【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その9

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830日本@名無史さん
>>822
>出雲王朝だったのは、なんとなく想像できる。

まあた、出雲王朝か。

まったく、出雲出雲ってなんなんだよ。
何かイメージを持ってるのかもしれんが、このスレ見てる初心者は勘違いするかもしれんだろ。
「島根県の王が、ヤマトと支配してた」とかな。
そんな証拠は一切無いからな。
まったく、どういうつもりで発現してるんだろうか?

神話では、大物主は、大国主の奇魂みたいに書いてあるが、
それだって、後からの造作の疑いのほうが高いだろ。
まったく別の神だったのが、国津神・天津神の二元論的枠組みに強制的に振り分けられて、同一にされたとは思わないのか?
831日本@名無史さん:2010/01/16(土) 18:55:07
「出雲王朝」が、単純にヤマト王権が生まれる前の「近畿の王朝?」を意味するなら、
「プレヤマト王朝」とか呼べばいいんだよ。
プレヤマト王朝がオオクニヌシを祀ってたかどうかは、また別の議論が必要だろ。

オオクニヌシだって出雲が起源の神かどうか、わからんぞ。
オオクニヌシ・オオナムチは、日本中で伝説が残されてるからな。
日本列島で、共通文化を持った倭人社会が形成されたとき(縄文時代〜弥生時代初頭)からの神かもしれん。
そうなれば、出雲王朝なんて呼び方は、まったく当てはまらなくなる。
832日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:01:04
神話では、スサノオがオオクニヌシの子とされてるが、
この親子関係だって疑ってみるべきだろ。

オオナムチの方が古くて、スサノオが新しいかもしれない。
オオナムチは西日本列島で信仰されてるが、スサノオは島根県周辺だけだ。

神話の話をすれば、大国主は、「国を追い出されて」「島根県に幽閉された」わけだから、
大国主の本拠地が島根県であったという説は矛盾するんだよ。
833日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:05:34
>大国主の本拠地が島根県であったという説は矛盾するんだよ。

何を興奮してるのか知らないけど
誰もそんな事言ってないぞw

それにスサノヲ信仰が島根周辺だけだなんて
オオボケもいいとこだよ。

834日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:07:47
>>833
>それにスサノヲ信仰が島根周辺だけだなんて

越や糸魚川も含むだろうが、日本海側なのは確かだろ。
835日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:16:06
出雲王朝なんて言い方が定着すると、
>>802みたいな発言が考古学者からも出てくるわけだよ。

それこそ、
「畿内が邪馬台国であったという証拠は無い」と、九州説がのたまってる以上に、
「畿内に出雲王朝があったという証拠は無い」という話。

それとも何か?
九州説が消滅したから、資金集めのために出雲王朝という新しいロマンが必要になったのか?
そんなことは無いだろうが、もっとマジメにやれといいたいね。
836日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:20:45
ヤマト王権成立直前に、出雲の影響があった=出雲の王族が奈良に来ていたというなら、
まず、奈良盆地に四隅突出墳墓が見つからないと、論じることもできないだろ。

奈良盆地のどこかに、四隅突出墳墓が見つかれば、
ああ、なるほど、山陰の影響が少なからずヤマト王権成立に関係してるんだな、と俺も納得できるがな。
そんな証拠は無いだろうが。



837日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:23:57
今後、根拠も示さず、出雲王朝とか言い出すやつは、九州説並みの厨認定してやるから覚えてろ。

あいてが老教授さんでも、容赦しませんよ。




838縄文人 ◆gWTQX0ugGc :2010/01/16(土) 19:32:48
出雲王朝は前大和朝廷だろう。九州にあった邪馬台国とは関係ない。がははは。
839日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:40:00
>>830
>まったく別の神だったのが、国津神・天津神の二元論的枠組みに強制的に振り分けられて、同一にされたとは思わないのか?

俺もほぼ同じ事を考えているwww

まあ出雲が何処かの段階で纏向に参加したとしても
好んでと言うよりむしろ「嫌々ながらも仕方なしに」と言う状況だったのではないかと予想wwwwwwwww
840日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:06:30
>>834
>越や糸魚川も含むだろうが、日本海側なのは確かだろ。

畿内にもどれだけあると思ってるんだよw

>>837
あいてが老教授さんでも、容赦しませんよ。

無理だなw
じゃあまず何故三輪山周辺という、大和のど真ん中といってよい
場所に、出雲の地名や出雲荘、お綱祭りといった
スサノヲ・クシナダ姫に関する祭りの伝承が
残っているのか説明してくれる?
勿論根拠をつけて説明してね。
841日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:12:39
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
842日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:22:57
>>840
>じゃあまず何故三輪山周辺という、大和のど真ん中といってよい
>場所に、出雲の地名や出雲荘、お綱祭りといった
>スサノヲ・クシナダ姫に関する祭りの伝承が
>残っているのか説明してくれる?

愚かしい質問だね。

だったら、九州・甘木の地名と奈良の地名が一致するのは、
九州の邪馬台国が東遷してきたからか?って話。

おまえは東遷説なのか?

東遷説でないなら、そのような愚かな問いが出来ないはずだが?


843日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:37:40
>>842
能書きたれる前に質問には答えられないの?

>だったら、九州・甘木の地名と奈良の地名が一致するのは、
九州の邪馬台国が東遷してきたからか?って話。

全然関係ないでしょ、東遷説でもないし。
地名ではなく祭りの伝承も残ってますよ。
それにスサノヲを祀る神社がどれだけ畿内にあるか位知ってるよな?
勿論正確には色々改変されている事例も多いけどね。
調べだしたらスサノヲ信仰が日本海側だけだなんて
無知にも程がありますよ。

それに奈良の杵築神社の数を数えてみたらどうだ?

844神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/16(土) 21:53:04
前方後円墳の葺石の原型は丹波国の方形貼石墓です。出雲の四隅突出型墳丘墓は
大和の前方後円墳の発祥には何も関係のない話です。
845縄文人 ◆xkw9CZfB6w :2010/01/16(土) 21:57:05
私は縄文人。九州説の王にして天才史学者。畿内説には蛇蝎のごとく嫌われておるようだが、私は正しく根拠の
あること以外はレスしない。私は、経済学、金融工学、冶金学、鉱物学、認知心理学、書肆学、ドイツ文学、英文学
法医学、肛門外科、切手の歴史、ありとあらゆることに深い知識を持つ、知の巨人だ。ぐはは、私は偉い!私は
江藤 淳より偉い。私はこれまで十万冊以上の書籍を読破してきた。私は縄文人だ。
846日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:00:33
>>844
国を譲って退くとしたら、類似性があるのもおかしいけどね。
847日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:22:26
>>843

東遷説じゃないなら、
九州・甘木と奈良の地名の類似を説明しなよ。

その答えが、奈良に出雲の地名が多いことの理由だよ。
848日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:27:32
だいたい、神話や神社だけで、
出雲と奈良の関係を主張するのは、
アマテラス=卑弥呼とするような九州説並みの痛さだろ。

スサノオを祀る神社が日本海側にもあるからといってそれが何だ?
神社の成立年代を論証するのが先だろう。
せめて、風土記くらいを挙げて、スサノオがどこに登場するのか指摘くらいはしてほしいものだ。

849日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:46:12
たとえば、奈良の「三河」という地名の場所から、三河の土器が出るらしい。
そうした物証から、三河人が土器をもって入植してきたことは推測できるが、
三河人がヤマト王権成立にどれだけ寄与したのか?というと、それはまた別問題。

奈良の「出雲」という地名が、3世紀に「出雲」と呼ばれてた地域から人が入植してきたことは推測できても、
出雲がヤマト王権にどれだけ寄与したのか?というと、それは別問題。
たんなる商人か労働者かもしれない。
四隅を作ってた王族クラスの人間が入植してきた証拠が欲しいものだ。

850日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:51:42
添御県神社の祭神は、スサノオであるが、
添御県神社のある場所は、三輪から遠く離れた奈良盆地の辺境にあるにすぎない。
添のあたりの遺跡が、3世紀に繁栄してたという話も聞かない。

むしろ、添でスサノオを祭ってた出雲人?は、ヤマトの仲間に入りたかったけど、
三輪祭祀の中心地まで入れてもらえなかったのか?とさえ思う。
そのほうが、高天原から追い出されたスサノオ神話と符号するってものだ。
851日本@名無史さん:2010/01/16(土) 23:03:54
添御県神社のある奈良盆地の北側には、開化天皇の宮がある。

