♪邪馬台国 ドンと来い♪ 65

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1日本@名無史さん

前スレ

『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 64』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1262840173/l50
2日本@名無史さん:2010/01/31(日) 13:51:13
前スレ
>998
>しかも、九州の優位を基にした東遷説は頭から無視する。

ああ、やっぱり東遷説だったかw
まあ無視されたくなかったら無視できない説を組み立ててくるんだなwwwwww

まあ今後どうなるかは分らんが
そもそも九州の優位性というもの自体があったのかって話しw

出雲や丹後の発掘で日本海側の繁栄が浮かんできて
九州が単独トップで繁栄なんてもう誰もイメージしていない。

稲作の開始時期が遡れば遡るほど九州の稲作開始のアドバンテージも減少する。

そもそも弥生時代における稲作の生産性にも問題があり。
寺澤のような悲観的wな見方じゃあ、とてもじゃないが米だけで腹一杯なんて到底及びもつかない。

その他もろもろ・・・・・・・・・

まあ九州をあまりにも過大評価していたと言うのは
幾らかは邪馬台国論争の悪しき副産物と言う側面があったかもしれないwwwwwwwww

32:2010/01/31(日) 14:14:46
更に「九州の優位性」とやらを東遷説に絞って言うのなら…

例えば鉄。
何故か東征してきた神武はその鉄を持ってこなかったらしいw
それでも鏡は持ち込んだらしいがwww

東遷説論者が九州の先進性とやらに鉄を強調すればするほど
自説が説明つかなくなるブーメラン現象wwwwww

それに「鏡」と言っても九州の何処かとヤマトで同笵同型の鏡が出土する時期を経て
東にその分布が移動すると言う話でもなんでもない。

単に「鏡」と言ういい加減すぎるくくりw

挙句の果てに三種の神器の「八咫の鏡」ときたもんだw

一般に考古学じゃあその出土状況の分からないものは資料としての価値が下がる。
いろはのいの字にも入らない常識レベル。

それが「八咫の鏡」なんて天皇すらその実物を見た事ないんじゃないのか?www
もう言ってることが支離滅裂。

「東遷説を無視するな!」って学問の俎上に上げることができる内容が無いのに
無視も何も無いだろうとwwwwwwwwww

4日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:17:30
>>3
九州の優位というのはいろいろある。

年代順に言えば、西暦107年に後漢に生口160人を献上した帥升がある。
帥升については、九州の王とするのが普通で、この時期に後漢から倭国王と
呼ばれる存在がいた。

倭人伝に、伊都国について「世有王、皆統屬女王國」と書かれているのは、
帥升の時期から統属していたと考えられる。

大和では、石器しか出ない唐古・鍵の時代に、九州では、かなり強力で
広範囲な体制が出来上がっていた。
その優位性は、朝鮮半島の記録からも、あるいは高地性集落の分布からも
説明できる。
5日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:25:23
文献の記述からしても、記紀には、東遷を伺わせるものとして神武東征がある。

宋史、日本伝、王年代記には、皇室の祖先が筑紫の日向から大和に移った
ことが記されている。

「およそ二十三世、並びに筑紫の日向に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と
号す、筑紫の宮より入りて大和州の橿原の宮に入る。」

逆に、、そのほかの地域に皇室の系統の源があるような文献の記述は
見当たらない。
6日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:33:33
倭人伝によると、狗邪韓国は倭の一部だったと考えられる。
韓伝にも、朝鮮半島の南部が倭だったと記されている。
壱岐や対馬も、もちろん女王国に統属していた。

一方で、大和の崇神天皇は、やっとこさ四道将軍を派遣して東海、北陸、丹波
あたりに兵を出している。こういう状況をどのように説明できるか。
しかも、任那が朝貢してきたと言う記録もある。

丹波も平定していないのに、九州があるいは朝鮮半島までもが良好な関係に
あるような状態は普通は考えられない。
7日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:34:49
もういいわ東遷説は
毎度毎度毎度毎度同じ事をグルグルグルグル・・・・・・・・・・・・・・・

東遷説を主張したければ

スタート地点の九州邪馬台国を見つけて来い。
神武が大和に入った痕跡を見つけて来い。
その二つから共通するものを見つけて東征が史実であった事を証明して見せろ。

…って話でw

8日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:44:08
全く関連のない、中国の文献と日本の記紀が非常に良く似ている点もある。
つまり、卑弥呼+台与と天照大神の類似性。

共に、独身の巫女的な女性が支配している国であり、共に強力な敵を持つ。

特に、天照大神と高皇産霊尊の二人の王が並存している状態は、梁書の
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」と酷似している。

二人の王の並存と言う、歴史上他にありえないような状態が、関連のない
日本と中国の文献に登場するのは、同一のことを言っているとしか考えられない。

となると、神武東征に相当する出来事は、卑弥呼の後ということになり、
必然的に、邪馬台国東遷が示唆されいこることになる。
9日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:50:03
毎度同じことといえば、興隆を極めた頃に訪れた銅鐸の消滅とそれに代わる
鏡信仰もある。剣・鏡・玉類を副葬し、棺の内部を朱に染めるのは、総体的に
見て、九州からのもの。

これが古墳時代になって、古墳の棺の常態となる。
文化的な大変貌が見て取れる。しかも、鏡、剣、玉類は皇室の三種の神器
にもなっている。

支配勢力の大規模な交代が想定され、東征が示唆される。
10日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:53:02
銅鐸に関連して言うと、記紀には銅鐸が全く登場しない。
これは、記紀の系統、すなわち皇室の系統が銅鐸を重視しない地域で発生
したものと考えられる。

一方で、記紀では矛が重要な役割を果たし、数多く登場する。
これは、銅鐸とは逆に、矛を重視する地域で皇室の系統が育まれたことを
意味する。
11唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 14:54:39
>>995
>>989
倭に関連する記述は、 266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
だけだな。

晋書を読んだことが無いのか? すべて晋書からコピーした記事です。
25 晉書卷二 帝紀第二 景帝から読むと
55   十一月己卯,倭人來獻方物。から始まり
...65...
二年春正月,以疾疫廢朝。賜諸散吏至于士卒絲各有差。
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
(276年)二月丙戌,河間王洪薨。甲午,赦五歲刑以下。東夷八國歸化。
等の記事が満載だ、それを途中までまとめたのが 先に掲載した記事です。
12日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:59:02
鉄についても、弥生後期の鉄は九州が圧倒的に多く、これは国力の差になって
現れる。
13日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:59:04
卑弥呼(+壱与)=天照

この説にももういい加減うんざり…
似ている箇所の摘み食い、牽強付会、ご都合主義、下らないw

神話ネタを基にする東遷説で面白いのは

高天原は邪馬台国のこと、天孫降臨も史実、神武東征も史実
…と言う東遷説論者はゴマンといるが

所謂「日向三代」についてはスルーしがちwwwwww
そりゃそうだろうw

「産屋をのぞいたらヨメはワニだった!」と言う異種婚譚。
海外では「釣り針捜索型」として知られる海幸と山幸の喧嘩。
ブスの姉とカワイコチャンの妹で妹の方だけ選んだが為に
その子孫は儚い命になってしまうと言う、神話学で「バナナタイプ」と呼ばれる話。
(海外では神からの贈り物のバナナと石の二択になるってところから付けられたと思うが)
…等々、神話ネタが目白押しで、これらを史実とするつわものは流石にいないんだろうwwwww

まあこの部分はあくまで神話で後世に挿入されたと言うのだろうが
少なくともその時点で「天孫降臨」から「神武東征」までを連続した物語だと言う認識は無かったと言う話になるだろう。

いや、そもそも 、それが連続していたと言う保障も無い。
元々個別に独立していたのかもしれない。

この場合東遷説論者が連続していると言う前提で神話を根拠にしているのだから
「元々はその神話の原型は日向三代が挿入されたものではなく連続したものであった」
と証明する義務がある。

まあそんなこと考えたことも無いだろうがwwwwwww
14日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:04:45
>>12

だから?

じゃあなんで神武は鉄を持ってこなかったんだ?って話しだ馬鹿wwwww

鉄の評価は今後どうなるか分からないが(まあ今以上に下がっていくと思うがw)
少なくとも鏡よりは実用性はあったと思うがwwww

「鉄不足のままヤマトに王権が誕生してしまう」
・・・この単純な事柄に対し東遷説の誰もまともに答えることができないwwwwwwwwww
15日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:10:20
>>9
総合的だかなんだか知らないがw

じゃあ具体的に九州の一番新しい副葬事例とヤマトの一番古い副葬の事例を挙げて

それが東征で持ち込まれたといえるほどに類似している事を示してくれ。

所詮今のままじゃあ「三種の神器」と言う ” イメージ ”でくくっている程度の話しwwww
16日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:11:36
>>13
私は、日向三代も考慮している。

天照大神=卑弥呼+台与とすれば、台与の時代つまり高皇産霊尊が王に
なってから歴史は動く。まず、出雲の国譲りがある。高皇産霊尊は
天穂日命以下、数々の神を出雲に派遣して大己貴神に国を譲ることを
約束させる。

これは、出雲平定の物語ということになる。

次にあるのは、瓊瓊杵尊の日向降臨。これは、南九州の平定の物語だろう。
他にも、饒速日命の大和降臨もある。これは、大和平定の物語となる。
記紀に登場するのはこれだけだが、他にも丹波あるいは吉備などにも
いった可能性が高い。

そこで、力を蓄えたのが日向に行ったものたち。瓊瓊杵尊の子に当たる
彦火火出見尊の時代に九州内での覇権を握る。
これが海幸彦・山幸彦の物語であり、結果的に皇室の祖先となる。

彦火火出見尊の孫に当たる神日本磐余彦が東征し、大和に都を移す。
17日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:13:44
>>14
神武が鉄をもってこなかったなんていいかげんなことを言うんじゃないよ。
どこにそんなこと書いてある?
18唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 15:14:05
晋書は、http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/
瀚典全文檢索系統 2.0 版から入って読めます。

壹與以降を無視した歴史からでは、本当の歴史は読めない。
この晋書に書かれた時代は、神功の渡海で読める。これが私の主張。
依って、倭乱は、景行
>鉄についても、弥生後期の鉄は九州が圧倒的に多く、これは国力の差になって現れる。
倭国乱の始まり。
この乱を収める為に任那から鉄が大和へ入り垂仁が剣、刀を大量に貯め込み、景行が九州で使う。
19日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:17:49
>>16
で日向三代の間のお話はオリジナルのものが無く
海外に類似を見るものを拝借して埋めるしか無かったと?

それとも偶然に海外と同じようなお話になってしまいましたと言うトンデモなのかな?

所詮「記紀をネタにして考えたお話」と言う域を出ていない。

恐らくそういったストーリーテーラーは日本中にゴマンといるだろうよwwww
20日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:21:17
>>17
三世紀から四世紀初頭ならまだまだ大和には鉄の流入は少なかった
・・・なんて話は説明するまでも無く常識だと思ったが?w

ちなみに神武が鏡を持ち込んだという話も無かったと思うが・・・

ニギハヤヒが神武を天孫だと確認するに鏡は照合していなかったんじゃなかったかな?w
21日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:26:17
>>18
それすごいな。でも、量が多すぎて、全体の概要を把握するのにもちょっと
時間がかかりそう。
22日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:26:53
で、畿内説は何を根拠にしようというのかな?
倭人伝は使えない。中国と通交していた形跡もない。
古墳の広がりとか言っていたが、日向が一番古いとかいう話になってきたな。
弥生時代の鍵、唐古は消滅して古墳時代に結びつかない。
銅鐸の消滅、鏡の盛行は九州勢力の東征を思わせる。
どうすべえ。
23日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:30:35
>>19
どこの神話のどういうところが似ているのかが問題。
人間の営みや考え方には、似ているところがあるのが普通で、似ているところを
探そうと思ったら、簡単に見つけることが出来る。
24日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:35:19
>>23
>簡単に見つけることが出来る。

そう、だから神話から自説に都合のいい部分をつまみ出して「東遷説」なるものを組み立てるのも簡単だと言う話しwwwwwwww



25日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:36:50
>>20
鉄が少なかったということと神武(東征軍)が持って来たかどうかは全く別のことだよ。
近畿は鉄が少なかったから、それを持った連中には勝てなかったということだ。
26日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:37:29
>>19
連投だが、
記紀の天照大神と、倭人伝など中国文献の卑弥呼・台与記述が酷似すると
いうことは、天照大神の頃の伝承が残っていたことになる。

となると、それより新しい出雲の国譲りや天孫降臨も残っていることになる。
もちろん神武東征も。文字による記録があったかどうかは別として。
27日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:40:59
>>24
アホ。
つまみ食いして、神話はどこのものでも類似しているといい、記紀を作り話に
してしまう連中のことだよ。
28日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:46:02
>>27
はあ?

実際に類似するものが海外にあるんだから仕方が無いだろドアホw


東遷説の信者がやるべき事はどうしてもオリジナルとしか考えられない部分を洗い出し
そこに考古資料でもつけてその信憑性を高めることだなwwww

今のままじゃあ
「ボクが考えたストーリーって良くできてるでしょ?」
と言われているようなもんだ。

まあ自分の考えたストーリーに自己陶酔しちゃってそれをひたすら史実と言い張っているのがお前みたいなタイプの東遷厨なんだろうがwwwww
29日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:50:14
>三種の神器

この際>>15の話をきっちり付けさせてもらいたいwwwwwwww

先ず九州の副葬事例で「三種の神器」としてその組み合わせが顕著に見られる例があるのか?
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でたまたまその組み合わせがあるって話しではないのか?w

先ずここからしてこの話は大概怪しいんだがwwwwwwwwwwwww
30日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:50:54
>>28
史実というよりも伝承だな。伝承の場合は、時代による脚色はあっても
物語の核となる部分は伝わっていく。
31日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:54:25
>>29
九州の場合、古い時代の甕棺から鏡が出てくるのは良く知られている。
吉野ケ里の古い甕棺からは、剣や玉類が出てくる。
これらは紀元前からある。
これだけで十分だろう。

少なくとも、近畿地方や他の地域でこれだけのものを紀元前から見ることは
出来ない。
32日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:03:26
>>31
>これだけで十分だろう。

不十分w
数多くの組み合わせの中から恣意的に三種の神器をチョイスしただけw

そこにその組み合わせを強く意識したと思わせるような事柄は何も無い。
それこそ「下手な鉄砲も数撃てば当たる」程度のお粗末な話し。

で今度は畿内ヤマトで古墳の副葬品に三種の神器の組あわせが連綿と続いて来たという話も無い。

まあ「三種の神器」と言うのは東遷説にとってキャッチーな売り文句だったんだろうなwwwwwwwww
33日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:08:52
>>32
インターネット上ではちょっと面倒。本になら写真があるのだが。
今もっている資料には、鏡が副葬された遺跡が60ヶ所くらい書かれている。

九州では、鏡・剣・玉類を副葬する習慣があったのは事実で、これだけで
十分だろう。他の地域には、全くと言っていいほどなかったわけだから。
34唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 16:17:48
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/
瀚典: 資料庫選單
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35日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:20:53
>>33

別に鏡を副葬した九州の遺跡なんか一々出してもらわなくとも結構だw


じゃあ視点を変えてみようか?wwwwww

もし今日皇室が「三種の神器」ではなく「二種の神器」であっても
その二種が九州に副葬事例があれば「九州発祥説」を唱えることができる。

一種でそれが剣でも矛でも戈でも鏡でも玉でもなんでも同じ。

九州に事例があれば「九州発祥」と言う事ができてしまうwww

何のことは無い九州の副葬品の幅の広さを言っているだけの話であって
九州でその三種の組み合わせが特に意味をもたれていた説明にもなっていないw

もうアホかと馬鹿かとwww
36日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:21:46
何を馬鹿な論争をしているのだ。
三種の神器は皇位の象徴であって皇位の継承者によって引き継がれてゆくものだ。
墓に副葬するものではないだろが。

副葬品としての鏡は葬具だし、剣や玉は故人の大切にしていた物だ。問題はこのような副葬品のあり方
がどこに始まり、どこに伝わったかだが。答は既に出ている。紀元前の九州に始まった。九州から移動
した集団により3世紀初に畿内に伝わり、4世紀に盛んとなった。
37日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:25:33
>>36
そう所謂「レガリア」と言うのは分かっているんだがwwwww

結局、副葬品の充実を図るなんてのは時代の必然とも言うべきもので
別に東征勢力が持ち込まなくても文化の伝播として十分すぎるほどに説明がつく。

逆にそれが東征勢力が持ち込まなければ本州ヤマトに伝わらなかったなんて事を考える方が狂ってるwwwwwwwww
38日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:48:15
そもそも高天原が九州にあったなんて記紀の何処にも書いていないわけでwww

「天孫降臨の地=高千穂が九州なら高天原も九州と考えるのが妥当」
と言うのが東遷説論者どもの言い分だろうが

じゃあ同じく高天原から下った素戔鳴は何処に舞い降りたか?
出雲や安芸あるいは半島のソウルなんて話しまであるwwwwww

「下り」ではなく逆に「上り」のお話なら
素戔鳴が姉の天照に会いに高天原に上る前に
当時既にセミ・リタイアwしちゃってたイザナギに会いに行く話で
その素戔鳴がいたのが淡路島と言う話もある。
まあ淡路島の近くと言うのなら九州よりは大和の方が近かろうって話しww
39>38訂正:2010/01/31(日) 16:49:39
誤)その素戔鳴がいたのが淡路島と言う話もある。

正)そのイザナギがいたのが淡路島と言う話もある。
40日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:50:04
>>37
畿内(特にマキムク関係)に九州文化の痕跡がないなどという連中がいるからね。必死に九州の影を消そうとしている
ように見えるからね。

平原の大型内向花紋鏡が国内制であることから分るように、2〜3世紀の九州には銅鏡の製造技術があった(鏡製造職
人集団が居た)。この技術を引き継ぐ集団が畿内に入って銅鐸を鋳潰して鏡を大量生産したんだろう。
早く見て3世紀末、多分4世紀頃だろう。記紀の崇神の頃じゃなかろうかの。
41日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:57:15
>>40
東遷厨が最後に頼る陰謀論の類かな?wwwwwwwwww

「必死に消す」も何も九州系の遺物が少ないのは厳然たる事実。

これは東遷説にはマイナス材料だろうが邪馬台国畿内ヤマト説にとってもマイナス材料になりかねない話ではあるw

鏡作りの工人の移動を言いたいのなら実際の鏡でもってそれを証明しろって話だなwww
(具他的に言えば三角に置ける福永の鈕孔形状みたいなお話ねw)

因みに纏向の勝山付近で出た製鉄遺構はオリジナルは筑紫に求めることができても
技術的にはイマイチでとても工人が直接やって来たような状況は考えにくいとかwwwwww
42日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:03:31
しかしマキムクにはなぜ九州土器や、その他の九州の遺物がほとんど出土しない
のか不思議だな?倭人伝によれば、この頃は伊都国に一大率を置いて大陸の文物
を入り口支配していたはずなのに。また、伊都国に常駐していたとされる郡使は、畿内
の邪馬台国まで来なかったのだろうか??
43日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:10:12
だから、何度も言ってるように邪馬台国は機内じゃなくて
九州にあったんだよ。
44日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:20:17
それはないな。おそらくは北九州は3世紀の半ば頃はまだ纏向への出入りを
許されてはいなかったのだろうな。これは前方後円墳の祭祀に与しない、伊都
国の王がまだ残っていたためだろう。郡使は時折は邪馬台国である畿内を訪れ
ていたのだろう。3世紀末頃の話かな。その証拠が、箸墓から出た例の木製鐙
じゃないかな。
45水銀厨 :2010/01/31(日) 17:23:17
神武東征神話なんて少し考えれば
矛盾だらけという事は誰でも解るレベルでしょ。

紀伊半島から先は全く別人、特に熊野で倒れてからは
地元の伝承説話を借りてるよ。
46日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:24:57
魏志倭人伝を無視しているな。
47日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:30:25
たぶん平原2号墓を最後に、伊都国の時代はほぼ終わったんだよ。それ以前から
九州には新しい鏡や大陸の文物はは入らなくなってたけど。つまり、畿内が北九州
から得るものはほとんどないんだよね。そして、大陸の文物はストレートに卑弥呼
共立連合各国に分配されていった。纏向に大陸系の遺物が少ないのは当然。宗教
都市であり、大土木工事地区だからね。
48日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:34:15
だから、何度も言ってるように邪馬台国は機内じゃなくて
九州にあったんだよ。
49日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:42:45
あと、九州からの東征というのはまあ あっていいだろう。倭地域で最初に人口爆発を
起こしたのはおそらく九州で、戦争が始まったのも九州。あぶれた勢力は、玉突き状
に本州に渡ってきたのだろう。ただし記紀にあるように神武勢力が長駆日向から畿内
まで遠征したというのはおとぎ話もいいところで、あったとしても3世紀畿内の一勢力の
祖先が九州出身程度のことだろうな。それも邪馬台国はるか以前の話。記紀を資料と
するなら、神武東征は箸墓伝説のずっと前ということをパーにしてはいかんね。それは
ダブスタもいいとこ。
50水銀厨 :2010/01/31(日) 17:45:15
九州勢力の東遷なんてないでしょう、あったとしたら
鏡作工人(もしくは2世)が大陸からヤマトへ入っただけですよ。
後は宗像氏が交易の為に寄っていたくらいだな。

影響力は讃岐・阿波・丹後の方が大きいでしょう。
51日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:47:14
九州にあったと言ってるだけで、誰も東征したなんて考えてないだろ。
九州の山門にあって、戦争で滅んだクニ、それが邪馬台国。
52日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:53:18
纏向スレにも書いたが…

「三種の神器」なんてそれが強く意識されだしたのは
恐らく「南北朝時代」だと思っているwww

・・・天皇の正統性を何に求めるかを真剣に模索された時代だからなwwwwww

まあ日本書紀で例えば継体を口説き落とすに大伴金村大連が
「天子の璽印」を奉り拝礼したとあってそれが「剣」と「鏡」とある。

(この他にも三種が揃わない記述はある。)

邪馬台国の時代から現在に至るまで連綿と
「三種の神器」なるものが受け継がれてきたなんていうのはおよそ根拠の無い話。

もっとも現物を誰も見た事が無いのにどうしろと言う話だがwwwwwwwwww
53日本@名無史さん:2010/01/31(日) 17:55:47
いずれ東遷説が説くような、崇神天皇の頃の九州勢力の移入というのは記紀のどこ
にも書かれていない。それでもこの説を強引に推し進めるのなら、自ら神武東征の
資料価値を否定することになるんだけどね。記紀の成立は8世紀で、隼人の乱と前後
しており、班田法を南九州に広めるためにも、神武御一行を日向出身にしたという説に
一票だな。神武は天孫ということが、人民支配のために重要であって、日向出身にした
のもまつろわぬ隼人懐柔策の一環だと思うけどね。
54日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:00:07
>>49
>倭地域で最初に人口爆発を起こしたのはおそらく九州で、

それも疑問なんだよなあ…

確かに自分も大昔は稲作は九州から東に伝わったんだから
人口の著しい増加が九州からはじまったと考えていたんだが・・・

現在に至るまで人口の著しい「西高東低」を示すような資料にお目にかかったことが無い。

先に言ったように稲作の生産性をシビアに見れば
むしろそういった状況が無かったのが当たり前かとwwwwwwwwww
55日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:00:14
そんな隼人よりもだいぶ後の時代に、九州の神社を天皇家縁の神社
として指定してるでしょ。
その節だと、そんな神社を天皇家縁の神社と指定する必要性なんて
無いと思うんだけど。
56日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:05:40
三種の神器というのは上の人が書いてるように後代の概念もいいところで、古墳の出土品
なら、威信材、装身具、武器、工具、狩猟具というような分類をするべきだろうね。いずれに
しても、纏向に九州の影が4世紀になっても薄いところは東遷説の泣き所だろう。古墳に見る
副葬の習慣が九州の影響というのはいえなくもないが、それは単なる文化の伝播で、九州
に前方後円墳が作られるようになったのと同じで、なおかつそれよりもはっきりした影響とい
うわけでもない。
57日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:18:53
>>54
相対的な人口数が北部九州に多かった、という意味ではないよ。耕作可能面積に対する
人口数ということで、北九州では縄文末期から水田耕作が始まっていたが、結局食うた
めの土地というのは多くない。また、水路による灌漑も早かったから、水争いもあったかも。
そこに渡来人が流入して戦争が始まった。

北部九州の戦争は前3世紀〜前2世紀頃までは、戦死者や戦傷者は玄界灘に面した平野
の中心部に多かったが、前1世紀頃になると、平野の中心部では戦死者や戦傷者が減り、
平野の端や、平野間の丘陵地帯などでその分布が増える。やがてそれが、瀬戸内方面
に及んでいく。これを表すのが高地性集落なんだが、瀬戸内にこれが増える頃、北部九州
は勢力均衡は定まっていた。
58日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:24:05
>>57
>これを表すのが高地性集落なんだが

それも無理があるだろうwwwww

その理屈なら高地性集落は時代とともに西から東へと動いてなきゃならんわけで。
そのような分布域の変遷は見た事がない。

それに稲作の東進に要した時間より
高地性集落の築かれた時期が長くないかな?




59日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:24:46
>>55
宇佐神宮と大隅八幡宮の関係を少し調べて見るといい。
60日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:27:03
>>58
そうではなく、近隣同士の争いが各地で起きるようになった。水稲耕作の東進ではなく
戦争、という概念が広まったのだと思うね。
61日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:33:46
>>59
サジェスチョンありがとう。
最近この分野に興味を持ち始めて、勉強を始めたとこ。
もっと詳しくなって、このスレの人達と議論できるように
頑張るわ。
62日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:34:02
>>60
まあ、それなら多少は理解できるw

一旦起こった戦争という火は瀬戸内の場合
海上からの強襲と言う手段が非常に容易く
沈静化するに相当の時間を要したとかは想像できるからなwwwwwwwwww
63日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:45:44
>>41
私は東遷厨の一員ではない。つまり、邪馬台国そのものが東遷したという考えではない。
神武東征は記紀に描かれているが、これは史実の記憶を物語化したもので書かれてある全てが事実と受けとるなど
誰もしないだろう。私は2世紀後半の倭人伝に云う倭国乱の頃に九州から新天地を目指して出て行った集団が奈良
の樫原の地に根拠地を拓いたことが神武東征の物語になったのだろうと見る。

2世紀後半のものと見られる高地性集落が瀬戸内から大阪近辺まで続いているが、これは九州からの東征軍に備えた
ものとも見えるが、逆に東征軍が後方の安全を確保するために築いたものとも見ることができよう。遺跡そのものは
何も語らぬから誰が何のために築いたか想像するよりないが、瀬戸内から畿内へかけて緊迫した状況があったことは
確かだろう。

64日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:52:19
63の続き

九州から畿内への人の移動は4世紀半ば以降にも考えられる。半島へ侵攻したのは九州の倭国であろうが、これは神
功皇后の新羅征伐や三韓征伐の事績として記紀に書かれている。この新羅征伐に関して注目すべき記事は、
熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げ「西海の宝の国
(新羅のこと)を授ける」ということを聞いたがこれを信じず住吉大神を非難した。そのため神の怒りに触れて翌年2月
に急死したというものである。

これは何を物語っているか。仲哀天皇(神功皇后も)には架空説がある。実在性が希薄である。架空の人物の話であるが、
内容が問題である。その内容は新羅征伐に反対したということである。つまり、倭国指導部内に意見の対立があったことを
示し、かつ反対勢力が排除されたということである。私は排除された勢力は九州を出て畿内へ行ったと考えている。

4世紀に半島への侵略を行っていた倭国には半島に居住していた倭人や百済人が連れて来られたであろう。あるいは自ら
渡来して来た者もいたであろう。そして、4世紀末から5世紀初に(広開土王碑文にあるように)高句麗が半島を支配下
に収める事態になって大量の難民(百済人や倭人で船を調達できる人達、上流階級)が九州に入って来たであろう。とこ
ろが、九州では半島への出兵で国力が落ちており、これらの増加人口を養える食糧が不足したので、彼らの大部分は畿内
を中心とする地方へと送られた。

渡来人の中には技術者や知識人も多く、彼らが畿内の発展に大きく寄与した。そのようなことがあって畿内大和王権が生
まれ育ったのであろう。とまあ、こんなところかの。
65日本@名無史さん:2010/01/31(日) 18:58:22
>>62
戦争が起きるには、帰属する集団のために自分の命に危険があるかもしれないと
いう状況を集団の成員が受け容れる社会的な成熟度、および首長による強い支配権
が必要で、その下地が整ったところに、戦争という概念、紛争解決の方法が北部九州
から入ってきたのだと思う。

>>63
この時代にあって、交易の足は長いが、長駆遠征しての戦争などというのは不可能
だろうね。また、離れた地域同士でそれほど利害関係の対立があったとは思えない。
高地性集落の大部分は、近隣同士の争いと思う。弥生中期の高地性集落の時代に、
天下布武の野望があったとでも?この大局観のなさは縄文人ですか?
66日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:02:04
>>63-64

正直、全部読む気もしないw

>九州から新天地を目指して出て行った集団

…って一体どれくらいの集団なんだよって話で

>これは九州からの東征軍に備えたものとも見えるが
>逆に東征軍が後方の安全を確保するために築いたものとも見ることができよう

そんなものが築かれるならそれこそ”クニ”レベルでの人口移動でもなければ想像しにくい。

そんな遠征軍を出す国力を有したクニが九州の何処にあったのかも分からんし
その目的も分からないw

まあその規模や期間について東遷説厨達自身が
あまりはっきり考えていないんだろうがwwwwwwwwww
67日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:03:59
>>65
>この大局観のなさは縄文人ですか?

賛成の一票入れさせてもらうwwwwwwwwwww
68日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:40:45
まず東遷があったというなら、弥生時代(古墳早期でもよい)の戦争を語ってほしい。東征の
理由は何か?丸木船や準構造船何艘に何人が乗って、総勢どのくらいで食料等はどうした
のか。女子供はいなかったのか。どうやってアウェーで勝つことができたのか。当時の戦争は
弓の射かけ合いが主体だろうけど、土地勘もない場所で連戦して進んでいくことができたのは
何故か?これらのことを説明できて初めて東遷は現実的な説になると思う。
69日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:48:08
別に自分は東遷論者ではないけど、現実的な説にするために
それらを説明する必要は、必ずしも無いと思う。いくら証拠が残っていても、
そうではないと言い張ることだってできるわけだから。
戦国時代〜安土桃山にかけての戦争でも、未だに戦い方や補給に関する
議論があるくらいだからね。
70日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:52:42
>>69
証明じゃなくて説明すらもしなくて良いと?

少なくとも>>68が問うた様な事柄に対し一応の回答と言うか”モデル”を示してもらわないと
どんなトンデモでも言った者勝ちになるなwwww

71日本@名無史さん:2010/01/31(日) 19:59:23
まぁトンデモという人は、何に対してもそういうからね。
学説として出すにはそれなりの根拠と方法の明記が
必要だろうけど、現実的な説って言葉に違和感があった
もので。
72日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:02:55
>>70
あと自分、上にも書いてるけど東遷説論者ではないので念のため。
73日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:28:17
>>69
というか、大ざっぱにでもこれらを説明してくれればそれについてこちらの知識を用いて
議論できる。三種の神器と神武伝承だけでは70のいう無限ループから抜け出せない。
現実的な説といったのは、今のままでは東遷説は一種の文明史観のようなものでしか
ないと思うから。
74日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:41:54
>>68
弥生時代の戦争の痕跡は九州の甕棺墓から弓で射られたり、剣で切られた死体や
首のない骨などで裏付けられるよ。銅剣も多く出土している。

九州内部でかなり激しい戦争が幾度か起きたことはこれで裏付けられる。
鉄器の大半は九州で出土している。

一方同時期の本州に目を向けると、鉄器の出土は九州より格段に劣る上に、
武器に使える青銅器の出土すら少なく、出雲でまとまって出土したくらいである。

この状況では、九州の勢力が本州に乗り込んだときに、普通に戦ったら本州側には勝ち目はない。
戦場というよりただの草刈り場のような状況になる。戦いの様相にすらなりえない。
それで本州側は高地性集落という防禦主体のものを作った。

しかし、結局本州側が敗れて、九州勢力の支配下になった。
それで銅鐸が使われなくなり、本州でも鏡が出土するようになった。
弥生時代の本州では鏡の出土が極端に少ないことは常識以前の知識だろう。
75日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:57:03
スレ違いであることを承知で書き込みます。
日本がヤバい状況にあります。

小林よしのり『「外国人参政権」という売国法案を許すな!』
http://www.youtube.com/watch?v=TGimFnXK4sA

この動画を一人でも多くの人に見ていただきたいです。
民主党の危険さを把握願います。。
76日本@名無史さん:2010/01/31(日) 20:57:14
>>74
下らない、幼稚きわまりないwwwwwwwwww
やっぱこのアホさ加減は縄文人なのか?w

じゃあお前、鉄剣
(と言っても弥生時代のものは長さ30cmかそこらのものが主流だったと言うからチョッと大き目のナイフだなwww)
で木刀持ったアンちゃん2〜3人ぐらいは楽勝で倒せるのか?w

もっとも本州でも紀元後は金属製の武器が主流になるんだが・・・

本当にこんな
「ボクのかんがえた むてきの きゅしゅう てっきぐんだん」
みたいなレベルはもう勘弁してくれwwwwwwwww
77日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:06:14
>>74
九州の戦争については>>57で書いたはずだ。おそらく春秋戦国時代の渡来人が戦争という
ものを持ち込んだと考えている。しかし、こちらがいってるのは長駆遠征などということが
できたかということ。つまり移動や輜重について。

>戦場というよりただの草刈り場のような状況になる。

九州の戦士のほとんどが鉄製武器を持っていたこと。鉄製武器が銅製や石製の武器、も
っといえば棍棒より優れていたことを証明できるのかな。当時の鉄剣のほとんどは威信材や
処刑(儀式?)用で、折れたり、曲がりやすく、後代の日本刀をイメージしてはいけない。

いずれ、戦士の多くが鉄製武器を持っていたのなら、すごい鉄の総量になり考古学史が
変わるな。鉄鏃は九州優位だろうが、黒曜石製石鏃の方が貫通力は高いという実験結果も
ある。石製は再利用は難しいだろうがね。まあ、渡来人が多ければ戦法などは優れていた
かもしれないが、戦闘力の九州優位は幻想と思うね。
78日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:09:37
>>77
>輜重

「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々とんぼも鳥のうち」

まあ兵站線の軽視と言うのは日本の伝統なのかねえ?wwwwwwwwwwwww
79日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:09:42
>>77
青銅器の剣も実戦で使われていただろ、大型化したものは別にして。

甕棺から銅剣の先がよく出るのは、その部分が死体に刺さっていたからと考えるのが普通だよ。
かたくなにこれを否定する人もいるが、普通に知能の障害を疑うよ。
本州では銅剣の出土が少なすぎるからと言って、あの態度はいかんね。
80日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:11:28
>32
>数多くの組み合わせの中から恣意的に三種の神器をチョイスしただけw

>そこにその組み合わせを強く意識したと思わせるような事柄は何も無い。
>それこそ「下手な鉄砲も数撃てば当たる」程度のお粗末な話し。

横スレですが、3種そろっているのは北九州の大首長の条件として非常に重要ですが。
だからこそ九州の考古学所は「吉野ヶ里の墳丘墓はたいしたことはない」と言っているわけで。
あまりに常識的な話で何をもって「適当にチョイスしている」いわれているんでしょうか?





81日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:15:53
「ボクのかんがえた むてきの 畿内竹槍ぐんだん」こそ妄想だな。

82日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:17:14
>15
>じゃあ具体的に九州の一番新しい副葬事例とヤマトの一番古い副葬の事例を挙げて
>それが東征で持ち込まれたといえるほどに類似している事を示してくれ。

これも横スレで失礼ですが、平原が終末期で確定しているわけで、北九州の威信財体系が
そのまま持ち込まれたことは、否定不能ですね。

一部小山田さんのように未だに古墳前期と言い張っている方もいますが、少数派ですね。

83日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:21:38
まあ守る側はその九州神武軍団とやらを追い返せば
とりあえず防衛の目的は果たせる。

が攻める神武軍団は橋頭堡を東へ東へと築いていかねばならない。

一回の戦闘で人的被害もあるだろう、武器だって破損消耗するだろう。
腹が減っては戦もできない・・・

それらを全て「現地調達」で賄う気か?
寝言は寝て言えアホwwwwwww

本国からのバックアップがあったとして九州から瀬戸内を横断して畿内ヤマトまで伸びる兵站線。

そんな事をできるクニが2・3世紀頃の九州の何処にあったんだ?って話しwwwwwww

ガキがチラシの裏に落書きをして
「ぼくが かんがえた むてき ちょうじん」
とか言っているのと大して変わらないお話wwwwww
84日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:21:57
>76
>もっとも本州でも紀元後は金属製の武器が主流になるんだが・・・

少なくとも畿内ではなってないですよ。
かつて一部の学者は「あったけど融けた」と言っていますが今では
「鉄器もないし石器もない」という見解がほとんですが(寺沢等)。
85水銀厨 :2010/01/31(日) 21:23:44
九州勢がやってきて畿内で争った形跡なんてないですよ。
大体地の利もある場所から東へ遠征して争う理由が無い。

記紀の東征でもヒボコの話でも畿内勢力には負けるか
追い返されたりしてるからね。
86日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:25:39
>>84

俺の言っているのは松木武彦あたりが根拠だが

>「鉄器もないし石器もない」という見解がほとんですが(寺沢等)。

じゃあ武器そのものが無く畿内の人間は徒手空拳で闘っていたのか?wwww

寺澤と言うと王権誕生とかか?
87日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:26:39
>77
>九州の戦士のほとんどが鉄製武器を持っていたこと。鉄製武器が銅製や石製の武器、も
>棍棒より優れていたことを証明できるのかな。当時の鉄剣のほとんどは威信材や
>処刑(儀式?)用で、折れたり、曲がりやすく、後代の日本刀をイメージしてはいけない。

橋口らの研究により、北九州で後期に普及する鉄製武器は破損しにくく(切先等を死骸に残さない)
、革命的であったことが照明されていますが。

だいたい後期後半北九州では農具に至るまで鉄器化されており、ましてや鉄製武器が「威信財」に
とどまらないことは明らかですね。
88日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:32:33
>>87
ははあ、後期後半ね。俺は瀬戸内の高地性集落の話をしてるんだが。時代が混乱するのは
やはり東遷の説明不足だと思うね。いったいいつについて議論すればいいんだ?
89縄文人:2010/01/31(日) 21:34:07
おうおう議論が白熱してきたな。私が登場すると面白くなる。
63,64は私の書き込みだが、74(なかなかいけてる書き込みだ)などは別人だ。

76はwwwwが特徴の爺様かな。
あのね、戦争はやり方を知っている人間と知らない人間でやったら話にならんくらいの差がでるよ。ちゃんと
戦闘訓練を受けた500人の集団は5千人の素人集団を打ち負かして従えることができるのだ。しかもそれは全面
戦争をするまでもない。緒戦で見せしめ的に勝ってみせればいい。後は従えた相手国の有力者を使って懐柔なり
なんなりの手を打てばいい。

おまえさんは喧嘩の経験がないんだろ。このごろはガキもあまり喧嘩をしなくなったが、コドモの集団でも喧嘩
慣れした奴がボスになって数十人を支配するぞ。弥生時代の九州の人間には大陸や半島の戦争を見聞した人間が
多くて兵法まで勉強していた可能性がある。九州内でも戦闘がたびたび起っていたことが戦死者と思われる人骨
や鉄鏃などのの出土品から推定できる。その環境は瀬戸内や畿内とは一味違う。

「ボクのかんがえた むてきの きゅしゅう てっきぐんだん」 なんて茶化しているから畿内説のふぬけ共は
蹴散らされているのだ。チミの幼稚さは直らんの〜
90日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:34:32
しかしこんな

「無敵の九州鉄器軍団」がまるで無人の野を往くが如く瀬戸内を西から東へ駆け抜けた

…なんて香ばしいお話はこういったネットならでは聞ける話だよなwwwww
91日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:36:57
>86

鉄器が普及せず、石器の流通も滞っているということですが。
そもそも弥生時代における鉄器の東西格差は、川越、近くは村上によって論じられており、
いまさら畿内に鉄器が普及したという人はすくないですね(その少ない希少な例が松木氏ですね。)
とくに後者は畿内では再利用等使用に制限があることを証明しています。
寺沢は地元の埋文として鉄器のみならず隔絶した首長層の未発達などから、
小林らの言う畿内勢力による鉄器ルートの奪取を否定していますね。

92日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:43:08
>>89 縄文人

知ったかぶりのクズがw

消耗もしない魔法の鉄兵器についで
今度は、九州兵最強説かwwww

そんな妄想開陳している暇があったら
その無敵の九州軍団が東進した確固たる痕跡の一つでも探して来いw




93日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:43:53
>>91
だいたい91は弥生時代の鉄を論じてるのか、東遷説を論じてるのか立場がわからないな。
鉄器についてなら、畿内に少ないのはまあそのとおりで、木製品加工用程度だろう。
94日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:45:15
>>92
その痕跡が古墳だろうが。
95日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:47:17
>88
意味がよくわかりませんが、一般的に北九州ないしその他の勢力が東遷した
可能性を指摘する考古学者(柳田、原口ら)は、後期後半の争いののち、
倭王権が成立したという見解だと思いますが。
瀬戸内に高地性集落が集中した中期に東遷があったという説を唱えている方は
寡聞にして聞きませんね。
96日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:47:28
>>94

「前方後円墳は九州発祥ニダ」<丶`∀´>

 と言ういつもの九州版ウリナラ起源説か?wwwwwww
97日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:48:00
>>89
>弥生時代の九州の人間には大陸や半島の戦争を見聞した人間が〜

アホか、逆に征服されるよw
98日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:52:47
つづき
ただし、中期の高地性集落も北九州の脅威に対抗したものである可能性は高いですね。
99日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:53:22
そもそもそれだけ九州の軍事力が強大であったなら

何もいきなり(兵站線が長大でその維持が困難な)ヤマトに遠征しなくとも
関門海峡を越え中国地方西部から徐々にその版図を広げていけば良いだけの話しwww

そうすりゃあ東遷厨の憧れる『九州大帝国』の出来上がりだwwwwwww


100縄文人:2010/01/31(日) 21:55:31
>>65
>高地性集落の大部分は、近隣同士の争いと思う。弥生中期の高地性集落の時代に、
>天下布武の野望があったとでも?この大局観のなさは縄文人ですか?

2世紀後半がどのような時代だったか知っているのか?

地球規模だったろうと思うが、寒冷化による食糧不足の時代だ。大陸でも半島でも戦乱の時代だ。半島では
北方民族が食糧を求めて南下している。そのため九州に避難民も入ってくる。倭国自身でも食糧対策が必要
だったろう。国際的、国内的な不安定要因が増えて倭国王の指導力が問われ内乱状態となる。これが倭人伝
に書かれた倭国乱だろう。

そのような時代に、自ら新天地を求めて出て行ったのか、はじき出されたのか、畿内まで行ったのが神武東
征だ と言うとるだろが。おまえさんが大局観を口にするのは百年はえ〜んじゃ。
101日本@名無史さん:2010/01/31(日) 21:59:44
>>95
I see 縄文人説に反論してたんだがね。

>>100
じゃあ、その弥生中期の国盗り合戦で、どこが勝ってどこが支配下に落ちたんだ?その
痕跡はあるのか?
102日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:00:00
>>99
中国地方西部を飛び越していきなり大和へ行ったと思ってるのか?
それこそ非常識な話だ。
103日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:00:18
>>100 縄文人
>自ら新天地を求めて出て行ったのか、はじき出されたのか

つまり本国からのバックアップは期待できず
殆ど片道切符の旅な訳だ。

人も兵器も食料も消耗するものは全て現地調達。
もしくは不死身の軍団がいくら人を斬っても刃こぼれ一つしない魔法の刀を振り回して闘ったかw

およそお前の言っていることなんか現実味がないなwwww
104縄文人:2010/01/31(日) 22:02:49
>>99
記紀の神武東征は相当な年月かけてるぞ。

>中国地方西部から徐々にその版図を広げていけば良いだけの話しwww
そうしとる。
105水銀厨 :2010/01/31(日) 22:05:30
で、畿内での戦闘の痕跡や文献記録って結局無いでしょ。

唯一の戦闘記録での神武軍は竜田すら越せれず
日下で負けて背走してるしな。
竜田すら越せれない連中が手負いで熊野を越えることなんて
サイボーグにでもならない限り有り得ない話。

記紀の工作に引っかかってる奴が多いんじゃないか?
106日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:09:40
>93
>だいたい91は弥生時代の鉄を論じてるのか、東遷説を論じてるのか立場がわからないな。
>鉄器についてなら、畿内に少ないのはまあそのとおりで、木製品加工用程度だろう。

両方ですが。鉄器普及が畿内の社会変革の原動力となって畿内勢力を母体に倭王権が
(北九州勢力を倒して)生まれたというのが小林ら近畿の学者の意見だったわけで、
そのような意見が、川越をはじめとする鉄器の専門家や橋口をはじめとする武器の専
門家らによって完全に否定されたのが、ここ10年くらいの学会の流れですね。

もっとも小林らの学説は、清水や寺沢ら地元の奈良の埋文からも否定されていた
わけですから、元々苦しい説だったと思いますが。
107日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:10:09
>>104 縄文人

分かってないなあ、この馬鹿はw

神武軍団を送り出した九州勢力にしたら関門海峡を越えた直ぐ近くに
全く無力な、それこそ鴨ネギの「草刈場」にしかならない地域が広がってたんだろう?w

そんな美味しい話神武だけが食いついたのか?って話で

お前の説なら九州を追い出されたかフロンティアとして出たかの神武軍団ですら容易にヤマトまで行けたんだから
九州の勢力が東に手を伸ばさないなんて話は無いって事だよwwww


108日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:14:54
弥生終末に伊都国、あるいは九州の連合などが主導権を取って纏向を建都したとかいう話を
東遷というのなら十分議論にはなるけど、まあ纏向スレでやったほうがよいのかもしれないが。

>>104
結局は記紀頼りか。しかし、各地に立ち寄ったという痕跡を出してほしいね。俺はあの神武ルート
は記紀編者が各地の有力豪族に配慮した記述と考えているけどね。
109縄文人:2010/01/31(日) 22:15:51
>>103
おまえさん チンギス・ハンの征服事業のことを知っているだろ。
人も兵器も食料も消耗するものは全て現地調達 と言っていい。

神武の場合は大阪に達するまではそれほど激しい戦闘はしていない。懐柔策をうまく
使いながら進んでいる。
110日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:17:28
地球規模だったろうと思うが、寒冷化による食糧不足の時代だ。大陸でも半島でも戦乱の時代だ。半島では
>100
>北方民族が食糧を求めて南下している。そのため九州に避難民も入ってくる。倭国自身でも食糧対策が必要
>だったろう。国際的、国内的な不安定要因が増えて倭国王の指導力が問われ内乱状態となる。これが倭人伝
>に書かれた倭国乱だろう。

これは違うんじゃないでしょうか。
後期の北九州は、中期の戦乱状態を脱して、平野部において爆発的に集落が増加しており、
一部大学の学者がいうような衰退の痕跡はないですね(中園、橋口)。
寺沢さんが言うような「後漢王朝の衰退により、北九州勢力が衰えた」というような証拠は、
考古学的には皆無ですね。
111日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:19:51
>>109
12世紀の例を持ち出すなよ、アホ。wwww それが許される議論か?
112日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:26:18
>>107
九州には三十国があるんだ。どこが最初に手を出したって同じなんだよ。
九州勢力が本州を征服していったってことは。
113日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:28:12
>108
>弥生終末に伊都国、あるいは九州の連合などが主導権を取って纏向を建都したとかいう話を
>東遷というのなら十分議論にはなるけど、まあ纏向スレでやったほうがよいのかもしれないが。

伊都国地域を中核とする北九州勢力の東遷が考古学的に証明でき、それが神武東征をはじめとする
記紀の記述と符合するというのが中山、原田、柳田と続く九州の考古学者の主な流れですが。
(中山は少し異なっていますが東遷を主張する点では同じです。)

114日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:29:54
>>112
もうね、漫画の世界の話だなw

神武が東征するまで九州勢は東の鴨ネギに手を出さず
神武は東征してたちまち西日本全体を九州勢が手を出せないまでに支配してしまったと?

実に下らない。

しかしこうして見るとやっぱこの板の九州説って基本東遷説の奴が殆どなんだろうなと思うwwww





115日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:36:21
>114
>しかしこうして見るとやっぱこの板の九州説って基本東遷説の奴が殆どなんだろうなと思うwwww

邪馬台国九州説をとる考古学者はほとんどいませんが。

一方で、倭王権の成立については、東遷説が非常に多くなっていますね。
前述のとおり、小林らの学説の枠組みがその後の研究によりほとんど否定され
それに代わる枠組みが示されていないためです。


116日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:36:27
神武は畿内入りまでほとんど戦ってはおらず、岡田宮、多祁理宮、高島宮などを作っ
てるだけ。宇佐では歓待されている。これは、後代の配慮と考えた方がよほどすっきり
するんだけどね。
117日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:37:17
何を寝言を言ってるんだ。もう少し、辻褄のあったことを言え。
118日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:45:27
>>115
>東遷説が非常に多くなっていますね。

はて?
そんな傾向があるのか?w


大体、小林説が廃れたと言ってもその為に従来の九州説がとっていたような年代観の呪縛がなくなったってだけでw
それがどう東遷説の隆盛に繋がるのか意味が分からないなwwww

恐らく鉄器に関して言えば王権誕生の主要因と見る向きは今後更に減ると予想する。
それは逆に鉄器の豊富さをもって九州の先進性としてきた従来の考え方にも修正を迫るだろうwwww
(と言うかすでにそんな能天気な考えは誰もしてないかな?w)

そもそも東遷説を唱えているような学者でも
いまここで言われているような
「むてきの きゅしゅう てっきぐんだん」の東進と言ったモデルを言っている奴がいるのかって話wwwwww

いたら学者としてと言うより普通にアタマまともなのか疑うな俺はwwwwwwwww
119日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:52:19
九州より、畿内〜東国が劣っていたとは思わない
灌漑農法など、陳腐化した九州よりは先進的なものが入っていた
だからこそ大和朝廷は東国を従える事が国の安危を左右したのだ
120日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:52:30
>>105
>サイボーグにでもならない限り有り得ない話。

ついでに八咫烏や金鵄と言ったモンスターを召還できる能力もつけないと無理wwwwwwww
121日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:55:26
>>115
自生説はもう誰も言わなくなったなあ。
それに代わるものは、特に何もないなあ。連合説なんてのもあったかな。
東遷説にすれば、うまく説明できるのに、東遷説の軍門にだけは降らないぞと
いう人が無理やり考え出したようなものだろう。
122日本@名無史さん:2010/01/31(日) 22:56:54
モンスターの話が信用できないから東征は信用できない?
小学生の議論だね。
123日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:02:45
>>121
>東遷説にすれば、うまく説明できるのに

ある意味それは正しいのかもしれない。
なんせ実体が無いから全て想像の世界だからなwwww

東遷してきたって一体何処からなのか?
ヤマトの何処にたどり着いたのか?
両者で共通するものは?

