復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.4

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49日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:05:06
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

 見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
 韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
 ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
50日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:06:10
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる
扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、
民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。
但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」
(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。

wiki より

上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。



百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人

渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
51日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:07:09
前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮は中国人の箕子が建国した中国人国家。
箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮は中国人の衛満が建国した中国人国家。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島北部に前1世紀〜後3世紀に設置した漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地。
百済と高句麗はツングース系民族の夫余族の国家。渤海は夫余族と靺鞨の国家。夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。
秦からの亡命中国人が前2世紀〜4世紀に朝鮮半島南部に建国したのが辰韓(秦韓)で、後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
百済と高句麗を滅ぼしたのは新羅ではなく唐。唐は百済と高句麗の滅亡後に旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から羈縻州(中国国内扱いにした事を指す)にした。
このため一時的に朝鮮に「国」はなくなった。

朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱

「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
52日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:09:44
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)

1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。   (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。   (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
    長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
    国内には多くの蒙古軍人が駐留。        (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。              (モンゴル人化)
    反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
    しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
    しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
    泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)

「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/
韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm

53日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:10:35
『アイゴー!シンガポールヤフーが韓国を中国領と表記してるニダ!』
シンガポール ヤフー(sg.travel.yahoo.com)とカナダのブリティッシュコロンビア(BC)州政府サイト
(www.protocol.gov.bc.ca)が韓国関連の誤りを訂正した。
サイバー外交使節団「バンク」は「1週間前までシンガポールヤフーはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していたが、
5日現在、『韓国領』に是正された」と明らかにした。(略)
http://www.worldtimes.co.jp/kansok/kan/shakai/090106-3.html


『有名教科書と地図「韓国は中国領土」』
英国オックスフォード大の出版社が制作している教科書をはじめ、世界の教育機関、博物館、テレビ局、新聞社、ポータルサイト、
百科事典など総34個の世界有名機関の世界地図53個が、韓国の領土全体または一部を中国領土に表記していることが分かった。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65416


『スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」』
中央日報 2004.09.27 スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」
スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版(www.elmundo.es)が 「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。
「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していたが、
1910年の韓日合併までの15年間にわたって独立を味わったりもしたいた(略)
「▽韓国が元々中国植民地だったと伝えた米CNNテレビ▽平壌を中国植民地だと紹介したヒストリーチャンネル−−
などのケースと同じ脈絡のもの」(略)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213
54日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:11:26
アメリカ大使館 「朝鮮に歴史無し。昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」
210.236.224.130
このIPを調べてみると...
Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 210.236.224.128/25
b. [ネットワーク名] US-EMBASSY
f. [組織名] アメリカ大使館
http://s04.megalodon.jp/2008-0104-0331-22/www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=9&nid=3182743
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&diff=8434966&oldid=8280871


55日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:12:29
各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」

韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが外の世界に出れば朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。


56日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:13:46
統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html

統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。
この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。
それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。
統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。
高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。



東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。



東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006  

高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国

57日本@名無史さん:2010/01/06(水) 02:18:28
■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・焼肉はモンゴルのパクリ!焼肉メニューはモンゴル語ばかり
・キムチは秀吉が朝鮮出兵の時に落とした唐辛子の種が増殖したのが起源
・テコンドーは日本空手をパクリ!そのままだとまずいのでキック特化にした
・中国の太極図案と五行八卦の中の四卦と陰陽魚が韓国国旗であること
・大韓民国の国名の民国は中華民国の民国の借用であること
・大韓民国憲法は、全て1948年に南京で制定された中華民国憲法を剽窃したものであること
・韓国の法律は、台湾の六法全書、「憲法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法」と全く同じであること
・中国原産の木槿(むくげ)の花を、勝手に改名し、無窮花として韓国の国花にしたこと
・朝鮮という国号は明の永楽帝が下賜したこと
・古代高句麗人と現代の韓国人は全く違う民族で高句麗は古扶余人で東胡の一部であること


