邪馬台国ドンと来い! 51

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1ローガン
たてました。どうぞ。
2伊都国王:2009/08/23(日) 10:09:27
邪馬台国の都は伊都国
伊都国の「世有王」は卑弥呼、壱与のこと
「皆統屬女王國」の皆は倭の国々を指し
女王國とは邪馬台国のこと。
3日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:46:35
>>1 乙

補足

前スレ『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 50』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1250354179/l50
4伊都国王:2009/08/23(日) 10:59:25
「皆統屬女王國」の皆は倭の国々を指している根拠として
魏略がある
魏略では「世有王」の文は無く『其国王皆』となっていて
皆は倭の国々の王達を指している
倭人伝では皆が倭の国々を指し
魏略では皆が国々の王達を指しているのは
魏略では倭王が任命される前の時代で国々の首長が王を自称していた
倭人伝では卑弥呼が倭王に任じられ他の国々の首長は官となったから
「世有王」が魏略に無いのは卑弥呼単独の時代でまだ代々ではなかったから。


5日本@名無史さん:2009/08/23(日) 11:06:22
注…卑弥呼=大和巻向にある箸墓のモモソ姫の事です。

これが現在では定説となっております。
6日本@名無史さん:2009/08/23(日) 11:08:04
>>5
釣りが露骨過ぎますよ
7伊都国王:2009/08/23(日) 11:09:13
従来の「世有王」と「皆統屬女王國」を続けて読み
「伊都国の代々の王は皆、女王國に統屬する」は重大な誤訳であり
ここから誤訳の連鎖が始まっていたのである。
女王國(邪馬台国)の都は伊都国であり
女王國とは北部九州一帯に有ったのである。
魏志倭人伝は北部九州の事を中心に書かれており
東は山口、瀬戸内海地域くらいまでしか記されていない。
畿内の事は全く触れられていなかったのである。
8日本@名無史さん:2009/08/23(日) 11:13:38
>>7、影が薄くねえか?
どこか身体の具合でも悪いのなら、無理して
書き込む事はねえと思う。
マジで薄すぎる
9日本@名無史さん:2009/08/23(日) 11:20:43
卑弥呼とはヒミホです。「コ」とは読めないですね。
つまりヒ・ミホ、出雲の御保津姫の事なのです。
御保津姫は丹波亀岡にある出雲大神宮に祀られていますが、
ここが本来の出雲神社なのです。
出雲の国譲りに際して大物主に嫁いだとされる姫ですが、
何故か巻向のモモソ姫と話がダブりますね。
まあここまで書けばわかると思うが、御保津姫=モモソ姫だと仮定すると、
卑弥呼の話しなんて全て話しが繋がってゆく簡単な話しなのです。
10日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:38:58
 邪馬台国畿内説の有力候補地である纒向遺跡(奈良県桜井市)で、既に確認されている3世紀前半の建物跡で新たに柱の穴が見つかり、
壁の外から棟木を支える「棟持ち柱」の跡の可能性が高いことが22日、分かった。

講演で長野市を訪れた桜井市教育委員会の橋本輝彦主査が終了後、共同通信の取材に明らかにした。

桜井市教委は、この建物が重要施設の可能性が高いとみている。
橋本主査によると、同遺跡で棟持ち柱の穴とみられる遺構の発見は初めてで「この時代で棟持ち柱を持つ建物は、神殿などであることが多い。

纒向遺跡が邪馬台国であったとすれば、卑弥呼の宮殿だった可能性もある」と話している。

遺跡では、1978年に神殿のような建物(約5メートル四方)と推測される遺構を発掘。これまでに3棟の建物跡が確認されている。

新しい柱穴は2〜3月の調査で、建物を支える三つの柱穴の近くで見つかった。市教委は9月からの調査でさらに詳しく調べる。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009082200144&genre=M2&area=N10
11伊都国王:2009/08/23(日) 12:45:25
>>10
見当違いの発掘をして
桜井市教委って悲しい組織
橋本主査は残念な人。
12日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:46:43
>>9
卑弥呼は一生独身だから、>>9は創り話か、他人の空似。
13日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:55:19
>>11
>見当違いの発掘をして

発掘する事自体が見当違いなのかな?

纏向のニュースが余程嫌なんだなw
14九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/23(日) 12:59:41

倭(倭人)の国:狗邪韓國〜又倭種の国々まで
倭の30ヶ国:狗邪韓國〜餘旁國の奴國まで
女王國:邪馬臺國、投馬國、不彌國、奴國の4ヶ国

狗奴國は倭地の倭(倭人)の国。(狗奴國は今使譯が通じない所の國)
狗邪韓國は韓地の倭(倭人)の国

伊都國の王は倭國王
卑彌呼は邪馬臺國に都する女王國王
狗奴國王は卑彌弓呼
15伊都国王:2009/08/23(日) 13:25:38
>女王國:邪馬臺國、投馬國、不彌國、奴國の4ヶ国

「皆統屬女王國」とあるから女王國は倭の国々を皆統屬していた
4ヶ国だけは誤り。
16日本@名無史さん:2009/08/23(日) 13:40:22
九州説のみなさん江

では、こんなストーリーはいかがですか?

朝鮮半島で公孫氏が興ったとき、九州は漢と朝貢貿易ができなくなった。
九州は威信を失い、大乱がおきた。
ようやく卑弥呼が共立され、乱が終結したとき、九州はすっかり衰退に向かっていた。

畿内では大和王権が生まれつつあり、脅威を感じた卑弥呼は公孫氏の冊封を受ける。
九州はすっかり経済に行き詰っており、
その頃手に入れた画文帯は、自分のものとしてではなく、大和王権に輸出していた。
卑弥呼は、古い後漢鏡を自分のものとして九州のクニに配るしかなかった。

公孫氏が滅ぶと、卑弥呼は魏に朝貢して倭王と認めてもらった。
魏から鏡を100枚もらうことは出来たが、古い後漢鏡の詰め合わせばかりで、
最新の鏡は手に入れることも出来なかった。

畿内の大和王権に、じりじりと追い詰められる九州の邪馬台国は、
トヨを立てて普に朝貢するものの、それを最後に消滅した。
九州は畿内の景行天皇によって平定されていった。
17太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 13:51:22
倭の五王等がいて、まだまだ朝廷は九州支配までに至っていないよ。
景行の世、日本武尊の九州征伐はあったろうが、これで九州制圧
かというと、まだまだだな。景行九州行幸は視察のため。

でもよく考えていて〜評価したくなる。朝廷が九州を把握したのは
文武の世前後だな。ここで日本の天下二分の系は終りを遂げ、畿内
朝廷の全国支配がほぼ完了する。
18日本@名無史さん:2009/08/23(日) 14:24:29
>>16
実は俺も似たようなストーリーは考えた事はあるwwwwwwww

ただし俺の場合は公孫氏と通じていたのは畿内ヤマトの方。

で、公孫氏を打ち滅ぼした魏にすれば公孫氏と通じていた畿内ヤマトよりは
漢朝と通じていた九州を冊封する方が色々と都合が良かった。

無論日に日に畿内ヤマトを中心とした首長連合からの圧迫を感じていた
九州邪馬台国の素早い行動も功を奏した形。

この筋書きなら当時如何に首長連合の勢力が強大であっても
九州邪馬台国の勢力が弱小であったとしてもそんな事は関係なくなるメリットがあるw

まあ問題はそれをどうやって証明するかで
例えば九州に質量ともに低下の一途をたどっていた銅鏡が
一時期でも増加に転じた・・・なんて現象でもあれば良いんだがwwwwwwwwww
19日本@名無史さん:2009/08/23(日) 14:53:25
「魏志倭人伝の第一印象で、邪馬台国は九州だろう」という思いと、
考古学上の成果との整合性を考えると>>16になるしかない。

印象と物証の整合性を取るか、物証だけで決めるか、
どうもこのへんが議論の限界かね?

いくら畿内説有利の物証があり、状況証拠が山のようにあっても、
九州が衰退しつつある中で、邪馬台国が九州にあったと考えることは出来る。
「考えることは出来る」というだけで、証明にはならないが。

20日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:01:06
逆に言えば、九州説が認められるためには、
「九州が衰退していた」
「畿内に首長連合が生まれた」
という2点を合意することだな。

そうすれば、九州説は、考古学上の問題点は無くなる。魏志倭人伝にしがみつくだけで良い。
畿内説は不利になる。畿内が魏と冊封してたことを明確に証明する義務が生じる。

九州説で、合意できる賢い人がどれくらいいるかだな。

21日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:02:50
>>12
大物主に嫁ぐという事は神に嫁ぐ=巫女ですよ。
22日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:10:35
>そうすれば、九州説は、考古学上の問題点は無くなる。魏志倭人伝にしがみつくだけで良い。

魏志倭人伝にしがみつくなら、径百余歩(145m余り)の墓がなければならないよ。
3世紀半ばすぎの九州は、既に前方後円墳の時代。畿内の大型前方後円墳の縮小版。
23日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:12:52
潔く諦めろ。
昨今の発掘状況では九州説は100%無理だ。
24日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:22:55
確かに発掘状況じゃ無理だな。
だから倭人伝に頼らざるを得ないのだろう。
25日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:25:27
ああやっぱり、畿内説の人間に九州説を語らせた方が良いよねw
逆に九州説の人間に畿内説を語らせるのは絶対に無理だと思うけどwwww
26日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:29:40
ただ考古学の場合「出て来ない」事を持って語るのは危険と言うか邪道なのでは?w

それまでの山陰のイメージを一新させた
加茂岩倉や荒神谷のような一発逆転の大物がでてくる可能性だってある…かもしれないしwwwww
27日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:32:36
>22
え?、畿内の前方後円墳のほうが後なのか?
前方後円墳は畿内の方が進んでいると思ってた。
28日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:35:26
しかし出雲には何も無いと言われてた前提があるからな。
北部九州辺りでは別にサプライズを感じない。
可能性としては宮崎や徳島辺りだろう。
29日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:43:37
>>28
九州で言えば熊本の方保田東原遺跡が最有力のような気がする
免田式土器もあるし、甕棺を早くに止めた地域であるから

四国は阿波より讃岐の方が俺は気になるな
積石塚の中心地であるし、前方後円墳のおおもとここにあると思う
30日本@名無史さん:2009/08/23(日) 15:58:20
>>10
>神殿のような建物(約5メートル四方)

これって笑うところかな?
31日本@名無史さん:2009/08/23(日) 16:02:14
畿内説の人間には田んぼの畦道も都市の道路に見える。
32日本@名無史さん:2009/08/23(日) 16:18:16
左に見えるのが卑弥呼の墓、正面に見えるのが三輪山です。
邪馬台国は、平城京どころか、長安やコンスタンチノープルを凌ぐ
比類のないほどの巨大な都市にだったことがわかります。
×5m、○5km ですだよ。>>30

http://theworldheritage.com/photo/tiotiwacan_top.JPG
33縄文人:2009/08/23(日) 17:34:57
畿内説派の皆さんも邪馬台国は九州にあったと認めはじめましたね。九州だと認めるから畿内の大和王権が強大に
なり始めた頃邪馬台国は衰退したことにしてくれないか と申し出てこられましたね。

私は時期の点を除けばそれで結構ですよ。大和王権が確立したのは4世紀以降です。この点は認識を改めて頂く必
要があります。

ついでに言っておきますが、大和王権を築いたのは元は九州から来た勢力でした。彼らは新しい技術と政治力に優
れた指導者を持ち、出雲や吉備や丹波や讃岐の豪族を懐柔して取り込み、崇神の時代に畿内に九州を凌ぐ王権を確
立したのです。

私は、遺跡の全ては発見されていない、むしろ発見されたものは幸運でその数はあるべき数の数%程度でしかないと
考える者です。したがって、現在出土しているモノに余り多くを語らせるのは考えものだと思います。
34日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:05:40
まだ全てが出揃っていなかったとしても、
出てしまった決定的な証拠は消せないよ。

35日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:06:54
箸墓4世紀築造の可能性0%
36縄文人:2009/08/23(日) 18:14:13
>>34
おっしゃるとおり、決定的な証拠が出ていれば消せません。でも畿内説を証明するものはありませんね。
37日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:15:18
>>35
そんなこと言ってよろしいんですか?
38日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:19:13
>>19
>九州が衰退しつつある中で、
勘違いしてはいかんな。九州は衰退していないよ。北九州は確かにぱっとしない
が、南九州は3世紀後半には隆盛を極める。そして、そのまま7世紀まで繁栄を
続けている。
倭国の乱は北九州と南九州の戦いで、南九州が勝利した。だから、女王国勢力に
搾取され、一大率に検察されていた北九州はぱっとしないが、南九州は繁栄をつ
づけたんだよ。
39日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:21:18
だから庄内式土器と画文帯神獣鏡がホケノ山古墳から出てしまった、と何べんもここで語られているだろう。
画文帯神獣鏡は3世紀前葉に中国から持ち込まれていた副葬品だ。
40日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:24:53
南九州には卑弥呼を彷彿させる姫の伝承はありません。
倭国大乱の痕跡もございませんので無理ですね。
41日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:26:04
>庄内式土器と画文帯神獣鏡がホケノ山古墳から出てしまった
それが何だってのかな?
42日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:29:45
>>33

縄文人はやっぱりバカだったか。

畿内王権が4世紀だというなら、それを証明する義務は九州説側にある。

どうぞ、証明してみてくれ。
43日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:31:14
>>41

庄内式土器の時代は、九州は衰退してます。
44日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:39:42
もっと論点を明確にしなきゃいかんな。

九州説というのは、もう存在しなくて、並立説か畿内説しかない。

並立説=九州の邪馬台国と畿内の大和王権が同時期(3世紀)に存在してた。畿内の大和王権を否定するのは困難。
畿内説=邪馬台国は畿内の大和王権で、3世紀に成立した。並立説を否定するのは困難。

現在の状況では、もう、可能性としてはこの2点しかない。
縄文人はいまだに畿内王権は4世紀からだと言ってるが、根拠となりえる証拠は何もない。
あるなら、出して見れ。

九州説は、何も言わなければ、消極的に成立するかもしれないのに、
「畿内王権は4世紀からだ」なんて言うから、積極的に証明する義務が生じてしまった。
というのが、論点。わかりやすいね。



45日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:46:00
>庄内式土器と画文帯神獣鏡がホケノ山古墳から出てしまった
それが何だってのかな?

3世紀前葉のものが出てくればホケノ山古墳築造は3世紀だろうよ。
ここに埋葬されている人は3世紀前葉の中国と付き合っていた。
46日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:47:32
九州が衰退してないと言い張るのが、間違ってる。

九州からは魏時代の新しい鏡はほとんど出ない。
後漢までの古い鏡ばかり。
卑弥呼が魏からもらったという100枚の鏡らしきものは1枚も出土していない。
これだと思える鏡を1枚くらいは提示してみたらどうか?
九州が衰退していないと言い張るならば。
47日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:50:42
ホケノ山は庄内式土器の時代につくられたが、
九州の庄内期では、めぼしい遺跡が見当たらない。

九州の庄内期で、繁栄をしてた遺跡があるなら、まず挙げてみてくれ。
九州に邪馬台国があったなら、主要な30国の一つだったはずだからな。

48日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:54:52
まあ、そうだね。いつも議論になれば、庄内式は4世紀だの、画文はほとんど国産だの、年輪
年代はごまかしだの、そんなことばかり。相手はしてやってるものの、畿内説からすれば、
建設的でないことはなはだしい。北九州も、筑紫も、宇佐も、南九州も、卑弥呼の都城と墳墓、
鏡の候補を示して堂々と論陣を張るべきだな。
49日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:55:02
仮に東征される前の昔の九州勢力の手にした鏡が副葬されたとしても、
それを引き継いだ勢力が畿内の墓に埋葬されている。
東遷説だな。
東遷説以外はここでOUT

しかし、卑弥呼以降の東征だと、
歴代天皇系図で合わせると、
10歳近くで子息を作らないと記紀の系図は成立しない。東遷説は記紀破綻だ。
太国に踏みにじられて縄文人は壊滅。

50日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:17:38
だいたい九州勢力の東征なんて、
魏志倭人伝にも記紀にも書いて無いのに、どうして何をこだわってるのかがわからんね。
精神分析かけたほうがいいかも。

51日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:18:32
>>48
それは、「畿内説の攻撃=九州説の有利」という安本式論法に毒されてる人が多いからだろ。
ま、この図式自体は長年の対立の歴史を考えれば妥当といえないこともないし、畿内説考古
学者の年代遡上にマジで腹立たしいという人もいるだろう。しかし、一歩九州説内を振り返れば
あちこちバラバラで、そこらじゅう論敵だらけだ。比定地もそれぞれだが、王朝もいれば東遷もい
る状況。そしてこのほとんどが倭人伝を、正しく、素直に読んだ結果とのたまう。面白いよなあ。
52日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:18:54
縄文人は男らしく、
証拠をだしたらどうだ。
鏡、墳墓、何か出したらどうだ。
脳内九州説では話にならんではないか。
先ずは畿内説の立っている土俵に登ってみれ。
53日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:31:29
>>51
こうしたらどうだろう。「日本@名無史さん」は禁止して、全員が名前欄に、@比定地 A卑弥呼の
墓の候補 B卑弥呼の鏡候補 C記紀で卑弥呼に当たる人物(あれば)を入れる。その上で、自説
の主張なり、他説の攻撃なりをする。この@〜Bが書けないのなら参加資格なしとする。まあ、ムリ
な話だが、きっと面白いだろう。
54日本@名無史さん:2009/08/23(日) 19:58:00
>>53
それをやれば、「何考えてんだ、お前」とかから始まるレスが多くなるんじゃねーの。
55日本@名無史さん:2009/08/23(日) 20:08:14
つーか、そんなことしたら2chじゃないし、よその掲示板でやれよってことに
なると思う

ID表示だけでもあれば良いのに・・・
56日本@名無史さん:2009/08/23(日) 20:57:25
>>53
卑弥呼の墓とか、記紀での卑弥呼の候補をあげるとか、
畿内説で固まってからの話だな。議論が混迷するだけだ。

とりあえず、九州説の諸氏は、
九州の中で、庄内期に繁栄した土地をリストアップしてくれ。
少なくともその地域が卑弥呼共立30国に含まれるのは確かだから。
あと、卑弥呼の鏡候補は必要だよね。

57日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:08:36
>>56
案を出しながら自ら率先してやらないのは一体なんなんだ?
その気があるなら先ずは見本を示せよ。
58日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:11:35
王金林の「邪馬台国と古代中国」のp100に面白いことが書いてあるよ。

九州で後漢鏡片が見つかった遺跡は、20箇所以上。
鏡片は新時代と後漢時代に限られる。
内行花文鏡・方格規矩鏡が主。
鏡片はペンダントみたいにしてたらしい。
前漢鏡の出土範囲は、福岡・糸島平野の域を出ない。
後漢鏡は、やや出土範囲が広がるものの、博多付近を中心に50〜100キロ圏内が多く、150キロを越えない。
魏の時代の鏡の出土状況については言及なし。古墳時代に入るからね。

邪馬台国が古墳時代前の九州にあるとしたら、おおよそ姿が見えてくるんじゃないの?
結局、魏からは、古い後漢鏡しかもらえなかったということになるし。


59縄文人:2009/08/23(日) 21:12:13
>>44
私は箸墓やホケノ山古墳や庄内式土器や画文帯神獣鏡などは邪馬台国が存在したという証拠にはならないと言っている。
先ず、それらの古墳の築造年代が確定していない。出土した土器や鏡が3世紀に埋められたものであるという証拠がない。

倭人伝の記述は邪馬台国が九州内にあったことを示している。倭人伝の方角をねじ曲げ、伊都国を前原市辺りに比定しな
ければならないなど恣意的な解釈をしなければならず、それでも苦しいから考古学資料に頼る畿内説派の皆さんこそ、証
拠を示すべきでしょう。
60日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:12:47
何か、まともな議論に持ち込まれると九州説は堪えられないんじゃないかな。
議論の方向性を曲げるしか打つ手はなさそう。
へんてこな九州派連中が蔓延るのも分るような。
ほんでもって言意学?の登場ってか。
石投げたくなる人も多いだろう。
61日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:13:36
何か、まともな議論に持ち込まれると九州説は堪えられないんじゃないかな。
議論の方向性を曲げるしか打つ手はなさそう。
へんてこな九州派連中が蔓延るのも分るような。
62日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:16:10
>>58

ということは、邪馬台国候補地の筆頭でもある日向からは、
後漢鏡とか出てこないってこと?

ダメダメじゃん。

63日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:18:08
>私は箸墓やホケノ山古墳や庄内式土器や画文帯神獣鏡などは邪馬台国が存在したという証拠にはならないと言っている。

だから、箸墓築造が3世紀になるといっている。

>出土した土器や鏡が3世紀に埋められたものであるという証拠がない。

卑弥呼以降の東遷説の場合、そうでなければ記紀の系図が破綻する。

64日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:20:09
>>59

ホケノ山の庄内期が4世紀だとすると、
九州の庄内期も4世紀になって、
九州には後漢時代から鏡の輸入が途絶えちゃってる、って話になるんだけど?

卑弥呼のもらった鏡はどこいったのさ?

ホケノ山を4世紀にすると、自分のクビもしめることになるって、理解できないの?
65日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:24:57
結局出土状況や伝承から推測すると、畿内説しか残らないという事です。
66日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:31:10
だから、縄文人は理解できないんだよ。そういう思考はできないんだ。土器編年を繰り上げる
と、畿内や九州の出土品の年代も一緒に繰り上がるってことが全く理解できないらしいんだ。
というか、庄内式と何が共伴になってるのかも、おそらく一つもわからないと思う。
67日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:31:25
奈良時代以降ならまだしも
古墳以前に各地の土器が同時期に出てくるはずだ
という前提が、かなり納得しにくい。

畿内発祥でも九州発祥でもいいが
どちらかで発祥したものがもう一方に伝わるのには
かなり時間がかかるのではないだろうか

すでに製造されているものが、移動するのには
それほど時間はかからないだろう。
しかし、各地に製造工房跡があるような土器は
工房を含めた土器製造技術を持った人間が現地に定着し
土器が受け入れられるまでにはどのくらいの時間がかかるのだろうか。

そして、もし非常に早く広がっているとするのならば
それを起こした原動力は何なのだろうか。
また、旧土器と新土器が同時進行的に使われたということはないのだろうか。
68日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:34:34
>>67
そんなこと言ってたら畿内はもっと古くなっちゃうぞw
69日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:37:11
>>67

もう細かくわかってますから。

この土器がどこの土で焼かれて、どこに運ばれて、
運ばれた先で、地元民が真似して同じような土器が作られてって、流れはほとんど解明されてますよ。
70太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 21:41:18
>>46
どうだ? 金印をもらった天皇を教えてくれ。
71日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:43:00
>68
自分は基本的に九州説だが、考察の結果
九州説が不利になっても仕方がないと思う。

それよりも、まず要素をできるだけ率直に考察し
信頼できる材料を増やしていくほうが大事。

基本的な要素をいろいろと考えて、九州説が有利であれば
にんまりし、不利になれば頭を抱えるだけのこと。

九州説のために材料を拾うのではなく、材料を構築していった結果
九州説になればいいなと期待をしているだけ。

先に結果があってはならない。もっとも自分も
恣意的な材料だけを拾っていると気づくことは良くある。

72縄文人:2009/08/23(日) 21:46:16
>>64
私は遺跡、遺物は全て発見されてはいないと言ってるでしょ。卑弥呼の貰った鏡なんて誰も知らないでしょ。大きさや文字や
紋様が記録された文献でもありますか?そしてそれが既に出土していると決まっていますか?

畿内説派の全ての人がそうではないでしょうが、仮に、巻向地域に卑弥呼の宮殿(楼観城柵厳設)があったという人がいると
して、あんな防衛しにくい場所に誰が王の宮殿を建てますか?軍事的な知識のない人しかそんなことを考えません。
だいたい、畿内にそれらしい遺跡はないでしょう?九州説の人達と違って、畿内説の人達は遺跡発見に力を入れていますから
何かしら出てもよいでしょうに。
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 21:46:19
>>33
>大和王権が確立したのは4世紀以降

縄文人さんよ。なぜなの?? 根拠が無いんじゃないの?
74日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:52:09
うざいから縄文人を徹底的に粉砕してしまえ。

いくらあがいたって、今更に土器編年を覆すのは不可能だ。
君の方が首絞められるのだ。
75日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:53:09
日向の鏡か。古い資料だけど、ちょっとみただけでも次のようになってるけどな。
持田・・1号墳 舶載盤竜鏡、舶載獣帯鏡
    20、24号墳 画文鏡
    25号墳 変形四獣鏡
    38号墳 内行花文鏡 
    45号墳 紀年盤竜鏡 三角
    48号墳 三角
  
76日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:53:52
>>72

縄文人袋叩きwwwwww


77日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:54:31
>>72 >あんな防衛しにくい場所

おおかたの畿内説では、纏向は首長連合が新しく開いた王都(の一部)。ゆえに環濠も持た
ない。各地葬制の習合や搬入土器の多さは、特に防衛を考えていなかったことの証左。ある
いは自由市場的な性格もあったかもしれない。また、初期大型古墳も連合国各地からの人手
で築いたのかもしれない。ま、このあたりの根拠はないが。
78日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:55:20
>>75

古墳時代前の墳丘墓での出土?
九州説では、卑弥呼の時代は古墳時代前でしょ。
79日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:56:08
>>45
単純だな。画文は朝鮮半島から入ってきたって話、知らないのか?
80縄文人:2009/08/23(日) 21:56:51
>>73
太国ちゃん
ごめんね紀を利用して。崇神が大和王権を確立したというのはいいだろ?その崇神は3世紀末から4世紀に活躍したんだね。
神功皇后の新羅征伐が360年代、仲哀天皇が14代とされるから10代の崇神天皇は300年前後でバッチリ。
81日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:56:59
土器編年についてははじめはかなり正確なものだと思っていたが
巻向箸墓の研究により、土器編年の年代のほうを修正する事項が
いくつかあった。
意外と年代は分かっていないのだなというのが印象だった。
82日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:57:19
畿内の土器を調査して作られた土器編年は畿内ではよく当てはまるが
他の地域では当てはまらないと聞いたが
83日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:58:32
>畿内説の人達は遺跡発見に力を入れていますから

何を根拠にそんなことを。ww 纏向あたりは無人駅で、九州のように「ここが邪馬台国です」
のような看板もない。桜井市の年間予算をググってからものを言え。
84日本@名無史さん:2009/08/23(日) 21:59:11
縄文人
ほら、太国さんからも攻められているよ。
箸墓3世紀築造の話で、何故か太国論が生き返ってきたよ。
不思議な奴だね。

85太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 22:00:21
なんだか縄文人氏は崇神没年258説と318年説をまたいでいる〜聞い
たことがなさそうな話。これは6世紀以降ではあるまいが。
こんなんでは困ったもんだね。
86日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:01:19
>>83
確かに九州の邪馬台村興し活動は行き過ぎだな。
まあだから必死なんだと思うけど。
87縄文人:2009/08/23(日) 22:03:48
>>77
卑弥呼が共立される前は倭国大乱、卑弥呼は狗奴国王卑弥弓呼と不和、相攻撃、などの記述があるのに、

<おおかたの畿内説では、纏向は首長連合が新しく開いた王都(の一部)。ゆえに環濠も持た
ない。各地葬制の習合や搬入土器の多さは、特に防衛を考えていなかったことの証左。>

などと。脳天気なことをおっしゃいますな。
88日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:06:27
>>83
そうだな。大事のような報道だが、今回の掘立柱建物の発掘調査だって、たかが駐車場の
地下をちょこっと掘るもの。予算も、公民館一つ立てるのに億近くかかるのに比べてほんの
わずか。纏向小学校のトイレ改修費とおっつかっつだな。このスレの人が思うほど、古代史
は関心を持たれてない。どこの自治体も、今生きている人の生活が第一。
89日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:06:49
>>78
古墳は日向発祥かという考え方もあることを知らないのか?
90日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:06:57
大宰府では弥生式土器と須恵器が同じ地層から
かなり大量に出てきているそうである。
土砂崩れで混ざっているという説もあるようだが
地質的には土砂崩れの痕跡はないようだ。

別の国や田舎では古いものがそのまま使われ続けて
いてもおかしくないのではないだろうか。
91日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:07:09
>>87
まともに反論出来ないなら諦めろよw
92日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:10:59
>>74
まともな反論のできない奴が吐くセリフだな。こんなこと書き込む奴こそウザイ。
93日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:11:45
で、古墳時代当初、大和の古墳を造った人々はどこに住んでいたんだ?
纏向からは住居遺跡はでてきてないんだろ?
94日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:13:42
>>58
>鏡片はペンダントみたいにしてたらしい。

完鏡なら鈕孔部分に紐を通して…ってのは分かるが
なんかペンダントにすべく施された加工の跡とかあるのかな?

>博多付近を中心に50〜100キロ圏内が多く、150キロを越えない。

「九州の先進性」とか言っても他地域を圧倒して巨大な遺跡群があるわけじゃなし
結局、大陸からの舶載品に負うところが大きい訳で
それも玄界灘周辺が一手に支えている構図だなw

>結局、魏からは、古い後漢鏡しかもらえなかったということになるし。

いや、そこは”素直にw”後漢末期・魏代は既に九州以東にもっていかれたと考えた方が良いんじゃないのかな?www
95日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:14:34
>>87
お前には理解力がないのか。卑弥呼共立180年代として、纏向が築かれたのはしばらく後
だろう。おそらく200年代、また、宗教都市である纏向とは戦いのための拠点は別だったろう。
このスレでも「無人都市マキ向」と言ってたやつがいた。ww句奴国を東海地方とすれば(これ
は異論あるだろうが)東海地方からの搬入土器が多いのは、ヤマト首長連合の支配下に入っ
たためかもしれない。ま、これも根拠はないが。

しかし、お前四面楚歌だな。
96日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:15:36
>>91
おまえこそまともに反論出来てないじゃないか。
97日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:18:41
>>44
>九州説というのは、もう存在しなくて、並立説か畿内説しかない。
面白いな。3世紀に大和に王権があったことだけは認めてくれってことかな?
しかし、銅鐸勢力が消えた時期、すなわち九州勢力が東征した時期は3世紀ごろ
の話だろう。3世紀にはまだ畿内には独立の王権なんぞできてなかったとみるべ
きだな。九州王権の支配下に入ったばかりだ。並立とか畿内王権とか到底無理だ。


98日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:19:26
>>89
そんな話聞いた事ないし、もう諦めろ
99日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:20:18
>>93
纏向は地名だが、邪馬台国の遺跡の範囲を誰が決めた?便宜的に区切っているだけだ。
掘れば遺跡はどこまでも続いている。大和川流域、おそらく木津川方面も。
100日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:22:18
>>95
九州に本州の土器が多いのは九州が畿内勢力の下に入った証拠とか言ってなかったか?
畿内に東海の土器が多いなら、東海が畿内を勢力下においたということだろう。
101日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:24:09
>>100
搬入土器と、土器形式のみの移動(現地生産)は意味が違う。
102縄文人:2009/08/23(日) 22:26:15
>>95
理解力がないのはあなたでしょ。私は「仮に、巻向地域に卑弥呼の宮殿があったという人がいたら・・」として
それはあり得ないということを書いている。論点をずらした話をしておいて「お前には理解力がない』などと。

私は、奈良盆地に卑弥呼の宮殿があったという痕跡なり、候補地があるか?と問うているのですよ。もしあるなら
それを示せばよいでしょ。あなた方のお得意の考古学資料をつけてどうぞ。
103日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:31:52
>>98
聞いたことないなら教えてやるよ。近畿だって言うなら、まず日向の古墳について
説明せんとな。

「南九州に最古の古墳」
九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原古墳群」(宮崎県西都市)から、国内最古級とみられる
前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘でわかった。出土した土器から、築造は3世紀中ごろ
と考えられ、南九州では最古。大和政権があった畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土
の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立
に、再考を迫ることになりそうだ。
確認されたのは西都原81号墳。長さ52bで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纒向
型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先立つもので、3世紀中ごろまでに
造られたとされる奈良県纒向石塚などと同じ形。後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあた
る土器が出土した。このため、4世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼ
ることになる。
纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。南九州は「地下式横
穴」など独自の埋葬文化を持ち、のちに「隼人」と呼ばれる人々が中央政府に反乱を起こすなど、長
く中央とは一線を画してきた土地柄だ。
近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、発掘責任者の柳沢一男・宮崎大
学教授(考古学)は「南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画したいた可能性を考えなくてはならな
くなったのではないか」と話している。
宮崎大では夏にも発掘を再開する予定。        (中村俊介)
   「徳島文理大の石野博信教授(考古学)の話」
南九州の古墳がここまで古くなるとすれば予想外なことで、古墳成立問題を考えるうえでも衝撃的
だ。前方後円墳は大和から拡散する考えがある一方、全国で多元的に発生し、その後統合されていく
とする考え方があり、その可能性を示すひとつの鍵となる成果だろう。

104日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:34:04
>>102
お前は幼児か?九州説が示せないものを、畿内説だけに示せと?
105日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:34:17
>>101
どうちがうって? 東海と近畿の場合は? 近畿と九州の場合は?
106日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:37:19
>>96
俺はまともどころか反論自体してないがw

>>102
>「仮に、巻向地域に卑弥呼の宮殿があったという人がいたら・・」として
それはあり得ないということを書いている。
権力者もなくあんな馬鹿でかい墓を造るのか?
じゃ、あれはどんな人物の墓なんですかね?
107日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:39:14
>>103
西都原81号墳は古いだろうが、年代はわからん。宮崎大のコメントは、ヤマト首長連合に
日向も古くから参加して・・・とかあっただろ。(うろ覚えだが)都合のいいところだけ抜き出すなよ。
108日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:39:51
>>99
だから、どこに住んでいたんだよ。遺跡がみつかっているのか?
きっと人はいたはずだってだけなら、どの範囲の人々が古墳を造ったのか
見当もつかんじゃないか。
109縄文人:2009/08/23(日) 22:40:35
>>104
畿内説だけに示せとは言っとらんよ。だけどおまえは偉いんだろ。偉いなら手本を見せてみろ。畿内説は凄いというところを
見せてみろよ。出来んのだろ?出来んのだったらおとなしくしとけ。
110日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:41:10
>>103
南九州に最古の古墳といっても畿内より格別古いわけじゃないでしょ。
それに徳島にも最古級はあるしな。

大体畿内説だと各地にそういった古墳があるのは好都合ですよ。
111日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:44:34
>>107
柳沢は大和王権があったと考えてんだろう。しかし、そんな証拠はまったくないよ。
日向が先で、日向の勢力が大和に東征したってことかも知れんじゃないか。
112日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:45:22
>>109
お前とは違って、根拠がないことはない、できないことはできないと書いてある。俺は正直
にやってる。お前は捏造家だ。
113日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:45:46
>>103
そんな報道を自分で調べもせず信じるなら、この間の箸墓の年代に関する
報道もそのまま信じろよ
114縄文人:2009/08/23(日) 22:45:58
>>106
<権力者もなくあんな馬鹿でかい墓を造るのか? じゃ、あれはどんな人物の墓なんですかね? >

崇神が4世紀に大和王権を確立したときに、それまでの功労者の墓として作ったと考えればいいではないか。
115日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:49:00
>>108
見当位はついてるぞ、ただ掘れないだけで。

山之辺の道周辺から大福遺跡にかけて、勿論田原本周囲や
現奈良市周辺までもが予想地だ。
これを全部掘ってから主張しろとで言いたいのかな?
116日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:49:04
>>110
私が読んだ白石の本では、古墳が畿内を中心に各地へ広がったから畿内に邪馬台国が
あったと考えられる、とか言っていたけどな。その一番の根拠がゆらいでしまったと
いうことだよ。
倭人伝の行程記事から言ったら、畿内説なんぞまったく可能性がないんだ。
文献的にだめで、考古学的に根拠としていた話がくずれたら畿内説の根拠はゼロじゃ
ないか?
117日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:49:53
A ねえね縄文人ってこんだけでまかせ並べて恥ずかしくないんだろうか。

B 面の皮の厚い嫌な大人なんだよ。だから、みんなに嫌われる。
118日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:52:06
>>114
私は貴方と違います。普通に3世紀中頃の物だと思ってるので
この当時この場所に権力者が居たと考えますので。
119日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:55:30
>>116
>倭人伝の行程記事から言ったら、畿内説なんぞまったく可能性がないんだ。

君の主観で言われてもね‥
行程でも畿内論で全然問題ないですよ。
まあループネタだからいちいち書かないが。
120日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:55:48
>>116

弥生時代の日向は大陸文化から隔絶してたのに?
鏡もなければ、銅矛すらない。
121日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:55:59
>>106
>じゃ、あれはどんな人物の墓なんですかね?
弱い頭じゃ想像もできんか? 九州から派遣されてきていた将軍の墓だろう。
東征して勢力下においた諸国から兵をださせてるんだよ。その連中に造らせたんだな。
本国の大王よりも大きな墓っていったところでしょせん墓だ。本国の大王たちだって
「でかいのを造ってかまわん」と言うだろう。でかいのを造って東の連中に邪馬台国
の偉大さを目で分からせる、まあ看板ってことだろう。
122日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:57:38
>>93
マキムクには本当に住居跡が少なすぎるね。
土器は大量に出るが住居跡は1、2箇所だけ。

あそこは「大市」と呼ばれていたから、普通に大きい市場があっただけで、
人は住んでいなかったのだろうね。

それでも土器だけを強調して「マキムク王権」とかほざいているデタラメな
学者もいるが、言っていて恥ずかしくならないのだろうか?
123日本@名無史さん:2009/08/23(日) 22:58:42
>>120
鉄矛はあったんだよ。ところで、弥生時代、畿内に矛はあったのかな?
124日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:00:53
>>121
>九州から派遣されてきていた将軍の墓だろう。

さあ、誰でしょうねw
文献、出土品、伝承その他で実証してみてください。
推定だけならどんなバカでもできますよ。
勿論現在比定されている人物をちゃんと否定できる
理由も添えてな。
125日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:01:24
日向は北部九州とは異質の文化だ。
北部九州は日向や畿内のように気が狂ったような
古墳の建造はやらない。

だいたい古い古墳は円墳や方墳で前方後円墳は
明らかに新しいものが多い。
北部九州の円墳や方墳は、年代が明確でないものが多い。
126日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:02:21
>>117
嫌ってるのは畿内説派だけだろ。やきもち焼くな。みっともないぞ。
127日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:02:39
>>122
それだけ大きな国だった証拠だな。

九州の小国とは訳が違うからだよ。
128日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:02:45
>>119
北九州から南へ水行したんでは絶対に畿内に到達しない。これは主観ではなく
客観的事実だよ。
129日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:08:04
>>128
>これは主観ではなく 客観的事実だよ。
現代人のね。まず当時にまともな地図が存在するかい?
方位の間違った日本地図がもっと後世に存在するのもまた
客観的事実だよ。
130日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:08:35
>>103
いつもの日向厨かな?

