謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!46

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王卑彌呼とは誰だったのか?
又、邪馬壹國とは何処にあったのか? 古代最大の謎に挑む!

【前スレ】http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1264135264/
【アク禁用】http://www1.atchs.jp/most/
2日本@名無史さん:2010/02/14(日) 02:15:29

ご一読を!

矢吹 晋 「笠井新也の卑弥呼・邪馬臺国論 ──白鳥史学・内藤史学批判」、『国学院雑誌』108巻9号(2007)
http://www25.big.jp/~yabuki/2007/kasai-himiko07.09.pdf

(内容)
一、笠井新也の邪馬臺国論
 1 論文「邪馬臺国は大和である」について
 2 論文「畿内と九州との文化的政治的関係」について
 3 調文「卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫命論」について
 4 論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」について
二、笠井論文が発表された時代の風潮について
 1 対外認識を曇らせた本居宣長流の国粋主義
 2 内藤史学の限界──ヒミコ=百襲姫命を比定できず
終わりに



(・・・で結論)

・邪馬臺国は大和である。
・卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫命。
・卑弥呼の墓は箸墓古墳。

以上。

笠井新也先生、ありがとう!
3日本@名無史さん:2010/02/14(日) 02:27:39
>>1神奈川県民さんへ。乙。

スレ立て出来るんだったら「ドン来い」の次スレ(66)、立ててくれないか。  
俺も規制に掛って立てられないんだ。
表紙はこんな感じでどう?

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 66

        r────────────、
       ./ |__ .-:::~ ̄~^γ'^~ ̄~::ヽ、 ___/|
       / γ:::::::::.. _ ..::::::::::::::::::   ヽ  / .l
      ./ /( /  / ./ ヽ/ /三   )i  / ./
     / / ト..: ̄.:. ̄..:::::::::::::::::/,.  ノ ./ ./
     / /  ヾ、..:::::::::::::::::::_;::/  ./ ./ ./
    ./ /   ヾ、::__;;:.-::'^ ,. /   / ./
   / /     ヾl_;;::.- '^~     ./ ./
   i ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~i ./
   |_____________,l/


 九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!

*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー


■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 65
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1264912343/

4日本@名無史さん:2010/02/14(日) 04:49:48
話の流れがよくわからんが、こんなんで良いのかな。

春秋穀梁傳注疏/宣公/卷十二/宣公十五年
何休又云古者井田之法一夫一婦受田百畝身與父母妻子五口以為一?
何休また云う。いにしえ、井田の法、一夫一婦 田百畝を受く。みずからと父母妻子と五口、以て一戸と為す。

何休は一戸は戸主とその父母と妻と子の五人だと言っております。
漢書地理志の最初の各郡のデータで、口数を戸数で割ると、大体一戸4人から6人の間に収まるので、
それなりに信用のおける記述だろうと思います。
5日本@名無史さん:2010/02/14(日) 05:05:31
肝心の戸の字が化けてた。
何休又云古者井田之法一夫一婦受田百畝身與父母妻子五口以為一戸公田十畝

穀梁伝が何休の言葉を引用しているが、その元と思われる公羊傳の何休解詁の記述を見ると、

故聖人制井田之法而口分之一夫一婦受田百?以養父母妻子五口為一家公田十?即所謂十一而?也

両方を比べると、公羊傳は一家といっているのを穀梁伝の疎は一戸と言っている。
つまり、少なくともこの場合は、戸と家は同じと考えて良いという事になる。

6日本@名無史さん:2010/02/14(日) 08:30:19
ご苦労様。戸数問題も一段落かな。
どうゆう繋がりで戸数が論じられていたのか知らんが、投馬国五万戸、邪馬台国
七万戸、いずれも伊都国の南にあったわけだ。さ、それがどこかという問題だな。
7二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/14(日) 08:31:28
>>2
>>1 論文「邪馬臺国は大和である」について
だけ読んだが、酷いものだった。
根拠としてあげてあるものが全てなんの根拠もないものばかりで、
それ故だれも評価しなかったのだろう、ということだけは良く理解できた。
8日本@名無史さん:2010/02/14(日) 08:43:18
>>7
あなたのレスは、笠井が酷いのか、矢吹が酷いのかが、はっきりしないぜ。
まあ、両方とも酷いからどうでもいいけど・・・・・・

9唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 11:14:40
>矢吹 晋 「笠井新也の卑弥呼・邪馬臺国論 ──白鳥史学・内藤史学批判」、

この時代から、考古学は、50年古い方に移動している。
曖昧な数字で読まれていた、崇神時代も、考古学と一緒に50年さかのぼる必要がある。

今、この板でも崇神時代が主流であるが、
「倭人伝の時空は、崇神時代」の正当性を、 誰か証明してくれ。
10日本@名無史さん:2010/02/14(日) 11:34:04
笠井の説によると、出雲が投馬国だってことのようだ。
一方、白石の説によると、古墳のでかさが権力の所在、国の大小を反映
しているそうだ。となると、投馬国には邪馬台国(大和)に次ぐ大古墳
があったはず。ところが出雲には、そんなものはないな。
11縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 12:18:56
出雲に5万戸の国を比定するのは馬鹿げている。耕作適地の平野部の少なさを見ろ。
12日本@名無史さん:2010/02/14(日) 12:45:57
>>11
>出雲に5万戸の国を比定するのは馬鹿げている。耕作適地の平野部の少なさを見ろ。

では投馬国はどこだ?
13日本@名無史さん:2010/02/14(日) 12:49:35
>>11 縄文人
>出雲に5万戸の国を比定するのは馬鹿げている。耕作適地の平野部の少なさを見ろ。

縄文人は倭人伝の戸数は正しいと?
14日本@名無史さん:2010/02/14(日) 13:29:22
今の出雲と同じ面積だと思っている人がいるんですか?
15日本@名無史さん:2010/02/14(日) 13:38:22
出雲は鉄製品の製造技術もあったし、交易を行う海族として日本はもとより、海外にも拠点を持っていた。
古代シュメール人の末裔なのだから、農地の広さだけが人口扶持力ではないことに気づかないと、本質は見えて来ない。
16縦目仮面:2010/02/14(日) 13:56:30
四隅突出型墳丘墓の墓制を一つの文化圏と見るなら、その分布はこんな感じ。また、島根県出雲市の西谷
3号墓埋葬施設は楯築墳丘墓と同じような構造の木槨であり、埋葬儀礼に用いられた土器として吉備の特殊
器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に出土する。

http://uproda.2ch-library.com/213481osN/lib213481.jpg
17縦目仮面:2010/02/14(日) 14:30:34
あと、前スレで戸についての話があったけど、三国時代の魏では曹操が、それまでの人頭税を廃し戸ごとに
徴収する戸税(戸調)を課している。これは陳寿が倭人伝を書いたとされる晋代にも受け継がれ、「晋書・食貨
志」中の「戸調之式」に詳しく令式が記されている。戸が面積と言うことはないし、家については、東夷伝の弁辰
の条に「凡五十余国 大国万余家 小国数千家 総十万余戸」とあるように、戸と同じでしょうね。

18日本@名無史さん:2010/02/14(日) 15:30:44
>>3
先日以来、何度も試みているんだが、やっぱり立てられない。
誰か立ててくれないかな。
19日本@名無史さん:2010/02/14(日) 15:34:44
四隅突出型墳丘墓

中期後半の広島県三次盆地に出現(宗祐池西1号など)。
後期前半に庄原市(田尻山1号)、千代田町に拡がり、
三世紀初頭、矢谷1号へと展開する。矢谷1号は吉備系の特殊器台を持つ。

また、後期前半、江の川中流域(島根県瑞穂町・順庵原1号)を経て、
石見に至る(江津市波来浜墓)。

日本海に到達してからは、西は出雲から東は鳥取まで分布し、
後期末、各平野ごとの王墓として巨大墳丘墓が出現する。

西谷3号からは特殊器台・壷が割られて出土している。
20日本@名無史さん:2010/02/14(日) 15:41:10
21日本@名無史さん:2010/02/14(日) 15:42:37
円墳に四隅突出型墳墓が合体してできたのが前方後円墳。
ついでに、石室に宝飾を施し、被葬者が生前使用していた文物を埋める風習と
環濠を掘る風習も、それぞれ別の集団のものだ。
いくつかの有力な豪族が合体してできた大和朝廷の特徴である前方後円墳には、
各集団の融和を図るべく、工夫が凝らされているのだ。
22日本@名無史さん:2010/02/14(日) 15:46:49
畿内説を勢いづかせる同遺跡の大型建物跡は
「卑弥呼の時代より1世紀後の建物」
とバッサリ切り捨てた。
23日本@名無史さん:2010/02/14(日) 16:09:29
近江の伊勢遺跡こそ、卑弥呼の時代に畿内で最大の勢力があったところ。
邪馬台国は近江にあったということでOK?
24唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 16:16:05
>>22
畿内説を勢いづかせる同遺跡の大型建物跡は 卑弥呼の登場と共に
取り壊された。

考古学は正しい。
25日本@名無史さん:2010/02/14(日) 16:17:18
>>22
>「卑弥呼の時代より1世紀後の建物」

こういう話こそ検討の対象にすべきではないでしょうかね。論拠を挙げて。

纆向遺跡第166次調査現地説明会資料

4.遺構の時期
各遺構の所属時期については調査途中の現時点では土器資料の整理が終了していないため、
厳密な時期を導き出すのは困難な状況にあります。
しかしながら、これまでに得られた知見では
整地土及び建物C・Dの構築時期は3世紀前半の庄内式期古層段階、
そしてその廃絶は(中略)3世紀中頃(庄内3式期)を含めてそれ以前と考えています。
26縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 16:35:36
>>12
投馬国は福岡県の筑後川流域以南であろう。ここなら5万戸を養える農業生産力があったであろう。

>>13
倭人伝の戸数が間違いだと考えるべき根拠がない。

>>14
出雲を5万餘戸の国とすれば島根、鳥取、岡山を合わせた領域になるだろう。そんな広い領域を想定しているのか?

出雲辺りに半島からの渡来人が来て窯業などの技術を持ち込んで、こういう工業製品で商売をしていたであろうとは
想像できるが、山陰の狭い平野では食糧が足りず、他所から買わなければならない。しかし、5万戸を養うには約
15,000トン(米に換算)の食糧を要するだろう。どこから手に入れるかな?
27日本@名無史さん:2010/02/14(日) 16:58:02
佐賀女子短大の高島忠平学長(70)が3月末引退
http://www.asahi.com/national/update/0213/SEB201002130010.html

後継者がいないのがさみしい
28日本@名無史さん:2010/02/14(日) 16:58:24
>>26 あの時代の食べ物は米だけ?
  現代のように米を主食としておかずおいて、食べていたと?
  いろんなものを一気に炊いていたとすれば、
  米の量なんてそんなにいらんのさ。
  食べ物ことだけで言うならだけど!
29水銀厨 :2010/02/14(日) 17:03:08
>>26
投馬国は水行移動で20日かかる広い国なんだよ。
つまり本州西部から丹後半島位まで。

もしくは九州南部の国だろう。
30日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:09:20
>>25
庄内式の年代についてはいろいろあるので別にして、その建物の建っていた
期間というのはかなり短いんじゃないかな。
しかも、柱は残っておらず、柱の跡だけだったとか。
31日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:15:11
>>22
>畿内説を勢いづかせる同遺跡の大型建物跡は
>「卑弥呼の時代より1世紀後の建物」

それなら、唐古・鍵が、卑弥呼時代最大の環濠集落になるわけだが。

32縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 17:40:27
>>28
26をよく読んでみなさい。(米に換算)と書いている。
33日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:44:44
>>32 換算の意味なし。
   他に食料あるでしょ。
34縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 17:49:03
>>29
>投馬国は水行移動で20日かかる広い国なんだよ。

そうだ。筑後川流域だけでも川の支流を上り下りして約1週間、有明海に出てまた入り江や川を上り下り
して約2週間かかるのだ。ただし、これは梯儁か張政が投馬国の豪族達の居館を宿舎にしながら訪問して
廻った日数なのだ。
35縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 17:52:23
>>33
他にも食料の種類があるから換算したの。一人平均1日2000kcalとしてね。
36日本@名無史さん:2010/02/14(日) 17:59:09
>>35 2000iは現代の定義ではないの??
  
37水銀厨 :2010/02/14(日) 18:02:05
>>34
私は元々投馬=日本海沿岸説だったが、やはり九州南部を
無視出来ないんでね。5万戸ならちょうど良い位だと
判断している。海岸沿いで水行20日の国。
38日本@名無史さん:2010/02/14(日) 18:05:50
ちなみに今の出雲市の世帯数は50373世帯。
戸を何で見るかだけど、世帯と考えるならあの出雲市くらい住んでいた
ということになる。
39縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 18:07:00
>>36
何が言いたいのかよく分らないけど。2000kcalは多すぎるということなのかな?
40縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 18:14:20
>>37
私は倭人伝の方角、里程、戸数などの記事が間違いだとしなければならないという合理的な理由がないと思うから
倭人伝の記述に従っている。
その観点からすれば、投馬国も邪馬台国も中国地方や近畿地方などにはあり得ない。だから畿内説は倭人伝にはな
い邪馬台国を求めていることになる。
41日本@名無史さん:2010/02/14(日) 18:18:46
縄文人は万二千余里にとらわれているから、投馬国や邪馬台国を近くに比定し
ようとするんだろうな。しかし、伊都国からたった千五百里の距離に水行十日
陸行一月なんぞかかるはずはないということを素直に認めるべきだ。
投馬国は有明海を南下して水行二十日、薩摩川内ならば何も疑問は残らない。
42縦目仮面:2010/02/14(日) 18:20:32
>>31
まあ、高島氏は吉野ヶ里の最盛期を邪馬台国の時代に持ってきたいので、そうした年代観を
とらざるを得ない。吉野ヶ里の遺構出土以来幸せな研究活動であったといえるのではないか
な。ただ、氏もそうだが、高齢の古田・安本両氏が活動を止めたら、九州説の旗頭はだれに
なるのだろう。サガミ先生か?w

43日本@名無史さん:2010/02/14(日) 18:21:03
>>39 簡単に現代の定義である2000iを持ってくるからだよ。
  食べれてた時期、食べれない時期、いろいろあるときに
  判断基準が現代の成人男性の必要i出されてもね。
  そもそも平均なんて出せないもんでしょ?
  核家族じゃない時代だろうし、
  じいちゃん、ばあちゃんが何人いるんだか。
  彼らは赤子よりも食べるだろうね。
  お母さんでも乳児がいるか、妊娠中かでも摂取iは変わることになる。
  ああ、赤ちゃんには離乳食があって・・・。
  現代の定義で考えたらこんなになるけど、どう?
  
44縦目仮面:2010/02/14(日) 18:32:30
>>36
縄文人のカロリー推定は妥当だろう。体重60キロの成人男性の基礎代謝は、1500kcal程度。女性なら
これよりやや少ない。飢えて死ぬことなく子孫を残したのだから、この基礎代謝分のカロリーは確保でき
ていたはず。これプラス労働量ということだが、個人差を考えて1500〜2500kcal程度だったろうね。人間
である以上、カロリー量は現代人の必要量とさして変わらない。
45縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 18:44:59
>>41
投馬国と邪馬台国への行程記述がそれまでの里数でなく日数になっていることから、これらの日数は梯儁か張政の旅行
記録を元にして書かれていると考えることができる。梯儁は親魏倭王の印綬や下賜品を持って邪馬台国まで行っている。
そして、皇帝の詔書にはこれらの品を国中の人々に示しなさいと書かれているから、少なくとも各地の豪族の館に立ち
寄って人々を集めて皇帝の言葉と品物を見せて廻った筈である。

そのような行程が軍隊の行軍のようなものや普通の旅人のようなものではあり得ない。投馬国に20の豪族の集落があれば
20日かかるのは当然である。邪馬台国に入ればさらに歓迎行事なども加わって1日の行程は2,3kmというようなことに
なってもおかしくない。

張政の場合は狗奴国との間の揉め事の収拾に来たと思われるが、これも梯儁に倣い各地の豪族を訪ねて会談(説得,打ち
合わせなど)を行いながらの旅だったと思われる。
46水銀厨 :2010/02/14(日) 19:11:05
>>40
まず私も倭人伝の記述は極力尊重しているし、間違いだとは
思わない。ただし投馬国と邪馬台国が里数ではなく日数表示なのは
やはり遠方の国、別資料だと思うね。

倭人伝の記述が九州島内での出来事と解釈するには、水銀厨
としてもそうだが、現在の考古学的研究成果では、
相当偏向した解釈をしないともはや有り得ない事でしょう。


47縦目仮面:2010/02/14(日) 19:11:49
まあ、倭人伝の解釈はどうしても推測にたよる部分が多くなってしまうので、俺は普段はしないんだが、「水行
十日陸行一月」というのが、梯儁や張政の報告書に基づいて云々という部分には疑問を持っている。

晋書によれば「泰始初、遣使重譯入貢」とあり、これは265年あたりのことで晋朝には当時の記録もあっただ
ろうし、陳寿が三国志を書いた280年時代には倭使に会った人で存命の人もいたかもしれない。また、倭につ
いての情報が張政以来まったく入ってこないというのも考えにくい。だから、この日数は晋代当時の中国の基
本認識であったのではないかと思う。つまり「伊都国周辺から、だいたいこのくらいで邪馬台国には着きますよ」
といった感じ。
48日本@名無史さん:2010/02/14(日) 19:25:08
>>45
>皇帝の詔書にはこれらの品を国中の人々に示しなさいと書かれているから、
>少なくとも各地の豪族の館に立ち寄って人々を集めて皇帝の言葉と品物を見せて廻った筈である。

1 詔書が倭王に届く前に、詔書に書かれたことが実行されるはずがないでしょう?
2 「皆裝封付難升米牛利還到録受」なのだから、倭王に届く前に開封されるわけないでしょう?

だから、梯雋はまっすぐ倭王のもとに向かったと思いますよ。
49縦目仮面:2010/02/14(日) 19:35:22
>>48
そうね。
>>少なくとも各地の豪族の館に立ち寄って人々を集めて皇帝の言葉と品物を見せて廻った筈である。

卑弥呼に渡す以前に封泥を壊すことはないだろうし、これは当時の中国の慣習からありえないと思う。
50日本@名無史さん:2010/02/14(日) 19:37:30
>>46
日数だから別資料ということにはならんよ。梯儁は邪馬台国を訪問している。
その梯儁がわざわざ行程記事を書きながら、投馬国や邪馬台国について行程を
書かないはずはない。当然、日数記事も梯儁の資料だ。
日数にしたのは水行二十日、水行十日陸行一月が倭国側の案内によるためゆっ
くりで里数がよく分からなかったためだろう。
しかし、梯儁は自ら訪問しているから、おおよそのことは分かっている。だか
ら一方では周旋五千余里と書いているんだよ。
51縦目仮面:2010/02/14(日) 19:52:31
魏帝詔書はおそらく木簡か竹簡で、これは紙とは違って削るだけで改竄が可能なため、厳重に封をかける必
要があった。現代の日本の封書でも「〆」や「緘」の字を用いたりするけどね。このときの封泥がもし出土したら
(無理と思うが)そこが邪馬台国だという説もあるくらい。
52水銀厨 :2010/02/14(日) 20:20:16
>>50
それだけゆっくり滞在しているなら、投馬、邪馬台国に
関してもっと詳細な情報が無いとね。

歓待を受けた様子や途中でどのように過ごしたか等の
記述が皆無なのは変でしょう。



53日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:22:58
魏志は、他国の伝書にも歓待を受けた様子とか書いてる?
書いてないんなら、別に不思議ではないよ。
54縦目仮面:2010/02/14(日) 20:32:43
まあそのあたりのことは、後代の裴世清などと比べても違うだろうし、なんともいえない
ところ。北部九州から邪馬台国まで交易の拠点はあっただろうし、少なくとも魏使を野
宿させることはなかったろう、くらいしか言えないな。
55水銀厨 :2010/02/14(日) 21:06:44
>>53
伊都国に到着するまでは詳細に見聞録書いてるでしょ。
女王の都する処へ近づくと情報が乏しくなるのは変。

「倭人は里数を知らない」と隋書にも書かれているのは
魏志の記述は倭人の伝聞情報だと後世でも判断したのだろう。
56縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 21:13:34
ふむふむ。
簡単に書いたから疑問もあるだろう。
下賜品は封を解いて中身を見せたりはしなかっただろう。外装のままだけど、その外装には龍の絵かなにか
魏の皇帝の下賜品であることが分るようなものが使われていただろう。

皇帝の言葉は詔書に書かれているが、内容は梯儁も知っていた筈だ。邪馬台国の卑弥呼に親魏倭王の印綬を
授ける意味と目的を使者が知らぬでは務まらぬ。

投馬国や邪馬台国の情報は風俗記事となっているとも考えられる。對海国や一大国や末盧国のところには風
俗記事もあるがそれらはそれらの国に特徴的なことを記したものだろう。
其風俗不淫からはじまる記事の大半は投馬国や邪馬台国旅行中に見聞したことではないかな。
57日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:26:48
>>55
>女王の都する処へ近づくと情報が乏しくなるのは変。

伊都国は「郡使往來常所駐」だから情報が多くて、
そこから遠くなるに従って情報量が減るのは、ごく自然でしょう。
58日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:36:11
親魏倭王の印を授けたということは、柵方体制に入ったということ。
一旦急あれば、軍隊を派遣する必要もある。
邪馬台国本国近辺の様子が報告書になかったり、
郡使の駐在所が邪馬台国から1ヶ月も離れていたなら、皇帝になんと言い訳するのか。
59縦目仮面:2010/02/14(日) 21:40:33
いずれ倭人伝の魏使については、不確定要素が多すぎる。建中校尉である梯儁は武官で、東夷の蛮国に
豪華な答礼品を持ち込むにあたっては、配下の軍を引き連れていきたかっただろうが、郡からどれだけ船
を出せたかなどの現実的な問題もあったろうし、倭の地に入ってからも当時の魏の行軍規定に従って行動
したのか、右も左もわからぬ地で、倭人のいいなりに行動したのかもわからない。無理に言おうとするとどう
しても想像になってしまう。
60日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:53:02
>>55
>女王の都する処へ近づくと情報が乏しくなるのは変。
そうじゃないな。投馬国や邪馬台国についての詳細は、男子は大小となく云々
以下に書いているんだ。だから、行程記事のところでは投馬国、邪馬台国の個
別事項のみに留めた。情報が乏しいどころか、両国については、ものすごく詳
細に書いているということだよ。
61縦目仮面:2010/02/14(日) 21:53:54
ただまあ、梯儁にしてみればこれは重大な職責で、答礼品を奪われたり、船から落としたりwwすれば命に
かかわりかねない。おそらく宿泊しても不寝番を立てたり、卑弥呼に渡すまで心休まることはなかっただろ
うと想像してみる。ww
62日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:57:23
塞曹掾史の張政は正始8年から泰始2年まで20年近く邪馬台国で過ごしている
ということになっているが、これが本当なら相当詳しい知識があるはず。
日本列島内もかなり旅行したのではないかと思われる。
ヒミコにも直接会っているようだし、倭人伝の記載も、多くは張政の見聞報告
によるのではないかな。
63唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 22:01:57
>>58
軍の派遣は、仲哀末年である。
神功派兵を、274年より遅くすると、神功時代は、ウソの塊となる。
柵方体制に入った時代は、景行時代で、魏より大倭国統一を遂行するよう要請され、
それを果たす。
その為の黄旛である。

百済本紀の数字を韓国考古学は、数字に出来ない。
数字に出来ても、出土物と、大陸や倭国との整合性がとれない。
百済本紀に歴史を合わせるのは、間違いである。
七支刀を326年に合わせれば、この狂いが修正される。

64唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 22:06:06
縦目さん
暦も持たない東夷の蛮国を冊封しますか?
65日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:06:11
>>28
どんな物を食おうが必要な摂取カロリーは決まっている
雑穀だって耕作しないと取れないぞ
狩猟なんかやってたら弥生生活できない
農耕だから余暇ができて無駄と思える古墳とか色んな物を残したんだよ
66日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:11:53
>>51
封泥というのは、受け取った側が本物の印と判定できないと意味無いよね
邪馬台国の場合、何とくらべるの?
魏の方では、下賜した金印の写しを取ってあるだろうけどさ
67縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 22:13:04
>>61
>梯儁にしてみればこれは重大な職責で

そのとおり。皇帝の詔書を持った使者は重大な決意をして任務に対した。当然、通訳、警護の武官、兵士、記録をとる文官など
かなりの人数で来た筈である。また、難升米率いる倭国の警備隊も随行した筈である。難升米にしても魏使を無事卑弥呼に会わ
せかつ送り返す責任を負っていたであろう。
68縦目仮面:2010/02/14(日) 22:13:52
>>62
これも諸説あって、張政は邪馬台国ではなく伊都国に常駐していたと考えてる人もいる。あるいは張政は邪馬
台国に乗馬を持ち込んで乗り回していたとする説もある。ww その証拠が箸墓周濠出土の輪鐙なんだそうだ。
まあ、ないとは思うが面白い。
69縦目仮面:2010/02/14(日) 22:22:40
>>66
これは初回だから比べようがないんじゃね?

>>64
冊封国は中国の元号・暦(正朔)を使用することが義務付けられるという話もありますが、これは建前で
実際はそうできなかったことが多いでしょう。倭人は「漢倭奴国」の頃から冊封されていたようですが、こ
の頃から暦があったと?
70太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 22:25:11
時量師神
71日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:30:06
>19

>中期後半の広島県三次盆地に出現(宗祐池西1号など)。
>後期前半に庄原市(田尻山1号)、千代田町に拡がり、
>三世紀初頭、矢谷1号へと展開する。矢谷1号は吉備系の特殊器台を持つ。

これは今では古いですね。
出雲地方に青木4号という中期後半の4隅がみつかったこと等から山陰の
海岸沿いに築かれたた方形貼石墓を原型に発達したという考えが有力
になっています。


72日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:34:15
>30
>庄内式の年代についてはいろいろあるので別にして、その建物の建っていた
>期間というのはかなり短いんじゃないかな。
>しかも、柱は残っておらず、柱の跡だけだったとか。

庄内は最低50年くらいあります。もっと前半が伸びるという人もいますね。
庄内古層から庄内3ですから決して短くはないですね。

73唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 22:42:20
暦は神武(西暦42年)以前から使われている。
まあそれ程前では無いが、
最も早く見積もって西暦4年か? それ以前も暦は使われていたが
この頃新しい暦に切り替えている。

神武の年齢をここから推定すると、23才即位で19年の治世になる。
手研耳によるサボタージュは、足かけ4年。
神武崩御年の翌年からほぼ3年を経て、手研耳を討った年が綏靖元年になる。

326年の暦が1日狂うのは、その19年前の永嘉元年や7年の記事にも見られる。
74縦目仮面:2010/02/14(日) 22:43:05
>>70
???「時量師神」どういう意味ですか。これは古事記の「時置師神」のこと?伊邪那岐命が服を投げつけ
た時に産まれた、御裳(腰巻?)が化生した神??解説がないとわかんないです。ww
75日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:46:05
>42

吉野ヶ里の七田さんとか。この人は立場上そう言わざる得ないのかもしれませんが。
ただ、九州の埋文で筑後平野に伊都国、奴国地域以上の遺跡がある可能性を主張している片岡さん
という方がいます。
ありえないとは思いますが、一方で九州は何が出てくるかわからないというところはありますね。
76縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/14(日) 22:48:05
張政の記事は正治八年のところにあるが、来倭したのは八年かその翌年か不確かな点がある。帰国したのは壹與が立てられた後
であることが張政以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等・・・とあることから分る。しかしこの帰国の
時期については分らない。来倭した年に帰国したとは考え難い。なぜなら、壹與が立てられる前に男王が立ったが国中が服さず
相誅殺千餘人という混乱状態に陥っているのだから、この争乱を収めて壹與を立てることが短時日でできたとは考え難いからで
ある。

しかし、争乱が数年も続いたのであればそれなりの記述もあってよかろう。恐らく半年か1年くらいで安定したのであろう。と
すれば張政は無駄に在倭の必要はないし、任務完遂の報告のために直ぐに帰国したと思われる。
62が言っている泰始2年の帰国は考え難いだろう。晋書に張政が倭の使者とともに帰国したという記述でもあれば考えてもいいけど。
77日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:58:02
>21
>円墳に四隅突出型墳墓が合体してできたのが前方後円墳。
>ついでに、石室に宝飾を施し、被葬者が生前使用していた文物を埋める風習と
>環濠を掘る風習も、それぞれ別の集団のものだ。
>いくつかの有力な豪族が合体してできた大和朝廷の特徴である前方後円墳には、
>各集団の融和を図るべく、工夫が凝らされているのだ。

四隅の影響は供献土器や葺石に確かにみられますが、吉備の特殊器台と同様、
やはり布留0以降です。
よく「前方後円墳は、各地域のパッチワーク」という方がいますが、実際は
そうなったのは、庄内が終わってつまり倭王権がはじまって50年以上たって
からの話にすぎませんね。


78縦目仮面:2010/02/14(日) 23:08:46
>>70
ずっと考えて意味がおぼろげにつかめた気がします。「時量師神」・・・これが暦を司る神で、古来から暦が
あった証拠ということでしょうか?しかし、これは「時置師神」の間違いだと思いますよ。御裳を投げ捨てた
時に産まれたので、「(紐を)解いて、置いた」神という意味のほうが、前後の記述とも合致する気がするん
ですけど・・・。
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 23:10:34
>>74
その神の解説でこれだというものを見たことはありません。そのへんは
古事記の具体的理解解釈でかなり難解の個所だということです。とにかく
それがしでさえ、ある程度こうではないかとの考察はありますが、まだ
確定的なものではありません。〜が、

とにかく時間の計量を主宰する神様だということですね。天武天皇でし
たか、近江神宮に時計と有関係で祭祀されておられたと思ったですが?
実際この神宮に参拝したことがありますが、30年位前だったかと回想
しております。

ウラゴト(卜事)にもアナログ的時間の観念がありますし、デジタル的
にも秘めてそういうものがあるようです。天津神算木は後者の典型で
あって、神代の後代での(神武は別として)時間の始点の時代が崇神の
代ですからハツクニシラスというわけです。天武は崇神始点での末期を
知らすお方でして、実は末期の一点手前的時代を統治なさるお方ですよ。

そうなりますと、時量師は神代の一時期、砂時計をひっくり返す直前の
時代を受け持つ神さまだとうことになりましょうね。
80日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:15:21
では、前方後円墳のオリジナルはどこだったのでしょうか?
81日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:15:58
>>45
里数部分も日数部分も梯儁一行の記録したところに基づくものだろう。
里数も日数も一連の文章の中にでてくるもの、すなわち同じ資料だ。
里数はそれが分かったから、日数は里数が分かりにくかったから、表現が
異なったにすぎぬ。
日数で表示されているからといって、単なる旅日記、実際に逗留した日数
を書いただけということではない。行程として、後の人のために書いてい
るんだ。唐六典などの伝える進行距離とちがうとかいうのは論外。軍隊の
進む距離とはちがう。倭国の案内で歓待されながらゆっくりと進んでいく、
その日数をもとにして書いているということだな。
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 23:22:46
投げ捨てた物とは文学的絶妙なる言い回しではありますが、何が何だか
分からなくなる形容であるも、そういう言い回しにこだわることは必要
ありません。強いて言えばウラゴトのやり方の改正的(道具神具を変更
する)形容であり、他の言い方で言えば、時代が新しいものに変わり、
古きを投棄するおような表現ですよ。時代の変遷の区切りを示す神さまと
いうことになり、暦と関係が出てくることになります。また〜

zzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・
83縦目仮面:2010/02/14(日) 23:29:02
>>79
杖から生まれたので、衝立船戸神(つきたてる) 帯から生まれたので、道之長乳歯神(長い)
袴から生まれるたので、道俣神(股分かれしてる)とか、語呂合わせという気がするんですが・・・。
ま、わかんないからやめます。愛知県民さんならわかるかも。このあたりは迷路ですよ・・・嫌いでは
ないんですが。


84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 23:33:40
時間の計量を主宰する神様は
時間と云う概念と『時間』という言葉を持ち込んだ、となれば、
『時間』と言う言葉以前からの存在は、あり得ない。
飛鳥時代あたりでしょう。

それに対し『暦』の持ち込まれたときには、『こよみ』と言う言葉はもう存在していたから
『れき』と発音されず『こよみ』と発音される。
85縦目仮面:2010/02/14(日) 23:54:14
>>84
暦(こよみ)の語源は「日読(かよみ)」で、「月読」ではないと思いますけど。w
86日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:01:25
>>72
庄内式が3まで区分できるのは、ヤマトだけじゃないかな。

ヤマト以外の地域はその間、時間が止まっていたのだろうか?

庄内式を出土しない地域は50年以上も時間が止まったのだろうか?



庄内式なんてせいぜい15年くらいでその後は布留と併行だよ。

普通に考えようよ。

学問で宗教をやっていいのは学者だけ。
ネットでも信者みたいなことをする必要はないよ。
87日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:22:43
>>56
>外装には龍の絵かなにか

描いてあったかも知れませんね。まいりました。

>意味と目的を使者が知らぬでは務まらぬ。

そりゃそうだけど、
「悉可以示汝國中人使知國家哀汝」
って、倭王に対して命じてるんだから・・・。
指示した側の使者がやっちゃったら、オカシイでしょ?

>其風俗不淫からはじまる記事の大半は投馬国や邪馬台国旅行中に見聞したことではないかな。

儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻、紵麻,女子桑蠶織績。
亡馬與虎,民有五畜,山多麈麂。兵則矛、盾、刀,木弓弩、竹矢,或骨為鏃。
(漢書 卷二十八下 地理志第八下)
88水銀厨 :2010/02/15(月) 00:34:20
>>60
>投馬国や邪馬台国についての詳細は、男子は大小となく云々
以下に書いているんだ。

それは言うまでもなく「倭人」の風俗でしょう。

仮にそれらの事が投馬、邪馬台国の事について書いてあるとすると、
必然的に青玉や真朱を産出したり、「その山に丹あり」という事で
紀伊半島や四国の可能性がぐっと高くなりますが。
89縦目仮面:2010/02/15(月) 00:36:11
>>87
www 縄文人レスは突っ込みどころ満載だね。
 
>>84
>『時間』と言う言葉以前からの存在は、あり得ない。
  飛鳥時代あたりでしょう。

うーん、漢語である「時間」という言葉の到来は遅いでしょうけど、和語の「とき」なら「常(とこ)」あるいは
「疾(と)き」説が多いようだから、早くからあったでしょう。ま、これは河童さんの分野だけど。
90日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:44:25
>>88
倭人全体ということではない。対馬国や一大国、末盧国については別記して
いるだろ。男子は大小となく云々以下は女王国、つまり投馬国と邪馬台国の
ことだ(その他の旁国は使者は訪問していない)。
「その山に丹あり」とあるのは熊本あたりの話だよ。本州、四国は論外だ。
91日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:48:57
>>87
漢書地理誌を引用して何を言いたいのかね。文章を書くときに参考になる
文章をみつけて適宜手直しして作文することはよくあることだ。
文章が似ているからといって、倭国の実情と乖離した文章を書いているな
んてことにはならんのだよ。
92水銀厨 :2010/02/15(月) 01:07:21
>>90
>「その山に丹あり」とあるのは熊本あたりの話だよ。本州、四国は論外だ。

中国人のいう丹は水銀朱の事だからね、まして「真珠(朱)」と
書かれてるし。ベンガラとは違う。

九州に弥生期の採掘跡が無いしね。現在確実に確認出来るのは
徳島と紀伊半島のみですから。

93日本@名無史さん:2010/02/15(月) 01:41:51
>>86
庄内式土器というものは、すべての遺跡で出てくるものではない。
畿内でも5様式から庄内式土器の段階をすっ飛ばして、或いはごく僅か受容した程度で、
布留期に移行している遺跡は少なくない。
また布留式土器の受容も、各地でさまざまな相違があったと考えるべきだろう。

参考:
>しかし、古式土師器様式の体系について、奈良盆地・河内平野で完成したセットがそのまま周辺領域に
>拡散するという単純な経緯により広域の布留式が成立するという説明の不十分さを、当遺跡出土土器群
>は示している。(若林邦彦「岩倉忠在地遺跡出土土器群と古式土師器編年」)
http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/research/iwakura/pdf/chapter7sec1.pdf
94日本@名無史さん:2010/02/15(月) 08:16:10
>>92
現在確実に確認出来るのはかどうかで判断するのではなく、存在するかどうか
で判断すべきだろう。そして、存在するのならば、当時はそのことが知られて
いた、ないしは使者らが知りうる状況があったと考えるべきだ。
95水銀厨 :2010/02/15(月) 09:05:30
>>94
しかし既に採掘跡を確認出来る場所を無視は出来ないでしょ。

特に紀伊半島の水銀朱なんて、その後の大和朝廷への動きに
直結してる訳だからね。
96日本@名無史さん:2010/02/15(月) 09:51:31
>>92
「出真珠 青玉 其山有丹」と書かれているのは丹が直ぐ後に出てくるから
水銀朱ではなく海の真珠のことだろう。
「真珠 鉛丹各五十斤」と書かれている物のは
量が五十斤で鉛丹と同列に書かれているから「真朱」の誤りだろう。
97水銀厨:2010/02/15(月) 10:05:45
>>96
その一文は山の産物の事しか書かれてないからね。
青玉も何かの鉱物だろう。

それに海の真珠は白珠でしょう。真は純粋にまっ赤でないと。

98日本@名無史さん:2010/02/15(月) 10:11:27
珠が真珠のことです。
水銀朱を真珠とは書かない。
「真珠 鉛丹各五十斤」は
量が五十斤で鉛丹と同列に書かれているから「真朱」の誤りだと考えてよいが
「出真珠 青玉 其山有丹」も「真朱」の誤りだとは考えられない。
99水銀厨:2010/02/15(月) 10:22:24
>「出真珠 青玉 其山有丹」も「真朱」の誤りだとは考えられない。

その根拠がわからないな、普通山の産物と解釈するけど。
その前後に海の産物の記述が一切無いし。
青玉が翡翠だとしても、鉱物であって海産物ではない。


100日本@名無史さん:2010/02/15(月) 10:52:15
「出真珠 青玉 其山有丹」は倭の特産品
(鉱物だけ海産物を除くとは限らない)
「真珠 鉛丹各五十斤」は魏から倭へ贈られたもの
倭の特産品をまた魏が倭へ贈るか?
「出真珠 青玉 其山有丹」は海の真珠で
「真珠 鉛丹各五十斤」は「真朱」の誤りだろ。
真珠と真朱が続けて出てきたので後のも真珠と書き間違えただろう。

101日本@名無史さん:2010/02/15(月) 13:03:04
倭は真朱(水銀朱)は中国からの輸入、
丹(ベンガラ)は国産だったの。
「出真珠」だから「貢白珠五千」なの。
水銀厨わかったかな。
102縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/15(月) 13:21:16
>>87
このような板での論争においては完全無欠のレスをすると敬遠されます。ところどころに突っ込みどころをちりばめて
おく。これが名人の芸というものでしょう。

ところで、「悉可以示汝國中人使知國家哀汝」は仰るように魏が倭王に対して命じたものです。それも詔書の中に於い
てです。だからあなたの疑問は至極もっともです。

ところが、魏としてはあらゆる機会を捉えて魏の威光を示したいのです。使節一行のきらびやかな衣装、鎧や武具で身
をかためた兵士達の(いかにも強そうな)威容なども見せびらかしながら、下賜品の荷を人々に見せ、ついでに「魏は
お前達を大切に思うとるのだぞえ」と告げて廻るのです。どうせ卑弥呼の都に行く途中ですから。

また、卑弥呼の側としてもその方が都合がいいのです。あんな立派な使節一行を送ってくる魏という国の凄さを民に知
らせることができるのですから。自分で国中に出かけて下賜品を見せて廻るよりはるかに効果的です。

こういう演出は双方で打ち合わせてやるものです。難升米と梯儁はそれをうまくやった。気が利く連中じゃないですか。
103日本@名無史さん:2010/02/15(月) 13:41:40
>>101
魏から倭へ贈られた真朱とは丹(ベンガラ朱)と区別する為に
真の朱(水銀朱)と表記したもの。
104水銀厨:2010/02/15(月) 13:42:43
>>100
>「真珠 鉛丹各五十斤」は魏から倭へ贈られたもの
倭の特産品をまた魏が倭へ贈るか?

