1 :
日本@名無史さん:
マキムクスレで大議論になっているオオヒコの問題を独立させた。
もう一度ここ↓から始めてくれ。
656 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:48:16
稲荷山の鉄剣からは系譜に大彦命の名前がある
大彦は孝元の皇子であり、皇子が存在したいうことは父親もいたということだろ
孝元が実在したかどうかはともかく、少なくとも5世紀には認知されていた人物だった
彼らは決して記紀の創作ではない
659 :日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:30:34
>>656 それならばなぜ鉄剣銘文に大彦以前の系譜を書かない?
大彦はその父が孝元天皇で、もうちょっとさかのぼれば初代神武天皇に行き着く。
ヲワケという稲荷山の被葬者の一族が自分達が名門の出であると誇りたいなら
そこまでやる筈だ、
それにあと数代さかのぼりさえすりゃ皇祖神のアマテラスじゃないか、
単にワカタケル大王に仕えていたと書くより、ずっとずっとハクがつく。
しかし稲荷山鉄剣銘文は大彦止まりだった
それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然
考えもしてはいなかったことを明瞭に示している、
神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から
生まれたと見る。
■元スレ
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その6
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1238078055/
2 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 21:27:59
2!get!
3 :
1:2009/06/07(日) 21:44:27
ローカルルールとして・・・・・・
オオヒコ以外の四道将軍も、議論の対象としてよし、とする。
例によって、煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
出来るだけソースを出すこと。良識ある言動を。
参考サイト・・・・・・
■四道将軍
四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、
大彦命 (おおびこのみこと)、
武渟川別命 (たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命 (きびつひこのみこと)、
丹波道主命 (たんばみちぬしのみこと)
の4人を指す。
(以下略)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%81%93%E5%B0%86%E8%BB%8D
4 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:22:10
稲荷山鉄剣の銘文はそれ以外にも、他の資料との整合性がある。
オオヒコ →大彦
タカリスクネ →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)
テヨカリワケ →A豊韓別(トヨカラワケ)
@、Aは『本朝皇胤紹運録』での大彦の子孫であり、別の伝承との整合性もある。
しかし、大彦も彦屋主田心命も豊韓別にも触れずに、稲荷山鉄剣の講釈をたれるクズもいる。
5 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:26:13
ちなみに、鉄剣の銘文はちょっとなまりがある。
>>4 に書いた、テヨカリワケ →A豊韓別(トヨカラワケ) のどっちが元の名前に
忠実かと考えると、「トヨ」や「カラ」のある後者。
タカリスクネ →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)も、「タコリ」という
頻度の高い名前の方が元の名前に忠実だろう。
となると、稲荷山の鉄剣は、東国なまりの呼び名をそのまま銘文に書かせたと言える。
その東国なまりの先祖系譜を覚えていたのは、剣の所持者その人である可能性が最も高い。
となると、「オオヒコ」だけが架空という考えは、ちょっと無理筋だよね。
まあそうしたい思想がある人には何を言っても無駄かもしれんが。
さすがに本朝皇胤紹運録はソースとするには時代が下がりすぎてないですか
7 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:33:16
799 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2009/06/07(日) 20:22:13
>>798 稲荷山鉄剣にオオヒコの名を刻んだのは今日我々ではなく五世紀の人間だ
五世紀の人間とは大彦から数えて七代目にあたるから大彦の系譜は当然知ってるものと考えられる
だとすれば「五世紀に大彦から系図を書くこと」と「江戸時代に徳川義直から系図を書くこと」との差はそれほど差はないはずだが
それとも君は「七代も過ぎれば大彦がいくら伝説的人物でもその父が誰かちゃんと書かなければ大彦が何者か理解されない」とでも言うのか?
あの鉄剣は大彦の実在さえ疑ってしまう二十一世紀の我々に向けて書かれたものではなく大彦が何者か知っている人に向けて書かれたものなんだぞ
8 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:34:21
>>4-5 いつも纏向スレで
タブーに挑戦し続けている人ですか?
>5 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2009/03/27(金) 01:37:37
>学者の世界はタブーが多すぎなんだよ。不自然過ぎて逆に目立つぞ。
>(個別論点タブー)
>H 稲荷山古墳の鉄剣の「オオヒコ」が誰か詮索してはいけない。
>(四道将軍までの系譜の史実性が欠史8代〜神功皇后の史実性に関連する)。
9 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:22:46
大彦は磐井の先祖でもあるんだよね?
大彦が皇室とは関係ない東国の豪族ってのは難しいんじゃないかな?
10 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:15:42
ここは欠史八代も語るスレにしようや
11 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:22:34
欠史八代は風土記に登場しないから実在が疑われてるんだっけ?
12 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:25:02
>>4 クズだの抜かすお前が消えろ
14世紀の系図なんかなの根拠になるか、アホ
古事記だって中世以降の写本しかないじゃないか。
14 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:48:59
>>11 もっと色々あるよ。
できれば欠史と思う方からその根拠をきちんと上げてくれれば話がしやすい。
21 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 07:19:37
そもそも意富比魁=大彦なの?
せめて「大彦」の方がもうちょっと特殊な名前ならねえ。
大王くらいの意味だった可能性もあるし。
24 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 10:36:16
>>18 欠史八代も稲荷山鉄剣の系譜も直系系譜だ
大王の系譜や当主の系譜ではない
直系系譜
6代 応神−仁徳−履中−市辺押磐皇子−仁賢−武烈
大王系譜
11代 応神−仁徳−履中−反正−允恭−安康−雄略−清寧−顕宗−仁賢−武烈
稲荷山鉄剣の系譜
上祖、名はオホヒコ。
其の児、(名は)タカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。
其の児、名はタサキワケ。
其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。
其の児、名はヲワケの臣。
25 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 11:59:01
>>6 >>12 本朝皇胤紹運録の元になっている伝承がかなり正確であったと言うことでしょう。
本朝皇胤紹運録が後世に机上の空想で作られたわけではないということです。
でなければオオヒコの子孫についての500年前後の銘文と本朝皇胤紹運録の記載が
一致することはあり得ないでしょう。
それゆえ、学者を自称する者が稲荷山鉄剣について述べるときに、この事実に
言及しなければ、「クズ」というほかないですね。
いやいや本朝皇胤紹運録の正確さがどうこうって話じゃないんですよ
戦国時代の武将を語るのに現代に書かれた本をソースにするようなのはどうなのってだけで
27 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 12:43:20
だからさー、稲荷山鉄剣は5世紀にオホヒコ系譜が信じられていたということの証拠ではあっても、
3世紀に超絶巨大大和王権が存在、四囲に将軍を派遣したにはならんだろ?
いい加減に認めろ
28 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:00:12
>>27 ←こういう人っているよね。
じゃあ、あの系譜のどこまでが信用できて、どこからダメなのかな?
父の名も祖父の名も曽祖父の名も創作なのかな?
そこから先だけが創作なのかな?
「オオヒコ」だけが創作なのかな?
29 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:03:24
>>26 >現代に書かれた本
それは違う。
戦国時代の武将を語るのに、戦国時代に書かれた本やその後に言い伝えを
書いた本を参照して語る、というのが正しい比喩だよ。
机上の空想が偶然にも、稲荷山の鉄剣と一致したとでも考えているのか?
30 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:07:18
>>28 都合の悪いものは全部捏造された証拠です。
これは冤罪事件です。
稲荷山の鉄剣が本当に現地から出土したという絶対的な証拠なんてないでしょう。
あの銘文が出土したあとに書かれていないという証拠はないでしょう。
31 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:59:23
32 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 15:02:03
>>1 新スレ立て乙。
太国がひと暴れしにやって来そうなスレだな。w
33 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 17:09:59
>>15 >第8代孝元天皇の皇子のはずであるが、銘文では何も触れられていない。
>鉄剣が作られた頃はそのような天皇(大王)の存在は系図上確立されていなかったことを物語る。
元のスレでもいわれてたけど系譜が大彦からで
孝元天皇まで遡ってないからってこういう結論は飛躍してると素人考えでもおもえるよね
孝元天皇より大彦の逸話のほうが多く語り継がれていれば当然大彦からになるだろうし
銘文は一文字多く彫るだけでも大変だからね
34 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 17:30:24
>>33 >孝元天皇より大彦の逸話のほうが多く語り継がれていれば当然大彦からになるだろうし
「たられば」じゃなくてそういえる根拠は?
35 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 17:46:48
>>34 記紀にも孝元天皇の具体的事績は記述がないでしょ
一方大彦は事績がのこされているんだから
当時も大彦の逸話のほうが多く語り継がれていたと推定するのは自然じゃない?
>>35 それは孝元が非実在
大彦が実在
だったからと、とることもできる。
大彦の逸話が多く有名だったと言うのは想像の域を出ない。
37 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 18:16:32
>>36 >大彦の逸話が多く有名だったと言うのは想像の域を出ない。
大彦の逸話が有名じゃなかったらなんで乎獲居臣は大彦からの系譜をわざわざ残したんだろう?
有名でもない八代前の先祖まで遡って銘文に残す理由がわからないね
>>37 有名は有名だったんだろうが
大和の王統に繋がる人物として認知されていて
わざわざ孝元からの系譜を銘に入れることはなかったと言うのは
いかにも都合がよすぎる。
>>33 逸話が有ろうが無かろうがご先祖様はご先祖様。
しかも天皇という胸を張って自慢出来るご先祖だよ。
なのにそれを書かないのは何故?
40 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 18:42:15
文字数が制限されていたら
足利氏や新田氏の系譜が八幡太郎義家からはじまってても不思議じゃないでしょ
清和天皇や六孫王の子孫なのは誰でも知ってることだし
そもそもこの話に違和感があるのは
自分が雄略に仕えた事を述べているのに
自身の系譜がその出自がヤマト王家に繋がりながら
それを省略してしまっていると言う点。
例えそれが周知の事であろうが
「くどい」と言われようが大王(天皇)に至るまでの系譜を銘に残すだろうと・・・
>>33です。
にゃるほど、周知の事実だからわざわざ書かんでもわかる。
ってことですな
或は天皇を直接書いちゃうのを憚ったとか
>>42 間違えました。私は33ではなく39です、、、
44 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:06:53
結局「羅生門」の世界と言うかw
欠史八代を実在したと見る人間にすれば
「それ見ろ、大彦の実在性が高まったんだから、 その父親の孝元もいたに違いない」
「欠史八代は実在したんだ」
・・・とし
欠史八代はやはり非実在だった見る人間にすれば
「なんで孝元に繋がる系譜を描いていない」
「孝元→大彦の部分は後世の後付」
・・・とするとw
ただオッカムの剃刀的な発想で言えば
「孝元→大彦の部分が無いのは元々無かったからだ」
とする方がシンプルではあるwww
45 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:13:08
それに5世紀に大彦なる人物の認識があったとしても実在した人物か
それとも伝説上の人物だったのかは良く分からない。
さぞ北陸道の平定に関し華々しい活躍が書いてあるのかと日本書紀を読んでも
武埴安彦命の反乱に関し
女児の不思議な言動を倭迹迹日百襲姫に伝えたと言う
あまり現実味の無い役どころだったりするw
46 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:14:44
大彦の実在性を認めた場合、東国であの鉄剣が出土したことの意味は、
「大彦がそこに派遣されたから」というのが自然だわな。
この場合に「大彦を派遣した人物がいたこと」は、当たり前のことになる。
大彦が派遣軍のトップになったのは、「皇族の血の濃い人物だったから」
ということになるわな。
そこまで言ったら、もう結論は出ているよね。
それとも、大彦は木の又から生まれたとか、コウノトリが運んできたとか、
そんな話にでもしないと気がすまないのかい。
47 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:13:07
>>45 実在したかどうかなんて関係ないんだよ
8世紀の創作と思われていた人物が、それより数百年前に認識されたいた事に意味があるのだ
関東の豪族の始祖にオオヒコの名前を持ってきた、つまり5世紀には4道将軍の逸話があったということなのだ
それだけオオヒコには泊があると思われていた何よりの証拠ではないか
ちなみに4道将軍が実在か、それともいろいろな話を繋ぎ合わせて自然にできあがった逸話なのかも関係ない
要は8世紀に全てが創作されたのではないという証明になればそれで十分なのだ
48 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:14:01
面白いね、この問題は。
元のスレ(ヤマトマキムクスレ)からざっと目を通したが、
古田武彦さんのような観点に立つ人は誰もいないのかな。
古田さんは九州王朝説を発展させて古代多元論が持論なんだが。
すなわち稲荷山鉄剣にあるオオヒコ、ワカタケル(ではなくカタシロ大王と)、
ヲワケなどは全て畿内大王家とは無関係だと。
シキの宮も雄略の宮ではなく関東大王家の埼玉にある宮だったと。
九州王朝説の賛同者はいても、関東王朝・出雲王朝・東北王朝までは認め難いのかな。
それから男系ばかりしか目が行ってないのも、議論が膨らまない要因じゃないかな。
もちろん稲荷山鉄剣は父−男子の系譜に徹しているわけだが、記紀は少し違うね。
すなわち記紀の母系記載も大いに考慮せよと私は思うんだ。
欠史八代のところにも母系の記載がずいぶん見える。
オオヒコの母は鬱色謎(紀)とされている。
文字通り謎の女性だが(笑)、欠史八代部分には謎に迫るヒントもあるのではと思うよ。
>>48 九州王朝説はちょっと・・・。
あれは騎馬民族征服説とか、王朝交代説が出された時代の雰囲気では
まあアリかなという程度のものでしょう。
50 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:48:39
よくはわからんが、清和源氏、桓武平氏などが武家の血筋であるように、高名な武人とさ
れるオオヒコと、ヲワケの臣の「杖刀人の首」職にはなにかつながりがあるのかもしれんし、
また、オオヒコ以前が記されていないのは、臣籍降下のための遠慮があったのかもしれな
い。これらは後代の概念であるが、当時そのような何らかのしばりがあったと考えられなく
もない。
51 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:56:40
>>50 たしかに、「俺はワカタケル大王に仕えたんだぞ。」と自慢する銘文のなかに
「俺の先祖はワカタケル大王の先祖とおなじだぞ。」ということまで書いたら、
ちょっと書きすぎかも。
52 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:09:41
豪族の家に鰹木があったことを見咎めて焼き打ちにしようとしたくらいだから、
そんな文章にしたら、「お前は俺と同格のつもりか。」などと言われて処刑だな。
53 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:21:25
3世紀の皇別将軍とか本気で信じてるのかよ、アホらしい。
丹波のヒコイマス王とか、その地域の複数の氏族の共通の始祖王、多くの系譜の結節点になる人物が存在するのは確か。
オホヒコに限ったことじゃない。
世界的に見て複数のクランが同族化する時、共通の始祖を掲げ神話を共有する(始祖王神話を加上していく)
といった事象が見られる。
古代日本においてのみ違うというのはどうだろうか?
倭王権が統一過程で各地の氏族伝承や神話を取り込んでいったと考えるのが自然ではないか?
54 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:27:48
>>53 んだねー
「こうだと思いたい」って欲が入った時点でその説はグダグダだな
畿内だ九州だって話もそうだけど
その場合の共通の始祖は孝元だよ
大彦じゃない
>>48 国内統一戦争が存在すれば一大スペクタクルだから絶対記紀のメインだったろうが
記紀のなかにかけらもないから、そういう分国・地方自治は無かったと最近思う。
57 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:43:25
>>55 だから2段階と言うか・・・
先ず大彦が北陸・関東のオウの間で共通始祖として登場し
それを後に全国区の共通始祖の孝元に繋げたと・・・
神武も欠史八代もそう言った共通始祖としての役割が強いと思うwww
五世紀には大和は地方国家の一つに過ぎず、
意冨比?の方が強大な権力を誇っていたから、
系図が意冨比?から始まるのでしょう。
後に孝元天皇の子供として記紀に取り込んだのでしょう。
半弖比、加差披余の代は関東に土着化してたんでしょうね。
乎獲居になってまた中央に繋がりができて。
59 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:44:10
皇別氏族のほとんどが、自分ちが「過去に大王を輩出した名家だ」と自称したかった連中だろうからね。
家系図を買った輩もいただろう。新興勢力の権威付け。
後世、大臣の姓を貰った中央豪族、たとえば葛城氏とかは実際に大王を出していた可能性もあるだろうが、
関東の首長たちに関しては5世紀以降大和王権の侵攻に際して、
阿倍氏や膳氏に取り込まれていった可能性が高いように思う。
>>48 九州王朝はスレ違いだか置いといて、毛野・吉備・出雲の半独立は絶対ないよ。
せいぜい反乱か毛人の山賊程度。
61 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:52:56
>>60 むしろ半独立ていうか、ほぼ独立だろ?いつの時代を想定してるの?
彼らは大和を旗頭に担ぐことには同意しただろうが、
政治の主体性に関しては下手したら6世紀初めくらいまで保持してたっぽいぞ
>>61 ふーん継体がキーか。素人なので消えますです。
みんな出来星の系図買いを想定してのね。
63 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:03:03
大彦が関東北陸のつくりあげられた共通先祖なら
>>9で書いてあるみたいに筑紫国造がなんで大彦の子孫なんだろう?
地方豪族の詐称はあったろうけど共通先祖とされた者が実在してなかったていうのはどうなのかな?
結局四文字目は意富比「土危」に確定したということでいいんですか?
65 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:12:26
大彦命から上はは卑弥呼直系で消された系図
第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトといい、すなわち革命政権の始祖
ニヤニヤ
67 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:21:43
欠史八代の捉え方なんだろうけど。
私自身は崇神のハツクニシラスが大和王権の初代大王だと思っている。
考古学的に妥当だろう。
では神武や欠史八代って何なのか?ていう問題になるけれど、
私個人的には、豪族たちを取り込んでいく過程で生み出された大王たちだと考えている。
欠史八代の最初の方は奈良盆地の中小豪族の始祖が多いのも、
上の仮定を裏付けているように思う。
68 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:25:56
>>66 3世紀か4世紀か、いったん崇神に消されて、
そんでまた8世紀に神武以下9代は復権するのかよ。
んな馬鹿な。w
69 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:28:59
欠史八代のイミナから、単に大和盆地の神々(河や山の神)を皇統に取り込んだという説もあった。
あと古いが鳥越憲三郎の葛城王朝説も魅力的
ではあった。考古学的に証拠がなく反論も多かったけれど。
欠史八代実在説の人は、そのあたりの先達の研究を知った上で書いてるんだろうな?
稲荷山鉄剣からオオヒコ実在確定、欠史八代も当然実在とか短絡的思考でないことを望む限り。
70 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:35:16
まあ実際のところ、日向三代神話は、日向国造家を同族化する時に取り込まれたんだと思うけど。
その結果、天孫は日向に降臨して、神武の代で東へ大遠征しないといけなくなったわけだが。
初代大王を流石に日向で即位させる訳にはいかなかったということ
71 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:36:58
「欠史八代には史実の反映も含まれている」ってことと、
「記紀の欠史八代の皇統は史実だ」ってこととはほとんど関係ないからなあ。
・・・という立脚点すらないのか??
72 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:47:15
欠史八代(八代非実在)は古くからある説だが(認めていないわけではない)、それは崇神
天皇の出自や崇神王権の性格と本来はセットになって語られるべきものであると思うが。
崇神以前のヤマトにな何もなかったわけでもなく、崇神は木の股から生まれたわけではない
のだから。
71のいう「皇統」という意味でなら史実ではないだろ。
73 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:00:06
ぶっちゃけ言ってしまうと、初期大和王権は有力豪族たちの連合政体で、
大王は有力豪族の中から選ばれていた、
大王位の持ち回りだったんだと思うんだよね。
一氏族の血統に独占されるのは応神仁徳以降。それまでの父子相続がリアルな兄弟相続に変わる。
当時の医療技術、衛生状態で円滑な父子相続が可能であったとは思えない。
後世の官僚体制が確立した後なら別だが、当時の大王には軍事的指導者の一面もあり、幼少の者に勤まったとは思えない。
応神以前の大王たちのほとんどが、血縁的には親子関係になく、親子関係を擬制したと考えるべきだろう。
>>73 >一氏族の血統に独占されるのは応神仁徳以降。
そうかな。
継体以降、と言った方がより正確じゃないか?
男系女系の問題もあるが。
今日はレンゴウ君がはじけているなあ。
2ちゃんらしくて良いふいんき(なぜか変ry)だ。
崇神天皇も実在したかどうか分からんけど。
77 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:22:28
マリナーズのイチローが架空の伝説なのはガチ。
第2次大戦での敗戦のショックが生んだ英雄伝説に過ぎない。
日本人が米国で大活躍というお決まりの捏造されたストーリーを信じる奴はアホwwwwww
78 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:28:52
稲荷山鉄剣は、被葬者が自分で作ったものなのかな。
それとも大王から下賜されたもの?
そういえば、江田船山古墳の鉄剣もあるなあ。
聞くところによると、稲荷山は古墳は大きいが、副葬品は貧弱。
逆に、江田船山は古墳は小さいが、副葬品は豪華らしい。
あと、マキ向遺跡→ヤマト王権とするならば、崇神以前(俺は崇神陵=西殿塚 説)とされ
る前方後円墳群(纒向石塚・勝山古墳・矢塚古墳・・・)と、どう折り合いをつけるかが問題
となってくるな。これは氏族の系統などからだけで解けるものではないだろう。
80 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:42:12
>>78 名前のなまり方が酷いから東国の人の発音が反映されていることはほぼ確実。
>>5が書いている以外にも、
>>24のタカヒシ(高橋)、カサハヨ(笠原)など、
大彦末裔の名前がなまりまくっている。
あの象嵌の技術が東国にあったのかは疑問もあるが、現地製造が最も自然。
ヤマトで製造したなら、ここまでなまっていたら誰かが注意するはず。
東国に配備された渡来人か、一時的に東国に来ていた技術者が作ったのではないか。
稲荷山にしても江田船山にしても銘文に、「大王から直接下賜された」とかは書かれてないから。
地方豪族が自らを顕彰して作ったものだろう。
>>79 ヤマト=前方後円墳ってのも、現状で既出の状況証拠で決めてるだけだからな。
モデルや萌芽や原型があってもおかしくないといえばおかしくない。
>>81 記紀には地方から「献上させた」という記事は多いが、「配布した。与えた」という
記事はほとんどないよね。
△鏡の配布論への批判でいつも出てくる話だけど。
85 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:06:53
江田船山鉄剣の文字の方が形式に則っているような気がしないでもない。
作者名も書かれている。書は、張安とあるから帰化人だろうな。
刀を作ったのは、伊太□となっているらしいからこれは日本人かな。
「物を与えて懐柔した」って余り誇らしい歴史じゃないからスルーしたんじゃない?
もしくは中央にとって「地方に下賜した」なんて記憶、どうでもいいんであって、
抜け落ちたとか。地方にとっては自らの地位を承認してもらったってことで
大騒ぎなんだろうが。
87 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:48:28
>>69 >考古学的に証拠がなく反論も多かったけれど
>そのあたりの先達の研究を知った上で書いてるんだろうな?
考古学的な裏付けもなく、研究者さえ疑問に思うような話を、
「知った上で」なんて書かれてもそれこそ知ったこっちゃございません
88 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:52:08
>>84 高橋は『新撰姓氏録』で大彦の後裔とされております。
>>87 やなぎだくにおを無視して民俗学を学ぶようなスタンスだねw
>>88 個人名と氏名をいっしょくたに語られても…
91 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 03:28:22
仮に鉄剣が471年製造として、持ってる情報が現代と同じって異常だな。
崇神天皇が4世紀初頭(318年)没、その息子の四道将軍大彦命までは確定。
卑弥呼3世紀中期(247年)没と数十年のギャップが大きい。台与が数十年在位すれば崇神と重なるのに。
タブーなのかなんなのか。
94 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/09(火) 11:21:34
倍暦計算にて
471年(辛亥)=雄略元年
崇神崩御=259年
これにて記の没年干支からは崇神崩御は258年が正解だ。
そして今回の鑑定値から池田仁三氏調査写真の箸墓碑石、百襲媛の
没年戊寅文字からは媛没は241年が正解となる。これは基準値の
240〜260年内に入って合理性がある。
太国キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
96 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 17:56:49
二倍暦があやしいのはわかってるけど
あえて
崇神が318年崩で古事記で宝算168歳二倍暦とすると84歳
卑弥呼が247年歿だとすると
その時崇神は13歳で台与と同い年
台与は女装した崇神天皇だったりして
もちろん妄想です
国産み神話〜神武伝説・欠史八代を直列で足したから紀元前までワープしたけど
国産み神話&神武伝説・欠史八代は並列だったのでは?
