1 :
神奈川県民:
2 :
サガミハラハラ:2009/10/18(日) 23:09:29
女王卑弥呼は正体不明ではありません。れっきとした邪馬台国の女王です。
女王卑弥呼の都は、初めは吉野ヶ里でした。北内郭は卑弥呼のおすまいになる宮殿としてつくられたものです。
しかし、230年代になり、卑弥呼は都を西方の小城甘木に移しました。そこが終焉の地となり、その地にほうむられました。
そこは現在小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)となっております。
>>2 しかし大人気ないですよ。すかさず自説の宣伝ですか?恥ずかしくないの?
5 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:09:17
三国分立時代(魏・呉・蜀)、倭と繋がりのある、
遼東太守の「公孫淵」は「呉」と組み「魏」を滅ぼそうと考える。
それがばれて魏から狙われる羽目に・・・
公孫淵は「燕王」を名乗って魏に対抗する。
魏の「明帝」は司馬懿を遣わし公孫淵を撃討つ(公孫淵死す)。
景初二年六月、倭女王は大夫難升米等を遣わし
帯方郡太守の劉夏に詣でて天子への献上を求める。
明帝、詔して倭へ使いを送る。
翌年、明帝死す。
幼い皇帝が立つも、司馬懿によって魏は司馬一族のもとへと・・・。
6 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:19:14
公孫氏と倭女王はそんなに仲良しか?
いつから?
7 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/19(月) 20:23:18
>>2 >女王卑弥呼は、そこが終焉の地となり、その地にほうむられました。
女性は出身地に葬られる場合が考えられるが。
8 :
縦目仮面:2009/10/19(月) 20:33:28
>>6 俺も、邪馬台国は魏への朝貢以前は公孫氏と通行があったと考えてるんだけどね。当然韓へ行ってその先
まで足を伸ばさないはずがないし、公孫氏滅亡直後のタイムリーな魏への遣使を考えても。ただ、いつから
なると難しいね。公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置した200年前後かな・・・・。
9 :
ローガン:2009/10/19(月) 20:40:11
>>5 >明帝、詔して倭へ使いを送る。
> 翌年、明帝死す。幼い皇帝が立つも、司馬懿によって魏は司馬一族のもとへと・・・。
「幼い皇帝」時の実権は曹爽でしょう。
10 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 20:41:32
>>967 >倭の五王が天皇なら、当然即位年が誤認とも天皇と一致する
>五王は天皇にあらず
讚、珍、濟、興、武 天皇家の誰かだろう。
>>988 その人は誰ですか?
>>1000 >水谷清著の「古事記大講」(全30巻)と
>同著の「三種の神器」は持っています。
金かかっただろうね。
11 :
縦目仮面:2009/10/19(月) 20:50:44
>>9 ところで、前スレで書いてまったく反響がなかったんで、ローガン先輩に質問ですが、東大寺山古墳の中平
(後漢の霊帝184〜189年)銘鉄刀についてどうお考えですか。卑弥呼共立を記念しての下賜ですか。また、
年代の離れた東大寺山古墳への埋納の経緯は?このあたり、5の質問に答えるキーになるかもしれません。
Wikiより
>「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」内容は「中平□年五月
丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では
禍を避けることができる」という意味である。
12 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:26:08
ローガン先輩どうなんですか?
13 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:28:51
【日本昔話】
大国主一族はぁ♪
北へーーっ、北へーーーーーーーっ と追いやられてしましました(蝦夷!)
ソロソロ、出川の哲ちぁんの出番かな?w
14 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/19(月) 21:45:55
後漢の霊帝時代ころから「倭国乱れる」だから倭王はまだ卑弥呼に位を
譲っていない。
この後、倭王(筑紫)は「乱」の平定に失敗、疲弊し卑弥呼に位を譲る。
倭王の軍隊が伊都国の一大率として卑弥呼に使える。
15 :
サガミハラハラ:2009/10/19(月) 21:50:14
邪馬台国は魏と大和に両属していた。
17 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/19(月) 22:10:48
>>縦目氏
陰陽師で思い出しましたが、あれは夢枕獏の小説よりも岡野玲子のマンガのほうが出来がよいですので、是非一読ください。
でも7巻かそこらで連載雑誌が変わってから急に面白さがなくなり、10巻あたりからスーパーサイヤ人的な展開になるので、
どうかと思いますが、フィクションとしてはまぁ楽しめると思います♪
ちなみに映画はクソだと思います。ミテマセンガ
>>あとの雑誌の編集長がへたれなんですね。
19 :
縦目仮面:2009/10/19(月) 22:20:15
>>17 いや漫画は読みました。貴船神社が出てくるあたりからつまらなくなった思います。映画も見ましたが、なん
というか・・・監督が古代史の呪術的側面というものをまるで理解していないというか。ww
20 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:22:45
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
21 :
ローガン:2009/10/19(月) 22:54:23
>>11 > (後漢の霊帝184〜189年)銘鉄刀についてどうお考えですか。卑弥呼共立を記念しての下賜ですか。
ごめんなさい。飯くってて遅くなりました。後漢から公孫氏への下賜かなと思います。金関さんの説ですが。
> 年代の離れた東大寺山古墳への埋納の経緯は?
考えても仕方がないような気が…
22 :
サガミハラハラ:2009/10/19(月) 23:40:54
卑弥呼の即位は183年です。 あくる184年に長らく途絶えていた中国への貢献を開始
します。中元の年号の年のことです。
これは中国の正史にはのっておりませんが、中国のなにかの史書にのっていたのでしょう、(起居注みたいな)。
そこでそれをしった大和の工房のひとが、そに年号を入れた太刀をつくったというわけです。
三角縁神獣鏡の偽年号のように。
23 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 00:10:31
>>21 後漢から公孫氏ですか。この場合は公孫 度ですかね。とすると倭国にきたのはもっと後ですね。ありがとう
ございました。
はあ、東大寺山古墳ですか、あまり調べたことないですわw
しかし、「中平刀」に関しては興味ありますね。
卑弥呼共立に結びつくのか、どうかは知りませんが、
「後漢王朝」と「その地」が強い関係で結ばれていただろう事が予想できます。
25 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 00:25:46
ただ、4世紀後半頃とされる東大寺山古墳から、その他の鉄刀とともに出たんで、邪馬台国がこの刀を持って
東征してきたとか、大和朝廷が九州から略奪したとかいろいろ言われるんですね。サガミ先生のよう後代の
国産説もある。ww
>>22 >卑弥呼の即位は183年です。 あくる184年に長らく途絶えていた中国への貢献を開始
>します。中元の年号の年のことです。
<後漢書倭伝>
「桓、靈閨v倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立為王
後漢書には「桓、靈閨vノ時に倭國大亂
そして、「歴年」...共立する とありますよね。
「桓、靈閨vというのはですね、
桓帝の即位が146年~167年、霊帝はというと167年~189年ですよね。
同じ范曄さん、弁辰の「靈帝末」と比べてみるとですね、
167年ということが想像出来ます。
よって、後漢書は167年とハッキリ記載してることになります。
「歴年」というのは数年ということはご存じだろう。
これらから、卑弥呼の即位は183年というのはおかしいのではなかろうか?
と思うわけです。
そうですね、168~178年ぐらいが適当ではないでしょうか。
しかし、梁書には「光和中」とあり、後漢書といってることが違うわけですよ。
サガミハラハラさんは、後漢書は「偽」で梁書を「信用」した理由を説明して頂けないだろうか。
>>22 「中平刀」に関して
>これは中国の正史にはのっておりませんが、中国のなにかの史書にのっていたのでしょう、(起居注みたいな)。
>そこでそれをしった大和の工房のひとが、そに年号を入れた太刀をつくったというわけです。
>三角縁神獣鏡の偽年号のように。
大和の工房の人が作ったという証明はできるのでしょうか?
28 :
ローガン:2009/10/20(火) 00:49:50
>>11 > このあたり、5の質問に答えるキーになるかもしれません。
ああ ぼーっとしてました。
>>5 ですね。
景初二年ではなく三年だと思います。その根拠は何度も書きました。
敢えて、別の理由を挙げるとすれば、日本書紀と梁書が三年 になっている…とかね。
別に、二次資料の方を重用する訳では無いんですが 紀の編者は梁書倭国伝を見ていない。
紀、梁書に先立つテキストが三年だったと云う事でしょう。まあ、紀には出典が明記されているので言わずもがなかもしれませんが。
いずれにせよ、二次資料が一次資料を支持しない以上、韓伝と倭人伝の二年時点での帯方太守の違いは、三年説の根拠となるでしょう。
光和年間(178年〜184年)ですか、
なら、話は早い!
倭国乱れ、167年
卑彌呼、共立は178年 ではなかろうか?
30 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/20(火) 00:59:09
縦目さんレスの>11「5の質問に答えるキー」はたぶん>6へでしょう。
でも、これも証明はできませんよね。
おそらく、想像でしか言えないことかと・・・
31 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:03:57
すいません、素人なのですが、どなたかご教示ください。
邪馬台国って「やまと」国に中国人が当て字したってことですか?
32 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:04:24
>>11 >>21 >>22 >>24 まず、あの中平年刀の環頭の飾りが国産であることはすでに確定している。
飾りは4C末葉以降の国産刀にのみ見られるデザインである。
そこで、舶載説は刀身だけが舶載でその刀身が中平年に作られたとする。
しかし、刀身は4C末葉以降の国産品にしばしば見られる逆そりで、これは舶載品には
見られない。
さらに、中平年刀と同時に出土した刀はすべて国産品で、中平年刀との違いは年号が
あるだけというものまで出土している。
要するに、昔から学者のほぼ全員が国産であると固く信じてきたが、それを言い出す者が
いないという点では三角縁神獣鏡と同じである。
33 :
ローガン:2009/10/20(火) 01:08:21
>>30 > 縦目さんレスの>11「5の質問に答えるキー」はたぶん>6へでしょう。
あ、そうですか。トンチンカンでした。失礼。
34 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/20(火) 01:18:35
>>131 漢文の音というのは、一字一音と聞いてます。
そして、「邪馬臺」という字を
「ヤマタイ」やら「ヤマダイ」とは出来ず、
「ヤマト」もしくは「ヤマド」ではなかろうか?という説が有力みたいですね。
35 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:28:02
●卑弥呼とは人名ではなく女王という役職名
紀元後180年に、倭国の女王に、卑弥呼がなり、また紀元後239年に、卑弥呼は中国の三国時代の魏(ぎ)に使いを送っている。
この間、59年ある。仮に、卑弥呼が15歳前後で、女王に即位したとしても、74歳まで生きたことになる。
が、当時の日本人の寿命は、50歳に、はるかに満たなかったはずなので卑弥呼とは、女性の王さまの「役職名」
と考えるのが妥当ではないか?・・と思う。
もっと言えば、卑弥呼は、さらに、266年に、再び中国の西晋に、使いを送っている。
卑弥呼が一人の人物だったとすると、この時の年齢は、なんと101歳
と、いうわけで、卑弥呼が役職名であったことはほぼ確実であろう。
36 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/20(火) 01:30:25
「訂正」
>131 → >31
あ、それと私も素人ですがw
>>32 生でみてないからあまり偉そうに言えませんが・・・
あきらかに国産品のモノは年号の部分をハッキリとは書いてないものが多いと聞いてます。
しかし、それは読み取れるようですし、国産品ではなくて「本物」の可能性もあるのではななかろうか。
あ、きねん明鏡は、基本的に舶載だろうと考えてる、愚かな者でして・・・w
まあ、私が間違ってるのかもしれませんが・・・
37 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:37:57
マウス壊れた
明日、買ってこよっと・・・オチ zzz
魏の人が「大和」の発音間違えて書いたのが邪馬台国の真相ですた
39 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 06:50:25
>>26 倭人伝には乱の年代はまったく書いてないね。
後漢書や梁書は、その倭人伝をあれこれ解釈して年代をひねり出した
ということらしい。どう解釈したのかが問題だな。
40 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 07:48:41
>>28 6について書いたつもりでした、混乱させてすみません。ところで中平刀は、鉄製の刀身は内反りで青銅製鋳造
の花形飾り環頭柄頭がついています。本来は飾りのない素環頭であったものを、何らかの理由で内国産の環頭
に付け替えたというのは間違いないでしょう。同じような細工をしたものが計5本あり、花形飾りをもつものが3本、
家形飾りをもつものが2本出土していますね。
この刀について、三角縁神獣鏡国産説の嚆矢といわれる森浩一氏は、中国刀と認めているようです。ただし埋納
の状況には疑義を呈しています。つまりは長すぎる伝世、粗略ともいえる扱いなどについてですね。
41 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 10:01:00
>>35 >もっと言えば、卑弥呼は、さらに、266年に、再び中国の西晋に、使いを送っている。
アホ、卑弥呼は西晋に使いを送っていない。
泰始元年(265年)に、使者を送ったのは壹與だよ。
卑弥呼は長生きした個人の名前。
卑弥呼が役職名なら壹與も卑弥呼?
イヨタン・・・・・・・・・・
43 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 11:01:24
44 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/20(火) 11:09:18
45 :
ローガン:2009/10/20(火) 13:57:18
>>44 拝見しました。
四年の「倭王」を男王とする根拠は、「倭女王」と「倭王」の書き分けと云う事でよろしいでしょうか?
もし、そうだとすると一行前の「拜假倭王」も男王でしょうか?
46 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 14:28:04
>>11 東大寺古墳の中平刀の銘文の後半
「・・・上応星宿■■■■」
の文がある理由は、185年=中平2年 にケンタウルス座に−8等の超新星発現が
あったからだと想う。それに因んでこういう文を入れたんだろう。
47 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 15:16:50
>>44,
>>45 其年(景初二年)十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑弥呼
卑弥呼は魏では倭女王とも倭王とも呼ばれていた可能性がある。倭王が男王である必然性はない。
正始元年に梯儁は詔書とともに親魏倭王の金印を卑弥呼のもとに持ってきており、それに倭王因使
上表○謝詔恩とある。この倭王は卑弥呼のことであろう。折角卑弥呼に詔と印綬を授けに来たのに
卑弥呼が死んでいたなら大変だ。その事を報告する筈である。卑弥呼は詔と印綬を受けとって答礼
の使節を送った。その使節の送り主を倭王と記述している。
48 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 15:30:05
「桓、靈閨v倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
「桓、靈閨vというのは、大陸、半島でも乱れた時代。
依って、「更相攻伐」は黄巾党の乱を想定。
漢から魏へ国主が変わる、この時代が歴年無主。
魏国の使者が倭国に来たとき(238年)には、女王卑弥呼が共立されていた。
49 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 15:33:13
まあ、「親魏倭王」であり女王などという正式な号はないから、縄文人のいうとおりでないですかね。
50 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 18:29:12
二さん
>8年にその男王の後に立った壹與は狗奴國との窮状を魏に訴え
男王の死亡後壹與が立つ。
51 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 18:32:25
倭人伝の「倭王」と「倭女王」は別人。男王も別人。
52 :
サガミハラハラ:2009/10/20(火) 18:49:21
>>26後漢書の桓・霊の間とは、桓帝と零鄭の治世の時にと解釈します。
つまり倭国大乱は桓帝の即位146年から崩御の167年までのうちのどこからか始まり(私は156年か157年であるとみています。)
霊帝の崩御年の189年までの間におわったとみれます。歴年は年をへるという意味ですから、数年とはかぎりません。
後漢書がはっきりと167年と記載していることになりますとは、何をですか。もうすこし詳しくお願いいたします。
倭国大乱の終了は189年ピッタリであるとはかぎりません。そこで梁書の光和中がでてくるわけです。
光和の年号の間、倭国は乱れ、互いに攻伐することが続いた。そこで一女子(卑弥呼)を共立して王とした。つまり卑弥呼を
王としたのは光和年中であるという。光和年は178年から184年であるから、卑弥呼の即位は178年から189年のあいだであったというわけである。
更にこれをせばめていって即位年をみつけだしていく。この時代の年号で倭にかんするものをさがしてみる。
それはにほんにあった。東大寺山古墳出土の剣に、光和年号に近い年号がきざまれていたのである。
それが中平年である。中平年は184年から189年までとなります。
光和と中平と重なるのは184年である。この剣は卑弥呼が中国に初めて即位の報告と挨拶に行った年を下に製作したものであると考えられます。
よって卑弥呼の即位は貢献に行った年の前年183年であると結論づけました。
梁書をとりあげることは後漢書とは矛盾しません。
54 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 18:57:05
>>52 22レスの>そこでそれをしった大和の工房のひとが、そに年号を入れた太刀をつくったというわけです。
三角縁神獣鏡の偽年号のように。
なぜこんなことをしたのかちょっと理解できません。サガミ先生、そのあたりの経緯をご教示願います。
55 :
サガミハラハラ:2009/10/20(火) 19:34:05
かつて安物のラーメン丼に万暦などという中国の年号のはいったものがありました。
別にこうしたからってラーメンがうまくなるわけでもないのですが。
つまり、副葬品にハクをつけたかったのでしょうか?
>>55 現代のラーメン丼と古代の鉄剣・銅鏡を同列に論じられるか。
・・・・・まずはそこからじっくり考察されたい。
57 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 19:59:38
>>53 卑弥呼は女王、女王死して男王が立つ、男王死して壹與が立つ。
倭王は、この間健在。
卑弥呼が死んだ後も、千人余の死亡者の出る戦が続く。
卑弥呼の共立は、一時しのぎであり、分裂した倭国が一つに纏まったわけでは無い。
黄旛は、倭国統一のシンボルとして、卑弥呼、倭王合同軍に送られる。
58 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 20:02:40
>>55 ????この大和の工房の人というのは、九州の邪馬台国と敵対する人なんでしょう。違うんですか?
59 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 20:02:51
>じっくり考察されたい。
そんなことをしていると、蕎麦がのびてしまうんじゃあないか。
60 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 20:05:45
マヤの土器とかのマヤ絵文字では、飾りで特に意味をつけないで
土器の側面にこれを画いたものがあるという。マヤ絵文字には暦で
使うものが多く、暦年代表示の意味をなさない飾りがあるから、こう
いうことは日本古代の年号にも(絵文字ではないが)即その年で
ない場合の年号書きということはありうるとは言える。難しいね。
マヤの場合はだいたいが暦の絵文字は即暦を示すのは通例だが、
かような例外も少しなんだろうがあるわけだ。
61 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 20:30:46
ははあ、まあ、ラーメン丼論は冗談でしょうが、では、京都府福知山市広峰15号墳の景初四年銘斜縁盤龍
鏡については?これもメモリアル・イヤー説ですか?ちなみに銘文には「五月丙午之日・・・・」とありますね。
このスレは暦に詳しい人が多いんで、どう解釈されますか?
62 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:34:32
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 20:43:10
五月っていうのは朝廷が忌む月であり、葬儀、墓ではこの月が銘文
にあるのは妥当だ。忌むのは原則論であり、例外もある。また佛伝
以後は佛教の影響で五月でも朝廷は平気のようだ。だから紀の編纂
されたのは五月なわけ。例外は戦争を仕掛けられたとか謀反だとか、
外国からの要人が来朝のときなどであり、5月でも忌むというより
積極的に活動するようだ。五月蝿なすのは岩戸隠れの時代、日神の
岩戸閉じこもりの起因になったことで、朝廷はいやがるもので、
翌6月に大祓いを行うのはこのためだと言えよう。
64 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/10/20(火) 20:50:32
>>45 そういえば正始元年の記事中にも倭王の文字がでてきますね。よく読んでないのがバレバレだw
正始元年は梯儁が来た年であり、このときに卑弥呼が在命であったのは疑問の余地がないので、
正始元年の倭王は卑弥呼の事として間違いないでしょう。
四年の倭王が、あれは唐松山さんだったか、畿内ヤマトの倭王(男王)のことだという主張をされていて、それが頭のすみにあったのですね。
それで四年の倭王=男王=卑弥呼の後のやつ、という単純な連想が元ネタです。
でも、2度目3度目の倭の使いを、王の交代とリンクして説明付けられるうえに、
冢を築く期間や壹與が立つまでの混乱の期間などを、結構うまく説明できているのではないでしょうか♪
65 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 20:57:22
>>63 この「五月丙午」というのは吉祥句ではないんですか?盛夏であり、丙午は陰陽五行では十干の丙は陽の
火、十二支の午は陽の火で、鍛冶には最適の日というような意味。まあ、この銘文を倭人が書いたのなら、
3世紀頃から干支を知っていた人がいるという証ということになるのかなあ?
66 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 21:10:36
干支を含めた意味については研究の対象外なのでなんとも
わからんがね?
紀には五月六月の記事が著しく少ないのは
>>63のとおり忌み月だから
だ。倭人伝に景初二年六月に倭の女王が大陸に働きかけた記事が
載ってるが、朝廷が付き合いのために五月六月に外国に働きかけ
なんぞするはずがない。だからここの倭の女王っていうのは畿内
朝廷の女王ではないことが、ここの記事から確認できる。つまり彼女
は九州の女王だと言うことがこれで分かるのだ。
67 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 21:18:22
>>66 うーん、六月というのは海を渡るのに適した時期ったことでないですか?安全のためというか目的遂行のため
に忌み月とかいってられないんでないですかね?
68 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 21:34:11
>>61 >景初四年銘
景初四年なら「五月丙午之日・・・・」は、本物
正始元年では歳首が違うため使えない。
でも「吉祥狗」と考えればどうでも良い事らしい。
五月六月は、田が忙しい。
3倍年には、関係無いか。
69 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 21:51:39
>>67 いいかい、卑弥呼の時代は崇神の代だということをしっかり知るべき
なのだ。盲増年の唐松山の年物に騙されてはいけない。5月6月は
航行には適しているが、朝廷は迷信深くいくら気候的によくても
それらの月には航行はタブーなんだよ。
これ ↓ を見てみな。崇神の代には5月6月の記事がない。
【崇神紀の月数有無表】(空白はその月の記事無し)
1月 有
2月 有
3月 有
4月 有
5月
6月
7月 有
8月 有
9月 有
10月 有
11月 有
12月 有
70 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 22:03:49
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
明くる春 弥生に帰る 田道間守 時至9ヶ月24日後
6月は渡海に良い季節。
71 :
サガミハラハラ:2009/10/20(火) 22:17:04
>>58三角ブチの製造された時代は九州には邪馬台国も九州王朝もなくなっていました。
>>61景初4年の五月に丙午があったかということですか。わたくし、年代については強いのですが、暦となると
からきしダメです。わかりません。降参です。だれか教えてください。しかし、4年は正式には存在しない年ですね。
しかし、唐松山さんのはすごく参考になります。
当時の倭国大和では景初4年は存在したと考えていたことになりますね。
とすると、三国史記の年代が1年ずれていることと関係あるということになりますでしょか?
唐松山さんありがとうございます。なんだか古代の謎がまた一つとけそうです。
72 :
縦目仮面:2009/10/20(火) 22:24:42
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 22:44:00
>>68 田だと〜? オマエ朝廷は農民ではないぞ。連中はタタリが怖いん
だよ。
74 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 22:52:29
正始元年4月庚辰朔27日丙午
景初暦なら、この月が5月に成る。
75 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 22:55:18
「邪馬台国」って実は日本じゃなく朝鮮半島か済州島にあったんじゃない
76 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/20(火) 23:02:04
77 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 23:05:10
>>68 いいか〜オマエいつもとっ違えているようだから今一度言うが、
景初2年6月のときには朝廷は農事に手なんか出してないんだよ。
だからオマエが 田が忙しい なんて当時朝廷は眼中にないの。それ
は全然無いわけではないが、農事よりタタリが朝廷は怖がって
いたのだ。これ ↓ を見てみろ。
崇神六十二年7月2日 初めて農事を勧む(日本書紀)
これを見ても6月の終わった後の7月に農事がどうのと朝廷は考えて
たということだ。しかも崇神62年は崇神2年(景初2年)より
後だ。これを見ても朝廷は崇神2年に田がどうのなんぞ優先なんか
してはいないんだよ。重視するのはかようにもっと後年なのさ。
オマエもっともっと紀をよく読め。
78 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/20(火) 23:23:48
>>68 唐松山
田が忙しいなら、なぜ崇神62年の〜7月2日ではなく、5月2日
とか6月2日になぜ朝廷は農事を始めて勧めなかったのかね?
紀には7月2日って書いてあるぞ。
田が忙しいんだろ。なぜか答えてみろ。
79 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/20(火) 23:46:37
5月(新暦)は西風が弱い季節である。渡海には絶好の時期である。九州北部から半島へもその逆の
航路も最も安全だろう。卑弥呼を王に戴く倭国首脳部は大陸と半島の情勢を判断して魏に最初の使節
を送っている。しかし、景初二年六月はまだ公孫氏が司馬懿と戦っている時期であり、使者が帯方郡
に行って洛陽の皇帝に朝獻を願い出るというのは危険を伴うものであったろう。実際にそうであった
のか、あるいは、景初二年は三年の誤りなのか。見解の分かれるところであろう。前者であれば倭国
首脳部は戦いの帰趨を読めたかなりしたたかな連中だったと思われる。
>>52 サガミハラハラさん
>後漢書の桓・霊の間とは、桓帝と零鄭の治世の時にと解釈します。
桓、靈「時」 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
サガミさんが言ってるのはこれ。
>つまり倭国大乱は桓帝の即位146年から崩御の167年までのうちのどこからか始まり
>(私は156年か157年であるとみています。) 霊帝の崩御年の189年までの間におわったとみれます。
33年間?そんなに長くはないのではないでしょうか。
たとえば、この列島での大乱といえば弥生時代、戦国時代が真っ先にでてきますが、
戦国時代といえば「応仁の乱」、この争いでも約10年間です。
貴方の言う、156年〜189年(33年間)ではなく、10年未満でしょう。
>後漢書がはっきりと167年と記載していることになりますとは、何をですか。
>もうすこし詳しくお願いいたします。
後漢書といえば范曄さんですね、
弁辰の「靈帝末」、烏桓の「靈帝初」、鮮卑の「桓帝時」、高句驪の「王莽初」
というのあり、細かく時期を特定しています。
なんで倭伝だけ長い期間なの?156年〜189年(33年間)はありえない。
そして、高句驪には、
「質桓之閨@復犯遼東西安平 殺帶方令 掠得樂浪太守妻子」
というのがあり、これは146~147年とされている。
よって、後漢書倭伝の記事も167年頃ではなかろうか?
81 :
サガミハラハラ:2009/10/21(水) 00:07:22
高句麗は関係ないと思います。
特にながかったので歴年とつけたのではないでしょうか。
82 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 00:07:22
>>52 サガミハラハラさん
>倭国大乱の終了は189年ピッタリであるとはかぎりません。
当時の経済力、戦力、国力を考えると短いと思う。
「大東亜戦争(太平洋戦争)」の真珠湾攻撃が昭和16年ですよね、戦争終結が昭和20年です。
4年間戦争が起きただけですが、その被害・死者は物凄い!
倭国乱れは1~10年ぐらい続いたのではなかろうか(疲れ切ってしまう)。
>そこで梁書の光和中がでてくるわけです。
「桓・靈閨vと「光和中」は明らかに違うということが理解出来ましたか?
>光和の年号の間、倭国は乱れ、互いに攻伐することが続いた。そこで一女子(卑弥呼)を共立して王とした。つまり卑弥呼を
>王としたのは光和年中であるという。光和年は178年から184年であるから、卑弥呼の即位は178年から189年のあいだであったというわけである。
>更にこれをせばめていって即位年をみつけだしていく。この時代の年号で倭にかんするものをさがしてみる。
>それはにほんにあった。東大寺山古墳出土の剣に、光和年号に近い年号がきざまれていたのである。
>それが中平年である。中平年は184年から189年までとなります。
>光和と中平と重なるのは184年である。この剣は卑弥呼が中国に初めて即位の報告と挨拶に行った年を下に製作したものであると考えられます。
>よって卑弥呼の即位は貢献に行った年の前年183年であると結論づけました。
>梁書をとりあげることは後漢書とは矛盾しません。
中平鉄刀に関しては、卑弥呼へ送った可能性もあると思いますよ。
83 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 00:09:31
>>81 「歴年」というのは毎年、毎年 ということですよ。
もっと、日本人に分かり易くした説明する為に、「数年」という言葉を使わせて貰いましたが....。
84 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 00:21:10
弁辰の「靈帝末」、
烏桓の「靈帝初」、
鮮卑の「桓帝時」、
高句驪の「王莽初」 そして、「質桓之閨v(146~147年)
これ、全て、後漢書で范曄さんが書いてるんですよ。
なんで後漢書倭伝の「桓・靈閨@倭國大亂」のみ
桓帝の146~167年 、霊帝の167~189年、計43年間なんでしょうか?おかしい・・・
85 :
サガミハラハラ:2009/10/21(水) 00:26:38
なるほど、歴史は毎年毎年の積み重ねですね。しかし、やっぱり数年では短すぎるのでは?
