1 :
日本@名無史さん :
2010/03/09(火) 23:53:52 ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 66
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1266146788/l50
2 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 00:14:37
>1 乙
3 :
サガミハラハラ :2010/03/10(水) 09:22:35
邪馬台国は佐賀県小城市甘木にありました。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ケ岡です。 このこと、2ちゃんねるの皆はしってるよね。
九州説論者で具体的な候補地を上げているのは君ぐらいのものです。 がんばってください。
5 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 09:50:57
佐賀県民だけど 小城は通るだけで、遺跡巡りしたこと無いなあ。 暇が出来たら、小城羊羹のついでに遊んでみようか。
6 :
サガミハラハラ :2010/03/10(水) 10:22:23
国指定遺跡の土生遺跡があります。 小城町の中心地に桜ケ岡があります。 桜の季節是非おたちよりください。
7 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 14:00:50
平原遺跡が卑弥呼の墓だよ。
9 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 14:51:34
10 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 14:52:01
邪馬台国は久留米市御井にありました。卑弥呼の墓は、祇園山古墳です。 そして卑彌呼の都は多利思北孤の都まで続きます。
11 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 15:02:01
北部九州の場合、弥生の住居跡も、環濠集落も、 古墳も結構至るところにあるから、それだけで決めるのは難しい。 魏志倭人伝や他の中国書からもう一歩何か情報がないとねえ。 まあ、仲良く競い合えばよろし。 他の説も尊重しようぜ。
12 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 15:10:54
大きい区分けだと、太宰府、久留米、八女、熊本、阿蘇、日向、宇佐、佐賀、吉野ヶ里、小城、伊都 北部の県の殆どに比定地がある。そしてそれらの殆どに環濠集落と古墳がある。 縦穴住居跡なら至る所から出る。小さな比定地だとまだまだ増える。 無理に決める必要はないし、魏志倭人伝の少ない情報で決められるとも思えない。
13 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 16:22:29
>>10 小城や久留米は邪馬台国ではなく
傍国の中のどれかだろう。
卑弥呼は伊都国に居て
壱岐対馬から傍国までが邪馬台国の範囲だ。
太宰府、久留米は多利思北孤ごろの都だろう。
熊本には大津宮があった。
14 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 16:28:16
卑弥呼はオメコと読みます
オメコ といえば「メ(ドツボ)」はどうしたんだ? 派遣切りでも遭ったのか?ww
16 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 16:34:23
オメコ女王の都は股の間にあるのです
オレは「ヒメコ」だと思うぞ
18 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 18:27:44
ところで、≪ホツマツタエ≫って参考にはならないんでしょうか。
とりあえず言い伝えを昔の人がまとめたものなんですよね。
ホツマツタエだと、ヤマトはいまのヤマトの場所のままで
神武はナガスネヒコより勢力が弱いが、ナガスネの横暴を討つために
日向から支持者をまとめつつヤマトに軍を進めると言う話になってるようです。
http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya29.html なんか関東にもだいぶん勢力があったような話ですね。
どれも血統は遡ると同じと言う話のようですが。
19 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 18:49:40
オメコは御女子
20 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 19:04:33
邪馬台国は久留米市御井にありました。卑弥呼の墓は、祇園山古墳です。
そして卑彌呼の都は多利思北孤の都まで400年間(3世紀初頭〜617年)倭の都として続きます。
>>13 『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國傳
多利思北孤の都「邪靡堆」=卑彌呼の都「邪馬臺」
『此地帝都 近気於今在一百餘歳 一百年竟遷京北方 在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条
上記は617年の都の状況説明。
倭京(大宰府)遷都は618年。倭京元年=618年。
都として100余年続き、丁度100年続いた京が北方に遷京。
其の前、都は300年続いていた。
即ち都が置かれてから400年後の遷都前年が617年となる。
故に最初に都が置かれたのは217年となる。
邪馬台国は大阪の境。弥生末期の大阪湾から2qほどの高台にあった。 卑弥呼の宮は大仙陵古墳の後円にあたる部分。 伝仁徳天皇陵とされているが、それは誤り。 神武は卑弥呼の環濠集落を占領し、前方部分を増築することで 九州勢力と畿内勢力の合体を象徴する前方後円墳が完成したのだ。 大仙陵古墳は何度も改修されており、そのたびに最新の技術が投入されている。
22 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 19:48:12
23 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 22:02:14
>>22 (帝都が)100余年目の今、(遷京の)気に近い。
24 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 22:43:22
>>20 は、九州王朝説だな。
要するに、九州には大和朝廷とは別の王朝があり、これは西暦663年の白村江
の戦い(他にも異説がある)まで存続した。邪馬台国は、この九州王朝の前身で
あり、倭は九州を指す。倭の五王も、日いずる処の天子も九州王朝の王である。
根拠としては、中国の文献、たとえば『隋書』俀国伝の「多利思北孤」などは
大和朝廷の人間に比定することが困難、などがある。
また、批判としては、記紀にその存在をうかがわせるような記述が全く
見られない、ということなどが挙げられる。
ということらしい。
25 :
日本@名無史さん :2010/03/10(水) 23:00:19
>記紀にその存在をうかがわせるような記述が全く見られない 日本書紀は、隋使がきたとは一言も書かないな。裴世清を大唐の使としている。 これは、隋使が訪ねた先が九州だからだよ。
そういえば「日出づる処の天子、日没する処の天子に・・・」 の国書(?)のことも記紀には出てきませんね
27 :
日本@名無史さん :2010/03/11(木) 12:28:17
白村江の戦いの倭と日本が違うということは 百済の王族が日本に帰化して、家臣になって、 百済王(くだらのこにきし)の名を名乗って 従五位の官位を与えられてるので、妙なことになりそうだが・・・。 もともとの倭はヤマトかヤマタイのような名で、 日本の読み名も、もともとはヤマト ニッポンと読むと違う国に思えるが、国はヤマトで同じではないか。
>>27 まあヨーロッパでもイギリス王がフランスのノルマンディー公でもあった時期があるんだが
関係は逆だけどね
百済王子豊障=中臣鎌子説もあるそうですが その残虐性、陰湿性は共通している感じもしますね
30 :
日本@名無史さん :2010/03/11(木) 14:36:37
ここは「邪馬台国スレ」であって「九州王朝スレ」ではない。 九州王朝説は該当スレで、ゴミはゴミ箱に。
31 :
日本@名無史さん :2010/03/11(木) 16:37:46
>>10 >邪馬台国は久留米市御井にありました。卑弥呼の墓は、祇園山古墳です。
>そして卑彌呼の都は多利思北孤の都まで続きます。
確かに、『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國傳とあるからなあ。
しかし、その隋書によると、使者は筑紫に上陸して東へ歩いているようだ。
久留米市の方角ではない。
32 :
10 :2010/03/11(木) 22:16:41
>>31 >その隋書によると、使者は筑紫に上陸して東へ歩いているようだ。久留米市の方角ではない。
そんなこと何処にも書いていないよ。
@『度百濟 : 隋使は海を進んでいます。
A行至竹島 : 半島西側海上を南下しています。
B南望[身冉]羅國: 済州島の北側を東に進んでいます。
C經都斯麻國: 対馬の近くの海上を通過しました。
D迥在大海中: 以上は大海中の進行です。
E又東至一支國: 壱岐の西側海上を航行しています。
F又至竹斯國 : 竹斯國の海上を航行しています。竹斯國に上陸したと書いていません。
G又東至秦王國: 海上を東に方向を変えてました。
H其人同於華夏以爲夷州疑不能明也: 秦王國の説明です。
I又經十餘國 : 秦王国からまだ海上を進んでいます。
J達於海岸 : やっと俀國の海岸に到着しました。やっと上陸できるようです。
K自竹斯國以東皆附庸於俀』: 竹斯國より東は全部俀に従っていたのです。
Fは竹斯國が長崎県あたりを指しているようです。
Gは隋使が天草灘を東へ進んで熊本県の方にある秦王國に至ったことを示しています。
長崎鼻の海上で東へ航路を変えたのです。
隋使は雲仙の普賢岳が噴煙をあげているのを見て驚いたのでしょう。
Iの經十餘國は島原湾から有明海に北上する途中の両岸の国々です。
Jは筑後川の河口あたりの海岸でしょう。
俀國の都である久留米と『達於海岸』の位置関係は『其地勢東高西下』となります。
33 :
10 :2010/03/11(木) 22:20:48
Aの竹島=珍島 発音がよく似ています
34 :
九州王朝大好き :2010/03/12(金) 08:37:58
〜〜〜〜┃◎┃都斯麻國〜〜〜〜《 隋書俀國傳 地図 》〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 →→┐〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜經都斯麻國迥在大海中又東至一支國 〜〜└→→→┬→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜 ルートA↓┏━┓↓ルートB 〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜 〜〜〜〜〜〜↓┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜ルートA:海路ルート 〜〜〜〜〜〜↓┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜ルートB:上陸ルート 〜〜〜〜〜〜↓一支國↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜 〜〜〜〜〜〜↓┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓ 〜〜〜〜〜〜↓┃竹┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗ 〜〜〜┌←←┘┃斯┗↓━┛秦王國B ∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓┏━━┛國∵◎→◎→┐∵∵∵∵∵∵◇倭京(大宰府) ∵∵ 〜〜〜↓┗┓竹∵A 竹斯國B ∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓〜┃斯∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國B ∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓〜┃國A ∵∵(伊都國) ◇→→┐海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵┏○→→→◎邪靡堆(久留米)∵邪靡堆:久留米市南部、『其地勢東高西下都於邪靡堆』 〜〜┌┘┏┓┗━┓∵∵∵十∵∵∵┃↑┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 『邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者』 〜〜↓┏┛┗┓〜┃∵∵∵餘┏━━┛↑┃十∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓┃∵∵┃〜┗┓∵ A國┃〜〜〜↑┃餘∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜┌┘┃國A ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓〜┗┓竹┗━┛┗━━┓〜〜↑〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓〜〜┃斯A ┏━━┓十┗┓〜↑〜〜┃十∵∵∵∵∵∵∵∵△ 阿蘇山 〜〜↓〜〜┃國┏┛〜〜┃餘∵┃〜↑〜〜┃餘∵◇熊本∵∵∵∵∵ 〜〜└┐┏┛┏┛〜〜┏┛國▲┃〜↑〜〜┃國∵∵∵∵∵∵∵∵∵▲:普賢岳 魏使が見た火山は普賢岳、阿蘇山記述の動機 〜〜〜↓┃┏┛〜〜┏┛∵ A┏┛〜↑〜┏┛ A∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜↑┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜└→→→→→→→→→→→→┘┃◎泰王國A ∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
35 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 09:46:13
>竹斯國が長崎県あたりを指しているようです。 筑紫といえば福岡中心だろ。長崎だなんていわざるを得ないというところでアウトだな。 >達於海岸 : やっと俀國の海岸に到着しました。 これもだめ。海岸に達すというのは、それまで陸行してきたってことだ。
36 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/12(金) 11:55:49
>>35 >筑紫といえば福岡中心だろ。
福岡に限定するのはあなたの思い込みだと思われます。
平戸島も竹斯ではないでしょうか?
>海岸に達すというのは、それまで陸行してきたってことだ。
海上から行っても邪靡堆の最寄り海岸に達するではないですか?
ルートBはどの様に思われますか?
僕はルートBは無いと思っています。
37 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/12(金) 12:33:21
>>35 基山方面に基肄城や二つの水城を大宰府防衛の為に作ったのは、
シナの攻撃がメインルート有明海からであると想定したからでしょう。
勿論、博多湾方面にも大野城と水城を作っていますが。
末蘆国=肥前国松浦郡 伊都国=筑前国怡土郡 奴国=筑前国早良郡、那珂郡(那の津) 烏奴国=筑前国御笠郡(大野城) 支惟国=肥前国基肄郡 邪馬国=筑後国八女郡 鬼奴国=肥後国玉杵名郡 弥奴国=肥前国三根郡 呼邑国=日向国児湯郡 斯馬国=肥前国杵島郡
39 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 14:43:44
記紀の記述は、筑紫島と筑前筑後と太宰府をごっちゃにするから困る。
40 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 16:04:40
>>36 長崎は筑紫国ではないよ。肥国だ。
ルートBもないだろうな。怡土あるいは博多あたりに上陸して周防灘沿岸にでた
んだろう。
>>37 玄界灘沿岸から上陸する敵を北九州でくいとめるための城だろう。熊本以南を
守ろうとしたんだよ。
41 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 21:59:00
■一支国博物館14日開館、海上交易の歴史紹介
「魏志倭人伝」に記された一支国(いきこく)の所在地として知られる長崎県の壱岐島に14日、壱岐市立一支国博物館が開館する。
一支国の国都とされる原(はる)の辻遺跡(国特別史跡)の出土品や島内の文化財2000点を通して、海を介した交易の歴史が概観できる。
同遺跡は18・4ヘクタールにおよぶ弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落で、発掘とともに集落の復元が進んでいる。博物館はその遺跡を望む丘陵に立つ。
故・黒川紀章氏の設計で、周囲の景観に配慮し、曲線の屋根には芝が敷き詰められている。
展示室には、古代中国の通貨や、各種の青銅器、土器など大陸や全国各地からもたらされた出土品に加え、これまで常時公開はされなかった笹塚古墳出土の金銅製馬具(6〜7世紀)や、安国寺の高麗版大般若経(11世紀)なども陳列される。
弥生時代に限らず、多彩な交易を物語る品々である。ジオラマや映像資料、実物大の古代船レプリカなど体験型の展示も充実させる。
県埋蔵文化財センターも併設され、調査研究と保存修復、展示を、県と市が一体で行う。収蔵庫は高さ5メートルの一面ガラス張りが特徴。県内各地の考古遺物が狩猟、農業などの産業別に並び、ガラス越しに鑑賞できる。
「収蔵庫も展示施設とする新しい発想。国別や時代別のテーマに合わせ、展示替えを計画している」と同センターの宮崎貴夫調査課長。開館特別企画展「『魏志』倭人伝の国々に残る至宝展」は6月20日まで開かれる。
(2010年3月12日 読売新聞)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20100312-OYS1T00205.htm ・一支国博物館(長崎・壱岐島で、本社ヘリから)=宮坂永史撮影
http://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20100312-053469-1-N.jpg
42 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 22:02:51
43 :
日本@名無史さん :2010/03/12(金) 22:18:51
>>37 >>40 大野城や基肄城はともかくとして、熊本の菊池に鞠智城が有るというのが
不可解。武器や兵糧を補給するための基地と解釈されているらしいが。
44 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 01:05:34
大野城や基肄城を突破されたら鞠智城で戦うってことだろう。 何が不可解なんだ?
45 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 03:46:05
>>44 唐が攻めてきたとすれば、壱岐・対馬から九州北部を経て瀬戸内海を進み、
近畿地方に上陸というのが普通だと思う。つまり、熊本を経由するのは無駄。
大和での決戦を前に、いたずらに兵力を消耗するだけの戦いになる。
だから、攻めて来る可能性のない熊本に城を築くのは、無意味な気がする
という話。
ところで、ちょっとネットサーフィンをしていたら、熊本県大津町の
西弥護免遺跡は、四重の環濠を持つ大集落とあった。ここは、大量の鉄器が
出土したことで知られる。
それにしても、内陸部なのに大津とは不思議な地名だと思う。
46 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 09:54:00
『日本書紀』崇神天皇8年12月条に大物主神の子大田田根子は今の三輪君などの祖であると記述されている。 『古事記』にも意富多多泥古(おおたたねこ)命は神君・鴨君の祖と記載されているので、大神氏は大物主神の後裔として同神の祭祀をつかさどる有力氏族だったことがわかる。 この大田田根子が邪馬台国の卑弥呼の子孫だとすれば、三輪の地に卑弥呼の墓があっても何の不思議はない。 そして、大田田とは大分のこと。九州王朝の別府、つまり女王卑弥呼の住む邪馬台国だったのだ。 これなら博多湾に上陸した帯方郡の一団が陸行1月を費やしたとしても不思議ではない。
47 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/13(土) 09:59:39
卑弥呼は崇神の代に活躍の女性。 倍暦計算にて 237年=景初元年=崇神即位元年
48 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 10:16:15
>>45 畿内説を前提に考えるからそうなるんだよ。邪馬台国は南九州、だから
大野城や基肄城を突破されたら鞠智城なんだよ。
49 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 10:19:36
>>46 陸行一月の説明はできたってことかな。しかし、その前に水行二十日とか
水行十日があるね。大分ではそれが説明できない。しかも、陸行一月も博
多から大分では南ではない。やはり南へ向かわないとな。
50 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 10:36:56
>内陸部なのに大津とは不思議な地名だと思う。 昔はその辺まで海が入り込んでいたんじゃないかな。
51 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 11:02:13
52 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 12:06:10
>>48 鞠智城は、白村江の戦いのあと7世紀に出来たもので、邪馬台国時代とは
ぜんぜん違うのだが。
大宰府跡は、博多湾の筥崎宮と阿蘇中岳を結ぶ線上にある。 日本書紀に出てくる根の国とは阿蘇山のこと。 卑弥呼とは、大物主神の子火巫女のことだったのだ。 ちなみに、阿蘇山と筥崎神社を結ぶ線を北に延長すると 釜山港を通り、百済の古都公州,扶余付近にたどり着く。 弥生時代に阿蘇中岳の噴煙は、1万mに達し、 博多湾からも釜山からも見ることができたのだ。
54 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/13(土) 13:39:38
>>45 熊本県菊池郡大津町とその近辺は古代の重要な歴史が隠されている地域のようで、以前から気になっている。
「大津」「瀬田」「多々良」等の地名
近隣に散在する弥生製鉄遺跡とリモナイトの産出地
弥生期から7世紀に至る歴史のドラマを秘めているようだ。
55 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/13(土) 14:00:30
菊池郡「大津」について @白川の氾濫原→大水→大津→大津氏 A滋賀「大津」「瀬田」と菊池郡「大津」「瀬田」との関連?
56 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 14:02:19
やはり白川の源流阿蘇に邪馬台国があったとするのがふさわしい。
あっそ!
>>34 常識的に考えれば
マツロ=博多
伊都=大宰府
奴=甘木
だろ
非常識
60 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/13(土) 20:24:06
61 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/13(土) 20:35:02
>>58 魏志倭人傳 地図
〜〜一大國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜〜
〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛(餘旁國地域) ┗┓〜〜▲印:観音峠「草木茂盛行不見前人」
〜〜〜〜〜┏┯┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵倭28ヶ国∵∵┗┓〜倭in倭地:今譯所通28國(狗邪韓國・對馬國・狗奴國を除く)
〜〜〜〜〜┃│┃↓〜┏┛(餘旁國) ◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗━奴國:須玖岡本遺跡〈倭奴國〉其餘旁國の一国
〜〜〜〜〜┃│┗↓━┛∵∵∵∵∵◎奴國〈倭奴國〉∵∵∵∵∵∵郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜┏━━┛│∵◎→→→▲┐∵∵∵◇倭京大宰府∵∵∵∵∵∵郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(倭地韓地陸行)
〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵(餘旁國地域) ∵∵∵郡⇔投馬國:水行20日(天草灘・五島・済州島経由)
〜〜〜┃倭∵│∵∵∵∵∵∵↓∵不彌國〈倭面土國〉∵∵∵∵∵∵●印:女王國メンバー国 範囲(浮羽⇔筑紫野⇔白石⇔大牟田⇔浮羽)
〜〜〜┃∵非└┐∵∵伊都國◎→→●┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵末盧國城郭:東唐津鏡中原遺跡「濱山海居:古松浦潟」
〜〜〜┗┓∵女└┐∵∵∵∵└┐┏┓├●邪馬壹國[邪靡堆] ∵∵伊都國城郭:惣座遺跡(肥前國庁跡)
〜〜┏┓┗━┓王└┐∵∵奴國●┃┃│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵奴 國城郭:佐賀城 国域:佐賀平野・白石地域
〜┏┛┗┓〜┃∵地└┐┏━━━┛●┘投馬國∵∵∵∵∵∵∵∵不彌國城郭:吉野ヶ里遺跡〈=倭面土國城郭〉 国域:背振山地南麓
〜┃∵∵┃〜┗┓∵域└┨〜〜〜〜┃∵∵┌─────────投馬國城郭:大川市郷原 国域:筑後平野
〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃有明海〜┃┌─┘∵<非女王地域>∵∵邪馬壹國城郭:久留米南部 国域:筑後平野東北部・北野地域
〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵∵∵狗奴國城郭:方保田東原遺跡
62 :
日本@名無史さん :2010/03/13(土) 21:53:57
>>58 それも以前考えたことがあったなあ。
>>54 熊本は菊池川流域が注目されてきたが、その南の白川流域も西弥護免遺跡の
大津や国府が置かれていたとされる益城や熊本市などかなり濃い。
更にその南の緑川流域も、500を越える古墳がある塚原古墳群や女王の眠る
向野田古墳などがあり注目される。熊本ではここ付近の古墳がもっとも
古いタイプの古墳とされる。
http://www.mapple.net/spots/G04300048901.htm 阿蘇や球磨盆地もあって、狗奴国で一括りするには広すぎる。
なお、九州山地を越え、高千穂から五ヶ瀬川を下った宮崎県延岡市も、恐らく
製鉄までこなす鍛冶工房跡が見つかっている。このつながりも面白いと思う。
63 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/13(土) 23:58:07
>>62 >阿蘇や球磨盆地もあって、狗奴国で一括りするには広すぎる。
狗奴國は、北部を女王國(邪馬壹國・投馬國)と接する国と考えられますから、
菊池川流域だけの国家と考えられます。白川中流域も含んでいたかもしれません。
人口も邪馬壹國と同規模程度で、数万戸であったと考えられます。
その他の南方の肥後地域(緑川流域以南等)は、邪馬壹國の30ヶ国関係のような、
狗奴國と同盟又は連合する国々でしょう。
佐賀平野、白石平野と唐津を除く肥前の国々も狗奴國と同盟する国々だったと思われます。
他の意見については同感。
64 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 00:56:44
久留米の高良山のふもとに「みのう」があり、日田地方への入り口に なる。 そんこから南に行けば、雄略期に南宋からの使者が立ち寄ったとされる 場所に、水沼の君(物部氏)の勢力がある。 筑後川を越えれば、筑紫の三輪地方があり、東に朝倉、西に吉野ヶ里 が存在する。 それらのすべてを見渡せる場所が基肄城のある場所であり、弥生後期 は豊かな穀倉地帯で、人口も多かったと思われる。 基肄城の山を越えたところが、日向峠で、対馬そして、糸島の可也山が 一望できる。現在の筑紫平野のそれぞれの山にはのろし台が設置されて おり、どこから侵入者が来ても、すぐに連絡がとれる体制があったのでは ないか。
65 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 01:30:42
記紀の神武東征の際にも、この筑紫の三輪地方に滞在して戦力を強化して 安芸に出兵している。 白村江への出兵にさいしても、筑紫三輪地方、朝倉に陣を構えている。 なぜ、百済救援出兵に際し、筑紫の三輪、朝倉に陣を置くのか 雄略期の南宋からの帰りのときにも、筑後川の水沼の君のところに立ち寄るのか なぜなら、この地方は楠木の特産地で船の建造にはこの木がないと大型船は 建造できなかったのではないのかと思われる。 楠木は樹脂が硬く、建造財にはさいてきだと思われる。 今も、筑後船小屋には楠木の大木の公園は保存されている。
66 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 05:38:05
>>52 邪馬台国は三世紀のみではない。七世紀まで続くんだよ。
67 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 09:54:34
クスノキって、樹脂は多くて腐りにくいが 木質は柔らかいね。 大木が得やすい、加工しやすい、薬用に有効など あと、クスノキは史前帰化植物という説もある。
68 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/14(日) 12:53:50
古代九州の船材は、「d(あべ)」だったとの記憶がある。 名字で「d松」として残っているが、どちらも耐水性のある木だ。 「d」と「アベマキ」は異なる木と思う。 上記は10年以上前に調べたことで記憶が曖昧。
69 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 14:00:56
今更ながら、三角縁神獣鏡の年代は重要だな。 昔は、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡としながらも、それが出てくる古墳の年代は 卑弥呼の時代よりも100年くらいは後と言われた。そこで、伝世鏡理論と いうのが生まれた。 卑弥呼の鏡は、埋葬されず伝世され、100年くらい後になって伝世の必要が なくなったときに棺に副葬されたとするものである。100年間全く埋葬 されず、100年たつと、全国各地で一斉にどかんと大量に埋葬されるように なったという変な理論である。 その後、古墳の年代が遡り、いつからか三角縁神獣鏡の出てくる古墳は 初期の、卑弥呼時代に近い年代の古墳とされるようになった。 伝世鏡理論は意味のないものになってしまった。 ところが、いま、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡という声は非常に少ない。 そこで問題になるのが、三角縁神獣鏡を伴う古墳の年代ということになる。 三角縁神獣鏡魏鏡説を唱えた考古学者には、ここのところをはっきりさせて もらいたいものだと思う。 全国的に、三角縁神獣鏡を伴う古墳の年代は初期のものとされてきている。 古墳の編年という意味でこれは重大な問題だと思う。
70 :
日本@名無史さん :2010/03/14(日) 16:21:47
ああ、また恨み節による捏造話かよ・・
>>70 人間、年寄りになると昔の話しかしなくなる。
それも繰り返し繰り返し、思い出すように語るので周囲の者は閉口するもんだ。
72 :
××過ぎる○○ とか?www :2010/03/15(月) 01:15:05
まあ
>>69 のような「 あからさま 過ぎる ミスリード 」に気がつくか否かが
この板の最初のステップだなwwwwwwww
73 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 01:57:29
あれこれケチをつけるより、きちんと答えたらいいだろうに。
74 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 02:34:50
答えられないんだろう。学者も信者も。 だから、ああいうみっともない愚痴をこぼすしかない。
75 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 03:05:16
ここにこんなことが書かれている。三角縁神獣鏡べったりだった畿内説の
考古学者が、年代観の変更に走って行った経緯。
1996年4月27日付け朝刊各紙は、大阪府和泉市池上・曽根遺跡で検出された
弥生時代中期後半の巨大な東西棟持ち柱建物の柱の一つが、年輪年代測定に
よって紀元前52年に伐採されたものであることを一斉に報じた。
以来、考古学によって築き上げてきた弥生時代中期の年代観が100年遡った
と、マスコミや一般向け書籍などでキャンペーンがはられ、「考古学者達の
研究史軽視と変わり身の早さ」も目立つようになった。
先達考古学研究者が検討してきた年代観を捨て、多くの考古学研究者が
たった一人の自然科学研究者の成果に無批判に乗り換えてきた。このことが、
初現期の古墳の資料、特に鏡の出土例の増加およびその細分とあいまって、
古墳時代のはじまり、あるいは前方後円墳の出現時期に関する論究にまで
影響を及ぼしている。
そして、弥生時代年代論研究史の整理が不十分な論調、あるいは明らかな
誤りもいくつか目につくようになってきた。
http://www.lbm.go.jp/mappie/00seminor.html 三角縁神獣鏡も年代観も、大キャンペーンを張り、いろんな分野に影響力を
駆使する。いろんな変更が余儀なくされる。しかし、破綻しても知らんぶり。
せいぜい、
>>70 〜
>>72 のような厚顔無恥なことを言うくらいのもの。
76 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 10:49:06
>>75 >しかし、破綻しても知らんぶり。
破綻してないから浸透してるわけだが?
何か破綻した?
あ、九州説が破綻したのか(笑)
77 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 11:43:01
>>76 おまえさんのような人間を形容する言葉として
厚顔無恥がある。哮贋無知でもよい。三角縁神獸鏡について畿内説派の一部が唱えていた
魏鏡説(卑弥呼の鏡説)は粉砕されてドブに捨てられたのは周知の事実である。
78 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 17:04:39
えーと、ツッコミ入れる前に確認しておきたいんだがw
>>69 >卑弥呼の鏡は、埋葬されず伝世され、100年くらい後になって伝世の必要が
>なくなったときに棺に副葬されたとするものである
その「 100年 」てのは一体何処から出てきたんだ?
卑弥呼の鏡をAD239として椿井大塚を4世紀初頭として約60年。
100年とすれば更に2世代ぐらいは違ってくる話だと思うが?w
まあ小林説も微妙に年代が違ってきたと言うが
さらっと「100年」とか言うが、どこをどうすればそんな数字が出てくるのか?
79 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 17:11:04
>>69 はいつもの怨み節の東遷厨だろうが
そもそも三角が魏からの下賜品=卑弥呼の鏡で無かったとして
その年代が魏代ではないという話にはならない
つまり製作地の論争と制作年代のお話は別物。
ここんとこを恣意的に(あるいは本人の脳味噌が錯乱して区別つかなくなっているのかしらんがw)ゴッチャにして
語ると言うのがこの東遷厨のいつものやり口wwww
結局、東遷厨が必死にしがみついている過去の年代観の最大の根拠になっていたのが
「三角舶載、椿井大塚が最古旧の古墳」と言う前提に立った小林説だというのが話しのオチwwwwwww
80 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 17:30:16
かつて三角を含む紀年鏡を5世紀頃の河内朝で 日本にとって由緒ある年号(景初、正始)を入れて造られたと言う説があったが 呉の年号の物まで出てくるにいたりそれも成り立たなくなったw 状況的に考えて神獣鏡と言う極めて南方・呉地のカラーの強い鏡が(南西ルートではなくて)半島経由で来るとしたら 後漢末から続く戦乱で銅鏡製作組織が壊滅し、魏から晋にかけそれが復旧するまでの間が可能性が高い。 (ついでに言うと魏と呉が同盟関係にあった時代もある 東遷厨のお家事情では三角は元よりそれに先行する画文も4世紀から出ないと都合が悪いんだろうw …そんな事はこの板の誰もが知るところでwww ついでにこのネタも「2・3世紀ごろの奈良盆地の巨大湖」と同じようにローテーションネタであるのも 誰もが知るところw 色々ストレス溜めている東遷厨にとって「三角舶載説」が異議を唱えられている状態は 溜飲を降す数少ないネタなんだろうwww まあ個人的には三角の製作地論争にはケリが着かないんじゃないかと思っている。 仮に三角が「下賜品=卑弥呼の鏡」でなかったとして倭人が別途に大陸から輸入した鏡である可能性もあるわけで… 製作地論争は今後どうなるか分からないが 年代は少なくともこの東遷厨が願っているような4世紀半ば(先行する画文も3世紀には届かない)と言うのは もはや主流ではないと思うのだが?w
81 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 18:00:33
最近のジョーカーは劣化が激しすぎて、突っ込んでよいものか躊躇する。
82 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/15(月) 18:01:34
ww
83 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 18:28:49
>>81 負け犬の遠吠えはいいから、さっさと突っ込もうねサイキバ君W
84 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 18:48:02
ふと思ったけど、三角縁神獣鏡というのは、日本古代のある時期(例えば4世紀とか)に 模造が流行して各地の豪族間での贈答品として多用されたのでは。 (紀年の刻文があると高値で取引されたとか) そうでないと、これだけの多量の発掘の説明がつかない。
86 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 19:10:59
三角淵は今までに確認されている物が500枚以上 表に出ない好事家の所有になっている物もそれ以上あると言われているが どのくらいの期間供給されつづけていたのだろうか。 一時期にどっと生産されたのか、それとも、かなり長い間 少しづつ生産されたのか。 長い間生産されたのなら、土器と同じで 時代によって、形状、文様が変遷していくだろう。
87 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 19:22:14
卑弥呼が魏から倭王に任じられた記憶がまだ残っていた時代 卑弥呼の子孫を騙った時の権力者が自分の権威を示す為に 魏の年号を入れた三角縁神獣鏡を量産して配下の豪族に配ったんだろう。
88 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 19:24:13
紀年鏡は別に「景初」だけじゃないし
弥生時代の実年代をどうやって求めるか? 早い話、発掘した遺物に年代が書いてあったり、年代がわかるものならいいわけだ。 というわけで、中国製品がその定点ということになる。 例えば三雲南小路の甕棺墓には前漢の鏡が副葬してあったから、 これは前1世紀頃のものだろうとわかる。 近畿地方では北九州と違い、そうした中国製品が近年(?)まで発掘されなかった。 だから、実年代は(昔は)推定するしかなかったのだ。 小林行雄は中期古墳、例えば仁徳天皇陵の築造年代を記紀の記述をもとに、 古墳時代中期の始まりを5世紀初頭と考えた。 ここからさかのぼって最古の古墳の年代を4世紀初頭前後とした。 田辺正三・佐原真は、高地性集落や石製武器の発達を戦乱の痕跡だと考え、 それを魏志倭人伝に出てくる「倭国乱」に当てた。 そこで、この時期の土器(第四様式末)の年代を2世紀末頃とした。 これがほぼ定説化して、弥生時代後期は2世紀末頃から4世紀初頭前後という年代観が出来上がった。 1970年代の話だ。
>>89 続き
1980年代以降、弥生後期の土器は増え続け、その型式変化も詳細にたどれるようになり、
絶対量の多さ・変化の過程ともに、3世紀の中に押し込めるには無理があると思われるようになった。
さらに、中期末〜後期初頭の土器とともに貨泉が発見される。
貨泉は新の王莽が鋳造した貨幣で、生産年代はAD14〜40年とされる。
破棄されるまでの時間幅を考えても 後期の開始をAD200年前後とする年代観は大きく揺らいだのだ。
もともとが迂回した推定で検討してきた年代観が、考古学的資料によって覆されたのは当然だろう。
池上曽根の件は、こうした見解を後押ししただけとも言える。
91 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 20:26:53
>>89 >田辺正三・佐原真は、・・・・・・・この時期の土器(第四様式末)の年代を2世紀末頃とした。
>これがほぼ定説化して、弥生時代後期は2世紀末頃から4世紀初頭前後・・・・・・
「定説化」など、していない。一方にそんな意見があっただけ。
>>90 >1980年代以降、・・・・・・・・・後期の開始をAD200年前後とする年代観は大きく揺らいだ
佐原たちがおかしなこと言って、一部の人がそれに乗っかってただけだ。
92 :
日本@名無史さん :2010/03/15(月) 22:30:28
94 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 07:25:43
>>87 卑弥呼の子孫を騙るといってもねえ。△を配った時期から卑弥呼時代はそう
遠い昔のことではないだろう。となると、△が国内産か外国産かはともかく、
卑弥呼勢力の者によって配られたということは認められると考えるべきだろ
うな。問題は、多数配られた中心に邪馬台国が存在したのか、それとも別の
所に存在したのかだよ。
95 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 13:59:52
>>78 そういう風に枝葉のほうに誘導するような質問はどうでもいい。
基本は、三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏から貰った鏡ということにした。
ところが、卑弥呼が貰ったされる正始元年と三角縁神獣鏡の出てくる古墳の
年代が合わない。その年代を合わせる為に伝世鏡理論というのが出来た、と
いうことなのだから。
96 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 14:10:41
普通は、年代が合うというのが大前提で、一番重要視されるべきなのに、 三角縁神獣鏡の場合は、畿内説にとって都合が良いということで採用された。 年代が合わなければ合わせればいい。数が合わなければ、何とか理由を 付ければいい。 いろんな批判があったにもかかわらず、これだけ長く生き続けたのも すごいことだと思う。
>>95 >その年代を合わせる為に伝世鏡理論というのが出来た
伝世鏡理論を唱えたのは、実は九州説を支持した橋本増吉氏、らしい。
富岡謙蔵氏・梅原末治氏が、魏鏡が畿内の古墳から出土することをもとに
「魏と通交したのは大和の勢力」と論じたのに対し、
鏡は「一種の器物として長年月を通じ移動性を有するもの」であるから、
それに基礎をおいて年代を論じても無駄、と反駁したのが、
そもそもの始まりだった、そうだ。
>>96 >年代が合わなければ
これは、記紀をもとにした小林行雄氏の年代推定が合わなかった、というはなし。
むしろ現代の年代観は合っているということだな。
倭人伝の描写が九州ばかりなのに なぜかその中心の邪馬台国だけ近畿とか馬鹿なの死ぬの?
>>99 論理の破綻した、つじつまの合わないことをわめき散らすしか能がないからこそ
畿内説は一所懸命にwww←で相手を愚弄挑発したり相手の人格攻撃をしたりするのですよ。
101 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 17:20:28
>>95 >そういう風に枝葉のほうに誘導するような質問はどうでもいい。
コラコラ、三角が舶載か否かの話で40年も違ったら全然違う話になるだろうにアホw
正直にはっきり言えよ
「単にイメージだけで適当に言っちゃいました」とwww
>その年代を合わせる為に伝世鏡理論というのが出来た
既に指摘があるが古墳の年代が記紀の崩年干支からの推測。
本来なら鏡の年代に合わせるべきだったって話しw
結局、伝世鏡論を否定するのなら
むしろ古墳の年代はそれに伴って遡るのが筋だが
九州説の連中にとっては何故か昔の古墳の年代推定は生きると言う不思議wwww
製作地と制作年代をごっちゃにしたミスリードで誤魔化さずに
三角が4世紀であるという根拠を言えばよい。
で、それが伝世無しにほぼリアルタイムに墓に入れられたと言うのなら
古墳の年代もそれに准ずるだろう。
小林説を否定しつつもその古墳の年代観だけは都合が良いからチャッカリ手放さない姑息さw
と言うか今の新しい年代観は長らく考古学で支配的だった小林説の呪縛?wから解き放たれたところが大きいのだろうwww
102 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 17:21:54
少なくとも、ここでは巻向箸墓は下火だな。 最近は唐古鍵遺跡か? まあ、個人的には箸墓よりは可能性は高いと思うが。
103 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 17:32:32
で三角の『 制作年代 』に話を絞るが・・・ 現在その年代が3世紀ではありえず4世紀以降…と具体的根拠を挙げて論じている学者って誰がいるのかな? 三角舶載説といえば福永だろうがw その福永も仮に国産であってもその特徴を東アジアの銅鏡史に見るにおいて 西晋泰始七(271)がほぼ下限だろうと言っているが… まあこんな話は東遷厨には興味ないかもしれんが… 三角が国産だと畿内説が崩壊したとはしゃぎたいだけの様だからなwwwwwwwwwww
104 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 17:41:36
>>98 >むしろ現代の年代観は合っているということだな。
しかし常々思うのだが…
実際の現地古墳の前に立てられている看板に書かれているような年代
あるいはネット上で各古墳を当たればそこに書かれているような年代…
あれって統一されてないだろう?
まだまだ昔の年代観のままで書かれているものも多いんじゃないのかな?
105 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 19:11:58
>93 どこのスレだ? 落ちてるのか orz
106 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 22:30:49
107 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 23:13:40
>>101 島根県の神原神社古墳は、ここでは何度も出てきているが、景初三年銘の
三角縁神獣鏡が出てきている。この古墳の築族時期は四世紀中頃となっている。
根拠は、「石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を
勘案して」となっている。まあ、あまり詳しくは書かれていないのだが。
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara%20jinja.htm これからすれば、三角縁神獣鏡の出る古墳が卑弥呼の100年ほど後というのも
妥当と言える。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、出来てすぐに副葬されたとされるが、この古墳の
年代は布留T式とされる。布留T式がいつ頃かについてもけっこう意見が
分かれるのだろうが、田辺、関川氏らの説によると、四世紀も後半に
入っている頃となるのだろう。
個人的にはこの考えが妥当だと思う。
108 :
日本@名無史さん :2010/03/16(火) 23:54:39
>>107 島根県の神原神社古墳の例はよく引かれて
「鏡の銘の年代と古墳の年代に100年の開き…」云々はよく言われるが
実際のところ古墳築造の年代の根拠が実に曖昧。
そもそも、じゃあ仮にそうだとしてなんで100年も前の鏡のコピーを作らなきゃならんのか?ッて話で
この板だと「ヤマト王権が卑弥呼の事績をパクった」なんて九州王朝説の言いそうな与太話が出てくるwww
まあ景初はそれで良いとしても青龍は?赤烏は?ッて話ww
疑うべきはそれまで言われてきた古墳の年代の方だろうwww
神原神社古墳
>>107 のURLより
>石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、
>この方墳の築造時期は4世紀中頃と推定されている。
<石室の構造>
「石室の四隅の壁はこの付近で産出する扁平な板状石を持ち送り式に小口積みしてある。
床面はU字型にくぼんだ粘土で、
くぼみの大きさから長さ5.8mの割竹形木棺が据えられていたと推測されている。」
・・・この文章からすると、典型的な竪穴式石室、に思える。
<副葬品の組み合わせ>
「素環頭大刀・木装大刀・剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、
鋤・鍬・鎌などの農耕具農耕具、土器 、
玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)など」
・・・典型的な前期古墳の副葬品の組み合わせ、だと思う。
築造時期は4世紀中頃?