・神武東遷→(嫡流)→倭国大乱→卑弥呼中興→↓
↓→欠史八代(傍流・四道将軍系)→ 崇神
傍流が宮廷クーデターを起こし保守本流を粛清したので
記録が残らなかったとか。
天照・弟王スサノヲ・台与
↑
神武東遷→(嫡流)→倭国大乱→卑弥呼中興→↓
↓→欠史八代(傍流・四道将軍系)→ 崇神
99 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 18:40:27
>>98 わけわからん図だ
神武が一番古くて、天照や弟スサノヲは神武の子孫なのか?
馬鹿馬鹿しい
1世25年
33頃 神武没
58頃 綏靖没 58年 漢 『スイゼイ』
83頃 安寧没
108頃 懿徳没 108年 漢 『懿徳』 帥升等=スキトモの命
133頃 孝昭没
158頃 孝安没
183頃 孝霊没
208頃 孝元没
233頃 開化没
258年 崇神没 240年 魏
311年 垂仁没 266年 晋 『スイニン』 住吉大社神代記 在位53年 辛未年崩御
336頃 倭建没
361頃 景行没
386頃 仲哀没
411頃 応神没
436頃 仁徳没 413年 東晋 『仁徳』 讃
461頃 允恭没
486頃 雄略没 477年 宋 武
・
・
・
628年 推古没 600年 隋 『スイコ』
>>67 崇神がヤマト初代は同意。
で、自分はそれ以前の天皇代は崇神の奉じる「始祖伝説」の王だったと理解している。
3世紀後半のある種の「太古の英雄」として神武が存在して、そこに繋げることで正統性を
得ようとした、みたいな。
神武が邪馬台国を滅ぼしたんですね
104 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:36:40
オオヒコをヲワケが仮託した架空の人物と本気で考えている人なんているのかな?
オオヒコは親も祖父も子孫も系譜がしっかり残っていて明確である。
しかも活動記録まで歴史書にはっきりとした記載がある。
記載が残るに値する血筋の人物である。
その上で稲荷山鉄剣に名前まで明記されている。
ヲワケのわずか7代前の祖先がオオヒコである。
この状況でオオヒコの実在を認めないのは、東条英機の実在を認めないのと同じレベルだろ。
ていうか、それこそ「呉太伯の後」を名乗る渡来系の英雄、みたいな感じではと。
記紀は捏造だらけだからそれをソースに語られてもね
各地の豪族を切り従えて彼らの持ってた歴史を
自分たちに都合が良い様に改竄したって古事記の序に書いてあるんだし
どこが正しくてどこが改竄した部分なのかを見極めるのはこんなんだねえ
>>105 誰でもかれでも渡来系は関心しないな。
新鮮精子録で夷蛮姓ならば仕方ないけど。
108 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/09(火) 23:55:11
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
孝元天皇元年 164年
上祖名意冨比[土危]・・・・上祖名はオオヒコ ( 169年生まれ )
崇神天皇元年188年 崇神6年=新羅193年の条
其児多加利足尼・・・・・・・其の児多かりたるに ( 189年 武渟川別の兄弟?)
其児名弖巳加利獲居・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 209年 磐鹿六雁命の兄弟?六雁は大彦の孫)
垂仁天皇元年 216年
其児名多加披次獲居・・・・・其の児名はタカヒジのわこ ( 229年 高橋神社に六雁は祀られる)
景行天皇元年 239年
其児名多沙鬼獲居・・・・・・其の児名はタサキのわこ ( 249年 )
成務天皇元年 261年
仲哀天皇元年 265年
其児名半弖比・・・・・・・・其の児名はハテヒ ( 269年 最果て火の国熊本?)
神功元年 274年 摂政前記 273年日食
其児名加差披余・・・・・・・其の児名はカサヒヨ ( 289年 伊勢 風早国 )
其児名乎獲居臣・・・・・・・其の児名はコワコの臣 ( 309年生まれ)
世々為杖刀人首奉事・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
309年に記録される「わかたける」は日本武尊の子ども。
日本武尊は、河内のシキに古墳が造られる。
313年 皇暦938年 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 没 墓標より
1代当たり20年で世継ぎをすると上記の数字になります。
私の数字は、220: 日本書紀の年代を考える (540)に書かれています。
なお精神錯乱者の乱入を憂う。
>>108 こういう語呂合わせを本当に信じている人いるの?
ワカタケル、オホヒコなんて本当に個人の名前なの?
若武者、大王あたりとどう違うの?
日本武尊は実在の個人名ですか?
110 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 01:27:42
>>106 オオヒコを捏造とすると、オオヒコの子供も孫もそれらの嫁たちも全部捏造になるのか?
オオヒコの親も祖父もその兄弟も捏造になるのか?
つまり記紀も旧事紀も姓氏録も紹運録も、すべてが同じ捏造思想を持った異常集団が
数百年にわたって捏造を続けてきた捏造歴史書ということか?
・・・・・捏造史観を言い出すと、このレベルのオカルトに行き着いちゃうんだよね。
古史古伝は相互に支えあっている関係に立つから、その骨格の1本でも抜こうとすると、
「全部が捏造史観に基づく捏造された歴史だ。」という極地まで一気に行き着いちゃう。
まあ、戦後のどさくさのなかで生まれた学説の大半はこんなんだけどww
>>110 まあ、逆も真なりだなw
オオヒコを実在とすると、オオヒコの親も祖父もそれらの嫁たちも全部実在になるのか?
…って話でwww
そのロジックを拡張していけば結局、神武にまで遡る系譜を認めろって話で
まあ、いつもの怨み節をぶっている東遷説論者だろうから、それが最終的な目標なんだろうがwww
先に大国の倍暦が出ていたが、欠史八代の没日等が月前半に集中しているというのも
欠史八代が「後付け」と考える材料にはなるw
(まあ日付だけが後付けだった…と言う線もあるだろうが)
112 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:22:14
>>111 >オオヒコを実在とすると、オオヒコの親も祖父もそれらの嫁たちも全部実在になるのか?
実在でなんか不都合があるんか?
鉄剣にオオヒコの親も祖父も書いてない
鉄剣は日本最古の系図資料
>>112 実在でも別に不都合はないな。
非実在でも不都合はないしwww
可能性としては以下の三つ?
(1)大彦は実在で記紀の系譜のように父親は孝元、ヤマト王家に繋がる系譜だった
(2)大彦は実在した人物、ただし記紀の孝元に繋がる系譜は後付け
(3)大彦は実在しなかった、関東北陸での有力氏族の伝説上の共通始祖
(2)〇
117 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:57:44
コピペになんだが、
>>108 >其児多加利足尼・・・・・・・其の児多かりたるに
足尼は「たるに」でなく「スクネ」だろう。
>其児名多加披次獲居・・・・・其の児名はタカヒジのわこ
これは高橋の「ワケ」
(その他の獲居も全部「ワケ」)
>其児名加差披余・・・・・・・其の児名はカサヒヨ
>これは笠原で良し。やっと史実との整合性が取れてくると。
>>115 大彦は、北陸の有力氏族の伝説上の共通始祖。
一人以上の実在したモデルがいた可能性はある。
ただし記紀の孝元に繋がる系譜は後付け。
つかなんで大彦に連なる全部が捏造とか拡大解釈してるの?
全部を嘘で固める必要はないだろうに
古事記の序読めば歴史改竄しちゃいましたと言う天武天皇の有難いお言葉が書いてあるよ
しかも古事記と日本書紀ですら食い違ってる部分あるのに互いに支えあってる関係って
あと旧事紀なんて出してくんなやボケ
ついでに古史古伝て偽書のことだよ
120 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 04:14:44
系図を書くというのはやはり自慢したいんだろう。
あるいは、すごいだろうと思われたいんだろう。
となると、上祖となっている人物はそれなりに有名な人物なんだろう。
七代?も前のことがわかるかどうか疑問だから、一般的に有名な人物に
つなげたというのもあるかもしれない。
何はともあれ、オホヒコというのが当時でもかなり著名だったことは
確かだろうな。
ヤマトタケルも実在とかいいそうな雰囲気だな。
122 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 09:35:03
聖徳太子 非実在説
イエスキリスト 非実在説
こういうのもある
123 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 09:52:59
>>121 稲荷山鉄剣が出るまで四道将軍の大彦が実在したなんて言ったら笑われてた時代があったよ
124 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 10:08:10
ヤマトタケルは実在
邪馬台国は提造
まあぶっちゃけ福井県からやってきた継体天皇から前はファンタジー小説だけどな。
くやしいのうwwwwwwくやしいのうwwwwwww
127 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 11:56:33
>>115 (2)(3)は要するに、捏造史観そのものだわな。
ぶっちゃけ思想的にみて「いるわけないから認めない。」というところだわな。
鉄剣に系図がはっきり書いてあっても、ガン無視www
「カラスも見ようによっては純白だ。」という理屈だよね。
128 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 12:13:13
>ファンタジー
実際ロマンはありますよ。
ロマンのある歴史とはなんと素晴らしいことでしょう !( ^ω^)
What a romantic histry it is !
韓流ドラマのルーツは日本書紀とわかっています。
「禁じられた愛」「出生の秘密」「不慮の事故」「奇跡」etc
>>127 >鉄剣に系図がはっきり書いてあっても、ガン無視www
鉄剣にはオオヒコの父が孝元天皇と、はっきり書いて・・・・・・・・なかったよなww
131 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:04:32
オオヒコからヲワケまでの系譜が書いてあるのだが・・・・
孝元天皇がないと全部架空なのか?
オオヒコからヲワケまでの系譜が書いてあるのだが・・・・→実在
孝元天皇がないと全部架空なのか?→孝元が架空
133 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:09:22
大阪人>俺は東京に行ったことがない。名古屋ならある。
だから、名古屋は実在するが、東京は伝説に過ぎん。
134 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:19:43
>>133 その例えはおかしわ
現時点で分かってる事を例えるなら
オオヒコ→火星
孝元天皇→火星人
この程度だろ
135 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:26:07
現時点で分かってる事
オオヒコ→仮性
孝元天皇→真性
この程度
136 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:28:13
>>134 オオヒコを目視できるエスパーがキタコレ
137 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 18:49:14
>>115 (1)と考えるのが素直でしょう
8世紀に編纂された記紀のみなら(3)の説もあるだろうけど
それはもうないでしょ
現在は(2)が大勢なんだろうけど
大和朝廷に仕えたことが銘文にしるされていて
それと関係ないとされる人物をわざわざ同一の文面に記すかな?
大彦が大和朝廷と関係ない存在なら文面自体が不自然な感じがするけど
138 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:01:53
捏造史観のイケナイところは、「伝承の骨格に意図的な捏造があった」とするところだね。
王朝が何度も交替したとか、騎馬民族が来たとか、応神=仁徳(直木説)とか、架空の天皇が
実在の天皇のなかに何人も登場するとか、伝承の骨格が折れてしまう捏造を想定すると、
「だったらそんな歴史書なんて作る必要ないだろ。」という話になってしまう。
そこで、「〜という歴史を〜にごまかして後世に伝える価値があったのだ。」と言われても、
「なんじゃそりゃ?お前らのやっていることか?」という感じなんだよねえ。
139 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:16:28
>>138 応神=仁徳とすると、その子供たち、ヨメたちの伝承も全面的に事実を改変したことになるが、こんなのは
壮大な捏造計画に従って事実の捏造を続けてきた陰謀集団でも想定しないと成り立たない。
さらに、崇神(実在)、垂仁(架空)、景行(実在)、成務(架空)、仲哀(架空)、応神(実在)、仁徳(実在)と
いう感じで実在と架空とが混在するとしてしまうと、実在の天皇の親、子供、ヨメ、兄弟の系譜も架空のものに
複雑なつぎはぎをして、きわめて複雑な捏造をしたことになりそうである。
というか、「そんな込み入った捏造を想定するやつはバカじゃなかろうか。」というのが、普通の人間の
実感だろう。
この手の考えが学説としていまだに存在するのか定かじゃないが、とても常識の通用する人間の考える
こととは思えない。
子の実在性が増したならその親も実在したと考えるのが当然
と言うロジックなら神武にまで遡った系譜を真と見るのが妥当
…と言う事になるな。
まあいつものヒステリックな東遷厨はそれが言いたいんだろうけどw
141 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 20:47:19
神代にまで遡るのはどうかと思うけど
崇神が実在で全国的な政権の初代と仮定すると
その伯父で補佐をしたとされる大彦の存在が不自然とは思えないけど
142 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/10(水) 21:01:53
アヘタケヌガワは垂仁時代に伊勢に入る
其児名弖巳加利獲居・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 209年 磐鹿六雁命の兄弟?六雁は大彦の孫)
六雁は、景行元年で大体30才 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
ベテランと呼ばれる歳だ。
景行末年 260年まで活躍すれば50才 当時でも可能な年齢。
大彦の孫磐鹿は、高橋神社に祀られる。
此所までで何処かに異常はあるか?
>>140 捏造史観のダメなところは、「意図的な捏造」という言い訳で、技巧的で
複雑な捏造をつくりだすところなんだわ。
俺だって記紀とかにかいてあることが全部事実と主張するわけじゃない。
伝承の過程で、誤って伝わったり、省略されたり、誇張されたりすることは、
当然あると考えている。
けどそれを超えて、「体系的な捏造の目的を有する勢力による根本的な
歴史の書き換えがなされた」という前提に立たないと説明不可能なことを
言い出されると、「なにそれ、怖い」という感じになるんだわ。
戦後のどさくさの時期はこんな感じでも放置されたのかも知れんけど、
冷静に考えると、「あの人ちょっと異常だね。」という感じだわな。
>>141 > 崇神が実在で全国的な政権の初代と仮定すると
考古学的にあり得ない。
145 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:19:43
>>144 あれ? 崇神は実在した可能性のある最初の天皇じゃないの?
146 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:30:04
>>144 崇神の実在が考古学的にあり得ないのか、
全国的な政権が考古学的にあり得ないのか、
両方ともあり得ないのか、
そういう点が読むひとにわかるように書かないと。
それと、そっけなくレスせず、少しは考古学的な理由というのも書かないと。
147 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:59:33
横レスだが、72で書いたように、欠史八代(八代非実在)は崇神天皇の出自や王権の性格
と本来セットになって語られるべきものだ。崇神以前のヤマトに何もなかったわけではなく、
崇神は木の股から生まれたわけでもない。崇神東遷説を説く人もいないではないが、少数
のようだ。
崇神には御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)の称があり、これは神武天皇の始馭天下
之天皇:はつくにしらすすめらみこと)と同義と考えられ、画期の天皇であった、とはいえるだろう。
しかし、崇神陵を行燈山古墳(俺は西殿塚説)と比定するなら、それ以前のものとされる箸墓を
はじめとする纒向の前方後円墳群をどう説明するかが大きな課題となる。それらには当然なが
ら考古学的に連続性が認められるからだ。
148 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:04:17
いや、捏造とか言って否定してる訳ではなく、都合のいい部分は史実、悪い部分は捏造とする態度が学問的でないということ。
書いてあるんだからとか系図があるからとかバカなことは言わないこと。
日本武は架空である
だから日本武の父景行も子仲哀も架空である
結論
応神以前は架空
欠史八代については、やはりその御陵の存在が誤解を生む原因となっているだろう。現在の
御陵は記紀の記述を元に比定されたものだが、ほとんどが後代の古墳か自然丘陵である。
考古学による記紀の記述にある欠史八代実在の証明というなら、これらの御陵や、孝元天皇
で言えば都とされる軽境原宮(橿原市の牟佐坐神社?)跡からそれを示唆する遺物が発見さ
れたとき、ということになるだろうか。
稲荷山古墳の鉄剣銘からは、オオヒコ実在は論ずることができる(これも上スレのような難しい
問題を孕むが)としても、孝元実在の証とすることはもちろんできない。
151 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:50:11
記紀の記述全部をそのまま鵜呑みに出来ないことは分かってくれるかな?
しかしそれをどこまで信用するかの判断は非常に恣意的になり易い。学問的でないとはそういう意味。
オオヒコ信者クンはこの説明で分かってくれるかな。
安本みたいに、記紀の都合のいい部分だけを抜き出す輩に対しては、眉に唾つけないと
152 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:24:28
>>150 オオヒコ実在を認めたら、その父親がいたことは認めざるを得ないわな。
そこを自然に考えると、
>>46のようになるわな。
それをあえて、「得体の知れない人物」とする必要もないよね。
オオヒコの先祖や子孫の伝承も否定する理由はないわな。
153 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/10(水) 23:32:01
だから津田病の潜伏期が終わった奴らの否定という妄想。
それは記紀からいえることであって、考古学的な証明とは違うということだよ。記紀の記述の
信憑性については、俺は判断は避けたい。
しかし他スレで書いたが、橿原遺跡の存在から、俺は神武天皇(のモデル的人物)前7世紀
実存説なんだが。
>>151 安本は記紀をそのまま信じる側だろww
イザナギの墓がどこにあるとか、そのレベルまで信じている。
記紀を都合よく改変して再構成しているのは、水野、直木あたりから
始まる王朝交代説とかだろ。
現代的に例えれば、特に徳川の係累でも何でも無いヤツが
「俺は徳川家康の子孫だ」
と言って捏造した系譜を出す場合、捏造が何処に入るかというと、
「実在してる初代」と「誤魔化しようのない自分の父親や祖父」の中間に
作為を入れるよな。別に現代に限らずとも、過去の大名とかの系譜偽装とかも
概ねそういう感じだ。
同様な文脈で稲荷山を考えると、大彦は実在して、間の系譜が怪しい、という
話になり、大彦の実在については蓋然性が高いと考えるべきではあろう。
157 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:50:47
>>144 考古学でわかるものというのは限られているだろう。
天皇陵も考古学でわかるものはない。文献で特定される。
今城塚古墳なんかが良い例。
まして、天皇の存在が考古学でわかるものかな?
わかるものなら教えて欲しいものだが。
>>157 文献史料の少ない古代において、考古学に軸足を置くのは当然。
記紀や倭人伝ベースで語るのは妄想と言われても仕方が無い
159 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:08:45
>>158 逆だろう。記紀や倭人伝を考慮するのが先で、考古学はその参考にすべき。
考古学では、いくら詳細に発掘調査しても、古墳が誰のものか特定できない。
黒塚古墳や椿井大塚山古墳を見れば明らかだと思うし、他の古墳でも
同じだろう。
要するに、考古学は解釈するもの。いろんな解釈が可能で、今までの経緯を
見ればわかるようにコロコロと解釈が変わることも多い。
まあ、この解釈の自由度が畿内説を支えているとも言えるんだが。
まず、孝元実在を語るなら、孝霊天皇18年(前273年)- 孝元天皇57年(前158年)と解釈
される年代観をどう考えるかだな。太国倍暦が介在する余地があるんで、本当はこの話
題は出したくないんだが。
161 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:16:00
>>156 系図をごまかす困難さは、その例でも言えることだよ。
家康の次に徳川一郎を入れたとしても、徳川の関係者に見つかれば、指摘される。
それで100年後、200年後になってごまかせば良いかというと、その100、200年の間に
正しい系譜が一般に広まってしまってごまかしようがない。
オオヒコの場合も、オオヒコに近い時代にはごまかしようがないし、かなり経過してからでは
オオヒコの系譜が子孫だけでなく、一般にまで広まっていて、ごまかせない。
このレベルの想像力を有する知能があれば、系図を大幅に切り貼りする考えがいかに
荒唐無稽のトンデモかが分かると思う。
163 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:26:36
国宝になった石川年足の墓誌なんかは、有名かな。
あれには、出自の起源が武内宿称〜石川宿称〜と書き起こされている。
血統が重要な時代には、自分の出自は超重要。
赤の他人が介入して大幅改変するっていうのは、不可能に近い。
なぜ大幅に切り貼りする必要が?
>>161 本当に誤魔化そうという意思がなけりゃ、持統が記紀編纂前に三輪氏以下有力豪族の
系図を提出させはしないだろう。
つまりは皇室にとって都合の悪い系譜を抹消したわけで
166 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:30:54
>>165 書き写して提出すれば良いだけだろww
てゆうか、それで 系図の抹消→書換え っていうことを本気で考えるんか?
俺はあの鉄剣銘を読んで、旧約聖書の系図がすぐ頭に浮かんだ。例えば、
>エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メ
トサエルの子はレメクである。
記紀と聖書では文化的背景は違うのだが、興味深いね。
義江明子の系譜論すら出てない時点でこのスレのレベルが知れる
血縁じゃなくて地位継承次第っていうのも何だかねー
170 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:03:53
記紀編纂以降は、朝廷が決めた「正しい」歴史に慮って、豪族たちは自らの系図を書き変えたんだろう。
各々の豪族が好き勝手に自称、僭称して混乱があるから、ていうのが記紀編纂の大義名分。
実際は天武の正当性を主張するための捏造、ていうか取捨選択。
171 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:29:18
>>167 そうだね。
自分がどこから生まれ、どこへ行くのか〜
この疑問は人類の本能だろう。
172 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:31:33
いつのまにかこのスレ、大バカ彦くんにいろいろと教えてやるスレになってるなw
反論が稲荷山鉄剣と「家系図を偽る筈がない」の2つだけだからなー
もうちょっと手を変え品を変えしないと、このスレ保たないよ
174 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:42:25
>>173 反論が「家系を偽る筈だ」で変更する前の資料のような物的根拠がなにもないよりはましだよ
>>174 実際、古事記の序段で天武天皇が
「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、
多く虚偽を加ふ。』といへり」
って言ってたと書いてんだってさ。
納得してくれた?
176 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:55:57
>>175 「事実と違う」という動機で書かれた旧事紀や古語拾遺が、どれほど記紀と違うのかと
考えると、ラディカルな捏造論にはついていけないよ。
日本書紀では異伝を書きまくりだが、そのレベルをはるかに超える「異伝」を現代に
なって考案されても、「ねえよwwwww」という感じだな。
内容のない反論だな
旧事紀と古語拾遺を同列に並べるのは古語拾遺に失礼では?
179 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 02:53:56
このスレタイの【四道将軍】オオヒコノミコトは置いといて
【稲荷山鉄剣】の方を論じたい
なぜならばそこにオオビコ、ワカタケルと読める文字があるから
ワカタケルは雄略天皇でガチ。倭王武。
>>168 そういう言及をする時は、もうちょい詳しくその系譜論を書いた方が良いかと思う。
因みに、俺自身は義江説は余り筋がよくない印象があったが。
あと、あきこは「彰子」な。
182 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 10:34:28
>>181 横レスだが、明子でいいんじゃないの?ジェンダー古代史wwの人だろ?ま、本は読んだが
そんな大したものじゃないよ。
旦那さん(義江彰夫)と混同してるんだろ。
185 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 18:26:52
>>173 鉄剣銘文と記紀だけでも崇神天皇の伯父大彦の実在の可能性は高いと思うけど
大彦が非実在や大和朝廷と関係ない者である可能性が高いと主張している人こそ
その可能性の証拠を提示しないとね
>>175 大和朝廷に地方豪族の系譜や事績が処分されてしまったから
というなら なんでもアリってことになってしまうね
上レスに出てきた北陸等の「共通祖先」という考え方はある程度まで正しいと思うが、だから
といってオオヒコの実在を否定する根拠にはならないだろうし、一方150で書いたように鉄剣
銘を孝元天皇実在の根拠とすることもできないと思う。
仮に崇神天皇(あるいはそのモデルになる人物)実在として、考古学的には、崇神陵=行燈山
古墳と見て(俺は違う)それ以前のマキ向の古墳群を考察していくことになるし、記紀を全て信じ
るという立場なら、孝元陵=剣池嶋上陵、宮地=軽境原宮として追っていくことになる。これでは
どうしても噛み合わん。
187 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 19:22:30
仮に記紀の系譜が正しいとすると
雄略天皇は孝元天皇の10世孫で
乎獲居臣は孝元天皇の8世孫になるよね
世数としては現実味があるよね
大彦が大和朝廷と関係ない関東北陸の共通祖先であるなら
たまたまだったってことなのかな?