中国がわざわざ日本に送るということはないでしょう。
使いが行ったときに持たせるものでしょう。
光和中にが倭国大乱の期間をあらわすのか、卑弥呼の即位年をあらわすのかということですね。
去年、長らく闘病生活を続けていた、近所のおじさんがなくなった。
という場合、去年はおじさんの亡くなった年を普通あらわします。
霊としてピンとこないと思いますが、そのようなものであると思います。
86 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 00:37:21
>>85 >やっぱり数年では短すぎるのでは?
<後漢書>
桓靈閨@倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立為王
西暦167年頃、倭国大いに乱れ、毎年”主”が居ない期間が続く。
卑彌呼を立て〜の文ですが、先程も言ったとおり、
「歴年」を無理やり何年か?を計算すると1〜10年ではなかろうか。
よって、「数年」と読める。
87 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 00:57:35
>>85 >>52のサガミさんがいう
後漢書、桓・霊閧ニは146年から189年
梁書、光和中とは178年から184年
東大寺山古墳出土の中平鉄刀は184年から189年
倭国乱は146年から184年、卑弥呼の即位は183年というのは、おかしいのではなかろうか?
>84でも書いたが、鮮卑の「桓帝時」、 とありそれなら「桓・霊閨vではなく
「桓・霊時」となるはずである。
私が思うのに、倭国乱は167年頃、卑弥呼の即位は178年頃ではなかろうか?
88 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 01:02:56
>>80 >なんで倭伝だけ長い期間なの?156年〜189年(33年間)はありえない。
范曄は、倭人伝にそう書いてあると解釈したからですよ。其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国
乱、相攻伐歴年。これを、其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱。相攻伐歴年と切って読む。
すると、住七八十年は倭国乱が続いた期間と読めるわけです。七八十年乱が続いたのならば、桓霊
の時代は当然、その期間に含まれるということになります。
後漢書を読み返してみれば、范曄がそう読んでいることは理解できると思いますよ。
89 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/21(水) 01:07:49
>>85 >中国がわざわざ日本に送るということはないでしょう。
>使いが行ったときに持たせるものでしょう。
もし、中平鉄刀が本物で卑弥呼に送ったモノである、ならば、
接触した(後漢王朝と倭が)可能性もあるのかもしれないですね。
まあ、想像にすぎませんが・・・
>光和中にが倭国大乱の期間をあらわすのか、卑弥呼の即位年をあらわすのかということですね。
梁書には、「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼為王」とあり、
倭国乱は178年から184年と明記されてると思います。
しかし、後漢書は違う年を明記してると主張してるんですよ。
>去年、長らく闘病生活を続けていた、近所のおじさんがなくなった。
>という場合、去年はおじさんの亡くなった年を普通あらわします。
>霊としてピンとこないと思いますが、そのようなものであると思います。
すいません、ピンと来ません・・・。
太平御覧には
「魏志曰、倭国在帯方東南海中。・・・
又曰、倭国本以男子為王。
漢霊帝光和中、倭国乱、相攻伐無定。
乃立一女子為王、名卑弥呼、事鬼道、能惑衆。」
とあるらしく、倭人伝の原文は本来こちらであった
可能性もあるそうだが。
>>88 ん〜すみません、やはり私の議論の相手はサガミさんみたいです。
貴方は、倭人伝をモットよく読んだほうが良いかと・・・
92 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 01:43:19
>>91 あれ、私は倭人伝を読んだ覚えはなかったが。話が高級すぎたかな。
93 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 02:38:59
>>89 >中平鉄刀が本物で卑弥呼に送ったモノである、ならば、
本気でそんなことを考えている学者は一人もいないよ。
刀身だけが舶載といまだに主張している者(環頭が国産であることは定説である)も
環頭が国産であることに触れたがらないが、それは全部が国産であると確信しているから。
>>32は書き漏らしているが、東大寺古墳では多数の刀剣が出土しているが、あの
中平年刀以外はすべて国産であることも定説。
94 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 17:33:20
>>78 太国さんへ
>紀には7月2日って書いてあるぞ。
この数字と3倍年の関係を教えて下さい。
95 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 17:45:18
>>88 >七八十年乱が続いたのならば、
私とほぼ同じ読み方です。
この間 常に相攻伐があるわけでは無い、時々戦い決着が付かないまま時が過ぎる。
96 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 18:39:02
以前河童さんや九州王朝さんが言ってた
後漢書に出てくる卑弥呼と、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼は別人と言う説は
どうなんでしょうか?
卑弥呼の年齢 を考えると、あながち間違いとも思えないし。
97 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/21(水) 18:58:43
私は弥生時代には食糧生産における稲作の比重が増して行くにつれて、灌漑における水争いや、不作の
年の食料の奪い合いなど、争いの種が増えて行ったと思う。それらの争いを治めるのが国の指導者の役
目の一つであったであろうが、時には餓死者のでるような不作もあって、国として他国からの略奪とい
う戦争行為が発生したと思われる。各地に見られる環濠集落や高地性集落は防衛を目的としたものと考
えられるが、これらの遺跡の多くはごく短期(数年)だけ機能したもののようには見えない。数十年に
亘って戦争が継続することは考え難いから、断続的に戦争が起きたのであろう。倭国大乱と大乱という
言葉を使っているが、大陸における後漢末からの戦乱は晋の時代まで断続的に続いていたわけであるか
ら、僅か数年の倭国内の戦乱を大乱と表現するであろうか?数十年断続的に戦乱状態にあったのではな
いか。
98 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:08:51
>>97 大乱の大は、程度を表すので
規模ではなく、勢いともとれます。
乱に於いて優勢に攻めてる場合、攻め側からの視点で見れば大いに盛り上がる戦であるから「大乱」と書かれても
何ら不思議ではありません。
99 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:23:11
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
>>88 俺は「住七八十年」は間違いで
>>90が正しいのでは?と思う。
倭国大乱の記述がある「三国志」、「後漢書」、「梁書」、「北史」のなかで、
「住七八十年」が出てくるのは「三国志」だけのようだ。
「三国志」のこの部分は、写本の過程で改ざんされたのでは?
101 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:05:24
>>97 ■環濠集落
今のところ、弥生時代でもっとも古い環濠集落は、北部九州の玄界灘沿岸部に位置する福岡県粕屋町の江辻遺跡で弥生時代早期のものが見つかっている。
近畿では早期の環濠集落はないが、前期前半では神戸市大開遺跡がある。長径70メートル、短径40メートルで、環濠内からは竪穴住居と貯蔵穴が検出されている。
環濠の断面はV字形と逆台形で、溝の幅2メートル、深さ1.5メートルあったと推定されている。出土した石器のうち打製石器が大きな割合を占めている。
愛知県の朝日遺跡は、弥生時代中期の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。
集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で土塁を築き、その上に柵をめぐらし、その外側に三重の柵をめぐらし、この三重の柵に逆茂木を外側に向けて打ち込んでいる。 発掘調査によって、土塁の上にはピット(柱穴)が検出されることがあり、柵列があったと思われる。
弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、濃尾平野以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したと見られる。
そのころ、福岡市の板付遺跡と大阪府高槻市の安満(あま)遺跡、京都府中郡峰山町扇谷遺跡などに環濠集落が現れる。
板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。
扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。
これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。
また、北部九州や近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。
後期では…(以下略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
102 :
メ:2009/10/21(水) 20:09:13
167年から数年後、倭迹迹日百襲姫命
178年~184年(光和中)豊鍬入姫命、13才
240年-249年(正始中)豊鍬入姫命(77-83才)死す かな?
103 :
メ:2009/10/21(水) 20:12:12
あっ、私は、豊鍬入姫命さんが朝献した卑弥呼さんと思ってるので
こうゆう考えになるが、他の人はどうだろうか?
トヨタン・・・・・・・・・・ でつ
105 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:30:24
って、トヨタンの方だったか。
108 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:50:20
豊鍬入姫命を壹與(臺與)とする説もあるが、紀では崇神の娘となっているから4世紀の人物だ。もちろん
卑弥呼ではない。
109 :
サガミハラハラ:2009/10/21(水) 20:54:28
ちょっと前、わたしが九州国博でシンポジウムがあると、嘘を欠いたと非難した屋からがおったが、
今日送られてきた季刊邪馬台国に九州国立博物館4周年記念特別展古代九州の国宝ー邪馬台国もここからはじまったー
関連イベントシンポジウム「邪馬台国はここにあった」のパンフレットがはいっていた。
おい、シンポジウムがあるのは確実だ、出演者として、井上修一のなまえもある。
これでおわかりになりましたかな。
大体このような紹介で嘘を書くなどということはありえないだろう。しっかりしろ。
それにみつからないなら、HP をさがしてみましたが、みあたりません。どちらにのっているのでしょうか?
ときくものだ。
110 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:56:48
>>108 >紀では崇神の娘となっているから4世紀の人物だ。
ここの推論の過程がいまいち分かりにくい。
もう少し言葉を足して説明してほしい。
111 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 21:13:36
豊鍬入姫命の誕生は、開化末年頃、開化崩御をもって
母親と共に崇神の籍に入る、この時崇神5才。
ホムツワケは、崇神の子供で同様に垂仁の籍に入る。
考昭は、安寧の子供で、兄懿徳の籍に入る。
>>106 >倭人伝に書いてあるじゃん
いいかげんだな
113 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 21:23:48
サガミは一発で撃沈か・・・・・・
>>112 ホント、メさんはいいかげん
倭人伝で「13才」と書いてあるのはとよたんの方。
卑弥呼さまの年齢に関しては、何歳とゆう具体的な数字は書いてないです。
もちろん豊鍬入姫命さんて名前なんか、倭人伝に全く書いてない
115 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 21:36:49
記紀の人物を実在として、倭人伝の人物に比定するのは実に難しい。どれほど推量を重ねたとしても、
確かな根拠は出てこない。まあ、記紀を西暦で読めるようにするとして、唐松山さんと太国さんで地獄
のような争いをしてるわけだし。
116 :
メ:2009/10/21(水) 21:37:24
あ、いいかげんというか、誰と考えてるのか?てやつですよw
あまり過剰に反応しないでほしいw
たとえば、唐松山氏の場合ですと「壹與=五百野皇女」、愛知県民さんなら...
てやつですので〜深く考えないでいいかとw
>>116 そうじゃないってば
13才は倭人伝のとよたんの記述からでしょ
でもメさんは「豊鍬入姫命、13才」て書いてとよたんじゃなく卑弥呼にあてるから全くいいかげんなんだよ
118 :
メ:2009/10/21(水) 21:55:05
豊鍬入姫命さんは、魏志倭人伝のいう壹(臺)與さん。
景初二年記事の親魏倭王卑彌呼は実は間違い。
親魏倭王壹(臺)與さんが正解だろう。
卑彌呼さんというのは、もともと倭迹迹日百襲姫命さんのことを指す。
記録上、豊鍬入姫命さんは「親魏倭王卑彌呼」とされてしまっている。
という考えです。
119 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 21:59:37
楯目仮面さん、メさんも 崇神時代を書紀の記事から何処に設定するか?ですよ。
太国さんのように
>>69 >>77 これが3倍年が正しいとする人間の主張か?
自分の主張と狂いが無いよう説明出来れば良いが……
120 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 22:01:08
ただ、倭国乱の長さというのはいい話題だと思う。弥生時代は水稲耕作の時代で、水利などを原因と
する争いが延々続いていたのは確かだと思うよ。ただ倭人伝に書かれてるのは、それとはまた別の
倭国の盟主争いのようなものではないかという気がする。畿内説の俺としては、瀬戸内、四国、山陰
丹波等広範囲を巻き込んだ争いで、けっこう長く続いたんじゃないかと考えてる。
121 :
メ:2009/10/21(水) 22:08:18
三国志演義をチラッとだけ読みましたが、「国が乱れる」とか、「大乱」という言葉の場合、
かなり大規模な戦争を意味するようです。
縦目さんが、どれだけ長く続いたと考えてるのか知りませんが、
日本の戦いの歴史をみるかぎりでは、何十年というのは考えずらいのではなかろうか。
数年と思います。
122 :
メ:2009/10/21(水) 22:16:48
あ、もしかして倭人伝の「七八十年」を倭国乱にあてるという考えですか?
しかし、倭人伝には、読んで分かるとおり、そんなことは書いてませんよね?
123 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:17:55
>>100 後漢書と梁書は表現がまったくちがうが、それぞれ特定の時期を明確に示す言葉
を使っている。それに対し、倭人伝は解釈にまようような表現だ。
となれば、倭人伝が先にあり、何とかそれを明確化しようとして後漢書、梁書が
それぞれの解釈を示したとみるべきだろう。
倭人伝をきっちりと読むことで解決する問題だと思うよ。
124 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 22:26:36
日本の戦いの歴史って・・・日本の戦国時代は、1493年の明応の政変からと考えても、80年も続いて
いる。時代はずれるが、中国の戦国時代で180年くらい。まあ、こんなに長いとは思わないけど、群雄
割拠であれば、戦乱は長く続くと思いますけどね。で、各クニが疲弊したために、卑弥呼の共立は一種
の妥協策と見ることもできるかもしれない。
125 :
メ:2009/10/21(水) 22:35:37
>>119 唐松山さん
古事記の崇神天皇の没年「戊寅」を明治政府は318年、太国氏は258年、
わたしは、198年と考えたいんですが、
>>102レスは、記紀の内容からみて少し無理なんでしょうか?
>>124 では、質問ですが、「倭国乱」は何十年続いたと考えてるのでしょうか?
>>123 >倭人伝は解釈にまようような表現だ。
迷ってるのは
>>123だろう? 誰も迷ってなんかいないのに
自分の迷いを総論としないように
127 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 22:40:18
>水利などを原因とする争いが延々続いていたのは確かだと思うよ。
当時の大川に堤防はない、よって大川の水は制御不能の時代。
水利の争いでは無く土地争いか、種貸しから離れて独自に農業を始める。
128 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 22:43:43
>>125 うーん10年以上はおそらく・・・。いずれ船はあっても、馬も車輪もない時代で、移動だけでもかなり
時間がかかると思うんですけどね。
>>121 >日本の戦いの歴史をみるかぎりでは、何十年というのは考えずらいのではなかろうか。
数年と思います。
徳川 VS 島津 徳川 VS 毛利 の戦は、関ヶ原以来270年の長きに渡り続いていたけど
受験戦争、経済戦争などは
まだ終戦を迎えていない。
131 :
メ:2009/10/21(水) 22:49:44
アッハハ 「倭国乱は数年」発言をして、皆から突っ込まれてるけど〜
数年じゃなかったら何十年なんだい?て思う。
どの史書も、後漢の後期〜末に「あった」と記録されてるのに・・・
もし、270年続いたのなら、卑弥呼の共立は450年ごろでつか?ww
132 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 22:50:58
>>127 弥生の水田跡を見ると、土地の高低差をなくすというか、水田の水位を同じくらいに保つのに苦労して
たようで、まあ、耕作適地争いかもしれません。
133 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/21(水) 22:52:21
>数年と思います。
新羅193年の記事で、離農者が大量にでる。
この離散農民が、九州に流れ込んだら、また半島からも流入者がある。
離散農民に使える土地は無い、でも生きねばならない、最も簡単なのが
集団で朝貢の米を襲う、軍隊が来れば、山に隠れる。
軍隊は、この盗賊団を押さえても、盗賊団は、次から次えと生まれる。
イタチごっこの結末は、軍隊の疲弊。
>>131 倭国乱はいまだに止むことを知らずに続いている。
乱れる時期もあればおさまる時期もあり、そしてまた再燃しそしてまた落着きを取り戻す
135 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 22:57:32
>>131 でも、一対一ではなく多対多(後のゆるやかな連合国)の戦いと考えれば、合従連衡のように、かつ離
れかつ結びてという具合に、時間はかかるんじゃないかな。まあ、わかりませんけどね。
136 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 23:01:25
>>126 迷ってない? あなたが正しく読めていれば、結構な話だが・・・
怪しいな。どう読んでいる?
137 :
メ:2009/10/21(水) 23:02:38
>>134-135 ヒミコ様は「救世主」と思ってますので、
私の考えでは、「乱れ」→「劇的に平らいだ」と思ってます。
それに卑弥呼の共立は倭国大乱が原因ではではなく、相攻伐の末の産物
139 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 23:07:30
>>137 ロマンチストだね。しかし、奇跡を信じていては歴史を読み間違える。
日本の歴史を見れば、戦国時代は例外的に長く戦乱が続いた時期であって、
この例外的な時期を標準に考えるのはどうかと思うが。
141 :
メ:2009/10/21(水) 23:20:11
>109でサガミハラハラ氏が取り乱してるww
君らが怒らしたんじゃねーの??ww
142 :
メ:2009/10/21(水) 23:21:21
まったく〜イジメっ子だな〜www
143 :
楯目仮面:2009/10/21(水) 23:23:56
>>137 「救世主」ですか。ある意味俺も似た考えではありますが。おそらく長期間の争いで、各王は戦いをやめ
たかった、しかし、歴年の経緯からもお互いの下にはつきたくない。そこで、卑弥呼をかつぎだした。
お互い同士の指図は受けたくないが、神の声なら従えるから・・・・まあ、このあたりの根拠はありません
がね。ただ、各王が音を上げるには、数年では足りない気がしますけどね。
>>140 まあ、戦国時代とは群雄の数がちがうだろうし、下克上のようなこともないだろうから単純に比べてる
わけではないですが、まあ多対多の戦いだったろうぐらいの意味ですね。
144 :
縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/22(木) 00:26:40
弥生時代には戦闘状態が頻発していたと思う。多くは楯目仮面の言うような稲作をめぐる争いと不作の
ときの食料争奪だったと思う。その過程で政治的な成長もあったと思われる。集落が国へ成長し、軍事
組織が生まれ、内政、外交の機構もできてゆく。そして指導的な国を盟主とする連合国が形成される。
倭人伝の倭国乱はこの連合国ができて暫く経ってから何らかの原因(半島からの避難民流入への対処、
食料不足への対処など)で生じた争い(分裂と主導権争い)ではなかろうか。
「大乱」「倭國乱」とは、倭人側の説明ではなく、
帯方郡や韓国側から見て、そう言う状況と判断されたことだと思われます。
つまり、半島側から見て外交・通商上の倭国側の代表権がどこにあるのかわからない常態。
乱以前は、北部九州の有力首長が、半島と倭国の交易ルートを押さえ、
対外的な窓口となっていたことでしょう。
この交易上の秩序が弥生後期の何時ごろからか崩壊し、
北部九州以外(例えば出雲とか吉備とか)の勢力と半島側との直接交渉が行われるような事態、
互いに主導権を争い、武力紛争も生じるようなことが有ったのだということでしょう。
また、当然ですが、交易秩序の崩壊の原因には、気候変動に伴う生産性の低下による食料不足や
それを補うための生産手段の拡大を競うことにより生じる近隣紛争のようなものがあるかと思いますが。
146 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 06:55:03
>>145 それは日本の歴史の記紀であって、倭伝からの視点ではありませんよね?
少なくとも食料の争奪は乱の原因にはなりにくいと思う。
倭人社会が身分の上下がはっきりした社会であり、
指導者層は奴隷から搾取すればすれば問題ない。
ここで起こるのは搾取される側の反乱だ。
また、卑弥呼が立っても食糧不足は解決しない。
むしろ、食料ではなく、権威や富の獲得が目的だろう。
148 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 08:20:17
倭国乱の記事だけから乱の原因を推測しても正解はでないだろう。
どことどこが戦ったのか、それを考えてみることが重要だと思うが。
149 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 08:39:07
人によってイメージはそれぞれだが、やつかれは、
応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略===エンペラー
讚、珍、濟、興、武==============キング
では、卑弥呼は(エンペレス?クイーン?)===クイーン
キングはエンペラーではなく、クイーンはエンペレスではない、
よって、キングやクイーンは大和朝廷ではなく、地方の豪族のような気がする。
150 :
サガミハラハラ:2009/10/22(木) 10:30:27
>>7そういう例が多いようですが、卑弥呼については倭人伝の記録(使は墓の築造や葬儀をみている)
から見て、都の北につくったようです。
卑弥呼の墓地にかんしては、威厳をみせるということもあったでしょう。
151 :
サガミハラハラ:2009/10/22(木) 11:03:31
>>27国産であれば、やまとで政策となると思います。
>>39あれこれ解釈したのではないと思います。年代を欠いた初は存在したが、倭人伝は引用せず、後漢書梁書は引用したのだと思います。
>>56人間の深層心理は古代人も現代人もかわりはないと思います。
いつの時代も同じことを考える人はいるものだと思います。
中元についての改めさんの節についてはもう少し考えてみてからお答いたします。
152 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:55:08
>>5>>6>>8 >>5の話は、10年くらい前に「ムー」だかでやってた事あったね。
公孫淵を影で動かしてたのは実は倭だったとか。
魏の政治的な転換期に、必ず倭からの使者が来朝していたて、
実はそれらにも倭が影で糸を引いてたとか。
ついこの間、何処かに載っていたのかが思い出せなくなったが、
倭国の魏に使者を送ったり、魏からの返答などを待ったりするために
帯方に駐留する所があったから公孫氏とは自然と交流はあったのは当たり前と
考えるべきだろうね。
だから
>>8が言うように200年前後が妥当でしょう。
別な話になるが、現在の財務大臣・藤井がある講演で、歴史を語って「卑弥呼は天照大神」などと
言っていたそうだが、アホかと思ったな。
卑弥呼は太陽信仰の下、神となる太陽を崇拝する巫女であり一シャーマンにしかすぎず、
いくら神格化しようにも、太陽神である天照大神には出来ないだろうとw
153 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 14:23:32
王に共立された卑弥呼(女王卑弥呼)が巫女的性格を持っていたとしても、神話化された記紀の世界
では天照大神として描かれても不思議ではないだろ。人をアホ呼ばわりしている君は何様なんだ?
154 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 15:05:26
彼はこの時に、ウリナラ説である「漢字の発祥が朝鮮」を
肯定した話をしているが、アホって言って何が悪い?
第一、記紀には卑弥呼も邪馬台国に関する事は何も記載されていないし、
神格化するのであれば、その人物に実際関わる事柄や出来事が、
そのまま、もしくは誇張・転化して神話としてなるはずだが、それすら無い。
古今東西、人物が神格化される時は必ず上記の様な事は神話化されてストーリーに盛り込まれる。
しかも、そう言った場合は、目立つストーリーを協調的に表に出す。
なるほど。
でも、卑弥呼=アマテラス説は結構多いよ。学者でも安本氏とか。
156 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 17:58:31
>>154 <彼はこの時に、ウリナラ説である「漢字の発祥が朝鮮」を
肯定した話をしているが、アホって言って何が悪い? >
152ではそんなこと書いてないじゃないか。アホと言った理由を154で変更してるだろ。
倭人伝の卑弥呼には男弟がありアマテラスにはスサノオという弟がいる。あるいはアマテラスと争い
事を起こしたスサノオに対しては卑弥呼と争い事を起こした卑弥弓呼をあてる。卑弥呼は鬼道につか
えよく衆を惑わす(祭祀作法や占いなどに長じ人々を動かす力がある)のに対しアマテラスも太陽神
として人々を動かす。両者に共通点はある。卑弥呼を大和王権の祖とするわけにはゆかぬ記紀の編纂
者は神話として卑弥呼をアマテラスに投影したのではないか という考えも全く根拠なしではないだろ。
157 :
愛知県民:2009/10/22(木) 18:55:04
卑弥呼=アマテラスは歴史家以外の人に支持が多い。
和辻哲郎、手塚治虫など。
158 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 19:29:01
縄文人はアホ
縄文人はアホじゃないよ。
正常な判断力を失ってるだけだよ。
160 :
太陽人:2009/10/22(木) 19:40:37
コッケコッコー。新しい朝が来た、希望の朝だ。喜びに胸を開け、大空仰げ。
いや、このスレにはろくなやつがおらん。馬鹿コテ、小物、雑魚ばかりだ。唯一輝きを見せているのは縄文人というコテだけ
のようだな。もちろん卑弥呼は、日の巫女。古代太陽信仰の証しに決まっておる。邪馬台国はむろん、現福岡県福岡市早良。
161 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 20:18:26
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
162 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 22:24:57
縄文人はアホじゃないよ。
畿内説論者が正常な判断力を失ってるだけだよ。
本人、乙。w
164 :
太陽人:2009/10/22(木) 23:36:33
コッケコッコー。新しい朝が来た、希望の朝だ。喜びに胸を開け、大空仰げ。
儂は太陽の申し子、太陽人。まずは、金印。あれは、「漢の倭の奴国王」ではなく、「漢の委奴(イト)国王」と読むべきもの。
伊都国王が当時の倭王であり、それが得た金印だ。出土地の志賀島も伊都国の領地だ。倭の奴国という読み方は絶対に
ありえない。なぜなら、そのように三段階の読み方をすると印の用をなさないからだ。
165 :
天之御名無主:2009/10/22(木) 23:43:43
トヨってさ、やっぱ
卑弥呼の弟の間の子供かな?
166 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:46:25
167 :
日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:53:46
新しい人乙かれ!
>>164 委=倭言われてるけどそこのところはどうなの?
168 :
太陽人:2009/10/23(金) 00:02:29
>>167 漢ー倭ー奴と三段階からなる印は基本的にありえないものだ。古代伊都王国については、宋史・外国伝・日本国の条に
詳しいが、残念ながら読んだことがあるという輩は少ない。
169 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 00:14:17
>>168 >漢ー倭ー奴と三段階からなる印は基本的にありえないものだ。
今までに前例がないということかな?
>古代伊都王国については、宋史・外国伝・日本国の条に
>詳しいが、残念ながら読んだことがあるという輩は少ない。
へえ、太陽人さんって詳しいんですね。
一つ、古代伊都王国についてご教示ください。
170 :
太陽人:2009/10/23(金) 00:23:41
伊都国には歴代の王墓がある。しかし歴代の王が存在することはわかっても名前なんかわかるわけないと思う人が多いよ
うだ。日本でも最古級の吉武高木遺跡についても同様だ。この二つの地域は日向峠で結ばれていて吉武高木遺跡は東側
の日向峠途中にある。ここは福岡市が一望でき、早良平野側にあるので早良王国が存在していたとも考えられていた。
日向峠によって東西にわかれた地域はどちらにも日向という地名が残り、明確であったが関係ははっきりしなかった。また東
の早良平野側に早良王国が存在したが奴国が繁栄する時代になると伊都国か奴国に吸収されたという考え方もあった。
171 :
太陽人:2009/10/23(金) 00:29:54
しかし以下の資料を見る限りそうではなく、伊都国の前身が早良平野側にあり、その後、日向一代ニニギノミコトの天孫降臨
という時に日向、櫛触山がある糸島平野側に移ったと考えることが合理的に思える。
『宋史』外国伝・日本国は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。
1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。ここに、>雍熙(ようき)元(984)年、日本国の僧○然(ちょうねん、大+周)、
その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』『王年代紀』各一巻を献ず。ちょう然は緑を衣る。
自らいう、姓は藤原氏、父は真連たりと。
とある。『職員令』はともかく、『王年代紀』は『日本書紀』とははっきり異なる書物である。
172 :
太陽人:2009/10/23(金) 00:43:10
そこには驚く内容が書かれていた。「およそ二十三世、筑紫の日向宮に都があった」と書かれていたのだ。記紀にでてくる尊
が次々に登場し中にはアマテラスまで書かれている。
>宋史「二十三世」天御中主ー天村雲尊ー天八重雲尊ー天弥聞尊ー天忍勝尊ー贍波尊ー万魂尊ー利々魂尊ー国狭槌尊
角襲魂尊ー汲津丹尊ー面垂見尊ー国常立尊ー天鑑尊ー天万尊ー沫名杵尊ー伊弉諾尊ー素戔烏尊ー19.天照大御尊ー
20正哉吾勝速日天押穂耳ー21.天彦尊ー22.炎尊ー23.彦瀲尊
これは『日本書紀』の記述とは微妙に異なる。19代天照大御尊は天照大神であり、平原王墓の被葬者である。
173 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 00:48:37
>>170 地形で言うと福岡平野がありますね。
その平野全体で一つの国、前原市一帯で一つの国、唐津市一帯で一つの国。
この三つに分けるべきではないでしょうか?