朱にも種類があるという事です。色や材質でね。
魏にはこんなモノ出るという事。
だから後に倭からも丹が献上される事になるのです。

>>101
全然ダメですね、まず錬丹術の例えでもわかるように、
当時の中国人にとって丹はベンガラ(酸化水銀)の事ではないでしょう。

>「出真珠」だから「貢白珠五千」なの。

それなら最初から「出白珠」と書くでしょ。
後の真土という言葉からも解るように、
真珠(真朱)は赤い鉱物関連ですよ。

105水銀厨:2010/02/15(月) 13:46:52
訂正‥ベンガラ=酸化鉄な。
106日本@名無史さん:2010/02/15(月) 15:54:20
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。

阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。

九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附

九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市

107日本@名無史さん:2010/02/15(月) 16:07:03
>>95
倭国ではないところは無視していいんだよ。
108日本@名無史さん:2010/02/15(月) 17:02:55
>>104

>朱にも種類があるという事です。色や材質でね。

水銀から作る朱に違いがある?
具体的にどの様な水銀朱があるのでしょうか?

白珠は色や形の良い上等な真珠のことです。

>真珠(真朱)は赤い鉱物関連ですよ。

珠は鉱物ではありませんよ、珠は真珠のこと。
真朱が水銀朱。真珠は真珠。

109水銀厨:2010/02/15(月) 18:06:05
>>108
まず真朱=水銀朱とは私もそのつもりで書いてますよ。
倭人伝で「出真珠 青玉 其山有丹」は前後の文脈からも
山の産物の記述で真珠=真朱だろうと指摘しています。

また倭人伝での真珠とは辰砂でも上質で、
微粒の細やかなものだったのかもしれません。

朱の種類というのは辰砂の状態の事で、塊状か
精製されたものか、あるいは人工的に手が加えられた物か等の
差もあるでしょう。また色の濃淡、オレンジ色の
強い物や黒っぽい物等の色差もあります。

パールは白珠でしょ、やっぱり。
110唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/15(月) 19:02:18
>鎧や武具で身
をかためた兵士達の(いかにも強そうな)
威容なども見せびらかしながら、下賜品の荷を人々に見せ

いいなあ、その格好で、前人の姿を見失う、獣道を歩く。
ほんと、目に浮かぶわ。
111日本@名無史さん:2010/02/15(月) 19:20:53
珠と朱の意味は全く別です。
珠は「たま」や「真珠」の意味で、朱は「赤」の意味。
「珠翠」との漢字熟語があるように真珠と翡翠は中国では宝物、
この宝物の真珠と翡翠が倭の特産品だと「出真珠 青玉」は言っているのです。
「真珠 鉛丹各五十斤」は量が五十斤と計量単位に斤が使われ
鉛丹と同じ様に書かれていますから真珠は真朱の書き間違いだと分かりますが
「真珠 鉛丹各五十斤」の真珠が真朱の書き間違いだから
「出真珠 青玉」の真珠が真朱の書き間違いだとは考えられません。
「珠翠」との漢字熟語があるように真珠と翡翠を並べて書くのは自然なことです
「真珠 鉛丹各五十斤」の誤植の原因が「出真珠 青玉」が直ぐ前にあったからと
考えた方がいいでしょう。
鉛丹との記述があるように丹にはベンガラ(鉄)や鉛など色々あったんですよ。

>山の産物の記述で真珠=真朱だろうと指摘しています。

勝手に山の産物の記述と決め付けないでください。

白珠は特に美しい真珠。
112日本@名無史さん:2010/02/15(月) 19:45:55
>>91
>何を言いたいのかね。

(見聞した本人ではなく)一次資料をもとに編者が(主観を交えて)記述したものだということ。

>よくあることだ。

そう言うなら、 手持ちの実例を示した上で指摘してね。
113日本@名無史さん:2010/02/15(月) 20:01:30
>>102
>これが名人の芸というものでしょう。

おかげで、だんだん楽しくなってきたような気が・・・

>「きらびやかな衣装」「(龍の絵かなにか)見せびらかしながら」「思うとるのだぞえ」
>「双方で打ち合わせて」「難升米と梯儁は・・・気が利く連中」

・・・四角四面に資料を拾うしか能がないですから・・・うらやましくなってきた。
114二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/15(月) 20:08:05
>>水行二十日、水行十日陸行一月

複数の人が、別資料だったのではないかと考えておられるようだが、
私は同資料(具体的には張政の報告)の別記事だったと見ている。
まぁ張政ではなく梯儁の報告の記事であった可能性は否定できないが、
それ以外のものである可能性は限りなく低いと考える。

梯儁や張政は邪馬台国まで実際に行っている、もし日数行程が彼らの報告だとしたら、
途中で記述を変えるとは考えにくいので、全工程が日数表記であり里程記事は別資料からの情報ということになる。
しかし実際に倭に行ったと記録に残っているのはこの2回だけであり、それより詳しい情報を別のイベントで記録されたものの
そのイベント自体の記録がまったくないというのは非常に不自然な状況といわざるを得ないし、
歴史書の著者はその記録自体がどこから出てきたのか?と不思議に思ったことであろう。


>>39
2000kcalは多すぎる

>>5万戸、7万戸
最近は「可五萬餘戸、可七萬餘戸」は、どちらも邪馬台国の戸数を、推定して述べた文章が元だったのではないだろうかと
考えてみている。中国語には疎いのだが「可5万〜可7万〜」のような書き方で、5万とも7万とも、のような言い方になったり
しないのだろうか? 分かる方がいたら教えていただきたい。

>>76
張政は8年に来て8年に帰っている。卑彌呼以死〜男王〜壹與は、梯儁が正始元年に来て以降〜8年までの倭の出来事だ。

張政は未来が見える超能力者で、倭の男王が失脚するのが分かり数年ぼーと何もせずに待って、台与が立ってから告喩したというあなたの主張は頭を疑う。
もし男王が数年ではなく数十年失脚しなければ張政は死ぬまで男王の失脚を待っていたのか?

しかし台与は、はたして何年女王だったのだろうか?
115唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/15(月) 20:10:03
縄文人さん んでね
魏誌は、軍隊の1日の行動距離を百里として、掲載したの。
だから、万二千里は、120日を表すのであって、本当の距離に直すと合わないの。
そう言うことだから。
116水銀厨:2010/02/15(月) 21:02:22
>>111
>勝手に山の産物の記述と決め付けないでください。

私はそう解釈するだけですね、やはり前後の文と関連していると。
珠は「朱の王」ですよ、本来玉や丸の意味のみではなく
美しい物を指していたと思うけど。

>鉛丹との記述があるように丹にはベンガラ(鉄)や鉛など色々あったんですよ。

鉛丹はあくまで鉛丹ですが、ベンガラは酸化鉄なので「丹」とは表現されませんよ。
混同されてしまいがちですが。ベンガラを含めた顔料としての
総称としては「朱」「朱丹」でしょう。

117日本@名無史さん:2010/02/15(月) 21:47:11
>>116
>珠は「朱の王」ですよ、本来玉や丸の意味のみではなく
美しい物を指していたと思うけど。

水銀厨が思っても関係ない。どの辞書でも
珠は「玉」に音を朱から持ってきたもので意味は真珠です。
「真珠 鉛丹各五十斤」の真珠は真朱の誤り。
「出真珠 青玉」の真珠は真朱の誤りとは考えられない。

>総称としては「朱」「朱丹」でしょう。

「真珠 鉛丹各五十斤」が真朱(水銀朱)
倭人伝では丹は真朱とは区別されているから水銀朱以外のもの
ベンガラです。
118日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:06:44
邪馬台国の首都は、葛城だったかもしれんね。

卑弥呼の墓も、馬見あたりにあると思われ。
御所市がもっと予算あればなあ。




119日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:13:26
邪馬台国の首都は近江ってことで最近確定したみたいですよ。
120縦目仮面:2010/02/15(月) 22:27:17
>>117
珠はやはり宝玉の意味で使われてると思うけどね。東夷伝扶余伝には、「美珠 珠大者如酸棗」とあって、
ナツメほどの大きさの宝玉、おそらく真珠。あとは本文ではないけど、注記の魏略西戎伝にも「積石南乃有
大海 出珊瑚 真珠」という記述があって、海からとれるのは貝真珠。

>「真珠 鉛丹各五十斤」の真珠は真朱の誤り。 これもそうだと思う。
121水銀厨:2010/02/15(月) 22:59:20
>>117
キミも頑固だね。この年代の記述では決して
「海の」真珠を指すだけの物ではないと思いますよ。
やはり鉱物の宝石、玉の類だろうと思いますね。
現代の辞書の記述が確実だという確実な証拠も無いです。

「真珠 鉛丹各五十斤」が真朱の誤植というのは
同意してますが‥

>倭人伝では丹は真朱とは区別されているから水銀朱以外のもの
ベンガラです。

これは100%無いですね、丹はあくまで辰砂、水銀ですよ。
仙薬の元の意で顔料の赤色の意味ではないでしょう。

これは同年代の思想書でもある抱朴子を読む限りでは明確です。
鉛や水銀は薬用として用いられるが、ベンガラはあくまで顔料。
丹を赤土の意味と混同するのはずっと後世の事。
122水銀厨:2010/02/15(月) 23:03:56
>>118
馬見は香芝市〜広陵町〜河合町じゃないかな?
神功皇后の母方の里でもあるからね。
123日本@名無史さん:2010/02/15(月) 23:25:09
頑固なのは水銀厨の方じゃないかな
第三者としては、>111に説得力があると思うが
124縦目仮面:2010/02/15(月) 23:29:09
>>114
2000kcal では多いですかね。今はダイエットブームなんで、カロリーでググれば山ほど出てくるけど、
こんな表がすぐ見つかって、男女別、年代別、労働別の摂取カロリーの目安とあるんですが、

(男性)
     軽い   中程度  やや重い 重い
20代 2250kcal 2550kcal 3050kcal 3550kcal   ここで「軽い」というのは、デスクワーク程度、「重い」が
30代 2200kcal 2500kcal 3000kcal 3500kcal   1日1〜2時間激しい運動をする、建設作業員のような人
40代 2150kcal 2400kcal 2900kcal 3400kcal   となってます。

弥生時代なら、末期で男子の平均身長は160cmをやや超えるくらいで、体重は人類学的なデータはないけど、
飽食・肥満の人は少なかったと思われるものの、筋肉量は現代人よりは多かったのでは?

125縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/15(月) 23:29:21
>>114
>張政は8年に来て8年に帰っている。卑彌呼以死〜男王〜壹與は、梯儁が正始元年に来て以降〜8年までの倭の出来事だ。

倭人伝には正治4年、6年の記事もある。8年以前に卑弥呼が死んでいれば何故その記載がないのかな。張政は卑弥呼が
いつ死んだか知り得たであろうから、若し自分が到着した時には卑弥呼は死んでいたのであればその旨の報告をした筈で
ある。

>張政は未来が見える超能力者で、倭の男王が失脚するのが分かり数年ぼーと何もせずに待って、台与が立ってから告喩したというあなたの主張は頭を疑う。

私がいつそんな主張をしたのかな。冷静になって>>76をもう一度読み直してくれないか。
126縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/15(月) 23:38:02
>>113
あれは私が名人だと主張している訳では決してありません。一般論としてであります。

>四角四面に資料を拾うしか能がないですから・・

ご謙遜されますが、私ごとき未熟者にはなかなか真似のできないことです。
127縦目仮面:2010/02/15(月) 23:47:58
続 き
とすれば、よく用いられる標準体重計算式「身長(m)×身長(m)×22」で、身長160cm の弥生人男性として
計算すれば、「1.6×1.6×22」で、56kgくらい。筋肉量が多かったとして、平均60kgと仮定すれば、これ
にやや激しい運動の指数35をかけて、60×35で2100kcalくらい。妥当な線という気がします。2000kcal を大
きく割るようであれば、食足りているとはいえず集落離散などの可能性もあったかも。

ただ、こんな計算より、弥生時代的な生活をしている現代のどこかの部族などと比較したほうがいいのかもし
れませんが。
128水銀厨:2010/02/15(月) 23:48:08
肝心な事忘れてた、私が想定している
山で取れる真珠の事とは自然水銀の液体「汞」、銀色の「粒」の事な。
これなら海の真珠が「貝真珠」と呼ばれる意味も理解できるでしょ。
真っ赤と言ってたのが解り難かったかもしれないが。

宇陀、吉野山中では辰砂と共に採取できたんだよ。
実際採掘例もあるしな。
記紀に出てくる井光とは自然水銀が取れた事の意味だよ。
129縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/15(月) 23:55:04
>>115 唐松どん
真説ですか?1日に百里ということは、1日に7〜8kmですね。120日だと840〜960kmですね。
これだとやはり九州から出ませんね。
130日本@名無史さん:2010/02/15(月) 23:57:43
縄文人は未熟者。
131日本@名無史さん:2010/02/16(火) 00:24:43
金属水銀だと中毒するんじゃないの?
極微量ならともかく、後世の金精錬に使った
水銀アマルガム法では中毒者続出だったらしいが。
132日本@名無史さん:2010/02/16(火) 00:26:03
九州に上陸したら、魏志倭人伝行路記事どおり、唐津から東南に500里行けばいいのですよ。
伊都國は佐賀県大和です。女王国が九州から出るわけはないですね。
133日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:31:36
「出真珠青玉」

玉在山而草木潤,淵生珠而崖不枯。(荀子 勧学編)

石韞玉而山輝,水懷珠而川媚。(文選 巻十七 陸士衡 文賦)
134日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:49:49
辰砂に自然水銀が付着しているから真珠なんだな。
135日本@名無史さん:2010/02/16(火) 05:20:49
136日本@名無史さん:2010/02/16(火) 08:22:10
葛城系の神功皇后が九州制圧してるのは、
葛城の卑弥呼が九州を制圧したことの投影だろ。

九州には、神功皇后以前の歴史や神話が残ってないことから、
大和からの侵攻にあって、九州の歴史が消されたってことなんだよな。

水銀についていえば、葛城も紀伊から水銀を得ることができる。
137日本@名無史さん:2010/02/16(火) 09:02:14
>>128
魏から倭へ贈られた真珠も自然水銀の液体「汞」、銀色の「粒」の事なんですか?
可笑しくない?
138水銀厨 :2010/02/16(火) 09:47:15
>>136
九州に伝承が多いのはそういう事でしょう。

>>137
魏から倭へ贈られた真珠は真朱の誤植だろうと思ってるのですが。
ただし辰砂に付いた状態の物と考えられなくはないかも。
139日本@名無史さん:2010/02/16(火) 11:25:55
「出真珠 青玉 其山有丹 其木有・・・」ですから
「其木有・・・」は木の種類
「其山有丹」は山のもの
「出真珠 青玉」は特産品で中国で言う「珠翠」真珠、翡翠。
この真珠を水銀朱と解するには無理があるな。 
水銀厨は丹まで水銀朱としているが、
こうなると真珠が水銀朱である可能性は全く0だな
「水銀朱と翡翠が出る、山では水銀朱がとれる、木は・・」では
文章として下手すぎる。
140水銀厨 :2010/02/16(火) 12:01:42
>>139
>こうなると真珠が水銀朱である可能性は全く0だな

色々混同と勘違いしているようですが‥
私が主張している事を整理すると
出真珠‥自然水銀の事、銀の粒
青玉‥翡翠等の鉱物、(まだ検討の余地はある)
丹‥辰砂の事ですよ。

だから
「水銀朱と翡翠が出る、山では水銀朱がとれる、木は・・」ではなく

「自然水銀と翡翠が出る、山では辰砂がとれる、木は‥」という事ですよ。
ここで書かれているのは全て山の産物だろうという事です。
141日本@名無史さん:2010/02/16(火) 12:20:27
水銀厨の仮説の問題点は真珠を自然水銀の事、銀の粒とした
漢籍の使用例が無いことだな。
漢籍で「出真珠青玉」と書かれていれば珠翠から
普通は海の真珠と翡翠を思い浮かべるわな。
水銀厨が私はこう思うだけでは・・・。
142日本@名無史さん:2010/02/16(火) 12:45:13
水銀厨が飛ばしすぎなところがあっても、
葛城が紀伊の水銀を求め、大和が宇陀の水銀を求めていたことは確か。

葛城に都を置いていた卑弥呼が、大和の崇神に敗れたというのが真相だろう。
143水銀厨 :2010/02/16(火) 12:56:26
まあ海の真珠でも畿内説の私には問題ない点なんだがw

確かに仮説だからね、自分で水銀厨と
名乗ってるのだからそこは拘りたいんだよ。
筆頭に書かれるのは水銀じゃないかと思ってね。

でも丹とは辰砂、水銀ですよ、顔料の意味では
無いのは断言していいと思う。

144水銀厨 :2010/02/16(火) 13:06:04
後仮説ついでにもう一つ

海柘榴市=椿市とは名前の意味がはっきりしないが、
大陸勢からみた柘榴石(大坂山で採れる)
椿=赤色、辰砂の象徴と解釈すればわかりやすい事でしょう。
ここは本来鉱物の市だったんですよ。
145日本@名無史さん:2010/02/16(火) 13:16:08
邪馬台国は名古屋だと思うな。
146日本@名無史さん:2010/02/16(火) 13:26:07
実は、関東でもおかしくないわけでね。
147日本@名無史さん:2010/02/16(火) 15:27:23
>>142
敗れたというか、対立していたが、
三輪祟神と葛城卑弥呼の妹が結婚し、
祟神を俗世王、卑弥呼を祭祀王とした連合国だろう。

だから弟王=祟神
148日本@名無史さん:2010/02/16(火) 15:33:20
葛城の高天原を支配してたタカミムスビは、いつ頃出雲平定に動いたんだろう?
四隅突出墳墓が消滅した頃かな?
149日本@名無史さん:2010/02/16(火) 17:17:36
卑弥呼の葛城勢力と大和の崇神勢力は、どちらが上だったんだろう?

神武東征神話は、葛城勢力が吉野〜宇陀を通って大和を背後から攻撃したように見えるね。
崇神が葛城出身だとすると、葛城から大和に首都を移したわけで、神話と一致する。

150日本@名無史さん:2010/02/16(火) 17:45:16
>>143
丹について畿内説では辰砂、水銀と考え
九州説ではベンガラと考える。
丹は決め手にはならないようだな。
151日本@名無史さん:2010/02/16(火) 18:18:42
水銀は毒性があるから
遺体の防腐剤として使える。
ミイラ化するまでの保存に使ったのかも知れない。

他の用途としてはどんなものがあるかね。
辰砂を薬用に使う話が出てくるが、有毒だよなあ。

ベンガラは脱臭剤かな。九州ではさすがに
気候的に防腐は無理なので、モガリの脱臭に使ったのだろうか。
152水銀厨 :2010/02/16(火) 19:27:14
>>150
畿内・九州説の見解の差なんて考えてない訳だが。

丹=水銀は中国視線での話だからね。
153二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/16(火) 20:00:32
>>125
倭人伝のあの年表は、2回の魏使の報告とは別の資料の由来だというのが分からんか?
倭の使いは景初二年、正始四年、正始八年。ちなみに魏の使いは正始元年、正始八年。
正始四年の倭の使いが何故行われたのか、その理由は書かれていない。書かれていないのは
それがどのような理由であれ、その理由が明白にわかる資料がなく書けなかったからであろう。
だがら私は4年の倭の使いが、卑弥呼が死に男王が立ったために送ったものではなかったのだろうかと問うておる。

他に正始四年の倭の使いの理由を書いたものは知らないが、なんとなくとかお礼欲しさにとか定期的にとか、
そんなところだろうが、それでは倭の使いが3回しか送られていない(少ない)ことの理由にはちょっと弱いのではないだろうか。
また正始八年は誰が倭の使いを送ったのか明確に書かれていないことにも注意したい。

>>76
狗奴國の脅威にさらされて助けを求めたのに、魏の使いは1ヶ月も2ヶ月も宴会三昧でちんたらちんたらしていた、って話でしたっけ。

154二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/16(火) 20:04:24
>>143
水銀とか考古学は全く疎いのですが、長崎あたりで水銀が取れるようになるのは後世なのでしょうか?
155水銀厨 :2010/02/16(火) 20:24:40
>>154
基本的には中央構造線沿いの水銀鉱床群からの産出が主ですが、
弥生期に九州西部でも辰砂は採取出来たと思います。

ただし本格的に採掘したという形跡はなく、地表上の
物を取って移動という事を繰り返したのでしょう。

縄文末期〜弥生期からの採掘の形跡となると
今の所徳島と紀伊半島しかないですね。
156日本@名無史さん:2010/02/16(火) 20:28:07
嬉野から松浦にかけての水銀鉱床群
嬉野に丹生神社があるから、それなりに古くから
採掘利用されていてみたいだけどね。

由緒が700年前後だから、少なくともそこまではさかのぼれるようだが
それ以前の情報は今のところ見あたらない。
157縦目仮面:2010/02/16(火) 20:35:53
弥生時代の採掘遺跡はなかなかみつからないだろうから、精製用の石臼・石杵などの出土で判断する
しかないかな。ただ、大規模精製をしていればこれらも多く出土すると思われる。
http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/122688766452.html
158水銀厨 :2010/02/16(火) 21:06:24
あと宇陀で取れたという自然水銀の話で興味深いのが、
その取れた場所の近くの山が「イワレ山」なんだよな。
地名が字にしか残ってないので解りにくいが。
159縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/16(火) 21:31:58
>>153
>倭人伝のあの年表は、2回の魏使の報告とは別の資料の由来だというのが分からんか?

分るわけがなかろう。張政の報告が一番新しいものであった筈だが、その報告資料が無くなっていたことが証明
されれば別の資料をもとに書かれたとしてよいが、それは難しいだろう。
張政に関して黄幢拜假難升米為檄告喩之や以檄告喩壹與などが記されているが、これは張政の報告によるもので
はないのかな。

>>76
>狗奴國の脅威にさらされて助けを求めたのに、魏の使いは1ヶ月も2ヶ月も宴会三昧でちんたらちんたらしていた、って話でしたっけ。

なんという読解力だ。情けない。
160二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/16(火) 22:07:27
>>159
張政に、かような理由で倭に行け、と命令した者に、かような理由で倭に行くことになりました、などと
分かりきったことを報告書に書くわけないだろ。

>>なんという読解力だ。情けない。
ならなぜ20日、10日、1月という日数なんだ?お前の主張は宴会三昧だったからというものだろ?
だからお前の説は出来の悪い駄文だと言うのだ。
161日本@名無史さん:2010/02/16(火) 22:17:20
>>158

イワレ山ってどこにあるの?
正確にお願い。

162日本@名無史さん:2010/02/16(火) 22:21:44
三輪山のことに決まってろうが
163唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 22:23:22
九州で内乱が始まったな。これから7,80年か。
164縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/16(火) 23:21:14
>>160
>張政に、かような理由で倭に行け、と命令した者に、かような理由で倭に行くことになりました、などと
>分かりきったことを報告書に書くわけないだろ。

そんな報告だと思っているのか?あきれたもんだ。
私が言っているのは「張政は帰国報告をした筈だから任務を如何にして遂行したか、経過や結果はどうであったか、
というような資料が残されただろう」ということであり、張政に関して黄幢拜假難升米為檄告喩之や以檄告喩壹與な
どの記述があるのはその報告資料によるものだろうということだ。

「張政の報告資料は存在しなかった」と考えねばならぬ根拠がないと言っているのだ。


165日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:35:46
>>160
>>>なんという読解力だ。情けない。
>ならなぜ20日、10日、1月という日数なんだ?お前の主張は宴会三昧だったからというものだろ?
>だからお前の説は出来の悪い駄文だと言うのだ。

>>76 を読んでみたが、20日、10日、1月などという日数は出てないな。
縄文人は張政の在倭の期間について考察しているだけで行程日数のことには全く触れていない。
二はどこを見ているのだ?こんなことでは議論にならんだろ。
166日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:58:09
二のレスを読んでみたが、ヒステリーを起こした女を思い出した。何を言っても誤解される。始末におえなかった。
167日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:59:54
>>165
>二はどこを見ているのだ?

否定され続けて遂に霊が見えるようになったのでは
168日本@名無史さん:2010/02/17(水) 00:07:15
>>167
なるほど。

そう言えば落葉松も太国との相攻撃歴年の結果を踏まえて、過去を霊視する修行を始めたようだ。
169水銀厨 :2010/02/17(水) 01:34:23
>>161
本郷〜岩室周辺、地図には出ないよ。
170日本@名無史さん:2010/02/17(水) 02:35:52
縄文の成り済ましは何がしたいんだろうか?
171日本@名無史さん:2010/02/17(水) 07:27:00
そもそも貨泉が畿内にあるのだから、渡来人が畿内に来訪してたのは決定。
なにをぐだぐだ子供みたいに議論してるのか。
172日本@名無史さん:2010/02/17(水) 08:11:25
貨泉の通用した期間は結構長いし
のちには各地で作られてるからねえ。
かなりできの悪いのも多い。

交易した証拠ではあるが
いつの時代かは全く分からない。

173日本@名無史さん:2010/02/17(水) 08:37:00
>>172

涙拭けよ。

貨幣ってのは、価値を共有してる集団が多くいないとただのゴミだ。
174日本@名無史さん:2010/02/17(水) 09:22:57
>>152
>丹=水銀は中国視線での話だからね。

丹とは辰砂など赤い色を採る鉱物の総称で
鉛丹やベンガラなども含まれます。
丹=水銀ではなく、丹>水銀です。
175二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/17(水) 09:26:16
>>164
太守到官や六年の記事も張政の報告だとでもいうのか?
だからこれらが張政の報告とは別の資料からの由来であるのは明らかだというのだ。
そしてこれらは、倭側の事情などさほど書かれていない、四年の記事をみれば良く分かるが、
魏から見た(見えた)出来事とそれに対する魏の対応が主に書かれている。

八年の記事の「張政等」以降になってようやく張政が倭から持ち帰った情報が書かれているわけだが、
彼としては倭の歴史など興味がないわけで、こういう経緯で今は台与が倭王なので台与に告喩し任務を達成した、という
ことが書かれている。いつ卑弥呼が死に男王が立ったのか、いつ台与が立ったのか、などは聞いてもなかった可能性もある。

だいたい書かれてもいない九年に張政の派遣をもってくるほうが、それこそどこにも書かれていない妄想なのである。


それから他人なのか他人の振りなのか知らないが、一ヶ月も二ヶ月も宴会三昧でちんたらしていたというのは縄文人の主張なのだから、
八年の倭の状況に対して張政がそんな状況で里程も残さなかったという主張を少しでも弁解してみたらどうなのだ?
近視眼的な思考しかできないから>>76に書かれていないなどとアホなことしか言えないのだ。
176二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/17(水) 09:32:55
>>155
やはり良く分からないw
中央構造線沿というと足摺岬から阿蘇山に抜けていると思っていたが違うのかな。
水銀も成分や同位体などで産地が求められるのではないかと思っているのだけど、
弥生時代や古墳時代の水銀には九州産のものがない、と分かっている?
それとも産地が求められないから、水銀の採掘跡などの遺跡から採取されたかどうか
推定しているということでしょうか。

「水銀といえば畿内」という主張は、どれほどの根拠なのかと思いまして。
177日本@名無史さん:2010/02/17(水) 09:49:22
万葉集には宇陀の水銀のことが書かれてるが、
祖の地域から水銀が取れたという文献は無い。
178日本@名無史さん:2010/02/17(水) 09:50:24
>>177
訂正

万葉集には宇陀の水銀のことが書かれてるが、
その他の地域から水銀が取れたという文献は無い。
179日本@名無史さん:2010/02/17(水) 11:48:58
>>176
鉱物中のイオウ同位体比が中国産と日本産あるいは日本国内でも異なることが報告されている。
そこで,朱に含まれるイオウ成分に着目し,イオウ同位体比分析が産地同定に使えないかが
検討されてます。

 http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf117-5/p948-952.pdf
180日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:03:47
>>175
やはり二のレスはピントがずれている。
181日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:16:20
>173
>貨幣ってのは、価値を共有してる集団が多くいないとただのゴミだ。

そうだね。
貨泉は弥生時代は九州で、古墳時代に入ると畿内に出るようになる。
個人的には東遷説はどうでも良いが、価値を共有する集団が
移動したのかも知れないな。貨泉は傍証にはなるのかな。

http://www.geocities.jp/hiranocolt/page025.html

これみてるとかなり後代まで勝手に鋳造していそうだ。
182太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 12:39:12
>168
唐松山のことだな?w
どんな修行だ?
183日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:56:55
>182
百姓千人が船に乗って半島に渡る様子を霊視したいのだそうだ。今温水を竹樋に通して滝に見立てて
荒行の真似をしている。
184日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:58:30
http://www.asahi-net.or.jp/~MM3S-GUD/manazashi/tenjihin.html

貨幣は、九州・瀬戸内・近畿地方の弥生時代後期の遺跡から出土する

>>181
>貨泉は弥生時代は九州で、古墳時代に入ると畿内に出るようになる。

どうしてウソをつくの?
185水銀厨 :2010/02/17(水) 13:38:29
>>174
>丹とは辰砂など赤い色を採る鉱物の総称で

何の根拠を元に言ってるのでしょうか?
それは後年混同された事による見解だと思うね。

まず倭人伝が3世紀末の記述でしょ、当時の丹の解釈は
4世紀初頭の抱朴子が一番年代的に近く、確実な記録なんです。
それによると丹は辰砂から採れる水銀だと明確に定義してある。
ベンガラはあくまで顔料としての代用品の事ですから。

>>176
「水銀といえば畿内」という主張は、どれほどの根拠なのかと思いまして。

私も貴方の書き込み主旨がよくわかりませんw
倭人伝に「その山に丹あり」と書かれている以上、採掘跡がある事は
充分な根拠の一つだと思いますが。

186水銀厨 :2010/02/17(水) 13:43:19
>>181
さらっとウソついちゃダメですw
貨泉は弥生中期の時点で河内周辺で出土してますが。
それに加美遺跡や久宝寺遺跡周辺では、この時代に
漢人と交流していた形跡も残っていますよ。
187日本@名無史さん:2010/02/17(水) 13:44:26
貨泉の流通状況から、
魏の使者も瀬戸内海ルートで大和の卑弥呼に会いにきたはずだな。

出雲はとっくに影響力を無くし、吉備がナンバー2になったということだろう。
188水銀厨 :2010/02/17(水) 13:56:08
>>187
それはまだ何とも‥
貨泉は弥生中期の丹後地方でも出土してるからね。
日本海交易ルートの拠点、丹波も影響力あるでしょう。
189日本@名無史さん:2010/02/17(水) 13:58:57
>>186

さらっとウソついちゃダメですw
貨泉は朝鮮からだって入ってくるんです。
それだけでは、漢人と交流していたとは言えません。
190日本@名無史さん:2010/02/17(水) 14:09:27
貨泉が数枚ずつ墳墓から出てくるのは
鏡と同じような扱いなのかね?
死者の六文銭みたいに。
死者の六文銭の方が案外、貨泉の名残だったりして。

通貨として国内で大量に出て来た例あります?
191水銀厨 :2010/02/17(水) 14:23:19
>>189
加美遺跡では大規模な方形溝周墓が存在して
武帝支配の楽波群と類似の二重木棺、朱を用いるなど
漢人の痕跡がありますよ。

勿論弥生中期で朝鮮に朱葬の習慣なんて無いですw
192日本@名無史さん:2010/02/17(水) 14:35:27
楽波群とは何ぞや?
193水銀厨 :2010/02/17(水) 14:46:57
あぁ訂正、楽浪郡な、

北部九州にあるすだれ遺跡にも類似のものがある。

貨泉も北部九州〜瀬戸内〜河内に出土が多いという事は
倭人伝の記述による、漢の時代から交流があるという
倭国、もしくは倭国の交流範囲がこの地域であるのは
もはや明白な事でしょうな。
194日本@名無史さん:2010/02/17(水) 14:54:31
>>193
北部九州のすだれ遺跡にも似たものがあるというは、九州から伝わってきたという可能性
も十分にあるということだな。そんな二重木棺ひとつで漢との交流が明白とはあきれたね。
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 14:57:53
>>183ww
あいつは畿内の、空腹で暴動を起こしそうな百姓が千人も半島へ渡海
出来たようないい加減な論説を猿の手淫の如く繰り返して、死ぬまで止め
るつもりがないらしい?ww それが崇神5,6年だと言い張っているのだ。
おかしいなとあんただって気がつくだろうが?ww なぜなら〜

百姓なんか漁師でないから農作はプロ的だが日本海の荒波をかい
くぐっての船舶操縦技術なんか持ち合わせていない海のアマチュアで
あって、危険海域の知悉経験もあるわけもないのに、軽々と畿内から半島
へ渡海、到達できたなどと大ウソを垂れ流しているわけ。しかも畿内から
北九州から渡るというなら、山口県西端から北九州に渡海しさらに北九州
北岸から半島へ渡ることになるが、その間二度の渡海をメシを食わずに
渡れたことになる。そんなスタミナが彼らにあるわけがないことは、これ
らを考えたとき一目瞭然だ。」

それに畿内に船舶の出来たのはその初が崇神17年であり、まだ畿内の天皇
も船に乗ってるわけもないのに、千人もの多勢の百姓に船を貸与でき
うる可能性なんか崇神5,6年当時、0に等しい。
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 15:18:24
>>183>>195
じゃぁ半島文献にあるという新羅193年の倭人千人渡海の記述とは何
なのか? 当時九州と畿内とは別国であり、半島へ渡ったのは畿内の百姓
ではなく北九州沿岸に住んでいた百姓だということだ。畿内からはまだ
まだ外国である北九州の百姓くらいの記事を畿内が取り上げるはずはなか
ろうが。それは遣使だとか攻めに来た軍勢だとかなら国運を左右する事件
であるわけだからこれを記紀に記載することは大有りであるが、本州の
向こうの百姓の渡海なんか関係ないとするのが畿内の朝廷の考えだ。

ところが百姓には先述のとおり空腹で海の経験がないんだから彼らが独自
に千人も渡海なんかできっこないわけで、これは北九州の農民だから同じ
北九州沿岸に住む漁師連と昵懇の仲間意識のある仲がいいのがいて、彼ら
同士が強力して北九州から半島へわたるため各船舶を貸与してくれたから
こそ、千人渡海ができたということであり、紀の崇神5,6年の百姓流離とは
半島渡海のこれら百姓とは同じ百姓と言っても全然別者なのである。
197日本@名無史さん:2010/02/17(水) 15:27:19
貸泉の出土地をめぐっての良い議論になってきたな・・・と思った途端、
太×ジジイのわけ分からん参入でぶち壊し・・・ ><
198太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 16:04:29
世の中カネがなけりゃぁ、とても旅行なんかできまい。そのころはカネが
まだなかったのか? 疑問に思うわけであるが、
漢書王莽伝に

 (元始5年)東夷の王大海を渡り国珍を奉ず

とあり、倍暦計算から紀元後5年(元始5年)は神武の代であるから、
神武だけは後代の天皇とは異なり九州から畿内へ渡って来た人物で
あるからして、ここの東夷の王は神武なのかと思ってみたが、崇神17年の
神武の代の後に畿内で船舶が造られているし、いったん畿内へ来た神武が
即位間もない年にまたもや九州へ行って半島に働きかけるということは事
が性急すぎるから、総合的に考えて東夷の王とは当時の九州の別王で
あって、神武ではあるまい。

貨泉は紀元14年に鋳造したということであり、東夷の王は神武ではないが、
その頃の畿内には河内平野から貨泉が出土した関係上、当時すでに畿内で
カネの流通があったと観たい。となれば後代の193年、半島と畿内の路の
途中の北九州でも同様であったろう。かようなことで、崇神5,6年には
すでに貨泉出土の関係から、ロハで空腹の畿内の農民が半島へ渡れる経済
状況ではないことは濃厚であろう。唐松山の主張は蜃気楼そのものである。
199縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/17(水) 17:21:06
大人げないとは思うが、折角レスをくれているので。

>>175
>太守到官や六年の記事も張政の報告だとでもいうのか?

