1 :
日本@名無史さん:
__ ,vヽ /|
r‐f'ヾ ヾ, i| /!/ i| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|i! |lリノ"!ハヌ!/ / | スレたていたしましたご主人様
|i リ゚ ‐゚ノリ' ノミァ'゙ < これでよろしいでしょうか?
ノ'と.)IiI)つ//´!ヽ |
(´ /_W!'// ' \_____
li/し'ノ./
乙です。
4 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 13:19:10
天理市の柳本遺跡群、てのは纏向遺跡に隣接してるのかな?
自治体が異なるから別々の遺跡になってるようだけど
ひょっとしたら纏向遺跡の一部なのかもと。
柳本遺跡群で手焙形土器が出てるそうなので気になる。
そもそも手焙形土器ていったい何?
6 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 15:43:44
老教授さんにまじめにお聞きします
専門家のあいだでは本当に九州説はいないのですか?
7 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 18:20:47
8 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 18:37:22
9 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 19:43:21
>>6 老教授の代わりに答えるなら、
考古学の専門家で邪馬台国の所在を語る人はごく少数。
多くの人は、土器や金属器の分類に力を注ぎ、様式の変遷とか他所との関係性を探っている。
そうした膨大な研究の積み重ねの上に、結果的に、近畿を中心に日本中の人々の通行があったことが確定している。
近畿の出土物は、北陸・丹波・東海・吉備など多方面から多くの影響を受けている。
一方、九州の影響範囲は、せいぜい北九州、韓半島南部、瀬戸内海沿岸まで。
近畿から見れば、九州は、日本全体の中での交易相手のひとつにしかすぎない。
こうした事実から、
では、魏が倭王と認定した勢力はどこかと考えれば、論理的には近畿勢力しかない。
この状況で九州説を唱えるならば、
「九州は近畿とも交易はしてるが、魏の使者には知らせず、倭国の範囲は九州だけだと偽り、倭王と認定してもらった」
と、ウソをついたとしなければならない。
ただし、韓半島南部の商人は、出雲や丹後と直接交易していたはずであり、
倭国の範囲が九州だけなどというウソはすぐバレてしまうはずだが。
スレ立て乙です。
それではこちらに書かせていただきます。
>>6 いきなり荒れそうなご質問キタワ
えーと、ほとんどの方は邪馬台国については語らないとのスタンスです。
それでも敢えて言うならば、少なくとも考古畑、文献畑に従事する者の中には既におりません。
但しこれは「従来からある古いタイプの九州説」に関しての話でして
ひとつは、魏志倭人伝や記紀などの数少ない一次資料からの考察はもう限界まで為されており
その結果「新史料でも出ない限り、文献からは特定できない」との結論に達したせいです。
だいたいこの認識が浸透したのは、もう30年ほど前のことではないかと思います。
ちなみに現在に至るまで、瞠目すべき新説はありません。
概ね70年代までには語りつくされています。
それまでの主な仮説は「邪馬台国基本論文集(全3巻)佐伯有清」が網羅しておりますので
図書館か古書店でお探しください(古い本ですし、けっこう高いですから)
いまひとつは様々な出土品や発掘調査結果、特に九州島での成果から非常に考えにくくなった為です。
纏向から色々出てきたからではなく、九州島における発掘調査の結果とお考えください。
何しろ3世紀に全盛を迎え、各地に影響を与えたと目される遺跡が、小規模なものすら無いのですよ。
仮に九州の土器編年が実年代と大きくズレていると仮定しても、かなり苦しいです。
それこそ吉野ヶ里が邪馬台国になっちゃいます。しょぼいです。
いわんや畿内土器編年との整合性にまだまだズレがあり(この可能性はまだ十分にありますが)
纏向が邪馬台国と無関係で別時代の畿内王権だとの仮定したところで、肝心の九州島にモノが無いと話になりません。
無いものを有ると仮定して枝葉を張っても仕方ありませんので、当然論者は激減したと言う事です。
これは東遷説も然りです。畿内に北部九州勢力が大移動した痕跡は全くありません。
更に言えば「三角縁神獣鏡舶載説に基づく古い畿内説」も最近の発掘結果からほぼ壊滅状態です。
しかしながら実は「考古資料を基にした現代の九州説・東遷説」は少数ですが埋文関係にも提唱者はおられます。
その概略を簡単に述べていきます。
1、伊都国・奴国を中心とした「ツクシ王権」が東国との交易の優位性を保つために、独自に朝貢したのではないか。
2、原ヤマト交易連合とは別か、関係の薄い交易連合が九州島にはまだ多数あり
これらがいわゆる「親ヤマトであるツクシ王権」からも距離をおいた存在であった。
朝貢したのはその勢力のいずれかではないか。
この二つが現代の九州説です。まあ相反する主張ですけど、互いにその可能性は残っています。
いずれにせよこれらは従来の九州説とは違い、倭人伝記事には多くの誤りと齟齬があるとの立場に立っています。
つまり戸数や里程などに信憑性は無いと見ている訳ですね。
魏の倭国に対する認識が根底から間違っていたという事が前提となりますから。
3、原ヤマト交易連合にかなり初期から参加した北部九州のいくつかの勢力が
徐々に畿内に活動拠点を移動し、畿内各地の首長一族たちと婚姻などで融合した。
4、伊都国こそが原ヤマト交易連合の精神的主柱であり、指導者的立場でもあった。
故に民族(クニ)ごと移動したなどではなく、その権威によってヤマトは成立していた。
いわば原ヤマト交易連合への参画に主眼を置いた東遷説ですね。
これらは畿内に九州産の遺物が少ないこととも矛盾しませんし、何よりも文献との親和性が高い。
記紀や倭人伝記事についてもかなり上手く説明できます。
ケース1はまるで本居宣長なのですが、ケース2などは高島先生が良くおっしゃってることですね。
ただあのセンセイ、本気で言っておられるのかどうかかなり怪しいですが。
ケース3などは現代の畿内説(原ヤマト交易連合説)のひとつと言っても良いくらいです。
ケース4は少し前まで柳田先生が強く主張されておられましたが、最近どうなんでしょうか?
しかし私も初登場の6年ほど前は、纏向<吉備影響説を最も重視していたのが
最近ではやっぱ大和川水系とその交易関係にあった周辺のクニグニが母体なんじゃないかしらとの方向に傾いています。
纏向第2次拡張開発あたりから、吉備や山陰は本格的に参入したのかもしれませんね。
当時私の主張に対し「初期纏向には吉備色が薄い」とごレスされた方がおられたのですが、慧眼としか言いようがありません。
しかし大和川水系及び河内の色がごく初期にしか見られないというのもまた事実ですし
阿讃がえらく素早い割には伸びが悪いとか、三遠が外来式の多さの割には微妙に距離を置いているところとか
後期には東近江(上で手焙形土器の話が出ていましたね)やら丹後などの北近畿の比率が上がるとか
とりあえず各地の影響を受けすぎというか、新しいもの好きというか兎に角節操が無い。
纏向には一種の最新技術崇拝主義が根底にあるのではないかと考えるのはその為です。
強固な王権が初期から存在したと見るにはまだ疑問点が多すぎます。
仮に発生していたにせよまだまだ脆弱であり、内部で二転三転を繰り返していたきらいがありますね。
後の大和朝廷との繋がりが見えたなどとは到底言える訳も無いのですが、今朝の新聞各紙は元気ですねぇ。
私は王権の真の意味での礎は纏向放棄後と見ています。纏向はそのタタキ台に相当すると。
あと
>>4様にw
柳本が纏向の一部というより、昔は纏向が柳本に属するのではないかと考えられていたのですよ。
その後の調査で、纏向が最も初期で次に柳本そして大和と時代が下がるにつれて徐々に北上する事が判明しました。
これらをまとめて「オオヤマト古墳群」とも言います。
ちなみに今だと距離的にはクルマで15分くらいですが、弥生終末期までは
河川や湿地帯のせいで頻繁な行き来は難しかったのではないかとの説も有ります。
上つ道や中つ道と目される道路遺構が出土しましたが、当時の奈良東南部のインフラ整備はひどく計画的です。
これなどを見ると、強固な王権があったと考えたほうが自然でもありますし
少なくとも計画都市であったとは見なすべきでしょう。
まったく不思議な遺跡です。
>>9氏へ
的確かつ詳細な代弁、有難うございます。
15 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 20:43:40
>>14 >上つ道や中つ道と目される道路遺構が出土しましたが
これって、時代はいつでしょうか? 纏向の頃にはもうありました?
先生へ
魏志倭人伝を
帯方群(ソウル)より南水行20日、投馬国(出雲国)
投馬国より南水行10日邪馬台国(出雲⇒若狭⇒陸行1日⇒琵琶湖⇒淀川⇒運河⇒大和国)
もし陸行すれば1ヶ月
と読んでいいと思いませんか?
ソウルからプサンまで七千里を水行しているので、態々陸行1ヶ月を実際に行ったとは考えにくいですよね?
後、陸行一月の記事は北九州説では合理的な説明を出来ないと思います。
如何でしょうか?
考古学と関係なくて済みません
>>14 すみません、この書き方だと纏向と同時期だと読めますね。
正しくは須恵器から鑑みて7世紀あたりです。>上中下とも
ただ纏向からは、上つ道の直線に南進上の位置に南北に伸びる道路遺構が出土してますよね。
あれが原型だと考えてもよろしいかと。
布留0式の破片も一緒に出ましたし。
ああ、うざい
>>16 いわゆる放射説ですね、それも畿内説向きの。
過去の見解では、水行or陸行とは漢文的には読みづらいとの解釈がなされています。
と言いますのは、orで記された実例が西域伝(だったと思います)にあったからです。
ただ文献解釈においては、原典からの誤字脱字が皆無であるとは考えられないというのが常識です。
2冊の写本にしても、それぞれ同じ原典を写したにもかかわらず差異がありますよね。
倭人伝などは、いくつかの文段がごそっと抜け落ちている可能性まで指摘されています。
「以って卑弥呼死す」の前段のつながりなど、明らかに文書としておかしいでしょ。
そういう意味では、その解釈はアリともナシとも言い難かったりします。
まあ、そういうところが比較文献に乏しい古代文献学の限界です。
あと陸行1月は1日の誤記との説もありますから
よけいに何とも言えないですね。
>>20 微妙にスレ違いではないかとは実は思うのですが
まあ本筋に入るまでの前フリだと思ってご容赦願います。
おお、降臨ですね。めずらしく、おいらも質問モードといきましょうか。
ちなみに、前スレの「東海厨」&「邪馬台国自体への嫌疑派」であります。
前スレの末尾でも、さりげなく問題提起したのですが、
>>9 >では、魏が倭王と認定した勢力はどこかと考えれば、
この暗黙の前提としての、「中華王朝の倭王認定のそもそもの『重さ』、『ある種の正確さ』」に、
重大な疑念を抱いているのですが。
>>9のレスが雄弁に示しているのですが、実は、邪馬台国論争なるものには、
「中華王朝が、日本列島全域におけるj最有力な首長を倭王と認定した」という、暗黙の前提がある。
この前提が、実はおかしいのではないかと思うのです。
その意味では、
>>12のレスは興味深いのですが、
それでもまだ、
>>9的な発想にとらわれているのではないか?と思うのです。
中華としては、今も昔も、関心があるのは「東シナ海の治安」と「遼東・北部朝鮮の権力状況」だけです。
この興味関心のもたらすことは、端的にいえば「日本列島内部の権力状況への無関心」です。
だとすれば、西に向いて、東シナ海や朝鮮への関与をする力さえあれば、
極論すれば、「後期倭寇の「王直」」のような、日本国内への権力的関与はゼロに近い頭目であっても、
倭王認定をしてしまうのではないか?ということです。
この点、どのようにお考えでしょう?
23 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 21:59:31
何をお互い交易でえていたのだろう?
しかも長期にわたって。
24 :
16:2010/01/08(金) 22:08:52
回答有難うございます
>>16 「日本列島内部の権力状況への無関心」は無いと思います
人間の欲求は宇宙の果てまで知りたい事だと思います
横槍済みません
>>22 >「中華王朝が、日本列島全域におけるj最有力な首長を倭王と認定した」という、暗黙の前提がある。
>この前提が、実はおかしいのではないかと思うのです。
この疑義を抱いていただいたというのは嬉しい限りです。
情勢的にも魏は帯方郡経由でしか情報を得られなかったと考えるのが自然ですよね。
ここにケース1が存在できるスキマがあるのですが
それよりもある任意のクニの首長が如何なる条件で「倭王」と認定され得るのか
魏(中華)の王の認定基準はいったい何なのかという根源的な問題にぶち当たります。
この回答として、魏は中華神仙思想に基づいての認定が条件ではなかっただろうかと述べました。
つまり為政王が実質的なトップであったにせよ(これがどこのクニのオウにせよです)
それより上位の存在として「天と通ずる能力を持った者」が倭国のオウとしてふさわしいと判断された蓋然性は十分にあります。
もし朝貢がヤマトの総意であれ、伊都国あたりの独断であったにせよ
実質の為政王の思惑を斜め上に超えた王認定があったという仮説を、かつて述べました。
このあたりは、まさに仮説にしか過ぎませんが
この仰天認定を機にヤマトの巫女の権威が確立し、急激な纏向発展の一因となったと考える事も出来ます。
もちろん仰るとおりに「権力的関与はゼロに近い頭目」であってもこの考えは成立します。
このあたりは仮に金印やら封泥やら、はたまた墓碑銘が出土したにせよ全否定は出来ません。
要するに「蓋然性の高い説を採用するか否か」と言うだけですから。
26 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:20:53
福永氏は、公孫氏から画文体神獣鏡が畿内にもたらされたと示唆してますが、
福永氏の考えはどの程度支持されてるのでしょうか?
時系列でいえば、こうなると思いますが、
公孫氏が朝鮮半島支配→卑弥呼共立→公孫氏から画文帯が畿内に流入→公孫氏滅ぶ→卑弥呼が魏に朝貢
畿内説の場合、畿内の卑弥呼が公孫氏と通じていて、公孫氏が滅んだあとすぐに魏に使者を送った。
九州説の場合、九州の卑弥呼は中国・半島とは通行せず、畿内が直接公孫氏と通じた。公孫氏が滅びたことで九州は魏に朝貢した。
畿内は、公孫氏滅亡前後も特に影響なく発展していったように見えます。
九州説の場合、公孫氏滅亡は畿内にとって痛手になり、九州にとっては優位になるはずなのが、
考古学的事実は、そうならないので、九州説は成り立たない、という解釈でOK?
27 :
16:2010/01/08(金) 22:23:31
支倉使節団と謁見したローマ法王は、
伊達こそ日本の実質的な王だと思っていたかもしれませんね
28 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:30:14
>>6 一言言っておくと、考古学的には邪馬台国は存在しないのです。
今回の桜井茶臼山古墳も、発掘調査しても誰の墓かわからない。
その他の古墳も、調査しても誰の墓かわかったためしはない。
天皇陵の比定などは、全て文献の記述に基づくものです。
また、吉野ヶ里遺跡を始め、多くの遺跡が発掘調査されたけれども、これも
考古学でなんという国なのかわかったことはない。
考古学の限界がここにあるんでしょうね。にもかかわらず、考古学者が
纏向は邪馬台国だなどというのは、ちょっとおかしいと思う。
29 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/08(金) 22:33:12
老教授殿
<もし朝貢がヤマトの総意であれ、伊都国あたりの独断であったにせよ
3世紀の伊都国は邪馬台国の出先機関的なもので、独断で魏と通交できるような国ではなかった筈だ。
貴殿が伊都国を重視する理由は何ですか?
30 :
うましか:2010/01/08(金) 22:36:40
>>25 横から失礼します。
>実質の為政王の思惑を斜め上に超えた王認定があったという仮説
為政王=伊都国王 祭祀王=女王 と言うようなことまでお考えでしょうか?
31 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:37:59
>>27 ただし、国交を交わす場合、相手国の素性はそれなりに調べるはずですよ。
自己申告だけを頼りに、使者に対して金印を贈ったとして、
その使者がどこか敵国と通じるスパイなら大変なことになる。皇帝の威信にも関わる。
魏は、国の大きさを戸数で計ってるようなので、
倭人が多く住む地域の首長を倭王の条件をしたはず。
近畿連合を考えたとき、九州は圧倒的に不利になる。
>>23 交易物の問題・・・これ現時点では推測でしか語れません。
北部九州から本州へは鉄とか装飾品が主ではないかと見る向きは多いですが
その反対の見返りに、単に「食料」だけでは説得力に欠けますよね。
「生口(つまり人身売買)」と仮定した論者もおられましたが、それだけではないでしょう。
ひとつの例として食料でも「米」が挙げられます。
縄文末期から稲作が開始されたと言うのはもう周知のこととは思いますが
米というのは手間の割に収穫量が少ないのです。
当時の品種ならなおさらで、しかも高級食材であるため一般弥生人は口にすることさえ出来なかったと考えられています。
ドングリピッドの多さやヒエ、アワの出土比率などからも妥当でしょう。
これはある任意のオウが、小作人(と言っていいのかな?)を使って
生産比率の悪い米を作らせていたと考えられます。
これが交易の主かどうかは推測に過ぎませんが、需要は確実にあったと見ても良いでしょう。
あと庄内式土器などは、焼き上がりの温度が高い為、従来のものより薄手です。
煮炊きの際には熱効率が格段に高いため、北部九州に爆発的に浸透したのは
庄内式そのものが交易品であったと見られています。
>>26 >考古学的事実は、そうならないので、九州説は成り立たない
これ単純にそうとも言い切れません。
画文体も三角縁にしても帯方郡または公孫氏経由、それどころかそこで作成されたとの説もあり
これまた非常に説得力のある仮説です。
福永先生は、帯方郡製作説に傾いておられたように記憶しております。
いずれにせよ貿易の抜け道は山ほどあったとと考えるのが妥当なので
これをして九州説死亡フラグは立たないと思います。不利にはなりますけどね。
>>28 あうあう・・・仰るとおりでございます。
ただ吉野ヶ里の時を思い出してください。こうやって大袈裟に煽らないと発掘そのものが成り立たなくなるんですよ。
これは邪馬台国とか畿内説とか九州説の問題ではなく
考古学って「誰も儲からない」学問なんです。
地権者様など大損もいいところです。
ですので・・・大目に見てやってください。
九州島の各地で調査が進んだのは、吉野ヶ里での「邪馬台国が見える」の名コピーのおかげですから。
>>29 これは「伊都国を重視する説がある」との、あくまでも紹介です。
ただ平原王墓や伊原が、倭人伝でも重要視された以上の豪華な出土品に満ち溢れていたというのは事実です。
このあたりは原田大六氏の伊都国研究が(氏の方法論に賛否はあるにせよ)ご参考になるかと思います。
>>30 二元政治の可能性は勿論考えております。
ただ伊都国限定ではありません。しかし可能性は否定しません。
ヤマト(纏向)においても、先に発表された建築物跡が「神殿」ではなく、為政施設であり
祭祀王が例えば三輪山の奥に隔離されていたとも考えられるからです。
この辺りは、実は九州島に発掘事例があります。
九州の文化がヤマトに全く無関係だとは考えにくいのは、こういう事実を踏まえてでもあります。
34 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/08(金) 23:07:55
>>32 <米というのは手間の割に収穫量が少ないのです。
<当時の品種ならなおさらで、しかも高級食材であるため一般弥生人は口にすることさえ出来なかったと考えられています。
<ドングリピッドの多さやヒエ、アワの出土比率などからも妥当でしょう。
老教授はヒエと米の生産性(穀粒収量)を比較したことがありますか?古代米と言えどもヒエに比べれば生産性ははるかに高い
ですよ。また、粟は畑作物ですから水(雨)の条件に左右されます。米は水田作ですから灌漑さえうまくやれば安定した収穫が
見込めます。ヒエや粟が米より生産性が高かったら米など作らずヒエや粟ばかり作っていたでしょう。
出土比率は生産量と比例するものではないでしょう。保存管理の仕方の影響が大きいでしょう。
35 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:11:52
>>33 纏向を含む大和川水系が交易で栄えていたことに異論はありませんが、北部九州ー畿内の関係において、九州
からの交易品がいくら鉄や大陸の文物であったとしても、纏向に出土する九州土器の少なさはやはり異常ではな
いでしょうか。また、東海土器の出土割合の多さは何を意味するものでしょうか。東海から九州への人の流れがあ
ったとは思えないのですが。
米については、集団農耕において身分制が強固であったとすれば、支配層にいったんすべて集約されて、交易
用のものを除いて分配するという形がとられていたのかもしれない。現在の開発途上国で見られるような、特産
品がすべて輸出に回され、自分たちの口には入りにくいというような構図はあったかもしれない。
考古学のみで歴史を知る事は、ほぼ不可能ですね
例えば文献無しで信長⇒秀吉⇒家康の歴史を語る事は出来ない
しかし文献のみではその真偽を確認するすべが無い
38 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:27:31
>>32 わざわざ、手間をかけるだけの価値が米にはあったということですかな。
さて、交易がスムーズに行えるのはお互い欲しいものが手に入る時。
食料の安定供給=米作
米作には人手が必要=生口
生産性向上=鉄製農具
食糧調理・保存技術の提供=土器
各々の技術を持つ部族がたまたま巻向にそろったといことでしょうか。
幸い古来より日本は、森林資源に困ったことがないですわなぁ。
>>25 22です。ありがとうございます。
神仙思想ですか。私も、史記で一番面白いのは書であると断ずるほどなので、
一応、当時の中華文化人の意識は知っているつもりですが、
やや論理の跳躍があるかなあとも思います。
同じネタを、私のイメージで語ると次のようになります。あくまで仮説、
2ch戯画的に描いた、「伊都国で展開された日中の当事者間の会話」です。
「汝らにはwang(王)は在位しているアルカ?」
「わんぐ?何それ?」
「支配する人アル。おまいらの酋長も言うことを聞く人アル」
「言う事を聞く人…ああ、山奥の巫女さんの婆さんならいるね。あの婆さんの言うことならみんな聞くよ。」
「婆さん?女アルカ?」
「ああ、女だよ。男がやってみたこともあるんだけどね。駄目だったんだ」
「どんな統治をするアル?」
「御神託を聞くのさ。そして、弟がいて、御神託を俺たちに示す。」
「怪しいアル。神様を呼ぶアルカ?」
「そうだよ。巫女さんだもん。」
「変な国アル…。王は女、怪しい神様を呼んで、変な言葉を吐いて統治するナリ。それを補佐する弟アリ。
王を男にしたこともアリタルjが、国が乱れタリ。女に戻しタリと書くアルカ。」
中華というのは、ある種、極めて早い時期に脱神権政治が進んだ世界でも特殊な「先進地域」で、
これくらいの「誤解」は普通にありえたように思われます。
>>37 そのあたりの時代は多種大量の文献が存在するから、考古学で歴史を語る必要がない。しかし、考古学は例えば
安土城発掘などで重要な役割を果たしている。問題は邪馬台国の時代の同時代資料が魏史しかなく、その研究も
手詰まりとなって何十年も経つこと。
老教授ファンの多いことw
42 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:47:36
>>33 >いずれにせよ貿易の抜け道は山ほどあったとと考えるのが妥当なので
近畿の倭人が帯方郡とまで交易できたという事実が重要です。
九州・玄界灘を経由して交易してたなら、九州説はおしまいですよね?
また玄界灘を使わず、直接、出雲や丹後から半島に行き来してたとしたら
(実際に、弥生時代末に交易はされていた)
近畿の倭人は半島の人々によく知られた存在ですから、
魏志倭人伝に、近畿の様子が書かれないはずがありません。
したがって、水行十日陸行一月の女王国は近畿となります。
九州説の方が強弁するように、魏志倭人伝に近畿の様子が書かれて無いとしたら、
「東夷伝倭人条」の意味を成さないほど情報の欠落した文献ということで、
倭人伝の記述から邪馬台国の所在地を求めることは意味の無い行為となるわけです。
読み取れることは、「3世紀の倭国の女王に金印を贈った」ということだけになります。
>>34 >米は水田作ですから灌漑さえうまくやれば安定した収穫が・・・
この灌漑が困難だったのですよ。菜畑遺跡などでも何度もハチャメチャになった痕跡が見られます。
あとドングリピッドを例に出したのは、栗と共に集落周辺に植樹していた形跡が全国的に見られるからです。
要するに「米作は一般弥生人を豊かにしたのではなく、一部の支配社階層に富をもたらした」と言うことです。
あえて生産性の低い高級食材を作らされていたとお考えください。
広瀬先生や寺澤先生の論文などがご参考になるかと思います。
>>35 >纏向に出土する九州土器の少なさはやはり異常
仰る通りです。それ故に「精神的主柱」という、ある意味脆弱な仮説が限界のようですから。
それと纏向の東海系の多さばかりがクローズアップされるきらいがありますが
庄内式と共に三遠式も同時期に西新町などで出土しております。
北条氏は東海からの労働力が北部九州にまで及んでいたとの仮説を打ち出されましたが
その可能性は否定も肯定も出来ません。
私は「纏向に北部九州の直接的な影響はほとんど確認できないんだけど、でも副葬品の突然の豪華化なんか
これってまるっきり北部九州への憧れだよなぁ・・・これって成金趣味?」などとも想像を巡らせています。
>>37 ですよねぇ・・・でもそれ故に面白いと言うのは、畿内説九州説を問わず
古代史マニアの醍醐味でもありますから。
せっかく数少ないマニアがインターネットの発展(激笑)で集ったのですから、その幸せを噛み締めましょうよ。
お互いの主張が食い違うなんて、一昔前の仲間探しに窮していた時代からすると夢のようです。
>>38 >各々の技術を持つ部族がたまたま巻向にそろったといことでしょうか
これをたまたまではなく、高まる需要に対する必然と考えるのが「原ヤマト交易連合説」のキモで、このスレの意義です。
纏向がその地に選ばれたのは何故なのか、参加した地域はどこでその順番や力関係はどうだったのかなど
邪馬台国の位置問題とは別に、これを忌憚無き意見で討論し、お互いを高めあうというのが趣旨だったと思います。
>>39 そっちの方が有り得ますねえ。
弟王なんかも
ちょwwwまじwwww卑弥呼が女王ってwwwwwwwwwwww
とか叫んだかもしれませんし
>>21 >あと陸行1月は1日の誤記との説もありますから
流石にその説は厳しいですね
一生の内で
一月と一日を読み間違える経験をする人はこの世に何人居るのでしょう?
28続きです。
「断ずる」なんて変な単語を使ってしまった。すみません。
つまり、神仙思想があったから卑弥呼のあの記述になったというのは、
若干考えすぎかなと思うのです。
私などは、端的に、
「中華の利権に対する最大の脅威(影響力)を以て、相対する政治権力=王とする」
と考えればよいのではないかと思っています。
要するに「自分に一番関わりのある勢力が、一番強い勢力である」という相対的視点です。
そして、その中華の利権は、東シナ海の沿岸の治安と、帯方郡の植民地利権であり、
これを、「中華←帯方郡←伊都国」という「眼鏡」でみることになる。
要するに、中華としては、伊都国まで押さえておけば十分なのです。それでここまで使節が来た。
そこからさきは、まあどうでもいい話になった。
政治状況としては、
「伊都国の周辺(日本列島の鳥瞰ではない)においては、政治統合は大して進んでおらず、
この時点で求心性を持つ首長国はない」
ただ、交渉の相手は「倭王」でなければならず、しかも後漢の金印下賜のときと違って、
「倭国は博多平野周辺だけではない」ことだけは、ばれている。
ただ、比較的広域に宗教的権威をもつ巫女さんがいて、神殿直轄地もあった。
そこでこれが、どういう風の吹きまわしか、「女王国」にでっちあげられてしまった。
この発想は、九州なのか畿内なのか、あるいは別地域なのかについては中立です。
ただ、伊都国にも宗教的威光が届くのだから、あまり離れていないところが妥当だろうと思われます。
そして、その「女王国」の跡は、2000年も残る遺跡になるような代物ではない。
>>43-44 老教授さん
今、河童さんが相手になってやる。
少し待ってろよ コノヤローwww
48 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:02:09
>>46 公孫氏と倭人が通じていたことは文献にも書かれています。
その、公孫氏と通じていた倭人は、画文帯の出土状況から近畿勢力だということです。
この前提で九州説を成立させるためには、
「近畿は魏の敵国」というでっちあげを卑弥呼はしなければならない。
クナ国が近畿だというなら、整合性がありますが。
どのみち、倭人伝で、近畿を一切無視していては、九州説は成り立ちません。
巻向の交易品?丹だよ。水銀朱忘れちゃだめです。
50 :
うましか:2010/01/09(土) 00:05:50
>>33 レス番
>>30のものです。
> 二元政治の可能性は勿論考えております。
> ただ伊都国限定ではありません・・・・・
御丁寧な説明、ありがとうございます。
景初朝貢の時点でも倭国内の力関係は北部九州>畿内・その他だったのでは、
との考え(単なる妄想ですが)があり、お訊ねしてみました。
魏から倭王に選ばれたのが、伊都国の王では無く、卑弥呼だったのは、
漢代より朝貢実績のある九州の首長より、さらに版図の広い王権の主を魏側が求めた結果ではないかと言うことです。
AD230年代が布留の開始時期と仮定すると前原や博多湾と言うのは畿内大和よりかなり見劣りがするものでしょうかねえ?
ちなみに、私は畿内自生説に近い考え(河内勢力の進出)を持っていて、
老教授氏が以前「降臨」されたときに「ゆるやかな首長連合の成立」による纏向建設の姿がイメージ出来ず、
何度となく御手を煩わせたメンツ(その時は別コテでしたが)の一人です。
51 :
37:2010/01/09(土) 00:07:10
所詮、文献も考古学も証拠の一つにすぎない
生物学、経済学、政治学、天文学、建築学等々知識をかき集めて真相を突き止める事こそ肝要
と言いたかったのです。
考古学だけに拘るのは真相を見誤ると思うのです
52 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:14:33
倭人伝にある「一大率」が置かれた年代はいつ頃なのだろうか。この官ができたあたりには北部九州を遠隔支配
する体制が整ったのではないだろうか。一大卒が伊都国に常駐する郡使と協力して体制に従わせると同時に、西
新方面、あるいは宇佐方面から連合勢力の浸透が図られていった・・・とは考えられないだろうか。
さて昔のようにそろそろ飲みながらやらせていただきます。
日本酒って世界に誇る文化ですね。
向こうでは血の匂いつーか、血で割って飲んでたりする訳でして・・・
>>42 えーと・・・九州説を完全沈黙させるのは、畿内説論者にとってもあまり得策ではないと考えております。
ちなみに当時の2chでも「あの時代に魏に朝貢などと言う卓越した外交センスが畿内にあったとは思えない」
という卓越した意見を書き込まれた方がおられます。当時、目から鱗が落ちました。
知り合いに(当然全員畿内説です)これを話すと、皆唸り込んで黙ります。
勿論単なる推測意見ですが、発想の着眼点の素晴らしさは瞠目に値します。
前にも書きましたように、暗号解読ごっこには流石にお付き合い出来ませんが、こういう視点をもたらしてくれる
優れた論者が居る人材宝庫でもあります、ここは。
雑音のスルーさえすれば、きっと自説の更なる発展に役立つはずです。
>>47 これ実際に間違えている事例があったりするんですわ。
紙(木簡)の字がかすれてどっちだか判らなかったんでしょうねぇ
>>46 私の提示は、あくまでも「こういうことも考えられる」という仮説に過ぎません。
記紀よろしく、複数説提示と言う方向でお願いします。
てか、皆さん相変わらず鋭い考察で感服いたします。
>>47 えーと・・・私は文献に関してはあくまでも素人です。
そちら方面の議論は完全にスレ違いになりますので、ここでは考古学見地からの議論で行きましょうよ。
54 :
37:2010/01/09(土) 00:20:36
追伸
四大文明、欧州の首都、中国の歴代の大都市等は、殆どすべて大河に面した
内陸の港町に有ります
水運の見地から経済学的に当然と言えるでしょう
この事から邪馬台国には陸行で到達していないと考えます
55 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:37:10
>>53 >ちなみに当時の2chでも「あの時代に魏に朝貢などと言う卓越した外交センスが畿内にあったとは思えない」
奇妙なご意見をおっしゃいますね。
それならば、畿内説は、はじめから放棄すべきです。
邪馬台国は九州ということで、近畿には、別のヤマト王権の礎となる連合体が生まれつつあったということで、
何の問題もないでしょう。
それでは、「お金にならない」から、畿内説を煽っている、というのが本音ですかな?
56 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:43:59
>>53 もし邪馬台国が公孫氏との関係があったとすれば、その滅亡後タイムリーに魏に朝貢できたというのは自然な
流れだと思いますが、そのようなお考えはないということでしょうか。とすれば、畿内を中心とした分布状況にある
画文などは、年代観がおかしいのか、あるいは全て国産ということなのでしょうか。
老教授さんって固定は今日初めて知った人も多い。
それに比べて河童虫さんを知ってるようで
彼の知名度の高さには驚かされる。
>>48 それは先に書きました「旧態依然の九州説はもはや成り立たない」とほぼ同意ですね。
私はかつて、最新の情報に基づいた新たな九州説論者を求めました。
その際、実に見事な考察を提示された方が複数居られましたので
そういう方々の意見を拝読するのが楽しくて仕方ありませんでした。
今回もきっとこちらをあっと言わせるネオ九州説論者が現れると、ひそかに期待しております。
私自身はナロー中のナロー(2kb/sec)という、とてつもない辺境に普段居りますので
リアルタイムで参加できないのは、残念です。
>>49 あら、居らっしゃら無いと思ったら
>>50 旧友(いや仇敵か?)再会ですね。お元気そうで何よりです。
河内勢力の進出は、近年大きくクローズアップされております。
これは自生説とはまた別の観点からですので、是非拝読させていただきたく思います。
>>37氏
考古学に拘るというよりは、そうやってスレの話題を限定しないと無茶苦茶になるという
当時の2ch状況から生まれたルールでした。
それは残念ながら今もあまり変わらないようですので、スレ正常化のための便宜的措置とお考え下されば幸いです。
情けないのう・・・少し詳しい人がヤフーからやって来たら
『なになにでしょうか』質問攻めの嵐www
おなじ2ちゃんねらーとして恥ずかしいです
60 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:58:58
>>34 縄文人
おや?今日は数多ある別ハン(別キャラ)じゃ無いのか?wwwwwwwwwwww
>出土比率は生産量と比例するものではないでしょう。保存管理の仕方の影響が大きいでしょう。
確かに米を優先的に消費したとしたら出土率をもって生産における割合とするのも怪しくなるわなw
が出土する(炭化した)稲穂とかを見れば現在のものより相当短く、収穫量もそれほど見込めないと言う話もある。
寺澤の「王権誕生」に詳しかったと思うが。
61 :
37:2010/01/09(土) 01:01:07
>>58 了解です
>>59 他のスレでは考えられないお上品なトークを
お紅茶でも喫しながら楽しむのも乙なものです
62 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:08:33
>>11 >何しろ3世紀に全盛を迎え、各地に影響を与えたと目される遺跡が、小規模なものすら無いのですよ。
>>53 >ちなみに当時の2chでも「あの時代に魏に朝貢などと言う卓越した外交センスが畿内にあったとは思えない」
老教授の見解を勝手にまとめると、
3世紀の九州は、他方に影響力を与えるほどの力は無かったが、魏に朝貢する外交センスはあった。(実際に、朝貢実績がある)
一方、近畿は、クニグニの交流はさかんだったが、魏に朝貢しようという外交センスは無く、
商人によって海外の物資が流入する程度。
公孫氏に関する情報は入ってたかもしれないが、情報を分析して朝貢する能力はあったとは思えない。
したがって、3世紀の九州が乏しい遺跡しかなくても、
実際に魏と外交して金印をもらった卑弥呼は、九州の女王だった。
こういうことでいいですかな?
ローガンとか老教授とか…
書き込み規制されてどうだこうだボヤくのなら
「P2」の利用でも考えたらどうだ?
http://p2.2ch.net/p2/index.php 少なくとも鯖単位で他人の巻き添え食らって規制される事は防げる。
まあ
「2ちゃん如きにびた一文払うつもりは無い」
と言うかもしれんが、なれない携帯からストレス溜めながら入力するのなら
イニシャルコストなんか安いもんだと尾思うがwwwwwwwwwwww
>>54 纏向に関しては仰るとおりなのですが
こと邪馬台国については、一次資料の不足から実態が見えないんですよ。
ですので、畿内王権には陸行のみでは到達できない立地にあったという
ある意味玉虫色の解釈でお願いいたします。
>>55 当時はアカデミズムに於いても「纏向には北部九州の関与なし」との意見が多かったのです。
私はそう言い切って良いのか?との疑念を払いきれなかったので、先の発言となった訳です。
ただ「何の問題も無い」と言うのはどうかと・・・
北部九州も原ヤマト交易連合にすでに参加していたとの見方の方が
数ある出土物からも蓋然性が高い説のように考えております。
要はまさに「蓋然性」の問題なんですよ。
>>56 何とも言えません。画文帯の入手ルートそのものがまだ仮説構築以前の段階ですから。
これらは今後に期待です。
>>59 えーと・・・私Yahooには一度もお邪魔したこと無いんですよ。
めんどくさいから読んですらいません。ごめんなさい。
>>60 王権誕生が文庫本になっているのをつい最近知りました。
内容に同意するか否かは別にして、議論のたたき台にはもってこいですので
皆さんにご一読をばお勧めいたします。
>>62 いえそれはケース1及び2に発展させた場合の考え方ですね。
私はどちらかと言うとケース3も踏まえた上での、原ヤマト交易連合説論者です。
6年前は纏向に注目される方もここでは少なく、老教授の前は畿内説纏向派とのコテで書いていましたので。
>>62 短絡思考過ぎだなw
畿内には中国のお客さんが欲する物があったんですよ。
ま、九州は商社、仲介屋だったんです。
67 :
28:2010/01/09(土) 01:18:01
>>48>>56 前スレ末尾で明らかになったように、
鏡はまさに「八百万の神々」よろしく、西南日本のそこらじゅうに遍在しまくっている上に、
産地がどこか、どの流通ルートをとったかも皆目不明となっているから、最早役に立つ代物ではないよ。
結局鏡鏡かがみかがみかがみ!と鏡一本足打法に依らなければならなくなるわけで、
畿内説もそんなに屈強な説でもないようにも思える。
ちなみに、私は邪馬台女王国なる「巫女さんの呪術小屋」は、魏志の記述から推測して
阿蘇山周辺の深い山中にあっただろうと考えているので、その意味では九州説ではあるが、
ただの「巫女さんの山小屋」と考えているので、たいした問題ではないと思っている。
(魏志の地理的読み方については、昭和50年代の藤芳義男という在野研究者の説が今でも一番妥当だと思う)
私の関心としては、邪馬台国なるくだらない論争を九州に押し付けたうえで、
現皇室に直接つながる畿内王権確立の過程を探るところにある。
その意味で「東海厨」なのだが、前スレで明らかにした通り、
東海勢力が巻向の主導権を握ったという意味ではなく、
むしろ、畿内を「西南日本の終点」と位置づける立場による。
一言でいえば、「ターミナルが、独占的後背地を得た時、そこに覇権が生まれた」ということ。
68 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:19:13
>>51 文献の方が圧倒的に重要かな。
邪馬台国論争の考古学は、魏志倭人伝を寄りどころにしている。
例えば、倭人伝に銅鏡百枚の記述がなければ、三角縁神獣鏡は何の意味も
持たないわけだし。
そのほかも一緒。考古学は、ひたすら倭人伝の記述を証明しようとしている。
まあ、倭人伝を初めとする中国の文献がなかったら、邪馬台国も卑弥呼も
存在しないわけだけど。
>>63 ごめんなさい・・・私ほとんどこっちに居ないんですよ。
で、向こうで2ch見るなんて、あらゆる意味で無理です。
前は●買ってましたが、モリタポ使い切ってからご無沙汰です。
そうこうしているうちに、登録消されちゃいました。
では酒も回ってまいりましたので落ちます。
明日も規制がなければお邪魔させていただきたく思います。
皆様、本当に楽しいひと時を有難う御座いました。
28じゃなくて22だった。すみません。
28とあるのは、すべて
>>22です。
>>67 >「ターミナルが、独占的後背地を得た時、そこに覇権が生まれた」ということ。
この間から聞いているが、もう少しわかりやすく説明してもらえるだろうか。具体的に東海、関東などと大和川水系
の勢力がどのような関係があったかわかりにくい。弥生末の東海といえば、一枚岩ではなく、纏向いらい環濠が解体
される集落もあれば、関東に移住していく勢力もあればといった認識なのだが。
72 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:37:27
>>64 >私はどちらかと言うとケース3も踏まえた上での、原ヤマト交易連合説論者です。
>>12 >3、原ヤマト交易連合にかなり初期から参加した北部九州のいくつかの勢力が
> 徐々に畿内に活動拠点を移動し、畿内各地の首長一族たちと婚姻などで融合した。
いわゆる東遷説(卑弥呼共立以前)ですな。
仮説としてはアリでしょうが、
はたしてその証拠は?となると、まったく無いに等しいですよね。
少なくとも、魏に朝貢を提案する外交官クラスの人間が畿内の首長(卑弥呼)に仕える動きがなければいけません。
その外交官は、瀬戸内海、玄界灘の海運に精通してる商人をバックボーンにしてたなら、
内陸に拠点が無くても、河内あたりに居を置いていても良いかもしれませんが。
そういうことぉ考えていらっしゃいますか?
>>67 >私の関心としては、邪馬台国なるくだらない論争を九州に押し付けたうえで、
懸命だと思いますね。
邪馬台国論争は、はっきりいって面倒くさい。
畿内王権の成立過程のほうが、よほどダイナミックで興味をそそる。
ただし、九州説をある程度つぶさないと、東遷説(卑弥呼の死後)が幅をきかせてくるのが問題だ。
>>69 現在、モリタポの購入は一口¥2000で
書き込みに要する手数料は年間¥100
また年毎の更新料は残高の5%
まあdatオチした過去ログとか見るにも消費するし
色々有料サービスもあるが…
…モリタポ使い切る前に残したまま
利用していない期間が長すぎて抹消されたんじゃねえの?w
最近は書き込みの規制も頻繁だし
何らかの回避手段を考えても良いんじゃないかな?
なんつってもアンタのファン多いんだしwwwwwwwwwww
74 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:53:37
>31
高句麗が倭国の使者と称する偽物を仕立てて倭王認定された事件だってあったはずだし、
その前後には百済も倭国の使者を伴っていったことがあるはず。
偽物の事例があるんだから、それより以前にも別の偽物があった可能性はあるでしょうね?
交易は、
・海産物と農産物を交換した
・交換を仲介して手数料収入を取っていた(半島からは鉄を、列島からは、?)
のどちらでしょうかね?
>45
誤記というか、誤写という説ではないかと?
原文の意味を知らないで適当に書写する場合には、月と日の誤写率は高まるでしょう。
(三國志/魏志ではないですが)粗雑な写本では、本当に間違えてるモノもあるらしいと聞きますが...
>64
山陰→北陸へ進んで、若狭あたりで上陸して内陸(琵琶湖岸水運も含む)で淀川方面へ、
そこから河川舟運で大和北部へ入って、あとは陸路で...
とかでしょうか? 小規模な河川を含めてほとんど舟運で行けるとはいえ、内陸ですし。
王権誕生というか、あのシリーズ全体が昨年ごろから(一昨年末かも)文庫化されてますね。
文庫といっても1000円ぐらいで、安いと言うほどではないが、元のハードカバーの半額以下ではある。と思う。
もっとも、あのハードカバーを二十冊近く手元に置いてる身としては、あまりありがたくはない...
>59
ヤフーから来たのはワタシの方ですな、こちらは詳しくもなんともないですが。
>>72 まあ、遅い東征説というのは、「王統系譜切断ロマン」の一種で、
要するに、明治天皇すり替え説と同じものだから、消えることはないだろうよ。
同様に、百済だの新羅だの言う韓国人もいなくなることはない。
これは、王統を乗っ取りたいという、人類学的な欲望に基づくロマンだからね。
古い(狭義の)東征説は、実は、彼らが最終的によって立つ記紀の批判的解釈だけで切断可能。
「あいまいで抽象的な記述は疑わしい」という簡単な原理だけでよい。
記紀のイハレ征服譚を読むと、宇陀の山から下りてきたところと、浪速や日下で戦闘したところは
やけに丁寧かつ正確に書かれているが、間の紀伊・熊野のくだりが、悲惨なほどにgdgd。
つまり、この2つの物語の間は虚偽であって、
記紀の示す皇室の出自は、
「紀伊山地の山岳勢力だった」
ということ「だけ」。ここでストーリーは切断されてしまい、これ以上さかのぼれなくなる。
不敬な表現で申し訳ないが、平たく言えば
山賊の頭領が山を下りて土豪になったということで、のちの松平(徳川)氏の出自とよく似ている。
>>67のヒトのいうとおり
>邪馬台国なるくだらない論争を九州に押し付けたうえで、
>現皇室に直接つながる畿内王権確立の過程を探るところにある。
という趣旨でお願いします。
箸墓古墳が最初の巨大古墳であることは疑問の余地はないと思いますが、
その次代の発展についてどのように考えたらいいのでしょうか?
昨日も前スレの後ろのほうで触れたのですが、おそらくは西殿塚と茶臼山がその次代に当たるのだと思います。
>>13では「節操が無い」と書かれている通り、双方に各地域の特徴が独立して反映されているかのようです。
箸墓古墳に続く大王墓であろう西殿塚古墳ですが、吉備様式の特殊器台が見られ箸墓の正等後継の様相です。
一方、今回大量の鏡が出土したことで注目された桜井茶臼山古墳ですが、
結局のところ今回の調査でも吉備の象徴ともいうべき特殊器台は出土してないわけです。
かわりに二重口縁壺という讃岐系に非常に特徴的な遺物が出現しています。
これだけならば、狭い纏向の範囲内ながら北端では吉備系の影響を受けた西殿塚系と
かたや讃岐系の影響下にある茶臼山に分立していたとも解釈ができるわけです。
あるいは初期ヤマト王権の代表権は非世襲による豪族の持ち回りとも解釈できます。
しかし埋葬文化的には、西殿塚と茶臼山の双方に矩形壇という箸墓にはみられない共通構造があるわけですから、
双方とも矩形壇による祭祀という共通の要素を共有しています。
仮説として黎明期ヤマト王権が単一血統であるとしたら
あたかも不安定かつ脆弱な黎明期王権が、非常に八方美人的に各地の豪族との関係を
あるときは組みまたあるときは他者に依存する、短期間に同盟とその解消を繰り返していたともとれる
ような挙動になるわけです。結果として畿内から王権が成立したわけですから、
そのときどきの強者と常に協調してその地位にのし上がったかのようです。
この黎明期における西日本各地の豪族と纏向勢力との微妙なパワーバランスについて、
是非、老教授先生にご意見をお伺いしたいと思います。
77 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 04:32:27
>>76 前方後方墳という大きく違った形態の古墳も古墳時代初頭から作られてるんだよね。マバカ古墳が最初期だったか。
前方後方墳の被葬者は大王家とは距離があったとしても、有力な豪族だったんだろう。
それが全国に波及してるから、ヤマト王権も一枚岩ではなかったのか。
これが、「円天地方」の思想によるものなら、前方後方墳は、国津神系の豪族ということになるのか?
78 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 07:37:06
前方後方墳というのはそれこそ、東海地方からの移住者の中での有力者の墳墓ではないかな。土器の移動
状況から見ても多くの人が入っていたのは間違いないと思うが。
>>76 > この黎明期における西日本各地の豪族と纏向勢力との微妙なパワーバランスについて、
横から失礼ながら、纏向政権の成立過程では西日本との関係よりも、
むしろ東日本との関係の方が影響が大きかったのではないかな。
>邪馬台国なるくだらない論争を九州に押し付けたうえで、
>現皇室に直接つながる畿内王権確立の過程を探るところにある。
という趣旨でお願いします。
それは無理じゃ無いの?