倭人伝をでいうと奴國、伊都國、末盧國が該当すると思う。
福岡平野ですが当時の中心地は須玖岡本遺跡のある春日市域西部、平原王墓のある三雲周辺、
桜井馬場王墓のある佐賀県唐津市でしょうか。
174 :
太陽人:2009/10/23(金) 00:58:54
>>173 帥升の遣使当時は、伊都国の版図は奴国つまり福岡平野を含むものであったと考える。その後おそらく何らかの事情で
分かれたのだと考えている。ただし、後の奴国の地域にも王墓級はある。もちろん中心地は日向峠に向かう地点として考え
るべき。なぜならそこが太陽信仰の聖地であるからだ。奴国は伊都国と分かれた後も兄弟国として仲がよかった。
175 :
太陽人:2009/10/23(金) 01:05:51
天孫降臨に出てくる筑紫の日向とは南九州だという説があった。しかしそこには三代しか無く、「宋史」・外国伝・日本国に出
てくる「二十三世」とはかけ離れたものだ。伊都国女王卑弥呼ではこの天孫降臨の場所は日向峠がある糸島、伊都国と考え
ている。つまりこれは、日向三代以前の高天原論でもある。
二十一代目から天孫降臨に伴う日向三代が書かれているため、これ以前の二十代までが東の早良平野側に存在し、二十一
代目から日向三代として伊都国側に移ったと考えるとわかりやすいだろう。そして伊都国の中心に二十一代目ニニギノミコトの
妃を祀っている細石神社があり、横に三雲南小路遺跡があることは興味深いではないか。
176 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 01:06:27
昔は日本の中心地だった。
その付近の諸国を統治し、卑彌呼の時代は邪馬壹國が都であり
伊都国やそれ以外の諸国をも当時していたとは読めませんか?
177 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 01:09:41
たとえば三雲遺跡というのは弥生中期ですね。
前原市周辺(弥生中期)→一旦宮崎の日向を経て、畿内へ遷都
卑彌呼の時代の都は現在の奈良県という見方は出来ませんか?
178 :
太陽人:2009/10/23(金) 01:10:20
>>176 もちろんその通りだ。2世紀後半に奈良纏向の地に移ったのだ。そして伊都国には一代率を置いた。もう遅いため続きは
いずれ。
179 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 01:12:01
明日、明後日も宜しくお願いします(笑)
180 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 01:48:14
うーん、伊都国東征論か。このスレにあっては新手だな。
太陽人さんか、なかなか詳しいと思う。
182 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 07:24:09
詳しい? 単なる古田教信者じゃないか。
183 :
天之御名無主:2009/10/23(金) 10:45:50
俺も大和の地に邪馬台国が引っ越したものと考えてるよ。
途中、出雲や吉備を征服しながらね。
184 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 11:29:34
>>183 引越したんじゃなく、切り崩し拡大し、都を畿内に移した。
四国から中国に渡り吉備をおだてたぶらかし出雲を攻め、やがて播磨の国に。
播磨で苦戦を強いられたため、四国から紀州に、そして畿内に進行しマンコとチンチンの関係によって畿内を徐々に分取る。
185 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 12:27:09
なんという自演。そして妄想
>吉武高木遺跡
マイナーだな、ガイドブックにも載ってないではないかw
>早良王国
野方遺跡から内行花紋鏡片、獣帯鏡片が出土してる。
ガイドブックではこのページに早良王国についても0触れている。
内容は、上のレスとまったく同じw
187 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/23(金) 19:20:36
桜井茶臼山古墳は石室に水銀朱を200kgも使用してたのですね。これはスゴイ!
九州は後進地方だからベンガラとか言う低級な素材しか使用出来なかったわけですね。
188 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:25:45
189 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/23(金) 19:50:49
桜井茶臼山古墳の石室からコウヤマキの木棺が取り出されたとか、これを年輪年代法で
調べたら3世紀中頃の築造になるでしょう。
水銀朱はやっぱり宇陀産ですかね?
やはり三世紀中頃に、三輪周辺には相当な権力者が
水銀の財を持って存在していたという事でしょう。
191 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:56:27
192 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 20:10:24
>桜井茶臼山古墳の石室からコウヤマキの木棺が取り出されたとか、これを年輪年代法で
>調べたら3世紀中頃の築造になるでしょう。
いや、もっと遡ってほしいw
>水銀朱はやっぱり宇陀産ですかね?
大和鉱山では?
193 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 20:17:44
宇陀産(大和鉱山)でしたね
kappa & monta の悪口言ってる場合じゃないwww
194 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 20:45:24
三角縁神獣鏡は公孫氏のモノ?!遼東か帯方が怪しいような
195 :
海洋人:2009/10/23(金) 20:45:35
海はヨー、海はヨー、でっかい海はヨー、俺を育てた、おやじの海だ。
このスレには、馬鹿コテが多い。名無史は小物か雑魚ばかりだ。唯一才能のきらめきを見せているのは、縄文人とかいう
コテだけのようだな。
邪馬台国はもちろん沖縄、宜野湾の大山から読谷村にかけての一帯だ。倭人伝を素直に読めば南九州だなどとのたまう
輩がいるようだが、なぜ心を解放して赤子のようにならんのだ?南九州では陸行一月は説明できても、水行10日の説明は
難しい。河川航行などというが、九州の川は急峻だ、無理だよ。邪馬台国の名は読谷(ヨミタン)の転訛である。
196 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 20:50:08
沖縄じゃぁ〜陸行一月が説明出来ないのでは?
( ̄□ ̄)!←縄文人
197 :
海洋人:2009/10/23(金) 20:54:16
だいたい九州説は畿内説をさして、倭人伝の読みが恣意的だということが多いが、実際は九州説もその轍を踏んでいる。
>計其道里當在曾稽東冶之東
まずなんといっても、この重要部分の無視が気にいらん。日本国内で会稽・東冶の東の位置に最も近いのは沖縄である。
また、風俗記事に見られる亜熱帯的情景描写もまた、邪馬台国が沖縄であることを指し示している。南九州といっても冬は
それなりに寒い。
>倭地温暖冬夏食生菜・・・冬のさなかに生野菜を食べることが日常的だったとはとても思えない。
道すがら各地の豪族の接待を受けてたんだよ。
199 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 20:59:14
200 :
海洋人:2009/10/23(金) 21:03:38
>>196 なぜだ、九州縦断で一月はかかる。>水行十日陸行一月というのは連続した行程ではない。最初は水行から始まったの
だろうが、宇佐近辺から上陸し、鹿児島まで陸行。そしてまた水行。その合計が、水上10日、陸上30日ということだ。投馬
国は、宇佐に寄らずそのまま水行を続け。20日で宮崎県西都市。都萬神社のあるあたりだ。
読谷・喜名にヤマタイモウと言う地名がある。モウ(毛)とは広場の意であり、邪馬台国の広場は恐らく一部が新興住宅地に
なってしまったあたりだろう。なかなかに豊かな土地だ。おそらく近辺の島嶼部、そして南九州の南海岸一帯も邪馬台国の
一部だと考える。
201 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:04:32
君ら、魏のお偉いさん達の手のひらでいまだに踊らされてるんだよ
当時、魏というのは呉・蜀連動軍と戦争中だ。
ここには政治的な操作が働いてる。
人間というのは頭の良い人と顔の良い人がいる(俺みたいな・・・)
たとえば、太平洋戦争時のアメリカ大統領はルーズベルトだ。
真珠湾攻撃前夜、彼は家族の人だけに明日戦争が起きると言ったらしい。
ようは、知っていたということ。
頭の良い人は”離れた人達”が死のうがどうなろうが自分達さえよければ良いと思ってる。
それと同じで、魏のお偉いさん達は呉を牽制するためにそのようにうその報告をさせたことだって
考えられるということだ。
202 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:06:56
203 :
海洋人:2009/10/23(金) 21:11:43
また、宇座にはヤマトゥなんとか、なんとかヤマトと言う屋号が今でも沢山残っている。邪馬台(読谷)国が他の国に抜きん
出て繁栄していたとすれば、島嶼部を通じて古くからあった先進知識と船によるところが大と考えられる。つまりは貿易立国。
米など他国に貢がせればよいことだ。卓越した造船・操船技術で交易に活躍した海洋民族こそ、邪馬台国の民。まさに日本
のフェニキアだな。戸数7万とかいうのは、もちろん沖縄本島だけではなく、支配下に置いた南九州も含めての数字だと考え
るべきであろう。
204 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:16:11
205 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/23(金) 21:16:42
>>200 侏儒国のあった沖縄の人、コンニチハ。少し南へ行くと裸国・黒歯国があった台湾ですね。
檳榔(びんろう)美味しいですよ。歯が真っ黒になるけどね。
206 :
海洋人:2009/10/23(金) 21:18:35
海はヨー、海はヨー、でっかい海はヨー、俺を育てた、おやじの海だ。
次に私が根拠としてあげるのは祭祀の形態。沖縄には「聞こえの大君」という制度が古来よりあった。これは琉球の信仰に
おける神女の最高位の呼称であり、「最も名高い神女」という意味で、宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけし
の」「てだしろ」という。
この制は、15世紀の尚真王代から始まったとものの本に書かれることもあるが、そうではないこの歴史はもっともっと古い
ものであるのだ。
207 :
海洋人:2009/10/23(金) 21:22:53
海はヨー、海はヨー、でっかい海はヨー、俺を育てた、おやじの海だ。
そもそも、沖縄(琉球)の信仰は女性を神聖視して、霊力(セジ)を持つ女性をノロやユタとした。一般に女性は血族の男性
の霊的な守護神であると概念しており、これをおなり神(妹神)信仰という。この考え方は、現在も残っており、各集落のノロ
職は、もともとその集落の宗家やあるいは有力豪族の血縁の女性(妹や姉や母)に由来すると考えられ、代々世襲とされて
いるほか、民間のシャーマンであるユタも多くが女性とされているのだ。
このように、卑弥呼以来の伝統がシャーマンとして1800年後の現在でも受け継がれている。このような場所がほかにあるの
かと訪ねたい。
208 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:25:50
>>206 あなたはもしかして縦目仮面ですか?とか言い出す奴が今日はこないな・・・w
それにしても、海洋人さんは琉球地方で云われる、民間の巫女・シャーマンを語り出したぞww
209 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:27:48
>>207 縦目さんにきいてみな
口から泡をふき出す〜とか言い出すよwww
210 :
海洋人:2009/10/23(金) 21:34:46
海はヨー、海はヨー、でっかい海はヨー、俺を育てた、おやじの海だ。
倭人伝の宗教祭祀関連の記事は、「ヒメ・ヒコ体制」を表すのだろう。つまり女性の巫女王と、実務を司る男王との共同政治
だ。沖縄ー南九州連合の国内で最高の巫女だった卑弥呼は、よく一般大衆を惑わしただろうが、その神言を利用して、魏
朝貢など現実的な路線を敷いたのが、その男弟とされる人物であろう。もちろん一国一王であるから、倭人伝には書かれて
はいないが、実際は卑弥呼と同等の権力を有していたはず。
これは、高群逸枝が名づけたところの「ヒメ・ヒコ制」というものである。土地が狭く権力争いが起きやすかった琉球の地で、
しかも航海のための「天候の予見にすぐれた巫女」の奪い合いが起こりやすい。すると人々は「巫女」を人目から隠し、かわ
りに「巫女のことばを人々につげる男子が必要となるのである。
211 :
太陽人:2009/10/23(金) 21:40:55
>>210 お前はなんという低脳だ。地政学的に邪馬台国が沖縄であるはずがなかろう。
212 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/23(金) 21:42:35
沖縄ではないよ。
213 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:44:03
奄美大島では?
214 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:44:51
奄大国=邪馬台国
215 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 21:48:58
>>210 ほら、海洋人言い返せ
海洋人さんも勉強したんだろうな、
しかし、昨晩の太陽人さん相手にどこまで言い返せるのやらw
216 :
北国人:2009/10/23(金) 21:51:35
>>215 馬鹿め、世の中がそんなに甘いと思うか。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
邪馬台国は陸奥、岩手だ。
217 :
北国人:2009/10/23(金) 22:08:35
白樺、青空、南風。こぶし咲くあの丘北国の、ああ北国の春。
皆は、混一疆理歴代国都地図について知っているかな。これはもちろん李氏朝鮮時代に、日本の行基図を入れ間違えた
もの、あるいはスペースの関係でああなったものだが、それ以前の古地図においても、中国等大陸の地図は日本列島が
上下逆さまで挿入されることが多い。これは、古来の大陸の地理感がそのようになっていることを示すものなのだ。
つまり、倭人伝の南は「北」に読み変えて行程を辿らなくてはならぬ。
で、投馬国が富山、そこから水行10日陸行1月の位置が邪馬台国、女王の都するところだ。比定地は「八幡平」。日本の
地名で「平」は「日本平」のように「たいら」と呼ばれることが多く、「たい」という言い方は珍しい。
218 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/23(金) 22:11:57
>多い
あんた調べたのか? 逆さでないのと逆さのと、どのくらいの割合
だったのか?
219 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/23(金) 22:16:51
あぁ眠いなぁ〜。2日ばかり規制で書きこめなかったが、
ウインドウズ7発売の関係なのかなぁ?
また明日〜。眠い〜〜zzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・
220 :
北国人:2009/10/23(金) 22:25:22
>>218 もちろん私が調べたわけではない。地理学者の室賀信夫氏が調べた、、その結果、ほとんどの日本地図が逆さの概念で
記されていることがわかった。この逆転した地理観でみれば、ちょうど会稽・東冶のあたりが現在の岩手県にあたる。むろん
気候的には、冬の生野菜生食には合わないが、これは南という先入観を持った中国人が、海南島あるいは越国(現在のベ
トナムか)あたりの風俗記事を挿入してしまったものだろう。実際あの風俗記事は、いくら南九州としても熱帯的にすぎるし、
土地の広さからいっても沖縄はありえないだろう。
221 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 22:27:37
欠史八代から『イリ王朝』、『ワケ王朝』への移行は、王権が変わったというより、
VISTAからセブンに変わったくらいの変化ではないだろうか?
222 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 22:32:39
太国SEVENなど、猫に小判、豚に真珠、鳩にでん六ミックス、犬にうまい棒だ。
秋の深まりとともに、本格的な雑談スレに
>>217 >それ以前の古地図においても、中国等大陸の地図は日本列島が
上下逆さまで挿入されることが多い。これは、古来の大陸の地理感がそのようになっていることを示すものなのだ。
たとえばどんな地図がありますか?
>>217 >つまり、倭人伝の南は「北」に読み変えて行程を辿らなくてはならぬ。
現在の鹿児島が北に描かれて、福岡が南に描かれているのですね?
227 :
北国人:2009/10/24(土) 01:02:45
>>225 室賀氏は有名な古地図コレクターであり、論文に引かれているのは「東南海夷図」「宋拓輿地図」「古今華夷区域総要図」
などだな。
>>226 現代の地図とはまったく違うので、鹿児島、福岡はおろか九州島すら書かれてはいない。ただし、共通した認識として見られ
るのは、北から南へ 「倭奴」ー「日本」ー「毛人」ー「蝦夷」の順。 「倭奴」を伊都国ないし奴国、「蝦夷」を東北・北海道と
すれば明らかに逆転が見られるんだよ。
228 :
北国人:2009/10/24(土) 01:14:55
北国人さんは畿内説ですか?
よかったら貴方の邪馬台国論をお聞かせ下さい。
古代史が好きでいろいろ自説を書いているのだけど相手にされなくて困っています。
何とかならんのか?
231 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 07:55:12
232 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 09:55:01
古代史は資料に乏しいから妄想の領域がありすぎて
学問でもなんでもないよ。むしろオカルトの域に近いw
いくら考えても答えはでないんだから冷静に
関わらないのが賢い。時間の無駄だよ
233 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 10:02:15
言えてる言えてる。
一日も早く、足を洗ったもの勝ち
234 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 10:59:58
百襲姫だから
卑弥呼→ひやこ→ひやく→百
飛躍 し過ぎ
236 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 11:10:51
帥升と書いて「すさ」と読む。
つまり帥升とは、アマテラスの弟王スサノオのことです。
キム・ヨナが圧勝したな。
真央は2位・・・こりゃ邪馬台国どころではなくなってきたな。
238 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 13:49:15
真央と飛鳥大仏が似てる
239 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 16:36:38
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
皇室が祭っていた鏡は、初めは木の国(紀伊)で作られたのか?
八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥(イシコリドメ)命が作ったというが、
書紀の一書では「石凝戸邊(イシコリトベ)」となっている。
「古語拾遺」によると、イシコリドメが最初に作った鏡は出来が悪く、紀伊国の日前(ひのくま)神で、
次に作った鏡は美麗で、これが伊勢大神だという。
神武天皇は東征の時、紀伊国で丹敷戸畔(ニシキトベ)、名草戸畔(ナクサトベ)を殺している。
天照大神を宮中の外で祭った豊鍬入姫命の母は紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘という。
こうしたことを考えると、九州女王国の神夏磯媛が景行天皇に差し出した八咫鏡が余りに立派だったので、
それまで祭られていた紀伊の鏡と差し替えられたのではないか?
と想像される。
241 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 21:33:57
神夏磯媛のお墓はどこですか
三角縁神獣鏡のレプリカどこで手に入るんだろうね。
内行花紋鏡は伊都国歴史博物館で10万で売ってた。
243 :
メ:2009/10/24(土) 22:27:03
内行花紋鏡レプリカ品位関してですが
原田氏が作った時は、10万という高価にも関わらず
かなり売れたらいい。
最近は数個しか売れてないとか・・・
>>241 >神夏磯媛のお墓
豊前石塚山古墳ではないか?と考えています。
245 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/24(土) 22:35:14
>>240 八咫鏡は十種神寶の天御蔭之鏡です。神夏磯媛とか言う人の鏡はヤフー・オークションとかで
落札した物でしょう。たまに本物の古鏡が20万円位で出品されている。だれも買わないけどね。
246 :
メ:2009/10/24(土) 22:41:40
>石塚山古墳
>九州最大・最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳である。
>古墳の立地は低い尾根上で、当時の海岸線にきわめて近い。
>前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部径約60mで二段築造。
>墳頂は径22mが平坦で、そのほぼ中央に長大な縦穴式石室がある。
>また、墳丘には人頭大の葺石が敷き詰められている。
>前方部はくびれ部から細長く伸び、先端でやや広がって撥形を呈す。
>後円部の竪穴式石室は1796(寛政8)年に開口し、当時の庄屋銀助の記録には銅鏡10数面・剣・矛・鏃が出土とある。
>現存する出土品は三角縁神獣鏡7面・素環頭太刀片・銅鏃である。
>これらは現在、国指定重要文化財に指定されている。
被葬者は女性といわれるのは何故でしょうね・・・
247 :
メ:2009/10/24(土) 22:43:13
なるほど、八咫鏡はオークションで落札したモノか・・・
おいおい・・・
248 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 23:25:33
三角縁ってオークションで買うとするといくらくらいするものなのですか?
249 :
メ:2009/10/24(土) 23:38:16
さあ、知りません(笑)
値段にするといくらなんでしょうね...。
何百万かな?!
250 :
メ:2009/10/24(土) 23:46:02
>>248 いつかテレビで重要文化財クラスの品物は一億円
国宝クラスは十億円の価値がある聞いたことがあります。
鏡片ではなく、ちゃんとした三角縁神獣鏡ですと、それぐらいするのでは?
正確には分かりませんが・・・
251 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 00:16:00
>>248 方格規矩鏡なら少し前、ヤフー・オークションに小林行雄氏の裏書き付きで出品されてました。
価格は20万円位で落札者は無しだったと思います。古鏡は気持ち悪いから人気がないようです。
252 :
メ:2009/10/25(日) 00:38:13
>>251 それはレプリカ品でしょう。
伊都国歴史博物館で内行花紋鏡のレプリカ品が販売されています。
これと似たようなモノと思われる。
>>246 >被葬者は女性といわれるのは何故でしょうね
特に理由はありません。
書紀の記事を読むと九州には女酋が多く、戦ったりもしていますから、男性と決めるのも不自然。
254 :
メ:2009/10/25(日) 01:05:26
性別不明てことで被葬者は女性とはいえませんよね?
255 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 01:14:53
>>252 ビックリ!タマゲタ!方格規矩鏡のレプリカ品に小林行雄氏は裏書きするのか?これを詐欺と言います。
256 :
メ:2009/10/25(日) 01:16:48
>>255 ん?たしか、内行花紋鏡のレプリカ品も原田さんのサイン入りじゃなかったかな?
間違えてたらごめん。
257 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 01:27:02
>>256 サインではなくって裏書きです。つまり、保証書または鑑定書のようなものです。
258 :
メ:2009/10/25(日) 01:34:02
>>257 おたくも博物館へ行ったことがあると思うけど、
展示してある方格規矩鏡には「重要文化財」やら「文化財」というのが
書かれてますよね。
そこから価値を推定するしても、上で私が書いたとおり、高額だ。
方格規矩鏡が本物だとしたら、よ程、値打ちのないモノではないだろうか?
259 :
メ:2009/10/25(日) 01:45:48
愛知県民サンはどこへ?
261 :
縦目仮面:2009/10/25(日) 02:03:27
レス進んでますね。俺は諸事情により参加できませんが、みなさんがんばってくださいね。
262 :
メ:2009/10/25(日) 02:09:02
向こう(どんこい)は、うましかさんが集中的に突っ込まれておる(笑)
今日は、もう遅いので寝ますね。
縦目さん、諸事情ってニュートンの話ですかw
恐竜、ハムスター、犬のはなしまで出てるし(笑)
では、落ち・・・zzz
263 :
メ:2009/10/25(日) 02:16:16
それと、神無月巫女さんって多彩な知識があるようだね。
褒めるのはこれぐらいにして〜さてさて、寝よっと〜!zzz・・・
>>245 >八咫鏡は十種神寶の天御蔭之鏡です。
十種神寶の鏡は「沖津鏡・辺津鏡」剣は「八握剣」。
因みに神夏磯媛は「八握剣」も差し出している。
確かに『勘注系図』の六世孫、「建田背命」に
「古記云、此命以天御蔭之鏡・天村雲之刀、為二璽神寶」
とはありますが?
「卑彌呼=天照大神(オオヒルメムチ)」説は、厳密には正しくない。
しかし、八咫鏡を通じてこの両者は結びつくのではないか。
・・・と、私は考えているわけです。
九州北部説の人は神夏磯媛を卑弥呼としたいところでしょうね
267 :
サガミハラハラ:2009/10/25(日) 08:48:01
いえ,そんなことは全然ありませんよ。
第一時代が違うし、神夏磯は天皇んい降服しておりますから倭人伝の記録に全然あいませんです。
もちろん神夏磯媛と卑弥呼は時代が違います。
おそらく神夏磯媛は壹與(臺與)またはその後継者でありましょう。
九州の伝承では、神功皇后に討たれた田油津媛の兄・夏羽は神夏磯媛の後裔とされています。
田油津媛と夏羽は山門県で女王国を再興しようとしたのでしょう。
神夏磯媛は一豪族にすぎない
>>269 それは、景行天皇の立場から見ればそうでしょう。
271 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 10:56:35
卑弥呼とは、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)のことだろう?
邪馬台国とは筑紫君磐井。磐井の乱で毛野君に滅ぼされ、その痕跡が消されたために記録も伝承も
ほとんど残っていないけれど、筑紫と百済に割譲された任那4県との関係や中国山東省にあった「斎」=(いわい)
との関係を見ても、単独で魏に使者を送れるだけの財力や情報力、航海技術、海外拠点を有していたのは
磐井以外に考えられない。
磐井の乱は527年だろ?
ってことは邪馬台国はその時代まであったということになるが?
中国では南北朝時代(中国のね)時代だね。
隋以前もそれ以降も
中国の書物に倭人伝以降に邪馬台国の話は出てきませんけど?
邪馬台国が6世紀まで?あり得ないw
274 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 11:32:03
実は邪馬台国は今もひそかに継承されています。あなたの知らないところで。
メキニメキニヌダラダラー
メキニメキニヌダラダラー
276 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/10/25(日) 13:09:05
>>264 辺津鏡と息津鏡は京都府天橋立にある籠神社に伝世鏡として秘蔵されています。
ちなみに辺津鏡は前漢の内行花文昭明鏡です。息津鏡は後漢の長宜子孫内行花文鏡です。
「海部氏勘注系図」に日月之鏡と書かれている鏡でしょう。なぜか中津鏡がありません。
天御蔭之鏡こそ中津鏡で八咫鏡なのでしょう。
また勘注系図の天村雲太刀と書かれている横に「一名、八握之劔」と書いてあります。
277 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 13:23:24
いずれにせよ邪馬台国は筑紫にあったという説に異論はないようだし、
あとは場所を特定して掘るだけなんだよ。
シュリーマンのような人物が現れるのを待つだけの状態。
文献ばかり読んでいる人に用はありません。
待ってるだけじゃ、何も変わらないよ。
>>271 甕依姫=八女津媛=卑彌呼の可能性も考えておきたい。
九州は遠すぎるんです。
>>276 アメノヒボコの神宝は古事記では「奥津鏡、辺津鏡」があり「中」はありません。
他の神宝も二つで一対になっており、あえて「中津鏡」を想定しなくてもよいのではないか。
「奥」と「中」があって「辺」がなければ不審だが・・・。
>>281 続き
ただ、日本書紀ではアメノヒボコの神宝が「日鏡」一つであることは気になる。
おそらく漢の内行花文鏡でしょう。
朝鮮半島でも超大型鏡が作られた形跡は無いし・・・
283 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:11:09
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
>>245 神無月巫女さん
>八咫鏡は十種神寶の天御蔭之鏡です。
横ですが、八咫鏡というのは天皇家の宝モノ”三種の神器”の一つで伊勢神宮に祀られてる。
かたや、十種神宝は物部氏の宝モノで石上神宮、籠神社、楯原神社に祀られている。
八咫鏡と十種神宝は別物でしょう。
285 :
改め ◆qexCkQtLcY :2009/10/25(日) 20:04:57
ああ、難しい話になってるね・・・おれは入らないほうがいいかな・・・
286 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 20:20:14
>>277 徳川埋蔵金思い出したわ。片腹痛い(笑)
287 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 20:33:02
>>286 邪馬台国が筑紫だと?片腹痛いわ!
磐井は徹底的に叩いて、東国へ追放したにもかかわらず、まだ懲りないと見える。
えいえいえい、お上に逆らう磐井は成敗してしまえ!
>>277 筑紫にあったという伝説もなにもない。それに倭人伝の地理関係の問題もある。
妄想以上、上の段階に行けないのが九州北部説。
289 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 21:37:55
伝説がないのは、磐井をつぶした毛野氏や大友氏が痕跡を消し去ったからです。
しかし、大友氏が百済に割譲した任那4県(上多利(多は口偏に多、利は 口偏に利)・下多利・娑陀・牟婁)
は、いずれも筑紫と関係がうかがえます。
磐井が移り住んだ茨城の岩井は、毛野氏の支配地だったのも偶然ではないと思います。
>>289 完全に消し去ることは無理。
何かしら伝説が残る。隋も高句麗も百済も新羅も邪馬台国のことは何も書いていない
>>289 >磐井が移り住んだ茨城の岩井は、毛野氏の支配地だった
これはどういう意味ですか?
292 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 22:34:23
>>291茨城県坂東市に旧岩井村というのがあって、ここは将門祭で有名なのだけれど、
九州の磐井と関係があるのではないかと考えている。
将門記といえば歌垣、百済の風俗を色濃く受け継いでいる地域でもある。
293 :
メ:2009/10/25(日) 22:51:57
倉田真由美さん結婚だってよ( ̄□ ̄)!orz
おれも早く結婚しないとな...スレと関係ないか(笑)
wwwww
295 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:46:03
>>292 そんなので関係あるとか言い出したら、
和歌山の伊都はどうなるの?
磐井ってのは物部、大伴、蘇我のような姓なのだろうか?
若い頃朝廷に出仕していたようだが、もともとは天皇の子孫なので
姓がないのだろうか?
297 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 08:02:26
磐井=巳百支国なのは常識
巳百支国は亀山周辺の国です。
299 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 09:46:42
巳百支国は伯耆の国だよ
300 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 10:44:03
何とでも言えるってことだね。
301 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:34:11
巳百支(シハクキ、後八倉城)国は、今でいうところの串木野。
斯馬(シマ、州山)国は、桜島周辺ということになる。
地名当てはめごっこか、ついに来るとこまで来たな。
303 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:36:46
>>295平将門は新帝を名乗る。
これは邪馬台国の大王の血筋を受け継いでいたからです。
>>303 ははは、笑える。確かに『人類皆兄弟』ですよねw
305 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:50:07
306 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:27:17
邪馬台国ではミッキーやミニーに会えますか?
