以外に特に争いはなかったと思われるし、卑弥呼が死んだ後の
ような争いもなかった。
一触即発のような倭国をうまく治めていたんじゃないかと思う。
だから、次の王にも卑弥呼と同じような女王の台与が選ばれた。
>>572 倭国乱という大規模戦争などなかったというのが、畿内説の基本なのだがwwww
今頃なにいってんのかねえ。
むしろ征服や侵略や統一を想定する九州説や東遷説のほうが、その説明責任はあるわな。
578 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:21:53
>>575 司馬懿ってのは、公孫氏を滅ぼした張本人だし、3000人の男子の首を晒した
といわれるくらい残忍な男だった。これを恐れたので卑弥呼は帯方郡に
使者を送った可能性もあるわけで、何かと親切だった曹爽が殺され、
代わりに司馬懿が実権を握ったとなると、倭国としても穏やかではなかったと
思われる。
ていうか、倭国大乱という語は、鉄器のない畿内ではあり得ないと指示している。
蚕・絹・鉄鏃・魚蛤・夏冬の生菜食など、明らかに温暖な海洋国家のどこかだろう。
580 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:25:45
>>577 白石は次のように言ってるな。
瀬戸内や近畿の諸勢力が、より大量の鉄資源や先進文物を円滑に入手しようとすると
、どうしても玄界灘沿岸勢力と対決し、これを制圧する必要があった。このため
畿内・瀬戸内連合が形成され、玄界灘沿岸勢力と争い、おそらくはこれを制圧した
のだろう。これが2世紀末から3世紀初めのことと思われる。倭国の乱がこれに
あたろう。
君はこの説は今の畿内説論者のとらないところだというのかな?
581 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:29:49
>>566 >ところが時代は下って、北九州と大和が吉備を介さずに直接取引をするようになった。
>さらには出雲や東海や関東や北陸までも入り乱れて、お互いに直接遠隔地に向けて交易するようになった。
>この時点で「為替」の概念が発生する。
>こうなれば同じ度量衡を使用し、相場と為替の共通概念を共用する交易連合が誕生したとみなすことが出来る。
いかにもそういうことが起ったかの如く述べているが、遠隔地間の物資の移動など国と国が直接交易するのではな
くて商人(商団)が間に立てばいいことで、交易連合など考える必要はない。
582 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:32:32
>生まれてすぐに輪や板で頭部を圧迫して人工的奇形を作り出しているんだね
これは中国史書の魏書弁韓伝にあります。馬韓、弁韓には書いてありませんから、
辰韓の民族に流行したた習慣だと思います。
赤子の石に頭を押し付けて扁平にする習慣があるということです。
また辰韓人は誰もが扁平な頭をしているとも書いてあります。
(島根県の古浦砂丘遺跡や種子島の広田遺跡、熊本県のトンカラリンなどは)
辰韓から渡ってきた渡来人ではないでしょうか。
トンカラリンなどは東の韓(カラ)から来たと読めませんか?w
583 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:34:31
>>566 >ところが時代は下って、北九州と大和が吉備を介さずに直接取引をするようになった。
>さらには出雲や東海や関東や北陸までも入り乱れて、お互いに直接遠隔地に向けて交易
>するようになった。
>この時点で「為替」の概念が発生する。
>こうなれば同じ度量衡を使用し、相場と為替の共通概念を共用する交易連合が誕生した
>とみなすことが出来る。
作文はいいよ。その考古学的資料ってのは何なのさ?
もはやただのこじつけスレだな
どうしてこうなった・・・
585 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:36:03
弥生の戦争は広い面積を制圧できないし、さらに統治もできない。せいぜいが交易ルート封鎖などの局地戦程度だろうね。
>>580 そう、白石の提唱した「鉄ルートの奪取説」というのは、弥生終末期から古墳黎明期にかけての間に
畿内での鉄の出土あるいは加工遺構などが飛躍的に増加するはずという前提がある。
ところが村上恭通が、実は畿内において鉄の所有量が九州を上回るのは古墳中期まで待たねばならないという強烈な反論を展開し
現在では村上の主張が鉄保有量の通説となっている。
にもかかわらず畿内に巨大な権力(これを王権と呼んでいいのかどうかは諸説あり)が発生し
それどころか東海にも同様の規模と見られる権力を想定せざるを得なくなった。
そして鉄所有量としては圧倒的であったはずの北部九州は、徐々に中南部九州にその座を奪わたにもかかわらず
集落再編成によって弥生時代とは違う弥生都市を形成し始める。
これらのことから、鉄の優位性を下敷きにした国家形成論はもはや下火となった。
さらには高地性集落の役割が各地域によってまちまちであり、一概に戦闘用だとは言えないことも合わせて報告されるようになった。
森岡秀人ですら、後期論文では戦争に備えたものとは考えにくいとの見解を出している。
こじつけっていうか妄想
それも素人のw
>>581 >遠隔地間の物資の移動など国と国が直接交易するのではなくて商人(商団)が間に立てばいいことで
この商人(商団)もクニの一種なんだよ・・・って、つい最近書いたような気がするwwww
クニの概念を国家だと固定して考えていないか?
>>583 なに、経済に対しての基本知識がまるでないようだったので
三者間の例えとして出した話さ。
別に吉備と畿内と東海でもいいのだが、古い九州説とかを未だに唱えている人にはわかりにくいかなと思ったのでね。
589 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:54:54
590 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:56:22
結局九州説にとっては、戦争と言えば「国取り物語」だし、交易といえば「紀伊国屋文左衛門」なんだよな。
591 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:57:23
>>588 商人(商団)が定住する土地なり集落は存在したであろう。青壮年男子が外に出かけ女子供や老人が残って
野菜を栽培したり魚を穫ったりしていただろう。舟を持ち集団行動をしていたから規律をもち統制されて
いただろう。それをクニと呼ぶのであれば構わないが、一般の国とは違うものだ。
ウヨは意地でも九州説を取るわけにはいかないんだよなw
593 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:58:53
いろんな物の発達史をそれぞれ時系列に沿って並べることができないというか、
脳内でごちゃまぜに存在してる。ww
>>591 意味不明
>それをクニと呼ぶのであれば構わないが、一般の国とは違うものだ。
そのとおりなのだが・・・もしかして弥生時代に「国」があったとか考えてるのかね?
>>592 またもやイミフ
畿内説は基本的に神武も九代も架空だと考えているし、天皇家が万世一系だとも考えてはいない。
でもウヨ専用畿内説ってのもあることにはある。
これはサヨ専門九州説(古田説。信者はどう否定しても古田さんはガチガチのサヨ)もあれば
ウヨ専門東遷説(安本説。これもたまにサヨ史観が混ざっている奴が支持していて笑える)とかもあるのと構図はまったく同じ。
595 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:08:13
>>586 その理屈はそれ自体がトンデモだな。
鎌倉幕府ができて、物流その他が一気に鎌倉に集中したか?
江戸幕府ができて、江戸が一気に関西を凌駕したか?
いずれも「ノー」である。
だからといって、物資生産や流通が権力と全く無関係とかいうバカはいない。
仮に東征が事実であるとして、東征後にそれまで政治・文化の中心であった九州の
地位がいきなり地に落ちるということになるわけがない。
この簡単な事にさえ気付かずに、「鉄の保有量」などが無関係という暴論を
すぐに帰結するのは、バカのすることだよ。
596 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:08:41
>>586 >鉄の優位性を下敷きにした国家形成論はもはや下火となった。
では、白石の説はまちがいだって認めるわけだな。
で、次の説はどうゆうものなんだ? 大規模戦争などなかった。
大和の徳を慕って北九州が朝貢してきたって話にでもなるのかい?
>>595 またもや意味不明。
しかしどうしてこここまで理解力がないのかわからん。
鎌倉とか江戸とか、全く成立過程の違うものを持ち出すのは安本の手法のパクリですか?
それとここが全く判らん。
>仮に東征が事実であるとして、東征後にそれまで政治・文化の中心であった九州の
>地位がいきなり地に落ちるということになるわけがない。
地に落ちていない。と書いてるんだよ、バカなの?
君の頭の中は単純すぎて、YesはNoかしかないんじゃないかな。
>>596 つーか白石の説が主流だった時代なんてないわな。
誰と戦ってるんだ?
598 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:20:16
>>597 日本語OK?
俺が書いたのは、東征が事実であったと仮定しても、東征後すぐに九州の
地位が低下するわけがなく、相当期間は畿内より生産力その他で上回っていた
と考えるのが普通だということ。
んで、現実はどうだったかというと、その通りに九州の優位がある程度続いたのち
畿内の優位に移行したということ。
この事実は、東征を肯定する方向に働く事実だよ。
599 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:22:11
>>597 そうか。白石の説ではとうてい駄目だってことか。
で、誰のどうゆう説が畿内説論者の支えなんだ?
600 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:23:31
www だから、九州説はいろんな知識(せいぜいが高校教科書レベル)が脳内で統合されないまま存在してるんだな。じゃあ東遷の
実際が頭の中に思い描けるか、とかになると記紀の記述の域を出ない。白石の鉄ルート奪取説は、やはり細かな研究とは齟齬があ
るのは確か。
>>598 しかしその3世紀に畿内に九州の直接介入を示す遺物はまるでなく
それどころか九州以外のものは山ほど出てくる。
しかも畿内の鉄保有量が九州を上回る頃には、もう九州の痕跡などかけらもない。
これが現実だよ。
この現実から東征えおどうやって考えるのかい?
手ぶらでやってきて手ぶらで帰ったとかか?
602 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:29:21
>>600 東遷説に対する反論を聞いているんじゃないぜ。今の畿内説はどう考える
のかを聞いているんだ。東遷説が無理だから何はともあれ畿内説だという
わけじゃあるまい?
603 :
縄文人:2010/06/11(金) 23:30:28
>>594 >もしかして弥生時代に「国」があったとか考えてるのかね?
なにをとぼけたことを言っているのかね。
畿内は遅れていたから国と呼べるようなものは無かったかも知らんが、
AD57年に後漢の光武帝から金印を受けた倭奴国があったし、107年には倭国王帥升が後漢に朝見を請う
ている。魏志東夷伝には倭国30国の名前が記載されている。九州は進んでいたのだ。
>>599 誰のと言われれば、もう詳細は様々だが
ひとつのモデルケースとして
寺澤の「王権誕生」、柳田の「伊都国を掘る」、北条、村上らの「古墳時代像を見直す」
また北条の「前方後円墳と倭王権」なんかが挙げられるね。
ただ全部細部ではバラバラだよ。
ここのゆるやかな連合説を主張するものも、細部が一致していないようにね。
>>602 いやある意味それは正しい認識かもしれない。
東遷説も九州説も更には畿内説も、昔の説は全部成立不可になったんだわ。
だから今の畿内説にしても九州説にしても、そして東遷説にしてもゆるやかな連合を基本に想定してる。
ちなみにどれも昔の説とは違うものだが、混同する人もいる。
どの説も進化しているんだよ。
606 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:37:52
>>604 >全部細部ではバラバラ
大きい所ではどうなんだ。畿内・瀬戸内と北九州はどうして一つに(連合でも
いいが)なったというのかな?
607 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:39:11
>>602 今の畿内説と言うか、自分は
>>544で書いたような考え。・・・しかしレス伸びてるな。で、北部や東部の前期古墳がだんだんに
懐柔されていった地域。景行紀を見ても、策略が多いのは直接戦闘が少なかったことをあらわすのかもね。
>>606 それに東海や北陸も加えて、交易の相互性だろうね。
要するに経済要因だと考えてくれればいい。
ここに政治的な駆け引きも当然あったろうが、そこは今の段階では推測でしかない。
また再三言われるように、北九州も畿内もどこもかしこも、面の支配ではないんだ。
まさに点と線だよ。
609 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:42:18
>食料移入ルートの封鎖。
これはどうゆう意味かな?
610 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:47:54
>>609 うーん、まとまってないが那珂川流域あたりに拠点を置き、さらに伊都国に一大率を置いて物流を支配し、漢代に伊都国の影響の
あった地域を牽制。
611 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:51:06
なんか畿内説の妄想スレになってきたみたいね。
612 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:51:10
>>610 そんな線では、いくら考えてもまとまるわけがなかろう。未開の畿内・瀬戸内の
連中が、戦いもしないで、伊都国に一大率を置かしてくれ、お前等を支配させてくれ
っていって誰がどうぞと言うんだ? 言うわけないだろうが。
>>612 その時代の畿内を未開とか言ってる時点で、もう今の時代について来れてないな。
とりあえず
>>604の本は一冊でも読んだことがあるかい?
古代史はテキストにカネのかかる趣味だから、徐々にでもいいから読んでみたまえ。
出来れば近所で現地説明会があったら行ってみることだね。
614 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 23:57:22
>>612 www 那珂八幡古墳のあるあたりは、早くに連合に参加したと考えているが、これ以上やると妄想合戦になりそうだな。
615 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:01:24
いちお、Wikiより「那珂八幡古墳」
>古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり、両河川即ち福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられて
いる。大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関係
が注目される。
616 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:03:26
>>612 そうだそうだ。610は妄想しているだけだ。
617 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:08:19
>>616 www まあ妄想かもしれないが、九州説よりははるかに具体的なことを言ってるつもりだが。ww
618 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:08:36
>>613 くだらん本に高い金を出す気にはなれんな。読む気になる程度には、説明して
くれよ。畿内・瀬戸内と北九州の関係をどうみるって?
619 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:10:41
>>617 いくら細かく妄想してみたところで、証拠が伴わなければ価値はないんだよ。
妄想はどこまでいっても妄想だ。
620 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:10:51
>>613 >その時代の畿内を未開とか言ってる時点で、もう今の時代について来れてないな。
その時代というのは3世紀前後のことだな?
その時代の畿内では政治的に進んだ社会体制ができていたとでも言うのか?何が根拠だ?
>>618 そういう場合はこうだろ?
「説明してください、お願いします。僕は本を読めませんから」
というかその程度の知識も無い者に、瀬戸内の膨大な流通資料を提示したところで理解できんだろ。
同意せずともいいから、理解できるだけの基礎知識をまず身につけてくれ。
そうしたらいくらでも教えてやるよ。
四則演算が十分でない子供に三角関数を教えるようなものだから、今の君ではまず理解できない。
622 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:18:02
>>621 ごまかさずに、きちんと説明すればすむことだ。
623 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:18:30
>>619 お前が何か反証を出したのか?ただ妄想妄想と騒いでるだけだろう。ついてこれないならレスするんじゃない。ww 西新の渡来人集落、
九州の庄内土器と前期古墳、倭人伝の記述で、奴国が邪馬台国と相反している記述のないこと、伊都国に治す一大率の存在・・・むろ
んすべて状況証拠だが。
624 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:18:31
もう、九州説必死。
だって、だいたい、在野の歴史愛好家が
邪馬台国論争の集会をするとしたら
九州ばっかじゃんw 宇佐だとか、吉野ヶ里だとか...
もう、町おこしとか商売がかかっているから
必死なんだよ、九州説は。
畿内なんか、鉄器も絹もないまま、いったん滅亡したんだから、べつに先進地域じゃないだろう。
626 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:22:51
>>623 最初のが証拠を伴っていないんだ。反証というからには、その前に証拠を
伴った主張をしてもらわんとな。
>>622 いや基礎ができていないものに応用は無理。
出来ているというのなら、
>>623が「西新」と書いているわな
これが何のことか、何を示すのか簡潔に述べてみることだね。
このあたりは検索しても出てくる。かなり詳細にね。
そういったひとつひとつの知識の積み重ねもせずに
妄想だとか詐欺だとかを連呼しているのが、ここの九州説だろ?