開化天皇が出雲から后を娶ったというなら話は簡単だが、
実際は、丹波から多くの姫を娶っており、出雲から姫を娶ったという記録は無し。
文献上は、出雲より丹波を重視していたことは確実。

まあ、その丹波一宮は、「出雲大神宮」で大国主を祀ってるわけだが、
島根県とは関係ないという話になる。

だから、古代では丹波の地方を「出雲」と呼んでいたという話であれば、整合性は出てくる。
実際に、丹波は出雲と呼ばれてたらしいが、それを踏まえたうえでも、
島根県は関係ない話になる。


852日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:06:03
>>847
>その答えが、奈良に出雲の地名が多いことの理由だよ。

なぜ東遷説でも地名移植説でもない俺が?
大体質問されてるのは君ですよw

地名の移植は都である大和から九州へと考えてますが。

>>848
>スサノオを祀る神社が日本海側にもあるからといってそれが何だ?
何言ってるのか理解できません。

それに根本的に勘違いしてるのか、わざと間違えてるのか
知らないけれど出雲が入植したんじゃなくて、
大和の地を譲って現出雲の地に退いたんじゃないかって話だろ。

風土記で思い出したけど出雲風土記には肝心の
ヤマタノオロチ伝承は載ってませんね。
やっぱりヤマトノオロチなんじゃないの?
853日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:09:16
>>852
>大和の地を譲って現出雲の地に退いたんじゃないかって話だろ。

だから、「大和の地を譲った」って、主体となる勢力がいたのか?
その勢力は「出雲」と呼ばれてたのか?
その勢力は「奈良」を本拠地にしてたのか?

君の言ってることはさっぱりわからんよ。
854日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:25:39
>>853
神話や伝承を元にすると、大和の地を譲った
勢力がいると解釈しますね。

元々出雲と呼ばれていたのかは?です。
後世からという可能性の方があるとは思いますが。

奈良を本拠かどうかまでは解らないですよ、
ただし重要な場所と見ていたことは確実だと思うけど。

国を譲るのが大国主=大穴持ちだとしたら
葛城、二上の石(穴虫なんて地名も残ってる)や
宇陀の辰砂を持っていた一族だったんじゃないの?

855日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:39:26
>>854

国を譲った勢力はいたかもしれないが、
それが「出雲」と呼ばれてたどうか、わからないのであれば、
出雲出雲と連呼するのは、ヤメロと言ってるのだ。
まぎらわしいし、縄文人みたいなバカがまた勝手な解釈で議論をかき回すだけだろ。
856日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:54:21
>>855
個人的に譲った勢力が後に「出雲」と呼ばれたと思ってるんでね。
いわゆる天孫系だが在住の豪族「土蜘蛛」と協調していた連中の事。
基本的にはこれらの連中が巻向で初期ヤマト政権を造ったんだろう。

まぁ流石にスレ違いなんで落ちます。
857日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:56:30
譲った勢力って、物部氏じゃろ。地勢的に。
858日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:58:02
1.神武東征のときに、出雲という地名は登場しない。
2.古代に出雲と呼ばれてたのは、島根県ではなく丹波の可能性のほうが大。
3.オオクニヌシが出雲を本拠地とした神かは不明。
4.オオクニヌシと大物主の関係も不明。
5.オオクニヌシの成立年代が不明。
6.国譲りにというようなハイレベルな関係が、島根と奈良にあったと見られるような考古上の遺物が見られない。

以上のことから、三輪山で現在の島根県の出雲関係の祭りがあったとしても、
3世紀に島根県の勢力と奈良が繋がりがあったと見るには、あまりにも論証不足であり、
したがってヤマト王権以前の奈良の勢力を出雲族とか出雲王朝とかいう言い方は、不適切だということ。

そもそも、ヤマト王権に先行する唐古・鍵は、ヤマト王権に追われた勢力なのか?
違うだろ。

だったら、ヤマトで国譲りがあったとしたら、
唐古・鍵が出来る以前、弥生時代初頭のことと考えるべきではないかね?





859日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:06:56
>>856
>個人的に譲った勢力が後に「出雲」と呼ばれたと思ってるんでね。

[イズモ]は、「敗者」という意味だと考えてたわけ?
それ自体論証が必要だが、それだけの根拠で「出雲勢力」とか言うの、ほんとやめてほしいわ。

>基本的にはこれらの連中が巻向で初期ヤマト政権を造ったんだろう。
なんで、敗者が巻向を作るんだってえの!
支離滅裂すぎるだろ。

860日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:13:11
出雲の国譲りは、高天原勢力の出雲への侵略戦争。
861日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:21:17
>>860

そうだね。で、

奈良を出雲、九州を高天原にすれば、東遷説の完成だな。

よかったな。満足か?
862日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:25:53
>>858
>1.神武東征のときに、出雲という地名は登場しない。
地名はないが、先に天孫がいて先住民族と協調している、
「土雲」も登場するし、「土蜘蛛」退治をしている。
>2.古代に出雲と呼ばれてたのは、島根県ではなく丹波の可能性のほうが大。
木津〜丹波亀山〜島根の順で退いたんだよ。
>3.オオクニヌシが出雲を本拠地とした神かは不明。
違うでしょ、多分。
>4.オオクニヌシと大物主の関係も不明。
そうですね。別に重視してませんしスサノヲかもしれません。
>5.オオクニヌシの成立年代が不明。
そりゃそうです。
>6.国譲りにというようなハイレベルな関係が、島根と奈良にあったと見られるような考古上の遺物が見られない。
意味不明、まず丹波に退いたのなら島根に拘る理由もないです。

>そもそも、ヤマト王権に先行する唐古・鍵は、ヤマト王権に追われた勢力なのか?
違うだろ。
なぜそんな意見が出るのかさっぱり解りません。
国譲りといっても支配者層の事でしょう。
協調するのも抵抗して逃げるのもいますよ。

863日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:32:37
>>862
というか、どうして神武東征の土蜘蛛と、
巻向を絡めてるの?
全然時代が違うんですが。

君の言う、国譲りの実年代はいつなの?
「国譲り」って、どういう出来事を考えてるわけ?

最初から言葉の定義が違うみたいで、全然、話がかみ合わないんだけど。


864日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:34:18
>>861
出雲は出雲。奈良じゃない。

書くことが多すぎて、ちょっとまとまらないが、出雲の国譲りと神武東征では
年代がずいぶん違う。世代で言えば4世代くらい違う。

東遷説的な考えで言えば、出雲の国譲りに相当する出来事は台与の時代、
ということになる。

出雲の国譲り自体についての日本書紀のあらすじは、
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki011.html
865日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:34:22
>>859
>なんで、敗者が巻向を作るんだってえの!
支離滅裂すぎるだろ。

そんな事は言ってないが、どんな解釈だよw
866日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:49:27
>>864-865
おまえは、九州説なのか、畿内説なのかどっちなんだよ。

畿内説として、話を合わせると、
トヨまでがプレヤマト王権で、
崇神からヤマト王権に変わったときに、
国譲り的な神話が残されて、トヨ側が島根に追いやられて出雲と呼ばれたと、
そういうことかな?


867日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:50:43
纏向の話しろっての
記紀厨/出雲厨/縄文人はレスすんな
纏向を話の主体にしろよ
868日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:52:06
>>863
まず神武東征自体は年度を特定できません、
パッチワーク説をとります。
神話自体やはりあくまで参考程度と思いますしね。

倭国大乱があって国譲りの結果、巻向が成立したと考えてます。
詳細は長くなるのでパス。

もう遅いのでこれが最後です、お疲れ様です。
869日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:58:49
>>868

次に、出雲の話をするなら、
10レスくらい使って言いから考えを全部話せ。
話にならん。

語る気が無いなら、二度と出雲の話はするな。
870日本@名無史さん:2010/01/17(日) 02:42:11
みんな、あんまりアツクならんといて。
871793:2010/01/17(日) 03:01:52
結論:混ぜるな危険!記紀の出雲神話と纏向遺跡wwwwwwwwwwww
872日本@名無史さん:2010/01/17(日) 06:59:36
しかし全然話が見えてこないんだが、要するに…

奈良盆地に元々いた国津神系氏族(後の出雲族)が天津神系氏族・天孫族にクニを追われ
北へ北へと奈良盆地北部から山背、丹波ついには若狭湾に叩き落されて出雲へと落ち延びていった

…って話しなのか?www

しかし出雲で銅鐸や銅剣といった青銅器祭祀から四隅という大型首長墓への祭祀にシフトしたのは
ヤマトで纏向ができそこで前方後円墳と言う大型首長墓での祭祀が行われるようになったよりは前
(まあ、その実年代はおいといても)
つまりはヤマトの古墳文化は出雲よりは後発だった。
…と言うのは流石に共通認識でいいんだよな?