伊都国ではどんなアトラクションを体験できます?
>>305 嫌がらせとは少し違うな。
>>303の何の証拠もない裏付けもない、
思いつきだか妄想だかを嘲笑したんじゃないの?
そんなトンデモ話は美濃もん太君が好きだからそっちにいけばいいよwww
308 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:34:44
オマエラ毎日邪馬台国か?他にやることねえのかよ?
毎日毎日東だ西だって、馬鹿の一つ覚えのように。
309 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:39:34
>>309 金印ならベトナムでも日本で見つかったのとほぼ同じものがみつかって、
現地の博物館にあるぞ。
今更喜び勇んでコピペするネタじゃない。
311 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:51:55
ぷっ
312 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 19:37:33
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
どうやら「邪馬台国筑紫説」自体には異論はないようですね。
しかし、邪馬台国がなぜ痕跡すら残さず消えたのか?
その答えを解くには、まだまだ材料不足だということです。
磐井が邪馬台国の直系か?それとも征服民か?それもはっきりしません。
しかし、磐井は、海洋民族と騎馬民族の連合体だったのではないかと私は推測します。
磐井の歴史を解くことが邪馬台国の謎を解くカギになるのではないかと思います。
また、ソースを出せとか嫌がらせを受けるかな?
>>314そう来ると思ったよ。くそやろう。w
ところで、あんたは、邪馬台国はどこだと思っているんだい?
316 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:56:10
邪馬台は畿内か、九州南部のどちらかです。
今の時代に、九州北部説とか、ちゃんちゃらおかしいです。
>>316 今の時代に、ってどういうことなのかな?
ナンカ、いかにも根拠ありそうな、思わせぶりな言い方だが?
>>313 > しかし、邪馬台国がなぜ痕跡すら残さず消えたのか?
答え
そんなものは存在しなかったから
これが一番説得力あるよね(笑)
319 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:32:12
320 :
質問:2009/10/28(水) 11:21:28
321 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 11:45:40
Q1:邪馬台国のイヨ(もしくはトヨ)はどんな人だったと思いますか?
女王かな
Q2:卑弥呼は二人いた
九州と畿内に両方いた
Q3:卑弥呼は役職名か個別の名前か
個別の名前だろ
Q4:トヨもしくはイヨはその後どうなったと思いますか?
死んだんでないかな
Q5:一番初めの天皇の決め方?
日本書記の編纂者が決めたと思う
Q6:畿内説が圧倒しており ほぼ決まりのような情勢なのでしょうか?
考古学では決まりだが、それ以外では九州
Q7:古墳から盗掘された宝飾品などは、現在どうなっているのですか???
骨董品で売られてる
美濃もん太君はどう思う?
323 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 21:24:14
Q1:邪馬台国のイヨ(もしくはトヨ)はどんな人だったと思いますか?
霊能力者や預言者というより、気圧の変化や風の動きに敏感で天気を言い当てたり、
記憶力が抜きんでて優れていたりとか、当時の迷信的な宗教感に合致する能力を持った子供
を選んで神の使い卑弥呼としたのだろう。
Q2:卑弥呼は二人いた
複数いました。村ごとにいたというべきかな。
Q3:卑弥呼は役職名か個別の名前か
職名であり固有名詞でもあった。
Q4:トヨもしくはイヨはその後どうなったと思いますか?
トヨもイヨも卑弥呼の一人。神の使いに名前ができたのは少し後の時代かと思われます。
Q5:一番初めの天皇の決め方?
神武は天皇と呼ばれたわけではない。一番初めの天皇は天智天皇ではないだろうか?
Q6:畿内説が圧倒しており ほぼ決まりのような情勢なのでしょうか?
畿内論者は、日本の歴史研究を百年遅らせた罪と償う時が来るだろう。
Q7:古墳から盗掘された宝飾品などは、現在どうなっているのですか???
捨てられていると思う。保存状態の良くない鏡は錆びて朽ち果てているし、勾玉の類も大事にされていないだろう。
>複数いました。村ごとにいた
巫女様ていうことね。
>職名であり固有名詞でもあった。
なるほど
>トヨもイヨも卑弥呼の一人。神の使いに名前ができたのは少し後の時代かと思われます。
トヨ(イヨ)様から名前ができたということ?
>神武は天皇と呼ばれたわけではない。一番初めの天皇は天智天皇ではないだろうか?
これは反対、大王=天皇ですから、現在の今上天皇も古代風でいえば今上大王でいいと思う。
つまり初めの天皇とは神武でいいと思う。
>畿内論者は、日本の歴史研究を百年遅らせた罪と償う時が来るだろう。
なるほどw
>捨てられていると思う。保存状態の良くない鏡は錆びて朽ち果てているし、勾玉の類も大事にされていないだろう。
盗まれた鏡は多い。
しかしどっかに残ってるかも
325 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 21:40:17
漢志
古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里
中国の1番古いモノサシは「15.78cm」とか「15.8cm」とかなので、
尺=歩はあり得ないということが分かる。
尺=歩と考えてる人は、魏の約4〜6cm(24cm÷5,6)のモノサシを提示してほしい。
だから、ひみこ様の墓の大きさを考えても24メートル相当ではありえない。
※全サーバー規制らしいので規制解除してからでも返答下さい。
326 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 23:27:12
>>325 海を意識しない大陸内では当然「六尺為歩」
327 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 23:30:45
大海之中に位置する倭人伝を「尺=歩」で記載する
これも常識。
328 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 13:34:14
>327
なして?
329 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 13:44:32
330 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 14:17:57
なんで土地じゃないと 「尺=歩」になるの?
そこが知りたい。
個人の妄想ではなくて、しかるべき史料で説いて欲しい。
331 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 14:20:21
海なんて尺も歩も使えないよ。
所要航海日数から里を割り出す他はないよ。
332 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 14:29:07
何事も人の理解に頼るのは邪道。
そんなもの首を縦に振ってくれる筈がない。無駄。
当時の公式基準を持ち出すより他はなし。
333 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 15:01:30
邪馬台国が近畿にあったとしたら,近畿のクニが北九州を支配し,治め
ていたことになる。馬もいなかった時代にそんなことができたのか?
334 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 15:04:40
>>330 他に換算値がないからだよ。
六尺為歩は文献にも記されているように、陸限定の特殊換算値
だから海と言う環境には使う事が出来ない。
そもそも
海で歩は有り得ないから。存在するのは里と時間。
335 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 15:21:32
卑弥呼の墓は内陸だよなー。どう考えても。
となると、陸限定の換算値だな。
336 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 15:24:46
航海日数さえわかれば、六尺為歩で換算可能です。
だいたいにして、どうして、「尺=歩」で換算するんだ?
根拠は? 聞いた事ないんだけど。
337 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 15:59:24
>>336 可能なわけないだろ。
方や土地の面積が元になる単位。
方や海の距離だよ。
根本的に次元の違う話しなわけで
338 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:00:27
339 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:05:03
河童さん、妄想語っても無駄だと思いますが……
あなたのいう言葉で史料によって確かめられるのは「六尺為歩」だけでした。
340 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:08:42
>大海之中
それは倭国全体を表現。
倭国の中の墓は陸にある。
試しに百人に聞いてみなよ。
もう少し国語力をつけよう。
あと、詭弁は見苦しい。
341 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:19:08
>>340 百人に聞こうが万人に聞こうが
大海之中。
342 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:29:50
墓は陸にしか造らない。
海の中には造らない。
残念でした。
あんたのいう話を応用すると、ユーラシア大陸だって海の中なんだよ。
詭弁は見苦しいだろ。
343 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:47:51
>>342 それならそれで良いんじゃない。
無理に思考を変える必要もない。
344 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 16:51:16
345 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 17:02:14
で、何で他に換算値がない場合「尺=歩」で換算するんですか?
根拠が知りたい。いきなり結論を言われてもびっくりするし、意味がわからないなぁー
346 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:00:23
不思議だよなー、どうして「尺=歩」で換算するんだろうね?
347 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:10:01
>>345 それは当時、長さは「六尺為歩」の陸里と
度量衡に記載されている度の単位しかかいからだよ
本来海での里に、歩なんて存在しないんだけど
348 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:20:07
>>346 それは
里は 三百歩為里と言う換算値が設けられているから。
349 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:32:20
今は、
40000q÷360÷60=約1800m
その古代バージョンが、周髀算経か?
350 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:45:06
>度量衡に記載されている度の単位しかかいからだよ
ますます分らないねー。
どうして 度の単位しかないと「尺=歩」で換算しなければならないの?
殆どの人には理解不能かと思いますが……。
351 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 18:47:48
史料から「一尺為歩」を引っ張り出してくればかたのつく事だろう。
それがないからトンデモ扱いされるんだよ。
352 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 19:16:54
横から一言
それぞれが熱い思いを語り合うからこそ邪馬台国論争なのではないのでしょうか。
何事も先ずは妄想から始まるのです。
決まりきった事だけを論じ合っていても味気ないです。
個人的には、様々な可能性や閃きやいろいろな思い入れを論じてくれる九州説に無限の可能性を感じます。
初めて聞く発見も多く大変勉強になります。
逆に一候補地しか持たない畿内説は脆弱で哀れだと思います。
九州説は候補地が多く、強い確率でもって邪馬台国の可能性に満ちています。
畿内説を圧倒しています。
畿内説の根拠は、
・邪馬台が「やまと」と読めること
・三角縁神獣鏡の出土数
だけだからね。
日本書紀を書いた王朝の祖先に「卑弥呼」が存在しないことは確実だし。
354 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 20:03:52
自然科学は去れ!そんなもん嘘だ。デタラメ語るな。
遺跡発掘は止めろ!無駄な投資だ。税金の無駄使いだ。
355 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 20:06:59
追記
今後は箸墓調査を止めさせましょう。当に古代史の弊害となっています。
356 :
325:2009/10/30(金) 20:44:53
1575年「ドイツでは16人の足長を並べて」1ルーテとした。
しかし、これは西洋でのこと
古代中国では、尺は手幅、歩は歩いた幅、ということで尺=歩というのはありえない。
>>352 九州玄海難側かと奈良盆地がとびぬけてるよね。
この二つで決まりかな?
>>353 畿内説の根拠は・・・だけだからね。
という君は、どこを邪馬台国と思ってるの?
357 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 21:05:29
>>351 法に人を殺してはダメ。
と、書いていないのと同じ。
358 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 21:07:36
>>356 尺=歩が有り得なければ、六尺為歩は尚更有り得ない話しですね?
359 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 21:36:16
倭人伝や倭伝は大海之中。だから六尺為歩は使えない。
六尺為歩を使いたければ、倭地を大陸内に求めるべし。
海には海の長さがあります。
>>359 その既定なりは、何かの文献とかにあるの?
361 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 22:22:31
>>360 どんな文献望んでいるの?今でも使われているよ
362 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 22:33:07
>>360 里とは方三百歩という土地の面積単位。
だから当然、海の中の倭人伝には使えない。至極当たり前の理屈だな
河童さんが言おうとしている事、何となく解ります。こうでしょ?
里と浬の違い
364 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 23:18:47
>>356 >古代中国では、尺は手幅
そんな事誰が言ってるの?何処にそんな事書いてあるの?
単なる都市伝説だろう?
365 :
356:2009/10/30(金) 23:46:46
>>364 >>古代中国では、尺は手幅
>そんな事誰が言ってるの?何処にそんな事書いてあるの?
>単なる都市伝説だろう?
このレベルの低い〜質問は○○氏かな?
『説文』尺部咫字注
「中婦人手八寸謂之咫 周尺也」
人に聞く前に、少しは勉強してからレスしては如何だろうか?
>>358 いいえ、違います・・・
で、結局「倭人伝」に書いてある「里」とは何なのさ?
367 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 00:30:50
>>365 無意味なレスご苦労さん
もう少し勉強した方がいいよ
368 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 00:33:02
>>366 単純な、直線的な「長さ(距離)」です。
>>368 結局、現代の知識を基準にして、想像しているだけなの?
370 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 00:49:24
>>365 その八寸は、何時の時代の八寸かね?
いい加減下らないカードゲームは卒業しなよ。
371 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 00:56:54
>>369 俺は古代からのタイムトラベラーじゃないから当然現代の知識さ。
君は古代人かね?
想像ではなく文献をひもといているだけ。面積の一辺を海に用いる事ができないから そう言ってるだけだよ
想像としか表現出来ない知能の低さはなんなんだね?
372 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 04:29:55
>法に人を殺してはダメ。
と、書いていないのと同じ。
本当に書いてないのか?
>そんな事誰が言ってるの?何処にそんな事書いてあるの?
そう聞きたくなるだろう。だから君の方も何処に書いてあるかいえよ。
君のいう事が信じられないんだよ。人に証拠を要求しといて自分は思った事をいうだけ。たちが悪すぎるよ。
この世界、史料を引用出来なければ罵倒が返ってくるだけなんだよ。
「一尺為歩」の記された資料を出せばかたの付く事なのに。「六尺為歩」の方は何度も引用されているのに。
>>371 そういうのを「脳内理論」と言うんでは?
文献ソースを提示できるのかな?
>>367 >無意味なレスご苦労さん もう少し勉強した方がいいよ
具体的には?単なる負け惜しみレス?
>>369 >結局、現代の知識を基準にして、想像しているだけなの?
これは河童だな・・・
>>370 >その八寸は、何時の時代の八寸かね?
>いい加減下らないカードゲームは卒業しなよ。
なんて返事すればいいの・カードゲームはどうの発言してほしいのかい?
「古代史」だよ、「古代史」で習っただろ。
>>371 同意
一人、知能遅れが一人混ざってるね。
>>372 その通りです、そんな資料ないんだから。
375 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 09:03:11
早く「一尺為歩」と記された史料を出せよ!
妄想発言だけでは前に進まないじゃないか。
376 :
メ:2009/10/31(土) 12:23:12
377 :
メ:2009/10/31(土) 12:50:01
尺は何センチかって?
漢代は、約23.1cm、魏代(三国時代)は、約23.8cm かな?
ちなみに周代も、約23cmだが、一時的に18cm(手尺)が用いられた時期もあったようだが、
文献的に書かれてるということであって、モノ(考古)的には、どこにもそんな証拠は無い。
出土されてるコウショウ笛とか、90粒の小さな粒上のもの(忘れた...本みらんと分からん)とか、
周代の測定器具(これも名前忘れた...でも本見たら分かるよ)とかで調べたら一目瞭然。
以前調べたことなので、詳しくは今答えることはできないんですが、
調べていけばわかること。
尺=約4cmとか、尺=歩というのはトンデモでしょ。
これいう人は、いつもきまって、トンデモしか言わない人で、
本もろくに読んだこと無い人だろう。
それに中国では、「六」、とか「十二」の数字が好まれたらしく、
せいぜい、6寸とかじゃないのかな。
あと、古代中国の黄帝(BC3000年ぐらい)というのがおって、話に聞くと
すでにこの時代から、尺=9寸やら尺=10寸やらの度制があったという伝承があるらしいよ。
詳しくは、本読んで! おれも今すぐに詳しく説明するまで、しきらんわ(笑)
378 :
メ:2009/10/31(土) 12:57:37
今回、規制かかってる人多いみたいだね。
コテさん、最近みないし・・・・。
原因は、「ニュース速報+@2ch掲示板」の岡田大臣がどうの・・・
まあ、ネカフェ行けば、●取得してるとこもあるだろうし、
なんとかして書き込めるだろう。
いや〜それにしても少ないね。
全体的に見ても、全然レスが進んでないし・・・。
379 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 13:14:03
>尺=約4cmとか、尺=歩というのはトンデモでしょ。
これいう人は、いつもきまって、トンデモしか言わない人で、
本もろくに読んだこと無い人だろう。
という事だろうね。
要するに河童の事だろう。
380 :
メ:2009/10/31(土) 13:19:09
>>379 「河童くん」と「もん太くん」は大目にみてやろうよ(バリヤw)。
彼等の師匠は少しぐらいは勉強してるようなんだけど、
所詮、ここの皆さんと比べたら「無知」の部類だろう。
まあ、俺は、大したことは言えませんが、他の人からみたらということで(ここの2ch)。
382 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 16:40:24
河童やもん太のスター性に嫉妬してるレスが
続いてるようだが
そんなに奴らが気になるのか?
384 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 21:26:56
>>383 いえ、全然思っていません。
それより何か語ってくださいな♪
「古代史」「弥生」「縄文」「カメカンボ」「古墳」古代史、邪馬台国なんでもオッケェ
名誉挽回と行こうではないか。
385 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 22:02:42
次回不思議発見で、日食による卑弥呼暗殺だとさw
いまさら日食とか笑えるw
386 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 00:45:32
日食の主語は月か?
ようやく卑弥呼の正体がわかった。
赤壁で敗北して大陸から東の海に逃れた曹操だった。
これはガチ。
388 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 10:30:24
>赤壁で敗北して大陸から東の海に逃れた
証拠は?
参問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千余里。
倭の地を訪ねると、海上の中の島が在り、或いは絶し、或いは連なり、ひと周りおよそ2160キロメートル。
倭全体が九州のみ(九州説)とするのは少し無理があるかと思うなぁ。
曹操が逃げたら、魏王朝が成立するわけないじゃん
天寿をまっとうしたんじゃなかったっけ?
391 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 11:25:14
>>389 「始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里」
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里」
「又渡一海 千餘里至末盧國」
「東南陸行五百里到伊都國」
「東南至奴國百里」
ですから魏志倭人伝では「五千余里」は2160キロメートルではなく
380キロメートルほどでしょう。
392 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 12:03:32
>>391 >ですから魏志倭人伝では「五千余里」は2160キロメートルではなく
>380キロメートルほどでしょう。
マジボケ?
380キロメートルならば「倭地」を参問したのは福岡県のみぐらいということになってしまう。
2160キロメートルで西日本一帯が正解でしょう。
畿内説がぴったりと思います。
393 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 18:16:57
>>392 なんで西日本がぴったしなんだよ?
帯方郡から末廬国まで約4000qもあるんだよ
バッカじゃねえの?
>>393 北部九州〜紀伊半島の西日本一帯ならそれくらいあるんじゃないの?
395 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 18:44:40
>>387 赤壁は確かに魏にとって痛手ではあるが、
逃亡するほどの大敗ではないよ(笑)
396 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 18:45:52
>>394 帯方郡から4000qも離れているのか?
倭国は、周五千里
対馬から壱岐が一千里
ということは、倭国は北部九州程度の地域ということで決定
で、邪馬台国は畿内という事だな。
>>395 華琳様は覇王としての矜持を通したんだよw
なんというか、スルーされるか分かるやつからレスがつくか、どちらかと思ったに・・・
まさかマジレスが三つも付くとは思わんかった。
正直、すまんかった。
400ゲト
401 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 23:08:27
アク禁で人がいないことをいいことに好きかって言ってた人、覚悟はいいかい?
402 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 23:59:45
卑弥呼とは妖術を使い嵐を呼べる諸葛孔明の子孫ではないかい?
403 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 00:13:44
違います
404 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 00:49:18
多分、諸葛孔明(西暦181年〜234年)より卑弥呼の方がちょっと年上だろう。
でも、卑弥呼の方が長生きしている。
何はともあれ、二人の生きた時代は重なっている。
405 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 07:36:03
4000キロといったら、日本列島でいえば、稚内から西表島辺りまでの距離じゃないの?
406 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 12:13:43
>>405 そういう事で、末廬国は稚内か西表で確定しました。これを無視する人はトンデモです。
408 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 21:27:15
>>407 筑紫説を意図的に排除している。
なぜ、こんな捏造説ばかり集めたシンポジウムを国の機関が開くのだろう?
これも岡田外相による情報操作だろうか?
ここ数日のアク禁の間、そのことに気がついた。
歴史とは時の勢力によって作られるものなのだ。
>>408 目ガミエナイノ?
4人中、2人とか、ほとんど邪馬台国=筑紫説 じゃないか!!
筑紫説ビーキだな。
>>409まったく違います。
筑紫平野でも菊池川下流の船山古墳を含む地域円形の地域、ここが邪馬台国です。
日田でも吉野ヶ里でも宇佐でも筑後でもありません。
狗口>菊池>>>筑紫と言葉が変化していったのではないかと思うのです。
では、狗口のもとの住民はどうなったかといえば、大阪に生口として連れていかれました。
そして住んだ村は、尼崎市久々知。福知山の語源となった村です。
412 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 09:01:10
九州(笑)
堂ノ後古墳、須恵器がみつかって結局5世紀後半w
レーダー探査(爆)
414 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 09:15:59
あれ?誤爆してるじゃん。纏向スレに投げたつもりだったのに。
まあ、いいか。どうせ住人同じだろ。
416 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 14:54:09
ww
船山古墳のトンカラリン、これは東海林のこと。
つまり、沿海州から朝鮮半島、九州から本州の日本海側を広く支配していたにあった扶余人が作ったもの。
東海林さんは今も日本で多数暮らしています。
419 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 22:01:51
規制解除してないじゃん
420 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 22:27:21
今、関西のMBSで
唐招提寺1200年記念で道鏡事件やってる
倭国大乱 武埴安彦の乱
女王 斎王
卑弥呼 豊鍬入姫
壹与 倭姫
422 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2009/11/04(水) 02:52:44
女王=日女命。男弟=磯城県主葉江の子孫。
卑弥呼=9世孫・日女命。(海部氏勘注系図)男弟=9世孫・日女命の実妹、葛木高千名姫命の夫の崇神天皇。
男王=武埴安彦命。椿井大塚山古墳の埋葬者。
台与=9世孫・日女命の姪の11世孫・日女命。(海部氏勘注系図)男弟=15世孫・川上日女命こと日葉酢姫の夫の垂仁天皇。
トヨタン・・・・・・・・・・
424 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:48:13
>>397 >倭国は、周五千里
>対馬から壱岐が一千里
>ということは、倭国は北部九州程度の地域ということで決定
当然ですな。
>>422 なぜ、そこに行きついたの?
出来れば詳しく説明してほしい。
>>421 ある程度支持。
その可能性も面白いと思う!
海部氏系図が偽書。信用できない。
428 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:52:09
429 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:14:52
は?残す必要はなかったとでも?
430 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 13:37:23
431 :
ローガン:2009/11/05(木) 23:25:37
過疎ってますね。
アイヌ語で阿蘇は火山。
過疎は火山灰地を表す。
草一本生えない不毛の地。
これが過疎の語源だった。
邇摩って地名があるこれ邪馬になんとなく似てないか?
丹波の宮津にも阿蘇ってあるな。
435 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 17:37:51
あ、そう
母音交換
阿蘇 ASO
宇佐 USA
伊勢 ISE
忍坂 OSI
437 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 19:10:11
口歪んできた
438 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 19:19:40
宇佐はUSAより歴史が古い。
439 :
まし:2009/11/06(金) 19:58:15
>>437 阿蘇氏の子孫である麻生首相の口が曲がったのもそのせい。
441 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 21:55:16
11月10日に邪馬台国について発表があるって本当ですか?
442 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 22:24:36
みなさん想像力旺盛ですね。犯罪捜査でもそうですが、きちんとした物的証拠と状況証拠を提示して、
議論を進めないと信憑性に欠けますしお話しになりませんよ。
それどころか冤罪につながる恐れすらあります。みなさんの意見のほとんどはご自身の想像ばかりじゃありませんか
443 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 22:37:25
足利事件のように、当初採用されたDNA鑑定が実は精度の低いものだとわかり、
歴史が覆ることも多いでしょうね。
2chは政治家も覗いてるし、
ローカルサイトYahoo! JAPAN掲示板とは知名度が違う。
445 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 23:33:06
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
447 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 01:21:26
美濃もんた君、最近みかけないね。
生きてるのかな?
448 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 01:25:51
神夏磯姫、速津姫、八女津媛、甕依姫
この四人の中で「卑弥呼と思う」って人いるのかな?
といっても「速津姫」を知らない人多そうだな。
もん太くんとか知ってる?愛知県民さんは詳しそう。
449 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 01:56:13
450 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/11/07(土) 07:30:57
解除されたね。
でも進行がゆっくりなので向こうで続けたい気もするw
>>447 もん太氏は専スレあるので、そちらで召喚してください♪
451 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 09:12:12
召喚ってw
ま、河童君、もん太は人の話を聞いてないからな
452 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 09:31:52
佐原氏は弥生時代を「日本で食糧生産を基礎とする生活が開始された時代」
と定義し、「弥生時代の土器を弥生土器」とよぼう、という論文をだしている。
これはオカシイのではないか?
弥生時代の開始を八世紀という人がいるが佐原氏が影響してるのか?
453 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 10:54:33
とある男女の会話。
女:「貴方の趣味は?」
男:「歴史です。特に古代史を」
………数日後…………
男は彼女にTELを
「おかけになった電話は、現在使われておりません。」
女は男の前に二度と姿を見せる事はなかった。
454 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 11:04:40
↑体験談です
455 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 11:27:41
11/8(日)九州国立博物館でシンポジウム 「邪馬台国はここにあった」開催
第1部(13時00分〜13時50分)
基調対談「邪馬台国研究の最前線 ―九州と近畿の視点から―」
橋本輝彦氏(桜井市教育委員会文化財課主査)
高島忠平氏(佐賀女子短期大学学長、邪馬台国を考える会顧問)
[進行]河野一隆氏(九州国立博物館企画課文化交流展示室長)
第2部(14時00分〜16時00分)
アマチュア歴史家による主張大会「邪馬台国はここにあった」
[日田〜吉野ヶ里説]井上修一氏(大阪歴史学会会員)
[宇佐説]鷲崎弘朋氏(歴史研究家)
[畿内説]矢野壽一氏(歴史研究家)
[筑後説]福嶋正日子氏(歴史研究家)
[進行]赤司義彦氏(九州国立博物館展示課長)
明日、シンポジウムに行く人とかおるん?
>>452 > 佐原氏は弥生時代を「日本で食糧生産を基礎とする生活が開始された時代」
> と定義し、「弥生時代の土器を弥生土器」とよぼう、という論文をだしている。
> これはオカシイのではないか?
どの辺りが「オカシイ」ですか?
採集主体から耕作型社会への転換を「弥生時代」の開始とするのは、
大雑把ではありますが妥当な定義でしょう。
次の時代区分である古墳時代までの間に登場する種々雑多な土器を
ひっくるめて同じ名前で呼ぶことに違和感が御有りなのですか?
それとも
> 弥生時代の開始を八世紀という人がいるが佐原氏が影響してるのか?
という意味不明な疑問の方に答えがあるのでしょうか?
458 :
452:2009/11/07(土) 13:35:13
>>457 縄文水田でいいのでは?という考えから来ています。
459 :
452:2009/11/07(土) 14:12:40
そもそも「弥生」という時代はなく、
昔の人たちは石器時代→古墳時代やらハニワの時代と呼んでいた。
しかし、明治17年向ケ丘弥生町から縄文土器とは別種の土器が出土され
以後、有坂氏、坪井氏、蒔太氏や人類学者達によって「弥生時代」という言葉が作られた。
向ケ丘弥生土器とは明らかに違う縄文土器が紀元前、八世紀より早かったらどうなるの?てな話。
460 :
452:2009/11/07(土) 14:18:20
うましかさんにとって、弥生時代の定義は何ですか?
弥生の定義は「稲作」と思ってたけど実際「土器」だったということが言いたくて
レスしました。
うましかさんの反論が楽しみ♪ わくわく
>>448 景行紀を読むと、神夏磯媛は「一國之魁帥」
その下に鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折がいて、みな「一處之長」
速津媛も「一處之長」
その下に青、白、打猿、八田、國摩侶がいて、みな「土蜘蛛」
神夏磯媛は別格扱いのようである。
>>326 >海を意識しない大陸内では当然「六尺為歩」
>>327 >大海之中に位置する倭人伝を「尺=歩」で記載する
河童さん? 朝鮮半島ではどちらですか?
大陸と同じとすると、韓伝の「方可四千里」は?
>>357 >法に人を殺してはダメ。
>と、書いていないのと同じ。
刑法第百九十九条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
>>463 >刑法第百九十九条
>人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
量刑が書いてあるだけで、殺してはダメとは書いてないね。
もちろん、常識だから書いていないのではなく、
法は行動規範たる道徳ではないから、だけど。
465 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:44:29
466 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 19:22:50
一日で平均どれだけ歩くだろうか?
一般的な仕事をしている人で
700〜800カロリーぐらい消費するのではなかろうか。
距離は下限9キロメートル、上限は18キロメートルぐらいか?
たとえば、一万歩、歩いたとして6キロメートルぐらい。
しかし、仕事となれば二万歩ぐらい考えないといけない。
その場合は12キロメートル。
9〜18キロメートルの間をとって12〜13キロメートルぐらいかな?