58文責O2bさん:2010/01/06(水) 02:32:53
>>45>>51
俺のコピペ使ってくれてありがたいんだけどさ、
主旨がまったく違うんだわ。内容精査して自分用に改編して使ってくれ。
あと新羅滅亡も935年に直しておいてくれ。
59日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:15:41
60日本@名無史さん:2010/03/08(月) 03:50:25
61日本@名無史さん:2010/03/22(月) 08:09:31
太伯の弟の系統である呉王夫差の末裔は松野連である。
ソースは新撰姓氏録。
62日本@名無史さん:2010/05/23(日) 23:51:46
2010 年5月18日、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、
日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが分かった。
ソース 
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=42245
18日、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の「金沙遺跡」で、
日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが分かった。
写真は金沙遺跡の出土品を展示する金沙博物館。
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289929.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289939.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289936.jpg
http://img.recordchina.co.jp/imgout.php?m=5&img=CFP400289934.jpg
63日本@名無史さん:2010/05/24(月) 00:39:50
高床式の建物はジャワ島などの南方にルーツがあるんじゃないのかな。
日本には直接か、長江人の渡来によってかはわからんが。
64日本@名無史さん:2010/05/24(月) 05:28:58
高床式の建物はシベリヤにもありますよ。
アイヌ人も使ってました。
65日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:06:50
年代的に言っても、周ってかなり有りだと思う。
66日本@名無史さん:2010/05/24(月) 23:07:08
てす
67日本@名無史さん:2010/05/25(火) 03:20:25
>>64 それは日本の弥生時代より古いのか?あたらしいのなら日本から伝わった可能性のほうが大きいな。

68日本@名無史さん:2010/05/25(火) 20:32:51
アイヌ人のは白黒写真でアイヌ人も写っていました。
69日本@名無史さん:2010/05/29(土) 01:36:42
隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/47/43/enjoyjapan_13/47000/46467.jpg
隋書 原文
右4行目から五行目
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」

「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、
つねに使いを送り、往来している 」

上記の記述は日本人が朝鮮半島経由で形成されたならありえない事実です。
やはり周→呉→日本の流れがあればこそ、朝鮮半島よりも文明が発達していたわけです。
70日本@名無史さん:2010/05/29(土) 01:44:13
誤訳である
正しくは
"新羅と百済は皆大国なので珍しい物が多く倭が敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している"
なのだ
71日本@名無史さん:2010/05/29(土) 02:03:06
それこそ誤訳。
東夷伝倭国の条にわざわざ百済や新羅の説明文など書かない。
常識で考えても倭国は大国で〜と読むのが正しい。
72日本@名無史さん:2010/05/30(日) 00:32:25
>>70は誤訳ではなく馬鹿訳。
>>71が正解。
73日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:08:17
斉の田横一族とそれに付き従う斉国人も田横亡き後は漢に従うのを良しとせず山東半島から日本に向けて船出したわけです。
山口県の土井ヶ浜遺跡から出土した共同墓地の大量の人骨はみな体を東西方向に並べられており頭を少し高く埋葬されており顔がちょうど山東半島に向けられているのです。
土井ヶ浜遺跡は紀元前200年頃から始まった遺跡との事で田横の死と時期的にも一致しますね。
土井ヶ浜遺跡の斉国人は死して埋葬されてもなお故郷の山東半島に思いをはせていたのでしょうか。
74日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:20:09
>>73
斉国の始祖って、周の軍師の太公望・呂尚姜子牙ですよね。
弥生人の人口が爆発的に増えた時期は春秋戦国、秦の時代だってことは
わかってるんで、絶対関係あると思います。
代々姜子牙の子孫が32代まで王家を継いでいた32.康公(姜貸、在位紀元前404年 - 紀元前379年) 
の代に、田氏による簒奪があり、「田斉」になった時に、
日本に来た人も多数いると自分は思ってます。
年代的にも、それでも辻褄が合ってると思う。
75日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:23:52
斉国の国民=周人なので、日本に周の民が来てる事は、
まず間違いないと思います。
76日本@名無史さん:2010/06/07(月) 13:05:37
>>70 朝鮮人の下手な歴史捏造の見本だな。