同時代の貴重な記述資料を無視して何を語るのと
いう気がするけど。
81 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 11:23:50
濃尾平野の低層地にある西上免遺跡、廻間遺跡らが前方後方墳の
祖形的な代表。近くには大河木曽川がながれる。
82 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 11:46:39
>>80 邪馬台国論争をしたくないといってるだけだろ
83 :
うましか:2010/01/09(土) 11:51:50
>>76 ちょっと失礼気味ですが感想を。
古墳の築造技術の伝播とその母体の政治的連携関係はリンクしないかもしれませんよ。
当然、非友好的、敵対的関係は政治以外の交流も阻害する要因ですが、
技術伝播は、極端なことを言えば戦争捕虜によるものなどと言うケースもありますし
「政治」よりは「経済」に依存する部分が大きいのではないでしょうかね。
特に草創期の古墳と言うのは、それまでの弥生的習俗を放棄して取り入れられたものです。
一度、古いものを捨ててしまうと後をは「節操」が無くなるのは当然で、
あちこちから、その時々のトレンドを持ち寄せて、いろいろな技術者集団が、他地域的に交雑し、
古墳を変遷させていったんじゃなですかね。
まあ、そのトレンドの変遷から、老教授さんが何を読み解くかは私も興味があります。
情けないのう・・・少し詳しい人がヤフーからやって来たら
『なになにでしょうか』質問攻めの嵐www
>えーと・・・私Yahooには一度もお邪魔したこと無いんですよ。
はい、はい わかった、わかったってばw
86 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 13:33:35
老教授降臨してるじゃん!ナツカシス
九州説に理解あるふりして
安心させたところを斬り捨てるやり方も変わってないようだ
卑弥呼は美しく、知性に溢れる女性と想像して妄想にふけってます。
88 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:20:42
>>86 文体が丁寧だからそう見えるだけだったと思うよ
実際は次々と考古資料をだして九州説を完全沈黙させたひとだったから
東遷厨に対してはもっと手厳しかった
膨大な資料を突きつけてありえませんと一刀両断
だからけっこうえげつないひとだった
89 :
うましか:2010/01/09(土) 16:25:14
>>88 記憶では、アイドル系のネタにも強かったと思います。
90 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:26:16
>>84 少し詳しいひとどころか現役第一線の考古学者らしいよ
91 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:29:29
>>89 マンガやエロDVDにも詳しかったような記憶もあるわ
92 :
うましか:2010/01/09(土) 16:59:18
>>58 > 河内勢力の進出は、近年大きくクローズアップされております。
> これは自生説とはまた別の観点からですので、是非拝読させていただきたく思います。
でも、伝家の宝刀、河内庄内への嗜好が足枷になって、布留期にはヤマトへの影響力が無くなっていくとか言われてますよね。
>今回もきっとこちらをあっと言わせるネオ九州説論者が現れると、ひそかに期待しております。
九州説ではありませんが、オカルト好きで元気な方がおひとりいますね。
話題がそちらに流れるとここにも現れるかもしれませんよw
93 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 17:54:38
>>76 >これだけならば、狭い纏向の範囲内ながら北端では吉備系の影響を受けた西殿塚系と
>かたや讃岐系の影響下にある茶臼山に分立していたとも解釈ができるわけです。
奈良に進出した、吉備や讃岐の豪商の墓なんじゃないの?
豪商同士の力関係から、やがて大王が生まれていったのだと思う。
商売上の縄張り争いもあっただろうから、卑弥呼はその調停役か。
94 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 18:03:06
魏への朝貢の理由も、貿易の円滑のためであり、つまりは商人の利益のため。
交易の荷物は、港ごとに積荷を降ろして乗せ変えたり舟を乗り換えていたはず。
直接、朝鮮半島から河内まで船便の直行便があったとは考えられない。
だから、畿内の土器が朝鮮半島で出なくても、不思議じゃない。
九州の土器が畿内で出なくても不思議じゃない。
ひとつだけ、庄内式土器が河内から九州に拡散してるということは、
九州側が庄内式土器を求めたということで、老教授の指摘したように、
庄内式土器そのものが交易品だったことはありえることだろう。
95 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 18:08:15
庄内式土器が作られた河内は、物部氏の本拠でもあるから、
九州を制圧に向かった物部氏の軍隊が煮炊きのために自分でもって言ったと考えたほうが素直だろう。
が、老教授は「河内勢力が九州を制圧した」というシナリオには賛同しないかもしれない。
96 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 18:16:16
「庄内式土器そのものが交易品だった」という説に懐疑的なのは、
土器の移動は、土器を持ち運ぶ人の移動が無ければ無理だからだ。
とくに壊れやすい土器をまとめて輸送するなんてことは考えられない。
人ひとりが、土器をひとつづつ丁寧に抱えて運ぶとかしなければ。
すると、土器を交易品として運んだ商人は利益が出たのか?という疑問が沸く。
東海系の土器もまた広く拡散しているが、これは土器の中身(保存食?)が交易品だったと思う。
庄内式土器は煮炊き用だから、中に物資を入れて運んだということも考えられない。
97 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 18:24:07
庄内式土器が九州の土で焼かれていたという例はあるのだろうか?
河内から土器を運ぶよりも、陶工が九州に出向いて焼いたほうが楽ではあるはずだが。
そのあたりの詳しい事情がわかれば、庄内式土器の性格ももっとよく明らかになるかも知れない。
筑前型庄内甕というのは、九州生産の庄内式土器です。
99 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 19:19:48
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
>>72 >いわゆる東遷説(卑弥呼共立以前)ですな
ではないんですよ。あくまでも北部九州から参加した勢力もあったと考えたほうがいいかなという程度でして
北部九州がイニシアチブを取っていたとは微塵も考えていません。
>>73 検討いたします。お節介ではないですよ、感謝します。
>>74 「誤写」でした・・・訂正有難うございます。
>>75 ここでは文献分析はしない方向で行くつもりなのですが、これだけ。
神武譚の後半gdgdには全面的に同意です。
異なる二つの物語を編集したとの解釈はもはや定説と言っても良いでしょう。
>>76>>83 綿密な考察に感服いたしました。
私はそのどちらも重要な要因のひとつであると考えております。
それ以外にも異なる宗教観や度量衡の統一など
実務レベルのコンセンサスの日々積み重なりがあったのでしょう。
>>77-78 前方後方墳・・・これ本当に難問ですね
>>81氏の仰る様に西上免、廻間などがプロトタイプだと考えられては居りますが
後円墳が次々と「進化」するのに対し、後方墳はマバカで西の築造現場を目の当たりにしたはずなのに
その後もあまり進化しないんですよね。
装飾に関しては文化を受け入れなかったと解釈できますが
築造技術に伸びが無いのも固有文化の尊重で片付けて良いのかどうか悩むところです。
>>89>>91 かっとしてやった・・・今は反省しているw
>>92 >河内庄内への嗜好が足枷になって
これもそれで片付けて良い問題ではないのですが、いかんせんモノが無いため
そういう解釈しか出来ないと言ったところが、正直今の限界です。
大和川水系の各ムラが古墳期に入っても意外と発展しない点など、不可思議です。
南四国などは爆発的に開発されますのにねえ。
>>93 >商売上の縄張り争いもあっただろうから、卑弥呼はその調停役か
私は前方後円墳に代表されるパッチワーク宗教観とは
異なる祖霊神を持つクニ同士の調整との意味合いもあったのではとかつて述べました。
また取引上のトラブルを防ぐための契約の場として、合同神官機関が必要だったのではないでしょうか。
つまりお互いの神(祖霊)に契約遂行を誓い合うと言ったような感じで。
>>95 ごめんなさい、賛同しません。
大量の武器片や征服側の祭祀器、また焼土痕や破壊痕
征服側の拠点施設跡など、どれかひとつでも出土すれば検討するのですが。
まあこの「老教授」と名乗る人物が本当に教授なのか否か
それをレスの内容から計る程の知識は俺には無いが…
(つうかそういった自己申告を一々真に受けていたら、2ちゃんは医者や弁護士だらけになるだろうがwwwwww)
>>53 >えーと・・・九州説を完全沈黙させるのは、畿内説論者にとってもあまり得策ではないと考えております。
これは「そうなんだろうなあ」と思わざるを得ない。
要するに…
「”古代史”なんて浮世離れした分野の大衆の興味を惹き付けておくには、やはり邪馬台国論争は有効。
よって九州説は生かさず殺さずにしておくべし」
…と言う事なのだろうw
先の民主党の”事業仕分け”でのスパコンのすったもんだも他人事じゃないだろうしwwwwwwwwwww
確かにねえ。しかし、素粒子などの分野は産業・軍事に応用が利くから、各国で目の玉が飛び出るような加速器
を造ったりしてる。やはり古代史はこういう面では弱いだろうし・・・。
>>102 ところで教授は、>桜井茶臼山古墳“卑弥呼の鏡”に繊維痕 1枚ずつ絹袋に?
これは電子新聞の見出しですが、「卑弥呼の鏡」というのもどうかと思いますが、鏡が袋に入れられていたとして、
破砕した破片をわざわざ袋に入れたものなんでしょうか?このあたりの見解をおうかがいしたいです。
>>96 これ面白い実験がありまして、実際に徒歩でレプリカを運ばせたんですよ。
稲藁で編んだ粗網に、各人庄内式10個包んで背負わせ、48時間耐久で。
結果、ひとつの破損もなく無事運搬できました。
実際に山道を踏破した学生諸君は、「割ったら単位やらん」と脅されていたらしいですが。
>>103-104 そこまで人が悪くは無いんですけど、仰るように「単なる金食い虫」なんですよね。
副産物も全くナシのくせにやたらカネがかかり、おまけに地権者様は大損。
いわゆる畿内説学者の大袈裟な煽りにも、慈悲の心で接していただければと・・・
107 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:18:58
>>104 邪馬台国あたりの歴史観は、問題だよ。
すでに、韓国では卑弥呼は朝鮮から渡った姫というのが定説化している。
その説を観光目的で後押ししてるのが吉野ヶ里の佐賀県なんだから始末が悪い。
それに東遷説が加われば、アマテラス=卑弥呼=天皇家は朝鮮起源にされてしまう。
これは国益をかなり損なう。
>>105 両方考えられます。
黒塚の様に完品だとしたら、保護あるいは袋そのものが威信財と見られ
破鏡ならば、北部九州の影響との見方も出来ます。
後者の方が面白いのですが、どうやら墓室全体に散らばり埋もれていたとの状況だったそうなので
それが元々袋入りだったと言うのは何か不自然ですね。
109 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:30:53
袋入りで積み上げられていた鏡に、暗い中で盗掘者が座った。www
110 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:32:49
>>108 >破鏡ならば、北部九州の影響との見方も出来ます。
……だから、九州の王家が畿内に東遷したのだ、という人がいますが、
どのように反論されますか?
>>101-102 >>76の者です。ありがとうございました。
「パッチワーク宗教観」というキーワードとその背景の「合同神官機関」説、
大変面白いと思います。あと
>>83と
>>93の方もご意見ありがとうございました。
経済が統合を生んだという実益優先論と併せて考えると
老教授先生の合同神官機関説を含め、形成過程を理解する一助になりそうです。
また、
>>93の方の「奈良に進出した吉備や讃岐の豪商の墓」という指摘を見て
あらためて、自分が初期ヤマト王権が単一王統であるという呪縛に縛られすぎているなと
反省しています。
となると、やはり気になるのは
>>77-78にあった前方後方墳についてです。
いわゆる「パッチワーク宗教観」からは外れていて、かたくななまでに方形にこだわっている。
といっても空間的な集積性はみられず、時間的には古墳時代前期に発作的に出現してその後ほぼ絶滅するわけです。
つまりその範囲は、前方後円墳文化に対峙した前方後方墳文化といった「二項対立」あるいは単純な「東西対立」は想定できそうにない。
濃尾平野以東の東日本各地においては古墳時代前期の「いわゆる出現期古墳」のみ、
その大部分が前方後方墳であって、その地域首長の子孫の墳墓は前方後円墳に取って代わられるという珍妙な現象。
この前方後円墳への転換が、上記の「パッチワーク宗教観」であるとしたら、出現期のみにかたくななまでに採用された方形とは一体なんだったのでしょうか?
>>76で少し触れましたが、前方部の機能が「矩形壇」に見られるような遺族の祭祀施設であったとすれば、墳墓の築造にあたって埋葬部である「後部」の形態の差異は、
「円」にする西日本文化と「方」に固執していた(出現期だけですが)東日本という地域性によるものということなのでしょうか?
余談ですが、お正月にお雑煮などで食べる餅は、関西では丸餅ですね。
関東では四角い餅、しかもお雑煮の際にはまず軽く焼くことで「四角形が崩れないように」してあります。
やはり東ではなにか矩形というものに対するこだわりのようなものがあるような気がします。
112 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:38:17
東遷説が証拠だというのは、銅鐸の消滅や、三種の神器の副葬、破鏡の習俗とか、文化の伝播であることが
多いんだよね。逆にいえばそれだけ戦闘跡などの直接証拠がないってことなんだ。
>>109 面白かったのでマジレス
桜井茶臼山の盗掘は鎌倉前期から中期と推定されてまして
その頃には墓室内は天井が崩落し、泥まみれだったと考えられています。
この状況では、盗掘時点ですでに絹は失われていたでしょう。
また大抵の場合、盗掘者たちは蝋燭持参でトンネル掘ってぶっこ抜いていくんですよ。
で彼らの目的は完品の鏡ではなく素材だったりしますので
運びやすくするためにその場で割りまくったとの可能性すらあるんですよw
しかし、1枚ずつ袋に入っていたとすると、元から破鏡という線はほぼないな。
>>110 破鏡の「習慣」ですので、まず情報の伝播の可能性と並列して検討すべきと答えます。
これに加えて物理的な遺物の大量移入があった際、初めて移動の可能性を検討いたします。
今の段階で東遷を想定するのは何かの確証バイアスによるものと言わざるを得ません。
>>111 こちらこそ見事な考察有難うございます。
前方後方墳の問題は本当に難しいですね。何しろ発掘事例が極端に少ない。
こう言う時こそ「邪馬台国は東海にあり」とかぶちあげてくれる猛者が居てくれればと思います。
>>112 その3つのうち、「銅鐸の消滅や、三種の神器の副葬」というのは東遷説には無関係なんですよね。
どっかの誰かさんが、インチキと知りながら吹聴して回っているようでして・・・
まあこれも、宣伝活動のひとつとして享受すべきかなとか最近は思うようになりました。
116 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:54:02
>>111 >余談ですが、お正月にお雑煮などで食べる餅は、関西では丸餅ですね。
>関東では四角い餅、しかもお雑煮の際にはまず軽く焼くことで「四角形が崩れないように」してあります。
俺も、そういう風習が3世紀からあったのかな?と気にはなってはいたが、
角餅というのは、包丁を使って切り分けを楽にすることで生まれたものらしいから、
そんなに古代まで起源を遡れない気もする。
117 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:01:31
>>115 墓に朱を使うのは九州で始まっているよ。
鏡も弥生時代は99%が九州で出土して、本州は古墳時代直前頃以前は極めて少ないよ。
石製装飾品も弥生の九州で多数出土した、南海産の貝(ゴウホラなど)を模したものだよ。
こういったものを無理して無視することはないんじゃないかな?
あと確証バイアスの意味を分かってないよねww
東海厨らしく、前方後方墳と三輪山の話をしようと思っていたら、
すでに古墳の話が始まっているね。
まず前提として、大和盆地の前方後方墳は、
愛知県犬山市で発生した、東国式の前方後方墳であるということで、異論はあるかなあ?
要するに、山陰(出雲)起源の可能性は、神戸にひとつだけある特殊な例外を除き
時間的に考えてもあり得ないということだけど。
(スレを離れて言えば、「神話の「出雲」に騙されず、東国と山陰を無関係と切り離すのが正しいはず」というのが、
私の真の問題意識なので、この点は思わずしつこくなってしまうが申し訳ない)
これを前提として、尾張起源のはずの前方後方墳のうち、最大のものが大和盆地に林立していて、
しかも大して技術的進歩がみられないというのは、次のように考えればよいと思う。
そもそも東国の前方後方墳地域の墓文化は、実は厚葬的ではなかった。
形は決まっていたが、巨大化したり精緻化するインセンティブがなかった。
(実際、仙台付近まで広まる前方後方墳は、どこも大して大きくない)
ところが、その東国出身の豪族が、大和で葬られることとなった。
ここで、いわばアウェーで古墳を築造する必要に迫られた時、
大和盆地の文化としてすでに萌芽していた、「墓は地位に応じて巨大にすべきだろ?JK」
という文化を取り入れて、規模だけ巨大化させたのではないか?
つまり、こんな例と同じだ(実際にあったかどうかは知らない)
米国に移住した日系人が、巨大なクリスマスツリーを見て、「巨大な門松を建てよう」と思い立った。
というような話。
119 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:05:39
>>113 >で彼らの目的は完品の鏡ではなく素材だったりしますので
>運びやすくするためにその場で割りまくったとの可能性すらあるんですよw
寝言は寝て言えよ。完品の鏡が欲しくない理由があるのか?
サラブレッドを馬肉にして食うような理屈だな。
んで、わざわざ割ったのに持ち帰らなかったのか?
外に持ち出してから割る、とかそういう発想も盗掘者はしなかったのか?
そもそもすべての鏡が盗掘のための狭い穴で把握できたのか?
お前ただのアホだろww
120 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:11:35
前方後方墳の存在が、東遷説を否定してると思うんだけどね。
>>117とか前方後方墳がどうして存在してるのか説明できないだろう。
九州の王家が東遷してきて、近畿がひれ伏して前方後円墳ができたなら、
前方後方墳がなぜ並立して存在してるのか。
>>118 山陰起源ではないとの主張には私も同意いたします。
ただ岐阜の象鼻山一号などが、同時に畿内後方墳への影響を与えた可能性も検討されておりますよね。
それと神話を切り離して考えても、上信越・北陸ルートで山陰と東海・中部が
交易実績と文化共有を遅くとも後期後半には築き上げていた蓋然性は極めて高いです。
>>102 しかし、卑弥呼が一種の調停役であるというのは面白い考えだと思います。一口に首長霊信仰といっても、連合
の各クニがそれぞれの祖霊を持っていれば、やはり折り合いを付ける必要があったのかもしれません。特に
代々続いた大王のような存在がまだなかった場合においては、十分考えられることだと思います。首長が一同に
介しての共食儀礼、あるいは殯などの場面でそのようなことがあったのかもしれません。
>>121 そうですね。信濃あたりは、北陸、東海両面からの文化の伝播が見られます。
124 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:25:10
>>115 >「銅鐸の消滅や、三種の神器の副葬」というのは東遷説には無関係
古墳時代の前あたりを境に、銅鐸は消滅し、その後全く登場しない。
入れ代わるように、古墳時代になって、弥生時代からの九州の墓の副葬品で
ある鏡、剣、玉類が古墳の主要な副葬品になる。三種の神器として皇室の
シンボルにまでなっている。
劇的な変化が見て取れる。一方で、皇室の歴史書である記紀には、権力の
移動としての神武東征が重要なモチーフになっている。
東遷説と無関係というのなら、銅鐸の消滅や三種の神器の根拠をうまい具合に
説明することだな。
>>117 >鏡も弥生時代は99%が九州で出土して
…なんか例によってサイキバ君ッぽいがwwww
で、そのデータソースは?
少なくとも岡村編年とかで見ても余程古い時代(BC)で区切らないと
そのようなワンサイドな比率にはならない。
まあ岡村編年に対しては九州説からは
「全体に古く見すぎ」と言うクレームがつくのが常だが
この場合百年やそこら弄ったところで同じだろうにw
サイキバ君、新年早々あまり恥ずかしいレスはしないようにwwwwwwww
>>117 墓に朱を使うのは九州の影響というより
中国の神仙思想の影響だろう。
山の辺に桃畑が多かったり、桃にまつわる
伝承が多かったりするのと同じで。
盗難者が鏡を割っていったのは、やはり祟りとかを
恐れて割らざるを得なかったんじゃないかな?
で、鎌倉前期とかの盗掘なら銅不足目当ての転売目的だろう。
127 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:30:32
管玉や鉄剣なんかは別に九州特異的な文化じゃなくって
関東でも弥生時代の方形周溝墓から確認されてるよね。
128 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:31:18
>>120 そういうことは、東遷説でなくても証明できないと思うが。
前方後方墳だけでなく、前方後円墳もそれ以前には日本のどこにもなかった
わけだから。
大和大朝廷西遷説によれば、甕棺、大型銅製武器による祭祀などが一斉に消滅したのは、大和大朝廷が
九州に西遷したためである。前方後円墳の伝播の状況を見れば、九州が徐々に屈服していく様が手に取る
ようにわかる。
>>121 スレ違になってしまうんだけれど、
有史以来、東海と北陸は、地理的距離に比して「没交渉」といってもいい、縁遠い地域なんですよ。
これをやたら一体化させたがるのは、名古屋の財界(中日新聞社と名古屋鉄道)だけだったりします。
陰陽連絡の乏しさでは、山陰山陽の比ではないのではないか。
「信越」という結びつきはあるのですが、
これは、北信と越後との結びつきであり(南信・東信はほぼ無縁)
しかも、明らかに信濃→越後という伝播方向となっている。
(これは、後代の話ですが、方言を見るとよくわかります)
越と吾妻は、どこまでも別の国なのです。
半ば冗談ですが、今でも、文化から体型まで(笑)全く対照的。
体型(身長体重の統計値のことです)というのは、たまたまN速で昔見たスレにかこつけたネタですが、、
要するに、今でもわかるほどの形質的な差異があるということ。
131 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:37:16
>>128 前方後方墳は、東遷説では説明不可能。
なんせ、ひとつの王家が乗り込んできて、前方後方円墳を作らせたってわけだからな。
前方後方墳が存在する理由が説明できるわけがない。
東遷を考え無ければ、大和と東海が同じような力関係で連合し、墳墓を作ったと考えればいいだけ。
>>119 えーと、銅鏡を珍重したのは古代と近代中期以降だけなんですよ。
鎌倉期などではもう何の価値も無くて、コレクターズアイテムでさえありません。
それほど当時の皇族家の権威は失われていたんでしょうね。
蝋燭にしても夜も掘る為に必要だった訳でして(盗掘坑にススが残ってます)
ほとんどは真昼間から大挙して穴掘ってたという記録も残っています。
それと、銅鏡ほとんど持ち帰られてますよ。破片が残ってただけでも奇跡です。
崩落の際に割れたり欠けたりもしてるでしょうしね。
>>124 三種の神器って概念そのものが6世紀以降なんですよ。
でここが「知っていながら騙っている」部分なのですが
九州島で出土する副葬品って、十数種あるのです。
そのうち鏡・剣・玉の3点セットのみの出土は一例もありません。
十数種のうち任意のいくつかが認められ、その中に3点セットも含まれるものもある。
つまり3種でなく2種だったり5種6種だったりするのです。
盗掘の可能性を考慮しても、これでは3種という前提が成り立ちません。
銅鐸については、先に銅矛・銅剣が消滅します。
最終的にわずかに残った銅鐸は東海ですが
これって東遷どころか九州勢力が先にどこかの異民族に滅ぼされたとかになっちゃいますよ。
単純な九州勢力の東遷説なんてのは、もはや有り得ない話だよ。
134 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:41:30
>>129 甕棺はいっせいに消滅してはいない。それに、甕棺は祭祀色もないし、宗教色
もないただの棺。権力者としてもそれほど神経質になるものではない。
そんなのは、銅鐸消滅と相殺させるための詭弁だな。
>>134 >甕棺は祭祀色もないし
ほう、では九州で、大型銅製武器が一斉に消滅するのは祭祀形態が変わったためだと認めるわけかな?
136 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:48:07
吉野ヶ里にも前方後方墳があるんだよな。
だったら何か? 東遷したあとで、東海でデザインされた前方後方墳を九州に輸入したってか?
137 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:51:26
煽ることに必死なあまり時系列が破綻してる馬鹿がいるぞ。
>>134 >甕棺はいっせいに消滅してはいない
ええ、ですので九州勢力が異民族に滅ぼされたってのも考えにくいでしょ。
銅鐸も一斉には消えていないんですよ。
銅鐸と三種の神器。
この二つについては逆に東遷説が不利になっちゃう材料でして
違うネタで突っ込んでいただければ幸いです。
あと247年と248年の日食と言うネタも、もうお腹いっぱいです。
これも両方とも日本列島では観測不可能であったことが明らかになりました。
139 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:54:11
前方後方墳の広がりは、ヤマトのみならず東海勢力の豪族の影響も全国に広がったということ。
一方、九州には、前方後円墳・前方後方墳に対峙するような
九州独自の墓制が何も無いよな。
九州のツクシ王権は本当に滅亡してしまったかのようだ。
140 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:54:38
>>132 弥生時代の九州では、鏡、玉類、剣を副葬する墓が非常に多い。
全てが揃っているというわけではないが、その傾向が強い。
問題は、これに匹敵するほどの地域が他にあるかということ。
近畿地方にはあるかな?
古墳の副葬品にもその傾向が顕著に出ている。これは近畿地方の弥生時代
との連続性が強いかな?それとも九州との連続性が強いかな?
言わずと明らかだと思うが。
銅鐸は、他のものと性質が異なる。明らかに祭祀色が濃い。
こういうものは、非常に大切にされる。大切にされるがゆえに、他の勢力に
とっては邪魔なものになる。
銅鐸の消滅が重要視されるのはそういうことだよ。
141 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:56:11
>131
前方後方墳を考える上でいつも引っかかるのが、天理の西山古墳。
全長183メートルの大古墳でありながら、あまり話題にならない。
3段構造の下1段が前方後方型でありながら、上2段は前方後円型。
地元では、最古の陵墓とされ、崇神天皇陵との説もある。
位置づけがよく分からないんだよね。
142 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:56:25
>>124 >東遷説と無関係というのなら、銅鐸の消滅や三種の神器の根拠をうまい具合に
>説明することだな。
と言うかヤマト王権が「三種の神器」とやらを九州に板頃から保持し続けていたと言う根拠を出せよつう話だなw
とりあえず九州での一番新しい副葬例とヤマトでの一番古い事例を挙げてどう繋がるのか説明してみろよ。
ちなみに記紀だと持統の代には「神璽の剣鏡」とか三種ならぬ二種だったりするw(他にも例あり)
>>132 >三種の神器って概念そのものが6世紀以降なんですよ。
>でここが「知っていながら騙っている」部分なのですが
やっぱ「三種の神器」って言うのはキャッチーなんだろうなとwwwww
それに「三種の神器」と言う言葉・概念が定着したのは6世紀どころか南北朝の時代だと言う話も聞いたことがあるw
まあ南北朝時代と言えば天皇の正統性について真剣に考えられた時代でもあるし(北畠親房が「神皇正統記」を著したりとか)
143 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:58:42
>>140 東海では銅鐸の消滅は遅れてます。
前方後方墳や箸墓が作られた頃まで、東海では銅鐸祭祀は続いてたんじゃなかったっけ?
結局東遷説というのはここまでなんだな。この銅鐸、三種の神器からまったく進展がない。じゃあ、九州のどの
遺跡の勢力が、どの程度の規模で、どんな理由で、どういう経路で東遷してきたのかって話で。www
で、ここで出てくるのが記紀の神武東征譚ってわけで。www
前方後円墳≒おもに皇別
前方後方墳≒天火明・饒速日その他を祖とする神別ら
ホタテ型・纏向型≒神別の中でも三輪氏(磯城県主・十市県主)系
という印象があるな。古墳前期についての超大ざっぱな感想ね。
純度99・3%の象嵌太刀が造れる 先進国ヤマタイの技術? やはり魏王からの贈り物!
147 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:05:43
>>118 素人だけど。
景行紀の彦狭島命に、そんな話があるね。大和国春日に葬られたが、上野国に改葬した。
前方後方墳圏を狗奴国に比定していた説によって、
前方後円墳との違いを大きく取り上げられているというだけで、
それほど大きな違いとも思えませんが。
航空写真でもない限り違いも良く分からないし。
149 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:08:47
>>138 銅鐸は古墳時代になって登場しない。古墳から出ることもない。
また、記紀にも銅鐸は全く登場しない。
皇室の祖先が、銅鐸のあれほど発達した地域にいたとすれば、皇室の歴史書で
ある記紀にまったく書かれていないのは不自然ということになる。
150 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:15:53
>>149 記紀編纂時の時代において銅鐸の時代の記録・記憶が無かったで問題なしw
(ロストしてしまったのか大和朝廷がその時代にはまだ現れていなかったかだが)
まあ神武が銅鐸を打ち砕いていったと言う伝承も無いわけだがwwwwwwww
151 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:16:15
>>149 記紀に銅鐸が出てこないっていうけど、
スサノオや大国主が活躍してた時代にも銅鐸の描写はないよね?
東遷説の理論なら、大国主が銅鐸を祀ってないとおかしいはずだが?
152 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:18:05
>>125 岡村編年って、あのトンデモのことか?
まず、弥生時代の遺跡、墳墓から出土した鏡の99%が九州からというのは認めるんだろ。
畿内説の立場からは、「畿内の鏡は伝世する。」という理屈で、「弥生時代の畿内にも
九州に負けないくらい大量の鏡があったはずであるが、全部伝世したんだ。」という
ことになるんだろ。
岡村編年は、そういう考えが根底にあるってことを知っているのか?
だいたい記紀を根拠にするならもっときちんと引用すればいい。神武東征というのは、箸墓伝説が出てくる
はるかはるか以前の話だろ。今のままだとただの都合のいいとこどりだよな。
154 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:23:23
>>150 日本書紀に面白いことが書かれている。
神武天皇の部下は刺青をしていた。それを見て、大和の娘が驚いたと。
倭人伝には、倭人は大人も子供も刺青をしていると書かれている。
男子無大小皆黥面文身
大和の娘は刺青を見たことがなかったんだろうなあ。
155 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:23:24
>>132 >それと、銅鏡ほとんど持ち帰られてますよ。
だったら持ち帰ってから割れば良いのでは?
原料として持ち帰るのなら、現地でバリバリ割るより楽だろうに・・・
現地で1〜2cmの大きさにまで執拗に割る必要性を認める理屈になっていないよ。
ふつうに考えたら、1〜2cmのかけらまでは拾わなかったってことだろ。
156 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:24:20
>>152 >まず、弥生時代の遺跡、墳墓から出土した鏡の99%が九州からというのは認めるんだろ。
はあ?ナニを言っているのかなサイキバ君はwwwwww
だから言ってるだろう?
「余程古い時代に限定しないかぎりそんなワンサイドな比率にはならない」と
ニホンゴワカリマスカ?それともまだお屠蘇が抜けていないのかな?wwwwwwwww
まあ岡村編年が信用なら無いというのならそれも良し。
読むに耐えない幼稚な理屈ばっかり言ってないで
その数字を出してきた根拠を示せよって話しだなドアホウwwwwwww
157 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:25:07
>>153 まったくだ。
だいたい、神武は三種の神器すら持ってないことをみんな知ってるのか?
神武の武器は弓だし。剣は熊野で高倉下からもらったもので、クサナギ剣は出てこない。
158 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:26:47
>>156 そういうことは根拠を出していいなよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>118,
>>141 >>76の者です。
前方後方墳はやはり難題です。
さて問題の西山古墳ですが、東海出身者のアウェイ古墳だから巨大化したという立ち位置でしょうか?
埋葬形態もなかなかユニーク。特徴的なのが埴輪の多様性で、まるで埴輪見本市です。
円筒形・朝顔形・方形・鰭付円筒形・朝顔形・家形埴輪・円形透し形などなど。
後世に置かれたものもあるでしょうが、一部は古墳築造期おそらく4世紀初頭のもののようです。
残念ながら最古の陵墓ではないことは確実ですが、被葬者像は非常に興味深いです。
20世紀に高射砲陣地にされたため残念ながら主体部が破壊されていますが、
墳頂上付近では竪穴式石室と推定さる石室石材が検出されていて、この産地が芝山産の玄武岩割り石です。
箸墓古墳(の墳丘裾)にあった竪穴式石室とぼしき板状石と産地が同一ですから、
やはり東国出身者のアウェー古墳というよりは、むしろ箸墓古墳被葬者とのなんらかしらの繋がりを連想させます。
そういう点では、被葬者が崇神帝ではないかとの伝承は非常に面白いですね。
160 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:29:02
>>156 弥生時代の畿内で鏡が出たところなんてほとんどゼロに近いだろ。
本州全体に範囲を広げたとしても、環濠集落と同時期に鏡が出土した例は
出雲などでわずかにあるだけ。
違うというなら、事例を出してみろよ。
161 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:29:27
>>157 日本書紀によると、三種の神器は、いわゆる天孫降臨のとき、高皇産霊尊が
瓊瓊杵尊に授けている。
瓊瓊杵尊のひ孫が神武天皇なので、持っていてもおかしくはないと思うが。
162 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:30:13
>>160 弥生時代の日向(南九州)でも鏡はほとんど出ないことも認めるんだな?
>>159 違ってたら悪いけど、崇神陵伝承って「勾田」という地名から来たのではなかろうか。
それに、西山古墳は前期でも後半じゃなかった?
>>140 >問題は、これに匹敵するほどの地域が他にあるかということ。
ありません。後期後半の北部九州は、倭国どころか東アジアにおける最先端地域と言っても過言ではありません。
と言うことを踏まえたうえで
>近畿地方の弥生時代との連続性が強いかな?それとも九州との連続性が強いかな?
ぶっちゃけて言うと「どちらも連続性がない」のですよ。
畿内に於いて早期に副葬品が充実するのは、ホケノ山が有名ですが
ここでの出土品は「九州ではなく吉備の特徴を持った物」なんです。
九州特有の特徴を備えた出土品は、割れた土器などに留まり
しかもそいつは環濠という「ゴミ捨て場」から少量出土するのみです。さみしい話で寸。
で銅鐸なのですが、東海製の後期モノを除いても
減少から消滅まで100年以上かかっております。
と言うことは、とんでもない大戦争が1世紀に渡り西日本で展開されたと解釈せねばならなくなります。
神武が長生きなのはこういう理由からでしょうか?
ついでに鉄器なのですが
実は畿内が九州を上回る出土量に達するのは、何と古墳前期後半か中期前半まで待たねばなりません。
もし纏向が九州勢力による建国ならば、どうしてその時鉄を持ってきてくれなかったのでしょうか?
とりあえず「その時、歴史は動かなかった」ということなんじゃないですかねぇ。
165 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:33:05
>>158 サイキバ君
根拠は出したぞ「岡村編年」だ。
で九州説の連中がいつも文句をつけてくる部分(全体に年代を古く見積もりすぎている)
と言う部分も考慮してだ。
で、お前の「99%」ってのは結局データソースは示せないのか?
いつものように脳内データって事なのかカスw
サイキバ君は今年もそんなアホな自爆芸をやり続けるのかよ('A`)
166 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:33:31
>>161 ニニギの子孫は神武だけではなくてね、先にニギハヤヒが大和に降臨したと明記してあるでしょ?
先代旧事なんちゃらにもニギハヤヒが十種の神宝を持ってた書いてある。
三種の神器は、神武が持っていなくても筋は通るんだよ。
ニギハヤヒから神武が奪ったことにすればいいので。
167 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:37:06
>>156 お前岡村説を知らないだろ。岡村は日本で出土した三角縁神獣鏡の7〜8割を舶載とする。
その上で、それが239〜240年の短期間に大量に中国で作られたとする。
それが日本でちびちび小出しに配られたというのが基本。
なぜそうなったか?
岡村は紀年鏡が三角縁の文様の抽象化でどうしても後半期になることを素直に認めた。
それゆえ紀年鏡を舶載にするためには、三角縁の大部分を舶載にする必要があった。
一方で、240年銘鏡より、あきらかに文様の抽象化が進んでいる239年銘鏡の存在も素直に認めたので
その根拠として、これは1〜2年の短期間に大量製造した過程での出来事とした。なので、短期集中の
製造という結論になった。
しかし、岡村説の結論だけを素直に見ると、「これはちょっとww」というのは否めないだろう。
168 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:38:24
>>166 饒速日命も天神の子ではあるが、ちょっと系統が違う。
日本書紀には、こう書かれている。
饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだと
いうことを知っていた。また長髄彦は性質がすねたところがあり、天神と
人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い
殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順した。
169 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:39:52
>>165 やれやれですな。
「証明責任は存在を主張する側に課せられる。」
というのは、学問の世界では基本中の基本ですよ。
なにせ、「存在しないこと。」の証明はできないですから。
ということで弥生時代(とくに環濠集落の時期)の本州で出土した鏡を出してくださいね。
崇神が徳川家康で神武が松平親氏なんだよ。
崇神が北条時政でモモソが北条政子って例えもあるな。その場合神武は北条時方あたりか。
171 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:44:33
まあなんだな
畿内説と東遷説が罵倒控えめに討論しているのははじめてみたが
その流れをつくった老享受さんの再降臨があってこそなのかもね
東遷説フルボッコでかわいそうだけど
172 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:45:03
>>168 ニギハヤヒの別名が、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊なのは知ってる?
別系なら、どうして「天照」って呼ばれることを許されてるんだろうね?
実際は、ニギハヤヒが本流で、神武という山賊が王権を奪ったと解釈したほうが、全体の筋は通るんだよ。
173 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:46:24
174 :
141:2010/01/10(日) 00:48:26
>163:崇神陵伝承って「勾田」という地名から来たのではなかろうか。
その通り、地元でもそういってます。
前方後方墳と後円墳を別の国家に属するものという意見が多いけど、
西山古墳をみていると、とうていそうとは思えない。
せいぜい、同一集団内の分派程度の差じゃないだろうか。
両者の差を、耶麻台、狗奴国にまで広げるのはかなり無理じゃないかな。
その点では148に賛成。
175 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:48:38
>>171 それはいいことだけど
記紀だけしか論拠がないようなのは他所でやってほしい
176 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:49:11
>>171 東遷説はあまりにも賞味期限切れなんだよ。
原田実とかって、この状況をどう思ってるのかな?
古田に騙され、安本に騙され……
関係ないけど。
>>169 先に「99%」という具体的数字を出された方が、まずその根拠を述べねばなりませんよ。
その数字についての信憑性が、ご主張の根拠になる訳ですから。
ちなみに私も初めて「99%」という説を見ました。大変興味があります。
宜しければこの無学の徒に是非ご教授願えますでしょうか。
178 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:53:09
>>173 >前漢後漢の鏡が余程大量に九州から出てこないと駄目なんだろうがw
本州ではその大半は古墳から出土しているよね。
環濠集落と同時期に出土したものはほんのわずかだよね。
だから、
>>152で書いたような理屈で「前漢、後漢の時期に本州に渡っていたものが、
時を経て古墳時代に埋められたのだ。」というネタのような理屈を前提に畿内説は
圧倒的に少ない鏡の出土量をごまかしてきたんだろ。
いやはや、いまだにこんな理屈を本気で言う人がいるとは・・・
179 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:55:57
>>177 あれま、畿内説の心の琴線に触れてしまったのかなww
証明責任の意味は
>>169で書いたとおりだよ。
99%と書き切ったんだから、反例をいっぱい出してよ。
簡単なことだろ。
出せないよねwww
180 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:56:17
>>172 皇室の系統は、天照大神→天忍穂耳命→瓊瓊杵尊→彦火火出見尊
→鵜葺草葺不合命→神日本磐余彦(神武天皇)となっている。
饒速日命というのは、天神の子となっているから、天照大神の子供なの
だろうが、この皇室の系統とは別ということだろう。
徳川幕府に例えれば、神武天皇は将軍の系統、饒速日命は尾張家の系統とか。
181 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:00:19
>179
>99%と書き切ったんだから
根拠無しに「書き切った」と言われてもなwwww
パーセンテージ出すには分母と分子の数字を把握していなきゃならないんだが…w
182 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:03:15
>>173 99%という数字にそんなにこだわる必要があるのかな。
多分、非常に高い割合という意味で使ったのだろうし、そのように解釈するの
普通だろう。そうでなければ、議論はそこで止まってしまう。
議論の本筋が見えなくなり、わき道に入ってしまう。
まあ、畿内説がそんな数字にこだわること自体、わき道誘導なのだろうが。
183 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:03:49
>>164 >減少から消滅まで100年以上かかっております。
>と言うことは、とんでもない大戦争が1世紀に渡り西日本で展開されたと解釈せねばならなくなります。
あるじゃない。
倭国乱。
景行紀。
倭武。
武内宿禰。
184 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:04:00
>>180 もちろん、ニギハヤヒと皇室は別系統。
そして、「天照」と呼ばれてるのは、天照大神と、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊だけなんだよ。
で、壬申の乱で、天武天皇が天照大神を祀り、東国の援軍を集めて勝利したわけ。
東国の尾張氏の祖神が天火明。
ここまで明らかなんだから、天照大神の系統の本流はニギハヤヒだったことは疑いようが無いよね?
>>180 いや僕は逆と見てる。
饒速日命がいわば「清和源氏義家−新田本流」で、
神武天皇が「松平親氏−徳川幕府」の流れ。
186 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:04:39
弥生時代には九州以外では鏡の出土が異常に少ないのは公知の事実だろ。
畿内説はそれを「伝世論」で説明してきたというのが、学説史でもある。
>>169 あ、これは教えていただくお礼と言っては何ですが
>弥生時代(とくに環濠集落の時期)
環濠集落最盛期には九州でも鏡はほとんど出土しません。
というより日本列島そのものが、鏡の時代黎明期です。
鏡が北部九州で急激に出土確認されるのは、後期後半最終期から終末期前半のごくわずかな期間です。
畿内周辺では古墳期前半と見られますが、これは弥生と古墳期をどこで区切るのかを
お互いに統一して話さないと、まんまバベルの塔状態になってしまいます。
岡村編年を基準じゃなくても構いませんので、古墳期開始をどのエポックとするか
それをご提示の上お願いします。
でないとせっかくのご主張が、ほかの東遷説の方にも役立たないのですよ。
188 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:08:25
>>186 逆に考えれば、九州は鏡を欲しがる理由が無いんだけどね。
十分な量が行きわたってるから、
卑弥呼が100枚もらって配る必要が無い。
まあ、鉄でも鏡でも絹でも、弥生時代における出土量(数)の九州優位を畿内説は認めてるんだから、この
議論の流れは変だと思うけどね。東遷を主張するなら、99%とかわけのわからない数字ではなく、少しずつ
東遷そのものを主張していけばいい。まず、東遷した勢力は九州のどこに?
190 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:10:01
>>187 九州では前漢鏡も出土しているんだけど・・・
ネタですよね。
191 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:10:07
>>184 本流か亜流かというのは難しいが、結果的に神日本磐余彦は天皇になり、
饒速日命は、物部氏の祖となっているわけだから、本流は神武天皇だと
思うが。
192 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:11:04
>>187 >後期後半最終期から終末期前半のごくわずかな期間です。
しかも場所も九州と言っても玄界灘周辺地域に集中するわけでw
まあ吉野ヶ里から大量の銅鏡がでてきたなんて話は聞かないとwwwwww
193 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:15:46
194 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:15:46
>>190 横レスだけど、出ている。東小田遺跡(福岡県夜須町)の甕棺墓から
2面出ている。大きいほうが17cm。小さいほうは多分5cmくらい。
手元の資料には大きな写真もある。
他に、鉄剣、鉄製毛抜き、ガラス製璧を使用した円盤状装飾品2点となっている。
いま、ふと思ったんだがスサノオの行動って
あれ東征じゃね? 常識だったらすまん…
197 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:20:28
>>191 そもそも、天火明が、天照大神と同一だったってことに考えを及ぼさないと。
>>190 吉野ヶ里あたりを最盛期と見るとそれもアリなのですが
そういうご主張では無い様に思えましたので。
とりあえず99%の大意を「非常に多い」と好意的解釈をさせていただくことにしますが
それにしても時代が下った古墳中期から後期にかけて
鏡と玉が完全に廃れて、かわりに鎧が登場する訳ですが
この時点で九州東遷勢力はいったん滅びたのでしょうか?
そして6世紀かはたまた12世紀に復興したと・・・そういうことでしょうか?
>>193 鏡関係の安本の表は、今の議論との関係ではちょっとダメ。
安本は本州の古墳時代直前期の墳丘墓や古墳時代の墳丘墓の可能性があっても、
弥生時代に分類しちゃうから。
安本は、あえて畿内説に有利な分類をしても、九州優位ということを示したいのだろうが。
200 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:23:23
鏡について九州説が成り立たないと思うのは…
少なくとも弥生末期に九州が鏡の出土量において”持ち直した”と思えるようなデータが無いんだよな。
順調に減り続けていると言うかwwwww
これは「傾向」の問題だから、九州説が年代にイチャモンつけても意味が無いwwwwww
まあ当時の日本には結構な鏡の需要があったんだろうし冊封されて鏡も相当数輸入したと思うが
その痕跡が九州には無いとw
ったく「岡村編年」と言えばヒステリックに噛み付いてくるが
「九州説による正しい漢鏡の編年」なるものをいまだに見たことが無いwwwwwwww
201 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:28:21
やめて老享受!東遷説のHPはゼロなのよ
冗談じゃなく粉々に粉砕するのはあまり得策ではないとおっしゃたでしょう
それより前方後方分の講義おねがいします
202 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:32:46
>>200 >漢鏡の編年
鏡の種類で編年すること自体が笑止千万だからね。
古墳時代に畿内で出土する後漢鏡や魏晋鏡とやらの大半は同型で日本で複製したものだから、
鏡の種類で製造年代を分けるなんてナンセンスなことをしても意味がない。
ところで、弥生時代の本州(環濠集落の時期)で鏡が出土した例は出せなかったのね。
203 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:34:39
>>200 人の数字とか根拠にはケチをつけるくせに、自分の言っていることの数字や
根拠は示さないんだな。まあ、それはいいとして、九州の鏡は減り続けて
いるのかな?
204 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:35:34
>>202 この人が何を勝ち誇ってるか、誰か説明してくれないか?
205 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:40:07
>>204 ムリ。
同笵鏡とか踏み返しとか理解できないんじゃない?
ヤマトから離れたところでは、鏡がより珍重されたので、
伝世して、ヤマトより後期の古墳から出土するのだって珍説は、
今回の桜井茶臼山古墳の「是」の鏡で、完全死亡ですね。
しかし、議論がこのようにしょうもなくなってストップするいつものループは、客観的に見て東遷説のせいだと
思うけどね。本州の環濠集落から鏡が出なくても東遷の確実な証拠になるわけでもなく、どこの勢力がどの
ような形で東遷してきたかを示してもらわなくては、つねににここで話が止まる。
208 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:46:08
>>202 >ところで、弥生時代の本州(環濠集落の時期)で鏡が出土した例は出せなかったのね。
じゃあ、葛城の名柄遺跡の多紐細文鏡でどうだ?
…と言ったら「名柄遺跡」の年代についてどうこう言ってくるだろうがw
同じものが佐賀の「宇木汲田遺跡」からも出ている事も考慮してくれwwwww
209 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:56:11
日本書紀にいったり、鏡にいったりして忙しい上に腹も減る。
>>198 具体的にどういう古墳を指しているのだろうか。
例えば、江田船山古墳を見てみると、馬具や日常品が副葬されているが、
鏡も6枚出ているし、玉類もたくさん出ている。
硬玉勾玉1、石製勾玉2、ガラス勾玉2、碧玉管玉24、銀製丸玉1箇、
ガラス玉一括という具合。
副葬品も徐々に変化しているのだろうが、銅鐸のようにいっせいに消滅し、
その後全く出てこないということはないと思うが。
>>207 少なくともこのスレ「その9」では
東遷説の人が持論を展開し始めたのではなくて、
東遷説の人をけしかけたように見えますがね。
ちなみに私は畿内説で、
>>13にもあるように、
強力な王権が畿内全域を掌握していたとは言えない状況だったと思ってます。
211 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:59:10
>>209 >副葬品も徐々に変化しているのだろうが、銅鐸のようにいっせいに消滅し、
>その後全く出てこないということはないと思うが。
銅矛は?釣で言ってるの?
