1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 01:11:23
3 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 08:19:51
盛岡バスターミナルの老朽化はガチ。
4 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 19:33:07
あげとこ
盛岡バスセンターや紺屋町の角にあるタクシー会社の建物、昭和30年代の建物をキレイにお化粧直しすると素敵になるのにね。
6 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 10:40:10
盛岡は駅と市街中心部が離れているから旅行者には不便。
7 :
日本@名無史さん:2010/02/25(木) 19:27:26
去年、麻布に行って盛岡町交番と南部坂見てきました。麻布高校がすぐ近くにあった。
巡査に盛岡から来たといったら喜んでくれた。
都立図書館の一階には、盛岡藩邸のダイオラマがあった。
8 :
南部藩主・南部信濃守利敬:2010/02/26(金) 02:57:17
わが南部藩は、奥州において勤皇敬佐幕に励む大藩であるが、津軽藩・津軽越中守寧親は、
一橋民部卿、田安卿、近衛氏など、権門に金をばら撒き、従四位下侍従を得て、
わが藩の上位に座る結果になった。しかも、藩主の南部美濃守利敬は、
津軽藩の早道の者に猛毒を盛られて頓死してしまった。
5万3000石の赤穂浅野家には忠臣大石内蔵助がいたが、20万石のわが南部藩には大石はおらぬのか。
9 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 08:57:23
津軽藩は実力の割りに官位が高いってのは
幕府や朝廷に工作した結果である。
南部藩はそういうことをやらないからなあ。
10 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 13:55:07
江戸の町民どもを感動させた、相馬大作こと下斗米秀之進がおる。
11 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 14:17:57
>>10 > 江戸の町民どもを感動させた
感動したんだっけ?
>>9 南部利謹は南部藩の跡を継ぐ予定の人物だったのだが、「乱心の為に廃嫡」された。で、この乱心の具体的内容は
幕政に野望があったために廃嫡されたと『岩手県史』にある。
で、彼は江戸でなにをやっていたかというと、莫大な金を使って幕府の重要な立場の者に金品を送ったり、会合を開き
贈り物をしたりしている。本来は文武に才能もあり、優れた人物だったようだが、「幕政に野望」は押さえられなかった
ようだ。南部藩に無限に資金があるなら、それを継続しても良いのだろうが、金がなくなってくると、かれを廃嫡しなきゃ
ならなくなったわけだな。
13 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 17:54:12
幕政に野望といっても、外様でどう幕政に関与できるのだろう?
>>13 南部利謹は物心ついた頃から、江戸に住んでいたため、盛岡は獣が住み雪が積もる寒村僻地という
認識だったという噂だ。
だから、あれこれ金品を渡し、地位を向上させ、江戸近くに自分の藩を移動させようと画策した。だから
狂ったとして次期藩主の地位を追われたわけだな。
15 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:14:15
諸藩の代々江戸詰め武士は皆きれいな江戸弁を話したそうだね。
16 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:16:16
>江戸近くに自分の藩を移動させよう
木曾氏が関東の旭市に国替えされたような感じだな。
17 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:56:28
当時の江戸市民は相馬大作事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。
事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、
この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。
民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、
隠居ということにしたのではないかと噂した。
18 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 18:58:41
この事件は水戸藩の藤田東湖らに強い影響を与えた。
当時15〜16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、
後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は
『相馬大作伝』著した。これらはさらに長州藩の吉田松陰にも影響を与える。
彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、
また長歌を詠じて秀之進をたたえた。
19 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:46:04
>>14 移転できてりゃ南部藩に領民、みんな万々歳だったのにな。
>>17-18 いったいなんでそんなに評価が高いのかがわからんな。
南部の殿様は代替わりして幼少の身で、津軽の殿様のほうが
結果的に高い官位になってしまった。
これで怒って砲撃仕掛けるほうがどうかしてる。
褒め称えた連中は、他人ごとだから無責任に
囃しただけだろうな。
20 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:53:50
津軽が表高5万石なのに10万石に高上げされ(実高は32万石くらい行っていたらしい)、大広間席とされたこと、ついで侍従となったことを
南部利敬はひどく憂悶していたらしいね
石高定めるのが幕府だったり、官位与えるのが朝廷だったり。
22 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:01:10
津軽氏は幕府や朝廷との付き合いが巧みだった。
南部氏はNG
23 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:21:10
津軽右京大夫寧親は、一橋民部卿の入魂大名になっていた点が大きい。
ただ、家斉の太政相就任の際、息子の越中守信順(四品)に、侍従でないと乗り回せない
上げ輿を乗せた為、逼塞。下屋敷を刑場で名高い鈴が森に移転させられました。
24 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:23:47
廃嫡になった利謹は、関東近くの具体的にどの辺に転封を狙っていたのかとかはわかっているんですか?
25 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 21:37:39
現代の感覚では確かになぜ相馬大作にそこまで藤田東湖や吉田松陰が共感したのかは、
理解しにくいが、幕末の江戸では盛岡藩は弘前藩より人気があったらしい。
江戸の町人は、いろんな藩邸に出入りしている商人や職人も多いから、
津軽家の裏工作にも詳しくて反感を持っていたのかも。
江戸っ子は将軍贔屓
>>25 だいたい、相馬大作事件の百年以上前の檜山騒動から関係づけているのが怪しい。
南部藩の藩士たちが、相馬大作事件の宣伝をしたんじゃないのか?
>>2の「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」 でも、江戸時代の噂として…
>同時非常、相馬大作の評判、諸国に高め、南部家の忠臣義士と、路席軍談流行、且実録と唱へ、
>雑書著作し、悪漢等の南部大膳大夫利用を毒手謀殺の説、交代して何となく止みたり。
とあるな。
28 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 14:04:29
相馬大作が平山行蔵の高弟だったことも盛岡藩の宣伝にとって有利だったと思う。
相馬大作事件が江戸時代講談でどんなストーリーで語られているのか知らないが当時の江戸で現代の忠臣蔵的売りだされ方したのでしょうね。
30 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 13:24:11
映画、ドラマ
尾上松之助『檜山騒動(騒動檜山二代目)』映画・大正3年
尾上松之助『相馬大作』映画・大正7年
尾上松之助『檜山騒動』映画・大正7年
澤村四郎五郎『相馬大作(桧山大騒動)』映画・大正7年
尾上松之助『相馬大作』映画・大正9年
尾上松之助『相馬大作漫遊記』映画・大正10年
澤村四郎五郎『相馬大作』映画・大正11年
阪東太郎『相馬大作』映画・大正15年
河部五郎『鬼傑の叫び』映画・昭和2年
片岡千恵蔵『相馬大作 武道活殺の巻』映画・昭和4年
河津清三郎『三人の相馬大作』映画・昭和6年
尾上栄五郎『相馬大作』映画・昭和9年
嵐寛寿郎『江戸の龍虎』映画・昭和17年
嵐寛寿郎『檜山大騒動』映画・昭和32年
堀雄二『講談ドラマ 相馬大作』テレビ単発・昭和39年
堤大二郎『八百八町夢日記スペシャル みちのく忠臣蔵』日本テレビ単発・平成3年
>>30 最後の平成3年に放映した「みちのく忠臣蔵」のストーリーは以下の通り
***
南部藩領にあった烏帽子山を津軽藩が武力で占領した。さらに津軽藩の忍び軍団・早道之者が
南部藩主を毒殺、抗争は全面戦争へと発展する。夢之介(里見浩太朗)は、次郎吉(風間杜夫)に
事件の真相を探らせるが、そんな中、次郎吉(風間杜夫)の最愛の妻・お初が早道之者の手にか
かり、殺されてしまう。江戸の平和を希求する夢之介と、恋女房を殺され、復讐に燃える次郎吉
(風間杜夫)が悪に対して怒りの鉄槌を下す!
***
だってさW
32 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 02:35:38
そういや水戸黄門で,黄門様が遠野や盛岡に来た時、
スケサンカクサンが盛岡藩士たちをフルボッコにしているときに盛岡藩士に感情移入していた私。
33 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 14:13:48
>>31 架空の藩ならともかく、実在の藩同士をよくもここまで
善と悪対極に描けるもんだな。
ある意味感心するわ。
34 :
南部藩主・南部信濃守利敬:2010/03/06(土) 21:20:20
家臣筋に過ぎなかった津軽藩が、従四位の位まで賜って、わが藩の上位にするのは、到底承服できない事でござりまする。
それならばせめて、野辺地・烏帽子山を当藩に返還するとの、ご裁可いただきとう存知まする。
野辺地・烏帽子山はもともと、当藩固有の領土でございまする。それを津軽藩は、2百年前と同じように
武力を以って無理やり奪い取ったのでございます。なにとぞ、なにとぞご配慮くださいまするように・・・・
35 :
津軽藩主・津軽越中守寧親:2010/03/06(土) 21:24:26
笑止なり南部。野辺地・烏帽子山はすでに御公儀も、津軽領と認めておるのじゃ。
上様拝謁の儀礼も知らぬ愚か者が。いまさら何を!
36 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:19:00
南部領が決まった時点で津軽を失った分を南に領地を広げたし。
廃藩置県後は伊達領の北も岩手県になってるし、盛岡ラッキーだよね。
37 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:21:01
南部氏は徳川家への取り入りがうまかったとも思えないが
結果的には改易などされずに明治に至った。
38 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 23:38:19
みちのく忠臣蔵をPS3でステルスゲームにしてほしい。
39 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 00:16:40
>>37 どちらかというと世渡り下手だよな。
津軽との檜山騒動にしても
南部と津軽に檜の供出が命じられる→南部は藩内に檜は無いと拒絶
津軽がその分を負担させられる→津軽領民、南部藩との境にある
檜を伐採し「南部に檜はないそうだから、これは津軽の檜だ」
と挑発→怒った南部領民に津軽領民殺される
「南部に檜はありません」なんて子供の言い訳じゃないですか。
植民地扱いの閉伊や和賀あたりに檜があったら、
喜んで供出してたんだろうがな。
40 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 00:43:10
>南部は藩内に檜は無いと拒絶
幕府をなめて、よく改易されなかったものだな。
41 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:09:33
しかし南部にヒノキはないからこれは津軽のヒノキだっていうのも子供じみてるよな。
言いそうだけど。そんで津軽のうそつき、南部の人殺し、というのもさらに子供じみている。
昔の人は普通教育受けてないから、精神年齢低かったんだろうな。
相馬大作に喝采送る江戸町民も二戸の町民も大差ない。
でもよく考えると小沢騒動の、検察と小沢のやりとりも案外大差なかったりして。
「小沢に西松からの献金はありません」
「小沢に献金はないそうだから、これは秘書がやった虚偽記載の共犯」
小沢をなめた特捜検事は改易されるのかなあ・・。
>>24 南部利謹は、25歳のころに初めて盛岡に行った。で、よほど悪印象を残したようで、盛岡に対する酷い表現の漢詩を残している。
で、利謹は譜代大名になろうとして、田沼意次に接触する。(正確に言うと、御用人同士の接触を行った)
で、当然前例が無いことが問題とされたが、利謹は自分の気持ちを「御心願の書」として著し、それを田沼意次やその御用人に
手渡した。これが父の南部利雄の耳に入り、南部利謹は廃嫡され、強制的に盛岡に戻された。南部利謹はその後、自堕落な生活
を行うことになる。
江戸から連れて行っためかけの「るん」の部屋に入り浸り性行為三昧。少しのことで屋敷で働く物を叱咤したり…。るんが死ぬと、
なんとるんの母と結婚し、そのるんの母が死ぬと、今度は盛岡では淫婦として有名だった油屋の妻の「油御前」を、無理矢理夫と
別れさせて結婚するありさま。(それだけ妖艶だったのだろうが…年増趣味?)
これが盛岡中の話題となったわけだ。これだけなら、まあたいしたことが無いけど、盛岡藩主が次々死亡して、利謹と油御前との
間にできた子ども南部利済が南部藩主になるもんだから、噂は当然広がる。曰く、利謹には種がなく(性行為三昧なのに子どもが
できない。るんとの子は死産だった)利済は油御前の浮気の結果生まれた。従って、利済には南部家の血が流れていない…と。
三閉伊一揆でも盛んに、ここいら辺の噂は流され、利用されている。
43 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:29:13
松前藩は外様大名だが、幕末には幕府の役職についていなかったっけ?
44 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:52:24
松前には、旗本から本家に入っているから。
45 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:11:48
>>40 江戸初期じゃないから助かったんだろうな。
でもこういう場合は事前に幕府のお偉方に賂渡して
お役を回避するか、運悪く受けてしまったら全力で尽くすのが筋なのに
「檜ありません」という子供だましで逃れようとして印象悪くする南部藩w
なにも「蘇鉄の苗木を出せ」なんて無理難題言われたわけじゃあるまいし、
幕府もあるのを知ってて「檜出せ」と言って来ただろうにな。
>>41 この辺の子供じみた幼稚さが、逆に可愛くて庶民受けしたんじゃないかな?
46 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:26:54
ペーパー藩の七戸藩の初代藩主も旗本だったらしいが・・。
南部の親戚には旗本もいたんだな。
47 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:37:36
>廃藩置県後は伊達領の北も岩手県になってるし、盛岡ラッキーだよね。
青森県の半分を失っているからね。八戸市は人口24万人だっけ?
東北の県庁所在地以外で20万人超えている市は郡山、いわきくらいか?
必ずしも良かったか微妙。
>昔の人は普通教育受けてないから、精神年齢低かったんだろうな。
マジレスだけど、苦労した人の方が一般的に精神年齢高いと思うんだ。
今の時代の高校、大学出のニートより、20から30年前に高校出て25才くらいの人って
けっこうしっかりしてたと思うぞ。
>>41 小沢の地盤は水沢だから南部じゃなくて伊達。
>>43 松前は幕末に藩を取り上げられて幕府直轄領になったので南部や津軽が蝦夷地警備に刈り出されたんだよ。
50 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:59:48
>>47 南部領の北にやってきた旧会津の斗南藩が盛岡に付くか弘前に付くかで県が決まるという際に、旧会津斗南藩は盛岡には世話になったので迷惑をかけられないと弘前との合併を申し出た。
地方政権を乗っ取る気満々の会津衆だったから。
現代も青森県にある津軽領と南部領の反目って、旧南部領選出の政治家みると旧会津の人達だったりする。
>>46 南部家内の旗本みたいなモンであって徳川幕府の旗本ではないよ。
52 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 04:37:43
若い八戸市民の帰属意識は
青森県>南部藩
らしい。
53 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 13:25:20
津軽家の大浦為信は元々久慈家の出身だったから、今でも久慈市民は
津軽に対する親近感が強いらしい。
津軽が久慈で、南部が会津で、しかも八戸南部が島津の養子だから賊軍じゃないとか、
七戸は旗本とかややこしい。
54 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 14:24:12
>八戸南部が島津の養子だから賊軍じゃないとか、七戸は旗本
それは地元民と歴史マニアしか知らないだろうな。
55 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 19:50:17
七戸南部家から盛岡南部家の養子となった南部重信の六男南部政信が、
旗本麹町南部家の初代。七男南部勝信が旗本三田南部家の初代。
重信が徳川綱吉を将軍に最初に支持した見返りに旗本に取り立てられたのだろうか?