だいたい九州説から西新の話が出ないことがまず信じられない。
何度でも書くが、そのレベルでは理解できないから無駄。
628 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:24:35
>>624 せっかく書き込みをするなら、少しは畿内説のためになることを書け。
>>624 しかもニュース内容を読むと、アマチュアの珍説に会場は苦笑。とかだもんなwwwwww
630 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:26:28
>>626 www ディベート法なら講釈してもらう必要はない。いつも東遷でこれやってるじゃないか。ww
631 :
縄文人:2010/06/12(土) 00:32:53
>>古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり、両河川即ち福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられて
>いる。大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関係
>が注目される。
福岡平野全体と言えばおよそ2万戸の国だぞ。卑弥呼の時代の邪馬台国に比べれば中小と言えなくもないが、まあ大国だ。そこの前
方後円墳が大和地方の発生期のそれとほぼ同じ時期に築造されたと考えられるというが、実際はどうなのだろう。
畿内説論者はこれを以て那珂の国が大和に従属していたあるいは連合していたと考えるのであろうが、それ以外の考え方もできるだ
ろう。つまり、那珂辺りの勢力が大和地方に前方後円墳を持ち込んだかも知れん。いろいろな可能性があるのだから、そのうちの一
つを主張するからには十分な根拠が必要だ。その点はどうなんだ?
632 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:36:50
>>627 >何を示すのか簡潔に述べてみることだね。
君がどう解釈しているのかを書けといわれてもね。
朝鮮に近いところに朝鮮と関係の推認できる遺跡がある。
それだけのことで、近畿説を裏づける話にはならんな。
633 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:37:42
本は読まない。
ニュースは知らない。
知識は古い。
それが2ch九州説クオリティ。
634 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:40:19
とか言うものの、反論するネタはない、か。
635 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:40:31
>>631 www 直接証拠などはお互いにないだろう。というか、直接証拠があればこの論争はすでに決着がついている。「ゆるやかな連合」が
公孫氏と関係がつき奴国もその一員として加わった。理由はそれが利益になるから。後漢一辺倒だった伊都国は影響力を失い、平
原が最後の王か。・・・こう考えれば説明がつくことが多いというだけで、絶対こうだったと主張してるわけではないのは上レスを見ての
とおり。お前とは違う。
636 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:40:49
唐書に日本国の国の都は四方数千里(長里だと約1200キロ四方位、それにしても大きすぎる)
国都だから奈良のことです。南と西は海、東と北は大山が限界、その外(東と北)が毛人いわゆる先住民だ
(倭人伝の倭人ではない、毛人と書いてあるので蝦夷)という。
1200キロ四方もあったら東と北は海につきぬけるだろうけど、そこはおいといて。
毛人(蝦夷)はもうそのころは奈良に服属していたと近畿説はとるんだろうか。
3世紀から領土が東に増えないというのは不自然だもんねえ。
637 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:43:52
まあ、魏志倭人伝を全然読んでいない酷い連中が、畿内説を支持しちゃうんだな。
昨日今日のレスでよくわかったよ。
638 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:44:42
>>635 奴国は北九州だ。さんざん言われているように、古墳時代に入ってからはパッとしない。
衰退していったとみて間違いはない。連合に加わった「理由はそれが利益になるから」?
利益になってないじゃないか。北九州の大国が何で衰退の道へ飛び込むんだよ。
639 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:50:18
こんなこと言うが、考古学的物的資料だけで
歴史を推測するのは無理だ。
たとえばさ、
愛知県出身の徳川家康が、
京都の天皇によって征夷大将軍に任命され
東京に幕府を開いたなんて
1600年前後の考古学的資料だけみていても推測できない。
こういう話は、文字資料によって、はじめて推測できる話だ。
640 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:51:15
古墳時代にはヤマト王権なるものが誕生し、連合ではなく支配に入ろうとした。ま、それやこれや。ww
641 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 00:53:56
>>639 またバカレスが始まったか。ww それは文献資料が豊富にある時代で、考古資料をあたる必要がない。これを3世紀と比べるのは
詭弁。ただし、信長の安土城発掘など考古学でしか得られない成果もある。
信長の例でいうなら、比叡山焼き討ちに関して
信長公記が正しいのか、信長記が正しいのか
それを確定させたのは考古学だな。
643 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:00:07
>>529 >3世紀代の纒向古墳群のいずれか
一応その中には箸墓も含まれると言うことでレスさせてもらうが…
基本的に「蓋然性」の範疇と言うならそれには同意しても良いが
全長200mを優に超える箸墓とそれ以前の所謂「纏向型」(まあ、これでも十分大型だが)じゃあ
随分その性格も違ってくるんじゃないのかな?
それを一緒にして「何れか」と言うのはチョットアバウトすぎるような気がしないでもないw
確かに魏より冊封を受けその権力・威信の規模が飛躍的に増大。
それが巨大な墓の出現に現れている…と言うのは分かりやすいとは思うけどw
今まで倭人伝や記紀の内容に引っ張られて随分遠回りしてきたって経緯もあるし
そこら辺は慎重になりたいwwwwww
まあ「卑弥呼の墓」と言うなら築造の年代が数十年違えば全然違ってくる話だし
何れにせよ「卑弥呼の墓」は一番後に”おまけ”でくっついてくる程度に考えて委員ジャマイカ?
墓を先ず決めうちして…と言うのは順序が違うっぽくね?とwwwwwwww
644 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 01:03:44
>権力・威信の規模が飛躍的に増大。
これを維持するための政治手法は、屯倉経営である。
645 :
ローガン:2010/06/12(土) 01:05:40
>>571 > そういうことは、あちらの事情も考えないと。
そうですね。其のあたりの話は興味深い。それに中華の東夷観とかね。倭人伝は、韓伝と違い蔑んだ感じが見られないでしょう。
東夷伝序文に見えるのは、中華が礼を失した際に、その失った礼を四夷に求める。 漢書にみえる孔子の話に出てくる東夷。 そして萬里を超えた東の海中の倭からの朝貢…。(勿論、魏からの朝貢の打診があったと思うが)
儒教の聖地に住まう倭人が慕う天子とは、「我らが斉王である」と曹爽が演出した。妄想ですけどね。
追加で関係の無い話。書紀で武烈が悪く書かれている事も、東夷伝序文と繋がるかも。
直系が礼を失したら周囲にその礼を求める。 中央が無礼になっても周辺国には儀礼が残っている事は昔からの王家の徳化が揺るぎないものだからである。
と、武烈に対しては悪く云いつつ、実は天皇家への顕彰か。
646 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:06:18
>>643 まあ、少しまともな考えができるようになってきたか。
647 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:12:16
>>601 再度言うけど、日本語OK
話をそらしているところを見ると、自説の誤りは認めるのかな?
「東征直後に着ないが優位に立たなければならないという理屈はない。」でFAですね。
そこで、東征の痕跡ですが、多数ありますね。君が必死の形相で無視しているだけ。
畿内説の学者でも、「九州の痕跡はない。」なんてレベルの暴論は言わないよ。
竹やりでB29に対抗していた世代の名残かな。
648 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:13:58
>>645 日本書紀は、白村江以後の中国に見せるため、という編集意図も大きいという気がしますね。
649 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:15:26
>>639 文献資料では、記紀も旧事紀も古語拾遺も新撰姓氏録も全部が東征を
前提にしているが。
それを必死に否定して、否定したはずの文献を変造して、珍説を開陳してきたのが
戦後の左翼史観の連中だろ。
直木を筆頭として、あれはネタの宝庫だな。
650 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:17:58
ばーか
651 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:19:23
神武東征は紀元前だと文献にかいてあるのに、
3世紀だ4世紀だといってるほうが文献を無視してるじゃねーか。
ちっとはわが身を振り返れ。
652 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:20:58
記紀は、大和朝廷を唐に反抗した国家ではなかったと偽装している。
だから、たかだか数十人の神武を始祖として誇張して書いた。
その神武説話を、国家移転という東遷説だと思い込んでは誤りになる。
653 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:21:18
>>646 まともと言うか、「卑弥呼の墓」なんて問題は後回しにしても
畿内説の優位は微塵も動かないと言う話だなwwwwwwww
ここの九州説のアホどもは「箸墓=卑弥呼の墓」をひっくり返せば
畿内説がどうにかなると思って好んで批判対象にするが
まあ馬鹿どもはご苦労さんとwwwwwwww
654 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:22:51
>>653 いや、無理なのは畿内説。
蚕・絹・鉄鏃・魚蛤・冬の生菜食など、畿内では不可能な記述だ。
655 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:25:31
神武東征を認めるなど、皇国史観である。
戦前のように戦争を始める気なのか。
656 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:25:56
>>654 そういうのは、九州で見聞きしたことでOK。
畿内悦とは関係ない。
657 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:26:57
「宮室・楼観・城柵」が邪馬台国特有の建築物。
畿内にはない。九州にはある。畿内説はもう無理なのだ。
658 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:28:23
温暖なのが邪馬台国の特徴だ。畿内は普通に寒い。
それだけでも、畿内説は成り立たない。
659 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:31:34
で、何?
畿内からは九州の痕跡が無いってことまで、否定してんの?
銅鐸の消滅とか、三種の神器だけで東遷の根拠にしてんの?
それなら、銅鐸の消滅した時期=2世紀に東遷があったと主張すべきだろ。
東遷説なら、台与が邪馬台国を統治してた3世紀末まで、
畿内は銅鐸国家だったというわけだろ?
畿内のどこから、3世紀の銅鐸が出土してるんだ?
660 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:32:27
倭国は各地域が「国」と呼ばれた。
それは、環濠により防御された独立性のある外観を備えていた。
環濠があるのは弥生時代。
よって畿内説はあり得ない。
661 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:33:41
>>656 そうゆう詭弁を弄しなければならないところがつらいねえ。
662 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:35:30
>>654 サイキバレベルと言うか本人か?
いい加減学習しろ馬鹿、もうウンザリ…
それらが倭人・倭国の風習として書かれているのなら問題ない。
例え北部九州の描写であってもだ。
…ちなみに蛤(はまぐり)を潜水漁法でとると言うのは九州では例があるのか?w
細かく見れば「魚鰒」と「魚蛤」じゃあ話のリアリティが違ってくるんだが・・・
まあこれも散々外出ネタで枝葉末節wwwwwwww
>>658 温暖なのは倭国の特徴だな。
邪馬台国でも女王国でもない。
魏志倭人伝をもう一度読み直せ。
664 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:36:56
>畿内からは九州の痕跡が無いってことまで、否定してんの?
意味不明。何を言いたいんだ?
665 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 01:37:06
西暦42年 神武元年 第X様式の始まり
西暦209年 新羅本紀に伽耶の登場 任那建国
216年 垂仁元年 任那朝貢 これより大和に大量の鉄が流入する。
240年 景行元年 田道間守帰国 この代に屯倉導入、これが全国をまとめる手法である。
666 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:41:06
>>664 九州から東遷してきたなら、
人がいっぱい移住してきた痕跡があるはずだが、
そういうものは無いって言ってんだよカス(^O^)
667 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:43:59
>>660 吉野ヶ里の最盛期で環濠内1000人くらいか? 周辺合わせたクニの人口で5000程度。倭人伝の七万戸を信じるなら大変な
ことになるよなあ。あと、環濠と古墳は並存してるんだが。弥生とか古墳とか時代区分は年表にあるような縦一本線で分けられ
てるとでも思ってるのか、ボクちゃんは?
668 :
ローガン:2010/06/12(土) 01:44:01
>>648 > 日本書紀は、白村江以後の中国に見せるため、という編集意図も大きいという気がしますね。
漢文なので、主たる対象は中国人でしょう。よって朝貢を通使にといったみえみえの書き換えは、気がひける。
しかし天皇家の祖が朝貢していたとは書きたくない。 ここはスルーが一番の解決策。
669 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:44:51
>>666 文献は全部東征が前提だよ。この時点で痕跡ありまくり。
もっとも知的で信用できる痕跡ですな。
文献が捏造とかいう、捏造史観はもはやビョーキですね。
670 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:45:08
>>663 倭の地と書いてあるからって言いたいんだろが、倭の地全部の気温など体験で
きる訳がない。当然、体験した所、すなわち、原資料を書いた人物が居たとこ
ろのことだ。邪馬台国にほかならないよ。
671 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:47:19
>>647 >そこで、東征の痕跡ですが、多数ありますね。
一体何の話だ?w
文化の伝播・東進じゃなくて東征でないと説明できないようなものが何かあるのか?
その両者を峻別しないと前スレで出てきたように遠賀川式だの稲作自体も東征の証拠なんて話になるがwwwwwww
672 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:47:43
>>666 九州の習慣に従って副葬いっぱいの古墳まで造っているじゃないか。
大勢連れて行かなければ、あれだけの物はできんぜ。
673 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:52:05
>>671 >文化の伝播・東進じゃなくて東征でないと説明できないようなものが何かあるのか?
ビョーキだね
674 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:53:14
>>669 記紀を前提にした文献は、当然東遷も取り入れてるだろ。馬鹿馬鹿しい。問題は東遷が崇神帝のはるか以前の設定になってる
ということだな。この順序を崩して3世紀とかに持ってくるのは恣意的以外の何ものでもないだろう。ww 倭人伝を素直に読むとい
うなら、記紀も勝手に書き換えてはいけないね。
上でかなりレスしてるが縄文時代の東日本優位から、弥生の西日本優位(特に水稲耕作の伝播)への切り替わりのことなら、神武
帝の時代に合うし、文明史観の一種としてはありえるだろう。
675 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:53:16
>>669 神武東征は紀元前だ。勝手に文献を捏造するな。
>>672 九州の土器が畿内から出土しないの。
だから、九州から人が来たなんて証拠は無いの。
前方後円墳は九州の墓制じゃないし。
676 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:55:16
考古学的には、弥生時代の九州では、「特定個人墓」と言われる権力者の墓が
多数存在する。一方、本州ではそれがない。
つまり、弥生時代には九州に「王」が支配する国があったが、畿内ではそのような
国の存在は確認できない。
古墳時代になると、本州に「王」の支配する国が誕生した。
ダイナミックな流れで見れば、東征でしか説明ができない。
文献は全て東征を支持する。
677 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:58:20
>>676 で、東征してきた人々はどこに住んでたんだ?
マキムクは無人都市なんだろ?
神武東征では橿原に宮があったが、
橿原に3世紀の遺跡があるのか?
678 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:58:25
いずれここの九州説とはまともに議論にはならない。まあ2chだからそれも当然なんだが、画文=国産、庄内・前方後円墳=
九州発祥とか、もはや言ったもん勝ちの世界。だから最近は名無史でこっちも好きなレスさせてもらってるんだけどね。
679 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 01:58:32
>>675 だったら、畿内説では崇神天皇の実在を認めたら、崇神稜はいつの時代になるんだ?
景行天皇や、応神天皇はどうなる?
仁徳は?
ご都合主義はみっともないね。
>>676 >文献は全て東征を支持する。
しかし文献学者は誰一人、東征・東遷を支持しないというオチ
考古学だけじゃなく、文献学詐欺も叫ぶべきだね
681 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:00:35
>>679 崇神を論理的に3世紀にしたところで、神武東征は1世紀だ。
なんの矛盾も無いね。
むしろ、東遷説のほうが、文献と矛盾しまくりだろ。
>>679 認めたらって・・・何を根拠に認めるんだ?
おまい、記紀をそこまで無条件に信じてるんか?
彼らの実在なんぞ、誰も証明したことないぞ
683 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:02:27
>>676 >ダイナミックな流れで見れば
wwww 苦しいなあ。で、細かいことはまったくわかりません、と。wwww こんなループをいつまでもやってて、人生楽しいかい?
上で伊都国や奴国のことをかなり書いたけど(まあ間違ってるかもしれんが)、お前の東遷よりははるかに具体的なチャレンジだぞ。ww
684 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:03:09
>>677 マキムクが無人でも奈良盆地が無人なわけはないだろ。
盆地の中央やその近辺は、湿地帯とかで居住に適していなかったから、
別の場所に住んでいただけ。マキムクではないところに。
初期の王権は、城下町のような集落を形成していなかったという当たり前の
ことを前提にすれば良いだけ。
都市が云々というマキムク信者の主張が途方もなく異常すぎるだけ。
685 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:06:33
>>684 だから、九州から来たやつらは、どこに住んでたんだ?ってっての?