そんなことは言わない。張政が報告しなくても別に資料があっただろう。卑弥呼の死亡は張政の任務に関係があるから
張政は必ず報告している。男王が立ったが国中不服で壹與を立てて治まったことも報告した。

>八年の記事の「張政等」以降になってようやく張政が倭から持ち帰った情報が書かれているわけだが、
>彼としては倭の歴史など興味がないわけで、こういう経緯で今は台与が倭王なので台与に告喩し任務を達成した、という
>ことが書かれている。いつ卑弥呼が死に男王が立ったのか、いつ台与が立ったのか、などは聞いてもなかった可能性もある

そんなことで使者が務まる筈はないだろ。壹與が立てられた経緯については「卑弥呼は何時死亡したのか」も含めて魏政府に
詳しく報告を求められる。そんなことも判らぬでは使者の資格はない。

>それから他人なのか他人の振りなのか知らないが、一ヶ月も二ヶ月も宴会三昧でちんたらしていたというのは縄文人の主張なのだから、

私にはそんな主張をした憶えはない。君はしつこく言うが、そのような内容の私の署名付きの文書でもあるのか?あったら後学のために
拝ませてくれないか。
200日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:25:08

イヨタン・・・・・・・・・・
201日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:42:01
>>196
原文がなくて訳文ですけど
「倭人大いに餓え、来りて食を求めるもの、千余人」とあって渡海とはないようですが ?

渡海がないとすると半島南部にも倭人がいたことになりますね。
202日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:50:45
任那か………
203唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 18:55:08
>紀の崇神5,6年の百姓流離とは半島渡海のこれら百姓とは同じ百姓と言っても全然別者なのである。

これだけ解っていれば、192年に日本全体を巻き込む冷夏、凶作が想定出来るでしょう。
なにも畿内の百姓で無くてもかまわない。

後漢、193年は、六月が非常に寒かったとの記録もある。
そうなれば、山陰、北陸地方は、畿内以上の凶作が想定される。
だから崇神6年秋に大物主は、崇神に位を譲る、身代わりとして、大田田根子が朝廷に入る。
大物主は、生きた人間でなければならない。
204唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 19:00:24
後漢書 3313
庶徵之恆寒。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
205水銀厨 :2010/02/17(水) 19:01:14
>>194
楽浪郡の古墳との類似性と頭部に朱を撒く習慣は?

まさか九州発祥で大陸へ伝わったと主張したいのかいw

>>196
悪いけど内容が釣りネタとしか思えないです。
倭人が新羅へ渡ったというと、丹後半島に伝承もあり、
実際出土品から交流形跡が伺えますが。

206太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 19:22:33
畿内が不作で九州が豊作ということだってありうる。唐松山の言い分は朝廷の
勢力が四方偵察するくらいの畿内周辺なのに、全国規模の不作なんてそんなこと
は分かりっこないし考えちゃいない。それより卑弥呼のことでも記紀に書くぜ。
唐松山の主張は不作のできそこない論。
207太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 19:23:38
>>201
唐松山は渡海だとしてる。
208太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 19:28:39
>>205
孝霊の代、出雲に月氏からの攻撃船団が来たというから、そういうことはあっ
たろうが、千人ものカネなし腹ペコ農民がそっから半島まで全員渡海などでき
っこないだろうが。せいぜい助かって数人だよ。現今の脱北だって、日本海を
渡るのに命がけぞだ。あいつの論は成立しないよ。
209日本@名無史さん:2010/02/17(水) 21:30:42
朝鮮半島から鉄を輸入するために、日本(この場合、国名ではない)は、生口、つまり労働力を輸出していた。
倭国大乱で生き残るための鉄器を得るため、千人の生口を輸出する必要があったということだ。
210太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 21:43:33
>>203
想定なら、何でも言える。問題はその想定のウラを取って矛盾が
なく、恣意的でなく客観的合理性があればの話だ。九州は畿内から
当時は外国なんだから、外国の百姓がどうのこうのなんか畿内には
関係はな〜い。極端に言えば当時西欧のひゃ苦笑の暴動なんか記紀
に記載なんかするわけがない。それは九州には当時は航空機も
新幹線もなく電話もないんだから、現今の報道機関の報道的情報を
外国の巷の百姓千人がどうしたなんぞ、畿内には無関係のことで
届かんでござんす。届いても あっ そう で終わりだ。

しかし当時現今のように電波発信の携帯電話でもあれば、ス〜グ
九州から畿内に誰かさんの脳内のように情報が入ってこられるから、
そういうんなら、電波の恩恵で九州百姓の暴動、渡海とかが畿内に
電波の情報が即刻入る。www
211唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 21:45:21
>畿内が不作で九州が豊作ということだってありうる。

倭国乱の7,80年。7,80年前から倭国は乱れ始めた。
崇神5,6年は、この中に含まれる。
冷夏は、局所では収まらない。

新羅本紀の記事が信じられなくとも、記事になるほど、渡海があったんでしょうね。
翌年の後漢の記事も冷夏ですし。

否定するなら、これらの記事を他の時空に当てはめれば良いんですよ。
又は、それに代わる、崇神時代を決定する事項を記載するとか、
赤玉は解りましたから、それ以外の記事を。
212日本@名無史さん:2010/02/17(水) 21:53:00
古代の倭国は、生口が主な輸出品だったのだ。
なぜ、それを認めようとしないのか?
それいは人権侵害だからだろうと推測されるけれど、
それでは本当の古代史は見ててこない。
タブーを犯す勇気を持て!
213日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:03:37
かかかか、生口は食材。皮革素材。人間椅子などに用いられた。
214唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 22:06:24
神功紀は、275年を元年とすると、書紀の記事は正しい。
これ以降、百済は、生口も献上品として、倭国に朝貢。

うん、これで古墳築造の人足は確保できた。
215日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:07:02
太国&縄文人が来ると急激にレベルが低下するww
216日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:07:59
>>212
NHKで大半は倭人の傭兵でした。とか言ってたけど、
国を乗っ取られるぞ。JK
217日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:16:18
>>211
>冷夏は、局所では収まらない

冷夏であれば。なおさら海を渡ってまで北をめざす道理はないですな〜
218日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:18:21
>>215
他人の誹謗をするのに自分の名を名乗らないのは人間として最低のレベルだな。
219日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:51:04
そんな事ID未表示の板で言ってもな〜
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 00:35:11
>冷夏であれば。なおさら海を渡ってまで北をめざす道理はないですな〜

海を渡れば 食にありつけると思ったんでしょうね。
221日本@名無史さん:2010/02/18(木) 09:33:38
>>193
中国銭の土量は九州の方が機内より桁違いに多い。
漢の時代から倭人伝の時代になっても交流の中心が九州であったことは間違いない。
222日本@名無史さん:2010/02/18(木) 10:19:31
>>221

九州説が頭悪いことは、
「交流の中心が九州であったことは間違いない」
「九州と畿内は、全く無関係」
「だから邪馬台国は九州」
という短絡思考なところなんだよな。
223日本@名無史さん:2010/02/18(木) 11:56:56
南九州説が優れていることは、
「倭人伝の行程どおりで、何の問題もない」
「南九州が中国と交流があったことは間違いない」
「倭国は九州。当時は、畿内は倭国ではない」
「遺跡、遺物は倭人伝が伝える状況にあっている
「だから邪馬台国は南九州」
という冷静な思考なところなんだよな。

224日本@名無史さん:2010/02/18(木) 12:07:47
でも、九州には邪馬台国の遺跡も卑弥呼の墓もありませんでしたとさ。
225二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/18(木) 12:28:41
>>199
大人げない?縄文人の理解力が低いだけだ。

>>そんなことで使者が務まる筈はないだろ。壹與が立てられた経緯については「卑弥呼は何時死亡したのか」も含めて魏政府に
>>詳しく報告を求められる。そんなことも判らぬでは使者の資格はない。
ではなぜ死亡の月日、台与が立った月日が書かれていない?務まってないということになるだろ。
「務まる筈はない」というのは縄文人の頭の悪い妄想であり、まったく根拠のない主張である。

>>>一ヶ月も二ヶ月も宴会三昧でちんたらしていた
>>私にはそんな主張をした憶えはない。

痴呆か?
>>34 >>45
大体、投馬国と邪馬台国への行程記述が里程ではなく日数でしか書かれていない=報告されていないなら、
それこそ、そんなことで使者が務まる筈はない。倭の王が替わろうが内乱状態になろうがそんな事情など関係なく、
宴会三昧でちんたらしていたというのであれば、一体何をしに行ったのだと言う事になる。
お前の主張というのは、かように頭の悪いものなのだ、分かったか?
226二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/18(木) 12:29:52
>>177
宇陀の水銀のことしか書かれていないが、実際には徳島からも採取されていた?

私が聞いているのは、長崎や阿蘇でも水銀が取れたのではないかと思うのに、
それが無視されているのは何故だろう?という素朴な疑問です。

>>179
ありがとうございます。しかしこれも、日本のものは三重、奈良、徳島しか調べていないようですね。
227縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/18(木) 12:58:04
>>225
君には使節(外交官)についての認識が欠けている。子供の使いではないのだ。

張政は倭国に来て卑弥呼の死亡を知った(邪馬台国到着前の場合)か、あるいは死亡を見た(邪馬台国到着後の場合)。
正治8年記事の前に卑弥呼死亡の記事が無いのはそれまで卑弥呼が生きていたことを示す。

>宴会三昧でちんたらしていた・・・
そんなこと書いてないだろ。君の目は節穴だとしか思えん。

228日本@名無史さん:2010/02/18(木) 13:39:56
>>225
里数がはっきりしないときには、無理に不正確な里数を書かかず、日数で記載することはあ
るでしょう。それがごく当たり前の話だと思うが。
日数で書いたからといって、使者の役目云々と言うような問題だとは思わないですね。
229日本@名無史さん:2010/02/18(木) 13:42:56
>>224
畿内説論者みたいに、やたらと「比定できる」なんてデマを飛ばさないだけだよ。
230日本@名無史さん:2010/02/18(木) 13:56:21
>>229

九州説のほうが、やたらと比定してますよね?
宇佐説、日向説、甘木説・・・全部デマということでOK?

231太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 14:18:53
>>217
崇神5,6年じゃぁ天皇も船舶がないんで乗れず、下っ端の百姓千人がこれに乗れ
る道理などなく、船舶が出来たのは崇神17年なんだからこの半島古文献にいう
年代が崇神5,6年なんかになりうる話ではないということで、あいつの主張は強行
を企てたデタラメなる盲象なわけです。
232日本@名無史さん:2010/02/18(木) 14:34:16
>>229‐230

こんなにあるんだよ。いや、もっともっとありそうだ。
 ↓ ↓ ↓
http://www.yamataikoku-roman.jp/place/index.html(音に注意!)

まあ全部じゃなくても、大半はデマだろうね。www
233日本@名無史さん:2010/02/18(木) 14:45:22
>>232
>まあ全部じゃなくても、大半はデマだろうね。www

君、何言ってるの?
全部デマだろ。
234日本@名無史さん:2010/02/18(木) 14:52:01
うん。もし畿内説が正しいなら全部デマだね。
235日本@名無史さん:2010/02/18(木) 15:30:01
大丈夫だよ。まちがっても畿内ということはないから。
236日本@名無史さん:2010/02/18(木) 15:58:16
畿内じゃないなら、関東だな。

237日本@名無史さん:2010/02/18(木) 16:01:12
考古学の世界では畿内に確定してますが。
238日本@名無史さん:2010/02/18(木) 16:25:33
>>237
こんなアホなことを言う奴がいるから畿内説が馬鹿にされるのだ。困ったもんだ。
239日本@名無史さん:2010/02/18(木) 18:38:13
ところで、まだ畿内説は巻向、箸墓のままなのか?
240水銀厨 :2010/02/18(木) 19:01:08
私は畿内説でも河内平野を主にみてますが。
巻向は宗教都市で人口集積地ではないでしょう。
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 19:38:56
>>240
河内がニューヨークなら
纒向は、ワシントン ですか?
242日本@名無史さん:2010/02/18(木) 20:52:05
ワシントンは近江ですよ。伊勢遺跡。
243日本@名無史さん:2010/02/18(木) 20:53:20
巻向は三輪氏の私邸。
244水銀厨 :2010/02/18(木) 21:06:49
>>241
私はそう認識してます。

ただ人の一部は河内平野が弥生中期の洪水でやられてしまって
奈良盆地南部へも人が移動してると思いますが。
245日本@名無史さん:2010/02/18(木) 21:09:23
国母は、なぜお歯黒をしているのだろう?
腰パンといい、お上に媚びない気高さ。

ウィキには、国母(こくも/こくぼ)は、天皇、国王の生母の称号とある。
ただ者ではないのだろう。

それに比べると、清州上の名誉城主織田なんたらの怪しげなこと・・・
246日本@名無史さん:2010/02/18(木) 21:18:17
九州説論者なんてまだこの世に存在してるのか?
247日本@名無史さん:2010/02/18(木) 21:23:12
関東に大王あり!
古田説は不滅です。
248唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 21:28:42
大和に卑弥呼がいない限り、九州説は不滅だあ〜あっ。
249縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/18(木) 23:05:10
なんだかのんびりムードになっとりますな。私もあやかろう。
九州説が不滅であることは言うまでもないが、畿内説が何故存在できるのかは永遠の謎だろう。ね。
250日本@名無史さん:2010/02/18(木) 23:07:02
さすがに論争に飽きてきたみたいだね。

そりゃあ、いまさら本気で九州説唱えてるやつはいないもんな。
251日本@名無史さん:2010/02/18(木) 23:11:13
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
252ローガン:2010/02/18(木) 23:30:31
>>250

まあ、そういうことでしょう。毎度の繰り返しなんでねえ。
253日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:03:46
>>245
それはマウスピースだろ
254日本@名無史さん:2010/02/19(金) 01:32:42
>>249
謎なもんか。馬鹿はどこにでもいるということだ。
255日本@名無史さん:2010/02/19(金) 01:59:34
>>254
み つ け た
256日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:40:05
九州説の人もそろそろ、邪馬台国の比定地を決めたほうがいいんじゃないですか?
257唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 22:08:57
卑弥呼は九州でも、
邪馬台国は、倭国統一の大倭しかない。

みんな解っているけど、止まらない。

まだ100年は、邪馬台国論争 安泰だ。
258日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:38:41
>>256

九州全部が邪馬台国だから、いちいち比定なんてする必要がないのよ〜ん。
259日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:46:59
>>258

じゃあ狗奴国はどこ?
260日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:56:28
狗奴国は邪馬台国の反乱分子に過ぎない
261日本@名無史さん:2010/02/19(金) 23:14:39
文献に決定出来る情報がないんだから
決定できるわけないじゃん。

台与の時代ならともかく
卑弥呼の時代の朝貢は相当にショボイ。
あの程度なら、ちょっと大きめの国なら
どこででも出せただろう。

比定できる規模の国なら、九州内にいくらでもある。
わざわざ共立って書いてあるわけだから
一方的に支配できる強国がなかったということだしね。
支配してたのなら共立なんて書かんだろ。

つまり、情報が足りない以上、候補を上げるのが精一杯だ。

逆に畿内説の箸墓巻向は、どんな根拠で比定したのか疑問だ。

262日本@名無史さん:2010/02/19(金) 23:30:32
>>261
文献、その後の大和朝廷との整合性、
葛城の日女命、水銀、古墳、考古学、神社etc.

逆になぜ九州なのか?半島に近いだけという単なる妄想
263日本@名無史さん:2010/02/19(金) 23:34:54
実際、巻向で166回も掘って、たいして決定的な結果もでてないのに、
毎回卑弥呼がどうのというニュース流すのが、歪んでるなあ。
264日本@名無史さん:2010/02/19(金) 23:57:45
>>262

九州説の者に「なぜ九州なのか」なんて聞くのは見当違いだよ

九州説者が「これこれこういう訳だから九州なんだ」と言ったところで
畿内説者がそれを聞いて納得した返事を出すのか?
どんなに誠意をつくしても絶対に認めないだろう?
認めないものに説明する事ほど馬鹿げてるモノはない。
265日本@名無史さん:2010/02/20(土) 00:23:39
>>262
単なるワードを並べているだけでは
インデックスにもならんな。

根拠なしか?
266縄文人 ◆BYM7ylwnwCr8 :2010/02/20(土) 00:27:00
畿内説は、私の主張する九州説のような明快な根拠を持たない。多くは考古学的成果をねじ曲げて解釈した
ものだ。それに対して私は、真の学識で勝負する。
267神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/20(土) 00:37:20
魏志倭人伝には邪馬台国が魏に「拊」と言う羊に似た動物を贈ったと書いてあります。
これはニホンカモシカのことで九州には生息していません。
つまり、邪馬台国はニホンカモシカの生息する畿内にあったという動かぬ証拠になります。
268日本@名無史さん:2010/02/20(土) 00:40:46
ウィキペディアより抜粋

ニホンカモシカ(日本羚羊、学名:Capricornis crispus)とは日本の中国地方を除く本州、
四国、九州の低山帯から亜高山帯にかけて棲息するカモシカである。日本固有種。
日中国交正常化に際し、パンダのお礼として中国へ雌雄1頭ずつが贈られたことでも知られる。
269日本@名無史さん:2010/02/20(土) 01:07:31
贈られたカモシカはスタッフでおいしく頂きました。
270日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:01:37
痛いコテだな。
271日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:44:01
>>264
それそっくりそのまま返せる内容でワロタ
272日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:45:13
>>266
>私は、真の学識で勝負する(キリッ

だってよぉぉ〜〜〜wwwwwwwwwwwww
273日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:47:10
>>265
根拠とかwww九州説の根拠はどう説明すればwww
274日本@名無史さん:2010/02/20(土) 03:29:17
私は山河豊かな南九州で育った。心優し人々とうまい酒。まさに楽土、桃源郷といってよいか。

幼い頃から、ここは天孫降臨の地、卑弥呼の里、陛下の故地は日向と教えられて育った。

その物語は、幼き日の私の耳に心地よく、故郷への誇りを胸に人生を歩んできた。

邪馬台国が畿内であるはずがない。根拠のない年代遡上などで、私の人生は否定できはしない。

邪馬台国南九州説は、私が生きてきた証しだ。

275日本@名無史さん:2010/02/20(土) 05:07:44
巻向箸墓の根拠を示せない畿内説?
276日本@名無史さん:2010/02/20(土) 07:53:17
>>274
故郷を誇れることはすばらしいことだと思います。
年代遡上など何の問題もありません。もし、考古学的に遡上が正しいとすれば
それに合わせて思考を組み立てればいいだけの話です。邪馬台国が南九州にあ
ったという事実が揺らぐものではありません。
277唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 08:16:51
故郷を誇りをねじ曲げるから、埃と揶揄される。
現在の考古学に合わせて考えてくれ。
崇神は2世紀末。
278日本@名無史さん:2010/02/20(土) 08:28:13
難しい字を知ってるね。だが、残念ながら文章が今ひとつだ。
279日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:11:00
えっ、難しい字って。どれのこと?
280日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:16:13
杓文字, 体裁, 角力, 折衷, 束子, 言伝. 十六夜, 辛辣, 足袋, 刺青, 束間, 呆然, 吠面, 阿吽, 彼処, 所謂. 怖気, 河岸, 松明, 直截
281日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:20:00
大和という地名はダイワと読むのが順当だが、
ヤマトと読む方が圧倒的に多いのが現実である。
 狭義には現在の奈良県地域で、
広義には古代大和朝廷の支配圏域を総称している。
 現代日本人の多くは平野部の大都市に居住しているので普段意識しないが、
国土の約73%は山地なのである。
 
航空機で全国を移動したり、各地の山岳に登山した人ならば、
山々が重畳織り為す日本列島を実感する。
 青森県の八甲田山から山口県の最高峰寂地山まで平野部に降りずに
踏破可能なことが象徴する如く、
県境は峰々と峠により形成されている山国で、
特に奈良県地域は上古に都(京)が置かれまさにヤマト(山都)なのである。
 
日本武尊の古歌「倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる倭し美し」が端的に表わしている。
 後漢および三国時代の中国が当時の日本を倭と呼称したので、
倭の漢字を当てヤマトと訓ませたのである。
 
椎根津彦の後裔が倭国造(のち大倭国造)となるが、
天平9年(737)には大養徳に改称、
翌年には大倭に復旧、国名の好字化の流れを受けて天平宝字元年(757)に
倭が和に通じるということで大和に改称したのである。
 大和をヤマトと呼ばせるように諸国の国名も好字化の影響を帯びている。
 

282日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:38:22
山門というのは要するに盆地のこと。
朝霧に霞むまほろばの里は日本全国にある。
その中心となるのが大倭・・ということだ。
283日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:49:13
>>275
ググレカス
284日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:56:18
なんでもかんでもグーグル頼り。
自分では現地どころか図書館へさえ行ったことのない畿内説信者。
285日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:01:30
>>284
現地在住ですが、何か?
286日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:07:20
大倭については、倭人伝が説明しているだろ。
国々に市有りて有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ。
つまり、纏向は市の一つだった。だから、大倭が置かれた。
市だからいろいろな人々が出入りし、各地の土器も集まった。
その監督をしていたのが大倭。それが文字を置き換えられて大和に変わった。
もともと、大和と言う言葉は、邪馬台国の出先であることを意味しているんだ。
287日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:11:23
>>286で、本庁はどこにあったんでしょうか?やっぱり近江?
288日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:15:06
残念ながらちょっとずれてるね。九州ですよ。
289日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:15:20
またもん太スレか
290日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:26:30
>>288
ひろうござんすねぇ
291日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:37:19
>>290
広い目でみれば理解できるだろう。関東、東海からの物資を集めてきて、松阪
あたりから陸揚げし、大和を経て九州へと運ぶんだよ。
292日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:42:10
>>291
関東や東海からの物資は、東山道を抜けて近江に集まったはずだが・・
293日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:51:01
>>292
それもあるだろうが、陸路よりは海路だよ。近江に集めた物資はどうした?
川を使って大阪湾に出し、九州へ持って行くんだよ。
294日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:01:02
>>293
かさばる物、重量物を九州まで運ぶのは日数も運送料がかかりすぎる。
もちろん畿内で売りさばいたんだよ。
東国からの物資の流通拠点として巨万の富を背景に政治の世界を支配していたのが近江だったのさ。
295日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:03:04
>>293
逆もしかり・・・瀬戸内海は重要であったことは間違いない。
江戸時代の長崎出島のように
九州伊都で大陸からの物資や人を検品・検査し、
瀬戸内海を通って河内から、大和へ運ぶ。

河内〜西大和は葛城氏の領地。葛城には日女命や陰陽師の鴨氏。
タカヒムスビが鎮座されている延喜式最高位の高天彦神社・・・
296日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:06:00
>>294
九州からの大陸品やご当地品、東海関東からのご当地品
どれもこれも大和中心。それを証拠に巻向にはいろんなご当地の特産品が出土している。
297日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:10:05
まあ、九州にとっては畿内の連中に働いてもらわなければいかんからね。
ある程度は甘い汁を吸わせたんだろうよ。
だが、大和が支配していたなんてのは幻想だね。
298日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:10:43
>>297
聖徳太子涙目w
299日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:14:42
>>297
一大率で出先機関の地方役人として働かされ、
大宰府になった後も出先機関、鎌倉時代にはモンゴル軍の火薬の人柱
秀吉の時代も半島に行くための出先城
江戸時代に至っては関が原西軍の外様大名の国wwwwwww

そんな島が大和を働かせるというのは滑稽
300日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:22:03
>>286
そもそも大倭を出先機関と書くからいけないのだ。
大倭こそ小倭の本庁、中心だったと書けばいいのだ。
大倭の胃袋を満たすため、西国の物資は大阪に、東国の物資は近江に集積された。
そう書けばすべて解決するではないか。
301日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:24:17
一大率は当時の首都である伊都国から大陸を結ぶ交通路を管理する機関。
倭の五王も当然九州倭の王。
7世紀までは大宰府が日本の首都。
当時の大和は蛮族の地。
302日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:30:46
>>301
九州王朝説かwwwwwwwww
まだ生きてるんだ?こんなのww

お前、書いてておかしく感じないかwwww?
303日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:38:56
倭の五王とは、倭には5つの国があって、その王がそれぞれ朝貢したという話ではないのか?
304日本@名無史さん:2010/02/20(土) 11:51:34
弥生時代に大した遺跡がなく、銅鐸祭祀にたよっていたような所に大きな胃袋
なんぞないんだよ。
305日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:00:31
だとすると、縄文時代から弥生時代にかけての集落のある琵琶湖周辺こそ
その胃袋だったとするのが正解でしょう。
大和は吉備から遷都してきたことは、特殊器台の分布からもわかる。
306日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:01:36
>>304
お前は一体、いつの時代の話をしているのか?
307日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:02:42
>>305
淡水魚より海水魚ですよ旦那
308日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:00:27
>>268
わずか三分で珍説殲滅。ワロタ。2chあなどれず。
309日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:27:28
このインターネット時代、沢山の人が見てれば、
百科辞典相手に珍説吹いてるようなものだから。
310日本@名無史さん:2010/02/20(土) 14:37:15
なぜ日本には、平安時代以前の石碑や粘土版が残っていないのか不思議ですね。
「邪馬台国まで百里」道しるべとなる同祖神でもあればすぐわかるのに。
やはり、それも藤原不比等の陰謀ですべて破壊されたということだろうか?
311日本@名無史さん:2010/02/20(土) 15:04:44
>>310
いや石碑や同祖神なんて、早くみて鎌倉時代以降からだからwww
粘土板は、そのもっと前から日本には無いように思う
312日本@名無史さん:2010/02/20(土) 15:15:25
石碑なんて本当にあるの?
313日本@名無史さん:2010/02/20(土) 15:19:30
平安時代以前の石碑、いくつかあるよ。
多賀城碑が有名だけど
314日本@名無史さん:2010/02/20(土) 15:41:20
那須国造碑、多賀城碑、多胡碑すべて多氏、大彦の系統。
大和朝廷の影響が及んでいない東国で、しかも渡来人の作。

畿内や西国にはなぜそういった石碑がないのだろう?
315日本@名無史さん:2010/02/20(土) 16:43:58
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
316日本@名無史さん:2010/02/20(土) 18:34:12
>>305

>大和は吉備から遷都してきたことは、特殊器台の分布からもわかる。

たかだか特殊器台ごときで遷都云々を語れるなら、中国や台湾は日本の領土と言う事になる
現在日本の新幹線は国内にとどまらず、台湾や中国にその車両や技術は進出している
317二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/20(土) 20:12:23
>>227
年金老人のように暇ではないのでな。

「子供の使いではない」だの「そんなことで使者が務まる筈はない」だのいって、
私が卑弥呼の死亡時期が書かれていないことの指摘を批判しているようだが、縄文人の主張はどうだ?
卑弥呼の死亡の月日どころか、8年に死んだのか9年にしんだのか、張政が来てから死んだのかどうかさえ
分からないという始末。自分でいつ死んだか報告しないようでは使者の務めがなっていないといいながら、
自分は務まっていないことが前提の主張をしているという自己矛盾を、まったく気が付かない低脳さにあきれるしかない。

20日10日1月の宴会三昧も、上にあげたように縄文人自身の主張であるにもかかわらず、自身はそれを自覚できていない。
だいたい短い距離を日数を掛けて移動したことから、それを里数で表すことが出来なかったということに、
因果が見いだすことが出来ないのであるが(逆に里数で表すことは簡単としか考えられない)、
そのような主張を、なんというか実体験のない空想小説のような話として主張しているというか、頭の悪い人物が
リアリティのない矛盾だらけの近視眼的な主張を連ねて話しているというか、そのような感じにしか受け取れない主張をされていない。

そのくせ自説の弁解すら満足にできないで、論点をずらそうとしかしない書き込みを続けるのは、人間としてどうかと言わざるを得ないのではないだろうか。
318日本@名無史さん:2010/02/20(土) 20:35:46
>縄文人は低脳 >頭の悪い人物 >人間としてどうか
319日本@名無史さん:2010/02/20(土) 20:37:34
卑弥呼の死亡時期なんてちゃんと書いてあるわな
「卑弥呼以死」「正始中」 これだけ明確に書いてあれば
あえて年号なんて書く必要もない。
320日本@名無史さん:2010/02/20(土) 20:41:25
>>317
>人間としてどうかと言わざるを得ないのではないだろうか。

2chに書き込みしている奴が2chの投稿者に対し「目糞鼻糞を笑う」
321日本@名無史さん:2010/02/20(土) 22:00:43
>>316
日本車の分布から日本はアメリカに代わって世界中を支配していたことがわかる。
更にカラオケセットの分布から、集団で酒を飲みトランス状態で神に祈る日本の儀式が世界に浸透していたことがわかった。
日本は世界の斎王の地位を手に入れたのだ!

てことでOKですよね?
322二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/20(土) 22:43:13
>>319
私は卑弥呼の死を正始八年ではないと否定するつもりはない、しかし文献の考察から八年より前だと考えるのが
妥当ではないかと言っているのである。

更に言うなら「明確に」といわれる卑弥呼の死の年を、縄文人は8年か9年か分からないと言っており、
それにもかかわらず卑弥呼の死がいつだったか報告していないのはおかしいと、それこそおかしなことを
言っているのを私は批判しているのである。

あと貴方の言う「正始中」は倭人伝には見当たらないようだが、どこから持ってきたものか。
また正始中が正始元年〜八年なら、私の主張と反しないが、それのどこをもって明確云々という考えになるのか
少し教えていただけないだろうか。

「年号なんて書く必要もない」と”年号の書れている記事”にいちゃもんをつけられても、私もこまるのだが。
323日本@名無史さん:2010/02/20(土) 23:46:48
>>322
横レスだが、「正始中」は、梁書に書かれている。
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺

倭人伝のほとんど同じような内容だが、梁書はそのずっと後のことまで
書かれている。出典は違うのかも。

それにしても、この頃はいろいろあって微妙な時期だな。
正始八年に帯方郡の太守・王頎が赴任。
その時、卑弥呼は使者を送り、狗奴国と戦争状態にあることを説明している。
そして、調停役として張政がやってきた。

正始十年(西暦249年)になると、魏で大異変が起きる。
卑弥呼が初めて使者を送った頃から実権を握っていた曹爽が、司馬懿の
クーデターに遭い、捕らえられ殺されてしまうのである。

日本への対応にも変化が出たのではないだろうか。
324日本@名無史さん:2010/02/21(日) 00:16:32
>>321
もっと凄いのがあるぞ
大阪で最古のノーパン喫茶の看板が出土した。数年後その大阪の看板よりも若干時代が新しいノーパン喫茶
の看板が東京から大量に見つかる
そこから推測すると、日本の文化は20世紀末に大阪から東京に移り
同時に遷都したようだ
325日本@名無史さん:2010/02/21(日) 00:18:16
所詮考古学者が推測する歴史なんてこんな発想だ
326ローガン:2010/02/21(日) 00:23:19
>>323
>正始八年に帯方郡の太守・王が赴任。
そうそう…年表記は六年まで。其の後のはわからん。
ただ王キが帯方太守になったのが八年とまでは判るので、ということですな。
327日本@名無史さん:2010/02/21(日) 00:36:37
まあ、朝鮮系の土器と言われる須恵器が大量に出回るようになったからと言って
朝鮮人が大量にやってきたわけでもないし、まして朝鮮に支配されたわけでも
ないということだろうな。
328日本@名無史さん:2010/02/21(日) 00:47:48
ただ二十世紀のノーパン喫茶と古代の土器を較べられないだろ。
現代は情報・文化が瞬時で伝わるが、古代は人の移動によって伝わったはず
329日本@名無史さん:2010/02/21(日) 01:06:46
>>328
>現代は情報・文化が瞬時で伝わるが、古代は人の移動によって伝わったはず

それって今から1700年後の人の感覚で話しています?
当時だって最速のスピードで瞬時に伝わったんじゃないの?
ただ違うのは、今の瞬時と当時の瞬時の違いだけだけど
1700年後の人が今のスピード見たらスローモーションのようなスピードかも知れないよ
330日本@名無史さん:2010/02/21(日) 10:28:39
>>424
出土物や文化から政治的な支配を論じることの愚かさを的確にとらえた比喩ですね。
331日本@名無史さん:2010/02/21(日) 10:44:42
>>424は、>>324の誤り
332日本@名無史さん:2010/02/21(日) 19:58:15
土器の移動は、外来土器(土器そのものの移動)と、形式の移動(現地の土で作られる)を
区別して考えないと。
333日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:08:30
>>332
現地の土とか、どうやってわかんの?
334日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:15:25
胎土分析その他。ググって見てね。
335二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/22(月) 08:50:52
>>323
レスありがとうございます。
梁書ですか、倭人伝だけでお腹いっぱいなので他の書はあまりチェックしていませんので助かります。
でも、ちょっと調べてみたのですが「正始中」は分かりませんでした。


>>正始八年に帯方郡の太守・王?が赴任。
>>その時、卑弥呼は使者を送り、狗奴国と戦争状態にあることを説明している。

この八年に使者を送ったものは「卑弥呼」かどうか不明です、誰が送ったのか書かれていません。
私は台與が送ったと考えています。
336日本@名無史さん:2010/02/22(月) 09:40:57

トヨタン・・・・・・・・・・
337日本@名無史さん:2010/02/22(月) 10:06:09
>>335
卑弥呼と書いてあるのでは? 卑弥呼とあるのはどうゆう意味だというのかな?
338日本@名無史さん:2010/02/22(月) 10:16:09
豊前、豊後は台與の国、狗奴国だった。
筑紫にあった邪馬台国は狗奴国に責められて崩壊寸前だった。
女王卑弥呼は、帯方郡に援軍を要請したけれど、応じてもらえず滅亡。
狗奴国は九州全土を支配することになる。
これがありがちなシナリオ。
339日本@名無史さん:2010/02/22(月) 11:49:13
>>335
>この八年に使者を送ったものは「卑弥呼」かどうか不明です、誰が送ったのか書かれていません。
>私は台與が送ったと考えています。

君には漢籍を読む能力が無いようだ。
其八年太守王頎到官 倭女王卑彌呼(與狗奴国男王卑彌弓呼素不和)遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状

正治八年に王頎が帯方郡太守として赴任。そこへ(狗奴国男王の卑彌弓呼とかねてから不和であった)
倭女王卑彌呼が載斯烏越等を派遣してきて相攻撃状を報告した。

載斯烏越等を派遣したのは卑彌呼だとちゃんと書いてある。
340縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/22(月) 13:15:38
其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴国男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状

文章としては
其八年太守王頎到官。 倭女王卑彌呼與狗奴国男王卑彌弓呼素不和。 遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状 。
と三つに分けることができるであろう。

3番目の遣の主語が何かが問題であるが、太守王頎でないことは文意から明らかである。とすれば前の文
の主語卑彌呼がこの文の主語であるが省略されていると見るのが順当であろう。

なお、「素不和」は「かねてより不和」ではなく「和することができない」という意味だろう。
倭女王卑彌呼は狗奴国男王卑彌弓呼と和平することが出来ず載斯烏越等を郡に派遣して相攻撃する様子を
報告した。意訳すればこのようなことになるだろう。
341日本@名無史さん:2010/02/22(月) 13:31:44
正始八年(西暦247年)、王頎が太守として赴任する。
卑弥呼が帯方郡に使者を送り、狗奴国と戦争状態にあることを説明する。
張政が、詔書・黄幢を持ってやってくる。難升米に拝仮。

卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。
男王が立つが、国中が不服で争いが起きる。

台与・十三歳を王にすると国中が定まる。
台与は、掖邪狗らに張政の帰還を送らせ、都に貢物を届けさせる。

という時系列かな。となると、張政はけっこう長期間滞在したことになる。
倭国の様子に関する記録はほとんど張政のものだろうな。
やっぱり、卑弥呼が死んだのは、正始九年(西暦248年)頃と考えるのが
妥当なのだろう。
342日本@名無史さん:2010/02/22(月) 13:41:10
>>340
>載斯烏越等を郡に派遣して相攻撃する様子を報告した。
この鳥越某、狗奴国の男王卑彌弓呼が攻めてくるのではないかと気が気でなかったけれど、
狗奴国へ行ってみたら、戦いの準備など何もしておらず平和そのものだった。
これが鳥越苦労の語源になりました。
343日本@名無史さん:2010/02/22(月) 15:24:55
>>338
卑弥呼の代で滅亡…?
それでは卑弥呼とトヨが違う国の人になってしまわないか?
344日本@名無史さん:2010/02/22(月) 17:36:31
>>342
惜しいなあ。烏が鳥だったらよかったのになあ。
345日本@名無史さん:2010/02/22(月) 19:43:04
>素不和

將軍自出斷曹公糧道是也。宮、順素不和,將軍一出,宮、順必不同心共城守也,(呂布伝:英雄記注)

故太尉張溫時為衛尉,素不善卓,卓心怨之,(董卓伝)
346河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/22(月) 19:43:29
久しぶりに覗いてみたら、瞑想しまくりのようだから書き込んでおきますか

「遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」
ここの主語は(卑弥呼)ではなく(男王卑弥弓呼)

男王卑弥弓呼が、卑弥呼がいたずらしているのを郡にチクったの

「素不和」とは 卑弥呼と卑弥弓呼は、化粧する以前のすっぴんの頃から不和
347日本@名無史さん:2010/02/22(月) 20:36:48
へー。
すごいね。
348日本@名無史さん:2010/02/22(月) 20:40:30
だとすると、親魏倭王の面目丸つぶれだね
349縦目仮面:2010/02/22(月) 21:05:08
筒井筒ですか?これは風流な。
350河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/22(月) 21:27:54
>>348

>だとすると、親魏倭王の面目丸つぶれだね

だから「卑弥呼以死」


「相」攻撃状 と書いてあるだろう
卑弥呼 vs 狗奴國 ではなく

(卑弥呼が指揮する狗奴國 vs ○○○ ) なわけよ   それを男王卑弥弓呼が郡にチクったわけ
351日本@名無史さん:2010/02/22(月) 21:45:08
○○○とは?
352河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/22(月) 21:51:12
>>351
今はノーコメント   取敢えず○○○ということで
353二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/22(月) 22:24:41
>>337
文章を読むとは行間を読む、と小学校で習わなかったのかな。
表面の文字よ読んだだけでは、文章を読んだとは言えないのだよ。
ここには表面の文字さえ読めない人も多いから困るのだけどね。

「倭女王卑彌呼與狗奴国男王卑彌弓呼素不和」というのは、倭の使いが説明したこと。どういうことかというと、
女王が卑彌呼の時から狗奴国の卑彌弓呼と不和で、それが今攻撃の手を強めているので助けて欲しい、というもの。
この卑彌呼は、使いを卑彌呼がよこしたという意味の文章ではなく、誰かが使わした倭の使いが、卑弥呼の時から〜と
説明したという文章なのです。

それで張政がすぐに派遣されるのです。それは六年にすでに派遣することが決まっていたこと、八年に新太守が来たことなどから
すでに準備が整っていたので、それ故に急な派遣に対処できたことがわかるのです。
ところが倭に行った張政を待ち受けていたのは台與だったので、彼女に告喩することになったわけですが、
その経緯が、卑彌呼以死〜の文章なのです。つまり、
卑弥呼が死に男王が立ったが従わず千人もの人が死ぬほどの内戦状態になり、台與(自分)が新たな王として選ばれ収まった。

しかし、張政はある程度早く倭に来たのに、卑弥呼の死から台與が新王となるまでの経緯を考えると時間的に短すぎるのです。
だから八年の派遣を通説通り卑弥呼とした場合、台與が新王になるまで張政は数年間も倭に居たのだ、といった事をいう者が出てくるのですが、
それでは、張政が倭に来たときに卑弥呼か男王が王で、男王が失脚するのを気長にまって台與に告喩した、というオカルト話になってしまう。

これではどこかがおかしい、どこがおかしいのかをよく考えると、通説の八年の派遣を卑弥呼とする部分ではないかと気が付く。
それで、八年の最初の部分を読むと、私が上に書いたように、倭の使いを「卑弥呼が使わした」とは書いていない事が分かるのです。

或いは状況から考えて、倭の使いを中国人が勝手に卑弥呼の使いだと思い込んだ可能性もあります。

どちらにせよ、八年の倭の使いが台與によるものだと言っているのは、このような理由によるものです。
354日本@名無史さん:2010/02/22(月) 22:27:32

トヨタン・・・・・・・・・・
355日本@名無史さん:2010/02/22(月) 22:52:44
告喩しようとしたが、男王が乱立して誰に告喩していいのか分からない、
という状況だったのでは?
それを女王が立ったことで(乱が静まり)、初めて告喩可能になった、と。
356神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/22(月) 23:05:15
>>353
邪馬台国と狗奴国との戦争の停戦調停で九州に滞在していた魏の塞曹掾使張政のもとへ
邪馬台国の都である纏向から卑弥呼が崩御して男王に武埴安彦命が即位したと連絡が入り
仰天した張政が急いで邪馬台国の都の纏向に駆け付けたが、すでに男王の武埴安彦命は
戦いに敗れ戦死していて後継者の女王に台与が即位していたと言うのが歴史の真相です。
357日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:11:54
>>356
祟神にモモソが神託して武埴安彦命の反乱を知ったという
くだりはどうするんだよ?
358日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:29:24
>>357
今回は約6分で撃沈か?
359日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:49:21
つまり、卑弥弓呼はオカマだったのだ。
これですべての謎が解けた!
360神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/22(月) 23:52:24
>>357
「海部氏勘注系図」によると卑弥呼である9世孫・日女命の実妹の崇神天皇妃9世孫・葛木高千名姫命の
別名は倭百襲姫命です。武埴安彦命の軍動員令は領地が隣接する日女命の実弟の9世孫・玉勝山背根子命から
実妹の崇神天皇妃の葛木高千名姫命へ伝わり卑弥呼の男弟である崇神天皇へ伝わって迎撃されたわけです。
361日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:57:35
>>353
もう決着はついているのに見苦しいね。妄想ばかり垂れてないで倭人伝を研究したらどうだ。
362日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:07:21
>>360
君の説だと崇神天皇の姉が卑弥呼というのだが、記紀その他には何と言う名前で出ているのだ?
363日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:07:45
>>361
あらら。二さんのこの説には一理あると思いますよ。手を挙げておきます。
364日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:13:21
一理も千里もあるわけ無かろう
推理小説じゃあるまいし、一度も顔を見せていない壹與を主語にするとは
狂気としか言いようがない。
365日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:20:33
九里よりうまい十三里
366日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:21:07
>しかし、張政はある程度早く倭に来たのに、卑弥呼の死から台與が新王となるまでの経緯を考えると時間的に短すぎるのです。
>だから八年の派遣を通説通り卑弥呼とした場合、台與が新王になるまで張政は数年間も倭に居たのだ、といった事をいう者が出てくるのですが、
>それでは、張政が倭に来たときに卑弥呼か男王が王で、男王が失脚するのを気長にまって台與に告喩した、というオカルト話になってしまう。

>これではどこかがおかしい、

おかしいのは二の頭だ。訳の分からん文章を書いて得意になっている。
367日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:21:22
「日女命=卑弥呼」というのが根拠薄弱だな。
音が違いというだけなら、他にいくらでも仮説が成り立つことに。
それに音は近くもないだろ。ヒメノミコトとヒミコとでは。メとミは遠い。
368日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:27:56
>>353
倭人伝には、遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之、と
書かれている。

張政が派遣され、詔書、黄幢を持ってやってきた。ここで難升米に拝仮し、
檄を為し、これを告喩する。
どうしてここで難升米が出てくるのだろうか。

正始元年の梯儁のときは、倭王に拝仮、となっている。

思うに、卑弥呼は病床、あるいはすでに死んでいたのかもしれない。
そして、台与はまだ王になっていなかったと考えるべきだろう。
だから、正始八年の使者派遣が台与によるものであるという説には反対。
369日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:29:35
a
370神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 00:30:06
>>362
「海部氏勘注系図」によると
卑弥呼=9世孫・日女命。
別名は、倭迹々日百襲姫命、千々速日女命、中津姫命、日神、神大市姫命。
台与=11世孫・日女命。
別名は、稚日女命、小豊姫命、豊受姫命、玉依姫命、日神荒魂命、その他多数。
371日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:31:33

ト、トヨタン・・・・・・・・・・
372日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:35:18
>>370
倭迹々日百襲姫命は崇神天皇の叔母だろ。
373神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 00:46:07
>>372
欠史八代の天皇は日本の歴史上に存在しません。倭迹々日百襲姫命である9世孫・日女命は
磯城県主葉江の一族ではありません。卑弥呼である9世孫・日女命は海人族の祭祀王です。
374日本@名無史さん:2010/02/23(火) 00:48:23
纏向から、海人族を思わせる祭祀遺物が何か出ているのかな?
375神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 01:09:56
>>374
卑弥呼が魏からもらった鏡がいっぱい出ています。
376日本@名無史さん:2010/02/23(火) 01:12:58
鏡は単なる葬具でしょう。海人族の祭祀は銅矛、銅戈等といわれることが多いですね。
377神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 01:24:07
>>376
十種神寶から推測すると海人族の祭祀具は、鏡、剣、弓矢、宝石、特殊な布、だと思います。
378日本@名無史さん:2010/02/23(火) 01:25:08
>>375
纏向遺跡からの鏡の出土は、「いっぱい出ています」なんてことはないと思うぞ。

>>376
葬具の鏡とそうでない鏡と、両方あるような気が。
379日本@名無史さん:2010/02/23(火) 01:38:40
>>367
日女命=モモソで
祟神の嫁が妹。

なので祟神からみれば義姉となり、弟王は祟神となる
380神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 01:49:34
>>378
広義での纏向遺跡は安倍文殊院周辺から石上神宮周辺までだと思います。
したがって卑弥呼の鏡はいっぱい出ています。これからもいっぱい出ます。
381日本@名無史さん:2010/02/23(火) 02:05:55
>>380
>広義での纏向遺跡は

こらこら。勝手に遺跡を定義しちゃいかんぞ。ww
382日本@名無史さん:2010/02/23(火) 07:58:14
系図が、日女命=モモソと主張する以上、卑弥呼ではない。
日本書紀を見れば明らか。モモソは女王ではないし、魏から鏡をもらっていない。
墳墓が大きいというだけ(実は、この点も卑弥呼と同じとは言えない。卑弥呼は"冢"
なので)。
383日本@名無史さん:2010/02/23(火) 07:58:56
>>380
倭迹々日百襲姫命は、四国で幼少の頃をすごした伝承があるが、
それを否定するつもりなのかね?
384日本@名無史さん:2010/02/23(火) 08:03:01
捏造された伝承ですか。
385日本@名無史さん:2010/02/23(火) 08:20:29
倭迹々日百襲姫命の弟は吉備津彦だが、
どうして籠神社と関係するの?
386日本@名無史さん:2010/02/23(火) 08:27:31
「海部氏勘注系図」ねえ。これは、「旧事本紀」天孫本紀等の影響を強く受けており、その誤りもそのまま受け
継いでいる。従って、その成立も「旧事本紀」が流布した中世以降のある時期ということが考えられる、という
宝賀寿男氏の指摘は至極もっともに感じる。確かに国宝ではあるが、平安初期成立とするには疑問が多い。
これを論拠にして何かを語るというのはいろいろと難しいだろう。
387日本@名無史さん:2010/02/23(火) 12:07:06
>>386

もちろん、神武東征も、アマテラスの岩戸隠れも7世紀の創作ということでいいよね?
388日本@名無史さん:2010/02/23(火) 13:49:10
>>387
いやまあ、そこまで言うつもりもないんだけど・・・ただ、大宝律令による官幣社の制定、そして記紀の成立
の頃にバタバタという感じで多くの神社が整備されてる。また神宮寺の建立が始まるなど神仏習合も進んで、
日本神話についても体系付けのための動きがあったのは確かだと思う。
389日本@名無史さん:2010/02/23(火) 15:35:09
>>388
>いやまあ、そこまで言うつもりもないんだけど・

そんな都合の良い話をされても困るね。
「海部氏勘注系図」を中世の創作と決めつけつつ、
神武東征や、アマテラスの岩戸隠れは古代からの伝承と信じる根拠は何も無い。
390日本@名無史さん:2010/02/23(火) 15:43:01
>>389
www 信じない根拠もない。「海部氏勘注系図」が中世の創作と完全に決めつけてもいないよ。
>平安初期成立とするには疑問が多い。と書いてる。ただ、言えるのはこれを根拠として卑弥呼
を語るのは難しいということ。
391日本@名無史さん:2010/02/23(火) 17:33:25
>>386
>「海部氏勘注系図」ねえ。これは、「旧事本紀」天孫本紀等の影響を強く受けており、その誤りもそのまま受け
継いでいる。

「旧事本紀」→「海部氏勘注系図」
「海部氏勘注系図」→「旧事本紀」

どちらの可能性もある

なぜ「海部氏勘注系図」が影響を受けたと断定するんだ?
392日本@名無史さん:2010/02/23(火) 17:47:55
>>391
確かにどちらの可能性もあるので、断定してるわけではない。ただ、海部氏の方が見る者は少な
かっただろう。それと、このHPの下にある宝賀寿男氏の慰問点を総合判断した。
ただ、この系図が真であったとしても、倭迹々日百襲姫命=卑弥呼説 が多少強まるか?くらい
のことと思う。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20k1.htm
393392:2010/02/23(火) 17:52:00
あらら。 慰問点→疑問点
394日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:09:27
記紀に高天原の主役として登場する天照大神は、いったいどういう存在なのか
を考える必要がある。

まず、全くの虚構なのか、それとも実在の人物の反映なのか。
実在とすれば、年代としては、いつ頃のことになるのか。

虚構とすれば、かなり不自然な設定になる。皇室の始まりが独身の女性と
いうことになってしまうからである。天照大神は明らかに王である。
こういう女王的存在があることは、倭人伝のような文献からもあるいは
古代の墓からもうかがえる。
http://www.city.uto.kumamoto.jp/bunka/history/bunkazai/02muko.html

現実に、皇祖となるべき女王がいて、記紀の天照大神はその反映だと考え
られるし、またその時期も伝承に残る王ということを考えれば、紀元前と
いうほど古いとは思えない。

畿内説の人間は、この問題を意識的に避けている。天照大神は誰か。
395日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:20:34
>>392
宝賀寿男氏の考えと違っているから勘注系図を偽系図認定しているだけに思える

天孫族:東夷系の製鉄鍛冶部族
海部氏:タイ(越)系の海神族

>製鉄鍛冶部族である東夷系の天孫族と海人色の濃いタイ(越)系の海神族を混同する古代氏族系譜の見方では、史実の解明がほど遠いといわざるをえない。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20k2.htm
396日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:25:33
>>394

まるで、九州説のいうところの卑弥呼=天照大神なら問題解決みたいな言い方だな。

一応、マジメにレスすれば、天照大神を天皇の祖神にしたのは、7世紀の創作で問題ない。
397日本@名無史さん:2010/02/23(火) 18:33:10
そういえば、昔、日本神話の漫画がテレビでやってたな。
今はあるのかな?天の岩戸のシーンなんか思い出すw
398唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/23(火) 18:39:16
天照大神も実在の反映であろうが、数字の裏付けは出来ない。男である。
それに対し、神武以降は、数字の裏付けがとれる。
西暦42年 神武元年 弥生X様式の始まり 太陰暦を19年×n回加算
西暦188年 崇神元年 庄内式の始まり
西暦240年 景行元年 田道間守=都市牛利
西暦273年 日食 神功紀に注入
399神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 19:26:46
>>383
倭迹々日百襲姫命が四国の水主神社に滞在していた伝承が確かにあります。これは「海部氏勘注系図」の
10世孫・安波夜別命と関係があると思います。京都府城陽市にある水主神社が本社でしょう。
400神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 20:04:27
>>385
籠神社の海部氏と吉備氏は同じ海人族系の豪族です。古代から海上交易と漁業と製塩で生活していました。
他の海人族系の豪族は、安曇氏、久米氏、宗像氏、越智氏、津守氏、尾張氏、大倭氏、息長氏、阿倍氏、
和珥氏、春日氏、中臣氏、などがあります。詳細は「海人の國」のホームページに書かれていますよ。
401日本@名無史さん:2010/02/23(火) 20:28:23
>>400
>古代から海上交易と漁業と製塩で生活していました。

弥生時代に製塩をしていたのは、瀬戸内海のみ。
したがって、海人のネットワークがあったとは言えない。
交易はしていただろうが、密接な繋がりは認められない。
402日本@名無史さん:2010/02/23(火) 20:52:36
これ前もやったと思うけど、製塩土器の出土状況はこんな感じ。「たばこと塩の博物館」HPより。
http://uproda.2ch-library.com/216206wsf/lib216206.jpg
403日本@名無史さん:2010/02/23(火) 20:57:04
山から木を流してそれを焼いて海水から塩を取る方法は、日本全国の海岸で行われていたはずです。
404日本@名無史さん:2010/02/23(火) 21:34:54
>>402
九州が製塩を始めるのは、古墳時代からだものな。
閉鎖的で文化が立ち遅れていた九州の邪馬台国は塩作りも知らなかったわけだ。
405日本@名無史さん:2010/02/23(火) 21:51:57
>>404何てことを言い出すんだよ?
人間は塩なしには生きていけない。
縄文時代どころか、旧石器時代以前から人類は塩を作っていたんだよ。
瀬戸内海の塩田で塩を大量生産し、それを海路や陸路で日本全国へ輸送できるようになるのは、
交通網が整備された奈良時代以降のことだと思われます。
406神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 22:00:46
>>386
「海部氏勘注系図」の原本は先代旧事本紀天孫本紀ではなく620年頃できた「丹波國造本記」です。
先代旧事本紀天孫本紀に書かれている卑弥呼である9世孫・日女命の母が谷上刀婢(たなかみとべ)
なら滋賀県大津市にある宝石で有名な太神山(たなかみやま)の宝石王の娘と言うことになります。
後の応神天皇の妃を出した日触使主の一族です。
407日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:02:13
>>405
>縄文時代どころか、旧石器時代以前から人類は塩を作っていたんだよ。

てきとうなことを言うな。
一般的に塩は岩塩から得るもの。
日本には岩塩は無い。だから塩は簡単に入手できない。
製塩土器を発明するまでは日本人は日常的に塩を得ることはできなかった。
408日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:09:33
>>396
7世紀の創作で、天照大神のように存在を構築することは出来ない。
高天原を治める巫女的な女王というモデルがない。
古代に実在した女王の反映と考えるほうが妥当だろう。
そのもっとも有名な例が倭人伝の卑弥呼であることも間違いない。
409神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/23(火) 22:20:54
>>401
海人族系の豪族は歴代の中国王朝が重税を課していた塩を日本から中国へ密輸出することによって
中国の物資を日本へ輸入し利益をあげていたと思います。海人族系豪族の海上ネットワークは確かに
古代日本に存在したと思います。また生口の奴隷貿易があったとか言う自虐的歴史観を否定します。
410日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:22:08
塩分は動物の内臓や骨髄にはかなり含まれてるし、海のあるとこなら海藻や海水でも
十分まかなえるでしょうね。
411日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:24:40
>>410
結晶化させられなければ、塩を作ったとはいえませんね。
412二 ◆.L.MXSPOgc :2010/02/23(火) 22:26:05
話をぶった切ってすまないが、以前書いた疑問に答えることができる方が居られたらお願いしたい。

最近は「可五萬餘戸、可七萬餘戸」は、どちらも邪馬台国の戸数を推定して述べた文章が
元だったのではないだろうかと考えてみている。
中国語には疎いのだが、「可5万〜可7万〜」のような書き方で、
5万とも7万とも、のような言い方になったりしないのだろうか?

その様な言い方なら、かような記述になりその様にはならないだろう、というのでも良いのでお願いしたい。
413日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:29:02
>>408

そもそも天照大神は男神なんだが。

そういう研究は無視かね?
414日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:50:26
>最近は「可五萬餘戸、可七萬餘戸」は、どちらも邪馬台国の戸数を推定して述べた文章が
>元だったのではないだろうかと考えてみている。

それは不可。
415日本@名無史さん:2010/02/23(火) 22:59:41
>>413
日本書紀には、「姉」という文字が13回も出てくる。
もちろん、素戔鳴尊が天照大神をそう呼んでいるわけなのだが。

他にも、戦いに備えて髪形を男のようにしたとか。
機織をしたとかいうのも出てくる。

女の髪型をして、姉と呼ばれ、機を織る男はまずいないと思うが。

ちなみに、「弟」という文字も4回出てくる。
これは、天照大神が素戔鳴尊に対しての言葉。
416日本@名無史さん:2010/02/23(火) 23:54:23
日本書記も古事記も当時の権力争いで書き換えられているので正しいとは言えません。姉と呼ばれていたのは卑弥呼の事です。弟として当時の権力を握っていたのはスサノオ後の秦氏です。
417日本@名無史さん:2010/02/24(水) 00:11:01
古事記はどうなの?「姉」の字は
418日本@名無史さん:2010/02/24(水) 00:12:59
古事記はどうなの?「姉」の字は
419日本@名無史さん:2010/02/24(水) 00:59:30
古事記には、姉の文字は出てこないな。
420日本@名無史さん:2010/02/24(水) 01:05:00
ただ、機織小屋にいて機を織っているときに、素戔鳴尊がまだらの馬を投げ
入れて、天照大神が怒り、岩戸に隠れると言う話は出てくる。
421日本@名無史さん:2010/02/24(水) 08:10:14
じゃ、やっぱり女神だな。
422日本@名無史さん:2010/02/24(水) 08:18:51
>>415

はい、九州説終了。

天照大神を女性扱いしてるのはスサノオだけだよね?
なら、スサノオは、3世紀の人ってことになるね。

国を作り固めたオオクニヌシは、スサノオの後の人だ。
3世紀以前の神話は存在せず、
ヤマタノオロチ退治も国譲りも、全部3世紀の出来事ってわけだ。
日本には3世紀以前の神話は、イザナギ・イザナミの国生み神話しかなかったことになる。
それでいいのかな?

423日本@名無史さん:2010/02/24(水) 08:24:42
>>420
直撃で死んだから埋葬したんだわ。
424日本@名無史さん:2010/02/24(水) 11:59:07
>>422
>ヤマタノオロチ退治も国譲りも、全部3世紀の出来事ってわけだ。
>日本には3世紀以前の神話は、イザナギ・イザナミの国生み神話しかなかったことになる。
>それでいいのかな?

べつにイ 構わんわい。正統派九州説はそんなもんでは揺るがんわい。
425日本@名無史さん:2010/02/24(水) 12:05:51
>>424

銅鐸祭祀を消滅させたのは、ヤマトを開拓したオオクニヌシってことでいいな?
426日本@名無史さん:2010/02/24(水) 14:15:02
>>422
それ以前の記憶・伝承がなかったと言うことだろう。
427日本@名無史さん:2010/02/24(水) 14:54:09
>>426

九州にも、卑弥呼以前の記憶・伝承が無かったということなんだね?
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 14:57:43
天照大御神を男だとか言ってるやつの語は、悪魔のささやきである。
騙されてはいけない。女性である。
429日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:00:28
>>428

おまえ、卑弥呼と天照大神は別だとか言ってなかったか?
430太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 15:22:11
そのとおり別だよ。いずれも女だが別人だぞ。
431日本@名無史さん:2010/02/24(水) 15:23:20
>>427
ないなあ。風土記なんかに残っていればもっといろんなことがわかるはずだが。
432日本@名無史さん:2010/02/24(水) 17:01:45
>>431

九州にも残ってないなら、
日本中に3世紀以前の神話は残ってないというわけだ。

それなら、渡来人が日本を征服して、渡来人の女王が卑弥呼ということになる。
支配者が3世紀以前から連続していたなら、3世紀以前の神話も残っていないとおかしい。

433日本@名無史さん:2010/02/24(水) 17:42:58
>>412

>5万とも7万とも、のような言い方になったりしないのだろうか?

しません。
なぜなら「とも」という程度の限度を表す副助ならば、「五萬」と書くことはあっても「五萬餘」と書くことはないからです。
五萬という限度を示すものであるのに「餘」という五萬をオーバーする「餘」文字は
(程度の限度)という言葉とは矛盾するものです。
434日本@名無史さん:2010/02/24(水) 18:31:08
「可」は推測が可能の意味、可以下の文は推測値。
可五萬餘戸、可七萬餘戸は「五萬餘戸と推測可能」「七萬餘戸と推測可能」の意味。
日本語らしくないので「五萬余戸ばかり」「七萬余戸ばかり」などと訳される。

435日本@名無史さん:2010/02/24(水) 18:42:17
>>432
渡来人が来たという記憶も残っていないな。
渡来人の場合は言葉が違うし。
436日本@名無史さん:2010/02/24(水) 18:55:29
ところで、どんな条件だと3世紀以前の神話だと
分かるんだ?
437日本@名無史さん:2010/02/24(水) 19:23:21
>>435-436

なら、どうして3世紀以前の神話が残ってないわけ?

卑弥呼が天照大神なら、そういうことでしょ。
438日本@名無史さん:2010/02/24(水) 19:45:34
やっぱり記録がないと以前のことは忘れてしまう。
皇室には、現存はしないかもしれないが、けっこう古い記録があったのかも。

日本人が文字に触れるようになったのは、やはり卑弥呼時代ではなかろうか。
倭人伝にも、詔書やら檄やら文字に関係するものが出てくる。

5世紀に、倭の五王の武は、宋の皇帝に上表文を献じているが、これは非常に
名文と言われる。この頃には、教養のある書記のようなものがいたことになる。
439唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 20:11:45
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E7%B7%A8%E5%B9%B4

纒向は、2世紀末なのに 誰もこの数字で 邪馬台国を考えない。
440日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:49:53
>>439
それはね 纒向と邪馬台国は無関係だからだよ。
441唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 22:05:35
邪馬台国を九州にもって行くために、纒向を無視する。

卑弥呼は人間だから移動できるが、邪馬台国は移動できない。
ここで九州説は、魏志の如く内乱が勃発。卑弥呼を立てるも、卑弥呼には何の権限も無い。
442日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:07:17
纒向は墓場だろ。
443日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:12:28
墓の主はどこにいたんだ?
444唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 22:17:41
仲哀:朕未逮于弱冠。而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天。仰望之情。一日勿息。是以冀獲白鳥。
養之於陵域之池。因以覩其鳥欲慰顧情。則令諸國。俾貢白鳥。

仲哀は陵域之池で白鳥を飼う。住まいから遠くては、飼えない。
箸墓の2重濠が最適。
445唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 22:35:40
箸墓の築造を250年としたいようだが、それでは
纒向の開発をさらに10年古くしないと成らない。
そんなことをすると、纒向の開発を、孝元、開化としなければ成らないが、
孝元、開化を前方後円墳に設定できるか? 無駄な思考だろうな。

崇神なら、五年の凶作を192年に設定できる。
446太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 22:55:06
>>445
当時畿内には船舶がないから、193年に設定は完全な間違い。
447神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/24(水) 23:14:49
>>446
エッ〜!畿内には船舶がない?デブ国の脳ミソがないが正解です。
448太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 23:18:45
>>447 半玉
当たり前だ。船舶が出来たのは崇神17年だ。唐松山の言う193年とは、奴は
崇神5,6年だと主張してるんだから、渡海なんぞ天皇も乗ってなく船舶が無いの
にできっこはな〜い。どうだ〜? オマエの津田妄想病は末期か?www
449日本@名無史さん:2010/02/24(水) 23:27:32
巻第五(崇神天皇)
「船は天下(あめのした)の要用なり 今 海の辺(わたのほとり)の民(おほみたから)
 船無きによりて甚に歩運(みちはこび)に苦しむ 其れ諸国に令(のりごと)して 船舶(ふね)を造らしめよ」とのたまう
冬十月に 始めて船舶(ふね)を造る

祟神の時代まで船がなかったので祟神が船を造らせたと読めるが・・・

450神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/24(水) 23:28:23
>>448
船舶が出来たのは崇神17年だって!何言うてケツカンネン!このボケナス!
どうやって海上交易をやっていたか言ってみろ!どうやって漁業をやっていたか言ってみろ!
451太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 23:38:30
こっちに言ったってしようがないだろう。紀の崇神17年にそうだ旨書いて
あるんだから、年数の記載からだからそれを飲むほかはな〜い。

オマエか? あっちのスレで女がいいとか抜かしてたのか〜?www

zzzzzzzzz・・・・・
452縦目仮面:2010/02/24(水) 23:47:47
太国さんの崇神実年代がいつかは判然としないけど、唐古・鍵遺跡から準構造船と思われる
絵画土器が出ていることからも、畿内に船舶がなかったということはないでしょう。w
453太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 10:49:44
>>452
無かったんだから、紀にそういう記述があるわけよ。絵画土器といっても、
今でも引力遮断のUFOのような航空機はなくても、そういう絵画はいくらでも
あるよ。能力があったって金がなけりゃぁできないし、そういう状況だったん
ではないの? それに皇宗神武は九州から本州に渡る際は、船舶に乗ったんで
しょう? だから神武即位頃から八代の間は船舶利用が殆ど必要なかったが、
崇神の代になって四方に目を向ける四道将軍の視察等により、どうしても船舶が
必要になって来たから、ここで始めて造船したということでしょ?
454日本@名無史さん:2010/02/25(木) 12:35:43
>>449
船が少なかったとも読めるね。常識の問題だ。
455日本@名無史さん:2010/02/25(木) 12:47:40
唐古・鍵の集落は湖畔にあった。と言うより奈良湖の中に浮かぶ島の上にあった。当時、奈良湖には沢山の島が
あり、岸からかなりの距離まで水深が小さく、そこで稲を栽培していた。陸地では野菜を栽培していた。

唐古・鍵の集落から現在の桜井市や葛城市や斑鳩町や天理市や奈良市方面の山裾の集落へ舟で行き来していた。
物品や人員の輸送に使われた船が絵画土器に描かれたものである。
456日本@名無史さん:2010/02/25(木) 13:45:41
>>455
そんな広範囲の湖なんかあるかよ
あったとしても大和郡山市の辺りだ。
457日本@名無史さん:2010/02/25(木) 15:20:04
松岡数充/西田史朗 「奈良盆地の最上部更新-完新統」,『長崎大学教養部紀要. 自然科学篇』. 1980, 21(1), p.35-47
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/16526/1/kyoyoS21_01_04_t.pdf
(引用)
奈良盆地には,かって上治(1947)によって奈良化石湖と呼ばれた比較的広い面積を有する滞水域の存在が考えられたことがある.粉川(1975)
は泥炭層の形成とこの湖とを関連づけている.
しかし泥炭層の水平方向の拡がりはあまり大規模でなく,またその形成年代もそれぞれの地点で異なり, 34,000Y.B.P.から21,000Y.B.P.にわたる.
このことは当時の奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかったと推察される.
これらの泥炭層は前述の河川の流路の移動によって,自然提防の外に残存していた小規模な池沼域に形成されたと考えられる.

上治寅治郎(1947)石炭地質学(亜炭篇, 330pp.北隆館.
粉川昭平(1975)ミツガシワの分布と種子の大きさの変化. (粉川昭平・田村道夫著) 「植物の系統と進化」, 217pp.日本放送協会出版会.


奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
奈良盆地には湖と呼べるような広範囲にわたる滞水域は存在しなかった!
458日本@名無史さん:2010/02/25(木) 15:21:39
天照大神は男ですよ。
古代を仕切っていたのは卑弥呼ではなく高皇産霊神→秦氏のことだと聞きました。
卑弥呼の愛人です(男弟)
秦氏は新羅文化、つまりメソポタミア地方から日本に何度も渡来して帰化しているという感じ。
伊勢神宮の月読宮とはこの秦氏のことです。
中国人ではなく、もっと西の方からやってきた民族ということのようです。
459日本@名無史さん:2010/02/25(木) 15:32:54
太陽神は男だから、女の巫女=ウズメが裸踊りするわけだろ。

それがいつしか、女の巫女を太陽神とごっちゃにしたんだろうな。
460改め ◆PWTcGEfp1s :2010/02/25(木) 16:21:37
お〜進んでるね
最近、おれは仕事やら引越しで
忙しくてこれない・・・・ここの引退も近いかもしれないけど
がんばってスレをまわしていってね。
461改め ◆PWTcGEfp1s :2010/02/25(木) 16:24:51
うーん、邪馬台国の秘密っていうのは、
自分の中では〜ほとんど決着済みなんだよね。
で、あくまでも自分の趣味の範囲で調べてることで
実際仕事が忙しくなればそっちを有線するのは当たり前と思う。
ていうことで引退も少し考えたりしてる。
462日本@名無史さん:2010/02/25(木) 16:28:12
>>457
奈良湖が形成されたのは約6千年前。この頃は温暖期であり、微生物の活動が活発であった。この温暖な気候は
弥生時代に寒冷化するまで続いた。このため湖底に堆積した植物体は微生物により分解され泥炭の生成には至ら
なかった。小氷期に形成された泥炭層と奈良湖を関連づけるのは無理だろう。

なお、盆地内の河川は湖水が無くなってから形成される。これらの河川が氾濫すればそれまでに形成された地層
は削られ消失することもある。

463太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 18:00:35
>>458
男ではないです。天照大御神は女性です。卑弥呼でもありません。
アマテラスは超ミス・ユニバースの美女です。
464日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:02:28
改めも引退か。縄文人もこのところ姿を見せないし、喧嘩の相手が少なくなった。
465日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:13:55
>>443
もちろん墓の中だろ。
466日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:17:43
天照大神は女であるとする者と男であるとする者がいる。ということは女になった男か男になった
女だな。
467日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:19:18
とりあえず、現状では女として書かれているわけだが
あえて男と考える根拠は何だろうね。
468神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/25(木) 18:24:59
>>453
古事記・日本書紀に船がなかったと書いてあるから古代日本に船がなかったと妄言を言うなら
古事記・日本書紀に天磐船で空を飛んでたと書いてあるから古代日本は航空機を保有していた
ことになるし、浦島太郎が竜宮城に行ったと書いてあるから古代日本は潜水艦を保有していた
ことになります。古事記・日本書紀に書かれていることは昔から戯言だったし今も戯言です。
ホラ吹き大魔王デブ国!お前の家にトマホーク・ミサイルをブチ込んでやるよ!
469日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:52:43
十七年秋七月丙午朔 詔曰 船者天下之要用也 今海邊之民 由無船以甚苦歩運 其令諸國俾造船舶 冬十月 始造船舶

崇神天皇17年秋7月 詔して曰く 船は天下になくてはならぬ重要なものだ。今、海辺の民は船が無いので歩いて荷を運び甚だ
苦労している。そこで諸国に造船を命じた。冬10月造船(事業)が始まる。

これを見ると崇神の時代に船があったことが分る。船を持たぬ海辺の民が多くて難儀をしているので崇神が諸国(の役所)に造
船事業を命じたようだ。
470日本@名無史さん:2010/02/25(木) 18:56:29
>古事記・日本書紀に書かれていることは昔から戯言だったし今も戯言です。

そりゃ言い過ぎだ。神話の部分と史実(の反映)の部分を区別しなきゃいかんよ。
471日本@名無史さん:2010/02/25(木) 19:40:04
>>470

どうやって区別するんだ?
「自分がそう思った」じゃダメだぜ。
472日本@名無史さん:2010/02/25(木) 19:52:06
>>471
何言うてケツカンネン!このボケナス!
473唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 20:03:24
書紀は太陰暦で書かれ、崇神に正朔の文字がある、
後は、正歳に直すだけ、これに歴史的事実を重ねて、正しければ、重なるヶ所が複数になる。

歴史的事実
2世紀末 庄内式の始まり=纒向の始まり=崇神世である。
崇神5,6年は、新羅192,3年の記事と同等である。

これを否定しないと モモソ媛の復活は無い。

474右より:2010/02/25(木) 20:05:16
記紀は内容の真偽を云々するものではなく、国民伝承として崇敬すべきもの。
475神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/25(木) 20:24:42
>>469
卑弥呼の男弟である崇神天皇が海外遠征のために海人族から船を徴発したらクレームがきて
しかたがないので諸国に造船を指示した、と解釈しました。
476唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 20:28:54
>>475
崇神天皇が海外遠征は、末の任那を待たねばならない。
477縄文人 ◆iaH1brmL6. :2010/02/25(木) 20:34:00
「倭」は紀元前の中国の発音では「wei」であり、これは古代のゲール語で「道」の意を表し、現在の英語「way」とも共通する。
つまり山海経に倭についての記述が表れる紀元前においては、列島と朝鮮半島は陸続きだったのである。おそらくナウマン象
やサーベルタイガーなどの古代生物が闊歩していた状況であろう。また、この道はシルクロードにも通じ、古代のペルシャ人も
侠客的な性格を有する者は、遥か蛮夷の国まで行商に来ていたことは想像に難くない。

むろんペルシャ人達は、遠路通行の疲労を防ぐために彼らの常用の移動手段である駱駝を用いたことだろう。箸墓古墳周壕
から出土の鐙と目される遺物は、実は乗馬用ではなく駱駝に使用する物であったのだ。ご存知のように駱駝は体高があるため、
鐙なしでの騎乗は不可能なものだ。そして、そのペルシャ人達の中にも、現地妻とねんごろになって倭の地に定着した者がいた。
その名は「ナジーム」むろん、後に倭人伝に登場する「難升米」はこの子孫である。
478日本@名無史さん:2010/02/25(木) 20:37:58
古奈良湖に続いて、今度は半島と陸続きかよ。どこまで電波
なんだ、このオッサンは?wwwww
479唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 20:40:02
箸墓古墳は、261年崩御の景行陵である。
この時代には、乗馬があった。

ラクダに乗るときは、ラクダを座らせる。
縄文人どん この程度の事まで誤魔化すのか?
480日本@名無史さん:2010/02/25(木) 20:53:35
竹内文書によれば、歴代天皇は岩舟に乗って世界を巡幸していたのだけれど、
祟神の時代にはそれが失われ、新しい船舶を作るように命じたのだけれど適わなかった。
ということです。
481日本@名無史さん:2010/02/25(木) 21:47:53
スレ主も引退だし、ここのところ河童もトンとご無沙汰なようだし
そろそろここも閉店しますか?

