1 :
日本@名無史さん :
2009/11/25(水) 22:27:18
2 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 22:29:47
>>1 乙
ついでに
∧_∧
0'(^ヽ )、
?? / `> )
? / ,-、/しし'
< l.o.l
(⌒ー⌒)/>、/L_」
((;´・ω</ ||
( つ 示
(_rー、_,) /.|| \
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
3 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 22:29:50
『宋史』日本伝の中に「王年代記」のことがある。 神武は筑紫出身で大和州にきたと言っている。 これはどう考えればいいのか?
>>3 記紀に書いてあることと基本は同じだが、どう見ても神武が九州(あるいは筑紫)から来たことを
誇りとして自己正当化している記述にしか思えない。
>>3 神武東征ですね。事実でしょう。畿内説の人はファビョるけど
宋史』日本伝『王年代記』による日本歴代の主(王) 1.天御中主 2.天村雲尊(天牟羅雲命) (中略) 18.素戔鳴尊 19.天照大神尊(天照大神) 20.正哉吾勝速日天押穂耳(正哉吾勝勝速日天押穂耳尊) 21.天彦尊(天津彦彦火火瓊々杵尊であろう) 22.炎尊(彦火火出見尊であろう) 23.彦瀲尊 およそ二十三世、並びに筑紫の日向に都す。 彦瀲の第四子を神武天皇と号す、筑紫の宮より入りて大和州の橿原の宮に入る。 (以下歴代天皇の記述へと続く。神宮皇后も天皇に数えられている)
7 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 22:38:57
>>3 記紀の「神武東征」と同じ趣旨だろう。
神武天皇は、日向を出発して、大和に入り、橿原の地で即位したと
古事記にも日本書紀にも書かれている。
記紀の場合は、神武天皇を初代の天皇としているが、王年代記は、
筑紫の日向ですでに皇統が始まっていたと言うことだろうな。
まあ、趣旨は同じだが。
ただ、王年代記と記紀はちょっと違うところがある。
王年代記では、
17代.伊弉諾尊(イザナギノミコト)
18代.素戔鳴尊(スサノオノミコト)
19代.天照大神尊(天照大神)
となっている。
>>1 .天御中主
初代が天御中主というのは古事記と一緒だが、その後が異なるな。
天御中主は読みがアメノミナカヌシ、タケミナカタやミヌマ(水沼)との関連性もありそうな名前だが、
ミナ、ミヌはもとはムナだったのではないかという説もある。
アメノムナカタヌシ −> アメノミナカヌシ が語源なのか?
9 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 22:49:08
その当時の人は先祖から記紀に書いてあるようなストーリーが事実だと 言い聞かされてきたんだろう。実際にも大筋で事実でしょうね。 しかし、「それは支配者層による権力保持のための捏造である。」とするのが今の学者の多数説。 「神武東征を認めるのは皇国史観であって、日本と再び戦争に導く危険思想である。」 なんてことを本気で書いている長老もいるよね。九条信教の教徒。
10 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 22:55:09
>>9 につづけて
マキムク信者も似たようなものだよね。
弥生時代に九州が圧倒的に優位で、鏡も鉄も絹も本州の10倍〜100倍出土して栄えていたという
ことを彼らは言わない。
むしろ、最初から最後まで畿内が上であったかのような印象操作を繰り返している。
彼らが畿内説に執着するのは、「九州が優位だったことは一度もないから、神武東征なんてありえない。」
という印象操作のためでもあるんだよね。
11 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:00:10
>>9 そういうのは昔からあったらしい。
東遷説を唱えると、神武東征神話の亡霊だと言われたらしい。
戦争を知らない世代は、なんのこっちゃと思うが、戦争体験者は軍国主義者の
レッテルを貼られたような感じになったと言われる。
戦後しばらくは、そういうわけで声高に東遷説を唱える人はいなかったとか。
12 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:03:58
>>10 につづけて
昔は邪馬台国の時代は弥生時代であったとするのが定説だったが、一方では遺物の出土状況で
九州が数十倍という「途方もない優位」にあったことを、畿内説は黙殺し続けてきた。
マキムク信者はその黙殺を続けたままで、邪馬台国を古墳時代にずらして頑張っている。
しかし、一方では初期の王権は豪族の連合だったとして、「強い王権」を頑なに否定する。
「強い王権」を認めることは天皇の権威を高める皇国史観であるという発想なんだな。
規格化された同型の巨大な古墳が全国に散らばっていても「連合」なんてと叫び続けるのは、
皇国史観を認めれば日本は再び戦争へと突き進むという確信があるからだろうね。
彼らは政治運動として頑張っているんだよ。たぶん。
大和民族として中心性を畿内に持っていかんと もうどうしようないだろ。 九州の何処に持ってく?
14 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:09:47
弥生時代の後期の終末頃までの遺跡から出土した鏡の99%は、九州から 出土していることも、マキムク信者の人は言わないよね。 あの人たちに言わせれば、「本州では鏡を墓に入れる風習はなかった。完全な伝世が 行われていたので住居跡からも出土しない。」ということかもしれないけど。 まあ不都合なことに目をつぶっている時点で学問でなく政治運動なんだけどね。 三角縁神獣鏡の議論にしてもそうだけど。
15 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:11:33
畿内説には無理がある
16 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:18:24
畿内は、在日の在日による在日のための土地だろう?既に大阪なんて 大阪民国と名前まで変えてさ。 畿内はやる事が先進的だよまったく。 関東の人間にはそんな勇気はないわ 凄いよ畿内。
17 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:18:39
問題は、畿内か九州かじゃないんだよね 卑弥呼・トヨが誰かということなの 日本に記述されていない人物なのだから わかったらタダじゃすまないことくらいわかるよね?
18 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:20:03
>>13 大和民族の中心地は畿内だよ。九州説もそれは否定してないよ
最初が神武だか崇神だか応神だか知らんが、それ以来の大和民族の中心地は畿内。
でも邪馬台国というのはその前の時代の話なんだから
畿内説もそういうところは認めていかないと
20 :
カミタケ :2009/11/25(水) 23:22:25
卑弥呼・トヨが誰かということをいうことは、畿内説の方ということですね。 九州説では比定できる人物はいませんからね。
21 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:27:26
>>20 九州説(東遷説)では天照大神ということになる。
記紀と中国の歴史書との類似性と言う意味でもそうなるな。
22 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:32:00
卑弥呼は魏に封じられていたわけでしょ どうすんのこれ
>>12 九州説で出雲・丹波と水銀はタブーですね。
それに邪馬台国伝ではなく倭人伝なんだから、
九州で鉄が多くても何の矛盾もないです。
24 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:36:15
>>19 何故だ?畿内説では卑弥呼を 倭迹迹日百襲媛命に比定する人も多く、これは崇神天皇の前の世代の
女性だ。崇神天皇の没年を250年代あたりとすれば、何の問題もないんでないの?
>>25 邪馬台国の「女王」って言ってるのになんでモモソ姫になるんだ。どこが女王なんだよ
いきなり最初から違うじゃないか。話にならんよ
28 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:43:08
>>25 卑弥呼は女王だぞ
トヨなんぞは13歳の女王だ
モモソ姫の別名は日神だぞ、神!
30 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:49:30
>>18 そんなことを言ったらアマテラスは3世紀の話になる
しかも、魏に朝貢してるわけだ
伊勢神宮は吹っ飛ぶだろう
つまり、日本中の神社が吹っ飛ぶだろう
日本の国旗も吹っ飛ぶ
もちろん天皇は間違いなく吹っ飛ぶ
陰部を箸で突き刺して死んだ人を卑弥呼とは言いたくないね
32 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:51:01
ようやくお前らも帥升=祭祀王であることに気づいたようだな。
33 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:51:28
卑弥呼は神でも姫でもなくて「王」なんじゃね?
34 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:53:19
卑弥呼は九州の人、だけど、それを言えば発掘作業費が出ないから奈良つー事らしい、考古学者の間じゃ当たり前の話し
35 :
日本@名無史さん :2009/11/25(水) 23:55:37
>>30 なるほどねえ。
難しいところだな。
…
…
でも、地球は動いてる。
九州説も畿内説も可哀相 所詮、お金>神>人間ですから
でもね、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命であっても、卑弥呼=天照大神であっても倭人伝の記述とは 違うものになってる。記紀は8世紀の成立だから、伝承が変容していったという見方もできるのでは?
38 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:02:13
39 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:02:13
もう発掘は、街頭募金しなければ 発掘出来ないだろうね 政府は必死に予算削減方針だし
ふるさと納税すればよくね。今回の纏向の発掘にも使われてるんじゃなかったかな。ふるさと納税は どうせ払うものだから、損にはならないよ。ただ、桜井市はそれなりに集まってるようだけど、九州は 候補地が分散していて厳しいかな。
41 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/26(木) 00:08:49
九州説の人が鏡・鏡・鏡・とか言っても、九州には年号の入った紀年鏡がないし 九州説の人が絹・絹・絹・とか言っても、九州には国産の絹織物の倭文がないし 九州説の人が鉄・鉄・鉄・とか言っても、九州には素環頭大刀だけで金銅装環頭大刀がないし その他九州には伝世鏡もないし、古墳時代からの系図もないし、大型古墳も都の遺跡もない。 つまり、九州には評価の低い安物の骨董品がたくさんあるだけで重要な遺物はひとつもない。
今ググったら、面白いものを見つけた。 桜井市に「ふるさと納税」すると、5,000円以上で、下記特産品リストの中から1品(選択)が送られてくる。 【桜井市特産品進呈リスト】 5,000円以上 @三輪素麺 A笠そば B桜井の地酒 Cその他 1万円以上だと、 @上記 A出雲人形 B笠そば打ち体験 Cその他 いやあ、努力してるんだね。「出雲人形」というのが何か示唆的。
43 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:19:17
畿内に女王がいたということなら、それは天皇じゃないことくらいわかるよな? おまけに13歳の女王も出てくることになるわけだぞ。 そんなこと日本の歴史のどこに書いてある? もしそうなら、日本の歴史の全面的な書き直しが始まるわけだ そして3世紀以後に成立した全ての事象は問い直されることになる その中には天皇・国旗・神社・などこの千数百年に及ぶものがチャラに なるだろう
44 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:22:22
>>41 コテ名乗ってる割には、ずいぶん無知なんだねw
45 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:23:17
神無月じゃなくて頭無月では?
国旗wwww どこの中学生だ? チャラにはならんし単に記紀が間違ってたですむことだろ。もしなったって、 真実が明らかになるんだからその方がいんじゃね。
47 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 00:33:41
すまないね 卑弥呼が畿内女王ならそもそも神武天皇とは何者だということになる 日本の歴史は大陸の歴史のように民族の興亡ではく 続いているもの 根底がひっくり返されれば、現代がひっくり返る
48 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/26(木) 00:42:43
>>44 、
>>45 それでは、あなたが賢い頭であることを証明してください。
邪馬台国の都の遺跡はどこ?卑弥呼はだれ?台与はだれ?王墓はどこ?高島宮はどこ?
>>34 お前が考古学関係者じゃない事は理解した。
>>43 九州説でも同じだよ。
まして九州王朝説なんて絶対あり得ない話だからw
51 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:01:07
日本書紀において、卑弥呼や五王の記録は神功皇后にまとめてある可能性が高そうだが、 あれだけ細かく九州での生活の記録があるってことは、ある時期九州に都が存在した証じゃね? 都=王の住む場所 と定義した場合だが。
アマテラスや神功皇后など女王を示唆するエピソードはあるが、王としての記述はないんだよね。 記紀編纂時に「なかったこと」にされたのかもしれないが、憶測にすぎないし。
神武東征なんて 九州厨は今だに信じてるの?w
邪馬台国は畿内巻向にあったんだけど、幻の四世紀の間に九州の勢力にほろぼされ王国を簒奪されたんだよ。 卑弥呼が記紀に載ってないこと、銅鐸文化が消えたのはそのせい。 で、九州の勢力側から見て畿内の邪馬台国をほろぼしたのが神武東征の伝説。系図は正当性を確保するために でっちあげ、東征エピソードも古いものに仕立て上げた。九州の記述が妙に詳しいのもそのせいだし、九州地名が大 和地方に残っているのもそのせい。
56 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:13:20
>>54 畿内説かつ東征説ということか。
そうすると大和朝廷は九州の直系の子孫ということか。
>大和朝廷は九州の直系の子孫 妄想乙 近畿の勢力に九州も関東も征伐された かってに九州起源を主張するなよ
59 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:18:38
神武率いる元の九州勢力は大和の卑弥呼らを打ち破った。 神武の出先は北九州で岡田宮に寄った説話がある。 宗像にも近いので桜井茶臼山古墳の脇に宗像神社を招致した。 そして北九州の聖地沖ノ島で国家レベルの祭祀を四世紀後半から行わせた。
>>56 足利尊氏みたいなパターンの方がありそうだが・・・
畿内勢力内で失脚した有力者が九州に下り、その助力を得て再び畿内に戻り権力を握った
まぁ想像すればキリが無いわな
61 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:27:17
4世紀の神武東征だと、 ・卑弥呼・台与の記録が記紀にない ・神武が筑紫の日向を出発した ・記紀に九州が舞台の神話・説話が多い ・神功皇后が九州で多く活躍する ・北九州の沖ノ島だけ比較にならない大規模かつ豪華な祭祀を存続した などの説明がつくことになる。
62 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:27:53
まあ、卑弥呼と台与が天照大神かもしれない根拠を言わせてもらうと、 @ どちらも女性であり、独身であること。 A どちらもトップに地位にあること。 B どちらも鏡に関係があること。 C 卑弥呼は狗奴国に、天照大神は素戔鳴尊に苦しめられること。 D その最中に卑弥呼は死に、天照大神は岩戸に隠れてしまう。 E 卑弥呼が死ぬと跡継ぎをめぐる争いが起き、1000人あまりを殺しあう。 天照大神が岩戸に隠れると高天原が真っ暗になり、悪い神が騒ぎ出す。 F 台与が王になると平和になり、天照大神が岩戸から出ると高天原が明るくなること。 G 台与が王になった後、また男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。 天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、政治を主導する。 ということかな。
>>59 なんでそうまでして
九州人は関西の上に立とうとするの?
現実の考古学で決着はついたんだけど
64 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/26(木) 01:29:31
>>59 偽天皇が神武東征で駐屯した多祁理宮と高島宮の遺跡はどこですか?
数万の軍勢が駐屯したのですから大きな遺跡があるはずです。
>>64 数万も動員できるわけない。誇張だよその数字。
現実の考古学(笑)
>>65 江戸時代の石高と動員数の関係からしたらそうだな。
当時はどうやって軍勢の食料を賄ってたんだろうか。
項羽のように侵略しては略奪してたのか。
68 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 01:46:41
どうにもならないから情報撹乱ですね。わかります。
69 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/26(木) 01:46:42
>>65 邪馬台国九州説の人によると九州の人口が100万人以上あったそうです。
その3%が動員兵力ですから神武東征は3万人の軍勢だったことになります。
当然、神武東征などなかったわけですからウソの話しになります。
70 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:00:50
戦前は神武東征などの神話が小学校から教えられて、戦後はそれが 皇国史観として敵視されて、「誤った結論」と決められたんだな。 戦後は研究会の最初の1、2時間はマルクス著書の読書会にあてられて本題は その後に話し合うというのが普通だったから、その世代の人から見れば「神武東征」 なんて悪の権化だろう。 洗脳って怖いね。 赤い思想に脳を汚染されて無価値な一生を終える学者が続出したんだから。
71 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:05:30
なんでここは戦前にタイムスリップしてんの? みんなじいさんばっかりかよ。 ついでに、ニニギが朝鮮から来たって話も信じるつもりかな?
>>70 左巻きっぽい安彦良和は「神武」で「神武東征」は実は婿入り説を
採用して、邪馬台国九州説と神武東征を採用してるぞ。
今時、アカとか騒いでいるのは冷戦時代の遺物か。
73 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:27:06
いまさらなんだけど 皇室の書庫とかに卑弥呼について詳しく書かれてる 古墳時代前後の伝記とかないのかな? 探してみたら結構あるかもしれない
74 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:30:40
あ〜あ 天皇記と国記が燃やされてなかったらなぁ
75 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:33:41
で、ニニギは朝鮮から来たんですか?
76 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:35:20
九州にも畿内にも邪馬台国はなかったんだからおまえらけんかはよせ
77 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 02:40:40
本来九州と奈良県あたりの土地がつながっていた しかし大まかな地震などにより 大きく大陸が移動して こんなややこしいことになっているのかと思う あまりに大規模な地震だったため 地中に埋めておいた地震よけの銅鐸などはまったく 信用を失い一斉に処分された
78 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 03:55:40
>>58 天皇及び日本国発祥の地は南九州だから
畿内が何を言ってもコレは揺るがない
残念でしたね
79 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 04:15:29
80 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 06:56:28
>>78 そのわりには紀記否定して倭は九州だとかいいだして、九州王朝とかいいだしちゃうしw
>>54 大和には全国の地名があります。
特に出雲や丹波、吉備等の地名が多いですよ。
82 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 07:07:07
魏から銅鏡百枚と真珠(朱)、鉛丹各五十斤を貰っているが 卑弥呼が急に死んだのは真朱と鉛丹による水銀中毒や鉛中毒じゃないのかな。
卑弥呼は結構長生きしてるでしょ。それより水銀飲んでたのなら、 墓に亡骸が残ってた可能性はあると思う。
>>81 都に各地の地名が集まってくるのは普通のこと
平安京にもあるし、北京もそうだし
開拓や移転があると地名も丸ごと移動することがあるね。清須→名古屋とか。
86 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 07:42:09
讃岐うどん、信州そば、仙台味噌、札幌ラーメン、米沢牛、水戸納豆、秩父セメント、とか、 ありますね。
巻向に各地から移住したんじゃなくて、都だから各地の王が出先を設けていただけでは? そしてその土地に故郷の地名を付けたと 各地の大名が江戸に上屋敷を設けていたのと同じで
88 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 07:51:27
>>83 「以朱丹塗其身體」と書かれているので、
飲んだのではなく化粧品に使って、顔に塗り口の中にも入ったのでしょう。
卑弥呼が長生きしていることから、それまで使っていた日本産の「朱丹」は無害な鉄系のベンガラでしょう。
魏から重金属系の真朱と鉛丹を貰って急に中毒になって死んだんだろう。
>>87 普通はそうだと思う。だから九州からの地名を移転説は変、
他地方の地名も多い点を無視している。
>>54 >>61 加えて、初期の卑弥呼がいた畿内邪馬台国が出雲・吉備、特に出雲出身者の政権で、
>>54 で書いたように
九州勢力に簒奪されたと妄想すると面白いね。出雲→九州勢力への国譲りw
>>87 >>89 地方出身者がたまたま多く集まった集落が自分たちの故郷の地名を名乗る場合と、巨大な権力が丸ごと地名を
移転する場合と二通りあるような気がするね。
>>90 まあそれはスレでも以前から主張されてる事だけどね。
発見された建造物の様式が出雲系だと言われてるし。
>>91 巻向周辺の地名には、丹波や出雲が今も残ってるしな。
93 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 08:28:41
>>3 神武東征があったとしても3世紀よりずっと前だよ
それと
前スレで倭の五王は九州王朝と主張してた人がいるけど
そこで所在地を大和と主張してるなら
倭の五王は大和政権の大王(天皇)で決まりだね
94 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 08:37:40
>>54 598 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 11:20:09
倭の五王武(=雄略)の宋に宛てた上表文(5世紀)
「我が封じられた領土は遠く、外に藩を作ってきた。先祖より武力闘争し、山川を越え、休まなかった。
東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し、渡り、北の九十五國を平定した。道は百済を経て,船も使い、ゆくも高句麗に難渋した云々。」
この文だと
九州からの東征じゃなくて、畿内からの西征にしか読めないけど
95 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 08:41:34
神武東征が4世紀にあって大和を蹂躙したとなると その痕跡が残ってるはずだけど まったくそんな感じのは出てこないよね
96 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 08:46:08
地名を考える場合、いつの時代に付けられた地名なのか、 文献資料による考察以上に慎重にならんとな
97 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 08:56:28
仮に九州王朝が倭で後に滅ぼされたとしても それについての記述が国内外で一切無いって変だし 倭ではない大和政権が 自分たちの国名を倭と認識して遣隋使等を派遣してたのも変だよなw それを後に日本と呼ばせることに成功したんだが
98 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:02:13
>>97 以後は
大和「ヤマト」は奈良、国名は日本と
使い分けることになったんだよな
>>94 大和政権は機内なんだから別におかしくないだろ。
あくまでも邪馬台国論争なんだから。
それと神武東征が史実をもとにしたのか、創作なのかって邪馬台国との
関連はどうなのか問題に過ぎない。
100 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:05:27
>>99 その当時の倭国が、九州王朝だと主張してる人がいるんだよ
101 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:07:19
>>101 普通に考えればその頃だよな。
水稲の伝播とそれに伴う遠賀川式土器の存在を考えると。
103 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:31:48
九州王朝の勢力圏には近畿地方はふくまれません。 近畿地方にはのちの大和王朝となる国がありました。
九州王朝を書いた史書がほとんどが存在しません
105 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:44:22
>>101 モモソ姫=卑弥呼とか言ってる人もいる事もお忘れなくw
そうなると、相当年代を繰り上げないといけないよね
日本神話崩壊w
106 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:50:28
卑弥呼やトヨは倭人伝では無視されている。 そりゃ、自分たちの祖先に当たる人物が、中国に朝貢献していたなどと する記事は乗せる筈がない。 倭王武の上表文も一緒。
107 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 09:56:17
てか、考古学は土器やらなんやらの時期をどんどん繰り上げて、 大和政権成立を邪馬台国時代まで持って行こうとしているようだが、 3世紀に文字文化が存在した証拠はないよなぁ 記録が残りようがない
108 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 10:14:48
倭王武の上表文で 当時の倭は畿内が中心だったのは分かるけどな
109 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 10:41:44
>>108 それは君の思い込みだよ。倭王武は九州にいたのさ。でなければ、「海北」なんて
書くはずはない。大和から朝鮮は西だからね。
110 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 10:43:36
>>107 文字はなくても、口承はある。
口伝をバカにしちゃいけないよ。
文字がないから、何度も何度も繰り返し暗記して、逆に驚くほど正確に伝えられるらしい。
稗田のアレイもそうだしね。
111 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 10:59:27
倭王武は九州出身だが、畿内の都に一局化しました。 これで一国一都となり 晴れて倭は倭国と認められ、ここから正史も倭国伝として扱うようになりました。 つまり倭王武までは統一的な都は存在していなかったのです。
112 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:02:44
でも歴史教科書には 倭の五王=大和政権で 九州王朝なんて記述は一切無いな これはなんだ?教科書の方が間違ってるのか?w
113 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:05:21
>>111 倭王武が九州出身で後に畿内に移ったとしたら
九州からの東征は5世紀にあったのか?
上表文の記述と矛盾しそうだが
114 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:09:41
>>113 そんな単純に東征や東遷はできません。
何百年という歳月の積み重ねの最後の一時が倭王武の功績
美味しいとこ取りというやつです。
115 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:19:51
倭王武の御先祖さんが、コツコツと下地を築いたからこそ 即位などというイベントが行えるし、上表文等を提出できるのです。 家康だって、秀吉が基礎を築いていたからこそのイベント開催です。
116 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:27:31
コツコツと西征したわけか
117 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:37:40
>>116 いいえ
九州の田舎者が、中央にぜがひでも進出したいと積み重ねました。
多少の戦闘もあったでしょうが、最後の仕上は
何と言っても色仕掛け。
無傷で制圧するには最良の方法。
焼け野原で困るのは、制する方ですから
もうどう考えても邪馬台国は畿内で決まりじゃないか。
121 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:52:45
>>119 倭人伝に書いてあるよね。旧百余国、今三十国。邪馬台国が九州を統一したと
すれば、当然、七十国は征服したんだ。それが九州の西側にあったということ
だろう。上表文は倭人伝を踏まえているということだよ。
122 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 11:53:38
九州出身の巫女が、畿内の氏子に色仕掛け。 時々、旦那や子供を天皇にでもしてやれば 政治的には何等問題はないでしょうから 巫女は神社に篭って指示を出すだけ→大王(おおきみ)体制の出来上がり。
123 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:00:30
>東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し 九州に倭があったらしいのに? なぜか征服した国は西の方が多いんだなw
>>121 意味不明。九州の西側に66国なんて存在しない
どう考えても倭王武の時代って巨大な前方後円墳が畿内から全国征服 しまくりだよな
126 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:10:33
倭王武が九州で 衆夷六十六國が九州の西部のことなら 当時の倭はものすごく小さな国だったんだな
127 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:13:20
>>121 あの文章は
海北を除く120国の内、西側の六十五国は服し
東側の五十五国は征した。
九州云々なんて何処にも出てこない。
128 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:16:30
>>126 倭王武は、九州産なだけ
拠点は既に畿内。
九州の西にある海底王国だよ、きっと。
130 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:18:10
131 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:20:39
九州説&九州王朝説信者が 巻向をスルーしまくりな件
132 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:23:09
133 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:28:47
>>131 勘違いするなよ
纏向をスルーしているのは大陸王朝の正史だ。
>>133 纏向は存在しますが九州王朝なんて存在しません
135 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:33:45
東征毛人でもわかるように、それまでは 毛人達は、夷にもなれなかったと言う事。 つまり、東夷伝にても相手にされなかった毛人諸国五十五国
魏志倭人伝を書いたのは中国人で上表文を書いたのは倭人。
マジで九州王朝厨はカルトレベル
138 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:38:31
139 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:40:27
140 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:43:01
>>139 倭人に立場で表現も違う。おまえマジでヤバイぞ
142 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:47:25
>>141 自分のレスをもう一度眺めてから
他人を評価しろよ
恥ずかしいぞ。
日本語目茶苦茶だし。
143 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:49:30
日本に王朝が誕生したのは、自国の史書を編纂した 8世紀からです。
>>142 「の」を「に」とタイプミスしただけだが、
そんなとこしかつっこめなくなったか?惨めよのうw
5世紀には畿内勢力が全国紙は夷していた事は
考古学的にも明かで常識。九州王朝は無理。
気持ち悪すぎ。
全国紙は夷→全国制覇 バカにつっこまれんうちになおしとく
146 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 12:56:29
畿内説なんて妄想もいいところだろ
>>144 出た〜記紀は捏造ってやつ? じゃ神武東征も九州をおとなしくさせるための捏造だよね?