はっきり答えろボケナス。
686 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:09:27
>>685 はあ?
「マキムクじゃないところ」と書いただろ。
何丁目何番地とか分かるわけなかろう。お前はアホか?
687 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:10:18
東遷説信者の正体がこの程度だよ。
「東遷はあった」とか言いながら、東遷してきた人々が、
奈良のどこに住んでたのか、場所も特定できないという。
さんざん、畿内から鉄が見つからないことをバカにしてたくらいだから、
九州から人が移住してきた証拠くらい挙げてみろと。
当然、その場所からは、鉄器がたっぷり出てくるんだろうな?
鉄器も持たずに東遷してきたなんて言わないよな?
688 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:11:11
纏向に関して言えば、大和川水系は運命共同体で、大阪湾を封じられれば纏向自体が成り立たない。同様に遺跡の左右も
もっと広い。俺は「都市」うんぬんにこだわるつもりはないが、巨大な連合体の祭祀センターとかいえば満足するのかな?ww
689 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:12:28
結局ここの「東遷説」と「九州王朝説」がごっちゃになったようなシロモノは
「九州中心主義」「九州版皇国史観」が「大和中心主義」に取って代わろうって話wwww
…まあそこまで九州を中心に据えたいのならイザナギ・イザナミの国産みで
淡路島じゃなくて九州が真っ先に出来ていても良さそうなもんだがwwwwwwww
690 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:13:28
>>686 奈良には、多くの集落遺跡があるが、
そのどれかくらい特定してくれよ。
未発見の集落があると考えるなら、そう言えばいいよ?
691 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:14:02
>>687 それは諸刃の剣というやつだろう。
神武東征が紀元前としたら、その勢力はどこに住んでいたのか。
大和王権があるとしたら、その本拠地はどこなのか。
692 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:15:51
>>691 神武は橿原に宮を置いた。
橿原遺跡は縄文時代。
神武東征は紀元前660年。
なにか矛盾があるか?
693 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:16:47
>>690 お前は本当にアホなのか?
王族は数から言えば少数。
家臣の物部などの豪族も少数。
しかも、居住地域は大和盆地だけではない。
王宮の伝承地に集落跡があると、勝手に決め付けている信者と
一緒にするなよ。
694 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:17:04
>>689 そうか、淡路島が一番大事か。大和じゃなくて残念だったな。
695 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:20:26
>>693 結局、具体的なことは「わかりません」かよ。
話にならんな。
所詮、この程度のクズなんだよ。東遷説なんてのは。
>>693 いやそのマキムク信者とかいうやつも
恨み節クンの脳内にしかいないやつだから
普通の畿内説でおk
697 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:21:29
698 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:23:51
>>687 まあ普通なら
出発の地の遺跡(邪馬台国東遷説なら邪馬台国と言うことになる)を見つけ
到達の地の遺跡(奈良盆地の何処か)を見つけ
両者の間に直接的な人口の移動を想定できるような物を見つけて
(スタート地点のA、ゴール地点のB、この二つの点を線で結びつけることが出来て)
初めて東遷説なんてものは成り立つんだろうが…
邪馬台国東遷説ならそのスタート地点も分からない。
ゴール地点も纏向じゃあつじつまが合わない。
…結局記紀の「神武東征神話」以上のものは出てこないって話だなwwwww
東遷や東征の否定なんて、前方後円墳ひとつで十分だからね。
仮にそいつが九州発祥だとするならば、発祥の時点で吉備・出雲・播磨・畿内・讃岐などの影響下にあることになる。
そして九州が初めてマキムクで前方後円墳をつくったとするならば
支配したはずの九州は副葬品だけ豪華にして
墓の形から葬送儀礼まで、よその宗教にお世話になっているということ。
支配者のくせに、葬式はホームレスの無縁仏のようにすべて相手まかせ。
そして副葬品そのものも九州のものはなくて、吉備やら大和のものばかり。
九州軍団はまさに手ぶらで来てそこで死んで、九州以外の宗教で葬られて全滅しましたとさ。
700 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:33:21
>>699 まあそうだけど、ここの東遷説は、九州無敵軍団は各地で連戦連勝、特殊器台なんかも取り入れた上で畿内に乗り込んできたとか
平気で言うんだよ。ww
701 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:33:21
>>698 東遷説は、出発点は九州のどこか、到達点は大和のどこかでいいんだよ。
最も重要なのは、古墳時代を築いた勢力がどこから来たかということだから。
どんどん細かいところを追及するのは嫌がらせというもの。
畿内説の場合はもっと漠然としているだろう。ゆるやかな連合なんて
いったいどことどこが連合しているのか、なぜ連合したのか、なぜ卑弥呼が
共立されたのか、なぜ大和でなくてはならなかったのか、何一つはっきり
したものはない。
自分たちはものすごくいい加減なものを主張していながら、相手には嫌がらせ
のような細かいことを説明させるというのはおかしいと思うが。
>>701 安本先生と古田先生が二人して泣くぞwwwwそれwwwwww
>>700 そういうのはもう無視していいんじゃね?
というか同じ九州説や東遷説がそんな戯言を認めるはずないと思うのだが、ここだけは「特殊」なんだろうな。
704 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:41:37
>>701 そういう話では全然ないんだが、理解力がないのか。「ゆるやかな連合」説は数々の発掘成果にそれなりに合うし、東遷説はまったく
合わないので、学者でも安本のような一部が主張するだけになった。これは詐欺でもなんでもなく、時代の流れというか学問の進歩。
この流れは発掘が積み重なるほどに強固なものになっていくんで、東遷説はそれこそ「ゆるやかな死」の途上。ここで頑張ってる東遷
厨なんかは流れの途中に引っかかった化石のような存在で、待っているのは「苦の世界」。
705 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:42:17
>>701 >最も重要なのは、古墳時代を築いた勢力がどこから来たかということだから。
その前に古墳時代が 「どこから来た」勢力によって始まったと言う根拠を出せって話だなwwww
元々自分達で壮絶アクロバチックな説をとっておきながら
「細かいことは言うな」
じゃあ話にもならない。
甘えるな。
706 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:42:28
>>702 だいたい、一番基本的な纏向がどうして邪馬台国の候補地になるのかも
はっきりしていない。この根拠を言った畿内説にお目にかかったこともない。
一度、各地の土器があるからだというのを聞いたことがあるが、どうして各地の
土器があれば邪馬台国の候補地になるのだろうか。
そんなことは倭人伝には書いてないが。
707 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:44:45
邪馬台国の条件は、蚕を飼い、絹を生産していることだな。
畿内は絶望的だな。
708 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 02:51:36
>>704 古墳にしても、結局は首長墓。銅鐸を尊重するような社会からは生まれない。
古墳時代に重要視されている鏡も九州では弥生中期からある。
棺の内部を朱で塗る習慣も九州では中期以前からある。
剣を副葬する習慣も九州のもの。
つまり、弥生九州と古墳大和には文化的な連続性が認められる。
一方で、畿内あたりの弥生文化と古墳文化には連続性が認められない。
棺の副葬品、あるいは近畿地方あたりの銅鐸には宗教性がある。
こういうものは、簡単には変えられない。
異なる宗教がぶつかったとき、生き残るのは強者のものとなる。
その意味でも、東遷の可能性が大きい。
>>706-707 >一度、各地の土器があるからだというのを聞いたことがあるが
一度かいwwwwwwww
こんなのは 常 識 ですがな
>邪馬台国の条件は、蚕を飼い、絹を生産していることだな。
君は三内丸山でも養蚕跡があるのを知らないんだね。
絹なんて日本各地で養蚕形跡が出土しています。
蚕の死骸も出雲で出土してますが、何か?
>>708 >異なる宗教がぶつかったとき、生き残るのは強者のものとなる。
>その意味でも、東遷の可能性が大きい。
はーい、ぶつかった挙句九州の痕跡は消えて、吉備や阿讃の特徴が顕著でーす!
つまり九州は負けましたってのでおk?
711 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:00:01
>>709 だから、各地の土器があればどうして邪馬台国なのかということなのだが。
倭人伝に書かれている国の様子は、「宮室・樓觀・城柵」だろう。
考古学的にはこれが出ている吉野ケ里を邪馬台国にするのが常道だと思うが。
そうでなかったら、考古学は何の意味もない。
にもかかわらず、「宮室・樓觀・城柵」を無視し、勝手に土器を邪馬台国の
根拠にする考古学とはいったいなんだろうと思う。
>>706 貴方とはいいお友達でいましょうね
貴方の想いに答えられるほどの女ではありません。
この文章のどこに、俺が嫌いだと書いているのか?
むしろ彼女が俺にふさわしくないと卑下していながら、待ち焦がれているのではないか?
ストーカー?そんなことは手紙には書いていないが。
713 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:03:06
>>710 鏡を尊重する文化、剣を副葬する文化、棺の内部を朱で染める文化が
吉備などで九州より先にあり、九州よりも顕著だったらね。
>>711 すまん、今人生で初めて、リアルタイムで吉野ヶ里=邪馬台国に遭遇した。
記念パピコ&記念写真よろしいですかぁwwww
高島忠平先生もお喜びでしょうね。
あ、笑って笑って、はいヒ〜ミ〜コ〜
715 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:05:59
716 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:12:09
>>712 いろんな弥生時代の遺跡が見つかっている。吉野ヶ里もあるし、平塚川添も
あるし、方保田東原もある。発掘調査がされているが、何という国なのか
わからない。考古学とはそういうものだろう。
古墳も同じで、黒塚古墳なども調査されたが誰の墓かわからない。
だいたいそんなものだろう。考古学ではそういうことはまずわからない。
歴代天皇の古墳などの比定と同じように文献に頼る以外にない。
だったら、邪馬台国について書かれている唯一の文献である倭人伝を
尊重するのが当然だろう。
なのに、文献を無視して考古学では纏向が邪馬台国だというのはおかしいと
思うが。しかも、根拠が各地の土器とは、まさに恣意的の一語だろう。
717 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:19:43
>>716 それ以前に集落の痕跡が出ていないのにあの騒ぎ方は宗教そのものだろ。
見ていて怖くなる。学者のやることではない。
718 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:20:05
>>716 >邪馬台国について書かれている唯一の文献である倭人伝を
>尊重するのが当然だろう
しかし魏志倭人伝の記述は東遷説とは程遠く(そんな記述は一切ない)
記紀の記述は紀元前660年が神武東征だと主張し
日本書紀は神功が卑弥呼かもしれませんねえと曖昧な見解を残し
考古学より先に、文献学が真っ先に東遷を否定しているというこの冷徹な事実。
ご愁傷様です、ちーーーーん。
720 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:32:49
>>714 ハイ、そこ、はしゃがないw気持ちは分かるがwwwwww
まあアレだ「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」と言っていたが
いつまで経っても邪馬台国は見えてこず
仕方ないから吉野ヶ里を邪馬台国にしなければ無くなったって所だろうwwwww
邪馬台国を環濠集落としているんだからそれでも良いんだろうが…
その人口七万戸の中心の集落にしては無理があると思うし
卑弥呼に仕えた奴婢だけで千人いるはずじゃなかったのか?wwww
あとは百人の徇葬跡のある径百歩の墓も欲しいところw
ついでに行程記事とのつじつまあわせも聞いてみたい
…もちろん話のネタとしてだがwwww
721 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 03:34:44
>>719 神武東征の紀元前660年を本当だと思っているのかな。
その頃の伝承・記録が残っていると思っているのかな。
初期の天皇の年齢からもわかるように、記紀の初期は年代が引き延ばされている。
こういうのは当然だと思うが。
日本の場合、きちんとした記録がなかったので、記紀の初期の年代について
は非常にあやふやになっている。だから、修正が必要。
神武東征の相当する出来事があったとすれば、その時期は遺跡的なものや
文化的な変化も考えるべきだろう。
その意味でも、銅鐸の消滅や古墳文化の誕生が画期となると思う。
>>643 www
レスサンクス。
>墓を先ず決めうちして…と言うのは順序が違うっぽくね?とwwwwwwww
そういうことではないのさ。
邪馬台国=畿内、であり、纒向=女王之所都、ならば、
そこから箸墓=卑弥呼の墓が導き出される、という順序だろう。
>それを一緒にして「何れか」と言うのはチョットアバウトすぎるような気がしないでもないw
答えてもらいやすいように、あえて一緒にしたのさ。それはわかってもらえると思うが。
>確かに魏より冊封を受けその権力・威信の規模が飛躍的に増大。
>それが巨大な墓の出現に現れている…と言うのは分かりやすいとは思うけどw
そのとおりだろ。
>そこら辺は慎重になりたいwwwwww
確かに物証を挙げて論ずるにはまだ脆弱かもしれない。
ローガンさん自身も「つっこみどころ満載」と言っている。
それをあえて主張することにおもしろみがあると、最近感じるようになってきた。
>「卑弥呼の墓」は一番後に”おまけ”でくっついてくる程度に考えて委員ジャマイカ?
いや、(仮説で良いから)全体像を構築して、歴史観を語るのも委員ジャマイカ?
ディスカッションを楽しむだけなら、そうでもないだろうけど(ま、2chだから)。
>>552 >邪馬台国が公孫氏との朝貢関係などがあったとしたら、
そう考えて委員ジャマイカ?
建安中,公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡,
遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。
邪馬台国の滅亡 294
大和王権の征服戦争
邪馬台国論争を解決する鍵は『記紀』にあった。大和政権は、どのように九州北部の邪馬台国を滅ぼし
全国を統一したのか。真実に迫る!
著者 若井 敏明 著
出版社: 吉川弘文館 (2010/03)
目次
邪馬台国と大和政権―プロローグ/倭国と邪馬台国(倭国と大和王権/倭国の内部事情)/
大和王権の発展(大和王権の原型/祭祀体系の成立/四道将軍の派遣/出雲と但馬の服属)/
大和政権の起源(三代の王宮/神宝と王権/神武東征)/邪馬台国の滅亡(卑弥呼以後の倭国/
地方支配の拡充/倭国の滅亡)/大和政権と征服の思想―エピローグ
内容説明
邪馬台国論争を解決する鍵は、『記紀』にあった。『古事記』『日本書紀』を読み解けば、邪馬台国の所在地が
九州北部であることは確実となる。そして、大和政権の勢力伸張が、邪馬台国の滅亡につながっていったこと
を論証。畿内の地方王権にすぎなかった大和政権が、どうやって各地の地方王権を服属させ全国を統一
したのか追究し、新たな古代史像を描く。
ttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b56094.html 歴史文化ライブラリー294 邪馬台国の滅亡―大和王権の征服戦争 [著]若井敏明
ttp://book.asahi.com/booktimes/TKY201003240212.html
>>575 >もう東の果ての島国などにかまっちゃいられない
呉を滅ぼして再統一ができた後は、倭を厚遇する必然性が薄れたとしてもおかしくないだろうね。
ただ、「晋書」「帝紀」には、東夷諸国の朝貢記事が多く見られる。
>>581 >国と国が直接交易するのではなくて商人(商団)が間に立てばいいことで、
この時代(弥生時代後期後半)に商人という存在が成立し得たと思いますか?