重信は将軍家に相当信頼されていたようだ。
56 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 22:58:01
相馬大作を取り上げるところが南部厨の限界。
搾取と浪費と津軽との席次争いにしか興味がなかったからね。
三陸の漁民は大きな魚の群れが来ても、年貢に取られるからと出漁できなかったそうだ。
長州は実質100万石といわれながら、自ら石高増など望まず力を蓄え維新の中心となった。
汚いこともしただろうが、志無く搾取と浪費と席次争いをするよりマシ。
俺が南部藩士の子孫だったら恥ずかしくて子孫と言えない。
南部の武士も西国の侍のような商売上手であったならよかったな。
58 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 05:19:23
>>56 > 長州は実質100万石といわれながら、自ら石高増など望まず
幕府を刺激したくなかったというのも大きい。
59 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 07:31:47
南部にも近江商人がいるぞ。
大正昭和に長州閥を崩壊させたのは盛岡藩士の子孫の原敬や東条英機だしな。
近江商人は北海道にまで来ているよな。バイタリティすごい。
淡路出身の高田屋嘉兵衛は、カムチャッカまで行ったんだけど…。
62 :
日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:18:10
盛岡藩士は国後島や択捉島の警備もしてたしな。
実際に戦闘したりゴローニン捕まえたりしてるし。
64 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 01:15:43
南部藩は内政・経済・幕府との付き合いとどれもパッとしなかった印象があるが
軍事的なもの(戦闘能力)はそれなりに高かったんだろうか?どうなの?
戊申戦争の時は、秋田藩は新式?のゲベール銃が大館城にわずか5挺。それに対して南部藩は
新式銃が多数あり、西洋式で訓練されていて、騎馬に乗り機動力もあった。
秋田藩のあまりの装備の悪さに、津軽藩は内緒で新式銃1500挺を大館に輸送した。
その後、さらに新式の連発式のスペンサー銃によって、高地で絶対有利の南部兵が100名対
鍋島兵たった5名の戦闘でやられてしまったんだけどね。やはり銃の性能がモノを言う時代になった
ということですね。鍋島の大砲はアームストロング砲とまではいかないけど、砲弾が爆発する形式で
南部藩側も上級武士がやられていたりする…。
66 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 01:48:58
>>64 阿曽沼とか斯波とかの小さい勢力には強いが
少々手ごわい勢力にはさほどでもない。
あと立ち回りは最後まで下手だった。
主席家老の楢山佐渡は鳥羽伏見戦後の京都で薩長側の
要人と会ってるにも関わらず、幕府側に着くことを決意。
鳥羽伏見前ならともかく、この時点で幕府に着くか?
この結果、南部藩は青森と岩手に分割されてるし。
大迷惑かけた上に処刑された楢山を、当時の盛岡住人は慕っていたそうだ。
後世の視点からといえ、南部はなんかずれてるんだよな。
67 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 03:52:34
>>66 > 主席家老の楢山佐渡は鳥羽伏見戦後の京都で薩長側の
> 要人と会ってるにも関わらず、幕府側に着くことを決意。
> 鳥羽伏見前ならともかく、この時点で幕府に着くか?
投資用語でいう「逆バリ」を狙ったんだろうか?
68 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 04:42:59
>>67 時勢が読めなかったんでしょう。
辞世の句
「花は咲く 柳はもゆる春の夜に うつらぬものは 武士の道」
ですが、楢山のどこに武士の道があったのかと。
単に意地張って負け組に導いただけだろうがw
藩政を預かる執政の癖に、一武士と同じ思考回路の
アフォが政治を司るのが南部藩。
70 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 14:23:54
>>68 > 時勢が読めなかったんでしょう。
御三家筆頭の尾張家が官軍についているのに
外様の南部がなぜ幕府(しかも敗残部隊)に味方したのかわからん。
71 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 19:49:18
盛岡のミニエーライフル銃は南北戦争の余剰中古品を、箱館で注文して、宮古港から運んだものらしい。
箱館も開港していたし、ロシア軍を仮想敵として訓練していたからそんなに平和ボケはしてなかったと思う。
鍋島小城藩兵には確かに対抗できなかったが、弘前藩兵には野辺地で圧勝している。
仮に、南部が新政府側についたら、南部藩はどうなってたんだろうな…。
歴史にはイフはないが、イフを考えない歴史談義はやはりつまらない。
73 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:53:42
>>72 旧盛岡藩領、つまり今の岩手県北部中部に秋田県鹿角地区、
青森県八戸地方で一つの県になったんじゃないかな。
県名も盛岡県を名乗れただろう。
74 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 00:19:40
>>73 おまけに、仙台藩が分割されるから、現在の岩手県南部まで盛岡県ということになるな。
でも、あまりに広すぎるから、、下北半島は旧会津県になっちゃうかもね。
時勢を読めなかった国の家老といえば、越後長岡藩家老・河井継之助が有名だが司馬小説でいい人になった。
つーか、恭順の意をしめしてなかったか、河井
77 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 02:21:26
>>74 朝廷側についた場合、盛岡藩の分割はないと思う。
仙台藩領は岩手の南部と今の宮城県をあわせた、
ほぼ仙台藩でおち着くんじゃないかな?
所詮勝ち組にとっちゃ東北の県境なんてどうでもいいし。
負け組みにつくと県名は旧藩名乗れないし、領地は分割されるしね。
78 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 13:44:54
東次郎が藩政を掌握していたら、仙台藩、一関藩と敵対することになる。
仙台藩と敵対したままでは秋田に出兵はできない。
仙台藩が分裂してて弱腰だったら、一関討入りとかしたのだろうか。
仙台全部には勝てないだろうが一関には勝てそうな気が。
楢山佐渡は三閉伊一揆をうまくとりまとめた功績があるからなあ。
東次郎が政権握っていれば、今頃盛岡県は一関から鹿角・下北まで広大な地域になっていた…か?
80 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 15:37:38
>>78 勤皇派だったら秋田や津軽と戦うことはないしな。
もしかして津軽が勤皇だから、南部は幕府側とか?
朝敵になっちゃったけど
>>71野辺地で津軽には勝ったらしいから結果オーライ
82 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 16:56:33
戦闘で津軽に勝っても
中央政権への取り入りで惨敗するのが
秀吉時代以来の南部家の伝統。
南部領の北半分を分割したのは島津が旧会津にくれてやった土地。
その代りに伊達北部をもらった岩手は得した。
85 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:46:59
久保田藩の火縄・ゲベール銃(5丁)等と、盛岡藩の先込めライフル銃の差は、
今で言えば、散弾銃を持った猟友会100人と、ライフル銃を持った猟友会100人が、
奥羽山脈で戦うようなもんだったろうな。
しかしゲベール銃5丁だった敵がいきなり連発元込めスペンサー銃5丁の敵と交代すればとりあえず、
逃げて様子を見るのは自然だと思う。
>>85 一応、大館攻防戦では、津軽藩は内緒で秋田藩(久保田藩)に新型銃100挺を送っているんだよね。
(
>>65の1500挺はまちがいw) 津軽藩の一部隊も戦闘に参加しているし…。
87 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 13:44:06
新型銃ってライフル銃?ゲベール銃?
ライフル銃100丁届いてもいきなりじゃなかなか使いこなせないだろうけど。
大館市史のその部分をPDF化しているから確認すると…。
鉄砲百挺、玉薬一万発としか書いていないな。
ちなみに、秋田藩側は、「ゲベロ銃」(ゲベール銃)が5挺種子島を含めた旧式の銃が200挺程度とある。
津軽藩がタダで送ったんだから、火縄銃なんじゃないの?
89 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 01:22:00
90 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 05:41:30
一関藩は鳥羽伏見前後にどういう動きというか戦闘をしたんだっけ?
92 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 07:19:40
田村氏とか相馬氏はマイナー大名だが
戦国時代も精鋭部隊を用意していた。
93 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 13:39:19
東次郎が藩政掌握して、一関藩に討ち入りしてたらけっこう苦戦しそうだな。
94 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 14:29:00
http://www.bakusin.jp/syotair.html これで見ると久保田藩の吉川親子が西洋砲術所で訓練した有志隊2個小隊90人と、
遊撃隊80〜120人はイギリス式訓練を受けたとあるから、ゲベロ銃かエンピール銃を装備していたのかもしれない。
しかし盛岡藩とは交戦していない。
盛岡藩でライフル銃を装備していたのは鳥蛇隊12個小隊600人と、
発機隊12個小隊600人のおおむね2個大隊だと思われる。
95 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 14:42:11
朝廷側についた場合、仙台一関連合には苦戦しても
最後には勝ち組に回れたのにな。
96 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 15:29:06
まあ、苦戦しても盛岡城を占領されるまでのボロ負けは絶対にないだろうから、
結果的には勝者になれた。
外様藩が幕府と心中することはないのにな。
逆に井伊家なんかは譜代の名門なのに
あっさり寝返っている。
伊井矢問同は
井伊と藤堂は新政府についたのに
幕府贔屓から裏切り者扱いされて報われないな
井伊は幕府反主流派に転落してしまったのだからしょうがないと思うよ
100 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 19:26:09
戊辰戦争はすでに譜代とか外様とか無関係な気がする。
会津松平、庄内酒井は別としても、盛岡南部以外でも仙台伊達、米沢上杉は外様だし。
101 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 20:43:22
南部藩がどちらにつくかって部分の話を読むと、重臣たちがどちらの味方かははっきりしている
けど、肝心の藩主がどちら側かよく分からないんだよな。
心情的にどちらを味方していたんだろう…。
102 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:02:08
定見がないことがデフォルトである
南部の殿様は伝統的に
重臣の多数決に従うのではなかったか?
103 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:06:59
そんな、ばかなw
104 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:43:17
島津に暗君なし。●●に名君なし。
DQN島津信者乙
江戸幕府における外様って、ある意味独立国家だし。
江戸時代の江戸地図をみると外様の大大名はみな松平○○守屋敷と記してあったり。島津候のとこも。
徳川家から姫を貰った大名はみな松平姓を名乗っている。
西欧的史観から見ると徳川幕府とは天皇の元における諸国連合国家ですから。
徳川王とその配下の王族達と、徳川王に隷属した王達(外様)の連合王国。その上に宗主たる天皇がいる。
ローマ教皇の元で群雄割拠していた欧州の縮図に見えたことでしょう。
109 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 20:26:12
奥羽列藩同盟は、別に徳川への忠誠を尽くすために同盟したんじゃなくて、
会津藩の救済を嘆願しつつ、薩長独裁を牽制するための同盟だと思う。
牽制して時間を稼ぎつつ、誰にでも中古兵器を売却する外国人から箱館港で兵器を購入する。
仙台藩も額兵隊などはイギリス式で全員ライフル銃だった。長岡、庄内も兵器でも訓練でも劣っていない。
しかし奇兵隊のように町人農民を指揮して反対する上級武士を一網打尽にする度胸はなかった。
110 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 21:40:51
>>109 > 牽制して時間を稼ぎつつ、誰にでも中古兵器を売却する外国人から
箱館港で兵器を購入する。
とはいえ東北諸藩の財政は苦しいので、軍事費にどれだけ割けたか疑問。
111 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:17:55
>109
新政府側に逆らったという事実が重いわな。
なんでそういう選択したんだろ。
戦国末期の葛西とか大崎の豪族みたく
「西国武士なにするものぞ」
とか思ってたのかね?
とはいえいつの時代でも目端の利いたのは勝ち組に着くけど。
112 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:31:37
113 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:36:42
当時の南部藩は最新武器を大量に買いたくても軍資金が足りなかったのではないか?
114 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:38:43
まあ戦争になりゃ、幕府の普請も参勤交代もないし、幕府の言う通りに蝦夷の警備をする必要もない訳だし。
自由に使える金は増えるだろう。
115 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:38:52
>>111 > とはいえいつの時代でも目端の利いたのは勝ち組に着くけど。
でも南部みたいに鳥羽伏見の結果を知ってから薩長にケンカ売るのもある意味凄い。
薩長としては南部藩を味方につける気はあったようだし。
116 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 23:18:45
戊辰戦争では目時隆之進がやたらかわいそうなんだけど…。
目端が利くせいで、自決にまで追い込まれるなんて。
117 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 02:06:31
>>116 誰かと思って検索してみた。
こういう人ほど新政府とのパイプ役にすべきなのに…
なんと言っていいかわからんな。
南部藩の人たちって、感情のまま動くのかな。
118 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 13:55:45
盛岡藩には尾去沢銅山と言う資金源があるのです!
明治になってから事件になるほどもうかってた・・
119 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:37:59
120 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 19:35:48
よくこんなものを見つけますなあ。
三井の悪事謀略を隠蔽するために盛岡藩を誹謗中傷したかったのだろうか・・?
121 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 19:44:26
平松武兵衛ことヘンリー・スネルの話は、
ラストオブサムライより感動的だな。
122 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:15:39
>>120 三井組社員となっていた花輪正摸と井上馨が繋がりがあるんだから、この点から尾去沢銅山事件を
見直す必要が出てきたかもね。
村井茂兵衛は尾去沢銅山事件の被害者なんだよな。でも、豪商だった花輪正摸は自分が没落した原因の
一つに村井の何らかの関与があることを知り、恨みに思っていた…とか。単なる想像だが。
123 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 23:39:47
小野組っていうのも盛岡が本店だったらしいが、何かこんな大豪商が盛岡にいたというのは、
やはり金山銅山のおかげなのだろうか?盛岡藩は本当に財政難だったんのだろうか?
すぐk
まあこんだけの大豪商に資金を出させれば、ミニエーライフル銃の千丁や二千丁はすぐ購入できるだろうな。
>>123 盛岡藩は江戸前期は裕福な藩だったんだよ。金山や銅山があったからね。でも、それらはいつかは枯渇する。
特に江戸時代はポンプがないから、鉱山が水没すればそれでお終いだしね。
126 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 05:42:58
民間に一部豪商がいても、
藩と庶民が貧乏なのは変わらない。
127 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:19:16
しかし尾去沢銅山は幕末まで、というか戦後まで多量の銅を産出していたわけで。
小野組は明治政府を支えるほどの資金があったんだから盛岡藩くらいは余裕だろう。
白石に転封されても、すぐに賠償金全額払って戻ってこれたのは、盛岡藩、の豪商の資金力のおかげ。
128 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 19:19:26
>>127 ここが南部の不思議なところ。
盛岡は本拠地なので領民に優しく、沿岸や和賀郡などは
植民地扱いなので限界以上に搾り取る。
優しくされた盛岡領民が南部藩復活のために金を出す。
こんな感じ?