>昭和48年の暮れに墳丘と石室に対する徹底調査が行われ、(同URL)
ひょっとして、その頃推定された年代をひきずっているんじゃないか・・・?
>>104 が言ってることが、なんか切実に感じられる。
110 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 00:27:21
>>107 >島根県の神原神社古墳は・・・・・・・・・築族時期は四世紀中頃となっている。・・・・・・・・・
>これからすれば、三角縁神獣鏡の出る古墳が卑弥呼の100年ほど後というのも妥当と言える。
論理が飛躍してる、というか、論理的におかしい。
三角縁神獣鏡を出した神原神社古墳が、仮に4世紀中頃だったとしても
その年代を三角縁神獣鏡の出るすべての古墳に当て嵌めていいのだろうか。
111 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 00:39:43
>>109 有名な神原神社古墳に、圧力がかからないはずはない。圧力という言葉は
良くないかな。にもかかわらず、築造時期を四世紀中頃としているのは、
それなりの根拠があるのではないかと考えたりするのだが。
記憶によると、群馬県の柴崎古墳から正始元年銘の三角縁神獣鏡が出ていて、
かなり初期の古墳となっている。しかし、柴崎古墳のサイト
(今調べてみたらちょっと見当たらないのだが)では、この古墳には、もっと
新しい要素のあることが指摘されています、と書かれていた。
>>108 三角縁神獣鏡に関しては、その記銘年号をそのまま制作年代にしていいのか、
という問題を忘れてはならない。つまり国産模造品の可能性が高い。
他の漢式鏡などとは同一に論じられない。
出土数もやたら多いし、埋葬状態からしてもさほど貴重視されてなかったようだし。
中国本土からほとんど(あるいはまったく)出てないし。
113 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 00:52:55
>>111 柴崎古墳ではなかった。蟹沢古墳か森尾古墳だった。
114 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 01:36:57
>>112 だ〜か〜ら〜
製作地の問題と製作年代の問題をごっちゃにするな。
国産として何が悲しゅうて百年も前の鏡をコピーせにゃならんのか?って話しだよ。
…ったくここの九州説論者は自説を垂れ流す事のみに熱心で相手の言う事は全く聞かないなwww
まあこのネタも暫くしたら全てリセットしてまた出て来るんだろうがwww
115 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 02:07:16
>>114 だから、三角縁神獣鏡の歴史をよく整理しておけと言うことだよ。
まず、卑弥呼が魏から貰った鏡は、三角縁神獣鏡だということになった。
まあ、それなりに理由は付けられたのだろう。そして、三角縁神獣鏡が多く
分布するから近畿地方が邪馬台国だと言うことになった。
しかし、年代が合わない。年代を合わせる理論が考え出される。次に、
年代そのものが遡っていく。これで古墳そのものの編年にも大きな影響が
出てくる。三角縁神獣鏡を出土する古墳はもっとも初期の古墳とされる。
けれども、三角縁神獣鏡魏鏡説そのものが危うくなっていく。黒塚古墳の
発掘の頃になると、畿内説の多くの考古学者が、三角縁神獣鏡は卑弥呼の
鏡ではないといい始める。
では、年代はどうなるのか。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるとの前提で
組み立ててきた年代観はどうなるのか。責任を持ってそこのところを
説明する義務があるということなのだが。
116 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 02:41:36
>>115 >まず、卑弥呼が魏から貰った鏡は、三角縁神獣鏡だということになった。
>まあ、それなりに理由は付けられたのだろう。そして、三角縁神獣鏡が多く
>分布するから近畿地方が邪馬台国だと言うことになった。
>
>しかし、年代が合わない。年代を合わせる理論が考え出される。次に、
>年代そのものが遡っていく。これで古墳そのものの編年にも大きな影響が
>出てくる。三角縁神獣鏡を出土する古墳はもっとも初期の古墳とされる。
これは「三角縁神獣鏡の歴史」なるもの(学説史?)を正しく整理したものではない。
>しかし、年代が合わない。 意味不明。何の年代? >年代そのものが遡っていく。 何の年代? >三角縁神獣鏡を出土する古墳はもっとも初期の古墳とされる。 誰が?
118 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 02:53:43
119 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 06:52:04
>>114 古墳の年代を決めていたのは考古学者だぜ。考古学者が古墳の年代比定をして
邪馬台国畿内説と辻褄を合わせるために伝世なんてことを主張したんだ。
九州説論者に文句を言うのはお門違いだろう。
>>120 アタマのイカレてる畿内狂信者には何言っても無駄だよ。
>>114 >何が悲しゅうて百年も前の鏡をコピーせにゃならんのか?
何故「百年前の鏡」と断定できるんだ?その当時に新しく流行した可能性が高い。
年号だけは「百年前」のを模刻したかも。鏡の修飾性として付加価値がつくから。
いずれにしても、各地豪族の趣味愛玩の鏡だろ。
122 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 10:31:10
>しかし、年代が合わない。 年代を合わせる為には、韓国考古学も確認出来ない百済本紀の年代を ほぼ50年古い方へ移動しなければ成らない。 この百済本紀に年代を合わせていたから、年代が合わない。 晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より 咸康(342年)七年,皝遷都龍城。 2824 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。 (347年?)慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。三年 340年代には百済は、そこそこの国として登場するが、 書紀の七支刀は、百済が大国となる初めとして、重要である。 七支刀は326年で無ければ歴史が読めない。 △縁の記年は、景初3年と正始元年に意味がある。
七支刀は、当事の東アジアの王家で結構流行したのでは。 従って、日本書紀にある「七枝刀」が、石上神宮の「七支刀」に 必ずしも一致する必要はないのでは。 つまり、無理矢理年号をあわせるのはナンセンスでは。
124 :
サガミハラハラ :2010/03/17(水) 11:46:36
結構流行って、今まで何本出土発見されましたか。
125 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 12:23:42
七支刀と神功
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、1日狂いがある。
七支刀を369年とかに合わせるのは、百済本紀の近肖古王に合わせる為、
しかし
>>122 に書いたように、百済が国として認められるのは、340年代以前である。
これでは、書紀の記事から百済が大国となるきっかけに位置しなければならない。ここに齟齬が生じる。
>無理矢理年号をあわせる とは、16日丙午を吉祥句とする思考である。この文字さえ無ければ、まだしも。
韓国考古学が、百済本紀を追認出来ない以上、百済本紀には、間違いがある。
323年 神功49年の記事は、ピンポイントで容認できる記事である。
5年動かすと容認出来なくなる。323年は永嘉の乱が終息した年。
サガミハラハラさん この辺が編年出来ないと、それ以前の数字に狂いがでる。
七支刀は、鋳造。鋳物(炭素が多い)で無く鋳鉄であるから鋳造に高温が必要である。
木炭ではこの高温は得られない。
鋳造は、楽浪か?徐州か?
百済国内では無いだろう。
126 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/17(水) 14:02:32
>>125 >七支刀は、鋳造。鋳物(炭素が多い)で無く鋳鉄であるから鋳造に高温が必要である。
「鋳鉄」は、間違えて「鋳造した鉄」の意味で使っているのだと思うけれど、
七支刀は、鋼鉄製なの?
127 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 14:08:20
鋳造(鋳物)と鍛造(たんぞう)の対で使う物だと思うけど。 鋳造(ちゅうぞう)と鋳物(いもの)は同じ意味じゃないかな。
128 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 14:18:54
炭素が4%程度だと、いくらか融点が低くなるので それを利用して、融鉄を作り、砂型などに流し込んで作るのが 鋳造、鋳物、鋳鉄 たたらなどで作られた玉鋼は、炭素分が少なく、普通、鍛造で製品にする。
129 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/17(水) 14:23:43
鋳造した鉄には2種類あります。 「鋳物」 (炭素2.1%以上) と 「鋼・ステンレス」 (炭素2%以下の鉄及び鉄合金) 鍛造は加工方法のひとつ。
130 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 14:45:34
七支刀の銘文の「太■」の■はノギヘンだと言うX線検査結果である。従ってノギ ヘンでない漢字にはならない。優先はノギヘンだから、まぁこれをノギヘンで ない漢字とするには、はやり遥か彼方の大宇宙の果てに、そこの天体の重力波? とかでノギヘンがウカンムリだとか T の字だとかに屈曲する電波星だとかX線星 とかの変わり者天体があるのだろう。そこから強力な電波をピピと感知できる能力 ある人物がいれば、こういうノギヘンでない主張を地球のX線検査をゴリ押しの 踏み倒しで、ノギヘンでない別漢字を頑強に主張するのも、なるほどwwwww だなと感じるのであ〜る。ppppp・pipipi・・・
131 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/17(水) 14:59:41
>>125 ところで、七支刀は鋳造鋼なのですか?
七支刀の炭素含有量はいかほど?
鋳造も加工方法のひとつ、
鍛造と異なり、色々な金属に対して行われます。
132 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 15:58:07
溶かして型に流し込んだ鉄は 炭素分が何パーセントでも 鋳造だと思う。 鋳造という言葉の定義に 綱や鋳物の炭素分が関係あるのか?
133 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 16:39:52
我々の云う鋳物は炭素分が多く、溶融温度も低いが 鋳鋼は炭素分が低く 溶融温度が高い。 鋳物は脆く、鋳鋼はそれより強靱である。 大陸の鋳られた刀は、鋳鋼でなくてはならない。七支刀もこれに準ずる。 >七支刀の炭素含有量はいかほど? そこまでは知らないが、七支刀を鍛造で再現した時の結論は、鋳造で有ろうとの結論。
134 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 16:55:34
323年以後、(若知造鑄之利)また七支刀の鋳造技術も得た可能性がある。 百済が鋳造の技術を得たとしよう。 それに必要な物は、石炭コークスである。木炭では鋳物の温度を得るのがやっとであり鋳鋼は作れない。
135 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 17:59:02
>>115 >責任を持ってそこのところを
>説明する義務があるということなのだが。
はああ?
何を言っているんだお前は?
義務?それは誰が誰に負うものだ?w
>三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるとの前提で
>組み立ててきた年代観は
その年代観が「古墳時代は4世紀から」と言う昔の教科書にも書かれていた年代観なんだがw
むしろ説明の義務を負うのはこの板の九州説の連中のように相変わらず
「古墳時代は4世紀から」と言う年代観を主張しているほうだ、勘違いするなw
はっきり言えば年代観自体は小林説隆盛の頃がこの板の九州説のような連中には良かったって話しw
あと…
>次に、年代そのものが遡っていく。
一体これは何の話だ?サッパリ分からない。
具体的に古墳の名前の一つや二つでも挙げて説明してくれんか?w
いつぞやの「まばらになる古墳群」とかと同じように説明できずに
トンズラかな?w
136 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 18:01:17
で、三角が舶載と言うか魏からの下賜品所謂「卑弥呼の鏡」が怪しくなったと言うのはその通りだろうが じゃあ改めて三角の年代は?と言う事になる。 今まで言ってきたことの繰り返しだが 先ず大雑把な話、 南方呉地のカラーの強いこの鏡が(西南ルートかではなく)半島経由のルートで日本に来るとすれば 後漢末からの戦乱で洛陽周辺の銅鏡製作組織が壊滅し魏晋に復興するまでの間が可能性が高い (呉が魏に膝を屈した時期もある) 実際、魏の年号を持つ神獣鏡も大陸で出ている。 魏鏡説に立っている福永も本人の言うところの「外周突線」「長方形鈕孔」等の特徴を持つものは 西晋泰始七(271)がほぼ下限と言っており 少なくとも俺はそれに対する有効な反論を知らない。 (知っている、もしくはそれができる奴がいたら、どうかご教授いただきたい) また銘文に使われている文字を検証して 例えば「師」の文字は晋の景帝の諱に使われた文字で晋代中は使われるのが憚られた…等々で消去法していくと 結局、魏代しかないなんて話もあるw(まあこれも例外があって確実な物ではないらしいが) …等々、三角を3世紀中に求める根拠はいくつか聞いたことがあるが 逆にここの九州説(と言うか一番必死なのは東遷厨だがw)のように4世紀の鏡だという根拠に具体的なものを見た事がないw 本来、” 古墳の築造時期を知る為に ”発せられた質問 「三角は何時の時代の鏡か?」に対し 「三角の服装されている古墳が従来4世紀からと考えられていた」 …と答えになっていないお話で誤魔化しているのがこの板の九州説東遷厨なやつらwwwwwwwwww
137 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/17(水) 18:03:51
>>132 鋳造という言葉の定義に
綱や鋳物の炭素分は関係しないし、
金属の種類も関係しない。
鋳造した鉄の場合、炭素量2%で鉄の性質が大きく変る。
炭素量2%以上の鉄は刃物に適さない。脆く割れやすい。
炭素量2%以上の鉄は刃物にできる。粘りがあり鍛造できるので、より優れた刃物にもできる。
138 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/17(水) 18:18:33
>>133 七支刀は炭素量2%以下である鋳鋼かどうかを聞きたかったのです。
炭素量2%以上の「いもの」ではないのですね。
炭素量4.2%が共晶点で最も低い融点ですから、言われる溶融温度のことはわかります。
140 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 19:03:58
>>136 もういい加減にしろ。
「三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡ではない」という結論でよいだろ。5百枚も出てるんだから。
作られた時期が何時かなど邪馬台国とは関係ない。前方後円墳も関係ない。
141 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 19:25:35
>>140 ドアホ。
「いい加減にしろ」と言いたいのなら東遷厨に言えやカスwww
何故か製作地の問題が年代の問題に摩り替わっている姑息さ。
はっきり言って三角が舶載だろうが国産だろうが畿内説には関係ない。
それが魏鏡であったなら即死する九州説が困るだけの話しwwwwwwwww
現状500枚ってことは、今後も同様に発掘が続くとして・・・・ 当事製造された実枚数は数千からへたをすると数万か? なんで4〜5世紀ごろに、こんなに鏡がインフレ増産になったんだろう?
143 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 19:32:20
ぶっちゃけ三角国産を謳っている学者なら直ぐにでも挙げられようが… 今日その年代が3世紀ではありえず、4世紀以降ときちんと根拠をもって述べている学者っていたっけ? 無論「副葬されている古墳の年代が…」なんて循環論法は無しでだwww
144 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 19:39:30
>>142 普通に考えてヤマト王権の広域化=古墳文化の広域化で
その需要が爆発的に伸びたからじゃないのか?
その全てが政治的意図を持った分有によってもたらされた…と言うのは当たらないかも知れないが
何某かのヒエラルキーの構築、あるいは帰属意識の強化…みたいな役割はあったんだと思うがwww
145 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 19:47:21
ノムギ古墳墳丘南側 周濠に多量の石 ◆天理・ムノギ古墳 墳丘の葺き石か 天理市佐保庄町の前方後方墳、ノムギ古墳(3世紀末ごろ、全長63メートル)の墳丘南側で、 底が多量の石で埋まった周濠(しゅうごう)が見つかった。天理市教委が15日発表した。 石は墳丘の表面を覆っていた葺(ふ)き石とみられ、墳丘から周濠に落ちた可能性が高いという。 古墳の範囲を確認するため、2月から、墳丘南側の2カ所にそれぞれ幅約2メートル、長さ約14〜20メートル、 深さ約1〜1・7メートルのトレンチ(試掘溝)を入れて調べた。 うち1カ所の底で、直径15〜40センチの石(花崗岩(かこうがん))を大量に含んだ砂の層(約30センチ)が見つかった。 層は墳丘から傾斜して堆積(たいせき)し、墳丘上部から流れ落ちて積もったとみられる。 2003年度の県立橿原考古学研究所の調査で、墳丘東側から周濠(長さ約12メートル、深さ約50センチ)が見つかっているが、 石はなかった。同市教委は「葺き石があったとすれば、 (同古墳がある)大和(おおやまと)古墳群の大型前方後方墳としては最古級。東側と状況が違う理由は今後調べる必要がある」という。 石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「この地域の前方後円墳と前方後方墳には、 同じ3世紀代の築造でも葺き石を持つものと持たないものがある。一度整理し直し、意味合いを考える必要が出てきた」と話す。 同古墳は、三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳など、多数の古墳が集中する大和古墳群の北端にある。
146 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 21:49:44
とりあえず以下の質問には答えてくれんかね?w
>>115 >次に、年代そのものが遡っていく。
一体これは何の話だ?サッパリ分からない。
具体的に古墳の名前の一つや二つでも挙げて説明してくれんか?w
いつぞやの「まばらになる古墳群」とかと同じように説明できずに
トンズラかな?w
147 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:07:12
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
148 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:09:14
>>146 そこまで言うのなら自説の年代観を根拠を出して説明すれば良いのでは?
他説に難癖をつけても意味ないですよ。
>>115 >しかし、年代が合わない。年代を合わせる理論が考え出される。
「一時に百面の古鏡を得たる所謂卑弥呼が大和朝廷の主権者の一人なりしことは、
近畿地方より特に多数の同時代の古鏡を発見するものあり、
殊に本両古墳の如く一時に十数函を埋葬せる陵墓の存するに於いて略ぼ確かめらるを思ふ」
(「佐味田及新山古墳研究」大正十年)
と論じた梅原末治は
「而してこの墳墓の最も古式のものが畿内に存し、
外形の完備が既に早く二、三世紀代にあると認めて誤りがないようである」
(「考古学上より観たる上代の畿内」大正十二年)
と述べている。
>>115 は「三角縁神獣鏡の歴史を」まったく「整理」できていない。
>>148 横からだけど最初に難癖つけてきたのは東遷厨の方だろうに。
151 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:36:13
>>148 三角を3世紀に求めるのが自然だろうと言うのはいくつか根拠を出しているが?
能書きは良いから早く出せwww
>>115 >次に、年代そのものが遡っていく。
一体これは何の話だ?サッパリ分からない。
具体的に古墳の名前の一つや二つでも挙げて説明してくれんか?w
いつぞやの「まばらになる古墳群」とかと同じように説明できずに
トンズラかな?w
152 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:41:34
>>149 まず、どうして三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ということになったのだろう。
153 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:46:40
>>151 お前みたいに暇な人間ばかりじゃないんだよ。
書き込みをいつもいつもチェックしていて、すぐに書き込まないとトンズラ
なんて笑ってしまう。
155 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 22:48:46
>>154 それで答えになるんだったら、全部それで行こうかな。
156 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:00:03
>>151 ジョーカーが年代の根拠を書いたのは見たことがないなあ。
根拠なんてあるのかな。
願望だけだよね。
157 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:00:52
>>153 おやおや
答えないなら、答えないで
>>73 >あれこれケチをつけるより、きちんと答えたらいいだろうに。
>>74 >答えられないんだろう。学者も信者も。
>だから、ああいうみっともない愚痴をこぼすしかない。
とか言うくせに・・・っちゅう話しだなw
銅鏡の話しに付き合ってやってるんだからさっさと答えろよwwww
つうか今の年代観は言わば小林説の束縛がなくなったからこそ出てきたもので
東遷厨の言う
>次に、年代そのものが遡っていく。
と言うのが近年のその事を言っているのなら
小林説の前と後ろをゴッチャにしているんじゃないのかと心配しているわけだがwwwwwwww
158 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:11:17
三角縁が全部国産であることが完全に確定した現時点の状況を前提に話をすすめよう。 三角縁をデザインの変遷や文様の変遷により、各5〜6種に区別する方法がある。 この方法によるとデザイン@〜Eと文様T〜Yまでのうち、過半の変遷が一つの古墳から 出土する三角縁により確認できる。 つまり、その古墳の被葬者が生きているうちに三角縁の国産が始まり、@からC、Dとか TからW、Xまでの変遷が生じたこととなる。 要するに三角縁の変遷はせいぜい4、50年の期間のことでしかない。 三角縁の末期は400年頃であるので、その開始時期は350〜360年頃となる。 この結論が避けられないため、いまだに三角縁が国産であることを認めようとしないのが 学界の大勢である。
159 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:19:07
ぶっちゃけ三角の製作地の論争とは別にその年代については およそ3世紀中に収束しているんじゃないだろうか? 三角に関する議論の潮目が変わったと言えば王仲殊の論文からなんだろうが 王の結論って 「三角は呉から亡命した工人の手による物」 だろ? 呉の滅亡が280年。 この説をもってしてもやはり3世紀の内。 三角を4世紀に持っていく理論できちんとした物があるのか?
>>158 に続けて・・
学界は一方では、ポスト三角縁国産をにらんだ対応を始めている。
それは、三角縁を出土した古墳の大半を3世紀代とする「年代総地すべり」である。
この方法によれば、三角縁の末期が300年頃になり、帳尻あわせができそうな感じもする。
しかし、この方法には難点がある。
いわゆる「イ方製」とされる三角縁の存在である。デザインや文様の変遷の末期に位置づけられる
三角縁は明らかに4C末〜5C初期のものがあり、これを含めて全部遡上させることは不可能である。
そこで、この点をごまかすための理屈が必要である。
とにかく末期以外のものをとりあえず、3Cにぶちこみ、末期の存在は無視する(A説)と、
末期を切り離してそれ以外を3Cにぶち込む(B説)である。
B説の方が論理的だが、末期とそれ以外の年代差が極端に大きくなる難点があり、両者が一緒に
出土しているものへの対応ができない。
そこで、現在大半の学者がA説の立場に立ち、「とにかく3Cにぶち込む。それができないものは
無視する。」という暗黙のコンセンサスで行動している。
161 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:21:14
呉から亡命した工人の子孫の作だったらいつになるかな。
162 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:22:37
>>158 >つまり、その古墳の被葬者が生きているうちに三角縁の国産が始まり、
あれ?
副葬品つうのは被葬者が生きてるときにつくられた物だけしか副葬できないの?
親の形見や先祖代々のお宝だって副葬にするってことありえるだろ?違う?
163 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:31:08
>>160 に続けて
さらにA説が破綻したときのための手当てもある。
それは、横穴式石室や、馬具の副葬や、須恵器の開始を4C半ばやそれ以前まで
遡上させるという方向性である。
すでに、白石氏は、須恵器の開始を4Cなかばころまで遡上させる考えを表明している。
これに成功すれば、横穴式も馬具も大幅に遡上できる。
これらと同一もしくは近接した時期の三角縁の年代も遡上できる。帳尻総あわせである。
しかし、これをやると、仁徳稜やその近辺の同時期(5C前葉〜半ば)とされる巨大古墳の
年代まで大幅遡上するという、大きな難点がある。このため学界の多数は今は慎重である。
そこで、この点の帳尻あわせのために、稲荷山古墳出土の須恵器の年代や榛名山の噴火(FA)の
時期までも大幅に遡上させようとする方向性が有力である。
とまあ、際限ない帳尻あわせの連続であるwww
>>162 .>親の形見や先祖代々のお宝だって副葬にするってことありえるだろ?違う?
あり得ます
165 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:35:51
ちなみに… 東遷厨が三角の登場時期としている4世紀半ばと言えば中国では「五胡十六国時代」か? その頃の大陸に三角のオリジナルとなるような鏡があったのか?ッて話だなwwww もし三角に見られる諸要素のオリジナルは3世紀物のと言うのなら 百年も前のものをある日突然大量生産しだしたという話しになるがwwwwwwww
166 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:36:01
>>162 たとえば、三角縁の製造が240〜400年頃まで続いたとする。
その間に@〜Eの変遷があるとしよう。
260年頃の古墳には、@もしくは@とAが副葬される。
300年頃の古墳は@〜Bまでが副葬される。
350年頃の古墳は@〜CまたはDまでが副葬される。
というようなことになりそうだが、実際には、@や@とAだけが複数出土するようなことがない。
@からC、Dまでが混在して出土する。
なので、50年以上の長期編年は出土事実に明確に反する。
それゆえ、「三角縁はとにかく3Cにぶち込め。それができないものは無視しろ」という現在の風潮がある。
167 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:38:43
で、結局これは答えられずにトンズラ?
>>115 >次に、年代そのものが遡っていく。
一体これは何の話だ?サッパリ分からない。
具体的に古墳の名前の一つや二つでも挙げて説明してくれんか?w
いつぞやの「まばらになる古墳群」とかと同じように説明できずに
トンズラかな?w
168 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:47:18
>>163 につづけて
須恵器の遡上で難点になるのは、仁徳稜とその近辺の巨大古墳である。
これらを5Cから4Cに遡上させる考えはさすがに誰も言わない。
では、どうするか。
@ 稲荷山古墳の須恵器を古くして、須恵器全体の年代を少しだけ古い方に移動させる。
A 河内の巨大古墳の須恵器も少しだけ古くする。
ここまでは学界の反発もそれほどない。しかし、これでは足りない。そこで、
B 初期の須恵器を極端に長い編年にする。
結局ここに行き着くのだが、これにも当然に問題がある。
初期だけを極端に長くすると、須恵器と同時期の土師器(布留式)の年代の帳尻が合わない。
んで、どうするかといえば、「無視する」である。
布留式の編年はしばらくお預けにして、やれることからやろうというのが今の遡上論である。
帳尻あわせのために、戦後の真面目な研究まで全部ご破算である。
169 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:51:31
>>167 それは、三角縁神獣鏡を副葬する古墳の年代が古くなっていったと言う話。
もっと前からちゃんと読んでいればわかるだろうに。
気になったのは、熊本県宇土市の御手水古墳なんかがある。
これは三角縁神獣鏡を副葬するのだが、これが向野田古墳よりもいつの間にか
古くなってしまった。
しかし、向野田古墳は、方格規矩四神鏡や内行花文鏡を副葬する。
いくら三角縁神獣鏡を古く持ってきても、これらの鏡より古いということは
ないだろうと思うのだが。
椿井大塚山古墳なんかの影響もあるのだろうが、割竹型木棺の年代も
古く見られているようでちょっと不満。
銅鏡の科学的成分による、製作年代推定法とかないの?
>>152 >どうして三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ということになったのだろう
それは富岡謙蔵が「三角縁神獣鏡は魏晋朝の鏡である」と考証した
(「古鏡の研究」大正九年 他)のがはじまりでしょう。
彼は三つの古墳から出土した「神獣鏡」の
“銅出徐州、シ(こざと偏に市=師)出洛陽”「銅は徐州より出で、師は洛陽より出づ」
という銘文に着目し、以下の点から上記の結論を出しました。
1 「徐州」は漢代には彭城国と呼ばれ、魏代に徐州を置き、劉宋の422年に再び彭城郡となった。
2 晋代には司馬師の諱を避けて「師」の字を使わなかった。
3 前漢の末期からは雒陽の文字だけが用いられ、魏代になって再び「洛陽」と書くようになった。
172 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 23:58:48
>>162 確かに副葬する鏡には、代々伝わってきたようなものもある。
しかし、それは見ればわかるらしい。つまり、手慣れというか、手摺れと
いうかその痕跡がはっきりと認められる。
福岡県の一貴山銚子塚古墳では、方格規矩四神鏡と三角縁神獣鏡が出ているが、
方格規矩四神鏡のほうは、そういう理由でかなり古く、副葬するまでに
200年ほど経過していると言われる。しかし、三角縁神獣鏡については
そのようなことは言われていない。
つまり、三角縁神獣鏡は新しく、作られて比較的すぐに副葬された。
黒塚古墳の場合は、もっと明確で、バリが付いていたと言われるから
作ってすぐに副葬された、というよりも副葬するために作られたとされる。
これが、卑弥呼の鏡でないことの根拠の一つともされるのだが。
>>159 >三角は呉から亡命した工人の手による物
しかしなあ、魏に滅ぼされた国の人民たちが、「親魏倭王」の領土に亡命するか?
現代で言えば「中国から脱出した人々が、北朝鮮へ亡命する」ようなもんだが。
174 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:05:37
>>169 そんな事は聞いていない。
先ず三角の編年上最古のものを「卑弥呼の鏡」とする。
次に記紀の崩年干支との辻褄を合わせるため伝世鏡の理屈を作る。
でその次にどういう理屈で古墳の年代が古くされたのかという話し。
所謂「小林説」の中でどういう展開だったのかと言う話し。
その説の登場で古墳の年代が従来のより一気に遡ったなんて話を聞いたことが無い。
東遷厨の言う「三角縁神獣鏡の歴史」とやらにそんなことがあったのか?
>>172 古墳から出土する鏡のうち、一部の種類のみ常に伝世で他は国産とするのも、
合理的じゃないよ。
三角縁の国産が可能なら、画文帯も方格規矩も内向花文も国産可能だよ。
「同型鏡とワカタケル」なんかを読むと、日本でのみキズの継承が認められるものが多い。
176 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:10:36
>>174 年代をいじくるのは畿内説の得意とするところだろう。
吉野ヶ里遺跡の年代はどうだった。
発掘当時はみんな、倭人伝の国を見たとか、卑弥呼の時代と重なるとか
言っていたくせに、いつの間にか卑弥呼時代の前にしてしまった。
そのくせ、吉野ケ里の年代は、前から卑弥呼の前だったなんて調子はずれの
ことを言い出す。三角縁神獣鏡の年代も同じだよ。
177 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:11:07
>>166 それ考えかたが全然おかしいよ。
たとえばだよ@ABCDの鏡を全部あつめた偉い豪族がいま東と西に2人いるとしようよ。東さんと西さん。
で東さんは亡くなったとき鏡@ABCDぜんぶ副葬しちゃった。
でも西さんは息子に遺言して「これらの鏡は孫の孫の代まで全部伝えていくんだぞ!」て言ったらどう?
西さんの家はようやく孫の孫が亡くなってから以後に@ABCDの鏡が副葬されるかもしれないよね。
わかります?
別々の古墳で同じセットの鏡が出てても決して年代が同じだとは言えないでしょ。違う?
横入りして済まんが 画文帯の彫りの深さ緻密さは、絶対オリジナルだと思う メス型を起こしてレプリカを作ったら、あんな精緻さは出ない 画文帯に比べたら三角は凄く粗悪だ 引け巣はあるし、線刻もちゃんと出てない
>>177 三角縁の長期編年だと、その想定はムリポ。
多くの古墳のなかの3分の1くらいは長期編年に合う出土をしないと。
現状は、短期編年、しかも最盛期2、30年で三角縁の8割が製造されたという
超短期編年に最も適合する出土状況なわけだし。
180 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:15:15
>>176 火病を起こされてもなあw
東遷厨の言うところの「三角縁神獣鏡の歴史」とやらをきちんと説明してくれ。
そもそも小林説と言うのは(まあ本当は良く分かった無いんだがw)
記紀に基づく年代とも齟齬をきたさないナイスなアイデアだったんじゃないのか?wwwwww
一体「遡っていく」ってなんなんだ?
>>115 >次に、年代そのものが遡っていく。
一体これは何の話だ?サッパリ分からない。
具体的に古墳の名前の一つや二つでも挙げて説明してくれんか?w
いつぞやの「まばらになる古墳群」とかと同じように説明できずに
トンズラかな?w
181 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:16:45
>>175 内行花文鏡や方格規矩四神鏡と、三角縁神獣鏡は性格が違うと思う。
まず、どこにあったかというと、前者は、頭の付近。後者は、足元とか
棺の外というのが多い。三角縁神獣鏡は葬具とも言われるしね。
それに、一貴山銚子塚の方格規矩四神鏡は、確か金メッキされていた。
これは国産ではないだろう。だから、大切に伝世された。
182 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:20:30
>>179 >現状は、短期編年、しかも最盛期2、30年で三角縁の8割が製造されたという
>超短期編年に最も適合する出土状況なわけだし。
意味がよくわかんないなあ。
最盛期「2、30年」ていう数字はどうやって導きだすわけ?
183 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:22:26
184 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:24:27
185 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:29:15
ちなみに三角の出土状況について言うと 確かに前半の物はけっこう連続して同時に出てくるが 後代の物になると”まばら”になるwww 例えば神(G)獣(A)の配置でT〜Zと分類した物で 椿井大塚=T・U・V・W と連続しているが 奈良佐味田=T・V・Y 岐阜長塚=V・X・Z とばらけて来ている。 もしT〜Z全体がごく短い期間であったなら 後になるほどばらけて来ると言うのも解せない話w 恐らく最初は頻繁にバージョンアップしたんだろうが後になるとそのピッチも落ちて 作りもどんどんやっつけになったんではないのか?wwwwwwwww
186 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:29:50
187 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:32:14
>>183 結局、お前が「三角縁神獣鏡の歴史」を整理も理解もしていなかったと言うお話だなwwww
188 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:38:53
それと元にもどっちゃうけど
>>158 >三角縁の末期は400年頃であるので、その開始時期は350〜360年頃となる。
この「三角縁の末期は400年頃」ていう年代は正しいの?どうやって導いたの?
189 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:49:49
それから自身の良心に基づいて言っておくがwwwww 東遷厨は必死に「三角は国産でけりがついている」とか言っているが話は簡単ではない。 そもそも魏代の銅鏡の製作環境ってものが良く分かっていない。 魏が薄葬の文化でかつ短命であったこともあり鏡の出土も殆ど無い。 そんな状態で「500対0」をアホの一つ覚えのように連呼しても全く意味が無い。 まあ意味が無いと言う事を自覚できないからアホなんだろうがwwwwww 例えば確実に魏代と分かる鏡が何百枚と出ていて (できれば九州説がイチオシの内行花紋や方格規矩も出ていてw) その中に神獣鏡が無いとなればそれなりに説得力もあろうが・・・ まあ東遷厨はこのネタで溜飲を下すしか楽しみが無いんだろうがwwwww
190 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:52:18
>>171 それは確かに聞いたことがあるが、銘文は後世の作者が何かを見て、まねて
作ると言うこともありうるから、もっと慎重に結論付けるべきだったと思う。
神獣の文様は江南のものと言われるし、中国からは一枚も出ていない。
いろんなことを考慮すべきであって、そうしなかったところに、やはり
結論が先にあったといわれても仕方がないと思う。
191 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 00:54:57
それは脳内妄想で導き出した
否定でも肯定でもなく。 貴重な資料に謙虚に向かい合おうな。 歴史的資料はおまえらの自説に隷属するためのものではない。
193 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 01:21:33
>>186 気付いたことをいくつか。
・そもそも八禽鏡の流通は前漢だけで終わっていない。
・日本の弥生時代の中期の墳墓から八禽鏡が多数出土していて、一部が古墳時代に伝世した
との出土状況があるわけでもない。
・むしろ、古墳からの出土が多いので、古墳時代に古い時代の鏡も大陸から持ち込まれたと
考える方が整合しやすい。ソースにも古墳出土のき龍紋鏡がいくつかある。
・弥生時代の鏡の出土は末期を除くと九州に極端に偏っていて、本州で出土した鏡は極めて
少ないので、弥生時代に本州に持ち込まれたという前提が確率論的にも成り立ちにくい。
・但し、弥生時代でもいわゆる「出雲」の領域だけは、本州のなかでも鏡の出土が比較的多い
ので弥生時代に持ち込まれた可能性も捨てきれない。
・また弥生時代の九州に多かった箱式石棺であることなどからは、弥生九州の影響も見られる。
・以上から、弥生後期〜末期頃に日本に持ち込まれた前漢鏡が、古墳時代に副葬されただけで、
伝世はほとんどないと考える方が良いと思う。
194 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 01:59:37
弥生時代の本州の遺跡、墳墓からは鏡なんてほとんど出ないのだが、それを はっきりと言う学者は、本当に少ないね。 弥生時代における九州の絶対優位というのは、昔の九州説の根拠だったから、 今になって認めるのも気が引けるというのもあるだろうが、いまだに、その事実を 認めようとしない長老が少なくないからね。
195 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 07:12:50
>>194 はっきり言わなくても皆知ってることだからだろう。それに、弥生時代に鏡がでなかった
のに、何で急に鏡が出るようになったのか、そこを言い出すと、九州勢力の東征あたりし
かないんで言い出せないんだよ。
>>189 徐苹芳(中国社会科学院考古研究所)の見解
「曹魏(三国の魏)になって・・・鋳造された銅鏡の様式は、すべて後漢以来の旧式鏡で、
方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、?鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などである。曹魏の
時に新しく登場した『位至三公』鏡の花紋は、後漢の双頭竜鳳紋鏡を踏襲したものである。
西晋の時、この『位至三公』鏡は特に流行した。」
(『三角縁神鏡の謎』全日空1984年)
「ちなみに、洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡
でして、数量ではベスト1です。西晋の墓からは、そのほか様々な銅鏡が出土していますが、
例えば内行花文鏡・変形獣首鏡・?鳳鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などは、魏の時代の銅鏡と
何ら違いはありません。」
(『三角縁神鏡の謎』角川書店1985年)
ちょっと古かったかな。
196の続き で、この中に神獣鏡は1枚もない、という結論だな。
畿内厨は東遷という言葉が出てくるといつもヒステリックに反応してるけど、あれは何でなの?
199 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 10:15:42
>>142 >なんで4〜5世紀ごろに、こんなに鏡がインフレ増産になったんだろう?
本物(漢式鏡)が手に入れにくかった近畿が、コピーもしくは類似品を大量につくって、
このなもの(三角縁神獣鏡)ありますよ と高値で売りさばいたから。
えっ、まだ東遷なんか信じてる奴がいるの?
201 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/18(木) 12:39:28
東遷は一回も無かったな。 しかし、東侵は少なくとも7回はあった。
202 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 13:57:26
>>199 お買い上げいただいた鴨…ゴホゴホ…もといお客様には九州の皆様もいらっしゃいます。
今後とも御贔屓に(笑)
203 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 14:30:19
崇神天皇の時期と三角縁神獣鏡の時期は重なるような気がする。 どちらも四世紀半ば頃ではないかと思う。
>>203 >崇神天皇の時期と三角縁神獣鏡の時期は重なるような気がする。
>どちらも四世紀半ば頃ではないかと思う。
じゃあ応神天皇はいつ頃?
君の答えを聞いてから批判するかもね。^^
205 :
サガミハラハラ :2010/03/18(木) 17:36:50
崇神天皇の没年は288年です。三角縁の時期は4世紀半ばらしいので、両者はかさなりません。 前方後円墳が造られはじめたころはまだ三角縁を副葬する習慣はなかったようです。
206 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 18:12:22
>>202 保険の外交員になったら、まず、親戚を勧誘するだろ。あれだな。
やはりここは、祟神天皇は架空の人物とした方がすっきりしますね。 無理に編年を合わせようとするからとんでもないことになるのです。 サガミハラ氏も、すでにそのことに気づいておられるようだけれど、 まだ、認める勇気がないみたいです。しばらく待ちましょう。
>>158 >三角縁の変遷はせいぜい4、50年の期間のことでしかない。
>三角縁の末期は400年頃であるので、その開始時期は350〜360年頃となる。
「三角縁神獣鏡については、製作の始まりというのは、
魏鏡説も王仲殊先生も「景初三年」の239年で一致している」
(岡村秀典「シンポジウム三角縁神獣鏡」)
三角縁神獣鏡は3世紀の鏡。
>>188 横からですが
> この「三角縁の末期は400年頃」ていう年代は正しいの?どうやって導いたの?
158は、「三角縁神獣鏡の製作年代」と「古墳の比定年代」とを混同しているのだろう。
そして、「400年頃」とされる古墳から出土した鏡を400年頃製作として、
「開始時期は350〜360年頃」という珍説を創り出した、と思われる。
「鏡の偏年と日本の古墳編年とは厳密には一致しない。これはしょうがない。
お手上げだから、鏡は鏡、古墳は古墳で別々に議論をするべきだと思うわけです」
(同上)
209 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 21:56:23
崇神没年=259年 です。これは古事記の没年では258年(戊寅)と1年 違いとなり、記の崇神没年は非常に正確だったことになります。 259年は倍暦逆算の積み上げからの結論であります。以上のことから、 258年説を唱えた橋本増吉と菅政友の主張がほぼ真であったことを意味 するものです。
210 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 21:57:48
>>208 三角縁の末期は、横穴式石室、須恵器、馬具が始まる初期のころ。
従来は400年前後のころと見られていた。
年代遡上の連中はこの時期の三角縁は全力で無視しますね。
まあ研究者としてのプライドの問題ですが。
>>208 >魏鏡説も王仲殊先生も「景初三年」の239年で一致している
魏鏡説が成立するなら、それも理解できる。
しかし、魏鏡説には信頼できる根拠がない。
212 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:06:17
倍暦なんてオタの妄想。数字遊びイラネ。
213 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:07:39
太国も倍暦さえあきらめれば、いっぱしの歴史家に成れるのに・・・惜しいな。
214 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:23:40
215 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:24:40
>>208 三角縁神獣鏡には、葬具説というのもあるからね。
墓に入れるために作ったということで、これなら鏡の作られた時期と古墳の
時期が一致する。
>>215 葬具だったとしても、全部が全部、新品を造るとは言えんのじゃねえか。
217 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:46:21
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
河童やドツボ、縄文人はどした?死んだか?