729 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 06:34:35
天火明命と高天や高尾張のことを着目しないと
邪馬台国問題も永遠に解けないよ。
つまり葛城がキーワード
731 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 07:00:13
>>708 九州勢力が畿内を征服したということは言われるとおりだろう。
ただ、九州勢力が、九州を捨て、本拠地を畿内に遷したのかとなると、それは
大きな疑問がある。畿内の土器がたくさん吸収に流れ込んでいることからしても
物資は九州に送られているんだ。本拠は九州に残されていた、つまり東遷ではな
く東征しただけだって考えるべきだろう。古墳時代に入ってからも、後々まで九
州の色彩が消えないのもそれを裏付けている。
732 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 07:32:05
>>722 >邪馬台国=畿内、であり、纒向=女王之所都、ならば、
>そこから箸墓=卑弥呼の墓が導き出される、という順序だろう、
邪馬台国=畿内、も、纒向=女王之所都、も、箸墓=卑弥呼という思い込み
から出た話だぜ。箸墓がなかったら、畿内説は生き延びてこなかっただろう。
733 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 07:59:00
>>724 記紀に頼って記紀がほとんど無視している北九州説をいうのは無理があるな。
>>732 何にも出てこない九州はゾンビという事かw
738 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:05:56
>>737 たくさん出ているよ。いいかげんな主張をしないだけだ。
739 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:09:34
>>738 何がたくさん出てるって?
一個でいいから挙げてみてよ。
740 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:20:19
日向の古墳、住居址、遺物。個別にはあげきれない。
741 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:37:37
>>709 そうだ、そのとおり、畿内は邪馬台国候補から、完全に外れることがおわかり?
742 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:39:51
>>740 で、それがなんなの?
卑弥呼の墓はどれ?
一例でいいから挙げてみてよ。
743 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:42:15
ジンギスカンの墓が見つかれば、卑弥呼の墓も見つかるだろうな。
卑弥呼の墓は直径が35mぐらいしかないし、薄葬で土盛りもすくない即席塚だからな。
ところで、畿内には宮室・楼観・城柵が出ている所があるのかな?
なければ、畿内で邪馬台国探しは諦めたほうがいいだろう。
745 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:45:12
まあ、生目1号墳あたりが候補の一つかな。
大きさは百数十メートルまで。槨がないもの。
それが候補を選ぶ目安になる。上の古墳が槨があるかどうかは知らんが。
747 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 10:48:22
748 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:01:50
>>731 >九州勢力が畿内を征服したということは言われるとおりだろう。
そんな戦乱の痕跡はないようだが、どうだろう。
749 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:09:50
>>731 >九州勢力が畿内を征服したということは言われるとおりだろう。
そんなアホな主張をしてる学者はいません。(自称心理学者一名を除く)
>>745 まあ日向説の根拠として生目古墳群を持ってくるというのは、比較的まともな考え方だわ。
そこは評価していい。
だがそこに宮室・楼観・城柵やら東征やらを継ぎ足すから話がおかしくなる。
ましてや薄葬(これは別人か?)とか言い出すと、完全に電波。
基本に戻って生目や西都原に絞って、判明していることをもっと調べればいいと思う。
751 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:11:43
瀬戸内海の高地性集落を見れば、戦乱の世が随分長く続いたことがわかります。
それに、敵が攻めてくると、見張り台で狼煙を焚いたり、晴れの日には鏡を使って光通信をしたりしていたのです。
卑弥呼の鏡は通信手段に使われていたことはあまり知られていませんね。
752 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:16:49
私は甕棺が倭人の墓だと思う。
もとは土で封じて冢を作っていたと思う。
甕棺には絹が付着していたりするのでまちがいないと。
日本は縄文人(毛人など)、次に倭人、次に高句麗系騎馬民族、次に百済系騎馬民族だと思う。
高句麗の数詞が日本語に残っているのも中間の高句麗系騎馬民族の影響だと思う。
であるから甕棺にみるように当然邪馬台国は九州にあってそれはその後の倭の五王(倭大王 鉄剣のワカタケルなどがそう)、そして九州の秦王国にいたタリシヒコ(日本)に繋がっていく。
倭の五王は先祖からみな鎧(よろい)をきて征服に走りまわり、一時も休む暇がなかったと
中国に上表しています。
倭の五王が前方後円墳の主です、前方後円墳が半島南にあることからもそれが解せます。
というのは上表書に海北(半島南)を征服すること○国とありますから。
実は倭の五王は半島から渡ってきたので、半島から九州四国に拠点を移したわけですが。
ですから藩を外に作ったと上表で言ったわけです。東に毛人を○国というのは四国のこと、
西に衆を○国というのは九州のこと、海北に○国は半島南のこと。(中国史書参照のこと)
ですから前方後円墳が半島南に存在するわけです。
つまり畿内説者は時代が一個ずれて解釈しているわけですよ。それで倭人の邪馬台国が畿内にあったという
トンチンカン振りを披露していると。そもそも突っ込みどころ満載なのに、妄想で処理して根拠がない、
まずこれだろうという想像が基点になっていてそれを基こじつけている。
そういう作業はアホでもできる。いろいろな本を読んでいてもそれの受け売りばかり。
学歴を鼻にかけるようないばりくさったレスしても中身は幼稚そのものだ。
753 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:18:23
754 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:23:42
同意。伊勢遺跡こそ邪馬台国の中心地。
30国が一堂に会することができる迎賓館もあった
卑弥呼の住む邪馬壱国かどうかはわからないけれど、
帯方郡の使者が招かれたのはここだろう。
755 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:25:00
>>752 ×東に毛人を○国というのは四国のこと、
○東に毛人を○国というのは中国地方のこと、
>>752 もう最初の5行だけで、そりゃああんた馬鹿にされるわとしか言いようがない。
>倭の五王が前方後円墳の主です
>つまり畿内説者は時代が一個ずれて解釈しているわけですよ。
それ畿内説とか邪馬台国とかの些細な問題ではなく
日本史そのものが大きく間違っているという主張だね。
そいつは半島起源説という、朝鮮人の妄想で、実は韓国の学者さえ認めていない民間の都市伝説だわ。
しかしそいつを敢えて主張するのなら、堂々と自分の立場を言えばいいのに
学歴がどうとか、コンプレックス丸出しなのはどういうことかしら。
757 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 11:29:14
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html 馬韓百済建国と北方系渡来人
3月, 夫余の 流民30戸がまた 来降した. 夫余と 倭が 相通(上通)したら, 毎年その民たちを
受けて, 都邑と田舍に 散置させた.←注@、
倭の臣下 熊彦(千熊長彦)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉
にたくさん従った. それで 国人(平州住民)らは 異反(離反)して, あるいは私たちに, あるいは
高句麗に帰属した。
323年東晋は、洛陽奪回を断念する。平州方面は切り捨てと云うことだ。
この当時の東夷校尉は、遼東に居留地を構えていたから、そこに東夷軍は居たと思う。
東夷軍は任地を離れるにあたり住民に説明をする。
軍の居なくなった市街地は、盗賊の跋扈する処となることを。そこで住民は自分たちの
行く末を考え、残るか、どこへ行くかを決意する。
そして多くが千熊長彦に従い、倭国へ渡来する事となる。
百済に残る人々の為に、半島の小国家群を再編成し、その領土を百済に分与する。
注@、馬韓百済の始まりであろう。そして遼西にも進出か。
326年 七支刀がもたらされる。
日本に北方系の遺跡が多いのはこの為である。
当然これ以前の渡来を否定するものでは無い。
758 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:32:21
>>756 身におぼえがあるから出てきたんでしょう?www
もっとましな反論したらいいのに、出来ないから否定ばかり。
たぶんここで主張している人は気づいていないのだろうけど
九州王朝説というのは、実は半島起源説と全く同じ主張をしている。
あまりイデオロギー批判はしたくないのだが、古田さんはバリバリのサヨで
どうやらそれが根底にあって記紀批判を展開しているわけだ。
これは思想の問題であって、学問とは無縁のもの。
九州王朝支持者は、少なくともここは自覚しているのだろうか?
反対にウヨ史観というのもあるが、これはもう記紀を疑うべからずというのが基本。
これについてはまた機会があれば詳細を述べる。
760 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:34:17
箸墓古墳が卑弥呼の墓ではない理由ある?
ももたん=卑弥呼でおk?
同系統の種族が半島側と列島側に住んでいたからといって、
列島側の首長が半島人だというのは誤りだ。
>>758 反論って・・・wwww
徹頭徹尾間違っているレスに、どこから突っ込んだらいいものやら。
反論とか言うけど、これってどこから教えてあげたらいいのかってレベルなんだわ。
>>752を1行目からひとつずつ間違いを指摘すればいいわけ?
763 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:38:19
山口百恵が美空ひばりだった・・・みたいな強引なせrつですね。
>>760 それはまだ判らないというか
モモソちゃんとヒミコたんの実在と
箸中山=箸墓なのかの証明をしてからだね。
765 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:41:28
>>759 思想で歴史を語って意固地になっている人がいるかも知れないとは思うけど、
趣味で歴史を知ろうと勉強している人はウヨ、もサヨもない。
本当の日本の歴史を知りたいだけ、その好奇心だけです。
とにかく面白いですから。2chの書き込みのことではないですよ。
766 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:41:28
>>759 古田の世代のいわゆる文化人は、9割以上が左翼出身だ。
たとえば石原都知事もバリバリの左翼だった。知らないのは君だけだ。
で、マルクスに共産主義宣言を書かせたのは、巨大資本家ロスチャイルド
だったって分かって言ってる?
767 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:46:26
歴史に関係ないネタを持ち込むのは
敗北宣言ですので
768 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:46:50
>>760 >箸墓古墳が卑弥呼の墓ではない理由ある?
それはね、発掘してないから。
>>766 そんな一般論をしているわけではないんだけどねwww
古田さんの九州王朝説は、いまでも左翼思想を原点としてそこに立脚しているという単なる事実を述べただけで。
でもそれを言われるのは嫌なの?
770 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:50:57
>>769 いや、「左翼思想は反社会的思想であり九州王朝説は反社会的思想の産物だ」と
君が思い込んでいることだけしか分からないが?
畿内説を唱えている連中もほとんど左翼出身なわけだが
772 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:52:05
>>762 一行ずつ丁寧に反論すれば?人の受け売りじゃだめだよ。学者がこういってるとか。
盲目的に他人の説を受け入れるのは自分で考えようという気がない証拠。
一番それが楽な姿勢だよ、他人の受け売りで知ったかぶりしているわけですから。
773 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 11:53:49
畿内説は左翼思想の産物っていうことで
>>769は納得するだろう。
>>770 違う違う。
左翼が反社会的だとは全く思ってない。そんなカビの生えた認識など持っていない。
ちらっと書いたけど、反対にウヨ史観という戯けたものもあるわけだ。
つまりイデオロギーに立脚した考え方を、学問に持ち込むなって言いたいのよ。
>>752とか読んで、貴方はそうは思わないの?
>>772 それは正論に見えて、実は大きな間違い。
自分で考えてその結果が
>>752だったら、私はアホですって言ってるようなものじゃん。
776 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 12:00:26
>>766 あのころの知識人は多かれ少なかれ、左党を舐めてたということ
だな。これで津田のような欠歯八代が代歯脱多のフガフガになり、
もう治癒できにくい盲象の歯層脳労の状態になった奴が大勢出たと
いうことだ。そのころの象牙の塔の連中も殆どが歯科医糖と強酸糖
をたらふく舐めてフガフガの欠歯八代の代歯脱多になっていたのだ。
そいつらのシソー(歯層)は餌舐める質の中の象牙質までやられて
おり、歯層脳労のペーハーはリトマス歯見史を真っ赤々に赤変させ
る検査結果となり、円旗政でも忠政でのなく参政なるも強酸政の
紀見なシソー(歯層)の状態にある情けないフガフガに成り果て
いたのだ。ここでもそういう奴が結構いるらしいい。w
ちょうどいいところに、
>>776という痛い馬鹿ウヨ史観が登場してくれたわ。
な、俺の言うところが判っただろ?こういうのが要らないんだ。
>>764 証明には何が必要なの?
倭人伝の記載どおりの作りの宮殿跡とか漢の封泥の発見とか?
それとも邪馬台国のことを書いた新しい資料の発見とか?
>>778 >邪馬台国のことを書いた新しい資料の発見
それ無理というか今更そんなものが出てきても間違いなく偽書だろう。
>倭人伝の記載どおりの作りの宮殿跡
倭人伝の記述そのもの信憑性があやふやなので、仮に纏向から記述どおりのものが出てもそうとは言い切れない。
傍証にはなるだろうが、決定打ではない。九州や吉備で出てもそれは同じ。
>漢の封泥の発見
漢でなく「親魏倭王」の封泥が、たとえば集落内の居館や副葬品を納めた壷あたりから出ればいいのだが
本来封泥というのは、こっちで押して魏に送るためのものだから、出る可能性は低い。
しかし唯一現実的に可能性があるのはこれのみだね。
780 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 12:15:59
>証明には何が必要なの?