もし一日に12〜13キロメートル歩いたとするとカロリー消費でも800~1000kcalぐらい。
大体、これぐらいの数値が現実的と思う。
そうした場合、畿内説がしっくりくる。
九州説さんから反論あるかな?
468 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 21:20:22
>>467 当時いまみたいな歩道があるわけじゃない。
たとえば今日、12キロ歩いたとする。
次の日は嵐が来て休んだとしよう。
次の日は晴れて、旅を再開するとしよう。
昨日、休んだので本日は、24キロメートルも歩く。
大体、ここらへんが人間の限度だろう。
>>468 >当時いまみたいな歩道があるわけじゃない。
整備されてない道での話だよ
今みたいに道路が整備されてたらもっといくだろう。
471 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 21:42:12
一般に軍隊の歩兵の行軍速度は1日30kmです。
戦国時も旧陸軍でも中国でもだいたい同じ。
魏志倭人伝の遣使が歩いた距離ですが、一日のスケジュールを考えてみよう。
5:00起床 6:00朝飯 7:00までにテントを折り畳み出発
2時間歩き30分休憩 ←9:00着、9:30まで休憩
2時間歩き1時30分間休憩 ←11:30着、13:00まで食事・休憩
2時間歩き30分休憩 ←15:00着、15:30出発
2時間歩きこの日は寝る準備 ←17:30着、18:30テント準備終了
18:30〜19:00晩飯時間、19:00以降は自由時間&就寝 翌朝5:00起床
※荷物を持っても2時間で4.5キロメートルぐらいは歩けるだろう。
8時間で合計18キロメートル、ここらへんが上限。
>一般に軍隊の歩兵の行軍速度は1日30kmです。
>戦国時も旧陸軍でも中国でもだいたい同じ。
あんた歩いてみな。
二日連続で大雨だったらどうするの?
一日に三日分の90キロメートルも歩くの?
現実的に考えて9〜18キロメートルぐらいだろうよ。
474 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:09:53
>>473 大雨ぐらいで行軍は止めんよ。
一日に30キロメートルであり
休んだから一日に90キロメートル歩けるはずなかろ。
>>472 遠足か?
>>474 >30キロメートルであり
マンガか?
オリンピック金メダリスト高橋尚子クラスか?
それはたんなる記録だろう。
>>458-460 > 弥生の定義は「稲作」と思ってたけど実際「土器」だったと
要するに「縄文稲作」の話がしたかったのでしょうか。
今では縄文期に稲作が行われていたことを否定する人はいませんが、
だからと言って弥生時代の定義が変わるわけでもないようです。
古代の時代区分なんて大雑把なものですから、細かい点だけを捉えて決まるものでも
ありません。
最初は土器が指標でも、それ以外にも青銅祭器や埋葬方法、鉄製利器の使用や水稲耕
作なども構成要件でしょう。
私はその中でも「水稲耕作」普及に伴う生産性向上が、弥生時代の性格をもっともよ
く現わしているかとは思います。
米は高栄養で備蓄性にも優れた食材ですので、その普及が交易量の拡大や富の蓄積と
言う社会的変化を生み、
前時代とは区分されるべき、新しい時代を造ったとも言えます。
これは、縄文期の稲作が、後代のものと異なり、社会的剰余の蓄積を生むようなレベ
ルのものでは無かったからでしょう。
> 向ケ丘弥生土器とは明らかに違う縄文土器が紀元前、八世紀より早かったらどう
なるの?てな話。
こちらの話は、私にはあい変わらず意味が通じないのですが・・・
>要するに「縄文稲作」の話がしたかったのでしょうか。
いや、弥生時代です。
>弥生時代の定義が変わるわけでもないようです。
いや、本本の定義は
>>458-460で言ったとおり、彼等が作ったんですが
最近になってその定義も替えようとする人がいるということです。
弥生時代の象徴と言えば”稲作”でしょう。
しかし、稲作が定義ではないということです。
>古代の時代区分なんて大雑把なものですから、細かい点だけを捉えて決まるものでも
>ありません。
いや、ハニワ時代、古墳時代と呼ばれてましたのでそのとおりで良いと思います。
>私はその中でも「水稲耕作」普及に伴う生産性向上が、弥生時代の性格をもっともよ
>く現わしているかとは思います。
いや、それは弥生時代の象徴です。
>> 向ケ丘弥生土器とは明らかに違う縄文土器が紀元前、八世紀より早かったらどう
なるの?てな話。
>こちらの話は、私にはあい変わらず意味が通じないのですが・・・
「弥生」の勉強してください・・・
478 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:34:23
>30キロメートル
こんな、アホな事を云うのは河童くんかゲンコ虫しかいないだろう・・・
479 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:46:19
480 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:57:27
>>479 ソノマエニ遣使が文人ではなく、全て兵隊だということを証明してね。
それから戦記だろ?
物事には一・二・三という具合に順番がある。
まず、一・二を飛ばして三をやろうなんてアホのやること
アクセス規制の巻き添え中なんで手短に
貴方は定義とか象徴とかどういう意味で使ってます?
私とは全く逆の意味で使われているように感じますね。
例えば、古墳は古墳時代の象徴であって定義ではないと私は思います。
最後の「向ヶ丘云々」は、もう少しヒントをいただかないと
「勉強」のしようがありませんが。
そういえば最近河童さん見ないね。アホーにも書き込みしていないみたいだし
>>480 証明を理解できる知識はあるのか?
知識のない人間に証明しても、それを理解できなければ証明する意味もない
>>481 なぜ弥生時代という区分があるのか?少し調べたんです。
この向ケ岡貝塚で発見された土器は有坂氏の手によって見つけ出された。
すなわち、「弥生土器一号」の発見である。
有坂は知り合いの坪井氏に託し、ここから、この縄文土器とは違う弥生土器の研究が始まる。
その後、この土器を「弥生式土器」という名がつく。
この弥生式土器とそれ以前に発見された縄文土器とを分けて、
弥生時代、縄文時代としました。
これが弥生時代の始まりです。
>貴方は定義とか象徴とかどういう意味で使ってます?
自分の中での定義は、向ケ岡貝塚で発見された土器が使用された時代が弥生時代。
「弥生時代」の元となるものに定義」という言葉を使いで、
それ以外のものを「象徴」という言葉で表しました。
何かおかしいですか?
>例えば、古墳は古墳時代の象徴であって定義ではないと私は思います。
たしか明治時代に定義が決まり、古墳は石器時代(縄文時代)にはないので
古墳をみて古墳時代とされたはずです。
>最後の「向ヶ丘云々」は、もう少しヒントをいただかないと「勉強」のしようがありませんが。
「弥生」と名づけられたのはいつ?どこで?何故か?何を持って?を調べてほしいということです。
その結果、以下のようになり、「土器」が基本となっていることが分かったんです。
いつ? 答え>明治時代
どこで? 答え>東京大学人類学、「弥生式土器」という言葉は蒔田氏。
何故か? 答え>縄文式土器との違いから。
何を持って? 答え>向ケ岡貝塚で発見された土器をもって
485 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 23:55:24
486 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/07(土) 23:58:55
>>472 最も合理的な歩き方は軍隊の行軍速度
50分歩いて10分休息
完全装備荷重で時速4km
江戸時代の一里塚はこの方式
1日の行程は30kmが標準
強行軍で1日50km
僕は山歩きをしていたので上記を実感として理解できる。
今は健康上の理由で山歩きをやめたが。
>>486 ある程度道が整備されだした江戸時代〜現在と比較しなさんな。
30km毎、歩くとすると一日だけなら出来るかも知れない。
しかし、この日を休んだら次の日はその倍。
又さらに休んだら3倍の距離になってしまい、一日60キロメートルとか
90キロメートルとか現実的ではないと思います。
もっと現実を直視しようよ。
ある集団がいて、移動や旅をするとしよう。
中には年配のご老人がいて、そうゆう人は「八べえさん」も一緒に連れていく。
全て一人残らず、精鋭が揃ってるのではない。
詔書を読み、渡す人は年配の人だったんじゃないかな。
水戸黄門の「八べえさん」に聞いてみなよ。
貴方どれぐらいでバテマスカ?
いくらなんでも君達と一緒ぐらいじゃないか?
集団で移動するときは、先頭に立っている人が基準ではなく、
一番遅い人が基準になる。
八べえさん、貴方いったい、一日にどれだけ進めるの?
八べえさん>9キロメートルなら頑張ります。
ほら〜ぁww
489 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 00:29:52
俺は以前東海道を、休日無しの二週間(一日約八時間)で制覇した。
>>484 定義って難しいんですよ。
貴方の弥生時代の定義も数学的定義であれば×ですね。
弥生式と同じ製法の土器は古墳時代以降も継続して製作されていますから。
古墳時代の弥生式土器とか書くとややこしいので別の名称で呼びますが。
「紀元前八世紀」は、ヒントをいただけたようですが、
相変わらず理解できません。
すいませんです。
491 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 00:42:36
小学生時代朝6時30分に家を出て、学校までアップダウンのきつい片道5q(1時間30分)の田舎道を毎日通った。
冬は何時も家に着く途中で真っ暗になり、街灯と途中の家から漏れる明かり、たまにすれ違う車のヘッドライトだけが唯一の明かりだった。
小学生だって一日20qは楽勝だよ
>>490 >貴方の弥生時代の定義も数学的定義であれば×ですね。
>弥生式と同じ製法の土器は古墳時代以降も継続して製作されていますから。
>古墳時代の弥生式土器とか書くとややこしいので別の名称で呼びますが。
それは 弥生/古墳 時代というんですよ。
言ってること、分かってます?
>「紀元前八世紀」は、ヒントをいただけたようですが、
>相変わらず理解できません。
>すいませんです。
以前ですね、市販されている雑誌を読んでいると「暦年代対照表」とあったんです。
そこには、縄文、弥生時代の区分を「紀元前四世紀(紀元前八世紀)」と書いてありました。
ここから、弥生の始まりを紀元前八世紀説もある。
だが、紀元前八世紀とするのはおかしいのではなかろうか?
弥生式土器と同型の土器は紀元前四世紀からだろう。
という事で
>弥生時代の開始を八世紀という人がいるが佐原氏が影響してるのか?
というレスをしたんです。
佐原氏はというと
弥生時代の食事を重視し、稲作が行われたからそれぐらいを考えてる人ですから。
>>491 おたくは計算もろくに出来ないのか?
どうみても片道5qで往復10kmだろ
こんなやつしかいねーのか・・・・
ごーたす ごーの答えは じゅうーだろ
おれがいってるのは下限でそれぐらいの9キロメートル
上限は18キロメートル
小学生は右左をよくみて横断歩道をわたりましょー
あのね、今みたいに道路なんてなく、険しい道をいったかもしれない。
それに女王への賜り物もあり、尚且つ自分らのテント、食糧、他にもあるだろう。
疲れるな・・・
495 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 01:40:36
ヤフーとかアホしかおらんし
496 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 03:16:31
どなたか
5世紀に日本列島を武力制圧した 獲加多支鹵大王 と
倭王 武 と
大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)
の漢字の違いは、どのように生じたのか?定説を教えてください
497 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 08:52:25
>>494 高校の時片道10kmを毎日通学していた。
1日20km。
>おれがいってるのは下限でそれぐらいの9キロメートル
>上限は18キロメートル
これはないな。
498 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:13:25
>>497 一番元気な高校生の時でも1日20km。
今は毎日どれだけあるくのか?こんな計算も出来ないのか?
>>496 倭王 武は中国人が勝手に中国風にした名前。
獲加多支鹵大王は大泊瀬「幼武」の部分を一字一音にした。
499 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:14:36
一人、養護が混じってるな
500 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:36:50
ここには
>>491の文章すら理解出来ない馬鹿が常駐しているようだな。
501 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:39:05
>>500 おぬし幼児だろ?それか頭が非常に悪いとか
神夏磯媛は一國之魁帥
この記事で観ると速津姫ワンランク上なのか。
これはしらなかったね・・・
>>492 貴方のおっしゃりたいことが、やっと理解できました。
>>452 「弥生時代の開始を八世紀という人がいるが佐原氏が影響してるのか?」
の「八世紀」とは「紀元前八世紀」のことで、
>>459 「向ケ丘弥生土器とは明らかに違う縄文土器が紀元前、八世紀より早かったらどうなるの?」
の趣旨は「縄文土器とは明らかに違う弥生様式の発生が前八世紀以前に遡ったら」と言うことなんですね?
つまりは、単なる「書き損じ」に私は興味を持ってしまったわけだ。
弥生開始の実年代については、年代遡上を主として、いろいろと議論のあるところです。
ただ、どのような社会形態の時代を「弥生時代」と呼ぶかと言う認識については、今のところ大きな変更は無いと思います。
水稲耕作、鉄器の普及により採集型主体ではない、農耕型主体の生活様式が定着し、
生産性の向上による富の蓄積、共同体住人間の階層分化(首長墓や青銅製威信財の需要)が見られ、
大規模治水事業などが行えるレベルに政治システム(いわゆる「クニ」段階)が進化しているが、
後続の古墳時代のように土器や古墳の様式に全国的な画一性は、まだ生じていない段階。
つまりは、水系単位の地域王権レベルの時代と言う辺りが世間の共通認識でしょう。
土器の様式の細かい差異などは、詳しくないので説明できませんが、製法としては縄文式の夜臼式土器を
人によっては縄文晩期、弥生草創期と所属する時代の表現が分かれるようです。
また、縄文式よりは高温で酸化焼成された土器の系統は緩やかに変化しながらも、
古墳時代以降、現代まで継続して製造され続けています。
ただ、弥生土器と呼ばれるものは、弥生時代に属するものだけ。
ここでも庄内式土器を弥生終末期とするか、古墳草創期の土師器と呼ぶかは人それぞれですが。
結果として弥生式土器が普及した時期と弥生時代の開始は、まだ概ね一致しますが、
これは、弥生式の普及拡大と水稲耕作の普及拡大が、
ほぼ同じ担い手集団によって行われたためでしょう。
今後、この土器について新発見が有っても、前述の「弥生時代」についての共通認識に
変化は生じないと思いますので「弥生時代」と言うことばは無くならないと思います。
>>504 よく調べてますね。
しかし、
「ただ、弥生土器と呼ばれるものは、弥生時代に属するものだけ。」
↑これは逆でしょう。
自分も初めは貴方と同じよな考えでしたが・・・
506 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:41:22
507 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:45:14
邪馬台国スレだけど稲作スレになって来てるな(笑)
(
>>465)←この人が悪い。
ここから始まったんだよ。
私が強調しているのは始まりでは無く、終わりの方ですよ。
土師器と弥生土器には、明確に線引きが出来るような違いはありません。
貴方も奈良時代製の「弥生土器」なんて概念は受け付けないでしょう。
古墳社会に「弥生土器」が存在しないのも同じ理屈です。
始まりについては、夜臼式の例のような場合があり、
貴方の仰ることに一理がもあることだとは思いますが、
私は土器様式に基づいて時代区分を設けようとは思いません。
509 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:53:23
>>501 >おぬし
「おぬし」って、時代劇かぶれも甚だしい奴(笑)
ここにいる奴ってこんなのばっかかよ?(爆笑)
510 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:01:37
>>508 んー庄内式土器、は時期を食えわしく調べたわけではないので
なんともいえませんが、
ハジキの祖系は庄内式土器といわれてますね。
しかし、庄内式土器は古墳とかぶる。
この古墳というのは度の古墳からで議論がなされていると思う。
箸墓からという人もいれば、夏のアシが生い茂った所から確認できるぐらいの
墳墓を古墳と呼ぼうという考えもある。
511 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:02:52
>食えわしく
詳しく です。
誤字が多くてすいません
>>464 刑を科すということは、殺してはダメだからですね。
仏教やヨーガには不殺生戒があるが、これは全生物だから常人には厳しい。
>>503 考古学者の寺沢薫氏も、豊前石塚山古墳に注目している。
四世紀前葉頃(布留1式)になると、北部九州最大の前期前方後円墳で三角縁神獣鏡7面と
獣帯鏡1面を副葬した福岡県苅田町石塚山古墳が築造された。
かつてのイト倭国中枢からははるかに離れた周防灘に面した「豊」の国の中にある「京」のクニだ。
・・・
私はこの頃を境に朝鮮半島とを結ぶ外交や交易のルートに一大転換があったのではないかと考えている。
・・・
想像をたくましくすれば、石塚山古墳の被葬者こそはかねてより伊都国が握っていた大率権力を一掃し、
この新しいルートに乗った外交、交易を管理すべく王権から派遣された大帥であったかもしれない。
(「王権誕生」講談社)
寺沢氏は畿内説だからこう表現されるが、景行紀の神夏磯媛の記事は考古学的にも認められるようだ。
513 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:11:51
弥生時代の始まりは板付遺跡の土器の年代が基準
古墳時代の始まりは、あきらかに規模が違う箸墓が基準
でいいのでは?
古墳時代に纏向型の時代を含めるか、定型化後を呼ぶかは、人それぞれですが、
私は定型化後がヤマト王権の成立、古墳時代の開始で構わないと感じますね。
515 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:16:38
安本氏の甘木・朝倉説では、その後、豊前京都郡へ遷都した。
愛知県民サンも同じような考えでいるんでしょうか?
>>515 豊前京都郡へ遷都は同じ考えです。
その前は甘木・朝倉ではなく、山門・八女と考えています。
ではまた。
GRRR・・・
518 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 15:48:46
>>512>>516-517 石塚山古墳は110Mの前方後円墳として最古形式の古墳の一つ。
しかし、同型(最古形式)の箸墓古墳(280M)、西殿塚古墳(220M)、
中山大塚古墳(132M)、椿井大塚山古墳(190M)、弁天山A1古墳(120M)、
浦間茶臼山古墳(140M) と比べた場合、規模が劣るではないか。
三角縁神獣鏡にしても同型の椿井大塚山古墳三十八枚に負けている。
石塚山古墳の被葬者は本当に倭王だったのでしょうか?
この規模から言うと、箸墓古墳や椿井大塚山古墳の被葬者が本物の王者であり、
石塚山古墳は違うのではなかろうか?
519 :
ローガン:2009/11/08(日) 15:59:53
>>508 横、失礼。
定義で考えると「布留0式」おかしいですね。布留の指標となる小型土器三種がない時代なんで
「定義」では布留と呼べないですよね。
だから0式。プレというような意味あいだね。
なのに 永遠の嘘を聞きたくて
今日もまたこのスレを覗いてしまう
永遠の嘘を聴きたくて
箸墓は三世紀だと言ってくれ
たとえ僕が 間違っていても 正直だった悲しさがあるから
Wow・・ 流れて行く
静けさにまさる 強さはなくて 言葉の中では何を持てばいい
Wow・・ 流れて行く
確かな事など何もなく ただひたすらに畿内説が好き
夢は眩しく木漏れ陽透かす 少女のパンツのにおい嗅ぐ
君の欲しいものは何ですか
君の欲しいものは何ですか
私は今日まで生きてみました
時には誰かの力を借りて
時には誰かにしがみついて
私は今日まで生きてみました
そしていま私は思っています 明日からも畿内説で生きていくだろうと
私には私の生き方がある
それはおそらく自分というものを 騙すことから始まるものでしょう
けれどそれにしたって
どこでどう変わってしまうのか
そうです わからないまま生きて行く
明日からの そんな畿内説です。
いい加減な畿内じゃけ ほっといてくれんさい
畿内説と一緒に 泣きとうはありません
どこへ行くんね 何か騙しのネタあったんね
騙し疲れたら手紙でもだしんさいや
季節もいくつか 訪ねてきたろうが
時が行くのもわからんくらいに めまぐるしかったんじゃ
人が好きやけねー 人が好きやけねー
僕を忘れた頃に 君を忘れられない そんな僕の手紙がつく
箸墓は絶対三世紀だって 君の時計を止めてみたい
ああ 僕の時計はあの時のまま
風に吹き上げられた 埃の中 畿内説の声も消えてしまった
ああ あれは春だったね
>>519 先ほどからの主張に合わせると布留0は「弥生時代」に
未だ引っかかっている土器と言えますが、
そもそも独立した様式区分なのかとも思います。
編年上、庄内と布留1との間に素直に嵌るものでも無さそうとも聞きます。
まあ、素人的な疑問ですけどね。
527 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 18:38:53
528 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:01:14
箸墓が3世紀だと、なにか困ることでもあるのかね? 九州説の諸君。
いや九州説の、ほんの一部の諸君かもしれんが・・・・。
もともと九州説は、倭人伝の解釈から導き出されたんだろ。
だったらそれで頑張れよ。
九州説は、古墳の年代なんか、べつに考古学的なことを気にせんでもいいんじゃないのかね。
>もともと九州説は、倭人伝の解釈から導き出されたんだろ。
>だったらそれで頑張れよ。
いわゆる、YAHHO!掲示板ゲンコ虫レベルの奴が多いという現実だな。
ヤフーはアホばっかやし
530 :
サガミハラハラ:2009/11/08(日) 19:28:30
そうですね。九州説論者において、箸墓の築造年が卑弥呼の死亡年と同じであろうが、箸墓の被葬者が
女で卑弥呼と同じ年であったとしても、そんなこと関係ないですね。
同じだからといって同一人物とはいかないですからね。
531 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:35:22
>>528 >箸墓が3世紀だと、なにか困ることでもあるのかね? 九州説の諸君。
九州説の中でも東遷説の信奉者が非常に困るわけですよ
「九州邪馬台国がのちに東遷して大和朝廷を打ち立てた」
と思い込んでるのが東遷説の連中
考古学に対して彼らはつねに罵詈雑言を吐く傾向大です
代表は安本さんかな
532 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:37:48
>サガミハラハラ
あんた生きてたのか(笑)
本日、九州国立博物館で邪馬台国シンポジウムがあったみたいですね。
参加したんですか?
533 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 20:50:06
お元気ですか
今でも畿内説と大嘘つきますか
安物さんはまだ悪あがきしてるのか。
甘木説?ないないw
535 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:08:53
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
536 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 21:53:19
夢の中に出てきた
あなたはとても素敵
いつも君だけ恋して暮らしているさと
私は頬を染めて
もじもじしてたけど
心は答えていたのとても好きよ好きよ
愛してるの痛いほど
恋するハートわたしは 九州説。
537 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 22:16:02
女や酒よりサイコロ好きで
すってんてんの畿内のじいさん
あんたこそが大馬鹿者さ
この国ときたら 賭けるものなどないさ
だからこうして漂うだけ
土産に貰ったサイコロ二つ
箸墓の前でふれば
また振り出しに戻る旅に陽が沈んでゆく
538 :
サガミハラハラ:2009/11/09(月) 00:08:39
>>532九州ですか?いかなかったですよ。あれだけでいくのは金銭的時間的に勿体ないですから。
得ることなんにもないでしょうから。
>>534甘木説?
二箇所ありますよ。ひとつは安本美典の朝倉甘木。
もうひとつは後藤幸彦の小城甘木です。
さて正解はどちらでしょう?
539 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:39:21
それ知ってます。正解は小城甘木ですね。
卑弥呼の墓は桜ヶ岡でしたね。
いまや常識ですよ。
541 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 01:03:37
九州説がおとなしいのは、正解がわかっちゃってつまらないからだよ。
畿内説はまだそのことがわからない、考えれないので、一生懸命ほえてるってわけさ。
吠えてる度合いは圧倒的に九州説が上だけどな。
必死な九州各自治体や安本を見ればわかるだろw
543 :
美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/11/09(月) 05:36:50
つか「倭人の納めてた範囲」を理解出来ない人には一生邪馬壹国の場所は解らないよ
そもそも漢籍書に出てくる「天子」や「朝廷」ってのも、中国じゃなく大和朝廷や飛鳥朝廷の事だってのも知らないし
ちなみに卑弥呼が金(水銀)を貢いだのは京の倭人の大和朝廷だよ
んで、大仏作ったんだから
544 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 07:04:28
545 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 07:42:00
>>544 関空じゃなくて、ソマリア沖の給油活動の資金にすると言う話しはど
うなったんだ?
546 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 11:25:25
>>539 サガミの自演か。甘木でないのは常識だな。
>>546 そこは径100歩以上あるのは間違いないぞ
突っ込んでばかりの他の九州説連中よりサガミのがマシかと思う
548 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 12:53:01
美濃もん太くん
邪馬壹国の場所、天子と朝廷、卑弥呼と水銀、卑弥呼と大和朝廷
それぞれの関係を語ってくれ。
1000レス埋めちゃっていいからw
神璽=金印
550 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 13:08:52
30kmの名無しは、河童さんかな?
それにしてもまだヤフーにいる奴の弟子をやってるのか。
あのクラス程度の人も、いまだに追い抜かせないとは情けないぜ!
551 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 13:49:44
>>543 もんたくん、仏教伝来はもっとあとの時代だよ。
552 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 18:34:48
大規模規制の後遺症で、スレが死にかけてますね。
九州説だけだと倭人伝の珍読のみだから、すぐ行き詰まってしまうんだよ。
他の文献との比較や考古、社会科学、自然科学との整合性とかは眼中に無いから。
根拠は我思う故にの世界なので、やたら薄っぺらい議論しか起きない。
だったら、自説の展開よりは、畿内説へのツッコミに専念してくれていた方が、
スレ的には有益だよ。
ここは、スレ主が畿内説なのだから、
下手な狂言回し役などをせずに、積極的に自説を提起し、
九州説側の批判に対峙するべき。
九州陣営は重鎮のサガミ氏を中心に、それぞれ得意な分野で議論を挑む。
もちろん、畿内側もローガン氏を中心にスレ主をフォローして行く。
もん太とか河童とかに活性化の燃料となることを期待してはいけない。
>>552 >九州陣営は重鎮のサガミ氏を中心に、それぞれ得意な分野で議論を挑む。
>もちろん、畿内側もローガン氏を中心にスレ主をフォローして行く。
>もん太とか河童とかに活性化の燃料となることを期待してはいけない。
あんた良く分かってるねw
誰が実力があり、誰が無知なのか、細かいところまで分析してる。
九州説といえば・・・末盧国から東南は前原ではなく佐賀平野で、陸行1月は1日3kmとかいうやつだろ。
今どきこんな議論をする文献学者はいないし、あまりにアマチュア的(悪い意味で)だし非学問的で、何
より爺くさい。wwwwww
556 :
メ:2009/11/09(月) 22:14:57
>>553ってバッカじゃねえ? 何が実力で何が無知なんだよ。このうすらトンカチが(爆笑)
実力のある奴が2CHになんか書き込みするかタコが
実力のある奴は2CHになんて投稿する暇なく、キャリアでバリバリ仕事しているな。
>>557 カスの中でもいくらかましってこったろ。
カスが一生懸命背伸びして、カス同士でランク付け
一時の優越感に浸るスレってここですか?
で、誰がカスのキャリアで誰がカスのノンキャリなんだ?
>>555 じゃあ、ナンでそんなのがまだこの板にいるかといえば、
反論できないからだし、納得できる畿内説が言えないからだろうね。
>末盧国から東南は前原ではなく佐賀平野で、
伊都国は北東。倭人伝には間違いもある、ってことで。
561 :
メ:2009/11/09(月) 23:26:14
格付けなんたら〜てテレビ番組があったね。
ていうか、今それどころではない。
というか、どうでもいいww
>>560 >倭人伝には間違いもある、ってことで。
間違っている書物なら史料価値0だろう。
それとも都合悪くなると、たいそらしこと並べ、屁理屈こねて間違いとする方向で調整するのか?
563 :
メ:2009/11/09(月) 23:41:01
お、なんだ、なんだ!
おれを挟んで「畿内説vs九州説」が始まってきた。
564 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 23:41:11
畿内説は方向の間違いとしているようだが、
方向の間違いの可能性もあるとしよう。
だが、その場合、畿内方向になる根拠と
出雲や吉備ではないという根拠が必要。
格付けなんて所詮コンプレックスのあらわれ
自分に自信がないか、それとも小さい頃から蔑まれてきた反動か?
こうして格付けしたり、自分に下に人を設けて自分の位置をできるだけ高い所に持っていこうとする
無記名掲示板で多く見受けられる臆病者のささやかな抵抗
畿内だ九州だって、お前ら馬鹿じゃねえの? 脳みそ焼酎で洗ってこいよ
邪馬台国の手前に位置するマツロ国は
帯方郡から約4000キロも離れた場所にあるんだぞ
少しは頭冷やせよ馬鹿どもが
>>562 ひとつふたつ間違いがあっても史料価値ゼロってこたないだろ。
ヘ理屈でもなんでもなく伊都国への方角は間違ってるが?