九州土人国涙目w
>>146 キチガイが檻の中で叫んでも考古学会や史学会は認めてくれません。
7世紀末まで日本列島を代表する政権は九州にありヤマト王権は一地方政権に過ぎ なかったとする説もあるが、埼玉県稲荷山古墳と熊本県江田船山古墳から「ワカタケ 大王」と推定される銘の鉄剣が出土していること、様々な考古学的遺物などから成立する 余地はないと考えられている また、ヤマト王権をめぐって主として愛好家により日本神話や記紀編年の自由な解釈に 基づく「謎解き」に類する説が多く主張されているが、そのほぼ全ては史料批判を満たし いないものであり学問的価値に乏しい。
149 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:08:10
>>144 九州王朝ってなに?
意味のわからない独り単語を使われても。
なんだニワカか
151 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:13:16
>>144 俺はタイプミスを指摘したつもりはないけどな。
152 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:18:41
>>147 日本の中心的な文化は、畿内や出雲や吉備など
九州などの一地方の田舎者は、大陸の王朝を後ろ盾にしなければ生き残れなかった。
153 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:23:49
154 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:25:49
155 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:29:36
156 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:31:35
>倭の五王=大和政権 天皇を5人の王がよってたかって操ってた訳? 大和政権ってえげつないなw
157 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:33:43
九州の白藤遺跡の裏話知ってる人いる?w
対馬や琉球なんか、近世まで中国と日本両方に臣従してた訳だし、 一地方国が倭国代表を名乗って中国に朝貢してた可能性は捨て難いんだよなぁ 3世紀の北部九州、伊都や奴に畿内とは違う文化圏が存在したのは事実でしょ? ある程度全国への支配力が強まったからこそ、日本と名乗るようになったと妄想
159 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:39:01
>>155 九州王朝を肯定していないんだったら、九州王朝なんて存在していないのだから
当然なんの事かわからないし、存在していないものを登場させたりしない。
架空の話ししてもしょうがないし。
160 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 13:45:02
>>121 もう一度じっくり倭人伝の冒頭読んでごらんよ。
三十国というのは、倭に存在してる国の数じゃなくて、大陸と交流している国の数だよ。
その証拠に、対馬からクナ国まで、全部で30ほどになるけど、それ以外にも女王国の東の海を隔てて、
国があると書いてある。
161 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 14:06:05
>>160 それは読み方がなってないんだよ。旧と今が対応しているんだ。
だから、旧は百余国、それが今は三十国で、しかも、それは使訳を通じて
いるということだ。百余国が統合されて三十になっているという趣旨だよ。
そう読まなければ、旧百余国、今は全体でいくつ国があるか分からないと
いう奇妙な話になってしまう。
162 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 14:16:12
>>161 それだつたら、後半の部分に反論してみろよ。
対馬からクナだけでも30あるぞ。
それ以外にもたくさん国があることは、記述からも明明白白。
邪馬台国までの記述があって、それより遠くにあってよーわからん国々として ハリとかそこら辺の国名が出てくる訳で 畿内説だとどう解釈すんの?
164 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 14:41:54
>>161 旧と今は対応しない。
今と対応するのは昔
165 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 15:25:27
遅れた埼玉熊本なんぞに王国なんかない
>>163 普通に播磨だろ、次が吉備、穴戸、次が奴国でここが女王国の境界線。
で、邪馬台国が女王の都する所でピッタリです。
邪馬台国=女王国じゃないからね。邪馬台国は女王の都、 女王国とは女王を共立した国々の総称だよ。
畿内説って屁理屈ばかり
169 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:19:40
>>148 実在の確証もない雄略天皇に「犭□□□歯大王」や「獲加多支鹵大王」を当てるのは無理がある。
素人質問です。 どのような研究成果がでれば、九州説、畿内説がそれぞれ正しいとされるのでしょうか? 決定的なものを教えて下さい。
鰯の食べ過ぎが死因か?出土した人骨の腹部から大量の鰯の骨が見つかる。
ttp://science6.2ch.net/test/read.cgi/doboku/1220276209/ 石川県野々市町長池ニシタンボ遺跡の古墳時代の墓から出土した「かめ棺」の中から、
腹部に大量の鰯の骨が詰まった人骨が見つかり、発掘した研究者を驚かせている。
見つかった鰯の骨は一部が消化された状態で残っており、この人骨の人物は鰯を大量に
食べてから数時間以内に亡くなった事が伺える。
恐らく日本で初めて鰯の食べ過ぎが死因と確認された人ではないのかと?と発掘に携わった
研究者は興味津々だ。
九州説は所詮妄想でしかないからな。
173 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:33:21
>>170 印だろうなあ。
卑弥呼の「親魏倭王」の金印。
難升米の「率善中郎将」、牛利の「率善校尉」の銀印。
掖邪狗等も「率善中郎将」の印綬をもらっている。
これらのうち一つでも出てくれば、まず間違いないんじゃなかろうか。
畿内説の考古学者が本当に畿内説を信じているとしたら、これを探していると
思う。出て来ないときの事を考えて、表向き言うことはないけど。
174 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:35:39
175 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:40:06
>>173 ヤマト朝廷が卑弥呼の末裔なら「親魏倭王」の金印を持っているはず。
印鑑は押して使用するものですから死者と共に墓には入れません。
176 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:42:25
>>175 ただ、魏という国はなくなっているから、存在しない国の印綬をいつまでも
大事に持っているかは疑問。
177 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:43:29
>>173 はっきり言ってますよ。
考古学者は、金印と、金印の跡の封泥を探してます。
それが出れば、邪馬台国は決まりです。
ただし、畿内説でも、封泥はイト国で出てもおかしくないと思うが。
しかし、状況証拠は膨大にあるので、金印がなくても畿内で決定なんですけどね。
>>169 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、
其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、
吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
「私の祖先は代々、杖刀人の首を務めてまいりました。私は獲加多支鹵大王に仕え、天下を治める
のを補佐してきました。そこで辛亥年七月に、これまでの輝かしい功績を剣に刻んで記念とします。」
辛亥年は471年が定説。そうなると雄略天皇になる
日本書紀の雄略天皇は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇
当時磯城群にいたが斯鬼宮とあう。
雄略天皇統治による大和の権力が九州〜北関東まで及んでいたことになる。
印は未発掘の墓や、遺跡の施設から出土して初めて証拠になるでしょ。
金員が出ても贋作だの、もし九州で発見されても、畿内から運んできただの なんだかんだでいちゃもんがつきそうだなー 結局、状況証拠をつみかさねて、これしかないだろって雰囲気になった所がゴールか。 理系分野と違ってこういうところが文系学問のもどかしい所だな。
181 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 16:49:01
>>178 稲荷山鉄剣は、被葬者が自分で作ったと言うのが難点かな。
江田船山古墳の鉄剣はどうなんだろう。
>>170 金印は出ないでしょう。例えば奴国王が持っていたはずの金印は志賀島で発見されました。
ところが志賀島付近からはそれらしき規模の遺跡はみられなかった。
なんらかの理由があって、もとあったところから移動して志賀島に隠されていた、もしくは
滅ぼされて逃げる途中でそこで梅田のではと考えられています。つうか発見されたのが奇跡的です。
親魏倭王の称号はその後の男王や台与がうけついだと考えられ、卑弥呼の墓には
いれられなかったでしょう。また魏の時代が終われば効力を失います。
>>181 自分で作ったというのは原島さんの推理でさらに信憑性が薄いです
184 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:05:06
流れぶった切って申し訳ないんだが、伊都国って九州説が言うように前原が濃厚なの? どうしても宗像〜北九州小倉、最も東で下関の彦島辺りが気になって仕方ないんだが・・・
185 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:09:08
>>162 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。倭人伝が書いているのは、倭種の人々が
住む所すべてではない。帶方東南大海之中の山島に依って生活している人々だけで
あり、それは三十国だ。そして、その地が周旋五千余里。
君の言う女王国の東、渡海千里の倭種の国は確かに三十国以外の国になるけど、そ
れがいくつあるかは分からない。その渡海千里の地は帶方東南大海之中の山島から
はみ出た所なんだよ。周旋何万里あるか分かったものではない。島かどうかすらわ
からなかっただろう。
186 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:11:33
187 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:22:06
>>177 状況証拠は膨大にあるので? 笑うね。何もないじゃないか。
九州説は行程ばっちり、遺跡遺物ばっちり、記紀の伝承ばっちりだよ。
>>184 全く証拠がないのでどうしようもないです
>>187 記紀の伝承なら畿内説で決まりだと思うが。
190 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:29:20
>>186 佐賀っつうと唐津か東松浦? それとも有明沿岸?
191 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:33:03
今日も相変わらず幼稚園児が湧いてるな。 最近このどうしようもねえ園児達が、連日スレ回してる だから以前の住人達が、誰も近付かない
192 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:33:05
有明沿岸
>>187 九州は行程ばっちりじゃないです。里の換算も恣意的で正しくありません。それプラス放射読みという
無茶な解釈しないと無理だし。遺跡・遺物の証拠なんぞほとんどないです。
ほとんどの学者が畿内説になっちゃってるのに幼稚園児はいつまでたっても未熟な知識で探偵ごっこなのな
195 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:36:27
日向からは鏡が出ないからな。 日向が邪馬台国でないのは確実。
196 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:39:18
100mを超える巨大古墳100
ttp://www.asuka-tobira.com/kofun/kofun.html#100 順位 古 墳 名 所 在 地 時期 区 分 墳丘長(m) 参考
1 大仙陵古墳
(だいせんりょう) 大阪府堺市大仙町 中期 前方後円墳 486 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳
(こんだごびょうやま) 大阪府羽曳野市誉田 中期 前方後円墳 425 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳(履中陵古墳) 大阪府堺市石津ケ丘 中期 前方後円墳 360 履中天皇陵
4 造山古墳
(つくりやま) 岡山県岡山市新庄下 中期 前方後円墳 360
5 河内大塚古墳
(かわちおおつか) 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 後期 前方後円墳 330
6 見瀬丸山古墳
(みせまるやま) 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 前方後円墳 310
7 渋谷向山古墳
(しぶたにむかいやま) 奈良県天理市渋谷町 前期 前方後円墳 300 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳
(はぜ) 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 前方後円墳 290
9 作山古墳
(つくりやま) 岡山県総社市三須 中期 前方後円墳 286
仲ツ山古墳
(なかつやま) 大阪府藤井寺市沢田 中期 前方後円墳 286 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳
(はしはか) 奈良県桜井市箸中 前期 前方後円墳 278 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳
(ごさし) 奈良県奈良市山陵町 前期 前方後円墳 275 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 前方後円墳 255
14 市庭古墳
(いちば) 奈良県奈良市佐紀町 中期 前方後円墳(復元) 250 平城天皇陵
メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 前方後円墳 250
197 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:40:33
16 行燈山古墳 (あんどんやま) 奈良県天理市柳本町 前期 前方後円墳 242 崇神天皇陵 岡ミサンザイ古墳 (おか) 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 前方後円墳 242 仲哀天皇陵 18 室宮山古墳 (むろみややま) 奈良県御所市室 中期 前方後円墳 238 19 市野山古墳 (いちのやま) 大阪府藤井寺市国府 中期 前方後円墳 230 允恭天皇陵 20 宝来山古墳 (ほうらいさん) 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 前方後円墳 227 垂仁天皇陵 21 太田茶臼山古墳 (おおたちゃうすやま) 大阪府茨木市太田 中期 前方後円墳 226 継体天皇陵 22 墓山古墳 (はかやま) 大阪府羽曳野市白鳥 中期 前方後円墳 225 23 西殿塚古墳 (にしとのづか) 奈良県天理市中山町 前期 前方後円墳 219 手自香皇女会田陵 ヒシアゲ古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 前方後円墳 219 磐之媛皇后陵 25 佐紀石塚山古墳 (さきいしづかやま) 奈良県奈良市山陵町字御陵前 前期 前方後円墳 218 成務天皇陵 26 河合大塚山古墳 奈良県北葛城郡河合町西穴闇字大塚 中期 前方後円墳 215 27 築山古墳 (つきやま) 奈良県大和高田市築山 中期 前方後円墳 210 西陵古墳 (さいりょう) 大阪府泉南郡岬町淡輪 中期 前方後円墳 210 太田天神山古墳 (おおたてんじんやま) 群馬県太田市内ケ島 中期 前方後円墳 210 30 津堂城山古墳 (つどうしろやま) 大阪府藤井寺市津堂 前期 前方後円墳 208 31 桜井茶臼山古墳 (とやまちゃうすやま) 奈良県桜井市外山 前期 前方後円墳 207 佐紀陵山古墳 (さきりょうやま) 奈良県奈良市山陵町 前期 前方後円墳 207 日葉酸媛皇后陵
198 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:42:39
で、九州王朝説って何?
199 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:45:36
九州に箸墓古墳が存在しない もう明らかじゃないか
>>192 んなら末廬国は松浦周辺って事か
壱岐から近すぎるな、やっぱり九州説も距離が合わないわけだ
半島〜1000里〜対馬〜1000里〜壱岐〜1000里〜末廬国では辻妻が合わない
201 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:48:11
202 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 17:54:08
九州からは何にも出てこない もう勝負ありだな
隋書が則魏志所謂邪馬臺者也と書いた時代には吉野ヶ里はさびれて集落も消えてしまってるしな。
九州が大和に滅ぼされた形跡が無いんだよな 高地性集落の分布は瀬戸内海→畿内周辺と遷移しているし。 卑弥呼が崇神天皇前後の大和王権の姿だとすると、卑弥呼よりかなり昔の時代に、 神武東征に象徴される九州から畿内方面への人や文化の移動が 断続的にあったのかもわからんね。
206 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:26:09
>>89 そんなことはわかっておる。
しかし、朝倉地方の地名と位置まで酷似している例は他にないじゃろ。
一度朝倉に来てみよ。ここが邪馬台国じゃったと納得するから。
207 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:29:49
>>204 文化の移動だけで、王家や豪族は移動してないけどね。
>>206 御所の高天が原から奈良盆地を見てみろ。
ここが邪馬台国と実感するから。
210 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:34:42
211 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:35:28
>>206 仕事で太刀洗のキリンビールによく行くが、朝倉は攻めるに易くて防ぐに難たい場所って印象
確かに肥沃で水も豊富だろうが、とても大乱を生き延びて大国の中枢になれそうな土地じゃないね
大体地名は大和から移植した可能性もあるのに。 むしろその方が可能性高いでしょw
213 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:42:40
庄内式土器は、畿内から九州に移動してますので、 そのときに畿内から多くの人が九州に行きました。 そして九州に畿内の地名がついたわけです。
214 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:43:26
>>170 纒向が超巨大都市群だったことが発掘で
わかったのと纒向遺跡箸墓古墳の年代が卑弥呼の
時代と一致したので
学会では邪馬台国は畿内だと
すでに決定された
215 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:47:23
すべての考古学者の見解は、 庄内式土器は畿内から九州に移動したということです。 ただひとり、「心理学者」と称する安本教授だけが。 庄内式土器は九州発祥だとして、 庄内式土器は九州から畿内に移動したと主張しています。つまり東遷説です。 地名の一致を、東遷説の根拠にしています。 だからこそ、庄内式土器も九州発祥だとして、 庄内式土器は九州から畿内に移動したと強弁してるのです。 しかし、この見解は、すべての考古学者から否定されています。 九州説の考古学者でも、安本教授にならう人はおりません。 地名の類似などで、東遷説が成り立たないことは、 すでに20年前に決着のついた話です。
216 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:51:13
>>211 同業者?w
発砲スチロールいっぱいもってる系?
キリンビールで会ってるかもw
217 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:53:40
魏志倭人伝に記載当時、九州にあった邪馬台国が、東征して大和に移った。 そういう意味では、邪馬台国が大和にあったという説も認めてやるよ。
218 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:55:37
>>216 会社はお薬系ですw
まぁ携わってるのは化学薬品の類じゃないけどね
219 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:56:08
>>217 20年前の説をいまだに信じてるって、時間のとまったじいさんですか?
220 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:56:25
邪馬台国九州説は、国学者の本居宣長が主張した説。 そのバリバリ右翼の本居宣長の主張した説のせいで 日本の皇室は、その創世記の歴史を大量に喪失するはめに。 本居宣長のやっていることは、彼の思惑とは完全に裏目。
221 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:56:41
九州のような田舎で王国は無理 畿内がいつの時代も先進地で 文化を輸出した側
222 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 18:59:32
邪馬台国九州説論者は、 神武東征ばかり、必死になって語るが、 記紀の神武天皇の話によると 彼のご先祖は、元々は、葛城の高天の出身。 つまり、神武一家は、近畿王朝が九州に地方官として 送り込んだ家系だったという話。 近畿本国で中央政府内部で内乱があったから、 九州分家一家の神武さんが、援軍として駆けつけたのにすぎない。
223 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:03:33
弥生時代に地方官なんていたの?
224 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:03:34
おい!広畠
225 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:04:19
東遷説論者は、九州からアマテラス教が大和に東宣して国津神を駆逐したかのような妄想をしているが、 大和のすぐとなりの葛城は、まったくアマテラスも九州の影響も受けていない。 葛城は古墳時代以後も大和からは独立していた。
226 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:05:45
>>219 違うぞ。
20年前に提唱され、今、最も注目を浴びている学説だ。
そんなことも知らんのか?
227 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:08:18
228 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:09:36
>>226 どこの誰が注目してるの?
どこかの大学で研究されてるの?
どこかの政治家が注目してるの?
おしえておしえて。
229 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:10:31
白藤遺跡から100基の甕棺墓が発見され超小型銅矛、ヒスイ勾玉、石製青銅器鋳型、小型ぼう製鏡が出土。 なにこれ。怖いw
230 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:19:12
>>226 九州勢力が強大な畿内を支配する力はない
231 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:21:18
232 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:23:44
>>54九州の遺物がでてこん
233 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:26:07
何が邪馬台国ドンと来いだ 無邪気というかなんというか 1200年以上も経ってしまっているのに・・・
室町時代からレスが来ました
235 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 19:32:48
236 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 20:19:35
>>215 つまらん釣りだな。
九州の庄内式が環濠集落終末期が主なのに対して、畿内の庄内式は環濠が埋められた
あとの時期が主なんだから、全体としては九州の方が古いというのは、自然な結論ではある。
畿内説で、この前提を認める勇気のある人が居るのか?
237 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 20:40:12
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
238 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 20:48:36
このスレ読んでて笑ったんだが、まきむくがどうのこうのというより、九州王朝があるのないのの話に終始している。 九州王朝説は邪馬台国九州説の一分派にしかすぎないのに、なんでそんなにやっきになっているのか。 自民が政権を握り民主が野党だった頃に、自民が民主でなくて社民党を目の敵をしてるみたいな図式を見るようだ。
239 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 20:48:42
240 :
239 :2009/11/26(木) 20:57:03
>>238 5世紀の倭の五王を少なくともヤマト王権じゃなくて九州の王とか言ってる時点で九州王朝説
だから、つっこまれてもしかたないんじゃないか?
242 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:06:43
243 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:16:32
邪馬台国が魏に使者を送った景初3年(239)、魏の第3代皇帝曹芳=斉王が誕生した。 斉王とは「いわいの王」つまり磐井だ。邪馬台国は魏の兄妹国、磐井の王が魏の皇帝 の位につき、それを祝うために卑弥呼は使者を送ったのだ。 もちろん邪馬台国は筑紫君磐井の祖。邪馬台国は筑紫にあった。 これですべての謎が解けた!!
244 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:21:08
236 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:19:35
>>215 つまらん釣りだな。
九州の庄内式が環濠集落終末期が主なのに対して、畿内の庄内式は環濠が埋められた
あとの時期が主なんだから、全体としては九州の方が古いというのは、自然な結論ではある。
畿内説で、この前提を認める勇気のある人が居るのか?
九州が本店で近畿が支店ってことにしたったるわい それでええやろ
248 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:34:10
庄内式土器は、畿内で発生した。 その時期は、畿内の環濠集落が終わった頃でもある。 一方、九州では、まだ環濠集落が続いてた。 畿内では卑弥呼が共立され、戦乱が終わり、マキムクが開発された頃。 九州ではまだ戦乱を引きずっており、環濠集落が残されていたわけである。
249 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:54:15
250 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:56:11
>>220 本居宣長の説は、邪馬台国九州説ではあるが、すでにその頃、畿内には
大和朝廷があり、神功皇后がいたということになっている。
邪馬台国の女酋が、神功皇后の名を騙って魏と通行したというもの。
これは、いわゆる九州王朝説につながる。
本居宣長の年代観は、記紀と同じであり、神功皇后の時代が卑弥呼の時代に
重なるとしている。
東遷説は、九州の邪馬台国が大和に都を移し、それが大和朝廷になったと
するもので、明治時代あたりに登場する。明らかに年代観が変わっている。
邪馬台国九州説でも、このように大和朝廷の前身かそうでないかで
大きく二つに分けることが出来る。
251 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 21:59:48
東遷説のもとは、騎馬民族征服説だろ。 箸墓から鐙が出たらな、九州も騎馬民族に征服されたということだ。
252 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:01:21
ねぇ、ねぇ。 結局、天孫降臨が嘘なの? 畿内説が嘘なの? どっちなの?
253 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:03:42
>>251 騎馬民族征服説は戦後なので、東遷説の方が古いな。
254 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:04:34
>>252 天孫降臨は直接邪馬台国に降ったわけではないだろうから二者択一は意味がない。
255 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:04:57
>>250 そのとおり。畿内説の人らは九州説の人はみんな古田説だと思ってるようだけど
どっちかと言ったら同じ九州説でも東遷説の人のほうが多いんじゃないかな
古田と一緒にされても困る。九州説だからといって東日流外なんとかが、どうとか
こうとか言われても困る。関係ないし。
257 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:12:18
>>252 そんななまやさしい話じゃないと思うよ
こういうスレでやっていることは、本人たちがどう思おうが
3世紀の女王を日本の歴史に位置づけようとしているのだから
258 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:13:34
>>252 天孫と言うのは、天照大神の孫であるニニギノミコトのこと。
天孫降臨というのは、そのニニギノミコトが天上の高天原から地上の日向に
降りてきたということ。
記紀に書かれていることだから、邪馬台国論争にはあまり関係ないかも。
ただ、ニニギノミコトは、神武天皇のひいおじいさんで、神武天皇は
東征して大和で初代天皇になるわけだから、東遷説のほうに近いのかな?
259 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:14:20
>>243 驚いた。そうだったんですね?
ただし、最後の
>これですべての謎は解けた!!
ってのをやめたほうがいい。www
260 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:16:20
卑弥呼も台与も九州だろう
朱、すなわち硫化水銀の毒性に言及している人がいるけど、 硫化水銀には毒性はほとんどないだろ。
262 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:18:11
>>258 神武が東征して、箸墓ができるまでの間に9人の天皇がいる。
文献上からも、邪馬台国東遷説は成り立たない。
と、書くと、欠史八代は架空だとかレスがつくんだろうが、
ちゃんちゃらおかしいね。
263 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:22:26
>>264 妄想、では批判にならないので、反批判を論理付けて批判して欲しいんだが。
266 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:33:39
>>265 物証が無ければ、言葉遊びの域を出ません。
267 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:34:01
>>262 初期の天皇は、第16代・仁徳天皇までずっと父子継承になっている。
もっと言えば、天照大神からずっと親子継承となるのだが。
ところが、仁徳天皇からは、兄弟継承や親戚継承がぐんと増える。
親子でないケースの方が多い。こちらの方が本当じゃなかろうか。
つまり、仁徳天皇以前も父子継承でないことが多かったに違いないと思う。
詳細な記録がないから全部親子にしてしまったんだろう。
>>266 それ自身が言葉遊びでしかない。
隋という当時第一の先進国が著した正式な歴史書に書いてある内容なのだから、
それ自身が物証だろう。
畿内説に都合悪いものはすべて「言葉遊び」らしいw これでは話になりませんね
270 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:37:35
>>267 >詳細な記録がないから全部親子にしてしまったんだろう。
詳細な記録がないと思ってるのは自分が調べてもいないから。
日本書紀・古事記を読んで、欠史八代天皇の后・妃の親子関係、皇子とその子孫の系図を、
全部書き出してみよ。
そして、どこが「父子継承でないことが多かった」と言えるのか、
具体的に指摘してみろ。
話はそれからだ。
271 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:37:45
>>262 モモソ姫=卑弥呼説は欠史八代を実在とした上で、
天孫降臨を肯定することになりますか?
