1 :
神奈川県民 :
2009/07/29(水) 22:23:05
2 :
doontakuka :2009/07/31(金) 16:38:18
>>1000 Ø 凹面鏡に映すと東西と南北が入れ替わる事
なにゆえ凸面鏡かでてくるのよ
卑弥呼といったら
『五尺刀二口銅鏡百枚』
銅鏡は凸もあれば凹もあれば平もある。
鏡は魏志を語る為の大事な大事な小道具でっせ。
>>798 河童さん
>常日頃、辞書辞書と言ってる割には辞書なんてチョコチョコって眺めるだけで
>全く書かれている内容なんて把握してないんだ
>あれは品詞別に分け並べた辞書で使われている用例なんだけど
・字の意味を調べてるんです、辞書はトンデモ読みする為にあるのではナイ。
>>802 太国さん
>改めの説は去年とは違いまたまたこちらの説に近似してきたところがある。ww
・真実を追っているダケ。
貴方は〜まだ、邪馬台国=阿蘇とか倍暦とか言ってるんですか?
どれだけ進歩してるのやら。
>>804 河童さん
>「卑弥呼は誰か」と言う疑問を持つ前に纏めておかなければならない事がある
>魏志倭人伝の中だけでも三人の卑弥呼が登場し、その内二人が魏朝とかかわりをもった。
・それは、単なる言語虫氏のウケウリ。貴方は、ワシ説の猿真似してるだけでは?
4 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/31(金) 19:41:20
>>3 >ウケウリ
私は私なりに裏を取ってあるから
胸を張ってウケウリにデコレーション付けて売り出せる。
ただ、貴方には一生理解出来ない世界だけどね
理解出来ない世界なんだから、当然貴方にとってはトンデモだわな
それでいいんです。
>>945 >ジョーマクモニーグルが、「卑弥呼」と関わるようになったのは、学研「ムー」
>のプロジェクトへの参加がきっかけです。
>数年前に、初めて「卑弥呼」をリモート・ヴューイングしたときに、彼女の
>あまりの美しさに驚いたそうです。
貴方はムーを読んだのかな?それとも今年発売された本?
わたしも読みましたが、卑弥呼が短足だったのには〜笑えたw
しかし、短足だったからこそ、信用出来そうだな〜とも感じた。
>>4 いや、貴方に問題があるというか、聞いてる人に説明出来ないと意味ありませんね。
ただ、虫氏が発言したことを「そのまま」書き込んでる、
又は、理解してないのに書き込んでる 場合があるかと・・・。
6 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 20:20:55
>あまりの美しさ それは本物の卑弥呼ではないぜ。ww なお女王国が畿内説九州説ともに正解にはならない。卑弥呼の国は九州だ。 だからこ畿内の天皇が金印をもらったという記述が古文献のどこにもなく、 女王の卑弥呼がもらっているわけだ。しかも伝にはハッキリ女王国と記述され ているから、239年ころ畿内に女王国があったらしい記事は記紀にはまるでなく、 畿内には男王国(天皇国)しかなく、 〜このことから女王国は別の所、すなわち九州に存在したことが軽くわかる。
>>5 >いや、貴方に問題があるというか、聞いてる人に説明出来ないと意味ありませんね。
ただ、虫氏が発言したことを「そのまま」書き込んでる、
又は、理解してないのに書き込んでる 場合があるかと・・・。
理解していないと判断できるほどの能力があるとは到底おもえません。
単なる脊髄反射的に言っているとしか思えませんね
「理解していないと」と判断できる能力があるのなら、具体的に何処がどのように
理解できていないかの具体的な例をあげて説明できるはずだし
当然そういう内容で、私などに指摘される前にていじしていますよね
だから先日も言ったでしょ
「言語は古代史とは関係ない」と言っておきながら
何ら具体的には示されてはいませんよね?
そうそう先日 doontakukanaとその弟子さんに「陵」はどして「みささぎ」というのか
私なりに説明しました。
十分古代史に関係する話題だと思いますが・・・・
言語と古代史の関係を否定する貴方に
どうして「陵」を(みささぎ)というか説明できますか?
>>952 doontakukaの弟子氏のレス
>両先生にお尋ね致します。
>前方後円墳の向きが一定でない理由を教えて貰えませんか?
>>955 河童さん
>形に方向を求める意味がないからでは ありませんか。
・オイオイ・・・貴方〜何もしらないんだなw
>>960 縦目仮面さん
>まあ、周濠のある古墳は河川等からの水の取り入れをしなくてはならず、そのことと古墳の
>向きは関係あると思う。
・関係ないよ。いろんな本を読んできたが、初めて聞いたわw
縦目仮面さんは、考古学大(中国)の四大生で、これから「考古学のプロ」になろうとしてる人。
君、勉強不足なんじゃない?w
>>959 唐の松ちぁん
>古墳の方向には意味があるが、まだ誰もその謎を解いていません。
・松山さんが1番まともな回答だね。
「古墳の向き」に関して、議論の対象とされてるのは皆、ご存知だろう、
しかし、その結果として、ソノ被葬者の1番重要な場所に向けられてるといわれ、
答え的には、”ゆかりの地”へ向けられている といったほうが良いだろう。
被葬者の故郷だったり、宮殿のあった場所だったり、相違はあるらしい。
まあ、まともに本を読んでいるのなら、私みたいな答えになるハズで、
どの学者さんもこんなこと言ってるだろう?たまには、本を読みましょう。
前スレの979です。 一応、俺としては邪馬台国畿内説なんだが、女王国の位置(卑弥呼が都する所) は九州説をとる。 つまり、 女王國 ≠ 邪馬壹(臺)國 = 畿内大和 の立場。 ところで、繰り返しになるけど、前スレ981に書いたように 行程記事について、国名、方角、距離(あるいはかかった日数)の順序は 伊都国までのAグループ内は同じ、奴国以降のBグループ内は同じ。 だけどAグループとBグループとでは並びが違う。 よって、陳寿がそれぞれ別のソースから情報を引っ張ってきた可能性がある。 と考えている。 で、Bグループの情報を追加したのが、仮に陳寿の錯誤であった場合、 「水行二十日」、「水行十日陸行一月」 この二つの旅程記事は自動的に無効になってしまうのだが、 これら二つの記事を消してしまった場合、魏志倭人伝に「邪馬台国畿内説」が 入り込む余地は相当小さくなってしまうのではないかと思うのだが、どうだろう? 現在のような畿内説の盛り上がりは、果たしてあったのだろうか?
ついでに俺の考えを書いておくことにするが、 あんまりダラダラ書いてもしょうがないので、要点だけ箇条書きにする。 ・行程記事は伊都国までのAグループと奴国以降のBグループに分かれ、 陳寿がそれぞれ別のソースから記事を引っ張ってきた。 ・使節の報告書にはAグループの行程記事しかなかった。 ・使節は、女王国の位置を伊都国の南千五百里(約100〜130km)であるとして 記述した。(短里) ・陳寿は、女王国の位置は伊都国の南千五百里(約650km)であると誤解した。 (長里) ・陳寿は、正規の報告書以外の資料からBグループの行程記事を見つけ、 これを伊都国−女王国間の行程に相当すると誤解して、 Aグループの行程記事の後ろに挿入した。 ・女王国の勢力範囲は、北は對海(対馬)國、東は不彌國まで。 (卑奴毋離の配置に注目) ・投馬國及び邪馬壹(臺)國は女王国の勢力範囲外であるため、 郡の役人は足を踏み入れたことが無く、里程を測れなかったので、 行程としては倭人からの伝聞である日数表記にせざるを得なかった。 ・投馬國及び邪馬壹(臺)國の行程記事は、元の資料では「東」と記載されていたが、 東夷の蛮族からの伝聞情報よりも、郡の役人の報告書による情報 (女王国は伊都国の南)を尊重した陳寿により「南」に修正された。 ・戸数表記についても同様。伊都国までのAグループは正規の報告書に記載する必要が あるため、使節自身がある程度裏を取った数値だが、奴国以遠のBグループは裏を 取っておらず、倭人からの伝聞をそのまま記載している。 (そのため、Bグループにのみ数万戸の表記がある)
11 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/31(金) 20:54:09
>>6 >それは本物の卑弥呼ではないぜ。ww
・貴方の言う本物はどこ?
>なお女王国が畿内説九州説ともに正解にはならない。卑弥呼の国は九州だ。
・卑弥呼というのは、「倭」の王様です。
「倭姫命」、「倭建命」、など、天皇家でも「倭」の付く名前は多いわけで、
倭というのは、日本列島の部分的な読み方ということがわかる。
以上のことから、「倭」というのは、現在の西日本に当たり、卑弥呼は王様だったという現実を
見逃したらいけません。
>だからこ畿内の天皇が金印をもらったという記述が古文献のどこにもなく、
>女王の卑弥呼がもらっているわけだ。しかも伝にはハッキリ女王国と記述され
>ているから、239年ころ畿内に女王国があったらしい記事は記紀にはまるでなく、
>畿内には男王国(天皇国)しかなく、
>〜このことから女王国は別の所、すなわち九州に存在したことが軽くわかる。
江戸時代、志賀島(現在の福岡県東区)で発見された漢委奴国王印は
大きな石(岩)の下に隠すように置いてあったという。そのまま、隠してたのでは?
また、委というのは、倭というのは知ってるだろう。
これを「委奴国」と読むのではなく、「漢」の「倭(委)」の、「奴国」の「王」と
読むのが正しく、奴国というのは奈良の本家に対して「分家」もしくは、
「出張所」ということが分かる。
よって、隠すように置いてあった金印は、記紀に載ってないのが当たり前で
女王国は九州に存在したとか、妄想としか思えない。
>>8 >被葬者の故郷だったり、宮殿のあった場所だったり、相違はあるらしい。
おいおい、お笑いネタかい?
向きが被葬者によって異なるのでは、意味ないだろう。
そんな事も理解できないのかよ
しかもその被葬者の「ゆかりの地」「宮殿」と異なっていては
方向に決まった向きなんかないと言えるだろう(w
そんなことも理解できないのかな?
向きに意味があるというのは、全ての古墳の向きが一定方向に全て向いているとか
向いている方向には
必ずあるものが存在しているとか共通の何かがある時にいうんだよ
ワ ラ エ ル
>ソノ被葬者の1番重要な場所に向けられてるといわれ
だれがその順位を決めるんだよ
勝手に解釈するなよ
>>10 >陳寿がそれぞれ別のソースから記事を引っ張ってきた。
と、貴方がそう考えただけだろう?
それともどこかに別のソースを用いたと書いてあるのかな?
>>9-10 日本というのは、現在の天皇家の先祖が”一大事業”をひらき、
何十年、何百年かかって、天皇家の先祖と一般庶民とで協力し合い(反抗した場合もあるが)、
この国を作っていったのです。一大事業というのは、神武東征です。
神武即位以降、奈良に都を置きました。
それ以降は、九州にはもっていってません(南北朝は除いて)。
卑弥呼の時代というのは、神武即位以降です。
よって、「水行二十日」、「水行十日陸行一月」 の記事があろうが、なかろうが、
関係ないと思います。
貴方は、魏志倭人伝しかみてないから、そのような疑問を持つのです。
日本書紀や、神社伝承、いわれ、いろんな知識を得て、ものごとを考えたほうが良いのではなかろうか。
(ものの考えが浅すぎる)
>>12 「古墳の向きについて」
>形に方向を求める意味がないからでは ありませんか。
君が本もろくに読んでないというのが一発で分かるレスだね。
まあ、私や唐松山氏は貴方より、ましなことを言ってるだろう〜ALL
今日は、時間ないので、明日と明後日のもっと早い時間に相手にしてやろう。
少し早いが・・・zzz
>>12 「古墳の向きについて」
>形に方向を求める意味がないからでは ありませんか。
君が本もろくに読んでないというのが一発で分かるレスだね。
まあ、私や唐松山氏は貴方より、ましなことを言ってるだろう〜ALL
今日は、時間ないので、明日と明後日のもっと早い時間に相手にしてやろう。
少し早いが・・・zzz
17 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/31(金) 21:23:54
>>12 「古墳の向きについて」
>形に方向を求める意味がないからでは ありませんか。
君が本もろくに読んでないというのが一発で分かるレスだね。
まあ、私や唐松山氏は貴方より、ましなことを言ってるだろう〜ALL
今日は、時間ないので、明日と明後日のもっと早い時間に相手にしてやろう。
少し早いが・・・zzz
>>15-17 >今日は、時間ないので、明日と明後日のもっと早い時間に相手にしてやろう。
少し早いが・・・zzz
いや、遠慮しておくよ
20 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 22:15:20
>>11 それは余が持っているのだ。但し若干姿が違うと思われるので、今秋やり直し
て確定だ。いま前者は手元にある。
以下意味不明だぞ? とにかく卑弥呼の国は九州だよ。
21 :
縦目仮面 :2009/07/31(金) 22:16:23
>>8 まいったなあ。俺にもアンカーついてるようなんで釣られて来ましたが、古墳の向き
というのは超難問です。960の俺のレスで、
>まあ、周濠のある古墳は河川等からの水の取り入れをしなくてはならず、そのことと古墳の
向きは関係あると思う。
「思う」と書いてるときは定説ではないことを言ってるときです。この例外も多々あります。
そもそも、前方後円墳というのは知ってのとおり、江戸後期の学者、蒲生君平が著書「山陵
志」で初めて使ったもので、墳墓の形を貴族が乗る宮車に見立て、引く側にあたる方丘部分
を前と考えてこの名を付けたといわれてます。
明治からの古墳の拝謁所も方丘部側にありますが、どちらが前なのか、あるいは横が正面
なのかはっきりとはしません。そのため、一部には前方後円の呼び名を用いない学者もいます。
22 :
縦目仮面 :2009/07/31(金) 22:38:13
23 :
縦目仮面 :2009/07/31(金) 22:48:44
>>8 >その結果として、ソノ被葬者の1番重要な場所に向けられてるといわれ、
答え的には、”ゆかりの地”へ向けられている といったほうが良いだろう。
被葬者の故郷だったり、宮殿のあった場所だったり、相違はあるらしい。
これについては、古墳の向きもそうですが、発掘された埋葬施設の棺の向きなども考慮対象
として「北枕」などとも論じられていますが、古墳の向きについての確たる答えとはなっていない
ようです。
>これから「考古学のプロ」になろうとしてる人。君、勉強不足なんじゃない?w
とんでもない。俺程度が・・・。中国語会話を生かして、商社などをねらってますが、どうなる
ことやら。ww
24 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/31(金) 23:06:03
>>13 >それともどこかに別のソースを用いたと書いてあるのかな?
書かれてはいないが、文章を分析すれば、複数の記事の寄せ集めと思われる。
都市牛利=田道間守が聞かれて答えた名前、
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
垂仁の名を「伊支馬=イクメ」と答えている。
イクメは、通称であり 叙勲にふさわしくない。
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁は、景行の正しい名前を申請した。
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
帯日子がこれ以降、日本の天皇の代名詞となる。
当然 都の位置も伝えた、複数の数字が混同した。
>>22 その地図で大和川が「あさか」付近で氾濫すると、川の水は陵の方向へと流れます。
周辺に流れ込んだ水はその後、堀へと流れます。そして、いち早く農地は回復されます。
円墳の頂に埋葬し、円墳を方形の台に載せれば、御体が濡れることもありません。
26 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 23:15:07
伊支馬≠イクメイリヒコ(垂仁) 古代史論のド素人がとびつく論。ww
27 :
縦目仮面 :2009/07/31(金) 23:34:49
>>25 川の流れとかかわりがあるものが多いだろうとは考えています。あと当時の田地とも。
前方後円墳の正面・・・については、前方部は、弥生憤丘墓の突出部が変化したもので、
もともと死者を祀る祭壇として発達したとする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする
説があります。
あるいは、民俗学からは、古代の信仰対象として山自体をご神体とし祀る円錐形の甘南備山
があり、この山の前に遥拝所ができ、古墳、神社へと発展したという説もあります。
あとは特殊な説として、前方後円の形は壺型の蓬莱山を模しているというものもあり、これな
どは象形文字などにも詳しいだろう河童さん向きの論題かもしれません。
いずれ、後円部を前から見ると前方部は見えにくくなることは確かでしょう。
「 大和川流域浸水実績図(奈良地域)中央部 5 」で検索し トップヒットの中央部(5)を選択して見て下さい。 応神、仲哀、允恭、清寧、雄略、日本武尊の陵は全て大和川氾濫地帯にあります(笑 なぜ?こんな水害地域に天皇の墓を築く? これらの古墳は、水害対策の為の建造物です(笑 地方の古墳には、また、それぞれ別の事情があって、建設されたのでしょう。
29 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 07:58:37
>>26 2倍年暦なんて言わないだけ、ド素人の方がまともかもな。
30 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 08:12:06
古墳なんてものは、それ自体をみれば無駄なものだ。それなのに何でそんなものを造ったのか? 近畿は九州勢力による東征の最前線だったということを考えてみるべきだな。当然、そこには それまでに征服した国々から徴用した兵士を終結させているんだ。戦いに備えて常に訓練して おかねばならない。その訓練の方法として、力仕事すなわち土木工事が一番だ。となれば、運河 を掘ったり道をつくったり、あれこれやったろう。古墳づくりだってその一つだ。最初は運河づ くりなんぞ出てきた土の山がを利用して大きな墓をつくったということかも知れん。とにかく、 古墳作りも兵士訓練の一部ということだろう。
32 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 09:24:32
>>29 そういうことはこれを ↓ 説明してからモノを言え。
【紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
これは八代当時、1ヶ月が現今の1日〜14日(2週間)しかなかった時期が
存在した文証である。つまり当時2倍暦を行使していたのだ。ちゃんこ根拠を
挙げている余と、挙げてないで名が似てるから = だと抜かすド素人と一緒に
するな。そうなら卑弥呼が卑弥弓呼だということになる。こういうのがあいつの
妄想話だ。オマエもそうか?
33 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 09:48:55
>>32 記紀は史実ではないんだよ。不自然な形になっているのは、読者に対し、全て作り話
ですよって教えてくれるつもりだったんだろ。
年齢だって非常識な長寿にしてあるじゃないか。それも同じだよ。
34 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 09:55:42
>>33 そんなことをすれば舎人親王らは獄門だ。彼らは島流し等になって
はいないぜ。
オマエの妄想だよ。 ww
オマエが津田妄想病に罹患し妄想残菌が脳内に潜んでいる菌の発露
その活動の言葉なのだ。ww
神武以降、紀は小説ではな〜い。
>>13 >>10 の1行目をよく見てほしいな。
あと、行程記事が複数の出典から構成されていると考えた理由は、
>>9 に明示してある。
>>14 俺は、邪馬台国畿内説派だと
>>9 で明言している。
ただし、記紀と大陸側文献との整合性から、古事記の年紀が真に近いのではないかと
考えているので、3世紀半ばの畿内大和は欠史八代の頃のヤマト王権だと思っている。
欠史八代の頃は、当時の記紀の記事や崇神紀以降の記事から考えて、畿内統一に
向けての勢力拡大期なのだろうと思う。同時期に九州にヤマト王権と無関係な卑弥呼
(女王国)を盟主とする小国家の連合があったとしても矛盾には感じないけどな。
36 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 10:06:16
>>33 オマエの言ってることは只今オマエが考え出した即興での歌い文句で
あって、なんら裏とりをしていない言い訳に過ぎない。
つくり話だとするなら、紀の冒頭に小説だと書けばいいことだ。
小説造りならなにもそんな小細工はする必要もない。
さらに紀の冒頭序文相当個所にそんな言い回しは見られない。これ
はオマエの言い分が序文とはかけ離れたオマエの脳内の作り事だと
いうことが正解だということを露骨に意味している。
天武天皇の言葉として各地の豪族の伝説を改変したよって書いてあるが
38 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 10:15:17
>>34 考えが狭いな。舎人親王らがかってにそんなことをするか?
大和朝廷の大方針のもとにやったことだ。
>>36 >つくり話だとするなら、紀の冒頭に小説だと書けばいいことだ。
身も蓋もない話だな。歴史書を書いたふりをして、分かる奴には分かるように
しているんだよ。馬鹿には分からん。
>>33 記紀は、当時残っていた文献、伝承を真面目に編纂したものだよ。
そうでないと、太国さんの言うとおり、編纂者らは処罰されるだろうね。
だから、「ウソ、オオゲサ、マギラワシイ」情報も混在しているだろうけど、
過去の日本の姿をそれなりに正しく伝えているだろうと考えられる。
ただし、書紀の比較的新しい年代の記事については、天武天皇の正体に
諸説あるように、時の政権(天武系政権)の都合のいいように情報操作がされて
いる可能性が高いので注意が必要だろう。
権力の中心にいる者を誰が罰するのか
41 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 11:01:33
>>38 そんな弁解ではウラトリをしていないな。
朝廷の小説大方針ならば、なぜ雄略武烈の大悪事を紀に書かねばなら
ないのか? ww 詰まるところは裏とりのしてないオマエの一時
しのぎの言い訳にすぎない。
42 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 11:04:36
>>41 三輪方の大王ではなく、敵対していた葛城方の大王だから。
43 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 11:08:20
>>40 朝廷の中枢が舎人親王らに公文書偽造を教唆した根拠、資料が
オマエは示していない。
示さず明確な根拠もないと〜これは今だとオマエが彼らから逆に
訴えられるのがオチだ。そういうことを言うからにはちゃんと偽造
の資料等を出せ。出せないなら、オマエの脳内即興のいい加減な
考えの吐露だということだ。
44 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 11:11:52
>>42 ならば単に二王だけでなくその周辺の代の天皇も悪事を書くべき
はずだろうが? つまりオマエの即興の言い訳にすぎない。
そんな思慮の浅い言い訳では古代史の考察を誤るだけだな。
45 :
doontakuka :2009/08/01(土) 11:25:30
>>10 >行程記事は伊都国までのAグループと奴国以降のBグループに分かれ、
括りは、A,B,C,Dの四括り。
Aは狗邪韓國、Bは對海【馬】國・一大國、Cは末廬國・伊都國・奴國・不彌國、
Dは投馬國・邪馬壹【臺】國です。
又、
『A狗邪韓國とB對海【馬】國』、『B一大國とC末廬國』の方位が不明。
『D投馬國の起点』は『Bの一大國』です。
方位を検討すると、(日本地図を見ながらどうぞ)
A狗邪韓國(波照間島とする)は東西は正常であるが、南北が180度反転している。
Bの對海【馬】國と一大國の方位は北に対して約30度のズレがある。
(南渡一海は北渡一海と読んでください)
Cの末廬國⇒伊都國⇒奴國⇒不彌國は北に対して約10度のズレがある。
(東南陸行は北東陸行と読み替える)
B一大國(口之島)を座標零としてtan 39度の直線上の北緯39度の交点は、
平泉である。
また、一大國(口之島)の緯度は会稽に同じ30度である、
この緯度と北緯39度の中央北緯34.5度に仲哀天皇陵がある。
>使節は、女王国の位置を伊都国の南千五百里(約100〜130km)であるとして
記述した。(短里)
女王国の北の境界迄の距離は、
自郡至女王國萬二千余里−狗邪韓國七千余里=五千余里
と、積算すべきです。 試しに
『狗邪韓國を波照間島』とし、『女王国の北の境界を平泉』で長里の一里=432mとしてその2点間の距離は幾らあるか計算してみてください。 五千余里に近似値なはずです。
>>45 師匠、教えて下さい。
岡山や神戸を含めて、国内最大級古墳が34度30分の位置に存在する意味を。
>>45 東冶県と沖縄が26度である意味はなんなのですか?
波照間は24度の井戸なのですか?
>>45 波照間から平泉は2313km、5354里(長里)です。
49 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/01(土) 12:31:05
>>48 そういう計算だけで、「里」を使用する事は出来ないんだよ。
>>7 >だから先日も言ったでしょ
>「言語は古代史とは関係ない」と言っておきながら
>何ら具体的には示されてはいませんよね?
・それについても、この間説明した(教えた)だろう、もう忘れたのかい?
君に質問〜「古代史」とはなんなんだい?古代史=言語学 ではナイというのは理解できるかな?
古代史というのは、「歴史の古い部分」に当り、「文献」と「考古学」をあわせたのが古代史。
君は古代史というのも分かってないというか、古代史=言語学ではないんだよ。
言語学というのも100%古代史とは関係ないと言ったら嘘になるが、
99%に近いぐらい関係ナイと言えるのではなかろうか。
言語学なんて覚えても、意味をなさないということ。
>>20 >それは余が持っているのだ。但し若干姿が違うと思われるので、今秋やり直し
>て確定だ。いま前者は手元にある。
アハハ 貴方が持ってるとは驚きだね。
当時は、ムーに載る卑弥呼の絵を指してたんだろうけど〜みんなに知れ渡ってしまったので、
急きょ、「余が持ってる」と言い出したのであろうw哀れなww
>以下意味不明だぞ? とにかく卑弥呼の国は九州だよ。
・意味不明なのは私ではなかろう。
とにかく吸収でナイト駄目な理由があるのかな?w
>>50 わかったわかった
わかったからいい子にしててね。
52 :
doontakuka :2009/08/01(土) 12:39:10
>>49 そういう計算だけで、「里」を使用する事は出来ないんだよ。
使用する事は出来る出来ないは別にして
里=432mで計算して距離も面積も魏志倭人伝の数値に一致していることは、
事実なのであるから、此れを無視することはできない。
53 :
doontakuka :2009/08/01(土) 13:11:58
>>46 岡山や神戸を含めて、国内最大級古墳が34度30分の位置に存在する意味を。
洛陽・長安も北緯34度30分にある。又白いピラミッドも北緯34度30分にある。
北緯34度30分は、
女王国の領域北緯30度と北緯39度の中央であると同時に、
參問倭地(北緯24度から北緯30度)+女王国(北緯30度から北緯39度)+男王国(北緯39度から北緯45度)の領域、北緯24度から北緯45度の中央でもある。
だから、
北緯34度30分に都市を前方後円墳を築造したのでしょう。
『中央』がキーワードでしょうね。
北緯32度の前方後円墳は北緯34度30分以前の『中央』と置いて良。
勿論、北緯39度までの女王国としてですが。
改めさん
前スレ788
>神武天皇から崇神天皇までの九名の天皇が158年以内というのはきつ過ぎませんか?
九代すべてが直系(父子)相続なら無理ですが、これには疑問がありそうです。
>>8 >被葬者の故郷だったり、宮殿のあった場所だったり、相違はあるらしい。
箸墓の場合は、モモソヒメの母・オホヤマトクニアレヒメの故郷・淡路島に向いているようです。
55 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 13:18:04
>>21 >>まあ、周濠のある古墳は河川等からの水の取り入れをしなくてはならず、そのことと古墳の
>>向きは関係あると思う。
>「思う」と書いてるときは定説ではないことを言ってるときです。この例外も多々あります。
・ようは、自信ナイてことねw
>そもそも、前方後円墳というのは知ってのとおり、江戸後期の学者、蒲生君平が著書「山陵
>志」で初めて使ったもので、墳墓の形を貴族が乗る宮車に見立て、引く側にあたる方丘部分
>を前と考えてこの名を付けたといわれてます。
・いえ、いえ、蒲生君平なんて知りません(きっぱり)
ていうか〜大学生特有の丸暗記てやつかな(テストとかの)w
呼び方に関しては、昔から、「前方後円の墳墓」とか「前方後方の墳墓」とか言ってたのではなかろうか。
蒲生君平とかいう学者さんが命名したから〜それに右に習えーって感じではないってことだよ。
そんなことを言ってるのは君だけと思う、まあ、学生さんなんでテスト用に覚えてるのか アッハハ
>明治からの古墳の拝謁所も方丘部側にありますが、どちらが前なのか、あるいは横が正面
>なのかはっきりとはしません。そのため、一部には前方後円の呼び名を用いない学者もいます。
・縦目仮面って、詳しいところもあれば、マヌケなところもあるというか・・・。
被葬者が埋葬されてるのは、前方部ではなく、ほとんどが、後円部というのは知ってるだろう。
埋葬されているほうの後円部が「前」のわけがナイ。
その学者さんっていったい誰なんだよww〜私から言わせれば、「無知」としか思えませんな。
他の緯度のところにも遺跡や首邑址があったりしないよね?
57 :
doontakuka :2009/08/01(土) 13:19:15
河童虫さん 言語学では 『投馬國の起点』は『一大國』。 との解釈は可能ですか?
58 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 13:32:57
>>54 >九代すべてが直系(父子)相続なら無理ですが、これには疑問がありそうです。
まあ、言ってることはわかるんですが、日本書紀に明記されてるのは
兄弟相続というかんじではなかった記憶あるんですが・・・(親子ということ)。
>箸墓の場合は、モモソヒメの母・オホヤマトクニアレヒメの故郷・淡路島に向いているようです。
母の故郷で淡路島ですか・・・ようは、四国の方向〜。
たしか、わたしの呼んだ本によると、モモソヒメは四国とも関係があり、
その本によると、四国について、たんたんと語ってあった記憶があります。
愛知県民さんは〜モモソヒ=四国との関係について調べたりしたことありますか?
59 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 13:34:49
うは〜誤字がああ みなさん〜多少は多めにみて下さいね。
60 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 13:35:32
多め→大目
ハシ墓とハツクニシラススメラミコト 崇神天皇は10年に箸墓を築造し、12年に御肇國天皇と称され、永く記憶された。 もし卑彌呼=モモソヒメであるなら、卑彌呼の冢を築いたあと、国を治められずに退位したダメダメ男王が 崇神ということになります。?
>>58 モモソヒメと四国との関係は太国さんに教わった記憶があります。
モモソヒメの弟・キビツヒコは桃太郎のモデルと言われ、姉弟で中国四国地方に進出したようです。
逆に言えば、九州との関連が無いわけで、モモソヒメ=卑彌呼は考えにくい。
63 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 13:54:09
>>22 >その場、その場の地形に基づいて作られているという考えもありますが、纏向などを歩いても
>そうは思えません。むしろ、なぜ整然と向きをそろえないのか、現代人からは不思議な感じが
>します。例えばこのあたりでは、祟神陵、景行陵、箸墓古墳などは、日の出観測線上に古墳
>中軸線を置いていると推定するむきもありますが、その軸は ずれていて、他の古墳はバラバラ
>です。
・ああ〜そうですね。
前方後円墳などの大きな墳墓を作るときに、自然の「丘」とか、
その墳墓が作られる、もともとの地形も考えないといけませんよね。
前方後円墳のつくりに関しては、
議論の対象であり、
「自然の台地」と「被葬者の重要な場所(ゆかりの地)」が関係する
てことで如何でしょうか。
64 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 14:01:27
>>50 信用しないのは分からんわけでもないが、それはウソではない。
オマエは九州説を放棄したんか?
65 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 14:10:15
>>61 >ハシ墓とハツクニシラススメラミコト
>崇神天皇は10年に箸墓を築造し、12年に御肇國天皇と称され、永く記憶された。
>もし卑彌呼=モモソヒメであるなら、卑彌呼の冢を築いたあと、国を治められずに退位したダメダメ男王が
>崇神ということになります。?
・わたしは、崇神天皇がダメな人物というみかたはしていませんが、
魏志倭人伝のみをみると、そう解釈されても仕方ないのかもしれません。
>>62 >モモソヒメと四国との関係は太国さんに教わった記憶があります。
>モモソヒメの弟・キビツヒコは桃太郎のモデルと言われ、姉弟で中国四国地方に進出したようです。
>逆に言えば、九州との関連が無いわけで、モモソヒメ=卑彌呼は考えにくい。
この日本列島は九州だけではありません。
九州というのは、天皇家の昔いた場所というか、神武東征する前は深い関りがあったであろう。
キビツヒコに関しては、中国地方、四国地方にその伝承があり、
それだけで、「モモソヒメ=卑彌呼は考えにくい」というのはどうかと思う。
その時代、中国地方、四国地方にも目をやった という解釈でいいと思う。
66 :
doontakuka :2009/08/01(土) 14:23:09
>>63 議論の対象であり、
「自然の台地」と「被葬者の重要な場所(ゆかりの地)」が関係する
てことで如何でしょうか。
http://e-asia.board.coocan.jp/?m=image&image=84_12.jpg 上の画像は、箸墓古墳の方位・『天照大神と前方後円墳の謎/大和岩雄(六興出版)1983 』より
大和岩雄氏の「箸墓古墳の方位」としての角度の30度と45度が緯度をイメージさせての「箸墓古墳の方位」であったなら。
北緯30度と北緯45度の中央は北緯37度30分。
北緯37度30分は『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所の会津の若松であり、
また、長岡京の名を引きずる長岡市でもある。
孝元天皇の一族の名において箸墓前方後円墳は建造された。
大彦命の後裔は
阿倍朝臣を始め、那須国造・筑紫国造・膳臣・佐々貴山君・伊賀臣・高志国造・難波吉士など諸氏族の祖と伝えられる。
『筑紫国造』が大彦命の後裔だそうだ。
67 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 14:25:54
畿内説だとすれば方角すら間違ってることになるわけで そうすると伝言ゲームみたいなもので かなり最初の情報からかけ離れてるはず 卑弥呼も実際は女王じゃなかったのかも
68 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 14:31:34
>>32 太国さん
>倍暦について【紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
貴方は日本書紀しかみていないから、そうゆうトンチンカンなことを言い出すんだよ。
「晋書」
不知正歳四節 但計秋收之時以爲年紀
秋に年を数えると明記されてるでしょ?
ここでいう、秋とは、「冬至」を指しています。
太陽が照らす時間が長い、短いとかの、天文学というのはご存知でしょうか?
日本の昔の人々は、主食のコメを得るため、田植え、稲作に力を注ぎ、また、大事にしたんです。
稲作というのは、年に2回収穫され、その時期は、春至、冬至が関係していて、
人々は、この冬至の時期に年を数えた。
太国さんは〜日本書紀しかみておらず、狭い範囲だけでものを考えてる。
もっと、ほかの資料や、云われ、ほかの学問など、幅広い知識を身に着けては如何か。
69 :
doontakuka :2009/08/01(土) 14:32:49
>>畿内説だとすれば方角すら間違ってることになるわけで 『方位の間違い』とは何処でしょうか?
70 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 14:46:29
>>64 >信用しないのは分からんわけでもないが、それはウソではない。
・なにが??
>オマエは九州説を放棄したんか?
<魏志倭人伝>
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
この女王の都とする場所を考えると、九州とは思えません。
九州というのは、卑弥呼の活躍したずっと以前、すなわち、
日本書紀などでみれる、神代の時代 は九州での出来事であろうが
それからずっと時代が下った、卑弥呼の時代は奈良が都であろう。
大体、卑弥呼の墓はどうするんです?
<魏志倭人伝>
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の墓は巨大です。
そんな巨大な墓が、九州のどこにあるんでしょうか?
まだ、発見されてない?卑弥呼の墓は古墳ですよ?カメじゃないってw
71 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 14:49:06
>>66 そのレスから貴方が、
大和岩雄氏の本を読んだっていうのは分かるんですが、
貴方の主張はなんでしょう。
>>67 女王じゃなく、なんでしょう。
アリさん とか言わないだろうねww
72 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 14:58:05
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 15:10:10
>>68 先に他国等の史書群を見て記紀と照合した奴はまず失敗だな。
どうやら半島の古文献も干支の倍数年とか動いている。ストレートに
向こうとこちらの古文献を照合してわき目をふらずに編年を試み
た奴は、余の知る限り全員沈没だ。唐松山もどうやらそのようだ?
余は絶対視まではしてないが、紀の記述を極めて信用している。
勿論間違いもあろうが、紀は多数の原書群の長所寄せ集めであって、
それらから最も合理的で間違いの少ない個所を引いてきての考えに
考えぬいたことからの舎人親王らの編集したもので、そんじょ
そこらの単一的書物ではない。かように背後に多大の原書群の後押し
のある紀は創作だとか架空とかの単純思いこみをすべき書では
ないことはこういう堅固なバックがあるからだ。だから最後には余
が勝利するぜ。他の古文献は後の後で最後的に照合すべきであり、
参考に止めたほうが安全なのだ。そうしないとまぁ失敗だね。
あっちとこちらとには年代の断層が倍暦の関係で存在するからだ。
オマエも紀を軽視してるんではないのか? それにあの表を出して
文句をこちらに言って来てるが、その晋書の記事は九州王権の関係の
記事でないのか? 畿内の暦法に直接関わりもあるまいがねぇ。
>>68 横ですが
魏志倭人伝の注にもありますが、魏略では「其俗不知正歳四節。但計春耕秋收、爲年紀。」
とあり、議論の余地があります。
>>70 >卑弥呼の墓は古墳ですよ?
卑弥呼の墓は高さがほとんど無いから、「徑」を歩測したのでしょう。
古墳ならば「徑」の歩測は不可能で、「周」とか「方」になるのでは?
この辺り、河童さんが詳しそうですね。
ローガンさんの「未完成」説は初めに結論ありきの想像説だと思います。
古墳でなければ、破壊されたか未発見の確率も高まります。
古墳であっても九州の遺跡保存は悲惨な状況のようですが。
75 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 15:14:53
>>70 ハハァ〜? マクモニーグルの透視の書を読んで、それに惑わされて
の論説変更か〜?ww あれはムー誌の記者の畿内説への恣意的誘導
からマクモニーグル氏が先入観的透視をさせられたため、古代史の
他の女性を彼が見てしまったということだ。君はあれにより考えまで
動かされてしまったわけか?ww
しっかりしろよ。w
76 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 15:16:34
>九州のどこ なにをほざいているのかねぇ? 数日前の九州大雨を忘れたのか? 当時の建造物なんぞ木造ならば 残っているのが奇跡だろうが?ww
77 :
doontakuka :2009/08/01(土) 15:16:46
>>71 貴方の主張はなんでしょう。
箸墓は北緯30度30分にある。
北緯30度と北緯39度つまり女王国の中央にあたる。
が、
大和岩雄氏の箸墓の2方位の角度からの中央は北緯37度30分。
此れは列島の統一を悲願とした大彦命の覚悟の大きさが
箸墓の2方位の角度にはめ込んである。
78 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 15:20:55
>>32 太国さん
数字で書かれた日本書紀は、存在しない。
日々の干支を 朔=一日として数える太陰暦しか存在しない。
日付の出所を提示して下さい。
79 :
doontakuka :2009/08/01(土) 15:23:35
>>77 ×箸墓は北緯30度30分にある。
◎箸墓は北緯34度30分にある。
80 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 15:36:52
>>73 なにをゴチャゴチャ言ってるのやら・・・w
太国さんの考えは〜
日本書紀を信用し、それをベースに物事を考えてるみたいですが、
その逆(日本書紀を信じないで、ほかの資料から日本書紀をみる)は
試されたのでしょうか?
その、日本書紀を信用するのも良いんですが、一方的な考えだけでは、
答えは永遠に見つからないだろう。
太国さんには、総合的なモノの見方が出来るようになってほしい。
一方通行というか、そんな考えしか出来ない人に、誰が信用するのでしょう。
>オマエも紀を軽視してるんではないのか?
・軽視も重視もしません、他の文献に関しても同じような考えでいる。
>晋書の記事は九州王権の関係の
>記事でないのか? 畿内の暦法に直接関わりもあるまいがねぇ。
・九州王朝?以前わたしも、これについて考えてみましたが、
そんな王朝は、九州にはナイということが分かりました。
☆「カメカンボ」というのはご存知でしょうか?
☆そして、大和朝廷の「宝モノ」とは何でしょうか?
☆須玖岡本墳墓について調べたことはありますか?
これらを調べたことのある人は、九州王朝なんていわないでしょう。
九州王朝というのがあ、妄想 だというのが分かるだろう。
>>74 県民さん。
「大作冢徑百餘歩」は卑弥呼の墓の規模ではありません。
卑弥呼の墓はこの「大作冢徑百餘歩」の墓所内にあり、
墓所の規模が「大作冢徑百餘歩」
この記載は正に
「(王幾)徑八尺圓周二丈五尺而強也」と同じ記載の仕方です。
82 :
ローガン :2009/08/01(土) 15:52:19
>>55 > 呼び方に関しては、昔から、「前方後円の墳墓」とか「前方後方の墳墓」とか言ってたのではなかろうか。
改めさん。釈紀所引筑後国風土記に「有筑紫君磐井之墓墳高六丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各四十丈」とあります。
磐井の墓とは八女の岩戸山でしょう。全長135m 後円部径60m
風土記記載の規模は周六十丈ですから、周約185m。 「 磐井の墓墳」とは岩戸山古墳の後円部分を指しています。
昔から「前方後円の墳墓」とは言わなかったと思いますよ。
83 :
doontakuka :2009/08/01(土) 15:56:35
「有筑紫君磐井之墓墳高六丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各四十丈」 の 方位もズレていたと記憶しているが。
84 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 16:00:42
>>74 「晋書」
不知正歳四節 但計秋收之時以爲年紀
「魏略」
其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀
これについて愛知県民さんはどのように考えてるのでしょうか。
>卑弥呼の墓は高さがほとんど無いから、「徑」を歩測したのでしょう。
>古墳ならば「徑」の歩測は不可能で、「周」とか「方」になるのでは?
徑百「餘」歩
卑弥呼の墓は、寸分の狂いもなく正確に計測されたわけではありません。
大雑把というか、大まかに測定されて、大体の直径が記されているといえます。
正確な寸法ならば、古墳の直径は計れないでしょうが、ここでは大まかな寸法、
ようは、円墳部の近隣を歩いて測定したという見方も出来るのではないでしょうか。
>この辺り、河童さんが詳しそうですね。
・彼は何もしりません・・・。
ただ、彼の師匠が「円周と直径との関係」を知っているぽいのですが、
それは、八咫鏡に関することで、彼の師匠さんが勘違いしてるだけというか。
>ローガンさんの「未完成」説は初めに結論ありきの想像説だと思います。
・ああ、後から付け加えたというやつですか、ヤフーのババさんも言ってたような
>古墳でなければ、破壊されたか未発見の確率も高まります。
>古墳であっても九州の遺跡保存は悲惨な状況のようですが。
・破壊ってwブルトーザーでですか?
この列島がいたるところで工事(古墳の破壊、トンネルを掘ったり、)したのは
明治、大正、昭和に入ってからですよ。
そして、卑弥呼の墓は巨大ということを考えれば、そのような考えは出来ないかと思う。
>>81 「作大冢」ではなく「大作冢」ですね。
百いくつかの小さな「冢」が「徑百餘歩」の中に点在している、というイメージ。
卑彌呼の「冢」は恐らく中央にあり、周囲の「徇葬者奴婢百餘人」の「冢」よりは目立っていたか?
書いてないので分かりませんが。
86 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 16:16:07
>>74 愛知県民さん
>九州の遺跡保存
九州の遺跡というのは、墳墓のことでしょうか?
>>75 太国さん
>ハハァ〜? マクモニーグルの透視の書を読んで、それに惑わされて
>の論説変更か〜?ww あれはムー誌の記者の畿内説への恣意的誘導
>からマクモニーグル氏が先入観的透視をさせられたため、古代史の
>他の女性を彼が見てしまったということだ。君はあれにより考えまで
>動かされてしまったわけか?ww しっかりしろよ。w
のわけないだろうw しっかりするのは貴方の方だよw
>>76 >なにをほざいているのかねぇ?
>数日前の九州大雨を忘れたのか? 当時の建造物なんぞ木造ならば
>残っているのが奇跡だろうが?ww
アッハハ 無知きわまりない発言だね〜ww
以前、わたしが古代史を始めた頃、太国さんは詳しい〜思ってたが、
今の貴方のレスをみるかぎり、そのわたしの考えを撤回せざるをえないwww
87 :
ローガン :2009/08/01(土) 16:28:49
>>84 ヤフーのババさんか誰か知りませんけど、後からくっ付けた訳ないでしょ。
箸墓でしたら、布留0完結ですよ。
88 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 16:36:13
>>82 そうですか、了解。
55のわたしのレスは、「呼び方→前方後円の墳墓」が言いたかったのではなく、
それ以下の「学者さんが命名したから〜それに右に習えーって感じではない」が言いたく
その延長で「前方後円の墳墓」というのを出しただけですから。
>>81 >>85 心配しなくても、そんなこと魏志倭人伝のどこにも書いてませんから。
>>77 それが貴方の主張なのね。了解。
89 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 16:39:56
>>87 おや、それは失礼しました〜、
ドンコイはあまり見てないから、ローガンさんの考えが分からないというか
勘違いしていたようです。
90 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 16:40:01
>>78 腹の底がホツマ教なのに、学術的質問でそれを隠そうとはふざけ
た野郎だな。ww
ホツマ教には古神道で対峙すべきだな。先月号だったか、原田氏が
ホツマ狂信者を嘆いていたが、君もその同調者だったわけだ。w
秘は三輪(半径r=3の円)にあるわけだ。
だから半径3の円をで球としたときの球の体積Vは
V=113.097335
だよ。整数部分に崇神即位の日付があるだろうが。だから日付は
通説で使っている日付でよい。なにも学術的にホツマ信者に能書きを
垂れてもらうまでもない。あとは三分でとって行く。
097は崇神即位年だよ。B.C.97年のことだ。整数部第一位の3と小数点
下第一位の0で 3.0 はミワ(三輪)を示唆している。
1/13 B.C.97年 崇神天皇即位
だ。これは見かけであり、即位#実年代は097のあとの335により
前者と後者の差によって求められる。ウラゴトの毛先ほどだが始点に
なる数字なのだ。ww
335−097=335−97=238年=崇神即位#実年代
#から例のとおり1を引くと真の実年代が出る。
238−1=237年=真の崇神天皇即位年
よく拝んでろ!