 広開土王碑の朝鮮捏造も日本とシナ学者による照合検証で否定された。
77日本@名無史さん:2010/06/22(火) 19:43:26
しかし凄いですよね。
隋が何度遠征しても勝てなかった高句麗相手に一歩も引かずに戦ってた倭国は。
そりゃ魏も金印くらい与えるはずですね。
78日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:41:35
>>77
当時の印の材質は上位から、玉、金、銀、銅で
中国の皇帝が玉、皇太子や王族が金、朝貢している国や臣下がそれ以下。
王号は基本的に皇族のみの称号。
ちなみに、当時の朝鮮の扱いは「邑君」で銅印。
当時の日本の重要性がよくわかる一例だと思う。
これは、中国の史書(後漢書、魏志など)に記載されている、
疑いようのない事実ね。
日本は、全ての歴史がこんな風に、事実に裏付けられている。
朝鮮の捏造とは全然違う。
79日本@名無史さん:2010/06/26(土) 09:56:58
【書評】『日本人ルーツの謎を解く 縄文人は 日本人と韓国人の祖先だった!』
2010.6.26 05:00
 ■科学的、論理的に定説を否定

 日本人のルーツはどこにあるのか。
 長い間、追い求めてきたロマンあふれる疑問だ。
 だいたいは、縄文人が住んでいたところに大陸、半島から稲作を携えて弥生人が渡来し、縄文人と混血しながら、
現在の日本を形成していったというものだろう。

 だが、著者は最新のデータを基に、この考えを真っ向から否定する。

 稲作は縄文時代から行われていたし、朝鮮半島には日本の弥生式土器や古墳時代の前方後円墳が多く見られることから、
縄文人が弥生人に移行し、さらに朝鮮半島に進出していったとする。

 ミトコンドリアだけではなく、Y染色体の系統も調べながら、これまでの定説を科学的、論理的に検証、否定していく。

(長浜浩明・著/1785円、展転社)

http://www.sankeibiz.jp/econome/news/100626/ecc1006260502011-n1.htm
80日本@名無史さん:2010/06/27(日) 01:49:03
>>79
そんなに捏造してまで日本人に擦り寄りたいのか・・・と思ったけど
よく読んだら、
>稲作は縄文時代から行われていたし、朝鮮半島には日本の弥生式土器や古墳時代の前方後円墳が多く見られることから、
縄文人が弥生人に移行し、さらに朝鮮半島に進出していったとする。

つまり、著者の主張は、
全部日本が先で、
朝鮮から日本に伝わった物は無いって事なんだよね。

タイトルで誤解するよ、コレ。
でも、縄文人が朝鮮人と関連付けられるだけで、不愉快って言えば不愉快なんだけど。
81日本@名無史さん:2010/06/27(日) 16:53:54
ここのカキコ見て、思い出したこがある。

日本人のY染色体が世界的に珍しく、同じのを持ってるのはチベット人くらいだという話。

成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)の長江文明を築いた人々は、チャン族だったとか。
太公望もこの民族だったらしいが、つまり、チベット系民族ということになるよね。

日本人の染色体の理由はそれ??
82日本@名無史さん:2010/06/27(日) 22:46:19
>>81
DNAでも証明されるわけだし、遺跡や遺物も共通してるから(三足土器とか)
特に成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)は神社に似た9本の柱を持つ建造物が出たりしてるし、
おそらく関係あると思う。
日本の場合、漢代に書かれた書物に書かれた「周礼」が日本の神道の儀礼に似てる事が解ったりとか、
結構今でも物証があり、まだ解明されてない事が多いので、
この分野はこれからまだまだ色々発見されていくと思うけど。
あれだけ日本が嫌いな江戸時代の朝鮮通信使が、日本人は周の時代にやってきたとか書いてるくらいなんで、
日本人が周と関係あるのは、実は定説だったのでは?とすら思える。
83日本@名無史さん:2010/06/28(月) 01:53:50
西周遺跡から出てる土器類と、縄文時代の土器が類似していて、
青銅器は西周のものが日本にないということは、

日本にこの人たちが来たのは、実は青銅器が普及する前で、土器しか無い時代?
と考えると辻褄が合うような気がする。→これが後期縄文人?
日本の青銅器は年代的にも物的にも春秋時代以降(B.C.770年〜B.C.222年)だと思うけど、
それを伝えたのはまた別の人たちで、
春秋時代は、多数の銅剣・銅鉾など武器が鋳造、一方で祭祀用の青銅器も続けて鋳造され、
鐘などの楽器が急激に発達してくる。なので、日本の青銅器、銅剣・銅鉾・銅鐸とそのまま
一致する。→これは年代的にも、ほぼ弥生人で確定?農耕もこの人たちが主流?成都近郊(金沙とか三星堆遺跡)の長江文明なのも
この人たち?
84日本@名無史さん:2010/06/28(月) 02:27:13
土井が浜遺跡で発見された弥生時代の人骨と
中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の計測値が近く、
2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、
約2500年前、2000年前の臨淄遺跡から出土した人骨、及び現代の臨淄住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。
それによると、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、
現代の臨淄住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。