南部藩は三閉伊一揆以前にも、実は盛岡周辺で何度も一揆が発生している。
そのたびに、南部藩は妥協をしているわけだ。民衆も南部藩のやり方を熟知してしまう。
さすがに江戸後半になると、安易に妥協してはいかんということで、色々工夫するわけだな。
130 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 20:30:30
幕府も南部を改易すれば辺境地が不安定になるかもと思ったんだろうな。
159 名前:日本@名無史さん 投稿日:2010/03/19(金) 03:35:02
東北諸藩の18世紀の人口変動
仙台藩 盛岡藩 会津藩 米沢藩
1694年 539,855 331,787 165,970 131,966
1706年 ------ 350,033 167,144 124,893
1717年 551,951 ------ 168,879 120,650
1721年 ------ 366,577 165,486 118,537
1730年 ------ 343,031 162,917 114,429
1740年 ------ 367,403 156,718 112,378
1750年 551,875 358,488 150,253 108,859
1753年 550,001 355,980 ------ 109,068
1754年 541,110 ------ ------ 107,996
1755年 ------ 358,222 147,046 107,317
1756年 539,036 356,005 146,546 106,390
1757年 534,901 351,755 142,165 102,628
1758年 517,263 352,755 139,418 100,900
1759年 515,430 354,778 135,490 100,007
1760年 514,576 355,935 131,808 99,369
1770年 520,485 358,855 135,267 102,905
1780年 503,931 357,705 129,123 103,628
1781年 502,124 357,899 129,123 103,789
1782年 ------ 357,650 128,034 103,569
1783年 493,245 357,896 127,868 103,991
1784年 478,894 356,402 126,998 103,281
1785年 413,191 357,029 117,937 100,946
1786年 411,496 356,447 116,993 100,381
1787年 410,974 357,251 116,421 99,985
1788年 410,196 356,617 116,441 99,508
1789年 409,632 357,357 116,924 99,123
1790年 410,401 356,987 118,325 99,296
1798年 425,786 356,636 122,683 104,395
1803年 440,769 357,810 124,442 106,121
160 名前:日本@名無史さん 投稿日:2010/03/19(金) 03:42:03
上の統計は、
仙台藩は陸奥領郡方のみ(武家、町方、寺社方、一関藩領、常陸・下総・近江領を除く)
盛岡藩は武家を含めた総人口
会津藩は郷方のみ(武家、町方、南山蔵入地を除く)
米沢藩は武家を含めた総人口
なお、盛岡藩は1755年以降、人別改を捏造している疑いがあり
(総人口と男女比が一定になる)、
実際は1756年に推定30万人、1784年頃に推定25万人。
宝暦の大飢饉の責を逃れるために幕府へ報告する人口のみならず、
原本の人数改帳の段階から人口を捏造するようになったと思われる。
ttp://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008631373
歴史人口学者として名高い速水融先生の解説です。
ttp://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008631373 >さらに、幕府との関係から、故意に虚偽の記録をする藩さえあった。
>一例を挙げれば、南部盛岡藩は、毎年の藩政記録を残しており、
>領内人口を男女別に記している。ところが、宝暦二年(一七五二)以降、
>極端に変動幅が少なくなり、ほぼ三五万人前後に固定している。
>ところがこの間、宝暦飢饉、天明飢饉があり、前者では死者五万二千人、
>後者では七万五千人に達したとする者もいる。そうすると、
>何らかの事情で藩の公式記録に虚偽な記載がなされたとしか考えられない。
>もう一つ興味深いことは、この記録に、安永六年(一七七七)から寛政二年
>(一七九〇)の間、一年を除いて性比が一一二・九に固定されている。
>これは実際にはあり得ないことで、明らかに人為的な操作の結果である。
>ある意味では、性比まで考慮するかなり高度の人口への知識を持った者の
>仕業と言わざるを得ない。
>このような例を知ると、もしこの数字が幕府へ報告されていたとすれば、
>幕府の国別人口表の数字自信の信頼性が問われるこのになる。
>しかし、他の藩領人口の記録にはこのような例はない。
>長期に亘って藩領人口の推移を知らせてくれる奥羽地方の会津藩や
>米沢藩の人口史料には、数字の上からのことであるが、
>南部藩領人口のような明らかな人為的作為はなく、信頼性のより高い
>統計史料であると言える。
江戸から明治へ政権が移ったからといって一揆がなくなったわけではないけど。
135 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:45:47
そういやさ、沢内は三千石も米が取れるのに幕府には報告していない
「隠し田」だったんだよね。
小野組転籍事件も、藩が金借りたのに藩が金貸したってなってる訳の分らないローカル会計。
それを鵜呑みにした?明治政府の井上。
まあ軍事的にはだいたい佐賀>庄内>盛岡>弘前>久保田でいいのかな。
136 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:11:22
>そういやさ、沢内は三千石も米が取れるのに幕府には報告していない
「隠し田」だったんだよね。
幕府は諸藩に密偵をはなっているのに、察知されなかったというのは凄いといえば凄い。
実高10万石だったのに20万石申請しちまったほうが、もっと凄い!というか異常。
138 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 00:07:02
>>136 一度行ったことがあるけど、山の奥のまた奥の奥
みたいな土地だからな、沢内村。
密偵が入り込んだら必ず途中で目だって感づかれる。
せっかく隠し田を確保しても、石高上げ申請してりゃ世話ないけどな。
139 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 00:41:01
横手から雫石に行く時に通ったな。山の中だけど長い盆地が延々と続くのんびりした
トコって感じだった。今度、和賀山登山するときに、またおじゃまするかも知れないな。
七時雨とか秘密牧場とかの伝説は多数あるけれど、江戸の地図にのってるでしょう。
江戸といっても初期から後期までは250年もあるわけですから。
141 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 14:17:41
盛岡藩の領地があまりに広すぎて、幕府の隠密も費用対効果のことを考えて放置していたんだろう。
142 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 17:01:01
>>141 薩摩もそうだが、隠密が辺境地の方言をマスターするのは至難。
143 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 19:57:27
幕府の隠密が気付かないこともたくさんある。
南部利用は二度死んでいる。
スケートの織田選手って南部の血も入っているのかも。
145 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 19:08:29
どこら辺で?
146 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:10:35
江戸時代に南部家から天童織田家に嫁いだ人がいたんだっけ?
ほとんど知らないが。
南部信依の娘が旗本織田家に嫁いでるから
>>133 南部の暗殺と捏造歴史はそれはもうすごいから・・・今更っちゃ今更
南部は戦国以降を生き残るにはプライドが高すぎたと思う
歴史は小学校からとにかく相手が悪いとしか教えないし、いかに相手が悪かったか、南部が凄いかを捏造してまで伝えようとするし
まるで韓国の反日
その後ちゃんと調べようとする人はまだ大丈夫だろうけど、別に歴史に興味なかった人とか、調べない人とかは・・・・
息子に正しい知識を養って欲しいのに、そういう南部万歳教育にはガッカリする
南部の歴史は古いだけに凄く楽しめるはずなのに残念です
149 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:36:49
岩手県民だけど小学校でそんなこと教わった覚えはない。
青森の話か?
150 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:52:36
>>148 > 南部は戦国以降を生き残るにはプライドが高すぎたと思う
でも維新まで生き残れたが(戊辰戦争では負けたけど)
151 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 15:09:18
>>150 あまりにも遠すぎてどうでもいいのと、誰も欲しがらない
山ばかりのやせた広大な土地が領土だったから?
152 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 18:18:42
南部藩は幕府におとり潰しされそうになったことはないのではなかったか?
153 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:11:40
明治政府の大蔵省は尾去沢銅山を欲しがった。花輪銅山もある。
他にも鉱山は多かった。大きな鉱山がある藩というのはけっこう少ない。
弘前藩や久保田藩も尾去沢銅山や花輪銅山は欲しかっただろう。
あと税収で大きかったのは南部杜氏に仕込ませた清酒や砂鉄で鋳造した鉄器。
だからといって、大商人の家をとりつぶして、財産を没収するのはいかがなものかと。
生き残るにはって成長できたかどうかって意味じゃ・・・
あと手を加えずとも最初からある資源の量とかもまるで関係ないかと
津軽と比べられるの嫌かもしれないけどさ いつも津軽と比較するから比べるけど
初代津軽ははっきりいって石高は全国で見ても最下位くらいだったんだよ
それこそ南部の半分以下の環境
それを初代藩主時代からずっと治水と水田開発ばかりやって まだ村だった今の青森市を土地代ほぼ無償で開放して
日本全国から人呼んで住まわせて港開いて 40年くらいでたしか31万石くらいの石高までなんとかしたのよ
二代藩主の時に幕府から信州(長野県)川中島10万石に国替えの話もあったのに辞退してまでね
その間に津軽も南部も大飢饉何度も経験してるけど 一揆の起こった量どう?
それが純粋に民からの評価だと思うんだけど
負い目とかで卑屈になって 津軽より南部は凄いってのを捏造してまでアピールしようとした歴史が今ボロボロでてきてるわけじゃない
負けたくないっていう根性はいいけど ネガティブな感情は受け継がないで
捏造せずに競い合ってたらもっといい結果になってたと思うけどね
156 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 07:06:03
津軽は軍事や農政の専門家をスカウトしているが
南部はそういう努力を怠った。
それでも維新まで改易されずにすんだ。
157 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:37:30
岩手県南に住んでいる俺には津軽への対抗意識とか全然ピンとこない。
むしろ葛西・大崎一揆を煽動していた仙台伊達への対抗意識のほうが強い。
まあ青森県民同士で勝手に対立してくれ。
大体表の石高と内高は関係ないし。
一揆の数が少なかったのは弘前藩の領民が伝統的にお上に従順だったということか?
158 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 19:49:01
捏造なら東日流外三郡誌のほうがはるかにスケールがでかいと思うが・・。
そういえば津軽vs南部のスレなくなった?
>>159 南部でも津軽でもない、単なる粘着荒らしが巣くったスレになったからな。
今後も作らない方が賢明だと思う。地方の人を煽って自分だけ高見の見物で楽しむ輩は2chに多すぎる。
161 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 01:32:17
よその人が思うほど岩手と青森は対立してないというかむしろ友好的。
俺は岩手だが青森の高校が甲子園に出たらやはり応援する。
対立は青森県内だけの話じゃないかな?
青森県内は新聞も違う。
津軽は東奥日報で八戸地方はデーリー東北。
八戸の人たちは公共事業が津軽優先なので
腹を立てているとか。
ちなみに俺自身は南部藩は嫌いだ。
あーそうかも
岩手青森だと確かに友好的かもしんない
八戸が一方的に津軽憎んでて、ピンとこない現代の津軽人が反応して腹立ててるって感じ
ライブで八戸も弘前も行ったことあるけど、八戸いくと津軽の悪口よく聞くもんな
弘前では悪口はまず聞いたことないというか、笑い話とかが好きなお国柄だから出てこないね
青森市はどっちの事も好きみたいだ
現在の青森知事は南部出身なんだろ?なんで公共事業が津軽優先だってことあるんだろう?
164 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 02:11:00
>>162 デーリー東北に勤めていた人の話を聞いたことがあるけど、
津軽地方への反感が酷いみたいだ。
戊辰戦争で官軍に着いて、三八上北と岩手北部で
一つの県を作ってもらえばよかったのに。
>>163 長年の歴史の話。
冷遇された地域の話だと、茨城の「下総野郎」というのもある。
(下総だったのに、千葉じゃなく茨城に編入された地域)
戦後の五所川原だったかの一般人による捏造と
代々捏造し続けた南部家とじゃスケール違うわな
まあ今更東日流外三郡誌を提示して議論するやついないから安心しろ
捏造なのか創作なのか諸説あるうちの一つとして判断できるのか
それができずに妄信した一部がいるから面倒になる
Wikipediaはそもそも信用すんなよ
判断の一つとしてちゃんと見れる目がないとダメ
Wiki内部とかほんとヤバイ
管理人や関係者が都合よくやってるとこもある
多重アカウントかと思うくらいカオスなとこもあるし
だんだんWikiは2チャンネル化してる
とにかくWikiを見るときは管理者とかにも気をつけて
それで判断しないと一部の津軽衆や南部厨の様にコーエーの武将ファイル丸パクりのような記事を信じるハメになるぞ
>>161 常陸宮華子様が言ってたけど
津軽家も南部家も笑い話にしてるくらいらしいからな>岩手vs青森の対立
歴史捏造を非難する資格なんて津軽にあるの?
相手が誰でも。
169 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 13:32:22
大体昔の記録を一々捏造捏造いうのも大人気ない幼稚な話だ。
日本書紀は捏造とか、古事記は捏造とか、聖徳太子は捏造とか、
万世一系は捏造とか、甲陽軍鑑は捏造とか、いちいち言ってたらきりがない。
津軽為信が藤原家の子孫というのも信憑性薄いだろ。大浦為信はもともと久慈の出身だからな。
久慈市では今でも大浦為信は地元出身の英雄的説明をしてる。
だから久慈家の子孫である久慈ありすは津軽を悪く言わないだろう。
>>167津軽華子様か
あの人自身が長州の血もはいってるから色々大変だったみたいだけど
それもあって気にしないんじゃないか?
100年経とうが200年経とうが相馬大作事件とか数々の暗殺や捏造の歴史を正当化してしまう文化が残ってる間は、
この遺恨の深さは埋まらないだろうな。
とりあえず
>>168は恥ずかしいから南部名乗るな。
すぐ津軽は〜とか比べたがるからこういう流れになる。
>>155が指摘してるように、領地を奪った家臣筋のが官位高いから気分悪い、自分も官位貰うために領民ないがしろにして中央に金使いまくった結果一揆多発とか。
その頃とまるで進歩してねえやつ多すぎっから舐められんだろ。
津軽どうとか気にせず普通に生活できねえのか。
中国人より恨みが深すぎんだろw
お前みたいなのが当時いたら暗殺とか戦争起こすきっかけ作るんだろうな。
何年時止まってんだよw
俺から言わせれば、南部信直だってクーデターくせえ事してお家乗っ取りしてんだからどっちもどっちだろ。
171 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 19:09:13
それで津軽為信は本当に藤原家の子孫なの?
172 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 19:43:52
津軽地方ですらそう思ってる人いないんじゃないか?
久慈説、元から大浦説、元から津軽説、藤原説、なんでもいいけどさ
あれは所領安堵してもらう為の苦肉の策だったってことは誰もが理解してるんじゃね?
もしかしたら本当にそうかもしれんし
どうせ今となっては証明すること難しいし
どうせ本当の血筋が証明されたとしても認めたくないやつは認めないだろうし
むしろ揉める原因になるくらいなら南部と同じ源氏の血筋じゃないほうがいいんだろうけど
南部の源氏の血筋すら怪しいって話すらでてるけどな
つーかどっちの血筋もどうでもいいし
家臣の謀反だとか、元から独立した豪族だったとかも関係ないな
大事なのは何を成して何をもたらしたかじゃん?