まあ、記紀の四道将軍大彦派遣の記事と、時代は古いが高地性集落の最末期分布、北陸
等の4世紀初頭と見られる前方後円墳群などは符合しているように思える。少なくともオオヒコ
のモデルとなる人物はいたのだろう。
あと、大彦命を祀る神社は、福井県鯖江市の舟津神社、富山県富山市の鵜坂神社、福島県大
沼郡の伊佐須美神社など。後付けもあるだろうが、オオヒコの伝承は古くからこれらの地に
あったのではないかな。
190 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 20:45:54
宝賀の論調
・系図混乱の要因が「仮冒」一択
・招婿婚(婿入り婚)制の無視
・尊卑分脈の軽視
・すこしでも矛盾があれば「古代豪族の末裔であろう」
それで孝元天皇は実在説?架空説?どっち?
>>189 宝賀さんは、極端に異端の考えもふつうにさらっとかいちゃうから、
異端の部分がどこか分からない人は読まない方が良さそう。
194 :
188:2009/06/11(木) 22:41:38
>>192 俺に言ってるのかな?難しいこと聞くなよ.。ww まず俺の立場は、記紀絶対尊重ではない。
なぜなら、崇神天皇の没年を、古事記の戊寅年の干支から318年(または258年)と推定す
れば穏当だろうし、行燈山古墳なら318年の方とそれほど齟齬はないだろうと思うからだ。
しかし、神武即位を前660とすれば崇神没年は前30年?となり、2代前の孝元天皇は前2〜3
世紀の人ということになってしまう。さすがにこれは考えられないので、記紀の年代には錯誤
があるといわざるを得ない。この前提に立ってなら孝元天皇のモデルとなった人物はいたとい
ってよいように思う。
倍暦の信憑性っつーのはどうなの?
無理やりこうなら辻褄が会うとこじつけた様な印象だけど
倍暦はないと思うね。(これ見れば太国氏が来るだろうなww)
魏志の裴松之注の「其俗不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀」
が根拠なんだっけ。
198 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/11(木) 23:06:08
倍暦計算で
崇神崩御=259年
これは記の崩年干支258年にほぼ合致する。という事は年代論に限って
は、菅政友、橋本増吉の説がだいたい合ってるということになる。
そして今回の箸墓鑑定値は、倍暦のさらなる逆算から
崇神即位=237年=景初元年
が求められ
紀の崇神十年=240年=百襲媛没=正始元年
となり、池田仁三氏の
箸墓碑石写真の媛戊寅年10/20没も、当時倍暦と通常暦の並行運用の
多発から暦の交錯が発生し混乱があったようで、この交錯を紐解く
と、碑石干支と月日は241年となり、いずれも鑑定値内に入る。
入るということは池田氏の写真はバカにはできないということだな。
199 :
縦目仮面:2009/06/11(木) 23:09:46
すぐ来たか.。ww まあ、倍暦論議は過去にさんざんやったのでもういいでしょう。あーあ
せっかく名無しで書いてたのに。
バイレキキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
>>196 6分後にww
あんたはエスパーか
しかも奴がなに話してんだかわかんねえw
202 :
縦目仮面:2009/06/11(木) 23:24:51
写真はともかく、独自の年代研究はしているのでしょう。
203 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:39:51
倍暦議論はなく、太国氏は寝たようだから名無しに戻ります。
なぜ欠史八代の御陵が、橿原周辺に多いかについては俺なりの仮説はあるんだが、まだトン
デモに近いものなんで批判は多いだろう。それは、前7世紀の伝承が、ある程度記紀編纂時
まで伝えられているというもの。まあ、誤解をまねくが、神武前660年実在説といってもよい。
他スレに書いたものだが、
橿原遺跡・・・橿原神宮外苑、縄文時代晩期中心の西日本を代表する大集落跡として知ら
れる。皇紀2600年記念事業として、外苑の整備工事に先立ち、昭和13年から約2年半、
面積約10万m2の当時としては類例のない大規模発掘調査を実施。縄文時代後期後半の
宮滝式土器から晩期後半の凸帯文土器までほぼ継続した形で出土。中には稲の種籾が
入ったものも見つかった。
204 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 00:53:56
続き
注目点としては、、イチイガシ(檪樫)の大樹根が多数出土したこと。土器には東北地方中心
に分布する大洞式系土器も含まれ、後に「橿原式土器」と呼ばれるものは、この東北系土
器の強い影響下に成立したと考えられている。
さらに、戦後、鹿沼景揚氏がこれらの遺物に米ミシガン大学においてC14による年代測定を
実施したところ、前600年±200年の結果が出たとされている。また、この遺跡だけでなく神武
帝の事績が伝承される地には縄文晩期(今話題の歴博年代観なら弥生前期?)の遺跡が見
られることが多い。
205 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 01:05:41
続き
ただ、戦前の調査に関しては国威発揚などの観点から割り引いて考える必要があるだろうし、
発掘や年代測定の技術水準の問題もある。マキ向の神殿様掘立柱建物の30年前の調査で
さえあの有様で、当時の情報が一人歩きしていた。
前660年については、讖緯説の影響は否定できない気はするが、この遺跡に見る古い記憶
が、橿原周辺をヤマト王権の故地として記紀の記事となったのではないかと考える。しかし、
この時代の人物については個人として特定できない気はするので、孝元天皇などは、もっと
新しい時代の別の伝承と混乱していると考えてる。もう遅いんで、それについては後日とした
い。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/kashihara.html
206 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 03:28:31
縄文時代の遺跡はたくさんあるからねえ。
それが連続し、弥生遺跡となり、古墳時代に続くというのなら、価値もあるし、
伝承としても残るだろうが、単発の縄文遺跡ではどうしようもない。
集落は断絶したけれども、伝承が残るというのはありえないと思う。
もっとずっと後の纏向でさえ伝承に残っているとは思えないし。
3世紀の卑弥呼のことでさえカンカンガクガクだし、5世紀の倭の五王でも
議論がまとまらない状態だから。
いくらなんでも、縄文遺跡は無理があるなあ。
207 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 03:34:49
それにしても、歴博のC14では、弥生時代の始まりは紀元前10世紀と出たんじゃ
なかったかな。橿原の縄文遺跡が同じC14で、紀元前600年±200年ではちょっと
計算が合わないような。
208 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 06:47:09
俺は弥生時代は今までより500年ほどさかのぼると聞いた。
今まではBC300年くらいがその始まりとされてたから丁度合うんじゃね?
209 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:26:22
>>185 だから〜、記紀を全部信用出来ないんだろ?どこまで正しいかの匙加減は誰がするの?
同時代の文献が倭人伝だけという状況下、考古学でそれを判別していくしかないということ
210 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:31:41
>>206 マキムクは伝承いっぱい残ってると思うのだが。
ていうかマキムク以前が欠史でない訳で。
212 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 12:22:28
213 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:25:00
倭人伝は外人が書いてるし、不正確なのは仕方ない。
そもそも文献史学は同時代のが複数あって、それを突き合わせて考えるもの。
古代でそれはできんだろ
214 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:11:18
間違いなく言えるのは、5世紀には世襲制が確立していたということかな。
卑弥呼時代の王の地位は、世襲制ではないから、世襲制がいつから始まったか
というのもかなり興味がある。
最近でいえば、北朝鮮ということになるが、非常に強力でカリスマ性の強い
人物から世襲制は始まる。世襲制の始まりが大和朝廷の始まりということに
なるのではなかろうか。
>>214 卑弥呼は独身だから直系の子孫はいない
だから宗女(一族の女)を後継者にした
5世紀に世襲制というと、倭の五王から?
讃、珍の王統と済、興、武の王統がつながっていないという話もあるけど。
217 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:56:30
>>207 204に書いてるが、歴博年代観なら弥生前期だろう。縄文晩期というのは当時の見解から
取ったもの。ただし、歴博年代観は俺はかなり危ぶんでる。
>>217 今まで一度も古過ぎる年代観が提示されたことはない。
新し過ぎる年代観しかなかった。
新たな年代観が提示されたら、まず新しすぎないかを疑え。
219 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:25:35
言ってる意味はわかるよ。よくいえば学問としての慎重さや、各方面への配慮だろう。
220 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:43:54
>>217 俺は歴博は全く信用していない。
発表の仕方から中身から批判への対応など全部ダメだね。
無地の壁に矢を尽きたたて「ココが的だ。」と言って、矢の周りに円を書き出した。
周りが「そこじゃない」と批判するたびに、円の外側により大きな円を描き続ける。
こんな感じだね。
221 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:10:09
本来理化学年代ではもっと古く出てたのを、
「従来の考古学的に考えておかしいから」との理由で、
一番新しい年代を発表していたからな。
発表のたびに古くなるのはそういった経緯から
歴博以前の糞学者のやり口
無地の壁に矢を尽きたたて「ココが的だ。」と言って、矢の周りに円を書き出した。
周りが「そこじゃない」と批判するたびに、円の外側により大きな円を描き続ける。
こんな感じだね。
>>216 そうは言っても、最後の武が「俺の親父や爺さんの代から」と言ってる訳で、
五王間の系譜が繋がらなかったと仮定しても、武は別系統の「世襲制」に
則った王権の主であるとは言えよう。
この時期の渡来人の活躍は夙に語られるが、その影響を認めるならば、
半島や大陸からの輸入文化の中に「世襲制」が入ることに驚きはなかろう。
225 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:29:26
>>221 C14が実際よりもかなり古く出るという批判は当然知っているよな。
歴博はこの批判に答えたのか。エジプトの例の検討はしたのか?
甕棺の点からのは、前期を極端に長くする編年は無理という批判もあるよな。
この点についての反論も聞きたいものだ。
鉄器の普及が中国より古くなるという批判もいまだ有効だよな。
春成は前期の鉄器は本当は中期だと主張したが、発掘にミスは無いとの反論に答えたか?
C14のデータをあの方法で作り続けても、上の批判に答えることにはならないことは、明白。
理化学の分野ではたった一つの反証、反論に答えられないことで、仮説の全てが覆るなんてのは
よくあることだが、歴博は一つの方法論にしがみついて多数の反論を無視するというレベル。
これじゃあ全く話にならない。
しかも、上の批判が出る前に「これで確定」だとか、「教科書が変わる」とかの大言壮語では
学者としての研究対象に対する謙虚さのかけらもない。
226 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:31:35
で、メスリ山古墳が記紀で安倍氏の祖とされる武渟川別命(大彦命の子)墓という説はよく言われますな。
>>226 塚口が言うのなら理路整然とした根拠があってのことだろう。
ただし世代的には桜井茶臼山では新しすぎるから、ホケノの方が良いと思う。
活躍時期の重なる崇神の古墳とモモソヒメの箸墓が近くにある。
天皇の実子で四道将軍という立場からは、王家の墓域がふさわしい。
白石太一郎氏は、茶臼山もメスリ山も大王墓と見ているようだが。
230 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:50:22
理化学年代は今後の推移を見守るってことだろ。
どうせ実年代の根拠なんて他にないんだし
231 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:52:20
ホケノは阿波の石積墓の影響が強いとされているが。
オオヒコは阿波出身なのかね?
>>229 ただ磐余の二古墳て群形成の中に無いんだよね。ちょっと異質。
233 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:59:53
複数の王統があったんだろな。
少なくとも柳本とイワレは並立状態だったと思う。
234 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:05:34
>>225 ということは、箸墓というか布留0は、かなり時代が下る可能性があるな。
235 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:09:13
地震の多い日本では常に新しい遺物が紛れ込む可能性あるだろ。
桜井茶臼山と黒塚で同笵鏡があったりするからなあ
237 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:21:55
王統が違うって言ったのは、造墓集団が違う程度の意味だよ。
別に対立してたとかではなく、緩やかな連合だったということ
>>237 そらまあそうだね。前方後円墳という形式自体、
ハイブリッドとしか思えないもん。
239 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 02:40:59
大彦は北陸に派遣されて、その子のタケヌナカワは東海に派遣された。
二人が落ち合った場所なので会い津(会津)と名づけられたとする。
その会津では、弥生時代末期から古墳時代初めの時期に、北陸北東部(能登)に
由来する独特の住居跡とセットで、北陸北東部と全く同じ土器群が多数出土している。
*会津男壇遺跡、中西遺跡
これも大彦の伝承を裏付ける物証。
240 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:22:11
■【桜井茶臼山古墳】 度肝抜く発見…被葬者は誰? MSN産経ニュース2009.6.12
石室を囲む「玉垣跡」が全国で初めて見つかった桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。大王クラスの大型古墳の発掘例は極めて少なく、60年ぶりの再調査は研究者の度肝を抜く発見に結びついた。
「被葬者の魂を守る施設」「たたりを恐れて権力者の霊を封じ込めた」。前代未聞の発掘成果に、研究者も興奮を隠さない。聖なる白木に囲まれて眠りについた被葬者へ、ロマンは尽きない。
「垣の内側には、被葬者の魂が住むための木製のミニチュアの家などが並んでいたのではないか」と推測するのは和田晴吾・立命館大教授(考古学)。外部世界と隔絶するための玉垣説を唱える。
「玉垣ではなく、建物跡だ」
と主張するのは石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)。古代中国の皇帝陵の墳丘上に建物が設けられた例を挙げ、
「被葬者の魂が宿るための建物を設け、中国の制度を積極的に取り入れたのだろう」。
一方、平安時代の法律注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」には
『倭の五王の一人、雄略天皇が亡くなった際、魂が暴れ出したため儀式を行って鎮(しず)めた』
との記載があることを指摘する和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は
「柱列には、死者の魂が暴れ出さないよう鎮める役割があったかもしれない」
と指摘する。
調査担当の岡林孝作総括学芸員も
「柱をすき間なく立てたのは、被葬者の魂を内部に封じ込めようとした証し。当時の人たちが、亡き首長の霊力に対し、いかに恐れおののいていたかが見えてくる」
と話す。
<つづく>
241 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:28:35
242 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 05:49:24
2chは程々にしろ>>塚口義信
>>239 > これも大彦の伝承を裏付ける物証。
会津と越の関係が強い事実に基づき伝承が作られたかも知れない。
勝手に因果関係の方向を決めつけてはいけない。
伝承化されるような事実があった可能性が高いということでしょ。
福島県(会津や中通り地方)辺りの古墳にも注目だな。
245 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 18:03:24
伝承があるから実在とかアホな議論は止めなよ
ダイダラボッチやらコロポックルも実在か
246 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:31:35
>>239は伝承の元となる事実があった(大彦一代ではなかったろうが)可能性を述べただけでしょ
>>245何らかの事実に基づく伝承(大和朝廷の東日本への支配権の拡大)と非科学的伝承とごっちゃにする方がアホな議論
247 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:42:17
俺もそう思うね。(記紀とはいえ)文献の記述+考古資料でだめなら、仮説なんて立てられなくなる。
248 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:44:32
>>240 たかが?玉垣で、考古学者もいろんな妄想をするものだ。
さりげなく、卑弥呼と絡めてみたり。
大和朝廷以前から越からの影響はあるんだよ
「事実があった可能性」とか馬鹿としかおもえん
会津の遺跡からは、少なくとも数十人が越から会津にピンポイントに移民した
ことが分かるわけだから、それを可能にするには移民を受け入れさせる権力が
会津にまで及んでいたってことになるわな。
実際、会津でも初期の古墳があるから、ヤマト王権の権力が弥生末期頃から
じかに及んでいたと考えられる。
251 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:59:19
飛躍させ過ぎ。
大和王権の権力が直にとかアホかと。
当時は戸籍も土地の登記もない時代で、人はクニに縛られることなく自由に行き来していたんだよ
基礎学力不足というか、ゆとり世代のバカというか
252 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:23:37
飛躍させ過ぎ。
「戸籍も土地の登記もない」、「クニに縛られることなく自由に行き来していた」ような浮浪者ずれが古墳なんか建てられるかと
基礎学力不足というか、非ゆとり世代でもこれほどのバカがいるというか
低レベルな煽り合いって、見物する分には好きだなあw
254 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:29:09
>>253が『高レベル』な見解を開陳してくれそうです。
別に内容が、いや、どの内容が低レベルとか言ってないぞ〜
引き続きがんばれ!
256 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:37:19
こうしてみると、低レベルな煽りを直接受けるのも嫌いじゃないなあ
でも、本筋を荒らすのは本来好きじゃないからもうレスしないよ
ごめんね!
258 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:45:25
259 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:13:01
>>252 じゃあまず君の方から3世紀の日本で戸籍があったことを証明してくれ給え。
戸籍が無いと大土木が出来ないとか言ってる時点で歴史を知らないバカなんだろうけど
260 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:29:05
>>259 魏志倭人伝にすでに税を徴収するとある。
税の徴収のためには、住民の人数の確認は不可欠。
このことから、最低限、以下のことが言える。
1、ムラごとの戸数の把握は当然にあった。
2、住居の移動の自由は制限されていた。
これを超えて、個人レベルで確認できたかどうかだが、ムラを管理・監督する
立場の者が村人全員を把握していたと、普通に考えられる。
魏志の時代でさえも、このレベル。
261 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:38:08
当時は国以前に部族に分かれていたわけで、それらの部族は時に排他的な行動を取ったはず
弥生どころか縄文の集落だって自由に往来していたなんて考えられない
相当な古代からそれぞれのグループが交易していた事が分かっているが
交易する産物を作るには長い文化の下積みが必要なわけで
彼らが一つ場所にとどまり、それぞれの文化を花開かせていたことの証だろう
262 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:48:13
縄文時代でさえ主食の管理栽培をしていて定住だったってのが今じゃ定説
弥生はそれをさらに推し進めた時代だったのだし、
自分が管理する畑や水田を捨てて他の土地に行くわけがない
あちこち移動していてどうやって食うんだよ
263 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:49:13
>>260 > 魏志倭人伝にすでに税を徴収するとある。
> 税の徴収のためには、住民の人数の確認は不可欠。
んなこたない
各地域ごとにそれなりの貢物が送られてきてたら戸籍がどうとか言わなくてもいいじゃん
村ごとのオサは住人を把握してただろうが、これも自分が見て回れる程度だろう
それ以上に大きい領地を支配するなら配下を派遣するかその地の実力者に貢物をさせるという形をとるだろうが
当時ならほとんど後者だろうな
264 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:49:34
焼畑。
265 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:53:33
>>262-263 水軍があれば物資の輸送による物々交換と略奪で食っていける
紀元前にすでに倭人が海峡を越えて漢帝国と接触してたみたいだから可能だと思うよ
266 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:56:15
弥生時代から余剰米が出て身分の差別化が始まったなんて教科書にも載ってる。
グループから自由に住民が出入りしていたら身分制度が維持できるわけがない。
267 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:58:08
>人はクニに縛られることなく自由に行き来していたんだよ
さすがにこれはトーンダウンし始めたなw
もう寝るから皆さん朝まで議論を続けてちょうだい。
268 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:04:04
基本的に定住する方が楽に生きれたんだろうけど
人間関係が上手くいかず出て行ったやつらもいただろう
そういうやつらが生きていくなら山賊か海賊でこういうやつらは比較的自由に行動できたと思われる
269 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:18:23
当時の日本人は圧倒的に定住して暮らしていたのだ、しかも階級社会で縛られていた
まるで山賊が圧倒的だったような物言いをしてるんじゃねえよ、バカ
270 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:23:12
階級が確認できるのは支配者層だけ
臣とか県主とか稲置とかな
あとはみんな部族長に従う部民。まあ奴隷階級だな
>>260 「住居の移動の自由が制限されていた」ってのは微妙な表現だな。
定住することによる既得権を得るための責任が課せられていただけで、
イヤになれば自ら既得権を捨て勝手に出ていく自由は当然あったろうよ。
だって、そのムラの上位組織が戸籍を把握してたり、違反者個人に罰則を
適用したなんてことは・・・この時代、さすがにありえないだろう?
支配側も居住者に出ていかれては困る面があってそれなりに気を使ったろうし、
お互いさまのいい加減な世界さ。
272 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:27:24
>>269 漁で暮らす人々も多かった
日本史を見るのに農業や陸上戦力だけしか目が行かず漁師や水軍力を無視する傾向は学会も含めてよくある傾向だね
273 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:41:12
>>272 漁民=非定住者ではないだろう。
えっ、違うのか?
漁民=非定住者なのか?
274 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 02:50:40
漁民もおおむね定住だが農民より移動は容易
275 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 04:49:52
なんの根拠があって言ってるんだ、お前
そもそも漁業だけで当時は生活は成り立たないのだ
土器から衣服、穀物まで自分で作らなきゃならんのだから
むろん別部落との小規模な取引はあったろうがな
貝塚は漁業民の集落とセットになっているが、数世代
いや数百年、数千年に渡るような長期的に使われた貝塚があるんだが
彼らが拠点を動かずに定住していた何よりの証拠じゃないか。
>>269 定住した人の方が遺跡を残すことが多いから、
遺跡、遺物の割合でそういうことはわからんと思う。
さすがに山賊が圧倒的って事はないと思うが。
278 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 08:24:19
松木武彦の列島創世紀読め。何度かあった寒冷化に伴い、人や物がダイナミックに動いてたことが書いてるから。
定住してたとか安易に言えなくなるよ
279 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 09:07:38
280 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 16:06:10
3世紀の日本に戸籍があったとか。
まともな教育、受けてないんだろうな。
281 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 18:13:07
そういう話ぢゃないだろ。
能登のあたりから、まとまった人数が会津に移住した。これは何だ?
という話で。
A 自由往来説・・・会津は人気スポットだった。
B 権力による移住説・・・権力者の命令で移住した。
あの時代にAはないんぢゃないかということが言えれば、東北あたりまで
ヤマト王権が及んでいたということになる。
これに対して、天皇の権威を落とす方向でまい進してきた戦後の学界は、
王権の確立時期は雄略か継体か欽明のあたりだと、遅くしてきた。
>>281 >戦後の学界は、王権の確立時期は雄略か継体か欽明のあたりだと、遅くしてきた。
実際そうだろな。聖徳太子と蘇我馬子が天皇記と国記を編纂したのは、あやしい。
中華で王朝崩壊があると後継王朝が正史を編纂する習慣を知ったんだろうなw
でもまあ継体がすうじん五世孫は真実だろう。
隠蔽したのか知らんけど、東国・越で大規模反乱は皆無だ。
天皇家の威徳が・・・つーか、せっせと皇室のエロい人が植樹祭や田植えや開墾をしてたんだろうな。
284 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 18:37:45
移住は偉い人の命令、ってそんなことの方が特殊だろ、どう考えても。
広い範囲の交易があって、交易路の結節点に人と物が集まり、その場所に町が生まれ、ていう流れ
>>284 今の時代はニートやそれに類する最下層の人種が
最新情報や情報集積にアクセスし、フリーソフト(もしくは低廉なそれ)で情報の加工が可能である。
古代においてテクノロジーは神を意味したのである。
恐らく田植えに必要な苗の数を言うだけで、暦から田植えの時期を指示するだけで
神だったろうと推測する。
そしてそれは大和の占有物だったのだ。(結論書き忘れたw)
鉄や銅もそうだね(無駄なレス消費スマソ)
288 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 19:04:32
まあ聖(ひじり)とは「日を知る者」と言う話もあるぐらいだからなwwwwww
289 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 21:23:53
290 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 21:25:27
>>280 オマエは
「まともな教育」とやらを云々するまえに、まずはまともな社会人生活を送ろうなw
平日昼間から2chにレスしてないでさw
291 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 21:37:43
引退した年金じいさんじゃないの。九州王朝といいサガミといい、この手のはタチ悪いよ。
292 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:25:24
>>290 そういう感情的な反論は、学問板には相応しくないだろ
痛い所突かれて悔しかったのかな
294 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:09:15
295 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:18:20
>>294 情けない奴だな。きちんと反論出来ないなら消えろ
296 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:34:54
297 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:09:26
>>296 余りにも低レベルなことを書かれるとアホとしか言いようがない。
一応ここは学問板なんで。
義務教育じゃないんだからw
試しにきちんと反論してみなよ。ちゃんと相手してやるからさ
298 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:37:34
>>297 アンタはやけに「戸籍」にこだわってるねw。
俺が重きを置いてるのはむしろ
>「クニに縛られることなく自由に行き来していた」(
>>251)
ような名無しペンペン草が、古墳なんて築かれてそこに納められるなんていうようなことがあり得るのかって方なんだが?