>約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く・・・
という人たちが、計測値もDNAも土井が浜弥生人に近いって事は、
やっぱり土井が浜の弥生人は斎国の人?Y染色体はここから来てる可能性あるかも。
85日本@名無史さん:2010/06/28(月) 13:19:42
>>82
>あれだけ日本が嫌いな江戸時代の朝鮮通信使が、日本人は周の時代にやってきたとか書いてるくらいなんで、
日本人が周と関係あるのは、実は定説だったのでは?とすら思える。

日東壮遊歌の事ですね、分かります。
86日本@名無史さん:2010/06/29(火) 22:03:14
正確さを期すために、
現代の斎国跡地の住人と、2000年前の斎国人に類縁関係が本当にないのか、
日本人との類縁関係の比較も含めて、
もう一度Y染色体やmDNAで調べて欲しいな。

現代の臨淄住民と、現代日本人に類縁関係があれば、住民の何%かは移動したけど、
何%かは、そのままその地に留まったとか解るし。
弥生人と現代日本人の遺伝的な連続性は証明されてるんで、
多分、西周の建国に関わった呂尚姜子牙の直接の子孫が32代支配し、その後田氏が9代支配した、
斎国の人(確実に周人の系統とわかってる数少ない国の民)が日本に来てる
可能性はかなり高いね。
周の王がきてるかどうかは解らないけど、国民とか、彼らの親戚とかは来てるのは確実かと。
87日本@名無史さん:2010/06/30(水) 03:53:48
別スレで見つけたけど、杞国が滅びた時の首都は山東省の牟婁。
日本の熊野(紀国)に牟婁という地名があり、
伊勢神宮の社伝では「斉」の御田より米が伝わった、とされているそう。
かなり色々一致するね。
88日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:16:17
>>87  中国・崑崙山に住む霊鳥・・・八咫烏(ヤタガラス)日本サッカー協会のシンボル。

熊野と八咫烏(ヤタガラス)霊鳥として熊野三山には、烏の絵文字で描かれた牛王宝印(ゴオウホウイン)と言う三種類の神符があります。
この牛王宝印、人と人が約束をする時の誓紙として使われ、もしその約束を破った時は、この誓紙を焼いてその灰を呑むと血を吐いて死ぬと同時に、
熊野三山に住む森の烏が三羽血を吐いて死ぬと信じられていました。

中国では湖南省の馬王堆(マオウタイ)と呼ばれる塚から出土した、二千百余年前の生けるがごとき女性の遺体の側の副葬品(彩色布)に「烏」が現れます。
それには、金色の太陽の円の中に「烏」が住んでおり、下弦の月の上のうさぎの側にヒキガエルが描かれています。
2,000年昔の古代中国では「烏」が太陽の使者と考えられ、太陽(陽の象徴)に対する月(陰の象徴)では、うさぎとヒキガエルが大切な役割を担っていた事を物語っています。
89日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:35:33
A 力ラスと海人

 話は飛ぶようだが、福岡県の珍敷(めずらし)塚古墳の石室には、一人の人が舟に乗っていて、空には太陽らしいものがある絵が描かれている。
ところが、その舟のへさきに一羽の鳥がいる。問題は、この鳥である。何鳥か。また、何のために乗せているのか。
これはカラスだろうと思える。では、なぜカラスだと分かるのか。その一つの理由は、同じ絵の中にヒキガエルらしいものも描かれているからである。
即ち、古代中国人の思想にあっては、太陽の中のカラスと月の中の ヒキガエルはセットになっていたからである。

では、仮にカラスだとして、それを乗せている目的は何かと言えば、海上で方角が分からなくなった時、カラスを飛ばすのである。
舞い上がってどちらかへ飛んで行けば、その方角に陸地があるということになる。どこへも行かずに舟に戻れば、付近に陸地が見えないことが分かる。
海の上では三○メートルも上がれば遥かに遠くが見える。だが、スズメでは小さくて見失いやすいし、あまり遠くまで飛ばない。
トビは高く上がり過ぎるし、遠くまで飛び過ぎる。そうかといって鵜のような水鳥も困る。やはり陸の鳥でなければならない。
どこにでもいて比較的つかまえ易く、かなりよく飛び、それに黒くて大きくて見失いにくいカラスが最も適当であったと思われる。
90日本@名無史さん:2010/07/01(木) 11:46:20
>>89・・・続き