天孫族のヤマト占拠は一体いつの時代の話しだ?3世紀か?2世紀か?1世紀か?はたまた紀元前か??

で終われて落ち延びた出雲が先に古墳文化と言えるものにシフトし
追い落とした側のヤマトが後塵を拝する形でそれに続いたと…

どうにもこうにも理解しづらい話ではあるwwwwwwwwwwwww

873日本@名無史さん:2010/01/17(日) 10:11:05
>>872
ややこしく考えすぎじゃないの。

大まかの流れは日本海側と太平洋側の戦いだったんじゃないの?

年代は置いておいて、先に奈良盆地(東国に置き換えてもいい)に
勢力基盤を造ったのが、ここでいう日本海側の出雲族って事でしょ。
その後に九州、瀬戸内、四国等の勢力が拡大して奈良盆地に押し寄せて、
仮称出雲族が徐々に追いやられたという事で。
出雲大社が本来杵築大社だったり
亀岡に出雲神社があったりするのはその過程じゃないかな?

記紀で同じ天孫系なはずの出雲が独自の地位を
もっていたり、敵役のように語られているのは
そういう事だと思うけど。
874日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:06:00
出雲大神宮(亀岡)
http://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm

>出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神で
>ある三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて
>出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

>『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを
>島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
>よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

だと。
まあ、このスレ人の推測通りのように読めますね。
875日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:22:15
いやさ、出雲厨は東海厨と同一人物だったと思うけど、あいかわらず最初に結論ありき、なんだよな。

そもそも考古学的には、奈良盆地にマキムク以前に王権のようなもの、出雲厨の言うような
権力の誕生は見えない。あえて言えば福永の言うような「見る銅鐸」を共通の祭器とした
部族同盟のようなものはあったかも?という程度。同時期、出雲は青銅祭器から決別し、
四隅突出型墳丘墓に移行している。この点でもプレ大和王権における出雲の影響は少ないというのが
冷静な判断だろう。
876875:2010/01/17(日) 12:31:48
あとまあ記紀学的にいえば、出雲のオオクニヌシってのは、天津神に反抗した
国津神の代表として記紀編纂者が創造したものと考えられている。
また多くの亦の名があることから、いろんな神を一緒くたにした総合神と考えるのが妥当だろう。
オオモノヌシの由来は確かに興味深いが、オオクニヌシの総合神としての成り立ちを考えれば
安易に同一視するのは間違いだろう。
また三輪山祭祀の伝承では、オオモノヌシの末裔オオタタネコ(三輪氏の祖)を
見つけ出し祭らせた、ってのがあるが、三輪氏が出雲族という話も聞いたことが
ないし、みつかったのも大阪だし、日本海側との関係は希薄だろうと。
877875:2010/01/17(日) 12:41:45
さらに言えば、3世紀の日本は地球規模の寒冷化で人々の動きが活発になる時期。
それぞれの信仰する神を連れて、人々が各地に移住、入植するようなことは
あっただろう。出雲の神が畿内で信仰されてても、さほど不思議ではない。
ただ大量の出雲の入植があった形跡はない。

そもそも出雲の神が後世医薬の神として信仰されたのは事実で、各地に勧進されたのだろう
という至極当たり前の話が大前提にあるのだが。

後世、畿内に出雲系として登場するのは土師氏で、ノミノスクネが最初に埴輪を
作ったりとかがある。道真公の先祖。出雲の畿内王権への影響を考えると、
このあたりが限界だろう。
878神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/17(日) 12:54:15
大国主は個人名ではありません役職名です。大国主とは数カ国を管理する都督のことで
彦坐王とか彦狭嶋命が大国主である都督にあたります。
879日本@名無史さん:2010/01/17(日) 14:23:50
>>875
>いやさ、出雲厨は東海厨と同一人物だったと思うけど、あいかわらず最初に結論ありき、なんだよな。

違います、水銀厨ですよ.
でも以前から水銀より丹波・出雲厨だと自称もしてたけどね。

スサノヲ=朱砂ノ王、大物主=オオアナモチ説ですから。

>出雲の神が畿内で信仰されてても、さほど不思議ではない。
ただ大量の出雲の入植があった形跡はない。

スサノヲを祀る杵築神社の場所を重視してるのです。
全部奈良でも水害の要所と言っていい場所です。
その杵築大社が現出雲の地にある点をまずどう見るかですね。

何度もいいますが出雲の入植の形跡が無いのは当然です、
出て行った方ですから。祀られる形で残っているだけです。

四隅突出型墳丘墓に移行しているのは
出雲勢力が独自勢力として孤立していたという事でしょう。
880日本@名無史さん:2010/01/17(日) 15:40:49
>>875-877
>そもそも出雲の神が後世医薬の神として信仰されたのは事実で

「治癒の神」言えばこの部分だなw

 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E
 >大穴牟遲神は菟に、河口へ行って真水で体を洗い、そこに生えている蒲の花粉(蒲黄)を取って
 >その上で寝るといいと教えた(蒲の花粉はホオウといい傷薬になる)。
 >菟が教えられた通りにすると体は元通りに直った。


>あえて言えば福永の言うような「見る銅鐸」を共通の祭器とした
>部族同盟のようなものはあったかも?

しかし実際には三遠・近江に大型化した見る銅鐸が出現した頃には
肝心のヤマトは銅鐸祭祀が既に終焉してるんじゃなかったのかな?
それでも確か福永は近江・三遠に銅鐸を供給したのはヤマトにその製造のセンターとも言うべきものがあったとしていたと思うが…

いずれにしてもプレ・ヤマト王権(もっとも「ヤマト王権」って言葉がプレ大和朝廷的な意味合いがあると思うがw)
この場合奈良盆地にあった出雲王朝みたいなものの証明は難しいんだろうなwwwwww

>>879
良く分からないんだが四隅を作ったのは奈良盆地から追い出された勢力の後裔?
それともそれとは別に出雲地元民?w
881日本@名無史さん:2010/01/17(日) 17:15:58
>>879
別スレでもたてて自説を展開したらどうか?
否定はせんけど巻向からどうしても話が遠ざかる・・・
882日本@名無史さん:2010/01/17(日) 17:31:30
追い出した方を語るのが「九州王朝東遷説」で
追い出された方を語るのが「出雲王朝説」ってことだなwww
883日本@名無史さん:2010/01/17(日) 18:10:08
>>882
自分で言うのも何だがそれに近いかもねw
でも基本的に巻向はあくまで主力は鍵・唐古を初めとする土着勢力だ。

交易品は対大陸系へは辰砂で、見返りが大陸の物品や
知識がここに集中する。それを目当てに東国からも
客が来るが、対価は古墳建造の労働力だろう。

まず日本海経由で渡来系のルートが出来て
後に瀬戸内ルートにとって変わられるという話だ。

884日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:01:37
>>883

ヤマトにいた人々=「出雲族」が追い出されて島根県に行ったという説だね?
で、痕跡は無いと。

マキムクを作ったのは唐古・鍵を初めとする土着勢力ってことは、
唐古・鍵以前に、「出雲族」が居て、唐古・鍵を作った勢力に追い出されたの?
それとも、唐古・鍵と「出雲族」が共存してたの?

結局、追い出された時期はいつだと思ってるの?

銅鐸は唐古・鍵が作ってたよね?
島根では四隅が作られてたよね?
ヤマトの「出雲族」は、どちらとも関与してなかったってことでいいの?

885日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:19:28
>古墳建造の労働力
これはアリかもしれん
886日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:10:01
>>884
>唐古・鍵を作った勢力に追い出されたの

巻向を造ったのが(宇陀や都祁)山を持つ勢力、
鍵・唐古の勢力、水運の広瀬衆といった土着系。
そして日本海側からの天孫系勢力がやって来て
協力するという図式かな。
最後に瀬戸内側からの勢力が入るという順だろう。
このうち山の勢力の一部首長層が追い出されたと考えてる。
追い出されたのが3世紀頃じゃないかな?

