1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:26:25
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
3 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:27:37
黒潮の民っていったって中国の福建省辺りから来たんだろう?
中国大陸の広さは半端じゃないからな。
4 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:29:29
5 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:24:40
いつ来たんだよ
その海流に乗って来た人が各地に棲みついて
それぞれ独自の文化が発達したんだろ
九州南部の話をするのに、なんで登呂遺跡とかの水田遺構を持ち出すの?
九州南部に7万戸の大人口が住んでいたのなら、九州南部の痕跡を見せてよ
九州南部なんて、出てる水田の遺構はずっと後のものだから
弥生時代は、すごい後進地帯だったんだよ
7 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:47:35
当然、北九州は農耕先進地帯だ
軍事、政治、外交、文化、経済面に於ては大海航海能力を持つ黒潮経由から太平洋岸側に入った新興勢力からすると、
「大陸文化の隅っこより遅れた原始人の群れ」
が北九州地帯。
8 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:49:16
また科学を理解できない文系脳内がハエのように沸いてきたな。
9 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:53:53
↑お前の言う科学とは何だ?。
科学も知識も知能も思考能力も無い人間がお前の様に
「ばかww」
と吠える事か?。
10 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:01:00
科学とは
「軍事、政治、外交、文化、経済面に於ては大海航海能力を持つ黒潮経由から太平洋岸側に入った新興勢力」
など脳内でしかないことを指摘する能力である。
大海航海能力が万能であるのなら、東南アジアから航海で南太平洋に渡った人種がなぜ
軍事、政治、外交、文化、経済面での先進国を打ち立てられなかったのか説明が出来ない。
11 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:14:56
>>6 弥生後期は、南九州の方が人口は多かった。
南九州(熊本、宮崎、鹿児島)64,600人>北九州(福岡、大分、佐賀、長崎)40,500
特に、熊本平野と宮崎平野の人口密度はかなり高い。
ちなみに、畿内(大阪、京都、奈良)は、30,200人となっている。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html この数字については異論もあるだろうが、傾向的には妥当じゃなかろうか。
中国では、古くから戸籍調査が行われていたらしい。
最初のものは、西暦2年で、人口は約6000万人。戸数が1200万となっている。
1戸あたり5人かな。
その後は、人口の上下が激しい。三国時代は最悪といわれ、
それぞれの戸籍登録人口は蜀が94万人(西暦263年)、魏が440万人(西暦263年)
呉が230万人(西暦280年)となっている。合計で764万人。
鬼頭説では、西暦200年の日本の人口は約60万人となっているが、これも
妥当といえるのかもしれない。
12 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:19:49
>>11 これを考えると、邪馬台国の7万戸、投馬国の5万戸だけでも人口は60万人と
推定され、おかしなことになる。
倭人伝の数字はやはり過大と考えるべきだろう。
13 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:25:53
農耕族を制圧すれば豊かな生活が送れるからに決まってるだれろう
チンギスハンや元が現地民を押し退けて支配民に自分達の文化や経済活動を押し付けるような面倒臭い事をしただろうか?。
古代は鎖国体制でもなければ普通選挙による民主国家でもない。
軍事で制圧し政治権力を確保すれば他の分野は全て現地民に任せ、更には保護も行うというやり方が最も効率的で無理なく、かつ,自然だ。
14 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:27:38
>>11 ついでに、中国の人口について書くと、
隋(西暦604年)の人口は4,600万人。唐の玄宗皇帝の天宝14年の人口は5,300万人。
1億人を超えたのは、西暦1700年頃らしい。
西暦1833年には、約4億人となっている。
>>11 九州というのは南方系の色が強く、タロイモ文化圏の人たちが黒潮に乗ってやって来たのが弥生時代の始まり
最初に持ち込まれた熱帯ジャポニカ種は九州南端が北限で、太平洋沿岸伝いに、四国南端や南紀、熱海、伊豆に辛うじて痕跡を残した
温帯ジャポニカ種が伝わると、日本列島全体が弥生時代に入ったが、九州南部はその後も水田に適さず、タロイモを栽培する南方系の民族だけが住めた
奈良時代に入り、戸籍や耕地面積が記録に残る様になっても、九州南部はかなり平均より低い
16 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 15:21:48
人口なんて割り出す元ネタもないのに
痛い奴らだな
17 :
まる:2009/12/12(土) 16:39:51
侏儒国の記述もありますけど皆さんどの辺だと思われます?
意外と女王国から近そうですよね?
18 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 16:56:05
有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、
船行一年可至
ここら付近は空想じゃないのかな。へんてこな国ばかり出てくる。
逆に言えば、これで倭国が普通の国だってことを強調しているようにも受け取れる。
19 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 17:06:02
>>11 その後は、人口の上下が激しい。三国時代は最悪といわれ、
それぞれの戸籍登録人口は蜀が94万人(西暦263年)、魏が440万人(西暦263年)
呉が230万人(西暦280年)となっている。合計で764万人。
三国時代の戸籍登録人口が極端の少なくなったのは、戦乱による人口減少以上に
各政府の管理に入らない、豪族の荘園が各地にでき、住民が囲い込まれた為と考えられている。
三国時代の総人口が764万人より遥かに多かったようです。
2〜3000万人はいたんじゃなかろか。
20 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 17:10:09
>>18 「船行一年可至」が「去女王四千餘里」と同じ行程で
「船行十二日可至」⇒「船行十二月可至」⇒「船行一年可至」と
書き移す時に変わったんじゃないの。
21 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 18:20:12
中央集権国家なぞまだないと思う!中央集権国家だと軍隊を養い、訓練しなきゃならんのに。まだ鉄器農機具も完全普及してないのに千人、二千人の軍隊を長期派遣できる事はできんよ。せいぜい、農閑期に近所の村落国家までだな。
中央集権は倭の五王くらいから片鱗がようやく見える程度!
征服しまくってるやん。
て事は今まで、交流は有っても軍事的には征服してなかったんじゃない。
22 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 18:28:44
魏志倭人伝の 数字なんか信じては行けません。
中華はオーバーに必ず書くし。ちっちゃい国家だったら手柄になりませんから!
書く価値もないし、そんな小さな程度の部族に金印を下賜したなんか、詳しくわかったら処罰物ですから。
規模、距離は適当ですよ。
ちゃんとした国家が朝貢してこそ権威があがる。
>>21 それはそうでしょう。連合をまとめたのは前方後円墳の祀り、つまり卑弥呼の鬼道。
24 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 18:38:09
「連合」っていうのは、天皇による権力統一を遅らせたいという願望だけの説なんだよね。
畿内が独立勢力の連合のままなのに、朝鮮に派兵したとか、僻地に四道将軍を派兵したとか
ふつうに考えておかしいだろ。
大和を頂点に九州まで支配下に入れた立派な国だったから
金印を貰えたんだな。
26 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 19:11:06
相変わらず勘違いしている九州説論者も多いから書いておくが…
(もっとも東遷厨は確信犯的にやってるんだろうがw)
何も「緩やかな首長連合」と言う想定は邪馬台国論争の畿内説に限った物じゃない。
古墳時代中期までは各地に畿内王家のものに匹敵するあるいは凌駕するような巨大な古墳が作られている。
吉備のものなら全ての古墳の中でも五指に入る巨大さだ。
無論、畿内王家と同じ形のものは王家との強い結びつきがあり
ひょっとしたら血縁関係もあったのかもしれない。
が、5世紀後半からそう言った地方の古墳も廃れていき
畿内だけに巨大古墳が作られていく。
つまり緩やかな連合から強力な王権を持った中央に従属する形へと変化している。
そう言った『ヤマト王権の変質』(エポック-メーキングとしてはやはり雄略かな?w)
と言うのはもはや日本人の常識ってレベルだwww
(また社会全体の変化としても古墳の副葬品が呪術的なものから剣や槍といった軍事的なものの割合が増えていく)
「 畿内説が憎い!! 」の怨念に凝り固まったこの板の九州説は
(つうかもっぱら主役を務めているのはいつもの東遷厨だろうがw)
兎に角、畿内説と言うか今の大方の学者のコンセンサスにも反対してやれ…という幼稚なメンタリティで
4世紀には強固な中央集権国家が出来上がってしまっていると言うご高説をぶちまけているが
もはやそれは右とか左とかのイデオロギーの立場に関係なく通用しないんじゃないかな?wwwwwwwwwww
しかも東遷説なら3世紀までのヤマトは、ほぼ無人の野に等しいと言うのだから
もはやムーの世界をも飛び越えているwwwwwwwwwwww
29 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 19:54:51
>>26 各地に同じ前方後円墳(それまでにその地域になかったもの)が同時に作られるように
なったのは、各地に派遣された統治者がいたということだろJK。
それを「中央に匹敵する権力が各地にあった」とかアホかと・・・絶句ですな。
まあ「連合ありき」で洗脳状態にある人には何を言っても無駄かな。
30 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 19:55:25
>>26 畿内説が憎いわけではない。
畿内説が醜いだけ。
31 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:03:31
連合って言っている人(約1名=植草)は、記紀を正面から否定するんだな。
記紀によれば、崇神天皇は四道将軍を派遣して地方統治を進めた。
景行天皇もヤマトタケルを派遣して地方統治を強化した。
成務天皇の代に地方の統治官を多数派遣した。
というような記載は全部捏造ってことになるけど、自分の妄想に反することだけを
全部捏造にしてまで「連合」にしがみつく理由が理解できないね。
32 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:05:35
同じようなネタを同じような面子で万年ループと言うのもアレなんで
たまには毛色の違った話を書き込んでみるw
もっとも大方の人間には興味の対象にもならない話かもしれんが…
畿内説であろうが九州説であろうが俺が個人的に不満と言うか疑問なのは
卑弥呼や壱与の共立と言う現象を古代社会においても極めてレアなケースとし
そのため卑弥呼のカリスマ性を時に「霊力」なんて言葉を使って説明しようとしたり
あるいは「鬼道」の二文字の内容についてあれやこれやと語ったり…
そもそも古代社会において卑弥呼や壱与のような役割を持った女と言うのは普通にいて
それこそあちらこちらに「プチ卑弥呼」や「プチ壱与」と言った存在がいたのではないのか?
具体的なイメージとしては琉球神道のノロとか言う巫女が近いか?
参考)
『琉球の信仰』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%BF%A1%E4%BB%B0 …上記の「祭司とおなり神信仰」あたりを参考にされたし
で、男の間で話がつかなかった時その場を預かるなんて事もままあったのではないかと…
無論決定的な根拠はあるはずもないが
・先ず初期の古墳には被葬者が女性であると思われるものが各地にある
・記紀神話でも南太平洋の母系もしくは双系社会を形成し少なくとも完全な父系社会ではない地域のものと
共通するものが散見され
・また何故か戦場に出てくる勇ましい女が多く出てくる。
九州説で卑弥呼のモデルに擬せられる田油津媛や神夏磯媛は誰でも直ぐに思い浮かべるだろうが
神武が大和入りした時もそれに抵抗した女賊として新城戸畔なる女が出てきたり…古代の女は余程強かったんだろうw
そう言う視点で見れば卑弥呼の共立と言うのは
後の天皇にも繋がる大王の擁立に失敗し、一種、妥協の産物であったのではないかとwwwwwwww
33 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:08:32
>>32 天照はスサノオをなんとも思っていなかった、まで読んだ。
常識的に考えれば、大和による全国支配が進んだのは400年代の話でしょ?
畿内説も地方説も、200年の時間をどう埋める?
35 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:13:12
>>31 >記紀を正面から否定するんだな。
否定も肯定もせんよ。
それとも丸呑みか全否定の二択なのか?w
それに先に言った「ヤマト王権の変質」なんてのはもはや常識レベルで
よく九州説から
「お前の言う事は学者や世間一般で言われている事の受け売りだ」
とお叱りを受けるが全くその通りだwww
まあ4世紀に既に中央集権国家がほぼ完成形で出来上がっていたなんてのは
およそ電波扱いされるのがオチだろうなw
36 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:18:42
尚、
>>32で言ったことは基本的に畿内ヤマトだの九州だのと言う位置論には関係しないが・・・
例えば宮内庁が箸墓の内部調査を許し
そこから人骨のカケラでも出てきて
鑑定の結果それが女性だったとしても
当然そんなものは卑弥呼の墓であると言う決定打には到底なりえない話という事にはなるwww
正直、畿内説は箸墓=卑弥呼の墓 と言う事にこだわる必要もないし
どの道証明の手段は無いと思っているwwww
無論、畿内説の学者が全て「箸墓=卑弥呼の墓」と言っているわけでもなく
まあマスコミが好んで取り上げるから目立っているんだろうがw
37 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:20:25
>>35 否定しているんだが・・・日本語以前の問題だな。
んで、「連合」でなきゃならん根拠って何なの?
38 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:29:19
「連合」の二文字に脊髄反射的に噛み付いているアホは
そこに近現代的な民主主義でも見ているのか?wwww
連合体と言っても当然、各勢力による時には血みどろの主導権争いがあったであろうなんてことは
想像するにはあまりに易く、一々そんなことまで書かなきゃならんのかとwwww
要は頭一つ二つ以上抜け出た勢力が出てこなかった結果と言う話し。
古代ローマだって共和制から帝政へシフトしてんぞ?w
「共和制」とか「連合体」とか言っても長老政治の延長上と考えれば
強力な権力者のトップダウンによる帝政よりもプリミティブな政治形態だろうなw
まあ卑弥呼の共立を今日の日本の政治に例えて見ると
強力なリーダーシップを持った人物を首相に据えなければならない事で
総論としては合意したものの実際の選出では話が揉めて結局
派閥の力学による利害調整型の人物が選ばれた…と言えば分かりやすい?wwwwwwwww
39 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:33:40
まぁ天智天武期になってもまだ大王をと各豪族の連合政治みたいなもんだったってのは忘れちゃいかんよな
41 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:41:50
まあここで「連合」の二文字に噛み付いている奴らは
それを否定するのに、その地域が広範であると言う事を挙げずに
もっぱら連合体と言う形態自体がありえないとしているところが面白いww
じゃあ聞くが九州の邪馬台国ってのは30カ国を力ずくで従えた
『 プチ帝国 』みたいなモンだったのか?wwwwwww
相手を攻め滅ぼす力がなければ、連合だろ。もちろん力関係の大小はあっただろうがね。
43 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:50:56
んで「連合」の根拠マダー (AA略
てゆうか「連合」の定義も不明だな。
昔「王朝交代説」なんてトンデモ説があったが、王朝交代の定義はあいまいなままで
最終的には、皇室の血筋が遠縁に移ることを「王朝交代」とか言い出す始末。
んとにもう定義してから学説出せよという典型例だな。
44 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:56:05
「連合」というのはだな。
例えば崇神天皇が派遣した四道将軍やその他の王族が各地の統治を任されたとする。
その王族は毎日ヤマトからの指示を受けて行動するわけではないことは分かるよな。
つまり、各地の統治を任された代官にも裁量の幅ってモノがあるんだな。
そうなると、もうそれは中央と地方とが対等な連合を組んでいるとしか言えないわな。
つまりだな、強い中央権力が毎日のように支持を出す通信手段ない時代においては、
全ての政治体制は「緩やかな連合」ということになるんだな。
45 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 20:56:10
>>43 先に言った地方における巨大古墳の造営とその衰退を根拠に挙げておくかな?
で今度はお前が
>>41の質問に答えろ。
そもそも「連合体」と言うものが形態として成り立たないと言うのなら
九州の邪馬台国と言うのは30カ国を従えたローカル帝国wだったのか?
もしそうならそれを証明する手段を何に求める?
46 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:01:29
>>43 まあ文化の変容をもって王朝、支配層の交代劇を想定すると言うのなら
東遷説も同じレベルだよな?wwwwww
あえて言えば、3世紀のそれぞれのクニではクニ内部の面の支配は完成していない。つまりこの連合というのは
氏族の連合ということだろう。
だからヤマト王権は、その地域を代表する氏族と婚姻関係を結んだりして拠点を築くとともに、面の支配を
完成させるべく四道将軍のようなものを送り込む。何か不思議があるかな。
49 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:42:36
>>43 んで
>>45に対する解答マダー (AA略
また投げっぱなしでトンズラか?
俺ってなんだかんだ言っても聞かれたことには結構真面目に答えてるよなwwwwwwww
畿内説に対し
「緩やかな線的な連合体なんかありえない」
と言うのは良いが
じゃあ
「九州邪馬台国はきっちり面として強固な支配体制を築いていたのか?」
「それは九州の何処に想定しうるのか?その根拠は?」
と自分に跳ね返ってくる事を考えていないんだろうなww
まあいつものことだがwwwwwww
大体倭人伝に卑弥呼を共立って書いてるじゃんw
その国々が女王国な訳だし。
51 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 22:14:27
>>41 邪馬台国は周辺諸国を武力で支配したと思う。
ただ、それは卑弥呼の時代ではなく、2世紀初頭の帥升の時代。
後漢から倭国王と呼ばれた帥升は、生口を160人献上している。
卑弥呼でさえ、男女合わせて10人なのを考えると突出している。
帥升は、武力で支配したからこそ、戦争捕虜として大勢の人間を献上できた。
普通の状態でこんな人数がいなくなったら、国は機能しなくなってしまう。
帥升というか倭国王の後継者がいなくなったとき、跡継ぎをめぐって戦乱が
起きた。これが倭国の大乱になる。
そこで共立されたのが卑弥呼。卑弥呼の死後も跡継ぎ不在で戦乱となる。
そこで共立されたのが台与。
52 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:29:41
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
53 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:49:05
>>45 >地方における巨大古墳の造営とその衰退
>>26のことかな?
だから、それは
>>29に書いたように「連合」を否定する根拠にしかならないだろ。
てゆうか
>>26で血縁を認めているわけだから、それは「地方に独立した勢力があって
ヤマトと連合を組んでいる」ということにはならんだろ。
記紀に書かれたように「ヤマト王権から各地方に統治官が派遣されて、その統治官が
各地を支配していた。」ことをぼかして認めているようだが、それは「連合」ではないよ。
もしかして
>>44みたいないことを本気で考えているのかな?
「いかなる政治形態も絶対に”連合”である」という信念のようなものかな?
>>51 戦争捕虜なんかを奴隷と称して送られたら大変迷惑
隙あらば逃げ出すだろうし、金品を持ち逃げするかも知れない
そんな者を王宮には置けない、そんな者を貢物にしない
奴隷と言うのは本人も納得して、身分ある人に仕える礼儀作法を仕込まれた者だろう
戦争捕虜なら中国国内でいくらでも調達可能だ、わざわざ献上する必要は無い
55 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:55:46
生口というのは、征服した地域にいた土民のことだろ。
熊襲、隼人、蝦夷とかの別の文化の被征服地の捕虜を中国に見せびらかして、
「俺の国は周囲の蛮族をこれだけ征服したんだぞ!」と見せ付けたかったんだよ。
生口は、留学生だという意見もある
言葉なり工芸技術なり、戦闘訓練なり、技術を学んで戻ってくる
57 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:31:25
>>53 各地の勢力が婚姻等によりその権力基盤を固める事が
連合体の否定にはならない。
そもそも
>>29もピンボケ。
ヤマト王家から派遣された人間であろうが
いやむしろそうであるならそんな巨大な古墳を作るのを中央が看過するのが噴飯もの。
九州説論者の脳内ヤマト王権は余程友愛精神に富んだ支配者らしいなwww
江戸時代なら大名が勝手に城を改築しただけで取り潰されるぞw
>記紀に書かれたように「ヤマト王権から各地方に統治官が派遣されて、その統治官が
>各地を支配していた。」ことをぼかして認めているようだが、それは「連合」ではないよ。
何か勘違いしているようだが 『 ヤマト王権の 変 質 』と言ったはずだ。
最終的にそのような中央集権的なシステムが出来上がるのを否定もしていない。
要は東遷厨の言うように最初からそんなものが存在していたとは考えず
時期的には各地の古墳造営が止み、畿内だけに収束する5世紀後半あたりから
連合体から中央支配体制にシフトしたと・・・言うのが今の日本人の常識レベルだと思うがwwwwwwwww
つうかお前は
>>43 の東遷厨か?
もしそうなら
>>41の質問に答えろ
58 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:35:18
ヒミコの時代に中央集権国家が なかったんだったら。
邪馬台国はどこの地方政権でも良いのではないか?
そしてそれが北九州でも?
畿内説は ヒミコの時代にゆるやかでも中央集権があった場合に成立するんじゃないか?
59 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:38:12
>>53 >「いかなる政治形態も絶対に”連合”である」という信念のようなものかな?
これにも言っておくが
飛びぬけた勢力が出てこない以上”連合体”にならざるを得ない。
…何かおかしい事を言っているか?
まあ東遷説とか極一部の人間にとっては不都合かもしれんがwwwwwww
60 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:46:09
雄略の時代までは 交流が有っても ローカル国家しかないと思うが、鉄器農具や農業方法の進歩 組織の成熟がないと。
優れた指導者がいても死ねば元に戻る。
30の村落国家を纏めるだけで精一杯違うかな。山地国家日本では
伊都国などなら面としてのクニとして機能していたようだが、それは歴史が古いからだろう。3世紀の本州のクニ
というのは統治者の権威が隅々までおよぶようなものではない。地方内レベルの小乱はずっと続いていた。
だから上でも書いたように、連合というのは有力氏族の連合だろう。そして、その力の度合いや貢献レベル
によってある規格の前方後円墳造営が許される。
63 :
ローガン:2009/12/13(日) 00:50:44
>>58 > ヒミコの時代に中央集権国家が なかったんだったら。
> 邪馬台国はどこの地方政権でも良いのではないか?
> そしてそれが北九州でも?
>
> 畿内説は ヒミコの時代にゆるやかでも中央集権があった場合に成立するんじゃないか?
64 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:51:42
>>51 それだけの生口を確保できたのは戦争捕虜であろうと言うのは同意だが
いくらなんでも一国でそれだけの数を確保したとは考えにくいし
仮に支配している国々から出させたとしても
帥升”等” と書かれている時点でそれほどに強力な王だったのかどうか疑問だなwww
無論これを「等」までを一個人名とする説もあるが
「〜等(ら)」とし「帥升と愉快な仲間達」と言う意にとるほうが通説だと思うが
そうなると既にその時点で「連合体」と言えるものができているわけだがwwwwww
65 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:58:10
まあここだけの話しw
東遷厨あたりがこの「連合」の二文字に反応しちゃうのは
邪馬台国論争に過分にイデオロギー論争を持ち込んでいる馬鹿にとって
恐らく民主党の支持母体の「連合」とかを想像させて
反応せずにはいられない…ってところじゃないのかと疑っているwwwwwwwww
山口組みたいなもんだろうな
武力で制圧した場所もあるだろうし、それこそ「連合」のような形で勢力下においた地域も
あるだろう。血縁というか、杯を交わした場合もあるだろうし
倭国乱の頃なら、相手を完全制圧するのは輸送や兵力の面でおそらく難しかったろうし、「相攻伐」とあるよ
うに 多対多の戦いなら合従連衡のようなことが起きて、だんだんに連合体が形作られていったのではないかな。
68 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 01:07:00
邪馬台国と 後世の大和政権とは交流はあったかもしれんが全く関係ないと思うが。
ローカル政権同士の戦いで 畿内が勝ち残っただけでは?
69 :
ローガン:2009/12/13(日) 01:14:23
>>58 > 畿内説は ヒミコの時代にゆるやかでも中央集権があった場合に成立するんじゃないか?
違いますよ。
「中央集権」って括って、「連合」との齟齬をつつこうという事でしょう?違いますよ。
例えて云うと、俺達も船に乗り遅れるな!という「各地域」と、皆が乗る船の船長と云うニュアンスですよ。
おそらく纏向は連合勢力が共同で築いた都地ではないかな。wwwがつねに言ってるように各地の葬制の習合
なども見られるし、何より東海をはじめとする東方への地の利がある。纏向建都後、東海の環濠集落は解体
されてゆくものも多い。
71 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 01:29:59
>>57 各地に派遣された統治官は、記録上はほぼ全部王族だから、王族にふさわしい陵墓を
作るのは当然だわな。
巨大古墳の造営にその土地の人々を借り出すのは、労働の強制システムと徴税システムを
確立するための手段としての意味もある。
強制という牢獄に慣れさせ、強制の中に喜びを見つけ出さしめるのが統治だよ。
仮に、日本各地に「連合」の対象になるような独立勢力が存在したとしたら、その勢力は
最後の砦になる環濠を埋めることはしなかったはずであるが、現実には環濠は埋められた。
つまり、環濠を埋めたということと、広域王権が成立したことはセットになっている。
ようするに、「連合」の対象になるべき独立した勢力は、環濠を埋めたという考古学的事実に
よって否定される。
生口160人が多いとか言う話が出たんで、古墳築造の労働力について考えてみた
大仙古墳(仁徳天皇陵)の場合、延べ人数 6,807,000人、工期 15年8ヶ月という試算がある
1日当たり1,187人だが、現実には農閑期の3ヶ月くらいしか賦役を課せられないので、その間は4倍の4,751人くらいを集めていた事になる
九州説ご自慢の女狭穂塚(全長176m)なら、大仙古墳(全長486m)の1/10くらいの労働力かな、500人くらい集めれば良い
冬の間、500人集めれば15年で造れるんだよ
2000人程度の人民を支配している王なら、女狭穂塚は造れたんじゃないかな
戸数7万の邪馬台国である必要は無いよ
73 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 01:39:14
>>72 そんなに時間をかけていないよ。
1日1000人→1日1万人にすれば、農閑期や雨季の中断もすくなくなって1年ほどで完成する。
仁徳の数十年後に新羅に派兵して屈服させる動員ができたのであれば、1万人ではなく5万人で
数ヶ月で完成したという可能性も高い。
74 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 01:42:09
てゆうか15年も時間をかけたら、過半数の天皇は生前に作りおわらないだろ。
75 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:03:50
>>65 で、その「連合」という高度なシステムは、記紀に登場するのかな。
記紀上の年代的にはどうなるのかな。
まあ、記紀を読むとわかるが、問題解決の手段はだいたい戦いとなっている。
連合なんてのは片鱗も見えない。机上の空論に過ぎないというのはそこに
根拠がある。単に東遷説を否定するために頭の中で考えただけのもの。
連合を言い出したのは、寺澤薫だったかな。あの人は、以前は、九州の勢力に
よって、畿内は悲惨な運命を辿ったと言っていたのだが。
76 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:12:22
>>74 秦の始皇帝は、13才で王になったのだが、そのときから墓を作り始め、
40年ほどかけて完成させたらしい。
>>73-74 工事現場で有効に働かせる人数には限度がある
それを加味して、試算を担当した大林組も工期 15年8ヶ月という数字を出したんだろうし
律令制では、国府まで出て雑徭2ヵ月というのがあった、農繁期にはどんな時代でも農民を徴用できないよ
中世以降の武士の戦も同じ、農繁期にはやらない
78 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:16:36
>>72 女狭穂塚については、サイトに古墳造営の試算が書かれている。
それによると、一日1000人を動員した場合、農閑期を中心とした年間200日で
計算すると2年半程度を要していたであろう、となっている。
>>77 大林組に大和川の付け替えを試算してもらったら、何年って結果が出るんだろうね。
80 :
いつもの東遷厨賛江:2009/12/13(日) 02:32:37
>で今度はお前が
>>41の質問に答えろ。
>そもそも「連合体」と言うものが形態として成り立たないと言うのなら
>九州の邪馬台国と言うのは30カ国を従えたローカル帝国wだったのか?
>もしそうならそれを証明する手段を何に求める?
あーあ、結局今回もトンズラかw
そういえば
「無人都市纏向の建設等に要した労力は何処から調達したのか?」
と言う質問にも答えずトンズラかまされたなwww
水中都市 唐古・鍵は半漁人が作ったのかな?wwwwwwwww
81 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:38:01
>>75 >単に東遷説を否定するために頭の中で考えただけのもの。
いくらなんでも 自 惚 れ が過ぎるぞwwwwwwwww
82 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:44:09
>>81 畿内説の考古学者の頭の中にあるのは、一貫して東遷説の否定だけ。
お前だってそうだろう。
>>79 川の付け替えって、硬い地山を掘るんじゃなくて、
元々その川自体の氾濫原となっていて水道が付いている所を浚渫して造る場合が多い
大雨の時にあふれたら水道となり、普段は低湿地になっているという所だから掘りやすい
84 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:49:58
>>82 正直言って
東遷説なんて学説じゃなくて(ロマンチックなw)伝説としか思ってないが何か?w
前スレで書こうかと思っていたが
記紀に見られる神話は幾つもの地域からの神話を寄せ集めたもので
時代がいつかは別にしても何処かの時代で「合成されたもの」
それを捏造と言うのなら
「記紀は捏造の書」と言い切って間違いないwwwwwww
無論東遷厨にとって高天原や天孫降臨、神武東征は史実に基づくオリジナルでないと困ると言う
お家の事情があるんだろうが
そんな事は知ったこっちゃないwwwwwwww
85 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 02:57:48
>>82 しかしお前本当にそんなこと考えてんのか?
畿内説の考古学者って、つまりは殆どの考古学者って事になるんだろうが
そいつらが全員東遷説を否定するに血道をあげていると?
冗談ヌキで病気だよビョーキwww
>>79 続日本紀によれば、和気清麻呂が大和川の付け替えを6年くらい、おそらく数万人規模でやって失敗してる。
>>85 もし東遷の確たる証拠があって、それを無視したり隠そうとしてると思ってるなら病気だな。
88 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 03:09:13
>>84 記紀が作り物としたら、天上の高天原から、直接、大和朝廷の都である大和に
降りてきて、全国に覇を広げるという物語を作るのが自然だろう。
なのに、天孫は日向に降りる。そして、大和朝廷誕生の重要なモチーフとして
神武東征を必要とする。
どうしてそういう物語を作らなければならなかったのか。そういう物語を
創る必要性がどこにあるのか。
やはり、史実の反映と解釈するほうが妥当だろうな。
畿内説は、肝心なところでいつも記紀の否定、あるいは倭人伝の否定を
しなくてはならないところに無理がある。
89 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 03:19:52
>>85 ほとんどの考古学者は、邪馬台国問題に口を挟まない。
畑違いだから。
>>88 逆に、なんで日向なんてしょぼい土地に神が降りたんだか
そっちの方がつじつまが合わない
91 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:01:18
>>85 学者なんてみんなビョーキだよ。ビョーキ。
出土状況を説明できないまま三角縁をいまだに舶載とか言っている連中も、
一度たりとも測定データが公表されていない年輪年代を都合の良い部分だけ引用する連中も、
批判の嵐にさらされながれも、それを無視して都合の良い情報だけマスコミに垂れ流すC14も、
いきなり日本中で前方後円墳が作られる時代が来ても、「連合」なんて叫び続けるお前も、
神武東征を認めたら日本が軍国主義なって戦争を始めるとかいう9条信者の長老も、
みんなビョーキなんだよ。
ビョーキじゃない奴は、あの狭い世界から排除されるから、みんなでビョーキごっこに血道をあげるしかないんだよ。
92 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:04:29
>>91 >神武東征を認めたら日本が軍国主義なって戦争を始めるとかいう9条信者の長老も
それは始めて聞いたw
無論現在の話しだよな?
何処の団体のなんと言う人物なのか教えてくれwww
93 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:07:18
>>92 じゃあ突っ込まなかった部分は正しいってことでFAねww
94 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:19:34
>>93 え?
これも答えずにトンズラなのか?
つうか他のは散々今まで突っ込んできたからなあ…
>神武東征を認めたら日本が軍国主義なって戦争を始めるとかいう9条信者の長老も
これって本当誰よ?w
お前に負けず劣らず被害妄想狂としか思えないんだがwwwwwwww
95 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:23:06
>>94 じゃあ他の部分は正しいってことで確定ね♪
96 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:28:34
いやもうそう言う悔し紛れの能書きは良いから
で、結局
>神武東征を認めたら日本が軍国主義なって戦争を始めるとかいう9条信者の長老も
って誰なんだ?
☆ チン
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・)< 答えまだー?
\_/⊂ ⊂_)_ \_______
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
|  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:| :|
| .|/
97 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:39:47
さすがに個人名をモロ書きできないよ。
安本への名誉毀損を繰り返している犯罪者の君とはその辺の感覚は共有できそうにないが。
98 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:40:27
>>88 こっちは東遷厨でも日向厨の方かな?
そりゃ始祖神話において御先祖さんが遠くから苦労してやってきたと言う話のほうが有り難味があるわなw
逆に始祖神話でその王朝の都のど真ん中に始祖が降臨した…なんて話を知らんのだが
まあ俺が知らないだけで
本当はそっちの方がメジャーで幾つか知っていたなら教えてもらんかね?