…で、それの何処に

 『 古 墳 は 日 向 発 祥 』

と書いてあるんだ? アホwwwwwwww
131日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:08:50
>>124
日本書紀の欠史八代の天皇とされる人達なんかいいんじゃないか?神武の部下や崇神の部下だよ。九州から来た功労者達
だろ。
132日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:09:28
東西南北は昼に太陽見ればわかるからな。
133日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:15:00
>>130
読解力がない君には難しいかも知れないが、最後の行はそうゆう意味なんだよ。
134太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 23:16:39
>>132
そのとおり。だから方角は間違いない。

陸行一月は途中観光とか改め丸の主張の女を抱くとか、他に病人、賊
道間違い、停泊等で実際はかなり時間が取れうるから不合理はない。
135日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:16:54
>>131
何の確証もない事をよく主張できるね。
136日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:18:02
>>129
その後世のまちがった地図は、3世紀の魏使や陳寿達には何らの影響も及ぼさない。
これが客観的事実だ。
137縄文人:2009/08/23(日) 23:19:05
>>129
魏の使節には武官が同行していた筈だ。武官が方角を間違えるなど考えられんぞ。そんな方角も分らぬ者では戦争はできぬからな。
地図の話が何になるのだ?魏の使節が地図を見ながら来たとでも言うのか?自分の目で見て、聞いて、経験したことをそのまま報告
したのを(記録文書を)見て陳寿が簡潔に書いたのがあの行程記事だ。
138日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:20:20
>>136
それは客観的事実ではなく君の希望的推測だよw
139日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:21:26


結局、庄内期に繁栄した九州の遺跡は、誰もリストアップできないのか?


繁栄した痕跡も無いのに、どこに邪馬台国を求められるんだろうね?

140日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:23:31
>>134
ではその20日や一月もの道中、何故記録が一切ないのかな?
重要な記録だと思うけど。不合理ですよね。
141日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:23:50
>>139
庄内期って西暦何年くらいから何年までなの?

それ自体が思いっきり揉めそうな話題だと思うんだ。
142日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:24:28
>>139
日向には当時の繁栄をしのばせる住居址はいくらでもあるよ。珍しくないから
いちいち言わないだけだ。
143日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:25:13
>>133
日本語の不自由な馬鹿だなwwwwwwwwww

>全国で多元的に発生し、その後統合されていく

「多元的」にって意味分かるか?
それは”源”が一つじゃないって事だぞ?

どう解釈しても日向が発祥と言う事にはならないニホンゴワカリマスカ?

この馬鹿は知らないだろうが人類の進化で言われている
「多地域進化説」 と 「アフリカ単一起源説」(ミトコンドリア・イブで有名w) を想定すれば分かりやすいかな?www

まあいつもの日向厨だろうが
自説に都合悪かったらもはや定説となっているものにでもイチャモンつけて
都合がいい場合は曲解し一部分だけを切り取って喧伝する。

いい加減消えろクズwwww
144日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:26:46
>>141

実年代なんて関係ないよ。

庄内期に九州は衰退し、畿内は繁栄した。

そして、九州では、庄内期以前の時代から魏代の鏡は出ない。

九州は、魏から鏡をもらう以前に庄内期に入り衰退したってことだよ。

まだわからんか?
145日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:26:51
>>140
分かりやすい話だから、魏略や魏志に取り込むときに余計なことは省いたんだよ。
146日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:27:04
>>137
>魏の使節には武官が同行していた筈だ。武官が方角を間違えるなど考えられんぞ。

つまり答えは簡単だ。魏志の使いは「行ってない」という事だ。
随書にもそう書いてある事は何度も指摘されてるしな。
147日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:28:53
>随書にもそう書いてある事は何度も指摘されてるしな。
「行ってない」なんてどこに書いてある?

148日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:29:31
ttp://www.miyazaki-archive.jp/maibun/events/isekikataru/2006/miyazaki.prf-map.html

俺はこれ見て日向説を捨てた。
高速道路の建設が始まれば少しはまともなものが出ると思っていたが
出てくるのは縄文遺跡と並みの弥生遺跡。
149日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:30:11
台与の時代でさえ、朝貢したのは
男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹

30カ国共立でも貧乏だったんだね。
そんなに繁栄していたのだろうか。
150日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:30:17
>>145
女王の都する所への行程記事が余計な事なのか。
その割には草がどうのこうのとか書いてるけどw
151日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:33:04
>>139
庄内期、庄内期と騒いでいる奴がいるが、ショウナイ奴だのお。庄内式土器が邪馬台国の証明になるとでも思っているのか?
繁栄の跡は土器だけで決まるか?
152日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:33:15
>>143
私は唯一の発祥地とまでは言った覚えはないがね。
その記事からいっても、一つの発祥地であることは十分考えられるじゃないか?
言葉の分からんやつだ。
153日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:33:32
 >>143
まあ、そのあたりの示唆的でありながら曖昧なコメントは、いつもの石野流だな。わざわざ呼ばれ
て行った宮崎大のメンバーに花を持たせつつも・・・・。wwと、俺は読解した。間違ってるかね?
このあたり、石野が畿内説からも好かれないところなんだがね。
154日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:35:17
>>147
随書は冒頭に魏志の文を引用しているが、その中に「倭人は里数を知らん、
日を以って測る」とあるからな。
これは投馬や邪馬台国に関しては、倭人の伝聞情報だという証拠だろうという意見。
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/23(日) 23:36:14
>>140
畿内説でも、北九州からほぼ畿内までの記事がとんでいる。途中の
地域の記事が北九州あたりは多いが、そこから畿内までは途中の
中継地の記事があまり無いんでないの?

また明日 zzzzzzzzzzzz・・・・・・
156日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:38:35
>>147
陳寿が魏使の報告書を参考にしたと、どこに書いてあるんだ?
157日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:39:06
>>154
こじつけが過ぎるぞ。貧すれば鈍するってやつだな。
158日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:44:13
>>157
事実そう書いてあるしな、客観的事実だろう。
159日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:47:44
>>158
投馬や邪馬台国に関しては、倭人の伝聞情報だという証拠だろうという意見
なんてことは書いてないな。
160日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:56:07
>>152
「前方後円墳は各地の埋葬文化のハイブリッド」と言うのが畿内説の立場だからなw

じゃあ”数ある”発祥地のうち日向も加えてあげようw
それで満足かな?wwwwwwwwwwwww


まあ日向厨やアホの縄文人にお情けをかけ100億歩ぐらい譲って
日向が前方後円墳発祥の地としよう。

が、畿内説の場合ならやがて前方後円墳の広がりとともに勢力(と言っても軍事力に偏ったものではなさそうだが)を拡大
それまでのセオリーを破り銅鏡も九州以東、畿内を中心に分布するようになり、土器も全国から流入するようになる。

じゃあ日向はどうだ?

前方後円墳を発明したは良いが、それを畿内にパクられて首長連合の一構成要員になってしまったってか?wwwwwwwwwwww

そもそも北部九州のものと比べても古いのかどうかさえ今のところ不明だと思うのだが?


161日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:05:50
唯一とは言ってないとは言ったが、発祥地が複数だとも言ってないぜ。
それに、銅鏡も九州以東、畿内を中心に分布? 日向が畿内に派遣した連中に
配らせただけかも知れんな。その可能性を考えずに、畿内を中心に分布なんて
おめでたいやつだ。

162日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:09:01
>>156
ものを知らぬ人間との議論は疲れるわい。陳寿は晋の官僚として三国志を書いた。晋は司馬炎が魏から禅譲を受けて出来た王朝
で、晋の官僚、武人には魏の時代の者達が多数残っており、公式文書も受け継がれた。其の中には当然張政らの報告書も含まれ
て居た筈だ。皇帝の使者だから任務を逐えたら報告書を提出するのが当たり前だ。そして、それらの文書を管理する役所があり、
厳重に保管されたのだ。

陳寿が史書を編纂するにあたってそれらの文書を見ない訳がないだろ。司馬炎にその才能を評価され、史家として高く評価された
陳寿だ。いいかげんなことを書いて、「張政の報告書にはこう書いてあるぞ」などと指摘されたらどうなると思うか。少しは考え
て書き込んだらどうかね。
163日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:13:53
>>162
あったという根拠はどこにある?縄文人。全部お前の推測だろう。
164日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:14:05
>>161
現実に画文以降の鏡の分布は九州以東にシフしている
その現実はどうにも動かんぞ?w
(まあ厳密に言うと画文は岡村編年で7期第2段階で東西の変化はその前の第1段階で起きているみたいだが…)

だいたいそんな「たら・れば」でいいのなら
九州の前漢鏡もヤマトが九州に派遣した人間に配らせた・・・でもOKだなw

都合が悪くなったら「ちゃぶ台返し」ってか?wwwww
165日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:22:17
>>160
「前方後円墳は各地の埋葬文化のハイブリッド」であろうがなかろうが、そんなもん邪馬台国と何の関係
があるのだ。馬鹿のひとつ覚えで前方後円墳を声高に叫んでいるが、3世紀の築造だとは確定しとらんだ
ろが。それに首長連合だと?ゆるやかな懇親団体か?狗奴国と戦争する状況で平和的な組織だと?なにも
分っとらんのだな。おまえは女子高生か?
166縄文人:2009/08/24(月) 00:25:11
>>163
おまえは国家というものがどういうものか知らんのだな。
167日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:29:44
>>166
下手な文章を使い回しでコピペするから、名無しで書いてもすぐわかる。ww白鳥、内藤時代では
ない。確実な証拠がないものは、歴史学ではとらない。まあお前は、魏使の苦難の旅とかいうロマ
ンチックな夢を見てるがいい。
168縄文人:2009/08/24(月) 00:37:22
>>167
俺は歴史学をやってるわけではない。おまえのような畿内説派をからかって遊んでやってるのだ。でも今日はもう
飽きた。これから一杯やって寝る。おやすみベイビー
169日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:40:54
>>167
>確実な証拠がないものは、歴史学ではとらない。
一番先に消えるのが畿内説だな。
170日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:46:01

結局、庄内期に繁栄した九州の遺跡は、誰もリストアップできないのか?


繁栄した痕跡も無いのに、どこに邪馬台国を求められるんだろうね?
171日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:47:01
>>164
配った連中の人物像を考えてみたらどうだ?
鍬形石をつけ、矛を手にし、鏡が好きな連中だ。弥生時代、畿内にそんな
連中がいたか?
172167:2009/08/24(月) 00:52:55
>>168
からかってねえ。まあ、2chだから極端なスレ違いでなければ、何を書いてもいいのだし、こ
こで邪馬台国の何かが明らかになるわけでもない。ただ、レスからはその人となりがにじみ
出るものなんだ。品性下劣な人物が書けばそういうレスになる。これは逃れられない。
173日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:53:08
河童虫にスレッドジャックされ入れない。えーんえんえん
174日本@名無史さん:2009/08/24(月) 00:57:40
>>172上手い事いうねえ。貴殿の品性下劣さが、滲み出てるわ
175167:2009/08/24(月) 01:06:31
>>174
サンキュー
176日本@名無史さん:2009/08/24(月) 01:11:39
>>170
>繁栄した痕跡も無いのに、どこに邪馬台国を求められるんだろうね?

繁栄した痕跡が残っているという保証はどこにあるんだ?
ただ、貴殿の残っているとする思い込みがそうさせているに過ぎないのでは?
177日本@名無史さん:2009/08/24(月) 01:23:42
>>169
それは君の切なる願望だろ。
178日本@名無史さん:2009/08/24(月) 01:26:53
伝承でみた場合は邪馬台国なんて畿内以外にないのですよ。
九州では人物比定はおろか、候補地すら絞れず、
その痕跡すら見い出せません。
179日本@名無史さん:2009/08/24(月) 02:11:21
巻向の年代をさかのぼらせて
出てきた鏡をむりやりこじつける以外に
畿内の根拠は何かあるのか
180日本@名無史さん:2009/08/24(月) 02:41:39
そのうち、北部九州から金印がでる
181日本@名無史さん:2009/08/24(月) 04:17:48
>>10

のソースで

ν息では畿内で決まりになってますが、
そうなんですか?
182日本@名無史さん:2009/08/24(月) 06:47:37
画文帯神獣鏡が3世紀前葉だという証拠だから縄文人はもうどうにもならんだろう。
これを否定するなら、卑弥呼以降の東征での記紀系図破綻をどう説明するかだ。

どっちに転んだって縄文人は粉砕だ。

183日本@名無史さん:2009/08/24(月) 07:29:46
画文帯神獣鏡だけじゃなく、スライドして魏代の三角縁神獣鏡も畿内から出ている。
後漢代から魏代までの一時代の証拠は固められて揃っている。
九州からは何も出ていない。

いつまで経っても縄文人に勝算はない。
箸墓築造は3世紀だ、諦めろ。
184太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 09:21:57
>>178
君は医者だったらヤブ遺捨だね。ww
台表にガンの痕跡が見当たらないとガンの心配は無いと言ってるのと同然であり、
君の目はフシ穴も同然。体表も診る必要あるが、体内(地中)は特に重要だぜ。
そこにガンの遺跡(痕跡)があるかも知れんのだよ。>|<
185日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:05:51
>>184
君は医者だったら見当違いの誤診をするタイプだな。
全身切り刻んで結局患者を救えないんだよ。
186太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 10:13:38
今は最新機器で切り刻む必要などないんだぜ。ppp
オマエの言い分はなかなか支離滅裂だなねぇ〜。bbb www

紀無いに卑弥呼がいたんなら、記紀に当時の時代あたりに女天皇の
記事が載るぜ。卑弥呼が畿内にいたんなら、金印は天皇がもらって
るよ。所詮それが充足されないから、紀無いに卑弥呼の国なんて
ありゃあしない。ppp
187日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:26:06
>>186
バカだね、君の場合は最新機器で診断出来るのに
それでも誤診をするだけの事でしょw

記紀?九州には女天皇の痕跡なんて影も形もないですよ。
188日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:38:13
最新機器での診断結果は邪馬台国=畿内だよな。
現在でも九州説の人は倭人伝一点張りなんだし。
189日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:39:12
前原古墳群には女王の墓が確認されています。
190日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:40:48
>>188
倭人伝を無視している畿内は妄想でしかない。

191日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:47:28
>>190
別に無視してませんけど。

行程も30国も出土や伝承に関連つけて説明出来ますよ。
ループネタだけどね。
192日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:51:43
とりあえず太国は後回しだ。混雑しているからな。
先ずは縄文人を血祭りにあげよう。

3世紀・4世紀初頭の畿内の古墳からは、築造時期を物語る後漢代・魏代との交易の証拠が出てしまっているんだよ。
その王の時代の交易で手に入れた鏡が数代に渡って副葬されているんだよ。途切れる事なくね。
193日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:56:31
191も192も哀れな奴等だ
間違った方向に幾ら研究しても何の成果もないのに。
194日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:08:29
畿内説盲信者よりも縄文人の方が上だな。畿内説論者は罵倒するだけで理論的な
説明はできない。
195日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:10:38
九州派は妄想的な説明しかできていないけどな
196日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:13:53
>>189
卑弥呼ではないけどな。

>>193
俺は畿内説だが対抗する九州説の研究も重要だと思うけど。
197日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:15:24
>>194
罵倒=縄文人の印象しかないけどw
198日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:21:00
>>194
九州説の論理的な説明なんか見たことないけどwww
九州説では妄想を論理的というのかww
199日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:26:03
九州説の大半は推測だし。せめて統一された比定地位は出せなきゃな。
畿内説も勿論推測に頼る部分は多いが、段階としては九州説とレベルが違う。
200日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:33:12
自画自賛はいいけど、実際に畿内説の説明をしてみたらどうだ?
倭人伝との関係はどう説明するんだ?
考古学的資料は何を根拠にどう説明するんだ?
201伊都国王:2009/08/24(月) 12:01:36
オレは全て証拠に基づいた理論のみで伊都国が卑弥呼の都であると証明してるが?
推測なんかないよ。
202日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:09:01
やっぱり妄想家ばっかりだよ・・
203伊都国王:2009/08/24(月) 12:18:44
妄想家は202
もっと事実を直視しようぜ。
204二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/24(月) 12:19:53
2日程度アクセスできなませんでしたが、前スレ849以降が落ちて読めなくなってしまいました。
もし必要なら私宛の書き込みをもう一度してください。

新スレで全般的に話題になっている、畿内説の考古学的なんとかというのは、私は全て畿内ヤマト王権の残したもので、
これは邪馬台国とは関係の無いものだと考えています。
教えていただきたいのですが、4世紀終わりごろの韓への侵略が記紀の神功皇后の三韓征服で確定的だと考えていますが、
それの約100年前の4世紀初め(301年〜)ころに、畿内ヤマト王権の勢力が九州(少なくとも北九州)に及んだのではないかと
想像しています。
このころの事について記紀では何があったと書かれていて、考古学的にはどのような状況だったと考えられているのでしょうか?

# 考古学の予算の話がありましたが、おそらく少ないでしょうね。生命科学分野や海洋開発分野にもっと予算を充てるべきだとは思いますが、考古学にはそう思いませんからね。
205日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:21:21
証拠も何も、
畿内の墓に副葬された後漢代から魏代の鏡はいつのものだ?

論よりも証拠なんだよ。
九州派も諦めが悪い奴らだ。
206日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:26:09
>畿内説の考古学的なんとかというのは、私は全て畿内ヤマト王権の残したもので、
これは邪馬台国とは関係の無いものだと考えています。

隋書では3世紀の邪馬台国は後の大和の事だといっている。
九州説をとるなら安本教授等の東遷説しかあり得ない。
207日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:26:36
九州説ではアメノヒボコ伝承はどう判断するのだろうね。

伊都の祖でもあり播磨に足跡を残し、川を水行して
但馬の出石に永住したという新羅の王子の話を。

投馬=但馬だとすると、結構話はすんなり繋がるけどな。
208伊都国王:2009/08/24(月) 12:28:36
倭の五王も九州の王だよ。
畿内ヤマト王権の勢力が九州に及ぶのはもっと後のことだ。
209日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:30:31
>>201
推測の意味を間違えてるんじゃないの。
210伊都国王:2009/08/24(月) 12:34:54
>>206
嘘言うな
隋書では3世紀の邪馬台国は九州だといっている。
211日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:36:26
>>2>>4>>7
の何処に推測があるんだ?
212日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:37:05
>>210
今更妙なキャラ造らなくてもいいよ。
213日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:39:20
>>211
全部
214伊都国王:2009/08/24(月) 12:44:08
>>213
指摘出来ず
全て正しいと認めたなWW。
215日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:45:13
>>214
>>7 を詳しく説明してもらおうか
216日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:49:01
「魏志倭人伝」の伊都国の説明文に『世有王皆統屬女王國』とあり、伊都国が倭王の都であり、倭の国々は伊都国に居る女王の下に統一されていたと説明されているからである。
続く『郡使往來常所駐』は伊都国が倭の都なので当然の事であり、邪馬壱国の女王卑弥呼と郡使が対面したのも伊都国である。
『世有王皆統屬女王國』の『皆』は『世有王』を指すとされ、伊都国の王は女王国に統属されていたと解釈されているが、これが重大な誤読であり、
伊都国の説明として書かれている文なのだから『世有王』の王も『皆統屬女王國』の女王も伊都国の王のことなのであり同じ人物である。
皆は『世有王』を指しているのではなく、伊都国も女王国に統属されていたのでもない。
217日本@名無史さん:2009/08/24(月) 12:50:37
『世有王 皆統屬女王國』文をよく見ると『女王』に『女王國』と国が付いている。『世有王 皆統屬女王』だけでも意味が通じるのに女王に国を付けている。
国が付いていない『世有王 皆統屬女王』の方が「王が王に統属する」となり簡潔で分かりやすい。
女王だけで十分に意味が通じるのに女王国と書かれている理由は、『皆』が人(王)々ではなく、国々を指しているからである。
「魏志倭人伝」には冒頭に『今使譯所通三十國』とあり倭には30カ国ほどの国々があったと記されており、これ以外に『皆』に該当するような国々の記述はなく、
『皆』とは『今使譯所通三十國』の倭の国々を指していると考えられる。
218日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:03:49
>>201
伊都国=邪馬台国ならナゼ官名が二回出てくるの?
219伊都国王:2009/08/24(月) 13:07:20
伊都国(首都)を担当する官と
邪馬台国(国全体)を担当する官。
220伊都国王:2009/08/24(月) 13:08:32
『皆』が倭の国々を指している傍証として「魏略」がある、「魏略」は「魏志倭人伝」よりも先行するとされ、現在、全文は伝わっておらず逸文としてその一部が散見されるものであるが、
その中で伊都国について『東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也』とあり、『其国王皆』は『王女』に属するとある。
「魏略」では伊都国の説明に『世有王』とは無い、『其国王皆』とは倭の国々の王達のことを指しているのは明らかである。
「魏略」で『其国王皆』が倭の国々の王達のことを指しているのと同じように「魏志倭人伝」の『皆』も倭の国々を指しているのである。
「魏略」の倭の国々の王達が「魏志倭人伝」では倭の国々となっているのである。
221日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:11:03
伊都国に女王がいたとはどこにも書かれてないし、
女王国以北の説明も倭人伝と矛盾してるな。
何より女王の都する処は全く別です。

まあ簡単に言うと女王国とは本州西部の連合の意味だな。
だから奴国が女王国との境目、北部九州は伊都に王がいるが、
女王国に統属。その南に狗奴国=九州南部の国。
そして傍らの国とは本州西部や播磨、吉備、四国の国々の説明です。
で、女王の都する処はヤマト国の事ですね。
222日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:11:18
なんか顔文字のコテハンを思い出した
223日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:18:03
>>219
7万戸の首都の割には戸数が少ないのでは?
224日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:18:55
畿内説派に縄文人の人気が高いな。人には自分にない才能や美質に憧れる傾向があるからなあ。
前方後円墳で妄想を逞しくし、庄内式土器や神獣鏡で空想を膨らませ、水浸しの奈良盆地に邪馬台国の虚像を描く。
隋書に邪馬台国は畿内にあると書いてあるなどと言って文献の読み方も知らぬことを露呈する。おめでたい連中の集
まりだな畿内説派は。
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 13:20:26
>>187
<痕跡がないです
オマエ相当脳内の処理能力が鈍感だな。オマエは体表で診断してるのと同然だ。
あれほど言ったろうが、まだ分からんのか? 地中を完全に調べなけりゃぁ、
ガン検診を最新機器で体内をろくすっぽ診ずに診断するも同然だよ。

そうでないというなら、今度オマエが検診に行くとき医者に、体表に痕跡が
見当たらないからもうやらんで帰ると言っただどうだ? オマエは医者には
向かないねぇ〜。ppp

女天皇なんか確かに九州からは痕跡は出ないだろう。だって天皇は畿内だし、
当時(崇神ころ)女天皇など畿内にも九州にもいないんだよ。それは記紀の崇神
の前後を見れば分かる話だ。ww
226伊都国王:2009/08/24(月) 13:23:54
「後漢書」で『國皆稱王 世世傳統』とあり、「魏略」の場合も倭の国々の長は皆それぞれ王を自称していたとある、
その中の一人である王女に他の王が従っていたのが「魏略」の示すところの倭である。
「魏略」では倭に複数の王の存在を示す記述がある一方で「魏志倭人伝」にある倭王に付いて記載が無い。
このことから「魏略」は魏が倭王を任命する前の状態を記録したものであり、「魏志倭人伝」は卑弥呼が倭王となって後のことを書いたものだと分かる。
「魏略」の記述のままでは魏が任命した倭王の下に多数の王がいることになり中華思想の秩序に反する。
(中華思想の秩序では王の中の王が皇帝であり、王の主君は皇帝である。王の家臣は王とは呼ばないし、王の君主も王とは呼ばない。)
そこで『其国王皆』を単に『皆』として倭の国々を指すようにし、『王女』も『皆』と同様に『女王國』に改め国を指すようにした。
「その国(倭の国々)の王皆、王女に属する」から「(倭の国々は)皆、女王国に統属する」として国が国を統属する形にしたものであると考えられる。
227日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:25:10
>>224
ご苦労様、今日は一人何役やってるの?
228日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:26:17
>>227
それは言わない約束w
229伊都国王:2009/08/24(月) 13:27:08
>>223
伊都国は王宮などの官庁政府機関の所在地
直ぐ近くに奴国があり奴国が経済の中心地。
230日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:31:25
>>229
伊都国、奴国の比定地はどこなの? このスレでは北九州としか書いてないようだけど。
231日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:37:25
結局九州説の人はアメノヒボコはスルーなんだね。
四世紀以前に東征らしき物を説明しようとすると、
文献上の確かな痕跡はこれしか無いのに。まあ説明しようとすると、
北部九州は新羅の王子に征服された事になるからな。
232日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:44:00
>>225
太国がんばれ!畿内説を蹴散らせ。ついでに崇神が4世紀の人物であることを証明してやってくれ。
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 13:51:28
畿内に卑弥呼の女王国があったんなら、考えられるものは次の項目になる。

@ 卑弥呼が神武以前の女なら239年は神武以前になるから、神武以降の天皇の
  各在位期間ががスシ詰めとなり、不合理がミエミエだ。
A 卑弥呼が神武の代から相当程度離れた時代ならば上の不合理はないようで、
 卑弥呼が朝廷の女だというなら当然即位し金メダル相当の金印をもらっているん
 だから、記紀が記載を落とすわけがない。なのに記載が無いんだから、当時
 卑弥呼は畿内で即位して女王(女天皇)にはなってはない。即位等なら
 欠史八代でも記載を落としてないんだから、少なくとも彼女の即位崩御は
 載せるはずだ。金メダル的金印をもらえるのは王、女王級であるわけで、
 いっぺんに同時代に朝廷内で男の天皇と女の天皇(女王)が二人天皇でいたなど
 ということは、記載の無い状況からありえない。つまり畿内朝廷は卑弥呼が
 女天皇に成った所ではない。
B 卑弥呼がA最上段の状況のとき、畿内の朝廷の女でなく、畿内だが別の場所の
 女なら女王で金メダルをもらえることはまぁ言えるが、そうだと畿内で当時
 後代の南北朝のように南北に二天皇が並立してたように、伝の女王と金印授受
 の記述から畿内朝廷と卑弥呼の女王国は南北とか東西等で双方が並立したいたと
 しか言えず、そうならばこれも女王国と天皇国朝廷の間で交易とか戦争等の葛藤
 があるはずで、これも記紀にも古史古伝等にも全く閑古鳥も鳴かない以上に
 記載が無く、特に紀では伝からの根子の額ほどの借り物文以外虫の息の如く
 卑弥呼の消息がない。これは畿内でない他の所に卑弥呼が居てその情報が畿内に
 来ないからデータがないわけで、記紀に卑弥呼の記事が載せられなかったと
 いうことになる。

つまり卑弥呼は畿内の女ではなく、そうなるといた場所〜卑弥呼の女王国は畿内
以外の九州が相当としか言えないのである。つまり畿内説は成立しない。
234日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:53:26
>>229
官庁がある伊都国に一千戸、その南に投馬国五万戸と首都邪馬台国に七万戸
さらに伊都の東100里に不彌国 東南100里に経済の中心となる奴国二万戸?
弥生時代の九州北部の狭いエリアに100万人都市があったと言う話なんですね?ものすごく現実的な話ですね♪

伊都の東100里に不彌国 東南100里に経済の中心となる奴国二万戸
235日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:05:14
>>233
>つまり卑弥呼は畿内の女ではなく、そうなるといた場所〜卑弥呼の女王国は畿内
以外の九州が相当としか言えないのである。

君の説を100%正しい(勿論ありえないがw)とあくまで仮定しても
出雲に吉備、四国にも可能性はありますよ。
236伊都国王:2009/08/24(月) 14:06:34
>>234
違います
伊都国が首都で一千戸
伊都国の東南100里に経済の中心となる奴国二万戸
奴国の東100里に不彌国
邪馬台国の七万戸は北部九州一帯です
邪馬台国の構成国は對馬國〜不彌国+斯馬國〜烏奴國の計26国です
投馬国五万戸は狗邪韓國を中心とした南朝鮮にあったのです。
237日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:08:10
>>236
で、伊都国はアメノヒボコに征服されたのか?
238日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:10:35
>>236
その考え方では對馬国の前に投馬国が書かれていなければならないでしょう?
末盧国は官名が無いから行っていない。あなたもこの考えならば
官名のある投馬国には行っているわけですから
239縄文人:2009/08/24(月) 14:14:01
>>231
アメノヒボコは新羅からの渡来人で但馬あたりに住んだと言われている人でしょ。半島からの渡来人は珍しいことでも無いんじゃないの。
神功皇后の祖先ですか?それがなにか問題ですか?

東征の痕跡は神武で十分でしょ。彼が代表として紀に載せられているわけで、天武天皇も自分の先祖が九州から来たという認識で紀の編纂
を命じたのです。天皇の先祖は九州から来たというのが前提にあるから、神武東征以外の東征を示す記述は不要なのです。神武が九州から
東征した、そしてその神武が天皇家の先祖だとしているでしょ。神武以降も九州から人は続々とやって来ますよ。自分達の親戚や仲間だった
人間のいるところですからね。だけどそんなことは書くまでもない。当然のことで珍しくもなんともない。
240伊都国王:2009/08/24(月) 14:18:54
>>238
外出あとで
241日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:21:55
>>239
アメノヒボコは伊都の祖とも言われるし、播磨でも土地を巡って争う
記述が各風土紀に残ってます。でも畿内には入れませんでしたが。

はっきり渡来系で「アマ」がつく神はこの人物だけだが
問題が無いとするならどうぞご勝手に。
242日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:23:48
25歳で跡取りが生まれたとして、遡ってみろ。
神武天皇の時代は紀元前後だ。東征が4世紀になるわけないだろう。
あり得ない馬鹿話をするな。
243日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:24:29
ここは初心者向けだな 読んでいて思ったW
244太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 14:30:21
>>232
崇神の在位は3世紀でしょうが。4世紀ではないですよ。

>>235
吉備とか出雲とか四国は成立は困難と観ていい。吉備では半島からの
遣使等が畿内に通行する通り道の途中であり、そこに卑弥呼の国が
あったんなら畿内に情報が入りやすいから、記紀に卑弥呼の情報が
伝の借り物以外無い状況であり、吉備ならば記紀に女王国が
載るはずだ。だから吉備は考えにくい。また出雲は崇神の世、天皇が
出雲の神宝見たさのため出雲へ某人が行ってるんだから、女王が
死んだ約10年位あとのころで、出雲での少し前の過去の情報が畿内に
入るからこれも考えにくいだろう。四国もその少し前百襲姫が行って
るし、まず畿内に四国の情報も入りやすいから、そこも考え
にくいだろう。となれば残るのはやはり、奥九州が濃厚だな。場所に
よっては北九州の畿内に情報が行きにくい地域に女王国があったとの
可能性は残り、そこらと考えるほかはない。
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 14:35:09
>>242
ほご同意。
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 14:36:04
失礼、ほごでない ○→ほぼです。
247日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:37:38
>>217
>『皆』とは『今使譯所通三十國』の倭の国々を指していると考えられる。
そうではない。以上の国々は皆ということで、皆は対馬国、一大国、末盧国、
伊都国の4カ国を指すんだよ。まだ、出てきていない国々まで指すわけはない。
248日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:39:22
>>219
北九州説らしいトンデモ読みだな。何のために邪馬台国だとか伊都国だとか
別の国名を使うんだ?
249日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:00:36
縄文人は恥知らずなほど、生き物として醜い。
250日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:01:31
倭の五王による朝貢も記紀に記録が無いからな
倭国のさくほうってのは、必ず朝鮮がらみだし
狗奴国との紛争解決を魏に託したってのも嘘くさい
でも、なんで箸墓=ももそひめだとしたらあんな巨大な古墳になるのかってのも謎
251日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:04:00
箸墓古墳がカギだな
倭人伝なんてもうどうしようもない
解釈飽きた
252日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:04:52
>>249
そうだな。おそらく毛を毟った狸のようなクリーチャー。
253縄文人:2009/08/24(月) 15:17:03
>>249 >>252
お前さん達、メジャーリーグベースボールの中継見たことあるだろ。ヘボな選手にブーイングはないぞ。
まともな論を展開できないので口惜しかろう。自然科学や人文科学はおろか世間のことにも疎いんだろな。
公務員はおろか会社でも使い物にならないだろうな。人の悪口しか言えんとは気の毒だな。
254日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:27:19
>>251
訂正
(誤)倭人伝なんてどうしようもない
(正)畿内に持ってこようとすると倭人伝ではどうしようもない

(誤)解釈飽きた
(正)解釈諦めた
255日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:39:46
まあ畿内説では九州説と違って倭人伝ばかり構ってはいられないからな。
勿論倭人伝も大事だが他に調べる資料が多いからさ。
256日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:49:38
きゃっ縄文人よ!!このスレの穢れよ!!
257縄文人:2009/08/24(月) 15:51:55
>>242
神武東征は2世紀末 が俺の見解だ。4世紀に崇神が総仕上げをした が俺の見解だ。
25歳で跡継ぎが生まれると誰が決めたんだ?現在と違って当時は早婚だ。10代で父親なんてざらだ。それに兄弟が
後を継ぐ例もいっぱいあるぞ。

俺の書いたものを見てないようだから説明してやる。
神武東征は倭人伝にある倭国大乱の時期だ。その痕跡は高地性集落跡だ。
崇神は神功皇后の夫仲哀天皇の4代前の天皇だ。神功の新羅征伐は360年代(半島の史書に記載)だから、崇神は
300年前後の人物で、神武もその100年前くらいでばっちりおさまる。馬鹿げた話じゃないぞ。
258太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 15:57:16
八代は創作だとまだ言ってるの? 誰がどういう動機で縛り首的
生命の危険を犯すのか?
259日本@名無史さん:2009/08/24(月) 15:59:35
>>256
また出たか、忌まわしいな。
260日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:06:34
だれか、クルーシオをかけてやってくれwwww
261縄文人:2009/08/24(月) 16:07:28
>>257
訂正
神功の新羅征伐は360年代(半島の史書に記載)→神功の新羅征伐は390年代(半島の史書に倭が半島を蹂躙したことが
記載されている)
262縄文人:2009/08/24(月) 16:11:26
>>258
太国ちゃん
言ってる意味が分らん。八代を記載すると縛り首になるのか?
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 16:12:39
縄文人さんよ
神武の次が崇神だというなら、神武の息子が崇神だというのか、また
崇神の父が神武だというのか?w
264太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 16:15:50
>>262
そうでないよ。国家の史実の記載が創作ならばクビだろうが? 当時
での公文書偽造罪だぞ。そんな地位の危険を冒す必要などなか
ろうが? 所詮あんたの妄想だよ。
265日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:24:28
ていうか、縄文人よ、神武天皇が2世紀末に畿内に東征即位してしまったら、
畿内説になってしまうじゃんか。
266ローガン:2009/08/24(月) 16:29:11
>>179
> 巻向の年代をさかのぼらせて

「年代遡上」ですか…
1947年山内清男は「古墳時代は3〜7c」と。小林行雄は「弥生時代の終わりを3c中頃」としています。
1966年の佐原編年が倭國大亂を第W様式末としたから、年代が下がっただけで、9年後自らこれを撤回しています。

古墳時代が3cからなんて大昔から云われてますよ。決して年代遡上などではない。
ただ、佐原編年をベースにたてられた論は、 梯子を外された格好になりましたね。
267縄文人:2009/08/24(月) 16:31:11
太国ちゃん
俺は神武の次の天皇が崇神だなんて言ってないよ。神武は2世紀末に東征したんだから3世紀前半には崩御されたんだろう。
崇神は4世紀に入って大和王権を確立したんだろうから時代が重ならないよね。その間の八代の存在を否定しなくても彼らを
神武の部下や崇神の部下とすればいいからね。そうすれば事績がほとんど無いのも説明がつくからね。どだ、旨い考えだろ な。
268日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:31:39
太国 VS 縄文人 バトル・シミュレーション。(数値は一般人を100とした場合)

米 太国  @ 知力48  A 歴史的知識67  B 財力 54  
       C 得意技 「倍暦」  「古神道」  「オカルト」  「粘着上等」  「恫喝上等」

米 縄文人@ 知力41  A 歴史的知識59  B 財力 81
       C 得意技 「土木」  「捏造」  「罵詈雑言」  「嫌悪感」  「老醜無残」

ちなみに、これはすべて推定値です。
269太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 16:34:22
〜するのは困るよ、うまくない。
八代が神武、崇神の部下にするというのは君の創作だということに
なる。そういう部下だったという正当な根拠が揃えば、それは成る程
という可能性が出てくるがね。そんなことはあるまいが。w
270縄文人:2009/08/24(月) 16:36:02
>>268
あまり褒めてくれるな。こそばゆいわい。
271日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:38:43
>>268
畿内説論者は今ややることがなくなったんだな。
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 16:38:48
崇神の代がなぜ4世紀になるのか、論説の具体性がまだ出ていないよ。
273日本@名無史さん:2009/08/24(月) 16:48:44
>俺は神武の次の天皇が崇神だなんて言ってないよ。神武は2世紀末に東征したんだから3世紀前半には崩御されたんだろう。
崇神は4世紀に入って大和王権を確立したんだろうから時代が重ならないよね。その間の八代の存在を否定しなくても彼らを
神武の部下や崇神の部下とすればいいからね。そうすれば事績がほとんど無いのも説明がつくからね。どだ、旨い考えだろ な。

旨く考える事はいくらだって出来るが、それは「考え」であって事実ではない。
妄想なんて無力で虚しいだけだ。
しかし縄文人は、自分で「旨い考えだろ」と白状してしまう幸せ者だ。
つい、うっかると妄想に付き合ってしまった。


274太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 16:59:53
論者の中にはスーグ欠史八代を記紀の創作だとして論を展開する奴が結構いるが、
これは津田に騙された事からのその蔓延がこういう論者らを多くするのだろう?