書紀を正しい歴史の長さにする。
その上で、それらを編年にあった年度で検討する。
正誤はともかく、それをしているのは私です。
>>768 発掘を許可しないことをいぶかしむ向きもあるわけね
>>781 あまり陰謀論に走らないほうがいいよ。
これは貴方に向けてではなく、一般論としてね。
宮内庁が指定墓や参考墓の調査や発掘を嫌がるのは
単に自分の責任で許可を出すのが嫌だという、セコい役人根性によるものだから。
しかしそれで突っぱねられるものでもなく、実は昨年から宮内庁・奈文研・橿考研らが合同で
箸中山の表土剥ぎ取りとそれに続くトレンチ試掘にまでこぎつけている。
あとはもっとプレッシャーをかけて、解体発掘に向かって進めばいい。
大仙や行燈山や渋谷向山にしてもすでに実地調査が行われることは決定しているから。
ごく一般的な日本人の感情として、陵墓の中身を人目にさらすというのは忌避されて当然でしょ。
御神体を隠す神道の感覚が、年寄りほど強く残ってるだろうし、
突然出てきた遺跡と違って、誰かを葬った墓という生々しさがあるし。
考古学とか邪馬台国とかに興味ない人なら、
わざわざ掘れなんて言わないよ。
784 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 13:00:19
たとえば 箸墓がモモソ媛の墓ならそれほど問題は大きくならないだろうが
箸墓が箸陵であった場合だ。
天武天皇元年(六七二)七月壬子《廿三》當上道戰于箸陵。
陵とは、天皇の墓である。
宮崎県は口蹄疫問題のせいで、すべての公共機関が休館しているそうだね。
図書館や博物館も休館で、繁華街はガラガラ。
考え方は支持しないが、日向厨はめげずにがんばれよと畿内説からエール。
786 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 13:12:09
箸墓が箸陵であった場合
箸墓は、250年±10年の築造とすると、
239年垂仁崩御
261年景行崩御
候補はこの2人だ、私の考えでは全国をまとめた景行の陵となる。
築造を考えても、垂仁は崩御した年に葬られるが、景行の崩御前は関東に下向後
近江に留まり、そこで崩御する。
ここに寿陵の建設期間がある。
787 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:17:34
>古田さんはバリバリのサヨで
九州王朝説の熱心な支持者に上岡龍太郎シショーがいたが
昔、つるべとの深夜のトーク番組(関西ローカル)で「天ちゃん」発言しとったなwwww
右翼も色々だろうが今時「万世一系」に拘泥しなけりゃやっていけないなんてのは
流石に先が無いんじゃないのか?wwwwww
この板でもっともイデオロギー闘争を好むと言えば
「恨み節の東遷厨」だろうがw奴に言わせると「ゆるやかな首長連合」はサヨ思想の産物らしいw
が見方を変えれ天皇(大王)がその始まりにおいて「かつがれた王、神輿のような存在」であったなら
今の象徴天皇制はむしろその原点に帰ったとも言える…かもしんないw
(…実際、以前に女系容認・皇室典範改正の問題が持ち上がったとき
明治天皇の玄孫、旧宮家の竹田恒泰がその内容を言っていたw)
つまり天皇の元々の姿は民主主義と実に相性がよろしいとwwww
まあ見方により解釈により色々って話だなwwww
ウヨサヨのイデオロギー論争持ち込んでも「九州説」まして
「九州王朝説」だの「邪馬台国東遷説」だのが浮かび上がる事は無いから諦めろアホどもwwwwwwwwww
788 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:20:44
>>785 >考え方は支持しないが、日向厨はめげずにがんばれよと畿内説からエール。
うむ『 トンデモ九州説憎んで古代九州憎まず 』が基本だなwwwwwww
789 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:22:55
>>787 いやいや、「天ちゃん」は警察官僚がみんな使っている呼称。
もちろん天皇陛下を警護する側なわけだが。
790 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 13:24:24
>>786 へ追加
そして仲哀(266年即位)は、陵域の池で白鳥を飼う。
この時点で白鳥を飼えるのは、箸墓だけだろう。
むしろ、左翼呼ばわりしないとやっていけない畿内説こそ、存亡の危機だろう。
詐欺ばかり唱えてきた畿内説の歴史が、国民にバレつつある。
>>782 ふむふむ、では論争を終結させる可能性のある調査は始まってるのか。
>>783 それ以外の理由について云々する向きがあるんだな、という意味。
つまり、明らかになったら何か困るから許可しないという考えのこと
793 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:43:02
794 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:49:16
宗書倭国伝の宗順帝期(478年)に東毛人五十国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国とあります。
このときの東毛人五十国が中国地方、西服衆夷六十六国が九州、渡平海北九十五国が
半島南と解せます。祖先はやすむ暇ななく鎧をつけ山川を越え渡り征伐し国土を広げたとあります。
西服衆夷の西とあることから、その時の倭国の拠点は中国地方だったと思います。
また毛人の他に衆夷という敵がいたことがわかります。衆夷はつまり民衆の敵国です。
毛人がもう出ているので残るは倭人の国々のことです。ですからやはり邪馬台国は九州にあったということに
なります。国の数の多さ(得に南韓の)からも小さい国々であったことが想像できます。
おそらく南韓の前方後円墳のあった辺りと南の多くの小島の国の数だと思います。
500年過ぎに近畿を拠点にして以西を支配下と思われます。
というのは唐書には670年、国都(奈良)の限りは北、東が大山でその外は毛人だからです。
500年から670年ころまでが近畿での大倭王の支配した期間だと思います。
そして九州から小国日本が来て政権交代になったと思います。
小国日本は唐の文化を積極的にとりいれて中央集権化を強めました。
大倭王時代の子孫の中には王朝交代前後してさらに東へ行き各地に前方後円墳を作って治め、
次第に日本に取り込まれていったのかもしれません。
795 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:51:35
どうして、日本の歴史を論じるのに、他国の魏志倭人伝を信じすぎるのかわからんわ、
日本人なら、記紀を尊重しろと。
ウヨクといわれようがなんだろうが、
自国の古文書を否定する歴史観を採用する国なんてねーよ。日本だけだろ。魏志倭人伝をありがたがるのは。
記紀で書かれてることは、神武東征は起源前。
景行天皇が九州を平定した。
考古学上も、それで何も矛盾は無い。
東遷説を主張してるやつは、倭人はずっと中国の臣下だったことにしておきたい売国奴だから気をつけろよ。
未来に向けても、中国が利するだけで、日本には何の得にもならない話だからな。
796 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 13:56:10
棋士倭人伝信用しないなら
卑弥呼、邪馬台国も無しな。
797 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:03:47
畿内説は、最近、宣伝を強化しているから注意した方がいいな。
邪馬台国は纏向、卑弥呼の墓は箸墓で決まり、というような文章をやたら目にする。
798 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:06:49
東遷説は、日本建国当初から、倭王は中国の臣下であり、
その後ヤマトで天皇になったと主張してる最低の売国奴。
そんな奇怪な説が一般化したら、国益を損ねるどころの話じゃない。
799 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:11:11
>>794 東と西を征服したのなら機内にあってもいいよね?
>>795 記紀みたら卑弥呼=ももたんってことになるんじゃないの?
海外資料で確認が取れるならいいことじゃない?
801 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 14:22:37
邪馬台国は纏向、箸墓は箸陵の間違いで決まり。
九州は有り難く卑弥呼様を大事にせよ。
802 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 14:35:56
巻向なんかに卑弥呼の国はな〜い。
803 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 14:41:55
唐松山と太国の罵倒合戦は卑弥呼スレでやってくれ
あとサイキバと東遷厨、この四馬鹿の無駄レスでスレの半分は損している。
このご時勢、スレ立ても一苦労なのだから自分の巣でやるように。
804 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:04:05
ふうむ、河童虫の廃業、改めドツボの失踪による新四天王か・・・これは創作意欲をそそる。
邪馬台国が九州にあって後に機内勢力に征服されたというのはまだいいとして
征服していくうちに機内に拠点を移していったというのはどうなんだろな。
これってまともな学問とはいえない分野なのか?
だからドンと来いなんだろうけど・・・
>>805 きちんとした痕跡があればどれでもおkだよ。
物証も状況証拠もなく、頼りは記紀の神武譚のみだから学問じゃないわけで。
プラトンの著書に書いてあるからアトランティスは実在したとかと同じレベルの話だ。
808 :
スレ馬鹿五人男@:2010/06/12(土) 15:19:20
問われて名のるもおこがましいが、知らざあいって聞かせやしょう。
生まれ持ったる法力は、金木・算木の古神道。倍暦なくては夜も日も明けぬ。
粘着上等、放言上等、罵倒自慢の「倍暦 太国」
>倍年はインチキであり、オマエの脳内の脳ミソが脳クソ状態になって
るときにオマエが考え出した醜怪なるデタラメ思考だ。ww
そうか、オマエの脳クソはメメズ以下の狭小か〜。www
どうだな。bibibiNNNNNNNNN→∞ と聞こえてきてるか〜?
809 :
スレ馬鹿五人男A:2010/06/12(土) 15:26:24
さてその次に控えしは、異様な呪文を操れる、心優しき魔法使い。
仇敵太国に罵倒じゃ負けるが、不思議な存在人後に落ちぬ。
マシに賭けたるこの命、ホツマ遣いの 「唐松山」
>ホ38096 ソフホハツハル ミノノクニ カンホネガメの ヱトトヲコ クニのイロなり
オオウスを やりてよばしむ オウスミコ ミノにいたりて スガタみて ひそかにめしつ
とゝまりて カエコトなさす コトシソヒ
810 :
スレ馬鹿五人男B:2010/06/12(土) 15:33:08
続いて次に控えしは、古くからいる住人で、名無史で書いてはいるものの、
知らぬ者なき東遷厨。昔はよかった恨み節、良かりしあの日に帰りたい。
怨念、怨念、また怨念。万年ループの「東遷厨」
>棺の副葬品、あるいは近畿地方あたりの銅鐸には宗教性がある。
こういうものは、簡単には変えられない。
異なる宗教がぶつかったとき、生き残るのは強者のものとなる。
その意味でも、東遷の可能性が大きい。
811 :
スレ馬鹿五人男C:2010/06/12(土) 15:41:54
またその次に連なるは、生まれ持ったる非才にて、さらに無学で無教養。
押しは強いが根拠にゃ弱い。厚顔無恥とはこのことだ。笑われ嫌われ
蔑まれ、多コテを用いて暴れるは、弥生大和湖 「縄文人」
>唐古・鍵の集落が存在していた頃の奈良盆地の(現在の)標高40m前後以下の部分は湖沼状態であった。
これは唐古・鍵遺跡の濠が水没した痕跡を示しているこ
812 :
スレ馬鹿五人男D:2010/06/12(土) 15:48:16
さてどん尻に控えしは、新参者ではあるものの、一日ひがなのレス三昧。
二言目には詐欺連呼、こんなレスしか書けぬのも中身がないから仕方ない。
ネット依存のひきこもり、はたまた真性アスペ君?その名も高き「サイキバ」見参!
>むしろ、左翼呼ばわりしないとやっていけない畿内説こそ、存亡の危機だろう。
詐欺ばかり唱えてきた畿内説の歴史が、国民にバレつつある。
これぞスレ馬鹿五人男!! いよ〜つ、ポン、ポン、ポン・・・。
813 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:54:35
邪馬(ジャマ)を邪馬(ヤマ)と無理やり読ませようとするからアホな論争が起きるんだよね
814 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:56:43
>>805 日本の歴史を見てみると、都を移したケースはたくさんある。
大和朝廷の場合は、コロコロ都を変えている。
古代はこれが当たり前だったのかもしれない。奈良から京都もあるし。
鎌倉幕府のようなケースもある。ほとんど未開の地に本拠地を置いたという
点で画期的だったと思う。
これと同じようなケースとして江戸幕府もある。
明治維新では、文字通り東京が首都になったが、政治は薩長の藩閥だった。
815 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:08:54
>>810 自分のことを言われているというのは分かるが、もう一人か二人の東遷説の
人とごっちゃになっていると思う。
816 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:12:20
>>815 あ、レスの引用間違えましたか。スンマセン。
817 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:14:47
>>815 ごっちゃにされるのは、君のレスが浅はかだから。
もっと身のある意見を披露したらどうかね?
819 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:55:09
>>816 いや、引用は合ってる。
古くからいるのも当たっている。
ただ、他の人が東遷厨とか恨み節とか言われていたからね。
820 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:55:26
821 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 16:58:12
ヤタガラスのような烏信仰は稲作民のミャオ族のものだ
そして稲作が最も早くスタートしたのは北九州だろ?
つまり九州の邪馬台国=日巫女を崇める稲作民が東にうつったのが神武東征だ
822 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 17:00:47
てんこう遺跡からは住居が出てきていない
つまり国家であった可能性は低い
箸墓古墳も卑弥呼とは関係ない
オオモノヌシと結婚したという記述があるが卑弥呼は生涯独身だった
ましてや敵の出雲人であるオオモノヌシと結婚などするわけがない
823 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 17:02:28
>>820 だいたい合っていると思う。
古事記も日本書紀もルートは同じだから。地名に少し違いがあるが。
ただ、高千穂宮を高千穂町とするのはどうかと思うけど。
824 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 17:39:34
>>818 がはは。
押しが強い・・・彼の奈良湖説を論破できる者がいないから押されていることは確かだわ。
825 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 17:53:57
>>824 奈良湖の吃水線は、夏と冬では大違いである。
冬の乾いた湖面の土が舞い上がることにより、遺跡を覆う覆土が深い。
この事実を40Mだけで説明しても難の役にもたたない。
だからだれも論破しない。
826 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:08:52
奈良県の弥生遺跡としては・六条山遺跡(奈良市六条西町)、・ゼニヤクボ遺跡(奈良市藺生町、都祁小山戸町)、
・多遺跡(磯城郡田原本町多、橿原市飯高町)、・東大寺山遺跡(天理市櫟本町)、・平等坊・岩室遺跡(天理市平
等坊町・岩室町・杉本町)、・清水風遺跡(天理市庵治町、磯城郡田原本町唐古)、唐古・鍵遺跡(磯城郡田原本町唐
古・鍵)がある。
遺跡が少ないし出土品にも金属器具が少なく、むしろ縄文時代の器物に近い物が多い。王墓と見られるものもない。
これらを見ると弥生時代の奈良はムラ〜クニ社会であったようである。したがって、3世紀に魏に朝貢を行える国が
この地に存在したとは想像もできない。
また、前方後円墳などの大型古墳はこの地の弥生遺跡とは文化的に断絶しており、外部から入って来た勢力によって
築かれたものと見られる。(やさしい考古学読本)
827 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:15:29
>>825 >冬の乾いた湖面の土が舞い上がることにより、遺跡を覆う覆土が深い。
君じゃ論破できないだろう。覆土が厚いのは大雨の濁流が川を伝って排出されず湖に溜まるから
だよ。
828 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:34:54
奈良湖なんてアホらしくて誰も論破の必要なんて感じてないよ。
寺沢の王権誕生、141ページの図をみりゃわかる。
奈良盆地の集落がいかに多いか。
829 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:39:34
830 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 18:55:31
831 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 19:00:08
>>829 そうだね。マキムクを作ったのは四国徳島だろう。
832 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 19:10:43
>>826 指摘は鋭い、しかし倭国乱は、垂仁が石上に剣を蓄えた次の時代
景行時代なんだ。
崇神世後半から先に挙げて戴いた遺跡は崇神の臣下である。
だから纒向遺跡に住民が居なくとも成立する。
九州説は、崇神時代以前で倭国乱を考えるしか、大和を上まわることが出来ない。
だから考古学の年代遡上を否定する。
833 :
よいこ:2010/06/12(土) 20:03:29
>>832 唐松山さんに質問。日本で倍暦は行われていたのですか?
834 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 20:12:12
崇神だ、垂仁だ、景行だって、そんな天皇が実在した証拠は何もないねえ。
記紀なんぞ、まったく信用できん。
835 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 20:13:11
邪馬台国だ、卑弥呼だって、そんな女王が実在した証拠は何もないねえ。
魏志倭人伝なんぞ、まったく信用できん。
836 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 20:15:23
奈良湖説? そんなの論破するのは簡単だろう。低い所にある住居址を
一つあげればすむことだ。
837 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 20:25:28
書紀は太陰暦で書かれている。
これを倍数で増やしても、朔を得られない。
朔を得る為には、太陰暦のママ引き延ばさねばならない。
これで解決する。
?解らない。
つまり太陰暦は19年7閏の積み重ねである。此を引き延ばすには、
19年7閏を差し込む、難解差し込んでも、見た目は太陰暦である。
しかしこのまま差し込み続けると、正しい太陰暦が解らなくなるから
各天皇でつじつまをあわせる、
つまり各天皇紀から19年*n回の空白年を差し引く。
これが正しい日本の太陰暦である。
>>834 書紀は太陰暦で書かれている、ある天皇をただ無くすだけでは太陰暦は得られない。
838 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 20:28:30
私の正しい太陰暦は、【理想】私の日本書紀【妄想】に掲載しています。
ただどう圧縮するかは、各自の勝手ですから、それで歴史が見えれば良い。
839 :
ローガン:2010/06/12(土) 20:41:11
>>826 >これらを見ると弥生時代の奈良はムラ〜クニ社会であったようである。したがって、3世紀に魏に朝貢を行える国がこの地に存在したとは想像もできない。
「朝貢を行える国」とは…例えば環濠など、典型的な弥生の特徴を持つ集落、このような地域完結型秩序の顕著なムラ〜クニは「朝貢を行える国」から除外されると云う意味ですね。
同意。
840 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 20:48:23
「圧縮」は唐松山の妄想から滲み出たインチキ語であり、真はまるでない。
このごろマシと言わなくなったのは、景行28年=景行40年 とかの古今
稀な妄想の自信が先代旧事本紀大成経からの
景行36年8月 五十琴姫が五十功彦命を生む
との明文に見事その自信が見事打ち砕かれ、奴の脳内の指令本部が
ざわついているからであ〜る。ww
841 :
ひよこ:2010/06/12(土) 20:51:05
>>840 太国さんに質問。唐松山さんの記紀の編年は信頼できるものですか?
842 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 21:00:18
ひよこさん
殆ど奴の編年はデタラメさ。崇神は開化から皇位を受けたのに、他人から
もう一つ王位を受けたとかいう古今未聞の論であり、さらには神功〜仁徳
間がその編年で三重在位(二重在位が三個)だとか抜かしている。
これを観るだけで、論外にインチキだと判明できる。さらに低級ムー民
(但し賢人ムー民もいる)らしき神功元年直前の紀の記事の天空暗黒の
数日間続くとかいう主張などヘボ将棋ならぬヘボ史容疑で、デタラメだと
の疑念は深まるばかりであり、七支刀銘文の■もノギヘンの検査結果が
出てるのに、奴はどこかのX線星から電波pipipiの受信を受けてるらしく、
ウカンムリだとの論を強行している。つまりイカサマ編年そのものである。
843 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 21:04:39
>>842 訂正
× 天空暗黒の数日間続くとかいう主張
○ 天空暗黒が数日間も日蝕が続くという主張
だが、唐松山の情熱だけはかうな。
よくも飽きずにあんなことやってられるなぁ。
845 :
ひよこ:2010/06/12(土) 21:13:34
>>842 そうですか。ありがとうございます。では、さらに質問します。太国さんは占事で
卑弥呼の容姿を幻視したというのは本当ですか?