>>172 じゃ 歴史スレに何で書き込んでるの?
馬鹿?
別スレに行った方がいいんでない。
174 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 20:21:39
説一(寛永諸家系図伝)
奥州藤原氏、藤原秀ヒラの弟、秀榮・・・から八代目の子孫、
である出羽の金沢秀則が南部家に臣従。その子、金沢威信が反乱で自決。
その子、金沢元信が久慈南部家の養子となるが、南部家に謀殺される。
その子、久慈光信は1491年、津軽大浦に移住し、大浦光信に改名。
1947年、大浦に疎開した近衛藤原家の近衛尚道が光信の娘、阿久に政信を生ませる。
その子、守信の子が為信。
説ニ(津軽一統志 1731)
出羽の金沢家光?(説一の威信?)の子、家信の子、光信が久慈南部家より、
津軽大浦へ移住。大浦光信に改名。その子が盛信、その子が政信、その子が為則。
そこの養子になったのが久慈南部家治義の次男、為信。
出羽の金沢家の子が久慈南部家の養子となり、久慈光信が津軽大浦に移住して大浦光信になり、
その曾孫が為信と言うのは両方とも一致しているから確実だろう。
大浦家が久慈南部家の分家であるのも一致している。
一致しないのは、金沢家が奥州藤原氏の子孫かどうかと、疎開した近衛の庶子かどうかというとこ。
しかし、津軽家は江戸時代、近衛家に毎年三百両献金していたらしいから、
津軽家が近衛家の生活を支えていたのは事実だ。
>>174 近衛の話は嘘。
為信は近衛家に、最初は猶子として系図に書き込んでくれと頼んでる。
藤原氏の話は、4代津軽藩主の弟、河足権僧正が創作したお話。
176 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 21:03:07
>>173 何を成して何をもたらしたかは歴史じゃないの?
馬鹿なの?死ぬの?
どうせお前みたいなのはどんな血筋だろうが気に入らなければ否定するんだし
歴史スレすら見ないほうがいいよ
>>174 津軽一統志はすべてを信じるには怖いけど
近衛の庶子でなかたっとしても、174が言うとおり
秀吉に関白を譲ったっていうも半強制的にとられたようなもので
その前久に欠かさず見舞いの米や金品、奥州遊歴の便宜図ったりしてくれた為信には恩義感じてただろうし
前久自身、為信が庶子だったかどうかは気にしてなかったと思う
ただ、色々面倒見てくれたことが嬉しくて、系図や落胤説の認知、代わり牡丹紋、猶子の認知をしたんじゃね?
こういう血筋にこだわらないのもありなんじゃね?って事いいたかったんだけどね
血筋に誇り持つのも悪くないし、良い事だと思うけど、行き過ぎると狂気だわ
177 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 21:30:39
南部、津軽の対立どうこうよりも、
当時の京都の近衛藤原家が、三戸南部家から独立したばかりの弘前津軽家に
生活費を頼らざるをえなかった、と言う事実の方がはるかに興味深いな。
当時の貴族は、津軽や南部より貧しかったということか。何たって近衛家だぞ。
そりゃ盛岡に来る近江商人もいるわ。
当時はみな貧乏貴族。金さえ積まれれば系図の捏造なんぞいくらでも
したさ。
>>176 「何を成して何をもたらしたかは歴史じゃないの?」
だけが歴史じゃねーだろ。
あほ。死ぬか?
>>あほ。死ぬか?
ってwww
小学生かよww
南部のイメージ悪くなるから消えてくれ
182 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 22:48:30
為信が信直のパパを毒殺したって話は、話としてはそっちの方が北東北的には面白いと思うが。
>>181みたいなのがいるから他スレで南部禁止になってるという事だけはわかった。
初めて聞いたぞ南部禁止
185 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 13:14:11
南部信直も津軽為信も、九戸や葛西や大崎よりはずっと賢かったことは確かだ。
186 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:07:52
>>185 その辺の改易された大名は、なんで小田原に行かなかったんだろうな?
大浦の前って久慈弥四郎為信?
188 :
久慈ありす:2010/03/31(水) 20:55:19
ありすはそう習ったお・・(*’’*)
武田(蠣崎)信広は若狭出身じゃなく、南部一族出身だと恐山アンナが言っているようなモンだな。
>>189うまいなww
最近は史実なのか諸説あるうちの一つなのか創作なのかの区別がつかなくなってる人多いからなw
本で読んだのを取り合えず盲目的に史実だと思い込む人がややこしくしてる
191 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 22:30:41
大崎合戦で伊達政宗に勝利するほどの大崎義隆が小田原に行けなかったのは、
美少年家臣二人が義隆を取り合って、他の家臣たちを二分する程対立していたかららしい。
戦国系腐女子が萌えそうなネタ。
192 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 14:50:55
藤川ゆりは南部美人
193 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 19:28:12
でっていう
194 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 21:35:20
いやほら南部美人って言う日本酒があるからさ。具体例を・・。
藤島一家は津島派だから津軽系じゃないだろうか。
>>184南部禁止はわからんけど
戦国史とか他の板では確かに嫌われてる
伊達厨や南部厨のお国自慢や他国の悪口が始まると
みんなシラけてスレ止まる
だから
>>179みたいなのがいると
南部を一括りにされてしまうので非常に迷惑
197 :
日本@名無史さん:2010/04/03(土) 00:45:17
甲斐源氏はアイヌを虐待した
そんな血筋だ
武門の家だもの 売られた喧嘩は買うでしょ
>>191 津軽信枚なんか、津軽氏2代目になる際に反対者を粛正(津軽騒動)するなど色々尽くしてくれた家老と、
なんと一人の小姓を取り合い家老の一族を殺しまくっている。(高坂蔵人の乱)
おかげで、家臣の数は半減している。
200 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 18:47:02
源新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の家系はどうしても
アイヌ民族に恨まれることをしてきた
俺は岩手の珍しい苗字なのだが、やはり俺も
武田信玄(山梨県)のような甲斐源氏の血が流れているのだろうか?
なにげに自慢してるだろw
東北にズーズー弁を広げたのが甲斐源氏だろうに。
それは感謝してるんだよね?
204 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 14:12:04
津軽弁とかズーズー弁の域を超えてる気もするが。
ズーズー弁は北関東から福島あたりまでの方言ではないだろうか。
「砂の器」でも出てきたけど、ズーズー弁は出雲地方にもあるんだよね。
大国主命の国譲りに反対した勢力が、出雲から諏訪付近まで逃げるんだけど、この方言が甲斐に広がり
さらに甲斐の武士が東北地方に広げたと考えれば無理はない。
で、甲斐のズーズー弁は他の地区から流入した言語で消えてしまった…と。
207 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 19:22:17
北東北はジージー弁だという人もいるが。
しかしどー考えてもズーズー弁と甲斐源氏は関係ないよな。
甲州弁と南部弁って共通の表現ないだろ。
むしろ北前船とかの方が影響大きそうだ。
北前船でズーズー弁はどういう経路で伝わったんだろう?
209 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:53:57
どうも新潟弁あたりが東北弁と関西弁の境界らしいが、
新潟弁がズーズー弁なのに、甲州弁がズーズー弁でないのはおかしい。
新潟弁のズーズー弁は北から伝わったのか、
それとも新潟弁や出雲弁がもともとズーズー弁だったのか。
金沢富山が関西弁なのは京都が近いからだろう。
俺は、甲州で諏訪氏あたりが滅ぼされたあたりで方言が入れ替わったと見ている。
でも、滅ぼしたのは武田氏なんだよな…。うーん。
北東北には福士という姓の人達がいるけど、甲斐のほうにはいないらしい。
甲斐の地名で福士は今もある。
雪が降って寒いとズーズー弁になるんじゃまいか
鼻をすする感じで
213 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 13:34:52
富山金沢山梨だって雪さ降るべさ。
茨城栃木は雪降んねーべ。
桜が咲きだして雪もふる
215 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 00:57:26
216 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 22:15:50
南部史要の重信公のとこにこんなことが書いてあった。
元禄十年(1697年)に南部重信は尚齢会と言う会をつくり、家老漆戸勘左衛門に、
領内80歳上の男女の数を調べさせた。その結果は780人で、100歳以上の人は3人いた。
ちなみに延宝年間に重信が召抱えた閉伊郡釜石村の与助は124歳だったという。
>>215 速水融って南部の古文書なんて読んだ事もないだろうな。
218 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 09:25:27
速水融は英語で歌がうたえる。
219 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:42:32
220 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:50:40
色々読むと南部信直は相当な射撃の名手だったようだな。
>>199 ま た 津軽と比べるのか。恥ずかしいやつだな。
だから南部厨は・・・って言われるんだよ。
当主争いで暗殺や脅し、天皇家親戚筋までもを暗殺未遂。
陰険杉。
222 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 17:35:42
>>221 >天皇家親戚筋までもを暗殺未遂。
それは知らなかった。もっとくわしく。
幕府からおとがめはなかったの?
223 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:35:14
それはつまり津軽家が近衛(藤原)家の親戚と言う事を言いたいのでは?
相馬大作は幕吏に捕縛されて斬首。
まあ津軽家が近衛家の本当の親戚かどうかは別としても毎年300石を津軽から送米していたのは事実。
関係ないけど津軽家は弘前城内でひそかに豊臣秀吉祀ったり、石田光成の遺族保護したりしてんだよな。
不思議な藩だ。
>>223 そんなに津軽のこと話したいんだったら、津軽氏スレでも立てろよ。
あ
為信も南部か!
225 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 01:16:14
>>223 > まあ津軽家が近衛家の本当の親戚かどうかは別としても
近衛家サイドが「津軽家とは血縁」と認めた以上しょうがないよな。
つがるような思いで親戚扱い
227 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:53:35
仇敵同士のはずの南部信直と秋田実季は、九州で初めて会って話をしたら案外気があったらしい。
そういうのって部活とかでもよくあるよね。ライバル校のキャプテンよりも部活の後輩の方が嫌いとか。
228 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:49:01
甲斐源氏と蝦夷
結局は共に北の大地に住まう者同士、共通する
思いがあったと言うことか
>>227 kwsk
そんな逸話があるのか
名護屋で田舎物と馬鹿にされた為信を信直が同情した逸話は知ってるが
230 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 21:00:43
松前の殿様まで名護屋に行ったからな。
あのぐらい遠いと逆に馬鹿にされないようだ。
遠方はるばる来てくれるだけで心強いしな 軍勢の数とか関係なく士気もあがる
南部にしても津軽にしても安泰とはいいがたい頃だったでしょうし。
233 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 08:15:31
235 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 09:30:12
伊達家と南部家の関係が緊迫というか不穏になったことはあったんだっけ?
236 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:37:03
伊達政宗は大崎葛西一揆を煽動して浅野長政から花巻を奪おうとしたが南部信直に阻止された。
関ヶ原のときにも、南部利直が直江兼続から最上義光を助けるために山形に行った隙に和賀忠親を煽動してまた花巻を攻撃させたが、
北信愛に阻止された。しかもそのせいで家康に100万石を保証されていた伊達家は62万石になってしまった。
しかし江戸時代にはもう仲直りしたのかな?
237 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 22:33:08
しかし南部も津軽も転封されることもなかったのに、
蒲生や最上が改易されて国がなくなるとは小田原攻めや関ヶ原のころには想像もできなかっただろうな。
>>233 南部家から津軽家に嫁に行った姫は、やっぱりいないみたい
239 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:06:14
>>236 > しかし江戸時代にはもう仲直りしたのかな?
どうなんだろ?
240 :
日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:08:01
>>236 花巻って物凄い戦略的要地って感じはしないところなんだが。
宮沢賢治が生まれているから文学的要地だとは思うが。
佐藤皐蔵閣下の出生地でもある
243 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:54:28
閉伊一揆の首謀者たちは、藩には税金を納付できないので伊達に集団出稼ぎに行ってきます!
と説明していたらしい。
244 :
日本@名無史さん:2010/05/05(水) 19:40:53
盛岡の南部城には津軽から来た姫がいたらしい。
245 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 20:55:39
日比谷公園には南部亭というフレンチレストランがあるな。
>>245 日比谷公会堂あたりが南部上屋敷跡だけど南部亭は後藤新平ゆかりの蕎麦屋が前身というから盛岡とは関係ないな。
247 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 01:12:21
それって、ファミリーレストランの南部屋敷の前身?
248 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 20:48:52
でも経営者は南部伯爵の親戚らしいが。
249 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 23:12:28
へぇそうなんだ
分家の人とか?
南部家の親戚とかいいだしたら、どんだけの数があるか知れない。
津軽の殿様衆からも出てくるぞ。
251 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 19:49:24
252 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 15:40:01
東京憲兵隊にいたケンぺーくんこと南部十士郎大尉もやっぱり南部藩の子孫だろうな。
同じ南部藩士の子孫の東条英機に重用されたに違いない。
ケンペー君は南部麒次郎が由来だって
254 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 13:20:43
南部麒次郎も先祖は甲斐源氏だろ。南部藩とは無関係だろうが。
南部甕男(高知出身)や南部辰丙(石川出身)も甲斐源氏の一族か?
256 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 21:00:27
やっぱり南部氏の姫は南部千歳のように乳の大きな姫が多いんでしょうか?
南部千歳で検索しちまったじゃねーか。畜生ww
258 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 22:56:46
うちのひーじーさん、伊達とつながりあるけど嫁さんは南部からもらったよ。
明治時代のお話し。
>>258 両家幸せになれる結びつきだったのでせう。
260 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 10:46:40
南部と伊達って国境をはさんで小競り合い程度の戦争しかやっていないはず。
大規模な戦争をやったらどっちが勝ったんだろうか。
お互いが戦って疲れたところを
津軽か最上が両者を華麗に撃破と予想
262 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 21:28:46
1601年の和賀一揆のときはかなり本格的にやってる。
南部が包囲する岩崎城に立てこもった和賀忠親の一揆軍に、
水沢城の白石宗直が米と弾薬送ろうとしたところを夏油川で南部騎士に待ち伏せ包囲され
鈴木将監以下200人が戦死。白石は和賀救出を断念。
それを徳川家に報告され、伊達は100万石の約束が62万石に・・・。
263 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 01:49:20
南部や佐竹は地元での戦闘(ホームゲーム)は強いからな。
264 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 01:14:07
「戦国武将の通知表」って本読んだら南部信直は東北で一番評価高かった。
伊達より評価が高いのは津軽は失ったけど代わりに和賀・稗貫・志和を獲得した南部信直と比べて
伊達の方が失った領地が大きいだからだろうか?