畿内全域を掌握してはいないが、
畿外の連中に共立される畿内で一番の有力王
おもしろい。
213 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:03:52
214 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:05:40
>>210 けしかけたというか、議論したいんだろうなとは思う。
でも同時に議論の土俵に立てないフラストレーションがあるよね、考古的事実をあげた上での議論に中々つながらない。
異種格闘技というか、猪木vsアリみたいな感じ。
>>208 >名柄遺跡の多紐細文鏡
これを最初に提示すれば話は早かったですよね。
なんか調子に乗ってねちねちやってすみません。素直に反省いたします。
で後方墳の件ですが、実は専門外だったりして最新情報を把握しておりません。
明日にでも詳細を入手して、出来るだけご提示させていただきたく思います。
あと私のスタンスは異説の「否定」や「殲滅」ではありません。
PCで例えると、皆さん高性能CoreDuo搭載型4GBメモリHD1TB以上のフルスペックばかりの方々だと思います。
ただ情報の入力が十分に為されていない、単にそれだけの問題だと思うのですよ。
ですのでP2Pよろしく知識ファィルを共有できれば、更に議論が発展するのではないか。
専門家顔負けの仮説提示が可能ではないかと言う、その一心からです。
と言う訳で今夜は落ちます。
久々の電気街巡りで入手した大量のDVDを副葬品としてまわりに立てかけて。
要するにデータ不足による誤った結論
216 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:14:02
>>211 まあ、ともかく、矛自体は記紀にも登場するから、名残は残っていたのだろう。
風土記にも登場するらしい。
「天瓊矛(あまのぬぼこ)」「八千矛神(やちほこのかみ)」
「八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこのみこと)」などなど…
>>214 別に議論をしたいようにも見えませんが。
かと言って世間話をしたいわけでもなさそうですしね。
○国氏と○松山氏、○童氏と○ツボ氏のような煽り合いの相手を求めてるのかな?
だとしたら、こんなところに来ないで、縄文人にでも相手をお願いすればよいのに。
>>159 東海厨=22です。なかなか興味深いですね。
石材についてはちょっと措いておくとして
(そもそもアウェーなのだから、ホームチームと同じ会社のボールでも不思議ではない)
そのあたりを論ずる上では、三輪山の問題から避けて通るわけにはいかないのです。
一応、上に書いた「東海豪族アウェー説」は、無難な従来通りの立論を前提としているのですが、
前スレかその前か、巻向の発掘で徐々に明らかになってきたこととして、
三輪山と巻向の前後関係が、神話伝承の常識と逆なのではないか?ということがあります。
「巻向が先、三輪信仰スタートが後」
ということです。
これは、神話伝承と考古学との整合性の上で、重大な問題を提起します。
せっかく東遷で盛り上がっているので、そのネタがらみでもあるのですが、
神話と伝承の総合体が語る「東遷説」は、「二重の東遷」となっていて、
「筑紫→大和(征服勝者移民)」&「古大和=三輪(敗者先住民)→東国」
となっている。
そして、東国の名族は軒並みこの「後者の東遷伝承」を持っていて、故地を三輪に結びつけるものが多い。
ところが、肝心の三輪が巻向より後ということになると、
今に残る伝承は、巻向と東国の関係云々より、はるかに後の話である可能性が出てくる。
もはや神武東征なんて、どっかへ吹き飛んで行ってしまった、そのはるか先の話なのですが、
考古学の示す巻向自生説の行き着く果てが、伝承との完全切断ということなのか?ということです。
ここまで踏ん切りはつかないのですけどね。
219 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:25:54
>>215 >PCで例えると、皆さん高性能CoreDuo搭載型4GBメモリHD1TB以上のフルスペックばかりの方々だと思います。
>ただ情報の入力が十分に為されていない、単にそれだけの問題だと思うのですよ。
それは言える。
俺も、最新の情報を入手しては、九州説の人に提供して、内容のある議論をしようとしてるのだけど、
相手は聞く耳を持たないのが難点。
九州説に都合の良い情報しか知ろうとしないし、都合が悪いと陰謀だ捏造だと言い返す。
どうしたらいいのか本当に困る。
九州説の人に対して、こっちは親切で接しようとしても、煙たがられるだけだしな。
220 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:30:31
>>218 マキムクが開発された跡で、三輪山信仰が生まれたというのが、
考古学上の事実でしたっけ?
三輪山の祭祀跡は古墳時代より遡れない?
221 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:31:31
>>208 名柄遺跡は弥生時代後期の遺跡でOKだろうね。
多鈕細文鏡は古いね。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page840.html 銅鐸と一緒に出ているという珍しい例で古そうなんだけど、銅鐸と一緒に祭器として伝世した可能性が
高いことや、銅鐸の最後の埋納が古墳時代開始前後の頃という説に従うと、埋められた時期は
ちょっと微妙かな。
また、多鈕細文鏡の他のものとの関係からは、九州から持ち込まれた鏡ということになると、
ちょっと畿内独自の鏡としての意義付けは弱いかな。
後漢の鏡があると良いのだろうけど、なかなか本州では難しいね。
222 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:44:18
>>221 >また、多鈕細文鏡の他のものとの関係からは、九州から持ち込まれた鏡ということになると、
>ちょっと畿内独自の鏡としての意義付けは弱いかな。
ハア????
言ってることが意味不明だなwwww
空輸したんじゃなければ、そりゃ九州は経由するだろうって話しで。
ナニが言いたいん?おまえわwwwwwwww
ちなみに、この鏡は半島の慶州、日本の佐賀、山口、大阪からも出てる。
223 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:47:33
>>215 >>219 無駄!無駄!無駄!無駄〜っ!!
この板の殆どの九州説論者のイタさは知識量の多寡に由来しないwwwwww
まあ本気で言っているとも思えないがwwwww
224 :
本日の〆:2010/01/10(日) 02:57:12
で、結局
「弥生時代の銅鏡は九州が99%!」
とかほざいたサイキバ君はいつものようにその根拠を出す事も無く
トンズラでしたとwwww
225 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:11:33
なんというか、考古学の現場にいない自分は、情報源はネットか本しかないわけで。
知りえた情報で、九州説は成り立たないことはわかったものの、
ヤマト王権の成立過程についてはまだ、知りたいことが山ほどある。
九州説でも、もっと真新しい話があれば面白いけど、いまだに銅鐸とか鏡とか言われるとウンザリする。
3世紀に九州が落ちぶれてきたという前提で考えたとして、
1世紀頃は、九州は独自に中国との外交能力は確かにあった。
それが3世紀になると、畿内の卑弥呼にお伺いを立てた上で、中国と外交するようになったわけだ。
なぜ九州は畿内におもねることになったのか、九州単独で外交することができなくなったのか、
その経緯が釈然としないということはある。
いくら九州が衰退したからといっても、九州単独で倭王を騙ることは容易なはず。
それを許さなかったのは、畿内が設置した「一大率」の存在ということになるのではないか?
では、なぜ九州は「一大率」の設置を許したのだろうか?
畿内勢力による武力支配でないとするなら、九州が「一大率」を恐れた理由が思いつかない。
226 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:14:13
>>224 それが言いたいなら反証をもっと書けば良いのでは?
しかし、それができない。
銅鐸と一緒に伝世した鏡しか反例に出せないなんて、虚しいね。
弥生時代の鏡の圧倒的大多数が九州から出ていることを否定する学者がいるのか?
この事実は畿内説に不利だからあえて書かないだけで、明確にこれを否定するバカはいない。
何度でも言うが、弥生時代の遺跡、墳墓から出土した鏡の99%は九州から出ている。
だからこそ伝世論が出てきたわけだが、その前提まで否定するのか?
227 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:18:10
>>225 九州説が成り立たない理由ってなんだろう。
228 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:23:00
まあその、あれだ
遺跡がない
229 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:24:01
伝世論なんて大昔のだれかのカビが生えたような妄想と戦うなんて
かっこいいねー
230 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:24:51
老教授は、畿内による九州の武力支配には否定的ということだし、
証拠が無い以上、自分もあえて強弁するつもりは無い。
では、九州が畿内の設置した「一大率」を恐れた理由は何だったのだろうか?
九州の弥生時代末では、戦乱は日常的だったことはわかってる。
畿内が「一大率」を設置しようとしたとき、それを恐れるくらいなら、武力で排除しようとするはずではないのか?
少なくとも、「一大率」には畿内連合による武装集団が常駐していたものと考えるべきだろう。
231 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:25:01
232 :
本日の〆:2010/01/10(日) 03:27:50
>>226 これが「半数以上」と言うのならまあ編年、年代観によってそれもあるだろうとは思うが
「99%」なんてそりゃほぼ全部じゃねえかって話しだなwwww
そういった具体的な数字が出せるならその根拠を出せと言ってついに出てこない。
「99%」とか最初言い出したのはここの九州説連中なんだから
それを支持するのなら、グチャグチャ言ってないでいい加減出せよ
まあ東遷説論者にとっては
全く出てこなかったところに東遷勢力が鏡を持ち込んでそこで初めて鏡が出てくるってお話だからなwwwwww
先に挙げた「多鈕細文鏡」が神武の鏡かどうかは知らないが
そもそも文化の伝播による物と東征勢力が直接に持ち込んだものと
どう区別できるのかがさっぱり分からないwwwwwwww
233 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:28:31
九州の場合は、ほとんど遺跡の発表のようなものはないし、道路工事などで
遺跡があることがわかっていても調査されることも少ない。
自分でいろいろ駆使して探すしかない。
234 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:32:09
考えられることは、ツクシ王権が消滅してしまったということ。
何らかの理由で王を失ったところに、
畿内勢力が新たな支配者として総督を送り込んだ、と、考えることだろう。
九州の王が、畿内勢力を招きいれたとは、どうしても思えない。
いったい、どういう状況があれば、畿内勢力に対して、一大率の設置を要請するのだろうか?
北九州に(日向と比較して)前方後円墳が少ないことは、ツクシ王権が消滅してしまっていて、
首長が不在のまま、完全に畿内に政治を掌握されていることを示唆しているのではないか?
235 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:33:32
>>229 伝世論というのは、誰がどういうときに使ったものか。
それがわかっていればそんな言い方は出来ないと思うが。
236 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:37:08
東遷説が決定的に破綻しているのは、
鏡が大量に出土していた九州北部で、前方後円墳が少なく、
鏡がほとんど流入していない日向に前方後円墳が多量に作られたこと。
この状況を東遷厨は、どう説明できるのか? どうでもいいが。
237 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:41:16
>老教授
>
久々の電気街巡りで入手した大量のDVDを副葬品としてまわりに立てかけて。
相変わらずエロAV好きなこってwww
まだ笠木忍とあいりめいりなのwww
238 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:42:39
畿内のヤマト王権は、九州に進出する際に、まず、宇佐、日田、日向と同盟したことだろう。
そのうち、日向の隼人はヤマト王権に協力的だった。
その褒美として神武東征神話が作られたということには、誰も異論はあるまい。
この時点で筑紫平野のツクシ王権がまだ健在だとしても、
日向や日田を押さえられては、どこにも行き場が無く、ヤマト王権に平伏せざるをえなかった、
というところだろうか。
239 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:43:07
>>236 まあ、いろんな「想像」ができるが、例えば、古墳築造は大工事で、多くの
人間が必要になる。旧来の土地においては、それぞれに人の役割が決まって
いて、大きな工事の余裕はない。
しかし、他の土地を支配すれば、余剰人員が発生する。それらの人間に
権威を示すこと、忠誠心を求めるために大工事が行われる。
そのもっとも効果的な方法が大古墳の築造。
まあ、想像だが。
日向はそういう土地だったのかもしれない。大和も。
240 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:48:48
問題は、
>>238の状況が、卑弥呼共立後か、前か、ということ。
ヤマト王権に追い詰められたツクシ王権が、卑弥呼を立てて魏に朝貢したということも、
考えられなくもないだろう。
ただ、それでは、魏志倭人伝の記述と齟齬がある。
卑弥呼の都は、北九州の範囲よりも遠くにあるように読めるし、
遠くになければ、一大率を置いて恐れさせる必要が無い。
よって、結論としては、ツクシ王権が滅んだのは、卑弥呼共立前ということになり、
邪馬台国はヤマト王権となる。
どう考えても、九州説が成り立たないのは明白なのだ。
ツクシ王権が、どう滅んでしまったのか?そこに興味がある。
241 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:56:44
邪馬台国関係の考古学はもう想像の世界になっている。
その証拠に、何か出たときの感想を求めると、一人ひとりが全く違った解釈を
する。
大体、考古学で歴史的なものを考えようとするのに無理がある。
もし、それが出来るんだったら、歴史に謎などないだろう。
先土器時代も縄文時代も明らかになる。
242 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 03:58:51
北九州で信仰されてる女神で、与止日女命(よどひめのみこと)】というのがいるらしい。
ttp://www2.ihn.jp/~t-nk.410/saizin.html >佐賀県を中心とする北部九州に多く祀られ、又の名を「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」とも云われます。
>海神:大綿津見神(オオワタツミノカミ)の娘であり、第一代・神武天皇の祖母にあたります。
もし九州説に立つなら、卑弥呼・台与の最有力候補だと思う。
一方で、
ttp://www.qsr.mlit.go.jp/takeo/river/sagamizu.html >淀姫神社の祭神は、神功皇后の妹の淀姫で、またの名を豊姫といいます。
>神社創建のいわれは、神功皇后が朝鮮出兵のとき、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたといいます。
神功皇后の妹という伝承もあるので難しい。
地元の人間じゃないので、淀姫伝説についてはまったく詳しくない。
九州説に立つなら、このへんから攻めてみてはどうかと思う。
243 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:18:35
神話の話はスレ違いになるので、このへんでやめておくが・・・。
ツクシ王権がどこへ消えたのか?について、
朝鮮半島に基盤を移して、百済や任那とかに移住したという説は成り立つだろうか?
また神話の話をすれば、スサノオが朝鮮に渡っている。
前方後円墳が朝鮮半島に見られることは周知の事実であり、
その首長の出身は、ツクシと考えることは妥当だろう。
つまりは、公孫氏とより密接な関係を結ぼうと、ツクシ王権は、朝鮮半島に遷都したと考えるわけだ。
朝鮮半島南部沿岸部には、倭人が住み着いていた遺跡は存在する。
ツクシ王が任那に居を移し、九州が手薄になったスキに、ヤマト王権が九州に進出した、というシナリオだ。
これ以上は想像の域を出ないのでやめておく。
244 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:31:36
そもそも「九州 VS 本州四国の首長連合」とまるで九州が一枚岩のように考えるからおかしいのであってw
前スレにも書いたが原の辻が衰退し半島との交易の中心が博多湾岸地域にシフトしたと言う話や
土器の研究家によると畿内系の土器は北部九州の各地にダイレクトに入っていったというより
福岡平野でワンクッションおいて、そこでアレンジされてから北部九州の各地に広がっているとか…
それらを総合すると福岡平野の勢力がヤマトを中心にした首長連合を上手く利用し
自らの地位を確立させたんじゃないだろうか?wwwwwwwwwww
245 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:46:45
>>232 だったらさっさと弥生時代の本州の鏡の出土を出せよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
負け犬の遠吠えはみっともないぜ
毎度のことではあるがwwwwwwww
まあ畿内説の信者にはこのレベルしかいないってことだろう。
246 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:54:19
>>232 1%以上と納得できるだけの出土例を出せばいいだけなのになぜ出せないのかな。
多鈕細文鏡が銅鐸と一緒に伝世したようなイレギュラーな例しか出せないのかな?
247 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 05:14:08
>>244 九州から見れば、半島と近畿の両面外交が必要だったわけか。
で、結果的には、近畿が魏に朝貢することを後押しすることになったと。
でも、なぜ、九州は独自に外交することを放棄したんだろう?
>>244 逆にヤマトは九州全体を、福岡を介して間接支配しか出来ず、
直接支配する力はまだなかったことにもなるね。
そしてその様子は、倭人伝で王がいると書かれた国が
伊都國と女王國と狗奴國だけであるという記述とよく合う。
249 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 09:10:22
近畿地方の古墳からは庄内系土器が出土せず、
北九州の弥生遺跡や初期前方後円墳から出土する。
しかも、三角縁神獣鏡を伴った前方後円墳から。
ということは、北九州の庄内系土器は近畿地方から伝来したのではなく、
逆なんではないの。つまり、前方後円墳の発生は北九州の方が早かった。
>>244 博多沿岸〜筑紫平野をのっとった漢人勢力があったんじゃないかなぁ。
中国に朝貢しようというセンスは、中華圏の人の思考と思うんだがなぁ。
外交が卓越するのは、自身の権力基盤が弱いからである。
どこまで馬鹿なんだ。
お前だろ、海底遺跡スレでもてあそばれてるのは。
251 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 10:11:24
外野の立場から見るとさ、昨夜のバトルは実に面白い
内容がいつになく具体的で読みごたえがあった
結果的に東遷説の完敗で幕を閉じたわけだが、これは東遷側の参加者の
未熟さによる自滅が原因だろうから、もっときちんとしたひとが加われ
ば結果は違ったかもしれない
第2幕は東遷説のリベンジなるか、それとも九州説が本腰を入れてくる
か、まあ畿内説にとっては迷惑な話だろうが一般人にアピールするのも
必要だとも書いているとおり今夜も続けてくれんかね
まあ、昨夜の東遷厨は、
「おととい、古田史学を知って感銘を受けました!」というような、
絵に描いたような、「古田史学入門講座1年生」だったからなあ。
論じ慣れていないから、弱点も何も知らず、
古田説の一番の「基礎部分」を、順序も軽重も、まったくそのまま教科書(?)通りに主張するので、
もっとも原始的な九州王朝説の理解と批判が、そのまま再現されるという、
ある意味、いまどき逆にとても新鮮な、「教室的展開」となった。
俺は結構おもしろかったよ。
東海厨としては、せっかく提起した前方後方と三輪山の関係が、埋もれてしまったことが若干悲しいが、
まあ、いまどき見られないような原始的九州王朝説信者がみられたので、よかったことにしよう。
古田説の問題提起も、部分によっては決して悪くないと思うんだけどねー。
すでに明らかにした通り、俺は巻向と皇室の自生的発展説をとり、東海(中京)を非常に重視するが、
邪馬台国は、しいて言えば九州説の一種をとるわけだし、
とくに文献解釈という点では、古田説の「考え方」が示したものは、結構評価する部分も多い。
俺が重視する、古田説の功績は
1 記紀の「日向」は、断じて宮崎県ではない。
2 天孫降臨神話の元ネタは、対馬と博多湾岸のものらしい。
この2つは、かなり信ぴょう性の高い話だと思う。
(俺には1が非常に大きい。「東国の出雲は島根県と無関係」という俺の立論はこの考え方からインスパイアされたもの)
ただいずれも「神話の元ネタ解釈」であって、史実との関連性はまた別という、
神話解釈の鉄則を忘れているところに、九州王朝説の致命傷がある。
>>251 >これは東遷側の参加者の未熟さによる自滅が原因だろうから、
>もっときちんとしたひとが加われば結果は違ったかもしれない
たしかに。全員とはいわないが一部は
データ提示の仕方がよくないし、考古的事実には認識があるようだし、
論拠が文献偏重だとか議論にならない部分もあって、その上煽りだけは一人前とか。
それはともかくここは纏向遺跡についてのスレだから、議論の参加者は邪馬台国の取り扱いについてもうすこし冷静になってほしい。
文献偏重で邪馬台国について自説を展開したいなら、ドン来いでも終止符でもいいじゃない。
こういうことを書くと「同時代の貴重な記述資料を無視して何を語るつもりだ」と脊髄反射されるんだが、
文献を無視するのではなく、纏向遺跡の成立を考察する上で邪馬台国を意識することがかえって理解の妨げになっているので、
一度距離を置いて各自の説を再検討したらいいのではないかかという意味。
せっかくこのスレではいい流れが出来ているので、参加者には是非
その点を考慮して実りある議論をお願いしたいところ。
>>253 × 考古的事実には認識がある
○ 考古的事実には誤認がある
>>252 ふむ。長すぎて全部スルーしてたが、読んでみるかな。
256 :
みむろもなか:2010/01/10(日) 12:02:54
>243 :ツクシ王権がどこへ消えたのか?について、
王権なんて簡単に消えます。赤狄は王の4人の息子が全て討たれたときに歴史から消滅した。
王統なんて個人の家の系譜だから、何人か死んだら終わりなのは、今の我々には特によくわかるはずです。
257 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 12:06:11
252 :1 記紀の「日向」は、断じて宮崎県ではない。
2 天孫降臨神話の元ネタは、対馬と博多湾岸のものらしい。
ええっ、あれ確か、古田のオリジナルじゃないだろう。
>>252 そもそも王権の創始者が高い霊山に降臨する、ってのは、
北方騎馬民族の多くに見られる始祖神話なんだよ。
天孫降臨の元ネタがどこ?みたいな議論は馬鹿馬鹿しいと思うが。
>記紀の「日向」は、断じて宮崎県ではない。
これもまあ議論が分かれるところ。
日向風土記にニニギが輝く稲を撒き散らしながら降臨する話があって、
日向がまったく天孫降臨神話と無関係とは思えない。
少なくとも8世紀の記紀編纂者にとって「日向は宮崎」という認識があったことは間違いない。
日向に派遣された文官が日向国風土記を書いたんだろうけど、
記紀と明らかに違う天孫降臨神話を中央に提出なんか出来ない訳だし。
スレ違いだからこの辺りで置いておくけど、神話を安易に史実に結びつける
態度は戒めた方がいい。比較神話学とか少し齧ってから発言した方がいいのでは?
>>258 はしょって書いたので、誤解されたかな。あんまり結論の上では、おまいさんと違わないと思う。
神話の元ネタというのは、比較神話学ではありふれた、「神話の借用」の「借用元」ということ。
俺は、記紀神話は、ギリシア神話などと同じく、輸入品のパッチワークだと思っているので
(ギリシア神話のストーリーと神々の「借用元」は、中東にあるものがきわめて多い)
「単なるネタの借用元」と、「地名を真に受けた一族の故地追求」を混同したところが、
九州王朝説の致命傷だ、(そして、これは従来の皇国史観もしかり)ということ。
ただ、ひねった手をひねり返すような話で、
天孫降臨神話が、北部九州のローカル説話を借用して、
さらに、「日向」を読み替えて、宮崎の話にしてしまったらしいということは、
文献解釈のいろんな前提を覆すことになる。
俺は、これは神話編纂時の意図的な読み替えだと思っている。
大和政権は、やはり「奥地発祥の政権」であることが、プライドの高い西国を支配する上での正当性の傷となっていて、
東遷説的な議論を、 なんとか採用したかった。
おそらく、「宮崎」は敢えて選定された。これは、九州の中では例外的に、
大和政権と古くから仲が良く、しかも地理的に孤立していておだてても反逆や外患誘致の心配がない。
そんなところだから、パッチワークの要所を置いても不安がない。
同じ意図を、「出雲」と島根県の関係にも感じるんだよ。
>>259 記紀の編者がなぜ日向三代を採用したのか?は確かに興味深いところ。
最初から大和に降臨させればいいのに、日向(筑紫のヒナタでもいいが)にしたが
ために、わざわざ神武を東征させなければならない事態になった訳だ。
>大和政権は、やはり「奥地発祥の政権」であることが、プライドの高い西国を支配する上での正当性の傷となっていて、
>東遷説的な議論を、 なんとか採用したかった。
おれはもっと単純で、「皇室氏のそもそもの本貫地が日向、という言い伝えが残っていたから」
だと思う。
4〜5世紀なら、西国を考慮とかはあるかもしれないが、
磐井以降、北部九州はかなり懐柔されていただろう。
8世紀の皇室氏が北部九州を気遣って、わざわざ始祖伝承を改竄したとかはないと思う。
記紀編纂時に気遣った対象は筑紫じゃなくて、むしろ畿内の有力豪族たちだろう。
261 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:12:10
>>252 昨日は古田説は出てきていないはずだが…。
古田説は九州王朝説。東遷説とは全く違う。
古田説は、年代観などで畿内説に近い。
262 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:44:53
記紀についてはあまり知らない人が多いらしい。
天照大神は高天原に住んでいた。高天原神話ともいわれるが、それは
ここでの話が主になるからである。出雲の国譲りはこのときにある。
天照大神の孫に当たる瓊瓊杵尊が日向に天降る。
これが「天孫降臨」といわれている。これで、舞台が日向に移る。
日向での出来事が記紀に記されていて、高天原はもう出てこない。
瓊瓊杵尊のひ孫が神日本磐余彦(神武天皇)で、「東征」し、大和で即位する。
これを境に、記紀の舞台は日向から大和に移る。
単純な言い方をすれば、皇室の祖先は二回引越しをしていることになる。
高天原は葛城山系で最有力説にしてもいいんじゃねーの?
伝承、遺物、記紀からして他にないと思うんだが
延喜式最高峰の高天神社 イザナギ・イザナミ降臨して淡路島
この2つだけでも他場所が対抗できると思えんのだが
264 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:24:48
古事記で高天原から天降る箇所はたったの3箇所しかない。
筑紫、出雲、新羅だ。これをみても高天原が畿内などにはないことは明らか。
高天原は原が辻遺跡のある壱岐島であれば、この3箇所にしか天降れないことと現実の地理が適合する。
つまり史実にのっとっているということだ。
265 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:26:26
まあ、高天原は天上の場所となっているが、実際の比定地を求めるとすれば、
どこだろうなあ。
葛城というのも良く聞くが、あそこから日向に降臨ではあまりにも不自然。
266 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:33:27
「王権の礎」がスレタイとなっているから王権神話、天皇制の起源なども話題にされていいと思うが
このところ纏向遺跡を度外視したレスばかりで、どうもスレ違い気味みたいだ
このスレは初期大和王権の性格を、纏向遺跡やその他の発掘調査結果から考察する方向でいきたいと思う
記紀読めよw
高天原出発 オノゴロ→淡路島→出雲→新羅→筑紫日向
出雲は宇佐北九州も入ってると思うがこれは論点ではない
268 :
266:2010/01/10(日) 14:44:00
それと記紀を読むにしてもだが、纏向遺跡についてそれらしい記事があるのは
崇神・垂仁・景行の各天皇のあたりだと思う
これら3天皇やその周辺の皇族・重臣、あるいは敵対者などの記載と
纏向遺跡の調査に何か重なるものがあるかどうかも、いかほどかは検討してみる必要があるだろう
>おれはもっと単純で、「皇室氏のそもそもの本貫地が日向、という言い伝えが残っていたから」
だと思う。
俺もこの意見に近い。
よく、日向の古型古墳の存在をもって「東遷説」を考える人がいるけれども、
俺個人的には、古墳時代に入っていきなり古型の古墳が日向に造られることについては、
ヤマトのハツクニシラス大王となった崇神の意向が働いているのではないかと妄想している。
言うなれば、天皇家にとっての日向とは、
足利将軍家における下野足利、徳川将軍家における三河岡崎みたいなものかと。
つまり父祖の故地として重要だけれども、極端に強い思い入れが後代まで続くわけでもない、みたいな。
ついでに、歴史的事情は各々違うだろうが、あえて象徴的に言うと、
足利氏にとっての鎌倉、徳川氏にとっての駿府が、天皇家にとっての吉備、という位置づけが出来ないでもない。
ただし、尊氏が鎌倉→京都で政権樹立、家康が駿府→江戸で政権樹立を果たしたのとはちょっと違って、
私見では、「神武」は吉備→大和入りして「一家を立てた」程度であり、
大和で「政権樹立」したのはハツクニシラス・崇神であろうと思っている。
その原因をつくったのが倭迹迹日百襲姫や豊鍬入姫。
彼女たちが「国神」や「日神」を祀る巫女王に共立されたのが、
天皇家が他豪族より頭一つ突出していくきっかけ。
崇神は百襲姫の甥(甥の子)であり、豊鍬入姫の父である立場を大いに利用し、
全国規模で政治的・文化的な影響を及ぼしていくことになる「ヤマト政権」を樹立した。
考古学的にも、後の「日本」形成を考える上である意味重要なのは布留期、つまり「ポスト卑弥呼」なわけでしょ。
>>259 > 俺は、記紀神話は、ギリシア神話などと同じく、輸入品のパッチワークだと思っているので
これもどうだよ。
記紀の神話時代が輸入品のみのパッチワークなわけないだろ。
古代ギリシャみたいに先行文字文明があって、
非征服を繰り返した地域と同じにはならんよ。
考古学中心のスレだからと思っていい加減な事書くなよ。
272 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:00:50
>>268 その3代が纏向だと面白いな
景行の子が日本武尊だから纏向が西に東へ平定していくわけだ
でその子仲哀で新羅攻め、神功+応神で纏向攻め落として
難波の高津宮遷都か
273 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:06:17
>>272 纏向は神功+応神以前に廃絶してるでしょ。
その点、景行帝が晩年纏向を離れ、ただし御陵は、
箸墓を超え河内の三大古墳が登場するまでbPの規模を誇る渋谷向山古墳が、
故郷大和東南部に築かれる(そして東南部の大古墳造営は終わる)
という伝承には興味がわく。
275 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:18:00
まあ東遷厨叩きをチョッとやりすぎたんで
反省を兼ねてきちんとした纏向ネタをあげておくw
纏向遺跡で常に問題になる東海系土器の多さ…
アレって交易品を運ぶ為の入れ物じゃなくて
土器そのものが商品だった…って事は無いのかな?
まあ、これをテキトーに…もとい、ふと思いついたのは
須恵器窯の分布が5世紀後半になると伊勢湾〜遠州灘地域に異常なほど密集を見せるんだがw
何かしら土器作りに適した条件があるからなんだろうか?
だとしたら一次産業の従事者の少ない纏向は土器の供給も外部に頼らなければならず
そこで東海の人間が土器を売り込みに来たとwwww
276 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 15:30:32
纏向は王権の礎の地か
オー イエス。4世紀初に九州から崇神が半島から流入した倭人、百済人等を大勢引き連れて奈良に入った。
何故にかような事態になったかと申せば、3世紀末から仕掛けていた半島侵略が高句麗の反攻によって失敗に
帰し、かえって高句麗の勢いを増大させる結果となった。半島に住む倭人や百済人の多くは逃れて九州へ渡っ
て来た。
九州ではこの急な流入による人口増加を賄える食糧が不足した。また、半島での敗戦のあとでもあり、高句麗が
海を越えて侵攻してくる恐れもあった。そこで、崇神らが半島から流入した人々を引き連れて畿内へ移住したの
である。奈良の橿原辺りで勢力を持ちつつあった神武の子孫は遠縁にあたる崇神を受け入れた。
崇神自身は政治的能力に優れ有能な側近に恵まれていたが、半島からの流入人の中には知識人や技術者も多く、
奈良盆地の開拓に大きく寄与し、その過程で指導権を獲得していった。そして神武の子孫から王権を受け継ぐこ
とになった。
こうして奈良盆地の支配者となった崇神であったが、各地との交易を行う上で支障となる勢力も存在した。奈良
盆地の生産力を高めて軍を養った崇神は北陸、東海、西道、丹波に将軍を派遣して制圧した。これにより広域の
支配権を確立したのであるが、これがのちに大和王権と呼ばれるものの始まりである。
この四道将軍の派遣という事績で日本書紀に記された事件では各地から捕虜、人質とともに職人達が奈良盆地へ
と連れて来られた。また、幾人かの将軍達の死者も出た。崇神はこれらの戦死者とこれまで彼を支えてくれて物
故していた功労者達の霊を慰め祀るために巻向地域を霊園として古墳群を造営した。
八世紀初頭の日本書紀編纂当局は崇神を事実上の大和王朝の開祖と看做したが、その出自と年代の記述については
苦慮した。九州から移って来たということは、当時半島での敗戦という事実があり、それに崇神も何らかの関与が
疑われるので、あまり名誉なことではない(特に倭国の敗戦については触れられない)。故に、崇神は神武の直系
の子孫ということに作ったのである。
どうだ 畿内説派の諸君。マキムクは4世紀以降に作られた霊園であることがわかったかね。
277 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:32:09
とりあえず、このスレの
>>1にある
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
の根拠を示して欲しいものだな。
>>273 おい、サイキバのアホよ。
そんなに弥生時代の九州以東の銅鏡出土例が知りたいのなら
先に挙げた「名柄遺跡」に加えて
「大阪・加美2号方形周溝墓」も付け加えておいてやるから
これが1%、即ちこの二つの99倍=198の事例を持って来いよw
「99%」と大口叩いたのはキサマなんだからなwwwwwww
279 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:45:03
纏向が2世紀末まで遡れると九州での神功皇后=卑弥呼で
畿内、九州並び立てるな。勝手な妄想だが
それから東遷厨…
>>246 >多鈕細文鏡が銅鐸と一緒に伝世したようなイレギュラーな例しか出せないのかな?
なにやらいつの間にか名柄の銅鐸が弥生時代末期・古墳時代当初に破棄されたもの
…と言うストーリーになってしまっているようだがw
銅鐸の様式とかで判断できているのか?
何らかの確証があって言っているのか?
それとも銅鐸はあらゆる形式が古墳時代のアタマに一斉に破棄されたって説なのかな?wwwwwww
281 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:54:34
>>279 倭人伝などの記述から、卑弥呼が王に共立されたのは西暦180年代と考え
られる。邪馬台国畿内説を唱えるからには、その受け入れ場所を作る必要が
あるということかな。
東遷説阻止ということもあるな。纏向から大和朝廷まで連続していると
考えれば、その間によその勢力の入り込む余地がなくなるということで。
それにしても、10年ちょっと前までは、纏向は4世紀からというのが定説
だったのだが、その当時はどういう理論を組み立てていたんだろう。
もっぱら三角縁神獣鏡に終始して、目をくらませていたのかな。
「古墳時代の始まりは3世紀末か4世紀」
…この昔の定説(この板の住人の多くは学校でそう習ったはずだw)を支えていたのが
三角はくさい説に基づいた小林説だったという皮肉wwwwwwwww
うむ。みなさん、古田式東征と違う部分では、
そのまま地名とストーリー同士の連続性を信じているんだな>記紀
昨夜、「神武譚の「宇陀の下り」と、「浪速・日下の下り」は、全くの別物語の縫い合わせ」とさらりと書いて、
誰も火病らなかったので、パッチワーク説は受け入れられていると思ったんだがね。
この話の帰結は重要で、
つまり、「神武がイワレで即位した」という事実と同一のストーリーなのは、宇陀の山中にいたところまでで、
それより前の話は全部、どっか別の部族が持っていた別のストーリーのつなぎ合わせである、ということになる。
1「筑紫の日向なるところから、東方に出発した一族がいた」
2「吉備から、東方へ向かった集団があった」
3「海賊が大阪湾に侵入して撃退された」
4「紀伊山地の山賊が、山を下りて麓の首長となった」
皇室が本来もっていた伝承は4だけということになる。あとは別の話を借用してつなぎ合わせただけ。
まして、天孫降臨なんて1以前の話だから、つなぎ合わせに決まっていると思うんだが。
卑弥呼が王に共立されたのは西暦180年代
え??
285 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:12:08
>>283 神武伝承の日向〜大阪湾までに比べ、後半が妙に詳しいのは、
そもそもあった奈良盆地の統一戦争の記憶を下敷きにしてるから、
という説があるね、確か。想像でしかないが。
紀伊山地の山賊はどうかと思うが
(私は紀ノ川水系は大和川水系と利害が対立してたと考えてるので。
紀国造家が出雲みたいに代替わり毎に中央への報告を義務付けられてたり等から)。
まあ似たり寄ったりだろう。
>>285 御丁寧にありがとな。
それを読んで、そのまま真に受けて、「全部話がつながっている」と思うかい?
どうしてもそう思うんだったら、
戦前の国定教科書でも古田でも安本でも民間俗説でも韓国人の電波説でも、お好きにすればよい。
もう何も言うことはないよ。
俺などは、神々の名が地理的にめちゃくちゃに遍在しているところで、もう駄目だ。
あとで、同性質の神をつなぎ合わせて習合し、編纂したとしか思えない。
>>275 >土器そのものが商品
斬新な御意見でございますね。
東海系ならパレス壺なんて他の地域の人には珍しがられて土産モノにはなったかもしれません。
でも供献用の土器は、基本的には神様に捧げるわけですから「商品」では無いと思いますが。
289 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:24:55
>>284 倭人伝には、
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
と書かれている。
もといた男子の王は帥升と思われるので、朝貢した西暦107年から数えて
70〜80年ということで西暦180年頃が妥当になる。
梁書には、漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王
と書かれている。
漢の霊帝の光和というのは、西暦177年あたりから西暦183年あたり。
これも西暦180年あたりが妥当となる。
後漢書など多くの書物では「桓、靈間」と書かれている。霊帝の時代が
終わるのは、西暦188年頃。これも西暦180年代に妥当性がある。
弥生後期に各地でパラレルに王権が芽生え、成長していったのは、
やはり地球規模での寒冷化が大きいだろう。
それまでの弥生拠点集落を中心に、各経済ブロックである程度の自給自足が出来ていた時代は
終わって、外部からしか入手出来ない鉄資源の需要の大きな高まりが直接のトリガーに
なったんだろうと。
鉄の遠隔地交易を円滑に行うためには、各自に行うより共同した方が
効率的。遠隔地交易にはやたらとコストがかかるし(途中の国々に関所の交通料を
払わなければならない)、単独で行うのは困難。
交通路の安全性を保障し得る権威があれば、途中の首長たちと友好関係を結び、
または入手した鉄を与えて自らの連合に取り込むことで、関所料を無料にして
もらうことも可能だろう。
鉄の必要性から、拠点集落の首長たちは連合して遠隔地交易を行い、
鉄を分配する交易のリーダーの権威が高まっていった。
弥生後期の首長権力の高まりは、以上のように語れると思う。
そういった交易連合は、筑紫(広形銅矛)、出雲(四隅突出型墳丘墓)、
吉備(特殊器台)、大和・東海(見る銅鐸)など。
それぞれが葬送儀礼やレガリアを共通にすることで、ヤクザの代紋みたく
連帯意識を高めたのだろう。
>>278 「鏡も弥生時代は99%が九州で出土して」
このフレーズが一人歩きしているようですが、出所は森浩一さんあたりの発言かと思います。
あの方も思い切った言い方しますからね。
多分、発言の前段には「完鏡」で「舶載」が明らかなとかの条件がついているのだと思います。
本州でも出る「重圏文鏡」とか「多紐細文鏡」とかは「出所が怪しい」鏡種として、当然、その時点で除外済みなのでしょう。
その「条件」であれば、九州だけで100%ですが。
292 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 17:26:02
弥生時代は戦争が起り易い時代だったのだ。防護柵を備えた環濠集落や高地性集落などの存在はそれを物語る。
また、文献にも倭国乱だとかあるだろ。異常気象などで食糧不足が起れば奪い合いが起る。言わば食うか食われ
るかという厳しい時代だったのだ。
卑弥呼の時代は倭国乱の後だ。そんな時代に「ゆるやかな首長連合」みたいな仲良しクラブがあり得るか?
邪馬台(壹)国は倭国乱で疲弊して厭戦気分が高まった時期にうまいこと根回しして卑弥呼を共立という形で王
に据えることに成功したのだ。その後は卑弥呼を利用しながら自国の富国強兵化を図り、軍事的政治的な支配体
制の強化を進めた筈だ。
その支配体制の一つが一大率の設置である。軍事的な威力を背景に倭国内を統治した。このことは倭人伝に「諸国
畏憚之」と記述されていることから分る。
弱肉強食の大陸や半島と通交していればそういう国の運営になるのは当然だ。大和王権は4世紀以降に誕生したと
見られるが、状況は同じであろう。王権を支えたものは各地の豪族を従わせる力(軍事力を背景とした外交力)である。
交易を差配し、紛争を解決する。それには軍事力を背景とした政治力を要したのだ。
そのような能力を持った者は九州から来たであろう。九州に比べて畿内や北陸や東海や瀬戸内地方は大陸や半島との通交
の機会が少ないから視野の広い人材は育ちにくかったであろう。
マキムクに九州の土器の出土が少ないとの理由で九州の影響を否定する意見があるが、それは九州から来た人間が主に
知識人や軍人であって職人が居なかったということであろう。
293 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:28:04
>>290 鉄の重要性ってのは、いまでも重要だと思われてるの?
村上の本によれば、ヤマト王権成立後は東海は鉄器量が減っている。
連合が鉄器を求めていたなら、東海こそ鉄器が増えるはずなのに、そうなっていない。
鉄も求めていただろうが、最重要品目とは思えない。
東海は、三角鏡も最初は出土してないんだっけか?
294 :
290:2010/01/10(日) 17:31:44
以上のように考えれば、3世紀当時の日本のクニとは、内実、拠点集落の首長たちの連合に過ぎない。
国としての官僚機構やら統治システムは当然無かった、いや正確に言えば、
おそらくは渡来人が統治システムを倭人に伝え、徐々に統治システムが
整備される途上であったのだろうと思う。
オウの居館に、拠点集落の首長層が近侍、徐々に官僚機構に整備されていく。
古墳造りというのは、まあ文字が読めない人々にオウの権威を分からしめる手段でもあるが、
「オウのミササギ造り」という大義名分で各地から成年男子を集め強大な軍事力を擁するという
実利的な意味合いもあっただろう。
また集落の兵員可能者が減り、反乱防止に繋がる。
大和マキムクが台頭した理由は、列島の東西交易の要地であり、人と物が一番多く集まる場所
だったから、ということ。大和湖や河内潟の湿地帯など、もともと人が住んでいなかった
未開地が多くあり、多くの入植者を受け入れる土壌があった。おそらくは大陸からの入植者が
大和に多く入植し(当時のグローバルな冷害で人の動きは活発化していた)、
彼らが大和王権の礎になったのだろう。
295 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:34:37
>>291 >このフレーズが一人歩きしているようですが、出所は森浩一さんあたりの発言かと思います。
え?マジっすか?w
確かに条件つけずに言ったらそりゃただのアホ(=サイキバ)なんだろうがwwww
296 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:37:39
>>288 パレス土器は、わざわざ彩色されてるという手間をかけてるから、
「中身がほかと違う」
「手間をかけても高く売れる」
という要素があったと思う。
祭りで使うものなら、酒かな〜?とか思ってるんだけどどうかな?
パレス土器って水漏れとかするようなら、別の発酵食品かな?とも思うけど。
とにかく、その東海の産物がバカ売れしてて、東海は結構裕福だったと思う。
人口も多かったというデータがあったはず。朝日遺跡の規模は吉野ヶ里を越えてる。
鉄器が乏しくとも、生活に支障は無く、むしろ豊かだったという証拠ではないか?
297 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:40:33
土師器なんだし吸水性はあったんちゃう?
東海から大和まで液体を入れて持ってくるのはチョットと無理なんじゃね?wwwwww
298 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:40:40
>>290 東海が、鉄器が乏しくても裕福だったこと。
ヤマト王権成立後、鉄器量が増えていないこと、
奈良に、多くの東海土器があること=東海とのつながりが深いこと
という理由から、
東海は、けして鉄器ほしさに連合に参加したようには見えない、
と思いますがいかがですかな?
だから最重要商品は水銀朱でしょ。
2〜5世紀の中国で一番需要のある商品はこれ。
当時は金と同等以上の物なの位理解してるよな?
奈良東南部で交易において、貨幣の変わりになる物
といったらこれしかないんだよ。
これを相当重視していた事は、巻向周辺での
古墳の出土状況みても裏付けてるでしょ。
300 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:46:31
鉄に拘るのは、やはり、小林の影響だと思うけど、
畿内説も、鉄から脱却してもいいんじゃないかと思うけどね。
畿内の鉄器がすくないという事実、しかし畿内で王権が生まれたという事実、
この両者を鑑みれば、王権の成立に鉄が絶対に重要だったとは言えない、という結論になるはずだが。
畿内説でも、もうすこし現実の発掘成果をみないと、
ヤマト王権の成立過程を見誤ると思うのですが。
>>290 > 鉄の必要性から、拠点集落の首長たちは連合して遠隔地交易を行い、
> 鉄を分配する交易のリーダーの権威が高まっていった。
別に鉄だけじゃないと思いますけど、交易ルートの安全保障ってのは大事な要素ですよね。
> それぞれが葬送儀礼やレガリアを共通にすることで、ヤクザの代紋みたく
> 連帯意識を高めたのだろう。
正しく的確な表現化と思います。
302 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:56:54
>>299 水銀かどうかはともかく、
神武東征神話でも、わざわざ宇陀に回り込む記載があるのは注目すべきだね。
で、神武は榛原で斎場を作ってるんだよ。
延喜式が書かれた頃には、すでに榛原や宇陀には、さほど重要な神社は無いのだけど、
神武が榛原で斎場を作ったという記述があることが、
逆に、榛原には古代に重要な斎場があったと記憶されていた証拠なのだと思う。
祀りで使われる水銀朱が無関係だったとは言えないだろう。
榛原は、当然、東海へつながる道中にあるのだから、
奈良、東海、双方にとって重要な斎場だったはず。
神話上の時系列では、三輪信仰以前のことになる。
303 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:00:56
というか、そもそも「王権」ってなんですか。
何を持って王権発生とするんですか?
何かしらこれという定義があってみなさん合意されてるんですか。
人類学的な回答では
>>290の
>交通路の安全性を保障し得る権威があれば
がニアピンなんですが。
304 :
290:2010/01/10(日) 18:05:09
>>300 うーん。鉄を入手するためには、それまでの弥生社会では無理。
遠隔地交易を可能とする新たな政治体制が模索された、っていうのが
弥生後期の首長権力の高まりの原因だと思ってるので。
別に畿内以外でも王権は誕生してるしさ。
弥生後期を経て、古墳時代に突然大規模な権力が誕生するロジックをどう説明するのか?
鉄が重要なファクターだったとおれは思うよ。
305 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:06:09
>>303 王権の定義ねえ。
「誰か一人の指示に従う」
「合議制の場を設ける議長を立てる」
ということかしら?
卑弥呼の頃は、おそらく、強権的な大王がいたというより、
皆で集まって安全を保障しあい、最終的な結論は、卑弥呼様を通じて神にお伺いする、という形式だったのでは?
纏向の歴史を考察するためには纏向の資料を基に議論するのが基本です。
纏向と関係ない資料を基に纏向について言及する人があまりに多過ぎます。
>>292 > 弥生時代は戦争が起り易い時代だったのだ。防護柵を備えた環濠集落や高地性集落などの存在はそれを物語る。
> また、文献にも倭国乱だとかあるだろ。異常気象などで食糧不足が起れば奪い合いが起る。言わば食うか食われ
> るかという厳しい時代だったのだ。
私はこの争い、基本的には陸と海の争いだったのではと思います。
備蓄性に優れた農業生産物と移動能力に優れた航海技術、
農業も天候に左右されるところは大きですが、漁労系経済というのは。さらに生産性が不安定です。
見入りが少なくなれば、他者から借りる、借りられなければ奪う、奪った方が後で返さなくてよいのでお得です。
そう言うわけで漁労系集団が、海賊化して農業集団を襲う、農業集団側は襲われないように防御(環濠、高地性集落)する。
エラク簡略化して言うと弥生時代とはこんな感じの社会だったのかと思います。
寒冷化などでさらに不安定化が進むと共倒れになるので、この状態を改革しようと成立したのが広域王権の制度。
広域王権の誕生は、陸上の国々の王だけではなく、海賊系の王の参加があって初めて成り立つものでしょう。
海幸・山幸の話などはこう言った陸と海の手打ちの話がモチーフなのではないかと思います。
神話では、山幸が勝利者ではありますが、ワダツミと縁戚となりその力を利用しての勝利です。
ちなみに、「海」と「山」と言う観点では、いったいどちらが勝ったのかわからないような微妙な結末だと思えますね。
> その支配体制の一つが一大率の設置である。軍事的な威力を背景に倭国内を統治した。このことは倭人伝に「諸国
> 畏憚之」と記述されていることから分る。
このスレで倭人伝をは御法度級の行為らしいですが、一大率こそ件の海側代表の収まり処なのかなとかとも考えます。
308 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:15:14
>>304 「塩鉄論」はご存知?