219 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:50:16
このスレに見切りをつけて、まともな生活に戻った。 それに引き換え・・・
220 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 22:51:02
>>204 15代・応神天皇は、西暦400年くらいからだと思う。
>>210 >三角縁の末期は、横穴式石室、須恵器、馬具が始まる初期のころ。
の古墳から出土した、と言うのでしょう?
それが製作年代を示していると思ってるんですね。
>無視しますね。
うふふ、聞いてあげるから、出土した古墳を言ってみて。
222 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 23:43:11
223 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 23:50:20
>>211 >魏鏡説が成立するなら、それも理解できる。
>しかし、魏鏡説には信頼できる根拠がない。
なんでそうなる?w
製作地と制作年代は別の話し。
三角に見える色んな要素は3世紀頃までのものだと言う。
逆にそれを4世紀の大陸の鏡に見る説を俺は知らない。
(と言うか4世紀(五胡十六国時代)の大陸の鏡事情自体良く知らないがw)
もしオリジナルは3世紀、三角の製作開始は4世紀中頃なんて言ったら
最低半世紀、下手すれば百年前の鏡をある日突然大量にコピーし出したなんて話しになるw
東遷厨がいつも鬼の首をとったようにあげつらっている「伝世鏡理論」より
余程、奇妙奇天烈w
実際のところそんな事を言っている学者っているのか?
224 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 00:00:18
>>196 古いと言う事もあるが、正確さにおいて信用できるのか?と思う。
中国でも鏡は大半が墓から出て
魏代のものと確実に分かる墓なんかほんの数基だったと記憶しているが…
まあ否定するデータも今手元に無いが
もし詳しくその出土状況(何処の墓から出てきたか、その墓が魏代である証拠等)や数量について
知っていたら書き出してくれないか?
もしそこまでの資料があるなら認識を改める。
ちなみに魏代には銅鏡製作組織も壊滅し、その製作を呉に言わばマル投げしてたと言うのは王も言ってたはず。
後漢→魏→晋 と同じような環境で鏡が作られ続けた事は無いだろう。
225 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 00:12:33
一般論だがwww
考古学とやらにおいて様々な文物はその出現時期の”アタマ”を押さえるのが常道だと思うのだが?
三角の終末時期を選んでそこから逆算して出現時期を決める
この東遷厨のいつもの芸風は頂け無い。
(三角の他にもこの手口は使っていたと思うがw)
極端な話し、俺が三角を入手して自分の墓に入れれば
三角の終末時期は21世紀なんて話にもなりかねないwwwww
別に全く根拠が無く言っているわけでもなく
>>185 で言ったように
最後の方の物は結構”ばらけ”て来る
(恐らく東遷厨はこの事は知っているはずw)
つまり最後の方の年代になると既に製造打ち止めになって時間が経ってしまって
入手できなくなっている状況が伺える。
まあ三角マニアが「フル・コンプリート」望んでも無理だったとwwwwww
226 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 00:28:09
227 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 01:21:15
アンポンの平均在位説かよwwwww
229 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 01:30:11
>>223 黒塚古墳などを見ていると、三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡と共にでてくること
が多い。椿井大塚山古墳もそうだった。同じくらいの年代なのかな。
となると、画文帯をどう考えるかということになる。この鏡も江南地方の
ものとされる。いつ入ってきたのやら。
一説によると、三角縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡に三角のふちをつけたものと
言われるな。
230 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 04:17:18
>>226 >下記「邪馬台国の会」の”日本で出土した「位至三公鏡」”の一覧を参照されたし
>
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku236.htm 見てきたが、あまり馴染みのない古墳名が多いね、いくつかは知ってるけど。
どうもこれらの古墳はそれほど古くはないような気がするね。
大分県臼杵市の臼塚古墳なんて舟形石棺だし、短甲も出てるし。
ウィキで調べたら中期古墳なんだそうだ。「5世紀中頃の築造と推定されている」と。
位至三公鏡を出す古墳のグループと、三角縁神獣鏡を出す古墳のグループを比較するなら、
どうも相対的に見て、位至三公鏡を出す古墳のグループの方が新しいのじゃないかな。
安本美典は「卑弥呼が魏からもらった可能性が大きい鏡」として位至三公鏡を挙げてるが、なんかヘンな意見だね。
231 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 07:15:02
>>229 福永は画文帯神獣鏡が列島に流入したのは200過ぎとする。そして、徳島
で出土した画文帯神獣鏡が朝鮮半島北部で出土したものと同型だと指摘して
いるよ。画文帯神獣鏡は北部九州の勢力が手に入れたものだろう。
一方、三角縁神獣鏡は画文よりやや遅れて出てきたようだ。三角縁神獣鏡は
それが国産にしろ、邪馬台国との関係を考えなければならん。北部九州では
なく、倭国の乱で北部九州に勝利した邪馬台国が配ったものだろうな。
製作地と制作年代は別の話しとか言ってるのがいるが、この両者は切り離せないのは当然。 制作地が不明のままでは、その最初の制作時期は推定できない。 最初の制作年代を知ろうと思えば、その制作地を知らずしてどうやって決めるのか。 成分分析で制作年代が判定できるんなら別の話だが。
233 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 09:30:06
>208 >「三角縁神獣鏡については、製作の始まりというのは、 魏鏡説も王仲殊先生も「景初三年」の239年で一致している」 (岡村秀典「シンポジウム三角縁神獣鏡」) こんな書き方すると 王仲殊先生 も 魏鏡説に見えるな。 しかし、王さんは非中国鏡説だよね。
234 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 17:00:27
三角縁神獣鏡は比較的大型の鏡で、黒塚古墳などを見ると、副葬の仕方も 棺を取り囲むように納めてある。しかも、映るほうを内側にしている。 このことから、抱朴子の神仙思想の現われではないかと思われる。 抱朴子には、「明鏡の九寸以上なるを用いて自ら照らし、思存する所有ること 七日七夕なれば、則ち神仙を見るべし」とある。 三角縁神獣鏡は、だいたい九寸(22cm)以上あるし、自らを照らすという 意味でも該当する。恐らく、神仙を見る、すなわち不老不死、さらには 死者復活のような意味があったのではないかと思う。 抱朴子が著されたのは、西暦317年頃とされる。これが日本に伝わり、 一つの形として表れるのは、やはり四世紀半ばではなかろうか。 三角縁神獣鏡が作られたのもこの頃だろう。
>>234 面白いねェ。
中国本土での副葬方法には、影響はあったのかしらね
236 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 18:40:41
>>227-228 安本だろうが誰だろうが、データとして正しければ、別に問題ないんじゃないか?
実際、奈良・平安朝の歴代天皇や中世・近世の歴代将軍の平均在位年数を考えたら、
5世紀以前のヤマト大王(倭王)の平均在位年数が10年をこえることはないだろう。
だからと言って、記紀の登場する歴代天皇が全部実在で神武東征は史実だとかいう、
アンポンタンなトンデモ説には従えないがな。
>>236 そうだね。
統計的手法で導いた「在位10年」は、傾聴に値するということで。
ただ、事実がどうだったかは別問題で、あくまで仮説ということだな。
ある数集合を代表する数値として 平均値がふさわしいかどうか という問題はあるが。
239 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 19:17:39
>>236 >安本だろうが誰だろうが、データとして正しければ、別に問題ないんじゃないか?
恣意的にチョイスしたデータにどんな意味があるの?
240 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 19:24:12
安本は〜、その怪しげな統計術でアマテラスを卑弥呼だと言いたいみたいだが、 そうなると、アマテラスの親はイザナミ・イザナギで、国生み神話の時代になってしまう。 卑弥呼以前にも中国に朝貢してた倭王はいたが、神話には残っていないことになる。 あんぽんな安本はその件について何にも説明無し。 無知な読者は矛盾点にも気がつかなくて鵜呑みにしてるだけ。
倭の五王の時代(履中天皇から雄略天皇)の 平均在位年数が15年なのは内緒だよ。
242 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 19:38:46
ちなみに
>>242 のサイトでマウスをクリックしたままなぞれば出てくるように文章を隠した部分があるが、そこに
>中国で魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていない
とある。
現時点どれくらいの発掘例があるのかは知らないが(曹操の墓が見つかったなんてニュースもあったしw)
このサイトが2003年みたいだが当時では、まあそんな物だったろうと思う。
だからどうしても
>>196 の引用はそのまま鵜呑みにできない。
そこに出ている魏代の鏡の構成は出土例に基づく物ではなく
その中国の学者の類推ではないのか?
…というのが今の俺の疑念www
244 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 19:42:11
>>239 言われてみれば、生前譲位が恒常化していた平安中期以降の天皇と、
基本的に終身制だったヤマト大王とでは単純に比較はできんな。
しかし、徳川将軍ですら平均在位年数が17年余りだったから、
まあ、ヤマト政権時代の大王がそれを上まわることはないだろうな。
倭の五王(讃の即位年と武の没年が不明だが)でもそんな感じだろ?
10年きっかりかどうかはしらんが、それに近似する数値だったんでは?
245 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 19:49:13
応神(ホムタワケ)と仁徳(オオササギ)には同一人物説もあるが、 一応、ホムタワケ大王をオオササギ大王の先代王(父)と考えれば、 高句麗の好太王タムドクと戦った倭王はホムタワケってことになる。 4世紀後半、百済王世子から侯王として七支刀を下賜された倭王旨は、 景行(オシロワケ王)の可能性も。
オオタワケという名前にしとけ
>>243 まあでも、魏と西晋とは実体は同一王朝だからね。
文化、風俗が大きく変動したとは思えない。
確かに貴族たちの墳墓は、曹操の「薄葬令」に遠慮して小さくなったかも。
ただ、鏡に変化はないだろう。あちらでは鏡は単なる「日常品」なので。
248 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 20:36:12
故井上光貞は、古代天皇の名前のスタイルから、 ミマキイリヒコ、イクメイリヒコ、オシロワケは実在の可能性があると考え、 ホムタワケはオシロワケの曾孫ナカツヒメに入り婿して大王になったと書いてたな。 ミマキイリヒコ ↓ イクメイリヒコ ↓ オシロワケ ↓ イオキイリヒコ ↓ ホムタマワカ ↓ ナカツヒメ=ホムタワケ
249 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 20:41:06
日本の初代天皇は実は仁徳。 騎馬民族の王だったというのが有力。 それ以前の血統は、不比等による捏造。 すっかり騙された人が多い。
250 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 21:01:18
まあいつもの事だが
ここはあくまで「邪馬台国スレ」であって「古代史全般スレ」じゃないからなwwwww
>>247 だから風俗だの風習だのとはレベルが違う話。
銅鏡製作組織が壊滅してそれを呉地に頼らなければなかったんだから
魏の人間がいくら後漢時のものを欲しても、それこそ『 物理的 』に無理だったろうって話しwwwww
で、話しのポイントは
銅鏡製造の組織が何時頃立ち直ったか?
…と言う事になる。
もし景初あたりまでに既に立ち直っていたら例えば森浩一なんかが言う
「銘文が稚拙で品格(w)に欠ける」と言う話や
「そもそも五斗米道と言う道教の一派に手を焼かされた魏が
そんな民間・土俗宗教である道教色の濃い神獣鏡を下賜品にするわけがない」
なんてお話も活きてくるwwwwwww
逆にまだ立ち直っておらず呉地に頼っていたか、もしくは呉出身の工人に頼るところが大きかったのであれば
下賜品である目も出てくるだろう。
問題の景初は年代的にどうもその境目と言うか微妙なところらしいwwww
現在冷静に判断するなら「卑弥呼の鏡が神獣鏡であった可能性もある」としか言いようがないwww
251 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 21:12:59
邪馬台国畿内説の牙城、大阪大学は手塚治虫の母校でもある。 ここでは「火の鳥 黎明編」の話題はタブーなのだ。
>>229 >231について、横から補足しておこう。
> 福永は画文帯神獣鏡が列島に流入したのは200過ぎとする。
>そして、徳島で出土した画文帯神獣鏡が朝鮮半島北部で出土したものと同型だと指摘しているよ。
以上は(「邪馬台国から大和政権へ」福永伸哉2001)からの要約だが、
同書では
「画文帯神獣鏡は、北部九州にもっとも厚い分布をみせていたそれ以前の中国鏡のあり方とは異なり、
明らかに畿内地域に分布の重心を移している、
こうした特徴をみせる画文帯神獣鏡については、たんに大陸物資の流通経路が変化したというよりも、
畿内地域に中枢をおく政治勢力によって意図的に入手して配布されたとみるほうが説得力をもつように思う」
とある。
253 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 21:50:39
コテの死骸累々と。実生活より2chに生きるもの憐れ。
254 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/19(金) 21:51:48
△縁が何処で作られたかは、余り関係無い。重要なのは紀年銘 景初3年と正始元年に重要なポイントがある。 この鏡が畿内から全国へ分散している以上、それを考える。 全国へ分散させるには、人間が同じ時期に、全国へ行かねば成らない。 景行時代の九州から関東までの軍事行動以外に無い。
>>233 >こんな書き方すると 王仲殊先生 も 魏鏡説に見えるな。
王仲殊先生は
「三角縁神獣鏡は東渡の呉の工匠が日本で作ったものである」
と主張した中国・社会科学院考古研究所長。
「三角縁神獣鏡の製作年代は基本的には3世紀にあると、私は一貫して考えております。
(中略)
日本の学会では三角縁神獣鏡の製作年代は4世紀以降とされる先生もいらっしゃいます。
その理由は、三角縁神獣鏡は、すべて4世紀以降の古墳から出土している以上、
4世紀以降の古墳時代の作品であると看做すべきであって、
3世紀の弥生時代後期の産物ではないというものです。
これらの理由はたいへん参考になるものではありますが、
三角縁神獣鏡の型式、文様、銘文等の側面からして、
わたくしはなおこの鏡の製作年代は、基本的には3世紀であると見ているのです」
(王仲殊先生「三角縁神獣鏡の謎」)
>>255 続き
「ただ、どうもよく分からないのは、日本の先生方が、前期古墳の絶対年代を
4世紀とされたその根拠は、そもそもどこにあるのかということです。すなわち、
いわゆる前期古墳の場合、3世紀の年号のある銅鏡が少し出土しており、
一部の鉄刀に2世紀の年号があるのですが、
4世紀の年号そのものを有するいかなる副葬品もございません。
(中略)前期古墳すべてのその年代が4世紀とされているのです。
この比定は結局何に基づいて可能となるのでしょうか。
田辺先生にお伺いしたいと思います」
(王仲殊先生「三角縁神獣鏡の謎」)
257 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 22:32:11
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
258 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 22:56:07
>>255 王氏が、三角縁神獣鏡を呉の工人が日本にやってきて作ったものと言った
のは、鏡の文様が呉のものだという意味だろう。
卑弥呼は、魏と交流を持っていた。同じ時期に呉とも交流していたと言うのは
考えにくい。交通路という意味でも難しい。
また、呉からそのような人物がやって来たというのも時期的に難しい。
少なくとも、呉が滅亡した西暦280年以降と考えるのが妥当だろう。
年号に関して言えば、呉の工人が作ったのに、年号が魏のものというのも
おかしい。どうして敵である魏の年号を入れる必要があるのか。
まあ、いろいろ矛盾点があるように思う。
259 :
日本@名無史さん :2010/03/19(金) 23:07:37
着物のことを「呉服」というけど、起源はいつなの? 「魏服」とか「普服」とか言わんよね?
261 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/19(金) 23:30:20
>三角縁神獣鏡は、すべて4世紀以降の古墳から出土している以上、 纒向遺跡が2世紀後半に約50年古くなった以上、それにつられて古くなるべき時代がある 仁徳末は4世紀末。たぶんここまで古くなる。
262 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:03:59
この調子で行くと紀元前位まで行きそうだな。
263 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:07:00
三角縁神獣鏡は、紀元前の物であると
>>226 >不思議な事に畿内では大阪(河内)から出るのみで奈良には出土が無いらしいが…
>これについて合理的な説明できる奴いるかな?
庶民のためのたこ焼きみたいなものだった。・・・合理的だろ。
265 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:12:48
「三公」はもちろん王より下の位。「位至三公鏡」は王がもらう鏡じゃないな。
266 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:27:29
>>261 それが無理だから、年代遡上の趨勢は「初期だけ極端に長い」ですよ。
初期の古墳はわずかな数で長い期間をカバーするというアンバランスが生じますが、
まあ無視することで学界の意思統一は図られています。
267 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:31:14
>初期の古墳はわずかな数で長い期間をカバーする これが有名な・・・古墳がまばらになる・・・というやつか。
268 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:45:29
>>267 発生期の古墳だけが異常に築造の時期的密度がまばらなことは、年代遡上に
とっては難点の一つだろうね。
ことに発生期の古墳がヤマトだけじゃなく、広い地域に存在しているという現状では
無理な年代遡上が際立つね。
269 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 00:57:04
>>266 >初期の古墳
>>268 >発生期の古墳
同じ意味ですか?
別人のレスらしいので、いちおう用語の意味・用法を確認しておきたいです。
できればそれぞれ、「これらが初期の古墳」、「これらが発生期の古墳」とする古墳名を挙げてみてほしい。よろしく。
>>269 それは「古墳」というタームの考古学上の定義の話であって、
それ以上でも以下でもねえだろ。
だからといって、弥生の墳墓と「古墳」を完全に断絶させて
考えるのもかえって不自然な場合があるだろうよ。
>>255 「三角縁神獣鏡の謎」は昭和60年に初版発行だね。
このシンポジウムの後も、日本で舶載説とか特鋳説を唱える学者がいたのは、
学説史的には汚点というべきものだろうか。
王先生が、3Cとした根拠は銘文の年号にあるんだけど、その年号が日本で書かれたと
するならば、それは実年代ではなく偽年号ということになる。日本に居て、リアルタイムで
中国の年号を知ることはまずない。王先生はこの点の配慮が足りない。
では、その偽年号がいつ日本に伝わったのかと考えると、普通に考えれば魏志や魏略
などが編纂された以降ということになる。さらに「景初4年」の年号は晋書に出てくるので、
晋書以降ということになる。
つまり三角縁神獣鏡の製造開始は4Cですね。
272 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:20:38
時期的密度の問題は、地方ではより深刻に年代遡上の障害になるね。 最初の古墳だけ異常に突出して古くなる。 けど、そんな疑問をいえないのが三角縁の舶載説とか特鋳説とかが生き残った土壌 なんだろうね。
273 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:23:20
>>268 >発生期の古墳だけが異常に築造の時期的密度がまばらなことは、年代遡上に
>とっては難点の一つだろうね。
訳の分からない事を言うなあ…
なんで『難点』になるのか理論的に言ってみ?wwww
常識的な話し
中央にピークを持つ左右対象の「正規分布」だったかな?
そりゃ両端っこは分布がまばらになるのは常識w
古墳時代に入っていきなりピーク時と同じようなピッチで築造されねばならないのか?
きちんと説明できるのか?w
つうかだな…
「古墳時代の開始を早めると古墳の密度がまばらになっておかしい事になる!」
とか心配している学者がいるのか?wwwww
日本でお前だけじゃないのか?そんな事を考えているのはw
少なくとも俺は他で聞いたこともないwwww
>>271 >さらに「景初4年」の年号は晋書に出てくるので、晋書以降ということになる。
『晋書』(しんじょ)は中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。
唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり三角縁神獣鏡の製造開始は7Cですね。
>>272 前半には深く同意。
後半にはちょっと私怨が。間違いだとも思わないけど。
276 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:28:16
>>270 いや、「初期の古墳はわずかな数」(
>>266 )なんて言い方するわけだから
いちおうは勘定してるんでしょ?
それを挙げてみてください、って話なんで・・・。
「わずかな数」、なんだから・・・。
277 :
273 :2010/03/20(土) 01:35:02
念のために改めて聞いておこうwww この東遷厨の言う「まばら理論」(仮称w)を 年代観の論議の場で実際に言っている学者とかいるのか?
「初期」と「発生期」は異なる概念だ。 考古学者なら区別して使う。
279 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:43:53
>>277 人の意見にケチつけて質問するばかりでなく、自分の意見も言ってみ。
280 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:43:58
古墳名を出して具体的に議論してくれ。
281 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:48:26
>>279 恨み節の東遷厨(新名称=まばら君www)
ん?
ここまで三角を3世紀中に考えるが妥当だと言う事については散々言ってきたが?
「古墳時代の開始時期を早めたら古墳がまばらになる」
…と思いついた時点で飛びついちゃったんだろうなw
じゃあ何故まばらになると不味いのか?
そこまで考える余裕すらない。
東遷のスケジュールが詰まっちゃっているからなwwwwwww
282 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 01:52:08
>>266 さんと
>>268 さん、お答えください!
〜みなさんもお考えください〜
(問1)ホケノ山古墳は初期の古墳ですか?
(問2)ホケノ山古墳は発生期の古墳ですか?
(問3)箸墓古墳は初期の古墳ですか?
(問4)箸墓古墳は発生期の古墳ですか?
(問5)桜井茶臼山古墳は初期の古墳ですか?
(問6)桜井茶臼山古墳は発生期の古墳ですか?
(問7)黒塚古墳は初期の古墳ですか?
(問8)黒塚古墳は発生期の古墳ですか?
(問9)大和天神山古墳は初期の古墳ですか?
(問10)大和天神山古墳は発生期の古墳ですか?
283 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 02:00:16
続きで〜す。 (問11)中山大塚古墳は初期の古墳ですか? (問12)中山大塚古墳は発生期の古墳ですか? (問13)下池山古墳は初期の古墳ですか? (問14)下池山古墳は発生期の古墳ですか? (問15)メスリ山古墳は初期の古墳ですか? (問16)メスリ山古墳は発生期の古墳ですか? (問17)纏向石塚古墳は初期の古墳ですか? (問18)纏向石塚古墳は発生期の古墳ですか? (問19)西殿塚古墳は初期の古墳ですか? (問20)西殿塚古墳は発生期の古墳ですか?
284 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 02:08:52
>>281 一応、言っておくと、ここにはかなりたくさんの人が出入りしていると考えた
方がいい。東遷説もけっこう多いと思っておいたほうがいい。
要するに、質問の主を一方的に特定するなと言うこと。
285 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 03:32:44
ジョーカーさん無視されまくりだね。
286 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 03:46:07
>>273 その地域の支配者が世代ごとに古墳を作るという前提さえ成り立たないほどの
断絶があったら、その年代設定の方が誤りと考えるわな。
古墳を作るのは、支配者層であり、1名の支配者だけじゃあないのでなおさら。
287 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 04:01:13
>>286 >その地域の支配者が世代ごとに古墳を作るという前提さえ成り立たないほどの
>断絶があったら、その年代設定の方が誤りと考えるわな。
で?
「ヤマトでもまばらになる」言っていたが具体的には?
288 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 04:45:27
古墳の年代は宮内庁が勝手に決めたものだからな(笑)
289 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 06:27:32
>>277 >この東遷厨の言う「まばら理論」(仮称w)を
年代観の論議の場で実際に言っている学者とかいるのか?
いつものことだがこの畿内狂信者は学者が言っていない説を見ると発狂するらしい。
「だってがっかいではみとめられてないもん」
三角縁神獣鏡の件といい古墳や遺跡の年代設定といい
頭の古い考古学者たちが自分たちのご都合主義で今まで振り回してきているからこそ
アマチュアや若い学者たちがそれに疑問を持っているわけだろうが。
>>290 >アマチュアや若い学者たちがそれに疑問を持っているわけだろうが。
“この東遷厨”が主張したいのは、<古墳の始まりは4世紀>ということ。
そうしないと、東遷が成り立たないからね。
だから
「三角縁神獣鏡の件といい古墳や遺跡の年代設定といい」
「頭の古い考古学者たち」の、古い年代観を「振り回して」いるんだ。
「自分たちのご都合主義」でね。
292 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 08:42:12
古墳の始まりが4世紀でないと東遷論て成り立たないの? いつだってかまわん話だと思うがね。
293 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 08:53:53
東遷は1〜2世紀ならあったかもね。 でも、それだと、邪馬台国九州説が主張し難いから、 必死に古墳時代は4世紀からだということにしたいんでしょう。
>>234 >抱朴子が著されたのは、西暦317年頃とされる。
>これが日本に伝わり、一つの形として表れるのは、やはり四世紀半ばではなかろうか。
>三角縁神獣鏡が作られたのもこの頃だろう。
根拠にならないだろ。
葛洪は単に、道士たちの間で九寸以上の鏡が魔除けとして流行ってると伝聞記載しただけ。
別に葛洪が編み出した呪術な訳じゃないから。
(マキムクスレ その5 より)
295 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 09:19:45
銅鐸の消滅は1、2世紀ではないだろう。1、2世紀の東遷はないな。
東から西への人や文化の移動は1度きりではなく 1世紀前後から4世紀にかけて断続的にあったことなのでしょう あるいは日向から、あるいは筑紫から文化は瀬戸内海を通って畿内へと東進していったわけです もちろん半島東部から出雲、但馬、越へと入ってきた文化も畿内へと流入してゆきました 九州から畿内へと侵入していった勢力が最後まで手こずったのが出雲の勢力ではなかったでしょうか
297 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 09:22:31
「銅鐸の消滅」と、「東遷」とどういう因果関係があるの?
(マキムクスレ その5 より) 続き 38 「結局「呉滅亡以降」とか「抱朴子の記載」を根拠に、 画文帯やら三角縁を、何とかして四世紀の鏡にしたいわけ。 その理由とは、古墳時代の開始を四世紀とする古い実年代観(まったく無根拠)にしがみつき、 己の東遷説を守りたいがためなんだよな」 40 「しかし、いつもの「東遷説の人」は三角の製作地と制作年代を恣意的にパッケージして 更にそれを邪馬台国畿内説を唱える考古学者とパッケージしている感じだからなあ」 ・・・毎度のローテーションらしい。
299 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 09:38:57
黄巾の乱で荒れ果てた故国を捨て、呉越同舟で九州にたどり着いた呉や越の棄民は、 そこから九州王の命で、馬関(下関)を起点に呉は瀬戸内海側から、越は日本海側から開拓を始めたのです。 そして両者がたどり着いたのが奈良盆地。 先についた越の勢力は、あとからやってきた呉の勢力に国を譲り、 さらに北上して日本海側から関東に入ったのです。
>>298 東遷説にこだわりすぎじゃね。
だいたい「東遷」なんて単語は、明治の皇国史観の標語であって、
実体は「東侵」だ。邪馬台国が東侵したかどうか、それは分からん。
301 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 10:38:37
馬関は、この近くに投馬国が在ったことに由来する。 投馬国から南下する以上、この辺で南下出来る場所と云えば、洞海湾が良港となる。 小倉から徒歩で南下すれば、其処は内海となり、流れの急な早鞆の瀬戸を通る危険回避ができる。
302 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 11:21:36
>>255 >王仲殊先生は
「三角縁神獣鏡は東渡の呉の工匠が日本で作ったものである」
と主張した中国・社会科学院考古研究所長。
日本でつくったら誰がつくっても、日本産だな
303 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 11:29:02
>>292 >古墳の始まりが4世紀でないと東遷論て成り立たないの?
>いつだってかまわん話だと思うがね。
魏志倭人伝により3世紀前半〜中葉に邪馬台国が九州にあって
その九州邪馬台国勢力が大和へ東遷し大和朝廷を打ちたてた、
東遷の文献的証拠が記紀に描かれた神武東征の物語である・・・・・
・・・・・とまあ、そういう東遷論を主張する輩が昔も今も少なからずいて
彼らにとっては大和朝廷・崇神朝あたりから始まる大型前方後円墳の造営は
どうしても4世紀以降でないと都合が悪い、ということなんだ。
安本美典はそうした邪馬台国東遷都説主張の代表格。
彼らは現在の考古学の主流である古墳の発生=3世紀説にあらゆる難癖をつけてかかるわけだ。
304 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 11:38:14
九州勢力だって一つじゃないだろう。早く来た連中がいた、後から来た連中もいた となれば、古墳の造営はいつだってかまわないぜ。
「送ってもらった『季刊 邪馬台国』によると『晋書』に景初四年は一ヶ月あるらしいのですが、
あっても無くても、のちの陶磁器のように年号が自由に入れられた証拠です。
大和説の連中には鏡の専門家がいるはずなのに、こんなことは聞いたことがない。 ...」
(Googie検索 より)
↓
>>271 >では、その偽年号がいつ日本に伝わったのかと考えると、
>普通に考えれば魏志や魏略などが編纂された以降ということになる。
>さらに「景初4年」の年号は晋書に出てくるので、晋書以降ということになる。
↓
『晋書』(しんじょ)は中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。
唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
↓
>>274 >つまり三角縁神獣鏡の製造開始は7Cですね。
・・・安本説、か・・・
306 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/20(土) 12:13:38
九州勢力の東侵又は東進は、1世紀以前から7世紀天武まで7回以上続いている。 九州勢力(九州王朝)の一部が東遷したのは、天武になってからだ。 崇神も東九州(豊経由日向)から吉備・阿波経由で畿内に東進して来た勢力の末裔で、 崇神勢力が河内から大和に侵入したのは3世紀頃と思われる。
>>284 >東遷説もけっこう多いと思っておいたほうがいい。
>要するに・・・
一人だけということだな。
308 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 12:25:19
>>289 墓穴を掘ってしまうのが怖くて言えないのか?w
正直「まばらになる」なんて何を言っているのか良く分からない。
なんせここでしかお目にかかれない理屈だからなw
先ず年代の基準になる古墳を挙げる。
その古墳より前と目される物が何個しかないからそこから遡るのは何十年何百年が無理。
…と述べるのが筋じゃないのかな?
まあ単純に考えて纏向なら勝山・石塚・矢塚・東田大塚・ホケノ・箸中山とこれだけでも
「密度」wとやらを10年に一つとしても50年はイケるwww
逆に4世紀以後に全て押し込むほうが困難だと思うが?
実際、東遷厨は「纏向型は全て同規格よって、全て同年代に作られた」として圧縮の方向で言ってたと思うがwww
309 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 12:43:23
>>292 「空気嫁」とw
みんな分かっているから省略しちゃっているが
九州の邪馬台国が東遷してヤマト王権になったとする「邪馬台国東遷説」は古墳時代が3世紀に始まったら成り立たない。
広義の東遷説(伊都国東遷説や狗奴国東遷説、奴国東遷説…等々)はその限りにあらず。
また九州と大和で幕末京と江戸で言わば「ダブル首都」の状態であったのと同じ状況があったとする
「奠都説」なんて物もある。
これが今後の主流かな?色々理屈は立てやすいしwww
ただ「首都」と「副首都」みたいなものが並存していたら両者の交流が無かったと考えるのは流石に無理だろうから
むしろ大和に九州の痕跡を問われるのは、逆にハードル高くなりそうだがwwwwww
310 :
309 :2010/03/20(土) 12:49:22
「狗奴国東遷説」は邪馬台国の卑弥呼との争いに負けて畿内に逃走後にヤマト王権に …なんて筋書きなら3世紀に既にヤマト王権が興っていたら成り立たないな。
311 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 13:40:37
>>290 まばら理論というのは、年代遡上前は当然の前提だっただろ。
年代がある程度定まっている仁徳稜とかの河内の古墳が5C前葉〜半ばであるとして、
最初から同じペースでの古墳築造が続いてきたとすると、4C前葉あたりが古墳の
始まりになる。
対して、マキムク厨は、マキムクのごく少数の古墳で大幅な年代遡上を主張する。
東征というより分都。 九州より畿内のほうが経済的に発展したので 仁徳の頃、都を移したのだ。
>>302 >日本でつくったら誰がつくっても、日本産だな
そのとおり。国産説も魏鏡説も「三角縁神獣鏡は3世紀」
ただし、東遷説は
>晋書以降ということになる
ので、「三角縁神獣鏡は7世紀」
314 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 14:39:41
>>311 >河内の古墳が5C前葉〜半ばであるとして、
不正確だな。
古市古墳群は4世紀後半から始まり(津堂城山古墳)、5世紀全部を覆い、
一部6世紀代にもつくられている。
315 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 14:47:18
>>313 >「三角縁神獣鏡は7世紀」
すごいな。
東遷厨はもう、なんもでもあり状態だなW
316 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 14:47:54
317 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 16:05:00
>>303 それは逆だろう。もともと古墳時代の始まりは四世紀に入ってからとされていた。
それでは困ると年代をいじくりだしたのは畿内説の方。
ここでは何度も出てきているが、古墳の編年にしても、纏向の年代にしても
それまでの通説を変えたのは畿内説であって、その説明責任は畿内説にある。
箸墓の年代も吉野ケ里の年代も同じ。畿内説による箸墓の年代なんてころころ
変わっている。
318 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 16:11:19
>仁徳稜とかの河内の古墳が5C前葉〜半ばであるとして、 仁徳陵の築造を5世紀に持ってきても、人足がいない。 人足の供給は、百済が強国で、高句麗が弱国であった時代、だから4世紀後半。
319 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 16:40:48
>>317 >もともと古墳時代の始まりは四世紀に入ってからとされていた。
誤りだよ。
古墳時代の開始点は3世紀後半にある、というのがもともとの説。
梅原末治や小林行雄が書いた古い本を読んでみろよ。
320 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 16:47:45
>>311 古墳には、その時代ごとの古墳が集中する地域というのがあって、一つの時代で
一つのまとまった墓域を形成していることが多い。
崇神〜仁徳のころまでこの流れがある。
崇神以前の支配者の墓域として当てはめることが可能な墓域はない。
ほかの墓域より極端にせまいマキムクの少数の古墳のある地域を1時代の墓域として
1世代にしても、2、30年しか遡らない。
従って、崇神を没年干支から4C前葉とすると、古墳の開始はせいぜい4C初めになる。
というのが、昔の年代観の基礎にある。
321 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 16:56:53
古墳もそれに付随して見られる横穴式墳墓群も、 実は弘法大師が一夜で作ったものだとされているし、 民間伝承なんてそんなものです。
322 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 17:25:31
ここまでの流れ・・・ 三角神獣鏡は国産だから4世紀 ↓ 製作地と制作年代の話は別だろう? ↓ 出土する古墳が4世紀とされているから鏡も4世紀 ↓ おいおい、そもそも鏡の年代は古墳の年代を計る為に始められた議論じゃないのか? で、その古墳の年代の根拠は? ↓ 「まばら理論」登場 ←イマココ で、「まばら理論」は蓋を開けてみれば具体的なものはないも無いwww 昔の 「崇神陵が記紀の記述から4世紀中頃 まあ、あんなでっかいモンがいきなり現れる事は無いから1〜2世代ぐらい前の 4世紀初頭が古墳時代の始まりって事でいいんでね?」 …という実に曖昧なお話を繰り返しているだけに過ぎない。 (で、その曖昧模糊なお話に三角をネタに緻密な理論で根拠を与えたのがかつての小林説…って理解でいいんだよな?w)
323 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 18:57:14
>おいおい、そもそも鏡の年代は古墳の年代を計る為に始められた議論じゃないのか? この話は、どこで出ていたんだ? まばらの話の元にそんな話が出ていたのか?
324 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 18:57:40
>>320 >ほかの墓域より極端にせまいマキムクの少数の古墳のある地域を1時代の墓域として
>1世代にしても、2、30年しか遡らない。
>
>従って、崇神を没年干支から4C前葉とすると、古墳の開始はせいぜい4C初めになる。
>というのが、昔の年代観の基礎にある。
学史的に明確な誤り。
纏向古墳群が出現期のものでは?という考え方は割と新しいのだ。1970年台の前半からぐらい。
石野がこれらを「出現期」と言い、寺沢が「纏向型」という類型でくくった。
石野は纏向石塚に関しては一貫して庄内期古段階の築造としているから
纏向古墳群が全体として「1世代」の中に納まるというような考えはとっていない。
遺跡の最初の発掘当事者の意見を無視した勝手な学史捏造は、決して許されることではない。
加えて、纏向遺跡が脚光を浴びた1970年台以降において、
「崇神を没年干支から4C前葉とすると…」などと没年干支を使って古墳時代の開始年代をうんぬんするような
考古学者は皆無の筈だ。
325 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 19:19:00
ジョーカーの劣化が激しくて、レスするのも気が引けるが・・・ 遡上論にとって「墓域」の問題は、実は最大の難点なんだよね。 崇神以降は、王墓のほかに王の親戚縁者の古墳が墓域に多数ある。 マキムク古墳群は1世代1個という異常な方針で年代遡上をめざすので、 1個1個が「家臣のいない王墓」という極めて不自然なものになる。 これは年代遡上のためだけに少数の古墳の年代をずらして考えるから。 マキムク古墳群が崇神の陪塚の域を出ないという根本問題は もとより解決されない。
326 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 19:30:18
マキムク信者はマキムク古墳群に崇神〜応神くらいの期間を当て込む。 しかし、古墳の数は30分の1にも満たない。 というか崇神1代にも到底及ばない。 はたから見ていると、正気とは思えないね。
327 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 19:59:10
>崇神〜仁徳のころまでこの流れがある。 時代の変遷が思考に繁栄されていない。 崇神 古墳の始まり。3世紀前後 垂仁 纒向遺跡大型建物 景行 箸墓築造 △鏡はこれ以降で無くてはならない。 成務、仲哀 仲哀は陵域の池で白鳥を飼う。 神功渡海から 274年〜326年 この時代は海外へ軍を派遣する。ここまでが△鏡。 326年過ぎ 百済から文物、人足が大量に入る。 390年頃から 人足の補充に支障がでる、高句麗の強大化。 400年 古墳が小さくなる、履中陵は、兆域は、応神、仁徳と同等であるが、古墳自体は小さくなる。
その白鳥伝記とヤマトタケルの関係を見れば、 祟神が初めて大和に足を踏み入れ、 垂仁の時に大和に遷都し、 景行天皇が初めて日本を統一したことがわかる。
329 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 20:15:35
>>328 崇神6,7年の大物主は、近江伊勢遺跡の衰退で裏付けられる。
三角縁神獣鏡って、自称天孫系民族の発想だよね あれ神仙図を俯瞰した図柄だよ 真ん中の鈕が、世界の中心にそびえ立つ須弥山 乳が人間界、それを取り巻く神獣界、輪が世界の果て 櫛歯文帯と鋸歯文帯で結界が築かれ、いちばん外の三角縁が山脈で世界が尽きている 至高の場所である須弥山を、さらに上から見下ろすと言う発想が、天孫思想なんだと思う 世界に冠たる天孫民族というプロパガンダを込めた三角縁神獣鏡を配布する事で、政権の絶対性を示したかったんだろうな
馬鹿だなあ。 鏡は鏡面が表なのだぞ。 だから、神仙世界を下界から見上げてるんだよ。
332 :
東遷厨錯乱状態の巻・・・まあ常時なんだがwww :2010/03/20(土) 21:37:01
>>286 >その地域の支配者が世代ごとに古墳を作るという前提さえ成り立たないほどの
>断絶があったら、その年代設定の方が誤りと考えるわな。
>>325 >マキムク古墳群は1世代1個という異常な方針で年代遡上をめざすので、
おいおい。
「まばら理論」と言うのは1世代1個王墓を割り当てると言う事でも成り立たないって話じゃなかったのかよwwwww
もう少し頭冷やして書き込もうぜ?wwwwwww
333 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 21:38:47
>>325 >マキムク古墳群が崇神の陪塚の域を出ないという根本問題は
>もとより解決されない。
そんな問題ここでしか
トチ狂った東遷厨の戯言でしか聞いた事が無いわけだがwwwwwwwww
一つリクエストしていいかな?w
ヤマト以外の古墳の絶対数が少ないところなら
あるいは「まばら理論」も上手くいくのではないかな?www
そっちの方でも良いから「まばら理論」の完成を目指してもらえないだろうか?w
334 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 22:04:30
どうも古墳時代の始まりは4世紀以後のようだね。
335 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 22:55:48
ホケノ山が240年なら、田道間守の殉葬。 崇神はさらに1代前の天皇である。古墳はさらに小さくなる?
336 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 22:56:47
337 :
日本@名無史さん :2010/03/20(土) 23:37:59
>>333 日向の古墳を知らんようだね。日向には柄鏡式古墳がたくさんあるんだよ。
それと比較すれば、大和の柄鏡式古墳なんぞ文字通りまばらだ。
338 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:02:06
>>336 なに? 地殻大変動で日本列島が回転したとでも言いたいのかな?
339 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:03:09
>>337 だー か ーらー
「まばらになってしまう」事例を出せつってんだよ馬鹿www
ニホンゴワカリマスカ?
