1 :
○○説は諦めてって言ったでしょ?:
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:::::::|| ||li`‐┐ |::::::::::::::::::::‖ { /::::::: ||:::::::|| |
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:::::::::::||:::::::/ |:::::::::::::|\| ―=――=ァ /:::::::::::::::::::::|
::::::::::::::::::/ |::::::::::: ト、 ` ̄‐'´ /:::::::::::::::::::::::::::|
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 45
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1243975333/l50
3 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 18:32:19
4 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 18:57:14
____
/\ /
/=⊂⊃=⊂⊃=
>>1こっこれは乙じゃなくてズレてるんだお
/ :::::⌒(__人__)⌒::::: 勘違いするなおっ!
| |r┬-|
\ ` ー'´ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
5 :
名無し募集中。。。:2009/06/18(木) 23:13:47
そうたい山たい
そうとよ山とよ
アニオタはどこでもアニメネタを見せたがる
7 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 02:12:44
台与スレ無いのは何故?こっちも重要だぞ。
8 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 02:43:51
台与は西暦250年頃に13才で王になっている。
現代風に満年齢にすれば、恐らく11才か12才だろう。
太始初めに晋に遣使した倭女王は、まず台与だろうからこのとき27才くらい
か? 30才にはなっていなかったと思われる。
梁書などには、「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」と
書かれているから、男王と並立していたのだろう。
台与がいつ死んだかは不明だが、その後、女王は誕生しなかったのではないか
と思う。
トヨタン・・・・・・・・・・
10 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:15:15
狗奴国について、倭人伝には、
「次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、
不屬女王」とある。
狗奴国について書かれているのは、このほかには後漢書だけ。
後漢書には、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある。
一般的には、倭人伝の記述のほうが取り上げられるが、後漢書の記述を
信頼するなら、そして邪馬台国九州説を取るなら、狗奴国(拘奴國)は
出雲という可能性もある。
妻木晩田遺跡などが注目されている現在、狗奴国=出雲説も捨てがたいと
思う。
古事記って出雲が物語の中心になっているようだし
畿内が大和の国の東の果てのようで
12 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:14:16
記紀にどうして出雲が詳しく書かれているのかも謎。
皇統とは全然関係ないのに、むしろ高天原より日向より詳しく書かれている。
13 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:30:46
>>12 邪馬台国時代のあとは、出雲を征服することが大きな問題だったのだろう。
しかし、それは大和とは直接関係のないことだったから、そこまでを神代で扱ったんだ。
そして、大和に直接関係する東征からは人代で扱った、ということだろう。
高天原=大和だろ。
15 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 00:58:26
九州の王族が本州に勢力を伸ばしたときに、拠点になったのが出雲だった。
出雲に拠点を置いた王族は、本州を関東の手前当たりまで統治するに至った。
しかし、九州の王族から「その国を譲れ」と要求されて対立関係に立った。
出雲は抵抗と懐柔で対応したが、結局は九州から新たに派遣された王族に統治権を明け渡した。
その後、出雲の王族の威を借りて、新たな王族が本州の統治を始めたため、出雲王朝時代の
伝承が残されることになった。
おしまい。
16 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:30:47
大物主=大国主神で、これは大和の三輪山に祀られているのかな?
とすれば、大和朝廷にも関係あるのかも。
しかし、大物主は国つ神となっているのだが。
九州の王族w
北九州や出雲と無関係に畿内に邪馬台国ができたのなら、そしてそれが
そのまま大和政権につながっているのであれば
神話には伊勢や琵琶湖や紀伊半島が舞台の話がもっと出てきても良さそうなもんだ。
19 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 09:01:10
結局、畿内説に無理があると言うことか
出雲勢力=初期ヤマト政権なだけでしょ。
だから高天原が葛城周辺で、根の国が出雲方面。
つまり邪馬台国はヤマトという事ですよ。
■縄文人は海洋系狩猟民族。
■弥生人は揚子江の南、越国の倭人が中国春秋戦争から逃げ流入。
■辰韓王族スサノウは追放され新羅の曽尸茂梨より出雲へ渡来。
出雲で日本海沿岸にかけて大王国を作る。
神社を全国に作ることで支配。祭神はスサノウ、ニギハヤヒ、オオクニヌシ。
(現在、ほとんどの神社の祭神にはスサノウ・ニギハヤヒ・オオクニヌシが入っている。)
スサノウの子孫ニギハヤヒ(物部氏)が大和まで到達。邪馬台国(ヤマト国)建国
関東地方まで支配を広げる。支配の為大和に出雲政権を移動(オオクニヌシの国譲り)。
ニギハヤヒの9世代後が卑弥呼(モモソヒメ)。(籠神社より系図発見・国宝)
農耕に必要な暦をえる為、ツクヨミ(月読み)を行う。
魏志倭人伝の倭国大乱は大和出雲連合と筑紫連合国との戦争。
卑弥呼時代に筑紫と和解。筑紫の円墳と大和の方墳が合わさり前方後円墳発生。
大王に貢献した部族には前方後円墳を作る権利と技術をあたえた。
(貢献により土器など全国各地の生産品が大和より出土し、前方後円墳が全国に残る)
大和と筑紫が人質交換(神武天皇東征伝説)。神武は物部に婿入り大王家となる。
大和朝廷成立。大和とは大連立の事。ヤマト読みは前の地名(邪馬台)のなごり。
大王家は祭祀のみ、政治は物部と大伴(筑紫系)。
■漢末の戦乱から逃れ弁韓に留まっていた西漢氏(神功皇后)
が筑紫に渡来(天孫降臨)。馬を持ち込む。その子供として筑紫にて応神出生。
応神東征、騎馬の威力により香坂王・忍熊王を倒し即位、
応神天皇河内王朝成立。応神の神は住吉神社。(海運・交通の神)
半島より東漢氏、秦氏他渡来人を呼び寄せ高度な土木技術で巨大古墳、神社を作る。
■筑紫勢力に政権を奪われた大和勢力は越前、剣神社(祭神・忍熊王)
にいた忍熊王の5世代後子孫、男大迹王(継体)を擁し反逆する。
20年間の戦に勝利し継体天皇が大和入りする。
翌年、継体は半島との外交ルート確保の為、筑紫の磐井の乱とされている戦い
を起こし、物部麁鹿火が筑紫王・磐井を平定する。
■滅亡した葛城氏(ナガスネヒコ族)の傍系である蘇我氏は渡来人・東漢氏と
婚姻する事で勢力をのばす。強力な東漢氏の軍事力を背景に仏教の
拝仏主義を押し進める。更に天皇家と婚姻する事で力を強める。
蘇我馬子が従来の祭祀にこだわる物部守屋と対立し、物部守屋を滅亡させる。
■唐・新羅に攻められている百済より救済を求め、人質の形で渡来してきた
百済王子・扶余豊璋(中臣鎌足)は中大兄皇子と組み、
百済救済に動こうとしなかった蘇我入鹿を殺し蘇我氏を滅亡させる。
扶余豊璋は後に記紀の編纂をする太安万侶一族の娘を娶る。
天智天皇即位後、唐・新羅軍と倭・百済軍が白村江の戦いをするが倭軍は敗北する。
扶余豊璋は帰国後、中臣鎌足を名乗り、大化の改新で勢力を着け藤原氏の祖となる。
死後、藤原姓をもらう。藤原氏、太安万侶との人脈で記紀の編纂に影響力を持ち、
フヨ国系百済王族の伝承である天高ヶ原(モンゴル東部)伝説を古事記、日本書紀に
入れる。アマテラスはフヨ族の神、全国の神社にアマテラスを合祀させる。
■隋より渡来した高向王(聖徳太子、道教伝来者)と皇極皇后の子供・漢皇子(天武天皇)は天智天皇の子供・大友皇子と継承権をめぐり戦い攻め滅ぼす。天武天皇即位。
大王という名を止め、初めて天皇(道教の北極星の事)という名を採用し
それまでの心御柱信仰(北極星信仰)をやめさせる。
以後、心御柱は伊勢神宮の秘密となる。
天皇自らが宇宙の中心である北極星でありアマテラス(太陽)とツクヨミ(月)を従える
立場をとる。(伊勢神宮の天皇家の祭祀方法は現在に残っている。天武が建立した
薬師寺も薬師如来の両脇に日光菩薩と月光菩薩を配し道教四神が支えている。)
(天皇が星である為、記紀の編纂時に星の話は全て外され、日本神話は星の話の登場
しない世界的に見て珍しい神話となっている。)
国号を倭から日本に改める。
天武、記紀編纂を指示する。
24 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 16:03:26
連合というのは非常に現実味に乏しい。歴史を知らない考古学関係の人が
ひねくりだした空論ということだろうな。
唯一の根拠が搬入土器なのだろうが、これで物語を作るのならどんな物語でも
出来てしまう。なんだかんだ言っても、圧倒的に多い土器は地元のもの。
これをどのように説明するのか。東海地方の土器が多いのをどう説明するのか。
大陸、あるいはそれ以来ずっと関係を持ち続ける朝鮮半島との交流でもっとも
重要になる九州との関係または九州の土器はどう説明するのか。
その他諸々の問題点がある。特に、後の大王とのつながりがあやふや。
まあ、ありえないなあ。
26 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:09:40
>>24 いやいや、なかなか正論。土器がどのような移動をするか、全く知らずに
あれこれこじつける連中よりはよっぽどましだ。
28 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 20:50:40
>>24 >なんだかんだ言っても、圧倒的に多い土器は地元のもの。
>これをどのように説明するのか。
馬鹿馬鹿しい。
もし外来系が圧倒的に多ければ、それは纏向自体が外来勢力によって作られた
もしくは他地域の勢力の出先機関と言う話で、話がずれているw
>特に、後の大王とのつながりがあやふや
これもピントズレズレw
そもそも邪馬台国畿内説をとると言う事は推古よりはるか以前
3世紀には卑弥呼と言う女帝とも言うべき存在がいたと言うことになる。
自然、記紀の王統譜をそのまま鵜呑みにはできないと言う事になる。
「後の大王とのつながり」と言うのが記紀の示す皇統譜のことなら
整合性を求める相手を履き違えている、頭悪杉wwwwwwwwww
29 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 20:54:10
結局
>>24の如きは単なるヒステリックなクレーマーでしかない。
>これで物語を作るのならどんな物語でも出来てしまう。
・・・と言うのなら自分でそれらの事象を上手く説明できる仮説を立て世に問うてみれば良いw
少なくとも現在「首長連合」と言う仮説が最も蓋然性があると認識されているだけの話www
30 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:20:20
>「首長連合」と言う仮説が最も蓋然性があると認識されている
しかしながら、邪馬台国の姿はまったく見えてこない・・・
31 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:38:07
だいたい首長連合を認めないというのは、倭人伝の「倭国乱」を認めないというのとほぼ同義
ではないかな。乱が治まる過程として、
・一つのクニが他を平定した ・互いに無関係に戻った などもありえるだろうが、「倭国乱」
記事の直後に「卑弥呼共立」の文言があるということは、以前話題になった「砂鬼四陀羅経」
的に考えても、各クニ間に和平協定的なものができ、相互交流が始まったと見て不自然では
ないと思うが。
32 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:55:22
首長連合の証拠は何かな? なぜ、「ゆるやかな」でなければならないんだ?
強力な支配、被支配ではいかんのかな?
九州内の地方的な乱なんてわざわざ魏志に書かんだろ、
一応「大乱」だぞ。
それを抑えるために卑弥呼が共立されてるのに。
瀬戸内の高地性集落はなんなの?
大国の出雲や吉備はスルーなの?
北九州の前方後円墳はなんなの?
畿内で絹や鉄が出土しない?北九州も倭の国ですよ。
はっきり言って現在ある資料だけでも
3世紀後半時点で九州に女王国を求めるのは不可能です。
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。
更に男王を立てしも、國中服せず。
更に相誅殺し、当時千余人を殺す。
また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
二人の女王が立てられるときの記述が興味深い。
卑弥呼の場合、「共に」立てた、とあるが、
卑弥呼を立てたその主体(=主語)はいったい誰なのか。
35 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:39:53
>>31 その首長連合で、「倭国乱れる」をどう説明するのかが先だろうな。
>>32 >強力な支配 がどんなことを指してるのかわからないが、倭国乱終了時点では決定的
な勝利者はいなかっただろうと考えられる。以下のレスに根拠はないので妄想と呼ばれても
しかたないが・・・。
まず、共立されたのがなぜ巫女王であろう卑弥呼なのかについては、壊滅的なダメージを
各クニが受けていなかったために、それぞれの王が残っていたこと。そして積年の戦いの
経緯から互いの下につくことに肯んじえなかったこと。しかし、鬼道に事える卑弥呼の言に
対してはプライドを捨てて従えること。なぜならそれは、神の声だから。
各クニには王の他に、それぞれ神事を司る巫女的存在はいただろうと考える。その中で、
なぜ卑弥呼が特に選ばれたかについては、やはりそれまでにはなかった画期的な宗教
儀礼を執り行ったからだろう。それが、前方後円墳による首長霊信仰なのだと思う。
37 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:43:26
38 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:44:42
>>28 つまり、搬入土器で勢力の存在を推測するのなら、圧倒的に多い地元の
勢力が一番大きいということになりはしないかな。
あとは貢物でも何でもいいから、よその勢力が服従したでもかまわない。
にもかかわらず、首長連合なんてのがどこから出てきたのか。
39 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:56:28
>>34 まあ、そういうことだろうなあ。
倭人伝を読む限りは、卑弥呼共立の7,80年前の男王の存在が大きい。
これは多分、後漢書に登場する倭国王・帥升を示唆している。
なんてったって、「倭国王」だから、卑弥呼と同じ地位にいると考えられる。
そうなると、卑弥呼は帥升体制の中で生まれたと思われる。
つまり、帥升の地位を引き継ぐものが不在となった。その地位をめぐる争いが
倭国の乱ということになる。
これは、台与が女王になった経緯からも十分に妥当性がある。
帥升がどこにいたかを考えると、これはもう九州以外にないだろう。
40 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:00:11
土器というのは、女性的な遺物と言われる。権力の動きと連動する遺物は男性的遺物
と言われるが、土器は権力の動きには連動しないということだ。
土器が動くのは、一つには物流の動きに連動した場合、もう一つは土器がそれ自体有
用な物として求められ動く場合だ。物流に連動する場合は、被支配地から支配地側へ
動く。近畿の土器が北九州に流れているのはそれかも知れない。支配地から被支配地
への物流は少ない、したがって九州の土器が近畿にはあまり流れない。
土器が有用な物として流れる場合というのは、土器が優れている場合などだ。東海の
土器が近畿に多く流れているのはそれが多いと考えられるだろう。
邪馬台国と出雲の関係はどうなってるの?
大和朝廷と出雲の関係はどうなってるの?
>>39 >そうなると、卑弥呼は帥升体制の中で生まれたと思われる。
レス全体の論旨に反対じゃないけど上の一行はおかしいね。
こう書くなら分かるけど。
「卑弥呼は帥升体制が崩壊し、大乱となってしまった混沌状態の中から生まれたと思われる」
43 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:22:55
>>42 たとえば、壬申の乱などは天皇(大王でもいいが)の地位をめぐる争い。
体制が崩壊したわけではない。
一方で、戦国時代は、室町幕府体制の崩壊といえる。
卑弥呼共立は、体制の崩壊ではなく、体制維持のための争いだと思う。
44 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:29:59
王権を争って戦ってその結果が卑弥呼の共立? なんかおかしくないか?
>>40 >権力の動きと連動する遺物は男性的遺物
>と言われるが、
でも邪馬台国は卑弥呼と台与っていう女性が権力の中心にいた時代なんだから
例外だね
いくら一般論言ったって通用しない時代なわけでw
トヨタン・・・・・・・・・・
48 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:39:21
>>44 台与のときもそうだろう。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、
年十三爲王、國中遂定
さらに男王立つ。国中不服。さらに相誅殺、当時1000人余りを殺す。
また、卑弥呼の宗女壱与年13才をを立て王となす。国中ついに定まる。
>>48 一国内の出来事なら、徹底的に争うと思うがね。連合内のことだからこその共立だろう。
>>47 別におかしいとは思わんけど、というより魏史の記述でしょ?
さすがに方角とか距離と違って解釈を間違えようがないと思うが。
戦に披露してしまって和睦、共立はシンボルとしての存在でしょう。
51 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:03:26
卑弥呼は確かに連合のシンボルといえるだろう。前方後円墳に各地葬制の習合が見られ
るのはそのため。しかし連合の中心としての優位が畿内にはあっただろう。3世紀後半の最
大のものである箸中山古墳が畿内にあり、その縮小型が各地に分配されるようにできていっ
たのもそのため。これには各部族との姻戚関係を結ぶなどの戦略もあったかもしれない。
台与の場合は、その前の男王が卑弥呼共立による宗教的連合支配から、王権的軍事的
支配に変えようとして失敗したのだろう。まだ期は熟していなかっということだと思う。そこで
もう一度巫女王に戻さざるをえなかった。したがってヤマト王権の確立は台与後の男王の
段階といってよいかもしれない。
52 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:06:13
王権を争ったわけではない。収穫物を争ったというべきかな。
豊かな北九州とそうではない南九州とが争った。そして、南が勝った。
しかし、南の目的は北九州の国々を奪って北遷することではない。収穫物を
南へ送らせることだ。だから、北の国々をそのままにして妥協したんだよ。
共立が女王国内部だけの話ならば、何で勝者が王を変えるのかが分からない。
が、共立が女王国と北の国々との間におけることならば、理解できるだろう。
北は自分たちが戦った相手、即ち男王に従うことはできなかった。それで、ご
ねたんだろうな。南は王を変えて卑弥呼にすることで、実利をとったというこ
とだろう。だから、しばらくして男王が復活した時に乱が再燃したんだ。
前方後円墳にこだわるわけがあるのですか?
古代に遡る程、単純な円墳だと思うんですが。
54 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:13:57
>>51 >箸中山古墳が畿内にあり、その縮小型が各地に分配されるようにできていっ
>たのもそのため。
同じ形のものを造るときには、あとから造る方が大きくするものだろう。
箸墓が他地の同型のものより先にできたという証拠はあるのかな?
造った順序は逆じゃないかな?
さらに、四道将軍の派遣などと記紀に記される軍事行動により、ヤマト王権はその基盤を
着々と固めていった。この時点で巫女王は不必要なものとなり、垂仁紀に見られる倭姫の
逸話のように、巫女王は伊勢の地へと敬して遠ざけられた。九州支配が一応の完成を見た
のが、景行天皇の九州巡行の事績として残されているものではないかな。
しかし52レスとはまったく噛み会わんな。寝ます。
56 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:23:50
さて今後の畿内説の詰めていくべき問題としては・・・
九州北部における前方後円墳の出現時期かな?
それが既に3世紀、卑弥呼の時代に九州に出現していたとすれば
「首長連合」に九州が参加していたと言う想定に何ら無理が無くなる。
(もっとも、例の歴博の年代はまだ色々論議されるだろうが、もはや布留開始を4世紀に求めるのも少数派で
また、畿内の纏向型と各地のそれの築造時期にそれほどの時間差を考えていないのが多数派ではないのかな?w)
じゃあその状況で魏から冊封を受けたクニがあるのなら
その連合体の中心(まあこの言葉も色々語弊があるんだろうがw)であったヤマトが極めて蓋然性が高いと言う事になるwww
そこで畿内説は一応の完成を見るのではないか?
無論、完全に決着するわけでなく極端な話、所謂「偽僭説」ならその状況でも成り立つわけでw
隔靴掻痒の感は否めないが、まあ限界だろうwww
後は九州説のお手前を拝見と言うところだが、この板の多くの九州説みたいにオレサマ流珍読で
その趨勢をひっくり返すなんてのは無いわなwww
まともな文献史学者で
「魏志倭人伝の読み解きだけで位置論に決着をつけられる」 とか
「文献的に言えば畿内は絶対ありえない」
…なんて言っている奴はいるのかな?
質問・突っ込みに一切答えない俺様論が畿内説ですね。よくわかります。
58 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:42:11
このスレで「連合」の二文字に必死に噛み付いてくる奴の面白いのは
その広さを問題にしているわけじゃなく形態として連合体と言う物がありえないと言っているところw
他の人間からも突っ込まれているが、だったら倭人伝の卑弥呼の共立はなんだったのか?と言う話で
そもそも邪馬台国なんて物がこの地球上にありえない話になる。
いやもっと言えば「力の均衡」による戦争の休止状態もありえないのなら
米ソ冷戦なんてのもありえなかったわけで代理戦争なんてチマチマしたことやってんじゃなくて
お互いを不倶戴天の敵としてICBMでもなんでも撃ち合って今頃人類滅亡してなきゃおかしいってお話だなwwwwwww
些か話が脱線したが畿内説とか九州説とか言う以前に歴史と言うものに対する見方があまりにも幼稚。
まあ頭に血が上って自分でも何を喚いているのかわけ分からなくなってんだろうがwwwwwwwwwwwwwwwww
59 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 00:49:54
>まあ頭に血が上って自分でも何を喚いているのかわけ分からなくなってんだろうが
「まあ頭に血が上って自分でも何を喚いているのかわけ分からなくなってんだが」の
間違いだろ。
いつもの人だから
>>57 答えても俺様の屁理屈が帰ってくるだけだからねw
余程新しい発見が九州から出ないかぎりは、
九州に求めるのはちょっと無理だと‥
少なくとも北部九州には無理でしょ。
62 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:06:05
>>54 箸墓は庄内期と布留期の境目で「ここから布留期スタート」の布留0と呼ばれる時期に築造されたことがわかっている。
これより古い前方後円墳は、つまり庄内期以前の前方後円形をした墳墓はもうほとんどなく
わずかに纏向のいくつかの古墳や、それと類似するものがいくつかが可能性ある候補として挙げられているだけにすぎない。
これらは前方部端が低く箸墓と同型ではない。
箸墓と同型で縮小サイズと思われる古墳が各地でいくつか指摘されているが、庄内(併行)期以前のものは今のところない。
>同じ形のものを造るときには、あとから造る方が大きくするものだろう。
箸墓が他地の同型のものより先にできたという証拠はあるのかな?
造った順序は逆じゃないかな?
共立された王の墓が箸墓だと仮定すると、
その影響力、威光が残るうちは
同系の墓で大きさを越えるものは造らないでしょ。
で、暫くして王権が別系統に代わってから
大型化という流れだと思うけど。
64 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:14:42
>>58 九州説による卑弥呼共立の経緯は、個人的には
>>39で述べた通り。
それなりに文献的な根拠がある。
一方で、連合は何を根拠にしているのか。
非現実的で、今までの日本にないような形のものを作り出していながら、
根拠が非常に薄い。
たとえば、搬入土器がちょっと多いというだけでどうして連合が出てくるのか。
歴史感覚のないものが、単なる都合で考え出したものとしか思えない。
ということかな。
65 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:17:20
>箸墓と同型で縮小サイズと思われる古墳が各地でいくつか指摘されているが、
>庄内(併行)期以前のものは今のところない。
箸墓よりも後だと確定できてるものはあるのかな? あるとすれば、どこのが
どんな証拠で確定できたのかな?
「今のところない」というのは、箸墓との前後がまだ分からないのがいくつか
あるということかな?
66 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:28:45
>>65 古墳の年代も良くわからない。
同じ形式の古墳だから、同じような年代だろうという程度じゃないかな。
たとえば、宮崎の生目古墳群の1号墳は、箸墓と相似形といわれる。
箸墓が最古級等と言われると、1号墳も最古級とされたりするが、では
どちらが先かとなると、分からないというのが現実じゃなかろうか。
>>64 他でもない倭人伝に書いてあるでしょ。
共に一女子を立てるのと、
宗女を立てるのでは意味が違うと思うけど。
68 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:29:13
>>64 >たとえば、搬入土器がちょっと多いというだけでどうして連合が出てくるのか。
だったら搬入土器の多さを説明する他の仮説で
「連合体」を想定する以上に上手く説明できる物を挙げてみろって話で
「それはありえない、思えない」と脊髄反射で唱えられても
そりゃ、たちの悪いクレーマーだなwww
69 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:34:39
どこの都市でも搬入土器は結構あるんだよ。近畿の場合は、土器作りがうまかった
東海が近いから特に少し多めになったんじゃないかな。九州勢力が畿内を征服した
ってことで、人の出入りも多かったことも考えられるしね。
搬入土器を説明するために連合体? 見当違いだろ、それは。
>>69 九州勢が征服したのなら、九州のものが出土しないとダメでしょw
71 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:40:10
>>68 よその地域の土器が見つかるのは、どこでも同じで、吉野ヶ里でも近畿地方や
山陰地方の土器が見つかっているし、熊本県の遺跡でも見つかっている。
だから、各地の土器が見つかるのは珍しいことではない。
たとえば、神武東征を想定すれば、やってくる途中で吉備に長期間滞在して
いるので、人などを連れてきたと考えればいい。
東海地方の土器が多いのは、国作りに人手が必要だったので、近くにあり
人口も多い東海地方から人を連れてきたと考えればいい。
そんなことはいくらでも考え出すことは出来る。
ところで、そちらは連合について何にも説明できていないと思うが。
72 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:46:55
>>70 だから出ているだろう。鏡、矛。隼人の楯。みんな九州の物だ。
土器は期待するなよ。東征軍が持ち込むものではない。
>>40
王が倒れ倭国が乱れ、共に一女子を擁立したのが
連合じゃ無いっていうの?
じゃそれはなんて呼べばいいんだろうw
74 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:50:43
>>71 あなたは神武の実在や神武東征説話を史実と信じているようだが、
そうすると神武はいつ頃の人と思っているのか。
吉備に長期間滞在した時期は吉備の土器編年でいつか。
75 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:52:37
先日、桜井茶臼山古墳で玉垣の跡が見つかった。
これをどう考えるか?
新聞によると、ある考古学者は、「被葬者の魂が住むための木製のミニチュア
の家などが並んでいたのではないか」といい、別の考古学者は、「玉垣では
なく、建物跡だ」といい、さらに別の人は、「魂が暴れ出したため儀式を
行って鎮めた」といっている。
これを見ればわかるように、考古学的な遺物の解釈は、ほとんど一人一説と
いえるくらい多様で結論の出るものではない。
結局、都合のいいものを選んでいるとしか思えない。
連合なんてその最たるものだろう。
76 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:54:34
纏向で行われていた祭祀に参加する為各地から人間がやってきて土器も持ち込まれた。
そして各地の埋葬文化も直接的にあるいは間接的に持ち込まれやがて前方後円墳の形になる。
外に向かって征服していったと言うより
外から人間が集まってきたのがヤマト纏向。
・・・一体これの何処に無理があるのか皆目分からないw
でこれに対抗しうるような仮説もなく、ただ「ありえない」「思えない」を繰り返すのみのこの板の九州説論者www
77 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:55:04
>>74 神武東征については別の機会に話すとして、たとえば、神武東征のような
出来事を想定すれば、そういう解釈もありうるということ。
78 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:58:34
>>73 倭国が29国の連合体だってのは、何の問題もないんだよ。それは倭人伝が伝える
ところだ。しかし、それはけして「ゆるやかな連合」なんていうものではない。
女王国以北の国々は、一大率に検察され、「諸国これを畏憚す」という厳しいものだ。
纏向の搬入土器なんかとは何の関係もない話だ。
79 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:59:33
>>76 要するに、連合説に説得力がないというだけの話だろう。
80 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 02:00:56
>>77 では東征の中身は問わないが、時期だけは答えてほしい。
あなたの思っている東征が行われたのは西暦何世紀か。
>>78 「ゆるやかな連合」という表現をする学者はだれ?
82 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 02:04:43
>>80 神武東征に相当する出来事は、多分4世紀になってからだろうと思う。
しかし、記紀にある饒速日命に相当する人物は、3世紀後半に大和にやって
来たのではないかと思う。
83 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 02:25:55
>>44 >王権を争って戦ってその結果が卑弥呼の共立? なんかおかしくないか?
王権を争ってと言うよりも、覇権争いの段階で決着がつかず、妥協の産物が共立。
帥升体制が崩壊し、倭國乱に突入したが、帥升体制の王権が消失したのではない。
卑彌呼体制が確立しても、伊都國には代々の王が残っている。
「伊都」は、旧体制の倭王のいる倭都(イト)の音と意味に当てはめた魏側の表記であると考えられる。
伊都國は、帥升より続く旧体制の現に王がいる倭都であるから、
『東南陸行五百里 到伊都國』と「至」ではなく「到」が使われており、
『郡使往來常所駐』とあり、目的地であることを伺わせる表現があるのである。
又、伊都國は女王國の支配下にあるとは言え、
『王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯』
と統治機構をも持っているのである。
>纏向の搬入土器なんかとは何の関係もない話だ。
ゆるやかかどうかは知らんが関係はあるだろw
85 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 07:33:32
>>83 覇権争い? 倭国の盟主になりたいがために、王まで交替させたってのかな?
そんなにして盟主になり、魏が使者を送ってくれたってのに、その使者を伊都国
止まりに? そんなことでは誰がみても伊都国が誰が盟主みたいなもんじゃないか?
是か非でも邪馬台国まで来てもらわなけりゃ話にならんだろう。
86 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 08:06:25
誰がみても伊都国が誰が盟主みたいなもんじゃないか?
↓
誰がみても伊都国が盟主みたいなもんじゃないか?
伊都の国が盟主なら普通に「伊都国即ち女王国である」
と書けばいいだけだろ。
遠方に女王の国があるからああいった表現になるだけでしょ。
88 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 09:50:28
だから伊都国の説明に「世有王 皆統屬女王國」とある。
意味は伊都国には「代々王(女王)がいた、皆(倭の国々)は女王国に統属す」となる。
伊都に代々王がいたが、皆女王国に従属してるという事だろw
つまり女王国と和睦したと普通に解釈しろよ。
大体伊都が女王国では投馬20000、邪馬台50000の記述とも全く整合性がない。
90 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 10:40:17
五万、七万では?