272 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:40:20
>>271 天孫降臨とは、天皇の祖が天から降りてきたという神話を事実と認定するかどうかってことか?
それはNOだ。
神武東征のことなら、あえて否定しない。ただし、1世紀以前のことだろう。
まあ、隋書には冠位十二階の制度にも言及されているから 九州王朝ではないだろうな。
274 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:43:00
275 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 22:49:26
>>273 冠位十二階制度はどうでもよい。
上の路程についての論証を求めているのだが。
裴世清は九州から出てないね
九州王朝には有効な一次史料すら存在しない。となると既存の史料批判をするだけだが、それもまともな 手順を踏んだ批判ではないと学会からは相手にされていない
278 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:01:34
>>261 [1]毒性があるため、長期連用は避ける。[2]火で焼くと、水銀が析出するので、毒性が増強される。V用(タンヨウ)は禁忌。
水 銀化合物のうち、水および希酸に溶ける物は猛毒であるが、水に溶け難いものは毒性が弱い。
硫化第二水銀であるバーミリオンは、殆ど水に不溶なため、『毒劇物法』では普通物として扱われる。
顔料を加熱した際、分解して有害な硫化ガスを発生する。
日本画の技法等で、焼き色を作る場合に危険がある。
常温では、夏期でも分解する危険性はない。
バーミリオン等で急性中毒を起こした事例は知られていない。
水銀には過敏性反応があり、硫化第二水銀でもアレルギー性皮膚炎が起こる。
朱砂を大量に摂取した場合、水銀中毒の可能性。
279 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:01:40
魏の第3代皇帝曹芳=斉王は九州出身ではないのか?
280 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:02:01
倭王武の上奏文は基本的に、記紀と同じ歴史観なんだよなあ。 記紀の歴史観は少なくとも雄略天皇のころには確定していたんだろうね。 多数説(左翼)からは、天皇中心の皇国史観による捏造が雄略朝から始まったという理解になる。 素直に見れば、先祖代々の言い伝えがそのまま記紀に書かれただけ。 それを認めると、皇国史観って事なんだろうね。
281 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:02:11
>>274 誰が応神の話をしてるんだ?
欠史八代の系図を調べてみろよ。
なにか都合が悪いのか?
>>275 冠位十二階の第二位(小徳)と第五位(大礼)が使者を出迎えてるから
どうでも良いことでは無いと思うけど。
>>282 中国側が出迎えたと言ってる人と日本側が出迎えたと言ってる人は違うんだよ
284 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:05:37
>>277 それも違うだろう。上の「隋書」の路程の批判って学会からの批判じゃないの?
それに対しての批判だが文書から見た限り「まともな手順を踏んでいない」ような
内容ではないと思うんだが。反批判に対し内容に沿ってロジカルな批判をしてよ。
そうじゃなければ、
>>263 の反批判のどこがまともな手順でないのか教えてくれ。
285 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:08:00
>>251 騎馬民族征服説というは、正統な学会では、最初から殆ど相手にされていない。
それと、騎馬に乗るための足掛けみたいなのを開発したのは、西暦3、4世紀の中国だからな。
中国の農耕民は、騎馬に乗るのが下手だから、
農耕民でも乗りやすいように、開発しただけ。つまり、あれは、農耕民の文化。
箸墓付近から出てきたのは、その中国で開発された頃のもの。
つまり、かなり早い段階に、倭国には
中国から騎馬の習慣や馬などが輸入されていたことになる。
魏志倭人伝では、中国人が倭国には乗馬の文化がなかったと指摘している。
それが、どこまで本当かは分からないけど
少なくとも、西暦3世紀中頃には、中国人が倭人にそのことを聞いていたことになる。
また、それと比較的に近い時代の中国の騎馬文化の遺物なんかが
箸墓古墳などで出土している。
286 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:09:44
>>272 うーん、
モモソ姫の父親は欠史八代に含まれていたと思いますが、
欠史八代の中の大半は実在したことになるのでしょうか?
しかも2世紀〜3世紀に。
287 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:11:31
>>251 正統な学会ってなに?S価学会ということ?
冗談で言っているわけではないんだよ。歴史学の手順について最大限普遍的な論理を用いて客観的な
材料集めをして万人が納得できるような説のみを示している「正統な学会」がどこにあるの?
あれば名前を教えて。
288 :
287 :2009/11/26(木) 23:12:41
289 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:13:38
>>278 朱、すなわち硫化水銀は毒性は弱いものの大量に摂取した場合、水銀中毒になる可能性がある。
通常は高価なため少量しか使われないが、
卑弥呼は真朱を五十斤(約11kg)も魏から貰っている。
290 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:14:56
>>280 倭王武(雄略天皇)の上奏文では
倭国を中国から分離した天下と認識する思想もあるけど、
基本的に、倭国の朝鮮半島における軍事的統括権を認めてもらうのに
中国の天下の下でそれを実現させようとしている。
よって、倭の三韓征伐というのは、
中国に対して、倭国はその臣下として
朝鮮半島を軍事的に管理する権限をくださいと主張している。
実際に、倭国の三韓征伐では、旧楽浪郡・帯方郡の中国人を
倭国の亡命させたり、彼らをたてて、朝鮮半島に軍事介入したりしている。
291 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:18:49
>>286 崇神がウジのように涌いてきたと考える方が非科学的だから
欠史8は実在したとみるのが筋。
292 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:19:26
>>287 騎馬民族征服説というのは、一時期、在野ではもてはやされたけど
大学の偉い先生とか、専門的なアカデミックの場では
殆ど相手にされてませんでした。
あまりにも矛盾だらけだったから。
でも、こういう説が出回った背景は、
本居宣長が邪馬台国九州説をぶちまけることによって、
西暦3世紀の歴史観も崩壊し、
その前後の数百年の歴史の流れも崩壊してしまったのが大きな要因でもある。
その隙間を、あういう珍説が広がる切欠になった。
>>284 畿内にあまりに証拠がのこりすぎている。庚午年籍では畿内とその周辺はいうまでもなく、
東は上野国・常陸国、西は九州諸国に及び、まさに全国規模で実施されたことを示している
飛鳥文化は六朝文化の影響を受けており、飛鳥寺や四天王寺が現存する。
>>245 ほれ、九州王朝電波ゆんゆんでしょ?w
294 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:19:53
>>286 実在したということではなく、
神武から崇神まで、大和で実際に長い時間を要しているということ。
それは他の氏族の系図と照合しても矛盾のないほど明らか。
>>293 なんで路程記事の話をしているのにわざわざそれに触れないように違うことを話すのか?
庚午年籍など8世紀の話だろうが。
やはりロジカルな批判ができないんだな。
296 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:28:05
297 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:31:51
>>396 神武が即位した実年代のこと?
それはわからんね。
3世紀以後でないことは確か。
298 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:31:53
それもあるだろ、人類アフリカから来たって知ってる?
>>295 隋が滅びたのは618年、わすか100年でそんなものができている。
あと飛鳥寺着工は588年だ。法隆寺は7世紀前半だ。
おまえ頭悪いの?
300 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:34:46
しかし、以前より九州説は幼稚になってきたな。 崇神が畿内に居たという事を前提として 新たな仮説を打ち立ててる。(常識的に分かる程度の検証もなく) さらに、悪質なのはその事実をくの無視で古典的説を 未だに話し続けてるかどっちか。
九州説は無意味な史料批判より「九州王朝があった」文献出せよ。醜いの
302 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:37:32
4世紀の九州の東征はないし、 畿内に九州の遺物ないし。
303 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:40:47
304 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:41:15
おまえら、神武東征ばかり注目がいっているが、 神武東征における若御毛沼命(神武天皇)の 大義名分って、ちゃんと分かっているんだろうなw もし、この大義名分が分かっていたら、 邪馬台国東遷説なんて、とてもじゃないけど、言えなくなるw
305 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:42:31
>>291 欠史八代と言うのは、二代から九代までがいないということだから、
初代神武天皇と十代崇神天皇が同一人物ということも言えるな。
>>303 九州王朝説を恥ずかしげもなく披露してるバカにいいえ
307 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:43:15
>>300 九州説だけじゃなく、全体のレベルが低下しているんだ
308 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:43:15
東征主張な人って関東の朝鮮系の人だと思う。 九州でまともに東征信じてる人いるのかな。 だいたい九州人って本州四国の人 少し外人って思ってる人多いし。
漢文の枝葉の議論もみてられんし。。 あれ、俺結構みててうんざりする。
311 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:47:24
>>305 でたよでたよ。
勝手に欠史八代が実在しないと決め付けて、神武と崇神を同一人物にしようとする。
だったら、モモソヒメはどこの誰だ?オオヒコは?キビツヒコは?
みんな、欠史八代天皇の子だ。
「欠史八代」とは、「天皇が具体的に何をしたか書いてない」という意味であって、存在しないという意味ではない。
それでも、「天皇が具体的に何をしたか書いてない」というのはウソであって、
丹波の娘と婚姻したり、いろいろクニの連合のために仕事してるわけだよ。
倭人伝によると、邪馬台国より北に伊都やらなんやらがあって、 そして邪馬台国より遠方の諸国に播磨とかがある。 邪馬台国が畿内だとおかしくね? あれは行程を述べてるとでも??
>>312 出た出た。どこに「播磨」ってかいてあるんだ?
314 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:50:56
>>311 >>305 のレスは誰がみても納得しないから
無視してよい。ここはニュー即とか低俗なテレビ番組ではない
レベルの低いレスしてるような奴でも概ね基礎的な知識は
もってるんだから。普通の知能があれば間違いと理解できる。
でも普通の知能じゃなければ理解できない。
でも普通の知能じゃない人を相手にする必要性はない。
だからこういう低いレベルのレスは無視が効果的。
315 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:51:16
>>305 欠史八代というのは、二代〜九代の天皇の記述が少ない。
このことにより、その時代の天皇の存在を疑問視する説。
で、その上で、神武天皇と崇神天皇を同一視する説。
でも、神武天皇と崇神天皇は、あまりにも経歴が違うし、
卑弥呼=モモソ姫命ならば、欠史八代の天皇の存在も浮かび上がってくる。
だいたい、纏向遺跡というのは、
西暦2世紀後半〜西暦4世紀前半までの遺跡であり
崇神が活躍したのは、西暦3世紀中頃から西暦3世紀後半と見られているから
崇神は、前任者の天皇の後を受け継いだに過ぎないと思われる。
316 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:51:43
>>310 いくらでも言えるが、こんな状態ではどうしようもないな。
例えば、名前が同じで、ハツクニシラススメラミコトということ。
あるいは、神武天皇の記録が即位以来ほとんどないこと。
また、崇神天皇の四道将軍で始めて周辺に勢力を伸ばしているように見える。
二代から九代までは大和でなにをしていたかということ。
親族の反乱の状況も似ている。
317 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:54:28
今回の纏向遺跡の研究の成果は たんに邪馬台国や卑弥呼の西暦3世紀に留まらずに その前後の数百年の歴史の経過や国家の成立過程に対する解釈にも 大きな影響を与えると思われる。
318 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:54:56
>>316 それはあなたのような大正時代の老人の妄想。
そういう妄想はここに居る人はみんなみてきてる。
伝染力の強いウイルス並の崇神の爆発力を証明せよ。
確かそうだな。崇神以前の天皇は何やってたんだって感じ
320 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:56:48
きわめつけ、畿内で九州の遺物が出ない。
321 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:58:01
>>319 だから九州から東征したと考えるのが九州説脳w
322 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:59:04
>>316 というか、魏志倭人伝の記述を見れば
倭国というのは、過去にも、国家の大半を統一した政権があったけど
その都度、何度も戦乱があって、
統一、分裂、統一、分裂を何度ともなく繰り返していたような印象を受ける。
でも、これって、文献が豊富な西暦8世紀以降の歴史と同じ。
近畿に中央政権があっても、地方では、たえず反乱があって
中央政権が地方を鎮圧するのに大軍を差し向けるなんてことは
何度でもあった。
323 :
日本@名無史さん :2009/11/26(木) 23:59:25
>>318 だったら、こちらはそれなりの根拠を言ったのだから、そちらも欠史八代実在の
根拠を述べてみたら?
記紀の記述は眉唾だが、歴史を見れば、 勢力の拡大は爆発的な場合が多いのは事実だな。
325 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:01:29
魏志倭人伝によると 倭国では 国家成立後、男王の時代が数十年続いたが やがて、倭国大乱が起こり、歴年争い やがて、女王卑弥呼を擁立することによって 倭国は統一されたとある。
326 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:03:01
崇神は卑弥呼時代に実在した。 崇神の王朝は近い時代の九州と直接の関係がない。 崇神の後にも九州との直接の関係がない。 ゆえに、仮に東征があったとしても 欠史8代以前にしか東征はありえない。 九州説厨は欠史8代を否定すると己の別の仮説 東征説をも同時に否定する事になるwww その矛盾に気づかない大正時代の老人妄想wwwww
>>325 畿内には大乱の跡なんて何一つ残ってないからな
平和そのもの
おかしな話だ
328 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:04:12
>>316 >例えば、名前が同じで、ハツクニシラススメラミコトということ。
この前提が間違ってる。
記録にあるのは、
神武は「始馭天下之天皇」
崇神は「御肇国天皇」
まったく意味が違う。
漢字が伝わって「天皇」の称号ができた後に作られた称号だ。
両方をハツクニなんちゃらと訓づけしたのは、後世の学者だ。
後世の学者が便宜上ハツクニなんちゃらと訓づけしたのを根拠に、
君は同一人物だと妄想してるわけだよ。
すこしは自分の無知を恥じたらどうかね?
329 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:06:22
>>326 欠史八代は、東遷説にとっては有利なのだよ。
神武天皇=崇神天皇ならば、神武東征の年代が下る。
330 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:07:01
>>299 馬鹿はどっちなんだろうね。
知ってか知らずか、584年のことに触れようとしないな。
敏達天皇の時世に仏教は播磨国から大和に伝わったと日本書紀にある。
つまり播磨国でさえ当時大和の支配下になかったことを示している。
332 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:09:08
神武天皇=崇神天皇という九州説の奴は 何の学術的説得力のない空虚な仮説、 言えばいいってもんじゃないという水準なのは 明らかだよな。だって何一つ論理も証拠も遺跡も 無いのだからw
333 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:11:31
欠史八代といっても色々あって 九州説の短絡回路以外にも崇神との直接血縁がないとか 有る程度説得力があるものもある。俺はそういう説は 検討を要すると思う。だが崇神東征はない。 遺跡、状況証拠から論理的にほぼ可能性ゼロ。
334 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:13:10
九州説でも東遷?何それプギャーな人が多いんじゃない? そもそも、九州説は別に動いてもらわなくてOK 東遷じゃなきゃ困るのは近畿説でしょ?
335 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:15:33
畿内説はもっとドライで希望とか願望は排除してるから ドライに科学的にみて畿内と言ってるだけ、 科学的視点が無いバカ(九州説)を蹴散らしてるだけw
336 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:16:09
>>328 問題は、どうして10代天皇を御肇国天皇というかだろうな。
また、御間城入彦というのも問題。
欠史八代=神武と崇神を同一視 …という文脈で語っている奴がいるが 実際には神武は祟神より応神に余程似ているw どちらもヤマトの外西からやってきて 抵抗勢力にヤマト入りを阻害されているwww まあ東遷厨はヒッシなんだろうが そもそも欠史八代のモデルになったような人物がいたとして (そりゃ祟神の御先祖さんは何処かにいたんだろうし) それが一系譜上の親兄弟であったかどうかは別で それが更に後の天皇と言われるような大王の地位にあった人物であったかどうかも別の話。 まあ欠史八代の宮や墓は伝承ではどちらかと言うと三輪よりは畝傍の方が中心で そもそも神武が「イワレビコ」なんて名前の時点で話のオチは見えたと言うかwwww
338 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:21:03
>>337 三輪=土着
橿宮=土着じゃない
って事?
339 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:21:08
崇神と欠史8代は多角的にみないといけないよ。 欠史8代は崇神の下地を作ったとか 崇神と欠史8は血縁関係がなく政変によって誕生したとか、 いずれにしても大正時代の人が妄想した仮説は 出来るだけ排除して科学の時代にあった議論を求む。
>>330 脳みそ腐ってる?「播磨国に先に仏教が伝わった」と「播磨国でさえ当時大和の支配下になかった」
とどうイコール関係でむすべばいいわけ?それに日本書紀をもとにするなら明らかに
裴世清=裴世は難波津に来てるのだが。
341 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:22:44
>>338 神武が即位して宮を置いたの橿原。
橿原から九州の遺物が何か出ればいいんだけどね。
悲しいくらい、何も出ないね。
縄文遺跡くらいか。
科学ってなにかね 年輪法かいw
343 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:23:42
344 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:25:09
東征の根拠がないというのが後を絶たないが、考古学的にも古墳が出来た頃を 境にして、畿内の様子は激変しているだろう。 古墳が出来たこともそうだが、墓制の変化も大きい。しかも、弥生時代の 九州との連続性がある。鏡、剣、玉類を副葬する習慣。棺の中を朱で染める 習慣。それまでの畿内では全く見られないもの。 銅鐸の消滅、鏡の興隆にもそれが言える。
345 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:26:33
>>341 そこでなんで九州を引き合いにだすの?
三輪の話してるんだけど?
346 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:28:05
>>344 古いよ、みんなそういうの知ってて
否定してる。
前スレ、レス全部みろ。一から説明は面倒過ぎ。
議論の蒸し返しは不毛。
その議論は語られ尽くした。
…ったく邪馬台国スレは直ぐに「古代史全般スレ」になるがw 欠史八代のネタにヒッシに固守してるのは東遷厨なんだろうな。 連中の考えと言うか願望は見え見えで… 欠史八代は記紀の描く系譜どおりに実在した ↓ 当然その祖たる神武も実在し それが九州からやってきたという伝承も事実である ↓ 東遷説はやっぱり正しいニダ! もうねえ、、、うんざりですハイwwww
348 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:29:34
>>344 文化の伝播は、東征の根拠にならない。
明治時代に日本人が洋服を着るようになったのは、
西洋人が明治政府を作ったからか?
349 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:31:34
>>344 とか、幼稚な話はテンプレ作って否定したほうがいいな。
350 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:31:41
>>340 「播磨国に先に仏教が伝わった」と自分で書きながらおかしいと感じているよね。
日本書紀は大和国の風土記じゃないんだから支配下なら別国に先に伝わったなどと書くわけがないだろう。
裴世がきた難波津は近畿ではない、博多湾岸だ。
それともともと「隋書」の里程についての見解をきいているのだから、まともな回答ができない低脳君だと
いうことは良くわかっているが、早く出したまえよ、原田君のような低脳君。
351 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:32:14
>>344 こいつが下手な反論する前に下手な反論予想して反論。
遺跡みよwww
352 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:33:30
>>346 語られつくしてはいないな。畿内説が逃げているだけ。
畿内あたりで発展し、大型化し、宗教的な意味合いの強い銅鐸がどうして
突然のように消滅し、以来全く出てこないのか。
この理由を説明してくれないか。
畿内説は、一つも根拠を言わない。
倭人伝に明確に記されている伊都国には邪馬台国から役人が配されていた。 常識的に考えると邪馬台国と伊都国は文化的に通じてないといけないと思うんです。 それこそ邪馬台国時代に前方後円墳があるのなら、九州最古の前方後円墳は伊都国にあるべき。 そうじゃないってことは、、、 1、伊都国が糸島半島ではない 2、邪馬台国が畿内ではない 3、前方後円墳発生の時代設定が不適切 4、当時の倭人にとって墓制は重要でなかった 5、邪馬台国の権威はあまり高くなかった 他に可能性はある? そこら辺から邪馬台国の意味を考えてみたいな。
>>344 自発的に変わったんだって
このままじゃあかんがな。変わらんとあかんがな。とみんなで銅鐸を叩き割ったんだって
355 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:34:46
>>346 まあ分かっていると思うが
>>346 は恐らく死ぬまで同じような内容を言い続けるんじゃないのかな?
今では省みられなくなっている説であっても
とりあえず自説にはピッタリだからwwwwww
(多分いつもの日向厨かな?)
銅鐸圏と銅矛圏の二つの円を列島に重ねた図
…今じゃもうあの概念は殆ど通用しないだろうにw
まあ「圏」と言う概念では間違いはないかもしれんが
それが二つの中心(一つはヤマト)があって…と言うのは無理だろう。
実際山陰出雲は畿内ヤマトよりお先に銅鐸・銅剣といった青銅祭器の祭祀から
大型首長墓(四隅)の祭祀にシフトしているしw
357 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:38:54
>>352 銅鐸がどうした?
吉野ヶ里からも出てるよな?
九州と畿内が同じ文化を共有してたってことだ。
それならなぜ、倭人伝に畿内の様子が書いてないんだ?
理由は簡単だ。
畿内が邪馬台国だからだ。
358 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:41:26
九州王朝の第一次文献史料ください。 なんか既存の史料にアヤつけるばかりで911やアポロの陰謀論と論 法がそっくりで気持ち悪いです。 そういやオウムの麻原も賛同してサリン事件の遠因にもなったそうですね? ここで九州王朝説となえてる人ってアーレフとかオウムの残党なんですか?
359 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:41:33
死生観と言うのは重要で、なかなか変えられるものじゃない。 宮崎あたりでは、古墳と共に、地下式横穴墓と言うのがみられる。 このあたり独特の墓性で、恐らく在来の人々の墓だろうと言われる。 なのに、畿内の古墳は、全て九州系統の棺の様子をしている。 少なくとも、それまでの畿内に全くないものだし、他の地方にもない。 どうしてこのようなことになったのか。 畿内では、銅鐸の消滅といい、最も重要で基本的な宗教的なものが変わって いる。 これを単なる文化的な変化と言うのでは足りないだろう。
360 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:43:02
>>353 伊都は丹波のヒボコのイトデが赴任した土地。
いわば大和の属国。軍事で土着民を制圧した。
畿内との血縁関係は薄い。
アングロサクソンがインディアンにホワイトハウス
作らせるようなもので土台無理www
まぁ5に近いな。
対し日向は同盟国。
361 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:43:51
>>354 畿内説だがそこは慎重にみるべきだと思ってる。
政変の可能性も否定はできないから。
362 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:43:57
>>359 九州だって
カメ棺が消えただろ。
都合の悪いことは無視かよ?
363 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:45:59
文化の伝播とか、そんなんで東征というふうに 解釈するのって、記紀以前の歴史研究ならではだねw だいたい、文献な時代に、そういう解釈なんて するわけないしねw 中世以降でも、文化の伝播は、長崎の出島とか 筑紫の博多など、九州からの場合が多いよw だからといって、 長崎の出島や筑紫の博多が強い、そこが首都だ! なんて、誰も言わないよねw
364 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:46:09
365 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:47:42
死生観と言うのは重要で、なかなか変えられるものじゃない。 九州では死者をカメ棺に葬っていた。 九州勢力が東征してきたなら、 九州出身の豪族は、当然カメ棺に埋葬されるだろう。 しかし、奈良からカメ棺が出てきたことは無いね。 せめて橿原からカメ棺が出れば面白いんだけどね。
366 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:48:55
>>362 そうそう九州でカメ棺消えた事で西征説には言及しない。
ダブスタを認識できない九州説厨w
367 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:50:39
>>362 甕棺が消えたと言っても、棺が変わっただけで、中身は変わっていない。
>>363 宗教的な激変は、支配者の交代が一番説明しやすいんだよ。
>>352 そんなもの「社会構造の変化」で終わりだなw
現在チョンマゲ結っている人間がお前の身の回りにいるのか?w
つうかこんな話過去にも何度も書いたが…
そもそも銅鐸と言うのは巨大化してビジュアルwに訴える前は
首長も参加したムラのマツリで打ち鳴らし
そこで五穀豊穣を祈願した穀霊信仰の道具だったわけだが
やがて首長は集落の外に出て豪族居館を構え
五穀豊穣のマツリ自体は継続したであろうが
そこに首長の権威をも示す大型青銅祭器を用いる必要も無くなった。
そもそも銅鐸の終焉と銅鏡の登場が時代的にピッタリ重なる根拠を出せと言う話w
畿内説と言うか自分の都合の悪い年代観にはイチャモンつけてるだろうにwwww
369 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:53:42
>>367 九州で、カメ棺が消えたってことは、無視かよ。
話にならんな。
九州の、あのバカでかいカメ棺に丁寧に葬る習慣を捨てるのは、
支配者の交代が一番説明しやすいんだよね?
370 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:54:02
宗教が変わったとかどうかで、支配者がどう変わったかなんて 分かるか? 親子でも、宗教観が違ったりするのに...
371 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:55:14
>>334 だよな?
邪馬台国論争に東遷は関係ないわな。
九州説にしてみれば。
卑弥呼が近畿に移ったと決まれば話は別だがw
その論争をしている訳だし、
現時点では東遷、東遷言ってるほうがおかしいw
372 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:57:10
>>371 東遷説論者の敗北宣言かなwwwwwwww
>>344 >九州との連続性がある。鏡、剣、玉類を副葬する習慣。棺の中を朱で染める習慣。
>それまでの畿内では全く見られないもの。
じゃあ特殊器台のルーツの吉備も東遷してきたという話だなw
中国製のストラップがついてるから本体の携帯も中国製…みたいな理屈だなwwwwwww
そもそも東遷厨が三度の飯より大好きな「三種の神器」ネタ
「鏡、剣、玉」の三点セットが九州の墓制と言えるぐらいの事例があるのか?
ある一定の期間、また地域でまとまって出てくるのか?