前漢の始元6年(紀元前81年)、塩や鉄は専売制だった。
塩は鉄に並ぶ貴重品だったわけ。
倭国では塩の生産はどうだったかというと、
縄文時代の東北ではじまり、弥生時代は瀬戸内海や東海で行われるようになった。
これは製塩土器の出土から明らかになってる。
で、鉄の豊富だった九州では、4世紀になるまで製塩土器が出土せず、
貴重な塩は、瀬戸内海側から輸入に頼るしかなかった。
このへん、老教授に事実関係を確認したいところ。
もし、九州が、塩の供給を絶たれたら、これは死活問題になるわけですよ。
九州は鉄器が豊富で豊かだったという印象があるけど、
食生活を支える重要品目は塩しか無いはずで、その塩は弥生時代の九州では生産できなったんです。
九州が塩を求めた結果、交易において鉄と塩がバーターとなり、
相対的な九州の地位が低下した、と見ているわけです。
>>290 クニの始まりは環壕集落内の集団の組織化。
環壕に守られた狭い土地で共同生活し、
時には大規模な戦闘をしなくてはならないので、
戦士、指揮官の英雄視が行われ、
自然と階層化が培われていった。
戦いの時代が終わって、
環壕集落で育まれた組織が
大規模農業にターゲットを向けたことにより、
富が生まれ、クニが生まれた。
古墳時代初期の古墳群をみると、
オオヤマトの狭い地域で群雄割拠となっていたようだ。
それは環壕集落から出て、一気にクニが乱立したからだろう。
>>303 ここで論じている「王権」なるものは、首長制の程度概念でしかないだろ。
この時代、ヒエラルヒアに組み替わられていないことは明らかだから、
「一定の中小部族首長を包含する分節(segmentaion)を持って君臨する大首長(big chief)」
以上の人類学的(anthropological=サル学的)な意味は何もない。
ここに、中華との交渉を考える上で、「王(wang)」という中国語の概念が関わってくる。
文脈によっては、漢文の意味を用いなければならない場合もある。
古墳時代のオオヤマトだと、鉄は農具に使われてるよ。
「王権誕生」でも読んでみて。
鋤や鍬について結構詳しく書いてあるから。
312 :
290:2010/01/10(日) 18:35:37
塩に関しては珍しく西進なんだよね。
しかしまあ、北部九州の地位低下については保留。
筑紫もマキムク王権に参画してただろうし
313 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:36:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
314 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:37:29
>>281 >10年ちょっと前までは、纏向は4世紀からというのが定説
>だったのだが、
嘘ですね。
学説史の捏造はやめてください。
20年前の1990年当時でも、纏向遺跡は3世紀前半から
或いは遡って2世紀後半からかも、との考え方がありました。
315 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:39:21
昔、ソ連が崩壊する直前、
ゴルバチョフに対するクーデターがありました。
大統領にかわり「国家非常事態委員会」がソ連を掌握しようとしたのです。
このとき、諸外国は、「国家非常事態委員会」をソ連の代表者と承認すればクーデター成功ですが、
アメリカが支持したのは、反旗をひるがえしたエリツィンだった。
これは何を意味するかというと、
国の王というのは、必ずしも国の中だけで決まるわけじゃない。
影響力の大きい外国が、誰を王にするか、決定権を持つ場合があるということです。
小国の場合、大国の意向で小国の指導者が決まることはよくあること。
卑弥呼の場合もまた、倭人だけで共立されたのか?
外国の影響で卑弥呼が指名されたのかもしれないし、
卑弥呼前の男王が、外国の影響で罷免されたこともありえる。
倭国が、外国と対等に交渉できる能力がなければ、
外国が倭国王を指名していた、もっと言えば、外国が倭王となる人物を送り込んでいた、
とも考えられなくもないわけです。天孫降臨神話とよく符号します。
316 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:46:31
倭国大乱の原因は、後漢が滅んだことと無関係では無いでしょう。
後漢の後ろ盾を失った「漢と通じていた九州の王」は求心力を失ったわけです。
このとき、九州では大きな争いがあり、国は荒廃して衰退してしまった。
九州の王朝はこのときに滅亡し、
かわりに、畿内から首長クラスの人物が九州に赴任した。
こうして、九州は畿内の傘下になったと考えられるわけです。
この場合、高天原は畿内ということになりますね。葛城かもしれません。
>>302 パッチワークであっても神話はやっぱり
軽視しちゃダメだと思うんだけどね。
あと古代の歴史を語るのに、呪術、宗教的観点からの
考察が無い歴史認識はやはり困ったもんだと思います。
318 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:50:37
「九州の内乱に乗じて、畿内が九州の主導権を握った」とするなら、
畿内による武力制圧の痕跡が無くてもいいし、
九州が外交権を畿内に委ねた理由も説明がつきます。
319 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:54:07
九州はその後も、畿内によるおだやかな占領下にあったとすれば、
北九州に初期の前方後円墳が少ないことが説明できる。
321 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:58:31
A「九州が畿内により占領されていた」
B「ツクシ王権が存続したまま、畿内ヤマト連合に参画した」
この二つの考え方があると思います。
主にBが唱えられるわけですが、それだと、
九州単独で朝貢できた九州が、外交権を畿内の女王に委ねたという理由が、
どうしても理解できないわけです。
九州のメリットがわからない。
誰かうまく説明できるひといますか?
322 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 19:07:50
A「九州が畿内により占領されていた」
後漢の滅亡により、「漢と通じていた九州の王」は求心力を失い内乱が起こる。
↓
内乱で、ツクシ王権は滅亡。
↓
九州は、無政府状態。民衆は新しい指導者を求めていた。
↓
畿内が、ツクシ政権掌握に成功。
↓
九州経営担当者が一大率と呼ばれる。
九州が外交権を畿内に委ねたこと、
庄内式土器の九州への移動、
初期の前方後円墳の少なさ、
これらの理由が説明できる。
323 :
290:2010/01/10(日) 19:12:03
>>321 まず筑紫自体が一枚岩ではなかったこと。
ツクシの首長たちの多くが直接マキムクへ行き、政治に関与していたのだろう。
ので、北部九州が畿内に屈したというのは違うように思う。
ヒラバルの女王は大和に反抗的だったみたいだが。
公孫氏の遼東半島進出、漢の冊封国であるそれまでのツクシ王が遠ざけられ、
新たにヤマト女王が選ばれたというのもあるのかもしれない。
324 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 19:19:19
ABともに、九州説の人は受け入れ難い説でしょう。
畿内説でもAは考え難いという流れだと思います。
すると、残るはBですが、畿内説を支持する自分としても、
「外交権を畿内の女王に委ねた九州のメリット」が理解できないでいます。
ヤマトの大王が強権的にツクシを支配したならともかく、
「ゆるやかな首長連合」であるなら、なおさら、
九州が外交権を手放した理由に相応の説得力が必要だと思います。
畿内説を確固なものにするためにも、九州説の人を納得させるためにも、
十分な説明が必要だと思います。
ちょくちょく書き込んできた東海厨だが。
おまいらの妄想力には、正直ついていけん。
>>290あたりの脳内以外の、一体どの3世紀の地球上に「ツクシ王」なんていたんだ?
取り付く島も無いから、このスレからはいったん落ちるよ。
>>283 > 皇室が本来もっていた伝承は4だけということになる。
4は正しいとする根拠は何なの?
文献資料も、考古学的な裏付けもないでしょ。
単なる妄想じゃん。
>>270が書いているようにより古い神話の文献資料がある地域では、
どういう影響関係かがはっきりと分かるんだけど。
>>325 倭人伝に伊都國に王がいるって書いてあるじゃん。
あの・・・何で一気に100レスも増えてるんですか?今日、祭り?
とりあえず今からゆっくり読ませていただきますので、レスは後ほど纏めて。
329 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:41:45
>>328 あんたが煽るからだw
とはいっても新規参入組のほとんどは神話議論とか高天原探しなんだがね。
そんなのドン来いスレと終止符スレでやれと。
こういった九州からの「搬入土器」がマキムク無視して大暴れするのもこのスレの伝統だけど。
330 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:45:25
お帰りwww
貴方のファンが大挙して押し寄せたんだよwww
売れっ子はつらいねwwwwww
冗談はともかく、三連休とあいまって昨日までの流れが
2ちゃんとは思えないほど平穏で理性的だったので
ここなら書ける、俺の話をちゃんと聞いてくれるみたいな
サイレントマジョリティが爆発したんじゃないか?
なにしろほかは自作自演と煽りの巣窟だかんな
みんな、ボクの考えた邪馬台国を、専門家に判断してほしいんだろう
考古資料に依った考察がないのはご愛嬌ってなもんさwww
さあみんなが貴方を待ってるwww
いってこーーーーーいwwwwwww
ところで、老教授に質問です。このスレでは、おそらく昨日の東遷厨と同一と思われる人物による
「マキムク無人都市論」に悩まされてきました。ww
実際は纏向の都市としての機能をどのようにお考えですか。交易市場でしょうか、あるいは霊園的
な宗教都市でしょうか。それとも、連合の各クニの代表が居住していたとかなのでしょうか。また、
一般人の住居はここにはないのでしょうか?
これだけ答えておくよ。
>>326 単一のストーリーというのは、全部つながっていて初めて単一の物語となる。
しかし、「初代首長の即位があった」という伝承からさかのぼる征服譚の一連の流れが、
信ぴょう性が途中で著しく損なわれてしまうしまうために、
実は宇陀のところで、早々に「途切れてしまう」ということなんだよ。
だから、「皇室にのこる神武征服譚」は、
さかのぼっていって「宇陀の山中にいた」ところまでしか、信ぴょう性を認められない。
いくら、浪速や東大阪のくだりが具体的で、古地理学的にも正確なものだったとしても、
そのあと、熊野のくだりが出鱈目に近いから、
宇陀以降即位までの物語とつながらない。
333 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:31:54
神武の即位した橿原には
東北の影響のある縄文遺跡があるらしいから、
神武の祖先は東北から来たといったほうが正しいかもしれんね。
それなら宇陀を経由するのは理にかなう。
九州説さえなければ、もっと神話を民俗学的に深く検証できるのにと思うと残念だ。
量が多すぎてとても個別レスが出来ません。
どれも大変な力作で感銘を受けました。
が、とりあえずなのですが当スレは「考古学的見地」に基づいた「纏向及び原ヤマト交易連合」を
考察するスレです。邪馬台国の位置問題や記紀解釈を目的とはしておりません。
決して記紀や倭人伝を無視する訳ではありませんが
これらから邪馬台国や卑弥呼の正体を考察することを目的としたスレがすでに存在します。
これは「排除」ではなく、あるひとつの山を征服する方法論として
多方面から掘り下げてみようという趣旨に基づくものです。
ここは「纏向及び原ヤマト交易連合」観点に特化。
「謎の女王・・・」は主に文献史学からのアプローチ。
「ドンとこい」はその名の通り、両サイドの忌憚なき意見交換との役割分担を担っております。
つまり「皆の力を合わせ、各々の得意分野を駆使して真実に迫ろう!」とのシステムに拠っております。
この原則をご理解いただきたく、また切にお願い申し上げます。
335 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:49:22
>>334 それはみんなよく分かっていると思うけど
ドンこい、謎の女王がきちんと機能してないんだよな
いっそのこと文献から探る邪馬台国スレと
その忌憚なきスレを新設してあとを隔離スレにしてもいいんじゃね?
>>218 >>76の者です。
>そもそもアウェーなのだから、ホームチームと同じ会社のボールでも不思議ではない
いや、アウェイだからこそ材料の調達状況が被葬者の立ち位置の重要な考察材料になるのではないかと思います。
つまり懇意にしている経済集団の存在ですね。
…ただ、今のスレの流れでこの話をしても埋もれそうですので、また機会のあるときにお願いします。
神話伝承は考古遺物の意義を考察する上では非常に楽しいのですが、いかんせんこのスレでも展開されているように
個人の思念により現実の遺物を無視して展開されるきらいがあるので。
しかし
>>283にも「そのまま地名とストーリー同士の連続性を信じているんだな>記紀」とありますが、みなさん神武東征お好きですよね。
>>283の説が面白そうだから、ちょっと「パッチワーク説」に乗ってみる。以下、妄想。
神武って各年代の為政者が自身の起源を寄託した統合概念でしょうから、意志は一つではなく様々な思惑が交錯しています。
とりわけ崇神帝と応神帝がその性格形成に多大な影響を与えているようです。
まず崇神帝ですが、地域王から王権の主宰者に成長した時代の首長で、文献などから類推する限りではネイティブヤマトではなさそうです。
その出身は不明ですが、おそらくヤマト以外から自身の信仰神「天照大神のプロトタイプの一つ」を持ち込にヤマト首長となったものの
その支配体制は不安定であり、自身の信仰神を伊勢送りにして従前の大物主信仰(三輪山信仰?)に適合したようです。
考古的なものを意識して考察するならば、西殿塚古墳の被葬者を想定していて(場合によっては箸墓古墳の被葬者かも)各地の首長の支持を受けたものの
一番のパトロンはやはりキビ系に担がれた王権だったのではないかと。キビの出身だったかは不明ですが、
場合によっては阿讃カワチ系の人物であったかもしれません。
いずれにしても、外来からマキムクにやってきたことが、神武像の形成の根底であったのではないでしょうか?
もう一つの要素である応神帝もその出自は不明(ただ心情的に崇神系統と母系でもいいから連続性があってほしいという願望はあります)ですが、
どうやらその出自が九州にあるようです。
諸県君牛諸井の系統は景行帝の時代からその名が確認され、応神帝・仁徳帝と姻戚関係となりその後雄略帝に至るまで何度か伝承が登場しています。
西都原古墳群の被葬者など九州勢に担がれた王権だった可能性があります。
こういったものの集積が
>>260にあげられる
>おれはもっと単純で、「皇室氏のそもそもの本貫地が日向、という言い伝えが残っていたから」
という形で統合されていったのではないかと思います。
だから「高天原」探しをしても結局は不明で、崇神帝の祖先の本貫地だったかもしれないし、応神帝あたりのものかもしれない。
従前のネイティブヤマトの大物主信仰を持っていた地域首長の神話かもしれない。
---
ちょっと脱線しましたが、ネイティブヤマトの地域首長についていわゆる「纏向型前方後円墳」という物証があるので、
(この時代ならばむしろ「纏向型墳丘墓」と呼ぶべきでしょうか?諸説あると思います。)
そのあたりを考察したほうが、このスレには適合しそうです。
>>334 では銅鐸はどうなんだ?
銅鐸の消滅は考古学的事実だろうが
それも無視して考古学がどうとか詭弁ではないか
>>334 本来ならば考古学板に立てるべきスレなんだろうけど
あそこじゃ誰も見てくれないし
歴史板のココじゃ当然文献中心の議論を持ちかけて来るヤシが多いし
難しい所ですね
>>334 本来ならば考古学板に立てるべきスレなんだろうけど
あそこじゃ誰も見てくれないし
歴史板のココじゃ当然文献中心の議論を持ちかけて来るヤシが多いし
難しい所ですね
纏向くらいの山奥に外部から侵入して
あまつさえ中心都市にするって人類史的にあるんでしょうか?
中国史でもほとんど山岳は手を付けられず今でも少数民族が残り
逆に降りてきて攻められると平地側が多大な損害をだしてますよね?
纏向を中心に交易圏できるというのはそこの山岳民族が周辺を抑えて
王権を確立したと見るのが過去事例からの普遍的な見方じゃないでしょうか
>>239氏のみのレスでなく
「倭国乱」と称された「物理的なクニとクニとの戦争」を想定されておられる方が多いですね。
まずこれがそもそも考えにくいのです。
弥生後期後半、具体的には瀬戸内を中心に高地性集落が多数発生した時期を指して
これを「倭国乱れる」の記事から、物理的戦争を連想されたのではないかと推測しますが
この時期と目される高地性及び環濠遺跡から、いかなる大規模戦跡も出土しません。
青谷上寺にしても、内乱の痕跡と見るのが妥当との見解が主流です。
そもそもクニ同士の征服や殲滅戦争の痕跡が全く見られなかったという事実があって
はじめて「ゆるやかな経済連合説」が唱えられた訳です。
大規模戦跡がひとつでも確認されていたら、このようなイメージしにくい説など誰も提唱しません。
つまりは初めに「交易連合」を想定したのではなく
征服・殲滅の痕跡が全く無く、また当時の武具にそのような実効性も無かった事が判明したので
では何故有力環濠が一斉に解体され、しかも纏向のような至上類を見ない大集落が突然現れたのか
それを説明する為のものなのです。
344 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:36:26
>>343 あのね。前にも言ったことがあるが、人間の営みの中で土の中に残るものは
ごくわずか。そのうち発掘などで表に出てくるものもごくわずか。
そのようなもので、歴史がわかるというのがおかしい。
まるで、土器で戦国時代の様子などがわかるというような態度は間違っている。
妄想に近くなるし、危険でもある。
もともと考古学は、古代の文化を研究するもの。補助的な役割は期待するが、
決して主役になるものではない。
倭国の大乱は、後継者をめぐる争いと考えられる。
西暦107年に、中国の文献に初めて倭国王として登場した帥升が後漢に
朝貢している。その後継者をめぐっての紛糾が倭国の大乱と思われる。
ついでに言うと、鳥取県の遺跡は青谷上寺地遺跡。
345 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:37:38
そうですね。当時の戦力では、輸送力なども勘案すると、他のクニを制圧する戦争などは不可
能なのではないでしょうか。どうも後代の戦国時代のようなイメージを持ってしまいがちですが、
人類学の研究に見られるような部族間の争いという感じなのだと思います。そもそもクニといっ
ても後代のように面として完全に支配されているといったようなものでないのではないでしょうか。
この大規模戦争や任意のクニによる征服の想定が極めて難しくなった理由として
主なものは以下が挙げられます。
1、クニ単位で物理的戦闘が行われた痕跡を示す、少なくとも示唆する遺物・遺跡が皆無である。
2、当時の武具の強度(特に銅製・鉄製の金属器)が低く、実用武器としては
丸太棒以下の威力、実用性しか無かった。
3、長年「最強武器」の代表とされてきた鉄器だが、圧倒的に出土量を誇る北部九州にも
威信財としての副葬品以外の、実用武器が見当たらない。
4、鉄そのものが古墳中期まで下らないと、畿内の出土量が九州島を凌駕しない。
5、鉄器の保有量が圧倒的に少なかったと見られる東海・関東においても
弥生終末期までには下手をすると北部九州や畿内を凌ぐクニがすでに出現している。
6、銅鐸・銅矛・銅剣いずれにしても、徐々に廃れたものであって、短期間の消滅ではない。
何よりその周辺にあるいくつもの環濠集落が、何の変化もなく存在し続ける。
思いつくままざっと挙げただけでもこれだけありまして
もっと細かいことを述べればキリがありません。
当時の戦闘としては、矢の射かけ合いのような形が多かったのでしょうか。白兵戦というのは未開部族に
見られるような、儀礼的戦闘といった側面が強いのかもしれませんね。
348 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:56:06
「九州は鉄器が多いから優位」という意見に対して、
「はいはいそうですね」と百万歩譲って話をあわせてたけど、
結局鉄器を戦闘で使った形跡はないし、当時の鉄剣はみてくれだけで実用性なんてないに等しい。
鏃については、鉄より銅のほうがきらきら輝いて綺麗だし、
銅のほうが鉄より重いから、相手が鎧を着てないかぎり銅鏃のほうが殺傷力がある。
そして、九州ですら鎧なんて持っていない。
>>331 「マキムク無人都市論」とは、案外言い得て妙かもしれませんよ。
纏向の特異性をまた箇条書きで挙げると
1、鋤の出土が(木製・金属製を問わず)殆ど出土しない。
その他の農耕具についても放棄されるまで同様の出土状況である。
2、ドングリピッドなどの弥生集落に必ず付随する食料廃棄痕すら出ない。
3、同じく周辺に栗・団栗などの植林痕跡すらない。
4、「集落」としてはあまりに面積が広すぎる。しかもその殆どが「更地」のままである。
5、本来「集落」は人間にとって住み易い場所が選ばれ発展するる。
だが纏向は「殆ど無人だった低湿地に」に
「日本列島有史以来初の桁違いの大造成工事」によって、突然築かれる。
6、そこで使用される土木技術及び建築技術は、日本列島各地にその祖形が求められる。
それに加えて「魏尺」を用いた建築物跡が出土する。
7、前方後円墳もそうだが、何もかもが前代未聞の規模で、過去のいかなる集落とも一元的連続性が見られない。
8、宗教観すらそれまでのどのクニとも違う。むしろすべてを複合したとせねばならない。
9、外来式土器も常識はずれに多い。弥生期に外来式が突出する大和川水系各遺跡でも5%を越えないのに
いきなり14%(最新の成果では23%とも見られる)に増える。
10、ここまで「特異点」でありながら「異民族による建設」を示す痕跡が皆無である。
しかし同時期に列島中の弥生遺跡が再編成や放棄される。
350 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:18:11
351 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 23:18:28
弥生時代の甕棺に首を切断されたと見られる人骨や鏃の刺さった人骨が見つかっているでしょう。文献にも
倭人伝の倭国乱とあるし、記紀にも古代の戦闘が記されている。
老教授は「そもそもクニ同士の征服や殲滅戦争の痕跡が全く見られなかったという事実があって」と征服や
殲滅戦争を意識的に表面に浮き立たせているが、私も殲滅など馬鹿な戦争はしないと思っている。相手を服
従させて食糧なり財宝なり奴隷を獲得できればよい。喧嘩のやり方は知っていただろう。
特に、地理地勢的に半島に近い九州では大陸や半島での戦争のやり方を学ぶ機会が多かったと考えられるから
相手に脅威を与える軍備を持とうとした筈だ。
もともと教授のいうように、各戦士一人一人が鉄剣を持って闘うなどというのは幻想なのだし、鏃は黒曜石製
のほうが貫通力が高いという実験結果もあります。結局、戦闘力というのは、その集団の士気というか、うまく
いえないのですが社会的緊密度のようなものが関わってくるのではないでしょうか。私見では、白兵戦が行わ
れる戦闘では手持ち盾が使用される場合が多いだろうと考えています。
>>349 確かにおっしゃるように特異な遺跡なのですが、大規模古墳築造に関わった人達などはどこにいたのでしょうか?
353 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:26:28
>>349 ええーっ!
ろ、老教授さんまでマキムク無人都市に賛成すか!?
でも人がいなくて大溝の工事や前方後円墳の築造など
できるわけないでしょうが!!
それとも盆地のどっかから毎日労務者がマキムクへ通って来て・・・すか???
354 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/10(日) 23:31:23
>>349 私は大型古墳群の築造に関係した施設跡(祭祀関係、工事関係者の住居、飯場、資材置き場など)と見る。
当然人々が永く住む施設ではなく、工事が終れば撤去、清掃される。だから生活痕が少ない。
老師殿
巻向に戦乱の後が無いは、当時大和が協力無比だったからでしょ
中国の古代戦国時代は、各国どの国にも都市に城壁がありましたが、
唯一秦にだけは有りませんでした。
一度も侵略された事が無かったからです。
>>351 特に吉野ヶ里に残ってますね。青谷上寺「地」(忘れてましたw)にも。
しかしこれらは「死後切断」や「死体への着弾」の可能性の方が高いと考えられるようになりました。
いわゆる法医学畑からの検証結果ですね。
>相手を服従させて食糧なり財宝なり奴隷を獲得できればよい
つまり「略奪」ですね。これは倭国乱などを想定せずとも、日常茶飯事の事であって
クニ同士の「戦争」とは言えません。
こう言った「抗争」程度のものならあったでしょう。
初期環濠が「防衛施設」ではなく「防犯施設」として機能していたという事実から見てですが。
>>352 それを一緒に考えましょうよ。
私見は明日にでも述べます。今日飲んで帰ってきたもんでしてw
357 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:35:29
>>353 まだ、唐古・鍵遺跡の人々がいるだろ?
完全に廃棄されたわけじゃないよね?
俺は、マキムク開発のときも、首長は唐古・鍵で指揮をしてたはずだと思ってるんだが。
どうですか?>老教授
358 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:38:38
>>354 じゃあ去年見つかった大型建物は一体なにかなあ。
俺的には卑弥呼さんの神殿のような気が・・・・w
去年テレビの番組で、発掘主任の桜井市の橋本さんだったかな、
「大型建物の柱はその後抜かれて、再利用されたようです」
なんて言ってたよね。
>>342 山奥の都市・・・マヤ文明
てか巻向は、山奥というより盆地
長安や北京など普通に有る
360 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:41:53
361 :
359:2010/01/10(日) 23:47:18
>>353 >それとも盆地のどっかから毎日労務者がマキムクへ通って来て・・・すか???
ニヤソ・・・唐古・鍵なんかどうですか?
纏向建造と同時に再開発され、「異なる土器を使用する3ブロックが並立するベッドタウン」として
弥生期以上の規模に膨れ上がりますよ。
ただ「完全無人」と言う訳では無いと考えられますので、ご安心ください。
>>354 その役割もあったでしょう。
他の方が書き込まれている様に、経済的または政治的役割と
宗教施設や倉庫、それに市としての機能も兼ね備えていたと。
寺澤氏があえて「弥生都市」との称号で呼んだのは、この多機能性を指したものと解釈しています。
>>355 うーん、客観的に見ると大和は周辺地区のなかでは弱いです。ヘタレです。
363 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:52:35
>>362 >纏向建造と同時に再開発され、「異なる土器を使用する3ブロックが並立するベッドタウン」として
その3種類の異なる土器の出自を教えてください。
肝心かなめじゃないですか。
吉備(讃岐)・丹後・尾張と予想するけど。
364 :
355:2010/01/10(日) 23:56:32
>>362 当時の倭国は、
海と山森という天然の要害を持つ群島みたいなものだと思います
それらに囲まれた島々の中でも大和は最大で最も豊かな島だったのでは
それにより人口も多く他を圧倒していたと考えます
365 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:58:53
366 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:09:15
いくつか文字化けすると思いますが・・・・
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
■速報展 『再発掘 桜井茶臼山古墳の成果』の開催!!!
http://www.kashikoken.jp/museum/top.html 期間: 2010年1月13日(水)〜31日(日)
開館時間: 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場: 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 展示室
休館日: 1月18日(月)、19日(火)、25日(月)
入館料: 大人400円(350円) 大学・高校生300円(250円)
小・中学生200円(150円) ※ ( )内は20名以上の団体料金
主な展示品(予定)
銅鏡片78面分
三角縁神獣鏡片(25面分・正始元年銘鏡片を含む)・内行花文鏡片(9面
分)・?製内行花文鏡片(10面分)・単?鏡片(1面分)・?龍鏡片(3面分)・
半肉彫獣帯鏡(5面分)・方格規矩鏡片(2面分)・細線獣帯鏡(2面分)・盤
龍鏡片(1面分)・環状乳神獣鏡片(4面分)・他神獣鏡類片(16面分)
ガラス製管玉(1点)・同小玉(4点)
碧玉製管玉(5点)
石釧(1点)・車輪石(1点)
?形石製品(1点)
石製垂飾品(1点)
板状鉄斧(2点)
本調査・展示は (独)日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究A19202025) 「東アジアにおける初期都宮および王墓の考古学的研究」( 研究代表者 寺澤 薫)の成果による。
平城遷都1300年祭記念春季特別展「大唐皇帝陵展」開催のお知らせ!!!
詳細はページ上部にあるバナーをクリックしてください。
>>363 布留・庄内を「在地系」と見ると、この3ブロックのいずれからも出土しますが
それ以外の特に「外来系」に注目するとこうなります。
1、河内以外の外来系が殆ど出土しない東南部(旧市街地と見られる箇所)
2、吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州など(出土量順)が目立つ北部
3、東海・関東から越などが、2に加えて出土する南西部(調査途中)
なお纏向後期になると、これに加え全般的に近江や丹後・丹波・但馬・播磨などが増加します。
なお北部・中部・南部各九州と南四国、常陸・奥羽などは少量ですが全時代的に出ます。
巻向は宗教都市だったのだから生活臭が無くて当然。
人が大挙して住んでいた形跡があったら逆に変でしょ。
神仙思想の影響があるのだとしたら尚更です。
少し時代がズレるが桃源郷を目指したのでしょう。
山の辺の道南部に、桃や蜜柑が古くから植えられてるのは
それを伝える物なんですよ。
>>349 > 「マキムク無人都市論」とは、案外言い得て妙かもしれませんよ。
> 纏向の特異性をまた箇条書きで挙げると
>
> 1、鋤の出土が(木製・金属製を問わず)殆ど出土しない。
> その他の農耕具についても放棄されるまで同様の出土状況である。
今の認識では、そうなるんですか?
ちょいと前までは「鋤・鍬」は「大量」に出ているとされていたと思いますが・・・
370 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:29:17
>>367 うひょー!!
こういうデータを求めてました。さすが老教授様。改めておかえりなさい!
大量に出ているのは鍬ですね。
>>369 「農具としての鋤」と訂正させてください。
同様に「鍬状の木製器」大量に出ては居りますが、これは形状的に農業用ではないと見られています。
しかし「出土が出土する」とか・・・思いっきり馬から落馬してますねw
どうやら限界のようですので、これにて落ちます。
373 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:36:58
>>366乙
>内行花文鏡片(9面分)・?製内行花文鏡片(10面分)
?製は「にんべんに方」製(国産)すね
橿考研のこの書き方だと初めの「内行花文鏡(9面分)」は大陸製と?
そんな見ただけで分かるんすか?
老教授さん
速報展見に行きますか?
行くとすれば1月何日の何時ごろ?w
お酒好きそうですね、帰りに一杯、橿原神宮前駅東口の居楽屋 笑笑あたりでw
375 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 00:46:23
>>362 >>それとも盆地のどっかから毎日労務者がマキムクへ通って来て・・・すか???
>ニヤソ・・・唐古・鍵なんかどうですか?
>纏向建造と同時に再開発され、「異なる土器を使用する3ブロックが並立するベッドタウン」として
>弥生期以上の規模に膨れ上がりますよ。
>>367 >布留・庄内を「在地系」と見ると、この3ブロックのいずれからも出土しますが
>それ以外の特に「外来系」に注目するとこうなります。
>1、河内以外の外来系が殆ど出土しない東南部(旧市街地と見られる箇所)
>2、吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州など(出土量順)が目立つ北部
>3、東海・関東から越などが、2に加えて出土する南西部(調査途中)
>なお纏向後期になると、これに加え全般的に近江や丹後・丹波・但馬・播磨などが増加します。
>なお北部・中部・南部各九州と南四国、常陸・奥羽などは少量ですが全時代的に出ます。
現時点で、報告書なり書籍なりでデータ閲覧できますでしょうか?
>>362 > >それとも盆地のどっかから毎日労務者がマキムクへ通って来て・・・すか???
> ニヤソ・・・唐古・鍵なんかどうですか?
通勤距離まら大福遺跡が一番近いかと・・・・
377 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:10:05
>>359 たとえば古代において大阪から巻向までのルートを考えたら凄いぞ
長安と北京て…わかってて言ってるか?
あげくにインカ…適当すぎるだろ
378 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:36:37
>1、河内以外の外来系が殆ど出土しない東南部(旧市街地と見られる箇所)
>2、吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州など(出土量順)が目立つ北部
>3、東海・関東から越などが、2に加えて出土する南西部(調査途中)
しかし、九州の痕跡は本当に無いな。
これでどうして九州が首長連合に参画したという話になるのかわからん。
379 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 02:14:38
>>378 一番、基本的な問題として、違う土地の土器が出ることにどういう意味がある
のかを考えなくてはならないんじゃないかな。
土器が生活用品であることは間違いない。持ってきたのか、それとも作った
のかどちらかなのだろう。
持ってきたとすれば、どういう人が持ってきたのか。
作ったとすれば、どういう人が作ったのか、というのも重要だと思うが。
一般的に、古代の土器は女性が作ったといわれているらしいが。
ちなみに、出雲の西谷3号墓の墳丘に飾られた祭祀用土器の3分の1は、
吉備や北陸地方の特徴を持つ土器だったとされる。
>>373 「イ方製」とあるのは、疑いなく国産という程度の意味でしょう。
例えば、銘文の文字(漢字)が模様になっているものは、漢字が読めずに
模様として模倣していのでイ方製ということになります。
イ方製でないものでも、大半は国産ですよ。
確実に国産とする根拠があるものだけがイ方製とされています。
381 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 02:30:36
例えていえば、徳川家康が江戸に行って幕府を開いた。
もともとそこに住んでいた人もいた。周辺からも大勢の人が集まってきた。
こういう状態で、どこの土器が出るのだろうか。
まあ、江戸時代なんかになると、土器というか生活用品はあまり重視されない
のだろうが。
思うに、江戸の土器が一番多いだろう。次に周辺の地域の土器もけっこう
出るかもしれない。
家康の出身地である三河などの土器はたくさん出るのだろうか。
弥生怒気は東大初出土
383 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 04:08:07
>>381 その場合で文献がなかった場合には、
上方の食器ばかり主に徳利が大量出土して
「17世紀以降、急激に上方勢力の東遷が発生した」とか推理しちゃうんだろうな。
実際には樽廻船のせいなんだけど。
ところが、同時代の中国史書には、16世紀末の記述として
「薩摩国の平秀吉なる人物が、朝鮮を攻めた挙句、日本国王に封ぜられた」
という記事しかない。(実際にこのような記述なんだな)
ここに、「ピンシューチー論争」が華々しく幕を開けることとなる。
手掛かりは、ピンシューチーの出身地と明記されている「サーモー」なる地名だけ。
天下の中国史書「明書」の記述が間違っているとは、絶対に考えられないので、
「ピンシューチー」と「サーモー」の真実探しが百花繚乱となる。
さらに古い中国史書に、「薩摩」という地名があって、これは鹿児島をさしているから、鹿児島出身であるという説、
「ピン」は平らという意味だから関東平野の人物だという説、いや畿内の盆地程度でよいという説、
当時の都市を考えて江戸だという説、いや大阪だという説、いや大阪の遺跡は同時代2回焼け落ちていて駄目だという説、
まるで定まらない。
そもそも日本国内の同時期の遺跡から、「平秀吉」という文字列が出てこない(当時の慣習上当然)
そうこうしているうちに、
札幌のすすきの遺跡から、「居●屋 秀吉」と書かれた磁器の欠片が出てきて大騒ぎとなる。
地層が違うという考古学的反論がでるが、
狂喜乱舞した文献学者に「中国史書と全く同じ文字なんだよ!」と言われて、沈黙せざるを得ない。
ここに、ピンシューチー論争の決定打が出たということで、
ピンシューチーは、北海道の人物であり、サーモーは北海道石狩平野の地名ということで、めでたく論争は決着する。
>>378 > しかし、九州の痕跡は本当に無いな。
> これでどうして九州が首長連合に参画したという話になるのかわからん。
同時期の吉備にも九州の「痕跡」は薄いんですよね。
ただ、博多湾からは吉備も畿内も半島系のものも出ます。
つまり、一方通行です。
これを如何様に解釈するか、ですね。
庄内と布留が一緒に出てくる遺跡ってないんですかねぇ?
387 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:52:10
>>384 それは極端な例だろう。それに、「居●屋 秀吉」と書かれた磁器の欠片が
出て、これで決着だと大騒ぎするのは、考古学者のほうだと思うが。
でも、そのめちゃくちゃとも思える文章でも結構な情報が得られる。
それにしても、思うのは、いろんな遺跡で、各地の土器が見つかっているが、
土器の産地をどのように判断するかわからないこと。
自分で確かめることは出来ないから、専門家の判断を鵜呑みにするしかない
ことになる。
>>382 その最初の弥生式土器が土師器になるって話はどうなった?
>>385 九州が積極的にあっちこっちから輸入していたか
それとも各地から人が集まっていたか
いずれにせよ巨大商社的な位置にあったんだろう
だから吉備や大和に支配されていたと考えるの早計
でも九州が東遷したり各地を統治していたとかの線は完全に消えるね
九州勢力が大和に丸ごと東遷なんて話は
200%有り得ない話だ。
391 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 13:30:35
>>356 過去の話題を蒸し返して恐縮ですが。
国と国の戦争なんてなかったと言われますが、戦死した人間の痕跡は大部分は残らないのではないざんしょか?
特別有力な人などは丁寧に甕棺などに埋葬されて骨が残ることもあるでやんしょが、野っパラでのたれ死にした
者の残骸など残る筈もないざんしょ。現在確認されている遺跡、出土物だけで結論を出せますのんか?
392 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 13:37:58
>>379 同感。
九州からは女(の職人)を連れて来なかったんだわ。現地調達がいちばん。
393 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 13:46:19
394 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 13:47:12
>>391 考古学的な痕跡がないといえば、そんなものかなと納得する人が多いのかもね。
壬申の乱の痕跡なんてのは残っているのかな。
古代史上、最大の内乱といわれる磐井の乱の痕跡はどうだろう。
逆に言えば、古代の戦いの痕跡が残っているケースってどんなのがあるの
だろう?
意外に、あったら都合が悪いことを痕跡がないという言葉でごまかしている
のかも。
>>394 同時に壬申の乱や磐井の乱は記紀が正しく伝えているかも考えなきゃね
いまや教科書には大化の改新も聖徳太子も載ってないわけだ
396 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 14:18:10
>>385 これもいつもこのスレで問題になる
北部九州←大和←東海
…と言う土器の「一方通行」の話しだなw
自分としては
>>244の続きとして
北部九州の福岡平野(=奴国=那珂?)がヤマトを中心とした東の勢力をバックに北部九州での地位を確立し
ヤマトは東海・更にその先の関東を広大な後背地として西日本での地位を確立した(この辺は東海厨に砂鬼従うw)
…というシナリオを持っているwwwwwww
まあ纏向に九州系の遺物が少ないと言うのは邪馬台国畿内説(大和)論者にとっては
あまり良い話じゃないだろうなw
九州の土器が大量に出て(できれば三韓とか楽浪も同時に)
その胎土を分析してどうも北部の玄界灘周辺地域で、そこが不弥国なんだろうと…
言う話だったら一番手っ取り早かったんだろうがwwwwwwww
397 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 14:36:20
上の方で「戦争」についての言及があったが…
2世紀3世紀頃の古代を考えるにおいて一番ネックなのが
戦争の形態が分からない…と言う事じゃないだろうか?
まあ「戦い」となるとみんな直ぐに使用された武器に関心が向いて
この板の九州説論者だと脳内で「無敵の鉄兵器軍団」ができちゃうわけだがwwwwww
実際、木製の盾で防がれたら刃こぼれするわ折り曲がるわするような鉄剣なら
石戈の方が余程マシだろうとwwwww
そんな事より兵員の輸送手段とか、一度に動員できた兵力がどれくらいで
遠征の距離はどれくらいが可能であったのか?等々の方が知りたい。
>>356に出ている「青谷上寺地」にしても、ジェノサイド現場(w)かの如く言われるが
その集落を強襲した連中が果たして何処から来たか?
どれくらいの範囲で考えれば良いのか?
がさっぱり分かってないしwwwww
(何かめぼしい材料があるのなら教えて欲しい)
戦争の規模等々の話は「倭国大乱」「高地性集落」ひいては「緩やかな首長連合構想w」にも直結する話だろうしw
>>378 >しかし、九州の痕跡は本当に無いな。
>これでどうして九州が首長連合に参画したという話になるのかわからん。
北部九州の兵は伊都国で駐屯、一大卒に使役されてたんだよ。
京都大番役や鎌倉番役みたいなもの。
>>381 > 思うに、江戸の土器が一番多いだろう。次に周辺の地域の土器もけっこう
>出るかもしれない。
>家康の出身地である三河などの土器はたくさん出るのだろうか。
>>383 >「17世紀以降、急激に上方勢力の東遷が発生した」とか推理しちゃうんだろうな。
>実際には樽廻船のせいなんだけど。
慧眼。土器は残り易いから、それを中心に語り勝ち。土器の多寡だけで
友好か敵対かを測るのは間違い。
しかしまあ、それでも、同時代の文献がないから、考古学>文献にならざるを得ないのが現実。
唯一の倭人伝が、日本のことを分かっていない外国人が書いた、殆ど信用できない内容だからな。
>>384みたいな感じだろう。倭人伝原理主義者は、もうちょっと冷静になった方がいい。
それでも他に何も無いから、倭人伝は貴重なんだけど。
399 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 14:40:00
まあ、ここまでのまとめとしては
東遷説はない
だな
もしこのあと東遷厨がやってきても
>>1-400を嫁 話はそれからだ、で事足りる
これで資源と労力のむだづかいせずにすむ
九州勢力の痕跡なんてある訳ない。
北部九州に本拠を置く交易商社の一族が
和歌山北部と一部大和にやって来ただけ。
ヤマトに宗像神社がどれだけの数あるって言うだよ。
401 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:26:56
>>388,389
wwこんなのは正直言って畿内説正統葉にとっては迷惑な話であってwww
倭人伝と
>>384の秀吉の記事が同等な資料価値だとはおもわないし、秀吉の話は終戦協定のために来た
使節の話であって、友好的な魏と邪馬台国の交流の記録とでは情報収集の精粗があろうってもんでwww
399なんか勝手に結論出して、何様って感じなわけでwwwwww
纒向から東海系の土器がたくさん出ているということについて、だから東海が
連合王権を主導したということにはならないのではないかな。土器づくりが
どれだけ権力に近いかということが先ず問われなくてはならないと思う。むし
ろ、劣位の集団として取り込まれたというセンもあるのではないか?
403 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 16:27:18
>>402 <土器づくりが どれだけ権力に近いかということが先ず問われなくてはならないと思う。
同感。貴殿の考え方がまともだと思う。「おらんとこの土器がわんさかあるさけ権力の中心に居たんだべ
とか有力だった」とかは短絡的な考え だんべ。
404 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 17:23:51
じゃあ、九州勢力が土器を持たずに東遷したとして、
鉄ももってこなかったのか?ってことになるが。
そのへん、東遷厨はどう説明するつもりなのかね?
405 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 17:30:46
>>404 東遷厨じゃないけど。
鉄は農具や工具に使ったけど、貴重なものだから再生利用された。つまり、投棄されることがなかった
ので出土例が少ない。また、錆びるので小型のものは見つけにくい。こんなんでどうでっしゃろ。
406 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 17:31:00
結局、都合の悪い物証は「信じない」「捏造だ」「あてにならない」で切り捨てるわけだから、
話がかみ合わないわけで。
また、百万歩譲って、九州の王が単独で東遷し、
大勢の部下も引き連れず、鉄の武器も持たず、九州の痕跡を何も残さないよう移住したとしよう。
そのためには、衣食住・身の回りの世話をすべて近畿の人々に任せることになる。
そこまで、九州と近畿が友好的な付き合いが出来る関係なら、
九州の卑弥呼共立に、近畿が参画しないというほうがおかしいわけで。
ところが、九州説では、近畿は、東の海をわたった見知らぬ倭種ということにしている。
この大矛盾をどう説明するつもりなのかな?
407 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 17:32:54
>>405 お〜い、みんな、
縄文人が、畿内説になったぞ。www
408 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 17:47:21
<そこまで、九州と近畿が友好的な付き合いが出来る関係なら、
<九州の卑弥呼共立に、近畿が参画しないというほうがおかしいわけで。
<ところが、九州説では、近畿は、東の海をわたった見知らぬ倭種ということにしている。
う〜ん(困ったわけではない)。私の説では神武以下の先発隊が営々と開拓を続けてなんとか住めるようになった
ところに遠縁の崇神達が半島からの流入者と側近達を連れて来たのでありまして、それは4世紀のことであります
ゆえに、卑弥呼や壹與の時代には畿内の神武の子孫達の国は「まあ頑張ってやっとるの〜」と微笑ましく見守る対象
でしかなかったんよ。つまり、九州から見ればまだまだコドモ。卑弥呼共立に口出しできるほどの存在ではなかった。
てなわけで、倭人伝では海を渡った東の倭種と十把一絡げの扱いなのね。すまんの〜。
>>408 >倭人伝では海を渡った東の倭種と十把一絡げの扱いなのね。
無理無理、俺も以前あんたに近い考え方だったが、
それじゃ出雲や丹波の扱いに困るでしょ。
2世紀の時点でも中国との交流ははっきりしてるのに。
弥生時代の戦争については、確か佐原真氏が、@防禦的集落の出現、A真正の武器の登場(農耕・狩猟用の転用ではな)、
B戦士の墓の出現、C武器の崇拝の始まり、この四つをもって戦争の考古学的証拠と考える、と書いてるね。
411 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:11:54
>>408 チラシの裏を披露するのは勝手だが、
俺は他人のチラシの裏には興味が無い。
あくまでも、証拠を伴う事実だけが知りたいのでね。
412 :
縄文人 ◆AgznSyRXn6 :2010/01/11(月) 19:19:31
>>411 そうか、なら、これからは肛門人と改名して荒らしてやる。
エイズに気をつけニャ!
──v───────
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
考古学的物的資料で全てが推測できるなんて
あり得ないわけだから。
たとえば、鎌倉時代、日本で一番、賑わっていた都市は
京都と博多だったわけで。
もし、この時代の文字史料が残ってなかったのなら
それこそ、九州王朝と近畿王朝が存在していたと
考古学的に解釈してしまう可能性が高いわけで。
しかし、実際は、日本を統治していた政権は、鎌倉にあったわけだし。
415 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 20:00:47
鎌倉時代に天皇が鎌倉にいなかったことだけは、
考古資料だけで説明できる。
416 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 20:03:29
>>415
why?
愛知県出身の徳川幕府が、京都出身の天皇によって
征夷大将軍に任命され
現在の東京に政権を立てました。
こんなこと、文字史料でしか分からない。
この時代に文字史料がなくて、考古学的物的だけで推測しようとしても
絶対に分からないような歴史だな、
徳川政権の樹立なんて。
418 :
縄文人 改め 肛門人 ◆svpdsSvPoY :2010/01/11(月) 20:06:57
げはははあ。
ご承知のように前原には弥生時代の王墓と見られる遺跡があります。また、交易の基地ではなかったかと見られる
出土物(楽浪土器など)があり、弥生時代の住居跡と見られる遺跡もあります。王墓と見られる三雲南小路の甕棺墓
と井原鑓溝の甕棺墓および木棺墓は1世紀前後のものと考えられています。
ところが、1世紀の倭では奴国が覇権国でした。AD57には漢の光武帝から金印を授与されて漢委奴国王に任じられ
ています。漢の政策として蛮夷に王位を与えるということは漢との交易の独占権を与えるということです。
ということは、前原に葬られた王は前原を領国とする王ではなく奴国の王と考えた方が筋が通るのです。前原の地に
交易の基地があり王の墓があると言ってもそれは前原の王ではあり得ません。なぜなら、覇権国の奴国を差し置いて
楽浪郡や半島との交易を出来る筈がないからです。前原は奴国の領地であり、交易の基地であり、水軍の基地でも
あり霊園所在地でもあったのです。
>>408 もう、あきらめろよw
おまえ、縄文人というハンドル名だが、実はカンコク人じゃないのかw?