(実際皆無だとも思ってないし)
いやマジでwww
99 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 04:46:04
>>97 ふむ、安本の事だと言う自覚はあるんだなwwwwwwww
9条信者に対する批判なんてTVの討論番組ですら
実名挙げてナンボでも話されていると思うがw
自分はトチ狂った9条信者に迫害されているとか妄想して自分を慰めてるのかな?w
>>98 建国神話だから、首都に降りてくるなんて話が出来る訳ないわな
建国=首都作りってことでしょ
ローマなんかは自分が育った何もないとこに町を作ったのが建国神話だから、ある意味首都に降りてきたようなもんか
疑問だが、日向に降りてきて東征、という歴史を作る方が都合が良かった理由が天武期の大王家にあったんだろうか?
事実か創造かは別にして
101 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 06:17:06
>>100 無論
「都に舞い降りる」
と言うのは
「後の都になる地に舞い降りる」
と言う意味な。
しかしローマ神話ねえ…ロムルスとレムスのお話か?
ありゃ典型的な「貴種漂流譚」とでも言えるような話に思うがw
幼き王子様が悪者の手を逃れ辺境の地に流れ着き
そこで成人してやがて王国に戻ってきて
その悪者を討ち王位についたのでした
めでたし、めでたし…
てな話でw
神武東征神話にその形を見るなら
結局、ヤマトこそが最初から「約束された地」であって
東征と言うより帰還という意味合いにならんかな?www
102 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 07:05:58
>>54生口というのは童男・童女、飯炊き女のみ奪取。反抗する恐れのある成人男子は全て打ち首、使えない老婆と赤子は置き去り。
自分たちの部族以外は人間と思っていないから牛馬と同じように容赦なく扱った。
古代人ていうものはそういうものなんだ。
男系遺伝のY染色体遺伝子の分布と母系遺伝のミトコンドリア遺伝子の分布の違いを調べれば
征服民と被征服民の歴史が分かるのです。
105 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 12:41:00
皆「倭種」だよ、残念ながらね。
少なくとも、古代大陸人には、「皆倭種」にしか見えなかったという事。
或いは、祖の程度の小さな差でしかないという事。
106 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 12:48:33
弥生時代はそもそも、紀元前5世紀よりずっと前からだろう。
古いんだよ。
卑弥呼の時代には、支配層も被支配層も無いだろう。
大抵の人は、「倭人」になっちゃってるよ。
107 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 15:55:20
中・韓人の恐ろしいところは、弥生人の事を平気で「渡来人」とか抜かす事だ。
酷いのになると、弥生人は中国人だの、朝鮮人だのと阿呆のような話に興じる。
弥生時代800年間の間に縄文系との混血も当然進むだろうし、土着化が劇的に進んでしまい、
諸外国からは、皆等しく「倭人」扱いされている事には、どうして思いが及ばないのであろうか?
108 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:28:53
弥生人は渡来人だろ。
弥生人は、太平洋から沸いてきたのか?
109 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:32:45
どうせ、弥生人=渡来人と認めると、
「弥生人=渡来人=中国人・朝鮮人が日本をつくった」という論に繋がるのを嫌ってるのだろうが、
弥生人が倭人に同化したかが問題。
渡来人が倭人に同化しないうちに、日本を建国したなら「中国人・朝鮮人が日本をつくった」と言われても否定できまい。
それがイヤなら、「渡来人が倭人に同化してから日本が建国された」ということを、きちんと論証すべきだ。
できるか?
110 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:36:13
渡来人は、もっと時代が下ってからだろう。
国家や民族の概念が希薄な古代において、
仮に二千数百年前や三千年前に移住して来て土着化したとして、
何が渡来系なんだ?バカじゃねぇのか?という気はする。
厳密に言えば、縄文人も恐らく大陸からの渡来だが、「渡来人」とはあまり言わない。
中国人も韓国人も、起源はアフリカのとある村。
112 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:45:05
「土着」とは何か?というと、その土地に長く住み着いていることだよ。
何世代にも渡ってね。
卑弥呼の時代には、もはや立派な土着倭人ですよ。
嫌韓厨だかネトウヨだかしらんが、まったくチンケな話しだ
同じモンゴロイドの僅かな形質上の差異を見つけて
「自分達はあいつらと違う」と安心材料にするのか?w
そんなものに頼らずとも文化的に既に別物なんだしw
うがって見ればある意味同属嫌悪にも見えなくもないwww
まあいつもの東遷厨もそうだが
あまりこの板にイデオロギーつうかウヨサヨ論争的なものは持ち込んで欲しくないなあ・・・
2ちゃんで言う方が無理なのかもしれんがwwwwwwwww
114 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:01:21
季刊・邪馬台国と言うアホな本を見た。編集者は完全に頭がいかれている。
115 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:06:12
>>113 正論しか言ってない。
中国人でも酷いのになると、古代人は徐福の子孫とかになっている。
これはかつて、中国政府の閣僚が広めていた。(温○○)
韓国においても、吉野ヶ里は「韓国系」にされている。
こうしたプ政治的ロパガンダによって、日本の古代史が思考停止に陥るのは嫌だ。
116 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:07:09
>>108 海はこの世の果てと思っているあちらの人間が、まとまってくるというのは
考えにくい。流れ着いたという感じのものはあっただろうが。
それよりも、南西諸島伝いにやってきた人間の方が多かっただろう。
南洋の方は舟に慣れているから。
ただ、記録に残っている徐福は考慮する必要があるかも。
徐福は、始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて紀元前210年、童男童女
3000人、百工を携えて東に船出した。
しかし、平原広沢を得て、王なり、帰ってこなかった。(史記)
しかし、各地に残っている徐福伝説は後付だろうと思う。
この時代のことが伝承としてでも残っているとは考えにくい。
117 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:14:34
ついでに、
梁書には、次のように記述がある。
倭者、自云太伯之後
倭人は、自分たちは太伯の子孫だと言っていたらしい。
太伯は、かなり昔に江南の地域にいた王家の人物だったと思う。
卑弥呼の時代でさえ、呉の影がうかがえる。日本は呉というか江南地域との
つながりが強かったのではないかな。少なくとも、朝鮮半島などよりも。
118 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:33:02
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
119 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:35:13
ハッカク臭い、豚鼻臭がする
120 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 18:09:10
ベトナム人みたいな顔が見えてハッカク臭がただよってくるね
121 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 18:25:05
そもそも「太伯」て実在の人物なの?
さあね。
春秋時代の「呉」は彼(太伯)の19代目の子孫が建てたとされている。
前473年、「呉」は25代目の子孫、夫差の時に「越」に滅ぼされる。
夫差は臥薪嘗胆の故事で有名な人物ね。
123 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 19:06:30
小沢一郎が、韓国で江上の騎馬民族征服説を披露したらしいな。
なんでも、騎馬民族が畿内に国を創ったらしい。
韓国南部の騎馬民族?農耕民族の間違いだろう。
124 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 21:48:59
宮崎県・串間から出たとされる穀璧は呉の系統のものといわれる。
熊本県・球磨地方の才園古墳から出た鍍金獣帯鏡も呉の鏡といわれる。
こちらは卑弥呼時代のものらしい。
倭人伝などから魏との交流の方が注目されているが、意外に呉との結びつきの
ほうが強かった可能性もある。
画文帯神獣鏡も呉の鏡といわれるし、良く似た三角縁神獣鏡もその可能性が
高いと思う。
日本史板で「古代の中国人・朝鮮人=現代の中国人・韓国人」と混合してるやつがいるとは…
まあ日本人についてもしかりだけど、現代のイデオロギーの枠内で歴史を考察すると色々な弊害がある。
129 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 12:09:36
韓国の某国立博物館は、「吉野ヶ里 日本の中の古代韓国」展だかなんだかを開催しとりましたよ。
130 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 13:06:25
黥身黥面の時代 組織よりシャーマンが幅をきかした時代
中央集権国家が存在したわけがない。
雄略までは 中央集権的な物は難しいよ。
鉄器農具が普及してない時代。どうやって軍隊を長期に遠隔地に派兵できる食料を確保できるの?
シャーマンのお告げで大きな国の膨大な行政を見れるの?
132 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 20:10:30
133 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 21:40:46
>>130 邪馬台国は、台与時代に男王の誕生によりシャーマン統治から抜け出した。
その契機になったのが、狗奴国との争いだろう。
内輪もめの仲裁にはシャーマンが有効だが、外敵には無力だった。
戦力を統率できる男王こそが外敵には必要だとわかったのだろう。
そして、邪馬台国は勢力を拡大していく。
134 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 00:21:55
魏志倭人伝には、弟が摂政みたいな事をしていた事が書いてある。
シャーマンが幅をきかせたなんて、どこにも書いちゃいないわ。
136 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 00:38:45
騎馬民族征服王朝説なんてのは
本居宣長が、邪馬台国が九州だ
なんて言ったから、出てきたような説だわな。
137 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 00:43:08
神武天皇伝承での、
神武天皇の東征の大義名分は
「私は天孫だ」という大義名分で畿内に侵入した。
そして、その畿内には、神武天皇が畿内に入る前から
天孫の子孫が多くいた。
そして、その畿内には、葛木の高天地方という
高天原の伝承地がある。
138 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 00:51:28
>>106 弥生時代は、紀元前10世紀以前という説が有力。
これくらい前から混血が始まったとなると
緩やかに徐々に混血したわけだから
基本的に、日本語の言語系統は、縄文時代以前からのものを
受け継いでいることになる。
だからこそ、日本語は孤立言語とされている。
139 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 01:44:12
さてさて壱与が最後の「巫女王」だったのかは判断しかねるところ。
話がもめたら巫女がその場を預かる事もある
「ヒコヒメ体制」と言うようなものが壱与を最後に終焉を迎え
男王をトップに戴く体制にシフトしたのかどうか・・・
謎の4世紀は闇の中とw
それでも後世、推古のような女帝を生み出すのは
古代の日本の社会の底流にその残滓があったのだろうと想像はするが
また4世紀に入って男王をトップに戴く体制になったとしても
中央集権的な体制にはまだ時間がかかったと思うが・・・
まあこんな事は、この板の多くの
「九州版皇国史観」の持ち主には関係のない話だろうがwwwwwwww
140 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 01:52:28
狗奴国との戦いから邪馬台国は発展していくと言う事は。
ヒミコの時代は邪馬台国の規模は、一人のシャーマンが影響を持てる範囲内という事だよね。
まあ、そりゃそうだ。はるか遠くの有名シャーマンより、近くのお告げができるシャーマンが大切だものね。
遠方の気候なんか関係ないし。 今、ここに居る病人を見れないしな!
30位の村落国家で限界
141 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 07:01:03
>>138 最近では、日本語、琉球語、韓国・朝鮮語を完全に同列に並べたがる風潮があるけどかなり危うい。
日本語と琉球語は、語彙、文法ともに共通性が極めて高いけれど、
韓国語と日本語の語彙は、漢(字)語の共通性によるところが大きい。
和語との共通性が非常に低く、日本語と同系の琉球語とは明らかに性質が異なるが、
政治的思惑により、三者並列化が進むと思う。
142 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 07:09:23
>>140 したっぱの巫女さんは沢山いたよ。
倭人伝には、王になってから彼女を見た者はめったにいないという事が書かれているから、
彼女の仕事は斎王みたいなものか、天下国家の安寧を願う祭祀を司ったか、何かだろう。
シャーマンの女王と言っている人は、どんな宗教感を想定しているんだろう?
神のお告げや占いの結果を全員が聞く、と言うことは、倭国共通の宗教感とかがないと意味をなさない筈
それぞれの国に王がいるなら、宗教感や民族意識や氏族意識がそれぞれあるはず、それらが連合して倭国ができていると考えるなら、シャーマン卑弥呼はいかなる共通思想の上に君臨したのか?
説明して欲しい
144 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 09:55:55
信仰は地域によって違う。阿蘇は当然 火が信仰の対象だろうし、山の神とか狩の神とかもある。自然や、病気 死に対する恐れからの信仰は当然あるし。シャーマンをどれだけ重視してるかは、村落国家によるよね。族長の性格にもよるだろうし!
145 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:40:51
とりあえず、魏志倭人伝ぐらい読め。
卑弥呼像がおかしい。
146 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:47:07
卑弥呼は鬼道をしてました。
中国で鬼道とは、祖霊を祀ること。
太陽信仰ではないので、アマテラス=日巫女=卑弥呼ではないわけ。
147 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:32:32
鬼道とは鬼(霊、死霊、禍々しいもの)の道、すなわち、魏、晋の人間には邪道と見えた。神の言葉を
人間が伝えるということが理に適わぬことと見えたのである。
148 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 18:00:30
卑弥呼がどんな宗教祭祀を行っていたか、陳寿にも解っていなかったはす。
その為記述も短くて具体的ではなく、何か分からんが、適当に鬼道としたものと思う。
神のお告げはしていたようである。
149 :
139:2009/12/15(火) 18:32:59
>>143 宗教観ねえ…
まあ九州以東に巻き起こった大型(巨大)首長墓による首長霊信仰かな?
無論、畿内説に立てばそれは前方後円墳による祭祀と言う事になる。
加えて纏向の祭祀土壙から大量に出てくる籾殻から
今日の新嘗祭にも繋がるような農耕祭祀・穀霊信仰。
所詮、倭人伝の「鬼道」の二文字をいくら眺めても具体的なものは出てこないだろうw
…で、同じ質問を>143にも答えてもらいたい。
卑弥呼の共立でとりあえずはまとまったと言うのなら
なんらかの宗教的な権威はあったんだろう。
それはどんな宗教なのか?
それが及んだ30ヶ国の範囲とはどこらあたりを想定しているのか
只これについては畿内説も現在かなりアバウトなので
(例えば前方後方墳地域との対立を想定するか否かで全然変わってくる話だしwww)
厳密なものは求めないがw
及び、それらを想定しうる考古学的な資料は何なのか?
正直、九州説はそういった対抗馬を出せないなら年代論以前の問題。
今日の畿内説の隆盛(まあ大半の学者は”なんとなく”だろうが、それはかつての九州説にも同じ事w)はそこに起因するものと考えるがwwwwwwwww
>>143 >いかなる共通思想
なるほど。前方後円墳て共通だよね。
弥生時代、それ以前は各地バラバラだった首長墓が。
151 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:28:50
前方後円墳だとか邪馬台国とは直接関係ないだろ。卑弥呼の共立だって宗教が関係しているかどうか分らんじゃろ。
男で纏まらんから(争った首長達がお互いあいつの下には付きたくないという具合で)女をトップに据えた
だけだ。その共立された卑弥呼という女王にカリスマ性があったというに過ぎない。
元々男王が治めていたのだ。祭祀は行っていただろうが宗教とまで言えないだろ。
152 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:42:27
*今日の畿内説の隆盛
がはは。バカは100人集まっても利口1人に敵わんよ。畿内説なんて最初から無かったし今あるのは
子供だましの漫画だ。
153 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:52:35
畿内説の漫画なんて無いだろ。wwwwwwww
九州説の漫画なら山ほどあるが。wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
154 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:55:34
>>153 手塚治虫の「火の鳥」とか、星野 之宣の「ヤマタイカ」とか
諸星大二郎の「暗黒神話」も九州説をとってたなwwww
155 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:07:51
しかし
>>149で多少は真面目に答えたつもりだったが
>>151-152のような馬鹿が沸いてくるのがこの板の現状・・・
「卑弥呼共立に関ったクニグニは畿内説の言う西日本一帯(下手すれば東日本もその版図に含む)に広がるような長大な地域ではない」
…と批判するのは結構だが
じゃあ九州の何処にそれを想定してその根拠に何を持ってくるのか…
少しは脳味噌使って考えろって話で
もっとも使える脳味噌があればの話しだがwwwwwwwww
156 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:10:56
>>153 畿内説の漫画など書けるか。漫画にもならんわ。
157 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:11:27
もう、まともな話ができる九州説の人は、みんな畿内説に転向したんだよ。
九州説は、20年前から思考停止してる人しかいないよ。
158 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:13:54
でも、畿内説が標準になったわけだから、
そのうちジャンプあたりで漫画やるんじゃね?
間違っても、いまさら九州説とか東遷説じゃあるまいし。
159 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:18:59
でも、正直、漫画にした場合、九州説のほうが面白いだろうなw
やっぱり「想像の余白」が大きいのは魅力かとwwwww
そう言えば以前の「世界不思議発見」では基本畿内説をとりながら
天照の日蝕とか取り上げていたし
やっぱり神武東征神話とかの方がロマンチックで大衆受けはしそうだw
もしかしたら今後、畿内説に九州説のゲテモノ…ゴホゴホ…もといユニークな部分が習合されるのかもwwwwwww
160 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:21:51
では改めて質問する。邪馬台時代は先史時代だよね。日本の記録に無いから。日本の歴史記録ど畿内勢力が覇権を握った事が有るかな?覇権者が全知全能とは言わんが畿内の人々にそういう気風とか甲斐性を感じた事が無いが…どう思う?
161 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:22:41
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
162 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:23:23
>>155 何を偉そうにほざくか。おまえもゆるやかな首長連合だとか脳天気なことを言う一団の一員か?
食うか食われるかの戦闘の挙句の卑弥呼の共立だ。熊本以北の邪馬壹国、投馬国、不彌国、奴国
伊都国など倭国30国ほどが卑弥呼を頂点とする厳しい連合国を作ったのだ。おまえこそ脳味噌を
使え。もっともおまえは使えるだけ使っても大したことにはならんだろがな。
163 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:28:10
>>162 ハイハイ、この威勢の良いだけの馬鹿はなんか縄文人っぽいなwwwww
で、その強固な支配を誇った邪馬台帝国wは何をもって想定できるのかな?
「熊本以北」ってそりゃ九州の殆どじゃねえのかw
えらく豪気な話しだがwwwwwwww
164 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:31:32
日本書記や古事記は、一応、前政権の存在をみとめている。
それは、出雲王朝のこと。
165 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:37:22
>>162縄文人よ、九州説を説くならせめて河童の爪の垢
でも分けてもらい、煎じ飲用してから出直しなさい。
>162
「食うか食われるかの戦闘」「厳しい連合国を作った」って何情ですか?
>164
というか、天孫降臨のまえは地上世界は荒ぶる神の子孫がはびこっていた
そこへ、支配権を主張して降りてくる訳だろ
国譲りで始まる建国神話って珍しくないかな
>>151 宗教? 宗教の話なんてしてないよ。共通思想。
地域ごとに異なる首長の葬制が、前方後円墳に変わることに
共通思想の浸透が読み取れる・・・なんてね。
169 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 22:58:07
>>163 儂は縄文人ではない。血は受け継いでいるかも知れんがれっきとした現代人だ。それから、ひとを馬鹿呼
ばわりするのはやめろ。おまえの悪い癖だ。少しは謙虚になれ!
おまえは3世紀の大陸および半島の情勢を知っとるだろうな?
公孫氏が滅びると見るや機敏に魏に朝貢した邪馬壹国首脳部だ。情報収集能力を持っていたと見なければ
ならない。卑弥呼共立の前後、大陸では魏呉蜀が争い、遼東でも半島でも不穏な情勢だった。倭国乱を経て
後、大陸や半島の勢力が倭国に侵攻するかも知れないと考えた人間も居たであろう。倭国も纏まって防衛を
考えねばならないと考える指導者が居ても不思議ではない。卑弥呼共立後、邪馬壹国指導部は一大率を置く
など軍事組織を整え、同時に外交としては魏と結んだ。魏への朝貢は倭国内での権威づけというより国防上
の意味が大きかったと見るべきだろう。
170 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:08:23
>>169 ここまで情勢を語っておいて、
九州の邪馬台国が畿内と連合しようとは一切考えずに単独で魏に朝貢しようとしたと思うことに、
不自然さを感じないのはどうしてなんだろうね?
171 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:08:42
>>168 宗教の話をしてないのならそれでいいじゃないか。儂も宗教の話はしとらん。墓制くらいのことで
共通思想だなどと なに考えてんだ?
172 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:13:00
>>170 別に不自然でもないだろ。畿内とは商人による物資のやりとりはあっただろうが、取りたてて頼みにする
ほどの存在ではなかったんでないの。
173 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:17:22
はっきり言って馬鹿縄文人レベルの考えた
「ボクのかんがえた むてきの大九州邪馬台国帝国!」
なんて幼稚な話はもううんざりだwwwwwwww
>>169で言っている半島大陸の情勢にしろ
それが九州に強固な帝国支配をもたらす因果関係もさっぱり分からない
(あ、もう説明はいいから・・・)
九州以東はそういった緊迫した情勢を知らず能天気に日々暮らしていたとでもほざくつもりか?
一体、この馬鹿は何が言いたいんだ?
174 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:18:34
おまえが馬鹿だと言いたいだけだ。
175 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:19:54
ほんとに縄文人はバカだな。
176 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:22:27
儂は縄文人ではないが、しかし、縄文人とは偉い人だったんだなあ。こんなに畿内説の馬鹿共に怖がられて
いるんだからな。がはは
177 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:23:11
>>172 ヤマト王権は、東国から防人を九州に集めたわけだが、
同じ事を九州の邪馬台国は考えなかったのかね?
庄内土器の九州への移動は、大和から九州に防人を送った形跡とは思わないのかね?
大陸の情勢が危ういときに、九州の邪馬台国は畿内に東征したのかな?
まあ、矛盾だらけでお話にならんが。
178 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:29:04
>>140 >30位の村落国家で限界
実際この意見も一理ある。
巫女を女王に立てるなんてどうみてもプリミティブな統治システムじゃあ
畿内説の言う広範な地域を統治するのは難しいだろう…と言う考えはもっともw
まあ個人的には”新たに”できた広範な連合体を納めるべく
強力なリーダーシップを持った男王によるトップダウン式の統治機構を目指す事は目指したが
結局上手くいかず 旧来のやり方=巫女のアネゴに下駄を預けるw になってしまったいわば妥協の産物と見るがwww
もっとも逆に言えば一人の巫女で納まる狭い地域なら
最初から話がもめる男王を立てるなんて話はしなければよいのであって
少なくとも卑弥呼と言う成功例の後はそれを踏襲すればよい・・・とも考えられるwww
179 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:37:17
>>177 そんなこと考えるわけないだろ。畿内は4世紀になってようやく一人前になったんだ。3世紀の頃は
九州から見たら屁のようなもんだ。屁の突っ張りにもならん奴を誰が相手にするかよ。
庄内土器の移動は単なる交易の跡だと見る事もできる。防人の形跡だとなんで言えるのだ?
邪馬台国が東征しただって?儂はそんなことは言っとらんわ。勝手に矛盾を創作するな。
180 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:39:21
>>179 縄文人は東遷したと言ってただろ。もう忘れたか。
181 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:42:48
儂は縄文人ではないと言っとるだろが!!何回言えば分るんだ。
儂はもう飽きた。又な。
182 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:43:49
もういいよ…
『 大九州主義 』みたいなお話はwwwwwww
邪馬台国論争なんて関係の無いところから出された人口推定も
(仮に今後、絶対数が修正されても、地域の格差がそれほどに大きく変わるとも思えない)
また実際の遺跡の規模や密度もそんなものは幻想に過ぎない事を示している。
183 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:51:03
>>167 どう考えても、ヤマト王朝が初めて全国統一したのは
出雲国譲りの時。
神武東征からではない。
この出雲国譲りは、神武の曽祖父のニニギの時代に起こっている。
しかし、そのあと、ニニギは、なぜか、畿内からも出雲からも遠い
九州南部の日向に降臨している。
そして、それから、ニニギの曾孫の神武の時代になって
神武さんが畿内へ東征したが、
その時には、畿内では、神武さんの親戚たちが出迎えていた。
>>171 >儂も宗教の話はしとらん。
おや、じゃあ何の話? 共通思想って言葉が適切じゃなかった? 祭祀?
卑弥呼を共立した人たちが共有している精神的同質性の話じゃなかったっけ?
>>183 紀記も素直に読んだら意味わからない事だらけ
出雲はスサノオが作った国、それを本家筋のニニギに譲る
神武が東征したときも、大和には分家筋が既に入っていて、譲られて入国する
186 :
ローガン:2009/12/16(水) 00:25:48
>>169 > 儂は縄文人ではない。血は受け継いでいるかも知れんがれっきとした現代人だ。それから、ひとを馬鹿呼ばわりするのはやめろ。おまえの悪い癖だ。少しは謙虚になれ!
お前の悪い癖とか…。wwwさんの芸風を知ってるという事は、なんや、やっぱり縄文人ですがな。
187 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 00:31:38
>>185 ヤマトにいたのが本家だったんだろう?
あと、アマテラスとかスサノオというのは、
この神様の誕生の経緯などから、
基本的に、本当に神話にしか過ぎないような気がする。
実在性のあるのは、天忍穂耳命とか、大国主からでしょう?
>>187 いや、神話として読んでる
どこからが実在とかは別の話として、紀記のストーリーだけを見ると、
国譲りで始まる建国神話は珍しいのではと思っただけ
どちらが正統な支配者か説明があって、戦闘はあっても最後は滅ぼさずに譲られる形をとる
「禅譲」を匂わせる
189 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 02:09:01
怖いことをいうと思うだろうが、
天安門事件のあと、天皇陛下が中国を訪問したが、
そのとき中国側が陛下に印鑑を渡そうとしたそうだ。
印鑑をおくられる、ってのは、イギリスがナイトの称号を送るのと同じく、中国にとって『日本は俺の手下だ』と世界に対して表明する効果を伴う。
宮内庁職員が気づいて拒否したが、非常に危ない瞬間ではあった。
【アピール】「印鑑贈呈」の真相解明を 1993.08.08 東京朝刊 7頁 オピニオン (全1063字)
大学教授 中村粲 59(神奈川県鎌倉市)
いささか旧聞に属するが月刊誌『フォーサイト』本年二月号にこんな記事が載っていた。
昨秋のご訪中の折、中国側から陛下に印鑑を贈りたいとの申し出があったが、日本側の反発で取りやめになり、この件は両国関係を損なうおそれありとして極秘扱いになった。
印鑑を贈ることが古来、中国では相手に朝貢を求める際の儀礼であることは後漢・光武帝が倭奴国王に与えた金印の例からも明らかであり、
日本側が反発したのも、印鑑授受は歴史に照らして朝貢外交の疑いを招きかねないとの理由からであったと同誌も書いている。
もし記事の内容が事実とすれば、中国はご訪中を中華思想誇示という政治的儀式の演出に利用しようとしたわけで、事は著しく重大になる。
この前近代的感覚の非礼の事実を、外務当局はなぜ極秘にしようとするのか。
とかく中国に対しては美しい幻想を抱きがちな日本国民に、中国外交の実体について啓蒙する上からも、このような事実のあったことを公表する責任がありはしないか。
たとえ先方の意図は実現しなかったとしても−−。
ともかく事実を確かめるため、外務省担当者に手紙で実否を問うたところ、相当の日を経た後に要旨次のように電話で回答があった。
(一)中国側から印鑑を贈る申し出があったかどうかについては答えられない
(二)訪中の土産に印鑑(印材の意か)を好む日本人が多いので、陛下への贈り物の中に印鑑があったとしてもおかしくない
(三)次のように断言することはできる。「ある意図をもって中国側が陛下に印鑑を贈ろうとしたことは絶対にない」と。
190 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 09:42:47
>>173 >九州以東はそういった緊迫した情勢を知らず能天気に日々暮らしていたとでもほざくつもりか?
そのとおりだろうな。そうやって、銅鐸祭祀を行っていたから九州に征服されたんだ。
191 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 10:10:37
邪馬台国九州説など空前の灯火。
192 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 11:44:07
193 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:25:43
畿内説の連中のレスにはあきれてものが言えん。誤字や言葉の意味の取り違えは言うに及ばず論理のイロハも
知らぬ無意味な文章ばかり。知識は持っていてもその意味を知らず用い方も知らぬ。論語読みの論語知らずとは
畿内説の連中のことだ。寺子屋からやり直せ!!口惜しかったら勉強し直せ。がはは
194 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:26:07
>>190 >九州に征服されたんだ
九州に征服されたとか、漫画の読みすぎだなあ。
195 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:27:15
>>193 縄文人も、畿内が九州に征服されたなんて言ってなかったよな?
ははは。
196 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:54:39
>>195 おまえさんもローガン氏も見る目がないの〜。儂は縄文人ではない。WWWの芸風なんかレスを二つ三つ
見ればわかる。下品な物言いが特徴だ。偉そ〜に相手を見下すような言葉遣いだ。
ところで、かって縄文人とか言われる人が神武東征の話をしていたような記憶があるが、あれは2世紀末
倭国乱の頃のことだと言っていなかったっけ。邪馬台国の卑弥呼が王に共立される前のことだ。神武のお
陰で畿内もかなりの人数が住めるようになったんだろ。神武に感謝せにゃいかんの〜。
197 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 15:11:16
198 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 16:39:15
邪馬台国が 何処にあったか。その後の日本を考えるから 難しくなるんだと思う。
邪馬台国 北九州泡沫地方政権説では駄目なのか?
後の大和政権とは関係なく 消えていったその時代の地方政権の一つ!
魏の役人は ある程度付き合いのある北九州しか行ってなかった。奴国時代から知られてたからね 北九州は。
199 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 17:01:11
中国の天津って知ってる?
中国の玄関だよ。
天津甘栗も中国から伝わったから「天津」という。
つまり、天津神は、中国からの渡来人ということ。
福岡の天津に渡来した中国人が「天津神」を名乗って天皇になったということ。
誰か文句あるか?
200 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 18:20:28
違うわ、千葉県の天津小湊に渡来したのよ。
201 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 19:22:17
>>199 文句ある!天津飯と天津メンは日本人が発明した。だが、天津と言う。
>>197 小沢は、もろ団塊の世代の親父だから
その後の纏向遺跡の発掘状況まで頭にないし
いわゆる騎馬民族王朝征服説に毒された第一世代なんだわな。
203 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 20:38:10
纏向遺跡信者の会を作れ。そして来年の参議院議員選挙に候補を立てて戦え。
204 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 20:46:17
小沢の母親が朝鮮人じゃなかったっけ?
>>202 違うよ小沢はチョンだから騎馬民族王朝征服説を支持しているだけ。
纏向遺跡の研究やら発表会は
連日の大盛況だよ。
そこの人たちの間では、小沢の言っている話なんて
過去の過ぎ去った忘れ去られた珍説に過ぎない。
207 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 21:21:00
*纏向遺跡の研究やら発表会は
*連日の大盛況だよ。
正確に言えよ。ピントはずれの研究や発表で大盛況だろ。
208 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:17:41
>>207 ちゃんと「季刊邪馬台国」買って編集長に貢いでるか?
209 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:19:20
210 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:21:47
>>197 学会は、いまこそ動け。
何とかしないと、コリアンパワーにごり押しされ、世界の常識みたいになってしまうぞ。
実は、既になりかけているがな。
211 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:40:25
>>209 「季刊邪馬台国」の内容をコピペすると、畿内説を粉砕できます。
ぜひ、お試しください。
212 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:14:36
確かに、「季刊邪馬台国」な畿内説にはない自由さがあるな。
てゆうか本気で畿内説を正しいと信じている学者なんているんかな?
彼らの主張からは批判ができない空気のなかで生きていく辛さしか感じられない。
213 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:40:25
確かに畿内説を正しいと信じている学者はいないかも知れない。あまりにも根拠が無いからね。
畿内説を言えば馬鹿だと思われる。
214 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:48:48
釣堀かよ。
215 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 00:41:16
天からではなく、日本列島が大陸から切り離される洪積世の時代に
生まれたもの
日本人の遺伝子構成はむしろチベットなどと似ている
日本は海に閉ざされた、チベットは山に閉ざされた
固有の古い遺伝子を持つ
細烏女は卑弥呼だった!!