>>567 >ひとつふたつ間違いがあっても史料価値ゼロってこたないだろ。
間違いが一つか二つと言い切れるか?
それとも都合が悪い箇所がひとつかふたつなんじゃねえのか?
569 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:02:43
あまり信じてはいないが
方向を正しいとすると伊都国佐賀説も捨てきれない。
陸行水行の記述が合う
570 :
メ:2009/11/10(火) 00:06:00
>>565 なぜ、君はそんなにムキになってるのかな?W
こっちのほうが興味あるww
571 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:12:03
>>570ムキではないが、究極のマイナーキモヲタ達を相手にするには
軽い助走が必要なんだぜ。
>>568 言い換えてみよう。
史料価値ってのは間違いの部分と正しい部分を見分ける検討をして判断するもんだろ?
伊都国が東南なのは正しいのか? 間違いか? 前原の遺跡はなんなんだ?
573 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:21:47
>>572 書いた本人でもないのに勝手に弄るなよ
都合悪けりゃ間違いと判断したくなりたいのが
人間と言うものよ。
たいそらしく検討なんかすんじゃねえよ
過去の史料なんていうものは、確かめる事ができねえんだから、0か100の両極しか存在しねえのよ
574 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:24:17
>前原の遺跡はなんなんだ
ただたんに昔そこに人が居た痕跡だろう。
577 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 07:50:44
578 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 14:06:52
大月支国と釣り合うように、距離と規模を膨らまして、南の遠くの大国に仕立てただけだからな。
579 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 15:25:19
金印だけでなく家臣も銀印を複数貰っているのだから、邪馬台国がヤマトにつながるなら、今なら江戸城にあるはず。
580 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:02:42
倭人伝どおりに進んでみたらいいだろう? それで何か不都合があるか?
581 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:55:49
どうみても畿内説の圧勝です
582 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 16:57:38
>>578 頭弱そうだな?
方や長安から、方や郡から
何処がどう釣り合ってるんだ?頭大丈夫か?
583 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:49:44
>>582 魏が印綬を与えた国に対して、それなりの距離と大きさにしたという意味もわからんか?
大月支国と倭国との外交交渉は、それぞれ当時のライバルの政治家が当たっていたから当然功を競う。
584 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 17:57:44
卑弥呼の宮殿?奈良で3世紀の大型建物跡出土
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091110-00000860-yom-soci 南北19・2メートルと当時、国内最大の規模で、市教委は「飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形とみられ、
日本の国家形成過程を探るうえで貴重な発見」としている。
時代や場所などから、「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、
市教委はさらに範囲を拡大して調査を進める。
昨年度までに出土した建物群跡の東側を調査。
南北19・2メートル、東西6・2メートル以上の掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。
調査区の西側は後世に溝が掘られて削られているが、建物のバランスや柱穴の形状などから東西は2倍の12・4メートルだったとみている。
柱の直径は約32センチで、南北の柱の間には、床を支えたとみられる細い柱穴も見つかり、高床式の建物だったらしい。
一緒に出土した土器などから時期を判断した。
これまでの調査から、今回の大型建物跡を含め、少なくとも4棟が、
柵をはさんで中軸線をそろえて左右対称で建てられて東西一列に並び、綿密な計画性がうかがえる。
現場は小高い台地を大規模に造成しており、南北約100メートル、東西約150メートルの区画があったとみられる。
市教委は「整然とした規格に基づいて構築された国内最古の建物群で、弥生時代の建物とは一線を画する」としている。
585 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:02:12
ねぇねぇ
宮殿跡がみつかったらしいけど、なんでそれで畿内説の勝利宣言しちゃうの?
邪馬台国の時代に大国は邪馬台国しかなかったって考えしかないの?
頭固すぎじゃね?
これも貼っとくわ。
日本古代史ファンの遊び心をさそうのだろうけど、邪馬台国とか卑弥呼に
あまりこだわりすぎて、日本史の全貌がかえってわかりづらくなってるんじゃ
ないのかな。もっと別の切り口を探したほうが面白そうなのに。
たとえば、シナノ王権とか。日本各地にはまだまだ埋もれた史料がいっぱい
あるのに。
>>582 洛陽から藍氏城までは万六千三百七十里。邪馬台国も洛陽からだと釣り合った里数になるだろ。
ちなみに大月支国なんて国はない。
589 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:43:24
>>585ですが、邪馬台国は徳島にあったとしか思えない
590 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:49:58
592 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:54:50
593 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 18:58:43
俺の友達に大月氏王の子孫がいる。
595 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:46:52
596 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:18:59
597 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:29:35
おい誰かトンデモ
>>589の相手してやれよ(笑)
凄まじいスルーっぷりに噴いたw
598 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:31:58
>>591 箸墓は計画段階から、二重周濠の予定だったということだろ。まあ盛り土の量を確保するために
必然的だったのかもしらんが、興味深いねえ。周濠の底に徇葬者があるとすれば残存脂肪酸分析
など、考古学の手法ではちょっと届かないかもしらんね。
601 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 21:49:57
テレビで卑弥呼の宮殿?特集やってるぞ
>>587 同意だが、論争すること自体にすでに意味があるような
状態なので…。
604 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 09:53:07
漢委倭王も親魏大月氏王も親魏倭王も、服属させて、支配、滅亡させるのが中華のやりかた。
ヤマトはその影響下から脱した勢力。
いくら掘っても東海、山陰、北陸の文化圏を確認するしかない。
しかし日本の考古学にとっては重要な進歩だ。
やっと規制解除したね・・・
↑河童さんも東大卒に一度みてもらったら如何か?
「僕の師匠はデタラメでしょうか?」とか言ってww
ま、虫論が文学的に成り立つのか?自分では判断できないだろうし、
デタラメというのが判明するだろう・・・。
マキムクで建物跡も見つかったし、
九州からは何も出なさそうだから、諦めては?
609 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:31:26
俺から言わせれば、
先ずは、言語学、次に漢字学。(⌒ε⌒) と言っている時点で×なんだがなww
言語学なんて邪馬台国には関係ないし、自分の得意分野を相手に押しつけてるダケ。
それにしてもあのおっさん、このスレを覗いてるらしいなw
自分の話題が出て、気になって仕方ないのだろうww
ま、どうしてもみてしまうのも分かるけどね。
610 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:35:03
>>608 そのマエに、あのニュースをみても何のことを言ってるのか
九州説の人は分かってないと思うww
あのニュースをみて、一を知り十を知るではないが、どういうことなのか?
理解出来る知能を身に付けて挑んでほしいよなw
ふと
「邪馬台国」が全国を支配していた
って事自体考え直してみてはどうだろうって思った。
畿内・九州どちらが邪馬台国かって
昔から言ってるが、
それぞれに大きな国があったとしたら・・・。
それぞれが話を誇張して後世に残す事が
ないとはいいきれないでしょう。
人間は二分割できない
615 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:16:50
>>584 >時代や場所などから、「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり
>近くに「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳など
半年前に「箸墓=卑弥呼で間違いない!」とやってしまった読売にしては、「可能性がある」とか「説がある」とは
ずいぶん弱気になったな
>>613 みんなからいろいろと言われまくってるけど
堂々と反論すればいいこと
おれは無知ではないぞというのを大勢の前でしょうめいしてくれ
618 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:35:08
ドイツもこいつも馬鹿ばっかしが揃ったな。
帯方郡から5000q離れた女王国が畿内だ九州だって?
頭逝かれた野郎ばかりが掃きだめに集合か?
それとも畿内から5000q離れた場所に帯方郡があったのか?
619 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:39:47
>>673 注文した看板屋の従業員が、インフルエンザで休んでいるから
看板の納品が遅れている。多分二三日で納品されるだろうから、看板発見は日曜日頃になりそうか?
620 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:41:13
621 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:56:52
なぜ箸墓掘らないんだ?
さっさと掘ればいいだろ?
622 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:44:44
個人的には宇佐の亀山掘ってほしいけど駄目?
623 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:48:38
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
624 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 03:52:51
>>615 君みたいなのが
あーだこーだ 文句をいうから、
書き方を変えたんだろよ。察しろよ
625 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 04:26:05
そろそろ、似非遺跡発掘の考古学なんて止めてしまえ!
たかりやが物欲しさに話題作りなんて恥知らずにも程があるぞ!
626 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 04:56:04
と、負け九州説論者が遠吠えしております
627 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 05:10:17
巻向遺跡付近の発掘作業に何故国は資金投入しないんだ?
200億300億安いものだろ
あれか?
今の天皇の系譜の信憑性が落ちる何かでもたくさん埋まっているんじゃないか?
一説の卑弥呼暗殺して国を盗み取った史実とかが判明するかもな
628 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 14:17:14
刷新会議って知ってる?
629 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 16:06:09
今の天皇家は、越前ではなく、近江の継体天皇以降の血筋だってばれるから。
国記・天皇記が出雲国造家に伝わってたのを、万世一系じゃないつって、明治政府が焼いたって話がある。
630 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 17:17:12
大室寅之祐か長州藩の誰か
631 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:04:23
なんで建物に住んでたのが女王ってわかんの?タンポンでもあったとか?
なんでマキムク京を始めたとされる景行天皇の住居だとされないの?
632 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:07:10
>>627 巻向遺跡の発掘に関わってる奴らの言ってることが天皇家代々の伝承と
全く違うことばっかりいってる国賊だとみなしてるから。
633 :
愛知県民:2009/11/12(木) 20:05:52
纏向なのに垂仁天皇無視、卑弥呼を連呼するこの国の報道は異常だと思う。
垂仁が卑弥呼の弟であれば、序列は卑弥呼の方が上。
635 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:41:49
636 :
ローガン:2009/11/12(木) 20:45:15
>>633 > 纏向なのに垂仁天皇無視、卑弥呼を連呼するこの国の報道は異常だと思う。
学校教育でしょうかね?うちに中学生が居ますが、「卑弥呼」「邪馬台国」「魏志倭人伝」は知っていますが、
崇神垂仁景行とかは教わっていない様子です。
637 :
愛知県民:2009/11/12(木) 21:31:14
右翼に言わせれば、米国の占領・日本潰しの一環と。
そういう一面はあったかも・・
>右翼に言わせれば、米国の占領・日本潰しの一環と。
>そういう一面はあったかも・・
↑が
>>636ローガンさんへの返答ですか?
もう少し、良い答え方があるのでは・・・もういちどお願いします。
639 :
メ:2009/11/12(木) 22:38:23
しまった〜名無しで書き込んでしまった
>638は自分です。
640 :
メ:2009/11/12(木) 22:44:35
実在がほぼ定説化されてる雄略とその時代から遡るとして・・・
垂仁が実在するとしても、11代の垂仁だと時代が合わないんじゃないの?
あるいは、垂仁の元ネタになる人物がこの時代にいたとしても、そこから雄略
までの間に日本の史書には書かれなかった断続期がないとやっぱり計算が合わ
ないわけで、少なくとも天皇家の系譜にウソが入ってることになる
どうしても垂仁とかの遺構ではないでしょ
いや、遺跡の推定時期が魏志に書かれてる卑弥呼の時代だったとしての話だが
天皇家の系図のどの辺りがおかしいのでしょう?
643 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 01:39:29
どんとこいのがレス進んでるよ〜
ここも、じゃんじゃんレスしてね
さて、寝よう zzz
644 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 03:25:32
卑弥呼の男弟が崇神天皇、台与の男弟が垂仁天皇なのですから
マスコミが纏向遺跡の報道に関して崇神天皇と垂仁天皇を無視しても
なんら問題がないですね。正しい報道だと思います。
645 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 03:25:48
岡田外相は邪馬台国は朝鮮にあった説が有力だといってたけどな。
646 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 03:58:57
記紀によれば、纏向に都を置いたのが景行天皇される。
一番大きい神殿はは当然、景行天皇の住処とするのが当然だろ。
しかも、その景色天皇記ではその当時の九州は北部以南が大和朝廷の支配下では
なかったことがはっきり記述されている。
宇佐(記紀の表記では菟沙)辺りの女王が投降してきて朝廷に忠誠、
その後大分県を南下していき豊後辺りにいた海部(と名づけられる)やらが
女王の手引きで和平を結び・・
つまり、この宇佐に居て天皇に迎合した女王が台与ぽい。同じ人物かもしれん
アカルヒメの伝承も大分の姫島から難波に伝承が移ってる。
とりあえず、纒向の王は伝承どおり、景行天皇だろ。なんで無視すんのwwww
無知で馬鹿なマスゴミどもが。
現状の学説では、継体天皇(最近では雄略天皇)以前の記述は微妙と
されているからだろ。それが良いか悪いかは別として、マスコミに文句
言ってもしゃーない。
648 :
愛知県民:2009/11/13(金) 06:35:54
646さんにほぼ同意だが、もう少し記紀を読んで下さい。
649 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 08:51:01
北九州連合の政治的安定のための象徴権力の役目が必要とされなくなり、もとの巫女に戻って矢部川の奥へ隠った。
>>646 風土紀にあるアメノヒボコは伊都国王の先祖という
記述はどう説明します?
アメノヒボコは畿内に入れなかったのだが‥
651 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 11:43:35
播磨風土記でオオクニヌシとアメノヒボコの争った記録は興味深い。
オオクニヌシはアメノヒボコは退けることが出来たが・・・
652 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 11:54:32
>>646の通り、あれが景行天皇の遺跡と証明されたら、天皇家は3世紀まで
遡れることになるのか
すごいな
それは置いといて、近畿説の奴らは何故あれが邪馬台国の遺跡に違いないと
何の根拠もなく思い込めるんだろうか
653 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 12:33:10
卑弥呼は土蜘蛛の女王だよ
654 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 12:59:57
雄略天皇が第21代で在位456年-479年(479に60歳くらいで死亡)が史実だと
仮定して話を進めると、卑弥呼と第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇が同
時代人(3世紀半ば、雄略より200年ほど前)ってのはどうなの?
彼らの存在が150年前くらいだとすればあり得ると思うが、238あるいは239年
に卑弥呼が仮の金印と銅鏡100枚を渡されたはずだが前過ぎる
垂仁達が三世紀最後から四世紀初めくらいの人間で卑弥呼とは違う時代という
のなら分からないでもないが・・・
413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢した倭の五王の比定とも絡めると
一層ややこしいし、個人的には実在を疑ってるが十五代応神は394年に没した
ことになってる これすら卑弥呼の時代から150年後だよ・・・
656 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 14:00:43
記紀が全て史実と思ってる人間は存在しないだろう
ヤマトタケルの逸話が何人かの実際にあった征伐を一人の英雄譚に
まとめたものではないかと言われるように、景行天皇として語られている
ものがこの遺蹟にあたるものではないか?と言うことだよ
657 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 14:03:51
垂仁天皇は311年崩御 『住吉大社神代記』
崇神天皇は258年崩御 『古事記』
だから、記紀とかもかなり後世の作であり、意図してか意図せずしてかは
ともかくかなり・・・なものであるってこと
景行天皇などのモデルとなる人物の遺跡であったとしても、そもそも彼ら
が後の雄略や継体と同族であったかどうかなんて分かんない
雄略と継体すら怪しいのに・・・継体以降に母系でつながったにせよ
>>658 同時に大和朝廷とは全く異なる権力という証拠もないわけだ
個人的には同一の権力母体のエピソードだと思っているけど
クマソ等、敵対する権力なら記紀はそう記載しているからね
もちろんそう思ってるよ どちらでも有り得ると
補足すると、記紀の記述のある部分が正確であったとしても、他の部分の
記述が史実に即したもの、史実を反映したものとして同レベルで信頼が置
けるとも思ってないけど
もちろん大陸側の資料にしても
大胆な仮説は楽しいし自分でも考えるけど、仮説の域にも達してないと思っ
てるものが大半
今回の報告も「ある時代の巻向にかなり精緻な大型建物群があった」以上の
ものではないと思ってる
せいぜい、ここに大きなクニがあったのだろうくらいまで
661 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 14:58:17
>>660 正にその通り
根拠もなくあの遺跡を邪馬台国と直結させて鬼の首でも取ったように
これで邪馬台国は近畿で決まりと大騒ぎしてる連中を見てるとこれこそもう
バカかアホかと
662 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 15:42:18
>>661 あまりそう言うな。
九州から畿内にくら替えした奴にとっては、根無し草の根性者ばかりだから
余計過剰反応して自分をごまかさなければならない。
藁をも縋る思いからくる。
663 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 15:42:39
みんな心の中では、わかっているんだよ。ゴッドハンドでしか畿内説が確立できない事をね
664 :
ローガン:2009/11/13(金) 15:45:20
卑弥呼は所詮、共立された王。王権内の実質の支配者は、共立に参加した当時の有力氏族だったのではないでしょうか?
台与以降、後ろ盾となって「國中遂定」を成した諸氏の中に大王家の祖も参加していたのでは?
まあ想像ですが…
>>661 何も根拠も無く、決定もしてないのに「うちこそ邪馬台国!」と
主張してる、九州の各自治体はスルーですか?
666 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:10:48
倭人伝の行程通りっていうのは、最上の根拠だよ。
何のごまかしもない。
667 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:11:04
なんつーか、畿内はないな
668 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:23:32
だよなあ
九州説なんてのは本居宣長が「大和朝廷が中国に朝貢するなんてありえない!九州の小国に違いない!」
なんて理由で唱えられた説で出だしから破綻してるんだよな
もっともウヨ学者の本居宣長の説が今じゃサヨ学者の心のよりどころなのが皮肉だけどな
>>666 前から思っていたことをわざわざアナタにぶつけてしまう思慮の無さぶりを始めに謝り、次の
ことを聞きたいのですが、
倭人伝の製作にあたりやってきた漢人の役人に向かって、倭人がわざわざ軍事的機密事項と言っていい
「窓口から姫の部屋まで」の分かりやすいルートを情報として素直に差し出したのが事実と
思うのかい?
そんなことしたら島国でいることで得られる利点を手放すと同様のこと位、当時の人が分からない
わけ無いからね。
だから倭人伝の例の道案内はそもそも欺瞞情報だったと見るべきと、思ったことはありますか?
失礼しました。
671 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:35:49
「邪馬台」はその当時の読み方では「やまと」と読むなどと言ってる人がいますが
中国の史料で「台」を「と」と読んだ文献なんかありますか?
672 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:44:19
邪馬台をヤマトと呼ぶなら九州も有利に働くんですけどね、邪馬台をヤマトと呼んだとこで、邪馬台=大和になるわけじゃないんですけどね
673 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:45:51
台与←トヨ
台 ト
与 ヨ
>>672 その理由はなんなのでしょう?ヤマトと呼ぶと、邪馬台国=「何?」になるんでしょう?
675 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:51:05
倭人伝では女王国への道程の記述だけ異様に長い。
これは単に場所を教えたくないため。
ボスのところへは目隠しして連れていくのと一緒だからな。
たったこれだけのことがどうしてわからないのか頭悪すぎる。
伊都から宇佐と日田へいくのに九十九島と天草廻って
熊本から山を越えて一ヶ月かけて回り道したんだよ。
伊都から女王国まで山越えて半日とかバレたら大軍で押し寄せて朝鮮半島みたいに
されるからな。
676 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:55:08
>>674 あなたに同姓同名がいたとして、相手もあなたなのですか?違いますよね
677 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:57:47
>>675 その考え方だと、残り1500里の説明がつきますね
>>672 隋書に『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と書いてある
>>676 ようするに、「山門」とか「山戸」とかですかね。ならそう書けばいいのに。
かつて盛んだった記紀と邪馬台国関連人物との比定が史料批判が
進む内に下火になったように、邪馬台国の場所の比定そのものも
結論が出ないまま終焉するのがオチじゃないか?まぁ、町おこし
村おこしという現実的な利権があるから、学者以外ではしばらく続く
だろうけど。
682 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:07:37
>>678 隋っていつの時代かわかっていってんのか?
7世紀半ばの遣隋使の時代だぞ。
つまり、天皇家が確立して記紀のベースとなる伝承やらを丸ごと信じてる時代な。
それにしては、それ以前の倭人の王どもとくらべて
遣隋使はあまりにも外交慣れせずおかしなことばかり言ったり失礼な文章書いてくる
失笑を買うような外交しかできなかったようだがね。
683 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:08:40
魏志倭人伝を読めば九州で決まりじゃん
684 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:10:58
685 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:13:18
>>678 「隋書」倭国伝からの引用
>魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。
魏の時代、中国と通じてたのは30数カ国。皆が王と名乗って居た。
いま九州説をまともに唱えてる学者っているのか?
場所はすでに畿内でほぼ確定してたよな?
688 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:18:16
畿内派の人って、自分の頭で考えれない人ばかりなんだよね、だからゴッドハンド発動しても信じちゃうんじゃないかなー
以上、絶滅寸前九州派の遠吠えでした
690 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:20:58
右向け右、左向け左の畿内派、偉い学者が畿内説だから畿内が正しい。
もうね、バカ丸出し、オレオレ詐欺には気をつけてね。
自分の頭で考えれる何かを九州説と結びあわせると・・・
お一人さま随分と気分を害しておられる地下活動家がおられるようですね。
やや見苦しいですがそろそろソコ掘れワンワンしてみたらいかがでしょうかね。
693 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:24:28
あのー、邪馬台に繋がる物証は纒向遺跡からも、出てきてないんですけど・・・・
そんな事も畿内派は知らないんですか、プッ(笑)頭わる〜
694 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:25:09
>>686 >>687 時代の背景もわからず書物のほんの一部分だけを丸ごととって
後の都合の悪いことは知らんってのがあんたね。
ちゃんと議論もできない、ゴマカシばかり言うってのを自分らで証明してるじゃん。
>>693 あらあら可哀想に
まあお酒でも飲みなよ。
>>692 おまえw地下活動家とか九州派がかわいそうだろw
いくらネットでしか頑張れない九州派だからってw
>>694 ちゃんと自分が用意したプラットフォームの上に自分が乗れる自負あるの?
文面だけみるとぜんぜんそんなのなさそうだね
まあお酒でも飲みなよ
698 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:27:56
お勉強のできない3流大学ばっか揃った畿内説らが
隋書なんか持ち出すからww
よく分からないけど一流大学(=笑の温床)の人は隋書をどう処理されてるわけで?
700 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:33:01
目覚めよ! ゴッドハンド藤村新一!
その神の手で、決着をつける時が来た!
701 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:33:08
だれかが巻向は藤原京の一部ではないかという発言をしていたが
実際にgoogleEarthでみてみると、ほんとに藤原京の中なんだね。
道も条傍制が見えるくらい正確に東西南北に延びてる。
702 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:33:33
纒向遺跡での大型建物跡の発見されたのは素晴らしい事だね、ただ邪馬台にこじつけて来るとは頂けないわ
しかしこれは九州説派にとって刺激になるから、そろそろ本腰入れてくるんじゃないかな
しかし畿内はすごいね、ピンポイントで遺跡を発見しちゃうんだもん、なのに今更発掘って、なんで?
大和朝廷の物だけど、わけありで邪馬台に結びつけたんだろう、やはり、お金の問題かな?
>>698 信じたくないばかりに隋書まで否定しだしたよw
704 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:33:41
倭人伝でも隋書でも、もちろん記紀でも畿内説なんて有り得ないよ。
考古学とやらは天皇家の系譜は嘘、の前提の脳みそだから
巻向で大きな建物がでたら卑弥呼とか邪馬台国いう・・・・馬鹿のあつまり
705 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:35:03
魏書東夷伝の記述は事細かくケチをつけるくせに、記紀については
そんなことはせずに平然と比定するのが畿内説クォリティー。
>>702 そろそろ本腰っていままでなにしてたのかと・・
びっくりするくらい何も無いんだよな、九州って
707 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:37:01
>>703 隋書否定・・・・???
馬鹿のふりしてるのか、やはり馬鹿大学なので国語力の基礎が低いのか?
708 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:37:49
ここにいる元気な九州派はその勢いで学会で主張してくればいいんじゃね?
このままじゃ畿内確定は時間の問題だぞ?
710 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:40:52
確かに実際のところ巻向の発掘に関わってる奴らは大学のレベル自体低いせいか
例えば考古学などといいながらも偏差値40ぐらいのレベルで話すから
こんなレベルになる。
この隋書にしても引用で議論を交わそう・・ってことじゃなく、途中で
「学会は畿内」「隋書否定したよw」こんな馬鹿どもじゃどーしようもない。
馬鹿どもに掘らせてる宮内庁ども、いい加減にしろよ。天罰くだるぞ
711 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:41:19
>>706 お金がないみたいだよ、あやしい場所の目星は言わないだけでしょう。
712 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:41:44
もう九州は掘らなくていいよ。
住宅道路建設で出てくる出土物だけでパンク状態。
佐賀なんかは全部掘るのはあきらめて、重要度の低いところは
制限付きで建設してよいとなっている。
新規造成地区なんか、ブルーシートで覆われて
調査を待っている場所が多いこと。
もうすこし人を増やして欲しいなあ。
713 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:43:37
邪馬台認定が確定したら経済効果は凄いだろうな。
卑弥呼バブルか。こりゃお互い譲れんなw
714 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:43:40
715 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:43:53
>>715 ワロタwまあ好きにさせてやったらいいんじゃない?w
だから、ちゃんと主旨前提で廃絶すればいいだけじゃん、と思うんだけどな
九州畿内云々は別として、個人的に笑われてるのが分からないの?お前さん。
>>713 このスレは盛り上がってるけど、一般ではイマイチじゃね?確かに、
数十年前にブームはあったが。
大抵の歴史教科書や授業では最初の方に出てくる部分だから、
知名度は高いけどドラマとか小説とかが不足気味(漫画は何故か
多いが)。誰か、プロデュースして一山稼いだらどうだ?
719 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:49:50
720 :
717:2009/11/13(金) 18:53:04
こんなにレスが進んでると思わなかったので、
>707さん、頑張ってね。
なんで自信満々のくせに防御姿勢なの?
721 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 18:53:45
>>713 もし確定したとしてもだ、経済効果は、たいして変わらんと思うぞ
九州ではな
見せるものが何もないもんな。
「私はこう思いましたー!」な電波文の原典で人が集まるかと。
田舎だし。
数十年前の邪馬台国ブームって言うのは、今まで知られて
いなかったり注目されてなかったりした地域にもスポットが
当たるかもしれない、あるいは考古学的なロマンがあるかも
しれないって言うのがあったが…。今は九州にしろ畿内にしろ、
露骨な観光利権みたいなのがあるのを見透かされてるんじゃないか?
一般人的にも。
根拠も無いのに金儲けしてるのは九州だけだけどなw
725 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:05:23
歴史屋っていうのは、基本的に地元の商工会議所、観光協会の下僕だろ?
726 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:07:59
畿内派の学者は官僚的考え方だと思われる
この場合の官僚的なこととは何を言うのか当ててみろよバカヤロー(バカヤロー)
情けない奴が頑張ってるなぁ。
728 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:12:17
畿内派の学者は庶民的考え方だと思われる
729 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:13:10
畿内派の学者は空想的考え方だと思われる
語彙が無いから止まってると見たwwww
731 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:16:03
畿内派の学者には宮内庁が付いているそうだ。
732 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:18:48
簡単だろう、宮内庁に聞けばいいじゃん、倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼ですか?ってよ。
733 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:21:40
どうした?九州派は元気が無いな?
734 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:23:22
まぁ、九州派は余裕があるからな
九州派はもうだめぼ…
>>732 門番の警官の方がお前よりもその件についての認識深いかもよ。
明治神宮のことで別件だけどアンケートしたらそうとうその眼で・・・・見られたよ昔・・・・・
737 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:26:52
ここで畿内説を主張している者も宮内庁の職員かな。
738 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:27:56
じゃあ、御前等九州派は朝敵だなw
739 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:30:05
宮内庁が畿内説を主張するわけないわ
740 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:32:03
無知なやつにかぎって
一行、二行の書き込みだなw
僕は邪馬台国のことを何も知りませんと
自らを証明してるようなものだw
もう完全に陰謀説みたい
九州節(ふし)の人完全に知性で負けてる宣言してるじゃん
情けないね
742 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:33:55
九州派のTOPは佐賀女子短大学長だそうですw
743 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:36:34
畿内派は今回の大型建物跡と別に、魏志倭人伝に関する物証が出てこない場合、、、
邪馬台国候補から完全離脱で畿内派涙目、、そうなるからしっかり見てなさい(笑)。
もういいよ、旧周武士の人い失礼だよ、マジで寝ろよ。
746 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:40:53
>>743 そこでゴッドハンド♪畿内派大好きゴッドハンド♪あう〜カモン、ゴッドハンド♪今回は許す、カモンカモン、ゴッドハンド♪
747 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:42:58
おぉーお、ニュースを見て逃走した九州厨のレスの残骸じゃないか
>>746 ゴッドハンド♪しか言いきらないのかwwwwwwww
ほれ、8行びっしり書き込んでみろよ
ま〜君には無理だろうがねw
749 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:45:03
もはや2chでも九州派は風前の灯だな
>>745 区別と区分けの区分も分からないって言われたこと一回じゃなくね?