少なくとも考古学者が扱うのなら
それらをもって証明するのが筋なんじゃないかな?wwwwwww


124日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:08:57
>>123
畿内説は畿内勢力が北九州を支配下に治めたとみるんだろ?
西征してきたって一体何処からなのか?
北九州の何処にたどり着いたのか?
両者で共通するものは?
そんなことを論じていた考古学者いたかな?
125縄文人:2010/01/31(日) 23:10:51
>>111
戦争のやり方(武器や戦術)は時代によって変化があるが、兵站のことはだいたい同じだね。近い隣の国
と戦うときは国内からの補給ができるしこれが主体になる。しかし遠征では現地調達が主体になる。輸送
などの便不便があるから当然だろ。もっとも途中で食糧などが調達できないところを行く場合は携行しな
ければならないが、瀬戸内を行くのにその必要はなかったと考えられる。

>>118
おまえさんが脳天気なんでね〜か?脳が干上がっているかびしょぬれの状態。
壊れた蓄音機のようにいつまで「「むてきの きゅしゅう てっきぐんだん」
の東進と言ったモデルを言っている奴がいるのかって話wwwwww 」と言
って一人で悦に入っているんだ?普通にアタマまともなのか疑うな俺はwwwwwwwww

126日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:14:16
>>124
脊髄反射でコピペ的に返したんだろうがw

>一体何処からなのか?
ヤマト纏向

>北九州の何処にたどり着いたのか?
北部九州特に福岡平野かな?

>両者で共通するものは?
土器、前方後円墳

・・・とまあ俺なんかでも普通に答えられるわけだがw

無論それらに対し年代の論争は今後もあるだろうが
じゃあ東遷説に年代を争えるようなネタすらあるのかって話しだがwwwwwwwwwww

じゃあ今度はそっちが答えてくれw
 Q1)東遷してきたって一体何処からなのか?
 
 Q2)ヤマトの何処にたどり着いたのか?
 
 Q3)両者で共通するものは?
127日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:17:10
>>124
征西の証として、古墳時代の九州には畿内の土器があふれていたりして。
128縄文人:2010/01/31(日) 23:23:11
>>110
私は2世紀後半において九州が衰退しているとは言っとらんのであります。倭国乱という混乱状態がありました
がこれは幾分の戦闘を含む内乱状態だったと考えているわけで、その背景には寒冷化による食糧不足状態が齎し
た国際的、国内的不安定要因があったとみているわけです。多分、食糧増産のための開墾事業などが活発化した
のでしょうね。
129日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:25:51
柳田東遷説か。しかし、主流とはいえないのは、やはり土器の問題だよなあ。大和に前方後円墳
を生み出した勢力は庄内式土器を使用したけど、これと在地の西新式土器の関係を説明できる
のかな。いずれ庄内は近畿から福岡に持ち込まれたもので、九州発祥とする安本説はさすがに
ないだろうし。

>>125
チンギス・ハーンの他国への班図拡大は国家の後ろ盾による大規模戦だよ。それ以前の諸部族
統一時でも有力者の一人だった。神武はどっかのクニが全面支援してたのか?だいたい戦士階
級もない時代に、故国や耕地を捨てた連中が長駆戦い抜いていくというのは幻想だと思うね。

130日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:26:25
結局ここで縄文人とか言う馬鹿が言っている東遷説って

昔話の「藁しべ長者」に近いよなwww

消耗する武器も人も現地調達で全て上手く行き
最後にヤマトを征服してめでたしめでたしとwwwwwwwww

まあそれが無かったと言う「悪魔の証明」はできないが
結局、考古資料なんてものは無いw

131日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:26:42
>>121
神武東征を認めたら日本が軍国主義に向かいますよ。
あなたには軍靴の音が聞こえないのですか。
132日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:29:11
>>131
聞こえません。
133日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:29:22
>>129
けど九州の庄内式は環濠集落の末期が主体なのに対して、
本州の庄内式は環濠が解体してからの時期が主体だよね。
134日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:29:41
>>126
ヤマト纏向にどれだけの軍人がいたっていうのかな?
それに、言ってみりゃいいってもんじゃないぜ。それが考古学的に
どんな裏づけがあるんだ?
北九州、福岡平野に纏向の軍勢が上陸したって考古学的証拠は?
学者がそんなことを論じているか?
土器、前方後円墳? 共通するものがどちらからどちらへ流れたか
どうやって証明するんだ?

いうだけならば、簡単なんだよ。
九州全土の軍勢が中国西部から徐々に東征したんだ。征服された国々の連中
も動員されてな。
大阪湾から上陸してヤマトの纏向あたりに本陣をおいたんだろう。
両者で共通するもの? 前方後円墳、土器。日向の古墳と畿内の古墳の共通
性は知ってるだろうな。畿内は銅鐸の消滅などがあり、外敵に征服された形
跡があるが、日向にはそれがない。したがって九州から畿内へと軍は進んだ
んだ。 
135日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:34:55
>>131

まあ戦前の軍部ですら東遷説なんて信じていたのかどうかwwwwwwww

実は津田は禁固刑の判決を受けたんだが実際は執行猶予がついており
原告被告ともそれを不服として即控訴。

が有耶無耶のうちに時効となってしまいましたとさwwwwwww

まあ東遷説なんてものが(少なくとも今の状況で)まかり通るなら
ゆとり教育どころの話ではないと思うな俺はwwwwwww

136日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:37:36
>>134
>九州全土の軍勢が中国西部から徐々に東征したんだ。

でました日向厨による 「 大 九 州 帝 国 」wwwwwwww

そんな事九州説をとっている学者でも言ってねえよw

もうこいつら本当は2ちゃんの運営側が仕込んだ人口無能なんじゃないかとさえ思う今日この頃wwwwwwww
137日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:42:16
東征も西征もなし、単に新しい大陸の技術・思想が
入ってきてだけだろ。
138日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:44:14
>>136
九州が倭国なんだよ。九州全体から兵士を出させるのは当然のことだ。
纏向なんぞで北九州を攻める? 一つの村だけで世界征服しようってのか?
139唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 23:44:18
>故国や耕地を捨てた連中が長駆戦い抜いていくというのは幻想だと思うね。

神武東征は、その当時の九州王朝にとって我慢できない罪を負って長脛彦が出奔したから、
この罪は、スサノオの罪より重い。
140日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:44:24
>>131>>135
畿内説はやばくなるといつもその手の反則技を使ってきた。
自由な言論を思想的なもので縛ろうとする汚いやり方。
そちらの方が、相当に危ない思想だと思うけどな。
141日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:45:53
まあ学者の説でもどこまで本気か良く分からないところがあるからなあ。

△が舶載だといまだに主張するのも、理性を超えた政治的スタンスだけのような臭いがするし、
纒向が古代「都市」とかいうバカも「掘れ掘れ何とか町おこし」という感もある。
C14で弥生が前10Cというのも、学者が反対するからマスコミ相手に説を出しているていたらく。
いまだに一度たりともデータが出たことがない年輪何とかを相手にする学者もいるし。

学者って結局は政治的な立ち位置とかが、理性を超えるところが多すぎなんだよねえ。


東征説にしても、サヨクは一生懸命これを認めない方向に進めようとするんだよねえ。
戦前の皇国史観とやらといまだに闘っている左翼脳の哀れさよ・・・


草を植えまくって必死すぎる人って哀れだよねえ。
142日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:51:50
>>141

まあお前の予測なら今考古学会を牛耳っているサヨクかぶれの爺どもが
あと十年ぐらいして死に絶えたら九州説・東遷説が復権しているんだっけ?w

まあ精々脳内イデオロギー闘争に明け暮れてくれwwwwwwwwww

143日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:53:19
左翼でも右翼でも、一つの思想に凝り固まることが危険なんだと思うけどね。東遷でも、
ゆるやかな連合説でも何でもそう。始めに結論ありきだと、どうしても新しい情報を色眼
鏡で見てしまう。そういう意味では2chは人間観察の勉強になる・・・まあ各人どこまで本
気かはわからないけど。
144日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:53:34
>>141
俺は東征否定説で△大半国産説だがウヨですよ。
145日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:00:31
まあ要するに >>141 の東遷厨が仰りたいことはだ・・・

 畿内説はサヨの陰謀!

 東遷説が認められないのもサヨの陰謀!

 謝罪と賠償を(以下略

…と言う事でよろしいでしょうか?wwwwwwww
146日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:02:23
>>143
思想を云々する以前に、考えたことを自由に言えるような状況じゃあないから、
まずそこから始める必要があるよ。

△鏡なんて国産でもう確定しすぎな状況でも、それを自由に言える空気じゃない。
そういう地雷原だらけで普通に歩けないんだよ。
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/01(月) 00:05:25
>>141
私は、年輪年代を正しいとする編年でやってます。
その場合 書紀は、太陰暦で書かれた、当時の歴史。を認めねばならない。
148日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:07:04
三角縁舶載説はトンデモと言いながら庄内土器は九州発祥というトンデモは
平気で言うもんなぁ
149日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:09:14
>>148
三角縁はもう国産で結論が出ているから、トンデモですらないのでは?
理性を超えた存在ですな、あの人たちはww
150日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:10:13
まあこれはあくまで私見であって他人に押し付けるつもりは無いがwwwwww

ヤマト王権がその始まりの時点において既に

「かつがれた神輿の如き王」

と言うのは今日までの皇室の歴史を考えた場合
結構納得できるんじゃないかと思っているw

それは政治的信条の右左に関係なくねwwwwwwwwwwww
151日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:13:51
私は三角国産鏡説大歓迎で畿内説ですね。
152日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:16:53
>>134
なんだこのトンデモ、と一瞬思ったが、

古代中国みたいに根こそぎ奪いながら東征していけば無理でも無い気がする。
しかも九州〜大和まで統一してたわけじゃないってことは
イナゴみたいに蹂躙略奪しながらの東征で、
そんなひどい戦だったからこそ記紀で良く書く必要があったのかな、とか思ってしまった。

この考えは無理があるのかな。
エロい人おせーて。
153日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:20:12
>>146 東遷厨

>それを自由に言える空気じゃない。
>そういう地雷原だらけで普通に歩けないんだよ。

お前さあ、自覚は無いのだろうが
「自分は権力に迫害されてその声が抹殺されている!」
なんてのは所謂 ”弱者の脅迫” みたいな芸風でw

それってサヨクの十八番だぞwwwwwwwwwww
154日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:20:52
日向では畿内で中期に流行した絵画土器が後期になって流行すけどね
155日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:24:34
>>154
だから何だって? 北九州の文化、中国の文化、畿内の文化。いろいろ
日向に入るのは当然のことだろう?
156日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:29:07
>>153
事実を言っているだけだろ。
△が国産なんて、すでに出た結論を言おうとしても言えないという異常な世界なんだよ。
157日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:30:28
>>156
それを言うとどうなるんだ?w

ゲットーにでも送られるのか?wwwwwwww
158日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:37:31
>>152
それほど蹂躙略奪ということではないのかも知れんよ。
私は最初の東征は北九州が始めていたんじゃないかと思う。それから南と北が
戦い、北が負けた。となれば、東征していた連中は、本国がやられてしまった
ということだ。戦意喪失、邪馬台国に従わざるをえない。
兵を出したり、食料を供出したり。それだけのことで、そう酷い状態というこ
とではなかったのでは。古墳はその東征軍の勢威を示すものとして造られたん
だろう。だから、あちこちに造られていく。
159縄文人:2010/02/01(月) 00:48:47
旧唐書東夷伝に
倭國 者古倭奴國也(以降略)
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊故以日本爲名 或曰倭國自悪其名不雅改爲日本 或云日本舊小國併倭國之地(以降略)
とあるな。

10世紀半ばに書かれたものだとされる。編集の混乱も多く、記事の信憑性に問題があるとする見方もあるが、この時代の中国
の認識では倭国は1世紀の倭奴國の系統であり、日本国(大和王朝)は倭国の別種だったのだ。もっとも、名称が卑しいので
倭国を日本国に変えた、元は小国だったが倭国を併呑したという説も併記している。

私としては倭国は九州にあったが畿内の大和勢力が6世紀頃(磐井の乱)か7世紀(白村江の敗戦後)
にこれを併呑したのではないかと見ている。

要するに3世紀の畿内には諸国を束ねるに十分な勢力は存在しなかった。むろん、邪馬台国に関連する遺跡、出土物
もない。畿内説派はもっと説得力のある面白い話を創りださないとだめだね〜  ほなな〜
160日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:49:50
まあ庄内土器で言えば普通は畿内の「タタキ」と
吉備の「ケズリ」の融合で作られたと言うのがごく一般的だと思うが・・・

「庄内土器は九州発祥ニダ<丶`∀´>」
っちゅうウリナラ起源説の場合

九州系の要素と言うのは何処に見るんだ?


161日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:57:39
>>159

まあこう言うのがこの板の九州説の典型なんじゃないかと思うw

東遷説から始めて結局九州王朝説のようなものになり
最終的にはその二つのハイブリッドみたいなゲテモノになるwwww

ちなみに

>要するに3世紀の畿内には諸国を束ねるに十分な勢力は存在しなかった

無論こんなことは十分織り込み済みゆえの「緩やかな連合体」なのであって
こういう相手を批判するにしてもそもそも相手の言う事を理解していない学習能力の無さも
この板の九州説の特徴でもあるwwwwwwww
162日本@名無史さん:2010/02/01(月) 00:58:54
>邪馬台国に関連する遺跡、出土物もない

いっぱいあるだろw
163日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:03:51
>>155
だから鏡も東征の証にはならなよねw
164日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:08:09
しかし考えればダブスタと言えるのは

東遷説の連中は当然、三角は国産だと言う。
結局、中国と日本で同笵同型の三角でも出なければ納得しないだろう。

が東遷説の証としての根拠の鏡はとりあえず「鏡」であればその形も問われないらしいwwww

挙句の果て、誰も現物を見た事が無い「八咫の鏡」ときたもんだ。

酷い話ですハイwwwwwwww


165日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:23:25
>>164
鏡は宗教色が濃いということ。同じように銅鐸も祭祀色が濃い。
だからこそ、その変化の意味が大きいということだろうな。

東遷説を前提にすれば、そこの住民がどんな土器を使っていようと知った
ことじゃない。しかし、意味不明の宗教的な物に執着していると気になる。
自分たちよりもそちらの方が重要だ、みたいな態度を取ると、力づくで
取り上げようとする。

そういうことだろう。鏡文化と銅鐸文化の衝突は、単なる文化的なものでは
なく、背景に権力のあり方が見える。
外国では、宗教戦争が良く勃発し、宗教は戦争の原因にもなる。
166日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:25:36
>>164
いまだに△が国産ですでに確定済みと認められない池沼が何か言っているようだwww
167日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:29:47
>>166

で?

三角が国産で確定済みと言うのは何をもって言えるのかな?
まさか「500対0」の連呼だけじゃあないんだろう?

そんなものは
「全てが舶載と言っている奴に言え」
って話で…

鮮やかな御高説を期待しているぞクズwwwwwwww

168日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:30:56
>>167
今日も吼え続けて畿内説の断末魔を晒していますwww
169日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:31:47
>>168

ネタが無いんだなwwww
170日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:48:42
東遷厨のアホどもがこれだけ三角縁神獣鏡に拘るのは
普段はアホだ馬鹿だトンデモだと叩かれている身にとって
舶載説が旗色が悪くなったと言うのは
数少ない溜飲を下せるネタだからなんだろうw

まあ潮目が変わったのは王仲殊の論文からなのかな?

もっともその王が畿内説を支持と言うのが話しのオチだっけ?wwwwww

無論そこは例によって

「畿内説を唱えているサヨの陰謀」

と言う事で東遷厨の脳内では片付けられているとは思うがwwwwwwww
171日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:49:41
軍勢の兵糧の現地調達でふと思い出したのだが屯倉というものがある。
中央政権が、地方に兵士を派遣するときにそこから兵糧を調達するための
地方での物資の集積場というのがよくある基本的な説明だ。

当然ながらそこの物資は現地周辺からの税を取り立てて蓄えることになるだろう。
また、大勢の兵士を養える物資は敵方からも絶好の奪取目標となるので、
信頼のできる代官と防衛のための兵士を持つことになるだろう。

だから、十分にその土地を支配している場所でなければ、屯倉を置くことはできない。
多くの兵士を養える物資と防衛のための兵士は、そのまま敵に回る危険性が
常にあるのである。

5世紀を境にして、前期屯倉と後期屯倉に別れ、
また、前期屯倉は畿内周辺にしか存在しないそうである。
後期の6世紀頭に磐井が破れ、糟屋の屯倉を献上したとある。
そして屯倉そのものが大化の改新で消滅する。
172日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:57:33
>>170
畿内説みたいな重たいものを背負っていないで東遷説に変えろよ。
楽になるぞ。
日本の考古学会も、畿内説がなくなれば、手かせ足かせを外されたように
自由になれるのだが。
173日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:03:16
>>172
「楽になるぞ」と言うのは
なんかのクスリやったみたいにハイになれると言う事か?w

遠慮しておくwwwwwwwwwwwwwwww

まあ馬鹿には何度言っても分からないだろうが

例えばヤマト王権が「緩やかな連合体」から
5世紀あたりを契機に中央集権的な国家を目指し変質していった

…なんてのはもはや”邪馬台国畿内説”とか言うものとは関係ないレベルの話しだ。

と言うか、九州説の学者であっても
「連合体なんてありえない!」
と言っている学者っているのか?

いたら後学の為教えてくれwwwwwwwwwwwwwwwww
174日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:16:12
>>173
学者が言った、言わないなんてのは気にせず、自分で考えろよ。
学者もいろいろいて、いろんな意見がある。

連合というのは根拠がない。土器で政治的なものを考えるのはかなり妄想に
近くなる。遠賀川式土器は、弥生前期に九州で発生し、近畿地方にまで
分布している。さらに遠くは青森県までも運ばれた。

これで、九州の勢力が全国制覇したなんていう人はない。土器は、交流の
証ではあるが、それ以上のことが言えるとは思わないな。
175日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:18:54
>>174
遠賀川式土器が青森まで到達したことは、何らかの勢力が及んだと考えるのが
自然ともいえるよ。

弥生初期には戦闘も争いも、権力も無縁だったなんてのは固定観念に過ぎない。
176日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:26:02
>>175
しかし、土器というのは、古い時代からけっこう広範囲に分布する。
例えば、縄文時代前期の土器に曽畑式土器というのがある。
熊本県宇土市の土器を標識とするのだが、これは朝鮮半島南部から沖縄まで
分布する。

こういうことから考えて、土器を政治的なものと係わらせるのは無理がある。
やはり、交流という点で考えるべき。
177日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:26:34
>>174
そう、遠賀川式土器で東遷説を主張する奴はいない。
「文化の伝播」と誰もが納得する。
(まあ青森あたりのものは西日本の物とは別系統・・・と寺澤の説があったかな?)

でも東遷説にかかれば「鏡」は文化の伝播ではありえず
東征勢力が持ち込んだものにしかならないw

別にヤマトと九州の何処かで同笵同型のものが大量に出たという事実も無いのにだwwwww

それに勘違いしていると思うが搬入土器の多寡で征服・被征服なんて誰も言ってないぞ?w



178日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:29:11
>>177
じゃあ、畿内説の言う「連合」の根拠はなんだ??
それに、鏡と土器とは性格が違う。そんなのもわからないかな。
179日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:34:14
>>178

前方後円墳と言う祭祀形態を各地の勢力が受け入れたと言う事だろうなw

それと言っておくが
九州以東の大型首長墓の登場は必ずしも銅鏡を伴っていない。

と言うより銅鐸から銅鏡と青銅器から青銅器へシフトしたと言うより
青銅器祭祀から大型首長墓祭祀へシフトしたと見るべきだろうなwwww


180日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:41:49
前方後円墳の誕生なんてのは、東遷説でも十分に説明できる。
むしろ、墓制というか棺の状態を考えると、そちらの方が妥当性がある。

大古墳の築造という権力の集中、あるいは労力の集中ということから考えても、
また、突然のように誕生したということを考えても、東遷の方に妥当性が
ある。

むしろ、連合という形に、大規模な首長墓はふさわしくないと思うが。
181日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:50:14
九州の首長墓というのは副葬品に力が入っていて
墓上で祭祀を執り行ったと思えるようなものが無く
そういった意味で本州四国のものとコンセプトが違う言うかwwww

まあ平原のものは例外的なのかもしれないが
それでも30mを越えるような物がバンバン作り出される本州の首長墓とは
やはりコンセプトが違うだろうwwwwww

別に前方後円墳の副葬品の体系が九州の風習を踏襲したものであっても
広域首長連合を想定している畿内説にとって何ら問題ないwwwwwwwww
182日本@名無史さん:2010/02/01(月) 09:36:36
仮に東征や東遷があったとしても、
それは畿内の「ヤマトの地」に
支配層が移動しただけですよ。

地理的に邪馬台国畿内説には別に
影響しない事なんだけどね。
183日本@名無史さん:2010/02/01(月) 10:49:58
墓制とか棺で考えると平原は問題だろうな。
方形周溝墓に割竹形木棺とそれまでの九州での墓制と異なり、しかも九州での最後の
鏡の大量副葬となるとここが一大率の可能性があるといえる。

184日本@名無史さん:2010/02/01(月) 11:05:44
伊都国が北部九州なんだから、邪馬台国が
北部九州になんて有るわけない事位当然でしょう。
185日本@名無史さん:2010/02/01(月) 12:51:05
伊都国は郡使が駐在するとこなんだが、
邪馬台国まで一ヶ月もかかる場所に駐在してるなんて情けないね
186日本@名無史さん:2010/02/01(月) 13:05:10
王になってから卑弥呼の姿を見た事がないという事だからな。
当然山奥の方なんですよ。
187縄文人:2010/02/01(月) 13:12:46
>>161
私の考えが九州説の典型だとは思わんね。九州説は奥が深いというか懐が広いというか可能性に満ちあふれているというか、
要するに「邪馬台国は九州に在った」という最も蓋然性の高いテーマのもとに行われる論説の数々であり、これに賛同する
人々は北は北海道から南は沖縄まで満ちあふれ自由に楽しく論じているのである。その世界はまさに楽園である。

この161のような脳天気が「ゆるやかな首長連合」などという実体不明のお伽噺を口にするのを捉えてからかうことができる
のも九州説なればこそである。
墓制だとか祭祀儀礼の共有が「ゆるやかな首長連合」成立の原動力であり推進力であり維持力なのか?
>>546のような畿内説派のレスからすれば墓制なんか文化の伝搬で片付けられるものだろ。他に「ゆるやかな首長連合」の
証拠となる遺跡、出土品があるか?土器か?土器なんか交易の観点から片付けられるだろ。

もっとしっかりした説明をしろ。弥生〜古墳時代の自然環境や社会環境に照らして蓋然性が感じられるストーリーにして提出
しろ。だいたいおまえさんは他人の批判ばかりで、建設的な(面白い)話題を提供しないという根性腐れの性向が強いからい
かんのじゃ。馬鹿だとかアホだとか他人を罵る用語を多用するのもよくないぞ。使うなら愛嬌のある言葉にせい。このゴジャッペ!
188日本@名無史さん:2010/02/01(月) 13:21:40
>九州説は奥が深いというか懐が広いというか

つまり妄想しか出来ないという事だろ、
それは論としては致命的だなw
189日本@名無史さん:2010/02/01(月) 13:52:11
>>187
>その世界はまさに楽園である。

地上の楽園…将軍さまマンセー!
190日本@名無史さん:2010/02/01(月) 16:12:39
熊本県宇城市あたりから宮崎県高千穂町に向かう国道沿いに、幣立神宮という
神社がある。山都町の蘇陽というところで、阿蘇の近くになる。
この神社の通称は、高天原・日の宮という。高天原というのが面白い。

隣に、天孫降臨の地とも言われる高千穂町がある。

インターネットで検索すると、相当な数がヒットする。知る人ぞ知るスポット
らしい。
http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html
191日本@名無史さん:2010/02/01(月) 16:28:42
高天原は金剛山(高天山)にあるけど。
192日本@名無史さん:2010/02/01(月) 17:44:36
>>187 縄文人
>私の考えが九州説の典型だとは思わんね。

勘違いするなよ馬鹿。

「九州説の典型」じゃなくて
「 こ の 板 の 九州説の典型」だwww
193チョッと真面目な話し…:2010/02/01(月) 17:46:10

>>57>>60に関してまあ一応は賛意を示したが…

九州のほうが戦乱の状態を本州四国より一足先に脱したとして

後に本州四国のように大型首長墓祭祀の共有で地域連合体を形成する動き(吉備や出雲あるいは東日本の前方後方墳等)を見せなかったのは何故なんだろう?

…無論、九州全体を統一支配したような勢力の登場なんて与太は普通には聞くことはないし、論外としてだw

同じように長き混乱の時期を経て沈静化した九州と九州以東で何故その後が違った動きになったのか?

これは結構個人的には古代史における一大テーマwwww
194日本@名無史さん:2010/02/01(月) 19:56:14
>>193
伊都国、奴国は漢による冊封があったからじゃないかな。三雲南小路の金銅製四葉座
金具やガラス璧などは、臣下に下賜された典礼に則った葬具だろう。臣下同士、互いに
争うことはできなかったのではないかと。

上で、柳田東遷厨が言ってたことにも一理あって、国産のガラス勾玉・ガラス管玉などは、
北部九州に地域最高の首長墓にも威信財として配布されていて、この地域には一定の秩
序があったと思われる。逆に言えば、大陸の影響が強くて、前方後円墳のような独自のも
のは生み出せず、また共同体にも参画できなかった?



195日本@名無史さん:2010/02/01(月) 20:32:02
>>194
なるほど。
逆に言えば本州四国は適度に距離があったからオリジナリティを発達させる事ができたと言う事だなw

ただ、そうすると倭人伝の狗奴国には親魏倭王の威光が通用しなかったと言うのを
どう解釈するかと言う疑問もあるがwwww

まあ、正直、確かに九州が半島に近く、半島・大陸の文物を容易に入手できたことが
果たして九州にとって良かったのか悪かったのか…なんて事を考える事もあるwwwww
196水銀厨 :2010/02/01(月) 21:34:08
狗奴国も黄幢の意味位理解したんじゃないの?
197日本@名無史さん:2010/02/01(月) 23:16:35
畿内説が必死に相手を叩くのはやはり形勢不利だからですか?
九州説が正しいのか畿内説が正しいのかはわかりませんが
畿内説が見苦しいのだけは確かなことのようです
エラい先生の御説を後生大事に背負って擁護してゆくのも結構大変そうですね
198日本@名無史さん:2010/02/01(月) 23:17:04
>>195
狗奴国が南九州だとすれば、呉と通じていた可能性もある。
串間から出た穀璧や球磨地方から出た鍍金鏡は、呉のものだから。

特に、才園古墳から出た鍍金鏡は、中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏に
よると、後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の
会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたものと位置づけられている。

まさに、卑弥呼の時代に呉からやってきたものということになる。
199日本@名無史さん:2010/02/02(火) 00:25:51
♪ここわ〜朝鮮、北端の〜
♪二百里あまりの〜、鴨緑江〜
♪渡れば〜、広漠マンチュリア〜
200日本@名無史さん:2010/02/02(火) 01:38:21
>>196
いや、だから本来なら卑弥呼が親魏倭王に封じられた時点で勝負あった…って事になるだろうって話し。

もっとも畿内説で狗奴国を東国に求める場合この話の範疇には入らないがwww


201日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:11:17
>118
>大体、小林説が廃れたと言ってもその為に従来の九州説がとっていたような年代観の呪縛がなくなったってだけでw
>それがどう東遷説の隆盛に繋がるのか意味が分からないなwwww

その年代観を修正したのは、東遷説の寺沢や柳田ですが、知らないんでしょうか?

>恐らく鉄器に関して言えば王権誕生の主要因と見る向きは今後更に減ると予想する。
>それは逆に鉄器の豊富さをもって九州の先進性としてきた従来の考え方にも修正を迫るだろうwwww

鉄器の普及は重要ですよ。橋口が証明したとおり、武器として革命的であり、
鉄製農具が普及する後期の北九州では爆発的に集落が増えます。
近年、否定されたのは鉄器の普及により畿内の社会変革が起こったという説だけですね。
202日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:15:51
>>201

> その年代観を修正したのは、東遷説の寺沢や柳田ですが、知らないんでしょうか?

寺沢や柳田が「東遷説」だと言うことを知らない。

203日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:18:40
>129
>柳田東遷説か。しかし、主流とはいえないのは、やはり土器の問題だよなあ。大和に前方後円墳
>を生み出した勢力は庄内式土器を使用したけど、これと在地の西新式土器の関係を説明できる
>のかな。いずれ庄内は近畿から福岡に持ち込まれたもので、九州発祥とする安本説はさすがに
>ないだろうし

土器は、銅鐸のような祭器以上に権力や政治圏とは基本的に無縁です。

近畿Xは、近畿に広範囲に分布しますが、分布圏に統一された政治圏を設定する学者はいません。
逆に政治的に統一されている北九州の土器はかなりバラバラですし、後になると西瀬戸の影響が強いですね。

それから九州から人がいっていることが想定される播磨大中や田能遺跡(石野)などでも九州系の土器は
でてないですね。
204日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:22:10
九州の首長墓というのは副葬品に力が入っていて
>181
>墓上で祭祀を執り行ったと思えるようなものが無く
>そういった意味で本州四国のものとコンセプトが違う言うかwwww

>まあ平原のものは例外的なのかもしれないが

これはまたトンデモですね。

平原に埋葬前の建築物OR柱列があることは常識だとおもいますが。
205日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:25:44
東撰なんて、あったとしてもごく少数で、文化的体制に影響はない程度
九州と畿内は庶民の交易程度で、ほとんど関係なし。

もちろん畿内の使者は九州なんぞを通った
中国ルートなどは持っていない。

206日本@名無史さん:2010/02/02(火) 02:48:50
しかし伊都倭国の東遷が2世紀末として、その後、纏向に鉄器や大陸の文物が増え
ないのは何故だろうな。

>土器は、銅鐸のような祭器以上に権力や政治圏とは基本的に無縁です。
これでは、人の移動についての説明にはならないだろう。なぜ、東海系の土器が多いか
についても伊都国東遷と整合性のある説明をしてほしいね。
207日本@名無史さん:2010/02/02(火) 03:30:29
>>206
逆に、東海系の土器が多いことはどういう意味があるのだろうか。
抽象的でなく、具体的には。

はっきり言って、誰かが土器を運んできたか。あるいは土器を作る人間が
やってきたかのどちらかだろう。
もし、膨大な数があるのだったら、これは土器を作る人間がやってきたと
考えるべきかな。

では、どういう人間が土器を作るのか?
身分の高い人間とか、兵隊さんは作らないだろう。弥生式土器は女性が
作っていたとされるから、女性がやってきたことになるのかな。

とすると、自分でやってきたというよりも、連れて来られたと考えたほうが
良いのではないだろうか。

東遷説的な考え方をすると、やってきたのは武装集団で、農民も女性もいない。
だから、周りからそういう人々を集めたというのが考えられる。
208日本@名無史さん:2010/02/02(火) 03:41:56
あとは文献でいえば、倭人伝でもこのあたりの部分は比較的信憑性が高いと思われるが、

>自女王国以北特置一大率檢察諸(諸国)畏憚之 常治伊都国
>世有王皆統属女王国 郡使往来常所駐

これらの解釈の問題。
ただ、纏向建都の伊都国主導というのは、上に書いたように十分議論になると思うね。
少なくとも 縄文人のトンデモ神武東征とは違う。
209日本@名無史さん:2010/02/02(火) 04:57:02
>>207

西から人が多くやってきた証拠が、東からの東遷の証拠になるなら、なんでもありだな。

だったら、天皇家は、イスラエルから来てもいいことになる。
210水銀厨 :2010/02/02(火) 09:19:01
なんでもありなら‥
まぁ弥生期で東遷説に沿った考え方をするなら
徐福の一団が分散移動した痕跡と考えるしかないんだよね。

秦との関係や仙薬を求める話、徐市(ジョ「フツ」)が
王を名乗るなんて話が出来すぎだろ。
211日本@名無史さん:2010/02/02(火) 11:22:32
>201
>その年代観を修正したのは、東遷説の寺沢や柳田ですが、知らないんでしょうか?

小林説が東遷説によって否定された????

悪いが 全 く 知 ら な い 。

生まれて初めて聞いたwwwwwww

そもそも小林説が大きく揺らいだのは椿井大塚が最古級で
副葬された三角に舶載を含むという前提で

三角の編年上、椿井大塚より古いものしか副葬していない古墳の出現による
・・・と言うものだと理解していたが

正直言って>>201の言っていることはさっぱり分からない。

もし>>201の言う事が正しければ
俺の今頭の中にある極僅かな知識もその根底から全くデタラメなんだろうが

一度『寺沢や柳田の東遷説(これも意味が分からないがw)』で小林説がどう否定されるのか
その概略だけでもご教示願えんかね?w
212211:2010/02/02(火) 11:25:04
それに鉄製武器のアドバンテージで先に縄文人が言うように神武軍団が無人の野を行くが如く東進した
…なんて言うのもはっきり言って子供の漫画レベル。

仮に畿内(ヤマトではなくて畿内でいいのか?)に金属性武器が全く無く石製・木製のものしかなかったとしても
それで九州を出てきた小集団が畿内を征服できたなんてとてもじゃないが想像すらできない。

どこぞの学者がそんな事を言っているのか?
いたらその名前を教えてくれ。
学者としてのレベル云々と言うより
もはや精神疾患を疑うべきレベルだとして書店でその著書を見つけてもスルーして無駄を省けるwwwww

同数程度の集団同士なら武器の性能が勝負を分けるだろうが
九州の鉄製武器とやらがいくら高性能でも人的被害も無く
ワンサイドゲームで戦えたなんて荒唐無稽もいいところ。

鉄製武器に何か幻想でも持っているんじゃないか?www

ネット番長の縄文人は九州軍団が戦術に長け喧嘩慣れしてるので”アタマ”を急襲して
…みたいなことを言ってたが

( もっとも現実的にはその”アタマつぶし”が成功したとしても
 そこに統治機構を作らねばならず、それには時間もかかるし人も割かねばならないわけだがw )

古来「寡兵をもって大兵を破る」と言うのはあくまでレアケースで
ゆえにその成功例は後世まで語り継がれるのであって

そんな僥倖が連続の連続でついに畿内の征服に至るなんて昔話の「藁しべ長者」だなwwww
213日本@名無史さん:2010/02/02(火) 13:28:18
>120の言ってんのは伊都国東遷説だね。

寺沢でも柳田でも庄内やその平行期は三世紀においてるから
″邪馬台国″東遷説はどのみち無理。
214213:2010/02/02(火) 13:29:47
>120じゃなくて>201のまちがい
215日本@名無史さん:2010/02/02(火) 13:32:00
>>213と、
>>201は同一人物だろ。
なんの自作自演だ?
216九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/02(火) 14:57:54
>>198
重要な発言ですね。

白銅鏡(Snリッチ青銅) : 後漢鏡
鍍金鏡 : 呉鏡
才園古墳の白銅鍍金鏡=白銅鏡+鍍金鏡 : 2〜3世紀に江南で作られた鏡

>>198仮定とは逆に上記ならば、
女王國は会稽東冶(江南)の東であるから、
女王國に南接する狗奴國は九州西岸及びその内陸部(肥前肥後)と推定される。
呉と狗奴國は東シナ海を横断して直接の交流があったのではないか。
この場合、魏には狗奴國も脅威の対象となる。

呉が狗奴國を認識していることを示す文献は無いのか?
会稽海外に東鯷人がいて二十餘國があるのは、中西部九州(肥前肥後の地域)を指している。(会稽海中ならば杭州湾沖の舟山群島を指す。)
この東鯷人の二十餘國のひとつが狗奴國であると見做せる。
  中原から見て黄海の東南にいるのが倭人。
  江南から見て東シナ海の東にいるのが東鯷人。
217日本@名無史さん:2010/02/02(火) 15:09:41
218日本@名無史さん:2010/02/02(火) 15:18:41
卑弥呼が難升米を魏に遣わしたタイミングから見ても
邪馬台国は大陸の情勢に非常によく通じていたという感じがします
ただ中国大陸まで行くだけならば、天草か長崎、鹿児島あたりから
東シナ海をまっすぐに突っ切っていったほうがはるかにたやすいことだったでしょう
わざわざ半島経由で波高く天候の安定しない玄界灘(魏志では韓海)を遠回りしてゆく必要もないわけです
呉の情勢が比較的安定していた時期には狗奴国だけでなく
あるいは邪馬台国も呉に使節を送っていたのではないかとも感じます
219日本@名無史さん:2010/02/02(火) 15:36:58
ゴホウラの貝輪が北部九州で数多く見つかっており、それは沖縄で作られた
ことがわかっている。沖縄まで往来しているのであれば、宮古・西表・台湾
伝いに江南に行くことは困難なことではない。

画文帯や三角縁神獣鏡は、呉の系統の鏡であるし、呉服なんて言葉があるように
伝統的に日本は呉とのつながりの方が強かった可能性が高い。

呉が滅んだのは、卑弥呼の死後30年ほどたった西暦280年。
これが日本に影響を及ぼさないはずはない。
220日本@名無史さん:2010/02/02(火) 17:36:38
>>206
>しかし伊都倭国の東遷が2世紀末として、その後、纏向に鉄器や大陸の文物が増え
>ないのは何故だろうな。

その場合、東遷してきた伊都国は鉄器等の大陸半島からの入手ルートを
ヤマトに持ってこなかったって事になるんじゃないのか?

下手すれば縄文人の言うような小集団が九州を片道キップで出てきて
ヤマトに向かって「特攻」かけたような話しになりかねないんじゃねえのか?wwwwwww
221水銀厨 :2010/02/02(火) 18:41:41
大体巻向は宗教都市で交易場所なんだから
鉄器はそれ程必要ないんだけどな。
222九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/02(火) 20:07:24

表記 : 東鯷人

意味 : 東方の腐った魚臭のする人
223日本@名無史さん:2010/02/02(火) 20:10:34
>>221
いいや、纏向の木製鋤などが鉄製ならどれだけ作業効率が違ったか。
224水銀厨 :2010/02/02(火) 20:49:37
>>223
勿論あるに越した事はないのだが。
農機は兎も角、武器はやっぱり戦闘の多い土地に
集中するでしょ。
225日本@名無史さん:2010/02/02(火) 20:53:54
「CO2・25%削減」で日本人の年収は半減する

http://www.amazon.co.jp/dp/481911087X/

鳩ぽっぽはもはやキチガイだな
226唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/02(火) 20:56:56
>しかし伊都倭国の東遷が2世紀末として、その後、纏向に鉄器や大陸の文物が増え
>ないのは何故だろうな。

鉄器は任那より天皇家へ供給される。
鉄器は、天皇家等支配層が一元管理。
この辺が一般へ鉄器が渡った九州との差。
227日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:03:01
>>224
わからんやっちゃな。木製鋤・鍬は農機じゃなくて、ほとんどが古墳築造用。この木製品
を加工したのは鉄製工具で鉄の用途としてはそれが最重要・最優先だった。
228日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:36:57
つまり鉄がないからこその加工木製品の発達。大土木工事は鉄器があらば格段に楽
だろうが、この特徴は3世紀になっても大勢は変わらず、伊都国東遷ならなぜ九州の
豊富な鉄が入らないのかということ?
229日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:41:43
しかも別の東遷厨によれば、箸墓などは4世紀半ばだそうだから、その時代まで大規
模古墳と木製品しかないという不思議。
230日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:41:45
そもそも古墳の周濠の底から出てくる木製の鋤等は破損・磨耗したものを捨てたと言うのではなく

それ自体が主教的意味があってなされたと言う話しもあったと思うがどうなんだろう?




231日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:46:09
纏向の木製仮面は未使用の鍬の刃の転用だし、一緒に木製盾の破片と鎌の柄も同じ
井戸跡から出土してるから、祭祀用というのもありかも。
232日本@名無史さん:2010/02/02(火) 21:55:38
あのNHKの朝鮮マンセー番組で、
倭国は鉄を輸出する代わりに労働力を輸出したと言っていた。
つまり、任那の労働者は、もともと隼人や熊襲、蝦夷といった
日本の原住民だったわけです。
そういう奴隷がそのまま定住したり鉱山の閉鎖で解放されたりして住んでいた南朝鮮は
もともと日本の領土といってもよいのではないでしょうか?
233日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:04:20
>>228
そこらへんが東遷説のジレンマだなw

九州の先進性を語るに鉄を強調すればするほど
「じゃあ何故そんな軍事にも農耕にも便利なアイテムを持ってこなかったのか?」
…となるw

加えて
「連合体なんかありえない武力征服による拡張のみ!」
と言い全国規模で展開する前方後円墳もその征服の証とするなら

ヤマトは鉄製武器もろくに持たずいきなり全国制覇を遂げたと言う事になるwww

もう、どないせいっちゅうねん!って言う話しwwwwwwwwww
234日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:17:45
だから、宗教や呪術的側面抜きに力関係だけでこの時代を語ろうとするのはムリ
があるんだよ。現代の地政学などでは絶対解けない部分があるんだと思うね。
235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/02(火) 22:20:02
>>232
あり得ない話だ。
崇神の任那建国は、210年代
百済本紀は、53年新しい方にずれている。近肖古王を
神功紀の肖古王としたときの話だが
これ以降は、鉄を取る税金分が鉄として大和にもたらされる。
労働力の供給も対価も必要ない。
236日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:25:15
絹の着物を着た連中が大きな船で上陸して、
神輿に乗って銅鐸だか鈴だか鳴らしながら練り歩るき、
わけのわからない言葉を発しながらやってきたら、
土蜘蛛の皆さんは、ただただびっくり。
鉄の槍を持った連中が追いまわせば雲の子を散らすように逃げたはず。

これで、この国を制覇した!といえばその通りなんじゃないの?
237日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:30:25
>>236
いいねそれ。少人数での東遷というなら、俺はエルナン・コルテスとケツアル・コアトル
の逸話を思い出す。その手のことはあると思うよ。現代の理で語ろうとするからなかなか
解けない。
238日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:07:10
>>233
征服したことによって、武器が不要になったんだろう。

記紀に書いてあるとおりと考えると納得できるよ。
239日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:08:17
>>237
似た話ならピサロとビラコチャもあるぞよwwwww
240日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:09:36
神武もヤマトタケルもまさにドンキホーテです。
241日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:13:02
>>236
先住民が逃げちゃだめでしょ、その形跡もないし。
242日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:13:51
>>238
不要になった武器は農具に姿を変え
繰り返し繰りリサイクルされので出土量が少ないんです?ってかwwwwwwww

苦しい言い訳はしなさんなw

鉄は農耕や土木ににも必要と言っているんだから
仮に武器が減少しても農具や土木工具の需要はなくなるわけじゃないw


243日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:15:45
日本書紀によると、高天原から最初に大和にやってきたのは饒速日命。
神日本磐余彦(神武天皇)は、その饒速日命とその部下の長髄彦と戦っている。

ご丁寧に、饒速日命の弓矢を調べ、自分のものと同じだから、饒速日命も
天神の子に間違いないと言っている。
244日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:16:56
倭王武が宋に送った上表分から考えても
征服は畿内から東西への可能性が限りなく高いしなぁ。
245日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:17:02
>>243
東遷説的に言えば

「何でそこで鏡が出てこないんだ?」

って事にならんのか?wwwwwwwwww
246日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:17:14
>>238
記紀では河内湖で大敗北してるけどな。
吉野では策略で騙まし討ち、戦闘なんてしてないし。
247日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:25:28
>>243
その部下を切ったのが饒速日命という訳わからん話。

イワレ彦とはその名のまんまで、多くの王の話を
まとめた「言われ」の話でしょう。
248日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:28:11
>>233
普通に考えれば、鉄の普及には時間がかかる。最初に武器や最小限の道具は
持って行き、それで当座をしのぐことになる。
鉄関係の職人を呼び寄せ、鉄素材を調達するわけだが、余るほどできるわけでは
ないから、それこそリサイクルしなくてはならない状態が続く。

やがて、需要に供給が追いつく頃になると廃棄されるものも出てくる。
249日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:31:19
>>245
戦いの最中に鏡が出てきたらおかしいだろう。
250日本@名無史さん:2010/02/02(火) 23:47:33
>>248
まあ纏向はやはり鉄不足の様相を呈していると見る向きが多いからなあwwww

そんな最小限の鉄(今日出土する量から推定される程度の)でヤマト王権を興す事ができたのなら
やはり鉄の重要度はかなり下がるって結論にならざるを得ないwwwwwww

「ヤマト王権はやはり”鉄”で興ったんですよ。
 でもそれは極々僅かで九州から持ってきたなけなしの鉄なんです」

…って、そりゃご都合主義もいいところwwwwwwww
251縄文人:2010/02/03(水) 00:02:09
私の神武東征は>>220が言うような単純なものではない。小集団といっても国を挙げて東征するというものではない
という意味である。千人程度は居ただろうし、訓練された兵士と戦略,戦術、政略に通じた指導層が居た筈だ。九州に
居ればそのようなことを学べたのだ。一方瀬戸内や畿内はまだ戦慣れしない農村社会の村であるからこれらを征服支配
するのは容易である。

神武らは先進技術知識を持ち込んで奈良湖の干拓事業をはじめたのだ。鉄器も持ち込んだので道具の生産が容易になり
従来細々と行われていたかも知れない干拓事業が大いに進捗した。大いに進捗とは言っても従来に比較してのことで、
この地に大きな人口を養えるほどに事業が進むのは約2世紀後、崇神の時代になってからである。
252縄文人:2010/02/03(水) 00:06:06
纏向に鉄の出土が少ないのはここが戦場や住居域でなかったからだ。墓域なのだから当然だろ。
253日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:10:31

まあ鉄一つとっても東遷説は自己矛盾を隠せ無い訳でwwwwwwwwwww

散々九州の優位性に鉄を持ち出しヤマトの鉄不足をあげつらっておいて
九州から持ち込んだ鉄は極少量でいいと言い放ち

出土する絶対量の多寡も、てめえらの解釈でなんとでもなる幼稚なご都合主義wwwwwwwwww
254日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:23:43
>>252 縄

つうかだな、統計の数字を持っているわけじゃないが九州にしろ後の畿内ヤマトにしろ
鉄の出土はやっぱり墓からが圧倒的に多いんじゃないのか?普通wwww

戦場に落とされた武器や田畑に放棄された農具が出てくる方がマレだと思うぞ?wwwwww

255日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:25:52
どうにもならないのは、弥生時代の近畿にみるべきものがないということだな。
256日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:26:14
>しかし伊都倭国の東遷が2世紀末として、その後、纏向に鉄器や大陸の文物が増え
>ないのは何故だろうな。

いや鉄器は、庄内から増加します。庄内開始が契機であることは間違いないですね。

>>土器は、銅鐸のような祭器以上に権力や政治圏とは基本的に無縁です。
>これでは、人の移動についての説明にはならないだろう。なぜ、東海系の土器が多いか
>についても伊都国東遷と整合性のある説明をしてほしいね。

まきむく遺跡の土器の性格については、服属儀式に伴うものという解釈が多いですね。
政治的優位にあった九州の土器が少ないのは当然として、劣位にある東海の土器が多いのも
当然ですね。
257日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:27:26
考古学的に意味を持つのは、使用している時期ではなくて、廃棄された時期
なのだけどね。
258日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:33:21
不思議なのは、この縄文人でも箸墓が4世紀半ばとか言ってたが、吉野ヶ里などは
鋤・鍬の鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具も豊富に出土してる。布留0式がその年代とし
て、その時期まで鉄製品を使わないで土木工事をやってたのならヤマトは大後進地
域ということになるんだがね。
259日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:35:06
201
>211
>>その年代観を修正したのは、東遷説の寺沢や柳田ですが、知らないんでしょうか?
>小林説が東遷説によって否定された????
>悪いが 全 く 知 ら な い 。

小林の学説のうち、どの部分を指して言われているのか意味不明ですね。

まあ、仮に小林ら畿内の学者の年代観のことを言われているのであれば、
柳田ら九州の学者の主張に大きくかけはなれた年代を彼らが主張しており、
それが、寺沢や森岡のような畿内の埋文行政の方が修正して、結果として、
九州の学者の年代にあわせる形で決着したというのはこの世界で知らない
者はいないと思いますが。




260日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:39:19
>>259

聞きたいのはそこに「東遷説」とやらがどうコミットしたのかって事なんだがw


261日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:43:33
>>256
ヤマトの性格に気づいていないな。東海や近畿の物資を集めて九州へ送る
基地の役割を果たしていたんだよ。だから、各地の土器があるが、九州の
土器は少ないんだ。
262日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:49:35
>212
>仮に畿内(ヤマトではなくて畿内でいいのか?)に金属性武器が全く無く石製・木製のものしかなかったとしても
>それで九州を出てきた小集団が畿内を征服できたなんてとてもじゃないが想像すらできない。
>どこぞの学者がそんな事を言っているのか?
>いたらその名前を教えてくれ。
>学者としてのレベル云々と言うより
>もはや精神疾患を疑うべきレベルだとして書店でその著書を見つけてもスルーして無駄を省けるwwwww

何を言われているのか意味不明ですが、中山から原田、柳田、橋口(この方は可能性
を指摘しているだけですが)と九州の考古学者の主流はそういう考えですし、寺沢に
しても第一次の高地性集落の性格を九州勢力への対抗との解釈であり、地域間の戦闘
は当然想定済みですね。
一方で過去の畿内の学者は衰退した九州を後期に制圧した、その証拠が高地性集落である
としており、こちらも方向性は違ってもはり地域間の戦闘を想定していますね。

別に厭なら読まなくてもいいんでしょうが、橋口、柳田、寺沢といった方々は
土器その他の編年の基準を作っている方なんで、排除すると考古学が成り立
たないですね。

まあ、こういうちゃんとした編年を完全に無視して自説を主張している方、たとえば安本さん、
森さん、奥野さん、七田さんような方もいるにはいますが・・・




263日本@名無史さん:2010/02/03(水) 00:55:16
>ヤマトの性格に気づいていないな。東海や近畿の物資を集めて九州へ送る
>基地の役割を果たしていたんだよ。だから、各地の土器があるが、九州の
>土器は少ないんだ。

それはないですね。庄内は九州にかなり行ってますが。


264日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:00:55
>>256が言っている東遷説が伊都国東遷説として…

伊都国が東遷して纏向を打ち立ててもやはり本場九州よりは
政治的には下位だったと言う事か…

そこからヤマトが優位になるのはやはりヤマト自信の自助努力によるものになるんだろうなw

それに庄内を画期にして鉄が増えると言うのもイマイチピンと正直来ない。
まあ当社(=ヤマト)比としては増加しているんだろうが

そこに九州からの東征勢力の存在を見ることができるほどか?と言われれば大いに疑問。
(ぶっちゃけ後のウワナベの陪冢から出てきた大量の鉄テイみたいな事例でもあればピンとくるんだがwwwww)


結局それらの事は特に伊都国の東遷なんて事を想定しなくても起こりうる現象なんじゃないかとwwwwwwwww
265日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:01:20
>207

石野は、田能遺跡などの解釈について、ご指摘のように男性だけ行った土器が現地の女性が
作ったという見解ですね。

後期の九州への西瀬戸の土器の影響もそういうことかもしれませんね。
266日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:03:40
>>263
物資を九州に送ったら庄内が九州に行くのも当然だろ。
267日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:08:18
>264

そういうことよりもいくらさがしても卓越した階級的首長層の根拠が
見られない畿内に、いきなり卓越した階級的首長やマキムク遺跡の
ような都市的遺構が登場することが、もはや小林らのいうような畿内
独自の社会的変革では説明できなくなったということです。

ただ、鉄については、九州からの技術移転を村上が主張していますが・・・

268日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:24:10
  ______
/_____/ |
|  ⌒  ⌒  |  |
| (∂) (∂)  |  |
|   ∠    |  |   畿内だろ!
|  トェェェェイ  |  |
|  \ _ ノ  |  |
|_____|_|
| ⌒  ⌒  |  |
| (≧) (≦) |  |
|   ∠    |  |  九州王朝!!
|  トェェェェイ  |  |
|  ヽ__ノ   |  |
|______|/|
|  ⌒  ⌒  |  |
| (●) (<)  |  |
|   ∠    |  |  実は四国!
|  トェェェェイ  |  |
|  \ _ ノ  |  |
|_____|_|
| ⌒  ⌒  |  |
| (○) (○) |  |
|   ∠    |  |  ねえよどこにも
|   _    |  |
|         |  |
|______|/
269日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:27:02
>>262

まあ少なくとも寺沢に関して言うと・・・

>実際には、北部九州と瀬戸内、近畿諸国などの間で長距離間戦争が勃発した様子は無い。

としてある(王権誕生)

とりあえず神武東征とは関係の無い話だなwwww
(もっとも九州恐怖症とか被害妄想みたいなものが記紀編纂時にまであったと言う話なら無関係ともいえないがw)

しかしあくまで高地性集落のような規模の大きい現象に東征の痕跡を見るのなら
そりゃ縄文人とか言う奴が言うような規模の集団移住じゃなく勢力拡大としての東進だと思うが

それにしては先の鉄と言いその痕跡を伺えるものが無いw

>>267
>もはや小林らのいうような畿内
>独自の社会的変革では説明できなくなったということです。

今そんな事を主張している奴がいるのか?
このスレですらいないと思うがwwww

じゃあ九州を持ってきたら上手く説明できるのか?って話で

埋葬文化を地域によって共有すると言う動きを見せなかった九州は
纏向の文化から一番遠い存在だとも思うがwwwwwww

270日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:34:58
歴史を感情論で語ってる辺り、韓国人と大差ねーなwww
271水銀厨:2010/02/03(水) 01:35:41
鉄が少なかろうと弥生後期から大和盆地に
権力が集中したのは間違いない事だからね。

結局説明出来るのは辰砂を求めて大陸からの勢力が
やって来たという事ですよ。
272日本@名無史さん:2010/02/03(水) 01:38:14
>>269
高地性集落と東征は特に関係ないと思うが。
卑弥呼時代の相当前から、かなりの長期間にわたって襲われてきた。
自然と見張りを兼ねた防御的な集落が出来ていった。
そういうことだろう。

突発的な東征を予測して高地性集落を作ったなんてことはありえないわけだから。
273269:2010/02/03(水) 01:49:47
ヤマトの鉄の増加量に関して言えば・・・

画文がその実年代をいつ頃にするか舶載か倣製かを別にしても
畿内を中心に分布してるのは間違いないわけだが

それに比してヤマトでの鉄の出土量はどうもギャップがありすぎると言うのは
普通に誰もが思うところではないのか?w

つまり

 威信財としての銅鏡>鉄 

鉄でクニを起こして後、銅鏡(画文→三角)をばら撒いたと言う風ではない。

むしろ鉄は”後からついてきた”とみる方が自然だろうと思うwwww




 
274日本@名無史さん:2010/02/03(水) 06:29:08
>>271
>鉄が少なかろうと弥生後期から大和盆地に
>権力が集中したのは間違いない事だからね。
問題は、それが最高の権力か、九州の下にあった権力かということだよ。
考古学者は前方後円墳の大きさをみて最高の権力だと思い込んだが、そん
なものは多くの労働力さえあればできることだ。
九州から東征してきた連中が新しく服従した連中を使えば簡単にできるこ
となんだよ。畿内の墓が元々の畿内人で造ったにしてはおかしい、九州の
色、吉備の色などが色濃く見えるということはそういった見方を裏づける
ね。
275日本@名無史さん:2010/02/03(水) 07:26:25
>>274

>九州から東征してきた連中

その連中が居たという痕跡がまったく無いのだが。
何人規模の「連中」なのか、説明してくれんかね?
276水銀厨 :2010/02/03(水) 09:44:44
>>274
巻向に九州独自の影響は少ないと思うけどね。
丹波、吉備、阿波の影響の方が大だし。

辰砂(水銀朱)を重用するのはあくまで
大陸系の思想でしょう。
277日本@名無史さん:2010/02/03(水) 09:45:11
>>275
>痕跡がまったく無いのだが。

ここまでいくとただのカルトですなww
278日本@名無史さん:2010/02/03(水) 09:50:10
>>277
痕跡があるなら、具体的に書いてください。
あと、「連中」の子孫がいると思うけど、天皇家以外に誰がいるの?
その連中はどこを拠点に住んでいたの?
当然、豪族に発展しただろうから、その豪族名は何?