265 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 02:54:41
いわゆる奥州仕置で、旧蘆名領をそっくり召し上げられ、岩出沢に懲罰的転封を喰らいましたからね
>>264 東北で一番評価高いの最上義光だと思ってた
267 :
日本@名無史さん:2010/06/27(日) 17:02:09
最上義光本人は明らかに南部信直より格上だと思うが
子育てでは失敗したね。最上騒動見ると南部利直も偉いと思う。
268 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 01:43:24
家親を徳川に預けていたから、徳川が次男に謀略の種をしかけ、最上家臣団にクリーヴィッヂをはしらせたわけですな
269 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 04:24:15
>>265 少し違うな。
小田原参陣で旧芦名領を召し上げられて本領に逼塞。
葛西大崎一揆をけし掛けたはいいが、長年支配していた肥沃な本領を
召し上げられて、一揆で荒れた岩出山に逼塞させられ石高減少。
伊達が一か八かの投機を好むなら、南部は減らされた分を
他所で取り返そうとする。
でも南部の新規領土に極端に冷たい姿勢は褒められたもんじゃないが。
270 :
日本@名無史さん:2010/06/28(月) 14:23:53
まあ和賀氏は伊達の援助で葛西大崎一揆のときと関ヶ原のときと
実際に二回反乱を起こしてるからなあ。津軽、九戸も実際反逆したし。
おかげで南部の忍者(間者)は優秀になったそうだ。
盛岡の近江商人にはそういう役目もあったらしい。
271 :
名和宏:2010/06/29(火) 07:09:57
津軽には「早道の者」という隠密集団があっただが、南部にはそういう部所はあったのか
272 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 19:31:09
273 :
日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:21:48
>>271 > 津軽には「早道の者」という隠密集団があった
あれは桃山時代に伊賀者をスカウトしたのではなかったか?
>>272 これ書くと荒れそうだが
半島の某国みたい
275 :
日本@名無史さん:2010/06/30(水) 14:00:04
情報収集は外交の基本
277 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 13:40:11
>>276 鳥羽伏見の戦いの結果を知ってから幕府に味方したからな。南部藩は。
時勢を見抜く能力が高かったんだろうな。南部藩は。
278 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 13:44:34
楢山は薩摩と長州だけなら勝てると思ったんじゃないか?
実際庄内藩や長岡藩は何度か勝ってるし。
しかし盛岡藩のとこに来たのはよりによって最強の佐賀藩だった。
279 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 14:10:39
>>278 > 楢山は薩摩と長州だけなら勝てると思ったんじゃないか?
鉄砲の数と性能を考えると勝てるとは思わないだろ。普通。
280 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 14:12:01
長岡藩は機関銃を輸入していたから多少は戦えたが、南部の武装は旧式だから。
281 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 14:15:21
目時隆之進とか中嶋源三とかはちゃんと薩長の情報集めて報告していたが、
最後に判断したのは楢山だった。
282 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 14:17:01
あ、源蔵だった。
283 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 14:24:59
夜襲ならホームゲームの側が有利と考えたのかもしれないな。
秋田戦争はホームでもなんでもないし、夜襲もしてねー。
むしろ悪天候の時に奇襲されている。
286 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:09:19
>>277 ノルマンディー後にわざわざ枢軸側で参戦するみたいなもんだな。
287 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:47:25
そうすると野辺地に攻め込んだ津軽は終戦後に占守島に上陸したソ連軍みたいなものかも。
288 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 23:06:43
>>287 元々不可侵条約とか結んでないからそれは違う。
薩長の下級武士たちによる政権転覆などは理解できなかっただろうし、盛岡藩一国が東北で薩長についたら・・あれ?八戸藩の殿様は薩摩からの入り婿だったんだし、もうちょっとうまく立ち回れたかもしれないね。
八戸藩は八戸藩で秋田と影で繋がっているしな。
かえすがえすも、楢山の判断はなんなんだ?伊一揆で仙台から収賄でも貰ったのか?
>>290 >>八戸藩は八戸藩で秋田と影で繋がっているしな。
詳しく
292 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 01:32:20
>>290 ウィキからだが。
楢山の京都での体験。
>新政府側の意見のばらつきを感じ、また、西郷隆盛と接触した際には下級武士と
>車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府になった際の自分の立場に
>危機感を覚える[1]。このため、新政府と対抗する意志を固め
>奥羽越列藩同盟への加盟を決意したとも言われる。
293 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 14:36:31
>>292 >また、西郷隆盛と接触した際には下級武士と
車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府になった際の自分の立場に
危機感を覚える
賊軍認定された場合の自分の立場はもっと危機的だったわけだが。
294 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 17:41:20
>>293 目先の危機を回避するために大局を誤った感じだな
普段から下級武士にやたら威張っていたから、もしそういう上下の区別が無くなったら、
復習される可能性が高いとでも思ったんじゃないのか?>楢山佐渡
296 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:32:57
西郷隆盛と接触したのに、その徳望や統率力に気づかなかったってのは凄い。
297 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:35:37
まあ一応楢山の予想通り新政府はバラバラになったがな。
薩摩の西郷隆盛は武装した平民に危機感もった下級武士と反乱。
佐賀の江藤新平は佐賀で反乱。土佐の板垣退助は自由党立てて自由民権。
298 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 19:58:03
弘前藩とか久保田藩って官軍側について得したり優遇されたことって何かあるの?
鹿角とか、青森県南部を貰ったじゃないか。
300 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:30:29
>>298 > 弘前藩とか久保田藩って官軍側について得したり優遇されたことって何かあるの?
津軽家の当主に対する明治政府の態度が丁重だった。
301 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:40:27
いやいや八戸藩は賊軍じゃないから弘前藩が獲得したと考えるのはおかしい。
それに下北を与えられたのは弘前藩じゃなくて会津(斗南)藩。
それに盛岡藩は賊軍なのに仙台藩だった岩手県南部をもらってかえって得したことになる。
302 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 20:57:37
>>301 > それに盛岡藩は賊軍なのに仙台藩だった岩手県南部をもらってかえって得したことになる。
もらえた理由がわからん。
303 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 21:47:18
>>301-302 仙台藩に対する懲罰と、南部は本領の八戸を分離させられて
これもまた懲罰。
官軍だったら八戸&盛岡藩&岩手南部で、これだと広すぎるから
八戸県と盛岡県が出来ていたかな?
>>300 津軽藩はその成り立ちがどうとあれ、江戸期においては公家出自の大名としての扱いですから。
305 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:07:56
津軽家、南部家の爵位が伯爵で、佐竹家が侯爵なのは明らかに官軍についたから。
306 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:34:36
平氏政権以来の家である佐竹家は家柄が古いってのも多少あるかも。
307 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:54:51
南部家もちゃんと清和天皇の子孫として扱われていた。
たぶん徳川家よりは系図マシだと思う。
309 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 11:52:07
仙台伊達家は伯爵で、宇和島伊達家は侯爵。
310 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 12:33:38
宇和島は賢候だったからな。
311 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 16:46:51
313 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 22:14:07
伊達慶邦は伊達斉義の次男。
しかし南部が官軍についていたら南部侯爵家になっていた可能性もあるのかな?
まあ伯爵でも侯爵でも平民と比べればいいご身分だけど。
314 :
南部信濃守利敬:2010/07/04(日) 22:52:58
家来に過ぎなかった津軽藩が、從四位の位まで賜って、わか藩の上位に坐るというのは、到底承服しがたいことにござります。
315 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:12:50
316 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:15:25
信直にとっては南部家の家来と言う以前に、その前の石川家の家来だったつーのもあるしな。
317 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:28:06
ワーテルローの戦いのあとでフランスに味方したようなもんだな。
すごいなあ、幕末の南部は。
318 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:33:21
津軽は、南部藩のもっとも豊かな土地である野辺地、烏帽子山を二百年前と同じように武力をもって無理矢理奪い取り、利敬を暗殺した
>>317 名誉回復もしたし幕末のことはもう許してやれよ
320 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 02:47:01
>>317 楢山さんの辞世の句が
花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道。
つまり「俺は理解されず無念」だから図々しいわな。
親藩や御三家さえも朝廷軍に参加してるなかで、西国雄藩と
接触したくせに、あえて幕府側に着くのはある意味凄い。
>>320 インパール牟田口もずうずうしかったそうだ。
Wikipediaの『野辺地戦争』から。
>明治2年の11月6日、戦闘による放火を受けた馬門村に弘前藩から二名の使者が来訪した。弘前藩士らは対応した馬門村庄屋に
>「戦闘は本意ではなく、佐賀藩からの圧迫を受けてやむなく侵攻したが、それだけに馬門村の村民が気の毒でならない。弘前藩は
>償いとして米30俵、材木200石、すだれ1戸あたり10枚を支給したい」と被害にあった64戸、寺院1件への賠償を提案した。
>だが、庄屋の川村六次郎は丁重に断り、「この手厚い賠償が我が藩と他藩との前例となると、久保田藩との戦闘で同様に放火を
>行った盛岡藩にとって後難となる恐れがある」との理由を述べた。
これって、美化しているけど、罪もないのに家を焼かれた秋田の庶民をバカにした話だよなw
いや。南部藩って昔から庶民を人とも思わない傾向はあったけどさーw
>>322 賠償を断ったのは馬門村庄屋であって盛岡藩士ではない。何でこれが「南部藩って庶民を人とも思わない」
になるのか理解不能。特にこの野辺地戦争が意味の無いものである事と「久保田藩との戦闘」が戊辰戦争
の一部である事を考えあわせればなおさらである。
324 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:32:12
幕末の南部藩と佐賀藩では鉄砲の性能が違いすぎて勝負にならなかったのかな?
325 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:45:19
>>317 いつの時点で味方しようと決めたんですかね?
もしかして徳川将軍家が江戸で徹底抗戦すると思ってたとか?
326 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 22:52:17
>>325 > もしかして徳川将軍家が江戸で徹底抗戦すると思ってたとか?
あー、それはあったかも。
>>324 南部藩の銃を持った百人の兵<佐賀藩の最新元込め銃を持った5人の兵
だったみたい。
>>323 いずれにせよ。自分の藩のことしか考えていなく、被害を与えた地区の庶民のことを考えていないのは事実。
>>328 戦争ってモノが判ってない、お子ちゃまの意見だな。
悲しいけど、これ戦争なのよね
これが南部精神かw 極めて貧しいな。
やはり三閉伊一揆が起きた土地だけあるなw
津軽を延々と恨んでいた地区だからなw それくらいの言動はする。
相馬大作事件というたいしたことがない事件を講談などで流行らせたのも南部精神だ。
334 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 00:11:01
>>333 あれが美談になるってのが凄いよな。
北条家の殿様を喜連川家臣が暗殺しようとするようなもんだ。
相馬大作事件を美談にしたのは恥ずかしい事だが藤田東湖にも責任がある。
>>332 貧しい藩の財政を庄屋も心配してるから賠償を断ったんだろ。貧しくなかったら断る理由が無い。
赤穂浪士が人気になるんだから別にいいじゃね
相馬が美談になっても
どっちもテロリストだって言われたら、それまでだけど
337 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 03:54:46
>>336 あっちとはまた違うだろ。
赤穂はまだあだ討ちといえるが、相馬は遠い昔のことをほじくり返しての暗殺未遂。
一緒にすると笑われるぞ。
338 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 19:40:10
つまり相馬大作事件が美談になるほど津軽藩は普段から江戸の庶民に嫌われてたってこと?
江戸の庶民が美談に飢えていたって事。
344 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 21:29:08
父ちゃんが佐竹で、母ちゃんが石川なんですが、僕は源氏を名乗ってもいいんでしょうか?
345 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 22:08:40
いいと思います。南部信直も名字が田子→南部→石川→南部と変わっていますが、
徳川家康からは征夷大将軍になれる家系として伊達や津軽よりひいきされていました。
お互い捏造源氏ってことだなw
秋田佐竹家の末裔なら男系だと上杉?
本所七不思議のひとつに津軽の太鼓がある。
太鼓の不思議と言っているけど、なにが不思議なのかというと大名の上屋敷が本所みたいな江戸城から遠い場末にある事の不思議なんだよ。
南部より津軽が高い官位に付くのは幕府の意図にも沿わなかったって事
南部は岩手の恥
351 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 13:37:53
豊臣・津軽→捏造近衛家
徳川・南部→捏造源氏
同じ捏造なら幕府としては捏造源氏のほうをひいきしたいのでは?
352 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 14:45:03
本物の源氏で徳川時代まで生き延びた大名家
(征夷大将軍になる資格をもつ)
はどことどこがあるの?
そりゃ、秋田佐竹氏だろ。
細川家
355 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 22:09:13
南部利克って正室腹なんだな
356 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 23:16:05
南ア様
357 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 23:20:17
359 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 21:04:44
しかし秋田は戊辰戦争のときに南部が突然進攻してきたというが、秋田だって先に庄内に攻め込んでるんだよなあ。
速攻で負けて退却しただけで。
奥羽鎮撫隊が仙台にやってきて、「会津と庄内はけしからんから成敗せよ」ってなモンで、会津には仙台が中心になって、
庄内は秋田が中心になって攻撃せよ!と命じられたから兵を集めただけ。庄内攻撃には弘前藩も矢島藩も本荘藩も
亀田藩も参加して本荘藩内に集結している。
ところが、本荘藩内を移動している最中に、庄内から隠密に本荘藩内に進入した兵が連合軍を攻撃。連合軍は総崩れと
なり撤退した。
仙台の方は、集まったけど、妙な雰囲気になり白石同盟になるわけだよな。で、白石同盟締結で、戦闘についてはうやむや。
というわけで、第一次戦闘では、別に秋田は庄内に攻め込む体勢はとったが、実際には攻め込んでいないよ。
ちなみに、このとき南部は何をやっていたの?
様子見
warota
364 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 20:54:10
慶応4年4月24日、盛岡藩の第1大隊400人が鎮撫総督府の会津藩藩命令で岩沼へ進出。
第2大隊は仙台領富谷町へ。第3大隊は水沢へ。閏4月8日、第1大隊は須賀川へ。
11日、庄内藩討伐命令を受け錦旗を貸与されるが、白石で会議。
21日、須賀川より仙台に北上し新庄より庄内へ。半大隊が七北へ先行。
しかし仙台藩は駄馬の提供を拒否。
盛岡藩士の鮫島忠左衛門がこのことを総督府に報告しようとして仙台藩士に斬殺される。
一触即発となるが、結局会庄除名嘆願書の結果を待つということで、
4個小銃小隊、1個大砲小隊を仙台に残して盛岡へ帰藩。
なぜかそれを追っかけて佐賀藩、小倉藩の1300人も盛岡へ。
仙台にいった銃士銃卒はもうみんなライフル銃で揃えていたらしい。
365 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 22:32:33
小倉藩で一番有名な軍人は日露戦争第二軍の奥元帥だが、
元帥はこの戦線には来ていない。
366 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 21:18:41
そうか攻め込む前に本荘でやられて総崩れしてしまったんだな・・・・。
367 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 21:32:30
奥元帥(南山の奥)が来ていたら史実以上にボロ負けしていたと思う。
368 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 21:57:22
まあ奥羽の側には立見尚文大将(黒溝台の立見)や酒井玄蕃もいたしな。
369 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 21:51:47
小倉藩は盛岡には何泊かしただけでスルーして秋田へ行ったので盛岡藩とは戦闘していない。
佐賀藩はまた大館の方にバックしてきたけど。
370 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 08:44:36
楢山さんの波乱の生涯をドラマ化しよう。
楢山さん=上地なんとか
西郷隆盛=内山君
371 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 14:05:46
これから高橋克彦の「天を衝く」を読んでみまーす
373 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 23:10:56
>>371 「南部九戸落城」渡辺喜恵子
面白さならこっちだな絶版だけどさ。
374 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 19:56:52
読み終わったら「日本の古本屋」で検索してみまーす。
375 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 20:21:39
しかし南部と津軽が仲悪いのはわかったが九戸と津軽は今でも仲いいの?