「三国遺事」の「延烏郎と細烏女」は日本の古代王国建設説話
慶北日報(韓国語)
http://www.kyongbuk.co.kr/main/news/news_content.php?id=465196&news_area=120&news_divide=&news_local=&effect=4 1285年、僧侶一然が「三国遺事」を書いた延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)とはそれほど長くない
合計237字からなる話ですぐ読める。しかし、その中には韓日間の交流の話が含まれており、色々な事実を語ってくれる。
新羅国第8代阿達羅尼師今4年(157年)、東海(日本海)の海辺に延烏郎と細烏女の夫婦が暮らしていた。
ある日、延烏郎が海に出たところ突然、岩に乗せられて日本に渡ってしまった。日本の人々は
彼が平凡な人ではないことを知って王に推戴した。夫が帰ってこないので細烏女は夫を探して海辺に出かけたところ、
岩の上に夫が脱いだ履き物があった。細烏女がその岩の上にのぼるや、すぐまた岩は細烏女をのせて日本に行った。
王は彼女をむかえて貴妃とした。
すると新羅では太陽と月が光を失った。阿達羅王は使節を日本に送って延烏郎と細烏女に新羅に戻ることを求めた。
しかし延烏郎は「私がこの国に来たのは天がさせたことで、どうじて帰ることができようか。
私の妻が織った薄絹がある。これを持ち帰って天に祭れば、光を取り戻すことができるだろう」と語った。
(中略)
韓日古代史を研究するイ・ヨンヒ教授(ポスコ人材開発院)は説話の形式で簡単に記録されているこの説話を
韓日古代史を理解するとても重要な事件とみるべきであると話す。特に説話形式で書かれた西暦157年
浦項トギにあった製鉄技術集団が大挙日本に進出した事実を明らかにしているということだ。
(中略)
イ教授は「'日本書紀'を見れば日本第11代王、垂仁3年3月、新羅王子アメノヒボコが来て播磨国に留まり、
彼はこの時、玉、矛、鏡など七種の神宝を持ってきたという記録に注視しなければならない。
また'古事記'や'風土記'などにも「アメノヒボコ」がしばしば登場し、特に'古事記'には妻が日本にきたという記録があると
明らかにした。日本に行った妻の名前はアカルヒメで'真っ赤な玉'すなわち「アカタマ」が変身した女性として
このように呼んだのだろう。
「アカ」は私たちの古語「坊(アガ)」が日本音化されたものであり、「ア」は本来「終わり」を現わした単語だったが、
すべての「刀類」を意味することもある。「カ」とは「変える」という意味と見られる。
したがって「アカ」とは「刀類粉砕」すなわち「鉄器製造」を意味し、「タマ」とは「タム」で「一番上」「親分」の古語で
「アカタマ」とは「鉄器製造の親分」を意味する私たちの古代語で解説できるということだ。
このように見る時、日本古代史に出てくる新羅王子アメノヒボコと関連した話は三国遺事に出てくる
延烏郎と細烏女の説話と絶妙に合致する、とイ教授は結論付ける。
イ教授はまた細烏女夫婦が日本に渡ったことにより、新羅の太陽と月が光を失ったのは製鉄技術者集団が
日本に発ってしまったので高炉から火が消えたことと解釈する。イ教授は卓越した想像力と韓日古代史の
博学な知識を土台に、この説話が含むもっと深い意味を引き出している。
それなら細烏女は誰か。(中略)阿達羅王20年(174年)新羅が使節を送った倭の女王、卑弥呼が細烏女と
同一人物ではなかっただろうか。イ・ヨンヒ教授は「日本書紀」に登場する神功皇后が卑弥呼であり、
その卑弥呼がすなわち細烏女であると分析した。
このような主張を要約すれば「延烏郎と細烏女」は浦項の人で当時の製鉄技術など先端技術を
日本に伝えた人物だけでなく、日本古代王国を建設した主人公であることを知ることが出来る。
したがって延烏郎と細烏女の歴史的意味と説話の中に含まれた韓日古代史の真実を見て浦項が
鉄とは無関係な都市ではないことをもう一度悟ることになる。
韓国はまず脱解王が倭人という件を認めなきゃな。
220 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 07:31:21
>>206 その過去の過ぎ去った、忘れ去られた珍説をよりにもよって
ストーカー国の韓国で発言するから問題です。
学会できちんと否定の声明を出すべきです。
>>219 その人類の移動は日本列島が大陸と繋がっていた時代ではないの。
邪馬台国のずっと以前でそ。
221 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 09:09:11
学会はまじで、正式な抗議を表明して欲しい。
俺も動く。
ちなみに、宮内庁にも伝えるつもりだ。
政治家が、キックバックか何か知らないが、
利権の為に学問に介入するユユシキ事態を黙認してはならない。
>>221 小沢の事務所に確認した方がいいんじゃないの?
そういった歴史認識をもっておられるのですかと。
223 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 10:52:31
韓国での講演動画が出回っているようだから確認してくれ。
224 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 10:54:05
こういった掲示板に書いてる分には
トンデモであっても笑い話で済むけど
一国の与党幹事長の発言は由々しき問題です
かの国なら既成事実にしてしまいます
225 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 11:15:16
【韓国】民主・小沢氏「古代、朝鮮半島南部の権力者が海を渡り日本の国家を樹立した」
日本の植民地支配について謝罪★12
1 :出世ウホφ ★:2009/12/14(月) 20:23:30 ID:???0
日本政界の最高実力者、鳩山政権の実勢と呼ばれる小沢一郎民主党幹事長が 12日、ソウルで
韓国民にメッセージを投げかけた。日本で小沢氏に被せられた「幕後」のイメージをぬぐい、
韓国の大学生たちと向かい合った同氏は、日本の韓半島植民地支配について謝罪した。
古代歴史について言及したときは「韓半島南部の権力者が日本の国家を樹立した」とまで語った。
歴代日本の有力政治家としてはめずらしい姿勢だ。
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1260789810/
226 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 13:46:26
おまいら 何を言ってるんだ。
日本の国会では 騎馬民族説 決定だぞ!
反対でも党の方針なら議員は賛成しなあかんのや。
しかも、国民が選んだ国会やぞ!法律を読んでないのか。
227 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 14:44:12
「韓半島南部の権力者が日本の国家を樹立した」
前方古円墳を見れば明白だな。共通してるしな。
228 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 15:48:01
日本の古墳の方が圧倒的に古い。
229 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 17:30:53
日本は古代ローマ帝国の剣闘士グラディエーターによって建国された。
倭国大乱を憂いたローマ皇帝マルクス・アウレリウスがローマ軍団より選抜した
グラディエーター部隊を日本に派遣して倭国大乱を平定した。
その証拠は崇神天皇陵から出土した銅板である。これはローマ軍団の盾である。
江上博士の騎馬民族征服王朝説の原点ってのは
実質的に、本居宣長の邪馬台国九州説をぶちまけたのが
遠い要因になっているんだよ。
それによって、日本の建国の創世記が完全に崩壊してしまった。
本居宣長の思惑が、日本の皇室が中国に朝貢した事実が許せなくて
九州の熊襲の女酋長が勝手に朝貢したことにしたかったんだけど
その結果、日本の皇室の創世記が完全に崩壊してしまった。
>>227 日本の前方後円墳は2世紀後半が最初。
韓国の前方後円墳は5世紀末〜6世紀前半だけで小規模。
どうみても、任那日本府の話に直結します。
232 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:31:13
これで小沢の脳内は江上の騎馬民族征服説で止まっている事がよくわかった。
政治家の頭はそんなものなのかな。
知性を感じないな。皇室に対しても、われわれ国民に対しても
失礼だよね。
この政権なんか恐いな、不安だわ。
233 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:39:46
ここにも来てね。
【特例会見問題】習副主席との会見、有識者ら小沢氏や首相官邸の対応を批判。当日は「賢所御神楽」の祭祀の日[12/17]
1 :どす狼こい喫茶-ジュテーム-φ ★:2009/12/17(木) 18:43:02 ID:??? ?PLT(12000)
天皇の特例会見問題で有識者らが小沢氏や首相官邸の対応を批判
2009.12.17 18:02
自民党の「天皇陛下の政治利用検証緊急特命委員会」(委員長・石破茂政調会長)は17日、
党本部で会合を開いた。
出席した有識者らは、天皇陛下と中国の習近平国家副主席との「特例会見」を働きかけた
民主党の小沢一郎幹事長や首相官邸サイドを批判した。
大原康男国学院大教授(皇室制度史)は特例会見があった15日は宮中で
「賢所御神楽(かしこどころみかぐら)の儀」の祭祀が行われたことを明らかにし、
「(お出ましになった)天皇陛下がお心を安らかに保たれなければならない日だった」と語った。
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1261042982
234 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:44:00
>>231 2世紀後半ってどの前方後円墳?
纒向石塚?あれは4C半ばだよ。
236 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:03:09
>>235 そぎゃんこつ言うて相手ば否定するんもおまんの願望やなかか?
日本語でよろしく
238 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:21:52
おはんは日本人でごわすか?
239 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:43:36
>>238 O・MA・E・HA・A・HO・KA・?
240 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:46:40
241 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:19:28
>>234 >纒向石塚?あれは4C半ばだよ。
纒向石塚を4世紀半ばとする根拠は?
概略でもいいですから、ぜひ推論の道筋をお示しください。
242 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:52:57
>>241 まず3Cや2Cとする理由が先だな。
畿内説は年代の根拠をはっきりいう人が居ないよね。
年輪年代があのざまで、誰もあれを援用できなくなってからはなおさらだが。
243 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 23:15:16
東遷説の人も、自分が東遷説だってはっきり言う人居ないよね。
東遷説の論拠が、畿内説の年代批判だけってのもさみしいよね。
ほかに何も根拠も示す材料が無いんだろうけど。
244 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 23:16:26
>>241 纒向石塚の盛り土の中から出土した庄内1式土器の実年代が問題だな。
>>242さんへ
すると同じ纏向にあるホケノ山古墳は何世紀なの?
こちらは発掘でいろいろ中身が見つかったんでしょ
246 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:29:53
>>245 ホケノも石塚もほぼ同時期だな。
どっちかを特に古くする理由もない。どっちも布留の頃。
ただ、ホケノから出た銅鏃は前期中ごろのものだから、偶然にもそのなかで最も
古い古墳であったという都合の良い想定をしても限界がある。
>>246 えーと、で、実年代って言うのかな、何世紀?
それを知りたいんでよろしく
248 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 01:36:37
>>247 まず自分の考えを言ったらどうかな?
畿内説のwwwww君はこの問題ではいつも逃げ回ってばかりだね。
249 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 02:48:52
>>248 はて?wwwww君とはひょっとして俺の事かな?
うーん逃げるも何も元々畿内説に立つにおいて年代論は持ち出していないんだがwwwwww
結局、年代論は九州説の連中が畿内説を否定するのに使わざるをえないという話で
(連中が理化学的年代測定に距離をおく、もしくは懐疑的な人間を挙げて
それが畿内説の人間だったりするのが話しのオチとw)
特に東遷説の人間にとっては神武東遷と欠史八代の在位期間の時間を空けておかなきゃならないから
まさに死活問題wwwwwwwww
しかし小沢が披露した騎馬民族説って東遷説と紙一重だよなwwwww
文化の急激な変容をもって王朝・支配層の交代劇を想定すると言う点において全く同じw
仁徳の墓から半島由来の馬具が大量に出てきたからってそれが何?って話で
(鏡が副葬されていたらそれで東遷の証とはしゃいでいる東遷厨らと同じレベル)
舶来品を副葬するなんてのは珍しくもない話で…
まあ小沢は頭の中の時計が止っている人間なのか
それとも今日省みられない説である事は十分知ったうえで発言しているのか・・・
判断に困る話だなwwwwwww
250 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 02:55:40
小沢の頭の中では、「天皇は朝鮮から来た」ってのが前提みたい。
騎馬民族説はその理由みたいなもので。
手塚漫画でも読んだんじゃないの?
韓国じゃ、卑弥呼も朝鮮人ということで確定らしい。
佐賀県もそういうことにして韓国から観光客を呼び込むのに必死。
251 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 03:03:43
この件で学会がまとまって意見を出すなんて事は無いだろう。
そんな政治的なものに手を出すとは思えないwww
それから宮内庁が古墳の発掘を許さないことについて
半島系の遺物がどっさり出て天皇家の出自について重要な事がばれるのを懸念して…
なんて話はいつも実しやかに言われるが
実際のところは利権…とまで言わなくとも自分らの縄張りを守ると言う本能だろうとwww
一旦古墳が学術研究の対象になればそれは管轄として文科省になるだろうしwww
権威があるからアンタッチャブルと言うより
アンタッチャブルだから権威があるというかwww
一度そこを崩してしまうと後はなし崩しになるだろうと言うのは想像に易いwww
まあ、少なくとも次の参議院選挙までは民主党政権が続くわけで、
せめて、その間だけでも「政主導」のナンたらの一環として、
宮内庁官僚の牙城に切り込んで欲しいですな?
今時騎馬民族征服説…
小沢の年代の人物はやはりあの程度の認識なんだろうな。
254 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:31:40
邪馬台国が滅びてから
狗奴国が勝ったんだろうか?
邪馬台国の後の国が勝ったんだろうか?
邪馬台国は滅ぶのではなく、他の王が代わりに立つだけでしょ。
普通にヤマトと解釈すれば良いだけだな。
魏志倭人伝と日本書記などを読み比べたら
要するに
3世紀以前の日本では、
祭祀を行う正当な倭王と、実際の政治を行う実質的な倭王の
二元体制が置かれていたということだろう?
で、どうも、
神武天皇〜崇神天皇の間、
日本書紀に書かれている、これらの天皇は、政治的な最高権力者であっても
祭祀を受け継ぐ正当な最高権威者では無かったということでしょう?
おそらく。
このへんが、古代の天皇の謎の真相だと思う。
で、モモソ媛命(卑弥呼)の死後
一人の人物が、祭祀も政治も両方を束ねるようになった。
それが、イニエ命(崇神天皇)
>>252 次の参院選でどんなに負けても民主党政権は続くだろ。次の衆議院選までは。
参院選で負けたら、鳩山政権は続かんかもしらんが。
なぜ、騎馬民族征服王朝説が出回ったかって
そりゃ、この学説がトンデモだったけど、
じゃ、まっとうな学者さんたちが、
それに対抗できる歴史推測が出せなかったから
出回ったわけだし。
その最大の原因は、邪馬台国論争に他ならない。
石野さんも言うけど、
この3世紀の邪馬台国問題の解決によってだ、
この3世紀にとどまらず、
その前後の数百年の歴史や考古学の解釈を
見直さなきゃなくなるわけで。
259 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 12:43:28
そうだよ。畿内説なんか唱える馬鹿共が勉強すれば済む事だ。
260 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 13:03:31
邪馬台国の中枢施設だった可能性のある大型建物跡(3世紀前半)が見つかった桜井市の纒向(まきむく)遺跡について、
「魏志倭人伝を読む 纒向遺跡を掘る」と題した講演会・シンポジウムが13日、奈良市の県立図書情報館で開かれた。7
50人が参加し、様々な仮説も出て熱気を帯びた議論となった。
上田正昭・京都大名誉教授(古代日本・東アジア史)が「邪馬台国と纒向遺跡」と題し基調講演。四つの建物が軸を東
西方向に合わせていた点に注目し、「日本の宗教感覚が反映され、南北軸の中国、朝鮮とは違うことが非常に重要だ」
と指摘した。
現在の春日大社(奈良市)は建物が南向きに並ぶが、正倉院に伝わる絵図では同大社が東西向きに描かれていると
し、「春日大社の建築のルーツが纒向までさかのぼる可能性がある。今回の発見で(邪馬台国)畿内説で決定とは言い
切れないが、大変有力な証拠となる」と語った。
同遺跡の発掘を担当する桜井市教委の橋本輝彦主査は、弥生〜古墳時代の遺跡を比較。他の遺跡では出土品の大
半を占める農耕具が同遺跡ではほぼ出土しておらず、水田や畑の跡も見つかっていないことを紹介。「非常に身分が高
かった人たちが集まっていたのでは、と考えている」と話した。
261 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 13:58:22
>>259 バカは九州説の方だけどね。
九州説は、九州の歴史だけしか見てなくて、
近畿の歴史は、九州の邪馬台国が東遷してからできたと思ってる。
3世紀以前の近畿の歴史といえば銅鐸しか無いと思ってる。
だから、古代の近畿の認識や知識が決定的に不足してる。
一方、畿内説は、全国の歴史を総合的に見てる。
古代の近畿の様子や九州との関係の知識が着々とつみあがっている。
いまさら九州説が畿内説に勝てるわけがないんだよ。
勉強してこなかったのは、九州説のほうなんだから。
>>260 上田先生って、昔に比べて
言うこと変えてきてないか?
263 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 15:54:18
>>259 九州を叩くのは、ウップン晴らしにちょうど良いんだよ。
けしかければ相手をしてくれるし、素人でもボコボコにできるからね。
264 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 15:56:58
>>262 昔から節操なく大量の著作を書いてきたという面はあるだろ。
アマゾンで検索したら200冊以上が出てきたぞ。
よく言えば、多数のシンポジウムに積極的に参加して、研究成果の公表を続けてきた、ってことだが。
主流派に属して、ポストを得て多くのシンポに出て著作多数というのは、良くあるパターン。
今回もその流れからは全く違和感がない。
>>263 それなら、河童でも相手してこいよwwww
266 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 17:38:58
>>260 こういうピント外れの講演や調査結果報告が行われて、それに狂喜する畿内説の馬鹿共の図だな。
267 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 17:50:32
<<四つの建物が軸を東 西方向に合わせていた点に注目し、「日本の宗教感覚が反映され、
南北軸の中国、朝鮮とは違うことが非常に重要だ」 と指摘した。>>
それはいいんだが、これらの建物が祭祀に関係したものと考えて、大型前方後円墳の築造に
関わる施設ではないかとまでは頭が廻らず検討もしない。だいたい、あの程度の建物が宮殿
なり王都の存在を示すものだと考えるなどとはな。あの四つの建物は祭祀関係および工事の
指揮所兼事務所、工事関係高級官僚の宿所だろう。もう一寸離れた場所に労働者や警備の兵
の宿所や資材置き場などがあった筈だ。
268 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 18:03:38
ただの事務所なら、きっちり方角を測量して立てたりしないだろう。
面倒だ。磁石が無ければ、1年間太陽の動きを調べないといかんし。
269 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 19:59:05
>>266 本当に「狂喜」という言葉がぴったりだな。
>他の遺跡では出土品の大半を占める農耕具が同遺跡ではほぼ出土しておらず、
>水田や畑の跡も見つかっていないことを紹介。「非常に身分が高かった人たちが
>集まっていたのでは、と考えている」と話した。
ここの部分なんか、特にひどいな。
普通に考えれば、出土品が少なく、田畑の跡さえもないということに過ぎない。
これまでに出土した住居跡は極めて少ない、という事実も正直に付け加えたならば、
人が集まっていたなんてことを軽々しく口にできないだろうに・・・
現時点では、川に挟まれたへき地にぽつんと点在している建物の存在が確認できたに過ぎない。
それが居住用であることさえも未確定である。
長年ろくなものが出ずに、口先だけで続けてきた膨大な発掘などと陰口を叩かれ続けてきたから、
相当なものがうっ積しているのだろうが、冷静になって欲しいものだね。
271 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 20:09:28
>>269 >現時点では、川に挟まれたへき地にぽつんと点在している建物の存在が確認できたに過ぎない。
皇居と同じだな。
建物群の東西の機軸性、シンメトリ性、水平に整地された敷地
芯柱・束柱(床張りの傍証、高楼の様な建物ではない)・宇豆柱(妻屋根の傍証)の存在
19.2m×12.4mという最大級の建造物
273 :
崇神大王:2009/12/18(金) 23:09:26
>>268 馬鹿だな。ただの事務所だと誰が言っとるか。これまでに無い大型の前方後円墳を作ろうというのだ。
画期的な事だ。記念碑的な事業だ。起工にあたって、また、工事の無事完成を祈って祭祀を行う、その
祭祀殿を伴った施設だ。力を入れるのは当たり前だろが。
それと、方角の話だが、例の建物跡はどれだけ正確に東西に向いているのだ?
建物の軸線を合わせるくらいわけもないことだ。おおげさに騒ぐな。
274 :
♪ラララ〜むじん君:2009/12/18(金) 23:10:59
>>269 >口先だけで続けてきた膨大な発掘などと陰口を叩かれ続けてきたから
ええと、その陰口を叩いてきたと言うのは主に何処の業界でしょうか?wwww
しかし、結局、むじん君こといつもの東遷厨が纏向遺跡をお気に召さない理由は
やっぱ九州系の遺物に乏しくもっぱら東遷説を否定する方向に使われるからなんだろうなあwwwww
まあ三輪周辺にはまだまだ遺跡の眠っている可能性もあるだろうから
東遷厨の想い願っているような遺跡が出てくるといいなwwwwwwww
275 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:20:44
>>274 おまえ鼻歌なんか唄って余裕ある素振りをしてられるのは今だけだぞ。今だけだ〜♪♬♩♪♫
>>273 >その祭祀殿を伴った施設だ。
この建物と箸墓とでは、造られた時期が一世代違うというのに、まだ言ってる。
>どれだけ正確に東西に向いているのだ?
なんにも読んでないんだな、相変わらず。
>>273 >>建物の軸線を合わせるくらいわけもないことだ
要はそれをやるかやらないかですよ
吉野ヶ里の建物は地形に合わせてバラバラに建っていたが、
巻向は整地してまで機軸線を通そうという洗練を好む文化の熟度だった
278 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:34:21
まあ
>>268も単純に勘違いしているんだと思うが…
単に東西南北知るだけなら一年もかからないw
棒を地面に立てて昼頃その影がもっとも短くなる(=太陽の南中)事で南北は分かる。
ちなみに一年の中でその南中時の影がもっとも短い=南中高度が最も高い のが夏至やね
279 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:40:21
九州説と 東遷説と両立しなくていいと思うのだが。
邪馬台国が九州にあったのと、のちの時代に東遷があったかもしれない事は別だと思うが。狗奴国が東遷してもいいんじゃない
狗奴国が東遷しても、巻向をつくる発想は持ち合わせて無かったと思うよ
そもそも狗奴国の遺跡ってどこ?
崖に洞穴の墓を造ってた土民じゃないか
281 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:49:30
例えば狗奴国としたらの話。
邪馬台国が滅びた後の国でもいいし、東遷がなかったとしてもいい。邪馬台国とその後の時代の東遷はイコールではないと思う。
ひっとしたら豊与の時代に邪馬台国は滅びてるかもしれない。
282 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:52:54
>>279 東遷説?
そもそも成立しようがない。
大和が九州方面から征服されたという説が、どういう心理や背景で登場するのか知らんが、
根拠は何もないんだよ。
283 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 23:57:33
<巻向は整地してまで機軸線を通そうという洗練を好む文化の熟度だった>
当たり前だろ。吉野ヶ里に比べれば時代はずっと下るからな。
284 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:34:56
>>920 >今では宅地になっていたり、後世に改修された水田となっていたりしてるだろう。
…あのだな、
それは3世紀までの居住跡や水田跡にも言える事だぞ?
つまり縄文人とかこのネタを持ち出す東遷厨とかは
恣意的に3世紀と4世紀で区切っているだけに過ぎず
4世紀に巨大土木工事によって居住・耕作可能な土地が増大した痕跡なんてものはないって話しだ。
分かってるのか?ニホンゴツウジマスカ?wwwwwwww
285 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:38:05
287 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:54:11
2世紀末から3世紀だろうな。
東遷説なんて本当に矛盾だらけだもんね。
まずその理由がないし。
大陸に近くて鉄も豊富、稲作も早くから
行われていて気候も温暖なら、
わざわざ東へ進む必要性が全く無い。
吉野ヶ里は紀元前1〜3c
こんな小国群が邪馬台国に統合されて当時の倭国を作っていた、なんて思ってる人いるの?
九州には、吉野ヶ里以降の目立った遺跡は無いよね
巻向に2〜3cのあんな整然とした遺構が出てきたら、九州説は終わりじゃん
290 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 01:42:35
>>274 森浩一さんの場合は、自分の著書で堂々と叩いていたな。
過大な期待の中で行われる異常な発掘で、少しでも何か出ると過大な評価が
安易になされる。
むじん君とはよく言ったものだな。
実際にも確実に人が居住していた痕跡はいまだに皆無に近い。
最近出た大型建物も居住用ではなさそうだしな。
この状況でマキムクを都市などと吹聴してきたクズも居たもんだ。
291 :
♪むじん君の怨み節はまだまだ続くw:2009/12/19(土) 02:06:42
>>290 森浩一ねえ、
確かにあの人は
「もっと地方に目を向けるべき」
とか大和中心になりがちな考古学の世界に対し批判的な芸風ってのは理解できるが
そう言った全般的なお話じゃなく
「纏向は口先だけで続けてきた膨大な発掘」
…と言う趣旨の事を本当に言っているのかい?
ソースを出してもらいたいねwwwww
某作家との対話で
(多少リップサービスが入ったのかもしれんがw)
箸墓を九州から運ばれた卑弥呼の遺骸を納めた墓か
壱与の墓とか言っている人物だぞ?wwwwwwwww
イヨタン・・・・・・・・・・
293 :
♪むじん君の怨み節はまだまだ続くw:2009/12/19(土) 02:22:30
>>290 そもそもお前の言う
『居住用』の基準は何なんだ?
今まで言っている事を総合すると
単に高床式は居住用ではないと言っているに等しいと思うが?wwww
そりゃ高床式建築物の中に煮炊き用の炉を作っていたなんて事は無いんだろうが…
それで言えば高床式の建造物は住居用ではないとなるわなw
全て倉庫とか言うつもりか?w
大昔はそう考えられていた時代も合ったらしいがwwww
ちなみに竪穴式住居の中心部に据えられている炉も
果たして煮炊き用に使われていたものかどうかも疑問の声が上がっている事も付け加えておく。
まあ確かに頭の中に中央の炉で串刺しにした魚なんかを炙っている絵が刷り込まれているんだけどねwww
森浩一はくだけた著書や作家先生との対談だけでなく、論文できちんと邪馬台国を書くべきだったな。それを
しなかったから、九州説寄りは単なる進歩的、反体制的ポーズでしかなかったと見られてもしかたがない。昔
は気骨の人とも言われたが、今にして見れば単なる鵺的存在に終わった。
貴人の住居を魚臭くするつもりか?むろん飲食は他で作って給されてたんだよ。倭人伝の記述どおりじゃないか。
296 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 07:20:36
無人くんってwwww
宗教施設だけで生活臭がない都市なら
それはそれでどえらいもんだと思うけど
まぁ周り掘ったら出てくるんだろうけど
邪馬薹国の「薹」の字なのですけれど、この字は(だい)と読むのではなく「室」(むろ)の旧字です。
宮山古墳 ( 室の大墓 ) 御所市室の宮山古墳は、仲哀天皇の墓と伝えられていますが、もともと邪馬室国卑弥呼の墓だと考えるべきです。
そして葛城氏の支配していた三輪山を奪って打立てたのが大和朝廷ではないでしょうか。
298 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:00:12
言葉遊びいらね
>>289 邪馬台国って中国の史書にしか登場しないわけで、
それを無視して発掘できめるのもおかしな話じゃない?
300 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:35:32
じゃあ中国掘ってろよ
纏向遺跡の研究の第一人者の石野教授も
「邪馬台国が東遷したような大規模な移動の痕跡はないし
そもそも、なぜ、九州から近畿へ遷都しなきゃいけないのか?」
とも言われている。
5世紀末の倭王武(雄略天皇)の上奏文にも、
九州から近畿へ都を移転したなんて思わせる内容にはなっていない。
どうみても、近畿を中心に西に東に勢力を拡大したような内容になっている。
じゃ、神武東征がなかったのか?というと、そうとは断定できない。
あれは何かしら、におわせている。
で、よくみたら、神武天皇が畿内についたときに
すでに、神武の親戚たちが、畿内に住んでいたことが分かっている。
そして、現在の奈良県御所市高天、古来、葛城といわれたこの地には
高天原伝承の地とされている場所がある。
>>297さんの説は興味深いですね。
吉冠に室、これは石室に土盛ってそのうえで司祭を行った古墳の成り立ちそっくりではありませんか。
この吉の字のほうも、士冠ではなく土冠だった可能性があります。
>>301こと古代史に限っては、大学者ほどあてにならないものです。
むしろ巷の研究者に意見のほうに見るべきものがある。
304 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:30:45
東遷は 関係ない。
邪馬台国は九州にあったし。
大和政権は畿内にあった。
邪馬台国は日本の中央集権政権ではない。邪馬台国を過大評価しすぎ。地方政権にすぎない
305 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 18:54:06
畿内勢力が、わざわざ吉備や九州勢力の支配地域を通過してまで魏に近いを送る必要があったのか?
それを考えれば、邪馬台国が畿内にあったという説には疑問を持たざるをえない。
邪馬台国は九州にあり、畿内勢力とか直接の繋がりはなかったとするのが妥当。
306 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 19:13:41
>>305 じゃ、そのあと、大和王権が吉備や九州を支配できたのはどうして?
「東遷したから」では、バカにされるだけだよ。
その後も九州は支配してないだろ
実質的に支配下においたのは白村江以降だ
308 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/19(土) 19:18:33
7世紀初頭の隋書俀國(大倭國)でさえ九州地域政権であった。
それより400年も古い邪馬台国は当然ながら九州内政権である。
邪馬台国は北部九州筑紫平野の半分を占める小国家にしか過ぎない。
しかしその人口(7万戸)は多く、その人口密度は現代筑紫平野農業地域の半分はあった。
309 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:52:37
食っていけるのか?
311 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:28:50
ひみここ
九州北部の沿岸に大きく海が入り込んでいたのと同じ様に、
佐賀平野と熊本平野の大半は海だった
平野が出現したあとも人口が少なく、肥の国は最初生産力が低かった
奈良時代の初期に開墾の手が入り、人口と水田が増えたので肥前・肥後に分割管理されるようになった
313 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:40:38
白村江以降に大和が中心になったのはどうしてかな?
314 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:05:01
奈良にはほかに弥生の遺跡はかなりあるのに
なぜ古墳時代初頭?の巻向以外を認めないのだろうか。
巻向を主に発掘している関係者が
利益誘導しているのだろうか
315 :
卑狗模古二世:2009/12/19(土) 23:27:08
>>312 現在の平野部のかなりの部分が当時はまだ海面下であったのは列島全体について言えることだ。佐賀平野や熊本
平野だけについて言えることではないぞ。
<平野が出現したあとも人口が少なく、肥の国は最初生産力が低かった
奈良時代の初期に開墾の手が入り、人口と水田が増えたので肥前・肥後に分割管理されるようになった >
証拠があるのか?あるなら出してみな。
316 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:29:03
317 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:31:10
認めない?とか意味不明だし
>>315 自分がいつもやられることをやっとるわい。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
319 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/19(土) 23:41:02
纒向遺跡の時代が確定すれば、書紀の数字が確定する。
その為にもまず纒向遺跡に勢力を集中する。
これで現箸墓は景行陵で決定、神武はその後で充分だ。
>>314 >なぜ古墳時代初頭?の巻向以外を認めないのだろうか。
言ってることの意味がよくわからない。なにを認めない、というのかな?
>>315 >証拠があるのか?あるなら出してみな。
おまえが言うと、お笑いだな。
322 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:57:05
>>318 <自分がいつもやられることをやっとるわい。>
これじゃ またやられている の意味になる。論理的な文章に直すと
<<自分がいつもやられている(相手の)手法を使ってやっとるわい>>だろうな。
323 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:03:14
>>321 可笑しければ笑えばよい。おまえらにとっては世間は厳しく、女房には軽蔑され、子供には
背かれて辛く悲しい年の瀬だろう。笑いが救いになればいいではないか。
>>323 おや、いつもと違って殊勝ですな。
レス、どうも。
>>315 コツコツとやってるんだが、とてもレスで示せる内容ではないね
国造や県主の設置とか、令制国の設置の仕方などを追って行くと、
古代行政というものが水田管理に即したものである事が良く解るよ
水田の無い所に人は住まないし、有力者も発生しない、朝廷も行政単位を定めて統治しようとしない
つくづく水田ありきが日本の歴史だよ
326 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:47:24
>>290 で、森浩一が纏向に対し
「口先だけで続けてきた膨大な発掘」
と言う旨を何処で言っていたのか教えてもらえないのかな?
まあ彼の学者が九州説をとろうが畿内説をとろうが構わないし
自分にとって汲むべきところがあれば参考にすればいいだけだが…
本当にそんな事を言っていたのなら学者としての資質を疑うなw
そもそも何を以って「膨大な発掘」と言うのかワケワカランちゅう話しだなwwwww
回数?期間?予算?
邪馬台国論争に関わらず纏向の重要性は誰しもが認識しているはずで
森にしても当然学者として発掘が進む事を期待すると思うのだが…
彼の学会への批判とかマスコミに対する批判とかを脳内変換して
自分の 怨み節 に重ねていないだろうな?wwwwwww
327 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 01:52:49
だから、何にも無いところにポツンとしっかりした建物があるとしたら、
それは「皇居」しかないだろうと。
328 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 01:54:40
倭王武 の時代に 畿内が勝ち上がっただけなんじゃないかな。
その時には九州にあった邪馬台国はとっくに 滅びてたかもしれない。
329 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 04:35:21
>>326 それより畿内説の年代論の根拠をミラーマンの見地から説明してよ。
330 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 06:31:14
あのどこから見てもインチキ臭い、「漢委奴国王」のピカピカな金印を再鑑定して、
製造年代がむちゃくちゃ新しい事が分かれば、かなり古代史の研究が正常化するのではないか?