しかし記紀を創作だとするには、その動機、創作者が誰でどのように行われたとか
いう具体性が必要であり、こう言う人物らはまずそれを説明しないで論の先行に
進むのが殆どである。だからなおさら妄想の増幅がひどくなり、覚醒剤汚染の
ようにこの盲象はなかなか治らずもう手遅れの感にある。だから盲象だと幾度も
幾度も論説して、盲象の鎖からそのマインド・コントロールを外してやる長期戦
以外殆ど特効薬はないだろう。
275縄文人:2009/08/24(月) 17:00:51
太国ちゃん
紀の編纂チームは昔倭が半島に出兵して三韓を従属させたという故事を知っていたんだね。それでこれを神功皇后の事績として
書いたのだね。ところが、蹂躙された半島側の記録ではそれが4世紀末のこととして初めて出て来る。だから、神功皇后の新羅
征伐は4世紀末の出来事を反映した記事だと見られるわけだ。そして、神功皇后は第14代仲哀天皇の妃であり、その4代前の崇
神天皇は300年頃の人物だと見てよいだろ。

なお、神武天皇は奈良に基盤を築いたが、広域を支配するだけの王権は崇神の代に確立されたのだ。
276伊都国王:2009/08/24(月) 17:03:13
>>238
投馬国は狗邪韓國を中心とした地域。
>>247
『今使譯所通三十國』は『皆』より前に書かれていている。
『皆』を対馬国、一大国、末盧国、伊都国の4カ国に限定するのはどうでしょう?
>>248
伊都國は首都の名前
邪馬壹國は伊都國を首都しその他25か国を加えた連合国の名前
277太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 17:08:17
>>275 縄文人さん
4世紀末の倭兵の件はおそらく391年の広開土王即位の年のことを
言ってるのでしょうが、それは神功のではないと想うよ。これは
九州王権の王らの兵だよ。だから神行はその時代ではないね。391年
は同王即位でかつ倍暦計算で仁徳天皇即位年でもある。
278日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:13:24
なんだ、よく見れば縄文人も畿内説じゃないか。
279日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:21:41
畿内説など存在すること自体が滑稽w
景初三年の鏡が証拠?国産品だろ、あれはw
280日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:23:27
ホント笑える。
281日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:25:19
>なんだ、よく見れば縄文人も畿内説じゃないか。

ホント笑える。
282縄文人:2009/08/24(月) 17:27:09
>>273
俺の考えでは、真実とはなかなか口に出来ぬものである。ある人の言う真実は別の人に言わせれば想像であり妄想であり
捏造であったりする。過去の歴史の真実を誰が知ることが出来るか?残された文書に真実が書いてあるならば苦労はなか
ろう。在位126年の天皇の記事をどう見るか。書いてあるから真実だでは済まされぬ。いろいろな方面から検討して「こ
うではないか」と推測する。そのように推測で書かれたものが歴史書なのだ。

ひとの論を想像であって事実ではない などとよく言えたものだ。
反論できないからそのような批判でかわす。誰でも推論を述べているのだ。その推論にリアリテイがあるかどうかが勝負
なのだ。貴殿も堂々と推論で勝負したらどうかな。
283日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:31:05
>ひとの論を想像であって事実ではない などとよく言えたものだ。
反論できないからそのような批判でかわす。誰でも推論を述べているのだ。その推論にリアリテイがあるかどうかが勝負
なのだ。貴殿も堂々と推論で勝負したらどうかな。

要するに、あんたのいっている事は推論だったんだろ。
だったら偉そうな事いうなよ。
284日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:32:37
>>282
>その推論にリアリテイがあるかどうかが勝負

ないから、いろいろいわれてんだろ。わかんねの?
285縄文人:2009/08/24(月) 17:33:43
>>277
太国ちゃん
俺は神功皇后は架空の人物と考えている。新羅征伐は誰でもよいの。問題は、仲哀天皇の時代頃に神功皇后を配したことなの。
286日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:34:42
確かに、そこいらのオヤジなら誰でも考えつく程度の論だな。おそらく基礎的教養に欠ける
せいだろ。
287太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 17:35:28
推論は2ちゃんだから多少はやっていいが、それもある程度地に
ついた根拠、資料等がなけりゃぁ、推論の価値が0に近くなるよ。
288太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 17:39:21
縄文人どの
そういう仮説はいったん建てることはやむを得んが、相当程度の
根拠等及び裏取りをしないと役に立たないよ。

先も言ったが、架空ならば舎人親王らは公文書偽造罪で地位、身分
が奈落の底だよ。だからそんな架空のことなど身の危険を冒す必要は
考えにくい。つまりあなたの妄想としか言えない。
289縄文人:2009/08/24(月) 17:40:23
>>284
おまえには判断力がないことがよく分るよ。おまえの論を書いてみろよ。どうせ古くさい、ひとからの借り物の
ネタしか持たんのだろ。
290日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:41:26
2世紀末が神武天皇即位ならば、
画文帯神獣鏡は畿内勢力が手に入れたものだろう。

その画文帯神獣鏡と庄内式土器が一緒にホケノ山から出ているんだよ。
箸墓の布留0式土器はらくらく3世紀で決まりじゃん。

縄文人は畿内説なんじゃないのか?
291日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:42:39
>問題は、仲哀天皇の時代頃に神功皇后を配したことなの。

普通、神功皇后架空説を唱える場合、仲哀帝も架空とすることが多いんだがな。この「仲哀」
という漢風諡号は、それぞれの帝の事績を評して淡海三船が一括に撰したと考えられるが、
なぜ「仲ー哀」とつけられているかは極めて興味深いところだ。
292縄文人:2009/08/24(月) 17:50:46
>>286
おまえもそうとう負けず嫌いだな。己の能力の無さをひとに侮蔑的な言葉を投げつけることで慰めてやがる。
おまえは伊都国を前原市辺りに比定する論者の一人か?もしそうなら、その論が成立することを説明してみろ。
もしその論者でないなら、おまえの伊都国はどこか論じてみろ。批評してやる。
293縄文人:2009/08/24(月) 17:59:33
>>290
神武天皇の即位なんてないだろ。俺は神武が奈良盆地の開拓事業を始めて、奈良盆地に後世に築かれた大和王権の
基盤を作ったと言ってるのだ。

画文帯神獣鏡だとか庄内式土器だとか布留0式土器とかは何の証拠にもならぬ。何時埋められたか分っているのか?
294縄文人:2009/08/24(月) 18:03:11
>>291
あなたの言うとおりでよいよ。仲哀天皇には拘らない。第14代だけでいいの。
295日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:12:07
縄文人は、2世紀に神武東征があって、4世紀に崇神が即位したと言ってるみたいんだな。(根拠は記紀と高地性集落)
で、マキムクは4世紀の遺物だから、邪馬台国じゃないと。邪馬台国は九州だと。

だったら、こういう事か?
”九州の邪馬台国が東征して大和王権になったわけではない。”
”九州の邪馬台国は4世紀に消滅して、九州は大和王権が支配するようになった。”

あくまで、マキムクを4世紀にしたいのはなぜだ?
東遷説じゃなければ、マキクムが3世紀でも君には関係ない話だが?




296日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:16:33
仲哀帝の和風諡号は足仲彦(タラシナカツヒコ)であり、この「タラシヒコ」という称号は7世紀
前半に実存したと考えられる、34代舒明、35代皇極の両天皇と同じ称号であり、「タラシヒコ」
の呼称は後代のものと考えられること。「ナカツ」の部分は「仲(古事記では中)」と表記され
が、抽象的なものであり個有名とは考えにくいこと。

13代成務に嗣子がなく、叔父ー甥相続であるが、13年の皇太子時代を経ての44歳での
即位は不自然といえなくもないこと。
そもそも父である日本武尊が、極めて架空性の高い人物であること。
死の経緯(住吉大神の怒りに触れ急死)が極めて非現実的に描写されていること。

などから、仲哀天皇の実在性には昔から疑問が呈されている。
297日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:20:44
>>295
この説だと実は畿内説と殆どかわらないと思うけどな。
298縄文人:2009/08/24(月) 18:26:47
>>295
何回同じことを言わせるの。大和王権は神武や崇神などの九州勢力(邪馬台国勢力)が建てたもの。
壹與が引き継いだ邪馬台国については情報がないのでよく分らない。4世紀に消滅したとか、九州は大和王権が支配する
ようになったなどと誰が言っとるのかね。

巻向地域は3世紀半ばでは未だ開拓途中。前方後円墳など築造できる状況にない。
299日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:29:18
この非実在説をとる場合、仲哀および神功皇后の事績は、白村江の戦いから持統天皇に
よる文武天皇擁立までの経緯をもとに、神話として記紀に挿入されたとすることが多い。

この説が妥当であるかは難しいところであるが、一方倭国の4世紀末の半島出兵について
は文献資料による裏付けもあり、すべて架空の説であるとするより、4世紀末の史実の記憶
を元に、記紀編纂時の天皇家に都合のよいような記述が取られたとするあたりが妥当な見方
であるといえようか。

とすれば、「仲」は「ナカツヒコ」から取ったものとして。「哀」の字を撰したのは示唆的である。
実際、この諡号が漢籍から取られたものであるとしても、「哀」のような否定的な字義を持つ
ものは、他と比して異例である。
300日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:32:08
>神武天皇の即位なんてないだろ。俺は神武が奈良盆地の開拓事業を始めて、奈良盆地に後世に築かれた大和王権の
基盤を作ったと言ってるのだ。

結局、大和王権の楚が2世紀末だという事だろう。
それってあんたのいう4世紀までの大和王権?邪馬台国まで続いているのか?

>画文帯神獣鏡だとか庄内式土器だとか布留0式土器とかは何の証拠にもならぬ。何時埋められたか分っているのか?

なるだろう。画文帯神獣鏡は3世紀前葉までには作られたものだ。
あんたのいう2世紀末の大和への神武天皇東征より後に作られたものだ。
だから、大和のホケノ山古墳から出ているんだよ。
要するに、神武天皇より後代の大和王権が大陸と交易していたんだよ。

魏代の三角縁神獣鏡もそれに続いて畿内から出ている。
後漢代から魏代までで九州の出る幕はない。


301唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/24(月) 18:32:28
2世紀末が神武天皇即位ならば、
巻向から地方の土器、主として東海地方。

この事実から、神武は東海地方出身も主張出来る。
302二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/24(月) 18:37:54
>>206
>>隋書では3世紀の邪馬台国は後の大和の事だといっている。
隋書に、正しい3世紀の情報が書かれている保障はないです。
隋書でそう書かれているのは、当時の畿内ヤマトが”魏志の邪馬台国”だと言っていたため。
畿内ヤマトを「ヤマト」という名にしたのは、中華人に「畿内ヤマトが”魏志の邪馬台国”だ」と言いたかったため。

記紀から、畿内ヤマトと邪馬台国に関係の無いことは明白です。
303日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:52:12
>>隋書では3世紀の邪馬台国は後の大和の事だといっている。
隋書に、正しい3世紀の情報が書かれている保障はないです。

要するに、隋書は間違っている、とい文献否定の前提で成立するんだろう。
304日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:55:55
後漢代から魏代までで九州の出る幕はない。

訂正
3世紀に九州の出る幕はない。

305日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:59:51
縄文人は2世紀末以降の大和王権が大陸と交易していた事を認めたのか???

306日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:12:22
そんな事よりも、おい、縄文人。
魏志でいう3世紀の邪馬台国って、隋書でいう大和の事でいいのか?

そんでもって、2世紀末の神武天皇の子孫を、
これも又大和王権と考えているのか?

もしかして縄文人は畿内説なのか?
307日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:44:31
>>300  問題の多い考え方だなあ。

5〜6世紀の古墳から出土する画文帯神獣鏡もある。
画文帯が出土したので、その古墳が3C初めになるという理屈はない。

ホケノ山から出土した画文帯同向式は、日本でしか出土しないデザイン。
もとは中国の平縁同向式神獣鏡で内区の文様を日本でパッチワークした日本製。
その日本製の画文帯がいつ作られたのかは、日本独自の見方が必要。

3C前葉に画文帯が流通していたのは、呉の地域であり、魏の地域ではない。
画文帯が華北〜楽浪郡に行くようになったのは、呉も滅亡(280年)後のこと。
さらに日本に来るようになるのに、2〜30年は見ておくのが穏健な見方である。

さらに、それが日本で複製されるようになったのは、4C半ば頃であろう。
故にホケノ山は4C半ば頃とするのが、穏健な見方である。
308日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:49:57
>>298

だから、3世紀にマキムクが出来てないという根拠を言えよ。
お前の説だと、3世紀にマキムクが出来てたら何が不都合なのだ?

>壹與が引き継いだ邪馬台国については情報がないのでよく分らない。4世紀に消滅したとか、九州は大和王権が支配する
ようになったなどと誰が言っとるのかね。

早い話が、トヨ東遷説か?
だったら、関裕二と一緒だから、関の本でも読んで喜んでればいいだろ?


309日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:51:59
>>307

4C半ばまで庄内式土器が流通してたんだな?

だったら、九州の庄内期も4C半ばまで下がるわけだが、それでいいのか?

310唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/24(月) 19:52:38
縄文人さんへ
>その崇神は3世紀末から4世紀に活躍したんだね。
神功皇后の新羅征伐が360年代、仲哀天皇が14代とされるから10代の崇神天皇は300年前後でバッチリ。

書紀に書かれているところでは、巻向は崇神時代よりで、巻向に各地の土器が搬入されるのは、
二世紀末 「崇神12年異族多帰」が該当する。

通典』邊防 東夷上 百濟 新羅 倭國 より
是後倭韓遂屬帶方。魏景初中、…
晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。265〜295年

360年代に神功又はそれに変わる軍隊が初渡海する隙間がございません。
又、書紀には仁徳53年(365年)に新羅を攻めた記録がある。
この記録と混同していないか?
311日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:54:07
>>307

つまり、九州は、4C後半まで、魏鏡が流通しなかったことになるのだが。

自分の言ってる意味がわかってるのかね?
312日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:06:52
>>303
魏史も随書もリアルタイムの文献でなく当然、編纂された当時この記述は正しいだろうという過去文献を参考に編纂されてる訳で
それらが編纂された当時、過去はこうであったと常識とされる部分や整合性をとって編纂されてますよね。
ですと、旧唐書の日本は倭国の別種である(もちろんそう決めつけて記述されてる訳ではないですが)と言う記述。
これは気になるところです。あながち間違いや、知りうる過去の事や文献を無視してわざわざ記述した訳ではないですもんね。
313日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:08:38
>>298
すぐ近くに鍵・唐古遺跡もあるのに?
314日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:09:52
307は南九州東遷かな?どのみち画文もなにも南九州からは魏代のものは、ほとんど出て
ないんだから関係ないんだろう。ただ、東遷に都合のよいように年代を新しくしたいだけ。
しかし、画文はあきらかにもっと古いし、威信材として配布されたものなら、移動や伝世の期間
を長く取りすぎるのも問題。
315日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:16:57
>威信材として配布されたものなら、移動や伝世の期間
を長く取りすぎるのも問題。

だいたいにして70年も経てば孫の世代だろうよ。
伝世している鏡を孫の時代に突然に副葬するか?一旦伝世させたら末代まで伝世させるだろう。
316日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:25:03
縄文人さんに質問。
2世紀からの大和王権と邪馬台国は別物?
だとしたら九州邪馬台国は4世紀には消滅したの?
これって邪馬台国東遷説とは違いますよね。
317日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:29:45
文献というの基本的に、認識の錯誤や、誤った情報、恣意的な操作などを含む可能性を持つ
ものだ。「倭人伝はすべて正しい」とする主張は非常識だ。隋書にしても同じ。近世の文献でも
同時代の出来事について相反する内容が書かれている複数の文献がある、などということ
は珍しくない。そこで、資料自体の信頼性や、さらに他の資料を援用して、より確からしいこと
を求めていくのが文献史学の方法。

しかし、倭人伝については倭国について書かれた同時代資料はそれだけ。であれば、誤りがあ
ることを前提に、考古資料や人類学、地理学その他の資料を積極的に援用して読むべきものだ。
その場合、初めに自説ありきで、自説に不利となる材料には目をつぶる、無理に否定するという
ことは最も慎まなくてはならない。・・・多くのアマチュア研究者が参加している現状ではそうもいか
ないのだろうが。
318日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:32:42
>>317
勿論あなたと同じ考えで編纂者達は魏史も随書も唐書も日本書記も編纂したのでしょう。
319日本@名無史さん:2009/08/24(月) 20:35:17
初心者がスレを流し読みすると論点が見え難くなる。
ちょっと整理しよう。

まず、遺跡からは形に特徴のある土器が出土する。
土器の形の移り変わりは時代によって変化していくので、
土器Aと土器Bを見比べて、どちらが古いか新しいかがわかってくる。

同じように、鏡も流行があり、鏡Aと鏡Bで、どちらが古いか新しいかがわかってくる。
鏡は、流通した年代がはっきりしてるので、
鏡Aが出れば、その遺跡は、鏡Aが流通してから作られたことがわかる。
鏡Bが出なければ、その遺跡は、鏡Bが流通するより前に作られたことがわかる。

邪馬台国の時代は、庄内式土器から布留土器に移り変わる時代。
初期の古墳は、おもに布留土器と三角縁神獣鏡が出る。
ホケノ山からは、画文帯神獣鏡と庄内式土器が出て、三角縁神獣鏡が出なかった。
画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡より前から流通していたことがわかっている。

よって、ホケノ山は、初期の古墳より、さらに古い古墳だったとわかる。
古墳時代が4世紀からだとされていても、ホケノ山はさらに古く、3世紀に作られたことになる。
これは、年代遡上などと言われる筋合いのことではない。
ホケノ山が4世紀中頃だと言うなら、古墳時代は5世紀からか?ってことになる。

わかった?>>307

320日本@名無史さん:2009/08/24(月) 21:54:26
備前国風土記に「むかし来目皇子、新羅を征服せんがために
忍海漢人(おしうみのあやひと )を勒し、将い来て此の村に居り、
兵器を作らしむ」とある。
これは何の話かというと、もちろん白村江の戦いだというのが定説
ではあるけれど、白村江の戦いと備前の関係は明確ではない。
むしろ・・
新羅を半島勢力と解せば、難升米=来目皇子のことだったとわかる。
321縄文人:2009/08/24(月) 22:37:20
>>316 
質問を受けたので繰り返すが、(>>298)に書いているけど、神武は奈良盆地の開拓事業を始めて食料生産力を高めていった。
これが大和王権の基盤を作ったということだ。だが、神武の時代はここに神武を指導者とする国ができたという段階であって、広
域を支配する王権と言える段階になるのは崇神が事業をほぼ完成させ、出雲や出雲系豪族を懐柔して配下に収めてからである。
つまり、貴殿が書かれている「2世紀からの大和王権」は存在しない。

神武も崇神も九州の勢力(邪馬台国勢力の一部)であるが、彼らが畿内に移ったことが邪馬台国が東遷したことになるかどうかは
人によって見方が違うかも知れない。私は、壹與の引き継いだ邪馬台国が国を挙げて畿内に移動したとは考え難いと思っている。
だが、情報がないので分らないとしか言えない。
つまり、「4世紀には邪馬台国は消滅したの?」という問いには答えようがない。
私の見解は「邪馬台国東遷説」とは無関係に生まれたものである。

以上の返答でよろしいですかね。
322改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/24(月) 22:39:34
むこういても暇ジャンw

ここ人おおいねw
323縄文人:2009/08/24(月) 22:51:34
>>317
貴殿の考え方は大変よろしいですね。ただし、倭人伝を最初から疑ってかかる必要はありません。道理に合わないところや
いくつもの解釈ができるような曖昧な記述などに検討を加えながら(貴殿の言われる「考古資料や人類学、地理学その他の
資料を援用」)読めばよいでしょう。
324太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 22:53:57
縄文人氏は神武は即位してないと言っていたが、それでは卑弥呼も
女王に即位してないんだね?
325改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/24(月) 22:59:06
初代神武〜125代今上天皇まで、すべて実物。
もし、仮に、神武が実在していないというならば、
それ以後の天皇も生まれてないわけでww
326縄文人:2009/08/24(月) 23:04:41
太国ちゃん
冗談言ってるんだよね。あんたも天皇の称号が使われるようになったのは何時の頃か知ってるでしょ。
神武は奈良盆地でボスになっただけ。後の人が天皇に持ち上げただけ。

卑弥呼は倭国王に共立された。でも、卑弥呼**年などという年号なんか書かれたものはないし、就任の儀式はあった
かも知れないが、即位というのかねえ。
327日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:07:34
アマテラスの子とタカミムスビの娘との間に出来た子がニニギ
そのニニギはヒムカを統治(※ヒムカは筑紫か宮崎の日向のどちらか)
ヒムカからヤマトに向かった神武はタカミムスビを祀った
崇神はアマテラスと倭大国魂神の2神を宮中から出し更にはそれぞれ別の社で祀った

この辺りにヒントが有るかも知れない
多分、崇神が行ったのは宗教改革ではなく、それまでの内乱の起爆剤を排除したんだと思う
いや、排除に成功したんだろ
つまりは、この時に出雲系を排除した
出雲の衰退もこの頃だ
328縄文人:2009/08/24(月) 23:10:23
改めさん
また騒々しくやってきたね。また紀元前6百年説でも吹くのかね。
329日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:12:47
>>325 改めドツボ
>初代神武〜125代今上天皇まで、すべて実物。

馬鹿馬鹿しい。

じゃあ神武は日向三代がいなければ存在しえず
日向三代はニニギがいなければ存在しえず
遡っていけば造化三神までその存在を認めろって話だな、馬鹿丸出し。

ドツボは終止符スレのテンプレで常に「天皇の祖」と言う語を入れているし
畿内説に転向したと言う今でも天皇の祖は九州からやってきたと言う東遷説を採っている。

今時、皇国史観にかぶれたプチ右翼・ネットウヨクかとも思えるが
ミーハーな皇室ファンと言うところか?

それ自体は個人の趣味だが、それを歴史に持ち込まれても困るって話だなw

330太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 23:13:24
冗談はいかんよ。みんな論説やってるんだから・・・。
それはこれでなくて何か冗談をスレでやるのがいい時もあるが、
本気で討論中そんなことでくらますのは逃げとしか思えない。

はっきり言えば、恣意的に伝の内容は前面受け入れ、記紀は恣意的に
信用しないで受けないと決めつけているだけ。
だいたいあんたは前に6世紀以前は信用しないとか言ってたが、
倭人伝は239年の3世紀だから信用しないと言うのが貴殿の論の本筋
ではないのか? これでは恣意的勝手に取捨選択してるだけで、
おいしいもののみ食べますということ同然で、貴殿の論説の信用度
こそ落迦山で0だ。w

明日 zzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・
331:2009/08/24(月) 23:21:11
>>328
>また騒々しくやってきたね。また紀元前6百年説でも吹くのかね。

誰もそんなこと言ってませんが?

>>329
>馬鹿馬鹿しい。
>じゃあ神武は日向三代がいなければ存在しえず
>日向三代はニニギがいなければ存在しえず
>遡っていけば造化三神までその存在を認めろって話だな、馬鹿丸出し。

誰もそんなこと言ってませんが?
お二人とも、妄想しすぎだってwwwwwwwwwwwww
332日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:22:29
>>325
これ同意です。
文献に何かの業績(それが現代人から見て神話という荒唐無稽な物であっても)を記述するなら
架空の人をでっち上げる業績を架空の人間の物にするより、実在の人物にあてて行った方が良いと考えますよね
例え神話という雲を掴むような業績であっても。
333:2009/08/24(月) 23:32:08
ひゃ〜〜〜〜〜〜ぁ 縄文人さんも、>>329さんも、怖いので、
>>332さんに助けて貰いましょwww

>>332さん〜説明宜しくデスw
334縄文人:2009/08/24(月) 23:32:20
>>330
あんたが「神武の即位」などというから、冗談言ってるんだろ? と俺が聞いたんだよ。
それから、俺が「6世紀以前の記述は信用できない」と書いたのは、時間関係の記述のことだ。事績に関しては何らかの事実の反映
(古時の記憶)とも考えられるとかいているよ。ひとの書き込みは、批判する前に、よく読んでね。
335日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:38:30
太国 VS 縄文人 バトル・シミュレーション。(数値は一般人を100とした場合)

米 太国  @ 知力48  A 歴史的知識67  B 財力 54  
       C 得意技 「倍暦」  「古神道」  「オカルト」  「粘着上等」  「恫喝上等」

米 縄文人@ 知力41  A 歴史的知識59  B 財力 81
       C 得意技 「土木」  「捏造」  「罵詈雑言」  「嫌悪感」  「老醜無残」

ちなみに、これはすべて推定値です。

www
336日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:40:14
>>331 ドツボ
>誰もそんなこと言ってませんが?

それが自己矛盾だ気づけアホ。

じゃあ”そんなことは言わず”神武より前は架空で良いとするのなら
同じように祟神より前を架空とする説といかにして峻別するのか・・・

それをきちんと提示できなければ思考停止しての皇統譜の丸呑みに過ぎない。

皇国史観のネットウヨクと言われても仕方ないぞ?w

>>332
仮に元ネタ・モデルがあったとしてもだ
この場合それが今の皇室にまで繋がる一つの血統で無ければ意味が無い話だぞ?w

「モデル・元ネタがあった」と言うだけの話ならヤマタノオロチだって
八つの支流を持つ川の氾濫を素戔鳴が治水事業で鎮めた。

あるいは鋳砂の上を這う様にして流れる湯(溶けた鉄)の隠喩で
尾から刀が出てきたのは製鉄により刀が作られた事の隠喩。

…とヤマタノオロチも元ネタ・モデルがあるから実在します。
なんて言う荒唐無稽な話と根っこは同じだw
337縄文人:2009/08/24(月) 23:44:59
>>336
この論は鋭い切れ味だ。改めさん参ったね。
338縄文人:2009/08/24(月) 23:48:31
>>335
同じネタを何回も出すな。それにしても俺の人気は凄いな。畿内説派のお陰だ。ありがとね。
339日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:48:54
特に古代史において実在性の疑われる人物に対し
それを実在したと主張する人間の良くとる手口にこの

「何らかの元となりえた史実があったからこそ…」

と言うのがある。

まあおよそ便利な言い方で
机上でゼロから組み立てられたものでもなければ
何らかの「元ネタ」はある。

それをその人物の実在に直結しようと言うのが姑息な手口で

例えば数世代に渡る複数の人間の事績を
一人の架空の人物に仮託したした場合など
スーパーマンの出来上がり言う話にすらなりかねないwww

340改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/24(月) 23:57:36
なんだ?!どうした??ビビッてるのか?

>>332さん、私に同意なんでだろ??
行かないのかい?行けょwwww フォローはしてやるてw
341日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:01:27
>>339
否定するのは簡単だよ
でも、考古学の成果によって戦後の安易な否定が否定されていったのも事実だよ
目の前に何かしらの痕跡があるのに、これは幻ですから、調べるのは止めましょうと言ってるようなもんだ
342日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:02:12
>犬国 ◆yVAs7uaYlY

まあグダグダ書いていても、こいつの説の根本は極簡単。
「畿内に邪馬台国があったら記紀に載っている筈だ!」
と言うもの。

少し考えれば分かるが、これは
「大和朝廷(あるいはその原型たる王権)と邪馬台国は別物である」
と言う前提があってこそ成り立つ話。

それがなるのなら”事実上”畿内説は終わっているw

つまり畿内説を否定した前提の下で畿内説を否定してしる一種循環論法で

逆に言えば犬国は
「大和朝廷(あるいはその原型たる王権)と邪馬台国は別物である」
と言う事を先ず証明しなければ自説は成り立たない。

もっともそれが証明できた時点で事実上畿内説はジ・エンドだがwwwww
343日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:08:28
>>341
そんなものはケース・バイ・ケース
考古学の進展により神話が事実身を帯びた例もあれば逆の話もあるだろう。

神話の内容が補完された事例だけ待ちだすのは
恣意的なミスリードと言わざるをえないなw

で、欠史八代はどうなんだ?

記紀の伝える宮や墳墓は年代は合うのか?
いやその前に宮や墳墓としての実体があるのか?
無論宮内庁の管理下で調査はできないが大抵は否定的な見解。

そして纏向遺跡によりどうやらヤマト王権は三輪周辺から始まったようだ
・・・と言うのが今日の定説だろうにw




344日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:17:35
>>343
自分、意味わかってないでしょ?
>そして纏向遺跡によりどうやらヤマト王権は三輪周辺から始まったようだ
ヒムカ時代が大和王権ではないのは誰もが認めてますよ
それは、その母体がヒムカにあったのでは?というのと違いますよw
また、一般的にミスリードっていうのは、その分野の権威がすることであって
2chの掲示板で書き込みする人がどんな説を述べたところで、ミスリードとは言いませんよw^2
345日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:20:15
>>340 改めドツボ
>行かないのかい?行けょwwww フォローはしてやるてw

本当情けない奴だな…。
てめえが広げた風呂敷はてめえがたためボケ。

で、お前最近畿内説に転向したって言うが

(まあそれは別に文句言う筋合いでもない誰がどういう説を採ろうがその立場を変えようが自由だ)

今まで主に文献=倭人伝の行程記事から畿内説を否定していただろうに
そこら辺の辻褄合わせをどうやったんだ?

「方角はあてになりません、やっぱ考古学だよねw」
・・・って感じなのかい?w
346:2009/08/25(火) 00:28:16
>>345
www

以前、九州説だった、わたしから言われまくったのが、
よっぽど根に持ってるよーだなw
347日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:30:18
初心者がスレを流し読みすると論点が見え難くなる。
ちょっと整理しよう。

まず、遺跡からは形に特徴のある土器が出土する。
土器の形の移り変わりは時代によって変化していくので、
土器Aと土器Bを見比べて、どちらが古いか新しいかがわかってくる。

同じように、鏡も流行があり、鏡Aと鏡Bで、どちらが古いか新しいかがわかってくる。
鏡は、流通した年代がはっきりしてるので、
鏡Aが出れば、その遺跡は、鏡Aが流通してから作られたことがわかる。
鏡Bが出なければ、その遺跡は、鏡Bが流通するより前に作られたことがわかる。

邪馬台国の時代は、庄内式土器から布留土器に移り変わる時代。
初期の古墳は、おもに布留土器と三角縁神獣鏡が出る。
ホケノ山からは、画文帯神獣鏡と庄内式土器が出て、三角縁神獣鏡が出なかった。
画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡より前から流通していたことがわかっている。

よって、ホケノ山は、初期の古墳より、さらに古い古墳だったとわかる。
古墳時代が4世紀からだとされていても、ホケノ山はさらに古く、3世紀に作られたことになる。
これは、年代遡上などと言われる筋合いのことではない。
ホケノ山が4世紀中頃だと言うなら、古墳時代は5世紀からか?ってことになる。

わかった?>>307

348日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:32:09
>>346 改めドツボ

うぬぼれるなよ馬鹿。

九州説の中でお前が突出していたわけでも無いし
数いる九州説の電波の一人に過ぎなかったわけだが?w

で、悔し紛れのケチレスかどうかしらんが
そんな馬鹿を書き込むんだったら質問に答えて欲しいものだな

ひょっとしてまだ答えが用意できていないのかな?www

349日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:42:18
>>336
でもヤマタノオロチ伝承は何で畿内(特に奈良盆地)で多いんだろうね。

>>338
お前は隠れ畿内説なのがバレちゃったからな。
350:2009/08/25(火) 00:44:41
>>348
www

よっぽど、根にもってるんだねwwww
351日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:51:14
>>307
もう殆どテンプレ・コピペと言っても良いような恐らくはいつもの東遷厨による書き込みだろうが
「勘違い商法」的な欺瞞に満ち満ちているなw

>5〜6世紀の古墳から出土する画文帯神獣鏡もある。
>画文帯が出土したので、その古墳が3C初めになるという理屈はない。

流通の下限は理論上際限が無い。
極端な話、俺が画文を手に入れて自分の墓に入て後世発掘されれば
・・・って話だw
「5〜6世紀の古墳からも出土例がある」からと言って
その古墳が3C初めでは無いという理屈も成り立たない。

>ホケノ山から出土した画文帯同向式は、日本でしか出土しないデザイン。

仮に同向式を全て倣製としてもそれより古いとされる
「環状乳四神四獣画紋帯神獣鏡」も畿内を中心に分布する。

>画文帯が華北〜楽浪郡に行くようになったのは、呉も滅亡(280年)後のこと

根拠なし。
大陸に魏年号の神獣鏡も出ており、呉が魏に臣従していた事実を意図的に隠している?w

そもそも呉を滅ぼした頃なら華北の銅鏡製作組織も回復しており
尚更呉地の鏡は流通しにくい条件になると考えるのがまとも。


・・・って書いても東遷厨はこの(「邪馬台国の会」掲載のw)テンプレを繰り返すんだろうなwwwwww
352日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:57:01
>>350 改めドツボ

やっぱりまともに答えられずにトンズラかます気なんだなw

>今まで主に文献=倭人伝の行程記事から畿内説を否定していただろうに
>そこら辺の辻褄合わせをどうやったんだ?
>「方角はあてになりません、やっぱ考古学だよねw」
>・・・って感じなのかい?w

以上宿題だぞw

夏休み終わるまでにはやっておけよクズwww
353日本@名無史さん:2009/08/25(火) 01:29:59
>>344
意味分かってないのはお前だ馬鹿。

「ヒムカ時代」ってのはいわゆる「日向三代」の事なのか?

なんでここで「三輪周辺」の対比として日向が出てくるんだ?
「三輪周辺」を「大和全域」とか思って無いだろうな?w

もう一回記紀を読んで来い馬鹿者。
354日本@名無史さん:2009/08/25(火) 06:09:49

神武はなぜ片田舎の奈良に東征したのですか?
鉄もない、鉄を手に入れることが困難だった、
銅鐸なんて変なものしかなかった片田舎の畿内に。

鉄器は5世紀始めまでは九州のほうが畿内を圧倒していますよ。
東征と言いますが、実際は逃亡ではなかったでしょうか?
九州での勢力争いに破れて、畿内に逃げ込んだというのが
妥当じゃないかと思いますがどうでしょう?

355日本@名無史さん:2009/08/25(火) 07:25:14
九州の植民地を増やすためだろ。
356日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:38:28

では畿内は九州の植民地ということで決定ですね。

357日本@名無史さん:2009/08/25(火) 09:15:35
アメノヒボコは北部九州を経て播磨で土地を取り合った事が風土紀に残ってるからな。
でも畿内には入る事が許されずに但馬に落ち着いたと。
次期的に倭国大乱の要因はこの事でしょう。高地性集落の時期とも一致するし。
九州方面からの東征記録となると、これしか無いですな。
358日本@名無史さん:2009/08/25(火) 09:48:29
アメノヒボコなんてのは単なる物語だろ。しかも、朝鮮半島からという話にすぎん。
東征の記録は記紀がえがく物語(神武東征)と倭王武の上表文。
考古学的には銅鐸の消滅、鏡の配布、九州の武器や鍬形石。
359日本@名無史さん:2009/08/25(火) 09:54:42
日向猿軍団の話は飽きた
360日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:00:31
日光猿軍団とどちらがつおい?
361日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:00:52
>>171>>358
>鍬形石

あなたたち、考古学上のとんでもない事実誤認をしてませんか?
362日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:03:43
神武東征も物語だろw

アメノヒボコ自体は記紀にも記されてるし、
各地風土記にも具体的記載も多い。
そして伊都県主の祖でもあり、つまりは伊都国王の祖でしょう。
またアメノヒボコは但馬の祖でもある。
但馬では縄文人の大好きな大規模開墾工事記録まで残している。

倭人伝で伊都と共に語られる投馬とは、但馬の事と考えるのは
当たり前すぎる結論ですよ。
363日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:16:41
>>354
水銀探ししか無いでしょ。

それに2世紀の大規模製鉄跡が淡路島に発見された訳だから
畿内で鉄が入手困難だったとは言えないですよ。
364太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 10:50:35
>>334
こちらは冗談は論にはありません。あんたが冗談だと言ったんでしょ。こちらが
言ったことにしてるのは、あなたの言い逃れのための詭弁だね。あんたの信用は
ドカ落ちになるぜ。

>時間関係の記述
これは抽象的で意味不明だ。これも言い逃れのためのクラマシだね。

あんたはいい加減な野郎で、恣意的取捨が激しいね。こういうのは論説が
真から大きく逸脱確実だな。倭人伝は取で記紀は捨とほぼ決めこんで論を展開
してるが、何の根拠もない。
365日本@名無史さん:2009/08/25(火) 11:19:58
大規模な鉄工場が淡路島で発見されたのは重要ですね。
時期的には高地性集落と一致してるし。
播磨や河内、徳島の中間地点で、出土品は
農耕具ではなく兵器関連が多いそうだからな。
366日本@名無史さん:2009/08/25(火) 11:29:36
>>359
だったら黙ってな。

>>361
意味不明。
367日本@名無史さん:2009/08/25(火) 11:51:09
>354
>東征と言いますが、実際は逃亡ではなかったでしょうか?