そこを「突かれ」たくないがために必死に「戸籍」の方に印象誘導しているのはアンタの方だろ、「ゆとり脳」の無職爺さんよw
299 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:51:42
>>
それとアンタの方もとてもじゃないが
>「まともな教育をうけ」た(
>>280)
人間の書く文言じゃないなぁw
>>292で、「感情論でモノを書くな」なんて言って置きながら、自分の「感情的言動」を指摘されると今度は居直って
>(低レベルなんだから)アホとしか言いようがない(
>>297)
ですか。
自分にとってもと〜っても優しいお年寄りなんですねw
働いてない癖に人に説教垂れてるしww
300 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 02:34:51
>>289 大彦の孫の磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は景行天皇の侍臣で
料理の祖神。
景行天皇から膳大伴部(かしわでおおともべ)を賜り、膳臣姓の始祖となる。
301 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 08:01:11
だからさ、福島県に北陸方面からの移住者がいたとしてだな、
大王権力がそこまで及んでた、みたいな電波な発言されるとスレの質が下がるだろ。
3〜4世紀の日本で、首長権力がそこまで厳密に人と土地を管理してたと本気で信じてるの?
竹中平蔵は、アメリカからBIS規制やペイオフを導入し、また「大きくて潰せない企業はない」など
徹底的に経済・企業を潰しにかかり、ユダヤ金融に株・不動産・企業を安値で買わせる。
仕込が完了すると、ETFを買えば必ず儲かると買い煽りして株価を吊り上げる。
小泉就任時14000円が、7000円台まで売り叩き、一気に反発した流れがある。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E3%80%80BIS%E8%A6%8F%E5%88%B6&lr= 竹中 BIS規制
そこに竹中平蔵という経済現場の解っていない人の、銀行の不良資産一掃策が
追い打ちをかけました。結果、多くの銀行は預かっている担保の土地を安くても
売却し、企業は資金繰りがつかなくなり、やはり安い値段でも資産を売却して
債務返済に努めました。ゴルフ場をはじめ安い土地を買ったのはハゲタカファンド
と揶揄される外資系金融であったことは、ご存じのとおりです。
(2007年 麻生太郎講演会にて)
竹中小泉がうんこだというのには同意だがスレ違いだ帰れ
まあ秋田県知事が清和天皇の末裔だから
こいつも誰か大王の子孫であることは間違いない。
305 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 21:28:09
まあ、「4世紀に戸籍や暦があった」というよりは「ヤマト王権に関わる者が会津の早期前方
後円墳に葬られている」のほうが客観的に見てはるかに蓋然性が高いな。
306 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 21:43:58
古墳ってのは誰でも好きなように土を盛って作られたのではない
墳丘墓とは異なり、古墳は文化や政治上の繋がりを持った権力者に許された墓の形式
新しい埋葬形式である古墳は意図的に伝達していったのであり、それはヤマト政権の範疇の拡大と合致する
307 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 22:01:33
古墳の形だけでの議論は危険。実際前方後円墳でも地域色が出てるし、
それまでのその地の造墓集団がそのまま前方後円墳を作り出してる例も多い。
308 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:01:03
会津大塚山古墳などは4世紀中〜後半の古墳とされるが、遺物の刀剣類や工具類はほと
んど畿内の影響が強く見られるもの。三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳と同笵。
これを含む一箕古墳群には4世紀前半と目される古墳もある。
309 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/17(水) 23:10:15
確認されたのは西都原81号墳。長さ52mで卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ
「纏向型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場 に先立つもので
3世紀中ごろまでに造られたとされる桜井市の纏向石塚などと同じ形。
後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期に当たる土器が出土した。こ のため、4世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も半世紀前後さかのぼることになる。
卑弥呼直後には全国で前方後円墳が造られる。
書紀で見れば 景行時代以外ありえない。
310 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:12:39
伝承に加えて考古学的資料まで出てんだから、より確実性は増したと見るのは普通のことだぞ。
311 :
縦目仮面:2009/06/17(水) 23:20:22
>>309 唐松山さん、考古学の勉強進んでますね。で、これと関係深いのは景行天皇ですか?
312 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:23:05
>>309 >弥生時代と古墳時代の過渡期に当たる土器
それ発掘当事者が勝手に言ってるだけだから
313 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:28:16
ま、畿内編年とのすり合わせはできていないね。
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/17(水) 23:34:29
それがしの紀での倍暦計算は
崇神崩御=259年
を逆算から積み上げてこの結果を得た。そして記の崇神没年干支戊寅
は、258年説がほぼ正解であったことが分かるのだ。
そして5月の箸墓鑑定値結果240年〜260年でも、紀の崇神十年の
百襲媛没年が倍暦計算から240年を得て、これも基準値内に入り倍暦
計算の結果が正しいことが裏づけられた。しかも池田仁三氏の箸墓
碑石の百襲媛没年干支も、当時の暦法交錯からの照合にて241年没
との計算結果を得て、ますます鑑定値内にあり、自信を持っている。
このことから記の崇神没年干支が258年説が正だということが言え、
合理的年代値だということとなり、これは年代に関しては菅政友、
橋本増吉の主張が真であったことを物語っているのである。
そして唐松山氏の公表では箸墓鑑定基準年代から50年もメチャクチャに
かけ離れており、彼の主張は一見してデタラメであったこと
が知れるのである。
315 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:34:49
宮崎の古墳は、けっこう畿内の古墳と似ている。
西都原では、纏向型(これについては良くわからないが)が見られるといわれるし、
生目古墳群の古墳は、箸墓と相似形といわれるし、女狭穂塚古墳は、仲津山古墳
と相似形といわれる。
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/17(水) 23:42:24
それは当然なわけである。何となれば日食が数日も続くだとの主張
を彼はひるがえさないわけで、これは現代天文学でもありえないこと
であり、この不合理を強行して景行年代にデタラメ誤離押しして
239年を設定するから50年もモロ見えモデタラメが公にさらされ
るのである。つまり彼の大盲象だということだ。
317 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:42:49
だから五百年後に編纂された記紀にどこまで信を置くかなんだよと
現代人がろくな文献もなく戦国時代を書いたようなもの
318 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:43:36
オオヒコが記紀の大彦命である証拠など何ひとつない。
すべて憶測や願望や妄想にすぎない
319 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:45:15
記紀の年代を恣意的に操作しても、元の年代自体が机上の作文にすぎないから、
虚偽や創作の年代をいくら操作してもむなしいだけだ。
320 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:45:58
321 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/17(水) 23:51:04
創作をすれば舎人親王らは公文書魏偽造罪で死罪とか流罪になる。
従って作文だというのはあんたが考え出した作文なわけ。
zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・
322 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:55:48
前方後円墳があるのは、大和王権と交流があったというだけ。
支配被支配とかは飛躍させ過ぎ。いまどき大和中心史観ははやらないよ。
舎人親王が勝手にやったわけではないだろ
豪族どもの歴史を改竄しますよってのは天皇の言葉じゃねーかよそもそも
324 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:10:21
記紀は歴史書としては扱いにくいものであって、一カ所でも錯誤やねつ造をいってしまうと
他にもあるだろう、ということになるが、虚実の判別は極めて困難である。かといってすべて
真実であるとするのは、やはり科学的ではないだろう。俺は叙事詩的なものと思って楽しん
で読んでいるが。
325 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:26:18
古墳時代ってのはずいぶんとのどかな時代だったんだな
ご挨拶がてらに自分らの首長が眠る古墳をヤマト式に作ったんだろw
ヤマトの大王も菓子折の一つも持って「どうぞお作りください」と挨拶しに行ったってか(爆
326 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:28:44
>>324 お前が何をどう読もうが関係ないんだよ
実際には日本のみならず、韓国や中国の学者も日本書紀を研究してるんだからよ
少しは根拠となるソースを提示してから自分の言い分をレスせえや
327 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:48:18
いまどき記紀が丸々史実なんて思ってるアフォがまだいたんだな。
こりゃホームラン級のヴァカか、恣意的に史料いじって悦に入ってる妄想家か。
328 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:51:28
まるまる史実などとこのスレで誰も一言も発していない
話を誤魔化すのにお前が一人で言ってるだけ(爆
329 :
縦目仮面:2009/06/18(木) 00:55:17
>>326 だから、何らかの史実が含まれると考えられる部分について、いろいろ調べてるんだよ。
例えば、以前倭人伝の「持衰」について調査していたとき、神奈川県三浦半島の間口洞窟
や大浦山洞窟の弥生中期の解体人骨(おそらく儀礼的食人)出土例について森浩一氏が、
「この地域から出る多数の卜骨やバラバラ遺体は、走水の海の安全航海と関連していたの
ではないか。」と書いているのを見つけた。
走水といえば浦賀水道で、記紀にはヤマトタケルの身代わりとなって入水した弟橘姫の有
名な逸話がある。偶然の一致かもしれないが、ドキリとしたのを覚えている。
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s24.html あとは、上レスの147、150、186、188あたり(他にもたくさんあるが)で俺のスタンスは
わかるだろう。そっちこそ自説を出したらどうだ。あと俺は327でないよ。
330 :
縦目仮面:2009/06/18(木) 01:01:32
寝る。
331 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 01:12:53
>>327 丸々嘘と思っているほうが救いようがない。
ま、考古学が信用できるなんていいながら、何の根拠もない纏向や箸墓で
自己満足していればいい。
>>327 どこが史実かという話になると、戦後の左翼全盛時代の遺物が問題になる。
戦後は
>>138、
>>139に書いたようなデタラメな捏造史観が幅を利かせていた。
崇神、景行、成務の征服と王族の大量派遣は全部捏造という捏造史観を前面に出して
「ヤマト王権による支配は雄略以降にしか認めん。」という頑固なバカがいまだにいる。
そのトンデモ史観に遠慮して若手、中堅もはっきり言えない。
稲荷山の鉄剣に「オオヒコ」とはっきり書いてあっても、たいていの著書は「ワカタケル」
だけ触れて「オオヒコ」は遠慮する。
「オオヒコ」に触れると「この系譜は途中からは捏造だよ」として、捏造史観に屈しないと
いけないので、あえて「オオヒコ」をスルーしてしまう。
>創作をすれば舎人親王らは公文書魏偽造罪で死罪とか流罪になる。
>従って作文だというのはあんたが考え出した作文なわけ。
という大国の書き込みに対する反論が記紀の天武天皇の言葉だろ
両方とも話が思いっきりずれてるぞお前ら
334 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 03:23:21
まあいくら大彦の実在性を強調したところで欠史八代の記述の薄さ
その宮や陵墓が(無論、中に入って調査はできないが)「かすりもしていない」と言うのが大方の見方と言うことはひっくり返る物ではないからなw
もっと言えば河内朝(応神朝)あたりまで100歳オーバーがゴロゴロしていると言う現実も変わらないw
ちなみに大彦のおとっつあんの孝元も100歳越えてますwww
>>332は毎度毎度のルサンチマンと言うか怨み節全開だがw
>>139の話にしても複数の有力氏族から王が選出されたとすれば
実在と非実在が混同していても何ら問題がないわけでwww
335 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 03:32:39
>>332 >そのトンデモ史観に遠慮して若手、中堅もはっきり言えない。
まあこの論調はコイツのいつものパターンだが…
さてさて今の学会を牛耳っているらしい高齢の学者先生らがお亡くなりになったら
>332の言うような歴史観にシフトするモンだろうか?w
案外もっとドラスティックに記紀の記述に対する懐疑姿勢は強まるって事はないのかな?w
まあ素人なんでそこら辺の空気は良く分からないがwwww
懐疑姿勢は無くならないにしても強まることはないだろう。
100歳オーバーとか在位60年オーバーとかを鵜呑みにせず、
常識的な1世代・25年で年代をとらえていけば、
記紀って意外と馬鹿に出来ない側面を持っていることに気づくからね。
歴史を創作するならわざわざ100歳越えの人物なんて作らないよ
箔をつけるためって言うなら神様にしておけばよかった
三王朝交代説なんて当時の人間には思いもよらないことだろうね
なぜわざわざ自分たちが滅ぼした相手を
自分たちの祖先に持ってきて王朝交代を隠す必要があるのか
普通の考えなら自分達に本当の祖先を神格化するだろう
王朝交代を隠そうとしたという発想は
皇国史観と闘うという思想がなければ出てこない発想だろ
同意。はるか後世の人たちも、「氏」を通字とする下野の足利と、
「義」を通字とする京都の足利は全然別物だという珍説を唱えるようになるのだろうかねえ?
足利で思い出したが、源姓足利氏と、その前の藤姓足利氏は全然別物の氏ではなく母系(下毛野氏)で繋がってるんだろう。
同じようなことは天皇家の始まりの頃や、それ以前からあったはず。
徳川吉宗は徳川家康の子孫じゃないって説が出てきたりして。
実は豊臣家は滅びず、江戸時代も隠然たる権力を持っていた。
秀忠・綱吉・吉宗は名前からも豊臣系であることは明らかである。
系 譜 は 捏 造 さ れ て い た !
>>341 だがなあ、吉宗はともかく、
例えば江戸幕藩体制下では最名門とされる島津氏でも、実際は戦国期に別家に取って代わられているんだよな。
これを鎌倉以来連綿と続く家だなどと説明されると、どこか違うんじゃないかなあと抵抗があるわけよ。まあ別家といっても庶流ではあるんだが。
344 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 12:22:51
秀吉や家康の名前を出したことで「オオヒコ」の存在がますます捏造臭くなりました。
>>343 俺は抵抗無いなあ。
一族間の対立とか家中のいざこざとか、名門であればこそ有りがちなわけで。
しかも戦国乱世のことだし。
当時の人たちが「島津は一度断絶し、新島津が創始された」と捉えていたんなら別だけど。
347 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 15:35:23
>>343 島津勝久と貴久の父忠良は又従兄弟だからそんなに離れてるとはいえないんじゃない?
むしろ上杉家とかはどうなのかとおもえるよね
江戸時代の武士の感覚だと庶流どころか全く別のところから養子をもらっても
家自体は鎌倉以来連綿と続いてると見なされるんじゃないか?
上杉憲政も最初は上杉氏から養子が入ってる佐竹氏に
上杉氏継承と関東管領の話を持っていったよね
>>346-347 15〜6世紀の時代の人々にとって、分家して本家から4代も前に別れた人物(貴久は島津本家9代当主忠国の玄孫になる)が本家の当主に養子に入るって、相当離れた感じがするんじゃないかと思うんだけど。
時間にすると本家から別れて7〜80年くらい経ってるけど、それも今の7〜80より長いことだろうし。
351 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 17:35:32
>>350 逆だろ。あえて分家から血を分けてもらうってことは、
「×○家の血を絶やしてはならん。」ということだろ。
それを遠い他人のように見ているわけはなかろう。
>>317 まあ旧辞と帝紀は継体期だから、三百年後だな。
うちの先祖は山間の水蚤百姓だったが、寺の過去帳で250年ぐらい遡れるとじっちゃんが言ってた。
でも貴久って本家勝久の養子になってるじゃん。離縁されたけど。
本家はダメダメで、その後継を最有力一門の薩州家と伊作家で争ってたわけだし、
当時の人たちからすればただの御家騒動でしょ。
伊集院とか新納とかが簒奪したのとは訳が違う。
記紀は鈴鹿関から東国をスルーしてるかに見える。九州と比較して記事が少ない。
毛野君の先祖である、崇神天皇の長子である豊城入彦命は長男でありながら
東国に飛ばされ歴史に消える。西から東の民族大移動なら中部・東海・関東の記事が多くてもいいのにな。
相当の上古に畿内-中部を確保したと見るべきだろう。
親王任国・上野・上総・常陸の由来も何やら因縁がありそうだが。
なぜ皇室発祥地であるヒムカ日向じゃないのか?
>>327 > いまどき記紀が丸々史実なんて思ってるアフォがまだいたんだな。
遣隋使以降、史料の本場中国から怒涛の如く大量の歴代の国史が流入して困惑したんだろうな。
継体で旧辞帝紀、馬子聖徳太子が天皇紀国紀、天平期に記紀、ほぼ同一年代のもんを
改訂し続け、結局迷宮入りしたんだろな。各編集責任者の苦労はいかばかりか。
継体王朝で宮廷文化が180度転換したと考える。それ以前は言霊を畏怖するシャーマン文化だったと。
故に歴史は忘却され消滅したんだろう。キーとなる葛城一族が粛清されたせいか。
>>353 >貴久って本家勝久の養子になってるじゃん。離縁されたけど。
本家はダメダメで、その後継を最有力一門の薩州家と伊作家で争ってたわけだし
それって下克上
>>334 大彦は、その父、祖父、兄弟、子孫がはっきりしていて、事跡も具体的に残っている。
このレベルの人物を「後世の捏造」と言う方の知能にこそ問題があるだろ。
>複数の有力氏族から王が選出されたとすれば
だったらそのとおりのことを歴史書に書けば良いだけのこと。
それを「皇国史観に毒された古代人による捏造」であるとか言う方がおかしい。
実在と非実在を混在させた「複雑で込み入った捏造」をわざわざ歴史書として残す理由などない。
都合の悪いものは「全て後世の捏造」とやらで片付ける発想そのものがイタい。
358 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 19:43:56
>>357 稲荷山古墳の鉄剣銘文にはオオヒコの父や祖父は書いてない。
オオヒコの子孫がワカタケル=雄略天皇などの大王家に仕えた武人の家系らしいとは分かるが
この家系が天皇家の血を引くという記述はまったく無い。
鉄剣は記紀の成立より200年も古い貴重な資料なので、オオヒコを孝元天皇の子とする記紀などの記述は
後世に作られたものではないかとの合理的疑いを差し挟む余地がある。
359 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 19:51:52
>>357 記紀の編纂者らを捕まえて
「皇国史観に毒された古代人」
と言うのは違うだろう?
特に拘り無く「本地垂迹説」を受け入れ
素朴に 神功皇后=卑弥呼 としてきた人間は
江戸時代に台頭してきた国粋主義者とはかなり毛色が違うと思うがwww
じゃあ素直にありのままの系譜を書いたとして神武即位がBC660で100歳オーバーの人間がゴロゴロしている
…なんてお話を全て信用しろとでも言うのかお前は?www
360 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:02:17
そもそも大彦の系譜にしても疑問なのは・・・
日本書紀によると安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣…ら七族の先祖とされているところ。
正直、この時点で素人の俺なんかは「ホンマかいな?」と思うわけでwww
無論、欠史八代実在(恐らくその先には「神武実在=神武東征は史実」)を主張する連中にはノープロブレムなんだろうがwww
仮に大彦自身が実在した人物であっても半ば伝説と化した人物で
そのネームバリューにあやかって自分らの祖とした氏族が多数合ったのではないかと・・・w
>実在と非実在を混在させた「複雑で込み入った捏造」をわざわざ歴史書として残す理由などない。
362 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:11:09
きょうも無職ニート「ゆとり脳」全開ジジイが粘着してんなw
363 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/18(木) 20:31:00
>>363 人様から教えを請うにはそれなりの口の聞き方というものがあるだろうが。
365 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/18(木) 20:45:34
大して悪い口の言い回しではない。
答えられんのか?
366 :
358:2009/06/18(木) 20:57:04
>>363 レスを読めば分かると思うのだがおおむね6世紀から7世紀の間であろう。
>>365 言い回しなど気にしてはいないがどうも誤解があるようだ。
>>364は別人のレスであり私がレスしたものではない。
367 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/18(木) 21:06:17
>>366 ああそうかね。スマン。
しかし合理的疑いの余地など考えにくい。
もしそうなら、そいつは朝廷の役人に公文書偽造でとっ捕まり、
死罪か流罪は免れない。そんな危険なことをしでかす合理的理由が
あるというのか?
>>360 > そもそも大彦の系譜にしても疑問なのは・・・
> 日本書紀によると安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造
> 越国造・伊賀臣…ら七族の先祖とされているところ。
ほほう筑紫国造とは筑紫の君か?すんげえオールスターキャストだぞおいw
どうでもいいがスペースやら改行やらクドイな。
>>360 >安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣…ら七族の先祖とされているところ。
むかしは一夫多妻であったから、変な話でもなかろう。
大彦伝説にあやかってというが、大彦が実在していたとすると、本当の子孫もいることを認めるわけだ。
しかし、歴史に残っているのは、あやかった子孫ばかりと考えるのは変だよね。
結局、「実在したかもしれないが、記紀に書かれているのは捏造だけだ。」という不自然なことを主張して
いることになるよね。
てゆうか、「捏造と実在の絶妙なコンビネーションが、全ての書物に一致して見られます。」だったか?
こりゃ言ってて虚しくなる理屈だな。
371 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:14:27
記紀の系図をいまどき丸まる信じてるとはホームラン級のヴァカだな。
372 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:19:49
かくてループw
>>371 捏造するなら、真っ先に継体を武烈天皇の子に捏造するだろ。
アソコが一番の不連続面だなあ。
374 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:21:34
>>369 >しかし、歴史に残っているのは、あやかった子孫ばかりと考えるのは変だよね
もし本当の大彦の子孫と”あやかって”その系譜に始祖として大彦を入れた氏族が混在していたとすれば
きちんとした系譜があるところに”後付け”で割り込んだ奴はさぞかし大変だっただろうなw
と言うか可能だったのか?w
であれば大彦自身が伝説上の人物で
「わが一族の始祖は大彦命なり」
と嘯いても何処からも文句来なかったとする方が余程無理が無いwww
で、結局記紀の記述に一切の作為が無いというのなら
BC660の神武即位だの100オーバーの寿命だのについて説明が無いがどう考えているんだ?
某コテハンのお得意の倍暦でもデフォにするのか?www
>>374 >BC660の神武即位だの100オーバーの寿命だの
まず編纂チームはできるだけ皇統・家臣の系図資料を収集する。
んで中国史料の折り合いをつける(笑)
卑弥呼を誰に比定するのか?倭の五王は誰か?
関係者はノイローゼになっただろうな。
376 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:34:50
しっかし、「丸々」とか「丸まる」とか「一切の」とかの「飛躍」表現が好きな奴だなw
その分わかりやすいがww
377 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:35:32
>>375 つうか、昔の人はそんなに神経使って無かったんじゃないの?
万事適当と言うかwww
後世に活版印刷はおろかインターネットにより広くパンピーの目に触れて、やれ
「年代が合わない」のなんの文句言われるなんて想像だにしてなかったと思うwwww
379 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:38:15
>>378 「賢い」「愚か」と言う問題じゃないと思うが?