279日本@名無史さん:2010/02/03(水) 10:13:02
ここまで痕跡がないと言うことは
巻向は九州と関係を持たなかったと
考えるのが自然だ。
280日本@名無史さん:2010/02/03(水) 11:05:26
>>279  壊れたレコードだな。まさに今の畿内説を象徴する。

>>278

纒向のどこに天皇がいてどこに豪族が居たのですか。
その具体名を答えてください。
281日本@名無史さん:2010/02/03(水) 11:54:27
はははは。
東遷説フルボッコだな。
もう死んだ説ってことか。
282縄文人:2010/02/03(水) 12:57:51
>>272
高地性集落に関してはその通りだと思う。皆もこの人のように冷静に考えたらいいね。

>>274
そうなのであるが、畿内説派はこれにまともに答えることができない。

>>280
ほんにほんに。マキムクに九州の痕跡がないの繰り返しばかり。副葬品など九州の文化を継いでいるのに
見たくない。いやいやと言って目をつむる。(恐らく銅鐸を鋳潰して)大量生産した銅鏡をばらまいてい
るが、この銅鏡生産技術は畿内で独自に育ったものではない。九州に育っていた技術によるものだ。

だいたいマキムクの遺跡が3世紀のものだという証拠もないのに浮かれ騒いでみっともないぞえ。
283まあこう言う事なんだろうとwww:2010/02/03(水) 13:15:16
しかし伊都国東遷厨とは話がかみ合わないと言うか
言ってる事が良く分からないのが何故か?…と考えて見たんだが…w

そもそも、誰も寺沢や柳田の編年、およびそこに与えられた実年代の数字を否定していないんだが…
恐らくこいつの頭の中じゃあ

 小林説が省みられない現状 → 東遷説の大勝利!(^▽^)

…という図式が出来上がっちゃっていて

 寺沢や柳田の年代観を認めると言う事は即ち東遷説を認めること

…というロジックが完成しちゃってるんじゃあ無いだろうか?w

その事が

>一方で、倭王権の成立については、東遷説が非常に多くなっていますね。

と言う現状認識に繋がっているんだろうとwwwwwwwwww

284日本@名無史さん:2010/02/03(水) 13:30:04
>>282
>副葬品など九州の文化を継いでいるのに

そう、文化を受け継いでいるw

日本は、仏教文化を受け継いでいて、儒教文化を受け継いでいて、稲作文化を受け継いでいて(以下略
しかしその度に征服されたわけでもなんでもないwwww

文化の急激な変容をもって支配者の交代劇、王朝交代劇の根拠とするなんてのは

かつての「騎馬民族征服王朝説」と全く同じ論法w
285日本@名無史さん:2010/02/03(水) 14:03:50
仏教文化を日本は朝鮮から輸入したが、
それをもって朝鮮人が日本を征服した証拠だというなら、聞く耳も持ってやる。

しかし、
「日本が仏教を受け入れたことが、朝鮮人が日本を支配した証拠にならない」なら、
「畿内が九州の文化を受け入れたことが、九州が畿内を支配した証拠にならない」というわけだ。

こんな単純な話が理解できないんだよなあ。>>282とかは。

286太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/03(水) 14:12:26
縄文人氏はヒマ人なのか?w 規制の有無をテスト。
287日本@名無史さん:2010/02/03(水) 14:36:20
>>282
>副葬品など九州の文化を継いでいるのに

この場合、「九州の文化」とは、北部九州の弥生の葬送文化だね。南九州ではないね。

そうすると問題になってくるのが、甕棺。

甕棺は、畿内の古墳文化には受け継がれていないね。

なぜだろう? 理由を述べてもらいたいね。
288日本@名無史さん:2010/02/03(水) 14:36:29
銅鐸は、人里離れたところに人為的に埋められた状態で出土することが多い。
これは隠したと考えるのが妥当だろう。
中には、叩き割られたようなものもある。

取って代わるように鏡が登場する。古墳といえば、鏡が連想されるように
この傾向は顕著で、逆に古墳に銅鐸が伴われることは全くない。

これは宗教的変化といってもいい。このような激変が単なる文化の変化で
説明できるものだろうか。極限まで大型化し、精緻化していったものが
ある時期を境に二度と表に出ることはなかった。

歩調を合わせるように、大型古墳の出現。葬儀方法の変化などが見られる。
それまで見られなかった権力者の出現がうかがわれる。
これをもっとも的確に説明しようとするなら、異なる宗教文化を持ったものの
支配だろう。

>>285
仏教は、当時の支配者層が統治に都合の良いものとして取り入れた。しかし、
それまでの神道系のものがなくなったわけではない。むしろ、現代の皇室行事
でさえ神道一色で、仏教的なものはまずない。
289水銀厨 :2010/02/03(水) 14:53:57
この年代のアジア事情を語るのに、宗教的側面からの
考察が欠けるとダメですね。
大体揉めるのは宗教観の違いでしょう。
290日本@名無史さん:2010/02/03(水) 15:06:07
忽然と消え去った畿内の銅鐸文化は非常に興味深いですね
アレと似たものを中国華北の農村、瀋陽近郊の農村で見たことがあります
軒先に懸けて魔よけにするのだとか
畿内に銅鐸文化を発達させた集団は半島東部から馬などとともに
日本海を越えてやってきたのかもしれません
291日本@名無史さん:2010/02/03(水) 17:48:51
所詮、銅鏡や副葬品の体系なんてものは古墳の構成要素の一つ
 
「ワン・オブ・ゼム」っちゅうやっちゃねwwwww

古墳は鏡を副葬するための「入れ物」じゃない。

「木を見て森を見ず」と言うか「鏡を見て古墳全体を見ず」と言う
視野狭窄を起こしているのが東遷説論者のご一行wwwwwwwwww
(まあ鏡を過大に扱ってきたのは何も九州説だけの事でもないんだろうがw)

そもそも本州四国の大型首長墓の登場に必ず鏡の副葬が必須と言うわけでもない。
四隅の西谷3号墳、吉備の楯築から鏡が出てたっけ?

「少なくともヤマトは…」と言うかも知れんがじゃあホケノ以前の前方後円墳は?

まあこれが副葬品の体系も含め前方後円墳の祖形が九州にあったなんてことであれば
その『 九州版ウリナラ起源説 』も説得力あるんだろうがwwwwwwwwww
292日本@名無史さん:2010/02/03(水) 18:28:58
『本州四国における大型首長墓の登場と社会構造の変化について』のチラ裏

>>194-195あたりの話しの続きになるが、戦いが長きに続き戦争状態が恒常的になると
それまでの長老支配的な旧いムラ社会より
より強力なリーダーをいただく社会にシフトしたであろう事は想像に難くない

その社会構造の変化は確かに九州の方が早かったのかもしれない
(なんたって銅矛と言う武器型青銅祭器なんだしw)
が、埋葬文化・祭祀を共有し地域の連合体を作るような動きは本州四国に見られる事になる。

>>194の説明なら九州は過去の成功例?から抜け出せなかったと言う事になるかもしれないw

まあ”中央”から距離をおく地域が過去のしがらみにとらわれず大きな変革を成し遂げ
やがて中央もその支配下に置く…なんてことは東西の歴史でも別に珍しい話じゃないだろうw

倭人伝によれば結局、倭国では最終的に巫女と思われる女性の共立で手打ちになったと言うのだから
まだプリミティブな社会構造を残した段階、過渡期の印象は受けるwww

まあ、そうすると畿内の方が似つかわしいと言う話でオチとwwwwwwwww

293日本@名無史さん:2010/02/03(水) 19:10:43
例の人が畿内説の醜さを代表している観があるな。


恥さらし
294日本@名無史さん:2010/02/03(水) 19:13:27
九州説は既に死にました
295日本@名無史さん:2010/02/03(水) 19:53:46
そう言えばふと思ったんだが…

東遷説のバリエーションで「狗奴国東遷説」ってこの板でもまだ見た事がなかったなw

狗奴国が邪馬台国との争いに敗れてヤマトに落ちのびるって話www
296日本@名無史さん:2010/02/03(水) 21:00:48
特殊壺・特殊器台の分布から、東遷したのは、吉備の勢力だったのは明白。
九州勢力は伽耶の外です。(笑う)
297日本@名無史さん:2010/02/03(水) 23:21:06
日本書紀によると、大和への東征は二段階に分けて考えることが出来るのでは
ないだろうか。一つ目は饒速日命。二番目が神武東征。

もし、これが史実に基づいているとすれば、大和にはそれぞれの痕跡、あるいは
一つの断絶のようなものが見られると考えられる。
どんなものだろう。
298日本@名無史さん:2010/02/03(水) 23:27:01
奈良(巻向)が墓地というのは、どこの勢力の墓地?
九州?
299日本@名無史さん:2010/02/04(木) 00:31:58
>>288
>逆に古墳に銅鐸が伴われることは全くない。

しかし今日び「銅鏡勢力による銅鐸勢力の駆逐」なんて根拠で東遷説を唱えてるなんて
やっぱネット上でしかお目にかかれないのかな?

リアル学者でいたなら教えてくれwwwwwwwwww

まあマジレスすればそもそも銅鐸は副葬品じゃ無いだろうってって事で
副葬品でないものを古墳時代になって副葬し出したらそっちの方が変だとwwww

「じゃあ弥生時代の墓から人骨と銅鐸が出てきた例がどれだけあるのか」

…って話しw

まあ皆無って事も無いが普通の銅鐸とは別のレプリカみたいな感じなのかな?www

http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10000285/0/sousyo56/section10.htm
>2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。
>銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。
>模様のない小銅鐸は九州や千葉県でいくつか墓に入ったものがありますが、普通の銅鐸は墓には入れてありません。
>奈良県でひとつだけ墓に入った銅鐸があると言う人がいますが、私が発掘現場を見たかぎりにおいて墓に入っていたというには少し無理があります。
>だから今のところ、銅鐸を墓には入れないと考えられています。
300299:2010/02/04(木) 00:50:37
そもそも
「全ての銅鐸が古墳時代になって一斉に廃棄された」
…なんて想定自体が無茶なお話であって

この板の東遷厨どもにかかれば昨日まで使っていた銅鐸を叩き割るすぐ横で
前方後円墳に鏡を副葬したような絵ができちゃうわけだがwwwww

複数出土例の組み合わせを見れば
大型の一途を辿る突線紐式の前の扁平式でヤマトはほぼ銅鐸祭祀が終焉している。
突線紐式の特に後半はやっぱり近江や東海が中心。

まあ神武君が大和入りした時点ではその肝心のヤマトでは銅鐸祭祀のピークは過ぎちゃってるんだろうw

とりあえず奈良県における複数出土例を一つ上げておく…

http://www.yayoi.sakuraweb.com/cyber-mizuho/iseki/1_akisino.htm
301日本@名無史さん:2010/02/04(木) 01:00:29
なんで、銅鐸→銅鏡→巨大古墳 と一直線上に考えるんだろ
銅鐸を使ってた民族、銅鏡の民族、巨大古墳の民族
とそれぞれが歴史と空間を通り過ぎて行ったと考えても良いんじゃないの?
銅鐸民族の消滅と、その後の勢力の移入は相対関係無いかも解らんよ
302日本@名無史さん:2010/02/04(木) 01:07:37
銅鐸は集落共同体による集団の祭祀で、鏡の副葬は個人崇拝だから宗教的な
性質は違うんだが、九州説にはそのあたりの深い議論はないんだ。
303日本@名無史さん:2010/02/04(木) 01:12:48
>>301
そう言う想定の場合銅鐸消滅時期と銅鏡登場時期との間で「空白」の時間が想定可能になるのが
東遷厨的には不味いんじゃないのか?w

まあ連中の都合なんでそっちに聞いてくれwwwwwww

>>302
なるほど「集団」と「個」か、確かに分かりやすいなwwwww


304日本@名無史さん:2010/02/04(木) 01:15:46
銅鐸は狩など天然の恵み頼みな絵が多い、実利の観念
銅鏡は神獣など空想世界、形而上的な観念
共同体だの祖霊信仰だの首長霊信仰だの言う前に、生活基盤がまったく異なる頭から出たものの様に思うが
305日本@名無史さん:2010/02/04(木) 04:31:05
銅鐸の出土状況などから、銅鐸の終焉は、違う宗教文化を持つ権力者に
支配された結果だと考えるのが一番妥当だろう。

年代を特定するのは難しいが、時期がずれるというのなら、銅鐸祭祀がなぜ
終わってしまったのかを説明する必要がある。祭祀的なものは、ただやめる
というのは不自然で、他のものに移るというのが自然だろう。

寺澤薫は、銅鐸祭祀から特殊器台祭祀に代わったと言っているらしいが、
ひじょ〜うに説得力がない。年代観としてはそれでいいのかもしれないが、
そこにあったもので間に合わせたというような姑息な考えだと思う。

畿内説の考古学者は、神武東征のような出来事だけを意識的に避けている。
それだけ強く意識している証だとも言えるが。
306日本@名無史さん:2010/02/04(木) 09:21:42
>>305
意識して調べた結果、「九州勢力の」東征は無いって事です。
307日本@名無史さん:2010/02/04(木) 09:23:24
大陸から流入してきた文化が
列島の西から東へと伝えられたという考えは
畿内説にとって非常に都合が悪いのでしょうね
308日本@名無史さん:2010/02/04(木) 09:30:34
仮に存在したとすれば畿内にある邪馬台国に、
戦乱の結果追い出される形になる、半島系の王室から
王を迎え入れたという事でしょう。
征服王朝という考え方は無理ですね。
309日本@名無史さん:2010/02/04(木) 09:35:29
>>307
>畿内説にとって非常に都合が悪いのでしょうね

別に、九州勢力を特別視しない、東国勢力を
軽視しないだけです。

流入口は南方にも丹波・出雲にも有ります。
310日本@名無史さん:2010/02/04(木) 10:29:24
>>307
小学生乙www
大陸・朝鮮半島の文化が直接本州側に入ってきていたとしたら、は九州説にとって
都合が悪いもんなw

>>308
九州説の人間はいかに短絡思考かって分かる考え方ですねw
311日本@名無史さん:2010/02/04(木) 10:57:50
>>310
まったく都合は悪くありませんよ
出雲や、但馬、越、畿内へは朝鮮半島東部から直接文化が入ってきていたでしょう
あるいはそれが銅鐸文化であったかもしれません
これら北方系の風俗は魏志に書かれている倭人のそれとは大きく趣を異にしています
畿内で銅鐸文化に替わる文化が出現したのはなぜなのか、その点が興味深いものです
312日本@名無史さん:2010/02/04(木) 11:21:09
>>311
やっぱり都合が悪いのか、理解できてないようだねw
大陸や朝鮮半島から入ってきた文化や勢力によって銅鐸の使用をやめた可能性
も考えられることを
313日本@名無史さん:2010/02/04(木) 11:48:49
>>311
簡単に言うと、東征なんてものがあったのなら、
九州は中継点だっただけという事でしょう。

東征の目的が畿内にあったという事ですよ。
考古学的にも文献解釈でも。

しかし武力による東征(民族の移動)なんてものは
痕跡上は考えられないという事です。
314日本@名無史さん:2010/02/04(木) 12:35:04
>>313
>東征なんてものがあったのなら、九州は中継点だっただけという事でしょう。

個人的な仮説としてはまさにそのように考えています
景行天皇、神功皇后は
朝鮮半島南部(多羅)から北部九州に上陸してきた侵入者ではないかと考えています
彼らは九州北部をまたたくまに制圧し、宇佐に逃れていた邪馬台国の末裔と姻戚関係を結んだうえで
東進を開始したのではないか、宇佐八幡の存在が何故皇室にとって大きなものであるのかについての
ひとつの理由もこのあたりに見出せるように思います
この仮説が大きく外れていても、宇佐と皇室との関係は無視できません
魏志の邪馬台国が宇佐にあったとは思いませんが、皇室に深い関わりを持っているのは確かなことであるように感じます
315日本@名無史さん:2010/02/04(木) 15:52:02
1世紀に博多湾岸に在った倭奴国が発展し
3世紀には北部九州を支配する倭国(邪馬台国)になった
この倭国が5〜6世紀には朝鮮半島に進出し高句麗と覇権を争った
同じく倭国の一部勢力が5〜6世紀に畿内に進出しヤマト王権を打ち立てた
7世紀の終わりにヤマト王権は本家の倭国を滅ぼし日本を統一。
316日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:16:46
>>315

九州王朝説は他でやれ
317日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:23:12
元々朝鮮に文化なんてないよ
20世紀初頭の朝鮮の文化レベルは鎌倉時代といわれている
当時の朝鮮人の大部分は縦穴式住居みたいな小屋にすんでいた
朝鮮には元々文化なんてなっかた
318日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:29:02
畿内は北方というよりは、南朝とのつながりを感じる。
九州は北方の王朝とのつながりが深そうだね。

>>315
>倭国の一部勢力が5〜6世紀に畿内に進出し

高床式の田舎の農家をでかくしたような水垣宮(メディアでは卑弥呼の宮殿とか言われていたやつ)
は誰が造ったんだ。
5世紀以降という事はないよな。
319日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:33:57
「魏志倭人伝」の邪馬台国は、女王が即位していたから“母系社会”と思われがちだが、
一夫多妻制で、罪を犯せば妻を没収されるなど、男尊女卑という印象を強く受けるぞ。
万葉の時代など、畿内では、結婚に際して母親の意見がとてつもなく大きな影響力を
持ち、母親が反対すれば若い二人は結婚を諦めた・・・などという状態だったらしい。
320日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:42:22
>>318
>誰が造ったんだ。

ヤマト王権に滅ぼされたプレヤマト王権。
321日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:48:22
>>320
発掘調査で、滅ぼした形跡が見つかったのか?
322日本@名無史さん:2010/02/04(木) 19:05:56
>>319
単純に父系・母系と言う分類に走ると事実から遠ざかる気がするw

個人的には、まだ「系」と言う概念ができてなかった社会と言う可能性を考えたい。

倭人伝の
「その会同坐起には父子男女別なし」
と言う記述はそれっぽくないかな?wwwwwwwww

それに銅鏡の銘文をあげるまでも無く倭人はかなり早くから文字に接触していたのに
どうもそれの採用に当初積極的で無かったみたいだし

それは自分達のルーツに関しても、それを記録しようとする必要性を感じてなかった事が一つあるんじゃないかと思っているwwwwwwww
323日本@名無史さん:2010/02/04(木) 19:18:18
>>305
>銅鐸の出土状況などから、銅鐸の終焉は、
>違う宗教文化を持つ権力者に支配された結果だと考えるのが一番妥当だろう。

出土状況の具体例を挙げてその考察過程を説明してみ。
この書き方から推察するに、ほんとうに検討したとは思えないな。

>寺澤薫は、銅鐸祭祀から特殊器台祭祀に代わったと言っているらしいが、

読んでもいないだろ?

>ひじょ〜うに説得力がない。

笑わせるな。
324日本@名無史さん:2010/02/04(木) 20:41:22
特殊壺・特殊器台の分布から、東遷したのは、吉備の勢力だったのは明白。
出雲の加茂岩倉遺跡に銅鐸が大量投棄されたのは、吉備に征服されたことを意味する。
325日本@名無史さん:2010/02/04(木) 21:11:24
>>324
言ってることがテキトー過ぎ。

加茂岩倉遺跡の埋納は中期末と考えられる。
特殊壺・特殊器台が見られるのは後期後半からだ。
しかも西谷3号墓から出土している。

吉備と出雲は政治的・祭祀的に関係を持っていたと思われる。
326日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:07:34
>>325
どうやって埋納の時期が分かるんだ?????
327日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:10:26
>>305
銅鐸の終焉が、他の宗教文化への敗北の結果というのは、ふつうに考えて
そのとおりだろうな。

しかしこの考えを認めると、神武東征につながる危険がある。

軍靴の音が聞こえてくるので、別の考えにするべきだなww
328日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:15:44
昔じゃないんだから大丈夫。

こんなネタを普段の会話してりゃ
既に皆しょっぴかれてるだろ。
329日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:25:45
>>324
神武東征のとき、古事記によると吉備の高嶋宮で八年座したとなっており、
日本書紀では、やはり吉備の高嶋宮で三年居したとなっている。
吉備ではけっこう長期間滞在したことになっている。
330日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:27:32
>>327
言っている意味がわからないな。記紀は禁書ってことかな???
331日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:34:07
出雲や畿内の影に隠れがちではありますが、古代日本史を考えるうえで
吉備が非常に重要な地域であることは間違いのないところでしょうね
332日本@名無史さん:2010/02/05(金) 00:28:14
>>326
>どうやって埋納の時期が分かるんだ?

荒神谷の銅鐸は同時に出土した中広型銅矛が作られた中期後葉以降。

複数埋納銅鐸を形式ごとに整理すると、突線鈕1式を境に、
以前の形式のものと以後のものとは、一緒に埋納されていない。
つまり、突線鈕2式が作られる頃には、それ以前の銅鐸は埋納されつくされていた。
(以上 寺沢)

荒神谷   菱環鈕1、外縁付鈕5
加茂岩倉  外縁付鈕30、扁平鈕9

銅鐸の形式変遷
菱環鈕→外縁付鈕→扁平鈕→突線鈕1、2、3、4、5

銅鐸の製作時期
外縁付鈕は中期前半〜中頃、扁平鈕は中期後半、突線鈕は後期
333日本@名無史さん:2010/02/05(金) 00:33:57
>>332
それでは「もっとも古くしてもここまでしか遡れない」ってことだけしか言えないのでは?

寺沢は『邪馬台国時代のツクシとヤマト』では別のことを書いているけど、そっちのソースは何なの?
334日本@名無史さん:2010/02/05(金) 00:50:22
>>332
>外縁付鈕は中期前半〜中頃、扁平鈕は中期後半、突線鈕は後期

確実に中期に遡る銅鐸なんてない。銅鐸の開始は後期からにする方が穏当だよ。


まあ、それだと九州が鏡と鉄と青銅器であふれていた時期に本州では何もなかったことになるが、
かといって無理して古くするのも、空しいだけだよ。

畿内説は銅鐸を無理して古くする傾向があるけど、みっともないよね。
335日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:01:29
>>333
荒神谷以降、突線鈕2式製作以前、ということ。

寺沢のソースは「王権誕生」
「邪馬台国時代のツクシとヤマト」は手元にあります。寺沢のとこは未読だけど。
どこの部分か教えて下さい。

>>334
>外縁付鈕は中期前半〜中頃

こちらのソースは福永伸哉。ただし、佐原眞「銅鐸の鋳造」からの参照だそうです。
336日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:04:57
荒神谷遺跡の銅剣は、中期の終わり頃から後期の初め頃らしい。
加茂岩倉遺跡の銅鐸もそのあたりということでいいのではないだろうか。
佐原編年でもそうなっているようだし、埋納の仕方も似ている。

銅鐸は、あまり使用された痕跡がないそうだから、それほど長く保管される
ことなく埋納されたらしい。
337日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:17:38
>>327-328

>>327は「いつもの怨み節の東遷厨」なんだろうが…

大体、戦前なら安本美典も憲兵に引っ張っていかれたんじゃねえのか?w

「邪馬台国」東遷説でどうやってBC660の神武橿原即位を説明すんだ?アホww

まあ脳内イデオロギー闘争でアタマイッパイイッパイなんだろうがwww
338日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:25:44
どう考えても九州勢力の東遷なんてのは
もはや有り得ない話でしょう。
339日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:42:35
>>335
佐原は学者のなかでも銅鐸開始と使用期間をもっとも極端に古く考えている。

どうしてそんな極論を出さざるを得なかったかというと、弥生時代の鏡、青銅器、鉄の出土は
九州が本州を圧倒していたので、銅鐸を古くしないとバランスが取れなかったから。

佐原は、鉄の出土で九州が数十倍であったことも、「本州の鉄はよく溶けるし、リサイクルされていた。」
という考えだった。

鏡の出土で、九州が数十倍であったことも、「本州は鏡を墓に入れる風習がなかったので全部伝世して
古墳時代に埋められた。」というのが、当時の畿内説の基本だった。

要するに、弥生時代は 「   九州>>>>>>>>>本州  」という圧倒的な差が存在するのだが、
それを認めると、古墳時代にそれが逆転することの説明として、記紀などのすべての文献が伝えている
神武東征につながるので、左翼が支配してきた学界では、九州の優位という前提をあえて無視する。

   「学者とえせ学者との区別は、事実に対する謙虚さである。」
340日本@名無史さん:2010/02/05(金) 01:52:02
>>338
そうそう軍国主義をくりかえしちゃあいかんよ。
341日本@名無史さん:2010/02/05(金) 02:13:01
銅鐸の埋納は大別して2回あって、2回目は古墳時代初頭。

新しい権力者が古墳と作り始めるのと同時期に銅鐸は隠されるように埋められた・・・
342日本@名無史さん:2010/02/05(金) 02:30:28

 結論 : 東遷厨 は 自身も認める軍国主義者 !

343日本@名無史さん:2010/02/05(金) 02:42:12
>>341
まあ徳島のなんかだと地表に柱跡があって
簡単な構造物、屋根のようなものがあったのだろうと想像されているが

慌てて隠したにしたらご丁寧に「ここ掘れわんわん」とばかりに
目印までつけたってことだからもう笑い話だなwwwwwwwwww

所詮、銅鐸の埋納と銅鏡の登場がピッタリ重なるなんて証明もできないし
仮に時期が重なったとしてそれが征服王朝wの強制的なものによるかどうか証明もできない。


軍国主義東遷厨の台頭はまだまだ防げそうだなwwwwwwwwww
344日本@名無史さん:2010/02/05(金) 03:09:39
それと…

東遷厨が山陰の銅鐸を極力新しい年代のものにしたがっている様だけどwwww

荒神谷出土の銅矛にメイド・イン・九州のものがあったと思うが
そこら辺の辻褄は大丈夫なのか?
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/05(金) 13:58:43
テスト
346日本@名無史さん:2010/02/05(金) 14:37:36
http://www.town.hikawa.lg.jp/www/contents/1018433403103/html/common/49f12354007.htm
>二、銅矛
>出雲荒神谷の16本の銅矛については、現在最も広く用いられている岩永省三氏の型式分類の編年(1)によると、
>1号、2号矛は中細形ながぼそがたに属し弥生中期後半〜後期初頭のもの
>それ以外の14本は中広形なかびろがたに属し弥生中期末〜後期前半のもの
>とされている。

347日本@名無史さん:2010/02/05(金) 14:49:17
出雲の青銅器(銅剣・銅鐸・銅矛)埋納は、全部同じような時期なのだろうな。
近畿地方などの銅鐸埋納とは時期がぜんぜん違う。
しかも、数多くのものがまとめて埋められているので埋納の性格も異なる。

荒神谷遺跡は、358本もの銅剣が整然とまとめて埋められていた。
加茂岩倉も、たくさんの銅鐸がまとめて埋められており、大きな銅鐸の中に
小さな銅鐸が入れられた状態のものもあった。

出雲の場合は、銅鐸埋納そのものに祭祀的なものが感じられる。
時期も総合すると後期初頭くらいなのだろうな。
348日本@名無史さん:2010/02/05(金) 14:57:38
銅鐸文化というのは、日本古代史の誇るべき文化だが、
魏志倭人伝にも記紀にも「銅鐸」が出てこない
これを解決せずに何を言ってもむなしい
349日本@名無史さん:2010/02/05(金) 15:16:58
>>348
記紀は皇室の歴史書だから、その記紀に書かれていないということは、銅鐸が
皇室の系統にとって重要なものではなかったということだろう。
つまり、皇室にとって祭器のような存在ではなかった。

銅鐸を祭器とするような地域を皇室の系統は経ていないと言うことかな。

逆に、矛は最初から登場する。イザナギが天に手をかざすと矛が現れた。
その矛で混沌とした下界をかき回すと、しずくが落ち、島が出来た。
その島にイザナギ、イザナミは降り立った。
350日本@名無史さん:2010/02/05(金) 15:33:28
畿内の銅鐸文化は非常に素晴らしいものですよ
ある意味、邪馬台国以上に謎に満ちており魅力的です
記紀ではシオツツノオジが東にある豊かな国を奪ってしまえ、と言う場面がありますが
この東の国は邪馬台国よりも文化的には遥かに高いものを誇っていたのではないかとも思いますね
邪馬台国には野蛮な軍事国家というイメージがどうしてもつきまといます
広範囲にわたる平和な連合国家として高い文化とともに栄えていた地域
畿内にはそういった感じを抱かされます
351日本@名無史さん:2010/02/05(金) 17:23:52
しかし、なんだな…

伊都国東遷厨は、新しい年代観こそ東遷説の勝利の証と言い
邪馬台国東遷厨は、新しい年代観は畿内説の陰謀だと言うw

…もう何がなんだかwwwwwwwww
352日本@名無史さん:2010/02/05(金) 17:29:21
一寸確認の意味でも書いておく…

荒神谷の銅鐸はその編年上最古のものとされている「菱環鈕」が出ていて
銅矛は「中細形」のものが出ている。

単純に考えれば銅矛が銅鐸に先行するのは「細形銅矛」の年代幅の分と言う事になる。

「細形銅矛」って殆ど実用兵器の形のままの段階だよな?

東遷厨はそこにどれくらいの年代幅を与えているんだろう?

数世紀ぐらいは余裕で与えてそうだがwwww
353日本@名無史さん:2010/02/05(金) 17:50:40
>>349
ヒント

 イザナギ、イザナミの国生みで最初にできたのは九州じゃなくて淡路島W
354日本@名無史さん:2010/02/05(金) 21:45:36
>>352
銅鐸と銅矛は一緒に埋められていたのか?
355九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/05(金) 22:09:10
>>353
淡路島の元は阿波路島である。
摂津の八部(現神戸市)から阿波(徳島)への路にある島の意。

阿波の勢力であるヒルコが明石海峡の対岸(現神戸市)にまで勢力を伸ばしていた。
356日本@名無史さん:2010/02/05(金) 22:54:19
>>341
>銅鐸の埋納は大別して2回あって、2回目は古墳時代初頭。

肝心のヤマトじゃあその1回目で銅鐸祭祀のピークを終えちゃっている。

じゃあその1回目を古墳時代初頭の王朝交代劇wと見るなら
近江や三遠地域等で見る大型化した銅鐸は「古墳時代の遺物」と言う 話になる。

もっとも俺程度のレベルではここ以外で聞いたことも無い話だが、勉強不足なんだろうwwwww

東遷厨の願望をかなえるもう一つの考え方としては…

「銅鐸の埋納時期に2回のピークがあるなんて嘘っぱち、全ての銅鐸は古墳時代初頭に埋められた!」

…と言っちゃう事かな?wこの板の東遷厨にはこっちが主流なのかな?www

もう編年自体に意味が無いような話だがwwwwwwwwwww
357日本@名無史さん:2010/02/05(金) 22:57:30
一回目の埋納はニギハヤヒ。二回目が本命の神武。神武率いる無敵九州大軍団様だ。
しかしこんなことを言うと、軍靴の音がきこえるか。wwwwwww
358日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:01:11
>>357
ひょっとして縦目じゃないのか?w

その”組み合わせ”は不自然だぞ?wwwwwww
359日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:34:13
畿内には邪馬台国の存在を示す遺跡や出土物は何もない。倭人伝には畿内を思わせる記述もない。
畿内説の存立の根拠は一体何なのだ?
360日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:37:44
>>356
>ヤマトじゃあその1回目で銅鐸祭祀のピークを終えちゃっている。

ん、興味深いこと言うね。横からだが、いいかな?

>>341の>銅鐸の埋納は大別して2回

というのはそのとおりだと思っている。 扁平鈕式以前の埋納が1回目だ。
共同体の衰退により、中期以来の農耕祭祀としての共同体結合機能を失ったためだ。

それに代わって出現したのが、 突線鈕式以降の巨大化する銅鐸だ。
こちらは階級的成長を遂げた首長権力のシンボルとして採用されたとみる。
2回目の埋納(および破砕)というのはこちら、ではないかな。
361日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:45:31
かって纏向遺跡の発掘調査を手がけた清水眞一氏が次のようなことを言っていた。

前方後円墳は円形周溝墓、方形周溝墓が重なってできたという説もあるが、私は壺(つぼ)の形を模したと考える。その壺こそ、中国の神仙思想「人は死後、
壺の中を通って神仙の世界に行く」という考え方に基づく。
中国の画像石「沂南(せつなん)画像石墓」には東王夫と左右に2人の羽を持った人物が描かれ、いずれも壺の上に座し、この3つの壺が蓬莱(ほうらい)
山を表しているとされる。つまり大和に入ってきた人たちは、桜井市周辺の三輪三山を、蓬莱山に見立てて王都を定め、壺形の墳墓の「前方後円墳」を造
った。
ただ近畿地方では、大和朝廷以前に九州のような大規模集落がほとんど存在しておらず、ここに入ってきた人々は別の地域から移ってきた勢力と考えるの
が自然だろう。
362日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:51:40
>中期以来の農耕祭祀としての共同体結合機能を失ったためだ。
結合しなくなったのならば、埋める共同体もあれば埋めない共同体もある
はず。なんで一斉に埋めるんだ。
だいたい、共同体機能を失ったとかで何でそれまでの銅鐸を埋めなければ
ならんのだ? 意味不明だな。
363日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:57:57
まあ「埋められた」と言うより

(それまで大地の生産力の復活を祈願しマツリの度に掘り起こされていたものが)
二度と掘り起こされなくなった。

若しくは新たに作られることが無くなった。

…と言うのがより正しいだろうと思うwwwww

そもそも単純に廃棄するなら全ての銅鐸は銅鏡にリサイクルする・しないに関らず
全て叩き割って廃棄されるべきだろう。

その方がどう考えても体積もずっと減って労力を省けるwwwwwww

364日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:08:38
>>362
>意味不明だな。

まあ、確かに意味不明なんだが。

しかし銅鐸の複数埋納はあちこちに見られる。
北九州では銅矛・銅戈が埋納されている。

ひとつの仮説なんだから。
意味フメーとか言ってないで、なんか対案考えてごらんよ。
365日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:10:07
銅鐸が埋められたままになったということは使用されなくなったということだ。ということは銅鐸を祭祀用具なり
何なりに使用していた集落の習俗が一変したということだ。分りきったことだ。問題は何故そのようなことが起き
たのかということであるが、これは集落の住民が居なくなったか、あるいは、外部からの勢力に支配されるように
なったかの何れかであろう。

そのいずれにしても外部勢力が入ってきたのが原因と考えられよう(住民が居なくなった場合については疫病など
の流行等による死滅も考えられるが)。
畿内の場合は古墳の副葬品が従来のものとは様変わりして九州色が強くなる。
366日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:14:38
>>363
中期末の埋納理由と後期の埋納理由は異なるという。

叩き割って廃棄されたものも2ページ分ある。
367日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:16:50
>>366
2ページ分?

落ち着けw
出典を言わないと何の事やらw

いやそれを言われても同じ本を持ってなきゃ意味ワカランわけだがwwww
368日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:24:39
>>363
弥生後期の近畿地方などの銅鐸は隠したものだろう。
大切な宝物を人家から離れたところに埋めるというのは、普通では考えられ
ないし、埋めたままというのも考えられない。

あえて、そんなことをするのは、やはり隠したと考えられる。
どうして隠したのかというと、宝物を奪われたり壊されたりするのが嫌だった。
つまり、異なる価値観を持つ権力による支配だろう。
369日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:29:19
>>367
>落ち着けw

いや、別にあわてちゃいないが。

つまらんシャレのつもりだったんだが、申し訳ない。
出典は「邪馬台国時代のツクシとヤマト」P98・99 破砕銅鐸一覧表
370日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:37:26
まあ元々副葬品でない物を副葬品と並べて論じる事自体が
もはや笑い話でしかないわけだがwwwwwwwwwwww
371日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:40:59
>>361
>ただ近畿地方では、大和朝廷以前に九州のような大規模集落がほとんど存在しておらず、
>ここに入ってきた人々は別の地域から移ってきた勢力と考えるのが自然だろう。

近畿地方にも弥生の大規模集落はある
事実誤認が前提であってはならない

で、纏向遺跡の造営主体は、近畿勢プラス近畿外の勢力、と考えるべきではないか
372日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:46:05
弥生の大集落ってどこにどんなのがあるんだ?
大和盆地の人口はどのくらいにみてんの?
373日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:46:21
>近畿地方にも弥生の大規模集落はある
>事実誤認が前提であってはならない

唐古・鍵以外にめぼしいものがないだろ。
374日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:50:22
>>373
キミは情弱か?
375日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:52:54
>>373
池上曽根とか瓜生堂とかは?

つうかこの板の九州説にありがちだけど
近畿・畿内と大和の区別ついてるか?wwwwwwwww
376日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:59:10
>近畿・畿内と大和の区別ついてるか?
そんなことを言うのは、君が同視しているってことかな?
377日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:00:37
まあ 清水眞一 と言えば下記でプロフが紹介されているが…

http://www2.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/ronkyo_ronten.htm
>その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、
>大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
>代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。

あくまで”他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」”であって
九州より規模が小さいとも書かれていないw

>>361 は脳内で勝手に脚色していないかな?wwww

378水銀厨 :2010/02/06(土) 01:12:37
弥生時期、畿内にも大規模集落なら普通にあるでしょ。

河内平野なんて水害等で地形が全く変わってるので
ホントに掘ってみたら何出るか解らないよ。
379日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:24:37
畿内にそれなりに大きな集落があったら、連合説なんてのは出てこないだろう。
可能性さえあれば、当然、自生説が出てくる。
380日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:27:40
>>379
九州だろうが畿内だろうが他の日本の各地だろうが

「それなりに大きな」ってレベルの話じゃ役不足って話だよwwww



381水銀厨 :2010/02/06(土) 01:38:51
例えば加美遺跡、弥生中期の方形周溝墓。

楽浪郡のものと類似とされていて、既に頭部に朱も
使用されてるよ。
当時から既に大陸と交流があった事は確実な事です。
382日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:50:00
外来者が簡単にトップになれるような社会だったってことかな。
383水銀厨 :2010/02/06(土) 02:02:04
>>382
すだれ遺跡の物とも同形だけど。

まぁこの時代で既にコレだけの広範囲の交流が
あったという事ですね。
384日本@名無史さん:2010/02/06(土) 02:51:04
>>378
畿内に限らず、本州にも大規模な環濠集落はあるよ。ただ、九州とは出土物が違う。

鏡は、九州では甕棺から普通に出てくるが、同じ時期の本州では出雲で10枚位で、その他では
ほとんどないので、出雲を除くと、控えめに見ても九州とは100倍位の出土量の差がある。

鉄にしても、九州では甕棺のほか、住居跡からも普通に大量に鉄が出土する。
本州では出雲で多いくらいで、これを除くと九州に数十倍の差をつけられている。

つまり、環濠集落があった時期は、圧倒的に九州が優位にあったんだが、古墳時代にそれが
入れ替わる。

この話のスジは、九州と出雲が出てきて、その後に神武東征があるという記紀のストーリー
そのまんまなんだな。
385日本@名無史さん:2010/02/06(土) 08:05:24
>>359
学会の意地と見栄
386日本@名無史さん:2010/02/06(土) 08:40:03
それに会員の無知、無能。
387日本@名無史さん:2010/02/06(土) 09:47:21
九州説は村興しだけどね。
388水銀厨:2010/02/06(土) 09:59:12
>>384
>九州と出雲が出てきて、その後に神武東征があるという記紀のストーリー
そのまんまなんだな。

それは東征なんかではなく、大陸勢力の興味が
九州から畿内方面に移っただけですよ。

仮に記紀の記述に従うなら、東征らしきものがあったとしても、
畿内にある邪馬台国に乗り込んだという事です。
389縄文人:2010/02/06(土) 11:58:31
平成13年文化庁のデータだが、銅鐸の出土数は下記のようになっている。
兵庫県 56点
島根県 54点
徳島県 42点
滋賀県 41点
和歌山県 41点
これらはいわゆる近畿式と呼ばれるものだろう。近畿式は大和・河内・摂津で生産されたとされる。

これらの銅鐸が3世紀には生産されなくなった。これが外部勢力の侵入による政治・祭事・習俗の変化によるもの
だとすると、その外部勢力の候補から兵庫、島根、徳島、滋賀、和歌山のものは除外される。これらの地域も大和
や河内と同じく彼征服(支配)地域であったと考えられる。

390日本@名無史さん:2010/02/06(土) 12:35:33
青銅技術はどこへ行ってしまったかという事
銅鐸は数ミリという薄さでありながら大きい、さらに立体である
これは相当の青銅鋳物文化の使い手だ
ところが銅鏡となると、あれなんざホットケーキを焼くようなもんだ
それでさえ、三角縁などは鋳込みが悪く線刻がはっきり出てない物が多い
一品物と量産品という根本の違いがあるが、
銅鐸を作っていた職人なら、稚拙な銅鏡なんて代物はバカバカしくて作れないだろうな
391日本@名無史さん:2010/02/06(土) 12:42:06
だから冬至の日の新嘗祭に参加し、三輪山の大物主を参拝して奉幣すると、鏡作神社特製の三角がもらえたんだよ。
392日本@名無史さん:2010/02/06(土) 13:10:29
畿内〜三遠の銅鐸文化 → 別勢力の侵入 →東国へ移動 → 秩父銅山などを開発
 → 奈良時代に大和朝廷に服属 → 大仏の鋳造に寄与
と考えたら面白い
393日本@名無史さん:2010/02/06(土) 13:32:48
>>389 縄文人
>これらの銅鐸が3世紀には生産されなくなった。

根拠無し。
と言うかお前近畿式の意味分かってないだろう?

近畿式の終焉を言うのなら三遠地域(三遠式から近畿式に変わる)も挙げなきゃならんわけで

突線紐式の段階に入って近畿式の生産の拠点が奈良にあったかどうかは学者でも意見が分かれているはずだ。
少なくとも生産拠点があったとみなせるような遺構の出土はない

まあ扁平式を中心に突線紐Tまであたりでヤマトのものは終了していると言うのが現実。

よって東遷厨どもは

「あらゆる形式の銅鐸の一斉埋納」

なんて恐らくリアルの学者じゃあ誰も言ってないような” ト ”レベルを叫ばねばならんだろうなwwwwwww
394日本@名無史さん:2010/02/06(土) 13:39:31
結局、

「銅鐸文化圏は銅鏡文化を携えた勢力により駆逐された…」

なんて和辻あたりの構想は

先ず出雲等の新発見により銅鐸圏という考え方が怪しくなってきた。

…と言うか列島の東西「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の二つの円を描いたような図は
今じゃあ教科書にも載っていないんじゃなかったかな?wwwwwwwww

それに銅鐸の埋納に2回のピークがあったと言う事で

今じゃあそんなことで東遷説なんて主張してるのはリアル学者じゃあ
まあいないんじゃないかな?