日向厨には東遷厨の「まばら理論」は到底受け入れられないんだろうなw
日向の纏向型も4世紀なんて話になってしまうからな…
まあその辺は九州説同士で議論してくれやwwwww
340 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:13:07
>>339 分かりやすい例をだしてるのに理解できんのかな。
ニホンゴワカリマスカ?
341 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:19:37
>>339 ところで、近畿地方で一番古い古墳て何?
342 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:21:14
>>340 いいかね?
脊髄反射しかできない九州説のお馬鹿君。
「まばらになる」と言うのはそこに連続性が見られなくなる=非連続 と言う話で
「日向の方が古墳が多いんだぞう〜」とか言う言わば
連続性の強調とは話が真逆なんだよ?分かるかな?
分からなかったら学校の先生か身の周りの大人にレスのやり取り見せて説明でもしてもらいなさいwwwwww
343 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:29:41
>>342 何を言われているのか理解できてないのか?
日向の古墳は連続性があるんだよ。ないのは近畿の古墳。
近畿の古墳がまばらなの、分かる?
344 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 00:38:24
>>339 年代が繰り上がると、密度がうすくなるというのは当たり前のことだろう。
例えば、以前は、畿内W様式は、西暦50年頃から始まるとされた。
これを元に、以後の土器の編年が組み立てられた。
ところが、年輪年代以降、畿内W様式は、紀元前50年頃になった。
100年繰り上げられたわけだ。当然、以後の土器の年代は間延びする。
密度はうすくなるな。
古墳も同じだろう。
>>326 >マキムク信者はマキムク古墳群に崇神〜応神くらいの期間を当て込む。
>はたから見ていると、正気とは思えないね。
そうだね。マキムク古墳群は崇神より以前だから3世紀だよな。
ところが東遷信者は「三角縁神獣鏡は晋書以降ということになる」もんだから、
三角縁神獣鏡を副葬する以前のマキムク古墳群に崇神〜天智くらいの期間を当て込む。
はたから見ていると、これも正気とは思えないよね。
まあ考えて見れば皮肉な話で
三角の製作地論争が深まる中で年代は3世紀中に求めるのが妥当と言う材料が出てきたわけだw
3世紀を主張するほうは大陸の鏡事情を元に述べているのに対し
4世紀と言う側は古墳の年代を優先させる事で主張し
その根拠も実に曖昧。
>>256 の王仲殊みたいに外国から見ればそりゃ分かりにくい話でだろうなwwww
まあ紀年鏡の話しだと個別に、それが後世(その年号ごと)踏み返された可能性や
伝世と言うか被葬者が生前所有していた期間、また日本のみならず大陸側での伝世期間…等々も考慮しなければならないだろうが
軒並み100年はずれると言うのなら想定されている古墳の年代を疑うべきだろうwww
それ自体で今すぐどうこう言う話ではないが
紀年鏡に関してはそれを出す古墳がどちらかと言えば地方のそれ程大きくない古墳…と見る向きもあったが
例の茶臼山の件でその認識も変わるのだろうか?
まあ今後更に古墳の年代の見直しが加速するのは避けられないだろうwww
347 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 01:36:07
ホケノ山古墳というのは、三角縁神獣鏡は出てきていないんだなあ。 画文帯神獣鏡と内行花文鏡か。 調べてみたら、二重口縁壺という庄内式土器が見つかって、年代が三世紀前半 となったらしい。このときはかなり大騒ぎした。 しかし、その後の調査で、これは後世に落ち込んだもので、実際の土器は、 布留0新相から布留1とわかった。このときから話題性がなくなったわけだが。 画文帯と三角縁が出ている黒塚古墳よりもちょっと前ということになるのかな。 ホケノ山古墳が出来た頃には、まだ三角縁神獣鏡は出来ていなかったものと 思われる。
348 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 02:05:05
黒塚古墳は布留1となっている。ホケノ山古墳と考え合わせると、三角縁神獣鏡が 出来たのは布留1あたりか。
349 :
東遷説 :2010/03/21(日) 04:13:18
まだだ! まだ終わらんよ!!
>3世紀を主張するほうは大陸の鏡事情を元に述べているのに対し だれが?その事情をどこに述べてるのさ? △なんか、大陸にありゃしないぜ。事情もくそもないだろ
351 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 05:56:08
なるほど。ホケノ山古墳というのは、三角縁神獣鏡は出てきていない、画文帯神獣鏡と内行花文鏡か。 年代が三世紀前半か。その3世紀前半には、邪馬台国は伊都国や奴国を支配していたはずだな。 もし、大和=邪馬台国ならば、伊都国や奴国に画文帯神獣鏡をくばっているはずだ。
352 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 06:14:02
>>346 >4世紀と言う側は古墳の年代を優先させる事で主張しその根拠も実に曖昧。
いやいや、考古学者は、なかなか立派なことを言ってるぜ。
朝鮮半島の古代墓制の発展と国家の誕生を参考にする必要がある。・・百済の
国家としての体制が整ったのは4世紀初頭・・新羅も4世紀初頭・・そして、
小型の石室墓や簡単な土壙に代わって急激に壮大な円墳、双円墳を発達させた。
このような朝鮮半島の諸国家と高塚墳墓との関連は日本においても無関係では
ない。(斉藤忠、日本考古学概論)
都合が悪くなると、朝鮮半島なんて口にしなくなるのが考古学者のいいかげんな
ところだな。
353 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 07:52:28
邪馬台国と後のヤマト王権の関係について教えてくれ
まったく無関係
355 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 08:36:48
東遷なんて言うからおかしくなるんだろうな。東遷してしまったら、そのときから 邪馬台国は大和のはずだ。記紀が倭の五王やタリシヒコについて沈黙する理由が分 からない(中国に頭下げたのが恥ずかしいなんてのは無茶苦茶な弁解だ)。 東遷はしてないんだよ。東征しただけ。大和は東国支配の大拠点。大王の息子が大 王に就任するまで政治の勉強に来ていたと考えればいい。だから、大和ではやりた い放題、万一、大和で死んだりしたらでかい墓も造っただろう。重臣が死んだとき にでかい墓を造ってねぎらったのかもな。 邪馬台国はそのまま九州に朝廷があったんだな。だから倭の五王もタリシヒコも九 州にいたってことだ。そして、七世紀ころになって、何らかの理由で大和に朝廷を 遷したってことだろう。九州に疫病でもはやったのかもね。それまでの大王はじめ 重臣がバタバタって死んでいくなんてことがあったら、そんなところへ帰らず、大 和で政治をやろうってことになるだろ。
タリシヒコは天皇の和風諡号に何度も出てくるじゃん。
357 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 09:01:28
隋書に出てくるタリシヒコは倭国の王だよ。記紀によれば、その時の大和の長は 推古天皇のはずだ。タリシヒコは男、推古は女。話がまったく合ってないんだよ。
358 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 09:13:27
>>347 >調べてみたら、二重口縁壺という庄内式土器が見つかって、年代が三世紀前半
>となったらしい。このときはかなり大騒ぎした。
>しかし、その後の調査で、これは後世に落ち込んだもので、実際の土器は、
>布留0新相から布留1とわかった。このときから話題性がなくなったわけだが。
質問があります。
・「後世に落ち込んだもの」・・・ どこから落ち込んだのですか?
・「実際の土器は、布留0新相から布留1」・・・ 実際の、とはどういう意味ですか? 二重口縁壺は非「実際」なのですか?
・「その後の調査で」・・・ その調査の報告は何を見ればよいのですか。発表年、文献名など具体的にお願いします。
もし九州王朝があって、大和に滅ぼされたのなら その時の戦功の話が記紀に記録されてるさ。 時の天皇にとっても記録すべき偉大な事跡だろうからね。
360 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 09:55:59
>>359 そのとおりだろう。だから、九州王朝とそれに対立する大和王朝があったという
見方は成立しない。しかし、旧唐書などによると、日本国とは別の倭国が存在し
ていたような話になる。ということは、倭国と日本国は実は同じ国、倭国の出先
が日本(大和)と考えればいいってことだろう。大和に一本化されたときも戦い
などなかったってことだ。
361 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 10:28:25
ホケノ山には△鏡が無い。 そして後方に半島式墳墓が追加される。 この状況を照らし合わせると、 垂仁の死亡=田道間守を送り出して間もなく死亡。 田道間守は帰国して直ぐ殉死する。田道間守は任那王の血縁であるから、半島式墳墓が似合う。 田道間守は都市牛利(たしうり)であれば、2度と登場しない。 景行は、使者の帰国に磐鹿(いわか)を付けて、王朝の交代を告げる。 この時、魏王から、乱の平定と倭国統一を持ちかけられ、正始4年受諾。 これにより、治世方法として「屯倉」経営や、武器を授けられる。景行は倭王と記録される。 景行12年、九州男王と語らい、軍を九州へ派遣、まず女王こと神橿日媛の内諾を得る。 ここから 九州の乱を平定、その後関東までを一つの国にまとめる。
362 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/21(日) 11:28:15
>359-360 九州倭が畿内に遷り、その後日本と称した。 戦いはなかったが、畿内派日本の九州派日本に対するクーデターが畿内であった。 クーデター後畿内派(日本)が九州残留派(倭)を鎮圧するのに4年(697〜700)を費やしている。
>>344 > 年輪年代以降、畿内W様式は、紀元前50年頃になった。
>100年繰り上げられたわけだ。当然、以後の土器の年代は間延びする。
>密度はうすくなるな。
それってちょうどいいんだよ。
従来(年輪年代以前)、近畿地方の弥生時代後期(畿内X様式)の開始は紀元200年頃、
そして古墳時代の開始が4世紀からとされていたので、後期は3世紀の100年間だった。
しかし、発掘が進んでくると
「 弥生後期の土器であるX器の土器は、そもそも絶対量が他期間の土器より多い。
・・・詳しく製作技術や形態の変化を検討すると、X期の土器は数型式以上の変遷をたどることができ、
変化の過程に長い年代の流れを認めることができる」
(森岡秀人「年代論と邪馬台国論争」古代史の論点4)
>>363 続き
ということで、100年間に押し込めることが不自然になってきていたんだ。
だから、「間延びする」ことも「密度はうすくなる」こともないのさ。
「弥生後期の始まりを一気に1世紀前半にさかのぼらせることによって、
遺跡数、土器量の多さや型式変化の間延びを合理的に説明することが可能になる寸法だ。
長らく考古学会で3世紀の100年間と考えられていた弥生後期を
1〜2世紀を中心とする200年間と想定し直した私の考えは、・・・」
(同掲書)
>>346 >王仲殊みたいに外国から見ればそりゃ分かりにくい話でだろうな
じゃあ田辺さんはなんと答えたのか? っていうと
「王先生のご質問は、日本の前期古墳の年代を4世紀とするのは、
どこに根拠があるのかという問題です。
この点については、昨日の講演の中で、古墳の出現の年代について、
小林行雄先生の『同笵鏡による古墳の年代の研究』によって、
3世紀後半を遡らないという説を紹介しました。
(中略)しかし、いずれにしても、これは王先生がもうすでに質問の中でご指摘のように、
決め手になる特効薬的なものはないわけでありまして、・・・ひとつの仮説を作っていく。
・・・その仮説に対して、・・・また仮説を崩し、また新しく仮説を積み上げていく、」
(「三角縁神獣鏡の謎 日中合同古代史シンポジウム」昭和60年)
366 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 14:13:22
>>358 インターネットもあるんだし、それくらい自分で調べて欲しいな。
調べてみて、それでも疑問だったら質問してもいいけど。
367 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 14:19:18
368 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 14:59:48
西暦42年 神武元年 弥生X様式の始まり。22章(418年)の空白を差し引いた 西暦187年が 崇神元年 この年代に庄内式は始まる、纒向開発。 西暦240年 景行元年 布留式の始まり。崇神から成務末までで 11章の空白。 274年 幽州を分け平州を置く、ここが神功渡海。 323年 永嘉の乱終息 百済の大国化。大量の渡来人や鉄がもたらされる。 370年 前燕滅亡 高句麗の台頭。 400年頃 百済と高句麗が覇を争う、そして百済が負けることにより、渡来はほぼ止まる。 もはや巨大古墳の築造は出来ない。 百済まかせの外交を、倭国独自で始める。それが倭の5王。
369 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 15:52:20
370 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 16:13:26
己巳、倭国王珍を以って安東将軍と為す。(文帝、元嘉15年夏4月、西暦438年) この夏4月という表現が不思議ですね。夏8月ならわかる。 これこそ3倍暦を使っていた証拠ではないでしょうか?
371 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 17:02:27
>>370 陰暦では四月、五月、六月を夏というんだよ。辞書ぐらい見ろ。
372 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 17:16:24
邪馬台国のあった時代には4月が夏だったのですか? 現在とは季節感が全く違うのですね。
373 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 17:17:15
允恭24年内乱この後書紀は沈黙そして 倭国王珍
374 :
日本@名無史さん :2010/03/21(日) 17:27:26
この安東将軍というのは、奥州十三湊の安東氏だ。 これが邪馬台国東北説の動かぬ証拠。
375 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 00:05:22
>>374 鋭い指摘ですね。誰も反論してこないようです。
饒速日命に殺された長髄彦の兄「安日彦(アビヒコ)」こそ安東将軍。
倭の5王はいずれも安東氏の系譜。
神武とは関係ない。
「安東」は「東を安んずる」で、ま普通名詞だからね。他にも候補はいくつもあるだろ。 いずれにしても、九州王朝説が正しいかは別にして、従来の「倭の五王」の比定は、子供だまし。 学者と称される人々が歴代、よくこんな理論を展開したもんだよな。
377 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 00:37:07
安東は普通名詞ではない。固有名詞です。征夷大将軍といっしょにするな。 倭の5王はすべて、十三湊(とさみなと)の安東氏の王。 高知の土佐も安東氏の支配地域だったし、騎馬民族に征服される以前は、 安東氏が日本を支配していたのです。 邪馬台国の風俗を読めばそれがツングース系のものだとわかるはず。
おそれ入りやした
379 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 01:19:53
わかればよろしい
380 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 01:38:58
安東は韓国の地名であるな
381 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 02:08:02
>>358 >「後世に落ち込んだもの」・・・ どこから落ち込んだのですか?
もちろんホケノ山古墳の後円部墳頂からだよ。当り前だろ。
それ以外にどこから落ち込むんだ?天空からかい?www
墳丘が築かれ被葬者を埋葬したあと土をかぶせて墳丘上に二重口縁壺を乗せて飾った。
しかしホケノは木槨。年月を経て天井板が次第に腐っていく。ついには壺もろとも土が落ち込んだわけだ。
だから他にどんな土器が発見されていてもホケノ山墳丘の築造は二重口縁壺の時代(かそれ以前)。
二重口縁壺が庄内式だからホケノ山は庄内期(かそれ以前)の築造と判明するわけだ。
>>347 はまあ半分出鱈目書いてヘンな方向に誘導しようとしてるから真に受けたらいかんよ。www
382 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 03:03:24
>>381 古墳を発掘調査すれば古い土器が出てくる。縄文式土器も当たり前のように
出てくる。しかし、縄文時代に古墳があるわけがない。
土器で年代を測る場合は、最も新しい土器で測るのが常識。
亀甲占いの亀の甲羅とか出てこないんか?
384 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 08:37:24
亀甲占いの伝統は現在でも亀甲縛りとして根強い支持がある。
385 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 10:27:18
386 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 10:36:05
>>377 の続きになりますが・・
魏志倭人伝によると、
>女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。
>このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。
なぜ13歳で女王に立ったのか?それは安東氏にとって十三こそ神聖な数字だったからではないでしょうか?
安東氏が滅んだあと、高知の十三は「土佐」の文字に置き換えられ、大阪の十三は「じゅうそう」と読まれ、
津軽の十三湖は「じゅうさんこ」と読まれるようになったけれど、もともと「トゥミ」と読まれていたという説があります。
鳥海山は「ちょうかい」山ではなく「とりみ」山、つまり「トゥミ」山だったのです。
千葉県の勝浦の遠見岬神社があって、阿波忌部氏の子孫が立てた神社との伝承があります。
騎馬民族が上陸するまで安東将軍安東氏が日本を支配していたことは間違いありません。
そして邪馬台国も安東氏の国だったのです。
387 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 11:40:38
関西には、十三参り(じゅうさんまいり)という風習があって、旧暦の3月13日(現在では月遅れで新暦の4月13日)の間、 数え年13歳に成った少年少女が元服を迎え大人と成ったことに感謝して、これから先の万物の福徳と英知を授かるために、 虚空蔵菩薩に参詣する行事である。それで別名、知恵詣り、または、智恵もらいとも云う。 空海がそれによって飛躍的に記憶力を増大させたと言われる虚空蔵求聞持法に由来するとあるから、平安初期にすでにあった風習だということがわかる。 空海は四国は讃岐の出身で阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで修行しており、空海の父佐伯直も阿波忌部氏だったのかもしれない。 ここでも十三と安東氏のつながりが見えてくる。
388 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 12:07:41
>>386 ,387
十三塚(じゅうさんづか)というものが日本列島各地に分布している。
これは、民間信仰による土木構造物である。一般には13基の高塚(マウンド)から構成される。
また地名となっているところもある。本来は十三仏に由来するとされているが、数も13に限定されてはいないのが現状である。
主な遺跡
宮城県仙台市太白区
宮城県名取市
東京都稲城市平尾
千葉県千葉市中央区 七天王塚
千葉県柏市
千葉県館山市
千葉県南房総市
神奈川県横浜市栄区
神奈川県横浜市旭区 六つ塚
愛知県岡崎市
岐阜県揖斐郡揖斐川町
奈良県生駒郡平群町 - 十三塚 (平群町)
福岡県八女郡広川町
鹿児島県霧島市
忌部氏、安東氏との関係はいかに?
389 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 13:20:25
>>387 なるほど。
壹與は13歳で女王になったと聞くと、随分幼くして女王になったという印象しかなかったけれど、
13歳には実は深い意味があったのですね。すごい発見です。ちょっと驚きました。
そんなに深い意義があるなら、 他の多くの王たちは何故、13才で王位につかなかったのか
遊びたい年頃だからな
イヨタン・・・・・・・・・・
393 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 18:25:45
♪壱与は朝、十六茶から〜
394 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 19:47:39
卑弥呼が死んで倭国が荒れていても、壹與が13歳になるまでは女王になることができなかった。 倭の人々は、壹與が13歳になる日を首を長くして待っていたんでしょうね。
395 :
サガミハラハラ :2010/03/22(月) 20:52:23
本日九州春日市で邪馬台国のシンポジウムがあったが、邪馬台国候補地の投票の結果が発表されたとおもいますが、 結果はいかがだったでしょうか? 小城甘木説は何票とれたでしょうか? いかれたかたお教えください。
396 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 21:25:07
>>395 「投票」って意味が分からないw
いっそ「アミダ」で決めちゃったらどうだ?www
397 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 21:34:01
おれはいってないが、小城甘木説は0票だろうことは確かだよ。
398 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 21:41:31
>>382 >土器で年代を測る場合は、最も新しい土器で測るのが常識。
それは出土遺物がクローズで一括性を有している場合にのみ成り立つ。
残念ながらホケノ山の土器はそうではない。
これは考古学の基礎ではあるが、
>>382 のような生半可な理解だと
古墳や周濠に捨てられた現代の磁器椀の年代で
「この古墳の築造は、最も新しい磁器茶碗からみて、昭和後期です」
などとやらかすことになってしまう。
「考古学の基礎」や「考古学の理論」を著述した教科書をきちんと読み込んでから発言していただきたい。
墳丘上や周濠などはオープンな空間であり、出土遺物は一括性を担保されない。
むしろ古墳墳丘上に限っては、最も古い土器や埴輪が築造年代を示す場合が多い。
ホケノ山の築造年代は庄内二重口縁壺で明瞭に示されていると見てよい。
※クローズで一括性を有する物とは、たとえば、閉塞後一度も開かれることのなかった未盗掘石室内の諸遺物のことなど。
399 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 21:52:14
382はすべてわかってやってるだけにたちが悪い。どうしても、東遷方向にミスリードしたいんだな。
400 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 22:19:42
>>398 要するに纒向石塚古墳での石野の見方を擁護しようということだよね。
・石塚では周濠最下層から布留0が多く出土した。
・石野は、周濠は庄内のころで後世に無関係の布留0が落ち込んだと主張
・布留のころまで周濠はオープンだったとする。
しかし、これに明確に賛成する学者は皆無
・周濠の多くの地点から布留0が出土している。
・祭祀が行われたと想定されるくびれ部などからも布留0が多く出土。
・これら多数の布留0が古墳と無関係とすることは、不可能である。
・従って少なくとも祭祀の時点では明らかに布留0の時期であった。
つまり、もっとも古い古墳とされる石塚は箸墓と同じ布留0で確定ということである。
401 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 22:37:13
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
402 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 22:53:33
>纒向石塚古墳
と言うか桜井市教育委員会の行った調査で墳丘盛土出土の3600片の中に
庄内式が一つもないって話はどうするんだ?
>>382 >土器で年代を測る場合は、最も新しい土器で測るのが常識。
既にツッコミかかっているがw
じゃあ何処かの古墳の周濠に俺が自分ちの茶碗投げ込んでそれが調査の時に出て来たら…って話でw
>>398 の言う「クローズで一括性を有する物」ってのは
早い話「タイムカプセル状態」って事だろうが
そんな話は俺みたいな素人でも分かる話で
毎度の事ながらこの東遷厨は言っていることがもはや異次元レベルwwww
ついでに言うと、その出土物の一番新しい物で年代を計り
「そこから逆算して・・・」と言うのが毎度毎度のパターンwwww
まあ、そんな事はみんな分かっていることなんだろうがwwwwwwwwww
「(前略)よって、現在纏向石塚古墳の築造時期に関しては、 西側周濠の出土土器を評価する考え方(庄内0式期 3世紀初頭)、 盛土内出土土器を評価する考え方(庄内1式期 3世紀前半)と 導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期 3世紀中頃)3説があります。」 纏向石塚古墳第9次調査
纒向遺跡 第144次発掘調査の概要
2006年3月25日(土)
桜井市教育委員会
404 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:34:17
>>403 ご都合主義だな。年代遡上のためだけの考え方。
三角縁が日本でのみ600面近く出土していても、いまだに舶載説が
通説とか言うのと同じことをやっている。
実際には西側周濠からも、布留が出土している。
というより周濠全面の最下層から布留0が出土している。
これらの全部を「後世に落ち込んだから、最初から度外視」ってのも異常だな。
大量出土の導水溝の布留0さえも庄内3にするゴマカシ。
じゃあ箸墓も庄内3なのかって話だな。
遡上の最大の根拠は盛土だけだが、盛土は石野と寺沢の論争が起きたくらいで
資料そのものの問題性がある。
405 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:40:18
>>403 >西側周濠の出土土器
完形土器が出たから、これ1個で年代を決めようって話だろ。
しかし、肝心のその土器がどこから出たのか、最初の発表では不明であった。
この最大の出土物の出土状況も出土場所も良く分からないとか、異常だな。
その点を寺沢に指摘されて、「実はココだった」などと言われても、なんだそりゃって感じだな。
その土器の周りから布留0が多数出土しているのに、全部無視して、「完形土器だけが基準だ。
あとは後世に落ち込んだ。」などと言われて、本当に納得できる者などいるのか。
406 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:50:01
まあ東遷厨も大変なんだろうなあ… 最終的には石塚〜ホケノを全て崇神陵の陪冢なんて およそここでしかお目にかかれない与太話を完成させなきゃならないんだからwww
407 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:56:14
石塚ってのは本当に古墳なんか? 埋葬施設はないらしいが。
408 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:56:16
>>406 たしかにそれらを1世代と見れば、土器編年に対して「古墳がまばら」になるな。wwww
基地外じみてる。
409 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 23:58:17
庄内○期なんて言ってもなあ。古い時代の土器をまねて作ったら 分かんのじゃないかな。どうせ素焼きの土器だろ。
410 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 00:00:17
ようするに遡上派のジョーカーは反論さえできないってことか。
411 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 00:21:40
まあこの東遷中のトンデモ理論は古墳が完成した瞬間から空間が隔離され
外部との接触が一切無くなると言う事でもなければ成り立たない。
>>403 でも何れにせよ出土した新しい土器(布留)を年代の指標にしようなんて話は出てこないw
そう言えば吉野ヶ里はその環濠が庄内並行土器に埋まるんだっけな?wwww
412 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 00:31:09
石野の主張は、ある周濠が層を形成して後世の土器が落ち込まなくなるまでの 期間の始期(庄内)と終期(布留0)のパッケージということ。 それなら庄内の上の層が布留0でその上か布留1とならなきゃならないのに、 庄内のすぐ上は布留1の層だったりする。その上に布留2の層がある。 周濠内の層の形成期間を考えると、石野の言うとおりなら、庄内〜布留1まで2、30年と いうことになりかねない。 対して、最下層が布留0とすると、不自然な層形成の問題も生じない。 まあ石野は昭和の茶碗が何らかの貫通力を発揮して、縄文土器の層まで到達することが 頻繁にあるという認識のようなので、上の議論の前提も石野の議論の前提も成り立たない かも知れないが。
413 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 00:53:50
まあ、巻向箸墓に関係する連中がさんざん 邪馬台国卑弥呼に合うように年代操作をし続けたおかげで もうなにをいっても信用されなくなってきている というだけだな。 で。あとは脳内推論だけでなく証拠を出せで終わってしまうと。
414 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 01:04:31
そもそも石塚が布留ゼロだとしても それは石塚が最古ではなかったと言う話で 纏向が布留ゼロからと言う話にならないのでは?
415 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 01:09:54
>>414 そりゃ、仰せの通り。
纏向は庄内式土器が出る。この時期に大溝が掘られている。
>>414 そうだよ。
だから東遷厨が、庄内期をやたら長く見積もるのは怪しからん!と怒っているのはじつは見当外れの非難なんだよ
布留が3世紀第3四半期(251〜275)には始まっている、という点が最近の考古学者の多数意見。
歴博はこれを3世紀半ばまで上げた。
石野はじつはこの点は例外で、箸墓(布留0期)を280年頃と。彼はあまり遡上させないんだ。
しかしいずれにしても箸墓を3世紀と考える点は一致しているわけ。
東遷厨さんはここが困るはずなんだがね。w
庄内の長過ぎる!おかしい!なんて突っかかるのはじつはお門違いなわけだ。ww
417 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 02:17:19
以上ジョーカーさんの1人4役ですた。
418 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 02:25:33
ちなみに、庄内式土器から布留式土器への変わり目というのは、文献的には どういう事態が想定されるのだろう。
419 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 13:32:23
■シンポジウム:「邪馬台国は九州に」 研究者ら自説展開 /福岡
九州か近畿説かで論争のある邪馬台国をテーマにしたシンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」(福岡歴史ロマン発信事業実行委主催)が22日、春日市のホールであり、歴史愛好家ら約1000人が耳を傾けた。
冒頭、静岡大の原秀三郎名誉教授が基調講演し、文献史学の立場から「九州説」を支持する論旨を展開。九州歴史資料館の西谷正館長を進行役に、九州各県を代表する考古学研究者8人が討論した。
「九州北部説」をとる佐賀県教委の七田忠昭参事は「倭人伝の記述や中国の権威を帯びた鏡や刀の出土などから吉野ケ里遺跡がある佐賀・神埼地方にあった」。
複数の研究者が同調する一方、熊本などの説も展開された。
終盤、大分県立歴史博物館の高橋徹館長が「論争は二百数十年続き、結論はまだだ。近畿説を裏付ける資料も議論しないとフェアじゃない」と異を唱え会場を沸かせた。
西谷館長は「国民的な関心事。研究を更に進めなければ」と語った。【鈴木美穂】
毎日新聞 2010年3月23日 地方版
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20100323ddlk40040222000c.html
420 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 15:19:14
「邪馬台国は九州だ!!」 痛々しいな。
421 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 16:04:56
「あなたが決める邪馬台国」投票集計結果 シンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」(福岡歴史ロマン発信事業実行委主催)で発表されたアンケート調査 (2009年10月1日〜12月23日)の結果によれば 1位:甘木朝倉(131票) 2位:博多湾沿岸(102票) 3位:吉野ヶ里( 86 票) 4位:筑後御井(84票) 5位:西都原(62票) 6位:宇佐(56票) 7位:太宰府(49票) 8位:旧山門郡(35票)八女市矢部村(35票) 10位:周防灘(22票) 以下略。(参考:投票総数873票、畿内5票、筑後地域19票) 投票者の住所区域の分析はないが、福岡県在住者が多いのではないかと推察される。
422 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 16:11:49
>>421 多分、福岡県中心の投票だろうなあ。
しかし、その意味でも、西都原が上位に入っているのが面白い。
423 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 16:16:27
シンポというより、老人会の集いみたいなもんだろうな。
424 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 16:21:52
福岡主催だから、福岡が上位に来るのは当然だが 久留米無いのか。 筑後地域なのかな。
425 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 18:08:40
>>419 >「邪馬台国は九州に」
いやいやいや、「誘致」じゃないんだからwwwww
426 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/23(火) 18:48:05
>>424 >久留米無いのか。
4位:筑後御井(84票)は久留米市御井町
思ったより少ないな。
427 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 19:57:59
旧山門郡八女市矢部村 意味深な言葉が並ぶなあ。
428 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 20:01:56
シンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」(福岡歴史ロマン発信事業実行委主催)雑感 基調講演を行った原秀三郎静岡大学名誉教授は記紀に登場する崇神天皇を卑弥呼とほぼ同じ時代に生き、 同天皇の大和王権の占める版図は四道将軍の派遣先まで(吉備、出雲以東の中国地方、近畿地方(淡路島 を含む)、福島県以西の関東、北陸、中部地方)の領域とし、卑弥呼の女王国は九州北部であるとした。 また、纏向遺跡の重要性を力説し、例の柱穴跡から想定される建物は太田田根子に関わるものではないか と推定し、卑弥呼の居館説に疑義を呈した。 7人のパネル討論においては各人が自説を紹介したが、山鹿市教育委員会審議員の中村幸四郎氏は方保田 東原遺跡を写真で説明し、菊池川流域を邪馬台国候補地として挙げた。司会の西谷 正九州大学名誉教授 は方保田東原遺跡を熊本の吉野ヶ里ですねと応じていたが、この遺跡は未だ数%しか発掘調査されていな いそうである。 宮崎の北郷泰道西都原考古博物館主幹は投票でかなりの票を獲得したことに「迷惑である。邪馬台国は北 部九州で結構である。』と述べた。
429 :
サガミハラハラ :2010/03/23(火) 20:29:36
ご報告ありがとうございます。
430 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 20:49:53
シンポジウム「邪馬台国は九州だ!!」(福岡歴史ロマン発信事業実行委主催)雑感 (つづき) 高橋 徹大分県立歴史博物館長は畿内説の言い分も検討しなければフェアではないと力説したが、三角縁神獣鏡 の問題をとりあげ、「これらは卑弥呼が魏から貰った鏡ではない(卑弥呼が貰ったものはもっと立派な後漢鏡と考 える)し、葬儀用具にすぎない」と切り捨てた。 七田忠昭佐賀県教育委員会参事は吉野ヶ里遺跡およびその周辺の遺跡を紹介し、邪馬台国は吉野ヶ里を中心とする 神埼地方であると主張した。 常松幹雄福岡市教育委員会文化財専門職は邪馬台国は3世紀第1四半期に北部九州から畿内へ首都移転を行ったと していたが、討論の途中で七田氏に同調して吉野ヶ里を含む筑後川下流域説に転向?した。 安楽 勉長崎県埋蔵文化財センター東アジア考古学研究室室長は「自分は壱岐に居るので邪馬台国とは関係ない立場 であるが、伊都国には女王(卑弥呼か)が居たと考えられるので、この北部九州が主体となって連合して畿内に初期 大和政権を樹立したのではないか」という意見。 東 和幸鹿児島県歴史資料センター黎明館主任学芸専門員は「鹿児島には中、北部九州に見られるような遺跡、出土 品(鉄器など)はほとんど出ないし、文化的に異なる。邪馬台国は北部九州から畿内に東遷したという説に魅力を感 じる。」としたが、狗奴国は(自分のところでは嫌だったのか?)畿内の東とした。 さて、聞いていて思ったことであるが、邪馬台国は倭人伝に初めて登場するのであるが、そして、帯方郡からそこま での行程も倭人伝にしか書かれていないのであるが、今回のシンポでは登場者の誰一人として伊都国=前原説に疑問 を呈しなかった。専門家にはこれに触れることを避けなければならない事情があるみたいである。
431 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 20:55:08
>>428 熊本が邪馬台国問題で絡んでくるのはちょっと珍しい。
福岡県以外の九州各県は、控えめであまり自己主張しないのだが。
宮崎は謙虚過ぎ。
432 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/23(火) 21:05:16
方保田東原遺跡は狗奴國の城郭(都)
433 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/23(火) 21:21:22
伊都國の城郭は惣座遺跡 帥升の末裔の遷都先
434 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 21:27:15
>>432 基本に戻って、倭人伝の三十カ国の範囲を考えるべきじゃないかな。
大津町の西弥護免遺跡なんてのも出てきたし、もっと南にも有力な遺跡が
必ずある。宇土市や城南町あたりに。八代平野にも何かあるだろう。
こういう目で見てみると、山鹿・菊池平野あたりは南とは言いにくい。
435 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 22:14:14
卑弥呼の墓は、前方後円墳でも円墳でもなく十三塚でしょう。 八女郡広川町の十三塚こそ卑弥呼の墓だった可能性が高そうですね。 前方後円墳は、大和朝廷の九州支配によって造営されたとみたほうがよさそうです。 径百余歩(百歩=144m)を前方後円墳だとした理由は何でしょう? 径(みち)百余歩の十三塚であった可能性を否定する材料はありますか?
436 :
日本@名無史さん :2010/03/23(火) 22:41:35
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
三足土器タン・・・・・・・・・・
438 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/23(火) 23:34:12
>>434 『倭人・・・・今使譯所通三十國』
上記は、「シナと言語は異なるが現在通交がある倭人の国々が30国ある」との意味だと解します。
又、『從郡至倭・・・・・到其北岸狗邪韓國』とあるように、
狗邪韓國で倭人の国に到着したと解します。
以上により、シナが通交のある倭人の国々は、
狗邪韓國から奴國までの30国となります。
即ち狗奴國は30国に含まれないのです。
女王國(女王連合国)に南接して狗奴國があるとあります。
この狗奴國は女王國に対応しているので、
狗奴國も女王國のような狗奴國連合(男王連合国)と解せます。
狗奴國(狗奴國連合)は菊池から宇土・八代まで含む範囲の国です。
ここから想像ですが、狗奴國地域からは呉式塗金鏡の出土があるので、
狗奴國は呉と通交があったと思われます。
又、肥の地域(熊本県・長崎県)は狗奴國と親密な地域で、
東シナ海を横断して呉の会稽と行き来があったのでしょう。
九州の西海岸と江南東海岸とは季節風と黒潮を利用すれば困難な横断ではありません。
杭州湾沖の舟山群島と九州の風俗が似ているのは、
両者の交流が東シナ海横断ルートで紀元前からあったからでしょう。
439 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 00:26:14
>>435 >径百余歩(百歩=144m)を前方後円墳だとした理由は何でしょう?
1歩≒24cmですから、
径百餘歩は直径24m位の円墳もしくは方墳です。
440 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 00:31:06
>>434 >宇土市や城南町あたりに。八代平野にも何かあるだろう。
古い形式の横穴式石室の古墳がいっぱいあります。
上記呉式塗金鏡もこの地域の出土です。
441 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 03:00:55
『倭人・・・・今使譯所通三十國』 狗奴国は倭の国の一つだ。だから、狗奴國は30国に含まれる。 狗奴国については、戸数・道里が記載されていない。旁国の 一つであり、けして大きな国ではない。
442 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 06:00:48
>女王國(女王連合国)に南接して狗奴國があるとあります。 女王(女王連合国)に南接して狗奴國があるとあります。狗奴国は、奴国 (女王連合国)の南にあるのです。博多の南、熊本県です。
443 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 06:19:21
>>440 鍍金鏡は、球磨地方の才園古墳だったと思うけど。
狗奴国には、他の国と同じように官がいる。記述の仕方も他の国と同じよう
なのでやはり一つの国なのだろう。少なくとも連合であるかのような
書き方はされていない。
鍍金鏡は、今でこそ「鍍金」と言うが、当事は「黄金鏡」そのもの。 九州から2、3面(?)出てるだけだが、これの研究が不足し過ぎ。 この黄金鏡こそ、まちがいなく、なんらかの「王者の印」には違いない。
445 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 11:51:00
>>443 人吉市の東の外れにある免田才園2号古墳出土の
鎏金獣帯鏡のことです。
九州から2面でているだけのものです。
狗奴國は官と男王のいる菊池盆地にある数万戸の国です。
狗奴國連合とは女王國に対応する男王國を想定して表現しました。
狗奴國連合が男王國とするならば、
邪馬臺國連合が女王國です。
熊本平野には菊池盆地(菊池川流域)を除く広大な平野部(白川・緑川・球磨川流域)があります。
これらの地域を含む国が男王國(狗奴國連合)と想定します。
又、使譯所通30ヶ国に対応する狗奴地域の国々は肥である熊本県長崎県(除壱岐対馬)全域でしょう。
446 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 12:27:31
>邪馬台国は九州だ!! 九州と言っても広いんで、さっさと一つに絞ってくださいね(笑)
447 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 12:30:08
巻向みたいに根拠もなく絞れるかよ
448 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 12:33:08
北部九州であることに間違いないようですよ。
449 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 12:44:29
>>446 倭人伝に合わない説明するのは捨てればいいんだ。南九州ならば何の問題も
ない。
450 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 12:53:07
せめて北部九州か南九州かぐらいには絞り込めよ。俺的には北部と思うが。 畿内もありえるかもな。 南九州だと弥生時代はまだまだって感じだな。
451 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 14:14:48
452 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 14:39:19
>>442 『此女王境界所盡 其南有狗奴國』
「其」は「女王境界」を指します。
女王國の最も南部にある国は投馬國と邪馬壹國です。
又、それらは筑後平野にあります。
女王國と狗奴國の境界は現在の福岡県熊本県県境にあたります。
この境界の南側にある狗奴國は菊池川流域(菊池盆地)になります。
453 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 15:41:43
狗奴國は球磨川流域(八代や宇土も含まれるかも)以南でしょう。その北側の熊本県が邪馬台国です。 帥升の倭国時代には狗奴國もその一員でしたが、帥升王統断絶後の主導権争いで邪馬台国の卑弥呼を 擁立したグループと決別したのです。王の卑弥弓呼はその名前から推定して卑弥呼とは同族だったの かも知れません。
454 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 16:49:25
re452 女王連合国の最南端に邪馬台国はあります。郡から12000里ですから。 7000+5000=12000 あと、女王と女王国は違います。女王国=邪馬台国。文字を正確に読んで ください。
八代、宇土そして天草あたりの遺跡はあまり知られていませんが素晴らしいものがありますね 中国大陸から東シナ海を渡ってきた人たちがあのあたりで文化の華を咲かせたのでしょう 気候も非常に温暖で、倭人条に出てくる風俗もこのあたりのことを言っているのではと思わせるほどです 不知火海をはさんで宇土の対岸にある芦北や球磨地方、その南の薩摩となると 言葉も風俗もまた大きく異なったものになりますね
456 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 17:42:27
>>454 女王国というのは点ではないよ。広大な領域をもつんだ。
万二千里は女王国に至るまでの距離。女王国のつきる所までの距離ではない。
457 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 18:40:07
>>454 郡より12000里で女王國に到達します。
郡より12000里にある国は奴國と不彌國です。
奴國と不彌國が女王國なのです。
不彌國の先にある投馬國と邪馬壹國も女王國です。
女王國以北に餘旁國21ヶ国があるので、
女王國の最南端は投馬國と邪馬壹國となります。
以上の論より、女王國は、奴國、不彌國、投馬國と邪馬壹國の4ヶ国となります。
『女王境界』は女王の勢力範囲の境界を指します。
女王の勢力範囲の最南端にある国は女王國であるから、
「女王境界」は「女王國境界」と同じ意味となります。
女王國境界は女王國最南端の投馬國と邪馬壹國の境界となるのです。
即ち投馬國と邪馬壹國はその境界で狗奴國と南接しているのです。
458 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 18:41:50
>>457 追加説明図
一大国 [従]郡 [従]郡
┃ │ │
┃渡一海千余里「至」 │ │
┏━┻━┓ │ │
┃末慮国┣━━━┓ 南水行二十日│ 南陸行一月│
┗━━━┛ ┃ 「至」│ and水行十日│
南東陸行┃ │ [至]│
五百里「到」 ┃ │ │
┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━┓ │
┃伊都国┣━━━━━━━┿┫不彌國 ┃ │
┗━━━┸─┐ │┗┳━━┳┛ │
東南百里「至」│ ┏┷━┻┓┏┻━━┷┓
│ ┃投馬国┃┃邪馬壹国┃
┏━┷┓ ┗━━━┛┗━━━━┛
┃奴国┃
┗━━┛
まだそんな戯言言ってるのかw いい加減パズルから卒業しような。
460 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 19:01:50
>>455 熊本平野白川以南の中南部の嘉島から宇土・天草・八代の遺跡は
殆ど研究されないで放置状態です。
遺跡を裏付ける和漢の文献がないことと、
従来の考古学の時代区分基準に問題がある為、
遺跡の体系化が難しいのです。
この地域の横穴式古墳は他地域の竪穴式古墳と同時期か、
より時代が遡るものと思われます。
461 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 19:20:43
>従来の考古学の時代区分基準に問題がある為、 いま正しいと思われるのは、纒向遺跡しかない。 早く仁徳が4世紀末に動かないと、整合性がとれない。
458図は、意外と正解かもしれない。 これなら、倭人伝の行程記事が腑に落ちる。
463 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 19:31:02
464 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 19:36:37
年代をいじくると 240年景行元年で、田道間守以下複数の名前が特定できる。 どうにも合わせられない崇神は2世紀末に移らない限り、無理だと思う。
465 :
サガミハラハラ :2010/03/24(水) 19:42:34
地図のほうは、投馬国をのぞいて私と同じですね。
466 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/24(水) 20:05:21
>>458 伊都国から先がホラ話しですね。邪馬台国九州説の絶滅危惧種的歴史観です。
467 :
442 :2010/03/24(水) 20:12:07
>『此女王境界所盡 其南有狗奴國』 >「其」は「女王境界」を指します。 女王の境界は、奴国の南です。其は、奴国をさす。はるか前に記述された 邪馬台国をさすよりはまだ、境界のほうがいいけど。まあ、よく原文 みてください。岩波文庫でもいいけど。
時刻表と地図を見ながら読んでいる推理小説のトリックを 「ああでもない、こうでもない」と考えて一人悦に入っている書斎の人 …九州説論者のイメージと言えばこんな感じかな?w (無論ピンキリで酷い奴は酷いんだろうが…)
469 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 20:28:14
>>452 奴國=女王境界所盡=其
であって、
「其」は「女王境界」ではないだろう。
>>467 女王の境界は、奴國の南ではなくて、奴國を含め、ここまで列挙してきた国々全部。
471 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/24(水) 21:06:03
九州王朝大好きさんの説は人口で破綻している。 邪馬台国(女王国)は北部九州全体で邪馬台国の都が伊都国。 伊都国の代々の王とは卑弥呼や壱与のこと。
472 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 21:09:28
>>468 畿内説ではそういう楽しみ方ができない。もっとも畿内説は文献無視の作り物だから推理を働かせる
余地もない。
473 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 21:14:06
>>469 投馬国は福岡県南部で中心地は妻(久留米市から筑後市にかけて)。
474 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 21:19:24
>>471 >邪馬台国(女王国)は北部九州全体で邪馬台国の都が伊都国。
そんな馬鹿な!!