3世紀の邪馬台国は、現在の皇室につながる存在と
徐々にそういう認識になりつつある。
今の時代、江上氏の騎馬民族征服王朝説なんて
バカにされるだけだ。
大和王権を築いたのは3世紀末〜4世紀初頃に九州から奈良に入った崇神大王であったというのはどうだい。その前、2世紀
後半の倭国乱の頃東征した神武の子孫達が迎えた。崇神は邪馬台(壹)国の王族の一員であったが、半島への出兵が失敗に終
わり、高句麗が海を越えて侵攻してくるかも知れないという(倭国が半島に侵攻したのであるからその逆のこともあり得る)
心配もあり、前々から悶着の絶えない狗奴国との関係にも嫌気がさして故郷を捨てたのである。
崇神は百済からの渡来人など多数の知識人や軍人を部下として引き連れていた。政治的手腕もあったので畿内の指導者にのし
上がったが、遠縁ではあるものの神武の直系ではなかったので、王権を手に入れたことについては記紀編纂当局も苦労して欠
史八代の天皇で系統をつないだ。
崇神が王権を宣言しても従わない地方の豪族達が居たので、将軍達を北陸、東海、西道、丹波に派遣して服従させた。このとき
多くの捕虜を連れ帰った。崇神の部下で戦死した者もあり、苦労を共にして来た腹心の者で亡くなった者達もいた。これらの人
達の霊を慰め祀るために、崇神は捕虜達を主体に各地から集めた人夫を使って墓を造営した。このとき作られた箸墓などの古墳
が巻向地域に存在する。
>>418 奴国が倭で覇権国かどうかなんて、分かりません。
ただ、紀元1世紀、対中国との外国主導権を、奴国が握っていたことは
可能性として高いです。
あと、籠神社の伝承鏡の件や、池上曽根遺跡の件から見て
奴国が金印をもらった以前にも、近畿地方にはすでに
かなりの都市群が形成されていたことが分かってきています。
まあ、卑弥呼=モモソ媛命だと考えて、推測すれば
倭国というのは、近畿王朝によって建国されてからも
いろいろ内乱が勃発していたことは、想像できるので
近畿中央政権の、地方に対する統制力というのは
定期的に、強まったり、弱まったりしていたのかもしれません。
>>420 記紀を読んだら分かるけど、
崇神天皇は、近畿地方を中心に、勢力を拡大させたのであって
九州から近畿に東征したわけではありません。
魏志倭人伝、記紀などを総合して読んだら分かるけど
西暦3世紀中ごろ以前の倭国の王制は
祭祀を継承する正式な倭王と
祭祀は継承しないが、実際の政治を行う最高権力者の
二元体制を行っていたことは、なんとなく想像出来ます。
このへんが、古代皇室の謎の最大の秘密でしょう。
要するに、神武〜崇神の途中までは
倭国では、祭祀王(正式な倭王)と世俗王(実質的な倭王)の
二元体制を敷いており
倭国大乱以前は、神武皇統(現在の皇室の系譜)は
世俗王であっても、祭祀王ではなかった。
おそらく、神武皇統とは違う王統が存在していて、それが祭祀王(正式な倭王)の
地位にあったが、
やがて、倭国大乱が起こり、神武皇統が、祭祀王の地位まで独占してしまった。
それが女王卑弥呼の擁立であり、モモソ媛命=卑弥呼なんでしょう。
>>389 >>396 勝手にまとめますと少なくと布留1くらいまでは、
・大和に北部九州からの人的移動は見られない。
・瀬戸内海での物流にも関与していない。
・北部九州は纏向での祭祀には参加していない。
・吉備・畿内から、博多湾への人的移動が認められる可能性はある。
と言うところでしょうかね。
私は、以前(このスレの初代が立ったころ)は、
この時期の韓式土器の瀬戸内への流入を過大に評価していて、
瀬戸内の物流にまで韓人が関与していたと妄想していましたが、
現在では、韓との物流は博多湾がハブで、そこから先はやはり倭人のネットワークでしょう。
それも一つのネットワークでは無く、纏向とか吉備の津寺とかも一つのハブであって、
その後ろにそれぞれのネットワークがつながる。
もし「交易連合」と言うものが成立するのであれば、それぞれのハブを押さえた地域的盟主、
3〜4くらいの勢力が各地域を代表して、参加するものだったかと考えます。
425 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:13:07
遅まきながら・・・
■太刀の銘文は卑弥呼統治の証か 魏志倭人伝の記述に符合
東大寺山古墳出土の太刀に銘文「中平」 象眼は純金、卑弥呼に授与裏付け?
1月6日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100106/acd1001060201001-n2.htm 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から譲り受けたともいわれ、中国の2世紀後半の年号「中平」などの文字が象眼(ぞうがん)で記された奈良県天理市の東大寺山古墳出土の大刀(たち)(重要文化財)について、
象眼が純金だったことが、東京文化財研究所(東京都台東区)の調査で分かった。
国内で金象眼の文字のある大刀は数本しかないうえ、銀が数十%含まれる例は確認されているが、純金は極めて珍しい。中国の高度な製錬技術で作られた大刀が日本にもたらされた可能性を裏付けるものとみられる。
東大寺山古墳は4世紀中ごろの築造で、全長約140メートルの前方後円墳。昭和36年に発掘され、20本以上の大刀や槍(やり)、碧玉(へきぎょく)製腕飾りなどが発見された。
金象眼の大刀(長さ110センチ)は、刀身の峰の部分に0・5センチ程度の大きさの文字が24文字分確認された。
金象眼は、刀身に細い溝を文字の形に彫り、金線を埋め込む手法。銘文は「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」と書かれていた。
「中平□年五月に銘文の入った刀を造る。百回鍛えた立派な刀は天上では星座の神々のお役に立ち、地上では災いを払う」
という意味で、大刀の製作年や神秘的な力を示している。
(つづく)
426 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:13:50
(つづき)
東京文化財研究所が、大刀の修復作業に伴い、各文字の金象眼を蛍光エックス線分析で調べたところ、すべての文字について、金が99・3〜99・9%を占める純金だったことが判明。
金鉱石に含まれる銀を精錬でほぼ完全に除去した、当時の国内では難しい極めて高度な技術だったことが分かった。
一方、同研究所では過去、埼玉県の稲荷(いなり)山古墳(5世紀後半)で出土した115文字が金象眼で記された鉄剣も同様の方法で分析したが、銀が10〜30%含まれており、純金ではなかったことが判明している。
稲荷山古墳の鉄剣は日本製とされている。
東大寺山古墳の大刀は、「中平」が西暦184〜189年に相当することから、180年ごろ女王になった卑弥呼が中国王朝から権力のシンボルとして譲り受け、その後、東大寺山古墳の被葬者に与えられたともいわれている。
分析した早川泰弘・同研究所分析科学研究室長は「金象眼でも、銀が10%混じるだけで文字は白っぽく見える。東大寺山古墳の大刀の銘文は金色が鮮やかで、高度な製錬技術がうかがえる」と話している。
427 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:16:09
九州と巻向の関係は殆どないことから
現行説での魏志倭人伝のルートは
ありえないことがわかる。
巻向に行くには九州を通過しないルートを
比定しなければならない。
九州経由のルートが確保されているのなら
相互に関係する出土物が存在するはずである。
429 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:43:04
そのとおり、
対海、一大、末廬、伊都、奴、不弥、投馬
これらの国を出雲を通過するルートに
比定しなければつじつまがあわない。
430 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:47:08
429まできたぞ
あと少しで 謎の女王〜スレを追い抜けるぞ
431 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:51:12
記紀が出来たのは、西暦700年頃。その元になった天皇記や国記は、西暦600年
頃かな。その記紀に天照大神は皇祖として書かれている。
独身で高天原を治める女性。当時、このようなモデルを構築できる環境では
なかったと思われる。しかし、そのはるか前にはそのような女性がいた。
言わずと知れた卑弥呼である。
天照大神は、想像上の人物ではなく、伝承化されたモデルがいた、と考える
のが自然だろう。ひょっとして天照大神と卑弥呼は同一人物ではないか、
そういう目で記紀と倭人伝を見比べると良く似ている。
独身の女性で王。鏡に関する伝承がある。巫女的な存在。
天照大神には須佐之男命と争いがあり、卑弥呼には狗奴国との争いがある。
卑弥呼が死に台与が登場する。天照大神が岩戸に隠れ、また現れる。
台与のときに男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。
天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、主導的立場になる。
このように卑弥呼=天照大神と考えれば、神武東征に相当する出来事は、
卑弥呼の後ということになる。
文献の面から考えると、東遷説はこのように説明できる。
あそれ、にっちもさっちもどうにも肛門人!はっ。
434 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:17:31
>>431 スレ違い。ここはマキムクスレ。
卑弥呼に関して議論したいのなら「謎の女王卑弥呼は誰か」スレへ行け。
435 :
肛門人 ◆svpdsSvPoY :2010/01/11(月) 22:35:24
一大率は将軍のような軍事組織の指揮官と見られるが、同時に組織そのものを指して使われている。この一大率は
諸国を検察した。倭人伝には常治伊都国とあるが、通説ではこれを伊都国に常駐したとする(誤訳である)が、治
は文字通り「治める」であって、特に伊都国を監視していたのである。
一大率は諸国を検察したが、その主な仕事は各国の港における人や物の出入り(交易や通交)の検査、監視である。
卑弥呼共立後、邪馬台(壹)国は政治的、軍事的支配体制を作り上げた。その支配体制の一つが一大率という軍事
組織である。これを可能としたのは7万余戸という人口の大きさと大陸および半島との交易による収益であった。
436 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 23:11:08
下品なハンドルネームをつけた人物が跳梁していて私は迷惑だ。
>>411 証拠を伴った事実と言えば文献に書かれている事そのもの(解釈ぬきの文字面のみ)か遺跡、出土物の
発掘調査報告書(遺物についての解釈ぬきの事柄のみ)しかないであろう。
としたら、このスレに書くことは全く面白くないぞ。君はそれでいいのか。
私は、皆が騒いでいるマキムクの遺跡、出土物と3世紀の邪馬台国とを関連づける根拠はないとみている。
では、大和王権と言われるものとの関連はどうかということであるが、後に(飛鳥時代、奈良時代)存在が
確実と考えられる天皇達が奈良に都を置いたということから、マキムクもその系統に関係があるだろうと考
える。
具体的に言えば、4世紀以降の王族の霊園の一つがマキムク地域にあったということである。
縄文人=肛門人 は同一人物だろう。証拠を伴った事実ではないが、
それだとこのスレに書くことは全く面白くないぞ。それでいいのか。
>>437 肛門人はそのものが臭いし、縄文人はレス内容が臭い。
とすれば、同一人物じゃねの。
439 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:18:01
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
440 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:19:15
なら高天原は畿内だな
大国主は出雲の強大化で
ニニギは九州下向した王族
神武東遷は都へ凱旋か
なんか収集つかねえわ
441 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/11(月) 23:20:54
>>437 貴殿は真贋を見分ける訓練を受けておられぬようだな。下品名の書き込みには私の書き込みをコピペで
放り込んだものが多いが、同じ文面でもニオイが違うだろ。
・・・・やっぱり臭い。(泣)
443 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:23:19
耶馬台国が畿内だとすると
東のエミシとは倭種であると認識しつつ、
進んだ大陸の文明に浴さない、まつろわぬ野蛮人
という意味があったのかもしれないな
西日本、というか瀬戸内海から博多、対馬島への交易路にある国は一体感が強くなり
豊後水道以南の太平洋路を使う南西諸島の勢力や
半島、出雲や越や東北まで続く日本海路の勢力
をしのぐ一大交易路となる過程が
倭タケルの出雲やクマソとの争いなのかも
444 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:45:04
縄文でも肛門でもなんでもいいが
おまえの荒らしのせいで
老教授があいそつかせて来なかったとしたら
どう責任取るつもりだ
445 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:51:44
■大王墓 鏡の宝庫、卑弥呼時代照らす文字…桜井茶臼山古墳
(2010年1月8日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100108-OYO1T00565.htm?from=top 邪馬台国の所在地論争で脚光を浴びている纒向(まきむく)遺跡に近い奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」(3世紀末〜4世紀初め)から大量の鏡の破片が出土し、その石室が、おびただしい数の鏡で埋め尽くされていたことがわかった。
最新の3次元(3D)計測によって分析された小さな破片が、邪馬台国と大和王権との関係をはじめ、古代日本の国家形成を解き明かす手がかりとなった。〈本文記事1面〉
「ここまで一致するものか」――。わずか約2センチ大の銅鏡片に刻まれた「是」の1文字。昨年7月、鏡の破片の3D計測を担当した県立橿原考古学研究所の奥山誠義・主任研究員は驚いた。
蟹沢古墳(群馬県高崎市)で見つかった「正始元年陳是作」という銘文入りの鏡の「是」の文字と、ぴたりと一致したのだ。
同研究所は1996年から銅鏡の精密な計測を始め、700面以上のデータを蓄積している。2004年には鏡の一部からでも同じ元型や鋳型でつくられた鏡を突き止められるようになった。
3か月がかりで破片を照合した結果、81面分を確認することができた。
桜井茶臼山古墳は、3〜4世紀の大型前方後円墳が集中する奈良盆地南東部にある。邪馬台国畿内説の最有力地とされ、3世紀で国内最大の建物跡が出土した纒向遺跡が北西に広がる。
中国の史書「魏志倭人伝」は、239年に卑弥呼が魏の皇帝に使いを出し、翌年に「銅鏡百枚」を賜ったと記す。福永伸哉・大阪大教授は
「『正始元年』の鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から賜った銅鏡の1枚。この鏡の年号から、大和王権と邪馬台国が一続きの政治勢力だった可能性がさらに高まった」
と指摘する。
正始元年銘鏡は、蟹沢古墳や森尾古墳(兵庫県)、竹島御家老屋敷古墳(山口県)で見つかっているが、奈良県内では初めて。
権威の象徴として大和王権が地方の豪族らに与えたとされてきたが、今回の発見で、大王自身も所持していたとみられることが明らかになった。
(つづく)
446 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:52:41
(つづき)
鏡の種類が豊富だったことも研究者の注目を集める。
30面以上の鏡が出土した黒塚古墳(奈良県天理市)や椿井大塚山古墳(京都府木津川市)ではほとんどが三角縁神獣鏡だったが、今回は全体の3分の1に満たなかった。
岡村秀典・京都大教授は
「本来、多種類の鏡を副葬するのが基準だったのだろう。小さな古墳は一部の種類だけを取り入れたのでは」
とし、岸本直文・大阪市立大准教授は
「王権が支配を広げるには権力を示す大量の鏡などが必要で、国内で製造し求心力を得ようとしたことがわかる」
と話す。
一方、国内最長の長さ8センチのガラス製管玉などの副葬品も見つかり、大王の強大な権力をうかがわせる。大塚初重・明治大名誉教授は
「今回の成果によって、古墳の被葬者の実力差や階級差などを細かく再検討する材料が得られた」
と期待する。
◇鏡の破片は13〜31日、同研究所付属博物館(奈良県橿原市)で展示する。月曜と19日休館。
(つづく)
447 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:53:26
448 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:58:01
>>446 >本来、多種類の鏡を副葬するのが基準だったのだろう。
>小さな古墳は一部の種類だけを取り入れたのでは
椿井大塚山古墳は、昔は配布元だったのだが、小さな古墳に大幅格下げ。
449 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:09:33
>>448 >椿井大塚山古墳は、昔は配布元だったのだが、
違う。
小林行雄は、椿井大塚山古墳の被葬者が配布元だったとは決め付けていない。
むしろ(当時は黒塚の発掘も桜井茶臼山の今回の件も知られていなかったが)、
椿井大塚山の背後にある大和の権力者からの配布の可能性には、常に言及していた。
450 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 00:17:01
>>444 私は荒らしをしていない。私の書き込みはこのスレを盛り上げるのが目的である。荒らしと受けとる人は
私に反論できない人であろう。要するに真面目に議論出来ぬ人だ。
老教授が私の書き込みに愛想をつかす筈はない。彼にとっても勉強になる筈だ。それほど私の説はまとも
な(謙遜する必要が無ければ、本格的なと言おう)ものなのだ。理解できぬ人は・・・が・・・のだ。
ともあれ、私に嫌みを言ったり、悪ふざけをした人達は楽しめたことであろう。私は人助けが好きだ。
このあとも私の悪口を書き込んで憂さを晴らしてくれ。私は弱者の味方だ。ほなな。
451 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:25:53
鏡の解釈は話が広がりすぎるから、別スレのほうがいいと思うなあ。
もうすこし、土器の交流に絞って老教授の見解を伺ってみたいのだが。
この時代の人的交流の様子が顕著に現れるのが土器なのだし。
どこの権力者が誰に鏡を配布したかという話も、
地域間の交流があったと認められた上で成り立つ話でしょ。
452 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:31:11
無根拠の書き込みはみんなで無視しましょう。
453 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:48:51
>>445 >同研究所は1996年から銅鏡の精密な計測を始め、700面以上のデータを蓄積している。
>2004年には鏡の一部からでも同じ元型や鋳型でつくられた鏡を突き止められるようになった。
>3か月がかりで破片を照合した結果、81面分を確認することができた。
こういうところが記事としていいね。
考古学者も華やかなことばかりではなく日常の大半は地道な研究をやっているらしいことが伝わってくる。
そうした地道な研究の蓄積がある日突然として脚光を浴びるわけだ。
上で誰かが言っていたが考古学で政治の状況を推測するのは確かに難しいと思う。
だけれども桜井茶臼山の微細な鏡片にあった「是」の字が山口、兵庫、群馬の各古墳とつながりがあったわけで、
このことはやはり当時の政治の状況を推定していく何らかの手掛かりになるのだと思う。
邪馬台国は初期大和王権に発展したのではなくて
完全に初期大和王権そのものだろう?
>>431 纏向遺跡のど真ん中にも、天照御魂神社があるが
これは、男神アマテルのことで、
天火明命のことである。
ヤマト王朝は、ながらく、この男神アマテルを始祖として
祭っていた可能性が高い。
456 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 02:10:45
結局、耶馬台はヤマトと読んで山人か山都という意味で内陸国を意味する言葉だったんだろな
であとづけで蔑称の倭を避けて和にし
倭を束ねる国として、和種の中の一際大きな国という意味で、大和と書いてヤマトと読ませるようになったのではあるまいか
邪馬台=ヤマト=山処 で、
これの対語が
ミナト=水処=港
また、ヤマトには、後に、大和という当て字がつけられたが
これは、大倭が元で、倭という漢字が卑しいからという理由で
和という漢字に代えられた。
また「大」という漢字がつけられるのは、中国とは別の天下という意志が込められている。
歴代の中国の王朝も「大漢」「大唐」「大明」「大清」というふうに
「大」の字がつけられた。
国名の前に「大」がつけられるのは、皇帝のいる国ただ一カ国だけ。
大和とか、大日本とか、その理論でつけられている。
458 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 02:36:08
>>451 無駄。
仮に鏡専用のスレを作ったところで直ぐに土器の話や古墳の話しが出てきて
倭人伝や記紀の話が出てくるのは目に見えているwwwwww
それに鏡の話も織り交ぜながらやっておけば
『 暗号解読ゴッコ 』や、
>>431のような『 神話解釈ゴッコ 』を遠ざけるのにも役に立つw
>451にしてもそっちの方がはるかにマシだろう?wwwwwwww
>>431 多分、東遷説一派の中の日向厨かな?w
それコピペ用に保存しているのかな?
そんな「都合の良いところだけ摘み食いしてお話組み立てました」なんてレベルじゃあ精々
「ああよくできましたね。はなしとしとはおもしろいですよ(はなまる)」
…と言う評価しかしてもら得ないと思うぞw
そんなチラ裏じゃあ
「だったら高天原=邪馬台国に馬が出てくる時点で破綻している」
の一言で終わりwwwwww
都合の悪いところは「神話だから」で済ますのなら文字通りご都合主義wwwww
文献面からの考察?笑わせるなwwwwwwwwwwwwwwww
この時代の世界の趨勢ということを考えると、ゲルマン民族しかり、五胡十六国しかり
で南方勢力の北上というよりは北方勢力の南下という現象が顕著なんじゃあるまいか。
日本列島でも、東北地方北部などからさかんに北海道系統のものが出土する。弥生時代
の初期にはあっという間に秋田平野・津軽平野に稲作が伝播したというのに、この時代
は気候が寒冷化して、おそらく米づくりは放棄されてしまったのではないか。高句麗の
南下なども、そのセンで考えられるように思う。とするならば、纒向を主導した勢力と
いうことも北方勢力の南下という可能性を考えてもよいのではないか。
>>460 もう、無理だよ、そういう説は。
マキムクを主導した勢力は、
その前は、葛城あたりを本拠地にしていた可能性が高い。
>>457 ミナトは本来御奴処じゃないのかな?
水運の要所ならトバという言葉もあるし。
>>462 「奴」という漢字を「ナ」と読む場合は
後漢時代の上古音の時代だから、
その時代に、日本語を漢字で表記する方法が確立していない時代なので
ミナト=御奴処と解釈するには無理があると思う。
ミナト=水処=港のほうが、正解のような気がする。
それにしても、産経新聞の渡部とかいう論説員は、
最近、勝手に古代史の解釈しすぎだな。
>>463 ミナト=御奴処=水処=港かもしれないと言う事です。
465 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 13:59:48
>>349 魏尺の件は前々スレあたりに書いたけど、
かなり眉唾で魏志倭人伝ありきの議論じゃないかなと思ってます。
石野さんあたりは、卑弥呼が道教由来の宗教をやっていたと
想定しているみたいだけど、そう思わせる祭事遺物は皆無に近い。
あと桜井茶臼山古墳の脇には、いつからかは全く不明だけど、
宗像神社があって、北九州との関係を語るには面白いかも。
けど私は纏向と北九州は全く無関係としか思えないけれど。
武器に関しては、戦国時代でも一番多いのは石礫です。
平安から鎌倉にかけてのの武士の戦いは弓がけの後、名乗り出ての一騎打ちですが、
こういう戦いがそれより古い時代に継続的に行われていたかどうか不明です。
>>465 >石野さんあたりは、卑弥呼が道教由来の宗教をやっていたと
想定しているみたいだけど、そう思わせる祭事遺物は皆無に近い。
道教自体は卑弥呼の年代より少し後です。
道教の基盤は鬼道であり神仙思想ですよ。
水銀朱なんて一番重要とされてますけど。
468 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 14:41:20
>>466 石野じゃなくて寺澤だよ
まったく・・・王権誕生くらい読めよ
それに倭人伝も関係ない
マキムクの掘っ立て型建築物の発掘結果からだ
この前の大型建物も魏尺だと新聞にも書いてあるだろ
なんにも読んでないんだなwww
卑弥呼の時代は東西を軸にした考えだったんだろう?
道教というのは、南北を軸にした考えだから
中国の道教とは、あんまり関係がないんじゃないの?
石野先生って、纏向遺跡の研究の功労者ではあるが
かんじんの最後のところで、ずれているよね。
箸墓は台与の墓だと断言したり、卑弥呼を吉備勢力と決めつけたり。
470 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 14:44:48
>>349 の老教授による纏向の特異性についての見解にほぼ同意であるが、
そもそも纏向の遺跡は弥生時代が終ったのちの遺跡なのだ。土器の年代にしても庄内式を3世紀のものとする根拠はないのである。
庄内式土器は土師器であり弥生時代の焼成法(素焼き温度750℃以下)の流れを汲むが、地域的特徴が少なく、九州から関東まで広
い範囲に亘って製造手法の類似性が見られる。このことは弥生時代の交易状況とは異なる分化交流状況が生まれていたことを示唆し
ているのではないか。
すなわち、大和王権という広域に支配権を確立した政権の誕生後に作られ始めたものと見る方がよかろう。それが何時だったかは土器
の絶対年代を測定する方法が完成していない現在においては確言できないと言うべきであろう。私は4世紀以降だと思っているが、こ
れは1世紀以降東アジアの文献記事を基に推測したものである。(これで少しは議論が活発化するかな?)
>>468 寺澤もずれているな。
邪馬台国ヤマト説までは同意するが
かんじんのところで、考古学者特有の誇大妄想の癖が出ている。
狗奴国が東海地方だなんて、なんで決めつけるんだ?
472 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 14:48:45
>>469 いやだから吉備勢力も寺澤だってwww
たのむよお前ら
卑弥呼=モモソ媛命と考えたら、全てに
整合性が取れてくるんだよ。
箸墓が卑弥呼の墓ならば、額面通り
卑弥呼=モモソ媛命と解釈すればOK。
>>472 石野も吉備勢力がどうのこうとか言ってなかったか?
475 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 14:53:14
>>474 言ってない
それは寺澤説を紹介しただけ
石野は阿波讃岐
476 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 14:58:35
>>473 あんさんはなんでそんな単純明快な結論を出すの?なんで箸墓が卑弥呼の墓なのよ?
魏尺にせよ掘立柱建物跡だけで神殿というのはちょっと根拠に乏しいように思えるが
478 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:02:33
>>477 神殿と断定するには根拠が薄いと言うのは同意
だが魏尺を使った建築物がマキムクよりも前になくて
同じ時期のほかの地域のどこにもない
この事実は重要だと思うよ
> マキムクの掘っ立て型建築物の発掘結果からだ
測定値は魏尺の吉祥尺である魯般尺(32cm弱)と合ってないでしょう?
かなり無理のあるこじつけとしか考えられない。
>>468が新聞報道を根拠に言うのもどうかと思う。
480 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 15:20:11
481 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:20:45
>>479 それが事実ならすっごい反論だと思って調べてみた
魯般尺 36cm5mm 後漢尺(23.04センチ)
漢尺は二三・三センチ、魏尺は二四・二五五センチ
(藪田嘉一郎「現存歴代古尺表」による)
魯般尺とか無関係のものを出すって、どんだけ嘘つきなんだ
>>469 >卑弥呼の時代は東西を軸にした考えだったんだろう?
道教というのは、南北を軸にした考えだから
だから道教は卑弥呼の時代より少し後なんだよ。
倭人伝でも卑弥呼は鬼道を用いると紹介されてるし。
神仙思想なら水銀朱と果実なんかの桃が重要だから。
偶然かもしれないが、ヤマト・ト・モモソ姫なんて
大和の外山(鳥見)の桃の姫ととれなくはない。
483 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:26:35
>>470縄文人氏へ
>私は4世紀以降だと思っているが、こ
>れは1世紀以降東アジアの文献記事を基に推測したものである。
何と言う文献のどの記事ですか。
>>482 ほう...そういうのは知らんかった。
で、ヤマトトトヒモモソ媛命って名前は
本名じゃなくて、通称なのかな?やはり。
485 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:27:47
>>480 根拠はそれか
ならば石野の書きかたがおかしいわけだ
マキムクは平均24センチだからな
これでは勘違いして反論があってもしかたない
>>479を嘘つき呼ばわりしたのは謝る
>>484 失礼、トヒが抜けてました。
余談だが桃といえば吉備の印象が強いが、
実は岡山で本格的に栽培されたのは明治以降だからね。
だから桃太郎は初瀬川上流から流れてきたという話。
古代の桃は呪術的な物で、水害の地に植えるという話もある。
>>486 >余談だが桃といえば吉備の印象が強いが、
>実は岡山で本格的に栽培されたのは明治以降だからね。
>だから桃太郎は初瀬川上流から流れてきたという話。
ほお。それも知らんかった。
桃は再生と長寿の象徴だったわけでしょ。古代の大和に限らず、あちこちの遺跡で見つかる。井戸跡廃棄の
祭祀などにも用いられたらしいからね。何で桃太郎が初瀬川なんだろ? 根拠は?
岡山の桃太郎の話って
いろんな時代や地域の話が
ごちゃまぜになって出来た話じゃないの?
そういう気がする。
あの話に出てくる要素の時系列がバラバラだから。
卑弥呼がモモソ媛命ならば、
卑弥呼擁立のきっかけになった倭国大乱は
いわゆる欠史八代の時代の中ごろに起こったことになる。
491 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 16:35:28
中ごろはだいたい合っている。だが卑弥呼は百襲媛ではない。
>>488 >何で桃太郎が初瀬川なんだろ? 根拠は?
モデルとされる吉備津彦命が田原本生まれとされてるからでしょ。
だから必然的に上流は初瀬川になる。
まぁ何にせよ桃は古代中国では重要な果実。
で、吉備=桃というのは近代になってからの
印象付けという事です。
桃が流れる話は、ヤマトの話で
そこから吉備へ軍事遠征した話が
岡山での鬼退治の話になった。
あと、温羅については、
岡山の児島は、流刑の監獄の島だったから
それが混合して話が出きたと。
494 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 17:17:28
>>470 縄文人
>1世紀以降東アジアの文献記事を基に推測したものである。
>>483も聞いているが俺も聞きたい。
まあ大体の予測はできているが・・・
後漢書とか魏志を並べて「暗号解読ゴッコ」なんだろう?wwww
>桃太郎
まあ「桃」って点で何やら道教の影響を考えるが…
(確かイザナギがヨモツヒラサカから逃げてくる時、追っ手に投げつけたのも桃だったかな?)
お供の「雉」を「鳥=酉」とすれば見事に十二支の「申・酉・戌」となるw
方角で西、四神で白虎、五行で金…まあ謎解きに興味がある人は参考にwww
496 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 17:27:17
>>483 1996年。
(池上・曽根遺跡は)紀元後1世紀後半と予想されていた建物の年代が、
年輪年代法では紀元前52年と出ました。定説よりもやはり100年も古い
のです。
年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観に
かなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を
無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、
同じ年表に並んだ瞬間でした。
年輪年代法によって、従来の年代観がガラリと変わったのです。
日本では使いものにならないとまでいわれた年輪年代法は、ここにおいて
名実ともに認められることになりました。
年輪年代法が、これまで不確定だった弥生の年代決定にたいして、動かない
定点を与えるという重要な役割を果たしたのです。
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai03.html
497 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 17:40:38
>>483 >>494 仕事の合間にしか覗けないから遅くなってご免な。
<後漢書とか魏志を並べて「暗号解読ゴッコ」なんだろう?wwww
ちゃうわい。そんなのはほんのお遊びよ。私は1世紀以降の東アジアの政治情勢、軍事的状況(兵法や兵器などの変遷も含めて)、
産業、気象、思想など幅広く考えている。そのような観点から古典に限らず現代の著書も見ている。
そのような勉強(私にとってはほんの遊びにすぎないが)によって弥生時代の「倭の世界」観を得たのだ。史観だな。
同じ文書を読んでも人によって受けとり方が違う。史観などは感性によって得られるものだ。これ以上は自慢になるからやめる。
>>497 縄文人
…ったく、例によって大風呂敷広げての知ったかぶりw
「自慢になるからやめる」?散々自慢話してんじゃねえか馬鹿w
で、結局その中身は出さない、まあ出せないんだろうがwww
本当情けない奴だなwwwwwww
499 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 17:48:35
>>497 ほら吹いてないで消えな。うざいんだよ。
501 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 17:56:48
502 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 18:01:10
おまえら、バカに餌をやるな。
>>496 >かねて少数の若手研究者が主張していた年代観に
>かなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
…ここが結構、味噌なんだよなw
例の東遷厨にかかれば畿内説論者の陰謀によって年輪年代が担ぎ上げられた事になるんだがwwwww
九州説の奥野正男氏は早くから、畿内説による早期古墳の年代遡上を予言していたが、これはもともと古墳
時代開始を4世紀とする年代観に確たる根拠がないことを知っていたからなんだな。
505 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 18:22:46
昔は、箸墓を卑弥呼の墓と特定しつつ、大雑把に4世紀だって決めてただけだろ。
この縄文人というコテが愚かなのは、年輪年代の元データが出ない以上、それはブラックボックスであって、
畿内説であろうが九州説であろうが当否を論じ得ないということがわかってないことだ。このスレで、誰が年輪
やC14に寄りかかった議論をしている?少しはHPなどを読んで得意分野のつもりでいるんだろうが、論点は
そこにはないということがまるでわかってない。話題に加わりたいなら、まず自分の土器編年の年代観を論じ
ることだな。古墳がまばらになるとかの電波ではなくな。
507 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 18:46:47
ただ
>>349の老教授のレスには俺も若干違和感を感じる部分が無いでもない。
まあ傍から見れば「釈迦に説法の図」かもしれんが疑問に思った事は書いておくwwwwwwww
>だが纏向は「殆ど無人だった低湿地に」に
↑これってどうなのよ?って話で
青垣地帯に寄っている纏向は唐古鍵よりも標高は高い。
人の住むに適していない地勢を挙げるなら
「勾配がきつい扇状地で農耕に向かない」ってところじゃないのか?
この板の東遷説論者はやたら奈良盆地を「無人の野」にしたがるがw
この老教授も似たような認識なのか?
ご免 こっちだったwwww
>>494>>497後漢書とか魏志を並べて「暗号解読ゴッコ」なんだろう?wwww
>ちゃうわい。そんなのはほんのお遊びよ。
ン? あらら・・・
この人達は邪馬台国問題つーのをまだよく分かってないんだな・・・(そんなレベルかよ?)。
河童さんがいうとおりで邪馬台国の問題を考える上では
『考古学』なんていくらやっても無駄と思うゾw
まあせいぜい「金印」か「卑弥呼の墓」か「下賜品」ぐらいが関係するぐらいでwww
ましてや、「庄内式」がどうだとかw 土器編年やっても意味ナッシングだしww
そもそも「邪馬台国」というのは文献の問題で考古学の問題ではないんだな
>>427 >九州と巻向の関係は殆どないことから、現行説での魏志倭人伝のルートはありえない
3世紀になると、北九州各地の遺跡では、畿内系の土器が目立つようになりますがなにか?
ここは纏向について考えるスレで、これが後のヤマト王権につながるかどうかや、主導した勢力はどこかとか、
当時の宗教の実態とか、弥生時代の戦争の実際について考察しているのであって、邪馬台国はとりあえずは
他のスレでやったほうがいいんじゃないのか。
池上曽根遺跡なんて、奴国の金印よりも、
更に100年以上前から存在している遺跡らしいけど
その規模は吉野ヶ里遺跡なんかよりも大きんだよな。
512 :
508:2010/01/12(火) 19:22:03
>>510 そりゃすみませんw
>>494があまりにも『レベルの低い』事を言ってたのでww
ついつい突っ込みたくなってしまったwwwwwwwwwwwwwww
しかも後漢書や魏志だしてくるところが余りにもレベル低くてww
513 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 19:52:58
なんか、交易っていう観点からの議論が全然ないな。
この時代の研究を文献でしようと思ったら
その当時の漢文からしないとだめだな。
音韻もそうだが、その当時の漢文の使い方からしないとだめ。
たとえば、魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとあるが
この共立という漢語を、現代の日本語の用法で考えたら駄目だ。
同時代の漢文の文献を調べて、どのようなケースで用いられているのか
調べないと駄目だな。
515 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:20:16
文献を語るなら、他のスレに行ってください。
>>513 交易ね、三輪とくれば酒だろうと最近思い出したのだが。
何しろ酒造の神でもあるし。
各地の土器は酒(というより聖水的なもの)を
入れる容器ではないかと‥
米なり桃なり蜜柑なり詰め込んで、醗酵させて
ありがたい水銀でも浮かべれば出来上がり?
518 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:03:51
>>501>>503 >日本では使いものにならないとまでいわれた年輪年代法は、ここにおいて
>名実ともに認められることになりました。
ここがミソなのだよ。
どういう根拠で認めたのかがわからない。
根拠をはっきりさせないと、都合の良い結果が出たから認めてしまったと
いうことになる。
しかも、誰が認めたのかという問題もある。
519 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:09:46
めんどくさいなあ。
年輪年代はウソってことでいいよ。
他スレで文句言ってろ。
520 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:12:18
>>519 年輪年代が嘘だったら、4世紀以降だった纏向が、3世紀初頭まで遡る根拠が
なくなる。
521 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:13:35
あんまり年輪年代が信じられないと言っている奴がいるが
その理論を突き進むと、これまで長年、通説とされてきた土器編年は
なおさら信じられないよ。
年輪年代が絶対とは言わないが、土器編年なんて、なおさら曖昧な算定方法だしね。
にもかかわらず、邪馬台国九州説論者って
これまで長年の間、通説とされてきた土器編年だけでの絶対年代のほうは
無条件に信じるんだよな。
>>521 >かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
>適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。
そういうことを言ったら、キリがないんだよw
また、中国や日本との緯度の関係から、あんたの考えには無理がある。
524 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:28:40
>>522 しかもその昔の年代観を実質支えてきたのが三角舶載を前提とした小林説だと言うのが笑い話w
まあ一般論として資料が増えればそれだけ遡っていくのは仕方が無いだろうなあ…とwww
年輪年代やその他の理化学的年代測定に距離をおく学者でも
もはや庄内始まりを4世紀に求めるのは少数派?
525 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:29:24
>>523 何が無理なんだよ?
とっととその日本で水田稲作が始まる前10世紀以前の朝鮮の炭化米とやらを
調査して白黒決着付ければイイだけの話じゃん。
それを佐藤がしないから521は怒っとるんだろ。
526 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:33:05
>>520 >4世紀以降だった纏向が、
それは定説だったのか?
学界あげて「纏向は4世紀以降」などと言うようなことは、決してなかったように思うが。
527 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:42:50
纏向が4世紀だとしてもだ。
もう、その他の研究成果から、九州より畿内連合が規模的に凌駕してたのは明らかなんだから。
唐古・鍵にも纏向にも、九州の痕跡が無いから東遷説は崩れてる。
だったら、邪馬台国が九州にあった場合、勝手に自滅したのか?ってことになる。
528 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:43:54
>>526 >>496に書いてあるだろう。
>年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観に
かなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を
無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
邪馬台国=ヤマト国の時代
朝鮮半島は、いまだ、中国の楽浪郡、帯方郡の支配下w
ローマの初期みたいに選挙王政だったということは考えられんのだろうか?
>>524 関川さんなんかは結構新しい年代をあてていて、邪馬台国の会の安本さんあたりは
石野さんの年代ではなく関川さんの年代を採用しているようだけどね。
にしても、一緒に纒向の調査をしたはずなのに、なんで石野さんと関川さんはあん
なに意見が違うのだろう?
532 :
526:2010/01/12(火) 21:51:47
>>528 きちんと答えてほしい。
「纏向は4世紀以降」との定説(?)が書かれてあった学術文献を挙げてくれ。
534 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:00:46
ホケノの築造が纏向の始まりでもなかろうにww
535 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:07:52
>>532 そんな文献は知らない。纏向が三世紀という学術文献はあるのかな。
ただ、通説というのは、いろんな人の言葉のはしはしに出てくる。
畿内説で例えれば、以前出てきたが、佐原真さん、金関恕さん、石野博信さん
たちは、吉野ヶ里遺跡と卑弥呼の時代は重なると言っていた。
これなんかは纏向四世紀を裏付けるものだと思うが。
吉野ヶ里遺跡が発掘された頃の書物をいくつか読んでみればわかると思う。
536 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:09:04
>>534 嗤うところかいな?
河上邦彦さんと関川さんでは土器の年代観が100年も違うというのがキモなんでしょ。
個々の遺跡がどうのこうのという話ではないように思うが。
538 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:17:25
>>535 >ただ、通説というのは、いろんな人の言葉のはしはしに出てくる。
それはあくまで”古墳時代の始まりは”だろう?w
三角舶載で椿井大塚が最古級という前提でなされた旧説には纏向なんか計算に入ってないだろうにwww
「纏向は4世紀以降」が通説と言うのは俺も聞いたことが無いwwwww
そもそも纏向が脚光を浴びたのは従来の古墳時代より前の遺跡と言う事で
(最初は幾つかの弥生時代の集落と言う認識だった)
そのスタートの時点で既に旧説の範囲外だったと思っていたがwwwwww
539 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:23:19
>>538 >そもそも纏向が脚光を浴びたのは従来の古墳時代より前の遺跡と言う事で
それはなかなか面白いな。で、今は古墳時代?
540 :
526:2010/01/12(火) 22:23:30
>>535 3人だけをを挙げて、それも文献名は答えずにおいて
「だから纏向四世紀が、かつての定説であった」
と言えるとでも考えているのか。
呆れた感覚だ。
大塚初重が古墳時代の開始年代をどのように想定していたか、知っているか。
纒向のはじまりは2世紀末または3世紀初頭でいいんじゃない? 弥生第5様式が
出ているわけだから。しかし、纒向の主時期は纒向編年でいう纒向3類、纒向4類
あたりなわけでしょう。これは庄内の新式ないしは庄内新新式(寺澤のいう「布
留0式」)に相当するわけだから、それは石野とか河上なら3世紀後半に置くけれ
ども、4世紀前半に置く関川らの見解もあるってことなんじゃないのかな。石野
説にしても纒向5類を設定しており、そこでは4世紀前半にあてているから、単純
に3世紀or4世紀という二者択一の問題ではないと思うのだがなあ。結局は、土器
編年の確からしさの問題に帰着するのでは?
542 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:36:46
>>470 庄内式が4C以降というのは、大賛成だね。
年輪年代がテコになって年代遡上が始まったのに、肝心のデータは一度たりとも公開されていない。
秘中の秘である年輪のデータは本当に存在するのかさえ確認できない。
年代遡上派は、それまで短期間の1型式との認識だった庄内式をいくつにも分けた。
もちろん土器の形は変わらないので「土器のセットが違う。」という奇想天外な見方で土器の型を区分した。
もともと庄内式は一部特定の地域でしか出土しないので長期間の流通など考えにくい。
庄内式を3、4に分類するも、それは一部地域でのみ適用できるだけで普遍性もない。
普通に考えれば庄内式の期間など15〜20年ほどであるが、それを何倍にも延ばして庄内式の開始を古くした。
庄内式は4C前葉〜半ばあたりに始まったというのが穏健な見方だろう。
理性を失った連中の暴走はいつ止むことやら・・・
543 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:37:50
>>540 でも、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかと騒がれたのは知っているだろう。
あまり本は持っていないのだが、89年の月間プレジデント7月号で森浩一さんと
石野博信さんの対談が載っているのだが、その中で石野さんは、
「吉野ヶ里遺跡は、少なくとも卑弥呼の死んだ247,8年は含む」と言っている。
他の本も当たってみてもいいが、ちょっと時間がかかる。
そちらも、いくつかの本に当たってみれば?
544 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 22:39:18
>506
ん?そもそも土器の年代を繰り上げる論に理科学的根拠を与えたということで畿内説派がとびついたのが年輪年代法
による池上曽根遺跡の百年遡上じゃなかったかね。そのような影響を受けての庄内式土器3世紀説ぜよ。関係ないで
は済ませられんだろ。見当違いの文句を言うな。おまえこそ愚か者だと知れ!
>>496 <年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観に
<かなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
<権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を
<無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
定説や常識を疑って検討することは大変結構なことだ。学問の世界に限らず定説や常識が間違っていることはしばしば
あることだ。だが、年輪年代法に関しては問題があり、これを基にした検討結果を正しいとしているのであれば 進歩と
は言えないのだ。
545 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:43:23
ほらみごらん?
畿内説に噛み付くことはできても、
肝心の、九州のどこに邪馬台国があったかという話は全然できないよね。
いったい、九州のどこに、「これぞ邪馬台国」という遺跡があるのかな?
せめて一つくらい特定してから、畿内説に噛み付いて欲しいものだね。
九州にまったく遺跡が無いのに、畿内説を間違いだと難癖つけてきても、
こっちは全然困らないし、いちいち反論する気にもならない。
だって、九州には遺跡がないんだから。
纏向遺跡が邪馬台国の首都として
その次の段階に研究が進むべきだな。
その次の段階では、畿内説の学者さんの間でも
かなり考えが違ってくるよ。
>>535 >吉野ヶ里遺跡が発掘された頃の書物をいくつか読んでみればわかると思う。
そんな古い文献資料じゃダメだろ、
ここ10年ですっかり論調変わってるよ。
548 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:46:34
>>543 えらい古い本だな。しかも雑誌。
石野が年代遡上に入信したのは90年代半ば以降だから、その頃に吉野ヶ里が
248年を含むという発言をしたとしてもおかしくない。
石野は年代遡上に入信した当初は、年輪年代を根拠としてよく挙げていた。
しかし、寺沢に「年輪年代は論外」と諭された以降は年輪年代を口にしなくなった。
が、年代遡上はそのまま続けた。
549 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:48:13
>>542 >もちろん土器の形は変わらないので「土器のセットが違う。」という奇想天外な見方で土器の型を区分した。
これも東遷厨のもはやテンプレだがw
器種構成の変化に時間経過を見るのがおかしいのか?
(無論それなりにまとまった事例は必要だろうが)
現在の我々とて飯を盛る茶碗はさほど変わらなくとも
昔に比べれば洋食器の数が増えたと思うがwwwwwwwww
>>542 だとすると、石野による纒向編年の暦年代は
*纒向1類(180年-210年)弥生第5様式末
*纒向2類(210年-250年)庄内古式
*纒向3類(250年-270年)庄内新式
*纒向4類(270年-290年)庄内新新式(布留0式)
*纒向5類(290年-350年)布留1式
ということだから、貴兄のお考えとは約100年の隔たりがあることになりますな。
551 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:49:30
>>547 今、議論になっているのは、昔の話で、昔は纏向の始まりが四世紀だったのが
通説だったのを証明しろといわれているわけで。
現状ではまだ、年輪年代測定を論拠にすべきではない。
が、年輪年代測定の精度を増すことには全面的に協力すべき。
ガキのケンカで研究の進歩を止めるな。
庄内は弥生と共伴するからねぇ。なかなか難しいとこだ。
最初は7世紀の川が見つかって、これこそ万葉集に詠われた「巻向川」というのが
纒向遺跡のスタートだったはず。
555 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 22:55:54
>>543 色々書いてきたが、問題をそらすな。
私は
>>520において520が、年輪年代法の登場以前では纏向遺跡の形成が4世紀以降とする主張があたかも当時の学界における定説であったかのようにレスした──その不当性を批判しているのだ。
むろん個々の学者による意見は色々あっただろう。
だが「纏向は4世紀以降に形成された遺跡」とする「定説」は、年輪年代法の登場以前であっても、一度たりとも存在してはいない。
勝手に学説史を捏造するな!
556 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 22:56:50
>>545 ガンも体表上に出てない場合が多い。これは体内を精密に調べてみなけ
りゃぁわからない。同様に地表になければそれでダメだということには
ならない。遺跡の出土品は地中内から出る場合が多い。だから君の古代の
考え方、注文は、君が医者としての意見なら、怒るだろうが、藪だぞ。
558 :
526:2010/01/12(火) 22:58:41
>>555はうっかり名無史のままになってしまったが、私526がレスした。
559 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:04:19
560 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:05:03
>556
あんたが出てくると、話が立証的でなくなるからやめてくれ。
せっかくいい雰囲気なのに。
561 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:07:53
縄文人が幼稚園児なみに暴れてるからもう遅いよ。
ともあれ、九州説側から、邪馬台国の証拠が何も出てこない以上、
議論は成立しない。
ただ、九州説の難癖を聞いてるだけ。ばかばかしい。
年輪年代測定の精度自体はすごく高いものだと思うよ。ただ、伐採した木材をすぐに使用するかどうか
ということでタイムラグが生じるということなんじゃあるまいか。輸送手段や加工の道具が発達した現
代でさえ、伐りだした木を即座に加工してすぐ使うなんてことはそんなにないわけで。ノコギリどころ
か手斧すら稀少な時代は、製材自体がおそろしいくらい時間がかかったろう、また輸送にしても河川を
利用した場合は湿気を抜くのに時間がかかったろうと思う。予想以上に転用材が多かったのではないだ
ろうか。
563 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:09:08
>>549 >器種構成の変化
それが確認できるのは、庄内式を出土する地域のなかのごく一部、てゆうかヤマトだけじゃね。
庄内式を少ししか出土しない地域では、80年くらい時間が止まったことにでもしないと整合できないよ。
564 :
526:2010/01/12(火) 23:09:18
>>559 纏向遺跡の実年代については「定説」はない。過去も現在も「定説」は出来ていない。
565 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/12(火) 23:11:05
記紀に卑弥呼の記事がないということは、文証なんだよ。立証のひとつの
やり方だ。地上に遺跡がないから無いんだと言っても、体表にガンの痕跡
がなけりゃぁ、体内にガンがないということにはならないよ。
566 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:27:50
>>565 サガミハラハラは場所を特定して発掘許可を求めようとしたらしいが、
おまえはサガミ以下だ。
北九州の小国のなかで権威のある巫女をキビ・ヤマトの連合勢力がマキムクに招聘したという
シナリオはどうだろう? そこに多くの西日本の勢力が結集した。日向と出雲を除く大多数が
参加した。出雲と日向には、それゆえ逆に非常に政治的、宗教的に配慮された。日向は皇室の
出身地という説話が創られたし、出雲大社・オオクニヌシは「国中第一之霊神」とされた。要
するにキビ・ヤマトの勢力は環瀬戸内海をまとめれば、さしあたって大陸の文物を国内に供給
できるルートを確保できるとして、まずはそこの部分の統一がなされた。弟王というのは、本
当の弟ではなく、擬制的な弟かもしれない。卑弥呼死後は自ら宗教的な権威となろうとしたが、
それには失敗。そこで、トヨすなわち今の豊前・豊後のあたりから美しい巫女を再び求めたと
ころ、再び瀬戸内海周縁地域は安定した。その本拠がマキムクである。後世の香取・鹿嶋が東
国の守りであったように、マキムク・イセは瀬戸内周縁地域の前線であった。クヌ国との戦い
においては、しばしばキビやツクシなどから兵が徴集されたり、前線を交替させてカワチや
セッツ、キイ、キビなどに逃れることもあった。こういうのは、どうでしょう?