皆さん長い間ご苦労様でした。以上のような理由により近々ここは閉店と致します
長い間のお付き合い心から感謝致します。
つきましてはレスが500を超えましたら、随時「蛍の光」を合唱ください。
482日本@名無史さん:2010/02/25(木) 21:49:53
みなさん、お疲れ〜。
483太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 21:53:10
>>468 半玉
そんなのどうっていうことではない。崇神より以前の神武は九州から
本州に船舶で渡海はしてるだろうが。その神は神武以前ではないか。
それにオマエは崇神より前の八代を架空だとしてるんだから、それより
古い神代の天之鳥船神など論議に出して実在のように論を振舞うのは
滑稽であり、自語相違ではないか?ww
484日本@名無史さん:2010/02/25(木) 21:55:01
卑弥呼って神功でしょ。武内が月神。
ハッティ=秦ですよね。鉄の民族。
妙見となんか関わりありますかね。
485日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:00:44
>>471
登場人物が神であれば神話、人であれば史実(の脚色)と見てよいのでは。
486日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:04:07
>>485

じゃ、天照大神の岩戸隠れもスサノオとの喧嘩も全部作り話ってことで解決だな。

天照大神が卑弥呼なわけないだろう。
太国に笑われるぞ。

487日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:04:35
>>477
これは縦目じゃないかな?縄文人は最近里帰りして八頭身美人土偶の模造に夢中になっているらしいぞ。
488日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:06:21
>>479
都井岬の野生馬は、少なくとも2000年前からいたらしいから、
邪馬台国に牛や馬が目立つほどいなかったとしても、九州南部にはいた事になる。
九州南部に馬がいたという事は、少数ながら日本列島の他の地域にも(九州産の馬が)
いた可能性がある。
489日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:06:40
みんなこのスレが低レベルなので去って行ったんだよ。
残っているのは行くところのない奴ばかり。
490日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:09:44
>>4853
>古い神代の天之鳥船神など論議に出して実在のように論を振舞うのは
>滑稽であり、自語相違ではないか?

そだそだ。
太国メタボもたまにはいいこと言うね。
491日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:17:56
>>488
熊本で馬刺が食べられるのは邪馬台国時代からの習慣らしい。属領の宮崎から取り寄せた。魏使も食べたようだが、
馬肉だとは気づかなかったようだ。鹿だと思ったのだろう。馬鹿みたいな話だが本当かも。
492日本@名無史さん:2010/02/25(木) 22:21:54
>>491
こうやってオッサンになっていくんですよね
493唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 22:35:45
>>485
人が神と崇められる時代の終了に崇神がいる。
崇神7年 而問大田田根子曰。汝其誰子。對曰。父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云。奇日方天日方。武茅渟祇之女也。天皇曰。朕當榮樂。

この大物主大神は、生きた人間で、それまでは、現在の近江伊勢遺跡で政治を行っていたが、
5,6年の凶作で、大王の位を崇神に譲渡した、
この直後に、越に大彦が派遣されるのは、凶作により、流動化した、民の南下を押さえるため。

神武初め
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり
494唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 23:10:37
伊勢遺跡の終焉
そして大和地方に巨大な古墳が築かれる古墳時代前期になると急速に衰えてしまう。

時代は、モモソ媛の古墳が作られる直前に終焉を迎える。
495太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 23:13:26
>>473
同等ではない。崇神5,6年には船舶がないから、身分の低く操船技量も
ない百姓が千人も渡海はできない。船舶が始めて造られたのは崇神17年。
いま一度オマエのお脳と相談するんだな。ww

どうだ? 電波星X線星からピピッと送信が来てるのか?www
496神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/25(木) 23:15:35
>>483
古事記・日本書紀とは昔ぁ〜しからあった「帝記」「旧辞」を天武天皇が改竄したが出来栄えが不満で
さらに新しい歴史書を作るように指示したのが始まりです。
「古事記」とは稗田阿礼がしゃべる妄言を太安万呂が面白可笑しく筆記した歴史書です。
「日本書紀」とは川島皇子・舎人親王他多数の愚か者が戯言を述べて記述した歴史書です。
ホラ吹き大魔王のデブ国!教訓になったでしょう。
497日本@名無史さん:2010/02/25(木) 23:35:45
皆で練習しましょう

【蛍の光】

ほたるの光、窓(まど)の雪。
書(ふみ)よむ月日、重ねつつ。
いつしか年も、すぎの戸を、
明けてぞ、けさは、別れゆく。

とまるも行くも、限りとて、
かたみに思う、ちよろずの、
心のはしを、一言(ひとこと)に、
さきくとばかり、歌うなり。
498日本@名無史さん:2010/02/25(木) 23:37:28
皆さんは第一生命からの「タナボタ」配布金をどのようにするの?
499太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 23:48:07
>>496 半玉
オマエは前々から脳内が津田病原菌に冒されているか自語相違のイカサマ
を垂れ流したわけで、もうすでに末期症状だから、言うことなすことが
常軌を逸脱して史離滅裂であり、手遅れの盲象状況にあ〜る。www
500太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 09:36:52
>>499 訂正
× 冒されているか自語相違
○ 冒されているから自語相違

尚 規制中か? テスト
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 10:59:46
2世紀の末に 伊勢遺跡の終焉
そして纒向の発展。

ハツクニシラス崇神の世が始まる。
502唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 11:30:06
>どうだ? 電波星X線星からピピッと送信が来てるのか?w

いくら3倍年の 『ねんど』をこねくり回しても、なにも出来ない。
せめて縄文土器でも出来れば良いが、
せいぜい山の上から放る『ひらか』の出来損ないがやっとだろう。
この『ひらか』こそ占いで得られた、天の岩舟である。
503太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 11:52:23
どうだ? 電波星人X星人の声を受信したか〜?ww

オマエの大好きなホツマにコゾウヅキとかで、妊娠は21ヶ月だとの説明が
ある。どう見ても、これは生物学的十月十日の約2倍であり、これは景行
の代が2倍年暦を行使していたことの文証と言える。オマエのはここでも
スリ抜けのありえもしないうっちゃりをせにゃならぬ。wwwww

おまけにホツマの垂仁の条には妊娠期間が3年だとある。このことは
垂仁の代3倍年暦を行使していたことの文証になる。垂仁の代は1年
120余日暦の暦法を行使していたのが真なのである。
504唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 12:40:18
垂仁90年卯月から21ヶ月後は、景行年代になっている。
これと同じ事が、田道間守の10年間であり、9ヶ月24日で説明されている。

どちらも垂仁90年から景行元年の出来事。
郡から洛陽往復は6ヶ月、残りが郡と大和の往復に使われる。
半分の5ヶ月では、足りないし、10年では多すぎる。

この数字を分離して10ヶ月の妊娠期間と、3年の旅行では、2重基準となる。

505唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 12:56:23
垂仁90年は垂仁99年と同年であり、景行元年はその翌年である。
この通称10年間に、
オイラツメの流産から出産までを 垂仁90年卯月から景行元年の師走までを 21ヶ月
田道間守の渡海を 帰着 景行元年弥生月までが9ヶ月24日。
この二つの出来事を 一つの暦上で解決しなければ、読み違いとなる。
506太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 13:27:05
ホツマは七五調で文字数が少ない制限のところ最大重要なることを一見
して分かるような記載をするであるから、うっちゃり的スリ抜け論を
頑張っても、当の作者はすり抜け記載なんかはやろうわけがない。それは
朝廷の非違とかを伝えたいなら逮捕されるから書けないだろうからそう
いうこっそり暗示的方法で伝えることはありうるが、妊娠くらいでは
率直に周りくどくない一見してこうだと分かる書き方をするだろうから、
オマエのあっちに動かしこっちに動かし的網の目をくぐる論で言い張って
も、作者はそんな抜け道的記述なんか考えてはいない。ww それよりも
21ヶ月とか3年7妊娠とかの記事から、オマエ自身の自説がオマエからこれ
マシではないぞと気づいて、一から編年をやり直したほうがオマエの身の
ためだぜ。www
507唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 13:27:47
>垂仁の代は1年120余日暦の暦法を行使していたのが真なのである。

垂仁90年〜同99年迄が3倍
景行元年より2倍

この間が21ヶ月と書かれているから、真は10ヶ月、約300日である。

これじゃあ、3倍年を肯定しているのか?否定しているのか?解らない
中身が解らないのが太国倍年である。目の前さえクリアーすれば、
金木算木が”真”を算出してくれる。出産は、算出では無い。

3日過ぎればきれいに忘れてる、か。
508太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 13:32:18
な〜んだ、オマエこのごろ、以前には否定的だった暦法の並用を
言うようになってこちらは笑ってwwるが、今度はマシの2倍3倍
を打ち出したのか?wwwwwwwwwww
509日本@名無史さん:2010/02/26(金) 13:41:54
>>501
伊勢遺跡の終焉と纏向の出現がだいたい同じ時期なのは確かなのだろうが、
実年代を明示してしまうと、年号が明記してある倭人伝との関連で、歴史の
様相を決め付けてしまうことになる。

土器による年代は、諸説あるし、幅もある。誰の年代観を出すかで異なった
年代が出るのが普通と言われるので、そこのところは考えに入れておくべき
だろうな。
510唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 14:06:53
>>509
>実年代を明示してしまうと

困るのは、倭人伝を崇神時代に重ね合わそうとするからだ。

崇神世は、192,3年の新羅と重ねられる。
庄内式の始まり=纒向の始まり、古墳築造の始まり、全て崇神に重ねられる。
ここから、太陰暦で代を重ねると 240年景行が得られる。

>土器による年代は、諸説あるし、
崇神5,6年が他の書物より数字を得た。これは動かすのに、かなりな力業が必要となる。
考古学もこの数字を動かすには、さらなる力業が必要となるが、
この数字を得た考古学には、これ以上の力は残っていない。

太陰暦は、神功275年も支持する、この数字は、神功元年の日食を273年と断定するだけの力がある。


511唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 14:11:19
>>509さんへ 進呈
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神橿日姫か?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下
都市牛利=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 
彌馬獲支 ?
512日本@名無史さん:2010/02/26(金) 14:28:38
>>510>>511
あなたの説は残念ながら私には理解不能。

ただ、倭人伝を見る限り、当時の倭国に世襲の概念は根付いていなかったと
思うので、天皇(大王)制のようなものが芽生えるのは、卑弥呼時代より
かなり後ではないかと思うのだが。

したがって、崇神天皇の時代は4世紀になってからだろう。
513唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 14:40:57
神功元年 275年 ここで渡海
神功51年 326年 七支刀 

この数字は、神功時代を正しいとする。
百済本紀が、間違い。その証拠に、韓国考古学は、百済土器に年代を宛がわれない。
514唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 14:48:38
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。
天皇   西暦  
神武天皇 42年〜63年 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 安寧天皇と同じ暦
孝昭天皇 94年〜119年
孝安天皇 120年〜145年
孝霊天皇 146年〜164年
孝元天皇 165年〜183年
開化天皇 184年〜187年 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。庄内式の始まり。
垂仁天皇 217年〜239年 景初3年。纒向遺跡は珠城宮、ホケノ山は垂仁稜。
景行天皇 240年〜261年 箸中 山古墳は景行陵。
成務天皇 262年〜265年
仲哀天皇 266年〜274年 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
326年 五二年七支刀  百済の数字はこれに合わせる。
  応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵、新羅本記と合致。
履中天皇 400年〜405年

>倭人伝を見る限り、当時の倭国に世襲の概念は根付いていなかったと思うので、

暦も持たず、文字もない国に 金印や黄旛を渡し、冊封する。ですか。
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 14:59:39
倭人伝には、倭人は上下関係が正しく従順である。と書かれている。
だから大倭国統一を助け、冊封する。
その初仕事が、神功の渡海になる。274年幽州を分け平州を置く。ここが渡海となる。
それから 永嘉の乱に軍を派遣する。323年に乱の終息。これ以降
百済は、生口を倭国に朝貢する、応神、仁徳陵の築造は、4世紀中。
5世紀に入るとこの生口が少なくなる。もはや巨大古墳の築造を担う工人の補充は少ない時代。
516太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 15:01:35
唐松山の主張の殆ど全部がデタラメだよ。奴の言うことが果たして本当か
と考えたとき、奴は自説を考えて  こうだ!  と結論したときに、他
の研究家なら彼らが考えた各々の説が真であるか否かの用心のため、それ
が真であるべきウラを取る行動(左右確認、バック等)を見定めて合否の
検討を十分にやるが、唐松山はそんなことはしてないようで、こうだ!
と考えたらわき目をふらず後方の確認なんかしないで、ただ突っ走る欠陥
行動だから、次第に妄想量が増加して、しまいに盲象の檻から出られなく
なるようになったのだ。哀れな野郎だよ。自説が果たして合ってるか
否かの用心での障害物がないかどうかだとか左右の確認後方の確認等々、
をしようとせずに、その欠陥性をあいつは見向きもしないで こうだ! と
突進しているのだ。かような盲象性人物である。
517日本@名無史さん:2010/02/26(金) 15:02:09
昨日は間違えてしまいました。
訂正です。

高皇産霊神(タカムスビ)が天照大神ではありません。
スサノオの八人の子供の中のニギハヤヒ尊(第五子)が天照大神です。
大歳(おおどし)というのが本名で、伊勢神宮(内宮ないくう)に祭られています。
卑弥呼が日本の主導権を握っていたのではなく、陰の黒幕はこの高皇産霊神です。
卑弥呼は早く死んでいるということのようです。
邪馬台国と出雲の喧嘩が行われ、和歌山のたくさんの原住民の方々が殺されたのを
ご存知在る方いますか?
神話で語られている出雲の国譲りのことです。
518唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 15:12:25
ホケノ山は垂仁稜。
又は、崇神陵に田道間守を祀る。
519太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 15:23:14
崇神5,6年≠新羅193年(船舶の無建造、空腹千人百姓渡海不能)

伊支馬≠活目(そうなら卑弥呼=卑弥弓呼も成立)おかしい。ww

神功紀元年記事(日食は2時間位、数日も不継続)

なお電波星X線星では日食が数日間も続く天体があるらしい?ww
そこの電波星人X線星人から強力な電波を受信すると、そういうこと
もあるんだろう?ppppp
520唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 15:32:32
>神功紀元年記事(日食は2時間位、数日も不継続)

神功紀元年記事(数日も継続)は、太国倍年での出来事。
どんな天体事象ですか?
521太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 15:37:23
日食は他にゴマンとあるんだぜ。ww あちらはどんな星ですか?
522唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 15:59:40
>日食は他にゴマンとあるんだぜ。ww

日食が幾らあっても、神功渡海が説明出来なければ成らない。
数字優先で無く、歴史優先で考える。

歴史を無視した倍年は、成立しない。
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 16:20:29
世界各地で2倍年暦等の倍暦の行使の地域が多数あることは、もう裏づけ
済みである。マシなんかやってる所はどこにもな〜い。それはそうだ。

やれば身の危険が甚大であってマシ注入の動機も判然とせず、そんな真似
をするやつなんかいやしない。やれば当時の誰かが不正だとして矯正
してしまうし、そんなことをすれば政敵に弱味を握られて失脚だ。

オマエの長い間の前後左右のうち前しか見ないで盲進した結果のデタラメ
の結実がマシというものだ。つまりオマエの脳内の妄想語だよ。ww

成務の在位を4年でカットしても、実際全国にわんさとあるんじゃ公文書
偽造のマシの共犯は不可能事であり、4年などとはデタラメのいいところ
である。www
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 16:41:52
>神功渡海が説明出来なければ成らない

新羅本紀232年の記事がそれだよ。

 232+120=352年

これが三韓征伐の年代だ。説明できている。

だいたいオマエの編年表は開化も1年年代を増加さており、この前1年
少ないと文句を言ったオマエこそがそういうことをやってばかりいて、
オマエこそ自語相違であ〜る。他人に言えたものか〜。オマエもやって
るではないか。それもうんとだ、この野郎!

オマエのは開化在位183〜187年のところ185〜187年だとやってその前後
の在位年代も2年ずつばかり各々ちょろまかしている。しかもその説明
が出来ず、さらに今回は開化在位を動かして184〜187年にまたまた揺り
動かしていて1年2年のイカサマは、オマエのほうこそ責められるべき
ものだ。><

フフッ 自信がないわけだ。ww
525唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 18:20:06
>232+120=352年

これが3韓征伐なら、神功元年は、232年で、卑弥呼より前の話。ですか。
これなら、神功40年からの 倭人伝も説明出来るかも?
526太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 19:47:39
神功元年は353年だよ。日食なんか低級ムー民(←ムー民でも賢察な者は
いるが)の論で、臥海で大恥をかくのがオチだぜ。

オマエ、120年のズレをまで無視するひどい脳内になったらしいな?ww
527縦目仮面:2010/02/26(金) 20:08:38
こっちでもやってるのね。ww
528太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 20:18:26
>>527
唐松山は脳内の考察ブレーキ・ペダルが完全にマヒしてるんだよ。w
529唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:21:34
新羅本紀232年は動かせないでしょう。
どうやって動かすの?
530太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 20:23:58
どうやって秒を繋げるのか?ww そいつをするのがオマエの仕事
ではないか?w
531太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 20:29:33
ところで七支刀の銘文だが、X線検査結果がノギヘンだが、これとオマエの
「寧」の主張といずれをオマエの脳は優先判断をしてるのか〜? それとも
まだ「寧」が優先だと頑張るのか〜?

頑張るんなら、オマエはどうやら電波星X線星からの強力な電波を受信
してるらいいが、まだピピピピッと送信がそこから来てるか?www
532唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:42:34
>ノギヘン

3倍年で使えるの?
使えない物を此方に振られてもねえ。
533日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:14:30
この二老が井戸端会議している間は誰も寄り付かない。
534唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 21:18:24
自分もそう思う。
535日本@名無史さん:2010/02/26(金) 21:23:03
というか、2人とも日本語がイマイチ。
も少し周囲にも分りやすく書いてほすぃー
536太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 22:08:19
>>532
どうだな? 七支刀銘文の■の検査結果はノギヘンだが、オマエはそれ
でも強行して「寧」だとして論をしっぱなしだが、ノギヘンと「寧」と
ではいずれが優先判断とする選択をするのか?


それでも「寧」を強行継続か〜? ならばオマエにはどうやら電波星
X線星からの強力な電波を受信する超能力があるらしいな?ww

どうだ? いまも電波がオマエの脳内にピピピピッと送信されて来て
るのか? 向こうではノギヘン「イ」がウカンムリ「ウ」にでも重力波
か何かで屈曲でもして「寧」の字になるのがかの電波星X線星での
物理的特性だとでも電波星人X線星人がオマエに言ってるのかね〜?ww
537日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:22:29
おっさん、レス読み返して
空気読んで自重しろ
538日本@名無史さん:2010/02/26(金) 22:37:39
話題は @倭人伝 A記紀 B考古学 Cその他 どれがいいの?
539日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:05:22
鉄が錆びるとき、不純物の割合、表面の凹凸、水滴の付き具合などの影響で一様にさびないことが多いのです。
ですから、そこに書かれた金文字は、そのままの状態で残ることはありません。
しかし、ご安心ください。錆の形成をシミュレーションし、元の文字を復元する技術が開発されています。
それが完成すれば、こういった無益な論争はなくなることでしょう。
馬鹿は死んでください。
540日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:20:38
電気屋で、ちょっと電蝕やってたんだが無理だと思うな
元の金属の不純物や結晶状況が内部まで完全にわかり、
外的要因が完全にわかった場合、錆の進行なら、
なんとか予測出来るかもしれないというところ。

腐食してぼろぼろになったのを復元するのは、元の金属組成が
流れて無くなってしまっているから無理。

ちなみに金属の内部を詳しく調べるのも結構難しい。
X線や超音波でできることは意外と限られている。
541日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:24:35
やる前から無理だと決めつけるのは全くの誤り。間抜けなやつだとしか思えない。
錆びた鉄剣をレントゲンで透視した先人の先見性を見習うといい。
542日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:35:33
まあ、がんばれ
543日本@名無史さん:2010/02/27(土) 00:28:51
まあ、未来の科学技術は、現在は未知だからな。
それこそ、タイムマシンができるかも
544日本@名無史さん:2010/02/27(土) 00:36:46
お前らどうでもいいから河童や改め見つけてこいよ。
そろそろスレにカビが生えるで
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 01:43:57
のぎへん とは
七支刀銘文
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす年号の事です。
369年 東晉廢帝太和4年:己巳 だと 5月十六日丙午を得られないが、
「吉祥句として存在する」と云われています。しかし 吉祥句とするなら、「十六日」が説明出来ない。説明出来ないが、「吉祥句として存在する」で論議はチョン。
326年 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
太寧4年は、1月までであるが、彫金を百済ですれば、この程度の誤差は発生する。
16日丙午 計算では、17日丙午が得られる、こちらは暦法による誤差とする。

神功51年が 326年なら、神功元年が275年となり、日食記事は273年の出来事と考えられる。
274年幽州を分け平州を置く。仲哀より、晋国の命令が優先する冊封国になり、暦も異常な使い方は出来ない。
323年永嘉の乱の終息。派遣されていた軍の行動。326年に七支刀。
この直後から半島人の流入、各地の古墳や巨大古墳の築造の時代に入る。
記事に信憑性があると考えられる。

369年では、日食以外の出来事になるが、則日暉炳。(すなはち ひのカゲがきらめく)
この出来事は、日食以外で説明不可能。当然この記事も注入か創作記事として扱う。
神功51年が369年では、七支刀の朝貢に書かれた記事を容認できない。
百済、高句麗は、領土争いをする時代です。ここに弱小国家群は容認できないが存在する。
神功渡海を数字で表せない。武力渡海なら、武力の発生から説明が要る。
だから 神功紀は寄せ集めの記事か創作記事とする。
空白の4世紀の説明が出来ないまま、5世紀に繋ぐ。
当然 5世紀も説明出来ない。よって、書紀は創作となる。
546日本@名無史さん:2010/02/27(土) 09:08:42
どちらも「泰」の字がないけど
547日本@名無史さん:2010/02/27(土) 10:45:15
>>544
改めさんの消息は不明ですが、河童さんならアホーの知恵袋にいます。
548日本@名無史さん:2010/02/27(土) 11:20:16
古代史から足を洗って真人間になったんじゃないの?おめでとう。
549日本@名無史さん:2010/02/27(土) 12:38:53
ドツボは引退「予告」宣言したからな。
550日本@名無史さん:2010/02/27(土) 13:23:31
「昭和」を「小和」と書いて、通用するのか?
日記ならともかく、国家間の公文書だぞ。年号の意味がないじゃん。

「泰和」を「太和」と読み替えるのは無理。「太寧」は論外。
551太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/27(土) 13:36:39
>>550
当時は特に「泰」を「太」と書く慣習があったんだそうなんです。だから
この件は許容できます。

唐松山の日食はどこかの文献の某部分を前後都合の悪い文を切除して、
さも日食に見せかけて日食でない文を撹乱させてカモフラージジュ
した小ズルイ説明であり、騙されてはいけません。だからたった四字しか
出してないでしょう。
552河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/27(土) 14:20:11
>>549
んん〜  改め君は引退宣言したのか?


>>551
「泰と太」ですね   これは私が知恵袋に投稿した内容です。参考になれば

【抜粋】

>『太』という漢字は『泰』の略字だそうですが

たぶんここから認識を改めなければならないと思います。
「太」も「泰」も既に史記で使用され使い分けられています。

>『泰』という字には太いという意味もあるのでしょうか?

日本に漢字が伝わってきたときには、既にこの字は別文字として機能していたので、両方全て同じ意味ということはありません。
(ふとい)というのは「太」の訓であり 「泰」ではなく「太」という文字にあてられています。

「太と泰」に、同じ意味が多数共通しているのは、発生が同じ所(語源)からの発生であるからだと考えます。
しかし、長い年月別文字と言う環境で使用されているので、意味も独自な意味がさくせいされていったのでしょう。


「太と泰」=形容詞 順調なさま、 最もきわまったさま(おほいなり)
「太と泰」=副詞 非常に(はなはだ)

ただし、「泰」の名詞と動詞には「太」に通じる意味はありません。
553日本@名無史さん:2010/02/27(土) 14:31:17
この場合、正式な年号は「太和」でしょう。
それをわざわざ「泰和」と書いたわけ?
554日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:09:13



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


555唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 16:16:18
>それをわざわざ「泰和」と書いたわけ?
刻印の文章がつたないのは、その文章を刻印した場所と時間を表す。
326年の百済なら、大乱直後でありこの程度の知識しか持ち合わせていなかった、と考えられる。
369年でも同程度と思考できるか?
556日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:31:40
犬国と太国は似たようなものだ。気にならない。
しかし、太いと秦は別の字。
京都も太秦(うずまさ)は、同じ文字を繋げたわけではない。
557日本@名無史さん:2010/02/27(土) 17:28:31
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
>刻印の文章がつたないのは、その文章を刻印した場所と時間を表す。
>326年の百済なら、大乱直後でありこの程度の知識しか持ち合わせていなかった、と考えられる。
>369年でも同程度と思考できるか?

文章のどこが拙いのだ?
年号で当てはまるのは泰始四年(468年)である。太和は不可。これが神功52年の記事に相当するなら
崇神の時代は4世紀後半に下る。案外そうかも知れんぞ。
558日本@名無史さん:2010/02/27(土) 20:18:07
泰で始まる年号
 西晋--泰始(265年)
 南朝劉宋--泰始(465年)、泰豫(472年)
 北魏--泰常(416年)
559日本@名無史さん:2010/02/27(土) 23:51:13
太秦と書いて「うずまさ」と読ませるのも完全なる当て字だな。
飛鳥と書いて「あすか」と読ませるのと同じ理屈。
元々、「太」は「秦」の略字だったと考えれば、すべての謎が解ける。
560日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:11:46
>>559
飛鳥と明日香村の明日香はどっちが先なんだろうね?
561日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:30:01
>元々、「太」は「秦」の略字だったと考えれば、すべての謎が解ける。

ほんとかいな。太と泰は同じ音であり同じ意味で用いられることはあったが、秦は国名、王朝名、氏名
であり太とは関係ない。
562日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:41:35
アトランティスの末裔を自称するアステカ文明、マヤ文明ともつながりがあり、倍歴4倍暦を使用していた点でも
飛鳥の古代王朝と共通している。
三角とこの太陽石、因縁を感じない人は鈍感だと思う。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Aztec_calendar_stone.JPG
563日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:50:24
>>559
どう解けるの?
564日本@名無史さん:2010/02/28(日) 07:37:15
秦じゃなくて泰のはなしだよね
565日本@名無史さん:2010/02/28(日) 09:38:11
秦の始皇帝が封禅の儀式が行った泰山。
泰山/岱山/太山とも書く。
566日本@名無史さん:2010/02/28(日) 10:06:23
>>559

泰と秦の区別もつかないとは・・・・つ老眼鏡

567太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 10:37:37
西遊記で平頂山蓮花洞の銀角大王に三山圧頂の法で押さえられたのが
孫悟空だが、五百年前にも如来に五指山に押さえられている。銀角大王の
場合は、3回目の山、泰山で孫行者を押さえようとして、これに
成功した。以後孫悟空はこの仇を討ち、妖魔二匹を退治する。

なお唐松山という山は銀や角をヨコに動かす指し手をよく使う。ww
太国は古代史において、極めて神通広大。天津神算木は妖魔の編年を
退治する。
568日本@名無史さん:2010/02/28(日) 12:13:40
>>567
自陣に入られて 金に成られたんですね
569日本@名無史さん:2010/02/28(日) 12:18:43
大和は津波はないし、台風も来ない。
やはりいい土地だ
570日本@名無史さん:2010/02/28(日) 12:32:29
やはり邪馬台国は津波によって滅んだのではないだろうか?
そういえば、青森県の十三湊に栄えた奥州安東氏も津波で滅んだとうする説が有力。
571日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:06:59
時事ネタですな
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 15:43:09
>>568
自陣にデ○パが入ったのかも知れません?ww
573日本@名無史さん:2010/02/28(日) 15:58:20
>>570
大分県には、400年前の地震で沈んだという瓜生島伝説がある。
574日本@名無史さん:2010/02/28(日) 18:12:33
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
575日本@名無史さん:2010/02/28(日) 20:53:56
>>572
それは相手が付け入る隙があったからだろう。
576日本@名無史さん:2010/02/28(日) 21:36:18
隙のない古代史研究者などいるのか?えっ?w
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 22:26:45
>>562
>アステカ文明、マヤ文明ともつながりがあり、倍歴4倍暦を使用していた

両文明は1.4倍暦を使用してましたが、4倍暦はやってないと思いますが?
それともあるんでしょうか?
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/28(日) 23:17:45
>極めて神通広大。天津神算木は妖魔の編年
だから 景行元年生まれの日本武尊が、西暦で表すと、数年後の生まれになるんですか。
579日本@名無史さん:2010/03/01(月) 08:52:12
>>576
リンク先のレス読め。
将棋ネタに古代史研究者は関係ないし、
デブ国は研究者などではない
580日本@名無史さん:2010/03/02(火) 20:48:09
デブは只の痴呆
581日本@名無史さん:2010/03/02(火) 21:14:14
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
582日本@名無史さん:2010/03/02(火) 23:43:51
テス
583唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/03(水) 18:47:44
空白の4世紀とは、
半島から、大量の、高句麗、北方系の渡来の年代、
半島南部を差し置いて、北の人間が日本に渡来する。

どうすれば、可能か?
最も簡単なのは、百済から大量の生口がもたらされる。
河内百舌野、 クダラ、ペクチェでは無く、モズである。これは「百残」より転嫁。
「百残」とは、高句麗の発音である。
河内では、造陵に従事、上毛では、農業を営む。
5世紀には、高句麗が強大化、生口が大量にもたらされることは無い。
584日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:14:54
高句麗の渡来の時代なのに百済の生口って。
585日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:58:08
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
586日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:08:58
韓国籍の日本兵や従軍慰安婦も、いわば生口みたいなものだからな。
集団就職もそうだし、派遣労働者の実態も生口といえないこともない。
生口は、名を変え時を超え、今でも生き残っている。
587唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/03(水) 22:18:00
>>584
326年 神功52年 百済:自是後。毎年相續朝貢焉。
これ以降、高麗人を生口として、倭国にもたらす。

百済の歴史は、疑問が多すぎるが、
4世紀に、倭国に流入した半島系の人々は、高句麗系が多いと思われる。
もしそうだとすると、高句麗が強大な時代ではあり得ない。
時代が降ってからの流入では、群馬県子持村黒峯遺跡の北方系など、説明出来ない部分を
解明しないと、歴史にならない。
其の意味で、5世紀初めに、百済は高句麗に負ける。これ以降の流入は少なくなる。
当然古墳の大きさも小さくなる、そして百済任せの外交も、自分から積極的に行う時代となる。
これが 倭の五王。

588唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/03(水) 22:39:59
新聞各紙で宇治市市街遺跡から大庭寺遺跡に近い須恵器が出土し、年輪年代法にて389年という時期がでております。新聞の白 石氏のコメントとして
「古墳時代中期が4世紀後半にさかのぼると想定される」としておりますが、私は古墳時代前期に須恵器生産がさかのぼる、でいいと思っ ております。
古くは森浩一氏が4世紀に須恵器生産がさかのぼる可能性を述べ、埼玉稲荷山古墳礫郭主体部を「鉄剣471年説に汚染されない6世紀前 半」
(「考古学ノート」1981)としていた見解などが、現在それぞれ当たっていたという事も評価すべきと思いますし

編年は、古い方へ移動しないと、高麗人の流入も特定できない。
589日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:15:30
須恵器自体は、九州筑紫の須惠地方では4世紀前半から造られてたと見て間違いない。
590日本@名無史さん:2010/03/04(木) 13:18:58
    ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <不足分だけ申請してくださいよ(政府)
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591日本@名無史さん:2010/03/04(木) 14:15:15
「須恵器」の定義ってなにさ?
592日本@名無史さん:2010/03/04(木) 14:49:27
須恵で出土したから須恵器?
593唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/04(木) 19:22:31
>>557
>文章のどこが拙いのだ?

年号の彫られた側は、常套句の様な物、裏に彫られた本文が 拙い。

七支刀は、鋳造である。 多分徐州あたりでの鋳造であろう。

594日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:58:59
>>591
>「須恵器」の定義ってなにさ?

窯焼き
595日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:00:04
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
596唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/04(木) 21:14:24
>>557

先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造■■■世
597日本@名無史さん:2010/03/05(金) 20:36:33
しかしこのスレも自称スレ主のドツボが引退表明したようでいよいよ終了なのかな?w
まあ結局、論争に終止符は打てなかったわけだがwwwwwwww

そもそも位置論争の決着を見る前に卑弥呼が「誰」なのかを確定しようってのが無茶な話しだよなwww

固有名詞をもって来るとすればどうしても記紀に拠るとなるんだろうが…

魏と交渉をもった女王なんてのが書かれているわけじゃ無し
結局、皆が自分の主観で似てる部分だけを強調してああだこうだ言う羽目になるとw
598日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:37:01



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 08:30:39
>卑弥呼が「誰」なのかを確定しようってのが無茶な話しだよなwww

だ、か、ら、卑弥呼は〜神橿日媛なんだってえ。
600日本@名無史さん:2010/03/06(土) 12:30:13
自説では

葛城族の日女命=卑弥呼
大倭姫=トヨ

奈良県御所市秋津に何か見つかったようです

秋津はだだっ広い田んぼの所ですね
601日本@名無史さん:2010/03/06(土) 12:46:24
そろそろ金印か封泥を頼むぜ。
602唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 12:58:05
大倭姫は垂仁9年生まれですから13歳と云えば、垂仁も末に近い、倭国乱を全て
垂仁時代で説明せねばならない。

壹與は、五百野姫です。
この後日本武尊17歳は、関東遠征。大倭姫は35歳程度か。

>奈良県御所市秋津に何か見つかったようです
3世紀末頃の遺跡?
603日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:25:23
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
604日本@名無史さん:2010/03/06(土) 17:39:47
>>602
良いのではないですか?
あなたもデブさんみたいに政治の王と祭祀の王は共立出来ない方ですか?

卑弥呼の死後、男王が立つが再び倭國乱れ…宗女トヨを立てた

つまり

日女命(モモソ)の死後、垂仁が立つがサホビコサホヒメが反乱
前例に沿って大倭姫を祭祀王に立てた。

大倭姫は伊勢神宮を建立した人物。
単なる皇族の女性があんなものを造らさせれますか?
605太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 17:53:34
>>604さん
あれは稀代のデ○パだから、重々注意なさったほうがいい。
606日本@名無史さん:2010/03/06(土) 19:00:22
太国さんも、他人の悪口はいい加減にした方がいい。
たとえそれが事実だとしても、自身の人格まで疑われたら損ですよ。
607縦目仮面:2010/03/06(土) 19:46:27
>>606
唐松山さんに対してのは、悪口ではなく相聞歌でしょう。ww
608太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 19:55:18
こちらは悪口を言う目的なんかさらさらない。彼はいささか考察に欠陥が
見受けられ、それが激しい部分もあるわけであり、当人に忠告しても
全然改まらない〜一面的には重症の状況がある。

それを>>604さんがまともに受けてしまうと、妄想の麻薬が>604さんを
蹂躙してしまう危機となる。そのための警告して危機を免れさせる目的
なんです。
609日本@名無史さん:2010/03/06(土) 20:29:16
>>606
もう十分疑われてるからいいんじゃない?
610日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:23:57
古代史オタはこんなのばっかりです。
611唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 22:28:33
太国さんが私に悪口を言うはずがない。

あれは、太国さんが自分自身に対する言葉。
612日本@名無史さん:2010/03/07(日) 00:10:29
日本史板スレ勢い2位陥落、3位転落
新自由主義の歴史なんてのに抜かれてシマタ
613日本@名無史さん:2010/03/07(日) 01:18:05

ただいまニュース速報+板で議論中!