91 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 16:45:21
倍暦計算により 237年=崇神即位元年=景初元年 だ。ピタリと前等式と一致する。
>>84 >「晋書」
>不知正歳四節 但計秋收之時以爲年紀
>「魏略」
>其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀
>これについて愛知県民さんはどのように考えてるのでしょうか。
「晋書」が「春耕」を書かなかったのは何か意図があるのか、字数節約の為か、考え中です。
太国さんはこれを倍暦の証拠とされていますが、単に春に耕し秋に収穫して一年と解釈できなくはない。
>>86 >九州の遺跡というのは、墳墓のことでしょうか?
墳墓とは限りませんが、今はお墓の話ですので。
>>85 のように「卑弥呼の墓は巨大」は疑問。
>>88 >
>>81 >>85 >心配しなくても、そんなこと魏志倭人伝のどこにも書いてませんから。
そうでしょうか、「冢」自体にはどんなに低くても高さがあるはずなのに、それが書いてないのですよ。
河童さんのように考えるか、ローガンさんのように土盛り前の記事と見るか。
ただ、明らかに「徇葬」後の記事と思われますが。それとも「徇葬予定者」?
93 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 16:51:19
愛知県民さん それがしはその部分を参考としてはいますが、倍暦の証拠とはして いません。ただ倍暦の可能性を残す文ですね。根拠にはなりえます。 根拠として言い出したのは英国人ウイリアム・プランセンでしょう。
94 :
doontakuka :2009/08/01(土) 17:03:03
>>238 −1=237年=真の崇神天皇即位年
卑弥呼もビックリ
粟食って朝献ですか?
95 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/01(土) 17:04:41
>>85 県民さん
箸墓のような巨大な単一墳墓が、記載対象ならば
「大作冢」などとは書かずに、「作大冢」または「作墳」とでも書いたでしょう。
私にも卑弥呼の墓が中央かどうかなんてわかりませんが
卑弥呼の墓は、奴婢百餘人と供に霊園の中に埋葬された。
霊園の規模は最短の部分(徑)で百餘歩の長さ
個別の冢ではなく、霊園の規模では高さは必要ありませんね。
いつか誰かが、あの記事を見て
「卑弥呼の墓じゃない」
と、
叫ぶ人を待っていたんですが
結局誰も現れませんでした。
96 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 17:05:34
>>94 それはホツマ教信者限定での論戦のお話です。
>>93 倍暦については、日本書紀の崇峻以前の日付の9割、古事記の分注日付の10割が
月の前半というのが、どうにも不自然です。
すると唐松山さんが「日本書紀は数字じゃない」と反論して・・・いつもの展開か?
98 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 17:09:15
>>91 拝ませて戴きました。
結論として、神は、太国の創作と申して居りました。
99 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 17:09:47
>>97 これは前にも書きこんでいて再確認ですが、月前半を陽 月後半を陰として
当時の朝廷は陽のときに活動をうんとやって陰時は静かにしていた生活
を送っていたことはありえるんではないでしょうか?
確か、十五夜までを「黒月」、それと対比させるかたちで「白月」 いつの日か、黒月白月の記載が省略され 暦として使用されれば 一月は15日の範囲で収まります。 たまには倭人伝を忘れてのカキコです。 ツッコミはご容赦あれ
>>99 そうだとしても、古事記の日付はすべて天皇の没日ですから、13人すべてが前半はほとんど有り得ないでしょう。
日付を偽ってなければ?
102 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 17:24:46
>>101 天皇の没日数ですか? ですから〜ハッキリ1ヶ月が14日(あるいは
15日)の現今の月前半分しかなかった時代と1ヶ月まるまる存在して
前半を陽、後半を陰として、陽のときのみうんと活動していた時と
双方あったと考えています。
>>102 日本書紀の崇峻以前でも、たとえば神武紀・崇神紀は日付の分布が正常であることが知られています。
倍暦論者の中には、これを根拠に武紀・崇神紀の日付は後から作られたという人もいますが、
太国さんは各時代によって多くのパターンの暦があったとしている。
そこまで自在に変えられたかどうか・・・
104 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 17:36:15
>>97 >日本書紀の崇峻以前の日付の9割、古事記の分注日付の10割が
月の前半というのが、どうにも不自然です。
日本書紀の数字は、太陰暦で読め偏ってはいるが、信憑性はある
対する、太国さんの数字は、書紀の日々の干支を否定した後で、数字をはじき出している
日本書紀の偏った数字≠太国の数字。別物です。
別の角度から見ると、
書紀の偏った数字は、日々の干支で確認できる。
対する太国さんの数字は、一と月は、10日乃至14日。
一度この様な、言い逃れを認めると、15日以降の記事が有っても、「2,3倍年」を使う。
もう日々の数字を数える事は、出来ない。しかし 年は数えられるらしい?
是を以て、太国倍年とは、伸びの違うゴム紐を繋いで、つなぎ目を代替わりとした、
ゴム紐の上でしか表示できない「2次元ゴム紐暦」と云う。
日本書紀=太陰暦ですから、
「何らかの倍年」=太陰暦に変換できない。
歴史とは、4次元の世界を過去に遡った物。
数字を捨てた「太国倍年」では、2次元の世界から脱皮出来ない。
だいたい 一年は四節であり、十二月であり、365日だなんて 現代感覚で会話していたら、何時まで経っても解決出来ない。 当時の列島では 大陸王朝とは違った感覚だったから 晋書や魏略の記事になったわけで
>>92 >其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀
>単に春に耕し秋に収穫して一年と解釈できなくはない
いや、正解でしょう。
>>九州の遺跡というのは、墳墓のことでしょうか?
>墳墓とは限りませんが、今はお墓の話ですので。
>
>>85 のように「卑弥呼の墓は巨大」は疑問。
>>85 >百いくつかの小さな「冢」が「徑百餘歩」の中に点在している、というイメージ。
その前に、そんな王墓、ありませんってw 漫画の世界?!
しかも、「冢」←巨大と明記されてます。しかも、「大いに」、「徑百餘歩」とあり、
古墳ではなく、平らな墓と考えるほうが、私には理解できない。
>>心配しなくても、そんなこと魏志倭人伝のどこにも書いてませんから。
>そうでしょうか、「冢」自体にはどんなに低くても高さがあるはずなのに、それが書いてないのですよ。
>河童さんのように考えるか、ローガンさんのように土盛り前の記事と見るか。
>ただ、明らかに「徇葬」後の記事と思われますが。それとも「徇葬予定者」?
カッパさんは霊園、ローガンさんは土盛り前ですか。
ローガンさんはモガリのことを言ってるのかな?!
「始死停喪十餘日」、王でも何十年もあったとは考えられない。
よって、どっちも有り得ないと思いますw
>>105 晋書や魏略の記事が正しいとすると、古代の列島は農業暦しかなかったことになり、
記紀の日付など一切信用できないことになりますが。
古事記本文はすべて無日付だが、天皇の年齢などはしっかり記載されている。
古事記本文だけを見れば大陸の記事は正しいのだが・・・
>>106 >その前に、そんな王墓、ありませんってw 漫画の世界?!
ありえない王墓を作ってしまうところが卑彌呼なのです。
>古墳ではなく、平らな墓と考えるほうが、私には理解できない。
古墳なら高さの記載が無いのが理解できません。
また、円墳なら何故「周」でなく「徑」なのか理解できません。
109 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 18:01:21
おや、一人だけ墓の話をしていました・・・。
それにしても〜
>>102 のレスを読むかぎり、
自らの倍暦説に自信が持てなくなってきてるのが伺える。
私が〜あれ程、「倍暦はナイ」と言ったのを今頃になって気付いてるようだww
110 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 18:07:40
>>18 >ありえない王墓を作ってしまうところが卑彌呼なのです。
それは反論ですか?
言っておきますが、この日本列島のどこを探しても
王墓と一般人が一緒になった霊園なんてありませんから(対等ではない)。
>古墳なら高さの記載が無いのが理解できません。
わたしは、何故、「高さの記載が無い」のがいけないのかが理解できない。
>また、円墳なら何故「周」でなく「徑」なのか理解できません。
これも同じく〜大まかな寸法なのに「徑」だったらダメなのか。
111 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/01(土) 18:08:08
>>107 県民さん
「年」は列島にとってなんでしょうか?
それが晋書や魏略に記載された事です。
当時の列島で「年」は四節でもなければ十二月でもない。
「年」は農耕の“みのり”であって、秋にみのりが一回訪れるから
一年なんです。
そして「月」は人の肉体周期であり、生活リズム
人のリズムが十二回訪れても一年にはなりません。
一年は、みのりを迎えた回数ですから
そして「日」は正に天体周期。
だから「月」を“にくづき”と、人体表現するでしょう。
112 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 18:18:47
>「年」は農耕の“みのり”であって、秋にみのりが一回訪れるから >一年なんです。 この部分のみ、 珍しく〜わたしと河童氏の意見が一致している?!
>>110 >それは反論ですか?
反論ではないですね、失礼しました。
王墓について固定観念をもつべきではありません。
9世紀の嵯峨天皇も自分の墓について「盛り土はせず、樹木は植えず、地面は平らなままで、草も生えるにまかせよ」
と遺言しています。
>わたしは、何故、「高さの記載が無い」のがいけないのかが理解できない。
中国の墓の記事では、高さが最も重視されています。
>大まかな寸法なのに「徑」だったらダメなのか。
高さが無いと考えれば理解できます。
高さがあれば、測りやすい「周」を測るのが自然です。
賦斗邇 (孝霊)には四人の妻が居た。 @阿礼比売 A蝿伊呂杼(阿礼比売の妹) B千々速真若比売 C細比売 その子達は、それぞれ次の八人である。 @-D夜麻登々母々曾毘売 @-E日子刺肩別 @-F大吉備津日子 @-G倭飛羽矢若屋比売 A-H日子寤間 A-I若日子建吉備津日子 B-J千々速比売 C-K大倭根子日子国玖琉 D〜Gは兄弟姉妹で、H〜Iはその従兄弟である。 DはKの腹違いの姉弟でKは賦斗邇の次代の男王である。 DはFに吾田媛を殺害させている、 DはKの子である大彦命に、吾田媛の夫、武埴安彦命を殺害させ実権を握った女王である。
115 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 18:33:21
日本書紀の太陰暦を太陰暦で読めるよう圧縮したのが、私の「増し暦」です。 この数字に 新羅本記、倭人伝、273年日食の位置が合致したのが、私の主張する数字です。 書き換えは、歴史の長さのみ、偶然でこれ程合致するのか?
116 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 18:35:43
>>113 >反論ではないですね、失礼しました。
>王墓について固定観念をもつべきではありません。
>9世紀の嵯峨天皇も自分の墓について「盛り土はせず、樹木は植えず、地面は平らなままで、草も生えるにまかせよ」
>と遺言しています。
今は古代史の話です。
>中国の墓の記事では、高さが最も重視されています。
この列島では、高さではなく大きさが重要視されました。
>高さが無いと考えれば理解できます。
>高さがあれば、測りやすい「周」を測るのが自然です。
仮に墓の周りを歩き「周」を測ったとしましょう(寸法の定義で割り出せる)。
しかし、倭人伝にあるのはあくまでも「径」なんです。
直径が「百餘歩」には変わりありません。
>>117 壱與は丹波竹野媛(丹波大県主由碁理の女)
卑弥呼死後の男王は国玖琉 と 大毘々
>>116 >今は古代史の話です。
9世紀も古代ですが?
推古女帝も「其爲朕興陵以勿厚葬」と言い残しています。
何より重要なのは、卑彌呼の宗主国・魏は徹底した薄葬であったことです。
考古学では、薄葬の痕跡は見つかりません。
>この列島では、高さではなく大きさが重要視されました。
筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。
(釈日本紀)
>>118 それは無理だろ。すでに崇神の世代のこととして夜麻登々母々曾毘売が
描かれているのにすでに死んだ者が生き返るのかよ
>>119 >9世紀も古代ですが?
>推古女帝も「其爲朕興陵以勿厚葬」と言い残しています。
>何より重要なのは、卑彌呼の宗主国・魏は徹底した薄葬であったことです。
>考古学では、薄葬の痕跡は見つかりません。
<魏志倭人伝>
卑彌呼以死 大作冢徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
<太平御覧>
女王死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者百餘人
卑弥呼は薄葬ではありません。
>筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。
磐井の時代より古い、大和の地に並ぶ、巨大な古墳を観てほしい。
高さではなく大きさデス。
122 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 19:03:52
さて、少し疲れたのでいったん落ちましょうかね。 では、少し早いですが続きは後日てことで・・・・。
>>120 崇神没258年とするとその頃壱與は二十歳くらいですよ。
母々曾毘売はそのずっと前の人となります。
崇神没318年とすると、壱與も卑弥呼もずっとずっと前の人となります。
だって孝元なら卑弥呼と同世代だし、開化なら子の世代、崇神なら孫の世代だろ すでに卑弥呼が年食ってるのに開化の妻、竹野比賣が20とかくらいとか 崇神没が258とか系図どうなってんだよ
>>121 >卑弥呼は薄葬ではありません。
徇葬者は多いですが、高く土を盛らなかったという意味で「薄葬」デス。
>磐井の時代より古い、大和の地に並ぶ、巨大な古墳を観てほしい。
貴重な文化遺産ですが、卑彌呼の墓ではありません。
>>124 卑弥呼の歳と壱與の歳に関連があるのですか?時代の差があるだけでは?
崇神没を318年と考えていますが、258年であった場合と合わせて考えているのです。
もちろん関連があるだろう。長大とあって、十三とあるんだから 系図を尊重しているようだからおかしいのではないかといっている
128 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 19:27:52
太国さんの主張
>>73 >余は絶対視まではしてないが、紀の記述を極めて信用している。
@ 日々の干支も季節も切り捨て、書き換えたと主張。
>それにあの表を出して 文句をこちらに言って来てるが、
A 「あの表」とは、太国編年の「初めにありき」の俵。
>>90 >V=113.097335
>097は崇神即位年だよ。B.C.97年のことだ。
B 書紀編纂時 西暦が使われたことを意味する。
>>96 >それはホツマ教信者限定での論戦のお話です。
C 二枚舌。
C以外は、その他の方法で証明が必要デス。
卑弥呼は崇神の時期の事ではないとするのか
>>127 (笑 卑弥呼没248とし、数年の乱の後、壱與が13才で立ったのなら
258年頃壱與は二十歳位に成長している事がわかるだけです。
二人の歳の差はわからないでしょ? (笑
>>130 だから世代で考えればおかしいだろ
一方で系図はみるようだが、その一方記紀の内容は無視もしているし
崇神没258年と仮定するとその時壱與は二十歳位である。 崇神没318年と仮定するとその時壱與は八十歳位である。
133 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 19:52:51
>>109 一つもきづいちゃぁいないよ。
倍暦の存在は先だっての統計表の文証がしっかり示している。
崇神即位237年は君が唐松山と文句を垂れても不動だよ。否定したって
こちらの勝ちだぜ。
崇神即位が237年ということは、景初3年=239年 だから、景初2年
の238年に摸の同床共殿策にて崇神が鏡を祀ったわけだから、3年鏡
の多数出土するのは朝廷の畿内各住民への右へならえ式による鏡
で、だから畿内からうんと出るんだよ。
オマエが畿内説にどうして鞍替えしたのか、マクモニーグル氏透視の
ムー誌の読みすぎなんだろうがww、君はムーのファンになって
そういう話をマにうけたということだな?ww
考えてみろ。畿内に卑弥呼がいたんなら、天皇のほうが金印をもらう
はずだ。オマエも相当盲象が激しいな。ww 畿内に卑弥呼の国
なんぞありゃぁしないよ。
134 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 19:56:13
>>115 合致したんでなく、オマエの脳がホツマ狂から合致させるように
いろいろ恣意的に強行して仕組んだものだろうが。ww
そんなことは信用しやしないぜ。
135 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 20:03:44
だいたい蝉にご託宣を受けても、日食が数日間も継続するはずが ない。唐松山の松バットは唐ブリだな。w
136 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 20:09:43
どうせ改めは来年になるとまた論を鞍替えするんだろうから、 いずれにしろこうだと言って来ても、そんな論は鞍替え確実だから こちらは信じやしないぜ。ww 要するに、鞍替えは奴が自分の説が今はデタラメですと遠回しに 広言してるも同然であり、自らイカサマを肯定しているよう なもの。ww
わかる事は、崇神が没した時、壱與は既に二十歳位だという事。とっくに嫁に行っています。 では誰の嫁になったのか?13歳で開化の嫁になったのです。 開化が男王で壱與が女王です。
138 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/01(土) 20:18:37
>>137 倍暦計算から
崇神没年=259年
だ。これは古事記の崇神没年干支と1年ちがいであり、非常に古事記
のここんところは正確であった。
そのことは菅政友と橋本増吉の説が年代に関しては合っていたという
ことを意味する。これだけでも当時倍暦法をやっていたことが
うかがえるものだ。
開化は、丹波大県主由碁理の娘竹野媛(壱與)と結婚することにより 丹波大県主由碁理と同盟を結んだのです。
竹野媛は宇那比姫命の宗女か!!!母々曾毘売ではないのか?宇那比姫命なのか?
141 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 21:31:03
てst
壱與が13歳でいきなり女王になれたのは、 壱與の父ちゃんが開化と並ぶほどの権力者だったからです。 父ちゃんが権力者で、王の嫁になったのは、竹野媛(壱與)だけです。
143 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 23:13:53
豊受大神
144 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 23:45:48
>>133 >倍暦の存在は先だっての統計表の文証がしっかり示している。
日々の干支を否定した「統計表」は、まやかし物。
太国さんの創作です。
外国の諸文献と全く整合性のとれない数字では、4次元の世界を表現できない。
倍暦計算から 崇神没年=259年
数字を提示しても これより以前10年間は、何もない時間が経過しているだけ。
>日食が数日間も継続するはずがない。
当然 日食は、1日の中。
数日の暗黒は無い。 あったら書き出して貰いたい。
自分の「統計表」の出所も提示出来ない人だから、あまり期待はしていないけど。
145 :
日本@名無史さん :2009/08/01(土) 23:54:33
>>41 考え方が逆だろう。大和朝廷が作った日本書紀に何で天皇の悪逆非道ぶりが
書かれているんだ? 史実だから? 天皇のまわりには常に側用人がついて
いるんだよ。天皇に無茶苦茶なことをさせるものか。それに、万一、天皇が
そんなことをしたところで、必ず隠すよ。普通ならば、史記に天皇の不名誉
な話なぞ書くはずはない。それを書いているのも、作り話かと気づかせるた
めだと考えるべきなんだよ。
146 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 01:37:51
>>145 だから雄略や武烈が悪く書かれてるのは
葛城方の大王だから。
147 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 05:42:33
>>147 河内も葛城氏領内。
ついでにモモソこと日女命も葛城氏。
149 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 06:50:25
モモソヒメが葛城氏ってどういう根拠だよ。 でたらめにもほどがある。
150 :
ローガン :2009/08/02(日) 07:56:10
>>106 > カッパさんは霊園、ローガンさんは土盛り前ですか。
> ローガンさんはモガリのことを言っているのかな?
卑弥呼→男王→臺与の流れは極、短期間のもの。寿陵とは考えられない以上、徑百餘歩の冢完成迄 遺体を安置された付近に奴婢は埋められたのでしょう。
151 :
ローガン :2009/08/02(日) 08:16:43
>>113 > 中国の墓の記事では、高さが最も重視されています。
> 高さが無いと考えれば理解できます。
愛知県民さん。そうですね。冢の高さは重視されています。
よって「高さがない」場合でも、それが確認されれば 「不起墳」と記録されたでしょう。
高さについての記述がないという事は「わからない」 つまり、未完成であったと考えるのが自然な解釈だと思います。
152 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 08:39:20
>>145 >気付かせるため
全然ウラとりをしたとは言えない。オマエの豆脳が紀を創作に
させたい熱望と渇望とオマエの脳内の津田妄想病菌の猛威の活動が
2ちゃんのここに発現させただけのもの。
作り話と分からせるためなら、最初から紀の冒頭に書いとけばそんな
小細工をやるまでもない。つまりオマエの津田妄想病のオマエの脳内
の盲象思考活動にすぎない。w
153 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 08:42:08
妄想の典型が唐松山の蝉お伺い暦。ww
154 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 08:53:55
>>144 当然倍暦をやってたんだから、即照合して合うわけがあるまい。
紀だって卑弥呼の記事が神功紀にあり、120年ばかりズレているのは
かなりの研究家が主張している。それだけ古文献に断層があったわけ
で、それで神功の時代が卑弥呼の時代だとしてしてまうのがオマエ
の即整合性にこだわる猪突猛進の小賢しい考えだ。ww
数日の暗黒がないのを承知なら、神功元年のことを日食だと
ぬかすんじゃねぇ!
>>149 日女命をググれ
ちょっとは自分で調べろ
156 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 09:37:53
武烈紀の描写は非現実的であり、事実ではないか、あるいは大幅に誇張が加えられたもの であろう。その理由は、もちろん継体帝による王権簒奪の事実を正当化するため。
157 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 09:49:30
>>152 だったら、倍暦についてはその旨明記されているのかね?
倍暦を使っていたのならば、それを普通の暦に変えたときが必ずあるはずだ。
そのときに、今から普通暦にする(それまでの2年を1年とする)という布告
か何か出しているはずだ。それを示して貰おうじゃないか?
記事の日付の偏り具合から言って、倍歴の存在についてはその可能性はあるだろうな。 少なくとも、ヤマト王権内のローカルカレンダーとしては。宗教的理由によるのかもしれないし。 でも、一代ごとに倍歴と3倍歴を行ったり来たりする、太国の意見にはついて行けない。 一月30日のカレンダー内での15日以前への記事の偏りと、 一月15日のカレンダー内での10日以前への記事の偏りは同列には見られないと思うのだが。 それから、16日以降の記事も少ないとはいえ、存在することから、 書紀を構成する基礎文献には、倍歴の資料と、通常歴の資料が混在している可能性もある。 というか、倍歴があったと仮定した場合は、混在していたと考える方がよいだろう。 しかし、書紀の編纂者がこれらを区別して取り扱っている傾向は見られないので、 書紀の編纂者は倍歴の存在を知らないか、完全に無視しているようだ。 それ故、倍歴の存在を根拠に、書紀の年紀から真の年紀を導き出すのは、事実上不可能だと思うんだが。
160 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 10:00:17
布告?暦をかえるのは他にもあったけど(元嘉暦など)、それらの布告などみつかってないけど。
161 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 10:08:57
>>157 オマエも1時間の通常労働で1億円くれと要求してるようなもので、
ムシがいいのもはなはだしい。ww そんな布告があるんなら、
とうの昔に論争は解決だ。ww
>>32 について見解を述べてみろ。これは当時1ヶ月が1日〜14日まで
の現今の2週間しかない〜月上半分が当時の1ヶ月だったという文証
だ。唐松山も正面向いて回答できないし、これを他の事由で矛盾
なく説明した奴は2ちゃんに今までいない。考えられる合理的な
事由は上のとおりだ。それにオマエは神功の時代が卑弥呼の時代だと
ぬかすのか? 120年ばかりズレていると観るのが正解のようだ。
>>158 貴殿の考察見解はだいたいそれがしも考えてきた。おおむねその
とおりだろう。当時は倍暦もそうだが通常の暦法も使用していた時代
があったのだ。それを改めは曲解して余が倍暦を取り止めたように
感じていたらしいが、あやつの研究不十分からの勝手な言い分だ。
さてかように当時の暦法の論争をここでするという意義は、これに
より卑弥呼活動の年代がいつの天皇の時代だったかということが
判明確認できうるメリットが得られることだ。唐松山は景行に
当ててるが、これはものの見事には外れたホツマ狂からの恣意的比定
であり、真は崇神の代である。改めは四六時中解釈が変動し、この
変動は改め自ら改めの説がデタラメであることを遠回しに表明したも
同然であり、滑稽千万である。ww
と言うことは天津甕星の系譜?
164 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 10:19:31
>>133 崇神即位237年は君が唐松山と文句を垂れても不動だよ。否定したって
こちらの勝ちだぜ。
これを正しいとする為には、書紀編纂当時 日本に西暦が伝わっていたことを証明する必要がある、
「統計俵」の出所も提示出来ない。
もし237年崇神元年が正しいとした場合、太国倍年で是より20年間に起こったことを、表記して貰いたいね。
2次元ゴム紐編年の「太国倍年」では、この程度も出来ません。
何故って是までの太国さんの書き込みに、「太国倍年+出来事」の数年間分の書き込みさえ見たことが無い。
書紀の記事を信じれば、1年の長さは1年(太陰暦)、さあ太国 書き換えてみろ。
165 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 10:30:40
>>158 >ついて行けない
確かにそう思うのはもっともだが、当時の状況を現代の気分でいるからついて
いけないんだろう? だが当時は新幹線もジェット機もない現代とは大きく
異なった時世であり、こういう現代人的考察を一時的に捨てないと当時の古代
の真相の把握は困難である。当時の古代人にジェット機がいずれあると言った
ところでついてはいけない、信じないと言われるのが当然だろうが?w
真相は当時において倍暦と通常の暦法の時代の交錯であり、暦法が皇紀元年から
現代まで恒常的に暦法の変更が全く行われず今日まで至ったとの〜湯たんぽに
暖まったような考察は大間違いであり、古代において幾回も暦法の変更が行使
されていたのが真なのである。
古代ローマからの暦法でも、初期は1年が10ヶ月しかなかったわけで、君が
信じないのは自由だが、当時は1年が304日の暦法を行使していたという。これ
をロムルス暦という。ロムルスはローマの始祖のようだ。そしB.C.46年に
ユリウス暦となり、B.C.8年アウグスツス帝改正となり1年が12ヶ月となった。
さらにA.D.1582年グレゴリウス暦法に改められた。同年10月は10日間ばかり
この改正で日数の空白日を作り、現代暦に続いて行ったのだという。
かようにローマでさえ数回の暦法変更は日本とは様式が違うが行われていたもの
であり、暦法に変更が古代に多数回やってたことはこの一例でも確認できうる。
なんだ、ドツボ×梅毒の次は デブ国×チョロ松かよ。 バカ四天王は元気だねぇw
167 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 10:40:52
>>164 それはオマエもできないわけだよ。だいぶ試みているようだが、どれもこれも
ミソにクソを混ぜたような数日間日食が起きたという編年を強引にも神功元年
から取り寄せて不可能なことを可能にスリ替えて、デタラメ編年を琢磨しうして
いる。ww カスミを食わして百姓千人も畿内から半島渡海したとかいう大ウソ
を平気でこいで滅茶苦茶編年に没頭している。こういうのは元々オマエの
デタラメ ホツマ教狂信による景行年代絶対視するカルト的妄想信念に強固に
基づいた学術的化けの皮をかぶった手口にて、最初から最後まで偽装編年を書き
こんで盲象をさらけ出している。www www
168 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 10:52:30
他人には、「ウラとりをしたとは言えない。」なんて抜かして、倍暦の証拠と言われると 「ムシがいいのもはなはだしい。ww そんな布告があるんなら、とうの昔に論争は解決だ。」 と言うのかね。誰も気づかないうちに2年が1年に変わっていた? 馬鹿言うなよ。
>>125 >徇葬者は多いですが、高く土を盛らなかったという意味で「薄葬」デス。
卑彌呼以死 「大作冢」 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
たぶん、愛知県民さんは「大作冢」の意味が分かってないかと・・・。
これを訳したら答えは明白。
「大」というのは、大いにと訳す。
「作」とはそのまま、つくるのこと。
「冢」というのは、土を盛り上げてつくった墓のこと。
よって、「大いに。塚を作る」と訳す。
弥生時代の一般人の埋葬方法である、土壙墓 という墓をご存知だろう。
愛知県民さん〜倭の王様である卑弥呼の遺体は、この土壙の穴につめ、
盛り土をかぶせただけのモノと考えてるんでしょうか?
卑弥呼の墓は、中国正史の一つである通称魏志倭人伝に「大いに冢を作る」と記される程の墓です。
土壙墓ならば、「大いに」ではなく、人間一人でも作れる墓。
>貴重な文化遺産ですが、卑彌呼の墓ではありません。
三世紀というのは、何十メートルの墳墓から、何百メートルの古墳に変化した時代。
卑弥呼の死はこの三世紀に当たります。
よって、50cmぐらいしかない土壙墓のわけがないよwww
170 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 11:11:20
>「大作冢」の意味が分かってないかと・・・。 例えば 巨大四隅突出型方墳を造ったとする、 その時 大陸の言語でどの様に、表現するんですか?
171 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:12:34
ここは○○病院ですか?
>>151 >>163 調べてみると、史記には始皇帝の冢という表現があり、冢が小さいとは言えないようです。
問題はあくまで高さが無いこと、「大作冢」であって「作大冢」でないことです。
173 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:19:56
池の近くに大作が家を造った→大作家
>>169 改めさんも、「大作冢」であって「作大冢」でないことを考えてみませんか?
「有棺無槨」だから土壙墓ではないでしょう。
>>133 >一つもきづいちゃぁいないよ。〜〜君が唐松山と否定したってこちらの勝ちだぜ
なんだそりゃw あんた〜すでに負けてるではないかw
>崇神即位が237年ということは、景初3年=239年 だから、景初2年
>の238年に摸の同床共殿策にて崇神が鏡を祀ったわけだから、3年鏡
>の多数出土するのは朝廷の畿内各住民への右へならえ式による鏡
>で、だから畿内からうんと出るんだよ。
三角縁神獣鏡のことか。
景初3年などのきねんめいきょうは白菜教だろw
さすがに、景初4年の鏡までは白菜教とはいえないが・・・(ぼうせい鏡てこと)。
内行花紋鏡と同じく、三角縁神獣鏡も白菜教とぼうせい鏡とがあり、
300枚以上がこの列島から出土されたからって大騒ぎする必要なし。
>オマエが畿内説にどうして鞍替えしたのか、マクモニーグル氏透視の
>ムー誌の読みすぎなんだろうがww、君はムーのファンになって
>そういう話をマにうけたということだな?ww
ムー誌、読んだことありませんわ・・・ (´Д`)
>考えてみろ。畿内に卑弥呼がいたんなら、天皇のほうが金印をもらう
>はずだ。オマエも相当盲象が激しいな。ww 畿内に卑弥呼の国
>なんぞありゃぁしないよ。
私のレスをよく読めよ(
>>11 とか)
漢委奴国王印は「委奴国」と読むのではなく、
「漢」の「倭」の「奴」の「国」の「王」と 読むのが正しい。
「漢倭国王」ではなく、奈良に居る倭王の分家で「奴国の王」ということ。
ようは、倭王ではない人が金印を貰った。
ていうことで奈良から出土されなくても良いことになる。おしまい
176 :
ローガン :2009/08/02(日) 11:31:48
>>172 はい。項羽焼秦宮室掘始皇帝冢…ですね。冢が墓の規模を示すものではないという事です。
> 問題はあくまで高さが無いこと、「大作冢」であって「作大冢」でないことです。
書いていない作大冢に拘る必要はないでしょう。ご紹介のサイト詳しく読めませんが、だいたい、魏晋の影響を受けたとして、3C後半以降日本のどこが、「薄葬」になっていきますか?
箸墓は調査禁止なので断定はされていませんが、「棺あり・槨あり」はほぼ確実と見られています。 「有棺無槨」ではないのです。 確定するには調査が必要ですが・・・さて、どうかな?
>>170 唐松山さん
>例えば 巨大四隅突出型方墳を造ったとする、
>その時 大陸の言語でどの様に、表現するんですか?
表現方法については、個人によって多少異なりますが、
三國志 魏書 東夷傳 の著者、陳寿さんは、「大作冢」という表現を使った。
この「大作冢」は異例で、かなり大きいことが伺える。
>>172 愛知県民さん
>調べてみると、史記には始皇帝の冢という表現があり、冢が小さいとは言えないようです。
>問題はあくまで高さが無いこと、「大作冢」であって「作大冢」でないことです。
すでに答えを言ってるではないか。
「冢」といいのは、大きな墓という意味で使われてるんでしょ?
わたしは、陳寿さんの魏志倭人伝を読んできましたが、
ある筆法が用いられている。
その筆法とは、いかに短く、身が太く というんですか、
陳寿さんの文章を読む限りでは、「大作冢」ではなく「作大冢」なんて
絶対ありえません。
>>176 >魏晋の影響を受けたとして、3C後半以降日本のどこが、「薄葬」になっていきますか?
そうなのです。それこそが九州説の証拠。
厚葬文化・畿内の狗奴國が九州の邪馬壹國を滅ぼし、列島を統一したのです。
5世紀になって中国・南朝への朝貢を復活しますが、朝貢とは名ばかりの半島支配の要求を突きつけ、
雄略に至って「治天下大王」を名乗り、独自の「小中華」意識を持つようになったのです。
>>178 >「冢」といいのは、大きな墓という意味で使われてるんでしょ?
大きな墓とは断定できません。
大きな墓の場合もあるということ。
180 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:51:42
ローガンさんの未完成説だと、その後卑弥呼の冢についての情報がいっさい中国というか、 陳寿の元に届いていないということが前提になりませんかね。倭人伝は魏代までの倭国に ついての情報を網羅的に書いている。例えば、卑弥呼共立の頃にはおそらくなかったであ ろう「一大率」について、いつ設置されたかがわからない、というようなことがあります。 おそらく倭人伝を書くには、魏使の報告以外にもいくつかの別資料があったと推測していま すが、魏滅亡の266以前には、当然卑弥呼の冢は完成しているはずで、その高さについて の情報は伝わってこなかったということなんですかね。
>>174 >「有棺無槨」だから土壙墓ではないでしょう。
あのね、愛知県民さんは弥生時代の墓のことが分かってない。
土を盛ったというからには、「土壙墓」か、巨大になる前の「墳丘」か
弥生終期〜古墳時代始まりを告げる箸墓などの「古墳」しかない。
もう1度いいますが、
「墳丘」、「古墳」でもなければ、残りは「土壙墓」しかないんですよ。
んで、愛知県民さんは、どんな卑弥呼の墓を想像してるのでしょうか?
>>179 +
>大きな墓とは断定できません。
>大きな墓の場合もあるということ。
それはどんな墓でしょうかwそんな墓ないよww
たぶん、河童虫くんみたいにお笑いの世界に行きそうな予感するw
183 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 11:59:20
棺がなければ、土壙墓でいいでしょう。棺の種類によって、石棺墓、木棺墓、甕棺墓などに 分類されます。天井石があれば支石墓、土盛りがあれば墳丘墓などとも。
>>136 1度も変えたことのない人に言われたくないよww
>>150 ローガンさん
>卑弥呼→男王→臺与の流れは極、短期間のもの。
うんうん、そうですよね。
>寿陵とは考えられない以上、徑百餘歩の冢完成迄 遺体を安置された付近に奴婢は埋められたのでしょう。
奴婢に関しては、その付近に埋葬されたというのは同意ですが、
「王の墓」と「奴婢の墓」は別々でしょう。
卑弥呼の活躍時期より何百年も前の構築と言われた
紀元前二世紀〜三世紀の墓、佐賀県吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓をご覧になったでしょ?
その時代から、「王の墓」と「奴婢の墓」は別々デス。
>>181 その三つならば「墳丘」でしょうね。
>>183 詳しいですね! 棺のある墳丘墓ということで。
186 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 12:10:42
大混乱→はなはだしく、乱れ混沌とする。 大失敗→はなはだしく、敗れ失う。 大作家→はなはだしく、家を作る。
187 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 12:11:28
>>183 >棺がなければ、土壙墓でいいでしょう。棺の種類によって、石棺墓、木棺墓、甕棺墓などに
>分類されます。天井石があれば支石墓、土盛りがあれば墳丘墓などとも。
今は、土を盛った墓の話をしています。
墓というのは、全体のことをいい、石棺墓、木棺墓、甕棺墓などは、
棺というのは墓の一部分の種類。
ここでいうことではない。
誰も
>>177 に触れないようですが?
魏志では「有棺無槨」隋書では「死者斂以棺槨」
近畿の古墳は隋書のほうでしょう。
>>185 >その三つならば「墳丘」でしょうね。
さて、さて、愛知県民んさんは、
三つ中から「墳丘」を選んだようですが、
ハッキリと九州で弥生時代の「墳丘」と分かってるのは、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」、
もしくは、福岡県にある「平原一号墳」しかありません。
あるいは、画紋帯神獣鏡が出土された古墳時代の祇園山古墳、
宇佐にある高塚古墳を卑弥呼の墓に当てる?てかんじになるかな。。。
190 :
doontakuka :2009/08/02(日) 12:35:17
‘邪’→ye1なら文語における疑問の助詞としての 《耶》ye . と同じ。 壹【臺】馬邪は 【对(對)】 dui ・【马(馬)】 ma・《耶》ye 耶馬對 はなんと読むか? 耶和华はエホバと読み耶鱖はイエスと読む如く耶はユダヤ系を示唆している。 エホバ神とanubisは同一神視されているというのが一般的見解。 對海【馬】國 其大官曰卑狗の狗はanubis だということ。 馬邪の馬はanubis =狗を巨大化させたもので 對海【馬】の對とは『オーストラリアからのanubis』 と『エジプトからのanubis』で一対の狗、anubis なのだ。
191 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 12:37:45
>>177 >箸墓は調査禁止なので断定はされていませんが、「棺あり・槨あり」はほぼ確実と見られています。
>「有棺無槨」ではないのです。確定するには調査が必要ですが・・・さて、どうかな?
箸墓のすぐ近くに有り、箸墓より古いといわれた、
ホケノ山古墳が「棺有・槨有」デス。
箸墓も「棺有・槨有」が予想されます。
>>188 >魏志では「有棺無槨」隋書では「死者斂以棺槨」
>近畿の古墳は隋書のほうでしょう。
「其死有棺無槨封土作家」は、魏志倭人伝の風俗記事に書かれている。
卑弥呼より、以前の墓のことでしょう。
192 :
ローガン :2009/08/02(日) 12:42:42
>>177 「有棺無槨」は卑弥呼の記事ではないですが…
それに、初期の竪穴式石室は「槨」(棺を収める外箱)ではありません。構築手順を考えてみて下さい。
棺を据えてからでないと、板石は積めません。大きく墓坑を掘って真ん中に棺を据え、石室の外側から石を積む…この光景が「有槨」ですか?(笑)
>>179 畿内狗奴国…初めて貴説を伺ったように思います。
>>180 魏使の報告と確定出来るのは年月の記載のある部分のみだと考えています。
臺与告諭後、直ぐ離倭した張政等以降、使者が訪れていないのでその後の情報の有無については?です。書いていない以上、知らなかったと。
又、夜に来ます。
193 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 12:52:03
>>192 どうでもいいけど、「張政等」ではなく、「政等」ネ!
張政等か?政等か?議論の対象とされてるようですが、
「張政等」とかいう人は、倭人伝もろくに読んだことのない証拠。
以上 勉強になったでしょ?w
194 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 12:53:45
ところで、そもそも倭人伝は史書の一部であり、地誌的な側面も持つものの、その存在意義 としては魏代の倭国について明らかにすること。であれば、この書の編纂目的からも、伊都 国に往来・常駐する郡使からの情報なども含まれていると考えたいところです。 そうすると、あまりにも邪馬台国についての情報が少なすぎる気がします。やはり水行10日 陸行1月というのは、北九州からはかなりの遠隔地であり、北九州との人の交流も多くはな かったのではないでしょうか。この水行10日陸行1月の行程を九州島内に想定するとしても 距離的には遠くないため、人の移動は多く、郡使の邪馬台国に関する情報はもっと多くなって いたと考えられないでしょうか。
195 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 13:17:32
だって魏書の外伝みたいなもんだからね。 南中とかウイグルより薄い扱い
>>189 >ハッキリと九州で弥生時代の「墳丘」と分かってるのは、
それは議論の幅を狭めてしまう考えだと思います。
はっきりしないもの、未発見のもの、自然や人為で破壊されたものもあるでしょうから。
それにいつの時代も変わった王様もいるわけで、想像もできないような墓もあるかもしれない。
「有棺無槨」は、改めさんとローガンさんで見解が分かれている。
考古学の縦目仮面さんの見解をお聞きしたいものです。
>>192 >畿内狗奴国…初めて貴説を伺ったように思います。
そうですか? 何度か書き込んでおりますが。
>臺与告諭後、直ぐ離倭した張政等以降、使者が訪れていないのでその後の情報の有無については?です。
晋書を見ると、266年には倭人が朝貢しています。
266以前の魏代にも倭の朝貢があり、266以後、陳寿の執筆までにも「東夷」諸国の朝貢は続いています。
陳寿がなぜ247年で筆を止めたのか、よく分かりません。
249年の司馬懿のクーデター以後は晋代と見なしたか?
>>193 >どうでもいいけど、「張政等」ではなく、「政等」ネ!
ん? 「張」は姓、「政」は名、「等」は「たち」
何か問題ありますか?
>>194 九州から海を渡っていません。
>>196 そんな言い訳は愚の骨頂。
それなら畿内だってまだ見つかってない古墳、
誰の墓かわからない大型古墳はまだまだある。
堀を巡らせた巨大な古墳時代の墓のウワナベやコナベですら、
宮内庁管轄で調査できない。
199 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 13:47:50
>>168 ウラ取りはやってるゼ。オマエが読んでないからだよ。とりあえずは鷲崎弘朋
さんの邪馬台国掲示板に50回以上に渡って長編での論述をしているから、オマエ
は読むといい。
200 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 13:59:51
>>199 お前の糞な妄想の長レスが
鷲崎某のBBSにタラタラ書かれてるのかw
迷惑甚だしいな(笑)
201 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 14:00:50
>>175 オマエは毎回、ストリップ劇場のミラー・ボールの回転光の如くクルクル
クルクルと論説が変わって来ているのだ。ww
まるで落ち着きのない猿猴のようで、オマエの人間性が分かるというものだ。ww
オマエが管理職なんてチャンチャラおかしい。bbb ppp
つまりオマエは毎回論説を手のひらを返すんだから、遠まわしで改めは毎回
負けだということを公表してるも同然であ〜る。手のひらを毎回返してることは、
2ちゃん日本史板の書きこみを見る人間の大半はみな知悉していることだ
からな。ww
また今度も説を替えることは当選確実であり、今の説も数ヶ月後来年あたりでは
別説になるから、オマエの説はデタラメで御座いと赤裸々に分かる。オマエの
会社もオマエが管理職では、低迷するのは目に見えるようだ。Pu! ww www
202 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 14:05:34
>>200 フフッ どうせオマエは余に勝てっこない。どうせオマエは何の取り柄も
ないそこらのオッサンだろ。www
203 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 14:09:26
>>202 妄想や擦り寄せの類は
あなた様が一番です(笑)
>>202 またスレ汚しに
ブヒブヒ言いに来てるのか、この豚は
205 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 14:35:05
>>196 うわー、さっきから名無しでちょこちょこ書いてたんですが、この問題は難しいです。
ローガンさんが書いてるのは、倭国特有の作り方をする「槨」をはたして中国人が「槨」と見た
かということですね。確か、白崎昭一郎氏が、喜田貞吉の検討を踏まえて、「魏志の槨なる
ものが如何なるものを指しているか十分確かめてかからねばならない」 というような表現をし
ていたと思います。白石太一郎氏も似たようなことを安本氏とやりとりしていたような。
あと、「棺有れども槨無く」というのは、邪馬台国限定ではなく倭人全体の風習を記述した部
分ですが、福岡県の津古生掛古墳は木棺直葬であり、同県前原市の本林崎古墳は箱式石
棺の直葬だったはず。北九州の墓制は、「有棺無槨」に合致しているとはいえます。このこと
は、上レスで出てきた「魏使は邪馬台国まで来たのか」 という問題と関連しているでしょう。
ええと、「韓伝」の「槨あり棺なし」は有名ですが、「扶余伝」「高句麗伝」などの葬制の記述も
まあ正確といえますし、この部分は九州説有利というところでしょうか。
206 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 14:40:15
>>196 司馬イはクーデターなど起こしてない。
彼は西シンが成立する以前に死んでます。
シンを開いたのは司馬炎
207 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 14:49:40
>>196 >それは議論の幅を狭めてしまう考えだと思います。
・198さんから「そんな言い訳は愚の骨頂」と言われてます。
わたしもこれに同意。
>はっきりしないもの、未発見のもの、自然や人為で破壊されたものもあるでしょうから。
>それにいつの時代も変わった王様もいるわけで、想像もできないような墓もあるかもしれない。
・卑弥呼の墓は144メートルクラスというのが文献資料から判明しています。
よって、そのような、「未発見」とか、「自然や人為で破壊された」なんてないよw
上でも書いたが、本格的にブルとーざーでトンネルを掘ったりしたのは明治、昭和になってから。
「想像もできないような墓」て妄想としか思えませんww(古墳はUFOみたいに消えたりしないw)
>「有棺無槨」は、改めさんとローガンさんで見解が分かれている。
>考古学の縦目仮面さんの見解をお聞きしたいものです。
・人に頼ってばかりじゃあ駄目です。
それに彼はたんなる学生。
私みたいに、自力で探してみたほうが〜愛さんの為にもなるのでは?