では、徳川家康が、江戸に遷都したのは逃亡か。日本の場合は、西は遷都しない。
何故か。西に行くと、朝起きる時間が遅くなり、都合が悪い。民・家来が怠け者に
なるから。つまり、怠け癖予防だ。
368日本@名無史さん:2009/08/25(火) 12:03:40
家康が遷都て・・
369日本@名無史さん:2009/08/25(火) 12:12:22
家康がせんと君?
370縄文人:2009/08/25(火) 13:34:35
>>364
天皇という称号が使われるようになったのは8世紀以後のことでしょ。万葉集には未だおおきみ(大王)が使われている歌が載って
いますね。神武天皇の即位はなかったでしょうね。私はまじめに「太国ちゃん 冗談を言ってるんだろ」と言ったのは以上の理由なの。

それは置いといて、神武は倭国大乱の頃瀬戸内を平定しながら畿内に入るのだが、畿内に落ち着いてボスの位置につくにはかなりの時
を要しただろうね。開拓事業を進めながら、ほら 食料が多く穫れるようになったろ 私の言うことを聞いていればいい暮らしができ
るんだよ と土着の住民達を心服させていくんだからね。ボスの地位にいつ就いたかもはっきりしないんじゃないかな。ボスとして祭
祀でリーダーを務めただろうが、就位式をやったかどうか わからんね。
371太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 14:06:32
>>370
君はまた伊作と同じ抗弁をするのか? 天皇がオオキミとか言い回し
は時代によって違うだろうが、便宜上そう呼んで書きこむわけだよ。
君だって神武云々と神武の号を使ってるではないか。ダメだよそんな
詭弁を使ってとぼけるのはね・・・。また君の言ったことをこちらが
言ってるようなやり方は卑怯だぞ。自説が勝ち目が見当たらなければ
参考にするとか再考するとか他の言い回しがあるだろう。詭弁と
ゴマカス、自己のドジをこっちがやったような言い方はやめてくれ。
そういうのは余に毎回負け運んでいる改め丸の常套手段で、卑怯この
上ないやり口だぞ。
372縄文人:2009/08/25(火) 14:18:13
>>349
俺を隠れ畿内説論者に仕立てあげるメリットがあるんかね。
俺の主張は最初から変わっていない。もう忘れているようだから簡単に要点を記しておこう。

1.倭人伝を恣意的に解釈しなければ畿内説は成立しない。特に、伊都国を前原市辺りに比定するなど、昔の権威の説を盲信しており、
 思考力の欠如が甚だしい。
2.畿内説は倭人伝では勝負できないので、考古学資料を重視すべきだと言い出し、古墳や土器や鏡の出土状況を証拠としようとして
 いる。しかし、出土物の年代(埋められた年代)が確定していない。(畿内説派の主張する遺跡、出土物が邪馬台国所在の証拠に
 なるのなら考古学会や歴史学会でも結論が出てるだろう)遺跡や出土物はそれ自身は何も語らない。人間が推測で語っているだけ。
3.奈良盆地や河内平野の自然史、地形、地質、古代の気象などの他分野からの情報を勘案すれば、弥生時代の畿内には戸数7万余の
 人口を養える農業生産力は無かった、したがって、畿内に邪馬台国は無かったと見るのが妥当である。
4.畿内の大和王権は九州勢力(邪馬台国勢力)の一部が東征して築いたものである。倭国大乱の頃、先ず神武らが日向から進発した。
 神武が奈良盆地の開拓事業を興し、後から来た崇神の代にほぼ完成し、崇神は出雲や出雲系豪族を配下に収めて大和王権を確立した。
 これは4世紀の初頭であろう。崇神は神武の部下や自分の部下であった功労者達の霊を慰めるやめ前方後円墳を築造した。(巻向地方
 にあれだけ多くの古墳が短期間に作られたのはこのような事情による)

373縄文人:2009/08/25(火) 14:25:16
>>371
太国ちゃん
あんたは好人物だから、半径3の球の体積の数字で天皇の即位年を決めるような冗談を言っても、俺は笑って見過ごして
いるんだよ。あんたと喧嘩したい訳じゃないのよ。ただ、崇神が4世紀の人物だと認めるだけでいいの。
374太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 14:35:16
縄文人さんよ
あれはカルト狂のホツマ至上とする唐松山の論戦用だよ。彼は最初に
ホツマ教ありきで、景行を何が何でも景初3年あたりに持っていこう
とホツマ教の強固な妄想信念から論説を構築している。そしてその論
は一見学術的に書きこんではいるが、これはホツマ教の信念を隠す為
のカモフラージュであり、その化けの皮をはがせばそれはカルト狂
の布教活動そのものである。それをそれがしは見破っている。この
ために三輪の理を数式で示したものだ。

それに4世紀にはならないよ。崇神の活動は3世紀だね。
375日本@名無史さん:2009/08/25(火) 14:50:17
>>367
徳川家康は江戸に遷都してないよ。
家康は秀吉の命で当時の日本の中心から遠い江戸に追いやられたの。
376日本@名無史さん:2009/08/25(火) 15:03:52
>>372
「倭国大乱の頃、先ず神武らが日向から進発」
とあるので、神武を2世紀末頃活躍したと考えているようだね。
それで
「後から来た崇神の代にほぼ完成し、崇神は出雲や出雲系豪族を配下に収めて大和王権を確立した。これは4世紀の初頭であろう」
とも仰ってるんだが、神武〜崇神は10世代に及ぶ父子皇位継承なんだから
神武2世紀末・・・・・崇神4世紀初頭では期間があまりにも短過ぎるね。

それに
「後から来た崇神」
なんていとも簡単に書くが、記紀のどこを読んでもそんな「崇神東遷」みたいな話は出て来ない。
史書を無視し、論証を抜きにしての妄想はいただけないね。
崇神の父は開化で、このあたりずっと大和生まれの天皇が続いているよ。
377日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:18:09
スレの趣旨から外れるけど、
神武天皇が127歳まで生きたというのは現実的ではないよね。
史実に基づくとしても、2〜3世代に渡っての話だと思うけど、
その辺専門家の解釈はどうなっているの?
378日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:36:54
神武は出雲からの天下りの子孫。
出雲が収めていた畿内に戻る話。
だから東征でも何でもないよ。
379日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:55:18
>>372
君が神武東征があったとする時代、瀬戸内に具体的な争いの記録があるのは、
播磨風土紀にあるアメノヒボコと土着豪族の話ししか無いけどな。
しかもアメノヒボコは伊都国県主の祖先だそうだよ。
紀記や風土紀にも残された記述だ、東征論を主張するなら、
無視は出来ないと思うけどな。
380縄文人:2009/08/25(火) 16:56:39
>>3726
これは日本書紀の編纂方針が関係しているのです。天武天皇は兄とされる(疑問も出されていますね)天智天皇の系統から
皇位を簒奪しましたが、非常に有能な政治家で、従来の豪族中心の政治を排して官僚による中央集権体制を整えました。こ
の天武の時代に半島では新羅が覇権を握りつつあり、天武は天智の百済支援から転じて親新羅の外交政策をとります。新羅
は大陸の唐の脅威にさらされていましたから、日本に支援を求めます。天武はその要請に応えて唐と断交します。さて、日
本と新羅の関係ですが、天武としては新羅の兄貴分の立場をとりたいわけです。新羅が使節を送ってきて支援を求めたいき
さつからも日本は新羅の上位者だとの自負です。恐らく、新羅の使者は貢ぎ物と一緒に新羅の歴史を書いた書物を持参した
でしょう。天武はそれを見て、「む 生意気な 350年の歴史だと!」と思ったけどこちらには史書がない。そこで息子の
舎人親王に日本書紀を編纂するよう命じました。新羅が350年ならこちらはそれよりもっと古くしろ。それから、卑弥呼の
魏への朝貢や狗奴国との争いを解決して貰った話は国辱ものだから書くな。神武天皇は卑弥呼の前に大和に東征したので関
係ないから書いてよい。崇神の場合は邪馬台国の時代に重なるから九州から来たことにはするな。とまあざっとこんなこと
だったでしょうね。 
381日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:05:04
>>380

全部、自分の空想じゃねえの。

バカじゃないの?

空想をいくら人前で語っても誰も聞いてくれないし、おまえのことを認めるやつなんていないよ。
382日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:10:14
>>380
>それから、卑弥呼の魏への朝貢や狗奴国との争いを解決して貰った話は国辱ものだから書くな。

「日本書紀は卑弥呼を隠してる」みたいな言い方だが、
日本書紀は神功皇后を卑弥呼の時代にあててるだろ。

日本書紀もろくに読まずして日本書紀の暗号を解読したつもりでいるんだろうが。
383日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:13:32
>>381
たかだか掲示板の投稿ぐらいで、人を簡単にバカ呼ばわり出来るお前は
一体何様だ?
バカにしたかったら、本人特定して直接言ってやれ。費用は100万以下で可能だろう?
384縄文人:2009/08/25(火) 17:15:41
>>381 >>382
おまえさんらには良質な想像力が欠けているのさ。
神功皇后の話は3韓征伐の話が中心、卑弥呼を示唆するというのは後世の人の注釈。
385日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:19:58
>>384
>卑弥呼を示唆するというのは後世の人の注釈。

おまえは、>>380で天武の編纂方針を出しておいて、さらに後世の人の注釈とか言ってるのか?

本当に「バカ」だな。
386縄文人:2009/08/25(火) 17:45:26
>>385
この人はものを考える能力がないみたいですな。本当の「バカ」と自分で言っている。
あのね、神功皇后が魏への朝貢だとか狗奴国と争ったとか日本書紀に書いてあるの?
ただ日本は昔半島を征伐したんだぞということが書かれていて、天武の編纂方針にぴったりだよ。
387日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:55:27
>>385
この書き込みをした人は舎人親王が編纂した日本書紀がそのまま残っていると思っているね。うぶだね。
388日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:57:49
>>363

大規模製鉄跡って鉄器工場でしょ。
製鉄とは違いますよ。鉄の鉱山だって近くにないし。

それに、弥生時代の奈良県から鉄の出土は極小だったことは間違いありません。
古墳時代に入ってやや増えてきましたが、弥生時代は京都や大阪のほうが圧倒的に多いのです。
古墳時代に入ると京都や大阪が少し減って奈良県にも鉄器が増えてきます。
それでも九州を凌駕するほどではありません。
5世紀になって初めて九州と畿内が同等になります。
その頃になって畿内で独自の鉄輸入ルートが確立したのではないでしょうか?
389日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:07:32
>>367

家康東へ行ったのは秀吉に関東に封ぜられて地盤が関東にあったからでしょう。
頼朝も鎌倉に幕府を置きましたね。同じこと。

纏向には日本各地の土器が来ていたといいますが九州は極めて少ない。
九州には畿内の土器がたくさん来ている。
九州へ鉄を購入するために畿内から畿内の産物を持って行ったり、
時には畿内人は奴隷として働かされていたりしたのだろうと思います。

390日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:16:12
>>388
私は貴方のように考古学資料に詳しくないので、迷惑なことを書くかも知れませんがお許し下さい。
九州勢力は大量の鉄器(武器、農業用、工事用)を畿内に持ち込んだと思います。それらの鉄器が使い古されたり不要に
なったら鋳直して利用されたでしょう。例の鉄器工場もその跡かも知れませんね。

話を逸らして済みませんが、日本書紀には漢への朝貢、魏への朝貢、晋への朝貢、宋への朝貢など書かれていませんね。
これから見ても日本書紀が編纂された頃の大和政権は大陸の王朝への朝貢は国辱であると考えていたことが分ります。神国
日本だったのです。
391太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 18:22:05
>>380
だったら、ついでに三皇五帝より古くしろと言うはずですよ。それに
神武陵を始皇帝陵より2〜3周は大きくしろと言うはずだよ。ブツの
ほうが小山くらいであちらがドでかいんじゃぁ、新羅なんかにかまっ
てられないよ。君の妄想なのさ。w
392日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:35:19
>>391
太国ちゃん
あのね 大陸の王朝と言ったって漢の4百年(新が間に入るから2百年か)が長い方の歴史でしょ。そんなもん問題にしなくても
いいじゃない。威張りたい相手は新羅なんだからね。それに墓なんか見せたってしょうがないでしょ。大和朝廷の宮殿で日本には
日本の言葉を表現する万葉仮名があり、文学や芸能など優れた文化がある、調練された軍隊もある、というところを見せた方がい
いに決まっとるよ。
393日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:36:11
>>372
>崇神は神武の部下や自分の部下であった功労者達の霊を慰めるやめ前方後円墳を築造した。(巻向地方
>にあれだけ多くの古墳が短期間に作られたのはこのような事情による)

「纏向地方」と言うのは始めて聞いたがw

とりあえず所謂「纏向型」と祟神陵がほぼ同一年代になると思うがその根拠は?

纏向型といえば南は日向、北は会津まで分布しているがそれらもやはり祟神に繋がるのかな?
394日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:43:25
>>388
1〜2世紀の鉄器工場は重要だろ、しかも北部九州とは様式が異なり
どちらかというと徳島の物に近い。
ここで造られた鉄器が何処で使われたか調べる必要があるだろうな。
395日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:48:06
>>372

しかしこの手の東遷説論者はとにかく4世紀までの奈良盆地を
まるで無人の野の如く妄想したがるが何ら根拠は無い。

逆に言えば4世紀になって爆発的に人口が増えた事になるがその痕跡も無い。

無論この縄文人とか言う馬鹿が言うような巨大工事の跡もなければ
3世紀まで盆地湖があった形跡も無いし
恐らくそのような工事があれば下流域にも相当な地形の変化をもたらすと思うが
そんな話も聞いた事が無い。
土木工事やその後の開墾治水の為に色々な技術供与があったはずだがその痕跡も無い。
そもそも九州にそのような巨大工事に繋がるような遺跡遺構が見られない。

ここまで無い無いづくしならもう話にもならない。

念の為先に釘を刺しておくが人口を鉄器や銅鏡の出土数を元に推定するなら
日向あたりは大和と何ら変わらない無人の野と言う事になるw


396ローガン:2009/08/25(火) 19:01:59
>>388
「鉄製遺物を埋蔵する土壌環境の腐食に対する影響の相対的評価の試み」

一度ググってみて下さい。
397日本@名無史さん:2009/08/25(火) 19:07:05
製鉄遺跡なら糸島半島の志摩側になる遺跡もありますよ。
古墳時代の元岡製鉄遺跡、弥生時代の大塚遺跡
近くの砂浜では、まだ、砂鉄の層が見える場所があります。
398日本@名無史さん:2009/08/25(火) 19:23:17
重要なのは国産み神話の淡路島に、大規模な製鉄工房が発見された点だな。
399日本@名無史さん:2009/08/25(火) 19:28:02
奈良盆地は3世紀頃までは湿地帯で人口も少なかった
開発が進んで人口が増えたのは4〜5世紀以後でしょう。
400日本@名無史さん:2009/08/25(火) 19:55:54
>>395
おまえは畿内説の恥さらしだから何も言わないでくれ。まるで神戸の町を見て「落ちた高速道路もない、倒れた家もない、あの大震災
は無かったんだ」と言っているようなものではないか。
401太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 19:59:09
>>392
>威張りたい相手は新羅

なぜ新羅のみに威張りたいのか? そんなことくらいの理由で日本の
歴史を古く見せることもあるまい。w
402日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:10:33
>>395
<恐らくそのような工事があれば下流域にも相当な地形の変化をもたらすと思うが そんな話も聞いた事が無い。>

これを書いた人は物忘れがよいか、ものを知らないかのどちらかだろう。
私は奈良湖の排水工事のことを書いたが、それをよく読んでいないか、理解できていないようだ。排水工事は川の閉塞場所を浚渫
する工事であるが、これは石などを少しずつ取り除いてゆく作業なのである。ダムを決壊させるような工事ではない。下流域に影
響が出るとしても水流が少し増えるだけだ。大雨による洪水に比べたら微々たる影響だ。こんなことも理解できないとは情けない
ですね。
403日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:12:05
縄文人は底浅い知識で、思いつきを書いてるだけだよ。
404日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:16:49
縄文人は根拠なく、自分の想像で歴史を捏造してるだけだよ。
405日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:18:59
しかし、それは思考力はあるということだし・・頓珍漢な畿内説にしがみついている
連中よりはましだ。
406日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:23:16
縄文人は仕事にあぶれた土方で、中風病みの老人だよ。(根拠なき想像)えへ、俺って思考力
ばっちり。
407日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:25:38
402は私が書いた。名前かくのを忘れた。
>>402
太国ちゃん
あのね 天武天皇は唐とは断交したの。唐の人間に見せるために日本書紀を編纂させたんではないの。支援を求めて来た新羅の使節に
見せるのよ。もちろん、それだけが目的ではない。天智系から皇位を奪い取ったこともあり、正統性を主張する必要があっただろうし、
日本を近代化(当時の感覚で)し文化的にも一流国となったという自負からも歴史書が必要と考えたのさ。
新羅と日本をあんたと俺に置き換えてみようか。あんたは倍暦で威張る、俺は見識を示す。お互い張り合っているね。張り合っている
関係では自分を誇大に見せたくなるものさ。
408太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 20:30:18
縄文人氏の抗弁は大した利害でもないことを、ことさら誇大に仕立て
上げ、新羅のことくらいでいちいち歴史をほじくり回すことも
あるまいが。w 朝廷はそんなことをやるヒマがあるんなら、もっと
やることが他にいっぱいあろうが。ww 所詮君の盲象。ダメね。w
409縄文人:2009/08/25(火) 20:36:56
>>403 >>404
おれに対抗できないからこんな無意味な書き込みをする。可哀想だね。
考古学資料とはなんだ?遺跡や出土品は歴史を語ってくれるのか?語るのは人間で物を見て推測するんだろ。違うか?

>>406
おまえも可哀想な奴だな。下劣な品性丸出しだ。
410日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:43:34
>語るのは人間で物を見て推測するんだろ。違うか?

頭の悪い、教養のない人間が語っても意味なし。www
411日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:46:20
>>406
こういうレスがバカの見本。己の教養の無さを示している。
412日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:53:54
太国ちゃん
終止符スレは河童虫さん達が難しい話をしていてみんな退屈しているよ。あんたが出て行って改めさんや其の他の
変な人を掴まえて変な議論をしてきなよ。
413唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/25(火) 20:59:10
>縄文人は根拠なく、自分の想像で歴史を捏造してるだけだよ。
この様にただ比定するだけなら簡単だ。
これに思考を加えて批評すると。

縄文人さんは、神功を360年頃として存在を比定する。
神功を360年頃とすると、ローガンさんは、記事を書き換えることでこの数字を容認する。
私もこの数字と書紀の記事のままでは、肯定できない。

神功時代が数字的に間違っていることを認識すべきだ。
神功元年は274年、この数字なら 書紀の記事も容認できる。
414日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:59:55
>>396
そりゃあ詭弁と云うもの。
奈良県だけ酸性雨がたくさん降って、酸性土壌だったの?
大阪とか京都は九州よりは少ないけど奈良県よりは圧倒的に鉄器が存在しますよ。
京都や大阪を邪馬台国にするならともかく、奈良県は箸にも棒にもかからないど田舎でしょう。
415日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:05:18
弥生時代と言っても九州と畿内では100年くらいの時差があるから、弥生時代後期は九州で2〜3世紀なら
畿内は3〜4世紀ということになる。
416日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:21:07
2〜3世紀なら北部九州のピークは過ぎてるな。
もっと古いよ。
417縄文人:2009/08/25(火) 21:23:15
>>415
余裕のある人は言うことが違う。見習おう。
神功元年というと神功さんは天皇だったんだね 唐松山さん。もしかしたら壹與が神功?
418日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:38:25
>>372
>4.畿内の大和王権は九州勢力(邪馬台国勢力)の一部が東征して築いたものである。
>倭国大乱の頃、先ず神武らが日向から進発した。

つまり、神武は2世紀頃に東征した。
九州勢力が畿内に勢力を伸ばした。

これはつまり、畿内説のいうところの、九州と畿内のゆるやかな連合と同じことなんだが。
神武は邪馬台国勢力の首長なんだから、
その首長の一族が3世紀の畿内にいるわけだから、
邪馬台国の首都は畿内ということになる。


この人は、自分で何を言ってるのか解っているのだろうか?

419唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/25(火) 21:40:06
壹與は五百野姫

前方後円墳は250年頃から地方へ分散。
420日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:43:20
初心者がスレを流し読みすると論点が見え難くなる。
ちょっと整理しよう。

まず、遺跡からは形に特徴のある土器が出土する。
土器の形の移り変わりは時代によって変化していくので、
土器Aと土器Bを見比べて、どちらが古いか新しいかがわかってくる。

同じように、鏡も流行があり、鏡Aと鏡Bで、どちらが古いか新しいかがわかってくる。
鏡は、流通した年代がはっきりしてるので、
鏡Aが出れば、その遺跡は、鏡Aが流通してから作られたことがわかる。
鏡Bが出なければ、その遺跡は、鏡Bが流通するより前に作られたことがわかる。

邪馬台国の時代は、庄内式土器から布留土器に移り変わる時代。
初期の古墳は、おもに布留土器と三角縁神獣鏡が出る。
ホケノ山からは、画文帯神獣鏡と庄内式土器が出て、三角縁神獣鏡が出なかった。
画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡より前から流通していたことがわかっている。

よって、ホケノ山は、初期の古墳より、さらに古い古墳だったとわかる。
古墳時代が4世紀からだとされていても、ホケノ山はさらに古く、3世紀に作られたことになる。
これは、年代遡上などと言われる筋合いのことではない。
ホケノ山が4世紀中頃だと言うなら、古墳時代は5世紀からか?ってことになる。

わかった?>>縄文人

421縄文人:2009/08/25(火) 21:51:56
>>418
この人は考え方は一つしかないと思っているのだろうか?
<神武は邪馬台国勢力の首長なんだから、 その首長の一族が3世紀の畿内にいるわけだから、 邪馬台国の首都は畿内ということになる。>

なんでそうなるの?畿内の神武の国は邪馬台国の首都があるところでもないし、出先機関でもない。単なる移住先。

422日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:54:24
>>421

>単なる移住先

これを、「ゆるやかな首長連合」というんだよ。つまり、畿内説。

移住したあとも、当然神武の一族は九州と繋がりを持っていて、崇神を招きいれたんだろ?

423日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:56:08
縄文人がどんな反論をしてくるか楽しみだ。

とことん、追い詰めてやる。
424日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:56:11
>>416
九州の年代は2〜3世紀が弥生時代後期は貨泉で確定している。
2〜3世紀は九州の全盛期だ。
425縄文人:2009/08/25(火) 22:01:00
>>420
<鏡Bが出なければ、その遺跡は、鏡Bが流通するより前に作られたことがわかる。>

何故そんなことが言えるのか?前漢鏡が出ない前方後円墳は何時の築造になるの?
426太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 22:02:43
唐松山はまだ日食が数日間も続くと主張しているらしい。
この盲象はもう酒井の覚醒剤の同様、死ぬまでやめないらしい。
カルト・ホツマ狂信者の盲象だな。ww

しかし三輪と塩満つ玉塩干る玉の数理はこれをシッカリと防ぎ止める。
427縄文人:2009/08/25(火) 22:04:35
>>422
な〜んだ。畿内説とは邪馬台国九州説のことだったのか。それならOK
428日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:14:39
>>427

なんだ、縄文人よ。畿内説を認めたわけか。
大人になったな。

429日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:16:25
じゃあ、次は、卑弥呼共立の30国に大和が加わってたことも認めるよな?

卑弥呼が九州にいたとしてもだ。

430縄文人:2009/08/25(火) 22:19:04
>>426
唐松山さんは日食が数日間続くとは言っていないように見えるけど、あんた眼が悪くなったんか?
俺はホツマは神主の見習いのための教科書だと思っているし、倍暦で紀の年代を割り出すのも無駄な努力だと思っているよ。
編纂チームが智慧を絞って創り上げた干支だよ。それより、終止符スレで変な人と議論しなよ。改めなんかあんたを待ってい
るんじゃないの。こてんぱんにやっつけてやりなよ。
431縄文人:2009/08/25(火) 22:22:09
>>428
いや〜畿内説も進歩したもんだ。邪馬台国は九州にあったと認めたのは偉い。うん。さすがだ。
432太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 22:25:49
>>430
あいつはまだ神功初年のムー誌的日食説をまだ捨ててないんだよ。
表見的言葉に惑わされてはいかんね。日食が数日間も続くか〜?w
7月の皆既日食もそんな長くはないだろう。それでもあいつは
カルト・ホツマ狂の布教を酒井法子の覚醒剤の如く、死ぬまで
やめられない脳内の状態なんだよ? それほど盲象は恐ろしい。
あんたもちっとは盲象でないか、自己の説を再考したほうがいいぜ。
433縄文人:2009/08/25(火) 22:26:22
>>429
うん?卑弥呼共立の頃は神武は未だ畿内に入っていなかったんでね。あんな田舎はまだ眼中に無かったね。すまんね。
434日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:29:01
>>433

なんだ?
それじゃあ、ただの東遷説じゃないか。

素直に「東遷説」だって名乗れよ。この卑怯者。

435日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:30:00
て優香、神武は九州主神の弱小豪族。
畿内に入ってからめきめき力をつけていったのです。
それを支えたのが、葛城氏だったのではないでしょうか?
436日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:31:00
うん、卑弥呼は九州にいた。魏使はその卑弥呼に会いにいった。
当時、邪馬台国は本州にも勢力をのばし、その重要な拠点として大和があった。
魏使はその大和の話も聞いたが、それは遠すぎるので行かなかった。ということかな。
437日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:31:41
東遷説は負けがこんでるから、東遷説とは言いたくな〜い。
でも、邪馬台国が東遷したことにした〜い。神武東征大好き〜。
でも、いじめられるのはイヤだから、どうどうと東遷説でしなんて言えな〜い。



これが、縄文人の姿ね。

438日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:34:53
縄文人があっさり馬脚を出したもんだから、こっちは拍子抜けだよ。

もっとネチネチ追い詰めたかったのにさ。

東遷説なら、東遷説だって言えばいいんじゃない?
何をためらってるわけ?
439日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:39:08
東遷と東征のちがいも分からんのかなあ。
440日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:42:07
>>439

同じことだろ。

て、書くと、縄文人が意気揚々と違いについて説明してくるだろうから、
楽しみに待つよ。くすくす。
441日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:48:18
>>440
河童でも呼んでくるか?w
442日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:10:07
>>421
横やりだが
それってよく言われてるけど、神武は奥さんどころか子供も残してる
移住ではないことがはっきりしてる
443日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:10:46
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。

桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」

縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
http://bunarinn.fc2web.com/gozaru1/gozaru/sakuratokaboto/sakuratokaboto.html
444日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:12:46
神武東征伐の目的はいろいろ考えられるけど
拠点づくりだったと思うな
河内を押さえれば、瀬戸内海路が開ける
宇佐津彦が神武達を歓迎した理由もそこにある
445日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:13:47
銅鐸文化が2〜3世紀に(もっと前?)に何らかの勢力によって
駆逐されたのはほぼ確実である。
出雲から畿内の文化圏は、庶民を別にして、支配層、宗教層が
入れ替わっている。

わずかながら九州からさえ出土した銅鐸文化圏が
伝説さえ残さないまでに消滅したのは興味深い。
446日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:15:00
>>445
確かに新垣結衣は腹がくびれてない
運動しないからだな
447日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:21:48
もし北方騎馬民族が大和を征服したのなら、なぜ北方騎馬民族の誇り高き武器、
彎弓(中国・朝鮮の弓はみなこの形式である)、短弓が広がらず日本古来の和弓、
長弓のままなのかね?
http://img.houseco.jp/blog/photo/5244.jpg
http://www.fieldnote.info/wp-content/uploads/2009/08/emaki.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-1.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-2.jpg

日本では弥生から現代まで長弓を下3/1(唯一倭人だけ)の握り位置の所で射るやり方だよ。
騎馬戦法でも短弓の方が便利なのに、無理して長弓を使うどうしてかな?倭人の誇りだから。
『魏志倭人伝』に「木弓は下が短く、上が長い」と記されているのも、この弓のこと。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-9.gif (この銅鐸絵、弓の握り位置注意)

それに、誇り高き北方騎馬民族が、征服者なのに名前が倭人系の名になるはずが無いだろ。
先祖や神の名も倭人系なのを消すはずだろ。朱蒙や檀君の神話は一切無いね。!!!!
448縄文人:2009/08/25(火) 23:30:55
俺がちょっと留守してると畿内説派の低級な連中が騒ぎだすな。金魚のウンコみたいだな。この中に>>420を書いた奴も
混じっているかな。
いかにも理路整然と見せかけて、どうだと言わんばかりに<鏡Bが出なければ、その遺跡は、鏡Bが流通するより前に作
られたことがわかる。> などと突拍子も無いことを言う。このような根拠のない理論とも言えない理論めかした議論をす
るのが本物だとでも思ってるのか。畿内説派の考古学資料なんてこんなものだ。アホラシ。

俺が東遷説だと思うんだったら思えばよいさ。思うのは勝手だからな。だけど、自然科学にも人文科学にも疎いお前らには
理解出来ない世界があるのさ。残念だねえ。君たちもっと勉強しとけばよかったねえ。
449日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:41:03
>>402

ん?
そんな一時的な事だけを挙げて言ってるんじゃ無いぞ?

水系全体で考えればそれまで奈良盆地を水底に沈めた膨大な水量を下流域全体で負う事になる。
当然下流域の川幅は相当広がる事になるだろう。
それによって消失する耕地や居住可能な土地がどれだけなのかと言う話だよ。

ダムを作った場合、下流の川幅は狭まりそれまで川の底だった両岸が露出するがそれの逆になる。
その痕跡も認められないのか?って話だが…

で、
巨大工事の跡
技術供与の痕跡
元の九州の巨大工事の遺跡遺構

…これら何れも無いのか?

結局お前の話は一から十まで全て妄想だけじゃないかw

これもそれも全て東遷説を成り立たせたいが為ひねり出したご都合主義の産物。

少しは客観的な材料を持って来い。
偉く色んなジャンルに知識があるんだろう?ハッタリ知ったかぶり君www

>>400
チョッと聞いておきたいんだがお前畿内説の立場で
縄文人のこの「3世紀の盆地湖」の与太を信じているのか?w


450日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:48:22
>>372
>.倭人伝を恣意的に解釈しなければ畿内説は成立しない
>.畿内説は倭人伝では勝負できないので

そもそもこんな事を言っている時点で馬鹿丸出しと言う話で
単一史料で他から比較検証できない倭人伝に
そもそも位置論に決着をつけるだけの力は無い。

方角の問題にしても南北逆さまになったような古地図、隋書の記述と
古代中国人の日本の地理観がかなりいい加減であろう事は容易に伺える。

何の事は無い九州説が畿内説に対抗できるのが唯一倭人伝の「南」の一文字であるって事なだけwww
451蒋門神:2009/08/25(火) 23:51:23
盆地湖はあったさ。九州先鋭土木軍団には工事そのものが魅力。だから、あんな辺鄙な鄙
に退去して押しかけた。九州先進土方軍団は、工事に対する関心・意欲・態度がいや勝って
いたのさ。
452唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/25(火) 23:51:39
>唐松山はまだ日食が数日間も続くと主張しているらしい。

数日間の暗黒は、太国さんの読み方。
300年頃、この様な自然現象は、地球上に存在できない。
存在できなければ、存在できる現象として、日食がある。

2枚舌の太国さん 自分の信用を落としても、私の説を貶めようとする魂胆は
見え見え。
453縄文人:2009/08/25(火) 23:54:42
>>449
おまえさんは思考力がないのか?
川底を浚えれば湖の水位は下がるが、それは1年に5cmか10cmの程度だ。一気に10mも下げられるか。いいか、年に5cmと言えば
50mmの降雨に相当する水量だ。川の水量はほんの少し増えるだけだ。下流域に及ぼす影響は大雨による洪水に比べれば微々たるも
のだ。なんで痕跡が残るのだ?
454日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:57:16
>>372
>考古学資料を重視すべきだと言い出し

これも己の無知をさらけ出す書き込み。

そもそも論争史を俯瞰すれば考古学に多大な期待をかけてきたのはむしろ九州説。

既に明治に久米邦武が曰く…

 「邪馬台の考証時代は既に通過したり、今は其地を探検すべき時期に移れリ」

神籠石や江田古墳、変わったところで松本清張はトンカラリンを卑弥呼の鬼道関係の遺構と言ったw

遺跡の名が挙がっては消え…しているのは九州説の方w

逆に畿内説はピンポイントで遺跡を挙げられる様になったのは纏向が事実上初めてではないかな?
(箸墓=卑弥呼の墓なんてのは前からあったが)

まあ吉野ヶ里ブームの頃までは考古学は九州説の心強い味方だったんだろうよwww
455日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:07:28
>>450
馬鹿丸出しはお前だろう。お前の言葉は裏返せば倭人伝の行程記事とは絶対に
合致しませんと自白しているに等しい。倭人伝が伝える邪馬台国をさがすのに
倭人伝と合致しないところをいくら探したって邪馬台国があるわけがない。
456日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:07:36
>>453
ん?
お前は湖の水位が数センチ下がったら下流の水位も数センチ上がるって理屈か?
体積で考えてみろよ。
水位としては数センチでも盆地全体を覆う広さだ相当な数字になる
その水量が狭い川幅に注ぎ込む。
当然川の水位上昇は湖面の水位低下じゃすまないぐらい上がるが?

まあ結局何も客観的な材料が出せない。
むしろここまで無い無い尽くしなのは
やはりトンデモなのだろうと思うのが普通じゃないかな?w
457縄文人:2009/08/26(水) 00:08:00
>>454
俺は邪馬台国論争史について言っているのではないよ。俺の倭人伝論について畿内説派が考古学資料を重視してものを言ってる
から>考古学資料を重視すべきだと言い出し と書いたのだ。違うかね?誤解されているなら訂正すると言ってもいいよ。
458日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:08:52
>454
逆に纏向が否定されれば、
畿内説は完全崩壊するという危険性がある。

九州説では共立された30カ国に比定できる国が
多くあるということになる。

大型古墳と巨大遺跡が卑弥呼の墓ならば
それは共立ではない。支配というのである。
459日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:12:21
>>454
邪馬台国に結びつくようなものはまったくないのに、纏向の他にこれといった遺跡が
ないから強引にこじつけているだけだな。
460日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:14:22
>>455
脊髄反射乙。
馬鹿を晒す前に少しは考えよう。

先ず
「絶対に合致しない」
と言うのは無い。
いい加減であって(たまたま)合致する可能性もある。

100%嘘をつく奴ならその逆をやれば正解だが
50%となるとそうもいかないw

「倭人伝に決定能力が無い」と言うのはそう言うこと
無論とりあえずその記述を信じて比定地を仮定するのはありだが
そこが正解だという保証は何も無いって話だなw
何らかの確定材料が別途必要って事。

そんなことはもはや当たり前の話だと思うが?www



461日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:19:55
>>460
脊髄反射乙。 あわてて書いたせいか、それとも元々文章能力がないのか、
日本語になってないぜ。
462縄文人:2009/08/26(水) 00:22:26
>>456
うん?お前さん何を勘違いしてるの。年に5〜10cmの湖水位の低下だよ。1日にしたら0.03mm以下だよ。1時間にしたら
0.001mm程度だよ。そんなもん1時間に10mmの降水に比べたら1万分の1だよ。なにか?弥生時代は10mm/hの降水は
無かったとでも言い出すか?奈良盆地に降った10mm/hの雨は大和川の水量をどれだけ増やすと思うのだ?おまえの言うよ
うに洪水になるよ。計算もできんのか?
463日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:23:04
>>461
まあ、ゆっくり考えれば分かるさw
464日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:31:57
>>462
雨ならやめば一時的に広がった川幅も元に戻る。

だが湖の水位が下がって広がった分はそのまま。
じわりじわりと広がる。

下流の人間から文句は来なかったのか?w

それも無敵の神武軍団が話をつけったってお話なのかな?www
465ローガン:2009/08/26(水) 00:36:44
>>414
> そりゃあ詭弁と云うもの。

そうでしょうか?土壌環境によって遺物の残存に大きな差があることがよく判る比較ですね。

> 奈良県だけ酸性雨がたくさん降って、酸性土壌だったの?

そんなこと言ってませんよ。

> 大阪とか京都は九州よりは少ないけど奈良県よりは圧倒的に鉄器が存在しますよ。

ソースは何?
弥生鉄器総覧ですか?もしそうなら弥生時代と古墳時代って実年代で何時の事?
奈良県の担当者はホケノ山をカウントしていないですよ。

> 京都や大阪を邪馬台国にするならともかく、奈良県は箸にも棒にもかからないど田舎でしょう。

まあ、弥生時代ではどこもど田舎でしょう。ただ弥生末期辺りに変化の大きかった地が、当時の倭國の中心。後の王権の黎明期に当たるのが邪馬台国でしょう。
466日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:39:34
結局、単一史料の倭人伝は位置論に決着をつけられる物じゃない。

この事は畿内説にも九州説にも同じ。
どちらかに利すると言う事は無い。

もうこんな事はわかりきった事。

無論「石橋を叩いて渡らない」ぐらいの慎重姿勢を見せるならw
「倭人伝で位置を決するのは無理、考古学資料はあくまで状況証拠に過ぎない」
と言う批判は当然ありうるwww

しかし倭人伝のみをもって九州説を成り立たせるのは土台無理。

これもわかりきった事。

まあその事は畿内説に
「九州説は比定地をもっと絞り込んでくださいね」
とおちょくられる事に表れているんだろうがwww
467日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:45:32
もう畿内説のより所は纏向しかなく
その根拠は次々に覆されている。

あとは今までに培ってきた土器年代を捻じ曲げ
纏向にあわせるしかない。

しかし、それは土器年代をゆがめる行為である。
土器年代の信頼性を捨ててまで纏向と心中するか

考古学の質的変換が近づいているのかもしれない。
468日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:52:10
九州説、特に日向説の場合には、倭人伝の行程記事と合致することについては
まったく問題ないな。倭人伝が邪馬台国を南の国として描くところにも合う。
近畿説は逆立ちしても行程記事とは合致しない。
この差は大きいねえ。
469日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:57:13
>もう畿内説のより所は纏向しかなく
その根拠は次々に覆されている。

君の願望でしょw
470日本@名無史さん:2009/08/26(水) 01:06:43
>>443

小矢部市、石川県か…

そこに「貫穴(ぬきあな)」と言う技術が出ているが
纏向でそれまで鎌倉時代からと考えられていた護岸に使われていたと言う「ぬき」と言う技術と同様のものなのかな?

だとしたら纏向に使用された技術は日本海側にルーツがある可能性が高いのかな?

まあ実際出雲の八束なんたらと言う神の所謂「国引き神話」なんかも干拓工事の反映とも想像できるし
時代はずっと下るが継体も越の地で土木工事の業績を上げている伝承もあったと思うが…
(ちなみに越は四隅の分布域)


471日本@名無史さん:2009/08/26(水) 01:11:20
>>451
>盆地湖はあったさ。九州先鋭土木軍団には工事そのものが魅力。

その工事の記録が大和には全く残らないのが不思議ですね。
工事伝承が詳しく残ってるのが但馬だよ。
その伝承の主はアメノヒボコは伊都国王の祖先だそうだ。

つまり「伊都の国王の祖先は新羅の王子」とはっきり文献にも残ってる。
で、記紀上ではアメノヒボコは畿内には入れず、
近江や若狭を巡った後に但馬に永住してますね。

つまり北部九州の勢力は東征出来なかったという事ですよ。
472470:2009/08/26(水) 01:28:48
せめて謎の巨大土木工事のお話もこう言った
技術体系からのアプローチがあれば少しはまともなんだがw

ただひたすら
「東遷説があって欲しい」
と言う願望だけ孟宗竹wwwwww

473日本@名無史さん:2009/08/26(水) 05:49:36
君たちはまだ知らないかもしれないが、8/30は衆議院選挙の投票日だぞ。
その日は引きこもって2ちゃんしてないで投票に逝こう!
太国じいさん、紋太くん、縄文人くん、わかったかな〜?
474二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/26(水) 07:30:16
>>466
>>結局、単一史料の倭人伝は位置論に決着をつけられる物じゃない。

私の説が出てから、そんなことは言えなくなりましたよ♪

それは今まで、方角、距離、経路などを間違えていたとしか読めなかった上に、
行程記事ではない日数を行程として読むということをしなければ辿り着けないようなところは、
全て間違いです。
475日本@名無史さん:2009/08/26(水) 08:12:41
>>474
>行程記事ではない日数を行程として読むということをしなければ辿り着けないようなところは、

その行程ではない日数に付いている方角(=南)はとるのか?
日数は都合悪いから切り離す。
方角は都合が良いからそのまま?
476日本@名無史さん:2009/08/26(水) 08:30:40
>>474
2ch内ですら誰も支持を得られてませんが。
477日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:29:32
>>467
土器年代の信頼性を尊重するというのなら、

九州で、庄内式土器の時代に繁栄した遺跡をリストアップしてよ。
畿内よりも繁栄してたんでしょ?繁栄してた土地がいっぱいあるんでしょ?