またそれが東遷勢力によってもたらされたと言うのなら
大和の初期の古墳からもほぼ全てから出てこなきゃおかしいだろうにwwwww
374 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 00:59:45
>>369 古墳だって、木棺もあれば石棺もある。棺が変わっただけで中身は同じ。
九州の甕棺は、卑弥呼時代よりもかなり古いが、地域によって分布には
差がある。弥生中期頃にできているが、熊本で消滅する頃、佐賀・福岡では
全盛を迎えるなど、年代にかなり差がある。
いっせいに消えたわけではないし、中身が変わったわけでもない。
死生観の変化は見られない。
375 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:00:01
吉野ヶ里の首長だってカメ棺に埋葬されてたんだろ? 確か、九州説では、吉野ヶ里はマキムクと時代は離れてないよな。 東遷してきたなら、 なんで、マキムクからカメ棺が出てこないんだよ。 まったくアホか。
376 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:00:37
あまり詳しく無いので乱暴な仮説だけど。 銅鏡は中国起源の祭器で交流のあった九州で受け入れられた。 銅鐸、銅矛銅剣はいずれも朝鮮起源で日本各地に受け入れられた。 銅鏡の信仰は中国に対する憧れに由来してる、 特に九州固有の宗教というわけじゃない、畿内が 中国との交流を始めた機会に鏡への傾斜高めたのは自然。
377 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:00:56
>>373 だから東遷などしていないって。
三種の神器を押頂く王権はずっと九州に存在していたのさ。
大和王権は三種の神器を持つことが許されなかった周辺族。
378 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:01:38
>>375 有名な把頭飾付きの有柄銅剣が出てきたのは、始祖王といわれるな。
あれは、紀元前の甕棺。
正直現状では九州からの東遷を主張するのはもう無理でしょ。 20年前なら通用したかも知れないけど。
380 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:02:57
>>372 東遷説なんて関係ないってだけで
東遷説論者の敗北宣言ってw
あんたおめでたいな。
いつもの人?www
381 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:03:30
>>378 吉野ヶ里が九州の年代で古い遺跡なら、
庄内式土器も畿内発祥ってことになるが、それでいいんだな?
銅鐸祭祀は、おそらくムラ単位での祖霊信仰だろう。祖先の霊が穀物霊に働きかけて豊作を成就させる というようなもの。それに対し、卑弥呼の鬼道は首長霊信仰。これは祖霊信仰より一段階レベルが上で、 つまりそれまでムラ単位の祭祀であったところに、より広範囲を束ねる首長が現れたということだろう。 これは当時のこれは倭国大乱と呼ばれる地域の統合化により、社会が一段階進化したことを端的に表 す例だと思う。
纒向が水垣宮とすると卑弥呼の弟が崇神天皇ってことでいいのかな? 卑弥呼はあくまで形式的なトップで実権は弟が持っていて倭国大乱を収めたのもこの弟ってことかな? 魏には巫女というものがうまく伝わらず女王と記録されてしまったと
三種の神器=九州=王家=邪馬台国 三種の神器なし=畿内=周辺族=裸国・黒歯国
386 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:06:25
吉野ヶ里は、邪馬台国(ヤマト国)とは無関係だよ。 あのあたりは、米多国(メタ国)といわれていた地域で 旧事本紀にそのように記載されているし、 吉野ヶ里付近には、そういう地名が残っている。 ちなみに、西暦107年に中国に使者を送ってきた 倭の面土国(メタ国)の指導者は、 吉野ヶ里の豪族だった可能性が高い。 この時代、ヤマト国の九州に対する統制力が揺らいでいた時代だと思う。 でも、この地位の指導者は、やがて、ヤマト国に併合されるままだった。
387 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:07:43
>>381 なんか疲れるな。
畿内説は基本的な知識がなさ過ぎ。
吉野ケ里の集落がいつ頃誕生したか、いつ頃全盛を迎えたかくらいは
調べてからにして欲しいな。
388 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:08:00
そもそもなんで東遷しなきゃいけないの? 天孫降臨は九州って認めたの? 幣立神宮の存在に気づいたから? 本州にも高天原ってあるんでしょ? それはスルーするの?w
389 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:08:06
>>377 それそれ、三種の神器。畿内説だけどそこネック。
三種の神器は奴国に王が居た頃の名残だろうか。。。
南朝の勢力は三種の神器の正当なる継承者という主張してたよな。
奴国に王がいた頃は畿内、出雲は周辺蛮族扱いされてて
後、政権取った畿内が奴国から三種の神器を奪い
中国との直接交渉権を得たとか。妄想。
390 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:09:51
>>387 くいついて来たなら答えてもらおうか?
庄内式土器は、九州発祥か畿内発祥か、どっちだと考えてるんだ?
391 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:10:28
392 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:10:56
>>389 奴国というのは、
あくまでも、倭国の下のカテゴリ扱いだからな。
「漢の奴国」ではなく、
「漢の倭の奴国」だから。
つまり、中国人たちは、奴国よりも上位に
倭という存在がいたと認識していたわけだ。
>>387 自分の理論が正しいと過信しすぎじゃないの?
394 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:11:54
>あのあたりは、米多国(メタ国)といわれていた地域で >旧事本紀にそのように記載されているし、 >吉野ヶ里付近には、そういう地名が残っている。 目達原(メタバル)か・・・
筑紫の日向の高千穂の久士布流多気だからな どう考えても畿内じゃないだろ
396 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:13:32
>>390 出土数はどちらが多い?
あるいは出土する地域の範囲はどちらが広い?
出土数が多くて、範囲の広いほうが先だろうな。
397 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:13:54
畿内にも土着と言われた人達がいた事は忘れんなよw >畿内論者
>>392 「漢の倭の奴国」じゃなくて「漢の倭奴国」だ
また、鏡の副葬については九州の影響を否定するつもりはない。そもそも畿内説に立てば200年 代というのは、ヤマトに中心をおく邪馬台国連合が北部九州や東部九州に拠点を置き、徐々に九州 の地を取り込んでいった過程であるのだ。だいたい近畿での画文帯神獣鏡の流行した時代を考えれ ば、東遷説の多くが説く、卑弥呼死後という東遷の時期はそれだけで簡単に否定されてしまうだろう。 それとも画文の流行を250年以降あたりにもってくるのか。
400 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:16:19
>>392 倭の配下にあった奴だったら漢が金印など贈るわけがない。
直接の家臣であると認めたから金印を授けたのじゃ。
401 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:16:23
『三種の神器』ネタを引っ張ってくる東遷厨に改めて聞いておきたいんだが… そもそも 「三種の神器の副葬が九州の墓制」といえるだけの事例があるのか? ある一定の地域時代で継続して副葬されたという事実が無ければ それを墓制と言えるのかって話w スマンが今までそれにまともに言及したものを俺は知らんのだがwww
402 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:16:38
>>395 おまえ、高天原と高千穂をごちゃ混ぜにしてないかw?
天孫降臨とは、
ニニギ命(神武の曽祖父)が、高天原から高千穂に降臨した話。
高千穂というのは、筑紫島(九州)の日向の高千穂で
正解だが
高天原というのは、おそらく、葛城の高天の原
が正解だと思う。
つまり、天孫降臨は、近畿から九州から降臨した話。
実際に、神武東征の時に、神武さんが近畿に入る時に
「私は、あなたたちと同じ出自ですよ」といって
近畿に入るわけだから、
神武さんは、九州南部の出身かもしれないが
彼の曽祖父のニニギ命は、近畿の出身だっただけの話。
403 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:16:56
>>390 横レスだが。
庄内式土器の問題点は、
>>236 のように、出土事実では九州の法が古い時代であること。
しかも、九州では北部九州の広い地域から出土するのに対して、本州ではヤマト、河内などの
せまい地域でピンポイントでしか出土しないこと。
河内の庄内は大和より新しい。九州の庄内はヤマトと同系列。
つまり、庄内式は東遷をピンポイントで裏付けるので、「神武東征」を否定することが至上命題の
学界主流派は最近ではこの問題に触れることもなくなったというのが、実情だろ。
404 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:19:19
>>398 倭奴国とみる人は少ないけどね。
一時期、そういう見方をする人もいたけど
倭の奴国と認識する人が多い。
実際に、山海経などでも、
倭国は、周の時代から、中国と交易していたことが
分かっている。
405 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:19:48
>>399 崇神天皇の四道将軍派遣と整合性がある?
崇神天皇の場合は、東海、北陸、丹波、吉備あたりで精一杯だったのだが。
406 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:20:03
>>401 王墓と言われるものには、それがそろっているという意味では九州優位だな。
弥生時代の畿内では、3個のうちの1個を満たすものさえ、極めて少ない。
控えめに見ても九州の100分の1以下だな。
それが古墳時代になると本州に急速に広まったのは、まさしく「神武東征」に
よる効果といわざるを得ない。
407 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:20:19
安本教授の信者がどんどん釣れてるね。 九州説の考古学者でも、庄内式土器が九州の方が古いなんて論文出してる人なんていないのに。 いたら教えて欲しいわ。
408 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:20:32
畿内説だけど、 200年代以前は日本は九州北部を中心として 中国との外交がある地域(倭と呼ばれていた) と朝鮮とは交流があるが中国とは直接外交がない 出雲や畿内の国があった。 この二つの勢力はほとんど別の国として独自に 動いていた。 九州の勢力と畿内(出雲含める)の勢力は日本列島の ナンバーワンの地位を争い200年代以前も度々 揉めていたと思う。 その後も俺が俺がの主張してたと思う。
>>402 >高天原というのは、おそらく、葛城の高天の原
>が正解だと思う。
そんなこと思われても・・・
410 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:23:16
>>409 高天原ってのは、文献にしか出てこなくて、
文献には葛城が高天原と書いてあるんだよ。
>>404 旧唐書にも出てくるでしょ
倭国は古の倭奴国なり。って
412 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:24:06
>>408 その位も区別できないの?
だから九州厨は知能が・・・
413 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:24:38
>>407 そんなこと言ったら、極左が支配している学界で生きていけないだろ。
学問の自由を享受できて自由に発言しているのは、学界の非主流派だけ。
三角縁神獣鏡が全部国産なんていう自明のことでさえ、いえない空気が支配する
学界に学問の自由なんてないんだから。
例えば、玄界灘流域諸国と初期ヤマト政権の間に対立の様相を示す遺物は見られず、むしろ庄内 甕などの移動により、活発な交易の様子が見て取れる。倭人伝の記述にある、伊都国に一大率が 置かれた時期には、ほぼ北部九州を連合傘下に収めてていたと考えられる。傘下に収めたといえば 力による支配のように聞こえるかもしれないが、そうではなく積極的に連合に加わった首長も多かった だろう。そしてそのような首長には、前方後円墳を築く許可が与えられ、箸墓1/○という設計が配され た。
416 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:27:45
>>415 博多周辺の日和見主義と節操無さはその頃からの伝統なんだなwww
畿内説では出雲の扱いがよくわからない。
418 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:29:23
>>409 延喜式には、そういう前提で書かれている。
葛城の高天が、高天原の地だってね。
それ以外の文献でも、平安時代くらいまでは
そのような認識で書かれていた。
419 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:31:19
削除依頼出されてるね。 名誉毀損になりかねないねw 訴えられればいいのにwww 116:日本@名無史さん :2009/11/18(水) 19:19:58 心境も何も、彼は詐欺師だから。 平然としてるだろ、詐欺師なんてそんなもの。 さすがに自分の説が大間違いという事に 気づかないほど知能が低いとは思えないし。
420 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:31:35
>>403 天=アマつまり海人なんだよ。
神武さんが近畿に入る時に「私は、あなたたちと同じ出自ですよ」といったのは、
縄文時代から北九州を地場としていた海人の一族が本州に広まっていたことを示すもの。
「天」の領域は玄界灘を中心として朝鮮半島と北九州、山陰で囲まれた地域で、古事記の
国生み神話で「天乃」が付く島はすべてここに存在する。
高天原は天国の領域の高い場所にある原の意味で、壱岐の原の辻が代表的なものだが、
対馬や沖ノ島を指す場合もある。
ちなみに、天の安河は、宗像の大島に流れる天ノ川で七夕伝説の発祥地。
天照とスサノオの二神の誓約生みは天の安河=宗像大島の天ノ川脇で天真名井の水を
口に含んで行われるが、天ノ川の流れ込む中津宮には文字通り天真名井(神社)がある。
ついでに言うと、天の岩屋は沖ノ島である。神話では神々が岩屋に閉じこもった天照を誘い出し
に行く前に天の安河で相談してから行くが、これは沖ノ島(沖津宮)参拝前にかならず中津宮
に前泊するというしきたりとなり1700年以上の月日を経て現在まで引き続き行われている。
421 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:31:52
>>415 そのような文献的な記述はないし
考古学的には、近畿本国以外で
纏向遺跡で大きなウエートを占めているのは
東海と吉備。
422 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:32:28
>>415 歴史の発展と言うことから考えて、3世紀の畿内に北部九州まで支配する
勢力がいたというのは考えにくい。後の大和朝廷顔負けだから。
それに、狗奴国の問題もある。そんな大帝国?を築いていた勢力が
狗奴国を恐れて魏に助けを求めるのはおかしいし。
423 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:34:39
博多周辺は経済的に古来より豊かな地域で戦争を好まないのは 地理的背景もある。ヤシらは今は大和に着いたが得策と考え 簡単になびいただろう。抵抗したのは史実でも明らかなように 筑後川周辺の勢力。
高天原なんて日本各地にあるわな
425 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:35:20
すみません。 県知事のほうの麻生さんが倒れた島の名前教えてください。 禊ぎをしないと入れない島です。
426 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:36:26
>>420 はあ?
よくも、そんな解釈できるなw
神武さんは、河内上陸戦争の時に
「我々は、天津の出自なのに、天津を向かいにして戦うべきではない」
とかいって、河内上陸を諦めて(というか、実質的には、敗走して)
和歌山側から、命からがら、上陸したんだよ。
その大阪湾から向かいにある河内の背後とは、葛城の高天地方だよ。
大阪側からは金剛山といわれていると山は
大和盆地側からは、高天山といわれていた地域。
伊都国と考えられる前原の潤地頭給遺跡の玉造工房からは、島根県玉湯町の花仙山を原産とす る碧玉・メノウ。新潟県の佐渡島産と考えられる鉄石英が出土している。しかも甑形土器など、山陰 地方に特徴的な土器が目立って出土している。これは、日本海沿岸諸国から玉造りの技術者が集団 移住していたことを物語る。これは畿内邪馬台国連合以前の伊都国の王が統括していた事績であろ うが、古くからの日本海航路の活発な活用を示唆している。つまり、倭人伝の記述は到底九州島内に 収まるものではない。
428 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:38:24
倭人伝は、日本の各地を「国」と表記しているんだが、これは環濠が張り巡らされた 拠点を持つからだろJK 実際にも、所在地が分かる地名は、すべて環濠集落があった場所で、かつ、環濠集落の 時期に栄えていた場所。 これを無視して、環濠集落が終焉したあとの時期に邪馬台国を持ってくるってのは、無理。
>>420 なるほど
葛城にあったという説よりも、よっぽど説得力がありますね
430 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:39:05
>>422 狗奴国の男王の卑弥弓呼とは、
武埴安彦命だよ。
狗奴国の乱とは
あくまでも、倭国のヤマト王朝内部での主導権争いにすぎない。
431 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:40:10
432 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:41:28
延喜式では、葛城の高天にある 高天彦神社は、名神大社とされ、 明治天皇が、東京に行かれる前にも この高天原の地位に挨拶されている。
433 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:41:56
>>426 マジかよw
神武タンも人の子なんだねw
たかが王朝内部での主導権争い程度で魏の助けを求めるのかw そんなもんで魏もよく使いを出したな
例えば福岡の那珂八幡古墳は3世紀代にかかるものだろうが、東の御笠川、西の那珂川の流域を 支配した首長のものと考えられる。これなどは、早くから邪馬台国連合に参加した例と見て間違いない だろうし、そうでないとするなら九州説はどのような説明をつけるのだろう。時代を新しくするのか、それ とも前方後円墳を九州発祥とするのか?
>>429 宗像三女神はまさに誓約生みで生まれて宗像三宮に配置されていることに注目。
沖ノ島は小さいほうの島が「小屋島」であることとまさに天の岩屋の神話で行われる
三種の神器を含む豪華な祭祀が連綿と続けられてきたことに注目。
宗像神社が関東に招致された江ノ島には宗像神社とともに「岩屋」があるのは
この時代まで宗像三宮と天の岩屋が関連付けて認識されていた名残と思われる。
>409 延喜式では、葛城の高天彦神社を最高の社格である名神大社とし、 祭神を葛城氏の祖神高皇産霊(たかみむすび)神と規定しているだけ 高天原が地上だとは書いてない それに社格というのは公家の官位みたいなもので、時の力関係と朝廷への働きかけいかんで幾らでも変わり得る 伊勢神宮(正式には単に「神宮」)は社格外であり、それだけでも最高扱いであるのは言うまでもない
438 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:49:06
>>434 というか、卑弥呼が魏に使いを出した理由自体
よく分かってないんだわな。
どうも、中国側に、聞かれたから
仕方なしに「倭国本国では、狗奴国の乱がありました」
と語ったかんじ。
なぜ、聞かれたかは、中国(魏)側が
三韓の反乱があったから
中国側が援軍の要請をしたのに
倭国が援軍を送らなかったから、なぜなんだ?
と問い詰めたのが大きな要因という見るむきもある。
>>436 天=アマということなんだけど
隋書で倭王は「姓はアマ」、 字は「タリシヒコ」って書いてあるんだけど
なんか関係あるんですかね
>>428 例えば伊都国とも比定される、前原の60ha規模とされる三雲南小路遺跡からは、水路は発掘され
たものの、環濠は見検出である。ここは、楽浪土器が集中的に出土するなど、楽浪人の集団居住が
推定される開かれた土地であり、開かれたクニであったようだ。確かに弥生末は環濠集落は多いが、
倭国大乱を経て、環濠は九州でも東海でも各地で解体され、分散居住が広がる。もちろんこの方が
水田耕作に都合がいいのは間違いなく、これはヤマトを中心とした広域邪馬台国連合により一定の
秩序が保たれるようになったためであろう。
441 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:54:54
出雲国譲りとは、 近畿王朝(葛城の高天)VS出雲王朝の戦いがあって 出雲が近畿王朝に併合された戦いに過ぎない。 その後、近畿王朝が各地に司令官を配置したが 九州高千穂には、近畿王家の一族のニニギ命(神武の曽祖父)を派遣しただけ。 つまり、近畿王朝の初代倭王は、 神武さんではない別の人物。 その人物とは、天火明命。ニニギ命の兄弟にあたり人物。 通称を、天照国照彦といい、天津と国津の両方の支配者という意味。 彼が、近畿王朝の初代倭王アマテルとして崇拝されていた人物。 その歴史が、天皇家が長い間、隠してきた歴史。
442 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:57:34
天津と海女を掛けたんじゃないかな? 海女をあまと読む自体が不自然。 天津と海人が姻族関係を持ったというのは 記紀に記載がある。そういう史実に基づいて 海女がアマと呼ばれ出したかもしれない。 だとすれば、海女がアマの本家ではないから 海人が天津で全国に広まった的説は無理がある。 と思う。思うだけど。w
443 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 01:59:32
444 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:05:53
>>420 よく読んだけど前半部分はかなり推測部分が大きいので信憑性がいまいち。
後半部分は土地勘ないから私には検証無理、もし正しいなら
別の人の援護射撃があるだろう、それみて判断、無ければ
あなたの妄想と推測。
445 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:06:55
>>443 ナガスネヒは、近畿王朝内部で活躍していた豪族でしょう?
近畿王朝内部で、権力を握って、権勢を誇っていたから
それを打倒しようと内乱が起こったんでしょう?
また、大分県日田市の小迫辻原遺跡は旧石器時代から中世までの複合遺跡であるが、ここからは 古墳時代初め(3世紀末〜4世紀初め?)の日本最古とされる豪族居館跡が発掘されているが、ここ からは布留式最初期とされる土器、出雲の土器なども出土しているが、ヤマトから集団が移住した 出城ともいうべき支配拠点であったと解されることが多い。 特に卑弥呼死後と考えられる250年代以降は、ヤマト勢力がじわじわと九州支配を拡大していく様相 が見られる考古学的遺物が多く、この時期に九州勢力が東遷したとの考えを真っ向から否定している。 これは九州説のよくいう学会の陰謀などではなく、客観的事実。畿内における銅鐸の廃棄、鏡の流入な どといったおおざっぱな論が通用する時代ではもはやないんだ。
447 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:07:57
今日は遅いから、これで寝る。
448 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:17:42
>>444 宗像神社は記紀ともに登場するし、他の神社よりも一種丁重かつ重要に語られている。
日本書紀にいう「皇室を助けて皇室によって篤く祭られよ」などという文言がなぜこの神社だけに、
という問いにまともな回答が出来る人はいなかったはず。
なぜそうなのかわからなかったが、沖ノ島の発掘で他に全く見られない遺物が見つかったとき関係者は
腰を抜かしたと思うよ。当時は津田左右吉の造作史観が席巻していた頃なのにそれを足元から揺るがす
大発見だったから。
少なくとも、あの一種常軌を逸した質量の祭祀を正しく位置づけるには、誓約生みとか天岩戸神話などが
バックにいて当時の権力を突き動かしたとでも考えないと説明がつかない。
449 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:31:09
>>448 確かに宗像の大和や古代史での重要性は意識してるが
宗像は九州ではさほど重要視されない辺境の地、
宗像は大和の派出所的意味合いにしか思えないんだよな・・
450 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:33:15
>>446 畿内、九州両端から200年代の東征を否定してるのに
往生際悪いよな・・
451 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 02:45:32
あと、崇神は四道将軍派遣前に博多周辺は支配してたよ。 じゃないと使節送れるかよ。
北陸や丹波は支配してないが、博多は支配してたのか なんじゃそりゃw
453 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:04:44
>435
>那珂八幡古墳
そう言えば三角が出ていたな、あと玉類と。
東遷説の立場にすれば畿内ヤマトで勢力を伸展させた神武の子孫が
今度は逆に西進して九州に三角を持ち込んだと言う事か?
連中は一体年代はいつにするんだろう?
もっとも分類では最も早い「早期」になっていているがw
(柳田康雄作「九州初期前方後円墳」一覧表 より)
>>415 >玄界流域諸国と初期ヤマト政権の間に対立の様相を示す遺物は見られず…
そう、先の那珂八幡もそうだが
福岡平野なんて真っ先に畿内と結びついたって感じなんだよなwwwwww
(と言うかそれ以前に既に山陰で福岡で作られた銅矛とかも出ているし…)
454 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:10:09
ビフォー卑弥呼時代は奴国周辺が倭(九州地方政権?)の 首都だったんだ大乱後畿内を中心とした邪馬台国が倭(全国政権)の 首都になる、これは博多と畿内邪馬台国(大和)との合意だ。 支配というか同盟というかよくわからんがその首都の移転に ついて合意してる以上両者に争いはない。 別にいうと博多人が畿内に首都移転したわけではない畿内に 首都を委譲したのだ。 だから畿内で九州系の遺物が多く出ることはない。 そしてその後、畿内勢力が博多以南の内陸部の支配を強める。 史料・遺跡でも明らかだな。
北部九州における宇佐、宗像、奴の津って、基本的に大和政権の勢力地ってイメージだよな 周囲とはちょっと異質 大和政権が奴と結んだって説には賛成。 しかし伊都ではなく奴ってところが、奴の津進出時期が卑弥呼時代の後なのを感じさせる。
456 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:21:47
国土を国産みしたイザナギ・イザナミは滋賀県とか淡路にいたっていうのに。 東遷はないよな。
457 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:33:15
奴国から大和に首都移転してるのは事実だから、 その意味では東遷だよ。
458 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:36:23
2世紀頃かね?
卑弥呼や邪馬台国に関係ないけど、 伊都国から奴国に抜ける峠が「日向峠」で、 日向峠を奴国側に下って、奴国へ直進(東進)せず真っすぐ北上すると「壱岐」で 壱岐のすぐ北、海沿いは「山門」 山門には「長垂山」がある もちろんそこら辺は遺跡群 福岡っておもしれぇ
460 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 03:46:02
>>455 >しかし伊都ではなく奴ってところが、奴の津進出時期が卑弥呼時代の後なのを感じさせる。
で、倭人伝には伊都国は昔日の栄光の影も無く「千余戸有り」で
(まあこれに対してはいくらなんでも少なすぎると言う説が昔からあるが)
大して奴国は「二萬余戸」と中々の大国ぶりw
その数字をまともに実数として見ることはどうかと思うが
卑弥呼の時代か、そう遠くない時代には北部九州がそう言う状況だったって事だろうなwwww
461 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 08:15:40
>>449 >宗像は九州ではさほど重要視されない辺境の地
意味がよくわらかん。
大陸とのとくに新羅ルートで沖ノ島は目印あるいは緊急避難港の役割をしたし、
16世紀まで宗像と地場とした氏族が対外交渉をリードして行っていたことも実証済み。
この対外交渉がいきなり8世紀以降始まったと考えるのは不自然だろう。
また天孫降臨の地として宗像裏の六ガ岳を当てる意見は根強い。そう考えれば
ニニギの訪れた「そじしのむな国」の場所もぴったり合う。
「むな国」という場所はここしか考えられないし、韓国に直接向かっていることも合っている。
462 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 08:23:28
464 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 08:57:06
>>451 一応、纏向遺跡というのは、2世紀後半ぐらいから建設が始まっている、
その時代から、九州から関東まで広範囲までの遺物が巻向から出てくる。
この時代、卑弥呼はまだ若い。
崇神天皇は、まだ生まれていない。
おそらく、孝霊天皇、孝元天皇の時代。
でも、中央でも絶えず揉め事が起こって
地方も絶えず、中央には向かったりしている。
西暦8世紀〜西暦21世紀まで、天皇はいても
たえず、統一、分裂を繰り返していたわけだから
たえず、なにか反乱が起こっている。
465 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 09:01:49
>>457 首都移転などしていない。
中世だって、九州や中国地方の勢力が
勝手に日本国として中国と交易していたわけだから
この時代の奴国も似たようなものだろう?