91 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 10:45:07
>>84 搬入土器が連合の証しっていうと、九州土器が搬入されてないのは困るんじゃないかな。
九州とは連合がなかったということになるな。
92 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 11:04:45
>>89 「世世」ではなく「世」の間の代々の王だから
伊都国の短い期間説明だ、皆と言うほど伊都国に多くの王がいたとは読めない。
「世」は魏の時代を指し、代々の王とは卑弥呼、男王、壱与のことだ。
伊都国は邪馬壱国(女王国)の王都だ。
伊都国=邪馬台国なら人口記述が矛盾してるだろw
94 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:08:08
>>91 どうして庶民の道具である土器ばかりに視点を当てるのかな。
支配者層の墓制に注目すれば、どこの影響が大きいかは明らかなはずだが。
95 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:15:37
>>93 伊都国=邪馬台国ではない。
伊都国は邪馬壱国(女王国)の王都。
邪馬壱国(女王国)は伊都国のほか対馬国、一大国、末盧国、奴国、不彌国
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国
の26カ国からなる韓の種のようなものだ。
96 :
うましか:2009/06/21(日) 16:16:47
>>92 「皆」に多い、少ないなんて概念を持たせないで。
この場合は「全て」と言う意味ですよ。
今話題の「皆既日食」の「皆」です。
たくさん欠けるのではなく、全て欠けるから「
皆」
ここでは、人数は二人でも百人でも同じこと。
代々の王は全て女王国に統属していた、
実際にそんな事実があったかどうかは別にして、
そのようなことが書いてあるのです。
有り得ないような記述があったからと言って、
漢文の読み方を違えてまでして実態に合わせる必要はないと思います。
普通に読んで事実と違うと思えば、そうなった理由を考えれば善いだけのこと。
>>95 じゃ文中に突然出てくる投馬国は何処へ消えたのかな?
そんな無茶苦茶な文章
>>95 じゃ文中に突然出てくる投馬国は何処へ消えたのかな?
邪馬台国の長官、生駒の伊古麻津比古の事じゃないの?
だとすると邪馬台国は結構エリア広い気がするな。
北九州の邪馬台国が倭国大乱のときに畿内を平定して統治のために人を送り込んだけど
日本全国を支配するには北九州より畿内のほうがいいってことで
結局みんなで北九州から遷都して畿内に大和政権ができた。
>>100 じゃ、当時畿内の何処で争いがあったか聴かせてほしいね。
奈良には出雲に関連するものは多いが、北九州に関連する
出土品は少ないよ。
>>101 そうなんだよね
出雲の人間が畿内に移り住んで大和政権を作ったとしか思えない。
出雲が邪馬台国なんじゃないかと。
出雲の邪馬台国が倭国大乱のときに畿内を平定して統治のために人を送り込んだけど
日本全国を支配するには出雲より畿内のほうがいいってことで
結局みんなで出雲から遷都して畿内に大和政権ができた。
>>101 倭国大乱は出雲と北九州の戦いかな
畿内は無抵抗であっさり平定されたんでは?
ぶっちゃけ東京下町は弥生台の末裔
>>102 邪馬台国が出雲という点においては同意するが、初期ヤマト政権に出雲が参加していたとは思えないな。
>>103 単純に九州対出雲対畿内+吉備という図式でも無いだろうが、
150〜190年という年代を考えたら、大乱とはこの事だな。
結局大陸からの新技術を持ち込み、航海術にも長けた
物部、蘇我の先祖が先に畿内を平定したんだろう。
だから邪馬台国(読み方はヤマトだよ)は畿内でしょ。
>>105 三輪周辺なんてモロ出雲系だと思うけど。
>>107 それは出雲文化の流れを汲む吉備が持ち込んだ事と大和に王権が誕生した後に
吉備と畿内勢で出雲が奪い取ってきたんじゃないかな
×吉備と畿内勢で出雲が奪い取ってきたんじゃないかな
○吉備と畿内勢で出雲から奪い取ってきたんじゃないかな
110 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:07:53
大和朝廷が奈良盆地南部を支配してたのは
ほぼ間違いがないんだから纏向遺跡は大和朝廷のものだろう
あとは大和朝廷が邪馬台国かどうかでしょ
畿内説なら狗奴国=大和朝廷かもしれないし
九州説なら大和朝廷とは別の勢力であったか
大和連合に加盟しつつ独自に送ったという可能性も成り立つ
なぜ纏向遺跡=邪馬台国と決め付けるのだろう
111 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:12:07
纏向遺跡に東海地方からの搬入土器が多い理由は
東海地方の有力豪族尾張氏と同盟関係にあったんだろう
孝昭の妃が尾張氏出身ということがそれを裏付けている
尾張氏は元々畿内(大阪南部)でしょ。
ヤマトタケルが帰りたがったという話でもわかる。
113 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:19:17
纏向遺跡が邪馬台国のものだとするなら
大和朝廷=邪馬台国になるんだけど
なぜ記紀には女王卑弥呼や女王台与のことが載っていないの?
記紀を編纂した時点ですでに
神功皇后や推古天皇が存在してるのに女帝の
存在を隠す理由があったとは思えない
114 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:20:38
>>113 ・・・一体何百年時間が経ったと思ってんだ?
115 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:25:52
>>112 尾張氏の発祥地は諸説あるけど
いつから尾張を支配してたかだよね
言葉が通じてたかどうか。
魏の書物には、邪馬台国の東もみんな倭人である、とされているようだから
言葉は同じだったのだろうか。
117 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 19:55:15
纏向遺跡は、記紀にある崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向
日代宮と考えてよいだろう。血統はともかく体制としての後の大和朝廷に繋がる王権の発祥
地であったことは間違いないと思われる。
>>116 ある程度は交流あったでしょうから、言葉も通じたんじゃないかな?。
ベッテルはアロンソより燃料多いのか
誤爆
121 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 21:00:55
>>97>>98 投馬国は狗邪韓国を中心とした南朝鮮にあった。
帯方郡治より七千余里で狗邪韓国(投馬国)、
帯方郡治より水行二十日で投馬国(狗邪韓国)。
さらに
狗邪韓国(投馬国)より千余里、百余里四方、千余里、三百里四方、千余里、五百里で伊都国(邪馬壱国)。
投馬国(狗邪韓国)より水行十日、陸行一日(月)で邪馬壱国(伊都国)。
122 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 21:03:56
血統が繋がらない王朝を1つの王朝にまとめる理由がないだろ
だから血統的にも後の大和朝廷に繋がるものであったと思う
生物学的に血統が繋がってない可能性ならなくはないだろうが
124 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 21:43:29
東海地方の代表的な集落は、朝日遺跡だが、これは奈良盆地の唐古・鍵遺跡と
似たような印象がある。存続した時代も似ているんじゃないかな。
鉄器が少ない。
熊本県の方保田東原遺跡なんかは、わずかしか調査されていないが、すでに
数百点の鉄器が出ているし、鉄器製作の遺構も見つかっている。
相当な差がある。
面白いのは、どちらの遺跡からも巴形銅器が出ていること。
そういえば、吉野ヶ里遺跡からは巴形銅器の鋳型が出ていた。
巴形銅器っていったい何なのだろう。
ちなみに、吉野ヶ里と方保田東原遺跡の巴形銅器は羽根?が七枚。
朝日遺跡のものは羽根が五枚となっている。どちらも左回り。
126 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 22:08:35
盾などにとりつけ魔よけとして用いられたものだが、元は西南諸島等でとれるスジイガイの
腕輪をモデルとしたという説が有力。
127 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 22:10:17
スジイガイ→スイジガイ あらら。
128 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 22:52:44
>>123 君は理解力が低いようなので、説明を付け加えると
魏志倭人伝は同じ行程を里数で説明し、其の後再度日数で同じているのだ。
帯方郡治より七千余里で狗邪韓国(投馬国)=帯方郡より水行二十日で投馬国(狗邪韓国)。
狗邪韓国(投馬国)より千余里、百余里四方、千余里、三百里四方、千余里、五百里で伊都国(邪馬壱国)=投馬国(狗邪韓国)より水行十日、陸行一日(月)で邪馬壱国(伊都国)。
分かるかな?
>>124 方保田東は古墳時代も集落が継続。
朝日や唐古・鍵、吉野ヶ里とは違う。
131 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:34:49
>>124 >面白いのは、どちらの遺跡からも巴形銅器が出ていること。
熊本あたりの勢力が東征したのか、逆に東海の勢力が西征したのか、さあどっち?
交流があった、ということだろ
九州・本州南部で鉄器が先行するのは当然だよな。
新技術が大陸から入りやすいという点もあるが、
争乱の場合でも最前線なんだから。
134 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 00:14:57
>>132 楯の巴ってのは、単なる飾りではなく、陣営を示すマークであることが考えられる。
交流だけでは説明できんぜ。
>>134 つまり邪馬台国のエリアでしょ。
西と東の最前線。
136 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 00:43:15
>>135 だから、その最初の出発点はどこかって問題さ。
出雲、吉備勢力と繋がったヤマト勢でしょ。
138 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 01:20:15
>>128 >>123 君は誤解しているようなので、説明を付け加えると
魏志倭人伝は、まず帯方郡から女王國までを里数で説明し、
次いで帯方郡から女王國内国(投馬國、邪馬台国)までを日数で同じているのだ。
帯方郡〜投馬國ルート 半島西海岸〜済州島〜五島〜天草灘〜有明海 水行20日
帯方郡〜邪馬台国ルート 韓地陸行・倭地陸行 陸行1月 & 狗邪韓國〜末盧國水行10日
>>130 >方保田東は古墳時代も集落が継続。
この地方の横穴式装飾石室を持つ勢力が筑後平野に進出し、
倭五王の系列の王権になったのだ。
>>138 一生九州と半島でうろうろしていて下さいね。
140 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 08:52:00
>>138 太平洋に沈没して海の藻屑になってください。永遠に・・・。
141 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 10:12:58
>>138さんは少し違います。
魏志倭人伝は、まず帯方郡治から女王國の中心地(奴国)付近までを里数で説明し、
帯方郡治から女王國の中心地(奴国)距離が萬二千餘里だと書いてある。
同じ行程を再度、日数で説明し帯方郡〜投馬國が水行二十日、投馬國〜邪馬壹國が水行十日、陸行一日(月)です。
投馬國は女王國内国ではありませんよ、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」ですから
官名や戸数が記された投馬國は自女王國より北にあった国です。
文章ってのは、書き手が自分の思うところを読者に正しく伝えようと意識しながら
書くものだ。したがって、行程記事の中に、いきなり断りもなく郡からの日数を書
くなどということはありえない。郡からの日数ならば、当然、「自郡」などと読者
に分かる書き方をする。それなしに、日数を郡からと読むことはできない。
倭人伝の記載からすれば、郡からしばらく南へ水行し、さらにしばらく東へ水行し
て狗邪韓國、そして、対馬国、一支国(壱岐)を経て末盧国へ上陸したことは明白。
末盧国は一支国からの距離、方角からみて唐津であろう。
ここまでは、問題がないわけで、次の伊都国からが問題だね。
143 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 10:43:06
>>142 「從郡至倭 萬二千餘里 水行三十日 陸行一日(月)」と考えれば分かりやすい。
この文を詳しく説明を加えて書いたのが
「從郡至倭 循海岸水行・・・次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」の文。
更に「自郡至女王國萬二千餘里」と再度説明している。
伊都国が北部九州での大陸玄関口と書いてあるしな。
投馬と邪馬台国は明らかに遠隔地で別記述。
方角だって郡からみれば南の方、と大体の方角を
示してるだけで、そう考えると
日数も大雑把にしてる理由とも一致するでしょ。
145 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 11:54:34
>>142 きみの主張はおおむね同意できる。
>>143 >「從郡至倭 萬二千餘里 水行三十日 陸行一日(月)」と考えれば分かりやすい。
こちらの主張は同意できない。無理してトンデモ解釈をやってる。
自分だけが「分かりやすいなあ」と勝手読みしてる印象。
陸行一日(月)は一月は一日の誤記だと?
それならそこをきちんと説明しないといけない。
>>143 >「從郡至倭 萬二千餘里 水行三十日 陸行一日(月)」と考えれば分かりやすい。
あなたの言うような話ならば、上記のように書いただろう。そう書いていないのだから、
あなたのようには読めないんだよ。
>「自郡至女王國萬二千餘里」
これも邪馬台国までの距離ならば、「可七萬餘戸」に続いて記載されるはずだ。
それにこの文章は、女王国までの距離を示しているだけだ。
女王国と邪馬台国は同一ではない。
147 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 12:17:43
>>144 >伊都国が北部九州での大陸玄関口と書いてあるしな。
そんな事、何処に書いてありますか???
>投馬と邪馬台国は明らかに遠隔地で別記述。
遠隔地とはどの程度?
別記述にはなってますね。
>方角だって郡からみれば南の方、と大体の方角を
示してるだけで、そう考えると
日数も大雑把にしてる理由とも一致するでしょ。
投馬國と邪馬壹國の記述が大雑把であるのは其の通り。
「自郡至女王國萬二千餘里」は場所に関する〆の文。
こんなに遠い国なんですよと言ってるだけだよ。
>そんな事、何処に書いてありますか???
えっ?郡の使いの往来して、常に駐る所とありますが。
150 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 12:34:22
>>146 「自郡」などと書いてないから分かりにくいが、
里数で説明した後、同じ行程を日数で説明する場合は「自郡」など付かない場合がある。
里数で説明した後、続けて日数の説明がある時は同じ行程を再度説明していると読めるのです。
里数の後の日数を続けて行程とする方が意味が分からなくなります、
畿内説が意味不明の説になっているのはこの為です。
「自郡至女王國萬二千餘里」が「可七萬餘戸」の後ではなく「不屬女王」の後にあるのは
「可七萬餘戸」でまだ女王國の説明が終わっていないからです。
151 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 12:37:03
>>149 >郡の使いの往来して、常に駐る所とありますが。
これの何処が北部九州での大陸玄関口なのでしょう?
伊都国は女王國(邪馬壹國)の王都ですから郡の使いの往来して、常に駐る所なのです。
>>151 伊都は人口1000戸の迎賓館です。
いいから君は九州と半島で遊んでなさい。
>>150 >同じ行程を日数で説明する場合は「自郡」など付かない場合がある。
具体的事例を示してくれ。 少なくとも目的地(国名)は同じ表記になってるだろ?
>まだ女王國の説明が終わっていないからです
女王国の説明ってどこからどこまでのこと?
魏志倭人伝では邪馬壱国でしょ。
その場合箸墓は大市の墓なんで関連性あるんじゃないの?
155 :
138:2009/06/22(月) 13:27:24
倭人伝の文の構造を示し、()内にその内容を解説しました。
倭人在帶方東南大海之中・・・今使譯所通三十國(倭人についての大雑把な説明)
從郡至倭(郡から倭人の住む国々への紹介開始)
循海岸水行・・・到其北岸狗邪韓國七千餘里(倭に到着、郡〜倭は水行7000餘里)
始度一海千餘里至對馬國・・・東南陸行五百里 到伊都國・・・(倭の玄関国に到着)
東南至奴國百里・・・東行至不彌國百里・・・(郡より12000餘里の女王國の位置を表示)
南至投馬國水行二十日・・・(郡〜投馬國は水行20日)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・(郡〜女王の居る邪馬壹國は水行10日と陸行1月)
自女王國以北・・・・此女王境界所盡、其南有狗奴國・・・(倭のその他の国々の説明)
自郡至女王國萬二千餘里(まとめ)
男子無大小皆黥面文身・・・(倭人の風俗説明)
156 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 13:33:11
>>152 伊都国は人口1000戸の女王国の王都。
女王国の中心都市は人口20000戸の奴国。
女王国(邪馬壹國)全体では人口70000戸。
157 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 13:52:36
>>155 こうでしょう。
倭人在帶方東南大海之中・・・今使譯所通三十國(倭人についての大雑把な説明)
從郡至倭(郡から倭人の住む国々への紹介開始)
循海岸水行・・・到其北岸狗邪韓國七千餘里(投馬國の中心に到着、郡治〜狗邪韓國は水行7000餘里)
始度一海千餘里至對馬國・・・東南陸行五百里 到伊都國・・・(倭の王都に到着)
東南至奴國百里・・・(郡治より12000餘里の位置にある女王國の中心地は奴國)
南至投馬國水行二十日・・・(郡〜投馬國は水行20日)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一日(月)・・・(投馬國〜邪馬壹國の女王都までは水行10日と陸行1日)
自女王國以北・・・・此女王境界所盡、其南有狗奴國・・・(実際には行っていない伝聞による女王國の国々の説明)
自郡至女王國萬二千餘里(まとめ)
男子無大小皆黥面文身・・・(倭人の風俗説明)
>>156 北部九州からは丹が出ません。
勿論ベンガラとは違います。
159 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 14:19:16
丹も大分県、熊本県で出ます。
弥生後期で丹(辰砂)の産地といえば四国徳島。
それに丹生氏の本拠地が葛城山麓から吉野、伊勢方面。
畿内でも最古の国道、竹の内街道は本来丹比街道という名だしな。
丹後、丹波は勿論全部畿内と関連が深いよ。
「丹比」の丹は水銀の丹から取ったのかは微妙だな。
しかし個人的には「旅」の語源になったのではと推測。
163 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 16:23:34
九州の古墳の中は真っ赤に塗られていますよ。
>>163 それを何処から採取したの?という話でしょ。
それに九州のはベンガラが多いよ。
165 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 17:22:15
神武天皇って、水銀が産出するところを廻っていたみたいだが・・・
当時の水銀は貴重品だからね、大事なのは鉄だけじゃないんだよ。
少なくともこの時代に水銀発掘跡が確認できたのが徳島。
それと大和水銀がひょっとしたら?という位でしょ。
167 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 18:46:59
学研だったか?で『古代史』っていう雑誌が出ていたけど。
邪馬台国のページを見ると、
畿内説と対抗する九州説は、「吉野ヶ里遺跡」にされちゃっていますね。
ここの状況が魏志倭人伝の風情に著しく似ている、のだそうです。
何とか巻向に対抗出来ているようです。
168 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 18:52:59
水銀は我が国でも縄文時代の赤色顔料で塗布された土器片から朱が検出されており
古代より使用されていた
辰砂は日本では豊富で100ヶ所くらいの産地がある
何処が何時から出ていたかは不明
九州でも長崎、大分、熊本、宮崎、鹿児島県で出ます
169 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:02:28
>>167事実、一時期(AD40年代〜230年代)邪馬台国の都であったのですよ。
吉野ヶ里の北内郭は卑弥呼のためにつくられたものです。
170 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:33:44
>>167 >>169 事実、一時期(AD40年代〜230年代)倭國王帥升の王統の都であったのですよ。
吉野ヶ里の北内郭は帥升のためにつくられたものです。
171 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:45:57
水銀朱は、特に貴重というわけでもなかったんだろう。
辰砂という岩石を細かく砕けば出来る。
吉野ケ里の甕棺も福岡市の甕棺も水銀朱が塗られている。
紀元前からあるから、新しいというわけでもない。むしろベンガラの方が
新しいかも。
時に、水銀朱の産地は限られているというような文章を見かけるが、辰砂は
現代でも、熊本、大分などでも産出されている。
ちなみに、黒塚古墳の場合は水銀朱とベンガラが両方使われているらしい。
>>168とかぶっているかな。
>>171 無茶いうな、弥生後期で水銀の採れた場所は本当に限られてるぞ。
だから棺でも使うのは本当に少量を頭の部分だけ。
通常採取しても一ヶ所で取れるのは微量なんだよ。
当時まとまって採れたのは徳島周辺だけだから。
その後は紀伊山地で飛鳥、奈良時代とリンクしてる。
173 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:13:55
>>170吉野ヶ里倭面土国説ですか。
詳細お知らせください。
まるで当時を見て来たようにw
175 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:24:17
>>168 しかし朱に含まれるイオウ同位体比などの研究から
弥生時代の九州〜山陰〜丹後など日本海側で使われた朱の中には
中国からの輸入品もあったらしい。立岩、西谷、大風呂南など。
だが出雲は西谷以外はほとんど国産で、
丹後も大風呂南よりしばらく後の赤坂今井は国産に変わっているし
吉備の楯築は中国産と国産朱をミックスした可能性があるという。
大和の古墳はすべて国産のようだ。
176 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:33:28
>>172 >当時まとまって採れたのは徳島周辺だけだから。
いや、伊勢の丹生水銀鉱山も相当古い。三重県多気郡多気町(旧・同郡勢和村)。
縄文時代から。
わざわざ巻向のような辺鄙な場所に
宮を造るのは相応の訳があるでしょ。
水銀は渡来系人種にも需要があった貴重な資源ですよ。
神武の東征なんて水銀を求めていた
徐福伝説の行程とも全く被ってるしな。
ベンガラも辰砂も交易によって移動していたと考えられ、なかなかまとまったことをいうのは
難しい状況だな。倭人伝では、3世紀当時用いられていなかった鉛丹を魏朝から答礼品とし
てもらっているようだが。 >真珠・鉛丹各々五十斤を賜い・・・
179 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:57:51
ベンガラや辰砂では何の証拠や根拠にもならんな。
180 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:01:31
巻向というか、その隣接地、橿原には古代ピラミッドがある。
といきなり言われてもピンとこないかもしれないけれど、
大和三山(畝傍山・耳成山・香具山)は、二等年三角形を描く。
そしてその中心線の向こうにあるのが三輪山があり、人工的
に作られたことは疑いない。。
縄文期の集落は盆地にあったのです。
181 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:06:50
結局、邪馬台国の謎を解く鍵は魏志倭人伝以外にはない。
182 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:08:15
♪邪馬台国 ドンと来い 九州♪
で行こうや♪
>>179 鉛丹なんてわざわざ卑弥呼の好物とまで書かれてるのにw
しかし鉛丹貰って何に使ったんだろう?
神殿にでも塗ったか墓に大量に使ったか。
中国に倣って不老不死の薬として飲んでたら、
遺骸が残ってる可能性もあったかもな。
184 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:19:39
>>180激しく同意。三輪山に祭られていたのは縄文人の大王。
神武が畝傍山の麓に作った古墳も畝傍山に比べて小さいものでした。
結局、古墳時代の大王は、誰一人、古墳時代の大王を超えることはでき
なかったことがわかります。
185 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:23:16
ピラミッドなわけねーだろ
186 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:44:06
北九州の邪馬台国→出雲・日向と連合→畿内に移動→畿内の大和政権
188 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 23:48:24
神武は前7世紀の人間じゃないでしょう
ついに竹内文書の領域に入ってしまうのか?
190 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:11:27
出雲の西谷3号墳(四隅突出型墳丘墓)と吉備の楯築墳丘墓は、同じ時代なの
かな。墳丘の形は違うが棺の様子などは良く似ている。
大量の朱が棺に入れられ、大量の土器が祭祀に使用され、副葬品も玉や剣が
納められるなど良く似ている。
また、共に大きめの墳丘墓となっている。
こういう伝統がそれ以前からあったのだろうか、それとも突然変異的に
出現したものなのだろうか。
191 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:25:12
192 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 15:54:25
邪馬台国つーのは九州全域の事言ってるわけだよ、邪馬台国がどこにあるとかナンセンス。九州こそ邪馬台国なわけだ。
いろんな国をまとめて邪馬台国、ただ卑弥呼ちゃんが住んでる中心も邪馬台国と呼ぶ、だから卑弥呼ちゃんの墓があるからと言っていろんな土器が出てくるわけじゃない
畿内説とかハッキリ言って論外、捏造してるにすぎない。
まあもう箸墓が卑弥呼の墓という事で、
色々動いてますよ(マジです)
え?ゴットハンドが?
195 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 17:14:01
周辺にまた土器や鏡埋めてんのか
196 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 17:53:15
>>193 あえて違うと分かっていながらこじつけて無理やり卑弥呼の墓にする魂胆か!
畿内が邪馬台国でないことは誰もが認めている事実
197 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 18:01:29
一刻も早く九州内で卑弥呼の墓を特定する必要がある
しかし卑弥呼の墓が残ってる可能性は限りなく0に近い
そうだろね
199 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 18:54:00
畿内説だとしても箸墓は卑弥呼の墓じゃないと思うけどなあ
まあ卑弥呼の墓ってことにした方が
いろいろと都合のいい人が多いんだろうけど
どうせ卑弥呼の墓だって確定できるような証拠なんて出てくるわけないし
ビッグマウスもネタ切れだもんねw
201 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:11:49
だから、卑弥呼なんて特定の人物はいない。どうしてそんなにムキになるんだ?
邪馬台国のほうも、南に倭人の国があるといっているに過ぎないのです。
扶桑国を知ってますか?メキシコだというじゃないか。
202 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:16:18
扶桑国・女人国・大漢国の位置もわからないんだしなあ・・・
203 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:30:37
九州には人食い人種の熊襲の古墳とか地面に穴を掘って住んでいる土蜘蛛の古墳は
たくさんあるが邪馬台国の卑弥呼の古墳はありません。残念でした。
204 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:43:17
卑弥呼の墓は天山じゃよ
ほっほっ
205 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:58:54
天山、名はわるくない。
どこだよ天山ってよ!
206 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:05:13
個人的に邪馬台国の候補地の一つと思っている熊本県の「うてな(台)遺跡」
から大きな方形周溝墓が見つかっている。確か、一辺が35m程度だったと思う。
平原遺跡は14m×12m。他にも方形周溝墓はたくさんあるらしい。
棺も見つかっている。確か、大きな石棺だったと思う。
しかし、中から何か出てきたという話は聞かない。
多分、盗掘されていたのだろう。
墳丘は、長年の間に壊されるケースがあるし、棺は盗掘されることが多い。
良い状態で見つかるほうが珍しいのだろう。
それにしても、熊本県関係のホームページは、大幅リニューアルとか何とか
言いながら、ほとんどが見られなくなってしまっている。
文化財通信くまもと、くらい復活しないかな。
207 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:07:54
>>205 佐賀県じゃないかな。そんなような名前のスキー場があったような。
佐賀にスキー場なんて有ったんですか!
冬でも生菜が食える温暖な地かと思ってました。
209 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:22:19
(伊都国の比定地、伊東市のある)伊豆半島の南の神津島に、海に突撃するように天山がある。
ここには、いかにも神が舞い降りるにふさわしい場所に見えます。白い崖に囲まれている。
この島は、実は、縄文時代から続く黒曜石の産地で、卑弥呼が住むにふさわしい島だと思いますね。
210 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:30:15
伊都国は福岡なんだよ、畿内派はそれさえも捏造するのはやめろ。
畿内派はいい加減にしろ、ここまできたら畿内派はテロ集団と変わらんぞ。
211 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:37:37
捏造大好き畿内派wいい加減にしろハゲおやじどもがw歴史を歪ませて金儲けを企み、脳が蛆で支配された畿内派テロ集団がw
もう二度とゴッドハンドで日本の歴史を歪ませてたまるものか、日本人として恥を知れ!
212 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:45:41
>>210 おれ畿内説だけど伊都国は福岡県でいいよ。糸島郡だよ。
畿内説はほとんどみんなそう考えてるよ。きみの誤解だよ。
213 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:55:33
伊都島伊都島って、何かある特定の目的を果たそうとする意図が感じられますね。
214 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:02:51
マジでよーく考えよ、もう意地をはるのはやめよーぜ、素直に九州そのものがが邪馬台国だと認めようぜ。
ヘタしたら南九州に卑弥呼の墓があったっておかしくないんだぜ。
215 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:03:01
>>208 宮崎県の山間部にもスキー場はあるよ。
五ヶ瀬ハイランドだったかな。確かこれも天然スキー場だったはず。
やっぱり九州説の人は相当危機感抱いてるみたいだね…
217 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:08:44
218 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:12:24
つまり、邪馬台国九州説の人は「ハリセン左翼」ですね。恥ずかしい・・・。
九州はもうだめぼ
>>216 だってさあ、考古学のフィードバックがゼロだもんなwww
せめて筑紫君の系図を捏造するぐらいの熱意を示すべきだ。
221 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:14:30
222 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:14:51
畿内説オワタ
223 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:26:59
224 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:31:05
畿内説終わったな
225 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:38:48
邪馬台国が最初から畿内にあったら東征の神話ができるはずもない。
226 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:47:00
そのとおり、畿内説には無理があるんだ。それがわかってながら認めないのは利権がらみだろう。
畿内派はいい加減にしろや、歴史はロマンだ、お前らの金儲けの為に捏造することは許さん。
227 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:47:56
サーセンwww
>>225 しかし今の出土品状況で3世紀以降に東征があったとも思えないし。
もっと昔の徐福伝説あたりがベースになってるかもな。。
4-5世紀は既に畿内でごちゃごちゃしてただろ。
東征があったとしたら倭国大乱の頃でしょうね。
となると必然的に邪馬台国=ヤマト国になるのに。
まあ、このスレで結論が出たら奇跡だけどなw
誰かここ掘れワンワンの犬ころ拾って来い
232 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:10:45
縄文時代(もちろん紀元前)から列島内の人の移動はきわめて活発だった。岩手県を標識
とする形式の土器が橿原から出土している。
233 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:11:53
東征は卑弥呼の時代以前だろう
234 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:13:15
235 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:26:38
>>226 >畿内派はいい加減にしろや、歴史はロマンだ、お前らの金儲けの為に捏造することは許さん。
確かに九州説のほうがロマンチックだとはこの俺でも思うよw
故に大衆にアピールしやすいし自然金も入ってきやすいww
コミックや映画、小説、無論古代史に関する様々な著作・・・金儲けしてきたのは九州説だろうなあwwww
松本清張も古代史のジャンルで相当印税稼いだんじゃないかな?
古田や安本と言った言わば時代の寵児を生んできたのも九州説w
最近じゃあ映画「幻の邪馬台国」も九州説の市井の研究家のお話。
畿内説で金儲け?
アホが寝言は寝て言えカスwwwwwwwww
236 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:37:40
かつては古代史ゴロと呼ばれる人もいたが、いまや邪馬台国で食っていける人など少数だ
ろう。宮ア康平氏をモデルにした映画でも古代史ブームをよび起こすには至らなかった。ま
あ、そういう余裕のない時代なのだろうが。
237 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:39:15
畿内説は金儲けじゃないとかどんだけお花畑なんだ
邪馬台国っていう時点で金儲けだろ
238 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:50:23
まあ畿内説は勿論、九州説でさえ今時「邪馬台国」一本で食っているような人間既にいないだろう?www
安本先生は今まで九州説側のパネラーとして
あるいは何処かの邪馬台国に関するイベントのコーディネーターとしてお呼びがかかっていたと思うけど
例の年代でいよいよ「邪馬台国東遷説」がイロモノ街道まっしぐらになってお座敷の回数も減ってくるんじゃないだろうか?www
239 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:59:29
もしも卑弥呼の墓を見つけ金印を手にした人がいれば、その金印の価値は10億ぐらいでいいんだな?そうなら頑張るつもりだ
240 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:08:27
卑弥呼の墓だと断定するには
魏からの贈り物が出てくればいいのかな?