それとも、無いの?


478日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:33:53
九州で、庄内式土器の時代は、まだ魏代の鏡が出てないんだっけ?

ということは、卑弥呼が魏に朝貢する前ってことだよね。
そして、邪馬台国が最盛期だった頃だよね。

だったら、ここが邪馬台国だっていう繁栄した遺跡があるはずだよね。

九州で、庄内式土器の時代に繁栄した遺跡をリストアップしてよ。
畿内よりも繁栄してたんでしょ?繁栄してた土地がいっぱいあるんでしょ?


それとも、無いの?


479日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:46:10
いくらでもあるよ。自分で差がしてみろ。
480日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:51:15
あるのならリストアップしたら?
481日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:51:56
馬鹿のつきあいする時間はない。
482縄文人:2009/08/26(水) 10:20:29
>>472
畿内説派の連中の理解力のなさ、単細胞的思考にはあきれるしかない。
奈良湖の排水工事を巨大土木工事だと言うが、何が巨大かと言えばそれは成果であって工事そのものは少しずつの作業の積み重ね
であることを理解していない。工事には技術が必要であったが、それは川を塞いだ岩石を取り除くための技術、すなわち、岩を割
る、その為の器具、また、どのような手順で作業を進めるかといった作業計画、方法、作業指揮、労働者の手配、労働者を出した
家族への配慮などなどである。巨大土木工事という言葉から受ける印象(短期間に巨大な労働力を以て行う工事)を利用して、そ
んなことが行われた筈は無いと言いたいのであろうが、思考力の無さから生み出される考え方でしかない。

>>464
この人物の思考力の無さがはっきり分る書き込みである。1時間に0.001mm程度の湖水位の低下で増える川の水量は0.001mm/h
の雨が降ったときに増える水量程度でしかないのに川幅が広がるなどとは 小学生でも言わないぞ。下流域に影響を及ぼす訳がなか
ろう。まだわからんかも知れんからも少し詳しく説明してやる。

今、湖水の面積を20km×20kmだとする。この水位が1時間に0.01mm低下した場合、流れ出た水量は
20000m×20000m×0.00001m=4000立方メートルである。すなわち、1分あたり67立方メートルである。
こんなもんで大和川の川幅が広がるか?
ついでに湖水面に10mm/hの雨が降った場合は1分あたり67000立方メートルの水量だ。どちらが影響が大きいか分るだろ?
483日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:31:05
庄内式って河内周辺で出土するだけかと思っていたら
福岡平野からも結構出ているんだね。
筑紫平野側からは殆どでていないのが何かありそう。

庄内式土器出土地域

 福岡平野一円
 大阪府八尾市近辺
 奈良県の天理市から櫻井市にかけて
484日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:34:48
東遷説の縄文人をはじめ、東遷説の人は、なかなか自分が東遷説だって認めたがらないよね。

こっちから「おまえ東遷説だろ」と指摘してから、やっと渋々認めるみたいな。
で、捨てセリフ吐くみたいな。
>>448
>俺が東遷説だと思うんだったら思えばよいさ。思うのは勝手だからな。


どういう心理なんだろうね?
東遷説なら東遷説で、正面から論戦すればいいんじゃない?
東遷説が否定されたら、自説が全て否定されることになるのを怖がってるんだろうな。

九州説のふりをしておけばまだ勝ち目があるが、東遷説じゃ勝ち目無いという自覚はあるんだな。
でも、だからといって、東遷説であることを隠して九州説を強弁するのは弱虫で卑怯者のすることだよ。

東遷説の論拠ってどこにあるのかね?
神武東征は紀元前のことだし、崇神は神武の頃から奈良にいた一族だし。
4世紀に九州勢力が畿内に来たような伝承や証拠は一切無いんだけどね。
485日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:38:55
福岡の場合、庄内式と同時期に西新式が比定されている。
土器編年そのものに疑問を持った方が良いのかもしれない。
486日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:40:58
>>485

庄内式と同時期に西新式が平行してたら、九州説が潰れることは認識あるんですね。


487日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:49:00
>>482
>奈良湖の排水工事

で、結局その(物的)証拠は何も無いの?

488日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:52:03
>>482
で、奈良の何処に記録や伝承があるの?
せれが無ければ単なる君の推測願望ですな。
489日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:04:48
大和盆地にある「水」の伝承は川の氾濫に関する事ばかりですね。
それもスサノオとクシナダ姫が結ばれるヤマタノオロチの話ばかり。
他は広瀬神社の件だが、これは誰が工事したとかではなく、
川の合流する地点にあった沼の水が自然に引いたという伝承だ。

但馬のアメノヒボコのように苦労して土地を開いたのなら、必ず話は残されるよ。
490日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:05:52
>>496
平行して作られた可能性も無いわけではないが
同じ地域内であれば、土器の形式の流行は
前後していると考えるのが妥当だろう。

ただ、西新という言葉から少し引っかかるものがあって
西新遺跡は早良区で室見川流域の範囲であり
板付遺跡などは博多区中央区の御笠川、那珂川流域の遺跡である。

そうなると地域によって使われていた形式が違う可能性もある。
491縄文人:2009/08/26(水) 11:15:17
>>487 >>488
大和川流域の地形、地質(断層帯なども含む)および奈良盆地の地形から、地震などによる岩石の崩落や地滑りによる大和川の閉塞
によって奈良盆地の低地部が水没することは容易に考えられること。奈良盆地の標高42m以下の部分には弥生時代の住居跡がないこ
と。古墳時代になって大和王権ができるほどになったこと。

弥生時代に記録なんてあるのかな。水害などは日常茶飯事のこと、同様に農業工事なども日常茶飯事、事件性のないことが伝承として
残るの?
492日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:21:34
もう議論も尽きてきたようだし、
このへんで採決に移りませんか?
8月30日に投票ということでいいんじゃないの?
493日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:22:32
>>491
>奈良盆地の標高42m以下の部分には弥生時代の住居跡

川が増水して水浸しになると分かっていて田んぼや家を建てる馬鹿はいないよw

それとも縄文人は堤防も築いていない川べり
平時の河川水位とほぼ同じ土地に家を建てたりすんの?w
494日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:24:30
>>491
>弥生時代に記録なんてあるのかな。水害などは日常茶飯事のこと、
同様に農業工事なども日常茶飯事、事件性のないことが伝承として 残るの?

豊岡や亀岡には残ってますが。
特に亀岡なんて湖だったとされるのは遥か太古の事、
弥生時代には沼が残る奈良盆地のような状態だったとされるが
それでも伝承は残っている。

だが奈良盆地には「河の氾濫」として残ってますよ?


495縄文人:2009/08/26(水) 11:28:06
>>493
だから住居が設けられないような状況(水びたし)だったことが分るんでにゃ〜か。
496日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:29:29
何故か縄文人はアメノヒボコに関してはスルーだね。

大好きな土木工事の記録を残していて、
渡来系では唯一神格化されてる伊都国王の祖先ですよ?
497日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:29:42
>>495
平時に42mまで水位があったら増水時にはもっと高い位置まで危ないよ?

馬鹿?
498縄文人:2009/08/26(水) 11:30:10
>>494
いつの時代の川の氾濫としてありますか?
499日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:33:42
だから縄文人の考えって平常時の川の水位ギリギリまで
田んぼや家を作るって発想だよね。

ばかじゃないの?w
500日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:36:25
>>498
奈良盆地に関してはヤマタノオロチとセットだな。
つまりスサノウの時代。
奈良盆地には複数点在して存在してますな。
501縄文人:2009/08/26(水) 11:39:10
>>497
馬鹿?はお前さんかな。湖には水の出口があるの。50mm/hの雨が降っても湖の水位が50mm/hで上昇するわけないの。
平時に42mまで水位があったかも知れんが、当時の標高と現在の標高は違うからね。土地は地下水位が低下すると沈下す
るものだよ。
502日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:40:44
上流からの水の引き込みが難しい広大な平野の場合、
川の水面に近い高さで田を作るのが普通。

動力がない時代に水を引き上げるのが難しい。
増水時に引き込んで、水面を調整し、水面が下がったときに排水する。。
結構灌漑技術は高度だ。

住居は知らん
503縄文人:2009/08/26(水) 11:44:25
>>499
川なら大雨があれば氾濫するけど湖と川では違うからね。まにを寝ぼけたことゆ〜とるんかいな。
504日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:53:34
てゆうか縄文人が初めに言っていた50mから40mちょっとまで水位を変えたら
ずいぶん陸地ができるんじゃないのかな?

505日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:57:07
>縄文人

でもおかしいよね?

3世紀まで42mまで湖で
4世紀からそれより低いところも耕地や人の住めるところになったんだよね?

じゃあなんで42m以下から家や田んぼの後がでてこないの?

耕地や人口が増えた事を証明できて無いじゃん
506日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:05:02
>505
つまり奈良盆地は多くの人口を養う地域ではなかった。
弥生時代には大国はなかった、でOK?
507日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:08:24
>>506
3世紀から4世紀になっても42mと言うラインは動かなかったと言う事じゃないの?

でも大型古墳や遺跡はバンバン作られたんだから
他所から労働力をもってきたか
もともとそれだけの力があったてことじゃないの?
508日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:09:32
>>506

OK
509日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:18:20
>>506
鍵・唐古遺跡周辺は?
510日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:19:45
>>509
ギリギリ42.3mだたはず。

まあそれにあわせて数字直したんだとw
511日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:21:55
>>505
>>506
>>508

よっぽどのアホやな。
税収があるので農耕地収穫量は関係ありません。
倭人伝を読んでるの?

アホすぎる。

倭人伝も読まないで、このスレに参加すんなよ。
512日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:24:23
奈良南部に鉱脈あるしな。国力はあるだろ。
513日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:26:52
>>511
「東京に1000万人住んでます。1000万人養う田畑が都内に必要です。」
くらいの理論なんじゃね?
514日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:27:38
>511
どのくらい税収あったの?
どのくらいの地域から税を採れるだけの大国だったの?

その税でどのくらいの兵力を食わせられたの?
515日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:28:26
まっ、人がいなければ税収も上がらない?w
516日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:29:51
耕地と動員人数を切り離せたのは
信長以降だろ。
それ以前は耕地=兵力
517日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:32:30
>>516
兵農分離って奴だね。

所詮、謙信も信玄も農閑期にしか兵を動かせなかったんだっけ?
518縄文人:2009/08/26(水) 12:36:08
>>500
スサノウは出雲でヤマタノオロチ退治をしたんじゃなかったっけ。奈良にある伝承は出雲系豪族が持ち込んで脚色したんでね〜か?

>>505
巻向地域を見たって今でも水田がいっぱいあるよ。湖の水が引いて幅広い川の状態になった場合、雨が降れば水は川に集中して氾濫を
起こす。湖だと水は湖面全体で受け持つから、出口があれば急な危険はないが、川になると氾濫という災害が起る。例えば、琵琶湖周
辺に大雨があっても琵琶湖沿岸での水害は浸水程度であるが、淀川では氾濫災害が起る。だから、低い土地には住居は作れない。湖岸
なら作れる。な〜んも不思議はないざんしょ。

>>507
崇神の時代(4世紀)になって排水と水田開発事業がほぼ完成。ただし、まだかなり大きな湖が残る。それでも水田面積は1世紀前の
それの数十倍に増加。この水田開発に伴う残土(灌漑用水路を掘った際に出る土)が大型古墳の築造に利用された可能性がある。
519日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:36:20
>どのくらいの地域から税を採れるだけの大国だったの?
西日本一帯を治めて魏に使いを送るくらいでしょw

520日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:40:52
>>518
>川になると氾濫という災害が起る。

だったら最初から川で氾濫して水びたしになるところを避けたでいいじゃないw

せっかく湖の水を苦労してぬいたのに結局氾濫がこわいから42m以下には家も田んぼも作らなかったってこと?

りくつになってないよw


521日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:42:05
>>518
だが出雲風土記にはヤマタノオロチ伝承はないからね。

それに元々出雲の人間が大和を支配していて
国譲りの結果移住したとも考えられる。

事実箸墓あたりは出雲郷と呼ばれていたしな。
522縄文人:2009/08/26(水) 12:47:30
>>496
スルーしてたわけではありません。アメノヒボコと面識がないもんで。
彼が新羅の王子だとすると4世紀か5世紀の人ですかね。異国である日本に来て苦労したんでしょうね。それで成功したので
あれば伝承も残るでしょうね。伝承の年代はどうすれば分るんでしょうね。
523縄文人:2009/08/26(水) 12:52:16
>>520
あんたも必死だねえ。
標高42m以下のところに水田はいっぱいあるでしょ。一度現地を見てみたらいかが。
524日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:54:15
>>523
21世紀の今の?

だたらそれが3世紀にもあったで何か不都合あるの?

言ってることが無茶苦茶だね
525縄文人:2009/08/26(水) 12:59:21
>>524
湖の排水事業で水田が作れるようになった。何も無茶苦茶な話ではない。あんたがものを知らないだけのこと。
526日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:07:36
灌漑工事ができるのは、高い土木技術をもった指導者のいる職能集団ということになる。
漢人、秦氏・・いずれにせよ渡来系だろう。
527日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:07:59
>>525
>湖の排水事業で水田が作れるようになった。

その4世紀にできたと言う田んぼのあとも家のあとも出せない。

けど工事で田んぼが作れるようになったといってるだけ。

現代の田んぼが4世紀の田んぼの証明だったら
3世紀にそれがあったでなにか不都合ある?


528527:2009/08/26(水) 13:11:48
一回おちます。

でもこのネタって以前にも出てたんだよねW
有耶無耶のうちにスルーされちゃったけど
529日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:23:40
>>522
アメノヒボコの存在を知らないなら、倭国大乱の時期の事を
語っちゃ駄目だね。
少なくとも播磨風土記位は目を通してる?

>あれば伝承も残るでしょうね。伝承の年代はどうすれば分るんでしょうね。
君は伝承や記録すらないのに「有った」と主張してるのですよ?
その矛盾をまず説明しないとね。
530縄文人:2009/08/26(水) 13:51:25
>>529
>あれば伝承も残るでしょうね。  珍しい、特別なことだったら伝承も残るでしょうね という意味。
排水工事や水田開拓など別に事件性もないし珍しくもないの。

アメノヒボコはアメノヒボコという渡来人の形跡を示すだけ。倭国大乱とは関係なし。
531日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:55:44
>>491
>奈良盆地の標高42m以下の部分には弥生時代の住居跡がないこと。

このへんからして安本のサイトの受け売りじゃないか。

東遷説がすきなのはわかったから、
東遷元の九州の遺跡を提示してくれよ。

大規模な工事ができる集団が九州にいたなら、その遺跡が九州にあるはずだろ?


532日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:57:08
九州に邪馬台国があった物証を提示もしないで、東遷説を語っても全然説得力無いんだよ。

>東遷説の縄文人

533日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:04:15
え?きみは、邪馬台国が九州になかったとでも言いたいのか?
534日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:05:46
邪馬台国が九州のどこにあったの?
535縄文人:2009/08/26(水) 14:11:47
>>531
安本さんの説を受け売りしているのではないよ。俺が普通に考えてそう思ったの。あんたらとは感性が違って本物がよく見えるんだよ。
馬鹿の一つ覚えとはこのことだねえ。遺跡を示せ!遺跡として残るものと残らぬものの区別もつかぬ。
前にも言ったろ。鉄は貴重なもので、鉄器具は使えなくなったら鋳直して使うんだ。簡単に棄てるか。技術やノウハウの類いが遺物と
して残るか?
536日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:13:20
それは諸説があるし石碑が発見されていないので断定はできないが、
伊都国の南、佐賀平野から熊本平野にかけての地域のどこかにあったとするのが最も妥当。
537日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:13:22
>>535

「安本さんは、俺と同じで本物だーすごいなー」って言ってるわけだよね。

538日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:14:58
王金林の「邪馬台国と古代中国」のp100に面白いことが書いてあるよ。

九州で後漢鏡片が見つかった遺跡は、20箇所以上。
鏡片は新時代と後漢時代に限られる。
内行花文鏡・方格規矩鏡が主。
鏡片はペンダントみたいにしてたらしい。
前漢鏡の出土範囲は、福岡・糸島平野の域を出ない。
後漢鏡は、やや出土範囲が広がるものの、博多付近を中心に50〜100キロ圏内が多く、150キロを越えない。
魏の時代の鏡の出土状況については言及なし。古墳時代に入るからね。

邪馬台国が古墳時代前の九州にあるとしたら、おおよそ姿が見えてくるんじゃないの?
結局、魏からは、古い後漢鏡しかもらえなかったということになるし。

>>536

どこが妥当だって?

539日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:15:05
>>530
> 排水工事や水田開拓など別に事件性もないし珍しくもないの。
豊岡や亀岡に残ってるじゃんw

> アメノヒボコはアメノヒボコという渡来人の形跡を示すだけ。倭国大乱とは関係なし。
播磨風土紀の記述は?それと伊都国王の祖という件もOKな訳だな。
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 14:18:20
>アメノヒボコはアメノヒボコという渡来人の形跡を示すだけ。
アメノヒボコの5世孫田道間守が常世の国へ行っています。
都市牛利(た、し、う、り)が田道間守なら
官の 伊支馬=イクメ=垂仁 に当たる。
541縄文人:2009/08/26(水) 14:20:09
>>532
畿内に邪馬台国があった物証も提示もしないで畿内説を語っても全然説得力ないんだよ。

俺は邪馬台国が東遷したなんて言ったことないぞ。九州勢力(邪馬台国勢力)の一部が東征して、畿内土着民や出雲や出雲系豪族を
配下にして治めたと言っているだけだ。
542日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:21:53
>>540
しかし伊都国の祖というのが気になるけどね。
つまり秦氏渡来の第一派の事?
543日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:23:39
>>541
>俺は邪馬台国が東遷したなんて言ったことないぞ。

往生際が悪いやつだな。
おまえの言ってることは、東遷説そのものだよ。
卑弥呼共立以降に、神武=九州勢力(邪馬台国勢力)の一部が東征したってことは、それは東遷説だ。

違うというなら、何が違うのか説明してみなよ。

>東遷説の縄文人
544日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:26:36
結局

『4世紀の水田跡は見つからなくとも現代の低地に田畑があるのだから問題ない』
 
 …なら

『3世紀の水田跡は見つからなくとも現代の低地に田畑があるのだから問題ない』

でも問題ないと言う事だな。

そもそも標高42m以下の地に住居跡・水田跡が見つからない事を根拠にしているのに
自説にはそれを適用しないと言うのは理屈としてなり立たないだろう?
545日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:26:41
>>541
やっぱり隠れ畿内説だなw
546縄文人:2009/08/26(水) 14:27:39
>>537
おまえの理解力はこの程度か。会社なら使い道ないな。

>>539
あの辺りでは珍しかったんだろよ。先進技術を知っていた九州の人間(畿内を支配した)にとっては日常茶飯事のこと。
レベルが違ったんだね。すまんね。
547日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:29:46
>>482 縄文人

じゃあ百歩譲って仮にそのような下流域に優しいw
綿密な計画を持った工事があったとしよう。

(1)それが九州からの東征勢力でなければなら無い必然性が無い。
   →東遷説の根拠になりえない
 人員は元盆地にいた人間で良く、特別な技術を要したわけではないんだな?
 単にプラン・段取りを立てるだけの話で…

 奈良盆地にいた人間がある日
 「もっと耕地を広げるためにみんなで干拓事業やるべ!」
 と思い立てば良い。
 あるいは九州以外の勢力が企画したでも良い。

 そうなると、理屈だけではとてもじゃないが九州に限定できないわけだ。
 何か九州に限定できる材料があるか?九州における工事実績とかw

(2)それにその仮説に実年代を与える根拠も不明だ。
  →年代論に使えない
 例えば、2世紀に工事着手、3世紀に耕地拡大で不都合があるのか?
 「先ず初めに4世紀と言う年代ありき」
 では話にもならない。
548日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:39:41
>>546
>先進技術を知っていた九州の人間(畿内を支配した)にとっては日常茶飯事のこと。
ほら伊都国の祖であるアメノヒボコをスルーしたね。
九州に先進技術があったとしたら、それは渡来人のもの。
そのアメノヒボコは畿内には入らず、淡路島周辺の地を提供されるが、
結局但馬に落ち着いたとあるからな。
つまり北部九州勢力が畿内に進入した形跡は無いのですよ。
549縄文人:2009/08/26(水) 14:41:16
>>544
勝手な解釈をせんでくれんかな。標高42m以下の低地に弥生時代の住居跡(縄文時代の遺跡も)がないのはそこらが
水浸しの状態だったからだと言っているのだ。古墳時代になって巻向などの遺跡が低地に作られるようになった。3世
紀ころにかなり排水が進んで4世紀になると大型古墳を作れるようになった と自然な見方だろ。
あんたらは邪馬台国を畿内に持って来たいから、俺の説に拒否反応を示すのだよ。
550日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:42:30
縄文人の言ってるように、
九州で卑弥呼が共立されて、30国はすべて九州で、
その後、九州勢力(の一部)が東征・東遷して大和王権を作ったなら、それは東遷説だ。

細かい設定の違いはバリエーションでしかない。
縄文人は事実上の東遷説なんだから、東遷説という立場を明確にして論戦すべきだ。
なぜそれを拒むのか?

東遷説に弱点があって探られるのがイヤなのか?
だったら、最初から東遷説なんて捨ててしまえ。

551日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:44:13
>>549
アホか、大型古墳のある場所は標高何メートルだよw
552日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:47:54
>>549
あまりに有り得ない素人論だから拒否反応してるだけです。
553太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/26(水) 14:57:28
縄文人は唐松山よりはなかなか論説が理にかなってるというより結構
根拠があるらしい書きこみで論説としては聞く耳をもてるところが
まぁあるが、それでも恣意的思いこみが強く、先行妄想も多いよう
で、唐松山は暦日のほうはなかなか詳しいようで結構だが、一般人
は何が何だか難しい話ぶりで理解できるやつはあんまりいないだろ
うし、歴史のほうはズブの素人で学術的に思えて根拠は0点に近く、
全く役には立たない幼稚園級の妄想を平気で書きこんでいて、スレ
のマズい料理であり、こういう論は百害あって一理なしの暴走話で
消えたほうがスレのためにはよいだろう。ww

とりわけ数日間も続く日食説からの編年は常軌を逸脱した最悪的
チンポの立たない不能論となり、いくら言っても止めないところを
観ると、これは猿のチンポこすり同様であって、いったんやり始め
たら死ぬまで止めようとしない猿を乗せた盲象暴走そのものである。
554縄文人:2009/08/26(水) 14:58:20
>>551
アホはおまえだろ。俺は標高42m以下の低地に大型古墳が作られたとは言ってないぞ。箸墓なんぞは山の麓などの高地じゃなくて
低地にあるだろ。湖があった頃には作らない場所だ。
555日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:03:17
>>549 縄文人

だから折角苦労して得た40m以下の耕地居住可能地に
何ら痕跡が残ってないのは何故なんだって話だ。

痕跡は見えなくともそこには水田があったとするのなら
元々3世紀にも水田があったと見て不都合は無い。

自分で自説の根拠を崩している。

556日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:03:22
古奈良湖の水が一夜で枯れたのも地震で亀裂ができたためかもしれません。
邪馬台国は地震で海中に沈んだために発見されないのでしょう。
日本は世界有数の地震国だということを忘れてはなりません。
557唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 15:06:08
お 2枚舌 出てきたな。
3倍年で書紀が読めなくて困っている顔が二重に見える。
558日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:06:39
ちなみに箸墓や纏向古墳群は大体標高70〜80mだな。
559縄文人:2009/08/26(水) 15:10:57
>>547
鉄器が必要だったね。大きな岩を運べるくらいの大きさに割るための鉄器だ。鉄器の生産では九州が先進地だったね。
九州には渡来人も多く入っていただろうし、先進技術を取り入れ易い地の利があったからね。
あんたもそんな技術と鉄器を持った候補を捜して畿内開拓をやらせたらどうかね。
560太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/26(水) 15:16:52
歴史読本の先々号あたりだったか、この中で原田氏はホツマ狂信者の
景行過重視の妄想を憂えていたが、その狂信的カルト頭脳者がこの
唐松山という人であり、原田氏の批判は非常に適切であって、唐松山
のデタラメ景行ゴリ押し編年から各自の頭脳を防衛してもらい
たいものである。

それほど彼の脳内はカルト景行ホツマ狂に毒されており、これは
酒井法子の覚醒剤と同様、一回染まったら死ぬまで止めるのが
難しい悪猿の論だということである。
561日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:17:36
>>554
鍵・唐古は巻向より下流に集落が広がってたけど。
なぜ4世紀にならないと古墳が建設不可能なのか全く意味不明ですよ。
562唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 15:19:06
>鉄器が必要だったね。
大和に鉄が大量に入るのは、垂仁時代に鉄刀を石上神宮へ蓄える、からです。
崇神時代では、17年に初めて造船、
これ以降に 大量の人や物資を運べる様になる。
「たたねこ」は陶村の出身 崇神初期には、河内に渡来人が住んでいた。
563日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:25:17
>>559 縄文人

邪馬台国(の一派)が鉄をふんだん所有していた地域と言うのなら
お前の行程記事の解釈とあわせると熊本あたりになるがそれで良いんだな?
(宮崎、鹿児島はかなり少ない)

残念ながら大和の鉄は古墳時代の極初期においては、まだまだ微量。
(威信財の銅鏡が先に流入している)

勿論その九州の勢力がもたらした製鉄遺構も出せないんだろうから
およそ根拠足りえない。

やり直し。
564唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 15:28:45
>日本は世界有数の地震国だということを忘れてはなりません。
この時代を地震で考える場合
西暦100年頃 X紀中葉 憤砂より
次が 赤土山古墳築造直後 断層より

565縄文人:2009/08/26(水) 15:29:18
>>555
低地部は水田にした。その水田はかなり後の時代まで水田として使われた。最初作られたときの痕跡が残らなくても
不思議ではない。3世紀に古墳時代の水田が存在したなら、高地部にもっと多くの弥生住居跡なりなんなりの繁栄の
跡があってもよかろう(あんたらの論法だから好かんけど)。唐古・鍵遺跡が目立つ程度だろ。
それに、卑弥呼の宮殿はどこにあったのだ?候補地でもあるのか?
566縄文人:2009/08/26(水) 15:38:00
>>563
鉄器は九州から持ち込んだ。畿内に製鉄工場など必要ない。鍛冶やが居れば十分だ。
まだ文句をつけるだろうから言っとくが、鉄器と言っても威信材的なものを除いては(農業用や工事用の鉄器は)
使えなくなったら鋳直して使った。簡単に廃棄はしない。だから出土品として出難い。
567日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:43:06
>>565 縄文人
>高地部にもっと多くの弥生住居跡なりなんなりの繁栄の跡があってもよかろう

自己矛盾。

お前の説だと低地部に水田を作り立地条件の良い42m以上に居住地や遺跡を築き
繁栄したのが今の大和の発掘に見る姿なんだろう?

現在の高地部に繁栄の跡が無いというのなら
お前の言う4世紀に入っての大繁栄の跡は何処にあるんだ?

もっと頭冷やして考えろ。



568唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 15:43:44
2枚舌さんよ
>デタラメ景行ゴリ押し編年から各自の頭脳を防衛してもらいたいものである。

いくら私が「3倍年で書紀が読めない」と書いたところで、貴方には読める方法が有るんでしょ?
そちらを書き込んで貰いたい。
貴方の数字では、倭人伝の主要な部分は、空白年に埋没していて「何も起こらない空白年」の一部
でしか無い。

編年さえ正しくできれば、書紀で日本の歴史が見えるハズの編年に
裏切られた顔。2枚舌が九重(苦渋)に喘いでいる。
569日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:46:05
>>566 縄文人

だったらヤマトに鉄が少なかったと言う事もできない理屈だ、考えろ。

自己矛盾だらけ、元々無いものをあるとする無理がかかる結果になっている。
570太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/26(水) 16:07:09
縄文人は色々資料、他説を読んで長く日本古代史の真相を得ようと
研究してるフシが書きこみの論説から滲み出ており、そういう他説の
中の妄想を用心もせず同意的に想いこんだんであろう〜その先行的
妄想が時代設定の間違いと恣意的な創作論の増幅妄想に発展し、真相
からかけ離れてしまった感があるが、一応点数はつけられ、参考に
なる論述は彼を上に挙げるのにはブレーキはかけぬものの、今後は
いま少し津田の妄想等に騙されず盲象への用心を心がけてもらい
たいものだ。だからまだ真の路線へ後戻り、復帰はできよう。

しかしながら唐松山のほうは小学生でも間違いだと分かる数日間も
日食が続くぞとゴリ押しする精神科へ行ったらいいんではないのかと
想ってしまうデタラメな根拠をバラ撒いており、しかもカルト景行
ホツマ狂の布教活動をやるための偽装学術論からのかような論説の
撒き散らしでは全く点が与えることは出来ず。0点以下のネガティブ
有害の採点結論となる。

>>562のとおり、崇神17年に始めて造船だというのに、それの
十年余前にハラペコ百姓が千人という大量の人数を半島に渡海と
主張する編年への彼の説明はひどい矛盾であり、最悪の牽強付会だと
いうことを想い知らされて、彼の脳内のひどさが彼自ら暴露して
いる。どうやって千人も船無しに渡海したのか? ppp >|<
571縄文人:2009/08/26(水) 16:17:11
>>567
低地部に住居跡がないのは水びたしだったから。これは奈良湖の存在を支持するもの。
奈良湖の排水工事の結果として増えた古墳時代の水田面積が3世紀に存在したらもっと繁栄した弥生時代の痕跡があっても
よいだろ。低地部は水田で住居は高地部に作るということで何も矛盾はないだろ。
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/26(水) 16:20:51
崇神17年(>>562)以前の十年位前、造船ができてない時代に唐松山
は千人ものハラペコ百姓を半島へ渡ったという論をして編年をやって
いたが、まぁ彼は孫悟空のように霞を食わせる仙人同様に仙雲を
呼び、これに乗って畿内から半島へとヒトッ飛びなんだろうか?ppp
573唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 16:21:04
縄文人さんの
崇神三世紀、神功360年頃 の主張は、
太国氏主張の数字と余り変わらない。

その数字を >>570 さんが否定してくれた。

縄文人さんが 今の数字で歴史を読むのは、100年遅いと云える。
100年前なら 説得力は有った。
574縄文人:2009/08/26(水) 16:24:27
>>569
ところが九州には鉄鏃などの出土が多い。畿内とは段違いに多い。大和に3世紀の当時は鉄は九州から持ち込まれたものでその多くは
農業用や工事用として使われたということで無理無く説明できる。
575日本@名無史さん:2009/08/26(水) 16:28:01
>>571
>低地部は水田で住居は高地部に作るということで何も矛盾はないだろ。

それなら低地部に住居跡がないのは、奈良湖があったからなんかじゃなく、水田だったからと考えてもいいのでは?
水田も、ある意味水びたしですよね(笑)
576日本@名無史さん:2009/08/26(水) 16:33:18
>>571 縄文人

4世紀に入り

>水田面積は1世紀前のそれの数十倍に増加

…したと言うのなら
じゃあ唐古鍵クラスの集落が古墳時代に入って数十出てこなければおかしいわけだが?

古墳造営その他に労力を裂かれたとしても
人の住む集落は必要。

(纏向は東遷厨に「無人都市」とか言われる始末だがw)

標高40m以下に水田跡が見つからず
標高40m以上に居住跡が見つからない

一体何を見てお前の言う事を信じたらいいんだ?

577縄文人:2009/08/26(水) 16:46:18
>>575
奈良湖の存在を認めぬのなら、その解釈でいいよ。
俺は縄文時代から奈良盆地は湖だったと考えているからね。飛鳥時代になってもかなり大きな湖があった。その飛鳥時代の規模にまで
湖が縮小するには人工の手段が必要だった筈だ。大和川を岩石が塞いでいる。それを除去するには鉄器とかなりの技術が必要だったろう。
すると、作業開始の時期やその工事を行う能力を持つ者として最も考えられることはというのが俺の説なのだ。
578縄文人:2009/08/26(水) 16:51:54
>>576
畿内には古墳時代の住居跡もないの?それじゃ大和王権の確立を5世紀以降に繰り下げんといかんかな。
579縄文人:2009/08/26(水) 17:10:47
古墳時代の住居は竪穴式などでなく床を持つ木造住宅だったんだろう。これなら建て替えながら同じ場所に住んでも建て替えの痕跡は
残らなくても不思議じゃないし、遺跡として出てこなくても不思議じゃない。
九州に弥生時代後期の遺跡がないじゃないかと畿内説派が言っていたようだが、その頃九州では木造住宅に住んでいたのかも知れないな。
なにしろ畿内より進んでいたろうからね。
580日本@名無史さん:2009/08/26(水) 17:58:16
語れば語るほどボロがでる縄文人w
581日本@名無史さん:2009/08/26(水) 18:11:40
>>574
1〜2世紀の淡路島に最大級鉄器工房が発見されましたが。
九州から持ち込む必要ないし、何より九州とは別様式だという話だが。
582日本@名無史さん:2009/08/26(水) 18:26:53
しかし、縄文人は壁塗りだよな。最初に適当なことを言って、的確に反論されると、またさら
にその場の思いつきでいいかげんなことを言う。まさに、「糊塗」とはよく言ったもんだ。
583日本@名無史さん:2009/08/26(水) 18:56:04
>>580
おまえは何も語るものの持ち合わせがないのだろう。批判したいなら畿内の古墳時代の住居について論じてみたらどうだ。
584日本@名無史さん:2009/08/26(水) 18:59:47
>>581
的確な反論なんかあったか?
585二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/26(水) 19:00:03
>>475
馬鹿だな、都合が悪いからではないよ。
伝の記述を1つ1つ見ていけば、どう解釈するのが一番無理がないのかが分かり、
その結果、日数は行程として見るべきものではない、ということになるんだよ。

それに日数を行程と見ない読み方は、昔から多くの人が支持している説でもあります。
少なくともこれに頼る機内説よりかはマシですよ♪


>>476
2chでもぼちぼち同様の見方の方などが現れていますよ。認識不足では?
586日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:10:06
>>583-584
君は縄文人かな?

>>585
自意識過剰ですね♪
587日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:14:39
>>474 二 ◆.L.MXSPOgc
>私の説が出てから、そんなことは言えなくなりましたよ♪

まあ、ここの九州説の連中は皆そう思っているんだろうなw

この馬鹿が勘違いしているのは、自身がやるべきは
その前提たる「2ルート、W報告書…」を証明する事であって

”便利なオレサマ設定”の中で
「やっほー、俺の説、完璧!最強!」と自画自賛することではない(苦笑

(それでも前スレでこいつの前提を逆手にとって畿内説を組み立てて見せたが…)

”便利なオレサマ設定”
”自分に都合の良いたら・れば”
の中ではしゃいでいるのは傍から見れば馬鹿そのもの
アホが一人で踊っているだけなわけだ。

あと、お前の説の売りは

 ・伊都国や奴国の従来の定説の地をそのまま活かせる。
 ・考古学的成果とも符合する。

…と言うものなのだから投馬国や邪馬台国も当然考古学的考察も加えておけよ。
都合の良いところだけ摘み食いじゃないんだろ?w
588日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:19:57
>>581
ざっとググってみましたが、鉄器加工工房なのでしょうか
製鉄をしているのかしていないのかよくわかりません。
小規模な製鉄はしているのかもしれませんが。

45点の鉄器、鉄片出土ということですね。
たしかに弥生時代では最大級のようです。
古墳時代以降だと続々とあちこちに製鉄遺跡が出てきますね。
589縄文人:2009/08/26(水) 19:49:01
>>570
太国ちゃん 俺のことかなり誤解しているよ。
俺は先人の説を鵜呑みにはしないし、あまり読んでもいない。俺は自分の感性で見ている。そう言っても、新しい考えには魅力を感じるね。
常識と言われるものに囚われた説は臭いから嫌いだね。伊都国を前原市辺りに比定する説なんか死臭がするね。方角も距離も倭人伝の記述に
合わないし、伊都と怡土の語呂合わせだけ。こんないい加減なことでいいんなら邪馬台国はどこにでも持ってゆけるぞ。
590日本@名無史さん:2009/08/26(水) 20:05:27
>>588
垣内遺跡が重要な点は、淡路島という神話上でも一番重要な場所にある事と、
倭国大乱や邪馬台国が形成される時期にぴったり重なる点でしょう。
また出土品に武具関連が多い点は、高地性集落と共に、
倭国大乱が瀬戸内を舞台にした戦乱である事の証拠ですね。
591日本@名無史さん:2009/08/26(水) 20:19:50
製鉄と言えば纏向の勝山近くの製鉄遺構の「フイゴ羽口」がその形状から
九州ツクシからの技術の伝播が考えられるそうなんだが
機能的に「イマイチ」らしいw

(なんでもバックファイアー起こすんだったかな?)

銅鏡と鉄の畿内への集中のタイムラグ?
と言うのは東遷説論者にとってはネックだろうなw
592二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/26(水) 20:53:39
>>587
自画自賛でも、それを否定できないくせにw
他人の受け売りしか言えない低脳ひっきーニートもネタが尽きたか。

考古学的考察は考古学者に任せるよ。
593日本@名無史さん:2009/08/26(水) 21:04:01
>>592 二 ◆.L.MXSPOgc
>それを否定できないくせにw

そのお前の「オレサマ便利設定」を否定して見せろと言うのは「悪魔の証明」だなw
立証の責務を負うのはその説を唱えた者。
勘違いするなよ馬鹿。

もう少し頭使えないのか?

「梯儁と張政、倭国にやってきたのは目的が違い
 張政の方がより実務的な打ち合わせも必要だったかも知れず
 両者のコースが違うのはむしろ当たり前・・・」

とか何とか、とりあえずは俺でも思いつくぞ?