と思ったりする。
331 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 10:03:51
327: 2009/12/20 01:52:49
だから、何にも無いところにポツンとしっかりした建物があるとしたら、
それは「皇居」しかないだろうと。
そんな事言ったら、今から2000年後の発掘で
ラブホ跡は皇居と判断されるのか?
漢委奴国王金印を否定するって、亀井南冥が1784年に
漢の一寸の長さや印の形を知っていて偽造したとでも言うのか?
漢の時代に倭国の一小国(倭国統一などしていない)が金印を貰った事実
それが福岡から発見されたという事実
これを否定したら日本史における2〜3世紀の文献、考古学資料なんて全部信頼できんだろ
333 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 12:31:36
再鑑定を希望する。
周辺に関連する遺跡も無いのに、その辺のオッサンが気軽に見つけ、
科学的検証の結果本物認定されたのならともかく、もう一度鑑定すべき。
畿内説の奴も志賀島の金印ぐらいは認めようぜ
それも贋作だの偽造だの言い出したら、討論にならんよ
>>333 金印の調査結果は2000年時点で以下のとおり。
1 印面が正確に後漢の一寸にあたる。
2 同一規格で陰刻篆体の薬研彫り字体をもつ「廣陵王璽」の金印が、
一年違いの永平元年(58年)八月に下賜されたものである。
3 同じ蛇鈕で同規格の「テン王之印」の金印が 雲南省 から見つかった。
4 純度95.1パーセントで、 テン王之印や中国大陸の砂金の純度と一致する。
なにが疑問なのかな?
336 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 14:21:51
金印は、まず本物に間違いないでしょう。
ただ、畑の中で見つかったという経緯が怪しい。
志賀島に邪馬台国があったわけではないので、
倭寇が略奪して埋めておいたのだろうか?
だとしたら、略奪地は日本ではなく、半島か紅海沿岸だったと考えられる。
○黄海
×紅海
ソマリアの海賊になってしまった。
338 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 14:38:46
>>335 純度が高い金は、脆くて、形が変形しやすい。
傷が、もっと多くてもよいはず。
これはもう、畑で見つけたのではなく、自分の家の蔵で見つけた略奪品だってことだろうな。
>>338 ほう、では、純度95.1パーセントは間違いだったんだねえ。
ところで、
>傷が、もっと多くてもよいはず。
は、ただの想像じゃないよな?
341 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 15:34:32
>>329 結局、具体的な話は出せないんだなw
森の学会やマスコミに対する批判姿勢を
さも自分の 怨み節 と同じように脳内変換しただけとwwww
森先生も学者としての最低限の矜持を持った人物と言う事で
ある意味安心して良いんだろうなwwwwwwww
年代観?
正直あまり興味ないな…
年代観にこだわっていないと何回説明すりゃ良いんだ?
(鼻水垂らして泣きじゃくるガキが必死に袖をつかんで話してくれない…って気分だなw)
まあ九州説と言うか(神武や欠史八代のタイムスケジュールがシビアなw)東遷厨が
庄内も4世紀なんて事を証明できたら俺も色々考え直すかもしれんがwwwwwww
342 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 15:54:19
纒向遺跡大田北地域の大型建物の発見について 佐賀女子短期大学 高島忠平
ttp://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1470415.article.html >卑弥呼の宮殿かとするには、時期が違う。
>纒向遺跡の最近の発掘で種々の問題がでてきており、
>今回発見の遺構(庄内式土器期)は4世紀以降のものとするのが無難である。
>これまで、庄内・布留式土器の年代決定の手がかりがなかったが、
>「鐙」の出土は、そのための有力な資料となる。したがって、
>布留1式土器を従来どおり、4〜5世紀とするのが合理的である。
>当然、庄内式土器の年代も4世紀以降ということになる。
>次に、最古級とされる「ホケノ山古墳」の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土している。
>この種の土器は、布留0式からあっても良いとの私見はあるが、
>この点から「ホケノ山古墳」の築造を庄内式土器期にはできない。
>ホケノ山古墳は4世紀後半のものである。
343 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 15:55:40
前原の細石神社には「漢委奴国王」印は細石神社に伝わる宝物だったとの伝承があるそうです。
江戸時代に細石神社から盗まれるか売り払われたものらしい。
344 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 15:57:22
>>342 高島忠平は、庄内式土器期は4世紀以降としてますね。
はためで見ても、そんなに佐賀の利権が欲しいのか?としか思えない。
毎日寒い日が続きますが、
古代人は寒くなかったのでしょうか?
346 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:49:32
布留1式が5世紀w
347 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:22:40
小沢にも 金印だしたれよ。
親中華日本フィクサー
今までアメリカの封柵を受けていたけれど、アメリカの力が衰えたら今度は中国にすり寄り。
まったく、日本という国は風見鶏の国なんだよな。
日本が他国の植民地支配を受けたことがない唯一の国だった理由がよくわかります。
349 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:28:04
>>340 純度が高ければ、柔らかく歪みやすいのが金の特徴。
硬くするために、敢えて別のもんを混ぜて純度を低くするぐらいだ。
実際、テン王の印はボロボロである。
一方、奴国の印は、その辺のオッサンが見つけたにも関わらず、新品のようだ。
大抵の人間は、一度ぐらいは、偽物の可能性を考えたはずである。
350 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:42:11
例の金印は
>>335で大体出てるが
出土当時には知りえないはずの形であって
真贋の論争は決着済みと言わざるをえないだろうw
まあ「あまりに表面がきれい過ぎる」と言うのなら
その出土状況や、世に出てくるまでどういう状態で
何処にあったのか?と言う事が問題になるだろうなwwwwwww
だから盗品だと。
>>349 >偽物の可能性を考えたはずである。
で、検証の結果が>335なわけだが。
353 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:24:27
細石神社の宝物だったとしたら、検証の結果本物なのに
「あまりに表面がきれい過ぎる」理由の説明もつくな。
「漢委奴国王」印は地下に埋められたことはなく
倭奴国の滅亡後、細石神社に代々伝えられていたと。
354 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:39:16
よくわからんけど、1700年ほども経過して、綺麗なままと言うのはちょっと信じられんな。
しかも、それ田圃か土の中から発見されたんじゃなかったのかな。
ただ、偽物を作る技術はあんまり馬鹿にしない方がいいよ。
いつの時代もね。
355 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:52:58
だったら、偽者ってことでいいんじゃないの?
後漢書には、光武帝が「漢委奴国王」金印を授けたって書いてあるわけだし。
なんの影響も無い。
356 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:49:34
文献では、「漢倭奴国王」になっていたはず。
正確な年代の測定はできないものか。
関連の遺跡でも見つかれば別だがな。
357 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:57:07
>>354 農家の親父が、田んぼ脇の水路に転がっているのを発見したのだそうだ。
偶然にな。
はああ、金印が使われてた当時は傷つけないように大切に扱われ、時には磨かれていただろう。それが、埋葬
施設かどうかわからないが、土に埋まって誰も知らないまま千数百年たった。これならほとんど傷はないはず。
物は人から人の手に渡って動かすから傷がつく。書類だって、あちこち持ち運べば しわがよってお茶のシミも
つくかもしれない。一方机の中にしまった書類はきれいなまま。紙は黄ばむけどね。
359 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 21:22:55
金印自体は本物でまず間違いない。
どこぞの誰かが偽物作りに金や時間を注ぎ込んでいくら精巧なものを造ったとしても
「未来予知」の超能力者でもないかぎり無理wwwwwww
問題はその金印が元々、志賀島にあったかどうかで
あんな物誰でも懐にしまえばいくらでも持ち運びできる。
「親魏倭王」の金印が出てもそれが決定的な証拠にならないだろうと言われる由縁だなwwwww
ヤマトのどこぞの古墳から出ても九州説論者からは
「ヤマトが九州の邪馬台国を滅ぼした時の戦利品」
と言う声が上がるかもしれんし逆の場合も然りwwwwwwww
361 :
メ(寝る前):2009/12/20(日) 22:01:07
プッ 今度は本物と言い出したかw
362 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:01:57
>>360 ん?
陰影だけの問題じゃないぞ?
細かい事を言えば紐部分に施したタガネによる文様も「広陵王璽亀紐金印」と同じで
同一工房での製作の可能性をも言われているわけだが…
後世確認される事をどうやって知りえたんだ?って話だよwwwwwww
363 :
メ(寝る前):2009/12/20(日) 22:02:23
>集古印譜ってのがあってだな・・
それから?ほら続きはどーした?w
出土方があれじゃ説得力も信憑性も無さすぎなんだよ。
仮にあれが淡路島の田んぼとかから出ても、
やっぱり証拠には?でしょ。
365 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:06:02
九州説は、形勢不利と見るや、意味不明の論戦を挑んできた。
366 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:10:45
そもそも「委奴国」という金印を授けたかどうかは分からない。
勝手に人偏を減じて彫っているが、本来は「倭奴国」である。(委奴国という記載はない。)
今中国人が、「古代中国では、日本の事を『倭奴』或いは『委奴』と読んでいた。
証拠はある。『漢委奴国王』印だ!(ドーーン!)」とやっているが、恐ろしい事だ。
事実誤認もさる事ながら、甚兵衛さんが水路で見つけた怪しげな金印が、
おかしな事になって来ている。
Wikipediaでは、なんだかなあ〜、という感じだ。
金印発見時の状況は口上書の記録があり、その検討もされている。
それを読まないで言ってるんじゃないだろうな?
それから傷については、奴国王金印もテン王之印もネットで写真を見ることができる。
それも見ないでモノ言ってるんじゃないだろうな?
369 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:28:12
WWWは金印は本物だと認識している。この点はさすがだと思う。但し、
<問題はその金印が元々、志賀島にあったかどうかで
あんな物誰でも懐にしまえばいくらでも持ち運びできる。>
てのは頂けないな。金印が元々、志賀島なんかに在る訳がなかろう。誰かによって持って来られて
隠されたか、落とされたかだろう。だが、王印だから誰でも簡単に扱えるものではないだろう。王
自身か側近の者が持ち運んだ可能性が高い。何故か?乱が起きたとしか考えられんだろ。
370 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:29:27
>>367 テン王の印は見た。
蛇の形が違い過ぎるし、委奴国王の印は、テン王のに比べて、
保存状態が極端に良すぎると感じだ。
>>368 それがって、なにが? 読んだの? 見たの? 詳しく言ってみて。
372 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:34:33
>>370 それくらいの違いが何だというのだ。蛇の形が違ってもよいだろ。違う相手にわたすのだ。保存状態
も同じでなければならない理由などないだろ。
373 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:42:37
保存状態が良すぎってのは まあ疑わしいかな。
否定はしてないけど
374 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:44:23
金は変質しないんだよ。
375 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:50:19
そうだ。金は化学的に安定な金属で簡単には変質しない。また比較的柔らかく変形しやすいが、ひとの
手がふれたくらいではかすり傷もつかない。丈夫な歯を持った者が噛んだら傷はつくだろうがな。
纏向掘立柱建物騒動の影響かしらんが
最近やたら増えたな、それは良いことだが
新入りのくせに2ちゃんねるの『先輩』を立てようって
カワイイ後輩も居ても良いんだが、居ないのが残念・・・
378 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:55:04
先輩らしい風格と見識を見せないと新人にも舐められるだろう。
379 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:09:53
最近Wikipediaの英語版や中国語版の倭や倭人関連その他のページに、
委奴国王印のでかい写真が載りまくっているが、あれは何なのか?と思う。
中国人でさえ、本来は「委奴」が正しかったと思い始めているようだ。
万一インチキだったら、どうしようかと思う。
380 :
先輩風:2009/12/20(日) 23:15:33
>>378 関係ない話はやめて貰おう、
タイトル及びサブタイトルをよく読んで下さい
381 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:23:07
金印は本物だけれど、出所不明で誰が保管していたのかも不明。
歴史的価値はほとんどないな。
>>381 そういうことだろうね。王墓とみられものやそれなりの規模の集落遺跡から
出土してたのなら評価は高かっただろうね。
あんな変なところから出てるから、いまだに真贋論争になったり
奴国の位置もはっきりしない原因になっている。
383 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:37:22
学会では 金印は一応 本物になってるの?
おまえら志賀海神社も知らないのか?
志賀島ってぜんぜん変なところじゃないぞ
>>384 神社があるだけで立派な場所になるなら苦労しないよ。
386 :
メ:2009/12/20(日) 23:55:34
>>384 >おまえら志賀海神社も知らないのか?
まなり古い神社と伺っています。
いつか金印公園へは行ってきましたが、志賀海神社は寄っていません。
>神社があるだけで立派な場所になるなら苦労しないよ。
おい、おい・・・w
387 :
メ:2009/12/20(日) 23:56:36
「訂正」
まなり古い神社と伺っています。 ・・・×
かなり古い神社と伺っています。 ・・・○
>>371 百姓の甚平さんのこと?田んぼの横の溝の事か?
で、結局誰が何処で発見されたのかも
はっきりしてないんじゃないのか。
最低神社の境内とかならまだわかるけどね‥
389 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 00:45:01
まあ志賀島の金印が出たんでついでに言っておくと
その紐が蛇であるのは中国側が日本を相当南の地域と認識していた証拠
…なんて話しもあるなwwwwww
確か中国で出土した蛇紐のものは雲南省だったか・・・
>>357 田圃の水路って、けっこう拾えるよ
山之辺の道あたりの田圃へは何度か狩りに行ったことがある
須恵器や埴輪片を拾って来た
391 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 13:59:30
392 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 14:11:12
邪馬台国クラスの 国は何処にでも散在してたから。何処にあってもおかしくないけど。魏から行けやすいのは北九州だね。
だいたい魏使節が、貴重な贈り物をもって他国へ行くのを、普通通すかよ。被征服国なら別だけど!
393 :
ローガン:2009/12/21(月) 16:12:52
>>342 >これまで、庄内・布留式土器の年代決定の手がかりがなかったが、「鐙」の出土は、そのための有力な資料となる。
前漢中期の雲南省李家山59号墓から鐙の表現のある騎馬人物像の書かれた遺物が出ているそうですが、高島先生は無視するのかなあ?
三国志にも下馬の際鞍を支える記述があるんだが…
>次に、最古級とされる「ホケノ山古墳」の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土している。
床面からって…ホケノ山の土器は木槨蓋上の物が落ち込んだと、解釈されてるでしょう?二重口縁壺も、小型丸底壺も。
小型丸底壺は前方部木棺墓の埋葬儀礼の際、墳丘に置かれたものでしょう。
394 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:04:31
>>392 ないよ。
いや、生活用品なら見つかるだろうが。
住居跡の釜戸周辺に土器が散らばっていたり、道端に捨てた形跡がある場合もあるだろう。
でま、金印は滅多にない。
甚兵衛の証言も、どこまで信じてよいやら。
年代が測定できればよいのだが・・・
395 :
394:2009/12/21(月) 22:12:13
396 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:14:51
>>392 >だいたい魏使節が、貴重な贈り物をもって他国へ行くのを、普通通すかよ。
つうか邪魔をした日にはどんな目にあうかだなw
妨害するのなら使節が行き交う前、交渉中か交渉に入る前に潰さないとwwww
397 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:25:39
もし、金印が志賀島ではなく、筑紫で発見されていれば・・・
398 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:55:42
399 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:57:29
金印は本物だか出所が不明。
志賀島を調べても金印が出土した遺跡の形跡は見つからなかった。
金印が博多の近くにあったものであるのは間違いないが、
出土したのか何処かに保管されていたのか分からない。
400 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:24:37
>>393 日本で乗馬の風習が確認できるのは、5C以降で古墳に馬具が副葬されるのも
この頃以降だから、考古学的見地からは高島さんのいうとおりとしか言いようがない。
ホケノ山から出土した銅鏃も基本的に4C末から5C以降の古墳でしか出土しない。
ホケノ山のC14のうち、確実性の高い植物そのもの(桃核)は4C半ばでこれとても
古く出ている可能性が高い。どの遺跡でも古く出る土器付着物しか引用しないクズも
いるようであるが。
つまり、ホケノ山は冷静に見れば4C後半〜末葉であるということ。
畿内説もいい加減に学者としてのプライドのある言動をしてほしいね。
>>400 あほじゃね。
魏の使者が来てるんだが。
402 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 01:11:47
403 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 02:18:14
ホケノの出土物の年代については以前に
継続的な祭祀の可能性を書いた記憶があるが
ホケノの直ぐヨコの堂ノ後が5世紀後半となるとその可能世も強まったかな?www
404 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 02:48:27
>>393 >ホケノ山の土器は木槨蓋上の物が落ち込んだと、解釈されてるでしょう?
でも、どうなんだろう?
ホケノの埋葬部の復元図なんかだと槨の上の積まれた石も相当量あって
まあ「グシャ」っと崩落したのは間違いないとは思うが
果たして床面まで届くものやら・・・素朴な疑問wwwwwwwww
405 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 14:36:39
ユンボで思いっ切りやったからね
406 :
ローガン:2009/12/22(火) 15:30:10
>>400 >>342氏のリンクにある高島先生のコメントの意味は、「鐙は4世紀初を遡らない」でしょ?
これは湖南省長沙金盆嶺の騎馬像の事ですね。これ、302年だけど生前の被葬者を写したものだとすれば、遅くとも3c第四四半世紀には鐙が常用されていたと考えられるでしょ?
当然、「出現」はそれ以前ですよね。
>高島さんのいうとおりとしか言いようがない。
なんで?高島先生は、「中国で鐙が出現するのは、4世紀はじめの西晋墓…」って言ってるんですよ。おかしいと思わないかなあ?
邪馬台国は吉備
どうだ俺あたらしいだろ。
もういがみあうな日本人どうしで。
距離は間違えることあっても方角を間違えることはないんじゃないの?
仮に邪馬台国へ向かう途中に方角を間違えたとしても天体を見ることで軌道修正できる
九州を飛び越えて南の海に行くほどの距離だとしたら、それは軌道修正込みの距離だと思う
>天体を見ることで軌道修正できる
…レベルの人間が来ていたか疑問
命を懸けて海を渡ってくる奴って決してエリートじゃないわな
DQN役人、下手したら罪人の類いだったかも知れない
小野妹子は海を渡って唐へ行きましたよ?
411 :
卑狗模古二世:2009/12/22(火) 18:23:30
今年も残り僅かとなりました。畿内説の皆様には倭人伝の歪曲解釈、巻向遺跡の年代改造、金印疑惑
の創造など詭弁の製造に懸命の努力を続けられましたこと誠にご苦労様でした。
412 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 18:30:31
>>400 >ホケノ山のC14のうち、確実性の高い植物そのもの(桃核)は4C半ばで
あ〜、そっちの都合が悪くなければ教えて欲しいのだが…wwwwwwww
『 確実性 』とはどう言う意味だ?
採取・伐採からその場所に置かれるまでの時間が短い=タイムラグが少ない
…と言うのなら桃はうってつけだろうが
そもそも桃の種なんかいつ誰がそこに捨てたか分からないだろう?
それとも築造完了時に捨てられたとか分かるすべでもあるのか?
その点から言えば木棺からの測定値の方が確実性が高いと言う事になると思うのだが…
まあ、そうすれば例のアメリカの研究機関の出した数字が出てくるわけだがwwww
とりあえず
桃核による「確実性」とは何か?
説明してもらえないかな・・・
参考)毎度おなじみの「邪馬台国の会」w ここらへんかな?
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
413 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 18:39:51
♪ 何処の誰とは言わないけれど
♪ 本当はみんな知っている〜
♪ 縄文人のおっさんはリアルで病気の変な人
♪ ハンドル変えて現れて
♪ ケチレス書いて去っていく〜
♪ 縄文人は変な人
♪ 縄文人はキチ○イだwwwwwwwwwww
414 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 21:10:30
415 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 21:29:29
推定、10万43才
>>330-399 おまえら筥崎八幡宮って知ってるか?
その海から続く参道の中心線を逆にずっと海を渡って辿るとどこにぶつかるか知ってるか?
これは金印を語る場合のごく初歩的な基礎知識な。 バカども理解しろ。
ちなみに俺は大阪人で筥崎へは行ったことはない。
417 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 22:59:22
九州王朝は8000年前の鬼界カルデラの噴火で絶滅し、
そのあと900年間はペンペン草も生えない不毛地帯だった。
そういう下地が弥生人をはびこらせる要因になったのだとわかる。
418 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 22:59:48
このスレは邪馬台国九州説が 多いのね。
世間はどうなんやろ?
419 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 23:12:12
馬鹿の数を数えたって仕方がない。
このスレに九州説信者が固まっているわけではありません。
公開の掲示板というものは、世間の常識とかけ離れたスレにはなりえないのです。
421 :
卑狗模古二世:2009/12/22(火) 23:40:48
筥崎八幡宮は元寇のときに社殿が消失した。人々はご神体を抱えて山奥に避難した。その時の惨状を私の知人は先祖からの
言い伝えで知っていると言う。また、私の知人の住むうきは市の寺には手のひらに穴をあけて縄で数珠つなぎにされた人々
の図がある。博多湾岸は大陸、半島との交流が深かったが、血塗られた歴史もある。
>>421 八幡宮についてレスするなら、神功皇后についての見解はさけて通れまい。
423 :
卑狗模古二世:2009/12/22(火) 23:51:11
>>422 別に八幡宮一般についてレスしたのではないがね。筥崎八幡宮の創建についてはいくつかの説があるが、
どうやら10世紀辺りの創建のようだ。神功皇后は4世紀末頃の事件人物の投影だから直接の関係はないね。
>>423 あほうか?八幡三神といえば応神天皇、神功皇后、比売大神だ。祭神だぞ。ここをきちんと語らずしてそれ
以前に遡ることはできないのだ。これを解明したら尊敬されるぞ。
425 :
416:2009/12/23(水) 00:05:24
>>421-424 こいつら底抜けのバカやね。
俺が言っているのは、筥崎宮の参道の中心線のまさに延長線上に金印の出土地がある(すなはち 筥崎宮は神宝である金印の方角を向いて建てられている)ことを理解しているのか? ということを言っているので、下らん蘊蓄なんぞどうでも良い。
426 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 00:05:40
>>424 アホはおまえだろ。神社縁起など後世の人間が自分の都合で作ったものだ。
>>426 なんというあほうだ。神社の歴史は自社宣伝の歴史。そうではなく、神功皇后の実在・非実在。神格化の
理由を語れといっておるのだ。できないのか?
428 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 00:13:40
>>425 おまえは筥崎宮の参道がいつできたと思っとるんだ?
429 :
416:2009/12/23(水) 00:20:58
>>428 単純明快 金印を埋めたときに、その目印のために筥崎宮は建てられた。
430 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 00:20:59
>>427 <神功皇后の実在・非実在。神格化の
理由を語れといっておるのだ。できないのか?>
別に面白くもないからの。おまえが勝手に自説でも開陳しろ。誰かが聞いてくれるだろ。
431 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 00:26:22
>>429 おまえは何も知らずに妄想してるな。明治の頃まで今の参道の大部分は海だったんだぞ。
432 :
416:2009/12/23(水) 00:34:16
>>431 もう一度言うが、筥崎宮の真正面が金印の出土地であることは君のホゲホゲ頭でも理解できるね。 それが理解できないのなら、何故あんな変な方角を向いているのか説明してみろ。。
>>431 このようなレスがつけば、wwwや縦目なら困りながらも何か答えるぞ。ここらにお前が尊敬されない理由があるのだ。
434 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 01:02:34
おまえら何も知らずに勝手なことを言うな。
筥崎宮楼門には敵国降伏の文字がある。伏敵門だ。海からの外敵を見据えて社殿も建てられたのだ。
志賀島と方角が一致したのは単なる偶然だ。おまえらのようなアホにはもう付合えんわい。ほなな。
435 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:08:38
>>434 お前もメと同じで、歴板にいなくてもいいよ。
436 :
416:2009/12/23(水) 01:28:21
卑狗模古二世というのは逃げ出したようなので、 ここでちょっとまとめます。
私の印象では この筥崎宮というのは上面だけは時の権力にへつらいながらも(八幡宮として神功や応神を祀る)、本音の深いところで自分たちの本当に大事なものを守ろうとしているように思えます。 金印と筥崎宮の関係についてはもっと議論されて良いと思います。
おやすみなさい
437 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:45:21
卑狗模古二世は、壊れたレコード
438 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:50:41
堂ノ後古墳が5世紀後半の築造が判明したことで周辺の古墳も邪馬台国よりずっと後年のものである
可能性がとても高くなった。そのため、マキムクは一挙にブームが沈静化したのである。
439 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:55:49
『 箸墓周濠出土の鐙 』についていじっておくwwwww
先ずこれをストレートに5世紀、日本の各地に馬匹文化が導入され
馬具等の出土も見られるようになる時期のものとしちゃった場合
現在4世紀と目されている柳本古墳群、大和(おおやまと)古墳群、佐紀古墳群…等々で馬具の出土も見られないものは
「馬匹文化の一大空白地帯」 を作ってしまうわけだwwwwwwwww
まともな学者なら流石に5世紀と言うのは言わないだろうw
(だから高島センセイも歯切れの悪い言い方しかできないとw)
だから、どうしてもレアケースとして、それより前の時代を考えざるを得ないと思うが
そうなると何処までが上限かと言う話で
主に東遷説論者は(切実なご都合でw)4世紀半ば、畿内説だと限界一杯の4世紀と言うところなのかな?
まあ、布留1が4世紀初頭なら庄内は3世紀に求めるのは十分可能で畿内説自体は安泰w
(庄内をどれくらいの長さに見るかについては水掛け論だろうがw)
別に 箸墓=卑弥呼の墓 に拘らなければ何の問題もないwwwwwwwww
440 :
439:2009/12/23(水) 02:03:30
>>439に付け加えておくのを忘れたが…
とは言え半世紀だろうが1世紀だろうが、大和が他の地域に先駆けて馬匹文化を導入し
あの木製鐙からそれが既に実用レベルになっており
尚且つそれだけの時間、大和で独占したかの如き構図は
正直に言うと自分の頭の中では描きにくいwwwwwwww
441 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:23:30
>>440 却下。
乗馬の風習がその頃からあったなら、最初の古墳から馬具が副葬されるはずだな。
馬具が副葬されるのはせいぜい400年頃から、お前の言うように乗馬がその100年に
始まっていたなら、馬具の副葬はもっと早く始まったはずだ。
つまり、お前の話はトンデモカルトに過ぎない。
畿内説の学者があの馬具を無視しようと必死に振る舞っている理由を理解しろよ!
空気嫁ねえな。天然か?
442 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:32:19
>>441 あ〜、脊髄反射を起こす前に内容を理解してから書き込んでもらえんかね?w
どうしても5世紀を主張するのなら
先に言った「馬匹文化の一大空白地帯」の問題はどうクリアするんだ?アホwww
どの道レアケースとして4世紀初頭一杯まで持っていくか
半ば辺りにするかの違いに過ぎない。
もう一度初めから考えてレスしろボケwwww
>>1 女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
北部九州に比定できない根拠として
■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。九州北部の伊都国に郡使が常駐している以上、郡からの方位・距離は
正確に把握できていたはずなので。
■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。
■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。
■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がない。
444 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 09:37:58
>>434 志賀島に、箱先宮の沖の宮があった可能性は高い。
箱崎宮の参道は、志賀島の金印公園の階段を登りきったあたりにまっすぐに伸びている。
元寇で志賀島の斎宮は焼き払われ、神宝の金印も瓦礫に埋もれて畑になったということも考えられる。
沖の宮があったあたりに礎石とかは発見されていないのだろうか?
445 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 09:49:27
金印の出土地の調査でこれまで志賀島の陸上はもちろん、
志賀島の周辺海中まで念入りに捜索が行われているが
金印が出土したような遺跡は全く見つかっていない。
446 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 09:56:28
神輿のような移設(伊勢)宮だったのかもしれませんね。
邪馬台国が狗奴国(熊襲)に滅ぼされ、その勢力拡大を恐れたヤマト政権がヤマトタケルを派遣したんだろう
邪馬台国とヤマト政権は繋がりのない別々の国だと思う
ちなみに邪馬台国(宮崎)、狗奴国(鹿児島)
>>444 > 志賀島に、箱先宮の沖の宮があった可能性は高い。
> 箱崎宮の参道は、志賀島の金印公園の階段を登りきったあたりにまっすぐに伸びている。
それだと本殿では「沖の宮」にケツを向けて参拝する図になりますよ。
もし「金印」が御神体なのだとしたら有り得ないですね。
御神体とは神の依り代、「ナンタラ王の印」みたいな現世的なものには神様も宿りたくはないでしょう。
神武天皇の父ちゃんは日向三代
おそらく倭国大乱で
代々続いた由緒正しい日向の地を重んじた邪馬台国と、神武東征後に遷都したヤマト政権に分かれた
魏は内情を知ってたから邪という当て字を用いた
450 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:23:04
>>448 筥崎宮と志賀島を結ぶラインは志賀島で切れるわけではありません。
その先をたどると玄海島を通って、壱岐の神岳を左に見て、対馬の最北端にある神山に達する。
さらに進むと、朝鮮半島に達し順天付近で上陸、光州に達する邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ海の道なのです。
451 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:24:58
>>450訂正
×対馬の最北端にある神山
○対馬の最南端にある神山
>>448 宗像大社も沖の宮にケツ向けて参拝する形だからキニシナイ
453 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:57:42
>>450 >それだと本殿では「沖の宮」にケツを向けて参拝する図になりますよ。
>もし「金印」が御神体なのだとしたら有り得ないですね。
>御神体とは神の依り代、「ナンタラ王の印」みたいな現世的なものには神様も宿りたくはないでしょう。
良いことに気づきましたね。もしかしたら、筥崎宮も拝殿にすぎなかったのではないでしょうか?
本宮は、そのラインを南東方向に延長したところ、つまり邪馬台国にあったとすれば、すべて解決します。
ずばり、邪馬台国は福岡県糟屋郡志免町須江付近にあったのではないでしょうか?
だれかそういう説を唱えた人はいないのでしょうか?
455 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 13:32:00
志賀島出土の金印は恐らく2世紀初に埋まったものだ。筥崎宮は10世紀頃の創建だ。二つの間に関係
などある訳がなかろう。正気を取り戻せ。
456 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 13:48:16
>>442 お前の言っていることは支離滅裂すぎるぞ。
日本で箸墓以外で馬関連遺物が出るのは5C以降である。
↓
5C以降のものと関連付けるとオオヤマト古墳群が空白地帯になる ←いきなりトンデモ飛躍
↓
なので、4世紀以前だ ←ナンデスカ??アタマダイジョウブ??
普通なら馬具が出た時点で5Cに近い方向に年代を考えるが、お前は逆走しているぞwww
457 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 13:51:17
卑弥呼は、志免呼(しめ)だったとすれば、すべて解決するのではないでしょうか?
埴輪と関係のある須恵器発祥の地須惠町。ますます怪しいです。
三井三池炭鉱の掘削の際、何か見つかったはずなのに、三井財閥は意図的に隠したのではないのか?
卑弥呼
原文を読めば固有名詞ではなくて姫と呼ばれていると解釈できる
志免町どこにあるかと思って地図見てみたけど、
魏志倭人伝にある道程っていったい・・・・
461 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 15:01:03
<まあ、布留1が4世紀初頭なら庄内は3世紀に求めるのは十分可能で畿内説自体は安泰w>
そう言って自分を慰めていろ。年輪年代法はその頃の時代に適用できないことを未だ理解できんのか?
462 :
416:2009/12/23(水) 15:02:58
>>455 筥崎宮は10世紀頃の創建だ。二つの間に関係などある訳がなかろう。
"八幡宮としての創建"は10世紀頃だとしても、すでに東西南北の概念が明確な時代に何もないところに、あっちゃ向いてホイでいきなり新しい神社なんか建てたりするか?