脊髄反射じゃなくて、もう少しひねってくれw
>>371 丸々信じてる、って人は少ないだろう。
しかし、記紀ではないが、稲荷山鉄剣の多加利足尼・弖已加利獲居を思わせる
彦屋主田心命や豊韓別命(後世の系図でともに大彦の孫)の存在や、
意富比垝の子孫が「ワケ」や「臣」といった皇別氏族特有の名称を持つことや、
乎獲居臣の家業である「杖刀人の首」との関連性は不明ながら、
新撰姓氏録には「造」姓ながら右京皇別として「杖部造」という
大彦命を祖とする氏族がいることなどの記録がありながら、
記紀その他のこれらの伝承を、丸ごと無視するなんて方がよっぽど変だよ。
阿倍・膳・伊賀・阿閉氏の始祖との伝承なんかも、
桜井茶臼山古墳の被葬者像に迫る上では注目すべき事柄だし。
381 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:46:28
>>374 そもそも古文献に100点満点を求めるのは無理がある。重要なのは編纂の姿勢
であって、正しいものを残そうとする姿勢があれば良しとしなくてはならない
と思う。
読めばわかるが、記紀は英雄伝説などと言えるものではない。天照大神に
しても、美化されている部分はない。むしろ、みっともないところが多い。
神武東征も、負け戦があるし、兄弟三人が死んでいる。かなり泥臭い。
上にもあったが、継体天皇は、どこの馬の骨かわからない人物とも受け取られ
かねない書き方になっている。
このように見てみると、よく言われるように皇室の歴史を正当化するものと
いうよりも、やはり、可能な限り真実を残そうとする気持ちがあったのでは
なかろうか。
記録の残っていない時代のことも書かなくてはならないので、若干、理に
かなわない部分があるのは仕方がないと思うが。
382 :
358:2009/06/18(木) 22:28:22
>>367 君は私がレスで書いた「合理的疑い」の意味を誤読している。
合理的疑いというのは鉄剣銘文の発見以後の今日における古代史研究の中での話だ。
古代史研究に携わる、或いは関心を持つ人々の中で銘文の重要性が認識されたためだ。
記紀の全部の系譜が一つ残らず史実であるとするかつての皇国史観的な見方に対し、
記紀系譜の一部は後世に造作されたのでは?との疑問が、銘文の発見解読によって新たに生じたのだ。
稲荷山鉄剣は記紀を200年も遡る日本最古の系図資料であるのだから
オオヒコと孝元天皇をつないでいなかった点は無視できるものではない。
もう一度私のレスをよく読んでほしいが、「偽造」に違いないなどとは私は一言も述べていないはずだ。
>>358 >鉄剣は記紀の成立より200年も古い貴重な資料なので、オオヒコを孝元天皇の子とする記紀などの記述は
>後世に作られたものではないかとの合理的疑いを差し挟む余地がある。
他の方々へ。
「偽造」「捏造」という言い方をしているレスによく注意してほしい。
どういう立場の人たちが「偽造」「捏造」という言葉を使ってレスしてくるのか、よく見てほしい。
私は
>>358で「偽造」「捏造」という言葉は一切使っていない。
383 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/18(木) 22:34:59
>>382 オオビコを創作する動機はなにかね? 通常動機なくして、そんな
マネを墓に埋める刀にやる必要もあるまいがねぇ?
つまりあんたの考えすぎだよ。その刀は探偵小説の犯罪刀ではないぜ。
>>382 記紀に対し微妙な感じは俺も持っているが「皇国史観」なんて言わない方がいいね。余分な蛇足。
団塊が定年で退官したら、そういう輩は狩られるよ、間違いなく、民主党政権関係なしに。
385 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:45:07
>>382 そりゃ「偽造、捏造」を主張している側は、自分が捏造史観だなんて言わないわな。
「合理的疑い」ってネタなのか本気なのかよく分からんね。
「大彦より先がないから」大彦と孝元はつながらないという考えが、果たして合理的かい?
現地に行ったのは大彦だけで、現地の人が尊敬、敬愛したのも大彦だけ。
現地での知名度は圧倒的に大彦の方が上である。
この状況で孝元がないことでとやかく言うのは「難癖」であって「合理的な疑い」ではない。
しかも、鉄剣の銘文全体を見れば明らかだが、孝元を入れることなどありえない。
鉄剣にはワケタケルに仕えたとあるが、自分は孝元天皇の子孫であるが、ワカタケルに仕えた
などと書けば、自分もワカタケルと同じ天皇の子孫であると書くことになる。
要するに孝元を書かないことの十分な理由が複数存在する。
この状況で「合理的疑い」とやらから想像をたくましくして、鉄剣に書かれていないことを推測し
ようとする根性には恐れ入るよ。
まずは、書いてあることを普通に読んで受け入れたらよいのでは?
386 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:49:06
>>385 >鉄剣に書かれていないことを推測しようとする根性には恐れ入るよ。
アホか?
鉄剣に書かれているのはあくまで大彦からの系譜。
「孝元→大彦」の書かれていないことを脳内補完しているのはどっちだって話でwww
387 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:55:17
そもそも「孝元を書かないことの理由」として最もシンプルなのは
元々「孝元→大彦」と言う系譜の概念が当時無かったから
…だろうなwww
大王(天皇)にまで遡って書くのは不遜にあたるなんてのは想像の範囲でしかないw
>>386 まあ普通は、しんらサブロウと八万タロウで十分だ罠
>>348 当時の家は一族経営の企業とかに近かったという見方もあるからな
使える人間を他所から引っ張ってくる事に然程抵抗は無かったのかも知れん
390 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:02:23
>>388 新羅三郎かw
俺がこの話で思い出したのは「三国志」の劉備が藁を編んでいた自分の系譜を
「中山靖王の末孫」と称したって事とかだなw
・・・まあ確認しようが無いんだけど
有名だけどその子孫の系譜が曖昧で
有力者が自分の系譜のハクをつけるために用いるのに便利な人物
…て言う存在だったんじゃないのかと>大彦
それと言うの忘れてたけど名前もシンプルすぎるような気がしないではないwww
391 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:03:47
もしオオヒコの上に何か書かれていても、それはそれで論争になったのではないかな?
「孝元」は絶対ないし、大日本根子彦国牽尊・大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこ
ひこくにくるのみこと)から、孝元実在派は「クニクル」だったと思うのかな?
>>387 「孝元→大彦」という系譜の概念があっても、それを載せなかった例はある。
すなわち、石川年足墓誌(762)。
「武内宿禰命子宗我石川宿禰命十世孫従三位行左大辨石川石足朝臣長子御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣」
>>385 >自分は孝元天皇の子孫であるが、ワカタケルに仕えた
などと書けば、自分もワカタケルと同じ天皇の子孫であると書くことになる
そうそう!そこなんだよな。
「私だってれっきとした天皇の子孫なのであります」なんて書いたら平将門になってしまう。
つまり謀反人の言い訳の文章になっちゃうw
394 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:28:37
>>387 大彦自身が十分な有名人だったからだろう。
大彦の名前を出せば、その先は言わずもがな。
辺見えみりを紹介するのに、いちいちその両親をいう必要が無いのと同じ。
ところで、大彦で打ち止めで孝元に繋がらないとした場合、何の意味があるんだ。
大彦が独自の地域王なんて伝承はどこにも残っていない。
大彦は、王権に派遣されてきたという伝承しかない。
まあ大彦の実在も認めないって言うんだから、聞くだけ野暮か。
じゃあ、「オオヒコまで系譜のうち、どこからが架空なんだ?」と聞きたくもなるわな。
あの時代は6,7代前の先祖なんて現代人から見て「おじいさん」程度の親近感はあったろう。
つまり、10代以内なら自分の本当の先祖の名前を当然に暗証できる。
知っていてあえて本当の先祖ではなく、捏造した先祖を大事な鉄剣に書いて
しかも墓にまで持ち込んだっていう想像は、相当なオカルトだよなあ。
臣籍降下族のお約束・タブーがあるんじゃないか?
元紀宮殿下の黒田清子さんが平成天ちゃんとの間柄を強調したら
スイーツ(笑)の鬼女が暴れる。
>>391 あえて言うなら「ヒコクニクル」かな。
もっとも、私も大彦の父が絶対に孝元だとは思ってないけど。
ただ、大彦は崇神の比較的近い血族(伝承どおり「おじ」とか)ではあったろうと考えている。
397 :
358:2009/06/18(木) 23:48:25
>>383 人に反問や反論するときにはレスはしっかりと読んで、誤読の無いようにしてくれ。君のレスには呆れてしまう。
私はオオビコを、作られた人物などと書いた覚えが無いが、君はどこをどう読んだのだ?
私でない人の意見に対する反論や反問を私にぶつけるのはお門違いの迷惑だし、非常識であり非礼である。
鉄剣銘文には恐らく、ほとんど造作性はあるまいと思う。
広く読まれることが期待された日本書紀などの史書と違い、個人所有ですぐ地下に眠らせ誰も目にできなくなった鉄剣との差を考えるべきだ。
したがって銘文に書かれた系図は極めて信頼性があるし、オオヒコは実在の人物だと私は内心思っている。
>>384 「かつての皇国史観的な見方」と私は書いたので、批判するなら文脈に沿ってやってほしい。
言葉狩りのように一部を切り離さないでほしい。
「かつての皇国史観的な見方」は、戦前の歴史教育や平泉澄東大教授の歴史観などを念頭に置いて適切な表現を選んだつもりだ。
この表現が不適切と言うのならそれはもう見解の相違で、いちいち議論はしたくない。
天皇を神と捉え、現人神として崇めることを規定していた明治憲法は、古代から近世までの天皇像とはきわめて異質であった。
近世以前の天皇は決して神ではない。
神(や仏)に祈る人であった。
古代から近世まで確かに天皇像は時代的に変化はあるが、古代においてさえも天皇は一度も神であったことはない。
だがこれはスレ違いなのでこれ以上詳しくは述べない。
398 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:51:21
>>394 >あの時代は6,7代前の先祖なんて現代人から見て「おじいさん」程度の親近感はあったろう。
>つまり、10代以内なら自分の本当の先祖の名前を当然に暗証できる。
それほど系譜を大事にしたのなら、もっと早くに文字により墓誌を残しても良さそうであるが・・・
むしろあまり祖先・系譜に拘らなかったのではないかと思えるのだが・・・
何か根拠があって言っているのか?
それともタイムマシンにでも乗って見て来たのか?www
399 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:15:06
>>398 >それほど系譜を大事にしたのなら、もっと早くに文字により墓誌を残しても良さそうであるが・・・
>むしろあまり祖先・系譜に拘らなかったのではないかと思えるのだが・・・
もはや難癖の類だなw
>それともタイムマシンにでも乗って見て来たのか?www
下らないこと言うねw
400 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:19:42
>>399 結局、思い込みでしかないわけだなw
まあ文字による墓誌云々は文化背景と言うか直接的な根拠ではないが
単なる「思い込み」よりはマシだと思うぞwww
401 :
400:2009/06/19(金) 00:29:21
更に言えば古代の日本はある時期まで「母系」とまで言わずとも「双系」社会ではなかったのは?
…と言う疑問を持っているw
(これには流石に欠史八代を懐疑的に見ている人間や
ぶっちゃけ邪馬台国畿内説の人間からも反対されるかもしれんが…)
まあ傍証の傍証程度のお話だが・・・
(1)元々記紀神話に見られる要素の中に母系・双系社会の地域(ポリネシアあたり)と共通の物が見られる
(2)記紀でも後世からは考えられないほどに戦場にも出てくる勇ましい女が多く書かれている。
(3)古墳の被葬者が、その副葬品から、あるいは中には骨の鑑定から、女性であると言われている物も結構ある。
…等々。
少なくとも欠史八代の頃から父系社会でその系譜を語り継いできたなんて根拠があるのかと・・
402 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:36:13
>>400 >結局、思い込みでしかないわけだなw
どの口からこんなセリフが出てくるんだよw
>>398で
>それほど系譜を大事にしたのなら、もっと早くに文字により墓誌を残しても良さそうであるが・・・
>むしろあまり祖先・系譜に拘らなかったのではないかと思えるのだが・・・
なんてこれ以上ない程の勝手な「思い込み」を平気でのたまってる分際でww
>まあ文字による墓誌云々は文化背景と言うか直接的な根拠ではないが
単なる「思い込み」よりはマシだと思うぞwww
指摘される前に言い訳してんなよwww
403 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:38:43
>>402 ん?
じゃあ
>あの時代は6,7代前の先祖なんて現代人から見て「おじいさん」程度の親近感はあったろう。
>つまり、10代以内なら自分の本当の先祖の名前を当然に暗証できる。
この↑根拠をはっきり言えよクズがw
404 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:46:22
>>397 >古代においてさえも天皇は一度も神であったことはない。
万葉集に天皇を神とする歌がありますよ。
王政だったから、王=神で良いのでは。
双系系譜が伝えられてたとしたら、記紀もそれを書き残したんじゃね?
よく「天武以降の男系継承を正当化するため、古代天皇の系譜が男系に創作された」
なんて言う人がいるけど、天武以降の皇位継承を見れば、
むしろ双系制を正当化する系譜を創作した方が良かったんじゃ?と思うような、
女帝による継承が行なわれている。でも、そうはしなかった。
っつーより、欠史八代はともかく、事実上のハツクニシラスたる崇神以降は、
基本的には男系継承が行なわれてきて、その系譜が割りと忠実に伝えられたんじゃないかと思う。
100年も経てば倭の五王(男系)の時代だし、稲荷山鉄剣系譜も男系オンリーだし。
>>403 あの時代を普通に想像してみれば、当然のことだろうに。
生まれの血筋で人生が決まる。
そんな時代だから、自分の血筋は最も重要。
テレビもラジオも新聞も週刊誌もない時代だから、話題は先祖のことが多くなる。
「3代前がどこそこで勇猛に戦った。」、「5代前は天皇に仕えていた。」とか「7代前は
地位が高かった。」とか、一度でも栄華があれば、子孫はこぞってそれを伝える。
血統が大切で、生まれてから死ぬまでに繰り返し先祖の話ばかりをする時代であったと
理解できれば、10代前まで当然に暗証できたことは容易に分かる。
>>397さんも言うように、あの鉄剣は、個人のために作らせたものであって、架空の伝承を
後世に伝えるためのものでもない。
事実と信じていることが書かれたというのが、普通の考え。
407 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:08:36
>>406 それほど血統により自身の人生の浮き沈みが決まるのなら
尚の事「ハッタリ」かまさなきゃなw
つまり何処かで系譜を弄る動機は十分にあった理屈だなw
何れによキサマの想像の世界を押し付けられてもねえwww
「普通に想像してみれば」 「普通の考え」と
普通を連呼しても、てめえの固定観念だけのお話。
脳内の時間旅行で見聞きしてきた事はチラシの裏にでも書いておけドカスがwwwwwww
408 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:14:31
>>403 >>394のその文は俺のレスじゃないんだがw
もっともその内容は十分ありえるものとして捉えているけどね。
少なくとも
>>398 >それほど系譜を大事にしたのなら、もっと早くに文字により墓誌を残しても良さそうであるが・・・
>むしろあまり祖先・系譜に拘らなかったのではないかと思えるのだが・・・
こんな下種の勘繰りを述べるよりは遥かに的を射ていると思うよww
さあ、次はオマエの
>>398での邪推の「根拠」(そんなものが有ればだがw)を述べて貰おうかwww
409 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:15:17
>>407 血統が大切だから、記紀はしつこいほど系譜を書いているんだよ。
新撰姓氏録は血統そのものを書いている。
その血統に乱れがあるのを正そうという面も、記紀にはある。
その記紀が「架空の系譜を虚実要り混ぜて」という状況なわけはなかろう。
410 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:23:43
>>407 さっきから「ハッタリかまし」てんのはオ・マ・エ の方だろw
しかし下卑た文体だねえww
411 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 01:26:29
>>409 少なくともBC660の神武即位
100歳オーバーの長寿がゴロゴロ
・・・と言うのは「虚」だなw
(これについて一向に明確な説明しようとしないがw)
「虚実要り混ぜてと言うわけは無い」と言うのなら
全てが嘘か、全てが本当かとなると思うが
お前は当然後者の立場なんだろう?
言っておくが俺は全てが嘘なんていったことは無いからなw
果たして本当に10代前に遡って系譜を語り継ぐ文化があったのか?
それが果たして男系系譜だったのか?・・・etc
それらの可能性を考慮することなく「〜違いない」の思い込みには何の説得力も無いわwww
>>380 会津や仙道地方の国造たちが軒並み丈部氏→阿倍臣氏系なのも四道将軍『神話』の実在性を反映するものとなっているよね。
>>409 >血統が大切だから、記紀はしつこいほど系譜を書いているんだよ。
>新撰姓氏録は血統そのものを書いている。
この2行は大いに同意だな(ただし残り2行は保留だな)。
でその次に考えなきゃいけないない問題は
一体いつから血統が大切な世の中になったか、という点だろうな。
えーと、問題をこう言い換えてもいい。
・次の各世紀において血統はそれぞれどれだけ重んじられたか?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2世紀 3世紀 4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀 9世紀 10世紀
各世紀ともみんな一緒てことはないよな。
違いはあったはず。
で地域によっても血統の重んじ方に違いがあったのでは?
>>413訂正
いけないない問題は → いけない問題は
415 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 02:31:29
マンネリなので豚切りさせてもらうが、「ヲワケ」と読む場合の「ヲ」の意味について。
候補が多すぎる・・・
A・尾 B・緒 C・御 D・麻 E・雄 F・男 G・夫 H・黄 I・その他
A・尾は、動物の尻尾のように刀をさげていたのかもしれない。
B・緒は、「命」の意味での緒のワケかもしれない。
E・雄は、猛々しい武人の家系の名にふさわしい。
416 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 03:27:19
ヨコからだが
>>413 >一体いつから血統が大切な世の中になったか、という点だろうな。
5世紀中頃からだと推測する。
日本書紀の允恭天皇の記に「氏姓を糾す」として
要するに氏姓がグチャグチャになっていてこれを正し秩序を取り戻すって話があるw
恐らく中央集権化を推し進める中で大陸風の文化の導入により
それまでともすればアバウトだった系譜に対する考えも一変したのではないのか?
5世紀の後半にもなれば各地での大型古墳の築造も終焉を向かえ
また古墳の副葬品にも(呪術的宗教的要素より)軍事色が顕著になる。
連合政権から強力な王権へのシフトと言うか・・・
そう言ったヤマト政権の”変質”と言う物は
ここの皇国史観マンセーの連中には認められるものじゃないんだろうがwwww
417 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 03:39:10
>100歳オーバーの長寿がゴロゴロ
これについては当時の編纂者がもし皇国史観によって
権威付けのためにあちこちに捏造をしたのだとするならば
随分とお粗末な捏造だよな
こんなもの小学生だって嘘だって分かる
418 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 03:46:32
100歳オーバーにした理由を考えてみる
・編纂した当時すでにそのように伝わっていたのでそのまま書いた
・何らかの理由で神武即位をBC660にしたかったが
架空の天皇を創作するのは憚られたので不自然に寿命を延ばした
・編纂者が皇国史観によって古代の天皇を創作し権威付けのため長寿にした
俺も
>>358の意見と同じ。
オオヒコの伝説が記紀に組み込まれたんだと思う。
その仮説が銘文によって、より信頼性を増した。
越ではオオヒコ伝説はヤマトの伝説よりずっと重要なものだったのだろう。
420 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 04:25:22
では他の四道将軍も現地の伝説を取りこんだものってこと?
421 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 11:18:30
>>416 レンゴウ君 キタ━━━━(。A。)━(゚∀゚)━(。A。)━(゚∀゚)━(。A。)━━━━!!!!
血統の重視なんて、紀元前からだろJK。
九州には多くの特定個人墓が発見されている。
「王」の存在も文献上確認できる。
とくに倭王帥升が100人もの生口を派遣した権力者である。
それが「王」とされている。
王政というのは血統によって王の後継者が選ばれる制度である。
というか、あの時代に選挙で王が選ばれたとでも考えているのか?
さすがレンゴウ君だなww
422 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 11:35:00
たしかに世界中で王政は世襲で始まってるな
選挙王政なんてものは後世になってから生まれたものだ
太国は創作をすれば舎人親王らは公文書偽造罪で死罪とか流罪になると言ってるが
100歳オーバーがゴロゴロだなんてどう見ても嘘が書いてあるのに
嘘の記述をしたという理由で編者が殺された形跡がない
426 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 12:16:46
どうせネトウヨだろうが
連合政権に文句があるならはっきり説明してみろw
論破できないくせに否定ばっかりしやがってw
皇国史観の犬どもがwwwww
427 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 12:21:28
魏略
・其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
其の俗正歳四節を知らず。但し春耕秋収を記り、年紀と為す
428 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 12:42:17
>>421 九州説論者の自爆テロキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
429 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:02:47
九州説論者って馬鹿なの?
辛亥の年七月に記します。
わたくしはヲワケの臣です。
遠祖の名は大彦命、その子は屋田心命、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子はハテヒ、その子は笠原、その子がわたくしヲワケの臣です。
先祖代々親衛隊長として大王に仕え、今に至って折ります。大泊瀬幼武大王が磯城の宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのをお助けしてきました。
そこで、このよく鍛えあげられた刀をつくらせ、私が大王にお仕えしてきた由来を記しておくことに致します。
431 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/19(金) 14:29:08
>>397 こちらは眼が悪いんでね。幾度も読み替えすのが視力が互い違いで不得手なの
さ。誤解は分かったが、オオヒコは実在と考えてるそうだが、オオヒコが孝元の
皇子でないという合理的な根拠があるのかい?
ところでこちらはあんたに非礼なことはした覚えはない。誤解では何もあんたが
怒るくらいの非礼などのにはならんだろうが? だいたい私でないなどと文句を
言うなら、誤解の起こりにくい有コテで来るのがスジだろう? 無コテじゃぁ
あんたのいう誤解がこちら側がしてしまう。だからそういう誤解は結局、
あんたが無コテでやったのが半分ばかりは原因だろうが?w だからあんたへの
非礼の半分はあんたが受けるのが当然だろう? 別にいまのところこちらは
あんたに悪口なぞ言ってはいないぞ。悪口なら非礼なるがね? それこそあんた
の誤解ではないかね?w
432 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/19(金) 14:45:58
>>425 だから編纂者側は不審に想ってただろう? 編纂者らの時代よりうんと古い
そういう時代の天皇とは信仰で神授だと観て、ああこういうもんなのか〜超長寿
なのかと考えたんだろう? 紀の編纂は多数の原書群のよせ集めからの最も
可能性の強く妥当性あるこれだと客観的に考えられるモノを紀の内容として採用
したんだろう? だからそういう超長寿は各原書がほぼみんなそうだったという
ことだ。それは元明天皇あたりも知ってただろうがら、それらを紀の内容として
編纂してもこれは公文書偽造ではない。原書群の支持に従って紀に入れたという
ことだ。つまり彼らの創作ではないね。だからお咎めはあるまいが。
100歳以上がズラズラ原書群に記述があったということは、それも年月日まで
あるんだから、これは神武手前の世などの伝説ではなく、何らかの事情があっ
たから紀がこんな超長寿の内容となったものだと考える。だから当時は倍暦を
行使していたもので、例えば2倍暦なら当時は1年が現今の半年だったという
ことなのだ。
433 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:22:19
2倍暦には同意しかねるが
記紀編纂者の創作ではないというのは同意
創作したならあえて超長寿にする意図が分からない
434 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:54:58
>>421 は〜い、馬鹿一丁入りマースw
まあ”連合政権から強力な王権へのヤマト政権の変質”なんて
今日じゃあもはや国民の常識レベルの事で、とてもじゃないが俺のオリジナルでもなんでもないんだが(苦笑
この手の馬鹿が根本的に勘違いしているのは「連合体」と言えば
なにやら近現代的な民主主義的ルールにのっとった政治体制しか考えられない点だな、まさにゆとり脳
「連合」と言う字面に脊髄反射せずにはおられない、言わばパブロフの犬状態w
(選挙による王の選出? 何言ってんだ、お前? それは身をはったギャグか?wwwww)
つまり”王政から連合体”と言うことはあってもその逆の順序はありえないと…
じゃあ古代ローマを見ろ、共和制から帝政へとシフトしている。
「連合体」の原型を集団の実力者らが集まって物事を決める
「長老制」(後の「元老院」とかがこれの延長上にあるのかな?)に求めれば
強力な「王」の存在があってトップダウンで物事を決するシステムよりプリミティヴな制度ともいえるw
「血統の重視?」…そりゃ重視するだろうな。
できれば自分の血統の者を王にしたい…と皆思うだろうw
逆に「あいつの血統者を王に頂くなんて、まっぴらご免だ!」と考える奴も出るだろう。
で、血で血を洗うが如き抗争が勃発してそこで一種の「手打ち」が成立する事もある。
事実倭人伝の卑弥呼はその文脈で描かれている。
子も無い巫女的な女なら、その子供と言う血統も期待できない。
最初から皆が納得する(あるいは強大すぎて納得せざるをえない)血統の王がいたかのごとく考えるのが脳味噌お花畑で
まあその妄想の延長上に スーパーマッチョ王「神武」 なんて物があるのかもしれんがwww
もう「皇国史観」と言うにも馬鹿馬鹿しい幼稚さで
字面からの自身の貧困なイメージにしか噛み付けない
いっそ「 ネトウヨ史観 」とでも命名しようか?wwwwwwww
435 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 16:05:30
>>421 ところで…
お前が例に挙げている
「九州の特定個人墓」…は人骨の鑑定等から数代に渡り血統による王権の継承が確認されているのか?