846 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 21:21:39
>幻視
卑弥呼の姿は本物は分かりますが、去年少し卜事での材料配材を
一部間違えましたので、かなり本物に近かったのですが、
鉄人27号的でちょっと失敗がありました。やろうと思えば本年でも
敢行するつもりでしたが、アマテラスの件で配材の未確認個所が
あるため、もたついているところなんです。
ただこれは幻視という類のものではなく、マクモニーグル氏の
やり方とは全然別ですし、同氏の画いたものは真物ではないです。
これは氏に責任があるというより、ムー編集部関係者の
恣意的畿内説主導誘導から氏が錯誤したものと想いますが・・・?
847 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:27:15
>>839 >「朝貢を行える国」とは…例えば環濠など、典型的な弥生の特徴を持つ集落、このような地域完結型秩序の顕著なムラ〜クニは
>「朝貢を行える国」から除外されると云う意味ですね。
>同意。
魏にあのタイミングで朝貢を行ったということは、大陸および半島の情勢を把握できていたということ。
また、使節を送るには相応の経済力も必要である。環濠集落一つ程度のクニやムラに出来る事ではない。
外交や内政や軍事の組織を備えた国となれば人口も10万を越す大国であったろう。(やさしい考古学読本)
848 :
ひよこ:2010/06/12(土) 21:27:57
>>846 そうですか・・・ありがとうございます。「ムー」誌編集部は畿内説ですか。
849 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 21:29:52
あれを読む限り畿内説でしょう。そこから卑弥呼の居場所が二つ
あったとかで、同誌の記事になってたはずですがね。
850 :
縄文人:2010/06/12(土) 21:37:44
邪馬台国の人口に関しては推測の域を出ないものの、倭人伝にある戸数七万戸という記述から察して、かなりの数であったことは間
違いない。一戸の人数はなかなか難しいが、昭和初期の頃でも兄弟七〜八人という例は珍しくなかった。このあたりを参考に察するなら
ば、七十万〜百万の大規模国家であった可能性もあるだろう。当時邪馬台国は九州の三分の一程度の面積であったと考えられるので、
九州島の総人口は南九州が少ないことを考慮に入れてもおよそ二百万人といったところであろう。
これほどの大国家であるならば情報網も発達しておっただろうし、半島の異変をいち早く察して使いを送るなどはたやすいことだったであ
ろうな。この邪馬台国は三世紀にして強力な中央集権国家であり、北部九州には一大率を置いて衛星都市的に支配しておったのだろう。
この半島に対する地の利からも、邪馬台国は九州にあったとしか考えられないではないか。
851 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 21:40:42
私は以前から326年神功52年七支刀を主張していた。
今新たに 癸未年千熊長彦の資料が出てきた。
323年癸未 神功49年千熊長彦だ。
383年癸未 神功49年千熊長彦では、
七支刀の年を得られない。
この事実は何を意味するか?
神功49年千熊長彦は、半島の再編成をし、百済に領土を分与する。
これは倭王武の主張でもある。
七万戸というのは、平野が700里てことだよ。
イコール人口じゃあない。
どれだけの軍を駐屯できるかのキャパシティだよ。
853 :
縄文人:2010/06/12(土) 21:49:00
考古学を信奉する輩は九州には何もないというが、まだ発掘調査のなされていない地域が広大に存在することを考えればおこがましい
話としかいいようがない。吉野ヶ里遺跡が、周辺部を含めて五千人程度の規模であるならば、中部九州にはあのような遺跡は百個近く
眠っているのは疑いないと見ていいだろう。これは当時の東アジアにあって瞠目すべき大国であり、魏が冊封時に金印紫綬を与えたの
もまたむべなるかなである。
一方当時の畿内といえば、言葉はよくないが蕃夷の地としかいいようのない有様で、広大な弥生奈良湖のほとりで、細々と木器・石器の
生活を営んでいたことは、唐古・鍵遺跡の発掘成果が物語っておるだろう。そこに九州を出たあぶれ者、後に記紀によって神武天皇として
取り上げられる人物の軍団が攻め入り、亀の瀬を切り拓くことにとって豊かに農耕のできる地に変えたことは、私のこれまでの論考によっ
て明らかであろう。
854 :
縄文人2世:2010/06/12(土) 21:50:18
>>850 おやじは思い切ったことを言うなあ。しかし、九州には一大国(壱岐)くらいの国なら300くらいは存在
できるから総人口二百万人は余裕で収納できるな。
855 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:58:42
>>850 で、その九州の大国家邪馬台国は、畿内に対して無関心・無関係だったわけですか?
すごく都合の良い話ですなあ。
856 :
縄文人2世:2010/06/12(土) 21:59:19
>>854 私が住んでいる地域(九州の某所)では子供の数より古墳が多い。子供達は冬には古墳を盾にして雪合戦を
やっている。
857 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:00:36
七万戸で九州の隔絶地帯の奥九州だとなると、阿蘇あたり、盆地か?
858 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:00:55
671年唐軍郭務宗ら2千人が九州に上陸したとき、九州の多くの都市が破壊され、
無数の建物が焼かれたと思う。
九州の遺跡が少ないのは、この点も考えなければならない。
859 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:02:01
倭人が体を丹で塗っているのは、おそらく阿蘇のベンガルじゃないだろうか。
860 :
縄文人:2010/06/12(土) 22:03:08
また畿内説の連中は「ゆるやかな連合」なる一種の広域都市連合を想定しておるようだが、これは常識に照らしてまことに危うい論で
あるといわざるを得ない。九州邪馬台国においては、むろん本州の出雲や吉備などの勢力の存在は熟知しておったが、それらの地域は
残念ながら文化度において九州の遠く足元にも及ばぬ有様であったろう。さらにそのような地域の航海術はまことに稚拙なものであり、
長距離の交易や、まして大陸への遣使など到底不可能であったことは自明である。
むしろそれらの地域は、卑弥呼の倭王冊封により大陸の文物のおこぼれを得ようと汲々としていたとも推察することができる。当時東アジ
ア最大規模の大国にして、魏の後ろ盾を得た邪馬台国に、倭国の中で立ち向かいうるものはなかったはずである。倭人伝には対狗奴国
戦争の様子が描写されておるが、この戦争にしても帰結が倭人伝に記載されていないのは、記述に及ばぬ程度の戦闘により邪馬台国の
勝利に終わったためであろう。
861 :
縄文人2世:2010/06/12(土) 22:06:49
>>855 畿内はまだ開発途中だったから魏には隠していたので倭人伝では単に倭種の国があるとだけ書かれている。
まあ、南の狗奴国とのいさかいの方を魏は問題視していたのでね。
862 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:09:08
九州で雪合戦ができるほど雪が積もるところって
鳥栖筑紫野の山に近いところか
大分の山岳地しかないわな。
鳥栖筑紫野なら古墳は腐るほどある。
日田はどうだったっけか
863 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:09:26
>>855 そのうちに古墳造りにまぜてあげたじゃないか。
864 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:10:49
自己レス追加
>862
それにしたって、年に数回だ。
865 :
縄文人:2010/06/12(土) 22:12:18
さて次の考察に移ろう。卑弥呼は倭王に冊封されたものの、その実態は傀儡的な存在であり政治的にはその男弟を始めとする、邪馬
台国の有力豪族による集団支配と見る。つまりは卑弥呼の預言と称して実際は豪族集団の意のままに、人民を操っていたのだと考え
ている。これは王になってから見るものの少なかったという倭人伝の記述にも合致する。公孫氏滅亡直後、ただの祭祀王に魏への朝貢
などの適時的な判断ができるわけがないではないか。
866 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:12:49
>>858 そもそも古代の遺跡で柱や梁といった木材・構造物が出てくるなんてのは稀。
むしろ焼かれたなら炭化して地中で生物による分解も防げて残りは良いかも知れないw
九州王朝説は九州王朝の都市を大和朝廷がその存在を抹殺すべく
破壊しつくし、焼き尽くした
…なんて言うが
柱跡を整地して綺麗に消して
時代によっては礎石も撤去
火をかけたなら炭化した木材も綺麗に撤去…
もう笑い話の範疇だがwwwwwww
867 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:14:23
九州北部の前方後円墳の扱いってどうなってたんだろうね。
畿内や宮崎とくらべれば新しめの前方後円墳のようだから
あとから前方後円墳を作りはじめるのは間違いなさそうだが
同時代に円墳もまだ作られ続けているから、
氏族とかで違ったんだろうか。
868 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:14:48
九州王朝説は、国民に浸透している。畿内説の詐欺性とともになw
やはり縄文人はすごいな。言葉に力がある。
870 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:15:23
九州年号は撤去になってないな。
871 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:17:46
>>866 それは九州王朝説のうちのほんの一部、古田本人説だけだろう。
九州王朝説はもっと広がりがあるよ。斎藤忠説や古賀達也説も重要だ。
872 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:18:50
久留米、筑紫野には礎石くらいは結構残ってるな。
だが、建物の痕跡が殆どないので
なんの建物か分からない。
久留米の王都の施設という説があり、年代ごとに
一応比定されていた。
筑紫野は全く不明の建造物跡は山ほどある。
太宰府エリアだからね。
873 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:22:07
>>869 有難う。昨今、私の偽者が出没しこのスレの方々に多大な誤解を与えているようだが、私は間違いなく本物であり真実を語る言葉には
力があるということだろう。それに前にも書いたように私は多くの学問に通暁しており、これまでの書き込みは、古代気象学、地質学、人
口学等の資料を広範囲に収集して分析検討を行った後のものであるから、この板の畿内説程度の者にはちと高尚過ぎるのであろうな。
874 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:22:40
>>853 >吉野ヶ里遺跡が、周辺部を含めて五千人程度の規模であるならば、
>中部九州にはあのような遺跡は百個近く眠っているのは疑いないと見ていいだろう。
>これは当時の東アジアにあって瞠目すべき大国であり
…まあここら辺がこの板の九州説の限界w
吉野ヶ里のイメージ戦略にまんまと乗せられていると言うwwww
しかしそんな
「九州には吉野ヶ里みたいな環濠集落がいっぱいあって
九州以東には登呂遺跡みたいなものがチラホラ…」
なんてイメージは90年代の池上曽根遺跡で既に過去のものw
(長さ約20mとも言われる棟持柱を持つ高床式建築物は吉野ヶ里より大きく
時代も吉野ヶ里より古いとされる)
もはや邪馬台国の時代を畿内vs九州でしか考えられない化石集団が
ここの九州説のアホ連中wwwwwwww
875 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:25:54
環濠集落はその地域の豪族の王都じゃないのかね。
うちの庭から、住居跡が出てきたが、
周りに環濠らしきものが出たとは聞いたことがない。
おかげで家を建てる時に
いろいろ制約が多かった。
876 :
縄文人:2010/06/12(土) 22:29:07
>>874 何を愚かしいことをほざいておるのかな。池上曽根遺跡は年輪年代というきわめて危うい実年代測定法で有名にはなったが、あれこそ
畿内説が欺瞞にみちたものであることを示すメルクマールに過ぎないではないか。残念ながら九州邪馬台国の王都は未発掘であるが、
これが出土すれば、当時洛陽の都には及ばぬものの東アジアにあっては最大規模の都市遺構であることがわかるはずだ。
縄文人かっちょえ〜見直したで。
878 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:34:35
「宮室・楼観・城柵」がまったくない畿内には、邪馬台国があった可能性はないが、
「宮室・楼観・城柵」が見つかっている九州に、邪馬台国があった可能性は高い。
蚕・絹・鉄鏃・蛤・冬の生菜食など、倭人伝の記述は、畿内を100%否定しているのも見逃せない。
879 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:37:53
>>876 蝿
ははは、「池上曽根遺跡」と聞けば直ぐに「年輪年代」か
こっちの予想を微塵も裏切らない単純極まりないアホだなwwwww
実年代じゃなくて相対年代のお話としてだ…
「池上曽根は弥生前期から中期の遺跡で中期中ごろから後半に最盛期」
と言うのが一般的な見方だと思うが
倭人伝の例の三点セットで魏使が見たのは吉野ヶ里のような環濠集落であって
3世紀には吉野ヶ里は、まだまだ現役とするのがここのトンデモ九州説連中だが
その吉野ヶ里より池上曽根遺跡が新しいなんて言わんだろうな?wwwww
880 :
縄文人:2010/06/12(土) 22:43:05
>>877 有難う。私は欺瞞と誤謬に満ちた畿内説と闘っておる。応援していただければ嬉しい。池上曽根遺跡の掘立柱大型建物の柱は直径
七十糎程度の檜材であったか。しかし大型建物は側板があったかどうかは確認されていないし、これは弥生時代の文化というよりは
縄文大柱に近い建築方法であったと考えたほうがよいであろう。そのような遺構の一部を取り上げて文化度の指標とするならば、三内
丸山遺跡のある青森などは極めて高い評価が与えられるのではないか。少しは考えて物をいうことだな。
881 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:44:10
882 :
縄文人3世:2010/06/12(土) 22:47:10
>>874 相変わらず認識不足だな。最近の九州説は列島も含めて東アジアからの観点でも語られているのだ。
半島にも倭人が住み、列島ー半島の行き来は対馬、壱岐経由の航路で盛んに行われていた。当然、大陸
からの情報や技術を九州はいち早く手にすることができる。九州の優位性はここにある。
>「九州には吉野ヶ里みたいな環濠集落がいっぱいあって
> 九州以東には登呂遺跡みたいなものがチラホラ…」
>なんてイメージは90年代の池上曽根遺跡で既に過去のものw
そんな単純なイメージで語る人間ているのか?池上曽根に建物の遺構はあるだろよ。発見されたのは
幸運だった。あんなものは九州では残り難いのだ。シロアリ(家シロアリ:これは昔は近畿地方には
いなかった)にやられるのだ。コウヤマキなどだと忌避性があるので食われにくいが、スギやヒノキ
などは跡形もなくなる。
883 :
879:2010/06/12(土) 22:48:51
ちなみに、むか〜し昔の年代観、年輪年代が登場する前、都出による修正が行われるより前
所謂「佐原編年」の年代観でも弥生中期はBC50〜AD200ぐらい。
魏使の見た風景は吉野ヶ里のそれと言うなら
どうやったって吉野ヶ里よりは古いわなw
もはや年輪年代も関係ないwwww
さあトンデモ九州説の連中はどうする?w
九州の先進性とやらを担保するために吉野ヶ里の年代をもっと古くするか?
それとも「池上曽根遺跡」の年代を昔の年代観ですら追いつかないぐらいに
新しい物とするか…wwww
884 :
縄文人:2010/06/12(土) 22:51:19
>>881 You took good pictures. Nice of you to come to love traditional Japanese culture. I hope to be a good trip. Good luck.
885 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:51:57
池上曽根遺跡の年代比定が誤りなければ、そこにかなりの豪族が住んでいたという
ことは言えるだろう。そして、その豪族は、後に大和勢力と連合したということに
なるはずだな。なのに、なんでそこに大きな古墳が造られなかったんだ?
弥生時代にそこにいた連中は、古墳を造った連中へとは連続しなかったのでは?