ヤマト王朝はやはり近畿(葛城)で誕生し、
その後、出雲を併合し、事実上、倭国全土で覇権を握った。
その後、ヤマト王朝は、倭国全土に地方官を派遣したが
なかでも、九州の熊襲との最前線である高千穂には
ヤマト王朝の王族の一人であるニニギ命(神武天皇の曽祖父)を派遣した。
ただ、それだけのことだ。
466 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 09:06:33
>>457 首都移転はともかく、神話だと筑紫宮から出発した神武一行が長い時間かけて
滞在しつつまったりと瀬戸内海沿いに移動したり、畿内で壊滅した後は
紀伊半島で味方を増やしてやっとこさ畿内入りしてるんだよな
これは北部九州勢力の一部が紀伊半島に来た後、紀伊や畿内周辺の地元勢力と
連合(あるいは婿入り)して、畿内の他勢力と闘ったということなのかもわからん
少なくとも、圧倒的な武力でもって征服したわけではないっぽい
>>451 卑弥呼時代には北部九州を通してすんなり大陸と交易してることを考えると、
北部九州と畿内勢力はその時代より前から連合勢力だったのかもね
神話のように、支配層が親戚筋だったのかもわからん
九州では卑弥呼以前から徐々に環濠集落が無くなって平地で暮らすようになったり、
後の磐井の乱まで争いの痕跡があまりないことを考えると、大和の支配で
治安がかなり安定していたんだろう
最近スレ速いなw しかしさすがに単純な東還なんてのはもう有り得ないよね。
470 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 11:14:20
>>461 宗像の近くの津屋崎とか、遠賀川が運んだ砂が入江を浅くするまでは対朝交易の主要港だしな
古来、朝鮮へだけでなく瀬戸内海方面への風待ちにも使われてた主要地だわな
マキムク遺跡がは3世紀なら邪馬台国じゃないじゃん
472 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 11:42:57
> 東還 それ何?
473 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 11:49:28
>>469 速いのは当たり前。各々が自らの感想を述べてるレスに過ぎないから。
水銀を語りたい奴は水銀を語り、記紀を語りたい奴は記紀を、遺跡中心で語りたい奴はその感想を
その為に、自分の領域を侵されまいと必死だから
一息付く隙を見せれば、話しの内容がガラリ一変し、自分が参加出来なくなることを極端に嫌っているから
みんな必死なんだよ
474 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 11:56:31
>>473 巻向の発表以前はもっとゆっくりだったよ。
見てなかったのかね。
日本各地の「ヤマト」って地名にヤマト氏が住んでて、 他の倭人から貴ばれてたとする。 各地のヤマト氏の治める国は全て「ヤマト国」と呼ばれていた訳だ。 畿内へ定住していた氏が本家、もしくは最も勢力をもっていて大倭と名乗った、と。 倭人伝に登場する官「大倭」とはその氏族の事。 本家だから年一回ほど各地のヤマト氏が参賀してたと。 つまり倭は大倭の傍族、と妄想。
476 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:06:30
北九州、北九州とかいっているけど、 神武さんは南九州の生まれなんだけどねw
ちなみに南九州が日向と名付けられたのは景行天皇の頃なんだよな
北九州北九州言ってるけど、北部九州です。北九州って言う人は無知なので、畿内論者は信用していません
479 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:15:02
そう、南九州だよ。北九州は甕棺が消滅している、大和は銅鐸が消滅している、 どちらも南九州にやられたんだな。
480 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:23:23
巻向はこれだけ掘っても戦乱のあとはない。 もし畿内のいずれかに邪馬台国があったとしたら どこかに倭国戦乱の痕跡はあるはずだ。 唐古あたりは比定できないだろうか。
神武の出発点が南九州なのか、北部九州なのかは諸説ある 南九州の日向の勢力が脚光をあびるのは仁徳天皇妃の髪長姫と、 仁徳の助っ人として活躍した諸県君牛諸井一族だな
南九州が日向と名付けられた時期にしろ、宇佐八幡の起源にしろ、 崇神天皇時代なんかよりけっこう後なんだよな 南九州が大和の勢力に入ったのは卑弥呼時代よりもう少し後なのではないか
483 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:47:14
神武さんの一族の話って、もろ宮崎と鹿児島に関する話だよw よく、筑紫の日向ってのを、北九州の日向なんて解釈するのがいるが むかしは、筑紫島=九州だからね。 筑紫を福岡のあたりと限定したのは後世の話。 神武の親戚とか姻戚とか、鹿児島とか、そのあたり多く伝承が残っている。 そして、神武東征自体、日向の海から出発して、宇佐のあたりに立ち寄って その後、北九州に立ち寄って、というルートだよ。 これを無視でもしない限り、北九州の日向なんて説は通用しないね。
484 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:49:38
とにかく、神武東征信者って 記紀を大切にと言いながら、 記紀の記述をおもいっきり無視して、 歪曲的な解釈しまくっている。
邪馬台国の時代って一般住民は竪穴住居で 首長はマンガでみるような白いブカブカの服に ミズラ編んで、変な首飾りかけて、ミコはいつもトランスに 入ってるような世界ですか?
486 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:51:32
>神武さんの一族の話って、もろ宮崎と鹿児島に関する話だよw だって日本神話って九州内の話でしょ。 当たり前じゃーんw 地名だけでも、九州だけで事足りるもん。 あとになって大和朝廷が真似たんでしょ?でしょw
488 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:54:23
東遷なんて捏造でしょ? それとも九州内で東遷があったのかな。 太宰府から宇佐へ とか。
489 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:55:52
490 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 13:58:27
>>478 はっきり言って、北九州か、北部九州かにこだわるのは福岡県の人。
北九州市が意識にあるから。
そうでない人には、どちらでも同じなのだが。
鹿児島県に、南九州市が出来たらしいが、これからは南部九州ということに
なるのかな。
確かに九州自体は筑紫島と呼ばれてたが、筑紫国、肥国、豊国の区別はあったんだぜ
それにしても、神武一行って宇佐やら筑紫に行った後、安芸に7年いたり、 吉備に8年いたりえらい長期滞在だな しかもこのへんの勢力は、卑弥呼時代の女王国連合と一致するし。
493 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:14:46
九州の北部は高天原なのだろう。そこから、天孫は日向に降りた。 地理的にも妥当だと思う。 日本書紀には、「皇孫は、天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、 勢いよく道を踏み分けて進み、日向の襲の高千穂の峰に下りた」 となっていて、意外に近い様子がうかがえる。 高天原から大和に降りたとされる饒速日命の場合は、天の磐舟にのって やってきたとなっていて、舟が強調されているのと対照的。 天孫は歩いて日向に行っている。日向と高天原は陸続きだったと思われる。
>>486 近畿への東遷がなかったとすればそうなるわな。
っていうか、それでいいんじゃね?w
と、なると
高天原は近畿しかない!
とか言うやつが蛆のように沸いてくるなwww
神話といい祓詞といい、どっちにしろ初期大和王権の成立と 九州は何か関連があるんだろうけどね
496 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:23:49
>>494 ああ、アホウらしい...
高天原が近畿というか、葛城地方が
高天地方ってやつでしょう?
でも、その場合、神武皇統にとっては、重大な秘密が隠されていることになるから。
なぜ、わざわざ、出雲国譲りのあと、
わざわざ、葛城の高天から、九州南部の高千穂に
ニニギ命が降臨しなければいけなかったのか?
って話になる。
あと、天火明命とニギハヤヒを同一視しているのは
物部氏ぐらいで、
皇室や尾張氏などは、それを認めてなかったぽいから。
497 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:25:07
>>493 そんな記述次第、どうにでもなるだろうが?
そんなの、お前の印象ってだけだろう?
498 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:25:53
世の流れから見れば、先ず本命であった試しもないし、一度も聞いた事ない大穴でもない。
499 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:30:00
>>497 でも、神代あたりの記紀は、高天原と出雲と日向を舞台にしている。
出雲と日向が詳しく書かれているのに、その間にある九州北部が全く
登場しない。ここを高天原と考えるのが自然だと思うが。
物部は元から畿内にいた勢力だから、そういうことになってるんだろう 初期大和王権って何だかんだで九州から近畿東海までの各地の豪族連合 だから、神話もなんかいろいろ配慮してる感じだな
501 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:34:52
麻原バンザイ!九州王朝バンザイ!
503 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:39:19
意外にも豊前国にあったはずの行橋が景行の時 筑紫国と呼ばれてるんだよな、これどういう事?
504 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:41:38
505 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:43:49
ニギハヤヒの天磐船の話って、生駒高原から淀川に向かって流れている 天野川を下って河内に入る話でしょう? どちらかというと。 この川沿いに磐船神社とかあるわけだし。 九州から瀬戸内海を渡った話とは思えない。 また、新撰姓氏録では、物部氏の祖のニギハヤヒは 尾張氏や海部氏の祖の天火明命とは別人物とされ、 物部氏は、天孫ではなく、天神とされているのにも注目。 ニギハヤヒというのは、天村雲命(天火明命)から政権を奪おうとした 近畿王朝の譜代豪族なんでしょう?おそらく。 葛城の高天から、河内の統治を任されれていた譜代豪族の家系だったけど ニギハヤヒが妹の兄のナガスネヒコと共謀して、クーデターを起こした。 それを、倭王の天村雲命を助けるために 九州南部から駆けつけたのが、天村雲命のフタ従兄弟の子供の 五瀬命と若御毛沼命(神武)の兄弟だった。
507 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:50:43
>>505 天孫というのは、日向に下りた瓊瓊杵尊で、その系統が神武天皇になる。
物部氏の祖である饒速日命は、高天原出身で、これは神武とは同じだが
天孫の系統であるかどうかで区別されている、ということだろう。
508 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:53:12
北部九州というのは、 邪馬台国が一大率を置いていたぐらいだから ただ単に、国際貿易港として 近畿の有力豪族たちが、直轄地として 領有しているだけだったんだろう?
509 :
505修正 :2009/11/27(金) 14:54:52
天村雲命は、天火明命の孫ね。
510 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:55:42
「先代旧事本紀」 これに暗喩されてるのかも知れないな。
511 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 14:57:42
>>507 そう。
ただし、天火明命の子孫である尾張氏や海部氏は、
天火明命はニニギ命の兄とされているから
いずれも、天孫とされている。
自分の推測だが、ニニギ命の後胤たちが、
再び、近畿に戻ってきた要因が、
そのニギハヤヒによる、天火明命一族に対するクーデタだと思う。
どの内乱がきっかけで、九州で分家していた神武一家が
再び近畿で政治を見るようになったと思われ。
>>508 それなら武力衝突の跡や伝承があってもいいはずなんだが、
それがないんだよな。むしろ環濠集落が減って平地に住むようになってる。
あと、直轄地をあらわす県(あがた)が九州と近畿だけやたら多い。
513 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:00:10
514 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:01:20
巨石が船の形に似てたから、後付けにはもってこいだね。 ※ご神体−−磐座(イワクラ) 磐船神社には、カミを祀る本殿はない。 境内のあちこちに座っている巨岩のひとつを『ご神体』として崇め、 その前には拝殿だけが設けられている。 このような巨岩を『磐座』と呼び、 この神社の原姿が磐座信仰であったことを示唆するもので、 当社がそれだけ古いということを示している。 ご神体とされる巨岩・磐座は、 見方によっては“船の舳先”と見え、拝殿に覆いかぶさるように聳えている。
515 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:04:36
>>511 いや、天孫というのは皇室の系統だけを指していると思う。
516 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:05:57
ニギハヤヒの天磐船の話は 葛城(奈良県西南部)から天野川を下って 河内にはいって、そこで知事を任されていた話で やがて、勢力を増大させたニギハヤヒが、妹の兄貴のナガスネヒコと共謀して 天村雲命(天火明命の孫)から政権を奪い、倭王の座についたんだが、 結局、天村雲命らが、九州で分家していた若御毛沼命(神武)まで動員して このクーデターを阻止した事件が、神武東征神話として残った。 その後、祭祀を天火明命系、政治をニニギ命系が受け持ったが いわゆる欠史八代の時代に、ニニギ命系が、祭祀まで掌握しようとして 倭国大乱が起こり、ニニギ命系が、一族から巫女のモモソ媛命(卑弥呼?)を擁立して この闘争に勝利した。 そして、モモソ媛命死後は、もうニニギ命系の勝利は確実的になって 最終的には、イニエ命(崇神)は一人で祭祀も政治も掌握する 倭王になった。
517 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:07:38
>>515 新撰姓氏録をちゃんと読んでね。
天火明命の男系子孫である尾張氏や海部氏も天孫とされています。
隼人だって天孫族なんだぜ
519 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:13:03
>>513 いやいや、農耕時代なんて、そんなに進歩がないものだ。
卑弥呼の時代も、江戸時代も、地政学はそんなには変わらない。
本当に歴史が大きく変わったのは
近代の産業革命以降だ。
520 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:13:12
日向って隼人の支配地で 大和政権の支配圏外じゃなかったの? 後に南九州の熊襲・隼人と東北の蝦夷が討伐されて 日本列島が統一されたと認識してたけど
521 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:15:41
熊襲と隼人とは全く違うといわれている。 熊襲とはヤマトからみたら異民族だが 隼人とは、ヤマト出自で九州南部で現地化した勢力。
522 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:24:50
523 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:25:04
>>520 景行天皇は、日向に宮を建てて、6年かけて熊襲と戦ったとあるから、
宮のある日向が熊襲の土地とは言えない。
>>486 国産みが淡路島から始まってるのはスルーですか?
525 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:32:03
熊襲鍋って美味いよな。
526 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:32:07
>>520 名目上は大和にしたがっていたが、実際には支配の手が届かず半独立状態
そのため事あるごとに形ばかりの従属と反乱を繰り返してた
天孫光臨や東征なんかも、彼等が元より大和朝廷の臣下であると子々孫々信じ込ませるための
創作神話だったりしてなぁ
527 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:37:24
528 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:41:34
霧島に熊襲って地名があるよね?
529 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:45:44
宋書にも書かれてるように やっぱり大和から徐々に支配圏が広がっていったんだな
530 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:52:15
>>529 そりゃ宋書が読めない為の誤認だから。
「西服東征」
これがそうでない事のなによりの証拠だ。
531 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:52:24
>>528 地名があったっけ?
熊襲穴と呼ばれる遺趾ならあるが
532 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:55:21
533 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 15:57:42
>>527 隼人族は熊襲とたびたび同一視されるねぇ
文化的には南方系の意匠文様や巨石文化を持っていたと言われる
534 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 16:17:31
薩摩隼人と言われる人種はギリシャっぽいけどね。 色も白いし。
>>527 仁徳天皇に加勢した日向の諸県君牛諸井一族ですら、
畿内入りしたときは異形の集団としてびっくりされたんだぜ
当時はそれだけ文化の隔たりがあったんだ
536 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 16:43:24
>>530 「東征毛人五十國」この文からも神武東征が裏付けられますね。
537 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 16:46:02
文化の隔たり? 南九州が高かったってことかな。南九州からは子持ち家型埴輪や 船の埴輪が出ていたな。近畿にはそれを超えるものは出ていない。
日向は豊かな土地だが、本格的な大和との関わりは景行天皇以後ではないのかね 日向国造も景行天皇の子孫とかだし・・・ 西キ原の男狭穂塚、女狭穂塚も諸県君牛諸井の時代あたりだ
539 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:06:45
大和の西は服した国、東は征した国。 大和に居る王家の過去は、西から徐々に進行してきました。 そして上表した時には、過去に征した国は今や服し(付き従い)大和の東五十五国も征するに至った。 だから「西服東征」 倭王武の勢力です。
540 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:07:01
日向には、出現期古墳があるそうだ。景行以後というのはおかしいな。
541 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:10:26
倭王武を大和の天皇とすると、タリシヒコの説明がつかないよ。
全然問題ないですが
543 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:44:20
>倭王武を大和の天皇とすると、タリシヒコの説明がつかないよ。 普通に考えて違うじゃんwww
544 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:44:28
>>541 何故説明つかないのかな?勉強不足なら無問題。
545 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:46:36
>>539 違う。東征・西服・渡平という表現の「征」や「服」や「平」は、征服とい.う同一の意味となります。
こんなことをいうのは何ですが、そのうような恣意的な解釈するのは九州王朝説の人だけです。
548 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 17:57:41
>>539 熊襲と同盟組んで宇佐を征服した
でぉk?
まじで九州王朝説の電波がはいりこんでるのな。。。
マジ電波、そりゃサリンも撒くだろ。
551 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:19:06
倭王武の上奏文を読んだら どうみても、近畿を中心に 西に東に拡大したとしか読めない。 西が服したというのは、出雲国譲りが要因。 戦わず、出雲を九州合併することによって 事実上、西は服した。
>>551 いや、服も征も平も全部同じ意味ですよ。言い方変えて調子整えてるだけです
553 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:24:56
554 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:36:25
雄略はもう畿内の人なんだから、なんら問題ないだろう 魏志の邪馬台国も崇神時代だし、その頃は既に畿内中心。 ただ、奴国や面土国の朝貢時代は恐らく北部九州が先進地 邪馬台国以前の話は考古学の調査結果次第だが、神話の神武東征が 何をあらわすものなのか、畿内と九州との繋がりがどういうものだったのか 非常に興味深いところ
556 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:46:30
「随書倭国伝」 に阿蘇山の様子が記載してあるそうですが、 近畿についての記載はあるんでしょうか?
557 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:52:19
>>556 無いんじゃない?
倭国伝だから倭国のことしか触れないでしょw
宋書でおもしろいのは隋書との整合性。 「東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し」足すと121。 隋書では冠位十二階のあとくらいに 「軍尼(国造)一百二十人、つまり120人。 でほぼ一致しているところ
559 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:57:10
また九州王朝説かよw 倭王武が大和政権の人なら 倭=大和だろw
560 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 18:57:13
つまんなーいwww
>>556 阿蘇?どこですか。おもしろそう。原文下さい。
563 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:08:06
>>547 ご教授、ありがとうございます。
なるほど。
564 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:10:45
>>556 まつろ国に迎賓館があったから
中国の使者は、倭国の中の見学といえば
もっぱら九州の地形が多い。
565 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:11:07
他国から存在すら認められてもいないのに 倭=大和と言い張る馬鹿w
>>565 日本からも中国からも九州王朝なんて認められてませんよw
九州王朝紀って文献あるんですか?w
568 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:17:10
九州王朝とか言ってるけどw プログラムの一貫ですか?
九州王朝なんてありません。「筑紫国造」がいただけです。いわゆるOne of them
570 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:17:40
例の纏向遺跡の件で 邪馬台国九州説論者の荒れ狂い方が凄い。 いったい、どういう人たちが荒れているんだ?
>>570 邪馬台国九州説の人じゃなくて、飛鳥時代までの九州王朝説をとなえる電波が必死なようです。
もうキチガイカルトの部類です
572 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:24:05
573 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:24:13
574 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:25:26
575 :
562 :2009/11/27(金) 19:27:04
>>573 いえ記述はあるけど、そんな単純な話じゃないよ。というか短絡思考過ぎ。
やはりそういうのがカルトに走るんだろうね。
>>556 少なくとも西日本一帯が倭国なんだから当たり前だろw
>>574 くやしいだろうけど事実です。というか磐井も任那派遣軍や近江毛野に動員
命ぜられた527年なんぞ「朝廷の命令だとお!」なんてひねくれています。
578 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:32:35
隋に阿蘇山が触れられただけで、なんでこれで小躍りしてるんだw もう倭の中心は大和で確定している時代なのに
西日本一帯を支配って東の辺境からどうやって支配したんだ?
近畿に阿蘇があったんだよ。 何言ってんの?
581 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:36:29
倭国に関して温泉や地震に関する記述がないのが不思議。 1つくらいあっても良さそうなんだが。
582 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:37:08
ブレまくりwwwww
>>579 さあ実際に早い時代から前方後円墳が畿内から拡散してますし。ああいうのは少人数ではできんでしょうな。
584 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:41:56
つうか 隋書に阿蘇山の記述があることを、今頃知ったのかよw 記紀の記述、大古墳群、史跡が畿内にある時代なので 正直どうでもよいレベルだよw
585 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:45:32
径100歩 25メートル程度の墳墓なら 割とどこにでもあるからな
586 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:46:31
放射説、と隋書の阿蘇山 九州説の人が 強く主張できるのってこれだけ?
>>579 まずは「帰順」だろうね。「最後の統一」くらいの時期の大和朝廷の
作戦見ればある程度伺える。一例を挙げれば
文武天皇698年の時には種子島等へ「くにまぎのつかい」
として文博士8名だけおくった。翌年秋に帰って、貢ぎ物をもって同行したので成功。
そのあと、不定期の貢、定期の貢、それが額も決められると租税になった。
この使いが薩摩を通過するところで郡司などに脅迫される事件が起こってる。
朝廷は筑紫総領(太宰師)に命じて脅迫者を処罰させる。702年には秋には
薩摩と種子島に反乱がおき、朝廷はただちに隼人を征伐。律令行政に組み込んだ。
帰順勧告→征伐→統制の例ね
「正倉院文書」のなかの天平8年薩摩国正税帳」を分析すると、薩摩の国府は肥後に
近い高城群にあって、反乱に備えていたことが分かる
次に「宣撫工作」
天平9年の春から初夏にかけて、持節大使藤原麻呂が鎮守将軍大野東人とともに
兵を陸奥の多賀柵に進め、出羽国主田辺難波と協力。先に降伏した蝦夷を先駆
させて付近の集落を宣撫。
588 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:04:53
>>499 自然っておまえの中の主観的自然だろうw 俺は北部九州は葦原中津国だと思ってるぜ。
その時代の証拠が畿内にはたくさんあるからなぁw あまりに九州王朝(笑)は アマチュアカルトすぎだろ
590 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:12:55
NHKで九州沖縄スペシャル ただ今、松浦の生月島
最後に戦争。 斉明天皇時、660年、阿部比羅夫の蝦夷征伐。自分の船に陸奥すなわち太平洋岸の 蝦夷をのせ、200艘の水軍を指揮して北進。渡嶋の蝦夷1000余名と対峙。 帰順勧告するも、粛慎は承諾せず、全滅させる 大和朝廷は帰順勧告からはじめて従わぬものは武力制圧、とい繰り返し
>>587 これだな。
隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起
こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における
支配が確立した。
7世紀後半の九州南部はヤマト王権(朝廷)の勢力が及んでいたものの支配体制は完全ではなく、
熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。朝廷は自らの勢力
範囲に広く律令制を導入することを試みていたが九州南部においては住民の支持を得られなかった。
これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適
合しなかったためである。
一方、南西諸島を経由した中国大陸との交流が活発化しており、朝廷は覓国使(べっこくし、
くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年
(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。
720年(養老4年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報
告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍
に任命し隼人の征討にあたらせた。隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに
対して朝廷側は九州各地から1万人
以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥
落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城
の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将
軍らに任せている。
1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、721年(養老5年)7月7日、副将軍らは隼人の捕
虜を連れて都に戻った。隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1400人であったと伝えられている。反乱
のため班田収授法の適用は延期されることになり戦乱から80年近く経過した800年(延暦19年)にな
ってようやく適用されている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
593 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:25:53
「服」「征」「平」が同じ意味だってさ。 こんな奴が相手じゃ、やってられないな 少しはレベル上げた会話できねえのかよwwwwww
かといって、邪馬台国九州説がひていされたわけじゃないからな。
595 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:35:52
ここの連中って、何故〇〇説とかに過敏に反応するのか? やけにこだわってねえか?〇〇説で絶対だとか、〇〇説はありえねー、〇〇説って馬鹿じゃねとか
596 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:38:05
598 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:39:59
>>595 こんな人もいますw
278:日本@名無史さん :2009/11/27(金) 19:23:44 [sage]
>>276 =
>>277 クズばっかりです。ここは。
599 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:44:59
600 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 20:49:55
隼人の乱の原因は班田収授法に対する反感・抵抗などが原因とされることも多いが、それももちろん あるんだが、主要因は708年に設立された大隅正八幡を拠点とする、秦氏系の辛嶋氏と宇佐の辛嶋氏 による骨肉の争いによるところが大きいようだ。戦いに勝った宇佐の辛嶋氏は、「辛嶋勝」姓を名乗ること になる。この大隅八幡に祀られた姫大神信仰を怖れた朝廷が、神仏習合した応神八幡神を宇佐に持って きた。
隋書に書かれたころの国造領の中で律令制と一致するものの規模( 〜)内は各国・各郡の郷数 畿内 倭(89) 山代(78) 凡河内(80) 東海 尾張 (69) 遠江(96) 甲斐(31) 相武(67) 東山 近淡海(93) 三野(32) 科野(67) 北陸 越(120) 山陰 多遅摩(59) 出雲(78) 山陽 吉備(252) 周防(45) 南海 木(56) 伊予(71) 西海 日向(28)
>>601 ありゃ?