【滋賀】邪馬台国近江説 
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1267808325/
614唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 01:48:36
>【滋賀】邪馬台国近江説。  は崇神6年に譲位した大物主の都。
纒向の発展と時を同じくして衰退。

>>604
登場人物
倭女王=男王の斎王であったと思われる、神橿日姫か?
男王=筑紫に住居 その昔は倭王と崇められていたが、今は女王に位を譲り、小国の王に甘んずる。
倭王=大和に住居 倭国(九州王朝)の東方の国王であったが、魏国に倭国統一を約束させられ、
祭り上げられる。
難升(斗)米=なとべ 男王の配下であったが今は女王の配下。
都市牛利=たしうり 田道間守。
伊聲耆掖邪狗=伊瀬のベテラン磐鹿こと磐鹿六雁。
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
倭人伝は、この王、三人を分けて書いて有るのに、2名で読むのは大きな間違い。
615唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 01:49:25
景行が行った、屯倉経営は、魏国から直接その方法を学ぶ。これにより遠国よりの調を米以外に
広げ、軍務も負う。古墳の築造は認める。
この方法は、文字を持たない当時では、世代交代と共に、変質しやすい。
266年壹與朝貢、274年晋国の要請により神功渡海。この年晋は幽州を分け平州を置く、
渡海を疑問視した仲哀を殺しても渡海しなければならない事情、母国の命令が絶対である
冊封国である。
仲哀崩御で、渡海派と残留組の間で内乱が発生、忍熊王等が殺される。
この渡海だけなら、半島の文物が流入しただけで済んだが、その後の情勢がそれを許さない。
永嘉の乱等にも派兵、323年乱の終息、千熊長彦は、百済の隊長等と空白となった、遼西郡晋平県を占拠、この地を百済に譲渡、翌年には、半島南部の再編成、ここでも一部を百済に譲渡、
326年七支刀。これ以降百済は、その対価を朝貢として、倭国にもたらす。
高麗人の入植は、百済が高句麗方面で調達。これらの人々が、各地に入植、巨大古墳築造にたずさわる。
370年前燕滅亡、高句麗が強大となり始める。高麗人の入植は細る。
この危機を凌ぐために倭国は軍を派遣するが、石碑で解るよう芳しくは無い。
履中陵が小さくなるのは、人足不足が大きく影響。

現在の韓国人と、渡来人の血液が混ざった今の日本人では、「血液が違う」と云うのは、この為です。
半島南部の人種が変わったのでなく、入ってきた人種が半島南部では無かった。
616太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 08:24:56
伊支馬≠垂仁

イコールなんて考えてる奴の甘い脳内考察が伺い知れる。pp
617日本@名無史さん:2010/03/07(日) 10:47:15
近江は狗奴国、邪馬台国と敵対する国。
神武天皇に滅ぼされた長髄彦の国が近江だったと思われます。
近江国は、神武=祟神に帰順し、近江毛野氏になります。
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 11:00:04
神武≠崇神
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 12:29:14
太国さんよう、いつまで否定だけを続けるの?
せっかく作った数字があるなら、それで歴史を語ってみたら?
620太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 13:05:42
少し前某警察署で、万引きでの誤認逮捕があった。唐松山君じゃぁ警察官
には出来ないね。いくら人相が似てても、どこか相違点が発覚して無実が
判明し、誤認逮捕の失敗を覚る。そうなってからでは、もう遅い。君だと
いくらでも誤捜査をしでかすだろう。

伊支馬は臣だから垂仁天皇ではない。君の説は殆どデタラメの作文だよ。
621日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:00:40
伊支馬とは活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)のこと。
奈良県北西部の生駒(いこま)を拠点としていました。
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 14:03:55
臣は天皇にはなりえない。道鏡のときも同様。イコールなんて妄想だよ。
623日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:07:50
谷川健一先生の「古代学への招待」にそう書いてあるし、
異論はあろうが、誤認とか逮捕とか言いだすような説でありません。
624太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 14:13:43
それは誤認だよ。用心がないねぇ〜。古代でも似た名なんかいくらでも
あるぜ。平成天皇は平城天皇ではないんだよ。
625唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 14:28:49
>君の説は殆どデタラメの作文だよ。
では、自説で否定して戴きたい。

下記の様にだ。

近江説否定
42年 神武即位
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
192,3年 崇神5,6年
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし ナツキソムカヨ
アスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし

神武東征時、大和に入った神武の後を追って大物主も合流。大物主は、ウマシマジの元上司にあたる。
大物主の下に入ることを嫌った神武は、単独で橿原に移る。大物主は、ウマシマジの春日から
近江に移り、そこに移り祀りを執る。
崇神5年、全国を冷夏が襲い大凶作の年となる。翌春には農民の逃散。
崇神6年の実りも期待できない。大物主はこの苦境を乗り切るため、崇神に身を寄せる。
崇神にしても同じ屋根の下で何時までも暮らせない。宮(住居)を二棟建て、大物主と伊瀬(豊け)
をそれぞれに移す。崇神7年には、大物主は引退を決め大王の座を崇神に移譲。
世継ぎを田田根子とし、崇神に仕えさせる。
崇神は、流動化した民の南下を押さえるため大彦を越(コシネ)に派遣。
大物主は、親の国(サホコ)出雲へ移る。
委譲を受けた崇神は、その徹底の為各地に四道将軍を派遣する。

卑弥呼の登場する場所が無い。

626太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 14:45:32
卑弥呼の国は当時九州にあったわけさ。畿内とは別国だよ。諸葛亮の天下
三分の計の名言のように、当時の大陸は三国に分かれていた如く、当時
の日本も九州と畿内の二国に分立してたのだ。倭人伝は九州の女王国と
女王の卑弥呼のことを記述したものであり、男王国(天皇国)とは基本的
には無関係だ。外国たる卑弥呼の国のことが(伝の借り物以外)記紀に
記載がないのも、畿内とは別国だからこそだ。

伊支馬は臣であり九州所在の人物なわけで、垂仁天皇とはハッキリ別人
だよ。オマエは九州と畿内とを当時新幹線や航空機があって軽く行き来
してたような軽率な考察をしていまうから、そんな盲象に取り憑かれ
るわけさ。ww
627唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 14:54:27
そうならば 皆を納得させられる九州説が先。
今のままでは、崇神の宮の横に九州があっても否定できない。
628日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:04:29
記紀に書いてることをなんでもかんでも鵜呑みにするのはなあ。
あんなの前半は、作り話なのに。
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 15:04:30
崇神の宮の脇にありゃぁ、天皇のほうが卑弥呼より大々的記述が伝に存在
するよ。ww 卑弥呼は女王なんだよ。畿内に当時女王なんかいないこと
は、記紀を読めば女天皇が書いてないんだから分かるだろう。ww
630太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 15:11:25
>>628
神武より手前の神代は伝説だから真偽はハッキリしなくてやむを
えないから、そのまま言い伝えを記載したと観てよい。

しかし神武以後は記事に年月日があることから、これは造り話ではない。
創作すれば編者らは公文書偽造で現今の某政党議員のように政敵に虚偽
の記載をしたことで垂れこまれ、身の上が危うくなる。そんな危険なマネ
を編者らが大した利害もないのにやるわけがない。
631日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:18:06
>>625,626を読むと、二人の説はほとんど矛盾しませんね。
ただ一点、伊支馬=垂仁か否かという点を除いて。
わたしは、伊支馬=赤間関、馬関、つまり下関のことだと考えます。
つまり、馬では渡れなかった九州と本土を結ぶ交通の要諦。
下関から大阪湾まで広い範囲をまたにかけていたとも考えられます。
632日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:45:41
>>630

>神武より手前の神代は伝説だから真偽はハッキリしなくてやむを
>えないから、そのまま言い伝えを記載したと観てよい。

>しかし神武以後は記事に年月日があることから、これは造り話ではない。

それは、神武以前と神武以後の伝承は、違う民族が残したもので、
九州からの神武東征は事実ではないと言ってるのと同じなんだが、自覚あるか?

633日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:50:03
年月日が書いてあるから、作り事ではないというのは乱暴だなあ。
そんな年月日なんて、いくらでも創作可能なのに。

それに書紀の編者が各天皇紀に年月日を付したのは、正史の体裁を整えるためであって、
一個人による「虚偽の記載」というのとはちがうだろう。
いわば国策で架空の天皇や出来事を創作して、その体裁を整えるため年月日を付したわけで、
上層部の意向にしたがってやってるわけだ。
なんか基本的な認識自体がまちがってる。
634日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:00:50
だいたい、神武東征から年月日が記載されてるのに、
神武の親の代の出来事は年月日が記載されてないあたりがダメだろ。

635日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:03:11
正確な暦のなかった古代に、年月日が記されているあることのほうが、むしろ不自然だ。
だから、月の半分しか記録がないなどといった珍説が生まれるのだ。
636日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:13:15
なんにせよ、記紀の応神・仁徳以前の記述は信用できない。
さんざん言われてることだけど、皇位継承はタテの父子継承だらけ、
年齢はギネス級の長寿だらけ、天皇の名前は後世風・・・などなど。

全て創作ではないにせよ、いろんな伝承を「大幅に」加工、つぎはぎして、
架空の皇統譜をでっちあげ、後付の年月日を付していったってところだろ。
637唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 16:23:24
>そんな年月日なんて、いくらでも創作可能なのに。

書紀の暦は計算で出せない、出せないが太陰暦で読める。ここが問題なんだ。
日付後付け説を唱えても、後付けの事実を確認出来ない。出来ない以上推定にしか成らない。
そこで考えたのが「暦の増し」説。正確な暦が有ってその暦に空白の日数を加える。
「真の暦」と「増しの暦」の複合暦が書紀の暦。
この考えで、編年したのが、私の主張する数字の暦で、昨日には、西暦42年神武即位の正月朔が、中国の同じ日と重なることを確認しました。
638日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:30:58
そうやって計算の上で辻褄を合せて砂の城と築く。
そして自分で描いた砂の城の上に有り合わせの記述を嵌め込んで飾り付ける。
まるで子供の遊びだ。
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 16:37:10
>>633
体裁を整えるなら、月日なんぞ不要だよ。年まで十分だろうが。乱暴なの
はオマエの考察だよ。これは国史だぞ。そんなことをすりゃぁ、当然
公文書偽造の虚偽記載で現今の某政党議員のように逮捕される。所詮
オマエの恣意的先行観念が生んだ妄想なのさ。ただ妄想度は唐松山ほど
ひどくはないから、あとでまだなんとかなろう。ww

年月日があってなぜ当時の天皇が現今では考えられないほど超長寿なのは
はおかしいだろうとする考察はいちおう説として出るのは当然だが、これ
も一見そう見えるだけで、実際は当時2倍年暦等を行使していたことから
の錯覚であって、実際の年齢は1/2あるいは1/3であるからして不合理では
なかったことになるから紀の記載はおかしくはない。
640日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:43:12
安本一派のように、卑弥呼時代より後に神武を置くなら
ぎりぎり歴史として成立する

卑弥呼時代の倭人は、暦を記録していないようだから
シナ側の詳しい資料が発見されないかぎり歴史とは呼べないだろう
641日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:43:40
>>639

仮におまえのいう倍暦があったとしても、
神武以前の日向三代の年代は計れまい。
記述が無いんだからな。
おかしいんじゃないか?
神武から年代の記述がされるなら、神武以前もある程度年代を記述できるはずだろ。
年代が残っていたならな。創作でなく。
642日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:45:36
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
643日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:54:48
フトクニは根本的に発想がまちがってるな。
奈良時代の史官が勝手に年代をでっちあげたり、虚偽の記述をしたりするわけないだろ。

全部、堂々たる正史を編纂するという国家的事業の一環としてやってるわけで、
あえて言えば天皇など権力者の指示による朝廷ぐるみでの捏造、偽造ってことだろ。
まあ、そういうのは普通、「虚偽の記載」とは言わないけどな。

史実としてみれば創作、捏造でも、国策としては「正史」の編纂だし。
644太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 17:09:36
>>641
そんじゃあオマエの家系も神武以前まで残ってるのか? 出してみろ。
そういうことはオマエが見本を示してから言うんだな。「俺の家の家系
は神武より古く年月日が記載ある。」とな。

神武以前は畿内じゃないんだよ。九州だぞ。年月日は古すぎれば取れ
ない場合はあろうが。

>>643
天皇の指示なら何故武烈、雄略の大悪天皇の記事が詳細に記載したのか?

天皇がそういう捏造をするなら、こっちのほうも隠匿のため抹消するだ
ろうがね?ww それに皇族の殺人事件とか浮気だとかの醜聞だって隠匿
するはずだが載ってるのはオマエの言う朝廷ぐるみという考えにはなっ
ていない。 所詮オマエの先行考察が妄想の落とし穴にはまっ
た妄想の結実だということだ。
645日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:09:53
卑弥呼の登場は崇神より前、孝元か開化あたり。
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 17:17:14
だから〜創作、捏造したなら、暦の後付けを証明しなくてはならない。

しかし書紀の暦を再現した人は居ない。
その理由として、間違いを七つほど認めれば、リントク暦で読める、とか理由を付ける。
これだけの間違いを認めれば、他の暦法でも大丈夫だろう。

だからまだ 書紀の暦日は再現されていない。再現されていない以上 予測にしかならない。
647日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:18:55
記紀の内容は全部正しい、史実であるという思いこみがはげしすぎるな。
これじゃ戦前の皇国史観の連中と変わらない。
648日本@名無史さん:2010/03/07(日) 18:18:55
今年の元旦の日干支は辛亥である。この日天文計算で使うユリウス通日は2455194.5日。
神武即位としているBC660年1月1日は庚辰で、ユリウス通日は1480403.5日。
この間の経過日数は974791日。これを干支1運の60日で割ると、余りは31。
庚辰から31番目は間違いなく辛亥になる。
何暦が使用されようと日干支は2,600年間97万日間狂うことなく延々と続いている。
縄文か弥生か知らないがBC660年に暦が使われていたとは到底思えない。
よって、古代の暦は後付けに決まっている。
649日本@名無史さん:2010/03/07(日) 18:22:58
古事記・日本書紀に照らせば、それに該当する人物はいない
そして、ホツマツタヱに頼っても当てはまる人物がいない
もう結論は出ているんだよ
そんな奴はいなかった
650日本@名無史さん:2010/03/07(日) 18:39:06
>>644
雄略 武烈の記事は
三輪方が書いた証拠。葛城方の天皇の悪いことは書いても良いことは書かない。

欠史八代も葛城の王が為にテキトーに書かれてる。
彼等の墓の比定地は葛城領にあるのがほとんど。
651日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:05:47
6世紀以前は暦自体なかったから、年月日の詳細な記録なんて不可能。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 19:47:11
>>647
全部正しくはないですよ。いいですか、記の天皇没年と紀のとでは違い
ますよ。全部ならいずれも正だという主張になり、矛盾的になります。
653日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:05:03
アホなん?
>>647はそんな意味じゃなかろう。
654太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 20:06:35
全部っていうのは一部なのか〜?4w
655日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:44:36
年代の細かいことがどうこうなんてセコいことじゃなくて、
記紀に出てくる人物や出来事の中には架空のものもたくさんあるってことだろ。

記紀の系図も物語も、ある程度信用できるのはせいぜい6世紀以降。
それより前は伝承を漢籍で修飾してふくらませたものや、全くの造作記事でしかない。
656太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 20:51:23
そんなの、何のウラ付けが出て言ってるのか?ww

どうせ君の先行思考のゴリ押しだろう? そうでないのなら裏付けツマリ
創作という公文書偽造罪の容疑の固められたブツの解説がなくては
ならんね。それがなければ、君の空想に留まるだけのこと。
657日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:09:11
643 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 16:54:48
フトクニは根本的に発想がまちがってるな。
奈良時代の史官が勝手に年代をでっちあげたり、虚偽の記述をしたりするわけないだろ。

全部、堂々たる正史を編纂するという国家的事業の一環としてやってるわけで、
あえて言えば天皇など権力者の指示による朝廷ぐるみでの捏造、偽造ってことだろ。
まあ、そういうのは普通、「虚偽の記載」とは言わないけどな。

史実としてみれば創作、捏造でも、国策としては「正史」の編纂だし。
658日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:24:07
偽史和人伝だな
659日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:55:30
いなかったことを証明するのはむずかしい
それだけのこと
660太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 21:57:26
>>657
仮に不幸にもオマエの家族に殺人犯人が出たらどうする? オマエも家族
も、捜査機関にはわかっても家族ぐるみで世間に知られないように隠し
通したいだろう? 世間体は最悪だし、就職結婚にも著しい不利が出るだ
ろうが? 場合によっては夜逃げだぞ。

この厳しい現実が訪れた場合、オマエは友人にも仕事仲間にも隠匿する道
をとるだろう? ところが記紀は皇族同士の殺人とか浮気とかの醜聞を
平気でくまなく記載しているし、雄略武烈の大悪ぶりも細かく乗せている。

このことはオマエの言う朝廷ぐるみだとの主張が崩れたことを示している。
つまりオマエのウラもとらないで先行考察のしすぎの妄想だという事だね。
661日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:04:49
仁徳以降の治世年数は記紀とも同じだよ。
神功応神の2代ではじめて記紀の間に18年の差が出るよ。
662太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 22:10:43
>>655
稲荷山鉄剣の銘文には雄略天皇の名がある。これだけでも6世紀以降だと
いうのは間違いである。漢籍だとか言ってるが、これは大陸の漢の書物
だけでなく魏とか蜀とか唐だとかの書籍を含んでの意味だろう。

そうなると梁書の永元元年(499年)には乙祁(=顯宗天皇)の記述が
日本へ行った僧からの説明にて存在する。紀は倍暦の関係で14年のズレが
あり、499年は顯宗即位元年に相当するから、これを否定することは、
大陸が漢籍こそいい加減で造作するものであるということになる。ww

であるからギリギリでも499年は5世紀であり、オマエの主張は崩れる。
663日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:14:07
>>660
発想が逆だ。朝廷自ら、日本書紀は嘘だということが分かるように書いて
いるんだよ。
664日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:17:19
記紀を盲信する原理主義者ってのはコチコチの石頭だな。
たとえも極端な上、論点がずれてるし。
665日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:17:41
日本書紀は偽書だ
666太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 22:22:37
>>663
オマエの言い分は一部分はそのとおりだ。天皇が立て続けに百数十歳も
連続して超長寿のわけがないからな。歴然として嘘だと考えてしまう。

しかし編者らがそうしたのは故意にイカサマを書こうとしたものではなく、
紀の原書群が大半そういう記述だから、それに従ったまでのことよ。

武内は別として、皆が皆そんなに長く生きるわけがない。w 当時は
2倍年暦等を行使していたのを編者らが気づいていなかったのだろう?
667日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:59:55
仁徳以降記紀の治世年数が同じということは、偽書とは言えないな。
それ以前は伝承が同じなら、伝承部分は真実かも。
668日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:09:03
669日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:10:12
670日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:16:31
671日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:25:25
卑弥呼も邪馬台国も魏志倭人伝とそれをもとに書かれた文書にしか出てこない。
しからば、魏志倭人伝は偽書倭人伝であり、邪馬台国も卑弥呼も存在しなかったいなかったとすれば、
全て解決するのに、なぜそうしないのか不思議だ。
672日本@名無史さん:2010/03/07(日) 23:59:31
>>671
三国史記にも卑弥呼は出てくるが
673日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:02:59
>>671それも魏志倭人伝の焼き直し。
674日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:09:29
>>671ではなくて>>672
675日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:39:41
んなことない。
卑弥呼の表記が微妙に違う上、
新羅に交際を求めたと言う内容は魏志倭人伝とは別系統資料というべき。
676日本@名無史さん:2010/03/08(月) 17:33:48
卑弥呼が誰かはともかく、

邪馬台国の官の「伊支馬」「彌馬升」って、
そのまま、イクメ(垂仁天皇)、ミマキ(崇神天皇)のことだよな。
677日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:03:13
>>676

ただその場合、問題なのは倭人伝に見える「序列」と記紀の「系譜」との違いかな?w

ここだけの話し実は崇神より垂仁の方が先で
後世のヤマト王権内部の大人の事情wで崇神のほうが持ち上げられ可能性も考えている。

実際、纏向遺跡の位置は崇神じゃなく垂仁の宮の伝承地だからなwwwww

678日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:24:20
>>677
俺は、血統は正しいけど、序列は違っていた=女王が別にいたという考えだな。

ミマキが若かった頃はミマキが王だったが、イクメが生まれて、
父親が年老いたことで息子に実務を任せてたと。
679日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:25:11
似ている単語だけを引っ張ってきて論じるのはダメ。
「そう」と「so」が似てるので、日本語と英語は兄弟言語、というのと同じ類。

だいたい、一官吏の名前と王名(天皇)が一致しても、まったく意味なし。
680日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:42:11
>>679
>「そう」と「so」が似てるので、日本語と英語は兄弟言語、というのと同じ類。

無論そうだがw
二人ビンゴと言うのは結構面白いw

まあ今の畿内説が喧伝しそれを根拠にする必要も無いがwww

つか昔教わった国語の先生もその例えはよく言ってたなw
あの授業では「ソシュール」とかも出てたし
真面目にやっときゃ今この板でも少しは役に立ってたのだろうか?wwwww
681日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:49:17
>>679
>「そう」と「so」が似てるので、日本語と英語は兄弟言語、というのと同じ類。

一人だけなら、妄想呼ばわりで構わないが、
二人合ってたら、偶然とは言えないだろうな。
しかも時代まで合ってるわけだし。
682日本@名無史さん:2010/03/08(月) 18:56:43
あとこの手のネタだと「卑奴母離」とかだなw

無論、九州説の連中に言わせれば
後の大和朝廷が九州王朝の制度をパクったっ
…てお話が出てくるのがこの板のガチガチ鉄板のパターンだがwww


683日本@名無史さん:2010/03/08(月) 19:25:18
>>681
>二人合ってたら、偶然とは言えないだろうな。

「合ってる」と言える状況か?
例えば、崇神は「ミマキイリヒコイニエ」が名前だぞ。
ミマキは名前というより、地名の可能性が高いだろ。

一方の「彌馬升」は「ミマキ」と読めるのか?
仮に読めたとしても「ミマキイリヒコイニエ」とはまったく違うだろ。
684唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/08(月) 19:57:39
都市牛利(たしうり)=田道間守の朝貢は239年出発で240年景行元年帰京。
崇神五,六年は新羅192,3年の記事と同等である。だから 「彌馬升」は「ミマキ」と読めたとしても、過去の人間です。

伊聲耆掖邪狗=伊瀬のベテラン磐鹿こと磐鹿六雁。磐鹿六雁は崇神時代に生まれたと思われる、景行末まで活躍
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ。田田根子は3代にわたって仕える。
大彦の孫、磐鹿六雁は武門の頭領でもおかしくない。田田根子は親が大物主である。こちらも実力者。

壹與は五百野姫 景行が九州から帰ってから筑紫に下向。

685日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:01:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
686日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:09:32
正直、卑弥呼とかどうでもいい
私が本当に知りたいのは、本当の古代日本の歴史、それだけ。
なあ、歴史学者さんよ、どうして一般日本人にそれを示せない?
それを抜きにして、あなたがたの使命って何よ?
随分時間が経っているよ、時間がないんだよ。
人の命は限られている。
687日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:13:49
もっと推理ごっこを楽しめよ。
人の命は限られているんだから。
688日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:25:35
推理はもうたくさんだ。
ああでもない、こうでもないという説もほとほと聞き飽きた。
事実を掴んでそれを示してくれよ、歴史学者さんよ。
謎ばっかりじゃないか。
それは卑弥呼だけじゃない、ほんとど日本の古代は謎すぎる。
銅鐸にしてもそうだし。日本にしか出土しない
三角縁神獣鏡にしても。
ほんと、仕事してくれよ、頼むから。
689唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/08(月) 21:39:32
>>686
今の歴史学者様達は、神武以降の太陰暦が伸長されているから、
当時の倭国には暦もなく、書紀の編纂者が暦を後付けした。と主張する輩ばっかり。
太陰暦のまま圧縮する方法も考えつかなかった。
これは学者様方を非難できない事情が有った、だから多少はさっ引いて考えて上げなければ成らない。
非難できない事情とは、日本の歴史は、お隣の国の歴史「百済本紀」に合わせれば読める。との考え。
しかしこの方法には、重大な誤りがあった。それは、韓国考古学も、百済本紀に書かれた時代を読めない。これに集約される。

今日本考古学は、新羅本紀に書かれた時代を正しいとする。それが崇神五,六年の記事だ。
これを”真”とすると、神功渡海は、日食記事と重なる273,4年の出来事であり、
七支刀は326年であり、神功紀に書かれた記事の相当量が真実と成る。

それどころか、帰化人とは、百済が朝貢した高麗人が大半を占め、今の半島の人々と少しだけ血液の違いまで証明できる。
今の韓国人は、後からやってきた人々で無く、弥生時代から入れ替わっていない。
その後高句麗が強大となると、百済人を連行奴卑として使用。
南北とも同じ血液となり今に至る。
690太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/08(月) 21:47:04
崇神5,6年≠新羅192,3年

左辺の年代では船舶がないから新羅には空腹百姓が千人も渡海できない。
船舶が出来たのは崇神17年であるから、この式は等式にはなりえない。

ただし電波星X線星の☆に電送人間機とかがあって、そういう電信を電波
星人X線星人からピピピピッと受信できてれば、そういう可能性を肯定
するのもやぶさかではない。www
691日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:48:59
スレ違いかもしれんが一言言わせてくれ
広開土王碑の辛卯年記事は通説より一運繰り上がった331年のことであることに気付いてしまった
新羅本紀の倭来襲記事もこれで全て説明がつく
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/08(月) 22:04:02
>>691
これでは、高麗人の帰化が説明出来ない。高句麗土器も数字を持ってる。
数字を持っていない土器は百済、ほぼ50年新しい方へずれているらしい。
693日本@名無史さん:2010/03/08(月) 22:13:54
>>691

それだと三代前の故国原王の治世になってしまいますよ。
そのころの高句麗は、慕容氏に攻められてボコボコになされていたころですね。
694691:2010/03/08(月) 22:27:48
言葉足らずだったがこの文

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

広開土王治世のことは全て永楽年号で書かれている
これは、倭の朝鮮半島進出は四世紀末ではなく四世紀前半
即ちこれ三韓征伐
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/08(月) 22:33:23
当時は九州と畿内は別国であり、畿内朝廷の勢力は北九州あたりにはある
程度影響していたろうが、まだまだそこまでで支配には至ってはいない。

広開土王即位年の391年の件は畿内の兵ではなく九州王権九州王朝関係の
兵であり、三韓征伐はもっと古い時代で別である。
696日本@名無史さん:2010/03/08(月) 22:44:44
>>693
別に故国原王の時代でいいんですよ。
高句麗側の認識としては、元々百済も新羅も属国だったのに、
慕容氏とガチンコやってる間に倭が渡海してきて
百済も新羅も属国にしてしまったと。
しかるに広開土王が即位してそういう憎い倭をやっつけて
本来の半島秩序を取り戻すぞという前置き

ま、スレ違いだからこの変にしときましょう

>>695
九州王朝説ですか・・・
697日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:46:38
なんで急に書き込みが減ったんだろうか。
698日本@名無史さん:2010/03/11(木) 19:13:23
確定申告と年度末締めで忙しいのか。
韓国IPと日本国内のF5アタックIPを遮断したせいか。
699日本@名無史さん:2010/03/11(木) 19:42:52
「メ」がホームレスになったからだよ。
700唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/11(木) 21:38:15
百殘(モザ)は、高句麗の発音であり、百舌に通ずる。

河内に入植したのは、高麗人である。百舌野に応神、仁徳陵築造時には、
この「百舌」の地名は使われている。入植はそれ以前になる。
5世紀の高句麗は強大であり、高麗人の入植はそれ以前でないと出来ない。
701日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:19:23
(´・ω・`)モズが 枯れ木で 鳴いている おいらは ワラを 叩いてる♪
 つ¶   綿引き車は おばあさん ごっとん水車も まわってる ♪
702九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/03/12(金) 08:59:58
確定申告は9日火曜日にしたよ。
天気が悪い日を狙ったので税務署はガラガラですぐに終わったよ。
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 09:43:14
規制中のため、テスト
704日本@名無史さん:2010/03/12(金) 18:17:19
>>695
倭の五王武の宋に宛てた上表文
「我が封じられた領土は遠く、外に藩を作ってきた。先祖より武力闘争し、山川を越え、休まなかった。
東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し、渡り、北の九十五國を平定した。道は百済を経て,船も使い、ゆくも高句麗に難渋した云々。」

宋書倭国伝(全文)
ttp://www2.plala.or.jp/cygnus/R7.html


これはどう解釈すべきなんだ?
705日本@名無史さん:2010/03/12(金) 18:19:55
宋書で書かれてる日本東西の征服って
四道将軍のことじゃないの?

178 :名無しさん@十周年:2009/12/01(火) 12:36:57 ID:Bou0HzcB0
四道将軍
『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。
教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。
なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。
706日本@名無史さん:2010/03/12(金) 20:04:14
>>705
>将軍の印綬を授けられ

3〜4世紀ころの倭国産の印綬というのは考古学的には考えにくいんだよな。現存するのはずっと後代のもの。
もちろん出土したという話も聞かない。継体天皇のときは磐井の乱で、物部麁鹿火に斧鉞が授けられた。ここ
でなぜ、印綬の語が出てくるのかなかなか興味深い。
707日本@名無史さん:2010/03/12(金) 20:09:37
>>706
斧鉞は、中国の皇帝が諸侯を誅伐する権威の象徴だから、印綬とともに中国の影響だね。
当時から中国の真似をしてたのか、斧鉞と印綬というのだけ、後から脚色されたのかね。
708日本@名無史さん:2010/03/12(金) 20:24:40
>>707
むろん書紀編纂時、あるいは帝紀、旧辞が書かれたときに挿入された可能性が高いんだろうが、
祟神天皇と印綬というのが、引っかかってね。崇神帝を、卑弥呼の男弟と比定するむきもあるが、
とすれば近くに中国製の印綬があったことになる・・・まあ、妄想に近い話だけどね。
709日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:12:07
>継体天皇のときは磐井の乱で、物部麁鹿火に斧鉞が授けられた。
考古学的に裏づけられたのかな?
710日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:18:57
>>709
いやまったく。記紀の記述の話なんだけど。
711日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:26:46
斧鉞が授けられたかどうかは、ありそうだけど実際のことはわからない。崇神帝が四道将軍
に印綬を授けたという事実はおそらくないだろう。ただ崇神帝が3〜4世紀頃実在したと仮定
するなら、倭人伝によればその時期に日本に金印がもたらされている。だからこの部分の
記紀の記述には、何か符合するものを感じるが、妄想に近いんだろう・・・といってるんだが。
ここまで、丁寧に書かないといけないのか?
712日本@名無史さん:2010/03/15(月) 10:19:55
1994年生まれの人集まれ!☆2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nendai/1266477523/
713日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:35:35
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
714日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:52:29
物部麁鹿火が磐井の乱を平定し、今でいう久留米方面の土地を
与えられたとき、「やっと昔の雪辱がはたせた」と感慨深くい
った云われている。

つまりその地区はいまでいう三潴郡で、昔、水沼の君(物部氏)
がいた地区ではないかといまれている。

その地区には今でも、物部一族の墓があり、南方からの勢力
から終われ、みのう(耳納)を経て、日田から安曇地区を通過し
瀬戸内から、紀伊半島を経由し、尾張地方に移りすんだ物部氏(尾張氏)
一族ではないか

尾張地方には美濃があり、飛騨(日田?)がある。
天武天皇に力をかした尾張一族こそこの物部一族ではないかと思われる。
715日本@名無史さん:2010/03/16(火) 16:19:13
物部一族ってなに?

ニギハヤヒが物部一族なら、天火明命も神武も天照大神も物部一族、なんでも物部一族になってしまうが?
716日本@名無史さん:2010/03/16(火) 17:20:00
磐井の乱の戦闘描写は漢書の丸パクリ
斧鉞云々もそう考えたほうが自然
717唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 18:02:23
崇神は2世紀末と考古学が仰っている。

晉書卷七十三 列傳第四十三 庾亮子彬 羲 龢 弟懌 冰 條 翼
1932 から
 石季龍汝南太守戴開率數千人詣翼降。又遣使東至遼東,西到涼州,要給二方,欲同大舉。慕容皝、
 諸夷因此知造兵器。翼表陳東境國家所資,侵擾不已,逃逸漸多,夷人常伺隙,若知造鑄之利,將不可禁。
342年康帝即位,翼欲率眾北伐,上疏曰:「賊季龍年已六十,奢淫理盡,醜類怨叛,又欲決死遼東。皝雖驍果,未必能固。 前燕建国。

(諸夷因此知造兵器)323年永嘉の乱終息。この乱の為従軍していた、東夷は、この間に武器の作り方を知る。
(若知造鑄之利)また七支刀の鋳造技術も得た可能性がある。
(夷人常伺隙)遼西郡晋平県百済による領有か。高句麗の事か。

晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より
咸康(342年)七年,皝遷都龍城。
2824
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
(347年?)慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。三年

342年過ぎに「百済」の文字がある。この頃には、東夷でなく百済が存在しなければ成らない。
よって、神功49年は323年が妥当である。七支刀は326年。
七支刀369年では、神功紀の記述はウソの塊になってしまう。支持できない。

韓国考古学もこの数字を編年に出来ていない。土器編年は、ほぼ50年新しい方にずれている。
323年頃までに、倭国は、鎧や馬具の製造方法を知る。
ただし箸墓の鐙は、魏より下された可能性が大きい。
718日本@名無史さん:2010/03/16(火) 18:25:41
崇神が2世紀末である根拠は?
719唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 18:57:40
今の考古学曰く
纒向遺跡は、2世紀末より、
新羅本紀曰く
192年冷夏、193年餓えのため倭人来朝
崇神5,6年 凶作、農民の離散

各地の土器=異族多帰。庄内式の始まり。
近江伊瀬遺跡の衰退と纒向の繁栄は繋がる、崇神6年秋、大物主が譲位。
この後始末が四道将軍。
これでハツクニシラスとなる。

720日本@名無史さん:2010/03/16(火) 19:34:52
>>719
「192年冷夏、193年餓えのため倭人来朝」と
「崇神5,6年 凶作、農民の離散」が同じ年と言いたいようだが
これだけでは・・・???

論理性が無いな。
721唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 19:58:01
近江伊勢遺跡の衰退は2世紀末は確認したか?

年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午

これが崇神紀に書かれた「正朔」の本体である。
神功元年の日食は273年の記事を注入した。
閏の廻しは違うが同じ長さで読める太陰暦である。

722唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 20:13:27
昨年秋、纒向遺跡より出土した大型建物は、
崇神の磯城では無く、場所は垂仁の珠城である
都市牛利(たしうり)は田道間守、その他この時代の名前が記載されている。
神功52年(326年)が七支刀。ここでないと書紀の記事は支持されない。
723日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:38:35
>>715
>神武も天照大神も物部一族?

神武も天照も架空の人物の可能性は否定しないのか?
いつまでも、戦前の八紘一宇に凝り固まっていないで、
もう少し、お勉強されてはいかがでしょうか。
724日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:44:18
神武は初代天皇。外せない。
むしろ祟神や垂仁のほうが存在しない可能性が高い。
725太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/16(火) 21:59:06
日食は数日間も継続するわけがないから、これを日食だと強行に主張
することは、これは地球上ではなくどこか遥か遠い大宇宙の果てに日食が
数日間も続く、電波星やX線星などの天体があるのだろう。大宇宙は
えらく広いからな。wwwwwwwwwww

そこの電波星人X線星人からの強力な電波をピピピピッと受信出来る特殊な
能力があるらしい人物ならば、こういう論が肯定される可能性が出て
くるだろう。ppppp・pipipipi・・・
726日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:10:44
ニギハヤヒの大和の物部系は筑紫の三輪地方からの移動人の
可能性が高いことは、何人かの学者の指摘もある。

奈良の三輪山も天の香具山も、筑紫からの移住人の命名かも
しれない。
神武が大和東征に際し、何故、紀伊半島から伊勢経由なのか
ずっと疑問におもっていたが、物部の移住人たちの協力を考え
たら、少し納得する。

日本3大火祭りの鬼火の風習が、久留米地方の三潴付近と
紀伊半島の新宮の熊野神社であるのも、物部の移住ルートと
無関係ではあるまい。
727日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:22:11
神武は伊勢経由でなく、熊野からの山越えだった。

天武天皇が吉野から伊勢経由で、尾張物部氏の協力で
権力を掌握したのでしたな。

天武も神武も似たような権力の掌握の仕方ですね。
728日本@名無史さん:2010/03/16(火) 22:29:45



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


729日本@名無史さん:2010/03/16(火) 23:02:27
>>727
かなり後年になるが、
後醍醐天皇も御所から笠置、そして吉野に逃げていますね。
730日本@名無史さん:2010/03/16(火) 23:05:51
>ニギハヤヒの大和の物部系は筑紫の三輪地方からの移動人の
>可能性が高いことは、何人かの学者の指摘もある。

その学者って誰?

ぜんぜん、注目されてない鳥越か?
デンパ飛ばしまくりの安本か?



731日本@名無史さん:2010/03/17(水) 09:52:08
>>730
なにこのオジサン??