それに、私は「弥生時代の墓」、ローガンさんは「古墳時代の墓」の話をしているんです。
見解が違うのは当たり前です。
>>197 >ん? 「張」は姓、「政」は名、「等」は「たち」 何か問題ありますか?
・ 「大夫難升米、次使都巿牛利」〜以降、「牛利」という呼び方をされています。
わたしは、この「都巿」を役職と考え、それにならって、「張政」の「張」も同じように考えています。
愛知県民さんは「張」は姓、「政」は名ですか・・・別に悪くはありません。
>>201 それが反論?反論になってませんよ?
208 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 14:51:57
>>205 全く有利ではない。
何故なら畿内の墓は時代の幅が広いため、
埋葬方法はその時代時代で違うから。
>>205 あ、縦目さんだ!
やっぱり難しい問題みたいですね。
三国志魏書扶余伝
其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數。厚葬、有槨無棺。魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。
「徇葬」「百數」が目を引きますが、停喪期間は長く、有槨無棺で、倭より「厚葬」のようです。
やっぱり魏の薄葬とかは関係ないのか・・・
それにしても倭と扶余で妙に共通点があるものですね。
210 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 14:58:10
「有棺無槨」はあくまでも風俗記事の一部に書かれてること。 卑弥呼以前の墓がどうだったかを記してるのであって 卑弥呼の墓=有棺無槨 とは出来ない。
>>207 >「未発見」とか、「自然や人為で破壊された」なんてないよ
改めさんは見上げるような高塚古墳にこだわるから、そう思われるのでしょう。
>人に頼ってばかりじゃあ駄目です。
もちろんです。私も勉強します。
>私は「弥生時代の墓」、ローガンさんは「古墳時代の墓」の話をしているんです。
は? 改めさんはホケノ山古墳がこうだから箸墓も・・・と言われましたよ?
二人とも古墳時代の話ですよ。
>>210 >卑弥呼以前の墓がどうだったかを記してるのであって
卑弥呼以前など関係ありません。
魏に朝貢した最初の女王は卑彌呼です。
213 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 15:08:26
ああ、ホケノ山古墳の話ですか。 それの前にずっと、弥生の墓について書き込んでいたので・・・。
214 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 15:08:32
>>159 その人がモモソヒメとどう関係するんだよ?
妄想もたいがいにしろよ。
葛城と大和の区別もつかんのか。
215 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 15:10:51
>>192 ローガンさん
ついに出ましたね「有棺無槨」
久しぶりに聞く懐かしいフレーズです。
ここはローガンさんにお任せしますね。
216 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 15:11:27
ただ、たしか前にどこかでレスしたのですが、「魏志董卓伝」の記事に、 >卓を眉?に葬す,大風・暴雨が(董)卓の墓を震わし,水は蔵に流入し,其の棺槨が漂う。 とあり、董卓の墓は「蔵」の内部に「槨」を置き、その中に「棺」を収めているものと思われます。 「蔵」は一定のスペースがあり、「棺槨」は洪水で漂う程度のものと推定できます。 また、「続漢書」でしたか、献帝を葬る天子の礼が詳述されており、 >大将作大匠は黄腸(柏の木の黄心で作った槨)・題湊(棺の外に重ねる木)・便房(休息室?) を礼に従って作る。 (原文が手元になく、この記述は不確か) など、様々な儀礼が事細かに書かれていますが、やはり当時の倭国とはかなり異なっています。
217 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 15:20:54
>>208 まあそうですね。ホケノ等の早期古墳は試行錯誤の段階であり、掘ってみるまでわから
ないともいえるかもしれません。結局、葬制というのは、宗教(この場合は卑弥呼の鬼道)と切り
離して考えることはできません。例えば、後代の神道のようなものなら、死や流血による「穢れ」を
嫌って、徇葬などは行われない?とか。
218 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 15:21:28
それに彼はたんなる学生。
とか言ってたら、縦目仮面〜来たねw 居ないと思ってたのに〜www
>>215 おやおや、河童虫の登場〜!
ローガンさんに任せるって、彼は夜になるまで来ないかと・・・。
>>217 徇葬と後世の殉死は同質ではないかもしれませんが、殉死は江戸時代まで続きました。
乃木大将は殉死と言えるかどうか?
日本書紀スレで「神功元年の日食?」が話題ですが、二人の神主が同性愛で同じ墓に入って死んだので
神が怒ったと・・・
殉死には同性愛ありという人もいます。
220 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 15:28:26
ローガンさんが来ないなら私が 「有棺無槨」は文献上で語れる話しであって、現在考古学の出土物世界で語られる認識とは 全く別物な世界です。 先ずは「棺」とはなにか?「槨」とは何かを学んで下さい。 墓とは一切関係の無い話しですから
221 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 15:30:22
>>204 オマエは余計な猪ッ戒をヨコから入れるんじゃない。
222 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 15:31:40
>>221 寄ってきてるんだよwww それが分からないのか アッハハ
面白いところですが時間が・・・ またいつか来ます。 GRRR・・・
224 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/02(日) 15:34:19
んじゃ〜自分も一旦おちます(逃げ)。 続きはのちほど・・・・GRRRRRRRRR
225 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 15:37:20
>>222 改めよ オマエが
毎回論説を〜文字通りに【改め】るデタラメは、オマエが遠回しに
イマまでのオマエの論がデタラメだったとオマエ自身が屈服承認
したことになる。ww
>>225 太国さん
散々畿内説者を貶しといて、コロッと鞍替え出来る人ですから
大目に見てあげて下さいな
それに「改めて」いるわけではなく、単なるお調子者なだけで、
長いものには巻かれろ主義だからこそ出来るワザ
227 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 15:54:49
んでも、改めさん。最近はいろいろ勉強してる感じはしますよ。
主張がどうであれその口の汚さはいただけないと思いますよ太国さん
229 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 16:14:19
太国さんの口の汚さは、倍年を守るため。 あまりの汚さに正面から挑む人間が居なくなる=太国倍暦の勝利。ですから、 疑問点に答えるより ののしる方が 倍年を普及出来ると踏んでいるのかな?
230 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 16:39:14
太国さんの口の汚さは、倍年を守るため。 あまりの汚さに正面から挑む人間が居なくなる=太国倍暦の勝利。ですから、 疑問点に答えるより ののしる方が 倍年を普及出来ると踏んでいるのかな?
231 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 16:54:58
太国さんとは2回ほど、倍暦の議論をして、おかげで暦には大変詳しくなった。www
232 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 17:02:12
太国さんの口の汚さは、ばい菌の繁殖のため。
234 :
158 :2009/08/02(日) 17:43:24
>>165 ローマの暦法の変遷ぐらいは知っているつもりだし、ついて行けないのはそこじゃなくて、
倍歴については、書紀、古事記の相当数の記事の偏りから、その可能性を導けるけど、
3倍歴については、太国さんの見解を全面的に受け入れても、採用している大王の代数
つまり記事の数自体が少なすぎて、
1ヶ月15日カレンダーの10日までなのか、1ヶ月10日カレンダーの10日までなのか
断定はし難いって点なんだけどね。
そこを断定してしまうところは、ついて行けないってだけの話で。
235 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 18:07:12
デブ国は「ホラ吹き大魔王!」
236 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 18:10:00
>>234 神武と以後の八代での3倍暦法の行使はやり方が違う。
神武の時代は即位手前では通常の暦で過ごして来たが、即位以後は
崩御まで3倍暦を行使しており、その時の1年は1月〜4月までの
4ヶ月間しかなかったと観ている。ところが崩御直後になって次帝の
神沼河耳尊は不便と観たのか、3倍暦法を即廃して元の通常暦法に
戻しているようだ。
だが以後の八代間では天皇崩御に限ってか3倍暦法を行使して
いたかそれに準じての同暦法を行使していたようで、通常暦は第2代
の神沼河耳尊の時代のみのようである。この間での3倍暦は1ヶ月が
10日間しかなかったと観ている。だから現今の1年の経過には当時
は3年かかったことになる。神武の代では1月〜4月までの方法
だろうが、八代では12ヶ月あったろうが各月が10日間でやっていたと
いうことだと想える。
>>227 縦目さん
ま、多少の知識は身につけない限り、ここで何年も生き続ける事は出来ないので
当然の事でしょう。
彼がこれ以上に進歩するには、自分と議論することを覚える
事ですね。
238 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 18:35:47
太国さんが、一日から十五日までに、全ての事象が 記載されていると言うのであれば それは、当時のカヨミは15日までしかなかったということです。 太陽が東から昇り一日が始まり、次の太陽がまた東から昇り二回目の日(二日) それを15回確認したら、また一日に戻る。 それを永遠繰り返す、これがカヨミ(日読)です。 だからと言って、15日で一月と言う訳ではありません。 カヨミは太陽と言う天体周期を利用したもので「月」とはまるで性質を異にしたものだから いきなり結び付ける事はできません。
239 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 19:09:06
月読命という方は神代に御名があるも、日読命というお方は見かけ ませんが?
240 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 19:14:37
満月 下弦 新月 上弦 を七日毎に繰り返し、一月に1日が二回あったのさ。
241 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 19:29:37
14×14×12=336です。29日足りないでしょ? 夏休みです。
242 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 20:04:14
★「月(にくづき)」は文字通り身体関係であり 生命の根本でもある女性の生理。 生理が一度訪れる「一月」 生理周期が月(天体)の周期と重なり語られるのは 後付けです。 ただし、 女性の生理が12回訪れようが、満月が12回訪れようが 一年には結び付ける事は出来ません。 一年、一歳は「実り」と言う農耕事象だからです。
243 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 20:06:00
>>199 ウラ取りはやってるゼ。
彼の統計俵の裏を知ることは、出来ません。
日々の干支を否定した日本書紀からどの様に、統計を取ったか?
やり方は判っている
日々の干支を数字に直し、その直後に日々の干支を否定する。
これで日々の干支から直した数字のみ有効となる。
後は倍率を決めて各天皇の長さを決める。
その数字を正しいとするためには、西暦が編纂時以前から使われていた。共云う。
ただし 日々の数字を数字を捨てたことにより、”年”までの分解能しか持ち合わせない。
その年の1月1日から次の年の1月1日までが120日あれば足りる、不足分は、その次の年を600日にしても良い。
これが太国へんねんだ。
各天皇紀を平均圧縮しているので、空白年は、同率で残る、空白年には、何事も起きない。
これが4次元の世界か?
244 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 20:23:59
「にくづき」の肉の象形が、天体の「月」と重なったのは 正に 天体周期と生理周期が重なった為に起きた事象だろうね。 本来なら、「一月は一肉」と伝えられるもの
245 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 20:29:40
漢字は中国人に聞けばいい
246 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 20:45:32
>>245 漢字は中国人よりも日本人の方が知っているし、詳しいです。
中国人だから漢字に詳しいは、間違った認識です。
247 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/02(日) 20:50:22
誰か「年、月、日」の繋がりを、説明出来る人いますか? 挑戦して見てください。
248 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/02(日) 20:58:35
例えば1月5日にAというイベント、1月18日にBというイベントが記録されていたとします。 これを、過去を2倍の年月にするために15日で折り返し、 1月5日にAというイベント、2月3日にBというイベントがあった、と直して日本書紀に記す。 案外こういう事なんじゃないかな。
249 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 21:00:41
250 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:03:35
>>246 中国人が大昔に漢文で書いたものを
中国人の専門家に聞かないの?バカなの?
みんなNHKのクレオパトラ見ようぜ。
>>250 >バカなの?
教祖のアンタの地位は揺るがない程度のバカだから
安心しろ。
253 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 21:10:29
>>243 オマエの増しの裏を知ることはできません。なぜならオマエが
恣意的にマシを景行を基点に勝手に決めて行くことだから〜オマエの
全てがホツマ教の学術に偽装した布教カルトの目的に合うように
辻褄編年の陰謀を企てて実行して行く書きこみがオマエのやり方。
原田実氏もオマエの景行盲象重視のカルト的信念を歴読先月号で
困ったものだと嘆いている。ww まぁ治らんでも V は動かせ
まいから、いくら今後時間が経ってもオマエが間違いだとのあの等式
は金剛不変そのもの。
254 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:12:08
>>249 式が間違っていました。訂正します。
14×2×13ヶ月=364 一年は13ヶ月です。
4年に一度367日でした。
255 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:13:12
(NHK)なぜ、クレオパトラ本人に繋がる遺跡が残っていないのか? それは、度重なる地震で遺跡が海に沈んでしまったからです。 クレオパトラの妹の墓がトルコで発見されました。 これは奇遇ですね。卑弥呼の妹の墓も、畿内の箸向くで発見されました。 あまりの偶然の一致に驚くばかりです。
256 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 21:15:44
卑弥呼の妹の墓が畿内で発見された話はないだろう。それに巻向は 卑弥呼と無関係。
257 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:20:47
卑弥呼の墓が九州にあったとしたら、 同時代に栄えた邪馬台国と類似の文明があった 畿内の墓は、卑弥呼の妹の墓とするのが妥当。 証拠がない?これから探せばいいのです。 卑弥呼がクレオパトラと同族だとすれば、すべての 説明がつく。 これでまた謎が解けた!
箸墓はトヨの墓ですよ。
259 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:30:47
260 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:35:50
>>255 箸墓は卑弥呼の妹の墓だった!という着想、斬新ですね。
何の根拠もないけれど、なんだかわくわくしてきました。(笑う)
頑張って、その証拠を発見してください。
261 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 21:39:02
262 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 21:40:58
>原田実氏もオマエの景行盲象重視のカルト的信念を歴読先月号で 困ったものだと嘆いている。ww 光栄です。 所で私の疑問には、答えてもらえないのですか? 答えてもらえないと云う事は、私の疑念が正しい。でOK?
263 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 21:50:53
日本化け物史講座 本屋でパラパラ見てたら面白そうなので買ってきました日本化け物史講座原田 実おすすめ 太国倍年は、日本化け物史と同レベルか? 原田実氏に誉めてもらえるレベルか?
264 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 22:03:23
>>257 卑弥呼は畿内の人物ではないですね。もしそうなら金印は卑弥呼より
当時の天皇のほうがもらってますよ。卑弥呼が金印をもらったという
ことは確かにNo.1の女王だったということです。しかし記紀には
その女王の名は伝からの借り物以外載っていません。これは朝廷に
関わる女帝ではなかったということです。しかも伝には女王国と
ありますから、畿内では女王国は推古の世までないことから、当然
畿内に女王国は失せているわけで、畿内とは別の地に女王国が
あったというべきが合理的考察です。つまり卑弥呼の国は九州に
存在したことに他なりません。
265 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 22:07:20
>>262 いままでオマエに対する質問で具体的詳細にオマエが語ったことは
殆どない。ということはこちらが正しいということを遠回しに
認めたんですな。ww まぁあの V を見ればオマエの盲象が
未来まで一目瞭然ですねぇ〜。ww くやしいかねぇ〜?ww
266 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 22:09:51
>>264 卑弥呼の時代に近畿に天皇が存在したというお前の考えが
考古学会の異端児だということに気づかんのか
267 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 22:12:58
>>262 だから、卑弥呼は九州に居て、畿内に居たのは卑弥呼の妹だと言っているのに。
よく読め。
268 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 22:17:36
唐松山殿 まぁ今後もうっちゃり大王で文句を重ねるんでしょうねぇ〜?w 早く景行元年が239年だとかの盲象を、三輪の V を眺めて間違い だと真摯に受けて編年を変えたほうが利口だぜ〜。ww 先にも言ったが、崇神没年は菅政友、橋本増吉の主張がほぼ正解で あり君のは間違いだったと覚醒したほうが、あとあとを考えれば 君のためだぜ。今なら一寸の恥で済むが、このままではひっこみが つかなくなる大恥になるんだよ〜ぅ。ww
269 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 22:23:27
>>266 だから卑弥呼の活動年代は崇神の代だよ。倍暦計算で
崇神即位年=237年=景初元年
だ。さらに同計算から
崇神没年=259年
であり古事記の崇神の没年干支からは258年が得られ、これは古事記の
そこの部分の関しては非常に正確であったということになるのだ。
これは菅政友、橋本増吉の崇神没年代に関する主張がほぼ正しかっ
たことを意味している。
270 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 22:27:28
>>263 君はやはり「世界百不思議」 最新号をめくってたんだな。ww
だからムー誌のようなことをこのごろ言い出しているわけか?
271 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 22:50:55
>>271 ドンと来いでも暇って言ってる人がいるよ
273 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 23:10:44
元々クレオパトラなんて巷間言われているような絶世の美女ではなく カエサルをたらしこんだのは、知性とその教養からくる巧みな話術とか言うのはよく言われていたところww …まあこれも板違いだがw さて犬国はあいも変わらず倍暦教を熱心に広めようとしているみたいだが… 本人には何回か言ってもスルーされまくりだがまあ書いておくと… 犬国倍暦理論の最大の根拠が欠史八代の没日等が月前半に集中すると言うのは この板の人間なら嫌気がさすほど聞いてきた事だが 例えば古代中世の宮中行事の祭祀なんかには月前半に集中するような傾向が見られ (持っているか、近くの図書館等で閲覧できる人は 「岩波日本史辞典」の付表 で確認されたし 俺が持っているのはそこからの抜粋だけだが…) この時点で「月前半に集中」と言うのがそれほどに特異な例ではないと言うのは言えるだろう。 没日をテキトーに割り振った場合、そういった”慣習”に引っ張られたと言うのはありがちだろうし… あと問題なのは、その傾向が如何なる理由、メカニズムからなるのか? 陰陽五行説的な物か?月齢が影響するか?…etc そこまで詰めないとリアル基地外犬国の場合 「それは古代に倍暦を使っていた名残だ!」 とか言いかねんからなwwwwwwwwwwwwwwww
274 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/02(日) 23:12:26
80万年前のアジアじゃ、私たちの祖先じゃなく枝分かれして滅んだ種でしょうね。 顔の体毛などわからないですから、さじ加減1つで人間っぽくもチンパンジーっぽくもなるでしょう。 ただ、筋肉によって骨の形が変わるから頭蓋骨から顔を復元できる、と聞いたときには なるほどそんなものかと感心した覚えがあります♪
275 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 23:23:28
花の色は移りにけりな・・・ 小野小町もクレオパトラも卑弥呼も、若いころはよかったんだよ。
276 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 23:23:40
>>273 ジョーカー
縄文人がいないと余にあたるのか? 夜もふけたのでもう寝るが、
根拠はあの表だけではない。ただ典型的だからよく載せて来たわけ
だ。だから全く月後半のない1ヶ月が当時14日(あるいは15日)しか
無かった時代と、月後半があったが前半の陽に対して後半は陰の思想
かなんかで、月後半は当時活動を控えて生活していた時代も
あったと見ている。さらに倍暦を廃止し通常暦法をやっていた時代も
あるし、いろいろ変形した暦を使ってたんだと想うぜ。
こちらのコテハンは真面目にちゃんと書けよ。
zzzzzzzzzzzz・・・・・・
この後、太国が縄文人になって登場します。
278 :
日本@名無史さん :2009/08/02(日) 23:27:25
しかし縄文人の「3世紀の奈良盆地湖」だの 犬国の「倍暦」だの… 確かに九州説の連中はオリジナリティー・ユニークさって点では畿内説を圧倒しているなwwwwwwww
279 :
縦目仮面 :2009/08/02(日) 23:59:58
暇だ・・・。俺はUMA(未確認生物)フアンなので、自分で買うことはないですが「ムー」は
たまに読みます。邪馬台国にも関係がある 飛鳥昭雄氏のUMA連載などを見てますが、
あのCGは、ものによっては俺の方が上手いかな。飛鳥氏はキリスト教原理団体の一員で、
進化論を否定してるようで、人間ー恐竜同時代生存説がよく出てきます。
ところで、近々ゴビ砂漠に旅行します。目的は「モンゴリアン・デスワーム」の調査。
http://x51.org/x/05/05/0354.php ひどいスレ違いスマソ。
九州説はファンタジーだからね。 学問ではないの、ロマンを求めてるんだよ。
281 :
ゴビ砂漠に消える :2009/08/03(月) 00:12:57
>>279 これが変態仮面の最期の書き込みになろうとは…
ナムナム マヨワズジョウブツシテクレ ( ̄人 ̄) ii~~~
282 :
サガミハラハラ :2009/08/03(月) 00:25:07
>>158 確かにそういえますね。ですから私は月や非は無視して年だけをもって倍暦を考えておるわけです。
古事記干支を2倍年暦とみて、景行天皇から安康天皇までの真の年紀の解読は成功しております。
九州年号、逸年号と言うのを太国はどう考えてるの?
285 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/03(月) 01:34:08
286 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 01:59:18
サガミ氏も二倍年暦だったのか。
287 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 02:03:16
>>278 ついでに言えば、伊都国=佐賀市説かな?
288 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 09:41:44
当時の列島では 「一年一歳」は、十二ヶ月でもなければ365日でもない。 「農事暦」 睦月や弥生があって、二十四節みたいな 行があった。 実りの収穫を一年として、田を休ませ、 田を耕し、桜が咲いて苗を育て、水の管理をする。 「水無月」には田から水を抜き、天日に田をさらし 今は七夕と言われる日には、五穀豊饒を祈願しての祭を催す(後の相撲) そして二度目の収穫「二年」を迎える。 これが「年」のサイクルだ。 ここには十二月ヶ月も365日も存在しない。
289 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 10:01:48
290 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 10:15:45
>>289 いや
「みたいな」行。
つい数十年前の日本の農業は、一年(みのり収穫)と、秋祭り中心に
独自のサイクルで動いていた。
その名残は今も、宮中行事で受け継がれている。
天皇が相撲の天覧をするのも、農耕行事の一つ
日本民族なら
誰もが受け継いできた行。忘れてはいけない。
291 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 10:31:16
二十四節気を知っていた→太陽年(回帰年)を知っていた→ 365.2424日を知っていた→12ヶ月を知っていた→閏月を知っていた。
292 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/03(月) 10:41:53
>>283 九州王朝存在の動かぬ証拠たるものだね。動かないから創作、偽物、
私年号とかにうっちゃるわけだよ。冷静に考えればこのうっちゃりは
うっちゃりを仕掛けた者の論が当人間違いだとハッキリされるため、
何が何でも難癖をつけて揺さぶって蹴落とそう行動しているものだ。
遺跡は今回の九州豪雨などのように、天変地変、盗掘、噴火、台風
などで壊滅に至るから、現今遺跡が存在しないから王朝はないなどと
考える奴は古代史の面喰いであり、論の道を大いに誤って沈没さ。w
293 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 10:46:16
>>291 それは脳内古代史というものだよ。
日本の古代史は、学問じゃなく
田畑を受け継いだ者が、次に受け継ぐべき者への伝承行為。
今の日本では、唯一地主百姓が語るべきもの
日本の古代史を語るなら、田を持て畑を持って米を作って生活の一部として、子に伝承しろ。それが古代史だ
294 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 10:48:19
>>220 >「有棺無槨」は文献上で語れる話しであって、現在考古学の出土物世界で語られる認識とは
>全く別物な世界です。
・はあ・・・それで?
>先ずは「棺」とはなにか?「槨」とは何かを学んで下さい。
>墓とは一切関係の無い話しですから
・「槨」て書いてるじゃん。墓と関係ナイワケガナイw
あんた〜考え方がメチャクチャーw
295 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 11:04:32
>>294 この 幸せ者が
★天皇家は百姓の親玉
親玉を知りたければ、懐に入って田畑を耕せ。
古代の暦なんて自然と実感出来るから
学問なんかではないぞ
古代史は
考古学でも文献学でもない、伝承だよ
伝承では食っていけない連中が、学問と言う名に変えて糧を得た
それが現代、でかい顔して街を闊歩する
伝承で糧を得られるのは神主だけか?
296 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 11:24:04
唯一、商売人が伝える公開される古代史とは 「高天原に神留座す 神魯伎神魯美の詔以て……」で始まる 祝詞。
>>292 >九州王朝存在の動かぬ証拠たるものだね。
何がうっちゃりだww
あんなの「お試し年号」に決まってるだろう。
ていうか、まだ信用してたのか、みんな、数年前からぜんぜん進歩がありませんな。
こんなかんじで、まわりから、ドンドン追い抜かされて行くんだろう。
日本最初の年号は「大化」(西暦645年)とされ、大化改新とか学校でも習ったハズ。
年号に関しては、大化改新より前から使いだしていたのは事実なんですが、
正式に朝廷が認めだしたのが、西暦645年といえば分かりやすいかな?
江戸時代〜現在の人口は、関東が一番多いというのは知ってるだろう。
しかし、江戸時代の首都は、天皇の居る「京都」。
明治以降、天皇家が「京都→東京」へ遷都し東京が正式に都になった。
これと同じで、周辺諸国の豪族たちが中国の年号を真似て年号を始めた。
あとで、この「年号」というのを朝廷が認め使い出した。
この大化の改新以前の「お試し年号」を九州王朝として考えるべきではない。
そして、大和朝廷と九州王朝があった証拠なんて、トンデモとしか思えません。
298 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 11:27:00
299 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 11:47:15
「首都」を現在の概念で語るなら 江戸期の首都は「江戸」 首都の概念が現在とは違った意味で語られるなら 当然その時代の首都について説明しなければならないだろうな。 説明がなければ 首都=京都は トンデモだなや
300 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 11:50:10
>>299 は、
首都の概念よりも、首都の定義の方がいいかな?
>>292 >遺跡は今回の九州豪雨などのように、天変地変、盗掘、噴火、台風
>などで壊滅に至るから、現今遺跡が存在しないから王朝はないなどと
>考える奴は古代史の面喰いであり、論の道を大いに誤って沈没さ。w
九州は台風や災害が多いというのは知ってますが、
紀元前二世紀〜三世紀ごろの構築、九州佐賀県吉野ヶ里にある「北墳丘墓」が残っているという現実。
それより四百年〜五百年ぐらい前の時代の古墳が消えてなくなるということはありません。
そして、卑弥呼の墓は144メートルクラスの巨大な円形(前方後円墳含む)ということ。
魏志倭人伝:卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
これらをあわせて考えると、
貴方の主張に「無理がアル」ということに気付いてきましたか?
302 :
doontakuka :2009/08/03(月) 12:27:48
>>明治以降、天皇家が「京都→東京」へ遷都し東京が正式に都になった。 遷都宣言があったんですか? 遷都宣言はしていないんじゃないかな。 天皇家には京=日本中央という概念が頑固だから。 首都と京は別物でしょう。
河童とdoontakukaの瞬殺にワロタwwwww
どいつも、こいつも、レベル低っっwwwww 河童虫くんも、doontakukaくん〜 君たちは、一度でも「古代史」の本を読んだことないだろ? 君たち〜古代史を知らないというか、 まずは、一からで〜関ユージの「古代史〜なんたらて本」から始めるべきダネw 私の議論する相手は、サガミさん、太国さんかな? 君達二人は、もん太くんとでも・・・・w
305 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 12:56:01
一般人卑弥呼は徇葬者奴婢百餘人と供に、最短百餘歩の霊園にて ひそかに眠る。 「(王幾)徑八尺圓周二丈五尺而強也」
306 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 13:02:42
所謂暗記と言うやつですか? 誰がどれだけ暗記しているかという 暗記日本一選手権大会?
卑弥呼の冢墓が 円墳で、しかも正円でない場合 (楕円或は“王幾”)徑百歩圓周三百歩而強 と書かれるから心配するな。 だから「関」なんだよ
308 :
doontakuka :2009/08/03(月) 13:32:34
徑百餘歩 は、 一里=1800尺=360歩 一尺=24cm で 一歩=5尺=120cm 百歩=120m 。 卑弥呼の墓が方墳であろうと円墳であろうと 仲哀天皇陵の大きさは 墳丘長242m、後円部径148m、前方部幅182mを測る から、その下に有っても納まりはOKだな。 ^^;
309 :
doontakuka :2009/08/03(月) 13:34:31
>>307 卑弥呼の冢墓が
円墳で、しかも正円でない場合
卑弥呼の冢墓は
方墳かもよ。
310 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 13:42:04
>>309 方形ならば
方形である事を記す書き込みがあります。
ま、卑弥呼の墓なんて記載されていないので、形なんかなんでもいいけれど
311 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 13:44:25
いきなり関裕二はないわな(笑) 次に出て来るのは井沢か? 二人揃えて漫才グランプリにでも送りだすか?
312 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 14:05:16
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1984.jpg 1・・・・・神武天皇・・山型
2・・・・・綏靖天皇・・円丘
3・・・・・安寧天皇・・円丘
4・・・・・懿徳天皇・・山型
5・・・・・孝昭天皇・・山型
6・・・・・孝安天皇・・円丘
7・・・・・孝霊天皇・・山型
8・・・・・孝元天皇・・前方後円墳
9・・・・・開化天皇・・前方後円墳
10・・・・崇神天皇・・前方後円墳
11・・・・垂仁天皇・・前方後円墳
12・・・・景行天皇・・前方後円墳
卑弥呼の墓は山形か円丘です。 箸墓は開花か孝霊陵です。比定地が誤っています。
卑弥呼の墓は考安陵の直ぐ南東にあります。頂上です。もっと掘らなくてはならない。
出てきた石は「槨」を守る為の石です。
313 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 14:13:32
棺 直接遺体を納める容器。2重の容器に納める場合には,内棺(柩(ひつぎ)),外棺(槨(かく))の別がある。 槨も棺です。 石で守っているのです。
314 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 14:29:10
315 :
doontakuka :2009/08/03(月) 14:31:38
棺 とは 神の乗り物だろう。 棺 とは 神との絆だな。
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/03(月) 14:36:42
>>297 トンデモというのはオマエの脳内の勝手な判断だ。w
九州の卑弥呼の女王国が九州王朝の始まり。卑弥呼はその始祖だ。
ただそのころ→239年ころは確立したばかりで、まだ完全的王朝の
スタイルを固めていたわけではない。畿内の朝廷よりは勢力軟弱で
規模も小さかったことは疑いない。こんなんだから、途中断絶的危機
もあったようだが、風前の灯火的状況を乗り越え畿内の文武天皇の
前後まで持ちこたえた。そして九州王朝は滅亡したということ。
オマエは面食いらしく表見的に医跡がなけりゃぁ存在しないと即断
しているが、これオマエの判断の誤りであり、管理職をやってれば
そんな考えが軽率であることが分からんとは他の社員に管理職を
替わってもらえ。w この前の九州豪雨のことが2000年間も続け
ば、医跡は壊滅状態だ。ホホイノホイくらいの調子じでは、モノの
出土は困難だぞ。
オマエの体の表面が何でもなけりゃぁガンの心配はありっこないと
強引に主張してこちらを嘲笑してるようだが、ガンはそれくらい
じゃ誤診に繋がる。体の中がどうなってるかそれくらいでは分か
るまいて。同様に古代の医跡も地上にビルを建てられたりすれば、
当然そこの地中の医跡なんぞビルを倒壊しない限り、出すのは無理
だということだ。九州全部を確かめたような口を叩くな。オマエが
医陵をやればヤブ医者だな。体奥検査を亡失するようだからな。w
河童氏に免じてこれくらいにしておく。盲象から早く覚醒しな。
>313 >直接遺体を納める容器 なら、棺には遺体は入っていないよね?
318 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 14:44:04
319 :
doontakuka :2009/08/03(月) 14:46:20
>なら、棺には遺体は入っていないよね? ハイ、棺に遺体は入っていません。 棺に入れるのは神だけです。 ^^;
320 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 14:50:49
>>319 師匠、お言葉を返すようですが、師匠は棺桶に入りますか、柩に入りますか?
321 :
doontakuka :2009/08/03(月) 14:56:51
>師匠は棺桶に入りますか、柩に入りますか? 柩に入るのは仏(ほとけ)だからな。 神でも無く仏でもない者の入れ物はなっじゃろね。 多分 只の桶かな〜〜〜!
322 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 14:57:41
>>319 の意図がよくわからないけど
基本的に「棺」は単なる箱。たんなる箱に死人を納める目的を持たせることで「棺」=遺体を納める箱になった。
そして
いったん棺に遺体が納めるられれば
その「棺」は「柩」になる。
だから墓から出土されるのは「棺」ではなく「柩」
しかし、考古学の世界ではこれを区別することなく、全て「棺」で処理する独特の世界。
霊柩車、遺体が乗っていなければ
ただの改造車
323 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 15:11:36
現在は改めて「棺」と「柩」を区別する必要はないんだが 伝達手段が文字だけの世界では、ここまで区分し 文字で表現する必要性があった。 だから 倭人伝に書かれた「有棺無槨」の表現を 考古学の世界に持ち込む愚かな行為は 爆笑ものなの
324 :
doontakuka :2009/08/03(月) 15:21:14
棺は神、柩は仏。 甕棺は。。。。。。 壷は。。。。。。 それぞれ意味がある。 棺が只の箱というのはあまり頂けない。
325 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 15:25:29
両先生、考安陵の南東に前方後円墳がありますが 誰の陵に比定されているのか、ご存知ですか? どうしても知りたいのですが?
326 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 15:28:55
>>324 ただの箱であり、器ですよ。
ただそこに意味を持たせるのは「生活環境」
漢字なんて全てそんなもの。
意味は、生活環境や文章のの数だけ存在します。
327 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 15:39:06
>>325 古墳の名称さえわかれば、ググッて見ればわかるんじゃないな?
328 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 15:44:55
>>327 掖上かんす塚古墳 です。
それがなかなか、困っているのです。!!
329 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 15:55:05
>>328 貴方が桂川さんでなければ、桂川さんに聞いてはどうでしょうか?
彼なら答えを知っているかも?
330 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 16:16:36
>>316 >トンデモというのはオマエの脳内の勝手な判断だ。w
>九州の卑弥呼の女王国が九州王朝の始まり。卑弥呼はその始祖だ。
・その証拠は?口で妄想を語るのは誰にだって出来ること。
>ただそのころ→239年ころは確立したばかりで、まだ完全的王朝の
>スタイルを固めていたわけではない。畿内の朝廷よりは勢力軟弱で
>規模も小さかったことは疑いない。
<魏志倭人伝>
【卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人】
【以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入】
歴代の天皇と比べて、どこが見劣るのでしょうか。
卑弥呼は、九州の北部のみの女王ではなく、「西日本全体」の王様だったのデス。
九州の一部分とか、小規模の村の王様ではありません。
>こんなんだから、途中断絶的危機
>もあったようだが、風前の灯火的状況を乗り越え畿内の文武天皇の
>前後まで持ちこたえた。そして九州王朝は滅亡したということ。
・それは幻です。
わたしも以前同じよなことを考えだった。
みんな通る道なんですよ。 なつかしい!
>オマエは〜
・以下、意味不明
331 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 16:26:48
332 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 16:32:05
さっきは、ごめんよ〜河童虫 くん しかし、もう少し本を読んだほうがいいのは間違いナイ〜。 最近、そんなことも知らないのか?て感じること多いゾ
333 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 16:32:41
行橋に居るのなら、海岸沿いにある簑島に行ってみたら 後で役にたつかも?
334 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 16:43:17
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、K齒國復在其東南、船行一年可至。 又有太國在其南、人長二三尺、空行十年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
335 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 16:54:48
>>333 歴史資料館の館長さんが考古学専門で
「御所ヶ谷神篭石」は邪馬台国ですか聞いたら、
それは絶対ありえないとか言ってたなw
土を地面に向かって掘るにつれて、奈良→飛鳥→古墳→弥生の地層があり、
「御所ヶ谷神篭石」は、奈良とか飛鳥時代の地層から見つかったモノらしいよ。
まあ、はじめっから邪馬台国の跡とは思ってないけどw
336 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 17:02:20
>簑島 もう少し早く言ってくれないと駄目じゃん〜w ていうか、歴史資料館行って体力消耗してしまってる。
337 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 17:10:24
>>336 彼は六分以内にアドバイスしているのだが、これは決して遅くは無いと思う。
338 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 17:16:35
>>337 遊びでここにきてるわけじゃないんだよ。
たまたま、昼ごろに時間あいてたから歴史資料館へ行っただけで、
それに、もうすぐ会議始める。
終わったら、すぐ帰宅せねば・・・明日もあるし。
339 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 17:25:38
>>338 遊びだろうが仕事だろうが関係無し。
>>もう少し早く言ってくれないと駄目じゃん〜w
この発言がおかしいのである。
会議などに行かず、出席者を呼び集めた方が良いような気がしないでもないような気がするw
340 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 17:25:49
おじちゃんたち、お仕事しないの?
341 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 17:27:02
342 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 17:28:57
歴史資料館に何をしにいったかて? そんなの決まってる。 ここの王が居たような跡があるのか。 「御所ヶ谷神篭石」の出土品を見に行ってきた。 それと、この付近の墳墓からの出土品も・・・。
343 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/03(月) 17:30:34
>>339 君〜自己中だなw
それに、そんな偉くねーよw
344 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 17:56:59
九州説はひとつひとつが特殊なんです。 個人個人の妄想についていけません。 九州説は九州説を纏められるようなルールを定めろ! 個々に勝手な事をいうな。 恐らく九州説の誰もが、畿内説と一緒に「他九州説が馬鹿に見えているよ」
♪一人に 一つ だけの 説 ♪一つ一つが オンリーワン〜
346 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 19:45:36
>>344 何処がどのような妄想語っているか、具体的にあげてみそ。
347 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/03(月) 19:46:19
>>330 証拠だと〜ww とうとう 証拠などど言い出したか〜。ww
オマエもそうでないという証拠を持って来てからそういうことを
言え。
そうだろうww オマエはクルクル論説が改められるわけだから、
今の主張はいずれ論説が変わりデタラメだということになるからな。
まぁ河童さんの忠告でここで止めにする。オマエの覚醒を期待しても
盲象が強いからなかなかそうならんだろうが、辛抱強く待ち
望むか? ハハッww
348 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 19:52:20
九州説ですが、正直言ってどこの説もそれなりの理由あるしなあ。 自分は山門郡説だけど、それほど強く主張するつもりもない。 完全ではないにせよ、記述や条件がピタリとはまるなら そちらに乗り換えてもいいと思ってる。 でも、いまのところ畿内説は余りはまるところがないなあ。 ゆるゆる九州説の戯れ言でした。 日向、畿内は古墳に異様に執着しているが、 北部九州はそれほど執着していない。 いくらか古墳はあるけど。 それより、男王でまとまらず台与でまとまるということから、 女王というか、女神に執着している用に見える。 んでもって、古い神社の主神が女神のところをいろいろと 調べているのだが、まだ何となく地域の相関があるようなないような というところ。
北九州は伊都の比定の時点で破綻してる。 伊都を糸島なり佐賀にするなりしても、 そこから水行陸行と何ぐるぐる回ってんの?ってことになってしまう。 これは誰が見ても変。 昔、誰かが観光してるからそれだけ掛かったなどと戯言を言っていたな。
>>332 昔、そうプラム時代の時に、二十冊ほど何度か繰り返し読んではみた事あるけれど
……
当時はそれなりに真面目に読んではいたけど
今は金貰っても読む気にもならない。
こう言っちゃなんだけど
多分、私がここに書き込んでるネタの方が
新鮮だと思うし、マニアにはたまらないネタじゃないかな?
351 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 20:09:08
>何処がどのような妄想語っているか、具体的にあげてみそ。 だから君には山門郡説は論外だろ。 ついでに韓国陸行説も頓珍漢に見えるだろ。 君以外の九州説のひとつひとつが特殊だろう。お笑いだろう。 恐らく九州説の誰もが、畿内説と一緒に「他九州説が馬鹿に見えているよ」 いってる事伝わらないかなー……。
352 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 20:10:21
夏休みなのに人が増えないね。
353 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 20:16:10
354 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/03(月) 20:17:28
九州説だと1国の範囲が小さくなるから、邪馬台国の位置として 例えば豊前1国とか筑後1国を当てはめても、誰も納得しないからなぁ。 勢いピンポイントの比定になって、倭人伝のアバウトな書き方に振り回されて 九州説論者が百人いれば、比定地が百カ所にでもなるような感じになるわけだな。 対して、畿内説だと1国の範囲が相当広いことになるから、 倭人伝のアバウトな書き方をかえって逆手にとることができてしまい、 大和1国でございと出してきても、皆納得してしまうんだろう。 ピンポイントの位置は考古学的資料でどうにでもなるしな。
356 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 20:37:18
最近の畿内説は殆どがピンポイントで巻向になっている。
記紀によると、崇神〜景行の代にヤマト王権は畿内から勢力を伸ばし、 南東北〜九州を勢力範囲に収めたことになっている。 つまり、崇神以前のヤマト王権の勢力範囲は畿内にとどまると理解できるわけだが、 モモソ媛を卑弥呼に比定する場合、北九州はどういう位置づけになるわけ? まさか、飛び地ですか? それとも記紀の記事のうち、大まかな歴史の流れは作り話として否定した上で、 系譜記事のみ真であるとして採用するわけ? この辺り、畿内説の大きな矛盾だと感じるんですが。
358 :
355 :2009/08/03(月) 20:45:02
>>356 うん、考古学的発見によってね。
あくまでも倭人伝の解釈で比定しているわけではないし。
359 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 20:57:07
>>353 初めて来ましたが、コテって馬鹿なんですか?
360 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:05:03
>>359 1日中ネットに張りついてるやつが、まともなわけないじゃないか。君も大人になればわかる
よ。www
361 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:05:29
>>357 九州には伊都があるでしょ、その伊都は女王国に統属するとあるからな。
363 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:16:38
>あくまでも倭人伝の解釈で比定しているわけではないし。 だから、倭人伝の径百余歩の墓の解釈で比定しているんだよ。
364 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:18:28
箸墓は卑弥呼の妹の墓。 邪馬台国は九州にあり、当時畿内は卑弥呼の妹が仕切っていた。 これなら、邪馬台国と同時代に畿内にも高い文化があったとしても 矛盾しない。邪馬台国とヤマトは姉妹国だったのだ。 これで全ての謎が解けた!
365 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:20:03
>>290 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
はて?
「二十四節気」みたいに一年を24に分ける暦法?
無論、農耕暦、自然暦と言う物はあったろうが
その暦法とは具体的にどんなものなんだ?