241 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:15:51
金印は台与朝貢時点で「親晋倭王」と引き換えに返納した可能性があるだろうね。あと金印
をもし掘り当てても、場所によっては罪に問われることもあるかも。執筆や講演等で金には
なるだろうけど。
今上陛下のゆかり発言と四天王寺ワッソに幻滅して、古代史ファンが激減したんだろうなw
落ち目の韓流れ・・・
243 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:26:40
>かつては古代史ゴロと呼ばれる人もいたが
今それに相当する人物を探すなら関裕二?(無論九州説だがw)
武光にしろ井沢にしろ古代史オンリーじゃないし・・・
東遷説がいよいよ苦しくなってきた安本先生の後釜として
九州説で一番露出の多い人間になるのかな?wwww
244 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:34:36
>古代史ゴロ
我らがサガミハラ先生がアップを始めたようです・・・
245 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:36:54
関裕二氏の本はコンビニで売ってる時点でどうかと思うが。まあ、金にはなってるだろうけど。
著書は膨大で、粗製濫造という感が強い。・・・俺のイメージでは、古代史ゴロというのはもっと
マイナーで、町おこし等で暗躍する人のことなんだが・・・。
>>234 4〜5世紀で国が移動するような痕跡があったとも思えないし。
東還があったとしたら、2世紀以前としか判断できないでしょ。
>>235 今20年位前の出版物みたら本当に笑えるよね。
247 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:47:26
今の出版物を20年前の人がみたら、きっと笑うよ。レベルはまったく上がっていない。
>>247 出土品状況に関してはどうしょうも無いでしょ?
249 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:58:32
>>246 邪馬台国は2世紀以前に東征した大和朝廷とは別なんだよ
>>245 まあコンビニでも見るし(主にPHP出版だったかな?)大きめの本屋の
歴史・古代史のコーナーでも結構、関の本て置いてあるんだよねえ…。
俺も何冊かは読んだが、かなりの部分が「使いまわし」で
(よって邪馬台国を直接扱っていない本でも関の邪馬台国に関する考えは大体分かる羽目になるw)
正直数冊で飽きると言うかコストパフォーマンスは良く無いと思うw
なのにあれだけあるというのは余程出版社にコネがある?
数が売れるから多くの社から出ているとは正直思えないw
(案外熱心なご贔屓さんがいるのかな?)
>>250 あれは赤川次郎みたいなものだろ。
推理があって軽く読めて、印象的な単語もある。
252 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 01:07:21
たぶん古代史関係は一定の需要があるんだろう。ただ新書で大学の先生が書いたものに
手を出す人は多くはないだろうし、ちょうど手頃なところか。
254 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 04:08:05
ゴースト雇い過ぎだろ
とにかく大和朝廷の人々は自分たちの祖先はよそからやってきたという
共通の記憶を持っていたことは事実。
>>255 それは大和朝廷に限らんでしょ?
辿ってゆけば皆大陸の何処かから着ただけの事。
257 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 10:03:28
アホな質問をひとつ。
大陸から渡ってきたというけれど、氷河時代に陸化していた東シナ海を徒歩で渡ってきたということは考えられんのでしょうか。
258 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 10:17:28
>>256 記紀が書かれた8世紀には大和朝廷は自分たちの祖先は九州から来たとの
共通の記憶を持っていたことは事実。
259 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 10:27:48
>>258 「記憶」ではなく「歴史認識」と書いた方がいい。
>>258 じゃあ邪馬台国が九州にあれば、
その存在を消す必要性が無いという事ですよ。
つまり吉備や出雲と縁のあった
モモソ媛が卑弥呼という事になるのでは?
卑弥呼に関する記述が0〜100年頃の話なら、
九州に女王国があったと納得出来るが250年頃ではね‥
距離や方角以前にこっちの方が納得出来ないでしょ。
262 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 12:38:43
九州ってあちこちに古墳あるよね、もちろん箸墓付近も古墳だらけなんだろう?
264 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:07:22
九州ほどはない
265 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:15:43
どっちでもよくね?結局、証拠となる墓見つかって無いわけだし。
私は近畿派だけど。
266 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:19:20
謎のままでいいよ、国民の大半は九州と思ってるし、私も九州だと思ってる。
267 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:25:48
>>260 その存在を消す必要性がない=存在しなかった
ってことじゃないのかね?
大和朝廷が畿内に存在してるのと同時期に
邪馬台国は九州に存在していたということでしょう
へえ
>>267 後に隋書で「大和=魏志でいう邪馬台国」と言ってるのは無視ですか?
271 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:46:31
魏志倭人伝読めば九州だと誰でもわかるのに、わざわざ畿内にしたがる理由は利権だろうなwwwwww
>>271 そりゃ九州も倭の一部だから。
仮に畿内にあったら今までのイベント、映画や本、
その他諸々大変ですな。
全て珍書扱いになってしまうよねw
273 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 14:00:49
>>272 邪馬台国は畿内ではないから安心しろwww
274 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 14:05:57
>>270 その時代の中国人が正確な情報をつかんでいたとは思えない
275 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 14:09:12
卑弥呼の王国が邪馬台国を僭称した可能性もあるし
邪馬台国連合傘下の王国が独自に使節を送ったのかもしれない
魏志倭人伝の記述を持ち出すなら
むしろ畿内説の方が強引な解釈を多用しなければならない
つまり魏志の時点で倭国とは西日本一帯を指してる。
女王は出雲か吉備出身で伊都にいる。
対抗してるのは南九州地方一帯だから
戦争中で女王もこちらに来ているって事でしょ。
で、邪馬台国は巻向が都で墓が箸墓という事ですよ。
だから神功皇后は卑弥呼とトヨの功績を元に
創作されたって事でしょう。
卑弥呼が蘇我系に色濃く繋がっていたのかもしれないし。
278 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 14:58:38
魏志倭人伝によれば邪馬台国が九州であることがわかるが
畿内説は妄想でしかないわりに面白くもなんともない
必死だなwwwwww
280 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 15:08:47
畿内派必死だなWWWWWWW
>>278 九州派はロマンが大事だもんね、
現実的だと金儲けできないからなw
九州説に求めた方が色々商売出来るのだろうね。
283 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 15:39:01
奈良の大仏で我慢しろよwwwwww
それに妖怪せんと君もいるだろうwwwwww
捏造してまで邪馬台国を畿内に移すのはやめれwwwwww
284 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 15:53:59
畿内説こそ金儲けだろ
>>284 九州なんて何処見ても邪馬台国だらけじゃんw
映画や小説、おまけにJRは社歌にまでw
そりゃ必死になるよな〜
古田、安本は詐欺師
287 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 16:21:18
九州=邪馬台国
畿内=大和
一つの国として成り立ってわけだ。
288 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 16:44:42
畿内説の学者さんも自分達が間違っていることを内心では分かっているが
間違いを認めるとご飯の食い上げになるので認められないのだ。
未だに九州説の学者なんているのか?
290 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 17:55:59
>>278 う〜ん、この低能テイスト溢れるカキコ、サイキバ君だろうか?w
>畿内説は妄想でしかないわりに面白くもなんともない
確かに畿内説は(九州説に比べれば)面白くない、それは認めざるをえない!w
無論、国家形成のプロセスを列島レベルに見るという楽しみ方はあるんだろうが
そんなのはぶっちゃけ玄人好みで、俺みたいなミーハーや世間一般からしても
九州説のほうが断然面白いし、ロマンチックだろうwww
『おもしろ、おかしく』…九州説がある時期(邪馬台国ブーム時)に身に着けた
一大芸風というか一つのベクトルだなww
(「大衆化の弊害」とも言えなくも無いのかな?)
ちなみに
先に上がっていた関裕二はデビュー作は『聖徳太子は蘇我入鹿である』(1991)らしいが
この本のタイトルのセンス、キャッチーでいかにもセンセーショナルなところに
古田の『邪馬台国はなかった』を連想してしまったのは俺だけだろうか?wwwwww
291 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 17:56:47
畿内派の学者なんて信用できないのは誰もが知っている。
そりゃ九州派からしたら信用出来ないんだろ。
で、気にくわなかったら吊し上げw
まともに相手できませんよ。
293 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 18:29:51
>>289 派閥で言えば戦前から
東大が九州説派
京大が畿内説派
の流れ。
294 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 18:38:01
京大卒の兄さんは邪馬台国は九州だって言ってたぞ、面子うんぬんで後に引けないらしい。
295 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 18:59:37
畿内派涙目www
296 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:11:43
>>293 まあそれはまことしやかに言われるんだが・・・
佐伯だったかが何処かで書いていたがそんな学閥としての縛りなんてのは実際には無いそうだよ。
むしろ外野が面白おかしくはやし立てた側面があるようだw
ただ身近に九州説の高名な学者がいればその薫陶を受けやすいと言う事は当然あるわけで
ある程度の傾向はできるんだろうな。
巻向周辺についてはまだまだ発表は小出しの段階。
それに畿内でも意外な場所が。
ここ何年かは期待しといてね。
298 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:13:53
そもそも今日において
じゃあ東大は九州説の本丸になっているのか?と言う話で
畿内説がデフォにあって異説として九州説を唱える者がチラホラってのが現状では?w
東大でももう九州説は少ないぞ。
>畿内説がデフォ
視野が狭いのも畿内説の特徴なんですね
なんで神話に出雲がたくさん出てくるのか。
なんで壱岐や対馬まで神が最初に作ったのか。
あまりに北九州から出雲あたりに話が偏りすぎている。
大和政権をうち立てた人々の祖先は北九州から山陰にかけて活動していたからだよ。
つまり邪馬台国は九州もしくは出雲。
そこから畿内へ移動。
302 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:20:13
今、東大で九州説を支えている有名どこの学者って言えば具体的に言えば誰?
303 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:24:46
304 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:29:41
ずっと子どものケンカみたいだな。
主張は違っていいから、もう少し学問的なレスを。
306 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:13:06
高天が原は東国原、つまり宮崎。
今回の知事の発言は、再び東征して日本を支配しようとする意図が見て取れる。
尾張氏の末裔が政治が迷走して困ているので力を貸してほしいと頼みに行ったら、
神武の末裔東国原は、俺を天皇にしてくれるなら行っても良い。と言って三輪山
に移った神武東遷の実史を髣髴させる。
たかが元お笑い芸人が総裁候補???民度が低いというか、本気で国を誤ることになるぞ。
308 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:19:40
『歴史読本』の最新号が古代史の特集で、義江明子氏が卑弥呼について触れています。
309 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:24:35
高天原任那説は?
310 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:25:27
神武を三輪山に呼んだ祟神の誤りをまた繰り返すのか?
311 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:30:10
312 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:50:42
>>306 >と言って三輪山に移った神武東遷の実史を髣髴させる。
勘違いしている奴も多いんだろうが記紀を読もうなw
三輪と言うより畝傍なわけだがwww
313 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:51:08
邪馬台国は九州から畿内に東遷したのです。
ですから、九州にもあったし、畿内にもあった。
帯方郡の役人が来たときはどちらにあったかという議論なら
ほとんど意味がない。
実は近畿から常陸筑波に東遷したのです・・・マジで
315 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:10:36
九州で決まりでしょう、卑弥呼の墓が残ってるわけないんですから、あったとしてもどこかの神社の下に埋められているよ。
>>315 大きな冢なんだから、今でもあるはず。
小高い丘の上の神社とか城の跡とか。
317 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:15:30
>>この関連性はなんだ?
歴代君主―(春秋.呉クレ、句麗に音が近い)司馬遷の史記「呉太伯世家」
1,寿夢――(第19代、寿夢じゅぼう王、扶余系、高句麗、始祖,朱蒙に音が近い)
2,諸樊
3,余祭――(百済の王姓余と関連か?王子.余豊璋)
4,余昧――(百済の王姓余と関連か?)
5,僚
6,闔閭――(コウリョ、高麗、句麗、に音が近い)
闔閭の弟、夫概の後裔夫余を氏の説有り
風俗通に[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
7,夫差――(夫概、夫余氏と関連か?)
畿内に独自に邪馬台国ができてそれがそのまま大和政権に独自になったのであれば
西征のことが神話に描かれるはず。
現に熊襲征伐と東海地方の征伐は書かれいてる。
しかし北九州は征伐されていない。
ということは
北九州の邪馬台国→山陰との連合→吉備瀬戸内との連合→畿内との連合(畿内征伐)→
畿内に連合の主勢力が移動→畿内に大和政権(勢力範囲は北九州・山陰・瀬戸内・畿内)
→南九州討伐&東海地方討伐
となる。
まさか畿内が征伐されたとは書けないからな。
実際はそれに近いものだったはずだが。
319 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:16:14
司馬遷の史記「呉太伯世家」(紀元前585年頃 − 紀元前473年)【天皇紀2600年に近い?】
[魏略]の逸文注1)の【その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという】
晋朝注2)の史書[晋書][梁書]の倭人伝中の【自ら太伯の後と謂う】
呉は西暦前473年に滅亡。越は呉の後を追い都を山東半島の根本の琅邪(徐福の出地)
に移します。しかしこの越も西暦前334年に楚に滅ぼされます。
*この頃より九州北部「吉武高木遺跡」に三種の神器を持った王が現る。
*始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には
「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、
外越は会稽の東海の彼方にいる越で、交流を絶つべしと命ずる。
>>318 東征があったとしたらいつの時代と考えてるの?
国記、天皇記が焼かれた時点で何とでも変えれるでしょ。
実際矛盾だらけだし。
大体北九州のモノが出土しないし、大和周辺で
争ったような形跡は皆無なんだがな。
321 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:22:58
>>320 畿内説の言うことはワンパターンだな。
まず、大和周辺で争った形跡が残るのかな。争いがあってもその形跡が
残らないことだってあるだろう。次に、大和周辺の全てを調べたのかな。
調べていないところに残っている可能性だってあるだろう。
つまり、形跡について断定的なことを言えるはずがないのに、形跡が皆無
なんてことを言うのはおかしい。
322 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:33:42
山門周辺で争った跡って、第三次高地性集落がそれにあたるのでは。
323 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:35:49
大和周辺で争った跡って、第三次高地性集落がそれにあたるのでは。
東国原知事のように、民衆の支持を背景に無血遷都ではないの?
>>321 伝承もなければ戦になるような場所は当時限られてるでしょ。
当時の地形を考えて見たら?
北部九州に邪馬台国があったとすれば、
それはイヨ以降の代で滅亡したという事でしょうね。
東征というが邪馬台国は一体何の為に東征したの?
327 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:56:27
>>321 その形跡は残っていないかもしれない。
将来出てくるかもしれない。
・・・で、やっぱり最初から無かったのかもしれないwww
形跡が出ていないものについてあれこれ言うのは自由だが
それはあくまで単なる想像の範疇に過ぎないw
議論の俎上に上る前のお話だなwwwww
な、北九州には無理があるんだよ。
南九州なら無理なく噴火が考えられる。
弥生期でヤマト周囲でで争った形跡というと宇陀地方位。
伝承でもそれくらいかな、水銀関連で。
土蜘蛛の末裔と言われる人達は今でもいるよ。土葬の習慣も残ってる。
でも大和盆地では争った形跡は本当に無い。
330 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 06:57:40
畿内説論者は大和に戦った跡がないなんていうが、弥生都市の消滅、銅鐸の一斉埋納、
鏡への転換は大和が戦って敗れたことを示すというべきだ。
矢が刺さった人骨が出ていないなんてのは、馬鹿げた話だ。普通の土葬ならば全部溶けて
なくなってしまう。北九州の場合は、甕棺葬なんてのがあったから、溶けずに残っていた
が、近畿の場合は残らなくて当たり前だ。
人骨は溶けても矢は残るし鉄器も出ませんよw
伝承は古墳造りに関する事ばかり、箸墓の逸話でも
人と神が協力して作った話ばかりだね。
332 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:11:13
倭人伝をみれば、弥生時代というのは百余国あった国々が三十国に統合されていった
時代だ。当然、北九州の大国は他国を征服して勢力拡大をはかっていったであろう。
まず、その北九州が本州へ勢力をのばしたと考えるべきだろうな。と、同時に北九州
は南へも勢力をのばそうとした。ところが、南九州から反撃をくらって長い戦いにな
り、南にやられてしまった。南九州は九州を統一した後、本州に勢力をのばす。とな
れば、本州を押さえていた旧北九州勢力は、本国が敗れた以上、戦意喪失。あまり戦
うことなく邪馬台国勢力に降ったということが考えられる。
九州と近畿の戦いと言ったところで、一回だけなんで考えるのは単純にすぎるんだよ。
333 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:26:15
>>331 矢だって溶けるんだよ。残るのは保存状態がよかったごくごく一部だ。
>>330 >畿内説論者は大和に戦った跡がないなんていうが、弥生都市の消滅、銅鐸の一斉埋納、
>鏡への転換は大和が戦って敗れたことを示すというべきだ。
はあ?
闘った跡を指し示さなきゃならんのは東遷説論者だろアホw
弥生都市が戦いに敗れて消滅した。
銅鐸は新旧タイプ全てが戦いに敗れたため埋められた。
鏡は征服勢力によってもたらされた。
・・・これらの事を説明しなきゃならないのはお前だろ?
まあそんな事ができたなら東遷説の復権がなって
お前の名が論争史に残る事になるだろうなw
ガンガレ!w
畿内にはたいした勢力はいなかったから戦いらしい戦いもなく屈服したのでは?
だから戦いのあとは残っていないと
むしろ畿内はいつどうやって北九州を屈服させたのか?
336 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:39:38
神武東征は2世紀ごろと考えるのが妥当だろう
邪馬台国の東遷はありえない
337 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:56:28
こんなストーリーがあったのではと妄想してみる
帥升の王統(ヤマト)が出雲挟撃のため神武に畿内征服を指示する
↓
紆余曲折あり大和南部のみ確保
↓
その後、帥升の王統は内乱のため断絶
女王を共立して新・邪馬台(ヤマト)国に
↓
畿内では神武が大和(ヤマト)の名を継承し独自に勢力拡大
↓
邪馬台国は帥升の真似をして魏に朝貢
台与の時代以降は統一が保てなくなり消滅へ
338 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 08:16:38
>>334 弥生都市の消滅、銅鐸の一斉埋納、鏡への転換、それ自体が大和が戦って敗れた
ことを示しているんだよ。消滅、埋納、転換の理由が記録に残っていないなんて
いうのは屁理屈にすぎないな。どうしてそのようなことが起きたのか、それを合
理的に解釈するんだ。頭があったらな。
>>333 鉄器、それに土器はどうした?
畿内ででるのは出雲に吉備、丹波の痕跡ばかり。
北部九州勢力が東遷したと主張するならこの矛盾を説明する必要があるだろ。
>>338 >弥生都市の消滅、銅鐸の一斉埋納、鏡への転換、それ自体が大和が戦って敗れた
>ことを示しているんだよ。
根拠にならない。
リアルでそんな事を言っている学者も知らんw
そもそも、じゃあニギハヤヒだか神武だかが東征しなければ鏡は九州以東に伝わらなかったのか?
馬鹿馬鹿しい。
北部九州の痕跡は消えて出雲や吉備の痕跡は残るのか。不思議だねw
>>338 ×それを合理的に解釈するんだ
○それをトンデモ的に解釈するんだ
九州の痕跡が矛や鏡だろうが。土器は問題ではない。東征軍が土器を
運んでくるなんてことはないよ。
>>343 東征”軍”なら鏡なんぞより鉄は必須だなw
結局戦いの痕跡は無いって事だよ。
まあ3世紀後半、北部九州から来た可能性が
あるなら逃げて来たって事位かな。
鉄は具体的には矛や剣になるんだよ。メスリ山を見ろ。
弥生の近畿では考えられない「軍備」だ。
>>346 時代背景を考えてみたら、東を攻める意味なんて本当にあるのか?
半島向け軍備が必要で、南には対抗勢力がある時期に。
>>347 政治学的な思考がゼロだな。たいした軍備がなく、銅鐸祭祀に頼っているような
本州こそ、もっとも魅力的な植民地だよ。米をはじめとする収穫物、産物を収奪
できる。こんなうまい話はない。
ほう、どうゆう意味で?
あったとしてもそれは倭国大乱の頃でしょ。
そうじゃないと記録や出土品、前方後円噴等色々辻褄合わないのでは?
だから前方後円噴が何だってのよ?
九州では少なくとも畿内より早い時期にないとおかしいでしょ。
それがどうして前方後円噴なんですか?
348のいうことはまあ正しいな。文化程度の劣悪な本州・近畿に、高尚なる文化を広めた
のがニギハヤヒによる大征伐だよ。鋭利なる鉄剣でもって、本州土人を切って切って切り
従えたんだなあ。木製鋤しか持たない本州人など、蚊をはたく程度のもの。んはは。焦土
と化した畿内に、ニギハヤヒが偉容を整えて入る様は、大東亜戦争敗戦後の日本に降臨
したマッカーサー元帥にも比せられる。
ぐへへ。マッカーサーの例えは異質だと思うだろうが、これは畿内をmassacreしたという
しゃれなんじゃがの。念のため。
>>352はどう思うのかね。現状の認識では吉備をベースに
大和から全国へ広がったという認識だと思うが。
単に3世紀の太宰府みたいな物ですよ伊都は。
それが一番無理の無い解釈です。
それにしても348レスは無教養丸出しじゃな。政治学ではなくgeopolitics(地政学)じゃろが。
んははは。前方後円墳???布留0式なら360年頃じゃな。
おやあなんじゃ?誰もわしにレスせんのか。ぐえふ(スマンの、泡盛古酒のゲップが出た。)
ま、ここは邪馬台国のスレのようなのでわしの高説を垂れておくかい。邪馬台国は現宮崎市
一帯。卑弥呼の墓は、瓜生野の笠置山古墳じゃ。他に類例のない巨大鳥形遺跡じゃよ。
361 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 19:58:28
>>359 >布留0式なら360年頃じゃな。
その360年という年代はどういう根拠からどうやって導きましたか。
363 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:16:29
まあ東遷厨は畿内ヤマトにおける九州勢の征服劇の痕跡より前に
その九州の邪馬台国の痕跡を見つけて来いっちゅう話だなw
日向東遷厨などはそのシナリオだと北部九州を日向邪馬台国が征服した痕跡も出せよと・・・
出発地点に邪馬台国の痕跡が見出せず
到達地点のヤマトに九州勢の痕跡が見出せず
ここの日向説だと北九州を南九州の邪馬台国が席巻した痕跡も見出せず
ここまで ♪ 無い無い尽くしの 無い尽くし〜 で
「ボクのかんがえた日向邪馬台国の東征ストーリー」 を信じろって方が、そりゃ無茶な話www
ヤマトに残した九州勢の痕跡として挙げてる銅鐸から銅鏡へのシフトも今日では通用しないお話。
この時点で珍説奇説。
下らない。
3世紀中頃東征してきた九州勢がヤマト入りした時には既にヤマト周辺じゃあ銅鐸祭祀は終焉している。
その頃も銅鐸祭祀が続けられていたのはむしろ近江や三遠、南紀。
ニギハヤヒだか神武だか知らんが遅すぎたなwww
そもそも東征勢力が持ち込まなければ銅鏡の副葬と言うのは畿内ヤマトに伝わらなかったのか?
まるで関門海峡に見えないバリアが発生したが如くwwwwww
銅鏡と言う古墳文化の一要素が東征でなければ伝わらなかったのなら・・・
葺石は出雲による東征
特殊器台は吉備による東征
突起付円墳と言う形状は阿波による東征
ヤマトはバトルロイヤルの舞台だなwwwwwwwwwwwww
あんじゃ??362はわしではない。偽物じゃ。わしは1行レスなどせんぞ。まあ、定説と違う
ことはわしも知っちょるが、庄内式開始を230年頃と見て、0〜3までを120年程度、纏向
古墳からみられる布留0に10年程度の幅をとっとる。庄内式期が長いという反論は当然あ
るじゃろうな。んほほ。纏向の年代遡行が始まる前の、布留0は280年頃か?わしの編年
とはこれでも80年のズレがあるようじゃが、わしは布留式期が異様に長く取られてると感じ
ておる。
365 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:32:50
>>364 と言うかだな・・・
>庄内式開始を230年頃と見て
この根拠を言わなければ「神からのおつげ」と大差ないって話だなw
もしくは東遷説を成り立たせる為に逆算した結果かwww
ま、わしは不動産業で考古学は素人じゃがの。んはは。このスレは読んどるが、銅鐸祭祀
終焉の理由を畿内説からはきちんときておらんが。ゆるやかな首長連合の成立による宗教
文化の切り替わりを唱えておったのが一人いたくらいで、それも説得力があるとはいえんか
った。あとは、2回の埋納(それはあるじゃろうて)など、不確かな年代観を振りかざすばかり
で、つまらんかったの。
367 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:56:27
>>366 まあ自分にとって「つまらない」から面白おかしくやりたい
と言うのであれば東遷説はうってつけだなw
いや畿内説自体が九州説に比べれば面白みのない説とも言えるだろうがwww
銅鐸埋納の理由に関しては、三品影映説で済むならそれでもよかろうが、時期については
庄内開始230年よりさらに不確かじゃろうて。さてさて、わが宮崎の笠置山(かさごやま)古墳
について、少し語らせてもらおうかいの。ほへへ。
まず、この遺跡は消滅の危機に瀕しておる。不動産業と書いたが私費を投じてここら一帯を
買い取るほどの力もない。地元の郷土史家日高氏が孤軍奮闘して守っとるありさまじゃ。
369 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:09:41
>>366出雲の国譲り、銅鐸文化の終焉の要因についてですね?
山陰地方は、気候の変動により寒冷化し、何年も続く天候不順で
疲弊し、出雲氏は氏族の存亡が危うくなりました。そのとき、祟神は
出雲氏の高い技術や文化を見込んで関東への移住を提案します。
その条件として、銅鐸文化や出雲神の信仰を捨て、御諸山の大神
を敬うことを求めました。そのため、出雲は銅鐸を自ら土に埋め、再びこの
地に帰ることを誓ったのです。
出雲氏と関東の関係は深いにもかかわらず、関東に出雲系の神社が
少ないのはそういう事情だったと推測できます。
祟神も祟神の子豊城入彦も関東に行った様子はありません。それに
もかかわらず、関東で慕われていて、御諸別が関東を支配できたのは、
そういう理由だったと思われます。
以前は自然丘陵として遺跡ではないと馬鹿にされることもあったが、地元住民などは、台風
のたびに石鏃が流れ散らばることを知っておった。昨今、開発にともない、前述日高氏の
訴えにより、鳥形頭部にあたる円墳が調査され、石室の存在が明らかになったのじゃ。ここ
には左翼部には、奴婢徇葬の跡と考えられる約100基の土壙墓が存在する。しかし何よ
重要なのは、ここら一帯が弥生製鉄施設であったと考えられることじゃ。もほほほ、んげ。
371 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:28:28
そもそも『 銅鐸の一斉埋納 』なんて東遷厨のネタは
その埋納時期をおいといてもおかしい話で
どのみちヤマトや機内の多くあるいは山陰に新しいタイプのものが出てこない事は動かしようが無い。
ではそれをどう説明するか?
「新旧分別廃棄説w」
例えばヤマトの人間は古いタイプは大和の地に埋め
新しいタイプの物はわざわざ近江や三遠に行って埋めてきた。
・・・まあ速攻キ○ガイレベル認定されるだろうが
そもそも夜逃げ前に慌てて埋めなきゃならんのにそんな余裕は無いわなw
「物持ち良かったんだよ説ww」
ヤマト周辺や山陰の人間はある時期から銅鐸のバージョンアップをやめて
弥生末期東征勢力に征服されるまで使い続けてました。
・・・「地球環境にやさしく」と言う意識にでも目覚めたか?w
文化的にみて特異きわまる現象だなw
「銅鐸の編年自体がデタラメだよ説www」
実は弥生中期と言われるものも全て弥生末期に作られた物でほぼ同時代の物。
今言われている編年自体がデタラメ。
ほぼ同時期に作られ、同じ期間使われ、ある時期に一斉に埋められた。
・・・もう東遷厨が学会に乗り込んで弥生時代そのものの歴史を塗り替えてきてください・・・orz
んげげげ、ハアハア。(スマンの、30年物泡盛はよう効くわい。)笠置山周辺には巨蛇伝説
が伝わっとる。これは有名な天井川である山陰の斐伊川に八岐大蛇伝承があり、砂鉄精錬
が行われていたことと共通するじゃろう。ただし笠置山のは砂鉄ではなく、鈴と呼ばれる褐鉄
鉱石を用いておる。これは採掘して得られるものではなく、自然に露頭しておるんでの。笠置
古墳の東側を流れる大淀川の支流である川の名前は、五十鈴川と言うんじゃ。
373 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:34:21
製鉄地域の重要な位置にある古墳から、何で石鏃なんぞがこぼれ出るのか?
374 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:41:36
無知だったんだな。宝の持ち腐れ。まあ、鉄はさびても還元すればまた使えるからな。
>>373
375 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:44:51
>ここには左翼部には、奴婢徇葬の跡と考えられる約100基の土壙墓が存在する。
しかしチョッと待って欲しい。
http://www.gondo.com/g-files/miya/pic1/kasaM.jpg 上の「兵士の」土壙墓区」とされているところだろうが・・・
じゃあ徇葬者以外の者(特に時代的に前の者)の墓は何処にあるんだ?って話で。
仮に「近くのまだ発掘されていない所にある」
と言われても王宮区に近い場所は既に占拠されていて
中々いい場所が無いわけだがwww
まあこの集落自体がその古墳と同時に造られた・・・なんて話なら辻褄合うのかもしれんがwww
376 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:47:17
銅鐸祭祀(さいし)の終焉は、集落単位(ムラ)の共同体祭祀から、
広域な権力(クニ)の成立による首長霊祭祀(個人墓)へと変化していったため、
というような考えが常識的とされている。
「常識」なので、今さら誰も説明しようとか思わないのでは?
まあ、東遷の経緯についてはそのうち明らかにしようかいの。ぐびび(ほ、今回は泡盛のキッ
クが来んかった、・・・何かものたりんのう。)水に金気の多い場所で育った葦等の根元の茎周
りには渇鉄鉱石がしだいに蓄積して筒状に育っていき、これは、鈴、或いはその形状から筒と
呼ばれておる。この近在にはそれが豊富にあるんじゃ。(今もある。)そして、笠置山古墳脇の平
坦からは、たたら溶鉱炉の炉片(溶鉱炉は一回ごとに破壊される。)である高温で焼けた土片が
いくらでも出てくる。来てみたらあんたでも拾えよるよ。石鏃については事実を記したまでじゃ。
解釈はできんの。
>>377 考えが全部まとまってから書き込めよwwww
まだ考えてる途中だろwwwww
379 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:55:20
そもそも「銅鐸から銅鏡へ」と大型青銅祭器での祭祀が連続していなければならないと
考えること自体に何ら合理性も無いw
「青銅祭器のマツリから大型首長墓でのマツリへ」
…この動きは弥生末期、九州以東で見られたムーブメント。
墓制と言う点なら銅鏡と言うアイテムの共通性は大した要因ではない。
仮にヤマトに東征してきた勢力があったとしても
俺なら九州は真っ先に消すwww
>>347 むしろ東のほうが安全だと思ったから東に進んだんじゃないのか?