「帥升」…の血統は何世代に渡って王であり続けたのかな?
「王とは血統により選ばれる」と言うオレサマ定義が先にあって
王の存在だけを挙げても本来の説明すべき順序が逆だぞ?w
ネトウヨ史観で噛み付くより前にきちんと理論的に日本語で説明する基本能力を憑けた方が言いと思うぞwww
まあ、もはや手遅れかもしれんがwww
436 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 17:32:45
また連合くんが暴れてるわ
437 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 17:49:52
煽り口調だとそれだけで読む気なくすよ・・・
初期の大和王権が連合政権だった可能性も十分ありえると思うけど
それが神武や欠史八代、大彦が実在したことの否定にはならないと思う。
欠史八大に事績がないのは別の豪族が大王になっていたためじゃないだろうか。
神武が大和盆地に入ってからは大和の有力な1豪族として存在していて
崇神のときにとってかわって、その勢いで版図を拡大したんじゃないかなあ
と最近ちょっと思ってる。
神武君がどっかからか流れてきて大和に住み着きました。
その後何代か鳴かず飛ばずだったけど崇神君が頑張ってあちこち征服しました。
そんだけのことでしょ。
439 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 19:52:11
そうですね
まあ玉石混交のスレだったんだが
百歳厨と皇国厨のせいで駄スレになったな
441 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:13:11
>>437 こんな感じですか?
足利義昭 大物主の子孫
織田信長 崇神天皇
柴田勝家 大彦命
滝川一益 武渟川別命
羽柴秀吉 吉備津彦命
丹羽長秀 丹波道主命
明智光秀 武埴安彦命
442 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:52:07
今日、畿内ヤマト王権が実質的には三輪纏向から始まっていると言うのは衆目の一致するところだろう。
(…まあこの板の九州版皇国史観丸出しの王朝説、東遷説連中はいざ知らずw)
しかし祟神がそれこそ大田田根子みたいに他所からラチって来られて王に据えられたとでもしなければ
祟神の御先祖さんに当たる人物が奈良盆地の何処かにいたと言う想定はなんら不自然ではないw
この場合、記紀の欠史八代の宮や墓が実際には「かすりもしていない」としても問題ない。
それは「長い年月の中で正確な位置の伝承が失われた」と言うことでおkwww
とりあえず欠史八代の取り扱いについては以下の3パターンになるかな?
(1)欠史八代は実在し、記紀に伝わる通り祟神に繋がる一つの系譜
(2)欠史八代は非実在、記紀編纂時あるいはそれ以前(「天皇記」等)に机上で作られた存在
(3)欠史八代のモデルとなる伝承はあった。ただそれが祟神に繋がる系譜の物とは限らない。
(…葛城王朝説はここに入るか?)
最悪(?w)八人とも元々別の各地の氏族に伝わっていた始祖で
それを言わば総花的に並べてみたのが欠史八代とか?wwwwwww
まあ個人的には上記(3)あたりが可能性が高いかな?と思っているw
443 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:53:24
しかし、百歳問題は実際難しい。これを真実と見る人はさすがに電波だろう。(不老不死を
達成した徐福の子孫なので長命であった、とか)とすれば、
・那珂通世のいう、推古朝成立から逆算して神武即位年を決定したため、その後の各天皇
の寿命を引き延ばさなければならなくなったとする讖緯説、またはその他の作為的延長。
・何らかの錯誤、誤謬によるもの。(しかしちょっと考えにくい)
・2倍年暦など、後代とは異なる紀年法の存在。
あとは・・・旧約聖書のような神話的存在としての高齢(アブラハム175歳、イサク180歳、
ヤコブ147歳等、これには異論もある)とか?しかし欠史8代には聖書の人物のような事績
はないし・・。
欠史八代の伝承はあり、崇神に繋がる物であった。ただそれが正確に史実を反映した物とは限らない。
445 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:09:37
上で書いたように、崇神実在を仮定してその陵墓を行燈山古墳とすれば、それに連続して
先行するマキ向の古墳群と、欠史8代との関係をどう捉えるかだよな。それができなければ
机上の論といわれてもしかたがない気はする。
446 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:10:46
>>442 欠史八代を出自とする有力氏族の存在を考えると
(1)と考えてもおかしくないような気もするけど
飽くまで系譜のみだけど
447 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:14:49
欠史八代をそのまま史実とするのは電波だが、かと言ってすべてを否定してるわけではない。
八世紀の人々が八代の実在を信じていたのは確かだろう。
ではいつ頃出来た伝承なのか?
448 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:21:53
>>443 アブラハム100歳 その妻サラ90歳のときにイサクが生まれたんだっけか?
倍年暦はどうかとおもうけど
ちょうど年齢を半分にするとなかなか子が出来なかった夫婦が奇跡的に妊娠しても
おかしくはない年齢なんだよね
449 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:34:16
欠史八代の意味は、単に、そういった系譜が八世紀の皇室に伝わっていたからだろうと思う。
かと言ってすべてが史実とするのは電波。
では欠史八代とは何か?
以下、記紀以前の歴史書編纂の流れから紐解いてみようか
450 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:34:19
>>448 それをあまりいうと、ミスター倍暦が出てくるぞwww
>>447 孝元天皇でいえば、御陵は橿原市石川町 剣池嶋上陵なんだが、書紀応神天皇11年の条
に、灌漑のために渡来人の土木技術を応用して用水が開削され、剣池と名付けられたとある。
これは御陵の修築または拡張のことなのか、ちょっとわからない。
451 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:44:48
記紀以前の歴史書と言えば、帝紀・旧辞、天皇記・国記になるが。
前者の編纂年代は5〜6世紀ころとされている。私の考えでは、イワレに都があった雄略以下の大王、もしくは継体の頃だろう。
後者は蘇我氏全盛の7世紀のこと。
歴史書を編纂しようとする側の常として、自らの王位の正当性を主張するためという側面が大きい。
記紀にしても天武の纂奪を正当化するために編まれた。
452 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:06:02
そもそもの大和王権の建国神話は崇神を初代=ハツクニシラスとした、シンプルなものだったと思われる。
奈良盆地周辺の山に降り立った神の子が、奈良盆地を統一して即位した、というもの。
降臨した山は三輪山が相応しいが、ニギハヤヒ伝承を考えると生駒山でもいいかもしれない。
その後、雄略〜継体の頃にイワレに即位したイワレヒコ=神武伝承が重なる。
>>445 マキムク古墳群の中心は別氏族(磯城県主氏=三輪氏)じゃないかな。
弥生末期は「歴年主無し」と言われたように、
大物主系(磯城県主・三輪氏)や饒速日・天火明系(穂積・物部・尾張氏)らと並んで、
天皇家の先祖たちも一邑長的存在としてあったのだろう。
その後、天皇家一族から卑弥呼(百襲姫)が出てマキムクの祭祀王となる(三輪山の神と結婚)。
さらに卑弥呼の宗女である台与(豊鍬入姫)が同じような立場に立つ。
宗女とは宗族の娘のことであり、じゃあその宗族とは一体どこの一族なのかといえば、
それが天皇家であり、当時の宗主が崇神であった考えれば分かりやすい。
そして崇神はこのような背景を活用して、王権拡大を図っていく。
(文献的には四道将軍の派遣。考古学的には布留式土器・前方後円墳の全国拡大)
その王権拡大の途上で、卑弥呼・台与のような巫女的女王はヤマトの中心からは外されていく(伝承では伊勢へ)。
ちなみに私の考えでは箸墓は百襲姫の墓。西殿塚が崇神と豊鍬入姫の墓。行燈山は景行の后の墓。
454 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:16:38
四道将軍の記事は、単にその当時その地を実効支配していた大豪族を、
オウに任命した、みたいな中央側からの都合の産物だと思うが
456 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:46:35
横から。
スレ違いと思うが、前から気になってたんで、割り込んでひとこと。
垂仁天皇はちょっとおかしな点があると思う。
宮は纏向の宮なのに、垂仁陵は奈良市に伝えられている。なぜ?
崇神→垂仁→景行の三代は、宮はどれも三輪山近辺で連続感があるんだが
陵が天理→奈良→天理とひどく不自然な感じ。
誰でもいいから、なんかこの件のコメント書いてくれ。
スレ違いだから深追いはしないつもりだよ。w
>>456 ああ、それな、近鉄の尼ヶ辻駅の直ぐ近くの奴なwwwww
それは俺もいつも思っているが
垂仁陵より前、欠史八代のラスト、開花の陵墓がすでに奈良市内にあるw
結論から言えば垂仁も開花もその指定が間違ってるんじゃないのかな?
458 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:08:55
>>456 一つの考えとしては、皇后が奈良市あたりを本拠とする狭穂姫であり、
その兄・狭穂彦が乱を起こして鎮定された記事から類推して、
大王家がその後この地を直轄的に治めるようになった可能性。
また、狭穂姫没後の后妃として日葉酢媛姉妹がいるが、
彼女たちを推薦したのが他ならぬ狭穂姫であり、
佐紀・佐保(奈良市)は彼女たちの故郷である丹波と大和のルート間にある。
さらに垂仁の妃は山背の豪族からも出ており、
垂仁朝のそうした北方への勢力拡大と后妃の縁故地が、
のちの佐紀古墳群の成立に関係しているのかもしれない。
ただし現垂仁陵の考古学的評価は未知数。当然調査も行われていないし、
墳形や周濠などに類似の古墳が無くて、良う分からんのが正直なところ。
多くの学者は柳本の古墳よりは遅く、河内の古墳よりは早く、
佐紀の中では古相の古墳として見ている人が多いようですな。
459 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:10:47
皇后であった日葉酢媛命の狭木之寺間陵には比較的近いが、よくわからんな。
460 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:20:29
奈良盆地北部・・・ 垂仁稜、成務稜、神功皇后稜、日葉酢姫稜
奈良盆地東南部・・・ 崇神稜、景行稜、箸墓
・ 成務は、滋賀に宮を置いたのであの位置はまあ説明できる。
・ 神功皇后は、息長の拠点が山城にもあったとする塚口説や、応神天皇の子供が
滋賀や越の勢力に引き取られたことからも、説明できる。
・ 垂仁も、上記の勢力(家系)とのつながりがあってもおかしくない。
461 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:27:41
あと、垂仁陵(宝来山古墳)には有名な田道間守の墓が周濠内に見られるが、文久の大
修陵時にはなかったもののようだ。
埴輪伝承との関わりだろう。あの辺り土師氏(後の菅原氏)いたでしょ。>垂仁陵
463 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:42:05
開化陵は比定間違いだろな。
そもそも諸陵式には兆域東西五段・南北五段とあり、現陵の100m古墳とは異なる。
現陵は5世紀のものらしいから、春日氏一族の墓だろ。
開化の場合、和珥氏や丹波大県主氏との婚姻伝承が興味深いですな。
丹後には西暦200年頃の弥生墳丘墓があるっていうし。
465 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:48:58
書紀では「菅原伏見陵」だね。
>>442 欠史八代自体が、稲荷山銘文的な
「崇神が自分の出自を示すための名乗り」
に近いモノではないか、と理解している。
その上で、崇神が3世紀後半の人物なら、神武は紀元前後であろう。
或いは、大彦がヤマト勢力に近い立場で越或いは関東を切り取ったのと
同様の文脈で、神武は九州勢力に近い立場で近畿を切り取ったのかも、
と妄想する。
467 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:52:17
考えてみると、佐紀古墳群は皇后陵だらけなんだよね。
ウワナベ・コナベも元は後妻・前妻の意味だと言うし・・・
468 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:03:17
陵墓の混乱、ていうか、複数の王統=造墓集団があって、
記紀編纂時に系統をごっちゃにしたから矛盾や混乱が生じたのだろう。
469 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:08:29
イワレヒコが、イワレでもマキムクでもなく、カシハラで即位する違和感は、
蘇我氏の天皇記・国記編纂によるもの。
つまりは、蘇我氏自らや他の有力豪族の系統を顕彰する意味で、欠史八代を加上したということだろう。
一度その系譜を認めてしまった以上、綸言汗の如しで変えることが出来ない。
470 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:27:09
>>468 なわけない。
紀には多くの異伝が書かれているが、話の骨格は崩れない。
この異伝は編纂当時に実際に存在したものであろう。
となると、「複数の王統をごっちゃにした」なんて途方もない話はありえない。
だいたい、複数の王統をごっちゃにしたウソの歴史を作る動機がない。
そんな動機は、そのように読み込む側にしか存在しない。
>>467 中期古墳が多い佐紀東群は墳形から見てもおもしろい。
今は前方部しか残らないものの、復元すると当時の準大王級の規模となる市庭や、
応神陵と相似であるコナベ、仁徳陵に似ているヒシアゲ、
スレンダーな前方部が葛城の巣山古墳にも通ずるウワナベ。
一般的には、市庭→コナベ→ウワナベ→ヒシアゲの順らしいけど、
その場合、市庭=神功(仲哀后)、コナベ=仲姫(応神后)、
ウワナベ=磐之媛(仁徳后)、ヒシアゲ=八田(仁徳后)、
と歴代皇后陵が並んでいるといった想定もおもしろいな。
まあ、本によってはヒシアゲが市庭・コナベと同時期に並んでいるのもあるし、
いやいやあれは佐紀地域を支配した豪族の墓だ、という人も多いから何とも言えないけど...
>471訂正。
今は前方部しか残らないものの → 今は後円部しかのこらないものの
473 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 05:02:15
他の王統を混ぜて書くよりも
王でなかった直系の先祖を王とする方がシンプル
それに崇神が直接神に繋がる伝承があったならばそちらの方が有利だろう
神武がわざわざ九州から来たなどという伝説を捏造する理由がない
474 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 11:34:46
参考まで。
■現治定陵墓が所在する古墳群名
(百襲媛) オオヤマト
10崇神 オオヤマト
11垂仁 佐紀?
(皇后) 佐紀
12景行 オオヤマト
(皇后) (播磨)
13成務 佐紀
14仲哀 古市
(皇后) 佐紀
15応神 古市
(皇后) 古市
16仁徳 百舌鳥
(皇后〉 佐紀
17履中 百舌鳥
18反正 百舌鳥
19允恭 古市
20安康 佐紀?
21雄略 古市
22清寧 古市
23顕宗 馬見?
24仁賢 古市
25武烈 馬見?
26継体 (摂津)
(皇后) オオヤマト
有力豪族の連合だったという経緯を知らんのか。
天皇も長く有力豪族に推戴されるという形で位に就いている
姻戚関係有りまくりでどこも血筋はおんなじようなものになっているでしょ!有力豪族なんて。
477 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 19:54:54
卑弥呼を共立したころより、天皇位は有力豪族の持ち回りだったんだよ。
後に、建国神話を創る時に、それら豪族の系譜を無視する訳にいかず、出来たのが欠史八代
478 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:40:34
>>473 同意だな欠史八代から別れた氏族も
徳川家に対する十八松平のようなものだと思えるし
479 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:46:15
王でなかった直系を王には出来ないだろ。
あくまで前の王朝の末裔だと僭称して大王になったんだから
480 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:56:04
それぞれの豪族の族長は全部王だ
481 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:19:59
さて問題の大彦の事跡を辿って日本書紀を読んでも体外リアリティの無いお話w
「四道将軍」について読んでみれば
祟神が四方に人を遣わして平定のプランをぶち上げたのが 祟神10年秋7月
で、直ぐに四道将軍が出立するかといえば9月に例の武埴安彦の反乱がある。
(まあ大彦はこの反乱を予言したかのような少女の不思議な歌を倭迹迹日百襲姫に伝えると言う役どころを演じているが
行の割き方から言えば北陸の平定よりこっちがメインなんだよなwww)
でその反乱を鎮圧し、にあらためて祟神が四方平定の号令を発し将軍達が出発するのが冬10月。
で、翌11年の4月に平定が完成したとある。
武埴安彦の反乱を鎮め僅か半年で北陸・西海・丹波・東海を平定している。
「二正面作戦」と言えば兵力の分散で下策・愚策なんだろうが、四正面作戦となったら どんだけ〜
…って話で、それが武埴安彦の反乱鎮圧に続けてわずか半年と言うのはあまりにもリアリティが無いと思うw
もっとも高天原、天照、天孫降臨、神武東征etcを史実として抵抗無く受け入れる連中には無問題なんだろうがwwwwwwww
482 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:34:38
本能寺の変直前の織田家は 毛利 長宗我部 上杉の三正面作戦じゃなかったかな?
それに地方豪族がみな大和朝廷に敵対したとは思えないし
平定までの年代は誇張が多いだろうけど、なんらかの事実をもとにした事跡とも考えられるよね
483 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:48:05
>>482 つうか謙信が謀って毛利と呼応して挟撃体制をとってたんじゃなかったか?
いずれにせよ半年でミッションコンプリートと言うのは凄杉wwwwwww
普通なら武埴安彦の反乱で計画が一度頓挫して装申した兵力なりを立て直すに時間を置くと思うがw
484 :
483:2009/06/21(日) 01:49:03
装申した兵力なりを立て直すに
↓
消耗した兵力なりを立て直すに
>>481 日本書紀の暦年は普通に考えて後付けだから。
思うに、古墳時代の歴史は本来、古事記や風土記のような「○○天皇(大王)の御世、このようなことがあった」
といった伝えられ方が口承ベースで行われてきたのを、
編年体の歴史書を作ろうとしたときに、正確な暦年などは伝えられていなかった(不明だった)ため、
編纂者たちがなかば適当に紀年を振ったんだよ。
続日本紀以降の六国史の「何年何月何日、このようなことがあった」という実録記事とは、
根本的に異なる解釈で臨まなければいけない。
例えば日本書紀には、実際には数年〜十数年にわたってのことであろう歴史的出来事を、
ある一つの年月日に掛けて、まとめて記述していると考えられるような箇所が間々ある。
武埴安彦討伐にしても、古くは彦国葺、和珥臣が活躍する説話に
後から阿倍臣が大彦を追加したものとされているが
487 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 04:38:02
あの部分は暗示に満ちている。
タケハニの「タケ」は武人の意味。「ハニ」は「茶色い土」。うんこの武人。
家臣がクソを漏らしながら逃走することを名前が暗示している。
前天皇の子供で王権の簒奪の狙うにはうってつけの役回り。
タケハニの妻のアタ姫はアタ(敵)の姫という名前。名前からして敵役。
それを天皇の実子のモモソヒメが予見して、同じく実子の大彦もかぎつける。
モモソヒメは祭祀者の立場から、大彦は武人として関わる。
ヒコクニフクは、国を葺く(平らにする)という反乱平定をその名とする。
モモソヒメとは「百の(多くの)」、「ソ(災い)」をわが身に背負う巫女である。
災いを予見するのは当然である。
488 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 05:51:31
>>487 >うんこの武人
しかし・・・樟葉の住人があの部分読んだらどう思うんだろうな?wwwwwwwwww
「葺く」が「平らにする」とか、「ソ」が「災い」とか、どこまで本当なんだよ
490 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 12:28:53
樟葉はアイヌ語で渡し場の意味だろう。
地名説話はいろいろあるが、あまり真に受けない方がいい
アイヌ語地名説を真に受けるなよw
492 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 13:21:45
アイヌ語の説明の方が、くそばかまより説得力あるからなー
493 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 13:26:10
つうか仮に「後付け」だったとしても
日本書紀に「くそばかま」ってはっきり書いてあるしw
494 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 13:35:51
アイヌ語地名、てか縄文語の地名は、後に意味が分からなくなって、
無理矢理な地名起源説話が生まれたんだろう。
日本書記に書かれてる?だからどうしたの?
495 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/21(日) 16:22:48
>>485 >適当に紀年を振った
月日は年より詳細性が一段と高い。適当紀年なら月日は必要
なかろう。それがちゃんと神武以後が月日までの記事となっている。
適当なら月日も適当なわけで、月日だけ正確にするとは考えにくい。
それに ↓ のように、適当ならランダムに日を分散させればいいわけ
で、 ↓ のように左半分に数字を寄せる必要はあるまい。
【紀の欠史八代の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ということは適当、漫然と並べたものではない。14日までの2週間が
左寄りになってるということは、当時の1ヶ月が現今の2週間で、月
の前半分しかなかった時代があったことを表は物語っている。
ということは、当時2倍暦の行使があったことなのだ。この表に
逆らう奴の紀年は奈落落ちとなるのだ。
497 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 18:30:43
畿内と東海を支配下に収めていたなら四正面作戦も可能じゃない?
信長は一時期もっと敵が多かった
本願寺、朝倉・浅井、毛利、武田、雑賀衆、松永、三好、延暦寺・・・
各個撃破されたけど
498 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 18:37:12
きゃっ信長厨よ。
499 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 18:42:28
たしかに四道将軍の話は事実とは異なるかもしれない
だからと言って大彦が存在しないとか
関東地方の伝説上の人物を皇族として取り込んだとか
それはちょっと飛躍しすぎなんじゃないかと思う
>>498 天皇制度を廃絶せしめようとした奴は参考になるんジャマイカ?
易姓革命寸前まで逝った人。
義満と信長と小泉ズン一郎とGODイチロー
502 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 21:05:52
信長が朝廷を潰そうとした根拠なんて何もないだろ
503 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:26:16
欠史だとか騎馬民族説だとかは、
幼稚なレベルから抜け出せないでいた
古代史学会の過去の遺物的概念。
504 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:58:47
レベルの低い話で恐縮だが
俺はオオビコノミコトと読んでた
505 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 01:10:07
>>482 四正面
織田信長 崇神天皇
柴田勝家 VS上杉 北陸 北陸 大彦命
滝川一益 VS北条 関東 東海 武渟川別命
羽柴秀吉 VS毛利 山陽 西海 吉備津彦命
丹羽長秀 VS長宗我部 四国 丹波 丹波道主命
明智光秀 武埴安彦命
足利尊氏 大物主
足利義昭 大田田根子
>>480 「王」は「彦命(ヒコミコ)」って呼ばれていたんでしょうね。
大彦命はTheヒコミコ。武埴安彦命は山背の「王」。
狗奴国の卑弥弓呼はヒコミコの訛化でしょう。
>>503 ほとんど妄想レベルだからねえ
そんな珍説が教科書にも載ってる日本って・・・
北陸道 クヌガノミチ
越=クヌガ=狗奴国
それはないな〜
510 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 18:55:22
仮に・・・
「四道将軍の記事は誇張があるとは言え
祟神の代に大彦の北陸平定他、全国を平定する事業があったのは事実」
・・・とするのならどうしても違和感が生じるのは
祟神が全国平定する3世紀中頃(東遷厨なら4世紀中頃か?w)より前
既に纏向には各地の埋葬文化の集合体とも言われている前方後円墳が出現しており
各地から人々が集まり土器が持ち込まれている。
銅鏡にしても画文は祟神朝以前だろう。
祟神の代に急激に膨張して全国制覇に乗り出したと言うシナリオは描きにくいと言うのが現実ではないのか?