>島根では四隅が作られてたよね?

島根では東国に多いはずの前方後方墳もあるけどな。
時系列的には四隅〜後方なんじゃないの?
887日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:23:26
>>886

>このうち山の勢力の一部首長層が追い出されたと考えてる。
>追い出されたのが3世紀頃じゃないかな?

この2行が完全な妄想でしょ?
根拠は何も無いよね。

888日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:26:25
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
889日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:32:18
>>887
当然妄想です、根拠に出来る事はあるけど
ここでまだ書ける段階じゃないと判断してますので。

でも東海を中心に東国で多くみられる前方後方墳が、
国引き神話の舞台島根にも現れる事は、
結構重要な事じゃないですかね?
890日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:39:23
>>889

三輪山麓にいた「水銀商人=東海=出雲族=オオクニヌシ=前方後方墳」勢力が島根に追い出された、
ということを考えてるわけ?


べつにいいけど、あまりに我田引水すぎな気がしますね。
891日本@名無史さん:2010/01/17(日) 22:31:46


筑紫

吉備


の行政区分は広くて
前後に分けられてるけどさ
やっぱ広さ=地域の一体感というかクニへの帰属意識の高さがあると思うのだがどうだろう
連合は大和だけの専売ではなかった気がする

大和連合は畿内の行政区分の分割の細かさを見れば
もともとこれらが連合の主要国だったのではないかな

そう考えると出雲の小ささは気になるところではあるが
出雲が大和と並んで畿内の盟主的な立場にいたことの現れではないか

892日本@名無史さん:2010/01/17(日) 22:53:19
東海厨だが。
久々に来たら変な議論になっているw

>>875
逆だよ逆。俺は「反出雲厨」と言ってもいい。
>>873>>879>>889のような考え方に対して、絶対に反対。
つうか、これこそ「神話の「出雲」を真に受けて、完全に騙されている」ということ。
現実の地理を考えれば、金日成将軍様の縮地法(笑)でも使わない限り
3次元世界ではあり得ない無茶苦茶だというのが
俺の本来の主張だよ。
議論としては、>>876とほぼ同じ。

東国および大和盆地の前方後方墳は、愛知県犬山で生まれたもので、
その形成過程もほぼ明らかになっている。
出雲から越のそれとは系譜的に全く無関係。
発生の過程が全く違う。

東国の「出雲」は古大和「かもしれない」が、このスレで明らかになったように
三輪より巻向のほうが古いという大変な事態となっているので、この結論は考古学的に怪しくなりつつある。
山陰の「出雲」は、東国とは全く無関係。
畿内→出雲(旧勢力)などという変な移動はなく、逆も、かすかにしか認められない(神戸に奇妙な例が1つある)

この全く無関係な「2つの旧勢力」がなぜ同一視されたのかといえば、
「出雲」が、後になって「先住民の代表」という一般名詞として扱われたから。
埼玉の「氷川」は島根の「斐川」なんて、ネタ以外の何物でもない。金日成もびっくりだ。
出雲人は20次元を扱う宇宙人なのかよ?という話。





893日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:05:52
>>892
じゃ、丹波亀岡が本来出雲神社と呼ばれていた点はどう説明します?
894日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:15:23
>>892
>「神話の「出雲」を真に受けて、完全に騙されている

出雲神話が正しいか間違っているかを何で検証するかという問題がある。
明らかにおかしいと思われる部分を除いて、なるべく忠実に解釈するというのも
ありだと思う。
895日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:21:57
>>892
>東国および大和盆地の前方後方墳は、愛知県犬山で生まれたもので、
その形成過程もほぼ明らかになっている。
出雲から越のそれとは系譜的に全く無関係。

これも眉唾だな、単なる地域差による相違じゃないの?
時期的にも殆ど重複してる気もするが。
896日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:24:13
>>893
そもそも丹波の「出雲」の素性がよくわからないだろ?
ただの在地勢力の可能性が一番高い。丹波は盆地ごとに小勢力が分立する癖があって、
のちの明智光秀まで悩ませた。
「出雲」は、おそらくそもそも、「先住民」の一般名詞(総称)なんだ。
どんな先住民かはわからない。当然系譜もつながらない。
「元祖」の僭称なんて、古今東西、世の中に掃いて捨てるほどある。

>>894
地理的にありえないものは無理だよ。現実の日本列島の地理的制約を越えることはできない。
島根県人が何を間違ったか海越え山越え関東平野にたどり着いて埼玉県を開拓して、
そこに、しっかり記憶してきた故郷の川の名前を持ってきたなんて、古代においては、どこをどう考えても無理。
897日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:32:20
>>896
ちょっとなんというか、
全体的に勉強不足だと思います。
898日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:44:04
遠方後円墳というのは纏向に遅れて参加した二次メンバーの墳墓だろ。
899898:2010/01/17(日) 23:44:49
↑前方後方墳だ。スマソ
900日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:55:32
遠方後円墳。斬新だ。
901日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:04:30
>>897
あははははははは、勉強不足ねぇww


山岳が記入された日本地図を開いて、
ごく普通に考えて、埼玉の「氷川」が島根の「斐川」起源なんて、由緒の公式見解は
明らかに地理的にめちゃくちゃな話だと思わないかね?
東国の主祭神が「出雲系」であると自称する由緒の大半は、こんな話であって、
このスレ前半で散々議論されて論破された「神武東征」などより、
よほど既に地理的に荒唐無稽な話ばかりなんだ。
それに、おまえさんの言っている「出雲=大和先住説」では、
なぜ埼玉の地名(神社名)の起源が(大和ではなく)よりによって島根の川なのか、さらに説明不能になるだろう?
大和国には「斐川」なんてないのさ。(どっかの地名とこじつけられるなら説明してほしいね)

古墳については、出雲の前方後方の原型と、愛知の原型では全く違うだろうに。
こういう出雲厨がいるから、まずここを先週は確認したんだが、
そのときは老教授氏も含めて、誰も異論はなかったんだがね。
902日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:29:53
>>901
>ごく普通に考えて、埼玉の「氷川」が島根の「斐川」起源なんて、由緒の公式見解は
明らかに地理的にめちゃくちゃな話だと思わないかね?

あのね、俺は一言もそんな一言も主張してないし、
それを根拠にするつもりもないですよw

少なくともレス位まともに見て欲しいな。

>古墳については、出雲の前方後方の原型と、愛知の原型では全く違うだろうに。

じゃあ俺は異論あるという事で。
原型が違っても最終的に同時期に同型になるのなら
共通点はあるという説をとるね。
903日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:30:59
基本的に出雲厨のは根拠薄弱で議論の俎上にも載らんだろ。
根拠が記紀の国譲りと出雲系神社が奈良盆地にあるというだけ。

国譲りの部分の記紀解釈は単なる個人的妄想なんで却下。

出雲系神社が多い、というのも眉唾。
大神神社も勝手に出雲系にする始末、恣意的解釈でまったくアテにならない。
そもそも後世に勧進された可能性を無視してる。奈良の杵築神社が3世紀の
昔からあるという思い込み。人々は追い出されても、神社は残るという独自解釈。
氏神という言葉を知らんのか?

しかしまあ、マキムク以前、弥生文化が波及する頃、土着勢力みたいなのがいて
それが後世、土蜘蛛とか呼ばれたというのはあると思う。彼らを出雲と呼んだかは別にして。
ただそれも数百年単位の弥生集落と縄文集落の混交の歴史であって、記紀の国譲りみたいな
短期間の軍事的史実じゃないと思うんだけどね。
904日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:32:20
>>902
どういう共通点があるか、根拠はあるの?
まさか、これから探そうとかしてないよね?
905日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:41:07
>>903
>しかしまあ、マキムク以前、弥生文化が波及する頃、土着勢力みたいなのがいて
それが後世、土蜘蛛とか呼ばれたというのはあると思う。彼らを出雲と呼んだかは別にして。
ただそれも数百年単位の弥生集落と縄文集落の混交の歴史であって、記紀の国譲りみたいな
短期間の軍事的史実じゃないと思うんだけどね。

それじゃ主張してる事は結局同じでしょw

>根拠が記紀の国譲りと出雲系神社が奈良盆地にあるというだけ。

充分な根拠だと思うけどね。無けりゃ話にもならんでしょ。

>>904
まさか!でもそれこそ脱線するのでパスします。


906日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:41:36
お前らホントに違うスレでやれ
907日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:42:55
日本史板住人がWikipediaを弄るスレPART10
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1253919864/
908日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:43:01
なんぼ言ってもこの2人は止めないよな
909日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:49:35
>>901
東遷説が論破されたとは思っていないが。
あの時は、ほぼ一人で相手していたし、饒速日命の議論と掛け持ちで
やっていたから、レス数では及ばなかったかもしれないが。
910日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:55:15
>>873
>大まかの流れは日本海側と太平洋側の戦いだったんじゃないの?