放射説でも良く突っ込まれているが
他の史書に類似したものを探したのか?

「オレサマルール」で「オレサマ最強!」とはしゃいで楽しいのか?アホw









594日本@名無史さん:2009/08/26(水) 21:04:04
↑見苦しい
595日本@名無史さん:2009/08/26(水) 21:05:35
わりぃ見苦しいのは592ね
596593:2009/08/26(水) 21:07:08
>>595

・・・ええから、チョッと来いや
597日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:19:48
>>588
45点の出土というのは九州に比べると少ない。
時期の設定にも疑問あり。
今の考古学はプライドを捨てた連中の集まりだろ。
598改メ:2009/08/26(水) 22:35:54
今日は、ジョーカーと二 ◆氏かいww 

最近、こっちのが面白いよねw
599日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:41:59
>>597
出土品数もそうだが重視してるのは規模でしょ。
それに何故プライドを捨てる事になるのか意味不明ですよ。
600日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:44:16
ジョーカー(ミラーマン)はどんな奴なんだろう?

無職(これは疑いの余地がないww)
若い頃は考古学関係の仕事をしていた。
50〜60歳位?
近畿在住
独身
禿げ
小太り
601九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/26(水) 22:47:37
>>588
村の鍛冶屋だよ。
製鉄を小規模にするのは不可能。
製鉄をすれば多量の鉄滓が発生する。熊本の様に。
阿波の勢力が、多量の燃料炭を淡路の山林に求めて鍛冶場を設置したのだ。
602日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:49:16
邪馬台国までいくつかのコースがあったなんてありえるわけないだろに
そりゃ、出発地点が台湾あたりなら黒潮ルートはありだが、家の玄関でノックするのと裏の勝手口にいきなり現れたら困るってなもんだ
603:2009/08/26(水) 22:56:05
こっちも河童氏に負けるなよwww

>ジョーカー(ミラーマン)はどんな奴なんだろう?

彼に興味だしてどうするwそんな場合か!www
まあ、考古学専門なのは間違いないが、日々努力してんだろーよw
604:2009/08/26(水) 23:08:35
ん?熊本と淡路島の鍛冶屋?

URLはっつけてくださいな♪
605日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:09:56
糸島(今宿?)大塚遺跡では100を越える鉄器が出土してるよ。
近くの元岡遺跡では、はっきりしているのは古墳時代だけど
大規模製鉄跡もあり。
606日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:10:46
>>585
>日数を行程と見ない読み方は、昔から多くの人が支持している説でもあります。
古田の前にもそんな読み方した人がいたってか? だれだ?
607:2009/08/26(水) 23:19:06
>>606
謝銘仁著 「邪馬台国 中国人はこう読む」梓書院
http://yamatai.cside.com/yasumoto/kikannyamataikoku.htm
608:2009/08/26(水) 23:23:00
あ、ごめん 前だったねw

知らんわー ヽ(*′▽`)ノ
609日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:47:48
>>607
謝銘仁は、不弥国をたって二十日で投馬国に至った、投馬国をたって水行十日陸行一月
で邪馬台国に至ったと読んでるぜ。彼がいうのは、1日も休まずに水行したり陸行した
りした強行日程数を記載しているわけではないという趣旨にすぎない。
彼だって、日数を行程と読んでいることはまちがいないよ。
610日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:58:25
一日休めば日数のカウントするわけない
611日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:02:00
陸行での一日は平坦なところで30,40km
山道も含むなら半分ぐらいだろ
612日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:04:57
>>610
頭が固いな。2日進んで1日休むとか、3日進んで1日休むとか、通常の進行に伴う休日は
当然あるんだよ。それらを含めて10日、1月などということは何も不自然ではない。
613日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:17:34
当時は気候季節に左右されやすい
3日で一日休むという決まりごとも無い
だからこの場合は休みはカウントしない日数だと思う方が妥当
614縄文人:2009/08/27(木) 00:19:22
>>609
謝銘仁氏は不弥国をたって二十日で投馬国に至った、投馬国をたって水行十日陸行一月 で邪馬台国に至った と読んでいるのですか。
私もそのように読んでいるけど、彼は邪馬台国をどこに比定するのでしょうかね。彼の著書を未だ読んでいないので、分らないのです。
私は邪馬台国は熊本県(南部を除く)と宮崎県(南部を除く)の2県に跨がる大きな版図を有する大国であったと考えています。卑弥
呼の宮殿は海岸近くではなくある程度の高地で防衛に適した場所であろうと思います。もしかしたら、後世には城などが築かれたかも
知れません。候補地はかなり沢山あるでしょう。私はまだ特定できていません。
615日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:36:57
謝銘仁は、九州とするだけで、具体的に邪馬台国がどこかについては書いていない。
彼は、従来の伊都国の比定が誤っていることに気づかなかったし、放射式で書かれて
いることにも気づかなかったからね。
616縄文人:2009/08/27(木) 00:37:18
>>611
魏の使節に邪馬台国からの迎え(案内)の係、警護などかなりの人数であったと考えられます。その多数の一行が途中にある豪族の館などで
食事をとったり、会談したり、宿泊したりしながら行くのですから、1日に30,40kmなど進めません。もしかしたら要所で歓迎行事なども行
われたかも知れません。恐らく、大人数の宿泊や食事の手配などで、予め翌日の準備状況の確認や打ち合わせなど行いながらゆっくりと行進
したと思われます。1日平均4km前後が妥当なところではないでしょうか。
617日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:41:26
>>616
ウォーキングが趣味の人に聞いてみればいい
論より証拠だ
人が一時間で歩く距離を半日かけては歩けない
一定のスピードを出さなければ逆に疲労するんですよ
618縄文人:2009/08/27(木) 00:43:30
>>615
ご教示ありがとうございます。彼は従来の伊都国を前原市辺りに比定する説をとっているのですか。それはいかんですね。
619日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:44:25
一日歩く距離は記録されている。
620日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:49:34
>>617
それはそうだが、2、3時間歩いたら、「もう、いい」という気になるよ。
1日一万歩を続けるってのは、なかなか大変だぜ。
621縄文人:2009/08/27(木) 00:49:59
>>617
1日に歩く時間は1時間か2時間、大半の時間は豪族達との会談その他の行事に費やすような旅を考えています。
622:2009/08/27(木) 00:51:27
>>618
伊都国はどこか?奴国はどこか?不彌国はどこか?
も言えない人がよく言うよw

お宅らは妄想で、邪馬台国を語ってるだけデスwww
623日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:52:09
そんな旅行道中の描写の記述が一切無いことに関しては疑問無いのかな?
624日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:55:06
>>620
アハハ
そうくると思った
そんなにあちこちに宿場があるの?
江戸時代よりは少なかったと思うよ
机上の議論ではそんなへんてこな想像もありうるが、もうちょっと現実的に考えようよ
625日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:55:19
>>623
書く必要があることとないことを良くわきまえていたんだろ。
626:2009/08/27(木) 00:55:56
一日で、どれだけ歩くかって?

お前ら妄想ばかりじゃなく、「例」をだせよw
〜ったく!妄想好きばかりだなwwww
627縄文人:2009/08/27(木) 00:57:25
>>622
改めさん お久しぶり。その点については以前書きましたよ。
伊都国は佐賀市北部、奴国は吉野ヶ里から鳥栖辺り、不彌国は筑後小郡市辺りです。
628日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:58:41
>>625
私は宿場の有無なんぞに言及した覚えはまったくないがね。
私が何の話をしているのか、まったく読み取れなかったのかな? 
629628:2009/08/27(木) 01:00:53
>>628
>>625>>624のまちがい
630:2009/08/27(木) 01:01:09
末盧は??

佐賀市北部って、もしかしてサガミハラハラ氏と同じ所スか?

ビンゴ !! てやつかなwww
631日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:02:53
>>626
自分で歩いて考えろ。
632日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:06:34
>>626
お遍路さんが一番わかりやすいんじゃないのかな
633日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:08:05
>>630
3世紀の怡土なんてのは単なる墓場だからな。それこそ衰退の地域。
佐賀市大和付近は、後の肥前国府がおかれたところ。一大率が役所をおいた
という伊都国にふさわしいところだろうな。
634:2009/08/27(木) 01:12:05
>>631-632
グダグラ言ってないで「例」を出せって言ってるでしょw
妄想で語ってたというのがバレてしまったねw(若者風に言うとバレバレてか?w)

>>633
また、また妄想かい?ww
妄想好きだな〜〜みなさんw
635縄文人:2009/08/27(木) 01:13:38
>>630
末盧国は伊万里市から唐津市の辺り。サガミハラ氏の説は知らない。投馬国は久留米市から大牟田市あたりまでで、ここへ行くのは舟で
川と海を蛇行したり迂回したり。途中、食事、宿泊、会談などの用件で豪族の館に立ち寄りながら。5万戸の大国だから立ち寄る豪族も
多い。邪馬台国へははじめ舟で上陸してから卑弥呼の宮殿まで歩行。もう眠いからこれで失礼。
636日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:20:21
>>634
お遍路さんでググれよ
そして読め
自衛隊員の行軍では30kgを担いで30kmだったかな?
普通の社員研修でも行軍があって、それは荷物をもたないで30kmのコースってのがあるな
まぁ、現代人ではない、昔の人なら日に30kmは楽勝だと思われ
それに昔の人は偉い人でも若いのが相場
張政が実際何歳だったかは知らないが
637九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 01:27:25
>>630
>伊都国はどこか?奴国はどこか?不彌国はどこか?

そんなの確定済み。

各国の城郭の位置
伊都國:佐賀市大和 惣座遺跡
奴國:佐賀市 佐賀城
不彌國:吉野ヶ里町 吉野ヶ里遺跡
投馬國:大川市郷原 遺跡は未発見
邪馬臺國:久留米市南部の丘陵・台地のどれか(未確定)
卑彌呼の墓:祇園山古墳(有力候補) 大善寺町・安武町(有力候補地)
638日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:29:04
隋書が倭国は南北三月行って書いていたな。九州島の南北は約300キロ、
つまり、100キロ=一月ってことだな。これが史書から判明する具体例だ。
639日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:42:09
>>600
一つだけ言っておくが…

>若い頃は考古学関係の仕事をしていた。

なんでこうなる?
「考古学関係の仕事」なんて食っていけるのか難しそうだがw

俺がここで書いている事なんて数冊適当な本読んで
あとネットででも情報仕入れりゃフォローできる程度のもの。

自分で言ってりゃ世話無いが
この板の畿内説の中でもかなりレベル低いぞ?w

お前もう少し「常識」ってものを身に着けたほうがいい。

それでもこの俺が九州説の馬鹿を叩けているのは
何の事は無い相手の九州説論者本人が自爆自滅しているから。

この板の場合九州説と言っても
殆どの場合「九州王朝説」や「東遷説」と言った
はっきり言って「ト」に基軸を置いて説を組み立てているから

仮に一面緻密な理論を持っていても(まあその一発芸すら持って無い馬鹿も多いがw)
何処かに矛盾を抱える。
そしてそれを糊塗する為更に矛盾を広げてしまう。

まあ馬鹿が勝手に一人で踊って、足もつれさせてこけているだけなんやなwwwwwwww

640日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:44:07
うん、お前の底が浅いことは良く分かるよ。
641九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 01:47:36
>>638
違う
南北の境界長(東西間)が三月行で、東西は200キロ
東西の境界長(南北間)が五月行で、南北は350キロ
一月行≒70キロ
これが史書から判明する具体例だ

疑問があるなら、隋書百濟伝タン牟羅國条(済州島)を読め
『其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』
642日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:13:14
相変わらず痕跡の無い物を勝手にでっち上げするの好きだね。
だから九州説は電波ばかりと言われる訳だ。
643日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:15:51
>>625
邪馬台国への道中が書くに値するものでは無いの?
一度頭調べてもらった方がいいと思うよ。
644日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:32:26
>>625
邪馬台国の境界と倭国の境界の違いを理解してね
邪馬台国=倭国だと言われるのなら、また別に議論しなくてはならないけどね
しかも、倭人伝では東ではなく南に伸びてるし
この隋書にある記述が2次情報か1次情報なのかもはっきりしない


>>641
中国の史書のデラメさ加減を示すという意味では重要な史料だと言えるね
645日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:35:00
>>644だけど
>>625>>638の間違いです
646日本@名無史さん:2009/08/27(木) 06:29:58
>>644
邪馬台国と倭国を混同しているのは君じゃないかな。倭国と明記しているだろ。
邪馬台国だけの話ではない。九州島全体の話だ。

>倭人伝では東ではなく南に伸びてるし
倭人伝が南に伸びてるとか書いているか? 使者が南へ行っただけだろ。

>中国の史書のデラメさ加減を示すという意味では重要な史料だ
デラメってのはデタラメだろ。誤記、誤写は、中国史書に限ったことではない。
修正すべきは修正するのも解釈のうちだ。しかし、南は東の誤記ではない。


647日本@名無史さん:2009/08/27(木) 06:47:49
>>641
其南海行三月の島が済州島? 変な解釈をしないで誤記、誤伝を考えるべきだろう。
648二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/27(木) 08:34:13
>>593
悪魔の証明でもなんでもない、伝の記述と比較しておかしいと考えられるところを指摘するだけですよ。
10日1月は伝に記述されているから行程で何が何でも間違いない、だから私の説はおかしい、とかねw

「悪魔の証明」で不可能だから、できないのは自分の頭が悪いせいじゃないと思い込みたいのでしょうけど。

2人のコースが違うのは目的が違うからと、私は2年前からそう言っているのだけど、それを思いつかれても・・

あなたの方こそ、自分の説の「冊封されたら繁栄大爆発」の証明でも頑張られたら如何でしょう?

649二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/27(木) 08:43:00
>>639
要約すると、
偉い学者の言ってる事を盲信しているだけで、自分では何も検証していません考えていません、ってことでしょうね。
もっとも考える頭は無さそうですけど。
650日本@名無史さん:2009/08/27(木) 08:48:15
>>649
掲示板で時間を過ごすにはそれが一番賢い方法なんです。
651日本@名無史さん:2009/08/27(木) 08:57:57
>>648
毎朝ごくろうさんです
652日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:09:44
>>649
学者の意見を否定するのはいいけど、どうせ否定するなら
河童さんみたいに学者を問わず現代国語や辞書まで否定してみてはどうなのよ?ニさんの場合はあまりにも
ご都合主義の恣意的意見だし。
653日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:22:45
654日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:26:52
>>648
>私は2年前からそう言っているのだけど、それを思いつかれても・・

この板の何処かに書いた?

他所で言っていることなんかみんな知らないよ?
655日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:41:19
佐賀市大和町の遺跡が重要な遺跡であるのは同意だが
三瀬峠越えるとすぐ糸島なんだよな。
肥前国庁後から糸島三雲までおおよそ30キロ
山越えだから、途中の三瀬村で一泊して2日コース
三瀬村の集落から、大和町方面と背振村(さらに行くと吉野ヶ里)
に分かれる道がある。

方格規矩四神鏡
福岡県前原市 平原遺跡1号墳 31
福岡県前原市 井原鑓溝遺跡 21
佐賀県唐津市 桜馬場遺跡 1
佐賀県東脊振村 松葉遺跡 1
佐賀県東脊振村 横田遺跡 1
佐賀県大和町 池ノ上遺跡 1
佐賀県小城町 寄居1号墳 1

大阪府高槻市 闘鶏(つげ)山古墳 1
大阪府高槻市 安満宮山古墳 1
京都府 太田南5号墳 1
京都府 椿井大塚山古墳 1

中国鏡を前原伊都国が独占して、近くの豪族にはもったいぶって一枚ずつ
渡しているようにしか見えない。
余ったのは、自分の墓と跡継ぎの墓にまとめて突っ込んだのかあ。

前原伊都国と佐賀大和伊都国、およびその周辺豪族でそれなりに
ご近所つきあいがあったんだろうな。
656日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:52:35
ちなみに佐賀市大和町の大和には深い意味はなさそう。
自分の調べたところ、過去に大和などの古地名はない。
大和町(大和村)発足以前は春日村・川上村・松梅村だった。

春日村は肥前国庁跡から東側の集落、国分寺があった。
川上村は西側、松梅村は川沿いの山側になる。
657日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:58:47
>>621

そうなると、縄文人よ。
邪馬台国の支配領域はずいぶん狭まるよな?
福岡から150キロ圏内ということでいいか?
ちょうど、数キロ歩いて30日だ。

--------------

王金林の「邪馬台国と古代中国」のp100に面白いことが書いてあるよ。

九州で後漢鏡片が見つかった遺跡は、20箇所以上。
鏡片は新時代と後漢時代に限られる。
内行花文鏡・方格規矩鏡が主。
鏡片はペンダントみたいにしてたらしい。
前漢鏡の出土範囲は、福岡・糸島平野の域を出ない。
後漢鏡は、やや出土範囲が広がるものの、博多付近を中心に50〜100キロ圏内が多く、150キロを越えない。
魏の時代の鏡の出土状況については言及なし。古墳時代に入るからね。

邪馬台国が古墳時代前の九州にあるとしたら、おおよそ姿が見えてくるんじゃないの?
結局、魏からは、古い後漢鏡しかもらえなかったということになるし。


658日本@名無史さん:2009/08/27(木) 10:04:04
>佐賀市大和町の遺跡が重要な遺跡であるのは同意だが
>三瀬峠越えるとすぐ糸島なんだよな。
だから、両方を含む広い伊都国を考えるべきだろう。前原は伊都国の工場や墓場だ。
平原の銅鏡が割られてるだろ? 倭国の乱で敗れて鏡を割られ、伊都国王は佐賀で
一大率の監視下におかれていたってことだろうな。
一つの国を村ぐらいの大きさに考えていたら、九州だけで何百もの国を考えないと
いけないことになるぞ。
659日本@名無史さん:2009/08/27(木) 10:08:33
二 ◆.L.MXSPOgcってなんか主婦っぽいw
660日本@名無史さん:2009/08/27(木) 10:21:41
国都の大きさと勢力範囲が違うから
何とも言えないが、前原伊都の場合
王都と思われる場所は、遺跡も大量に出てくるが
瑞梅寺川と雷山川に挟まれた地域。
地図を見ればわかると思うが、前原東中学校から北側にぽっかりと集落がある。
いくつかの丘の配置から見ても、それほど変化しているような感じがしない。

この集落がほぼそのまま前原伊都国王都じゃないかと思う。
661縄文人:2009/08/27(木) 11:41:18
>>657
もしかしておまえはチンピラか?それとも奈良湖の水位が1年に5〜10cm下がったら大和川下流域が洪水になるとか幼稚園児
みたいなことを喚いていた奴か?誰が誰だか分らんからレスするときゃ何か印をつけてくれ。

俺が移籍や出土物に大した重要性を認めていないのは知っているだろ。過去の人類の暮らしが全て遺跡出土物として出て来てい
るならまだしも、僅かに発見されたものだけで大騒ぎしてこれが全てですとばかりに言いつのる。馬鹿か。
662日本@名無史さん:2009/08/27(木) 11:58:55
>学者の意見を否定するのはいいけど、どうせ否定するなら
河童さんみたいに学者を問わず現代国語や辞書まで否定してみてはどうなのよ?

でも、現代国語上成立する説でなければ、気違い扱いだぜ。
現代国語上成立しない説というレッテルを貼られて面白いのだろうか?
河童の説は現代国語上成立しない説。本人も認めている。
河童が間違っているわけではなくて国語辞典の方が間違っているそうで、国語改革が必要なそうです。
663日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:19:37
二 ◆.L.MXSPOgcって何説なの?
664doontakuka:2009/08/27(木) 12:20:55
俺が移籍や出土物に大した重要性を認めていないのは知っているだろ。

偉そうそうに、何様だと思ってるんだよ。

縄文人は番でやんすか。

665日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:21:44
>>661
>俺が移籍や出土物に大した重要性を認めていないのは知っているだろ。

じゃあ九州なんて大した事無い見るべきものも無いw
666日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:25:43
>>661
>俺が移籍や出土物に大した重要性を認めていないのは知っているだろ

そりゃ都合の悪い物が多く出土した時の逃げ口上じゃねーの?
自分では思い込みで納得出来ても、他人は説得できない事くらい
当然理解してるよな?

667日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:29:47
>>663
よくわからないけど九州説らしいよ

http://yamat-2007.blogspot.com/
668日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:30:25
縄文人フルボッコw

遺跡や出土品重視しないのならどんな空想でもOKだ。
669日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:33:12
>>662
気違い扱いとは尋常ではありません。まるで『共産党員で非ずば人に非ず』という雰囲気ですね?
教育の恐ろしさは、あの戦前教育で嫌というほど学習したのに。
670日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:35:21
>>668
と言うより「九州は先進地域」と言う事を何をもって説明するのか?だねえ
671日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:50:06
>気違い扱いとは尋常ではありません。

だって本当だもん。
現日本語が通じなければ、話にならない。
672日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:54:17
>まるで『共産党員で非ずば人に非ず』という雰囲気ですね?

俺は共産党員だ。
なんで共産党員がてめーらの例え話にされてしまうんだよ。
その例え話、間違ってねーか。失礼な。
673日本@名無史さん:2009/08/27(木) 12:56:37
>>971
>現日本語が通じなければ、話しにならない。

そうでしょうか?卑弥呼スレッドでは意見の違いは有るが、会話に
なって進行している様に見えますが。
674縄文人:2009/08/27(木) 13:07:59
doontakukaよ
てめ〜なにさまだ?遺跡や出土物で邪馬台国の所在地が決まるなら考古学界でも歴史学界でも決着はついてるだろが!
なに考えてんだ。おめ〜も出土するものとしないものの区別もできとらんな。バカめ。
675縄文人:2009/08/27(木) 13:12:37
664〜668
ばかやろ〜。倭人伝で十分だ。おめ〜らが倭人伝を読めね〜から分らねえんだよ。脳タリンどもめ。
676日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:12:46
>>674
>考古学界でも歴史学界でも決着はついてるだろが!

ほぼ付いてるわけだが(w
677日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:14:04
考古学上では大半畿内説で決着ついてるけど。
それを倭人伝の記述とあわないと反対してるのが現状だろ。
678縄文人:2009/08/27(木) 13:16:49
>>676
決着がついているという証拠を出せ!これは遺跡でも出土物でもないぞ、出して見やがれ。
679縄文人:2009/08/27(木) 13:19:19
>>677
だから決着がついたという証拠を出してみろってんだ。このやろ。
680縄文人:2009/08/27(木) 13:21:20
やい 畿内説派の野郎ども 畿内説の証拠品を出しやがれ。
681縄文人:2009/08/27(木) 13:22:22
>>679
お前はバカか。とっくに畿内できまってんだよ。
682縄文人:2009/08/27(木) 13:24:25
>>680
アホ。九州説派なんか何にも証拠なんか出せねーだろーが。
683doontakuka:2009/08/27(木) 13:25:04
>>675

倭人伝も縄文語で読んでるのか誤読の山。
それで納得している標本的な gago 。






684doontakuka:2009/08/27(木) 13:28:50
>>683
どこが誤読か指摘できません。すみませんでした。
685縄文人:2009/08/27(木) 13:29:11
縄文人の土砂降り。

早く埋めちまえ。
686日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:33:43
私の名前を騙って変な書き込みをしてはいけません。
それにしても人気爆発ですね。畿内説派の方々はうらやましいでしょう。
687日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:46:31
九州説はタレント揃い

論者も色々、説も色々

同じ文献から組み立ててるのにねw
688日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:52:48
>>661
>俺が移籍や出土物に大した重要性を認めていないのは知っているだろ。

移籍は遺跡の変換ミスでしょうが、要するに遺跡や出土物を元にする考古学は重要でない、との主張でしょうか。

日本の先史時代は、旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代というふうに時代区分されています。
これは遺跡や出土物を元に考古学の先人たちがあれこれ考え、ようやく定説となったものです。

しかしあなたのように遺跡や出土物の重要性を認めない立場なら、この時代区分も認めてはいけないでしょうね。
縄文人などというハンドルネームも、おやめになった方がいいんじゃないですか、考古学用語ですよ。
689縄文人:2009/08/27(木) 13:52:53
論者も色々、説も色々

イジャナイカ イジャナイカ 
俺なんか何でも有りで ドンと来い だ。
690日本@名無史さん:2009/08/27(木) 14:02:41
箸墓ありきの畿内論だからね
691日本@名無史さん:2009/08/27(木) 14:08:36
>>690

マスコミを批判しながらマスコミに踊らされる九州説

残念でしたw
692本物の縄文人:2009/08/27(木) 14:08:37
私の名前が乱れ飛んでいますが、何事でしょうか。

>>688
あなたのような真面目な方には縄文人も乱暴な口はきかないでしょう。あれは恐らく変な人に対して考古学資料
絶対視を諌めるための彼なりの愛情表現だと思います。
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 14:13:02
卑弥呼が朝廷の女なら記紀に女天皇(女王)として崇神とか開化
とかの間あたりに挟まれて彼女の記載が残っているはずだが、
それがないからこれは朝廷の籍に卑弥呼女帝はいなかったと観るのが
相当である。それ以下の下っ端女なら女王とは言わず金印も当然
もらえっこなく、単なる祭主の場合、女王たる祭主ならこれは女天皇
だから崇神、開化、孝元とかの間に女帝として卑弥呼の記事が記紀に
載ることになる。それが記紀無帝籍だから卑弥呼は朝廷の女では
ないのだ。つまり九州の女帝だから記紀に記載が無いわけだな。

百襲媛は即位してないんだから、当然金印はもらえる立場にない。
だから彼女は卑弥呼とは言えない。
694九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 14:19:15
>>647
>其南海行三月の島が済州島? 変な解釈をしないで誤記、誤伝を考えるべきだろう。

もっと漢籍を読みましょうね。
隋書俀國伝も読もうね。
『明年 上遣文林郎裴清使於倭國 度百濟 行至竹島
南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國』

[身冉]牟羅國=[身冉]羅國=耽羅國=耽牟羅國 <発音が同じ> =済州島
695日本@名無史さん:2009/08/27(木) 14:45:01
一月行70km
久しぶりにワロタ
迷わず病院に行け
696縄文人:2009/08/27(木) 14:46:50
>>693
太国ちゃん
俺もここのあんたの言い分は認めるよ。畿内説の連中は「それしか言えん」とバカにしたようなことを言ってるけど、あんたの
この言い分にはまともな反論が出来ないんだよ。もしかしたら、あんたの説の証拠となる考古学資料を出せなどとお得意の逃げ
を打つかもしれんね。がはは。
697太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 14:51:37
陸行一月とかは、これは同一地域に停留してたりするから、不合理の
ようで不合理ではない。改め丸はこれをロボット走行で南の海に
出てしまう旨ほざいていたが、人間は疲れる。だからハプニング等が
あったりして時間がかかっただけのこと。遣使はロボットや
エイトマンではない。
698九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 15:00:49
>>695
自分の無知を笑うんだな

一月行≒1000里≒70km

注意
(魏志)水行一月≠一月行
(魏志)陸行一月≠一月行
(隋書)海行一月=一月行
699日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:07:35
>>646
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konitu.htm
このイメージでの日本かも知れんよ
九州=日本の南北長だとするのがよく理解出来ない
700太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 15:16:31
今でも逆転の世界地図とかがある。だからといって、世界の大半が
方角が逆のくらいすぐわかる。

おまけに遣使は歩いて毎日日の出、日没をほぼ見てるだろうから、
方角の間違いにはすぐ気付くから南が東だとはならない。
701縄文人:2009/08/27(木) 15:23:29
>>695
笑いたかったらもっと面白い話をしてあげよう。
魏の使節張政は何の目的で邪馬台国へ来たか。
倭人伝にはちゃんと書いてある。倭国からの使者が「卑弥呼と卑弥弓呼が前から仲が悪かったんだが、このところ
武力闘争に及んでいる」と報告したから、魏政府は「そんなら張政を出張させて治めてやろう」と皇帝の手紙と黄
幢を持たせて張政を派遣したのである。ここで確認しておかねばならんことは、魏に頼み込んだのは邪馬台国政府
であるということである。狗奴国との紛争に手を焼いていたということが分る。(分らん奴はものを知らん連中で
あるなどと言うつもりは無い)。大国邪馬台国が手を焼くとはどういうことか?30国ほどを統括する倭国の盟主が
手を焼くのである。そのワケとは『倭国内における邪馬台国あるいは卑弥呼の統率力の低下」であろう。これが最
も考えやすい。王朝が衰退するときには必ず内部の団結が無くなっている。どこの国にも見られることである。

端的に言えば、張政は倭国を団結させるために来たのである。だから、一路邪馬台国に行かずに、要所に立ち寄り
ながら説得や打ち合わせや魏が後ろ盾になるんだぞとの示威行動をしながら来たのである。水行や陸行の日数が多
いのはそのためである。これが政治や軍事を知る者の見方なのだ。
702日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:28:41
>>701
>これが政治や軍事を知る者の見方なのだ。

知ったかぶりがすきだねw
703doontakuka:2009/08/27(木) 15:31:30
>>方角の間違いにはすぐ気付くから南が東だとはならない。

伏羲の八卦図なら東西南北を反転できるよ。
歳差理論を借用しての文書地図なら南を東と記述することは可能。
704九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 15:32:47

俀國の領域は九州島
筑紫君の直接統治範囲
直轄地

本州と四国の地域は俀國に含まれない。
705日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:37:39
>>701
>大国邪馬台国が手を焼くとはどういうことか?
そこなんだよ、南九州説では説明がつかないトコは。
手を焼く程強い狗奴國が隣国だなんてありえないんだよ。
そんなあぶない地に、都を置くはずがない。
狗奴國が昼夜ゲリラ戦を仕掛けて来たら、老齢の卑弥呼を逃がすのもままならない。
706日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:38:09
半島の治安保全のための軍の派遣をためらい、そのエクスキューズとして狗奴国との紛争を持ち出したんだろ
倭国も魏もその頃は半島利権において利害が一致した
だが、倭国は倭の五王までは内政重視に傾いたために関係が途絶えるんだよ
崇神〜四道将軍
見事に一致するわけだよ
707縄文人:2009/08/27(木) 15:40:12
>>702
おまんさとはちごて勉強しておりもんど。おまんさら会社では使い物になりもはんど。
708日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:44:20
>>701
狗奴国には、戸数道里が書かれていないから旁国である。旁国とは大国の旁らにある
小国。狗奴国に同調する国がないこともそれを裏付ける。となると、狗奴国は小国で
あることはまちがいなく、倭国の乱に勝利した大国・女王国勢力が狗奴国1国に本当
に手を焼いていたとは考えられない。
魏の使者も檄文を示しただけで、はっきりいってたいしたことはやっていない。
それで狗奴国は歴史上から姿を消す。狗奴国を大国視するのは正しい読み方とは言え
ないよ。
709縄文人:2009/08/27(木) 15:50:09
胃の中の蛙 大海を知らず。

とは、俺のことだ。 驚いたか?

排出されるのもまじかだ。
710縄文人:2009/08/27(木) 15:50:55
>>705
狗奴国は熊本南部、宮崎南部と鹿児島を版図とする大国である。しかも隼人など剽悍な連中が住んでいる。バカにするなよ。
それは置いといて、
卑弥呼が老いる前、邪馬台国の政治力が強かった頃は狗奴国とも平和的関係を持っていたんだろ。卑弥呼の最初の魏への朝貢の記事
の辺りには狗奴国と争っているような記事は無いからね。最初から争うような間柄だったらあんたの言うようなことも可能性がない
わけではないがね。
711縄文人:2009/08/27(木) 15:58:13
>>709
うまいジョークだ。こんど新入社員を募集するから宴会係として採用してやってもいいぞ。
712日本@名無史さん:2009/08/27(木) 16:11:11
>>710
>邪馬台国の政治力が強かった頃は狗奴国とも平和的関係を持っていたんだろ。
いやいや、倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和、だよ。
素不和、素より和せずと読むのが自然な読み方でしょ。
713縄文人:2009/08/27(木) 16:11:15
>>710

狗奴国には隼人が住んでいた。

又、妄想が始まったか?

狗奴国は熊本南部、宮崎南部と鹿児島を版図とする大国である。

笑えるな。


714日本@名無史さん:2009/08/27(木) 16:14:42
>>710
>>712に付け足し。
俺は狗奴國を小国とは考えてないよ。
卑弥呼が魏に朝貢したのは、狗奴國側が魏と結ぶのを防ぐためだったと思う。
715doontakuka:2009/08/27(木) 16:23:53
>>714
狗奴國側が魏と結ぶのを防ぐためだったと思う。
は、
狗奴國は今使譯所通三十國の三十國の中には入れない。
といことですか?

その場合、狗邪韓國が三十國の中に入るのでしょうか?
716縄文人:2009/08/27(木) 16:55:17
>>712
うん。素不和でいいの。邪馬台国の政治力が強かったころは二人が仲が悪くても表面上は平和が保てていたんだよ。

<卑弥呼が魏に朝貢したのは、狗奴國側が魏と結ぶのを防ぐためだったと思う。 >ちゅうて 何かそれらしいことでも何処かに
書いてあるかな。もちろん、推定でものを言うなと言ってるんじゃないよ。遺跡や出土物からものを言うのも推定だからね。推
定を禁じたら世の中の進歩はないからね。それはそれとして、狗奴国が魏と結ぶ理由は邪馬台国に対抗するためかな?
まあ、そんなことも卑弥呼朝貢の理由の片隅くらいにはあったかも知れんが、張政が来た目的に変わりはないね。
717日本@名無史さん:2009/08/27(木) 16:55:37
>>715
え?なぜ狗邪韓國?
718縄文人:2009/08/27(木) 17:02:05
>>713
いい加減に俺の名を騙るのを止めたらどうだ。もう皆飽きたぞ。新鮮味を出せ。採用取り消し。
719doontakuka:2009/08/27(木) 17:04:02
今使譯所通三十國
の三十国を挙げると時、
魏志倭人伝に記述されている国は、三十一国。
その中の二国が狗邪韓國と狗奴國。
狗奴國を外せば、必然的に残された一国、狗邪韓國が三十國の一国に確定する。

他者の意見を参考にすると、
狗奴國は魏と国交があった、つまり三十國の一国に入れるのが妥当か。と。
720日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:06:30
>>701
>これが政治や軍事を知る者の見方なのだ。

東遷説論者がこれを言うと流石に笑える。

およそ兵站線の維持と言うような概念も持たず
九州から東征勢力をまるで片道切符の特攻隊のように送り出して
必要物資は全て現地調達で瀬戸内を横断しヤマトを征服できたと言うのだから

戦略SLGやっている小学生にも及ばないw

ちなみに俺なら張政には出来るだけ寄り道せず本国まで来てもらって
出来ればそこから前線に近い陣にまで出張ってもらいたいなw

其の方が狗奴國に対するプレッシャーを与えられるし
参加を拒んでいる首長には魏使の威光をバックに呼びつける形で兵を遣させることも可能か?w

何れにせよ
「兵は神速を尊ぶ」
もしくは
「巧遅より拙速」
だなwww
721日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:07:15
>>716
敵国のバックに魏が付いたら困るでしょ。
君に言わせると、卑弥呼にそこまでの考えはなく、何となく朝貢しちゃったっての?
722720:2009/08/27(木) 17:08:04
つうか狗奴國と邪馬台国
実際に武力衝突があった事を前提にして話が進んでいるのか?

723日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:14:54
>>722
遣倭載斬鳥越等詣郡説相攻撃
724日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:17:02
>>723
だからそれって全面戦争的な意味で良いのか?って事で
小競り合いの頻発って程度では無いのか?

725724:2009/08/27(木) 17:19:29
ついでに言うとこの争いが結果がどうなったかも分からないと思うのだが…

まあその昔、結局、邪馬台国は狗奴国に敗れ滅ぼされ
その狗奴国の後裔が大和朝廷…なんて説もあったらしいがwww

726縄文人の秘書:2009/08/27(木) 17:19:34
>>720
今社長は外国の要人と電話会談中でございます。私が別室の社長のパソコンを覗いて貴方様からのレスが来ていることを知らせる
合図をしたのですが、社長はちょっと振り向いただけですが、・・・got quinone item Y sent.と言ったのが聞こえました。たぶん
ガキの相手はせん と言ったのではないでしょうか。失礼しました。
727日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:23:38
>>726
以前は弟を出して今度は秘書かw





728日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:24:02
>>726

外国の要人て、狗古智卑狗さん か それとも彌弓狗呼さん。 藁。 

729日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:24:53
>>724,>>725
小競り合いを一々報告すんのかい?
小競り合いにわざわざ魏国が勅使を寄越すのかい?
730日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:29:31
>>729
と言うか全面戦争になって介入頼んでも遅いというか
「素より和せず」で長い間緊張状態にあって
いよいよ前面衝突か?ぐらいのタイミングで
・・・って事じゃなかったのかとも思うが?

731日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:30:12
>>724
倭人伝の流れからいくとそうなるな。

卑弥呼と狗奴国の王・卑弥弓呼は、もとより不和。
卑弥呼は帯方郡に使者を送り「説相攻撃状」つまり攻撃し合っている状況を
説明する。
黄幢を持って張政がやってくる。そして、檄を持って告喩する。

卑弥呼は助けを求めたのであり、その調停のために張政がやってきた。
ということなんだろう。

出展は忘れたが、卑弥呼は援軍を求め、郡の太守・王頎は、都まで出向いて
伺いを立てたとされる。しかし、魏も混乱の最中(曹爽と司馬懿の権力争い)
で、援軍を派遣することは出来なかったらしい。
732日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:31:17
>>726

会社の名前は、恥の上塗り無責任会社かい。

塗装やにも色々あるんだね。
733ローガン:2009/08/27(木) 17:32:20
>>706氏の
> 半島の治安保全のための軍の派遣をためらい、そのエクスキューズとして狗奴国との紛争を持ち出したんだろ

が正解でしょう。狗奴國は三十國の中の一国。
734日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:34:37
>>731
実働部隊の派遣要請か…

もしそうなら実に危ない橋だなw

援軍の名の下にそのまま国を乗っ取ったなんて話はあるし
いくら冊封関係であったとしても出来たらやりたくない禁じ手だな。

余程切羽詰まっていたか馬鹿だったかのどちらかだなwww
735日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:35:58
狗奴国が南九州というのも十分に考えられる。
宮崎県の串間からは、穀璧が出ているし、熊本県の球磨地方からは鍍金鏡が
出ている。どちらもかなり貴重なもので、しかも呉系統の鏡とされる。

南九州が呉と関係を持っていたというのもありうる。
だから、卑弥呼は魏との関係を持とうとしたのかもしれない。

狗奴国は、卑弥呼が親魏倭王の金印をもらった後でも、戦争を仕掛けて
いるようなのでけっこう手ごわいのかもしれない。
736日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:38:10
>>729
朝貢国同士は争ってはいけないことになってるんだよ。だから、「我々は争いを好まない
が狗奴国側がちょっかいを出してきて困っている」と訴えているのさ。実力行使に出るか
も知れないことを考えての根回しだな。
737日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:44:07
>>735
呉が南九州に影響力を発揮するとしたら東シナ海ルートで交易交流があったと言う事なのかな?