強敵のいない軍事力の空白地帯の奈良盆地の東南の隅っこに逃げ込んだと。
ここなら安心できるとね。
仮に東遷があったとして、A.D.257年崇神
12.5年/一代で、A.D.357年神功、A.D.507年継体
崇神が唯一東遷可能。
崇神の前に東遷無く、崇神の後にも東遷無し。
生目古墳群はこのすぐ近くで、1号墳はかなり古いものじゃ。また西都原古墳群の81号墳
は宮崎大学の発表では箸墓古墳より古いとする。これをいうと、そんなに古くはない、畿内
土器と南九州土器との年代すり合わせはできてないと、怒られるんじゃろうが。これらの古墳
について、少なくとも、集落地域に関しては同じ疑問が出ることになるじゃろうて。ぐびび、んげ。
>>378 あららばれたか。何でだろ?いや最初は、東遷説になりすまして、その矛盾をさらけ出そうと
考えてたんだが、書いてるうちに面白くなって・・・いや、ホームページ丸写しです。スマソ。
しかし、話1/3としてもこの笠置山は面白い。
崇神A.D.257年or317年で悩むところだが
今日の気分は257年だ。明日はわからんw
386 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:20:19
>>363 記紀の日向伝説には、海幸彦、山幸彦の物語がある。
簡単に書くと、山幸彦は自分の弓矢を、兄である海幸彦の釣り針とちょっとの
間ということで交換してみる。
どちらも不作だったが、山幸彦は、兄の釣り針をなくしてしまう。
大切な剣をつぶしてまでして釣り針を作って返そうとしたが、兄は納得せず、
元の釣り針を返せという。
途方にくれた山幸彦が海辺で悲しんでいると一人の老人が通りかかる。
話を聞いた老人は、竹のかごを作り山幸彦を乗せ海に流した。
かごは、海の底の豊玉彦の宮に着いた。
山幸彦は、その宮で、楽しく三年を過ごした。
やがて帰りたいと言った山幸彦に、豊玉彦は、二つの玉を渡す。
これは、潮引玉と、潮満玉です。あなたの兄が、危害を加えようとしたら、
潮満玉を使って溺れさせてやりなさい。助けを求めてきたら、潮引玉を
使って助けてあげなさい。
山幸彦が故郷に帰って、二つの玉を使うと、兄の海幸彦は、観念し、
子孫の代まで仕えることを約束した。
これなんかは、ひょっとして北部九州との争いを示したものかもしれない。
隼人との争いを表しているといわれることもあるが、それにしては時代が
早いような気がする。
387 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:23:14
まずは畿内説の利権ほしさの捏造はやめていただきたい
>>387 まずは九州説のハコモノほしさの捏造はやめていただきたい
バカのせいでオオヒコスレが止まったんでこっちに書いてたが、冗談が過ぎたようだ。
まあ、日高氏の努力が実って、遺構が保存されることを願ってます。
泡盛飲んでるのは本当。朝練に響かないんで。・・・・んげ。
390 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:31:55
>>386 海幸彦山幸彦ねえ・・・
日向三代の神話はどれもだが
そのお話もご多分に漏れず「釣り針捜索型」として
海外にも似たようなのがあるんだわwwwwwww
まあ無論後から付け足した部分も見られるが…
何故かそこにもう一人兄弟が割って入っているとかw
391 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:35:15
大仏もっこりに邪馬台国は無理があるだろう(笑)
奈良の大仏もっこりには爆笑だよ、捏造なんて平気でやりそう。
>>384 君は前科もちだからばれるってw
笠置山については胡散臭さ満載だとおもうけどな。
本当に重要そうな遺跡なら、あんなに簡単に破壊することなんて
現在社会では考えられないと思うし、学者も誰も取り上げないしね。
つーか、俺も名無しにもどろ
そもそも日向自体に魅力がない。東国原が永田町で革命を起こしても色気がない。
中州のバーのマダム姫子さんが神懸りしても「飲みすぎだろ?」程度のもんだ。
九州説にはロマンがない!大和説にはトヨタ株や銀行株のような安心感がある。
394 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:48:41
大和説は1年前のリーマンブラザーズ。
崩壊近し。
395 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:55:17
>>394 いやいや、過去邪馬台国ブームバブルで荒稼ぎしたのはどう見ても九州説のほうなんだがwww
396 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:55:33
>>390 ちなみに、山幸彦というのは、彦火火出見尊。神武天皇のおじいさんに当たる。
397 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:58:09
畿内の弥生製鉄所って何処だっけ?
>>392 前科???太国氏とのことかな?クトゥルーのことかな??他に何かあったか???
ま、無コテにもどります。
400 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:08:04
地震か
ハゲてる方だけに言いたいことがある。
遂にリアッ●のニューバージョンが販売された。
これって、本当に髪の毛が生えるのだろうか・・?
調べてみたところ、てっぺんハゲには高い効果があるらしい・・
そして、ハゲ疑惑がある、あの若手有名人も利用しているらしい・・
でも、海外には、もっとすごい商品があるらしい・・
ロゲインとか、倍毛DXとか、かなり生えるらしい・・
402 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:12:14
>>400 これかな。
平成21年06月25日23時08分 気象庁発表
25日23時04分頃地震がありました。
震源地は大分県西部 ( 北緯33.4度、東経130.9度)で震源の
深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は4.6と推定されます。
この地震による津波の心配はありません。
震度4 福岡県筑後 大分県北部 大分県西部
震度3 山口県東部 福岡県福岡 福岡県北九州 福岡県筑豊
[震度3以上が観測された市町村]
震度4 東峰村 中津市 日田市
震度3 防府市 福岡博多区 宗像市 行橋市 豊前市 上毛町
築上町 飯塚市 田川市 添田町 大任町 赤村 嘉麻市
うきは市 朝倉市 九重町 玖珠町
けっこう大きいな。
403 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:19:01
そんな大きく感じなかったな。
橿原に住む俺が日田に来たからといって、
地震で歓迎されるとは思わなかったよw
405 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:28:41
日田も邪馬台国候補
406 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 00:47:26
古墳には月がでてる夜に行くといいよ、それぐらいしないと卑弥呼の墓をみつけるのは無理だろう。
407 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 08:19:38
それに近畿じゃ無理だよ。
三輪からみて月なら河内だよ。二上山の裏。ヤマト国は結局畿内だ。
409 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 12:28:55
東遷厨は、東遷が卑弥呼の死後の4世紀にあったと考えてるようだが、
東遷が事実としても、どうして4世紀までまたないといけないのか?
銅鐸祭祀終焉など、東遷厨の理屈から言えば2世紀に東遷があってもおかしくないだろということだな。
東遷厨は、東遷の年代がどうして4世紀なのか、そこを説明すべき。
「邪馬台国が九州だから」では、循環論法なんだよ。
東遷厨は、東遷の年代が4世紀である理由を何一つ説明していない。
説得力ゼロ。
二上山西麓は相当怪しいよね。王家の谷でもあるのに。
ヤマトのトが戸の意味なら本来この辺りじゃないかな。
411 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 12:46:04
あと、上のほうで「民衆の支持を背景に無血遷都」なんて言葉が出てて笑わせる。
>>324 それはつまり、東遷前から九州と畿内がとても仲が良かったというわけで、
魏志倭人伝にある「東の地は隔絶しててよくわからない=畿内」という説と矛盾する。
戦って東遷するにしても、大和には戦乱の痕跡が無いしマキムクには環濠も無いから、
当然、戦争で征服されたなんてシナリオは成り立たない。
どちらにしても、東遷なんて考えるのは無理ってこと。
>>409 >銅鐸祭祀終焉など、東遷厨の理屈から言えば2世紀に東遷があってもおかしくない
銅鐸の埋納は3世紀じゃないの?
1個人の妄想を根拠にされてもwwww
出雲抜きでよく古代の話に口出し出来るなw
対立構造は九州vs.近畿。
出雲が口出すなよw
419 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 14:44:08
>>409 東遷の4世紀は、以前は考古学的にも合っていた。
纏向は、4世紀になってからの遺跡とされていたから。
今は100年くらい時代が遡っているが、これは年輪年代を根拠にして遡った。
これは15年ほど前のことになる。
東遷説は年代的に合わないというが、年代的に合わせない為に、庄内期を
遡らせたいと思っていた人はずっと前からいた。
1983年の奥野正男さんの著書にこのようなことが書かれている。
邪馬台国の時代を考古学での弥生時代後期に当てる通説的年代観に立つ限り、
中国鏡の出る範囲が北部九州に限られているので、邪馬台国畿内説は破綻
してしまう。
したがって、今後は、その破綻をつくろうものとして、恐らく古墳時代の
開始時期を卑弥呼の時代まで繰り上げる主張が、畿内説の新しい旗手に
よって行われるであろう。
>>418 畿内と出雲、吉備は関係が深いのは明白だが。
421 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:15:45
>>419 なんか日本の考古学は邪馬台国のみを中心に動いてるって感じだなw
そもそも「通説的年代観」の根拠って何なんだ?って話で
まあ取っ掛かりとして祟神の崩年干支とかがあるんだろうが
理論的な支柱としては(三角舶載説に基づく)小林説だったんじゃないのか?w
庄内期の始まりにしても元々年代”巾”を殆ど見なかったことに根拠があるわけでもない。
研究が進むにつれ、それまでの年代観に限界が出ていたのも事実。
結局のところ、邪馬台国九州説論者が
「昔は良かった」
・・・と言うボヤキをグダグダ言っているだけにしか聞こえないのだがwww
少なくとも「昔はこうだった」と愚痴られても話は進まないわけでw
畿内説だと出雲方面は別に語らないと辻褄が合わなくなるって話
>>422 逆だろw九州論は出雲無しでも成立するが、
畿内論は瀬戸内や出雲勢力と絡めなければ成り立たないよ。
大半が投馬を吉備か出雲に比定してるのに。
424 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:27:47
結局
>>419 の根底は陰謀論なんだよなw
邪馬台国九州説を成り立たせないようにする為
或いは、邪馬台国東遷説を成り立たせないようにする為
その為に庄内期の開始時期が早められ
そこで用いられたのが年輪年代であると
で、それを謀っているのが戦後今に至るまで学会を牛耳っている
マルクス史観左翼思想に洗脳された畿内説の学者ども・・・と言うのがコイツの主張とwww
>>424 邪馬台国が基本的に九州でも畿内でも別に構わないんだよ。
でも出てくる資料がそろう程、北部九州に
比定するのが困難になってるだけだし。
九州説は九州内に固執しすぎ。考古学以前の問題点が有りすぎる。
畿内説は箸塚に固執しすぎ。
428 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:18:55
東遷説の方に聞きたいんだが、
邪馬台国の墓制、葬制は何だったんだ?
甕棺か?
もし甕棺だったとすると、
東遷後の大和で甕棺葬が広まりそうなものだが
>>427は仮に畿内説だとすると箸墓は何だと思うの?
モモソの墓であって卑弥呼の墓ではない
431 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:32:52
>>428 甕棺は時代が違う。邪馬台国時代よりも早い。
つまり、卑弥呼時代のかなり前には廃れていた。
後にも先にも九州最大の古墳群をつくりあげた宮崎の勢力を説明してください。
>>430 資料や逸話を調べる限りは決して否定は出来ないと思うけど。
434 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:43:37
>>424 年輪年代の光谷さんのHPにこんなことが書かれている。
いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が
過ぎた1995年の秋です。
滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから
弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。
結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が
考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。
紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の
前半と出ました。
当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理という
考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法で
得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。
けれど、翌年の池上曽根遺跡のケースでは、考古学者は色を失いました。
考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。
じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観
にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を
無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
どう思う?
>>433 否定は出来ない? そんなこと言い出すと世界中の古墳が卑弥呼の墓を名乗れるぞ
まあ北部九州には名乗れる墓がないのが実情なんだけどな
北部じゃないだろな
438 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:49:54
439 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:50:03
魏志倭人伝によると邪馬台国は3世紀に外交文書をやり取りしていた。
通訳を帯同して使節を派遣した事。
これから考えると、3世紀にあった邪馬台国は文字を使う文明であったと言う事が分かる。
一方、大和朝廷は7世紀以降にしか文字を残していない。
文化の後退が同一王朝で起こったとは考えにくい。
伊都国にあったとされる外交と監視をつかさどる庁の発掘を急ぐべき。
これは範囲が狭く特定しやすい。
ここから必ず邪馬台国を示すハッキリとした資料が出るはずだ。
「日本の古代文化は文字を使わなかった」という嘘をきちんと覆して欲しい。
研究者でも畿内の地形が縄文期から根本的に変わってしまった点を
、頭で描けない人が多すぎなんだよね。
441 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:52:03
字が読めなきゃ一大卒は貢物のチェックできんからな
>>435 その世界中の墓の埋葬者の逸話が、卑弥呼を彷彿させる
人物であればいいんじゃないのw
モモソは巫女的で、幼少の頃から天才的とされる、
瀬戸内でも伝説の多い姫だ。
おまけに弟がいて、こちらも色々伝説が多い。
墓の年代が近いとなると、少なくとも候補に挙げる事の出来る人物ではある。
444 :
ギーコギーコ:2009/06/26(金) 17:06:49
伊都国の長の発掘を急ぐべきとおっしゃるが、庁どころか伊都国の位置も確定していないのでは?
前原説の他に、佐賀説多久説有明海北岸説があるね。
445 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:14:20
「吉野ヶ里考古学講座(7月)」を開催します
(財)佐賀県芸術文化育成基金では、吉野ヶ里遺跡の発掘調査の成果、弥生時代の生活・技術・交流、『魏志』倭人伝の国々など様々なテーマで、毎月、原則第2土曜日に吉野ヶ里考古学講座を開催していますが、7月は下記の内容で開催します。
記
1 開催日時 平成21年7月11日(土曜日)
(受付)13時00分〜 (講演)13時30分〜15時00分
2 開催場所 吉野ヶ里歴史公園内 弥生くらし館
3 講演テーマ 「邪馬台国―筑紫平野説」
4 主な内容
今回の講座は、邪馬台国九州説の中でも吉野ヶ里遺跡とかかわりの深い筑平野
説を検討します。考古学の立場からは、箸墓(はしはか)古墳をはじめとする初期の
大型古墳の年代が邪馬台国の時代に近づいたことを根拠に畿内説が強まりを見せ
ている状況ですが、必ずしも九州説と相容れないものではないという立場からお話し
いただきます。近年の集落遺跡群の発掘調査に基づく豊富なデータから、当時の集
落群ネットワークを復元された成果をもとに魏志倭人伝の世界を考察します。
5 講師 小郡市教育委員会埋蔵文化財調査センター 片岡宏二さん
6 定 員 50名程度(事前申込みは不要です)
7 聴講料 無料
(ただし、別途、吉野ヶ里歴史公園の入園料・駐車料が必要です)
入園料 一般大人400円 一般小人80円
駐車料 普通車300円 二輪車100円
8 お問い合せ 佐賀県教育庁社会教育・文化財課
吉野ヶ里遺跡担当 TEL 0952-25-7233
※当日のお問い合せ
吉野ヶ里遺跡展示室 TEL 0952-52-4130
9 主 催 (財)佐賀県芸術文化育成基金
(吉野ヶ里遺跡保存整備特別会計)
446 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:15:42
>>443 卑弥呼が倭迹迹日百襲姫としたら、どうして倭人伝に崇神天皇が出てこない
のかな。魏が倭王と考えるとしたら、明らかに崇神天皇だろう。
>>439 >一方、大和朝廷は7世紀以降にしか文字を残していない。
稲荷山鉄剣は5世紀中期だろ
448 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:36:19
>>446 >どうして倭人伝に崇神天皇が出てこないのかな。
「官に伊支馬有り次を彌馬升と日い・・・」
伊支馬→いくめ→垂仁
彌馬→みま→祟神
・・・ここら辺の類似は、それこそ大昔から指摘されている事なわけだがwwwwww
449 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:44:42
日本書紀とか古事記は魏志倭人伝やら漢書などに後から合わせて作った創作モノだぞ。
451 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 18:34:39
ビールもって夜に掘りにいけばいいんだって
452 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 18:41:52
>>441 >木棺または石棺。
それなら宮崎県、鹿児島県の南九州は、邪馬台国失格じゃないの?
南九州は弥生時代の木棺、石棺なんて、ほとんどないでしょ。
453 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:36:36
崇神が上官ならまだしもなァ
454 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:37:32
>>448 無理やりって感じに満ち満ちているな。
父親の崇神天皇より息子の垂仁天皇の方が上か?
で、外国の皇帝が、皇女を王と考えているわけか?
そんなのが通れば、誰でも卑弥呼に比定できる。
ところで、現在の伊勢神宮の祭主は、池田厚子さんとなっている。
現天皇の姉なのだが、それほど有名な人ではない。
大叔母なんていう人もいるのだろうが、これは誰も知らないだろう。
皇女が天皇の代わりに倭国王なんて事があるわけがない。
したがって、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫は完全に却下。
だから、箸墓が卑弥呼の墓というのも話しにならない。
>>454 お前の解釈は単なるこじつけだなw
モモソの色んな逸話は一切スルーですか?
特に墓造営のエピソードの解釈よろしく。
「昼は人が造り、夜は神が造った」なんて
どんな解釈すればいいんだろうね?
一介の媛にこんなエピソードが残るとは思えないけど。
457 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:58:52
>>454 記紀が編纂されたのが一体いつの時代だと思ってんだ?
馬鹿馬鹿しい。
「記紀はウソツカナイ、よって卑弥呼のような女帝の記事が無いのだから畿内説は成り立たない」
・・・と言うのはこの板の九州説の連中の勝手だがまあ通用する理屈ではないなw
正直言ってその程度のレベルは勘弁してくれって話でw
>>446も
>>448のような話すら知らない奴がふってきた話なんだろうと・・・
458 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:05:35
大体、畿内説論者(=学者の大半)が全て箸墓=卑弥呼の墓と言うわけでもない。
ぶっちゃけ話題として分かり易いのでマスコミが多く取り上げ
それを主張している人間の発言がクローズアップされているだけw
で、大衆人気が生命線の九州説の連中が必死に噛み付いているとwww
そもそも考古学者でなんて実在すると考えている人間の方が少数だろうと思うがw
箸墓の墓域内にそんな物があるのか?
どの道倭人伝の記述に通りの墓なんて考えるだけナンセンスだと思うなw
まあ、もし九州から年代が一致し「百人の殉葬跡のある墓」なんて物が出てきたら
そのとたんに俺も九州説に鞍替えするわwそんときはよろすくwwwwww
459 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:13:23
あと卑奴母離(ひなもり)も後世のものとの類似を言われるものの一つ。
まあ今日「伊支馬」「彌馬升」も「卑奴母離」も畿内説側からあまり喧伝されるネタではないが
九州説の連中は地名の一致とかは喜んで飛びつくがこういった一致は目に入らないらしいwww
460 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:16:15
>>457 そりゃあ、合理的な根拠があれば、記紀とは違う解釈をしてもかまわないが、
何の根拠もなく、間違いというならば、何を根拠にしているのかわからない。
自分の妄想が一番で、それと合わないものは全部間違っているということになる。
まあ、畿内説なんてそんなものだろうが。
九州説では都合の悪い話は一切スルーだよね。
462 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:18:27
463 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:26:06
>>462 どうも思わない。
つか質問の意味、
>>434を持ってきた意図が皆目分からない。
一体どういうコメントを期待しているのかな?
結局、年輪年代も最初から考古学者の支持があったわけじゃなく
「年代遡上を目論む悪の組織に乗っ取られている学会w」にしたら
>>434の滋賀県の二の畦・横枕遺跡の結果の時点で飛びついて良さそうなだろ?wwwww
464 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:27:17
このスレで、年輪年代論議はやめたほうがいいと思うな。
まあ俺は仮に箸墓が卑弥呼の墓だとしても、邪馬台国は畿内の
もっと海寄り、河内周辺だと考えてるけどな。
466 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:29:09
>>456 >「昼は人が造り、夜は神が造った」なんて
>どんな解釈すればいいんだろうね?
昼夜2交代制で作業を急いだのでは?
で昼チームには夜チームの存在を隠しておく、と。
昼チームは作業を終えて夕食。そのあと普通に寝るわけだが
朝起きてみると、ものすごく作業がはかどっている.!
おお!これは神の仕業だ!と。ww
あるいは夜間作業のためにはタイマツの灯りが夜中じゅう必要なわけで
これは盆地内の各集落からも毎夜見えたが
そんな光景は初めてだから、人々が神を感じた、とか。
467 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:33:02
>>465 俺も 纏向=祭礼(特化)都市で 政治中枢は大和川水系下流域=河内 の可能性も考えているwwwww
ただ現時点でそれを言い切るのは時期尚早。
纏向の性格がはっきりした上で無いとある意味それは多分な過大評価にあるからなw
468 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:38:04
はっきり言って年輪年代だの実年代の話を持ち出さずとも畿内説の優位は動かない。
逆にこの板の九州説連中は畿内説の年代観にケチをつけるだけつけて
じゃあ自分らの年代観の根拠は?となると一向に具体的な話は出さず
結局のところ・・・
「昔は ○×△ が定説だった」と繰り返すのみw
>>467 河内平野は一番変動の大きかった場所だからね。
おまけに大和川の氾濫や河川開墾等もあって、
痕跡が消失したりした可能性もある。
仮に東征(俺は倭国大乱時と想定してる)があったとしても
まず河内に国を造ると思うしな。勿論推測でしかないが。
470 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:15:54
471 :
うましか:2009/06/26(金) 21:17:11
私は河内勢力東征説です。
472 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:21:17
年代って言ったって、邪馬台国時代と箸墓時代は一致する。一番大きな墓がある
畿内が邪馬台国に違いないってだけの話だろ。逆なんだよ。
箸墓と卑弥呼の墓は一致しない。となれば、箸墓だ邪馬台国時代ならば、邪馬台国
は畿内とはちがう、ってことだ。
だいたい、弥生末期に九州勢力に征服された畿内が邪馬台国のはずはない。
倭人伝の行程記事ともまったく合致しない。畿内説はただ「そう信じてます」って
だけの話。学問ではないな。
473 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:23:38
>>471 つうか河内の場合わざわざ「東征」なんてつけなくても良いんじゃないのか?
大和川を遡上した言わば「奥座敷w」の元々農耕にはやや不向きな扇状地に
副都心、あるいは宗廟の場を建設するような感じで造ったのが纏向の始まりって事でwwwww
474 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:25:53
475 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:35:51
夜中に発掘しに行く根性あるやついないのかよ
>>472 行程なら北部九州でも一致はしてないけど。
477 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:54:34
東征された国っていうのは、大和、河内、和泉、紀伊を支配していたんだよ。
オレはコレが邪馬台国の末路の国だと見ている。
卑弥呼が居た全盛期には、伊都国に代官所を置いて、
1000戸で九州を支配するぐらいの力があった。
この時に日本の各小国も中国の王朝に使者を送るぐらいの外交能力があった訳だが、
その中でも、邪馬台国というのが魏王朝から特別視されるぐらいの存在であったと言う事であり、
その事が日本の小国を更に邪馬台国になびかせる威光になった。
それは後の世まで魏鏡が偽造されて配布されるぐらいの威力だった訳で、
これが大和政権内で起こったなら、どうして日本書紀や古事記にそれが書かれて居ないのかと言う事。
ぶっちゃけ魏志倭人伝が捏造されてるんじゃないか?倭の五王まで続報無しなんて怪しいぞ。
今ですら中国共産党の地方幹部は捏造されたGDPデータを中央に送ってるらしいぞ。
わざわざ倭国くんだりまで出かけるかね?韓族からの伝聞情報の可能性があるんじゃまいか?
倭奴王の金印も本物だと確証があるのか?
スプリング8で成分分析すべきだな。
江戸時代の九州人がでっちあげた可能性が無きにしも非ずだ。
480 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:18:09
口ばかり動かしてないで体も動かせ
481 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:47:19
>>476 そのとおり、北部九州もまったく一致しない。
一番重要な事は魏の影響の強い王朝だったと言う事。
今の日本に3世紀のそういう痕跡のある遺跡が発掘されて居ないというのであれば、
逆に3世紀の権力者の墓で魏の影響が出ていれば、邪馬台国の有力な証拠であるとも言える。
484 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:58:49
そうだ。三角が問題。三角というと畿内説だと思うだろうけど、
それは完全な間違い。
>>473 > つうか河内の場合わざわざ「東征」なんてつけなくても良いんじゃないのか?
いや、九州東征説に対抗するため、敢えて使った表現ですw
実際には「瀬戸内勢力の大和進出」くらいの意味です。
> 大和川を遡上した言わば「奥座敷w」の元々農耕にはやや不向きな扇状地に
> 副都心、あるいは宗廟の場を建設するような感じで造ったのが纏向の始まりって事でwwwww
弥生後期の大和って、河内とと言うか、大和周辺の地域と断絶状態にあったんじゃないですかね。
大和は鉄器の出土量が他の畿内地域に較べて極端に少ないとか、
平型銅剣、大阪湾型銅戈を受容しなかったように見えることなど、
弥生終末期くらいまでは、畿内の中でも異質な存在だったのではとも思います。
日本製の魏鏡ではダメだな。アレは基本的に大和政権のモノ。
リアルタイムの魏鏡が出てこないといけない。
487 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 23:18:30
>弥生終末期くらいまでは、畿内の中でも異質な存在
一言で言えば未開地。人がほとんど住んでいなかった地域。
488 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 23:37:25
>>467 東郷・中田遺跡群、加美・久宝寺遺跡群などのことかな?庄内〜布留式期古段階のものは
時代も合うし、集落跡も多い。なにより大和へ通ずる道だね。
>>485 >弥生後期の大和って、河内とと言うか、大和周辺の地域と断絶状態にあったんじゃないですかね。
では、どのルートを通って大和へ出入りするのかな?
大和政権の船の技術は北九州・山陰の民のもの
盆地の人間に外洋に出られる船が作れるわけがないって
491 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 23:48:20
弥生時代終末から布留0~布留1)吉備形甕の分布は博多湾沿岸から周防灘を通り松山平野、今治平野を経て備後東南部、吉備、播磨、摂津沿岸から大阪湾、河内湖、大和川、大和
>>490 北九州、山陰の海の民というのは、結局海を渡って来たって事なんだけどな。
493 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 23:53:16
弥生時代初期に伝わった陸稲栽培を起源とする山田。
山田国こそ邪馬台国だったのだ。
従って山田国は扇状地のはずれ、湧き水の染み出る泉の
周辺にあったと考えられます。
賢明な読者なら何を言いたいかわかりますよね?
旧山田氏(福岡県嘉麻市)に邪馬台国はあったということです。
これですべてのなぞは解けた!!
494 :
488:2009/06/26(金) 23:55:46
491→レス失敗 スマソ。
弥生時代終末から布留0〜布留1にかけて、吉備形甕の分布は博多湾沿岸から周防灘を
通り松山平野、今治平野を経て備後東南部、吉備、播磨、摂津沿岸から大阪湾、河内湖、
大和川、大和。分布の両端にあたる“西新町遺跡”と大和への出入り口“船橋遺跡”そして
“纏向遺跡”で突出した出土がある。一番多く出土しているのが河内・小阪合遺跡で45点
495 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 00:12:32
万世一系の山田国百王朝
496 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 00:33:14
>>495 山田といえば、今では、せいぜいヤマダ電機くらいしか思い浮かばなくなった
陰の薄い山田市。
灌漑用水を作る土木技術を持った田中氏の出現で角に追いやられた感はあ
りますが、もう一花咲かせたいとは思いませんか?
けど田中源氏はいるけど山田源氏はいないんだぜ
田中氏は山田氏なんかより全然由緒正しい
498 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 00:54:26
古墳時代には既に没落していた山田氏。
由緒正しすぎるというか血統が古すぎたのです。
>>492 倭人は華北や朝鮮半島の先住民だったってことか?
500 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 11:48:08
日本人の祖先は樺太経由で北から渡ってきた人がメインなんじゃなかったか?