君には「深い洞察力」という物が足りない。
463 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:21:14
>>455 そもそも、甚兵衛の証言など当てにならんわい。
最近では、なんや知らん甚兵衛の知り合いが見つけて甚兵衛に渡した説も有力視されているそうだが、
誰が見つけたかもはっきりしない金印など、神社以前に怪しくてたまらん。
464 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:22:46
>>450 >さらに進むと、朝鮮半島に達し順天付近で上陸、光州に達する邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ海の道なのです。
この光州広域市付近は、任那4県があった場所であり、(邪馬台国との関係はわからないものの)
博多湾⇔壱岐⇔対馬⇔任那日本府を結ぶ海路を支配していた一族が、博多湾を見はらす多々良川のほとりに筥崎宮を建て、
その上流の志免町付近に都をおいていたというのはありうる話ですね。
465 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:23:15
卑狗模古二世は知能指数55くらいだと思うよ。
>>465同意。
邪馬台国など古墳時代の大王や豪族は、知能指数の高い渡来人の漢人に支配されてしまったのです。
金印がまがい物だという説もあるね
権威を振るうために作らせた可能性はある
卑弥呼も勝手に倭王を名乗ったって説あったような
468 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 16:43:23
>>462 おまえのような変人にも身寄はあろう。私は釈迦牟尼の生まれ変わりと称されるほどに情け深い人間
であるから、道に迷った哀れな人間を見ると捨ててはおけぬ。少し教えて遣わそう。
筥崎宮は10世紀頃の創建だ。そして13世紀後半の元寇の際に焼失した。この元寇を機に我が国の
対外防衛政策が押し進められる中、筥崎宮にも守り神として醍醐天皇の宸筆とされる「敵國降伏」
の扁額が亀山上皇によって奉納されたのだ。敵は海からやって来るというので、西北の方角である
が社殿は海に向けて建てられた。当然参道も海側から付けられた。ただそれだけのことだ。
漢委奴国王印の発見の経緯については曖昧な点があるが、いずれにしろ志賀島の百姓が水田で発見
したことまで疑うべき根拠はない。甚兵衛なる者が那珂郡役所に届け出たのち殿様だった黒田家の
所蔵品となった。福岡藩主黒田治之が儒医として採用した亀井南冥がこの金印について研究し後漢
書荷記述されている「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」に
該当するとした。
中山平次郎博士は黒田家に伝わる文書はおろか古老の話や神社の記録等を探査し詳細な調査を行って
いる。当然のことながら、金印と筥崎宮の関係などどこからも出ていない。
469 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:07:10
卑狗模古二世は知識も無いくせにこて張るんじゃねーよ。
この壊れたレコードを抱えた体脳めが。
そいつよりも知識があるなら反論してみれば?
471 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:16:31
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■
@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
なんか知らんけど俺のレスに反応してファビョりだしたw
低脳な煽りレスなんて見たくないんだよ
建設的なレスをしてくれないかな
そのコテのほうがマシだと思うよ?
473 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:33:17
>>456 駄目、採点の対象にすらならないやり直し。
サイキバ君並の知能、天上から吊り下げたバナナを棒で落とせるかさえ疑問。
第一、俺がいつ「4世紀以前」なんて言った?
勝手に人の言った事を捏造するなクズ。
>>439 >まあ、布留1が4世紀初頭なら庄内は3世紀に求めるのは十分可能で畿内説自体は安泰w
噛み付く前にその噛み付くべき内容をきちんと見ような?
オツム沸いた馬鹿にはそんな余裕もないのかもしれんがwwwwwwww
それに 現 実 問 題 としてだ
馬具を出さず、馬匹文化の垣間見えない目下4世紀ごろのものと目されている古墳群があるんだから仕方がない。
現実を見ろアホwwwwwwww
>5Cに近い方向
そう、あくまで「近い方向」だな、コレマタ ビミョーな表現だがwwwww
4世紀半ばなら本格的に馬匹文化が始まる5世紀まで半世紀の余裕があり
そこに問題の古墳群を突っ込めるw
(まあこの圧縮が上手くいくのかどうかも分からないがw)
5世紀とするのならが既に馬匹文化が本格的にスタートしている時代に
組み込まなければならない。
そうなると、まるで馬匹文化を排斥するかのような地帯が出来上がってしまうと言う話しだなw
だから某学者も「5世紀」とは言えない。
(河内と佐紀と大和…等々を殆どパラレルにしてしまうような壮大なお話だからなw)
かと言って4世紀のアタマじゃあ庄内を3世紀にする事を可能にしてしまう。
だからあの鐙はあくまでもレアケース(本格的に乗馬の風が広まる前のプロトタイプ?w)
としつつもそれを4世紀と5世紀の間とするなんともビミョーな表現になるとwwwwwwww
474 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:34:13
>>472 七誌の分際で俺などというのは笑止といえよう。
475 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:35:11
>>461 縄文人の中の人
はて?
なんでここで「年輪年代法」が出てくるのかな?
「自分は理化学的年代測定に頼って畿内説をとっていない」と同じ事を
お前がハンドルを変える度に説明してやらなきゃならんのか?w
結局、こう言うヴぁかは
畿内説は「年輪年代法」あるいは「箸墓=卑弥呼の墓 説」にのかって成り立っている説。
そこさえ崩せばボクちゃんにもやっつけられる!!
…と勘違いしちゃってるんだろうなw
ある意味マスコミに踊らされているアホと言うかwwwwwwwwwwwww
476 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:38:31
神社の創建が10世紀というのはその神社の信仰が10世紀から始まったことを意味しない。
建物が建ったというだけである。
477 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:45:14
>>467 筥崎宮ではなくて、筥崎宮が建つ前に、かつてあったであろう神社のことを言っているのに・・・
何にもわかってない人がいますね。なんだか笑ってしまった。
478 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 17:54:12
>>475 <まあ、布留1が4世紀初頭なら庄内は3世紀に求めるのは十分可能で畿内説自体は安泰w>
と言うたのはおまえだろが。布留式土器が4世紀初頭だとか庄内式土器が3世紀だとか言うのは
年輪年代法で時代が前に繰り上げられたからだろが。バーカ者め。
おまえの畿内説を改めて説明してみろ。どうせ下らん屁理屈だとは分っているが聞いてやる。
479 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 18:04:45
>>477 2世紀ころに箱崎に神社があったか?おまえは神社の社殿が何時頃建てられるようになったと
思っているのだ?社殿が作られるようになったのは6世紀半ばに仏教が入ってきて寺院が建造
されたことに影響されたものだ。
480 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:04:49
>>478 縄文人の中の人
>おまえの畿内説を改めて説明してみろ。
甘えるなクズw
お前にも何回も説明したぞ?
ボランティアでボケ老人の相手をしなきゃならない義理はない。
もう忘れたのなら過去ログ漁って来い。
説明をねだるなら俺が興味を引くネタでももってこい。
そうすりゃバーターで考えてやるwwwww
鐙の件で布留1を4世紀初頭に求めるは可能だと思うが
それを不可能とし
4世紀半ば頃とするような合理的な説明があるのか?
またあくまで5世紀以降というのなら先に言った
「馬匹文化の空白地帯」の問題にも答えろ。
それに答えず関係の無い年輪年代の話しでイチャモンつけられてもなあ…w
481 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:11:03
>>479他人の説に便乗するようで悪いけれど、こういうのを見つけました。
>「筥崎宮縁起」によると、延長元年(923)太宰少弐藤原真材(ふじわらのまき)が八幡神の託宣を受け、穂波郡の大分宮(だいぶぐう)をこの地に移したという。
>しかしながら、これについても貝原益軒は、延喜式神名帳に箱崎宮が載っているので、もっと昔からお宮はあったとバイ、といっている。(筑前國続風土記)
482 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 18:13:01
>>480 別におまえの畿内説など聞きたい訳ではない。つまらん話だからと言っとるだろが。
「馬匹文化の空白地帯」だと?何を騒いどるんだ?この愚か者めが。
木製鐙の破片のことか?あんなものはたまたま見つかっただけだろ。木は腐るものだ。千年も土に触れて
いれば影も形も無くなるものだ。出土したのが奇跡とさえ言えることだ。
483 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:17:23
>>482 縄文人の中の人
なるほど…現在4世紀と目されている古墳群は
木製の馬具も、金属製の馬具も、馬自体の骨も…あらゆる馬匹文化に関する遺物が
消失し、例の鐙だけが奇跡的に出てきたとwwww
流石は縄文人理論だなwwwwwwwwww
484 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 18:24:05
>>483 あのな。墓の傍らに馬の死骸を捨てるか?(馬が死んだら食っただろうよ)
金属製の馬具も捨てるか?(副葬品としてならあるかも知れんが)金属は捨てずに再利用するだろうよ。
485 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:47:38
>>484 縄文人の中の人
あ〜もうダメダメ
「日本における馬匹文化が5世紀から」と言うのがどう言う状況で言われているのか
最初からやり直して来い馬鹿wwww
>墓の傍らに馬の死骸を捨てるか
「犠牲馬」として墓の周りの土壙に埋められている例があるが何か?
( 千葉県佐倉市大作31号墳 でググってみろ)
金属製の馬具も副葬品がないから言っているんだが・・・
で、時代が下って河内の古墳からそれが見られるようになり
その文化の変容をもって『騎馬民族征服王朝説』が誕生するに至るとwwww
今頃何を言っているんだオマエわwwwwwwwwww
>>481どうやらあなたの完勝のようですね。
卑狗模古二世は潔く負けを認めたほうがいい。
487 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 19:06:44
488 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 19:32:40
箸墓の木製鐙は遺跡の擾乱ではない。これはおそらく台与時代の張政の遺留品。台与は「足ナガ」(当時の巨人症)に
鐙をつけ、人馬として乗り回した。「はいよー」「アポー」「たいよー」「アポー」。
筥崎宮が遷宮されて、元あった神社は合祀されてしまったということですね?
神社の歴史にはよくあることです。
490 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 20:03:09
491 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:09:44
卑狗模古二世はクズでしからないからどうでもいいことだ。
492 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 20:25:21
>>485 あのな。千葉県佐倉市大作31号墳の犠牲馬は特殊な例だろが。勝手に一般化するな。
河内辺りの馬具の出土は時代がはるかに下がるから参考にならんだろが。何を勘違いして喚いておるのだ?
箸墓でも崇神陵でも景行陵でも発掘してみろ。馬具が出るかも知れんぞ。
493 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 20:29:05
>>481 おまえ手が震えているな。怖々書き込んでやがる。
どうでもよいけど、子供っぽいことはやめて内容のある書き込みをしろ。
494 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:33:09
>>492 馬具が出るかもしれないなど、仮定の話を根拠にするなよ。
方法論について無知な低脳な卑狗模古二世よ。
特殊な例というが、それは事実だ。
お前のような脳内的想像を基準は単に想念にしか過ぎず、根拠としてなんら成立しない。
495 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:41:37
いろいろ他のスレもみているが、卑狗模古二世みたいなレベルが低いのがコテで書くのはまずいだろ。
河童さんがほんとうに懐かしい。
496 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:41:52
卑狗模古二世は結局、自分の脳内が根拠であるわけだ。これは自分の考えは常に間違っておらず、常識
にかなっているという思い込みであり、この人物の幼児性、自己中心性を表している。また494は、この人物
の方法論について触れているが、おそらく正式な高等教育は受けたことがなく(これが間違いなら 相当にでき
が悪く)、したがって論理展開の方法など何も知らないと推察される。現状のままでは反感を買うだけの痛い
人物であるとしかいいようがない。
497 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 20:44:52
>>494 おまえが方法論を知っていると言うのか?捏造の方法論なら分るがな。
「特殊な例というが、それは事実だ。」って何が言いたいのだ?「特殊であることが事実だ」と言うのか?
じゃあるまい。何がいいたいのかはっきりせい!!
498 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:45:26
>>496 なにか、この程度のレヴェルでこのスレでイニシャティブをとりたいのかな?
論理ということについて中学生レヴェルの知識も持たない小学生並みの馬鹿が書くスレ、といことだろう。
499 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:46:41
いいたいのは、卑狗模古二世が脳内が根拠であるという、複数のまっとうな人物から指摘されていることよ。
500 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 20:54:30
畿内説の連中に嫌われるのは分っているよ。劣等生はできる奴が嫌いだからな。
おまえらは他に内容のある書き込みはできんのか?畿内説もタネが尽きたから仕方がないか。ヤレヤレ。
501 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:54:52
卑狗模古二世も相当な脳内オウムだが、
>>496は論理的な展開についてなにも実地の訓練をしたことがない
厨なのだろう。
502 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:55:04
503 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:58:11
>>500 俺は九州説なんだが。卑狗模古二世みたいなのが反畿内説なのなら九州説も
この同類とみなされてしまい大変に迷惑なのでカキコの質を向上するか(でも
いまは醜いほど低劣だが)、さっさとよそのスレで布教したら?
504 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 21:06:21
>>502 おまえの言う「現在4世紀と目されている古墳群」について議論してたんじゃなかったのか?
505 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 21:08:46
>>503 見え透いた嘘をつくな。ばーか。文章もなってないぞ。
506 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:13:50
>>505 確かに、ばーか、などとかく奴にまともなのはいないわな。
507 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:14:21
>>505 さっさとよそのスレへ行けという気持ちが伝わってくるよい文章だと思うが。ちなみに503とは別人だ。
508 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:20:03
>>504 縄文人
そう、現在4世紀と目される古墳群には5世紀に入って現れる犠牲馬の跡もないって話しだなw
でそれらの古墳の周辺の馬匹文化に関るものは何故か全て消失し
あるとすれば宮内庁管理の古墳内。
「掘ったら出てくる」
…って九州説お得意のホレホレ詐欺(宇佐神功の下を掘ったら卑弥呼の墓が出てくる等々)か?wwwwwwww
509 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:21:02
「ばーか」は馬鹿、バカ、アホ、マヌケ、タコ、クズなどより婉曲な表現である。
510 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:25:31
>>509 いや、日本語がわかっていないね。
「ばーか」は自らの能力の無さを隠すための言葉なのだよ。
511 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:30:02
>>508 そうだ。4世紀後半には未だ犠牲馬はなかったのだろうという推定だ。鐙もまだ木製のものが大部分で
金属製の馬具は貴重だから副葬品とされることはあったかも知れないが廃棄されることはなかっただろ
うと考えるのだ。
なお、畿内の墳墓で土に接した人骨は出ているかね?馬の骨だって土に埋まっていれば消失することが
考えられる。土壌の質と環境次第だが、仮に馬が埋められたとしても何も残っていない可能性が高い。
512 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 21:43:19
511に書かれたが、私も同じ考えだ。
巻向の古墳群(箸墓、崇神陵、景行陵など)には発掘の手が入っていないので副葬品としての馬具などの
資料がない。掘ったら馬具が出て来るかも知れない とは推定だ。箸墓の近傍から木製鐙の破片が出土し
たのだから可能性はあるだろ。私は出土土器から見てこれらの古墳は4世紀以降のものだと考えている。
513 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:48:08
恥ずかしい。卑狗模古二世は他人の意見をあたかも自分のものであるかのように述べている。
人間としてここまで卑怯な言動を行うべきではないだろう。
私がいままで見た最低の書き込みである。
514 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:48:14
>>511 「4世紀後半」と言う事は5世紀に入って全国展開するに先駆けての
言わば”レアケース”と言う事でいいのかな?
無論それなら馬具の出土や犠牲馬の跡等も
5世紀になって見られるようなものでもなくて良いと言う理屈にはなる。
が、4世紀後半と言うのは想定できて4世紀初頭と言うのが不可能と
そこで峻別できる根拠があるのか?
同じレアケースと言う立場をとっておきながら
自分の主観、さじ加減だけで言われても説得力がないwwwwwwwwww
>>513 あまりにも低劣な人格に素直にレスポンスしなくていいのでは?
伝染るかもしれないよ。
516 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:52:16
>>512 これだって別に馬匹文化の移入について深い知識があるわけでもないだろう。自分がよく知らないことでも
自分の脳内にあるしょぼくれた知識だけで口を出す、その厚かましさが嫌われてるんだよ。
517 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:01:14
>>513 <他人の意見をあたかも自分のものであるかのように述べている。>
意見が一致することはあるだろうよ。別に他人の意見を盗んではいないだろ。
518 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:03:32
>>516 こんな書き込みしかできないおまえに嫌われたって何の痛痒も感じないよ。
固定ハンドルの人を
シツコク煽ってる荒らしはヨソ池 ヨソへ
固定ハンドル叩き→最悪板
http://mamono.2ch.net/tubo/ ◆スレッドに書き込むときの注意◆
●レスを付ける時はレスを全部読んでからにしましょう。
既出の話題をむしかえすと、議論の妨げになります。
●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
520 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:12:30
卑狗模古二世はコテハンじゃないよ。
すこしは勉強したら?
>>509 >>513 固定ハンドル叩き 及び 荒らし・煽りは
ヨソへ行って下さい
◆スレッドに書き込むときの注意◆
●レスを付ける時はレスを全部読んでからにしましょう。
既出の話題をむしかえすと、議論の妨げになります。
●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
>>520 ヨソへ池 シツコイ荒らしだな
荒らし・煽りは『完全無視』
523 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:14:41
524 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:15:34
金印が志賀島で発見されたのは偶然ではなく、筥崎宮の神宝として祭られていたことがはっきりしたことで
帯方郡からの使者は、松浦半島ではなく博多湾に上陸したというシナリオに信憑性が出てきました。
525 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:17:09
卑狗模古二世はコテハンではなく、ステハン。
そしてこいつはレベルの低いアラシでしかない。
どんどんやっつけましょう、それが正しいスレの運用の仕方です。
526 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:18:03
>>521 まっとうな議論の妨げになるダメなコテハンはどうすればいいの? 運営に訴えるの?
528 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:23:24
箸墓や崇神陵や景行陵に陪冢があればそこから出土するかもね。
河内と大和では時代が違うよ。
529 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:28:41
>>527 あいつらは私の悪口しか言えない哀れな連中です。家族にも見捨てられ、恋人も出来ず、友達も
いない寂しい連中です。悪口を言うことが生き甲斐なのでしょう。暖かく見守りましょう。
530 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:30:38
>>528 縄文人
はあ?
なんか言ってることが場当たり的だな(まあいつもの事だがw)
件の鐙の廃棄の年代は一体いつなんだ?
馬匹文化が全国的に見られるようになる5世紀より前なのか?
なら4世紀のどのあたりでそれが上限とする根拠を言え。
今までのお前の発言内容なら
全国展開した5世紀以降としか読めないぞ?
531 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:30:52
>>529 自分のことを赤裸々に書いても仕方ないよ。
お前はアラシとして運営に通報済み。
533 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:32:12
私も メ と同時に通報しました。
534 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:40:40
>>530 分らんかね。4世紀後半だとまだ木製鐙が主だったんだろうと言っておるだろが。木製だと腐っていて
発見されないとも言った筈だ。
536 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:45:26
>>534 縄文人
よしよし一般に馬匹文化が入れられたとされる5世紀より前の話しなんだな?
じゃあお前にも
>>511と同じ事を聞いておく。
5世紀より前に既に馬匹文化が日本に伝わったとしておいて
それが4世紀後半であって4世紀初頭ではありえない合理的な説明はあるのか?
4世紀初頭なら庄内は3世紀に求める事も普通に可能だろうからなwwwww
537 :
卑狗模古二世:2009/12/23(水) 22:47:58
私はこれから友人達と馴染みの飲み屋に一杯やりに行く。このスレで内容のない馬鹿な書き込みをする
連中とは違って高尚でありながら楽しい会話ができる友人達だ。女将は美人だし頭もいい。ほなな。
538 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 22:56:33
クズ独身男。もてないから2万円もってキャバクラか。
まあ、どうでもいいが、論議に負けたから逃げたわけだ。
539 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:01:43
>>538 おぬしもモテぬ口かや。卑狗模古二世のことが羨ましくて仕方が無いという風情ぜよ。
540 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:05:15
昔はもてたが、いまは妻子もちなのでもてても困る。
うらやましいのは、議論に負けて捨て台詞を吐いて逃げることができること。
541 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:20:31
>>536 拙者のことをお呼びでござるかな。
<<5世紀より前に既に馬匹文化が日本に伝わったとしておいて
それが4世紀後半であって4世紀初頭ではありえない合理的な説明はあるのか?
4世紀後半(末に近い)百済が高句麗の侵攻を受け、倭国に逃れた百済人が多数いた。彼らがもたらした
軍馬をもとに倭国では馬が増え、騎馬もある程度増えた。倭国は半島に出兵し新羅、高句麗と戦うが、5
世紀初には百済とともに敗退した。高句麗の騎馬による機動力に敗れたのだ。この経験から倭国でも騎馬
軍人が養成されることになった。5世紀の古墳から馬具の出土が多くなるのはこのためだ。
542 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:24:24
>>541 んなことは誰でも知ってます。自分の考えを最後につけたほうがいい。
543 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:27:59
さよか。知ってるなら聞かぬがよろし。
544 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:38:51
>>541 ん?
飲みに行った卑狗模古二世と入れ替わりで縄文人登場と言うわけか?wwww
そんな誰でも知っているような話をチョッと年代をいじって話されてもなあ・・・
説明にも何にもなっていない。
それは馬匹文化の導入が5世紀からはじまったと言う事に対し一般に言われているような事だアホ
むしろ軍事的な理由で急いで導入したと言うのであれば
当然それに伴い馬具や騎馬に対応した武器や甲冑の製造も併せてやる必要がある。
(ゆえに5世紀からの馬匹文化の広がりは急ピッチだったとw)
そんな最初は木製の馬具だけだった・・・なんてチンタラした話は通用しにくくなるって話だなwwww
それに
>4世紀後半(末に近い)
と言うのならその間に大和、佐紀、柳本・・・等々の古墳群をそこに突っ込まなければならんのだが
5世紀に近づければ近づけるほど無理が出てくるwwww
まあ本音としては
「あの鐙は当然5世紀のものだ!」と言い切りたいんだろうがwwwww
そうすりゃ纏向遺跡自体が卑弥呼の時代に届かなくなるからなwwwww
545 :
ローガン:2009/12/23(水) 23:44:46
泥沼ですな。心中お察し致します。朝まで飲んでね。
546 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:45:10
結局それはできない。土器の平行関係から、少なくとも北九州の年代もグチャになる。
547 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:50:11
>>544 拙者は縄文人を評価する者の一人ではあるが縄文人本人にはあらずでござるよ。
<<そんな最初は木製の馬具だけだった・・・なんてチンタラした話は通用しにくくなるって話だなwwww
気に入らんでござるか。高句麗に負ける前のことゆえチンタラした話とも言える状態だったてなことだろよの。
548 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 23:53:43
おや珍しや老眼氏の登場か。相変わらずボケたようでござるの。
549 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:00:57
>>545 老眼
…そう傍観者として落ち着いてもどうかなとw
馬具の日本での出土を4世紀初頭を上限とした場合
「箸墓=卑弥呼の墓 説」にとっては不味いと言う状況には変わりないんとちゃう?wwwwwwwww
550 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:06:02
癆眼ゆえ見えませぬわいな。
551 :
ローガン:2009/12/24(木) 00:07:51
おや、まだ出掛けてなかったのね。
>>534 >木製だと腐っていて 発見されないとも言った筈だ。
なに製だと、木製より残りがいいの?
552 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:12:23
ローガン氏と言えば、
確か、何処かで、堂の後古墳の問題で天理大の学生達の地中レーダー探査からの推論が間違い
だということが正されただけだと力説していたような そんな気がする〜
553 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:19:45
>>551 WWW誰に言ってるのやらW
ステンレススチールなんか木製より残りがよさそうだが、青銅でも鉄でも場所によっては錆びてしまうやろWWWWWW
>>541 騎馬文化ってのは、実は
農耕民である中国の漢民族によって作られたものだよ。
なぜなら、農耕民というのは、乗馬に慣れてないから
乗馬に慣れてない人でも乗りやすいように作られたものが多い。
あと、倭国が半島に攻めのぼったのは3世紀中ごろから後半にかけて
広開土王碑文にもそうある。
基本的に、倭国の土地観では、騎馬戦には不利。
555 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:23:10
<<倭国が半島に攻めのぼったのは3世紀中ごろから後半にかけて 広開土王碑文にもそうある。
ぬぬぬ。広開土王碑文の改竄編がでたんだな。
556 :
ローガン:2009/12/24(木) 00:28:34
>>552 力説してたのは、堂ノ後のほうが、ホケノ山より古い事が確定したと云うような書き込みをした伊作さん。
そうではないよ、と云っただけですよ。
>>555 広開土王碑文の改ざん説は
今では、中国でも日本でも完全に否定されています。
以上。
今だに、必死に否定したがっているのは、韓国の学会の一部。
そもそもだ、朝鮮半島の北半分が、
中国の地方行政機関の楽浪郡・帯方郡として支配され
朝鮮半島南部が、馬韓、弁韓、辰韓の諸国が乱立していた時代に
倭国では、百襲媛命・イニエ命(崇神天皇)時代を迎えており
九州から関東までまたがる巨大連合国家が成立していた。
このスレに、必死になっている勧告人がいるでしょう?
最近の邪馬台国の研究の成果は、
勧告の民族主義にはマイナスだから。
なぜなら、日本の国家統一時期が大幅に早まるわけだし
一方で、朝鮮半島のほうは、まだ中国の行政区間の時代。
559 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:38:56
>>557 広開土王は391年即位と碑文に書かれている。倭と百済との戦争は4世紀末と5世紀初のことだけどな。
560 :
ローガン:2009/12/24(木) 00:42:51
>>549 >…そう傍観者として落ち着いてもどうかなとw
あはは、お疲れ様ですね。
> 馬具の日本での出土を4世紀初頭を上限とした場合 「箸墓=卑弥呼の墓 説」にとっては不味いと言う状況には変わりないんとちゃう?wwwwwwwww
そうかなあ、箸墓の周濠から花粉が検出されてたでしょう?由来を墳丘の二次林と考えれば、
墳丘の布留0期古、渡り堤の布留0新…年代幅を広く考えればいいだけの事では?
561 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:46:30
広開土王碑文の改竄をおこなったのは
>>554だな。4世紀を3世紀に改竄している。
>>561 すまん。勘違い。
301〜400年は4世紀だったなw
563 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:52:12
>>554 391年は3世紀末という認識なんだ!!
564 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:55:39
箸墓以外で馬具が出た古墳で一番古いのがせいぜい400年頃だろ。
箸墓の木製あぶみが日本で一番古いというご都合主義の想定をして、
さらにその一番古い木製あぶみは、2番目より100年ほど古いなんて
更なるご都合主義をひねり出す思考回路が理解不能だな。
箸墓のあぶみから2番目の馬具までの100年間のミッシングリンクが出土するまでは
箸墓のあぶみはせいぜい399年頃にするのが穏当だな。
布留1が399年をまたぐというのは、昔の通説からは当然のことだった。
その後に池上・曽根の年輪年代で100年繰り上げたが、今は年輪年代は触れては
いけない存在っていうのはどうしてかな?
565 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 00:59:29
まあプライドのある学者がいなくなったってことだろ。
邪馬台国がらみで本を書けば10倍売れるってことで畿内説は成り立っている。
566 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 01:05:53
<<その後に池上・曽根の年輪年代で100年繰り上げたが、今は年輪年代は触れては
いけない存在っていうのはどうしてかな?
かなり多くの考古学者や木材の専門家達が年輪年代法に根本的な疑問を提出しており、当の光谷氏からは
有効な反論がなされていないからだろう。実際間違っているからね。
567 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 01:07:31
布留1は畿内説にとって鬼門だな。
馬具が出始めた頃の土器は実は布留。
須恵器が出始めた頃の土器も布留。
どっちも400年前後のもの。
それに布留1が含まれるなんていうのはまずいわな。
白石さんみたいに須恵器を4C半ば(さらにその先をめざす?)に繰り上げる度胸があれば
問題は解決するが、それができない人はこの問題はスルーするほかないwwwwwwwwwwww
568 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 01:10:37
>>567 昔は分割不能と言われた庄内を、理解不能な根拠で3種にも4種にも
分類した手法で、布留を布留0〜布留5位にご都合主義で分ける方向性が
最有力みたいだな。
569 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 01:53:06
なんだか言っても、邪馬台国は九州だかなぁ
570 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 02:00:07
>>564 で、限りなく5世紀に近い4世紀末wとして
現在4世紀のものと目されている大和、柳本、佐紀・・・の古墳群(当然馬匹文化のカケラも見えない)
はどうしたらいいのかな?
馬具としては5世紀初頭のものと時代が空いちゃうが
古墳自体がポンと飛ぶわけじゃないんだよなw
逆に馬具を繋ごうとすると間の古墳を超々圧縮しなければならない。
と言うか殆ど5世紀初頭と言っているようなものだから
その間の古墳は邪魔、いっそ無視するのか?wwwwwwwwwww
571 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 13:54:41
畿内に倭国大乱の形跡ってありますか?
572 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 14:05:17
ない
573 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 14:32:50
神武の東征だか東遷があったとするならば、その後の日向と大和の関係がわからない
何方かおしえてください
574 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 15:18:25
>>567 白石さんみたいに須恵器を4C半ば(さらにその先をめざす?)に繰り上げる度胸があれば
ソースある?
年輪年代でもそんな数字出てなかったと思うけど....
575 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 15:36:20
その鐙を14Cで年代測定すればいいんじゃないの ?
576 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 16:13:25
その鐙を14Cで年代測定すればいいんじゃないの ?
577 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 16:37:39
大切な事だから
時間をおいて二回…(r
実際、箸墓以降、馬具なんか出さない、馬匹文化の片鱗も見せない古墳が続くのだから
件の鐙を5世紀から時間の空いたものとする方が合理的だとは思う。
問題はその時間を半世紀ぐらいにするのか1世紀ぐらいにするのかだろうが…
(大体、学者先生でこの板の九州説みたいにほぼ5世紀初頭と主張している人はおるんかいな?w)
>>342の高島センセイも
>布留1式土器を従来どおり、4〜5世紀とするのが合理的である。
とビミョーな言い回しだし
安本センセイも例の「邪馬台国の会」を見る限り4世紀半ば(AD350)頃みたいだし…
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm まあ4世紀の丁度真ん中350ぐらいなら
後半の50年に馬具も出していない古墳群を突っ込んで
前半の50年に布留0及び庄内を突っ込んで
…で、一番差し障りがないと言う事かな?w
でも50年がおkで100年がNGと言う合理性が見出せないんだよなあ…wwwwwww
579 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 17:33:39
>>575 それが出来ればいいね。だが問題はC14較正用木材試料(植物由来炭素試料であれば木材に限らないが)の
入手が困難なことだね。
580 :
卑狗摸古三世:2009/12/24(木) 20:43:00
ぐえはははははは、クリスマス・イブにカキコなんかしてもしょうがあるまい。キャバクラ借りきっての飲めや
歌えの乱痴気騒ぎじゃ。ぐはははっははははははははははははは。
♪あ、じんぐるべー、じんぐるべー、じんぐるおーざうえーい。
581 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:49:35
>>574 彼の年代観から見ればむしろ当然だろ。
須恵器の開始を古くしないと、4C後半に巨大な空白時期ができてしまう。
「須恵器生産開始の暦年代が4世紀後半から末葉に遡ることが確実になってきている・・・」
報告書『金象嵌銘花形飾環頭大刀』の75ページにそんなことを書いている。
この調子で行くと、伝仁徳稜やその周辺の巨大古墳が4C末葉になるが、それが正しいというので
あれば、生暖かく見守るほかあるまい。
榛名山の噴火(FA)も昔は6C前葉だったのが、5C末葉に定着しつつあるから、この時期にまで
年代遡上の効果が波及している。
しまいには、今は1950年と言い出さないかと心配している。
582 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 01:48:34
>>581 ううむ、これもまたビミョーな話だなw
確か年輪年代で須恵器出現(TK73)を5世紀初頭に求める事が可能って話しはあるらしいが・・・
「4世紀後半」と言う表現になるとどう言うネタでその壁をブレイクスルーしたのか
できたら後学のために知りたいところwwwwwwwww
>>582 出先に派遣した神武ちゃん直ぐに本社の事を忘れちゃったのかな?w
584 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 06:14:46
邪馬台国には馬はいない
馬具が出てくる時点でおかしい
そこは邪馬台国ではない
邪馬台国に馬はいない?
倭人伝のどこを読めばそんな戯言が出てくるんで?
魏志倭人伝には事細かに邪馬台国の社会が書かれてる
馬がいたなら記載もあるはず
587 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 07:49:11
>>585 では、「牛馬無し」との記述はどういう意味なのか?
588 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 07:55:44
邪馬台国に馬はいたかもしれないが、注目するほど多くはなく、
庶民の足としても使われていなかった為に、気が付かなかった、という可能性もある。
陳寿を絶対視する事は危険。
出土品を絶対視する事も危険
魏志倭人伝の場合、敵国だと臭わすような卑しめる記載もなく信憑性も高い
でなければ、散々な事を書かれたはず
髷や兵器など気が付かない(自分らと同じだから)ことでさえ記載されてるわけだし、数が少ないと逆に目立つだろ
test
591 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 09:47:36
邪馬台国には牛や馬はいなかった。
そんなものを飼っていたら、世話しなくちゃならないんだから、人間の生活圏にいたと考えるのが自然。
素直に読めばいいのに。
592 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 10:08:31
お偉いさんは、歩きたくないんだから、当然倭人に「あるくのか?馬はいないのか?」と聞いたであろうから、
事実いなかったのですよ。
邪馬台国=馬を邪とする国
>>593 馬とは畿内にあった勢力を指してる可能性がある
595 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 10:44:41
小沢の騎馬民族説の具体的内容を知って改めてビックリした。
なんと、騎馬民族征服説と、邪馬台国東遷説を足して二で割ったものだった。
九州の騎馬民族国家が、東遷したと言ったらしい。
なめんじゃねぇぞー
ローガンさんとか河童さんとか
2ちゃん専門でやってる人が『幅を利かせる』っていうんなら
分からんでもないが、なんでヨソ専門の人に鍛えるなんて
エラそーな事いわれんといかんのだね?