568 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/01/12(火) 23:36:08
>>561 ここはマキムクすれであって邪馬台国スレではないと注意されただろ。私はマキムクを真面目に考察しているのだ。
マキムクに2世紀や3世紀に何もなかったとは言わない。畑があって仕事に来た人達が昼飯のために煮炊きをするよ
うなこともあったろう。ぽつぽつと住居もあったかも知れない。だから庄内式に混じって弥生土器の破片が出土する。
だが、4世紀にここが霊園になったときそれらの畑や住居は取り払われ均されて古墳やその築造関連施設が作られた
のだろう。生活痕が薄いのはそのためだろう。
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命で決まりだよ、ほぼ。
570 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:50:30
>346
>1、クニ単位で物理的戦闘が行われた痕跡を示す、少なくとも示唆する遺物・遺跡が皆無である。
>2、当時の武具の強度(特に銅製・鉄製の金属器)が低く、実用武器としては
丸太棒以下の威力、実用性しか無かった。
>3、長年「最強武器」の代表とされてきた鉄器だが、圧倒的に出土量を誇る北部九州にも
威信財としての副葬品以外の、実用武器が見当たらない。
これは橋口らの研究を全く無視したトンデモ説ですね。
畿内はともなく、少なくとも九州では全くあてはまらないですね。
>4、鉄そのものが古墳中期まで下らないと、畿内の出土量が九州島を凌駕しない。
>5、鉄器の保有量が圧倒的に少なかったと見られる東海・関東においても
> 弥生終末期までには下手をすると北部九州や畿内を凌ぐクニがすでに出現している。
>6、銅鐸・銅矛・銅剣いずれにしても、徐々に廃れたものであって、短期間の消滅ではない。
> 何よりその周辺にあるいくつもの環濠集落が、何の変化もなく存在し続ける。
これまたトンデモですね。
終末期に東海や関東の北九州を凌ぐクニなんてものは全く証明されてないですね(少なくとも考古学的には)。
畿内ですら、マキムク遺跡の前は顕著な権力の存在が証明できない状況にあります。
そんなものがあったら考古学の歴史が書きかわりますね。
571 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:59:28
何度ここは纏向について考えるスレだといえば理解するんだ?
纏向遺跡が後のヤマト王権につながるかどうか。主導した勢力はどこか。
当時の交易や宗教の実態、弥生時代から古墳時代への変遷と権力構造の変化について
土器や古墳などを含めた埋蔵物の解釈を中心にして、考察していることを目的とするのスレであって、
邪馬台国論争は他のスレでやってくれ。
もし、マキムクの前としたら
葛城のほうだろうな。
紀元前1世紀〜紀元1世紀くらいで
葛城地方に何か遺跡とかありますか?
573 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:01:44
>>570 >終末期に東海や関東の北九州を凌ぐクニなんてものは全く証明されてないですね(少なくとも考古学的には)。
朝日遺跡を知らんのか。
あと、関東に北九州を凌ぐクニが無いって、本気で言ってる?
574 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:12:49
>>570 たしかに、
>>346はスーパートンデモだな。
どこの中学生がこんなことを言うのかとww
橋口の『弥生時代の戦い』を読めば、青銅器での戦いが実際に九州で行われていたことに
疑いをさしはさむ余地がないことは分かるはずだね。
この中学生は、九州でのおびただしい鉄鏃の出土状況を全く知らないのだろうか。
575 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:13:01
>纏向遺跡の実年代については「定説」はない。過去も現在も「定説」は出来ていない。
開始は、2世紀末〜3世紀初頭ということで九州の埋文も奈良の埋文も一致して言ってますが。
576 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:14:04
つうかねなんか北部九州がナンバーワンだったみたいな前提で話してないか?wwww
一体ナニを基準にして?w
鉄器とか鏡の出土数?
少なくとも人口を推定したものなら九州や畿内を東海や関東が抜いている
…ってものはあるがwww
577 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:20:26
>573
朝日遺跡や関東の遺跡が伊都国、奴国地域その他北九州の遺跡をしのぐなんてことを
言っている考古学者はほとんどいないと思いますが。
そのようなことを本気で言っている方がいるならぜひ教えてください。
>574
ただいまだに甕棺にのこされた武器の切先等についてあくまでも副葬
と言張る方もいるようですね。全くおかしな解釈だと思いますが。
2世紀中ごろまでは北九州がやはり先進的だったんじゃないの。楽浪郡との交易を
独占していたわけだから。2世紀末あるいは3世紀に入ると様相がガラリと変わる。
その象徴がマキムクなんでしょう。繁栄した港市都市が内陸の勢力によって取って
代わられるということは歴史上、結構、多くみられるようだ。これは中国での動乱
つまり黄巾の乱の影響が大きいと思われる。交易が急に先細りを見せたわけだから
北九州の港市都市が没落したのも無理はない。ギリシャの諸ポリスが内紛で停滞し
てマケドニアに取って代わられたようなことが2世紀後半から末にかけての日本に
あったとしてもおかしくない。
579 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:29:38
>576
少なくとも後期の北九州の卓越は前提じゃないですか。さまざまな方面から検証されていて
(威信財だと原田、柳田、鉄だと川越、村上、武器だと橋口などなど)
もはや揺るがないですね。
それ以前に畿内以東の地域(北近畿を除く。)には、広域の国を形成できるような顕著な権力層が
およびそのネットワークがそもそも想定できないということが問題ですね。
580 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:35:06
>587
いやこれも不思議なことに伊都国、奴国地域を含む北九州の集落は後期だけでなく
布留併行期まで変わりなく繁栄を続けていますね。
マキムク遺跡が創設された後にもかかわらずなぜこのような現象がみられるのかはよく
わかりませんが。
>>579 うーん、でもそれを言うなら北九州だって広域の国は3世紀段階に入ってさえ
できていないんだが。末廬国にしたって奴国にしたって小規模な平野ひとつの
狭い範囲でしょ。どちらかというと都市国家であり、領域国家的でないと思う
んだが。
582 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:35:32
例えば鉄器が農業生産高に直結するのならそれは人口に表れるだろう。
が過去に九州がその鉄器の出土量に比例して他地域を圧倒するような人口を擁したと思われるようなデータを見たことが無いwww
当然の事ながらこの板の九州説からはその数字の算出方法に色々疑問の声が出されるが
仮に大きく改定されたとしても地域間の比率が変わるとも思えない。
何か九州の人口だけを大きく伸ばすアイデアがあるのか?wwwww
まあ戦争と言うのなら「勝は大兵にあり」コレ基本の基本wwwwwww
583 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:38:04
>581
そんなことはないですね。
後期には、伊都国、奴国地域を中心にひとつの政治的まとまりができます。
いわゆる「イト倭国」ですね。
584 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:38:52
>>577 不合理な解釈にしがみつく連中の精神構造は、結局のところ宗教と思想に行き着く。
アメリカでは今でも進化論を否定する創造説が有力で、学校で進化論を教えるべきかどうかなんて
レベルでの論争をやっている。キリストの天地創造が進化論否定の根底にある。
どれほど根拠を積み重ねても、「人間が類人猿から進化したなんてありえない。」という思想に
精神が支配されてしまった人間には何にも効果はないんだよね。
共産主義に精神を支配されて、自国民の大量虐殺をしたポルポトのような例もある。
思想や宗教に精神を支配されると、それ以外なにも見えなくなるんだろうね。
マキムク信者のように。
586 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:44:28
「三角縁神獣鏡は日本で何万枚出土しようが舶載です。」
という宗教もありそうですな。
587 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:45:00
>>583 その「イト倭国」連合があったと思える傍証はあるかい?
威信財体系でも埋葬文化でも…
30ヶ国のクニグニを九州の北半分に求める事は可能でも
じゃあそのクニグニが連合(←この言葉は九州説論者は嫌がるがw)したと言う傍証が無いんだよなw
588 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:46:01
>>582 無人島に一人で行くとき、生き延びるために一つだけ持って行くとしたら何を
持っていくのが良いか。
これはナイフと言われる。いろんな場面で一番役に立つ。
鉄器もあるとないでは大違い。この差は大きい。
近畿地方に出ないから、鉄は重要ではないなどというのが普通に言われる
ようになったら困る。
>>583 「イト倭国」というのは誰の説なんでしょうか? 魏志倭人伝でも奴国と伊都国
は別の国と認識されていたはずですがねぇ。いや、2世紀代の北九州が先進的で
あったことは認めるが、文化的・経済的に先進的であったところが軍事的・政
治的に大勢力を形成すると限った話でもないわけで。現にマケドニアなどはギリ
シャのポリス社会からみれば、辺境の後進地帯だったわけでしょう。中国の戦国
末の秦にしたってそう。マキムク成立後の奴国の繁栄は江戸幕府成立後の大坂の
繁栄みたいなもので、やっぱり地の利があったということなんじゃないかなぁ。
590 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:54:18
>>588 そりゃあサバイバルに使われるようなものならステンレス鋼のものだからなw
そんな例え話自体が意味が無いwww
「昔は鉄の評価が高かったのに!」と怨み節言ってても仕方が無い
じゃあ鉄の保有数がどう九州の社会に利したか
具体的なデータもっと来ないとwwwww
あるんだろ?
いや俺もなんかあってもいいんじゃないかと思っている、マジでwwww
591 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:59:46
なんだろうね?
鎌倉幕府の例を出しては考古学では何もわからないと言い、
九州に邪馬台国と思しき遺跡があるのかと問えば、埋もれたままだといい、
で、九州は鉄器が多いから、一番繁栄していたとか言い出す。
もう矛盾だらけでお話にならんな。
592 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:03:59
九州は、鉄器が多いってだけで、
集落の関係はてんでんバラバラなんだよな。
どこかが中心になって、何かをしてたって証拠がまるでない。
たとえば、玉とか銅矛とか方製鏡の威信財がどこかで集中して作られて九州全体に配布されたとか、
そういう話は聞かないな。
593 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:05:39
>>591 矛盾だらけじゃないだろう。
畿内説の考古学者も、鉄がないのは困る。ないはずがないということで、
一生懸命探し、出でこないと、その後は一生懸命お得意の理論を考え出した。
畿内は地質の関係上、鉄は溶けてなくなったとか。
畿内は鉄の廃品回収が完全だったので、出てこないのだとか。
それを否定されると、鉄については触れなくなった。
594 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:06:21
九州は鉄器が多いから、繁栄してたというなら、
邪馬台国の所在は決まったようなものだろ?
どこの遺跡を邪馬台国とするんだ?
どこでもいいから、一つでも挙げてみろよ。
595 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:06:56
何度ここは纏向について考えるスレだといえば理解するんだ?
邪馬台国論争は他のスレでやってくれ。
>>587 >傍証はあるかい?
横からだが、
後漢書。井原鑓溝。二世紀代の完形の漢鏡の副葬。
>>589 >誰の説
寺澤だろう。
597 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:08:06
>>593 最近は淡路島で古くから製鉄が盛んだったという反論があるぞ。
そこで作られたはずの大量の鉄が出土していないという問題があるがwww
てゆうか、あれは古墳時代にした方が良いよねww
598 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:13:08
>>582 >過去に九州がその鉄器の出土量に比例して他地域を圧倒するような人口を擁したと思われるようなデータを見たことが無いwww
たぶん、これからも出ないと思うよ。
というのは、北部九州の主要な平野は、筑後平野、佐賀平野で、しかも、主要な川は筑後側しかない。
つまり、もしかりに増えたとしても増えた人口は、九州外に出ざるを円。
と博多に10年住んだ人が発言してみるテスト。
599 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:14:23
600 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:15:14
>>593 「畿内説は、鉄について触れなくなった」と、批判してるくらいだから、
九州には鉄器が多いのがよほど自慢なんだろう。
早く、邪馬台国と目される遺跡を挙げてくれんか?
鉄器の多さを目安にすればいいんだから、簡単だろ?
鉄器が多すぎて絞れないなら、複数回答でもいいぞ?
待ってるんだから、早くしてね。
大陸交易の途絶によって一種、深刻な恐慌が生じたと思うね。それがキビの習俗や鏡の崇拝を基盤とする
汎列島的な共通の祭祀の成立を生んだのではないか。いっぽう、交易の途絶によって自給的傾向が非常に
強まったと思われる。鉄はリサイクルされるのが当然となって、燃料となる樹木のある山岳地域が重視さ
れるようになる。また、海・山の食糧資源が見直されるようになる。こうした中心として纒向が選ばれた。
戦国三傑が尾張・三河に登場して、本拠を京・大坂・江戸に置いた対比でいうと、当時はキビが瀬戸内の
中間にあたっていたから戦国期の東海地方みたいなもので、そのキビの勢力が主導して伊都国には一大率、
ヤマトには神殿都市をつくったというのはどうだろう。
602 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:18:17
>>599 菊池川流域でいいのか?
そこはクナ国にしたほうがいいんじゃないの?
菊池川流域が邪馬台国なら、そこと敵対したクナ国はどこよ?
603 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:19:53
>>598 筑紫平野や佐賀平野は扇状地気味で、古代人はあまり好まなかったと思う。
むしろ、熊本平野の方が良い。広いし、盆地のような感じもある。
阿蘇も広い。山を含めれば、奈良盆地と同じくらいの面積がある。
604 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:22:58
九州説の立場からすると纒向遺跡はどういう扱いになるんだろうか?
606 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:27:41
607 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:29:35
608 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:30:16
あのねえ、九州説の諸君。
わかってると思うけど、遺跡だけ挙げたってすぐ論破されるってわかってるよね?
最低限、卑弥呼の墓まで特定してくれないとさ。
まさか、崩されて無くなったなんて、畿内説みたいなお粗末な言い訳はしないと思いますが。
609 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:31:25
>>596 >後漢書。井原鑓溝。二世紀代の完形の漢鏡の副葬。
まあ後漢書はおいといてだw
この場合地域での広がりを問うているんであって
「井原鑓溝」だの「漢鏡の副葬」だのがそれほど広がりを見せるものなのか?
なんか質問の意図が通じていないなwwwwwww
610 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:32:31
>>606 畿内説には卑弥呼の墓に比定出来るものがあるのかな。
611 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:34:21
九州説のイメージする邪馬台国ってのは、こうだろ?
近畿に負けない大規模な環濠集落があって、
鉄器がいっぱい出てきて、
近くに径百歩の卑弥呼の墓がある。
最低限、上の条件を満たしてくれないと、邪馬台国としては脱落だよね。
自分で、そうハードルを決めたんだから、文句無いよね。
612 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:38:21
>>611 言っておくが、纏向が邪馬台国であるという証拠は何もない。
偉そうな事を言うのなら、纏向が邪馬台国である証拠を挙げてみろ。
614 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:42:17
>>612 九州のどこに邪馬台国らしき遺跡があるのかと聞いているのだが?
615 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:42:33
>>605 ずっと昔、奥野正男さんは、九州の邪馬台国の東遷した場所が纏向と言って
いた。しかし、まだ纏向の実態は良くつかめていないと思う。
纏向との関連を考えるのはそれからかな。
>>609 >地域での広がり
井原鑓溝は王の墓。漢鏡の副葬は甕棺墓の分布とほぼ重なる。
「イト倭国」はイト国連合体の(仮の)通称だと思ってもらいたい。
範囲は、上記に広形銅矛を祭器とする地域を含めたもの。
>>615 東遷説は基本的に痕跡が無いので無理だよ。
618 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:47:00
畿内説信者には、まともに相手していて後悔するようなのが多いな。
>>618 じゃ、巣にお帰りください。
暗号解読ごっこでもしていたらどうでしょうか?
正直邪馬台国なんてそんなに重視していないのが本音ですな。
620 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:50:39
何度ここは纏向について考えるスレだといえば理解するんだ?
邪馬台国論争は他のスレでやってくれ。
奥野正男って江上波夫以外に唯一騎馬民族征服王朝説を唱えている人だろ。もう、
それだけでトンデモ学者ってイメージだな。
622 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:57:01
弥生時代の戦争が北部九州から発したことはまず間違いはないでしょう。。
最初の戦争は九州北部に始まります。当時(BC5頃)、中国では春秋戦国時代の真っ只中であり、そこでの敗者
や難民が大量に渡来し、人口の過密=縄張り侵犯から、戦争が勃発したのではないかと考えられます。
戦争圧力の第2波は2300〜2100年前で、これは秦が中国を統一し、朝鮮半島に侵攻した時期です。ここでも朝鮮
半島の戦争敗者や難民が渡来したことでしょう。武器の主流は石器や青銅器ですが、大陸では鉄器が普及する時
期で、日本においても鉄器が見られるようになります。ただしこれは鉄製武器と言うことではありません。
戦争は、最初は平野部で起こり、のちに丘陵地へと広がっていきます。また、北部九州を勃発点として、100年程度
遅れて中国・四国・近畿へと広がっていきました。これは、稲作に適した平野部をめぐっての縄張り闘争が契機とな
り、敗者が周辺地域へ押し出される形で、次々と玉突き的に戦争が広がっていったことを示しています。
つまり人口爆発を起こした地域は、食えないために他地域に広がって行かざるを得ないのです。このようにして戦争
は瀬戸内方面を中心に東の方に伸びていきました。これをして九州勢力の東遷と見ることもできないわけではありま
せん。BC2頃の話です。ただしある地域の勢力が長駆遠征したというような事実は見あたりません。戦闘は老教授の
言うように、つねにおなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうし
の争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘としてしか発現していません。
>>609 一応補足。
後期前葉から中頃になると、漢鏡の副葬は極めて少なくなる。
それに反して、井原鑓溝の副葬品の量と質は突出している。
このことから、外交の一本化による舶来品流通の統制ということが考えられないだろうか。
625 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 02:06:52
まあ纏向に交易都市のモデルを当てはめた場合、西から東へはやはり鉄も重要な商品になるだろう
が、遺跡の規模に比して鉄器当の出土が少ない印象は否めない。
勝山付近に出た製鉄遺構も…「フイゴ羽口」だっけ?
再現実験では機能的にイマイチって話もあるしwww
個人的にはヤマト全体が交易で繁栄したとしても
纏向はその店舗だったと言うより、商売で財をなした奴が自らの力を誇示するために造ったハコモノって感じがするwwww
>>625 >商売で財をなした奴が
そーゆー奴が、もっと儲けようとして造ったのがマキムク(大市付き)通商連合。
奈良のウワナベ古墳の鉄挺はスゴイと思うんだけどね。結局、対外交易の権限を
1.ヤマトの初期政権成立後も北九州勢力が握り続けたのか
2.ヤマトあるいはそれに与力した勢力に奪われたのか
3.北九州勢力がヤマトに東遷したのか
の3つなわけだけど、3.はイマイチ弱いと思うわけなんだよね。対外交易権を握って
いて、それが盤石なものなら、わざわざ自分の本拠を離れなくてはならない必然性
ってものがない。1.か2.ならば、それはいつなのかってことが問題になる。1.の場
合でも、対外交易権を認められる代わりに何か別の面で妥協したということになる。
もっとも、婚姻などによって平和裡に権限が委譲された可能性もある。九州説でも
畿内説でもどっちでもいいが、東遷説はうなづける点がほとんどない。
うーん。大陸との交流で、ツクシにまず王制の端緒が開かれたのはそう。
で、その王制の思想が徐々に東進していったということなんだろう
ただその流れは弥生後期を通じて何百年もかけて行われたことで、
短期間の征服とかじゃ説明出来ない。
神武東征伝承しか根拠を提示出来ない東遷説は論外。
部族社会→部族連合→王制という潮流は、筑紫、出雲が先行し、
少し遅れて吉備、大和へ。吉備・大和の薄葬文化を見れば、
筑紫などと比べ、族長社会の影響が比較的後代まで強く残されて
いたからだと思う。特定首長墓の発展が遅れるのもそのため。
大和はマキムクの頃、漸く王制を始め、マキムク型前方後円墳を築造。
古墳の規模からして、当時の倭国では最大の国だったようだ。
その後、大和の女王が共立され、西は九州から東は関東にまで及ぶ倭国大連合が成立する。
>>622 その説も、最近の考古学では否定されつつある。
日本人における大陸との混血は
縄文時代の数千年の間でも、中国南部との混血が長期的に
起こっていたとみる研究結果が、アメリカで発表された。
つまり、日本人のDNAの半分は、中国の江南地方の出身。
弥生時代の戦争についてまとめると次のようになります。
@大陸からの渡来人の流入による人口増加から北部九州で始まったこと。ほぼ弥生時代開始と同時期頃。
A当時から弥生末まで、水田耕作の適地は少なかったこと。老教授の言うように米以外の食料品は多かったはず。
Bゆえに、人口は弥生末でも列島全体で100万超程度であったと考えられること。
C弥生末頃であっても、ある勢力の長征などは輸送や移動の面からも考えられないこと。戦争は常に近隣といえる
地域同士で起きていたこと。
D戦争の主原因は、人口増加と食糧難によるものであること。この時代において「征服の野望」などというのは電波
であり、中央集権国家などは夢物語であること。
E弥生末頃にはこれら戦争の結果、ムラがいくつか集まったクニと言える地域集団が形成されていったこと。ただし
北部九州ではこの動きはあまり見られない。
F米の獲れない地域は常に自分たちが生き延びる手段を早くから模索していたこと。その一つが交易や玉などの
特産物の加工。
G戦闘は、鉄器量の豊富な北部九州であっても、各戦士一人一人が鉄剣を持っているというような状況は考えられ
ないこと。また金属製武器は壊れやすかったため、戦闘力において石製武器よりも確実に優れていたとは言い難い
こと。また、戦闘は矢の射掛け合いが多く、至近距離でも弓による殺傷例が多く、白兵戦は少なかったと考えられる
こと。
H神武東征のような、九州の一勢力が闘いながら大和まで到達するのは不可能であること。ただし、戦闘が北部九州
から玉突き状に東に広がっていったのは間違いなく、もしかしたらこのことを指していると考えられなくもないこと。
>>629 これらの渡来人が現在の日本人の基礎をつくったと言うことではもちろんなく、戦争のきっかけを持ち込んだと言うこと。
つまり、戦争という思想や、具体的な方法。
鉄があるから強いと考えるの短絡的だな。
ヒッタイトは鉄をもってしても、エジプトを倒すことはできず
そのうちに、謎の民族に滅ぼされてしまった。
>>631 戦争という文化は、石器時代からるよw
渡来系というが、人類がアフリカから来たんだから
全て渡来系だよ、日本で人類が発症したのではない以上。
問題は、どのくらいの時代にどれだけ混血があったかだ。
長年言われていたような2300年に急激に民族大移動のようなものが
あったとしたら、今頃、日本語は比較言語学の世界で
中国語や韓国語、モンゴル語のどれかと同じ系統の言語とされていたけど、
実際は日本語は孤立言語とされており、大陸諸語との分岐も不明確で
おそらく1万年以上さかのぼらないと繋がらないとも言われている。
最近のアメリカの研究成果だと
要するに、縄文時代から、縄文人と弥生人の混血が
数千年にわたって起こったという研究結果になったわけ。
そして、その弥生人というのは、中国の江南地方の民族。
しかし、この中国の江南民族は、西から勃興した漢民族によって
徐々に浸透され、やがて、同化されてしまった。
よって、日本の祖先語は、大陸のどこにも残ってないというわけ。
635 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 02:59:23
要するに縄文人vs弥生人って考え方が過去のものってことだろ。
ただこれまでにこれほど強烈に印象付けられたイメージなんて
相当頭やわらかくないと消化できないぞ。
だっていまだに銅鐸文化圏vs銅矛文化圏とか過去の概念に囚われてるヤツいるわけだし。
>>633 闘争ということなら古くからあるだろうが、狩猟用の道具の転用などではなく、対人戦闘用の専用武器を用いての
集団闘争が行われるようになったのはほぼ弥生時代からと考えてよい。詳しくは佐原真氏などの研究を参照。
渡来人の流入は、むろん常にあるのだが、戦争という思想が北部九州に持ち込まれたのが弥生早期頃と見られる
こと。その時点では本州はまだ集団のリーダーが強い権限を持っていないなど、戦争が起きるための諸条件が整
って射なかったと考えられる。
637 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:08:27
>>634 スマン良く分からないので御教示願いたいんだが…
一応、現在、渡来系弥生人と縄文系(在来系)弥生人のタイプで
形質的違いが認められる事になっていると思うんだが…
それはある地域ごとによる”偏り”って事なのかな?
確かに北海の礼文華遺跡に渡来系の特徴のある骨が出てたり
あまり西と東ではっきりとした傾向が見えにくいと言うのはあると思うんだが…wwwww
638 :
630:2010/01/13(水) 03:14:50
I弥生後期頃から、特産品を持つ地域を抱えたクニ同士の交易が行われるようになったこと。このため、交易
センターのようなものが必要になり、纏向が建設されたと考えられること。纏向は東国への物資の窓口であり、
おそらく東国からの食料品も受け入れていたであろうと考えられる。私見では、鉄輸入ルートが問題とされるの
はもう少し後のことと考えている。実際纏向建設の頃は、ヤマトも、もちろん東海でも鉄量の増加が著しいとは
いえない。しかしこのあたりは正直よくわからない。
J各クニでは、祖霊信仰〜首長霊信仰と呼ぶべきものができてきており、各クニの首長霊の調節?をする必要
があったこと。おそらく各首長が集まっての共食儀礼のようなもの。邪馬台国を出してはいかんのだろうが、この
調整機能が卑弥呼の鬼道と考えている。
K纏向を建設した各クニの統合のシンボルが、前方後円墳の祭祀。
>>637 なかなか、イメージが伝わらないと思う。
あんた、俺の言っている意味、理解しづらさそうだから。
もっと、簡単にいうと
日本人の半分近くの縄文人は一万年以上前から
徐々に中国大陸から渡ってきた人たち。
そして、起こりの半分近くの弥生人は
6000年以上前ぐらい前から、中国南部から東シナ海をわたって
日本にやってきた人たち。
そして、残り5%未満ぐらいは、朝鮮半島や樺太を経由して、やってきた人たち。
弥生人というか、新アジア人種でも、いろいろルーツがあって
新アジア人種の大半が、実は縄文時代に中国南部から、やってきた人たちで
弥生時代に日本に渡ってきた人たちというのは、もっと少数で
しかも、朝鮮半島経由の新アジア人種というのは、5%未満にすぎないといわれている。
640 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:32:11
[いわれている]って、誰の説ですか?
641 :
637:2010/01/13(水) 03:40:47
>>639 レスサンクス。
まあ要するに列島には稲作が伝わる前に既に弥生人がいたという話だなwwwwww
シベリアで寒冷地に適応したモンゴロイドが江南まで南下した足取りは掴めているのか?
…等々の疑問はあるが、反面そのモデルだと理解しやすい事柄も多い。
(先にも言った渡来系の形質が単純な西高東低じゃなく、もう少し崩れてモザイク状になっている事とかw)
>>481>>485 去年の11/14,15の説明会行ってないのかよ。
これは木村房之さんの説で、
桜井市埋蔵文化財センターは、この方向で説明会をやってるから、
報道が「魏尺」と書いているのは、この説の「魏尺」のことだよ。
ちなみに32cm弱を想定しても、24cm強を想定しても、
割りきれない柱間が出てくる。
魏尺と信じている人は、一体一尺何センチを想定していて、
建物B, Dの柱間を何尺と勘定するのか教えてくれよ。
そもそも細かい数値が実証的に出て来てない時点で、
(正面辺のみの図解は説明会でも配布してる。ただしXX.5尺のオンパレード)
例外除去と推測積み重ねの域を出てないことがわかりそうなもんだが…
ぴったりマッチしたら、大喜びで発表してるよ。それ一つで論文になるし。
箸墓が漢尺で設計されてると聞いたことがあるが
645 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:30:08
老博士はどうなされたのか?
老博士というと、まさか、あの、フリッツ・フォン・マルテル博士じゃあるまいな?
648 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 01:56:45
正月限定の帰国らしいし、すでに日本にいないのかもしれない
赴任先?がネット環境にないとか書いてたし
血で酒を割るとかからモンゴルか中東の辺境あたりか?
しかしまた帰ってきたときのために質問をまとめて待っていてもいいかもね
649 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 03:14:40
世界中を飛び回る考古学者の先生をつかまえて、畿内説を批判する2ちゃんニートは本当に痛々しい。
フリッツ・フォン・マルテルって何?
九州説を信じている奴って
日本ユダヤ人説信じている、多いよなw
652 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 13:38:43
竹内文書、九鬼文書とかもなw
だから東日流三郡誌みたいな三流偽史にころっと騙される
653 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 14:18:32
そうそう古事記や日本書紀なんて支配者の側が都合の良い歴史を
でっちあげて書いただけなのにね。
神武東遷もでっちあげで、マルクス主義史観で修正する必要があるね。
654 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 14:24:53
>>653 うーん、15点
そこでマルクス主義史観の皮肉オチはあからさま過ぎる
もうちょいぼかして、そうそうとうなずかせた上で?にさせねば
655 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 15:20:11
>>654 >>653は直木孝次郎がしつこく繰り返して主張していることだろww
マルクス主義云々は別にして
その基盤がなければ、彼の説の大半が成り立たないわけだし。
そういうふうに考えると
右翼と左翼が似た者同士ってのは
図星だなw
極端と極端は、最後は1週回って出くわすというやつw
日本ユダヤ説=極右
日本半島説=極左
657 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 15:58:50
>>653 マルクス史観とかいつもの東遷厨が大好きそうなお話だなw
少なくとも神武東遷なんかは別にマルクス史観だのを持ち出す必要も無い
そもそも説として成り立っているのかどうかも疑問だw
記紀のたちの悪さは全部が嘘じゃないってところで
100%嘘をつく人間の方が中途半端な正直者よりは信用できるって話wwww
まあ、あくまでこのスレは纏向のスレなんで纏向との関係で言えば
纏向は記紀の伝承としては崇神じゃなくて垂仁か景行の宮の伝承地に当たるんだっけ?
それをどう解釈するかだな。
まあここでクレーマーと化している九州説の連中にすりゃ垂仁の時代で
年代は3世紀半ばよりも後になると言う方向にしたがるだろうと言うのは
火を見るより明らかなわけだがwwwwwwwwww
(尚『無人都市論』をぶちまけている東遷厨やサイキバは崇神や垂仁の宮は別個に探してくるようにw)
神代の範疇の記述は嘘でも本当でもないと考えないと。
脚色や嘘そのものじゃなくて、その動機を睨まないとなんにも見えてこない。
歴史マニアには象徴を読み解くって発想が欠落してるやつが多すぎるんだよ。
659 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:22:29
後に神武天皇と呼ばれる人物が、日向から近畿へ遠征したのは事実でしょう。
わざわざ九州から近畿へ遠征した嘘を書く必要なんてないわけだし。
でも、記紀などをちゃんと読めばわかるが
神武東征ってのは、首都を移転させたような大規模なものではなく
少数の援軍程度のものだろう?
しかも、その当時、近畿地方には、神武さんの親せき筋にあたる人が
倭王として君臨していた可能性が高い。
それが、高倉下か、その親族じゃないの?
ニギハヤヒが天火明命かどうかは、諸説あるし、断定はできないが
なんとなく、天火明命一族から革命で王朝を奪った人物のように思える。
櫛玉という名称がニギハヤヒにはついているわけだから。
天火明命の後継者であるニギハヤヒって意味だと思うよ。
だから、同一人物じゃないと思うね、ニギハヤヒと天火明命は。
実際に、高倉下(天香語山命?)は、ニギハヤヒとナガスネ日子のイチミを
認めてなかったわけでしょう?
661 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:32:39
>>658 それでは歴史ではなく宗教になる
そこの加減が難しいのだが
中には宗教的信条から歴史を語ろうとするやつまでいるし
(神武の存在を否定されると脊髄反射でレスするのはこの手合い)
そういうやつらと邪馬台国ヨタ話から避難したのがこのスレなんだから
>>661 ま、了解。
つまりまあ・・・たとえばだけど、東遷説の現実味の薄さは十分理解した上で、
なんでヤマトはそう言いたかったのかね?
ってことは、考慮に入れる「必要」があると思うんだよね。
663 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:38:11
>>660 まず一行目からして駄目にゃんw
それを事実だと思っているのは、おそらく2chでもごく少数で
畿内説はおろか九州説でさえそんな事実はない、と否定するよ
うそを書くはず無いとかはただの思い込みだからw
664 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:46:00
>>662 うん、なんでヤマトはそう言いたかったのかね?は
オレもものすごく興味あって、本当は語りたいんだけどwww
やっぱここだとスレ違いだと思うんだ
でそのスレ違い議論を軽く交わしたら最後
ぶわーっと電波が群がってきて食い散らかしてぼろぼろにしてしまう
電波にとっては議論さえいやなんだろう、そういう話は
だから今のところは、ここではしないで了解してよwww
>>663 そんなことはない。
現時点では、事実か否かは、判断しようがない
という意見が大勢だろう?
よっくわかりましたw
ただ逆にね、
>>663みたいに「嘘か本当か?」でしか考えず、
しかもその判断を検証しないという態度も目に余るんで・・・
旧皇族の竹田は
わざわざ九州から近畿へ遠征した嘘を描く必要はないから
神武が九州から近畿にやってきたのは本当だと思うと
言っていたけどなw
しかし、このスレのテーマを真正面からみたら、やっぱり、
「どうしてヤマトは卑弥呼と邪馬台国のことを書きたくなかったのか?」
という「読み解きの問題」に集約される気もするんだよなあ。
669 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:55:54
記紀が誰かにとって都合の良い物語とは思えないな。
皇祖とされる天照大神なんて、高天原を治めろと言われたのはいいが、
素戔鳴尊に怯え、仲直りした後も乱暴に苦しめられ、怒って岩戸に隠れてしまう。
岩戸から出た後は、なんか影が薄い。
皇祖にふさわしい凛としたエピソードが一つもない。
都合の良い物語を作って、こういうのはないなと思う。
>>660 天火明命は、天孫・瓊瓊杵尊の兄となっている。
しかし、これが饒速日命と同一人物であるとする証拠はない。
仮に、同一人物であったとしても、兄の系統が正統というわけでもないし。
でも、竹田は「記紀の万世一系は本当だ。私は信じている」と言っておきながら
誰かに、ニニギの兄の天火明命が真の初代倭王だったのでは指摘されたら
竹田いわく「記紀というのは、いろんな豪族を取り込むために
天火明命をニニギの兄にした」とか言って
それを誰かに「竹田さん、それダブルスタンダードじゃん」って
突っ込まれていたw
「嘘を書く必要はない」というフレーズが二度出ましたが・・・
664さん、ツッコミ入れてもいいですか?w
>>668 卑弥呼が都合が悪いのではなくて
卑弥呼の擁立された経緯がまずかったんでしょう?
つまり、倭国大乱の時代が。
卑弥呼=モモソ媛命(箸墓の被葬者)ならば、
時期から考えて、欠史八代の中ごろの時期に、倭国大乱が起こったことになる。
673 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 16:59:34
>>669 連合政権ゆえに、各勢力の面子を立てつつ全体を調整した物語ってのは
わりともう普通に言われてることじゃないすか?
わかりやすい例としては、物部の面子を立てる上でニニギの話は
入れざるを得なかったとか(←内容ももちろん一例であって、仮説ですが)。
あんな紛らわしい話、確かに皇統的には絶対入れたくないはずでw
魏志倭人伝には、卑弥呼は「共立」されたとある。
これを当時の中国語の用法で、「共立」とは、どのようなケースで
使われていたか調べると
同族内の王位継承争いが起こり
その結果、家臣によって王が擁立されたケースに
皇帝が「共立」されたというふうに書かれている。
よって、倭国大乱の時代を、後の日本史で例えると
戦国時代よりも、南北朝時代に近かったように思う。
>>672 そうです、そういう「事情」を考えないといけないと思うわけです。
ヤマトとマキムクの連続と非連続を考える上で。
言ってる内容はともかく。
・・・欠史八代とか出すとかえって話が遠ざかっていく気はするな。
677 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 17:13:00
>>675 倭国の大乱は、卑弥呼が死んだ後に起きた戦乱と同じようなものだろうな。
倭人伝には、卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が不服、互いに誅殺、
当時千人あまりを殺した、とある。
卑弥呼の場合も、跡継ぎをめぐる争いで大乱が起き、台与と同じような
立場の卑弥呼が共立された、と考えるのが妥当だろう。
>>676 そうかな? 欠史八代というのは、もろ
倭国大乱の時期だと思うよ。
卑弥呼=モモソ媛命と解釈するのなら、避けては通れないと思う。
しかも、日本最古の系図の海部氏は、皇室から
欠史八代の時期に該当する尾張氏・海部氏の人物を描くなって
脅されていたことも分かっているし。
旧皇族の竹田は
わざわざ九州から近畿へ遠征した嘘を描く必要はないから
神武が九州から近畿にやってきたのは本当だと思うと
言っていたけどなw
倭国大乱とは、
尾張氏の先祖と、皇室の先祖(欠史八代のあたり)が
対立した話じゃないの?
まあ、両者も、元をたどれば、兄弟から別れた家系同士だし。
2人の女王とその間に挟まれた男王には、性差とか実力ってだけじゃない
なにか決定的な立場の違いがあったんだろうな。
血統による権力の継承ってことが、この時点でどこまで認められていたのか
いなかったのか。ってこともわからんからなあ。霞を掴むような話だ。
682 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 17:19:59
>>679 大和に都する大和朝廷が、自分たちの歴史として神武東征を書いたのだからねえ。
683 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 17:21:50
>>681 少なくとも、邪馬台国の時代は世襲という体制ではなかったと思う。
>>682 だからさ、ほーんの一例だけどね、「東征」という勇ましい話は
フィクションだったとしても、出自は九州にあるということを
自ら認めるエピソードとしては理解できるわけだ。
魏志倭人伝見たらわかるが
古代から完全世襲だけど、問題は、そこではない。
どうも、倭国では
祭祀を行う形式上の倭王と、実際の政治を行う世俗王の
二元体制だったことが分かる。
>>685 ご面倒ですが、うろ覚えレベルの典拠でいいので具体的な解説プリーズ。
後半が非常に興味深いので。
律令体制下でも、日本では、臣下の地位は
神祇官と太政官というふうに、祭祀と政治の官位が分かれていた。
律令体制では、中臣氏が、両者を独占、
神祇官を大中臣氏、太政官を藤原氏というふうに
中臣一族で独占していた。
おそらく、卑弥呼の時代あたりまでは
トップにいる王自体が、祭祀王と世俗王に分かれていたのであろう。
卑弥呼(モモソ媛命)は祭祀王、イニエ命(崇神)は世俗王であり、
卑弥呼の死後、最終的には、イニエ命(崇神)が単独で、その両方を兼ねるように
なったんだろうと思う。
で、問題は、卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱以前の
男王たちである。
魏志倭人伝の流れからして、この王統は祭祀王のほうだと思うが
神武皇統の天皇は世俗王だった可能性が高いとなると
この王統は何者だったのか?となる。
688 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 17:38:05
>>674 連合なんて文献的にも考古学的にも支持できないよ。
まさにトンデモそのものだね。
うーん・・・個人的に非常に惹かれる絵図ではありますが・・・
やっぱり「おそらく〜あろう」を前提にして説を展開しちゃうんですね。
>>685では根拠あるっぽい言い方してたのに。
自分は、この倭国大乱以前の男王の時代
この王統は、
古事記ではニニギの兄とされている天火明命の系譜
つまり、熱田神宮の尾張氏の先祖たちが
倭王の正当な祭祀を継承していた祭祀王(倭王)だったのでは?と思う。
神武〜開化までの天皇たちというのは、世俗王であって、祭祀王ではない。
形式上の倭王は、ちゃんと祭祀を継承した祭祀王のほう。
だとすると、尾張氏の先祖たちが、正統な倭王であり
それを補佐し、実際の政治を行っていたのが、
神武皇統だったのでは?と思う。
>>688 当時のクニグニの中のひとつが、他のすべてを制するだけの
突出した軍事力と機動力と政治力を持っていたってこと??
692 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 17:52:59
>>691 連合が多数の国の並立という意味だとすると、「お花畑平和論サヨク」並みのトンデモにしか見えない。
相互不可侵の約束が多国間で成立して、それで安定していたとか、もうアホかとww
>>685 中国は、女王ってのがどうしても理解しがたくて、男王が補佐しているってことで、納得しようとしているのかもしれない。
その可能性は留保しておくべき。
そもそも補佐のいない王なんていないはずなんだけど。
推古天皇の時でさえ、国内とかなり認識のずれがある。
>>692 戦争だけでなく、手打ち、手打ちの結果として、勢力間の序列が作られていったと。
中枢には複数勢力の代表が有力者として入ったと。そういう理解で問題ある?
「連合」という語義からは離れておくれ。不用意さはあやまるから。
>>690 とても興味深い妄想でした。ありがとう。(皮肉と本音半々ね)
>>690 国宝海部氏系図の謎なんかは、もろ、そういう話だよな。
なかなか興味深い話、ありがとう。
だとすると、欠史八代の中ごろに
天火明命系とニニギ命系(神武皇統)との間で確執があったと。
なるほどね。
そういえば、欠史八代の中ごろに
両家系の間で、婚姻関係もあったんだよね。
696 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 18:11:16
>>694 多数の国が序列付けられて秩序が作られていた。
個々の国の首長は自国の統治権があった。
中枢には複数勢力の代表が入っていた。
となると、江戸時代も「連合」ということになるのだろうか?
>>696 それって、日本では、だいったいデフォルトの体制だろう。
日本は島国だから、
普段は地方分権的になるのは、デフォルト。
じゃあ日本はヤマト王権建国から現在に至るまで、すべて(ゆるやかな)連合国家の体制だったんだ。
699 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:15:49
>>698 日本で覇者が決まるのは全て戦争だろう。江戸時代も同じで、数限りない
戦いを経て、最終的な勝者が決まる。徳川家は、部下の武将や恭順の意思を
表明した外様の武将を各地に置く。改易などがあることから、連合なんて
ものではなく、完全に支配化においている。
これが古今東西を問わず当たり前で、各地の勢力が話し合いで王を決め、
都を建設したなどという話は聞いたことがない。
開化までは、大物主が大和の最高権威だろ
邪馬台国時代の倭国は連合国家なんじゃないの、少なくとも魏志倭人伝を素直に読む限りは。
卑弥呼が巫女だったこともハッキリ記されているわけだし。いまで言えば新興宗教の開祖み
たいな存在であり、一種の宗教国家だったのでは? 当時は中国でも張角が宗教国家つくっ
ていたくらいだから影響を受けたのではないかな。
702 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:21:49
>>699 考古学で歴史を考えると、ありえないことも可能になるということかな。
覇者が登場するのは雄略天皇からでしょうね。
704 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 21:30:40
>>701 そうでもない。伊都国については、代々王がいて皆女王国に統属すると
なっている。一大率については、諸国を検察し、諸国はこれを畏れ憚る、
と書かれているので、やはり諸国の上に立つ国があったと考えたほうが
いいと思う。
卑弥呼が、邪馬台国王でなく、倭王となっている事からもそれがうかがえる。
魏志倭人伝には、王は卑弥呼(女王)とヒミココの2人しか登場しない。
他の地域には統治のための「官」が任命されているのみで王は存在しない。
なので普通に読むと邪馬台国という一人の女王のいる国と、ヒミココという
一人の王のいる狗奴国の2国に分かれることになる。
ゆえに卑弥呼が「共立」されたといっても、他の国の王が支持したというのではなく、
家来が満場一致で支持したという意味にしかなりえない。
名前のない男王と壱与がいるじゃん
>>660 >後に神武天皇と呼ばれる人物が、日向から近畿へ遠征したのは事実でしょう。
>わざわざ九州から近畿へ遠征した嘘を書く必要なんてないわけだし。
まったくそのとおりで、「神武東征伝承」ってのは、もともと九州にいた一部族が、
カリスマ的指導者に率いられて奈良盆地に入植したという一部族の伝承がモデルなんだろうと思う。
後世、畿内の有力豪族たちが連合することでプレ大和王権が成立した時に、
勇壮なこの物語が始祖王伝承として採用されたのだろうと思う。
言ってしまえば、大和の豪族にしたところでみんな元を正せば、
九州を経由して東進していった弥生人の末裔であり、九州が始祖王の本貫地という物語は
受け入れ易いものだっただろう。
>>707 その説も説得力がないなw
なんか九州説論者は哀れw
どうみても、ヤマト王朝は、近畿地方で自生したにすぎない。
西暦5世紀の倭王武(雄略天皇)の上奏文からも、それしか推測できない。
じゃ、近畿王朝がはじめて全国統一したのはいつかというと
それは、出雲国譲りであって
それは、神武天皇よりも3代前の時代に起こっている。
つまり、神武天皇による東征というのは、
近畿王朝の時代の途中に起こったにすぎない。
神武天皇は、近畿王朝の始祖ではない。
中興の祖ぐらいの立場じゃないの?
徳川時代でいう徳川吉宗。
中国でいう、後漢を建国した光武帝のような存在。
欠史八代ってのは、サヌカイトを押さえて古来(縄文以来?)から
奈良盆地に君臨していただろう、葛城系氏族の、伝説的なウジノカミ(族長)たちか
もしくは葛城族が崇拝していた山や川の自然神が原形だろう。
最終的に、三輪と葛城、和邇あたりの妥協で奈良盆地の統一王権は成立したと思われるが、
古来より権威を持つ葛城はその後も隠然たる力を持ち、また由緒ある氏族として重んじられ、
最終的にかれらの系譜は、マキムクの初代大王(ハツクニシラス=崇神)以前の奈良盆地の覇者
(実際そうであったかは別にして)、文字が使用される以前、青史以前の大王として崇神以前に
加上されたのだろうと思う。
711 :
707:2010/01/15(金) 00:21:54
>>708 どこをどう読んだら、九州説になるんだよ。
おれは畿内説だし、筑紫東遷説は妄想。
ぎりぎり九州説はまだ可能性があるかも?
(ヤマト国に反発したツクシのクニが遣使した可能性は完全に否定できない)
って立場だぞ。
北部九州で始まった弥生文化が何百年もかけて東方へ漸進した、っていう説も
信じられないのか?