(まあそうしないと東遷厨は困るんだろうがwww)
四道将軍の記事にしても直接的な軍事力の派遣による征服劇より
畿内ヤマト王権の勢力の伸展を言わば擬人化した寓話的要素が強いのではないのか?wwwwwwwww
511 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:42:55
↑
この馬鹿なんで「w」つけまくってんの?全然面白くないんだけど。
なんか必死さだけは伝わってくるが。
512 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:43:56
>>511 お前みたいな馬鹿が釣れるからだよwwwwww
>>511 馬鹿の書き込みがわかってちょうどいいじゃん
514 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 19:58:44
俺は崇神の前の代から徐々に膨張していたと思うけど
515 :
縦目仮面:2009/06/22(月) 20:07:31
馬鹿? いやいや天才一家だ。
516 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:10:09
四道将軍の記事が100%本当だとは思わないが
擬人化したってのは納得できないな
おそらく欠史八代あたりの歴史が欠落したことによって
崇神より前に征服した分も四道将軍に吸収されてしまったんじゃないかな
四道将軍自体もかなり功績をあげていたから鉄剣にも記されているんだと思うけど
517 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:13:31
>>516 >崇神より前に征服した分も四道将軍に吸収されてしまったんじゃないかな
と言うより>510で挙げた現在の考古学上言われている事を踏まえれば
「崇神より前」じゃなくて「祟神より後世」の事が四道将軍に仮託されてしまったと考える方が自然じゃないのか?w
518 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:27:54
ところで・・・
三国志の「扶余伝」に国を四道(四つからなる道州制)に分けている記事があったと思うが
「四道将軍」の元ネタってそこら辺から来ている可能性ってないのかね?www
519 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:29:27
四道将軍が平定したといっても
その後景行天皇と日本武尊の平定もあったわけだし
完全ではなかったんだろう
100年くらいは従えたり離反されたりを繰り返していたのではないか?
>>512 いやいや釣られるだけの基礎知識があるだけ、エロイと思うよwwww
正直東遷厨との関係(>東遷厨なら4世紀中頃か?w)がイマイチ
521 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:10:21
>>518 日本の古代史学界もこのレベルだからな
諡号に神がつくから三王朝交代説とか
名前が任那っぽいから騎馬民族征服説とか
522 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:13:12
九州説をとるなら邪馬台国≠大和朝廷だな
考古学的に東遷は成り立たない
神武=崇神にしないといけないしwwww
>>521 >諡号に神がつくから三王朝交代説とか
?????
525 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:24:42
>>524 神武・崇神・応神
神がつくのは王朝が交代した証拠
って言ってる人がいただろう
>>510 まあNHKのあれで挑戦学者が、
倭国において体制が確立したのは5世紀中期以降と言っていたから
3世紀中頃-4世紀中頃なら誤差の範囲だろ。違いがわかりません ><
527 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:25:58
「欠史8代」が欠史のままで何も付け加えられていないことは、逆に言えば事跡が書いて
あるところは、そのとおりの伝承が現に存在したってことになるはずだわな。
しかし、戦後のマルクス主義の捏造史観によれば、以下のとおり。
A 欠史8代は事跡がないので後世の捏造
B その後も事跡が少ないのは後世の捏造
C 名前が後世に似ている天皇は事跡があっても後世の捏造
D 朝鮮征伐は事実であるはずが無いので、その前後も含めて後世の捏造
E ヤマト王権は雄略以降に確立したので、それ以前の派兵、征服は後世の捏造
F 王宮の地域が変わったのは王朝が変わったからであるが、それを隠すのは後世の捏造
G よって記紀の大半は後世の捏造である。
・・・こんなのが「学問」の名に値するとはとても思えないのだが・・・
>>527 まあ、結論ありきだよね。人民法廷のかわりに皇室を・・・
ゲバ棒の代わりにペンを取っただけだから
532 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:37:41
無知でしたスマン
533 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:38:18
>>529 しかも漢風諡号じゃないか。8世紀のものと考えられているが。
534 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:40:01
>>521 >日本の古代史学界もこのレベルだからな
要するに
「自説が受け入れられていないのは今の学会が、世間がおかしいからだ!」
…と言う恨み節なわけだなwww
少なくとも四道将軍の記事をそのまま史実として考えるのは無理があるのはここまで書いてきたとおり。
そして記紀神話の天孫降臨神話等に扶余を含む北東アジアからの伝播が認められていれば
四道将軍に関しても扶余あたりとの関連を考えて当然だと思うが?
まあそんなに日本の現状が気に入らないのなら北の将軍様の国にでも亡命すればよいwww
535 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:43:06
>>527 今の大御所が引退するころには変わってるといいがな
536 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:46:25
気に入らないなら亡命しろって
それこそ北の将軍様じゃないかwwwwwwwwwww
537 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:49:15
>>521 こいつは継体をめぐる学説史について何も知らんわけだ。wwww
538 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:49:38
>>525 漢風諡号をつけた淡海三船は王朝交代を知ってたってこと?w
大彦が多くの豪族の共通始祖として後世系譜がつなげられたということと
大彦自体の実在は別の問題のような気がするけどな
頼朝の系譜につながるとされてる島津氏や大友氏が実際はそうではなくても
頼朝の実在とは別の問題だし
539 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:51:14
今日、邪馬台国畿内説がアカデミズムでは圧倒的優勢と言われるが
畿内説の立場と言うのは「卑弥呼」と記された女帝が推古よりはるか以前
3世紀にはヤマトにいたと言うことになる。
加えて卑弥呼没後の混乱等を考えれば、記紀の内容を丸呑みにはできないだろう。
もはやこれは右だの左だの関係の無い趨勢だと思うのだがwww
まあ必死に「捏造史観」を訴えている、恐らくは纏向スレでよく暴れている東遷厨は
今の学会を支配している左翼かぶれの爺さんらが死んだら風向きも変わると信じているようだが
そう上手くいくものかどうかwwwwwww
540 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:53:26
>>527 教科書もたしか倭の五王である雄略天皇あたりからしか
載っていないんだよね。
朝鮮半島進出に関する記述も遠慮しがちだったりする。
541 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:56:22
>>538 同意
偉大な人物には後世系譜が繋がれるものだ
542 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:56:56
543 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:01:40
東遷厨は知らんが左翼かぶれの爺さん連中が死ねば多少正常化するだろ
wwwwwの人はその爺さん連中なのかい?
いつもいつもそのことばかり言ってるけど危機感もってるの?
544 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:09:59
漢風諡号は淡海三船が一括して撰進したとされるようだが、面白い話があって、「崇」の字
のつく天皇は、なんらかの不幸な死に方をしているというもの。例えば崇峻天皇(蘇我馬子
により弑逆)、崇峻天皇(上皇 讃岐にて悶死)、崇道天皇(早良親王 配流中に憤死)。
「徳」のつく諡号は怨霊化を防ぐために奉じられたとする説はよく聞くが、これはどうだろう?
崇神天皇は関係があるのだろうか?
545 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:10:18
>>543 言っておくが、元々邪馬台国だの古代史だのにイデオロギー的なものを持ち込んでいるのは
「今の学会はタブーに覆われている!」
とか喚いている東遷厨の方だぞwww
別に、戦後考古学会もマルクス史観が流行った事を認めるにやぶさかでもなんでもないが
それにかこつけて
「自説が認められないのはその思想がいまだに学会を支配しているからだ!」
などと言う下らない陰謀論もどきは2ちゃんならではだなwww
546 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:16:10
東遷厨って連呼してるけど一体誰と戦ってるんだ?
昔に比べたら改善したと思うけど
マルクス史観はまだ残っているだろ
547 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:22:27
>>546 ・・・で
そのマルクス史観によって支えられている、現在も流布されている説ってのは何なんだ?
世代交代が進んでマルクス史観の呪縛から解かれて下火になっていくであろう説ってのは?
後学の為、具体的に挙げてもらえないかな?
548 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:25:09
古代は考古学に軸足を置いて語らなきゃ。記紀に書いてるからとかアホなことを言うなよ。
同時代史料の倭人伝ならともかく、口承の中で変質し、当時の権力者に慮って、色々書き替えられたと考えるのが普通。
549 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:31:21
>>527にあるように結論ありきで少しでも疑わしい点があれば
全部捏造であると決め付ける説がこれからもっと下火になっていくよ
550 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:33:44
>>548 同意だな
しかし稲荷山鉄剣銘文や好太王碑文など
記紀の記述を裏付ける証拠もあるんだよね
551 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:37:42
俺は現役の人文学科生だけど、皇国史観も唯物史観もイデオロギー的にかぶれてる人
なんてまずいないよ。もっと幅広い視野を持ってる人が多い。
552 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:38:08
>>544 中国と関係ある天皇は漢風諡号に神・徳・「スイ」がつく
1世25年
33頃 神武没
58頃 綏靖没 58年 漢 『スイゼイ』
83頃 安寧没
108頃 懿徳没 108年 漢 『懿徳』 帥升等=スキトモの命
133頃 孝昭没
158頃 孝安没
183頃 孝霊没
208頃 孝元没
233頃 開化没
258年 崇神没 240年 魏
311年 垂仁没 266年 晋 『スイニン』 住吉大社神代記 在位53年 辛未年崩御
336頃 倭建没
361頃 景行没
386頃 仲哀没
411頃 応神没
436頃 仁徳没 413年 東晋 『仁徳』 讃
461頃 允恭没
486頃 雄略没 477年 宋 武
・
・
・
628年 推古没 600年 隋 『スイコ』
553 :
547:2009/06/22(月) 22:40:31
そもそも記紀の内容について懐疑的否定的立場をとることが
マルクス史観・左翼思想の産物と言うのならばだ・・・
3世紀には卑弥呼と言う女帝が畿内にいたと言う現在の邪馬台国畿内説自体が
それこそマルクス史観・左翼思想の産物と言う事にならざるを得ないわけだがwwww
まあ根っこ部分に九州版皇国史観を持つ連中にとってはそれこそが言いたい事のキモ部分なんだろうがwwwwwwww
554 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:45:45
>>539 東遷厨がどういうイデオロギーをもっているかは知らないが
邪馬台国=大和朝廷(正確にはプレヤマト王権かな?)
箸墓の埋葬者=百襲媛=卑弥呼だとした場合
大和朝廷の成立時期は古くなるわけで
百襲媛は崇神と同時代人だから五世紀の大王らとつながる
記紀の系譜も現実味を帯びてくるのだから
イデオロギーと邪馬台国論争は関係ないんじゃないかな?
555 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 23:10:41
皇国史観の反対を唯物史観なんて言うヤシがいるから話がおかしくなる。
皇国史観の反対は反皇国史観でいい。
九州説の中でも古田武彦は最大の反皇国史観主義者だな。
稲荷山鉄剣のオオヒコもワカタケルもシキの宮も、古田の言い分だと関東王朝の話で、
畿内天皇家とは一切関係ないらしい。
556 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 23:23:06
あれは、各地に支持者・賛同者を増やしたいための「王朝安売り」の面もあったんじゃないかな。
江戸期に諸国遍歴した芭蕉に各地に弟子や後援者がいたようなもの?
557 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 23:38:05
東遷厨が皇国史観とか言ってる奴がおかしいだけ
自分の気に入らない奴は東遷厨認定してんだから
558 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:05:19
>>515 >いやいや天才一家だ
♪西に興った勢力が 東に進む〜
♪これでいいのだ これでいいのだ〜
♪ボンボン バカボン バカボンボン
♪天災一家だ〜 バ〜カ ボンボン !
>>551 若手の学者には、変な思想に脳を汚染されている感じの人はいないね。
しかし、地雷は避けて通るのがイマドキの若者。
三角縁神獣鏡は全部国産と確信していても、余計なことは言わない。
というか、本気で舶載と信じている人がいるのかどうか・・・
560 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:19:19
>>559 学会内の空気も知る立場にある
本職の学者さんですか?
△の学説の状況は最大の象徴。
国会前広場にレーニン像が鎮座している感がある。
推古天皇の9年て別に大した事無いじゃん
幾らこの年が辛酉でもそれをもって1260年前が皇紀0年ておかしくね?
讖緯説によって1260年前に初代天皇が即位しましたよと言うのなら
なおさら推古9年に何か無くてはいけないはずなのに
この年に神武即位に匹敵する何かがあったなら
遡って1260年前に革命があって皇統が始まりました、で納得できるんだけど
なんで昔の人はそんな変な辻褄合わせしようとしたの?
563 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:32:30
>>559 つうかだな・・・
三角縁神獣鏡は全部国産と確信している
=舶載は一枚も無いと確信するにいたる根拠って何なんだよ?w
しかし、やっぱりこのネタに話ふって来たな、いつものパターンだがwww
564 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:40:38
>>562 ドンと来いの人かな?
信じてるというより、各天皇の年齢引き延ばしなどから、そういう構造になってるようだとしか
いえない。上レスの203〜205参照。まあ、こういう面白い記録があるという程度だけどね。
565 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:41:21
結局あれだろ、宮崎県での天孫降臨とか日向三代も、「本当は福岡県であったこと」とか読み替えるんだろ?
これでも記紀を恣意的に解釈してると言えないのか?
566 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 01:04:45
しかし、ぶっちゃけ考古学者って何歳以下だと「若手」って言われるのか知らんがw
世代交代とやらが進んだら今以上に年代観が変わると言うか
理化学的年代測定の出す数字を抵抗無く受け入れる傾向が出てきやしないのかな?
そうなったらここで
「いまだ学会はマルクス史観に毒されているから・・・」
とわめいている奴は更に火病をおこすと思うがwww
(まあなんだかんだで、ここでマルクス史観の薫陶を受けたと言われている世代は
同時に小林説の薫陶も受けたんじゃないのかな?)
そもそも三角縁全部国産の根拠もないんだよね。
銘文や紀年鏡の存在からも、メイドイン中国が有り難がられたようだから、
あえて国産で偽造する意味が分からない。
大陸との交流が途絶えていたわけじゃないし、
弥生中期の頃から大量に鏡が倭国に流れてきている。
その流れが突然ストップしたという合理的な説明ができるのだろうか?
>>566 若手は記紀とか倭人伝を敬遠してるだろ。
土器編年で、もっと学問的に古代史を研究している。
古代史の文献なんて、ぶっちゃけどうとでも解釈出来るし、
いつひっくり返るか分からないアヤフヤなもの。
そんなものに人生賭けたくないだろ、普通に考えて
569 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 01:30:44
>>568 どうにでも解釈できて、いつひっくり返るかわからないのは考古学だろう。
土器編年ならひっくり返らんだろ
若手は長老の目に留まる論文を書かないと上に行けない。
自説を出しつつ、適度にゴマを擂る絶妙のバランス感覚が必要である。
地雷原は避けるべし。
572 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 01:46:24
>>570 かつては「庄内式は分割できないし、すべきでない」と言われてきたが、
今では2分割どころか、3、さらに4分割説が存在する。
んで、問題は「何を指標に分割しているのか」なんだが・・・
土器の形ではないところで分割させて、さらにそこから分割するということだわな。
だから、この部分はほとんどの本で結果だけしか書かれない。
綱渡りというか曲芸というか。
結局のところ
「昔の方が良かった」
って話だなw
いいのか?学会とやらの世代交代が進んでも?
・・・なんか明るい未来が待っていそうに無いんだがwww
オープンな議論の場がないんだよなあ。
みんなが蛸壺に引きこもって、隣の蛸壺で何がおきても知らん振り。
蛸壺ごとにガキ大将がいてやりたい放題。
>>572 仕方ないじゃん。実際、庄内の様式変化が想定してたより多かったということ。
土器の形でないところで分割の意味が分からん
576 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 03:01:48
編年というのは、模様や形で土器を古い順に並べることを言うわけだが、
昔、これはアテにならないという人もいた。
編年なんて単なる説明の手段だとか。要するに、うまく説明されて皆が納得
すればそれが通説になるというわけだろう。
実際にそれが正しいかどうかはわからないというわけかな。
古い地層から出てきたものが古いというのは間違いないらしいが。
577 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 07:45:13
578 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 07:49:52
地震の多い日本で、古い地層という見極めも難しいのだが。
土器編年はある程度正しいと思うぞ。少なくともどちらが古いかに関して。ただまあ、その様式変化のスパン、何年くらい続いたかは議論が分かれるとは思うが
579 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 07:50:04
現在までに記紀を根本から覆すような考古学の発見は
出ていないのだから、考古学をメインに文献も尊重すべきだよね
記紀は後世の捏造で塗り固められているという姿勢では
見えるものも見えなくなってしまう
>>544 最近崇神(たたりがみ)に読めて仕方ないのだが・・・
継体から前って、なんで妄想を誘う作りなのか、イジワル。
竹を割ったような文章を残して欲しかったデス。
単純に神を尊び敬っていたという事績からだろ
もし関係があるなら淡海三船が記紀に書かれていない
事実を知っていたことにならない?
582 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 14:44:35
583 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 15:25:19
まあ、諡号撰上者は記紀の記述以外の逸話は知らないだろうな。「崇神」は、大物主や大田
田根子命のエピソードから、神を崇めた天皇程度の意味なのではないかと思うが。後代の
崇峻、崇徳、崇道などとは性質が違うのではないかな。
「徳」の字については、Wikiより
>漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に
途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院か
ら改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代
順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」
の字を奉られた。
584 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 15:56:48
淡海三船が日本の古代史全てを知っていたかのように力説する連中がいるよな
言霊の人とかさ。時代が全然違うのだからそれを根拠にされても困る
585 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 16:02:05
全然違うこともないか・・・w
記憶を頼りにレスしちゃいかんな
淡海三船による漢風諡号
1 神武天皇
2 綏靖天皇
3 安寧天皇
4 懿徳天皇
5 孝昭天皇
6 孝安天皇
7 孝霊天皇
8 孝元天皇
9 開化天皇
10 崇神天皇
11 垂仁天皇
12 景行天皇
13 成務天皇
14 仲哀天皇
15 応神天皇
16 仁徳天皇
17 履中天皇
18 反正天皇
19 允恭天皇
20 安康天皇
21 雄略天皇
22 清寧天皇
23 顯宗天皇
24 仁賢天皇
25 武烈天皇
26 継体天皇
27 安閑天皇
28 宣化天皇
29 欽明天皇
30 敏達天皇
31 用明天皇
32 崇峻天皇
33 推古天皇
34 舒明天皇
35 皇極天皇
36 孝徳天皇
37 斉明天皇
38 天智天皇
40 天武天皇
41 持統天皇
43 元明天皇
44 元正天皇
継体の継の文字が嗣じゃないから
別王朝ということを示しているって主張してる連中もいたな
王朝交代を隠蔽したはずなのになぜそこだけ隠さなかったんだろう?
589 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 19:14:36
じゃあ纏向の箸墓以前の古墳の被葬者は誰なんだって?って話で
記紀の文脈をそのままに読めば三輪よりは畝傍周辺に
後の纏向に繋がるような遺跡等が無ければおかしい。
この件で欠史八代の実在を主張したいであろう東遷説や
その他の邪馬台国九州説の連中にすれば
纏向と言うのは所謂「自生説」を否定するには都合が良いのだろうが
反面、神武にまで遡るため欠史八代の実在を主張するには都合が宜しくないのだろうw
まあある種のジレンマだなwww
なんで日本古代史は西国方面に行っちゃうのかな?
ま、騎馬民族説の最大の弊害だな。
大彦いのちについて語ってほしーの
591 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 19:27:57
「継体持統」で「体を継ぎ統を持す」という意の四字熟語のようなものとされてて、継体帝と
持統帝はなんらかのつながりを意識してつけられたとする説があるね。継体天皇がきれそ
うな皇統をかろうじてつないだ故事にちなんで、天智天皇の皇統を「持統」したというような?
ちなみに俺は継体天皇の后である手白香皇女陵と宮内庁に比定される西殿塚古墳が、崇神
陵と考えている。真の衾田陵は西山塚古墳だろう。この手白香皇女は、武烈天皇の異母兄(弟)
とされるが、武烈天皇も特にその存在が疑問視されている一人だ。なんかまとまらない話にな
った、スマソ。
天智:「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」
天武:「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」
淡海三船(おうみのみふね):天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。
>>588 「継体」という言葉それ自体、「後釜に入った、後を引き受けた者」ということであって、
同時に「血統がつながっていない」という意味なのですよね(例:継母)
そして「体制もそのまま受けついでいない」という意味でもあります。
こんな謚をつけられたのですから、後世の人は王朝交代があったと見なして然るべきでしょう。
隠さなかったと言うより隠しようがなかったのでしょう。
継体崩御からあの欽明天皇即位までわずか8年しか経っていないのですし。
595 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:00:17
確かに、応神天皇5世の孫というのはいかにもうさんくさいし、前代の武烈天皇に関する
記事は非現実的だし、血統が途絶えているというのはありえるだろうね。皆さんは武烈紀
の記述をどう解釈しているんですかね。
記事が非現実的というだけで存在しないことになるなら
歴史上存在しない人物はたくさん出てくるだろうな
クイズやなぞなぞじゃなくて歴史学なんだから
他に存在しないという根拠を示さないと
597 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:17:10
存在、非存在の話をしているんではなくて、あの武烈天皇の事績がなぜあのように記載さ
れてるかの解釈について皆の意見を求めているんだが。596は何かコンプレックスでもある
のかね?
598 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:29:23
だいたいあのあたりの人物について確実に非存在とする根拠などない。かといって記紀の
記述がすべて真実であると捉えることもできない。ひどく曖昧なところでわれわれは漂って
いるわけだが、他文献や考古資料を援用して、確実なことを一つ一つ積み上げていくのが
学問というものだと思うが。
>>595 > 確かに、応神天皇5世の孫というのはいかにもうさんくさいし、
一橋慶喜は神君の何代あとですか?スケートの織田君は人生五十年の何代あとですか?