河童さん、2ちゃん専門でやってる人として、新入りに言い返してやれww
>>595 さすが小沢としか言いようがないな‥
やっぱ日本人じゃないだろ。
598 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:14:23
学者が怠慢だから小沢がのさばんだ。
少しは反省しろ。
599 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/25(金) 22:48:56
博物誌として、馬や牛は居ない、と読む。
この時代半島南部には、家畜の馬、牛が居る時代である。
600 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:02:19
卑弥呼の鬼道は、五斗米道に似たものだと思われた可能性もある。
魏志倭人伝を軽視するなら、畿内説を考古学で説明してるように考古学で九州説を否定してほしい
>>600 その可能性に、華僑が関係している可能性はある?
603 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:05:22
分からない。
他人の空似かも。
ただ、卑弥呼の少し後の時代になると、神仙思想や道教の影響が顕著になる。
単に影響を受けただけだと思う。
605 :
604:2009/12/26(土) 22:19:04
パン
>>603 うふふ。
倭国乱で倭国王の権威が失墜したあとを受けて、
卑弥呼を盟主とする祭祀同盟を作り上げたのは、
諸国の市場を押さえていた華僑の鬼道ネットワークなんだよ。
「韓国を歴て、 拘邪韓国に至る七千里、始めて度る千余里、対馬国に至る」
「韓国を歴て」、だから拘邪韓国は韓国じゃないな
609 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 01:45:55
だから 魏史を全て信じたらあかんよ。倭の記述以外もめちゃくちゃやからな。
他スレで似たようなレスがあった
馬韓についてだが、その国は魏と交流もしくは敵対関係があったのだろうか
畿内説を考古学的に肯定してるのならば、考古学的に九州説を批判してほしい
612 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 10:21:39
>>607 華僑ネットワークはともかくとして、卑弥呼が大陸情勢にやたらと詳しく、
外交上手だったことは確か。
誰かが情報をもたらしていたであろう事は明白。
卑弥呼の後に、神仙思想の影響が強くなるが、
卑弥呼の時代にも何らかの影響があった可能性を否定できないかも知れないけど、よく分からないなあ。
>>612 卑弥呼の嗜好品に鉛丹とかが贈られてるでしょ。
これは飲むはずのもんだから神仙思想的ではある。
614 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:35:06
外交上手かどうかはわからんが。
今の日本の政治家とは比べものにはならんほど。
駆け引きはできただろうな。
戦国時代の武将やイタリアの小国分立時代のように、ボーとしてたら生き残れない。
>>612 >大陸情勢
公孫氏の滅亡、明帝の死去、呉との緊張関係、など。
情報が入っていたんですかね。
>神仙思想の影響
三角縁神獣鏡がそれを表していると思いませんか?
神仙と辟邪のための道具ですよ。
616 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 15:22:42
後から見ると 公孫氏の滅亡、明帝の死亡、呉との緊張感。すべて倭人の外交に利するばかりだけど。
偶然じゃないかな!
でないと 生口若干と少しの布で挨拶いかないよ。魏側が大袈裟に仕立て上げた!
都にも行くつもり最初はなかったんじゃない。
617 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 15:37:42
両国が互いに利用しあったという感じがする。
618 :
縄文人:2009/12/27(日) 16:27:18
だいぶ長い間留守していたが、どうやら邪馬台国は九州で決定のようじゃないか。堂の後古墳が5世紀後半か、妥
当な数字だな。これでホケノ山は6世紀となり、とすれば箸墓は6世紀後半か。今まで3世紀半ばなどといっていた
のは何の話だったのかということになる。これはいよいよ畿内説考古学者のこれまでのペテンに対する懺悔が始ま
ったと解釈していいのだろうな。ぐははは。
まあ、いつまでも世間を欺いているのはさぞやつらいことだろうて。正直なことを話して後生を軽くしておくというのは
正しい考えだ。纏向は5世紀代の宮地、倭人伝とは何の関係もない。だいたい3世紀の頃にはこのあたりは盆地湖
であったことは証明してやったではないか。畿内説はご苦労さんなことだ、御用学者を信じてさぞや悔しかろう。ぐは
はははははははははああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
619 :
神武の子孫:2009/12/27(日) 16:50:17
奈良湖と大和川についての下記の資料を見て考えてみるのもよいかもね。
620 :
神武の子孫:2009/12/27(日) 16:52:02
621 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 17:40:00
マキムクが5世紀なら、
唐古・鍵遺跡が卑弥呼の居城になるだけなんだけどね。
むしろ、環濠があるし、相応しい。
622 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 18:45:45
>堂ノ後
まあこの件でこの板の九州説の連中のレベルの低さを改めて思い知ったwww
象形(鳥形)埴輪や須恵器が出る古墳を最古とするキチガイぶりw
正直いくらなんでもこの板の住人じゃなくて
ν速+あたりにスレが立ってそこから一見さんの厨房が流れ込んできたんだろうと思って
確認しに行ったよwwwwwww
もう邪馬台国を九州に持ってくる事で
いや、畿内説を否定することでアタマ イッパイ イッパイ wwwwww
日本の歴史全体を俯瞰するなんて事は
このアホ連中にはもとより脳味噌の中に無いwwwwww
>>618 縄文人
で、ハンドル元にもどしたんか?
ナンチャラ二世と言うのはもう使わないのか?wwwwww
草生やす奴が言っても説得力ないな
624 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:02:54
しかし、そのwwwの知識を上回る奴は、畿内、九州説問わず居ないのも事実。
悔しかったら誰か指名してマッチメークをしてみろ。
「知識」じゃなくて
「屁理屈」だろw
626 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:15:27
>>624 アホな事言いなさんなwwwwwwww
先ず文献に関しては漢文はチンプンカンプンだし
考古についてもそこら辺の古代全般に渡って書いている物を数冊読めば得られる程度のレベル。
ただ特に九州説の連中はその知識の多寡に関係なく
出発点から間違っている点で既にイタイ状態になっているのが問題wwwwwww
文献で言えば基本単一史料の倭人伝は他文献との比較検証もできない
それでもそれを元に論じたければ史料の徹底的な批判が必要になる。
(まあ具体的にはどの部分が信用できてできないのか…等々の検証とかかな?)
それをすっ飛ばして、あっちこっち摘み食いして深読みしても
イミナイジャ〜ンの世界wwwwwwwwwwwww
627 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:17:37
九州派としては、ここはあの人に任せるのがよいかと。
と言うことで縄文人さん、究極の屁理屈対決をお願いします。
wwwを多用したところでDQN確定。相手にされてないことに早く気付けよ。
629 :
縄文人が逃げたみたいなので:2009/12/27(日) 19:31:57
>>626 しかたがないので、偽縄文人がお相手しよう。
まず、ホケノの年代だ。
布留0なるものが、成立するのかどうか。
主体部底のオーパーツ壷の存在から、
布留は1からで、0は希少器種の偏在性を使ったトリックなのではないかと。
630 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:53:30
>>629 先ず「布留0」の概念について確認しておきたいんだが
あれって元々庄内と布留の境界的な意味合いで
ぶっちゃけMK5( マジで 古墳時代が始まっちゃう 5秒前!)
…的な意味合いだと理解しているんだが
この認識に間違いはないのかな?w
(故にこれの年代幅を伸ばすような方向には違和感を覚えるw
無論、時代区分なんてのは所詮後世の学者のご都合に過ぎないんだがwww)
>主体部底のオーパーツ壷の存在から
ホケノの床に転がっていた…って言うアレの事だな?
この板でも天上の崩落時のものという意見もあるが
最初から床に置かれていたものだという確証はあるのか?
それにホケノの墓上での祭祀も築造完成後かなりの時間に渡って続けられていた可能性はないのかな?
俺がこの推測に至った材料としてはホケノの周濠の前方部分の幅がやたらに狭いのがある。
ぶっちゃけ板でも渡せば中に簡単に入れると言うか・・・
加えて今回直ぐ近くの堂ノ後が5世紀後半と言う事で結構その推測が当たっているのかな?と思っているんだがwwwwwwww
九州説は大変だな、畿内説を否定する事に忙しくて。
たまには候補地や遺跡で納得させて欲しいもんです。
632 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:04:47
>>630 前方部裾の葺石を外して追葬された木棺墓の年代が、布留0新相〜1。
曹操の墓が見つかったらしいな
卑弥呼の時代は曹ヒだから関係ないか
でも時代が近いだけにwkwkする
634 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:56:14
これか…
三角で「500対0」を馬鹿の一つ覚えで繰り返す奴は多いがw
元々魏代の墳墓は殆ど見つかっていないからな。
本当なら大発見だ。
それに「三国志」ファンって中国より日本の方が多そうだがwwwwwwwww
http://www.asahi.com/international/update/1227/TKY200912270256.html 【北京=峯村健司】中国中央テレビによると、河南省安陽市で、
「三国志」に登場する英雄として知られる魏の曹操(155〜220)の陵墓を発見した、と同省文物局が27日発表した。
陵墓内からは、60歳前後とみられる男性と2人の女性の頭や足の骨が見つかった。
専門家の簡易鑑定によると、この男性の骨は曹操本人のものの可能性が高いという。
陵墓の面積は約740平方メートル。
文物局が昨年12月から発掘を進めていた。大部分が盗掘されていたものの、
二つの墓室の中からは、200点以上の金銀や鉄、銅などの埋葬品や鉄剣が見つかった。
その中には、曹操を示す「魏武王」という銘文が刻まれており、専門家は「最も重要な証拠」としている。
中央テレビは「曹操をめぐっては不明な点が多く諸説があったが、今回の発見で多くの解明が進む」と意義づけている。
卑弥呼と同時代だから凄いね。
>>630 > 先ず「布留0」の概念について確認しておきたいんだが
> あれって元々庄内と布留の境界的な意味合いで
布留0を布留1から分離する論理は微妙。
基本は纏向辻地区第4祭祀土坑内の層位関係に由来するらしいが、
器種的にはほとんど同じものが共存している。
わずかに0段階では小型丸底鉢の定式化の有無くらいしか無い。
> (故にこれの年代幅を伸ばすような方向には違和感を覚えるw
というか、0を設定しなければ、0段階とされた遺構は1段階に含まれることになる。
> 無論、時代区分なんてのは所詮後世の学者のご都合に過ぎないんだがwww)
>
> >主体部底のオーパーツ壷の存在から
>
> ホケノの床に転がっていた…って言うアレの事だな?
> この板でも天上の崩落時のものという意見もあるが
> 最初から床に置かれていたものだという確証はあるのか?
墳丘上に置かれたものが、墳丘土、礫槨、木槨を押しのけて都合よく着地したと考えうる確証の方があるのかな?
実証実験でもすれば白黒つく話だけど。
> 俺がこの推測に至った材料としてはホケノの周濠の前方部分の幅がやたらに狭いのがある。
> ぶっちゃけ板でも渡せば中に簡単に入れると言うか・・・
祭祀の必要があれば濠の幅は関係ないかと。
637 :
神武の子孫:2009/12/27(日) 21:43:32
曹操はやはり傑物だったんだな。兵法の研究者であり実践家でもあった。彼の編み出した兵の訓練法、命令
伝達システム、対騎兵戦法などはそれまでの戦争を一変させた。その上に、文学(詩文)にも通じていた。
酒の醸造法や料理法にも通じていたというからね。まさに文武両道に秀でた人物だったのだな。
>>634 曹操の墓って、てっきり薄葬なのかと思ってたのに
結構副葬品が納められてたんだな。
639 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:55:37
>>636 …で、布留0を元々の定義からもw出土の器種構成からも
できるだけ年代の幅を取らないのが望ましい…いっそ布留1に含まれるとしてだ
じゃあその布留1の実年代は?(4c半ばか?w)
その数字の根拠は?
…って話しだな。
もう最初に言っておくと所詮年代論は
基準となるべき実年代の数字の根拠が正しいか否かで
土器様式の変遷をどれだけに区分するか?
一つ一つの区分、あるいは全体の年代の幅をどれくらいにするのか?…なんてのは本当サジ加減一つwwwwwwwww
本人が倹約家だからって、子孫もそうとは限らないからな。
641 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:58:43
>>639 そう、だからこれも倭人伝の解読と同じで現状では水掛け論。ただ、倭人伝とは違って考古資料は積み重なって
いく。おそらく今後九州説が有利になることはない。
642 :
神武の子孫:2009/12/27(日) 22:01:01
>>639 う~い。チミは真面目だの〜。ほんとサジ加減でコロコロ変わり得るのだ 今のところはね〜
643 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:02:39
>>638 >>640 まあ曹操自身は帝位にもついてないし
その墓も事実上中原の覇者たる者の墓として相応しいのか質素なものかは
写真ででも見てみない事にはなんともwwwwwwww
644 :
神武の子孫:2009/12/27(日) 22:04:20
>>641 チミの認識は間違っていることを認識すべきところその認識を持てないチミが哀れ。
645 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:23:36
646 :
メ:2009/12/27(日) 22:44:54
うーん 曹操の墓の外観写真はないの?
薄葬っていうのは副葬品を盗堀されない為の薄葬でしょうしね。
647 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:48:29
>>645 思ったより立派っぽいwwwwwwwww
まあ邪馬台国論争から言えば鏡の出土が欲しいところw
流石に曹操自身の墓なら内向花紋か方格規矩だと予想するが…
万が一にも神獣鏡なんて事になったら九州説発狂だろうがw
648 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:00:20
>>639 布留0の年代幅を狭くすると、庄内との接合が困難になるだろ。
馬具や須恵器が出始めるのが400年前後というのが現時点での多数説。
その時期は布留1の末期でもある。
これを素直に認めて、布留0を短くすると、布留1はせいぜい50年の幅しか取れないので
庄内が4C以降になる(昔の定説)。これでは完全に畿内説は成り立たない。
布留の問題を置き去りにして、庄内の遡上を年輪年代で先行させたが、布留との接合が
できないでいるのが現在の状況。
布留1を細分化する方向性が模索されているが、今のところうまく行っていない。
なので布留1の年代論は一時中止。
白石のように馬具も須恵器も350年頃まで遡上させる方向に向かうしかなさそうではあるが、
それをやると仁徳〜雄略までの記紀の記述の大半を否定する必要性が出てくる。
なので、この方向への相乗りはほとんどいない。
今は大本営が方針を打ち出すのを待っている状況かな。
649 :
縦目仮面:2009/12/27(日) 23:01:05
650 :
メ:2009/12/27(日) 23:11:08
鏡がなかなか発見されませんよね
魏の時代の王クラスの墓から出ることを祈るしかありません
652 :
メ:2009/12/27(日) 23:24:47
>曹操の墓と伝えられている陵墓はほかにも多く、
>安豊郷西高穴村の“曹操”高陵を「根拠のない伝承」と疑う声も多かった。
>河南省文物局の陳愛蘭局長によると、墓の規模や状況などが当時の記録と合致し、
>内部の壁画も後漢末から魏にかけての時代のものと判断できた。
てことは、はじめっから薄葬ではなかったということか...。
653 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:29:55
薄葬厨は死んだか。
これで、九州に卑弥呼の墓が無い理由付けができなくなったな。
残念でしたね。
654 :
メ:2009/12/27(日) 23:41:31
ううう・・・寒みぃ〜おれの部屋は広いからヒーターがあっても
なかなか暖まらないんだよね
っていうか、ここ終止符スレじゃないじゃん
勘違いしてレスしとったわwww
>>648 > これを素直に認めて、布留0を短くすると、布留1はせいぜい50年の幅しか取れないので
> 庄内が4C以降になる(昔の定説)。これでは完全に畿内説は成り立たない。
庄内開始をどこに置くかは別にして(3世紀前葉でもかまない)、終末が伸びる。
同一遺跡から庄内と布留が出ることは稀(ホケノはその「稀」)かもしれないが、
大和庄内も相当長期に渡って布留と共存していたんですよ。
製作者集団を異にするがために供出しないだけのこと。
主観以外の意見が聞きたい
ねむい
657 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 02:13:41
>>648 先の箸墓周濠出土の鐙の時よりやや修正してきたのかな?w
まあ、それなら馬具が出だす5世紀初頭までの半世紀ぐらいに
布留期の古墳群押し込める事はできるんだろうと思うがwww
でも素朴な疑問、仮に奈良盆地の南部の古墳群は良いとしても
問題は北部の佐紀とかがどうなるかって事で
今日常識的に言われているのは盆地南部に発生したヤマト王権が
盆地北部を経て河内に進出…と言うのが通説に近いシナリオだったと思うが
(他に佐紀に向かった勢力と河内に向かった勢力は別と言う説もあり)
>>648の年代観だと盆地の北と南の古墳群はほぼ同時に(4c半ば)スタートした事にならないのかな?w
(それとも北部のものは更に圧縮をかけるか?)
もっとも記紀の内容を丸呑みするならそっちの方がむしろ良いんだろうがw
盆地内で民族移動もないだろw
平城京→平安京 程度の遷都だろ
659 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 02:44:57
>>647 九州説だって、△を卑弥呼の鏡とみる説があるんだよ。
>墓の規模や状況などが当時の記録と合致し、
これで当時の記録の信憑性も高まったな
魏志倭人伝も然りだろう
661 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 06:10:05
必死に薄葬だって言ってたのに?
薄葬の基準はその人や家の価値観によって違うんだろう
663 :
メ:2009/12/28(月) 08:52:45
>>661 そうです、そうですw
貴方はよく本をよんでいますよねww
あれだけ、薄葬だろうと言われてたのにね
664 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 08:57:34
陳寿は、そもそも邪馬台国には来ていない。
渡海せず、半島止まり。
事細かな風俗の記載はおそらく20年近く邪馬台国に滞在した張政らからの伝聞
たとえば、名無史さんの今現在いる地域が住み始めて20年経ったとする
名無史さんがそこを訪れたこともない誰かにどんな地域か上手く説明できないこともない
陳寿が邪馬台国に来なくても同胞の20年間で十分
666 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:20:45
邪馬台国が九州南部にあったことは、倭人伝の記述から、誰が考えても常識的で疑う余地はないが、
早く、卑弥呼の御墓が発見されてほしい。
でも、卑弥呼の墓なんて特定できるはずもないか。
すでに御墓そのものが、長い年月の経過で、知らんままに崩壊しているのかもしれん。
20年って何を根拠に?
>>666 卑弥呼の墓なら大和にあります、何時でも参ってください。
行ってくるからどこだか教えれ
JR桜井線巻向駅下車、南へ徒歩5分です。
671 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 11:07:41
それは男性の墓だろ。
いや箸墓でしょ
マキムクスレは曹操の墓スルーだな
まぁ、あいつらは邪馬台国よりもヤマト政権の遺跡に価値を感じてるからな
>>673 それは住人が複数のスレを出入りしてるだけ。
675 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:47:24
地方泡沫政権の 何処にでもいる 巫女の墓なぞ 埋もれてる。
これからも見つからないよ。
吉備にも大和にも阿波にも ヒミコクラスの巫女はいたよん
676 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 15:41:31
正直、吉野ヶ里はショボ過ぎる。
万一あれが邪馬台国だった場合、みっともなくて暴れざるを得ない。
678 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 16:28:19
日本は もうすぐ中国に飲み込まれるんだから。
こんな論議は無意味!中国人の考古学担当が決める事。
転寝してたら卑弥呼と卑弥弓呼が夢に出てきて仲良く志布志湾で海水浴してた
680 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 17:31:40
>>678 韓国の発言とは比較にならないからな。
実際有りそうで怖い話だ。
小沢も畿内説派なのか?
小沢は騎馬民族征服説を言っただけだよ。
684 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 18:19:13
邪馬台国は ショボイ村落連合だった
>>679 卑弥呼
「キャキャキャ ウフフ、捕まえられるものなら捕まえてごらんなさ〜い。そ〜れ(バシャーン)」
卑弥弓呼
「こいつう、やったなぁ〜」
張政
「おまえらいい加減にするアルヨロシ…」
ヤマト政権と比べたらショボかったかもしれないな
687 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:13:52
畿内勢力のほうが大きな勢力だったからこそ、
邪馬台国は魏の封柵を受けて、後ろ盾の権威をもとに独立を維持しようとしたわけだし、
魏の使者に賄賂でも渡して、大きな国のように誇張して伝えたのではないかと思う。
688 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 23:32:45
3世紀に封柵するに値するような国は畿内にまだない。
それを言うなら「柵封」だよw
いや、それを言うなら「豊作」だろう。
マア
>>688 は小ネタだが、上手く育てれば第二のサイキバ君になれるかも。
692 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 02:11:58
人の振り見て我が振り直せ…念の為単語登録確認とwwwwwwwww
>>684 トヨは翡翠らしきものを献上してんだよ
想像以上に広範囲な勢力をもってたんじゃないかと思うな
トヨタン・・・・・・・・・・
翡翠は日本の各地で産出してた
それに、トヨがものすごい美少女で各地のブサ男王どもが求婚の証に献上したものを
そのまま魏に献上した可能性もある
トヨタン・・・・・・・・・・トヨタン・・・・・・・・・・
卑弥呼が勝手に邪馬台国を名乗ったって説もあるみたいだな
自分が本当の王だと主張することはあったとしても、普通そんなことするか?
>>697 「勝手に」ということは、当時卑弥呼以上の権威が
日本列島にあったという意味になってしまうが…
そんなところが当時あったのやら…
邪馬台国を号していたのなら、それはそれでいいじゃないの。
699 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 12:28:45
吉野ヶ里は、当初から失笑ものだったはず。
理由は、
・栄えた時代が古過ぎる。
・卑弥呼の時代には、完全に斜陽化していた。
・人口が少な過ぎる。
・全体的にしょぼい。
700 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 12:34:19
吉野ヶ里の不思議
・数年前は中国と共同調査を行い、「こ、こんなに共通点が…!」とかやっていた。
・現在は「日本の中の古代韓国」(by韓国の国立中央博物館)という立場をキープ。
701 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 13:00:51
吉野ヶ里遺跡は、
2世紀までの倭國(倭面土國)王帥升の城郭、
3世紀末からは不彌國の城郭。
2世紀末から3世紀は、伊都國(惣座遺跡)が倭國(倭面土國)王帥升王統の城郭。
702 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/12/29(火) 13:07:51
吉野ヶ里遺跡は、
2世紀までの倭國(倭面土國)王帥升の城郭、
2世紀末からは不彌國の城郭。
2世中庸から3世紀は、伊都國(惣座遺跡)が倭國(倭面土國)王帥升王統の城郭。
703 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 13:16:19
戯れ言をいうなよじじい。
九州王朝なんて叫ぶ時点でネタです。
>>698 畿内のヤマト政権もしくは、その前身
マキムクの遺跡はそれだと思う
706 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 22:50:55
>>699 吉野ケ里遺跡の栄えた時代は、卑弥呼の時代を含む、これはその当時の定説。
石野博信さんもそう言っている。
「卑弥呼が死んだのは、西暦247,8年だから、少なくともその時代は含む」と。
卑弥呼の時代と違うといわれ始めたのは、1996年から。
池上・曽根遺跡の木材を年輪年代で測定したことが発端となり、畿内の時代
が、だいたい100年遡った。
もっと重要なのは、吉野ヶ里遺跡からは、倭人伝に書かれたものが出ている
こと。纏向からは出ていないな。だから、どちらが邪馬台国時代、つまり
倭人伝に書かれている時代にふさわしいかといえば、吉野ケ里だろう。
つまり、畿内説の年代観の方がおかしい。
>>706 巻向からも建造物の遺跡がでたし、環濠と呼べる
運河もあるぞ。
それに吉野ヶ里には丹の山がないが、巻向にはある。
708 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:08:53
>>707 纏向からは樓觀の跡らしきものが出ていない。
それに、「城柵嚴設、常有人持兵守衞」、というような状況が覗われるほどの
環濠・城柵が纏向にあるとは思えない。
丹の山は、阿蘇だと思う。弥生時代、九州各地にガンベラを供給していたこと
がわかっている。
709 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:15:31
>吉野ヶ里
九州説の連中は倭人伝との合致を喧伝するが(つうかいまだにそのネタ?w)
じゃああの環濠集落の何処に卑弥呼に仕えた奴婢千人を収容するキャパがあるのかって話しでw
推測されている集落内の人口が1000〜1200人。
中の人間全てをその奴婢に当てるのか?って話で
集落内に畑もあり一次産業(農業)に従事した者がいたのは歴然。
環濠集落内の普通の人口構成で一体何処に特殊性を見出すのかって事で
まあ卑弥呼をごく普通の環濠集落の中の一角の建物に引きこもっていたオバちゃんとするならそれも良いがwww
一応卑弥呼に仕えた奴婢と言うのを何らかの祭祀の専従者とすれば
1000人は誇張としても数百人の人間がいたとするなら
そんな場所は現在纏向以外にないだろう。
(あるというのなら教えてくれ)
なんせ東遷厨が「無人都市」と言うぐらい現在は一次産業の影すら見えないんだからwwwwwwwww
>>708 吉野ヶ里じゃないでしょ、それにベンガラは丹とは呼ばれないから。
ちなみに吉野ヶ里の棺から出た水銀朱は中国産のもの。
丹は曖昧に用いられる場合が多いが、
当時の中国なら間違いなく辰砂で水銀朱。
711 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:19:47
>>708 >丹の山は、阿蘇だと思う。弥生時代、九州各地にガンベラを供給していたことがわかっている。
ソース希望
712 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:22:44
>吉野ヶ里
まあ吉野ヶ里ブームに沸いたときは一般人はもとより学者もやはり九州説に傾いたらしい。
無論、吉野ヶ里が邪馬台国そのものなんて事ではなくて邪馬台国に繋がる遺跡が発掘されるんじゃないだろうかと言う期待感だろうがw
この板の東遷厨が蛇蝎の如く嫌っている直木センセイがかつて講演したときの内容を書いたものがあるが
はっきり「今は九州説が優勢」と言っているw
まあ今からすれば九州説の最後の輝き見たいなもんだったなwwwww
『 吉野ヶ里から邪馬台国が見える 』
このキャッチは
『 吉野ヶ里からグーグルアースを使えば纏向が見える 』
にしてはどうだろうか?wwwwwwwwww
713 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:26:43
>>710 >ちなみに吉野ヶ里の棺から出た水銀朱は中国産のもの。
事実とすると倭人伝には魏から水銀朱を大量に貰ったとあるから
九州に邪馬台国が在った可能性が高いですね。
714 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:33:40
曹操の墓の件ではっきりしたのは、
やはり、石碑が出てこないと話にならないということです。
状況証拠をいくら積み重ねたところで、どこかに齟齬を生じる。
歴史研究とはそういうものです。
>>713 >事実とすると倭人伝には魏から水銀朱を大量に貰ったとあるから
九州に邪馬台国が在った可能性が高いですね。
出雲・丹波にも渡ってますよ。
それに当時「丹の山」は紀伊半島と徳島にありますから。
716 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:48:52
>>709 倭人伝に書かれていることが一番重要だろう。
というか、それ以外が邪馬台国の根拠になるとも思えないが。
まあ、畿内説は勝手に根拠を作るしかないから、仕方がないが。
各地の土器があっても、それが邪馬台国の根拠にならないことは明らか。
婢千人については、その数が果たして当時の日本としてふさわしいかどうか
からはじめる必要があるな。
大体、纏向からは、宮室の跡も見つかっていないし、もちろん婢千人の
痕跡も見えない。可能性があるでは話にならない。
717 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:55:05
>>712 吉野ケ里は決定的なものだったのだろう。
世間もみんな九州説に傾いていた。
だから、畿内説はあせっていた。三角縁神獣鏡も挫折したし。
そして、ついに禁断の年輪年代に信仰を置かざるを得なくなった。
箸墓を卑弥呼の墓にしようとして、年代も合わせようとした。
でも、根拠がないから無理があった。
718 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:11:29
>>710 ベンガラの方が丹というんじゃないかな。
鉄丹といえば、ベンガラを指すらしい。
それに、薬の仁丹は、もともとは赤い色の粒で、ベンガラで着色して
いたらしい。ベンガラは、人体に無害だとか。
水銀朱を丹というのか、そちらの方が疑問。
719 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:13:57
>>716 >宮室の跡も見つかっていないし
はて?宮室の条件とは?
「あの大型建物は宮室足りえない」って話しだよな?
まあチョッと前まで纏向からは大型建物は出ないと言われていたんだがwwww
(実際太い柱を使っての建物がでてなかったからな)
実は個人的には「そうかもしんない」と思ってた時もあった。
つまり纏向の建物全てはビルト・アンド・スクラップ 短期間で壊される事を前提にして建てられたんじゃないかとw
720 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:17:18
中国では丹は水銀朱のこと。鉄や鉛では仙薬として錬丹術の材料にはならないよ。
>>718 中国の錬丹術では明確に水銀朱の事。
ベンガラではないです。
722 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:20:56
>>719 新聞なんかの発表では、神殿らしき建物の跡とか言っていなかったかな。
宮室という文字は見なかったと思うが。
723 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:25:02
辰砂は、大分や熊本でも取れるんだけどね。
でも、倭人伝の、丹の取れる山は阿蘇で、丹はベンガラだと思うのだが。
今はなんとなくとしか言えないが。
724 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:27:36
>>723 大分や熊本では当時の採取跡が無いから何ともね‥
この点に関しては今のところ畿内方面の方が有利だと思う。
阿蘇だとしたらまず火山について書くのじゃないか?
実際隋書では書いてるし。
726 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:58:31
>>725 阿蘇は火山だが、いつもいつも噴火しているわけじゃないし、煙を吹いて
いるわけでもない。
倭人伝の記述を見ると、対馬・壱岐・末盧国のことが詳しく書かれている。
伊都国についてもいろんなことが書かれている。
つまり、郡使の記録は九州のものだと思うな。
それに、棺に朱を大量を用いる習慣は、本来、九州のものだというのが重要。
727 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:03:44
>>724 719ではないが、もう少し論点を絞ってくれないと、つかみどころがない。
まあ、「纒向遺跡が邪馬台国時代の有力遺跡であることは、疑いのない事実で
あり」としながら、理由が、箸墓が卑弥呼・台与の墓であるとの説もあり、
こうした説が提起されるから、というのがいかにも橿原考古学研究所らしい。
728 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:07:18
>>727 いや、1年以上前 纏向遺跡に見学に行ったら、調査員の人に建物群は珠城山の方にあるだろう、と言われた
ものでね。
729 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:08:40
本気で畿内説が正しいと信じている学者なんていないだろJK
本気で信じているなら、批判や不利な事実を直視するはず。
730 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:26:19
>>728 なるほど。
しかし、リンク先読んでみたけど、纏向はなかなかわかりずらい。
731 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:17:59
で、面白いことにこの珠城山に近い遺跡候補地は、景行天皇の纏向日代宮に重なるんですよ。wwww
732 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 07:05:11
>>712 纏向遺跡はだだっ広いから。
まだ全体の極一部しか掘られていないし。
しかし、古墳て簡単に破壊されるものなんだよねぇ。
田畑になったり、道路になったり、頭削られたり、家建てられたり、盗掘されたり、
被埋葬者の亡骸が忽然と消えたり、古墳自体の増改築も盛ん…
733 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 16:51:55
巻向なんて、あんなものは、邪馬台国や卑弥呼とは何の関係もないよ。
当時の日本のあちこちに、邪馬台国と似たような国が何箇所かあっても何も不思議じゃない。
その内の一つが畿内にあったに過ぎない。
下らん推理して、畿内説を主張するのはいい加減にしろ。
邪馬台国は九州に決まっとる。
残念ながら巻向は邪馬台国の都ですから。
736 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:27:48
737 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:10:13
畿内説に根拠などいらない
信じさえすればよいのだ。
巻向は邪馬台国の都
巻向は邪馬台国の都
巻向は邪馬台国の都
739 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:30:18
奈良に大和朝廷があったのは間違いない。
では、その奈良を遺跡で遡っていくとどうなるか。
まあ、纏向に行き着くというわけなのだろう。
>>724によると、
纒向遺跡は、弥生時代後期の環濠集落や高地性集落が解体しはじめた時期、
つまり戦争状態の続いた弥生社会が終えんとともに、こつぜんと造営された
大規模遺跡である。
ということになる。
つまり、それ以前には、少なくとも大和朝廷に結びつくような遺跡は
なかったことになる。
この時点で、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫あるいは倭媛に結びつけるのは無理が
ある。
では、纏向を造営したのはどういう人たちか?