まあできんことは無いだろうが後世の遣唐使の例も考えれば当時の準構造船なら
尚の事ハイリスクでそこまでの影響力を受けたかどうかは相当に疑問wwww
738日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:47:25
まあ悠長なお話しだこと
戦況が悪化し、郡にお願いにいって帰って来たら

ありゃまあもう決着しちゃったの?
てな具合がオチですね?

お間抜けさんにも程が
739縄文人:2009/08/27(木) 17:50:45
>>720
先ほどは秘書が失礼な書き込みをしたようですな。きつく叱っときます。

あんたのは単なる武力侵攻のレベルだね。神武の東征は単なる武力侵攻ではないの。瀬戸内から畿内に進むのに、政治力も使わねば
征服した国を支配できぬだろ。武力で押えつけただけでは反乱が起きかねないからね。畿内に迫っているとき背後を衝かれては困る
からね。おぬしにはそんな戦略思想もないのか?

邪馬台国と狗奴国の紛争は邪馬台国の指導力の低下が原因だろう。内部の勢力争いがあったかも知れない。俺の妄想では崇神あたり
はその勢力争いに関係して畿内に出かけたのかも知れない。それはおいといて、

倭国内部の団結が緩んでいるのは魏にとっても気になるところだ。半島も十分に押えられずにいる。遼東あたりには高句麗勢力など
が蠢いている。呉との勢力争いもある。倭国には団結して魏の役にたって貰わねばならぬ。この状況でおぬしのような猪武者の行動
がとれるか?も少し勉強して出直せ。未熟者めが。
740日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:53:03
福岡筑後と熊本ならば、南関で阻まれているから
殲滅戦でない限りは小規模な戦となる。
かなりの大群を投入しても、守る側が非常に有利で
山間地を越えてくる間に各個撃破され、平野にでたところで待ち構えて攻撃される。
西南戦争では南関でかなり長い間一進一退の戦闘状況になっている。

よほど支配の意欲が強くない限り、それぞれ独立国家として
細々と交易でもしていた方が有利。
大分や宮崎でも同じことが言える。

大規模な戦争が行われるなら筑紫平野の久留米付近のような四方が開けているところ。
兵力をいくらでも投入でき、かつ負ければほぼ全滅状態。。
磐井もここで全面戦争となり、負けて壊滅した。
741日本@名無史さん:2009/08/27(木) 18:11:19
>>7397 縄文人
>この状況でおぬしのような猪武者の行動がとれるか?

何を言っているんだ?

先ず相手を威圧して動きを封じ込める事を最優先して
魏使には出来るだけ早く本国か前線に近いところに来てもらう。

なるたけ「闘わずして勝つ」の理にかなってるじゃないかドアホw

それから東遷説で言えばじゃあ普通なら反乱を防ぐためにはある程度の兵力も
置いておく必要があるが一体全体でどれくらいの兵力になったのか?

まあこう言う現実的な事を考えていくと東遷説はお笑い話にしかならないんだなwww


742737:2009/08/27(木) 18:17:02
>>735
今ふと思ったんだが…

もし3世紀に南九州と呉で交流があったら
神獣鏡の最古の物が南九州からでても良さそうだな

東遷説論者によれば呉地の鏡は華北にはついぞ入らなかったらしいが
東シナ海ルートで直輸入すればその障害も無いわけだwww

まあ威信財としては璧が上だが発掘状況のわからない璧よりは
資料的に役に立ったのかもw
743日本@名無史さん:2009/08/27(木) 18:31:59
>>739 縄文人
>俺の妄想では崇神あたりはその勢力争いに関係して畿内に出かけたのかも知れない。

そうかお前は祟神が東征したってお話だったなw

最初良く分からなかったがwww
744縄文人:2009/08/27(木) 18:45:32
>>741
おまえはほんとに思考力がないな。
いいか、邪馬台国は7万戸余の大国で、倭国の盟主だぞ。その指導力が十分なら、狗奴国との争いを武力で解決しようとすれば
大軍を動員できるだろ。魏の使節なんかに来てもらう必要はないだろ。

それに、当時の東アジアの情勢を見てから、魏がどのような行動にでるかを考えてみろ。おまえにはそういう見方ができないのだ。
俺が政府のトップだったらお前に軍事は任せられん。小隊の指揮官も任せられん。おまえに任せたら全滅だ。
745日本@名無史さん:2009/08/27(木) 18:54:33
心配しなくても縄文人では政府どころか町内会のトップにも立てないだろw
746縄文人:2009/08/27(木) 18:56:47
>>743
な〜んも気の利いたことが言えんおまえらのためのリップサービスだ。うれしいか?
747日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:05:59
ただの雑談スレになりましたね。
748縄文人:2009/08/27(木) 19:09:31
>>745
こんなことしか言うことないのか?もしもおまえが741を書いた奴なら、ついでに教えてやる。

魏は邪馬台国の手下ではないぞ。邪馬台国から頼まれたとしても行動に出る時は先ず国益を考えるぞ。魏にとってどうするのが利益になるか
を十分考えるのだ。
749日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:12:11
>>748
君はスレを荒らした自覚もないんだね。
750日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:12:56
>>744 縄文人

うーむ、馬鹿が何を言っているのか理解できないが

指導力が低下して指揮系統が乱れていたんなら
尚の事、魏使が可及的速やかに本国に入って建て直しを図る必要があるなw

根回しして万全を期して・・・もたもたやってるうちに前線が崩壊なんて事になったら目も当てられない。

まあ結局自分の行程記事の解釈で
魏使が何故” 回り道 ”をしたか説明したいだけなんだろ?wwwwwwww

ところで、結局お前の比定地って何処なんだ?

今までのお話からすると人吉盆地あたりかな?








751縄文人:2009/08/27(木) 19:15:49
>>749
あんたが大将か?では俺は出て行く。
752日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:18:33
この縄文人に限らず東遷説論者と話していると
どうも言う事が良く分からないんだが…

縄文人のシナリオだと卑弥呼の代で30ヵ国の連合体(帝国が良いのかな?w)も空中分解寸前。

邪馬台国の一派が開発してくれていた奈良盆地に祟神が心機一転お引越しと言うお話なのかな?

一体全体、何を根拠にそんなお話が?w
753日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:26:18
しかし考えれば狗奴国と邪馬台国がドンパチやってたかその寸前だかの状態の時に
ゆっくり一ヶ月かけて邪馬台国にやってくる魏使ってのもある意味シュールwwwwwww
(仮に先々で根回しをやってたとしてもだ)
754唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 19:41:10
239年 初めて卑弥呼が朝貢をする
247年頃卑弥呼の死亡
卑弥呼の死亡直前に 狗奴国との戦争が始まっています。

この間7,8年が平和な時期
その後の男王、そして伊與が立てられてから倭国大乱は、終息する。
卑弥呼が九州で即位したが、大乱終息を以て前方後円墳が全国に造られる様になる。
ホケノ山古墳は、240年頃築造
最初の朝貢と時期が重なる、しかも半島式墳墓もある。
もしこれが 田道間守の墓なら…。
755日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:47:43

唐松山って、畿内説だった?


756日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:47:55
しかし考えてみりゃ変な話で
もし本当に「張政の報告書」なるものがあったとしたら
そこに真っ先に書かれていなければならないのは
邪馬台国と狗奴国の争いがどういう形で終結したかであって

邪馬台国への道程なんかどうでもいいよな?wwww
757日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:49:35
狗奴国との争いって倭人伝のメインじゃないだろ。
風習の見聞と同じで、そういう事もあった、という程度にしか読めないが。

758日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:04:57
倭人伝の場合、南は東の誤りだから、狗奴国も大和の東ということになるね。

そうなると、東海勢力と大和の関係がよくなかったということになる。
これは、古墳時代に入っても、大和では前方後円墳、東海では前方後方墳が作られてることで、
よく説明が出来る。

不仲といっても、戦争してたわけじゃあるまい。
大和連合に参画せず、距離を置いては、駆け引きで無理難題言ってたんじゃないだろうか?
でも、卑弥呼(ヤマトトトヒモモソヒメ)が死んだ頃を契機に関係が修復され、
大和と東海は統一されたってことだろう。
東海系土器が奈良に搬入されるのは、そのときからだろう。

759日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:11:07
大和では前方後円墳、東海では前方後方墳が作られてることで、
東遷説は否定されるね。

邪馬台国の勢力が東征していったなら、最初から祭祀も一つに統一されるはずで、
前方後円墳・前方後方墳という2種類の墳墓が出きるわけがない。
東征してきた邪馬台国と対抗するために、東海が前方後方墳を作ったとしたら、
邪馬台国と同レベルの政治母体が、九州と東海にあったことになる。

いずれにせよ、弥生時代末の東海系土器の動きは、九州〜北陸まで拡散してるから、
東海勢力が当時の日本の中でも、広範囲に商業的影響力を持っていたことは確かだろう。
760日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:19:21
また、こんな見方もできる。

奈良では東海系土器がよく出土するわけだが、
これは、奈良を訪れた人が東海との商取引を求めていたということになる。
もし、東海の物産が不必要ということなら、東海の人が土器をもって来たとしても、
なにも得るものがなく、東海に帰るしか無いからだ。

東海が独占的に流通を支配していたなら、それは経済摩擦を起こすだろう。
狗奴国(東海)との不仲というのも、貿易摩擦的な経済問題だったのかも。

東海がもたらす物産というのは、朱塗りの土器からも推察できるように、丹に関係したものではないか?

761縄文人:2009/08/27(木) 20:22:41
ブオッ。・・・すまんな放屁した。年寄りは肛門のしまりが悪くてな。
762日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:28:05
日本書紀には、モモソヒメよりも前の世代で、
孝昭天皇の后として世襲足媛が迎えられている。
世襲足媛は、尾張連祖瀛津世襲の娘。

記紀の欠史八代は捏造とか言うけど、結構考古学的事象と合致している。
少なくとも、崇神より前の世代から、大和と東海は特別な関係だったことが知られていたからだろう。


763日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:39:05
大和と丹波もまた特別な関係にあったようだ。
開化天皇の代になると、丹波から多くの姫が嫁いでくる。

これも、崇神より前の世代から、大和と丹波は特別な関係だったことが伝承されていたということだろう。
もちろん、考古学的にも、丹波(丹後)は注目すべき遺跡も多い。

開化天皇の妃に丹波竹野媛(丹波大県主由碁理の女)がいるが、
呼応するように、竹野遺跡なんてのもある。
「中国を起源とする弥生時代の土製の笛」なんてのも出土してるようだ。
弥生時代から、丹後地方は、大陸とも直接交流していたのだろう。
764日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:42:59
丹後の奈具岡遺跡は、弥生時代の玉作生産地だった。

ここでは、鉄製の工具が使われ、玉の穴をあけるにも、鉄針を用い効率良く生産された。
この生産と交易が丹後の経済力の基盤となった。
鉄片が8kg発掘されているが、この鉄片は素材から作った製品の端切れであって、単純に計算すれば、
平均的な弥生時代の鉄斧なら300個分はあろうという素材の量だという。
玉造には鉄錐という加工道具を用いるがそれだけの為ではなく、
広範な交易を目的に生産された証拠だと言う見方もある。
しかし、それだけの鉄素材を一体どこから入手していたのだろうか。

もちろん、弥生時代から、丹後と九州は交易で結ばれていたということだろう。


765日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:47:59
また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にも出現する。
分布圏の中心から遠く離れた銅鐸の存在は、おそらく両地域から丹後の先進物資の入手のためにもたらされたものであろう。

ただ、弥生中期後葉から後期にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、
なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見されていない。
大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。
この事実は、丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、
つまり丹後の首長層がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。
そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、
朝鮮半島南部の伽耶地域に求められる。

出雲神話では、スサノオが朝鮮半島と往来していたことがよく知られている。
スサノオは出雲から越も往来してたようなので、丹後にも影響力を持っていたのではないだろうか。
スサノオが開拓した半島との交易ルートによって、丹後は繁栄していたとも言える。

766縄文人:2009/08/27(木) 20:52:11
腐れ畿内説のばかやろうどもめ。俺の話を聞けい。大和盆地湖は存在した。3世紀大和は

人の住めぬ辺地だったのを、九州東征軍団が、優れた先進技術で開拓・開墾したのだ。理

化学年代は信用ならん。庄内式は4世紀、大和の土器編年は百年新しくせねばならん。これ
から出てくる若き優秀な考古学者に期待だな。倭人伝の伊都国は前原ではない。魏使は一日

に3km程度しか進んでおらん。これが常識だ。わかったかこの腐れ畿内説、腐れ畿内説、

腐れ畿内説、腐れ畿内説、腐れ畿内説、腐れ畿内説、腐れ畿内説、腐れ畿内説、腐れ畿内説、

ぐはははははははははははは。
767唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 21:14:06
>>757
男王死亡後も千人を超える戦。

私は、
卑弥呼、男王=九州
倭王、伊與=大和
です。

縄文人さんをいじめるから壊れた?
768縄文人:2009/08/27(木) 21:14:35
反論できんのか、ばかやろうどもめ。

ぐはははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
769唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 21:40:40
縄文人さんの数字では、神功が260年頃で、存在も信用できないようですが、
何を根拠に260年なんですか?

私は、273年の日食を神功前記と捉えています。
七支刀は、326年の暦日。
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 21:41:04
>755
唐松山は畿内兼九州説のオツムがおかしい?〜妄想論です。 畿内が正解と
分かったときは畿内説へ鞍替えします。また九州説が正解と知ったときは九州説
に鞍替えします。その為いつでも言い逃れができるよう二股漕いでどっち
つかずの用意としてるんです。ppp wwwww
771日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:46:33
>魏使は一日に3km程度しか進んでおらん
毎日が牛歩戦術か。大変だな。
772唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 21:51:48
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下
都市牛利=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 
彌馬獲支? 

ここから逃げる気はありません。
773日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:56:12
>>772

卑弥呼共立の30国に大和が含まれてるのか?

774縄文人:2009/08/27(木) 22:13:30
ぐははははははあっははははははははははははははははははははははははははははははは
はははは ジョゴッ (あっ失禁した!)
775唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 22:15:30
>>733

解らんが、多分含まれていないと思う。
何故なら、神武東征以前の九州には、32ヶ国があった。
776唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 22:22:32
倭人伝の距離や方向には、
難升米、都市牛利、磐鹿六雁 等からの聞き書きや来邦人の報告が
混濁して語られていると思われる。
777二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/27(木) 22:22:45
>>652
学者の意見を否定したつもりは無いですよ。
考古学的な色々は畿内ヤマト王権のそれだと言っています。
それを無理やり邪馬台国の証拠だなどと言うから、それは違うでしょうと言っているのです。

それから私の説は、ご都合主義とは対極にあると自負していますよ。


>>654
2chにも少なくとも3度は書いてますよ♪

>>659
残念ながら、主婦でも主夫でもニートでもないです♪

>>663
2つのルート仮説w
邪馬台国の比定地は筑紫平野、筑後川下流域です。

778縄文人:2009/08/27(木) 22:28:28
>>775
神武東征???何を言ってるのかねチミは!
古墳時代の皇后に九州出身者は1人もいないぞ!九州説の糞食い人種は神武東征の証拠を出せ!
779二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/27(木) 22:40:50
>>756
「張政の報告書」を否定するのは結構大変なことですよ、と釘を差した上で、
正直、張政何しに来たの?というのは私も同感なのです。

私は、張政が邪馬台国に来たときにはすでに男王も終わり臺與が新たな女王となっていたと考えています。
そこで「政等以檄告喩臺與」だけして引き上げました、邪馬台国滞在期間3日、ってとこでしょうか?
当時名の知られた倭王「卑弥呼」に請われ邪馬台国に行きましたが、当の卑弥呼が亡くなっていたので、
これ幸いにとお役所仕事だけして帰ってきました、という感じがするのですよね。

話が外れますが、ちょっと前に「張政が仲裁に来た」というのを読んでびっくりした、と書きました。
仲裁には邪馬台国側と狗奴国側との両方の人に会わなくてはできませんが、張政の行動はどう考えても「仲裁」に
来たとは思えないものなのです。それで私は、そんな可笑しな解釈もあるのですね、と驚いたわけです。

それはさておき、張政の行動に対して何か上手い解釈はないものでしょうかね♪
780九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/27(木) 22:47:32
>>779
>張政の行動に対して何か上手い解釈はないものでしょうかね♪

軍事指導でしょ
781日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:00:21
邪馬台国はヤマトでしょ。そして投馬は丹波(但馬)
二国の関係が深い事は文献資料でも実証されてますね。
782日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:09:22
>>780
>塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつ
  くりてこれを告喩す。

檄文を作った張政は、おそらく文官だと思うけどねえ。
783日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:19:17
こりゃ、壊れたのは縄文人に突っかかっていたほうだな。
縄文人はトリップ付けたら?
784日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:33:23
張政は卑弥呼の墓参りに行ったんだよ
生前に会っているしな
785日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:35:19
>>782
塞曹掾史張政が自分で筆をとって檄をつくったという意味ではなかろう。
786日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:43:23
質問です。

張政って10年以上日本に居たらしいですが
その結果、日本には倭人しか居なかったと書いてあるのですか?
とすると、蝦夷も倭人なのですか?
787日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:59:42
>>785
まあそうかもしれないけど、「塞曹掾史」というのは、塞=とりで、曹=役所、掾史=郡国に
置かれた各部曲の長官、で普通は文官。これが、「建中校尉」梯儁なら、尉官だから明らか
に武官なんだけどね。
788ローガン:2009/08/28(金) 00:15:34
>>780

> 軍事指導でしょ

いいえ。六年の、詔に基づいたもの。出兵要請ですよ。
789縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 01:12:08
俺の名を騙る不埒な鼠が出没しておる。本物との見分けは内容の有無。

>>788 ローガンさん
六年の難升米に黄幢とともに下された詔の内容を出兵要請と考えられるわけですね。つまり、倭国に 半島へ出兵してくれと
いうことですか。
しかし、八年に倭の使者が郡に行って、相攻撃(邪馬台国と狗奴国の紛争)の様子を説明したという記述の後に張政の派遣が
書かれています。張政の使命は邪馬台国と狗奴国の紛争を治めることだったと考える方が筋が通りませんか。私は以前述べた
ように邪馬台国の指導力低下により倭国内の団結が乱れた(狗奴国に内応する国が出て来たというような事態にさえなってい
た可能性もあるのではと思いますが)ことが邪馬台国への狗奴国の強硬姿勢を生んだのではないかと考えていますので、魏と
しては倭国が団結して魏の役に立つ状態にするという目的で張政を派遣したものと考えています。
790日本@名無史さん:2009/08/28(金) 01:49:58
>>789
他人の考えは想像だと決めつけておいて、自分の妄想は思う存分語るわけか。
もう少し筋の通った奴かと思っていたが、気のせいだったな。
791日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:07:25
>>777
>それを無理やり邪馬台国の証拠だなどと言うから、それは違うでしょうと言っているのです。

ほぼ言いがかりに近いw

極々単純に言ってしまえば当時の倭国内最大勢力なら
それが朝貢し冊封された勢力と考えるのが蓋然性があると言うだけ。

無論それに反するような事例は歴史上いくらでもあるだろう。

だがその場合その場合証明の責務を負うのは
その「レアケース」を主張している方だ。

今のところ考古学的資料による状況証拠にそれの可能性を示唆するものは無いし
元々倭人伝には証拠能力も無い(無論仮説を立てて”当たり”をつけるぐらいは出来るだろうが)




792日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:24:58
>当時の倭国内最大勢力なら
近畿は、倭国内と言える要素がほとんどないんだな。
793日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:32:56
>>763-765
面白いのは出雲の四隅があの辺を”パス”しているところだな。

ただ物理的・地理的なルートとしては玄界灘周辺北部九州を経由しても問題は無いと思う。

鉄を買ったら北部九州のクニが
「ごいっしょに銅鏡もいかがですか〜?Smile¥0」
と言ってきても応じる必要もなるまいにwww
794日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:39:56
>>792
もうgdgdとイチャモンつけは聞き飽きた。

要は話は簡単。

九州内に「プチ連合体」でも何でもいいからその30ヶ国の勢力があった事を示す材料を持ってくればいい。
あるいは冊封された事による変化でも…

いくらクレームつけても「100対0」が「10対0」になったところで状況は変わらない。

倭人伝の中に書かれた事を証明するに倭人伝中の記事に頼るのはもう笑い話でしかない。

自分の履いている靴の紐を引っ張り上げて体を中に浮かせる試みをやっているに等しいwww
795日本@名無史さん:2009/08/28(金) 05:47:17
女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国云々

水行から陸行に切り替わる、つまり上陸国が邪馬台国の近くの国として出てこないんだよね

やっぱり、これは実際に行ってないな

更に、この国名リストは冒頭にある使者を通わせたという30ケ国のリストを転用した可能性が高い

史料として疑問符がつくね
796日本@名無史さん:2009/08/28(金) 05:58:49
何か腹立ってきた

陸行一月の実際の距離はわからないが
その間に国がないのかよ?
アホ抜かせっ
真面目に向き合うほどの価値なんて倭人伝にはありませんよ
797日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:04:11
>>794
何を下らんことをぐちゃぐちゃ言ってるんだ?
倭国の要件がまったく分かってないな。
@ 帯方の東南大海の中、山島によりてあること。九州ならばそのとおりだが、
 本州ならば、少なくとも、東南から東北に延びる列島と書かれてないとな。
 それに、本州が島だという認識は当時はない。
A 旧百余国、今30国だ。旧の国の大きさは? 朝鮮半島の国々や対馬、一支
 などからみて、村程度を考えることとなろう。本州では数千の国でなければな。
B 倭の地は周旋五千余里。倭人伝の五千里は約400キロだ。倭地すなわち島
 の大きさは巡り行って四百キロで尽きるはず。本州とはまったく合わない。
この明白な事実に目をつぶろうというのでは学問とは言えん(まあ、畿内説論
者に学問なんて言ってもないものねだりだろうが)。
798日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:09:10
>>796
>陸行一月の実際の距離はわからないがその間に国がないのかよ?
ないなどと、一言も書いてないだろ。腹を立てる前にきちんと読むことだ。
799日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:19:58
このスレ拾い読みしてるだけなんだろ
800日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:25:13
>>797
黒歯国という国名出して、東の倭種は無いだろ
九州だけの話じゃ無いよ
801日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:26:30
>>798
ちゃんと書いてあるよ
802日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:31:10
>>800
どうゆう読み方をしているんだ? 東、渡海千里の国は倭種だが、侏儒国以降は
倭種の国ではないぞ。黒歯国なんてのは南方の話だ。
803日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:35:29
>>802
その区別は
倭種であるかどうかしゃない
使者を通わしたかどうかであって
倭人条で書かれてるのなら倭国の一部だとい認識が彼等にあったとすべきだろ
804日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:48:08
>>803
>倭人条で書かれてるのなら倭国の一部だとい認識が彼等にあったとすべきだろ
帯方郡や韓国、狗邪韓国はどうすんだよ。それも倭国というつもりか?
805ローガン:2009/08/28(金) 08:12:16
>>789
>しかし、八年に倭の使者が郡に行って、相攻撃(邪馬台国と狗奴国の紛争)の様子を説明したという記述の後に張政の派遣が 書かれています。

黄色の旗の下賜を決めたのがその様子の説明以前です。

張政の使命は邪馬台国と狗奴国の紛争を治めることだったと考える方が筋が通りませんか。

檄の意味や、三国志にある「旗を渡す」という行為から考えると出兵要請と考えるのが自然でしょう。
806日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:21:33
>>797
二万、五万に七万戸‥

デカイ村だなw
807日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:39:08
>>806
わざわざ「旧の国の大きさは」と書いた意味すら理解できないとみえる。
808日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:45:13
>>807
横からだけど、マジでAの意味がわかりません。
解説よろしく
809日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:48:57
>>808

モナコやリヒテンシュタインは小さい国だから、
ヨーロッパ全体で数万の国が無いとおかしいと言ってるのですよ。

810日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:55:40
>>809
ありがとう・・、わかったような、わからないような・・・

で、2万、5万、7万の解釈は?
811日本@名無史さん:2009/08/28(金) 10:01:30
>>807
卑弥呼スレに河童がいるから旧と昔の違いでも聞いてみたら?
812日本@名無史さん:2009/08/28(金) 10:05:14
>>809
回答になってないだろw
813二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/28(金) 11:05:14
>>794
>>あるいは冊封された事による変化でも…

だから「冊封されたら繁栄大爆発」というあなたの主張をまず証明ください。
814日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:09:13
>>809は回答じゃなくて皮肉ってんだろ・・
815唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/28(金) 11:09:28
>>778
>神武東征???何を言ってるのかねチミは!
神武東征は西暦41年、土器のX紀はじめになります。

>古墳時代の皇后に九州出身者は1人もいないぞ!
仲哀、は大和で軍を整えて九州へ向かいました当然でしょう。
斯摩宿禰は、九州だと思いますよ。
816日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:09:36
>帯方の東南大海の中、山島によりてあること。九州ならばそのとおりだが

帯方郡の東南は四国・中国地方です。畿内は東南東 九州は南南東であります
817唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/28(金) 11:33:32
>張政の使命は邪馬台国と狗奴国の紛争を治めることだったと考える方が筋が通りませんか。

卑弥呼と狗奴国元々相和せず。この記事は、卑弥呼に狗奴国も治めろの意味があると思います。
魏国側が進めた戦の後方支援が、黄旛の授受。

卑弥呼亡き後を、景行が引き継ぎ 日本武尊の関東平定で、大倭国統一がなる。
景行が導入した「屯倉経営」は、魏国に教わった。
この経営方式導入前の経営方式は、「種貸し」これでは、国の範囲は、揚がりの籾が運べる範囲となり、30国ともなる。

屯倉経営は、前方後円墳の分散と軌を一にする。
818797:2009/08/28(金) 11:41:55
>>806
多くの国を統合した国が巨大化したってことだろう。
819日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:52:41
>>818
貨泉が西日本中心に出土しているのだから
30国を九州内のみにに比定するのは100%無理です。
820日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:53:03
>>816
東南は大海の所在だ。倭国の都の所在ではない。
821日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:07:12
邪馬台国=女王国って考えてる馬鹿がまだいるんだ!!
822日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:09:21
>>813 二 ◆.L.MXSPOgc
>だから「冊封されたら繁栄大爆発」というあなたの主張をまず証明ください。

「冊封されたら繁栄大爆発」なんて誰がいつそんな事を言った?

それまで鳴かず飛ばずの畿内がなんとか冊封に漕ぎ付けそこから大繁栄したとか誰か言っているのか?

精一杯皮肉って言ってるつもりだろうが方向があさって、頓珍漢、低脳過ぎる。

「後漢書」に見える金印の下賜があった時期、北部九州からは大量の漢鏡が出てくる。

例えばその頃の遺跡と思われる須玖岡本の支石墓からは前漢鏡30面をはじめ剣・矛・戈・ガラス璧
…と豪華な副葬品がテンコ盛りで出土する。

で、後漢末期の混乱から立ち直りつつあった時期にせっかく魏から冊封を受けたのに
九州にはその恩恵が何も無いのはおかしいと言っている。

よく言われるのは画文に代表されるようにそれまでの銅鏡の分布と異なり畿内を中心に分布が認められるようになる。
畿内説はこれを首長連合勢力の台頭、冊封を受けた事の結果と見ているわけで
当然、九州説からはその実年代に対し「それは4世紀以降の事だ」と言う反論がある
(まあ実際その声はあまり大きいものとは思えないがwww)
823日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:11:30
>>822の続き

実年代をおいといても、じゃあ九州に何の変化も無いはおかしいだろうと言うのは極めて常識的な考え。

で、だ

お前が言っている通り俺のレスは全て受け売り。

当然こんな事は散々外出でこの板だけじゃなく市販本にも散々書いてある内容。
正直、今更こんな事を説明するのも馬鹿馬鹿しい。

「畿内だけが大繁栄」とか
「ゆるやかな首長連合による九州への武力侵攻」とか
訳の分からない事を口走しっている馬鹿のリハビリとして
きちんと本を読む事をお勧めするw

一度畿内説というものがどう言うものかを
きちんと理解しておくのは無駄にはならんぞ?
(それを肯定するにも否定するにもその内容を知らなければ話にならん)

そう言えばこの基地外は俺が狗奴國を東海・九州とコロコロ変えているとか言っていたが
あれは何かの被害妄想かな?
それとも畿内説の名無しで俺なんかとキャラかぶる奴いるのか?w
まあコテの縦目とすら混同してたみたいだし

もう病気としか言いようが無いが(苦笑
824日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:15:43
>>821
畿内説論者のなかでも、かなり居るよ。Web見るとね。
邪馬台国=女王国なら畿内説は破綻するのにね。
まぁ、なんだ、倭人伝を読めてないってことだ。
825縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 12:18:16
>>794
畿内説派の典型的な言い逃れの論である。このような考え方をすれば全ての文献資料を否定しなければならない。それを徹底して
行っているのであればある意味で尊敬に値するかも知れないが、それはない。

倭人伝を間違いの多い、いい加減なものとしなければ成立しない畿内説であるから、倭人伝を正当に解釈する論には何が何でもい
ちゃもんをつけるのが精一杯の抵抗手段であろう。しかし、そのいちゃもんが幼稚だから話にならない。

<倭人伝の中に書かれた事を証明するに倭人伝中の記事に頼るのはもう笑い話でしかない。>
とはおまえが倭人伝を認めたくないと言ってるのと同じことだ。認められない理由はなんだ?畿内説に都合が悪いからだろ。
ここにある裁判の記録がある。主文には被告に15年の懲役を課すとある。そのような判決が出た理由をその裁判記録の判決理
由書に求めるのは当然だろ。それが第一にやるべきことだ。それをやった上で理由に納得がゆかねば、裁判当時の社会情勢な
ど裁判に影響を与えそうな事柄を調べる。そのような手順で合理的な結論を求める。おまえはやるべきことをやらずに副次的
な資料を優先して結論を出そうとしているのだ。しかもその副次的な資料の解釈さえ怪しいぞ。おまえの書き込みから思考力
の無さがよく分るからな。

826日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:25:31
>>824
全然破綻しませんが。

女王国とは西日本一帯の連合国の総称ですから。
で、ヤマトが都する所なんですよ。
827日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:31:21
>>826
だから俺は「女王国=連合国」って言ってるんだよ。

意味わかってんの?
828日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:34:34
貨泉の出土している場所が30カ国の推定地なのは間違いないでしょ。
中国と何らかの関連がないと、14〜40年という範囲でしか
造られなかった中国の貨幣など出土しません。

その出土地は主に長崎、佐賀、福岡、宮崎、出雲、
吉備、丹後、徳島、河内‥
瀬戸内を中心とした西日本が、この時代の使いが通じていた
エリアなのは疑いようがないですな。
829日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:36:46
>>827
カン違いでした。
830日本@名無史さん:2009/08/28(金) 12:46:39
九州説派の典型的な言い逃れの論である。このような考え方をすれば全ての文献資料を肯定しなければならない。それを徹底して
行っているのであればある意味で尊敬に値するかも知れないが、それはない。

倭人伝を間違いのない、正しいものとしなければ成立しない九州説であるから、倭人伝を正確に解釈する論には何が何でもい
ちゃもんをつけるのが精一杯の抵抗手段であろう。しかし、そのいちゃもんが幼稚だから話にならない。

<倭人伝の中に書かれた事を証明するに倭人伝中の記事に頼るのはもう笑い話でしかない。>
とは縄文人が倭人伝を認めたいと言ってるのと同じことだ。認めたい理由はなんだ?認めないと九州説に都合が悪いからだろ。
ここにある裁判の記録がある。主文には被告に15年の懲役を課すとある。そのような判決が出た理由をその裁判記録の判決理
由書に求めるのは当然だろ。それが第一にやるべきことだ。それをやった上で理由に納得がゆかねば、裁判当時の社会情勢な
ど裁判に影響を与えそうな事柄を調べる。そのような手順で合理的な結論を求める。おまえはやるべきことをやらずに副次的
な資料を優先して結論を出そうとしているのだ。しかもその副次的な資料の解釈さえ怪しいぞ。おまえの書き込みから思考力
の無さがよく分るからな。
831日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:00:00
>>830
うまく書き換えたつもりかも知れんが、つじつまがあってないぞ。頭の悪さを
露呈してるな。
832日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:02:49
>>828
>貨泉の出土している場所が30カ国の推定地なのは間違いないでしょ。
まちがいだよ。貨泉の出土している場所と30カ国は、なんの関係もない。
833日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:04:38
>>825

裁判なら詳細な記録が残っていてそれを調べる事も出来るだろう。

お前が裁判記録に例えている倭人伝は参考にした原史料がどう言ったものかさえはっきりしない。
(無論大方は魏略によったんだろうが)

まあ上手く例えたつもりなんだろうが現実には無理がありすぎる。

「犯人は南の方にいます」と書いてあって南を探したがそれらしき人物はいないw
が、東の方には動機その他状況証拠が多々出てくる人間がいる。

そもそもその「南」と言う方角とて隋書や古地図を見るとどうも怪しい。

まあグダグダ暗号解読ゴッコの延長上の言葉遊びだけでは埒もあかない。

やはり南の方に犯人がいる可能性が高いと考えられる状況証拠を積み上げるか
ズバリ犯人そのものを特定するか

下駄は既に九州説に預けられている。

その程度の抗弁でこの板を埋めつくしても現実は変わらないぞ?
834日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:09:59
>>832
理由は?北部九州からも多く出土してますが。
835日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:16:16
貨泉出土地は最も確実な中国との交流分布図でしょ。
有形の物として中国もしくは半島から来たのは確実なんだから。
836日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:16:38
>>832
貨泉はあちこちから出土してんだよ。済州島からだって出てる。済州島を
30国の候補地っていうつもりか?
837日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:17:37
縄文人は正確に「南」に進んでいない。
正確に「南」に進めば九州から外れて海に落ちるし、
正確に郡からの12000余里離れると九州から余裕で外れる。
コンパスで地図で測ってみると良い。

要するに九州説の方こそが、文献を正しく読んでいないのである。
あくまでも「南」に正確に進んでから検証しているのは、実は畿内説の方である。
九州イカサマ師にごまかされてはならない。
838縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 13:22:26
>>828
これを書かれた方にお尋ねしたいことがあります。
貨泉は王奔の新が作ったもので、その王奔は後漢を建てた光武帝らに滅ぼされました。また、大陸で貨泉が流通した期間も短いもので
あったとされています。そのような貨泉が後漢から倭の王達に下賜されるなど考え難いことですし、倭国内で貨幣として用いるために
輸入されたとも考え難いでしょう。大陸と使譯通じる国と貨泉はなんの関係もないのではないでしょうか。新の時代か新が滅びる頃か
大陸あるいは半島の商人達が列島に渡来したあるいは逃げて来た。その商人達が貨泉を所持していただけということも考えられるので
はないでしょうか。
839日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:31:03
>>837
>正確に郡からの12000余里離れると九州から余裕で外れる。
伊都国までで万五百里だ。その計算は分かってんだろうな。
あと千五百里で九州から外れるか? 外れっこないがねえ。
840日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:38:12
>>830>
><倭人伝の中に書かれた事を証明するに倭人伝中の記事に頼るのはもう笑い話でしかない。>
>とは縄文人が倭人伝を認めたいと言ってるのと同じことだ。認めたい理由はなんだ?認めないと九州説に都合が悪いからだろ。

と言うかこの縄文人( 弟、秘書の一人三役w)とか言う馬鹿の場合、九州説というより東遷説(あるいは奠都説)だなw

こいつの今までの主張をまとめると

行程記事の解釈や「邪馬台国は鉄の国」と言う主張から
恐らく比定地は熊本(人吉盆地が最適?)あたりだと思うが…

卑弥呼の代には既に求心力を失い空中分解寸前。
祟神の代になり心機一転、かねて開発を進めていた奈良盆地に遷都。
急激に勢力を拡大し祟神はそれまでの功があった家臣のため纏向型前方後円墳を作った…めでたしめでたし。

こんな与太どうやって信じろと?w

無論本人が否定している考古資料にそんな事は伺えないし
文献にもそんな事は書いていない。

本人の妄想・希望・願望のみwww
841日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:40:39
>>836
そのあちこちが30国の一部でしょう。

それに済州島は中国からのルート途中なのだから
交流ルートを証明してくれる意味合いでも重要でしょう。
常世の国かという説もあるしな。
842日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:41:02
外れるだろう、地図を出してきて当時の正確な里で測ってみろよ。
843日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:50:34
>>838
>大陸あるいは半島の商人達が列島に渡来したあるいは逃げて来た。その商人達が貨泉を所持していただけということも考えられるので
はないでしょうか。

それだけでも何らかの交流があった、使役が通じていた
理由になると思うが。もしくは倭に住んでいた
中国人同士だけで通じていたのかもしれないし、
青銅器の製作の為に使用したのかもしれない。

ただやはり出土するという事は、その場所は
中国とは直接的、間接的にせよ何らかの関係が
あったとしか言えないでしょうね。
844日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:50:52
>>842
当時の正確な里なんて言葉を出すこと自体が、倭人伝を正しく読んでいない
証拠だな。
845日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:57:19
女王国=西日本連合国なのだから、万二千里でも
何の問題もないけどな。
846日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:59:46
当時の正確な里を出さない事自体が、倭人伝を正しく読んでいない
証拠だな。
当時の正確な里を出して何が悪い??
では、何か、当時の正確な里を持ち出す事は不正確な事だ、とでも言い出すのか?
頭可笑しいんじゃないか。

847日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:00:28
>>843
中国と直接的、間接的に何らかの関係があったというだけで、30国の
候補地だなんて言えるものではない。
貨泉なんぞ持ち出さなくたって、銅鐸を作っている以上、大陸から銅を
輸入していたんだろう。何らかの関係があったことはわかりきったこと。
だが、30国が本州にあったとみることにはつながらない。
848縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 14:03:03
>>837
南は真南でなければならないと言うの?南南東だとか北北西だとか細かく書かれているわけではないから、南が南南東
であってもよいでしょ。南を東とするのはだめだけどね。

郡から狗邪韓国まで7千里と書いてあれば、あなた達の言う魏の公式里が使われていないことは明白でしょ。
849日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:04:59
>>846
当時の正確な里なんてのはおまえの思い込みだ。
何をもって正確という? 資料があったら出してみな。
倭人伝の里は末盧国までをみれば、1里8、90メートル。
それを前提に読むことが正しい素直な読み方だ。
850日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:07:40
>>847
本州にあったのではなくて、九州も含めた西日本と
言ってるのですが‥
当然各地に痕跡がある以上、九州のみで30国があったとは
九州説、畿内説は別にして考えられないですね。
851日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:11:03
確かに倭国で黄色い旗持ってても意味ないわなw
852縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 14:11:07
>>846  <当時の正確な里を出して何が悪い?? >
魏の公式里とかいう代物が使われていないことが分るので悪くない。お手柄!しいて悪い点を挙げれば魏の公式里
で見なければいけないと言ってる連中の頭。
853日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:13:14
>>820
倭の所在でしょ?馬鹿じゃないの???
854日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:13:31
844に質問

>当時の正確な里なんて言葉を出すこと自体が、倭人伝を正しく読んでいない
証拠だな。

何で正確に読みたがらないんですか?
という事はあんた九州説だろう。

855donntakuka:2009/08/28(金) 14:24:59
>>848
>郡から狗邪韓国まで7千里と書いてあれば、あなた達の言う魏の公式里が使われていないことは明白でしょ。

從郡至倭
の從は省略カットですか?。
【从(從)】 は、
(1) 起点・出発点を示す。
だけだはないのだよ。
(2) 通過する場所を示す:*從门前走过|門前を通り過ぎる.
という言葉でもあるの。
勝手に、(1)に決めつけないでね。

(2)の意の場合の起点は当然、魏の国都の洛陽となる。
856日本@名無史さん:2009/08/28(金) 14:27:36
>>854
正確に読むべきだよ。だが、842は正確の意味を知らない。自分がかってに
設定した里で読もうとしているってことだ。
倭人伝が使っている里を正しく把握して、それに従って読むことが必要なんだ。
857縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 14:46:41
>>855
勝手に(2)に決めつけないでね。(1)の意の場合の起点は当然、郡になる。

じゃあ、對海国から一大国まで千餘里はこれでいいの?魏の公式の里だとかいうのだと430km余になるけど。
858日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:00:31
正確な里数なんて誰も出せないさ
正確な国の位置が2点わからないと無理だね
對馬〜一大国でさえその基準が出せないのが現状
859donntakuka:2009/08/28(金) 15:04:36
>>857

對海国から一大国まで千餘里

貴方は、對海国が対馬で一大国が壱岐といているから話がかみ合わない。


對海国から一大国迄は、
一尺=24cm、一里=1800尺 で
千餘里は、432km前後で何も問題ありません。



860日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:10:30
>正確に読むべきだよ。だが、842は正確の意味を知らない。自分がかってに
設定した里で読もうとしているってことだ。

一里=430Mは俺が勝手に決めた里じゃないよ。
嘘だと思ったら当時を物語る史料を調べてみろよ。
あくまでも正確に読むべきだよ。
861日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:12:34
>>850
痕跡って言っても、30国の痕跡とは言えないんだよ。
仮に大陸と何らかの関係があったからといって、それが30国に結びつく
わけではない。貨泉は朝鮮半島から入ってきただけかも知れない。
862日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:15:37
>当時を物語る史料を調べてみろよ。
自分で調べたことがないだろう。根拠なんてないんだよ。
法律で決められていた訳ではない。
863縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 15:25:01
donntakukaさん
あまり知ったかぶりをするとボロがでますよ。
<(2) 通過する場所を示す:*從门前走过|門前を通り過ぎる.>
「門前を通り過ぎる」とは門内には入らずその前を通り過ぎて行くことです。

魏の使節は洛陽から郡を通って狗邪韓国へと向かったとして、郡には立ち寄らないで通り過ぎるわけですね。あなたはそのように
言っているように見えますが、違いますか?
864縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 15:33:15
>>859
ほう なるほど。
ではあなたは對海国と一大国はどこだと考えているのですか?
865日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:33:22
>>861
その30国とはどういった国ですか?
魏との関係がある国ですが‥
中国の古代貨幣が痕跡ではないという理屈は
ちょっと苦しいと思いますね。
866donntakuka:2009/08/28(金) 15:41:32
>>864

与那国島〜那覇市 は1000里  
那覇市〜口之島(種屋久)が1000里。

面積も正確ですよ。
まるで地図でも存在したのではないかとおもわれるくらい。


沖縄は殷の時代から大陸への海路があった。
867日本@名無史さん:2009/08/28(金) 15:42:31
>>865
貨泉は30国に特別に渡された物ではない。朝鮮半島からだっていくらでも出土
している。魏と通交した30国とは無関係に出回っているんだよ。
868縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 15:45:55
一寸暇が出来たからかなり書き込める。
>>865
貨泉に拘っておいでですが、滅びた国の通貨で後漢以降は通貨として使えるものではなし、威信材でもなし、せいぜい銅器の原料に
使えるくらいの物です。30国と関連を付けようとしても苦しいでしょう。
869縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 15:50:44
>>866
ほうほう なるほどなるほど。面白いですね。
では末盧国と伊都国はどこでしょうか?
870donntakuka:2009/08/28(金) 15:55:41
>>869

ほうほう なるほどなるほど。面白いですね。
では末盧国と伊都国はどこでしょうか?