DNA的に
501 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 12:59:14
夜中に古墳に行くと興奮するぜ
日本人のDNA型は、バリカル湖東岸のブルヤートモンゴルと最も近いらしいね。
バイカル湖から延びる黒竜江(アムール川)を下ってカムチャッカ半島から
千島列島の小島伝いに移動すれば、小舟でも北海道に渡れたし、
もともと孤独に強く冒険心の旺盛な人種だったから、見知らぬ土地が好きだった。
でも、そういう土地は、もう地球上にはほとんど残されていません。
アルピニスト野口健、宇宙パイロット野口聡、細菌学者野口英世、アスリート野口みづき
こういう人たちの祖先が先遣隊として、野口(川から大地への入り口)をさかのぼって
調査を行い移住地を決めたのではないかと思うのです。
503 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:55:49
>>502 12,000年くらい前までは、氷河期なので、樺太経由で船を使わずに
やって来れる。
じゃあ北海道の先住民族は倭人だ
アイヌはあとから来たんじゃん
505 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:45:46
倭人が日本に来るのは紀元前800年ぐらいからだろww
507 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:00:10
倭人=弥生人=渡来人
弥生時代が何時から始まるかで幾等でも変わる
でも倭人は狩猟採集ばかりやってた土人の縄文人じゃないよ
倭人は渡来人なのだ
508 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:07:52
ある種の人々は、マンモスを追ってシベリアに行った。
マンモスが絶滅すると、人々は南下を始めた。
残った人もいただろうから、その付近の人とDNA的に近い。
大陸伝いに朝鮮半島に行った人々ともDNA的に近い。
ということで、人々が南下を始めたのはマンモス絶滅の頃で氷河期。
509 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:08:18
倭人が人類学上、日本列島で自然発生して、
それが現代日本人まで連続的に繋がってるとかは、おとぎ話ですからww
渡来系が弥生時代に来たが、その数は圧倒的に少なく
縄文人を基盤にして、両者は融合し、それが弥生人になったとかも嘘っぱちですからww
まあ普通に考えると弥生人は大陸からの渡来人でしょ。
北九州や南九州、出雲や紀伊半年南部にたどり着いた人達。
511 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:14:01
農耕牧畜と金属器を多用する圧倒的多数の渡来系人種集団が
狩猟採集を主に暮らす圧倒的少数の土人の国邑人民を平定し、支配し、虐殺し、陵辱した事で
遺伝子レベルに措いてアイヌや沖縄人の1/30程度にまでその特性が失われたのが
本土日本人だよww
この渡来系集団が倭人なのww
512 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:17:34
日本人が日本人のアイデンティティとして語ってるDNAは
その昔、倭人様が虐殺した土民側の縄文人のDNAだよw
513 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:57:26
>>423 >逆だろw九州論は出雲無しでも成立するが、
邪馬台国時代に、朝鮮半島〜九州〜山陰が交流無かったなんて言ってるのかな?この人は。
朝鮮半島からは、山陰の土器も多く出てるわけだが。
邪馬台国を出雲抜きで考えてるなんて、どんだけ物知らずのお花畑なんだよ。
514 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:11:25
九州説に出雲を絡めると、そこから九州説が瓦解するから、
出雲は無視するしかしょうがないんだろうな。
普通に古代史調べてる人は、出雲を無視できるわけがないんで、
出雲を研究すれば邪馬台国時代の出雲と朝鮮半島との繋がりが濃いこともわかってくる。
そうすると九州説に固執するのがバカバカしくなり、
邪馬台国に飽きるか、畿内説に転向するかだが、
大方は飽きて古代史から離れるだろうな。
数年前には大勢いた九州説のコテハンがどんどん消えてるのがその証拠。
相変わらず捏造がスキですね
俺は通りすがり(に近い)なので、誰か九州説が衰退した訳を要約してくれ。
久しぶりに来たら、板自体が衰退していたが、それ以上に九州説が元気なくて
栄枯盛衰が激しいなと思った。単に飽きたからなのか?
畿内説は九州説を貶すことにのみ全力をあげており、
その貶し方は重箱の隅つつきであり、揚げ足取りに終止しているため、
九州説の人間は呆れて寄り付かなくなった。
>>517 年輪測定でハシハカ卑弥呼の前方後円墳の年代が繰り上がったとは、伝聞で聞いた。
あと、趣味の戦国板に住民の大半が流れたな。歴史ヲタではないが俺もその一人。
ここ2,3年は歴史系はあっちだた。
>>513 何言ってるのw
九州説の多くは九州内に30国を
当てはめようとする人が多いでしょ?
九州と本州西部なんて当然関係深いのに、
それをスルーするなんてあり得ない事を言ってるのだが。
520 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:38:53
九州説なんて最初から無いだろ。
>>517 俺は九州説から畿内説への転向組だけど。
倭人伝の記述のみ見れば九州に比定地を求めていたのだが、
出雲や吉備との関係、出土状況、地理交通等を考慮すれば、
結局畿内説になった。
>>520 西都原コテがスレ立てて頑張っていたじゃないか。
恐ろしく昔に感じるw
523 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:42:14
こないだの考古学協会でやった発表から九州説の奴はみんな逃走したw
524 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:47:25
>>514 有名なところで、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とあるから、
出雲は倭種の国なんだろう。
あるいは後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
から狗奴国とも考えられるかな。
525 :
516:2009/06/27(土) 21:53:39
とりあえずサンクスと言っておく。
生きている間に、九州と畿内で白黒決着がつくのかな・・・
526 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:59:32
>>516 論点がなくなった。出尽くしたといったほうがいいのかもしれない。
レベルの低いののしりあいになって、緊張感もなくなっている。
畿内説には根拠と言えるものがなくなっているから、論争しても弱いな。
>>526 お前のような奴がいるから
九州説が衰退してしまったんだよな。
528 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:56:46
畿内説が正しいとしてどうやって北九州を支配下においたのか。
どうやって中国への朝貢を思いついたのか。
なぜ遠い九州より近い東の支配が遅れたのか。
>>507 倭人は半島の先住民族だから半島は倭の領土だったわけだ
対馬も壱岐も北九州も倭人の領土
>>527そうだろうな。
九州説だけではなく、九州そのものが衰退したのは、その「お前のような奴」
が大量に流入したの原因だろう。加えて、「お前のような奴」に既得権を奪わ
れまいとして「お前のような奴」を差別して使おうとしなかった保守的な地域性
が九州衰退の原因だろう。
531 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:20:57
九州説が衰退したのは、邪馬台国の宮地(候補地ではない)と卑弥呼の墓をいつまでたっても
示せないからだろ(吉野ヶ里は明らかに違う)あと、初期コテハンに文献・考古学・言語とバ
ランスよく力のある人はいなかった。今の名無しの方がよっぽどわっかってる人もいる。
纒向遺跡を中心とする勢力(邪馬台国)が、
当時の日本で影響力の大きな勢力であったと言う事。
文化的にも、魏に存在を認めさせるだけのものがあったと言う事。
そして時代の前後を見ても特筆すべきレベルであったと言う事。
あと、神武が九州北部を制圧した際に、
この国の中心は東にあると言っているところだな。
大和政権が成立する以前から、既に国の中心は九州にでは無く
大和だったんだよ。
四方國中(よものくになか)、 大倭日高見國(おほやまとひだかみのくに)
とありますからね
535 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:14:15
邪馬台国は九州なんだが必要な証拠は何が必要なんだろう
536 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:20:59
>>535 ・親魏倭王の金印
・年代が合って百人の殉葬跡が見られる墳墓
…この二点の何れかなら一発逆転で九州説の勝利だろうなw
少なくとも現時点では最低
・年代が合致し邪馬台国候補に上げて良い遺跡
これが欲しいところなんじゃないのかな?w
537 :
ローガン:2009/06/28(日) 00:23:53
>>535 > 邪馬台国は九州なんだが必要な証拠は何が必要なんだろう
貴方がそう考える分には特に必要ないと思います。 ただ掲示板に書き込む以上、他人が見て、なるほど!ってヤツを期待したいですね。
地元は九州新幹線の方が大事らしいし、当分新たな鑑定なんかしないだろう
539 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:36:54
まあ纏向に王宮が見られず
結局、巨大祭祀センターだとすれば纏向を含むクニがそれだけ
大きな物になるだけなんだよなwww
後世、墳墓と宮が大和と河内に分かれたように…
ただ現時点そこまで行くのはフライングだろうとある意味皆自重しているだけでwww
ヤマタイなんて国はない。読みはヤマイ(チ)かヤマト(ド)だ。
場所は河内南部から生駒〜葛城山周辺にかけての位置を指す。
この地は縄文期から広い商圏を持つサヌカイト、鉱石の産地でもあるし、
亀の瀬周辺には現大和川柏原か竜田川流域付近の
葦の鳴き石を利用した畿内における初期弥生製鉄の土地でもある。
巻向の地に進出していったのは、東方への進出を目指していたのと、
何より水銀目当てだろう。
541 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:37:54
卑弥呼の墓が残ってる方がおかしくないかな、たかが巫女なんだしとうの昔に荒れ地になってるんじゃない。
542 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:39:20
543 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:54:53
新幹線つくる時に卑弥呼の墓が発見されたとしても華麗スルーされちゃうだろうな
544 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:58:05
倭人伝にでてくる国は全部九州内だし邪馬台国も九州のどこかなんでしょうね、阿蘇なんかだと痕跡みつけるのは無理だね
記紀にハッキリ書いてないのは、8世紀には既にどこだかわからなかったのだろ。
箸墓だったのなら、地元なのだし、いくら何でももう少ししっかりした伝承くらいは残っていたろう。
そうなら神代などと誤摩化さず、わかっている事だけ書けば済んだ。
つまり箸墓周辺はない。
547 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 03:43:48
>>544 阿蘇の古墳はけっこう手付かずで残っているらしい。
たたりがあるとかの言い伝えで、荒らされていないらしい。
一つ発掘調査が行われた。長目塚古墳だったかな。
100mを超える柄鏡式の前方後円墳で、中から女王の遺骨が出てきた。
年齢は30代らしいが。
宇土市の向野田古墳の女王も30代らしいから、やはりこの頃の寿命がわかるな。
548 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 04:14:58
ちなみに、向野田古墳の副葬品が展示してある宇土市立図書館に行ったこと
がある。さすがに遺骨はなかったが、他の副葬品は全部展示してあった。
20cmほどの内行花文鏡と方格規矩鏡それに10cm程度の鳥獣鏡があった。
じっくり見たが、国産か舶載かはもちろんわからない。
でも、出来は良かったように思えた。
車輪石や勾玉もあったが、鉄剣、鉄刀など鉄製品の多さはすごかった。
剣なんて1mをゆうに超えているし、鉄斧もあんなに大きいとは思わなかった。
同じ熊本県の江田船山古墳と比較すると副葬品はぜんぜん違う。
江田船山古墳の副葬品は一括して国宝に指定されたわけだが、
そういうことよりもあきらかに時代が違うのがわかる。
向野田古墳はかなり古いと思うな。
向野田古墳にも行ってみたが、これは荒れ放題、ひどいものだった。
549 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/28(日) 05:09:36
「古墳」なんて言葉は明治時代に作られた言葉であって
「古墳」なんて呼び方は本来はオカシイんだよ
墓なら「墓」って呼べば良いんだよ
墓じゃなきゃ「遺跡」だろうし
卑弥呼にしたって歴代の天皇にしたって、記紀や魏志倭人伝には死語は古墳じゃなく「墓」に埋葬されてるんだよ
550 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/28(日) 05:13:04
例えば
>>548さんの言う「古墳」
「副葬品」なんて書き方してるけど、ここからは遺体も棺も発見されてない
すなわちその古墳ってよんでるその場所は、誰かを埋葬した「墓」ではないんだよ
>>546 箸墓は伝承だけ聴いてりゃ十分卑弥呼だけど。
(笑)
553 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 06:42:07
纒向遺跡が邪馬台国であり、箸墓が卑弥呼の墓であるとして、
大々的な発掘をした方がいいのでは?
根拠の無い九州説との論争みたいな段階で留まっていると、
開発がどんどん進行してしまう訳だが。
554 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 06:49:36
(笑)
555 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 08:00:24
やめとけ。鎧でも出てきたらどうする?
556 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 08:07:57
>>546 分かっているから、はっきり書かなかったんだって説があるよ。
倭建命の物語。まず、兄を倒して倭男具那王、弟を倒して倭建命。この二つの
名前が狗奴国と邪馬台国の所在を示しているそうだ。
で、無くなったヤマトタケルは白鳥となって
河内の古市付近に帰って行きましたとさ。
。
そして箸墓は昼は「三輪の人」が造り、夜は「二上山の方角の」
神が造ると言う伝承ですよ。
実際墓に大和川亀の瀬横、芝山の石が使われているのは確認されてるしな。
まあ「土師の墓」には他にも色々伝承はあるけよ。
地元桜井の奥や都祁方面には結構興味深い話がね。
大和政権と邪馬台国は全く別系統だと俺は見ている。
神武の東征で征服された大和の国が邪馬台国ではないかな?
魏鏡の広がりを見ても、魏との結びつきは後の世まで大きな影響があったんだよねぇ。
そう言う記述が一切無いのは、やはり、大和政権≠邪馬台国と見るべきだろう。
神武東征は徐福の古い言い伝えの事ですね。
少なくとも3世紀以降に東征なんてのは無理な話。
痕跡が無い物をあるというのはそれこそ捏造です。
??
飛鳥時代以前に河内南部を治めていたのは丹比氏だよね。
その名前は出雲系ではないのかな?
何を持って痕跡が残ってないと言うのか知らんが、
戦闘の痕跡なんて関が原でも残ってない訳だが。。。
お前の話に合わせるのが無理なんですよ
>>562 関ヶ原にはその記録事態は残されてるだろ。
それに対して古い言い伝えすら何も残ってないのだが。
1700年前の言い伝えなんて正確に残って無くても別に不思議でもなんでもない訳だがww
言い伝えは日本書紀や古事記と言う形で残ってますね。
565はバカですね。
言い伝えというのは当然今の時点ではないだろw
古文書や地元の伝承、記録の事ですよ。
言い伝えって自分で言ってるのに記録が残ってるかとか、
詭弁じゃないか・・・
572 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 09:56:45
>>562 3世紀以降に東征の痕跡→弥生都市の消滅、弥生葬制の断絶、銅鐸の一斉埋納
神武東征伝説。数えればいくらでもあるな。
8世紀に残っていた言い伝えを書き記したものに東征は残ってる訳だがww
>>572 神武東征が3世紀以降の話なのかい?
その割にはその後も畿内は出雲や吉備の影響が色濃いが。
575 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 10:04:54
白石が面白いことを書いているよ。
近畿中央部の勢力が鉄資源等をめぐって玄界灘沿岸勢力と戦った。北部九州を
中心に分布していた中国鏡が、近畿の大和を中心とする分布に大きく変化した。
この分布状況の大きな変化こそ、近畿勢力の勝利を物語るものにほかならない。
甲勢力と乙勢力が戦いました、甲勢力の伝統が消えて甲地域においても乙勢力の
伝統的行動がみられるようになりました。何で、これが甲勢力の勝利を物語るの
かな。学者の頭は理解しがたいねえ。私は乙が勝って甲地域が乙に占領されただ
けだとみるがね。
576 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 10:09:55
>>574 出雲や吉備は距離的に近いんだから、何か影響があるのは当たり前の話だろう。
東海の影響だって認められるだろ? 九州勢力が東征したからって、九州以外
の影響があってはならない、なんてのは非常識な話だ。
>>575 普通に考えればそう解釈するけどね。
なぜ東征説が出るのか理解に苦しむ。
「3世紀に東征しました」なんて言い伝えがあるかよww
>>576 民主的な征服者ですねw
つまり要約すると、それは征服ではないという事ですよ。
3世紀の中期に、既に日本の30カ国近くが通訳を伴った使節を中国に派遣していたんだよ。
当時の時点で既に中国の情勢に敏感に反応する日本の国々があった訳。
そう言う中で、”魏から特別な計らいを受けた国”であるというのが、
当時の日本に大きな影響を及ぼした訳。
それが魏・晋鏡の広がりとなって現れている。
中国鏡という漠然とした対象としてとらえるのはどうかな?
邪馬台国というのは、もしかした帯方郡の使者の勘違いで、実は
摩耶大国だったのではないでしょうか?
淡路島と神戸に摩耶山があって、神戸には高天原を思わせる天上寺まである。
もともと神戸という地名は神を連想させる地名です。
古代メキシコのマヤ文明と起源は同じだったのではないでしょうか?
ない
>>575 書名を教えてください。
どうも、結論だけ決めてあって、
考古事象を結論に合わせる議論なのかも知れませんね。
584 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 13:20:57
>>580 >”魏から特別な計らいを受けた国”
もちろんだけど、そういう視点が欠けてるんだよな。
九州と九州より東の倭地(畿内)をくらべたら、畿内のほうが人口が多いし国も多い。
どちらを倭国の支配者とみなして金印を贈るべきか考えれば、畿内しかありえない。
九州説だと、北九州だけの支配者に金印を贈ったことになる。
魏から見たら、何の益も無いことだよ。
>>581邪馬台国神戸説ですか?いいですねぇ。
遷宮2000年もやれますね。w
仮に太宰府的な大和出張所が九州に存在したとする。
当時は上級貴族ではなく天皇直系の兄弟や男子が派遣されていた。
そんな3世紀の九州に突如として魏の役人張政が来日した。
当時、火の国と熊襲が独自勢力として割拠し島内はゴタゴタとしていた。
九州王Xは指示を受けるため、張政の接待を妻・卑弥呼に託し急遽大和へ出張。
九州王Xの急報に倭国王崇神とスタッフは驚く。畿内に呼ぶべきか?張政の真意は?魏の曹操って誰?
衆議の結果、九州王Xに対応を一任し、関門海峡から東には一歩たりと入れるなと厳命を下す。
そこから九州王Xと妻卑弥呼の猿芝居が始まった・・・
大宰府は出張所というより元の本社。
大和朝廷発祥の地として大事にしていたのではないかな?
588 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 14:30:06
>>581 お前馬鹿じゃねーの
お前馬鹿じゃねーの
お前馬鹿じゃねーの
お前馬鹿じゃねーの
お前馬鹿じゃねーの
お前馬鹿じゃねーの
>>493 邪馬台国=山田国説についてですが、
邪馬台国は福岡の山田だから伊勢の宇治山田に東遷していった
のではないでしょうか?
590 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 15:24:37
つまり山台国ですね
わかります
591 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 15:24:44
三重県宇治山田に遷宮される前に伊勢があったと言われる元伊勢の場所は、
京都府福知山市大江町天田内、山田が訛化して「天田」となったのではないかと考えられます。
邪馬台国と山田国、そして伊勢・・・だんだんその正体が見えてきました。
592 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:18:44
佐賀大和が東遷して大和とも言えるだろう
耶馬渓って大分にあるね
近くに山国て地名もある
なんか関係あるのかな?
594 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:49:42
福岡か佐賀にも耶馬渓てあるよ
595 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:54:37
倭人伝+地名
邪馬台国は九州で決まり、問題は九州のどこが邪馬台国なのかだ。
596 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:59:07
597 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:17:11
決め手は金印だが、もし阿蘇あたりに邪馬台国があったとするなら墓の存在は期待出来ない
598 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:21:41
噴火口地下1500mにありまつ
599 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:45:15
阿蘇ではないから大丈夫だよ。
あっそ♪
601 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:07:09
邪馬台国が有明近郊であることは常識である
602 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:10:38
魏志倭人伝に火山が記載されてないから、九州では無いな。
ホント火山の記述がないよね。今気付いたわ。
つまり阿蘇近辺でも無い事だな。
604 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:15:05
有明海近郊に住んでる人はおらんのか?
倭人伝から感じるに、魏の人間は奴国までしか行っていないと読める。
台与に檄文を贈るとあるから女王に謁見はしていない→ヤマタイ国には行っていない
奴国までの地理情報は大陸人の実体験で、それ以外は欺瞞情報だと思う。
奴国がファイアウォールになり、そこで足止めされたんじゃないかな。
100%魏志倭人伝を信用するのは危険でありお人よしだ。記紀と同様に批判的に読むべき。
606 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:44:56
だから福岡県甘木市だよ。
607 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:53:10
>奴国がファイアウォールになり、そこで足止めされたんじゃないかな
そうかもしれないが、奴国を過ぎて遠賀川に入ろうとした時、魏の船は海洋航行用の
大型船であった為、川へ入れず仕方なく
「おい、倭人ども。ここから(遠賀川河口から)はどうやったらおまいらの邪馬台国へ到着するんだ?」
と聞いたところ、倭人どもは
「へい。川を20日逝って、さらに陸を20日逝けば到着しますぜ、旦那。」
と答えたので、そのとおり記載したってことろじゃないかな?
ちなみに遠賀川を遡って、上陸後さらに南に逝くと福岡県甘木市を中心とする筑後平野になります。
608 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 19:02:08
甘木はあちらこちらに古墳らしきものがあると聞くがはたして本当なのだろうか、もし甘木ならなぜ卑弥呼の墓が見当たらぬ
甘木ではないからね。
610 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 19:22:55
>>951邪馬台国山田国説、実に魅力的な仮説ですね。
全国の山田さんが応援してます。頑張ってください。w
611 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 19:23:32
だから畿内にあったと考えるのが真っ当なんだよ。
613 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:55:32
畿内にも倭人伝が伝えるような墓はないよ。
普通に沢山あるけど。
615 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:41:09
>>603 阿蘇はもちろん火山だが、いつもいつも噴火しているわけではない。
>>570 東征のような出来事があったとしたら、それは画期的な変化をもたらす。
だから、画期的な変化と思われるものと東征を結びつけるのが普通だろう。
その意味じゃあ、古墳の出現や墓制の変化は重要だと思う。
その時期がいつかは、いろいろあるだろうが少なくとも紀元前じゃないな。
銅鐸の製造・祭祀の終焉についても、東征が影響していると考えることも
できるわけだが、その関わり方についてはなかなか難しい。
銅鐸が宗教的なものだとしたら、即座に禁止令のようなものが出たかも
知れない。
しかし、中世のキリスト教に対する豊臣秀吉や徳川家のように、最初は寛容
だったが、自分の支配に影響が出ると考えたときに、非常に厳しい態度に出る
ということもありうる。
だから、銅鐸の消滅の過程をこういうものと決め付けることは出来ない。
ただ、銅鐸が古墳時代の始まりあたりを境に完全に終息し、その後一切
見られなくなったのは事実だろう。
616 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 23:15:57
617 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 23:34:31
いまだに日本の古墳からは槨は発見されていない。
というより、日本には古墳は存在しない。古墳に見えるのは自然の隆起や浸食作用で
残った山にすぎません。気のせいですよ、気のせい。
619 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 23:48:16
畿内の邪馬台国説は無理があるよ
620 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:19:46
>>610 残念ながら山田姓の多いのは近畿。九州は少ない。
ソースは電話帳。
621 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:40:05
山田の由来を知ってから言おうぜ
713年、大和の長岡野で、銅鐸が発見されたとき、
人々は、これをあやしみ、『続日本紀』は、「その制(形)は、常と異なる」と記している。
大和政権の人間は2〜3世紀に近畿で広く使用されていた銅鐸について
何も知らなかったんだよな。
普通に考えて、東征は3世紀以降で間違いないでしょう。
>>622 銅鐸が出土したムラの人々は銅鐸の言い伝えを持っていたよ。
しかし、銅鐸を祭るものは死罪にする、と言われて隠していたのである。
だから、ガサ入れで覚せい剤を見つけられた犯人のように、
「何でこれが出たのか分かりません。」と答えたのである。
神武ってチョンなんじゃね?
大和政権の文化の断裂度が大きすぎるよね。
>>622 東征があったとしたら2世紀の倭国大乱の時期ですよ。
銅鐸の生産された最終時期を考えたらね。
3世紀だろタコ
3世紀以降であって欲しいんだよなw
大和政権と邪馬台国を無理やリ結び付けようとするバカが居ますね。
銅鐸が2世紀に埋められて3世紀以降に東征があったなんてアホがいるし。
そもそも卑弥呼が70年近く女王の座にあったというのが信じられんわ
いくつまで生きたんだよと
631 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 10:43:36
台与と同じ10才そこそこで女王になったとしたら、80才程度だろう。
古代としては長生きだが、不可能な年齢じゃない。
632 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 11:11:47
邪馬台国の一部が東方殖民して大和政権になって行ったんだろう。
トヨタン・・・・・・・・・・
634 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 11:15:07
ニッサン・・・・・・・・・・
635 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:43:11
卑弥呼は老衰といってもよいでしょう。魏使は卑弥呼に会えなかったのです
>>630 倭国の乱を2世紀後半とするのが、間違いなのだよ。倭人伝にはそんなことは
書いてない。3世紀に入ってからなんだね。だから、卑弥呼は共立されたとき
すでに婆さんだった。まもなく、老衰で死んだ。それだけのことだ。
3世紀に入ってからなんて倭人伝の何処に書いてあるんだよw
共に一女子を立てて王となす。〜年已に長大。
共立されたときは已に婆さんだったと読むべきもの。
639 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 14:39:27
>>638 ばあさんを「一女子」と表記したというのか。
ふーん。
640 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 15:02:13
何度も同じ話が出るが、
卑弥呼が既にババアだったのは魏使と会った時。
共立された時は子供。
朝貢の記録とか照らし合わせたら、卑弥呼共立は
190年前後となるのにこの時点で婆さんな訳ないよなw
644 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 16:38:06
>>643 同じ話が前に何度も出て
結論が出てます。
あんたが落第。
645 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 16:39:44
>>641 つかちなみにその貢ぎ先の「朝」ってのは、日本の朝廷の事だぞ?
それと基本的に間違ってるのが
・漢(から、かん)=朝鮮半島
・支那=支那大陸
・中国(なかつくに)=その民族の中心の国、倭人の中国(なかつくに)は日本朝廷の都
って事だよ
「倭人の卑弥呼が中国の朝廷に貢ぎ物をした」
これは日本の朝廷に対して貢ぎ物をしたって意味だよ
「支那の朝廷に貢ぎ物を、、」
って書いてあれば、今の支那大陸にあった朝廷って意味だけどさ
646 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 16:42:50
だから邪馬台国は九州のどこなんだよ
誰か早く発掘してこいよ
648 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 16:46:50
卑弥呼の話は6世紀頃だってば
卑弥呼の行動と、善行(善徳)女王と比べてみ?
貢朝した干支から月からなにから同じだから
そもそも魏志倭人伝ってのは三國時代の話だよ
漢(韓)の三國時代ってのは百済や新羅とかの時代の事だってば
支那大陸とは関係ないよ
650 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 16:57:40
>>647 「王」や「女王」に立もクソも無いよ
例えばタイ
清王朝に統治されてる間もタイ王朝ってのは存在してたりしてるでしょ?
日本でも各地の「藩主」が、その國の王だよ
徳川将軍の下に、各地にその土地の将軍がいたでしょ?
卑弥呼ってのは邪馬壹國の女王だったってだけだよ
同じ時代に大和朝廷もクマソ王も尾張王も、、沢山の國や王はいるよ
その内の一人が卑弥呼であって、だから日本の朝廷に貢いだりしてるんだよ
651 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 17:04:25
ちなみに邪馬壹國のあった場所は百済だよ
長野の善行寺ってのは卑弥呼の息子が建てた寺だよ
ちなみに墓ってか御神体とされた山は須見山の南にある女神山って山だよ
つか6世紀頃の話な
韓の三國時代で大化の改新の頃だよ
邪馬壹國にしろ卑弥呼にしろ漢籍書や記紀にこの女王の話は詳しく書いてあるんだし、謎でも何でも無いんだよ
652 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 17:09:21
>>644 かってに結論がでているなんて言ったってだめだよ。
後漢書をみてみろ。共立したときに年長じてと書いているよ。
倭人伝は、文章的に「共立したときは已に」と読むのが正解なんだ。
655 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 17:26:57
>>652 つか、九州にも王朝は幾つもあったんだぞ?
それなのに「卑弥呼の治めた邪馬壹國王朝」なんてのに拘って、本来の九州にあった古来の文化や王朝なんてのは九州人自ら軽視しちゃってるしさ
例えば沖縄にだって琉球王朝があったんだぞ?
九州は「筑紫王朝」「クマソ王朝」「日向王朝」とかちゃんとあったよ
ちなみに日本府が置かれてたのも九州だよ(つか九州の任那だけど)
そもそも九州ってのは任那、加羅、百済、新羅、日向、筑前、筑後、、とかの9つの州があったから「九州」って呼ばれるようになったんだよ
それぞれの州にはそれぞれの王がいたよ
神巧皇后の宮だってあった場所なんだしさ
もんた。そろそろいい加減にしろよw
657 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 17:37:16
あとちなみに九州ってのは別に大陸から渡来人が渡って来た場所じゃないよ
その逆で、大和朝廷が國造りの為に派遣した倭人と呼ばれる日本人が、韓国に渡る際に九州→任那→乾國ってルートを辿ったんだよ
ちなみに大陸からの渡来人ってのは、アーリア地方から蚕を伝えた秦氏とか和爾氏だよ
この氏族が渡来して来たのは九州じゃなく、新潟や富山の越だよ
韓半島南部の百済や新羅は日本が統治してたんだから、韓半島北部から日本に来るのに、わざわざ九州なんて行かないよ
658 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 17:43:52
近畿説の距離が合うっていうのは、どうあうのかな?
福岡と奈良市の直線距離は500km。陸行1月をオア式で解釈するなら
不彌国と邪馬台国は水行30日。水行1日は17km。アンド式なら
水行40日。水行30日375km、陸行1月125km。
水行1日13km、陸行1日4km。これでいいのですか?
659 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 17:45:34
あちらからの使者が始めてやってきたのは、正始元年(西暦240年)のこと。
帯方郡の梯儁が証書や印綬などを持ってやって来た。
次にやってきたのは、正始八年(西暦248年)の張政。
倭国の詳しい記述は、この二人がやってきたときの報告書だと思われる。
事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者
(鬼道を事とし、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫壻なく男弟があり
たすけて国を治む。王となって以来見たものは少ない。)
この部分は、内容からして、郡使、多分、梯儁がやってきたときの記述だと思う。
もん太もっとやれ
661 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 17:53:23
>>658 邪馬壹國の場所が書かれてる漢籍書は魏志倭人伝以外にも沢山あるってば
西書だっけな?詳しく書いてあるよ
つか出発地点を朝鮮半島北部と明確に書いてあるし
そこから海岸沿いに南下してけば倭人の治める邪馬壹國だよ
今の釜山とかその辺り
ちなみに魏とは乾國南部に倭人を送って開拓して治めてた朝廷の事で、大海中の島にあるのが魏だよ
魏の志を担ってたのが命を受けてた倭人達だよ
これが卑弥呼とか日向三代とかだよ
662 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 18:16:36
>>659 つか「あちら」ってどちらなの?
帯方郡ってのは今の平壌とかその辺りだよ
まず日本列島には日本人がいるでしょ?
で、乾國は百済、新羅、高句羅の三國時代
まず乾半島南部には日本の朝廷から委任されて渡って来た倭人
乾國で一番長い長江沿いの漢城(ソウル)には漢字や儒教などを作った漢人
その中にローマ地方からシルクロードを渡り移民してきた秦氏や和爾氏
で、漢城の北部にはマナ文字を持ち、後に満州の各揚に明王朝と清王朝を築く満州民族
さらに騎馬民族でありモンゴル文字を持ち、後に支那大陸からローマ地方まで統治し、北京を初め、南は南京や上海までも開拓をしたモンゴル民族
それと後に、明朝の支援を受け李氏朝鮮王朝として、朝鮮半島を支配する事になる李氏の朝鮮民族
日本と半島周辺の事や民族の事しか漢籍書には書いてないよ
支那大陸の歴史? これは良く解らん
漢は半島にいた漢民族だし、明と清は満州民族だし、元はモンゴル民族だし、倭は日本民族だし
いま支那大陸を統治してる山東民族や支那南部の記述とかは漢籍書には書かれてないよ
南蛮(インド)や秦(ローマ)の事が少しかいてあるぐらいだし
こいつおさわり禁止の痛ーいコテか?
最近のコテのレベル、ちょっと酷くないですかね?
665 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 18:38:45
つか俺なにか間違った事言ってる?