倭人伝には伊都国の南方1500里に邪馬台国(女王の都があるところ)があると書かれている。
475 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 21:26:14
倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ではないだろうか?
大国主と張り合えるということはそれなりの人物では?
箸墓古墳は当時箸が無かったことから土師のことを指しているのでは?
兄弟が吉備津彦だが、土師は岡山に密集している。
というより物部と土師の分布が極度に似ていることから同属の可能性もある。
http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/index.asp 菊花紋が使われているようだが土師が天皇と血縁的に深い関係だったことの現われではなかろうか?
そして箸墓古墳はマキムク周辺にあり物部石上神宮も近くにあり野見スクネ神社も近くにある
476 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/24(水) 21:33:59
>>474 倭人伝にはそのようなことは書かれていない。
馬鹿なのは474。
>>475 却下。
日本書紀の編者は「卑弥呼」を知っている。
その編者が「モモソヒメ」と呼んでいる以上、違う人物。
巫女という点意外は、業績に共通項もなし。
墓だって違う。卑弥呼のはもっと小さい。「塚」だからね。
479 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:04:08
>>475 倭人伝の卑弥呼は、主役。
しかし、倭迹迹日百襲姫はどう見ても脇役。主役はやはり崇神天皇。
崇神天皇こそが外国から「王」と呼ばれるにふさわしい。
時代も異なるだろうな。崇神天皇は卑弥呼より100年以上は後になる。
畿内説としても、そう解釈しなければおかしいのではないだろうか。
第10代の天皇のときに大和盆地にはじめて都らしきものが出来たのでは
おかしい。
480 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 22:05:18
>>471 >>473 投馬國の領域 (5万戸25万人収容可能)
北限:みやき町三根・神崎市千代田東部
南限:大牟田市
西限:大川市・柳川市の有明海沿岸
東限:みやま市・三潴郡・久留米市城島
邪馬壹國の領域 (7万戸35万人収容可能)
北限:太宰府市
南限:筑後市・八女市
西限:みやき町・久留米市安武・同市大善寺・同市三潴・筑後市
東限:朝倉市・うきは市
奴國の領域 (2万戸10万人)
佐賀平野
>>479 なるほど
卑弥呼が誰かという視点より単純に箸墓古墳の大きさと埋葬者の謎が興味をそそった
482 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:08:06
箸墓古墳は大量の資源が投入されているんじゃないか? なのに埋葬されている人間が端キャラとかちょっと考えにくいな
483 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:11:39
>>480 えらく詳しいがw、地名の名残りはないのか?
484 :
442 :2010/03/24(水) 22:33:45
re470 女王の境界はいくつもある。しかし、ここで言ってるのは、奴国の南。 其が邪馬台国をさすなら、21か国を書く前に、狗奴国を書いてる。狗奴国を ここに書いたのは、奴国を使うから。 邪馬台国論争のもとは、21か国を邪馬台国の南にしたから。21か国を 邪馬台国の北にすれば、終わる。邪馬台国でUターンして北、北、西行き、 奴国に戻ってきた。2つの奴国も説明つく。
485 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/24(水) 22:34:51
>>480 .......享保6年...寛延3年...宝暦6年...天明6年...寛政4年...寛政10年..文化元年..文政5年...文政11年..天保5年...天保11年..弘化3年...明治5年...明治6年
.......(1721年)..(1750年)..(1756年)..(1786年)..(1792年)..(1798年)..(1804年)..(1822年)..(1828年)..(1834年)..(1840年)..(1846年)..(1872年)..(1873年)
筑前..302,160人 307,439人 306,173人 307,778人 304,199人 307,982人 313,420人 321,857人 329,886人 335,803人 339,434人 346,942人 441,175人 445,278人
筑後..266,426人 260,875人 263,176人 270,448人 273,293人 272,239人 277,579人 284,169人 292,913人 307,206人 295,678人 299,041人 391,535人 393,656人
486 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:39:40
>>482 倭迹迹日百襲姫の墓は箸墓だが、箸墓がどれかについては決定していないんじゃ
ないかな。日本書紀には、大市に於いて葬る、と書かれている。
現在、箸墓と呼ばれている古墳は、実は箸墓(倭迹迹日百襲姫の墓)ではないかも
しれない。
天皇でも皇后でもない、一介の皇女の墓にしては大きすぎるとも言われるし。
487 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/24(水) 22:41:21
>>484 周旋可五千餘里は、北部九州地域のことであり
「奴国」からはじまり「奴国」で一周する
「不弥国」「斯馬國」「已百支國」「伊邪國」「都支國」「彌奴國」「好古都國」「不呼國」「姐奴國」「對蘇國」「蘇奴國」「呼邑國」
「華奴蘇奴國」「鬼國」「爲吾國」「鬼奴國」「邪馬國」「躬臣國」「巴利國」「支惟國」「烏奴國」「奴國」の範囲である。
周旋可五千餘里の5000里は、末盧国〜伊都国の500里、伊都国〜奴国の100里、奴国〜不弥国の100里の平均から計算で推定されたものである。
(500里+100里+100里)/3×21ヵ国+100里=5000里
21ヵ国は邪馬台国内部の国々です。
488 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:41:35
489 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 22:41:41
>>483 和漢籍の地名と3世紀の地形の自然境界に従って作成できました。
490 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:51:47
>>488 卑弥呼が奈良にいたと決まったわけじゃないだろうに。
九州は対抗して、「トヨタン」のキャラクターを作るべきかな。
491 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 22:51:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
492 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/24(水) 22:56:20
>>487 周旋は片道の里数を表している。
往復又は一周ならば「周匝可五千餘里」となる。
493 :
日本@名無史さん :2010/03/24(水) 23:29:30
>>480 三養基、三根、神崎と
柳川大牟田では
間が飛びますが大丈夫ですか?
以前に有明海の水位の議論をされていましたが
水路で切り離されていませんか?
494 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 00:00:07
>>488 イタタタタw
そもそも卑弥呼が歴史に登場するのは
いい加減、婆さんになってからだろうに…
「せんと君」の時と言い本当センスがないと言うか
安直に過ぎるw
お前ら滋賀の「ひこにゃん」を見習えとwww
495 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 00:03:35
496 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 00:46:40
>>480 いくら詳しく書いてみても、日数を郡からと読んでるようじゃ話にならんな。
497 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/25(木) 02:53:30
>>493 >三養基、三根、神崎と柳川大牟田では
>間が飛びますが大丈夫ですか?
>以前に有明海の水位の議論をされていましたが
>水路で切り離されていませんか?
3世紀の有明海は吉野ヶ里の南まで北に入り込んでいます。
有明海のその北端の海に筑後川が流れ込んでいたのです。
三養基三根と神崎千代田東部は筑後川の南岸になります。
ですから三養基三根から柳川までは低地の地続きとなります。
柳川からみやまの間には矢部川流れています。
みやまの南に大牟田が接しています。
投馬國は三養基三根から大牟田までの南北に細長い地域になります。
投馬國の殆どは筑後平野の低地部で、
みやまから大牟田にの一部に扇状地があるだけです。
邪馬壹國と投馬國の境界は、ほぼ西鉄天神大牟田線沿いに、
筑後平野を南北に横たわる中央低地で3世紀には低湿地だったと思われます。
中央低湿地の東側邪馬壹國側は低い台地と小河川の両岸の平地です。
498 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/25(木) 02:55:19
>>496 >いくら詳しく書いてみても、日数を郡からと読んでるようじゃ話にならんな。
投馬國への日数は、魏が郡から投馬國へ水軍を派遣する時に必要な日数です。
邪馬壹國への日数は、魏が郡から内陸国である邪馬壹國へ陸軍を派遣するする時に必要な日数です。
そのルートは半島内陸行、漢江沿いに東南に遡り辰韓に入り、洛東江沿いに南下し、狗邪韓國に入ります。
狗邪韓國で倭人から船を調達し九州に渡ります。
九州北岸からは又陸行し内陸国の邪馬壹國に到着するのです。
息子が今仕事から帰ってきた。寝るとしよう。
499 :
442 :2010/03/25(木) 06:55:20
日数:陸行の起点国名、方位がない。ということは、同じ所から同じ方位 へ行ったと解釈せざるをえない。つまり、南に水行すれば10日。陸行すれば 1月。あるいは式にここは読む。水行10日=陸行1月。南に水行できて 南に陸行できるのは、海岸が南北になっている場所。地図で探せば、それは 延岡市から宮崎市の海岸で、その距離を測ると75km。つまり、 水行10日=陸行1月=75km。九州の南北は約300km。邪馬台国は 九州内に入る。
500 :
442 :2010/03/25(木) 07:19:49
奴国の東の海岸なら、不彌国は行橋市。不彌国から南に水行20日で投馬国。 投馬国から南に水行10日で邪馬台国。不彌国から邪馬台国までは水行30日。 75kmの3倍は225km。行橋から宮崎市までの直線距離は200km。 内陸部になるが。国東半島迂回考えると225kmでいい。
502 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 08:59:27
>>492 「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
「參」とは集める、集まるの意味。
「參問倭地」とは倭地について問を集めたとの意味で、
「魏使が倭人に聴いて倭地について集めた情報です。
「周旋」だけで一周して戻って来るとの意味がありますから
「匝」は必要ありません。
「周旋可五千餘里」には「可」が付いていることから
「五千餘里」が実測値でなく推測値(倭人に聴た情報と自らの体験で推測した)であることも分かります。
503 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/25(木) 09:20:54
>>497 の追加説明
3世紀の筑後平野の真ん中を南北に走る低湿地について。
筑後平野の中央部に低地に「三潴」と言う地名があります。
「三潴」は日本書紀景行紀九州巡幸の件に出てくる「水沼」のことです。
4〜5世紀頃には、筑後平野中央低地の「三潴」は「水沼」と呼ばれており、
当時には未だ沼沢のある湿地帯であったことを示しています。
3世紀においても同様に、筑後平野中央低地は池沼が連なる湿地帯で、
邪馬壹國と投馬國を東西に区切る自然の境界線となっていたのでしょう。
両国間に争いごとがあったとしても中央低地に連なる池沼の漁業権位で、
両大国は歴史的に長期間友好関係を保ち続けたと思われます。
504 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/25(木) 09:29:56
>>502 「周旋」だけで一周して戻って来るとの意味は無いよ、行きっ放しだよ。辞書で調べて。
「周匝」は一周して戻って来るとの意味で、
「周旋」と「周匝」は使い分けられています。
505 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/25(木) 11:31:25
>>497 どこかに当時の有明海周辺の海岸線図ありませんかね?
予想とか今の海岸線の数mのものとか、大まかなのでいいのですが。
506 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 11:35:35
>>484 境界という言葉の意味を、境界線というふうに捕らえているのかな。
だったら、奴國の南という主張も、まあ納得できる。
普通の場合、それで良いと思うけど、ここで「尽きる所」というのが引っ掛かってて、
境界「線」というよりも、支配が及ぶ領域という「面」を意味してるんじゃないかという気がしてる。
507 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 11:44:31
508 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 11:54:39
509 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 12:16:27
魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる) ┃渡一海千余里「至」 ┃ ┏━━━┓ ┃末慮国┃ ┗━━━┛ ┃南東陸行 五百里「到」 ┃ 東行 百里「至」 ┏━━━┓ ┃ ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃ ┗━━━┃伊都国┃ ┗━━━┛4 ┗━━━┛━━┓ 「至」 ┃ ┃ ┃東南 陸行百里「至」 南 水行十日┃ ┃ ┃ 南 陸行一月┃ ┃ ┏━━┓ ┃ ┃ ┃奴国┃ ┃ ┃ ┗━━┛ ┏━━━━┓┃ ┃邪馬台国┃┃ ┗━━━━┛┃ ┃南 水行二十日「至」 ┏━━━┓ ┃投馬国┃ ┗━━━┛
511 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 13:02:53
>>504 何処の辞書を使っているんですか?
漢字の辞書では「旋」の意味として「かえす。かえる」とあり
例として「凱旋」「旋踵」があげてあります。
また漢字研究家の白川静は「周旋」のもともとの意味は旗をめぐらして旋する意で、
戦う意味に用いられたと紹介しています。
倭人伝の場合には「周旋」の意味として「倭地を一周する」に使われていることは明らかですよ。
512 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 13:07:56
>>510 分岐基点だから伊都国への経路だけ「到」を使ってる訳ではありません。
伊都国が目的地だったから「到」を使用しているのです。
放射状に読むのは誤りです。
>>510 ダメだな。
これだと、肝心の「邪馬台国」周辺の記述が少なすぎる。
倭人伝の記述がマヌケきわまりない。
邪馬台国の北に河渡って伊都国があるって、倭人伝に書いてあるってば。
515 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 13:18:33
>>509 おおっ、弥生たたら製鉄跡があると書いてある。
マジ?
鉄器加工じゃなくて、弥生製鉄なら、すごい資料じゃないか?
Wiki >邪馬台国に関する論争 >この論争が始まったのは、江戸時代後期、新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、 >「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「日本の皇室が >中国に朝貢するなどありえない」という立場から、「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州) >にあった小国であり、卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長であると説いた。 どっちも結局、九州で落ち着いたわけね。
518 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 14:22:42
>>517 音がうるせえな。
ちゃんとJASRACに金払ってるのか?
<object data="音声ファイルのパス" type="application/x-mplayer2" width="300" height="45" > <param name="src" value="音声ファイルのパス" /> <param name="autostart" value="true" /> </object> これでプラグインひっぱっらなきゃ駄目だね。 道路で潰されたとか半分に分けられたとか、九州の遺跡なんて残ってるだけで 幸いなもんだ。
520 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/25(木) 15:00:50
521 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 15:40:19
>>514 >邪馬台国の北に河渡って伊都国があるって、倭人伝に書いてあるってば。
倭人伝に書いてある???
凄い誤読してませんか?
どんなに妄想しても邪馬台国は畿内ですよ。 北部九州にあるのは奴国と伊都国と決定してます。
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
>>523 └-' ̄. | |_二二._」」__ノ
525 :
442 :2010/03/25(木) 16:27:11
>>506 尽きる たしかに、そうですね。境界とともに、尽きる もいくつかある。
ここらへんの字から陳寿が誤読したのでしょう。陳寿は、21か国を邪馬台国
の南と誤解してた。それは以北、略載の部分加筆したと考えられる。
邪馬台国までが12000里ですから邪馬台国は倭の端でさらに最南端にある。
この南に21か国をおくと倭からはみだすから誤りはあきらか。
他のre
周旋は1周なら端から端までは長くて2500里では?7000+2500
では12000にたりない。
あと放射式は、投馬国が邪馬台国の南になるので間違った解釈。
526 :
442 :2010/03/25(木) 16:37:12
隋書には、東西5月行、南北3月行とある。 近畿から西が統一してたとして、今の地図で福岡市から奈良市までの直線 距離を測ると500km。南北は、紀伊半島から若狭湾より、九州の南北が 長い。九州の南北は300km。つまり1月行=100km。600年ごろ である。魏志の陸行1月=75km。250年ごろ。600年には道路が 整備されたと考えるなら。陸行1月=75kmは、隋書で裏がとれたと 言える。 不彌国から邪馬台国は水行30日。陸行3月である。奈良では距離的に 遠すぎるので距離的にはあわない。ただ、方位を東に変えれば方位はあうが。。
527 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 16:49:14
>>511 榎一雄や山田など学者は一周じゃないっていってるね。
528 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 16:57:45
>>525 >放射式は、投馬国が邪馬台国の南になるので間違った解釈。
南になるとは限らないよ。水行二十日と水行十日陸行一月だからね。
529 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 17:00:00
>>521 「南至投馬國 水行二十日」
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」
では、それまで行程を里数(距離)で示していたのが日数(時間)に変わっている。
「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」で里数(距離)の説明は終了し
「南至投馬國 水行二十日」以降の文は再度同じ行程を日数(時間)で説明し直したものだ。
投馬國は狗邪韓國を中心とした地域であり
邪馬壹國は伊都國を中心とした地域である。
狗邪韓國と伊都國にだけ到が使われているのは其の為だ。
530 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 17:02:33
>>527 榎一雄や山田など学者は邪馬壹國が解決できなかったボンクラ学者。
531 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 17:06:54
放射式も連続式も誤り 里数(距離)で説明したものを再度日数(時間)で説明したもの。 そうすると「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」は 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一日」の誤りであることが分かる。 陸行一日は末盧國から伊都國までだな。
533 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/25(木) 17:46:52
>>531 そなたは間抜けか?「南」を「東」に2文字変えるだけで邪馬台国は纏向であると結論が出る。
>>524 ソース?倭人伝に書いてあるでしょw
女王の都する処がヤマト国です。
距離については、はっきり同定できると考えられる壱岐(一大国)から
松浦(末廬国)まで千余里とかあるから、どちらにせよ、そのまま受け
取りは不可能だな。
>>534 水掛論の相手はしない決まりになってる。
てか、畿内説の奴はマヌケだな。強弁するしか能がない。 (つまり論証が無いってことね。) 邪馬台国とヤマト王権は無縁だってのに。
水掛論は延々何百年も続いてるけどなw 奴国が女王国との境界線で、傍国が女王の影響力の 及ぶ国である事。北部九州に伊都国があって女王に 協力体制にある王がいるだけの話だ。 倭人伝にはそう書いてあるでしょ。 間違っても邪馬台国(ヤマト国の事)は北部九州には有り得ない話。
538 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 18:39:50
>>515 九州では多分、弥生時代から製鉄が行われていた。その痕跡とも言われる鉄滓
なんかも出ている。製鉄は、古墳時代にかなり入ってからという人もいるが、
それは、畿内説の立場からだろう。
九州で弥生時代から製鉄が行われていたとなれば、鉄に関して貧弱な
近畿地方の立場がなくなってしまうから。
邪馬台国論争は、こういう方面でも影響を及ぼすことになる。
「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓」の虚妄を衝く これを読んだ人限定で感想を教えてください データで反論してるらしい
540 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 19:22:28
河童やドツボはどこいったの?
ドツボは派遣切りにあって、ホームレスになったという説があるな。
542 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 20:23:38
>>539 そんな本に興味があるのは、君だけらしい。
543 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 20:37:53
>>537 は倭人伝を畿内説に合わせて恣意的に無茶苦茶に解釈した典型だな。
救いようの無い馬鹿。
てか、今どき 「邪馬台国=ヤマト国」というアホな理論を信じてる奴がいるとは。
学会や大新聞、NHKが畿内説を支持してるからな 2ちゃんの素人が言っても説得力がないよね
546 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:05:25
>>486 なるほど
逆に箸墓に葬られる人間で今まで見落とされていた有力者って誰なんだろうな?
それが分かればおもしろそうだ
547 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:09:22
>>486 俺、すごいことを思いついた。
もしかしたら、箸墓の被葬者は卑弥呼なんじゃないかな?
>>545 ま、その通りだ。
がしかし、マスコミや一般大衆はあてにならんぞ。
何かあれば、すぐに転向する。
民主党がいい例だ。
549 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:29:29
まぼろしの邪馬台国って映画がひっそり公開されてたけど、 九州説増えたっけ?wwww
吉永小百合ファンは増えました。w
551 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:39:30
太国だけかと思ったわ。
552 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 21:40:29
553 :
442 :2010/03/25(木) 21:49:13
>>528 陸行が南なら水行20日までいけるから、南ではない。東西。北も戻る
のでないので。東西へ陸行1月がいくらかは不明でも、投馬国は邪馬台国の
南はかわらない。
554 :
442 :2010/03/25(木) 21:56:41
>>533 2つ南を東に変えても、まだ、3つ残る。
以北 略載 を以西。一大率の以北を以西に。さらに、狗奴国は、その東?
ここは南のままにしますか?
>>544 当たり前でしょ、邪馬台国(ヤマト国)なんて
謎でもなんでもない。
未だにパズルや暗号解読ごっこをしている、
村興し九州説の連中の妄想とは違います。
畿内説は脳内でやって頂いて、九州は文献に注目しましょう。
>>461 >仁徳が4世紀末に動かないと、整合性がとれない。
突然失礼ですが、上記のフレーズがなんか引っ掛かってしまいました。
今現在、仁徳天皇は何年に比定されているのですか?
『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ると
在位 313年2月14日 - 399年2月7日
になってますけど。
558 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 22:09:24
イギリスでは、コナン・ドイルの創作したホームズが実在の人物だと信じてる人がいるらしい。 たぶん、1000年もしたら、本当に実在の人物ってことで定着するんだろうな。 魏志倭人伝を読んで、邪馬台国が九州にあったと考えるのも、同じこと。
559 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 22:14:20
仁徳即位元年=391年=広開土王即位年 上は倍暦逆算による。唐松山のは神功〜仁徳の代は三重在位(二重が3回) だとゴリ押ししており、言うまでもなく妄想の果ての大インチキ論である。
560 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 22:14:35
カムヤマトイワレヒコ(神武)の子孫、亀井大臣、がんばっているじゃないですか。 漢人(菅直人)や秦人(鳩山首相)に負けるな!
561 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 22:22:28
亀井って神武の子孫なのけ? 全くそう見えないんだがw
ネタにマジレスすんな
>>504 >「周旋」・・・行きっ放しだよ。辞書で調べて。
>「周匝」は一周して戻って来るとの意味
【周旋】1めぐりまわる。<左・僖15>2たがいに追いかける。交戦のたとえ。3世話する。応接する。
4立ち居ふるまい。5うねる。6救う。救うこと。
《春秋左傳 僖公十五年》進退不可,周旋不能,
【周匝】1周囲<北魏書・西域伝>2とりまく。<釈名・喪制>
《魏書 西域》南天竺國,去代三萬一千五百里。有伏醜城,周匝十里,城中出摩尼珠、〔二四〕珊瑚。
《釋名 釋喪制》28 衣尸曰襲,襲,匝也,以衣周匝覆衣之也。
(辞書は漢辞海)
一応、周旋の例文
丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,
(呉書 諸葛恪伝)
564 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/25(木) 22:52:10
>>563 旋と匝の意味を考えたら当然だな。
「周旋」は倭地をめぐりまわるって来ると5000里あると魏使が倭人から聴いたんだ。
「次有奴國 此女王境界所盡」の奴國は倭地をめぐりまわるって奴國に戻ってきた。
この範囲が女王の勢力圏(邪馬壹國)だと説明しているのだ。
565 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 23:09:12
>>563 >>564 榎一雄が「邪馬台国」で次の例を引いているよ。
陵廻阜転、山高朧長、周旋逶迤、形似書字。
そして、周旋五千余里は倭の領域の始まる地点から、その領域の尽きる所
までの距離を言ったのである、と説明している。
ひいい、縄文人。
567 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 23:22:39
>>529 距離を里数で表示したり日数で表示したりすることはよくあることだ。西域
伝には両方の表示が混在しているよ。
里数で表示したのは里数が見当ついたからだし、日数で表示したのは里数が
良く分からなかったからだ。
568 :
日本@名無史さん :2010/03/25(木) 23:27:17
>>553 >陸行が南なら水行20日までいけるから、南ではない。
同じ南でも少し違うんだろうな。水行二十日まで行かずに、十日で上陸する
方が目的地に行きやすかったということだ。
南九州ならばそれがぴったりなんだよ。
>>565 陵廻阜転、 陵は廻り阜は転ず (「陵」は土の大山、「阜」は土の小山) 名詞+動詞
山高朧長、 山は高く朧は長い (「山」は岩石の大山)朧=かすかに明るいさま 名詞+形容詞
周旋逶迤、 周旋=めぐりまわる、逶迤=曲がりながら進むさま
形似書字。 形は書字に似る
山の中をくねくね進んでいるのですかね。で迷って遭難したのかな? ぐるぐると。
漢文は難しい。榎一雄氏の訳があれば教えて下さいね。
570 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 00:35:01
>>557 それは日本書紀による在位期間。いくらなんでも在位86年はありえない。
日本書紀の年代をそのまま信じると、崇神天皇の在位は、紀元前97年〜
紀元前30年になる。
どうしてこんなに無謀に初期の天皇の年齢や在位期間を引き延ばしたのか。
7世紀あたりの日本人には、卑弥呼あたりからの記憶しか残っていなかったの
だろう。しかも、その年代も不明。
一方、中国を見てみると、3000年近くも前から国があった事になっている。
これとの兼ね合いから、国家の始まりを古くせざるを得なかったのだろう。
『邪馬台国・奇跡の解法』のページはどうなんでしょうか。 当時内戦状態で、あえて安全なルートを通った為時間がかかったという事です 邪馬台国は熊本としていました 私は信じましたが皆さんはどうでしょうか?
572 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 00:59:22
>>571 末盧国から東南五百里。佐賀市付近にきまっているだろう。
そこならば、有明海沿岸だ。奴国や不弥国へ回る必要はない。
伊都国から直接水行できる。ということは、放射説以外にないね。
そこから、水行二十日で投馬国。薩摩が投馬国だな。
また、伊都国から水行十日陸行一月。熊本は当然突き抜けることになる。
倭人伝が書いていない内戦なんてのは、考えるべきではない。
日本書紀 制作年:不詳 制作者:天武朝の朝臣 原典:帝記、出雲国造家録、漢籍 古事記 制作年:明治 制作者:明治政府 原典:尾張風土記、出雲風土記
574 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 01:09:56
>>564 倭人伝は、倭人は山島によりて国邑をなす、と書いているわけだから、
その山島の大きさを書かないはずはない。
周旋五千里は正にその大きさだ。倭人伝がいう五千里は四百キロ前後。
となれば、使者が上陸した末盧国辺りから九州南端まででぴったりと
いうべき距離だね。
畿内説みたいに倭の領域は本州も含むなんてことを言い出すと、倭人伝
は倭の大きさも全体の人口(戸数)もまったく書いていないということ
になる。一番大切なことを書いていない? そんなはずはないね。
当時はGPSなんか無かったから 距離はあくまでも目安なんじゃないかな 熊本には山門という地名があったり よくわからない山城があったり 卑弥呼というスナックが沢山あったり だから邪馬台国は熊本だとオモウ 卑弥呼と今の天皇家の血統に繋がりがないから 隠したいのではないだろうか?
576 :
サガミハラハラ :2010/03/26(金) 01:30:22
>>570 そうですね、倭人は呉の太伯の裔であるとの記録があります。天皇の先祖をそれに合わせるために、
紀年をのばしたのでしょう。
>>574 記録者のレポートがどこまで正確なのかを疑う必要があるのは言うまでもない。
記録者の人格まで含め、報告を受ける側が検証しようもなかったことを
どこまで正確に、誠実に報告しているのかは、判断のしようがない。
「一番大事なこと」なんて、現代人の価値観で言ってもなんの意味もない。
しかし、記紀解釈と同じように、疑い出したらきりがない。
疑うか信じるかの二者択一ではなく、最低限信じられる部分を洗い出すのが大事。
そのためには、まず第一に、「自分が信じること」を脇に置くことだ。
>>569 続き
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
上記と、同じく三国志の
丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,(呉書 諸葛恪伝)
を併せて考えると、この場合の「周旋」は、むしろ「(北)魏書西域伝」の
北至波斯國,中間相去一萬里。國中有薄提城,周匝六十里。
北至奇沙國,相去一千五百里。國中有副貨城,周匝七十里。
南天竺國,去代三萬一千五百里。有伏醜城,周匝十里,城中出摩尼珠、〔二四〕珊瑚。
の「周匝」と同様に思えます。また「(北)魏書西域伝」には
其王都城分為五城,各方五里,周六十里。
其城東十里有佛塔,周三百五十步,高八十丈。
とあり、表現は違うけれども、いずれも周囲の距離を示していると思われます。
進退不可,周旋不能,《春秋左傳 僖公十五年》
や
陵廻阜転、山高朧長、周旋逶迤、形似書字。
の場合の「周旋」は動作を表す「めぐりまわる」に当たり、用法が違うのではないでしょうか。
579 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/26(金) 05:03:41
>>574 倭人伝は、倭人は山島によりて国邑をなす、と書いているわけだから、
その山島の大きさを書かないはずはない。
周旋五千里は正にその大きさだ。倭人伝がいう五千里は三百五十キロ前後。
となれば、對馬國から狗奴國(熊本)まででぴったりというべき距離だね。
580 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/26(金) 05:25:20
>>578 『丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,』(呉書 諸葛恪伝)
上記は、與吳郡から順次會稽、新都、鄱陽へと巡ると数千里の意味だよ。
日本列島を九州から北海道まで巡ると3000kmのような意味でしょう。
『進退不可,周旋不能,』《春秋左傳 僖公十五年》や
『陵廻阜転、山高朧長、周旋逶迤、形似書字。』
の「周旋」の用法は、倭人伝の「周旋」の用法と同じと思いますが。
581 :
442 :2010/03/26(金) 06:46:11
>>571 伊作さんのは、奴国までで違ってるのでは?奴国までで違うのはトンデモ説
と考えていい。既往の研究がたらない、1から一人で考えても限界がある。
投馬国が都城は、きついですね。
それより、
>>451 串間の璧は、使えますね。串間が邪馬台国でも文献上では可能。
>>450 南九州は、まだまだですか?南九州は、まだでも、近畿まで統一される
のですか?
伊都国に王がいるのに、近畿にお伺いたてるって????
日本書紀で、天孫降臨が何故宮崎に?近畿のほうがいいと思うけど。また、
神武天皇は何故、宮崎から出発したのか?いったい何が宮崎にあったのか?
邪馬台国近畿説では、これをどう説明するのかな?
582 :
442 :2010/03/26(金) 07:10:43
>>568 南へ陸行という矛盾は、放射式をとると出てくる矛盾。連続式ではおきない。
普通、矛盾がでたら、その仮定が誤りで取り消さないといけない。
南九州にしたいなら連続式のほうがいいと思うけど????
583 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 07:32:40
>>582 >南へ陸行という矛盾は、放射式をとると出てくる矛盾。
矛盾だなんいうのはあなたの勝手な決めつけだよ。投馬国が薩摩、邪馬台国が都城付近
ならば何の矛盾もない。佐賀付近から薩摩まで水行二十日、都城へ行くには八代付近で
上陸し球磨川沿いに南下陸行すれば都城まで陸行一月。
どちらも方向的には南だ。薩摩へ行くには少し西南よりになり、都城へ行くには少し東
南という感じだがどちらも南と書いて何もおかしくない。
連続説だったら、佐賀で海にでられるのに、何で奴国や不弥国へ行かなければならない
のか、それこそ矛盾だ。それに放射説は文章的にそのように読むべきもの、連続説は文
章的にもまちがっている。
584 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/26(金) 07:40:29
>>580 九州王朝大好きさんの上げている例文の「周旋」は全部
一周するとの意味ではないでしょうか。
「與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」は與吳郡、順次會稽、新都、鄱陽を巡ると一周数千里。
「周旋不能」も「進退不可」ですから片道ではなく周ることが不可能。
「陵廻阜転、山高朧長、周旋逶迤、形似書字。」も形は書字に似るです
一画の字は少ない、多くの字は複数で行ったり来たりしますから榎一雄の解釈の片道はへんです。
>>581 >天孫降臨が何故宮崎に?
大和で同じ事を言ったら同時代の人には、創作だってばれるだろ。
宮崎が僻地であるがために、かえって神秘的なイメージがあって
しかも誰も知らないので、嘘をつくのに都合が良かったのだろう。
小倉優子がこりん星の出身であるのと同じだから気にするな。
周旋と周匝について。 原義はもちろん違うだろうが、ほぼ同じ内容を表現していると考えて良いのでは。 あまりこだわってもどうだろう。 日本語で「都内をひとめぐり」「都内をぐるっと一周」の違い程度じゃなかろか。 同一内容を表現するのに、表現が一つしかないという事態の方がありにくい。
>>574 その通り。
思うに倭国とは、対馬・壱岐を中心として朝鮮南岸・九州北岸を活動拠点とする
海洋国家が、その前身じゃなかろか。近代になっても、朝鮮王朝あたりで倭国と
日本の名称を使い分けているのはその名残では。
>天孫降臨が何故宮崎に? 畿内にも丹波にも天孫降臨が文献記録や伝承に残ってるけど。 日本書記でも神武より先に畿内に降りている 天孫がはっきり書かれている訳だしな。
590 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 11:35:56
>>584 書字というのは、行書を考えるべきで、左上から始まり右下に抜けるのが
基本だよ。書き出しのところに戻るわけではない。
591 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 13:49:10
>>570 当時は2倍年暦等をしていたからで、大陸に追いつくためとかではなく、
それを知らなかったらしい紀の編者らが編年の際、不審は持ってたで
あろうが、原書群のいにしえからの伝承をしようがないから、そのまま的
に記載したからB.C.660年まで延びてしまったということ。
592 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 14:54:47
>>581 宮崎の弥生時代を調べなくてはなんとも言えないなあ。
古墳という観点で見ると、九州では宮崎が質・量ともに群を抜いている。
弥生時代の宮崎に見るべきものがないとすれば、突然のように最先端の文化が
訪れたことになる。
なんとなく、奈良盆地の様子とも共通するものがある。
神武東征あるいは邪馬台国東遷ばかりが話題になるが、ひょっしたらその前に
日向遷都があったのかもしれない。遷都までは行かなくても、有力な一つの
勢力が日向にやって来たというのも考えられる。
実は、記紀の天孫降臨の趣旨もそれを示しているわけなのだが。
仮に、日向遷都があったとして、それがいつなのかが問題で、卑弥呼の前と
いうことはないだろう。卑弥呼の在任中というのも考えられないわけではない。
しかし、記紀の記述からすると、卑弥呼のあとと考えるのが妥当かな。
日向の伝説、あるいは記紀の日向には、女王が出てこないから。
593 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 15:34:30
景行天皇が九州巡幸したときに、 「日向」という地名をつけたと、文献に明記されてるんだが。 日向の古墳群も、景行天皇後にできたもの。
594 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/26(金) 16:50:31
>>590 行書でなくても文字の書き順は一方通交。
一方通交は元に戻らないから周旋となる。
>>586 その例えは大正解。
「ひとめぐり」は必ずしも出発点には戻らない。戻らないのは周旋。
「ぐるっと一周」は必ず出発点に戻る。戻るのは周匝。
>>584 「與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」は出発点がない。
出発点が無いから戻ることもない。出発点に戻らないから周旋。
「周旋不能」も「進退不可」ですからまわるどころか片道ですら不可能。
「吳」の字は板に載ると、点「・」になるね。何故?
595 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/26(金) 17:13:02
>>590 >>594 乃などが分かり安いので乃で説明すると
乃を崩したのが「の」ですね。
一周以上してますね。
画数が字なら何周もしますね。
単なる一方通交じゃありませんね。
>「與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」は出発点がない。
出発点が無いから戻ることもない。出発点に戻らないから周旋。
出発点が無くとも何処か任意の地点を基準とした場合に一周が數千里です。
>「周旋不能」も「進退不可」ですからまわるどころか片道ですら不可能。
そうです「進退不可」進→、退←、が不可です。行くことも帰ることも不可です。
この状態が「周旋不能」です。
「進不可」が「周旋不能」ではありませんよ。
596 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 17:41:49
>行くことも帰ることも不可です。 ちがうよ。進むことも退くことも不可なんだ。帰るというのは、 進んだ後の話だ、退くとはちがう。
ホント好きだね、一人暗号解読ごっこが。
598 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/26(金) 17:59:42
>>595 文字で云うと書き出しに戻って終わるのが「周旋」
文字で云うと書き出しに戻らないで終わるのが「周匝」
「與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」は、
四郡鄰接だから任意の出発点もない。
四郡鄰接の語句が無ければ、
「與吳郡、會稽、新都、鄱陽,周匝數千里」となる。
599 :
442 :2010/03/26(金) 18:43:18
>>583 伊作さんかな?あなたは天才だから、他でかくか、あるいは私には、re
しないで。
佐賀って突然でてくるのがおかしいとおもいませんか?
奴国が博多で、東の海岸が不彌国(行橋市)。南に水行20日で投馬国。
さらに南に水行10日で邪馬台国(宮崎市)。
他のre
邪馬台国は、串間市でもまあ、璧を考えたら可能かな?
近畿へ天孫降臨してるのですか。それなら、邪馬台国 巻向でいいかも。
600 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/26(金) 18:44:15
>>598 は書き間違い。下記に修正する。
>>595 文字で云うと書き出しに戻って終わるのが「周匝」
文字で云うと書き出しに戻らないで終わるのが「周旋」
「與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」は、
四郡鄰接だから任意の出発点もない。
四郡鄰接の語句が無ければ、
「與吳郡、會稽、新都、鄱陽,周匝數千里」となる。
601 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 20:19:40
>>599 残念ながら天才ではないよ。
末盧国(唐津)から東南陸行五百里で伊都国、それが佐賀付近だ。
奴国が博多とか行橋が不弥国だとかいうのは、倭人伝の方向・距離には
合わないな。
丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,(呉書 諸葛恪伝) 諸葛恪は、みずから地方官として丹楊郡に赴きたいと幾度も願い出て、 (もし自分がその地に行けば)3年の間に4万の兵を手に入れてみせますと上申した。 しかし、人びとはそろって次のような意見を述べた。 「 丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重, その奥地の住民たちには、まだ城邑に出て、地方の長官に目通りしたことがない者もいて、 (中略)・・・前代以来、どうしてもいうことを聴かせることができなかったのである」と。 人びとはみな諸葛恪の計画の実現を疑問視したのである。 で、このあと孫権は諸葛恪を丹楊大守に任じ、諸葛恪は任地におもむくんです。 丹楊、吳、會稽、新都、鄱陽については下記を参照。 丹陽郡秦鄣郡,武帝更名。雒陽東二千一百六十里。建安十三年,孫權分新都郡。 吳郡順帝分會稽置。雒陽東三千二百里。 會稽郡秦置。本治吳,立郡吳,乃移山陰。雒陽東三千八百里。 (後漢書 郡国志) 鄱陽郡吳置。統縣八, 孫皓分會稽立東陽郡,分吳立吳興郡,分豫章、廬陵、長沙立安成郡,分廬陵立廬陵南部都尉, 揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。 (晋書 地理志)
603 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 22:04:12
604 :
442 :2010/03/26(金) 22:52:51
>>601 天才さんでないの?