>>711 弥生時代の始まりが、遅くとも、紀元前10世紀
しかも、縄文時代中ごろの紀元前40世紀ぐらいから既に
大陸から弥生人が流入していたとするのなら
あんまり、そういうことが神武東征に反映されたという説も
かなり大げさになるように思う。
自分は、紀元1世紀ごろ、
日向で知事をしていた豪族の息子だった若御毛沼命(神武天皇)が
近畿本国で内乱がおこったので援軍として駆け付けたというのが
本当の真実だと思う。
>>699 >日本で覇者が決まるのは全て戦争だろう。
はあ?「覇者が戦争で決まる」ってのは当たり前の話で、そもそもの覇者の定義がそうなんだから。
マキムク王権は覇者じゃない、てのが主流派の論調なんだよ。
>江戸時代も同じで、数限りない
根拠が江戸幕藩体制かw
何度も中央集権国家が生まれては消えを繰り返した後の日本を例に出されても、というのが正直なところ。
3世紀の日本に、「日本はひとつのクニ」みたいな考えがあったかも疑わしいところ。
統一王権を体験していないクニグニにとって、群雄割拠が自然な状態。
そもそもが群雄割拠ってのは、「統一が当たり前。不自然な状態」という前提があって初めて成り立つんだよ。
文化的に近い倭人のクニグニが連合、初めて王制に踏み出した第一歩がマキムクなんだよ。
この時初めて「日本はひとつ」という考え方が示されたというか。
>>699 >東西を問わず当たり前で、各地の勢力が話し合いで王を決め、
>都を建設したなどという話は聞いたことがない。
いやむしろ逆で、洋の東西を問わず王制の始まりは、
複数の部族とか都市国家が連合を経てまとまり、盟主の国が初代の王になる、
というのが一般的だと思うがな。
たとえば初期鎌倉幕府は、関東有力御家人連合ってのが実態で、
頼朝はそのパワーバランスを上手く制御していた感じ。
関東の地に初めて王権を築くには、
そういった諸勢力の連合体という時期を経なければならなかった。
>>713 それじゃ、魏志倭人伝を描いた中国人は
卑弥呼の即位を共立とは書かない。
同時代の中国人が、王の即位について「共立」
と記したケースを調べたら、いろいろ見えてくる。
倭国大乱とは、王朝内部で王位継承を争った権力闘争だったことが分かる。
716 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:29:56
結局、文明といえるものが何かあんの?
墓とか、倭人伝の内容とか、木でできたみすぼらしい家とか
世界を凌駕するほどの発見でもない、地球上どこにでも当時ありそうな
ものばかりで、それで王朝とか、巻向が中心だったとか言われても
UFOを信じなさいと言われてるのと変わらんな
717 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:34:22
>>692 >連合が多数の国の並立という意味だとすると、「お花畑平和論サヨク」並みのトンデモにしか見えない。
まあこの辺がこの東遷厨の脳味噌の限界だなw
もはや5世紀頃に首長連合のようなものから中央集権的な国家を目指すものに
ヤマト王権が変質して言ったというのは邪馬台国論争にも関係の無い日本人の常識レベルw
「連合」と言えば和気藹々の「仲良しグループ」を指すとでも思っているんだろう。
中国の秦にしても始皇帝の代に辺境の秦が一気に(それこそ何の前ふりもなくw)全土を統一したのではなく
合従連衡を繰り返したと言うのは常識。
しかもこの東遷厨は崇神の代に四道将軍の派遣により全国を統一
纏向型前方後円墳をその証にすると言うのだから豪快な話しw
四正面作戦で一気に数カ国をぶち抜いて征服しようと言うのだから
信長なんか小便チビって逃げ出すわなwwwwww
もっともそんなことが可能でなければ神武が瀬戸内を西から東に駆け抜け
ヤマトを征服した…なんてお話が作れない事情はあるんだろうがwwwwwwwww
>倭国大乱とは、王朝内部で王位継承を争った権力闘争
むちゃくちゃでんがな・・・
720 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:43:21
>>713>>714 倭人伝を見ても、倭国の乱があり、狗奴国との争いがある。台与が王になる
前には千人あまりを殺したとの記述もある。
どう見ても、戦乱の世の中だと思うが。
記紀を見ても同じで、何かあれば戦いというケースばかり。
連合みたいなものがうかがれるものもない。
つまり、連合なんてのに文献的な裏づけが全くない。もし、考古学的な
もののから来ているとすれば、いったいその根拠はなんなのか。
土器でそんなことがわかるのか。
また、卑弥呼のずっと前に、日本には中国から「倭国王」と呼ばれる
人物が存在した。倭は、当然のことながら当時は日本と同義に用いられる。
これをどのように考えるか。ということかな。
源氏だ藤原だという例を見てもわかるように、出自血統自慢は数百年を超え、
真実を凌駕する。神武東遷伝説が示しうることとしては、
「記紀編纂当時の共通感覚として、九州出身は貴(古)種という通念があった」
ってだけの話なんじゃねえかなあ。根拠の有無以前に。
722 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:46:51
>>718 倭人伝や他の中国の書物を読む限り、それが一番自然な解釈だろう。
なんだったら、倭人伝のこの部分を訳してみるかな。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
723 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:47:59
>>688 >連合なんて文献的にも考古学的にも支持できないよ。
纏向の在り様が十分にその傍証足りえるw
じゃあ一気に全国を平定した一大帝国の崇神の都は何処にあるんだ?w
それは兵舎がずらりと並んで鉄鏃や鉄剣の鉄製武器がいたるところから出土するような場所じゃないのか?www
まあお前が「無人都市」なんて言う纏向なんかその役目を負う事は到底叶わないわけだがwwwwwwww
>>720 まあ資料に入念に当たる姿勢には敬意を表するが、あんたのその「共立」の語義への
過剰な思い込み「だけ」を排除すれば、魏志の記述は、戦争を中止して各勢力合議の上で
卑弥呼(連合政権)を立てた、としか読みようがないんだが。
725 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:54:26
もうね「連合体」と言えば、仲良しこよしの平和社会としか考えられない
この東遷厨の脳味噌お花畑はなんとかならんのか?www
727 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:03:35
>>725 連合という張り詰めた糸のような緊張関係が狭い日本のなかで数世紀も続いたという考えのほうが
よっぽど脳味噌お花畑ですな。
728 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:04:49
>>724 卑弥呼のケースは、台与が王になったときの様子でうかがえる。
卑弥呼が死んで男王が立ったが、国中が不服、戦乱が起きた。
台与を王にすると収まった。つまり、これと同じように、いわゆる倭国の大乱
は、後継者をめぐる争いと考えられる。
それは、倭人伝からもうかがえる。卑弥呼の前には男王がいた。70〜80年
たって、倭国は乱れる。やはり後継者争いと考えられる。
他の中国の書物には、倭国の大乱について、「歴年無王」と書かれている。
長年にわたって王がいなかった。
これはその前に王がいたことを前提として成り立つ。
西暦107年に後漢に朝貢した帥升は、後漢から倭国王と呼ばれている。
卑弥呼はこのときから続く倭王(倭国王)の系統なのだろう。
魏志ではクニグニの集まり全体を倭国と定義してるわけだろ?
なのに倭国大乱が単なる後継者争いってのは、どうしたって無理があるね。
中心にあるのが後継者争いだとしても、クニとクニの間で意見が分かれたと
考えるのが自然ってもんだろう。
>>728 >台与が王になったときの様子
「更相誅殺。」誅殺だよ。
>このときから続く倭王
伊都国の「世有王」だろう。女王國に統屬していたよ。
・・・マキムクスレなのに。
731 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:24:52
帥升についてはデータがなさすぎて万事に憶測しかできないから、
なんらかの論の根拠とすべきじゃない
「倭国」が向こう側の呼称でしかなかった段階ってのも想定できるし
732 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:31:27
>>731 帥升については、後漢に生口を160人献上したとある。
かなり多い。卑弥呼の場合は10人だった。
これは、大規模な戦争をした結果ではないかと思う。いわゆる戦争捕虜。
倭国王と呼ばれていることからして、このときに倭人伝にある30カ国あまりが
従属するような体制になったのではなかろうか。
733 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:33:22
>>727 数世紀続いて何か問題でも?
ぶっちゃけ日本の中央集権なんて律令制の完成を以ってなされると思っているがw
そういえば纏向を称して「平和都市」と言ったのは武光センセイだったかw
九州版皇国史観爆発の東遷厨にすれば纏向の時代には既に畿内に敵がいなかったから
…と言う解釈だろうが、じゃあそこに至るまで神武から始めて畿内平定するまでの
ヤマト王権の勢力拡大の様子を如何なる考古資料に見るんだ?ちゅう話だなwwwwww
えーと、金印のほうが少し早いんだっけ?
あれは「委」だから微妙なのか。
735 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:40:46
>帥升
そもそも、ここからして帥升”等”なんだから等までを一人の人物名としなければ
「帥升と愉快な仲間達ご一行さま」だろうからw
既にそこで「連合体」が形成されているって話だなwwww
736 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:41:13
>>734 金印は西暦57年だった。
帥升は西暦107年。
卑弥呼は、西暦238年。
ついでに言えば、帥升はどうして後漢に朝貢したのか。
倭奴国の王は、後漢から金印をもらっている。密接な関係とも言える。
帥升は、この倭奴国を滅ぼしたのではないか。
だから、すみませんという意味もあったのではないか。
そう、思ったりしているのだが。
737 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 02:48:11
>>735 後漢書の原文は、「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」
となっている。これはひょっとして帥升自らが後漢に出向いたのではないかとも
思われる。使者を送ったとは書かれていないからである。
卑弥呼の場合も、倭奴国の場合も使者について書かれている。
>>737 オンリー資料だからなあ。憶測の自由度があまりに大きすぎる。
しかも2世紀初頭にそんな遠くまで160人の奴隷を送るって・・・
ちょっと想像を絶する話すぎて、追加資料でもない限り
触れたくないってのがマトモな学者の感覚なんじゃないか。
>>737 >ひょっとして帥升自らが後漢に出向いたのではないか
「冬十月,倭國遣使奉獻。」
安帝紀では遣使です。
>>737 中国にとっては懐良親王も足利義満も「日本国王」だったわけで、日本国内あるいは倭の領域内が
どうなっていようと自分のところに朝貢してくる首長であれば、「王」であったのではないかな?
「帥升等」というふうに「等」の字があることは、小国分立状態であったことは傍証されていると
考えられるね。帥升はおそらく北九州人だったでしょう。その後、中国では黄巾の乱が184年から、
日本では「桓霊の間」だから146年から189年にかけてのうちの一時期、倭国大乱があったというこ
とだが、やはり両者は関連性があるんじゃなかろうか。
741 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 03:38:39
…「後漢書」でも「魏志」でもいいから纏向に絡めて話そうぜ?
記紀には「倭国大乱」を示唆するような記事はないものなんでしょうか? 中国史書
による限り、結局、ヒミコの権力というか権威は、その大乱を経て形成されたものと
いうふうな解釈しか成り立たない。記紀をもってきて邪馬台国論議や纒向に絡めると
しても、「記紀における『倭国大乱』」がないと実証的な話にならないんじゃないか?
743 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 04:08:10
>>742 なるほど。確かに。
卑弥呼について書きたくなかったのと同じ理由で書きたくなかった、
ということも考えられるかなあ。その理由はしらんが。
ただ、モモソ姫の死に様にはなんらかの寓意が込められてると思う。
寓意はいくら読み解いても説や論にはならんから、しょうもないけど。
おまえらスレ違い
老教授殿戻ってきてくれーーー
もし、モモソ媛命が卑弥呼ならば
倭国大乱は、欠史八代中ごろぐらいに起こっているよ。
そういえば、皇室は、海部氏に、欠史八代あたりの系図は
詳しくは書くなって、圧力をかけられていたんだろう?
746 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 10:27:16
様々な勢力が入り乱れ、権力闘争に明け暮れる畿内をよそに、
関門海峡を隔てた九州では、卑弥呼の元で独自の王朝を
作り上げ、30カ国がまとまって、ひとときの平穏な時代を過ごしていた。
>>733 日本の中央集権がいつ始まったなんて決められるんだろうw
ここからここまでが中央集権で、ここからここまでが地方政権なんて
明快な境界線なんて、ないわけだし。
そんなこといったら、明治維新前までは、
日本に中央集権なんて存在しないという意見だってあるんだぞ。
749 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 14:44:26
>>742 倭国の大乱の時期の伝承は残っていなかったんだろうと思う。
いろいろ異論はあるだろうが、個人的には卑弥呼の途中あたりからの伝承が
記紀には残っているのではないかと思う。西暦で言えば、230年とかそのあたり。
じゃあまあ話を戻すとだ、要するに全貌を現しつつある巻向の都は
記紀においてはどこの記述に当たるんだ?ってことだよね。
751 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 15:40:57
纏向を邪馬台国とすれば、いろんな矛盾が出てくる。
考古学的に言えば、いろんな勢力が集まって纏向の都を作り、卑弥呼を女王に
したということにしなければならないのだろう。
では、卑弥呼は記紀の上で誰に相当するのか。
倭迹迹日百襲姫とすれば、考古学的な考えとは全く合わない。
百襲姫は王として共立されたわけではないし、そのとき都が出来たわけでもない。
少なくとも、百襲姫のずっと前から都のようなものがなくてはならない。
天照大神だったら、考古学的には妥当性があるのかもしれないが、それでは
その後に起きたとされる神武東征の説明が出来ない。
卑弥呼は誰なのか、纏向説では答えが出てこない。
752 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 16:00:51
>>751 だからー、そういう話はスレ違いだっつってんだろうがよ!
卑弥呼や邪馬台国が主題なんじゃなくて巻向が主題なの。
手前の安い九州説を主張するために巻向という貴重な遺跡を
いじるんじゃなくて、巻向はなんなのかを素直に考えろと。
九州論ヲタの我を出す前に古代史好きとしての矜持を持てよ。
>>751 なにを言っているんだか...
考古学的には、箸墓古墳は卑弥呼の墓の可能性が高いのなら
百襲媛命こそ、卑弥呼そのものだろうが。
最大の謎は、記紀では、百襲媛命が、ヤマト王朝の皇帝として
描かれてないのか?
ただ、記紀では、百襲媛命は、天皇家の長老的な存在として
描かれているし、
彼女が死んだときに、天皇も顔負けの大きな墓が造られたことも記載されている。
755 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 18:16:20
>>628 >うーん。大陸との交流で、ツクシにまず王制の端緒が開かれたのはそう・・・
このレスだけではないのだが、ずいぶん前の他のレスにもあったな。
ツクシではなく チクシ (筑紫) と読むのだよ。
これは、つっこまれたいからワザとカタカナにしてるのかな ?
でも、知らない人がいたら間違って覚えるのでやめようね。
756 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 19:56:27
まあこんな事を書いたら「分かって無いやつ」とか言われそうだがw
纏向に交易都市のモデルを当てはめた場合、遺跡の規模に対して鉄製品の出土が少ない印象はどうしても否めない。
と言うより鉄の評価の話で常に出てくるが、大和は言わば 鉄不足(この表現が正しいかは別としてw)のまま古墳時代に突入するわけで…
東から西へ何が流れていたかは分からないが、西から東へは鉄資源は外せないだろうと…
>>754 まだちょっと邪馬台国論争寄りだけど・・・
でも、巻向にある最古最大級の前方後円墳が、どうして
記紀では大王墓とされていないか?という問題は、
巻向を真面目に考える上で避けて通れない問題だよな。
そこを避けたいなら考古学板に行くべき。
758 :
縄文人 ◆rKAMVlJZKux4 :2010/01/15(金) 21:02:11
箸墓は、記紀には記されていない幻の天皇「真っ赤猿」の御陵である。まあ、「真っ赤猿」とは私が付けた仮の
名で、考古学事典には記載されてはいない。この天皇の事績は記紀においても完全に抹消・隠匿されておる
まさに日本史の秘中の秘であるのだよ。つまり「秘密を知ってはならなかったのだ」の世界があるのだ。
>>756 鉄製品が少ないのは、巻向が争いの舞台ではなく
宗教都市だからと思うけどね。
>>757 大王扱いではないけどモモソ媛の箸墓逸話は
充分特別扱いには思える。
760 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 21:08:57
鉄がない、鉄がないっていうけど、同時期の日本の各地ではどうだったのよ。
製鉄遺跡の分布と時代は?
巻向の発展と消長とどう重なるの?
製鉄技術の発展ともあわせて語ってくれるとうれしいな。
鉄鉱石ではなくて、砂鉄からの鋳造が初期なんだっけ。
だいぶあとから、技術レベルがあがって、鋳造から鍛造になる。
君らも早くコテを名乗れるぐらい成長しないとな
老教授氏、www、うましか 以外は、まだ名乗ったらいけません
>>758 お前さんはここに書くな
一気に糞スレの流れになるから勘弁
つーかお前さんが堂々とゴミみたいなレスができるスレがあんだろ?
自重しろ
>>762 コテ様に向かって何言ってるんだ
今度にコテを名乗るやつは許可制にするって案はどうだ?
老教授氏とかの現コテ連中に認められたやつじゃないと駄目てことで
>>755 一応反論しておくと、ツクシもチクシも正しい。ばかばかしい
766 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:14:32
卑弥呼以前の邪馬台国が北九州から東遷したのか?最初から大和に存在した邪馬台国
九州から東征した大陸系騎馬民族?に占領され王朝交代がったのか?
767 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:16:39
>>767 その人にレスしてはだめだよ。頭おかしいから。ただ「真っ赤猿」というのは、終戦直後米軍占領下で
「マッカーサー(元帥)」を表す隠語だったから、何かそういった占領軍の首領のような人物を指してる
んじゃないかな。電波だけど。
769 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:29:44
大和の征服王朝(神武=崇神天皇?)はAD350年頃まで続き、ちょうど朝鮮半島では
313年に楽浪郡が、314年に帯方郡が高句麗に滅ばされ、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に
代わり348年に百済、354年に新羅がそれぞれ建国された。
4世紀中葉は景行天皇や日本タケルの遠征とも重なる極東地域の民族動乱期だったので
はないか?その後、AD370年ごろからの応神・仁徳朝の河内大古墳時代へ王朝交代が
あったわけですね。
770 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:38:36
>>769の続き
纏向遺跡や箸墓古墳がAD180年〜AD265年くらいの卑弥呼・台与の邪馬台国だと
すると290年前後の確立の神武(崇神王朝?)への王朝譲り受け交代(簒奪?)の
経過が妄想できますね?
771 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:39:36
>>768 「真っ赤猿」なんて知らなかったよ。
そんな単語が出てくるなんて、どんだけ老人なんだ。
>>769 その説は50年くらい古すぎる。
772 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:39:39
なんで、「ただの巫女」に空前規模の墓を建てたのかと。
でもよくよく考えればただの巫女ではない。オオモノヌシ専属の巫女だ。
オオモノヌシの神にとってナンバー1の巫女だということは、すなわち、
出雲族全員が彼女の言うことに従う、そういう存在だってことだ。
そんでもって、ヤマト王権の首長は出雲族ではない、と。当然だが。
にもかかわらず、出雲族の神オオモノヌシの三輪山が巻向京の守護神だ。
そして記紀の記述は、彼女に「罰を与えている」印象が強い。
よくはわからんが、まあそのへんなんだろうな。
773 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:42:44
>>772 たまに出てくる「出雲族」ってなんなんだよ。
脳内で話されても、さっぱりわからんな。
何度か説明を求めてるが、きちんとした説明を聞いたためしがない。
まず「出雲族」とやらの内容を論じてもらわないとな。
774 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:49:14
>>773 ここでなにかを書いて誰かに説明を求められた記憶がないがw
出雲族の内容について論じると脱線するんじゃないか?
まあ「オオクニヌシが象徴する天皇一派最後の対抗勢力」ってことでいいよ。
775 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:59:21
>>774 1、オオクニヌシと出雲の関係
2、出雲とは現在の島根県を意味するのか、違うのか
最低、これくらいは論じてもらわないと「出雲族」では意味が通じない。
なぜ「大物主派」ではだめなのか?
776 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:03:32
>>774 >まあ「オオクニヌシが象徴する天皇一派最後の対抗勢力」ってことでいいよ。
これも、意味が汲み取り難い
1、天皇一派に、抵抗する勢力(オオクニヌシは天皇と関係がない)
2、天皇一派の、抵抗勢力(オオクニヌシは天皇と関係が深い)
どっちだ?
たぶん、1の意味だと思うが、一応確認しておく。
777 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:06:58
>>775 んー、神話の読み解きを試みただけで、「だからどうだ」とは言ってないんでね。
「天皇一派最後の対抗勢力」の内実がどうだったかは自分で適当に考えてよ。
>なぜ「大物主派」ではだめなのか?
オオモノヌシ=オオクニヌシという記紀の定義に従ったまで。
つまりヤチホコ神(越勢力)も「出雲一派」だと普通に考えてるけど。
ああそうか。じゃあ「族」って表現は取り消し。「出雲一派」ってことで。
778 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:09:45
779 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:10:13
>>777 出雲一派は、島根県+越と考えてるわけ?
もし、そうなら、「それは違う」とだけ言っておく。
780 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:14:15
>>763 老教授が認められたんじゃなくて
老教授に認められたの間違いだな
縄文人とかまんま門前の小僧扱いだし
他のコテは雑音扱いじゃんwww
うましかはいい線いってるかもってぐらい
めんどくせーな。じゃあ「出雲」って言葉は全部取り消し。
「国津神側」という言葉に置き換えます。
あくまでも記紀の描写の一部分の読み解きを試みただけで、
持論や説の展開をするつもりはないんでね。
782 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:20:17
>>781 ならば再三指摘されるとおり
このスレで自説を御開陳する意味まったくねえよ
ドンこいか終止符にどうぞ
>>782 だから「説」じゃないって言ってるのにわからん人だなw
「普通に読み解けばこうなるが、その意味するところはわからん」
って言ってるだけ。
史学でも考古でもないテクストからのアプローチがあってもいいだろ?
むしろどこが気に障ったのか具体的に聞きたいもんだね。
別の読み解き方を示してくれればそれもまた面白いじゃないの。
784 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:33:25
>>783 出雲を島根県と考え、オオクニヌシを島根県の神だと考えてるなら、
まだ、読み解いてないんだよ。
オオクニヌシは、大八島全体の国作りをしたという設定だろ?
九州や紀伊もオオクニヌシの伝承がある。
オオクニヌシという神が、何時の時代の成立か?弥生時代か縄文時代かも論じないと、
何の役にもたたない。
>>784 だからね、史学じゃないの。テクストの読み解き。
このトンチンカンなやり取りでわかるように、私にはあなたのような
史学の知識もアプローチ法も持たない。そのかわり、あなたにわからない
テクスト解読のアプローチ法は持ってる。
せいぜい材料にしてくださいとお願いしてるの。
>>780 老教授、縄文人、うましかはいいが
お主はダニだろw 偉そうにコテの評価するなって話で
話が通じなかったか・・・まあ仕方ないね。
偉そうにザコの分際で
縄文人は門前の小僧
他のコテは雑音
うましかはまあまあとか語ってるんじゃねーぞ て話し
789 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 02:43:28
でも客観的に見ればおおむねwww
おれ等がザコってコテはどんだけ偉いんだって感じだしいwww
老教授も昔はどんなに偉いのか知らないけど
今ここで見ると格が違うてのは素人でもわかるwww
なんか人気投票みたいで超ウケるんだけどwww
790 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 02:46:39
>>771 >>その説は50年くらい古すぎる。
一番無難な妄想だと思うが・・・有力最新説なんてあるのか?それは何?
2ちゃんには名無しもコテもない書き込んだ内容が全て。
良くも悪くもフラットな世界wwwwwwww
と言うか”日本@名無史さん”がデフォなんであって
コテを使うのはその個人の思うところ、事情によるもの。
それでレスの内容のレベルが保証されるわけでもなんでもない。
逆にはっきり言ってこの板の九州説のコテは痛さの証明だと思っているwww
まあこのスレに書いて良いものかも躊躇するところがあるがw
一度書いておく…
(1)先ず真っ先に考えなきゃならないのは
記紀の書かれた7・8世紀には、出雲はまだまだイケイケドンドンであって
(「雲太和二京三…と謳われた巨大神殿は平安時代)
記紀に占める出雲神話のボリュームは何の事はない記紀編纂当時の
出雲の勢いみたいなものが反映された結果を考えておいた方がいいだろうw
コレは想像だがw先ず全国の神々を国津神として出雲神話の中に統合。
(タケミカヅチの諏訪逃亡が好例か?w)
後に記紀の神話の中で天津神に下らせる事により記紀神話のヒエラルキーを完成させるみたいな?w
ある集団を〆るにはそのトップと目される奴をコツンとやるのが手っ取り早いwwwwww
(2)良く前方後円墳の葺き石は四隅からの影響みたいな事が言われるが
石塚・矢塚・勝山・東田大塚からはその痕跡は認められていない。
ストレートに解釈すれば少なくとも纏向立ち上げのメンツには出雲は入っていない?w
(3)出雲は前方後円墳ではなくて前方後方墳の地域。
コレもヤマトとの関係を考える材料になるだろうw
(4)古代の鉄の研究家によると勝山の製鉄遺構に使われた技術(元はツクシが想定されるらしいが)や
古墳時代になってヤマトに流れ込んでくる鉄は日本海ルートからいわば枝分かれして入ってきたというのは
考えにくいとの事(『邪馬台国時代のツクシとヤマト』)
それから考えると出雲が瀬戸内ルートの纏向に積極的に関るメリットはやはりない?
結論:混ぜるな危険!記紀の出雲神話と纏向遺跡wwwwwwwwwwww
誤)(タケミカヅチの諏訪逃亡が好例か?w)
↓
正)(タケミナカタの諏訪逃亡が好例か?w)
795 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 06:11:26
>>792 俺は昔から、纏向遺跡と出雲の関係に懐疑的だったんだが、
畿内説からもやたらと出雲出雲と聞こえてくるから、どうしてかな?と思ってたんだ。
>ストレートに解釈すれば少なくとも纏向立ち上げのメンツには出雲は入っていない?w
こういう冷静な意見は貴重だな。
巻向で魏・晋の外交官による文字資料が出土する可能性はあるのか?
出雲は先に畿内に入って、先住民族と協調した連中の総称だろう。
抵抗した連中が土蜘蛛扱いされただけ。
798 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 09:55:51
799 :
791:2010/01/16(土) 10:02:22
800 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 10:06:34
結局、出雲庄って何なの?
考古学的には出雲の痕跡はないようだけど。
>>801 昨年発表された建築物跡では
出雲大社との類似性が指摘されてるけど。
803 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 11:38:49
吉備と同様に出雲も本格的な参画は
少なくとも箸墓あたりからということだろう
大体出雲神社は本来京都亀岡に在る訳だが。
奈良盆地には杵築神社だらけだし。
先に畿内に勢力を持っていたという事でしょう。
805 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:53:43
>>801 出雲は、記紀にたくさんの記述がある。記紀の主役の一つかな。
昔、畿内説の考古学者は、出雲には考古学的な遺跡がないからちっとも重要性が
感じられない。記紀は間違っている、と言っていた。
しかし、いまや、出雲は遺跡の宝庫。次から次に重要な遺跡が出てくる。
350本超の銅剣がまとまって出てきたり、銅鐸もたくさん出てきて、今や
日本で一番銅鐸の出土の多い地域になっている。
弥生最大の集落と言われる妻木晩田遺跡もある。
すでに、考古学的にも最も重要な地域になっている。
こんなことも知らないのかなあ。
806 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:00:18
ちなみに、記紀には、高天原と出雲の争いが書かれている。
高天原から次々に神々が派遣された。そして、ついに出雲は征服された。
大国主神(大己貴神)は、高天原に国を譲ることを約束して姿を消した。
これが有名な出雲の国譲り。
>>805 ヨコからだが…
東遷厨かな?鬼の首をとったが如く出雲の御高説たれているがw
>>801が聞いているのは「出雲」じゃなくて「出雲庄」だぞwww
808 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:14:22
>>807 そうか、早とちりか。
しかし、以前考古学者が出雲を重視していなかったことについては間違はない。
神話の時代の事なら‥
葛城地方=高天原
三輪周辺=出雲に置き換えたら判り易いでしょ。
で、国譲りで先に畿内に入っていた出雲の勢力は、
徐々に地盤を失って最終的に現在の地に至るという事。
810 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:29:53
>>808 いや間違い。それあなた騙されているアルw
正確には、歴史学者それも文献史学者が重視していなかったのであって
考古学者は、掘ってもないのにそんなのわからんという立場だった
よく勘違いされるけど、直木孝次郎や井上光貞などは、生粋の考古畑の人じゃなく
どちらかというと考古学の成果も踏まえて文献を読み解くといったタイプの歴史学者で
だから、当時の考古成果で考えて二大文化圏とか提唱したってだけなんだわ
考古学者は、それちょっと早計じゃない?ということで
出雲や東海や関東である程度成果が出るまで、おおっぴらな発言は控えていた
>>792-793の「出雲の取り扱いについての注意書き」を書いたのは俺だがw
確かに出雲と言うのは神話を外しても魅力的ではあるwww
四隅の分布が何故か丹後・若狭周辺をすっ飛ばして日本海側に広域に広がる様は
前方後円墳が多分に線的(というか結構”飛び飛び”)に広がる様に似ている。
もっと穿って見れば「宍道湖」と「河内湖」
勢力形成に共通する要素だったかもしれないwwwwwww
>>810 発掘したことない人間が考古学者のわけがない。
>>810 「二大文化圏」の言いだしっぺは和辻哲郎先じゃないの?w
桜井市には出雲や吉備とかの地名が残るのは興味深い。
マキムクに各地からオウが集住していた頃の名残りなのか?
815 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:57:05
>>813 そうだった、和辻のほうがずいぶん先ですわ
>>812 まあ樋口や森のじいさんのように、考古学出身だけど
早々に古代史学に鞍替えしたひとたちなんかは
けっこう過激な発言してるのは事実だから、カン違いするのも仕方ないかもね
でもわざと混同して、一般人に謝ったイメージを植え付け
その上で信者を獲得しようとする姑息なやつらが、いるんだよな
アマテラス大好き甘木さんとかwww
816 :
801:2010/01/16(土) 13:57:30
>>802 あれや妄想の範疇だよねえ。
やはり文字資料がないのは辛いな。
817 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 14:07:28
>>815 誤ったイメージねえ。
「邪馬台国の最有力候補地、纏向遺跡」「卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳」
新聞でさえこんなのばっかり。
根拠を先に示せと言いたいな。
818 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 14:37:09
>>809 三輪周辺=出雲は何か確証あるの?
三輪はもと蛇神で、タケミナカタも蛇でしょう。
しかし、三輪山の祭祀は冬至を意識している。太陽崇拝だ。
国譲りは、太陽崇拝=アマテラスにとって代わられた、ということ?
819 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 14:41:17
>>818 崇神天皇のときに災いが多発した。それを鎮めるためには大物主命を祀れば
良いとの神託が倭迹迹日百襲姫よりあり、その通りにすると災いは鎮まった。
大物主命は、もともと出雲の神様。だから、三輪山は出雲と関係があると
いうことじゃないのかな?
820 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 14:46:54
しかし、大物主は祟り神といわれる。つまり、大物主に対してひどいことを
した。災いが起きるのは、そのせいで、災いを鎮めるためには大物主を祀り、
霊を鎮めればいいということになる。
ただ、大物主の出雲を平定したのは、高天原の高皇産霊尊と天照大神だと
思うのだが。
>>818 神話繋がりなら、高天原を追放されて出雲の国へ向い、
ヤマタノオロチ退治をする訳だが、
三輪周辺の話だとすると判り易い。
ここでオロチ=河川と判断すると、治水工事をして
酒を造らせるのはそのままの話だ。
この地の江包神社、大西神社にはスサノヲとクシナダ姫が
上流から流されてこの地で結ばれるという
伝承があるし、大和盆地は杵築神社だらけだよ。
出雲王朝が元々は大和地方出身だったかどうかは分からん。
でも、ヤマト王朝の前の天下人が
出雲王朝だったのは、なんとなく想像できる。
あと、ヤマトに出雲の地名があるからというのは、
さほど重要ではない。
それなら、九州とか、関東にもあるわけだし、
江戸時代には、東京には、日本各地の地名がある。
>>822 >あと、ヤマトに出雲の地名があるからというのは、
さほど重要ではない。
地名だけなら勿論大和盆地に各地の地名が沢山ある。
九州の地名移譲なんて説もあった事だしw
でも神社の謂れや伝承も残している点が重要でしょう。
記紀の読み解きとか完全なスレチな
妄想ばっかりじゃー
>>824 別に記紀の読み解きしてる訳じゃないんだけどね、
江包や大西なんて巻向遺跡に含まれるかもしれない場所だよ。
もうちょっとよ
主題を巻向に絞れって
場所が近いからOKってのはトンデモ理論
827 :
縄文人 ◆EHGKlflRpk :2010/01/16(土) 18:29:10
おがあっ!!
末盧国や一大国や對海国が1世紀と3世紀で同じ体制の下にあったかどうかは推測するしかないが、
1世紀においては奴国の支配下にあったであろう。従属的友好国として生きていたのであろうと思わ
れる。つまり、大陸や半島との交易において奴国に協力し分け前にありつく、奴国の武力によって安
全を保証してもらう(日米安保体制みたいだね〜)、食糧援助を受ける(特に壱岐対馬)など、小国
の生きて行くための体制だ。
前原は奴国本拠地のすぐ側で戦略的要点であるから自国領とするが、松浦地域や壱岐や対馬を自国領
としても特別のメリットはない。自国領とすれば負担(役人の派遣や行政上の面倒)が多く、それより
衛星国的に支配(折り折の軍事的示威で済む)して従わせておく方が得策である。
2世紀になるとその奴国に異変が発生した。107年の倭国王帥升の登場である。後漢書によれば倭国王
帥升等が安帝に朝見を願い出た(安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見)とされる。
奴国王ではなく倭国王である。奴国内の王権をめぐる権力闘争により帥升が王権を簒奪し倭国王を称し
たというのが最も有りそうなストーリーである。権力闘争に敗れた側は金印を持って志賀島に逃れたが、
その混乱により金印は土中に埋め隠されたかあるいは紛失した。
ふんがっ!!
帥升は博多湾沿岸部地域から佐賀県南東部にまで版図を広げた。この時の戦闘の死者が吉野ヶ里の甕棺に
葬られている。
2世紀はこの帥升の倭国王体制が七八十年続いたが、恐らく大陸、半島、列島を襲った異常気象(冷夏)
による食糧不足、飢饉による大混乱(後漢末の戦乱、中国東北部からの難民や略奪者の南下)の中列島に
おいてもかなり長期に及ぶ倭国乱が発生した。帥升系王権はこの混乱を収拾できず崩壊した。
この間ひそかに国力を充実させていたのが熊本に本拠を置く邪馬壹国であった。帥升系王族の一部が分家
した形で入り沖縄など南方諸島や中国江南地方との交易にも手を出すなどして本家を凌ぐほどの力量を養って
いた。そしてこの邪馬壹国の王子が帥升系本家から王女を娶り佐賀市北部に伊都国を建てた。倭国乱の始まる
二三十年前のことである。
829 :
縄文人 ◆/xu1OicFrg :2010/01/16(土) 18:31:17
そいやっ!!
一方、筑後川以南の福岡県南部は豊かな水田に恵まれた地域であったが、ここには当初多くの豪族が割拠して
いた。だが、時代の流れはこの地域に変化をもたらした。強大な帥升の国と邪馬壹国に挟まれているため各豪族が
単独では対抗できなくなったのである。元々同族が分かれて存立していたのであるが、知恵者が現れて新しい体制
を構築した。豪族の連合組織である。ソ連とアメリカに対抗するため結成されたEUみたいなものである。
投馬国は豪族達の連合国であった。大きな食糧生産力を持ち人口も多く、2世紀の末には邪馬壹国に次ぐ大国
となっていた。だが、各豪族の力は拮抗しており一人の首長を戴く専制体制はとれず、覇権国を目指せる体勢
にはなかった。
倭国乱のとき帥升系本家の国は分裂し、博多湾沿岸の旧奴国と佐賀県東南部の新奴国が誕生した。
倭国乱を収拾したのは邪馬壹国であった。邪馬壹国には優れた政治家がおり、新奴国と投馬国の豪族達を味方につけ
卑弥呼を王にすることで各国の了解をとりつけたのである。こうして鹿児島県を中心とする狗奴国などを除いてほぼ
九州の全域に及ぶ連合国家倭国が誕生した。伊都国に対外外交のための機関、設備を置き、一大率に諸国を検察させ
て統制を行った。新しい国家体制の芽生えであった。
830 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 18:48:34
>>822 >出雲王朝だったのは、なんとなく想像できる。
まあた、出雲王朝か。
まったく、出雲出雲ってなんなんだよ。
何かイメージを持ってるのかもしれんが、このスレ見てる初心者は勘違いするかもしれんだろ。
「島根県の王が、ヤマトと支配してた」とかな。
そんな証拠は一切無いからな。
まったく、どういうつもりで発現してるんだろうか?
神話では、大物主は、大国主の奇魂みたいに書いてあるが、
それだって、後からの造作の疑いのほうが高いだろ。
まったく別の神だったのが、国津神・天津神の二元論的枠組みに強制的に振り分けられて、同一にされたとは思わないのか?
831 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 18:55:07
「出雲王朝」が、単純にヤマト王権が生まれる前の「近畿の王朝?」を意味するなら、
「プレヤマト王朝」とか呼べばいいんだよ。
プレヤマト王朝がオオクニヌシを祀ってたかどうかは、また別の議論が必要だろ。
オオクニヌシだって出雲が起源の神かどうか、わからんぞ。
オオクニヌシ・オオナムチは、日本中で伝説が残されてるからな。
日本列島で、共通文化を持った倭人社会が形成されたとき(縄文時代〜弥生時代初頭)からの神かもしれん。
そうなれば、出雲王朝なんて呼び方は、まったく当てはまらなくなる。
832 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:01:04
神話では、スサノオがオオクニヌシの子とされてるが、
この親子関係だって疑ってみるべきだろ。
オオナムチの方が古くて、スサノオが新しいかもしれない。
オオナムチは西日本列島で信仰されてるが、スサノオは島根県周辺だけだ。
神話の話をすれば、大国主は、「国を追い出されて」「島根県に幽閉された」わけだから、
大国主の本拠地が島根県であったという説は矛盾するんだよ。
>大国主の本拠地が島根県であったという説は矛盾するんだよ。
何を興奮してるのか知らないけど
誰もそんな事言ってないぞw
それにスサノヲ信仰が島根周辺だけだなんて
オオボケもいいとこだよ。
834 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:07:47
>>833 >それにスサノヲ信仰が島根周辺だけだなんて
越や糸魚川も含むだろうが、日本海側なのは確かだろ。
835 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:16:06
出雲王朝なんて言い方が定着すると、
>>802みたいな発言が考古学者からも出てくるわけだよ。
それこそ、
「畿内が邪馬台国であったという証拠は無い」と、九州説がのたまってる以上に、
「畿内に出雲王朝があったという証拠は無い」という話。
それとも何か?
九州説が消滅したから、資金集めのために出雲王朝という新しいロマンが必要になったのか?
そんなことは無いだろうが、もっとマジメにやれといいたいね。
836 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:20:45
ヤマト王権成立直前に、出雲の影響があった=出雲の王族が奈良に来ていたというなら、
まず、奈良盆地に四隅突出墳墓が見つからないと、論じることもできないだろ。
奈良盆地のどこかに、四隅突出墳墓が見つかれば、
ああ、なるほど、山陰の影響が少なからずヤマト王権成立に関係してるんだな、と俺も納得できるがな。
そんな証拠は無いだろうが。
837 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 19:23:57
今後、根拠も示さず、出雲王朝とか言い出すやつは、九州説並みの厨認定してやるから覚えてろ。
あいてが老教授さんでも、容赦しませんよ。
838 :
縄文人 ◆gWTQX0ugGc :2010/01/16(土) 19:32:48
出雲王朝は前大和朝廷だろう。九州にあった邪馬台国とは関係ない。がははは。
>>830 >まったく別の神だったのが、国津神・天津神の二元論的枠組みに強制的に振り分けられて、同一にされたとは思わないのか?
俺もほぼ同じ事を考えているwww
まあ出雲が何処かの段階で纏向に参加したとしても
好んでと言うよりむしろ「嫌々ながらも仕方なしに」と言う状況だったのではないかと予想wwwwwwwww
>>834 >越や糸魚川も含むだろうが、日本海側なのは確かだろ。
畿内にもどれだけあると思ってるんだよw
>>837 あいてが老教授さんでも、容赦しませんよ。
無理だなw
じゃあまず何故三輪山周辺という、大和のど真ん中といってよい
場所に、出雲の地名や出雲荘、お綱祭りといった
スサノヲ・クシナダ姫に関する祭りの伝承が
残っているのか説明してくれる?
勿論根拠をつけて説明してね。
841 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:12:39
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
842 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:22:57
>>840 >じゃあまず何故三輪山周辺という、大和のど真ん中といってよい
>場所に、出雲の地名や出雲荘、お綱祭りといった
>スサノヲ・クシナダ姫に関する祭りの伝承が
>残っているのか説明してくれる?
愚かしい質問だね。
だったら、九州・甘木の地名と奈良の地名が一致するのは、
九州の邪馬台国が東遷してきたからか?って話。
おまえは東遷説なのか?
東遷説でないなら、そのような愚かな問いが出来ないはずだが?
>>842 能書きたれる前に質問には答えられないの?
>だったら、九州・甘木の地名と奈良の地名が一致するのは、
九州の邪馬台国が東遷してきたからか?って話。
全然関係ないでしょ、東遷説でもないし。
地名ではなく祭りの伝承も残ってますよ。
それにスサノヲを祀る神社がどれだけ畿内にあるか位知ってるよな?
勿論正確には色々改変されている事例も多いけどね。
調べだしたらスサノヲ信仰が日本海側だけだなんて
無知にも程がありますよ。
それに奈良の杵築神社の数を数えてみたらどうだ?
844 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/16(土) 21:53:04
前方後円墳の葺石の原型は丹波国の方形貼石墓です。出雲の四隅突出型墳丘墓は
大和の前方後円墳の発祥には何も関係のない話です。
845 :
縄文人 ◆xkw9CZfB6w :2010/01/16(土) 21:57:05
私は縄文人。九州説の王にして天才史学者。畿内説には蛇蝎のごとく嫌われておるようだが、私は正しく根拠の
あること以外はレスしない。私は、経済学、金融工学、冶金学、鉱物学、認知心理学、書肆学、ドイツ文学、英文学
法医学、肛門外科、切手の歴史、ありとあらゆることに深い知識を持つ、知の巨人だ。ぐはは、私は偉い!私は
江藤 淳より偉い。私はこれまで十万冊以上の書籍を読破してきた。私は縄文人だ。
>>844 国を譲って退くとしたら、類似性があるのもおかしいけどね。
847 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:22:26
>>843 東遷説じゃないなら、
九州・甘木と奈良の地名の類似を説明しなよ。
その答えが、奈良に出雲の地名が多いことの理由だよ。
848 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:27:32
だいたい、神話や神社だけで、
出雲と奈良の関係を主張するのは、
アマテラス=卑弥呼とするような九州説並みの痛さだろ。
スサノオを祀る神社が日本海側にもあるからといってそれが何だ?
神社の成立年代を論証するのが先だろう。
せめて、風土記くらいを挙げて、スサノオがどこに登場するのか指摘くらいはしてほしいものだ。
849 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:46:12
たとえば、奈良の「三河」という地名の場所から、三河の土器が出るらしい。
そうした物証から、三河人が土器をもって入植してきたことは推測できるが、
三河人がヤマト王権成立にどれだけ寄与したのか?というと、それはまた別問題。
奈良の「出雲」という地名が、3世紀に「出雲」と呼ばれてた地域から人が入植してきたことは推測できても、
出雲がヤマト王権にどれだけ寄与したのか?というと、それは別問題。
たんなる商人か労働者かもしれない。
四隅を作ってた王族クラスの人間が入植してきた証拠が欲しいものだ。
850 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:51:42
添御県神社の祭神は、スサノオであるが、
添御県神社のある場所は、三輪から遠く離れた奈良盆地の辺境にあるにすぎない。
添のあたりの遺跡が、3世紀に繁栄してたという話も聞かない。
むしろ、添でスサノオを祭ってた出雲人?は、ヤマトの仲間に入りたかったけど、
三輪祭祀の中心地まで入れてもらえなかったのか?とさえ思う。
そのほうが、高天原から追い出されたスサノオ神話と符号するってものだ。
851 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 23:03:54
添御県神社のある奈良盆地の北側には、開化天皇の宮がある。
開化天皇が出雲から后を娶ったというなら話は簡単だが、
実際は、丹波から多くの姫を娶っており、出雲から姫を娶ったという記録は無し。
文献上は、出雲より丹波を重視していたことは確実。
まあ、その丹波一宮は、「出雲大神宮」で大国主を祀ってるわけだが、
島根県とは関係ないという話になる。
だから、古代では丹波の地方を「出雲」と呼んでいたという話であれば、整合性は出てくる。
実際に、丹波は出雲と呼ばれてたらしいが、それを踏まえたうえでも、
島根県は関係ない話になる。
>>847 >その答えが、奈良に出雲の地名が多いことの理由だよ。
なぜ東遷説でも地名移植説でもない俺が?
大体質問されてるのは君ですよw
地名の移植は都である大和から九州へと考えてますが。
>>848 >スサノオを祀る神社が日本海側にもあるからといってそれが何だ?
何言ってるのか理解できません。
それに根本的に勘違いしてるのか、わざと間違えてるのか
知らないけれど出雲が入植したんじゃなくて、
大和の地を譲って現出雲の地に退いたんじゃないかって話だろ。
風土記で思い出したけど出雲風土記には肝心の
ヤマタノオロチ伝承は載ってませんね。
やっぱりヤマトノオロチなんじゃないの?
853 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:09:16
>>852 >大和の地を譲って現出雲の地に退いたんじゃないかって話だろ。
だから、「大和の地を譲った」って、主体となる勢力がいたのか?
その勢力は「出雲」と呼ばれてたのか?
その勢力は「奈良」を本拠地にしてたのか?
君の言ってることはさっぱりわからんよ。
>>853 神話や伝承を元にすると、大和の地を譲った
勢力がいると解釈しますね。
元々出雲と呼ばれていたのかは?です。
後世からという可能性の方があるとは思いますが。
奈良を本拠かどうかまでは解らないですよ、
ただし重要な場所と見ていたことは確実だと思うけど。
国を譲るのが大国主=大穴持ちだとしたら
葛城、二上の石(穴虫なんて地名も残ってる)や
宇陀の辰砂を持っていた一族だったんじゃないの?
855 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:39:26
>>854 国を譲った勢力はいたかもしれないが、
それが「出雲」と呼ばれてたどうか、わからないのであれば、
出雲出雲と連呼するのは、ヤメロと言ってるのだ。
まぎらわしいし、縄文人みたいなバカがまた勝手な解釈で議論をかき回すだけだろ。
>>855 個人的に譲った勢力が後に「出雲」と呼ばれたと思ってるんでね。
いわゆる天孫系だが在住の豪族「土蜘蛛」と協調していた連中の事。
基本的にはこれらの連中が巻向で初期ヤマト政権を造ったんだろう。
まぁ流石にスレ違いなんで落ちます。
857 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:56:30
譲った勢力って、物部氏じゃろ。地勢的に。
858 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 00:58:02
1.神武東征のときに、出雲という地名は登場しない。
2.古代に出雲と呼ばれてたのは、島根県ではなく丹波の可能性のほうが大。
3.オオクニヌシが出雲を本拠地とした神かは不明。
4.オオクニヌシと大物主の関係も不明。
5.オオクニヌシの成立年代が不明。
6.国譲りにというようなハイレベルな関係が、島根と奈良にあったと見られるような考古上の遺物が見られない。
以上のことから、三輪山で現在の島根県の出雲関係の祭りがあったとしても、
3世紀に島根県の勢力と奈良が繋がりがあったと見るには、あまりにも論証不足であり、
したがってヤマト王権以前の奈良の勢力を出雲族とか出雲王朝とかいう言い方は、不適切だということ。
そもそも、ヤマト王権に先行する唐古・鍵は、ヤマト王権に追われた勢力なのか?
違うだろ。
だったら、ヤマトで国譲りがあったとしたら、
唐古・鍵が出来る以前、弥生時代初頭のことと考えるべきではないかね?
859 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:06:56
>>856 >個人的に譲った勢力が後に「出雲」と呼ばれたと思ってるんでね。
[イズモ]は、「敗者」という意味だと考えてたわけ?
それ自体論証が必要だが、それだけの根拠で「出雲勢力」とか言うの、ほんとやめてほしいわ。
>基本的にはこれらの連中が巻向で初期ヤマト政権を造ったんだろう。
なんで、敗者が巻向を作るんだってえの!