仮のその学者が九州説で東遷説論者であってもだwwwwwwwwwwww

395縄文人:2010/02/06(土) 13:56:56
>>390
私も銅鐸、特に大型の銅鐸の製造技術は極めて優れたものだと思う。そしてこの銅鐸を用いていた人々は精神文化的にも
高いものを持っていたのではないかと想像したくなる。これが鏡を重視する野蛮な勢力に駆逐されたと思うと残念でなら
ない。
396縄文人:2010/02/06(土) 14:06:07
鏡を持ち込んだ連中が、むろん前方後円墳をも作ったのだ。前方部はイザナギ、後円部はイザナミを表しており、
前方後円墳は男女和合の証。また、前方後円墳は集落全体の墓地の機能をも果たしており、後円部斜面の貼石
をはがして適宜追葬を行っていたのも考古学的に証明されている。銅鐸は確かに高い技術を用いて作られていた
のだが、抜身の鉄刀をひっさげた九州精鋭軍団に駆逐された。実に残念なことだと思うよ。もちろんその集団の
頭は神武、古墳時代開始の時を告げる漢だ。
397縄文人:2010/02/06(土) 14:15:54
だいたいこの2世紀末の畿内にまともな文化があったわけはない。銅鐸は実は東海発祥というのが通説。
少なくとも私の知る考古学者は皆そう言う。文化不毛の地に住む無知蒙昧の畿内人は、実は西と東の両面
からの脅威にさらされていたということだ。また、内向花満獣珍鏡に見られる文様は実は邪馬台国の秘中の
秘である倭王、難升米の出自をも明らかにしている。難升米の読みは、私の推測では ナジーム。古代ペル
シャ人である可能性が高い。また一つ日本古代史の謎が解けたな。
398日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:17:09
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
399日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:28:49
まあ誰かは知らんが縄文人のHNで遊んでいる物好きがいるようだなwwwwwww

まあどれほど電波を書こうが本人か騙りかを区別できないのが悲しいがwwwwwwwww
400縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 14:32:26
およよ。私の子孫達もなかなかやるの〜。
ところで、吉備じゃが
神武東征の折、吉備人は神武に惚れこんでしまった。神武軍の幹部達に自分の娘を嫁がせた豪族が多かった。
神武が更に東を目指したとき「おえりゃあせんの〜」とぼやきつつも後方支援に励んだ。大和に吉備の痕跡が
あるのは当然のことだわな。
401日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:43:06
>>394
佐賀県の安永田遺跡では銅鐸の鋳型が見つかっていて、九州でも銅鐸が作ら
れていたことがわかっている。小銅鐸土製品や小銅鐸の鋳型も見つかって
いて、むしろ、銅鐸の発祥は九州ではないかとも言われる。

ただ、九州と近畿地方などでは銅鐸の性質が異なる。九州のものは単なる
青銅器に過ぎず、近畿地方などのものは祭祀色が濃いと考えられる。

よく言われるのは、「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」。吉野ヶ里遺跡でも銅鐸は
見つかっていて、長さは20cm程度。木などにぶら下げて鳴らしていたものと
思われる。

銅鐸祭祀がどのようなものだったか、今となっては窺うことができないが、
東征的な考えに立てば、支配の妨げになるようなものだったのだろう。
少なくとも、古墳時代的な考えとは相容れないものだったに違いない。
402日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:57:21
扁平鈕式までのものと突線鈕式のそれとは機能・意味合いが違う、ということなんだな。

青銅器祭祀はもともと作物の豊穣と共同体の維持を祈願する共同体の祭祀だった(中期)。

やがて首長権の成長に伴い、共同体祭祀は首長の政治(マツリゴト)になる(後期)。そのシンボルが、
北九州では舶載鏡、瀬戸内以東では首長墓の巨大化、畿内以東では巨大銅鐸、
となった、のではないかな。
403日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:58:33
>>390
>青銅技術はどこへ行ってしまったかという事

まあチョッとした「ロスト・テクノロジー」 だなwwwwwww

ただこれは福永が何処かで指摘していた事だが…

大型青銅器の途絶と言うなら九州にしても広形銅矛も絶えており
古墳時代に至り大型の倣製鏡が作られるまで100年は
大型青銅器の空白の時代がある。

まあ青銅器の大型化が行くところまで行って
やがて姿を消すのは列島全体の傾向なんだろうなwwwwwww
404日本@名無史さん:2010/02/06(土) 16:53:31
銅鐸の埋納理由

1.中期の埋納理由
銅鐸はもともと作物の豊穣を祈願する共同体の農耕祭祀だ。
それが埋納されたのは、稲の育成や生産に切羽詰まった状況があったからではないか。
銅鐸自身の死と引き替えに、地霊を奮い立たせ、豊穣を取り返そうという最後の手段なのだ。

2.中期末の大量埋納理由
青銅祭器の埋納は中期の北九州にも見られる。
・福岡市博多区住吉神社遺跡 中細形銅戈と銅矛、計11本、中期前半
・春日市原町三丁目遺跡 中細形と中広形銅戈、計48本、中期後半
・太宰府市片野山遺跡 中広形銅戈、11本、中期後半
・隅・西小田遺跡 中広形銅戈、38本、中期後半

これらは外のクニへ向けての緊張状態の増大による呪禁の意味があるのではないか。

神戸市桜ヶ丘遺跡 14個、加茂岩倉遺跡 39個などの、中期末の銅鐸大量埋納は、同様に、
他の共同体やクニとの政治的緊張に伴い、大量に集積することで、
壁邪の力を増幅して共同体を守るために埋納されたものではないか。
(以上、寺沢説をもとに・・・というかコピペだな)

3.後期(突線鈕式)の埋納・破砕理由
これがいま問題にしている部分であって、上記2つの理由とは区別しなければならない。
(続きはそのうち・・・考え中)
405日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:08:49
>>404
>壁邪の力を増幅して共同体を守るために埋納されたものではないか。

まあ一種の「バリア」っちゅうこっちゃねwwww

ただその場合でも>404の言うような呪術的・宗教的意味の他に
中央がそれを周辺に配布しそこの勢力と結ぶと言う現実の政治的意味合いも考えられるだろう。

ヤマトを中心に近江、三遠、南紀、阿波…に銅鐸を配布してヤマトとその周辺を”外”から守った=畿内社会の防衛・境界祭祀

と言う考え方なんだろうが個人的には大いに疑問。

なんとなれば繰り返して言っているように
肝心のヤマトに突線紐式の後半のものがあまり出土もしてないし
鋳型が出てきたなんて話も聞いたことが無いからねえwwwwww
406日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:22:36
>>405
>中央がそれを周辺に配布しそこの勢力と結ぶと言う現実の政治的意味合いも考えられるだろう。

それは後期の情況だろうと思うが、上記は中期末までのまとめのつもりです。
本来共同体の農耕祭祀だった銅鐸が、中期末の埋納以降、その機能・意味合いが異質なものに変わっっていったのだと思います。

後期については、まだ考えが整理できてない・・・

>肝心のヤマトに突線紐式の後半のものがあまり出土もしてないし

参照させてもらいます。あ〜ややこしい。
407日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:23:06
銅文化が鉄文化に敗れ、全面降伏した証として銅鐸などの司祭きや銅製の武器をすべて土に埋めたと見るのが一番素直な見方だ。
隠れキリシタンの踏み絵といっしょでしょう。
408日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:29:43
出雲とは、最後の一兵まで戦って氏族が途絶えるより、民を生かすことが大事だと考える文化を持った氏族だったのではないでしょうか?
そういう考え方は、直江兼続やポツダム宣言を受諾した昭和天皇にも引き継がれている。
409日本@名無史さん:2010/02/06(土) 17:47:06
日本とドイツは首都が大空襲で炎上する様を看過した
無血開城で文化と民族を残したのはフランスだ
ナチも日本軍部も大事だったのは自分の立場であって国ではない
410縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 17:57:15
記紀に銅鐸の記事が無いということは大和王朝に無縁のものであったか、あるいは消し去りたい過去の事情があったか
であろう。前者であれば大和王朝を築いた勢力は近江、三遠、南紀、阿波など奈良近辺の勢力ではないし、出雲でもな
いことになる。後者だと何が考えられるかな。
411日本@名無史さん:2010/02/06(土) 18:00:28
>>410
河内と丹波勢力だろう。
412日本@名無史さん:2010/02/06(土) 18:02:39
>記紀に銅鐸の記事が無いということは大和王朝に無縁のものであった

銅鐸なら北部九州でも造ってるしなw
413縄文人 ◆.O/lYensDA :2010/02/06(土) 18:14:34
記紀の記述にある因幡の白ウサギに出てくるワニというのは、むろん銅鐸のことを表す隠喩である。加茂岩倉遺跡に
多くの銅鐸を埋納した事実をそうやって表しているのだ。銅鐸の用い方としては、大型のものは生口階級の生贄の頭に
被せて打ち叩く。そしてその弱り方を見して、祭祀の方向を占うものである。
414縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 18:23:25
出雲には紀元前から窯業等の技術を持った渡来人が入っていたのだろう。彼らが九州経由で入ってきたか
直接半島から(漂流して)入って来たのだろう。これら渡来人の齎した工業技術によって生み出された装
飾品や土器や銅器を売って食糧を買うというのが出雲の生きる道であったろう。商業立国である。

武器を売る商売は別にして、商業のためには世の中平和であることが望ましい。だから出雲は平和主義。
415縄文人 ◆eTHRLAsd7.q2 :2010/02/06(土) 18:35:03
そもそも鏡という倭語は、「かか」が「光り輝く」の意。「み」まむろん「見」だ。さらに言えば「見」は「目入る」からきて
いる。つまり鏡を翳して畿内にのり込んだ連中は太陽信仰を信奉した勢力ということになる。これは平原王墓を築
いた一族と同一であり、邪馬台国は佐賀周辺から一時玄界灘に移動し、さらに畿内に東遷したことになる。そして、
征服した畿内土民の頭に銅鐸を被せ、強く打ち叩いたのだ。こうして銅鐸祭祀は終焉を迎えた。
416日本@名無史さん:2010/02/06(土) 18:38:49
↑wwwwww何いってんだ?このバカは。wwww
417縄文人 ◆okkZz/2NNywd :2010/02/06(土) 18:49:51
>>416
馬鹿ではない。己のような名無史に馬鹿呼ばわりされる筋合いはない。これだから畿内説は品性下劣で
困るのだ。私は古代史の天才縄文人。出雲は商売の国であり、平和を指向することは上に書いたとおりで
あるが、青谷上寺地遺跡に見られる殺傷痕のある多数の人骨は、実は大陸からの渡来人のものであり、
出雲の商売を邪魔しようとしたため、当時のシンジケートに急襲されたものである。
418縄文人:2010/02/06(土) 19:30:57
しかし仕事が無い。
公共事業も減りに減って、同業者も廃業に追い込まれている奴が多数だ。
お先真っ暗だ。
今ではこの板で古代史の専門家を自称する事が唯一の楽しみだ。

なあにどうせ邪馬台国論争なんて決着はつかない。

わしのような無学な人間でも学者先生を気取れる、わははは〜
419日本@名無史さん:2010/02/06(土) 19:34:38
「かか」とは自分のこと「み」とは見るということ。
自分自身を映すものに決まってるだろう。
420日本@名無史さん:2010/02/06(土) 19:39:25
ま、「鏡」は「影見」でいんじゃないの。確かに自分を見ることだね。
421日本@名無史さん:2010/02/06(土) 19:58:51
かげみす
422日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:03:05
>415
それを言うなら、クサナギの「ク」がクム(金)・クリ(銅)に通じる
金韓(クヤカン)と同じ
423日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:08:08
>>418
ピラミッドや万里の長城の建設と同じように、古墳の造営も実は失業者対策のための公共工事だったのではないだろうか?
高速道路やダム建設のような公共事業による地方の景気刺激策は古代から存在したのだ。
巨大古墳建設は古代のニューディル政策だった!!
424日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:16:21
>415
それを言うなら、クサナギの「ク」がクム(金)・クリ(銅)に通じる
金韓(クヤカン)と同じ
425日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:22:38
>>424
ほう、韓国は古来から日本の領土だったという証左だな。
426日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:30:34
>>425
銅鐸(サナギ)の事を言ってるんだけどね
427日本@名無史さん:2010/02/06(土) 20:37:45
縄文人が来ると急激にレベルが低下するな。
428縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 22:06:50
>>427
相済まんことでやんす。私の馬鹿息子共が酒に酔っぱらって勝手気侭なことを書き込んでご迷惑をおかけしております。
お詫びのしるしに畿内説の皆様のご高説をおとなしく拝聴させて頂きます。ひとつ邪馬台国が畿内にあったと考えるに足る
証拠なり論拠なり想像なり空想なりを語って頂きたくお願い申し上げる次第であります。
429日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:08:17
>>415縄文人
>邪馬台国は佐賀周辺から一時玄界灘に移動し、さらに畿内に東遷した

なんか根拠があるの?
430日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:11:19
>邪馬台国は佐賀周辺から一時玄界灘に移動し、さらに畿内に東遷した

想い付きで口から出任せ言ってるだけだよww
431日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:14:04
西から入ってきた勢力は吉備の助力なしでは何もできなかったでしょう
吉備が畿内勢につくか九州経由で入ってきた大陸の勢力につくか
それを決断したときに畿内の命運も決定されたように思われます
大陸から入って来た蛮族など及びもつかぬような優れた技術を畿内の集団は保有していたことでしょう
しかし、それらもある時期を境に忽然と姿を消し、入れ替わるように巨大な古墳群が畿内に出現し始めます
海から見える場所に築造された大仙陵古墳など、「我こそは征服者なり」とでも言わんばかりです
432日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:16:13
はて?
以前縄文人は邪馬台国南九州説じゃなかったか?
433神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/06(土) 22:18:28
邪馬台国は大和から征西して九州を制圧したのですよ。理解されましたか?
434日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:24:26
証拠は?
435縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 22:28:33
>>429
馬鹿息子が口から出まかせを言ってご心配をおかけしました。
邪馬台国は熊本と宮崎の大部分を版図としておりまして、これは東遷はしておりません。東に向かったのは卑弥弓呼
の子孫です。実は狗奴国とは揉めておりましたが魏の仲介で関係修復を行いました。狗奴国も孫呉が滅んで江南地域
との交易が途絶え、それまでに人口が過剰気味になっていたので、およそ半分の勢力が九州を出て行きました。

邪馬台国も狗奴国も支配層はもともと同じ氏族で分家みたいなものだったのです。ですから、先に大和に入って国を
建てていた神武の子孫達に暖かく迎え入れられたのです。これにはともに主流派から疎外された者同士だという思い
もはたらいたのではないかと思います。この傍流意識が後世に九州の熊襲や磐井を討つというような行動に現れたの
かもしれませんね。

そんなことはどうでもいいですから、ひとつご高説をお聞かせ下さい。
436縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 22:34:40
>>433
>邪馬台国は大和から征西して九州を制圧したのですよ。理解されましたか?

あなたのDNAは脳細胞構成指令部の塩基分子1個を欠いている恐れがあります。現在の技術では修復不可能
と思われます。お大事に。
437縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 22:38:53
>>431
まことにごもっともな考えです。
実は、内緒の話ですが、童話桃太郎の犬、猿、雉は吉備の青年達だったそうです。
438縄文人 ◆rMA29eSNOg :2010/02/06(土) 22:42:54
いずれ畿内説がなんの根拠も持たないということは私のレスの積み重ねによってほぼ明らかになったのではないかな。
上で書いたように邪馬台国も狗奴国も伊都国も、3世紀当時の九州の支配層は、すべて姻戚関係にあり、倭人伝の記述
のように相争うことがときには合っても、新国土開発に関しては一致団結することができたのだよ。そうして、九州全土から
戦士を募り、鋭利な最新式鉄剣を装備して、一気呵成に畿内にのり込んだのだよ。んはは、このときの邪馬台国の王は
難升米、倭人伝では卑弥呼の後の男王とされる。上レスしたように、彼は古代ペルシアの血を受け継ぐものだ。そうして、
畿内銅鐸土民を、打ち叩き、責め苦しめ、蹂躙支配した。その有様は先の大戦の南京事件にも例えられようか。彼は古奈良
湖を大陸伝来の最新技術で干拓し、人の住める濃厚適地に改造した、。彼こそが、コンピュータ付きブルドーザー、そしてこ
の偉業が神武伝説になった。

>>433
姐ちゃん、妄想もたいがいにせいよ。

439日本@名無史さん:2010/02/06(土) 22:49:14
>>405
大和は近畿地方でも遅れた地域だったのだろう。

桜井市の近くの大福遺跡から出た大福銅鐸は、突線鈕1式で、これを庄内期
あたりまで200年ほども使い続けたらしい。

他の地域がどんどん新しいものを使っていく中で、こういうのは、保守的な
村だったと解釈することも出来るが、むしろ、新しいものを入手することが
出来なかった弱い地域、あるいは取り残された地域とも言われる。
440縄文人 ◆v67tKddSLY :2010/02/06(土) 22:55:35
私が書いた鏡の祭祀についてはもはや異論はないようだな。鏡は弥生時代全体を通じて九州絶対優位。熊本県菊水町
にあるトンカラリンと呼ばれる遺跡が、卑弥呼の鬼道の行われた祭器場であるのだが、遺構内には鏡を用いて外部の光を
導入した痕跡が見られる。これは胎内巡りであり、天の岩戸であり、卑弥呼再生の秘儀を行うにはまたとない場所であった。
卑弥呼の神殿には壱千人からの九州各地から集められた巫女がいたが、実は年々歳々卑弥呼は新しく生まれ変わってい
たのだ。その歳を司る新・卑弥呼が旧・卑弥呼に引導を渡す儀式が、鬼道の中でも秘中の秘。これにより卑弥呼は年長大
にして常に若々しく魅力的であったのだ。記紀にある天の岩戸の記述で、岩戸に籠もった天照大神の顔を外から鏡に映し出
す場面は、このことが伝説化したものだ。
441日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:04:53
>>439
>桜井市の近くの大福遺跡から出た大福銅鐸は、突線鈕1式で

そう、ヤマトは突線鈕1式あたりが限界なんだなw

銅鐸の埋納の2回目のピークを古墳時代の始まりに合わせると

東遷紐のアホどもが妄想している神武君がヤマトにやって来た時代には
既にヤマトでは銅鐸祭祀はほぼ終わっているwwwwww
442日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:06:38
銅鏡は若干凹面鏡だから、反射光は散乱し、太陽の光を洞窟の奥まで導くことはできません
443日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:07:18
>>442
誤記 凹面鏡 → 凸面鏡
444神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/06(土) 23:07:34
>>436
あなたの顔面にプッチンプリンのイチゴ味をぶつけたら脳細胞が修復されるかもね。
あなたは天皇家の先祖が狗奴国の熊襲・土蜘蛛とでも言いたいの?天皇家の先祖は昔ぁ〜しから
大和の磯城県主ですよ。邪馬台国の卑弥呼は大和の葛城高尾張出身で海人族の祭祀王です。
445縄文人 ◆e0iuTfF/DM :2010/02/06(土) 23:09:42
しかし、私の学識を羨んでか、妬んでか縄文人名義のレスには偽物も混じっているので、ご注意されたい。例えば>>418
などは真っ赤な偽物、このような出任せを言っていると地獄に堕ちますぞ。私は実生活では実業を営むものだが、実務は
専ら若い者に任せて読書三昧の日常だ。年間400冊ほども読むか。その文種は多岐にわたるが学術論文が多い
のは確かだ。今は、豹の敷物を前に皮ソファーに寝そべって、豆腐ようを食しながらヘネシーを飲んでおるが、外ではドン・
ペリ以外は開けることはない。これはモエ・ド・シャンドンともいわれて、畿内説土民のとても口に入るものではあるまいな。
446日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:11:31
>>439
>むしろ、新しいものを入手することが
>出来なかった弱い地域、あるいは取り残された地域とも言われる。

「言われる」ってだ一体何処の誰が言ってるんだ?

そのロジックで言うと
出雲は「弱い地域」「取り残された地域」と言う話になるなwwww

扁平紐式あたりで終わってるのがヤマトだけだと勘違いしていないか?w
447日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:11:34
何なんだ この大アホは???
448日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:13:47
>>445
自費出版でもすればいい
449縄文人 ◆b2bK.uCtzA :2010/02/06(土) 23:20:10
>>444
>あなたの顔面にプッチンプリンのイチゴ味をぶつけたら

そのような下賤な食物など知らん。私は豆腐ようを食しているといっただろうが。私はこの国の富裕層であり、知識階級
であり特権階級であるのだ。
450日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:20:40
やっぱり縄文人が来るとレベルが急激に下がるなw
451日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:23:35
>>448
自費出版と言えばこの板じゃあサガミハラ先生だが

邪馬台国ブーム華やかりし頃には自費出版も相当あったのかな?

今のようにネットで自説を発表するなんて事もできなかったんだし・・・

まあ九州説の今後は主戦場をもっぱらネット上に移しそうな予感w
452日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:23:59
>>439
>大福銅鐸は、突線鈕1式で、これを庄内期あたりまで

>>441
>そう、ヤマトは突線鈕1式あたりが限界

ややこしいんだよ、その辺は。

「奈良県桜井市大福遺跡十五次調査第四トレンチSK-05出土の土製鋳型外枠も
かなりの大型品が復元されるので、やはり突線鈕式銅鐸でも新式段階の銅鐸の外型と考えてよい。
大量の庄内3式の遺物と伴出している」
(寺沢「邪馬台国時代のツクシとヤマト」P96)
453水銀厨 :2010/02/06(土) 23:27:53
今時自費出版は危険だよ。
売れなくて大変な奴が多いからね。
454縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 23:28:11
>>447,>>448,>>450
レスに面白味も叡智のかけらも感じられないですが。こんなことを書き込む暇があったらご高説をどうぞ。
聞かせていただきましょう。奈良に7万戸がありましたか?
455神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/06(土) 23:28:22
>>438
アレ?縄文人が2人いる。どっちかがアホでもう1人が馬鹿ですね。で、間抜けと愚か者はマダ〜ッ!
難升米は大阪の難波出身か京都府天橋立の難波野出身ですよ。卑弥呼の後継者の男王は難升米では
ありません。卑弥呼の後継者の男王は武埴安彦命です。残念でした。
456縄文人:2010/02/06(土) 23:32:19
>>455
チミはよい子だから大人の話に口をはさまないでもう寝なさい。ネ。
457水銀厨 :2010/02/06(土) 23:32:26
>>454
私は邪馬台国を淡路島周辺から宇陀辺りの範囲と
想定してます。
458縄文人:2010/02/06(土) 23:34:07
>>457
ほよ〜。で、そこに7万戸があったんですか?
459日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:35:01
>>453
昔は

「俺のこの説こそ邪馬台国論争に決着をつける画期的な説!」

「倭人伝、素直に読んだらこれしかない!」

と勘違いして自費出版して全く売れずに
自宅に在庫抱えた奴も多いんだろうなあ…w

まあ今じゃあネットで一応の反響計れるから一寸はマシかな?

460水銀厨 :2010/02/06(土) 23:38:23
>>458
70000は虚数だろうと思うが、河内南部を含めると
相当数が見込めますね。
461日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:39:03
ガッコの先生やめた人までいるからね。
462水銀厨 :2010/02/06(土) 23:42:13
>>459
考古学系は元々数出ないしね。
特に邪馬台国モノは数が多すぎでしょう。
463日本@名無史さん:2010/02/06(土) 23:44:45
>>450

勿論、縄文人という馬鹿個人の資質も大きいが東遷説が来ちゃうとねえ…

「言った者勝ち」の世界になるからなwww

ただこの板の九州説から「東遷説」「九州王朝説」を除いたら
殆ど残らないんじゃないかとは思うがwwwwwww

まあ縄文人は金を持っていそうだから
こんなところで周りから
「馬鹿だ」「アホだ」 と言われながら自説の開陳なんかせずに
自費出版でもして、その説を世に問うてはどうか?wwwwww

464縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 23:45:03
>>460
河内平野は現在でこそ広大なものですが、3世紀の頃は大部分は海や湖でしたよ。淡路島には2千戸くらいあったかも
知れませんが、宇陀あたりは100戸前後がやっとでしょう。熊本と宮崎の大部分だと7万戸は余裕でクリアできますよ。
465水銀厨 :2010/02/06(土) 23:52:58
>>464
河内湖以南の平野は相当数が見込めますよ。
ここは土砂堆積と河川の移動で解らなくなってるだけで。
弥生中期の時点で大陸との交流も確認できますしね。

宇陀は数が重要ではなく勿論水銀朱の存在です。
466縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/06(土) 23:54:38
>>463
他人のことを「馬鹿だ」「アホだ」 と言う人は劣等感に苛まれているというのが精神科医学の常識だそうだ。
君も私のことが羨ましいだろ。偽者が出るほどの人気者になりたいだろ。私は偽者に迷惑しているが別に怒る気
にもならん。彼らが楽しければそれでよい。
467縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 00:05:22
>>465
既に誰かが指摘していたと思いますが、水銀朱は墓に使われるだけの特殊なもので食糧生産に役に立つわけでもなし、
住民の暮らしには関係ないものです。宇陀ではたまたま水銀朱が出たので、じゃあ、景気良く使用しようか てなも
んじゃないですか。
468日本@名無史さん:2010/02/07(日) 00:20:54
>>464 縄文人
>熊本と宮崎の大部分だと7万戸は余裕でクリアできますよ。

算出根拠は?データは?

まあこの板の九州説論者だと

「鉄器の豊富さがそのまま農作物の収穫量に直結し人口も多い」

と言わんばかりの奴が多いが熊本と宮崎じゃあ鉄器の量も雲泥の差があろうに…

畿内説の否定とか神武無敵軍団の強さの源泉wに「鉄!鉄!」と叫んでおいて

一つのクニで鉄が全く流通していない事を失念しているかのごときアホぶりwwww
(まあトンデモな理屈はあるんだろうがw)
469日本@名無史さん:2010/02/07(日) 00:35:40
>>457
なぜ宇陀が?
水銀ですか?
470日本@名無史さん:2010/02/07(日) 00:54:33
今人口の件で適当にググってたら鬼頭センセイ爆笑問題と対談してたらしいw
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20090407.html

しかし鬼頭のモデルって縄文早期あたりだと西日本の各地で3ケタの数字が出てるが
アレって流石に大丈夫なのかと思うwwwww

野生生物の場合個体数が200前後で事実上絶滅だとか聞いたこともあるしwwwwwwwww

結局、弥生時代の人口が鉄器の出土数に比例するようなモデルって無いんだよなあ…

471日本@名無史さん:2010/02/07(日) 01:14:43
軟鉄では青銅器や石器より大してアドバンテージが得られない
鋼鉄はタタラ製鉄で得られる
ケラは軽石の様なブローホールだらけの鋼鉄塊なので
小鍛治作業で練り返し鍛錬を行い空気を抜かなきゃならない
その過程で脱炭が適度に進み、同時に不純物も酸化除去されて、良質の鋼となる
タタラ製の鋼は、練り返し鍛錬のために金属組織の積層構造が与えられ、靭性(折れ難い)を持つ
日本刀に発展する原型は、タタラ製の鉄器が作られた初期からあったと思うよ
472水銀厨 :2010/02/07(日) 01:18:49
>>467
水銀朱は対大陸勢力への交易品ですよ。
それに神仙思想では最重要な必需品です。

>>469
宇陀・都祁、いわゆるさんちゅうまでです。
473日本@名無史さん:2010/02/07(日) 01:22:44
>269
>まあ少なくとも寺沢に関して言うと・・・
>>実際には、北部九州と瀬戸内、近畿諸国などの間で長距離間戦争が勃発した様子は無い。
>としてある(王権誕生)

寺沢は高地性集落の性格を第一次、二次とも北九州勢力の脅威
への対抗として位置づけていますが。
ちなみに、勘違いされているようですが、引用の文章は、中期の第一次についての記述ですね。

>>今そんな事を主張している奴がいるのか?
>>このスレですらいないと思うがwwww

それは逆ですね。
このスレッドで盛んな邪馬台国九州説や倭王権の畿内自生説は、
学会ではもはや少数派でほとんど年寄りだけですね(森、高島その他)

>じゃあ九州を持ってきたら上手く説明できるのか?って話で
>埋葬文化を地域によって共有すると言う動きを見せなかった九州は
>纏向の文化から一番遠い存在だとも思うがwwwwwww

相変わらず、素人丸出しですね。
北九州が威信財体系を共有し、階層化されていることは、九州の原田、高倉その他
多くの研究があり、もうデフォルトですね。
寺沢の「伊都倭国」もこれらが前提です。
474日本@名無史さん:2010/02/07(日) 01:40:55
ちなみに現在の学会の状況ですが、邪馬台国論争については、

○九州の学者が主張する年代観に屈服する形で近畿の学者の年代観が繰り上げられたこと、
 この年代観によれば2世紀末ころにマキムク遺跡が成立すること
○伊都国、奴国地域が威信財の卓越のみならず吉野ヶ里その他の単なる環濠集落と隔絶し
 た都市的様相を呈していることが判明した(このため文献の学者が主張するような筑後平野は
 ありえない。)

こと等により、邪馬台国九州説は否定され、もうかなり前に決着していますね。
(少なくとも考古学的には)
475日本@名無史さん:2010/02/07(日) 01:53:35
また、小林らの主張の柱でもあった倭王権の畿内自生説は、前述のとおり、
これまた否定されつつあります。
むろん従来より、中山、原田、柳田のような九州の考古学者は、畿内自生説を否定
していましたが、奈良の埋文の寺沢氏が70年代に吉備を中核とする連合政権論を
主張し、2000年ころから北條、村上のような大学の若手がこれに追随するようにな
っています(「古墳時代を見直す」)。
そのほか、近藤のような大御所や従来唐古鍵遺跡からマキムク遺跡への移行を主張
していた石野も吉備からの東遷を主張するようになっていますね。
476水銀厨 :2010/02/07(日) 02:02:54
文献的にも九州説では苦しいでしょ。

大陸との交流痕跡が確認されている、王権らしき規模を持つ
吉備・丹波や河内といった土地の説明が出来ない。
少なくとも北部九州説や、30国九州島内説は有り得ない話。

>>475
俺は共生説だな。鍵・唐古は巻向母体の一部だし、都祁や宇陀の
山の連中は協力体制の一部。
そこへ吉備・阿波・河内の勢力が加わったのが巻向だろう。
477日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:13:01
ただし、倭王権の成立について、これですべて決着したというわけではなく、
大まかにいえば、

○九州の各種卓越や倭王権の威信財体系との共通性を評価し、北九州勢力を倭王権の
 中核として成立した可能性を指摘する学者
○特殊器台その他古墳と吉備の墳丘墓との主に外装の共通性を評価し
 、吉備勢力を中核として成立した可能性を指摘する学者
の2つの流れがありますね。
 前者は、終末の平原墓の外形が大きく古墳と異なること、後者は、
特殊器台その他吉備の影響は布留期移行にしか現れないこと、吉備
の拠点集落その他がマキムクに比べ貧弱すぎること等がそれぞれ難
点ですね。

 また、倭王権の成立の仕方として寺沢のように「共立」という用語に重点を置き、
いわば談合的に連合が成立したとする方と橋口のように武力征服の可能性を指摘す
る方の両者がいますね。

 上記のようなところが、今後、考古学的には争点になっていくと思います。
478日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:20:35
>>473
ええと、何の話だっけw
チョッと整理させてくれ

先ず高地性集落についてだが元元の話は、これが果たして「東遷説」に繋がるかどうか?だ。
瀬戸内に生じた緊張の源泉が北部九州だった
(北部九州の混乱が瀬戸内に飛び火、若しくは玉突き状態で広がった)
とかの話じゃなくて
九州から畿内に侵攻したなんて事実が確認できるかどうかなんだが?

>このスレッドで盛んな邪馬台国九州説や倭王権の畿内自生説は、
>学会ではもはや少数派でほとんど年寄りだけですね

だろうなw
別に文句も無いが?
何か日本語が通じてないようだがw

>北九州が威信財体系を共有し、階層化されていることは

その威信財とは漢鏡や銅矛の事か?
こっちが聞いている「埋葬文化」とは話がずれるな
もっと簡単に言えば「墓の形」と言えば通じるのか?

で、その体系が畿内に持ち込まれたとして一体何にそれを見ればいいんだ?

結局のところ邪馬台国東遷説の連中が言うように
「鏡の副葬は九州起源よってヤマト王権は九州が打ち立てた」
と言う理屈かな?
479日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:31:05
それから銅鐸の話をされてる方がいますが、和辻の銅鐸圏、銅矛圏は完全に
否定されたわけではなく、最新の考古学的事実では後期はかなり明確に分布
が分離します。

ただし、銅矛圏はその一括配布的性格から政治圏である可能性が高いものの、
銅鐸圏は、近畿Xの分布と同様に政治圏ではありません。

また、これもごちゃごちゃにされている方がいますが、銅鐸の埋納のあり方
性格は各段階により全く異なます。ただし、とくに終末は破壊されているも
のも多く、銅鐸祭祀の否定という側面が強いのは寺沢らの主張するとおりです。

なお、銅矛の埋納も同時期に終わりますが、銅矛は、文献その他に多く残る
ことから全く忘れ去られた銅鐸祭祀の終了と違う性格をもつことは柳田
らの言うとおりですね。



480日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:37:05
>>479
>それから銅鐸の話をされてる方がいますが、和辻の銅鐸圏、銅矛圏は完全に
>否定されたわけではなく、最新の考古学的事実では後期はかなり明確に分布
>が分離します。

あ、それ聞きたかったんだwww

恐らく「圏 」と言う概念はまだ生きていると思うが
その中心と言うか

特に突線紐式の場合、やっぱ製造配布の中心をヤマトに求めるのか
それとも近江や三遠…各地が自前で作ったのか

学者さんの間でどっちがとられてるん?w

481日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:41:54
>>477

ついでにこれも確認しておきたいんだが…

北部九州にしろ吉備にしろ
何れ何処からかヤマトに相当数の人口の流入(入植)があり
纏向が打ち建てられた。

…と言う事で考古学会は進んでいると言う事なのか?
482日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:43:28
>478
>その威信財とは漢鏡や銅矛の事か?

漢鏡はもちろんですが、国産鏡その他もいろいろあるでしょう。
なお、銅矛は対馬を除き、後期では威信財ではないです。
威信財体系については原田、寺沢らの本を参照ください。

>こっちが聞いている「埋葬文化」とは話がずれるな
>もっと簡単に言えば「墓の形」と言えば通じるのか?
>で、その体系が畿内に持ち込まれたとして一体何にそれを見ればいいんだ?

477に記述したとおり、形を含め古墳の外装と吉備の墳丘墓の共通性を強調
する方は、吉備を中核として成立したという方が多いんじゃないですか。
要は、墓の中の威信財を本質的なものと見るか、外装を本質的なものとみるかの
違いですね。

ただし、九州勢力とする中核と主張する柳田ですら、古墳の外装については、
東瀬戸由来としており、両者は別に矛盾するものではないですね。
どちらを重視するかというだけの話です。
483日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:50:53
>480

最近では奈良ではなく、近江が中心ではないかと言われているようですね。

>481

まきむく遺跡には各地の土器だけではなく、それが現地化した土器がたくさん
ありますので、各地から人が連れてこられ、定住したというのは間違いありません。

ただし、政治的に中核をしめたと想定される北九州や吉備の土器が多いというわけで
はなく、東海系が突出して多いです。その解釈は前述のとおりです。


484日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:53:37
>>483
三上山の麓の銅鐸博物館にいけばそう感じるよ
でも弥生時代は琵琶湖が大きくて平野が少なかったはず
485日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:53:52
>>482
>要は、墓の中の威信財を本質的なものと見るか、外装を本質的なものとみるかの
>違いですね。

「中身」と「入れ物」かw

個人的には「外装」に近いが墓上で執り行われたと思われる「祭祀」に注目したいな。
まあ別の言葉で言えば「(墓の持つ)機能」かな?wwwwww

副葬品だろうが墓の形だろうが単に同じ形のものを持っていると言うだけじゃなくて
ハードよりソフトと言うかw
それにより首長間の連帯を強化したんじゃないかと思っている。
486日本@名無史さん:2010/02/07(日) 02:59:09
>>483
>それが現地化した土器がたくさん
>ありますので、各地から人が連れてこられ、定住したというのは間違いありません。

いやそれは分かっているが、いくら多いと言っても出土土器全体のMAX30%ぐらいだろう?
それも時代を遡れば減っていく。

それで纏向を作ったのが外来勢力と言うにはあまりにも無理だろう
…と言うのが自分がこの板での主張なんだがw
487もう寝る:2010/02/07(日) 03:18:42
結局「伊都国東遷説」だろうが「邪馬台国東遷説」だろうが
こっちが持つ疑問は同じで

弥生時代、半島大陸の文物は九州を経て東へと流れていく大原則がある以上

ヤマト古墳文化に見る九州と共通する部分を
はたして「文化の東進」なのかそれとも「東征勢力が直接持ち込んだのか」
…をどうやって判別するんだ?って事なんだよなw

ぶっちゃけ相当数の人間の流入(入植)の跡でも見つからなければ無理だと思うのだがwww
488日本@名無史さん:2010/02/07(日) 03:21:41
戦前の認識として
邪馬台国やヒミコってどういう位置づけだったの?
一応前660年からの神武天皇からが正当な支配者なわけで
ヒミコは完全にそれに対する敵対者の扱い?

ヒミコは時代的にも3世紀であることは動かせないし
そうなると天照大神にもできない
489日本@名無史さん:2010/02/07(日) 03:23:29
銅鐸の破壊、埋納なんてのは、それまでそれを大事にしてきた人々が自ら
やるなんてことは絶対にないんだよ。だから、文化の東進ではなく、東征
勢力が直接持ち込んだという結論以外にはないのさ。
いくら言っても見る目がない奴には分からんけどな。
490日本@名無史さん:2010/02/07(日) 03:45:11
前にテレビで見たんだが、埋める仏像ってあるんだってね
普段は山に仏像を埋めておいて、その場所は神主(坊主じゃない)しか知らない
お祭りの時に神主が掘り出しに行き、人々の崇敬の集めるってやつ
秘仏の一種かとも思うんだが、銅鐸を彷彿としてしまった
491日本@名無史さん:2010/02/07(日) 06:50:42
「東征」というよりも「東進」という感じがしますね
宇陀が古代史において非常に重要な場所であるのは確かなことでしょう
吉備、阿波、畿内に3方を接する淡路も古代史研究において
今よりももっと注目されるべき地域のように感じます
492日本@名無史さん:2010/02/07(日) 08:29:01
>>445
>>ドン・ペリ以外は開けることはない。これはモエ・ド・シャンドンともいわれて、
知らんなら書き込むなよw
493水銀厨 :2010/02/07(日) 09:29:19
>>491
鬼道というのは中国の土着信仰、道教とも共通する部分が
多いですからね。東国との接点であり、水銀の産出地である
宇陀地方は重要なはずです。
494日本@名無史さん:2010/02/07(日) 12:29:32
『邪馬台国東遷説』 と 『伊都国東遷説』  …

何が違うと言ってその年代観だよなw

ここの邪馬台国東遷厨は放っておいたら布留0を5世紀にもって逝きそうな勢いだが
伊都国東遷厨は平原と纏向を繋ぐ関係上かw

>>474
>2世紀末ころにマキムク遺跡が成立すること

… とする。

この板でも両極端の年代観だなwwwww

一度両者で年代のすりあわせをやってもらいたいものだw
無論無理なのは分かっているが横から見て、ええ見世モンになると思うしい〜wwwwwww
495九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/07(日) 12:51:40
>>491
播磨、阿波、畿内(摂津・和泉)に四方を接する淡路も古代史研究において
今よりももっと注目されるべき地域のように感じます。
淡路=阿波路ですから。
496494:2010/02/07(日) 12:57:28
ただ年代観は両極端とは言えそこから先の話は大差ない様に思えるw

伊都国がその威信財体系をそのまま畿内に持ち込んだとしたら
やっぱり鏡としては方格規矩鏡や内行花文鏡等が先ず畿内に持ち込まれたと言う事になるのだろうか?

早期の前方後円墳から方格規矩鏡や内行花文鏡の大量副葬の事例でもあれば
俺みたいな素人でもピンと来るんだがwwwwww
497日本@名無史さん:2010/02/07(日) 13:22:42
当初、特殊器台・特殊壺の分布から大和に東征したのは吉備の勢力だと考えていたが、
最近、それは間違いなのではないかと考えるようになった。
吉備には大和朝廷を作るほどの文化は持っていた痕跡がない。
舟に乗ってどんぶらこと流れてきた王が支配するという桃太郎の話は、
ツングース諸族のほぼ全域に伝わる檀君神話に類似する点も多く、
吉備は桃太郎に従って鬼退治に出向いた犬・雉・猿のいずれかの子孫だと推測できる。
498日本@名無史さん:2010/02/07(日) 13:28:25
>>479
>銅鐸の話をされてる方がいますが

うふふ、してますよ。

>これもごちゃごちゃにされている方がいますが、
>銅鐸の埋納のあり方性格は各段階により全く異なます。

整理したつもりなんです。

>銅鐸圏は、近畿Xの分布と同様に政治圏ではありません。

そう言い切れるのであれば、ややこしいとは思わないんですが。

>>477
>の2つの流れがありますね。

柳田、寺沢、の2つということですか?

福永伸哉の論についてはどう思われますか? ややこしい原因なんですが。
499日本@名無史さん:2010/02/07(日) 13:42:07
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
500縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 16:15:14
>>468
>「鉄器の豊富さがそのまま農作物の収穫量に直結し人口も多い」
>と言わんばかりの奴が多いが熊本と宮崎じゃあ鉄器の量も雲泥の差があろうに…

先入観を持って他人の論を読むと誤解してこんなレスをするのである。

先ず鉄器についてであるが、

鉄剣や鉄鏃などの武器もあったけれど、一番重要だったのは木を切ったり削ったり石を割ったり土地を耕したり稲を
刈ったりするための工具や農具であろう。鉄剣や鉄鏃などは出土例が多が、工具や農具の出土例は少ない
ね。鉄剣などは威信財的な意味もあって墓に副葬されるから見つかるのだろう。これに対して工具や農具はリサイ
クル利用される物ですから見つかりにくい。明治期の農村古老の話でも聞けば鉄器のリサイクル利用が徹底していた
ことが分る。
まあ、こんなことは学者達も言ってることだし誰にでも分ることだろう。

「鉄器の存在が農作物の収穫量を増やし人口の増加につながる」という考えに疑問を呈しているのだろうが、普通に
考えれば便利な工具や農具があれば農作業を楽にし(作業時間の短縮)、結果として開墾にまわす時間が増し、食糧
生産力が上がる。その結果として人口も増える。何故否定的なことを言わねばならぬのだ?(つづく)






501縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 16:16:51
500の続き

熊本に比べて宮崎における鉄器の出土量は少ない。だから二つの地域を邪馬台国の版図とするのはおかしいと言いたいの
だろうが、それは偏見である。

福岡平野地域でも佐賀平野地域でも熊本平野地域でもその他どこでもよいが、海岸と内陸部を持つ国では漁業を生業にする
人々や農業を生業とする人々が居る。その他にも土器製造を生業とする人々など色々な仕事を持つ人々が居る。そして漁業
を生業とする人々は海岸近くに住み、農業を生業とする人々は内陸部に住むという具合に仕事に適した場所に纏まって住む
のが自然であり普通である。

生業の違う集団の集落は別の国を作らねばならないということはない。縄文時代であればムラとしてほぼ独立した単位だった
であろうが、3世紀あたりになればかなりの広域国が存在していたと考えられる。それは倭人伝の投馬国5万戸、邪馬台国7
万戸などの記事から分る。

邪馬台国では熊本北部(方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡など)において鉄器その他の鉱工業生産が行われていた。
宮崎は農業生産地域であり、鉄器は熊本から供給を受けたがリサイクル利用されたから出土しない。
熊本に本拠を置いた邪馬台国が勢力を伸ばして宮崎の大部分を属領にしただけのことである。
502日本@名無史さん:2010/02/07(日) 16:18:02
>>468
宮崎も鉄器の出土量は多いよ。
そんなことも知らんのか?
503唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 17:16:29
暦年代     纒向編年    土器出土遺構       対応する土器型式
180年-210年  纒向1類   北溝北部下層灰粘土層    弥生X様式末
210年-250年  纒向2類   辻地区土坑2        庄内T式(庄内古式)
250年-270年  纒向3類   南溝南部黒粘土(1)下層    庄内U式(庄内新式)
270年-290年  纒向4類   辻地区土坑4下層 庄内V式  庄内新新式)布留0式
290年-350年  纒向5類   辻地区土坑4上層辻地区土坑7  布留T式

纒向遺跡における外来土器
纒向遺跡が都市的な遺跡と評される理由のひとつにヤマト以外の各地から搬入された土器がきわめて多く、また、広範囲におよんでいることが掲げられる。
外来系の土器は、纒向2類の庄内式土器出現の頃から増加しはじめ、多いのは纒向3類から纒向4類の時期、とくに西暦280年から290年ころにかけての時期がもっとも多いことがわかってきている。


纒向開発が、2世紀末であるから、崇神も2世紀末になる。
であるならば、
崇神5,6年の記事は、新羅192,3年の記事に相当する。
504日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:27:32
その編年が正しいかどうかはなんともいえないので、寄りかかるのは危険ですよ。
505縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 17:29:23
宮崎市山崎町の石神遺跡は弥生中期のものとされているが甕棺墓と鉄製品が出土している。宮崎においては
鉄器の出土がない、あるいは北部九州とは文化が違うなどと言われてきたが、甕棺墓と鉄製品が出土したこ
とで認識を改める必要があろう。西都原の古墳ばかりに注目が行くが、未だ見つかっていない弥生遺跡があ
るだろう。
506日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:30:52
>>503  実際はこんなところでしょう。↓

暦年代     纒向編年    土器出土遺構       対応する土器型式
300年-320年  纒向1類   北溝北部下層灰粘土層    弥生X様式末
320年-330年  纒向2類   辻地区土坑2        庄内T式(庄内古式)
330年-340年  纒向3類   南溝南部黒粘土(1)下層    庄内U式(庄内新式)
340年-360年  纒向4類   辻地区土坑4下層 庄内V式  庄内新新式)布留0式
360年-410年  纒向5類   辻地区土坑4上層辻地区土坑7  布留T式
507日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:35:18
>>505
北部九州とは文化が違うのは確か。たった一つの遺跡で何の話だ、このアホ。
508日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:48:23
人口の話で言うと出土する鉄器の量に比例するような弥生時代の人口を
示しているようなデータは少なくとも俺は見たことが無いwww

まあそうなると九州の南部も人口としては北部に引けをとらないとできるんだろうが
鉄器が農作物の収穫量そして人口に直結はしないと言う事で
九州説のウリである鉄器の評価もやや下がらざるを得ないだろうwww

九州の畿内ヤマトに対するアドバンテージを鉄器に求めておいて
九州内での鉄器の出土の多寡は問題にしない。

…まあこの板の九州説の良くあるパターンではあるwwwwwww

まったく下らない。
509日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:49:24
>>506
それは根拠もない願望でしょう。
510日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:52:37
弥生Xが末にしても4世紀ということはないよ。こいつもアホ。
511日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:54:51
>>506
うーん、須恵器の登場はいつ頃になるんだろうか?www
512日本@名無史さん:2010/02/07(日) 17:58:47
結局自説に拘泥するやつはみんなアホ。都合の悪い事実が出れば、
解釈をねじ曲げるか目をつぶる。縄文人はそもそも事実すら知らず、
まったく合わないことを主張するアホの王の王。
513508:2010/02/07(日) 18:05:47
しかもこの縄文人とか言う馬鹿のご高説だと
東征勢力により奈良湖から水を抜き陸地化すると言う巨大土木工事もなされているはずなのに
鉄器の技術移転もなされたような形跡も無い。

おいおい土木工事には鉄器が必須なんじゃないのか?w

「東征勢力は鉄を九州に置き忘れてきました」

と言う笑い話も、もはや東遷説共通のパターンかな?wwwwwww
514日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:06:00
縄文人は釣りでしょう、
そうじゃなけりゃただのアホだ。
515日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:10:51
縄文人は土木工事の専門家だから、奈良盆地の地形や地質なら
鉄器なしでも灌漑工事は可能と見たのではないのだろうか?
高価な鉄製の道具を土木工事で大量に使えるようになったのは
江戸時代になってからのことだ。
516日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:13:32
邪馬台国東遷厨にしろ、伊都国東遷厨にしろ

「もはや自生説はありえない東遷説の大勝利!w」

…と鬼の首をとったように言っているのは共通だと思うがw

じゃあ他所から大和に大量の人口流入・入植の跡が見つかったのか?