当然、そのような疑問がでてくるね。
弥生時代、畿内にだってある程度の人々が住んでいたはずだ。しかし、その人々は
古墳を造った人々へとは連続していない。ここが問題だ。
886 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:52:21
ジョーカーが大威張りをしても、記紀に女王は推古の世までいない。数歩
譲って神功を女王に当ててみても、神功は卑弥呼の時代ではないことが
歴然である。つまり卑弥呼の国は九州にあったと観て決まりだな。
887 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:56:10
あらゆる角度から見て、畿内説の成立は不可能ですね。まあ、詐欺なら成立しますが。
888 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:00:36
>>885 池上曽根遺跡が完全に水田に姿を変え消えるのは鎌倉時代頃らしいがw
弥生時代後期には既に衰退しているってのが通説だと思うがwwwww
念のために断っておくが別に池上曽根遺跡をもって
畿内の優位性だの先進性だのを強調しようて話ではなくて
吉野ヶ里ぐらいの遺跡は日本の各地にあっただろうって話w
889 :
縄文人3世:2010/06/12(土) 23:04:39
>>879 >倭人伝の例の三点セットで魏使が見たのは吉野ヶ里のような環濠集落であって
>3世紀には吉野ヶ里は、まだまだ現役とするのがここのトンデモ九州説連中だが
私は吉野ヶ里の環濠集落を卑弥呼の居所と思ってはいない。居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
を想わせるのであろうが、卑弥呼の宮殿跡はまだ見つかっていないのだ。
決めつけた物言いをやめ給え。
890 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:06:25
弥生時代の出土遺物の大半は九州に偏っているのも事実だね。
鏡は99%以上が九州で出土する。本州で鏡の出土が増えるのは弥生末期以降。
鉄器も圧倒的に九州で多く出土する。
絹も九州は本州の200倍以上出土する。
青銅器も九州の優位は揺るがないが、銅鐸で本州がある程度対抗できる。
しかし、初期型の銅鐸の鋳型は九州に出土例が多く、完成品は本州で出土する。
つまり、銅鐸は元は九州由来の文化である。
結論:弥生時代の本州は九州勢力の植民地。
891 :
縄文人:2010/06/12(土) 23:08:17
>>883 またわけのわからんことをぬかしよるのう。吉野ヶ里遺跡を含む丘陵部に集落が形成され始めたのは弥生最初期であろう。むろん環濠
の形成はもっと後になるが、池上曽根の方形周溝墓と吉野ヶ里の墳丘墓を比較しても文化的にはどちらが上であったかすぐにわかる
だろう。さらに、私は吉野ヶ里を邪馬台国に比定しておるのではない。恣意的に錯誤の方向に話を持っていくのはやめたらどうかな。吉野
ヶ里の最盛期はむろん邪馬台国の時代には合わないが、それでもあの程度の宮室・楼観・城柵があったということだ。邪馬台国の王都は
あの規模ではまったくないのだ。
You are a vicious swindler would not mind answering guests buys from abroad.
892 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:10:33
>>890 >鏡は99%以上が九州で出土する。
サイキバっぽいなwwww
で、ソースは?
何処の学者の編年作業に基く物なのか?
ネット上の「九州王朝説」扱ったサイトにそんなことでも出ていたのか?wwww
893 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:11:24
いいぞ縄文人、もっとやれ。詐欺畿内説をぶっとばせ!
894 :
ローガン:2010/06/12(土) 23:14:29
議論に参加する前に、一言。実は、縄文氏の名前見たので つい先日の事を…
伊作が、曲学さんの掲示板に、「2ちゃんで縄文人と名乗る人物は自分ではないと、廻りの人に言って欲しい」と言って来た。
当然、太国さんも俺も相手にしない。太国さんがやんわりと自分で言えばいいと言ったら
pcが感染するのがいやとかなんとか。最低の男だ アイツは。仮にも持説をとう目的で開いた掲示板。管理者に一言の断りを入れる訳でもなく、臆面もなく私的な連絡所に使う為にわざわざスレッドを立てる行為。
あの男は常識を知らない。僅かな間とはいえ、論客扱いした自分が恥ずかしい。
Yahoo!の住人って伊作とかZANみたいな常識の無い人間ばかりなのか。
895 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:17:12
>>888 >弥生時代後期には既に衰退しているってのが通説だと思う
うん、あたりは銅鐸が多く出土するところだ。銅鐸勢力の終焉を
示していると思わんかね。
896 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:17:32
九州の進んだ文化が本州に伝魔して本宗(ことに吉備)勢力が急激に力をつけたのが弥生時代末期。
とうとう本家である九州を凌駕するようになり、日本海ルートで交易を行い、勝つ、ヤマトや関東とも繋がる交通の要衝である琵琶湖周辺が大いに栄えた。
それが伊勢遺跡なのです。
九州の人、ありがとう。あなたたちから受けた恩は忘れはしません。
だから大宰府を都に次ぐ大和朝廷の重要な機関として優遇しました。
897 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:18:56
/\___/\
/ / ヽ ::: \
| (●), 、(●)、 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | < まーたはじまった
| ,;‐=‐ヽ .:::::| \_______
\ `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐―´´\
898 :
縄文人:2010/06/12(土) 23:19:15
九十九パーセントというのは誇大表現かもしれぬが、彼のいうことはおおかた正しいであろう。つまり威信材の質・量で九州は畿内等を
圧していたということだ。絹にしても、庶民の衣服は麻や綿であったことを考えれば当時にあってその製糸までの手間ひまを考えれば
貴重品であったことは間違いなかろう。これは九州が大陸に近いのである意味当然のことであるが、このような文化の積み重ねは弥生
時代にあって一等地を抜いていたことは当然認めるのであろうな。
899 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 23:24:13
ローガンさん
伊作さんは身分がバレるのを嫌ってるんだよ。うちはあの件で動か
ないと言ったが、それはいいとして伊作さんをそっとしてやってくれ。
900 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:25:04
>>892 弥生時代の本州で鏡の出土が極端に少ないのは事実だろ。
これに対して、九州では多数の「特定個人墓」から多くの鏡が出ている上に、
甕棺からも普通に鏡が出土する。
ただし、九州では破鏡がほとんどだから、正確な数は不明であるが、
最低でも本州の100倍は優に超えるというのが、普通の見方。
これに対して、小林のように「古墳時代に出土した鏡は実は弥生時代に
来たものが伝世したものである。」として膨大な鏡を伝世とすれば、
数の均衡は保たれるが、いまどきこれを正面から言う学者はいない。
さりとて、弥生時代の本州での鏡の出土が極端に少ないことを正直に
認める畿内説の学者もほとんど居ないが、ここら辺は学者としての
誠実さの問題だな。畿内説論者に期待する気もないが。
901 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/06/12(土) 23:25:16
騒々しいの〜。わしゃ古代史には飽きたのよ。引っ張り出さんでくれ。
それはそうと、土偶はいいの〜。縄文人の芸術的センスはピカソ以上だの〜。
九州が進んでいた、畿内は遅れていたというのは社会進化の面だけのことじゃ。人間性としての評価は
別物よ。東北の方が人間的には優れていたかも知れんの〜。縄文の土偶や火焔土器を見るとそう思えるの〜。
902 :
縄文人:2010/06/12(土) 23:26:15
私は伊作氏は敬慕しておるが、むろん別人である。どこからそのような誤解が生じたものか非常にいぶかしんでおるとともに、これが
畿内説の工作であるとしたら怒りを禁じえない。私の偽者が出没することは、人気のある証拠であろうと鷹揚に考えておったが、この
ような自体を引き起こすのであれば何らかの対処法を講じなくてはなるまいな。
>>885 >池上曽根遺跡の年代比定が誤りなければ、そこにかなりの豪族が住んでいたということは言えるだろう。
言えません。
>そして、その豪族は、後に大和勢力と連合したということになるはずだな。
なりませんよ。
>なんでそこに大きな古墳が造られなかったんだ?
上記2つの前提がまちがいだからです。
> 弥生時代にそこにいた連中は、古墳を造った連中へとは連続しなかったのでは?
>当然、そのような疑問がでてくるね。
池上曽根遺跡の年代比定を本当に知っていますか?
904 :
縄文人(偽):2010/06/12(土) 23:28:29
おやトリップをつけ始めたか、まあそろそろそっとしておいてやろう。
905 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:34:54
>>900 >最低でも本州の100倍は優に超えるというのが、普通の見方。
普通ってお前の脳内基準か?
何処でそんなことが言われているんだ?
ぐちゃぐちゃ言わないでさっさと根拠を出せ。
ったくイメージでしか語れないのかここの九州説の連中はwww
ちなみに岡村編年で3期ぐらいで切ってしまえばかなり差が出るがw(まあそれでも100:1にはならないがw)
906 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:35:29
ローガンはくわせもの。
いよいよ正体をあらわしたしましたね。
誹謗中傷から初めて次は何を計画中かな?www
>>906 >いよいよ正体をあらわしたしましたね。
何語でしゃべっているのかよくわからないが、曲学板でのイサクの登場は事実。
縄文人が別人でなによりだった。
908 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:42:22
909 :
縄文人(偽):2010/06/12(土) 23:45:15
まあ問題は九州弥生遺跡から出る魏晋鏡だろ。古墳から出るのは明らかにヤマト王権から分与されたもの。
910 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:46:37
>>908 いつものパターンだなサイキバよwww
威勢良く「100対1!」なんてほざいたは良いが
その実、根拠なんて持ち合わせていない。
最後は「自明だ」「常識だ」とごまかしてトンズラw
語っているのは自分の脳内のイメージと言うお粗末さwwwwww
911 :
ローガン:2010/06/12(土) 23:51:12
912 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:56:00
>>911 自分は全く関係ない人間だけど、よそでのことをコソコソ他の掲示板で
文句いっているような人は信用できないから、誹謗中傷された人間に代わって
仕返ししただけ。
913 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:57:29
この「縄文人」と「縄文人3世」と「縄文人(偽)」の関係はどうなってるの?
何がなんだかわからいんだけど。
914 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 23:58:53
>>903 なるほど。大和勢力は池上曽根の勢力とすら連合しなかった。連合説はとって
ないわけですな。
915 :
ローガン:2010/06/13(日) 00:00:20
>>914 >なるほど。
なにがなるほど?
池上曽根遺跡の年代比定を知っていますか?
917 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/06/13(日) 00:07:47
>>913 私にもよく分からないが、私より私らしいことを書く能力の高い人物がいる。相当な博識だ。
918 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:08:37
>>915 素直に反省するも一つの手だってことはお見通しですからww。
919 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:10:06
>>918 「素直に読む」のが九州説で
「素直に反省する」のが老眼かwwwwww
920 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 00:18:40
まあ一発ネタ書きなぐりのピンポンダッシュしか能の無いサイキバはおいといても
九州説の連中には自前の
「これが正しい漢鏡編年!」
と言う物を是非出して欲しいwww
後漢末から魏代にかけて銅鏡の数が底を打ち晋代になって回復するような
傾向が読みとれるのだろうか?
それとも折角魏に冊封されても鏡の出土量には変化が見られず
やがて本州にヤマト王権が起き数量でも圧倒されるまで鳴かず飛ばずなのか?
実際の話「弥生時代を通しての鏡の出土量の多さ」なんて関係の無い話なんだよなw
逆に過去の栄光を語れば語るほどその凋落振りに歯止めがかかっていない事を
強調する羽目になるだけでwwwwwwww
921 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:22:00
>>910 違うというなら自分の考えを書けばいいだけじゃないかな?
弥生時代の九州の鏡の出土量は本州の100倍じゃなくて1000倍だ、とか。
反論できないなら、遊んであげないよ。
922 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:25:27
邪馬台国は、畿内にあったのが自明だから、
なにをかいわんやだなー。
どうして九州に固執するのか理解できんわ。
923 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:28:24
>>921 九州から出てる鏡はみんな古い漢鏡であって、
魏からもらったらしき卑弥呼の鏡はどれ?っていう。
そんな古い漢鏡1000枚と、畿内から出てる魏鏡1枚と、どういう比較になるんだか?
924 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:34:23
実際のところ、九州説の現状は↓の通り。
九州に遺跡はいっぱいあるよ→でも、邪馬台国がどこかわかりません。
九州に鏡はいっぱいあるよ→でも、卑弥呼のもらった鏡はどれかわかりません。
九州に古墳はいっぱいあるよ→でも、卑弥呼の墓はどれかわかりません。
今後、九州説を唱えるつもりでいるなら、以上3点は明快に答えてもらおうか?
答えられないで、畿内説詐欺とは、片腹痛いわ。
925 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:37:33
ようするに弥生時代の鏡の出土量の比較には、答えたくないわけだwww
んで、別の質問で話をそらすと・・・
相変わらず自分の意見はいえないのかな?
926 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:39:30
上のほうで、縄文人がご高説をたれてはいるが、
所詮、縄文人は、
九州の中で、邪馬台国の場所を特定できてないし、
卑弥呼のもらった鏡がどれなのか言及できないし、
卑弥呼の墓がどれかもわからないというお粗末さ。
これから発掘されるんですか?はっはっは。
927 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:44:19
「マキムクは邪馬台国じゃな〜い」
「三角縁は、卑弥呼の鏡じゃな〜い」
「箸墓は卑弥呼の墓じゃな〜い」
イチャモンつけるのは、簡単さ。
で、それにかわる九州説の邪馬台国位置、卑弥呼の鏡、卑弥呼の墓はどれ?
全部答えられるやつなんていないのが現状。
畿内説は仮説ではあるが、九州説はを仮説を構築する以前に材料が無いのが現状。
九州説はスタートラインにすら並べない有様。
928 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:56:18
>>921 …ったくトコトン情けない奴だなサイキバよwww
「九州の鏡は本州の百倍」とか最初にほざいたのはお前だろう
その根拠を出せって言ってるのだけだぞ?w
どうせネット上の九州王朝説を扱っているようなサイトでチラッと見て
脳に刷り込んだんだろう?wwww
それにこの問題は東遷説にも関わってくる。
3世紀までにある程度の数九州以東本州でも出ているのなら
別に邪馬台国の東遷を待たずとも鏡の文化は伝播してるって話になるwww
まあサイキバのアホにそこまで問うのは酷だろうがwwww
929 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 01:58:31
イチャモンじゃなくて、詐欺の指摘ですが。
930 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:00:38
畿内の「宮室・楼観・城柵」は、いったいどこにあるの?
あれだけ発掘しても、絶望的なんですが。
九州にはありますよ、「宮室・楼観・城柵」。
>>930 それは吉野ヶ里のことだね。
しかし吉野ヶ里にこの3つがあったのは1世紀から2世紀のこと。
3世紀になると、未だ日本中どこにもない。それぞれひとつずつある地域はあるのだがね。
しかし3世紀の九州にはこれらはひとつも出土していない。
ということは、魏志倭人伝の情報は100年古いというふうに考えざるを得ないだろう。
それとも吉野ヶ里が邪馬台国とでもいうつもりなのだろうか?
要するに魏志倭人伝には複数のソースがあって、時代の違うものも混じっているということだよ。
ちなみに高島公平氏は、一般向けには「宮室・楼観・城柵」を口にするが
論文では断定はしていない。
それどころか楼観については、その見方を否定している。
柱穴跡から考えて、人が常駐できる強度の建築物があったとは考えられないからだ。
その証拠に、吉野ヶ里歴史公園のHPを覗いてみるといい。
http://www.yoshinogari.jp/ そのどこにも、遺構が宮室・楼観・城柵であるとは断定されていないから。
933 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:22:48
>>929 どうでもいいが、邪馬台国が九州のどこにあるのかハッキリ書けよ。
934 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:50:43
はっきり言えば、これからの発掘で見つかると思う。
宮室・楼観・城柵のある文化圏は、九州だけだからね。
935 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:52:47
さて、金印は畿内のどこからか見つかったのかな?
見つかったなら、はやく発表してくれる?