自生説が否定されている現在、よそからやってきた人たちということになる。
邪馬台国が九州にあったとして、そこの人たちがやってきたとするのが
東遷説になる。
畿内説を取れば、倭国の大乱の後、卑弥呼を共立し、纏向を建設した、と
いうことになるのだろうな。
>>739 俺は畿内説だがそういう解釈をしてるよ。
考古学上も文献上も今の所ほぼ辻褄があう。
3世紀は北部九州や吉備、阿波、河内の勢力が
大和にやって来て、卑弥呼が巻向で共立された状態だと思う。
土着の勢力も一部協力しているだろう。
741 :
崇神の末裔:2009/12/30(水) 23:41:14
>>739 <畿内説を取れば、倭国の大乱の後、卑弥呼を共立し、纏向を建設した、と
<いうことになるのだろうな。
纏向の遺跡群の年代が問題だな。3世紀のものであることが確定すれば上記の推定も可能だが、4世紀
以降のものでないという確証がないからね。
742 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:54:49
>>739-740 それらは外部からまとまった人口が移住してきたと言う事か?
それこそ考古学的に立証できていないと思うが?w
特に
>>739は
「(何処からかは分からないが)兎に角他所から人が移り住んできた事は事実」
…みたいな既成事実の捏造は止めてくれんかね?www
743 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:01:38
しかし、纏向を建設した人々は、それまでに畿内にいた銅鐸祭祀の人々ではないな。
>>742 740だが、ずっと変わらず住み続けていたとも
実証できないんじゃないか?
生活基盤と様式が様変わりしてるのは否定出来ないからね。
まあどれ位の人口が入ったかとは
判らないのが正直なところだろう。
745 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:03:30
無人都市のあとは移住都市か。w
746 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:09:55
>>742 しかし、奈良盆地あたりに、元から住んでいた人々が想定できない。
つまり、纏向に移った人が奈良盆地にいた痕跡がない、だから自生説が否定
されて連合なんていうのが出てきたわけだろう。
奈良盆地にそれなりの痕跡があるなら、畿内説の考古学者は喜んでその
考え、つまり自生説になるだろうし。
747 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:12:19
7 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/09/01(火) 11:29:30 ID:kWPuDRiK0
〜 織田信長の子孫に関する小ネタ 〜
●金スマ出演時に用意した家系図は某家系図業者共通の装丁で、
安住アナの指摘どおり「昨日作ったばかりのよう」な代物。
代々受け継いだものでないことは明らかで、歴史学的な検証には耐え得ない。
歴史ヲタにはおなじみの業者で、日本史板では落胆と失笑の声が上がった。
●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた。」
「桔梗は明智の家紋だから、織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
織田孝一氏(本名は織田信孝、フリージャーナリスト)によるコメント抜粋。
「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」
■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/
748 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:21:53
>>746 >しかし、奈良盆地あたりに、元から住んでいた人々が想定できない。
はあ?
マキムクから数キロしか離れてない唐古・鍵遺跡は、
弥生時代最大規模の環濠集落だぞ?
なにねぼけたこと言ってるんだ?
750 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:30:20
唐古・鍵だけではなく、この時期、大和において知られている14の母村集落の全てが衰退かあるいは消滅して
いるとする研究結果もあるし、やはり移ったと考えてよさそう。
>>746 チト考古ネタに参加
唐古・鍵遺跡はそれよりの古く
一般的に唐古・鍵遺跡→まきむくに移住した人もいると言われていますよね。
唐古・鍵遺跡よれい古いのとなれば、周辺ではありませんが
752 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:36:04
>>748 以前の畿内説はそれが主流だった。唐古・鍵の人々が纏向に移り住んだという説。
そして、それを自生説と言った。
期待を込めて唐古・鍵を掘り続けたが、石器くらいしか出てこなかった。
だから、畿内説の考古学者でも、自生説を取る人はほとんどいなくなった。
753 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:36:58
そもそも、じゃあ外部からの入植があったからと言って
纏向の勃興が説明がつくと言うものでない。
>>746は「文化の継続性が見られないから入植はあった」と言う事かもしれんが
じゃあ何処の勢力の入植があったら纏向の文化の発生を上手く説明できると言うのか?
纏向にそのまま繋がるような文化を持った地域が日本の何処にある?
(まあ大型首長墓による祭祀と言う点で俺なら九州は真っ先に候補から外すがwwwww)
文化の変容と人口の移動なんてのは別の問題。
そもそも纏向の搬入土器と言ってもMAXで30%位。
いくら他の遺跡より抜きん出て多いと言っても
移住者が打ち立てたなんてのを想定できるような数字じゃないだろうにwwwww
754 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:39:32
>>752 続きだが、その自生説が破綻して連合説が出てきたといってもいい。
周辺から移り住んだとすれば、連合説など必要ないわけだから。
奈良盆地
すぐには出てきませんが
ポツン、ポツンとなら唐古・鍵遺跡より古い遺跡はあると聞いています(集落ではないよw)。
マキムクに関しては、箸墓、祟神天皇陵、垂仁天皇陵、それから景行天皇陵の巨大な古墳(ようは文献と合う)
もあり、庄内式土器、布留式土器、特殊器台など出土され、奈良盆地でも
卑弥呼の時代に一番ふさわしく思える。
ただ、気がかりなのは、乗馬の鐙というんですか、こういう馬具は古墳時代中期が主ですから
ここら辺どうなのかってかんじですよね。
756 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:46:33
兎に角、「大規模な移住入植があったと」言うのなら
それを先ず証明してもらわんとな、話が始まらないwwww
「文化の断絶云々」言うのなら
「そのままストレートに継続できる文化を持った地域が何処にある」
と言い返せばお終いw
どの地域の人間が入ってきたところで急激な変化を起こしているには間違いなく
入植を考える必然性はないwww
>>752 マキムクに入ったのは、唐古・鍵系もそうですし、九州からもやってきており
どっちというよりも両方ともはいってるんじゃないの?
758 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:49:43
>>752 意味不明。
唐古・鍵から石器しか出てこないのと、マキムクとどういう関係があるんだ?
マキムクから鉄器がドカドカ出てきたなんて話は聞いたこと無いが。
おれも同意だな。
>>752は石器しか出てこなかったからといって、そうじゃなく、
そもそも奈良盆地のいろんな遺跡では、石器と鉄と混ざり合ってるって聞くし
時代が古ければそれだけ、石器は多くて当然だし、当り前だw
760 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:56:41
石器しか出てこないというのは、非常に遅れた縄文時代を彷彿とさせるような
遺跡という意味。鍛冶遺跡がたくさんあり、鉄器をじゃんじゃん作っていた
ような九州の遺跡とは比較するのも恥ずかしいと言う意味。
>移住者が打ち立てたなんてのを想定できるような数字じゃないだろうに
だから、納税者の方々の物だろ
食料自弁で年貢を納めに来たり、徭役労働に集められた人達が捨てていった物だよ
巻向の土器が7割で、搬入土器が3割なら、バランス的には違和感ない
むしろ、その土地の土器しか出ない遺跡なんて、求心力を持った都という匂いがしない
ただ、マキムクに関しては、九州系の土器の出土が少ない。
聞いたところによると、10器ぐらいかななのかな?
ここらへんを九州からマキムクに移住したと考える人は証明しなきゃならん。
まあ、マキムクの範囲は広い。
今の現状では、100%ある中の約5%しか発掘調査してないというじゃないか。
今後、九州から来た土器も含まれてる可能性は高いわけで、今後の発掘に注目だな。
763 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:58:37
唐古・鍵は水害には悩まされていたかもしれないが、農業、青銅器鋳造、絵画土器なんかで豊かに暮らしていた
と考えられるけどね。
>>760 >鉄器をじゃんじゃん作っていたような九州の遺跡とは比較するのも恥ずかしいと言う意味。
時代が下れば、畿内にだって鉄はじゃんじゃんでてくるでしょう。
時代だね、時代によってしょうがないというか、そういう時期じゃなかったのさ。
>>750 >14の母村集落の全てが衰退かあるいは消滅している
へぇ〜考古系のことはココ詳しいですよね。
終止符スレでこういうネタはあまりでないので、ヒトつ語ってくれませんか。
766 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:13:40
マキムク信者を見ていると昔のオウム信者を思い出すな。
・人が居住していた痕跡は極めて少ない。というか確実なものはない。
・土器の多さに比べて、建物跡が少なすぎる。
・出土した建物は居住の用をなさないバラック小屋レベルが大半。
・その中で唯一のものが例の大型建物。
現在の状況を普通に見れば、「大市」の古名のとおり、あそこは大きな市場であったと
しか結論付けられない。市場の中に大きめの神社があったに過ぎない。
それを「都市」とかいう大馬鹿がいるが、噴飯者だな。
都市というのは、人が2人以上居る場所を言うのか?
まだ5%とかいう更なる大馬鹿野郎もいるが、出てから言え。
767 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:14:22
>>764 唐古・鍵と纏向には連続性が見られなかったということだろうな。
768 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:17:31
>>766 で、市場と言うからにはそこで商業活動する人間がいたんだよな?
そいつらは何処にいたんだ?
朝、市場に出てきて夕方には帰宅の道についたのか?wwwwww
ついでに大溝だの古墳だのをボランティアで作ったのか?wwwwwww
769 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:20:20
>>766 大和朝廷が奈良盆地にいたことは確かで、その最初の所在地も遺跡として
残っているだろう。畿内説の考古学者は、それが纏向だと思っているのだろう。
他にそれらしき遺跡があるのだろうか。
770 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:21:01
>>768 それは、事実に対する反論になっていないことは理解できるよね。
事実は述べたとおりで良いんだね。
「土器の多さが異常であるにも関わらず、居住の痕跡がほとんど存在しないこと、
それがマキムクのすべてを象徴する事実ですね。
都市纒向とかいう頭の悪い連中というか洗脳の酷い連中には学者を辞めてもらいたいね。
771 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:24:24
>>769 記紀を読めば明らかだが、あの時代には「都市」なんてものは存在しない。
王が代わるたびごとに宮を移している。
それなのに、マキムクに固定した人口密集地区があるかのような妄想を抱いて、
居住の痕跡が皆無に近いマキムクを「都市」などというカルトがいることが異常なんだな。
日本で600面近く出土して、国外では0面の三角縁神獣鏡を舶載という連中もいるが、
正常な理性に従った言動をする学者が肩身の狭い思いをするのはおかしいよ。
>>766 >マキムク信者を見ていると昔のオウム信者を思い出すな。
いや、いや、マキムクの凄いところの一つで、
>>762でも言ったが
100%ある中の約5%しか発掘調査してないにもかかわらず、いろんな土器や
いろんなものが出土されている。
他の所でも、各地の土器が集合してるところもあるんですけども、
マキムクみたいにわずかしか掘ってないのに〜比率が違う、比率が。
>・人が居住していた痕跡は極めて少ない。というか確実なものはない。
今言われてるのに、三種の神器、とうは鏡・玉・剣のセットが初期古墳から出土される
事が言われてますよね。
それと、九州の平原遺跡でも出土した木棺がマキムク前期の古墳(ホケノとか)から出土してる。
これも移住の後かもしれんし。
>・土器の多さに比べて、建物跡が少なすぎる。
そりゃそうだw わずかしか掘ってないのに出てきたら凄い、てかつい最近出てきてるしw
>現在の状況を普通に見れば、「大市」の古名のとおり、あそこは大きな市場であったと
>しか結論付けられない。市場の中に大きめの神社があったに過ぎない。
>それを「都市」とかいう大馬鹿がいるが、噴飯者だな。
>都市というのは、人が2人以上居る場所を言うのか?
おれのレスをよくよんでよw
>まだ5%とかいう更なる大馬鹿野郎もいるが、出てから言え。
あのぅ〜マキムクの範囲は広いんですけど・・・・・w
773 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:24:54
>>770 先ず 「居住の痕跡」 とやらの定義を教えてくれんか?
今日高床式の建物を居住用にではなく倉庫に使ってたのみ…なんて言う学者もいないと思うがwww
774 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:28:42
>>773 イナバ物置で一家6人とか7人が生活できるか?
それともあの時代の人間は身長50cmだったのか?
お前タダのアホだろ!
唐古・鍵と纏向には連続性があるって言ってる人の意見をきいてみたいですよね。
ていうか、「唐古・鍵」と「纏向」の間って5キロだべw
丸っきりつながりが無いと考えるのはおかしくないかな〜?w
776 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:29:39
>>771 纏向が都市でないというなら、それは定義の問題だからかまわないんだが、しかし記の都地を持ち出すのなら、
ここがヤマト王権揺籃の地であることは認めるんだろう。なら人がいないということはありえない。
777 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:31:33
>>772 いや、だから土器が異常に多いにも関わらず、居住の痕跡がほとんどないという明確な
アンバランスがすでにはっきりしているわけよ。
それも土器は各地のもので比較的近場のものがあるも、九州のものはほとんどない。
その場所の古代の地名は「大市」である。
もう普通に考えたら、大きな市場と言うほかないわな。
778 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:36:09
>>774 ん?
なんで一家が暮らさなきゃならんのかな?
そんな事を言っている学者がいるのか?
寝言は寝て言えカスwwwww
各地からマツリに参加するためやって来た人間の為の宿舎と言うのが
纏向が紹介される時の大抵のイメージだと思うが?
『 無人都市論 』なんてのはこの板の東遷厨かサイキバ君レベルのアホがほざいているだけだろう?
学者の肩書きを持った人間で提唱者がいるのか?
いるなら後学の為是非教えてくれやwwwwww
779 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:38:45
そもそも(東遷厨の立場なら)4世紀にあった無人巨大市場って
何の冗談だって話だよなw
780 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:39:29
>>771 それは言えるかもしれないな。
橿原考古学研究所のサイトを見たのだが、
遺跡の推定範囲は東西約1.6`、南北約0.6`を測る。南には箸中西遺跡
(桜井市)、北には大豆越散布地(桜井市)、柳本遺跡、乙木・佐保庄遺跡
(天理市)と、多数の前方後円墳が連なっている。それら同時期の遺跡すべて
を、関連する一つの遺跡群とみることが可能であり、規模において3〜4世紀
の列島に比肩する遺跡はない。
となっている。「それら同時期の遺跡すべてを、関連する一つの遺跡群と
みることが可能であり…」というのは漠然としている。
纏向関連の調査発表は、大本営発表に似ているような気もするので、やっぱり
わかりづらいな。
781 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:39:33
>>778 ワンルームマンション説か?
あの時代の前にも、あの時代のあとにもそんな簡易建物は存在しないぞ。
ご都合主義もここに極まれりとい行った感じだな。
だからカルトと揶揄されるんだよ、お前らは。
>>777 >いや、だから土器が異常に多いにも関わらず、居住の痕跡がほとんどないという明確な
>アンバランスがすでにはっきりしているわけよ。
これから発見されますw
>それも土器は各地のもので比較的近場のものがあるも、九州のものはほとんどない。
あの〜出土物というのは「土器」だけじゃないんですよね。
マキムクから出土された「木製の仮面」知ってます?知ってるでしょうね〜有名だしww
あれも同じようなものが九州から 出土してるって知ってます?
>その場所の古代の地名は「大市」である。
だから、何度も言うがww マキムクってそこだけじゃないですよw
783 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:41:31
「居住の痕跡」の説明マダー?
☆ チン ハラヘッタ〜
ハラヘッタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧
ヽ___\(\・∀・)
\_/ ⊂ ⊂_)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| |/
>>755 >ただ、気がかりなのは、乗馬の鐙というんですか、こういう馬具は古墳時代中期が主ですから
ここら辺どうなのかってかんじですよね。
これがここから大量に出たのなら年代に関わるけど、
少量なら特に問題じゃないでしょう。
試供品みたいなものです。
アハハ おれがドンコイでマキムクだとか、「唐古・鍵」遺跡の考古的な話をしてるのも珍しいかもなw
九州は博物館だの、遺跡だの少しは周ってるので丸っきり知らないわけじゃないが、
近畿はあまりまわってないので、あまり話さなかったんだよなw
786 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:44:07
>>775 どうして5kmしか離れていないところに移住しなければならないのかというのも
あるな。
788 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:52:29
>>781 何か問題でも?
前例云々言うのなら、そもそもあんな規格化された(一説には魏尺)掘立建造物が整然と並んでいるなんて例自体無い。
じゃあ可能性のある説明として何ら不備は無いと思うが?
居住用で無いのなら倉庫か?
じゃあ貯蔵されていたものは建物の数に相当するぐらい出てきているのか?wwww
>あの〜出土物というのは「土器」だけじゃないんですよね。
>マキムクから出土された「木製の仮面」知ってます?知ってるでしょうね〜有名だしww
>あれも同じようなものが九州から 出土してるって知ってます?
みなさん、近畿の出土品はいろいろ知ってるみたいだが、九州のは知ってます?
これ知らなかった人もいるんじゃない?
790 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:53:21
古墳築造に関わった人は明らかにいたし、市に来てた人も明らかにいたんだよ。居住跡が出てないというのなら
まだ出てないか、他の場所にあるかであって、無人都市というのは非常識というしかないと思うけどね。
791 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:57:00
東遷厨が言っている「居住の痕跡が無い」と言うのは集落を構成・下支えする
一次産業従事者の居住跡が見つかっていないってだけの話で
もし本当に見つからないのなら
労力は遺跡の外からかき集めてきたと言う話になるだけで
畿内説がどうこうなるような話でもないwwwwwwwwww
792 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:57:33
>>783 居住の痕跡というのは、住居跡だろう。だいたい遺跡の発掘調査が行われると
住居跡が何件というのが発表されるのだが。纏向は聞かないな。
>>787 畿内説からしてみれば、そこを九州説に突かれてる所で、
マキムクはこれから出土されてくる可能性もあるわけで・・・
794 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:01:09
>>792 単なる同語反復w説明なのかそれ?wwww
集落のモデル自体が前例の無いものだからな。
まあ「纏向は無人でした」なんて話もここ以外じゃあ聞いた事は無いなwwwwwwwww
>>791 労力は主に東海方面から集めたんでしょう。
持ち込み土器がその証明だな。
796 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:03:14
そして、住居跡から人口などを割り出したりするのだが、そういえば、纏向の
推定人口というのも聞いたことがないな。住居跡が出ないから仕方ないか。
掘っ立て柱建築の寿命は数十年だ、大王の宮を一代ごとに移し変えるのも、その辺に由来するものだろう
だから、巻向で見付かった建物群が何世代にもわたり使われた物かどうかは解らない
現に、遺跡の一部はやはり同じ古墳時代のうちに造られた水路のために破壊されている
>>771 >記紀を読めば明らかだが、あの時代には「都市」なんてものは存在しない。
>王が代わるたびごとに宮を移している。
逆に、今回発見された遺跡は、その点には合致しているんじゃないかな?
遺跡を見る限り、綺麗な柱穴が並んでいる
同じ位置に建て替えられたり、重複して再建されたりした形跡は無いようだ
ああ、東海からの土器が一番でてるんでしたっけ。
「摂津」「河内」それから「吉備」も多いと聞きますよね。
799 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:09:33
結局、東遷厨が噛み付いているのは「都市」と言う語なんだよなw
まあ弥生都市論なんてのは纏向とか邪馬台国論争に関係ないところでも
言われるところであって
気に入らないのならリアルに学会とかに働きかけて
自分流の定義を浸透させて下さい…って話しだよなwwwww
向こうの終止符スレにも書いたが、今回発見されたマキムクの柱穴跡は
平城京と造りが同じだろう言われてますね。
そして、マキムクといえば、庄内式土器、布留式土器で、卑弥呼の活躍した時代と重なる。
ということは、卑弥呼の活躍した時にはマキムクに平城京みたいなのが立っていた。
イコール、マキムクは「都」となり、九州説は苦しいでしょうね。
一次産業から切り離され、政治や経済などの為だけに存在するのが「都市」だと思うよ
たしか、今までのマキムクは九州説勢から宮殿が「出ない、出ない」言われてきて
今回の発掘でそれが出てきた。
今回ので、九州説から畿内説へと乗り換えた人も多いでしょうね。
803 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:24:33
さして邪馬台国や古代史に関心のない一般の人なら、ああいう報道のしかたをされるとそうかもね。しかし、
この板にいるようなコアな九州説は乗り換えたりしないだろう。というか、ますます依怙地になる。w
804 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:24:50
>>800 纏向が邪馬台国である証拠は何もないよ。
畿内説が根拠としてあげるのが搬入土器だが、搬入土器があることと邪馬台国
であることとは何の関連性もない。
連合した勢力が纏向を建設したという畿内説の仮説の上だけで成立すること
だから。
805 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:27:27
>>802 建物の跡を宮殿というのは聞いたことがないが…。
>>804 魏志倭人伝には「都」とかいてますよね。
この都というのは倭の都。
日本全土の中で一番都に相応しいところが邪馬台国でしょうね。
>>805 失礼、「宮室」です。
吉野ヶ里に対しての・・・
808 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:34:56
>>800 >マキムクに平城京みたいなのが立っていた。
これもかなり誤解を招く表現だな。
>>808 いや、いや、テレビみましたか?
今回の柱穴跡をバーチャルで復元したものがテレビで紹介されてましたが
それが平城京と重なるということです。
810 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:39:48
平城京の建物のいくつかと重なるということでしょう。知らない人が聞けば条里制を敷いた計各都市と思うかも
しれませんよ。
811 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:41:35
そもそも吉野ヶ里のアレだって学者が集まって検討して
「これはコレコレの根拠をもって宮殿と言うに値する」
とした…なんて話じゃないだろう?w
工業団地として埋め立てられる予定だったものを
と・あ・る学者が地元の新聞記者に
「ここには倭人伝に書かれている宮室・楼観・城柵があるで〜」
と囁いて新聞報道が先行して宮殿と言う事で認知されたんじゃなかったっけ?
違ってたら指摘ヨロw
ぶっちゃけ宮殿だろうが神殿だろうが同じ
建物そのものが出てくる訳じゃなし
今まで出なかった大型建物が出てきたと言う事に意味があるんであって
もう言葉遊びのレベルで抵抗している東遷厨って何なのよ?とwwwwwww
たとえばですね、庄内式土器が270年ごろまで、布留式土器が270年〜と言われてるんでしたっけ(まちがえてたらすまそ)
マキムク遺跡というのは、この庄内式、布留式の時代なんですが、
庄内式、布留式土器はもっと新しいという人もいますよね。
仮に新しいとしてもですね、卑弥呼の時代のすぐ後にあそこに平城京と同等のモノがアル。
これは、九州説にとって苦しいと思いますよ。
813 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:45:16
>>807 発掘調査をした人が、そんなこと言ったことはないだろうということで。
一般的にいえば、大型の建物跡ということだろう。
>>811 >宮室・楼観・城柵
そうです、そうです、しかし丸っきり嘘でも無い。
あの建物を「宮室」という観方もできないことはないと思う。
815 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:50:55
正式な調査報告書では、「建物遺構」のような言葉を使うと思うし、邪馬台国の名前も出ないだろう。ただ、報道
のしかたが腹立たしいというならわかる気もするけどね。
さて、もう遅い時間なので寝るかな・・・ではソロソロ
zzzzz・・・・・・・・・
817 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 02:56:14
>>806 邪馬台国の状況について書かれているのは倭人伝だけ。
その倭人伝に、書かれているのが、
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞
宮室、樓觀、城柵の三つが揃っているから、吉野ケ里は邪馬台国じゃないかと
言われた。あるいは、邪馬台国時代の国を髣髴とさせると言われた。
このことについては、畿内説の考古学者も一致している。
しかし、纏向からはそれが出ていない。大型建物の跡も、神殿らしき跡と
いうのは聞いたことがある。新聞などでは、「邪馬台国の有力候補地」と
書かれることが多いが、樓觀、城柵については触れられていない。
つまり、倭人伝に書かれている邪馬台国とは言えないということだな。
畿内説の人の頭の中にある邪馬台国とは言えるのかも知れないが。
818 :
811:2009/12/31(木) 02:59:03
>>817 >樓觀、城柵
ここは高島さんが指摘してる所なんですが
これから出ますww というか吉野ヶ里みたいに田舎じゃないので消えてる可能性だってあるしw
では・・・・zzz
>>817 中国人が見て、吉野ヶ里のそれを、「宮室」、「樓觀」、「厳かな城柵」に見えるものかな?
821 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:04:18
>>818 佐原真だけじゃない。金関恕、石野博信なんかもそう言っていた。
822 :
811:2009/12/31(木) 03:06:22
>>821 まあ吉野ヶ里自体は知られていたからな。
それでも潰されようとしてたんだから
邪馬台国ブームサマサマってところだなwwwwwwwww
823 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:13:08
>>820 恐竜の化石と同じようなものかな。
大きさなどはわかるが、皮膚の様子や色などはわからない。
樓觀というのは、ただ高いだけじゃなくて、かなり立派なものを指すようだから、
郡使がそのような記述をしたということは、やはり高くて立派な建物だった
のだろう。
ちなみに、建物が高いかどうかは、柱穴の深さでわかる。
824 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:24:45
縄文の三内丸山の大型堀立柱も高いけどね。その上がどうなってるか想像の世界になってしまう。ww
825 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:31:19
だから、マキムクで人が確実に居住していた建物は一つでも見つかったのか?
ないのなら これから見つける 神の手で
ということを前提に議論しているのか?
826 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:36:20
>>818 当時、皆が、吉野ケ里の時代が卑弥呼の時代と重なると思っていたことが
わかるだろう?
827 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:41:30
>>812 本当は庄内式が320〜360頃で布留式は350頃〜というのが学者の本音だろう。
布留Tの終末は現時点では、400年頃になる。
庄内を180〜250頃とする連中は、布留0が240〜260頃、布留1が260頃〜としているが、
布留1の末期が400年ころじゃあ長すぎてまずいので、これまで布留1とされてきたものを、
布留T〜Vに分けようと躍起になっているようだな。
しかし、それはうまく行っていない。分けようがない。
馬具や須恵器を350頃に遡上させればよいが、そこまで馬鹿になりきれないハンパな連中だ。
とするとどうなるか、布留1が400年頃から遡るとするとせいぜい360頃にしか開始時点は
遡れない。そうなると、布留0が350前後。庄内開始は頑張っても300前後にしかならない。
だから、布留1をちゃんとした理由で細分化するしかないが、そんなの無理〜
これ以上嘘をつくのは嫌ですぅ(AA略)という連中の面倒も見なきゃならんからな。
828 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 03:59:34
まあそんなことを言い出したら、庄内だって、昔は一つの型式しかなかった。
「庄内は細分化できないし、すべきでもない。」というのが以前の定説だった。
実際にも、限られた地域でのみ少数しか出土しない庄内の区分は無理だった。
しかし、年代遡上という必要性から庄内の細分化が始められた。
庄内を土器の形の変化で分けるには、限界があった。
そこで土器の共伴関係で分けるという奇想天外な方法論が採用された。
「土器の形はAのままでもXを伴う場合は別の型式である。」などという区分がそれである。
土器の形の変化の速度からいえば、それではいくら分けても全体の期間は変わらないはずで
あるが、こんな区分で土器の存続期間を数倍にした。
庄内式の出土する地域は限定されたものであるという事実は変わらなかったが、それは無視。
庄内式の区分が妥当する地域は庄内式を出土する地域のなかのほんの一部でしかないが、これも無視。
それが庄内式である。庄内T〜Wなどといっても、所詮そんなもの。
829 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 04:01:17
まあ権力ある奴は何をやっても許されるという社会勉強だな。
830 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 04:11:20
てゆうか庄内式がT〜Wに区分できる地域がヤマト以外にあるのかと・・・
農業って、分散傾向なんだよな
古代は土地が有り余っているから、耕し易い土地から耕そうと、散らばていく
良質な土地は飛び飛びにしか存在しない、安全保障的には密集した方が良いが、水利やらなんやらを奪い合うだけだ
だから、耕し易い土地を求めて分散し、飛び飛びに村を作る、そして自衛の為に環濠を設ける
朝、農民が鍬を担いで田圃に出て行き、夕方になるとまた鍬を担いで戻ってくる
その行動範囲で決まる規模が、収容1000人とも言われる吉野ヶ里などの環濠集落の規模だよ
穀倉地帯を走る特急列車に乗ると車窓に田畑がずっと続く、でもそれは農業インフラが発達した近世以降
古代はぽつんぽつんと、農地と環濠がセットになった開拓地が、点在する光景だった事だろう
それに対して、政治と通商は集中傾向、それが都市
都市は地方から食料や人が供給される事で維持される
何の為に税をとり都市に運上させるか、それは給料だよ、都市で働く人に支給する
この段階では生産と消費という分離が起こっている
都市は、政治や経済の為だけに存在し、生産主体たる地方の村々を統合する求心力を発揮する
吉野ヶ里は、中世の荘園にそっくりだ
領主の館があり、一町四方くらいの縄張りを堀で守られ、楼門を設け、郎党が見張りをしている
荘園領主が分家すると、外に出て行き未開の土地を開墾し、新たな荘園を作る
それぞれが開発領主であり、独立自営農民であり、一朝事あれば自衛できる武装農民でもある
そして、その上位にあって、荘園を保護し、その対価として年貢を取るもの、それが都の権門あるいは幕府の将軍という存在だ
その上位者は都市に住み、地方の年貢で生活する者だ、直接生産には関わらない
邪馬台国もその様な地位の国であり、卑弥呼はその様な機能を有する「都・都市」にいて、全てをコントロールしたに違いない
もし、吉野ヶ里の様な環濠集落が邪馬台国であるならば、それは、中世で言うところの一荘園領主ていどの存在であったと言うべきだし
或いは巻向の様な都市が邪馬台国であるとするならば、それは、中央権門たる「王」と呼ぶにふさわしい存在である
832 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 04:18:08
>>831 吉野ヶ里については、国の状況が想像できるのだが、纏向については
想像できない。どういう風に考えたらいい?
>>832 巻向は生産地ではなく消費地、農地が回りに無くてもよい
中央権門の風格にふさわしい整然として威厳ある建築物
防御施設はあまり必要ない、都が取り囲まれる様なことがあれば、全て終わっているから
都市は人と物が集まる所、地方人の痕跡を示す搬入土器が出るべきである
人と税を集めて何をするか?、都の造営、古墳の建造など、大事業の痕跡は沢山ある
巻向は宗教都市もしくは宗教エリアだと思えば合点がいくんだ
三輪山信仰と深く結びついてる
そしてまた、その土地が略奪によって行われた
すなわち、その背後に富みの集中もしくは軍事的目的でもって得られた土地ではないことを物語ってる
>>829 >まあ権力ある奴は何をやっても許されるという社会勉強だな。
相変わらずルサンチマン(和名:怨み節w)爆発やねwwwwww
836 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 06:17:14
仮に自分が古代吉野ヶ里人だったとして、人口千人程度の田舎領主の為に、
巨大な墓を造り、殉葬されたいとは思わない。
俺は、死にたくない。
吉野ヶ里には、殉死者を出すほどの威厳が無い。
837 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 10:33:14
巻向を邪馬台国なんて、バカの妄想。
邪馬台国だって証拠なんて、まったくない。
あるんなら、出せ。
証拠?ヤマタイではなくヤマト、これで充分でしょ。
随書もそう書いてるしw
839 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:09:40
吉野ヶ里って、出雲だよ。
ただ掘立柱があったのではなく、出雲大社のような階段付きの建物が建っていたのです。
西暦874年3月25日の開聞岳の噴火橋で火山灰に埋もれた橋牟礼などの指宿付近の遺跡群。
南九州のこの辺りは人口密集地だったことがわかると思います。
さらに発掘が進めば邪馬台国につながる手掛かりが発見されるのではないでしょうか?
この付近の地名にも「牟」の付く地名が数多く残っているのがいますね。
もしかしたら、水俣湾沿岸から南九州鹿児島にかけての広い地域が邪馬台国だったのではないでしょうか?