「旧約聖書」に出てくるノアも、陸地を求めるのに、その箱船からカラスやハトを飛ばしている。
古代の海人は航海に際して、いざという時に備え、常に何羽かのカラスを積んで出発したと考えられる。
ということは、「カラス」と「海人」はセットとして考えてもよいということになる。
連想ゲームではないが、「カラス」が出てくれば「海人」を連想してみる必要があるということである。

「ゴトビキ岩」の「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」のことで、熊野の北に当たる吉野でもゴトビキと呼んでいる。
「ビキ」が「ヒキ」である。こうなると、熊野では「カラス」と「ヒキガエル」がセットになっていることになる。
馬王堆でも「カラス」は太陽の中、「ヒキガエル」は月の中にいて、両者はセットになっている。

「カラス」は海人や長江下流地域と関係が深い。神武天皇は隼人が出発地だが、その先祖のニニギノミコトは長江下流地域から渡来したと推理される。
加えるに、熊野の辺りには徐福の遺跡もある。中国の大学の或る先生は「徐福は神武天皇だ」と言っておられる。
また、観音信仰の面では、熊野の浜は長江河口の舟山列島に通じていると言う。
また、吉備真備の船も長江下流から出て隼人まで帰ったが、そこから流されて熊野の岸に漂着している。あれこれ考えていると、「ヒキガエル」は、いよいよその怪しげな魅力を増してくるのである。(古代思想研究者)
91日本@名無史さん:2010/07/01(木) 20:35:08
烏といえば、『山海経』だよね。
太陽はもともと10個あって、扶桑に休んでる。
ローテーションで、1つずつ順番で天空へ。
残りの9個は扶桑でお留守番。
天空から太陽が帰ってくると、次の太陽が天空へ行く。
その太陽を天空に運ぶのは、烏。

実はこの扶桑を鋳造した物が、古蜀・三星堆遺跡から出土してる。
扶桑の木に太陽を背負った烏がとまってるんだよね。
92日本@名無史さん:2010/07/01(木) 21:47:39
八咫烏様か

そういえば、日本サッカー活躍の陰にこんなスレがあった。
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1275657262/
ヤタガラス様にサッカールールをお教えするスレ
93日本@名無史さん:2010/07/01(木) 22:00:54
前漢に書かれた「淮南子」に東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた…と書いてある。
淮南子は古事記や日本書紀、神道の基幹をなしてる書物の一つ。
日本は、漢とも直接交易してて、
漢系の物も割と入ってるから、淮南子が書かれた時代は
日本の事がすでに知られてる時代。
結構色々遺物も文献も繋がってる。
94日本@名無史さん:2010/08/02(月) 21:20:28
>>90
俺のシマではカエルの事を「びぃきゃ」とも言うがそれ系かw
95日本@名無史さん:2010/08/02(月) 21:23:30
つうか、あんま徐福ネタに引っ張られんなよ。
96日本@名無史さん:2010/08/18(水) 01:21:33
明治維新の「維新」は、「詩経」の大雅「文王」(文王は初代周王文王の父)
の一節から取られてるし、
明治政府が制定した5つの爵位は夏王朝や周王朝で行われていたという
公・侯・伯・子・男を踏襲したもの。
制定された「華族」という名称も、反対意見も有ったらしいが、「中華」の「華」から来てる。
・・・明治初年の時点では、思いっきり日本が周を意識してたのは間違い無い。
その後、何度か要人が粛清されて方向転換したんだと思う。
97日本@名無史さん:2010/08/20(金) 04:47:02
>>96
×初代周王文王→武王
追加すると、首都江戸を「東京府」と改称したのも「清明大河図」で有名な
宋の都「東京・開封府」から取ったもの。
宋の都は、滅亡後も、理想の政治と文化があったとして、理想化されていた都市。
 宋が滅亡したとき、日本に亡命した人も少なからずいたし、影響を受けてる所もあるかも知れない。
98日本@名無史さん
日本人の多数と、貴族階級は周にゆかりがある人だけど、天皇家は違うのかもしれないな。