751 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:48:03
畿内派のインテリぶってる奴に限って、ゴッドハンドが大好き、ほれ使えよ、得意のゴッドハンドをさ
>>724-751 もう少しまとめて書き込めよ
他の人も使ってるし、読んでいる。
くだらん”一行ネタ”の繰り返しではなく
学問てきに勉強になるようなレス頼む
753 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:53:32
例の金印もゴッドハンド臭プンプンなわけだがw
754 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:54:09
しかし、畿内派は、いつも九州派に論破されてんじゃん、畿内派が九州派を論破したとこ見た事ないわ
畿内説が有力だと騒がれていても、九州派を論破出来ない畿内派て無知すぎ
このシリーズじゃ出尽くしてるけど?
外部から新しいソースが出てはしゃいでるのは誰なのよ?
考古文学にしたいのならそれはそれで九州節の使命じゃね?
>>753-755 くだらんレスだな
ここを読んでいる人は君のくだらんノーガキを聞きにきてるんじゃない
もっとビッシリと書き込めよ
最低でも4行かな
6行〜8行ぐらい書き込めないのか?それだけ知識がないってことかな?
>>754 破るにはそれなりの陣が必要な訳だが・・・
声だけで垣根がある、堀がある、塀がある、矢倉がある、で
実際にあるのは武装もしてない兵とやらだからね
かまってあげられないのが事実なのでは
759 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 19:59:51
しかし、うーむ、生活痕が少ない
巻向ってどういう位置づけなのだろうかね。
板付、金の隈、吉野ヶ里は住居跡、生活痕がどっさり出てくるのだが。
巻向がへんぴな山の中というわけでもなさそうだし。
760 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:01:10
>>756 可哀相に飢えているんだね、意地はらずに九州派になっていいんだよ、今回の新たな発見が畿内説を苦しめる結果になるのは見えているからね
>>760 だから、それってなになの?
あたらしいおもいつきなの?
としいくつなの?
762 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:05:33
>>759 もっと広範囲を掘ればどんどん出てくるよ
763 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:05:47
九州説を吹聴してた奴等が歴史の裁きを受ける日は近いなw
764 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:12:11
>>761 バカなの?本物のバカなの?君さ歳いくつ?もしかして知ったかぶりなの?
だからさ、それってなになの?
知ったこととして言える今年なの?
歳いくつで、自己紹介できるの?
若い人ちゃんと君のこと見てると思えるの?(←ごめん痛恨だね)
だから頑張って戦ってよ今日的にね!
若い人君のことアレ扱いかもしれないし(←ごめん痛恨だね)
766 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:25:22
>>758 >お手本おねがいします空気先輩
君はほんとに何も知らないんだな。いいか、皇帝の命を受けた(詔書を携えた)使者は任務
を全うしたことを証拠とともに報告する。皇帝の命に逆らったり、任務を全うできなかった
者は処罰され、任務を首尾よく達成した者は賞される。名誉と命が懸かった仕事だ。ちゃん
と報告して記録して貰う。それらの記録は臣下の処遇に関わるものであるから国の文書館で
管理され保存される。梯儁や張政の報告書も魏の役所に保存されていた筈だ。
倭に関する記録は前史にもあるし、郡の使者の報告や倭人からの伝聞など記録されたものも
あったかも知れない。だが、邪馬壹国まで出向いた使者は倭人伝の記すところでは梯儁と張
政の二人しかいない。百聞は一見に如かずと言うように、現地を見て来た者が記録した最も
正確だと考えられよう。したがって、陳寿が最も重きを置いた資料はこの二人の報告書であ
ろう。そして前述のように彼らの報告書は魏の公文書として保管されていた筈だ。晋は禅譲
によって魏を引き継いだ国だ。当然、魏の公文書は晋の文書館で保存管理されていたと考え
られる。陳寿は皇帝の司馬炎に認められた吏官でありあらゆる資料を検討することが出来た
筈だ。君が言うように「梯儁と張政の報告書をみていない」ということは考え難いことであ
る。したがって、梯儁と張政のルートが異なっていればそのように書いたであろう。一つの
ルートしか記述されていないということは二人のルートは同じだったということだ。
河童くんは最近みかけないな。
自分の師匠が”無知”ということに今頃きづいたのかな?w
まあ、初心者からみたら詳しい程度で、ここにいるみなさんの目線からしたら
”たんなるアホ”とか”大したことないレベル”とかだろう。
あの程度の人が詳しい人にみえるなんて、どんな目線してんだかww
そろそろ、自分の師匠に嫌気がさしてきたんだろうwww
769 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:42:14
>>766 んなわけないやろう、時間の開きはどのくらいと想像してんの?
770 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:44:40
>>771 ぜんぜん。
つーか、書き込むのも一ヶ月ぶり。
話しの流れで見ると
書き込みしない間にかなり大規模な規制あったみたいで ま、関係ないけどね。
772 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:00:02
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
773 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:00:03
隋書に出てくる海岸の宮殿って上宮だろ。
775 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:44:27
>>771 よく真面目な顔をして話せるな〜て思う。
おれなんか「ベロベロヴアー」とか「変な顔ツキ」をしてじゃないと
まともには話せませんww
>>718 桜井市とかに毎日100人以上が問い合わせの電話してるらしいよ
二日間行われる現地説明会には一万以上の人が来そうなので電車も増便する
らしい
そりゃ、多少大きなことでも言って衆目を集めようという勢力も湧いて出る
だろうね もう関連グッズとか作ってる連中もいそうだw
邪馬台国が見つかったら…日本中から観光客(特に修学旅行生)が
やってきて、宿泊施設から土産物屋まで大喜び。さらに、幹線道路の
整備や公園作りで土建屋ウハウハ。博物館や資料館と言った箱ものや
「卑弥呼〜年祭」みたいなイベントを開催して、雇用も増加。
まぁ、平城京跡地のように、白けムードになっちゃった例もあるけどね。
>>709 学問の世界にリミットはないぞw
もっとも肝心の物証が開発でどんどん壊されてると聞くと
気が気でないが
779 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:11:00
天皇即位20周年に合わせてブチ上げたんだろ。
戦前の津田弾圧みたいな社会になるぞ?
780 :
758:2009/11/13(金) 22:14:36
>>766 ご返答有難うございます。
大変、立派な方位磁針と時計と基準地図をお持ちになられた、大変19世紀的な方で
らっしゃったのでしょうね、また、大変立派な監視員かつ計算員かつ気象専門家であり
倭人の群れする土地について多岐にわたる言葉に精通し、倭人を油断させ問いかけも
上手で、返答の精査も瞬時に可能に出来るから、倭人のいいようにいいように流された
としてもバッチリ記録を残せた英雄だったんでしょうね。
一見をしたことにする百文についての憂鬱は、陳寿も織り込み済みでは無かったのでわないかな?
陳寿wwww陳寿wwwwどうでもいい仕事wwwww
あと君が狂う前に、「梯儁と張政の報告書をみていない」の対象の人、
俺とは別の人だからね。かわいそうwwww
>>777 奈良って、京都や九州に比べるとその辺のプロデュースが
下手だよな。
国体明徴声明をまた出されるんじゃないかと冷や冷やするね。
週末に逃亡するって、さすがに九州派の方は床上手だわ
786 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:44:44
>>776 纏向遺跡の現地説明会に1万人も来るの?これは大変な事ですね。
JR桜井線は2両連結の貧相な電車が30分に1本あるだけです。
臨時の電車があれば助かります。
>>766 ご高説をお垂れ遊ばしてあらせられるようだが。
率直に聞きたいんだが、
おまえさんさ、そのプロセスを経た「魏志倭人伝」の記述が、
本当に信憑性があると思っているのか?
俺には、それがもはや、人間の合理的な思考として、もはや「信じられない」んだよ。
そもそも王朝国家の記述というのは、
社会文節を言説が移動する毎にどんどん書き換えられるいいかげんなもので、
さらに、中華帝国の情報収集力なんて、歴史的にひどく低レベルなことに、
(司馬遷神話に騙されている日本人以外には)定評がある。
日本人にだって、この事実を見せればすぐに納得する。
そもそも、16世紀末にもなって、総力戦に近い戦いの相手「豊臣秀吉」の出身地を
「平秀吉の出身地は薩摩」などと書くレベルなんだぞ。
>>787は邪馬台国がどこにあったか興味ないのかな
>>788 俺は、極論すれば、
「邪馬台国・卑弥呼は、中華帝国のでっち上げに近い産物であり、実在のものではない」
と考えているから。
だから、このスレには従来書き込まなかったんだが、
>>766の発想法が面白かったんで、三戦してみただけだよ。
そもそも、あんな「地理関係が皆目見当の付かないデタラメな『地理書』」なんて、
信憑性を見るまでもなく、「現実をまともに記述していないようだ」と考えるのが、
そもそもの、素朴な出発点。
この素朴な疑問を、魏志倭人伝に嵌る人が、誰一人抱かないのが不思議でならない。
俺に言わせれば、魏志倭人伝は、でっちあげ要素満載なんだよ。
「女が支配している」
「スピリチュアルパワーで統治している」
「スピリチュアルパワーをやめて、普通の権力統治を行ったら、内戦になった」
「冬でも野菜が育つ(など、南方の産物)」
「刺青の風習」
「衣冠を調えない」
「暦を知らない」
「中華で慣れ親しんでいる食品を使わない」
これらは、みんな中華帝国の文化的常識からみれば、
エキゾチシズム満載の、「遠い未開部族ネタ」なんだよ。
つまり、かなりの脚色が入っている、またはどんどん混入したことが、
容易に想像できる。
帝国の常だが、朝貢する者は、エキゾチックであればあるほど、
皇帝の威光が遠くへ届いていることになり、威光を示す効果が高い。
「女酋長」なんてネタは、日本のどこかにいた巫女さんが元ネタだろうが、
おそらく相当の脚色が加えられていると思われる。
記紀については、あれほど「政治的捏造」を力説する連中が、
魏志倭人伝になると、途端に100%真実だと語りだすことが、本当に不思議なんだ。
791 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:40:37
>>789 でっちあげだったらなんで景初3年入りの鏡があるの?
最近の書き込み見てたら、いよいよ九州説の人が壊れてきたみたいだね。
793 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:51:10
でっちあげ厨には景初3年入りの鏡の事を突きつけてやればよい
そうするともう論破できないから
>>791 洛陽に刺青に裸同然のオッサンが朝貢してきて、
東の島の女酋長の国なんだとか言って、
鏡を貰って帰ったというのは、史実だろう。
日本列島方面の部族で、中華帝国に朝貢する例は、後漢以来たびたびある。
これも、朝貢自体はあっただろう。
(国内で仕立て上げたという捏造は考えにくい)
朝貢元となる、どっかの部族がいたということで、
鏡などの中国産品が日本の遺跡からも出てくるのも、これまた当然。
だが、洛陽の朝廷に、どんな奴が何時来たかという話と、
魏志倭人伝の内容が信憑性があるかどうかは、全く別。
795 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:56:27
魏志倭人伝の信憑性をある程度否定してないと畿内説は成り立たないからね。
その時代に生きた人が書いた文献さえ、スルーしている事がゴッドハンドに繋がるという見方をしている
もう一個別の例を挙げよう。
昔、ニカウさんという、ブッシュマン(旧称)のオッサンがいた。
ニカウさんが、東京に来たのは明らかな事実。
東京の浅草で、ウルトラマンのお面を買って帰ったのも事実。
だが、ニカウさんが、アフリカで、裸で狩猟採集生活をしていたというのは嘘。
「ブッシュマン」と言う映画もフィクションならば、
ニカウさんの普段の生活なるものの報道もフィクション。
普段はTシャツを着て、西洋人の会社関係の仕事をしていたらしい。
カラハリ砂漠で、ニカウさんの家がみつかって、浅草で買ったお面が出てきたとして、
東京での映画プロモの内容の信憑性が上がると言えるか?
797 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:01:42
さてさて、わけのわからない事を言うのも畿内派の方々です。
本当に、魏志倭人伝という聖典を崇め奉る信者なんだな>おまえら
九州優勢のスレに俺が行くと、畿内説論者扱いされ、
畿内優勢のスレに俺が行くと、九州説論者扱いされ、
どちらでも、糾弾される。
面白すぎるww
そりゃそうだろう。聖典の内容はネタだと言っているわけで、不遜極まりないからな。
ちなみに、俺は九州論者でも畿内論者でもない。もちろん剣山論者でも尾張論者でもない。
そもそも邪馬台国なんて現実に探しても無駄と言っているんだから、
いうなれば、「邪馬台国『脳内物語』論者」だな。
魏書東夷伝や記紀の話はとりあえず置いておいて、発掘の
成果から考えようって言うのは分かるが、中華帝国だの
畿内説は捻じ曲げだの言い合うのはどうかと思うが。
桜の枝を折ったのはわしやがな。と自首してワシントンは試行猶予付きの有罪判決で済んだよね。
父は医師、母は歯科医師、2人の遺伝子を受け継ぎながら医学部に進めなかった息子の挫折感というのは
想像を絶するものがあったと思う。
九周王朝が滅んだのも、結局は、大和に出され九州王朝の後継者になれなかったものの怨念だったと思う。
フェリーを遭難させるほどの怨念が漂っているとは、ただ事ではない。と思わないか?
801 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:28:36
こんな歪んだくだらない掲示板で
自説を開陳して一体何の利益があるのか?
よくも毎日毎日くだらない投稿している奴がいるもんだ
802 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:31:49
>>771 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>つーか、書き込むのも一ヶ月ぶり。
最近なにしてたの?
邪馬台国や卑弥呼に飽きたのかな?
803 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:36:08
>>801 邪馬台国や古代史に興味があるからじゃないかな?
昔みたいに集まって話すのではなく、今やインターネットの時代で便利になった。
街中で天照大神とか卑弥呼の鬼道がどうたら言ってたら変人扱いされるぞ。
だから、こういうインターネット使って趣味に没頭するのもいいんじゃない。
趣味を持つことは大切だ。
とくに歴史という分野は人気が有ってその歴史の古い部分
古代史をここでやってるんだろ。
804 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:38:14
>>803 しかし、最近はレベルが低すぎて退屈。
老教授が居た頃はよかったなあ。
九州説のアホな論客もあらかた消えたみたいだし。
>>804九州説論者は死んだほうがいいんですよね?
806 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:43:07
>>804 ここのベテランの方ですか?
老教授ってサガミってやつですか。
貴方は詳しそうなので一つほ教示ください。
808 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:05:31
倭人伝なんて信用する方が間違いそのものなんだ、だから九州派は間違いを犯す、純粋にその時の日本の中心を考えれば近畿しかないわけだ、大和王権こそ邪馬台であるのは日本人なら誰もが理解出来る
それでは九州はなんだ?豪族がまとめあげた連合体と考えるのが自然だろう、海外と大和を結ぶ商人的な事柄で利益を得ていたと考えられる、大和以上の力はあったとして、のちに大和は九州の豪族に乗っ取られる
809 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:20:27
大和王権が九州の豪族に乗っ取られた事を隠したいのではないだろうか。乗っ取りにより西日本を制覇した九州の豪族の長が王として君臨し、今に致る事は言うまでもない
その帳尻を合わせるかの様に、つじつまの合わない伝記が数多く存在していると言えるだろう、九州も畿内も統一されたがゆえ矛盾を感じるのは当然だと言う結論になる
河童虫くんへ
「家葬」という言葉はしってますか?
すこし辞書で調べて欲しい。
伊都国をたんなる墓所とか言っていた君へ
811 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:38:53
>>808 なるほどです。
ところで記紀はもう読まれたのでしょうか?
812 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 02:15:31
マキムクってどういう意味ですか?w
今当てられる字は巻向とかだけど、元は木のマキとムクだったんじゃないの?
開拓などが進む前はそういう木が多かった場所とか
時代は下がるけど明日香のあたりの地名とかも木などに関するものが相当多い
甘樫丘、橘寺、藤原だって植物起源といえるし
マキムクとは東向という意味だよ。
今度の建物も正面が東、まさにピッタリ。
>>723 旧石器のねつ造事件や温泉の偽装事件以降、一般人が観光地に
向ける目が凄く厳しくなったからな。知識がない人でも、まず疑って
説明を求めてくる。
「日本の中心」ってなんじゃらほい
統一国家があったとか?
統一されてなくてもいいだろう
817 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 07:06:21
>>810 ・私は一度も伊都国はたんなる墓所などとは言っていない。
伊都国はイミグレーションとなら何度もいっているが
・「家葬」なんて初めて聞いた言葉だ
一つ「家葬」について語ってくれないか?
818 :
メ:2009/11/14(土) 08:44:17
>>817 「家葬」
斎藤忠著 『墳墓』では、「縄文時代には遺骸を埋葬する場合、その死亡者が
生前に居住していた住居または死亡者を葬った後に、家族の居住する住居と、
どのような位置関係にあったものであろうか。
「埋め甕」といわれているものが、床下または入口近くなどに存することがあり、
こちらには、さきに述べた「幼児棺」が多いとすれば、特殊な年齢層のものは、
家屋の床下とか入口近くに埋葬されたということになる。
また「家屋葬」というものが、生前使ってた家屋にい遺骸を置き、家族の人が新居に移ったとしても
あるいは廃屋そのものを墓として利用したとしても、これらの墓は集落内にあって、著しい距離の差は
なかったものとも考えられる」
ちなみに、この「家葬」とは生前に住んだ家屋や廃屋の中に遺骸を安置する方法をいう。
又、古墳内部や横穴、地下式横穴の中に家屋の構造と近似しているものもあるといわれている。
吉野ヶ里の墳丘墓では墳丘の構築される前はその場所が住居であって
その上に墳丘が建てられてることで知られている。
だから、これもこの縄文時代の埋葬方法と似たような事だったのではなかろうか
とか勝手に考えてたりしている。
上のほうで書いた「事件」は、田舎の方でその名残が残っていたのかもしれない。
819 :
メ:2009/11/14(土) 09:05:53
>>817 ヤフーの「上から目線男」だったら(あの馬鹿ねw)、
「ご教示して頂けませんか、どうかよろしくお願いしますm(__)m」
と言え!とか言われるだろう(笑)
私の場合、そんな偉そうな奴、又、厚かましい奴は嫌いなので言いませんが(笑)
まあ、あいつは何様のつもりなんだろうね・・・
820 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 09:42:41
821 :
メ:2009/11/14(土) 09:56:02
822 :
メ:2009/11/14(土) 10:21:25
>問題の謝罪広告には「大分県聖嶽洞穴遺跡から採取された石器が捏造であり、同遺跡の発掘調査の責任者であった
>賀川光夫別府大学名誉教授があたかもその捏造に関与した疑いがあると受け取られる一連の記事を掲載しましたが、
>これらの記事のうち、石器が捏造であること及び同教授がこの捏造に関与したことは事実ではありませんでした」として、
>文藝春秋の関係者が謝罪している。
>これらの内容は福岡高裁および最高裁の指示によるものではあるが、明確に捏造を否定している。
なるほどね、一応は決着してるのか。
そうか、捏造かどうかは最高裁で判決があったのか。
だったら、邪馬台国が巻向にあったのかそれとも捏造なのか、裁判で決めるといいかね。
824 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 12:17:21
>>818「家葬」とは
漢語?日本語?それとも最近造られたマニアだけしかわからない造語?
漢語や日本語なら
その出典を宜しく。
>>819 掲示板に於いては、上から目線も下から目線も関係ないと思う。
感じ方なんて人様々だし、向き合う姿勢によっても様々に感じ方なんて変化する。
825 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 12:35:19
日本には、自分が一番でないと気が済まない大王の子孫みたいな人がいっぱいいて
相手していて疲れますよ。
826 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 12:41:40
>>825 別に相手する必要はない。相手して疲れるのは自分の責任。
誰が悪いわけじゃない。
>>824 埋め甕でググれよ 疲れるなー
一から十まで教えないと分からないのか?
あんたの師匠はどんだけ無知なんだよ
828 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 16:34:17
>>827 語学の問いです。
日本語理解出来ていますか?
>>824 横からだが、角川の日本史辞典に載ってたぞ。
・・・・
831 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:27:56
>>828 河童虫君
じゃさ、天宇受賣命(アマノウズメ)という女神を知ってる?
こりゃいくらなんでも知ってないといけないレベルだぞ・・・。
832 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 19:38:00
ゲンコツムシ君にも同じ質問をしてみようかな♪w
>>827 >>829 その人のレスは、ほんとに理解できないよねw
824 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [] 投稿日:2009/11/14(土) 12:17:21
>>818「家葬」とは
漢語?日本語?それとも最近造られたマニアだけしかわからない造語?
漢語や日本語なら
その出典を宜しく。
もともと
>>818のドツボ氏のレスが著者名付きで「家葬」と言う本の内容を引用してるのに
「出典を宜しく」だからね。
たぶん辞書か古籍に載っていないと「出典」と言う言葉は使えないと思ってるんだろう。
828 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [] 投稿日:2009/11/14(土) 16:34:17
>>827 語学の問いです。
日本語理解出来ていますか?
続けてこれだw
>>824は「語学」の問いだそうだwwww
834 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 19:47:30
>>829 サンクス
>>831 知り合いじゃないから詳しくはしらない。
それよりも何語なのか問うてるの。
余り耳にしない言葉だから訓で読むのか音で読むのか、
はたまた重箱か?湯桶か?その辺から問うてる。
835 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 20:18:36
>>834 面倒くさい人だなーっ
一から十までなんでおれが教えないといけないの?
〜ったくおれは貴方の古代史の先生では無いよ。
>それよりも何語なのか問うてるの。
日本語だろ、俺らは日本人だしw
>余り耳にしない言葉だから訓で読むのか音で読むのか、
はあ、めんどくさいな・・・「火葬」はカナで「カソウ」なので音読みじゃないの。
>はたまた重箱か?湯桶か?その辺から問うてる。
重箱か?湯桶か?だってえええ? しるかーーっ自分で調べろww ったく!
836 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 20:22:21
「しるかーーーーーーーーーーっ」
て叫びたくなる時てあるよね、今そんな感じww
無知は無知はなりにカッコをつけたがる。
恥知らずは恥知らずなりに取り繕おうとする。
それは滑稽なことである。
838 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:05:26
>無知は無知はなりにカッコをつけたがる。
gengomushi_jp の事?
>恥知らずは恥知らずなりに取り繕おうとする。
2chのみなさんの事?
>>518 神夏磯媛のその後の運命が書いてないので、何とも判断できない。
石塚山古墳の被葬者は神夏磯媛か、武諸木か分からない。
>>638 いや、ローガン氏が学校教育に言及されたので、敗戦に触れざるを得ない。
古代史といえども、現代史と無縁ではありません。
840 :
メ:2009/11/14(土) 21:21:48
>>839 卑彌呼、壹與の墓はどこと考えてるのでしょうか。
豊前石塚山古墳は違うとみてるのですか。
841 :
メ:2009/11/14(土) 21:28:07
先週、愛知県民さんが「豊前石塚山古墳」を用いていたので
今週は「豊前石塚山古墳」少し勉強してきたんですが、
卑彌呼、壹與の墓とは違うというふうにみてるみたいですね。
もし卑彌呼、壹與の墓とする場合は、反論に使おうと考えてたんですが、
意味無かったかも知れませんw
イヨタン・・・・・・・・・・
843 :
メ:2009/11/14(土) 21:50:57
844 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:55:41
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm 小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
845 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 22:03:23
>>835 読みを知らずに広辞苑にも掲載されていない「家葬」などを「知っているか?」などと問う
貴方が悪いのです。
広辞苑にも掲載されていない日本語を記載する以上、それを説明する義務は貴方。
読みも知らないものを問われても
私にも答えようもなし。
他人をとやかく評価する以前に、先ずは己の掌をじっと見つめるべきでしょうね
846 :
メ:2009/11/14(土) 22:16:50
>>845 でも良かったね。
一つ、覚えたんだから、メデタシ、メデタシw
847 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 22:20:15
>>835 「火葬」が音読みだと、どうして「家葬」も音読みなのです?
その論旨だと
「新幹線はやて」はJR東日本だから「新幹線のぞみ」もJR東日本じゃね?
と、言ってるみたいです。
848 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/11/14(土) 22:23:55
>>846 何も覚えていませんが?
何の説明もない、全くいい加減なものでは
覚える事もできません。
それに、アキバ系限定のマニア語を覚えるつもりもありませんし
849 :
メ:2009/11/14(土) 22:25:16
肥前国風土記をみると日姫子(ヒメコ)、弟日姫子(オトヒメコ)という人物がいる。
これは男性だろうか、女性だろうか、
まあ、九州には有名な女性がたくさんいるようだ。
海松カシ媛とか大山田女とか狭山田女とか・・・
850 :
メ:2009/11/14(土) 22:49:51
ちと人物名を書き込んでみるね。
『豊後国風土記』
豊後国総記・・・豊国直等
日田郡・・・久津媛、五馬媛、日下部君等
玖珠郡・・・※
直入郡・・・打サル、八田、国麻呂等
大野郡・・・小竹鹿奥、小竹鹿臣
海部郡・・・※
大分郡・・・※
速見郡・・・速津媛、青、白、打サル、八田、国麻呂等
国崎郡・・・※
浦島太郎の伝承の竜宮城、乙姫こそ卑弥呼子だった。
桃太郎が吉備津彦だったのと同じ構図だ。
で、竜宮城こと邪馬台国がどこにあったかといえば、カルフォルニアだろう?
とウェルカメを見ながら考えた。
852 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 23:18:34
ザワザワ
853 :
メ:2009/11/14(土) 23:21:41
『肥前国風土記』
肥前国総記・・・打サル等二人、健緒組(火君健緒鉈)、たけるども
基肄郡・・・※
養父郡・・・※
三根郡・・・物部経津主の神(神名)
神崎郡・・・※
佐嘉郡・・・大山田女、狭山田女
小城郡・・・※
松浦郡・・・日姫子、弟日姫子、狭手彦、海松かし媛、垂耳、大耳等
杵島郡・・・※
藤津郡・・・大白、中白、少白、陪従紀直等、わか日子、
彼杵郡・・・速来津姫(←なぜか媛ではなく姫)、健津三間、浮穴沫媛、石コモル比袁麻呂
高来郡・・・高来津座(神名)
ヒミコさん居たかな?w
854 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 00:05:00
大山田女が卑弥呼で狭山田女が壱与だと思います。
>>854その通り。邪馬台国とは山田国。
全国200万の山田氏が味方です。
856 :
メ:2009/11/15(日) 00:40:06
『豊後国風土記』
豊後国総記 ...天皇、ここに歓喜び有す。即ち、ウナテに勅して云ひたまはく、
「天の瑞物、地の豊草なり。汝が治むる国は、豊国と謂ふべし」といひたまふ。
重ねて姓を賜ひて、豊国直と曰ひき。因りて豊国と曰ひき。後に両つの国に分ちて、豊後国を以て名とす。
日田郡 ...筑後の生葉行宮を発ちて、此の郡に幸でたまふに、神有す。
名をば久津媛と曰ふ。化きて、人と為りて参迎へ、国の消息を弁へ申しき。
これを因りて、久津媛の郡と曰ひき。今、日田郡と謂ふは、訛れるなり。
玖珠郡 ...昔者、此の村に洪きなる樟樹有りき。因りて玖珠郡と曰ふ。
直入郡 ...昔者、郡の東にある垂氷村に、桑生有りき。其の高さ極めて陵く、枝も幹も直く美しくあれば、
俗、直桑村と曰ひき。後の人、改めて直入郡と曰ふは、是なり。
大野郡 大野郡。郷は肆所、「里は一十一なり。」駅は弐所、烽は壱所なり。
此の郡の部ぶる所は、悉皆原野なり。斯に因りて、名づけて大野郡と曰ふ。
海部郡 此の郡の百姓は、並、海辺の白水郎なり。因りて海部郡と曰ふ。
大分郡 昔者、纏向日代 宮 御 宇 天皇 豊 前 国の京都行宮より、此の郡に幸でましき。
地形を遊覧して、嘆きて曰ひたまひしく、「広く大きなるかも、此の郡は。
碩田国「碩田は大分と謂ふ。」と名づくべし」といひまひき。今、大分と謂ふは、
斯れ其の緑なり。大分。
速見郡 ...天皇兵を遣り、其の要害を遮へて、悉に誅ひ滅ぼしたまひき。
斯れに因りて、名づけて速津媛国と曰ひき。後の人、改めて速見郡と曰ふ。
国崎郡 昔者、纏向日代 宮 御 宇 天皇の御船、周防国の佐婆津より発ちて度りたまひき。
遥かに此の国を覧たまひて、勅して曰ひたまひしく、「彼の見ゆるは、若し国の埼かも」
といひたまひき。因りて国崎郡といふ。
857 :
メ:2009/11/15(日) 00:44:15
もう寝る〜『肥前国風土記』 は後日・・・zzz
>>845 日本史板でそれはないだろう ハァ・・・
859 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 03:34:48
今夜が山田開始
860 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 06:10:09
やまだかつてない話だな
862 :
メ:2009/11/15(日) 10:20:30
>>837 >無知は無知はなりにカッコをつけたがる。
「無知」という言葉を使うぐらい、837さんは古代史について詳しいのだろうw
では、お尋ねしたい。
「八幡宇佐託宣集 名の巻 第二巻」の
天照大神ニハ六代孫子ノ神武天皇ニハ二郎
高知尾明神ニハ弟、八幡大苔薩ニハ兄ニテ座
此ノ三人二共二日本国ヘ自ニヨリ唐朝渡リ給フ
先豊後国大野郡緒方ノ村来着シ給フ
とあり、
この三人は唐朝より日本国へ渡来、まず豊後国大野郡緒方村に着いて...とある。
これの記述についてコメント頂けませんか。
「無知な奴はカッコをつけたがる」と言うぐらうだから、これぐらい簡単でしょ?