例えば昔じゃなく近代の支那の歴史でもいいんだけど
例えば「明王朝」とか「清王朝」ってのにしたって、あれは満州にあった満州民族の王朝だよ
今の中華人民共和国とは関係無いよ
中華人民共和国として統合されようが、チベット民族にはチベット民族の歴史があり民族文化があるんだし
ダライ・ラマやチベット民族は中国人じゃないよ
同じように満州民族や朝鮮民族やモンゴル民族や古代漢民族も、中国人じゃないよ
ヨーロッパにはドイツ、ロシア、フランス、イタリア、トルコ、ギリシアって様々な民族がそれぞれの歴史を持ってる
支那も同じだよ
チベットにはチベットの、満州民族には満州民族の、モンゴル民族にはモンゴル民族の歴史がある
で、漢籍書には半島近辺の満州民族、朝鮮民族、モンゴル民族、漢民族、大和民族、秦民族、辺りの歴史しか書かれてないよ
>>665 間違えるも糞もねえだよwww
パキシルかなんか知らんが飲んどけや
667 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 18:51:35
もん太の話は聞き流すに限る
668 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:04:53
『三国志魏書』倭人伝
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
『後漢書』倭人伝
「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子名曰卑彌呼」
桓、霊帝の間は146〜189年だから卑弥呼の共立は190年頃
共立が10歳としても正始元年(西暦240年)には60歳
当時としては高齢だ。
669 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:10:18
年已長大の基準時はいつか? 文章的には共立の時しかないよ。
使者が来たときを基準とするならば、そのことが明記されるはずだ。
漢文を少し読めるならば、そんなことはすぐに気づくだろう。
たいしたことあるまい、などとごまかさないことだよ。
倭人伝をそのように読むべきことは、既に何人かの学者が指摘している。ただ、
後漢書の桓霊の間とか梁書の記事とかに惑わされている連中も多いがね。
670 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:10:30
>>655 だからなんだよ、ズバリ邪馬台国は九州でいいんだな?
671 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 19:15:28
>>666 つか間違ってるなら、何処が間違ってるのかちゃんと言ってくれっての
そもそも中国の歴史にかんしては、中華人民共和国と中華民国の違いすら理解してない奴まで沢山いるしさあ
漢字を作った古代漢人と、今の中国が自称する漢人とは違う民族だよ
そもそも中国は北京人も上海人も四川人も重慶人も、それぞれ話す言葉すら違う、多民族の国だよ
672 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 19:29:04
>>668 「女子」ってのは「女の子供」って意味でしょ?
最後が「子(こ)」って付くのは男の意味だよ
女なら「姫(め)・女(ね)」だよ
男→皇子、彦、息子、花婿、御子、
女→皇女、姫、娘、花嫁、巫女、
女子ってあれば「女の息子」って意味だよ
「じょし」って意味じゃないぞ?
女王が卑弥呼で、その息子が卑彌呼だよ
字も違うでしょ?
673 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:43:43
やれやれ、嵐が吹き荒れてるじゃないか。
674 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:47:29
>>669 「王となってから見たものは少ない」
これは明らかに共立のときの話ではない。
王になったばかりだが、王になってから見たものは少ないというのは
おかしい。王になって長年たつが、王になってから見たものは少ないと
解釈するのが妥当。
「男弟がいてたすけて国を治める」
これも、王になったばかりでこれから国を治めるのに、弟がたすけて国を
治めるというのもおかしい。
「年すでに長大」も郡使のやってきたときと考えるのが、倭人伝その他の
書物から考えられる「倭国の大乱」の時期からも妥当だろう。
675 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 20:01:43
>>668 「慣霊間」をそんな解釈してんの?
漢籍書にしろ記紀にしろ、ちゃんと干支が書かれてるからいつ頃の話なのかぐらい解るでしょ?
卑弥呼が朝貢した干支調べて、西暦545年の干支と、その年の出来事を調べてみってば
元号や皇帝名なんかじゃ年代なんて解らないよ
例えば逆に「西暦321年を、○○朝の使って元号○○年に直せ」って言われても無理でしょ?
元号ってのは単に「改元してから○年目」って事を表してるだけだから、元号なんかから西暦は調べられないよ
元号○年ってのから西暦が調べられると思うのなら「西暦121年が元号○年なのか」ってのに答えてみ?
どういう解釈で元号○年を西暦○年としてるのか知らないけどさ
「大正12年に生まれた人は平成10年の時には何歳か?」
これもさ、元号の数字だけ知ってたとしても正しい年齢は出て来ないって事とか知ってるかな?
やっぱり東征はあったのだよ、河内から巻向へ。
677 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 20:26:53
もんた捏造すんじゃねーよ
678 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 20:28:15
「王となってから見たものは少ない」。これは王となってからのことだということが
書いてある。年已にの時と同一でないことは明記されている。
679 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 20:47:59
魏志倭人伝にしろ記紀にしろ、ちゃんと干支が書かれてるんだから、干支から西暦年を割り出すだけなんだから年代なんて直ぐ解るじゃん
太歳干支とかまるで無視して、元号から西暦を解釈しようとかってのなら、まるで和暦の仕組みを理解してないんじゃないの?
「明治24年に生まれた人が還暦を迎えるのは昭和何年か?」
これも元号を足し算引き算しても正しい正解は出ないよ
ちなみに還暦ってのは60歳で還暦じゃないよ
生まれた年と同じ干支が来て還暦であって、明治以降の日本の年齢の数え方で60歳を還暦としちゃうと、干支が1年ずれちゃうんだよ
産まれた年を0歳とするなら、59歳の年が還暦だよ
ちなみに年齢の数え方は昔の日本の数え歳の加算方法が本来は正しい数え方だよ
「平成0年、平成1年、平成2年、、」
今の日本では年齢はこれと同じ数え方をしちゃってるよ
数を数える時は1から数えないと数が合わなくなるって事を知らないのかな?
アホの欧米に合わせてわざわざ間違ってる方法にする必要なんてないと思うけどなあ
680 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 21:15:44
>>677 俺はなんも捏造してないよ
むしろ今ある歴史の方が捏造されてるんだよ
えっと確か卑弥呼の年代は
「景行2年は西暦192年の事だから、、」
だっけ?w
いかにも「元号を遡って西暦年を割り出しました」見たいな言い方されてるけど、そもそも魏朝廷が現在まで続いてて
統一された元号の記録が現代まで全て記録されてて、改元された日付まで全て記録されてて初めて元号で年代が解るんであって、魏朝すらとっくに存在してないのに元号で追える訳が無いんだよ
皇帝の即位年で追うのも同じ理由で無理だよ
「何年前の事なのか?」ってのが解るように、ちゃんと太歳干支って暦があるんだから、干支を年代を調べるには、本来は干支を遡って調べるんだよ
そうやって調べれば卑弥呼の記述も神武の記述も6世紀頃の同じ干支の暦の歳に、同じ出来事があるって事が解るよ
同じ干支の年を調べるだけだからすげー簡単に調べられるよ
例えば甲子園は太歳甲子の年に立てられたから甲子園
これが西暦で言うと何年の事なのかなんて、過去の太歳甲子の年をちょいと調べるだけだよ
それを「昭和15年の事で、天皇が○○歳の時だから」なんてやってる奴がいたらバカだと思うでしょ?
元号何年だの、○○帝何年だの言ってる奴はマジでバカだって気付いた方が良いよ
もん太って頭いいんだな
682 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:20:46
西暦と干支と元号の関係はわかったから、卑弥呼は誰で邪馬台国はどこなのか教えてくれ。
>>680 そんなに自信があるなら世間に公表すれば?
勿論実名でね。それで皆納得するならそれでいいじゃんw
684 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:42:51
ちなみに倭国の乱の干支は、太歳丁未だよ
太歳の干支で丁未の年を調べてみ?
だいたい5〜6世紀頃の丁未の年にどんな出来事があったのかとか調べてみ?
そうすりゃ卑弥呼の年代から死んだ年から解るよ
景初○年だなんだ言ってる奴はバカだから解らないだけだよ
元号で年代が解るわけねーっての
685 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 22:08:25
>>683 俺は「元号や帝の在位年数なんかからは、年代は割り足せない」って言ってるだけだよ
こんなの発表も糞も無いでしょ?
「阪神甲子園球場ってのは、太歳干支の甲子の年に建てられた。これは西暦何年の事か?」
あなたならどう調べます?
「この年は昭和○○年で、天皇は○○歳で即位して○○歳で死んだから、大正天皇が即位したのは○○年後で、、」
ってやるの?
これをやってる人に対して「バっカじゃないの」って言ってるだけだよ
つかね
「太歳の干支は約60年周期だから、60年置きに同じ干支の年を調べれば年代は解るよ」
こんなのわざわざ説明されなきゃ解らない事なの?
甲子園が建てられたのは、甲子年が西暦何年なのか調べるだけだよ
で、卑弥呼にしろ神武にしろ、年代の調べかたはこれと同じだよ
ちゃんと干支まで書いてあるのに、年代の調べかたとかも解らないの?
ちなみに卑弥呼の倭国大乱は丁未年だよ
5〜6世紀の丁未年をしらべりゃちゃんと記述に沿うような出来事があるっての
年代を調べるのならこうやって調べるんだよ
いちいち説明しなくても解るでしょ?
686 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 22:26:21
>>682 漢籍書の中では「卑弥呼・邪馬壹國」たよ
百済書や新羅書では辰韓の、弥烏邪馬國の善光女王とか善徳女王って名前で書かれてるよ
記紀の中では、百済を納めてた皇極天皇とか、天豊財重日足姫とか、気長足姫とか神巧皇后とか書かれてるよ
例えばアメリカのバラク・オバマ
・アメリカ大統領・第○代大統領・黒人大統領・プレジデント・バラク大統領・ウンババウンババ、バッバ(アフリカ語でアメリカ大統領の意味)
いろんな呼び方が出来るけど、全部オバマ大統領を表す呼び方だよ
だから卑弥呼にしても「誰?」って言われても、どの呼び方をしていいか良く解らん
ただ皇極天皇って呼び方は間違いとは思うよ
そもそも推古も皇極も天皇じゃないよ
百済を納めてた王だよ
どの女王も子供が居ない事にはなってるけど、これは渡来氏族の和爾氏との子供を授かった事を隠してたから子供が居ない事としたんだよ
つかこの隠し子が、新羅王になってるんだし
卑弥呼は百済の王様だったって言ってる?
688 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:41:36
「善徳女王」は韓国で最近ドラマ化された7世紀の新羅女王。旧唐書に朝貢記事が載ってる。
>>685 発表も糞もないならとっくに解明(する必要も無い程簡単なんだよな)
されて定説になってますよ。
690 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 22:43:56
英語って数字数えるとき「トゥエルブ」まであるでしょ?
インドも同じように12だよ
フランスとかも確かそうだし
日本は明治時代以前前までは「ひ、ふ、み、よ、、」の10進法の数字と
「ね、うし、とら、う」の12進法の数字と2つを使ってたよ
主に暦や時刻や天体や分割などは干支
ソロバンや計算するようなものは、一二三
時刻も日付も、明治時代前までは干支で書いてたんだよ
あと太歳や歳星(木星)の暦の他に、太伯(金星)や天白(北極星)や農星(土星)の暦まで表してた、すげー正解な暦だよ
朔、十五夜、節句、太星、狼星の傾き、月食、日食、、節分、春分、、、とにかく何でも解る正解な暦が日本人が使ってた暦だよ
今使ってる暦は365日が過ぎたって事しか解らない暦で、もしこのまま旧暦が無くなれば、春分や夏至が何月何日になるのかってのも解らなくなるんだよ
そもそも朔日や十五夜すら解らないのが今使ってる暦
日本は欧米に合わせて、だんだん文明が退化していってる国だよ
691 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:49:24
q
へー、善徳女王が卑弥呼だと言いたいのかw
まぁ頑張って証明しろよ、俺はスルーだけど。
693 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:03:53
もんたさんよ、いい加減に歴史を捏造するのはやめろよ。何一つ当たってないんだよ。現場に行った事ないくせに
694 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 23:12:48
>>689 つか、あれだね
やっぱこんだけ説明しても解らない人には解らないんだね
「年号や帝の年齢や即位年からは年代なんて割り出せない」
って、事を俺は言ってるだけ
本当に年号を遡って年代が割り出せるかどうか自分でやってみ?
1、西暦410年は、元号何年で帝の年齢は何歳ですか?
2、西暦410年の干支は?
俺は2を調べるから、君は1を調べて見てみなよ
元号から年代が解るなら年代から元号も解るはずでしょ?
つかね、もっと簡単に
「明治34年8月3日に生まれた人は昭和20年3月4日には何歳でしょう?」
これでもいいよ
元号だけを追って答えだしてみ?
俺は無理だったよ
つか元号の西暦を調べて、西暦を引き算すれば簡単なんだけど、それは無しでやってみ
こういう事を自分でやってみりゃ解るよ
その上で、漢籍書の資料で元号を景初2年まで遡れれるかやってみ
こんなのいちいち説明する必要無いんだってば
いちいちこんな説明されなくても、君自信が自分でやってみりゃ解る事なんだから
いちいち無理だって俺が説明する必要なんて無いでしょ?
やってみなよ
んで、遡れたかどうか君が発表しなよ
695 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:14:08
>>668 >桓、霊帝の間は146〜189年だから卑弥呼の共立は190年頃
>共立が10歳としても正始元年(西暦240年)には60歳、当時としては高齢だ。
後漢書は桓霊の間からさらに相攻伐歴年主無しを経て卑弥呼共立としている。
けして共立=190ころに想定しているわけではないよ。
だから、後漢書の記事は、年長じて嫁せず〜ここにおいて共立としているだろ。
これは長じて共立されたということだ。共立されてから長じたのではない。
>>694 1と2、どちらも調べて算出すれば済む事じゃんw
大体ね、主張しているのは君だよ。
あんたが調べて発表してくださいな。
それで皆共感出来ればそれでいいでしょ?
つまらん理屈こねるよりまず実践してね。
魏志倭人伝も後漢書も6世紀より前に出来てるけど
そこに出てる倭国大乱の記述が6世紀の出来事とな?
魏が日本…?
>>695 それは都合解釈だぞ
「さらに」とは同じ事が重なる事で、桓・霊帝の間に
倭国大乱と相攻伐がおこったと言う事だ
すべてはその期間の出来事と解釈すべき内容
701 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:36:40
>>700 あなたは、「年長じて嫁せず〜ここにおいて共立」の方はどう解釈するのかな?
「年長じて」は、10歳になったことを言うとでも?
>>701 あなたの場合既に「さらに」の解釈で間違っているので、以降の判断は無効となります。
修正してからの問題ですね
703 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/29(月) 23:50:03
>>697 つか何を根拠に6世紀より前に出てるされてるんだよw
つか言い出した学者が誰で何を根拠に言ってるのかをまず教えてってば
そもそも魏志倭人伝なんて書物はねーっての
三國史だっての
つか漢籍書なんて唐書も随書も三國史伝も、同じ時代の同じ出来事が書いてあるだけだよ
遣唐使や遣百済使とかさ
記紀にも乾の三國時代の事は書いてあるでしょ?
漢籍書も同じ時代の同じ事が書いてあるだけだよ
そもそも百済や新羅は日本が開拓して統治してた国だし
つか漢籍書や記紀にもそう書いてあるでしょ?
百済や新羅や高句麗が日本の朝廷に朝貢をした話とかも書いてあるでしょ
卑弥呼や百済の女王が朝貢した朝廷は、そもそもどこの朝廷だと思ってるの?
704 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:58:55
>>694 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
>「明治34年8月3日に生まれた人は昭和20年3月4日には何歳でしょう?」
>これでもいいよ元号だけを追って答えだしてみ?
うーん、言っている意味が良く分からないが…
明治天皇、大正天皇がいつ死んで、改元が何時なされたのか?
・・・それを積み上げれば分かると思うが(実際の計算はメンドイんでやらんw
何か別の次元のお話なんだろうか?
モンタの言う事はあまりにも難解すぎるwwwwwwww
705 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:01:32
辻褄が合わなくなって逃げ出すのかな?
706 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:03:01
707 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 00:05:40
つか倭国大乱は太歳の丁未年だから、太歳の丁未年を調べれば、その辺の話は詳しく伝えられてるよ
日本から見た話と百済や新羅から見た話とでは、女王の名前や國名前がちがってたりはするけど、魏志倭人伝の話も善光女王の話も皇極上皇の話め神巧皇后の話も、同じ時代の同じ出来事を伝えてるだけだよ
太歳の丁未年で確か655年だったけな?
そもそも神巧皇后が仲哀天皇の死後に乾國に進軍し、百済を治めて百済を屯宮としてた話なんて有名な話じゃないの?
何のために仲哀や神巧皇后は九州に行ったのかとか知らないの?
ちなみに卑弥呼の墓は須御山の南の狼山だよ
地元では女神岳って呼ばれてる山で、彼女の息子の新羅王は麓に善光寺まで立ててるってば
何を根拠に6世紀より前に出てるんだよといわれても
三国志は陳寿が晋代に書いたものだし
710 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:13:08
>>596 平定事業を仮託された存在、言わば「シンボル」としての存在と言うのなら
個人が実在したと言うのとは別のお話だよwww
そんなものはそれぞれの人物に関して「実在説」なんて言わないし
むしろ否定する時に用いられるロジックだなwwwww
例:「ヤマトタケルの話は各地の平定、ヤマト王権の勢力の伸長を
言わば擬人化したものであって実在する人物ではない」
とかw
711 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:17:22
712 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:18:11
>>701 「年長じて婚ぜず」では、全く卑彌呼の性質を無視した解釈の仕方だ。
後に梁書にて記されたように、彌呼は一生独身であるとのべられている。
一生独身を前提とする者に対し、年長じて も若年もない。婚しないのは性質
年長じてとは共立された時の状況であり、既に婆だったと、婚せずとは無関係。
婚せずは、宗教とともに、共立された彌呼としての特異性だ。
長じてってのは共立された時や魏使が来た時じゃなくて結婚する年齢になっても、てことじゃね?
714 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:24:23
>>712 何を言いたいのかよく分からんな。「年長じてとは共立された時の状況であり」と言うのは、
共立されたときはかなりの年だったと考えているわけかな?
「婚ぜず」とは王配をとらないという意味で、まぐあわない、子を儲けないと言う意味ではない。
「宗女」とは直径子孫だから、子はいたはず
716 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 00:27:04
>>704 明治以降は元号は天皇の在位期間と定めたからそれが分かればまあ解るよ
ただ、例えば平成元年に産まれた人は、17年後の平成17年の誕生日には17歳じゃなくて16歳だよ
「0歳」なんて数え方に変わったからさ
あと改元や元号を天皇の在位と定めたのは明治時代以降の事だよ
例えば孝明天皇は在位中に5度元号が変わってるよ
天災が起きたから縁起が悪いからかえよーとか、子供が産まれたからめでたい元号にしよーとか、改元の理由も色々だよ
あと改元をするのも天皇じゃなく幕府だしさ
例えば記紀には「神武10年」とか「推古5年」とかあるけど、これは天皇の名前じゃなく元号の名前でしょ?
神武300歳とかってのもあれは年齢じゃなく暦だよ
歳って年齢じゃなく木星や干支の事なんだしさ
例えば推古15年って元号がある
この時の天皇の名前は推古じゃないよ
あと天皇になる事を「即位」とは呼ばないよ
天皇の継承は「践乍」って呼ぶんだよ
治世を行う役職は関白や大将軍や太白であって、この座に付く事を「即位」って言うんだよ
摂政を行うのは天皇じゃないよ
イザナギの時代から、天つ神って自分で國を治めたりしてないでしょ?
717 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:28:28
>>705 あなたの場合、議論の組み立てと言うものをご存知ないようで
ましてやこのような掲示板で逃げるもへったくれもないものだ
あなたの論の組立は、初期段階で破状しているから
今一度組立治してから出直せと伝えたまでだ
718 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:30:54
バカ、推古だとか神武だなんて元号はねえよ
元号は大化からだろが
「践乍」とは、天帝が崩御した直後に剣璽が東宮のもとに運ばれた時点を言い。
「即位」とは、即位式と新嘗祭を済ませた時点を言う。
721 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:34:39
この宗教狂いのババアは、混乱をおさめる為に共立されたと書いてあるだろう。
722 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:37:52
>>717 あなたの議論の組み立てがどうなってるのか、まったく見えんな。
(あなたの意見が何番と何番かもはっきりしないが)
辻褄があった考え方をしているならば、逃げ口上をいう必要はない。
ちゃんと答えればいいんだよ。私の方もちゃんと答えてやる。
723 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 00:42:12
>>708 って、誰が言ってるの?
そもそも陳寿って誰? つか何民族で、どこにいた人なの?
で、晋代って何?
「○○書」って地域だったり氏族の名前じゃないの?
あとちなみに、長年支那大陸を統治してたモンゴル民族にしろ満州民族にしろ、独自の文字を持ってた民族だよ
朝鮮人にしたってハングル文字を持っててハングルを使ってたんだから
日本も神代文字や平仮名カタカナを持ってた民族で、その上で漢字と平仮名とカタカナの3つを使いこなしてただけだよ
チンギスハーンとか、フビライハーンって名前は表意文字でしかない漢字では書けないでしょ?
明や清の皇帝の名前も漢字では愛親覚羅なんて書いてたけど、満州語で「なんとかなんとかギョロ」って名前だよ
わかった、お前日本人じゃないだろ?だから日本語通じないんだろ?
725 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:48:32
>>718 >>721 共立された時に婆さんだったと読む以上は、共立が190などと読むことはできない。
卑弥呼の死亡は250前後。いくら何でも非常識だ。
范曄も当然そのことは考えている。だから、彼は「桓霊の間は乱が続いた」とはしたが、
桓霊時代の直後に共立されたとはせず、共立の時期を後漢末ぐらいまで引っ張っている
んだよ。そこが分からないと、後漢書の意味は理解できないな。
726 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:52:47
727 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 00:58:16
>>719 つーか、確かに今のように元号が統一されてた訳じゃないだろうし、各地域や氏族が勝手に付けてたんだろうね
だから逆に言えば、神武だの推古だのってのを順番に並べる必要もないでしょ?
九州での神武60年ってのは、吉備での景行13年だったのかも知れないしね
あと「天皇」ってのもこれは「あまのすめら」って読むんだよ
万葉集によれば氏族ってか血統てかを表す言葉であって、個人に対して「○○天皇」って付けるような称号じゃないってあるよ
それに朝廷(公家)での摂政を行う最高位は「摂関」だよ
天皇に践乍したからと言って、摂政を行える訳じゃ無いんだよ
孝明天皇もそれで苦労して、結局は朝廷(公家)は滅んじゃった訳だからさ
728 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:03:55
>>725 それはあなたの解釈だ
范曄は桓霊帝の間と記してる。
しかも陳寿とは別の内容で陳寿は共立の原因を相攻伐歴年を鎮める為に、一方范曄は、相攻伐によって失った主不在を補う為にと
全く内容の異なるものだ
729 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:07:19
>>726 ほう、それは失礼。で、共立の時期は190と? →
>>725 それとも、まったく別の考え方かな。
730 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:16:22
>>725 卑弥呼の共立と関係があるから、倭国の大乱の時期を中国の文献は書いて
いるのだろう。大乱の時期と卑弥呼共立の時期が大きく離れていたら、
大乱について書く必要は全くない。
大乱の時期は、後漢書・翰苑などは、桓、霊之間。梁書・北史は、霊帝光和中
となっていて、大乱が2世紀後半であることは間違いないところ。
だったら、卑弥呼は10才そこそこで共立されたと考えればいい。
そうすれば、西暦250年頃死んだとしても、70才か80才ということになる。
古代としては珍しくても、ありえないことではない。
倭人伝の「年已長大」にしても、郡使がやってきたときのことと考えることも
十分すぎるほど可能だし、そちらの方が総合的に考えて妥当なのだから。
731 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 01:26:24
>>724 漢字ってさ、日本見たいに、言葉に合った訓読みを付けないと、名前や地名とかの発音表記や、口術語表記が出来ない文字なんだよ
だから満州族もモンゴル族も朝鮮族も日本族もタイもチベットもどの民族も、表音文字は表音文字として持ってるんだよ
卑弥呼→ヒィ・ヨゥ・クォ
邪馬壹國→ジャ・バァ・イィ・ゴク
こう発音するんだよ
漢字なんてのは日本見たいに訓読みを付けなきゃ、言葉や発音がまるで表せない使えない文字でしかないんだよ
そのまま文字として使える文字じゃないよ
だからモンゴル帝国も清や明の満州民族も自分達の文字を使ってたんだし
732 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:28:54
>>730 あなたは、728氏とは別人だろうな。
>大乱の時期は、後漢書・翰苑などは、桓、霊之間。梁書・北史は、霊帝光和中
>となっていて、大乱が2世紀後半であることは間違いないところ。
しかし、これは倭人伝をどう解釈するか、そこから出てきただけの話だ。
別の資料があって書かれたことではない。倭人伝の解釈がまちがっていたら、全部
こけることになる。倭人伝は本当に倭国乱をそんな時期だと書いているのか、それ
が問題なんだよ。
>卑弥呼は10才そこそこで共立されたと考えればいい。
乱を2世紀後半とみれば、共立時の年齢をそのように見ざるをえない。しかし、倭
人伝の文章や後漢書の文章を素直に読めば、ちょっとおかしいかなとは思うだろ。
そこをごまかさずに、考えてみることが必要なんだよ。
倭国乱の時期がちがっていたのではないか、それが230年代の話なのではないか、
その考え方が榎一雄以来何人かの人が称えている。その方が、年已に長大と合致する
無理のない読み方だ。
733 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 01:39:17
>>720 つかさ「崩御」ってのを「死んだ」って意味だと解釈してるでしょ?
死んだ時には死んだ時で「○○は○○で死んだ」って書いてあるってば
崩御ってのを天皇が死んだと解釈するからおかしくなるんだと思うよ
だいたい記紀ってのは○○天皇なんて書き方じゃなく、イワレビコとかヤマサチヒコって書いてある書物だし
イワレビコが死んだのなら「イワレビコは死んでしまった」って書くよ
つか仲哀とかもそういう書き方してるしさ
734 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:43:26
>>732 倭人伝の記述は、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」となっている。
(その国、もとまた男子を持って王となす。住すること7,80年。)
この男子の王は、後漢書に書かれている倭国王・帥升だろう。
倭人伝より後に書かれた後漢書に書かれているわけだから、当時のほかの
文献から引用したものだろう。倭人伝の陳寿も知っていたに違いない。
帥升が後漢に朝貢したのは、西暦107年だから、倭人伝はその7,80年後、
つまり西暦180年あたりが大乱の時期であることを示唆している。
後のほかの文献が倭人伝を引用したのなら、この時代を考えるだろう。
実際に、梁書や北史の霊帝光和中は、ぴったりと合っている。
卑弥呼共立時の年齢は、のちの台与の例からも妥当性がある。
逆に言えば、卑弥呼が高齢だったことを理由として、大乱の時期をずらす
ほうが不自然だと思う。
735 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 01:47:34
>>732 つか北書や南書や漢書など他の漢籍書も見てるなら、倭国大乱が太歳丁未の年の事って解るでしょ?
つか記紀や漢籍書に書かれてる暦の読み方とか解らないですか?
「○○帝」ってのは暦じゃ無いですよ?
736 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:49:38
男王は神武
帥升は神武の兄さん
政治的配慮から海に身を投じたとしたのだろ
737 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 02:03:37
>>734 >この男子の王は、後漢書に書かれている倭国王・帥升だろう。
その決めつけは、ちょっと無謀だな。「其國本亦以男子爲王、住七八十年」という
のは女王国に関する記載だ。一方、 帥升はもし倭国王としても、北九州の王だった
はず。女王国の元の男王とは考えにくい。
倭人伝はこの帥升の朝貢についてはまったく記載していない。その記載していない
事実を起算点として七、八十年と書くはずはない。
>卑弥呼共立時の年齢は、のちの台与の例からも妥当性がある。
年已に長大はどうみても婆さんという趣旨。一方、台与は十三と明記されている。
台与につき、齢十三、年已に長大とはないだろ。台与が若くして立ったから卑弥呼
も若かったというのは余りにもこじつけだな。
738 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 02:08:37
>>734 >後漢に朝貢したのが西暦170年
まず西暦170年とする根拠は?
つか西暦○○年とか言う前に、太歳が何年の時なの?
それとも漢籍書はキリスト暦で書かれてるんですか?
つか漢籍書で使われてる暦は和暦と同じ24節期でしょ?
日付や太歳や天白は干支で書いてあるでしょ?
○○帝とかなんてのは暦じゃ無いんだから、「○○帝とあるから西暦○○年だ」なんてならないよ
卑弥呼や神武の年代を言う人は、みんな「○○帝だから」とか「景行○○年だから」とか言うけど、旧暦の成り立ちとかマジで理解してないんすか?
739 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 03:12:01
>>737 では、男王とは誰のことなのか。それをどうして陳寿が知っているのか、
ということになる。帥升であれば、後漢書に書かれていることからも
参考になる記録があったことになるわけだから。
そう、帥升は、どう考えても九州にいたのであり、その系統に卑弥呼や台与が
いることになる。つまり、邪馬台国は九州ということ。
だから、「年已長大」というのは、郡使がやってきた正始元年(西暦240年)
以降のこと。そのときすでに年が長大だったということになる。
共立のとき高齢だと解釈するから、死んだときの年齢が異常に高いとか、
倭国の大乱の時期が異なるとか。あるいは卑弥呼共立は倭国の大乱のずっと
後だとか、不自然な解釈をしなくては成り立たなくなってしまう。
740 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 04:04:59
つか漢籍書みてきたけど干支が良く解らないや
けど「倭国乱」はなんとなくわかった
これ単に壬申の乱じゃん
手元に年表があるんだけど
・神武東征服
・祟神記
・垂任記
・景行記
・仲哀記
・仁徳記
あと推古も持統も天智も天武も、海幸彦山幸彦も、、、
なんか、これら単に全部同じ時代の同じ事柄の話でしょ?