936 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 02:59:25
はっきり言えば、これからの発掘で見つかると思う。
937 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 03:02:38
見つかる場所は九州だけどね。
938 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:02:58
>>932 所詮「宮室・楼観・城柵」なんて何某かの規定があって
それに吉野ヶ里の物が合致するって話じゃないからなwww
ちなみに吉野ヶ里で復元されている「楼観」は
鳥取県の稲吉遺跡出土の土器の絵が参考にされている。
…って本当なのか?wwwwwwww
939 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:03:07
九州では候補地が多すぎて
魏志倭人伝の情報量で決定するのは無理だ。
畿内では候補地が少ないのか
特定できるはずのない情報で
特定できるのが羨ましい。
畿内の巻向箸墓は
魏志倭人伝のどんな記述から特定されたのかね。
940 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:10:45
>>939 …と言いつつ結局出てくるのはいまだに「吉野ヶ里」とwwwwww
「すなお読み」の描く邪馬台国は人口七万戸の中心集落。
卑弥呼に仕える奴婢だけで千人を収容するキャパがある。
で奴婢百人の徇葬跡がある墓がある。
鏡もザクザク鉄もザクザク出てくるwww
で尚且つ「宮室・楼観・城柵」を備えた(弥生末期には既に時代遅れの感のある)環濠集落ってんだから
どんなシロモノか想像もつかないわけでwww
941 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:10:58
>>939 前に書いていたやつがいるが、
武埴安彦命の乱は、狗奴国(コノ国=許乃国)の乱だとか、
モモソ媛命(箸墓の公式の被葬者)と卑弥呼の墓に関する印象的な記述だとか
豊鋤入姫命は、台与(トヨ)じゃね〜のか?とか。
942 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:24:32
ココの連中と話が通じるか分らんが、物部氏の先祖の二ギハヤヒの話をするが
二ギハヤヒ≠火明命だと思うよ。
なぜなら、二ギハヤヒの正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉二ギハヤヒ命だろう?
この「天火明」と「二ギハヤヒ」の間にある「櫛玉(くしたま)」ってのは
神道用語の「奇魂(くしたま)」のこととされ、
これは「形見」という意味にもなるそうだ、どうも。
つまり、神武東征戦争で、近畿側で応戦・降伏した
二ギハヤヒという人物は、自分のことを天火明命の遺児だというふうに自称していた。
だからこそ、近畿側には、天火明命の別の子孫(尾張氏、海部氏の先祖ら)が、
二ギハヤヒとは対立していて、神武軍を受け入れたことになる。
こんないった経緯から、後世、ヤマト王権では
二ギハヤヒの子孫の物部氏は、天神とされ、
天火明命の子孫の尾張氏、海部氏は、天孫というふうに
両者の出自が分けられた。
つまり、物部氏は自分達を天孫と自称していたが、ヤマト王権は認めなかったわけだ。
943 :
水銀厨:2010/06/13(日) 07:14:48
>>939 畿内説では少なくとも弥生時代に丹の産出する場所が
特定できてますよ。
九州説では水銀鉱床の存在は確認出来ても肝心の採掘跡が無い。
これは金印や剣、鏡等と違って、後日移動できない
物証でもあるの結構重要な事です。
944 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 07:18:00
>>924 九州説は従来△を卑弥呼とは無関係といってきたが、私は九州説だがそうは
思わないんだよ。魏鏡か国産かはともかく、卑弥呼が鏡をもらって間もな
い時期に、卑弥呼と無関係の勢力が△をばらまくはずはない。
鏡は当然九州勢力がばらまいたもの。全てが邪馬台国かどうかは分からないが
△は邪馬台国がばらまいたものだね。ただ、ばらまいた中心=大和に邪馬台国
があったというのがまちがいなんだ。植民地開拓で大和に進駐した連中が、未
開の毛人たちに与えた安上がりなご褒美、それが△だということだね。
945 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 07:36:25
>>943 特定できてるかどうかはどうでもよいことだよ。採掘技術が伝わってきて国内
各地で採掘されるようになった。九州にも鉱床がある。となれば、当然そのこ
とは分かっていたであろう、採掘もされていたであろう。そう考えるべきだ。
それとも、九州の鉱床は当時では気づくはずがないという特別の理由でもある
のかな?
946 :
水銀厨:2010/06/13(日) 08:30:21
>>945 >採掘もされていたであろう。そう考えるべきだ。
それじゃ論外ですね、結局推測でしかない訳で。
同じ事は鉄その他の出土物にも言えるから。
現実問題として弥生時代に水銀朱採掘跡が徳島と紀伊半島には
確認出来ていて、九州には無い、という事です。
947 :
水銀厨:2010/06/13(日) 08:33:16
>>944 3世紀の畿内は未開ではないですよ、今更言うのもなんですけど。
948 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:51:08
さっき、ひさびさにwikipedia見たんだが、「邪馬台国は邪馬一国の誤り」
「いまだかつて統一された呼び名は存在しない」という説が再び有力視され始めているのか?
面白いなw
949 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 08:54:21
950 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 09:13:59
951 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 09:17:01
>>946 九州でみつかってないから、倭人伝の書く丹は九州のものでないだろうなんて
のも推測でしかないな。しかも、合理的でない推測だ。
953 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 09:33:24
まあ、畿内説がすがるのは、その程度の話しかないということだね。
>>950 「東に美し地有り。青き山四に周り、其の中に亦天磐船に乘りて飛び降る者有り』と。
余、謂うに、彼の地は、必當ず以ちて大いなる業を恢き弘べて、天下に光り宅るに足るべし。
蓋し六合の中心か。厥の飛び降る者は、是、饒速日と謂うか。何ぞ就きて都なさざらん」
神武は、奈良に国の中心があり、そこはすでに自分と同じ天孫族が治めている土地であると言ってる。
つまり、仮に神武東征伝説が事実だったとしても、当時から国の中心(オオクニヌシの都)は畿内にあったということである。
955 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 09:47:17
956 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 09:50:34
>>920 ジョーカー
だから景初3年鏡から 景初3年=239年 で、この多数出土の考究を
紀の崇神6年=崇神2年=238年 天照大神宮 成る
で合わせればカタがつく。同鏡は天照大御神の象徴と観て、これが崇神天皇以下
朝廷の取り巻きが崇敬したことで多量に出土するわけだ。239年はその翌年
だから整合している。
>>944 ばら撒く必要があるのが、紀の崇神6年の日神を祭祀する大神宮成立だ。だから
239年鏡がうんと出るわけだ。
957 :
水銀厨:2010/06/13(日) 09:50:39
>>950 ある程度の規模の集落は河内、大和にも点在しています。
>>951 理屈にすらなっていませんよw
>>953 逆に言うと九州説ではまともな丹の解釈ができませんからね。
倭人伝というのは言うまでもなく3世紀末の時点での記録です。
当時中国での鉱物資源の重要度では、仙薬の素である水銀朱の
方が鉄よりもずっと上です。
わざわざ「その山に丹有り」なんて書かれているのに、
これをスルーしてちゃ文献重視の九州説なんて言ってはダメですよ。
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 09:53:02
採掘しつくしてれば出てこないだろう。
大体、鉄なんて溶けてなくなっちまうだろ
俺の爺さんの愛車の軽トラの底だって錆びて穴開いてるんだからw
次はダイハツの4WD軽を購入予定らしい
960 :
水銀厨:2010/06/13(日) 09:59:48
>>958 採掘「跡」ですよ、水銀朱の精製跡とか。
紀伊半島には縄文末期の時点の物が既に確認されているよ。
しかも場所は吉野の丹生川上神社というのもミソだろう。
一言主と雄略のエピソードを見ると
いかに葛城が天皇すらビビる力を持っていたかという事が分かるね
今度、高天山を奈良側から登山予定です。
高天彦神社の脇から登って葛木神社へ行くコースは初めてだな
962 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:03:38
鉄を過大評価しすぎている。
ヒッタイトは、鉄があったのに、わけのわからん民族に滅ぼされた。
鉄があるということは相対的には有利だが
絶対的に有利というわけではない。
AKB48ってなんだか気持悪いですね。
965 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:06:35
ちなみに、近畿地方で一番を、鉄が出土するのは福井県だが
だれも、このことに言及しない。
966 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:10:24
>>960 それは見つかる場合もあるだろうが、見つからない場合もあるだろうが。
それに丹は通常はHgだろうが、倭人伝の丹というのはこれに似て別の物質
でないのか? 阿蘇火山爆発で採掘場が埋まれば、もうオシマイ。
967 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:12:34
>>966 採掘跡がみつからない限り、なかったものと考えろ、というのが水銀厨
の主張なんだよ。理屈になっていると思っているらしい。
968 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:16:08
>「その山に丹有り」なんて書かれているのに、これをスルーしてちゃ
>文献重視の九州説なんて言ってはダメですよ。
九州の山に丹はあるだろ。何の問題もないじゃないか。
>>967 水銀は優しすぎる。
「採掘跡も出てきてない外野は黙って糞して寝ろ」
ぐらい言ってやるべきだと思う。
970 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:17:13
>>957 中国と同じと思っていることが誤り。
ならば、他のすべてが倭国の文化程度も中国と同じでなければならない。
九州の山には丹がありますよ。自分らの生活に使った(体に塗ったり)ので、
採掘跡が見つからないだけです。
>>970 見たのかとwww妄想止まるところを知らずだなwww
972 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:19:43
インカの黄金も、どこへ隠したのか出てこないんだろう?
973 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:22:23
丹には水銀丹以外にも鉛丹や鉄丹がある。
鉄丹なら当時から九州の山から大量に取れていた。
倭人伝では真朱(水銀朱)を魏から貰っているから
倭の丹とは主に鉄丹のことだろう。
974 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:28:13
倭人伝を重視する立場からすれば、倭人伝に銅鐸がでてこないということは畿内説に
とって致命的だな。魏使が銅鐸祭祀をみていたら、それに触れないはずはない。
975 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:29:01
>>930,931
考古学的なことはさておき、吉野ヶ里遺跡を邪馬台国とするのは、文献的に難しいのではなかろうか。
つまり倭人伝にある邪馬台国への「水行十日陸行一月」とは、とてもじゃないが合致しないから。
976 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:29:18
どうして、日本の歴史を論じるのに、他国の魏志倭人伝を信じすぎるのかわからんわ、
日本人なら、記紀を尊重しろと。
ウヨクといわれようがなんだろうが、
自国の古文書を否定する歴史観を採用する国なんてねーよ。日本だけだろ。魏志倭人伝をありがたがるのは。
記紀で書かれてることは、神武東征は起源前。
景行天皇が九州を平定した。
考古学上も、それで何も矛盾は無い。
東遷説を主張してるやつは、倭人はずっと中国の臣下だったことにしておきたい売国奴だから気をつけろよ。
未来に向けても、中国が利するだけで、日本には何の得にもならない話だからな。
977 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:31:10
978 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:34:55
>考古学上も、それで何も矛盾は無い。
矛盾だらけだよ。景行の西征が何年のことと記載されているのか知ってるのか?
979 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:36:49
>>975 一行は九州が始めてだろうからもの珍しく、観光を兼ねて巡りながら
女王国へ行ったんだろうから、そのくらいかかっておかしくはない。
長旅の途中病人も出たかも知れないし、山賊海賊もいたろうから、
また道に迷っての迂回もあっただろうし、そういう障害をかかえて
の旅行であったろうから、そのくらいの時間はかかっておかしく
はないな。
一行が単純ロボットなら一ヶ月も経てば南海上に行ってしまうが、
人間は過労がたまるから、次第に行程を短くもせにゃならぬこと
で、そのくらいの時間はむしろ合理性がある。
980 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:37:54
>>975 それはそうだろうな。吉野ヶ里=邪馬台国なんてのは、学問的にはまったく
根拠のない妄想というほかはない。
981 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:39:54
>>976 景行は九州平定なんぞしてないよ。九州行幸は九州の視察が目的で、途中
よそ者だから襲われたりしてこれを撃退して行ったということだ。
九州まで平定出来たのは文武、元明のころだ。
982 :
水銀厨:2010/06/13(日) 10:40:35
>>967 当然です、見つからない物を根拠には出来ませんからね。
それに紀伊半島の丹は日本最大級です。
後の飛鳥、奈良時代までの歴史の過程に直結しますから。
>>973 鉄丹はこの時代の文献記録にはまだ無いですね。
もう少し後に出てきますけど。
丹とは硫化水銀で酸化鉄(赤土)では無いです。
鉛も仙薬の素で、鉛丹は加工して赤く変化するから丹(仙薬)扱いですから。
983 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:44:40
使者は九州に上陸した。そして、南へかなりの旅をした。その先が邪馬台国だ。
誰が読んでも倭人伝にそう書いてあることは疑いを容れる余地がない。
隋使も自分が訪ねた先は魏志にいう邪馬台だと記している。そして、倭人伝の
記載が間違っているなどとは一言も言わない。筑紫からしばらく東へ向かい、
そして更に十日を経て目的地に着いている。当然、倭人伝が記したのと同じく
南へ旅したのだよ。でなければ、倭人伝が違っていることを示すためにあれこれ
書いたはずだ。ということで、邪馬台国が南九州であることは明白。
984 :
水銀厨:2010/06/13(日) 10:45:27
>>970 倭人伝は中国の記録ですよ?
で、紀伊半島には採掘跡が古くから確認されてますよ、
これを九州説ではどう処理するかですね。
そのまともな説を過去に見た事がないもんで。
985 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:46:32
>>982 それはおかしいぞ。ガンが体表になければ、ガンに罹って
いない根拠とはならない。体内にガンがあっても、体表では
分からない場合が多い。九州地表にタンが見つからなければ、九州
にタンがないとは言えないよ。君はヤブ遺捨か〜?w
986 :
水銀厨:2010/06/13(日) 10:49:47
>>985 九州で採掘跡が出ることを否定しませんがw
まず確認する事が先決だと思うだけです。
推測なら結局何でも有りになりますから。
では徳島や紀伊半島の痕跡はどう考えますか?
987 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 10:53:51
そんな痕跡は九州の女王国とは遠く、無関係だよ。先決なんて言って
たら、君は死後まで待ってねばならんね。w
988 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:55:02
>>984 遠い毛人の国でも丹は採れる。それだけのことだ。
989 :
水銀厨:2010/06/13(日) 11:01:23
>>987 結局まともなレスは出来ないんだね‥
>>988 そう主張するなら採掘跡を確認してから、というだけです。
私は無いものは根拠にしないというだけですから。
990 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:03:12
>>989 ないもの? 九州の山に丹はあるじゃないか? それも否定するの?
991 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:04:24
>>984 山にある丹が水銀朱だとしても、採掘跡が残るほど生活には必要としなかったんだよ。
体に塗るのは朱丹と倭人伝には書いてある。体に塗るのはどう考えても毒性もなくどこにでも採れる安い鉄丹だし。
逆にいえば近畿に水銀朱の採掘跡があるってことは、
それだけ文化が高度になった後の話で染料として大量にしようしたということが想像できる。
992 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:05:29
奈良みたいに、遺跡+丹の山がセットで存在するってのは、九州にもどこにも無いだろう。
993 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 11:05:50
当時の遣使が硫化水銀か酸化鉄かとの化学検査を女王国でやって
たのかね? そんなことはやってないと想うがねぇ。ならば丹と
あっても水銀化合物とは必ずしも言えまい。
995 :
水銀厨:2010/06/13(日) 11:09:03
>>990 存在は否定してないですよ、でも採掘跡や
丹を大量に使った遺跡もない、という事です。
996 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 11:11:19
卑弥呼の子孫がマヤ文明を起こしたという説は信じ難い。なぜなら
マヤ文明元年=B.C.3113年
だ。卑弥呼はA.D.239年ころの活躍だから、その子孫はそのあたりから
後代となる。年代が完全に不整合である。
997 :
水銀厨:2010/06/13(日) 11:11:32
998 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 11:13:58
体表にガンの形跡がないからガンに罹っていないというのが水銀厨氏の
論法で、大間違いだ。
999 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 11:18:05
まあ、溺れる者藁をも・・というからな。水銀で頭がどうかなってんだろう。
イヨタン・・・・・・・・・・
1001 :
1001:
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