>山陰 多遅摩(59) 出雲(78)
多遅摩=投馬国じゃね?
603 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 21:32:45
伝承というのはしばしば史書より正しいといわれており、確かにいくつかのケースでは妥当するかもしれない。 しかしながら、伝承というものは、 F1.それがいつから伝えられたのか F2.史実を正しく伝えたとされる内容が途中変更されることはないか という2つの観点から見た場合、古代の事実を伝えうると証明することがほとんど不可能なことに気づく必要がある。 しかしこれに反し、史書あるいは考古学的物証についてはある時点からその状態を伝えているかどうか吟味が可能である。
大体、畿内という言葉の意味知らない人が多いんだな。 王城の周辺地域に設定された特別の行政範囲。畿内制は中国の『周礼(しゅらい)』にみえ、 古代の北魏(ほくぎ)や東魏などで採用され、日本でもこれに倣って設定された。大化改新の (みことのり)(646)では、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)、南は紀伊(き)の兄山(せのやま)、 西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)、北は近江(おうみ)の狭狭波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま) に画された範囲を畿内国(うちつくに)としている。692年(持統天皇6)には大倭(やまと)(大和)、 河内(かわち)、摂津(せっつ)、山背(やましろ)(山城)の4か国を「四畿内」とし、河内に設置された 和泉監(いずみのげん)がいったん廃止ののち757年(天平宝字1)に和泉国となってからは五畿内 となった。畿内制が実質的に成立したとみられる7世紀後半の天武(てんむ)朝では、畿内は畿外 から軍事的に防衛され、官人を任用する地域であった。大宝令(たいほうりょう)でも畿内では調( ちょう)の半分と庸(よう)が免除されており、天皇側近の地として優遇されていた。
>>603 それは理解できるが、考古学的物証で年代語るのは邪道だよな。
606 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 21:41:41
>>490 北九州市始めあの周辺は福岡ではないという
福岡人の意識があるんだよ。
これって福岡人だけじゃなくて佐賀人、熊本人あたりも
同じ。
人臣無境外之交,為敵國言之也。若一王在上,則畿内畿外皆王土,畿内諸侯與畿外諸侯皆王臣, 正如京畿官與州郡官耳,不應禁其信使。以敵國視之,?春秋者於畿内諸侯朝聘列國, 皆以外交為貶,此義殆非末學所知。
>>606 それはいわゆる九州の北半分の人が思うということだよね。
本州の人間は北九州=北部九州の意識だよ。
本州というのは渡来系が多くを占める近畿だけでなく九州と血と文化がつながっているといわれる
関東以北も含んでだけど。
609 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 21:56:33
スレの流れが速くて、前夜書きこんで今覗くと、遠い過去スレになっている。 もう、このスレは、議論には向かないみたいですね。
610 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 21:57:56
各自チラ裏書いてるだけだから、 議論も何もできないよ。 話がかみあわない。
611 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 21:59:45
>>610 お前の戯言はチラ裏だが、他の大多数はまじめな議論であることに気づけこの池沼めが。
>>611 >お前の戯言はチラ裏だが、他の大多数はまじめな議論であることに気づけこの池沼めが。
>>610 が言うように、おれもそう感じた ただ自分の言いたいことだけを書き連ね
自分とは違った意見が出ると、ヒステリックに罵倒する世界
どうなろうとリセットボタンさえ押せば元に戻るという感覚のレスばかりに見えた
613 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:10:27
一応、言っておくが、邪馬台国九州説でも、九州王朝説と東遷説では大違い。 九州王朝説は、年代観などが畿内説と良く似ている。 九州王朝説は、反東遷説で畿内説と手を組むようなところもあるな。
九州王朝説は無理だって。。。
615 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:15:44
>>606 福岡県人ではないが、それは面白いな。
北九州市付近の言葉が違うというのは知っていたが、文化的にも違うかも。
古代で言えば、甕棺のない地域ということなのだが。
案外、あの地域は、出雲系とも言えるのかもしれない。
となると、後漢書に書かれているように、狗奴国出雲説もありえるかも。
倭王武が雄略天皇じゃないことぐらい一発で分かる 雄略天皇の在位・・・456年から479年 天監元年(502年)鎮東大将軍倭王武を征東将軍に進号せしむ(梁書) はい矛盾。はい終了。
617 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:18:50
>>614 うん、畿内説と同じくらい無理だと思う。
九州王朝っていうより九州連合なんじゃろな
>>616 雄略天皇22年1月1日(478年2月18日)白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気の
ため崩御した。梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号したこと
から、この年に遣使自体は行われなかったものの実際の没年は記紀による年代よりも後であった可能性もある。
だってさ。
今日の九州説の人からは悲痛なオーラを感じる
622 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:27:39
畿内論は、すでに論破されている
623 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:28:50
他人の説に論理的に反論できないレスはチラ裏ってことで。
624 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:29:12
>>621 見たいなレスが有る限り、すくいようがないスレ。
625 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:29:38
記紀によれば、素戔鳴尊が高天原に登ってくると、天照大神は驚いて戦いの 準備をする。高天原を奪いに来たと恐れたわけである。 素戔鳴尊は、そんなつもりはありません。なんなら、願をかけて子を産みましょう。 といった。素戔鳴尊の剣から生まれた三人の女の子(宗像の三女神)は、 素戔鳴尊の子となり、天照大神の玉から生まれた五人の男の子は、 天照大神の子となった。 なんか、これは領土の境界を決めたような感じがしないでもない。
畿内か・・・ 古代中国では、天子の居城(都)から500里(約202キロメートル。周代の1里 = 約405メートル)以内の範囲。 天子が直轄した。畿甸(きでん)とも。 >周代の1里 = 約405メートル なーるほど・・・
627 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:32:04
>>625 北部九州と出雲が同盟を結んだんだろうな
629 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:35:14
>>626 確かに、邪馬台国の時代のことを論ずるときに、畿内という言葉を使うのは
適切ではない。近畿説というのがいいのだろうが、畿内説の方が一般的に
なってしまったので仕方がない。
630 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:39:14
>>628 記紀によると、その後、素戔鳴尊は高天原で大暴れをする。
怒った天照大神は岩戸に隠れてしまう。
神々が天照大神を天岩戸から出した後、素戔鳴尊は高天原を追放され、
出雲に行く。
やがて、出雲は高天原に征服されてしまう。
631 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:40:36
やっぱり邪馬台国は筑紫しかないね。
>>624 いやそう実感しただけ。
気に触ったらごめんよ。
あまりにも今日はいつもとは違う畿内の史料が多く出てたようで、
九州の方は相変わらず推測や批判のみに終始してたようなんで。
落ちます。
633 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:43:59
>>628 アマテラスは北部九州では特に祀られてないよ。
福岡、佐賀は宝満神社が多い。
この神社は本州・四国の人絶対知らないんだけどねw
634 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:46:14
>>630 玄界灘の沖ノ島は出雲と北部九州のちょうど中間。中間ということは交流の中心とも言え、
北部九州(天照)と出雲(素戔鳴)の交わりを象徴しているともいえる。
天照は鏡の象徴だが素戔鳴は剣。海人の後裔宗像氏の象徴は玉すなわち勾玉か。
3つ揃って三種の神器。
不思議なのは記紀にいう誓約生みは西海道風土記には見えないこと。誓約はともかく、
生まれた子供を交換するのは後代の知恵が入っているような気がする。
どうみても天照に近いのが三女神のほうだしな。
635 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:46:17
福岡市周辺で一番祀られてるのが 宝満神社と竈神社。 久留米以南から熊本までが玉垂宮かな。
636 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:47:50
637 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:48:16
アマテラスは九州とは一切関係ないだろう、 福岡市周辺でも別に祀られてない 本州・四国の神様だと思うけどな。
>>633 天照は対馬のアマテル神社が出自。
海人の斎き祭った祖先。
639 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:49:29
>>634 >どうみても天照に近いのが三女神のほうだしな。
宗像の家系の祖は大国主だと何度いったら理解するんだろうね?
640 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:50:06
641 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:50:54
ゼンリンとかそうでなくても グーグルの地図みてもわかると思うが、 福岡・佐賀は宝満神社と竈神社、久留米周辺から 南に玉垂宮というのが多くある。 アマテラスとかスサノオとか記紀の 神様を大々的に祀る風習がない。 八幡は元寇以降に格があがったと聞いている。
642 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:50:55
>>639 634がいっているのは三女神のことだろ。
宗像氏のことじゃない。
日本語くらいちゃんと読め。
神社なんてほとんど移設だからな
644 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:51:10
>>616 日本書紀の干支は、己未で479年となっているが、
古事記の没年干支は、己巳で489年だから、479は誤記かもね。
>>619 その年の、倭王武は、雄略天皇のことではなく、武烈天皇のことだと思います。
伝承とか神社の話し始めたら畿内が圧倒的に有利なんだけどね。 今日はずいぶん書いた。ここが日本史板の邪馬台国の本スレみたいだね。 また流れ見て書くよ。みなさんがんばって論議してください。俺も落ちます
646 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 22:53:55
博多の総鎮守がおもいっきり天照だなw
648 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:00:12
>>645 伝承はその起源の説話・神話を正しく伝えていることは証明がほとんどできない。
神社については桜井茶臼山古墳脇の宗像神社をどう説明するの?
畿内に沖ノ島に比較になるような絢爛豪華な祭祀を実施した神社が全くないのはなぜ?
ちゃんとわかるように説明してよ。
649 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:00:43
皇祖神はアマテル そしてその総本山は神宮(伊勢神宮) これだけ言えば十分だろ
650 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:00:47
>>646 地元由来の神社でみないと意味ないw
それって関西から勧請したて書いてあるじゃんw
>>650 伝承は正しいかどうか証明ができない。あとからいくらでも政圧で変更可能。
652 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:04:21
天神も関西出身の人由来。 基本的に九州にはアマテラスを積極的に 信仰したという証拠はない。 大善寺の火祭りの玉垂命とか 太宰府の宝満、竈神社が九州北部由来だけど アマテラスとは全く無関係な人だし 人物像も被らない。
653 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:04:26
>>646 >社伝によれば、天平宝字元年(757)に、伊勢国松坂の櫛田神社を、当地の産土神として勧請して宮を建てたのがこの神社の始まりであるとされています
8世紀の神社がどうしたって?
654 :
サガミハラハラ :2009/11/27(金) 23:05:25
>>644 古事記監視は2倍年暦なので雄略の崩御年の己巳年は478年秋年です。
書紀とは半年〜1年違いです。
655 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:05:37
656 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:06:27
>>651 平時には無理でしょ、その必要も無いしね
国内の大混乱がないとね
壬申の乱とか明治維新とか、歴史的重大局面に限るよ
657 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:07:46
>>634 そういえば、沖ノ島というのも不思議な存在だな。
九州から半島あるいは大陸に行くとしたらあまり関係のない島なのだが、
出雲との関連で言えば、重要な島だと言われればなんとなく納得できるような
気がする。
658 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:07:58
博多周辺の福岡北部は関西由来の天神(菅原)、 春日市に誘致された春日(藤原)とか あるけどおそらく一番最初に畿内と融合した 博多でさえとても記紀や神様の由来の地とは 考えられないんだよな。
>ここが日本史板の邪馬台国の本スレみたいだね。 チラ裏に本スレも糞スレもないと思うが
660 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:09:48
>>655 アマテルというのは、古代日本語ヲシテ文字に由来するものなのですよ
>>646 は太宰府と天神と博多を行き来した朝鮮の人(関東人)
662 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:10:14
>>651 伝承は変えられないと思うな。記録のほうは簡単に変えられるだろうが。
>>648 落ちるつもりだったのにレスが来るとは…
いや確かにその通りだが話の流れがそっちにいってるみたいなので。
でも言える事は史書といえども、主観がはいるものであり、完全に正確なものはありえない
と思ってる。
従って重箱のすみつつくような議論より、考古学的発見や色々な文献も併せて総合的に
考えていく方がよいかと思うわけで。
とりあえず寝ます。
ちなみに畿内説支持者です。
664 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:15:21
アマテルというのは明治維新以降 関東の朝鮮系渡来人の間で流行した造語。 アマテル、スサノオ神社の大半を 関東に誘致。
665 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:17:09
アマテルカミはヲシテ文字そのままの発音です もちろん日本人ですけどね
666 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:17:39
>>663 疲れているところに寝かせてはあげたいけど、せっかくだから言っておくよ。
沖ノ島すなわち宗像の沖津宮は古事記にも日本書紀にも登場するんだよ。
しかも神代の部で宮の名前が言及されるのは宗像三宮だけだ。
伊勢神宮が登場するのはヤマトタケルつまり人代がずいぶん過ぎてから。
伊勢神宮の神宝として語られるものの多くははるか前代に沖ノ島から出土している。
それだけではなく沖ノ島からは正倉院の御物より質量とも豪華な奉献物がでてくる。
史書と考古学的発見そして縄文時代からの歴史背景および当時の先進国である中国との
地理学的関係からいえば北部九州のほうがはるかに進んでいるじゃないか。
667 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:20:07
>>666 そういうレベルじゃなくて
次回は六国史・風土記交えてやりますのでお楽しみに。
おやすみ…(人-ω-)
668 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:22:04
たぶん福岡(宗像、北九州除く)で一番古い神社は 竈神社だろう。
逃げたか、クズが。
670 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:26:08
江戸時代においてさえ、日本書紀や古事記をどんなに読み込んでも 日本の過去が納得できなかったはず。 そしてもうみんな気づいている。 だからこそ、天照大神なんて書かない。 アマテラスと書く。 その意味は、漢字でもひらがなでも表現できないものだから。 音は一緒でも。
671 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:26:19
>>666 だから、宗像の宮司の祖は大国主だと言ってるだろうが。
まずそこを具体的に考察しろよ。
672 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:27:30
思い出した!プラムはどこいったwww
>>667 乙カレ〜
悔しくて寝られない九州王朝カルトの作文
↓ ↓ ↓ ↓
>>663 >史書といえども、主観がはいるものであり、完全に正確なものはありえない
と思ってる。
主観の話題を主観で語ってどうするんだよ
いい加減な奴だな
675 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:31:26
>>671 いや、違うね。
宗像大宮司家の初代は宇多天皇の親王だ。
だから大国主が祖ではない。
日本最古の神社は福岡県三輪町にある大己貴神社です 奈良の大神神社より古いです
677 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:33:16
オノコロ島を国の中の柱として、 イザナキが左から柱を廻り、イザナミが右から柱を廻る場面があるでしょ これは、漢字・ひらがなでは絶対に何のことかわからないはず。 なぜなら、それは文字を表しているのだから。
678 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:34:50
>>671 今までにけっこう出てきていると思うが。
大国主命といえば出雲ということだろう。
>>670 >漢字でもひらがなでも表現できないものだから。
音は一緒でも。
意味理解して書いていますか?
680 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:35:16
>>675 そのソースはなんだ?
宗像社家では大国主だが、それを否定するなら相応のソースを示すがよい。
>>677 オノコロ島は小呂島なのか能古島なのか
どっちなんだ
>>672 そう言われてみると最近見かけないな。先週出張から帰国のレスなかったか?
683 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:42:21
>>681 それ、どっちも当て字ですらないモドキですよ
ヲシテ文字を知ってみればわかります
知らなければ、永久に何のことかわからない
684 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:44:51
>>676 それはあの人の説です、その神社は九州では超無名で
誘致されておりません。九州では宝満神社が一番支持されており
おそらく実際一番古い神社だと思われます。
弥生時代から卑弥呼以前までを考察するスレって無いのかね
>>681 小呂島だろう。
読み方と玄界灘のより中心に位置するということで国生み神話にふさわしい。
小呂島も長らく宗像神社の社領だった。
志賀島から金印は出てくるわ小呂島から日本の島々が生まれるわ 博多湾の島ってすごいな。神話の宝庫やで。
688 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:55:54
>>686 古事記で淤能碁呂島(おのごろじま)
、日本書紀では磤馭慮島(おのころじま)
と当て字で書いているんですよ
この表記に意味があると思いますか?
こんなものいくら読んでも何もわかりませんよ
689 :
日本@名無史さん :2009/11/27(金) 23:58:55
690 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:19:41
福岡なら宝満よりも宮地嶽等、神功皇后系の神社の方がポピュラーじゃね?
691 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:28:18
九州オリジナルの神社は宗像だけで、 他は畿内からの移植なんだよな。
692 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:34:14
>>690 福岡市周辺は箱崎宮、宮地嶽始め神功系が結構多いし
大きな神社はこの系統が特に多いけど、小さいのは
宝満系が多い、特に那珂から南は広範囲に広がってる。
佐賀、熊本、大分の日田地方にも多い。他、鹿児島にもある。
今はそういう流行の流れはないけど古代神社創建時に
宝満系がかなり流行したのだと思う。
九州の古代の地方宗教と絡んでるのか、政治的意図なのか
は不明だけど。太宰官吏の目の届く地域に
関西系の神社(アマテラス、スサノオ、神功)が多く、目の届かない郡部に
宝満が多いの明らかだと思う。
693 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:34:19
筑前一ノ宮、住吉神社があるでよ、オリジナルなら
宗像?祖先は国譲りで負けて信州に逃げてるし。 元から九州だったかどうかはわからんよ。
695 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:41:19
アマテラス、神功は、もともとの土地神である比売大神に対する押さえ込み。
696 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 00:42:39
宗像は九州であっても九州とは言えないな 海岸の一部港で内陸との接点薄い地域、 博多のように九州各地から集まる地域でもない 単なる船舶の中継地点。 宗像は古代の国際都市。
>>696 わかったようなわかんないような。
(倭)国内知名度で
博多 >> 宗像
国際性で、
宗像 >> 博多
でおk?
【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕
=(臺倭→大倭→)大和朝廷】側
【●鏡圏】
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
(●本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】
●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(推古天皇代に神籠石を築く)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm 幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 −254年)の在位が短く、
晋側の(邪馬壹→)倭国(山の井)に再び覇権が戻った為、邪馬台国の覇権も短かった。
以降、「白村江(はくすきのえ)の戦い」が終わるまで、倭国側に覇権。
【鏡圏・イ妥国(臺国・九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)
700 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:01:39
まー古代をどの辺りを指していってるのか知らんが弥生後期までの遺跡が 少なくないですか?3世紀までならやっぱ伊都でしょう、貨泉もでてるし。
>>699 目アド晒すのは良くない。
それと主張を簡潔に。
702 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:09:25
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE 名人大社みてるけど、
関東は寒川神社とかスサノオ、アマテラスを本格的に祀ってる気がする。
九州のは海岸沿いに宗像系(宗像大社、田島神社(唐津))
他は住吉神社、宇佐神宮、箱崎宮、志賀海神社など圧倒的数で
神功系の神社、スサノオ系の神社で筑紫神社というのがあるが
これは関西からの誘致だろう。創建は不詳だが九州では珍しい
イソタケルを祀ってる事から中央からの誘致だろう。
九州固有のもので宝満神社、玉垂命神社、阿蘇神社がある。
特に宝満神は他の神社にも祀られている。でもこの神は
九州以外に居ない。おそらく九州の土着神と関係が深いのだろう。
種子島の宝満伝説と被るし。
703 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:20:26
名人大社みてるけど圧倒的に関東方面に神社が多い。 おそらく出雲の名残だろう。アマテラスとかスサノオを 祀ってる。九州は神功由来で大きく広まってるようだ。 畿内の大和政権は博多を最初に征服したと思うのだが 神社は圧倒的に関東方面に広がってる。 これってスサノオとか記紀の舞台が本当は九州ではなく 関東とか関西ローカルの物語だった名残のように思う。 九州では宝満神を信奉していた、これは関東や関西の出雲勢力には 一切認知されていなかった。この頃既にスサノオ、アマテラスなど 記紀の神々は関西関東の広い地域に認知されていた。 崇神の時代、大和は博多を制圧したがそこは異教徒、異民族 の住む地域だった。
704 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:25:21
705 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:27:55
そうかなあ、関東の神社の起源は新しく、アマテラスが最高神とされてから神社ができたんじゃねの? だから、一番権威あるとされるアマテラスを祀ってる。
706 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:31:11
神社の分布みるかぎり神社とは元々出雲で始まったもの だから出雲の勢力が強い関東関西に多い。 スサノオ、アマテラスなどの神代の神を多く祀っている。 九州は神武の母系を祀るので彼らより新しい。 宗像系は九州内陸部では全くの無名w 更にとってつけたような神功系の神社、極めつけは 菅原道真を祀る太宰府天満宮www 俺が思うに宝満神社の信仰が九州であまりに厚いので それに恐れて作ったように思う。
707 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:32:54
>>705 出雲の政権に入って居たころの名残で神社が多いと思う。
708 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:39:19
709 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:42:51
>>708 それってもともとは神様が九州地場が多くて本州四国は後代の神話や説話に基づいて作った新しいものということ?
710 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:44:18
カタカナとかひらがなとかいったいいつの時代だよ
711 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:53:13
>>709 少なくとも九州にアマもスサノオもなんていなさそうだという事は確定的www
712 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:53:25
今日、何気なく近くの神社の由緒書きを見たら、祭神は天照大神と なっていたが、神社が出来たのは戦国時代あたりで、城の守り神として 建てられたとなっていた。 昔は、新しく建てられた神社に、とりあえず天照大神を祭神にしておこう みたいなところがあったんだろうな。この神社に限らず。
>>711 天照は対馬のアマテル神社だってさっきから何度も出てるだろ。
スサノオはしらんがもともと出雲系だし。
それと近畿から勧請した神社という由来を持つものもそのままは信用できない。
後の大和朝廷の意向によるものかもしれないし。
住吉神社も本来は博多が本拠。
714 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 01:58:37
>>709 そうではない、記紀の九州由来だとされているものは
九州でも祀ってるが、確定的ではないものは祀ってない。
玉依姫、豊玉姫、住吉三神は祀るがスサノオ、アマ系は無視。
畿内説派の陰謀が9世紀から行われてるとはwwww
715 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:00:46
>>711 もともと天照大神は、天上に住む神として伝えられているから、地上に
痕跡があったらおかしい。もし、あったとしても、地元に伝わる別な神と
して祀られていると考えられる。
伊勢神宮も、天照大神は地上に降りてきて、いろいろ探し回った末に、
ここに鎮座したいと言ったことから伊勢に神社が出来たとされているわけだから。
716 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:02:52
>>715 仮にアマが九州発祥だとしたらどの神に比定する???wwww
717 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:05:54
718 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:12:40
結論いうと神代神話は出雲勢力圏にあった本州四国全域に 名残がありその中の天(アマ)の付く名称と出雲の神とスサノオが 東北から山口四国に広く祀られている。 九州には全く別の信仰があったと思われる。 種子島とルーツを同じくする信仰だろう。 神武の母系が確実に九州で祀られているのをみると ニニギが神代神話の残る本州四国のある場所に 派遣され数代後に畿内に東征したという事だろう、 そうみると記紀は正しいと言える。
719 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:13:27
716はアマテラスの畿内入りを比較的新しいものと見て、九州土着のどの媛神が変容したのかと いってるんじゃないの?
720 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:14:22
訂正 結論いうと神代神話は出雲勢力圏にあった本州四国全域に 名残がありその中の天(アマ)の付く名称と出雲の神とスサノオが 東北から山口四国に広く祀られている。 九州には全く別の信仰があったと思われる。 種子島とルーツを同じくする信仰だろう。 神武の母系が確実に九州で祀られているのをみると ニニギが神代神話の残る本州四国のある場所から九州に 派遣され数代後に畿内に東征したという事だろう、 そうみると記紀は正しいと言える。
721 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:15:22
阿蘇には、大きな古墳がある。長目塚古墳という熊本県最大とされる前方後円墳で、 30歳代の女性の人骨が納められていた。 かなり有力な女王がいたわけだが、阿蘇の歴史などを見ても、それらしき伝承が 残っていない。 有名な阿蘇神社の祭神は、健磐龍命といって神武天皇の孫となっている。 これから考えると、古墳時代あたりの古い伝承は残っていないのではないか と思われる。
722 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:17:57
>>715 それはアマテラスが新しい神だからだよ。
723 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:18:45
724 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:20:01
>>708 主祭神より境内社のほうが扱いが手厚かったり、信仰あったりもするよ。
お稲荷さんや、八幡さん、明神さんはそういうのが多い気がするw
とりあえず、表向きは・・・って事でしょう。
725 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:20:36
>>720 よくわからんのだがなぜ二ニギが九州に派遣されてきたんだ?