うーん。確かに出雲国造家は後世まで代替わり毎に朝廷に報告を義務付けられてたし、
わりと敵対勢力としての認識が畿内王権にはあったのかもしれない。

しかし考古学的に出雲勢力が台頭するのが分かるのは、あくまで四隅突出型墳丘墓出現以降なんだよな。
おそらく鉄ルートを押さえた出雲の首長が力を持ち、吉備と同盟、
日本海側に勢力を伸ばしていく様が読み取れる。
こういった考古学的知見を、出雲厨は完全に無視しているのか、単に知らないのかは
不明であるが、「奈良に出雲の神社があるから」とか「記紀の国譲りを読めば」みたいな
ガキの妄想を長々と書いてる訳だ。

>年代は置いておいて、先に奈良盆地(東国に置き換えてもいい)に
>勢力基盤を造ったのが、ここでいう日本海側の出雲族って事でしょ。
>その後に九州、瀬戸内、四国等の勢力が拡大して奈良盆地に押し寄せて、
>仮称出雲族が徐々に追いやられたという事で。

いやもう無茶苦茶というか。
年代は置いとく、ってさ。せめて弥生中期とか後期とかくらい書けよ。
考古学完全無視っすか? 適当に思いつきで書くな馬鹿。
911日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:58:05
>>908
いや、2人じゃないw
俺(東海厨)はさっき参入しただけ。根拠薄弱なままに暴走する出雲厨ととどめる反出雲の2人は前からいるw

三輪信仰より巻向のほうが古いという、まさにこのスレの問題ずばりの考古学的知見が出ているのに、
いまだに壊れたレコードのように>>905のようなことをいう出雲厨は、
確かにスレ違いつうかシーラカンスだわな。

出雲系とされる氏族・神々の系譜の、地理的に3次元世界とは思えない荒唐無稽さと比べれば、
神武東征やアマテラス系の神々の話は、皇国史観であってもずいぶん筋の良い、
それでもある程度の事実を基礎に描かれた物語なのだろうと、しみじみ思う。
俺は、先週「アマテラス・神武系神話パッチワーク説」を唱えて、
かなりの反論を受けて面白かったが、
「出雲系」の神話なんて、パッチワークですらない。「縫い合わされて」すらいない。
なんでもありの布切れの集合体をかき集めて
「スサノオ」「大国主」というペンキを塗って同じ色にしてみただけ。

912日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:02:03
出雲厨に、年代を示せとさんざん言ってるのに答えてくれない。

>>905
>それじゃ主張してる事は結局同じでしょw

国譲りが、弥生時代初頭か終末期かでは全然意味が違うだろボケ。


913日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:05:05
>>911
東海厨さんには言われたくないですねw
君の主張にも全く根拠が感じられないし。
というより単に思い込みが激しいのでは?

大体>>905なんて言ってる主旨は君と同じだよw
914日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:07:51
>>912
個人的には3世紀だろうと言ってたはずだけど。
感情的になるのはダメですね、
冷静な判断できませんよ。
915日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:11:18
>>914

3世紀?

絶対ムリ。
相応の証拠を示さないと、ほんとにバカだと思われるよ。
>>905
>>904
>まさか!でもそれこそ脱線するのでパスします。

パスした時点で、君には論客の資格無し。二度と出雲の話はするな。



916日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:20:37
マキムク以前の奈良盆地の支配者に出雲族はないな。
せめて鴨族なら理解出来るが。鴨=葛城で。
カモという地名と銅鐸出土地の関連を書いてる人がいたが、
確かに出雲で銅鐸が大量に見つかったのも加茂岩倉だったっけ。

マキムク以前の奈良盆地の支配者、ってのはなかなか興味深いが、
ほとんど妄想になってしまうんだよね。
奈良県西部を南北に走る道路が建設中らしく、ようやく葛城の全貌が分かるのかと
期待しているのだが。
917日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:22:41
>>915
絶対無理というなら君も根拠を出して欲しいものだけど。
まあ3世紀といっても国譲りらしきものがあったとしたら
巻向が成立する時点の事だろうと思う程度ですが。

巻向の地に出雲の縁がある以上、当然出雲の話はします。
当たり前ですね
918日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:26:38
神話を傍証とするならともかく

神話を論拠とする奴の痛々しさは目も当てられないな
919日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:31:45
>>918
えっ、神話を傍証にしてるつもりだけど。
神話を論拠にするなら出雲は間違いなく山陰の出雲ですよw
920日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:36:30
>>917
>絶対無理というなら君も根拠を出して欲しいものだけど。

こちらは、島根県と三輪の遺物に関連性を見出せないと言ってる。
関連があると言ってるのはそっちなんだから、
何を持って関連があるのか示す義務があるのはそっちだろ。
921日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:41:16
葛城について初めて言及したのは鳥越憲三郎だっけ?
欠史八代を葛城王朝として、三輪王朝に先立つ奈良盆地の支配者とした。
あと葛城山の別名が高天山で、葛城山の台地を高天原とする説もあった。
王朝は流石にないとしても(王権誕生の痕跡がないし)
確かにサヌカイトを押さえた葛城が周囲に対して権力者として振舞っていた可能性はある。
葛城の上牧銅鐸と、出雲の加茂岩倉出土の銅鐸の一個が鋳型が同じだったが、
確かに古くから出雲との交流はあったようである。
葛城国造があったことからも分かるように、古くは奈良盆地には大和国と葛城国の二国があった。
古代活躍した葛城氏の謎は多い。
922日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:42:03
>>920
それでは年代をたずねる意味がないですね。
3世紀以外なら可能性があるように取れますが。

何故そんな事聞いたのですか?
923日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:51:45
昔は金剛山も含めて葛城山ですね、
普通に葛城山麓=高天原という認識だったそうです。
924日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:52:05
>>922
3世紀ではなく、弥生時代初頭とかであれば、
国譲り神話が、縄文時代から弥生時代に移る数百年の記憶として神話となったと、
「考えてもいいだろう」という程度。


だけど、君は3世紀と決め打ちしたのだから、
証拠を示す義務があるだろ。
925日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:58:28
あとまあ、葛城以外にマキムク前の奈良盆地の支配者候補としては、
生駒山のニギハヤヒか。ヒノモトのクサカ(日下)って地名は意味深だ。
クサカの地に古くはヒノモトという国があって、太陽神信仰をしていた。
旧唐書に「なぜ倭が日本に名称変更したのか?」を考察してるところがあって、
「もともとヒノモトという国があって、倭に併合され、倭がヒノモトを名乗った」という
説を載せている。
神武伝承、記紀神話と親和性がある説だ。

ニギハヤヒと言えば物部氏ってことになるんだけど、果たして物部氏がそんなに古くから
権力を持ってたのかは疑問で、おそらくは大王家の家臣として5世紀頃より
台頭したのが最初だろう。八十物部と言われる程、多くの一族がおり、
そもそも同一の氏族であったかも疑問に思われる。

継体擁立で権力を握った物部が、自らの由来を由緒ある神ニギハヤヒに結びつけた
とうのが可能性が高い。
しかしまあ、ニギハヤヒの存在は謎で、考古学的にはまったく根拠がないんだよな。
926日本@名無史さん:2010/01/18(月) 02:00:28
ごめん。継体擁立は大伴だった。
927日本@名無史さん:2010/01/18(月) 08:28:12
928日本@名無史さん:2010/01/18(月) 09:19:54
>>924
>国譲り神話が、縄文時代から弥生時代に移る数百年の記憶として神話となったと、
「考えてもいいだろう」という程度。