支離滅裂すぎるだろ。
860 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:13:11
出雲の国譲りは、高天原勢力の出雲への侵略戦争。
861 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:21:17
>>860 そうだね。で、
奈良を出雲、九州を高天原にすれば、東遷説の完成だな。
よかったな。満足か?
>>858 >1.神武東征のときに、出雲という地名は登場しない。
地名はないが、先に天孫がいて先住民族と協調している、
「土雲」も登場するし、「土蜘蛛」退治をしている。
>2.古代に出雲と呼ばれてたのは、島根県ではなく丹波の可能性のほうが大。
木津〜丹波亀山〜島根の順で退いたんだよ。
>3.オオクニヌシが出雲を本拠地とした神かは不明。
違うでしょ、多分。
>4.オオクニヌシと大物主の関係も不明。
そうですね。別に重視してませんしスサノヲかもしれません。
>5.オオクニヌシの成立年代が不明。
そりゃそうです。
>6.国譲りにというようなハイレベルな関係が、島根と奈良にあったと見られるような考古上の遺物が見られない。
意味不明、まず丹波に退いたのなら島根に拘る理由もないです。
>そもそも、ヤマト王権に先行する唐古・鍵は、ヤマト王権に追われた勢力なのか?
違うだろ。
なぜそんな意見が出るのかさっぱり解りません。
国譲りといっても支配者層の事でしょう。
協調するのも抵抗して逃げるのもいますよ。
863 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:32:37
>>862 というか、どうして神武東征の土蜘蛛と、
巻向を絡めてるの?
全然時代が違うんですが。
君の言う、国譲りの実年代はいつなの?
「国譲り」って、どういう出来事を考えてるわけ?
最初から言葉の定義が違うみたいで、全然、話がかみ合わないんだけど。
864 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:34:18
>>859 >なんで、敗者が巻向を作るんだってえの!
支離滅裂すぎるだろ。
そんな事は言ってないが、どんな解釈だよw
866 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:49:27
>>864-865 おまえは、九州説なのか、畿内説なのかどっちなんだよ。
畿内説として、話を合わせると、
トヨまでがプレヤマト王権で、
崇神からヤマト王権に変わったときに、
国譲り的な神話が残されて、トヨ側が島根に追いやられて出雲と呼ばれたと、
そういうことかな?
纏向の話しろっての
記紀厨/出雲厨/縄文人はレスすんな
纏向を話の主体にしろよ
>>863 まず神武東征自体は年度を特定できません、
パッチワーク説をとります。
神話自体やはりあくまで参考程度と思いますしね。
倭国大乱があって国譲りの結果、巻向が成立したと考えてます。
詳細は長くなるのでパス。
もう遅いのでこれが最後です、お疲れ様です。
869 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:58:49
>>868 次に、出雲の話をするなら、
10レスくらい使って言いから考えを全部話せ。
話にならん。
語る気が無いなら、二度と出雲の話はするな。
みんな、あんまりアツクならんといて。
871 :
793:2010/01/17(日) 03:01:52
結論:混ぜるな危険!記紀の出雲神話と纏向遺跡wwwwwwwwwwww
しかし全然話が見えてこないんだが、要するに…
奈良盆地に元々いた国津神系氏族(後の出雲族)が天津神系氏族・天孫族にクニを追われ
北へ北へと奈良盆地北部から山背、丹波ついには若狭湾に叩き落されて出雲へと落ち延びていった
…って話しなのか?www
しかし出雲で銅鐸や銅剣といった青銅器祭祀から四隅という大型首長墓への祭祀にシフトしたのは
ヤマトで纏向ができそこで前方後円墳と言う大型首長墓での祭祀が行われるようになったよりは前
(まあ、その実年代はおいといても)
つまりはヤマトの古墳文化は出雲よりは後発だった。
…と言うのは流石に共通認識でいいんだよな?
天孫族のヤマト占拠は一体いつの時代の話しだ?3世紀か?2世紀か?1世紀か?はたまた紀元前か??
で終われて落ち延びた出雲が先に古墳文化と言えるものにシフトし
追い落とした側のヤマトが後塵を拝する形でそれに続いたと…
どうにもこうにも理解しづらい話ではあるwwwwwwwwwwwww
>>872 ややこしく考えすぎじゃないの。
大まかの流れは日本海側と太平洋側の戦いだったんじゃないの?
年代は置いておいて、先に奈良盆地(東国に置き換えてもいい)に
勢力基盤を造ったのが、ここでいう日本海側の出雲族って事でしょ。
その後に九州、瀬戸内、四国等の勢力が拡大して奈良盆地に押し寄せて、
仮称出雲族が徐々に追いやられたという事で。
出雲大社が本来杵築大社だったり
亀岡に出雲神社があったりするのはその過程じゃないかな?
記紀で同じ天孫系なはずの出雲が独自の地位を
もっていたり、敵役のように語られているのは
そういう事だと思うけど。
874 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 12:06:00
出雲大神宮(亀岡)
http://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm >出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神で
>ある三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて
>出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。
>『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを
>島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
>よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。
だと。
まあ、このスレ人の推測通りのように読めますね。
いやさ、出雲厨は東海厨と同一人物だったと思うけど、あいかわらず最初に結論ありき、なんだよな。
そもそも考古学的には、奈良盆地にマキムク以前に王権のようなもの、出雲厨の言うような
権力の誕生は見えない。あえて言えば福永の言うような「見る銅鐸」を共通の祭器とした
部族同盟のようなものはあったかも?という程度。同時期、出雲は青銅祭器から決別し、
四隅突出型墳丘墓に移行している。この点でもプレ大和王権における出雲の影響は少ないというのが
冷静な判断だろう。
876 :
875:2010/01/17(日) 12:31:48
あとまあ記紀学的にいえば、出雲のオオクニヌシってのは、天津神に反抗した
国津神の代表として記紀編纂者が創造したものと考えられている。
また多くの亦の名があることから、いろんな神を一緒くたにした総合神と考えるのが妥当だろう。
オオモノヌシの由来は確かに興味深いが、オオクニヌシの総合神としての成り立ちを考えれば
安易に同一視するのは間違いだろう。
また三輪山祭祀の伝承では、オオモノヌシの末裔オオタタネコ(三輪氏の祖)を
見つけ出し祭らせた、ってのがあるが、三輪氏が出雲族という話も聞いたことが
ないし、みつかったのも大阪だし、日本海側との関係は希薄だろうと。
877 :
875:2010/01/17(日) 12:41:45
さらに言えば、3世紀の日本は地球規模の寒冷化で人々の動きが活発になる時期。
それぞれの信仰する神を連れて、人々が各地に移住、入植するようなことは
あっただろう。出雲の神が畿内で信仰されてても、さほど不思議ではない。
ただ大量の出雲の入植があった形跡はない。
そもそも出雲の神が後世医薬の神として信仰されたのは事実で、各地に勧進されたのだろう
という至極当たり前の話が大前提にあるのだが。
後世、畿内に出雲系として登場するのは土師氏で、ノミノスクネが最初に埴輪を
作ったりとかがある。道真公の先祖。出雲の畿内王権への影響を考えると、
このあたりが限界だろう。
878 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/17(日) 12:54:15
大国主は個人名ではありません役職名です。大国主とは数カ国を管理する都督のことで
彦坐王とか彦狭嶋命が大国主である都督にあたります。
>>875 >いやさ、出雲厨は東海厨と同一人物だったと思うけど、あいかわらず最初に結論ありき、なんだよな。
違います、水銀厨ですよ.
でも以前から水銀より丹波・出雲厨だと自称もしてたけどね。
スサノヲ=朱砂ノ王、大物主=オオアナモチ説ですから。
>出雲の神が畿内で信仰されてても、さほど不思議ではない。
ただ大量の出雲の入植があった形跡はない。
スサノヲを祀る杵築神社の場所を重視してるのです。
全部奈良でも水害の要所と言っていい場所です。
その杵築大社が現出雲の地にある点をまずどう見るかですね。
何度もいいますが出雲の入植の形跡が無いのは当然です、
出て行った方ですから。祀られる形で残っているだけです。
四隅突出型墳丘墓に移行しているのは
出雲勢力が独自勢力として孤立していたという事でしょう。
>>875-877 >そもそも出雲の神が後世医薬の神として信仰されたのは事実で
「治癒の神」言えばこの部分だなw
>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E >大穴牟遲神は菟に、河口へ行って真水で体を洗い、そこに生えている蒲の花粉(蒲黄)を取って
>その上で寝るといいと教えた(蒲の花粉はホオウといい傷薬になる)。
>菟が教えられた通りにすると体は元通りに直った。
>あえて言えば福永の言うような「見る銅鐸」を共通の祭器とした
>部族同盟のようなものはあったかも?
しかし実際には三遠・近江に大型化した見る銅鐸が出現した頃には
肝心のヤマトは銅鐸祭祀が既に終焉してるんじゃなかったのかな?
それでも確か福永は近江・三遠に銅鐸を供給したのはヤマトにその製造のセンターとも言うべきものがあったとしていたと思うが…
いずれにしてもプレ・ヤマト王権(もっとも「ヤマト王権」って言葉がプレ大和朝廷的な意味合いがあると思うがw)
この場合奈良盆地にあった出雲王朝みたいなものの証明は難しいんだろうなwwwwww
>>879 良く分からないんだが四隅を作ったのは奈良盆地から追い出された勢力の後裔?
それともそれとは別に出雲地元民?w
>>879 別スレでもたてて自説を展開したらどうか?
否定はせんけど巻向からどうしても話が遠ざかる・・・
882 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 17:31:30
追い出した方を語るのが「九州王朝東遷説」で
追い出された方を語るのが「出雲王朝説」ってことだなwww
>>882 自分で言うのも何だがそれに近いかもねw
でも基本的に巻向はあくまで主力は鍵・唐古を初めとする土着勢力だ。
交易品は対大陸系へは辰砂で、見返りが大陸の物品や
知識がここに集中する。それを目当てに東国からも
客が来るが、対価は古墳建造の労働力だろう。
まず日本海経由で渡来系のルートが出来て
後に瀬戸内ルートにとって変わられるという話だ。
884 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:01:37
>>883 ヤマトにいた人々=「出雲族」が追い出されて島根県に行ったという説だね?
で、痕跡は無いと。
マキムクを作ったのは唐古・鍵を初めとする土着勢力ってことは、
唐古・鍵以前に、「出雲族」が居て、唐古・鍵を作った勢力に追い出されたの?
それとも、唐古・鍵と「出雲族」が共存してたの?
結局、追い出された時期はいつだと思ってるの?
銅鐸は唐古・鍵が作ってたよね?
島根では四隅が作られてたよね?
ヤマトの「出雲族」は、どちらとも関与してなかったってことでいいの?
>古墳建造の労働力
これはアリかもしれん
>>884 >唐古・鍵を作った勢力に追い出されたの
巻向を造ったのが(宇陀や都祁)山を持つ勢力、
鍵・唐古の勢力、水運の広瀬衆といった土着系。
そして日本海側からの天孫系勢力がやって来て
協力するという図式かな。
最後に瀬戸内側からの勢力が入るという順だろう。
このうち山の勢力の一部首長層が追い出されたと考えてる。
追い出されたのが3世紀頃じゃないかな?
>島根では四隅が作られてたよね?
島根では東国に多いはずの前方後方墳もあるけどな。
時系列的には四隅〜後方なんじゃないの?
887 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:23:26
>>886 >このうち山の勢力の一部首長層が追い出されたと考えてる。
>追い出されたのが3世紀頃じゃないかな?
この2行が完全な妄想でしょ?
根拠は何も無いよね。
888 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:26:25
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>887 当然妄想です、根拠に出来る事はあるけど
ここでまだ書ける段階じゃないと判断してますので。
でも東海を中心に東国で多くみられる前方後方墳が、
国引き神話の舞台島根にも現れる事は、
結構重要な事じゃないですかね?
890 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 21:39:23
>>889 三輪山麓にいた「水銀商人=東海=出雲族=オオクニヌシ=前方後方墳」勢力が島根に追い出された、
ということを考えてるわけ?
べつにいいけど、あまりに我田引水すぎな気がしますね。
891 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 22:31:46
豊
肥
筑紫
豊
吉備
越
の行政区分は広くて
前後に分けられてるけどさ
やっぱ広さ=地域の一体感というかクニへの帰属意識の高さがあると思うのだがどうだろう
連合は大和だけの専売ではなかった気がする
大和連合は畿内の行政区分の分割の細かさを見れば
もともとこれらが連合の主要国だったのではないかな
そう考えると出雲の小ささは気になるところではあるが
出雲が大和と並んで畿内の盟主的な立場にいたことの現れではないか
東海厨だが。
久々に来たら変な議論になっているw
>>875 逆だよ逆。俺は「反出雲厨」と言ってもいい。
>>873>>879>>889のような考え方に対して、絶対に反対。
つうか、これこそ「神話の「出雲」を真に受けて、完全に騙されている」ということ。
現実の地理を考えれば、金日成将軍様の縮地法(笑)でも使わない限り
3次元世界ではあり得ない無茶苦茶だというのが
俺の本来の主張だよ。
議論としては、
>>876とほぼ同じ。
東国および大和盆地の前方後方墳は、愛知県犬山で生まれたもので、
その形成過程もほぼ明らかになっている。
出雲から越のそれとは系譜的に全く無関係。
発生の過程が全く違う。
東国の「出雲」は古大和「かもしれない」が、このスレで明らかになったように
三輪より巻向のほうが古いという大変な事態となっているので、この結論は考古学的に怪しくなりつつある。
山陰の「出雲」は、東国とは全く無関係。
畿内→出雲(旧勢力)などという変な移動はなく、逆も、かすかにしか認められない(神戸に奇妙な例が1つある)
この全く無関係な「2つの旧勢力」がなぜ同一視されたのかといえば、
「出雲」が、後になって「先住民の代表」という一般名詞として扱われたから。
埼玉の「氷川」は島根の「斐川」なんて、ネタ以外の何物でもない。金日成もびっくりだ。
出雲人は20次元を扱う宇宙人なのかよ?という話。
>>892 じゃ、丹波亀岡が本来出雲神社と呼ばれていた点はどう説明します?
894 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:15:23
>>892 >「神話の「出雲」を真に受けて、完全に騙されている
出雲神話が正しいか間違っているかを何で検証するかという問題がある。
明らかにおかしいと思われる部分を除いて、なるべく忠実に解釈するというのも
ありだと思う。
>>892 >東国および大和盆地の前方後方墳は、愛知県犬山で生まれたもので、
その形成過程もほぼ明らかになっている。
出雲から越のそれとは系譜的に全く無関係。
これも眉唾だな、単なる地域差による相違じゃないの?
時期的にも殆ど重複してる気もするが。
>>893 そもそも丹波の「出雲」の素性がよくわからないだろ?
ただの在地勢力の可能性が一番高い。丹波は盆地ごとに小勢力が分立する癖があって、
のちの明智光秀まで悩ませた。
「出雲」は、おそらくそもそも、「先住民」の一般名詞(総称)なんだ。
どんな先住民かはわからない。当然系譜もつながらない。
「元祖」の僭称なんて、古今東西、世の中に掃いて捨てるほどある。
>>894 地理的にありえないものは無理だよ。現実の日本列島の地理的制約を越えることはできない。
島根県人が何を間違ったか海越え山越え関東平野にたどり着いて埼玉県を開拓して、
そこに、しっかり記憶してきた故郷の川の名前を持ってきたなんて、古代においては、どこをどう考えても無理。
>>896 ちょっとなんというか、
全体的に勉強不足だと思います。
遠方後円墳というのは纏向に遅れて参加した二次メンバーの墳墓だろ。
899 :
898:2010/01/17(日) 23:44:49
↑前方後方墳だ。スマソ
遠方後円墳。斬新だ。
>>897 あははははははは、勉強不足ねぇww
山岳が記入された日本地図を開いて、
ごく普通に考えて、埼玉の「氷川」が島根の「斐川」起源なんて、由緒の公式見解は
明らかに地理的にめちゃくちゃな話だと思わないかね?
東国の主祭神が「出雲系」であると自称する由緒の大半は、こんな話であって、
このスレ前半で散々議論されて論破された「神武東征」などより、
よほど既に地理的に荒唐無稽な話ばかりなんだ。
それに、おまえさんの言っている「出雲=大和先住説」では、
なぜ埼玉の地名(神社名)の起源が(大和ではなく)よりによって島根の川なのか、さらに説明不能になるだろう?
大和国には「斐川」なんてないのさ。(どっかの地名とこじつけられるなら説明してほしいね)
古墳については、出雲の前方後方の原型と、愛知の原型では全く違うだろうに。
こういう出雲厨がいるから、まずここを先週は確認したんだが、
そのときは老教授氏も含めて、誰も異論はなかったんだがね。
>>901 >ごく普通に考えて、埼玉の「氷川」が島根の「斐川」起源なんて、由緒の公式見解は
明らかに地理的にめちゃくちゃな話だと思わないかね?
あのね、俺は一言もそんな一言も主張してないし、
それを根拠にするつもりもないですよw
少なくともレス位まともに見て欲しいな。
>古墳については、出雲の前方後方の原型と、愛知の原型では全く違うだろうに。
じゃあ俺は異論あるという事で。
原型が違っても最終的に同時期に同型になるのなら
共通点はあるという説をとるね。
基本的に出雲厨のは根拠薄弱で議論の俎上にも載らんだろ。
根拠が記紀の国譲りと出雲系神社が奈良盆地にあるというだけ。
国譲りの部分の記紀解釈は単なる個人的妄想なんで却下。
出雲系神社が多い、というのも眉唾。
大神神社も勝手に出雲系にする始末、恣意的解釈でまったくアテにならない。
そもそも後世に勧進された可能性を無視してる。奈良の杵築神社が3世紀の
昔からあるという思い込み。人々は追い出されても、神社は残るという独自解釈。
氏神という言葉を知らんのか?
しかしまあ、マキムク以前、弥生文化が波及する頃、土着勢力みたいなのがいて
それが後世、土蜘蛛とか呼ばれたというのはあると思う。彼らを出雲と呼んだかは別にして。
ただそれも数百年単位の弥生集落と縄文集落の混交の歴史であって、記紀の国譲りみたいな
短期間の軍事的史実じゃないと思うんだけどね。
904 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:32:20
>>902 どういう共通点があるか、根拠はあるの?
まさか、これから探そうとかしてないよね?
>>903 >しかしまあ、マキムク以前、弥生文化が波及する頃、土着勢力みたいなのがいて
それが後世、土蜘蛛とか呼ばれたというのはあると思う。彼らを出雲と呼んだかは別にして。
ただそれも数百年単位の弥生集落と縄文集落の混交の歴史であって、記紀の国譲りみたいな
短期間の軍事的史実じゃないと思うんだけどね。
それじゃ主張してる事は結局同じでしょw
>根拠が記紀の国譲りと出雲系神社が奈良盆地にあるというだけ。
充分な根拠だと思うけどね。無けりゃ話にもならんでしょ。
>>904 まさか!でもそれこそ脱線するのでパスします。
お前らホントに違うスレでやれ
なんぼ言ってもこの2人は止めないよな
909 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 00:49:35
>>901 東遷説が論破されたとは思っていないが。
あの時は、ほぼ一人で相手していたし、饒速日命の議論と掛け持ちで
やっていたから、レス数では及ばなかったかもしれないが。
>>873 >大まかの流れは日本海側と太平洋側の戦いだったんじゃないの?
うーん。確かに出雲国造家は後世まで代替わり毎に朝廷に報告を義務付けられてたし、
わりと敵対勢力としての認識が畿内王権にはあったのかもしれない。
しかし考古学的に出雲勢力が台頭するのが分かるのは、あくまで四隅突出型墳丘墓出現以降なんだよな。
おそらく鉄ルートを押さえた出雲の首長が力を持ち、吉備と同盟、
日本海側に勢力を伸ばしていく様が読み取れる。
こういった考古学的知見を、出雲厨は完全に無視しているのか、単に知らないのかは
不明であるが、「奈良に出雲の神社があるから」とか「記紀の国譲りを読めば」みたいな
ガキの妄想を長々と書いてる訳だ。
>年代は置いておいて、先に奈良盆地(東国に置き換えてもいい)に
>勢力基盤を造ったのが、ここでいう日本海側の出雲族って事でしょ。
>その後に九州、瀬戸内、四国等の勢力が拡大して奈良盆地に押し寄せて、
>仮称出雲族が徐々に追いやられたという事で。
いやもう無茶苦茶というか。
年代は置いとく、ってさ。せめて弥生中期とか後期とかくらい書けよ。
考古学完全無視っすか? 適当に思いつきで書くな馬鹿。
>>908 いや、2人じゃないw
俺(東海厨)はさっき参入しただけ。根拠薄弱なままに暴走する出雲厨ととどめる反出雲の2人は前からいるw
三輪信仰より巻向のほうが古いという、まさにこのスレの問題ずばりの考古学的知見が出ているのに、
いまだに壊れたレコードのように
>>905のようなことをいう出雲厨は、
確かにスレ違いつうかシーラカンスだわな。
出雲系とされる氏族・神々の系譜の、地理的に3次元世界とは思えない荒唐無稽さと比べれば、
神武東征やアマテラス系の神々の話は、皇国史観であってもずいぶん筋の良い、
それでもある程度の事実を基礎に描かれた物語なのだろうと、しみじみ思う。
俺は、先週「アマテラス・神武系神話パッチワーク説」を唱えて、
かなりの反論を受けて面白かったが、
「出雲系」の神話なんて、パッチワークですらない。「縫い合わされて」すらいない。
なんでもありの布切れの集合体をかき集めて
「スサノオ」「大国主」というペンキを塗って同じ色にしてみただけ。
912 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:02:03
出雲厨に、年代を示せとさんざん言ってるのに答えてくれない。
>>905 >それじゃ主張してる事は結局同じでしょw
国譲りが、弥生時代初頭か終末期かでは全然意味が違うだろボケ。
>>911 東海厨さんには言われたくないですねw
君の主張にも全く根拠が感じられないし。
というより単に思い込みが激しいのでは?
大体
>>905なんて言ってる主旨は君と同じだよw
>>912 個人的には3世紀だろうと言ってたはずだけど。
感情的になるのはダメですね、
冷静な判断できませんよ。
915 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:11:18
>>914 3世紀?
絶対ムリ。
相応の証拠を示さないと、ほんとにバカだと思われるよ。
>>905 >
>>904 >まさか!でもそれこそ脱線するのでパスします。
パスした時点で、君には論客の資格無し。二度と出雲の話はするな。
マキムク以前の奈良盆地の支配者に出雲族はないな。
せめて鴨族なら理解出来るが。鴨=葛城で。
カモという地名と銅鐸出土地の関連を書いてる人がいたが、
確かに出雲で銅鐸が大量に見つかったのも加茂岩倉だったっけ。
マキムク以前の奈良盆地の支配者、ってのはなかなか興味深いが、
ほとんど妄想になってしまうんだよね。
奈良県西部を南北に走る道路が建設中らしく、ようやく葛城の全貌が分かるのかと
期待しているのだが。
>>915 絶対無理というなら君も根拠を出して欲しいものだけど。
まあ3世紀といっても国譲りらしきものがあったとしたら
巻向が成立する時点の事だろうと思う程度ですが。
巻向の地に出雲の縁がある以上、当然出雲の話はします。
当たり前ですね
918 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:26:38
神話を傍証とするならともかく
神話を論拠とする奴の痛々しさは目も当てられないな
>>918 えっ、神話を傍証にしてるつもりだけど。
神話を論拠にするなら出雲は間違いなく山陰の出雲ですよw
920 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:36:30
>>917 >絶対無理というなら君も根拠を出して欲しいものだけど。
こちらは、島根県と三輪の遺物に関連性を見出せないと言ってる。
関連があると言ってるのはそっちなんだから、
何を持って関連があるのか示す義務があるのはそっちだろ。
葛城について初めて言及したのは鳥越憲三郎だっけ?
欠史八代を葛城王朝として、三輪王朝に先立つ奈良盆地の支配者とした。
あと葛城山の別名が高天山で、葛城山の台地を高天原とする説もあった。
王朝は流石にないとしても(王権誕生の痕跡がないし)
確かにサヌカイトを押さえた葛城が周囲に対して権力者として振舞っていた可能性はある。
葛城の上牧銅鐸と、出雲の加茂岩倉出土の銅鐸の一個が鋳型が同じだったが、
確かに古くから出雲との交流はあったようである。
葛城国造があったことからも分かるように、古くは奈良盆地には大和国と葛城国の二国があった。
古代活躍した葛城氏の謎は多い。
>>920 それでは年代をたずねる意味がないですね。
3世紀以外なら可能性があるように取れますが。
何故そんな事聞いたのですか?
昔は金剛山も含めて葛城山ですね、
普通に葛城山麓=高天原という認識だったそうです。
924 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 01:52:05
>>922 3世紀ではなく、弥生時代初頭とかであれば、
国譲り神話が、縄文時代から弥生時代に移る数百年の記憶として神話となったと、
「考えてもいいだろう」という程度。
だけど、君は3世紀と決め打ちしたのだから、
証拠を示す義務があるだろ。
あとまあ、葛城以外にマキムク前の奈良盆地の支配者候補としては、
生駒山のニギハヤヒか。ヒノモトのクサカ(日下)って地名は意味深だ。
クサカの地に古くはヒノモトという国があって、太陽神信仰をしていた。
旧唐書に「なぜ倭が日本に名称変更したのか?」を考察してるところがあって、
「もともとヒノモトという国があって、倭に併合され、倭がヒノモトを名乗った」という
説を載せている。
神武伝承、記紀神話と親和性がある説だ。
ニギハヤヒと言えば物部氏ってことになるんだけど、果たして物部氏がそんなに古くから
権力を持ってたのかは疑問で、おそらくは大王家の家臣として5世紀頃より
台頭したのが最初だろう。八十物部と言われる程、多くの一族がおり、
そもそも同一の氏族であったかも疑問に思われる。
継体擁立で権力を握った物部が、自らの由来を由緒ある神ニギハヤヒに結びつけた
とうのが可能性が高い。
しかしまあ、ニギハヤヒの存在は謎で、考古学的にはまったく根拠がないんだよな。
ごめん。継体擁立は大伴だった。
927 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 08:28:12
>>924 >国譲り神話が、縄文時代から弥生時代に移る数百年の記憶として神話となったと、
「考えてもいいだろう」という程度。
その時代の記憶が形として残るのか?というのは
それこそ少し疑問ですけどね。
その時期ならむしろ国譲りではなく、国産みにあたる
時期だと考えますよ。
国譲りにあたる時期があるとすれば、それが
弥生期からの移行期に移る過程での話ではないかと思うだけです。
水銀=出雲厨はちょっとこのスレ向きではないな。
問い質されると質問で返したり・・・
話題を巻向から遠ざかる方向に進めてるし
全体的にぼやけてる印象。
>>929 そうか?巻向に極力戻そうとしてるはずだけど。
外れそうになるからパスしたりしてたのですが。
でも出雲は兎も角、水銀朱抜きでこの地方を
語れない点は断固譲れませんよ。
というより資格ないと思いますね。
それにミワとミムロ位別けれない人が居たのにも
ちょっと驚きです。
話がかみ合わないのも仕方ないですね‥
水銀朱や出雲の主張もそれがどう巻向に結びつくのか
いつも肝心なところが見えないんだよ
それがここの話題だろう
だからいつも「何が言いたいんだよ?」と言われてるw
・巻向遺跡の場所は少なくとも平安時代に「出雲庄」と呼ばれていた点。
・奈良東南部は神仙思想に欠かせない水銀朱の捕れる鉱脈の麓で、
水銀朱は大陸との交流に欠かせない市の交易品だった、という主張でしょうね。
縄文時代から、翡翠や黒曜石の交易で日本海側がメイン・ストリートだったと思われる。おそらく北九州から
越以北までのルートができあがっていた。ところが弥生中期後半あたりに、メインが瀬戸内ルートに切り替わ
ったのではないだろうか。つまり加茂岩倉、荒神谷遺跡の時代頃に一つの古代史上の画期があった。
このことが大国主の国譲りとなって神話伝承に取り入れられているのではないかな。
このことは、出雲の方言と東北地方の方言の類似性から説かれることもある。小泉保氏の研究によれば、
縄文晩期には、島根県から山形県に至る日本海沿岸地域では縄文語が話されており、これは弥生前期頃
まで、山陰・北陸・信濃北部・東北・関東で用いられていた。
ところが、弥生時代になって大和と同族と思われる勢力が、琵琶湖沿いに北上し若狭に進出した。この影響
を受けて京都と兵庫の日本海側は大和系の言葉となり、福井県、鳥取県、石川県の一部にも波及したとあり、
丹後で四隅突出型墳丘墓が見られないのもこのためと思われる。
935 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:19:18
>>934 縄文晩期までは、山陰〜丹後〜越は、連続した文化圏”A”だったが、
弥生時代になり、大和と同族勢力”B”が丹後まで北上して、”A”を分断した。
”A”が、あとから分断された証拠が、四隅が丹後で見られない証拠。てこと?
すると、”A”は分断される前から四隅をつくる習慣を持ってたの?
分断された後から、”A”同士の間で四隅をつくる習慣を共有したの?
前者なら、丹後にも四隅の原型が無いと証明にならないよね?
後者なら、最初から丹後には”B”の勢力があって、”A”が後から来たが丹後に入植できなかった。
とも、考えられるよね? 後者を否定する証拠はあるの?
936 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:26:19
出雲は、水が流れ出るところ、の意。アイヌ語で。
937 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:26:38
>>934 方言については、興味深いけれども、
それが四隅の時期と結びつけてよいのかどうか?
銅鐸を作ってた勢力は、Bということになるが、
四隅が登場した時期は、銅鐸の後だよね?四隅のある地域にも銅鐸はあるよね?
Aは、Bと一緒に銅鐸も作ってたの?それなら、銅鐸を作ってた時代は、ABは別勢力とは言えないのでは?
>>935 四隅の発生は弥生中期と思うが、弥生後期後葉から美作、備後の北部地域や後期後半から出雲・伯耆を中心
にした山陰地方で盛んに造られるようになった。丹後に大和系の勢力が入ったのは弥生後期以前と考えており、
出雲とは同系ではないため、あえて造らなかったのだと思う。ただし、弥生後期末とされる出雲市の西谷3号墓
からは、丹後系の共献用土器が出ているため、まったく没交渉というわけでもないようだ。
939 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:44:27
奈良盆地で重要なのは、葛城、
しかし、奈良盆地から河内へは物部が押さえておる。
そして、物部は遠賀川も抑えておる。
水銀を狙っていたのは、物部じゃろうのぉ。
940 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 20:47:53
>>938 >丹後に大和系の勢力が入ったのは弥生後期以前
ということは、3世紀に国譲りがあったと言ってた出雲厨とは別人ですか?
941 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:00:28
>>938 これか?扇谷遺跡
弥生前期末から中期(1世紀末〜2世紀初頭)の大環濠遺跡
出土物:鉄滓、ガラス滓、紡錘車、玉造関係
同時期近畿では、鉄製品はみられない。
大和奈良に鉄があらわれるのは古墳時代になってから、か。ふーん。
944 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:19:41
>>942 丹後は、半島と交流があったらしいけど、
四隅の葺石もまた、高句麗の影響があると言われてる。
朝鮮半島の、2系統の影響が日本海側にあったということか?
945 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:32:30
>>943 読んだ。おもしろいね。丹後を中継点に、信濃〜関東への鉄製品の伝播があるのね。
言語の話も踏まえると、この時期、裏日本と近畿大和はあまり交渉がなかったと。
倭人伝の頃の丹後については・・・丹後地域政権の大首長は、纏向遺跡の時代にヤマト王権に取り込まれたか、
あるいは積極的に参画したか・・・このあたりはわからないが、同時代でも規模の大きな前方後円墳を築造するこ
とができた。ただしそれには下位首長層の方墳が隣接しており、ヤマト王権により力で制圧されたとは考えにくい。
古墳時代初期のヤマト王権は鉄素材を丹後・北部九州・出雲・伯耆などから多元的に獲得しており、丹後首長層
を優遇したと考えられる。しかし好太王碑文に見られる4世紀末以降の半島への派兵を契機に、ヤマト王権は直接
鉄資源の輸入を行うようになり、5世紀以降丹後の地位は低下した。
>>944 弥生時代は日本海側が表日本、あと倭人の航海力をなめてはいけない。
947 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:36:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
948 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:55:01
>>946 >弥生時代は日本海側が表日本、あと倭人の航海力をなめてはいけない。
なめてるわけじゃない。
むしろ、朝鮮半島からの直接の影響が日本海側に多いと思う。
そうした中で、2系統に色分けされてるのは、どういう意味だろうかということ。
倭人が主体的に交易してたなら、朝鮮半島の2系統の文化とも受け入れられるはず。
しかし、朝鮮半島の2系統が主体とすると、倭国の中で縄張り決めていたという意味になる。
どっちだと思いますか?
つまり、朝鮮半島から2系統の入植があり、倭人は、どこと関係を持つかは選択権はなかった。
もっといえば、朝鮮半島からの植民地の跡が、4隅のあるなしの色分けに現れてると。
東海厨だが。
>>934 よりによって小泉保かよ('A`)
おまえさん、そもそも電波耐性がないね。電波ばかりの古代史探求には向いていない。
電波耐性というか、要するに、
「ウソをウソと見抜けない奴は(略」
ということだ。
もともと俺は、方言板分離前の言語学板住民なので、
この手の話はある程度は知っているんだが、
小泉保の「縄文語の発見」は、
隣接分野の権威が、とんでもない電波(=トンでも説)を発したために
これ以降の日本語方言アクセント学が、
おおよそアクセントとは何かも理解していないような出鱈目珍説が「有力説」として跋扈する
ムーもびっくりの電波跋扈状態に転落して
ほぼ、「一つの学問を潰してしまった」という恐るべき迷著、怪著なんだ。
たとえ門外漢でも、電波を電波と見抜く直感がないと、
正直、まともな証拠が僅少の、古代史について頭を働かせることは無理。やめたほうがいい。
あの本を喜んで読んでしまうということは、この点について致命的にセンスがない。
950 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 21:58:43
神話では、アメノヒボコやツヌガアラシトのように、
朝鮮半島からの渡来人の記述はあるが、
倭国から朝鮮半島に行ったという記録は、スサノオだけ。
そのスサノオも、朝鮮半島由来の神だとすれば、
日本海を航海してたのは、倭人が主体ではなく、朝鮮半島の人々だったということ。
951 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:10:00
>>948 2系統は、たぶんツングース系かモンゴル系の違いだな。
>>949 アクセントって中国語の4声みたいなもん?
>>950 いや、当時の朝鮮半島の人はほとんど倭人でしょ。
>>948 うーん、朝鮮半島との交流は2系統文化というより、楽浪郡との交渉ではないかな。弥生後期(2世紀前半)の田
和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明しているし。半島からの人の渡来も多かっただろ
うが、それが四隅の発生に直接繋がるかはなんともいえない。
Wikiにはこのようにあるね。
>日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪
郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、
出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。
>>949 小泉保氏の著作に全て寄りかかってるわけではないが、出雲と東北系のアクセントや方言は似ていると思うし、
丹後は明らかに別系統だろう。俺は納得するものがあるけどね。大和から丹後への勢力移動は、おそらく日本
海航路利用のため。
あと、半島からの影響は952で書いたように正直よくわからない。楽浪系以外には、あえていえば弥生中期頃
なら、粘土帯土器が日本海側,三韓土器は瀬戸内,という大まかな傾向があるような気がする。これら土器の
分布も、弥生中期後半頃、日本海ルートから瀬戸内ルートにメインが移ったことを表すのかもしれない。
954 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/18(月) 22:29:12
>>950 日本海の交易に従事していたのは日本の古来からいる海人族の人達です。
翡翠とかサヌカイトとか水銀朱とか塩とかを交易していたのが海人族です。
中国の王朝が塩に重税をかけたので塩を中国に密売することによって巨利を得ました。
>>953 丹後は東京式で体系的には山陰と同じ>アクセント
そもそも東北&出雲の「ず―ずー弁」なるものも、
その発生は江戸中期以降、下手をすれば19世紀になってからというのが通説。
この発生理由を考えればよくわかることで、
これは、連母音融合で「あい」が「エァ」という音になり、
名古屋弁などと違って、母音の長短が曖昧な方言で起きている。
簡単に言うと、「エァ」は「エ」と紛らわしいので、「エ」が逃げて「イ」に近づく。
すると、「イ」が押し出されるが、これ以上舌は上げられず、
行き先がないので「ウ」に寄って「ユィ」になる。
同じ現象が、「オ」と「ウ」にも起きて、「ウ」が「ユィ」となって、「イ」と紛らわしくなる。
これがず―ずー弁の母音。
(上に上に上がるので、英語の大母音遷移とよく似ている)
もうひとつ、子音の濁音は、17世紀までは全国的に、前に軽い鼻音をつけていた。
(これは同時代のポルトガル人の記述でわかる)
それが有声音に変化していくときに、東北のほうが若干音を出す時間が早いため、鼻にかかって聞こえる。
せいぜい18世紀以降の話。
これはアクセントではなくて音韻の話だが、従来こういう安定的な通説があったのに、
小泉保は、縄文語なんていう珍概念を出して数千年の話にでっちあげてしまった。
956 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:50:13
>>952 >>953 弥生時代に、
楽浪郡〜長崎〜出雲/瀬戸内海が結ばれてたなら、九州説はとっくに終わってるじゃん。
塩ですか・・・・・・製塩土器の出土は、縄文時代は東北・関東の太平洋側に多く、弥生時代は比較的瀬戸内に
多く、北陸などは瀬戸内にやや遅れて始まるのではなかったかな。いずれ縄文期の土器と弥生期の土器は
大きく形状が異なり、おそらく弥生期のものは半島経由で伝わったのではないか。・・・うろ覚えで自信ない。w
958 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 22:56:02
959 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:00:25
>>957 製塩土器については、弥生時代は瀬戸内海で発達している。
弥生時代の九州から製塩土器は出ていない。
巻向の話はどうしたんだ?
>>959 そうですね。九州だと古墳時代からだったはず。
>>956 あと、最近前原市は計画的な発掘を続けてるが、この事実をどうみるか?
前原市の潤地頭給遺跡は2003年から発掘された九州では初の玉造工房跡。年代は西新式土器の形式から
3世紀前半頃。工房跡は竪穴の周囲に円形の排水溝を巡らせたもので、東西80M、南北130M範囲のに33
棟が確認された。出土した原石は碧玉・水晶・蛇紋岩・メノウ・鉄石英の五種類。うち碧玉は管玉。水晶は丸玉、
小玉、算盤玉。蛇紋岩は勾玉に加工されている。
原石のうち地元で産出するのは水晶と蛇紋岩だけで、碧玉・メノウは島根県玉湯町の花仙山。鉄石英は新潟
県の佐渡島産と考えられること。しかも同遺跡からは甑形土器など、山陰地方に特徴的な土器が目立って出
土しているし、工房の周囲に排水溝を巡らす事例は、松江市の平所遺跡や、富山県福岡町の下老子笹川遺跡
と共通している。
このことは原石や完成品の交易にとどまらず、山陰や北陸地方の技術者集団がこの地に移住して玉生産を営
んでいたことを示している。ちょうど倭人伝では卑弥呼の治世の頃の話。
>>955 なるほど。言語学は素人なんでそうかもしれない。
963 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:22:37
962とかずっと書いてるのは縦目だろう。こいつは考古学しかできんから。
964 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/18(月) 23:37:47
えっ、製塩土器・・・。海人族の藻塩のことですが・・・。
藻塩とは海草のホンダワラによる製塩のことで応神天皇の別名の品陀・誉田の語源になってます。
>>964 「藻塩焼き」という製塩法は、@干した海藻を焼いて灰塩をつくる(灰塩が最終製品) A灰塩に海水を注ぎ、
鹹水を採る、B干した海藻に海水をかけ鹹水を採るなどして、とった鹹水を製塩土器に入れて煮つめて塩を
つくる、です。
>来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ ですね。
967 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:50:19
その製塩土器が弥生時代の九州から出てこないので、
九州は塩を輸入に頼るしかなく実生活上では困窮してたってことなんです。
だから、九州に鉄が豊富だって言われても、「ふ〜ん」としか思わないわけです。
>>967 いずれ、弥生時代は水田耕作適地は少なかったはず。大規模治水による新田開発などずっと後代の話。人
口増加に対して食っていくために交易はどうしても必要だったし、特産のある地域が栄えた。倭国の範囲が
九州島内に収まるとはとうてい思えないよね。
969 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:10:15
>>967 塩分は干し魚や干した貝で採っていたので塩そのものの重要性は低かったのだ。九州を舐めるな。しょっぱいぞ。
970 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:13:51
>>968 特産のある地域が栄えたという意味では、
塩を作ってた瀬戸内海沿岸が一番栄えてて、
しかも吉備は鉄も流入してきてたわけだから、
弥生時代に発展してたのは、九州ではなく、吉備だろうよ、という結論になるわけで。
971 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:15:48
>>969 味付け程度の塩じゃ困る。
飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。
実際、九州は食料を奪い合って戦争してたんだろ?
972 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:16:06
>>968 <口増加に対して食っていくために交易はどうしても必要だった
じゃあ、どこから食糧を買うんだよ。
973 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/19(火) 00:19:53
>>969 九州の人は料理に塩を使わないんですか?だから邪馬台国九州説の人は頭が悪いんですね。
974 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:20:21
>>971 <飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。
どんな保存食を作るんだ?
魚や肉類は海岸で塩水をつけながら燻す。海があるんだから別に困りはしない。
975 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:24:20
>>973 あほんたらたら。海水を素焼きの土器に入れておけば外側の表面に塩の粉がふくわい。頭いいんだぞ。
弥生時代の九州人は。
自給するだけの塩なら海のある地域は足りてたんじゃないかな。九州は交易品にしなかったということでは。
いずれ、動物の内臓や骨髄には塩分が含まれるので、生理的な必要量は多くなかったかと。あと、岩塩という
話は日本ではまず聞かない。
977 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 00:42:35
縦目が来ると考古学的な話オンリーになるんで、いいのか悪いのか??
>>974 > <飢饉にそなえて、保存食を作るには、大量の塩の現物が必要。
>
> どんな保存食を作るんだ?
> 魚や肉類は海岸で塩水をつけながら燻す。海があるんだから別に困りはしない。
じゃ、山奥住まいの方々は、どうやって保存食を作ればよいのですか?
980 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 01:03:16
>>979 <じゃ、山奥住まいの方々は、どうやって保存食を作ればよいのですか?
倭人伝に書いてあるでやんしょ。国有市交易有無使大倭監之 海で漁をする人、山地で稲や野菜を育てる人
木の実やきのこなどを収集する人、土器を作る人、木材を扱う人、縄や篭などを作る人、農具を作る人など
いろいろ居て国が成り立っているので、市を立てて物流を図っていたんだね。
もうお分かりだろう。山奥に住む人は山の幸をもって海の幸と交換したんだね。あ、それから975に書いて
あるように海水を大きな瓶に蓄えていたとも考えられるね。次々と注ぎ足していくうちに相当濃厚な塩水が
できたんじゃなかろうかね。
>>980 >>974の言い方だと保存食作りには海水が有れば固形塩は不要だ!みたいに聞こえるのでコメントした。
山の幸は「保存処理」されずに交易されていたのか?
それとも、固形塩じゃなくて「海水」そのもが交易されていて、山でもそれで塩漬けを作っていたのか?
又は、やはり固形塩は交易品として海から山へ送られていたのか?
俺は三番目のケースがもっとも常識的だと思うがね。
982 :
水銀厨:2010/01/19(火) 01:17:07
結局巻向の話なんて誰もしないじゃないかw
983 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 01:18:23
>>982 ごめんね、水銀よりも塩のほうが貴重だったと思うのさ。
984 :
水銀厨:2010/01/19(火) 01:23:28
>>983 じゃ、他所でやれよ。
少なくとも奈良で塩は作れません。
>>960 >巻向の話はどうしたんだ?
纒向は農村集落が自然に大きくなって、じゃなく、
ある日突然、大規模工事による建設が開始された、ということで、
じゃあ、そいつらはどこから来たんだ? という話だろ。
以前は吉備か? ということだったけど、
今回、神話や地名から、出雲が名乗り出たと。
>>985 >今回、神話や地名から、出雲が名乗り出たと。
そんな事一言も言ってないけどな。
主体は鍵・唐古や宇陀・都祁地区をはじめとする土着勢力だ。
出雲というのはあくまで後世のものだろう。
>>986 >主体は鍵・唐古や宇陀・都祁地区をはじめとする土着勢力だ。
また新たに名乗り出た。
しかし塩はそう重要でもないと思う。自分たちで消費したり、山間部とちょこちょこ交換する分には、
>>966で
書いた灰塩でも鹹水でも十分でないかな。灰塩なら海藻ミネラルも混じって味もよい?w 交易品として大量
生産するなら、製塩土器を用いた精製塩だろうけど、これは鉄と違って造ろうと思えば造れるものだし。
出雲に関しては、加茂岩倉や荒神谷の遺物は弥生中期から後期の長期間にわたるものだが、北九州のもの
も畿内のものも地元産もあり、やはり大きな勢力の存在は間違いない。倭人伝は禁句かもしれないが投馬国
と見ても大きな不都合はないのではないか。纏向との関係では、下に引いたように山陰・北陸系の土器は早く
から入ってるし、西部瀬戸内より多い。
http://uproda.2ch-library.com/206406unL/lib206406.jpg
989 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 04:03:34
>>988 土器の多さでいえば、東海を注目しないわけには行きませんな。
東海厨ではないですが。
さぁ次スレのために巻向成立に関わる論点をまとめるんだ
>>984 そんなことにこだわると山間部にはその時代に人は住んでない
つーことを言ってるようなもんじゃないか
>>985 水銀出雲厨は巻向成立以前に出て行ったと逆の主張じゃなかったか?
>>991 >そんなことにこだわると山間部にはその時代に人は住んでない
つーことを言ってるようなもんじゃないか
巻向の交易品の重要度では辰砂>塩だろう。
塩は生活必需品だが古墳のド真ん中に入れる物ではない。
それにおおまかな主張では3世紀。巻向成立以前ではなく
途中で山の利権交代があったという事です。
後方墳組が退いた方とみています。
だから大和から島根へポンと移ったのではなく、
大和北部〜山城〜島根と3〜5世紀頃にかけての事です。
移動自体一部首長層のみでしょう。
投馬国が日本海側の国というのは同意ですから。
まあ最後なんであえて邪馬台国に関して言うと
邪馬台国は淡路島周辺諸国の事。
水行10日、陸行1月というのは行程ではない。
国の移動に関する日程、つまり「広さ」の事。
投馬国は日本海側で水行20日の広さが
あるという国だろう。
邪馬台国の話は関係ないのだからもう止めよう
まあもう終わりだし
駅ずらしてもらえよ、どうせ無人駅だし。
998 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 18:53:45
まあ、なんだ「出雲」と「水銀」については
「出雲」のほうは「出雲東遷説」如きのものじゃなく
ヤマトから出て行った勢力、そしてその後その記憶が神話になった事に注目しているんであって
どうしても纏向の発生発展よりは記紀神話・神社伝承に比重が置かれるんだろう。
ぶっちゃけ『 古代出雲の謎を探る! 』とか別スレ立てた方がいいかもしれんwww
「水銀」についてはやはりどれだけ評価してもそれで纏向の特異性等の説明には到底追いつかない感は否めないwwwww
初期型の前方後円墳にもれなく水銀朱が使われていたとか
ある時期から全国にヤマトの水銀が付着した土器が一斉に出だす…とかでもなければ
>初期型の前方後円墳にもれなく水銀朱が使われていたとか
少なくとも巻向近郊はそうじゃないかな。
それにもれなくはダメだろ、王クラスのものじゃないと。
1000 :
日本@名無史さん:2010/01/19(火) 19:55:30
勝山には朱が塗られた板材が出てたとかかな?
まあ纏向の初期古墳にもれなく水銀朱が使われていたとしても
そりゃ「地産地消」でw纏向の全国的な展開には繋がらんのではないかとwwww
1001 :
1001:
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