そのまま畿内にはいればいいじゃないか。
726 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:22:05
>>725 ニニギは全国に派遣されて
その後政権とったのが九州に入ってたニニギというだけwww
>>726 二ニギは全国に派遣などされていない。
二ニギが天孫降臨したのは筑紫の日向だ。
728 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:27:58
>>721 阿蘇神社は横参道で、信仰の対象が他にもあるらしい。
花弁状住居跡も発掘されてて、
佐賀でも見つかったらしいから、
少なくとも阿蘇と佐賀は同系統でしょう。
729 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:31:08
九州の信仰は宝満信仰以外残ってない。 他は本州四国由来の菅原道真信仰と 神功皇后信仰じゃないか? 宗像三女神信仰は内陸部では見たことない。
730 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:32:35
>>729 近畿に征服されて上書きされたからね。
日向は畿内に協力的だったから、天孫降臨神話を組み入れてもらえた。
731 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:33:01
>>728 いや、彼は感覚的にあの30代の女性はアマテラスだと主張してるだけ。
732 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:36:16
あの幣立神宮でさえ、銘板に裏表の顔があるw
733 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:36:39
>>730 せめて、畿内に友好的だった筈の博多ぐらい
博多の神が残っていてもよさげだけど
住吉だけじゃなぁ。
友好的だったら残るというのが一つのパターンだとすると
比売大神は景行記に出てくる宇佐の女王か。
>>721 だったら普通聖地の熊本に伝説が残ってるw
734 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:39:56
735 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:39:57
よく分らんが前方後円墳なら ヤマト王権の勢力圏になった後の 時代の古墳じゃないの
736 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:40:18
花弁状住居跡は佐賀が古くて(弥生中期)、宮崎・鹿児島の方が新しい(弥生後期)。その間200年 ちかくあるんだけどね。
737 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:44:22
>>735 記紀の記録は熊本の記憶をも元にしてる筈だけど
それもない。比較的近い記憶だから残ってないはずがない。
なぜか、記憶から消去したい事実があったからだ。
でも肥前風土記には見借の記憶はあるだろう。
肥後風土記は一部しか残ってない。
磐井のような畿内反逆分子だったと思われる。
738 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:48:19
>>734 白藤遺跡のカメ棺も忽然と消えてるし。
プレス発表をした形跡はあるが、全て消えてる。
739 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:52:57
名前にアメがつく神様は渡来系なんだっけ?
740 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:54:02
古代のことを考えると、楽しいと同時にとても孤独になる。 古代の話題なんて、普通街中で人と話しても出てこない。 リアルで古代に興味あるのは自分しかいないんじゃないかと思うと辛い。 かろうじてこの板にくると救われるが、 古代好きの絶対数はとても少なくなってるんだろう。 実際、邪馬台国がどこで卑弥呼が誰かなんて、普通の人は興味ない。 放射説を力説したところで、誰も聞いてはくれない。 ホムペでも作って古代語りでもしようかと思っても、筆がすすまない。 どうせ誰も読みにこないのはわかってる。 だから、ここでウサを晴らすしかないんだ。チラ裏を誰かに聞いて欲しいんだ。
741 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:56:30
ちなみに、向野田古墳の鏡は、方格規矩四神鏡と内行花文鏡それに鳥獣鏡 だったと思う。年代は4世紀後半とされた。 近くにも古墳があり、こちらは三角縁神獣鏡が出た。 明らかに時代が違うと思うが、三角縁神獣鏡の出たほうが古いとされている。 以前は、逆だったと思ったのだが。 以前は、向野田古墳は、三世紀の終わり頃と書かれていた記憶があるのだが。 どんなものだろう。
742 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:58:57
リアルでは観光事業に影響するので 生臭い金の話でもちきり ロマンより金
743 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:59:04
>向野田古墳は、三世紀の終わり頃と書かれていた記憶があるのだが。 同じく。 いつの間にか4世紀になってた。
744 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 02:59:27
どっちにしても宇土の女王を卑弥呼と主張しようとしても それ以外の根拠を新たにねつ造しないと行けないから 九州説の人にとっては厄介なんじゃないNo??w
745 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:00:56
>>744 卑弥呼とは言っていない。年齢が違うから。
746 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:00:59
そういえば、三月荒神さんって熊本だけだよね?
748 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:07:31
>>744 地元でも誰も卑弥呼なんて思ってないよ。
女が家を継ぐ文化があったのは違いないけどねw
鉱脈の話で、
「長男は血を守る為に出家する」
っていうのとリンクするんだけど。
749 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:15:11
基本的質問だけど九州説の人って 九州説の殆どが九州に朝鮮人が侵入してきて それが本州四国に広がったという主張が 本音って知ってる? だとすると本音で九州人で信じてる人いないよねwww
750 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:15:44
向野田古墳みたいなのが、畿内から出たらどうなるんだろうな。
751 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:17:59
>>750 意味深な事しか言えないから知能が低いって何度いわれれば・・
752 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:19:23
753 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:19:35
>>749 九州説の殆どは本州四国の人だよ。
九州人で本心で九州説を信奉してる人は皆無。
754 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:25:20
九州だけど「九州人」ってなんか違和感。 九州人って言わないし、聞かない。 関西人と同じ感覚で言ってるんだろうけどw
755 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:28:17
>>749 九州には、縄文時代からの優れた遺跡がたくさんあるから、よそから人が
来たというのを考える必要はないだろうな。
上野原遺跡なんていう有名なのもあるし、宇土市ということで言えば、
轟式土器、曽畑式土器という広範囲に広がる土器の中心地といわれる。
邪馬台国はどこだっていう話だからな 魏志倭人伝を読んで、九州だと思えば九州説。畿内だと思えば畿内説。 それだけのことだろう 朝鮮人がどうだの、東征がどうだの そういうのはどうでもいいな
757 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:46:56
>>756 考古学では畿内で決まりらしい
倭人伝の記述と合わない所があるけど
解釈でなんとかなるもんだし
憲法と一緒でね
758 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:48:39
>>754 どこの人?
信じられる証拠もw
注意)もし答えない場合関東の朝鮮渡来氷川人とみなすw
759 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:54:29
>>749 日本人には朝鮮人の血はほとんど入ってない
別人種
760 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 03:58:30
>>754 独鈷山のふもとw
デリすぱ#268は鶴屋フーディワン特集www
761 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:00:53
762 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:05:42
>>760 なぜ信州人なのに九州人が九州人と言わないと
言い切れるか分からん。そういう感じだから
九州説を本州四国の領域から主張をする。
763 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:08:54
>>760 なるほどね。私にはすぐにわかりました。
でも、独鈷山というのを知ったのは最近だけど。
空海に関係あったかな?
764 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:13:50
>>762 九州という言葉を好んで使うのは、福岡県の人間が多いな。
九州は一つというのも福岡県の人間が言う。
他の県の人は九州は一つ一つと言う。つまり、ばらばらということ。
765 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:14:41
766 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:16:29
九州の盟主は福岡
767 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:17:49
768 :
763 :2009/11/28(土) 04:20:05
弘法大師が中央構造線をたどって熊本入りした際の最終地点とされてます。 その辺は池の上に詳しく研究されてる先生がいらっしゃるそうです。
769 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:24:48
【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕
=(臺倭→大倭→)大和朝廷】側
【●鏡圏】
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
(●本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】
●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(推古天皇代に神籠石を築く)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm 幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 −254年)の在位が短く、
晋側の(邪馬壹→)倭国(山の井)に再び覇権が戻った為、邪馬台国の覇権も短かった。
以降、「白村江(はくすきのえ)の戦い」が終わるまで、倭国側に覇権。
【鏡圏・イ妥国(臺国)・九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】 『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。 「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】 「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子) こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。 九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。 大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首 鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153) 【(裏は)大倭国・九州近江(&豊国)王朝・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】=『万葉集』より ☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420) ☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421) ☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422) ☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】 紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771) なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝、・中国北朝)】の、 ☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、 ☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。 これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝(曹芳)・中国北朝】を下に曳いている。 曹芳(そう ほう、ピン音;Cao F?ng、232年 - 274年)は、字は蘭卿。 三国時代の魏の第3代皇帝(在位:239年 - 254年)で、通常は「斉王芳」と呼ばれる。
772 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:33:50
銀河 秋彩 ↑ こいつみたいに九州人=高麗人という主張してるのが 基本的九州説のスタンスだけど?
773 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:39:41
774 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:47:46
>>773 >だから何?
君はどういうスタンスというか希望ですか?w
775 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:59:02
>>772 ○○さんも朝鮮の道教をもつ渡来系の卑弥呼が
北九州に降臨して朝鮮遺伝子を広めたという
説だったと思う。おおむねw
776 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 04:59:45
>>772 ○○さんも朝鮮の道教をもつ渡来系の卑弥呼が
北九州に降臨して朝鮮遺伝子を広めたという
説だったと思う。おおむねw
777 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 05:04:49
>>755 吉野ヶ里人は朝鮮系だよ。でもヤマト王権が屈服させた
>>772 そいつ完全なトンデモだから気をつけたほうがいいよ。いろんな仮説(中国はhiの発音がなく
卑はpiだ=日本でもpiだった)とかイ妥国は倭国とは別とか、へんな説を確定したかのように
さらに妄想広げてるやつだから。
吉野ヶ里出土の人骨が渡来系(しかも朝鮮系)というのは事実だけどねwww
781 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 06:55:32
韓国では、卑弥呼は半島出身のミョギョンゴングスという名の巫さんだったという説があるらしく、 笑った。
782 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 07:31:22
で、九州説は 邪馬台国の場所の特定はまだ出来ないの?
783 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 07:40:30
朝鮮系と表現するから、現朝鮮人の先祖が渡来したのかと誤解を招く。 辰韓系とか扶余系とかに変える方がいい。
784 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 07:42:56
向野田古墳は、朝顔形II式の埴輪を見ても、まあ4世紀なのは間違いないよな。俺の記憶では確か 被葬者に妊娠説があるんじゃなかったっけか?
>朝鮮系と表現するから、現朝鮮人の先祖が渡来したのかと誤解を招く。 吉野ヶ里人とか金隅人ってもろ朝鮮顔なんすけどw
>>782 無かったものは特定できないのだよ。
わかる?
787 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 08:41:58
>>785 卑奴として連れてこられた朝鮮人のことを言われてもなあ。
それを監視して働かせるのが「卑奴母離」だったのです。エタ頭みたいなもの。
788 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 08:44:03
789 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 09:04:10
>>789 でどこ?だんだんしょぼくなった吉野ヶ里?
791 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 09:20:07
北部九州だよ。
792 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 09:20:20
ささくれ立ってまいりました
東大寺山古墳
副葬品 [編集]
鉄刀20本、鉄剣9本などの武器類。
中平銘鉄刀をも含む五本の鉄刀の環頭は、様々な形をしている。基本的には楽浪の石巌里(せきがんり)
の古墳で出土しているような環の中に三葉形を入れた三葉環である。三葉環の鉄刀は、福岡市の若八幡宮
古墳(4世紀)から出土している。
鉄刀の中には、家形の環頭(かんとう)をつけた刀もあり、奈良県河合町の佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡
の図形と類似している。
中平刀 [編集]
24文字を金象嵌で刻んだ長さ110センチメートルの鉄刀一本が出土した。鉄刀のみねの
銘文は「吉祥句」を用い、
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた
刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。
中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」
宋書)が終結した時期である。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたも
のであると考えられている。
この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。しかし、この地の人
たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。
鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、内ぞりしていて、日本の前期古墳に特有の直刀
とは違い、中平の年号が示すように中国(後漢)製である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
藤原京跡で大極殿囲む回廊跡と溝跡出土 奈良・橿原市
2009.11.27 21:30
藤原京跡で出土した大極殿を囲む回廊の柱列跡。テープのラインに沿って確認された=27日、
奈良県橿原市(川西健士郎撮影) 奈良県橿原市の藤原京(694〜710年)跡調査地で、大極殿を
囲んだ回廊の遺構が約50メートルにわたって出土し、奈良文化財研究所が27日、発表した。回廊
造営の資材を運搬したとみられる溝跡もそばで見つかり、研究所は「回廊の規模や構造が確認でき、
造営工事の過程も見えてきた」としている。
大極殿を囲む回廊は、東西約115メートル、南北約155メートルの方形だったと推定されており、
調査はその東南角で実施。南面回廊約40メートル、東面回廊約10メートルの礎石の柱列跡を確認
した。南面、東面とも幅は約8.4メートルで、回廊の中央を壁で区切った「複廊(ふくろう)」だったと
みられる。
一方、溝跡は幅3〜5メートル、深さ70センチ以上あり、長さ約17メートル分を確認。過去に見つ
かっている宮殿造営のための大規模運河跡とつながっていた。南面回廊跡の約3メートル南側に平
行して掘られており、回廊工事の終了とともに埋め戻されたらしい。
溝跡の底からは工事中に廃棄したとみられる木くずや“不良品”の瓦が出土。溝跡と回廊跡の間
からは、足場を組み立てた痕跡と考えられる多数の小さな柱穴跡も見つかった。
現地説明会は29日午後1時半から。小雨決行。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091127/acd0911272131003-n1.htm
795 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 10:24:57
>>790 なに?邪馬台国ってピンポイントだと考えていたの?それじゃどうしたって
話しなんて噛み合わんは。
>>782 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 07:31:22
>で、九州説は
>邪馬台国の場所の特定はまだ出来ないの?
@領域国家としての邪馬台国は、筑後平野東北部と筑前筑後の北野地域。
A卑彌呼の城郭としての邪馬台国は、久留米市御井東南部の台地(競馬場の北東)。
797 :
サガミハラハラ :2009/11/28(土) 10:32:54
いいえ、邪馬台国の都は佐賀県小城市甘木です。 卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)です。
798 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 10:35:17
>>793 中平年刀は国産だよ。
三葉環の環頭が日本でのみ出土する国産品であることは、すでに定説。
(なお、家形の環頭が国産であることも定説。)
年号を入れた刀身だけが舶載品であるとするバカもいるが、刀身は内ぞりで
要するに逆にそったもの。中国では見られず、同時に出土したほかの刀と
類似する。
よって、年号のみ中国製にしたら良いんじゃね。
799 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 10:49:19
畿内説って、纏向から一歩でも外にでたら邪馬台国とは無縁の地域なの?
800 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 10:57:29
つーか、邪馬台国スレなのに 記紀の話しや神社の話しが出て来るの?おかしくね! 記紀を語りたいなら別スレ立てればいいじゃん。神社もそうだよ こっちに書き込む前に、そっちで話し纏めてから書き込めよって言いたい。 スルチなんだし
801 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 10:58:19
802 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:05:01
>>800 そりゃ九州王朝説まで出してくるからそうなる
>>798 ああ聞いたことあるな。でもまともな人からは聞いたことがない
>>799 色々あるんじゃないの?人によって。九州に負けず劣らず近畿説にもいろいろいるみたい。
>>798 「定説」ってそういっただけで「定説」になるの?w
>>799 > 畿内説って、纏向から一歩でも外にでたら邪馬台国とは無縁の地域なの?
そんなことはありません。
あのような限られた範囲に七万戸(あくまでも虚数ですが)も住めるはずがないでしょう。
>『筑前風土記』逸文によると、宗像神社を祭る宗像朝臣の先祖は大海命という。 大海命は後の天武天皇であり、それを先祖とするのが宗像氏。
809 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:24:10
虚数w
810 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:26:06
すみません、昨夜のデリすぱの方いらっしゃいますか? 九州スレのほうでお聞きしたいことがあるんですが・・・
やべー、九州説がぐいぐい押し返してきたよ
せっぱつまってる九州説の人みっけ
814 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:44:12
>>814 飛鳥浄御原宮ってどこにあるか知らないでしょ?
817 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:48:21
>>814 いつもの人だからほっといてあげてw
電波ということでしか、反論できないんだから。
かわいそうでしょ?
818 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:49:05
風土記逸文の話は有名だろ。 記紀でも天武の第一皇子武市皇子が宗像徳善の尼子娘を母としている。
671年、天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が近江大津宮で跡を
嗣いだとされる(正統性は天武天皇のものと併せ江戸時代より議論の的となっている)。
日本書紀によれば、天智天皇より皇位継承するのは大海人皇子とされていたとあり、
大海人皇子(後の天武天皇)は672年6月に吉野から東方へ脱出し、美濃国を拠点に軍兵
を徴発した上で近江大津宮へ進軍し、同年7月、大友側に決戦を挑んだ。これが壬申の乱である。
大友側は敗れ、勝った大海人皇子は皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を
造営した。近江大津宮は僅5年余で亡んだ事になる。万葉集には、
「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」という柿本人麻呂が、
滅亡後の近江大津宮へ訪れ、往事を偲んだ歌が残されている。跡地はその後、
「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになるが、平安京遷都直後の桓武天皇(天智天皇の曾孫)
の詔(延暦13年11月8日((ユリウス暦)794年12月4日))によって大津の呼び名に復された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%AE
820 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:50:19
明日香村w しかも7世紀www
>>820 バカですか?
天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日)。
824 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:56:03
客観的にみて
>>822 のほうが馬鹿な件
馬鹿というより池沼?
826 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:57:28
827 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 11:58:09
>>824 どこが客観的なのか教えて。
822ではない。
829 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:00:08
畿内説の立場だけど 纏向遺跡は邪馬台国の女王国ではないんじゃないだろうか? 大和朝廷のものであることはほぼ確実だろうけど
830 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:01:39
>>828 客観的に見ると、天武天皇の話だと7世紀になるね。
832 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:08:44
833 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:12:05
834 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:23:52
835 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:25:27
天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日) ぱっと見で7世紀で間違えないな。
836 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:26:27
837 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:27:58
>>800 歴史には流れがあるからな
その前後の時代も意外と無視できないんだよ
なんつーか、結局コテで持ってたジャンルだったんだな。 改めにしろ河童にしろ、もん太にしろ、スレの中核で頑張っていたから スレ全体に活況があった。それに比べて今のスレの状況は、お世辞にも褒められたものでない。
839 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:32:29
>>838 お前みたいな阿呆が偉そうに各状況は、お世辞にも褒められたものでない。
>>798 >
>>793 > 中平年刀は国産だよ。
>
> 三葉環の環頭が日本でのみ出土する国産品であることは、すでに定説。
> (なお、家形の環頭が国産であることも定説。)
>
> 年号を入れた刀身だけが舶載品であるとするバカもいるが、刀身は内ぞりで
> 要するに逆にそったもの。中国では見られず、同時に出土したほかの刀と
> 類似する。
>
中国にもあると思うが。一緒に出ている刀類も輸入品を含む可能性あり。ていうか、前期古墳出土刀類は輸入品が多いという説が強い。
中平太刀は、環頭太刀だったのが環頭が壊れても特別な太刀だから(明らかに長期伝世)環頭だけ付け替えたのだろう。
家屋文鏡の意匠と類似し、太刀は2世紀末だが、環頭は4世紀代に取り替えられた分けだ。
841 :
メ :2009/11/28(土) 12:37:56
>>793-794 >東大寺山古墳,中平銘鉄刀をも含む五本の鉄刀
>藤原京跡で大極殿囲む回廊跡と溝跡出土 奈良・橿原市
みなさんはよく勉強してますね、もん太くんとはエライ違いだ><
>>839 偉そうに言おうが、馬鹿丸出しに言おうが
事実であることには変わりないと思うけど。
試しにアンタが中核になって、スレ回してみ?
おまえらが話しても何にも結論はでないぞ。 無駄なことに人生の時間を割くなよ。 もういいじゃんどこだって。
845 :
メ :2009/11/28(土) 12:47:04
>>838 うむ、レスが短いのは確か。
一応は、私も彼らも古代史は4年ぐらいはやってるのでまったく知識がないわけではない。
ま、勉強するにつれて長い文も書き込めるようになるはずで、もっと大きな目でみるべきではなかろうか。
846 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:50:28
国内の都など邪馬台国以降も何度も場所が変わっているのだから、 邪馬台国の話題で場所がどこかという興味は歴史上は重要度が高い話ではない。 むしろ日本国内のどのような領域を治めそれが弥生さらには縄文とどういう流れから つながっているあるいは断絶しており、大陸との交流や人の移動や民俗の伝播と どのように関連していったのかを解きほぐしていくことのほうが重要度が高い。
847 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:52:53
848 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:54:04
>>847 そういうのではなく、河童やもん太みたいにマニア受けするネタが必要なのだ。
一般的に平面的にしたいなら改めだけど、マニアは寄り付かない。
850 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 12:59:30
>>849 マニアっていうと響きがいいけどさ、どうでもいい些細な重箱つつきをやる連中がきてもうざいよ。
851 :
メ :2009/11/28(土) 13:00:51
>>847 ん?君の質問は何が言いたいのかよくわからんが、
天武天皇二年=西暦673年、朱鳥元年=西暦686年というのは
本にかいてるとおり書き込んでるんじゃないの?
>>850 学問って本来そういうもんだぜ。
重箱どころか、針の穴を針で突くようなものだろう?
853 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:09:37
>>806 三葉環の環頭は日本でしか出土しないので、昔からこれが日本製であるとされてきた。
ただ、そうなると中平刀は国産なのかという疑問が当然出る。
これが国産であるとすると、日本で1面も出土しない三角縁が全部国産で、
「景初三年」などの紀年鏡が軒並み国産であるとする方向に向かってしまう。
そんな問題があったので、三葉環の環頭のことは、昔から触れる人も少なく、
出土から50年経過しても正式な報告書もつくれなかった。
最近正式な報告書ができて、三葉環の環頭が国産であるとの見解が正式に述べられた。
一方刀身だけは中国製という折衷案で年号は中国で書かれたということになった。
まあ刀身だけが中国製なんて理屈が苦しいのは明白ではあるが。
いっそのこと、年号だけ中国製にしたいというのが彼らの本心ではあろう。
854 :
メ :2009/11/28(土) 13:09:57
河童氏は6年ぐらい、もん太氏は3年ぐらいに古代史をやってるんじゃない? それだけやってるのに「何でそんなに無知なんだよー」ていう発想から みなさんに突っ込まれてるのであってw さすがに始めたばかりの人からみたら彼らのが知ってるわなw
マニアックな内容にはマニアック好みのレスがかえるから、自ずとスレに厚みが増す。 ようするに相乗効果というやつ。
856 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:12:55
学問板という名があるものの、ここは自由な掲示板。だからスレ違いでない限り自分が思うところを 書き込めばいいと思う。明らかな間違いや、勉強不足なら誰かが指摘してくれるだろう。本当の学問 は、検証を積み重ねて確実と言える部分を少しずつ増やしていくのはそのとおりだが、別にわれわれ は大学教授ではないし論文を書いてるわけでもないからね。
ただ、河童ももん太も彼らが主導権を取ると、どんどん邪馬台国から離れていく気がするけど。
858 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:18:28
今の現状は、記紀などの漢籍でも倭人伝でも、考古学でも神社などでも、議論が続かずすぐ別の 話に移ってしまって深まらない。
河童やもん太は七氏に変更して書き込んでいる。
860 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:25:17
>>849 もん太いわく、
平安から明治まで天皇はいなかったらしい
もん太は、マニアックとかそんなんじゃない
他の何かだと思うぞ
861 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:26:03
ひーっ、いやだああああああ、河童来んなよう。ひっ、ひっ、ひっく。
>>854 お前よりは彼らの方が、知識豊富だと思うし、お前だけだろ?彼らを無知と必死に種蒔きしてるのは。
メ以外にそんな言葉吐いたのみた事ないが。
>>648 ごめんね。昨日眠たかったから。で。。。
>畿内に沖ノ島に比較になるような絢爛豪華な祭祀を実施した神社が全くないのはなぜ?
祭祀だが、朝廷の例祭の中の大祓が諸祭の根源だと思う。日本書紀
の天武紀に至って、祭祀関係記事が増える。
特に、天武5年(676)8月辛亥の詔に、
辛亥。詔曰。四方爲大解除。用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。
以外郡司各刀一口。鹿皮一張。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稻一束。
且毎戸麻一條。
とあるが、この詔は、大祓のさいに各国で神々に備えるべき「祓柱」を
国造と郡司と庶民との三者に分かち合ったもの。ここで発生する律令国造
というものは、古くからの国造と区別するために、新国造とも呼ばれているもので
中央よりの命によって、その国の祭祀を執り行う初任の国の代表的神主のような
もの。もちろん国造の他に、神主や祝(はふり)が執り行うものであったこと
と思う。結局、天武朝での大祓が祭祀的な全国統一の「政策」となり、延喜式
のように朝廷の例祭のうちのかなりの部分が、全国の有名諸社への朝廷からの
奉幣を通じて、全国に強制され、国造は朝廷の祭祀部門末端の官人へと変化
していくことになる。
つまり祭祀のいわゆる地方分権が行われているということで、朝廷で
祭祀がある限り、特に神社で大祭があるかないかは問題にならないと思う。
>>648 >神社については桜井茶臼山古墳脇の宗像神社をどう説明するの?
宗像神社が桜井にあることに関しては、尼子娘がまさにこの天武天皇の後宮に入ったこと
もあるが、新撰姓氏録の右京・河内国の神別氏族にも「宗形氏」が挙げられていることから
平安時代までには一族が畿内にいたと思われる。
また、九年春二月甲子朔。遣凡河内直香賜與采女。祠胸方神。香賜與采女既至壇所。
香賜。此云舸■夫。及將行事。奸其采女。天皇聞之曰。詞神祈福可不愼歟。乃遣難波
日鷹吉士將誅之。時香賜即逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗。普求國郡縣。
遂於三嶋郡藍原。執而斬焉。
というように、「胸方」の文字があり、これを筑前宗像大社とする考えからもあるが
その祭祀で采女を犯した凡河内香賜が摂津国三嶋郡で捕らえられている
ことから、これは畿内に祀られていた「胸方神」であるという考え方もできる。
865 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:27:54
知識豊富というが、平安から明治まで天皇はいなかった、というのは知識なのか?
866 :
メ :2009/11/28(土) 13:28:46
「もん太と河童」というフレーズがいまや大人気w ついつい口ずさんでしまいたくなるよねww それだけ「勉強不足」ていうことを本人たちも気が付いてるだろう。 河童くんなんて、いまだにその辺のホームページからコピーして貼り付けだけなんだぜw もう、あきれてしまうわなw
>>862 いや、俺も無知呼ばわりしてるよ。
二人とも「微笑ましい」タイプじゃなくて「不快」なタイプの無知だな。
868 :
メ :2009/11/28(土) 13:31:00
>>862 アッハハ それが分かるか?分からないか?と思うぞw
869 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:31:36
>>863 天武は宗像と関係のある人だよ。
しかも沖ノ島の奉献品は王権でなくては所有できないものだ。
王権でなくては所有できないものを利用してなぜ地方分権で祭祀をできるのだ?