前に書いてあるけど、伊都国、奴国までは、確定としていい。ここまでで
違うのはトンデモ説と断定していい。
既往の研究をする必要があります。基本です。
近畿説
行橋から、東へ水行20日で、投馬国(大阪、難波)。南に水行10日、
熊野。北へ陸行1月で邪馬台国(巻向)。これは、神武天皇の東遷と魏志
をつないでみました。神武天皇の熊野迂回の意味がわかるような?
出発が宮崎ですが。
605 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 23:55:03
>>604 いやいや、その思い込みが邪馬台国の所在を見失わせているんだよ。
考えてもみな。通説の伊都国=怡土では、こうなる。
@ 末盧国で上陸する理由がない。船で直行すればいいんだ。
A 玄界灘沿岸では南へ水行できない。
B 倭人伝の記述に照らし、方角・距離が合わない。
C 怡土は古墳時代に入ってからまったく発展した気配がない。
D 多くの学者がいくら頭をしぼっても、邪馬台国への道が見えない。
これに対し、倭人伝どおりに東南陸行五百里、佐賀市付近を伊都国とみれば
すべて解決するんだよ。上陸したのは当然だ。船では行けないんだからな。
南水行もできる。倭人伝の行程どおりで九州でもっとも発展した日向に至る。
>>605 古き良き時代の夢よもう一度・・・ということかな。死ぬまでこれやるつもりか?
こんな場末の2chで?
607 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 00:35:31
場末の2chも馬鹿ばっかりというわけではないだろ。
608 :
442 :2010/03/27(土) 00:40:43
邪馬台国(宮崎市)の卑弥呼と近畿の大和政権をつなぎ、万世一系にする ために、神武天皇の東遷をつくりだした可能性が高い。 邪馬台国を巻向にすると、天孫降臨が宮崎にする理由がない。僻地なら、 北海道でもいい。北部九州でも、甘木から天皇が出発してたら1票入れる けど。記紀が事実というのではないけど、記紀をつくった目的は天皇制の 確立である。宮崎にあるものも大和政権の始まりとしたかった。 何が宮崎にあるか?もっともふさわしいのは?
610 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 00:57:57
>記紀をつくった目的は天皇制の確立である これもひどい思い込みだ。
611 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 00:58:46
なんじゃこら大福に一票。
612 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 01:04:05
西都原の女狭穂塚古墳の陪塚といわれる171号墳は、ここでは非常に珍しい 方墳となっている。しかし、四隅突出型古墳と書いてあるものもある。 コタツみたいなその方墳、出雲との関連があるのかもしれない。
613 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 01:16:24
>>605 >A 玄界灘沿岸では南へ水行できない。
一つ考えられることですが、水行の日数が二十日とか十日とか結構長いわけなんですから、
出帆時の舳先の向きは必ずしも行先の方角を向いていなくてもと…。
たとえば東京港を出帆して青森港へ向かう場合はどうなんだと。その逆でも良いのですが。
つまりですね、青森は東京から見て明らかに北の筈なんですが、
海路の場合ですと東京港から直接に北へ向かうわけにはいきませんよね。
こういった場合、どう表現すればよいのか…。
「いったん南下してそれからずーっと北上する」
とでも書けばより正確なんでしょうが、そこまでわれわれが倭人伝の作者に注文するのもどうかと…。
>B 倭人伝の記述に照らし、方角・距離が合わない。
畿内説の立場では、そこで倭人伝の方角に対する信頼性の問題となってくるわけなんです。
>>510 さんの図は伊都国からの放射説をうまく描いておいでですが、放射行程になるまでの末慮国と伊都国の位置関係は
もし末慮国=唐津平野、伊都国=糸島平野とする通説が正しいという立場で申しますと
この2国は実際の地図から90度近く方角がぶれているわけなんですね。
もちろんこのスレッドの論者の中には、伊都国を糸島ではなく佐賀県内に求める人がいることも承知しています。
しかしそれは、「倭人伝の方角記述の信頼性を信じ、これを疑わない」という立場、言い換えれば「信念」からくるものなんですよね。
614 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 01:33:09
>>613 >出帆時の舳先の向きは必ずしも行先の方角を向いていなくてもと
だが、それならば、最初はどちらを向いていたのか書くだろう。乍南乍東と
書いていることも考えような。
玄界灘から出発するのならば、乍東か乍西か書かないと訳が分からんよ。
>畿内説の立場では、そこで倭人伝の方角に対する信頼性の問題となってくるわけなんです。
都合が悪くなったらとたんに倭人伝の信頼性って言うのはどうかな?
それをやったらどこでも好きなところへもっていけるね。
倭人伝のとおりに進めるだけ進んでみることが必要だろ。それをしないで、いきなり
倭人伝は信用できそうにないなんて言って間違った伊都国へ行ったら邪馬台国につける
はずはないな。
>「倭人伝の方角記述の信頼性を信じ、これを疑わない」という立場、
資料を素直に読むのは何よりも大切なことだよ。畿内説こそ、邪馬台国は畿内に相違な
いって信じ込んでこれを疑わない立場だね。これは学問とは無縁の信仰だ。
末慮国へはなんと方角が書いてない! どうして?
616 :
442 :2010/03/27(土) 06:03:52
>>615 今頃なにを言ってるのか?
魏志には、
a.始度一海
b.又南渡一海千餘里、
c.又渡一海
bからaは、南と解る。cの又は、又南だから、南。これが陳寿の文書。
美文といわれる書き方。同じ文をきらう。伊都国からの記述がかわるのは、
繰り返しを嫌ったから。決して放射式に書いてるからからでない。
なお、aの度とさんずいがないのは国境をわたるから。邪馬台国の東
倭種のところは渡るであるから同じ国。
どうしてこうもトンデモ説書くのかな?奴国までは、もう確定してる。
さらに狗奴国も熊本でかたい。投馬国も西都市や妻でいい。
まあ、これで、邪馬台国だけ巻向はきついから、近畿説者は反対する
だろうけど。
617 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 07:35:50
末盧国に上陸したとたん、方向が分からなくなるという解釈こそ、トンデモ だろうな。
618 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/27(土) 08:46:45
>>605 (伊都国=怡土)・・・卑弥呼の都とすると問題が全て解決する。
>@ 末盧国で上陸する理由がない。船で直行すればいいんだ。
郡使は帯方郡から船旅を続けてきて、やっと倭に付いたので上陸した。
卑弥呼の都伊都国には陸上から行列して入城。
>A 玄界灘沿岸では南へ水行できない。
目的地が伊都国なので南へ水行の必要はない。
南へ水行は郡から伊都国までを再度説明し直したもの。
>B 倭人伝の記述に照らし、方角・距離が合わない。
ほぼ合っている。
>C 怡土は古墳時代に入ってからまったく発展した気配がない。
伊都国=怡土からは女王達の古墳が見つかっている。
倭人伝の記述からは伊都国は王宮が在った程度で邪馬台国の中心国は奴国(博多)だと読み取れる。
>D 多くの学者がいくら頭をしぼっても、邪馬台国への道が見えない。
伊都国で邪馬台国の都に付いているのだから邪馬台国への道が見えないのは当然。
619 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 08:55:26
http://file.mk.co.kr/meet/neds/2010/03/image_readtop_2010_154167_1269585021255527.jpg 日本で最も古い歴史書「古事記」と「日本書紀」には実在しなかった天皇(日王)9人が登場する。第
1代神武から9代開化までだ。日本はなぜ架空の王たちを作り出したのだろうか。3世紀古代日本
を支配した新羅系崇神王朝と5世紀始めから支配した百済系仁徳王朝の存在を隠して自分たち
が当時、先進強国であったという理論的根拠を作るために建国時期を引き上げたのだ。この歪曲
は最近、韓日歴史共同研究委員会が廃棄することにしたという「任那日本府説」の根元でもある。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
よくみろよ。
「任那日本府説」の否定のその先にあるのは、「新羅系崇神王朝」「百済系仁徳王朝」を、
日本に認めさせることだ。
日本の学者はバカだから、朝鮮の策略に簡単にひっかかる。
朝鮮の目標は、日本の王朝は朝鮮人によって築かれたということにすること。
この先、何年かけてもこの主張をごり押ししてくるぞ。
たとえ日本人が否定しても、外国の教科書に訂正を申し入れていき、やがて既成事実化されるだろう。
すでに朝鮮では、邪馬台国九州説は、「卑弥呼=朝鮮人説」に変容している。
わかってるのか?おまえら。
620 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 08:57:35
621 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 09:15:59
>>619 まぁ日本は
「朝鮮半島の最古の歴史書、三国史記によると、
半島南部は倭人が支配していただけ」と主張すればいい。
新羅は倭人が建国した国とも主張すればいいだけだしな。
623 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/27(土) 09:29:00
624 :
水銀厨 :2010/03/27(土) 09:29:56
>>616 畿内説といっても色々いますよ。
私のように巻向を重視していても邪馬台国本体ではなく、
あそこは宗教的な土地というだけと認識している者もいます。
倭人伝の邪馬台国=淡路島〜紀伊半島に及ぶ国と認識しているからね。
阿波〜河内〜大和に及ぶ瀬戸内東部の事ですよ。
625 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 09:33:43
やはり日本海ルートが有力。 邪馬台国は十三山、つまり富山にあったのだ。 長髄彦(十三彦)は日本を支配する大王だったのだ。 これは竹内文書にもきちんと書かれていますね。
626 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 10:39:13
>>619 記紀を全面否定している日本の歴史学者は目を覚ませ!!
627 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 11:27:41
そうだあ〜 目を覚ませ!! 神功の渡海は、273年の日食の頃、274年は、幽州を分け平州を置く。 晋から、軍の渡海を要請されれば、渡海は可能である。 さすれば、神功52年は、326年となり、七支刀は、献上。 この少し前に、永嘉の乱が終息、半島や東北部に空白が生まれる。 ここに大国を打ち立てたのが、倭軍の協力を得た、百済である。 書紀の記述は、正しい。
>>404 >大量出土の導水溝の布留0さえも庄内3にするゴマカシ。
「導水遺構の土器は古くてもいいだろう。
実際に土器を見てみると、その中には布留形甕は含まない土器群ですので、
これは様式上は庄内3式として理解する」(寺沢)
629 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/27(土) 13:25:49
630 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/27(土) 13:28:27
>>622 投馬国が記紀に記された任那日本府だろう。
631 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 13:48:03
>>619 任那は、記紀だけでなく、中国の歴史書にも登場する。
しかし、韓国は任那はなかったと主張する。
好太王の碑には、「倭が海を渡ってやってきて百済、新羅を破り臣民とする」
とある。
しかし、韓国は、海を渡って百済・新羅を臣民としたのは高句麗と主張する。
高句麗が海を渡る不可解さは無視。
他の都合の悪い部分は無視する。例えば、百済が倭と通じたので、百済を
討つために大軍を派遣したとか。倭人に襲われた新羅が救済を求めたので、
大軍を派遣したとか。
韓国の主張は、強弁、強弁の連続で、論理的な矛盾ばかり。
まさに、無理が通れば道理が引っ込むという感じ。
邪馬台国論争にも共通するかも。
投馬国は馬関、つまり下関。 もちろん任那ではない。 しかし、馬韓と関係が読み取れる。 その先はまだ調べていないが・・・
633 :
伊都国王卑弥呼 :2010/03/27(土) 14:08:06
投馬國は朝鮮半島南岸、 邪馬壹國は北部九州、 狗奴國は南部九州、 倭種は中国西部、 侏儒國は四国西部、 裸國、K齒國は吉備や香川、畿内。 七千餘里=水行二十日、 萬二千餘里−七千餘里=水行十日、陸行一日(月)、 ∴投馬國の中心地=狗邪韓國 邪馬壹國の中心地=奴國。
634 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 14:10:51
>>629 標高7mの海岸線をどのように解釈するかは問題だが、航空写真と重ねると、
広大な熊本平野が浮かび上がっている。
甘木付近も古代人には住みやすかったのかもしれない。
それと、都城・小林付近の盆地も広い。
人吉盆地も一見小さく見えるが、奈良盆地と大差ない。
635 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/27(土) 15:35:41
>>634 >標高7mの海岸線をどのように解釈するかは問題だが
単純に、縄文期の海水位が高かった時の海岸線は、
現在の標高7m位の位置にあったと推定するしかありません。
都城盆地の広さは奈良盆地の1.4倍位ありますね。
人吉盆地の広さは奈良盆地と同じ位ですね。
人吉盆地では王の鏡と思われる呉式白銅製金塗金鏡(鎏金獣帯鏡)が出土しています。
都城盆地の気候は奈良盆地とよく似ていますが、
ただ火山性の流入堆積物が多く水利も悪い盆地なので、
古代の農業生産力は奈良盆地より低いです。
636 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 16:53:45
投馬国は後世馬関と呼ばれた早鞆の瀬戸を控えた地に在った。 その地は、倭人伝に書かれた時代、郡(楽浪)から20日で渡来できた。 勿論 渡来時には、松浦を経由しないが、帰国時に於いては、潮流のため、松浦 経由で帰国した。 場所は、今の洞海湾にあたる。小倉より徒歩で南へ歩くと、其処に内海がある。
637 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 17:33:15
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■ @まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて 自家発電でもって正義の味方を装う。 (朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる) Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、 長江江南人が渡来したと狂言しまくる。 (バカ、ダマサれ信じ込む) Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を 働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。 Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>631 韓国の主張はまるで九州説の主張にそっくりw
639 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 17:49:36
>韓国の主張は、強弁、強弁の連続で、論理的な矛盾ばかり。 だから韓国考古学は、百済本紀を支持するが、それを数字に表せない。 何故ならば、ほぼ50年古い方へ移動しなければ成らないからだ。 そこに有る数字は、 書紀に書かれた 273年日食を神功渡海とし、かつ 326年を七支刀にせねば成らない。 これでは、書紀に書かれたとおり、百済は倭の属国と成ってしまう。 百済本紀がたとえ間違っていようとも、その数字を支持しないわけにはいかない。
640 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 18:02:33
続き 先の大戦の敗戦国日本としては、その意(韓国の)をくんで、編年してきた。 これが現在の文献史学である。 その急先鋒が、太国であり、理論より先に、韓国の意を汲んだ編年を、正しいとする。 なにしろ敗戦に最も近いところで生まれた彼だから、これを(韓国の主張)死守するであろう。
641 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 18:07:32
そのわりに太国は年代の数字以外では、記紀の物語を史実と信じ込んでる、 皇国史観丸出しのネトウヨだが。
642 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 19:33:18
佐賀には御舟山というのがあってだな・・・・・
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑 倭人は帯方郡の南東および大海の中にある島をもって国を為す。 ・帯方郡を基点 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 郡より倭(日本列島)に至るには、海岸にそって水行し、対岸の狗邪韓國(釜山あたり)に向かう。 七千余里 始度一海千里 至對海國 〜 又渡一海千余里 至末廬國 対馬、壹岐を経て九州に上陸する。 日本列島への行き方を述べたので、ここで経路は終了。つぎに女王国の国々を述べていく。 ・再び帯方郡を基点 東南陸行五百里 到伊都國 〜 東行至不彌國百里 帯方郡より南東に500里の伊都國、さらに南東に100里で奴國、さらに東行に100里で不彌國 ・三たび帯方郡を基点 南至投馬國水行二十日 南に水行20日で投馬國(全羅道の国、光州) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 南に水行10日、陸行1ヵ月で邪馬壹國 ・邪馬壹國を基点 自女王國以北其戸数道里可得略載其余旁國遠絶不可得詳 次有斯馬國・・・・・・・・・次有奴國 此女王境界所盡 これらは半島東南部にある邪馬壹國(女王の都)から見て北部、 辰韓12国を含む女王国配下にある慶尚北道〜忠清北道の国々。 記述の最後に出てくる奴國は、郡より東南100里の奴國(先に述べた)のこと。 女王国から北を見返して小国郡を述べ、郡の最寄の奴國をもって女王国の境界という事。
追記 つまり女王国は、三韓地域から九州北部にまたがる国で、その拠点の邪馬台国は大邱盆地(?)
645 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 21:21:01
>>629 その縄文時代の海岸線をたどると、「三」の付く地名が繋がる。
三池−三橋−三潴−三田川−三日月
「三」とは、すなわち「水」であり、神聖なものを表す「御」でもあったのだ。
後に、この「三」の付く地名が瀬戸内海を経由して桜井市の三輪山に繋がり、
更に、伊勢を通って三重、三河、三原山、三島、三浦半島・・と続くことになる。
これが筑紫平野にあった邪馬台国東遷の道筋だ!!
646 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 21:44:46
>>640 いい加減なことを言うな。そうならオマエは日本生まれでないのか?
未だに東遷だってw 暗号解読ごっこは本当に進歩のかけらも無い。
648 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 23:07:42
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 23:11:28
年代の説明をしろ。〜三重在位などとオマエの脳内は三重星とかから送信 が来てるのか?pipipi
650 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 23:19:46
652 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 23:46:56
昔、香春岳からは、龍骨が出た。 その龍骨が、九州王朝の証拠だとでも云うのかな、哀れな太国よ。
653 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 23:53:57
■邪馬台国は九州だ!=第3弾シンポジウム盛況
【PJニュース 2010年3月24日】
http://www.pjnews.net/news/390/20100323_4 福岡歴史ロマン発信事業実行委員会主催の三年連続開催の邪馬台国シンポが最終回を迎えた。「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム:邪馬台国は九州だ!!」である。
3月22日、福岡県春日市のクローバープラザ大ホールで開催。500名の県民で満席であった。進行は次の通り。
第1部:基調講演は「大和王権と邪馬台国―崇神天皇とヒミコは同じ時代に生きていた―」と題して、原秀三郎氏(静岡大学名誉教授)。
第2部:「あなたが決める邪馬台国」投票結果発表と討論。
原秀三郎氏の講演は文献史学の立場から九州説を支持するものだが、斬新な内容で聴衆を圧倒した。原氏は魏志倭人伝の解釈と古事記、日本書紀の記述を総合的に検討する必要性を強調し、つぎのように結論付けた。
「大和王権の創立者崇神天皇は、248年に没したとされる邪馬台国の女王ヒミコと同じ時代に生き、その治世が女王ヒミコと重なることが明らか」である。
「三世紀の日本には北九州に邪馬台国のヒミコの統治する女王国があり、一方、女王国の東、海を渡る一千余里の地には、大和を中心に大和王権が存在した」のである。
このように、原氏の立場は、従来の論争の視点の転換を迫るもので、邪馬台国は九州か畿内かというものではない。邪馬台国は明らかに九州で、それと並存した大和の王権の存在を主張するものであった。
第2部では、「あなたが決める邪馬台国」集計結果の発表があった。
2009年10月1日?12月23日に市民が協力した邪馬台国比定地投票(約1000名)の結果である。トップは甘木・朝倉が131票、2位は博多湾沿岸で102票、3位は吉野ヶ里で86票であった(以下略)。
討論は、西谷正氏(九州歴史資料館長)をコーディネーターに九州各県の教育委員会・博物館の専門家が参加する討論会であった。
この三年間参加した私は、一般市民の関心を惹き付けたポピュラーな企画で、回を追うごとに邪馬台国論争の視点が明確に転換して深まったシンポジウムであったと感じている。【了】
654 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 23:56:57
>>652 そんなことはこちらの言ったことではないから、こちらに糊塗するな
この野郎!
655 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 00:02:47
>>653 >このように、原氏の立場は、従来の論争の視点の転換を迫るもので、邪馬台国は九州か畿内かというものではない。邪馬台国は明らかに九州で、それと並存した大和の王権の存在を主張するものであった。
さようなら東遷説
プゲラwwwwwwwwwwwwwwwwwww
656 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 00:12:02
■甕棺から弥生後期後半の青銅鏡片 佐賀市久保泉
佐賀新聞2010年03月27日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1587696.article.html 整備中の第2工業団地発掘調査で
佐賀市教委は26日、佐賀市久保泉町の久保泉第2工業団地内の発掘調査で、弥生時代の後期後半(2世紀後半)の甕棺墓(かめかんぼ)から青銅製の中国鏡の破片が出土したと発表した。
「同時期の甕棺の副葬品に鏡片が見つかったのは佐賀県内初で、北部九州でも珍しい」としている。
鏡片は長さ10センチ、幅3センチ。中国製で新〜後漢の時代の1〜2世紀に作られたとみられ、原形の3分の1程度に割れた状態で出土した甕棺の中に入っていた。
甕棺はつぼ型の土器で、形状などから弥生時代の後期後半と推定した。
市教委文化振興課によると、北部九州で鏡片の出土例は百例程度ある。弥生時代後期は竪穴(たてあな)住居跡や石棺墓などで発見されるケースが多く、甕棺からは数例目という。
佐賀大学文化教育学部の重藤輝行講師(考古学)は「希少だった鏡片を持つ人や甕棺で埋葬された人の位の高さなど、当時の社会形成を解明する上で貴重な手がかりになる」と話す。
同工業団地(8万平方メートル)は現在整備中だが、弥生〜江戸時代の白石原(しろいしばる)遺跡にあたるため、西側4万平方メートルで昨年度から3年計画で発掘調査をしている。
【写真】弥生時代後期後半の甕棺墓から見つかった青銅鏡=佐賀市久保泉町の久保泉第2工業団地
http://www.saga-s.co.jp/var/rev0/0110/2783/seidou.jpg
657 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/28(日) 00:22:02
658 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 00:28:44
>>655 ふーん。邪馬台国が九州だってことに気づいただけでも原氏はましだってことかな。
大和政権なんて言ってるところはまだまだだけど。
659 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/28(日) 00:29:31
>>659 帥升が後漢からもらった青銅鏡だ。
甕棺の被葬者は帥升の重臣か親族だろう。
660 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 00:41:14
>>655 そんなことは別に斬新でもなんでもない。ここでもそういう説の人は何人も
いるはず。
661 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/28(日) 01:04:02
>>660 >>655 邪馬臺國と崇神王権の同時代並立説はずっと以前からここにもおります。
「【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その10」スレにもそのことを書きこんだよ。
上の方に古地図(明代?)が出てたけどあれで解決じゃないの? みんな場所を説明するとき自分の頭にある地図をイメージしながら説明しない? であれば南に水行とか書くときは頭の中に筆者の常識としての地図をイメージするでしょ。 少なくとも明代までは福岡に上陸してから南にいくってことは中国地方、瀬戸内海方向に進むということを意味することになるかと。 もし行程に書かれている方角・距離が現代人のイメージする地図と一致して、九州を南下する移動なのであれば、明代まで東を南に取り違えてる地図があること自体が疑問になる。 きっとこんな意見とうの昔に出てるんだろうけど、理系素人の考えるところはこんなところ。
663 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 01:33:58
卑弥呼が奴隷として魏に献上した奴隷は、全員食われたそうだぞ
664 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 01:38:42
>>661 自慢するんじゃない。まちがいなんだから・・・
665 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 02:16:25
>>662 地図のない時代に地理をイメージできるかが問題なんだよ。
始めてやってきたらしい郡使らが、日本の地理をつかんでいるはずがない。
まして、陳寿が知っていたと仮定することは出来ない。
地図を見慣れているはずの現代人でも難しい。
例えば、フィリピンのマニラまでの行程の書かれた報告書があったとする。
我々が自分のイメージでその報告書の方向を書き換えることが出来るかどうか。
666 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 08:23:37
>>664 東遷説は四面楚歌だな。wwwwwwwwww
667 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 08:46:04
>>666 その通り!邪馬台国は長江文明に連なる楚からの亡命者が造った国だ!
www野郎、勘違いしてないか? ここで東遷説信奉してる奴なんていないぞ。
669 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 09:20:22
>>662 >明代まで東を南に取り違えてる地図がある
そんなものあるか? 明代の奴が間違えただけだろ。魏晋時代から間違われて
いたわけではない。
日本に関してじゃなければ、当時から 方角間違っている例は結構あるけどな。 済州島に関しても間違って記述されてるし。
671 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/28(日) 11:06:34
>>670 >済州島に関しても間違って記述されてるし。
隋書の済州島についての記述は間違っていない。
あなたの読み方が間違っているだけ。
九州王朝なんて言ってる奴の文献解釈は信用出来ないから。 恨むなら何たら紙学の人にどうぞ。
>>662 なるほど。
筆者は当時の知識階級と言って差し支えないですよね?
当時の知識階級で日本列島の地図(正誤は不問)を共通認識として持たれる前の話ということでよろしいでしょうか。
>>669 >>336 のこれです。
贋物でしょうか?
それに昔の方が正しくて、時代が下ると誤るというのもなかなか考えづらいのではないでしょうか。
674 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 17:33:31
>昔の方が正しくて、時代が下ると誤るというのもなかなか考えづらいのではないでしょうか。 その程度の推測しかできないとは情けないな。魏晋時代には、日本列島を書き込んだ 地図などなかったんだよ。だから、正しいも正しくないもなかった。彼らが知っていたのは九 州だけであり、それより東の本州、四国についてはまったく知識がなかったんだ。
魏晋時代以前から続く、倭国は南北に伸びているという 誤った知識を明代(1402年)に地図にしたものだよ。
676 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/28(日) 18:20:37
「東南海夷図」によると本州が2つに分断されています。これが「東渡海千餘里」の理由です。
677 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 18:32:06
>>673 三国志に限らず中国の史書に書かれていることが全て正しいとは言えない。なかには誤謬もある。だから、
一つ一つの記事についてどれだけ正確であるかを検討することは必要である。その検討のために他の文献と
の照合が行われるが、他に比較できる文献がない場合は書かれていることが道理に適っているか否かが判断
の基準とされるのはやむを得ない。
問題は道理についての判断が人によって異なる場合があることである。倭人伝の行程記事の方角や距離につ
いて「正しいとみるべき(疑う理由が無い)」とするものと「南は東の間違いである、あるいは、反時計方
向に45度修正すべきである」と全く異なる見解がある。
倭人伝の行程記事が魏の使者の記録に基づくものであれば、東を南と誤認することは常識的にはあり得ない
し、45度のズレも天文地理の知識を持つ者には考え難い間違いであろう。とすれば記述のとおり信じるべき
であろう。
畿内説あるいは類似の説をとる人達にとっては「方角は間違い」としなければ説が成立しないのであるから、
倭人伝の信用性を貶める論を展開することになる。しかし、傍観者からみれば見苦しい言い掛かりの論ばかり
である。はなから畿内に持ってこようとする意図が見えている。明時代の地図を持ち出すのは理がありそうに
見えるが、魏の使者はその地図を知らないし、現地を踏んで記録したものは地図とは関係はない。
>傍観者からみれば見苦しい言い掛かりの論ばかり 詭弁だな、傍観者を装った九州説論者。 倭人伝の記述をそのまま従うのなら海中に着きます。
九州説の人は魏の使者の能力を過大評価し過ぎ。 当時は科挙ではなく、九品中正法の登用であって、試験制じゃない。
680 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 19:27:10
>>678 末盧国(唐津)で上陸し、東南五百里で伊都国(佐賀市)だ。
そこから放射説、水行二十日で薩摩川内、伊都国から水行十日陸行一月で
都城盆地。海中には着かないね。
海中につくというのは、あなたが勝手に設定した進行速度に基づくものだ
ろう。倭人伝にそのまま従うという以上、勝手な思い込みは捨てることだ。
陳寿が創作した文じゃないよ。 これは魏の遣使が皇帝へ奉呈した軍事報告書。陳寿はそれを写しただけ。 ま、細かい文章の言い回しは陳寿が修正しただろうが。
682 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 19:34:17
>>675 倭国は南北に伸びているという知識は何もまちがっていないよ。倭国=九州
なんだからね。当時、倭国は実際に南北に伸びていたんだ。
ほほう、福建省の東ぐらいまで長いと思われてたのだぞ?
684 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 19:47:45
>>683 福建省の東ぐらいまで? どこからかが問題だろ。
どこからだと思ってるの?
>>614 >都合が悪くなったらとたんに倭人伝の信頼性って言うのはどうかな?
伊都国=怡土、だから、倭人伝の記述に照らし、方角・距離が合わない。
倭人伝の記述が疑わしいのは当然。
>倭人伝のとおりに進めるだけ進んでみることが必要だろ。
倭人伝のとおりに進んできて、ここで疑問にぶつかったんだよ。
>資料を素直に読むのは何よりも大切なことだよ。
>信じ込んでこれを疑わない立場だね。これは学問とは無縁の信仰だ。
矛盾してることを平気で言って。気づきもしないのか、確信犯なのか。
686 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 20:00:02
かかかか、暗号解読はプロが100年やっても無駄骨。おまえら暇だな。
687 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 20:03:27
>伊都国=怡土 そんなことはどこにも書いてないぜ。 上陸したら、倭人伝のとおりに東南に進むことだ。 >倭人伝のとおりに進んできて、ここで疑問にぶつかったんだよ。 倭人伝のとおりに進んでないだろ。嘘を言っちゃいかんな。 >矛盾してることを平気で言って。 私は矛盾していないよ。私は資料を素直に読めと言ってるんだ、君は資料を 素直に読まないで信じ込んでいる。そこが問題なんだよ。
>>686 暗号じゃなくて、単なる記録の不備だから。1000年やっても無駄骨。
689 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 20:08:34
東遷なんて、大和朝廷が自らの史書の中で言及しているだけで 正直いって九州王朝側から見れば、知った事ではない。 神話の部分だし、信ぴょう性もそれほど高いとも思わない。 ただ、それこそ畿内の由緒ありそうな山や川など どうにでもこじつけられるのに、あえて そんな場所を記載する理由は考察する必要がある。
>>680 >勝手に設定した進行速度に基づくものだろう。
>伊都国(佐賀市)から水行十日陸行一月で都城盆地。
では、進行速度はどれだけで、その裏づけは?
自説に合わせて速度設定すればなんとでも言えるよなあ。
山と葦原の地で平均速度なんか意味ないね
>>687 >そんなことはどこにも書いてないぜ。
書いてないよ。三雲遺跡が伊都国だと言ってるんだよ。
>上陸したら、
誰が上陸したの?
>倭人伝のとおりに進んでないだろ。
末盧國まで進んできたんだよ。
>私は資料を素直に読めと言ってるんだ、君は資料を素直に読まないで信じ込んでいる。
あなたが言うのは
「(倭人伝を)素直に読まないで、(邪馬台国=畿内を)信じ込んでいる」
ということだね。
「倭人伝を素直に読む」といって「これを疑わない」のは「学問とは無縁の信仰」でしょう。
694 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 21:43:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
695 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 21:56:03
>>693 三雲遺跡は後漢の光武帝から金印を貰った奴国の王墓の一つだ。奴国は現在の糸島市から福岡市に亘る
版図を有していたと考えられる。糸島の地は奴国の(大陸および半島との)交易拠点であったと考えら
れる。
696 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:12:19
>>691 最初に、移動速度を勝手に決め付けたのは畿内説の内藤湖南。
倭人伝の通りに進んだら東シナ海に出てしまう、だから「南」は「東」の
間違い、なんてことを恥ずかしげもなく言った。
これが宝探しの地図だとしたら、方向については疑わないだろうな。
方向を疑ったら、宝を見つけることは永久に不可能だから。
697 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:16:27
>>690 倭人伝によれば、南へ水行十日したうえ陸行一月したことは明らかだ。
そのことを考えれば、自ずから目的地はみえてくるよ。そのうえで、進行速度
を考えれば、速度は自然に出てくるね。
698 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:22:36
>>693 >三雲遺跡が伊都国だと言ってるんだよ。
思い込みだな。倭人伝の示すところに従って決めないとな。
>誰が上陸したの?
原資料を書いたのは使者達だろ。上陸したのはその連中だ。
>末盧國まで進んできたんだよ
伊都国も、その先も倭人伝どおりに進むんだよ。
>「倭人伝を素直に読む」といって「これを疑わない」のは「学問とは無縁の信仰」でしょう。
疑うべき理由がないから疑わないんだよ。理由もなく畿内だと信じるのとは全く違う。
699 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:24:22
いくら九州だってがんばっても、該当する遺跡が無いんだから仕方ないな。
700 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:38:58
>>698 >原資料を書いたのは使者達だろ。
だろ、と推量の形だが、確かにこれは、証拠となる資料が何もないわけだなあ。
使者達以外の可能性もある、と小生は思うが。
>>698 >倭人伝の示すところ
が佐賀だというのも思い込みだな。
>原資料を書いたのは使者達だろ。上陸したのはその連中だ。
思い込みだな。「そんなことはどこにも書いてないぜ。」
>その先“も”倭人伝どおりに
つまり「倭人伝のとおりに進んでないだろ。嘘を言っちゃいかんな。」はカン違い。
>疑うべき理由がないから疑わないんだよ。
それはあなたの勝手。
伊都国=三雲遺跡、ゆえに
>>613 >そこで倭人伝の方角に対する信頼性の問題となってくるわけなんです。
>>697 >自ずから目的地はみえてくるよ。そのうえで、進行速度を考えれば、速度は自然に出てくるね。
>>691 に
>自説に合わせて速度設定すればなんとでも言えるよなあ。
と(すでに)言われてるだろーが。
>>695 縄文人ですか? それとも縄文人説のパクリですか?
>奴国は現在の糸島市から福岡市に亘る版図を有していたと考えられる。
縄文人じゃないなら、一から説明してみて。
三雲南小路王墓と同時期には須久岡本王墓があるんだよ。
704 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 22:58:51
>>702 あほか。速度設定なんぞやらなくていいと言ってるんだよ。
705 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/28(日) 23:03:26
>>698 倭人伝を書いてある様に読めない人はアホだね。
ところで、
末盧國から伊都國への東南ルートは、@Aのどちらですか?
@JR唐津線ルート
A玉島川−観音峠−神水川−嘉瀬川ルート
706 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:05:46
>>699 畿内説論者は、該当する遺跡がまったくないのにあると喚く。
南九州説論者は、該当する遺跡はあるけど、慎重に考えて断定を控えている。
707 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:10:13
>>706 遠慮しないで、断定してもらっていいよ。
邪馬台国の遺跡は九州のどこですか?
>>696 >最初に、移動速度を勝手に決め付けたのは畿内説の内藤湖南。
倭人伝の通りに進んだら東シナ海に出てしまう、だから「南」は「東」の
間違い、なんてことを恥ずかしげもなく言った。
恥知らずな人間もいたものですね。
南は東の間違いだなどという妄言を平気で吐く。畿内厨の典型です。
709 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:20:38
>>707 邪馬台国の遺跡というだけならば、断定できるよ。当時の日向の遺跡は皆そうだ。
私が断定に慎重なのは卑弥呼の墓だよ。生目などは候補になるが、そう簡単に断定
できるものではない。
710 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:23:02
>>705 @かと思うが、Aも絶対にないとは言えない。当時、両方とも道は
あったろう。
>>704 >速度設定なんぞやらなくていいと言ってるんだよ。
やると困るから。
712 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:33:07
>>705 @だろうなあ。松浦川に沿っているので、道になりやすい。
地図だけから判断すると、多久市あたりが伊都国になり、
佐賀平野の広い範囲が奴国、不弥国は筑後川北岸の諸富町かな。
以前、諸富町は、弥生時代の港町の遺跡があるというのを何かで見たことが
あるので。
713 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:34:41
>>703 >三雲南小路王墓と同時期には須久岡本王墓があるんだよ。
1世紀頃の奴国は当時としては広大な版図を有する大国であった。何しろ漢との交易の独占権を与えられた
倭の覇権国だったのだ。西暦紀元前には本拠を福岡平野東南部(春日市近辺)に置いて主に水田耕作による
食糧生産に力を注いだが、大陸、半島との交流が盛んになるにつれ糸島に楽浪郡との交易を取り仕切る王族
の一員を配置し外交に力を入れるようになった。この頃の王族の墓は須久岡本に置かれたのであるが、糸島
に派遣された王族の墓は三雲に置かれたのである。1世紀には本拠を福岡市西部に移したと推定されるが、
この後奴国王の霊園は糸島に置かれることになった。井原鑓溝までが奴国の霊園である。2世紀に入ると帥
升のクーデターにより奴国(旧奴国)は滅んだ。平原遺跡は帥升系倭国の王母の墓である。
714 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:34:50
>>711 何も困らんさ。ただ、速度なんてものはいろいろ考えられる。
大した根拠もなく設定することは無駄だってことよ。
論理的には九州説のほうが筋が通っていると思う。 が、東遷説は考古学的に難しく、また東遷説を否定する場合、どうして 鉄はじめ最先端文化を持つ分厚い勢力の九州勢がヤマトに屈したのか、 どうしてわざわざ天皇の出自が西であるとの記述が残されたのか、 そこが論理的に説明できない。
716 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:41:35
>>701 >伊都国=三雲遺跡、ゆえに
>>613 >そこで倭人伝の方角に対する信頼性の問題
>となってくるわけなんです。
伊都国=三雲遺跡というのが、倭人伝にあってないから「信頼性の問題」をい
わざるを得ないんだろ。
私のいう伊都国=佐賀市付近は倭人伝にあってるんだ。だから、「信頼性」なん
ぞ問題にする必要はないんだよ。
そこの違い、分かるかな? 分かんねえだろうな。あんたには。
717 :
日本@名無史さん :2010/03/28(日) 23:47:10
>>715 >最先端文化を持つ分厚い勢力の九州勢がヤマトに屈したのか、
九州勢力が大和に屈したなんて考えるから理由が分からなくなるんだよ。
屈するはずがないんだろ? 素直に、屈したのではないと考えればいいんだ。
>>717 じゃあやっぱり東遷?
ストーリー的な必然性は一番だし、個人的にもそれが好きなんだけどね。
でも、いまのところ学説として成立してないってことも知ってるからなあ。
まあとにかく、「東遷説でない九州説」は説得力がなさすぎるよね。
>>716 >伊都国=三雲遺跡というのが、倭人伝にあってないから「信頼性の問題」をいわざるを得ないんだろ。
そのとおり。わかってるじゃない。で、三雲遺跡が伊都国じゃないなら一体なんなの? てこと。
>分かるかな? 分かんねえだろうな。
・・・しょーもないよ。
九州説のみなさんは伊都国は佐賀県と考えているんですか?
722 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:00:31
方向と日数からして、邪馬台国は沖縄か台湾とするのが最もふさわしいんじゃないかな? 特に台湾は、「台」の文字が一致するし、朝鮮半島から山東半島に上陸して陸路で南下し 福建省から船で渡ったとしてもいい。 邪馬台国は日本にあった決めつけずに、あらゆる可能性を論じたほうがいい。
723 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:01:09
>>718 成立していないというか、成立したら畿内説の立場がなくなるので、畿内説と
しては阻止することに専念するということかな。
昔から、弥生九州文化と古墳大和文化の連続性。弥生大和文化と古墳大和文化の
非連続性というのは言われているのだけど。
いくら九州を探しても奴国以上の遺跡が出てこない現実。
725 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:03:19
卑弥呼って何で汚い名前なの? 何で本来の呼び名じゃなくて中国からの侮辱呼びで定着してるの? 日本は戦後中国の属国になったの? 大東亜戦争と同じ理屈? 戦争に負けたからって理由だけ?
726 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:04:33
>>721 九州説でも、伊都国=怡土(糸島)と考えている人は多いはず。
むしろ、伊都国=佐賀平野説の方が少数説かも。
しかし、どちらの方が妥当性があるかというと…。
727 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 00:04:47
ぼくの説では、 伊都國は佐賀市大和町付近で、その城郭は惣座遺跡です。
728 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:07:16
>>724 吉野ヶ里遺跡以上の遺跡はなかなかない。
729 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/03/29(月) 00:09:00
730 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:10:31
>>727 しかし、伊都国=惣座遺跡が先にあり、それに応じて道を選ぶというのは、
手順としておかしいと思うけど。
731 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:10:39
答えまだですか?