どの地域でいつの時代に使われ
今に伝わっているのかいないのか・・・等々言わなきゃそれこそお前さんの「脳内暦」だw
例えばアイヌなら
正月 トイン タンネ …長日の義
一月 ハプラプ チュプ …鳥出て啼く月
二月 モ キウタ チュプ …始めて草根を掘る
…と言う暦があったことが分かっている
(ただしこの12ヶ月の体系は倭人の暦法にかなり影響されており
原型はかなり月の長短があったと思われている)
366 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:25:40
367 :
365 :2009/08/03(月) 21:27:34
それと…
>>290 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>その名残は今も、宮中行事で受け継がれている。
>天皇が相撲の天覧をするのも、農耕行事の一つ
確かに記紀に力士の起源とか出ているし
近々では昭和天皇が相撲ファンであった事はよく知られるところだがw
江戸時代の大相撲なんか庶民の見るもので
天皇が見たなんて話も聞いた事が無い。
そもそも、ぶっちゃけた話、相撲取りなんて
「飲み打つ買う」の三拍子揃ったヤ○ザ者だよw
明治の文明開化で大相撲も危機にひんし
慌てて力士のイメージアップに努めたとか言う話も聞いた事があるがw
それとも宮中で天皇の前で行事として相撲が行われていたのか?
なんと言う行事でいつの時代まで行われていたのか?後学のために教えてもらえないかね?
>>365 >その暦法とは具体的にどんなものなんだ?
どの地域でいつの時代に使われ
例えば現在でいう1月だったら
睦、霞初、暮新、太郎、子日、初春、初空、早緑、年端 当然漢字は構成にふられたものだろうけど
列島の農耕従事者が使っていたものだろう
369 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:36:12
>>357 開花(大毘々)には、 丹波大県主由碁理の娘、竹野比売(壱與)って嫁がいて、生まれたのが比古由牟須美命。
ほかに、伊迦賀色許売命との間に、御真木入日子印恵って子がいるんです。
つまり、大毘々の後を継ぐのは、比古由牟須美命か御真木入日子印恵だったのです。
そして御真木入日子印恵が勝ったんです。
国押人
賦斗邇
国玖琉
大毘々 等の「おほやまと(邪馬台国)」は印恵に滅ぼされたのです。
おほやまとたらしひこくらおしひと
おほやまとねこひこふとに
おほやまとねこひこくにくる
わかやまとねこひこおほびび 等が邪馬台国の王だったのです。
370 :
357 :2009/08/03(月) 21:39:56
>>361 江戸から長崎までは、曲がりなりにもちゃんと江戸幕府の勢力下だよ。
>>362 いや、それ答えになってないから。
山陽、山陰地方とかが勢力範囲内に入っていないのに、
飛び地の北九州だけ勢力範囲内って言われてもな。
とにかく、モモソ媛=卑弥呼とかの畿内説は
ヤマト王権の勢力範囲拡大の順序に矛盾をきたしていると考えられるよ。
371 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:43:31
>>368 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
要するに
現在使われているそれらの名称の元になった物
=中国からの暦法以前の日本オリジナルの暦法
…があったという想像だけの話なのかい?w
例えば春先山肌に残った雪が 馬の形に見え
そこから「駒ケ岳」と言う名がついた…なんて話は、まあ自然暦の残滓と言えるのかもしれんが
お前さんの言う 「謎の農耕暦」 は姿形が全く見えてこないwwwwwwww
372 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:45:06
>>357 印恵は畿内の邪馬台国の実権を握った後、
それまでの、邪馬台国連合國である北九州をも、攻撃する必要があったのです。
373 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 21:56:01
おまえら、まだまだ邪馬台国に対する思い入れが足りすぎる! 卑弥呼になるまで泳げ!
374 :
355 :2009/08/03(月) 21:58:10
>>363 これは、俺の書き方がまずかったな。正しい意図が伝わっていない。
その巻向説は、行程記事の解釈で持って行っているわけではない
と言いたかっただけなんだ。
あくまでも畿内説の場合、行程記事で特定する場所は畿内大和までで、
その範囲内の特定の場所に比定するのは、行程記事には依っていないってこと。
>>367 >それとも宮中で天皇の前で行事として相撲が行われていたのか?
相撲という形になってからはないでしょう。
相撲は昔から庶民の行事だし、
庶民が決して忘れてはならない暗く辛い過去を、相撲という形で残してきた
訳だから
しかし、相撲が農耕行事の一環をになっている限り
天皇家の力でそれを廃止する力は加わらず、永遠に後世に受け継がれるであろうと
天皇家を利用した庶民の伝承の知恵
だから綱は神社のしめ縄と同じ作りであり、まわしの前に垂れさがる紐のようなものまで真似ている
横綱は綱をしめて神社に必ず奉納し、
弓取り行為は、稲を収穫した後の作業工程となっている。
記録には現在の七夕の日に相撲が行われたが、後に七夕という全く相撲とは結びつかない
行事として後世に残した。
(後は自分で調べて見てよ)
私がここでしゃべれるのはここまで
376 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 22:34:55
377 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 22:36:36
>>375 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
一から十まで想像だけのお話。
あいも変わらず具体性のかけらも無い。
せめて雄略が采女に相撲をとらせた…ぐらいの話は出すかと思ったがwwwwwww
>>360 世の中には一日中ネットに張り付ける環境の人もいるんだよ
自分を基準に世の中を見ちゃだめだよ
379 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/03(月) 22:43:17
江戸時代の相撲取りは、大名に抱えられていた。 宮中で御前試合が行われてもおかしくない。 明治に大名が居なくなると、食い詰める。 大相撲7日の時代も遠くなり。
380 :
縦目仮面 :2009/08/03(月) 22:44:37
>>376 >おまけに相撲は15日目が千秋楽です
座布団15枚
おまけに千「秋」楽
>>377 >せめて雄略が采女に相撲をとらせた…ぐらいの話は出すかと思ったがwwwwwww
あんたも相当なおまぬけさんだね
そんな誰でも知ることが出来る話なんて出して何が面白いの?
そんな知識なんて なんの価値もないただの自慢話な(私はこんな記事も知っているんだぞ。という)駄文じゃん
今までそんなことばっかりしているから
何にも話が進まないんだよ
もうそろそろ 知識の自慢大会は止したら
掲示板なんて、日常では知りえないドキドキ感が必要なんだよ
383 :
365 :2009/08/03(月) 22:55:45
確かにあったようだなw
以下適当にググったサイト。
河童が言うように今に伝わるものかどうかは分からないし
農耕儀礼的色彩というのもどうにも分からないが…
>
http://heianjiten.fc2web.com/gosekku.htm >奈良時代に宮廷や貴族の間に取り入れられ、民間にも普及した。
>古来の神祭の日としての天皇相撲御覧と文人による七夕の賦詩の宴が行われていが、
>平安時代になって、相撲の儀は変更されて星の祭りとして盛んになった。
しかしこれも「節句」と言う中国から輸入されたものだよなw
自然発生的な「農耕暦」とは話が違うと思うがwwwwwwww
384 :
縦目仮面 :2009/08/03(月) 23:06:36
「暦」という言葉を使うからおかしくなるのだと思いますが。中国暦導入以前の倭人に天文 計算による「置閏法」は無理でしょう。もちろん天文観測によって、日の出の位置から二至 二分を知ったり、月の朔望によって日を数えたりはできたでしょうが、それは暦とは違うもの ですね。
>>383 >自然発生的な「農耕暦」とは話が違うと思うがwwwwwwww
自然発生的なものなんて一つもない
物事には必ず意味があり、意味があるから今まで残るんだよ
実際に田を耕し、稲を育て生活してみればわかることだよ
今でも「フジク」に種蒔くな なんて伝わり伝承されている
386 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 23:10:56
>>382 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
ん?
「物知り自慢」なんてネットで検索すればたいていの事はその概略ぐらいなら知りえる現在死語だなw
しかし話しに具体性を持たせるには何らかのネタを引っ張ってこねばなるまい?
しかも相手が訳の分からない「暦」を言ってるんだから
こっちである程度の具体的イメージの雛形を提起でもしなけりゃ話が進まないwww
知的興奮による「ドキドキ感」ならともかく
フィクションによる「ドキドキ感」なんかいらんわw
最もお前さんのレスはそのドキドキ感も無いが
>>311 で関裕二とかをネタにしているが
スト-リーテーラーのお手本にしたほうが良いんじゃないかな?wwwwww
387 :
縦目仮面 :2009/08/03(月) 23:19:33
欽明14年(553)に百済から暦博士を勧請していますが、実際に律令として暦博士の制度 が整ったのは8世紀。それだけ日本人が暦法を習得するのに時間がかかったようです。 日本最古の暦として出土しているのは、持統3年(689)3月4月の木簡。もちろん中国の元 嘉暦です。 日本古代において占星術、あるいは星の神話が未発達であるのは、自国で天文計算による 暦法を考案できなかったせいもあるでしょう。
388 :
日本@名無史さん :2009/08/03(月) 23:29:57
>>385 >実際に田を耕し、稲を育て生活してみればわかることだよ
まあ農家だったら古代のその「謎の暦法」を知りえるのかって話で
言ってる事が無茶苦茶だなw
俺も現在兼業農家ですらないが餓鬼の頃はよく農作業は手伝ったが…
農作業経験による季節の感性云々と古代暦法の話は全然別wwwwwwwww
と、
>>386 は言ってるけど
>しかし話しに具体性を持たせるには何らかのネタを引っ張ってこねばなるまい?
そんなもの必要ないよ
私は私の話に興味の持てる前向きな奴に発しているのであって
私の書き込みをヒントにしてもらえたら「最高だな」ぐらいの気持ちで書いている
だから余計な提示はいらない
ヒントに具体性なんて必要ない。具体性は興味を持ったものが見つければいい。
私は具体的な根拠があっても
一切提示する事はないでしょう。
こんな掲示板で論証やったところで、誰が見ているか分からない世界だよ
その位の用心はしているよ ネットだよ
390 :
縦目仮面 :2009/08/03(月) 23:45:28
唐松山さんは、「暦法は天皇家の秘事であり、種蒔き、刈取りの時期を農民に教え、種籾 を貸すことによって権勢をのばしていった」 とか以前いっていましたが、ちょっと考えられま せん。渡り鳥、芽吹き、開花などの生物季節と二至二分の観測で古代農耕には十分だと思 います。 春分の日の出の位置→観測軸としての神社→レイライン・・・いかん、オカルトだ。
391 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/03(月) 23:46:47
>>360 >1日中ネットに張りついてるやつが、まともなわけないじゃないか。
僕は一日中ネットに張り付くのが仕事です。
最近2chに張付く時間は短いが。
自分を基準に世の中を見ちゃだめだよ
>>388 >農作業経験による季節の感性云々と古代暦法の話は全然別wwwwwwwww
そりゃもっと百姓やった方がいいよ
一俵1万5千円ぐらいで百姓やれというのは酷な話かもしれないけど
百姓の暦は暦法なんて法則じゃないんだよ
一年(実りの収穫)にたどり着くための生活の知恵が法則という形に変化したに過ぎない
それを肌身で感じて子に伝承する。
それが本当の古代から伝わる歴史。学問じゃないんだよ
力士の埴輪があるということは
>>391 >僕は一日中ネットに張り付くのが仕事です。
最近2chに張付く時間は短いが。
そういう環境が作れたらと何度思ったことか
でも、そんな環境出来たらたぶん今頃一文無しの世界かも
私は仕事の合間に盗み書きや、副業が丁度いいのかも
396 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 00:02:35
暦作成のための天文計算が難しかったことは、和算の歴史からもわかるでしょう。万葉集 には九九を扱った歌があり、平安時代には算木による計算法が発達しましたが、ごく一部 の専門職にとどまり、「今昔物語」では呪術の一種としてみられていた描写があります。ま た大規模古墳造営にはある程度の幾何学は必要だったでしょうが、それでも中国の数学 史とは比べものにはなりません。 これらはかつて、太国氏と倍暦議論をしたときに調べたものですが、2chも使い方によって は勉強になりますよ。
397 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 00:12:37
>>392 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>それが本当の古代から伝わる歴史。学問じゃないんだよ
学問文系日本史板の全否定だな…お前ここに何をしに来てるんだ?www
つうかはっきり言って
「俺にはこんな経験があるお前らは黙ってろ」
式の理論に詰まって逆ギレのような発言みっともないから止めておけって話だなw
この話以外にも
「俺は地主の特権で発掘調査に加わった事ある
銅鏡の変色はそりゃ見事だった…
考古学語るならそれぐらいの経験してこい」
…てな話も持ちネタだろ?(いつも思ってたがw)
そりゃお前が貴重な体験したのを認めるにやぶさかではないが
それと考古学的なお話は別。
それを言うのなら文献史学も考古学も言語学も素人のお前も黙ってろって話だなwwwwwww
>>397 >学問文系日本史板の全否定だな…お前ここに何をしに来てるんだ?www
何しに来たって俺の自由だ 誰にも文句を言われる筋合いはない
人に逆ギレするなと言っといて、自分でキレてどうすんのよ?
それってお笑いネタ?
それによくそんな古い話引っ張ってまでネタにするね?
気持ち悪いからよしてくれない、なんだかストーカーに尾行されてるみたいだよ
だからネットで全てなんて話せないんだよ
399 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 00:37:04
で、結局この河童虫とか言う暦がどのようなものであるのかさっぱり分からないw
どうも自然現象の観察、鋭い洞察から来るものっぽく
かつ河童虫はそれを体得しているみたいだがwww
河童は暦の無い世界に放り出されても百姓やっていけそうだなw
「日を知るもの」まさに聖(ひじり)wwwwwwwwww
>>398 もしかして自分が「発掘ネタ」書き込んだのが一回や二回とか思っているのか?w
>>396 >これらはかつて、太国氏と倍暦議論をしたときに調べたものですが、2chも使い方によって
は勉強になりますよ。
それは縦目さんが前向きに調べたからこその結果です。
太国さんが貴方の前向きな本質に切っ掛けを与えてくれただけ
全ては貴方の前向きな姿勢から生まれた結果です。
401 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/04(火) 00:46:02
>>348 山門郡説ですか、私の説に近いですね。
参考、共感するところがあればよいですが♪
>古い神社の主神が女神のところをいろいろと
面白い着想ですね。何かあれば面白そうですが。
# 最初「神主が女性」と読み間違えていましたw
ちょっと話が違いますが、山口の古墳を見ていたら4つほど女性(女王)のものがあるらしいです。
平生の神花山古墳、秋穂の兜山古墳、山陽小野田市の妙徳寺山古墳、山口市の新宮山古墳
残念ながら時代は卑弥呼の時代よりずっと後のようです。
4つというのが多いのかどうか、ちょっと分かりませんが、
「女王」の伝統が残っていたりしたのかもなどと思ってしまいました。
>>399 >河童は暦の無い世界に放り出されても百姓やっていけそうだなw
「日を知るもの」まさに聖(ひじり)wwwwwwwwww
何をおっしゃる兎さん
私が感じるのは、先祖から蓄積されたものが伝承されているから
経験と交わる事によって感じることができるんです。
歴史は一代で築くものではなく 代々受け継がれていく蓄積です。
長い年月が一つの体系を創り出すのです。
>もしかして自分が「発掘ネタ」書き込んだのが一回や二回とか思っているのか?w
百回ぐらい言ったかな?
だからそのストーカー的な行為は気持ち悪いって言ってるだろう。
過去を掘り返してネチネチと 気持ち悪いったらありゃしない。
403 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 00:54:36
>>396 >平安時代には算木による計算法
そういえば干支の早見で干支が刻された六角形の木に
ピンを差し込む形のものがあったな…。
実を言うと例の欠史八代の没日についても
そう言った一種の「アンチョコ」が編纂者の傍らにあったのではないのか?
・・・と想像しているwwwwww
404 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 00:58:15
405 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 01:13:48
>>402 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
まあ「発掘ネタ」をなんで覚えているかと言うとだなw
先ず銅鏡が出土した時から見る見る変色すると言うのは始めて聞いた事で印象に残ったと言うのが一つ。
それとこれが河童虫と言うコテのキャラ・スタンスをよく表す話だと言う事でも記憶に残りやすかったとw
自説を裏付けるソースの提示はわけの分からない事を言って拒むくせに
(まあそれが相手の学習機会を奪わないようにと言う親心なのか
はたまた単に裏づけの根拠をはなから持っていないハッタリ半蔵君なのかはしらんがww)
そう言う自身の経験はしつこく繰り返すとwwwwwwwwwwww
406 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 01:16:50
太国さんがいつも出してくるあの表にしても、文字のない時代の大王の即位日とやらを、語
り部が全部干支で記憶していたものなんですかね?
モンゴル旅行は本当です。「元朝秘史」の異本に「テムジンは地中の黒き蛇の軍団を手なず
け・・・」の記述があり、これは「モンゴリアン・デスワーム」現地名「オルゴイ・コルコイ」のこと
です。ww砂漠に消えたりはしませんよ。(オカルト全開)
http://page.freett.com/Umania/orgoi.html
407 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 01:23:14
>>405 親心でも半蔵君でもどっちでもいいよ。
半分ぐらいしか出していないのは事実だし、「書いた事が全て」も
掲示板のデフォだから
後は相手がどう受け止めるかだよ。
私のレスを見た千人の内たった一人でもいいから、私の書いた内容に興味を持ってくれる
事を願って書いている。
私は間違った事は書くかも知れないが、真実をしりながら捩曲げてまで嘘を書いた事は一度もない。
確かに「暦」と言うから変な感触を得るのかもしれない。 農事カレンダーは 「年(実り収穫)」だけが最大イベントで、現在の「日」に相当するのは 「実り(年)」……→「睦」→「霜初」→「暮新」→…… 「二度目の実り(年)」→… などの行事を繰り返し積み重ねる そこには現在のような「日や月」は存在しないし、百姓は無学故に 計算や繰り上がりを必要とするようなものは根付かないし、考えもつかない。 全ては体験と行事の繰り返しが日々の生活 そして「みのり(年)」がおとずれる。
410 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 08:09:08
暦は、次の一年についてのある種の予知というか未来予測といえるかもしれません。民衆 支配のための一種の装置とも。マヤ文明の神官が、当時世界最高水準の暦を作ったこと と、毎日太陽への生け贄を捧げるほど強大な権力を持ち得たことは無関係ではないと考え られます。
農耕民族にとっての農事カレンダーは、実りへの基本姿勢であり目安です。 「月、日」などの単位分割が必要なのは 農民ではなく、他文化との接触や知識を身につけた支配層側 その接点が「年(実り)」
412 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 10:42:01
「吉野ヶ里考古学講座(8月)」を開催します (財)佐賀県芸術文化育成基金では、吉野ヶ里遺跡の発掘調査の成果、弥生時代の生活・技術・交流、『魏志』倭人伝の国々など様々なテーマで、毎月、原則第2土曜日に吉野ヶ里考古学講座を開催していますが、8月は下記の内容で開催します。 記 1 開催日時 平成21年8月8日(土曜日) (受付)13時00分〜 (講演)13時30分〜15時00分 2 開催場所 吉野ヶ里歴史公園内 弥生くらし館 3 講演テーマ 邪馬台国―「イト国」から「ヤマト国」 4 主な内容 邪馬台国九州説・近畿説を問わず重要視されるのが、現在の福岡県前原市あた りにあったイト(伊都)国の存在です。 今回の講座は、「イト(伊都)国中心の倭国が北部九州で形成され、その勢力が2 世紀末に奈良盆地へ移動して邪馬台国が生まれた」とする邪馬台国東遷説につい て、その提唱者である柳田康雄先生に語ってもらいます。 5 講師 國學院大學文学部 教授 柳田康雄さん 6 定員 50名程度(事前申込みは不要です) 7 聴講料 無料 (ただし、別途、吉野ヶ里歴史公園の入園料・駐車料が必要です) 入園料 一般大人400円 一般小人80円 駐車料 普通車300円 二輪車100円 8 お問い合せ 佐賀県教育庁社会教育・文化財課 吉野ヶ里遺跡担当 TEL 0952-25-7233 ※当日のお問い合せ 吉野ヶ里遺跡展示室 TEL 0952-52-4130 9 主催 (財)佐賀県芸術文化育成基金 (吉野ヶ里遺跡保存整備特別会計)
413 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 10:45:18
太国さんが言われるように、欠史八代の事跡に 15日までと言う偏りがあるのは、 それまでに、大陸から二十四節気の概念が入り込んだと、考える事ができる。 ★立秋一日、立秋二日、……立秋十五日、処暑一日、処暑二日 と 列島内で使われていた農事カレンダーと、大陸から入り込んで来た 二十四節気は、 それほど違和感なく溶け込む事が出来たのではないか?
414 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/04(火) 11:10:48
>>406 奈良東大寺古墳の中平刀の銘文の中平年は孝靈天皇の代ですから、すでに文字は
畿内に来てましたよ。
415 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 11:18:22
>>413 農作業は二十四節気に関連し、創られた雑節を利用したようです。
416 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 11:25:19
いったい何人ぐらいの専門家が毎日覗いているのだろいか? ま、これだけ知名度の高い掲示板だから 0という事はないだろう。 特に何かイベントした後とか、著書を刊行した時なんかは、気になって気になって書き込みもしてるんじゃないかな? 2ちゃんの影響力って結構あるから 刊行内容に不利な書き込みなんかあった時なんかは 刊行前から 夢中で否定しまくってたりして(笑) あとは 引退教師なんかもそのたぐいかな? 今まで教壇で教えていた事を、2ちゃんで全否定されたら プライド傷つい ちゃうかな?
417 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 11:27:52
>>413 八十八夜の八十八は米の事だそうです。
霜を避ける種まきに最良の日だそうです。
418 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 11:46:49
>>417 でも、米は玄米からが米で、種は「種籾」と言って
米は種籾の籾殻を取らないいと、米にはならない。
あるいみ
米と稲作りは別なものだよ。
籾は稲の一部であって
種籾から苗、そして稲穂へ稲穂から籾を取りまた種籾を蒔。
米なんて何処にも出てこないんだ。
だから八十八夜と米を結び付けるには無理が
419 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 12:03:05
420 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 12:27:15
>>419 「米寿」を(こめことぶき)と言うかな?
言わないよね。
だったら
八十八夜の「こめ」とは全く無縁のものだよ
そもそも「米」と言う漢字に“こめ”の意味はない。
421 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 12:30:21
422 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 12:36:53
それに 「米」と言う文字を分解しても、遊びの世界以外では“八十八”にはならない。
じゃあなんで八十八夜と言うの?
424 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/04(火) 16:52:01
茶摘みは八十八夜 くさかんむりを被った八十八。
425 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 17:25:29
>>423 稲の出穂が田植えから八十八夜を越し出る事を忘れない為だよ
今はハヤバで五十日で出穂になる品種もあるが
通常の晩モノは80〜90日。
古代の知恵から生まれた
稲作の記録。
>>417 も、決して間違いではないけど
米作りと稲作は別物だし、しかも立春より八十八夜では、二十四節気伝来より後の事象になっちゃうからね
426 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 17:38:16
>>424 >>417 が言ってる霜をさける意味こそ「茶摘み」そのものだよ
茶が伝来してから
記録の意味で、立秋から八十八の夜を越し茶を摘む
茶葉にとって霜は絶対×だし 霜は夜越しだから
427 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 17:40:15
八十八夜は二十四節気ではなく、日本独自の雑節ですよ。もちろん二十四節気伝来後の ものです。
428 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 17:40:19
>>426 訂正
立秋……×
立春……〇
m(__)m
429 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 18:05:13
>>427 だから
立春より数えると、限定条件をつけたのです。
稲作には「夜」は必要ありませんから
稲作は八十八
茶摘みは八十八夜
430 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 18:15:22
夜は、一日の始まりを夜から数えていた時代の名残ですよ。
431 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 18:58:30
まあ、現在も午前(夜中の)0時が1日の始まりであるのは、地域によって日の出、日の入り の時間が違うからですね。
432 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 19:11:56
「米」を分解し八十八とする意見を取り入れれば 米作りは“出穂”から始まる。 出穂の八十八日目に「米」文字は完成し、ここから精米までが 米作り。 稲作は、種蒔きから田植え後八十七日まで
433 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 19:29:39
しかし古代は、東が西よりも日の出が早い事を確認する事など 出来なかったし、そんな知識すらもなかった。 と言うより、そんな事知る必要もなかった。 自分の周りが明るくなれば、全て明るい
434 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 19:53:24
八十八夜が節気となったのは、そんな古代のことはありません。あと、茶の伝来は奈良時 代であり、日本で一般的に栽培されるようになったのは、ずっと後です。
435 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 19:58:37
>>434 茶が一般的になったのは室町期だったかな?
だから茶摘みの八十八夜は室町後期〜江戸期だろうね
436 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 20:07:48
暦の二十四節気や七十二候は中国生まれですが、八十八夜や入梅、土用等は日本生ま れ。日本での実生活上の必要性から暦に記載されるようになりました。 日本の正式な暦に八十八夜が記載されるようになったのは、渋川春海による貞享の改暦 (1684年)からだといわれています。もっとも、すでに伊勢暦などにはその記載があったと いうことです。しかし、どんなに遡っても江戸期に収まるものだと思います。
437 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 20:20:24
八十八夜という言葉はもっと前からあったかもしれません。
438 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 20:21:56
>401
当方の戯れ言を気に留めていただいてありがとうございます。
http://yamat-2007.blogspot.com/ も拝見させていただきました。比定地に関して様々な考察、参考になります。
当方佐賀市在住で筑前筑後肥前伊都 辺りまではよく走り回っていますので今の状況ならある程度わかります。
文献や遺跡についてはコテの先生方が深い考察をされていますので、参考にさせていただくだけで、
意見が出来るほどの知識は持ち合わせていません。ただ、現地に行ってこの場所は住みやすそうだなあ、
とか見物しているだけの素人です。
で、そういう知識のない当方としては、土地勘と現地の状況から、新しい視点がないものかと
いろいろ試してみたりしています。同じことやっても面白くないので。
筑後国府、肥前国府、太宰府政庁がだいたい道なりで30キロくらい離れていますからある程度統率できるのは
ちょっと重ねて20キロ圏内位なのか、とか、そうなると、瀬高、南関辺りにクニがあってもおかしくないな、とか
伊都も独立していただろうな。とか考えていたりします。たとえ征服されても、代理の政庁は置かなければならないでしょう。
久留米を見ると、甘木朝倉、福岡、佐賀、筑後方面の中心地にあるわけでここを支配下に置くとなると、
相当の戦力が必要になります。地図を見ると、4方向から殆ど無防備で、戦の観点からすると
うんざりする場所です。そのため、どの勢力がとっても長続きしません。
ここが発達するためには4方向の勢力を統一した国となるか、共通の不戦地域の条約でも締結しない限りあり得ません。
が同時に共通不戦地域になれば交流交易にはかなり都合の良い場所となります。
水運も可能ですしね。それまでに相当の血が流れたのではないでしょうか。
卑弥呼共立と言うことですが、周辺勢力にもしこういう経験があれば、共立も比較的やりやすいのではないかと妄想してます。
卑弥呼を共立したということは、大王は穴兄弟だったということだろう。 現在の常識では考えられないことだけれど、そうやって、一番生命力の 強い精子だけが子孫を残した。DNA鑑定などありえないから、卑弥呼の 子供がどの大王の子かもわからないので誰もが納得のいく方法だった。 まあ、実際には、目の色や髪の色、顔つきなどで、どの王の子供かすぐ 分かっただろうけれれど・・・表面上は全ての大王の子ということになる。
440 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/04(火) 20:47:16
「八十八」 八十八ヶ所巡り なども同じ意味で 意味は、“離れた場所の中継地”(細かな説明は省きます。) 稲作に使われた八十八は 途中出穂という変化を意味します。(種蒔き〜収穫までの中継地)
441 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 20:47:33
鬼道=房中術 説だなwwwwwwwww
442 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 21:16:20
>>440 ははあ、河童さんらしいレスで、俺には全然意味がわかりません。名無しで茶々を入れるのも
ちょっと難しい。
電波も度を過ぎると ツッコミさえ入れられなくなるっちゅうこっちゃねwwwwww
444 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 21:28:30
>>439 鬼道=乱交道
儒教の国、中国でも野蛮とされていた理由がわかる
>>442 >ははあ、河童さんらしいレスで、俺には全然意味がわかりません。名無しで茶々を入れるのも
ちょっと難しい。
たぶん誰にも理解できないと思う。
でも、少しわかってくると めちゃめちゃはまること間違いなし。
私はこれで3年以上はまっています。
今まで難しかった言葉や事柄が、あっという間にポンポンと解けちゃうんだから
まあマジレスすると 他者に対し説明する言葉を持たない 最初からその意思すら持たない… もうこの時点で学問でもなんでもないwww (「2ちゃんで何を言ってるんだ」ってツッコミありそうだがw) 単に脳内に広がる「オレサマワールド」を一方的に垂れ流しているだけwwwwwwww 「今のお前には理解できないだろうが 修行して体得すればスバラシイ世界が広がるぞ! 修行しろよ!修行しろよ!修行しろよ!修行しろよ!…」 トンデモとかカルトとかでありがちなパターンだなwwwwwwww
447 :
日本@名無史さん :2009/08/04(火) 22:02:04
448 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 22:31:15
449 :
縦目仮面 :2009/08/04(火) 22:47:12
448 考しました。→考察しました。 しかし、関係ないものを無理に結びつけるのは大変だな。上レスは冗談ですが、河童さん の苦労も少しはわかりました。
>>446 にとったら
そういうレス入れるのが趣味なんだろう?
>マジレス
趣味は真剣になればなるほど、味をますものです。
>修行しろよ!修行しろよ!修行しろよ!修行しろよ!…」
今時 朝原の真似して楽しいかい? もしかしてオウムの方ですか?
頼みますから
もうサリンなんてまかないでよ
>>448 常識に流されやすい昨今
いろんなことを考えるのは素晴らしいことです。
「八十八」だけ考えていても、一年なんてあっというまに過ぎ去るほど
古代から伝わる言葉はおもろいです。
>>449 縦目さんが興味を持てるようになってから、じっくりやってください。
世の中には「何気に」使っているけど
意味の分からない言葉がたくさん溢れています。
なぜ「二十歳」を(はたち)といい、三十歳を(みそじ)というのか?
なんてね
452 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 12:18:01
>そういうレス入れるのが趣味なんだろう? 違うと思うよ。 先ずは自分へのレスを否定しないで、一度その方のいっている事を考えてみたら。 自説に意地になっても仕方ないですよ。 客観的になってください。貴方が他人に感じる事は、他人も貴方に感じているのです。 気がつかないものですけどね。
453 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 12:36:05
>>452 >違うと思うよ
私に客観性を求めるにしては、かなり主観的な発言じゃありませんか?
その辺いかが?
>>452 自分へのレスを、否定から入るのもスタイルなんだよ。
百人いれば百通りのスタイルがあるように
ここは誰にも束縛されない、自由な掲示板だ。
犯罪的な書き込みをしたければ自由に書き込めばいいし、
書き込む事への制限のない場所だよ
掲示板には、自由と自由がぶつかり合う戦場だ。
455 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 13:17:26
>自分へのレスを、否定から入るのもスタイルなんだよ。 百人いれば百通りのスタイルがあるように あなたの師匠にも教えてやって下さいな。
>>455 自分の主張ぐらい、自分で行動しなよ
自分の小便ぐらい自分でトイレに行きなよ
457 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 14:20:41
>>446 河童虫氏がオウム信者に似てると思ってたのは、オレだけじゃないんだな。
北朝鮮にも似てるけど。
458 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 14:24:47
どっちにしろ、貴方のお墨付きは貰いました。 貴方のいう否定から入るのもスタイルで行きます。 文献からの引用のない世迷言は否定して行きます。
459 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 14:38:16
>>458 貴方の狙いぐらいはじめからわかってますよ
何か言質とりたかったんでしょ?
いいですよ
どんどん否定して下さい。肯定されつづけられるほど退屈なものはありませんから。
私も重箱の角をどんどんほじくり返しますから
460 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 14:41:43
>>457 期待に応えらるなくて残念だよ。
私はサリンの作り方知らないしね
461 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 14:41:59
「八十八」 八十八ヶ所巡り なども同じ意味で 意味は、“離れた場所の中継地”(細かな説明は省きます。) 稲作に使われた八十八は 途中出穂という変化を意味します。(種蒔き〜収穫までの中継地) これ、どこに書いてある事? それとも貴方の考えた事? 掲示板は自由と自由がぶつかり合う戦場。 だから貴方の考えた事なら、貴方が先に仰った通り、皆に否定されます。
>>461 >何処に書いてある事
八十八と書いてあるでしょ
否定するのも自由、肯定するのも自由ですよ
ただ、皆に否定されますよの「皆」は
いったい誰と誰?
まだ貴方一人でしょ?
一人しかいないのに、さも仲間を募った言い方をする意図はなに?
463 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 15:03:35
>>460 >期待に応えらるなくて残念だよ。
?何も期待してないけど。
貴君の言動がオウム信者に似ていると感じた者が最低限二人いたという事実確認だけ。
>>461 >貴方の考えた事なら、貴方が先に仰った通り、皆に否定されます。
いや、論理的に妥当な証明がなされれば、みな納得するよ。
ビートたけしの番組で、宇宙人と友達と言い張って、
大槻教授に証拠を出せと言われて出せない人がいるよね。
河童虫氏が否定されるのは、その人と同じだから。
464 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 15:06:05
河童さんに同調する人って誰かいるの? 師匠の事ですか。 一億人の中から5,6人減ったって、ほぼ一億人。 だから皆といったんですが、 ご不満なら「私」とでも訂正します。 いずれ私は否定します。 貴方が先に仰った通りに。 それでいいんですよね。
465 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 15:27:17
ただし、文献からに引用でしたら、 そのような記録がある事を否定は出来ません。
466 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 15:29:00
>>464 例えそれが犯罪であろうと貴方の判断で行動して下さい。
私に貴方の自由を奪う権利はありません。
ただ、私を否定するのは
なかなかパワーが必要ですよ
相手を倒す為には、先ず相手を知る事です。私から歩んでは行きませんから、貴方が先ずは動かなけるばなりません。
しかし、迂闊に一足一刀の間合いに入れば
当然私は攻撃しますよ。
467 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 16:17:56
>>463 貴方も意図的な文章を書く人ですね
>出せなかった。
それは貴方が個人的に感じただけですよね
「証拠提出がなかった」と書けば、少しは公正な感覚だったのに
はじめから「出せなかった」を強調する内容とは
「出さなかった」かもしれないですよね?
468 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 16:36:28
仮に「ださなかった」場合は、 ここにはもうワンクッション置いた表現となり、彼がなんらかの証拠を「持っていた、いなかった」かの 検証が必要になります。 仮に何かを持っていた場合、 そこから 「出せなかった」「出さなかった」「提出がない」 という 選択が用意されます。 はじめから私へのレスも、意図的に表現したかったのかな? ダーティーなイメージを植え付ける為の?
469 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 16:38:14
だったら証拠を出してみたら。手っ取り早く。 どっちにせよ、引用元を出せないんでしょ。 結果的には同じ事じゃん。
470 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 16:49:34
>しかし、迂闊に一足一刀の間合いに入れば 当然私は攻撃しますよ。 だから、攻撃も何も、貴方のいう内容の引用元を教えてよ。 結局、貴方の思いついた事を言っていたのですか?そいうのを事実とはいわないんですよ。妄想というのです。
471 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 17:15:39
日本の書物は どんなに遡っても八世紀なんです。 私の言ってる稲作りは、それよりも遠い昔の出来事 引用元があること自体眉唾です。 唯一、八十八と言う断片的な記録や言葉が残っているので そこから遥か遠い過去を探るしかないのです。 後は過去レスを参照下さい。
472 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 17:22:59
「八十八」 八十八ヶ所巡り なども同じ意味で 意味は、“離れた場所の中継地”(細かな説明は省きます。) 稲作に使われた八十八は 途中出穂という変化を意味します。(種蒔き〜収穫までの中継地) だから、これは貴方の思いついた発見なんでしょ。
,、、、----‐‐‐‐‐--、, / :ヽ / :\ ./ ,,,,;;::''''' ヽ / ,,,,;;::::::::::::::: __ ヽ | . __ '<'●, | |. '"-ゞ,●> .:: | | ::: :⌒ 、 | ヽ. ;ゝ( ,-、 ,:‐、) | へーすごいじゃん l.. | | | | __,-'ニ| |ヽ_ | ヽ: ヾニ| |ン" /__ .ヽ: | l, へ ::::ヽ, l.:`. / / , \ /ヽ ::\ `、::::: |  ̄ ̄\/ ノ :::ヽ |:::::: | ー‐/ / ::::\
474 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 17:34:49
>>472 誰でも辿り着けるものですよ
「八十八」や「八」と「十」と「八」や、昔の人は何故八十八と米文字を結び付けたのかを考えれば
ただ、始めから諦めて誰もしないだけです。
なぜ
“はちじゅうはちや”というのか?
八十八ヶ所なくても
八十八ヶ所巡りというのか?
九十九里なくても、何故九十九里浜と言うのか?
475 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 17:48:08
話を貴方の妄想へ逸らさないで、簡単に引用元を示して下さい。 史料事実を知りたいのです。 貴方の思いつくややこしい質問を投げ掛けられては、 投げ掛けられた方に失礼ですよ。つかれているんだから。 よくもまぁ、今までに拒否されないできたなぁ……。貴方の面倒くさい応対に……。 史料事実は、簡潔にお答えされる事をお勧め申し上げます。
476 :
◆P6rBQWtf4. :2009/08/05(水) 17:51:51
河童虫 ◆EY2wfgakAQさん 中々興味深いです。 西国33ヶ所巡りってのもあったと思いますが やはりその「33」って数字も仏教の伝来以前から伝わる事柄から来ているんでしょうか?
ソースは俺
478 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 18:00:00
河童さん 人の考えなんて千差万別です。 どれが正しいかなんて判断できません。 俺が正しい、だなんて思い上がらないで下さい。 残されている文献の引用元だけが検証できる史料事実です。
>>475 勝手に自分で探して下さい。 そして、疲れているのなら退場された方が体にはいいですよ
>>476 私もまだ 「33」には取り組んでいませんから
ここで詳しく説明することはできませんが、たぶん、一般的に語られていることとは違った意味があるはずです。
西国33ヵ所巡りも、本当に33ヵ所をもって33ヵ所巡りなのかを調べたらどうでしょうか?
「三」には(すべて)という意味があります。
それに、私の言っていることが全て正しいなんてことは断言しません。
「八十八」にしても
まだ解明していないことが沢山あり、最終的な見解までには至っていません。
ただ、ここまでは分かったというところまでは断片的に書き込みしていますが
先日レスした、実りへの「睦」→「霜初」→「暮新」→「太郎」→「子日」・・・
も、「睦」から「梅初」まで全部で(八十八)あります。が、
なぜか出雲地方だけ「神有」を加えて(八十九)あるのです。
未だに私もまだ解明には至っていません。
>>478 >人の考えなんて千差万別です。
どれが正しいかなんて判断できません。
俺が正しい、だなんて思い上がらないで下さい。
という貴方のその考えも正しい判断とは言えないと自分で言ってるんですね
「自分で自分の発言否定してどうすんだよ」
「自信持て」
481 :
アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)駆除推進委員会 :2009/08/05(水) 19:05:39
西国33ヵ所巡り? そりゃ観世音菩薩の化身のバリエーション(馬頭観音とか千手観音とか…)の数にちなんでだったと思うが? 88とか33とか河童虫流ゲマトリア(秘数術、聖書の666が皇帝ネロの暗示とか言うやつw)のお話なのか? うーんさっぱり中身が分からない… まあいつもの事だがwwwwwwwww
482 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 19:14:28
>「自分で自分の発言否定してどうすんだよ」 「自信持て」 だから話を逸らさないで下さい。 私の事なぞ考えなくていいのです。 千差万別の考えの中で、だれの考えが正しいかなんて判断できないのです。 ですが、文献の引用元は、私にも貴方にも改竄できません。 公平なのです。 文献で確かめられない妄想事項は、人を説得する上で、糞の役にも立ちません。
先程
>>476 さんから提示された「三十三」
私の知り得る範囲で
「三十三」の意味は、(全ての集合)と述べときます。
先程も書いたように、「三」=すべて
三が重なる事で“すべて”の意味がより強い意味に効果し、
「+」=基準に重なる
意味解釈は“集合”
三十三間堂なんかも、“全ての集合体”と言う意味が語源と考えます。
建物の長さが三十三間と言う意味でない事はたしかです。
西国三十三ヶ所巡りも、
指定寺院が何かの集合体になることを意味しているはずです。
吸収節で多少使えるのは、最近路線外れた河童虫ぐらいか?
路線外れすぎて、あっちの世界へ行ってると思うんですけど・・・
486 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 19:29:40
487 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 19:39:14
>「三十三」の意味は、(全ての集合)と述べときます。 先程も書いたように、「三」=すべて 三が重なる事で“すべて”の意味がより強い意味に効果し、 「+」=基準に重なる 意味解釈は“集合” なんじゃい、これは? この電波に耐えられないのは、若しかして私だけ?
488 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 19:44:52
>「三十三」の意味は、(全ての集合)と述べときます。 先程も書いたように、「三」=すべて 三が重なる事で“すべて”の意味がより強い意味に効果し、 「+」=基準に重なる 意味解釈は“集合” いきなり結論をいって、納得する者はいない。 どうしてそうなるのか? 確定できる史料を提示せよ。 根拠もいわないで、予言みたいな事しても意味はない。
489 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 19:46:06
490 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 19:56:29
これでは、巷の特殊な九州説と変わりないですよ。 それでいいんですか?
491 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 20:06:44
>>488 「私と貴方の最大の違いは」
私も最初貴方のような考えでした。
しかし、
どうしてそういう答が導き出されるのか、毎日自分なりに追究した事です。
自分で努力しなければ、忘れ去られた昔は蘇りません。でも、完全に忘れたわけではなく、何らかの形で受け継がれているのです。
無意識に言葉を使い分けているように
492 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 20:18:40
>どうしてそういう答が導き出されるのか、毎日自分なりに追究した事です。 そういうのを妄想というんです。
実はフェルマーの最終定理かも知れないぞ
学問なんて妄想から始まるんだよ。 それに知識をつけたり研究したりして 証明したり、破棄したりするんだ。 まあ、ディベートと教授の力関係できまる 学問の世界がないとは言えないが。
495 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 20:28:39
493 面白いよ。 笑った。
496 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 20:29:23
これ、半日ずっと言い合ってたんですか?自演じゃなく?すごいな。ww 別に根拠がなくて も面白ければいいと思うんですけど、意味のわからないものがはたして面白いかどうか・・・。
>>492 私だけしか導き出せなかった答なら
それは妄想でしょうが
私は幸にも
先人がいましたので、先人と同じ答になる事で、妄想は消えます。
そしてまた
私の書き込みによって追従する人が
また私と同じ答にたどり着く事が出来れば、私の考えが妄想出ないことを浚に裏付けます。
なにもしない人から何を言われようが、
……………。
498 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 20:32:56
結局、証明したり、破棄したり、まで行ってないのよ。 そこで止まってるからいつまで立っても妄想なのよ。
499 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/05(水) 20:37:17
>>496 面白いか面白くないかは
体験して感じ結果を得るもの。
なにもしないうちから
脳内判断しては、自分の可能性を自分で狭めていくだけです。
頭で考える前に、行動しましょう。
>>498 妄想と思いたい人は妄想と思えばいい。
私には関係ない貴方の世界の話しですから
貴方の考えまで矯正する権利は私には有りませんから。
501 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 20:43:55
三十三観音は、観音さまがその姿を変えて人々を救済するという三十三応現身にちなんで選定されました。
502 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 20:45:04
♪ 男には自分の世界がある〜
503 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 20:57:40
>>501 >三十三観音は、観音さまがその姿を変えて人々を救済するという三十三応現身にちなんで選定されました。
三十三応現身はなぜ、数が三十三なの?
そこが肝心なところだよ
505 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 21:08:19
>503 あんた、たいした労働力はいりませんて失礼じゃないですか?
506 :
アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)駆除推進委員会 :2009/08/05(水) 21:09:51
>>504 多分その話、日本国内だけで済む話じゃないと思うが良いのか?wwww
507 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 21:12:24
>>504 シナとインドと日本の三十三観音が集まって九十九里観音です。
>>505 これは失礼致しました。
508 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 21:19:12
北斗妙見信仰に対して、南斗サザンクロス信仰が存在した。 三十三とは南十字星、サザンクロスのこと。 かつて、南半球にも超古代文明が存在したのだ。 これで全ての謎が解けた!