870 :
メ :2009/11/28(土) 13:32:16
>>867 おたくは、それがわかるという事は、よく勉強してますね。
分かります。
>>869 もちろん関係があるからそうしたのでは?氏神として中央(畿内)からね。
872 :
メ :2009/11/28(土) 13:35:51
「神主」や「祝(はふり)」 こんど「もんたと河童」が来たら誰か〜聞いてみろよ。 たぶん、こんなことも知らないと思うぜwww
873 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:35:53
>>864 >>871 考え方もできる、ではだめだろう。
沖ノ島は7世紀の天武どころか縄文期から出入りがある。
沖ノ島の4世紀からの国家祭祀の説明になっていない。
>>865 もん太のは単なる言葉遊びさ。
明治以降の憲政天皇だけが天皇であってそれ以外は只の古文書の記録、
そういう自己定義をしておく。
そしてその定義は隠しておいて、ここで書きまくる。
一見、無知に見えるが、何か得体のしれない文章ではある。
そんなことでいろんなものが釣れるのさ。
マゾっ気が多い奴には話の通じないイライラ感も快感なのかと思うが、
ウラが見えていれば、全く相手にする気にはならない。
>>873 考え方もできるといったのは可能性があるということ。じゃどうして摂津国でつかまったのか
という説明があなたはできますか?
あと沖ノ島の4世紀からの国家祭祀は航海安全だと思われます。。日本書紀は三女神と書いていますが、
当時の地方神が国家神に組み込まれたと私は考えます。
876 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 13:53:23
>>875 7世紀につかまったことが4世紀に何の関係があるんだ?後年の話題でしかない。
おっしゃるように、地方神が組み込まれたのなら畿内からの派生説は成り立たない。
航海安全はひとつの目的にしか過ぎないだろう。
馬具や指環や龍頭は航海には関係ないし、最初期の岩上祭祀は鏡を奉献している。
>>876 捕まっているのは雄略天皇期ですから5世紀ですよ。
>>872 私は神主資格を持っている者ですが、今後の為に是非とも「神主、祝」の御高説賜りたく
宜しくお願い致します。
879 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:04:32
880 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:16:59
重訳納貢・・・・・
881 :
メ :2009/11/28(土) 14:17:31
>>878 「神主」「祝」
どっちも神社の神職をする者である。
「神主」というのは、神託を行う神職の中でも一番偉いほうの位かな。
日本書紀で言うヤマトトヒモモソヒメ、神功皇后などがこれに当たる。
「祝」というのは、現在のネギ、ガンネギの次位にあたる神職でいわば、役職みないなもんだ。
勉強になりまりましたかな?w わたしを彼らと一緒にしないでおくれw
>>872 もん太はともかく、その手の質問で河童に絡むのだけは避けた方が無難なキガス。河童の得意分野じゃね?
883 :
メ :2009/11/28(土) 14:26:36
縦目さんいわく、シャーマンとは口から泡を噴き出してどうの・・・(マンガか?w) 古代の巫女さんていうのはだね、このシャーマンであって、巫女=シャーマンといってもいいぐらい。 この憑依?する巫女さんが「神主」にあたる。 まだ、始めたばかりの人は「神をつかさどる主」という具合に覚えたら如何だろうか?
>>879 その時点で近畿にもすでにあるということが鍵です。
あと鏡云々について
一國之魁帥也。聆天皇之使者至。則拔磯津山之賢木。以上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。
景行紀ですが、天皇が西征して周防の佐波に至ったとき、「一国の魁師」であった女酋長が
舟の上に榊と白旗をたて、その榊の上杖には八握剣をかけ、中杖には八咫鏡、下杖には
八尺瓊(勾玉)をかけて天皇を迎えに出て帰順を申し出たとあります
また、仲哀紀にも
・幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐。聞天皇之車駕。豫拔取五百枝賢木。以立九尋船之舳。而上枝掛白銅鏡。
中枝掛十握釼。下枝掛八尺瓊
又筑紫伊覩縣主祖五十迹手。聞天皇之行。拔取五百枝賢木。立于船之舳艫。上枝掛八尺瓊。中枝掛白銅鏡。下枝掛十握釼。
と、仲哀天皇の西征にさいして岡、すなわち、遠賀郡や伊者見(糸島郡)の県主の先祖
たちが同様に、榊に、鏡・玉・剣をかけて迎えに出たとあります。
つまり西国の首長たちがこれを天皇に捧げたということは中央の天皇のマツリゴトに服従したと言うこと
885 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:30:16
「祝」(はふり)とは、おそらく「刃振り」か「葉振り」、汚れを振り払う役目。
>>883 あんたその程度の知識で自慢してたのかい?
あんたが出したお題では「神主」
「神主」なら先ずは儒教の話しからして頂こうか。
それにしてもメさんの言うように、河童ともん太は長くコテやってるのに知識ないよな。ぜんぜん勉強 してないのではなかろうか?
888 :
メ :2009/11/28(土) 14:42:00
>>886 おお、「神主」 について勉強してる人かな?頼もしいね。
ならば、議論を通じてみんなでソノ知識を深めていけばいいんじゃないかな。
私はもう出かけないといけないのでまた、こんどお願いしますよ
889 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:42:02
>>884 すでにあることがなにが重要なの?沖ノ島のほうが古いことが重要だが。
天孫である二ニギは三種の神器をたずさせて筑紫の日向に降臨する。
三種の神器を抱えた北部九州の人間が仲哀を出迎えたとしても中央の
天皇の政に服したわけではなく、筑紫の日向出身の二ニギの子孫が
来たから歓迎しただけだ。
儒教の神主(しんしゅ)は招魂再生のための依りしろ。現世利益を享受しつつも君子をめざすために
招魂再生観(慰霊)を重視する。
>>888 逃亡した。
891 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:48:44
>>884 それと話を意図的にずらしていかんな。
別に天皇の支配が4-5世紀以降九州を含んで及んでいてもかまわないが、
祭祀遺跡として瀬戸内の神島や大三島になくもないが後年だし規模もまったくしょぼい。
それらが航海の安全というのなら、なぜ距離が遠い沖ノ島に最も重要な奉献物をもっていて
国家祭祀をしたんだと質問している。
892 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:49:30
>>887 河童ともん太をいぶりだしているのか?
出て来たらお前が相手しろや
893 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:51:47
>>889 もう外で携帯厨に変身しちゃってますので、今はそんなに答えられませんが、
問題は5世紀につかまったということは、それ以前から存在したということです。
>ニニギの子孫がきたから歓迎した
それは憶測にすぎませんね。かいてませんから。
894 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:53:46
>>891 戦略上大事な航路だったからじゃないですか?
896 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 14:58:14
>>895 また書きますよ。ご心配なく。
それにしても、ここはIDでないので無法地帯ですね。
897 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:01:41
>>894 それも推測。
仮にそうだとしても戦略上重要な航路を守ることが国家祭祀でもっとも大事なことなのか?
898 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:06:43
>>897 遠征も国交も国の興亡にかかわることではありませんか?政治のことを「まつりごと」
といいます。国政上大事なことは大切な「まつりごと」です。
祭祀の意義なら、現世利益(航海の安全を祈るなど、この世での利益)か来世利益(天国に行ける などの来世における幸福)か、個人的な祈りか、氏族・地域レベルの祈りか、鎮護国家など国家規模 のものか・・・といった検討が必要。一般論として。
900 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:14:42
>>898 重要なルートとは言うが、魏志倭人伝をみてもわかるように半島南部ー>対馬ー>壱岐のほうが
航路として頻繁に使われていたはずだし、沖ノ島みたいにどこからも遠い場所より対馬のほうが
平地も多いし大陸に近い。しかし対馬・壱岐にも比較になるような祭祀遺跡はない。
これはどう考えればよいのだろうか?
現世利益を願う場合は多神教になりやすい。一方来世利益は唯一絶対神が多いが、例外もある。 天国があるかどうかは、死んでみないとわからない。だから死ぬまで唯一神への信仰を持ち続け られる。現世利益の場合は、願いが叶う場合とかなわない場合があり、かなわなければ他の神に 乗り換える。また、神ごとに縁結び、豊作成就、交通安全w と専門分野が細分化する。
902 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:21:37
>>900 そりゃ神功皇后が三韓征伐の際に祈願してご利益があったから
でしょう。
それ以来じゃないですか?、勅使をつかわすようになったのは?
>>900 依り代なんだから、一般人が容易く行けない処じゃないと
904 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:31:24
>>902 神功皇后が実在の人物だったかどうかという問題はあるが、そこを容認しても三韓征伐の祈願という
ことであれば航海は要素の一部でしかないな。航海が安全であっても後の半島での戦いの段取りと
結果のほうが重要だからだ。
そのあたりの理由をふくまないと航海に関係のない奉献物が多量にでてくることの理由にはならんの
ではないかね。
それでも鏡や紡績具、唐三彩などはなかなか説明がつかないが。
神功皇后の遠征ルートは、 往路=宮地獄神社〜沖ノ島〜朝鮮・大鐘川〜甘浦〜慶州・金城 復路=朝鮮・大鐘川〜対馬・鯨浦・本宮神社〜海神神社〜厳原・八幡神社〜壱岐・勝本浦聖母宮 〜筒城浜・錦浜〜松浦半島の先端・七ツ釜・土器崎神社〜鏡神社〜玉島神社〜戸大神宮〜香椎・橿日宮。 まあ、神宮実在はともかく倭の侵攻ルートがここを通ることは多かっただろう。朝鮮史書『三国遺事』によると、 文武王(661〜681)は大鐘川の河口に、倭兵を鎮るため、感恩寺を創建したとあり、倭はしばしばこの川を伝 っていたことがうかがわれる。舟で内陸部に至り、舟を降り甘浦街道を伝って、慶州を目指す。
905 ×神宮 ○神功 5行目
沖の島祭祀は、伽耶諸国や半島に向けた祈りかもしれん、しかしこの論旨は危険。
>>907 なぜ危険?半島の南側は倭地だと考えれば同族への祈りでは?
ああ、スマソ。現代の事情でということ。
910 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:49:54
>>904 いえ大変な出来事だとおもいますよ。
当時はそういった神事を大切にしていました。
後に百済の聖明王が死んで恵が助けを求めた時、蘇我稲目が
「雄略天皇の時、百済が高句麗に攻められた時は、天皇が祝に信託を下し、日本の神を百済もまつれば、
百済も救われるだろうといい、実際救われた。
それが最近はまつってないときく。もう一度祭れば、百済は救われるであろう」といっています。
神をまつることは、その子の天皇をあがめることであり、まつりごとです。
あと、色々説明がつかないとかおっしゃってますが、
それは自説を正当化するためにそうでないと都合が悪いとしか読めません。
私は私の意見を絶対だとは思っていません。可能性を示しているだけで、
そのことによって、あなたの考えも絶対ではないと伝えたいわけです。
「〜としか考えられない」「説明がつかない」
というのは主観的判断であって、歴史を追求する姿勢ではないと思うのです。
ただ俺は沖の島の祭祀はWiki程度しか知らんが、904は詳しいようだから、祭壇の向きとかわかるんじゃないの?
912 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:53:51
>「〜としか考えられない」「説明がつかない」 >というのは主観的判断であって、歴史を追求する姿勢ではないと思うのです。 なぜこういう虚言をいうのかな?その判断を複数の人間が共有できれば主観ではないだろう。 可能性があるといういいかたこそ主観。それは複数の人間が共有できる考察である必要はないからね。
913 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 15:57:53
>>912 判断が複数いて共有できるのは宗教も同じです。
歴史事実の追求はカルトではないのです。
914 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 16:00:36
どこかで誰かも書いていたが「正統な学会」が認めない、という凡庸ないい方があったな。 おれはS価学会のことか、といってやったけど、権力をかさに来る宗教者に他ならない奴ほど 他人を宗教呼ばわりするからな。
915 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 16:46:12
荒んでまいりました
916 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 16:52:19
熱心な宗教信者ほど、他の宗教には敏感だからな
917 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 16:55:00
学会は学会でも、 そっちじゃないでしょ。
913 の言い方は学会員すなわちカルトの言い方だな。
919 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:01:43
日本史学会とか考古学会とかさぁ・・・
920 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:10:49
Q.日本史学会で実在したと認識されてる、天皇は第何代からですか? A.まず、答えから。 第15代応神天皇を「実在した」最初の天皇と考えるのが学界の一般的な見方です。
921 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:11:31
創価学会って日本学術会議に認められてないっていう説もあるよね
922 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:15:13
>>920 に関連がありそう
ある神社の由来書きより
御祭神
応神天皇は、未開の日本に大陸の文化を輸入して文化国家の基礎を築かれた神で、
文化先駆の神・開発の神諸業繁栄守護の神
なんだ層化とオウムって中悪いんだ。
924 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:27:16
応神天皇は九州で生まれたんだよな ということはその時に九州の勢力が畿内を滅ぼしたのか
926 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:30:10
929 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:48:39
>>928 その比でいくと、沖ノ島は人間一人の足先よりずっと向こうになってしまう。
930 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:54:17
931 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 17:59:02
今時まだ 宗像→胸型→おっぱい なんて言ってるマザコン居たんだな
932 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:01:53
933 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:05:23
934 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:07:05
しかし、湯殿山ご神体の例もあるし・・・「言わず語らず。語らば聞くな、聞かば語るな」 また、芭蕉の俳句に、 >語られぬ湯殿にぬらす袂かな・・・何のことだかわからない人はググってくれ。 ま、しかしこれは時代もだいぶ違うし、ジョークだよ。
935 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:11:20
>>933 顔の高い低いっていうのは幅と高さとの比だろうな。
柔いもの食べるようになって横幅が小さくなったのかな
環境変化的要因多そう。
でも眼窩の高い低いは関係ないな。
936 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:20:18
新羅に渡ってきた新モンゴロイドは東へ東へと 関東東北を一直線に目指した。 太陽の向かう方向一直線に東北・関東に 向かったのだ・・・ だから弥生時代一気に関東東北人の 眼窩が突出して扁平顔になったんだ・・!!!
937 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:20:48
>アマテラスとスサノオの誓約の段で、 >アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、 >スサノオの物実から生まれたのでスサノオの子であると宣言された。 スサノオの持つ剣=ち○ち○
>>933 その前のページにこんなこと書いてあるぜ↓
>中でも、縄文人と較べて際だった違いを見せるのが、北部九州や響灘沿岸部から出土した
>弥生人骨である。彼らはひどく面長で扁平な顔をした、高身長の人々であった。
★目次のページにこんなこと書いてあるから自分でもどってね↓
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あと
高島 邪馬台国について金関さんは畿内説、松下さんは九州説の立場だ。九州、畿内説
とも確たる証拠があるわけでなく、今回は弥生人、吉野ケ里人像から論じ合いたい。吉野ケ
里遺跡では約3,000の甕棺(かめかん)を発掘、約300の弥生人骨が確認された。最終的
な調査結果はこれからだが、吉野ケ里人とは一体どんな人だったのか。
松下 吉野ケ里を含め佐賀平野で出土した人骨は男女とも顔が長く、身長は縄文人に比べ
高い。鼻根部と呼ばれる鼻の付け根が扁平(へんぺい)。つまり鼻が低く彫りが浅い。大腿
(だいたい)骨や脛(けい)骨は太い。対して縄文人の顔は短く鼻が高く彫りが深い。形質的に全く違う。
高島 いずれにしても吉野ケ里人は渡来系ということで意見は一致するようだが、人骨から
は社会構造も見えてくる。吉野ケ里遺跡の北にある花浦遺跡(神埼町)では、同じ墓壙(ぼこう)
の2つの甕棺に女性2人が埋葬されていた。時期は弥生中期前半(紀元前1世紀中ごろ)。
親子か姉妹と予想していたが見事に外れた。
http://www2.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm
939 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:25:14
>>938 その後九州西北部の古墳人は縄文形質に戻るのだが
金隈、吉野ヶ里の渡来形質の強い人は周囲の
縄文人に吸収されていったのでしょう。
それにしても吉野ヶ里、金隈以上に顔が
扁平な東北・関東の弥生人は
どこから来たのでしょう・・
やっぱ土井が浜、布留浦(出雲かな)・・
940 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:29:51
しかし、吉野ヶ里の弥生人は不思議な事に あまり渡来系の証拠を骨以外持ってないんだろう。 に対して土井が浜の弥生人は全ての埋葬者は 頭を半島に向けて葬られていた。 彼らはアルカリ度の高い土壌の為保存状態が良かった。
941 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:32:08
そういや、コテたちはどうして一斉に消えたの? 規制じゃないよね? やっぱりマキムクのニュースの件がショックで絶望したのかな?
942 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:32:42
ななしで書いているんだって
あの図だと 金隈、吉野ヶ里、土居が浜、古浦が一番渡来人っぽい顔になるはず
944 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:33:14
>>940 九州の渡来人は先の縄文人に吸収されたのに対し
本州四国の渡来人は縄文人とあまり融合しなかったと
いう仮説が成り立つ。
本州の渡来人が
半島に頭向けて寝るというのはまさしくその証拠。
なんだかなぁw こういう
>>944 みたいな願望からトンデモ九州説が生まれるんだよなぁw
947 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:37:37
ちなみに渡来人って何人くらい来たの? 数十人くらい来たところで主流になりようがないと思うんだが。
948 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:37:45
顔の長さは一概に渡来系とは言い難いと思う。 縄文時代から一気に柔い物ばかり食べ出したら 顔の幅が小さくなるだろう。 でも眼窩の高さはあまり変わらないな。 眼窩の高さは堀の深さと比例する。 九州の弥生人はモアイ像みたいな顔になってたのに対し 関東東北の弥生人は扁平化と長顔化が同時進行してるから 鳩山総理大臣みたいな顔になってたと思う。
949 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:38:26
>>942 そうかなあ?
ああいう人達は自分の考えが絶対と信じてるから、
すこしでも異論があれば、コテで長文で反論してくるものだよ。
おとなしく、1行レスで満足できるとは思えん。
もうスレを見てないのだと思う。
朝鮮人のヒミピョンさんが九州王だったってわけ?
951 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:40:22
>>949 一番予想できるのは
マキムクニュースで
邪馬台国論争から撤退という事だろう。
952 :
メ :2009/11/28(土) 18:43:25
>>946 938でも名前がでたけど「松下」さんの本でも読んでらいかがかな?
専門家の彼が言ってるのだからそうじゃないかな。
それにしてもここ人多いね。
どっちかというと、わたしは終止符スレ専門だったりする。
953 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:46:57
土井が浜の勢力って半島からきた事をかなり意識してるから 彼らが天孫の元になったような気がしてならない。 他は地元民と融合してるし、 関東東北の弥生人なんかどっからともなく 現れて勝手に鳩山総理大臣みたいな顔になってるもんな・・ 古墳時代ももっとも渡来系の形質残してるし。
>>949 に若干同意。
理由は一番釣り易すそうな河童が釣れないし。
見ていない線が濃厚かと思う。
955 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:54:42
個人のホームページや、別のも少し専門的な掲示板に行ったかも。
956 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:55:57
>>945 隔離板か。
現実とはまったくかけはなれた場所で組み易い論客と議論を楽しんでるみたいだな。
彼らが何を主張しても、現実は何も変わらないのにな。
957 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:57:29
壁に向かってぶつぶつ言うボケ老人みたいなものか。
958 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 18:59:21
959 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 19:12:57
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
960 :
958 :2009/11/28(土) 19:14:52
ところでプラムって茨城の農家だったよな? 出張って農業は廃業したのか? ヤマタイスレばっか書き込んでるからだなw
沖ノ島第三次調査隊のメンバーとして皇室の方が含まれていたことを知る人は多くない。 宗像大社辺津宮に碑も建っているが、三笠宮崇仁殿下がその方である。 三笠宮さまが、毎日新聞社刊の「海の正倉院 沖ノ島」の巻頭序文に寄せられた記事から。 『沖ノ島は「神の島」である。そして20世紀の奇跡がおこった島である。私はこの奇跡を現地で まのあたりみることができた。一生涯忘れ得ぬ感激であった。(以下略)』
九州説は別に九州じゃななくてもイイヨってカンジで 畿内説は絶対に畿内じゃないと困るってカンジでつねwww
>>960 >私の家が農家です。
今時一町歩ぐらいの田んぼでは、とても専業農家としては生活できません。
だから私は最初から会社員です。ここ十年間は大した出張もなかったのですが、今年営業が一人入院してしまい、その代役ということで
最近出張が多いだけです。(主に中国)
964 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 22:11:03
>>958 一応、その言葉を素直に信じるとすれば、佐賀・長崎が倭国の領域なのは
明らかなので、いわゆる有明海沿岸と大分南部以南は、在来の日本人だと
いうことになるんじゃないかな。しかも、邪馬台国連合。
まあ、後の熊襲も含まれるかもしれないが。
で、出雲の領域に属するのが渡来系ということかな。
ということは、邪馬台国東遷説というのは、在来の日本人が渡来系を駆逐
したということにもなりそう。時折、東遷説は渡来系の進出という人も
いるが、逆ということになる。
965 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 22:20:08
畿内説派はもっと冷静になれよ、畿内説は嘘とハッタリと捏造の宝石箱や〜
九州説は妄想だけしてりゃいいから楽だよな。
967 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 22:46:12
またお前かw
968 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 22:47:48
卑弥呼饅頭と邪馬台国サブレを発注したので、近畿じゃないと困ります!
969 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 23:07:37
誰かがレスしてたけど 禊ぎをしないと入れない島って沖ノ島だったんだ。 >麻生知事、視察中に熱中症/福岡・沖ノ島からヘリ搬送.
970 :
日本@名無史さん :2009/11/28(土) 23:33:16
>>969 麻生は禊はしたが、その前の船酔いと夏の暑さで熱中症になったんだね。
てす
61スレ? おまえら何やってんの。 くだらん妄想を繰り広げて楽しいか?
日曜日の早朝からくだらん書き込み楽しいか?
974 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 09:21:36
最近、書き込みが多かったのはニュース速報+から流れてきた馬鹿の仕業だな。 今、あっちに関連スレが立ってるので、こっちには来てないわけだ。
975 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 09:34:48
九州説は巣に帰れ
976 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 09:42:38
>>975 いつ、政策転換したんだよ?政策のブレには国民の監視の目がきついぜ!
>>1 のマニュフェストを読め!
>まだまだ意気盛んな九州説論者もドンと来い
977 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 09:44:42
>>976 マニフェストは破る為にあると
トンスルミンスがもうすぐ、証明してくれるさ。
さぁ、巣に帰りなさい
978 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 09:45:27
>>975 キンタマのちさかごと言うんじゃなかとよ。
はっきりした証拠があるわけじゃなかろが。
いろんな意見を拝聴したらよか。
979 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 10:30:07
んだよ。
ウンコ〜ン♪
981 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:08:10
畿内派撃沈にワロタwww
982 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:35:22
世の中自分の思った通りにならないから面白いんだ。 君らはまだまだ修行が足りない。 男はたたかれて強くなるものだ。
983 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:36:56
プッ 畿内説
984 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:39:34
九州説って竹島レヴェルと変わらんな。そのうち大和朝廷も北九州って言うんじゃないか。対馬みたいにね。
985 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:53:02
わけわからん事を例えるのも畿内派の特徴 プッ
986 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:53:05
>>984 まるで竹島が日本の領土でないと主張しているようだな。
987 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 12:56:37
大型建物遺跡発掘で浮かれたが、ふしぎ発見放送後に「???」の畿内派 学者まかせの為、自分の頭で考える事ができずに軽いショック状態にある、思い出しただけでも、あー腹イテェー
988 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:08:51
プッ ふしぎ発見を見て奈良はないと思ったwww
ところで半島には、いつ原爆を落とすのですか? ソロソロ頃合いかと思います。 更地になったら皆で復興しましょう。これで少しは建設関係の経済冷え込みも和らぐでしょうから。
990 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:14:32
なんで?なんで?なんで?首長が変わったからって、信仰の道具を火の中にほうりこんで、ハンマーで叩いて割るの?!
991 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:17:01
ちょーオモロイふしぎ発見、なんちゃって畿内説www
992 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:19:47
一人発狂してる奴がいるなwwwww
993 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:27:43
流れを変えよう。 おまいら、 八紘一宇の塔についてどう思う? ありゃ凄ぇぞw 答えは案外 八紘一宇にあるかもしれん。
994 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:36:49
>>993 あれ凄いよな。でもほとんどの日本人は日本にあんなものがあることも
知らんのだろうな。俺も生で見たことはないし。
995 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:44:16
>八紘一宇の塔 九州はキモイな。 これが九州説の原動力か。納得した。
996 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:44:50
>>993 八紘一宇の塔って神武天皇のブロンズ像があるんだよね?
この塔はなかなか奥深い。
997 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:46:51
>>995 八紘一宇の本当の意味知らんやつは、そう言うよw
GHQに魂を売った奴がね。
恥を知れ。
998 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:47:35
昭和の代になって立てた塔になんの史実が関係するの?
999 :
日本@名無史さん :2009/11/29(日) 13:48:48
八紘一宇 『淮南子』地形訓
発酵一宇って、清朝が提唱した多民族国家論だろ
1001 :
1001 :
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