>>723 とってもガッカリするお返事をありがとう。
原理主義者に歴史研究は向かないよ。
とだけ言い残して去ります。
733 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 00:15:43
「伊都」(イト)は「倭都」(ヰト)を言い変えたもの。 歴代の倭王がいた所ですから。 ところが卑彌呼新女王が現れたので「倭都」は使えなくなり、 魏としては、似た音の「伊都」に言い換えたもの。
734 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:16:05
お休みなさい失望しました
735 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:18:50
>>731 実質的には属国ではなかったが、属国だったら、それでもいいと思うけど。
事実は事実。しかし、日本の場合は政治的あるいは軍事的な意味から属国扱い
されていたわけではなく、それを利用することを自ら選んだということがある。
後にも、朝貢外交なんてのがあった。貢物を持っていくと、その何倍も何十倍もの
お返しが来る。これはうまい!なんてね。
なんにしろ、古代の中国が大国だったことは事実。
736 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:21:57
そんな戦後のへりくつはどうでもいいと思います 明治以前は卑弥呼なんて呼んでませんよ 戦後の左翼学者による歴史編纂が何で通説になるかって話です
>>713 ご説明ありがとうございます。縄文人説とおなじですね。
>糸島の地は奴国の(大陸および半島との)交易拠点であったと考えられる。
>平原遺跡は帥升系倭国の王母の墓である。
上記からは、糸島が引き続き「王」をいただく「国」として存続しているように思えますが、
帥升以降、糸島はどうなったのでしょうか?
738 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:25:15
自国の王を蔑称で呼ぶ民なんて存在しません そんな証拠物があったんですか? 卑弥呼という文言を含むものが出土したとか
739 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:26:36
絶望は死に至る病である by キルケゴール 絶望して自分自身であろうとするのが本質的な絶望。
740 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:27:54
>>738 ではなんと呼べばいい?
気分は良くなくても、唯一の文献にそう書いてあるのだから仕方がない。
741 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:29:36
賢者たちに過ちがなかったとすれば、 愚者たちはまったく絶望するほか無いであろう。 by ゲーテ
742 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 00:31:15
帥升は「倭面土國」即ち「倭米多國・倭目達國」の王。 その城郭は吉野ヶ里遺跡となります。
743 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:31:43
>>740 >唯一の文献
提示してください
中国の文献じゃなくてですよね?
744 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 00:34:50
糸島博多の倭奴國は帥升に滅ぼされたのだ。
745 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 00:36:13
>>743 もちろん卑弥呼は中国の文献だけに登場する。
ついでに言えば、邪馬台国も中国の文献だけに登場する。
日本の文献・記紀にも登場するかもしれないが、一致した説には至っていない、
ということ。
746 :
株主【history:0/12783=0(%)】 :2010/03/29(月) 00:46:57
魏志倭人伝こそ疑念の宝庫でしょ? 戦後通説のようにずっとこれを教えてきた 日本の歴史学者が左翼思想から脱却できない理由がどこにあるのか知りたい
748 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 02:16:11
749 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 06:40:12
>>720 >三雲遺跡が伊都国じゃないなら一体なんなの?
旧百余国が今は30国に統合されてしまったんだ。その統合されて消えた国の
一つかも知れないな。
仮に三雲遺跡が伊都国の墓の一つだとしても、伊都国は数百年の歴史はあるん
だろう?王は数十人はいたはずだ。三雲に葬られた王以外の王はどこに葬られ
ているんだ? あちこちに王墓があった、それらは撤去されたり、未発見だと
いう可能性は十分にある。
>>743 株主【history:0/12783=0(%)】てなに?
751 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/29(月) 12:04:52
>>720 >三雲遺跡が伊都国じゃないなら一体なんなの? てこと。
三雲遺跡は魏志倭人伝と後漢書に云う「百餘國」の中の一国、
又は、「百餘國」の後継国であって魏志倭人伝に云う「餘旁國」の中の一国。
三雲遺跡は須久岡本遺跡と共に倭奴國の遺跡である可能性があり、それを完全には否定できない。
>>750 名前欄に
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tes
755 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 17:27:14
九州説の人と、畿内説の人の特徴をそれぞれおせーて
756 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 17:36:28
九州説 アマチュア、郷土史家、作家の観光史学、お国自慢 畿内説 プロの研究者
757 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 17:58:35
九州説 魏志倭人伝を読んだ第一印象のみ信じてる。 卑弥呼は天照大神と信じてる。 神武東征は邪馬台国東遷だと信じてる。 畿内説 考古学上の事実と、様々な文献を多角的に研究し、 長い研究の積み重ねの上に、 理論的に邪馬台国は畿内だと結論する。
758 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 18:12:06
>>757 わたしは九州説 だが
>卑弥呼は天照大神と信じてる。・・・ありえない。時代がちがう。
>神武東征は邪馬台国東遷だと信じてる。 ・・・ありえない。神武時の権力の移動は認められない。
759 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 18:46:50
>>757 わたしも九州説 だが
>魏志倭人伝を読んだ第一印象のみ信じてる。
魏志倭人伝の第一印象では分からなかったが
漢字の意味一字一字を調べてみたら邪馬台国は九州であることが理解できた。
>>758 >>卑弥呼は天照大神と信じてる。・・・ありえない。時代がちがう。
>>神武東征は邪馬台国東遷だと信じてる。 ・・・ありえない。神武時の権力の移動は認められない。
同じく。
畿内説は記紀を妄信して証拠が全く無いのに
邪馬台国を大和に無理やりこじ付けて邪馬台国は畿内だと言い張る。
760 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 18:53:03
畿内説でも九州説でも良いが 巻向のあのムリヤリのこじつけ具合だけはいただけない。 その学問ではない、政治的な姿勢に反感を覚える。 根拠と考察がきちんとしていれば、どちらの結論になってもかまわない。
761 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:03:09
>>757 わたしも九州説 だが
歴史的資料で物証に欠けるのが痛い
762 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:04:09
>>757 わたしこそ九州説 だが
信じることが何より大事だと思う
763 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:05:30
>>761 気にするな。いまのところ、どちらも決め手になる物証は出ていない。
今の段階で、決定できると主張するのはかなり詐欺に近い。
764 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:05:44
>>757 わたしでも九州説 だが
声を大にして100回叫べば嘘も真実になる
765 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:06:42
地勢的に有力なのは確か
766 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:12:21
巻向掘っている連中のこじつけだけが 畿内説のよりどころだったから、 それを否定されると、自動的に畿内説は消滅する。 もう、畿内説擁護もない。
767 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 19:16:14
>>755 畿内考古学はいつも結論が先にある。そして、その結論の根拠を見つける
ことに四苦八苦する。しかし、いつも失敗する。
結局、箸墓が卑弥呼の墓である根拠も、纏向が邪馬台国である根拠も
提示することは出来ない。ひたすら言い張るだけ。
768 :
711 :2010/03/29(月) 20:11:23
>>714 >ただ、速度なんてものはいろいろ考えられる。
あのねぇ、(倭人伝の)ここの部分は旅行記じゃないんですよ。
倭国の地理を説明するための叙述でしょう? そこで
「水行二十日」「水行十日陸行一月」
とあれば、距離を日数表示で表しているのだということは、
「漢書西域伝」などを見てもわかるとおり。
>速度なんてものはいろいろ考えられる
じゃあ困るんですよ。
ちなみにこの時代の一日の行程はほぼ30里、らしい。
>>678 が
>海中に着きます
と言うのは
>勝手に設定した進行速度に基づくもの
ではなく、根拠があるんだよ。
769 :
720 :2010/03/29(月) 20:37:48
>>720 >統合されて消えた国の一つかも知れないな
あのねぇ。三雲の集落は(邪馬台国時代の)3世紀にも存在していたことが確認されています。
>三雲に葬られた王以外の王はどこに葬られているんだ?
あのね・・・
「三雲・井原遺跡は、60ha規模の弥生中期からの複合遺跡で、
もちろん王墓級もあれば庶民の墓も集落跡もある
(中略)前原はクニとしての基準を満たすセットがすべて整っており、
けっして墳墓域などではないですね。」 by 縦目仮面
墓のことだけを言ってるわけじゃないんだよ。
三雲遺跡についてなにも知らないんでしょ? どうして
>思い込みだな。
なんて言えるのですか?
倭人伝の方位についての記述を疑わしいというのには、理由があるんですよ。
>>760 >巻向のあのムリヤリのこじつけ具合だけはいただけない。
どの部分か具体的にどうぞ。その書き方じゃ
君も単に悪態ついてるだけですよ。
771 :
720 :2010/03/29(月) 21:04:48
>>751 王朝さん
わざわざアンカーつけてもらって、どうもです。
王朝さんには「世有王」が帥升の後裔だと教えてもらいました。
御説はよく承知してますよ。
772 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 21:17:48
>>758-759 邪馬台国九州説で、東遷説ではない、か。
実はこれが一番、頭悪い意見。
それなら、4世紀以後に九州の邪馬台国は自然消滅したか、畿内の大和王権と合併したことになる。
なぜ、魏から倭王と認められた九州の邪馬台国が数十年で畿内に屈したのか?
なにも説明できないだろう。
それでは、歴史を語ってることにはならない。
773 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 21:29:09
もちろん、いまどき東遷説なんてのはマンガの中でしかお目にかかれない珍説。 消去法でいっても、畿内説しか残らない。 現実を見ような。
774 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 21:37:38
よーしもっと頭悪い意見言ってみるYO! 魏の調査団御一行様、実は対馬に行ってないんです。 半島の人に聞いた通りに行こうとしたけど、迷っちゃったの。 佐渡島→能登半島→気比の松原(敦賀湾) 東南に進み、琵琶湖を海と勘違い。上陸し南に進み、奈良到着。 迷った上に、邪馬台国でもてなされて長居したので、日数サバ読んで報告。 そんなわけで、邪馬台国は奈良にありました。
>>768 >>ちなみにこの時代の一日の行程はほぼ30里、らしい。
それでは、道の途中で野営しなければならない
江戸時代の街道筋でも、そんなピッチで宿場は設けられていないぞ
ちなみに魏の歩兵の行軍スピードは1日15キロ
もちろん、いまどき畿内説なんてのはマンガの中でしかお目にかかれない珍説。 消去法でいっても、九州説しか残らない。 現実を見ような。
777 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 21:56:26
>>776 畿内説のマンガって?そんなもの無いだろwwwwwwww
こうやって、脳内で妄想するしか反論できない九州説wwwwwwwwwwwww
778 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 22:35:52
東遷説くらいしか叩けないんだから、あんまりいじめてやるなよ
779 :
768 :2010/03/29(月) 22:36:05
>>775 >ちなみに魏の歩兵の行軍スピードは1日15キロ
・・・ええ、だから一日30里でいいと思いますけど・・・。
ところで「1日15キロ」のソースはなんでしょうか?
780 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:20:12
>>757 倭人伝の行程との関係ではどのように考えるのかな。
また、考古学的にはどのように考えるのかな。
畿内説論者の検討結果を聞きたいものだ。
781 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:21:59
>>779 伊都国から邪馬台国までは1500里である。
1日30里の進行であれば50日だね。1里は70〜80mで書かれているようだから1日に2.3km前後の
進行だね。まあ、大人数で行くのであれば、そして在地の豪族の館で食事をとったり宿泊したりの旅
であればそんなものだろう。九州からはみ出してしまう筈はなかろう。熊本あたりが邪馬台国だ。
782 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:23:57
中国の古代の一里って、450〜550メートルだっけ。 まあ、そんなもんか
783 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:28:31
>>780 九州の邪馬台国が4世紀以後にどうして消滅したのか、
説明できたらな。
784 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:32:38
少なくとも三国志の時代は450メートルくらいで 書かれている。 短里 7〜80メートルはマツラ国までの 行程から推測した値だね。これに近い値を 使っている処もあったそうだが。 問題は1万2千里を500メートル程度で設定すると 6000キロになって、 どう回り道をしても、日本国内には収まらないということ。 だから邪馬台国が国内とする限り 短里7〜80メートルを使わざるを得ない。
785 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:36:00
邪馬台国の直接の後継かどうかはしらんが 九州王朝は7世紀後半まであった。 そのあと、大和朝廷に実権が移り 記紀の編纂などの、中央集権国家としての 作業が始まる。
烏丸鮮卑東夷伝の最初の所で、 「故に但だ漢末魏初以来を挙げ、以て四夷の変に備うと云う。」 と書いてあるだろう。軍事情報だから、軍隊の行軍速度と考えるのが自然。 だったら一日に一舍=三十里。 しかも、朝廷への軍事情報の報告なんだから、 辺境だけで通用する短里で報告しては意味をなさない。 だから、普通に約434m。
787 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/29(月) 23:38:27
古墳の分散から見れば、 >九州の邪馬台国が4世紀以後にどうして消滅したのか、 これでは、遅い。
788 :
779 :2010/03/29(月) 23:42:12
>>781 >1里は70〜80mで書かれているようだから
横からですね。短里説ですか・・・。
>1日に2.3km前後の進行だね。
(短里だと)そうなりますね。不自然だと思います。
>大人数で行くのであれば、
>そして在地の豪族の館で食事をとったり宿泊したりの旅であればそんなものだろう。
“思うとるのだぞえ〜”ですか・・・トホホ。
789 :
サガミハラハラ :2010/03/29(月) 23:47:57
邪馬台国の衰退は3世紀末期とみられます。この時期、北部九州には強固に国々をまとめるような国は存在せず、寄り合い所帯のようなありさまでした。 そこに大和の勢力が入り込み、垂仁のときに、大和朝廷と連衡したとみられます。
790 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:49:01
>短里説ですか・・・。 今、長里説を主張している人はいないだろう。
791 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:53:40
>>769 三雲南小路の甕棺墓跡からは金銅製四葉座飾金具やガラス璧が出土している。これらの品は漢の重要な
臣下あるいは外国の王クラスの人間に下賜されるものである。これから見ても、当時(西暦紀元前後)の
倭で覇権国の位置を占めていた奴国の王墓である可能性が高い。前原は伊都国ではなく奴国の領域だった
のである。
また、3世紀に三雲に集落が存在しても別に不思議ではない。一大率の本部は佐賀の伊都国に置かれた
が、水軍の基地は前原に置かれた可能性がある。ここは博多湾一帯を睨む要所でもあるからである。
792 :
日本@名無史さん :2010/03/29(月) 23:55:14
長里だと、オーストラリアの一歩手前 パプアニューギニアまでいくからな。
793 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:03:09
さて毎度毎度毎度…(以下エンドレス)既視感 20000%の万年ループネタもアレなんで チョッと変わった方向、論争を外から俯瞰するお話と言う事でw 今更だが本音を言うと比定地争いとしての邪馬台国論争自体は 既に終わった話として興味もあまりないというか、むしろ、それより論争史と言うか、 もっと言えば”社会現象”としての「邪馬台国ブーム」と言うものに興味がある(野次馬根性丸出しでwww) いつも疑問に思うのだが 『 考古学的には畿内説、文献的には九州説 』 なる言葉は一体いつ、誰が言い出したのか? 知っている人がいるなら是非教えてもらいたい。 少なくとも明治以来の論争を考えれば全くピント外れとも思う。 久米邦武曰く 「邪馬台国の考証時代は既に通過したり、今は其地を探験すべき時期に移れリ」 …と文献考証では埒があかないから考古学的調査を始めるべきと言う主張をしていて (それに対し文献の徹底的な洗い直しを迫ったのが湖南と言うところか?) 実際、神籠石だの江田船山だの邪馬台国ブームの火付け役の松本清張ならトンカラリンw そして吉野ヶ里ブームまで、むしろ考古学に重きを置いてきたのは九州説の方という感があるw つまり「文献の暗号解読ゴッコじゃあ埒があかない」事はある時期まで畿内説九州説に関らず 共通認識ではなかったのか? それが「邪馬台国ブームで」振り出しに戻されて、それでも何らかの進展があれば良かったのだろうが 結局「ボクの考えた新しいアイデア」の発表会と化して最後グダグダになってしまった…とwww
794 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:05:00
久々に書くが、卑弥呼の墓は箸墓古墳であり そこの被葬者のモモソ媛命が、卑弥呼の正体。 また、邪馬台国=ヤマト国であり、どうみても、近畿から政権が誕生している。 が、その近畿王権の中で、九州統治をまかされたのが、ニニギ命(神武の曽祖父)
795 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:09:08
>>793 素人は暗号解読ごっこが楽しいからそれでおK。
796 :
793 :2010/03/30(火) 00:15:15
「邪馬台国ブーム」とは直接的な火付け役は松本清張で その中で安本や古田と言ったタレントを生み出し 吉野ヶ里ブームを最後の打ち上げ花火で終焉した…と見て良いと思うがwww 松本清張が古代史に本格的に参戦するきっかけになった短編「陸行水行」を発表したのが1963年。 そこから数えればもう半世紀にならんとしている。 当時、十代でそのブームの中に身をおいた人間なら既に60代か? この板の九州説連中と言うのはその時代の生き残りで 戦争が終わった事を知らずにジャングルで活動している連中か それとも「遅れてやってきた古代史マニア」か?wwww 何れにせよブームはブームであって一過性の物に過ぎない。 ここの九州説の連中にすれば 「過去の賑わいを今一度…」だろうが むしろブームが去って沈静化した今の方が本来の姿だろうとwwww
797 :
793 :2010/03/30(火) 00:25:21
>>755 畿内説…日本の歴史の中で邪馬台国を考える(どうしても大まかな話しになりがち)
九州説…九州の地理の中で邪馬台国を考える(九州のあっちこっちに邪馬台国が乱立する羽目になるwww)
あるいは象徴的に言うなら
畿内説…邪馬台国を古墳時代の最初のクニと見る
九州説…邪馬台国を弥生時代の最後のクニと見る(仮に纏向を3世紀と見ても九州は3世紀は弥生時代)
…以上のイメージでこの板の邪馬台国スレを読んでもらえば分かりやすいと思うがwwwwwwwww
798 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:28:02
結局は素人が手を出せるものじゃなかったってことじゃないの?文献派なら調べることは 山ほどある。例えば、魏代の外国派遣使節団の人数や構成、魏代の帯方郡の官僚組織や 所有船舶数、当時の外国使節団の行動様式(これは孫権が越に出した使節を調べたりはで きる)当時の答礼品の運搬方法、などなど。むろんわからないことも多いが、現代中文を 身につけて、中国語検索すればわかることもかなりある。なんなら中国科学院に論文の閲覧 を依頼してもいいだろ。これらのことをしないで素直に読んだらとかいってるうちは、今のレベ ルを抜け出せない。
なんで昔の中国人をそんなに信用できるのか分かりません
800 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:32:17
なんか苦しそうというか悲しそうというか…
掛け合いを楽しんでもいいじゃないか。
そうまでして議論を続けなければならない
理由でもあるのか?
>>793
801 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:35:06
魏志倭人伝に出典元の三国志って、 自分の国の中国国内の方角自体、間違いまくっているけどな。
802 :
793 :2010/03/30(火) 00:36:49
>>798 まあマニアと言うのはどのようなジャンルにおいてもプロの学者顔負けのレベルの人間がいるもんだしw
それに歴史を一部の学者の手から広く大衆に門戸を開けたという意味で
邪馬台国ブームの意味はあったんだと思うwwwwwww
ただ「悪貨は良貨を駆逐する」みたいな結果になるのはある意味最初から必然だったのかもとも思うがwwwwwwwww
803 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/30(火) 00:42:49
>卑弥呼の墓は箸墓古墳であり そうしたい気持ちは分かるが、 崇神=纒向の初め=2世紀末 垂仁=纒向遺跡の大型建物=ホケノ山古墳の半島式墳墓=田道間守=240年 景行=屯倉経営=大倭国統一=箸墓 となる。 崇神12年の箸墓は、 近江伊瀬遺跡(大物主の王都)が衰退、纒向遺跡の隆盛の場所に位置する。 つまり、大物主から崇神へ譲位した、譲位式とその後の宴会が開かれた。 モモソ媛は、天皇家出身で大物主へ嫁いだ。 この時の歌に、やまと成す 大物主の…と歌われた。譲位を意味する。
804 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:49:28
805 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:51:49
卑弥呼=モモソ媛命。 狗奴国の卑弥弓呼=許乃国(このくに)の彦命(武埴安彦命)
806 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 00:58:33
卑弥呼(モモソ媛命)や後の皇室も出雲の神様を重視した最大の要因は 倭国におけるヤマト王権の正統性は、出雲王朝による禅譲があったことが分かる。 ちなみに、出雲王朝から禅譲された最初のヤマト王権の倭王は 天火明命(皇祖・ニニギ命の兄、または弟)
807 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 01:14:00
何か意味不明のことをうめいてばかりいる奴がいるな。 他人にケチをつけるばかりで、自分の意見はまとまってないみたいだな。
808 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 01:28:57
>>769 >三雲の集落は(邪馬台国時代の)3世紀にも存在していたことが確認されています。
おいおい、何を勘違いしているんだ?
国が消えたからって、必ず集落が消えるわけではないんだよ。
>三雲・井原遺跡は、60ha規模の弥生中期からの複合遺跡で、
三雲と井原は時代がまったく違うんだぜ。三雲の遺跡を残した人々と井原の遺跡を
残した人々がつながっているか、つながっていないのか、分かりはしないんだ。
だいたい、三雲、井原に何人分の王墓があるというのかね。
具体的な数字をあげてみな。
809 :
769 :2010/03/30(火) 02:04:30
>>791 >769はアンカーミス。>749へのレス。でも>791は横からですね。
695、713、と同じ人ですね。内容が縄文人と同じです。
でも文章が(縄文人と比べると)散文的で無味乾燥。
彼のような彩りもユーモアもないから別人ですね。
>当時(西暦紀元前後)の倭で覇権国の位置を占めていた奴国
三雲・須玖はもう少し時代を遡ります。両国並立でしょう。
>ここは博多湾一帯を睨む要所でもあるからである。
なら一大卒がいたのは博多湾でいいでしょ?
>水軍の基地は
縄文人なら想像でものを言ってもOKですが・・・
要所でもあり水軍の基地があるという重要地点を
記述なし、もしくは「不可得詳」な「旁國」だというのはおかしいでしょう。
810 :
769 :2010/03/30(火) 02:23:12
>>808 >国が消えたからって、必ず集落が消えるわけではないんだよ。
あのねぇ、集落も王墓もある複合遺跡なんだよ。
>三雲と井原は時代がまったく違うんだぜ。
なにを勘違いしてるの。墓の話じゃないんだよ。
>三雲の遺跡を残した人々と井原の遺跡を残した人々がつながっているか、つながっていないのか、分かりはしないんだ。
やれやれ・・・三雲・井原遺跡でひとつの大集落なんだよ。地図を見てごらん。
>具体的な数字をあげてみな。
なにも知らないってコトね。
811 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 02:24:13
>>806 大物主は祟り神なのだろう。
崇神天皇の御世に、いろんな災いが起こった。そこで、大物主を祀ったところ
災いが収まったとある。大物主の祟りが災いを引き起こしたと考えられた
わけである。
ということは、皇室は大物主に対してかなりひどいことをした覚えがあると
いうことになる。出雲征服のような出来事があったことになる。
祟りを恐れたわけだから。
崇神天皇は、災いが起きたとき、御殿の中で祀っていた天照大神と倭大国魂神
を豊鍬入姫命に命じて、よそに移している。この二神が大物主との相性が
悪いと感じたのではなかろうか。
天照大神と言えば、高皇産霊尊と共に出雲の国譲りを主導している。つまり、
出雲征服の張本人ということになる。となると、倭大国魂神とは高皇産霊尊
なのかも知れない。
出雲の国譲りは、神代の出来事とされる。崇神天皇の御世にそれが祟りとして
認識されるということは、二つの時代は案外近いのかもしれない。
812 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 02:28:24
>集落も王墓もある複合遺跡なんだよ。 複合遺跡だから何だって? >墓の話じゃないんだよ。 墓は問題にしないんだな。王宮が出たとはきかないぜ。 >三雲・井原遺跡でひとつの大集落なんだよ。 人が入れ替わることはいくらでもあるぜ。
813 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 02:35:49
>>810 >>具体的な数字をあげてみな。
>なにも知らないってコトね。
自信をもって数字をあげることはできないってことか。
当然だな、王墓と断定する証拠なんぞないからな。
814 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 03:22:04
>>811 いいや、微妙に違うと俺は思う。
ヤマト王権の倭王の正統性は、出雲王朝からの禅譲と思われる。
禅譲という言葉をグーグッてみたら分かるが...
崇神天皇が恐れていたのは、出雲の大国主と天照の両方であり
この天照が、実は女神ではなく、男神の天照国照彦火明命(天火明命)という
説が実は有力である。
出雲国譲りとは、播磨国風土記をみれば分かるが
出雲の大国主命が、娘婿の天火明命に禅譲した話である。
そこから近畿王権がスタートしている。
神武や崇神の系統である皇室の先祖は、九州南部の地方官を任されたニニギ命である。
古事記では、このニニギ命の兄とされているのが、天火明命。
815 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 08:48:42
>>814 はいはい、「出雲王朝」ってなに?
その王朝の主体となる首都はどこで、勢力図はどうなってるの?
漠然としたミスリードを誘う単語で議論を混乱させないように。
816 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 08:54:26
邪馬台国や初期ヤマト王権を語るときに、安易に記紀神話を持ち出し、 神話の中の神や人物を実在の人物のように語るのはやめてほしいわ。
神話は安易に持ち出すのは止めた方がよいが、 でもスルーはダメだと思うよ。 書かれた時点での地理、文化的な要因が含まれている 場合があると思うからね。
818 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 09:42:54
>>817 考古学上の裏づけがあってから、神話に文化的要因が内包されてるか議論できる。
819 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 10:23:30
素人からの疑問なんだけど はじめに宮崎とか九州にヤマトがあったとして 後に近畿に移ったとしても 第二のヤマトの都市は九州のはずなのに なぜかクマソとかの本拠地になってるのは、謀反とかがあったということですか? 筑紫とかもなぜか反ヤマトっぽいし。
>>819 つまる東遷なんてモノは矛盾した話という事です。
822 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 10:45:34
ただいまニュース速報+板で激論中!!!
【社会】邪馬台国の地、皆既日食で決着か…「岩屋戸神話」から推論
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1269903673/ 記事:
■邪馬台国の地、皆既日食で決着か 岩屋戸神話から推論
朝日新聞2010年3月29日
http://www.asahi.com/science/update/0328/TKY201003270428.html 邪馬台国があったのは畿内か九州か、天文学の立場から論争に決着をつけられないかと、国立天文台の2人の学者が挑んでいる。
邪馬台国は3世紀ごろ、あったとされ、クニの始まりは1世紀ごろという説がある。
手がかりとして、国立天文台の谷川清隆特別客員研究員と相馬充助教が2年かけて調べたのは、その間の1〜3世紀に日本付近であった皆既日食の通り道だ。
皆既日食が見られる皆既帯の場所は限られる。邪馬台国で皆既日食が見えたのではないかという推論をもとにした。
推論の根拠は日本書紀だ。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋戸(いわやと)に隠れ、辺りが闇に包まれたという神話が描かれている。
記述が具体的であることから、この描写は皆既日食を指しているという解釈がある。
天照大神は卑弥呼だったのではないかとの説もあり、岩屋戸神話は邪馬台国など文明地で実際に見られた皆既日食に基づいているのではないか、と推論した。
1〜3世紀には53年、158年、247年、248年の4回の皆既日食があったことが計算上わかっている。
問題となったのは、地球の自転だった。月の引力などの影響を受け、地球が1回転する時間は少しずつ長くなっている。
このため、約2千年前に起きた日食の場所をシミュレーションするには、時刻の補正が必要だった。
(つづく)
823 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 10:47:12
(朝日新聞記事のつづき)
2人は朝鮮の歴史書「三国遺事(さんごくいじ)」に出てくる「新羅(しらぎ)地方で太陽の光が消えた」との記述に着目、これが新羅で見えた158年の日食と特定した。
そこから導いた補正の幅から、248年の皆既帯は東北地方、247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州いずれも皆既日食が見られなかったことがわかった。
158年の日食は、朝鮮半島から山口、愛媛で日没直前の午後7時すぎに20秒ほど皆既になったが、これも畿内、九州は外れていた。
53年の皆既日食は西日本を通っていた。午前11時すぎに30秒ほど皆既になっていた。時代が古いぶん、補正の誤差を絞りきれなかったが、誤差の範囲に畿内も九州も含まれていた。
谷川さんは「誤差を縮められれば、皆既帯を絞れる。それを導き出せるような、この時期の天文現象を記した文献が世界のどこかに残っていないか、探したい」と話している。(東山正宜)
図版
http://www.asahi.com/science/update/0328/images/TKY201003270431.jpg
また回りくどい歴史ロマンごっこを・・・
825 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 11:36:44
>>819 7世紀に唐と戦いになった。そのときに、一方がやられても他方が生き残れる
ように二つの国があったように装ったのさ。二つの国という以上、対立関係に
あったように言わざるを得ない。だから、本国を熊襲とけなしてみせたんだ。
ふむふむ、なるほど。 それはいい考えかも。 なんにしろ、みんな倭人だったのは確かなのかな。
827 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 12:44:36
ニワカ歴女が邪馬台国について妄想してみたよ♪ 邪馬台国=大和国で、卑弥呼は半島での百済人と同じ部族。 邪馬台国の目的は、領土拡大ではなく、大陸・半島からの攻撃に備えること。 王と言うよりも「知事」的な役割だったんじゃないでしょうかね? しかし、出雲をはじめ、マッチョな秦氏の部族は大和国の話に乗らない。 加わらないだけならまだしも攻撃的な、新羅系の筑紫、越。加羅系の吉備。 戦はアホらしいけど、彼らに実権を握らせるわけにはいかない。 「大和朝廷」が始まるのは、神武を王として迎えた時だっただろうと思います。 神武が出雲から来たのか、九州の隼人から出たのか、それは分かりませんが。 「みんな仲良うしようやー」では治まらなくなったとき、 ヤマト国は神武を王として立て、ヤマト国は一歩下がって世話役となり。 そうして日本の歴史は始まった・・・んじゃないかな?
>>827 百済や新羅は、倭よりだいぶ後に民族としてまとまるはずだけど。
百済系とか新羅系ってのもおかしい。
百済は、フヨ族、漢人、倭人など
新羅は、ワイバクや靺鞨
とかの民族というように、民族言語はバラバラだった。
倭人のなかにそういう異民族が来たのなら、言語が向こうと統一されるはずだが
中華の記録では、紀元前から倭は倭のままだった。
日本人と韓国人は、語彙が全く違っていて
3000年〜5000年以上前にはすでに民族として別れてなければ
ここまで語彙が違うことはないと聞いたことがある。
>>827 シナの記録で、半島は7世紀とかになってもバラバラだが
百済などは特にはっきりと、王族と民衆は言語が違うとされていて
民族は分けて記録されていたことがわかる。
日本はどの国も倭人とされている。常に。太古にまとまった民族のままだと言うこと。
百済系とか言うだけではわからない
百済のどの民族なのか書くべき。
新羅は、初期のころは倭人の大臣が居たとか 倭人が卵を拾ってきてそれが王になった?とか 高麗の記録になるようだが、それはつまり 新羅と言う国ができるよりはるかに前から 倭人という集団はまとまっていた、ということになる。 日本の神話にあるような 固有名詞を持つ集団が、独自の歴史を歩んでいて、それがそのまま 日本の神話であると言う可能性は十分に高い。
831 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 13:32:09
>>828 ああ、あまりこうは言いたくないけどつまり
日本語 = 百済(フヨ族・モンゴル系)の言語
韓国語 = 辰韓・新羅(北朝鮮)、弁韓・加羅(韓国)の言語
辰韓と弁韓の言葉は似てたってウィキペディアに書いてたよ!
日本列島においては、比較的先にいたフヨ族の言葉に合わせたのでしょう。
その後、半島ではフヨ族は駆逐される。
そして半島と列島の言葉はまったく違うものにそれぞれ統一された。
>>829 「倭人」というのは、中国人から見て「逃げた原住民」くらいの意味みたいですよ
だから東南アジアの人とかも「倭人」だって、ウィキペディアに(ry
>>831 扶余と倭は同時に並列していた時代があるが
それはつまり、百済や高句麗は扶余族が王族だったので。
しかし、倭とは言葉が違い、通訳が必要だったはず。
通訳無しだったか?
百済は、王族が日本に人質に来てたので、通訳は要らなかったが 扶余の本場の高句麗は明らかに異民族だし 通訳は必要だったはずだがなあ。
>>831 >「倭人」というのは、中国人から見て「逃げた原住民」くらいの
中国人にとっては徐福伝説というのもあるから
一概にも言えないですよ。
倭は九夷の住む所だと、隋の記録にある。 何か独特の物だろう。 倭人なら倭人、扶余なら扶余と中華の役人は記録するはずだが・・・・
中国人と言っても年代と場所によって当然見方が違うから。
扶余は中原の中国人にとって、隣接する隣人だったから 倭の王が扶余だったら、百済の王が扶余と記したようにそうかかれるはず。 邪馬台国は、王や女王も倭人で、邪馬台国から海を越えた国々も 皆倭種と記されている。 この倭というのも取り合えずの当て字なわけで こっちからするとヤマトだが。イズモなども自分ではそう思ってても 中国が勝手に一まとめで倭人と書くんだからしかたがない。
838 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 15:30:35
>>822 ついにニュース速でも九州説は壊滅状態だったな。
>>838 うん。
神話と史実をごっちゃにするな、とか、卑弥呼=アマテラスは勝手な想像だから
そんなものを前提にするのは学問ではない、とか、手厳しかった。
九州説厨もいるにはいたが、ν速+板の常連で古代史に無関心な層は
突飛な意見を除いてはおおむね畿内説支持の印象。
840 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 15:55:32
>>819 そのあとも九州には豪族と呼ばれる勢力があった。火の君とか豊の君あるいは
筑紫の君など。
西暦527年の磐井の乱は、古代史最大の内乱といわれ、間違えば大和朝廷転覆
の危機だったとも言われる。
磐井の乱のあとは、火の君が北部九州の広い範囲に勢力を伸ばしたとされる。
一方で、宮崎では、古墳文化が花開いている。決して、古墳時代の九州に
何もなかったわけではない。
にもかかわらず、磐井の乱の前には、大和朝廷と九州北部の争いの記録が
ない。熊襲の征伐には多大の精力を注いでいながら、北部九州は素通りして
いる。もし、ぶつかれば磐井の乱のような命運を賭けた大戦争に発展しても
おかしくないのに、である。
841 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 16:22:41
>>840 そりゃ磐井さんは奴国=新羅の人だから
大和朝廷が新羅に攻め込もうとしたら暴れるわな
磐井の乱でぐぐってみたが、磐井ってのは何が気に入らなかったのか という疑問よりもっと大きい疑問は なぜ倭の軍が半島に渡った後で、新羅と挟み撃ちにしなかったのか? ということだなあ。そっちのほうが上手くいくだろうし・・・。 なぜ新羅に向かっている軍の目の前に立ちふさがるのか。 単なるアホなのか、それとも間違って磐井を滅ぼしたが 新羅に寝返ったことにしただけなのか。
「何が気に入らなかったか」が一番重要でしょ
844 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 16:41:42
>>843 邪馬台国畿内説が気に入らないのと根は同じでしょ。
半島利権で、畿内勢力は百済を支援してたが 磐井という豪族は新羅を支援していたとか調べると出てくる。 もともと北九州は、小豪族しか居なかったようで 磐井はそれをうまくまとめた・・・かにみえたが、あっけなく滅んだのか。 小沢みたいに賄賂もらったんだろ。
846 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 17:01:26
>>842 磐井の乱についてもいろんな考え方があるが、日本書紀では、1年半に及ぶ
大激戦と書かれており、古事記では、物部麁鹿火だけでなく大伴金村をも、
つまり大和朝廷の二大巨頭を派遣したとなっている。
大きな戦いだったのは事実だろう。
動機について、新羅から賄賂を貰って、大和朝廷の進軍を阻止したとなって
いるが、それはいくらなんでも弱い。
継体天皇の即位が関連しているのではないかと思う。その前の武烈天皇が
日本書紀には悪逆非道の天皇の書かれていること、その武烈天皇に跡継ぎが
なく、継体天皇を越の国から探してきたと書かれていることなどから、
王朝の交代があったとされることもある。
それまでの王朝は九州との関連があったが、継体天皇になって違う系統の
大王が即位した。それが大和朝廷と九州勢力の争いになったと考えることも
出来るのではなかろうか。
継体天皇はアマテラス、神武の多くの子孫のうちで 特に後継にふさわしいと言うことで即位したわけで。 系統が変わったら、磐井どころじゃない。 物部が従うかね?
>>846 違う系統ってのは、天照は継体天皇の先祖だけど
それ以前の天皇は天照とは違う系統だったと言うこと?
継体天皇の系統が、自分は天照の子孫と書き記してるわけだから
反乱が起きるということは、それとは違う神話と言うことになるはずだよね。
849 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 17:08:55
継体天皇擁立の立役者も、大伴金村と物部麁鹿火となっているのが面白い。
倭国大乱の終結とその後の銅鐸文明終結はどう関係してるんだろうね
851 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 17:16:09
>>848 記紀の系統では、15応神天皇→16仁徳天皇→17履中天皇→ … →25武烈天皇と
なっている。
継体天皇は、26代だが、15代応神天皇の五代後の子孫となっている。
継体天皇は、本当に応神天皇の子孫だったのか、それともそれまでの皇室の
系統に乗っかるために、応神天皇の子孫ということにしたのか、ということかな。
852 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 17:21:13
>>851 ちょっとわかりにくいかもしれないので補足すると、
継体天皇を五代遡れば、応神天皇に行き着くことになっている。しかし、
その間の人物が良くわかっていない。
つまり、継体天皇の父親、おじいさん、ひいおじいさん、そのおじいさんの
事が良くわかっていない。
たしかに。でも 民族の系統が変わったわけでも無いし、どうでもいいとおもうが。 父親の名がわかってても、何らかの事故で入れ替わることもあるし。
854 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 17:33:24
>>852 継体はどうせ、越の豪族の出だから、5代さかのぼったくらいで、
どこの馬の骨かわからん人間ってことはないだろ。
>>854 いい加減な一族だと、諸豪族が従わんはず。
ずっと家臣として生きてきたのに、わけのわからん奴が天皇では。
当時も相当な人数の皇族の末裔が居たはずで。
適当だと、北から南まで凄まじい内乱が起こる。
そうならなかったと言うことは、納得した何かがあるということ。
例えば、他の皇族の末裔もその一族とずっと交流してたとか
そういう証言が多く集められた者だったはず。
邪馬台国ももともとは豪族だろうし、あたりまえだけど。 有力者で人格者だったらなんでも良かったのでは? 邪馬台国、ヤマトを祖国としてれば。 このスレタイにもどったな。
857 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 18:06:23
越の人間を担ぐことで、相対的に既存勢力の力を弱めようとしたとかね。 その後、蘇我さんが威張りだしたらしいけど・・・ って、もう邪馬台国とは関係なくなってんね
858 :
793 :2010/03/30(火) 19:08:52
…ったくこの板の邪馬台国スレは直ぐに「古代史一般スレ」になってしまう。 結局「オレサマ史観」を語りたくてその糸口が邪馬台国って事なんだろうな。 特に九州説で九州王朝説のような事を言っている連中に顕著だと思うがwww まあ「磐井の乱」について邪馬台国ネタを絡めれば 6世紀でも”このザマ”でこの板の九州説の連中が脊髄反射的に噛み付いてくる 「緩やかな首長連合」はそこから考えればごく当たり前のお話で 連中が言うように4世紀、崇神の頃に既に強力な中央集権国家ができていたとなると この「磐井の乱」は文字通り反乱劇に過ぎないって話になる。
だが、日本全体がなんにしろ天皇でまとまろうと5世紀でも そうしてたということは、神武=ワカミケヌのような 太古の英雄の話は当時から当たり前だったのではないか。 ということは・・・日向からの移転など、なにかしら宮崎などに ゆかりがあったのでは? 日向などの言葉はあとで作ったとしても、話の流れは その流れはみんな納得してたのだろうし アマテラスやイワレビコの話なども根拠があったとすれば ヤマトが始めに九州にあったということもありえる。
860 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/30(火) 19:59:21
>>831 言語系統でまとめると
日本語 ≒ 百済(夫餘族)・半島西岸の言語、志羅紀(新羅5世紀以前)・半島南岸(6世紀以前)の言語
韓国語 ≒ 挹婁の言語、新羅(6世紀以降)・半島東岸(4世紀以降)の言語
新羅統一後の半島は挹婁系言語。
高句麗・濊・沃沮の言語は夫餘系。
馬韓・辰韓・弁韓の言語系統は不明であるが、夫餘系言語と推定される。
同一系統の言語では、基本的に通訳不要。
言語の違いは、現代日本の津軽弁と琉球弁の差より小さい。
861 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 20:02:45
邪馬台東遷音頭 あ、宮崎から船に乗って大和につ〜いた。 あ、おらが郷土の宮崎は、国のまほろば、うまし土地。邪馬台、卑弥呼のふるさとよ。 はあ、そうきたな、ようきたな。 あ、おらが国さのあぶれ者、神武が船出し流されて〜 ゆきつく先は奈良、大和。故郷自慢の鉄刀で、ばったばったと滅多切り、 畿内土人を滅ぼして、ついに建てたるヤマト国、ここに東遷成ったるや。
862 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 20:04:28
武がつく天皇は出雲系(蘇我王朝) 持統が藤原(チョン)王朝を作ったという説があるね ところで武土安彦とは何だったの? なぜモモソ姫が彼を殺そうとした?
