952 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:31:25
女王國に属する北部九州と女王國に属さない南九州の戦いですよ
あ。勿論卑弥呼の居る邪馬台国は畿内ですけどね
953 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:32:54
>>950 矛盾などありません。
>>949 十分造れます、時間は幾らでもありましたから。
七万戸は3〜4県分の大きさでしょう。
954 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:36:23
>>953 面積の広さと人口の多さは必ずしも比例しませんよ
面積が狭くても人口が多い都市はたくさんありますから
956 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:40:31
>>952 卑弥呼の居た邪馬台国の都は伊都国です
女王國(邪馬台国)は北部九州ですね
畿内など当時はド田舎です。
郡使も伊都国で卑弥呼に対面したのです。
957 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:45:37
>>954 3世紀の宮崎に大都市があったの?
>>955 倭人伝には畿内の事は何も書かれていないよ。
倭人伝の内容は北部九州を中心に山口、瀬戸内海地域、南九州までだな。
>>956 お前のような奴がいるから
九州説はバカにされてるんだよw
突発ですが
>>926 同意です
地理情報は晋の生の外交記録が元になっているでしょう
つまり台与の時代の邪馬台国です
>>957 >倭人伝には畿内の事は何も書かれていないよ。
使いが行ってないからだよ。
それに卑弥呼はめったに人に姿を見せないからね。
961 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:53:19
>>958 理由を述べて下さい。
理由もなくバカ呼ばわりは失礼でしょ。
説明も出来ずにバカと言っているキミがカバなんじゃないの。
962 :
縄文人:2009/08/22(土) 16:56:37
>>952 邪馬台国畿内説は論外ですよ。倭人伝の記述に合わないし、3世紀前半以前の畿内に戸数7万余の大国が存在したという
形跡もないし、自然条件も整っていませんからね。奈良盆地は水びたし、河内平野は未開拓部が多く、食料生産力が不足
です。古墳や三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など何の証拠にもなりません。
>畿内など当時はド田舎です。
郡使も伊都国で卑弥呼に対面したのです。
ま、頭の良い人には見えませんねw
964 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:04:26
>>959 魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の時代
倭人伝は卑弥呼が倭王に任じられてから壱与までの時代
魏略では倭の首長達が皆王を自称しているが
倭人伝では伊都国の王=卑弥呼=女王邪=馬台国の王と考えると
王は倭王の卑弥呼と卑弥呼の敵対する狗奴国の王しかいない。
966 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:07:21
>>964 魏略は曰文、しかも張が意図し纏めた参考書に掲載されたもの
>>800 ありがとうございます
興味深いですね、ぜひ読んでみます。
968 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:16:31
>>956 日本の首都は成田です。って言ってるようなものだから「バカ」と言われた。
969 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:17:14
>>963 カスのような意見しか言えんくせに偉そうに
倭人伝では伊都国の王=卑弥呼=女王邪=馬台国の王である
「世有王」は倭人伝には有るが魏略には無い
「世有王」は卑弥呼、壱与のことだ
魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の時代だら「世有王」が無い。
「皆統屬女王國」は倭の国々は女王國に統屬するの意味。
魏略でも「其国王皆」となっており
「其国」とは倭の国々を指している。
970 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:19:34
九州説の方々は、魏史の時代(書かれた時代の事ですが)中国文献には登場しないが出雲や吉備はすでに存在したと考えてます?
それとも魏史の書かれた時代以降に発生して、新しくとも紀記より(天武朝)古い時代になる(勿論、四隅突出型墳丘墓の発生くらい)と思います?
果して中国の王朝はいつの時代に九州から先の倭を認識したと思います?
後、隼人や熊襲の存在は?。
973 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:28:54
>>971 論理に誤りが有れば指摘してみろ
出来んだろ脳タリン
>>973 いくらでも指摘できるがループするだけだぞ。
まず倭人伝には伊都国=女王国とは何処にも書かれていない。
初歩的な誤読、話になりません。
975 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:50:27
>>974は解説を読んだのか?
「皆統屬女王國」は倭の国々は女王國に統屬するの意味。
「皆統屬女王國」は伊都国の説明に書かれている
女王國は伊都国の説明だ。伊都国は女王國の都。
誤読はチミだよ。
>>972 ここに絶妙な心理テクニック隠されている。
ウブな素人なら陰陽五行など意識しながら
日本書記作者の表層思考の後ろを読み解く。歪んだね(笑)
>>975 話になりませんな。
女王の都する処の説明と矛盾してますが。
>>975 伊都国=女王国=邪馬台国とでもいいたいのか?
官が何人いるんだよw
979 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:01:07
そういえば中国の歴史書で日本の記述が変化する時期があるという
説を読んだことがある
倭
倭
倭、日本
日本
というように。
明日積み上げている本を漁ってみるか。
>>976 中国の王朝はいつの時代に倭の九州以東の存在を知ったんでしょうか?
倭の朝貢先は楽狼群、帯方群であったから当然、九州のみと考えてたなら二群は倭の領域を九州としか知らなかった事になりますね。
知ったのはいつの時代でしょう?それを文献に残さなかった訳は?