376 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 01:53:13
九戸氏は一族郎党全滅してしまったから。
377 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 13:30:19
なるほど!
378 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 13:39:47
楢山の生涯に感動した。
楢山が外国の首相に転生していたならば
昭和20年8月14日に日本側について参戦してくれただろう。
379 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 13:53:25
何か自分に都合よく誤解している奴がいるようだな。
悪意ある誤解
381 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 03:22:09
382 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 14:28:13
キャスト
楢山佐渡・・ 地元出身の村上弘明
東中務・・・ 沢村一樹
目時隆之進・・玉置弘
中嶋源蔵・・・高橋克美
但木土佐・・・渡辺健
佐竹義堯・・・泉元弥
西郷隆盛・・・曙太郎
大山格之助・・市川海老蔵
世良修三・・・押尾学
383 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 19:32:19
大山格之助は鹿児島県知事になって西南戦争で官軍に処刑されたのだったな。
秋田でも楢山さんは敵将ながら格好良かったという話は確かに残っているな。
焼け野原になった比内町や、最大の決戦地となった岩瀬でも目撃談が残されている。
385 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 21:52:16
鳥羽伏見で薩長が勝ったあとに薩長の要人と会談して
その後に幕府に見方するってのは凄いよな。
386 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 21:52:22
伊達といえば渡辺謙。そういえば南部藩士もドラマで演じたし。
387 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 07:09:26
伊達を当てにして最後に負けるのは九戸と同じパターン。
388 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 13:58:57
伊達は他人を煽っておいて自分は先に降参するパターン多い。
389 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 14:55:40
伊達は軍事ではなく外交で勝負する家だからな。
390 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 15:19:53
391 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 21:10:52
鳥羽伏見の勝利は純粋に軍事的な勝利と言うよりも、ガチ勤皇の慶喜、容保に対する
心理的政治的勝利だからな。本気でやったら長岡・庄内・函館のようにものすごい消耗戦になったんじゃないだろうか。
392 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 21:40:02
幕府軍が江戸城に篭城したらどうなっていたのか気になる。
>>391 そこにやる気満々だった容保を入れるのは違くね?
>>392 江戸が焼け野原になって、新政府による政権確保が遅れる隙に列強が乗り込んできて植民地。
395 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 01:23:19
>>391 慶喜に隠居してもらって別な人間を将軍にして、上野の輪王寺宮を担げばよかったのに。
396 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 14:20:30
幕府があっさり降伏したのと、伊達があっさり逃げ出したのと、
佐賀兵が強かったのが、計算外だったね。
上のほうで、楢山佐渡や相馬をバカにしたカキコミが目立つけど、
当時は「身分の上下をきちんと保つ」ことが、社会秩序を守る基本
だったから、むしろ、楢山や相馬の方が、「正しい」「常識的」な考えだったんだよ。
明治維新以降の「西欧諸国を見習って日本を近代化する」という日本の
政治スタイルまで、考えた上で戊辰戦争に加わった人間は新政府軍にだって
そんなに多くはいない。
ほとんどは「関ヶ原の恨みを晴らす」「自分の藩を大きくする。政治力を増す」という考え。
当時の社会的常識に従えば「社会秩序を保つ」ために参戦した楢山佐渡のほうがむしろ正義。
現在の視点で、楢山や相馬をバカにするのは後世の人間の傲慢だよ。
「勝ったものこそ正義」というのは、それこそ「韓国人」「朝鮮人」の考え方。
397 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 15:11:23
薩長に味方したほうが、藩内の秩序は温存できたような気がする
徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの前から雄藩政権に傾斜し、幕府を見限っていたし
勝利者を過小評価するようでは、徳川家康に最後まで反抗した淀殿と楢山や相馬は変わらない。
「敗北者こそ正義」というのは、それこそ独立以降の現在の「韓国人」「朝鮮人」の考え方。
398 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 17:17:10
>>396 いやいや。
フランス革命みたいに上流階級対下層階級で分かれたんなら
その話も納得だが、戊辰戦争は違うだろ。
大藩や親藩が官軍に着いている中で、あえて幕府側に回ったんだぞ?
399 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 20:40:55
>>396 徳川の柱である井伊家も尾張家も藤堂家も既に薩長側についていたんだが。
400 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 20:44:50
盛岡藩や仙台藩は幕府を守ろうとした訳では全然ない。
会津庄内を助け、東武天皇と言う別の天皇を擁立し、
別の官軍を編成しようとしただけ。それが原敬の言っている意味。
愚直な忠臣というよりドライな現実主義。
慶喜は錦旗に盲目的にビビッて萎縮したが、楢山は錦旗にビビらなかった。
401 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 21:19:23
ドライな現実主義とはいうものの、
薩長側の諸藩が最新式の銃などで武装していることを過少評価しすぎた。
佐賀藩の兵は勇猛というわけでもなかったが、
最新式の武装だったから、猛訓練を積んだ南部兵を駆逐した。
402 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 21:21:09
楢山佐渡は薩長側の装備や士気や
西郷の統帥力を目撃しているのにもかかわらず
それを過小評価した。
403 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 22:16:58
>>400 実力の差を読めなかったという点で、盛岡藩や仙台藩はドライな現実主義などではなく、
誇大妄想あるいは自己肥大に陥っていた。
404 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 22:22:37
>>402 それはそれで問題大有りだろ。
日和見していた藩や大勢順応の藩が西国雄藩の側に着いているのに、
たとえ奥羽越の藩が一体になっても敵うわけないだろうが。
たとえ装備が同じでも無理。
全然現実的じゃないよ。
どうせ田舎の大名にありがちな
「我らの武勇には敵うまい」
な自己陶酔で現実を見なかっただけだろ。
それにしても楢山は京都で彼らの装備を見たはずだろうにな。
楢山には正義が有りという人の意見もわかるんだけど、ここで問題になってるのは、楢山が何故勝ち馬に乗らなかったかだろう?
西南諸藩や中央の情勢にも通じていた。
奥羽列藩同盟の中でも会津・庄内・仙台に比べればずっと外交的選択肢も多かった。
楢山は東北地域が連合を組めば薩長に勝利し、少なくとも負けないと思っていた。
それにしては
・盛岡藩は秋田に申し訳程度の武力で戦闘を仕掛けただけで、東北戦争の形勢には無関係だった
・盛岡藩の同盟側での戦闘開始時には、既に同盟側は形勢不利だった
まるで硫黄島の玉砕後に、日本支持でどこかのラテンアメリカの国が参戦したみたいなもので、
戦術的にはまったく無意味な敗戦国入りであった。
だから、その理由は多分楢山の個人的モノだろ。
下級武士をいじめすぎたことがあり、厳格な身分制度が崩壊するとまずいと思っていたとかね。
408 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:01:19
>>406 > まるで硫黄島の玉砕後に、日本支持でどこかのラテンアメリカの国が参戦した
みたいなもので、 戦術的にはまったく無意味な敗戦国入りであった。
たとえが非常に適切だww
409 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:04:50
>>407 結果的にはそうはならなかったが、戦争やる以上は
南部の殿様が戦死したり処刑されるリスクがあった。
そこまで熟慮しての参戦だったのだろうか?
盛岡藩の兵の運用から見れば、
「隣の久保田が弱小なので、ある程度領土を掠め取っちゃえ」、という程度の考えだったとしか
表現しようがない。
中央の政権争い、天下の一大事だとは認識していなかった浮世離れ感が、
盛岡の国許よりも楢山自身に宿っているように思える。
だって、部下が腹切って諫めても、態度を変えなかったんだろ?
どこのシグルイだよ!>楢山佐渡
もう楢山のスレ立てたら?
413 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:13:37
西郷隆盛が兵たちと共に食事をするのを見て
西国雄藩の家老とかは「西郷は兵の心を掌握している。これは強いぞ」
と思ったのに、楢山は「こりゃダメだ」と思ったらしいな。
414 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:15:47
>>407 負け組みについたら、身分制度の崩壊という問題ですまなくなるんだが。
身分制度の崩壊を防ぐには西国雄藩に勝つしかないんだが、勝ち目が
あるとは到底思えない。
ハルノート突きつけられた日本みたいに追い込まれてたわけでもないし。
>>410 もしかして東が新政府支持だから俺はその逆だ、とか。
415 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 23:23:11
>>414 > 負け組みについたら、身分制度の崩壊という問題ですまなくなるんだが。
殿様が処刑されてお家断絶のリスクまであるしな。
416 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 03:22:47
南部の殿様は明治となって以降は伯爵となり、昭和大恐慌で破産するまでは日本では10番に入るお金持ちであった。
417 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:36:28
あのね。当時は「身分の上下をきちんと保つ」ことが、社会秩序を守る基本
だったから、むしろ、楢山や相馬の方が、「正しい」「常識的」な考えだったんだよ。
その上で、「社会秩序を保つために、不利な状況でも戦うのが武士」
「そのためには死んでも構わない。むしろそのために死ぬことこそ名誉」という
矜持を持っていたんだよね。
「こっちが強いから、こっちの味方」「このままじゃ、負け組みになる」というのは、
本質的に武士としては恥ずかしい感覚。
別に、俺は楢山や相馬を、絶対的な正義のヒーローと思っているわけじゃないけど、
「勝ち、負け」の視点でのみ語って、彼らの気概を正しく評価できないのは、悲しいことだよ。
「強いものに従うべきだった」というなら、現在、チベットで行われている
圧政にも抗議するべきではないし、台湾が中国に飲み込まれそうになっても
中国に対して批判するべきじゃない。
418 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:41:34
>>417 > 「こっちが強いから、こっちの味方」「このままじゃ、負け組みになる」というのは、
> 本質的に武士としては恥ずかしい感覚。
井伊も藤堂も「こっちが強いから、こっちの味方」したんだが。
南部信直も「徳川が強いから、豊臣から乗り換えた」んだと思うよ。
419 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:43:42
>>417 > 別に、俺は楢山や相馬を、絶対的な正義のヒーローと思っているわけじゃないけど、
> 「勝ち、負け」の視点でのみ語って
もともと武士や武家は「勝つため」「所領を守る」ことに全力を注ぐ存在としてスタートしたのだが。
420 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:52:55
江戸時代以降の徳川幕府が変質させた、朱子学・朝鮮儒学系の「武士道」は、
上下の秩序を保とうとするだけで、日本に停滞をもたらしてしまった。
戦国期の武士道は上下関係よりは、自己の利益を図り研鑽するものであった。
これが日本と、中国などの他の朱子学系東アジア諸国を分けた要因ではないかと思う。
楢山や相馬は、頭の中が朝鮮半島人になってしまったから、事実を直視できなかったのだろう。
>>417は朝鮮半島人の考え方だと思う。
武士なら、「こっちが強いから、こっちの味方」「このままじゃ、負け組みになる」と考えるべきだろう。
422 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 10:58:42
楢山や相馬の先祖は「武士」「武人」だったのだが
楢山や相馬の代には「朱子学の信者」になっていて
現実の軍事政治情勢ではなく
脳内の大義名分で動いていたのだと思う。
423 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 11:01:20
徳川慶喜も「徳川八万騎」の弱さにはあきれていたが
机上の軍事通が、大村益次郎などの西洋戦術家に負けたのが維新戦争。
424 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 13:33:15
純粋に軍事的なことを考えると、列藩同盟側は榎本が指揮する幕府海軍を
もっと上手く使えばよかったと思う。
後知恵だが、仙台でグダグダしてないで、庄内藩や盛岡藩に呼応して日本海側に回り、
能代や酒田へ進出して佐賀藩の増援を阻止できれば盛岡藩は能代を、庄内藩は秋田を制圧できただろう。
久保田藩が降伏したら防御ラインを酒田〜米沢〜仙台に整理できる。
しかし後は函館で武器購入しつつ外国に仲介でも頼んで停戦交渉するしかないだろうな。
425 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 13:47:26
幕府海軍を使う場合、燃料や水や食糧の補給や、船体の修理やメンテナンスは
クリアできたのだろうか?
426 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 20:09:57
仙台でもメンテや補給はしたらしい。庄内に船回す準備もしてた。
しかし仙台兵がドンゴリ(ドンと一発撃たれると五里下がる)だったのと、
艦隊が品川出港した後に暴風雨で静岡まで流されたのが誤算だったか。
427 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 11:22:53
いくら口では偉そうに正義や道徳を言っても、イザ、戦争になると、
平気で強いものにつくのが韓国人や中国人。
これを事大主義という。
だから、
>>420のような評価はおかしいよ。
逆に聞きたいのだが、第二次大戦中、朝鮮人は「日本人」だったはずなのだが、
日本が負けた途端「俺たちは日本人ではない」「日本は敗戦国、俺たちは戦勝国民」と
いって、犯罪行為や土地の不法占拠、強姦などを行ったわけだけど。
こういう行為を評価するの?
俺は醜いと思うし、軽蔑するけどね。
もちろん、戦略・戦術も大切だけど、それは大前提に守るべき「道義」が
あってこそのものだよ。
「そんなことはどうでもいい。勝った者が正義だ」と言い張る者こそ、
中国人・韓国人なんだが。
428 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 11:53:22
我々は、後世の人間だから歴史の残した結果を知っている。
大きな目で見て、明治維新が日本全体にとって概ねよい結果になったことを知っている。
ここで、楢山や相馬を酷評し「朝鮮人と同じ」などと言っている人間をみると
むしろそういう人間の方に朝鮮人、中国人と同じ「事大主義」の感覚を見てとれる。
自分たちを「明治維新の功労者」と一体化し、敗者の側に廻った人間を酷評してみせる。
何様のつもりなのだろう。恥ずかしくはないのだろうか?
自分が明治の元勲なみの先見性をもった人間のつもりなのだろうか?