863 :
793 :2010/03/30(火) 20:07:18
>>861 >故郷自慢の鉄刀で、ばったばったと滅多切り、
東遷厨どもの言う「大和大虐殺」の「百人斬り伝説」だなwwwwwww
864 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 20:13:47
南の街ではもう、悲しみを火山で、燃やし始めてるらしい。 過去の栄光にすがって、東遷を説いているうち、老いぼれてしまうより、 カキコ続けた、年月を拾い集めて、捨ててしまおう。 あ、宮崎の春は、少子高齢の春です。 遠慮はいらないから、馬鹿にしてゆきなよ〜〜。
865 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 20:49:25
箸墓=卑弥呼の墓としよう 何故、ハシ墓などと呼ばれている? ハニシからきたものではないのか? 何故菊花紋が使われている? 何故土師は河内(物部とお隣)を陣取り、何故岡山、北九州を陣取っている? 彼らは天皇同族、あるいは古来の王だった可能性は? 河内は天皇の近親者もしくは非常に強大な勢力が陣取るものだと思っていたが? 家紋も本来斧付菊花紋だったようだが? あまり注目されていない氏族だけに、おもしろいかと思い今調べ中です 土安彦との関連性はあるのだろうか? 何故、卑弥呼の墓とも言われるハシ墓古墳はハシと名づけられているのか? 何故、出雲臣と同じく天孫に分類され天穂日命が祖とされているのか? なぜ菅原道真は左遷させられたのか?
866 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 21:17:54
>>862 >持統が藤原(チョン)王朝を作ったという説があるね
なんで天武の敵側だった藤原をわざわざ担ぐんだよ。
藤原を滅ぼし損ねたというのが真相だろうが。
867 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 21:32:36
>>866 藤原不比等の妻が蘇我氏だったから。
持統天皇は母親が蘇我氏で、蘇我氏を重用した。
孫の文武天皇の嬪にも蘇我氏の末裔である石川氏の娘を入れている。
不比等の妻は持統天皇の母親の従姉妹で、持統天皇と面識があった。
868 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 21:50:58
>>867 だからといって、持統が藤原王朝を作ったというのは飛躍だろう?
なんやねん藤原王朝て せいぜい「藤原政権」くらいのもんやろ 藤原氏ってチョンなんでしょwとか言うてみたいだけやん しょーもな
870 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:03:41
天照大神の祭祀を天武・持統が行ってるわけだが、 蘇我・物部抗争で物部が敗れて、神道を継承する祭祀氏族が藤原氏しかいなくなったってことだろ? 藤原氏の陰謀で日本神話が作られたとか思ってんの?
不比等と聖徳太子は同一人物。 というか、聖徳太子は不比等をモデルに作られた架空の人物なのだ。
872 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:10:51
>>870 神道をやってたのは「中臣氏」ね。
つうか、天武天皇が伊勢斎宮を本格的に政治に取り入れた初めての天皇で
もはや豪族任せではなく天皇家自体が自分のところの皇女を送りこんで
天照大神の祭祀をやろうとしてた感じなんだが。
873 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:14:56
>>872 >神道をやってたのは「中臣氏」ね。
どういう意味かわからんが。
874 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:19:26
所詮天照大神が祭られたのは、天武の頃から。 九州説はどこぞに吹っ飛ぶな。
875 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:31:11
876 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:53:14
お次の方どうぞ。
877 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 22:55:08
>>861 畿内説のイメージ戦略や人格攻撃はもういいよ。聞き飽きた。
それよりも根拠を出せよ。纏向は邪馬台国です。根拠はこうですって。
879 :
793 :2010/03/30(火) 23:00:56
さて念のためにもう一度たずねておくが… >いつも疑問に思うのだが >『 考古学的には畿内説、文献的には九州説 』 >なる言葉は一体いつ、誰が言い出したのか? >知っている人がいるなら是非教えてもらいたい。 意外とこの板の連中はこの言葉を鵜呑みにしてるんだろうか?
どっちが印象操作だかww
ここのスレも死んでるな
882 :
793 :2010/03/30(火) 23:17:55
そう言えば教科書の内容も一新され 「ゆとり教育」の象徴のように言われていたπ=3も3.14に変わるとか… 歴史についてもそろそろ畿内説・九州説の併記から 「異説として九州説あり」ぐらいに変わるんだろうか?w
883 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:18:08
■徹底検証! 邪馬台国シンポ。九州説VS畿内説で議論=福岡市
2008年03月04日 / 提供:PJニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/3537010/ 3月2日、福岡歴史ロマン発信事業実行委員会主催のシンポジウムが、福岡市天神の都久志会館ホールで開かれた。午前10時から午後4時20分までの長丁場であったが、熱心な邪馬台国ファンが聴講した。
主催者によると、参加希望者は、関東から沖縄まで1100名もあり、抽選で600名にしぼったとのことである。
このイベントは福岡県が力をいれている事業で、実行委員会事務局は県教育庁総務部文化財保護課内に置かれている。
プログラムは次のとおり(敬称略)。
基調講演「魏志倭人伝と邪馬台国」 吉村武彦(明治大学文学部長)
講演T [九州説]邪馬台国の成立と巫女王卑弥呼共立の過程 高島忠平(佐賀女子短期大学学長)
講演U [畿内説]邪馬台国大和説の夢を語る 水野正好(奈良大学名誉教授)
討論 「九州VS畿内」
コーディネーター 西谷 正(九州大学名誉教授)
パネリスト 吉村武彦・高島忠平・水野正好
(つづく)
884 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:19:01
(つづき)
吉村氏は基調講演で次のように述べた。
「魏志倭人伝」では、三世紀の列島史を伝える記事内容として、(1)魏からの距離・位置と国別の記述、(2)風俗・人文志などの社会記事、(3)魏と倭国との外交関係、の三部構成だ。
邪馬台国の所在地をめぐっては、古くから白鳥庫吉ら東京系学者の九州説と、内藤湖南ら京都系の近畿説とがあり、文献史学と考古学、日本語学者も巻き込んで激しい論争が展開されてきた。
倭人伝の記事では、帯方郡から朝鮮半島狗邪韓国を経て、倭人の住む対馬国に至る。
各国の位置は、伊都国までは、@方位・A距離(里程・日程)・B国名の順で書かれているが、伊都国からの記述は、@方位・A国名・B距離と変化する。
邪馬台国まで連続して読むのか、伊都国以降は伊都国を基点に放射式に読むのか解釈が分かれている。
邪馬台国は「女王の都する所」と書かれている。女王国である倭国の都(王宮)は、邪馬台国にあった。最近の研究では、卑弥呼は倭国の女王であったことが強調されている。
卑弥呼と魏との国際的交通にあたって、魏は贈物として、「五尺刀二口、銅鏡百枚」を授けた。刀や銅鏡という威信財の働きはどのような政治的役割があったのだろうか。
銅鏡に対し、従来は、三角縁神獣鏡が強調されてきたが、画文帯神獣鏡を忘れるべきではない。
【写真】基調講演を行う吉村武彦氏。(撮影:徳島達朗、3月2日)
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3537010/?img_id=370558 (つづく)
885 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:19:55
(つづき)
高島忠平氏は、巫女王の出現と卑弥呼の登場について、考古学の成果を紹介した。
弥生時代中期初頭から前半の北部九州にみられる王の宗廟としての墳墓と祭儀の場の出現は、祖霊祭祀が確立し、社会での支配秩序として成長したことを物語っている。
社会的に高い地位をもった職能を持つ巫女が登場するようになった。これは墳墓の埋葬様式とその変化に現れている。
まず巫術の道具である多紐細文鏡や貝釧を副葬することに始まり、巫術の祭器は、祖霊の依り代として中国製の銅鏡が用いられるようになる。
女王卑弥呼は、祖霊神と人との間をつなぐ優れた霊力をもち、ある種の儀礼でもって神がかりとなり、ひとびとに、祖霊の託宣を告げる卓越した霊力を持つ巫女であった。
2・3世紀には、三十の「国」を統治できるような巫女が出現していた。こうした経過を読み取れるのは北部九州以外にはない。巫女王成立の歴史的過程が読み取れないところには、卑弥呼のような巫女王は浮上できない。
【写真】九州説を説く高島忠平氏。(撮影:徳島達朗)
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3537010/?img_id=370559 (つづく)
886 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:21:09
(つづき)
水野正好氏は、邪馬台国大和説について、以下のように述べた。
邪馬台国所在地論争の争点の一つは、道程・方角の記事にある。不彌国までの各国は遺存地名からその位置が想定される。問題は以後の邪馬台国に至る南への水行30日の記載にある。
南の方角に導かれて九州東海岸の大分県宇佐市、宮崎県西都市、西海岸の佐賀県神崎市・吉野ヶ里が邪馬台国の候補地に挙げられているが、それは航海日数や途中の投馬国への考慮に欠ける。
伊都・奴国の戸数1・2万戸を超える投馬・邪馬台国の戸数5・7万戸の戸数をこれらの候補地が具えるかも問題だ。王都に相応しい政治機構の遺構が見出されるかも問われるだろう。
そこで、注目すべき記事は、『隋書』の「則ち魏志の所謂(いうところの)邪馬台なるものなり」の一文である。
推古天皇16(608)年4月、遣隋使小野妹子と共に来日した隋使の見聞が反映した記事だが、推古天皇の王都の所在する大和が『魏志』にいう邪馬台国であるとし、『魏志』の記事を訂正している。
この記事は、北部九州の東に投馬、邪馬台国が所在することを教えている。『延喜式』には平安京と大宰府・備前国間の航海日程が30日と9日と規定されており、魏志の航海日程と符合し、倭国王都大和説が確固たる地歩を得ることになる。
【写真】畿内説を説く水野正好氏。(撮影:徳島達朗)
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3537010/?img_id=370560 討論では、九州説、畿内説ともに相譲るところはなく、議論は白熱した。
何がでてきたら決定打かとの問いに、パネリストの共通した解答は贈答品の封泥(粘土)だろうということが確認された。
最後に、コーディネーターの西谷正氏は、今秋公開される映画「まぼろしの邪馬台国」(監督 堤幸彦、吉永小百合・竹中直人主演)も例にあげながら、今年は邪馬台国ブームの再来が予感されると結んだ。【了】
【写真】コーディネーター西谷 正氏のもとで討論するパネリスト。(撮影:徳島達朗)
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3537010/?img_id=370562
まぼろしの邪馬台国は幻に終わったのに。
888 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:29:33
あまり明言されることはないが、皇室は宮崎に愛着を持っていると思う。 子供の頃、宮崎に住んでいたが、皇族を見る機会が多かった。 宮崎神宮の立て看板を見ると、昭和天皇は6回参拝していて、御成婚のときには 御夫婦で報告を兼ねて参拝しているとか。
889 :
793 :2010/03/30(火) 23:30:35
>>886 >今年は邪馬台国ブームの再来が予感されると結んだ
まあ、無いと言っておこうw
「邪馬台国ブーム」は九州説あってのブームで
人はなんだかんだ言ってエキセントリックな物に憧れる。
日本史の中で人気投票すれば「信長」や「龍馬」が上位に来るだろうが
それは彼らに言わば「日本人離れした」エキセントリックさを感じているからだろう
無論、後世のイメージ付与に負う部分も大きいだろうが
それもそう言った「エキセントリックさ」を望む需要があってこそだwww
九州説の場合3世紀に栄えた幻の女王国として人々の想像を掻き立てる「余白」があるが
畿内説だと「大和が邪馬台と呼ばれていただけ」と言う話で
邪馬台国と言う語から人々が自由にイメージしていた物を壊しかねないw
結局、昔歴史の授業で習ったヤマト王権の開始時期を遡るだけの話で
イマイチ、ロマンに欠けるんでは無いだろうか?wwwwww
890 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:36:51
歴史的事実にロマンは関係ないし。 ロマンを維持するために、九州説を野放しにしてもOKってか?
>>889 まあ庶民的ブームの底の浅さについてはおっしゃる通りだが、
ちょっと分析が浅すぎる。
保守傾向が安定し、なおかつ腐敗臭を漂わせはじめたときにこそ、
エキセントリックなヒーローが表に出る。
そういう意味では、確かにこれからは卑弥呼の時代ではないな。
オオモノヌシ、ニギハヤヒ、タケミナカタ、アテルイ・・・
そういう流行になるよ。つーかもうなってるか。
892 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:39:24
>その倭の海人を著す遺物が、考古学で発掘されている。 >倭人の習俗であった<入れ墨>を施した、人面土器や絵画である。その<鯨面の分 >布図>が設楽博巳編『三国志がみた倭人たち』(2001年・山川出版社)の「倭人の >いでたち」に示されている。 >それには驚くべき偏りがあり、瀬戸内海沿岸の岡山地方(旧吉備国)と愛知県・岐 >阜県にまたがる尾張地方に集中している。 これ、とあるブログからの引用です。 魏志倭人伝の狗奴国についての記述「皆鯨面文身」、そのまんまです。 狗奴国=吉備国。そして邪馬台国=奈良(畿内)。 「女王国の向こうにいくつも国があって、その向こうに狗奴国がある」 という説明も、そのまーんまですね。 (「その南」とあるのは、日本が南北に長いという勘違いのため) もう、議論の余地もないと思います。
つか畿内説にもロマンを感じる部分あるよ。 ん? 俺だけかな?w
こんだけうそっぱちの歴史を教え込まれてきたんだから 「本当のこと」こそ、刺激的ですよw
895 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:47:33
畿内の大和王権がどうして三輪からはじまったのか、 考えるだけでもロマンだけどね。 三輪山のカミは大国主の奇魂というが、それはどういう意味か?とか。 初期大和王権は、太陽信仰ではなく、三輪山信仰がメインなんじゃないか?とか。
896 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:48:08
馬鹿馬鹿しい。坂本竜馬がヒーローなど、日本人が堕落した証拠だな。 なぜ楠正成といわない。彼が最大のヒーローだったのはほんの60数年間のことだ。
>>895 べつに・・・たまたまそこに住み着いた部族の中に、
他のクニの男もなだめられるような、人望のあるばあさんがいたってだけやろ
>>892 >狗奴国についての記述「皆鯨面文身」
ん? なんか勘違いかい?
「呼」は「ウォ」と読む可能性もあるそうです。 ならば、卑弥呼=姫王 じゃないでしょうかね?
900 :
日本@名無史さん :2010/03/30(火) 23:58:27
>>898 うん、邪馬台国についての記述だと勘違いされてきたかもですね
>>899 まあそういう解釈でも別にいいけど、とりあえず
「ヒミコ」ってのは一般名詞だよね、たぶん
903 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:04:10
>>892 >狗奴国についての記述「皆鯨面文身」
「皆鯨面文身」は倭人の(男性の)一般的習俗として書いている筈だが。
狗奴国についての、とする理由は?
>>902 とりあえず、ヒミコってのは巫女ではないと思うんですよ。
ヒミコっなんて読ませるから、しょーもない歴史ロマン屋がたかるんです。
>>903 >「皆鯨面文身」は倭人の(男性の)一般的習俗として書いている
とする理由は?
>>904 うーん・・・そこまで現代視点で解釈するのもどうかね
「祭祀王」ってのが成立した時代の人々の精神構造をおもんぱからないとな
呪術が正義だった時代はそれがリアルなんであってロマンでもなんでもないから
907 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:13:04
>>905 倭人伝にこう書かれている。
男子無大小皆黥面文身。
男子は大人も子供も皆、黥面文身。
908 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:13:14
>>906 [祭祀王]てなんか根拠ある話なの?
たぶん寺沢あたりが空想してるだけだと思うけど。
909 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:15:38
>>907 その南に狗奴國有り。・・・の続きでしょ?
>>908 宗教的最高責任者と、政治的最高責任者を兼任するのが祭祀王。
ただそれだけの話。
上古までの天皇がそれでなくてなんなの?
あとまあ列島内には他にも局地的にそういうのがいたしな。
なんだか見てきたかのように語りますねえ
912 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:35:20
>>909 >その南に狗奴國有り。・・・の続きでしょ?
「男子無大小皆黥面文身」は、狗奴國の続きではない。
913 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:37:18
>>909 これは続きではなく、全く別な内容になっている。
つまり、それまでは地理的なことが記述されていて、刺青からは風俗的な
記述になっている。
だから、黥面文身は、倭国の風俗。ちなみに、黥面は顔の刺青で、文身は
体の文身。
ちなみに、古事記によると、神武天皇の部下である大久米命は顔に刺青を
していた。倭人伝の記述と合致するものがある。
しかし、大和で出会った伊須氣余理比賣は、その刺青を見て奇妙に思ったと
ある。伊須氣余理比賣は、刺青に親しんではいなかったらしい。
つまり、大和周辺では刺青の風習はなかったことになる。
914 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 00:49:25
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。 女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。 男子は大小と無く、皆黥面文身す。 うん、だから、 こういう場所にある国で、住んでる人はこんなんですよ。そういう順番で書いてますね。 これは狗奴国のことですよ。 行ってない国の事が詳しく書いてあるわけがないっていう先入観から、 邪馬台国のことだと思いがちかもですが。 そう、大和周辺では刺青の習慣はなかったでしょう。 「邪馬台国」でも、なかったでしょう。 「鯨面文身」は、素もぐりする漁師の風習だと、倭人伝に書いてますもんね?
>>914 >こういう場所にある国で、住んでる人はこんなんですよ。そういう順番で書いてますね。
>これは狗奴国のことですよ。
狗奴國の記事と黥面文身の記事の間に一文なんか挟まってるだろが。w
>大和周辺では刺青の習慣はなかったでしょう。 それは判らないですね。 大和周辺というのも範囲が曖昧です。
917 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 01:01:14
>>914 刺青は、狗奴国というよりも倭国全体の風習だろう。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差
という記述がある。国によって刺青は異なった。狗奴国だけだったら
このような書き方はしないだろう。
918 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 01:09:59
それにしても、記紀が出来た頃の大和朝廷には刺青の風習はなかったのだろう。 にもかかわらず、大久米命の刺青の記述がある。こんなことは創作ではまず 書けない。何らかの記録が残っていたと考えるべきか。 神武天皇が到着した、河内国草香邑青雲白肩之津、も同じで、この港は、 記紀が出来た頃にはすでに内陸部になっていた。これも創作で書くことは 不可能だろう。
919 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 01:10:40
ああ、そうですね。邪馬台国には「鯨面文身」は、なかったでしょう。 「鯨面文身」は、漁師のイレズミ。 騎馬系民族なら、また違うイレズミをしていたかもしれません。
>>917 その通りです。
どう強弁しても鯨面文身=狗奴国説は成り立たちません。
うん?じゃあ 鯨面文身ってどこでやってたんですか?
924 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 01:48:56
国によって文身は異なる、とした上で
「男子は大小となく“皆”鯨面文身す。」と言うんだから、
この一文はどこか特定の国の事です。
邪馬台国でしょうか?
でも邪馬台国はおそらく「山」から来た地名ですよね?
>>920 どう思われますー?
925 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/31(水) 02:06:19
>>922 >鯨面文身ってどこでやってたんですか?
九州 と 江南沿岸・舟山群島 と 半島南部沿岸(辰韓・弁韓)
>>924 山=島=勢力内の地域=古代の国
926 :
924 :2010/03/31(水) 02:12:46
>>925 あら、律儀な方が。ありがとうございます。
でも、九州で鯨面文身があったっていうのはナゼ?ソースあります?
中国と韓国の方は具体的な地名なのに、なんで漠然と「九州」ですか?
ちなみに、吉備国は、弁韓から渡った人達が作った国だそうです。
927 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/31(水) 02:21:56
>>924 邪馬壹國(邪馬臺國)=山壹國
壱岐=(海)壱城
(邪馬臺國=邪馬タイ國=邪馬俀國=邪馬大倭國)
邪馬台国壱岐説? それはちょっとw
929 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/31(水) 02:51:20
>>926 >中国と韓国の方は具体的な地名なのに、なんで漠然と「九州」ですか?
九州は漠然とした地域ではありません。三者は同じ位の広さの地域です。
九州島沿岸・九州島周辺諸島(倭) と
江南沿岸・舟山群島 と
半島南部沿岸・多島海諸島(辰韓人・弁韓人・倭人)
>でも、九州で鯨面文身があったっていうのはナゼ?ソースあります?
質問の意味が理解できません。魏志倭人伝を読みましたか?
悪禁中で書き込むの面倒です。
930 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 03:04:41
>>929 九州島沿岸、ぐるっと一周ですか??それはないでしょう。
九州に鯨面文身の文化があった、というなにがしかの証拠残っているなら、
その物品なりが出土した、具体的な地名を出せるだろうと思いました。
九州にお住まい、もしくは詳しい方なら、なおさらです。
根拠はなかったんでしょうか?
ぶっちゃけ「九州説を唱える人はみんなそう言ってるから」でしょうかー?
>>930 入れ墨の風習は太平洋戦争に敗戦するまでは西九州であちこちで見られましたよ
長崎から佐世保、伊万里、唐津にいたるまで漁師たちは入れ墨をしたものです
魔よけになると信じられていました
今でも五島列島あたりの漁師たちはやっているのではないですか?
東九州の大分近辺ではやらないそうですね
932 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 09:20:15
「鯨面」です。 顔の、刺青ですよ? 戦前ならあちこちで見られたんですか。 戦争に終わったら、みんなして顔の刺青は消したんですか。 今でも五島列島あたりの漁師たちは顔に刺青入れてると。 スゴイですね。 何とでも言うんですねw
九州と本州は殆ど離れてないのに あそこまで九州に拘る連中の意図がわからん。
意図=「ゴネなきゃ損」
935 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 09:47:45
>>933 山口県を無視してるからな。
文化的に、山口県は北九州と一体だろ。
山口県が邪馬台国の一部であれば、瀬戸内海も容易に行き来できる。
すると、吉備と邪馬台国の関係はどうなるんだと。
吉備にも鉄器が入ってるんだから、吉備も邪馬台国の一部と考えるべきだろ。
すると、河内と邪馬台国の関係はどうなるんだと。
すると、出雲と邪馬台国の関係はどうなるんだと。
すると、丹後と邪馬台国の関係はどうなるんだと。
邪馬台国と他のクニとの関係を論じ始めれば、簡単に九州説は破綻する。
>>933 もちろん顔にも入れていますよ
御自身で松浦地方に行ってみればどうですか?
「鯨面」の老人にまだ会えるかもしれませんよ
邪・・・・卑・・・・狗・・・・ これは悪い漢字に見えるが ということは倭もやはり漢字の意味としては悪かったのかな。 だから和にした、というのはわかるが なんで半島は韓なのだろ。 中原から見たら半島も蛮族だったろうに、なんで中原の地名の韓を 与えられたのだろうか。 よほど中華系が当時から多かった?と見えたのかな。 それに、秦からの逃亡者が半島に居たと読んだけど、だったら韓はおかしいと思うし 韓ってむしろ秦に滅ぼされてるのに。
>>935 邪馬台国は南方から北にある伊都国連合を襲い併合した後
自国のさらに南にあった狗奴国に滅ぼされたように感じます
天の安川(夜須川)の誓約などはその故事を伝えているのではないでしょうか
そもそもなぜ伊都国から邪馬台国への途上には無い奴国、不弥国、投馬国は方角、里程を明らかにしてあるのか
それはこれらの国々が邪馬台連合と他国連合との接点にあったからではないでしょうか
南の投馬国は狗奴国と、奴国不弥国は宗像、嘉麻といった筑前東部と
九州北部を傘下に入れていた連合国家は吉備か出雲なのではないでしょうか
あるいはその両方に属さず山口の厚狭付近に本拠を置く別の連合国家だったのかもしれません
邪馬台国はいきなり歴史に躍り出てきたものの平家のようにあっけなく滅びた国家であったように思えてなりません
邪馬台国と大和朝廷には直接的なつながりがあるわけでなく、いわゆる東遷も無かったと考える者ですが
後にこの邪馬台の血統を自身の一族に入れ箔をつけた侵入者こそが皇室の元ではなかったかと感じます
皇室と宇佐との関係にはもっと注目すべきではないかと思います
939 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 12:30:50
>>938 >皇室と宇佐との関係にはもっと注目すべきではないかと思います
皇室と宇佐が関係持ったのは、仏教伝来後です。
ホツマツタエだと、 イワレビコは全国にすでに多く居た皇族のうちの一人、朝廷の家臣の一人みたいなもので ヤマトのナガスネが偉そうにして、東海地方のハラ親王?を攻撃しようとして イワレビコが九州から仲間を募ってヤマト征伐だったか。 これだと、ヤマト征伐の正当性があるけど 問題は、今の皇族はもともと中央から見て家臣みたいなものだったことになる。 中華への日本紹介の日本書紀では、唯一の神に選ばれし天皇だけど。 でも、ホツマツタエって本当っぽいし 道鏡の焚書から逃れた口述が元と言う話も、だとすればこれが原型かなあと いう気もする。
ホツマも伝聞が多いと思うけどね。
942 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 15:12:17
>>935 中国地方の扱いには難しいところがある。現在の北九州市付近も難しい。
福岡市付近からはおびただしい甕棺が出るが、ちょっとしか離れていない
北九州市付近からは全く出ていない。
古代から文化的な違いがあるように思える。現在でも言葉の系統が異なる。
ひょっとしたら、九州の瀬戸内海方面は、出雲の影響が強かったのかも
しれない。
古墳時代の初期も、畿内と九州の結びつきがあり、それが四国の瀬戸内海側
を通じて結びついているという面がある。
個人的に、狗奴国を出雲にしたい気持ちがあるのは、それが根拠になっている。
後漢書にも、拘奴国(狗奴国)は、東に海を渡ったところにあるとの記述が
あるし。
記紀の、天の安の河の誓約は、天照大神の国と素戔鳴尊の国の境界を定めた
ものではないかと思う。素戔鳴尊は、宗像の三女神は、自分のものだと
主張する。すなわち、宗像あたりが境界として定められたのではないかと。
ということは、天の安の河というのは、遠賀川なのかもしれない。
日本書紀だの古事記だのからインスパイアされたウザポエム吐く人達、 いい加減成仏してください
944 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 15:27:46
天照大神の成立は7世紀だと言われてるのに、 神話を鵜呑みにして恥ずかしくないの?
945 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 16:06:14
>>943 文献で語らず、妄想で語れということか?
946 :
サガミハラハラ :2010/03/31(水) 16:17:17
そうですね。天照大神とか高天原とかの字や呼称は7世紀ごろに日本に入ってきた中国の神仙思想 によるものですよね。天照の本来の名はオオヒルメノ尊であるようです。 高天原は巳百支国であったようです。 ですから九州でいくらさがしてもタカマガハラのまたは似た音の地名はないわけです。 逆に、奈良県葛城にある高天という地名は7世紀ごろつけられたということになりますね。
>>944 >>918 にあるが、
河内国草香邑青雲白肩之津
イワレヒコが船で上陸した河内の場所だが・・・
これは、記紀が書かれたころには内陸で、弥生時代に遡らなければ
海だったとわからないはずだったという。
実際、土地を調べると、内陸になったが大昔は海だったらしい。
つまり、記録は伝承をできる限り正しく伝えようとしたと思われる。
神ではなく、実際は人間だったろうが
アマテルのような人間が居たとか、そういう固有名詞は参考にはなるだろう。
>>946 呼び名が違うと言うなら、神武も後に追贈されたおくり名だろう。
イワレヒコ、ワカミケヌ・・・呼び名が違ってもその人物のことだし
アマテラスのような人物が居たのだという伝承だろ。
949 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 16:25:17
>>946 あまり参考にはならないかもしれないが、宮崎に高原というのがある。
「たかはる」と読むのだが。神武天皇生誕の地として有名。
950 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 17:15:42
高天原はタカマガハラと読む。「ハル」とは読まない。九州でも祝詞でも読まない。 よって、九州起源ではない。
951 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 17:20:57
>>945 記紀の神話や説話で語ること自体が妄想で語るのと同じなのは、
太国とか唐松山を見ていればわかることだ。
記紀は参考程度にするくらいで、メインにすべきではない。
中国史料、金石文、考古学の成果などをメインに語るべきだ。
952 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 17:48:28
中国書の万2千里を信用するならば 短里で九州内 長里で海外となる。 発掘される鉄の量は福岡佐賀熊本が多い。 親魏倭王の金印は出ていないが 漢倭奴国王の金印は福岡で出た。
日本書紀って、ご先祖様を神様に見立てた物語でしょ? スサノオ=縄文人=秦氏など アマテラス=弥生人=フヨ系その他 みんなそれぞれのご先祖様を奉りなさーいっていう。
>>946 少なくとも神仙思想は4世紀の時点で日本に入っています。
△鏡なんて正にそのものでしょう。
>>953 秦氏は中国系とかトルコ系とかだろ?
フヨ族は遊牧民族で
何の関係も無い。
弥生時代ってのは、縄文時代の人間が大陸から稲作が伝わって
稲作をするようになった時代でもあるから
倭人ってのは日本人全体だぞ。刺青して稲作もするってのでわかるだろ。
956 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 18:48:38
まだそんなことゆってんの? あんた韓国人なんじゃないの?
>>942 鉄器先進国の九州の邪馬台国と中国地方の狗那国との頂上対決か
邪馬台国が近畿なら佐賀の伊都国が近畿に制圧されてないといけないんだよな
>>952 当時の歴史書は短里でしょ
958 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 18:52:15
佐賀の伊都国←え、なんで佐賀ってわかんの
959 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 18:54:26
現代の地図を開いてモノサシで距離を計って 短里とか長里とか言ってる人がいるけど、アホかと。 3世紀の古代に、どんな測量方法があったと思ってるんだ?
末盧国が東松浦半島でそこから東南に陸路500里で伊都国だから佐賀か福岡西部だろ
961 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 19:02:14
末盧国が東松浦半島←え、なんでわかんの
963 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 19:15:43
964 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 19:18:09
定説(ていせつ) とは 宗教的団体「ライフスペース」で使われる用語で、 ライフスペースの教義・主張を意味する言葉として使われる。 一般社会とはかけ離れた、きわめて特殊な言い回しとして使用されている。
普通はそんな宗教用語は知らんだろ
966 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 19:22:01
まあ、糸島くらいまでは、畿内説九州説共にほぼ確定。 糸島を伊都国と比定しないのは、むしろ九州説側が多そうだ。 畿内説で、出雲辺りに上陸したら、方向はともかく 距離くらいは合わないかねえ。無理か。
中国の史料は間違いも多いわけだし。 たしか、秀吉のことも向こうが同時代に書いてたが 信長、秀吉、光秀のことが滅茶苦茶でいい加減な記述。 2世紀のこととか真面目な人間が書いたとしても 同時代に書いても、まあ適当なものになるのは確実だ。 日本国内で、ヤマト、と呼ばれてきたのは奈良県のあるところ。 とすれば深く考えるまでも無く、邪馬台が当てはまる場所は・・・。
倭国大乱の後に銅鐸文化を放棄した近畿は本当に勝ち組だろうか 鉄器後進地域の近畿が伊都国の支配を何十年も維持できるだろうか ここらへんが邪馬台国近畿説の問題点だな
969 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 19:37:46
あのさ、なんで「対馬国」って、字まで合ってるんだろうね? 「一大国」なんて、元はたぶん「一支国(音は違うのに字だけ合ってる)」 これ、ものすごく不思議。 後年「韓国と日本の間にある島なんだから当然、対馬と一支(壱岐)」 って推量の元に書き換えられた可能性は大いにある。 その推量と加筆が、間違ってる可能性だってあるわけだ。
なんか、春休みモードだな・・・・
971 :
969 :2010/03/31(水) 20:32:10
反応なし&レッテル貼りですね! こりゃ核心ついちゃったのかも!
そのころって、日本の国名は漢字で定まってないわな。 音だけ。
出雲は新羅と結びつきが強かったらしいから邪馬台国は魏と結んで出雲に対抗しようとしたのかも 卑弥呼や台与と同一視されることが多い神功皇后が新羅を攻めたことになってるしね
トヨタン・・・・・・・・・・
原文 男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 計其道里、當在會稽、東冶之東。 (意約) 男子は大小の区別なく、皆、面(カオ)に黥(イレズミ)をして、身(カラダ)に文(イレズミ)をしていた。 古よりずっと、その国の使が中國に詣ると、皆自ら大夫と称した。 夏后小康(夏第六代中興の主)の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ハマグリを捕らえる。文身は亦以て大魚・水禽からの被害を厭う。 後やや以て飾りとする。 諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、身分の尊卑によって差あり。 その道里を計るに、当に会稽東治の東にある。 応神天皇(八幡神)の孫の意富々杼王を祖とする海人系の息長氏は、丹生都比売神を祀る丹生神社を奉斎しており、 邪馬台国の風欲や文化と一致する点があまりにも多い。邪馬台国は紀伊では?
976 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 21:39:29
977 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 22:28:58
■貝輪など577点重文に 吹上遺跡出土品 国の文化審答申 日田市
弥生時代の有力者の墓と推測されている日田市吹上の吹上遺跡から出土した貝輪や管玉など577点が、新たに国の重要文化財に指定されることが決まった。
当時の装飾具の付け方などを示す点が評価され、国の文化審議会の答申に盛り込まれた。日田市での同指定は、昨年12月の草野家住宅に続き11件目で、考古学の資料は初めて。
吹上遺跡は、1995年7月から96年1月、携帯電話基地局の鉄塔建設計画に先だって行われた発掘調査で、甕棺墓(かめかんぼ)7基と木棺墓(もくかんぼ)3基が出土した。
うち2基では、右手にゴホウラ製の貝輪をはめた成人男性の骨と、左右両手にイモガイ製の貝輪をはめた成人女性の骨が埋葬されていた。
男性の骨の周辺からは、鉄の剣やガラスの管玉も見つかっている。この2体は、当時の装飾品の装着方法や、男女で使い分けられていたことを示しており、「弥生時代の葬祭儀礼の実態を知る上で欠かせない資料」と認められた。
市教委によると、ゴホウラやイモガイは奄美諸島(鹿児島県)以南で採れる貝。同様の装飾品は、隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)、立岩遺跡(同県飯塚市)でも出土している。
福岡、佐賀両県にまたがる一帯では、弥生時代の遺跡で副葬品が入った甕棺が出土するケースが多く、吹上遺跡はその東端に位置するため、筑後川流域の集落が交流をしていたことも推測されるという。
合原多賀雄・市教育長は「日田の歴史の奥深さが認められ、とても名誉なこと」と話している。
また、日田市吹上町の長善寺の鐘楼門(しょうろうもん)は、大きな改造がなく、江戸中期の形式をよく伝える建築物として、国の有形文化財に登録される。
西日本新聞2010年3月30日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/161924 写真
・成人男性の骨が見つかった甕棺(かめかん)=日田市教委提供
・成人男性の甕棺の副葬品。ガラス管玉(左)、鉄剣と銅戈(右)、ゴホウラ製貝輪(下)=日田市教委提供
男子無大小皆黥面文身 >男子は大人も子供も皆、黥面文身。 大小は身分差。
979 :
日本@名無史さん :2010/03/31(水) 23:04:38
>>978 身分の差は、尊卑と書いてあるだろうに。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差
>>979 >身分の差は、尊卑と書いてあるだろうに。
まあ、それも(身分差の)表現のひとつだが。
比能帥部落大人小子代郡烏丸修武盧等三千餘騎,(鮮卑伝)
遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。(東夷伝序文)
諸加別主四出,道大者主數千家,小者數百家。(夫余伝)
大加主簿頭著幘,如幘而無餘,其小加著折風,形如弁。(高句麗伝)
981 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 00:04:21
>>977 >左右両手にイモガイ製の貝輪をはめた成人女性の骨が埋葬されていた。
こう言う記事は興味深い。
九州といえば銅矛と言う軍事的な武器型青銅祭器という事もあり
また玄界灘周辺を中心にした威信財体系からも
ヒエラルキーの明確な「タテ社会」と言うイメージだが
こうやって巫女的性格を持ったと思わせる女性の厚葬跡があったりして
結構プリミティブな社会の形をも残していた事を伺わせる。
まあそこら辺は日本の文化の根源にあるものかもしれんがwwwwwwww
982 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 01:51:21
983 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 15:18:41
邪馬台国畿内説も単なる奈良の村おこし活動だったのか。
村興ししなくても奈良なんて史跡だらけだろw
なぜか奈良の人には邪馬台国畿内説があまりいませんね 大きな古墳や遺跡ばかりで「邪馬台国とか卑弥呼とかもっと昔やろ」と言う人も
986 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 16:52:29
以外と、身近に遺跡とがあると、 そんな大それたモノが、家の裏にあるわけ無いじゃない、 とか思っちゃうかもね。 佐賀原住民だけど、何かの勢力の存在は否定しないが、 邪馬台国となると、そんな明確な証拠ないやろ、とか 思ってしまう。
>>985 かと言って、九州説信者でもないんじゃない?
というか九州人の誘致合戦ノリが異常
自分が信じるなんとか説に固執する人が異常だってだけの話。 一冊だけ読んだトンデモ本を信じ込んでる素人一般人のほうがよほど正常だ。 まともな学者なら「どっちとも断定はできない」以上のことは決して言わない。 可能性の話ならいくらでもするが。
いや〜素人でも、トンデモ本は「何かおかしい」くらいの感覚は持たないと。 素人の支持が暗黙の脅迫になって「定説」になってしまうこともあるわけだ。 韓国を笑えないよ。 まともな学者ねえ。 「立場」がある人は後でどちらにも付けるように曖昧な回答をする、と。 ハイごもっとも。学者のみなさまごくろうさまです。
990 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 22:28:42
どっかの総理大臣のように、「腹案はある」と言いながら、 それを公にすると反対派にあっさりつぶされるので黙っている方がうまくいくと そう堅く信じている人がこのスレにも大勢いるようなので、 生温かく見守っていきましょう。w
歴史は政治と違って、すでに起きた事実 うまくいくもなにもないっしょあほくさ
992 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:05:18
うまくいくというのは、うまくごまかせるという意味で、政治の世界も歴史の世界も同じですよ。
993 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:14:13
>というか九州人の誘致合戦ノリが異常 と言うか今時「邪馬台国」の看板に集客能力があるとも思えないがwwwww
994 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:22:04
>>992 正気ですか?うまくごまかせば、過去を書き換えられるとでも?
政治ならば、ごまかしも「政治」のうちかも知れません。
でも、歴史をごまかすのは「捏造」です。
「捏造」した、という歴史が追加されるだけでは?
>>993 うん、もう単に後に引けない感じね。
半島や台湾から観光客が呼べるんじゃないの?
996 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:35:15
ぶっちゃけ纏向にしろ殆どは埋め戻されている。 精々観光スポットとしては箸墓の前で記念撮影ぐらいか?w 九州なら更に漠然としている。 まあサガミハラ先生の様にピンポイントで主張するのならともかくwww 巨石文明のようにでっかい構造物がそのまま残っているわけで無し かと言って今のご時世、金をかけて「卑弥呼の宮殿」を復元と言うのも無いだろうwww
997 :
サガミハラハラ :2010/04/01(木) 23:56:28
卑弥呼吉野ケ里時代の宮殿は復元されております。 吉野ケ里ははっきりと邪馬台国の都であったと明言すべきであろう。 某発掘者は、発掘しながらとてつもないものを発掘しているのでは、とおもったというが、 まさにそれは邪馬台国の都であったのです。自信をもって主張してよいでしょう。
998 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:57:18
佐賀に巨石パークというのがあってだな・・・・・
999 :
日本@名無史さん :2010/04/01(木) 23:58:00
誰か次のスレよろしく!
1000 :
日本@名無史さん :2010/04/02(金) 00:00:51
1001 :
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