ずいぶん偉そうだけど、真面目な学者様を呼び捨てにするだけの
見識があるの?単なるネットウヨですか?
このスレに粘着して、人の意見に文句ばかり言っているのですか
732唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 10:12:43
神武は弥生土器X様式の始まりを指す。
崇神は庄内式の始まりを指す。そして纒向の始まりでもある。
垂仁は倭人伝に登場する。

カットしても誰かを差し込まねば成らない。
百済本紀は50年古くしないと、歴史を語れない。韓国考古学が百済本紀を
数字に直せないのはこの為だ。
733日本@名無史さん:2010/03/17(水) 13:01:08
>>731

鳥越はともかく、安本が真面目な学者様だってさ。

で、他に物部系とやらを説く学者様はいないの?
734日本@名無史さん:2010/03/17(水) 13:20:29
>>726
まず、高天原がどこかということになるのだが、筑肥地方だとして、記紀の
筋どおりに考えていけば、次のようになる。

饒速日命は高天原から大和に行く。

前後して、高天原から日向に行ったのが、天孫とされる瓊瓊杵尊。天孫系は
神武天皇の代になって、東征し大和に行く。そこで饒速日命の系統と
衝突する。

饒速日命は敗れ、忠誠を誓い、物部氏の祖となる。
ということになる。
735日本@名無史さん:2010/03/17(水) 18:10:08
天孫降臨とか神武東征とか信じてるバカって何なの?
736日本@名無史さん:2010/03/17(水) 18:30:18
どうでもいいけど、日本史板にへばりついてるコテハンが説く妄想年代論やmy古代史
(もちろん一般世間でも学界でも通用しない)は見ていて痛々しい。
737唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 19:23:12
>>736
崇神朝が2世紀末を否定したいのか?
聞いて上げるよ。
738日本@名無史さん:2010/03/17(水) 19:28:20
ミマキイリヒコ大王が2世紀なんて、まともな学者は誰も言ってない。
自己流の妄想年代論はいらないよ。
739日本@名無史さん:2010/03/17(水) 21:19:10
>>736
いいんじゃないの
卑弥呼や古代史が好きで、妄想にふけるのもストレス解消になれば。

一番最悪なのは、上から目線で人の妄想にケチをつけ、少なくとも
現在、それなりに自分の論を本にしている作家・学者の方たちまでも
一方的にいかさまであるかのような記述をする人は軽蔑するけどね。

特に>>733 のような人は最悪ですね
740日本@名無史さん:2010/03/17(水) 21:30:44
そうか天皇平均在位年数なんて
学問じゃなくてトンデモの類
741唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 21:34:38
>>738
誰も云っていないって、
考古学は纒向の開発を2世紀末に設定していますよ。
だから、崇神6年を新羅193年の記事と同等といえる。

まあ学者の意見が、設定場所を教えてくれましたか?
聞きたいですねえ。
742日本@名無史さん:2010/03/17(水) 21:59:52
>>734
>まず、高天原がどこかということになるのだが、筑肥地方だとして、

先ずその時点で根拠無しwwwwww
743日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:07:44
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
744日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:08:47
>>741
纏向の年代を基準にするのはどうかと思う。
それよりも、確かと思われる天皇の年代から遡っていくほうが妥当性がある。
例えば、倭の五王の賛(讃)を応神か仁徳とすれば、これが西暦410年頃に
なる。

そうすれば、神功皇后の時代は、好太王の碑にある西暦390年頃が妥当する。
記紀にある神功皇后の三韓征伐と、好太王の碑の「倭人が海を渡ってやって
きて新羅・百済を破り臣民とする」のくだりとも合致する。

14代仲哀天皇の時期がこのあたり、つまり四世紀終わり頃とすれば、当時の
天皇の在位期間を10年ちょっとと推定して、崇神天皇の時代は四世紀半ば頃
ではないかと思うのだが。

ちなみに、21代雄略天皇が即位したのが、西暦456年。
80代高倉天皇が崩御したのが西暦1180年。
この間、60代の天皇の平均在位期間は(1180-456)÷60=12年となる。

これを用いて雄略天皇から遡ると、崇神天皇の時代は456-12×10で336年となる。
745日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:18:41
>>472
記紀には出雲のことが詳しく書かれている。日向のことも詳しく書かれている。
しかし、その間にあって、古代もっとも栄えていたとされる筑肥地方が全く登場
しない。これは非常に不思議なことだと思う。

高天原からの出雲の国譲りや、高天原からの天孫の日向降臨を説明する
ためにも筑肥地方が高天原と考えるのが妥当だろう。
根拠のないことではない。
746日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:23:15
とうとう誰もいなくなり糞スレと化したな
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 23:02:30
崇神6年≠新羅193年 ←イコールはインチキ説である。
748日本@名無史さん:2010/03/18(木) 00:00:26
高天原は神話の世界の架空の存在であり、たとえ筑肥と仮定しても
それで根拠なしと笑うのであれば、それは笑う人の学識能力の問題
でしかない。

戦前は、軍部から高天原の地を一方的に、宮崎なんぞに比定され、
窮屈な妄想から、脱しきれていないが、今は政権交代もかのうな
民主主義の時代だから、その一方的な押し付けを庶民に強要する
ような、へんなレスは軽蔑に値する。

私は >>745のような方の柔軟な考え方があってもよいのではないか
と思います。
749日本@名無史さん:2010/03/18(木) 00:18:52
福岡の南方に大宰府という昔の都の跡があります。

この遺跡は、白村江の戦いの際の、前線基地とされ、
破れた倭がこの地を守るため、水城を築き、大野城を作ったとされています。

しかしながら、実際に大宰府の発掘にかかわった方の文献を読むと、築城は
さらに1世紀以上さかのぼる可能性もあるそうです。
さらに、大宰府は碁盤の目の整然とした、平安京なみの遺跡跡だそうです。

また東西南北に山に囲まれ、北東に宝満山(京都の比叡山の位置)があります。
つまり、奈良の平城京、藤原京以前にこの地に、都があった可能性もあります。

実際に大宰府の地に立てば、奈良の地によく似た風景があるそうです。
一度、行ってみてください。
その南が筑紫三輪地方になります。
750日本@名無史さん:2010/03/18(木) 01:08:57
高天原はSeoulだろ
751日本@名無史さん:2010/03/18(木) 01:13:40
>>750 わけないw

   木も植えないで帰ってしまったスサノオさんに叱られまっせ。
752日本@名無史さん:2010/03/18(木) 08:46:48
>>749
>その南が筑紫三輪地方になります。

だから、東遷したって言いたいの?
筑紫の三輪の地名が、3世紀前から存在したことを証明しないかぎり無理。
753日本@名無史さん:2010/03/18(木) 10:04:18
>>744
>それよりも、確かと思われる天皇の年代から遡っていくほうが妥当性がある。
例えば、倭の五王の賛(讃)を応神か仁徳とすれば、これが西暦410年頃に
なる。

これも不確かじゃないの ?
賛 =  応神か仁徳
754日本@名無史さん:2010/03/18(木) 10:18:19

讃は履中天皇。

『宋書』に「讃死して弟珍立つ」。つまり兄弟とも即位しているわけ。
よって応神天皇、仁徳天皇は讃にはなり得ない。
755日本@名無史さん:2010/03/18(木) 11:06:43
ヤマト倭と日本は別物であり合併して日本になったのが大津京のころとちがうかな
756日本@名無史さん:2010/03/18(木) 11:09:17
出雲は新羅から譲渡してもらったんやろか
757日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:44:35
卑弥呼はモモソ
トヨはヤマトヒメ

終了
758日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:53:40

トヨタン・・・・・・・・・・
759サガミハラハラ:2010/03/18(木) 14:07:21
讃は仁徳天皇です。
次の履中は貢献しておりません。
讃死して弟珍立つは、履中の弟の反正が珍であるという意味です。
760日本@名無史さん:2010/03/18(木) 16:34:52
チン立つかぁ
761日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:47:01
継体 507-531
武烈 499-506
仁賢 489-499
顕宗 487-489
清寧 483-487
雄略 461-483 武の時代
安康 460-461 興の時代
允恭 439-460 済の時代
反正 437-439 珍の時代
履中 434-437
仁徳 410-434 讃の時代

果たして五王は天皇か、これより200年程前が邪馬台国
762日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:03:35
>>761の細かい年代がどこまで正しいかは検討の余地もあるが、
(たとえば清寧〜武烈は架空の大王の可能性もある)
おおむね妥当な年代だな。
まあ、この前後と考えれば当たらずとも遠からずといったところか。

で、応神と仁徳には同一人物説もあったりするからややこしいが、
一応、ホムタワケ大王をオオササギ大王の先代王(父)と考えれば、
半島でタムドクと戦った倭王はホムタワケ大王ってことになる。

それ以前に百済から七支刀を下賜された倭王旨はオシロワケ王の可能性も。
763日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:22:02
>>759
それは余りにも勝手な解釈だ。

「讃死して弟珍立つ」

ここに讃=履中、珍=反正をあてはめると

「履中死して弟反正立つ」

これならちゃんと日本語でも意味が通るし、記紀の系譜とも適合する。

ところがサガミハラハラのように讃=仁徳、珍=反正とすれば

「仁徳死して弟反正立つ」

となってしまい、だれがどう読んだって反正は仁徳の弟になってしまう(実際は息子なのに)。
764日本@名無史さん:2010/03/18(木) 20:55:10
讃=履中だと、5年しか在位していない履中天皇が
少なくとも413年、421年、425年に遣使したことになるからなあ。
765日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:12:34
讃は讃岐王。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 21:47:47
五王≠天皇
767日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:52:42
この時代だと大王だからね。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/18(木) 22:01:19
讃=反正
珍+済=允恭24まで+それ以降。

「それ以降」は梨輕皇子を殺した興、武の親。
769日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:47:09
河童やドツボ、縄文人はどした?死んだか?
770日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:47:38
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
771日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:52:46
讃とは「SUN」、ずばり太陽のこと。
讃はアマテラスの子孫だったのだ。
772唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/19(金) 22:01:33
>>744
年代を考える方法が間違っている。

193年=崇神6年
240年=景初3年=都市牛利=たしうり=田道間守
273年=日食=神功元年
七支刀=百済が大国になる処。
400年=履中元年
この様な、歴史を合わせられるところを、繋がなくては、歴史にならない。
773日本@名無史さん:2010/03/19(金) 22:30:46
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
774日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:31:23
>>772
実在しない天皇をつないだって歴史にならないな。
775サガミハラハラ:2010/03/20(土) 08:22:12
いいえ、実在しましたよ。
776日本@名無史さん:2010/03/20(土) 08:43:46
>>775

どこに実在した証拠があるんだよ。
すべて「実在したと仮定したら」という話だろ。
777日本@名無史さん:2010/03/20(土) 09:40:25
都市牛利は「としより」つまり邑の長老のことです。
778唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 10:09:10
天皇が実在しなくても良いが、そこに書かれた記事は、歴史的事実
とした場合何処に比定できるか、其処だ。
だからその比定を考えた場合
崇神5,6年は、文献では、新羅192,3年の記事と同等と思われる、で有るならば
近江伊勢遺跡の衰退と纒向の興隆を見た場合、同6,7年の記事による、伊勢、大物主の記事と考えられる。
続きは、4道将軍から異族多帰は、纒向から急に各地の土器が集まる、に対応する。
箸墓は、古墳としては最初の記事である、はこの地方に初めて古墳が作られる。
これらの出来事を容認した人々により、崇神はハツクニシラスと呼ばれる。
これだけの出来事が続けば、文化にも影響する、それが庄内式の始まりとなる。

この流れを否定してから、崇神は創作と叫んで下さい。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 10:27:56
崇神5,6年≠新羅192,3年

当時は船舶がないから、百姓が腹をすかして操船技術もないのに
千人も半島まで渡海は出来ない。つまりこれは成立しないインチキであ〜る。
780日本@名無史さん:2010/03/20(土) 10:29:05
祟神は創作です。

781日本@名無史さん:2010/03/20(土) 10:34:06
        /''⌒\
       ,,..' -‐==''"フ  /
__     (n´・ω・)η    崇神は創作だー!
    ̄ "  ̄(   ノ.   \ 、_
 " ""    (_)_)"""  "  ,ヽ       ミ〜ロ〜/~~\ ⊂⊃
       "", ,,, ,,  , ,, ,,,"_wノ|     ミ〜ロ〜/    .\
""""     v,,, _,_,,, ,,/l ::::... |  .....,,,,傘傘傘::::::::傘傘傘...............
    ,.-r '"l\,,j  /  |/  L,,/:: i 森
,    ,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ /::./森
    _V\ ,,/\,|  i,:::Y: :: :i/:: | 森
782日本@名無史さん:2010/03/20(土) 11:00:00
>>777

>都市牛利は「としより」つまり邑の長老のことです。

都市は漢語。牛利も漢語。
783サガミハラハラ:2010/03/20(土) 11:40:49
古事記日本書紀に実在したとのっており、陵墓も存在しており、各地に
祀った神社や由来が伝承されている。
784日本@名無史さん:2010/03/20(土) 12:20:53
物語なんかいくらでも創作できるんだぜ?
785日本@名無史さん:2010/03/20(土) 12:23:35
>>784
そうだな織田信長も創作だそんな奴は存在しない。
現代人は誰も奴を見てないからな(棒)
786日本@名無史さん:2010/03/20(土) 12:57:32
あの徳川家康でさえ影武者だったというし、日本の歴史はねつ造の歴史なのさ。
787日本@名無史さん:2010/03/20(土) 13:03:09
伝承単体では検証可能性が無いという事が理解できないんだなあ。
788日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:49:08
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
789日本@名無史さん:2010/03/20(土) 15:02:25
>193年=崇神6年
可能性としてはあるが、決めつけることはできない。
崇神天皇はもっと後の時代に思える。

193年頃は倭国の大乱が終息した頃で、国内は荒廃しており、
おりしも寒冷期故、凶作の年も頻繁にあったと思える。
大乱の原因は半島から九州北部へ押し寄せた集団が、土着の集団と争い、一部は九州南部へ逃れ、
ある一部は東へ逃れた。
大乱は終息したとはいえ、凶作の年には飢える者も出、半島へ渡った者もあった。
この頃は欠史八代の頃で、日本書紀に記述はない。
半島から渡ってきた集団は九州北部に住みつき、倭として大陸と関係を持った。
奴国、伊都国、五王など。白村江の軍団もこの集団?大敗後大和朝廷に従属。
それ故か、天智率いる大和朝廷は敗戦による大きな損失を被っていない。

790太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 15:43:19
193年≠崇神6年←これはインチキ説
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 15:47:09
>>790 訂正 失礼 等号とした 193年=崇神6年 ←これがインチキ説
792日本@名無史さん:2010/03/20(土) 16:15:07
書いてないことはわからない。
書いてあることは信用できない。

いったい何をどうしろというのだ?
793唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 16:15:21
>193年=崇神6年 ←これがインチキ説

否定だけなら誰にでも出来る、それに変わる、年代と思考が示せないかぎり
この否定は、犬の遠吠え。
794唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 16:42:29
まあ崇神朝を3倍年で読み切れなかった、太国3倍年は存在できない暦法
である訳だが、それでも主張したいなら、改めて主張して見なさいよ。

ここで主張出来ないなら、シッポ巻いて逃げ出しな。
いつまでもウジウジつまらない数字にこだわられても迷惑だから。
795太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 17:19:35
その等号が確かだというならwwどこか遠い電波星X線星とかの天体に
電送人間の機械があって、これに畿内の人間を半島に直接電送する通信を
電波星人X線星人とかからピピピッと受信できる能力を持つ脳内保持者
なら、この等号は成立するだろう。www
796太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 17:29:18
崇神6年に船舶がなくても、>>795のように電送人間機が畿内から半島
へと即電送できることを遥か極超遠方の電波星人X線星人などから強力な
電波を受信できていれば、百姓千人腹ペコでも軽く電送出来るという論
は〜これは可能性が出てくるだろう。www

そういう強力な電波を受信してないまっとうな人物の論説ならば、そう
いう論は崇神17年に初めて船舶ができたのでその等号は成立しないという
説明となる。
797日本@名無史さん:2010/03/20(土) 17:36:48
なんか自分自身相手にやりあってるぞ。
壊れた?
798唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 17:50:49
ホ37159 イヱのイヌ ナはアシユキが くひころす ムジナのハラに
ヤサカニの タマありをさむ イソノカミ

赤玉を放出した犬国とは、犬に化けた狸であった。
これが歴史の真相だ。

799唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 18:05:49
まあ太国倍年の中身なぞ >>795 程度のものだろう。
800太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 18:56:06
電送人間では出来ましょうが、半島に千人行くにはまだ船舶がなく、
崇神17年手前では畿内の百姓はまだまだ畿内にアリバイがありますぜ。ww
801日本@名無史さん:2010/03/20(土) 19:04:10
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       ,,,,,::''´        `::、
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802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 19:07:26
崇神6年 この時代
ホ33120 このミキは わがミキならず ヤマトなる ヲホモノヌシの カミのミキ
崇神6年にはまだ大和は大物主の治世する土地であったが、崇神は妾の子供と言う事で
天皇家の領地である香具山、畝傍山以南に宮を構えることが出来なくて、大和磯城に宮を構えざるを得なかった。
開化は、仮宮のある春日で亡くなる、治世3年。
だからこの年の「民の離農、彷徨」は天皇家の民に留まらず、各地各国の民が流浪した。
この秋、近江の地から、大物主や伊勢が崇神を頼って、大和にやって来る。
崇神は新たに宮を作り、それぞれを其方に住まわせる。

ここで注意しなければ成らないのは、伊勢です。
伊勢と云えば、天照大神を思い浮かべるが、この時点では伊勢=豊受神であり、大物主の信仰、奉斉する神である。
垂仁朝になってから、倭姫が豊受神と天照大神を新たな土地「伊勢」に祀る。

この事実を皆が解っていない。
豊受神は、大物主
天照大神は、天皇家
803日本@名無史さん:2010/03/20(土) 19:57:21
卑弥呼=モモソ姫
トヨ=ヤマトヒメ

終了
804サガミハラハラ:2010/03/20(土) 20:28:39
記紀に登場する崇神天皇の実在が信じられないならば、魏志倭人伝に登場する
卑弥呼や壱与の実在も信じないですか?
805日本@名無史さん:2010/03/20(土) 20:51:25
卑弥呼や台与はしんじますよ。だって彼女は美人だもん。
806日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:00:09
允恭天皇の在位年数42年はそれ以降平成天皇までだと、
昭和(64年)、明治(46年)についで3番目である。

それ以前は仁徳(87年)、応神(41ねん)、神功(69年)
・・・神武(76年)と皆の知る通り。
つまり允恭天皇を含めそれ以前の天皇の在位年数は何らかの伸長がされている。
その方法は天皇によって個別に伸ばされたか、一定のルールを基に伸ばされたか。
日本書紀の編者はどう考えて処理しただろうか。
卑弥呼は神功39年頃になるか?
807日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:04:45
記紀の成立の背景を考えれば、どうしても信頼性は落ちるよなあ。
808日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:19:29
三国志の赤壁の戦いを読めば、呉からの亡命者が大型船を持っていたことがわかる。
祟神が船舶を持っていなければ、買うか作らせればよいだけです。
まあ、呉とは敵対していたとせればそういうこともありうるが、
そうすると三角縁の謎が解けなくなる。
809唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 21:41:33
>允恭天皇を含めそれ以前の天皇の在位年数は何らかの伸長がされている。

允恭は24年の内乱から記事が無い。
伸長ではなく、書かれなかった大王がいた。

神功、応神には、百済王朝が記載されている、だから圧縮には注意を要する。
しかしこれに仁徳を繋ぐと歴史が伸長されてしまう。
仁徳は神功39年太歳に繋げるしか方法が無い。

>卑弥呼は神功39年頃になるか?
残念ながら景行40年位にしか成らない。
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 22:04:00
>>802
>開化は・・・治世3年
そうしますと

1年目 開化即位
2年目 崇神立太子
3年目 開化崩御

ということですな?ヘヘッwwwppp
811唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 22:20:00
>>810
違うだろうな。
3年目 崇神立太子  開化崩御 で十分だ。

812太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 22:35:10
艮神社(広島県沼隈郡下山南)

 開化10年、孝靈天皇皇子吉備武彦が熊曾新羅王と戦う

とある。これは開化4年以後の伝承であり、マシなんかオマエの
滑稽な妄想だよ。

813唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 22:46:43
熊曾新羅王?

こんなゴミを集めてそのゴミを正当化するために、太国倍歴は存在する。
開化60年は、その全てが3年以内に収まる。
弥生時代の天皇家が今の寿命と同じにしなければ、こんなゴミまで拾えない。

その代わりに、歴史を捨てる。歴史を捨てた数字だから、こんなゴミあさりに勢がだせる。
814日本@名無史さん:2010/03/20(土) 22:52:05
じゃあ允恭は24年に短縮だ。42年は長すぎる。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 22:55:21
この罰当たりが〜。トンデモない野郎だな。神社の伝承をゴミとはよく
言ったもんだ。ならば大悲王院の成務48年の伝承もゴミだと
言うのか?オマエこの前、高尾山の佛寺を参拝したんだろう? 佛院の
記事もゴミでは同山の和尚も怒りたくはないのに内心烈火のごとくオマエ
に怒りを燃やすだろう。この野郎、とっとと消えろ! ><
816日本@名無史さん:2010/03/20(土) 22:55:57
このサイトの真ん中あたりから読んでほしいんだが、これが事実だとすると歴史的な大事件じゃないか?
邪馬台国が南にあったと言う、魏志倭人伝の説明にも一致する。
http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/Entry/50/
別サイトの画像
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/article_contents/book_contents/040601_1421.files/image003.jpg
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 23:05:14
>>813
オマエ、もう来年から初詣の神社参拝等はしないで結構だ.不敬野郎!
818日本@名無史さん:2010/03/21(日) 00:54:10
そりゃ妄想が真実だったら大事件だ
819日本@名無史さん:2010/03/21(日) 07:56:01
邪馬台国はいつ滅んだんだ?
820日本@名無史さん:2010/03/21(日) 08:28:33
そりは、分からん
821日本@名無史さん:2010/03/21(日) 09:26:05
>>819
>邪馬台国はいつ滅んだんだ?

滅んではいないと思います。

@邪馬台国が他国を吸収合併していき、倭国の大部分を統治下におきます。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
A倭国の版図が広がり、列島の大半を占めるようになります。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
B倭国は日本国と呼ばれるようになります。

そんなストーリーを考えています。夢想のように聞こえるかもしれませんが、決して蓋然性ゼロではないと思っています。
822唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 10:03:20
>>821
正解。
倭王は大和
倭女王と男王は、九州
時代は、景行。
823太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 10:08:03
唐松山の開化お粗末編年

0年 孝元崩御
元年 開化即位
2年 崇神立太子のところおかしいと感じたか翌年へ移動。ww
3年 崇神立太子直後開化崩御
4年 崇神即位

これを観ても、マシがゴミ論であることが文字通り歴然とする。ww
824日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:19:03
まあ、神道オタクの狂信者フトクニの言うことなど、誰も相手にしないけどな。

記紀信者という点はもう一人のコテハンも似たりよったりだが。
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 10:21:37
>>823
このことは艮神社の伝承が看過できないことを改めて観てとれ、艮神社の
伝承より唐松山の開化3年までという論が成立しない唐松山のゴミ論で
あることが確実なのである。

開化の在位は紀によれば60年であり、唐松山のマシならばキチンと干支の
数であるからしてそのマシからは孝元崩御の翌年は崇神即位とせねばマシ
が側近や他人にバレることになり、開化がいる限り不正注入というマシは
妄想以外の何物でもなくいい加減なインチキ論である。艮神社の開化10年
の伝承はゴミではなく、唐松山の開化の編年ことがゴミたるイカサマその
もの論なのである。
826日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:26:03
倭人伝、倭の五王の登場人物名は誰が決めたのだろう。
自ら名乗ったのだろうか。大陸側で決めたのだろうか。
上表文は誰が書いた?
渡来人である側近が書いた?
その側近が倭王名を書いた?
倭王名をどうやって決めた?

このあたりどうなんだろう。
827日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:34:29
邪馬台国は不滅です。
山田国として日本各地に分都し、多くの子孫を残している。
伊勢=宇治山田。
桜井市山田=倉山田石川麻呂=飛鳥
東京都八王子市山田町=昭和天皇陵

邪馬台国は大和の司祭王として伊勢神宮を通して
現在でも日本文化に大きな影響力を残している。
828日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:52:04
倭王「旨」もいます。仁徳が讃なら倭王旨は応神ですか。
仲哀まで遡らないと思います。まさか神功皇后ではないでしょうね。
829日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:54:35
もう架空の天皇と架空の年代を自己流の理論でいじくりまわして、
フィクションの上塗りするのはやめてほしいわ。

コテハンどもの言ってることは歴史ではなく創作やファンタジーだ。
830日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:55:39
>>828
倭王旨は景行(オ「シ」ロワケ大王)かもしれない。
831日本@名無史さん:2010/03/21(日) 10:59:16
倭王旨(むね)とは、宗像王仁徳
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:06:17
>>829
架空だというなら、舎人親王らが公文書偽造をしたことになる。オマエは
古代史的ウラ付け捜査の研究を書きこめないで、足利事件のような先行
観念失敗捜査の二の舞たる「最初に結論ありき」の書きこみをするなよ。
833日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:08:26
>>829

まったくだ。
7世紀の人間が考えた架空の天皇と架空の年代をいじくって、
「解読できた!」って言ってるだけだもんな。
834唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 11:09:32
艮神社の伝承は崇神10年の記事改作。だろ。
改作を集め、正朔を認めず、自分でも使うことの出来ない物が、太国倍年。

自分で太国倍年を使ったことがあるのか?
崇神紀を掲載出来ないだろ。使い物にならないからな。

835日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:10:33
>829
わかってやってくれ。
一度嘘をつくと、辻褄を合わせるために
更に嘘をつかなければならないんだ。
836太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:14:35
>>833
まったくではないね。
オマエは津田結論先行病原菌にオマエの脳内が冒されて蹂躙されてるん
だよ。架空ならいちいち20年30年の長期間に渡って陵墓をあくせく造作
するわけもあるまいし、第一労働者らから架空の陵墓を造る手助けなど
工事監督から以下やるほど間抜けではない。現に陵墓があるし、少しは
査定の間違いもあろうが、数がほぼ合ってるはずだ。だから架空でなない。
837日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:17:28
「公文書偽造」とか言ってる太国の大前提が、普通の学者とは完全に論点がズレてて、
斜め上を言ってるトンデモな見解なんだよな。

端的に言うと、国家プロジェクトとして、天皇家中心の歴史を「創作」したというのが、
記紀(とくに日本書紀)なんだから、太国の言ってることは完全に論点がズレてる。

まあ、記紀は全て事実って思いこんでる皇国史観なら仕方ないけどな。
838太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:33:30
天皇家が中心はそのとおりだろう。それで創作したことにはこれは
ならない。オマエは左党の舐めすぎで脳内が歯科医糖や強酸糖に蹂躙され
て、津田妄想病原菌に脳内を麻薬の如く操作され、その脳内のリトマス
史見視が赤化してるということさ。ppp
839日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:40:30
旨=仁徳、讃=履中?
840太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:46:47
>>834
日本書紀のスレ>75を観て分かるとおり、そんなに改作ばかりあろうわけ
があるまい。こんなにうんとあるということは、オマエの言うマシが
成立しないということを物語っているわけさ。マシはもうオマエのひどい
妄想だよ。こういう伝承等とかでいろいろ裏づけをとることを怠って
いたことからの集積が、オマエのかような盲象暴走となったわけだ。ww
841日本@名無史さん:2010/03/21(日) 12:43:24
旨=オシロワケ
(タラシのみの成務、仲哀は架空)
讃=ホムタワケ?オオササギ?イザホワケ?
(ホムタワケとオオササギは同一人物かも)
珍=ミヅハワケ
済=オアサヅマワクゴノスクネ
興=アナホ
武=ワカタケル
842唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 13:06:05
>>829
太国倍年は数字のら列でしかなく、フィクションにも成らない出来です。
843日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:14:38
崇神陵、景行陵に比定されている古墳は4世紀のもの。
ミマキイリヒコやオシロワケは4世紀の人物。

オシロワケとホムタワケが系譜上、どうつながるかは不明だが、
オシロワケは百済王世子から侯王として七支刀を下賜された倭王旨で、
ホムタワケは高句麗のタムドクと戦った時代の倭王だろう。
その次の王がおそらく倭王讃でオオササギかイザホワケ。
844唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 13:24:54
>讃=ホムタワケ?オオササギ?
応神、仁徳は陵の大きさから外交を百済任せで良い時代
イザホワケの御陵は兆域こそ応神、仁徳と同等であるが、陵自体は小さくなる。

これ以降倭王は、外交を百済任せにせず、自分から直接外交をする。
845日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:10:59
>>836
バカじゃないの?

元々あった古墳で被葬者不明のものがなんぼであもあるんだから、
記紀編纂までの間にそういう古墳を創作された大王の陵墓に指定したんだろが。

公文書偽装云々の場合といい、太国は発想が普通の人間とズレまくってるんだよな。
まあ、意図的にそう言ってるのかもしれんが。
846太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 14:29:45
古墳を作るには大量の人員と食料と、当時存在するならば〜超大金が
かかかる。だから無名一百姓のためにそんなデカい陵墓をこさえるわけ
がなく、当然極めて勢力絶大な国家権力を握る一団の墓だということに
なるし、またそんな大量のカネと労働者と食料と20年30年等の長期の時間
をかけて架空の人物の埋葬墓を造るならば、労働者、工事監督者から
いい加減にしてくれと多大の苦情が入るのが関の山だよ。そんなまぬけ
な架空の墓を探偵小説の二十面相の墓のつもりでいるオマエの脳内の甘さ
が観てとれるぜ。ppppp
847日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:56:07
>>846
こいつは嫌いだがその意見には同意せざるを得ない。
九州説の一部の人間はこういう陵墓をアーアーキコエナイキコエナイとばかりに
架空の人物を実在したとさせるために造ったとか言う奴がいるがバカすぎる
848日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:30:47
太国は全然読解力がないな。それともわざとミスリードしてるのか?
よく読めよ。
>元々あった古墳で被葬者不明のものがなんぼであもあるんだから、
>記紀編纂までの間にそういう古墳を創作された大王の陵墓に指定したんだろが。

架空の天皇に陵墓があるってのは、帝紀みたいな皇統譜が作られる過程で
既存の古墳に○○天皇の陵って後付の設定したってことだろ。
わざわざ架空の人物の墓なんか新造するかよ。

太国はカルトな主張を声高にわめくだけで、他人と全然話がかみ合ってないな。
論点がいつもズレまくり。
849日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:41:34
脳に問題があるなwww
850日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:50:50



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


851太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 17:36:17
>>848
じゃぁ誰の墓だと言うんかいな?w
まさかオマエは無名の百姓の墓だとでも言うのか? 神武手前の神代の
国王とかの墓だとか言うのか? まぁ後者なら理屈は一応通るが、ざっと
巻向前後のとかあたりの代の墓だろう? そうなると当時朝廷以外に畿内
にでかくて強力な勢力の国家がに別にあったことになり、そういう国の
王墓とかということになる。しかしどんなにオマエがほざいても、そう
いうんなら、朝廷とその国との国交戦争婚姻とかが記紀ならねばおかしい
こととなるが、そんな大量の王墓をうんと作る国があった記事はない。

ということはオマエの主張がオマエの脳内の絵空事の架空の妄想だという
ことが歴然とわかるし、こうなると結局王墓群は朝廷の関係者のが大半
だということが歴然としてくる。つまりオマエのは二十面相の墓のような
探偵小説的盲象だということが一目瞭然。そうでないと言うなら、どこ
に朝廷以外の国家が畿内にあって多数の陵墓が造れたのか、記紀以外の
書等で示してごらん。それとも神功39年等の記事を根拠とするか?ww
852日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:18:51
>>851
だからね、
古墳があったってことは、古代に王はいただろうさ。
しかしその古墳の主の王と、
7世紀に書かれた書物に出てくる神武とか崇神とかの天皇と同一である保障はない。
実際に直系の血縁だったかどうかも証拠がないってことだよ。

古墳があったからって、7世紀に書かれた書物に出てくる天皇の没年の記述から、
実年代を計算するなんて無駄な行為だっていうの。
853日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:54:30
>>852
それはすべての書物の否定になる。
書物を否定したら
明治以前の書物しか残らないことは全て架空だというようなもんだ
854日本@名無史さん:2010/03/21(日) 20:26:09
だからといって、記紀の荒唐無稽なおとぎ話が事実だということにはならない。
オール・オア・ナッシングみたいな極論で、記紀の内容を全部事実として扱ったら、
それこそ戦前の国定教科書になってしまう。
855日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:00:15
伝承の中に事実あり。記紀の中から事実を抽出して歴史の中へ注入する。
今の歴史学者は記紀を全て否定し、歴史から排斥した。
記紀の中にも事実はある。その追求を怠り、それを信奉する輩が同様に
記紀を全面否定する。
教科書を見ろ、日本の始まりは考古学と外国文献からいきなり仏教文化になる。
もっと充実した歴史が描けないのか。
856日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:28:40
歴史教科書を小説にしようとする輩がいるようだな。
857太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 21:32:23
>>852
なにをほざいても、一百姓のために20年30年もかけて万の労働者をかけて
多大な食料と超大金をかけて陵墓なんか造らないんだよ。となればこれは
当時の国家権力を握った者らの陵墓だなとしか言えないの。オマエのは馬
でも猫のためにでも陵墓を造る可能性を残した言い草で滑稽だ。www

国家の実権を握った者らとなれば、当時畿内には朝廷関係しかないん
だから、これは当然殆どが当時の皇族関係の墓だとしかありえない。他に
畿内にそういう別の国があったんなら、それはオマエの言うとおり、朝廷
でない者らの墓の可能性は十分出てくる。しかし記紀を眺めても畿内近隣
に朝廷の国と対等に近く渡りあって交易国交婚礼戦争等をやってた記述
はどこにもない。せいぜい神功39年等は九州の女王国のことを120年という
干支の倍数移動して記載あるも、これも朝廷とはほぼ無関係であり、これ
らを総合的に考察して、これは殆どが朝廷の関係墓と観て不合理はない。

オマエのは猫でも犬でも百姓でも蟻の陵墓でもありうる頑張り方でww、
そういうことは映画エンタメ等の世界に限定して言って欲しい。ppp
858日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:58:17
今回は糞国の言い分は正しい。
あんなデカい墓を捏造や隠蔽の為に造ったとは思えない
859日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:15:48
>>848
>架空の天皇に陵墓があるってのは、帝紀みたいな皇統譜が作られる過程で
>既存の古墳に○○天皇の陵って後付の設定したってことだろ。
>わざわざ架空の人物の墓なんか新造するかよ。

架上説だね。例えば、雄略天皇以降の記述だけが事実で、それ以前は後世の創作
というように、古い部分は創作という説。

しかし、伝承とおり崇神天皇陵や景行天皇陵は、初期のころの古墳である。
天皇陵の大半は、考古学的にみてもその天皇と時期が合う。
比定違いの天皇陵の大半はすぐそばに正しい天皇陵があり、時期もあう。

逆に、架上説では、雄略以前の天皇の伝承が全く伝わっておらず、根本的に創作した
ことになるが、こんな駄説は「常識に反している。」と言えば足りる。
860日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:17:01
誰も、でかい墓を隠蔽のために造ったなんて言ってないのだが。
太国が意図的に曲解して見当ちがいの批判をしてるだけだろ。
(本当に読解力がないだけかもしれんが)

もともと古墳時代に築造された古墳がいっぱいあったのを、
記紀編纂かそれ以前の皇統譜形成の時点で、架空の天皇分も含めて、
過去の天皇の陵墓ということにしたってことだろ。

太国を擁護してる奴も、ちゃんと読めよ。
861日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:17:14
仁徳天皇の墓だって、今はどこだかわからんというのが通説なのに、
ナニを言ってるの?
862日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:23:22
>>861
ごまかしの意図がありありだね。
仁徳稜が仁徳の墓じゃないかもと言っている学者でも、河内の巨大古墳のどれか
であることは認めている。

ましてや仁徳が実在したことまで、疑う学者はいない。
直木孝次郎のように都合の悪い天皇の実在を否定しまくった左翼学者でさえもだ。
まあ直木は応神=仁徳とかのオカルトっぽい考えだった記憶だが。
863日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:27:42
>>862
全部を否定できないところが限界なんだな。
864唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 22:29:21
仲哀と神功の間の息子が応神陵の主でないことは確かだが
だれか?と問われても応神としか答えようが無いのがこの時代である。
865日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:50:57
>謎の女王卑弥呼は誰か?

少なくとも関西のおばちゃんてのが今の常識なんでしょ?


866日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:18:48
>>864
>仲哀と神功の間の息子が応神陵の主でないことは確かだが

どうして?
867唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 12:19:51
応神陵は巨大だ。
これを作るためには大勢の人足がいる、どの様に調達したか?
七支刀以降百済から、北方民族を朝貢の一つとしてもたらされ、その労働力で作られたのが
応神、仁徳陵だ。
だから、百済が大国で高句麗が弱国の時代で無ければ成立しない。これが4世紀後半だ。
では神功の渡海を考えると、神功紀元年に日食の記事がある。
これを273年とすると、ほぼ52年後 326年が七支刀と成る。
だからこの数字は圧縮出来ない。出来なければ、273年頃生まれたホムツワケが
4世紀後半の応神陵の埋葬者と成るためには、100年ほど生きなければ成らない。
868日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:55:30
誰もイクメ大王の息子のホム「ツ」ワケが応神だなんていってないけど。
ホム「タ」ワケ(応神)は、4世紀末に高句麗のタムドク(広開土王)と戦った頃の倭王だろ。
869日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:46:45
ほんタワケ
870日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:49:22
>>860
>元々いっぱいあった?