その時代の記憶が形として残るのか?というのは
それこそ少し疑問ですけどね。
その時期ならむしろ国譲りではなく、国産みにあたる
時期だと考えますよ。

国譲りにあたる時期があるとすれば、それが
弥生期からの移行期に移る過程での話ではないかと思うだけです。
929日本@名無史さん:2010/01/18(月) 13:16:51
水銀=出雲厨はちょっとこのスレ向きではないな。
問い質されると質問で返したり・・・
話題を巻向から遠ざかる方向に進めてるし
全体的にぼやけてる印象。
930日本@名無史さん:2010/01/18(月) 13:49:27
>>929
そうか?巻向に極力戻そうとしてるはずだけど。
外れそうになるからパスしたりしてたのですが。

でも出雲は兎も角、水銀朱抜きでこの地方を
語れない点は断固譲れませんよ。
というより資格ないと思いますね。

それにミワとミムロ位別けれない人が居たのにも
ちょっと驚きです。
話がかみ合わないのも仕方ないですね‥
931日本@名無史さん:2010/01/18(月) 17:51:48
水銀朱や出雲の主張もそれがどう巻向に結びつくのか
いつも肝心なところが見えないんだよ
それがここの話題だろう

だからいつも「何が言いたいんだよ?」と言われてるw
932日本@名無史さん:2010/01/18(月) 18:12:56
・巻向遺跡の場所は少なくとも平安時代に「出雲庄」と呼ばれていた点。
・奈良東南部は神仙思想に欠かせない水銀朱の捕れる鉱脈の麓で、
 水銀朱は大陸との交流に欠かせない市の交易品だった、という主張でしょうね。

 
933日本@名無史さん:2010/01/18(月) 18:34:49
縄文時代から、翡翠や黒曜石の交易で日本海側がメイン・ストリートだったと思われる。おそらく北九州から
越以北までのルートができあがっていた。ところが弥生中期後半あたりに、メインが瀬戸内ルートに切り替わ
ったのではないだろうか。つまり加茂岩倉、荒神谷遺跡の時代頃に一つの古代史上の画期があった。
このことが大国主の国譲りとなって神話伝承に取り入れられているのではないかな。
934日本@名無史さん:2010/01/18(月) 19:02:12
このことは、出雲の方言と東北地方の方言の類似性から説かれることもある。小泉保氏の研究によれば、
縄文晩期には、島根県から山形県に至る日本海沿岸地域では縄文語が話されており、これは弥生前期頃
まで、山陰・北陸・信濃北部・東北・関東で用いられていた。

ところが、弥生時代になって大和と同族と思われる勢力が、琵琶湖沿いに北上し若狭に進出した。この影響
を受けて京都と兵庫の日本海側は大和系の言葉となり、福井県、鳥取県、石川県の一部にも波及したとあり、
丹後で四隅突出型墳丘墓が見られないのもこのためと思われる。
935日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:19:18
>>934


縄文晩期までは、山陰〜丹後〜越は、連続した文化圏”A”だったが、
弥生時代になり、大和と同族勢力”B”が丹後まで北上して、”A”を分断した。
”A”が、あとから分断された証拠が、四隅が丹後で見られない証拠。てこと?

すると、”A”は分断される前から四隅をつくる習慣を持ってたの?
分断された後から、”A”同士の間で四隅をつくる習慣を共有したの?
前者なら、丹後にも四隅の原型が無いと証明にならないよね?
後者なら、最初から丹後には”B”の勢力があって、”A”が後から来たが丹後に入植できなかった。
とも、考えられるよね? 後者を否定する証拠はあるの?

936日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:26:19
出雲は、水が流れ出るところ、の意。アイヌ語で。
937日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:26:38
>>934
方言については、興味深いけれども、
それが四隅の時期と結びつけてよいのかどうか?

銅鐸を作ってた勢力は、Bということになるが、
四隅が登場した時期は、銅鐸の後だよね?四隅のある地域にも銅鐸はあるよね?
Aは、Bと一緒に銅鐸も作ってたの?それなら、銅鐸を作ってた時代は、ABは別勢力とは言えないのでは?
938日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:34:34
>>935
四隅の発生は弥生中期と思うが、弥生後期後葉から美作、備後の北部地域や後期後半から出雲・伯耆を中心
にした山陰地方で盛んに造られるようになった。丹後に大和系の勢力が入ったのは弥生後期以前と考えており、
出雲とは同系ではないため、あえて造らなかったのだと思う。ただし、弥生後期末とされる出雲市の西谷3号墓
からは、丹後系の共献用土器が出ているため、まったく没交渉というわけでもないようだ。
 
939日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:44:27
奈良盆地で重要なのは、葛城、
しかし、奈良盆地から河内へは物部が押さえておる。
そして、物部は遠賀川も抑えておる。

水銀を狙っていたのは、物部じゃろうのぉ。



940日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:47:53
>>938
>丹後に大和系の勢力が入ったのは弥生後期以前

ということは、3世紀に国譲りがあったと言ってた出雲厨とは別人ですか?
941日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:00:28
>>938
これか?扇谷遺跡

弥生前期末から中期(1世紀末〜2世紀初頭)の大環濠遺跡
出土物:鉄滓、ガラス滓、紡錘車、玉造関係
同時期近畿では、鉄製品はみられない。

大和奈良に鉄があらわれるのは古墳時代になってから、か。ふーん。
942日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:07:08
>>940
そうです。東海厨が言うように、大和から出雲まで勢力移動があったというのは考えられない。遠すぎる w
加悦・日吉ヶ丘墳墓は弥生時代中期後半、1世紀中頃と考えられるが、王墓ともいうべき大型方形周溝墓で
ある。おそらくこの頃にはすでに独自勢力として、出雲など他の日本海沿岸の諸国とは離れていたのではな
いか。丹後地域と山陰東部のあいだの土器の交流は多くない。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/yayoi1.html

943日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:12:26
>>941
うん、上レスしたように言語面から大和方面から入っていった勢力と思われるが、弥生中期頃の大和との繋が
りは深くない。大和への鉄供給といったことも行ってはいなかったと考えられる。PDFなので見られればいいが。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/74006416/BA57042037_88_93_nojima.pdf
944日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:19:41
>>942
丹後は、半島と交流があったらしいけど、
四隅の葺石もまた、高句麗の影響があると言われてる。

朝鮮半島の、2系統の影響が日本海側にあったということか?
945日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:32:30
>>943

読んだ。おもしろいね。丹後を中継点に、信濃〜関東への鉄製品の伝播があるのね。
言語の話も踏まえると、この時期、裏日本と近畿大和はあまり交渉がなかったと。
946日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:33:05
倭人伝の頃の丹後については・・・丹後地域政権の大首長は、纏向遺跡の時代にヤマト王権に取り込まれたか、
あるいは積極的に参画したか・・・このあたりはわからないが、同時代でも規模の大きな前方後円墳を築造するこ
とができた。ただしそれには下位首長層の方墳が隣接しており、ヤマト王権により力で制圧されたとは考えにくい。

古墳時代初期のヤマト王権は鉄素材を丹後・北部九州・出雲・伯耆などから多元的に獲得しており、丹後首長層
を優遇したと考えられる。しかし好太王碑文に見られる4世紀末以降の半島への派兵を契機に、ヤマト王権は直接
鉄資源の輸入を行うようになり、5世紀以降丹後の地位は低下した。

>>944 弥生時代は日本海側が表日本、あと倭人の航海力をなめてはいけない。
947日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:36:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
948日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:55:01
>>946
>弥生時代は日本海側が表日本、あと倭人の航海力をなめてはいけない。

なめてるわけじゃない。
むしろ、朝鮮半島からの直接の影響が日本海側に多いと思う。
そうした中で、2系統に色分けされてるのは、どういう意味だろうかということ。

倭人が主体的に交易してたなら、朝鮮半島の2系統の文化とも受け入れられるはず。
しかし、朝鮮半島の2系統が主体とすると、倭国の中で縄張り決めていたという意味になる。
どっちだと思いますか?