俺は、とてもではないが、そういった先見性のある人間にはなれないと
自分自身で思う。俺に限らず、社会で生きている人間のほとんど全ての
人間には、そういった先見性は無い。
だからこそ、せめて楢山や相馬のように、社会秩序を守るために、
命を賭けられる人間を目指したい。少なくともその覚悟は見習いたい。
これだって相当難しい。社会秩序の中に自分の守るべきものを見出して、
それに命を賭ける。現代の日本で、こういった覚悟を持つ人間などほとんどいないだろう。
しかし、努力次第で、その覚悟に近づくことはできる。
429 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 11:57:11
ここで、楢山や相馬を批判している者に、そういった意識を持っている者が
何人いるだろう。
浅薄な知識を振りかざし、必死で戦い命を失った人間を見下しているだけの
自分たちを恥ずかしいと思わないのだろうか?
自分たちに、楢山や相馬を嘲笑するほどの能力・先見性があるというなら、
さっさと選挙に出て、政治家になり、現在の日本が抱えている政治課題を
解決して欲しいものだ。
出来ないとは言わせない。
現在の日本は、教育も普及し、議会もあり、普通選挙も行われ、マスコミも発展している。
優れた政策案をあるならば、それを実現することは、江戸時代の末に比べて、
ずっとずっと簡単だ。
楢山や相馬を批判するなら、それだけの能力・先見性はあって当然だ。
目時隆之進や中嶋源蔵の方が先見性あるわな。
431 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 13:29:18
まあ楢山のおかげで盛岡藩は久保田藩や弘前藩よりは圧倒的に強かったということは証明できたが。
次世代の原敬とか米内光政には自信になったんじゃないか?
432 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 13:33:55
>>427 >
> いくら口では偉そうに正義や道徳を言っても、イザ、戦争になると、
> 平気で強いものにつくのが韓国人や中国人。
徳川家恩顧でしかも日本人の井伊や藤堂も平気で強い薩長についたぞ。
>>431 証明できているかあ?大館では圧倒的多数で、優れた兵器を使い攻め込んだだけだろ。
生保内での戦闘は何なんだ?
434 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 13:49:52
>逆に聞きたいのだが、第二次大戦中、朝鮮人は「日本人」だったはずなのだが、
>日本が負けた途端「俺たちは日本人ではない」「日本は敗戦国、俺たちは戦勝国民」と
>いって、犯罪行為や土地の不法占拠、強姦などを行ったわけだけど。
>
>こういう行為を評価するの?
>俺は醜いと思うし、軽蔑するけどね。
現在の楢原や相馬を顕彰する連中、「会津武士道」の連中を見てごらんなさい。
挙げる「正義」の事例は全て捏造、被害者という認識すら嘘の塊。
私は、あなたや彼らを、あなたの挙げた理由で醜いと思い、強く軽蔑しています。
現在の君の掲げる「武士道」こそ、曲がった事大主義そのものでしょう。
435 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 14:07:45
圧倒的多数を統制して優れた兵器を使って攻撃する。それが強さの基本だろ。
大館兵が臆病だったとはぜんぜん思わないが、ゲベロ銃5丁以外は火縄銃や木砲とかしかなかったのは事実。
>>435 そんな強さは兵器や戦術が刷新されると、役に立たなくなるだろ。
だから、生保内での盛岡藩の闘いはどうだったということになる。
437 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 18:42:39
なんで
>>436 に、いきなり
>>437 が出てくるんだw
コレが、南部精神なのか?
秋田ってたら、今だとまあ自殺率とかもあるが、義務教育での学力日本一もあるけどね。
439 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 20:37:08
盛岡藩が秋田に進攻してから大館城を占領するまでが約2週間。
佐賀藩が戦闘加入してから大館城を奪回するまでが約2週間。
実際は久保田藩も盛岡藩に猛抵抗しているし、盛岡藩も佐賀藩に猛抵抗している。
兵器に差があるから楽に勝てるというほど実際の戦闘は簡単ではない。
とはいえその違いはジワジワ出てくんだろうけど。
たとえ銃が最新だとしても弾薬・食料の運搬は馬力だからな。
これが沿岸部なら海軍力の差=兵站能力の差として如実に現れるわけだが。
太平洋戦争(南米の方)がいい例。
大館城も要衝だけど、きみまち坂も結構要衝なんだよね。
大館城が危ないということで、援軍が来る前に要衝のきみまち坂付近まで占領しておけば、地形を利用して防衛できたから、
藩境まで押し返されることも無かったカモ。そうなると、終戦処理も有利になったかも知れず…。
大館城での戦闘も結構時間がかかっているんだよね。大館城南部の扇田町を占領したあと、一旦楢山佐渡は領地に引きか
えして、その間に現地部隊は逆襲されている。なんでこんなことをするんだろう。楢山佐渡は戻って凱旋でもやってのか?
早く大館城を攻略して、きみまち坂まで獲っていれば状況は幾分変化したはず。
戊辰戦争後の新政府による処分を見ると
南部藩 20万石→新知行へ移転・13万石・楢山死罪→70万両献金・現地残留・楢山死罪
庄内藩 17万石→新知行へ移転・12万石・(石原はすでに戦死)→70万両献金・現地残留・(石原はすでに戦死)
善戦してもしなくても、処分は似たものだったような感じ。
そもそも、同盟軍劣勢時に同盟軍側で攻めるべきではなかった、楢山は馬鹿だと思う。
>>441 大館城攻略が遅れたのは、北部戦線とタイミングを合わせたいと考えたからだと思う。
扇田の南部戦線と比べて、北部戦線は進出が遅れて、結局大館城攻略の本番に間に合わせることもできなかった。
だから、指揮官は楢山佐渡に叱責された。
楢山と相馬連呼してる奴は
子孫かなんかか?
445 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 21:36:59
8月21日に大館城を占領してからの盛岡藩兵は、
23日板沢、24日早口、25日坊沢、26日今泉と佐賀藩兵とぶつかるまではまさに快進撃だが、
8月11日の扇田での逆襲を撃退してから18日までの約一週間何をしていたのか不明。
やはり弾薬を事前の予想以上に消費したのか?
446 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 21:44:46
叱責された指揮官ってひょっとして向井さんか?
ちなみに、楢山が盛岡藩に帰藩した8月初旬は、
・新潟を含む越後全域が陥落
・福島県中部の二本松陥落
・福島県沿岸部の相馬降伏
と戦局は既に新政府有利が決定的となり、9月には列藩同盟の主な藩は残らず降伏してしまう。
そんな時期に秋田を攻め始めた楢山。
あまりにも戦局を見ないにもほどがある。
448 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 00:02:30
長文で楢山を擁護している人がいるけど、その理屈はおかしい。
我々は後世の視点ではなく、
「同時代の多くの藩が西国雄藩に着くなど趨勢は明らかなのに、
あえて立ち向かった」
奇矯な行動を指摘している。
しかも京都で彼らと接しておいて、その勢いも武器も見たであろうに。
そこに理想や理念があったとは思わない(他にこんな選択した人いないもの)
449 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 00:32:36
中央情勢を知りつつ戦いを挑んで有名なのは越後長岡の家老もいたよね。
>>446 向井さんは活躍しているよ。足沢内記と三浦五郎左右衛門が叱責されている。
彼ら2部隊と、後方補充3部隊は大館城攻防戦では全く無傷と言って良かったから、ちょい叱責した後、
前線でまだ敗戦から立ち直っていなかった部隊を急襲し、一気にきみまち坂の要衝まで押さえてしまえば
急峻な地形を利用できて、もっとましな戦いができたかも知れない。
楢山に同盟軍を支持する確固たる理念や理想があったなら、
少数の兵で秋田を襲うのではなく、
出兵可能な総力を挙げて降伏済の仙台藩・米沢藩・会津藩を征服し、
東北諸藩の主戦派を復帰させ、新政府を東北から放逐しようとしたであろう。
それが、庄内藩に攻められていた秋田藩への火事場泥棒行為だったのだから、
理念などは楢山には無かったものと思われる。
だが理念が無かったにしても、崩壊済の同盟軍側での参戦だなんて、
敗戦は目に見えており、戦後処理を考えればお粗末過ぎる。
452 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 01:11:12
>>451 > それが、庄内藩に攻められていた秋田藩への火事場泥棒行為だったのだから、
> 理念などは楢山には無かったものと思われる。
理念というか戦略眼がなかった。
453 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 01:22:24
>>449 あっちは一応「新政府側と奥羽諸藩との調停役を任せてくれ」って理念があったからな。
そのため新式装備で充実させていた。
旧式装備で敗色濃厚な側に着いた楢山に理念ってあったのか?
454 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 01:28:22
>>453 > そのため新式装備で充実させていた。
スイス製機関銃の威力は凄いことは凄かったが
それを過大評価して開戦に踏み切ったのは判断ミスではないだろうか?
河井も判断を誤った一人に入るだろう。
列藩同盟崩壊後に列藩同盟側で参戦した楢山ほどは極端な錯誤ではないにせよ、
自藩内を戦場にして戦力が続くと考えた時点で、既にまともではない。
岩村が礼儀を知らない若造だろうが、彼は転戦の過程で独立小部隊の指揮を任せられており、
他に指揮者のいない場では、岩村はこの地の新政府軍に決定的な影響力を持っていた。
まして岩村の要求は他の地で新政府軍が行ってきたものと同様のものであった。
決して岩村個人が傲慢であったわけではない。
後に山県有朋は、越後での苦戦を長州出身でもなく年長者でもなかった土佐の岩村のせいにしているが、
彼の責任とするのは酷というものだろう。
岩村の要求を呑まなかった時点で、新政府軍を敵とし、自藩内を戦場とすることが決まってしまった。
河井は、それまでの藩政改革によって得たものを全て灰燼に帰した上で更に大きな犠牲を藩に負わせた。
456 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 02:34:51
>>455 > まして岩村の要求は他の地で新政府軍が行ってきたものと同様のものであった。
> 決して岩村個人が傲慢であったわけではない。
> 後に山県有朋は、越後での苦戦を長州出身でもなく年長者でもなかった土佐の岩村のせいにしているが、
> 彼の責任とするのは酷というものだろう。
そうなんだが、岩村は交渉相手のメンツをいくらかでも立てる配慮がなかったことも確か。
岩村が「イエスか、ノーか」式に河合に迫ったのはやはりまずかった。
458 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 02:38:30
>>454-455 判断違いは同じだが、差異はある。
河井→調停役の理念があり、装備も整えていた。
楢山→よくわからない理由で同盟参加で、装備は旧式。
大物、小物の差はそこだな
460 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 02:41:24
河井は装備を整えていたが、それを軍事的に過大評価したんだと思う。
河合は勝てないいくさはしないタイプだから
機関銃がなければ官軍に恭順したのではないか。
当時、機関銃ってそんなに強いか?
横隊で進んで来る歩兵にはそんなに効かないはず。銃身もすぐ焼けてしまうし。
462 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 03:08:13
そうなんだが、河合の脳内イメージでは
日露戦争の旅順防衛みたいな感じだったんだろうな。
463 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 10:08:47
708 名前:無党派さん[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 08:53:11 ID:DrxKk6/v
多磨墓地に行ったら、そこには東郷平八郎、山本五十六など、多くの軍人達が祀られていた。
軍人の名簿があったので、ぱらぱらとめくってみた。
阿南陸相の辞世の句がでていた。
「日本を敗北に追いやったのは軍人の責任だ。切腹して謝罪するほか無い。
これで神州日本が滅亡しないことを信じて先にしなせてもらう」とあった。
これには納得した。責任感もあり、軍部が間違っていたことを認めているのだ。
だが、腹立たしい辞世もあった。
名前は忘れたがその軍人は言う。
「日本は原爆に負けたのでもない。まだ勝てた。
ただ腰抜けの重臣が天皇陛下をそそのかして無条件降伏をうけいれたのがいけない。
最後まで日本を焼土として戦えば、日本は米国に勝てたのだ。今は無念の切腹をする」
このタイプの軍人こそ、当時の典型なのだ。
彼らは竹槍でB29爆撃機や原子爆弾に勝つつもりだった。
同じタイプの軍人達はサイパンで破れ、マニラで破れ、沖縄で破れながらも、負けているとは認めなかった
『おお馬鹿者』だ。
だが、そういう『おお馬鹿者』に支配されていたのが、戦前・戦中の日本だった。
彼らは『おお馬鹿者』だけでなく、むしろ『狂気の人々』に近いといっていい。
こういう人々に支配されていた当時の日本の様相を見ると、米国が原爆を投じて、
終戦をはやめようとしたという言い分にも一理出てくる。
そう、こんな「おお馬鹿者」に支配されていた日本は、原爆でも落とされていなかったら、
それこそ竹槍1本で機関銃、戦車、爆撃機、原子爆弾に対抗していただろう。
それこそ日本民族の滅亡につながったに違いない。
こういう軍人たちの無知は、無責任であり彼らこそ『日本人の敵』だと見なさないといけない。
だが日本のほとんどの人々が、この戦争を支持していたのも事実だ。
いったに、日本人の心理に何が起こったのだろう。
464 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 11:00:18
久保田藩も吉川忠安派が仙台藩+盛岡藩の軍使を皆殺しにしたのはまずかったんではないだろうか?
盛岡藩と仙台藩が微妙な友好関係だったのがこれで一致団結させてしまったとも考えられる。
465 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 12:40:58
あの場合、仙台藩が裏切って九条総督軟禁・新政府軍300人皆殺しをやった後だったから
せっかく救出された九条総督にとっては、仙台藩士による皆殺しを思えば一致団結するしかなかったと思う。
466 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 13:00:29
九条総督は公家的な「万事みなでよきにはからえ」式の人物であったから
九条総督の意思ではなかったと思う。
467 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 13:03:25
>>464 > 久保田藩も吉川忠安派が仙台藩+盛岡藩の軍使を皆殺しにしたのはまずかった
政治的にはマイナスだったろう。
ただ軍事的には兵卒の士気はあがったと思う。
>>464 確か、南部藩は仙台藩に何人か殺されているよね。で、久保田藩から1人殺されて「一致団結」するのか?
469 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 14:31:03
まあ久保田藩は首を街でさらしものにしたらしいから、普通の斬り合いでやられるより
凶悪な印象はあったんじゃないだろうか?
あとはもう気分としか思えん。
謝ってる奴をみんなでボコボコする方がカッコイイか、
謝ってる奴を助ける方がカッコイイかみたいな。実際の戦闘は大差ないだろうけど。
謝っている?全然。
庄内藩は抵抗の意思を示していたし、恭順という説は後代の変造史料に基づくもので実際は根拠はない。
471 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 14:44:27
譜代の庄内藩が幕府に付くのはわかるが
外様の南部が幕府に付いてもしょうがない。
仙台藩の使節は6人だが、
九条総督軟禁時に仙台藩が謀殺した新政府軍兵士は300人程度はいる。
仙台藩に非道を罵る資格がどこにあるというのか
しっかし、300人殺したのか−。南部人も何人も殺されているし、仙台藩は凄いなー。
実際に闘うとドンゴリなんだけど。なんだろう、この違い。
結局、虐殺は事態を悪化させ、和解の機会を遠ざけることにしかならなかった。
475 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:00:28
新政府軍兵士300人って佐賀藩と小倉藩?そんな話聞いたことないが?