981 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/22(土) 18:06:17
当時の日本は大陸が天下三分の計なのに対し、天下二分の系。
畿内は男王(天皇)が統治し九州は女王(卑弥呼)が統治してたと
いうことだな。
>>972 まぁ漢民族だけの移住地(中華哲学)だけをを表したのが
陰陽五行だが 無知な゛東極゛の島国に強引に当てはめるとなると
色々とほころびが出てくる。南に朱雀、北に玄武などあの発想でOK。
>>979 旧唐書の壬申の乱の記述に日本と倭が出て来ますね。
昨日レスしたんですがスルーされました。
>>981 魏史の時代でなく魏史の書かれた時代に、未だに倭の領域を九州としか知らなかったと言うのはなんともですね。
書くにあたってすでに以東の領域の存在や国を知っていながら書かなかったのか?(魏史が書かれたのは魏の時代から下るわけですから)
途中で中国王朝側(楽狼、帯方二群地域の情報)が倭と認識してる以東に別の領域や国を見つけたら、なぜ書き記さなかったか?不思議ですね。
984 :
縄文人:2009/08/22(土) 18:23:23
>>980 倭人伝にも書いてありますよ。女王国の東側、海の向こうに国があり皆倭種だと。ちゃんと四国、本州の存在を認識
していますね。
倭国と認識していたのは九州内の30国(邪馬台国を盟主とする連合国)でしょうね。
なお、倭国の商人達は出雲や吉備にも出かけて商売をしていたのではないでしょうか。逆に出雲や吉備の商人達が倭国
に出かけていたこともあるでしょう。博多の商人は「このまえ出雲に行ったんじゃが、あそこで食うたそばは旨かった
ばい」とか「吉備のきび団子も旨かばい」などと情報交換をしていたというのは定かではない。
>>984 しかし吉備や出雲、畿内には中国と直接交流した痕跡がありますよ。
986 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:31:55
>>977 チミの脳に矛盾が有るのだよ
『南至邪馬壹國 女王之所都』
とは「南、邪馬壹國に至、女王の都が在る所(伊都国)」の意味
矛盾などないよ。
>>978 邪馬台国全体を治める役人と
都の伊都国だけを治める役人は別にいたのだ。
987 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:34:34
>>984 邪馬台国を盟主とする連合国ではなく
伊都国を盟主とする邪馬台国連合だろう。
988 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:34:47
989 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:36:54
>>951 檄を作り告諭したというのは、邪馬台国側だけに何か指示したということかな?
そうではないだろう。狗奴国が攻撃してくるときに邪馬台国にだけ自制せよなんて
言う訳にはいかない。狗奴国に対しても檄を示すわけだ。
それが通用するということは、狗奴国も魏に対する朝貢国なのだ。
狗奴国は、いつ、朝貢したのか?107のときか卑弥呼朝貢の時にその1国として
加わったのか?いずれにしろ、邪馬台国と狗奴国はある程度は協調の場面もあった
と考えられる。また、狗奴国が大国ならば、何で狗奴国には旁国がついていない?
それを考え合わせれば、やはり狗奴国は旁国の一つにすぎない。
朝貢国同士は戦ってはならない。これが中国を中心とした世界の当然の規律だ。だ
から邪馬台国は狗奴国がいかに小国でもかってに討伐することはできない。そこで、
将来、討伐するかも知れないことに備え、魏に対し、狗奴国は困ったものだという
ことを訴えて根回しをしていたんだよ。別に国力が拮抗していたわけではない。
991 :
縄文人:2009/08/22(土) 18:39:00
>>985 逞しい商人は何処にでも出かけますからね。物資は国家間の取引だけで行き来するものではありませんからね。
まあ結論から言うと女王国とは瀬戸内海を
中心とした西日本一帯の国の総称だ。
豊の漢字が付いてる処。
そのなかで都する場所がヤマトという事ですね。
>>984 つまり晋の時代には魏の時代、東夷の倭人は九州の耶馬台国は魏に朝貢する為に楽狼、帯方二群におとづれてきたが
九州以東にも倭人達の国があり、それは倭人同士の交流はしていたが、中国王朝に朝貢はしていなかったと認識はあったんですね。
それらの他の倭人国は遂に朝貢はして来なかった(後世、倭人の別の国が初めて朝貢に訪れれば記述しますよね?耶馬台国は朝貢したから記述した訳ですから)
でいいですか?
>>991 貨泉は西日本中心から出てるからね。
九州のみの交流説は矛盾しますな。
995 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:45:32
996 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:50:21
>>990 「自郡至女王國萬二千餘里」の場合
「自郡」とは郡の中心地の郡治のこと
「女王國」とは女王國の中心地のこと
郡治から女王國の中心地までが萬二千餘里
同じように自女王国とは女王国の中心の国を指している
郡治から奴国までが行程を合計すると丁度12000里となる
つまり女王国の中心の国は奴国
自女王国以北とは奴国以北の意味だ。
奴国は2万戸あり邪馬台国の中心の国だ。
後、現在は楽狼群の都城跡は特定されてますが、晋の時代当たり前に知られていたはずの帯方群の都城の場所がはっきり定まってませんよね?
九州説はやっぱり電波が多いな
1000 :
縄文人:2009/08/22(土) 19:11:53
>>993 266年に壹與が晋に使いを出した後は、宋に倭の五王達が使節を送っています。
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