…と言うのが疑問で、そもそも、そのような人口移動をする理由すら分からない。

ならば纏向を作った主体はあくまで奈良盆地の地元民と考えるのが一番確実なんじゃないかと思うが
これも「自生説」って事になるのかな?wwww


517日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:18:41
>>515
それなら別に縄文人が妄想している巨大土木工事も
別に奈良の地元民だけでできるべ?w

いやその前に鉄器保有のアドバンテージ自体が怪しくなってくる話だと思うのだがwww
518唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 18:20:31
弥生Xの始まりは、神武東征 神武=ハツクニ
弥生Xの終了(庄内式の始まり)は崇神 崇神=ハツクニ

どちらも同じような表記は、ここから来ている。
519日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:23:28
大体奈良の地元民を使わなければ工事出来ないでしょう。
それどころか人口流入の形跡は東国からだし。
520日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:24:51
纏向建設とほぼ同時期に地元集落が解体・衰退していったのは確か。しかし
武力侵攻と見られる痕跡もない。そのムーブメントに加わったのは確かだと
思うが、主導したとも考えにくい。
521日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:38:02
>>511
須恵器の登場は布留Tの末期〜布留U初めだったような・・・

今は布留Tの定義を変えて、布留Uからにする方向だったような・・・
ここら辺は年代遡上に関わる地雷原だからはっきりと説を出しにくそう。

白石は布留Tとの並行があることを素直に認めるほかない現状に従い、須恵器の方を
350年頃まで繰り上げようとする方向にあるようだけど。

須恵器をそこまで繰り上げるのは無理だから、大半は布留Tをさらに細分化する方向で、
細分化案ができるまでだんまりというような感じだろうか。

三角縁論争のように避けて通るべき地雷原が多すぎるね。
思っていることをそのまま言えれば一番良いのだろうけど。
522日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:43:40
>>521
森浩一はいつも本心から正しいと考えたことだけを述べているよ。
523唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 18:43:52
三角縁は景初3年か正始元年に重要性が在る事を伝えて居る。
その三角縁が畿内大和から分散している以上邪馬台国の位置は決定するが
そこに卑弥呼はいない。
524日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:47:55
>521
纏向ができたのを2世紀末あたりまで持っていく年代観は
伊都国東遷厨によると九州の学者に畿内の学者が引っ張られた結果だとよwww
(まあこのこと自体は今までも言われてただろうが)

マルクス思想にかぶれたサヨク学者どもの陰謀なのかどっちなんだ?wwwwwwwwww

まあ須恵器と土師器の並行はそりゃあるだろうな。

須恵器が登場して土師器が消えたわけでもないんだし。
須恵器が液体の貯蔵、土師器が煮炊き用に適しているんだろうし・・・
525日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:51:24
いまさら、かも知れないが、年代観について。

埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣銘「辛亥年七月中記」
これを471年にあてる説が有力である。
とすれば、古墳の築造時期は五世紀末頃と考えてよい。

墳丘の裾からは、高蔵四七型式の須恵器高杯が複数出土しており、
須恵器の形態は、七三型式→二一六型式→二〇八型式→二三型式→四七型式
と変遷するから・・・

布留T式の年代は、
1 須恵器一型式の存続幅をどの程度見積もるか
2 布留式土器が分割できるかどうか
による、のだと思う。
526日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:57:13
>>522

森浩一つったら「伊都国東遷説」で「邪馬台国九州説」だっけ?
527唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 19:05:33
>纏向ができたのを2世紀末あたりまで持っていく年代観は

ここには考古学がいう数字と、崇神紀に書かれた記事が新羅本紀で確認出来る。
この違った3点の合致点でもある。ほかの場所ではこうはいかない。

>鉄剣銘「辛亥年七月中記」これを471年にあてる説が有力である。

この数字は、関東の古墳時代を遅くする意外なんの用もなさない数字だ。
大彦から+7代で雄略に繋がることは無い。
528唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 19:21:05
大彦の息子や娘は崇神と深い関係がある。
今崇神が2世紀末と言われている。2代目の時代と成る
3垂仁、4景行、5成務、6仲哀、7? 神功時代の人間でなければ成らない
では誰が候補となるか?それは、仲哀の兄弟である日本武尊の子ワカタケになる。
ワカタケ死亡後直近の辛亥年がそれにあたる。
529日本@名無史さん:2010/02/07(日) 19:21:17
さらに、参考資料をひとつ

奈良市平城京第二次朝堂院東朝集殿下層の発掘調査で、
高蔵七三型式の須恵器と未完成の木製品が、
自然流路内で共伴したというもの。

このヒノキ材の伐採年が年輪年代で412年とされた、そうだ。
530日本@名無史さん:2010/02/07(日) 19:26:02
>>505
こんなのもあるよ。

祝子遺跡
 昭和17年(1942年)、わが国初の弥生時代の製鉄遺跡として宮崎県の考古学者石川恒太郎氏により発見された。
 ここの溶鉱炉は山中の農作業道路の南側にあって、南と東と西の三方は千光寺裏山の丘地を切り取り、その内
側に石と粘土を張ったもので、北側には石と粘土で固めた人工の壁があったものといわれている。現地は「金糞
湾図(かなぐそわんず)」と呼ばれており、案内標柱から西へ100m程行くと杉囃子に金糞(金属の製錬滓(せい
れんかす))が見られる。
531日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:45:06
>>525
古墳に埋葬するのは、被葬者が生前に使用していたものだ。
従って、被葬者の死亡年代より公正になることはないが、過去にさかのぼることはありうる。
鉄剣銘「辛亥年七月中記」は、411年かもしれないし、351年ということもありうる。
なせそんなことにも気付かないのか不思議でならない。
532日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:53:49
榛名山噴火との関係から、531年にはならないようだね。
533日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:04:43
土器編年って、前後関係は変化から類推することはできるだろうけど
絶対年代は、どんな資料で固定するのでしょうか。
また、土器様式の存続期間はどのように計算するのでしょうか
534日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:11:45
上の鉄剣のような、土器と同時に出土した金石文や建築年代が文献等でわかってる
遺構から出土した場合とか。だから庄内式など諸説ある現状。年代幅はおおざっぱに
一つの形式を一世代20〜30年と考える。
535縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 22:22:48
>>513,>>515,>>517
神武の奈良湖排水事業は「神武がある規模の国を建てる(それだけの食糧生産力を持つ)ためには当時湖だった
奈良盆地の農地(水田)を開拓する必要があったと考えられることから推定されるものである。この排水事業は
具体的には大和川の亀の瀬辺りに堆積した岩石を取り除く作業であると考えられる。
以前に下記の資料を示したことがあるが、地質関係の学者達が推定した奈良湖の姿が書いてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html

この工事に鉄器が使われたであろうと想像されるが、何よりも重要なのは何処をどのように工事すればよいか、
段取りはどうするか、工事を行う人の選任と手当などの指導管理能力である。これにはある程度の強制力が必要
であるから力のある指導者が居ないと進まない。神武(新しい技術と知識を持った勢力)が来てそれが可能とな
ったのだ。
536日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:27:35
>>533
良く知らんけど長らく考古学会において支配的だった小林説の場合
「三角舶載説」だったんじゃないの?wwwww

なんたって卑弥呼の朝貢が239年と言う数字が出てるわけで…

まあ一般論で言えば半島大陸の遺物が多く出る九州の方が年代を計り易く
九州の方が基準になるんだろうけど小林説が支配的だった間はどうしても畿内の方が主導権を持っていたと…

それが小林説が揺らぐと畿内の方は後ろ盾wを失うわけで
やっぱ九州の方に寄った・・・と言うのが現状かとw

伊都国東遷厨は「自生説vs東遷説」の枠組みで捕らえているようだが
「自生説」や「東遷説」とかはあまり関係ないんじゃないかと思うが・・・

俺の理解が間違っているのかな?w


537日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:39:40
>>531
>鉄剣銘「辛亥年七月中記」は、411年かもしれないし、351年ということもありうる。
>なせそんなことにも気付かないのか不思議でならない。

ワカタケルが351年?
538日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:44:38
「邪馬台国が九州にあったと考える九州の考古学者はいない」と言ったのは柳田
じゃなかったっけ。違ってたらすまん。しかし、纏向建都と北部九州の関係は焦点
ではあるんだよな。
539日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:02:29
祟神もさかのぼる。
540縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 23:02:53
纏向建都なるものがあったという証拠はないだろ。纏向は墓地であり、柱穴跡は古墳築造に関係した祭祀や工事事務所
みたいなものの跡と見た方が自然だし、土器は古墳築造のために集められて人夫が持ち込んだものとも考えられるし、
年代もあやふやだし、とにかく邪馬台国との関連を示すものは何もないだろ。
541日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:10:23
>>540
出てくんな、アホ。
542唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 23:15:08
>絶対年代は、どんな資料で固定するのでしょうか。

今は年輪年代が主流だろう
ところが土器と同時に出土した金石文「ワカタケル」で関東の数字は決まる。
これが、私から見たら、ネックと成って、関東のみ古墳が遅れる。
543縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/07(日) 23:25:54
>>541
情けないレスだね。キミはアホという言葉しか知らんのか?チョロコイやの〜

>>542
年輪年代法? まだ信じているのか? タタランケやの〜
544日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:31:14
>>533
>絶対年代は、どんな資料で固定するのでしょうか。

大陸製品による年代情報が定点となる。

それが乏しかった近畿地方では、
考古資料の変化を中国(および国内)史料の記述に関連づけて理解するという
回り道をとらざるを得なかった、そうだ。

そのため、後期の始まりについて、九州と近畿では約150年のギャップがあった。
それが揺らいだのは亀井遺跡、巨摩遺跡、岡山県高塚遺跡で後期初頭の土器と共伴して出土した
中国王莽期の銭貨「貨泉」による。
545九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/07(日) 23:38:03
>>532
榛名山の噴火は基準にならない。
辛亥年が471年であるとして榛名山の噴火時期を決めているから。
その筆者(群馬大早川氏)は、辛亥年が531年だけでなく411年である可能性についても触れている。

http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/paper/inariyama/text.html
他に関連文献論文等あり。
546日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:45:52
>>535 縄文人 ◆cM49xEAzX6
>地質関係の学者達が推定した奈良湖の姿が書いてある。

ご紹介のサイト、トップまで戻ったが、別に地質学者のサイトとも書いてないし
勿論「地質学会」のようなサイトでもないと思うが?

ソフトを使ってシミュレーションしてみました…ってものじゃないかと思うが
湖底であったと言う証拠が挙げられているわけじゃなし・・・

(例えば伊賀は古代琵琶湖(今の位置とは違う)の湖底であった名残でその土壌が粘土質だったり)

第一お前の言う
「 土建屋 神武組 の神武親方 w」なんてお前の想像だけじゃないか根拠なしwwww

547日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:46:09
>>545
http://gunma.zamurai.jp/pub/2009/haruna495.pdf

こっちも見れば。531年では噴火後になる。411年は、まあ可能性は否定できない。
548日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:51:33
>>540 ホンモノなら
>纏向は墓地であり

あなたの墓域分離説は、後世の古市・百舌鳥からの類推でしたよね?

>柱穴跡は古墳築造に関係した祭祀や工事事務所みたいなものの跡と見た方が自然だし、

辻63-1の柱穴が箸墓とは世代が違うことは、以前、縦目仮面に指摘されてましたよね?
549日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:06:42
参考)
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html

上記に柳田案による年代も出ているが庄内・西新式がAD200からだから
今のところは纏向の出土物に対し与えられている年輪年代の数字は問題ないのかな?

まあいつもの怨み節の東遷厨にすればこれも
マルクス思想に染まった九州のサヨク学者の陰謀って事になるんだろうか?wwwwwwwww
550日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:11:21
>>535
鍵・唐古より低地の箸尾遺跡に縄文後期の集落あるよ。
551縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 00:15:35
>>546
紹介したサイトは地質学者のサイトではない。奈良湖の部分は地質学者や層序学者のデータを元に推定されたもの
である。君は認めたくないだろうが、現在の地形からしても十分に考え得る、妥当な推定ではないか。

>「 土建屋 神武組 の神武親方 w」なんてお前の想像だけじゃないか根拠なしwwww
こんな他人の論の内容をねじ曲げるような表現(土建屋 神武組 の神武親方)を使うのが趣味のようだな。
唐古・鍵遺跡を見ればまるで石器時代のムラかと見間違うほどの技術水準だ。しかも何回かは水没したらしい。
こんなムラ状態だった奈良盆地社会では排水事業は思いも及ばぬことだったのではないか。
552日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:18:08
柳田説はその年代でないと不都合なんだよ。伊都国のその後とかいろいろと。
553日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:21:44
>>551
ほうほう、石器時代に銅鐸の鋳型や銅製品やガラスや翡翠が出るのかwwww

流石に自称「古代史の天災」は言う事が違うwwwwwwww
554日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:24:59
>>551 縄文人

で、古代のゼネコン 神武組 の九州での工事の実績ってなんかあんのか?wwww


555縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 00:36:48
箸尾遺跡と言えば確かあそこには古代の地震による土地の液状化の跡が見られるのではないかな。
奈良盆地の標高50m以上の地域は縄文時代から弥生時代にかけて陸地であったと考えられるが、湖水の影響で地層には
大量の水が含まれていた。このため、地震が起ると液状化を起こして沈降する場所もあったであろう。

現在標高が50m以下でも古代においては50m以上であった可能性もあるので、そこは慎重に見極める必要があるだろう。
556縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 00:48:05
>>553
翡翠なんか縄文時代にもあるよ。石の道具が多く、弥生時代としては技術的に遅れていると言ったのだ。
それが気に入らんのか?それともなにか 技術的に進んだ集落だったとでも言うのか?

>>554
帳簿が残っていないので分らんが、奈良で工事をやるのに九州での実績が必要だったのか?
奈良の水田を増やすには排水事業だ と考えた神武は偉いじゃないか。
557日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:56:00
>>556 縄

何をもって先進的か後進的とする・・・っちゅう話だが

お前の妄想する土建屋・神武組はその巨大工事において優れた技術を持ってきた痕跡も無い
九州での工事実績も無い。
ナイナイ尽くしwwwww

本当に幼稚極まりない。

「無敵の九州神武軍団」に「スーパーゼネコン 九州神武組」「熊本から宮崎まで九州を横断する九州邪馬台大帝国」

子供が「ボクの考えた無敵超人!」とか言っているのと大差なしwwwwww







558縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 01:06:51
>>557
まあ、キミのような頭の固いというか血流が滞っているというか、要するに伸びやかな想像力のない人間には
分らん話だったようだね。

しかし、キミの説はあるの?畿内説だったら詭弁だろうな。倭人伝も論拠にできないし、考古学的資料もないし、
どうしようもないからね。もし、自信のある説だったら聞かせてくれないか。ほなな
559日本@名無史さん:2010/02/08(月) 01:19:56
讀賣一面
「和歌山県新宮市の奇祭「お灯まつり」が6日夜、熊野速玉大社の摂社、神倉神社のある神倉山で行われ、燃えさかる炎が夜空を焦がした。
熊野に上陸した神武天皇のもとに、たいまつを手にした男たちが駆けつけたという故事にちなむ女人禁制の火祭り。・・・」
神倉山に神体岩が祭られているが、その付近から銅鐸が出ているらしい。
東征した神武を銅鐸民も喜んで迎え入れたという事かな?
それでこぞって銅鐸埋葬。
560日本@名無史さん:2010/02/08(月) 01:27:48
>>558
詭弁の権化のような奴が何言ってるのw
561日本@名無史さん:2010/02/08(月) 02:11:37
>>560
と言うか詭弁にすらなっていない。
妄想ぶちまけ開陳ショーw
562日本@名無史さん:2010/02/08(月) 03:02:29
>>560>>561
安全なところから野次を飛ばすようなことばかりせずに、自分の説も晒して
みることだな。
一般的に言って、九州説はみんなそれなりに自分の考えを持っている。
畿内説は、ワンパターン。恐らく、誰かの本を読んでそれをそのままコピー
しているだけだろう。
野次将軍も畿内説が多いな。

>>530
延岡には祝子遺跡だけでなく、鉄関連の遺跡がもっとあったと記憶している。
熊本から一つ山を越すと高千穂町に出る。高千穂といえば、天孫降臨で
有名な地。高千穂から五ヶ瀬川を下ると延岡に出る。

この経路で九州の西と東は結ばれていたのだろう。

日本書紀によると、瓊瓊杵尊の天孫降臨が次のように記されている。

皇孫乃離天磐座、且排分天八重雲。稜威之道別道別、
而天降於日向襲之高千穂峰矣

皇孫は、天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、稜威の道を押し分け
押し分け進み、日向の襲の高千穂の峰に天降った。

九州山地を越えて高千穂に入ったと考えるのが妥当かな。
饒速日命が大和に行ったときには、天の磐舟を使っているが、瓊瓊杵尊の
場合は舟が出てこないので陸路だろう。
563日本@名無史さん:2010/02/08(月) 03:15:05 BE:1362680238-2BP(162)

最近幻想が無くなってきたね
564日本@名無史さん:2010/02/08(月) 03:49:25
まあ縄文人とか言う奴の東遷説なんか、叩き・おちょくりのネタにしかならんので
チョッと気になった事を拾っておく、誰か意見を聞かせてもらえるとありがたいwwwww

>>483
>最近では奈良ではなく、近江が中心ではないかと言われているようですね。

このレスに関して言うなら
「見る銅鐸」の製造配布が近江ならその原料の銅は日本海ルートだろうか?

確かに「見る銅鐸」はその鉛同位体が集中した分布を見せるらしいので
少なくとも原料の銅は近江から三遠、南紀、阿波…の各地に輸出されたと見るのも難しい話ではないと思うが

その場合、逆に近江が「ヤマト包囲網」を布いている様な感じになるなwwwwwwww

まあ記紀ネタと絡めるのはあまり趣味じゃないんだが崇神の代に武埴安彦が山代から攻めてきた事と併せ
山代・近江・日本海側と大和の対立みたいなのがあったんだろうか?


565水銀厨 :2010/02/08(月) 09:36:21
>崇神の代に武埴安彦が山代から攻めてきた

これは謀反だという事ですから、日本海側対大和というような
対立構図ではないと思いますね。
攻略上交通の要所から攻めたというだけで。
妻の吾田媛は大坂から攻めてますし。
566日本@名無史さん:2010/02/08(月) 11:04:05
>>493
>鬼道というのは中国の土着信仰、道教とも共通する部分が多いですからね

やはり邪馬台国は呉、江南から入ってきた集団のつくりあげた国なのでしょうか
江南から九州西部に入ってきた集団が鉄器と鬼道によって一時的に九州北部を制圧したものの
南の狗奴国との戦いに敗れ、あっけなく消えていった
邪馬台国は肥前肥後を抑えた後、「世々王有り」のおそらくは半島系の伊都国が束ねる筑前筑後との戦いには勝利し
玄界灘航路、朝鮮半島南部からの資源流入ルートを確保したものの何らかの理由であっけなく滅びたもののように感じます

567縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 16:02:33
>>564
午前4時近くまでパソコンの前で遊んでいたようだな。キミは夜行性か?
ところで、キミのレスを見ていると他人の論への批評みたいなものばかりだが、君から他の人に披瀝するオリジナルというか
特徴ある論はないのか?

古代史については正確な記録が残されていないところが多いから断片的な情報を基にして推定されるものである。極端なこ
とを言えば、古代史は論者によって異なり、時代とともに姿を変えてゆくであろう。
私は奈良盆地の地形、地質と記紀の神武の話を元に奈良湖干拓のストーリーを創作した。あり得ない話ではないと思っている。

奈良盆地最大の弥生遺跡は唐古・鍵であるが、現在の標高は45〜50mの地にある。昨夜は技術的に遅れていると書いたが、そ
れは道具に石器が多いということから工具や農具に鉄の使用が少なかった(鉄器製造技術がなかった)という意味である。芸
術文化的に劣っているという意味ではない。

この唐古・鍵遺跡の発掘調査によれば水没の跡があるとされる。川の氾濫で埋まったとの説明のようである。現在は初瀬川と
寺川に挟まれているが、豪雨があれば上流域の雨水を集めて氾濫することは考えられるものの氾濫が起るのは排水が悪いから
であり、奈良湖の水位が上がって水没したとする方が考えやすい。

唐古・鍵の住民には己の集落の立地条件についての深い理解が欠けていたのではないかと思われる。こんな洪水の危険がある
場所に集落を築いたのだから。
まあ、水害の経験から学習して湖の排水工事に着手した可能性も考えられないわけではない。弥生時代後期には埋没した環濠
の再掘削が行われ集落も再建されたとされる。この事業は元の住民だけの力でなされたのであろうか?
568九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/08(月) 16:26:11
>>564
>崇神の代に武埴安彦が山代から攻めてきた

崇神が山代の祝園にいた異宗教(銅鐸文化)である武埴安彦を征服したのだ。
その後、樟葉を攻め、淀川左岸一帯を支配下に入れた。

淀川右岸攝津方面を支配下に入れたのは、佐保彦を焼き討ちにした垂仁になってからである。
佐保彦の死が畿内における最後の銅鐸文化の滅亡である。
569九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/08(月) 16:34:36
>>567
>この唐古・鍵遺跡の発掘調査によれば水没の跡があるとされる。川の氾濫で埋まったとの説明のようである

水没は、亀ヶ瀬の地滑りによる大和川堰き止めで奈良湖の水位が上昇したためである。
570縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 16:49:20
>>569
私もその可能性が高いと思う。亀ヶ瀬は有数の地滑り地帯であり、現在でも対策が講じられている。
571日本@名無史さん:2010/02/08(月) 16:53:25
>>567
>地質と記紀の神武の話を元に奈良湖干拓のストーリーを創作した。

トンデモ・ストーリーテーラーはもうお腹一杯・・・('A`)

572水銀厨 :2010/02/08(月) 17:01:43
鍵・唐古周辺は雨季での大雨でも氾濫したでしょ。
でもこの程度では盆地が水没までには至りません。

亀の瀬が崩落した場合は比較的長期に渡り、
奈良湖が再現されたのでしょうね。

しかし当然水圧で決壊もするので、これが河内の集落にも
大被害をもたらす訳です。
河内の弥生集落が3〜4m下に存在するのは
この為です。
573日本@名無史さん:2010/02/08(月) 17:12:12
>>567  縄

ったく、この知ったかぶりのおっさんは…

ここに登場した時は物理・化学・宗教・文学…様々な分野に精通した知識人だと自称していて
今はツッコミかけられまくって、ややしおらしくなったがw
それでも学者センセイとして振舞いたいと言う願望は消えていないみたいだなwwww

まあ俺は 『 地質学 』 とやらがどんな物かは知らんが
そりゃ普通に考えて先ず奈良盆地のあっちこっちでボーリング調査でもして
弥生〜古墳時代に辺り一体が湖底であった事を突き止めるのが最初じゃないのか?

地質学だのなんだの勿体を付けて言うわりには
その中身は単に標高のデータから
そこに水をはって盆地湖をシミュレーションしているだけ

適当なソフトがあれば俺みたいな人間でもできるだろうw
いや時間をかければ標高をしるした地図で標高が一定以下の地域を塗りつぶしていけば出来るかな?w

無論、考古学的な裏づけも無い。

実際大きな拠点集落でなければ人の住んでいた痕跡はあるンだが
土器片なら「船の上から湖底に投げ込んだ」とかいいかねないし
チョッとした集落跡とて「地盤沈下した。古代はもっと高い標高にあった」と言うのは見え見えだwwww

まあ過去のレスから土木建築関係の人間だろうと推測はされるが

 「これなら自分の専門分野!」 と飛びついちゃったんだろうなwwwwwwwwwww
574縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 17:24:44
>>571
邪馬台国畿内説はどう見てもトンデモ・ストーリーとちゃうんか?
どうやったら倭人伝の記述で畿内に辿り着けるのだ?
記紀に何か書いてあるか?
畿内に邪馬台国が存在したことを示す考古学的資料とは何だ?
畿内の邪馬台国が大和王朝に発展したのか?そうだとしたら根拠は何だ?

自分のオリジナルのストーリーを作れず他人のストーリーをトンデモと切り捨てざるを得ないキミ達が哀れでならん。

575縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 17:40:30
>>573
おや、お目覚めかね。
なぬ。まだ奈良湖問題に拘泥しているのか?あれはもう解決済だ。要するに弥生時代末期頃までに奈良には7万戸の人口は
存在し得なかった。私は奈良や大阪や京都や滋賀や和歌山などは3世紀の当時は魏から倭種の住むところと認識されていた
辺境の地であったと見ているから、つまり邪馬台国とは無関係だからこれ以上言及したいという意欲が湧かない。
それより、何度も言っているんだがキミのおもしろ〜い話が聞きたい。ン?ネタが無い?だろうね〜
576唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 17:50:21
縄文人さん 私がお相手しよう

今の考古学は、崇神を2世紀末と云っている。そこで、
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神橿日姫か?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下
都市牛利=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 
彌馬獲支?

これだけ人物を特定できている。
さあ 否定してくれ。
577縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 17:58:22
唐松ちゃん

>今の考古学は、崇神を2世紀末と云っている。

またまたデタラメ言っちゃあいけんぞよ。崇神を示す遺跡でもあるんか?それが2世紀末という証明でも
あるんか?崇神は4世紀じゃぞい。
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 18:04:30
崇神5,6年は、新羅192,3年である。

この様に、新羅本紀も支持している。
他の資料も出そうか?
579太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/08(月) 18:15:08
崇神5,6年は新羅193年にはなりえない。
だいたい当時の畿内には船舶がないから畿内で天皇が乗船した経験は全く
無いし、始めて出来たのは崇神17年であるから、百姓は千人も腹をすかして半島
へ渡れると想ったら大間違いのコンコンチキであ〜る。それに彼等は日本海の
荒波を経験したためしはないし危険海域も全く未知であるし、肝心な食糧が
ないのに、畿内から半島に行く前に、畿内周辺で野垂れ死にが当選確実だ。

崇神17年始めて船舶を造り、朝廷では貴重品であったはずであり、ここで最初に
船舶に乗ったのは病気等でない限り天皇と周辺の取り巻きなわけであり、到底
百姓が千人という大勢を乗せる機会など崇神5,6年にあるわけがない。つまり
半島へは当時の農民千人は渡海できない。奴の奇怪な説はデタラメそのもの
であ〜る。
580唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 18:16:08
日本書紀と歴史の整合性

神武元年 1世紀中葉 弥生5様式のはじまり。
崇神5,6年は新羅192,3年の記事に対応
崇神12年異族多帰は、巻向より各地の土器 庄内式の始まり
その直後から巻向に前方後円墳が造られ始める。モモソ媛はここです。
景初3年=都市牛利(タシウリ)=田道間守この記事とあい前後して 垂仁より景行になる。
273年 神功前紀の日食
326年 七支刀 神功52年? 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、注:1日の狂い。

これらの数字は、正朔で読める。

対し 崇神4世紀では、神功の渡海が出来ない。
神功渡海が説明出来なければ、それより前の時代に整合性は得られない。

さてどう乗り切るか?
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 18:39:01
縄文人さんの主張は、
魏は暦も持たない未開の土人の酋長卑弥呼に、金印を与え
黄旛を授け、軍隊を組織した。

とでも言いたいんでしょ、その100年後には、半島へ軍を派遣、5世紀初めには、
高句麗と争うほど強大になる。しかし未だ文字は持たない。
とか編年しないと辻褄が合わない。
ここに古墳の分散や、鉄器の流入、そしてなにより 強力な軍隊はどの様に育ったか?
全てが説明出来るのかな?
582日本@名無史さん:2010/02/08(月) 18:49:38
神功皇后が渡海したのは事実とみているのですか?
戦闘の具体例に乏しいので
この部分だけはお話だと思っていました。
583www:2010/02/08(月) 18:53:27
>>575 馬鹿縄
>何度も言っているんだがキミのおもしろ〜い話が聞きたい

断る。
自説の説明にしても一度二度以上は過去に説明してやった。
どうせ説明しても直ぐに忘れて同じことの繰り返し。
そこまでサービスしてやる義理は無い。

ここの九州説には
「畿内説はどれもこれも学者の受け売り」
とか言われるが実はそれなりに違いはある。

三角の舶載or倣製とか首長連合の発生における鉄資源の重要度とかetc

ここの九州説の殆どはそんなレベルで違いを認識できるような能力もないんだろうw

「ここでしかお目にかかれない」
「リアルの学者じゃあ、とてもじゃないが言っている奴はいないだろう」
…そう言った ト レベルでないと違いが認識できないwwwww

まあ「面白さ」という点においては畿内説は九州説に遠く及ばないのは事実だろうがw

あ、言っておくがこれは皮肉な、褒めてると勘違いするなよ馬鹿wwww


584水銀厨 :2010/02/08(月) 19:00:55
>>574
>邪馬台国畿内説はどう見てもトンデモ・ストーリーとちゃうんか?

普通に倭人伝の解釈でも畿内に辿り着きますよ。
私は淡路島周辺〜紀伊半島までとみてますが。
女王国は黒塚古墳の三角と同種の物が出る範囲と
認識してます、今の所ですけど。

加美の方形周溝墓は、構造や朱を用いるなどの点から、
弥生中期の時点で漢人が北部九州経由でやってきたのは
間違いない事ですから。貨泉も周囲から出土してますしね。
585唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 19:07:39
神功元年は、275年
この前年に晋は遼東郡や東夷校尉を置く。この儀式出席のため渡海。
その後、任那に駐留。
これが渡海の真実だ。
308年永嘉の乱が勃発
317年頃には、軍を増強
323年頃 南朝は、洛陽奪回を断念、この時終戦宣言無し。
324年 神功49年、百済軍と千熊長彦は、遼西晋平県を占拠。ここを百済に賜る。
325年 半島南部の再編成、これにより百済は、半島の大国となる。
326年 七支刀。

この様に歴史は続くのだ。 
つぎは、370年頃 前燕が滅ぶ、それに合わせ高句麗は、大きくなる。
370年 応神二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」
379年 三十七年春二月爰阿知使主等渡高麗國。ここから南朝へ通好。
586日本@名無史さん:2010/02/08(月) 19:32:24
ていうか、縄文人は自説を主張するのが面白いんであって、根本的に人の話
なんか聞く気はないだろ。何かレスする度にあまり批判を受けるから、「じゃあ
畿内説を拝聴しよう」程度のポーズを取ってるだけで、実際に真実を追究する
気なんかさらさらないんだな。

この手のタイプはどの板にもいるけど、いくら真実を話したって金輪際聞かない。
なぜなら、それは人の意見で、いくら事実であってもそれを受けいれたら自分が
負けになると思ってるから。長い間そういう生き方をしてきて染みついた腐臭とい
えばいいか。
587日本@名無史さん:2010/02/08(月) 20:00:36
縄文人は飲み屋でグダグダ言ってる親爺だな。
588縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 20:12:59
>>586
君は偉い。自己分析が鋭い。

だ〜が、残念ながら君の自己診断の結果は私には当てはまらない。私は周囲の人々から釈迦牟尼の生まれかわりでは
ないかと疑われているほど人に優しい人間である。人の意見はよく聞く。弱い人を見ると助けずにはおれない。現に
こうやって畿内説の諸君の遊び相手をしてあげている。託児所の保育士みたいなもんだ。
589日本@名無史さん:2010/02/08(月) 20:21:22
>託児所の保育士みたいなもんだ。

www 自分が色濃く幼児性を残していながら何を言い出すんだこの爺さんは。www
このレスを読んだだけでも、自らを客観視できない痛い人格であることがはっきりと
わかる。とういか、これまでいくら明らかな反証を出されても無視し続けてきた厚い面
の皮といえばいいのか・・・気の毒に、馬齢を重ねたな。www
590縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 20:24:25
>>583 風邪を引かない丈夫なWWW

そんな退屈な話はもういいから少し実のある話をしてくれ。

>自説の説明にしても一度二度以上は過去に説明してやった。
>どうせ説明しても直ぐに忘れて同じことの繰り返し。
>そこまでサービスしてやる義理は無い。

私は聞いた覚えが無い。それとも印象に残らないつまらぬ話だったのかな。
サービスする義理はない などといかにも立派な説を持っているかのごとく見せかけてからに。
説らしいものを持っていないなら、せめて574の質問に答えてみんしゃい。それも出来んか?
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 20:25:09
飲み屋でおだてれば、酒をおごってくれるから、釈迦牟尼とおだてられるのか?
592縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 20:36:29
唐松ちゃん
神功の新羅征伐の話は4世紀末の倭による半島侵略の記憶が反映されたものだよ。だいたい、新羅の建国は
4世紀後半のことだし、4世紀前半に建国されてもいない新羅を征伐できるわけがないだろ。その神功の夫
の仲哀天皇の4代前が崇神天皇だ。この崇神が2世紀末に居たなどとはとんでもないことだ。
593縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 20:50:11
>>584
レスが遅くなったのは無視していたわけではありません。見過ごしたのです。

淡路島周辺〜紀伊半島という結論に到るまでの「普通に倭人伝の解釈でも畿内に辿り着きますよ」という過程が
分らないのです。
伊都国や奴国や不彌国から南に1500〜1300里の所に邪馬台国の卑弥呼の都があるのでしょう?
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 20:50:40
>神功の新羅征伐の話は4世紀末の倭による半島侵略の記憶が反映されたものだよ。

その半島侵略の軍事力を考えねばならない。
倭国内だけでは、この軍事力の説明が出来ない。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始9年 三月,立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔,日有蝕之。六月乙未,東海王祗薨。
鮮卑寇廣寧,殺略五千人。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
この年11月に 晋は、軍を再編する。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
291年 永平元年三月東夷校尉文淑, 是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
永嘉初307,廆自稱鮮卑大單于。遼東太守龐本以私憾殺東夷校尉李臻,
308年 永嘉二年 石勒寇常山,

半島は、これ以降も軍事力を増す。
595日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:30:53
>>576
>伊支馬=イクメ=垂仁

彌馬獲支=崇神と言う解釈はしないのかな?

倭人伝では官の伊支馬有の次の次だから記紀の系譜とどうしても食い違うだろうがw
ここだけの話しw崇神と垂仁は代が入れ替わっている可能性があるんじゃないかと思っているwww

理由の一つは、兎に角、纏向をヤマト王権最初の都とするなら、かの地に宮うぃ構えたとなれば垂仁の方がピッタリ来る。

では何故、記紀で崇神を「ハツクニシラススメラミコト」とせねばならなかったのか?

現在、垂仁陵は盆地北部にあり垂仁は後の佐紀に古墳を築いた勢力の人間であって
その点で降格されたんじゃないかと思っているw

まあ与太としてもらっていい話だがwwwwwww
596水銀厨 :2010/02/08(月) 21:34:17
>>593
倭人伝に1300、1500里なんて数字は出てきません。
私は基本的に倭人伝に出てくる数字・文言で説明してますので。
萬二千余里は女王国までです。
女王国の境界線は山口・広島辺りでしょう。
597日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:35:29
>>595
誤)倭人伝では官の伊支馬有の次の次だから
正)倭人伝では官の伊支馬の次の次だから
598日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:37:09
日本書紀には、そもそも事実が書かれていない
日本の本当の歴史を知りたければ、仏教伝来以前の日本の宗教である氏神信仰、すなわち神社を調べればよい
西日本一帯から近畿、中部地方には卑弥呼など祭られていない
祭られれているのは、卑弥呼と同時代に活躍していたスサノオとその息子のニギヤヒだ
邪馬台国を建国したのは出雲出身のスサノオで、卑弥呼はスサノオに敗北したイザナギ一族の出身で、人質としてスサノオの側室になったにすぎない
ただ卑弥呼は権謀術に優れていた上に長生きし、スサノオの死後邪馬台国を乗っ取ったにすぎない
日本書紀はイザナギ一族出身の藤原家によって編纂されたため、日本の歴史から出雲勢力が抹殺されてしまった
599日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:42:51
>>564
>「見る銅鐸」の製造配布が近江なら
>確かに「見る銅鐸」はその鉛同位体が集中した分布を見せるらしい
>少なくとも原料の銅は近江から三遠、南紀、阿波…の各地に輸出されたと見るのも

配布元は近江なのだろうか?

鉛同位体比の値が類似するほか、
六区袈裟襷文デザインからつながる規格性の高さから、
同一工人群による特定工房群での製造がうかがえる、という。

こうした銅鐸製造・配布を一元的に掌握していた勢力が想定できるとすれば、
それは・・・?
600唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 21:46:30
ハツクニシラススメラミコトは説明しているが、改めて

神武は、弥生X様式の初めでハツクニ
神武は、庄内式の初めで、ハツクニ

601日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:50:55
>>575
>要するに弥生時代末期頃までに奈良には7万戸の人口は存在し得なかった。

と言うかそんな人口を有した地域、日本の何処にも無かっただろうなw
まあその数字を真に受けているのはこの板の九州説ぐらいか?www

人口の話で言うと、そもそも稲作自体が始まって、それで人口の爆発が起きたのかどうかが先ず疑問。

稲作で労働力の集約が必要になり大型集落の出現を見るに至ったんだろうが
地域全体の総人口としてはあまり変わらなかったのではないかと思う。

古典的な人口論で言うところの幾何級数的な伸びを示すには
集落全体の規模や収穫量が、ある”臨界点”に達するを待待たねばならなかったんじゃないかと思っている。
(その臨界点が何かはいまだきちんと考えがまとまっていないが…)

で、鉄器は稲作の生産性向上にどれほど寄与したかも分からなければ益々人口の増加のファクタとしては心もとないwwww

結局のところ九州が他地域を圧倒して人口が多いなんてモデルはありえないとw



602日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:51:36
ハツクニといえば、やっぱり祟神
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/08(月) 21:56:25
>>595
唐松山は稀代のデ○パだよ。奴の書きこみなんかあてにしないこと。
酷評はうんとしてやれ。
604日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:57:47
>>603 犬国

お前に言われたら最期だなwwww


605日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:58:29
>>598
>すなわち神社を調べればよい

原田常治ですね。もう売ってないと思ってたら、
つい先日、二巻目の方を発見して購入しました。

(最後の部分からすると、後継の小椋一葉のほうかな?)
606太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/08(月) 22:02:34
>>604
オマエはジョーカーか〜??><
607564:2010/02/08(月) 22:05:35
>>599
レスしてもらったのはとりあえずサンクスだが・・・
最後まできちんと言えw
話し続けられんやんけwww
608日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:08:15
このスレのコテハンは仲が悪いですね。
倭国大乱状態です。
もしくは百家争鳴。
609唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/08(月) 22:09:25
>垂仁陵は盆地北部にあり垂仁は後の佐紀に古墳を築いた勢力の人間であって

垂仁稜を比定したのは、明治時代。だからこれでは、ダメ。
現実に比定出来るのは、菅原が茅原にかわった。ホケノ山古墳、
ここには、田道間守の殉葬と思われる、半島式墳墓を伴う。
そうすると、仲哀が白鳥を飼った陵域の池は、箸墓になり、景行以外いない。
610日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:12:09
>>607
>最後まできちんと言えw

いや〜、そこで最後なんだが・・・
まあ、共立に参画した主体がヤマトにもあった可能性を示唆したかったわけで。
611日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:14:25
3・21予告
http://www.nara-u.ac.jp/news/event/detail_20100116.html

■講演会&シンポジウム 「邪馬台国からヤマト王権へ 〜纒向遺跡の新発見が語るもの〜」

 平成21年11月、奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半の大型建物跡が発見されました。
床面積は佐賀県吉野ヶ里遺跡を大幅に上回り、同時代で国内最大の建物跡で、新聞・テレビ等で広く報道され、現地説明会には1万1300人が参加しました。
 日本古代史に大きな一石を投じた今次発掘調査の責任者、橋本輝彦氏(桜井市教育委員会文化財課主査)は、奈良大学国文学科の卒業生でもあります。
 そこで、今年の「春のオープンキャンパス」に併せ、橋本先生と、古墳時代考古学の第一人者、白石太一郎先生(前奈良大学教授、大阪府立近つ飛鳥博物館長)を迎え、講演会&シンポジウムを開催することとなりました。
司会進行は本学文化財学科の坂井秀弥教授です。
 聴講無料・予約不要ですので、ご家族やご友人もお誘いあわせのうえ、ぜひご来聴ください。


【日時】平成22年3月21日(日) 13:00〜16:00(入場12:30〜)
【場所】奈良大学
 ※予約不要・参加無料・途中入退場自由です。
 ※高の原駅より奈良大学まで無料送迎バスを運行します
 (乗車時間約5分。10:30〜17:30の間、約20分間隔)。

【お問合せ先】奈良大学入学課 〒631-8502 奈良市山陵町1500 TEL:0742-41-9502(直通)

タイムテーブル
13:00〜14:10「纒向遺跡の発掘調査 ―卑弥呼の宮殿を探して―」橋本輝彦先生
14:10〜15:20「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」白石太一郎先生
15:20〜15:30 〜休憩10分間〜
15:30〜16:20 ミニシンポジウム
司会進行:坂井秀弥教授
612日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:22:31
>>610
>まあ、共立に参画した主体がヤマトにもあった可能性を示唆したかったわけで。

ただね、前述のようにその銅が日本海ルートなら古墳時代に入って
その日本海ルートでもっと鉄が大量にヤマトに流れ込んで来たんじゃないかと思うのだが…

古代の鉄の研究家も纏向に見るフイゴ羽口とかの技術は
日本海ルートの物じゃないとしているのを読んだ事もあるし・・・
613日本@名無史さん:2010/02/08(月) 22:54:55
>>612
>古墳時代に入ってその日本海ルートで

古墳時代にはドウドウと北九州〜瀬戸内経由で・・・

>纏向に見るフイゴ羽口とかの技術は

あ、そのへん今のトコ守備範囲外。だけど纏向なら日本海、関係なくね?

上のほうで「学会の状況」とか「2つの流れ」とかいうレスがあったので、
柳田、寺沢だけじゃないだろうって。ちょうど福永読んでたし・・・
というのは、このあとは当然鏡の話につながるのだが、三角ってこっちに決まりじゃないって思うしね。
614縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 23:32:40
>>596
もうさんざん言われていることで繰り返すのも嫌になるほどですが、
郡から伊都国まで万五百餘里です。これはそのままの数字で倭人伝には書かれていません。それまでの里数を足して
得られるものです。これくらいの足し算は誰にでもできることです。そして伊都国から女王の都する邪馬台国までは
1500里です。これもその数字が倭人伝に書かれてはいません。郡から女王国まで万二千餘里とありますからこれから
伊都国までの万五百餘里を差し引いて得られるものです。これも簡単な計算ですね。

伊都国から女王国までの距離は郡から伊都国までの距離の1/7ですよ。あなたは郡から女王国までの距離を郡から女王
国の西の境界(山口辺りとしていますが)までとしていますね。何故都のある邪馬台国までの距離にしないかと言えば
遠すぎて倭人伝の記述に合わないからでしょう。しかし、これは姑息なやり口ですよ。

それから、方角がおかしいでしょう。淡路島近辺は壱岐からでさえ東の方角になりますよ。
615縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/08(月) 23:51:39
>>601
>>要するに弥生時代末期頃までに奈良には7万戸の人口は存在し得なかった。

>と言うかそんな人口を有した地域、日本の何処にも無かっただろうなw
>まあその数字を真に受けているのはこの板の九州説ぐらいか?www

疑り深いご仁だの〜。
福岡平野は2万戸超、筑紫平野は3万戸超、筑後平野は5万戸超、熊本平野+宮崎は7万戸超。

稲作が始まって人口が爆発的にあるいは幾何級数的に増えるというような急激な増加は考えなくてよいだろう。
着実に伸びて行けばよい。人口が増えれば開拓圧力が高まり水田が増える。この繰り返しで利用可能な土地が無
くなるまで進んでゆくだろう。九州はそれが早かったのだ。

616日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:00:39
>伊都国から女王の都する邪馬台国までは1500里です
これは違うな。女王国までが1500里なんだ。
女王国と邪馬台国とは別の概念だ。僅か千五百里に40日もかかるわけはない。
617日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:02:45
だいたい、何のために日数で書いたかということだな。里数が良く分からない
からだよ。だから、倭人伝が邪馬台国までの里数を表示するはずはないんだ。
618日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:20:09
>494
>>2世紀末ころにマキムク遺跡が成立すること
>… とする。
>この板でも両極端の年代観だなwwwww

別にこれは極端じゃないですよ。
おそらく安本さんや森さんのような一般向けに多く出版されてる方の
本を読まれて言われてるんでしょうが、そういう人たちの年代観は考
古学会一般の年代観と大きくずれていますね。

実際の基準を示している考古学者の年代観は、奈良の石野が1世末、
同じく奈良の寺沢が200年前後、柳田も200年ころです。

寺沢と並び年代繰り上げに功績のあった森岡は、年輪年代法等を元に
もっと繰り上げがありうることも示唆しており、庄内の開始はさらに
上がる可能性があります。
619日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:28:05
>498
>>銅鐸圏は、近畿Xの分布と同様に政治圏ではありません。
>そう言い切れるのであれば、ややこしいとは思わないんですが。

祭器の分布のみで政治圏を証明するのは苦しいですね。
たとえば、縄文時代の勾玉の流通で政治圏をかたれるのか?というと難しい
のと同様です。

ただ、間接的に近畿圏の境界への銅鐸の埋能や後期の畿内の戦略的要衝に
配置されているように見える高地性集落から間接的に連合政権的なものが
あった可能性が推測されますが、しっかりと証明することは難しいし、
今後も証明できないと思います。

あとは、記紀の伝承くらいしか証拠がありませんね。
620水銀厨 :2010/02/09(火) 00:37:03
>>614
>もうさんざん言われていることで繰り返すのも嫌になるほどですが〜

記述にない文言はどんなに言い繕っても推測でしかないですよ。
足し算する時点で私はパス、そんな主張は私には論外です。

方角の矛盾に関しては私もまだ納得出来る理由を、倭人伝からは
解釈出来てません。これは事実です。

後世に方角を間違えた地図が存在するとか、最初から
方角に微妙な誤差があるとか、推論ならいくらでも出来ますが、
それを強引に主張する気はないですね。
621九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/09(火) 01:01:44
帯方郡より伊都國までは11900餘里。
伊都國から奴國までは100里。
又、伊都國から不彌國までは100里。

即ち、帯方郡より奴國は12000餘里であり、帯方郡より不彌國も12000餘里。

一方、帯方郡より女王國は12000餘里。

ゆえに、奴國及び不彌國は女王國内の国々である。

伊都國は肥前国庁跡惣座である。即ち伊都國の城郭は惣座遺跡である。
惣座遺跡の東方100里にあるのは吉野ヶ里遺跡。
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡である。

不彌國吉野ヶ里の南方に、東から西に流れる筑後川がある。
投馬國の城郭と邪馬壹國の城郭は吉野ヶ里の南に筑後川を挟んで立地しているのだ。
622九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/02/09(火) 01:02:52
魏志倭人傳 地図
〜〜一大國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜〜
〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛(餘旁國地域) ┗┓〜〜▲印:観音峠「草木茂盛行不見前人」
〜〜〜〜〜┏┯┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵倭28ヶ国∵∵┗┓〜倭in倭地:今譯所通28國(狗邪韓國・對馬國・狗奴國を除く)
〜〜〜〜〜┃│┃↓〜┏┛(餘旁國) ◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗━奴國:須玖岡本遺跡〈倭奴國〉其餘旁國の一国
〜〜〜〜〜┃│┗↓━┛∵∵∵∵∵◎奴國〈倭奴國〉∵∵∵∵∵∵郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜┏━━┛│∵◎→→→▲┐∵∵∵◇倭京大宰府∵∵∵∵∵∵郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(倭地韓地陸行)
〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵(餘旁國地域) ∵∵∵郡⇔投馬國:水行20日(天草灘・五島・済州島経由)
〜〜〜┃倭∵│[竹斯國] ∵∵↓∵不彌國〈倭面土國〉∵∵∵∵∵∵●印:女王國メンバー国 範囲(浮羽⇔筑紫野⇔白石⇔大牟田⇔浮羽)
〜〜〜┃∵非└┐∵∵伊都國◎→→●┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵末盧國城郭:東唐津鏡中原遺跡「濱山海居:古松浦潟」
〜〜〜┗┓∵28└┐∵∵∵∵└┐┏┓├●邪馬壹國[邪靡堆] ∵∵伊都國城郭:惣座遺跡(肥前國庁跡)
〜〜┏┓┗━┓ ヶ└┐∵∵奴國●┃┃│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵奴  國城郭:佐賀城  国域:佐賀平野・白石地域
〜┏┛┗┓〜┃∵國└┐┏━━━┛●┘投馬國∵∵∵∵∵∵∵∵不彌國城郭:吉野ヶ里遺跡〈=倭面土國城郭〉 国域:背振山地南麓
〜┃∵∵┃〜┗┓∵地└┨〜〜〜〜┃∵∵┌─────────投馬國城郭:大川市郷原  国域:筑後平野
〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵域┃有明海〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國城郭:久留米南部  国域:筑後平野東北部・北野地域
〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵∵∵狗奴國城郭:保田東原遺跡
623日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:27:30
>>622
新井白石の外国之事調書では、
邪馬台国は山門郡、投馬国は熊本県玉名市、狗奴国は球磨地方となっている。
624日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:38:23
>>470
鬼頭氏の弥生時代以前の人口は、すべて小山修三が推定したものをそのまま採用している。

1965年の『全国遺跡地図』によると各地の弥生時代の遺跡の数は、
東北: 597
関東: 1768
北陸: 370
中部: 1503
東海: 987
近畿: 1934
中国: 1050
四国: 538
九州: 1877
これに56を乗じた数字がそれぞれの紀元200年頃の推定人口になっている。
56という数字自体は、奈良時代の遺跡人口比と、
遺跡規模比奈良時代の(1/3)から逆算したもの

できればその後の遺跡の発見やら、より細かい時代変遷を加味して、
再計算をして欲しいところ。
625日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:42:07
>>624
九州の場合は、吉野ヶ里遺跡など大規模な遺跡が多いので、修正しなければ
ならないとか言っていなかったかな。一つの遺跡で1000人だからなあ。
626日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:52:30
ちなみに小山修三のオリジナルの文献はpdfで読める。
ttp://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/259/1/SES02_002.pdf

6ページ目に、計算の元となった各時代の遺跡数が都道府県別にまとまっている。
もちろんこれは1965年の『全国遺跡地図』での情報。

wikipediaの項目もやたら詳しくなっている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
627日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:55:57
>>618
ホケノの木棺をアメリカの研究機関に出してそこから返ってきた測定結果が
何れもAD120を中心に「75〜215年」「80〜155」だからなあ…w

まあ結局は画文の出土にあわせて3世紀半ばと予定調和な数字になったんだが
邪馬台国東遷厨に言わせれば「畿内説のサヨク学者の陰謀」とまで言われているこの数字ですら

まだまだ昔の年代観に引っ張られている中途半端な数字と言う可能性もあるのかな?wwwwwwwww



628日本@名無史さん:2010/02/09(火) 02:09:47
>>624
今後どう数字が変わろうが地域間の比率が大きく変わる事は無いだろう。
九州だけが飛びぬけて上方修正される要素があるとも思えんw

だったら少なくとも九州勢が武力で制圧しつつ東征したなんておとぎ話以下www

遠征軍を出す方はそりゃ何倍もの兵力を有していなければ話にもならないわけで
「勝は大兵にあり」は古今東西大原則。

まあ身も蓋も無い話だがwwwwwwww

>>625
1000人程度の人口と言うのは大型拠点集落。
その周辺集落は当然それよりは小さい。

それに1000人ぐらいなら唐古鍵でも想定されている数字。
当然日本く各地の大型拠点集落でもそれぐらいの数字が想定されてる物は多々あるだろう。

九州がずば抜けて大きいと言うわけでもない。



629日本@名無史さん:2010/02/09(火) 02:28:39
>>627
c14の場合もいろいろ問題がある。
C14は年によって濃度が異なる。しかし、地域による濃度の差は考慮されて
いない。つまり、外国で決めた較正曲線が日本でも適用できるかどうか。

日本の場合は海洋性のために、一般的にC14濃度が低くこの測定法では実際
より古い結果が出るといわれる。
630日本@名無史さん:2010/02/09(火) 02:38:47
>>629
無論そんな話は承知。と言うか必ずこの板では出てくる話w
ただ日本の環境に合わせた修正だけでAD120がAD250にはならんだろうと思うんだよねw

まあこの辺の理化学的年代測定は論拠にしても水掛け論で終わるので基本パスはしているんだがwww
631日本@名無史さん:2010/02/09(火) 02:53:25
>>630
ふ〜ん、じゃあ年輪年代の問題点も知ってんだろうな。
まあ、結局、土器にしろ他のものにしろ、きっかりとした年代を出すのは
難しい。にもかかわらず、きっちりした年代を出し、それを根拠に論じるのが
畿内説というわけなのだろう。

倭人伝は信頼できないといいながら、纏向の年代はちゃっかり倭人伝に
書かれた卑弥呼の共立に合わせようとしている。

前にも書いたが、一方で、倭人伝の記述に矛盾することもある。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞

がそれで、畿内説の年代観で卑弥呼時代ではないとされる吉野ヶ里遺跡で
この痕跡が認められ、卑弥呼時代とされる纏向ではこれの痕跡がないと
いう矛盾が出てくる。
632日本@名無史さん:2010/02/09(火) 03:31:47
結局、九州説(特に東遷説は深刻な死活問題www)がいまだにすがっている年代観と言うのは

三角舶載(下賜品)を前提にした小林説がベースになっていたと言うのが最大の笑いどころwwwwwwwwww

で纏向の大型建物の出現で「宮室・楼観・城柵」の3点セットのアドバンテージも怪しくなってきた

・・・と言うかこんなもん吉野ヶ里に特有でもないし九州の環濠集落に特有の物でもない。

いい加減この程度のレベルのお話にもうんざりだがw

633日本@名無史さん:2010/02/09(火) 03:37:03
まあ畿内説は「共立」の動きを列島全体の相当に大きなムーブメントと解しているわけだが

九州説はそれにイチャモンつけるだけで終わるんじゃなく
九州にその動きを何に見るのかを対案として出した方が建設的ではあるw

がそこら辺が材料が無いからこの板じゃあ、ある物は九州全土を統一したような一大帝国を夢想し
ある者は筑紫平野に限定する・・・とこれもバラバラwwww

634日本@名無史さん:2010/02/09(火) 07:07:07
>>633
畿内説も分かれているよ。水行を瀬戸内海だといってみたり、日本海だといってみたり、
結構バラバラだ。しかも、連続説がいるかと思えば放射説もいる。
確定案をだしてみろといってみたところで出てくるものではない。

九州説は北九州説と南九州説があるが、これはまったく別の論と考えるべきだ
ろうな。北九州説はどうしても倭人伝のどこかを間違っているとか、トンデモ
読みをするとかしなければならん。倭人伝どおりに読んで行けるのは南九州の
みだ。
635日本@名無史さん:2010/02/09(火) 07:17:59
>遠征軍を出す方はそりゃ何倍もの兵力を有していなければ話にもならないわけで
>「勝は大兵にあり」は古今東西大原則。
歴史を知らん奴だな。織田信長はもともとたった三千の兵で戦い、あっというまに
国内統一直前までいったんだ。
それに畿内にそんな大兵力があった形跡はないな。銅鐸の祭りすら続けられなかった。
まあ、ほとんど兵をもたない村が点在していただけという風景だったろう。
636縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 12:56:11
この板は深夜族の止まり木か?午前4時近くまで遊んでいて。昼間は何をしているのだ?