476 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:24:33
九条総督軟禁時の、仙台藩による新政府軍兵士への皆殺しは、中村彰彦が隠蔽したからね。
三藩の者悪逆非道に付き、此程御討伐相成り候間
少人数は横道に引き入れ、人知れず討ち取り
大人数は銃隊にて討ち取り、壱人も御境へ相入れられ候成り申さず候
沢三位殿壱人丈は御助け申すべし、それも流れ矢に相当たり候はば是非に及ばず候
筑藩は助けたく候えども、是また是非に及ばず、討ち取り申すべき由等なり
おかげで派遣されていた新政府軍は、仙台藩が謀殺してしまった。
この事実を隠蔽した上で、中村彰彦は久保田藩の仙台藩使節の話を持ち出し、久保田藩を罵った。
卑怯としか言いようがない。
477 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 18:01:11
上の文章は、対庄内藩のために仙台を発った新政府軍分遣隊への、
仙台藩の処刑布告であり、現地の仙台藩の役人が記録している。
こちらは久保田藩に逃れ生命は無事であったが、
仙台に残った新政府軍は謀殺され、九条総督は軟禁となった。
478 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 19:04:08
仙台藩に記録があるのはわかるが、殺された藩の側にも記録がないとおかしくないか?
盛岡藩の鮫島忠左衛門は閏4月21日に仙台藩士に斬殺されているが・・。
479 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 19:16:14
>>471 ホントそうだよなー。
南部も仙台も上杉も会津になんてつく必要なし。
庄内は
>幕府に付くのはわかる
どころか、会津とならんで奥羽討伐の原因をつくった当事者だし。
480 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 19:25:12
いっぱい記録があるような
閏4月20日世良修蔵及び下士官・勝見善太郎
田辺蘭吉・鮫島金兵衛
銃弾輸送に従事していた薩摩人三名
22日内山伊衛門ら10名
その後も謀殺は続き、九条総督付きの数名を除き帰還者なし
これは仙台藩の命令による組織的な犯行ですね。
列藩同盟成立が5月3日だから、それ以前の新政府軍皆殺しは、戦闘ではなく全くの謀殺ということになるでしょう。
481 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 19:53:24
6月2日に九条総督は従者100人、佐賀藩鍋島弥六郎、小倉藩平井小左衛門、
以下1300人を引き連れて盛岡に到着。24日に秋田へ出発している。
世良修蔵以下20人程度の謀殺は別に間違いないと思うが、後の280人はちと多過ぎる気が・・。
482 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 20:13:49
最初の奥羽鎮撫総督府の人数は292人(士官以上のみ)。
うち150人程度が庄内藩に向けて転戦したから、仙台藩が謀殺したのは残りの150人程度と思われる。
他に他藩随行員や輸送担当者を考えれば、300人でも少ないように思う。
483 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 20:20:24
士官以上だけで約150人が消えている。20人程度という意見は根拠が分からない。
どうも、久保田藩叩きのために使節6人謀殺事件を持ち出したら、
却って列藩同盟の悪事が出てきたような感じ。
列藩同盟成立前だから、宣戦布告もない戦闘ですらない、テロ行為ですな
戦っていた藩の殿様連中は親戚関係が多かったけど政治と姻戚は別もんだったですかねぇ。
486 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 06:04:44
戦国時代は親戚同士で戦っていたでしょ。
487 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 07:14:48
つーか消えているって表現おかしくね?
庄内藩に向けて転戦したのは150人だからあと死んだにちがいないとかいう説明おおざっぱすぎて意味不明。
だいたい奥羽鎮撫総督府は庄内藩になんか向かっていない。記録の読み方おかしい。
488 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 15:22:50
会津藩に続いて仙台藩も
中村彰彦が誉めていた連中はどいつもこいつも卑劣だね。
489 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 19:25:47
そもそも直木賞作家の話なんか鵜呑みにするな。
300人も殺したなんて 嘘 嘘。
九条あたりが黙ってるわけないよ。
ちゃんとソースだしてね。
情けない秋田藩
以下の文書は、なぜかしら明治弐年に政府から出された藩主にあてた問責状。
一、慶邦(仙台伊達氏)の家来 並に利剛の軽卒を故なく殺害 いたし乱条
不届之事。
一、庄内征伐を仰付けられ候処、甚だ柔弱にし、且武道に無拙、都て朝敵悉
労 兵に打込み、他藩の力を以て防戦いたし、言を欺き増石歎願と申候
義、何の面目有りて望み候哉、功なく賞を願し私欲之大胆之事。
一、南部利剛城地召上げられ候上は、天朝之城地なるを以て其藩え守衛申付
け候処、城地に乗込み候程、剰へ城中土足の儘踏み込み、天朝を恐れず
不届至極の之事。
一、利剛東京へ召登られ候節、昼夜歩行の心得にて発足いたし候処、其藩守
衛を蒙りながら、天命を背き奸ばかりを断り、利剛に失を与えんと欲す
るの条、武家に似合わず真義を失う不届の事。
一、盛岡城地守衛申付候処、利剛謹慎中を介けず、酒興乱舞等をいたし候
条、一端不和を醸すと申ながら隣国の好み、租税を失う佐義不弁不道之
事
一、(五ヶ條中略)
一、共藩柔弱に有ながら他藩を偽り候か、侮り候か、幕下の如く取扱軽から
ず儀、不埒至極之事。
一、己を捨て人を救ふは人たるの道なるを、人を捨て己を立ん事を至りせし
めば職分に似合わざる事
以下略
ちなみに一番目が、仙台藩士、南部藩士の殺害を糾弾しているもの。
ところで明治政府にそんな資格あるの?一生懸命やったよね秋田藩。
492 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 01:06:22
>>490 ソースは出ていると思うし、仙台藩の蛮行は明らかだと思う。
仙台藩は戦場で惰弱なだけでなく、後ろでは陰謀好きなんだね。
493 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 08:44:45
伊達家は軍事ではなく外交や謀略や経済が強み。
494 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 09:30:12
問責状は、やはりそこらへんが相馬事件と同じく江戸時代的武士の感覚で、
敵であっても勇敢に戦った奴は賞賛し、味方であってもだらしなかった奴は軽蔑するという所じゃないだろうか。
旧盛岡藩の子弟が陸海軍で出世したの奴が多かったのも薩長に戊辰戦争の記憶があったからかもしれん。
495 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:47:02
その後も謀殺は続き・・のソースがない。これお前が書いた文章だろ。
内山伊衛門までは一応ソースとして認めてやる。
>>492 もう三日だね。
ソースなし。
もう二度とデマながさないでね。
497 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:03:33
どうも、仙台藩が300人謀殺したのは事実に思える。
そう考えないと、戊辰戦争の死者が合わない。
仙台藩を崇めるのは、逆賊の行為を隠すだけのように思える。
>>497 だから、その具体的な数字とソースを出せよ
499 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 13:16:39
>>491 それは、桂太郎の中央での工作の為と言われている。
桂太郎は秋田市で、若手武士を扇動し、仙台からの使者を殺害するようにたきつけたのだが、
その後の新庄市での戦闘では、人数がおおいのにもかかわらず庄内藩にボロ負け。
その後も、延々秋田藩内を「鬼玄蕃」から逃げ続けるありまさ。
で、それを糊塗するために、ことさら秋田の弱兵ぶりを中央に報告していたわけだ。
その証拠に、秋田戦線で活躍した人たちから、戦後出世したのは桂太郎のみ。
まあ、桂太郎はこうやって引き際を学習したからこそ、日露戦争で首相を見事勤め上げたって
ことにもなるのか?
501 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 14:09:33
しかしその桂太郎を議会でボッコボッコにしてやったのが原敬の政友会。
その桂太郎だが、秋田を出て大館から弘前に行こうとする際に、秋田と弘前の境にある矢立峠が封鎖されるという事件が起きる。
これは、桂太郎(トップは沢為量、奥羽鎮撫副総督)らが弘前に入ることで、弘前藩の勤王派が勢いづくことを防ぐことが目的だった。
後にこの件に関して、弘前藩は謝罪し関係者2人を蟄居にするのだが、この事件がなかったら秋田藩も使者を殺害することなく、
東北戊辰戦争がほぼ決着するまで、中立を保って、南部も秋田に攻め込むことはなかったかも知れない。
まあ、歴史にイフはないんだけどね。
503 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 18:20:15
久保田藩は奥羽越列藩同盟には正式に加盟してるからな。
総督府が弘前に去った場合の吉川忠安の立場は微妙なんだろうな。
しかし弘前藩の勤皇派が勢いづいて同盟を破棄した場合の盛岡藩の対応がまた微妙だな。
弘前討ち入りとかあるんだろうか?
八戸藩が隠れ勤皇派だから、盛岡との折衝で軍が動けないまま仙台降伏で参加せず、じゃないかな。
弘前藩が立ち入りを拒絶したために、奥羽鎮撫隊の正副総督とその護衛部隊は秋田に集合することになる。
仙台藩からは「なんで藩にいつまでも居座らせるんだ!」ってんで使者を送られる。
秋田の若手武士は国学にかぶれ、勤王思想が強い。なにせ、国学の創始者ともいえる平田が秋田出身だ。
奥羽鎮撫隊としては実は盛岡に期待していたって話もある。
弘前が同盟を真っ先に破棄したら、当然盛岡としては弘前に攻め込むんじゃないの?その場合舞台は
辺地か?坂梨峠か?
506 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 20:30:20
>>505 > 秋田の若手武士は国学にかぶれ、勤王思想が強い。
なにせ、国学の創始者ともいえる平田が秋田出身だ。
佐竹氏は征夷大将軍になれる家だからな。
現に戦国時代には関東管領のオファーもあったし。
507 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 20:44:10
まあ奥羽越列藩同盟自体は厳密には佐幕ではないからな。
それに八戸藩も弘前藩とは盛岡藩と共に野辺地で猛烈に戦闘している。
しかしあれは私戦として明治政府に片付けられたので賊軍にはなっていない。
508 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 03:00:47
>>507 そりゃ八戸藩の殿様を罪に問わずに済ませる方便さね。八戸藩主である島津の息子を罪人にはできないさ。
509 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 05:35:20
八戸藩は当時の小藩の中では最高にラッキーだな。小戦闘に完全勝利してしかも無罪。
官軍としても賊軍としても完敗して降伏した亀田藩、本荘藩は悲惨すぎる。
八戸藩の戦後賠償金も盛岡藩が肩代わりしているし。
511 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 21:29:40
八戸藩は転封にも減封にもなっていない。
512 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 23:32:18
江戸盛岡地図を見ると石割り桜のあるあたりは八戸氏屋敷にあたるのだろうか。
盛岡南部での八戸氏というのは遠野南部氏だね。
513 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 08:40:37
確かに遠野南部家はもともと八戸氏だったが八戸藩の南部家は盛岡南部家からの分家。
遠野南部家は盛岡南部家(三戸南部家)より本来の家格は上だったが小田原参陣の時に臣従した。
石割桜のあるあたりは北氏の屋敷で、八戸氏の屋敷は内丸の料亭があるところだったはず。
514 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 10:26:24
>>513 > 遠野南部家は盛岡南部家(三戸南部家)より本来の家格は上だったが
小田原参陣の時に臣従した。
臣従した理由は?秀吉の意向?
515 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 13:42:56
当時の八戸南部家の当主、政栄は名門新田家からの養子だった。
八戸南部家の分家、櫛引家はそれに抗議して本家に反乱。三戸南部の分家、九戸家と連合した。
政栄が櫛引・九戸反乱軍に対抗するには三戸南部との連合が絶対必要だった。
三戸南部の信直も石川南部家の庶子→養子だが名将北信愛に信頼されていた。
あと庶子→養子の信直は同じく養子で肩身が狭かった政栄にとっても親切だったらしい。
信直は長女も政栄に嫁がせている。
516 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 00:04:55
>>513 内丸の料亭がある所ってのがどの辺なのかわからず。
518 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 00:29:39
>>515 小田原参陣への立ちまわりの巧さは津軽。戦わずして所領安堵を得ているし。
南部の場合は豊臣連合軍を中央から派兵させてまでしてるし、豊臣連合軍の北備えは津軽軍だったりする。
519 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 04:39:31
櫛引・九戸は養子を他人あつかいする点で意気投合したんだろうな。
津軽が独立できたのもそのせい。
三戸・八戸・櫛引・九戸が団結してたら無理だった。
九戸政実
あっさり降参しすぎ
小説だともの凄く名将に見えるけど
521 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 07:00:20
でも戦いようがないでしょ。
勇猛ではあっても所詮は田舎侍であって
中央政権のパワーを見抜けなかったと思う。
所詮地方レベルて訳か、
でも単独で鎮圧できなかったんだから
田舎侍にしてはそれなりに強かったんだろうな。
523 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 17:54:09
強かったが、平将門の時代とは違って
中央政権が鉄砲持った兵をどかどか送り込んでくるわけだからキツイ。
結果としては使わなかったが、水軍で腹背に兵を運ぶ手も中央政権は使えた。
524 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 00:43:50
数千が守る城に数万の軍勢では戦いようがない。
だが、その程度のことも理解しなかったから決起したわけで
戊辰戦争と似ている
526 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 02:39:07
武士政権を得るには征夷大将軍の位が必要だから、とりあえず東北に軍を進めて納めるスタイルが必要だったわけだし。
日本で政権を得るには東北を攻めて戦いの終わりとして納めるというのが古くからのならわし。
九戸城跡行ってみると、この城を六万の軍勢が包囲したとは信じられないくらい狭いところ。
源頼朝は京で義経を追討して以来奥州を攻めずとも武士の棟梁でしたし、足利は逆でしたが?
鎌倉以降、征夷大将軍は武士の棟梁としての位として認識されていたので東北を平定の終わりにする必要はないし
頼朝も奥州攻めしているし、南朝の主力北畠氏の拠点は東北。
530 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 05:22:15
北信愛とか南部信直は京都まで行ったり九州まで行って前田・浅野・蒲生とも親しいが、
九戸政実が行っているのはせいぜい秋田の比内郡とか和賀郡あたりまで。
小説だと信愛・信直の器量が小さいように書かれているが実際は逆だと思う。
531 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 14:08:19
高橋克彦の「天を衝く」で九戸政実が一時三戸城を占領したような記述があるが、
あれは創作。
532 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 14:13:07
九戸政実の兵力では野戦が精一杯で城攻めは無理。
高橋克彦の書く本は歴史一割と読むとよろし。