ボロが出るからやめておきましょう。

口之島を円の中心として半径432kmの円を描いたら
九州はスルーしますよ。

871日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:04:32
>>867
珍しいものじゃないのなら、国内でもっと幅広く出土しなきゃダメでしょ?
出土してる場所は皆古代を語る上での要所だと思うけど。

現状では北部九州を中心に西日本に分布、
この時代の人の移動軸をそのまま表しているという事です。
872日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:09:09
>>868
しかし貨泉は確実に「時期」と「製造場所」がはっきりしてる
物だからね。ある意味拘って当然だと思うけど。

それに国内に貨幣の存在しない当時としては
充分威信財だと思うけどな。
873日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:12:32
九州説の人は都合の悪い物は軽視、これは昔からの伝統だなw
874縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 16:24:39
>>871
<珍しいものじゃないのなら、国内でもっと幅広く出土しなきゃダメでしょ?>
うん?どしてどしてどうしてそんなこと言えるの?

<現状では北部九州を中心に西日本に分布、
この時代の人の移動軸をそのまま表しているという事です。>
縄文時代の昔からかなり広い範囲での人の行き来はあったのではないですか。富山産のヒスイが各地の勾玉の原料だと
されていますね。取り締まりの厳しい時代でも抜け荷をする連中や海賊などいましたから。
30国に関連をつけるのは苦しいですね。
875縄文人の妻:2009/08/28(金) 16:28:38
あんた今日もハローワークに行かんと2ちゃんねるばっかり・・・
876縄文人の娘:2009/08/28(金) 16:36:36
お父ちゃ〜ん、ごは〜ん
877縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 16:36:48
>>872
<しかし貨泉は確実に「時期」と「製造場所」がはっきりしてる
物だからね。ある意味拘って当然だと思うけど。>
どうぞ拘って貨泉出土の謎をお解き下さい。お願いします。

<それに国内に貨幣の存在しない当時としては
充分威信財だと思うけどな。>
大陸が新の時代であったら倭では威信財だったかもしれませんね。でも後漢時代や3国時代だったら後漢の通貨や
魏の通貨の方が有り難いな。滅びた国の通貨ではね。まさか骨董品収集が支配階級の趣味だった?
878日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:39:07

知識がないので貨泉ググってみた。

http://www.geocities.jp/hiranocolt/page026.html

こりゃ後代に相当コピーされてるな。
日本で出てきた貨泉がどれに対応するのか
考えないと、年代の比定にかなり幅がありそうだ。
879日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:42:38
>>877
埋蔵された時期にもよるでしょ。
弥生後期の遺跡なら威信財と見れるかな。

880日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:43:51
>「時期」と「製造場所」がはっきりしている

時期も長ければ、製造場所もいろいろあったんじゃないか?
これだけの種類で、形状、模様も様々だ。
881縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 16:44:40
>>875
そう言うなよ。俺は仕事の監督だから連中の働きがよけりゃ暇ができるんだよ。ハローワークへの求人申し込みは昨日済ませたろ。
882日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:14:06
>>879
冥銭として墓へ入れたようだな。三途の川の渡し賃てやつだ。
883日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:20:43
貨泉が重要なのは、

「実年代の上限が押さえられる」

という点だ
884日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:35:56
上限は決まるが、下限はかなりあとまで
各地方や豪族が勝手に作っていたとみてよさそうだ。
統一感がまるでない。為政者も偽金や私造銭の取り締まりには
苦労したことだろう。
885日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:55:44
ふと、思ったんだけど、
縄文人って何か悩み事を抱えているんじゃないのか?
どこか、悲痛さが伝わるんだよなあ。
どうでもいい事にとげとげしくなっているのを感じてはいたけど。
886日本@名無史さん:2009/08/28(金) 18:05:09
>>世紀の大発見!!縄文時代土器の常識が覆すかも。櫛目文土器より曽畑式土器の方が可なり古い<<

この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器。

発掘調査が待たれる茂の脇遺跡

案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る
複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期
の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。
今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識
であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から
曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということに
なってしまう。
887日本@名無史さん:2009/08/28(金) 18:40:48
>>884
下限だって大体決まるでしょ。通用しない物を偽造しても何の意味無いし。
888日本@名無史さん:2009/08/28(金) 18:45:52
>>887
中国じゃ都市と言えば城砦の中だけなので
地方やド田舎ではいつまでも文化がかわらんのよ。
かなりの量が通用しているとなると、
いったいいつまで使われていたのか空恐ろしくなってくる。
889日本@名無史さん:2009/08/28(金) 18:59:52
>>888
中国でどのように使われたかは全く関係ないでしょ。
日本は貨幣経済なんてまだ無いんだし。

要は日本国内の弥生末期とされる遺跡から発見される事が重要なんだよ。
890日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:04:24
>>888

自分で言ってることの矛盾に気が付かないのかな?
貨泉を偽造したり使用し続けるのは、貨泉に親しんだ文化を持つ人だけ。
それ以外の人は、ただの銅クズだから鋳潰したほうが価値が出る。

貨泉を持ち込んだ人は、貨泉が流通してた頃の(渡来系)商人に間違いないから、
貨泉が出土する地域では、中国で貨泉が流通してた頃から、中国と文化交流があったという証拠になる。
891日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:20:25
貨幣のようなものは信用がないとなかなか広まらない。
だが、いったん信用が出来て定常的に流通するようになるとこんどはなかなか消滅しない。
もし、当時の政府が流通をやめたとしても、地方や田舎で交換が可能である限り
かなり長い間流通し続ける。

それこそ豪族クラスなら独自に通貨を作成してしまうこともあるだろう。
地方豪族が群雄割拠しているような時期はなおさらのことだ。
銅を入手することができるかという問題はあるが、
銅を入手できるなら、通貨を独自に作成するのは容易だろう。
文字通り金を自分で作り出すことが出来るのである。

日本で通貨として使われたのか、銅材料として使われたのか
あるいは威信材としてつかわれたのかは知らない。
そのどれもが日本に入る理由になりうると思われる。
かなり長い間、いろいろな機会を得て日本に運ばれているのは
間違いないだろう。
892日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:25:40
九州に邪馬台国があったと仮定し、30国も九州島だけと仮定してみよう。
すると、どういうことになるか?

魏から金印をもらった九州の邪馬台国であるが、
卑弥呼は同盟してる30国に対して、魏代の鏡を配ることはせず、
古い後漢鏡を割って配布するしかなかった。
他に、大陸由来の威信財というものも配ることはなかった。
九州の邪馬台国は、九州に邪馬台国があったという物証を残すことができなかった。

それに比べて、近畿では貨泉が出土し、画文体神獣鏡が出土した。
仮に4世紀以後に副葬されたものだとしても、
同時代の九州から魏にゆかりの威信財が何一つ出てこない状況には変り無い。

九州には魏代の威信財は無く、畿内にはある、というのが現実である。
それに対する九州説側の反論は全く聞かれない。

縄文人?誰それ。
893日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:29:38
>>891
>もし、当時の政府が流通をやめたとしても、地方や田舎で交換が可能である限り
>かなり長い間流通し続ける。

すまんが、この仮定を歴史的事実とするソースを教えてくれ。
古代ローマとか中国とか明治政府とかが発行した通貨が、100年後も地方で流通し続けていたというソースをしりたい。


894日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:32:05
>それに比べて、近畿では貨泉が出土し、画文体神獣鏡が出土した。

両方とも九州からも出ているのだが?

もし少ないと言いたいのなら、同じく、簡単にでも出土数のソースでも
書いて欲しい。そうでなければネタにもならない。
895日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:38:41
>>793
>面白いのは出雲の四隅があの辺を”パス”しているところだな。

そうですね。
丹波と出雲はちょっと違う文化圏だったかも知れません。

ちなみに丹波一宮の籠神社には、海部直伝世鏡 息津鏡・辺津鏡が伝えられており、
息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。
出土品でない伝世鏡としては日本最古である。
鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は不明。
神社の伝承では饒速日命が天津神から賜ったものである。

十種神宝
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

ようするに、伝承からも、漢時代から丹後は中国と交流があったということになるね。
こんなに面白い話が日本中にあるのに、九州だけしか見れない九州説の人は可哀想。

896日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:40:05
>>892
何を考えてるんだ? 訳が分からんな。

邪馬台国は魏代の鏡を少なくとも百枚は手に入れた。それ以上手に入れた可能性もある。
邪馬台国はそれらを九州内の20数か国に配っただろう。更に、東征して本州で勢力下
に治めた国々にも配ったであろう。足りなくなったら、似たような銅鏡を沢山つくって
ばらまいたであろう。銅鏡など安いご褒美だ。畿内周辺の新参者に沢山配った。
といったことは、簡単に想定できるところだ。
897日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:40:24
>>894

九州から出てるから、なに?

九州説が主張してるような「弥生時代の九州と近畿は一切無関係」のような論説を否定してるだけだが。

898日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:44:54
>>893
上に引用されていた貨泉の説明みたら書いてあるじゃないか。>>878
899日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:45:04
>日本で通貨として使われたのか、銅材料として使われたのか
あるいは威信材としてつかわれたのかは知らない。

1.威信財なら墓から副葬品としてでる。
2.濠の中とか原っぱから出たら玩具だな。
3.半分溶けたような状態で出た物があれば、銅の材料。
この中で2と3が多いようだ。
900日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:46:03
>>893
>古代ローマとか中国とか明治政府とかが発行した通貨が、100年後も地方で流通し続けていたというソースをしりたい。

あー、たしかに古代ローマ貨幣がかなり最近まで北欧で使われていたという
TV番組を見たことがあるな。

情報を持っていないが、こんなのを見つけた。下の画像が流通期間が読み取れる。
縦軸はコインの重さだが、横幅は流通期間として良いだろう。

http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E004.htm
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E004.files/RomeGraph3.gif

URLたどれなかったらスマヌ
901日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:58:46
>>895
今まで丹波は軽視されすぎてるよね。丹波=投馬説に一票。
902日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:00:28
東遷説によると、神武東征によって、銅鐸が消滅したらしい。
それを事実と仮定し、かつ4世紀以後と仮定するとしよう。

神武東征の前には、すでに近畿は饒速日命が国作りをしていた。
当然、銅鐸を祀っていたのは饒速日命であるはずである。
その銅鐸は、近畿〜東海を中心に大型化して、祭祀が活発に行われていた。
九州説によると、それが邪馬台国の時代・卑弥呼共立の時代に相当する。

では、近畿が銅鐸を作るために必要な銅はどこから入手したのか?
九州を介して買い付けるしかなかったのではないだろうか?
それとも、九州は抜かして、独自に朝鮮半島と交易していたのだろうか?
ならば膨大な量の銅が交易されていたのだから、魏の使者が知らぬはずはない。
なにせ、魏では、銅が不足していたらしいからね。

いずれにせよ、「九州と畿内は無関係」とか「本州は倭種」という認識は、通用しないのである。

九州説からは、何も回答が得られていない。


903日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:15:29
銅鐸文化圏は出雲と畿内だ。
そして、九州からも東海からも少数だが銅鐸の出土がある。

銅鐸がある時期に消滅したのは証拠はないが同意する。
4世紀以後には疑問はあるが、否定する材料もないからペンディングとする。

九州からも少数の出土があると言うことは、それほど深い関係ではないが
繋がっていたのではないか。

そして、明らかに銅鐸勢力と大和朝廷は繋がっていない。一切銅鐸の記載が
無いばかりか、銅鐸が出土しても何であるかわからないといった記載があるらしい。
もっとも直接読んだわけではない。

銅鐸時代は九州と繋がっていてもおかしくないと思われる。
国産銅かもしれないが。
904日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:19:59
肝心なことをかくのを忘れた。

東遷か東征かは知らないが、大和朝廷を作ったのは北部九州の倭ではない。
もし九州の勢力が大和朝廷を作ったとしたら、それは日向、宇佐の勢力ではないか。
というのが持論である。もっとも、確定出来るほど資料を持っているわけではない。
905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/28(金) 20:46:39
>>904
ホ29009 ツクシたす ソトセおさめて ヒたるとき アマキミのニを
タケヒトに さつけアビラノ カミとなる 
ホ29022 ときにタケヒト アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ 

タケヒト=神武です。
神武は、筑紫より出発しています。
アビラ山でも掘って確認したらどうか。
906日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:48:39
東征を事実とするなら、日向勢力しかない。
記紀に明記してあるのだからね。

日向以外を想定するなら、魏志倭人伝の南と東を読み替えるようなものだ。
まさか九州説の諸氏がそのような愚を犯すまい。
907日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:53:53
北部九州では前方後円墳にそれほど執着していない。
北部九州の勢力が仮に大和へ行ったとしても
突然前方後円墳を大量に作り始めるとは思えない。
908日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:58:53
つまり、神武東征を卑弥呼の後とするなら、
邪馬台国は日向しかない。

終了。

909日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:00:31
卑弥呼と神武、そもそも関係があるのか?
910日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:08:08
まあ、大分、宮崎は玄界灘有明海文化圏からは遠いね。
宮崎なんか、いまでも陸の孤島って、自分達で言ってるし。
911九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/28(金) 21:15:02
>>902
>近畿が銅鐸を作るために必要な銅はどこから入手したのか?

国産銅がありました。
弥生時代からの銅鉱採集所が中国地方(山口県?)にあったと研究した人がいるとの記憶がある。
5世紀には扶桑國では銅を採掘していた。
これは神岡鉱山か生野鉱山で、弥生時代から続いていたとみなしても良い。
『其地無鐵有銅 不貴金銀』(梁書諸夷傳東夷条扶桑)
912九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/28(金) 21:19:13
>>911の補足
『不貴金銀』は銅に含まれている金銀の精錬分離技術が無いの意味。
913縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 21:22:03
>>892 <近畿では貨泉が出土し、画文体神獣鏡が出土した。>

貨泉や画文体神獣鏡が邪馬台国の所在地を語っているの?貨泉はあちこちで出土しているし威信財などとは言えない代物だし、
画文体神獣鏡が卑弥呼が貰った魏の鏡だという証拠はないし、埋められた時期さえ分らない。そんなもん屁の突っ張りにもな
らんじゃおまへんか。
倭人伝に匹敵する材料と言えるものはないな。
914うましか:2009/08/28(金) 21:24:07
>>910
> まあ、大分、宮崎は玄界灘有明海文化圏からは遠いね。

玄海灘をもっと細かい分け方にしますと宗像から北も違う文化圏ですね。
宗像や遠賀川流域は弥生時代の全期間を通じて甕棺葬を受容しておらず豊地方の文化圏でしょう。
915日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:27:30
つまり、吉野ヶ里は邪馬台国じゃないと。

916日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:30:19
日向が邪馬台国ってことは、吉野ヶ里は邪馬台国じゃないってことよ。
917日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:30:50
>>914
筑豊はある程度わかるのですが、北九州はよくわかりません。
筑豊と北九州は文化的には近いのでしょうか?
918縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/28(金) 21:33:59
>>885
見落としてた。気にかけてくれていたの。悩み事と言えば紀内説派の諸君の行く末だね。馬鹿な子ほど可愛いわけじゃないが心配でね。
919うましか:2009/08/28(金) 21:39:32
>>911

>国産銅がありました。
>弥生時代からの銅鉱採集所が中国地方(山口県?)にあったと研究した人がいるとの記憶がある。

その研究者の方とは違うと思いますが、関西大学の亀井清さんなどは、1960年代から国産銅説を主張したますね。
920日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:39:35
有奴國 ←ウヌコク だよ
921日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:39:38
資金繰り
922日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:44:16
有奴國 ←ウヌコク だよ
923日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:46:20
縄文人は偽者対策をはじめたのか。
一時、カオス状態だったからな。
924日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:53:55
もっと実の有る反論が九州説から聞かれないと、煽っても面白くないな。

勉強が足らんぞおまえら。
925うましか:2009/08/28(金) 21:57:16
>>917

> 筑豊はある程度わかるのですが、北九州はよくわかりません。
> 筑豊と北九州は文化的には近いのでしょうか?

葬制だけでどうこう言うのも何ですが、
どちらも非甕棺葬で、中期までは木槨墓か大型木棺墓、後期以降は箱式石棺葬が見られます。
926縄文人 ◇cM49xEAzX6:2009/08/28(金) 21:59:33
資金繰り
927日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:01:16
ニセか
928うましか:2009/08/28(金) 22:10:45
>>913

> 画文体神獣鏡が卑弥呼が貰った魏の鏡だという証拠はないし、
> 埋められた時期さえ分らない。そんなもん屁の突っ張りにもならんじゃおまへんか。

仰るとおりですが、平べったい文様のTLV鏡などと比べ、肉彫りの神獣鏡は舶来の製造技術が無ければ作れないと思います。
ホケノ山などの築造年代に異論は御有りでしょうが、当時の贈り物としてはトップトレンドの鏡だと思いますね。
929日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:11:45
九州説は都合が悪くなるとスルーだもんな。
930日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:15:07
誰か河童相手してやれw
931九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/28(金) 22:26:17
>>914
宗像や遠賀川流域は3種(古くは2種)の神器の神社の分布地帯でもあります。
神器においても有明海と異なる文化圏ですね。
932九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/28(金) 22:48:33
>>919 うましかさん
関西大学工学部金属学の亀井清さんかも知れない。
その本の著者は鉱脈探査や鋳物冶金についてやたら詳しい人だった。
しかし日本書紀も細かく読んで、歴史学者による書紀の改変(改竄)をも指摘していた。
933日本@名無史さん:2009/08/28(金) 22:53:24
難易度(大) とか言ってwww
934日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:02:42
>>928
ホケノ山の画文帯は思いっきし国産じゃん。
日本でしか出土しないデザインで(ただし楽浪で1枚だけ似たのが出たらしい)、
日本で出土した同向式はほぼ全部同じデザインの踏み返し。

確率論で言えば99.9%国産。
935日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:19:52
貨泉の議論が消えたな
もう用済みといったところか
936日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:31:36
貨泉は普通に重要だからね。
937日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:35:01
鏡といえば、古代人は内行花文鏡を好んでいたような気がする。

平原遺跡や下池山古墳が出た大型の国産鏡は内行花文鏡だし、三種の神器の
八咫鏡も内行花文鏡だといううわさがある。
古代人が全精力をこめて作った鏡が内行花文鏡というのは、やはり好んでいた
からだろう。

そう考えると、卑弥呼がもらった鏡も内行花文鏡かもしれない。
938日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:39:03
貨泉についいては学者の議論が不十分だし、貨泉についてのまとまった
著作もないので、議論がしにくい。

貨泉を出土した遺跡は確実に紀元後になる。
→しかし、貨泉出土遺跡の年代を網羅的に検討したものがない。

貨泉は後漢以降も復刻版が作られていて、これは新の貨泉と異なる。
→しかし、出土した貨泉が後漢の復刻版かどうかを検討したものがない。

1C初頭は奴国が隆盛の時代であり、この時代の鏡の99%以上が九州で出土し、
この時代の鉄の90%以上が九州で出土していた。つまり、舶載品の9割以上は
九州止まりであった。
しかし、貨泉の出土状況は、この時代より新しい分布の様相を呈していて本州での
出土も多い。つまり、貨泉は2C以降の遺物と考えたほうが良い。

939日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:49:52
本州で出土の貨泉が2世紀でもいいんだよ。
タイムラグは当然考えられると思うしな。
それだけで大陸・半島北部九州〜西日本の交易の証拠なんだから。
940日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:57:38
>>939
貨泉が2C以降なんてのは、年代遡上の人には不都合だよ。
貨泉は弥生後期初頭の遺跡から出土するとされる。まあ、中期に遡る可能性が
ないとはいえないが。

貨泉が2C以降で弥生後期初頭が2C以降に始まるとすると、年代遡上は
総崩れとなる。

だからなのかな、貨泉について突っ込んだ研究がないのは。
941日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:09:18
そもそも貸泉を2C以降と考える積極的な根拠なんてないじゃん
942日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:12:41
>>940
>貨泉が2C以降で弥生後期初頭が2C以降に始まるとすると、年代遡上は
>総崩れとなる。

詭弁のにおいがするな。


943日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:28:09
>>941
そういう事ですね。タイムラグを考えたとしても2世紀が下限でしょ。
貨泉は一見地味だが判断材料としては貴重なんじゃないかな。

個人的には上にもあったが済州島からも出土してるのは
重要なんじゃないかなと思ってる。丹後と所縁がありそうだし。
944日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:49:22
つまらん話だな
テレビ見ます
945日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:25:09
画文帯を4c以降とする理由もないしな。
946日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:26:38
貨泉=弥生後期初頭=1C初頭というのが、現時点のいちおうの結論

つまり、初期の貨泉が製造直後に日本に持ち込まれ、即座に埋められ、それが全部
弥生後期以降であるというのが年代遡上説の前提になっている。

なので、
日本に持ち込まれるまでのタイムラグを半世紀以上とすると、アウト。
貨泉が日本に持ち込まれてから埋められるまで半世紀以上とするのも、アウト。
日本で出土する貨泉に、後漢以降の模倣品が存在するとしても、アウト。
貨泉が出土する遺跡に弥生中期のものがあるとするのも、アウト。

という年代遡上説の泣き所が貨泉の問題であったりする。
かといって、穏健に貨泉を2C以降とすると年代遡上説が成り立たない。
947日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:28:32
「製作地」と「制作年代」の恣意的混同
東遷厨の常套手段だな。

仮にホケノの画文が国産だとしてそれが即4世紀以降と言う話にどうしてなるんだ?
948日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:37:01
制作年代から埋没するまでのタイムラグがあれば
その間に共存していた古いものと新しいものが一緒に出土する事例があるはずってのが
まともな考古学者の考え方だよ

それが分かってないひとがいるみたいだけど
949日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:47:21
だいたい、年代遡上説って何だよ?
何か九州説に都合が悪いことでもあるのか?


あ、東遷説には都合が悪いのか(笑)

950日本@名無史さん:2009/08/29(土) 03:07:42
まあ一般論として、新しい発見があれば、それによって年代の上限が書き変えられる。

考古学の進展=年代の遡上、遡上して当たり前 だよなw

自説にとって都合の良い年代観に何とか止めようとするのは見ていて滑稽。


951日本@名無史さん:2009/08/29(土) 04:13:20
もう950か、スレの消化早っ!

やっぱ終止符スレが某コテにより近寄りがたい雰囲気になっている事に起因するんだろうか?w
952日本@名無史さん:2009/08/29(土) 08:17:23
終止符スレは、ちょっと固定客しか近寄れんな。というか、もう歴史じゃない希ガス。
953日本@名無史さん:2009/08/29(土) 08:46:10
だらだらやってないで、
明日の投票で決着をつけようぜ!

民主か自民か?
九州か大和か?

天下分け目の決戦!
この戦いを制するのはどっちだ?
954日本@名無史さん:2009/08/29(土) 08:56:41
衆愚政治に衆愚学界、どちらも期待できねえな。
955日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:00:40
民主・・・畿内説
自民・・・日向説文献派
公明・・・安本学会
共産・・・古田王朝
社民・・・四国説
国民新・・・吉備説
みんな・・・出雲説
新党日本・・・吉野ケ里説
大地・・・・北海道説
改革・・・・どこでも良い説
何タラ実現党・・・エジプト説
956日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:02:49
>>955
自公連立は「東遷説」が共通課題かな?w
957本居宣長:2009/08/29(土) 09:06:30
古事記には、天皇の寿命が百三十歳、百六十歳など、詳しく記されてますが、
その年数を疑うのは漢心(中国風になんでも理屈で考えようとする態度)によるものです。
古代のことを知りもしないのに、その記述を疑ってかかるべきではないでしょう。
年数が詳しいことについても、少しの誤差はあるかもしれませんが、
だいたいそれぐらいであることは疑いありません。
958本居宣長:2009/08/29(土) 09:11:49
左翼を葬れ。
天罰を恐れない太国を葬れ。
神武天皇即位が紀元前後だなんてもっての他です。
神武天皇即位は紀元前660年です。
欠史八代の天皇は実際に存在して長生きしているのです。
反皇国史観・太国及び左連中には天誅を下す。
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 09:30:30
そんなことで反皇国史観にはならない。神武はB.C.51年誕生だよ。
960日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:33:14
「皇国史観」なんてサヨク用語を使うやつは非国民だな。
961日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:38:09
>>960
じゃあ「本国中心主義」でwwwwwww
962日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:57:45
じゃ、コテ本居宣長と太国はブサヨ認定済みと言うことで・・・
963日本@名無史さん:2009/08/29(土) 09:57:49
こうやって、自民党政権から民主党政権に平和裏に移行するように、
古代は有力豪族による選挙によって政権が移行する共和制だったのではないかな?
それが天皇を中心とする君主制に変わったのは、
渡来人が入り込んでからのことでしょう。
964太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 10:09:30
それがしは左党は舐めちゃあいないよ。w
左糖は危険歯層(シソー)の元凶だ。大学の象牙の塔もこれにやられ
ているようだ。象牙質がやられて欠歯八代が代歯脱多の歯層脳露雨の
盲象状態にある。w 歯科医糖や強酸糖で危険な歯層(シソー)に
追いやられ、リトマス史険歯のペーハーが極度に赤化する検体と
なっている。虫欠く(チュ−カク)歯がその典型。
ペーハーはおよそ参政と忠政、円旗政に三分される。
965本居宣長:2009/08/29(土) 10:10:51
太国よ、
古事記は書いてある事をそのままありのままに受け止められよ。
日本は小さな島国ながらも素晴らしい国である。
大和朝廷が中国に朝貢した記録なぞ古事記にはない。
なんで中国に朝貢しなければならない?そもその日本は神国である。
日本がなんで中国の風下になる?
決してそんな事実があってはならない。
邪馬台国とは大和政権に属していない辺境の蛮国の事です。
966本居宣長:2009/08/29(土) 10:15:56
太国よ、
これだけはいっておく。
古事記は間違っていない。
歴代天皇の歳もだいたいは合っている。記録を信じよ!
編纂者が天皇の歳を改竄する訳がない。畏れ多い事だ。
神武天皇即位は紀元前660年というのも間違っていない。目を覚ませ!
967日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:17:17
似非ウヨクが!
「大和政権」もサヨク用語だぞwww
968日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:19:23
中国に柵封を求めて中国に渡ったやつはいねえよな。
いつも、いいとこどりが目的。
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 10:20:46
>ありのまま
別に年代を曲解してるものではないよ。当時は1年が現今の半年等の
時代だったんだから、逆らっているわけではない。だから当時の天皇
は、今の人間どのと変わりない通常の寿命だったんだよ。皇紀で
数えることはそのとおり君の言うとおり不変でいいが、これを西暦に
当てると時間の尺度が違うため神武即位がB.C.660年にはならない。

神武即位は倍暦計算で、西暦元年だよ。

君はどこかの右翼か〜神道の一派か?
970日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:20:55
>>968
日中安保条約のタダ乗り?w
勿論「おもいやり予算」も出さないとか?www
971日本@名無史さん:2009/08/29(土) 10:21:14
> 神武天皇即位は紀元前660年というのも間違っていない。

これも変だよ。
AD660年が皇紀元年(神武帝即位年)なんだよ。
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 10:29:52
>>971
A.D.660年が神武即位の年ではあるまいが。紀の成立が720年だぞ。
720−660=60年 だ。紀の成立ころは元明元正の時代だぞ。60年で
初代から40数代を消化したなどとは間違いだよ。
973日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:10:12
しかし、半島より日本の建国の方が後というのもなあ。
974太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 11:12:09
建国はどうだか分からんが、神武の前に70数代のウガヤ朝があったと
の伝えが残ってるから、逆かも知れんしね・・・?
975日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:16:19
神武の御先祖様達が宮崎で貧乏暮らしをしている間にさっさと檀君様は韓土を平定されたのです。
976日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:19:13
>>975そんな話を誇り高き日本人が受け入れられるかよ!
977本居宣長:2009/08/29(土) 11:28:40
陸行一月は陸行一日の間違いです。
日本の風下にある中国史書に正確性を求めても仕方ないのです。
正しい記録は、日本書紀です。

大体にして魏志倭人伝はいいかげんだ、という前提に立たなければ九州説は必ず畿内説に論破されます。
絶対に畿内説に勝てない。
ここが巷の多くの九州論者のわかっていない所です。

魏志倭人伝いいかげんだから、径百余の墓なぞ存在しないのです。
故に、最近の畿内説の成果は殆どが無きに等しいのです。
九州説諸君、思い切って魏志倭人伝を否定して下さい!
最強九州説ここにあり。
978日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:36:38
>>977
と言うかアンタが考えた「偽僭説」こそ最強やねw

その前には考古学も何の役にも立たない。

それどころか3世紀の九州に既に前方後円墳があったと言う事なら
卑弥呼の墓もその中から選り取り見取りw

偽僭説に死角無し!
ただし立証の責務も背負い込んでしまう諸刃の剣。
素人には(以下略
979日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:36:55
倭人伝の否定…卑弥呼はいなかったで終了だな。
980日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:43:51
太国氏はそういう日本人の持つメンタリックな部分を逆なでするようなことを書くからダメなんだよ。
年代合わせ数字合わせだけでは、たとえ論理的に正しく合理性があったとしてもだれもついては来ない。
既に出来上がった古い都を継ぐのはボンクラ皇子にでもできる。
豊城入彦にしろヤマトタケルにしろオオヒコにしろ、
天皇の長子の役目は東国を征伐し、国を大きくすることだったんだ。
981日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:50:44
>それどころか3世紀の九州に既に前方後円墳があったと言う事なら
>卑弥呼の墓もその中から選り取り見取りw
そう、日向説の場合、卑弥呼の墓にはまったく困らない。
近畿説は困るんだよな。箸墓では大きすぎる。それに槨なしとか殉葬百人
とかに合致する墓がみつからない。日向ならばまだほとんどが未調査、いく
らでも候補になりそうなものがある。


982日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:52:23
>>980

ヤマトタケルは長子じゃないだろう
983日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:55:25
>>981

でもなあ・・・

前方後円墳には百人もの奴婢の殉葬の跡はセットで出て来そうも無いんだが?w
984日本@名無史さん:2009/08/29(土) 11:57:07
>>982それは長子は木偶の坊で使えなかったから、やむなくヤマトタケルに白羽の矢が当たったんだろう。
985縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/08/29(土) 12:00:31
本居宣長は私の660世孫です。私の指示により日本書紀の偽造を行いました。しかし、元本が不完全であったため干支の配置でミスをしております。
このミスのため太国が振り回されて唐松山に登ったり三輪嬢と遊んだり無為に年を重ねているところです。
このところの書き込みについては皆様にはただの遊びと見過ごされ、仕事にお戻り下さい。
986日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:05:06
笠置山古墳などというのが多数の殉葬を伴っているとして話題になってるね。
それが直接に卑弥呼の墓でないとしても、南九州には殉葬の習慣があった可能性
は高いと言えるかもな。
987日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:09:52
>>986
>笠置山古墳などというのが多数の殉葬を伴っているとして話題になってるね。

ああアレねw

素朴な疑問、あの集落中心に近い墓を殉葬の跡として
他の人間の墓は何処にあるんだ?w

まだ見つかってない更に中心から離れたところかな?

年代の一致その他の材料もなしに「おおよそ100」と言う数のみでこじつけているとしか思えないのだがw
988日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:11:26
筑後川の氾濫で土石流に埋もれた邪馬台国の跡がポンペイの遺跡のように
掘り出される日もいつかやって来るのではないでしょうか?
989日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:19:51
それは無いな。
990日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:31:36
>>988
今、地図を調べてるんだけど、
「筑後川」って奈良のどこにもないんですけど・・・
991日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:32:29
>>987
古墳は地位が高い人の墓で、普通の人たちの墓とは場所的に区別されているな。
それと、普通の墓はそれぞれの被葬者の死亡のつどに掘るから整然とした形には
ならない。前の墓所を気づかずに再度掘ったりごちゃごちゃになる。そんなこと
から判断できるはずだが、興味があったら行ってみたら?
992日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:34:46
>>990
気の毒に・・畿内説に毒されてるんですね。邪説は捨てなさい。
993日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:51:32
奈良は気候が安定していて土石流も台風の被害も高潮も地震も
もないし、だから昔の遺跡が残っているのです。盆地はいいよな。
そしてこの地に都に選んだ卑弥呼の慧眼は空恐ろしいほどですね。
994日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:56:03
>>993

高潮はともかく、地形的に地震や洪水は日常茶飯事だろう。
995日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:57:58
>>994
川の氾濫による被害は九州のほうが圧倒的に多いと思うが?w
996日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:00:17
畿内説のスレを復活させて欲しい
997日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:03:55
>>934
>ホケノ山の画文帯は思いっきし国産じゃん。

そうでしょうか?

>確率論で言えば99.9%国産。

ん? それなら、0.1%は舶載の可能性がある?
99.9という数値の算出の根拠を聞きたいものです。

まあ、「100%国産」と仰らず、舶載の可能性も考えておられる点は、
貴殿の学問的良心かもしれませんが・・・。

しかしそういうことであれば
「心情的には国産説に加担したい気持ちだが、国産か舶載かを断定する根拠を自分は持っていない」
と仰った方が、学問的にはより良心的だったしょうね。
998日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:13:14
畿内説どうしで議論したい。
999日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:18:38
正直その方がいいかもね。
1000唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 13:20:12
まだ モモソ媛が恋しいか?
10011001
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