誰が何のために造ったって言うの?考古学でも作った年代ほぼ特定されてるんだけど
一体何を言ってるの?
871日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:58:47
>>866
仲哀と神功は架空の人物。
実在の可能性が高い応神とは完全に別次元の存在。

実在のホムタワケ大王に父親と母親は当然いただろうが、
それは記紀に書いてある仲哀・神功とは何の関係もない。
872日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:04:12
>>871
じゃあ誰よ?
神功を認めないって
まさか君は三韓征服を認めたくない在日じゃあるまいな?
873日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:07:57
応神東征説+邪馬台国九州説じゃないか?

ばかばかしい。
応神より前から、前方後円墳は造られてるのに。
874日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:07:58
三韓征服?
そんな事があった訳がない
875日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:08:32
>>870
それは現代の考古学の研究上での話だろう。
それでも大半の古墳は、現在でも誰の墓か不明なものばかり。

「誰が何のため」って、それは古墳時代の大王や豪族が埋葬のために決まっている。
しかし古墳は築造後、ある程度の歳月がたつと被葬者が不明になる者が多い。
そういう古墳が、6世紀以降に形を整えていった帝紀=皇統譜の記述に合わせて、
ここは誰それ天皇の陵といった具合に指定されていったんだろう。
もちろん、それは実在の天皇のものもあれば、架空の天皇のものもある。
比定が正しい可能性のあるものもあれば、全くのデタラメなものもある。

記紀編纂以前の段階で、古墳の多くは被葬者が不明になっていたのだから、
その時点で「元々いっぱいあった」という表現は、大雑把だがまちがいではないだろう。
876日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:12:39
>>872
4世紀末に倭国の朝鮮半島進出があり、高句麗との抗争があったのは事実だが、
それは記紀にあるおとぎ話のような「三韓出兵」とは全然ちがう。
大体、史実での主たる敵は高句麗であって新羅ではない。おまけに高句麗には勝ってない。
877日本@名無史さん:2010/03/22(月) 15:34:30
>>872
>三韓征服
バカバカしい
878唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 16:05:47
>ホム「タ」ワケ(応神)は、4世紀末に高句麗のタムドク(広開土王)と戦った頃の倭王だろ。

応神陵を築造した人足が確保出来なくなったのが、4世紀末に高句麗のタムドク(広開土王)と戦った時代。
879唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 16:12:40
書紀の神功渡海を史実とするには、273年の日食の頃である。
そして 七支刀を326年とすると、応神陵築造の高麗人は、百済から
朝貢としてもたらされる。

百済本紀のこの辺は、韓国考古学も確認出来ていない、つまり 間違っている。
ウソだと思うなら、百済土器の編年を調べてくれ、ネットには皆無だ。
ただし新羅、伽耶の編年はある。
880日本@名無史さん:2010/03/22(月) 16:24:39
でもね、
皇統譜を創作・整備して、それに合わせて適当に古墳比定が行われたにしては、
記紀の伝承は良いところを突き過ぎてる。
欠史八代はともかく、箸墓から始まって、最古級の陵墓が山辺道にあり、
佐紀を経て河内の古市・百舌鳥へ続くが、古市が長期に渡って築かれるのに対し、
百舌鳥は短期集中型だとか、河内と並行して佐紀にもNo.2クラスのものが
中期前半まで造られ続けるとか(皇后陵の伝承)、葛城氏の奥津城と考えられる
馬見の大古墳には比定が為されていないとか。
それに、欠史八代の陵墓に、適当な大古墳が当てられていないってのも、
考えてみれば興味深いことだよ。
881唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 16:27:08
三韓征服 を正しいとするためには、神功渡海を273年頃としないと読めない。

読めない原因の百済本紀に記載された肖古王は、なぜ誤記されたか?
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦329年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。
882日本@名無史さん:2010/03/22(月) 16:50:08
三韓征服も神功渡海も正しくないから、無駄な努力だ。

883日本@名無史さん:2010/03/22(月) 16:58:11
日本書紀には、神功皇后の三韓征伐が書かれている。
まず、新羅を攻撃すると新羅は地図や戸籍を差し出して降伏した。
新羅が降伏したことを知り、高麗と百済も下った。百済は、末永く服従し
朝貢を絶やしません、と約束した。

好太王の碑文には、同じようなことが書かれている。
辛卯年(391年)、倭人が海を渡って来て百残・■■・新羅を破り、臣民と
する。

好太王(広開土王)は西暦374年〜412年なので、だいたいこの時期になる。
だから、神功皇后が実在したとすれば、やはりこの時期なのだろう。

好太王の碑文には、西暦399年、400年、404年にも、高麗と倭との戦いの
記録が書かれているらしい。
884日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:29:45
応神、仁徳陵築造の労働力は朝貢の一つとしてもたらされた北方民族
とは限らない。通常の民百姓の労働力も使われた。仁徳陵は結果としてだが
崩御の20年前に造られた。20年の間に手直しされ大きくなった。
885日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:29:45
390年代以降に倭王権による半島出兵や、半島南部の支配はあったが、
高句麗は征服していない。逆に苦戦して、敗北してるくらいだ。
記紀の神話的・説話的な神功皇后物語とはかなり異なる。

また、神功皇后の実在を証明する同時代史料など、どこにもない。
886日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:32:15
古事記と日本書紀があるではないか。
887日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:34:52
>>885
いや、高麗についてはあまり詳しく書かれていない。
名前も一度しか登場しない。
於是高麗、百済二国王、聞新羅収図籍降於日本国
だけ。
百済や新羅が数十回も登場するのと対照的。
888唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 17:43:49
群馬県黒峯威勢ほか、北方を思わせる遺跡はたくさん有る。
この事実を考えると、4世紀に大量の渡来を考えねば、差し込むところが
他にない。

神功を否定しても事実は残る。七支刀もその一つ。
889日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:44:53
実際の歴史では倭国の主たる敵だった高句麗のことにほとんど言及せず、
しかも実際には高句麗に敗退し、南朝から高句麗より下位の称号しかもらえなかった倭国が、
高麗(高句麗)を降伏させたなんてサラリと書いてる日本書紀は信用できない。

4世紀末の最大のライバルだった高句麗をスルーし、新羅をメインにしている神功皇后伝説は、
7世紀の斉明女帝の親征をベースに述作された物語にすぎない。

4世紀末の倭国の半島進出は事実でも、神功説話は後世に造られた虚構の物語である。
890日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:47:38
>>888
七支刀は、百済王世子奇生聖音(貴須王、近仇首王)が、
百済の「侯王」たる「倭王旨」に下賜したものだろ?
891日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:54:55
七支刀は神功とは関係ない。そこへ差し込んだだけ。
892日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:57:55
>>886
古事記と日本書紀は同時代資料ではないだろ。
893唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 18:09:35
たしかに、高麗(高句麗)を降伏させたなんてサラリと書いてる日本書紀は信用できない。
ではどの程度が事実であるか?なんだ。
何時の時代か倭国軍は、渡海し、半島南部に覇権を主張した時代が有った。
とせねば、その後の歴史に段差ができる。

事実半分でも、何処なら渡海が可能か?
この推定が、273年頃なら
274年 幽州を分け平州を置く。この時軍の出動を東夷校尉から要請され
仲哀を葬っても渡海した。と渡海が可能な推定をした。
894日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:11:57
よく神功伝説が斉明女帝をベースに書かれたって意見を聞くが、良く分からない。
神功は妊娠中という壮年の女性だが、斉明は老年。
神功は財宝の国を得ようという神託を得て出兵するが、斉明のは友好国百済の救援のため。
神功は勝ち戦の話だが、斉明征西に端を発する百済救援・白村江は大敗戦。
全然整合性が見えない。
895日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:12:25
仲哀なんて実在しない架空の天皇なのに・・・
896日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:16:58
>>894
そんな細部まで、丸々史実の出来事をトレースするわけがない。
一応は別の時代の別の出来事として書くんだから。
要するに、「女王(女帝)が親征して筑紫までやってきた」って部分をヒントに、
いろいろツギハギしたり改変して、誇大にふくらまして創作したってこと。
897日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:20:41
好太王碑の文面を信用しちゃってるみたいだけど、
これは「好太王の功績を顕彰する碑」であって、好太王の良い部分しか書いてない。
事実は倭に負けたこともあるだろうが、それは書いていないと見るのが正しかろう。

もっとも日本側の資料もしかりだが。
太平洋戦争の敗戦を、日本は「終戦」と称したことは、最近の笑える話だが。
898唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 18:21:19
東夷校尉から要請され 渡海したのであれば、楽浪(高麗)までは進軍し
そこで歓迎される。
その後高句麗の進軍で、この時の状況は書かれていないが、
半島に留まったことは、事実だろう。
そして320年過ぎから記事がきさいされる。
神功元年を275年とすれば、神功52年は326年にあたる。
この頃 百済は大きくなる。これを助けたのが倭軍と書紀に記載。
340年代には、「百済」の国名が中国の書物に登場する。
899日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:21:57
仲哀天皇は仲津山古墳に眠っています。
親父の墓である津堂城山古墳には白鳥埴輪が置かれました。
900日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:28:33
>>897
もちろん、それはそうだが、5世紀の倭国の外交や南朝の態度を見ている限り、
倭国が半島で高句麗に敗れ、劣勢をはねかえすのに必死だったのはうかがえる。
901日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:28:59
>>865

この間、黒門市場でヒョウ柄のスッパツはいて歩いてたの見たでW
902日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:29:38
>>896
そんな細部まで、丸々史実の出来事をトレースするわけがない
と書かれたところで申し訳ないんだけど、またぞろ細かいことを言うと、
日本書紀では神功は遠征中の夫から「来い」と言われて西国へ向かっている。
新羅遠征の神託を受けるのも、九州に入ってからのこと。
903日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:49:31
神功説話の背景に4世紀末の半島進出がなかったとは言い切れないが、
基本的には4世紀末の倭・高句麗の戦いの歴史がほとんど忘れ去られた後、
倭国の半島進出の由来や正統性を説明するために創作された面が大きい。

神功説話で斉明女帝をモデルにした部分というのは、
「倭王権の女王的ポジションの女性」が、
「自ら九州までやってきて」、
「新羅遠征の陣頭指揮をとった」、
という3点だろう。
この説話のコアになる3点に、既存の神話からいろんな要素をくっつけて、
いまみるような説話に仕上げていったんだと思われる。

7世紀の史実では唐・新羅に敗退し、半島南部への影響力を失った恨みを、
こうした説話を作り上げることによって晴らしたかったんだろう。
904唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 18:52:43
>神功は遠征中の夫から「来い」と言われて西国へ向かっている。
この時見たのが273年の日食であり、計算によると、福井地方で完全日食となる。

>神託を受けるのも、九州に入ってからのこと。
この神こそ景行から女王の祀りをまかされた住吉なんだ。
905日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:29:18
341年の日食かも知れない。
906日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:38:04
>>903
ところがどっこい、
九州方面(特に北部)には、神功皇后の遺跡がやたら多いんだが、
これを朝廷が捏造させたと見るのは難しいぞ。いくら何でも日本の
庶民もそこまでアホじゃなかろう。
907日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:56:50
庶民自ら既にあった遺跡に由来をこじつけたんじゃないのか。
908日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:00:10
>>906
8世紀の記紀成立以前にはっきり遡れるものはどれくらいあるかな?宇佐神宮など
でも、原初からの「比売大神」信仰は除いて。
909日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:24:50
斉明天皇の遺跡なんか、鼻くそくらいしか残ってないからな。
それに較べたら、神功皇后の伝承・遺跡といったら・・・・
日本の天皇の中でも最大級の残り方だろう。
アマテラスに負けるくらいかな。
910日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:07:09
香椎宮(香椎廟)は仲哀天皇の墓

ただ単に、仲哀と神功はこのあたりを
本拠地にした勢力だと思うんだが。

それをどういう経緯で記紀に取り込んだのかはわからんが。
911日本@名無史さん:2010/03/22(月) 22:45:26
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
912日本@名無史さん:2010/03/23(火) 04:45:03
>>909
記紀を作った後に、それに合うようにいろいろ偽造したんだろ。
記紀よりも前からあったという証拠はまったくないよな。
913日本@名無史さん:2010/03/23(火) 06:52:24
偽造ではない。
オマージュと言ってくれ。
914日本@名無史さん:2010/03/23(火) 08:30:22
九州の在地民が、神功マンセーしたことは確かだな。
915日本@名無史さん:2010/03/23(火) 18:48:46
九州の神功皇后伝説の多くは、地名の由来を説明するようなものばかりで、
とうてい歴史的事実を反映してるとは思えない。
916日本@名無史さん:2010/03/23(火) 19:10:45
神功皇后は畿内の葛城の出なんだけどな。
917日本@名無史さん:2010/03/23(火) 20:23:43
倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ではないだろうか?
大国主と張り合えるということはそれなりの人物では?
箸墓古墳は当時箸が無かったことから土師のことを指しているのでは?
兄弟が吉備津彦だが、土師は岡山に密集している。
というより物部と土師の分布が極度に似ていることから同属の可能性もある。
http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/index.asp
菊花紋が使われているようだが土師が天皇と血縁的に深い関係だったことの現われではなかろうか?
http://17.pro.tok2.com/~soki/roman2.html
918日本@名無史さん:2010/03/23(火) 20:42:13
仲哀天皇が神功皇后と武内宿禰に殺された(とは言ってはいないが)
のが香椎宮だっけ。

朝鮮半島の征伐をいやがったので、消されたに違いない。
もっとも、神功皇后の朝鮮征伐が実際に行なわれたのかどうかは
かなり怪しいけど。
919日本@名無史さん:2010/03/23(火) 20:53:45
神功皇后の朝鮮征伐がフィクションだとする根拠は?

だいたい、日本ってのは、政変が起こるごとに2度も朝鮮に出兵してるのだから、
大和王権成立に伴い、朝鮮出兵しても不思議じゃない。
そして、朝鮮は倭国に攻められるばかりで反撃もできない国。
別にウヨクではないが、4世紀の朝鮮出兵は十分ありうる話だろう。
920日本@名無史さん:2010/03/23(火) 20:58:31
「朝鮮征伐」というヤマト王権の大義名分用語にとらわれるから、否定的になる。
ようするに「対朝鮮半島、戦争」なんだよ。朝鮮との戦争。
これならありうるだろ?
好太王碑文にもあるんだしさ。
921日本@名無史さん:2010/03/23(火) 21:42:13
4世紀末の倭国の「対朝鮮半島戦争」=朝鮮半島南部への進出は事実でも、
記紀の神功皇后説話は、ずっと後世に造られた虚構の物語である。
神功説話の背景に4世紀末の戦いの反映が全くなかったとは言い切れないが、
基本的には4世紀末の倭・高句麗の戦いの言い伝えがほとんど忘れ去られた後、
倭国の半島進出の由来や正統性を説明するために創作されたものと言える。

その際にヒントにされたのが、7世紀の斉明天皇の百済救援のための親征で、
「女王的女性」が「九州に下向」し、「新羅と戦う」という3点をコアにして、
いまみるような神功説話が創作されたのだろう。
922神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/23(火) 22:26:30
百済からの朝貢品を息長帯比賣命と太子の母子が見たと言う記録があるそうですが
母とはだれのことか?その時の天皇はだれ?が問題です。
923日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:40:28
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
924日本@名無史さん:2010/03/24(水) 18:49:19
応神の母や仁徳の祖母に当たる女性が実在したことは確実だが、
記紀に書いてある名前や経歴が事実だという保証など、どこにもない。
925唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 18:56:48
>九州の神功皇后伝説の多くは、地名の由来を説明するようなものばかりで、
とうてい歴史的事実を反映してるとは思えない。

神功が征伐した、田油津媛は、田平津媛の間違いで、
これで筑後や熊本方面から舟を出せる。
これを宮崎にしたら、何の意味もない征伐になる。
926日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:28:27
倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ではないだろうか?
大国主と張り合えるということはそれなりの人物では?
箸墓古墳は当時箸が無かったことから土師のことを指しているのでは?
兄弟が吉備津彦だが、土師は岡山に密集している。
というより物部と土師の分布が極度に似ていることから同属の可能性もある。
http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/index.asp
菊花紋が使われているようだが土師が天皇と血縁的に深い関係だったことの現われではなかろうか?

そして箸墓古墳はマキムク周辺にあり物部石上神宮も近くにあり野見スクネ神社も近くにある
どうだろうか?
927日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:27:11

■右から持統天皇、卑弥呼、推古天皇  =23日、橿原市小房町のかしはら万葉ホール

2010年3月24日 奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20100324103721.html
http://www.nara-np.co.jp/20100324105019.html
928日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:42:37

■「ひみこちゃん」マスコットキャラのデザイン決定 /桜井市

朝日新聞2010年03月20日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000001003200003

 桜井市は17日、市のマスコットキャラクター「ひみこちゃん」のデザイン=写真=を発表した。
4月以降、市のホームページや広報誌に掲載したり、市役所ロビーで展示したりし、市職員の名刺にも印刷する。6月ごろまでには着ぐるみも完成する予定。

 昨年10〜11月にデザインを公募。586点の中から、市長や市職員らが独創性やわかりやすさなどを基準に、大阪市生野区のグラフィックデザイナー塩崎歩美さんの作品を選んだ。
塩崎さんは「親しみやすく、愛らしいキャラクターに表現した」とし、頭には桜の髪飾りをつけている。


・桜井市マスコットキャラクター「ひみこちゃん」=同市提供
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000001003200003&o_id=7945&type=kiji
929唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 22:43:10
纒向遺跡の大型建物は、場所から珠城宮に比定できる。
となれば、磯城はそれ以前でなければ成らない。
纒向遺跡の始まりが、崇神になる。およそ2世紀末、これが今の考古学の数字。

吉備の力は、銅ではないか?
石上神宮に剣がストックされるのは、垂仁時代であり、任那からの朝貢が無いと
鉄が不足する。
930日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:46:33
>>928
ひみこちゃん、カワイイ♪
931日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:49:25
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
932日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:49:28

トヨタン・・・・・・・・・・detu
933日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:54:32
箸墓の築造は250年代これが3月21日での見解。
934日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:05:26
卑弥呼は安東将軍長随彦の娘だろう?
ということは・・・
935日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:09:12
936日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:11:17

トヨタン・・・・・・・・・・
 
937日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:12:39
トヨタン13歳。

メンスの始まる年ごろ。
938唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 23:18:46
箸墓の築造記事は、小さいながらも纒向に古墳時代を告げる。
もし今の箸墓がこれに当たるなら、開化の墳墓も前方後円墳になる?
そして、纒向の開発も可能?
であるならば、大型建物は、開化の時代に存在しなければ成らない。
場所は珠城だ。その前は磯城だろう、そして崇神は、珠城から東へ500m?
では、垂仁の珠城は?景行の日代は?
939日本@名無史さん:2010/03/25(木) 13:36:34
>>934
葛城族だな
940日本@名無史さん:2010/03/25(木) 13:56:25
>>933
魏への朝貢品は卑弥呼時代よりトヨ時代のほうがはるかに豪華
邪馬台国の経済力はトヨ時代は卑弥呼時代とは比べ物にならないくらい上なんじゃないだろうか
箸墓はトヨの墓なんじゃないかな
941神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/03/25(木) 18:07:44
>>938
開化天皇など実在しないよ。大比毘命とか言う人は実在したらしいけどね。
奈良県桜井市のイメージ図によると纏向遺跡の宮殿はJR巻向駅の東側にあるそうです。
942日本@名無史さん:2010/03/25(木) 18:59:34
欠史8代のうち、ミマツヒコとかシキツヒコとかオオヒヒとかいう人物は、
大王でもなんでもない葛城地方の族長だったのを、無理やり皇統譜につなげたんだろうな。
943日本@名無史さん:2010/03/25(木) 19:08:39
欠史8代を津田左右吉以降の歴史学者は全面否定したが、
ヌナカワミミとかミマツヒコとかシキツヒコなんてのは実在の可能性がある。
また、この時期の歴代王の結婚相手が磯城県主の祖という中小氏族であるのも、
リアリティが感じられる。
ただ、この8代が全て実在だとか、記紀の系譜どおりの続柄だったとは思わない。
思うに断片的に伝わっていた葛城の族長の名前や磯城の族長の名前をツギハギして、
いま見るような欠史8代の系譜が造作されたのだろう。
もちろん、実在の族長名だけではなく、彼らの信仰していた神など全くの架空の存在も、
大王として系譜に取り入れられたのだろう。
944唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 20:12:36
>>941
>開化天皇など実在しないよ。

開化の治世は3年、親(孝元)から貰った、妾の子供が、崇神である。
当時としては、あり得ない世継ぎを強行する、
これに反発する、旧勢力。
開化は仮宮、春日で崩御するも、橿原以南の本貫地に祀られることなく、仮宮の近くに葬られる。
即位した崇神も本貫地に宮を設けられなくて、磯城に都を作る。
この時代が動いたのが、5,6年の凶作。
これにより、近江に宮を構えていた、大物主は、崇神に身を寄せる。(近江伊勢遺跡の衰退と纒向の勃興)

兄大彦の娘ミマツ姫と弟開化の息子崇神が結婚する。世継ぎ垂仁の誕生は29年。
開化治世には、3,4年しか振れない。
それでもこの数字が無いと、正朔が得られない。

だいたい崇神を250年前後で説明しようとするから、開化不在などと、たわけた時代になる。

945日本@名無史さん:2010/03/25(木) 20:28:17
そんな記紀のおとぎ話なんか全然信用できないね。
欠史8代の何人かにモデルがいたとしても、それは大王とはほど遠い葛城周辺の一族長で、
事績も系譜もほとんど忘れられ、断片的に何人かの名前が伝わっていただけだろう。
葛城や磯城の古い族長の名やその部族の祖先神の名から欠史8代の王と外戚が創作され、
記紀編纂当時の貴族・豪族の先祖に結びつけられて、皇統譜が形成されたとみるべき。
946日本@名無史さん:2010/03/25(木) 20:39:47
正朔妄想大王 唐松
947日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:01:13
欠史8代を実在としたとしても、神武即位は1世紀になるから、
どのみち記紀の記述の年代は捏造と結論するしかない。
948日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:21:27
>>929
出雲(もしくは九州)の日本海鉄ルートを抑えて
吉備の瀬戸内海ルートで鉄が供給されるようになったのでは?
吉備津彦が鬼が島(出雲)成敗に行くという話が物語るように吉備にとって出雲の存在は死活問題だったのかもしれん
物部、土師が、天皇家と同族と看做されていたのか河内にあり、
そして岡山、北部九州を抑えている(その名残は現在の氏姓分布にも残っている)

>>940
なるほどな
卑弥呼はマスコットキャラクター的に現代日本人に有名だが、当時の卑弥呼はまだ国家も強大ではなかっただろうし、現在も垂れているスーパーパワー的な存在ではないかもな

ところで箸墓の『箸(ハシ)』なのだが、箸が無かった時代に『箸で局所を突き刺す』というのはどうだろう?
土師(当時おそらく『はにし』)の読み方がなまったものでは?埼玉に『鷲宮神社』というのがあるが、ハシの宮神社と昔呼ばれていたらしい
なぜ箸墓にこだわっているかと言うと、あまりに巨大な古墳なのに埋葬者がいまいちぴんとこないというか・・・
逆に埋葬者が分かれば意外な発見になるのではないかと思ってな
倭迹迹日百襲媛は通常紹介される系譜だけではあの墓があてがわれるとは思わないのだが
949日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:32:09
倭迹迹日百襲媛が卑弥呼だってこと知らないの?
950日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:39:38
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
951日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:45:35
>>949
仮に伝説上のヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼の投影だったとしても、
それはモモソヒメ単体でのことであり、記紀の系譜上の続柄とかは創作だろうな。
卑弥呼の記憶が説話化されたモモソヒメ伝承を、無理やり崇神紀に押し込み、
ミマキイリヒコ大王の大おばということにしたんだろう。

葛城や磯城の族長とも無関係だし、三輪のミマキ大王とも直接には結びつかない。
952太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 21:52:25
まぁ妄想の相互応酬だな。w
953日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:58:27
百襲は長髄彦の妹だろう?
954唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 21:59:24
>どのみち記紀の記述の年代は捏造と結論するしかない。

西暦42年 神武即位 第X様式の始まり
西暦187年 崇神即位 庄内式のはじまり

この数字は、正朔を正歳に直した物、記述の年代は当時の暦法。空白年を差し込む
ことにより、伸長される。

2世紀末に衰退する近江伊勢遺跡は、大物主の都。
崇神に譲位する事により、纒向が勃興する。
これは倭国乱とは関係無い。
書紀に書かれたとおりだ、ただその通りに読まない輩が ねつ造日本史を作る。
崇神を倭国乱の時代とするのが、その最たる読み方。
その為神功紀を遅く設定し、高麗人の入国を少なく見積もる。
これでは、古墳時代が遅くなり、高麗人(人足)不足で仁徳陵の築造に支障を来す
そこで農民を集めたら、米が作れない。
また全国各地で同じ型の古墳を作らねば成らないが、その分散も説明出来ない。
955日本@名無史さん:2010/03/25(木) 22:00:29
>>953
それだとどういうストーリーになるの?
956太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 22:08:28
崇神即位元年=237年=景初元年

 これは倍暦逆算の積み上げによる。また同計算にて

崇神没年=259年

を得る。これは古事記の崇神没年干支258年がほぼ真であったことを
物語っており(1年違い)、橋本増吉、菅政友の主張が正しかったこと
を意味している。なお唐松山の言うマシはインチキ論である。
957日本@名無史さん:2010/03/25(木) 22:10:36
一時あれほど盛り上がっていたのにとうとう没落したんだな。
958唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 22:26:12
計算値が、崇神没年=259年であろうとも
この数字で太国倍年を使って歴史を考えることが出来ない。

それが証拠に、この数字で歴史を語ったことが無い。
兄大彦の娘と弟開化の息子が結婚する、そして世継ぎが誕生するのは、
35,6歳のころ。ここまで遅い出産では、妃は「産まず女」として処分だ。
江戸時代の大奥での出産は30歳まで。

959太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 22:38:44
当時は通常暦に対して2倍暦法等を並行して行使していたもので
あり、2倍ならば別に15歳で不合理はない。

歴史を無視するのがオマエである。金印の常根津日子はオマエの
神武即位=42年とは全然合わない。こちらは合ってることを前にオマエに
示したとおりであり、よく歴史を語っている。マシはインチキであり、
日本書紀スレ>75で示したように空白年など西暦0年以外存在しない。
不正のマシなどやれば政敵に突かれて編者ら失脚の運命となり、そんな
危ない橋を渡るほど彼らは弱脳ではない。ww マシは盲象の暴走が
もたらした唐松山の脳内のゴミ以下のクソである。ww
960唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 22:52:17
太国倍年での
崇神誕生は 211辛卯  崇神誕生
崇神即位  237丁巳  崇神即位
垂仁誕生  246丙寅  垂仁誕生

この数字を「2倍ならば別に15歳で不合理はない。」で切り抜けるのか。
開化治世が長すぎるせいでしょう。
いずれにせよ。「2倍ならば別に15歳で不合理はない。」で切り抜ける暦法では、誰も使えない。
961太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 23:01:03
崇神垂仁は3倍暦法であ〜る。36/3=12最で問題はない。だから「等」
の字を付けているのである。よく読め。今夜は電波星とかからピピッと
送信が来てるかNNNNN・・・・・?ww

開化は艮神社の伝承等により開化が3年で終わりでないことを意味して
おり、オマエの説は整合性が全然無い。ww
962太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 23:02:29
>>961 訂正

 36/3=12歳
963日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:08:35
台与は満十三歳になったので女王に立ったのだ。
長髄彦(登美彦=十三彦)からの安東将軍家の伝統に則ったもの。
964日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:15:18

トヨタン・・・・・・・・・・
 
965日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:20:03
ではトヨは6歳か7歳になるなw
966日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:21:35
>>964
トヨでは歌にならんだろうがダボケが。

♪イヨはまだ、13だから〜。だれかに誘われて、あなたに誘われて、ヤマタイコクジャーニー。
967日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:21:50
あいかわらず、神話と現実の区別がつかないスレだな。
968太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/25(木) 23:23:49
トヨではない。イヨとかである。イヨは九州の女だから畿内の倍暦は
必ずしも適用されない。畿内が倍暦をやっているからといって、九州も
そうだとは言い切れない。従って6,7歳とかにはなるとは決められない。
969日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:23:50

イヨタン・・・・・・・・・・
 
970日本@名無史さん:2010/03/26(金) 01:47:58
>>968
おまえ、それなりに勉強はしてるんだろうが、その傲慢にして独断な芸風は
宗教かオカルトにしか見えないんだよな。
荒らし目的なら別にいいけど、真面目に主張したいなら少しは工夫したら?
971日本@名無史さん:2010/03/26(金) 07:45:54
彼は単に自説に固執してる石頭の狂信者というだけだろう。
おまけに神話やオトギ話と史実の見分けもつかないようだし、
記紀に書いてる人物や出来事は全部事実と思いこんでる皇国史観そのもののカルトだし。

それはそれで一つの立場かもしれんが、平泉一派となんもかわらん。
もっと始末にわるいのは妙ちくりんな数字遊びにはまってることだなw
972日本@名無史さん:2010/03/26(金) 08:26:54
太国個人がどういう思想を持ってるかは、本人の自由だが、
自分でHP作ったりサガミみたいに本を書いたりできないまま、
何年も何年も2ちゃんでグダグダしてるところが人として哀れなところだ。
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 13:43:33
>>971
>全部事実
こんなことは言ってないですよ。記紀と内容に食い違いがあるんだから、
いずれか事実と違う可能性はあるだろう? 記紀は暦年も違いがあるし、
これは当時古代マヤ暦法の如く、数個の異なる暦法の組み合わせでこんな
状態になってしまったとか〜誤認もあるかもしれないし、双方もたれあっ
いる状況も考察に入れるべきだろう。

>>972
HPは今のところ興味がないしPCに詳しくないからしてないだけのことで、
絶対にやらないとは言わないから、将来はやるかも知れない?
簡易の研究書は数件自費的に出版しことはある。
974日本@名無史さん:2010/03/26(金) 18:09:26
これまでのスレの流れを見る限り、太国氏は年代のまちがいは認めていても、
記紀の人物や事件の実在性までは疑っていないようだ。
だから、記紀の内容に対する疑問が暦法とか年代の細かいことに限定されており、
人物や事件の実在性そのものに疑問を抱く者を「津田信者」と罵倒している。
端から見ていると、やはり暦や数字をいじくりまわす数字遊びにしか見えない。

結局、ここが太国氏の限界であり、彼のカラーなんだろうな。
975日本@名無史さん:2010/03/26(金) 18:42:21
まあ、イイじゃない。
太国はおもしろいよ。
976日本@名無史さん:2010/03/26(金) 18:58:14
縄文人をはじめ、数々の九州説のコテハンが消えていくなかでの生き残りだからな。
生き残ってるコテハンの共通点は、巻向を3世紀だと認めてることに尽きる。
それなりに常識を受け止めてるということではあるな。

巻向を否定する東遷説みたいな非常識なやつらは、だいたい半年で消える。
あまりに論拠が薄弱だからだ。
977太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 19:10:16
>>974
日本史の他の方面も興味はあるが、今のところ、それらを押し切って、
神武以下の真の年代策定を重視しているので、この編年に没頭している。
978空飛ぶ朝鮮人:2010/03/26(金) 19:19:10
そいや、そいや、そいや、そいや、そいやっはあああああああ。太国倍暦は嘘っぱちだっははははあああああああああ。
979金土日:2010/03/26(金) 19:21:13
>>978
チゲいねえ。おんしの言うとおりだ。
980日本@名無史さん:2010/03/26(金) 19:25:26
ただ、倍暦云々の電波説はいただけない。

そもそも倭国に暦が公式に入ってくるのは6世紀に百済から暦博士が来朝して、
元嘉暦が用いられるようになってから。
さらに朝廷で天文暦学を学習し、公的な記録などに用いられるようになったのは、
7世紀の推古朝の百済僧カンロクの来朝からだろう。
981サガミハラハラ:2010/03/26(金) 19:25:29
記紀の崇神以降の人物や事件
実在性は大雑把に見て、実在性の可能性が高いことは事実である。(事実でないものとしては、
倭武尊の出雲タケル退治などがある)
しかし大局的にみて、おおかたは事実であるとみてよい。
枝葉末梢的な部分に間違いがあるから全否定では、現代ですら、犯罪事件などの立件はなりたたないことになる。
982日本@名無史さん:2010/03/26(金) 19:33:25
ミマキイリヒコ、イクメイリヒコ、オシロワケは実在の三輪の王者

ワカタラシヒコ、タラシナカツヒコ、オキナガタラシヒメは架空の存在

ホムタワケ、オホササギは、おそらく同一人物で倭王讃の可能性がある

イザホワケ、ミヅハワケ、ワクゴノスクネ、アナホ、ワカタケルは倭の五王

シラカ、ヲケ、オケ、ワカササギは虚構と実在のはざまのあやふやな存在
983太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 20:16:49
>ヲケ、オケ・・・は虚構と実在のはざまのあやふやな存在

梁書に、永元元年(499年)に慧深という僧が日本から大陸へ帰って、
乙祁(=顯宗天皇)の消息を伝えていることが記されているから、
あやふやではなく実在は確かである。

さらに同年は倍暦の関係で14年分年代が顯詰まっているから

 485年=499年−14年

で、通説の 顯宗即位年=485年 と合致する。
984農人:2010/03/26(金) 20:20:03
♪ 僕の名前はヲケ、僕の名前はオケ、二人合わせてヲケ、オケだ。君と僕とでヲケ、オケだ。
985日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:32:25
ワカタケル大王(倭王武)が亡くなったあと、
記紀の伝承でも王位継承をめぐって混乱が続いたようだから、
実際には大空位時代とでもいうべき状態だったんだろうな。

シラカ、イヒトヨ、ヲケ、オケ、ワカササギなどは正式の大王ではなく、
さまざまな勢力に擁立された自称大王の王族だったかもしれない。
そうした流れの延長線上にコシの国のオホト王の擁立があったのだろう。
磐井の乱などを経て、欽明大王の即位でようやくその混乱が収束したのでは?
986日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:35:26
金目鯛
987日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:50:04
欽明って実在確かな大王なのに、本名が不明なんだよな。
アメクニオシハルキヒロニハって和風諡号であって、本名じゃないし。

そういえば、敏達、用明あたりも本名が微妙に不明だよな。
988日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:55:51
仁徳以降は記紀の間で、崩御年や在位年数など一見異なって見えるが、
精査すると、在位年数はドンピシャリ一致する。ということは、実在と思われる。
これを実年代に置いていけば仁徳までの年代がたどれる。
難関だが女王の年代までもう少しだ。
989日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:07:38
>>976
>東遷説・・・は、だいたい半年で消える。

過去ログを見ていて偶然発見したところによると、
“この東遷廚”は、マキムクスレその4の頃から同じいくつかのネタをループして
実年代溯上をなんとか攪乱しようとしているようだ。
990日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:10:24
邪馬台国もいい加減ヤマト国と呼ぶ時代がもうすぐ来るのかな。
991日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:18:52
>>989
東遷厨とwwwのバトルはすでに名物だよ。
992日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:21:00
台を「タイ」と読むのがおかしい。
台与は「トヨ」なのに。

993日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:35:34

トヨタン・・・・・・・・・・
 
994唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/26(金) 21:35:56
ワカタケル大王は倭王武では無い。
ワカタケ大王が倭王武なら良し。

大彦を加えて8代では、雄略までたどり着かない。
たどり着かない以上、ワカタケル大王は倭王武では無い。
995日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:42:05
まあ、それは唐松流の年代設定の都合だろ。
稲荷山鉄剣のオオヒコが記紀に出てくる大彦とは限らないし、
仮にそうだとしても大彦が使えたミマキ大王は4世紀の人物だろうな。
996日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:43:43
先日、第2回日韓歴史共同研究委員会の報告があったが、その中で日本側は、
任那日本府が存在したという認識を放棄したような部分があった。
韓国のメディアもこれを大きく報道した。
戦後の歴史学会は記紀を全面否定しているからこうなったのだが、
記紀も研究の対象に加えてほしい。
997日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:48:36
一郎とイチローは別人のように鉄剣のオオヒコと記紀の大彦は別人かも知れない。
998日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:52:23
>>996

なんで、1000年以上前のことで、他国と歴史のスリあわせをする必要があるのかね。
999日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:53:07
長髄彦(登美彦=十三彦)の叔母が卑弥呼だった。
卑弥呼が亡くなったけれど、女王の後継者にふさわしい女子はまだ幼かったため、男王十三彦が王になった。
そのころ神武が東遷してきて畿内は大乱となる。神武との戦いの中で十三彦は命を落とす。
神武は戦いに勝利したけれど国を治めるだけの力はまだない。
そこで長髄彦の妹、登美夜毘売(トミヤヒメ)つまり台与が十三歳になるのを待って女王にする。
台与は、登美(十三)の次の代、つまり十四(トヨ)を名乗った。

こういう感じでしょう。(詳細はこれから詰めます。)
1000日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:59:57
大彦まで7代の先祖を書き記したが、もう1代遡れば天皇まで書けたのに。
10011001
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