壬申の乱に参加してたのが
蘇我氏、物部氏、大伴氏、藤原鎌足、中大臣王子、隼人、中友氏、天智、天武、持統、額田女王、新羅、百済、近江、飛鳥、藤原、美濃、筑紫、吉備、秦氏、漢氏、、、
神武の東征にしろ天武の遷都にしろ、山幸彦の話にしろ、似たような話ばかりだし
741 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 07:21:02
>>739 男王が誰か、書いてないことは無理に誰かに当てはめる必要はない。
使者が邪馬台国で、男王の時代が七八十年続き、その後卑弥呼が王になったと聞いたんだろう。
帥升は男王だろうが、王がいなかったのにいきなり帥升が倭国王になったわけではなく、帥升
の前にも、何人か王がいたと考える方が自然だろう(これは北九州主導の時代だろう)。
「年已長大」が、郡使がやってきた正始元年(西暦240年)を基準にしているとは文章には表れて
いない。文章的には、共立と読むべきだ。従来から学者は、倭国大乱を2世紀後半、年已長大を
婆さんとした上、その矛盾を解決するために、年已長大を誤りとしてきたんだ(年已長大が使者
の訪問時だと読めるならば学者だって苦労しないさ)。私は、それを逆に倭国乱の時期の方がま
ちがっていると考えるだけ。倭国乱が2世紀後半なんて、倭人伝にはどこにも書いてない。学者
は後漢書や梁書にあるからとそれにこだわったが、資料がいくつあろうがそれが頼りにならない
ものならばそちらを駄目とすべきなんだよ。
742 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 07:43:38
>>741 史料があてにならないとは現代人のまこと勝手な言い分だよ
しかも倭人からの聞いた話しだなんて想像しちゃって。
倭人伝は倭人伝聞じゃないぞ
卑弥呼共立に至る原因が、後漢書と魏志倭人伝とでは異なるのであるから、全く違った出来事と読むべきだ。
魏の時代にも倭国は乱れたと、しかも卑弥呼はどちらもババアで共立された。
743 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 08:13:44
倭人から聞かなければ、男王時代が七八十年続いたということは分からない。
魏にそんな継続的な資料が残っていたとは思えないからね。
全く違った出来事? 卑弥呼が2人いたってお話か? 私はそんな話にはまったく
乗る気はない。ご勝手にどうぞ。
744 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 08:28:01
倭国乱は桓霊の間と書いてありますよ。
公孫淵の自立と魏による楽浪帯方攻略の混乱がなければもうちょっといろいろ伝わってたんだろうけどなあ
746 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 08:40:20
>>741 邪馬壹國の本国(日本)では780年って意味じゃないの?
還暦×13が丁度780年だよ
歴を向かえたとかなんとかって、そういう意味じゃないんかな?
干支を当てはめてそれっぽい事なら何でもいいのかよw
糞コテは何の意図で荒らしているのかね?
卑弥呼共立は20歳前後で190年頃で、倭国大乱とは勿論それ以前の事。
倭人伝だけでなく色々記述をまとめて判断すると当然こうなる。
749 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 09:33:44
倭は漢や公孫氏にも入朝していた、
帯方郡は公孫氏代に置かれたものだから
帯方郡は魏代以前の記録も持っていたはず。
750 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 09:45:49
>>748 それを想像と言う。
歴史は頭の中で描くのではなく、与えられた史料を受け止めるだけ。
二十歳などと勝手な想像は許されないのも歴史
年長と書いてあれば高齢で共立と読むのが歴史。
751 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 09:46:08
帯方郡は魏代以前の記録も持っていたはず。→帯方郡には魏代以前の記録も持っていたはず。
帯方郡は公孫氏が魏に滅ぼされてもそのまま存続し
下級役人や資料は公孫氏はら魏に引き継がれたようだ。
752 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 09:49:22
>>744 倭国が乱れたのは後漢時代末だけじゃなく、魏の時代も乱れたと書いてあります。
>>750 与えられた史料を元に判断すると二十歳程度となります。
年長なのは当然魏の使者が後年やってきた時点での記述ですが。
>>744 桓霊の間とあるが、桓霊時代の終わりと同時に乱が終わったというわけではない。
七八十年という期間を乱の続いた期間と誤解して、少なくとも桓霊の間は乱が続いて
いたと判断して書いたのだろう。桓霊の間は中国における争乱時代、その後も政情不
安が続いて後漢は滅亡した。倭国においても同様に後漢末まで乱れていたと言いたか
ったんだと思うよ。
755 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:25:05
>>753 それを恣意的な判断といいます。
基点は共立時であり、魏使の訪れた時等とは書かれていません。
共立時既に高齢と書かれています。
756 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:29:59
「復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王」とあるから
卑弥呼も壱与と同じ十三くらいでの共立でしょう。
古来、日本では童子には霊力があると考えられていた
現在も阿蘇の火焚乙女などが残る。
死んだらまた国が乱れるのに、何時死ぬかも分からぬババアを共立してもしょうがない。
757 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:33:50
@卑弥呼共立以前の様子
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」
A卑弥呼共立
「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
@現在の卑弥呼の様子
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
>>755 >それを恣意的な判断といいます。
それは貴方にも言える事ですよw
「共立時に」既に高齢とも書かれてません。
更に使いが一度の見聞を基にしてるとも書かれてません。
759 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:46:34
>>758 それは単なる揚げ足取り
高齢がいやなら年長、年已長大としますか?
しかも
私は一度も、一度だけの見聞とは申していません。
編纂視点が共立にあると述べてるのです。
後漢書、魏志倭人伝と、対象年代が異なる書にて
共立に至る経緯が異なって書かれていれば、二つの出来事は別物と素直に判断するしかありません
760 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:48:38
>>756 あなたがいくら否定しても、それが史料事実なのです。
>@現在の卑弥呼の様子
>「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
現在とは倭人伝を記載した時かな? もう卑弥呼は死んでるよ。
762 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 12:04:12
>>754 「後漢」って朝廷や時代の名前じゃなく、単に書物の名前だよ
1、漢書→地理の書
2、後漢書→帝記、東夷書、郡志記、鮮卑書
763 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 12:17:35
>>762 単に書物の名前でも何でも構わないが、区別するための名称だよ
少し物言いが多いようだな
764 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 12:31:36
>>763 書物を区別する必要は無いでしょ?
・帝記
・地理志
・東夷伝
どの漢籍書も基本的にこの三つだよ
んで、帝記ってさ
・倭国
・百済
・高句麗
の、三国の帝の事が書いてあるよ
魏志倭人伝は「三国史」の書の「東夷伝」の中の記述だよ
ちなみに東夷伝を一番詳しく書いてあるのが「北書・南書」だよ
他の書物も参考にした方がいいよ
ちなみに漢書ってのは地理志の書だから、地理や民族の事とか詳しく書いてあるよ
765 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 12:33:43
>>761 魏使が卑弥呼と会った当時を現在としています。
@卑弥呼共立以前の様子
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」
A卑弥呼共立
「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
B現在の卑弥呼の様子
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
@は魏使が倭人に聞いたか郡の資料で知っていた情報。
Bは魏使が直接見聞した情報。
766 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 12:40:06
767 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 12:43:11
768 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 12:54:42
>>765 共立された時に卑弥呼の年齢が既に長大なら
「年已長大」の文は「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
の前に書かれてますよ。
「年已長大」は魏使が訪れた時点のことです。
769 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 13:02:58
>>765 「共立」って共に立てるって意味ですか?
倭王が率いた、倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の半島にあった6国の軍事同盟の事じゃないの?
この軍事同盟が朝廷に対してクーデターを行って、朝廷を倒して遷都したって話でしょ?
宋書にはそうかいてあるよ
単にその時の事でしょ?
ちなみに東夷伝に出てくる朝廷って日本の飛鳥朝廷の事だよ
770 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 13:10:10
まず南書や漢書で「倭国」の位置をきちんと確認した方が良いよ
韓国の南部が百済、倭国だよ
で北部の帯方郡が高句麗
で、東の大海の中に朝廷があるんだよ
>>759 自分の意に反した意見は挙げ足とりですか?
それに素直に読んでもあなたのような解釈には至りませんが。
772 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/30(火) 13:15:16
漢(韓)、親魏(シラギ)、倭の国王
これが倭王だよ
ただ朝廷のある大海中の島に関しては「皆倭種」ってあるように、朝廷と倭国は同じ人種だよ
高句麗は朝鮮族って書いてあるよ
773 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 13:19:37
「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」の「女子」とは
分別の付かない女のことです。
卑弥呼は共立された時点では分別の付かない女だった。
ババアで分別の付かない女の卑弥呼は共立されない
成長が期待される子供だから
分別の付かない女でも卑弥呼は共立されたんだ。
>>765 >Bは魏使が直接見聞した情報。
一般的にはそう解釈して間違いではないだろうが、「年已長大」は魏使が訪れた時点のことではなく、
共立された時は已にという意味だよ。文章的にそれは当然のことだ。
この場合女子は普通に若い女と解釈するよね。
ここは議論の余地がない部分だと思ってたが、一部の連中には違うのかw
776 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 13:33:27
>>775 日本語じゃないんですから女子は若い女ではありません。
「子曰く、唯女子と小人(しょうにん)とは養い難(かた)しと為すなり。これを近づくれば則(すなわ)ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む。(陽貨第十七―25)」
女子とは「妾」などの分別の付かない卑しい女の意味です。
漢文知ってるの?
777 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 13:37:29
>>774 >文章的にそれは当然のことだ。
何故???
女子という言葉には、おんなの子という意味と、単に女性という意味とがある。女子と小人とは養い難しという
言葉があるが、その場合は若い女に限らず、女性をさしていることは分かるだろ。
どちらの意味に使われてるかは解釈の要があるが、倭人伝の場合は女性という意味にすぎない。若い女だと解釈
する学者はいないと思うな。
>>777 已にの基準は文章に表れていなければならないからだよ。文章をさかのぼって
何が基準かをさがせば、共立しかありえないということだ。
780 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:15:46
782 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:23:41
784 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:35:30
皆バカか冗談か?
女子という言葉には、漢文では単に女性という意味ではない。女子と小人とは養い難しという
言葉があるが、その場合は卑しい女性をさしている。(妾など)
漢文では教養のある女性は婦人などと書く。
ちなみに小人とは子供ではなく、器量の小さい男(使用人など)の意味。
785 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:39:50
「女子」だった者が「年已長大」になっている
この間に長い時間がたっていることが分かる。
>>776 当然単純に日本語的解釈で「女子」を若い女と解釈してるわけではない。
この場合は文脈の前後で若い女と判断できると思うけど。
年老いた妾?それは無いでしょ。
>皆バカか冗談か?
お前が言ってるのは、日本語だろ。
中国語で「女子」といえばどうなる?
788 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 15:42:50
789 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 16:29:22
>>786 「女子」は妾などの無教養な分別の付かない女のこと。
>この場合は文脈の前後で若い女と判断できると思うけど。
この場合は若い女(童女)、まだ無教養な分別の付かない女ですね。
>年老いた妾?それは無いでしょ。
無いですよ。
790 :
ローガン:2009/06/30(火) 16:43:10
>>757 > @卑弥呼共立以前の様子 「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」
> A卑弥呼共立 「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
> @現在の卑弥呼の様子 「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
そうでしょうか? 能惑衆 は共立以前ではないでしょうか?
自為王以来少有見者ですから… 鬼道が実際にどういうものかは知りませんが、
衆を惑わすという行為を、共立されてからは行わなかったのでしょう。 衆に姿を見せないのですから。
791 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 16:54:28
衆に姿を見せなくとも事鬼道は出来るでしょう
卑弥呼の事鬼道の結果を「男子一人」が衆に伝えればいい
衆を惑わすのは現在の卑弥呼の様子でしょう。
共立以前の一女子が能惑衆のは変。
792 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 16:58:34
>>790 「事鬼道 能惑衆」は、政治のあり方を示していると思う。
だから、「年已長大」となったときのことだろう。
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」のあとには、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入」
が続く。これはまず間違いなく、共立時の様子ではない。
だから、「事鬼道 能惑衆」以降は、郡使が見聞きしたものだと思う。
また、台与が王になった経緯、
「卑彌呼以死…更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
は、同じ国の出来事であり、時代も近いので無視できないと思う。
793 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:08:03
鬼道=SEXテク と俺は見ている。
各地の大王達を宥めるにはそれが一番だからな。
マムコに箸を挿して死んだというのも、
それから派生した言い伝えだろう。
794 :
ローガン:2009/06/30(火) 17:51:08
>>791 > 共立以前の一女子が能惑衆のは変。
そうかもしれませんが…
相攻伐する者が何故、共に「一女子」を立てて王としたのか?
卑弥呼が担がれた要因…
彼女が生来持ち合わせたカリスマ性というか能力を簡単に説明している部分であると思います。
795 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 18:06:46
卑弥呼の家系に霊能力ありカリスマ性があったのだろう。
「復立卑彌呼宗女壹與」とまた親戚の童女を王にしてますから。
別に有力な豪族の家系だった、で良いじゃねーか
有力な豪族の家系だの、霊能力だの、カリスマ性だのは無意味。
多くの大王達がうなるテクがあった。
これが全て。
798 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:32:51
>>794 能惑衆。相攻伐していた双方の勢力が、そんな能力をあがめるかな?
共立の理由はほかにあるんだよ。一つには、倭国乱の戦いで女王国を指揮していた男王では
ないということ。北の諸国は、男王についてはいろいろ恨みもあったろう。男王には従えな
い、男王でなければ、和睦(実質的には降伏)も仕方がない。そんなところだろう。
もう一つには、女王国側が魏側の反発をおそれたということだろう。
北九州は、地理的に後漢や魏に接近していたはず。対して、女王国は南にあるから呉に接
近していた可能性が高い。その女王国が北九州を実質、征服した。魏からすれば配下をやら
れたに等しい。しかし、北九州も女王を共立したとなれば、北九州の面子も立っているわけ
だから、魏が拳を振り上げるのもどうかとなる。その辺をねらって、共立ということを強調
したんだろう。
799 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:37:35
>>794 それは、卑弥呼の死後、男王が立つと不満続出で争いあう。
ところが、少女の台与を王にするとなぜか国中が定まってしまう。
卑弥呼共立も同じような状況と考えられる。
つまり、卑弥呼も跡継ぎをめぐる争いの結果、共立された。
そう考えるのが妥当じゃないかな。
それで、倭人伝の記述、「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、
相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼…」も無理なく理解できる。
三十ヶ国の頂点にある邪馬台国は、卑弥呼のときに出来たのではなく、
倭人伝の男子の王のときにあった。というよりも、その男子の王のときに
邪馬台国は、三十カ国の頂点に立ったと思う。
800 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:06:19
邪馬台国は北部九州の倭の国々の連合体。
卑弥呼を邪馬台国の王に倭の国々が共立した。
都の名を卑弥呼に因んで倭奴国から伊都国と改めた。
801 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:06:48
邪馬台国が九州のどこなのかが課題だな
福岡か大分あたりだと誰もが予想しているのが現実だ
802 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:17:16
邪馬台国は福岡、佐賀を中心に大分、熊本、長崎も含んでいた可能性がある。
803 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:34:05
>>802 あると思います、だから墓の特定が厳しいとも言えます。
急に書き込みのレベルが下がったなw
805 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:40:06
魏志倭人伝には河童についての記述がない、そこがネックですね。卑弥呼は河童と深いかかわりがあったと言えます。
河童伝説の地が邪馬台国の手掛かりになることは間違いないでしょう
806 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:45:01
前レスにも書いたが、中国Wikiの年代観はこんな感じ。
>卑弥呼女王在位七十多年,於九十多歳高齢去世。死後大作冢,四周長百余歩,殉葬奴
百人。
在位70数年、寿命90数歳というのは、三国史記新羅本紀の、
>173年 - 倭国女王卑弥呼派遣使者,出使新羅。
この記事を採用しているためと思われる。まあ、独自解釈といわれそうな部分もあるが、中国
でWikiを書くほどの歴史好きは、こんな風に見てるってことだね。
807 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 21:03:57
歴史は人の手によって作られる。
「魏」という字は、委(ゆだ)ねる鬼と書き、「倭」は人に委ねると書きます。
委ねるものは何か?それは魂です。
武力(=鬼)によって世の中を平定しようとしたのが「魏」、人の和をもって貴しとし
たのが「倭」、つまり、魏と倭は、意見の相違によって袂を分けた同根の兄弟だっ
たのです。
これですべての謎は解けた!
808 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 21:12:04
河童はある!それらしい事はたしかに書いてある!!!
鬼道って言うのは今でもある。
政治家が占い師の占いで解散日を決めたとか
手かざしで病気を治して宗教の開祖となったとか、
そういうものが、今でも人々の支持を集めるし、
まつりごとで利用されたりする。
これが3世紀なら、もう政治の中心になるのは当然の事。
810 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:19:16
811 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:27:02
812 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:40:13
>>806 新羅本記は怪しい。
2世紀は新羅建国前なので、卑弥呼が使者を送るような国はまだないから。
後世の挿入と思われるので、実際に、西暦173年に卑弥呼がいたかどうかも
不明だと思う。
>>807 人に委ねると鬼に委ねるって昔漫画でありましたよね
814 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:46:51
きょうの大雨に関する報道を見ても、九州は自然災害に極端に弱いことがわかりります。
邪馬台国も筑後川の氾濫によって一夜で川底に沈んだとすれば、いまだに遺跡が発見
されない理由がわかります。
まあ、自然災害の少ない畿内に遷都したのも邪馬台国の生き残りだし、あの辺りは今で
も栄えていることを考えると、先見の明があったといえます。
畿内への入り口、河内湖の存在が気になります。
トヨが13歳で巫女王になっている事からしても、卑弥呼も少女時代に位についたと思われる
816 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:52:32
(事鬼道 能惑衆) (年已長大 無夫婿) (有男弟 佐治國)
(鬼道を事とし 能く衆を惑わす)
(年已に長大なれど 夫婿無し)
(男弟有りて 治国を佐く)
共立以後の卑弥呼の様子を説明する文と考えられる。
だから共立の時に卑弥呼が年寄りなどとは言えない。
817 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:54:49
>>812 新羅は356年頃成立らしいから、
173年の記事は斯廬国時代のものだろう
173年には卑弥呼はいないだろうし、
いたとしても王になったばかりで
国も治まらず使者はまだ送くらんだろう。
古い時代は干支で記録されているから60年後の
233年のことかな。
三国史記なんて12世紀に書かれたものだろ。。。。
819 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:07:27
>>816 時間はすべて同一時間、
共立時卑弥呼はババア
820 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:08:09
821 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:13:26
まだ
>>819みたいなのがいたのか。
根拠はなんだ?
822 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:13:50
1000年以上前の事を書いたものの何年が合ってるだとか・・・
常識で考えろ。
トヨが王位についたってのは眉唾だよ
狗奴国と紛争中だぜ
内乱が起こり誅殺もされたなら普通は権力の集中があって当然
なんのための内乱か?って話なわけ
倭人伝は辻褄が合わないことだらけ
825 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:21:24
>>824 倭人伝の辻褄は合っている。
合わないのは貴方の頭。
826 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:24:29
>>823 まあそのとうりなんだが、日本書紀だって実は、720完成ー神武即位前660 と建前上は
1000年以上前のことの記録なんだな。
今までの日本の歴史の中で内乱が怒った時を考えればいい
共立という妥協でコトが収まった例など無いのに連続してそれが起こったわけだ
100%ありえません
>>826 そうだが?
三国史記、日本書紀、古事記とも、それを踏まえた議論をしろって事だぞ。
三国史記と日本書紀、古事記に優劣を付けたがってるなんて、
もしかしてチョンか?
徳川家康は共立ではないのか?
徳川将軍と諸大名(元から徳川家臣団だった者を除く)が正式に君臣関係を結んだのは家光からだ
830 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:43:24
丘の上という言い方からして邪馬台国が平野であるのは確実、だか災害なので地形も変わってることを考慮しても
筑後川近辺が邪馬台国であることは確定だらう
この時の共立という妥協で一番近いのは幕末時の大政奉還。
案の定、すぐに失敗してます。
やはり、多くの人の血が流れれば妥協なんてありえない。
古今東西見廻してもそんなコトは不可能。
崇神で皇統が入れ替わったというなら話は違ってくるけど。
833 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:14:01
まあ徳川幕府も明治新政府も「妥協」の産物だわなw
関が原で敗れた西国大名を皆殺しにしたわけでもないし
明治維新を禄高からすりゃ当時田舎大名にも劣るような朝廷が単独でやったわけでもない。
薩長が主導権を争いお互いを牽制しつつも妥協して何とか維新に漕ぎつけたとw
834 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:15:30
だから河童ちゅーのは逆輸入で先祖の土地にもどってきたんだろう、先祖が邪馬台国の国民な
だから水辺なんだよ、そう考えても邪馬台国は九州だという証明になるわけだよ
>>832 >やはり、多くの人の血が流れれば妥協なんてありえない。
>古今東西見廻してもそんなコトは不可能。
そうでしょうか?
応仁の乱の顛末なんて、そんな感じですけどね。
三角縁神獣鏡の年号の間違いが、リアルタイムで
日本で作成された事を物語っているという説があるな。
古墳の時代も繰り上がってほぼ同時期になっている。
魏鏡の広がりが邪馬台国の広がりに近いと考えていいのではないだろうか。
837 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:18:55
身体が緑つーのも入れ墨の例えなんだよ 頭に皿は鏡をあらわしているに違いない
838 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:20:53
>>835 >応仁の乱の顛末
まあ始まりの部分からして足利将軍が如何にお飾りだったかって事だよなwww
応仁の乱は、いわば全国の在地武士層に戦争気運が高まりきって、
それに中央が押されて火がついた様な物だな
全土で、隣地との勢力争い、身内での相続争い、下克上の気運、そんな悶々と蓄積されたものを
いちど整理するためにも応仁の乱はおこるべき物だったんだよ
だから、地方が戦に疲れたら自然と乱は収まった
細川勝元なんて途中で東軍西軍の総大将を入れ替わっているんだぜ
乱そのものが必要なんであって、対象は誰でもいいのさ、そこが源平合戦とは全然違うところ
840 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:43:03
しかし考えてみれば
「歴史に妥協なんてありえない強者が常に天下を獲る!」
なんて事を言い出した日には天皇家なんか今日まで続いているはずも無いわなw
そう言う意味では日本人と言うのは世界的に見ても
「妥協」が好きな国民性なんじゃないだろうか?www
天皇は相撲の行司みたいな物なんでは
試合は臣下にやらせて、どちらか勝敗が付けば軍配を上げる係
最高任命権者として誰か居ないと、将軍宣下も出来ない
つまりオレがオレがで自称将軍が乱立して収まらなくなる
だから最後の最後で、天皇が出て勝者に栄冠を乗せる
>>841 そう言うジャッジマンを生かしておく事自体が妥協の産物。
強者にとって 「俺サマがルール」 と言うのが一番都合が良いのは自明w
843 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 01:00:51
わしが卑弥呼の祖先だ
844 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 01:07:05
わあお
ごせんぞさま!
____
/__.))ノヽ
.|ミ.l _ ._ i.)
(^'ミ/.´・ .〈・ リ
.しi r、_) |
| `ニニ' /
ノ `ー―i
卑弥呼はワシが育てた
こんなとこまで汚痴信かよ。
天皇が神であり、日本は天皇中心の国家なんて考えは、
江戸時代に国学派が勝手に言い出したもの。
古事記が正しい、魏志倭人伝は出鱈目だという基地外まで生み出した。
ジャッジマン(と言うかただの行司)として権威を持たせるために、神に祭り上げられたのが天皇の姿では
卑弥呼もそういう身分であると考えれば、十分共立と言える
まあ、その実態を読み取って、あえて「共立」と伝えた中国の見識は鋭かったといえるな
849 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 01:33:30
天皇が神の子孫という考えは古くからあって、それが独特のカリスマ性に
結びついていた。だから、蘇我氏や藤原氏は、天皇の外祖父として権力を
振るうことになる。
葛城氏なんかもそれをやっていたらしいから、その神性がいつ始まったかは
興味のあるところ。継体天皇もそれに乗っかっていると言えなくもない。
天皇が「神の子孫」というからには、臣下が同じ「神」を崇めていないといけないな
邪馬台国に共通の信仰はあったのか、卑弥呼は神の子孫なのか
女王と言うからには権威の根源についても論じてみる必要がある
851 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 02:09:19
>>847 >魏志倭人伝は出鱈目
九州説でいうなら、邪馬台国は大和とは別の九州の王国なんだから、デタラメでは無いな。
記紀も、天皇が中国から金印をもらったとは書いてないのだからデタラメではない。
九州説うぃ唱えてる奴は馬鹿と言うことが良く分かった。
考古学界じゃ九州説を唱える人はほとんど無いらしいしな。
854 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 10:34:20
九州説では研究費用がでないからだろう、考古学者なんていい加減てよく言うだろうww
855 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 13:51:38
>>853 考古学会って、出雲には何もなかったとか逝ってて大恥かいたところだっけ?
856 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 13:54:00
畿内説うぃ唱えてる奴は馬鹿と言うことが良く分かった。
>>855 恥かいたから反省したんだろう。
だから九州説より堅い畿内説にまわったんだよw
858 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 15:10:13
859 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 15:38:45
奈良の大仏もっこりにはワロタ
860 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 16:22:27
>>853 内部でかなり厳しい締め付けがあるようだからね。
逆らえんのだよ。生活がかかっているからね。
861 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 17:13:45
島根県の荒神谷遺跡から、358本もの銅剣が見つかった。
銅剣といえば九州を連想するのが普通で、九州から持ち込まれたのかなと思ったら、
なんと畿内で作って持ち込んだという説もあるらしい。
他にも、出雲で作ったという説もある。
荒神谷遺跡では、16本の銅矛と6個の銅鐸も見つかっている。
銅矛は、綾杉文という九州独特の文様があり、九州から持ち込まれたのは
だいたい間違いないらしい。
銅鐸は、かなり古い形式らしく、佐原真氏の分類では、最古式あるいは
それに続く形式らしい。
畿内説の学者は、銅剣と銅鐸は、畿内から持ち込まれたと主張する。
だから、出雲と畿内は古くから関係があったということになる。
もちろん、畿内の方が主導権を持っていたということだろう。
考古学の解釈はなかなか難しいものだと思う。
862 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 17:27:54
>>861 >畿内説の学者は、銅剣と銅鐸は、畿内から持ち込まれたと主張する。
畿内説の学者という言い方はまずかったかもしれない。
一応訂正。
高橋 徹ということがこんなことを言っている。
考古学という学問が寄って立つ基本は「モノをして語らせる」ということで
ある。検出された遺物や遺構をこまかく調べることによって、そのモノが
現代人に何を問いかけるかを解読して歴史をよみがえさせる。
遺物・遺構をもとに、論を組み立てたのなら、その論を否定するモノが出土
した場合には、当然その論は崩壊すべきものである。
残念ながら考古学界の一部にはこの「モノをして語らせる」という大原則を
忘れて、意見を述べる人々がいる。例えば全国の総数に匹敵する銅剣が出雲に
あるにもかかわらず、極めて出土数の少ない畿内の勢力がそれを製作して、
出雲に与えたというような説である。
これは単なる解釈でしかなく裏付け資料はない。現在の分布論が否定された
からといって、こういう解釈ばかりもてあそんでいては考古学への信用を
失うのではなかろうか。
863 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:29:47
学者っていう職業は不自由なもので、一度言いだした学説は曲げてはならない。
主張がぶれる、転向したなどといった批判されれば学者生命自体が脅かされる。
しかし、たとえ学説が間違っていたとしても、一貫して自説の正しさを主張し続ければ、
偉い学者だとして尊敬される。象牙の塔とはそういうものです。
だから、高名な学者の説が正しさとは限らないのです。評価軸が違うのです。
出雲と北九州で交流があったことは想像に難くない。
北九州と出雲の勢力は佐渡から五島列島までを活動の範囲とし
瀬戸内にも足を延ばしていた。
しかし国生み神話に天草や屋久島、種子島が出てこないところを見ると
熊本以南はこの北九州・出雲の勢力範囲外だったと思える。
865 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:50:48
>>863 >学者っていう職業は不自由なもので、一度言いだした学説は曲げてはならない。
安本のことか?
>>864 九州と出雲が交流があったなら、出雲と交流のあった畿内を知らないはずがない。
これで九州説は崩壊する。
>>865 畿内は北九州経由で海路で出雲と交流していたのではないかな。
867 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 21:31:38
不純異性交流が中心
869 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:12:53
あのさ、実際に証拠となる物はどっちが多く出てる?
魏志倭人伝で言えば九州なんだけどさ
870 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:28:54
証拠なんてひとつも無いよ。
魏志倭人伝の文言を解釈してるだけ。
871 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:56:21
「親魏倭王」の金印が出たらまず間違いないだろうけどね。
他に、難升米に「率善中郎将」、牛利に「率善校尉」の銀印青綬を与えたと
書かれている。
また、伊聲耆、掖邪狗等八人?も「率善中郎将」の印綬をもらったと書かれて
いるので、印の一つくらい出てきてもよさそうなものだが。
872 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:43:25
あんたを大将に任命するとか、黄色い旗をあげたりとかしてんのに
狗奴国との紛争解決依頼され軍事顧問送ったりで
話がロンドンとパリ向いてるんだよ
変な話だ、全く
>>873 地名って?
たくさんあるなら一つ二つ具体例を
語呂合わせは不毛
>>874 お前それでよく古代史に話突っ込めるなw
三輪、桜井周辺だけでも痕跡はいっぱいあるだろ。
他でもないこの地域の古代の名前が「出雲庄」だ。
それに野見宿禰の話位は知ってるだろ。
あと飛鳥時代より昔に河内南部を収めていた
古い豪族「丹比氏」は出雲出身ですよ。
出雲・吉備と畿内の関係すら知らない奴が
邪馬台国の場所云々言っちゃだめです。
879 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 12:32:29
>>878 ほほう。ではどういう関係だったんですか?
>>879 眼の前の箱か、図書館でも行って調べて来なさい。
881 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 12:45:37
>>880 解りもしねえくせしていつもそうやって逃げてんじゃねーよ。カス!
二度とくんな。ぺっ!
>>881 >>881 なんだ?嫌な事でもあったのかw
畿内と出雲・吉備の関係なんてわざわざ講釈たれるような事かよ。
土器その他の出土状況や神話での逸話の数々、
そして土地名での伝承等でいくらでもあるでしょ。
883 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 14:18:27
箸墓のある巻向周辺は平安時代以前も「出雲庄」と言われてますよ。
箸墓とは土師の墓から由来してるでしょう。
(箸なんて3〜4世紀にはまだありませんから)
箸墓の伝承‥「昼は人が造り、夜は神が造った」
(三輪からみて夜の方角とは二上山の事です)
土師氏の祖先=野見宿禰=出雲出身
土師氏=二上山周辺一帯の石を扱う一族
河内一帯を仕切っていた古代豪族=丹比氏=出雲出身
そして箸墓自体は吉備の影響も大きいのは言うまでもありません。
箸墓が240〜260年頃のものだとすると、邪馬台国の存在したと
される同年代に、巻向に出雲・吉備・河内が関連した
国が存在したという事です。
箸墓がモモソ媛の墓だとすると、少なくとも
国々が共立した女王という条件には近いという事ですね。
887 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 15:48:33
888 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 15:55:40
=≡.i≡ミ 、
,|《ソ⌒⌒ヾ.||
.||||| 〜 〜 ||||
||||,! ` .. ´ !|||
.|||( ノ 3ヽ )|||.< うんこマン、こんにちは。
巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧
/ \ ( ) やあ、ウンコマン。ウンコマンは君だ。
.__| |
>>883 | |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 臭いぞ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. ひさしぶり! ウンコマン!