>>632
>で纏向の大型建物の出現で「宮室・楼観・城柵」の3点セットのアドバンテージも怪しくなってきた

これだから素人は始末におえん。例の柱穴跡から宮室・楼観・城柵を想定できると思っているとは!!

>>633
>まあ畿内説は「共立」の動きを列島全体の相当に大きなムーブメントと解しているわけだが

「共立」の動きの具体像を示さないと「ゆるやかな首長連合」と同じでどんぐり村の仲良しクラブみたいな
脳天気な時代認識と受けとられるぞ。

卑弥呼の共立は王位をめぐる内輪もめを有力国(奴国、投馬国、邪馬台国)の重臣達が談合で導き出した結
論であり結果だ。王位をめぐる内輪もめと言ったが、倭国乱と記述されているから戦闘も交えた混乱状態で
あったのだろう。大陸や半島も戦乱状態にあり、倭国も緊張状態にある時代だったのだ。
637日本@名無史さん:2010/02/09(火) 13:14:12
>>636
>昼間は何をしているのだ?
昼休みに昨夜のレスが気になって必死に書き込む土建屋のおっさんW
638日本@名無史さん:2010/02/09(火) 14:09:20
>>636
>これだから素人は始末におえん。

縄文人は何かのプロのつもりか?W
639唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 17:51:11
>例の柱穴跡から宮室・楼観・城柵を想定できると思っているとは!!

縄文人どんも、自説の為なら、たまには本当のことを言う事もある。

邪馬台国は、畿内大和であるが、卑弥呼は九州。

今日は、これについて教えて上げよう。
昨日の書き込みぐらいでは、縄文人どんも壊しがいが無いだろうから。
640縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 18:02:38
>>638
纏向の柱穴跡から宮室・楼観・城柵が存在したと言えるような専門家は居ないだろう。だから632の書き込みをした
人は素人と判断できる。だから素人は始末におえん と言ったまでだ。私がプロであろうがなかろうが関係はない。
641唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 18:05:26
巾3尺の石から卑弥呼
ホ38168はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ
ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ カエもふで 
母身体熱さ1度息 皇祈り飛び上がる 故住吉治り神 両刃の社新に建て 之祀らしむ 代え詣
此だけでは弱いので景行の歌も一緒に。
ホ38221 カンココロ かくぞをぼして カミまつリ ミヤコのソラを ながむミウタに
はしきよし ワキべのカタゆ クモいたち クモはヤマトの クニのマホ またたなびくは
アヲカキの ヤマもこもれる ヤマシロは イノチのまそよ けむひせば タタミコヲモエ
クノヤマの シラカシがヱを ウスにさせこのコ
最後だけ訳す
只皇女思え クの山の 白樫が枝を うすに挿せこの子
先日の 母(卑弥呼)高熱を発して死亡後の 続き何の神祀りか?答えは、後半2行でしょう。
書記と同じ 最後だけを訳すと
「白樫の枝をウズに挿せ」 解説すると 江戸時代の将軍の紫色の鉢巻き 
病気平癒のおまじない この古代版。

この調子で大木から男王に変身。
ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
後略。

住吉は、九州に於いて景行の命令で「母」こと「卑弥呼」を祀る。
この住吉が仲哀を殺す。
いいかい、「親魏倭王」とは、魏を親とする倭王なんだ。
冊封を受けた以上、親が魏から晋に変わろうと、親の命令は絶対なんだ。
軍を伴って渡海せよと命令されたら、なにがなんでも渡海せねばならない。
これが子である倭国の絶対条件なんだ。

仲哀の如く「船酔いが酷いので渡海しません」などと口答えすると、殺してでも渡海せねば
ならない、この後見役として、住吉は正しい判断を下したわけだ。
642縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 18:06:46
唐松ちゃん
>邪馬台国は、畿内大和であるが、卑弥呼は九州。
>今日は、これについて教えて上げよう。

うん おせ〜ておせ〜て。んじゃけんどおもろなかったら見らんけんね〜。
643唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 18:15:02
ここからは、326年の七支刀の正当性になるが、そこまで巨大にしてしまって
土建屋縄文人ドンに壊せるか?
644縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 18:16:13
>「親魏倭王」とは、魏を親とする倭王なんだ。

なるほどなるほど。そうすると魏の皇帝は子倭魏帝ということになるんだね。
645縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 18:19:29
唐松ちゃん
七支刀の話が楽しみだけど、今から家族団欒の夕食なんでまたあとでね。
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 18:21:39
そんなよみかたじゃあ、歪んだ建物しか建たん。

魏を親とする倭王とは、魏を親と敬う倭王のことだ。
魏に親しい倭王じゃ失格。
647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 18:50:26
どや 潰せそうか?
倭国乱を崇神かそれ以前とする輩は、百済にへこへこする連中だから。
書紀にはそんなことは書かれていない へこへこするのは百済だ。

書紀に書かれたことを「真」とするならば、私の読み方が必要。
648日本@名無史さん:2010/02/09(火) 20:07:27
しかし縄文人のレスはひどい。
649縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 20:33:50
>>647
>どや 潰せそうか?

こちらが潰す前に既に潰れてるじゃん。倭国乱の頃東征したのは神武だし、崇神は4世紀だし。
紀の暦は間違っているし、ホツマはたぶん江戸時代に作られた神主養成のためのテキストだし。

650唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 21:00:16
では、その暦を教えてほしい。
651日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:00:41
>>618
>おそらく安本さんや森さんのような一般向けに多く出版されてる方の
>本を読まれて言われてるんでしょうが

これについて…

森は九州説でも邪馬台国の時代には既に纏向は興っていたという年代観だったかと。
わりと新しい著書になると思うが『古代史おさらい帖』にもそうあったw

もっとも、そうでなければ井沢との対談で
「箸墓は卑弥呼か壱与の墓の可能性がある」
なんて台詞は飛び出して来ないわけでwwwwwwww

652日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:16:00
>>619
>祭器の分布のみで政治圏を証明するのは苦しいですね。

後期の銅鐸を以前と同様の祭器ととらえてよいのか、という問題です。

中期末の一斉埋納を機に、銅鐸の持つ意味は変化したと考えられます。
後期の大型化する突線鈕式銅鐸は、内面突帯がすり減った例がほとんど見られず、
儀礼の様子や物語が描かれた絵画銅鐸もほとんど見られない、という。
もはや豊穣を祈るマツリの場で鳴らされることはなくなり、
「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと生まれ変わったのだ。

中期末までにそれまでの青銅祭祀はそれまでの共同体の在り方とともに終了し、
後期になると、首長権の増大とともに新たなクニ・国を象徴するシンボルが登場する。
それが、北九州の銅矛、山陰・山陽の大型墳丘墓、近畿・東海の大型銅鐸ではないか。
653日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:16:12
>>636 縄文人
>これだから素人は始末におえん。例の柱穴跡から宮室・楼観・城柵を想定できると思っているとは!!

あ?知ったかぶりの学者先生ゴッコかな?

別に吉野ヶ里から建物・構造物そのものが出てきたわけじゃなし

宮室とはどれくらいの大きさの建物か?
楼観とはどれくらいの高さだったのか?
城柵とはどれくらい続いていたのか?

…何れも分からない、規模の大小を問わなければ、どの時代の集落でもありうるようなもの。

それとも 玄人 のお前はそれがどんなものか大きさ等を示せるのか?クズwwww

ただ纏向は柱もそんなに太くなく、大型の建物が見つかってなかったと言う事があったから
そこが難点とする声があっただけ。

まあそんな3点セットなんか大した問題じゃあなかったんだろうが
これ完全に九州説のネタが一つ消えてしまいましたとさ♪ちゃんちゃんwwwwww
654653:2010/02/09(火) 21:30:48
ついでに言っておくと

「宮室」と聞けば大抵の人間が高床式の建物を想像するだろう。
無論、俺にしてもそうだw
卑弥呼が竪穴式住居にいたなんて誰もイメージしないだろうが
古代建築の研究家でそれが「竪穴式住居なのではないか?」遠い声もあるらしい。

言われてみれば高床式であるなんて保障は何も無い訳で

これも無意識のうちのイメージ先行の例だよなwwwwww

655唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 21:45:43
雄略天皇は、武寧王の誕生が記事になっており、この数字は正しい。
で有るならば、崇神4世紀は、私の主張より100年以上圧縮された読み方。

私の読み方は、崇神から応神まで、各所で歴史と書紀を合わせている。
特に神功から応神には、百済王家の数字が宛がわれており、この数字を圧縮すると
歴史が読めない。この王家を圧縮しない限り、崇神を4世紀に持って来れない、また神武から
神功元年の数字は、私より短いと、世継ぎが不可能な数字になる。

百済王家を潰した読み方は、歴史では無い。
656日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:46:00
三内丸山遺跡の大型竪穴式住居は数十人の家族が住める規模です。
物見やぐらも吉野ヶ里遺跡の原型だったと思われます。
やはり卑弥呼は縄文系の女王だったのではないでしょうか?

http://art14.photozou.jp/pub/487/186487/photo/23062790.jpg
657縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 21:49:31
>>650
日本書紀編纂にあたった学者達は6世紀以前の年代合わせ(干支の設定)に大変苦労したようであるが、おかしなことがある。

神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申朔から天智紀六年閏十一月丁亥朔
までが元嘉暦と一致するとされる。
元嘉暦が古く儀鳳暦が新しい暦であるが、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に当てはめている。

元嘉暦は南朝の宋の元嘉22年(445年)から施行されたもので、儀鳳暦は唐の高宗の麟徳2年(665年)から用いられた麟徳暦と考え
られている。日本にこれらの暦が伝わったのが何時のことかは定かでないが、少なくとも445年以前にはこれらの暦は存在していない
訳だから、5世紀より前の記事の干支は創作されたものである。したがって、これを以て西暦年に換算しようとしても無駄である。

こんなことなんだから、貴殿や太国どんの間で意見が食い違うのも当然である。
658日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:50:11
一万二千余里を所与のものとして扱うことには疑問だった。

「自郡至女王國萬二千餘里」は陳寿による計算の叙述だ。
収集した一次資料を編纂し、出来上がった行程を、自身で辿り直したものだろう。

漢書の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」に
魏代の如淳が付けた注に「如墨委面、在帶方東南萬里」がある。
これによりいにしえより、倭は(当時の倭は北九州)帯方の東南万里に在る、と認識されていたことがわかる。
陳寿の記述がこのことに基づくものであることは、
実距離が異なる三渡海がいずれも単純に千里と記述されたことからも推察される。

これに、伊都国に常駐した郡使の情報、
および女王の都するところまで使いした梯雋もしくは張政の情報
(水行二十日プラス水行十日陸行一月。一日の行程を当時の旅程三十里で換算)
を加えて「萬二千餘里」は導きだされた。
659太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 22:00:14
>>657
だから逆算なわけよ。記紀編纂当時は400年代より後なんだから、そういう
暦法でということは、編者らの逆算が行われてるからだろう。
660唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/09(火) 22:08:13
神武から儀鳳暦で書かれていると言う輩は、書紀の暦を知らない。
「儀鳳暦で読める」の条件として、「ただし7ヶ所の間違いを認めれば」の重要な部分を
書き込んでいない、これだけの間違いを認めれば、何とでも言える。

もし書紀の暦を再現したければ、本当の方法を教えましょう。
暦は、多分「四分暦」これで十分だ。そして暦は、神武東征以前から使われていた。
この現実の暦の裏に、改元の如く引き延ばす「増し」の暦が存在する。
使い方は、現実の暦は4章の終わりに1日を差し引く。この暦に「最初に1日差し引いた4章の暦」を被せる
しかし現実の時空より「増し」に使われた数字の方が多い。

儀鳳暦を主張する連中も、儀鳳暦で書紀の暦を再現出来ない。だから「ただし…」を付けくわえてある。
現実に書かれた「書紀の暦」は、私の主張で再現出来るだろう。

661太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 22:17:59
マシは公文書偽造だから、よっぽどの利害が大なることがなけりゃぁ
やるわけがない。ひそかに隠匿してやれば、当時も政敵はいるだろうから、
それにタレこまれれば身の危険が切迫するし、おいそれと出来っこはない。

それに大陸の歴史に負けないように伸張させるならば、三皇五帝の代
よりももっと拡張せねばならないわけで、そうなっていないんだから、
危険行為をする動機がない。つまりこういう不正行為のマシなんぞは、
到底考えられない。つまり紀の天皇××年という年代が確かに存在したと
観るのが正解であり、そうなると倍年暦を行使していたということは
天皇の超長寿に見える記述からうなずける暦法だということになる。
662太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 22:26:12
紀の欠史八代の日数統計表を観れば、その全ての記述が月前半の1日〜14日
までに収まっている。とりわけ天皇の崩御は
663縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 22:36:28
>>653
私が昔特別編スレに書いたことを読んでいないようだね。

纏向地域には箸中古墳をはじめ崇神陵や景行陵とされる古墳など大型の古墳が集積している。明らかに墓域と見てよい
地域だ。これらの大型古墳の造営には一基だけでも人夫、監督指揮者、機材調達係、警護の兵士、賄い方など数千人の
人間と数年間の時間を要したと考えられる。

また、造営にあたっては着工前の祭祀、途中の祭祀、完工時の祭祀などのための祭祀殿が設けられた筈である。さらには、
工事関係者の宿舎、資材置き場、賄い場などの施設も必要だった筈である。これらの施設跡は残らないのか?

例の柱穴跡の発掘によってマスコミなどは卑弥呼の宮殿跡か などと騒いだ。当然関係者にも取材した筈なのに古墳築造
関係の施設跡の可能性を検討した話は聞こえてこない。発掘関係者すら「宮殿跡」の先入観に囚われてあらゆる可能性を
検討するという基本的な態度を失っていたのではないか とさえ思えてくる。

あの柱は引き抜かれたと見られる跡があるという。つまり、一時的に利用された建物である。ということは、古墳築造に
関係した建物(祭祀殿)の可能性が高い。また、この近辺に工事関係者の宿所や賄い場もあった筈で、付近から出土する
各地の土器もそれぞれの土地から集められた人夫等が持ち込んだものと見る事もできよう。
664太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 22:36:28
紀の欠史八代の日数統計表を観れば、その全ての記述が月前半の1日〜14日
までに収まっている。とりわけ天皇の崩御は8人全員が月上旬に死んで
おり、これは朝廷の経営とかで決められる日数ではない。暗殺とか自殺
とか特別の状況ならば上旬に死を選ぶことは可能であるが、こんなこと
は滅多にないだろうから、当時の暦法に2倍暦のほかに3倍暦を並行行使
してたと観るのが相当である。

紀の記事が崇神の代以降に月後半の記事が幾分あるから、倍暦は成立
しないなどと主張するのは浅薄早計な結論であり、崇神の代皇后がお立ち
になって初めて16日の記載があり(但し神武は別)、ここの時代になって
初めて月後半を使うぞとする天皇以下朝廷の宣言なわけであるも、月数を
空白とすれば1ヶ月が30日丸々存在させても倍暦は行使可能なわけで
あって、崇神以後に月後半があるから倍暦はできないなどというのは、
間違いであり、やろうと思えば空白月をつくったりある月は日数を減らし
たりを一部行うことで、倍暦の行使は出来うるのである。
665縦目仮面:2010/02/09(火) 22:48:03
>>663
縄文人は工事現場にあるプレハブ建物が頭にあるようだけど、箸墓とは時代が違うね。
纏向の掘立柱建物は、発掘された柱群がL字型の溝(方形周溝墓かな)で破壊されていて、
その溝から出土した土器が庄内3式と見られ、柱群はそれ以前の遺構と考えられる。箸墓
を布留0式とすれば、明らかに時代が違う。

666日本@名無史さん:2010/02/09(火) 22:51:12
欠史8代はなかった。
それでいいじゃないか。

667太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 22:59:06
欠史八代の日数統計表を眺めて考えられることは、編纂当時舎人親王らの
周囲には紀の原書群が多数あって、その中から最も安全、これが当時より
もっと遠い古代の未来へ伝達されてる不動的確信を覚えるものを選択して
紀の記載に採用したものであり、このとき天皇の崩御に関しては3倍年暦
を、その他の行事に関しては大概2倍年暦のものを原書群から抽出したの
だろうと感じるものである。

ということは八代当時、二個(2倍3倍)の暦法が並行行使されていたと
想えることになり、これは古代アステカ、マヤ文明の暦法並行行使とあい
似ることになる。おそらくは通常暦法も朝廷は消極的にも行使してたで
あろうから、当時は3種の暦法の並行行使がなされていたのだと観るべき
なのである。

こういうことで暦法の把握から年代を正確に算出できれば、卑弥呼の年代
が畿内朝廷での、どの天皇の時代だったのかということが確認できて行く
わけで、これをおろそかには出来ないのである。
668日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:05:17
>>667
卑弥呼の時代には、そういった高度な暦法は存在しなかった。
冬至の日の日の出の方向だけがすべての基準だったのだ。
669太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 23:15:15
>>668
卑弥呼は九州の女王だよ.
だから君の言うように、九州の女王国には高度の暦法がなかったと
観ることは相当程度いえる。それがしの言ってる暦法は、九州では
なく、畿内朝廷の暦法であり、九州は畿内から遠隔(航空機も
新幹線もなかった時代のため)だから、畿内がかような暦法を使っ
てても、九州はそういう高度の、また朝廷と同じ暦法を使ってたと
は言いがたいし、ハッキリ言えば、九州はそれがしの倍年暦法とは
無関係だということだ。畿内と九州の女王国は別国であるから、
双方が同暦法でないことは十二分にありうることなのだ。
670縦目仮面:2010/02/09(火) 23:17:31
曲学の徒さんが前々から言ってた場所から最近 御所市秋津遺跡が発掘され、これは4世紀
のものと考えられてるけど、欠史8代がなぜ葛城氏の本拠である現御所市や、橿原市と関係
が深いのかを考えてみるのは意味があると思う。

例えば弁天塚古墳はすでに消滅してしまったが、橿原市の北部、寺川と米川が合流する付
近にあり、全長60m前後の帆立貝式の前方後円墳であったと考えられている。昭和63年の
調査では、特殊器台と特殊壷の破片が多く出土し、出現期のものであったらしい。
http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/kohun/index2.html
671日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:20:24
>>663 どろなわ

お前のあの建物に関する解釈なんかどうでも良い。
チラシの裏にでも書いておけアホウw

この話のポイントは纏向で「大型建物が出た」と言うところにある。

今までは「何某かの理由でわざと大きな建物を作る事は忌諱した」かのような考え方もあって
(俺自身も可能性としては考えていたw)
それが無くなったって事なんだからwwww

当然今後も大型建物が出てくる可能性はある。
あの建物の意味づけは今後の研究の進展を待てばよい。

そもそも如何なる考古学者だろうが文献史学者だろうが倭人伝の「宮室・楼観・城柵」がどのようなものであったか
具体的な姿形を根拠を持って示せるものではない。

吉野ヶ里で言えばマスコミの報道によってイメージが先行し
それがいつの間にか定着してしまったって側面があるだろうなwwww

もっともそれであの遺跡が工業団地として潰されずに済んだんだから邪馬台国ブームサマサマとwwwwwwwwww
672日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:21:50
特殊器台や特殊壺に騙されたし、
庄内式土器に騙されたし、
三角に騙された。

いったい何を信じればいいのでしょう?
673日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:24:09
ジョーカーさんは相変わらず畿内説の恥さらしですね。
九州説論者が畿内説を貶めるためにやっているような気もするけど。
674日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:28:16
>>673
中々、所帯の大きな畿内説を貶めるには俺如きの微力では無理っぽいなw

まあこの板の九州説の場合最初からトンデモがデフォだからなw

そこまで畿内説を落とすとなると俺なんかじゃあ100年かけても無理wwwww

675太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 23:28:34
空白月、空白日などあるわけがないとせせら笑う方もおられるかも知れ
ないが、これは前例があり、たとえば古代ローマ暦なんかは1年が10ヶ月
しかなかった時代があるわけで、ユリウス暦からグレゴリオ暦に変わっ
た1582年には10月4日の翌日は10月15日であって、その間の10日間は空白
であって、存在しないのである。

明治政府も旧暦から新暦に移行する際の明治5年12月2日の翌日を、
明治6年1月1日と為し、その間の日数は空白であるのだ。
676日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:33:00
昭和天皇が死んだ年のことを考えればわかりますよ。
ただ、この時代は、天皇の母が死んだとか何か不吉なことがあるとすぐ改元したのであって、
3倍暦とか4倍暦とか高度な暦法を用いたのではありません。
677縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 23:33:09
>>665
言いたいことは分るが、土器だけでは決められんだろ。ホケノ山古墳からは庄内式の壷が出土しているから
掘立柱建物とほぼ同じ時代だと言っていいかね。
678縦目仮面:2010/02/09(火) 23:38:03
>>677
www いや、俺が言いたいのは、どうしてレスが脊髄反射的に土木工事関係と結び付くのか
な、という素朴な疑問ですよ。www
679日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:44:43
>>658
単純に考えて郡から九州上陸寸前でジャスト10000里。

ここまでが皇帝の威徳が及ぶ範囲で
そこから先の蛮族が皇帝の徳を慕って朝貢しに来た・・・

って程度の話しなんじゃないのか?wwwww


680縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/09(火) 23:46:13
>>671
>この話のポイントは纏向で「大型建物が出た」と言うところにある。

ジョーカーというのか君は。相変わらず的外れなレスをするね。過去レスを読み返してみろ。勝手にポイントを
変えやがって。このウ〜バカのズンダレが!!

681日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:48:50
>>677
ホケノ山古墳をつくった工事関係者の宿所や賄い場が
去年の発掘で出た大型建物Dや建物Cだった─と縄文人は主張するわけか?
682日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:54:58
>>665
その発表も半信半疑くらいに見ておいた方が良いかも。
イマドキ学者や発掘者の誠実性に依存して考えるなんて流行らないよ。

学界で発表するよりも先にマスコミ発表している時点で、学問の世界の人間とは言えないわけだから。
683日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:56:57
>>652

ヤマトは一部を除き扁平式あたりで銅鐸祭祀のピークを終えちゃっているとすれば
銅鏡が古墳に副葬されるまで青銅祭器・威信財の不在の時代がしばらくあったって話しなんだよなあ。

その意味をどう捉えるかについては興味がある。

恐らく纏向出現の前の盆地の集落解体・衰退とリンクした現象だとは思うが・・・
684日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:58:53
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
685太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/09(火) 23:59:25
>>676
4倍なんかやってないよ。8人全員が上旬に死んでるということは、
当時の1ヶ月が10日間だったときがあったのだよ。これは3倍暦を行使して
たということだ。
つまり当時の1年が正味4ヶ月しかなかったときがあったんだよ。

神武のときも同様だ。ただ少し違う。神武は即位から崩御までは3倍暦を
行使していたが、八代とは違い、1ヶ月はまるまる30日ばかりあったが、
月が1月から4月までしかなかったんだ。ただ神武以前と没後は通常暦だ。

こうして神武は1年を4ヶ月間でやっていて、5月以降の月は空白だっ
たのだ。それが崩御した直後、もう葬儀のとき次帝は面倒だったんだろう、
通常暦に戻してしまったのだ。それで神武は即位から崩御までは5月以後
の記事が無いんだよ。

また明日な。反論あるなら書きこんでおけ。明日以降答えよう。

zzzzzzzzz・・・・・・・・
686縦目仮面:2010/02/10(水) 00:00:18
>>663
>造営にあたっては着工前の祭祀、途中の祭祀、完工時の祭祀などのための祭祀殿が
設けられた筈である。

この縄文人のレスは、現代の地鎮祭や上棟式(というのかよく知らん)などがイメージされ
てるようだけど、むろん祭祀の場は古墳上だよな。祭祀の対象は古墳の被葬者で、これは
祭祀の主体を取り違えていると思うね。

>工事関係者の宿舎、資材置き場、賄い場などの施設も必要だった筈である。

こんなものを高床式にして手間をかける必要はないと思う。竪穴式住居は平安時代まであ
ったし、作業をした人の身分が低いなら、もっと簡便なもので間に合う。

まあ、こんなことから縄文人=土建屋説を広めてるわけなんだが。ww
687日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:13:04
>>682
>学界で発表するよりも先にマスコミ発表している時点で、学問の世界の人間とは言えないわけだから。

マスコミ発表が先行で、全然構わない。
埋め戻す前に現地説明会をやって広く一般市民に遺跡を見てもらうことも、とても大切だ。
つまらん言いがかりはよせ。
688日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:15:35
>>683
>その意味をどう捉えるかについては興味がある。

(中期末までの弥生共同体の)青銅祭器、と
(首長権が伸張したのちの)クニ・国のシンボル、と
(首長個人の威信財としての)副葬品、とは
それぞれ別個の枠組みでとらえるほうがいいかと思う。
689日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:19:42
>>688
いや集団の祭器と首長個人の威信財を分けるというのは
別にその通りなんで別に反対もしないんだが

ヤマトにおける「青銅器不在の期間」をどう捉えるかが知りたいんだ

無論、東遷説論者の言うような「あらゆる銅鐸の一斉埋納」なんて与太は別にしてねwwwwwwwww
690日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:20:57
>>687
それ本気で言っているの?

学者の検討を受ける前に、「卑弥呼の居所だ。」なんて宣伝するなんてのは、
旧石器捏造事件と同じ構造だよ。

恥知らずのやり方。

691日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:23:17
>>679
>ここまでが皇帝の威徳が及ぶ範囲で

倭人の来朝は王莽以来、皇帝の徳の高さを示すデモンストレーションとして利用されている。

越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,(漢書「卷九十九上 王莽傳第六十九上」)
692日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:26:46
>>691

そう、だから良く邪馬台国の厚遇ぶりについて
「呉に軍事的プレッシャーを与えるのを期待して…」という話は聞くが

自分としては倭人の朝貢は一種の「瑞祥」として珍重されたんだと思っているwwwwwwww
693日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:28:57
>>689
>ヤマトにおける「青銅器不在の期間」

>>452で書いた
奈良県桜井市大福遺跡十五次調査第四トレンチSK-05出土の土製鋳型外枠
は?
694日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:38:02
>>692
>倭人の朝貢は一種の「瑞祥」として珍重された

越裳、黃支、東夷の朝献が偶然かな? 政治的な意図を感じておかしくはないだろう?
そしてそれにあやかったのが、光武帝、孝安帝の政権なんだよ。
695縦目仮面:2010/02/10(水) 00:38:03
>>692
まあ瑞祥というのはそんな感じかもしれない。古書にある伝説の倭人の朝貢は、麒麟が
発見されたというようなことに匹敵するか。w 俺的には公孫氏討伐後、魏側から倭人に
朝貢をうながした可能性もあるかと。
696日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:49:20
変わり身の早い倭人
697日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:55:39
>>690
>学者の検討を受ける前に、「卑弥呼の居所だ。」なんて宣伝するなんてのは、
>旧石器捏造事件と同じ構造だよ。

全然違う。
旧石器捏造事件は学界がFの捏造に気付かず、逆にマスコミが暴いた。

纏向遺跡の発掘の主体は桜井市(市教委)。
行政機関として発掘調査の結果をマスコミを通じて広報するのは当然の務めだ。
それで桜井市が公式に「卑弥呼の居所だ。」なんて言ったか?
698日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:59:05
公式に黒だといわれない限り、身の潔白は証明されたということだ。
辞める必要はない。
699縦目仮面:2010/02/10(水) 01:03:46
呉の孫権は、交州刺史の呂岱を使って扶南・林邑などの異民族の王に交渉を持ち,呉に
貢物を送るようにうながしている。このあたりは現在のベトナムなんだが、「曹沖伝」には
孫権が象を曹操に贈ったことも書かれていて、「ここまで版図を広げたぜ、すごいだろ。」
みたいな感覚はあったのかもしれない。


700日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:06:28
>>697
じゃあ「卑弥呼の居所」なんてデマレベルの妄言をマスコミに出させた人間を
学界から追放すべきだね。

この手のマスコミ利用で発掘費を出させようとするやり方はみっともない。

マスコミ先行でやるなら、最低限のマナーだけは守れないと学者失格だね。
701縦目仮面:2010/02/10(水) 01:12:16
報道の問題は難しいな。現在の報道の姿勢が感心できないとするのは俺も同感なんだが、
実際 重要な発掘は各地であるのに、邪馬台国と関連ありそうなことしか大きく取りあげられ
ないのは考古学フアンとしては残念。

ただ、新聞を完全な公器と見るのも人が良すぎるんじゃないかな。彼らにしても売れなきゃ
話にならんわけで、ちょうど三国鼎立のような力関係か?読売が魏で、産経が公孫氏あた
りになるのかな。www
702日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:14:05
帯方郡を置いたのは統治して徴税するため?
辰韓馬韓など小国数十カ国と個別に冊封関係を結んだようですが、どれほどの貢物を取れたのやら
そんな出先機関を設けても費用対効果が出ない気もする
703縦目仮面:2010/02/10(水) 01:24:14
>>702
俺はこの手のことはあまり詳しくはないんだけど、徴税による収入に期待があったかは疑問。
帯方郡守が公孫氏討伐後8年間で4人と頻繁に変わってるのは、帯方郡の軍閥化を防ぎ第2
の公孫氏を生まないようにするため、という説もあるね。
704日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:28:20
>>700
何を怒ってるんだ?ww

桜井市教委が行った纏向166次調査の結果速報や現地説明会の日程なんてのは
マスコミを利用して迅速に広報するのが至極当然だと思うが。

しかし>>682の言い分だと、まず学界発表が先で然る後にマスコミ発表せよ、と。
それならば、日本考古学協会や考古学研究会の総会が行われる日まで
纏向で発掘調査があったことは秘匿しておくのか?
総会プログラムや予稿集もマスコミには事前配布できないわけか?ww
705日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:33:10
>>704
「卑弥呼の居所」と大々的にマスコミに発表した「えせ学者」のことには触れたくないのかな?

そういう人間が学問を堕落させて、旧石器捏造事件のようなことを引き起こす。

歴博のC14の発表でも、マスコミ先行を批判するためだけの論文も出ているよね。


学問としての最低限の基盤を崩壊させるような、「えせ学者」に対しては厳しく批判すべきだよ。
706日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:35:07
>>693
>奈良県桜井市大福遺跡十五次調査第四トレンチSK-05出土の土製鋳型外枠

ぶっちゃけ単刀直入に言えば「レアケース」で良いんじゃないの?
だから>>683で「一部を除き」と書いたwww

元元その引用の寺沢の書いてものにしろ表題が『銅鐸の終焉と大形墳丘墓の出現』で
突線紐式以後(第二次集中埋納時)のものに照準当ててるものだし

寺沢にしても唐古鍵出土のものは扁平式から突線紐1の範囲で推定しうる・・・と言ってるんだし。


707日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:40:56
なるほど
帯方郡を置いたのは、再び公孫氏のような勢力が生まれて、魏の東方を脅かすのを防ぐためかな
辰韓馬韓など小国数十カ国との冊封関係をしめす、文書や印璽などは残っていないのかな?
708縦目仮面:2010/02/10(水) 01:50:37
俺は関東の大学で、歴博の関係者もよく存じ上げてるんだけれど、マスコミ利用のしかた
については周りでも批判は多いよ。これは邪馬台国比定地の問題とはかかわりなくね。

銅鐸については、やはり見る銅鐸時代の大和では何か文化の切り替わりのようなことが
あったんじゃないのかな。
709日本@名無史さん:2010/02/10(水) 02:03:20
>>705
私が批判したいのは>>682の書き方なのだ。
縦目仮面さんが>>665で述べているのは、桜井市による発掘調査の速報を受けてのもので

>纏向の掘立柱建物は、発掘された柱群がL字型の溝(方形周溝墓かな)で破壊されていて、
>その溝から出土した土器が庄内3式と見られ、柱群はそれ以前の遺構と考えられる。

と。
べつにおかしくないと思うがね。

ところが>>682は、この調査結果は半信半疑だ、なんて言う。
その理由は、発掘結果を学界発表するより先にマスコミに発表しているから、なんだと。

それは屁理屈だろうよ。
そうすると我々一般的な古代史ファンは、調査速報に接することも出来なくなってしまう。
現地説明会へ行くことも出来なくなってしまう。
710日本@名無史さん:2010/02/10(水) 02:11:45
市役所の広報が、記者クラブを通じて公表したのでは?
市税で掘っている訳だし
711日本@名無史さん:2010/02/10(水) 02:24:22
まあマスコミってのは政治家や官僚相手でさえ情報を引き出すんだ
考古学者なんかチョロイもんだろうwwwww

今後も「纏向で邪馬台国に繋がる〜が!」なんてのが紙面に踊るのは避けられない。
過去の九州説もそうやって盛り上がったわけだしwwwwwwwwwww

それに情報公開は時代の流れだし、事業仕分けなんか見れば考古学のセンセイも安穏としておれんだろうw

まあそれに踊らされるかどうかは自分次第って話しやねw
ここの九州説の歯軋りが聞こえそうではあるが、

 キーッ! ギリギリギリギリ とw
712日本@名無史さん:2010/02/10(水) 06:55:57
auが解除された途端にこの有様かwww
713ローガン:2010/02/10(水) 13:56:43
>>658
>「自郡至女王國萬二千餘里」は陳寿による計算の叙述だ。 > 収集した一次資料を編纂し、出来上がった行程を、自身で辿り直したものだろう。

縦目さん。ただ翰苑注引用魏略に「自帯方至女(王)國萬二千餘里」とあるので陳寿ではないような…
714縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/10(水) 17:10:07
>>686
私に逆らいたいようだな。まあ、剣の修行中の若者が名の知れた剣客に挑んでみたいという気持ちは分るが、あまり
つけあがると怪我するぞ。

私を土建屋扱いしたいようだが、見当違いだ。私は物の形を変えるだけの仕事(人間社会では必要な仕事であるが)に
さして興味はない。私がやっているのは物質の変換や物理的化学的変化、反応の制御だ。

>むろん祭祀の場は古墳上だよな。祭祀の対象は古墳の被葬者で、これは 祭祀の主体を取り違えていると思うね。

前方後円墳の前方部に祭祀施設が作られたと見られる柱穴跡が発見された例があるようだから古墳上で祭祀が行われた
ことは考えられる。その場合は被葬者が対象だろう。だが、祭祀はそれだけではない。重要な建物や施設や墓が造営さ
れるにあたっては天地の神に祈って祭祀行事を執り行う。これは現代にも残っている風習だ。

纏向地域には箸中古墳、崇神陵、景行陵のような巨大前方後円墳をはじめ纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、
東田大塚古墳、ホケノ山古墳など総数は20を越える古墳が集まっている。これらの正確な築造年代は確定していないが、
比較的短期間(恐らく半世紀以内)に集中的に作られたものであろう。

これは一地方の首長の墓の作られ方ではない。何か特殊な状況の変化(社会構造の変化)が齎したものであろう。そして
この古墳の造営は一大国家事業の趣を呈する。
このような大事業であれば、事業の成功を祈って祭祀を行うであろう。それも立派な祭祀殿を設けて。そこで大王が天地
の神に祈る。起工に当たっては勿論のこと、折々に祭祀を行う。個々の古墳の完成時には墳上で被葬者を対象に祭祀を行
う。

例の柱穴跡が見つかった建物は祭祀殿と事務所であろう。人夫などの工事関係者の住居や賄い場や資材置き場の跡ではな
いだろう。それらは工事現場の近くにあった筈であるが、事業の終了とともに撤去されたであろう。祭祀殿や事務所と見
られる建物も撤去された筈である。
715日本@名無史さん:2010/02/10(水) 17:21:00
読み進めるうちになんか解ってきた
九州説と東遷説は、魏志倭人伝や日本書紀を分析対象にしていて
畿内説は考古学資料から推察しているわけか

そりゃ両者の話がかみ合わないはずだ
九州・東遷説のひとたちは考古学についてほとんど知らないようなので
だから畿内説が何を根拠にしているのかが、さっぱり解らないわけだ
対して畿内説は、文献に信頼性が置けないからこそ考古学を主体にしているわけで
文献を引き合いに出すことを望まないと、こういうことなんだね
716日本@名無史さん:2010/02/10(水) 17:51:02
>>715
魏志倭人伝に出てくるのは「矛」「弓の鉄鏃」「銅鏡」「絹」だ。
考古学的には、弥生時代のこれらの遺物に注目して見ればよい。
717日本@名無史さん:2010/02/10(水) 17:54:26
>>711
>ここの九州説の歯軋りが聞こえそうではあるが、
>キーッ! ギリギリギリギリ とw

べ〜つにい な〜んとも思わんぜよ。おまん 得意げになんぜよ。そんなに嬉しかったらタコ踊りでもしろ。
伴奏つけてやろう ほれ ♯♩♬♪♪♩♬♪♪♨♩♫♪♪ あ ほれ
718日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:07:00
>>715
生半可な理解をするな。と 怒ったふりをしてやろう。
おまえが畿内説なのは見え見えだ。もっと文章を磨け。
719日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:07:51
>>716
その見方があまりに不十分だから
畿内説に突っ込まれているんじゃないか?
720日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:12:36
>>719
畿内説が自慢できるような考古学的根拠はあるのでしょうか?
721日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:14:45
>>718
いや畿内説とかじゃなくて、本当にスレを読んだ上での感想
では今から書くことが間違った認識だと言うのなら指摘してくれ

どうやら九州説と東遷説は、各々唱えているものが違うのではないか?
コテハンだけに限らず、各人の主張がばらばらだ
これはあれか?それまでの文献を扱ってきた学者がすべて間違いで
われこそが魏志倭人伝を正しく読むのに成功したということだろ?

畿内説側の説明を読むと、こちらも細かいところで主張は違うが
どうやら何らかの説を提唱した学者が幾人かいて
そのうちどれが正しいのかや、また新たに発見があるのではないかということを議論しているように見える
722日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:19:50
畿内に邪馬台国があったとする考古学的根拠はないが、九州説に文句をつけるのが楽しいのだ。どうせ遊びだ。
文句ある?
723日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:25:21
>>722
それは違うと思うな
畿内説が九州説をいじめているというところだろう
なんか猫がねずみをいたぶるような感じで、あまり見ていて気持ちのいいものではない
反対に九州説は、もう自分の主張などそっちのけで
畿内説と聞いただけで拒否反応を示して、殻に閉じこもっているってとこかな
九州説どおしでお互いの説を検討し合えばいいのに、それもしていないし
724日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:35:04
>>721
そやね。九州説と言っても多種多様というか、邪馬台国の比定地だけでも20以上はある。倭人伝の解釈の仕方
が違うからだろうが、これは倭人伝の記述が簡潔すぎるからだろう。例えば、南と記述される方角も幅がある
からね。南南東に行くか南南西に行くかでかなり違ってくる。

畿内説についてはあなたの言われるようなことだろうが、九州説の全てが考古学的知見を否定しているわけでは
ない。
725日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:39:09
>>723
それも違うと思うな。
726日本@名無史さん:2010/02/10(水) 18:39:33
>>724
いわゆる考古学知見を元にした九州説もあるということですか
ただこのスレでそういうのがないだけですね
727日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:01:36
>>709
調査速報の段階だからこそ半信半疑で良いのでは?

まあ「卑弥呼の居所」なんで発言をした者が学者失格なのは当然として。

728縦目仮面:2010/02/10(水) 19:02:48
>>714
>剣の修行中の若者が名の知れた剣客に挑んでみたいという気持ちは分るが、あまり
  つけあがると怪我するぞ。

名の知れた剣客??(大爆笑)俺は伝統武術板のオフ会にもたまに出ていて、手強い現代
の剣客とも手合わせしてるんだけどね。剣客ってww ただの無学なおっさんじゃないか.。ww

729縦目仮面:2010/02/10(水) 19:10:02
それとも前方後円墳には、必ず付属した祭祀施設でもあるというのかな?

>それも立派な祭祀殿を設けて。そこで大王が天地の神に祈る。

4世紀頃には、すでに首長霊信仰はなかば完成し、首長霊を祖霊として祀り、特別な聖性を
付加することで、その霊力を背景とした首長による人民支配の正当化が図られていたと見て
いる。つまり墓そのものが祭祀の対象であり、被葬者と同一視されていたのかもしれない。
だから前方後円墳は王権の伸張にともなって巨大化した。
730日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:14:54
>>706
>ぶっちゃけ単刀直入に言えば「レアケース」で良いんじゃないの?

了解。
ヤマトでの、(扁平式あたりで)銅鐸祭祀銅鐸祭祀終了からマキムク建設までの期間の様相、ということで。

例えば寺沢は前掲書の中で
「それまでの弥生時代のマツリに代わるものを模索した時期が、
そのブランクがやはり多少あったのだろうとおもいます。」
と述べている。

福永の場合、
「畿内中心部にも本来はかなりの数の『見る銅鐸』が存在したと考えており、
(中略)近畿式の『見る銅鐸』は、畿内地域をとりまく周囲の集団に対する
政策的意図をこめた贈物と考える。」(邪馬台国から大和政権へ)
という。

物証がない現状においては、未だ推察の域を出ないのかも知れないが・・・
731日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:17:58
>>713
>翰苑注引用魏略に

見逃していましたね。再考したいと思います。
732唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 19:28:04
>>721 それまでの文献を扱ってきた学者がすべて間違いで

いいかい これまで文献を扱ってきた学者で、書紀の記事の正当性を解読した者はいない。

だから 書紀に正朔の文字は有るが、正朔を正しいとした学者はいない。
これで歴史が解読出来るわけが無い。
と言う事だから、書紀を扱う学者なぞ、知能が低すぎるか学閥の餌食か、その程度の者共だ。

>>714 >私がやっているのは物質の変換や物理的化学的変化、反応の制御だ。
面白いことをいうねえ、
崇神を歴史に代えるには、そこに書かれたことが、証明できなければ成らない。
つまりだ、縄文人どんは、全く合わないところに、崇神を建てたのだ、だから縄文人主張の崇神は、砂上の楼閣。
楼閣はほめ言葉、実際は、ままごと遊びのレベル。
地に足がついていない建物にたとえられる。

とりあえず私の主張を崩すだけの資料を出さねば。
733縦目仮面:2010/02/10(水) 19:32:48
>>713
名前が出ているようですが、このレスは俺ではないです。>>731の人ではないですか。
734日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:34:30
>>732
なんじゃwww
やっぱり「ボクだけが見つけた魏志倭人伝の正しい読み方」のレベルじゃんかwww
735日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:32:17
>>721
君が感じたとおりで、ほぼ合ってるよ
2ちゃん九州説のほとんどは、俺は倭人伝をこう読むと主張する人たちで
ようするに、昭和の邪馬台国論争をひきずっている訳だ
畿内説は、現代のアカデミズムにおける考古学者の意見をベースにしている
倭人伝にこう書いてあるなどを根拠にすることは、ほとんどない
全く立場の違う両者が噛み合うはずはないわな
736日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:52:49



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


737日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:53:36
つまり昭和VS平成の世代間抗争かwww
738日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:00:44
>>732
私の主張ってどんなんだっけ?
739689:2010/02/10(水) 21:12:40
>>730
>了解。

むしろ了解せずに俺の認識が間違っているなら正してもらった方がありがたいんだがwwwww

まあ福永のその本を読んでいるなら話は早いw

福永は見る銅鐸の(近畿式の)製作配布の中心を大和と見ていて
具体的には唐古鍵を挙げている(『邪馬台国から大和政権へ』 p95・96)

>限られた工人によって限られた工房で作られた規格性の高い銅鐸の一群が
>近畿式の場合は近畿を中心に、ある政策的意図の読み取れるようなありかたで分布している。

>現在までの中佐結果からは後期の畿内に生まれた中心勢力の確定には至らないが
>その有力候補としては (途中略)
>唐古・鍵遺跡などをあげてもよかろう。

とまあこの時点では大福はクローズアップされていないんだが

この福永の本が初版が2001で大福の破砕銅鐸がニュースになったのが2007・8あたりらしいんで
現在、ヤマトの銅鐸製造について新しい認識がされているのかどうか確認したいところ。

現在、自分としてはヤマトは突線紐1まででピークを終えていると言う認識で
大福等の事例を入れても基本的にそのセンなんだが・・・

詳しい人のツッコミ望むwwwwwww
740日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:20:49
>>735
「邪馬台国」というのは、倭人伝にしか出てこない。記紀にはない。
倭人伝抜きに邪馬台国を語る畿内説とはいったい何だ?
考古学者の意見とはなんだ?妄想か?
741日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:22:38
最近、九州王朝と徐福ネタは、古代史ファンからすっかり忘れされている感がありますね。
742日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:27:07
>>729
>4世紀頃には、すでに首長霊信仰はなかば完成し、首長霊を祖霊として祀り、特別な聖性を
>付加することで、その霊力を背景とした首長による人民支配の正当化が図られていたと見て
>いる。

これだからおまえは青臭いのだ。霊力などを過大視する根拠は何だ?古代において人民を支配する力となったのは
暴力と恩恵だ。暴力は文字通り力で押さえつける。恩恵は技術、知識による生活の向上や秩序の安定による平和な
生活の保証だ。弥生時代でも自然の脅威(地震、台風、旱魃、洪水など)を神の仕業として恐れていたであろうが、
首長の霊が人民に恐れられるか?一部の臆病な人間は恐れたかも知れんが、これが社会的支配力を持つなど過大視
もいいところだ。

人は自分の祖先の霊は祀るが他人の霊には無頓着なものだ。社会生活の付き合い上、他者の霊に敬意を表することは
あるが、基本的には関知しない。他人の墓を荒らす者さえいる。
巨大な前方後円墳は権力の誇示だろう。

743689:2010/02/10(水) 21:27:40
>>739のお話をもっと簡単に第三者にもとっつきやすく言っておくとw

要は東遷厨どもが考えるところの銅鐸文化破壊者の「無敵の九州神武軍団」ガやって来た時には

大福あたりでの製造はあったものの
ヤマト全体としては銅鐸なんて大概廃れてた…という話でwwwww

尚一般に2回埋納のピークがあるとされているが
その二つを跨いで一様に出土するような地域はいまだ無かったと思う。

あと大福の場合共伴したのは銅鏃でリサイクルはどうもそれっぽい。
少なくとも鏡が出てきたなんて話は知らないw

もっともこれにしても

「とりあえず神武軍団は銅鐸製造を止めさせた。
 銅鏡製作にかかったのは征服して統治機構が固まった少し後になってから」

…なんて話が出てくるのは読めちゃうわけだがwwwwwwww


744日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:32:00
>>741

ここの九州説の大方は「東遷説」と「九州王朝説」のハイブリッドじゃないのか?w

ブレーキきかないところも一緒とwwwwwwww



745日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:37:18
>>740
もうその古い認識はなんとかならんのかwww
ここでは畿内説と呼ばれているわけだが
アカデミズムが唱えているのは、ヤマト通商連合説であって
お前さんの知っている南は東の間違いとかの、たわけた昔の説ではないのだよ
もっといえば、邪馬台国論争などとっくの昔に通り過ぎたわ
あんた、昔は邪馬台国の場所がなぜ重要視されたかを知らんのか?
746日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:41:10
>>742
くくく 無学のおっさん。悔しいか?ww
747日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:44:08
>>742
俺も「霊力」なんて言葉を使うのは引いちゃうなwwwwww

が、その首長の権威の基本はやはり軍事力にあっただろう事は容易に想像できる。

最初、集団の長は好々爺の長老だったものが
やがて戦いが恒常化すると軍事的政治的リーダーシップを持った者が
トップに君臨するようになる。

まあローマが共和制から帝政にシフトしたようなものか?w

で、そのプチ帝政wが続くと王の地位自体に権威が生じ
それが「首長霊信仰」と言う形になったとw(継続は力なりw)

まあ要は”段階”を踏んでいるっちゅう話しやねwwwwwww
748日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:47:03
>>744
俺のは「東遷説」と「九州王朝説」のハイブリッドじゃない。畿内説叩きで遊んでいるだけだ。

卑弥呼の共立によってできた邪馬台国体制を「ゆるやかな首長連合」とした連中は笑わせてくれた。
倭人伝や記紀は信用できないと言いながら都合のよいところ(卑弥呼の墓の徑百餘歩、邪馬台国への水行10日陸行1月
など)だけは採用する説も笑わせてくれた。
749唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 21:48:57
>>738
前から読んでくれ。
そうすれば、書紀と他の書の記事や天文と記事を合わせて、
書紀に数字を与えている。
例えば、崇神5,6年は、新羅192,3年の記事と同等
神武元年の日食は、273年 この辺までは普通。
神功元年は275年で、神功52年 326年が正しい七支刀。
これらは正朔(太陰暦)で読んだ数字。
750日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:55:19
>>748
まあ笑うのはお前の勝手だがw
「首長連合」の構想は邪馬台国論争のレベルじゃなくて
今日の日本の古代史の常識だろうにwww

じゃあ「連合体なんて物はありえない」と言うならヤマト王権の武力を持っての版図拡大を説明できるのか?って話で

崇神の代には畿内の大概を支配してなきゃならんわけだが
記紀の何処にその領土拡張の様が記してある?