つまり、朝鮮半島から2系統の入植があり、倭人は、どこと関係を持つかは選択権はなかった。
もっといえば、朝鮮半島からの植民地の跡が、4隅のあるなしの色分けに現れてると。




949日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:58:19
東海厨だが。

>>934
よりによって小泉保かよ('A`)

おまえさん、そもそも電波耐性がないね。電波ばかりの古代史探求には向いていない。
電波耐性というか、要するに、
「ウソをウソと見抜けない奴は(略」
ということだ。
もともと俺は、方言板分離前の言語学板住民なので、
この手の話はある程度は知っているんだが、
小泉保の「縄文語の発見」は、
隣接分野の権威が、とんでもない電波(=トンでも説)を発したために
これ以降の日本語方言アクセント学が、
おおよそアクセントとは何かも理解していないような出鱈目珍説が「有力説」として跋扈する
ムーもびっくりの電波跋扈状態に転落して
ほぼ、「一つの学問を潰してしまった」という恐るべき迷著、怪著なんだ。

たとえ門外漢でも、電波を電波と見抜く直感がないと、
正直、まともな証拠が僅少の、古代史について頭を働かせることは無理。やめたほうがいい。
あの本を喜んで読んでしまうということは、この点について致命的にセンスがない。
950日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:58:43
神話では、アメノヒボコやツヌガアラシトのように、
朝鮮半島からの渡来人の記述はあるが、
倭国から朝鮮半島に行ったという記録は、スサノオだけ。
そのスサノオも、朝鮮半島由来の神だとすれば、
日本海を航海してたのは、倭人が主体ではなく、朝鮮半島の人々だったということ。
951日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:10:00
>>948

2系統は、たぶんツングース系かモンゴル系の違いだな。

>>949

アクセントって中国語の4声みたいなもん?

>>950

いや、当時の朝鮮半島の人はほとんど倭人でしょ。
952日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:10:00
>>948
うーん、朝鮮半島との交流は2系統文化というより、楽浪郡との交渉ではないかな。弥生後期(2世紀前半)の田
和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明しているし。半島からの人の渡来も多かっただろ
うが、それが四隅の発生に直接繋がるかはなんともいえない。

Wikiにはこのようにあるね。
>日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪
  郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、
出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。

953日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:24:05
>>949
小泉保氏の著作に全て寄りかかってるわけではないが、出雲と東北系のアクセントや方言は似ていると思うし、
丹後は明らかに別系統だろう。俺は納得するものがあるけどね。大和から丹後への勢力移動は、おそらく日本
海航路利用のため。

あと、半島からの影響は952で書いたように正直よくわからない。楽浪系以外には、あえていえば弥生中期頃
なら、粘土帯土器が日本海側,三韓土器は瀬戸内,という大まかな傾向があるような気がする。これら土器の
分布も、弥生中期後半頃、日本海ルートから瀬戸内ルートにメインが移ったことを表すのかもしれない。
954神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/18(月) 22:29:12
>>950
日本海の交易に従事していたのは日本の古来からいる海人族の人達です。
翡翠とかサヌカイトとか水銀朱とか塩とかを交易していたのが海人族です。
中国の王朝が塩に重税をかけたので塩を中国に密売することによって巨利を得ました。
955日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:47:04
>>953
丹後は東京式で体系的には山陰と同じ>アクセント

そもそも東北&出雲の「ず―ずー弁」なるものも、
その発生は江戸中期以降、下手をすれば19世紀になってからというのが通説。
この発生理由を考えればよくわかることで、
これは、連母音融合で「あい」が「エァ」という音になり、
名古屋弁などと違って、母音の長短が曖昧な方言で起きている。
簡単に言うと、「エァ」は「エ」と紛らわしいので、「エ」が逃げて「イ」に近づく。
すると、「イ」が押し出されるが、これ以上舌は上げられず、
行き先がないので「ウ」に寄って「ユィ」になる。
同じ現象が、「オ」と「ウ」にも起きて、「ウ」が「ユィ」となって、「イ」と紛らわしくなる。
これがず―ずー弁の母音。
(上に上に上がるので、英語の大母音遷移とよく似ている)
もうひとつ、子音の濁音は、17世紀までは全国的に、前に軽い鼻音をつけていた。
(これは同時代のポルトガル人の記述でわかる)
それが有声音に変化していくときに、東北のほうが若干音を出す時間が早いため、鼻にかかって聞こえる。
せいぜい18世紀以降の話。

これはアクセントではなくて音韻の話だが、従来こういう安定的な通説があったのに、
小泉保は、縄文語なんていう珍概念を出して数千年の話にでっちあげてしまった。
956日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:50:13
>>952
>>953
弥生時代に、
楽浪郡〜長崎〜出雲/瀬戸内海が結ばれてたなら、九州説はとっくに終わってるじゃん。
957日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:54:43
塩ですか・・・・・・製塩土器の出土は、縄文時代は東北・関東の太平洋側に多く、弥生時代は比較的瀬戸内に
多く、北陸などは瀬戸内にやや遅れて始まるのではなかったかな。いずれ縄文期の土器と弥生期の土器は
大きく形状が異なり、おそらく弥生期のものは半島経由で伝わったのではないか。・・・うろ覚えで自信ない。w
958日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:56:02
>>927
スペシャルサンクス!!!
959日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:00:25
>>957
製塩土器については、弥生時代は瀬戸内海で発達している。
弥生時代の九州から製塩土器は出ていない。
960日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:08:45
巻向の話はどうしたんだ?
961日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:11:54
>>956
最初から相手にしてないでしょう。
962日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:13:36
>>959
そうですね。九州だと古墳時代からだったはず。
>>956
あと、最近前原市は計画的な発掘を続けてるが、この事実をどうみるか?

前原市の潤地頭給遺跡は2003年から発掘された九州では初の玉造工房跡。年代は西新式土器の形式から
3世紀前半頃。工房跡は竪穴の周囲に円形の排水溝を巡らせたもので、東西80M、南北130M範囲のに33
棟が確認された。出土した原石は碧玉・水晶・蛇紋岩・メノウ・鉄石英の五種類。うち碧玉は管玉。水晶は丸玉、
小玉、算盤玉。蛇紋岩は勾玉に加工されている。

原石のうち地元で産出するのは水晶と蛇紋岩だけで、碧玉・メノウは島根県玉湯町の花仙山。鉄石英は新潟
県の佐渡島産と考えられること。しかも同遺跡からは甑形土器など、山陰地方に特徴的な土器が目立って出
土しているし、工房の周囲に排水溝を巡らす事例は、松江市の平所遺跡や、富山県福岡町の下老子笹川遺跡
と共通している。
このことは原石や完成品の交易にとどまらず、山陰や北陸地方の技術者集団がこの地に移住して玉生産を営
んでいたことを示している。ちょうど倭人伝では卑弥呼の治世の頃の話。

>>955 なるほど。言語学は素人なんでそうかもしれない。
963日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:22:37
962とかずっと書いてるのは縦目だろう。こいつは考古学しかできんから。
964神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/18(月) 23:37:47
えっ、製塩土器・・・。海人族の藻塩のことですが・・・。
藻塩とは海草のホンダワラによる製塩のことで応神天皇の別名の品陀・誉田の語源になってます。
965縦目仮面:2010/01/18(月) 23:40:08
>>963
すんませんね、よくご存じでwww
966縦目仮面:2010/01/18(月) 23:46:41
>>964
「藻塩焼き」という製塩法は、@干した海藻を焼いて灰塩をつくる(灰塩が最終製品) A灰塩に海水を注ぎ、
鹹水を採る、B干した海藻に海水をかけ鹹水を採るなどして、とった鹹水を製塩土器に入れて煮つめて塩を
つくる、です。
>来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ  ですね。
967日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:50:19
その製塩土器が弥生時代の九州から出てこないので、
九州は塩を輸入に頼るしかなく実生活上では困窮してたってことなんです。

だから、九州に鉄が豊富だって言われても、「ふ〜ん」としか思わないわけです。
968縦目仮面:2010/01/19(火) 00:05:26
>>967
いずれ、弥生時代は水田耕作適地は少なかったはず。大規模治水による新田開発などずっと後代の話。人
口増加に対して食っていくために交易はどうしても必要だったし、特産のある地域が栄えた。倭国の範囲が
九州島内に収まるとはとうてい思えないよね。
969日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:10:15
>>967
塩分は干し魚や干した貝で採っていたので塩そのものの重要性は低かったのだ。九州を舐めるな。しょっぱいぞ。
970日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:13:51
>>968
特産のある地域が栄えたという意味では、
塩を作ってた瀬戸内海沿岸が一番栄えてて、
しかも吉備は鉄も流入してきてたわけだから、
弥生時代に発展してたのは、九州ではなく、吉備だろうよ、という結論になるわけで。
971日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:15:48
>>969

味付け程度の塩じゃ困る。
飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。

実際、九州は食料を奪い合って戦争してたんだろ?
972日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:16:06
>>968
<口増加に対して食っていくために交易はどうしても必要だった