863 :
メ:2009/11/15(日) 10:42:06
↑これ「八幡宇佐託宣集」みとってなんで唐朝なんだろう・・・分からないんだよね。
この記述から離れて...「阿蘇明神是也」というのがあり、阿蘇神社で調べたほうがいいのかな。
宇佐八幡というより、嘘八百といたほうがいいかな。w
865 :
メ:2009/11/15(日) 11:07:41
嘘八百かい〜w
まあ、書いてることを全て信じる方がオカシイのかも知れない。
しかし、すこしぐらいは調べてからのほうがよさそうだね。
ちなみに864さんはどう思ってるの?唐朝とかありえないよね?w
866 :
メ:2009/11/15(日) 11:10:48
「嘘八百」とあるから、唐朝はありえないということだろう。
質問がおかしかった〜ww
別の人にもきいてみたい。
867 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 11:57:21
ふー。すごいことを発見してしまったぞ。
・歴代天皇から初代〜(欠史八代)9代までを削除
・これも実在が怪しい12代〜14代を削除
・21代雄略天皇以前は暦年法が違うという説があるので2分の1にして計算。
・雄略天皇は倭の五王の武に該当するとされているので武が宋に奏上した478年を即位年にする。
(雄略天皇の在位は24年。武は25年間奏上している。多少は誤差があるとしてここにあてはめた)
以上で計算すると、初代天皇とされるのは崇神天皇で以下書くと
・崇神天皇(に該当する人物。以下同)(即位304年〜337年)
・垂仁天皇(338年〜386年)
・応神天皇(387年〜406年)391年に朝鮮出兵
・仁徳天皇(406年〜448年)恐らく倭王讃
・履中天皇(449年〜451年)
・反正天皇(452年〜455年)
・允恭天皇(456年〜476年)
・安康天皇(477年〜478年)
・雄略天皇(478年〜501年)倭王武
倭王とうまく一致しない箇所もあるがおおよそこんな感じと予想。
で、何が重要かというと初代天皇の崇神が恐らく300年台初期に即位。
卑弥呼(アマテラス)が死んだのが248年。台与(トヨアキツヒメ)が13歳だから25歳で子供産んだとして
260年。恐らくこの人物がニニギに該当する。そしてニニギが19歳、279年に
崇神(神武)天皇に当たる人物が生まれる。重要人物がすべて入りうまい具合につながる。
恐らくこんな感じでこれをベースにいろいろ脚色したと予想する。
868 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:00:04
ぽかぽかした日曜日に掲示板とは
869 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:26:42
>>868 ぽかぽかの日曜、暖かな日差しを背中に受けて卑弥呼(日巫女)談義。
わたしは、この上ない幸せを感じますがねぇ。
870 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:52:33
畿内派涙目(笑)
>>866 単に、唐は中国の意味ではありませんか?
日本書紀でも5世紀の南朝・宋が「呉」になっていたり、
7世紀初めの「隋」が「唐」になっていたりする。
続日本紀になると702年の遣唐使、このとき初めて中国に「日本国」を名乗るが
中国は則天武后の「周」になっていたと細かく記している。
872 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:21:02
いくら近畿で遺跡が発掘されたとしても、それを物証的に卑弥呼と関連付けられない限り、
邪馬台国の所在地比定には、何の役にも立たない。
単に、同じ時代に、大和にも九州の邪馬台国と同規模の政権があったというだけの話にしかならない。
魏志倭人伝の記述、どう読んでも邪馬台国は九州だからね。
873 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:21:47
>>872 何処をどう読んだら九州なんですかね?
あの倭人伝通りなら太平洋の海の中にしかないですよねw
それより現実的に畿内の方が歴史的にも、
考古学的にも発掘状況的にも辻褄が合いますね。
九州はどうでしょう?何か見つかってますか?
九州は単なる大陸との玄関口兼防衛拠点ですよ。
×九州は単なる大陸との玄関口兼防衛拠点ですよ。
↓
○北部九州は単なる大陸との玄関口兼防衛拠点ですよ。
876 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 19:41:34
>>874 何処をどう読んだら畿内にたどり着くのでしょうか?
畿内なんて願望にすぎませんよね。
畿内であってほしい。畿内でなければならないという思いが、やかて脳内で現実と混同してしまう
大変哀しい出来事です。
やがて、日本で三世紀が訪れたのは畿内だけかのような発生となり
畿内にしか有り得ないとなる
877 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 19:45:35
畿内は帯方郡から5000q離れていると
畿内説論者は言う。
畿内説論者の距離感覚は一体どうなっているのか?
自説の為なら何でも平気で捩曲げる。
878 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 19:53:03
正確な場所と距離を教えたら、魏の大軍が攻め込んできて
朝鮮半島みたいになるから
わざと物凄く遠くにあるように同行者と大回りしたんだよ
それぐらい分らんのか?
879 :
メ:2009/11/15(日) 19:56:28
河童さんおるかい?
上で書いた風土記や託宣についてどう感じる?
貴方はたしか福岡東部湾岸〜大分湾岸を調べてたはず。
880 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:10:14
>>876 魏でも邪馬台国はヤマト国と読んできたわけだが、
何で奈良の古代名のヤマト国が北九州にあるの?
881 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:13:23
>>872 >いくら近畿で遺跡が発掘されたとしても、それを物証的に卑弥呼と関連付けられない限り、
九州で遺跡は発掘されてるの?
吉野ヶ里って言いたいわけ?
箸墓のような古墳が九州のどこにあるの?
その近くに三輪山のような山が九州にもあるの?
教えていただきたい。
883 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:26:46
>>881 どんな遺跡が必要なんだ?どんな遺跡が二十一世紀に出土すると書いてあるのか?
どんな出土物がないとダメだと書いてあるのか?
遺跡がないと人は住んでいないと断定できるのか?
ん?畿内民国諸君。
>>867 ν速+から転載
444 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/11/15(日) 04:43:56 ID:iMiUBvp9O
わかったわ、全部。
卑弥呼に比定されるべき人物は二人いる。
二人のハツクニシラスといわれる神武と崇神はもともと一つの人物だったといわれる。
つまりヤマトトトヒノモモソヒメにも、もう一人の存在がある。
それがヒメタタライスケヨリヒメだ。
彼女は大物主の娘で国津神の代表であり、天津神の代表だった神武と結ばれて、二つの神統を結んだ。
彼女が形だけになったヤマトトヒノモモソヒメの中身だ。
事実、彼女はもう一つ名前があり、それはホトにかかわる名前である。
ホト(女陰)を突かれて飛び出した逸話からの名前だが、それを嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに変えた。
ホトを突いた逸話はヤマトトトヒノモモソヒメの眠る箸墓にいるわるものと同じだ。
つまり卑弥呼はヤマト系の天津神=アマテラスと出雲系の国津神=オオクニヌシの仲立ちをした姫であり、祭祀女王であった。
彼女の血が仲立ちをしていたのであり、彼女以外はありえなかった。
だから男王をさしおいて第一に書かれたのだ。
彼女の死没後に彼女の血によらない解決がなされ、残されたハツクニシラスの元、国譲りがなされた。
その際に国譲りに反したタケミナカタはヤマトを去り諏訪に落ち着いた。
諏訪は出雲系のタケミナカタになり、出雲系の大神神社をヤマトが祀り、出雲大社を本社に、女王国は天津と国津の結びを得た。
これがヤマト王権の確立であり、ハツクニシラスの偉業となった。
そして卑弥呼のあとをついだ台与=豊鍬入姫は斎宮の初代となり、血によらない天津神と国津の仲立ちのシステムをはじめた。
そしてヤマトタケルが九州を治め、宇佐八幡ができ、安定を見てから倭の五王がふたたび朝貢をおこなった。
これでまちがいない。
518 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/11/15(日) 15:55:47 ID:CZNMQqJe0
>>491 ヤマトトヒノモモソヒメにとっては大物主は夫で、
ヒメタタライスケヨリヒメにとっては父親。
どちらにしろ近親者。
大物主は神だが、同時に出雲神族の代表でもある。
出雲系の現実に絶望したか、厭世から隠遁したのかもしれない。
886 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:29:30
>>878 朝鮮半島は正確な距離と位置を教えたから
攻められたのか?
>>883 遺跡ないと少なくとも考古学的には無視されるな
出土物は日本各地で製作されたものが無いわけないだろうね、中国と交流あるぐらいだし
888 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:32:23
889 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:40:11
891 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:50:12
邪馬壹國とは北部九州に在った国邑の連合体。
可七萬餘戸とは国邑の連合体の総戸数。
筑前に伊都國と奴國と不彌國が有り、計二万二千戸。
七万戸−二万二千戸=四万八千戸。
筑前が二万二千戸なのだから筑後二万〜一万五千戸。
肥前には末盧國の有四千餘戸の他にも二万以上があったろうから
筑前、筑後、肥前ぐらいでも可七萬餘戸には足りる。
で、その住居跡は発掘されたのか?
893 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 20:57:11
神武は、ユダヤ人です
894 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:04:27
>>891 今やそんな説もう誰も相手しないと思うよ。
遺跡なんか、出ても出なくても立証出来ちゃう九州説論者なら、
神武ユダヤ人説も、きっと受け入れてくれるよ!
897 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:10:46
魏志倭人伝に「世有王」と記されている伊都國が、卑弥呼のいた邪馬壹國の都である。
伊都國は「有千餘戸」であり邪馬壹國の都ではあるが大きな国邑ではない。
898 :
メ:2009/11/15(日) 21:11:35
3世紀前半の大型建物跡の説明会に参加した人おる?
どうなったんだろーねw
やっぱり今回ので邪馬台国は河内の柏原中心だな、確信したよ。
考古学板のスレが全然盛り上がらない件について
畿内を中心として成立した古代天皇制国家に
呪縛され、倭国をあたかも現在の日本のように、
邪馬台国を首都東京のように考える。
そのような前提には何らの根拠もない。
倭国の中心は、兵士の武器に「矛・楯・木弓」を
用いるという記述を考慮すれば、銅矛・銅剣の
北部九州にあることを支持する。
邪馬台国の時代は、新たな時代への揺籃の中で
青銅器による祭祀は過去のものになろうとして
いたとはいえ、地域の伝統は継承されていたはずである。
従って、倭国の範囲は、銅矛・銅剣の分布する
北部九州から中国・四国地域に重なってくる。
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000220911110001 これが正論だ
上スレに記事をよく読んでもらいたい
>>894 >半島人です
では、その半島人の台詞を抜粋し書き出してください
確かにwww
905 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 21:45:25
>>899 魏志倭人伝に遠く過ぎて国名ぐらいしか解らない。
って書かれてる国名の中に巴利国(播磨?)とか鬼国・鬼奴国(どっちかは紀国だろ)が有るけど
糸島や松浦より河内から遠いんですね?
畿内派は今のうちに、お祭り騒ぎを楽しんでいなさい、半年以内に九州説が逆転するから、お楽しみに!
巻向もまだ発表控えてるしね。大体まだ調査自体が1割にも満たないし。
九州説の人の悲嘆は想像するにあまりあるな。
信じていたものに裏切られるのは誰しも辛く悲しいものだ。
そんな図はなんら証拠にならないと思うのですが
「その昔」と書いておいてなんで2050年なんですか?
つじつまが合わないんじゃないですか?
その点をちゃんと説明してください。
そもそもその図によれは西日本は封柵どころかもはや中国の一部そのものではないですか。
東日本は自治区ですから封柵と呼んでも一応理解はできますが。
そういうところがいまいち納得できません。
ちゃんと説明してください。
>>902-914 最低でも4行書き込んで下さい。
他の人も読むのですから出来ればビッシリと
これを読んでいる人が勉強になって学べるような内容を期待しています。
大体、古代史に詳しい人はビッシリ書き込みますよ。
コテさんのレスを読んではどうか。
>>2-100を読んでください。
>>915 コテの長文なんて大半が自己満の電波文だぞ。
>>909 中共の未来妄想地図。
おそろしや、鳩山。
918 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 02:10:06
魏志倭人伝なんて又聞きなんじゃないの?
詳しい事情なんか把握してなかったと思うよ。
古事記、日本書紀のほうが真実を伝えている可能性がある。
それはない。
920 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 03:16:13
記紀は「一書曰く」と異論併記でかなり冷静な編集がなされてる。
もちろん、隠れ易姓革命は誤魔化してるだろうが。
>>918 まあ伊都以降は伝聞だろうね
隋書に「倭人は里数を知らず日によってのみ計る」とある
伊都までは来た使者に対し船なら10日、陸なら1月ですよと倭人が答えたんだろう
これで突然日数で大雑把に表記されてるのが納得いく
そうじゃなきゃ投馬や邪馬台国の行程に関する情報がなさ過ぎだからね
922 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 06:26:46
資料つき合わせて矛盾あるか調べるのは普通のことだろ
>>922 記録を残した国の古代史料でしかも地理的に正しいから
あ
926 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 09:29:35
>>923 そんなの普通じゃない。
現代人の勝手な行為を、さも意味ありげに行っているに過ぎず
いったい一番肝心な倭人伝が編纂された三世紀には、何をもってそのような知識を得たのかと言う事だ
まさか隋書が編纂されるまで、長生きしろとでも?
928 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 09:52:37
>>927 一体魏略の何処にそのような?
普通、単純に「不知里數」と書かれれば、この時の里は、単位として
面積の単位の一単位と読むのがオーソドックスな読み方だと思うが
区間距離の単位「里」は、面積単位からの応用だから、文章に
明確な起点と着点を書き込まないと、区間距離の単位としては成立しない。
>>921 >
>>918 > まあ伊都以降は伝聞だろうね
それが分らないアホが多数いるから困るんですよね。
とくに畿内説の連中に多いよ。
930 :
929:2009/11/16(月) 12:59:37
追記。俺、畿内説だからね。
中国の古地図見たことがあるが、グーグル・マップとはほど遠いし、当時の日本
の道もまっすぐに走ってるとは思わんし、かなり不正確だろ〜。
そんなので場所なんて特定できんよ〜。おまけにまともに読めば日本の外になるし〜
わざわざ放射とか回り道するとかヘンないいわけしないと九州もありえない。
まさに結論で可能性をさがすというあほうな陰謀論と同じ施工難だね九州説はw
実際の発掘でなんかでてきてそれとつきあわさないと話にならんわ。アホまるだし
932 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 15:22:47
933 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 15:25:05
>>931 付き合わせて、台詞を書き込み演出するのか?
出土物は何も語らないぞ
速+のスレが終わった。
なんでおまいら、+じゃないニュー速にはいけへんの?
935 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:10:50
>>943 行きたい気持ちがないから行かないだけだよ
畿内に最大勢力があった時点で九州説は破綻してるべ
九州に邪馬台国があったなら畿内の勢力はなんて呼ばれてたんだよ
きっちり敵対勢力のクナ国についても記してるってのに畿内については記述なしなんて不自然だろ
畿内が小勢力だってのならともかく国内最大級の勢力だってのに
>>936 その国内ってなに?
日本なんて国はまだないぞ。
>>937 畿内は倭と認識されてなかったと言いたいのか?
そりゃ無理があるだろw
ここで見当外れた揚げ足取りしか出てこないってのも間抜けな話だな
いや正直な話、畿内なら、魏使はマツロ国に入港しないだろ。
下関→瀬戸内海の航路をとるだろ、常識として
へー、マツロはもう比定されてたのか
なんて遺跡?
>>940 そんなのは当時の国内情勢、航路の都合によるだろ
間に山があっても直線距離で近いといってるようなもんだ
おいおい、何もも出てないならなんで場所わかるんだよ
>>941 遠浅で海藻の繁茂していた場所は北九州では唐津湾の一画だけらしい。
つまり唐津湾岸だそうだ。
946 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:38:38
>>944 宇木汲田遺跡があるから松浦に集落があったのは確定。
魏志倭人伝に出てくる壱岐・対馬・伊都を通るルートで
日本(この場合は九州島だが)に最初に上陸する場所で
松浦(マツラ)て地名というのは違うと考える方が難しくないか?
948 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:52:21
>>947 876年(日本三代実録の貞観18年3月9日の条を参照)以前の時代に松浦某て海賊が居たのか?w
949 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 18:54:26
クローズアップ現代
NHK総合TV 19:30〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/ 11月16日(月)放送予定
■謎の古代都市は邪馬台国か?
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、今年、古代史の常識を覆す発掘が行われ注目を集めている。
見つかったのは東西方向に規則正しく並んだ4棟の建物の柱穴。周辺からは全国各地の土器が出土し、ここが当時の日本の中心地であったことを窺わせる。
これまで最古とされてきた藤原京から500年もさかのぼる3世紀前半、日本最古の都市が存在したことがほぼ明らかになったのだ。
さらに、最も大きな建物は政治や宗教行事に使われた可能性も指摘され、女王・卑弥呼がいた「邪馬台国」の中心だったのでは?との見方も出ている。
九州・吉野ヶ里などの環濠集落とは大きく異なる古代都市の姿をCGで再現。2月から続く発掘調査の密着ドキュメントを交え、謎に包まれてきた古代日本の姿を探る。
(NO.2817)
スタジオゲスト : 白石 太一郎さん
(大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)
結局、
>>940の指摘に対して、まともに反論できない、分かります。
畿内説は、これでオワリ。簡単な論理だ
>>949 神武(のモデル)はそこの攻略に難儀して伊勢に迂回したんだろうな。とは思う
大都市があった=だからこれが邪馬台国
というのは、理解出来ない。大都市があればどこでも良いのか?
そもそも邪馬台国はデカくないと駄目なのか?
ってね。
マスコミは何でも「卑弥呼」に結び付けないといけないのよ
騒がれないとならないから。
騒がれないと予算がつかない事情があるの
953 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:16:49
>>951 伊勢に迂回って、神武が、か?
そんなの記紀にあったか?
それと神武はもし実在してたら、纒向遺跡なんかよりずっと昔だと思うが。
邪馬台国はでかくなきゃいけない。
邪馬台国は戸数にして7万戸を擁するといい、
近代以前の大家族主義から推察するに1戸6〜10人であり、
だいたい50〜60万人の人口があっただろうことは想像にかたくない。
だとすれば、大都市や大国家がなければ邪馬台国とはいえない。
あと、神武は邪馬台国以前、100年ころの人物な。
>>953 神武はたぶん纏向以前。
卑弥呼のときの男王が崇神。
神武からの9代は女王国になる前の邪馬台国の歴代王だと思う。
956 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:24:23
957 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:29:49
プッ、大和朝廷は日本の中心で、大きな都だったんだろう、ところでそれを物語る遺跡は見つかったん?それに人骨はどうなん?(笑)
>>957 逆に纒向より大きい都市遺構が九州にあるのか問いたい。あるの?
NHKでヒミコやってるぞ
>>953 神武とかは実在はしてないと思ってるが、モデルになった人物や事実は
もっと下った時代に存在したと思ってる。
今すぐには手元に書紀が無いので、ハッキリと書けないが
神武が攻めあぐねて後で神託を受けて、船で紀伊半島を周りこんだ箇所があったはず。
勢いで伊勢と書いたのは謝る
961 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:52:48
まったく犬HKの特集は糞だなwww
>>960 神武東遷は出雲・吉備系の畿内入りじゃないかな。
それを神武に仮託したんだと思う。
古出雲系のいた三重周辺から誘導されて、出雲系に反発の多い葛城くんだりを迂回したんだと思う。
自分と違うものは全部クソ
>>961 ノノハヽ
川*’ー’)
/ , ヽ <九州厨おわったなw 涙ふけやよw
 ̄_|,..i'"':, ̄ ̄ ̄ ̄
|\`、: i'、
\ \`_',..-i
\.!_,..-┘
966 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:06:47
>>962 葛城が出雲に反発って何を根拠にそういう意見を言うの?
それに神武東征神話は、王権の移動のような大規模なものじゃないぞ。
>>966 纒向に比べて葛城のあたりは吉備系の出土物がすくない。
つまり交渉する局面が少なかったのだろう。
王権の移動ではなく出雲・吉備系の入植と見ている。
狗奴と邪馬台の争いのなかで、愛知や岐阜、三重のあたりには邪馬台にいた古い出雲系がが入植していたし、ありえると思う。
こっちのほうがいいんじゃね。
(゚д゚ ) ワカッテルナ
ゴト /| y |
/ ̄;y=ー ̄ ̄/||
/_____/. ||
|| ||
|| ||
970 :
960:2009/11/16(月) 20:17:04
>>962 出雲国風土記には無い記紀の出雲国譲りのモデルは
崇神の「出雲の神宝ヨコセ」の所だと思うんだが、それは吉備・出雲の大和入りの前後どっちと考えてる?
単純に自分が歴史妄想するタネに貴説を知りたいだけなんですが
失礼に当たるようなら、不快に思われたらレス不要です。
>>968 葛城の出土物が少ないのではなくて、
葛城地方は未だに手付かずだからだ。御所市は財政破綻寸前の街だし、
発掘を支援するような余裕はないみたい。
古代のキーワードと言っていいよね、葛城は。
一説では卑弥呼は葛木日女命でこの名前は、モモソ姫の旧名(?)だとか。
>>970 神武と崇神は一人格で、同じハツクニシラス、とみている。
吉備系出雲人の邪馬台入植は倭国大乱の引き金だと見ている。
だから崇神のころ。
諏訪大社のタケミナカタが国譲り神話に起因していることや、
三重や岐阜に古い出雲系の神がいて、諏訪の神と関わりが深いことから、
倭国大乱が吉備系出雲人と古出雲人の争いで、結果あたらしくタケミナカタという氏神を抱えて、
邪馬台をでてさらに東に流れたのだと思う。
この時に諏訪では、出雲勢を迎える派閥と排撃する派閥に別れ、
結果、迎える派閥が勝ち、ミシャグチの神格を備える諏訪神とタケミナカタの二本立てになり、
別れた排撃派がさらに東に下り、毛野をつくったのだと思う。
973 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:39:36
>>972 妄想のしすぎだなあ。
まず、神武と崇神は一人格じゃない。
よくそんな根拠の無い空想が語れるものだ。
記紀を100回読んでこい。
神武の周囲にどんな人間がいるか、崇神の周囲にどんな人間がいるか、箇条書きしてみろ。
類似性はまったく無いよ。
974 :
970:2009/11/16(月) 20:44:47
>>972 レスありがとうございます。
ハツクニシラスに関しては同意するものですが、そこから先は趣を異にしますね。
諏訪や岐阜の方はよく知らないのでまた調べてみます。
あと諏訪・ミシャグチと聞くと、各地にある「蛇とムカデが争うのに
劣勢な蛇が現地の人間の力を借りて勝つ。」という民話を思い出しましたw
>>973 同じ人格なんだけど、丸コピじゃなくて分割なんだよ。
系譜の始祖から9代目まで何も記事がなくて、10代目に突如としてあらわれた大量の記事を、
二人の人物に分割して記したわけだ。
だから似ている人物、キーパーソンには同一と思われる記事があるが、
それ以外は分かたれたため記事が異なる。
この主張はかなりむかしからあると思うけど?
976 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 20:47:53
Wikiによると
九州南部は8世紀末に「日本」へ組み込まれたが(→隼人)
これからすると
九州→倭
本州→大和
って考えるのがしっくりくる
後の世の話になりますが、朝鮮通信使は対馬を経て博多湾に寄港し、
瀬戸内海を通って大阪湾で上陸して江戸に行っている。
邪馬台国が畿内なら、わざわざ松浦に寄港する必要はないのです。
末路国が松浦だとすれば、邪馬台国はやはり九州だとするのが妥当。
しかも、西側。
俺なら古代の航海技術、造船技術の船に乗るくらいなら歩くなw
979 :
970:2009/11/16(月) 20:58:41
>>973 横レスでスマソ。
神武のモデルは複数いて、その中の1人が崇神というのは有りじゃないか?
崇神のとこの、出雲振根=建御名方…振根の弟=事代主。としてみると
兄は大和に逆らい、弟は大和に従おうとする。
部分に加えて、振根の弟の亡骸が泉の藻の下にあると童が唄う部分は、
事代主が水中に作った青臥垣に入って幽界入りする部分と
必要以上に類似してると思うんだが?
980 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:00:01
>>975 >系譜の始祖から9代目まで何も記事がなくて、10
どうして途中の婚姻関係を無視するわけ?
モモソヒメは誰の娘なんだよ?
981 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:03:15
>>979 >崇神のとこの、出雲振根=建御名方…振根の弟=事代主。としてみると
どうしてそういう根拠の無い関連付けをするわけ?
せめて、神社の伝承とかで誰々と誰々が同じとかソースがあるならともかく、
自分勝手な空想にすぎないでしょ。
それを拡張して史実まで語るのは無謀。
983 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:03:49
>>976 書紀とか見ると海幸山幸のとこで隼人を降してる。
その後で東征が始まるから、九州の中部・北部を支配してた集団が九州の統一後に東進を始めた。
て考えてるから納得してやんないw
984 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:06:01
>>977 九州上陸隊とイズモ投馬上陸隊は、全くの別ですよ
陳壽の適当な編集の御蔭でみんな混乱したんだよな
985 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:07:10
NHKクローズアップ現代
泣きながらみていました。(九州派一同)
>>981 じゃあ日本書紀を見てくれ
神武と崇神は共にハツクニシラスだ。
神武は国譲りを求め、崇神は伝国の璽を求めた。
求められた側の兄は逆らい殺され、従おうとした弟の死には水+緑がセットになる。
朝廷(権力)に逆らって誅殺された後に神格化される例なんて日本中に腐る程あるよ。
988 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:17:39
神武と崇神はハツクニシラスでも字は違ったんじゃない?
990 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:18:16
992 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:20:06
>>987 >神武と崇神は共にハツクニシラスだ。
違う。
原文の漢字はまったく違うだろ?
ハツクニシラスと訓をつくたのは、飛鳥時代以後だよ。
993 :
987:2009/11/16(月) 21:21:11
ついでに書くと、出雲振根も誅殺した後で殺した側の大和が祟りを恐れて鎮魂を頑張ってるよ。
反大和な感情を持ってる集団にしてみれば
間接的に賛美・同情・神格化するには、うってつけな人材だろうよ
994 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:22:19
神武=始馭天下之天皇
崇神=御肇国天皇
この漢風謚号そのものが、7世紀のもの。
さらにハツクニシラスと訓をつけたのは、さらに後の時代のことだよ。
これをもって同一人物だとかいうのは、物を知らなさすぎる。
995 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:23:46
>>992 記紀が編纂されたのは何時代だと思ってんの?
996 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:23:56
邪馬台国は、畿内勢力に対抗するために魏に使いを送って封柵を受けたのだから、
むしろ、畿内勢力のほうが大きかったと見ることもできる。
997 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:26:57
モモソヒメやオオヒコが誰の子とか少しは考えろよ。
どうかしてる。
>>994 だから7世紀の権力者の都合にあってりゃ良いんだろよw
それともナニか神武が個人として実在してたと言いたいのか?
それこそ変だろう
999 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:35:27
同一人物視することのほうがおかしいってことだよ。
根拠も無く。
1000 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 21:35:28
1001 :
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