>>506 >多分その話、日本国内だけで済む話じゃないと思うが良いのか?wwww
いいんじゃないの
誰かが答えを出せばいいんだから ますますおもろくなってきた
>>506 一つ言い忘れたけど
三十三観音の三十三が、インドの神話「リグベーダ」三十三天主から来たという
話しは知ってるので
511 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 21:56:45
>>509 三とは長島茂男です。巨人軍と長島は永遠に不滅です。
よって三十三は、さらに、さらに∞です。
大和の国では八百や八十や八が「多数」の意味を持ちます。
てか、古墳の話をしようよ(笑
512 :
日本@名無史さん :2009/08/05(水) 21:58:25
>>508 素晴らしい推測ですね。おみそれしました。
>>511 >三とは長島茂男です
巨人軍の 千葉 茂も背番号3です。
514 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 22:11:12
>>505 仁徳陵や応神陵が溜め池ではなく、平凡は平地に造営されたのなら、
大変な労働力が必要だっただろうと感心させて頂く心算ではあります。
決して馬鹿にしてる訳ではありません。
溜め池を拡大する事により、雨季と台風の季節には水を受け入れるダムとなり、
乾季には用水池となり、鯉などを飼っておく事も出来ます。
最少の労働力で最大の成果をあげている。立派なもんです。
515 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 22:23:35
三十三ねえ。これはインド数学に関係があるかな?? 1桁×11は、もちろん1桁の数を2つ並べたものが答えになる。 例えば、7×11=77 で、2桁×11もインド数学では簡単にできる。 例えば、43×11 の場合、1桁と2桁を足して4+3=7、この7を 4と3の間にはさむ。 で、答えは 43×11=4(7)3=473 97×11の場合は、9+7=16、この答えは 9(16)7の( )内が繰り上がって、1067 97×11=9(16)7=1067 あら、神秘の数字は3ではなく11のほう???
>>515 >三十三ねえ。これはインド数学に関係があるかな??
私はないと思いますよ「三十三」だから しかも「三十三」が33(十桁と一桁の)
とは限りませんから
>>514 >最少の労働力で最大の成果をあげている
まるで一大率(最小で最大の効果を均一に)みたい
518 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 22:40:53
仏教では三十三は実数ではなく、無限をあらわし 観音菩薩は無限に姿を変えて人々を救済するということです。 古墳について語らないと、観音菩薩に救済される事はありません(笑)
519 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 22:46:53
ところで、理論物理学の世界では「11」 は特別な数字になりつつある。この世界は、10の空間
次元と1つの時間次元による11次元であるとする仮説が「M理論」。これは超ひも理論を発展
的に統合したものであり、まあ簡単にいえば重力の働きを量子力学的に説明するもの。
われわれの目に見える世界は4次元(空間3次元+時間1次元)だが、残りの次元は収縮により
コンパクト化され、巻き上げられている。(厳密にはちょっと違うが) ノーベル賞受賞の南部陽一
郎氏はM理論の前身である超ひも理論の提唱者の一人。
インド人はこれを古代から洞察していたのかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96
520 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 22:49:25
邪馬台国とは、神戸山口組の様な組織です。 山口組と言う組がある訳ではありません。 各地の有力な暴力団の組長が理事、舎弟、若頭、相談役となっている連合体です。 理事長が山口國国王です。勢力構造が変われば組長も変わります。 現代も全く同様で首相が共立された仮の王です。いつでも変更可能です(笑)
521 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 23:01:56
>>520 ははあ、卑弥呼の鬼道は「固めの杯」ですか。
522 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 23:04:25
>>519 超ヒモリロと言う有名な麻雀打ちがいましてね、そいつが地上で光速で「雲子」をしたのですが、
そいつと地球はどうなったと思いますか?
ちなみに、その時の雲子の重量は無限大です。地球の重量の無限大の重量の雲子です。
523 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 23:14:11
質量のあるものが光速に達すれば重量無限大となって物理法則は破綻する。合ってますが、 実際は親に、W役満を振り込んだとか。 なんだか俺のレスがおかしくなってきた。
524 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 23:18:09
>>523 地球は一瞬で木っ端微塵です。その麻雀打ちは光速で宇宙に飛び出しました。
525 :
アホの縄文人ブラザーズ(一人二役?w)駆除推進委員会 :2009/08/05(水) 23:18:48
11次元の空間に膜が漂っていてそれがぶつかった時に起きるのがビッグ・バンだっけなwwwwwwwwww
もうアレだ、この世界は像に乗っかった亀の背中のその上にある
・・・なんて話と区別つかんなw
>>522 子供向けの怪獣解説書の設定をマジに検証して
ウルトラマンをも倒したゼットンが一兆度の火の玉を吐いたらどうなるか?
ってのがあったなw
無論、瞬間に地球は蒸発。
巨大な火の玉は太陽をも飲み込んで
やがてブラックホールになるとかならないとか・・・
で、このスレ一体何のスレだったのか?wwwwwwwwwwwww
526 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 23:26:11
でも、他スレにも書いたが、この超弦とかM理論の話は邪馬台国問題とよく似ている。研究者 は、まったく間違ったものに一生を捧げている可能性が常にある。
527 :
doontakukaの弟子 :2009/08/05(水) 23:31:45
>>526 だが、卑弥呼の墓はデカイ。簡単に無くなる訳ではない。
尾根の山裾を利用した、円形の墓であり、必ず存在する。
ただ皆、見つけるのが嫌なだけである。
528 :
縦目仮面 :2009/08/05(水) 23:36:44
529 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 00:35:36
ありり、ヒットしたのかな?でも「径」の一字で円墳にこだわる人は多いな。河童さんのいう、 これが文字の力か?
530 :
doontakukaの弟子 :2009/08/06(木) 01:02:08
>>529 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
周旋可五千餘里 です。 大作家、徑百餘歩 です。
周旋と徑とを使い分けています。 私は法Pですw
531 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 01:23:55
532 :
doontakukaの弟子 :2009/08/06(木) 01:28:44
>>531 卑弥呼は倭人伝から生まれたのですから、
倭人伝が無くなれば卑弥呼も居なくなりますよ。
533 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 01:36:38
ま、そうですが、俺は中国考古学専攻なので、実は邪馬台国問題もそうこだわりはないです。 上の中国Wikiで「四周長」というのは、墓域全体と考えている可能性はあるかもしれません。
まあ畿内説にとっては 倭人伝が消えても 「邪馬台国」だの「卑弥呼」だのの名称、固有名詞が消えるだけ 纏向遺跡が消えるわけじゃない。 大和の古墳群が消えるわけじゃない。 首長連合が消えるわけじゃない。 明確にピンポイントで実際の遺跡でもって説明するのではなく あくまで倭人伝の記事の中に邪馬台国を見ている九州説が困るだけW
535 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/06(木) 03:42:19
>>438 私説を読んでくださりありがとうございます。
どうも読んでくれる方自体が少ないようなので。
>土地勘と現地の状況から、新しい視点がないものかと
私は逆に現地など行ったことが無い人間なので、いわば机上の理論ですねw
しかし倭人伝の記述に対して一番まともな説明を与える説だと自負しています。
(読んでいただけたのなら分かると思いますが、ここの人たちの誰も有効な反論が
できていないと言っているのも嘘ではないでしょ?w)
>4方向から殆ど無防備で、戦の観点からすると うんざりする場所です
なるほど、そういう視点もあるのですね。
平野=大人口という単純な発想と、四大文明(最近は言わないそうですが)なども大河に出来たことなどから
そのような場所に、周囲の国を圧倒出来る程度の大国ができると思ってしまっています。
共立の説明としては、面白いアイデアですね。
536 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/06(木) 03:52:02
>>526 >この超弦とかM理論の話は邪馬台国問題とよく似ている。
これは鋭い洞察かもしれません。
(
>>519 の物理関連に突っ込むのは無粋なのでやめておきますが)
どちらも自由度が高くなるほど、好き勝手な形に出来ますからね。
そして出来上がった説が、「150億年ずっと山の尾根を転がり続けた雪球が
現在の宇宙です、その必然性はないですが、この宇宙はこうなのです。」
みたいな事を云われても、にわかに信じられませんw
537 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 06:40:30
>死後大作冢,「四周長」百余歩,殉葬奴婢百人。 これ何ですか? 四周長って。 どこに書いてある記録? 原文を見なければね。原文、原文。
538 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 07:50:48
>>533 wikiがどんな意図で書かれたかはわかりませんが
「四周長」は
“まわりはながくのび”
という
日本語の意味になるのでは?
539 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 08:05:08
>>537 これは、中国でWiki書いてる人の、倭人伝の解釈。まあ、中国で日本史関連のことを書く
人は少ないようだけど、現代中国人でそんな風に読む人もいるってことだね。
540 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 08:35:41
了解。 原文ではなくて、解釈という事ですね。
541 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 10:56:04
「四周長」百余歩, 一周すれば四百歩かな?
542 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 12:17:33
>>541 中国のグーグルで「四周長」をググッたら、こんなの出てきた。
孩子去外面玩一会来的?候??孩子的嘴角四周?有?色斑不痛也不痒不知是什?病,
子供が外で遊んで帰ってきたら、口の周り【嘴角四周?】に赤い斑点が云々
鼻子四周?粉刺怎???
鼻の周り【鼻子四周?】のニキビはどうする?
543 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 12:21:03
簡体字が化けるね。 孩子的嘴角四周長有紅色斑 こどもの口の周りに赤い斑点がある 鼻子四周長粉刺 鼻の周りのニキビ
だと河童虫の解釈でいいのか?
545 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 13:21:52
>>543 俺は、簡体字を日本の漢字に直すフリーソフトを中国のサイトからダウンロードしたら、マル
ウエアの強力なのをくらった。a-squaredで削除したけど、あいつらはほんとに(怒)・・・気を
つけたほうがいいよ。
546 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 13:29:40
>>544 >鼻子四周長粉刺 鼻の周りのニキビ
鼻の“まわりはながくのび”のニキビ
にはならんだろう。しっかりしろ!
>>545 忠告ありがとう。
そういうソフトは使ったことないけど、
中国のサイトは、動画共有サイトなんかもウィルスやばいって聞いたことある。
547 :
doontakuka :2009/08/06(木) 14:09:04
>>538 「四周長」は
“まわりはながくのび”
という
日本語の意味になるのでは?
と言うことは
四隅突出型
と言うことか?
卑弥呼の墓は方墳とばかり思っていたが。
>>546 (まわりはながくのび)って、鼻のまわりにあるニキビがのびるってえ意味じゃなく、
鼻の面積よりもまわりにあるニキビは、鼻の径よりも長くのびた位置に有ると、言いたかった。
径よりも長くのびた。っうのは、より遠い位置と言う意味なんだが
ニキビは鼻じゃなく鼻の外だし、赤い斑点は、口じゃなくて口の外に
>>548 一般的に、鼻とか口で径を考慮することはないだろう。
中国語で四周は周囲・周りの意味だから、
四周長は、もともとは周囲の長さという意味だったのかもしれない。
けど、鼻子四周長とか嘴角四周長有紅色斑とかを見ると、
長には、もう直接「長い」とか「長さ」とか「長く伸びる」とかの意味は消えてるな。
551 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 15:46:20
「…大作冢四周長百餘歩殉葬奴婢百人」 ★大作冢された中の主君冢の周囲に、殉葬奴婢百人。 (殉葬された奴婢百人は、主君冢の周囲、短い所で百餘歩の長さの敷地にに埋葬された。) と、解釈書きされてます。
552 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 16:00:28
このwikiでもそうであるように、この文章の主役は 卑弥呼の墓ではなく、共に死んだ奴婢百人。 主役が奴婢百人ならば、大作冢も奴婢百人の物。 卑弥呼の墓もそんな中の一部に過ぎない。 つまり、女王としてまともな墓も造ってもらえない、大変惨めな悲壮な最後だったようだ。
553 :
doontakuka :2009/08/06(木) 16:05:34
>>551 形としては方形だな。
方墳と呼べるかどうかは別だが。
554 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 16:15:14
>>553 倭人伝は、卑弥呼の墓なんて
全然話題にしていませんよ
だから形なんて
全然読み取れません。
ただ、 世の中がこのような流れになってしまった以上 絶対に卑弥呼の墓で通すでしょう。 それが権威と言うものです。
556 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 16:47:10
>>551 それ、ぜんぜん違うからw
現代中国語は、漢文と違って標点がちゃんと付いてるから、勝手に消してはだめだよ。
大いに作った冢が奴婢百人の物なら、
卑彌呼以死,?葬者奴婢百餘人,大作?,徑百餘?.
の順番じゃなけらばならない。
卑彌呼以死,大作?,徑百餘?,?葬者奴婢百餘人.
の順番だと、大作?を読んだ時点で、読者は、まだ奴婢百餘人の存在を知らない。
まだ、登場していない者たちの冢だけ先に作っちゃったらだめだよ。
大作冢は、冢を沢山作ったんじゃなくて、盛大に作ったってこと。
文字化け失礼。 大いに作った冢が奴婢百人の物なら、 卑彌呼以死,殉葬者奴婢百餘人,大作冢,徑百餘歩. の順番じゃなけらばならない。 卑彌呼以死,大作冢,徑百餘歩,殉葬者奴婢百餘人. の順番だと、大作冢を読んだ時点で、読者は、まだ奴婢百餘人の存在を知らない。 まだ、登場していない者たちの冢だけ先に作っちゃったらだめだよ。 大作冢は、冢を沢山作ったんじゃなくて、盛大に作ったってこと。
558 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 16:56:56
>>557 そんな事はないよ
大作冢は奴婢百人だけじゃなく、卑弥呼の墓も含んでいるから
これでいいんだよ
559 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 17:12:52
なんで普通に読まないかなー……。 一般市民は、どうしても河童さんのように複雑に読めないんだよ。 苦痛なんだよ。 文法は何時の時代も簡潔になっている。 特殊な人間だけが読めるものを作ったら、世の中混乱するぜよ。 珍寿はそんな馬鹿なまねはしない。 賢人だから。 文章は誰もが読めるように簡潔に記している。 オナニーは止めようね。鬱陶しいよ。
560 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 17:13:48
>>557 それに、盛大にでは
何がどのように盛大なのか、全く理解できない
しかも、卑弥呼の墓を盛大に作ったと表現する背景には、普段はひっそりと墓は作られるとする意味を含むんだが
所詮はWikiの解釈
そこまで求めるのは酷と言うものか?
561 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 17:22:47
>>559 欝陶しいなら退場しろよ
世間一般では通用しないから、今まで散々捏ねくりまわしてきたんだろ。
自分はここに残りたいから、欝陶しい奴は出ていけと? どんだけ我が儘な発想なんだよ
あんたの作った掲示板なら喜んで出ていってやるが
ここは誰でも参加自由の掲示板である事を忘れるな!
そんなに嫌なら、自分でスレでも立てて
「河童虫出入り禁止」
とでもテンプレ貼っとけや
それなら立入しねえから
な!
さっさとスレ立てろや!
562 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 17:28:25
自分で引いていうのも何ですが、このwikiを書いた人はそんなにこの問題には詳しくはない。 「在位七十年以上、寿命九十歳以上」とか書いてるのは、日本なら独自研究として難癖を つけられかねない記述です。 ただ、この人が「径百余歩」の部分を「四周長」と書いてるのは、円墳というより、参道やら 周濠(あればですが)も含めた墓域全体のイメージがあるのではという気もしますね。まあ よくわかりませんが。
563 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 17:31:54
>世間一般では通用しないから、今まで散々捏ねくりまわしてきたんだろ。 貴方がか?私がか? 貴方のいってる事、さっぱり意味が分からんぜよ。
564 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 17:38:44
>ただ、 世の中がこのような流れになってしまった以上 絶対に卑弥呼の墓で通すでしょう。 それが権威と言うものです。 勘違いしてないか? 誰にしても権威なんてどうだっていいんだよ。 文を普通に簡潔に読みたいだけなんだよ。 君、人間を読み違えているんじゃないの?
>>563 自由にえらんで入れてくれ
私の存在を欝陶しく思っている奴らは
私があそこに「皆」と書いても、「私がだろう?」とする レス付けるだろうから
敢えて自由記入型に
566 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 17:45:19
>>560 >しかも、卑弥呼の墓を盛大に作ったと表現する背景には、
普段はひっそりと墓は作られるとする意味を含むんだが
自分で書いてるじゃない。
>つまり、女王としてまともな墓も造ってもらえない、大変惨めな悲壮な最後だったようだ。
戦乱の世の中では、そういうこともありうるわな。
まして、狗奴國と争っていたわけだし、そうなってしまう可能性だってあった。
でも、卑弥呼は違った。盛大に墓を作ってもらえた。
他には、チンギス・カンの陵墓の場所は厳重に秘密にされていて、
葬列に行きあった者は、みな殺されたなんていう話もある。
王者の墓は、常に盛大に作られるわけではない。
567 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 17:47:06
>>564 頃合いを見計らって書いて来たね?
速攻でレス付くと思ったんだが、タイミングを待つとは……
貴方はそう感じたんだね?
了解。
568 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 17:49:28
>>566 狗奴と争ったなんて書いてないよ
卑弥呼與狗奴国
569 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 17:51:14
卑弥呼と狗奴は、ワンクッション置いた関係だったから、争う事はないんだよ だから「與」と書かれています。 「與」=組し(〜と)
「南“與”倭接」 韓域の南は倭とワンクッション置いた位置関係だったの
572 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 18:49:39
>私があそこに「皆」と書いても、「私がだろう?」とする レス付けるだろうから 敢えて自由記入型に 今まで誰かこねくり回したですか? 皆、普通に読んでるんじゃないの。 貴方からすれば間違いなんだろうけど。
573 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 18:58:03
>>571 それについては、君のアナグラムは散々聞いたから、もういいよ。
574 :
縄文人 :2009/08/06(木) 18:58:53
>>568 卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和
文章の途中で切って読んではだめでしょ。わざとやってるのかな。
575 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 19:05:09
>>574 ワザト誰にもわかるように(でもわからない)しました。
「(女王卑弥呼與狗奴国男王)卑弥弓呼素不和」
576 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 19:11:24
>>574 縄文人さん
「狗奴国男王卑弥弓呼」
これ、トンデモね
577 :
縄文人 :2009/08/06(木) 19:31:40
邪馬台国どんとこいのスレから書き込みを規制されてしまった。 畿内説派の人達の気に障ることを書き込んでいたら突然アクセス禁止となった。論争を面白く盛り上げてやったのに 度量の狭い管理人だったようだ。 今あちらでは、古墳文化の中心地域はどこだったかで論争している。邪馬台国の所在地とは何の関係もないだろうに、 ご苦労なことだ。 径百余歩と書かれていれば円の直径のことで、墓は円墳に決まっている。しかも、魏の公式尺度は用いられていず、里 の実際と整合性をとれば直径40〜50mの大きさである。大型前方後円墳とは関係ない。 古墳文化の中心であることが軍事的、政治的に他の地域より優れていたということになろうが、その時期が3世紀半ば であるとは限らない。古墳の築造年代が科学的には未だ確定していないからである。
>>577 縄文人
はあ?
同じ板でスレごとのアク禁?
それを畿内説に肩入れした管理人が恣意的にやっている?
2ちゃん初心者は半年ROMっとけアホw
579 :
サガミハラハラ :2009/08/06(木) 19:46:06
卑弥呼の墓にかんしては、魏の時代の尺度であると断定できます。 中国の1歩は日本の2歩分で約140cmです。ですから、卑弥呼の墓の径を 召使や従者にはからせたということです。日本の歩自体、いつごろから現代のような1歩(中国でいう1足)となったのか不明です。
580 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 19:54:02
>>575 訂正
「(女王卑弥呼與狗奴国男王)卑弥弓呼素不和」……×
「(女王卑弥呼與狗奴国)男王卑弥弓呼素不和」……〇
581 :
縄文人 :2009/08/06(木) 20:10:25
>>578 ここにもこんな下品な人間がいるようだ。
582 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 20:11:51
>>577 2ちゃんアク禁は、プロバイダーと地域が対象で
個人を特定し、アク禁にする事はありません。
>径百餘歩
勉強してください。
>同じ板でスレごとのアク禁 そういやドツボも太国もおなじこと言っていたっけw
584 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 20:12:39
サガミハラさん 何ゆえに「卑弥呼の墓にかんしては、魏の時代の尺度であると断定できます」と断言なされまするか?
585 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 20:15:13
河童虫さん 「径百餘歩」 何を勉強せよと仰せで?
586 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 20:26:30
>>585 「徑」と言う文字を
徑を直径の意味で使うのは、平面上に正円を描いた時だけです。
少しでも歪んだらアウトです。
588 :
縄文人 :2009/08/06(木) 20:51:10
>>587 あ、そういうことですか。まあ、大目に見て下さいな。魏使が直接見て径百余歩と判定したのか、倭人が絵を描いて
径百余歩と言ったのか 分りませんね。
589 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 21:02:29
ところで、縄文人は586のリンクを見たかな?
590 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 21:16:31
>>588 倭人が描いたら倭人の歴史です。
漢人が関係するから漢人の歴史です。
測量は体験するもの、魏の公務員が測量した魏の歴史です。
そして正円には、だいたいも大目にもありません。
591 :
縄文人 :2009/08/06(木) 21:17:06
縦目仮面殿 見ましたよ。私の誤解だったようですな。しかし、ここには書き込めるので釈然としないところもあるけど。
592 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 21:19:13
>>590 あ、そうですか。じゃあ、貴殿の解釈は如何に?
593 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 21:26:58
>>591 次は2ちゃんのほぼ全てに書き込み出来なくなります。(約一月弱)
次は約三ヶ月書き込み出来なくなり
(つい最近の私)
次は永久かな?
貴方が今のプロバイダーを利用している限り、避けては通れません。
594 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/06(木) 21:31:19
>>592 卑弥呼の墓についての情報なんて
書いてありません。
だから
卑弥呼の墓がどんな形だったかなんて、文章で知る事はできません。
596 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 21:55:18
>測量は体験するもの、魏の公務員が測量した魏の歴史です。 だったら、公式尺度・公里を使うだろう。
>>596 >だったら、公式尺度・公里を使うだろう。
尺=約24cm
で、公里って?
598 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 22:03:14
まぁ、歩み寄ろう。 魏の公式尺度を使わなかったら、河童説が成立。 魏の公式尺度を使うならば、百余歩は140M余り。 これが正しい見解でしょう。 河童さんを立てました。 ひとまず、この答えで充分です。 魏の公式尺度を使うなら百余歩は140m余りとなってしまいますから。 まぁ、証明せなばならない立場はどちらなのかは、世に問えば明白だとは思いますけどね。
599 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 22:09:45
当時は、 1尺=24cm、1歩=6尺、300歩=1里 文句あるなら、文科省にでもいいなさい。 どうにもならんよ。私の創り事ではない。 もう寝る。
600 :
縄文人 :2009/08/06(木) 22:11:46
>>5924 なるほど。独特な解釈ですね。大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余人 の冢は墓ではないと?
>>598 >魏の公式尺度を使うならば、百余歩は140M余り。
公式尺度に「歩」なんてないよ
勝手に単位作っちゃだめ
尺の10倍は丈、丈の10倍は引 いつになったら「歩」は出てくるの?
>>599 >文句あるなら、文科省にでもいいなさい。
大本営発表ってやつ?
ま、お上には逆らえんからな 下手したら冤罪で吊るされるまであるから
>>600 >なるほど。独特な解釈ですね。大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余人 の冢は墓ではないと?
いいえ、ここで書かれている「冢」は墓でしょう。
つまりこういうことです。
「冢」と言っても一つや二つではない、 徇葬者奴婢百余人+卑弥呼の冢分
徑百餘歩とは
それら数多くの冢の墓域の規模は、最短で百餘歩
例えば、その墓域の形状が瓢箪型だったら
瓢箪型のくびれの部分(最短徑)が百餘歩だということです。
[王幾]徑八尺圓周二丈五尺而強也
というやつです。
ようするに 卑弥呼の冢+奴婢百余人分の冢がある墓域は、 一番短い所の百餘歩を徑とした 正円の面積よりも広いという事が書かれています。
605 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 22:46:04
>>605 どうして「原資料復元」なのに、「紹煕本」と「紹興本」をごちゃまぜでつくってるの?
607 :
サガミハラハラ :2009/08/06(木) 23:15:18
>>584 卑弥呼の墓がつくられたのは、魏使が邪馬台国の都に居た時のことです。
当然歩測は当時の魏の尺度であったことは間違いありません。
よって、魏使の記録の中にあったわけです。他の行程記事は半島の書物にあったものをほぼそのまま引用したものです。
その書物は、周の尺度でかかれていたのですが、陳寿はそれにきづかずに引用してしまったわけです。
歩=6尺ですよん 1000分=100寸=10尺=1丈で10倍で次の単位 10歩=1里
ごめん、 300歩=1里
610 :
縄文人 :2009/08/06(木) 23:34:26
河童虫さんはネームも奇抜だけれど、倭人伝の解釈も他に類を見ないものですね。面白いですね。
ところで、
>>599 これを書いた人はなんか偉い人みたいですね。私達を見下している感じがしますね。
狗邪韓国を韓国の晋州から釜山の近辺として、ここから対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里、壱岐から唐津辺りまで千里とすると
魏の公式尺度ではそれぞれ4百km余になりますが、これが実際に合わないことは誰でも認めています。私はこのことから魏の公式の
里ではないと思うのです。晴れて大気の状態のよいときには、対馬から釜山辺りが見えると言われます。海で舟に乗っている人達なら
水平線の彼方に見えるのは百km前後(魏の公式の里では3百里)であることを知っています。3世紀と言えども航海の知識はなめたら
あかんぜよというものではないでしょうか。当然それくらい知っているはずです。とすれば、千里などと魏の公式の里で書く訳はない
でしょう。
もしかしたら、魏使の乗った舟は素人が操っていたとでも言うのでしょうか?
>>607 >その書物は、周の尺度でかかれていたのですが、陳寿はそれにきづかずに引用してしまったわけです。
な〜んて書くから知名度が上がらないのです。
612 :
縦目仮面 :2009/08/06(木) 23:43:11
613 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 23:43:34
>>599 そうかな。直木孝次郎は「360尺=1里という特別な里があったのであろうか」
と書いているがな。どうにもならんというほどの根拠は何もないな。
615 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:04:37
>>612 河童虫さんの言うとおり。文献のことは文献で調べるのが正攻法です。
>>610 縄文人さん
正直な話、その文は使い物にならない
しょっぱなから
>狗邪韓国を韓国の晋州から釜山の近辺として
「どうして恣意的にポイントを設定してんだよ」というつっこみが直ぐにはいります。
617 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 00:07:39
ああ、俺らは古文献はあまり見ないんですよ。実測値に近いものをさがす。あと、現代中国 の考古論文も、メートル法か、彼ら自身がすでに換算して書いてる。
618 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:11:41
>>616 あらいけませんでしたか。郡から半島海岸線に沿ってを南下して次いで東に行って韓国南部のどこかに狗邪韓国があるんでしょ。
半島から対馬に渡るには晋州近辺の島や釜山が便利ですよ。
>>610 縄文人さん
>河童虫さんはネームも奇抜だけれど、倭人伝の解釈も他に類を見ないものですね。面白いですね。
貴方は頭の柔らかい方ですね?
私は知識人よりも、頭の柔らかい賢い人がだいすきです。
>>617 縦目さん
歴史って、文献に「黒」と書いてあれば たとえ真実(真実を知る手だてはないんですが)が「白」であっても
私達の知る歴史は「黒」なんです。
私達は、文字と言葉で歴史を知る以外方法がないんです。
多分考古学をされてる人には反発ものでしょうが、考古学の出土物は
土器は土器でしかないのです。
621 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:22:06
河童虫さん 私は面白い人が大好きです。それと論理的な文を書く人も好きです。人生は楽しく、金がなくとも心が豊であれば幸せ。 ついでに言うておきますが、私は子供にも若い女の子にも好かれます。おじさんは私の味方になってくれそうだって。
>>618 >あらいけませんでしたか。郡から半島海岸線に沿ってを南下して次いで東に行って韓国南部のどこかに狗邪韓国があるんでしょ。
はい、ありますね
>半島から対馬に渡るには晋州近辺の島や釜山が便利ですよ。
たとえ便利であっても
倭人伝の何処にそんな地名が書かれていますか?
完全に恣意的な考察が織り交ぜられていますね
現在感じる主観的な表現は、いっさいいらないと思いますよ
623 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 00:30:53
>>620 それはそうでしょうが、邪馬台国とかは日本の考古情報に遅れないように見ている側面も
大きいんです。俺のほとんどの時間は現代中国の論文を原語で読むことと、調査の手伝い
が少し。
ところで、短里うんぬん以前に、千里が実測値と思いますかね?俺には、「わからないから
こんなもんで勘弁して。」としか思えないんですが。
624 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:34:38
河童虫さんは徹底していますね。それに比べると私なんぞはいい加減で恥ずかしい。 だけど、私は想像が湧き出るるたちでしてね。ついつい。
625 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 00:41:18
>>620 >私達は、文字と言葉で歴史を知る以外方法がないんです。
地球の歴史が46億年
人類の歴史が15万年ぐらいかな?w
それにじゃあ文字を持たなかった新大陸の古代文明はどうなるってのもツッコミの一つだなwwwwwwwww
>>621 縄文人さん
>それと論理的な文を書く人も好きです
あは〜 この論理的って奴は私の大の苦手(学がないから当然なんですが)
私の歴史考察は、物事の「道理」を最優先に、最終的判断をしています。
学者や文部省が何を言おうが、物事の道理から外れていれば
たとえ定説になっていようと絶対に認めませんし、辞書ですら認めません。
だからしょっちゅう反感買われるんですがね
627 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:47:08
>>623 舟行での距離の実測は、速度と所要時間でやるしかないでしょうが、慣れた船乗りであれば、速度はこれくらいだな、
時間はこれくらいだ と分らないでしょうか。数日かかるほどの距離ではないし、もしかしたら出発時に目的地が水平
線上に見えているかもしれないんだから。
628 :
縄文人 :2009/08/07(金) 00:52:04
>>626 道理は大切です。道理に適うとは 論理的であると言ってもよいでしょう。
629 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 00:59:29
>>623 船にての水行は、時間から距離への換算ですよ
当時はまだ、水域の距離を測定出来るだけの文明はありませんから
陸上での出来事を水の上で限りなく再現し、時間にて距離を導きだします。
>>624 私も想像する歴史は大好きですよ
でも、それやり始めるとキリないし
それに、書いてある事だけを追究したほうが楽ですしね
630 :
縄文人 :2009/08/07(金) 01:08:36
河童虫さん 今日はいろいろと面白い事を聞いて楽しかった。だけどもう眠くなったのでこれにて失礼。
631 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 01:50:44
>>603 河童虫は[王幾]を何だと思ってるんだ。
632 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 03:04:35
>>587 少しでも歪んだらアウトなら、この世に正円は存在しません。
ということは、徑を直系の意味で使う事は出来ない、
そんな文献は存在してはいけないという事になります。
633 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 06:20:08
>大本営発表ってやつ? ま、お上には逆らえんからな 下手したら冤罪で吊るされるまであるから 冤罪にならないから、安心しなよ。 お上に対して、君は論理的な説得が不可能なだけだ。 試しにやってみろ。 私は嘘はいっていない。
634 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 07:11:19
>>626 誰かが決めた絶対的に正しいことというのがあって、
それを鵜呑みにせずに正しくないということが、
他の人より頭がいいことなのだ、
と思い込んでいる人が時々いますよね。
635 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 08:40:19
>私の歴史考察は、物事の「道理」を最優先に、最終的判断をしています。 学者や文部省が何を言おうが、物事の道理から外れていれば たとえ定説になっていようと絶対に認めませんし、辞書ですら認めません。 道理というが、人の感覚なんて千差万別です。 どれが正しいかなんて判断できません。きりがありません。 特殊な個人の道理を絶対化する事なぞ無意味です。横暴です。 貴方は神ではありません。 個人の思いを大切にする前に、残されている史料を解釈する事なく、既存の文法で忠実に追ってみてはどうでしょう。 公のルールに従ったものであれば、誰もそれは間違っているとはいえなくなります。 妄想よりも証拠です。
>>635 そんな事どうでもいいから、たまには珍品ネタでも落してってよ。
637 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 09:13:36
妄想に興味はない。 私が興味を惹くのは事実だけ。
>>637 興味があるのは「2ちゃんねる」という掲示板だろう?
639 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 10:00:05
>>622 :河童虫
>あらいけませんでしたか。郡から半島海岸線に沿ってを南下して次いで東に行って韓国南部のどこかに狗邪韓国があるんでしょ。
はい、ありますね
まさか。。。。短里じゃないでしょうね。
>>639 短里か長里かは知りませんが、
距離で使われる「里や歩」は、度量衡の尺との換算値によって変化します。
だから「寸や尺」のように、決まったものはありませんよ。
641 :
doontakuka :2009/08/07(金) 10:35:03
以下の資料を基に 魏郡Latitude: 35.101799Longitude: 105.570483 洛陽Latitude: 34.622884 Longitude: 112.456563 魏 Latitude: 34.896419 Longitude: 116.182742 魏県Latitude: 33.863761 Longitude: 118.811095 平譲(郡)Latitude: 39.031859 Longitude: 125.753765 波照間島(狗邪韓国)Latitude: 24.057123 Longitude: 123.784332 那覇市(対馬国) Latitude: 26.212293 Longitude: 127.678946 口之島(一大国) Latitude: 29.987502 Longitude: 129.920047 平泉(邪馬壹【臺】國 ) Latitude: 38.987918 Longitude: 141.11780 狗邪韓國七千余里 及び 自郡至女王國萬二千余里の距離を積算すると、 洛陽(郡)〜平壌間は約1400.907km≒3242.8418里 平壌〜波照間島は約1510.3667km≒3496.219里 洛陽〜狗邪韓国(波照間島)は 約3242.8418里 + 3496.219里≒6739.061里 波照間島(狗邪韓国)〜那覇市(対馬国)は約445.1154km≒1030.3598里 那覇市(対馬国)〜口之島(一大国)は約439.029km≒1016.273里 口之島(一大国)〜平泉(邪馬壹【臺】國 )は約1436km≒3325里 波照間島(狗邪韓国)〜平泉(邪馬壹【臺】國 )は約5372.2218里 洛陽(從郡)〜邪馬壹【臺】國(平泉 )は約12,111.2796里。 となり、 到其北岸狗邪韓國七千余里の七千余里の近似値であり又 自郡至女王國萬二千余里も近似値がえられる。 勿論、一里=1800尺 一尺=24cmの長里で。
642 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 10:46:39
だから 「六尺為歩」「三百歩為里」は 正しいですよ。 決してクルームを付ける場面でもありません。 ただ、体温を温度計で計るのは止そうと 言ってるだけです。 確かに温度計の説明書には、体温を計ってはいけないとは書いてありませんが 家庭用乾燥機で、チワワの毛を乾かす行為は止そうと、言ってるだけです。 (今の説明書には書いてあるかもしれない?)
>>642 貴方の計算は大変細かい計算ですが、結局は
恣意的に導かれた根本が存在し、根底になっているのです。
644 :
doontakuka :2009/08/07(金) 10:53:27
あっはつはっ。。。。。 温度計で体温を測ることは出来るし、 家庭用乾燥機で、チワワの毛を乾かすことも可能だよ。 チワワは可愛そうだけど。 >「六尺為歩」「三百歩為里」は 正しいですよ。 て、秦の代でしょうか? 周は三百六十歩と記憶していますが。 秦の始皇帝の墓は方形だからな。300歩か。
645 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 11:00:38
>>644 別に何時の時代でも構わないのです。
魏の歴史書なんだから、魏代で使われていれば
起源なんて関係ありません。
646 :
doontakuka :2009/08/07(金) 11:05:32
「六尺為歩」「三百歩為里」 が 唐の時代に使用されていたもので 魏の時代には数値が違った となれば、問題じゃないですか?
647 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 11:17:45
>>646 別に問題ではありません。そういう記録があれば、それに改めればいいだけですから
魏代は「四尺為歩」と書かれた史料があるのなら
「四尺為歩」を使用していた事を否定できません。
648 :
doontakuka :2009/08/07(金) 11:29:39
「六尺為歩」「三百歩為里」 が 魏の時代の数値だと言う文献はありますか? 唐の時代としての書付はあるようですが。
はい 前代の制度を廃止して、新しい制度を取り入れる旨の記載は確認されていませんから 当然魏代に於いても、前代の制度を引き継いだと判断できます。
650 :
doontakuka :2009/08/07(金) 11:45:55
【足輪各“徑”六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】 は、 何時からですか? 魏以降だとする裏ずけはありますか?
651 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 11:57:53
652 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:00:40
>>650 秦の時代から制度の変更がない限り、秦から変わらず受け継がれてきています。
653 :
doontakuka :2009/08/07(金) 12:09:52
六尺為歩三百歩為里 から 五尺為歩三百六十歩為里 への 数値変更の時間軸です。 >秦の時代から制度の変更がない限り、秦から変わらず受け継がれてきています。 は、 秦の時代の数値が六尺為歩三百歩為里ということですか?
654 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:13:05
細かな制度については 漢書律暦志や司馬兵法等にかかれ、時代が下って大唐六典にも 過去の制度が記載されています。 つまり、それらを見比べるる事によって 途中なんら制度変更の記載が見受けられない場合は 制度を変更する事なく、時間が流れたと 判断するしかないのです。
655 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:17:48
>>653 尺の長さが変わったので、従来の長さとの不具合を調整する為に
六尺を五尺に換算値を変更しただけです。
656 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:22:46
>>653 秦の時代に確か六尺に統一されたはずですよ
657 :
doontakuka :2009/08/07(金) 12:26:17
>655 尺の長さの変更は無いと思います。 変わったのは、 300歩か360歩ですから 歩の長さが 一歩=5尺から一歩=六尺に変わった。 一里=300歩=1800尺 一里=360歩=1800尺。
658 :
doontakuka :2009/08/07(金) 12:31:28
古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里 は 納得がいかない。 五尺為歩三百六十歩為里 が 最も古いのが正しいと思われる。 >秦の時代に確か六尺に統一されたはずですよ は 納得です。 六尺為歩三百歩で。
659 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 12:32:52
河童さん、 やれば出来るじゃん。 ただ、都合の悪い方も出てきたようですけど。 獲りあえずは、河童さんのいうように、体温計と温度計の理屈で逃げた方が楽ですよ。
660 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:38:27
尺の長さは、時代とともに変化していますよ
661 :
doontakuka :2009/08/07(金) 12:43:57
尺の長さは、時代とともに変化していますよ は、 時間軸における委細が必須ですね。 少なくとも 周、秦、漢そして魏の時間軸における 尺の長さは変わっていないと考えます。 若し、変わったというなら何時の時間軸でどのように変わったかを知りたいですね。
662 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 12:57:41
>>659 ありがとうございます。
>>661 それは考古資料を伴う事なので、縦目さんに伺った方が、適切な答えが得られるかと
魏尺約24pなんて
モロ考古資料ですから
663 :
doontakuka :2009/08/07(金) 14:09:15
>魏尺約24p 何故、一尺が 24cmなるのか? わかる人居りますか?
664 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 14:29:33
665 :
doontakuka :2009/08/07(金) 14:35:36
>今まで知らなかたたのかよ? 私が質問している意味を理解していない。 何故 24cmなのか? といことなの。 25cmだって50cmだっていいじゃないか? が 24cmなのは何故かと、いう事とです。 24と言う数字を取りげれば susa から出土した24弁のロータス紋の紋章がるが。 天ちゃんのは8×2=16で16菊花紋だ。
666 :
縄文人 :2009/08/07(金) 14:48:00
畿内説にしても九州説にしても、その他の説にしても、伊都国を現前原市の辺りに比定する説は全てアウトだと 思いませんか?この伊都国に向かうのに東南の方角へ五百里の陸路をとるとする出発点の末盧国は海上にあること になります。こんな矛盾を放っておいて先に進むことができるのですか? 倭人伝の里については郡から末盧国までの各行程の里数が魏の公式の里(約400m)が使われているとすると実際に 合致しないわけですから、魏の公式の里(と畿内説派などの人達が称するもの)など使われていないことは明白でしょう。 実際に合わせれば、1里は120m前後としてよいのではないでしょうか。仮に1里=300歩とすれば1歩は40cm前後 となります。このような考えは不純なものでしょうか?
>>665 現在、現存魏尺は数点のこっていて、それらは全て23p後半(一部24p前半と言う人もいる)と言われています。
だから私はいつも
約24pと述べています。
668 :
doontakuka :2009/08/07(金) 15:01:33
>>667 現在、現存魏尺は数点のこっていて、それらは全て23p後半
で
正解でしょう。
決して24cmを超えることはない。
669 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 15:04:14
>>666 縄文人さん
伊都に何か疑問でも?
多分その疑問は、文の読み方に問題があるのです。
倭人伝は、魏使の行程記事ではありません。
郡を基点に描いた文章地図です。
(地理志なんだから当然ですね)
それに
魏の公式度量衡を用いたものです。
>>668 いいえ
中には24p前半を主張する人もいます。
671 :
doontakuka :2009/08/07(金) 15:09:56
>>670 中には24p前半を主張する人もいます。
何故24cm以下でなければならないかを
知らない無知の輩のなしたことでしょう。
672 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 15:10:44
>>665 もともと、尺の字は手指を広げた形であり、手を広げた親指先から中指先までの長さを1尺
とする身体尺であったようです。殷代の尺は16〜18cm程度と考えられています。尺の長さ
が、時代によって変化するのは、民衆の生活全般(住居等)の拡大につれて少しずつ長くなっ
ていったとか、尺は収税のための度量衡の基礎単位であるために長くなったなどともいわれ
ます。
尺の公定原器は様々に出土していますが、同じ時代でも実測すればやはり微妙に違います。
魏・晋代が何故約24cmなのかという疑問はちょっと答えに困りますね。
673 :
ローガン :2009/08/07(金) 15:16:54
甘粛省新城墓から出たのは23.8cm 北京八宝山西晋墓のは24.1cm
>>672-673 説明フォローサンクスです。
>>672 縦目さん
>尺の字は手指を広げた形であり
後で機会があったら
これ、やりましょうね
675 :
doontakuka :2009/08/07(金) 15:27:45
殷代の尺は16〜18cm程度と考えられています。 可能性は充分ありますね。 18、24、36、 なら、一尺の公定原器として使われてもおかしくないでしょう。 もっとヒネタやつは 16や27を 使ったかもね。 秦に一尺ー24cmで統一された と言うのも又有りでしょう。
676 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 15:31:35
ただ、晋書の「律暦志」だったか(ちょっとうろ覚えですが)に面白い話が載ってて、西晋の武 帝(司馬炎)は音律の変化を問題視し(おそらく笛・箏等の長さなどによる?)部下に命じて、古 来の正統尺の復元を試みた、とあります。度量衡の変化によって音にまで影響するという話 はちょっと面白いですね。陳寿が倭人伝を書く10年ばかり前のことです。
677 :
縄文人 :2009/08/07(金) 15:32:33
>>669 地理志であってもですよ 又渡一海千餘里至末盧国・・・東南陸行五百里到伊都国・・・
を見れば、末盧国から東南の方角五百里のところに伊都国が存在するということになりますがね。
678 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 15:32:43
>>675 何か勘違いしていませんか?
尺は 十寸為尺であって
尺は原器ではありませんよ。
679 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 15:32:44
いえる事は、 1歩が1尺にはなりません。 そんな定理は世の中で見た事も聞いた事もありません。 ゆえにトンデモです。
680 :
縄文人 :2009/08/07(金) 15:41:34
>>679 私としては、2尺が1歩だと都合がよいです。それにしませんか?
>>677 宇都宮の南にも東にも
茨城県は有りますよ。
682 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 15:44:12
>>679 いえる事は、
1歩が1尺にはなりません。
そんな定理は世の中で見た事も聞いた事もありません。
ゆえにトンデモです。
現代的思考で二〜三世紀を垣間見る方が
dでも じゃないの・
683 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 15:44:16
684 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 15:47:00
ちなみに現在の中国では、1尺=33,33cmで、これは1mの1/3の長さとして決定しまし た。また、1mも1尺といいます。33.33cmは市尺、1mは公尺と呼んで使い分けています が、この人たちの考えることは不可解だと思いますね。
685 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 15:48:06
>>679 温度計で体温を計ろうとした人に 体温計で計る事を教えた。
これって
貴方の感覚では トンデモな行為ですね?