じゃあ、どこから食糧を買うんだよ。
973神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/19(火) 00:19:53
>>969
九州の人は料理に塩を使わないんですか?だから邪馬台国九州説の人は頭が悪いんですね。
974日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:20:21
>>971
<飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。

どんな保存食を作るんだ?
魚や肉類は海岸で塩水をつけながら燻す。海があるんだから別に困りはしない。
975日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:24:20
>>973
あほんたらたら。海水を素焼きの土器に入れておけば外側の表面に塩の粉がふくわい。頭いいんだぞ。
弥生時代の九州人は。
976縦目仮面:2010/01/19(火) 00:36:10
自給するだけの塩なら海のある地域は足りてたんじゃないかな。九州は交易品にしなかったということでは。
いずれ、動物の内臓や骨髄には塩分が含まれるので、生理的な必要量は多くなかったかと。あと、岩塩という
話は日本ではまず聞かない。
977日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:42:35
縦目が来ると考古学的な話オンリーになるんで、いいのか悪いのか??
978縦目仮面:2010/01/19(火) 00:46:21
>>977
すんませんね。もう寝ます。ww
979日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:46:32
>>974

> <飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。
>
> どんな保存食を作るんだ?
> 魚や肉類は海岸で塩水をつけながら燻す。海があるんだから別に困りはしない。

じゃ、山奥住まいの方々は、どうやって保存食を作ればよいのですか?
980日本@名無史さん:2010/01/19(火) 01:03:16
>>979
<じゃ、山奥住まいの方々は、どうやって保存食を作ればよいのですか?

倭人伝に書いてあるでやんしょ。国有市交易有無使大倭監之 海で漁をする人、山地で稲や野菜を育てる人
木の実やきのこなどを収集する人、土器を作る人、木材を扱う人、縄や篭などを作る人、農具を作る人など
いろいろ居て国が成り立っているので、市を立てて物流を図っていたんだね。

もうお分かりだろう。山奥に住む人は山の幸をもって海の幸と交換したんだね。あ、それから975に書いて
あるように海水を大きな瓶に蓄えていたとも考えられるね。次々と注ぎ足していくうちに相当濃厚な塩水が
できたんじゃなかろうかね。
981日本@名無史さん:2010/01/19(火) 01:13:27
>>980

>>974の言い方だと保存食作りには海水が有れば固形塩は不要だ!みたいに聞こえるのでコメントした。

山の幸は「保存処理」されずに交易されていたのか?
それとも、固形塩じゃなくて「海水」そのもが交易されていて、山でもそれで塩漬けを作っていたのか?
又は、やはり固形塩は交易品として海から山へ送られていたのか?

俺は三番目のケースがもっとも常識的だと思うがね。
982水銀厨:2010/01/19(火) 01:17:07
結局巻向の話なんて誰もしないじゃないかw
983日本@名無史さん:2010/01/19(火) 01:18:23
>>982

ごめんね、水銀よりも塩のほうが貴重だったと思うのさ。
984水銀厨:2010/01/19(火) 01:23:28
>>983
じゃ、他所でやれよ。
少なくとも奈良で塩は作れません。
985日本@名無史さん:2010/01/19(火) 02:24:18
>>960
>巻向の話はどうしたんだ?

纒向は農村集落が自然に大きくなって、じゃなく、
ある日突然、大規模工事による建設が開始された、ということで、
じゃあ、そいつらはどこから来たんだ? という話だろ。

以前は吉備か? ということだったけど、
今回、神話や地名から、出雲が名乗り出たと。
986日本@名無史さん:2010/01/19(火) 02:38:56
>>985
>今回、神話や地名から、出雲が名乗り出たと。

そんな事一言も言ってないけどな。
主体は鍵・唐古や宇陀・都祁地区をはじめとする土着勢力だ。
出雲というのはあくまで後世のものだろう。

987日本@名無史さん:2010/01/19(火) 03:28:49
>>986
>主体は鍵・唐古や宇陀・都祁地区をはじめとする土着勢力だ。

また新たに名乗り出た。
988縦目仮面:2010/01/19(火) 03:29:27
しかし塩はそう重要でもないと思う。自分たちで消費したり、山間部とちょこちょこ交換する分には、>>966
書いた灰塩でも鹹水でも十分でないかな。灰塩なら海藻ミネラルも混じって味もよい?w 交易品として大量
生産するなら、製塩土器を用いた精製塩だろうけど、これは鉄と違って造ろうと思えば造れるものだし。

出雲に関しては、加茂岩倉や荒神谷の遺物は弥生中期から後期の長期間にわたるものだが、北九州のもの
も畿内のものも地元産もあり、やはり大きな勢力の存在は間違いない。倭人伝は禁句かもしれないが投馬国
と見ても大きな不都合はないのではないか。纏向との関係では、下に引いたように山陰・北陸系の土器は早く
から入ってるし、西部瀬戸内より多い。

http://uproda.2ch-library.com/206406unL/lib206406.jpg
989日本@名無史さん:2010/01/19(火) 04:03:34
>>988
土器の多さでいえば、東海を注目しないわけには行きませんな。
東海厨ではないですが。
990日本@名無史さん:2010/01/19(火) 04:08:37
さぁ次スレのために巻向成立に関わる論点をまとめるんだ
991日本@名無史さん:2010/01/19(火) 04:13:29
>>984
そんなことにこだわると山間部にはその時代に人は住んでない
つーことを言ってるようなもんじゃないか

>>985
水銀出雲厨は巻向成立以前に出て行ったと逆の主張じゃなかったか?
992日本@名無史さん:2010/01/19(火) 09:23:19
>>991
>そんなことにこだわると山間部にはその時代に人は住んでない
つーことを言ってるようなもんじゃないか

巻向の交易品の重要度では辰砂>塩だろう。
塩は生活必需品だが古墳のド真ん中に入れる物ではない。

それにおおまかな主張では3世紀。巻向成立以前ではなく
途中で山の利権交代があったという事です。
後方墳組が退いた方とみています。
だから大和から島根へポンと移ったのではなく、
大和北部〜山城〜島根と3〜5世紀頃にかけての事です。
移動自体一部首長層のみでしょう。

投馬国が日本海側の国というのは同意ですから。
993日本@名無史さん:2010/01/19(火) 09:48:56
まあ最後なんであえて邪馬台国に関して言うと
邪馬台国は淡路島周辺諸国の事。
水行10日、陸行1月というのは行程ではない。
国の移動に関する日程、つまり「広さ」の事。
投馬国は日本海側で水行20日の広さが
あるという国だろう。
994日本@名無史さん:2010/01/19(火) 13:19:58
邪馬台国の話は関係ないのだからもう止めよう
995日本@名無史さん:2010/01/19(火) 13:27:41
まあもう終わりだし
996日本@名無史さん:2010/01/19(火) 14:33:35
建物Dはどうしてその後に、方形周溝墓が作られているの?
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200911110029_01.html

万葉まほろば線(笑)があるから、方形周溝墓の全容は調査できないね。
997日本@名無史さん:2010/01/19(火) 14:43:46
駅ずらしてもらえよ、どうせ無人駅だし。
998日本@名無史さん:2010/01/19(火) 18:53:45
まあ、なんだ「出雲」と「水銀」については

「出雲」のほうは「出雲東遷説」如きのものじゃなく
ヤマトから出て行った勢力、そしてその後その記憶が神話になった事に注目しているんであって
どうしても纏向の発生発展よりは記紀神話・神社伝承に比重が置かれるんだろう。
ぶっちゃけ『 古代出雲の謎を探る! 』とか別スレ立てた方がいいかもしれんwww

「水銀」についてはやはりどれだけ評価してもそれで纏向の特異性等の説明には到底追いつかない感は否めないwwwww
初期型の前方後円墳にもれなく水銀朱が使われていたとか
ある時期から全国にヤマトの水銀が付着した土器が一斉に出だす…とかでもなければ

999日本@名無史さん:2010/01/19(火) 19:10:26
>初期型の前方後円墳にもれなく水銀朱が使われていたとか

少なくとも巻向近郊はそうじゃないかな。
それにもれなくはダメだろ、王クラスのものじゃないと。
1000日本@名無史さん:2010/01/19(火) 19:55:30
勝山には朱が塗られた板材が出てたとかかな?

まあ纏向の初期古墳にもれなく水銀朱が使われていたとしても
そりゃ「地産地消」でw纏向の全国的な展開には繋がらんのではないかとwwww
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