本来、欠史八代にも書くべきネタはいくらでもあったはずだwwww

それを考古資料の何に見る?

現在、邪馬台国論争に関係なく纏向をヤマト王権の最初の都?と見るのが常識だと思うが
前方後円墳の広がり方を見れば、その最初の段階でいきなり全国展開と言うのは
武力制圧のモデルをもって説明するならどんなスーパー戦闘集団だったんだよ?って話で

ここの九州説の連中なら九州王朝の後裔ゆえにそれも簡単だったで納得できるんだろうが
世間一般じゃあそんな与太通用しないwwwwwwwwww
751日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:05:00
>>739
了解というのは、そちらの認識を了解した(その上で論点を提出しよう)
という意味だったんだけど、言葉足らずで申し訳ない。

福永の主張については>>730のとおり、疑問符付きではある。
しかし、その後の時代についての見通しにうなづけるところがあり、
一概に捨て去りがたいと思う。

考古学については正直ニワカなので詳しくはないんだが、
いまのところ集められた情報は次のようなところかな。

2008年大福遺跡、北西部土坑内から突線鈕二〜四式銅鐸の身部破片を検出
2007年脇本遺跡、住居群の間から突線鈕式銅鐸三片が出土
あとは1972年纏向辻地区の飾耳破砕片
752唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 22:05:38
唐古・鍵遺跡は、大物主の領地で、開化は、新宮建設中に亡くなる、治世3年間
崇神6年秋、大物主は、崇神に位を譲る。
193年の出来事、ここから景行元年240年、田道間守の帰国に伴い魏使の大和訪問。
田道間守の持ち帰った鏡が、ホケノ山古墳に埋葬。
翌年には、景行の使いが魏へ行く、この時魏国は、景行に倭国統一を要請
250年頃にかけて倭国を統一、このシンボルが△であり、景初3年、正始元年は
この時の時代をあらわす。
銅鐸は、大物主と共に歴史の舞台を去る。

>崇神の代には畿内の大概を支配してなきゃならんわけだが

崇神5年の凶作で、大物主は、6年秋に位を崇神に移譲。
四道将軍は、その引き継ぎ。
ここに「乱」は無い。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 22:17:03
新羅193年≠崇神5,6年

崇神5、6年には天皇も船舶に乗っていないのに、漁師でもない百姓が千人
も空腹で半島に渡海はできない。まぁ残って数人生き残れればいいところ
だ。百姓は船の操縦の経験もなく、日本海の危険区域には未知であって、
到底大量にその荒波を超えることなんぞ出来はしない。

畿内に船舶ができたのは後年の崇神17年であって、唐松山の論説はデタラメ
なのである。

唐松山は成務の代が20年続いて建造物の柱の穴が無いのはおかしいと言って
おるも、成務の代が4年の場合は、建造物の柱の穴は無くてよろしいの
だそうでww、成務の宮等はまさに蜃気楼的幽霊で、建造物の足に相当
する柱の足跡(柱の穴の跡)は無くてかまわんそうである。ww

奴の説では成務は4年で終わりだと抜かしている。www

マユツバだな。www
754唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 22:32:05
>>750
>本来、欠史八代にも書くべきネタはいくらでもあったはずだwwww
>それを考古資料の何に見る?

孝霊年間に宝物庫を火事で焼いている。
神武=弥生X様式の初め=西暦42年
崇神=庄内式の初め=西暦188年
途中省略
神功元年275年 日食は273年
神功52年326年七支刀、百済の歴史は、53年遅すぎる、だから 韓国考古学は、大陸と歴史を
合わせられない。そして、ここなら書紀の記事は正しい。

倭国乱を崇神時代とする連中は、この時代を書紀は、ウソを書き連ねていると言う。
755日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:33:17
荒神谷と加茂岩倉の銅鐸の出土状況、(近畿型銅鐸多数)
それに銅剣の出土状況を考えると、
近畿式の銅鐸が、一律に近畿産というのは、かなり疑問。
全ての銅剣に刻まれた印を考えると、
あそこで出土したものは、近畿式銅鐸も含めて、
ほとんど出雲産なのではないか。
756唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 22:46:17
大物主が大王で有った時代、各王達は、出雲へ集合した。
大物主が崇神に位を譲ってからは、出雲に集合する事は無くなった。
この祭りの終焉をもって、銅鐸、銅剣等は、埋納される。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 22:52:30
日食はたかが2時間前後で終わるから、神功元年直前の紀の記事は日食には
ならない。日食は数日間も続かない。

デ○パ性か否かは、書きこみの内容で次第に判明する。
758縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/10(水) 22:54:02
>>758
首長連合という言葉が誤解を招くのではないかな。首長達が合議して連合国を運営しているという感じを与える。

私は卑弥呼の時代の倭国は、倭人伝によれば卑弥呼を王にしていることから邪馬台国を盟主とする連合国であると思う。
この連合国は首長達の合議で運営されているような記述ではない。一大率を置いて諸国を検察しているし、各国に官を置
いている。各国の上に邪馬台国が君臨している図柄だ。

大和王朝の初期がどうであったかは文献でも遺跡、出土物でも明確に示せないだろうが、王権の成立には武力が必須であった
ろうと思う。これは大陸でも半島でも王権は武力(戦争)で勝ち取られたものがほとんどであることから、日本だけがそれら
の世界と隔絶した特殊な社会ではなかったろうと考えるからである。

もちろん、武力だけでは王権を維持できないであろうから政治力が重要である。しかし、武力なしに首長達を連合させること
ができたであろうか?祭祀や墓制などで首長達が連合し、そこから王権が誕生した などあり得るだろうか?
祭祀や墓制は王権の誕生によって広まり共通化したもの、つまり結果ではないのか?
759日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:00:22
畿内が徐福集団の拠点だとすれば、
畿内に古代バビロニアから伝わった高度な暦法があったとしても不思議ではない。
どうしてそれに気づかないふりをしているのか不思議でならない。
760太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 23:12:02
古代南バビロニアではサロス周期の知悉により、食の起こる傾向が半年で
あることを把握していたことから、当時半年を1年としての暦法を行って
いたといい、つまりは2倍年暦を行使していたことになる。
また古代アステカ、マヤでは祭祀暦において1.4倍暦法を行使していたわけ
で、マヤの場合は現代でもこの暦法を地元で使用しているという。

ところで朝廷の2倍年暦が南バニロニアから伝わってきて使用するように
なったのかどうかは、いまのところ可否は判明してない?
761日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:15:51
>>714 ホンモノかな?
縦目仮面のツッコミがいっかつなので、横からですが。

>総数は20を越える古墳が集まっている。

どーゆー数え方をしてるんですか?
纏向地域と柳本古墳群とは時代が違うから区別するべきですよ。

>比較的短期間(恐らく半世紀以内)に集中的に作られた

纏向遺跡の土器(整理箱1000箱以上)は詳しく編年されています。
それをもとに、そんなムチャな想定はできませんよ。
762日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:23:38
>>761
そういうことは奴は知らないの
だから妄想全開で書けるのよ

そんでもって、自分がそれを知らなかったとはいえないから
「学者が何と言おうと、奴らこそが無知蒙昧で・・・」とか言い返すの

彼だけでなく、ほとんどの九州説ってのは、今のデーターを持ってないのよ
銅鐸の一斉消滅とか、いつの時代の仮説だってくらい古い考え方なのに
もう変わってしまったことを知らないまま、頭の中が30年前で止まってるの
763日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:27:32
>>760なぜ、倍暦のような高度な暦法が日本に伝わったのかを明らかにしない限り、
倍歴3倍暦を使用した編年が実史と一致すると主張したところで誰も信じない。
大陸に近い北九州ではなく、畿内で倍暦が使われていたのはなぜか?
その理由を明らかにすべきではないだろうか?
764日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:38:14
>>758 穏やかなところがホンモノっぽくないが
誰に向けてのレスかわかりませんが、横シツレイします。

>祭祀や墓制は王権の誕生によって広まり共通化したもの、つまり結果ではないのか?

とりあえず邪馬台国という言葉は横に置いておいて。

ヤマト王権成立直前の考古学的状況を見て下さい。
北九州を中心に銅矛圏、山陰・山陽に大型墳丘墓、畿内・東海に銅鐸圏が見られます。
これらがやがて前方後円墳という、それまでなかったものにとって代わるのです。
それはなぜか? という問題設定です。
九州が東征したなら銅矛が、ヤマトが征服したなら銅鐸が、広まったとしておかしくない。
そこで、各勢力の妥協の産物として、新しい祭祀・新しいシンボルが創出されたのではないか、
と考えられるわけです。

「首長連合」という言葉に違和感があるなら、
アムフィクチュオニア(祭祀同盟)・通商連合、と捉えるのがよいかと。
765唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 23:38:45
>>763
彼の倍暦は「歴史と合わせるのは間違い」と彼自身が主張していますから。
766日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:39:09
>>762
新しい、古いは重要なことではない。重要なのは、正しいか、間違っているか。
767サガミハラハラ:2010/02/10(水) 23:39:09
なぜ日本に伝わったのかは、あきらかでなくとも、使用されていたことがわかれば十分なはずですよ。
それとも、宇宙の起源がわからなければ、宇宙の存在は認められないと考えますか?
768太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 23:40:04
>>763
当時日本へ伝わってきたものか日本独自で外国にこだわらず行使した
のかどうかは、今のところ判明していない。ただ記紀には常世国とか
の記事があるから、そういう伝来の可能性はありうるだろう。
3倍暦を行使したのは、神武が畿内に来て各種戦いをして来たもの
だが、皇兄五瀬命が五月に戦死したことによる。彼の御名に五数が
あって、その戦死月が五月だったことから、衝撃を受けていた神武
は5月が日神のたかまがは
769日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:40:35
>>750  連合マジキター!
770日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:46:18
>九州が東征したなら銅矛が、ヤマトが征服したなら銅鐸が、広まったとしておかしくない。
銅矛が広まっていて、銅鐸が消滅しているな。

771日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:49:47
>>770
倭人伝には、「兵用矛、楯、木弓」と書かれているから、卑弥呼の時代も
矛が主要な武器であったことは確かだろう。
772太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 23:51:49
>>768 中断失礼
5月が高天原の五月蝿為す混乱の日神岩戸隠れを嫌う前例を想い起こし、
5月を大凶とみなし、即位後1年のうち5月以降の月を全部削り、1年を
当時1月〜4月までとして暦法を行使したのだ。つまり3倍年暦を行使
するようになったのである。だから日本書紀の神武の条は、即位手前では
5月以後の記事があるが、即位〜崩御までは1月〜4月までしか記事が
ない。ところが次帝の綏靖は3倍暦を不便だと思ったようで、神武崩御
の直後葬儀を待たずこれを廃止し、通常暦にもどしたのだ。欠史八代とは
倍暦でも運用方法が異なるのだ。

反論質問あれば明日以降答えるから書きこんでおけ。

zzzzzzzzzz・・・・・・・・
だから神武葬儀は5月以降の9月であるのはこのためであるのだ。
773日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:54:38
>>770
えっ??? それどこの国の話し?
日本じゃないよね
774日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:56:57
>>766
いや間違っているから、古くなったってこと
そしていつまでも間違いを強弁するから、この人は古臭い人なんだなってこと
775日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:13:45
>>774
畿内説の場合は、立てる説が次々に破綻し、新しいものほどドンドン
怪しげになっていくけどね。
776日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:27:24
九州説の決定打は伊都国は怡土ではないってことに気づいたことだな。
これで、畿内説はぼろぼろになってしまった。
777ローガン:2010/02/11(木) 00:29:14
>>733
> 名前が出ているようですが、このレスは俺ではないです。

失礼しました。

>>731さん。「帯方東南萬里」…「帯方」とある以上、公孫氏自立の年代。しかし三国志東夷伝序文には淵誅まで、東夷の事はわからないとある訳ですから
この萬里は修辞と考える以外にない。これに郡使来倭によりもたらされた実数、二千餘里を付加し記述する…これを史家の行為と考えるなら 魏略でいいのでは?
内藤湖南の云う通り「陳寿作書時多襲魚拳古文而其間有異同之処」かと。
魏略と魏志の類似は魏略がテキストだったと考えてまず間違いないでしょう。
778いやなんとなくw:2010/02/11(木) 00:31:19
食は万里を越える、餃子の王将wwwwwwww
779日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:34:12
>>776
>九州説の決定打は伊都国は怡土ではないってことに気づいたことだな。

ああ九州王朝説ですか、田舎からおこしやすw
780日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:37:30
ちょっと聞くけど・・・

次の3人は九州説だと思うけど
伊都国はどこって言ってたっけ?

安本美典さん
奥野正男さん
高島忠平さん
781ローガン:2010/02/11(木) 00:38:32
>>767
先生、それはだだコネですよ。幽霊を完全否定出来ないのにも似て…
782タラコ:2010/02/11(木) 00:39:13
弥生中期までは、細型銅矛が北部九州地方で宝器として扱われていたが、中期末頃、中細銅矛が瀬戸内地方と北部九州
に出現する。瀬戸内系の銅剣と同じように埋納されていることから、瀬戸内海沿岸地方からの流れと推定される。その後、
中広型銅矛に変わった。この銅矛は分布範囲が最も広いが、この銅矛祭祀は北部九州の周辺部で著しく、中心部(唐津・糸
島・博多地方)では隆盛しない。これは中心部では外部勢力に対する抵抗があったためと推定される。その後に広型銅矛に
変わるが、その分布範囲は少しせばまって南四国地方と北部九州地方である。

青銅器がステイタスシンボルであった時代は青銅器が特定の地域に集中しそこから周辺に広がる様子はほとんど見られな
いが、祭器化した後の分布領域は急激に広がっている。有力豪族が外国との交易で手に入れた青銅器を権力の象徴として
周りの人々を従える手段としていたため広がらなかったと解釈され、王が権力の元で君臨していたことが伺われる。しかし、
埋納祭器の方は急激に広い分布を示し、しかも中心域を避けて周辺地域で広がっている。中心域の王が勢力を伸ばしたの
なら中心域に祭祀が盛んになるはずである。

このことはこれらの地域が外部勢力によって宗教的に統一されたためと考えられる。

783日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:48:13
>>780
三人とも通説どおり、糸島半島で平原を王墓としてみている
>>776のように「伊都国は怡土ではない」としているのは、有名どころでは古田武彦
なお奴国や末蘆国も彼らは通説どおり
不弥国に関しては、各説あるというより不明の立場
784タラコ:2010/02/11(木) 00:48:17
甕棺墓は、北部九州の中心地域で後期初頭には衰退し、その周辺部でも後期中葉になって衰退している。 甕棺墓の減少の原因につ
いては甕棺が作れなくなったからといわれるが、それならば一般の人々の墓制が変化しても王墓には残るはずである。さらに甕棺墓と
土壙墓が共存する地域で副葬品を比較すると、甕棺墓に乏しいのに対して、土壙墓に多い。墓制は簡単には変化しないものであり、こ
の甕棺墓の衰退からも、北部九州への外部からの何者かの侵入が疑われる。

甕棺墓が激減した後、箱式石棺墓や土壙墓が多くなる。箱式石棺墓は石の材質や形式から判断して、瀬戸内沿岸地方から入ってきた
ものと判断される。

785日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:52:17
>>775  それはあるね。
戦前の畿内説の学者は、まだ学者としてのプライドがあった。
戦後は、ただの信者に成り下がった。

学問とえせ学問との線引きをどこに引くかというと、反対説にちゃんと答えるかどうかなんだな。
反対説の批判を無視し続けて、自説を叫び続けるというのは学問的な対応ではない。

畿内説は、鉄の問題で九州説を無視し続け、三角縁の問題でも同じ、C14でも同じ、
信者同士の議論しかしようとしない。

だからあれを学問と思ったら大間違いだね。
786日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:53:39
>>779
九州王朝説ってのは、怡土にしがみついてる説のことだろ。仲間の論理を忘れちゃ
いかんよ。
787タラコ:2010/02/11(木) 00:53:48
拙論の傍証のため、甕棺墓の特徴をいくつか挙げてみよう。

・甕棺墓は中期中頃から後半にかけて多く存在しているが、後期前半を最後に北九州地方の多くの地域で消滅する。
・甕棺墓自体は古墳時代初め頃まで作られているが、単発的に作られ,集団墓地としては存在しなくなる。
・中期後半頃の王墓と見られる墓はすべて甕棺墓である。このことは甕棺墓がそれ以前の一般の人々を埋葬したもの
から、特定権力者の墓制に集約していったことを示している。
・後期前半の井原遺跡と桜馬場遺跡が甕棺王墓の最後といわれている。
・甕棺墓から土壙墓・石棺墓に変化しているが、埋葬の仕方は甕棺時代とよく似ていて共同墓地に双方が共存していると
ころもあり、同一集団の墓制が変化していったことがうかがわれる。
・甕棺墓と土壙墓が共存する地域で,副葬品を比較すると、甕棺墓に乏しいのに対して、土壙墓に多い。
・中期末までは多かった鉄剣を副葬する甕棺墓は、後期になるとほぼ見られなくなる。

788日本@名無史さん:2010/02/11(木) 00:59:43
>>785
怨み節入りマース w
789タラコ:2010/02/11(木) 01:01:14
弥生中期に北部九州で多かった王墓と考えられる墓が激減している。副葬品が多く、特定の墳墓に集中していることからこれらの王墓は
いずれも権力君臨型であると考えられる。副葬品が伝世されている形跡は伺われない。これは、被葬者は自らの持つ交易ルートを使って
外国から手に入れた宝物を独占し、他に与えることはなかったと見られる。

ところが後期初頭になってからは、井原鑓溝と桜馬場遺跡のみでしか上記のことは確認されない。権力君臨型の王は、周りの王を武力で
従え、それらの中で最強と考えられるものが最後まで残り統一王朝を造ることになるはずであるが、中葉になると北部九州の権力君臨型と
考えられる王墓はことごとく姿を消す。武力統一があれば、権力君臨型の王墓が消えることは考えられないが、それと入れ替わるようにして
広まるのが方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓である。これらの墳墓は、祭祀系土器が多いが副葬品は少ない。そして複数の埋葬施設があ
る。これは被葬者が宗教上の王であり、被葬者個人を祭祀しているのではなく、共通の神を祭祀していることを意味している。墳墓は墓であ
ると同時に斎場でもあった。この形式の墳墓が広まることは、これらの地域が宗教的に統一されたことを意味している。

そしてそれは北部九州で起こったものではなく、他地域から進入してきたものである。
790タラコ:2010/02/11(木) 01:05:46
北部九州中心部では特定個人墓を除き、甕棺墓からの副葬品が少なくなってくるが、その他の墓からの副葬品は増えてくる。墓は違
っても、集団墓の中に甕棺墓とそれ以外が混在するようになり,甕棺墓以外の埋葬形態に,甕棺墓と似た埋葬がなされていることから
墓制が変化したものと考えられる。そして、その変化は,王墓を残してその周辺から変化が始まる。甕棺墓の激減の理由として、甕棺を
作ることができなくなったというのがあるが、これでは甕棺墓の副葬品がその他の墳墓に比べて少なくなったことを説明できない。

外部からの侵入があって、墓制に変化が起こったものと考えられる。、

791タラコ:2010/02/11(木) 01:08:43
結論・・・以上のことから、弥生中期末から後期初頭にかけて北部九州は瀬戸内からの宗教的侵略を受け容れたと考えざるをえない。
792日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:12:07
>>783
あれれ、古田は伊都国をどこに比定してるって?
793日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:15:41
古田説では伊都国・奴国・不弥国は前原市・志摩町辺りの狭い範囲にあり、
邪馬壹国は博多付近になる。
794日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:15:56
タラコ氏の説は大変面白いし、着眼点が良いのだけど
それも「文化の伝播と交配」で説明できるんだよね

まあ九州説にしてみれば
九州が畿内を侵略する戦争はありだけど、九州が侵略される戦争はごめんだ
こんな感情論で猛反発するのだろうが
畿内説いや連合説からすれば、どの文化や文明にも見られる
典型的文化推移のパターンのひとつじゃないかと
795日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:17:57
>>785
今の学者にプライドを求めるのが間違いだお。
しょせんサラリーマンだから上司の言うことは絶対だお。
796タラコ:2010/02/11(木) 01:20:32
>>794
武力により侵攻されたとはいっていません。あくまで外部から流入した宗教による統一です。
797日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:24:13
>>793
ということは、古田も怡土説だってことだよ。
>>776が「伊都国は怡土ではない」というのは、末盧国から東南五百里をそ
のままに読んで有明海沿岸に比定するという趣旨だ。
798日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:27:41
>>796
しかし、宗教ということでは、女王国以北が一大率を畏憚したを説明することも
できないし、戦闘で死亡したと思われる遺骨が見つかっていることも説明できん。
799日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:28:07
>>785>>795
つまり、学者の言うことなんか信用できない
ボクの考えた邪馬台国が最強ということですね、わかります
800タラコ:2010/02/11(木) 01:30:31
>>798
これは邪馬台国時代の話ではなく、弥生後期初頭あたりを想定したものです。
801日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:38:40
>>787
2番目だけど、最初から甕棺墓は支配層だけのものだよ。
一般人が自分で作っていたのなら、途中で途切れるなんてありえないだろ。
802日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:42:26
>>799
まあ、まともな学者が少ないから、仕方がないんじゃないかな。
>>785はまともなことを言ってるよ。
803日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:50:11
そうだなあ。纏向が「邪馬台国の有力地」と毎回、報道で発表するわりには
その根拠を示そうとしない。

箸墓も同じ。いろいろ年代合わせに苦心していたが、年代が合っただけでは
十分ではない。なのに、年代が合うから卑弥呼の墓だという言い方しかしない。

これでは、素人相手に先入観を与えることだけを目的にしているとしか思えない。
804日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:54:37
>>803
年代あわせと言っても、100年単位の誤差もありうるC14とか、データの
開示されていないC14をさらに有利に解釈するとか、プライドもクソもないわな。
805日本@名無史さん:2010/02/11(木) 01:58:28
>>793
そう。古田も基本的には伊都国=怡土だよ。
>>779>>783は古田の著作を読んでないねw。

ただ古田は邪馬台国=博多説なんで、奴国を福岡市早良区あたりに持ってくるわけだ。
えらくせせこましいところに2万戸や7万戸の大国を比定するわけで
まあ無理筋としか言いようがないな。
806日本@名無史さん:2010/02/11(木) 02:05:37
>>804
データの開示されていないC14
       ↓
データの開示されていない年輪年代
807日本@名無史さん:2010/02/11(木) 02:05:44
>>805
ただ倭人伝の行程記事が無ければ今頃
福岡平野が九州説の最右翼になっていた気がするw

単純に考古学的に考えたら一番有利じゃね?wwwwwww

808日本@名無史さん:2010/02/11(木) 02:43:20
>>807
福岡市付近には、大規模な集落跡がないからそれほど有利でもないだろう。
鏡はまとめて出てきたけれども、それ以外ではやはり有明海沿岸かな。
809日本@名無史さん:2010/02/11(木) 02:49:22
>>808  はん?ありまくりだろ?
810日本@名無史さん:2010/02/11(木) 04:01:43
>>808
まあ、メリットとして
比恵那珂遺跡まで用意しておけば
大抵の年代観には対応できるかとwwww
811日本@名無史さん:2010/02/11(木) 04:28:04
>タラコ
まあ折角のまともなネタなんでチョッといじっておくw
つっても甕棺編年とか言われても「サッパリ分かりません」の素人なんで
単なるチラ裏だがwwww

瀬戸内西部からの影響で九州の墓制ガ変わったと言う事だが・・・

要するに
土壙墓に見る副葬品に凝るのは旧来の墓制の伝統で

対して甕棺は特定の人間が厚葬されていくと言う流れで徐々に少なくなり
副葬品が貧弱になるのが瀬戸内からのトレンドだと言う事なのかいな?w

しかし副葬品の体系にいかに変化があっても墓自体の形は変わっておらず
吉備や出雲に見られるような墓上での祭祀
( 「墳墓は墓であると同時に斎場でもあった」 )
…の痕跡が殆ど無いんじゃないのかな?

瀬戸内からの影響を見るならそこがキモのような気がするが…

てか九州ネタなんだから九州説の奴がいじってやれよwwwwwwwwwww


812日本@名無史さん:2010/02/11(木) 04:37:10
>>811 訂正

>墓自体の形は変わっておらず

まあ支石墓みたいな形はあるが墳丘墓になっても斎場機能を持つに至らなかった…と言う事でwww

813日本@名無史さん:2010/02/11(木) 09:08:41
三星堆遺跡の縦目仮面、遮光土器・・宇宙服を連想させる遺物からもわかるように
人類の祖先は宇宙からやってきたのです。
814日本@名無史さん:2010/02/11(木) 09:29:01
近江毛野臣は何者なのか?
(ヴェキ)近江氏(近江臣)は近江国の豪族で、武内宿禰の後裔で波多氏の支族
波多氏、つまり秦氏の支流か?
(ヴェキ)磐井は毛野に対して、「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」
磐井と毛野は同族。
(ヴェキ)故郷の近江国野洲郡小篠原村に葬られたという。
小篠原村、つまり「葦原」のある「野洲」=中津国が生地だったことがわかる。

つまり毛野氏は葦原中津国にやってきた秦の末裔(つまり徐福集団)の一つということになる。
815日本@名無史さん:2010/02/11(木) 09:56:57
玄界灘沿岸の鏡なんぞは、朝鮮半島との関係を考えれば、簡単に手に入れること
ができたというだけのことだ。本当の国の強さなどを示すものではない。
弥生時代の強国は、当然、広い水田を持つところでだ。となれば、筑後川や嘉瀬
川がある有明海沿岸だな。古墳時代に入ってからも有明海沿岸は発展している。
玄界灘沿岸のように衰退していくところが伊都国のわけはない。
816日本@名無史さん:2010/02/11(木) 11:51:31
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

奢れる伊都国久しからず

しかし伊都国の海族の一部は瀬戸内海を支配する村上水軍として余命を保った
817縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 13:55:20
>>761>>762
>>総数は20を越える古墳が集まっている。

>どーゆー数え方をしてるんですか?
>纏向地域と柳本古墳群とは時代が違うから区別するべきですよ。

うん。論点によっては区別するべきだね。ただ、私の文章が言葉足らずだったから真意が伝わらなかったようだ。
私の言いたかったことはあの辺りは古墳が集まっていて明らかに墓域だということなのだ。

>>比較的短期間(恐らく半世紀以内)に集中的に作られた

>纏向遺跡の土器(整理箱1000箱以上)は詳しく編年されています。
>それをもとに、そんなムチャな想定はできませんよ。

うん。私の書き方が悪かったから「全ての古墳が半世紀以内に作られた」と受けとられたようだ。
私はいわゆる纏向型前方後円墳と言われる古墳の幾つかは築造時期が重なると見ている。庄内式、布留式土器が出土しているようだ
からこれらを細分化して(布留0とか1とかにわけるなど)時代の前後関係をだしているのだろうが、これらの土器の生産地が同じな
ら前後関係が言えるだろう。しかし、他所の土地から持ち込まれたものが混在しているときはどう判断すればよいのか?

土器製造技術やデザインの伝搬は瞬時に行われるものではないだろう。同じ様式の土器でも生産地によって年代が多少異なるのでは
ないか?そういう検討が行われた上で編年がおこなわれているのだろうか?

なお、勝山古墳と大塚山古墳からは布留0式の土師器が出土している。上記のような問題があるが、同じ産地のものであれば築造時期
が重なる可能性がある。

箸中古墳は勝山古墳や大塚山古墳とは形状も大きさも違うが、布留1式土器が出土している。布留0と1ではどれほどの年代の差がある
のだろうか?布留0の製造の終期と布留1の製造開始期は重ならないのか?重なるならば、箸中古墳と勝山古墳や大塚山古墳の築造の前
後関係を土器によって決めることはできない。

箸中古墳はほぼ同じ時期に築造された古墳群の中でも特に重要な被葬者の墓として大きさもデザインも別格のものとされた可能性がある。
818日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:03:37
しかしこの人はなぜこう:馬鹿でもの知らないんだろうね?
819日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:12:19
>>818
チラシ裏を相手にするんじゃない。
820縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 14:19:58
>>764
>とりあえず邪馬台国という言葉は横に置いておいて。

>ヤマト王権成立直前の考古学的状況を見て下さい。
>北九州を中心に銅矛圏、山陰・山陽に大型墳丘墓、畿内・東海に銅鐸圏が見られます。
>これらがやがて前方後円墳という、それまでなかったものにとって代わるのです。
>それはなぜか? という問題設定です。
>九州が東征したなら銅矛が、ヤマトが征服したなら銅鐸が、広まったとしておかしくない。
>そこで、各勢力の妥協の産物として、新しい祭祀・新しいシンボルが創出されたのではないか、
>と考えられるわけです。

>「首長連合」という言葉に違和感があるなら、
>アムフィクチュオニア(祭祀同盟)・通商連合、と捉えるのがよいかと。

仰りたいことは分りますよ。
だけどここは邪馬台国板ですから邪馬台国と関連させて語って欲しいですね。

畿内に邪馬台国があったのであれば、それが大和王朝に発展したのか、あるいは外部から入ってきた勢力が邪馬台国を滅ぼして
大和王朝を建てたのかをはっきりさせて下さい。

倭人伝によれば卑弥呼の時代の邪馬台国は30国ほどの国を纏めて倭国を形作りその盟主となっていました。一大率を置いて諸国
を 検察し、諸国はこれを畏憚していたと言います。武力を背景とした統治の一端が窺えます。また、諸国には官を配置しており
中央集権とまでは言えないでしょうが、官吏行政が行われていたことも窺えます。税の制度もあると書かれています。

そんな倭国の姿を「アムフィクチュオニア(祭祀同盟)・通商連合、と捉えるのがよいかと。」で済ませられますか?

821日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:20:50
もうすでにクソと決定してるのに、よく書き込み続けられるものだな。ww
822日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:23:20
>>821
同意。自分のホームページを開いてそこにいくらでも電波を書き込めばいいのにね。
不特定多数の訪れる場に出せるレスじゃないだろう。
823縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 14:25:25
>>818
馬鹿でものを知らなくてすみません。
先生は利口で物知りと自分で仰られているので、817で私が疑問に思っている部分についてご教示願えませんでしょうか。
824日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:26:26
太国と縄文人で、どっちが知能指数低いかな?
825日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:29:49
>>811
吉備の楯築墳丘墓は、全長72mほど。主と見られる木棺は、長さ2m、幅0.7m。
30kgを超える朱が敷かれており、副葬品は鉄剣1、首飾り2、多数の小管玉と
ガラス小玉の集まり1となっている。

年代は弥生後期となっているが、これは20年以上前の記録なので、その頃の
一般的に年代観で言えば、2世紀あるいは3世紀ということになるのだろう。

副葬品のタイプから言えば、九州の墓制と似ているのだが、吉備でこういう
副葬品の習慣が出来たのはいつ頃からなのだろうか。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 14:31:52
このスレには、たまに電波星人が訪れるらしい?!ww

ところで電波星の所在の太陽系では日食が数日間も続く観測できうる天体がある
と想うが、この太陽系の地球での観測では、日食は数日間も続かない。ww
827縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 14:33:57
821,822,824
こんなことしか書き込むものが無くても楽しいですか?皆さんの目や耳から入った情報は脳を経由せずに
口から出るようですね。
828日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:37:59
>>823
野次に惑わされる必要はない。畿内説はそもそもそういうものだから。
最終的には人格攻撃をする。

畿内説の学者でさえ、以前は、何かあると軍国主義者なんていう意味不明な
ものを持ち出して来ていた。
829日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:38:07
>>825
その大量の朱の使用を除いては一般に楯築はその墳墓の大きさに比して
副葬品は乏しい…と見られていると思うが

何れにせよ副葬品が乏しくなっていく事に瀬戸内・九州以東の影響を見るのは
チト苦しいかと、無論別に地域間の埋葬文化の相互影響を否定するものでもないが

もっと積極的な「形の変化」なりにそれを求めた方が分かりやすいとは思うwwwwwww
830日本@名無史さん:2010/02/11(木) 14:43:55
>>829
副葬品は盗掘されることも多いからね。
熊本県の江田船山古墳からはすごい副葬品が出たし、西都原の古墳からも
けっこうな副葬品が出ている。
831太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 15:01:48
>>765
そういう主張はしていない。

>>763
>>768 >>772
五瀬命は5/8に戦死した。大きく衝撃を受けた神武は戦死日の五月が五瀬命の
御名と合致してることから5数に戦慄を覚え、即位に際して1年のうち5月以降
の月を全部削ったのである。このことは当時の1年が1月〜4月までの四ヶ月で
終らしたため、現今の(通常暦)での1年が当時は3年だったということなのだ。

つまり3倍年暦を行使していたのであり、神武崩御直後に神武の葬儀を待たずに
次帝の綏は即刻3倍年暦を廃止して元の通常暦法に戻したのである。その為
神武の葬儀は五月以降の9月に行われており、神武即位から同崩御までの間は、
日本書紀は1月〜4月までの記述しかない。5月以降の記事が即位〜崩御まで
全く存在しないのはそのためなのであるのだ。

この4月と5月の分断と5月以降の廃止抹消は、卑弥呼が九州の人物だという
ことになるのを意味して来る。
832日本@名無史さん:2010/02/11(木) 15:04:45
北部九州で、後期後葉には副葬品が貧弱になってるのは確かなんだけどね。衰退した
というより、タラコという人のいう慣習の変化なんだろうけど。
833日本@名無史さん:2010/02/11(木) 15:14:03
で、丹後は増えている。これなんか興味深い。
http://www.bell.jp/pancho/travel/tango/sec-16.htm
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/tango.htm
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 15:18:08
>>831 続き
それだけ神武が5月を毛嫌いした事由というのは当然皇兄五瀬命の死亡日が御名
と同数だったことからの以前に、高天原が五月蝿為す天の岩戸が閉鎖された神代
の伝説を神武が重視していたからであるのだ。これは九星の方位による五黄殺が
大凶とするのと一見似ている。それで当時は1年が4ヶ月間だったということ
だ。ところが五瀬命の死亡日は日数のほうは数字が8であり、御名の数字とは
合致してないため、天皇以下朝廷は8数の吉凶はいずれなのか、一時的にも迷っ
たことがあったろうし、神代では8数が多用されており八咫鏡とか八坂瓊の
勾玉だとかあるわけで、また八俣大蛇とかでよくない数字の可能性も考えたろう
が、吉凶いずれが真かを、彼等は命の死で困惑したであろう?

だから8は吉ではあるが一面的にか大蛇と命の命日で凶をも含み、まぁ8とは
小吉と小凶の類ではないかと考えたのではないのか? あるときは吉あるときは凶
に相当して考えたのではないだろうか? 朝廷はかように迷信深く、現今の熱帯
ジャングルの蛮族のような風習、迷信を担いでいたのだと考えている。
835日本@名無史さん:2010/02/11(木) 15:46:53
しかし、上に出てきたように纏向の成立に、どのような形で、どの程度まで伊都国や奴国が
か係わっていたかというのは興味深い論題。鏡の大量埋葬や、朱の塗布、割竹式木棺など
弥生時代北九州文化と古墳文化の共通性があるのは確かといってよいし、これをはたして
文化の伝播ということだけで済ませてよいのか。 内行花紋鏡の破鏡、棟持柱付建造物は
平原遺跡に類似しているという説もある。
836ローガン:2010/02/11(木) 15:50:36
横失礼!縄文氏。817を読んだ印象では、貴方の言い分は「土器編年自体100%間違いないものではない以上、古墳の後先等の根拠の一つには使えるものではない」と承知しました。
もとより、文字資料など無い地中からの情報、万人が両手を挙げて支持出来る事例は少ないのではないですか?
とくに、実年代との摺り合わせ、形式の年代幅など研究者でも一様ではないでしょう。
しかし貴方のスタイルは「100%間違いないもの以外はダメ」なんですね(笑) では貴方の史観というか邪馬台国論は万人が100%支持出来る根拠に立脚したものなんでしょうか?
でなければ、「自分には大甘で人には厳しい」と揶揄されるだけで誰も相手にしてくれませんよ。
さておき、上でも書かれています。「整理箱1000箱以上」まあ巻向に限らず、私の地元の収蔵庫も土器でいっぱいです。見慣れれば、地元の土器と持ち込まれた土器の区別は、さほどつけにくいものではありません。

>布留1式土器が出土している。布留0と1ではどれほどの年代の差があるのだろうか?布留0の製造の終期と布留1の製造開始期は重ならないのか?

形式だけで見ているようですが。 例えば箸墓、布留0は渡り堤の土中、布留1は周濠の腐葉土に混じって見つかっています。基本は「層位に勝る形式無し」です。
重箱の隅つついて粗探ししたところで、貴説が浮かび上がるものではないでしょう。
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 15:51:40
>>834 続き
神武はこういう精神的ショックの状況において即位したわけであり、とことん
5月と決別し、1年を1月〜4月までの4ヶ月として3倍暦を行使して行った。

そして神武崩御直後、皇位争いで手研耳命が謀反を企てたのだろうが、ここに
おいて、神沼河耳尊に加担したのが神八井耳命なわけである。神八井耳命の味方
により手研耳命を討ったのであるが、彼が尊に味方をしたということが、尊の命
への評価は高いもので、神八井耳の八数に因んで神沼河耳尊は8日に即位し
たのだ。

それは五瀬命の命日でもあり、五瀬命の御名との合致しない8数をこの時吉と
みなし、8日に即位した。

このころ先帝の3倍暦法は前例がなかったのだろう、不慣れで以前に行って
来た通常暦法とはうって変わった奇抜な暦であることから、神沼河耳尊(綏)
は不便と感じたか、3倍暦法を廃止し、ここに通常の暦法に戻したのである。

ところがその後時代は経過し、綏の崩御において、その死亡がまたもや5月で
あったことから、次帝の安寧以下朝廷はさらなる戦慄を覚え、恐怖はままならず
とうとう戻していた通常暦法を再度取り止めて倍暦行使を考えるに至るのだった。

ところが先帝は通常暦を行いその前の先帝神武は3倍暦法を行っていたことを
年頭に入れ、安寧以下朝廷はその折衷的暦法たる2倍暦法を採用したのである。
安寧以後の欠史八代ころに於いては、5月は消極的活動にして積極的政治活動は
これを控え、まぁその月はジッとして当たらず触らずで凶月を過ごしたことで
あろう。だから仏伝以前には紀には5月の記事が少しで、殆どないのである。
暦の事典には、5月を悪月との説明がある。

佛教伝来からは佛者の感化により5月を嫌わず活動するようになったようで、
このころからは紀は5月の記事が多くなるのだ。紀の成立が5月なのも、この
元明元正のころ、すでに古神道は隠没の局面にあったことを物語る。
838日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:01:40
ただ伊都国・奴国が主導して纏向を建都したとすると、どうしても倭人伝の

>自女王国以北特置一大率倹察諸国諸国畏憚之常治伊都国

との齟齬の問題が出てくるだろう。これ以前の記述でも、伊都国の代々の王の存在は
認められているものの、邪馬台国に統属伊していたことになっている。それに、伊都国と
日本海側各地の関係は、潤地頭給遺跡などからも明らかであるけれど、それに比べて
畿内との関係ははっきりしていない。河内に九州勢力の拠点があったとする説もあるの
だが・・。
839日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:06:14
>>827
>皆さんの目や耳から入った情報は脳を経由せずに 口から出るようですね。

それは言い過ぎだ。経由させようにも頭蓋骨の中身は糠味噌の連中だから。そんな未発達の人達を侮辱
していかん。
840日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:11:54
あとはよく言われるのは、纏向における搬入土器の出土状況について。伊都国東遷説
では、纏向の搬入土器は労働力移動かあるいは供献によるものであるとの説が主流
であり、東海のものが多いというのもこの説に説得性を与えている。ただし、これから
北部九州の主導性をいうことができるのかどうかまでは疑問。また、博多湾岸等に出
土する庄内式土器と西新式土器の関係や、西新町遺跡が交易の拠点となっていくこと
を説明するのは難しい。
 
841日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:19:39
それにwwwの人がよく言ってるように、九州全体でも大型弥生墳丘墓は見られず
なぜ、突然纏向の地に巨大前方後円墳が登場したかの説明が難しい。ただし、これ
は他の地域が主導したとしても難しい気がするのだが。やはり前方後円墳の出現は、
信仰形態の変遷の画期であるのは間違いないが、考古学による解明が届くかどうか
は疑問がある。
842縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 16:27:10
>>836
>貴方のスタイルは「100%間違いないもの以外はダメ」なんですね

遺跡や出土物や文献については100%正しい解釈を追求します。難しいことですが論の元になる原資料については
その姿勢が必要でしょう。「自分には大甘で人には厳しい」ことにならないように気をつけているつもりですが。

>形式だけで見ているようですが。 例えば箸墓、布留0は渡り堤の土中、布留1は周濠の腐葉土に混じって見つかっています。基本は「層位に勝る形式無し」です。
>重箱の隅つついて粗探ししたところで、貴説が浮かび上がるものではないでしょう。

あそこでは言及しませんでしたが、「布留0は渡り堤の土中、布留1は周濠の腐葉土に混じって見つかっている」ので、布留0は古墳の築造時に埋められ、布留1は
古墳築造後のかなり時間が経過した後に埋まったと考えられるのでしょう。ということは、箸中古墳はその布留1が製造された時期より前に築造されたという理屈
です。ますます両古墳の築造時期が近くなるではありませんか。


843日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:29:38
前方後円墳に関しては、楯築墳丘墓からの影響も指摘されるが、特殊器台など
は中山大塚以降に出土するものであり、庄内期の吉備からの大きな影響につい
ては疑問の声もある。つまりこれらは、纏向の王権成立後にもたらされたものである
ということ。また、備地域は墳墓の共通性があまり見られず、勢力としてまとまってい
たのかという疑問もある。
844縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 16:32:33
>>838
>ただ伊都国・奴国が主導して纏向を建都したとすると、

誰が「伊都国・奴国が主導して纏向を建都した」と言っているのですか?

845縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 16:41:05
842の訂正
*ますます両古墳の築造時期が近くなるではありませんか。
          を
*ますます箸中古墳と勝山古墳および大塚山古墳の築造時期が近くなるではありませんか。
         に訂正。
846太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 16:51:30
>>837
安寧天皇が7月即位したというのは1年365日において、すでに半年が経過
した最初の月であるわけで、2倍暦という1年計算が現今での2年分であるため
に、7月は1年を正味半年としたときの最初の月、いわば1月に相当するから
なのであろう。景行に時代も2倍暦法を行使しており、景行も7月即位だという
のも同じ2倍暦の安寧の7月即位を受けている。

ここで2倍暦の場合6月が大晦日のある月相当となり、六月晦の大祓いは前月
の5月という五月蝿為す月を見立てて、その混乱解除の行事としたと考えている。

それで紀を見れば、佛教伝来の手前の時代までは、5月6月の記事が非常に
少ないのは同月の大凶を避けることで特別な事情のない限り、消極的生活にて
ジッとしていて過ごし、自ら働きかけて積極的行動はしなかったということ
なのだ。神功紀の39年を見るに

 魏志に曰く明帝の景初3年6月、倭の女王、大夫難升米等をして、郡に詣り、
 天子に詣りて朝献らむことを求めしめき。

とある。このことは6月に女王国はえらく活動を自らやってるわけで、6月に
進んでこういう活動をしてるということは、この女王が朝廷の人物ではないと
いうことを物語るのだ。朝廷ならば向こうから来朝したり働きかけをして
来るには真面目に応対するが、自分達から6月に大陸にこんな行動はとらない。
847日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:51:50
>>844
上で出てきた伊都国東遷厨。説自体は柳田康雄氏だな。彼は 中山平次郎,、原田大六の
名前も出している。人のレスは全く読んでないでしょう。ただし、これには「伊都国の集団が
移住した痕跡が認められない。卑弥呼を共立した一員であっても、主導したとは思われな
い。」武末純一(福岡大)のような、九州内での反論もある。寺沢氏は対等合併に近いような
説か。森氏の奠都説もこの類。
848日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:57:21
ただし伊都国東遷であれば、神武伝説などの記紀の根拠にするのは難しいかもしれない。
「日本書紀」には伊覩(いと)県主の祖五十迹手(いとて)が曲玉、白銅鏡、十握剣のいわゆ
る3種の神器を仲哀天皇に献上した説話を伝えており、同書は卑弥呼を神功皇后に比定し、
その夫・仲哀天皇の在位は西暦192〜200年。この記述は、卑弥呼共立直前の伊都国王
の服属を反映しているという説ある。
849縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 16:58:35
>>847
あ、それですか。ふ〜ん。
850日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:05:41
>>838
そこが俺みたいな素人でも素朴に疑問に思うところだなwww

ヤマトの分家が短期間に本家を飲み込んだと言うシナリオはピンと来ないし

かと言って文字通り「遷都」で本家が丸ごと引っ越してきた…という状況も考えにくい。
庄内のヤマトに突如、平原のように何十枚もの鏡の副葬が見られるようになると言う訳でもない。

「邪馬台国東遷説」であろうが「伊都国東遷説」であろうが副葬品体系にその根拠を求めるには
あまりにも決定力にかけるというか「文化の東進」で十分説明がついてしまう。
851日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:07:24
>>843
>特殊器台などは中山大塚以降に出土するものであり

もう少し勉強しましょう
852日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:08:36
だから、邪馬台国って単なる九州地方の地方政権であって、
纏向や畿内とは何の関係も無いんだよ。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 17:11:14
神武の次帝綏が5月に崩御したことから、五瀬命の死亡月と同じ5月だったと
いうことで迷信深かった朝廷は震えあがり、日神の戒めと想ったのか、通常暦法
を廃止し、再度の倍暦に踏み切ったのだ。

朝廷間には古来から5月を災い月の悪月との伝承が伝わって後代に来たのかも
知れない。綏の崩御は 5/10 であったが、これは幕末にも影響しているのでは
なかろうかと一瞬でもそれがしは想ったものである。

幕末某年、朝廷は将軍家茂に攘夷の期日を 5/10 迄にせいとのお達しを命じた。
これは幕府の崩壊を示唆するものなのだと深く感じてしまう。
854ローガン:2010/02/11(木) 17:14:05
縄文氏。
なら、>>663
>造営にあたっては着工前の祭祀、途中の祭祀、完工時の祭祀などのための祭祀殿が設けられた筈である。

の客観的根拠をお願いします。
855日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:15:19
848 説ある→説がある。
>>851
畿内で、という意味だったんだけど違ってた?
856日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:19:55
>>854
そうね。このような記述は記紀にもないし、後代の古墳近辺にも見られない。造出は古墳の
一部だしね。おそらく神社の元とか言い出すんじゃないの。ww
857日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:29:34
ローガンさんのいうとおりで、縄文人は、自説は、明らかに電波だろうということを臆面も
なく主張するくせに、他人の説には明確な根拠を求めるんだからね。これだといくら学者
面していても、学問の方法論としてのバランスがとれていないから、嫌われる以前に誰に
も信用されない。
858日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:31:44
そう言えば日本で最初に「地鎮祭」を行ったのは今のところ持統とされるんじゃなかったっけ?wwww
859縦目仮面:2010/02/11(木) 17:39:59
議論は、大ざっぱVS大ざっぱ、精密VS精密でないと成り立たない場合が多いんだが、
そのあたりがわかってないんだね。持統天皇の地鎮祭というのは藤原宮かな。呪術好き
の天武天皇が陰陽寮を設置したりしてたから、それ関係かも。昨日半分冗談で、タラコ
説を書いてみたけど、あまり反響なく残念。
860唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 17:40:44
と言う事で、縄文人どん 私の主張を間違いとするためには、
主張:崇神5,6年は、新羅192,3年
これに代わる、書紀と歴史の接点を出して下さい。
861日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:05:40
>>857
そだそだ
縄文人は大キライだ ><
862日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:32:11
>>852
まあリアルの九州説じゃあそっちの方が主流なんだろうけど

この板じゃあ少数派だなwwwwwwww
863縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 18:36:35
>>854
今日でも建物を建てるときには祭壇などを設け神主にお祓いをしてもらう。科学の発達した時代に迷信じみたこと
が行われている。これは先祖代々伝えられた風習だから行われるのである。今では天の神や地の神を信じる者は少
ないだろうが昔になるほど厄を払うための祭祀を重要視したであろうと推察される。

特に、国家的大事業になれば祭祀殿を設けて大王自ら祭祀を行ったであろうと思う。その証拠が纏向の遺跡ではな
いかと言っている訳である。

>>856
掘ったて柱の建物は地際から腐朽するので30年ももたない。特に柱が小さいと数年で倒壊するものもある。後世には
礎石を置いて木材が直接土に接しないようにしたから長もちする建物も出てきた。古墳築造時の祭祀殿は短期使用で
あり用が済めば撤去される。その跡が出土するのは稀だろう。その意味でも纏向の遺跡は貴重である。十分に研究し
てもらいたい。

>>857
まあ、お互い様ではないだろか。なお、私は古代史学者のつもりではいない。道理を重視する一般人だ。

>>860
崇神5,6年といえば疫病が流行った時でしょう。これが新羅192,3年 と何の関係がありますのん?

864縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 18:42:47
>>861
べつに君に嫌われたってなんてことはない。内容の濃いまともな反論ができないので嫌いだ という人は
多いね。優秀な選手は敵地ではブーイングの嵐に見舞われる。その点では私はまだまだだな。
865日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:54:50
日本がこうして太平なのは、天皇陛下が新嘗祭などの皇室行事を怠らないからです。
ところが皇太子の妃が国事行事を蔑にしたため経済が傾き出してしまいました。
それ以上に心配なのは、天皇を自分の勝手で使おうとする人が政権の重要なポストについていることです。
いずれ、乙巳の変のような世間を驚かす大事件が起きるのではないかと心配です。
866日本@名無史さん:2010/02/11(木) 19:31:29
皇太子の妃に国事行為なんてあるのけ?
867日本@名無史さん:2010/02/11(木) 19:44:46
wwww ブーイングというか、じゃまくさいから無視してる人が多いだろ。感じないのかねえ?
むろん拍手をもらえるようなレスは一つもない。www

>>863
>昔になるほど厄を払うための祭祀を重要視したであろうと推察される。

無論信仰はあっただろう。纏向であれば祭器の類は土坑からたくさん出てくる。しかし、この建物
跡が古墳築造時の祭祀を行っていたものかはまったく別の話。ガキでもわかるヘタクソな論理の
すり替え。

>古墳築造時の祭祀殿は短期使用であり用が済めば撤去される。

掘立柱建物が長期間持たないことと、古墳築造祭祀に用いられていたこととは何の関係もない。ww
これ以外の長期間もつだろう建物の例も出てないしね。www 
つまり まったく根拠なしということ。答案は0点。
 
868ローガン:2010/02/11(木) 19:50:51
>>863
しっかりしてね。
@纏向の柱跡を古墳築造に絡む祭殿跡だと考える。→
A大王が古墳築造事業の為の祭祀をそこで行った。→
B>その証拠が纏向の遺跡ではないかと言っている訳である。
証拠って…祭殿が古墳築造事業に絡むものだと。 まあ ものの見事に循環。
869縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 20:02:34
>>868
循環してる?見方を変えたら如何?今は仮説の段階なんですよ。仮説が作られる過程とはこんなものでしょ。
纏向の柱跡の研究が進めば判明するかも知れませんよ。祭祀施設だと判明したら仮説の証拠の一つになるでしょう。


870日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:05:34
>今は仮説の段階なんですよ

www 単なる思いつきが仮説なら何言ってもいいことになるな。www
871日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:07:35
または、根拠のない不確かな仮説を、堂々と公的に発表する危険な人物ということか。www
872縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 20:15:13
>>867
ほいほい。無視すりゃいいのに 堪えきれ〜ずに レスをする〜。

>無論信仰はあっただろう。纏向であれば祭器の類は土坑からたくさん出てくる。しかし、この建物
>跡が古墳築造時の祭祀を行っていたものかはまったく別の話。

別の話か否かは調べてみないと分らんじゃろ。はなから別の話と決めてかかるから見えるものも見えなくなる。

>掘立柱建物が長期間持たないことと、古墳築造祭祀に用いられていたこととは何の関係もない。ww

当たり前だ。柱穴跡として出土するほどに固定されるかどうかという発見のチャンスの話だ。
873縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 20:18:08
>>870
単なる思いつきなら君でも言える。
874日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:42:24
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
875単なる思いつき:2010/02/11(木) 20:42:38
掘立柱建物は、後代の神楽のような宗教劇をやる舞台。古代ギリシャの劇場
遺跡のようなもの。根拠は、ない。wwwwwwww
876日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:51:43
邪馬台国畿内説の問題点

1.文献的根拠がない。
2.考古学的根拠がない。
3.何の根拠もない。
4.とにかく根拠がない。
5.それにしても根拠がない。
6.あきれるほど根拠がない。
877日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:01:39
>>876
失礼な!
何としても権威を守らんとする頑迷な忠誠心と
何かの宗教かオウムのように九州説に罵詈雑言を浴びせる品位と
旗色が悪くなったときに発動する得意技、人格攻撃があるのですよ!
878日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:11:04
うまいこと言うね
879日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:11:54
>>877
>旗色が悪くなったときに発動する得意技、人格攻撃があるのですよ!

あ、それがあった。あれ見てると攻撃している本人が哀れに思える。こんなおとなが居て子供達に
悪い影響がでないか心配だ。それもこれも畿内説のテキストが悪い所為かも。
880日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:13:53
畿内説の唯一の根拠は三角縁神獣鏡だろう。
特に銘文入りのもの。
九州説の立場であっても、何故これだけの△鏡が畿内から出るのかを説明する必要がある。
881日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:18:52
特殊壺、特殊器台の分布から、邪馬台国は吉備にあったとする根拠だ。
882日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:28:58
三角縁神獣鏡

あれは狗奴国が呉から仕入れたものを配ったのかも。邪馬台国に対抗するためにね。宮崎の日南海岸から船を出し
黒潮に乗って行ったのだろう。君たちこの鏡あげるから僕らに味方してね。うん。ありがとう。な〜んてね。
883日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:36:31
>特殊壺、特殊器台の分布から、邪馬台国は吉備にあったとする根拠だ。

WWW文章がよく理解できん。邪馬台国は(吉備にあったとする)根拠だ。邪馬台国は根拠だ。WWWWWW
884水銀厨 :2010/02/11(木) 21:37:19
>>880
私は畿内説だが三角だけを根拠にしてないけど。
885日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:50:12
しかし、九州説は論が変だと思うけどね。まず九州の邪馬台国がもらった鏡の候補を立てる、
方格規矩四神鏡でも位至三公鏡でもなんでも。で、それの中国での出土状況や、中国鏡との
形式の比較などから論を進めていくべきなんだよ、ほんとは。三角縁否定から入るのは変だと
思うね。三角は畿内派であっても国産説を取る人は多い。俺も国産説だよ。
886日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:52:12
そもそも呉って国外に布石打てる国力無いし
良港を持ちながら内政重視の保守的な国という印象が強い
呉の国内が冊封関係の積み重ねでしかなく、孫王家も烏合の衆に乗っかっている盟主程度で垢抜けのしない王朝といった感じ
倭国にまで興味を示すとは思えないが
887日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:57:02
>>841
吉野ヶ里遺跡には弥生中期の墳丘墓があったはずだが。
それに、墳丘墓は長年の間に消えたりするものがけっこう多い。
戦国時代の城の土台になったり、畑にするためにならされたり。
888日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:58:37
>>777
レスありがとうございます。司馬昭≠文王が解決してますので

>魏略と魏志の類似は魏略がテキストだったと考えてまず間違いないでしょう。

は了解済みです。魏略には奴国以下の行程がなく、

又南至耶馬嘉国「広志(翰苑所引)」
自郡至女王國萬二千餘里「魏略(翰苑所引)」

とだけあるようです。

水行二十日、水行十日陸行一月、については魏略と並べ合わせながら再考してみます。
889水銀厨 :2010/02/11(木) 21:59:02
俺も三角は殆どが国産、畿内製造説だな。

考古学的には勿論、文献資料、宗教学的考察においても
ヤマトは畿内でしか有り得ない。
890日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:11:02
>>886
呉が狗奴国に働きかけたかどうかは分らんが、沖縄も含めて九州南部と中国江南地方との交易は行われていたのでは
ないかな。狗奴国が呉の鏡なり鏡職人を手に入れたかも知れん。
891日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:16:16
>>817
>あの辺りは古墳が集まっていて明らかに墓域だということなのだ。

まあ、確かにそれはそうでしょう。

ところで、以前から「王都に墓はつくらない」と主張されていましたが、
その理由は、 後世の古市・百舌鳥からの類推でしたよね?

弥生時代の遺跡を見れば、住居域の外側に墓域を備えているのは常態です
(池上曽根遺跡、三雲遺跡、等々)。また、文献を見ても
崇神天皇は、都が三輪山西麓の瑞籬宮。陵墓が山邊道勾岡上陵。
景行天皇は、都が 纒向日代宮。陵墓が山辺道上陵、です。

この時代、纒向に都と陵墓が併設していておかしくはないと思います。
892日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:17:24
>>888
「水行十日陸行一月」というのは、魏使が実際に邪馬台国までの行程でかかった日数なのだろう
か?案外、だいたいそれくらいで誰でも着くよという、陳寿が三国志を書いた時代の共通認識のよ
うなものじゃないだろうか?
893日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:22:42
>>890
>考古学的には勿論、文献資料、宗教学的考察においても ヤマトは畿内でしか有り得ない。

うんうん「ヤマトは畿内でしか有り得ない。」だけど 「邪馬台国は畿内ではあり得ない」と言うつもりでしょ。
894水銀厨 :2010/02/11(木) 22:31:34
>>893
邪馬台国という字とヤマタイという読みに
違和感があるのでね、あえてヤマトと言ってます。

仮に東征らしきものがあったとしても、それは
畿内のヤマトの地に他勢力がやって来ただけの事でしょう。
895日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:38:41

 細かいことはいいんだよ。
896日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:40:05
>>820
>ここは邪馬台国板ですから邪馬台国と関連させて語って欲しいですね。

そうですか。・・・冷静さを失ったりしませんか?

>はっきりさせて下さい。

「畿内に邪馬台国があったのであれば、それが大和王朝に発展した」のだろうと考えます。

>一大率を置いて諸国を検察し、諸国はこれを畏憚していた

北九州は帥升以来の地域統合を維持しており、「世有王」が存在していた。
これが自治権を保ちつつアムフィクチュオニアに参加して成立したのが、
卑弥呼を共立した「倭国」だと思います。

倭国乱は大陸との通交を望んだ他地域と、独占権を保持する北九州との緊張関係であり、
互いの妥協のもとに卑弥呼が共立された。しかしそこには地域的な温度差があったでしょう。

したがって、伊都国に置かれた一大卒は北九州を監察するためのものだったろうと考察します。
897縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 22:47:58
>>891
「王都に墓はつくらない」は伊作氏の言葉です。私も同じような考えです。弥生時代も時代が下がると住居域と
墓域は離れる傾向が見られますね。

纒向の柱穴跡遺跡は箸中古墳とは5百メートルくらいしか離れていませんね。大型建物があるだけでは都になら
ないでしょうから、人々の居住域がその建物の周辺にあったとすれば箸中古墳とほぼ接している感じになるので
はないでしょうか。
898太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 22:48:57
ww
899日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:51:39
西方十万億土といえば極楽浄土
皇帝の支配がおよぶ限りは一万里
音に聞こえるのは千里
軍の歩みは一日百里
地主の力が及ぶのは十里四方

一万二千余里とは中国圏外という意味
万里の長城は、長さが一万里に達するからではない、皇帝支配圏の境界に設けられた壁だから
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 22:54:58
唐土から西天までの距離。道は十萬八千里。〜〜西遊記
901縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/11(木) 23:16:44
>>896
私はいつでも冷静ですよ。

>倭国乱は大陸との通交を望んだ他地域と、独占権を保持する北九州との緊張関係であり、
>互いの妥協のもとに卑弥呼が共立された。

倭国乱の前には男の王が居たのですよね。倭国王が。その倭国王の体制は各国が自治権を持つEUのような
組織だったと言うのですか?そうではなくて、倭国王の支配権が崩れて卑弥呼が共立されてから「自治権
を保ちつつアムフィクチュオニアに参加して成立したのが」卑弥呼体制の倭国ですか?

それと、邪馬台国の卑弥呼の都はどこなのでしょうね。

902日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:26:03
>>897
>「王都に墓はつくらない」は伊作氏の言葉です。

やっぱりそうですか。で、伊作≠縄文人、なんですよね?

>時代が下がると住居域と墓域は離れる傾向が見られますね。

そうですね。平原なんか見ると、離れていってますね。
903日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:29:43
しかし、確かに纏向遺跡という名前は付いてるけど、環濠があるわけでも条里制がしかれてる
わけでもなく、旧行政単位の磯城郡纒向村ということで限定されているだけ。実際の関連した
遺跡の範囲はもっとずっと広いだろう。
904日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:33:48
>>901
>私はいつでも冷静ですよ。

あなたと罵り合った名無史のひとりとして、そう願いたい。

>倭国乱の前には男の王が居たのですよね。

「其國本亦以男子為王」は帥升のことかと。

>邪馬台国の卑弥呼の都は

「女王之所都」が邪馬台国ですよ。
905神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/11(木) 23:43:56
奈良県桜井市〜宇陀にかけて黄鉄鉱の産地だそうです。つまり、鉄の原材料の産地です。
906日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:46:08
>>901
>倭国王の支配権が崩れて卑弥呼が共立されてから
>「自治権を保ちつつアムフィクチュオニアに参加して成立したのが」卑弥呼体制の倭国ですか?

倭国王の支配権が崩れて、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、
世有王が、自治権を保ちつつアムフィクチュオニアに参加し、
共に一女子を立て王と為す。
907ローガン:2010/02/11(木) 23:58:45
>>888
>了解済みです。

言わずもがなでした。失礼しました。

>魏略には奴国以下の行程がなく、

確かに見えないんですが…「ない」とまでは、どうでしょうね。この部分の翰苑の本文「分職命官統女王而列部」
翰苑の注記って簡潔過ぎる本文の説明を史書の引用で補ったものですね。
この部分の本文は「職を分け官を命じ、女王に統べて部を列ぬ」(竹内理三 「翰苑」p.120)
雍公叡がこの本文に対する注記として最も記載したかったのが末尾の「其國王皆屬王女也」じゃないかなあと考えてる次第でして
魏略自体にはその後の記述があったとしても、同様の内容の繰り返しになるだけなので、割愛したと。
本文がらみの内容的には「其國王皆屬王女也」で説明出来るのでそこで止めたんじゃないかなあって考えてます。
908日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:03:23
>>904
>「女王之所都」が邪馬台国ですよ。
邪馬台国の「女王之所都」とも読めるね。





909日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:04:01
畿内説に立てば、やはり邪馬台国は連邦国家のようなものとして考えざるをえない。各クニに
オウがいて、それらのオウが共同で邪馬台国を建国した。倭人伝の卑弥呼以前の男王という
のはそれらのオウの代表者で、倭人の都地は北部九州から、畿内に移ったのかもしれない。
しかしそれを東遷とはいわないだろう。

巫女と考えられる卑弥呼が倭王とされたのは、各クニのオウの中の誰かでは混乱が収まらな
かったから、と見るのが妥当だろうか。いずれ、3世紀当時の倭国で、力による広域支配ができ
たとは考えにくい。
910唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 00:26:17
>3世紀当時の倭国で、力による広域支配ができたとは考えにくい。

景行は3世紀に、大倭国を統一した。
神功渡海は273年頃である。
百済本紀は、53年新しい方にずれている、だから神功をその分古い方へ動かす必要がある。

つまり神功紀は、神功自身の記事を除いて、歴史的には、正しい表記である。
911日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:27:16
これは軍事力においてもそうだが、広域を直轄統治する政治体制が整っていたとは考えにくい。確
かに各クニに官はいるが、監視役程度のものではあるまいか。どれほどの権限を持っていたかは
疑問である。倭人伝の >收租賦有邸閣 の記述にしても、8世紀の班田収受法でさえ結局はうまく
機能しなかった。租税を直接徴収できるのは限られた範囲で、それ以外は各オウに貢納の割り当て
があった程度ではないか。それを表すのが纏向の外来土器かもしれない。むしろ後代の荘園体制に
近いのかも。

本格的な強権支配が始まるのは3世紀後半から4世紀、記紀にある四道将軍の頃だろう。しかし、
四道将軍にしても、武力による制圧の話は多くない。例えば対立のある地域では、一方の勢力に
鏡を与えるなどして肩入れするなどの方策で、武力も交えながら巧妙に支配地域を広げていった
のではないか。実際、対立勢力がある地域では、片方にだけ前方後円墳ができるという例も見られ
るし、高地性集落の最末期の分布は四道将軍の派遣経路と一致する部分も多い。
912日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:27:27
>>909
当時の倭国は、江戸時代の幕藩体制に近かったと考えられる。
帥升は倭国王だから、帥升の時代、つまり西暦100年頃にそのような態勢が
出来た。
伊都国について、代々王がおり、皆女王国に属するというのはそういう意味
だろう。女王国というのは邪馬台国ということになる。

倭国の大乱は、後継者をめぐる争いと考えるのが一番妥当。
913日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:30:11
>>912
もちろん、ここで言う倭国の範囲は、九州の一部であり、朝鮮半島の南部まで
含む。
914日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:44:14
あとは、上でだいぶ考古学的なレスをしているが、伊都国と畿内邪馬台国の関係についての考え
はまだまとまっていない。あえて言えば「一大率」の「率」が、後代の「太宰帥」の「帥」につながるの
ではないかということくらいかな。
915日本@名無史さん:2010/02/12(金) 00:51:46
いずれ、唐松山さんとは見解が異なるが、広開土王碑に見られるように、4世紀末には半島に
出兵できるまでに国土の支配は進み、宋書に見る倭王武の頃に一応の完成を見た。ただし、南
九州が完全に支配下に入るには、8世紀の隼人の乱までかかっている。
916水銀厨 :2010/02/12(金) 01:16:44
>>905
紀伊半島一帯が鉱物の産出地。特に自然水銀が
大陸勢力にとって最も価値があります。

大市、後年の海柘榴市というのは、辰砂を目玉とする
鉱物の市という事でしょう。
917日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:37:34
単なる場所論争ではない
言い換えれば、九州説は小邪馬台国説だし、畿内説は大邪馬台国説という事になる
即ち、九州一島に収まる小国か、本州にも領土が及ぶ大国と見るか
どの説を採るかで、国を構築するシステムの想定が全く異なるだろう
918日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:43:52
>>917
>>862でも突っ込んだが、この板に限定するなら「小邪馬台国説」じゃない。
ぶっちゃけ「九州版皇国史観」だwwwwww

大体「連合体」に脊髄反射してくる奴は東遷説論者が多いんじゃないかな?
縄文人しかり、いつもの怨み節の東遷厨しかり…

偉大なる九州邪馬台国の後裔は武力を持って崇神の代には日本をほぼ統一したとwww
919日本@名無史さん:2010/02/12(金) 02:14:03
>>917
だから、この板の九州説はそこまで考えていないんだってば
仮に九州のどこかに邪馬台国があって、その位置を文献解釈で突き止めたとしよう
だが、そこから先は何も考えてないのさ
だから今度は記紀に根拠を求めて、これは四道将軍のことだとか
これが崇神のことだとか、こじつけて遊んでいるだけさ
挙句の果てには、三種の神器を九州から持って東征してきたなんて妄想になる
神武が何を持っていたのかなんて、記紀にちゃんと書いてあるのに
そこは都合が悪いのか無視するんだ
ましてや九州で三種の神器が一度に出土した例はないとのことで
www氏のいうように12世紀の可能性すらあるというのに、そんなことは検討すらしない
920日本@名無史さん:2010/02/12(金) 02:31:04
邪馬台国が九州にあって、諸三十国も九州だったとするのが
いわゆる小邪馬台国説だね
この説をとると畿内どころか本州の勢力は別物だとういうことになって
当時の倭国は九州の狭い地域であったとする見解になる

対して大邪馬台国論は、畿内に邪馬台国があって
西日本に渡る広大な支配地を持っていたことになる
つまりどちらの説をとるかによって、当時の日本の実像に迫るというわけだ
邪馬台国の位置は、それが目的ではなく
倭国の範囲を明確にするための重要な手がかりになるからこそ、位置論争が起きた

ところがこの二つの考え方そのものがもうずいぶん前に否定されている
邪馬台国連合は九州のみにあらず
さりとて西日本全域に展開していたのでもない
なぜなら、先に当時の日本の流通や祭祀などの範囲やが明らかになってしまったためだ
それによって、当時の日本の姿が、邪馬台国の場所より先に判明してしまった
西日本どころか関東にまで広がる交易網の存在が認められたからだ
このため邪馬台国位置論争はほとんど意味を成さなくなった
921日本@名無史さん:2010/02/12(金) 02:42:13
そこでこの中間をとるような形で、東遷説があるのだが
もうこれはこのスレを一読しただけでわかるように
神武東征記事だけを根拠にした、単なるおとぎ話でしかない
とにかくすべての証拠が、大規模な東征を否定しているにもかかわらず
それには耳を貸さないどころか、あの手この手で必死に攻撃しているのはみっともなさ過ぎる
騎馬民族説と同じく、もう滅んだ説だと現実を直視してほしいものだ

このトンデモ東征説を完全に省いてしまい
九州のある勢力が畿内に協力したか、あるいは先導したかという
現実的な九州影響説は、まだ検討されるべきだろう
真の東遷説の敵は、トンデモ東征説だよ
922日本@名無史さん:2010/02/12(金) 02:53:47
弥生時代の遺跡や遺物は東日本からも出ている
その地域に何も政権らしいものが無かったとするのは不自然だ
倭人伝は「みな倭種なり」の一言で片付けてしまっているが、
女王国に含まれる30余国と同じ様な国が連なっていたに違いない
九州〜関東までを100とすると、女王の支配地域は何パーセントかという事だ
九州に限定する小邪馬台国説なら、パーセンテージは低くなるだろうし
畿内まで含めた大邪馬台国説だと、50パーセントは下らないだろう
大国から見て、倭国王と認定するからには、どっちだと思う?
923日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:07:19
>>922
>大国から見て、倭国王と認定するからには、どっちだと思う?

そう言った蓋然性から現在の畿内説と言うのは成り立っていると思うが…

前に俺は倭人の朝貢は魏から見て一種の「瑞祥」だと言ったがw

あるいは魏にすれば何らかの理由があって
接触を求めてきた九州の勢力が倭国内ではNo1勢力でない事は知っていても
「グッドタイミング!渡りに船!!」
「明日の100万円より今日の10万円!」

…とばかりに冊封国とした可能性はあるんじゃないのかな?w

状況的にはそもそも景初三年なら喪に服してなきゃならんわけで
そこら辺にも不自然さは伺えるわけで…この板的には解決済みなのかな?

まあ、あくまで推理の域を出ない話ではあるがwwwwwwww
924日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:19:33
>>923
すると台与の再朝貢の記事がそっけないのは、晋からすれば

「うわっ!また来たよこの乞食めが・・・
 おまいらニセ者だってわかってんだから、散れよ情弱!
 ・・・ったく、魏もこんなクレクレ詐欺に騙されやがって」

こんな感じだなwww
925日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:26:13
>>924
いや、いくら俺でもそこまではwww
926日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:37:29

トヨタン・・・・・・・・・・
927日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:55:32
>>920
ていうか、東北の文化圏を認めたくないからでしょ。
魏志倭人伝を普通に読めば
末盧國=出雲、不彌國=伊勢と推定することはたやすい。
なぜ江戸時代にそれを否定する論がはじまったかを考えたほうがいい。
邪馬台国論争には、陰謀があるんだよ。
928日本@名無史さん:2010/02/12(金) 04:01:32
隋書かなにかに、倭国と日本は別種だとあるが
これもこういうことかね

「いやまあ、魏はオレオレ詐欺に騙されちゃったみたいですけど
 俺らはきちんとフィッシング詐欺について勉強しましたからwww
 しかしまあ、魏は間抜けですけど俺らはきちんとわかってますからwww
 しかしタチ悪いっすねえ、こんなのに騙されるなんて・・
 ・いやまあ、昔の人ですからしょうがないッスかねwww」


こう考えると、九州の人たちが
邪馬台国は九州にあったが後に滅んだとする説を、意地でもとらずに
東征したんだ!東遷だ!と必死になる理由がわかるような気がする
だってあまりに情けないもん
929日本@名無史さん:2010/02/12(金) 04:15:03
基本、文物は半島経由で日本に入っていたことは正しいだろう
関東にも弥生文化が入っていて鉄器が出るのだから
そして日本に製鉄の技術が無かったのなら、その鉄は半島乃至大陸から入ったと言わざるを得ない
さて、女王国には含まれない東の地域は、どうやって鉄を手に入れていたかだ
930日本@名無史さん:2010/02/12(金) 07:27:41
>>927
方角も距離も分からないんだな。
931日本@名無史さん:2010/02/12(金) 09:01:23
>>928

566 :日本@名無史さん :sage :2010/02/08(月) 11:04:05

>>493
>鬼道というのは中国の土着信仰、道教とも共通する部分が多いですからね

やはり邪馬台国は呉、江南から入ってきた集団のつくりあげた国なのでしょうか
江南から九州西部に入ってきた集団が鉄器と鬼道によって一時的に九州北部を制圧したものの
南の狗奴国との戦いに敗れ、あっけなく消えていった
邪馬台国は肥前肥後を抑えた後、「世々王有り」のおそらくは半島系の伊都国が束ねる筑前筑後との戦いには勝利し
玄界灘航路、朝鮮半島南部からの資源流入ルートを確保したものの何らかの理由であっけなく滅びたもののように感じます


こういう人もいる。
932日本@名無史さん:2010/02/12(金) 12:30:28
その呉越や江南の文物が縄文弥生通して何も伝わってねえだろがヴォケ

骨卜(こつぼく)は北方アジア。

「うら」とはツングース語でトナカイの事。
933日本@名無史さん:2010/02/12(金) 12:39:19
>>928
国号「日本」は、大宝律令の公式令で正式に定められたのではないのか?
「倭」は英語辞書だと、「ちび」とかそういう意味が出てくるが、
雅な国号と見せかけて、「中華の東」という意味を持つ、二字の国名に変える
あたり、「儒教」を意識して、むしろ中華に対してへりくだった印象を持つ。
934日本@名無史さん:2010/02/12(金) 12:43:04
>>932
水銀朱とかは、どっぷり神仙思想だが。
卑弥呼は水銀朱を好んだと書いてあるね。
935日本@名無史さん:2010/02/12(金) 12:45:04
>>932
水銀朱とかは、どっぷり神仙思想だが。
卑弥呼は水銀朱を好んだと書いてあるね。

絹とかもね。
936日本@名無史さん:2010/02/12(金) 13:28:18
>>932
倭国の風俗は南方系だろう。
937日本@名無史さん:2010/02/12(金) 13:41:54
>その呉越や江南の文物が縄文弥生通して何も伝わってねえだろがヴォケ

畿内説など、この程度のレベルですよ。
938日本@名無史さん:2010/02/12(金) 13:51:34
九州説の人たちは落ち着いて自分の意見言ってるけど畿内説は何でこんなに品がないの?
939日本@名無史さん:2010/02/12(金) 14:02:40
>>938
畿内説が不利だから。
落ち着いて議論なんかしてたらすぐ行きづまる。
大声をあげて相手を罵倒するしかない。
水銀の人はまだ冷静だと思うけどね。
940日本@名無史さん:2010/02/12(金) 14:07:23
>>939
なるほどねー
テレビで見て畿内説が正しいのかなーと思ってたけど、このスレ見てたら違ってるような気がしてきた
醜いもん、畿内説
と思ってたら追い詰められてんだねー
なんか可哀想だから畿内説応援してあげたくなってきたw
941太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 14:18:29
>>910
景行は九州行幸を果たしたが、統一なんかはまだま〜だ先だ。統一したの
は元明の少し前の文武の代あたりだ。崇神の代に畿内の四方周辺を見回っ
たのに、その2代後で統一なんか出来っこな〜い。景行カルトのホツマに
洗脳された奴は、すーぐ景行を絶対化するトンデモを強行する。

原田さんが去年の歴史読本8月号でホツマ傾倒者を憂慮していたのはまさ
にこういう妄想を言い出す奴のことであり、結局唐松山を遠まわしにて
実は直接批判したものであろう?
942日本@名無史さん:2010/02/12(金) 16:03:29
>>941
原田実は唐松山なぞの存在も知らないと思うが・・・

まあ原田は「と学会」のなかでも擬似歴史専門のトンデモ収集家でもあり
自身も古田・安本とたてつづけに騙されて、袂をわかった人物でもある
そりゃあトンデモ歴史本には厳しいだろう
ちなみに原田は倍歴とかも鼻で笑ってるぞ
943太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 16:11:39
>>942
ああそうですか。
雄略天皇の寿は

 古事記  124歳
 日本書紀 62歳

で、記は丁度紀の2倍ですがね。原田氏はこちらの研究などそんなに
してないんじゃぁありませんか? いかが?
944日本@名無史さん:2010/02/12(金) 16:17:02
>>943
そういう数字遊びや語呂合わせを、学問とは呼べないんじゃないの?
それに終始しているからこそ、古田や安本を彼は批判しているわけで
945日本@名無史さん:2010/02/12(金) 16:26:43
>>920
倭国の範囲が九州に限られるのは、倭人伝の記述からも妥当性がある。
つまり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
女王国の東に海を渡ること千里あまりでまた国がある。皆倭種。

あるいは、後漢書にも同じような記述がある。

「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
女王国より東に海を渡ること千里あまりで拘奴国に至る。
倭種といえども、しかして女王に属さず。

ちなみに、卑弥呼時代の倭国の範囲を九州以西に限定することと、東遷説とは
矛盾しない。東遷の時期は、卑弥呼時代のあとだからである。
そのように考えれば、古墳時代の支配の大まかな姿が見えてくる。
946太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 16:27:25
>>944
これは記紀の内容からのものだから、いい加減なものではないで
しょうが。これは遊び、語呂合わせでは言えないでしょうが。

記紀は国史の関係の書ですよ。遊び等では公文書偽造で、今評判の
数字を間違えたとかの某議員の虚偽記載のよう当時でさえパクられ
ますよ。当時だって政敵がうんといたでしょうから、いい加減な
イカサマ事を国史の書に書けば身に危険がふりかかりますよ。
そんな事で年齢を誤魔化して失脚を選択する利害はないと想い
ますがね?
947日本@名無史さん:2010/02/12(金) 16:34:20
>>945
いまどきこんな主張にお目にかかれるとはwww

後漢書の記述が、魏志もしくは魏略を元にしたもので独自の記事でないことなど
もう常識レベルだろうwww

で、その東遷とやらは、九州のどこが近畿のどこに移動したんだwww
前方後円墳が万一その九州からの東遷勢力が造ったものなら
なぜ吉備の祭祀を採用した?
なにより前方後方墳をどう説明するんだ?
中部日本で発生して、九州にまで作られているのだがねwww
948日本@名無史さん:2010/02/12(金) 16:41:39
>>946
そこまで信用できるというのなら
なぜ日本書紀が、彼らにとっての近代史である継体天皇以降の出来事について
史実と違うことを書いているのかも説明してくれんかね
そのあたりは嘘も混じっていて、雄略のところはホントとかってことかしらね

ちなみに倭の五王を記紀の大王に当てはめた想定があって
これは昭和の教科書には載っていたのだけど
今はそういうことはまったく載っていない
これは何故だかわかるかな?ゆとりとかの話しじゃねえぞwww
949太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 16:49:58
繼體のどこが史実と違うというのか? こんな書きこみでは答えられん
だろうが? それは故意でなく他動的なる資料でその個所を記載したの
なら、お咎めは少ないだろうが。故意にやれば、下手すりゃぁ獄門だぞ。
小沢氏も検察に証拠を掴まれたとかなら、いまの状況ではすまないんだぜ。

昭和の教科書などを論点をはぐらしたってしようがないぜ。
950縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 17:23:49
>>918 ~ >>928

皆さん九州説派が寝静まった午前1時半過ぎをねらったかのように鬱憤話をぶちまけて慰め合っておられましたね。不良高校生が
授業をさぼって体育館の倉庫に潜り込んでタバコを吸いながら先公の悪口を言い合う ふとそんな光景が目に浮かんできました。

ところで、大邪馬台国説はもちろん30ばかりの国の連合でなる倭国の範囲を畿内から九州北部、東海あたりまで広げたものでしょうね。
しかし、それは5世紀の大和王朝みたいなものじゃないですか。そんなもん???でしょう。

3世紀の倭国は九州で十分ではないですか。もちろん、倭国は鎖国政策は採っていませんから、四国や中国地方や近畿地方や北陸など
とも交易はしていたでしょう。それらの地域は倭人伝では倭種の国とされています。それらの地域でも連合した勢力があったかも知れ
ません。山陰などの日本海側に半島から人や文物も入って来ていたでしょう。

だが、卑弥呼の倭国は九州内で政治的、経済的に結びついて魏や半島の国とも国交を行ったのです。四国や中国地方や近畿や北陸や東
海は倭国にとっては政治的にさほど重要でないと認識されていたのでしょう。皆倭種で片付けています。


951水銀厨 :2010/02/12(金) 18:48:40
>>945
本州は九州から海を渡って千里の位置ではないでしょう。

>>950
>四国や中国地方や近畿や北陸や東海は倭国にとっては
政治的にさほど重要でない

弥生中期の時点で河内に漢人らしき方形溝周墓(学浪郡、平原と類似)が
が存在している以上、縄文人さんの説は苦しいですね。
952日本@名無史さん:2010/02/12(金) 18:55:12
>>950 どろ縄
まあ掲示板はチャットじゃないからなw
自分が落ちた後のやり取りが、気になって気になってしかたがないのかも知れんがwwwwwwwww
ちなみに「先公」とはお前やここのトンデモ九州説のお歴々のことじゃないよな?w

まあ「倭国とは九州限定」とするのは勝手だが
そのオレサマ定義で九州説に蓋然性が出てくるものでもなんでもない。


以下、万年ループネタ

「旧唐書」倭国日本伝を見れば倭国は日本そのものだったのか
それとも日本と倭国は別だったのかもはっきりしない

3世紀に関門海峡できちんと線引きした日本の地理観を
中国人が持っていたと言う前提で語ること自体ナンセンス。
953水銀厨 :2010/02/12(金) 19:02:13
>>951
方形溝周墓‥×
方形周溝墓‥○

>>952
どう考えても本州西部と北部九州は同一文化圏でしょうね。
954日本@名無史さん:2010/02/12(金) 19:02:28
まあここのトンデモ九州説は別にして
リアルの世界じゃあ九州説は年代観的には纏向と並存していて
九州の一地方勢力だった・・・と言う枠組みで語られるんだろう。

実際のところ「古墳時代は4世紀から」なんて昔の年代観で九州説をとっているのは高島ぐらい?
安本は、まあアレとしてwwww

その場合魏側に倭国の情報が入ってなかったのか?
ヤマトを中心にした首長連合は大陸との接触を試みなかったのか?
何故一地方勢力の九州邪馬台国が冊封にこぎつけられたのか?

…が問題になるんだろうな。

無論、お話だけならいくらでも作れるが
そんなもん証明の手段は無いだろう。


955日本@名無史さん:2010/02/12(金) 19:13:13
>>841 >>887
つとめて用語の定義の問題なんだろうが
「弥生墳丘墓」とは弥生時代の墳丘墓と時代区分でくくられた言葉で
楯築だろうが四隅だろうが「弥生墳丘墓」になるんだよな?

確かに吉野ヶ里にも墳丘墓はあるし「大型」と言っても線引きの基準が難しい。

自分としては墓上祭祀に直目してその形が後の古墳に繋がるようなものを
新たにカテゴリーを設けてもらいたいwwwww

時代で分けるんじゃなくて地域で九州と九州以東で分けた方が分かりやすいと思うんだが・・・






956日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:39:18
副葬品が豪華というのはその首長に対する個人崇拝だよな。縦型の強権的社会といってもいいか。
それに対し、供献土器が多く、墓制の共通が見られるのは宗教色の強い社会といってよいのでは
ないか。前方後円墳というのはその二つが融合したものととらえることができる。つまり首長霊と神
との同一化が始まったのだと思う。
957日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:41:08
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
958日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:49:59
>>956
巨大前方後円墳は、建設にまず労力確保が必要になる
配下の豪族に負担させるなど、それ自体が政治的な意味を持つプロジェクトだろう
現代で言えば、内庭費でまかなう範囲を越える
959日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:31:32
邪馬台国とは山田国。山田一国、山田二国と複数の国を束ねて山田大国(やまだいこく)と称していたのだと推定されます。
960日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:56:29
>>954
ヤマトを中心にした首長連合なんてものがあったことをどうやって
証明するのかな?
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 22:10:12
>>960
巻向に各地から土器が集れば、当然人もあるわな。
962日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:17:10
>>956 >>958
九州以東に巻き起こった大形首長墓の特徴と言うか志向したであろう事は…

(1)それを見る者に対して権威権力を見せ付ける意図がある。
  
  ぶっちゃけ副葬品はいくら豪華であっても墓の中に入れてしまえば
  外からはうかがい知れないわけでw
  
(2)その形や墓上での祭祀を共通化する事により首長間の連携を確認する意味があったのではないか?

  四隅なんかは墓上での共食儀礼なんかが想定されているが
  まあ分かりやすく言えば「弔問外交でのワーキングディナー」と言ったところか?wwwww

ここら辺が九州と九州以東の首長墓のコンセプトからの違いだと思う。俺が
「仮に古墳文化が外来勢力によって確立されたとしたら九州は真っ先にその候補から外す」
と言っている所以であるwwwwwwwwwww

ただ首長の権力が増大し寄り合い所帯的な長老支配的社会から
トップダウン式の縦社会へシフトしたのは九州の方が早かったとは思う
(銅矛と言う武器型青銅祭器の副葬とか)

状況的には首長霊信仰も九州の方が早くてもいい気がするが・・・
963縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 22:30:22
>>952
>そのオレサマ定義で九州説に蓋然性が出てくるものでもなんでもない。

3世紀の倭国をはじめに定義するのはナンセンスである。3世紀の倭国の姿は研究検討の結果から描かれる。
畿内説ははじめに「邪馬台国は畿内にあるべきだ、在ったらいいな、在って欲しい、九州じゃいやだ」という動機
があって理屈を捏ね上げているうちにはまってしまった という印象である(違っていたらごめんね)。

倭人伝では畿内に持って行けないことが分ってからは考古学的資料に頼ったが、これもうまく行かない。

だいたい、3世紀以前の奈良に近隣の国を纏めてゆけるだけの国力(食糧生産力や人口や技術知識)はあり得ないのだ。
唐古・鍵遺跡は現在の標高で50m前後のところにあるが、ここは奈良湖の湖畔にあったことが洪水で埋まった形跡
からも明らかである。つまり、この地の弥生人は湖の排水事業を行う力もなかったのである。

そんな地域の国が倭人伝に記されているような魏との外交などできるわけがない。
964日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:31:23
>>958
古代の大王は、支配した地域の人間に大規模な土木工事をさせていた。
記紀にもそのような話が良く登場する。
例えば、応神天皇は、蝦夷が朝貢してきたので、厩坂道を造らせた、とある。

租庸調ではないが、労働が税の一種だったように、支配した地域の人々に
何かを作らせるというのがよく行われていたのだろう。

巨大な前方後円墳もそういう労働用役を使って作られたと考えたほうが
辻褄が合うような気がする。
965日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:32:34
>>960
人が来ていたからと言って、そこが中心だったとか、首長連合があったとか
言えるものではない。
966日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:37:15
>>961
土器で政治的なことはわからない。
特に、弥生時代は各地の土器が入り乱れているから。

縄文前期の曽畑式土器や轟式土器は、朝鮮半島南部から沖縄付近まで
分布しているが、これを政治的な支配に関連付ける人はいない。

弥生前期に日本全国を席巻した遠賀川式土器も同じ。遠賀川式土器で政治を
語るなら、弥生前期に日本全国が九州の勢力に支配されていたことになる。
967日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:41:33
>>964-965
そう、そこで問題になるのが、どの勢力が主体になって作らせたかということだが
さて、巨大前方後円墳が他の地区からの支配によって作られたとするならば
その支配者たちはいったいどんな痕跡を残しているんだろうね
そのかけらすら見つからないのはどういうことなんだろうか
少なくとも、それを示唆するような発見は、一例でもあったかね
968日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:43:18
>>966
>縄文前期の曽畑式土器や轟式土器は、朝鮮半島南部から沖縄付近まで分布しているが、
朝鮮半島南部からから沖縄名付近までの交易を支配するする海族がいたことは確実ですね。
それが安曇族だったのです。
騎馬民族を日本列島に運んだのも彼らだ。
969日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:43:50
>>964
どうゆう人々に造らせたのか、という考え方は重要だと思うよ。
そして、そのように考えた場合に疑問に思うのは兵士との関係だ。
古墳を造った国々は、徴兵したほかに古墳造りのための人々まで出させていた
のだろうか?いくら強圧的に住民を支配していたとしても、兵を出させ、墓造
りの要員を出させ、それらに飯を食わしていたら、住民も、権力の側もたまった
もんじゃないだろう。
で、思い至るのだよ。墓を造ったのは、徴兵された兵士らだったのではないかとね。
970日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:44:17
>>907
>そこで止めたんじゃないか

なるほど。そうであればシンプルですね。
以前のご指摘どおり「通典卷 第四十二禮二 郊天上」からすると、
(第四十五にも「魚豢議曰「宜以宣后配地」。」とありますね。)
魚豢は魏の高官で、鴻臚の記録や起居注など目にすることもできたのでしょう。
971縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 22:45:49
>>962
(1)はまあそんなものではないかと思うが(2)には賛成できないな。

「その形や墓上での祭祀を共通化する事により首長間の連携を確認する意味」なんて同族でなきゃ無理だろ。
血縁のない他人どうしでそんなことできるか?
972日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:46:34
>>966
こういうのが典型的な詭弁だね

>縄文前期の曽畑式土器や轟式土器
>弥生前期に日本全国を席巻した遠賀川式土器

これらは何百年、いや一千年近くもかけて各地に順次浸透していった
これとわずか数十年単位で、中継地をすっ飛ばして九州に拡散した庄内とは
まるで別のはなしであって、わざと混同させて語っているのはどういうことだ
それは君自身がよくわかっているはずじゃないのか?
973日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:47:34
>>954
吉野ヶ里遺跡の頃は、みんな吉野ケ里を卑弥呼の時代と重なるといっていた。
以前、ここのレスでも紹介されたが、佐原真さんや石野博信さんなど畿内説の
そうそうたるメンバーが揃ってそう言っていた。
もちろん、纏向はその後ということになる。

その纏向の年代が遡ったとしたら、どういう理由によるのだろう。
ほとんどの人が、そういう年代観になったとしたら、よほど決定的な証拠が
あったからに違いない。それはなんだろうな。
974日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:51:40
>>972
>中継地をすっ飛ばして九州に拡散した庄内
九州と畿内とどっちが先なんだ? 何を根拠に確定できるんだ?
仮に確定できるとしても、工人集団が転居した、あるいは弟子だ転居した
だけかも知れんぞ。
975日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:58:43
>>969
>どうゆう人々に造らせたのか、という考え方は重要だと思うよ。
これはいい発想なのだが、何故にそのあとに兵士やら徴兵やらを想定するのだろうか?
そんな系統化された軍事力があったはずもないだろう
そんなのがあったなら、もっと早い時期に倭国統一がなされているよ
少なくとも四国・中国地方は、九州の軍事勢力の前にひとたまりもなかったはずだが
なぜにいきなり弥生終末期、それも九州衰退期に突然そんな超戦闘軍団がでてくるのか?

三国志演義のような派手な戦争は、中国本土でもなかったんだよ
976日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:02:24
古代エジプトのように王は領民を奴隷として使っていたのだろうか?
977日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:05:20
>>973
>吉野ヶ里遺跡の頃は、みんな吉野ケ里を卑弥呼の時代と重なるといっていた。
>以前、ここのレスでも紹介されたが、佐原真さんや石野博信さんなど畿内説の
>そうそうたるメンバーが揃ってそう言っていた。

はっきりいえば、彼らは九州の人たちを利用したんだよ
佐原などは、一度たりとも邪馬台国が九州にあったなどとは言ったことはない
ところが有名な「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」の名コピーは
その佐原がつくったものなんだわ

これをまともに自説の変遷ととらえてはいけない
考古学者は、邪馬台国というおいしい餌で、発掘をやりやすくしているんだ
いまのマキムクでの大げさな発言も、考古学というか歴史学が持つ常套手段でしかない
978日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:09:53
>>972
基本的に土器は文化的なもので、政治的なことは語れないということ。
物や人の交流があったことは分かっても、土器を政治的な動きと結びつける
のは無理があるということ。

特に、土器で前代未聞の「連合」なんてものを考え出すのは度が過ぎている。
例えば、明治維新なんてのは非常に複雑で、土を掘って出てきたもので
想像する度合いを超えている。
薩長連合は土器ではわからない。
979日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:10:06
>>974
勿論畿内が先。根拠は九州における土器編年
そしてもし「工人集団が転居した、あるいは弟子だ転居した」ならば
これはそれまでのこの国では確認されていない新しい現象になる
いずれにせよ、それまでのどの現象とも違う
そのくらい古代史好きなら常識の範囲だと思うが
980縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/02/12(金) 23:11:27
>>975
>なぜにいきなり弥生終末期、それも九州衰退期に突然そんな超戦闘軍団がでてくるのか?

ああこれは時代が違うのですよ。4世紀になると倭人が半島を荒らす海賊行為が頻発しています。そして
4世紀末には海賊でなく倭国の軍隊が百済や新羅を征服しています。広開土王碑文にそんなことがあった
と書かれています。
981日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:11:37
>>975
倭人伝を読んでいないな。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年とあるだろう。
何年も戦っているのにそれぞれの国に兵士がいないなんてことはあり得んな。
兵には矛・楯・木弓を使う、ともあるよ。古田みたいに国=村程度を考える
ならば別だが、戸数数万の話になったら徴兵制度がないはずはない。
982日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:12:12
土器をちゃんと観察して洞察すれば、壬申の乱や源平の戦いや応仁の乱も
細部まで分かります、ったら分かります。










それがレンゴウ君の真骨頂wwwwww
983日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:12:35
>>978
明治維新を出す時点で詭弁
すでに高度な政治経済機構が存在していた時代と
それが初期発生した時代とを同列に語ることそのものが間違い
だから、知っててやってるんだろうが、例えが稚拙なんだよ君の場合
984日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:14:34
明治維新後の鉄道は古代の駅舎に沿って作られている。
土器より古代の道のほうが大事です。
985日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:15:48
>>983
じゃあ、土器で壬申の乱の経緯はわからない。
986日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:18:02
>>985
おっと、>>982と被ってしまった。
987日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:18:05
ところで九州で最も古い古墳はどれかな?

九州説だとその古墳の主はどういう位置付けをするんだろう。
卑弥呼や台与と、何か関係すると考えているのかな?
988日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:19:01

トヨタン・・・・・・・・・・

989日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:19:41
>>981
その倭人伝がどれだけ正確なのかを検証する資料がほとんどないのに
なぜ鵜呑みにするのだ?
後世の日本史にしても、信長の桶狭間や長篠の戦いが
いかに実情とは程遠いものだったのかは、歴史好きなら勿論知っているだろうに
990日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:21:00
>>979
土器編年で何が分かるって言うんだよ。土器の編年なんぞしょせんいいかげんな
ものだ。決定的なことなど何も言えない。
確認されていない新しい現象? 少し考えればその可能性もあることは明白だ。
誰も言ってなかったとか言うんじゃあるまいな。言っていたかどうかではない。
可能性はある、となれば、当然考えるべきことだ。
991日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:22:02
>>984
そんなもん工法で一発でわかるわwwww
おまいらがどれだけ無知かを明らかにしたようなレスだなwww
992日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:23:32
荒れてるがな
993日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:24:11
>>963
>ここは奈良湖の湖畔にあったことが洪水で埋まった形跡
>からも明らかである。つまり、この地の弥生人は湖の排水事業を行う力もなかったのである。

この知ったかぶりの馬鹿はまだ奈良盆地湖の巨大干拓工事にすがっているのかw

『じゃあ4世紀に入って新たにできた居住可能地域・耕作地の痕跡を示すものはなんだ?』

それが無ければ元々盆地に古墳時代を迎えるだけの地力があったか
もしくは4世紀に入って盆地の外から労力を集めるシステムができたかだな

お前の説だとそれにより人口が爆発的に増え古墳の造営もできたと言う話しなんだから
さぞ爆発的な増加の跡があるんだろうな?www

…ってこれも何回も言った話だが、どうせ暫くしたら綺麗サッパリ忘れて
同じ事を繰り返すと…wwwwwwwww




994日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:24:17
福永氏の銅鐸配布説のお話をされている方がいますが、考古学的事実としては
そもそも唐古・鍵遺跡は、奈良盆地東南部の中心集落であったかもしれない
という程度の遺跡であって、奈良盆地の中心集落だとか、畿内の中心集落で
あったということはまったく証明されておらず、机上の空論だと思います。

また、この時期奈良盆地は、銅鐸の流通の中心でなく、むしろ近江がその
中心ではないかといわれており、2重の意味で考古学的事実に反していますね。
995日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:25:07
>>990
その可能性とやらは、どれだけ蓋然性があるんだいwww

可能性だけで言えば、朝鮮から超軍事集団が渡来して征服した可能性もあるし
宇宙から異星人がやってきた可能性すらあるwww

くだらん詭弁のための詭弁など、高校生あたりに任せておけってwww
996日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:26:11
ということで、邪馬台国問題も完結!
997日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:26:29
>>989
歴史の常識にあってるからだよ。否定する理由は何もない。
しかし、>>975が、そんなのがあったなら、・・・少なくとも四国・中
国地方は、九州の軍事勢力の前にひとたまりもなかったはずだ・・と言
ったのは面白いな。そのとおりなんだよ。銅鐸祭祀で大した兵をもたな
かった中国、四国、そして畿内は、倭国の乱を勝ち抜いた九州勢力にあ
っというまにやられたんだな。
998日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:27:17
>>982
うーん誰も土器だけで連合体を想定しうるなんて言ってないと思うが・・・

お話はもうちょっと複雑だよサイキバ君wwwwwwwwww

まあお前の脳のキャパ超えるかも知れんがもう少しがんばってみような?wwwwwwwwww
999日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:31:59
だれか次スレよろしく!!
1000日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:32:02
あと、九州に墓上祭祀がなかったという方がいますが、これは間違いです。
平原には埋葬前の建築物または柱列があり、祭祀がおこなわれています。
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