686 :
縄文人 :2009/08/07(金) 15:51:30
>>681 お書きになったことは間違いありませんが、伊都国から五百里(畿内説派などの魏の公式の里を用いれば約200km)離れた
所にあるという末盧国は何処なのでしょう。私には見当もつかなくて。悩みますね。
687 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 15:57:12
>>686 私の度量衡に関する話しはこの辺で。
別に わからなければ
距離なんて考えなくても不自由しませんよ
500里は500里でOKですよ
倭人伝にて
不自由することなんて全然ありません。
読めないからついつい距離をあてにしちゃうのです。
688 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 15:57:21
>>677 そのとおり、末盧国から東南へ五百里行けばいいじゃないですか?
何をごちゃごちゃ言ってるのかな。
689 :
ローガン :2009/08/07(金) 16:11:48
>>661 > 少なくとも周、秦、漢そして魏の時間軸における尺の長さは変わっていないと考えます。
> 若し、変わったというなら何時の時間軸でどのように変わったかを知りたいですね。
時間軸ね…
「古者以周尺八尺為歩今以周尺六尺四寸為歩」(礼記)ときて、
「今尺長於古尺」(晋書)… 一度考えてみて下さい。
690 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 16:14:31
>温度計で体温を計ろうとした人に 体温計で計る事を教えた。 これって 貴方の感覚では トンデモな行為ですね? 貴方は独りよがりで思考が足りません。 温度計で体温を計ろうとした人に 体温計で計る事を教える事は正常であり、 墓の規模を一歩=6尺の単位で考えるのも正常です。 これが正確な表現。 温度計と体温計の話に話を逸らしても、人は騙されません。 大きな墓の規模を記すには、1歩=6尺を基準に使うのは相応しいからです。
691 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 16:20:07
なんで、一尺が一歩になるの? みんな知らない初めて聞く事なんだから、こういう事をいう時はいちいち説明しなければなりませんよ。 根拠なく結論を先に話されても、びっくりされるだけですよ。 どうせ引用された史料事実ではなくて、あなたの発案した事だろうけど。
692 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 16:22:03
693 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 16:34:15
話すも話さないも、以前に貴方がいっていた1尺=1歩を私が否定してさしあげたのです。 1尺=1歩。これは間違いです。
694 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 16:42:50
>>693 それで否定ですか?
かなり詰めが甘いと思います。
でも、度量衡に関する話しはこれまで。
695 :
doontakuka :2009/08/07(金) 16:53:25
>>689 「古者以周尺八尺為歩今以周尺六尺四寸為歩」(礼記)
は、
歩数が変更されている可能性はどうですか。
1800尺=360歩もあれば1800尺=300歩もあるが一尺=24cm。
八尺為歩なら1800尺=225歩、 六尺四寸為歩なら1800尺=281.25歩。
で、勿論一尺は24cmである。と。
「今尺長於古尺」(晋書)…
今尺長於古尺幾於半寸となれば、一尺=25.2cmになるのでしょうか?
>676
の縦目仮面さんの司馬炎の話は興味津津ですね。
696 :
縄文人 :2009/08/07(金) 17:02:02
>>693 河童虫さんは1尺=1歩説だったんですか。進んでますね。私は2尺=1歩までがせいぜいで、それも
恐る恐る、ちらと出してみたんですが。
697 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 17:03:01
>それで否定ですか? かなり詰めが甘いと思います。 どこが? 貴方の方が間違っています。 やっぱり1尺=1歩。これは間違いです。 第一貴方と師匠以外の方から聞いた事ありません。 世に存在しないんだからしょうがない。 >でも、度量衡に関する話しはこれまで。 詰めが甘いと指摘されて、黙っていないと思いますが。 ひょっとして、貴方が間違いだと気付いたのですか?
698 :
縄文人 :2009/08/07(金) 17:10:11
>>688 そのとおり末盧国から陸路で東南に五百里行けばよいのです。前原市などに行くことはないのです。
699 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 17:19:52
一大国からの方位が記述されていないのに、 一大国から千余里って、何処なのさ。 千余里は 約432kmだよ。 羅針盤を持たないで船出しても何処につくやら。 気がついたら海上を陸行したり、陸を舟で渡ったり。
700 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 17:24:24
>>696 縄文人さん
度量衡の話しは一先ず置いといて
倭人伝では
倭人は大海の中、つまり島に住んでいると言う始まりです。
最初に海の中に位置する対馬は海の中にあるので
倭人の住む地、次に紹介される壱岐も海の中に位置するので倭人の住む地、共に島の規模は小型らしいです。
次は末廬、ここも海の中にあるので倭人の住む島みたいです。
しかしここは先程の二つの島とはちがって、
東南五百里と言う陸地があり、その先にも国が続く
かなり広い面積を有する島みたいです。
と、見ていくと
割と簡単な書物に見えます。
で、伊都国ですが
正直な所倭人伝では、伊都国のロケーションについては
津が有る事と、末廬や奴と地続きであることぐらいしか書かれていないのです。後は、末廬の東側、奴の西側
701 :
縄文人 :2009/08/07(金) 18:08:31
>>699 <千余里は 約432kmだよ。>
だから実際に合致しないのでしょ。1里を432mなどとするからにっちもさっちも行かなくなる。
一大國から千余里は約120kmでいいんじゃないですか。わたしゃ素直な性格でしてね。
神功皇后説 江戸時代までは卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていたので、 邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったとする説。 熊襲の女酋説 本居宣長は魏志倭人伝の卑弥呼が魏へ朝貢し、倭王に封じられたという記述は受け入れられず、 魏志倭人伝の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、 九州の熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したという。 甕依姫説 九州王朝説の古田武彦が唱えた説。 筑後風土記逸文に記されている筑紫君の祖甕依姫が卑弥呼のことである可能性が高いと主張。 倭姫命説 内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命を卑弥呼とした。 倭迹迹日百襲媛命説 卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説といわれてる。 箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にあり、 後円部の大きさは魏志倭人伝の徑百余歩と言う記述に一致する。 日女命説 海部氏勘注系図に記される、宇那比姫命を卑弥呼とする説。 日女命とも呼ばれ、台与を天豊姫とする。 天照大神説 アマテラスの別名は大日孁貴で記紀神話の天岩戸にアマテラスが隠れた記事(岩戸隠れ)に当たる。 安本美典いわくは、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼とアマテラスが生きていた時代が重なり、 卑弥呼には弟がおり、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点があるという。 不明説 卑弥呼に該当する人物が日本古代の記録には無いとする説。
703 :
ローガン :2009/08/07(金) 18:52:31
>>695 > 歩数が変更されている可能性はどうですか。
??小尺から大尺へ変化したため、「歩」への換算の度合いを変えたのですよ。
河童さんは、1尺=1歩と言い出してるの? まだ、倭人伝をよくわかってない縄文人 さんに なんてことを教えてるんんだぃww 「ものさし」 ものさし というのは、長さ(度)のこと。 度量衡というのは度(長さ)量(面積・体積)衡(重さ)であり、 ものさしでは測れないものは「6尺=歩」、「300歩=里」等の定義を用いて測定する。 ということで、「1尺=1歩」というのはない。 ただ、面白半分に周りの人をを振り回してるだけというかw 暇つぶしだろうww
705 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 19:40:18
「陳寿の頭の中」
本来、魏の時代の計算でいけば、
>>699 さんのいうとおり、千余里は約432km。
魏志倭人伝の記事、「始度一海千餘里」、「南渡一海千餘里」、
「又渡一海千餘里至末盧國」を合わせて、約三千里(約1296km)となってしまい、
本当に半島から九州まで?と疑問をもつのが普通だろう。
しかし、倭人伝の記事をみるかぎり、半島〜九州のことを言っているというのは誰もが認めてる。
ということは、里数に問題がある。
日本書紀には、半島から九州までの距離が約二千里と書かれており、
陳寿さんは、大陸側の長さ(距離)と列島側の長さ(距離)を
ごちゃごちゃにしてしまっている。
著者 陳寿のアホなところであり、
「机の上の想像だけで倭人伝を記した」ということが分かるだろう。
706 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 19:42:06
>>704 >暇つぶしだろ
ここで忙しく商売している人なんているのかよ?
でたよでたよ 陳寿アホ説が
708 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 19:52:50
東征した神武天皇の即位は紀元前660年ではなく紀元前60年。 JINZO氏の墓碑の解析結果にて紀元前60年となっており、 彼の年代は比較的正しいだろう(わたしもそれぐらいとみてる)。 とある古代史の会に潜り込み、彼と話したことがあるんですが、 古代史のことを語るとき〜ほんと熱い人ですよね。 しかし、すべて彼が当たってるということは言えない。 あくまでも、この即位の年代だけは信用できそう ということ。
709 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 19:55:46
【墓碑】 新しいネタ〜投下 これについて少し議論しよう。 中国の古代の墓ではかならずある墓碑。 この墓碑というものが古代日本の墓にあったのか?なかったのか? みなさんの意見も聞いてみたいね。
710 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 20:07:11
>>707 >でたよでたよ 陳寿アホ説が
陳寿さんについてですが、
同じ大陸側の人(中国人)からみれば一流。
列島側の人(日本人)からみればアホ。 ということ。
彼の三国志は、同じ大陸側の人(中国人)に読んでもらう為に
記したということです。
われわれ、列島側の人(日本人)は、陳寿にブーイングする立場である。
まあ、古代日本の記事を残してくれた事に関しては褒めなくてはいけませんが...。
豊玉姫、九州の平原で眠る → 神武東征 → 紀元前60年即位 → 2世紀末卑弥呼共立 → 大和朝廷出現。 こんなかんじでどうよ? そして、神武より以前の天皇の祖は九州にいた。 「宋史」 凡二十三世 並都於筑紫日向宮
712 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/07(金) 20:39:24
神武東征 は西暦41年頃、土器で云えば五期の始り頃 だと思います。
713 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 20:46:00
西暦192,193年の新羅の記事は、崇神5,6年に当たる。 これ以外に 妥当な設定場所は、私には見つからない。
714 :
縄文人 :2009/08/07(金) 20:56:46
改め と言う人は大物なんでしょうね。なんでも知っていそう。尊敬しそうになった。 だけど、<まだ、倭人伝をよくわかってない縄文人 さんに なんてことを教えてるんんだぃww >はなんかひっかるなあ。 せめて「純情な縄文人さん」と訂正してくれませんか?「純情」に抵抗を感じるなら「純真無垢」でも「天衣無縫」でも「質実剛健」 でも「公明正大」でも「高潔な」でもかまいません。 私は、神武の墓銘碑が存在するなんて知りませんでした。墓銘碑なんて後代の作り物ですよ。ね。
715 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 21:02:42
現在、畿内説と九州説ではどっちが有利なの?
716 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 21:06:04
>>712 神武即位が、紀元前660年ではなく紀元前60年ならば、
600年加算されたということになる。
600年というば60年の10倍。
暦は60年で1週する
記紀はこの暦を10倍水増ししたようです。
717 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 21:09:07
東征したとされる伝説上の神武天皇と、 遡れる限界とされる「かむやまといわれびこ」(天皇)とが記紀では同一人物にされてしまったのでしょう。 便宜上 ゆえに記録にある天皇の世代数を計算すると、JINZO氏の墓碑の解析結果にて紀元前60年、は妥当。 そして、 実際に東征した伝説上の神武天皇が、大和に移住した年代も紀元前660年が妥当ではないかな。 紀元前後の大和に九州の痕はないです。そんなに新しい時期に東征があったとは思えませんし。いや、東征があったとも思えない。 むしろ、紀元前660年は強引に年代が合わされています。無理にでも100歳を超える天皇を作るくらいですから。 何かの伝承なり口承があったのでしょう。移住レベルかと。
718 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 21:18:39
>>714 純な縄文人さん
>大物
いえ、いえ、まだまだ未熟者です。
>私は、神武の墓銘碑が存在するなんて知りませんでした。
>墓銘碑なんて後代の作り物ですよ。ね。
たとえ「後代の作り物」としてもその時期とはいつごろなのか。
によって変わります。
墳墓が築かれた時にかなり近いという意見もあるかもしれないし、
かなりの年月が経ってからという人もいるかもしれない。
そこらへんから考えたほうがよさそうですね。
719 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/07(金) 21:29:47
>173も私です。 >600年というば60年の10倍。 太陰暦は19年の倍数で出来て居る。 だから年の干支を合わせても、太陰暦にならない。 日々の干支を合わせるのも、太陰暦の19年=6940日これが基本 60年の場合、基本日数が年数と合わせられない。
720 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/07(金) 21:31:19
>>717 神武というのは、カンヤマトイワレヒコを指して、神武天皇といいます。
紀元前660年は、神武天皇よりずっと前の祖先でしょう。
>紀元前後の大和に九州の痕はないです。
紀元前後ニイドウシタノデス。
だからその時の「痕」がないのは当たり前というか・・・。
721 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/07(金) 21:57:04
>717 >墓碑の解析結果 墓碑には、2つの暦があります。 一つは皇暦で書紀と同じ数字(干支)。 もう一つは、古事記と同じ干支と思われる。 墓碑より各天皇を書き出す、皇暦ではない干支を特定、 西暦93年 考昭元年丙寅よりこれらの干支の年を特定してご覧なさい。 出来上がりは、19年*n回の数字に極めて近い。
722 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 21:58:12
神武天皇と祟神天皇は実は同世代。 祟神が九州から呼び寄せた三輪山の神が神武。 そしてその妹が卑弥呼だった。 そういう話でファイナルアンサーですよね?
723 :
縄文人 :2009/08/07(金) 22:06:11
>>718 本居宣長が神武の墓を捜したそうです。結局小さな土饅頭のような塚しかなかったそうです。古老達にも聞き込み
をして、足を棒にして探しまわってなにも無かった。墓銘碑があれば見つかった筈ですね。それが近年になって出
て来るわけですから。私のひいじいさんの仕業かも知れません。神武の信者だったそうですから。
724 :
縦目仮面 :2009/08/07(金) 22:20:13
あの、碑石とやらは、いつか俺がphotoshopで作ったやつを貼り付けて見せたんだけどね。 どれも数時間あれば、簡単に作れる。
石碑か粘土板さえ発見されればなぁ。 時代的には十分可能性があるのに、 いまだに発見されないとなると・・・
726 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/07(金) 22:45:14
>>724 金印自体だって今なら技術持ってる奴なら簡単に造れる。鏡だって同様だろう。
博物館展示の摸造金印だって、見物したが本物と瓜二つだよ。
殆ど何でも偽造はやれるだろう。しかし違反、犯罪はやってはいけないな。
覚せい剤や合成麻薬もご法度になったのは最近のことです。 卑弥呼は大麻を駆使して女王になったのではないのか?
728 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 23:24:32
所謂ゴッドハンド またやるの?
墓碑なら私が手配してあげましょうか? 石種はやはり庵治?小松?羽黒糠目? スウェーデンHGがいいですか?
730 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/07(金) 23:49:36
「カムヤマトイワレビコ」 はっきりと分かりやすく、ヤマトのイワレを書いたと、お題になってるジャン。 だから後に漢風に、神武と諡号が
>改め ドツボ◆PWTcGEfp1s で・・・ >八咫鏡=内行花紋鏡というのは常識 とまで言い切る根拠は何なのか? きちんと出してくれよw ただし、また 「八咫鏡にはヘブライ語が刻まれている!」 なんて事が書いてあるサイトの紹介はいいからなwww
732 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 04:59:27
>>726 魏志倭人伝の中の「金印授紫」とかってのは「地位」の意味で、金の印鑑を貰ったとかって意味じゃないぞ?
あと授けたのは中国の朝廷じゃなく、日本の飛鳥朝廷だよ
つか日本はカムヤマトイワレビコの大和朝廷以前は飛鳥朝廷があったんだよ
733 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 05:23:57
天つ国(サナトラクラマ) 天高原(イザナキ) 中国原(イザナミ) 芦原中国(スサノオ、大国主) 飛鳥朝廷(蘇我氏) 大和朝廷(公家) 平家(平氏) 源氏(源氏) 鎌倉幕府(藤原氏) 南朝廷(北条氏?) 北朝廷(公家?) 江戸幕府(徳川氏) 皇室(大室氏?近衛氏?) 俺もちゃんと理解してないけど、日本の氏族の流れって言うか、その時代時代の統治者の氏族や祖氏とかの流れをちゃんと調べて良く理解した方が良いかもね 「天皇」ってのは皇帝や王のように、国を統治してる者を指す称号では無いわけだし 「その時代時代に、誰が、どの氏族が日本を統治してたのか?」 ってのは日本の歴史を知る上で大事な事だけど 「いつ誰が天皇に着いのか?」 なんて、日本の歴史を語る上でどうでも良い話でしょ? 「スサノオが芦原中国を納めた」 「大国主が相撲に負けて国を譲った」 「イワレビコが遷都をした」 「源氏が平氏を倒し鎌倉幕府を築いた」 「家康が天下を統一した」 「グラバーの支援を受けた薩長連合が徳川幕府と大和朝廷を滅ぼし、大和の歴史が終わった」 「天皇」てのがもし統治者を指す言葉であるならスサノオも大国主も飛鳥蘇我氏も藤原氏も天皇って呼ばなきゃだしね
734 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 05:37:58
あと「金印」に関しては日本語を良く考えれば解ると思うよ そもそも「インカン」なんてのは日本語(大和言葉)じゃないよ 「印鑑(インカン)」これは明らかに近代作られた漢風の造語 昔から日本人が使ってた言葉じゃないよ 日本語ではアレは「はんこ(判子)」って言うんだよ ちなみに漢字の意味から考えても同じ 「判」=「はん」 「印」=「しるし」 「鑑」=「かがみ、標本」 判子ってのは「はんを押す」から判子なんだよ もし「ハンコ」を熟語の観念の無い中国大陸の人が漢字一文字で表すなら「鑑」の字が一番近いだろうね 「印」は漢字で「しるし」の意味であって判子の意味じゃないよ
735 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 05:49:49
魏志倭人伝の中の「金印授受」は「金のインカンを授かった」って意味では無いよ 「カネ、シルシ、サズケル、ウケル」 英語だと 判=スタンプ 印=シール、ステッカー 見たいなニュアンスの違いだよ 「印」を「ハンコ」と解釈するのは間違いだよ 魏志倭人伝に書いてあるのは「金の判子を授けた」って意味じゃないよ
736 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 06:12:21
>神武というのは、カンヤマトイワレヒコを指して、神武天皇といいます。 そうです。 >紀元前660年は、神武天皇よりずっと前の祖先でしょう。 正式な記録では神武天皇が紀元前660年に東征した事になっています。 意識的にあわされている年代は神功皇后の240年頃の年代と神武天皇即位の紀元前660年の年代ですね。 かまやまとイワレビコ以前の記録がなかった為にこうなってしまったわけです。歴代天皇の数が相当に省かれています。割り振られた天皇は百歳を超えるのも仕方ありません。 紀元前660年に東征した天皇からスイゼイ天皇の一代前までの天皇を纏めて神武天皇としてしまったとでも考えてください。 紀元前660年は強引に合わされているけど天皇世代数は合わされていません。少なくなっています。 >紀元前後の大和に九州の痕はないです。 紀元前後ニイドウシタノデス。 証拠はありません。 東征したとしたら、無理です。 まぁ、祟神天皇の時代にやっと国を統一したのだから、東征はないと思いますが。 移動もしくは婿入りだったかもしれません。 どっちにせよ証拠はありません。 残されている公な記録の算定によると、あくまでも紀元前660年即位です。
737 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 06:18:23
つかさ魏志倭人伝の内容を解釈する上で 「中国の朝廷が最も偉く、その朝廷に認められて初めて国として認知され、、」 見たいな訳の解らない解釈は辞めて欲しい もしそんな関係があるとすれば、それは単に「奴隷関係、服従関係」というやつで、 もしそんな関係だったのならそれは「古来の日本は中国の朝廷が治めてた」と言ってるだけだよ 日本が中国朝廷の統治下にあったとしたなら、じゃあその後、日本はその中国朝廷の支配からいつ大和民族として独立したんだって事にもなってくるし 清朝(マンダリン朝)時代も、明朝(李氏朝鮮)時代も、元朝(モンゴル朝)時代も、日本はそれらの大陸の朝廷の支配下、統治下にいた訳じゃないだろ? つか日本民族は歴史上、他民族に統治、支配されてた時代は一度も無いよ いや、太平洋戦争後に一度だけ何年間か、アメリカに支配、統治されてた時代があるけどさ その時だけだよ(まあ現在も日本はまだ、アメリカの属国のままと言われりゃその通りではあるけど)
738 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 06:19:09
神武天皇即位は紀元前660年です。 紀元前後付近に移動したという記録はありません。 史料が存在しない以上はトンデモ状態です。
>>737 冗談じゃないよ。
日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたけれど、
主権を奪われたことなどない。
というより、神国日本を他国が統治するなんて不可能。
740 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 06:41:28
>>736 「西暦」と言う年号や今のグレゴリオ暦と言うのは、1600年代の近代ローマに置いて、キリスト協会の集会の場に置いてキリスト教徒達がキリスト教を誇示する為に造ったもの
日本がこの暦を導入したのは明治維新後だし、中国では清朝崩壊後だよ
つまりそれ以前の時代に置いて日本や中国に「西暦○○年」なんて言う記録なんて有るわけが無い
記紀も魏志倭人伝もグレゴリオ暦導入以前に使ってた暦で書かれてるんだよ
イワレビコの東遷もちゃんと和暦で「太歳辛酉、○月○日、朔、節」
って、日付は元より、朔や節まできちんと和暦で書かれてるよ
で、このイワレビコの「太歳辛酉」って暦を、明治時代の那珂って学者が「これは○○で○○だから、紀元前660年の事だ!」って、勝手に主張しただけだよ
那珂がどんな理由でイワレビコの太歳辛酉を西暦の紀元前660年の事と解釈したのかってのをちゃんと調べた方が良いよ
アホ見たいな理由で、勝手に前660年と主張してるだけだから
つか「辛酉=紀元前660年」とした理由を知れば、マジで「アホか」って思うよw
イワレビコの話は紀元前660年じゃないよ
741 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 07:05:05
>>739 だったらサッサと日本の領土からアメリカ軍を追い出せよ
つか、君はちゃんと正しい歴史を認識すべきだよ
記紀時代から続いてた日本の氏神信仰や大和朝廷らの社会は、イギリスのグラバー氏達が薩摩潘、坂本竜馬、長州潘らに武器を与え滅ぼさせたんだよ
けど欧米の権力支配を嫌った長州潘は、グラバーにベッタリの薩摩派や西郷隆盛らを政権から追いやり、西郷をグラバーらによる武器庫もろとも倒したんだよ
で、太平洋戦争。
これは長州政権を倒す為の海軍の秘密結社の水交社とヨハンセングループ達による自作自演の戦争で、彼らは「革命」って呼んでたよ
水交社やヨハンセングループを支援してたのが、明治維新の時と同じまたしてもグラバーだよ
あと水交社はロスチャイルドやロックフェラーやフランスのなんとかって奴
白洲がGHQにアレだけ歯向かってたのも、彼は英国のグラバー側の人間だからだよ
つか意味わかる?
日本が本来の神の国であって欲しい気持ちは俺も同じ
けどその為には、本来の大和民族の社会や文化が、どれだけ欧米の支配により滅びてしまってるのか、まずそれを理解すべきだよ
日本人は民主主義なんかを崇拝しながら、現実に行われてるのは民主主義ではなく衆愚政治な訳だし
742 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 07:20:23
世間でいわれている事実をいっているだけです。 神武天皇即位は紀元前660年というのは私だけがいっている事じゃない。 ここで否定した所でひっくり返らない。 書紀での歴代天皇の即位年を加算してみたらどうでしょうか? 勿論史料に合致した数字をね。 改竄なしで。 想像抜きで史料事実だけで検証せよ。 でなければトンでもになってしまう。
743 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 07:22:32
訂正 紀での歴代天皇の即位年を加算してみたらどうでしょうか? ↓ 紀での歴代天皇の在位年を加算してみたらどうでしょうか?
744 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 07:28:51
>>738 人類の文明の開花を古来の欧州では「オリエント」と呼んでたよ
人類が猿から人間に、、なんてダーウィンすら否定してるような進化論とかいう単なる空想は別として、
文明の歴史だけを遡って見たときに、人類の文明て言うのは約2000年ぐらい前に突然世界中で始まりものすごいスピードで発達し、今なお発達し続けている
あのさ、例えばピラミッドが4000年前とか言われてるけど、ピラミッドってのは近代まで砂に埋まってた建造物なんだよ
で、エジプトの王達はアレを「洪水以前の文明人達の建物」と呼んでたんだよ
「混沌とした海原を矛でかき混ぜて、その雫が地となり海原に島が産まれた。そこに降り立った国立常之命は、、」
何もユダヤ神話だけじゃなく、アイヌ神話も琉球神話も、インディオや東南アジアやインカやマヤやヒンズーやギリシア神話に至るまで共有してる歴史でもあるんだよ
火星が燃えたり金星が産まれたり、金星がビーナスになったり男になったり、、ギリシア神話は星の歴史を神に例えてたりしてるでしょ?
「化石」ってのは「大量の土砂などに埋まり一気に圧力を掛けなきゃ化石とならないんだよ」
ピラミッドってのは大量の砂に埋まってた建物だし、ローマなんて地下に街そのものが埋まってるし
745 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 07:47:24
744の方 結論は?
746 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 07:55:18
今の時代では神話の話なんて「知恵の無いアホの古代人達の妄想w」なんて事にされてるけど 少なくとも近代になり「んなのは古来の人の妄想w」と否定されるようになる以前までの時代の人達は、民族や地域に伝わるそれらの神話を「歴史」として、次の世代にまた伝えて来てた訳なんだよね 記紀の解釈にしたって近代の日本人の歴史学者が「神代は空想w」と、同じ書物に書かれてる事にも関わらず 「ここまでは嘘。こっからが本当にあった事」と勝手に書物のイワレビコ以前の話を否定しちゃってる つかもしイワレビコ以前の話を「単なる空想w」とせずに記紀を読んでしまうと、イワレビコ以前に日本は既にスサノオや天照達が統治してた事となり、イワレビコを日本建国の祖としたい人には都合が悪くなるだろうね 記紀の内容をそのまま読み取れば、イワレビコは初代の天皇ではあっても日本を統治し建国した祖では無いよ イワレビコの話も天照やスサノオの話や、大国主の国譲りの話と同じで、過去にあった単なる日本民族内での権力闘争の1つでしかないしね
武内文書をよく研究してからいったほうがいいよ。 でないと恥をかくことになる。
748 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 08:21:16
>>743 歴代の天皇の即位年?
君は孝明天皇が何年に産まれて何歳で天皇となり、何歳で死んで天皇を何年務めたかてのすら知らないでしょ?
あとそもそも「即位(そくい)」とか「崩御(崩御)」なんて、これは日本語じゃない
そもそも天皇の在位年なんてのも「即位」を「天皇の位に付く事」
「崩御」ってのを「天皇が死んだ事」と、勝手にそう解釈して、勝手に「在位○年」なんて定めてるだけじゃん
けど勝手に解釈してるだけだからやっぱり辻褄が合わなくなるんだよ
だから決史八代とかイワレビコの年齢が何百歳なんて事になってくるんだよ
「天皇の歴史=日本の歴史」
とか言う思想がある奴らじゃないの?
天皇の歴代は天皇の歴史。徳川の歴史は徳川の歴史。
で、日本民族の歴史は日本民族の歴史だよ
そもそも今の天皇なんて公家じゃなく、自称南朝の末裔の大室家が「天皇」を名乗ってるだけなんだし
本当は関白にしろ天皇にしろ、公家の氏族達が血統で継承してた称号であって、関白は治世、天皇は御子って公家の中でもちゃんと家系で役割が決まってたんだよ
(いつからかは良くわからないけど、少なくとも鎌倉時代〜江戸時代まではそう)
そもそも天皇てのは朝廷(公家)の中においても、政治的権力や決定権がある地位じゃないよ
天皇て儀式を執り行う御子(神主)の家系の事だよ
749 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 08:22:02
武内文書って偽書じゃないのか? 何が書いてあるの?
750 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 08:25:29
>勝手にそう解釈して もんたもいろいろと勝手な解釈をするなあ。
751 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 08:49:17
>>748 >イワレビコの年齢が何百歳
だってイワレビコは個人じゃないから
何百歳になっても不思議じゃない。
752 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 08:52:52
>>747 武内文書もホツマツタエも記紀も、勝手にそれぞれ別々な解釈がなされてるだけで、別に書いてある内容は同じだよ
そもそも明治政府に言わせたら「日本書記以外は偽書(古事記も偽書)」て事となるんだし
その日本書記にしたって「イワレビコ以前の話は嘘。偽の歴史。空想の話。日本書記のイワレビコの話からが史実であって、それ以外の歴史の解釈は認めない」
て、おかしな話だと思わない?
要はコレが九州発祥説って奴の原点だよ
薩長政府は公家の北朝の大和朝廷を滅ぼして、新たに「皇居、皇室」なんてのを作り
薩摩に居た自称南朝の末裔の大室を天皇として祭り上げ「日本は建国より人間神、天皇の治世である」て言う事で、自らの治世の正統性を誇示したんだよ
古来より続いてた日本人の氏神信仰も厳しく禁止して、全ての日本人の氏神は唯一天皇である
として、それまでの氏神や祖氏を名乗る事を法律で厳しく禁止し、違反者は罰して、氏神の代わりに天皇を信仰させるようにもしたし
よく今でも田舎に行くと集落ごとに「熊野神社、稲荷神社、諏訪神社、八幡神社」とか沢山あるでしょ?
あれ元々はその集落の人達が自分達の氏神を祀る為に建てたものだよ
で、それらの神社には氏子がちゃんといたんだよ
神棚ってのも神宮大麻を祀る為のものじゃなく元々は氏神を祀る為のものだよ
各家庭でもお盆に迎え火炊いて先祖の里帰りの儀式をしたり、お彼岸には先祖を供養したり、、、
「血統社会、差別社会」なんて批判するけど、要は全ては先祖崇拝の信仰から来るものだよ
それが本来の日本の信仰であり文化風習でも有るんだよ
「血統社会だ!差別だ!反民主主義だ!」なんてイチャモン付けてそれを廃止するって事は、同時に古来からの日本人の信仰心や文化や歴史も失うって事だよ
ただ日本を自由だ民主主義だの言う欧米文化の国にする為には日本の古来からの文化や歴史を滅ぼす必要があった訳でさ
要はそれが明治維新なんだよ
もちろん、孝明天皇を初め多くの大名達もそれに命がけて抵抗したけど結局は負けちゃったよ
753 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 08:59:25
>記紀の内容をそのまま読み取れば、イワレビコは初代の天皇ではあっても日本を統治し建国した祖では無いよ イワレビコの話も天照やスサノオの話や、大国主の国譲りの話と同じで、過去にあった単なる日本民族内での権力闘争の1つでしかないしね 日本書紀の内容をそのまま読むと、 葦原の中つ国の統治権が大国主から高天原の神様にお返しされた。 そこで高天原の皇孫が筑紫の日向に降臨された。 ここまでが神代。 人代に入り神武天皇が筑紫の日向から大和に東征した。 神武東征を歴史事実とするのは一寸難しい。 少なくとも神代は歴史とはいえないだろうね。神話だろう。 だが神代も人代も史料事実である事は間違いない。 記紀が確かに世の中に存在しているからだ。 いずれにせよ、魏志倭人伝も加えて、 史料絶対主義否定派・行程解釈派・言語改竄派を厳しく取り締まっていかなくてはなりません。
754 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/08(土) 09:00:34
男子天皇は、大王(おおきみ)‐君と言う関係の君の旦那 だから 藤原でも菅原でも蘇我でも物部でも誰でもいいんだ
756 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 09:03:03
>日本書紀の内容をそのまま読むと、 葦原の中つ国の統治権が大国主から高天原の神様にお返しされた。 そこで高天原の皇孫が筑紫の日向に降臨された。 ここまでが神代。 失礼しました。 ウガヤフキアエズ尊が死ぬまでが神代。
757 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/08(土) 09:08:43
>>715 畿内とか九州とかではなく、私の説が一番有力です♪
考古学の学者さんたちは畿内です。邪馬台国の根拠などなくても、
ヤマト政権の残したものが沢山あるので仕事になりますから。
市井の人々は倭人伝の記述から九州が有利と考えてます。
758 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/08(土) 09:10:52
>>727 神道は酒と大麻だし、縄文は大麻であんだ縄といわれているし、
卑弥呼が大麻を使っていたとして、何か疑問があるのでしょうか。
759 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 09:11:30
>>740 >「西暦」と言う年号や今のグレゴリオ暦と言うのは、1600年代の近代ローマに置いて、キリスト協会の集会の場に置いて
キリスト教徒達がキリスト教を誇示する為に造ったもの
こんな本当のことを云うと 太国さんが怒るぞ。
>>742 神武天皇即位は紀元前660年というのは私だけがいっている事じゃない。
ここで否定した所でひっくり返らない。
神武即位までの日数を合算すると−660年になる、ひっくり返らないが
この数字を信じる人間は、少ない。
墓標をゴミとして無視するのは、簡単だが、解読者の創作では無い。
証拠に 解読者の並べた数字は、使い物にならない、並べ替える必要がある。
つまり 解読者の持論に合わせた数字とは思えない。
書紀が太陰暦を支持する以上、太陰暦を無視した数字では、書紀を大幅に書き換えねば読めない。
編年を無視して思考を重ねても、4次元の世界を再現出来ない。
もん太君 歴史とは、現在の4次元の世界を過去に遡った物ですよ。
歴史を語るとは、過去の4次元の世界を語る事。
書紀は、時空の狂いから3次元の世界、
これを4次元の世界で復元する為に数字を使うこと。
760 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 09:31:34
>>751 つか「歳(さい)」って、日本語じゃないでしょ?
日本語では年齢の事は「よわい」だっけ?
漢字では「齢」て字が当てられてて「歳」は「よわい」って意味じゃ無いしね
太歳、歳星ってあるように、惑星に付けられてる字
暦には関係するんだろうけど「よわい」の意味では無いと思うよ
そもそも「崩御」を「天皇の死」と解釈してる事が無理があると思うし
記紀読めば解るけどさ、「崩御」「皇子、即位」て記述がある箇所は全て「○○元年」だよ
元号を改めたって事を書いてあるだけなんじゃ無いの?
例えば平家物語や源氏物語や古今物語や、どの歴史書にもいちいち「いついつに○○が天皇になり、いついつに死んで、」なんて書いてないよ
んなもんはさ、檀家の寺が記録してる事だし、それに天皇が死んだだのなんだのなんて、都の御所の奴ら以外には関係無い話なんだし
例えば毛利藩では都の御所の天皇が死んだだの誰が天皇になっただのなんて事なんかより、毛利大名がいつ誰になったのかって事の方が大事なんだし、歴史書を書けば毛利大名家の歴史は乗るだろうけど天皇がどうとかなんて関係無いんだし
>>760 日本で「歳」は“みのり”だよ
で、「年」は“みのる”
“みのる”という動詞が静止する事で名詞の“みのり”になる。
「歳」と「年」と言う漢字に “みの”ラ行 の意味を持たせたのも
そういう経緯からだ
762 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 09:51:01
>神武即位までの日数を合算すると−660年になる、ひっくり返らないが この数字を信じる人間は、少ない。 紀元前後にしたって、卑弥呼以降の即位にしたって、少数派でしょう。 一方で、紀元前660年即位は史料事実になっています。 別に信じている人が少なくたって、確実に後世に伝わっていく数字です。 一寸やそっとでひっくり返せない。神の意思のようなものだから強烈だ。 人間に何が出来るのか。
763 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 09:59:53
ただ 「歳」“みのり”の“り(i)”に、「年」“みのる”の“る(u)”の意味は含まないけど 「年」“みのる”の“る”に、「歳」“みのり”の“り”の意味は含まれる。 漢字の「歳と年」も そういう意味の違いが下地にあるから 日本語を漢字に充てる時も、そういう配慮が有るんだよ。 ……誰も教えてくれない日本語と漢字の関係……
764 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 10:01:28
>>759 確かに君は頑なに「神武は前660年」って言ってるね
けどそれは単に「そう言ってる人がいるんだから、前660年で間違いないでしょ。」ってだけだよ
もしこれが「前750年」って言われてたのなら「前750年で間違いない」って言ってるだろうし
「西暦400年」って言われてたのなら「西暦400年で間違いない」って主張してるよ
君はそういう人間すよ
だから結局「何故、前660年と言われてるのか」って事すら解って無いし
>歴代の天皇の即位年を逆算すれば
つか前660年が、こんな計算をした上で出された年代だと思い込んでるしさ
そもそも天皇の系譜自体、明治になってそれまでの御所の大和の北朝廷の系譜を否定し、天皇にすらなってない空想上の南朝の天皇系譜を「歴代の天皇の系譜だ」って書き換えちゃってるってのに、在位年数を逆算も糞も無いよ
つかね「どういう根拠でイワレビコの太歳辛酉が前660年とされてるのか」ってのを、君は解って無いから調べて見なよ
これを主張した学者は明治時代の「那珂(なか)」って人だから那珂がどんな理由でイワレビコが前660年と主張してたのかを調べれば解るよ
そもそも天皇の在位年数なんてのは古事記と日本書記の記述からは解らないよ
どこにも書いてねーんだし
そもそも平安時代や鎌倉時代や戦国時代にどの天皇が何年在位してたのかとかなんて記録とかもねーし
あとそもそもイワレビコを初代天皇と言ってるけど、それって天皇の家系の氏神がイワレビコって言う意味で言ってるんですか?
天皇に初代もクソも無いよ
「天皇」なんてのは後から付けられた称号なんだし
それにアレはあまのすめらぎって読むんだよ
765 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/08(土) 10:09:15
>人間に何が出来るのか。
人間には考えることが出来る。
信じられない「−660年」を信じられる西暦41年とする。
この数字を信じれば、新羅193年の出来事は、崇神6年の出来事で符合する。
一つでは点にしか成らないが、この数字の後に273年日食=神功前紀。等が続く。
もちろん 238年垂仁死亡より倭人伝は読める。
つまり
>>757 は、4次元の世界に再現出来ない。
766 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 10:25:12
>>765 天皇が、天からものなら「あめのすめらぎ」
天皇が、天からじゃなく自生なら「あまのすめらぎ」
記紀は、言葉を理解出来なくちゃ
絶対に読めない。
読んでも内容チンプンカン
767 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 10:26:45
768 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 10:31:15
>>759 とにかく
>神武元年が前660年と言うのは歴代の天皇の在位年数を逆算して出された年数
ってのは間違いであって、君の思い込みです
「神武元年=前660年 とされた根拠」
これに関してはきちんと調べて見て下さい
「那珂」「辛酉」でくぐれば直ぐに出ると思いますよ
で、あんな下らない根拠で「イワレビコ=前660年」と決めつけて良いのかどうか自分で考えて見て下さい
あと日本の歴史を語る上でイチイチイワレビコから歴代を並べる必要は無いですから
南北朝時代には同じ時代に二人の天皇がいた訳だし、誰かが天皇を名乗る前までは、天皇なんてのは存在して無いわけですから
重要なのは歴代の天皇が初代から現代まで続くかどうかじゃなく、天皇の氏神が誰で、天皇はどの氏族で、その氏神の氏子として血統や家系をちゃんと守り繋げて来てるのかどうかですよ
そもそも天皇の氏神(祖)が誰なのかとか、俺は良く解らないし
どの氏族なのかとかも良く解らん
けど記紀にはちゃんと「○○は○○氏族の祖で」とか書いてある訳だから、本来なら天皇の在位年数だなんたより誰がどの氏族でその氏族の氏神が誰なのかって事をまずちゃんと理解すべきなんだよ
明治政府が氏神を名乗るのも信仰するのも禁止するまでは、日本は氏神信仰の国で、その氏神や御先祖様達の歩んだ歴史あって、俺や君が産まれて来てるんだし、それが日本の歴史だよ
自分の血統の由来や自分の先祖をきちんと把握してそれを大切に思い信仰する事ってのは大事な事だと思うよ
それが無くなったら日本人が日本人である所以も無くなるし
自分の氏神が誰で血統の所以も解らないのに日本民族を名乗って良いのなら、朝鮮人やアメリカ人が日本民族を名乗っても何も否定出来ないよ
769 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 10:31:59
>>759 とにかく
>神武元年が前660年と言うのは歴代の天皇の在位年数を逆算して出された年数
ってのは間違いであって、君の思い込みです
「神武元年=前660年 とされた根拠」
これに関してはきちんと調べて見て下さい
「那珂」「辛酉」でくぐれば直ぐに出ると思いますよ
で、あんな下らない根拠で「イワレビコ=前660年」と決めつけて良いのかどうか自分で考えて見て下さい
あと日本の歴史を語る上でイチイチイワレビコから歴代を並べる必要は無いですから
南北朝時代には同じ時代に二人の天皇がいた訳だし、誰かが天皇を名乗る前までは、天皇なんてのは存在して無いわけですから
重要なのは歴代の天皇が初代から現代まで続くかどうかじゃなく、天皇の氏神が誰で、天皇はどの氏族で、その氏神の氏子として血統や家系をちゃんと守り繋げて来てるのかどうかですよ
そもそも天皇の氏神(祖)が誰なのかとか、俺は良く解らないし
どの氏族なのかとかも良く解らん
けど記紀にはちゃんと「○○は○○氏族の祖で」とか書いてある訳だから、本来なら天皇の在位年数だなんたより誰がどの氏族でその氏族の氏神が誰なのかって事をまずちゃんと理解すべきなんだよ
明治政府が氏神を名乗るのも信仰するのも禁止するまでは、日本は氏神信仰の国で、その氏神や御先祖様達の歩んだ歴史あって、俺や君が産まれて来てるんだし、それが日本の歴史だよ
自分の血統の由来や自分の先祖をきちんと把握してそれを大切に思い信仰する事ってのは大事な事だと思うよ
それが無くなったら日本人が日本人である所以も無くなるし
自分の氏神が誰で血統の所以も解らないのに日本民族を名乗って良いのなら、朝鮮人やアメリカ人が日本民族を名乗っても何も否定出来ないよ
皆既日食の後に起こった奇怪な事件、 逮捕された夫の愛人に子供を預けて失踪というのはあまりにも不自然。 弟は山口組系暴力団員。その弟も先月福岡県内で逮捕されており、 夫もマークされていたのだ。 それら一連の麻薬取引を仕切る組織には女王がいた。 そう、のりピーは、卑弥呼の生まれかわりだったのだ。
771 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/08(土) 10:45:24
>天皇はどの氏族で、 こんな事を考えてもDNAレベルで証明できない。 −660年に比定すれば、書紀の空白年に数代の世代交代を注入しなければ数字が合わない。 書紀の記事は、世代交代を否定する。と云うか世代交代の無い事を肯定する。 これだけで4次元の世界で無い事が判る。 書紀の空白年の可なりは虚像。
772 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 10:59:04
だからといって紀元前660年即位は覆らないですね。無理です。 歴代天皇在位年数、崩御年は、これが基になって割り振りされていますから。 それと神功皇后を卑弥呼の年代に合わせてね。 きちんと計算してみて下さい。神武天皇即位は紀元前660年に合います。 神武天皇紀元前660年即位は後世に確実に伝わります。 誰ぞが天地をひっくり返す事をやろうとしても無駄です。 いい死に方しませんよ。
773 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 10:59:47
のりピーの前世はゴンの友達ピーコちゃんだ
774 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 11:11:27
>>765 西暦41年は太歳の辛酉年じゃ無いってば
あと「天皇に即位」もクソも、天皇なんて称号は後の時代に記する際に「天皇」と言う称号を加えただけであって、実際にはイワレビコが「じゃあオレ、今から天皇やるね!」って天皇に成ったりした訳じゃ無いんだよ
だから記紀にも「○○年に誰々が天皇に成り」なんて事は書いてないんだよ
天皇の在籍年数もクソも、記紀に関しては在籍年数なんて簡単じゃん
イワレビコにしろ他の人にしろ、彼らが天皇に在籍した年数は0年だよ
良く言われる「神武天皇が即位した年」なんてのも、アレは記紀では「太歳辛酉、○月○年、イワレビコは都を遷都した」って書いてあるだけだよ
実際にはイワレビコの時代には天皇なんて名前の地位は存在してないよ
それなのに勝手に近代の奴らが「イワレビコは○○年に天皇になり、○○年には誰々が天皇になり、、」って空想してるだけ
だいたいイワレビコの話は記紀には「イワレビコが筑紫から東征して道中にこんな事がありつつ、最後にナガスネ彦を倒し、太歳辛酉年に、都を橿原に遷都した」って事が書いてあるだけだよ
けど、変なバイアスや先入観で頭の固まってしまってる人には「そうして東征を果たしたイワレビコは、太歳辛酉、○月○日に初代天皇となり日本の建国をなしえた」
見たいな解釈する
だいたい「遷都」の意味すら理解出来ないのかよって話だし
そもそも「建国」なんて観念はフランス革命により国家だの共和国だの言う観念が産まれた事で一緒に生まれた観念だよ
国造り、国譲り、嶋産み、○○国原を治め、、、
日本の民族や国内の覇権争いの歴史もイワレビコの話以前から記紀にはちゃんと書いてある
あとイワレビコの遷都の話に出てくる
「飛鳥」「エミシ」「入鹿」「池で自殺」「遷都」「橿原」「吉野」「近江」
てのがさ、何の事なのかってのは、変な先入観を捨てて普通に読み取れば、いつ頃の時代の話なのかとか簡単に解る話だと思うけどな
775 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 11:13:34
万葉集などによく登場する 「天香具山」「天〇〇」 これを「あま」と読む場合は、香具山そのものを材料にされたもの 「あめ」と読めば、香具山に掛けられた 掛け言葉 裏があるでよ〜
776 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 11:57:30
>>771 「記紀の空白年」って何?