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 生きてたんだな \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 馬鹿なところは変わってねえなw
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ (⌒\|__./ /
. 〜\_____ノ|
890 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 16:06:49
=≡.i≡ミ 、
,|《ソ⌒⌒ヾ.||
.||||| 〜 〜 ||||
||||,! ` .. ´ !|||
.|||( ノ 3ヽ )|||.< うんこマンは君だ!
巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧
/ \ ( ) 残念!やっぱりウンコマンは君だ。
.__| |
>>888 | |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 臭いな \| ( )
| ヽ \/ ヽ. レスがつまらないぞ。 ウンコマン!
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 臭い香具師め \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 自分の臭さに早く気がつけw
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ (⌒\|__./ /
. 〜\_____ノ|
891 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 16:11:27
出雲と畿内の関係が深いという事は、どうころんでも
邪馬台国=北部九州説は無いという事ですね。
893 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 19:00:27
>>892 >>861とか読んだ?
荒神谷遺跡では、銅剣、銅鐸、銅矛が見つかっている。
銅矛は確かな証拠があって、誰もが九州系のものと認めている。
だから、九州と関係がないということはない。
銅剣と銅鐸については意見が分かれる。
どちらも畿内からのものだという人もいれば、どちらも九州系のものだと
言う人もいる。もちろん、どちらも出雲で作られたという人もいるだろう。
荒神谷遺跡の銅器は、弥生中期あたりのけっこう古いものだが、このあたり
どうなんだろうな。
>>871 九州説の人は、仮に畿内で金印が見つかっても
東征とともに金印も移動した、と主張すると思う。
895 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 19:19:30
>>893 なにか勘違いしてる?
>>892は、邪馬台国は畿内だと言ってるんだけど?
なにも間違って無いよ。
896 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 19:22:07
>>895 出雲と畿内の関係が深いということじゃなかったのかい。
>>896 北部九州と出雲が、更に出雲と畿内の関係が深いとなると、
魏史倭人伝の30国というのは、九州内部の事では無いという事でしょう。
5万戸、7万戸という数字だけで九州をはみ出す
899 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 20:49:46
倭人の移動能力と意欲を甘く見過ぎてる。縄文晩期には青森を指標とする亀ヶ岡式土器
が近畿まで届いた。弥生中期には福岡の遠賀川系土器が青森まで到達している。これは
ごく一例であり、様々な遺物の出土状況より、縄文期から人は列島内をきわめて活発に移
動していることがわかる。
2〜3世紀頃なら九州ー出雲ー畿内その他、北陸、東海なども当然互いの存在を知ってい
るはず。したがって交流の見られない時期があるなら、それは何らかの政治的状況によるも
のだろう。
900 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 20:50:15
奴国(那珂川水系か)が2万戸だから、
投馬国5万戸は遠賀川水系、
邪馬台国7万戸は筑後川水系
で問題ないだろ?
>>900 > 奴国(那珂川水系か)が2万戸だから、 投馬国5万戸は遠賀川水系、
> 邪馬台国7万戸は筑後川水系
> で問題ないだろ?
根拠は?
902 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:04:15
うんこマン出てこいや
>>900 人口ではなく戸ですよ?少し無理があるでしょ。
生活を維持出来るとは思えないけど。
奈良時代の日本の人口は約500万人、農地は100万町歩(約120万ヘクタール)。
1戸=父母+息子夫婦3世帯と仮定して、口分田の支給率で行くと、
1戸=2段×男4人+2段×2/3×女4人=13.3段=160アール=1.6ヘクタール(126m四方)。
1,200,000÷1.6=750,000
奈良時代でさえ、全国で75万戸なのだ。
>>900 奴国2万戸+投馬国5万戸+邪馬台国7万戸=14万戸
奈良時代の前耕地面積の五分の一、これが北部九州に収まるかな?
905 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:20:50
>>904 九州全体なら楽勝でしょうが、北部九州だと問題ないぐらいでしょう。
>>905 九州全体で何とか可能という数字だと思うけど。
907 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:40:21
30国だとすると、およそ20万戸。人口にして百万から百三十万ぐらいかな。
北九州だけではあふれてしまう。しかし、列島全体ではあまりにも少ない。
やはり九州全体とみるのがもっとも自然だね。
908 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:44:59
今の呼び名が九州
昔の呼び名が邪馬台国
邪馬台国の中に色々国があったわけだがWWW
平安中期で、西海道(九州) 11万町歩
110,000÷1.6=68,750戸 およそ7万戸
収まらないな
910 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:50:36
くだらん計算だ。
5万、7万という数字を嘘とするか、九州内説を捨てるかのどちらかと言う事だ
奈良時代は班田収受法が施行され、人口も耕地面積も計上されている、こちらに嘘はない
>>908 邪馬台国なんて国はないですよw
ヤマイチ国かヤマト国です。
913 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:01:33
>>901 『奴国が2万戸』(東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。)
だから、平野の面積&水量を考えるとそれぞれ、2:5:7で問題ないんじゃないか?
914 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:02:27
>>912 魏志倭人伝の女王って卑弥呼のこでよろしいか?
915 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:06:31
916 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:08:27
そもそも倭人伝には、女王国までの戸数しか
分からないと書いてある。、
列島全体とか、九州全体とかいう話になるのは
飛躍しすぎだろ。
戸数が嘘、すなわち過大に書いているとすれば
距離も方角も信用できなくなる
距離も過大だとするなら、九州に収まるだろう
だが、原典を嘘と解釈した出した比定に意味があるかな?
919 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:12:56
この際問題なのは、2万戸とか5万戸とかいう絶対数ではなくて比率だろ?
「奴国が2万戸」、これは揺るがしがたい記述。
>>911で書かれてるように、奈良時代はそうかもしれないが、
この倭人伝記載の戸数はおそらく倭人たちの言い値であって、
班田収授法のもとで測定された面積&戸数と比べるのは無理があるだろう?
>>919 つまり縮小解釈するというのなら
距離も縮小で可だな
比率だけ保って、どんな場所にも持って来れるwww
一人用の竪穴式住居なら、その辺から枝を折ってきて、
蔓で縛って茅を被せれば半日でできる。
生活が豊かになれば単身世帯も増え、戸数なんていくらでも増やせる。
922 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:21:11
班田収授法のもとで測定された面積&戸数がいいかげんなんだよ。
923 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:22:07
>>920 >どんな場所にも持って来れる
それは無理。奴国はいまの福岡平野、那珂川流域でほぼ決着しているといってよいだろう。
924 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:16:24
>>904 奈良時代も卑弥呼の時代も戸数は余り変わらないじゃないかな。
1戸数当たりの人数が少し増えたくらいだろう。
奴國は「有二萬餘戸」と「有」が使われているから魏使が直に確認したものだな。
投馬國と邪馬壹國は「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」と「可」が使われているから推測値だな。
北部九州に邪馬壹國「可七萬餘戸」は十分に入る。
奴國など倭の国々は邪馬壹國を構成する国邑だろう。
それだけの人口に見合う生活痕が九州じゃ見つかってないからなあ。
物証が無いのは、いかにもつらいねえ。
926 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 01:21:23
漢倭奴国王金印から、九州が中国に朝貢していたのは事実。
ならば、九州より東の国も、九州に朝貢していたと考えるべき。
先進の文物は九州から輸入するしかないのだからな。
九州〜畿内で、まったく物流が無かったならともかく、そういう状況には無い。
ここまではOKだな?
仮に九州に邪馬台国があったとしよう。
畿内は、九州の邪馬台国に朝貢して文物を手に入れようとしていたはず。
邪馬台国はクナ国と仲が悪かったと報告されてることから、
畿内とは仲が悪かったわけではないということである。
よって、九州は畿内のことを知らない、ということは有り得ない。
これは否定しようがないね?
畿内が九州を頼り、九州が畿内のことを知らないはずが無い、ということになれば、
卑弥呼共立の時点で、畿内が卑弥呼を無視していたわけがない。
つまり、30国の中に畿内は含まれていなくてはならない。
さて、どう反論する?
奴国で思い出したのだが、何故博多に名前を変える必要があったのかな?
畿内河内の石川が博多(伯太)川と呼ばれてたらしいが、
これはおそらく出雲地方の伯太からの名前だろう。
九州の博多と河内の博多、記録ではほぼ同時期でしか存在を確認出来なかったのだが、
つまり北部九州も出雲勢力の支配下になっていた証拠じゃないのかな?
928 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 01:40:12
博多は百済の朝鮮語が訛ったものだよ。
百済人が博多と命名した。
順番としては出雲の伯太〜河内、筑紫の博多だと思うが。
奴国なんて国名が全く引き継がれてないのが疑問だな。
>>926 対半島は九州ルートじゃなくても、島根や出雲へ直接入る事もあるでしょ。
海流に乗ってしまえば九州も本州西部も時間差なんて殆んどないしな。
だから九州に朝貢という事は必ずしもあったかどうかは疑問だな。
931 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 02:09:18
>>926 畿内を単に邪馬台国への「朝貢国」と見ているのか、それとも女王共立に参画し得る「邪馬台国連合の諸国」と見ているのか、どっちなのか?
反論以前に、論として成り立っていないぞ。
また、当時の列島内の勢力関係や大陸との通行関係は、畿内と九州だけ考えていても駄目だろう。
出雲、吉備、北陸、東海諸国との多様な交流関係を考慮しつつ、よりリアルな歴史像を描かなければ、説得力のある論にはならないと思う。
なんで百済をくだらと呼ぶんだろ?
不思議
933 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 03:07:41
>>926 畿内の銅鐸は、銅をどうやって入手していたか? 北九州経由よりは朝鮮半島から
出雲、敦賀あたりを経た直接入手だろうな。北九州に朝貢し分けて貰っていたにし
ては弥生時代の交流の形跡が少なすぎる。北九州はもちろん本州、四国等の存在は
知っていた、しかし、あまり問題にしていなかったのでは? 30国は九州内部の
話、本州は大した武力もない、害のない連中といった所だったのだろう。
朝鮮半島の連中は、九州と交渉があったことは勿論、本州とも直接に交渉をもって
いただろう。ということは、九州の東に本州が延びていることは当然知っていた。
魏の使者の一行は、半島の連中からその程度のことは聞いていたろう。畿内説論者
がいう列島を九州から南へ垂れ下がってたと誤解し東を南とまちがえたのだろうな
んて話はありえんと思うが如何に?
倭人が船に乗って九州まで流れてきといてそっから先の四国本州には進出しなかったと考える方が不自然
銅鐸の出土地は圧倒的に大和地方が多い
銅鐸には鉛が含まれているが日本産のものは無く、朝鮮産と中国華北産のみ。
朝鮮通信使と同じルートで九州経由瀬戸内海航路でしょ?
936 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 04:10:15
>>934 毛人がいたからね。3世紀に進出するようになった。それが東征だ。
937 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 06:46:10
>銅鐸には鉛が含まれているが日本産のものは無く、朝鮮産と中国華北産のみ。
上記は根拠のない嘘でっち上げ。
銅鐸に含まれている鉛は、主に日本産のものであるが、生産地不明のものもある。
938 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 06:52:58
>>935 >銅鐸の出土地は圧倒的に大和地方が多い
出鱈目を書くな!
生半可な考古知識のレスは、これを読みに来る多くの人が迷惑する。
考古遺物に言及するのなら、もっと考古学を勉強してからにしろ!
939 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 06:56:44
>>932 管のような国だから「くだら」
管のように表面だけで中身がない
940 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 06:57:14
「金」にしろ「銀」にしろ「銅」にしろ、半島や支那なんかより日本の坑山の方が有名じゃん
つか金や銅が半島や支那のどの坑山で採掘されてたと言いたい訳?
941 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:02:00
>>925 古代の生活痕など殆ど残っていない、
何処にどれだけ人が住んで居たかは文献にたよるか
数学的に推測しか出来ない。
現在知られているのは偶然発掘された極一部のもの。
942 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:07:56
943 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 07:11:22
>>941 日本は古代からずっと同一民族で続いてる世界でも希な国であって、古代日本人とは、そのまま現代日本人の事だよ
生活跡もクソも、古代の住居地は、そのまま現代になっても住居として生活してるんだから跡地もクソも無いよ
944 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:15:35
確か銅鐸の鋳型や製造工場跡が博多で見つかっていたな。
945 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:50:43
銅鐸武器説
946 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 08:59:04
つかチリで銅が発見される前までは、日本の産銅量は世界一だっての
朝鮮や中国での産銅?
朝鮮や中国での銅坑山なんて聞いたことねーよ
朝鮮や中国で発見された銅製の品は、むしろ日本から持ち込まれたものだろ?
947 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 09:06:13
・産銅
・産鉄
・産銀
・産金
それに水銀鉱脈と水晶鉱脈
これらは古くからある日本の文化だよ
なぜ「金沢」とか「金山」とかいう地名があるか知ってんの?
日本の大判、小判ってのは、まさしく金で作られてたんだよ
明治時代以前の日本の硬貨は全て、金、銀、銅の何れかだよ
あと鉄鋼技術
日本刀なんか見てもいかに日本の製鉄技術が優れてたのかとか解らないのかな?
948 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 09:34:25
そもそも日本の文化は、なんでもかんでも大陸からやって来た訳じゃないよ
・産金、産銀、産銅、産鉄
・水田、稲作
・紙
・木造建築
・大麻繊維
・鐙
これらは日本が発祥だよ
あと火縄銃もポルトガルから持ち込まれた訳ではなく日本が作ったもの
種子島には製砲所が置かれてたんだよ
海外の火縄銃なんて見た事無いだろ?
949 :
日本@名無史さん :2009/07/03(金) 10:42:39
950 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 11:09:54
南浦文之でしょ?
種子島久時が自らの功績を称える為に南浦に書かせた書物
種子島って言う種類の鉄砲の由来なだけで、それ以前から日本には手砲やら根来やら言う鉄砲を持ってたっての
種子島久時以前から、大麻や蓬から、塩硝を作って鉄砲に使ってたっての
美濃つまらん
魏志倭人伝は偽史ですw
953 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 13:44:17
>>944 銅鐸の鋳型が見つかったのは、佐賀県の安永田遺跡。
銅鐸そのものは吉野ヶ里遺跡などでも見つかっている。
九州の銅鐸は福田型といわれるもので、これは山陰から見つかっており、
山陰の銅鐸は九州から運ばれた可能性が高いともいわれる。
また、銅鐸そのものの発祥も九州じゃないかといわれることもある。
954 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 13:52:19
九州と畿内が交流無かったなんて考えは、もはや通用しないよな。
出雲〜近畿は半島と直接交流してたことになるが、
それならそれで、郡使が出雲〜近畿の存在を知らないなんて有り得ないことになる。
九州と畿内が交流していても、邪馬台国連合の30国に出雲〜近畿が含まれない、とするなら、
九州よりよほど国土も人口も多く、半島と直接交易も可能な出雲〜近畿を無視してる九州の女王に、
なんのために魏が金印を贈るのだろうか?
955 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:01:47
邪馬台国が九州にあったとしても、
30国を九州だけで考えるのは、地勢的にも無理がある。
山口県は九州のすぐ隣にあり、古代から同じ文化圏だ。
全く別の倭種などと呼ばれる可能性はゼロ。
四国の西側も、九州と同じ銅器を共有する文化に属する。
卑弥呼共立の時点で、山口県と四国西側が蚊帳の外に置かれてたなんてことは考えられない。
山口県と四国西側は、弥生時代から九州と仲良くしていたのに、
卑弥呼を共立しなかったとしたら、それはいったいなんの利益になるのか?ということだ。
956 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:05:39
無論、山口県を邪馬台国30国に含めるとしたなら、
そこに連なる山陰山陽も含めないとおかしな話になる。
畿内に鉄器は少ないといえども、山陰山陽には鉄器は豊富にあるわけだからな。
邪馬台国が九州にあったと考えてもいいが、
山陰山陽を30国に含めないというのは、どういう理由からなのか知りたいものだ。
957 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 14:08:58
>>954 つか「魏」が送った訳じゃないってば
「朝貢」の相手をなんで勝手に魏とかにしてんの?
958 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:10:04
959 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 14:16:23
>>958 論点って何よ?
「なぜ支那の王朝が邪馬壹國の卑弥呼に金印を送ったのか?」
って事?
そもそも支那の王朝て、漢籍書のどの民族のどの場所にあった王朝の事いってんのさ?
清や明や元まで支那の王朝なんか?
だとしたら朝鮮王朝やタイ王朝やカンボジア王朝だって支那の王朝だろ
漠然と「中国の朝廷」なんて言ってるだけでしょ?
960 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:20:51
>>959 じゃ、論点を明確にしてやるよ。
弥生時代から、九州と山口県・四国西側は同じ文化圏だった。
仮に、九州に邪馬台国があったとした場合、
卑弥呼共立時点で、山口県・四国西側は蚊帳の外だったのか?
という話だよ。
卑弥呼が誰から金印をもらったかは関係ない。
961 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:22:55
>>954 交流はあっただろう。交流というのなら、中国や朝鮮半島とも交流があった。
貝輪などから沖縄とも交流はあったとされる。
しかし、ある程度強い結びつきが出来るためには、軍事力が展開されなくては
ならない。三十カ国という邪馬台国の体制が出来たのは、卑弥呼の前、
あるいはそのずっと前と考えられる。かなり前の時代なので、近隣の諸国同士
で争うことも多かったろうから、遠くまで兵を派遣するのは無理だろう。
卑弥呼の時代でさえ、後継者をめぐって諸国が争うような状態に陥って
しまっている。
倭人伝の言うところの邪馬台国の時代は、卑弥呼の調整力で、三十カ国が
なんとかまとまっていた時代といえるのではないかと思う。だから、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ということで、中国地方より東は
倭種の国だったと思う。
強い王(たぶん男王)の出現で、三十カ国が強固にまとまったとき、あるいは
一つの国が突出する力を持ったとき、その外側に向かって力が発散されたの
ではないかと思うのだが。
962 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:25:25
>>959 美濃もん太に最初に問うことにしよう。
論点を明確にしてやったんだから、答えてもらおうか。
山口県・四国西側は、邪馬台国の卑弥呼を共立した30国に含まれていたのか?
九州説か違うのかも明確に。
当然、答えを持ってるだろうな?
朝貢相手に拘るくらいだからな。
963 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:28:05
>>961 >「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」ということで、中国地方より東は
>倭種の国だったと思う。
君も、曖昧にするなよ。
「中国地方より東」とは、山口県・四国西側を含まない、もっと東側という意味か?
山口県・四国西側は邪馬台国の30国に含まれていたのか、どう考えてるんだ?
964 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:32:32
>>963 あいまいにはしていない。海を渡ったところは倭種の国。
つまり、山口県は倭国に含まれない倭種の国。
965 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 14:40:28
>>964 素晴らしい答えをありがとう。
>海を渡ったところは倭種の国。
>つまり、山口県は倭国に含まれない倭種の国。
もちろん、俺は否定するが。
他にも、おまえと同じ考えのヤツがいるだろうから、次スレでじっくり討論しようじゃないか。
966 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 14:45:41
>>960 つか俺は邪馬壹國のあった場所とか知ってるってば
筑紫でも機内でも無いよ
弥烏邪馬國も邪馬臺國も鬼道使いの倭人の女王国なんだから同じ國の事だよ
あと「九州(筑紫)」っても、薩摩と長州とでは統治者も違うでしょ?
薩摩は島津の外様大名だけど、長州は吉備中国(きびなかつくに)の毛利の系統でしょ?
記紀の中にある神功皇后なんかのいた宮があったのは九州北部で長州や福岡の方だよ
吉備や長州が吉備(古代の豪族)系譜に対して、薩摩はどちらかというと沖縄とかあっちの系統だよ
967 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 14:54:16
>>962 共立した国々は、親羅、加羅、任那、の朝鮮半島を治める倭人達の国々と、国内では長州、吉備、信濃、美濃辺りの氏族だよ
破れたのが蘇我氏の飛鳥だよ
ちなみに出雲ってのは須御山(シュメール山)とも呼ばれる、新潟の妙高山周辺の地名で、吉備氏も元々はここの氏族だよ
968 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 15:07:43
つか三國志よりも南書、北書、漢書(地理史)などの漢籍書の方が、邪馬臺國などの場所は詳しく書いてるよ
まず出発地点は朝鮮半島北部の「帯方郡」
ここから沿岸にそって南下すると、倭人の治める邪馬臺國などがあるんだよ
んで東の大海中の島には倭人の朝廷がいる島があるんだよ
あと「長江」ってのは日本の長良川や満州〜朝鮮の川の名前だよ
今の中国にある長江は元々は銚子川とかいう名前で、毛沢東が勝手に「歴史書に出てくる長江とは銚子川の事だ」って決めて「長江」って名前にしただけだよ
969 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 15:25:59
あと例えば「唐」ってのは呼び方は「から」だよ
つか加羅の事だよ
あと漢と韓と乾とは同じ意味の漢字で発音も全て同じ「ハン(カン)」だよ
韓國ってのはようわ漢國の意味だよ
平壌(ピョンアン)→朝鮮族の高句麗
漢城(ソウル)→元々は古代漢民族が納めてた宮
釜山(プザン)→倭人が開拓し統治した百済や親羅のあった場所
これ以外には半島の北部には騎馬民族の蒙古民族や満州民族(後に支那大陸を納めた元や明や清王朝の民族)
それと大秦(ローマ)からシルクロードを渡ってきた中東のアーリア人の秦氏(幡多氏、和仁氏)
んで支那南部は「南蛮」と呼ばれたタイやインドやカンボジアの王朝だよ
ちなみにモンゴル民族のモンゴル帝国は歴史上、最も多くの領土を治めた帝国で、ローマよりも全然強かったんだよ
970 :
doontakuka uka:2009/07/03(金) 16:19:02
自女王國 東 度 海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
女王國 東 渡 海千餘里 復有國 皆倭種
「拘奴國と復有國」の国は、同緯度経度に在った国ではない。
拘奴國は列島の北緯42度付近で復有國は列島の北緯26度付近。
971 :
doontakuka uka:2009/07/03(金) 16:21:19
970 名前:doontakuka uka :2009/07/03(金) 16:19:02
は、
間違い投稿です。
大変失礼しました。
972 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 16:26:52
>>967 ようするに、美濃もん太も、
山口県・四国西側は、邪馬台国の卑弥呼を共立した30国に含まれていない、
ということでいいんだな?
他の主張についてはどうでもいい。
973 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 16:45:51
>>972 山口県って吉備氏じゃないの?
吉備は含まれるよ
つかさ「共立」って要は軍事同盟でしょ?
何を目的とした同盟なのかわかってる?
倭國乱って何が起きたのか理解してるの?
あととにかく
「倭國=日本人が統治してた領土=日本及び朝鮮半島南部(漢川南部・江南部)」
って事は理解してますか?
「倭國の範囲」
まず、この認識がお互い違うから話が噛み合わないんだと思いますよ
唐(加羅)や洛陽(新羅)なんかも倭国なんだよ
とりあえず邪馬台国が九州ではないのは確かですよ。
吉野ヶ里は何て名前の国だったの?
976 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 17:01:48
漢籍書に書かれてる「河北部」「江南部」ってのは支那の黄河や長江の事じゃなく、韓半島の漢川の事なんだよ
例えば「明」ってのは「江南部の洛陽にあった朝廷」でしょ?
漢川南部は漢城のある漢陽(ソウル)だよ
んで、秀吉が明を攻めたのが「朝鮮出兵」だよ
平壌の明王朝を攻めたんだよ
だいたい漢にしろ唐にしろ明にしろ清にしろ、支那の王朝じゃないんだよ
そもそも支那のどの地域のどの民族の王朝が支那大陸を統治してたって言うんだよ
モンゴルにしろ明にしろ清にしろ共和国じゃなく民族王朝なんだよ
977 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 17:06:45
min はシュメール語で 2 のこと。
2の アッカド語は sina という。
おい、洛陽は黄河、江南といったら長江だぞ
黄河の北と南を江北江南、長江の北と南を河北河南だからな
恥かかないように覚えとけよ
「江南部の洛陽にあった朝廷」でしょ?とか言ったら笑われちゃうぞ
979 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 17:28:04
>>977 漢字で「明」って書いてるだけで、読み方は「エホ・ハダ」とかそんな名前だよ
例えば「米国」って書くけど「アメリカ」だし
「比島」は「フィリピン」の事だよ
清も「ギョロ・ヌルハチ」とかを漢字で「清」って書いてるだけだよ
「元」ってのもあれは「モンゴル」だよ
「満州」ってのは真女語では「ジュシュ」だよ
>黄河の北と南を江北江南、長江の北と南を河北河南
黄河の北と南を河北河南、長江の北と南を江北江南
逆ですよ
981 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 17:34:16
>>978 そこまで詳しくなら、漢籍書に出てくる漢や唐や梁の位置を、漢川を中心に江南、河北として朝鮮半島の旧地名(漢字名)で探してみ
全部ある半島にある地名なんだっての
ちなみに今の中国の地名や都市名は、中華人民共和国になってから付けられた名前ばかりだよ
例えば中国の長江ってのは中国が建国されて長江って名前が付けられただけだよ
982 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 17:34:27
>>979 じゃあ「美濃もん太」はイイカラトットトキエロと読むの?
983 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 17:42:20
「仏教用語」って言えば解りやすいかな?
・ビシャモンテン(毘沙門天)
・シャカ(釈迦)
・ガンダーラ(天竺)
・シュメールサン(須観山)
ナンミョウホウレンゲッキョ
これらはインド語じゃないよ
古代漢族達の真女語だよ
984 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 17:52:10
元始皇帝→モンゴルていこく、チンギスハーン
清聖太子→アイシン・ギョロ・ヌルハチ
神武天皇→カムイワレビコノミコト
漢字は(訓読みの)発音に意味はなく単に意味だけを表す「表意文字」
一方、ひらがなやハングルやモンゴル文字や真女文字などの「表音文字」は、その民族の使う語源の発音をそのまま伝える事が出来る文字
ちなみに清王朝の正式な後継国の満州国では漢字、ハングル、ツェベリク、真女字、、の文字が使われ、どの民族の語源の発音も表せるようになってたよ
985 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 18:30:11
基本的には外来語や外来発音には、漢字じゃなく仮名を当てた方が解りやすいんだよ
特に人名や地名にわさ
米国、小浜国家君主
こんな書き方したらまるで中国人見たいでしょ?
×元皇帝
モンゴル皇帝、チンギスハン
×清王朝、武帝
ハルピン皇帝、アイシン・ギョロ・ヌルハチ×漢王朝、文帝
ピョンアン王、イルナムルチ
とかさ
日本も
×神武天皇
○カムイワレビコ、アマノスメラギ
が本当の呼び方だよ
「○○テンノウ」なんて呼び方は本来の日本語じゃないよ
アマノスメラギ→(漢字を当てると)→天皇→(本来の日本語を知らない奴)→「テンノウ」
日本語を知らない奴が「○○テンノウ」って呼ぶんだよ
その証拠に、全国各地にある神社には明治時代までは「○○天皇」なんて名前で奉られてる神様は一人もいないんだよ
「ニギハヤヒ」「イワレビコ」「カネヤマサチヒコ」って言う日本語の名前でちゃんと奉られてるよ
明治以降になって作られた神社や合祀された人は「○○天皇」って名前で奉られてるよ
特に九州に多いね
986 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:28:56
自称博識の九州説の人も、美濃もん太には言い返せないらしいな。
九州説なんて今時流行らないよ。
987 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:34:02
美濃の長文を読もうという人はいないだろ。
俺は読んでるけど?
990 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 19:40:27
つか調べたら、長州の毛利も薩摩の島津も、どっちも外様大名だったわ
島津は秀吉(朝廷)の朝鮮討伐に尽力した為に薩摩の藩主とされたみたいだね
長州や毛利は別に吉備氏なんかとも関係ないみたいじゃん
九州は島津や毛利が治める前は誰が納めてたんだ?
991 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:47:14
988も変人だな
992 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 19:47:21
>>989 つか俺は邪馬壹國の場所とかハッキリ断言してるじゃん
あと卑弥呼が誰だとか、墓は妙高山の南の狼山(女岳)で、その息子が善光寺を建てたとかさ
邪馬壹國にしろ卑弥呼にしろ、漢籍書なんかに詳しく書いてあるんだし謎でも何でもないよ
「日本のどっかにあった日本の発祥の國だ」
みたいな先入観を持っちゃってる人には解らないだけだよ
南史や北史読めば倭國の範囲は日本だけじゃないって事ぐらい解るよ
994 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 20:05:43
>>993 つか元々ここにきだした時から俺、知識なんてないてば
つか変に知識なんて無い方が良いってば
俺は知識が無いから今でもこうやっていろいろ調べながらその度に自分で考たりしてるんだよ
知識っても単なる先入観なだけの場合が多いんだしさ
例えば
倭國=日本
これはやっぱ単なる先入観だよ
今持ってる知識ってのを一回捨ててから考えて見た方が良いよ
邪馬壹國は楽浪郡と接していて、奴國とかの倭種の島は海の中だよ
九州や畿内の訳ないじゃん
995 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:13:20
996 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 20:15:24
韓三國に弥烏邪馬國や卑弥呼や卑弥弓呼とか、探したら普通に出てきたしさ
んで良く良く考えて記紀とかを読み直せば、百済や新羅を倭の女王が治めてた様子とかが書かれてるんだしさあ
で、倭國大乱でしょ?
これ変な先入観さえ捨てて考えれば、邪馬壹國も卑弥呼も謎でも何でもないよ
あとそもそも邪馬壹國があった場所が、日本に初めに出来た古代の王朝の地とかでもないよ
997 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 20:21:52
次スレよろ
1000 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:47:28
どうしたんだ。畿内論者の美濃もん太への反論がないぞ!
今こそ畿内論者の出番だぞ!
1001 :
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