だとすれば7万という戸数も納得がいきます。
http://www.minc.ne.jp/cocco/iseki/iseki2page.htm
狗奴国や隼人族が住めません。
箸墓=卑弥呼の墓ならば
狗奴国=許乃国であり、
ここの王は、武埴安彦命ということになる。
畿内説は今年も生き残れるかww
845 :
【凶】 【1820円】 :2010/01/01(金) 02:10:13
846 :
【大吉】 【1167円】 :2010/01/01(金) 02:14:53
>>845 続き。
位置的に、吉野ケ里の墳丘墓のすぐ隣なので、人為的な墳丘とすれば
間違いなく墓だろうな。
847 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 08:14:20
あそこは、墓ではありません。
地形的に集落から見下ろすようになっているでしょう。
当時の墓は威信的なものなので、見上げるようにつくられるものです。
キチガイの統計取ってみたいから畿内説患者は
性別と職業と年齢と畿内説歴年数を述べよ
九州説は100%電波だから統計不要だもんなw
新年早々から荒んでますねw
851 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 16:13:15
所詮2ちゃんねるだからな、これがデフォw
852 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 16:48:22
畿内説は100%電波だから統計不要だもんなw
853 :
↑:2010/01/01(金) 16:54:45
サイキバ先生、あけましておめでとうございます。
854 :
卑弥呼&壹與:2010/01/01(金) 18:04:39
皆さんあけましておめでとうございます。
畿内説の皆さんはよくもまあ年が越せましたね。これからまた辛い日が続くのでしょうが頑張って下さいね。
皆さんのアホなレスを落語や漫才の代りに楽しんでいる人達のためにめげないで下さいね。ではごきげんよう。
855 :
【中吉】 【1251円】 :2010/01/01(金) 22:10:43
>>854 畿内説は基本的にwwwwwだけだから、皆さんというのはおかしい。
>>838 隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。
日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。
これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。
608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行
この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはなく、当時の実力者(王)は推古天皇ではなく、実質的には、
嶋大臣の蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされ歴史
から抹殺)であった。
857 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:49:49
七万戸と殉葬をクリアーしたら九州説を支持してもいいよ。
個人的には、天照大御神と豊受大御神の関係が、卑弥呼と台与の関係を思わせる。
アマテラスがある日、「私は一人で寂しいから、世話係のおトヨを呼んでおくれ…」
と切々と訴えた事から、内宮と外宮ができた。
858 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:50:02
「殉葬者奴婢百餘人」なら葬儀で殉死した奴婢は百餘人の意味となるけど
「徇葬者奴婢百餘人」なら葬儀に服したとか巡った奴婢は百餘人の意味にしかならないよな。
この「奴婢百餘人」は泣き女のようなものじゃないかな。
859 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:51:50
七万戸は北部九州全体が邪馬台国と考えれば問題ないよ。
860 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:59:30
test
奈良時代でさえ全国合わせての人口が500万人だと言うのに
弥生末期の九州1島に35万人(7万戸×5人)もの人間がいたとは考えられない
九州で発掘される耕地跡は、環濠集落に付随する水田だけじゃないか
吉野ヶ里の人口は1000人程度のものだから、35万人分だと、吉野ヶ里が350箇所もあったと言うのか?
それをどこに比定するつもりだね?
吉野ヶ里の地形を地図で見てみ、あんな恵まれた環境が350箇所も比定できるものか
862 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 15:09:56
>>861 奈良時代(700年頃)の全国の人口が500万人だろ
弥生末期と言っても卑弥呼の時代は奈良時代のたった400年前だよ。
全国で400〜450万人の人口は有っておかしくない。
九州の人口を20%とすると80〜90万人。
北部九州で35万人で何の問題もない。
吉野ヶ里の人口1000人程度は集落内に住む支配者の人口で
周辺にはその何倍も人たちが暮らしていたから
350箇所も比定する必要はないけど
未発掘や破壊された遺跡も考えると北部九州には350箇所くらいの
吉野ヶ里級の集落はあったんじゃないかな。
吉野ヶ里には行った事があるけど、特に地形的に恵まれて訳ではない
何処にでもある様な所ですよ。
863 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/02(土) 16:17:49
筑紫平野に人口14万1500戸即ち71万人は収容できる。
この人口は現代の筑紫平野の大都市部を除く農村地域人口の7割だ。
九州では弥生後期以来人口が余り増大していないのだ。
同じ事が壱岐対馬においても見られる。
吉野ヶ里は不彌國だ。
吉野ヶ里遺跡1000人を支える周辺人口は5000人と推定されている。
一方、倭人伝では不彌國の人口は1000餘家即ち5000余人だ。
>862
400〜450万人は多すぎる
300年頃で60万、400年頃で150万という推論があるよ
奈良時代は、九州で75万であって、全国の12.5%だよ
資料↓
「近代以前の日本の人口統計」でWikipediaで検索してみ
865 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 19:53:48
>>863 江戸時代の筑後の人口は石高や人別帳から26万人と分かっているから71万人はあり得ない。
>>864 >300年頃で60万、400年頃で150万という推論があるよ
信憑性が極めて低い単なる推論の一つ、
稲作が始まって1000年後に急に人口が100年で倍以上になるのは変
300年頃から700年までに何か飛躍的に生産性の向上する変化があった?
>奈良時代は、九州で75万であって、全国の12.5%だよ
奈良時代の九州の人口を全国の12.5%と見積もるはだいたい正しいだろう
300年頃から700年にかけて人口の最も増加した地域は畿内で
九州は横ばいから微減
80〜90万人から75万へ減ったかもしれん。
原因は九州の倭が行った朝鮮半島への度重なる出兵だ。
>>865 単なる願望だな
根拠があるなら示してくれ
867 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:58:50
>>866 >300年頃で60万、400年頃で150万という推論があるよ
みたいな根拠の無い数字を出しても無駄。
こみこそ単なる願望だよ。
日テレで面白そうな番組やってるな
869 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/02(土) 21:08:23
>>865 江戸時代の筑紫平野全体の人口は、筑後の全部と筑前の一部と肥前の大部分の合計だから、
50万を越える。
江戸時代のほうが弥生後期より人口が少し少なかったのある。
壱岐対馬では、江戸時代と弥生後期の人口は同じ位であった。
安本キタよww
871 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 22:06:15
7万戸とか200カイリとかいう数字はそんなに重要ではない。
数字の誇大表記は今の時代でもやっている事だ。
九州には史実が多い事で九州できまりだろうな。
曹操の墓も史実が多いという事で認定されたしな。
宮内庁は日本が今まで信仰した文化や歴史上
もうどうしても九州説じゃまずいからあやふやにしてるだけだよ。
872 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 22:16:48
何の史実だよw
874 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 23:27:09
たけしの番組も〆は
東国原知事の高千穂プッシュで終わったなwwwwwwww
>>869 だから、どの資料に基づいて何と何を比較した結果、
>江戸時代のほうが弥生後期より人口が少し少なかったのある。
となるのかな?
876 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 23:37:10
>>875 相手すんなよ。そいつはただの電波だ。江戸と弥生を比べて江戸が少ないというのはありえん。
877 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 00:08:55
878 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 01:07:39
だから耶馬台は大和にあるんだけど
大和の王家は九州に淵源をもつ
でもって倭人伝の距離感は間違った地勢認識を
もとに書かれたもので参考にならない
これでいいじゃん
879 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 01:10:30
天孫降臨も福岡だってのに。
九州説以外はどれも文献に元ずく信憑性が全くないんだよな。
九州説以外は議論するに価しない。
曹操の墓も文献による史実の多さで中国政府に認定されたな。
中国や韓国に残る文献、九州北部に残る遺跡等からしても明らかに
福岡周辺で起きてた史実に間違いない。
まあ宮内庁がどうしても九州だと認めたくない現実も理解できるがな。
正月早々デンパを垂れ流すなよ。
881 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 02:17:02
>>878 2世紀後半から、朝鮮半島までも足がかりを持つ勢力が近畿地方にいたら
歴史がおかしなことになる。
全然おかしくならんけど。
戸数7万を無理やり九州に押し込んでくる
そっちの方が地政学的におかしいことだよ
884 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 03:38:42
>>883 畿内説の考古学者も、近畿地方全体を一つの国と考えても7万戸は到底
おぼつかないと言っている。
そのように考えると、7万戸の数字は誇大と考えるしかないな。
郡使は戸数を調査にやってきたわけじゃないだろうから適当なんだろう。
現在の自分の町でさえ、戸数を数えたことなどないし、数えろと言われても
数えようという気にもならないな。
戸ってのは平野の面積だよ。100戸で一里。
軍隊の記録なら、展開する面積を記録するのは当然だ。
勝手に人口と決め付けるほうがおかしい。
軍隊の記録じゃないしw
887 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 10:55:11
>300年頃で60万、400年頃で150万という推論があるよ
この数字はどのようにして出されたものなのだろう?
奈良時代を500万人とすると僅か400年間で8倍以上になったのか?
日本での水稲栽培は3200年程度前には北部九州で始まっており
最初の人口の急激な増加はこの頃起こったと考えられる。
それから1500年経って再び人口が爆発的に増加したとする要因はなんだろう?
この数字は変、何かの計算違いだろう。
>>885 それは郷里制の里でしょ。面積じゃないよ。
実数かどうかは別にして、九州内に20000、50000、70000戸の
国を押し込めるのは流石にネタでしょう。
そこへ更に狗奴国までとなると、もう誰も相手にしないよ。
>>889 >実数かどうかは別にして
別にすると検討する意味がなくなっちゃうでしょう?
>>889 実数ではなくても、ある程度の信憑性は当然あるだろうと思うので。
それなりの大国が、九州のみにひしめき合うのは
不自然ではあるでしょう。
892 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:58:45
>>891 馬鹿じゃね〜の。
文献は九州の事を書いてても当時から日本全国人は住んでんだよ。
ただ中国や韓国が知ってた情報の範囲が九州までって事だ。
東北でも北海道でもそのころに他の文化を持った人たちも住んでんだよ。
要するに関西もその一種。
中国や韓国に残る文献は九州の事を書いてんだよ。
要するに邪馬台国は九州って事だ。
畿内説ってのはほんと無理矢理のこじつけばかりなんだよな。
まあ宮内庁が天皇も日本の歴史も畿内発生にしたいがはっきりそう出来ない。
当時の畿内はただの別の文化を持った部族(豪族)がいただけ。
大和朝廷は九州からきた神武一族が発生させたものってのはちょっと勉強
すれば普通に分かる事だ。
その頃の機内は中韓の歴史にも登場するほどでもない、九州の神武一族に滅ぼされる程度の
文化しか持ってない部族(豪族)が仕切ってた程度にすぎないんだよ。
893 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 13:20:38
そしていずれ関西で力をつけた大和朝廷が九州を納めるようになり、日本書記を
大和の都合のいいように編纂する。
九州が中韓とやってきた外交も全て大和がやった事のようにこじつけたりするから
日本書記は中韓の文献からしても一致しない歪造と言われるんだよ。
研究が進むにつれ聖徳太子も架空の人物だという事もだんだん明らかになり
正倉院の宝物もいったい誰が何処からもらったの記述も全くない。
こんな適当なままにしてるのが宮内庁なんだよな。
中韓の文献や九州の遺跡等のを照らし合わせたら九州→関西はあきらか。
ただ宮内庁はどうしても関西発生にさせたいんだよ。
もどかしいな宮内庁もw
きっと仁徳天皇陵掘ってもガラクタしかでてこないだろうなw
894 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 13:47:01
チョンぽいな
895 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 13:51:41
前方後円墳はどう解釈するのかな
896 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 14:34:53
たぶん仁徳天皇陵とかは現皇室の先祖の墓ではないのだ
現皇室の先祖の墓なら確かな資料が残っているはずだ。
仁徳天皇陵とかは現皇室に滅ぼされた土着の豪族の墓だろう。
土着豪族であれほどの墳墓を築くのは無理ってもんだろ。
>892
九州の事しか書いてない、と決め付ける根拠は何にも無い
899 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:39:07
弥生時代に、丹後と朝鮮半島の交流がはっきりしてるのに、
九州だけって。
900 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:54:53
卑弥呼が朝鮮半島や大陸の情報に通じていたのは、帯方郡が魏の手に落ちて
すぐに使者を出したことからも明らか。
しかも、帯方郡までは特に障害になるものもなく行き来している。
九州が紀元前から大陸と交流があり、前漢鏡なども出ていることを考えると、
こういう行動を取れるのは、やはり大陸に精通していた九州の勢力だろう。
近畿地方などは、早い時期の大陸との交流がほとんど見られないのだから。
901 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 16:58:22
>>897 土着の豪族と言うより先住民かな
墳墓を築く技術を持って入植し農地の開拓も行っていたが
後から来た現皇室の先祖に滅ぼされたか支配されたのだろう。
次から次へと西から新しい勢力が入って来たのであろう。
902 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:07:32
邪馬台国とか議論してるやつらはヲタ臭くて気持ち悪いよ。
答えなど考えてもでないというのがわからんのかね?
>>900 君は丹波はどう判断してるの?
弥生後期なんて山陰東部は交流の形跡がはっきりしてるぞ。
906 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 23:38:32
>>903 日本海側もかなり発達の形跡が見られる。
記紀では、出雲が重要視されている。以前は、出雲から考古学的なものは
出ていないとか言われて、だから記紀は信用できないなどといわれたことも
あったが、今では古代史上無視できないくらい重要な遺跡がたくさん
見つかっている。
丹波もその延長上にあるのだろうな。
近畿地方では、丹波や近江あたりがもっとも発展していたらしいし。
逆に言えば、大和付近は近畿地方の中でももっとも遅れていた。
907 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 23:43:39
発展の度合いとして考えるのは、鉄器の量とその利用技術なのだが、
島根や鳥取からもかなりの鉄器が出ているが、やはり九州にはかなわない。
近畿地方はもっと少ないな。
交流の形跡って具体的にはなに?
鉄器の量がわかる資料を示せますか?
>>906 戸を面積だと書いた瞬間、議論が終わる。
松江=出雲 不彌=伊勢
を書いても沈黙する。
この場にいる者たちは概念の転換を受け入れられないんだよ。
>>887 日本の古代の推定人口というのは
元のソースが、考古学の長年定説とされてきた
農耕社会の開始時期:紀元前3世紀説を元に算出されたものが殆ど。
しかし、最近、水稲農耕の開始時期を遅くとも3200年前、
陸稲の開始時期を6000年前とした場合の
推定人口を算出したソースというのは
まだ、あんまり出回ってないと思われ。
纏向遺跡の研究で有名な石野教授が、
一度、考古学の年代を組みなおして、様々な分野に反映させるべきといったのは
そのため。
912 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:11:56
要するに、これまでの人口推計なんぞ信用してはいかんということだ。
913 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:35:05
今後、人口推定が大きく改定されたとしても
それで各地域の人口の比率が大きく変わるとも思えない。
むしろ稲作の開始時期を遡ればそれだけ九州のアドバンテージが減少する方向に向かうだろうなwww
914 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:35:39
まだ鉄が鉄が 言ってるやついるんだな(笑)
915 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:37:41
九州には鉄しか無いからな。
ヒッタイトは鉄の武器があっても
エジプトを征服するところまでいかずに
そのうちに、謎の民族に滅ぼされた。
半島では、伽耶が鉄の産地だったが
常に周辺国の草刈り場に過ぎなかった。
917 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:40:15
まあ鉄の位置づけはまだ学者さんでも意見の分かれるところじゃないのかな?
ただし鉄不足であったとしてもヤマトに巨大古墳が築かれ
古墳時代がスタートしてしまう事実は変えようが無い。
鉄器の保有数の逆転の後古墳時代がスタートしたわけでもない。
ちなみに神武東遷なんて事が本当にあったのなら
神武御一行は鏡はもってきた”らしい”が
より実用的な鉄(入手ルートや製鉄技術)は持ってこなかったんだろうか?wwwwww
918 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:42:10
ホントに鉄最強なら
九州が王都でないといけないんだがな。
919 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:52:14
この板で「鉄」が語られる時
スッポリ抜け落ちているのは製鉄のための燃料についてで
当然、化石燃料なんてものも無い古代、それは樹木に頼るしかなく
いくら鉄資源があったとて樹木の方が追いつかなくなる
…なんて九州説の連中は考えたこと無いんだろうなあwwww
920 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:54:02
九州の鉄優位は間違いないが、兵士一人一人が鉄剣を持っているような状況はありえない。鉄鏃にまわす
くらいだが、それだって黒曜石などと比べて特別効果が高いものとも。
921 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:55:34
そういう意味でも木の国は重要地だったんだな
922 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:59:00
人口はcarrying capacityとのからみ、つまり、ある地域で人口爆発が起こり、他の地域への積極的な拡散が
起きるということの繰り返しで増えていったはず。あとは渡来人。
青銅器文明のエジプトやギリシャがあれだけの建築を残せた訳だしな
前方後円墳は所詮、土と河原石なんだし鉄の量に依存しないとは思うが
924 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:38:35
ピラミッドは銅器だけで作られた。
925 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:41:19
まあ現実的には
ヒッタイトの鉄 <<< ナイルの肥沃な農地
なんだなw
ヒッタイトの鉄って、自力で還元してたの?
隕石の隕鉄を打ち伸ばしただけって聞いた事もあるけど
それなら量は微小だな、世界で最初に鉄器を使ったってだけで特筆されてるだけでしょ
927 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 03:24:38
鉄は重要。
ただ、その重要性を認めてしまったら、畿内説が成り立たなくなると
いうだけの話。
畿内説の考古学者も、以前は一生懸命、鉄を探していたのだが…。
928 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 03:44:57
『 昔は良かった 』 …by九州説論者
929 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 03:49:26
明治期、あるいは戦国後期から江戸時代初期など、まるで異民族に支配
されてしまったかのように生活、武器、文化、服装が変わり骨格・体型
の変化も急激に起き、かつその変化の遺伝要素が変異し定着しだす様子が
段々と解析されつつあるが、基本的にこの頃は大量の人種の混血という
ものは無く生活手段と生産性の変化が人体に形質遺伝を促してきわめて短期
に定着化している。今や遺伝子的にも変異の要素まで計量化出来る今縄文期
の日本人から弥生期への連続性は必然的である。恐らく縄文後期には既に
何らかの形で本州においては文化を共有する統一的なシステムが生まれ
ていたと考えらのではないだろうか。三内丸山遺跡には遠く畿内や出雲地方
と交易をしていた形跡があることを考えても、決して無理な考え方では無い。
>>927 畿内説だが当然鉄は重視してますよw
逆に九州説では水銀朱(丹)の重要性を認めると
一挙に苦しくなるからな。
勿論九州でも当時微量なら採取できただろうが、
弥生末期は徳島や紀伊半島が主な産地なのは明白だから。
931 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 11:31:41
九州の墓から朱が出ていることを知らないのかな?
932 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 15:20:51
>>931-932 成分分析の結果では、九州の墓から検出された水銀朱は
中国産とされてるけど。
対して出雲や丹波の弥生後期の墓のものは
大半が徳島、紀伊半島産で一部中国産とされてる。
大和の天神山の物は徳島か紀伊半島のものですよ。
934 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 16:15:41
>>933 これは同じく吉野ヶ里遺跡のもので始祖王といわれている。
確か、紀元前の甕棺で、これにも水銀朱が多量に使われている。
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-yda1/k-ych1/k-ysh5/k-yhe2.jpg 福岡県夜須町の東小田遺跡から出た甕棺の内部も全体が朱で塗られている。
前漢鏡が二枚出ているので、かなり古い。
古くから大量の朱が使われているわけで、これが全部中国製とは考えにくい。
何か根拠があるのかな。
それに、最も重要なのは、九州では、非常に古い時期からこのように棺の
内部を朱で染める習慣があったということ。近畿地方にはこういう習慣がなく、
ある時期から広まったということ。しかも、古墳という支配層の棺に
その習慣が見られること。
産地は特に重要ではない。
935 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 16:25:43
>>934 >それに、最も重要なのは
「東遷説にとって」重要なんだろ?
それ以外に何が重要なんだ?
936 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 16:52:18
東遷説に限らず、東征説にとっても重要だよ。
>>934 産地はとても重要だと思うけど。
当時の交流や人の流れを知る上でもね。
これは鏡や金印と違って持ち運びも出来ないしw
で、俺は畿内説の立場だが東遷論の立場を取るから
九州(というより中国だろう)の風習が東にも
広がるのは全然問題ない。
というより鉱脈を求めて1世紀前後に人の動きが
あったのだろうという立場だからな。
倭人伝の書かれた時期には大和が都になっていただけの事だ。
938 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 17:14:51
1世紀前後に動きがあった? 1世紀から畿内では朱を使っていたのかい?
940 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 17:31:43
>>5 >その海流に乗って来た人が各地に棲みついて
>それぞれ独自の文化が発達したんだろ
自分で
>>4を認めてんじゃん。
941 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 17:47:59
>>933 倭人伝では真朱を魏から大量に貰っている、
九州の墓から検出された水銀朱が中国産なら
邪馬台国は九州の可能性が高いな。
942 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 18:01:13
九州の水銀朱は、最近のイオウ同位体比の分析でも中国産の可能性が強いとされてる。もちろん古ければ
古いほど国産の可能性が低い。これは鉄なんかと同じ。ちなみに倭人伝以前の話。
>>941 九州の墓じゃ年代が古すぎだな。
それに出雲や丹波の墓にも一部中国産の物が使われてるからね。
>>942 弥生後期〜古墳前期で水銀朱の量じゃ
現状では茶臼山がダントツだな。
これはおそらく宇陀のものだろう。
944 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 19:00:34
>>926 >ヒッタイトの鉄
人類と鉄の最初の邂逅は隕鉄と言うのは聞いたことはあるが
念の為ググって見たが鉄鉱石から造っていたみたいだな。
まあ個人のサイトで孫引きになるから自分で確かめてくれ。
あと、トルコのカマン・カレホユック遺跡で、BC2100〜1950年頃の
鉄器と鉄滓、及び鉄分を含んだ石も見つかったらしい。
今まで言われていたヒッタイトの鉄製造より数百年遡る事になるらしいが…
>>929 >生活手段と生産性の変化が人体に形質遺伝を促して
念の為突っ込んでおくが…wwwwww
「後天的に得た形質は遺伝しない」
と言うのが今日の進化論のお約束の一つだったと思うが?
えーれーすまんことです。
948 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 20:44:30
>>939 そういうのは答えになっていないと思うが。
どこで、どういう風に使っていたのかを答えないと。
>>948 当然古墳の石室に撒いてた訳だが。
話の流れで他に何があるの?
日吉が丘遺跡だと紀元前1世紀とされてるよ。
>>941 なんておメデタイこと言ってんの。
国産が出ないから、九州はアセってんのに。
951 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:52:17
>>949 この時代に石室はないだろうが、まあ木棺の中とは書かれているな。
年代も文字通りには受け取れなくても、かなり古いことは確かだろう。
棺の中を朱で塗るというのはかなり特殊な風習で、中国にもないと思う。
また、九州北部に圧倒的に多いのも事実。
妻木晩田遺跡など山陰地方の遺跡でも聞いたことはない。あるかもしれないが。
それがどうして丹波にあるのかはちょっと謎かな。
尼崎市に田能遺跡というのがある。紀元前からある遺跡らしいが、ここも
ちょっと変わっていて、甕棺が出ている。九州でも限られた範囲からしか
出ていない甕棺がどうして尼崎にあるのか。
調べてみたら、ここも棺の中の遺骨が朱で塗られていたらしい。
また、銅剣の鋳型も出ている。銅剣といえば、これまた九州のものと言われる。
どう考えたらいいのか。一つの仮説は考えられるのだが。
952 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:05:10
カメ棺が奈良で見つからないことが、
東遷も東征も無かったことの証なのだが。
>>951 棺ではないが、古代中国では墓自体に辰砂を撒いてますよ。
それも相当古い。
それに神仙思想の影響下なら水銀朱の重要性は
説明するまでもないと思うけど。
丹波にあるのは謎でもなんでもない、交流が
あっただけの事でしょう。
撒き方の差も各地方の微妙な違いは当然有る事だしな。
それに弥生期だと丹波だけではなく、吉備の楯築遺跡でも
水銀朱は多量に(30kg)使われてる。
954 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:28:31
>>952 甕棺は時代がちょっと違う。卑弥呼時代よりは、かなり前と考えられる。
>>953 神仙思想というのは不老長寿の願うものなので、水銀朱のような毒性の
強いものは結局は人気がなくなった。墓に使うと言うのはあまり聞かないが。
楯築遺跡は、年代は新しいと思うし、吉備でも突然変異的な遺跡だと
思うが。
朱は朝鮮半島経由の中国からの輸入品
邪馬台国は、特産の絹や銀を主に輸出していた
956 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/04(月) 23:24:18
>>952 >カメ棺が奈良で見つからないことが、
>東遷も東征も無かったことの証なのだが。
奈良盆地に甕棺がないことは、甕棺風習が無くなってからの盆地侵入(移住)だ。
それと、甕棺の無い地域からの盆地侵入(移住)だ。
>>951 田能遺跡は猪名川中流域の遺跡
田能遺跡から数百メートルくらい離れていると思うんだが、大阪空港の滑走路を延長した際に、大型銅鐸が出ているらしい
それが出雲の物と同范であるという
たしか、田能資料館に写真があったと思う
958 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 01:21:43
>>954 年代遡上を批判してるくせに、
甕棺は邪馬台国時代より古いとか、おかしいだろ。
>>954 >神仙思想というのは不老長寿の願うものなので、水銀朱のような毒性の
強いものは結局は人気がなくなった。墓に使うと言うのはあまり聞かないが。
古代中国で墓に使う例は普通に多いよ。
ちょっと調べりゃ判ることだ。
それに神仙思想で錬丹術、水銀朱が重要視されたのは
3〜5世紀。まさに大和に大規模古墳が集中しだした時代と
一致している。それだけ需要があったという事だ。
>楯築遺跡は、年代は新しいと思うし、吉備でも突然変異的な遺跡だと
思うが。
楯築遺跡は2世紀後半〜3世紀前半とされているので
年代的には何の問題もないはず。
何か水銀朱についてはあまり良く理解してない気がするけど。
960 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 03:38:25
>>959 >楯築遺跡は2世紀後半〜3世紀前半とされている
箸墓を3C半ばとみる考えではそうかもしれんが、箸墓を4C半ばとみる
考えでは、同じく4C半ばになるけどね。
とにかく何が何でも年代を古くしようとしている連中は、藤村と同類にみえて仕方ないww
実際似たようなものなのかもしれんが。
961 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 03:45:49
藤村が九州厨の最後の砦
.
あっ!? 明けているので、おめでとうどざいまする♪ 良き寅年ですよぅに ・・・
lヽ、 /ヽ
i! ゙ヽ、 / ゙i! ..,, .,,.;;''⌒ヽ
l ゝ-─‐-/' i! , ,__,,;'" "'; ,ノ
,/" i!''" ....゙'';;..,,;; ,,Y"
,/' 〈 'i;;- 、,,
i' 'i, ゙"ヽ、
i! ● ● * ,'i ゙)
'i,::: ト─‐イ ::::::: ,/ ' ゙",;''i,-‐'"
,,-‐''"ヽ、 ヽ,_ノ ,,-‐ ,..;;;゙"
( ,,, '' ,,.-‐''" ,,'"´``´
ヽ,..-‐'' ,.-‐''" ノ-‐''"´
( ,. -'"
ヽ、,,.. -‐'''"
963 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 06:30:35
964 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 06:47:23
>>958 弥生末、北九州で甕棺が急に消滅したことを知らないのかな?
965 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 07:13:56
西征と言えば、景行天皇ですね
>>960 >箸墓を4C半ばとみる
考えでは、同じく4C半ばになるけどね。
根拠は?箸墓は関係なしでもそれは無理でしょ。
968 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 09:37:28
>>965 畿内では銅鐸が消滅したことを知らないのかな?
969 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 15:36:02
九州の銅矛が消滅したのを知らないのか?
970 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 15:45:08
971 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 16:41:22
銅矛は鉄矛に替わってるな。しかし、銅鐸は鉄鐸に替わったわけではない。
972 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 17:55:53
神社には鈴がぶらさがってますが。
973 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:05:36
>>972 神社にぶらさがってるのは、鰐口だったのよ。つまり金鼓
最近は、鈴のところも多いけど。
974 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:35:54
>>971 >銅矛は鉄矛に替わってるな。
はて?
銅矛は細形から広形へおよそ実用性の無い形大きさに変化して言ったと思うが
広型銅矛が広型鉄矛に変わったのかな?
そりゃ実用品としての矛だろう?wwwwwww
975 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:47:41
>>971 貴重な鉄であんなデカいの作れないだろ。重いし
小さい鐘に変わったんだよ
やはり、邪馬台国の決め手は鉾の存在です。
三養基郡みやき町(要するに屯倉郡)白壁の通称検見谷でゴルフ場造成に伴う樹木の移植中に発見された12本の銅鉾。
弥生時代中期から後期前半頃のものと推定されというし、このあたりが邪馬台国の工場地帯だったと思われます。
>>963 > 箸墓から出土した特殊器台はいつごろのだ?
特殊器台って円筒埴輪への前段階で、そう長期に渡って作られているものじゃないよ。
楯築あたりから出始めて、箸墓が最後の出番。
「いつごろ」とはそのころに当たる。
978 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 22:44:11
特殊器台は吉備からの移入されたもの。
やはり大和朝廷を建てたのは吉備の勢力だったことがわかる。
>>971 銅鐸が特殊器台に替わった、という説もあるが。
>>978その吉備の勢力ももとはと言えば九州から東征してきた
やはり、箸墓は年代測定からやり直さないとだめだ
981 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:50:29
実は、その甕葬の編年も怪しい。
根拠に乏しい基準が独り歩きすると、その基準に従った編年はすぐにずれてしまうのです。
983 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:14:58
ugoky map 2000 years という東アジアの国の変遷を表示するソフトがある。
これで日本を見ていると、300年頃の倭は、九州北部と畿内それに
四国の瀬戸内海側だけになっている。
500年頃になると、九州北部全部、近畿地方全体から東海、北陸、吉備あたり
まで、それに四国の大半となっている。
600年頃(飛鳥時代)で、山口あたりが勢力圏に入り、中部以西の日本全土が
倭になる。
700年頃に東北地方の大半も倭になる。
これが本当なら、300年あたりの倭の様子はかなりイビツだな。
984 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:21:03
>>982 なら、土器も甕棺も自分の編年をいえば。細かい形式の違いとか全部わかっていってるのか?
985 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:23:24
>>979 近畿説を前提にすると、銅鐸の消滅をうまく説明できないので、必死に辻褄を
合わせようとしているんだよ。銅鐸と特殊器台とは無関係だな。
986 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:27:43
無関係とみたいね。銅鐸は集落全体の祭祀用、おそらく農耕儀礼。特殊器台は個人への共献用、首長霊に
対する祭祀。
>>985 つまり、銅鐸の消滅と特殊器台の出現は辻褄が合っている、ということだな。
>>987 >銅鐸は集落全体の祭祀用、おそらく農耕儀礼。特殊器台は個人への共献用、首長霊に対する祭祀。
首長の権威が高まったことにより、祭祀の対象が替わったってことだな。
ますます、辻褄が合っているな。
989 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:37:50
おそらく精霊信仰から1ステップ、アップしたのが首長霊の祭祀。ムラからクニへと広域政治体制への移行。
社会進化のレベルが上がった。でなければ、あれだけの大型古墳を造る労力や伝播していったことの説明が
難しい。
>>989 そうだろうね。ただし、2ステップUPじゃないかな?
991 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:18:03
まあ、環濠集落のような場合は集落全体をまとめるのはそれほど難しくはなかったろう。倭人伝では、大人ー下戸
という厳しい身分制も描写されているようだし。これが倭国乱の終結や、人口増加による食料増産の必要などで環濠
が解体され、分散居住が進む過程で、クニ全体の意識を一つにまとめるためのシステムが大型古墳の祀り。クニの
人々が共同で造営し、クニのシンボルとして仰ぐためには、どうしても大型化する必要があったのではないか。
992 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 09:53:14
>大型古墳を造る労力
東征軍の暇つぶしだろうな。
993 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 20:48:34
昭和61年(1986年)、京都府福知山広峯15号墳から「景初4年」の三角縁神獣鏡が出土しています。
福知山とは、菊池山。この銅鏡は、それを証明する有力な手掛かりになります。
994 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 22:17:48
景初四年五月丙牛之日
陳是作鏡
吏人銘之位至三公
母人銘之保子宣孫
壽如金石兮
一部の文字が逆さになっているのは、
漢字の読めない倭国の職人が中国の鏡をまねて作った決定的な証拠!
△は、日本で作られたのだ!
995 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:29:30
中国で鏡を作っていた職人だって漢字は読めなかったんだろうよ。
下賜品に失敗作をくれる国だという事か
997 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 02:13:34
中国人だから、職人や輸出業者みんなが漢字が読み書きできたと思ってるのか?
3世紀の中国の識字率をどれくらいだと見積もってるのか?
初心者スレに食われた
景初四年という年号自体存在しないわけだし、
畿内を中心に発見された三角縁神獣鏡の多くは、邪馬台国の時代よりずっと後になって国内で作られた模造品だということがわかる。
景初四年は倍暦があった証拠です。
1001 :
1001:
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