そら平安時代に書かれてるんだから、平安時代以降〜現代の時代の事なんて書かれて無いさ
唐松さんが「空白」って呼んでるのは、天皇の在位年とかの話じゃないんですか?
イワレビコは後に「神武天皇」て言う大和言葉(やまとことば)とは別に、漢意表記で表す名前が付けられただけであって
実際には「おっし!おれ今から天皇やるわ!」って天皇に成ったりはして無いんですよ
あと天皇の在位年数ても、江戸時代ですら歴代の天皇の在位年数だなんてのは解らないでしょ?
記紀の空白だなんだ言う前に、そもそも実際にどこまで遡れるのかやって見れば?
江戸時代すら遡れないよ
・継宮明仁(在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
・柚宮浩仁(在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
・明宮嘉仁(在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
・大室寅之介(在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
・藤原孝明[桂宮家](在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
・藤原仁孝[桂宮家](在位 ○年、生誕○年、享年○歳)
やってってみ
ちなみに、明治時代になって明治政府は南朝系の正統とするために歴代の桂宮家の天皇を10人ぐらい排除し、架空の南朝系の系譜と天皇を付け加えてるから、騙されないようにね
あと南北朝時代は二人天皇がいるからね
777 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 12:09:35
あと天皇を遡る場合、記紀の時と同じ様に「○○時代の書物に○○と書かれてる事から、この天皇の在籍年数は確認出来る」って、ちゃんとどの歴史的書物から在位年や即位年や享年を確認出来るのかもちゃんと書いてね 「そう言われてるから間違いないんだよ」 なんて勝手に決めつけちゃダメだよ 近代の学者や権力者が勝手に妄想しただけの話ってのは歴史でもなんでもないから 最近じゃ例えばよくよく調べたら鎌倉幕府の1192年ってのも、その年代を示すような歴史的な根拠が無いらしいね 日本が今のキリスト教のグレゴリオ暦を導入したのは明治時代以降だよ だから「西暦○○年」なんて年代は、全て明治時代になってから近代の学者達が(何を根拠としてるのかは良く解らないけど)とにかく新たに定めた年代だよ 那珂の神武=前660年 見たいなアホ見たいな根拠で付けられてる年代も沢山あると思うよ
778 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 12:27:56
>>775 「あま」も「あめ」も同じ意味っすよ
あま(あめ)=天、雨、海、、
同じ意味だよ
ちなみに天照が産まれたのは、記紀に何度も出てくる神坂峠のある恵那山の麓の中津国の安木村って所だよ(現、中津川市、阿木)
そこには赤子岩があって天照が産まれた時の様子が詳しく伝えられてるよ
「昔、昔、この地上には何年も何十年も雨が降り続いており、その頃の神様はとても体が弱く、
子供を産んでも奇形だったり、産んだとたんに死んでしまったりしていました。そんなある日、イザナミと言う神様が子供を身籠り、出産を迎えたその時、眩しい光りが雨空を照らし、神鳴りが起きました。
そしてイザナミは神鳴りと共に産まれた女の赤ん坊を岩に寝かせ「もう安気、安気」と言いました
その神鳴りの光以来、長く降り続いた雨は止み、それ以降、神様達は何人もの丈夫な赤子を産めるようになりました」
見たいな話
779 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 12:40:20
>>778 「あめ」「あま」が同じ意味なら、言葉の使い分けなんておきない。
780 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 12:45:57
>>775 天照の「天」は「雨」と同じ意味だよ
あと天照は日照りが続いた時には雨乞いの儀式なんかもしてる雨乞いの神でもあるよ
つかさ「天(あま)」を「空(そら)」と同じ意味と勘違いしてる人が多い気がする
だいたい天照は太陽神じゃないし
太陽は「日」だよ
太陽神は「日神」ってのがちゃんといるし
ギリシャ神話にも天つくりそれを支える神の話があったと思うけど、日本神話も同じだよ
まず天産巣の神が天を造り、海原から大地が産まれる
要は「大気」見たいな事でしょ?
大気(天)と大地が出来て初めて人間はその地で暮らせるわけだからさ
「空照」なら太陽で良いけど
「天照」ってのは神鳴りの事だよ
長年降り続いた天を照らしたのは神鳴りの光であって、天照はその神鳴りと共に産まれたから天照神って名前なんだよ
古代の巨石の岩蔵とか知らないかな?
岩蔵遺跡では必ず天岩戸や雨乞い岩や神鳴岩などが置かれてるんだよ
日本は水田を主体とした農耕の国なんだから、日照りが続いたら死活問題だし
雨乞いの儀式てのは太陽を拝んで雨を降らせてる訳じゃ無いんだよ
天を拝んで雨を降らせるんだよ
「あま、あめ」と「そら」は意味が違うよ
天はアメの意味で空じゃないよ
781 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 12:54:34
>>779 河童さんが言いたいのは「そら」と「あめ」でしょ?
「あめが降ってきた」「あまもりがした」「あまご」「海女」「海部」
そもそも空の事を「あま」なんて言い方しないでしょ?
多分、河童さんが空(そら)と天(あま)をごっちゃにしちゃってるだけすよ
あまぐも、あまもよう、あめあがり
あおぞら、おおぞら、そらが曇ってきた、秋空、冬空、、
そもそも「そら」の事を「あま」なんて言わないでしょ?
782 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 12:58:24
>>790 文字と言葉は別けて考えないとだめだよ
「あまてらす」は
、天の明るさが大地を照らすから「あまてらす」
783 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 13:08:01
>>782 俺は日本語の「あま」の話をしてるんですよ
「あまが明るい」なんて言い方しないでしょ?
>天の明るさが、、
これは「てんの明るさ」でしょ?
日本語の「あま」の意味の話をしてるんですよ
「てん」の話はしてないすよ
それに大地を照らすなら「ちてらす」すよ
太陽の光は空や地を照らすけど、あめが降ってたら照らさないよ
「あま」の日は太陽は見ないでしょ?
太陽とあまはむしろ真逆の関係なんだし
日(火)と天(水)の関係だよ
ちなみに太陽がカンカン照りの事を「日照り(ひでり)」って言うんだよ
「あまてらす」とは言わないよ
784 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 13:18:26
「あめ」は「あま」に重なるから「あ(ま)a」ではなく 「あ(め)e」なんだよ 「天」という漢字は そういう言葉の関係上 「あま」と「あめ」の二つの訓読みがあるんだ 「あめ」は「あま」に重なる“ダブる” 「雨あめ」は「天あま」がなければ存在しないもの アマに水分が重なるからアメになるんだよ ソラからアメは生まれない。
785 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 13:22:04
河童さんがいうと説得力がない。
786 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 13:37:45
>>783 >ちなみに太陽がカンカン照りの事を「日照り(ひでり)」って言うんだよ
>「あまてらす」とは言わないよ
良い所突いてるとは思うんだけどね。
でも、美濃もん太君は、日本書紀に、
「天照大神=日神」という文脈で書いてあることはどう解釈するの?
天照大神が雨乞いをするような説話は無いよ。
787 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 13:41:13
>>783 なぜ
「アマが明るい」と限定してしゃべるのかな?
私はアマともアメともこだわれないから天と言う漢字を使用したんだよ
普通だったら
「あまてらす」だけで十分意味になっているけど
現代の私達には理解出来ないから
「天が明るく」と表現したんだが。
それに、「太陽がギンギン」なら
初めから「太陽」と言葉指定されているから「日」照り
しか選択できない
駄目だよ 言葉の誘導は
788 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 13:44:28
>>784 そら
↑
→あま
↓
しま、だいち、うみ、いけ
「天(てん)」は「大」に天井を付けて「天(てん)」だよ
例えば星があるのは「そら」か「あま」かどっちです?
太陽があるのは「そら」か「あま」かどっちです?
そらとだいちの間にあまの雲がある時は、空にある星も太陽も見えないでしょ?
宇宙
↑
→大気圏
→大気
→雨、雲、風、雪
↓
島、大地、海、池、、↑水が蒸発
ギリシャ神話では「なんとかって言う神様が空を支えたから空に潰されずに人が暮らせるようになったとある」
日本神話でもまず最初に天産巣神が天を産み、国之常立が海原から島を産んでそこに降り立つんだよ
789 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 13:54:33
790 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 14:02:14
>>786 日本書記の何処にそんな事が書いてあるんだよw
天照の雨乞いの話は記紀じゃなく天照が産まれた恵那山の麓に伝わる話だよ
イザナミと天照を祀る恵那山の神器ってのは八本の鎌で、その神器である鎌を多治比氏だか土岐氏だかに貸した時があって、そしたらそのとたんに日照りが続き干ばつに教われたらしいよ
んで、雨乞いだか神託の儀式の末に、鎌を一本長良川に投げ込んだら雨が降り干ばつから救われたとかなんとかって言う話
例えば国之常立の詳しい伝承は、国之常立が降り立ったとされる火玉の国の位山周辺には詳しい伝承が色々伝えられてるんだしさ
791 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 14:04:38
>>788 ソラや(アマ・アメ)は
そんな区分はしていない。
「ソラ」は、ソラと表現する人の上方向に重なる事象
「アマアメ」は、アマアメと表現する人の外方向に広がる空間。
比べる事自体がナンセンス。
だから
ソラとアメアマは、音も違うし文字も違う。
河童vsもん太とか実にカオス
793 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 14:19:44
794 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 14:19:47
「ソラ」の仲間には そり、そる、それ、そろー さら、しら、すら、 「アマ」の仲間には あみ、あむ、あめ、あもー いま、うま、えま、 「あめ」の仲間には うめ、おめ
795 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 14:31:05
>>793 リンク先のどこにアマテラスの記事があるの?
796 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 14:38:35
>>791 だからその空間を河童さんは実際に「あま」なんて言い方しますか?
「あま」って言葉はどんな時に何をさす言葉として使ってます?
例えば「あまつたかはら」と「たかはら」と「あまのはら」
高い場所にある場合は「たかい」って言葉を入れるんですよ
「あまつうきふね」
平仮名で書けば誰も上空なんて想像しない言葉だよ
これを「天浮船」って書くと何故か空に浮かぶ船を想像しちゃう
「天国」とか「天空」とか、「天」て字からそんなイメージを連想しちゃってるからなだけだと思うよ
ちなみに神様(つか死んだ人)が居るのは「天(てん)界」じゃなく「霊界(れいかい)」だよ
「あま」「そら」「てん」
それぞれ意味が違うよ
ちなみに「天照」は「あまてらす」であって、「そらてらす」でも「てんてらす」でも無いよ
「あめが降ってきた」を「てんが降ってきた」とか「そらが降ってきた」なんて言ったらおかしいでしょ?
797 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 14:53:49
798 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 14:57:42
>>796 ・アマは見えない空間
・ソラは空間で見える事象
だからアメは
見えない空間になにかが重なり、見えると雨になる。
アマテラスは、見えない空間を明るくし、見えない大地を照らす
心の神。
目には見えない世界なの。
ソラは、その見えない世界に事象が重なり、表現者の上方向で見える世界になる。黒く青く白くなり
だから ソラ
799 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 15:09:56
世界大洪水って言うか、過去にあった天変地異の話は、記紀には詳しく書いてないけど日本でもちゃんと伝えられてる話だよ 人類の文明ってのは約2000年ぐらい前に世界中で突然開花し世界中で凄い勢いで一斉に発達して来たんだよ 今の文明を築いた文明人の歴史自体がそもそも長くても2000年ぐらいだよ それ以前は世界中の伝承に伝えられてる話を元に考えれば、とても人間が暮らせるような環境じゃなかったんでしょ?
800 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 15:10:13
母音エ(e)の働きは“重” だから 絵、柄、得…… などの漢字には「え」という 訓をあてている。 【参考】この母音(e)に時間が加わると 子音 S になる
801 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 15:20:02
>>796 >「天が降ってきたらおかしい」
天の(アメアマ)は、実際には存在しない
見えない世界だから
降ってはこない。
★天照大神は、心の世界の神
だから目に見える日神とは同一でもあり、別個でもあるんだよ
その辺の区別ができないと、とてもじゃないけど
記紀に書いてある内容なんてわからない。
802 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 15:24:52
>>798 だから天照の名前の由来なら
>>797 にあるっての
あまで覆われた空を照らして雲を引き裂いたのは太陽の光じゃなく神鳴りの光だよ
そのあまを照らした神鳴りと共に産まれたから天照って名前なんだよ
つかそう伝えられてるんだから、そういう意味だってば
別に太陽神でもなんでもないよ
そもそも日本でいう「神」ってのは、ゴッドの意味じゃなく祖氏や先祖や古来の人で、つまり霊界に居る人達を「神」って言ってるだけなんだしさ
亡くなったあともその霊界にいる先祖の魂とかをきちんと大切に扱うのが日本人の文化だし先祖崇拝の信仰だよ
ちなみにインカでは亡くなったらその遺体はミイラにして、そのミイラをずっと現実の人のように扱ってたんだよ
ミイラっても放置されてカラカラになったエジプトのミイラのような形じゃなく、きちんと毎日手入れしてやれば、まるで生前の姿のようなままで居られるらしいよ
インカを滅ぼしたスペインの奴らがそう記録してたよ
803 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 15:25:05
804 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 15:34:36
>>802 >>797 を読んでも、「この子は日の神様にちがいない。」とって書いてあるじゃん。
でも、「あま」を「照らす」という解釈は良いね。
その「あま」は「雨雲」の「あま」だから、
アマは「雨」で正解だ。
もっとも、一般的な解釈でもあるけどな。
805 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 15:35:48
でも、アマテラスは「日の神」には違いないから、 もん太君も認めたほうが良い。
806 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 15:36:02
807 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 15:42:46
>>800 >○○と言う漢字には「え」と言う訓を、、、
逆だってば
漢字ってのは元々は一字一音の音が付いてるもの
ただその音にはなんの意味もないから、日本では日本語で発音出来る字にする為に、表意文字でしかない漢字に、日本語の訓を当てて日本語で読めるようにしたんだよ
多いもので30もの訓を当てたりしてるよ
あとさ、基本的に日本では漢字の訓は別に普段使ってる自分達の言葉で読めば良いんだよ
「本当」て字は関西人なら「ほんま」って訓を当てれば良いんだし
「絵」や「柄」は元々「え」って言う日本語の名詞だよ
つか動詞や形容詞の場合は「得る」「得た」とかって送り仮名と分けて訓を付けたりしてるけど、この辺りがやっぱ日本人の賢い所だと思うよ
808 :
縄文人 :2009/08/08(土) 15:48:46
天照は私の姉です。あまりいじくらないで下さい。ちなみに、私は太陽の子です。
809 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 15:55:47
天照てそば焼酎のことか? 昼間から酔っ払ってるのかね。
810 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:04:14
>>801 「あめ」が降ってきたら河童さんは
「あめが降ってきた」って言わないの?
あめが降ってきた場合、河童さんは日本語でなんて言ってるの?
あと「あまてらす」って人はイザナミが産んだ子で、イザナミとあまてらすがくるまれてたエナは恵那山に祀られてるし
あまてらすは、神坂峠を越えて信濃のたかはらを治めて、皆神山に祀られたんだよ
そのあまてらすが祀られてた皆神山の岩戸は後にヒルメ立ちによって開けられてしまったよ
あのね、日本では天照もイザナミもサルタヒコもナガスネヒコもイワレビコもニギハヤヒも、みんな「神」なんだよ
神っても要は霊、魂、命(みこと)って意味だよ
亡くなった後もその人の霊(命、みこと)をそうやって、扱う信仰だよ
つか要は先祖崇拝って奴で、日本人は毎日ご先祖様にご飯とかをお供えしてたりしてたんだよ
うちの婆ちゃんはいまだにやってるよ
神道なんてのは明治時代に作られたもので、それ以前の日本は氏神信仰(先祖崇拝)の信仰だよ
大和健が東征する際に恵那山に参ったのも、あれは先祖を参っただけで、もし先祖がスサノオだったなら大和健は諏訪大社を詣ってたよ
てか本来は日本人なら誰もが特定の氏神がいるんだよ
もう忘れちゃってるだけでさ
811 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 16:09:58
>>810 だから「〜が降ってきた」なんて限定文章にしちゃダメなんだよ
世の中で降る事の出来るアメは、雨と飴しかないんだから
全然「天」とは結び付かなくなるの。
812 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:15:35
>>806 だから「アメ」だってば
この「アメ」って言葉は例えば「アメの雲」とかって言う場合は「アマグモ」って「アマ」って言い方をするよ
だから「あめ」も「あま」も同じ意味の日本語だって言ってるんだよ
ただこういう言葉の使い方とかは方言とかにより違うかも知れないよ
アメ
形容詞とかで使う場合は、あまがさ、あまもり、あまぐも、あまやどり
とか「あま」になるよ
「白」とかも同じだよ
シロ
しらうお、しらが、しらす、しらこ
「シロ」も「しら」も同じ意味だよ
もん太も凄いが、河童も半端じゃねえ スレジャックだ。
814 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:18:55
>>811 河童さん、漢字には、日本語の振り仮名を降って欲しい
>「天」とは結びつかない
って書かれても
「てんとアメは結びつかない」って言ってるのか、「あまとアメは結びつかない」って言ってるのか良くわからないから
てんって言ってるのなら「てん」と「あめ」は意味が違うから結び付かないのは当たり前すよ
815 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 16:20:57
アマテラスの「アマ(天)」は「アメ(雨)」ってのは国語学の常識なんだよ。 この点は、もん太の洞察力の勝ち。 河童虫君はそろそろ負けを認めたほうが良い。
816 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:27:05
河童さん、とりあえす一度「天」って言う漢字は置いといてよ 俺は初めから日本語の「あま」と「あめ」は同じ意味だって言ってるだけだよ で「そら」と「あめ」は違う意味 「てん」と「あめ」も違う意味 って言ってるだけだよ で日本語で「あまてらす」っていった場合ば、あまを照らすって意味だって言ってるだけだよ そらを照らす場合は日本語では「そらてらす」だし てんを照らす場合は日本語では「てんてらす」だよ
817 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 16:33:19
天と書いてama は母。 天と書いて ame は武器。 天と書いて ten は消光。
>>861 だからもん太君ね
「あめ」と「あま」は、意味が違うんだよ
「あめ」には「あま」の意味が重なるけど
「あま」には「あめ」の意味がないんだ。
当然「そら」は問題外だけど(べつな区分け)
819 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:37:55
で、さっき天照の産まれた時の伝承があったでしょ? 「黒い雨が何年も降り続いてて、その雨雲を神鳴りの光が引き裂いて、、」 ってさ 天照ってのは、厚く覆われてたあまを照らして雨雲を引き裂いた神鳴りの光と共に産まれたから、「あまてらす」なんだってば これは俺が勝手に言ってる訳じゃなく、あまをてした神鳴りの光の事とかも、そう伝えられてきてるって話をしてるだけだよ だから「あまを照らしたのは太陽じゃなく神鳴りの光であって、太陽の事じゃないよ」って言ってるんだよ
820 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 16:41:24
「あまを照らしたのは太陽じゃなく神鳴りの光であって、太陽の事じゃないよ」 天と書いてama は母。・・・・あま 天と書いて ame は武器。 ・・・・神鳴り 天と書いて ten は消光。 ・・・・光
821 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 16:44:38
早い話し 現代の次元で当時を振り返れば 「アメとアマ」を敢えて区別する必要性はない。 ただ、 当時の次元で語ろうとする場合は、区別しなければならない。 もん太君の場合は前者だな 私は出来る限り後者に近付けたいだけ。
822 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 16:45:06
>>818 ・あまがさ
・あまぐも
・あまやどり
・あまごい
・あまど
・あまみず
みんな「あめ」の意味だよ
・しらが
・しらうお
・しらこ
この「しら」は「しろ」の意味
「あめ」と「あま」もこれと同じだよ
つか天照がなぜ天照と呼ばれたのかは、記紀には詳しく書いてないけど、アマテラスが産まれた場所ではその様子が詳しく伝えられてるよ
それを知れば「あまてらす」ってのがどんな意味であまてらすなのかも河童さんならわかるでしょ?
神鳴りの光がアマを照らしたからアマテラスなんだよ
823 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 16:54:44
>>723 縄文人さん
>本居宣長が神武の墓を捜したそうです。
>結局小さな土饅頭のような塚しかなかったそうです。
>古老達にも聞き込みをして、足を棒にして探しまわってなにも無かった。
>墓銘碑があれば見つかった筈ですね。それが近年になって出て来るわけですから。
>私のひいじいさんの仕業かも知れません。神武の信者だったそうですから。
・たぶん、貴方と曾爺さんは勘違いしてるのかも。
墓碑と言っても、現在の墓碑じゃないよw
>>724 縦目仮面さん
>あの、碑石とやらは、いつか俺がphotoshopで作ったやつを貼り付けて見せたんだけどね。
>どれも数時間あれば、簡単に作れる。
・あいかわらず、ガキみたいな考えだねw
あんな貼り付けたモノをマジで信用してるのかww
824 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 16:55:16
アマテラスの伝承を美濃で見つけてきたのは良いね。 アマテラスの民間伝承ってほとんど聞かないんだよ。 みんな、九州説の影響で、九州に高天原があってそこにアマテラスがいたと思ってるけど、 実際に九州の民間伝承でアマテラスがどこで、どうしたという話は全く聞かないんだ。 誰か知ってたら教えてほしいくらいだ。 せいぜい、高千穂だの岩戸神社が例に出されるくらいだけど、 それだって、記紀神話をもとにして後付けされたものだからな。 アマテラス信仰の発祥地には、必ず民間伝承が残されてるはず。 それが美濃にしか無いとしたら、美濃が発祥の地と考えるべきだね。
825 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 17:01:30
>>821 だから俺も当時の次元の話をしてますよ
アマテラスが産まれた場所から当時の様子から、調べればちゃんと詳しく伝えられて来てるんだよ
俺は神話を神話ととらえてないし
国之常立にしろアマテラスにしろイザナキにしろ過去にいた人達だって前提で、記紀以外に伝わる詳しい伝承とかが無いかとか色々調べたりしてるだけだし
アマテラスなんてしらべりゃ産まれた場所から当時の様子まで詳しく伝えられてたりしてるんだし、それを知って初めて「アマテラス」て名前の由来も俺は解ったって言ってるだけだし
アマを照らした光は神鳴りの光だよ
少なくとも昔の人達はそう伝えて来てるよ
「太陽がそらを照らすから、、」なんてのはそれを知らない現代の次元で発想してるだけの話
「あまの岩戸の話は月食の事で、」
なんてのも現代の奴らが勝手に想像してるだけの話でしかないし
826 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 17:03:50
>>722 さっきも言ったように
もん太君が見ている、現代から古代を垣間見る世界と、
私がしようとしている
出来る限り当時の視線で
と、言う世界は
どうしても時間のギャップがあるので
認められない部分が多くなる。
その辺の違いかな?
だから、私の視線で君の考えを否定するわけにいかないし、肯定する事も出来ない。
827 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 17:09:16
>>824 「発祥」って言い方は違うと思うよ
俺は「別にイワレビコが日本の発祥じゃない」って良く言ってるけど
同じように別にアマテラスが日本の発祥だとするのも違うと思うし
それ以前には神代七代も居るし、日玉の国にはアマテラス以前の国之常達の話がちゃんと詳しく伝わってるよ
これらも全て日本の歴史であって、どこが発祥も糞も無いよ
それにどの神様が偉いも糞も無いんだし
まずはちゃんと自分の先祖や氏神をあがめるのが先祖崇拝なんだから皆が皆が誰かを崇めるなんてのはむしろおかしいよ
828 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 17:09:25
>>825 だったら
「アマとアメ」は別けて考えなければならない
アメとアマ
フネとフナ
イナとイネ
サケとサカ
他にも沢山あるけど
これらは全て、母音eとaの関係で、先程述べた通り使い分ける。
829 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 17:10:15
安気とは 『天と地』と言う言葉である。
830 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 17:11:00
>>726 太国さん
>金印自体だって今なら技術持ってる奴なら簡単に造れる。鏡だって同様だろう。
>博物館展示の摸造金印だって、見物したが本物と瓜二つだよ。
・似てるのは当たり前だろうw 複製品なんだから〜wwww
本物と瓜二つってw ちゃんとみたのかな? どうみても、複製品のが見栄えいいだろうw
>>730 美濃もん太くん
>「カムヤマトイワレビコ」
>はっきりと分かりやすく、ヤマトのイワレを書いたと、お題になってるジャン。
>だから後に漢風に、神武と諡号が
・いつも〜トンデモ話しか言わないから誰も信用しないじゃんw
つーか、もん太くんと河童くんのレスってどっちのレスか判断しずらくね?ALL
実は一人二人役なんじゃないの?w
>>731 >とまで言い切る根拠は何なのか? きちんと出してくれよw
>ただし、また「八咫鏡にはヘブライ語が刻まれている!」
>なんて事が書いてあるサイトの紹介はいいからなwww
・わたしは、「八咫鏡=内行花紋鏡」という答えを示したわけだが、
「式」までわたしから教えてもらおうと思ってるのかな?
いつも、いつも、私から教えてもらうんではなくて、自力でみつけることだな。
いつもの河童理論を今度はもん太が河童に向かって使ってて笑える
832 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 17:15:46
>>829 いや、これはこの地方の方言だよ
「これでやーっとあんきになった(これでやっと安心出来る)」
対して深い意味はないよ
ただこういう事はその地方の方言を知らないとわからないすよ
>>830 トンデモのコメントして
何か意味あるのか?
君の場合は意図か?
ま、どっちでもいいけど
時間の無駄だろうから、私へのコメントは無用に願いたい。私もなるべくスルーさせてもらう。
834 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 17:21:17
ここに美濃の昔話というのがある。
ttp://blogs.dion.ne.jp/papercraft/archives/7853834.html 日本書紀にも書いてあることだけど、
美濃市大矢田には「喪山」という山があり、天稚彦命の墓と伝承されている。
天稚彦命は、高天原から、大己貴命に国を譲るように交渉に行ったのだけど、
大己貴命側についてしまったので、いろいろあって殺されてしまう。
その墓が美濃にあるということを、どう考えるべきか?ってことだね。
美濃が、大己貴命の支配領域で、そこに天稚彦命が出向いていって死んだからか?
少なくとも、美濃は天稚彦命の支配領域であり、大己貴命の支配領域でもあった、
ということは言えるはずだよね。
そして、この話は、出雲の国ゆずりよりも前、葦原中国平定の最初に語られてるわけだ。
これは、九州に高天原があって、東へ勢力を伸ばしていったという一般的な説とは矛盾するんだよ。
むしろ、高天原と葦原中国の最前線に美濃があった、
そして、高天原は美濃より東になければおかしなことになる。
835 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 17:28:35
>つーか、もん太くんと河童くんのレスってどっちのレスか判断しずらくね?ALL 実は一人二人役なんじゃないの?w 俺もそう思った。 どっちがどっちだかわからなくなる。 良くもまぁ、続くわ。 実はこの二人、今、幸せなんじゃなかろうか……。
836 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 17:30:54
>>834 高天原って信濃の事だよ
神坂峠を越えた場所が高天原だよ
アマテラスの岩戸の皆神山や戸隠し山も全部信濃にあるんだし
837 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 17:39:34
>>350 河童虫さん
>>しかし、もう少し本を読んだほうがいいのは間違いナイ〜。
>>最近、そんなことも知らないのか?て感じること多いゾ
>昔、そうプラム時代の時に、二十冊ほど何度か繰り返し読んではみた事あるけれど……
>当時はそれなりに真面目に読んではいたけど今は金貰っても読む気にもならない。
二十冊?! 全部入れて二十冊なの?
そりゃ〜いくらなんでも少なすぎるよ。
邪馬台国本にはアタリ、ハズレがあり、
図書館で読むのと、本を購入して本格的に読むのとでは差がある。
古代史系の本、二十冊購入し、一字一字見逃さず読んだのなら、納得するが、
図書館でチラ見とか全てをいれて、二十冊なら少ないわな。
>こう言っちゃなんだけど多分、私がここに書き込んでるネタの方が
>新鮮だと思うし、マニアにはたまらないネタじゃないかな?
自分で、マニア向け〜て認めてるんだw
>>836 もん太君の氏神信仰にこだわりを持つ辺りは 絶賛だね
古代列島は「うじこ」と「みこ」の土地柄だから
(うじこの世界に、みこが割り込んだ)
839 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 17:40:34
同じ議論でも、 トンデモ 対 トンデモ は難解です。 トンデモ 対 正当派 は分り易い。
840 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 17:43:09
>>836 美濃もん太くん
君は、古代史について書かれた本は何冊ぐらいみたことがあるかな?
全て入れたら、大体、二十冊ぐらいでしょ?
他の人も〜二十冊以上はふつういってるよね?ALL
842 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 17:52:21
河童さん、もん太くん、古代史の認識は互角ぐらいと見てる。
河童さんは二十冊、もん太くんもそれぐらいでしょ?
>>841 ん?太国さんのとんでもは倍暦ぐらいかな、他は詳しいゾ?
843 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 17:54:28
これ、どう説明したらいいんだろ? とにかく記紀の話を「あんなのは神話w嘘w」なんて事とせずに、ちゃんと初めから話を追ってくと、簡単に場所なんかも解ったよ まず国之常達命 これは飛騨の位山だよ ここが日玉の国 国之常達は「さなとらくらーま」とか「両面スクナ」とも呼ばれてるよ なんか今の人間とは違う人間見たいないわれかたがされてるよ 艮の神で金星から来たとされてるしさ で、その下流に中津国ってのがあって現、中津川市って名前になってるよ イザナミイザナキが降りた地には、チンコとマンコの夫婦岩があるよ で、イザナキは神坂峠を越えて高天原に イザナミは中津川のアギでアマテラスを産んでるよ で、イザナミとアマテラスのエナは恵那山に祀られて、アマテラスはその後、神坂峠を越えて高天原を治め、んで皆神山に祀られたよ んでスサノオ 高天原にまで攻めてアマテラスが祀られてる皆神山の岩戸を開けて、周辺のイワクラとかも壊してアマテラスの氏族の子供を儲けて、芦原中国を治めた こっからまだ良くわからん ただ諏訪大明神ってのは調べたらニギハヤヒの事だったよ
844 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 17:54:43
・・で20冊の古代史関連の本の何処に書いてあったんだい? >改め ドツボ◆PWTcGEfp1s >八咫鏡=内行花紋鏡というのは常識 とまで言い切る根拠は何なのか? きちんと出してくれよw ただし、また 「八咫鏡にはヘブライ語が刻まれている!」 なんて事が書いてあるサイトの紹介はいいからなwww
845 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 17:58:16
>>844 君は〜河童氏の20冊の倍か、
三倍ぐらい古代史関連本を読んでるよな・・・分かるよ。
この人、下品なところあるんだけど〜けっこう勉強してんだよね〜!
>八咫鏡=内行花紋鏡
自分で調べなよww
河童の『見えない神』に一票入れとく。 あれだけは理解できたwww
847 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:02:55
>>845 >>八咫鏡=内行花紋鏡
>自分で調べなよww
自分で風呂敷広げておいてトンズラかw
いつものパターンだなwww
お前の脳内書庫の20冊ってどんなものか一回見てみたいわwwwwwwww
848 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 18:05:02
>>840 「古代史」っても、単に近代の学者達が解釈した歴史なだけでしょ?
そういう本は読まないよ
古事記や日本書記も持ってるけど、俺が持ってる古事記も日本書記も古代史じゃないよ
だから古事記や日本書記に何が書かれてるのかを調べるときはネットで原文を探して読んでるよ
んで俺、近代の解釈本は原文には書いてもないような事ばかり勝手に解釈されてた事が良く解ったよ
後は歴史読本とかニュートンとかぐらいだよ
歴史読本も解釈本だから読んだ内容をまるまる鵜呑みにはしないよ
ニュートンは旧暦の暦の成り立ちとかさ、あれ惑星の天体運動を理解してなきゃ解らないから、ニュートンとか参考にしたりしたよ
けど有れも科学って言いながら違うなって思う事も沢山あるよ
849 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 18:07:22
この
>>844 氏がドンコイ234-235で、邪馬台国東遷説の人を
>今日纏向に九州系の土器が殆ど見られないというのが益々ネックになると思うがwwwwwww
とかいってたんだよw
んで、わたしが、「方格規矩鏡」、「内行花紋鏡」というのを持ち出したら
焦ったらしくwwwwww
こうして、話を「八咫鏡=内行花紋鏡」とか、「ヘブライ文字」に移そうとしてるわけでw
850 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:11:14
>>849 ドツボ
>んで、わたしが、「方格規矩鏡」、「内行花紋鏡」というのを持ち出したら
>焦ったらしくwwwwww
ん?
なんで焦らなければならないんだ?
「方格規矩鏡」だの「内行花紋鏡」だを持ち出す事に何か決定的な力があるのか?
意味が良く分からないんだが、一人ではしゃいでいないで説明してもらえないかな?w
もん太や河童以上に本を読んでいると豪語して、もん太や河童の足元にも及ばないとは 、情けない奴やのう。
852 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 18:16:58
>>840 つか基本的に本なんか読まないよ
気になった事が在ればネットで調べて、とにかく色々な情報を集めるだけだよ
伝承や言い伝えは無いかとか、ここの昔の地名はなんて名前だったのかとか
他の地域にも似たような伝承が無いかとか
基本的には「記紀や魏志倭人伝には本当は何が書いてあるのか」って事を調べるだけだよ
それに書かれてる事が歴史なんだしさ
たださ、記紀に何が書かれてるのかって事より、むしろ書かれても無いことを「記紀には○○と書かれてる」と勝手に解釈されてそれがまかり通ってるような話がとにかく多すぎる
だからそれを一個一個どう解釈したらそう読み取れるのかを調べて、「いやそれはこうだから違うだろ」ってのの根拠を示すような事の方が大半になるよ
これがとにかく面倒くさいんだよ
自分で調べてもないくせに根拠も知らないくせに思い込みだけで「○○と書いてある」とか言ってる人が多すぎだよ
853 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:21:06
ドツボ君がトンズラ決め込んでいるのでw こっちで話を進めるが・・・ 超大型の内行花文鏡と言えば平原出土のものだろうが すると何か? 弥生時代に九州で作られた超大型の内行花文鏡を今現代まで伝世してきたと? それが今日 ” 常識 ” とまでなっていると? どうせ何処かで平原の内行花文鏡に関する記載を見て ドツボ脳内における「 オレサマ常識 」にエントリーしちゃったんだろうなwwwwwwwww
854 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 18:21:33
君は、邪馬台国=畿内説で、 畿内の古墳文化は九州文化とは一致せず、 畿内の豪族、独自の文化 として考えてるんだろ? 私は、君と逆で、畿内の古墳文化は、九州弥生文化から継承された としている。 そこで、「方格規矩鏡」、「内行花紋鏡」を持ち出したわけだが、 方格規矩鏡、内行花紋鏡の白菜教が九州から多く出土されてるって知ってるよな? 方格規矩鏡が畿内から出土された例についてはよく知らないんだが、 内行花紋鏡なら畿内にも、なんぼでも出土されてる。 この九州、内行花紋鏡が出土される畿内、ようは古墳文化は 九州の弥生文化から継続されてるということがわかるだろう。 縄文文化→弥生文化→古墳文化 であって、 「纏向に九州系の土器が殆ど見られない」とか言うたらいかんのだよw
855 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 18:22:45
記紀の内容を知りたいなら記紀の原文 魏志倭人伝の内容を知りたいなら魏志倭人伝の原文 それ以外は読まない方がいいよ それ以外には書いてもない事がペラペラあたかも解ってるかのように、しかもなんの根拠も示さず書かれてるだけだから なにが神武が前660年だっての
私も漢和事典と国語事典の巻末ぐらいしか 最近は読んでないなぁ〜。 大昔はよく官能小説とかよく読んだけど 最近はエロ本すら見なくなった。
857 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:28:44
>>854 ドツボ
お前それってほぼ東遷説と言っていることが同じだぞ?w
ドツボ=東遷説 で良いのか?
何を言い出すのかと思えばアホらしい
「方格規矩鏡」、「内行花紋鏡」が畿内からも出るから
古墳文化は九州起源!
・・・とでも言いたいのか?w
銅鏡やその他の副葬品は古墳文化を形成するファクタの一つ
これで何ら問題ないが?
「方格規矩鏡」「内行花紋鏡」が出たら畿内説論者が焦るって・・・
お前一回豆腐(絹ごし推奨w)の角でアタマぶつけて氏んでこいwwwwwww
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。 更立男王、國中不服、更相誅殺、「當時」殺千餘人。 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、 國中遂定。 この「當時」について、一般的な読み下しでは「当時」とそのまま訳しています。 よく分からない訳で、「以死」を「すでに死す」と読めば意味が通じるかと思いましたが、 それならなぜ「殺千餘人」だけ「當時」がついているのか分かりません。 ところが、前の風俗記事に 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、 「當時」不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。 已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。 とあり、こちらは「時に当たりて」と読んでいるようです。 葬式の当日という意味? 前者の「當時」も、卑彌呼の葬式の日と考えるほうがよいのではないか?
859 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:32:18
>>856 記紀に書かれているような言葉を人が喋っているのを聞いたことがないんだが、
君が記紀でやっているのは言語学なのか。
860 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 18:33:40
>>853 >ドツボ君がトンズラ決め込んでいるのでw こっちで話を進めるが・・・
>超大型の内行花文鏡と言えば平原出土のものだろうが すると何か?
>弥生時代に九州で作られた超大型の内行花文鏡を今現代まで伝世してきたと?
アッハハ 何で平原遺跡の超大型内行花文鏡なんだよ。
わたしは、三雲南小路遺跡の話をしている。
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/bunka/ito-museum/yakushosite/iseki/mm.htm 君の頭の中では、内行花文鏡=平原遺跡 という図になってるようだなww
平原の巨大鏡なんて誰でも知ってるだろ。
んで、話を戻すが、この三雲南小路遺跡の内行花文鏡より古い遺跡が
畿内にはあるのか?あるわけないよな? ていうことで答えはでてるじゃん。
>それが今日 ” 常識 ” とまでなっていると?
>どうせ何処かで平原の内行花文鏡に関する記載を見て
>ドツボ脳内における「 オレサマ常識 」にエントリーしちゃったんだろうなwwwwwwwww
内行花文鏡=平原遺跡 を覚えたぐらいで自慢するんじゃねえw
861 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 18:35:15
>>851 >もん太や河童以上に本を読んでいると豪語して、もん太や河童の足元にも及ばないとは
>、情けない奴やのう。
河童くんのレスって1発で分かるねwww
>>860 ドツボ
>んで、話を戻すが、この三雲南小路遺跡の内行花文鏡より古い遺跡が
>畿内にはあるのか?あるわけないよな? ていうことで答えはでてるじゃん。
別に九州のどの遺跡でも良いが
それでどんな 答え が出るんだ?
九州の内行花文鏡が畿内のより古い!
だから古墳文化は九州起源!
八咫鏡は内行花文鏡で決まり!
・・・ってか?
出土する鏡で畿内と九州がどちらが古いかで
古墳文化の起源を決定しようだなんて発想
始めて見たわww
はっきりいってもはやキ○ガイレベルだなw
お前の 脳内考古学本 には
畿内説が着ない出土の鏡が九州のものより古い
とか主張しているのか?wwwwww
863 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 18:45:53
>>857 >お前それってほぼ東遷説と言っていることが同じだぞ?w
>ドツボ=東遷説 で良いのか? 何を言い出すのかと思えばアホらしい
私は、邪馬台国東遷説ではなく、ニギハヤヒ、神武天皇東遷説だよw
勝手に、邪馬台国東遷説と一緒にするんでないw
>「方格規矩鏡」、「内行花紋鏡」が畿内からも出るから 古墳文化は九州起源!
>・・・とでも言いたいのか?w
九州の遺跡のが古いのは事実だろw
>銅鏡やその他の副葬品は古墳文化を形成するファクタの一つ
>これで何ら問題ないが?
>「方格規矩鏡」「内行花紋鏡」が出たら畿内説論者が焦るって・・・
>お前一回豆腐(絹ごし推奨w)の角でアタマぶつけて氏んでこいwwwwwww
副葬品を安易に考えてしまう〜君の愚かさが出てるレスだね。
鏡が出土した事実は事実。
この鏡が出土されなければ、君の主張は通りそうだが〜この事実を素直に受け止めることだね。
864 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:51:10
>>863 改めドツボ
お前本格的にアホだろ?
俺がいつ「遺跡遺物は畿内のほうが古い」なんて言った?
と言うか、そもそもそんな事を根拠に組み立てられた畿内説なんて俺は知らんが?w
お前何言ってるんだアタマおかしいんじゃないのか?
もん太さん、河童さんは「思い」派、改めさんは「学び」派 学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆うし 理想はこれでしょうが、なかなか現実には難しい。
866 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 18:56:45
>>858 つかそれ戦の戦況を書いてるだけだと思うよ
なん百人もの兵士を失ったとか、相手の兵を何千人倒したとか
下の文は喪に服す様子が書いてあるだけだと思うし
867 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 18:58:53
狂人ドツボの言っている事はさっぱり分からないがw そもそも明治から続く邪馬台国論争の中ですら 「畿内の鏡が九州のより古い」 なんて主張がなされた事があるのか? まあはっきり言えば 「方格規矩鏡」「内行花紋鏡」とかの種類を覚えて 九州にその古いものがあると知り我が意を得たりと ドツボの馬鹿がはしゃいだだけだと思うがwwwwwwwwww
868 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 19:03:39
>>862 >別に九州のどの遺跡でも良いがそれでどんな 答え が出るんだ?
>九州の内行花文鏡が畿内のより古い! だから古墳文化は九州起源!
>八咫鏡は内行花文鏡で決まり! ・・・ってか?
ん?八咫鏡=内行花文鏡 に関しては、以前話しただろう。
それを見た人がいて八葉紋がある鏡だったと言っている。
そして、八咫鏡とはどの鏡だろうか?を考えたとき、内行花文鏡がふさわしく
この鏡しかないじゃん?他の鏡ならどの鏡? てなる。
もう一つ、向こうのどんこいで、誰かさんがレスしてたけど元伊勢の神社に伝わる鏡も
内行花文鏡だったはず(間違えてたらスマソ)。
よって、答えはでてるじゃん? と言いたいわけだ。
>出土する鏡で畿内と九州がどちらが古いかで
古墳文化の起源を決定しようだなんて発想始めて見たわww
はあああああああ 何言ってんだかWW
>お前の 脳内考古学本 には畿内説が着ない出土の鏡が九州のものより古い
>とか主張しているのか?wwwwww
たとえば、カメとか壷の形状を比べたら、時代によって形状が分かっていくのは
知っているだろう〜布留0式とかだよ。
どの形状のものが、どの形式に当てはまるのか?
わたしは素人なのでそこまで詳しく知りませんが、
「三雲南小路遺跡というのは、畿内にあるどの古墳よりも古い」というのは分かってるつもり。
よって、畿内の初期古墳 → 三雲南小路遺跡 ではなく、
三雲南小路遺跡 → 畿内の初期古墳なのだから
君の「九州のモノは畿内で出土されない」という主張はおかしいだろう。
869 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 19:08:06
>>864 >>867 ・・・では簡潔にWWWWWWW とか言う日本@名無史さん
自分の主張がおかしかった
ということに気づき始めたようだねWW
今頃、あらためだしても、もう遅いよWWWWWWWWWWW
なんだかすっごい濡れ衣着せられているようだけど
ま、いいか。
>>859 意味わからん
871 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 19:12:14
考古学なんて99%が妄想だよ 掘るだけならいいんだよ 「○○から○○が見つかりました。そのうちの3点を炭素14測定した所、○○年、○○年、○○年の数値が得られました」 考古学で解る事はこれだけだよ だから考古学者も本来なら、発掘で得られたこの情報だけを発表すべきなんだよ それ以外の事をいくらペラペラ言った所で、それは単なる考古学者の勝手な空想でしか無いんだから そんなのは歴史でも何でもないよ
872 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 19:23:09
出土物の年代なんか調べられないんだよ 炭素14測定法に関しても、あれは炭素の崩壊年数が得られるだけで、作られた時代とかそんなものが解る訳じゃないんだし そもそも炭素の崩壊スピードも環境によるんだし 例えば学者が「炭素14測定の結果、1500年前のものとわかりました」と発表したらこれは嘘 本来なら 「○○を炭素14測定した所、炭素の崩壊年数が1500年と言う数値が得られました」 と、事実だけを言わなきゃダメだよ 学者を名乗るなら、まずちゃんと発掘調査で得られた事実だけを正確に伝えるべきだよ その上で「それらの調査結果から私なりに想像すると、」 って自分の妄想を言えばいいだけだよ これすら出来ない奴が学者を名乗るべきじゃ無いと思うよ
873 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 19:31:26
アッハハ 自分のレスを読み返してみたら、 みんなに〜結構、ヒドイこと言ってるよねw まあ、こういうキャラなんで、深く考えないでほしいwww 軽〜〜く受け流せていうかw
874 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 19:33:19
>>868 改めドツボ
>それを見た人がいて八葉紋がある鏡だったと言っている。
で、お前が以前紹介したサイトを見るとヘブライ語がどうのこうの書いていたわけだがwww
きちんと信用できるソースを出せ。
そもそも八咫鏡なんて、その名前と、入っていた箱のから大きさを推測できる程度
「常識」とまで言えるものを導く材料がない。
>三雲南小路遺跡 → 畿内の初期古墳なのだから
>君の「九州のモノは畿内で出土されない」という主張はおかしいだろう。
言っている意味がさっぱり分からないが九州が半島に近い以上
鏡が入ってきたのも九州が先だし舶載であれば九州経由は自明の理。
俺がそれを否定するようなことを言ったのか?
もしどうしてもそうだというのなら該当部分のレスを出してみろwwww
お前が言っているのは結局
「九州の鏡は畿内のより古い、鏡を副葬品に使っている古墳文化は九州発祥」
と言うアホ理論。
古かろうが新しかろうが構成要因の一つであって起源云々の決定材になりえないのはそれこそ常識だw
875 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 19:42:21
×邪馬壹國は日本の発祥 こんな魏志倭人伝の何処にも書いてない先入観があるから 「機内が発祥だ!」「九州が発祥だ!」なんて話になるんだよ × 中国の朝廷に貢ぎものをしてた これも書いてない つかもしそれが事実なら邪馬壹國=中国朝廷の支配国て事で邪馬壹國てのは中国朝廷の支配領地にあった地域ってなだけ つか、他にも沢山、魏志倭人伝は勝手な解釈ばかりされてる アホ見たいな話が邪馬壹國論争だよ
876 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/08(土) 19:45:24
>>830 東京の国立科学博物館でこの前黄金展をやっていたのを見に
行ったところ、金印の複製品が展示されていたわけよ。
こんなものいまは技術等があれば、いくらでも出来るということよ。
縦目は最初から根拠を出さず、小細工して文字をあのようにし、金印
の「常根津日子」の側面文字をニセと決めこんでいるもの。
877 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 19:47:24
あと最近では「アイヌ先住民なんたら法」みたいな奴 あれもアホ あれは逆に言えば「今の日本人は何処からか来た移民」って言ってるだけ 何を根拠に日本人を移民と定めてるのか俺には解らん 記紀にも他の世界中のどの書物の何処にも、今の日本人が他から日本に渡って来た事なんて書いてない なのに「日本人は移民」と定めるバカがいるんだよ
878 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/08(土) 19:48:32
879 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 19:54:48
>>874 >で、お前が以前紹介したサイトを見るとヘブライ語がどうのこうの書いていたわけだがwww
>きちんと信用できるソースを出せ。
・私は答えを言ったし、後は自分で「式」をみつけること。
>そもそも八咫鏡なんて、その名前と、入っていた箱のから
>大きさを推測できる程度「常識」とまで言えるものを導く材料がない。
・伊勢神宮に伝わる「御神体伝記」について知ってるとは、なかなか優秀ジャン。
褒めてやるぞww
んで、その箱の大きさと内行花紋鏡の外形が一致するっていうんだから文句のつけようはナイ。
ここまで揃っている〜ていうことが言いたい。
君に質問だ〜 99.9%に近いぐらい八咫鏡=内行花紋鏡だとは感じないのかね?
>言っている意味がさっぱり分からないが九州が半島に近い以上
>鏡が入ってきたのも九州が先だし舶載であれば九州経由は自明の理。
>俺がそれを否定するようなことを言ったのか?
>もしどうしてもそうだというのなら該当部分のレスを出してみろwwww
・おいおい・・・モノの流れというのは、「高い所から低い所に・・・」というのを知らないのか。
もうネ、君がいう「初期古墳は畿内部族による自発的」ていう説はボロボロw
あのね、モノの流れというのは大まかに言って、王→豪族→庶民 と相場は決まってるんだよ。
たとえば、畿内に王様が居たとする。
大陸・半島からきたモノは、九州が近かろうが、畿内が遠かろうが、
まずは王様の元へ行く。低い所から高い所へは基本的いかない(献上は別ね)。
>「九州の鏡は畿内のより古い、鏡を副葬品に使っている古墳文化は九州発祥」
>と言うアホ理論。
>古かろうが新しかろうが構成要因の一つであって起源云々の決定材になりえないのはそれこそ常識だw
・内行花文鏡が九州の三雲南小路遺跡から出土されてるという事実に目をソラスナ。以上
880 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/08(土) 19:56:28
美濃もん太氏は話の主題を各位が議論しているときに、その主題 たる核心部から放れた主題の副次的の側面、一面ばかりを誇大視 してそこを核心部分に鞍替えスリ替えしてああだこうだ言いまくっ ているのが困りもの。>|<
881 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 20:05:34
>>879 改めドツボ
そもそもお前俺が「自生説」論者だと勝手に決め付けて話を進めているが
何を基準にそう判断しているんだ?アホw
「前方後円墳は各地の埋葬文化のキメラの如きもの」
・・・なんて事はしょっちゅう言ってるぞ?
と言うかこの板でドツボの馬鹿が考えているような自生説論者っていないんじゃないのかな?wwwwwwwww
もっとも「自生説」と言うのがイマイチ分からないがw
文化に完全にオリジナリティ求めるのが自生説と言うのなら俺は該当しないし
無人の大和にクニレベルの人口移動入植を想定しないのが自生説と言うのなら該当するだろうがww
まったく狂人ドツボの言う事はさっぱり分からないwwwwwww
882 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 20:08:03
>>876 太国さん見たんですか?
で、あれを見て実際に「判子だ」って思いましたか?
あれは見たまんま、昔のお金じゃないの?
つかさ、よく「昔は物々交換だった」なんて話が有るけど、物々交換ってのは要は「等価の交換」て事で、日本では江戸時代までは物々交換、、つか等価での交換なんだよ
「お金」ってのは、金、銀、銅、などから作られてて、例えば米1俵と銅50グラムが等価であれば、銅50グラムと米1俵を交換するんだよ
今は単なる紙切れが「通貨」としてお金と同じように扱われてるけど、あれ紙幣を作ってる側ってのは単なる紙切れで、沢山の土地や資産を手に入れてるんだよ
そらそれを考えた側の奴らはみな資産家になるさ
ロックフェラーにしろロスチャイルドにしろ
日本の日銀ってのも、あれ日本政府の機関じゃないんだよ
みなさん〜
>>874 の
>言っている意味がさっぱり分からないが九州が半島に近い以上
>鏡が入ってきたのも九州が先だし舶載であれば九州経由は自明の理。
て酷くない? 無知というか、彼はいっぱい本を読んでる〜それは褒めたい。
しかし、何も分かってないというか...。
古代史の法則っていうのがあって、
王→豪族→庶民 は当たり前。
舶載鏡→ぼう製鏡 も当たり前。
後漢前期の鏡→後漢後期の鏡 も当たり前。
ここらへんの法則ってやつが
>>874 さんは分かってないと思いませんか?
私とこの
>>874 さんの認識の違いについて、他の人の意見も聞いてみたい。
>>870 これは河童さん、失礼いたしました。
流れで軽く書いてしまいました。
読書も思索も出来ない私の戯言、お見逃しくださいね。
885 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 20:12:55
えっと、話がそれたけど、ようは判子は判子 金塊は金塊だよ 財産てか資産てか。徳川の埋蔵金なんてのも大判小判な訳でしょ? 今の「お金」の観念と昔の観念は違うよ 単なる紙切れを「これ、お金代わり」って言っても、紙切れは紙切れの価値でしかないよ それが物々交換ってか、金融社会なんて社会になる以前のお金の観念だよ
886 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 20:18:56
例えば日本も「大判・小判」なんて言い方されてて、小判や大判には文字や紋様が書かれてるけど あれは「判子として使うため」って事じゃないよ 逆で「大きな判か押されてる金=大判」「小さな、、小判」て意味だよ 発見された金印てのも同じだと思うよ ああいう金塊を見て、あれを「判子として使ってた」とか思う方がおかしいよ ああいう金塊は昔から「金銀財宝」て呼ばれてた部類のものだよ 判子じゃないよ
>>884 あれ県民さんのレス? ぜんぜん気にしていませんし
言語学(発声学)というよりも言意学
888 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 20:21:32
>>881 >そもそもお前俺が「自生説」論者だと勝手に決め付けて話を進めているが
>何を基準にそう判断しているんだ?アホw
とうとう、私は「初期古墳は畿内の自発的」ではナイと言い出したかw
わたしが、何べんも、何べんも、それは違うと思えてやってるのにも関らず、
やっと認めだしたみたいだねwww
>「前方後円墳は各地の埋葬文化のキメラの如きもの」
>・・・なんて事はしょっちゅう言ってるぞ?
>と言うかこの板でドツボの馬鹿が考えているような自生説論者っていないんじゃないのかな?wwwwwwwww
>もっとも「自生説」と言うのがイマイチ分からないがw
>文化に完全にオリジナリティ求めるのが自生説と言うのなら俺は該当しないし
>無人の大和にクニレベルの人口移動入植を想定しないのが自生説と言うのなら該当するだろうがww
今みたいに情報社会じゃないからな〜
崇神時代の大和・出雲・筑紫の関係 日本書紀卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇 六十年秋七月丙申朔己酉。詔群臣曰。武日照命。一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。從天將來神寶。藏于出雲大神宮。是欲見焉。 則遣矢田部造遠祖武諸隅一書云。一名大母隅也。而使獻。當是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶。是徃筑紫國而不遇矣。 其弟飯入根則被皇命。以神寶付弟甘美韓日狹與子■濡渟而貢上。既而出雲振根從筑紫還來之。聞神寶獻于朝廷。責其弟飯入根曰。 これを見る限り、畿内説は無いと思います。 まして古事記では、出雲の服属は景行時代です。 記紀ともに、筑紫の服属は景行以降。
890 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/08/08(土) 20:22:22
「金」ってのは昔から世界共通の財宝だよ 富の象徴 ついで銀、銅とかでしょ んであと日本は比較的金は取れてた国だよ 今でも日銀の金庫には大量の金塊があるし
891 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 20:25:06
あ
>>868 はミス すまそ
まあ、わたしの言いたいことが伝わればよいかw
892 :
日本@名無史さん :2009/08/08(土) 20:27:35
>>888 おいコラ、ボケ。
俺がいつ
「初期古墳は畿内の自発的」
と言ったんだ?
勝手に他人の発言を捏造するなアホwwwwwwwwwwwwww
>「前方後円墳は各地の埋葬文化のキメラの如きもの」
>・・・なんて事はしょっちゅう言ってるぞ?
って書き込みが読めないのかカスw
恐らく「キメラ」と言う語句は俺ぐらいしか使っていないだろうから
過去ログ検索してみろ。
スレ主気取るぐらいだから少なくとも終止符スレの過去ログぐらは読めるんだろう?
893 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/08(土) 20:33:37
>>892 ハイハイ 分かった分かったw
ていうか、愛知県民氏が「畿内説は無い」と言ってるが、
畿内説の君は反論しないのかね?
わたし?!わたしは少し疲れたんで〜休憩w アイスでも食ってこようとww
>>886 >判子じゃないよ
いいえ
確か東京博物館に飾られた金印の隣には、その彫刻物の印影が説明文と共に
展示されていたと記憶しますから
そうなると カガミとシルシがそろったので
印鑑(判子)と位置づけるべきです。
当然当時の目的を語る人がいないので、現状判断すると判子なります。
>>886 >発見された金印てのも同じだと思うよ
ああいう金塊を見て、あれを「判子として使ってた」とか思う方がおかしいよ
ああいう金塊は昔から「金銀財宝」て呼ばれてた部類のものだよ
発見された時の時代環境によってその価値観は変わるので
その時代に印鑑の認識が世間にあったのであれば、それを印鑑と理解されても当然かと
現在金印といわれるものが
金銀財宝として扱われるには、まず判子という認識のない世界にて語らなければならず、
そういう世界での話なら、当然金銀財宝の一部との認識も違和感がありません。
>>893 畿内説の改めさんは、投馬國・狗奴國はどこと考えていますか?
私は投馬國は宮崎、狗奴國は畿内と考えています。
>>894-895 河童虫さんのレスへヨコ
>いいえ
>確か東京博物館に飾られた金印の隣には、その彫刻物の印影が説明文と共に
>展示されていたと記憶しますから
やっと勉強しだしたかw
>そうなると カガミとシルシがそろったので
>印鑑(判子)と位置づけるべきです。
>当然当時の目的を語る人がいないので、現状判断すると判子なります。
どうでもいいが、金印は、印鑑(判子)じゃないよw
封泥だてwwwwww
ではあ、疲れたので〜そろそろ食事に出かけて、それから寝ます。
また〜明日の〜〜! 昼来る zzzzzzzzz・・・・。
あれ? 改め説をもうちょっと聞きたかったのに。 残念だなあ。 それともレス済み?
>>858 県民さん
>卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服、更相誅殺、「當時」殺千餘人。
ここでの「當時」は 更に、更にと三つの出来事が重なり合っているので
みっつの出来事「当時」といういみです。
という事は、三つの出来事とそれ以前に書かれた前文とは 時間的にズレがあるという
事も同時に分かる、語句です。
つまり、一連の正始八年の記事の流れではあるが、この三つの記事は時間的に別の時間軸ですよ、ということです。
>>899 確かに・・・葬式は「徇葬」で終わってますから、私の説は間違いですね。
すると、三つの出来事は過去のことで、「以死」はすでに死す、という意味になりますね。
卑彌呼の死は、張政の檄・告喩の結果だという説もありますが、そうは読めないようです。
>>900 県民さん
1.遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
2.更立男王、國中不服
3.更相誅殺
この同じ時間軸の三つの出来事の結果が殺千餘人でありその後、
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
902 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2009/08/08(土) 23:54:01
虫ともん太は、隔離スレつくってそっちでやってくれないか。 # 彼らのような無知で恥知らずな人は苦手だなぁ・・
903 :
縄文人 :2009/08/08(土) 23:56:46
>>901 河童虫さん
またまたひとをからかって。わるいひとですね。
しかし、卑弥呼の時代には大麻取締法がなくてよかったな。 でなかったら、卑弥呼は大麻所持および行使で逮捕収監されてた。 卑弥呼の子孫酒井容疑者は、生まれた時代が悪かった。
>>902 >虫ともん太は、隔離スレつくってそっちでやってくれないか
貴方が別スレ立ててそっちで進行してください。私は遠慮しますから(これで問題解決ですね)
>>903 縄文人さん
>またまたひとをからかって。わるいひとですね。
マジレスですよ
ここはかなりナーバスな箇所ですので気が抜けません
後世の倭伝では「正始中」と明確に記されているので、はっきりとした区切りがあるはずです。
906 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 00:07:10
卑彌呼共立では倭国乱の終息に至っていない。 卑彌呼の死は、大倭国統一を目論む魏国の作戦随行中に起こった事ではあるが、卑彌呼の死は病死 張政の檄・告喩は、作戦遂行中であり、卑弥呼の死をもって中止されることは無かった。 卑弥呼の後を男王が継ぐ、作戦実行中の出来事であり、千人以上の戦死者もこの作戦中の出来事。 この後の作戦を遂行したのが、卑弥呼生前中より共同行動をしていた景行。 男王死亡後も戦は1年ほど続く、ほぼ戦が終息したので景行は大和へ帰り、五百野姫を筑紫へ送り出す。 しかし又熊襲が背いたので、日本武尊を派遣。 これにより倭国西半分は統一される。しかし魏国の要請は大倭国統一、関東方面へ日本武尊を派遣。
>>901 河童さん
からかっているの?とも思いましたが、何か分かるような気もする。
要は「徇葬者奴婢百餘人」の説明が「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」なのかね?
百餘人も徇葬できた理由は、当時千餘人を殺したからである。
見当違い?
908 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 00:36:23
>>906 なんでシナが日本統一などを要請するんだ?
909 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/09(日) 00:46:24
>>907 県民さん
奴婢百人の死は、卑弥呼の死を機会に行われたしゅくせい。
ここで故女王関係者
を一掃する事で、古い今までのしがらみからの脱却。
河童さんは卑彌呼と男王(誰か知らないが)が一時並立していたという考えですか? 卑彌呼がいるのに「更に」男王を立てたと。 そう言えば正始六年ごろから、魏は卑彌呼を相手にしていないようにも見える。
三国志魏書扶余伝では「殺人徇葬」という表現がありますが、倭人伝では「徇葬」だけ。 「徇葬」の前にあるべき「殺人」が「殺千餘人」じゃないですかね。 あえて「粛清」を考えなくてもよいのでは? 今夜はこれでZZZ・・・・
912 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 06:41:33
愛知県民さん >まして古事記では、出雲の服属は景行時代です。 記紀ともに、筑紫の服属は景行以降。 景行紀にせよ神功紀にせよ、筑紫は叛いたのです。 つまり、それまで筑紫は、殆ど大和朝廷に従っていたわけです。 祟神が全国の支持をほぼ取り付けています。 それと、思いて学ばざる、は身勝手な態度ですが、学びて思わざる、は公平な態度です。立派ですよ
913 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 07:31:47
>>908 なんでシナが日本統一などを要請するんだ?
卑弥呼の狗奴国との戦い、景行の関東遠征何れも自分の意志が感時られない。
特に卑弥呼は、平和維持のため共立された女王でもある。
もし卑弥呼の共立により平和が約束される者であったなら、共立後に平和が訪れなければ成らないが
卑弥呼死亡後も戦は続く、そして全国統一とは、前方後円墳が各地でほぼ一斉に作られ始めるに他ならない。
>>912 祟神が全国の支持をほぼ取り付けています。
全国の範囲は?
914 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 07:56:10
はつくにしらすすめらのみこと と記されているだろう。
>>912 >祟神が全国の支持をほぼ取り付けています。
全国ではありません。西は吉備・出雲まで。
任那が朝貢したとありますが、垂仁紀のツヌガアラシトの記事から、穴門以西は従っていなかったと分かる。
>学びて思わざる、は公平な態度です。
思うことがなければ、学ぶ意味がありません。
916 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 08:23:53
>>858 「当時」と「時に当たりて」は同じことです。
開いて訓ずれば「時に当たりて」になり、ひらかなければ「当時」です。
有棺無槨を「棺有りて槨無し」とよむか「ゆうかんむかく」と読むかの違いと同じで、
読む人の好みです。
現代日本語では当時は過去のある時点を指すだけですが、
漢文では文脈によって「時」の指す時点が変わります。
「いま、現在、この時」を指す場合もあります。
「當時」の「時」が過去の一点を指せば、現代日本語と同じで、
これが更相誅殺、「當時」殺千餘人。です。
更相誅殺という事件が起こった、過去のその時点を指しています。
「當時」の「時」が具体的な時点ではなく一般的な時点を指す場合が、
始死停喪十餘日、「當時」不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。です。
一般的に喪に服す時点を指し、その時は、肉を食べず云々ということです。
>>916 詳細レス、サンクスです。
下の「當時」は十餘日を通じてということですね。
確かに一日だけなら「不食肉」などあまり意味がない。
終わったら水中澡浴とあるから、体も洗わなかったのでしょう。
次に出てくる「持衰」は「不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
918 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/09(日) 09:42:32
919 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 09:53:50
>>790 イザナミと天照を祀る恵那山の神器ってのは八本の鎌で、その神器である鎌を多治比氏だか土岐氏だかに貸した時があって、そしたらそのとたんに日照りが続き干ばつに教われたらしいよ
『八本の鎌』は、
http://kamnavi.jp/mn/togusa.htm の蛇比禮だな。
これが、シュメール文字なら an だ。
anは、"sky, heaven; upper; crown (of a tree)" 又は、"date spadix"。
若し、an と言う文字を書いてilu と読めばgod。
Akkadian の神もilu なのだ。
「アア、安気(楽)だわ。」の安気が 『an (神)+ki(場所)=anki』なら『神の居る処・地上の楽園』。
中津川市 Latitude: 35.487548 Longitude: 137.500509
出雲大社 Latitude: 35.402035 Longitude: 132.685456
と同緯度にあるのも、面白い関係。
920 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 10:22:51
>全国ではありません。西は吉備・出雲まで。 吉備・出雲が従っている時点で、九州は手も足も出ません。はつくにしらすすめらのみこと・祟神天皇と戦っていません。 叛いているのは、その後代です。そして景行紀で「熊襲が叛いた」というのは熊襲が謀反を起こしたという意味です。 あくまでも大和朝廷に対する熊襲の謀反です。 >任那が朝貢したとありますが、垂仁紀のツヌガアラシトの記事から、穴門以西は従っていなかったと分かる。 そうは書いてありません。 穴門以西は従っていなかった、とはどこにも書いてありません。
921 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 10:28:24
>思うことがなければ、学ぶ意味がありません。 客観的に事実を知る事には意味がありませんか? 自分勝手に定めた古代史観を持つよりもマシだと思いますが……。 信用度から行けば、ここでは改めさんが群を抜いています。
>>920 >吉備・出雲が従っている時点で、九州は手も足も出ません。
そんなことはないでしょう。南北朝時代に九州を支配し、明から日本国王に封ぜられた懐良親王がいます。
>はつくにしらすすめらのみこと・祟神天皇と戦っていません。
神武天皇も「はつくにしらすすめらのみこと」ですが?
書紀は神武天皇から天下を治めていたという論理で書かれています。
>穴門以西は従っていなかった、とはどこにも書いてありません。
従っていたとも書いてないです。
>>921 >客観的に事実を知る事には意味がありませんか?
それも必要だが、それだけでは意味がないということ。
毎日のニュースをただ積み重ねても、それは「歴史」とはいえないでしょう。
ウィキで「歴史」を引くと・・・
「記述・記録される、または複数残した何らかの経時的事象が分析・系列化されて初めて「歴史」は構築される。」
それに、純然たる「客観的事実」というものはありません。
「「後世に認識された歴史」は、客観性に対する疑念から免れない。
考古学的発掘や遺跡などを分析して得られた断片的な情報から対象の歴史を構築しようとしても、
その取捨選択の過程で主観的な視点が加わる事は否定できず、結果はある種の解釈や、時として願望または思い込みが紛れ込む可能性がある。
「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、
それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。」
こうなると哲学とか、科学の話題になるかも。
924 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 11:16:31
>客観的に事実を知る事には意味がありませんか? 客観的事実 192,193年新羅の出来事は、崇神5,6年の出来事と思われる。 上記のような記事を思考できる数字で繋胃だもの。 崇神世に卑弥呼がいたなら上記のような記事で補強しなくてはならない。 崇神世に補強すべき記事が見あたらなければ、他の天よい、そこから崇神世に至る 納得できる数字でつなげる。
>>924 唐松山さん
卑弥呼が景行世なら、173年の卑彌乎の記事は卑彌呼ではないということでしょうか。
192年、193年って西暦か? 新羅自体が存在してないじゃん。
927 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 11:35:17
データだけを淡々と記すのが、歴史学です。 主観で断じた時点でそれは小説となり信用をなくします。 教科書に主観で断じる事は許されません。 巷の九州説がそれに耐えられないだけです。
928 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 11:46:39
>>穴門以西は従っていなかった、とはどこにも書いてありません。 >従っていたとも書いてないです。 と主張されるのならこの事は議論になりません。 考察から外れます。公平に行きましょう。
>>927 >データだけを淡々と記すのが、歴史学です。
これは一般的な見解ではないようです。ウィキを見ると
「歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史的事実、
及びそれらの関連を追究する学問である。」
この関連追究で、歴史観が出てきます。
>教科書に主観で断じる事は許されません。
だから畿内説も断定した教科書はないわけです。
>>928 確かに文字通りには書いてないですが、そう推測される記事があります。
それを文字通りに書いてないと言われるから、同じように反論したわけです。
930 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 12:04:48
173年の卑彌乎の記事が事実なら、
248年頃志望するまで77年間の治世を考えなければ成らない、ちと長い。
173年頃半島を訪ねた女性を追ってツヌガアラヒト(天日槍)が来日だとすると
数字的には符合する。
新羅の歴史と百済の歴史には、数字上数十年の誤差がある。
だから百済の歴史書に合わせて書記を読んだときと、新羅に合わせて書記を読んだときでは、
数十年の開きがでる。
此までは、親密な百済の歴史と合わせようとしたが、暦一つ合わせる読み方が出来なかった。
>>926 新羅本記を読みました?
931 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/09(日) 12:07:26
歴史学がデータを淡々と記すだけなら 翻訳も×だね ただ原文を複写するだけの作業。
>>929 お言葉を返すようですが、
現在残っている歴史的資料をもとに歴史学的な手法のみを用いて
邪馬台国や卑弥呼の存在を証明しようとする試みは、すでに多くの
優秀な研究者の手によって試みられたけれど、いずれも失敗。
すでに限界に達している。
それにもかかわらず、歴史学的な手法に固執すれば、結局、何も
確かな事実はない。といった結論しか導き出せない。
これでは、2ちゃんねるという匿名掲示板で、素人連中が邪馬台国
や卑弥呼について語る意味がない。
もっと夢を持ちなさいよ。想像力を働かせなさいよ。証拠はないけれ
ど事実に近いことを言い当てていると万人に思わせるような、学問を
こえた古代から現代、民族史から日本史世界史に繋がるような
スケールの大きな説を打ち立ててほしいものです。
933 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 12:17:33
書紀の数字を太陰暦のまま圧縮すると、本当の治世年数となるか? 開化天皇 60-(19*3)=3年 崇神天皇 68-(19*2)=30年 垂仁天皇 99-(19*4)=23年 景行天皇 60-(19*2)=22年 成務天皇 61-(19*3)= 4年 仲哀天皇 9-(19*0)= 9年 これに「歴史の定点」を合わせる、定点として 崇神5,6年の記事を新羅192,193年と見て合わせる、崇神5年迄は記事で埋まっているので この間に数字の伸長は無い物とする。(記事の無い年は、伸長された可能性がある。) 開化天皇 185年〜187年 崇神天皇 188年〜217年 崇神5年=新羅192年。 垂仁天皇 218年〜240年 景行天皇 241年〜262年 田道間守帰朝。 成務天皇 263年〜266年 仲哀天皇 267年〜275年 神功皇后前紀 273年日蝕 この数字は動かせない。 1, 2年の狂いは、在るだろうがこれ以上 記事と数字がマッチする読み方は存在するか? この様に 書記は太陰暦でかかれていると誰も主張しなかった。
934 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 12:18:06
>もっと夢を持ちなさいよ。想像力を働かせなさいよ。証拠はないけれ ど事実に近いことを言い当てていると万人に思わせるような、学問を こえた古代から現代、民族史から日本史世界史に繋がるような スケールの大きな説を打ち立ててほしいものです。 想像を働かせて事実とかけ離れてしまったら意味はない。 証拠がなければ裁判にも勝てない。 究極の事実を突き止めるからこそロマンなのです。 厳しく行きましょう。
935 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 12:22:24
>確かに文字通りには書いてないですが、そう推測される記事があります。 それを文字通りに書いてないと言われるから、同じように反論したわけです。 ですからこれ以上は 議論になりません。 お互いが認める別な確かな事実で検証しましょう。
936 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 12:38:10
>>933 >崇神5年=新羅192年。
これは、どういう根拠に基づくわけ?
937 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/09(日) 13:03:25
新羅本紀第ニ・第九代 伐休尼師今(在位 AD184-196) 3年(AD186秋七月 南新縣進嘉禾=7月稲刈りを表す。 9年(AD192) 九年 春正月 拜國良為阿述明為一吉 四月 京都雪 深三尺 夏五月 大水 山崩十餘所 10年(AD193) 十年 春正月甲寅朔 日有食之 三月 漢祇部女 一産四男一女 六月 倭人大饑 来求食者千餘人 新羅の暦は倭より一月遅れなので 崇神5年6月 新羅大雪 崇神6年 太陽暦3月19日日食 農民流離 この数字を正しいとすると 倭人伝登場人物 都市牛利=タジマモリ 伊支馬=イクメ=垂仁 倭王=(タリヒコ =景行 ) 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテラン、イワカ=磐鹿六雁 難升米=難升(斗)米=ナトベ=倭女王の部下で大夫 狗奴國=狗古智卑狗 イヨ=五百野姫 ついでに書紀より 倭女王卑弥呼=巾3尺の石 男王=筑紫の大木
>>896 >畿内説の改めさんは、投馬國・狗奴國はどこと考えていますか?
>私は投馬國は宮崎、狗奴國は畿内と考えています。
投馬國は岡山、狗奴國は愛知県
まあ今のところの考えはコレですが、まだ確定はしていません。
>>902 >虫ともん太は、隔離スレつくってそっちでやってくれないか。
># 彼らのような無知で恥知らずな人は苦手だなぁ・・
んじゃ〜水戸黄門でいう、はちべぇ役は、君が担当してくれるってことかな?w
939 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 13:23:05
>虫ともん太は、隔離スレつくってそっちでやってくれないか。 ># 彼らのような無知で恥知らずな人は苦手だなぁ・・ 二人の幸せを壊してはいけません!
940 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 13:29:08
ハブvsマングースとおもって楽しんでみてたらいいじゃん 普段屁理屈を捏ねてる河童虫氏が、もん太君に屁理屈負けしてるのも一興。
941 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 13:51:17
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之 更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千余人 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 復立卑彌呼宗女壹【臺】與年十三為王 國中遂定 か。 黄幢が一人歩きすることはないだろうから、魏軍の影がちらついてるね。 名実共に公孫氏は滅亡したことになるわけだし。
942 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/09(日) 14:10:22
>>921 改めなんかに信用おけるとは言えない。どうせ来年あたりは今
言ってる自分の説を奴は手のひらを帰す。これはもう毎回だよ。
基本的なことだが、大和朝廷の本格的な外交は(九州征服後の)神功・應神紀に始まる。 それ以前にはアメノヒボコ・ツヌガアラシトの渡来と、タジマモリの常世?派遣という孤立した記事があるのみである。 仲哀天皇は外国の存在さえ信じなかったと書かれている。 この意味で、卑彌呼を神功皇后と考えた書紀は、年代のズレを除けば正しい思考をしていたとも言える。 モモソヒメ=卑彌呼説は成立の余地が無い。
944 :
ローガン :2009/08/09(日) 15:21:04
>>941 > 黄幢が一人歩きすることはないだろうから、魏軍の影がちらついてるね。
呉志周魴伝の「石亭の戦い」の話…
第七の手紙で「並乞請幢麾数十…云々」とあります。山兵たちに軍旗を渡して味方につけようと言う訳ですね。
幢を渡すという行為は集兵を意図したものだと思います。
945 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/09(日) 15:24:36
伊支馬≠垂仁
この場合官は天皇の重臣あたりであって天皇の家来だから、伊支馬が
天皇にはなれるものではない。当時の記録で垂仁が下克上を
した記録なんてなかろう。素人はよくこんな真似事の論を平気で
主張するものだ。妄想の典型だな。www
>>925 173年は干支一巡で233年になり、景初3年=239年に非常に近い年代
になるところを考えると、半島の記録が何らかの事由で照合が
合わないため一巡分古くしたことからの年代のように想える?
向こうもいろいろ記録が合わない上での173年選択だったんでは
なかろうか? 真は233年頃かも知れないな?
946 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 15:30:39
>>942 1度も自分の説を変えたことない人に言われたくありません。
「経験がある」というのは、時間が経てさえすれば経験値が上がるのではナイのです。
>>943 >基本的なことだが、大和朝廷の本格的な外交は(九州征服後の)神功・應神紀に始まる。
>それ以前にはアメノヒボコ・ツヌガアラシトの渡来と、
>タジマモリの常世?派遣という孤立した記事があるのみである。
>仲哀天皇は外国の存在さえ信じなかったと書かれている。
九州征服後のっていつからですか?w
たとえば、九州征服したのが景行天皇の時と考えてるのでしたら、
神功・應神まで一代しかなくw 範囲が非常に狭すぎるww
そして、「外交」を語るなら、もう少し勉強してから語ったほうがよいのでは?
それじゃ、机の上でガタガタ言ってる河童氏と変わりない。
>この意味で、卑彌呼を神功皇后と考えた書紀は、年代のズレを除けば正しい思考をしていたとも言える。
>モモソヒメ=卑彌呼説は成立の余地が無い。
モモソヒメを批判するなら、ご自分は誰を卑弥呼と考えてるのか?
まず、示してから、批判するべきで・・・・。
>>945 太国さん
>173年は干支一巡で233年
井上秀雄氏も同様の推測を述べていますが、新羅本紀自体がちょっと・・・
唐松山さんは百済本紀には厳しいが、新羅本紀には甘いようです。
新羅本紀は梁書や隋書の新羅伝と根本的に合わない内容なので、私は疑わしいと思っています。
>>946 改めさん
卑彌呼=八女津媛、壹與=神夏磯媛はどうでしょうか。
八女津媛の外交記録などありませんが、水沼縣主猿大海が宗像神を祭る水沼君と関係あるならば、
半島との関連は深そうです。
949 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 15:49:10
950 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 16:01:11
>>948 卑彌呼=八女津媛 ですか、
八女津媛というのは、福岡県南部に名を残す姫で福岡県八女市という町がある。
http://www.city.yame.fukuoka.jp/ wikには卑弥呼の候補として載ってませんが、この説をとる人は多そう...。
ところで、卑弥呼の墓は、どこにしますか?
壹與=神夏磯媛 ・・・今、調べてみましたが、豊の国に伝わる姫ですか...。
すこし、調べてみてコメントしますね。
951 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 16:11:23
愛知県民さん >八女津媛というのは、福岡県南部に名を残す姫で福岡県八女市という町がある。 なんで、貴方のいう投馬国(宮崎説)が女王国以南になるわけ? 改めさんのいう陳寿が馬鹿だから説に従えば一応解決しますがね。 改めさんに降って楽になる?
953 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 16:34:45
倭人伝には、「以北」と明記されています。
<魏志倭人伝>
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
>>951 さんの突っ込み鋭いというかw
愛知県民さん〜答えて下さい。
954 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 16:44:33
ずっと九州だと思ってたけどなんか畿内のような気がしてきた。
>>951 さんの突っ込みを真似して
わたしからも質問
ちなみに、陳寿さんの記した通称魏志倭人伝には、
復立卑彌呼宗女壹與 と明記されています。
愛知県民さんが考える、神夏磯媛 は
「八女津媛の宗女」ということを証明しなくてはいけない。
卑弥呼はヒミホ、御穂津姫の事で、長らく京都亀岡にあった 出雲神社に祀られてる姫ですよ。
957 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 16:50:53
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/09(日) 17:09:46
>>947 愛知県民さん
唐松山氏のいう崇神五年に千人の百姓の飢えからの新羅渡海したと
いう話は、確かに今でも脱北して一人二人で日本海を乗り越え日本に
到達したことはあったわけですが、千人も腹をすかしてカスミを食っ
て日本から半島に渡ったと主張する彼の言い分は事が大きすぎて
デタラメとしか想えません。
彼は妄想たる景行ホツマ教の布教にあるわけで、そのためには
不合理が論にミエミエでも手段を選ばずゴリ押しをします。おまけに
伊支馬が垂仁天皇だと素人が言うような幼稚な論理をこの手段を
選ばずという布教活動から平気で毎回主張しており、一見学術的
論をしてるように見せかけ、その実妄想教の布狂を蔓延させるための
カルト活動ですので、彼の主張は絶対受け入れるべきではなく、脳内
の防衛をシッカリして下さい。
959 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 17:17:44
960 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/09(日) 17:25:39
>>958 「盆休みの古代史旅行」
おっさんは〜神社でも行って、身を清めてくることだな(落ち)
962 :
愛知県民 :2009/08/09(日) 20:00:11
宮崎から南回りで航海した。何か問題?
963 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 20:39:56
なんでわざわざ海流が逆の荒い海に行くんだよ(笑)
964 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 20:41:49
だから……、南回りで航海しようが、 宮崎は福岡県八女市という町よりも「南」だろう。 戸数、道里の略載された女王国以北から外れているだろうよ。 貴方の九州説の場合、 魏志倭人伝は方角が180度間違っている所がある、方角が当てにならない、 とすればいいんじゃないか。
965 :
愛知県民 :2009/08/09(日) 21:03:59
陳寿は書かれた報告書から判断しているだけ。 大事なのは、邪馬台国まで海を渡ってないこと。
966 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/09(日) 21:40:54
>>965 県民さん
>海を渡っていない
やっと2ちゃんでそう言う人が出てきたことに
喜びを感じます。
末廬以降、女王国東渡まで海を渡っていません。
同じ島の内部での出来事です。
967 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 23:17:34
では水行はなんだ?筑紫川か(笑)?
968 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/09(日) 23:42:22
969 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/10(月) 00:30:47
>>946 >机の上でガタガタ言ってる河童氏と変わりない
色んな事情で、家から出られない人は
ガタガタぬかすなと?
君や俺みたいに健常者なら、暇が出来れば
外に出る機会もあるだろう。しかし障害を持った人や、病気で家から出られないひとは
資料を頼りに机やベットの上でガタガタ言うしかないんだよ
つまり君は
家から出られないような人は、発言する資格ないから黙ってろと?
何時から身体が不自由な人を見下すそんなに偉くなったんだ?
もし俺や太国さんが、身体の不自由な障害者だったら
それは障害者への宣戦布告だな
揚げ足とって「政治的に正しくない」発言叩きか? 机の上に乗って喋る奴を身体障害者扱いか? どっちかと言うとそりゃ変態の部類だ
971 :
愛知県民 :2009/08/10(月) 05:10:42
田油津媛は八女津媛と地縁、神夏磯媛と血縁あり。 改めさん、私は盆休み無し。 皆様またよろしく。
972 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 06:08:11
河童さん >そして、「外交」を語るなら、もう少し勉強してから語ったほうがよいのでは? それじゃ、机の上でガタガタ言ってる河童氏と変わりない。 これのどこが 障害者への宣戦布告なの。 貴方の思考はほんとうに複雑で疲れるなぁ……。 貴方にあてがわれた障害者の身にもなってみてよ。失礼ですよ。
>>970 健常者の君が何を言っても始まらない話だ
邪魔だからスッコンでろ、
>>972 障害者当人がそう感じたのなら 陳謝することも吝かではありません。
>疲れるな
何故貴方が疲れなければならないのです?
意味わかりません。
975 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 07:03:51
>>973 君がスッコンでろという健常者と、君は何が違うのか。
同じ健常者で、河童虫は障害者を語ってよくて、970はスッコンでなければならん理由はなんだ。
それとも、河童虫は障害者なのか。
まぁ、イタい人物ではあるな。
河童さん。あぶり出しですね?わかります。
ノーコメントってお前、自分のこと健常者だって書いてるじゃん 河童は書いて良いけど他の奴は駄目!てことね?
>>979 書いてあるのがわかっていながら、
>>975 の質問はないだろう?
だからノーコメント。
布石は敷いてあるから
自分で判断しなさい。
そういう意味。
いや俺975じゃないしそんな風に話振られても困る
>>981 それなら スマソです。
名無しさんは
区別がつけられないから、コテがこれだけ増えた今は、名無しと言う括りで一まとめにするしかないんだよ
983 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 11:23:03
>>944 呉志周魴伝の「石亭の戦い」の話…
第七の手紙で「並乞請幢麾数十…云々」とあります。山兵たちに軍旗を渡して味方につけようと言う訳ですね。
幢を渡すという行為は集兵を意図したものだと思います。
集兵の目的は、何か? 正しく『兵とは詭道なり』である。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年十二月詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑彌呼
の
景初二年は景初三年の間違い説があるが、
『景初2年8月23日、公孫淵父子をはじめ廷臣を斬首、更には遼東の成年男子7000人を虐殺した。』
その後、十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 である。
公孫淵を南と北から挟み打ちにしている、
その南を倭に攻められたら魏の公孫氏討伐は失敗に終わるだろう。
南への退路を断つためには倭との連帯が必須であろう。
景初2年の朝獻で正しい。
又、
公孫氏を滅亡に追い込んでも全ての情勢が安定するまでには時間が必要。
その間、倭国の動向を抑えておかなければならないだろう。
倭国の公孫氏血筋を平らげるのはその後でよい。
984 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 11:39:22
985 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 11:49:25
>>984 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人
でしょう。
更相誅殺當時殺千人
の
中にも居るだろう。
986 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 12:04:56
健常者だとか障害者だとか、何をほざき始めているのか良く分からないけど、 九州説には、どうして、このように胡散臭い人が多いのだろう。
>>985 酒井法子は見つかりましたが、公孫氏血筋は見つかりません。
どこで見分けるの?
988 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 12:30:32
>>987 どこで見分けるの?
疑わしきは此れを罰す。 で OK !
魏はそこまで公孫氏を恐れちゃいねーだろ 所詮は辺地の土豪だし
990 :
ローガン :2009/08/10(月) 16:40:35
>>983 二年六月とすれば、劉夏=劉キンですかね?
991 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 17:00:54
>>990 太守劉キンが、景初二年六月に帯方太守であった記録はありません。
景初中は、景初年間全てを表す訳ではありませんから。
992 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 18:44:09
劉キンは明帝による密太守であり、正式には表舞台にには登場しないわけであって 正式の太守は劉夏
993 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/10(月) 18:57:51
>>958 千人も腹をすかしてカスミを食っ
て日本から半島に渡ったと主張する彼の言い分は事が大きすぎて
デタラメとしか想えません。
これは、私の主張ではなく新羅本記に文句を言うべき。
>伊支馬が垂仁天皇だと素人が言うような幼稚な論理
では「伊支馬」を何と読み誰に比定しますか?
その前に 3倍年の不都合が先か。
994 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/10(月) 19:23:49
>唐松山さんは百済本紀には厳しいが、新羅本紀には甘いようです。 新羅は半島の王国として最後まで続いた、対する百済は、首都を移しつつ消えていった王国。 七支刀も326年(神功52年)という設定も出来る。
995 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 19:30:02
伊支馬=イッキマン・・・アイスペールにジャック・ダニエルを入れて一息に飲みほす人。
996 :
縄文人 :2009/08/10(月) 20:03:01
太國氏と唐松山氏の論争は永遠に決着しそうにないですね。 千人の餓えた民が半島に逃れたというのは新羅本紀に書いてあることであれば唐松山氏の言い分が勝っている と思いますよ。 だけど、百済本紀より新羅本紀の方が信用出来るという根拠が私には今ひとつ分りません。私は崇神は4世紀 の人物だと思っているので、百済本紀が信用できないという根拠を分かり易く説明してくれませんか。
梅
998 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 20:21:32
竹
梅其の弐
1000 :
日本@名無史さん :2009/08/10(月) 20:22:13
河童逝け
1001 :
1001 :
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