あまり色眼鏡で見ない方がいいと思うですな也。
600 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:40:15
まあ素人なんでこの解釈が根本的に違うと言うのなら指摘して頂きたいが・・・
そもそも考古学なんてものは「出てきた物」について考察する学問であって
ならば纏向に先行するような遺跡(宮跡)が出てきおらず
むしろ纏向に記紀に記されていない庄内期の前方後円墳があれば
欠史八代の実在を疑って当然なんじゃないのか?w
無論「何れ出てくる」「既に形を残していない」と言った可能性はあるが
そんな事を言い出したら
「万世一系は記紀に書いてあるんだから疑義をはさむ事は許さない!」
って東遷厨にとっては万々歳な世界になっちまうw
602 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:42:47
実在、非実在の話じゃないなら
このスレで武烈天皇の話が出てくる意図が分からないな
603 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:44:27
>前代の武烈天皇に関する記事は
江戸期のお家断絶、お取り潰しからすると、それほど突飛な事件ではないような。
ベタで恐縮ですが、水戸烈公が嫌われすぎて、最後の最後まで慶喜の代わりを
探したけれど見つからないぐらいに、後継者が居ない時は御三家養子出しまくり貰いまくりの壊滅状態。
応神系統末期は王朝交代劇(の内乱)と言うより、ドロドロの昼ドラ愛憎劇で自壊したんだろうな。
低脳な駄文でスマソ。
>>597 あれは普通に読めば史記のパクリ。
記紀が史記を手本に作ったのですから当然かもしれませんが、
逆に言えば、編纂当時具体的な悪行が伝わってなかった(→書きようがなかった→実はなかった)と考えられるでしょう。
悪く書こうと思えば、瑣事を針小棒大に書けばいいだけのことですが、そんなレベルですらない。
大体、11歳で悪事云々というのは具体的に見ても奇異に過ぎます。
顕宗-仁賢系(この世代でも悶着あったようですが)を除く動き、あるいは出自の怪しさが残る春日大娘皇女
(武烈の実母)がらみのものがあったような気がします。
606 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:47:34
>>595 記紀編纂者が目にした文献と、聴取した伝承をそのまま書いたのだろう。
元の文献や伝承に誇張はあったであろうが、火のないところに煙は立たず、であろう。
とくに紀の編纂者は、多数の異伝を排除せずそのまま載せ、系譜の異伝までも書き、
さらには2説を併記して、「後の時代の人が決めよ。」と書く部分もある。
その態度には、紀を後世の捏造と断じた戦後の「えせ学者」からは程遠い崇高さがある。
607 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:51:38
>>601 逆じゃないかな。
マキムクの古墳で確実に布留0以前に遡るものは存在しない。
しかも、崇神稜は最古の古墳でもない。
ゆえに、庄内式の約80〜100年の期間は欠史8代を認めねば埋められなくなった。
608 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 23:52:22
万世一系が前提の記紀で、前大王からの断絶をにおわすような記事は許されないと思うがね
もっと別な可能性を考えた方が良くね
609 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:06:14
継体天皇が赤の他人なら前大王から系譜を繋がなくてもいいのでは。
皇位を巡る争いに勝利して即位したのだとしても
血統的な繋がりはあったのだと思います。
610 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:07:58
>>602 まあ、ネタ投入もあるんだが、上レスを読んでるとやはり記紀に対するスタンスの違いが
人によって大きいように感じられ、これは「オオヒコ」問題にも関わることだと思うがね。武烈
問題などは、それのよい叩き台になるかと・・・。
611 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:31:15
>>607 「欠史」と言っても八代の箇所がなにも白紙になっているわけではない。
宮の所在地名や陵の所在地名は八代の期間も記載がある。
それらを見ると初代神武と八代に関わる地名は
盆地南部と南西部にあたる橿原・畝傍山近辺および葛城の地域が多く
あと盆地北部、中央部の地名が散発的に出てくる程度である。
三輪山や纏向遺跡がある盆地東南部は欠史八代の時代はほとんど何も言及されない。
三輪山や纏向の地は崇神朝に至って突然のようにクローズアップされてくるのである。
従って纏向遺跡の前半期にあたる庄内期と欠史八代とを関連させるのは恣意的に過ぎる。
>>608 断絶しているじゃねーかと突っ込まれるような情勢の中、
辛うじて繋がっていることを主張していると考えることもできる。
613 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 02:00:36
>>607 >マキムクの古墳で確実に布留0以前に遡るものは存在しない。
根拠は?
…と言うより、いつもの、例の、アレな、東遷説論者かな?w
前方部と後円部の比率から祟神陵もその他の纏向型とほぼ同時代に作られた物とし
大型なので寿陵として生前の早くから作られて
築造に着工して完成するまでに他の纏向型や箸墓が作られた
それが布留以降であり、よって纏向に布留0以前の物は無いとする・・・
まあ正直こんなもんここでしかお目にかかれないものだと思うが
(ひょっとして「邪馬台国○会」のサイトには載っているのかな?)
百億歩譲ってそれを是としても
欠史八代に関連すると思われる遺跡・遺構が出ていない事実に変わりは無いわけだがwwwwwwww
614 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 02:17:49
>>613 だったら確実にフル0以前の古墳を書けよクズが!!
それを言い出したら石塚の例の論争が問題になるわな。
寺沢の発掘したところ布留0の出土状況。石野の発掘したところは庄内の出土状況。
寺沢のいないときに数千の土器片を検討して、布留はないと結論付けた石野。
それに対して、現物を持って行き異論を唱えた寺沢。
庄内式の完形土器が出土したとする石野。その場所が不明と指摘した寺沢。
その後に説明不足だったと釈明した石野。
最下層に布留があると指摘した寺沢。それは後世の堆積と反論した石野。
・・・・・こんなデリケートな問題に言及しようとする学者はまずいない。
後世の禍根を断つために、墳丘だけでもいいから再度の発掘をしてほしい。
616 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 02:50:08
石塚だけは庄内っていうのも無理だよ。
617 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 03:10:58
そもそも、寺澤にしても布留0=纏向3式の後半に当てているわけで・・・
纏向の土器が布留から始まるなんて事を言っているわけでもないだろうにwww
>>615 二人は墳型の分類/編年についても意見が違うよね。
寺沢は纏向型ってのを自論の中心に据えているから、
いろいろと激しいやり取りになるんだと思う。
ただ先日纏向型は二系統あるという考えに変えたはず。
(石野担当部分の発掘)
石野 「完形土器が出土したから、周濠は庄内初期だね」
寺沢 「報告書ではどこから完形土器とやらが出土したのか不明ですね。」
「君の報告書では布留0も少なからず出土しているようだが」
石野 「図に書き込むのを忘れた。分かりにくくてごめん。」
「布留0は後世に落ち込んだものだから無視したよ。」
(寺沢担当部分の発掘)
寺沢 「周濠の各部分の最下層から布留0が多く出土したので布留0ですね。」
「(石野担当部分をのぞいて)布留が多く出土していることは明らか。」
石野 「それは後世に落ち込んだものだって。」
(余談)
石野 「みんなで(寺沢抜きで)手分けして墳丘の土器片を検討したけど、庄内はないね。」
寺沢 「私はそれに参加していない。これは明らかに庄内だよね(現物を示す)。」
石野 「それは庄内になりかける途中ですな。」
621 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 18:25:03
そもそも
>>615 >>619 で一体何が言いたいのか良く分からない。
纏向遺跡の中の一つの古墳の築造時期についての二人の学者の意見の相違・・・これが
>>607 >マキムクの古墳で確実に布留0以前に遡るものは存在しない。
…に繋がる話なのか?w
622 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:19:12
>>621 じゃあほかに布留0より前になるってのを自分で出したらどうかな。
それができないと<庄内式の期間=欠史8代>で決まりだよww
623 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:36:31
>>622 馬鹿じゃないのか?
「庄内式の期間」を「欠史8代」の時代に当てるのはお前の勝手だが
欠史八代に関するといわれている遺跡・遺構が確認されていない現状では
単に想像の域を出ないわけだが?
624 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:43:51
「庄内式の期間」を「欠史8代」の時代に当てるのが可能であると言う事と
「欠史八代」が「庄内式の期間」に実在したと言う事は全くの別w
625 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 19:57:30
結局、欠史8代の実在証明が別途に必要なわけで、これだと、マキ向の古墳群が庄内式
にかからないといってるだけだな。
まあひょっとしたら寺澤が
「マキムクの古墳で確実に布留0以前に遡るものは存在しない」
・・・なんて事を言っていると勘違いする人間も出てくるかもしれんので
念の為に寺澤の「王権誕生」より引用しておくがw
>纏向ホケノ山古墳の発掘
>二十世紀末、ヤマト王権誕生の解明を期して行われた纏向型前方後円墳である
>纏向ホケノ山古墳(全長約八十六メートル)の発掘は、
>今まで述べてきた王嫌悪系譜や成立事情をより一層鮮明にした。
>ホケノ山古墳の埋葬時期は確実に箸墓古墳に先行する庄内3式(三世紀中頃)であり、
>埋葬施設も、定型化した前方後円墳の竪穴式石槨 が生まれる直前の、
>まさに弥生後期末の巨大墳丘墓との過渡期的な構造だった事が明らかになったのだ。
627 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:21:43
>>622 >それができないと
???
意味不明。
二つの時期区分が庄内期→布留期なのは明白。
マキムクの古墳が庄内期築造であっても布留期築造であってもどうでもいい話。
>庄内式の期間=欠史8代
欠史8代は綏靖から開化まで。日本書紀では約500年間ほどに描く。
庄内期は短く考える人で50年、長く考える人でも百数十年ほど。
628 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:32:39
>>626 ホケノ山は墳丘も周濠も布留0だろwww
そんなこんなで石塚は最古の古墳としての期待がかかっていた。
年代遡上の期待のホープ。
結果は無残なものであったが。
まあ石野は「一番古いものが基準になるんだ。」とがんばったけど、
さすがにあれに相乗りする人はほとんど居ないよね。
周濠最下部は全方位から布留が多く出土、括れ部でも布留が大量に出土。
これはどうみても布留で祭祀をしたとしか解釈しようが無い。
石塚以外が全部布留なのに、石塚だけが庄内初期とかはちょっと苦しい。
とうか1個だけ不自然に古くしてどうする。
最近はホケノが布留0ということも言ったらいかん空気があるのか。
それも含めて、あの辺はデリケートだよな。
629 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:45:37
多分このいつもの東遷厨の発想としては
ヤマトを支配した大王が不在の時期はあってはならないってのが根本にあって・・・
纏向の古墳は全て布留以降
↓
庄内期にヤマトを治めた大王が不在になってしまう!
↓
だったら欠史八代の実在を認めるしかないっ!!
・・・と言うロジックなんだろうなwww
630 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:50:46
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < 布留0より古い古墳はまだ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| 愛媛みかん |/
>>630 やっぱりその手のAA貼ってたのはお前だったのかw
632 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:00:33
∧ ∧ マチクタビレタ〜 マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜 / ヽ ./ ヽ マチクタビレタ〜
/ ヽ―――/ ヽ マチクタビレタ〜 マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜 / l___l \ マチクタビレタ〜
| ● | | ● | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
へ | へ ヽ ./ | < ねえ、古い古墳まだぁー?
\\ \ \\ ヽ/ / \____________
チン \\ .> \\ ヽ
チン \\/ \\ _ | マチクタビレタ〜
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / ̄ ヽ / _
\回回回回回/ ̄ ̄ヽ / ̄ ̄ /| マチクタビレタ〜
\___/ ヽ____/ / .| マチクタビレタ〜
/ | マチクタビレタ〜
__________________/ .|
| | マチクタビレタ〜
633 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:05:04
せっかく考古学の本とか読んでも、知識をこういうふうに使うんではどうしようもないな。
ここまでのところ、欠史八代実在の根拠は記紀の記述以外にはないんだよな。鉄剣の
「オオヒコ」銘は、孝元実在の証拠とはならない。(あーあループだ。)
つーか、庄内と布留がわからん。wikiに項目がないし、適当なHPにぶちあたらん。
おまいら2人だけでスレを占拠するな。せめて庄内と布留を素人向けに解説してくださいコノヤロー。
素人の直感だが
庄内と布留ってゴッドハンド大発見みたいに、数年後には無意味になるお!
多分ねw
636 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:15:34
いったい何が問題で、何が議論になってるのか、わけ分らん。
ここはオオヒコスレだろう?
マキムク遺跡が庄内期から始まったらいかんのか?
でもマキムク大溝はどう考えたって庄内期の掘削だろ?
で、欠史八代に何の関係があると言うんだ????
庄内と布留は土器様式に関係あるようだが、京楽焼なんて今でも焼いてるからなwww
あてにならんだろうな。アンティーク・ブームってあるもんだよ。銅鐸にしても
副葬品で政権の性格付けすんのは感心しない。
638 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:20:32
今の流れは全て
>>607 >ゆえに、庄内式の約80〜100年の期間は欠史8代を認めねば埋められなくなった。
ここから始まっているw
意味が分からなかったが
多分>629のような思想があっての事だと思うwww
>>638 >庄内期にヤマトを治めた大王が不在になってしまう!
現在の大和盆地は大和古代湖を埋め立てただけだから、遺跡発掘に支障はないが
庄内とやらの遺跡が河内なら、地下十数mに埋もれているだろう。
欠史8代ってぐらいだから、大和・河内他の治水工事等で潰したかもしれん。
恰好の土砂石材収集場だw 兎に角、訳のわからん議論は良子さん。
640 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:31:41
641 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:32:42
>>607 >ゆえに、庄内式の約80〜100年の期間は欠史8代を認めねば埋められなくなった。
この↑意味わからないんだけど説明してくんない?
それとも
>>629みたいなのでいいんか?
642 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/24(水) 21:36:07
>>633 あるよ。日野郡誌には孝靈天皇山陰行幸の記事の詳細があるし、
日御崎神社社記には孝靈天皇の代、月支国王が大船団で出雲を攻め
た記事があるという。上総国飽富神社には綏天皇の兄 神八井耳命
が綏即位前年、東国上総国統治に赴くという社伝がある。
また広島県艮神社伝承には、開化天皇十年 孝靈天皇の皇子吉備武彦
が熊曾新羅王と戦い、王の左眼を射たとある。
オオヒコにて崇神天皇のシキ宮の文字が刀の銘文にあるから、疑惑を
持っても結局 雄略天皇(獲加多支鹵大王)とともに大彦の実在は
間違いないね。疑惑は考え過ぎの妄想。池田仁三氏によると桜井
茶臼山古墳墓標で大彦没年干支が確認されているという。
また漢委奴国王の金印の側面には安寧天皇の皇子 常根津日子の文字
が池田仁三氏らによって確認されたという。
643 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:43:52
>布留0より古い古墳はまだ〜?
これが何を意味するのか良く分からないが
多分、布留以降の土器が全くでない古墳と言う意味だろうか?
確かに個人的にはそんな物を知らないんだが(あるのかな?)
そもそも
>>628のお話にしても庄内期から布留にかけて継続的に
(少なくとも複数回)祭祀が行われたとすれば矛盾の無い話で
むしろ箸墓以前の物は外界から完全に隔離するほどの大きな周濠でもないし
一回こっきりと考える方が無理があると思うが?
>>635>>637 確かに最大径が器高中間まで降りてくる布留甕の生産が始まっても
しばらくは庄内甕も併行して作られるということはあるが
久宝寺でも中田遺跡でも庄内甕しか出さない土層が下層にくるので
庄内が古く布留が新しいという相対的関係は動かない。辻土坑2は庄内期。
いじっても変わらんようだから、ROMに戻るアル
646 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:00:39
>>642 >池田仁三氏
気恥ずかしいからこの人の名前を出すのはやめて!
647 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:07:57
よく分からないんだが。
そもそも布留0とか言い出したのが寺沢薫で、箸墓が布留0築造だと。
寺沢は確か箸墓に先行するマキムク型前方後円墳を提唱して庄内の時期にしたんではなかったか?
石塚にしても、寺沢は庄内3、石野が庄内1として揉めてたような。
実年代についても、石野が布留0を280年頃として、寺沢が250年頃としてたような。
いずれにしても、欠史八代実在なんて電波飛ばしてる学者はいないというのは確か
フトクニは無視しとけよ
649 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:23:00
>>647 と言うか
「纏向の前方後円墳は全て布留0以降」
なんて電波飛ばしている学者はいないと言うのが現実w
安本氏の耶麻台東遷説ぐぐって東遷厨とは何モノかちょっと理解できた
卑弥呼=天照大御神ですかそうですか・・・
>結論だけをいいますと、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えましても、
>神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかなりません。
>>647 寺沢は布留0の始まりが纏向型古墳の始まり、
そしてその第一である箸墓が卑弥呼の墓。
纏向は邪馬台国の首都。
これをはみ出すようなことを口にすることはないんじゃないの。
この年代感に固まっているから、理化学年代は基本全て無視。
邪馬台国東遷説を主張する人間なんて一人も登場してないのに、
いない敵と戦っている奴って何なんですか?
653 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:43:39
>>649 いや、一人おられたんだ。
今はどういう意見だろ? 変わられたかもしれないが。
ホケノ山の発掘以前にそういうこと(=箸墓が最古)を仰って、ホケノ山発掘の後も
「わしゃ正式報告書が出るまでは、ホケノ山が箸墓より古いとは認めんぞ〜」と。w
周濠への落ち込み土器や墳丘封土内部の土器は、うっかりアテにはできんということらしい。
頑固なんだけど、一応スジを通す先生。岡×大学の××××名誉教授。w
ああ、×藤×郎か
655 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:48:55
最近は「吉備東遷論」のような感じですね。
656 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:49:51
大彦の実在主張してる人はみんな邪馬台国東遷論者ではないでしょ
鉄剣銘文の辛亥年(471年)から遡ってみても東遷はありえないんじゃない?
>>653 俺はその先生を支持してるw
てか、そのこと安本も指摘してたとことを最近知ったw
658 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:54:17
>>651 もうちょっと勉強してから書き込もうね。
そもそもオオヒコ実在とか言ってる奴の考古学の知識があまりに低レベルなのが問題。
稲荷山鉄剣の価値は、5世紀の段階で大和王権の版図が関東まで及んでいたことが確認できたことなんだよ。
それを書いていない欠史八代実在とか世迷い言を。もう少しまともな根拠出してみろよと。
記紀に書かれてるとかはなしで。
659 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:02:05
実際に古墳を調査しても、土器に関してはいろいろ難しい点があるらしいね。
大量に縄文式土器が出てくるのは当たり前らしい。そのほか、いろんな形式の
土器も出てくる。
どの土器がその古墳と整合性があるかというのは、上にあるように識者でも
意見が分かれることもあるらしい。
>>658 > 版図が関東まで及んでいたことが確認
確認という言葉を使っているけど、
「版図が関東まで及んでいた」ってどういう意味で言っているの?
661 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:10:34
∧ ∧ イライライライライラライライライライライラ
/ ヽ / ヽ イライライライライライライライラ
/ ヽ___/ ノ( ヽ イライライライライライライライライラ
/ ノ( ⌒ \
| ⌒ ▼ ┌─ ▼ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
へ | ノ( / \ | < 布留0より古い古墳まだかよ!!っんっとに!!
/ \\ \⌒ / ̄ ̄ ̄\ / \____________
/ /\\ .> ヽ
チンチンチン// \\/ i i _ |
チンチンチン i | ‖| / ̄ ヽ / _ イライライライライラライライライライライラ
チンチンチン Σ [ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ / ̄ ̄ /| イライライライライラライライライライライラ
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/  ̄ ̄ヽ____/ / | イライライライライラライライライライライラ
チンチンチン \回回回回回/ チンチンチン / | イライライライライラライライライライライラ
\___/ チンチンチン / | イライライライライラライライライライライラ
チンチンチン
662 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:12:58
>>650 卑弥呼が実在の人物であるのは、まず疑いのないところ。
では、卑弥呼は、記紀の誰に相当するのか。
天照大神との類似性が最も高い、そう思う人は多い。
となると、邪馬台国は近畿地方ではありえない。記紀に従うと、そのあとに
神武東征があり、これが高天原と大和をつなぐ皇室の系譜のキーポイントに
なっている。
ここから東遷説が生まれる。だから、卑弥呼=天照大神が東遷説の根本で
あるのは間違いない。
これを阻止しようとしたら、年代論議になってしまうなあ。
実際、最近の論争は年代をどう見るかに絞られている感がある。
663 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:13:55
664 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:18:35
東遷はともかく、欠史八代の多くが橿原周辺にゆかりがあるというのは俺的には謎だな。
665 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:25:43
>>662 >天照大神との類似性が最も高い、そう思う人は多い。
根源のスタートのところでイメージの世界で語られててもなあw
更に言えば天照を岩戸隠れに追い込んだ素戔鳴は狗奴國か?
・・・と誰でも一度は想像するw
しかし何のことは無い、
太陽が隠れて世界が真っ暗になりこれを皆がおびき寄せる話も
太陽神と月神がいて「蝕」を引き起こす存在がいるこの三神セットの構図も外国に見られ
何も日本固有で
邪馬台国を想定しなければ成り立たない物でもなんでもないwww
666 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:29:21
無駄な改行をするな、カス
667 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:32:23
ちなみに「騎馬民族説」を叩いている奴は多いが
文化の急激な変容・受容(騎馬民族説の場合当然馬匹文化とい言う事になるが)をもって
支配勢力の交代劇を想定すると言うのであれば
この板でいまだに
「銅鐸勢力を銅鏡勢力が駆逐した」
などとわめいている東遷説の連中も同じ事www
そんな連中が騎馬民族説をどうこう言うのは噴飯モノwwwwwwww
668 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:34:57
>>664 書紀の天武紀元年(672)に、壬申の乱の際、神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉ったという
記事があり、このころから橿原周辺を重視する何らかのムーブがあったのだろうか?
669 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:38:16
まあ仮に纏向の前方後円墳が布留0以降
祟神の治世で造られたものだとすれば
尚の事、記紀にその被葬者についての言及があってもいいんじゃないのか?
・・・と思うのは俺だけかな?w
まあ
「既に200mオーバーの箸墓レベルが作られた時代で特筆するに価しなかった」
と言うかもしれんが王都の中と言ってもいいような場所にあってスルーはないんじゃねえの?wwww
670 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:49:29
>>664 容疑者を絞り込むには「最大の受益者」を疑えってのはセオリーだと思うがw
橿原周辺なら蘇我氏の本貫地と重ならないのかな?
加えて曽我氏は「天皇記」も持っていたわけで・・・w
671 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:01:39
7世紀に天皇紀・国紀を編むに際し、蘇我氏が自らの権勢の正当性を主張するために特段に
に橿原の地を大王家と縁深いものとした、か。確かによく聞く説ではあるが・・・。
本来イワレヒコは磐余地方で即位したと考える方がしっくりくる
イワレヒコ…磐余のイイ男
オオヒコ…大きなイイ男
神武直系の蘇我氏が天皇家で
現在の天皇家は宮宰だった
蘇我・・・メロヴィング朝 宮宰カロリング家
神武・・・クローヴィス
カロリング朝
天智・・・ユーグ・カペー
>>664 古代には奈良の盆地の中央に盆地湖か湿地帯があったことは間違いないし、
古い時代ほどそれが大きかったことも争いはない。
そんなわけでマキムクは住むのに適していなかった。
というかマキムクでは未だに住居跡は極めて少数しか出ていない。
だから「無人都市マキムク」なんて言われている。
それほど住居跡が少ない。
まあ住居跡が10個位になればイナバ物置論法で「そこに1万人が住んでいた」
ってことになるだろうけど・・・今は10にも届かない。
「無人都市マキムク」に通った労働者たちは、橿原の方に住んでいたのだろう。
それは無いんじゃない?
628年の仏像に「ソガ大臣」て彫られてるから
677 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:28:22
>>662 卑弥呼=天照大神なら欠史八代が存在しなかったことになってしまうな
678 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:32:23
大彦の実在を主張してる人はだいたい
欠史八代の実在も主張していて東遷説とは相容れないのに
なぜかこのスレでは全部東遷説にされてしまう
まあ見えない敵と戦ってるキチガイが1人いるだけだが
高木神=帥升
イザナギ=男弟
イザナミ=卑弥呼
アマテラス=イヨタソ
680 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:32:57
イナバ物置きww。確かに橿原周辺は縄文晩期遺跡が多い。藤原京跡の下層などからも
広範囲に出土するようだ。
橿原って縄文時代の遺跡があったよなと思ってチョコット調べたら
「東北・北陸地方との文化交流が窺える。」って・・・・・あれ?
682 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:50:45
俺的には纏向の集落跡は珠城山周辺かなと考えているが・・・。
橿原式土器は岩手県を標識とする大洞式系土器系だったね。
683 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 01:23:01
「無人都市マキムク」(笑)
684 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 01:27:29
つうか「無人都市マキムク」なんて学界では冗談にならんわな。
事実だし。
685 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 01:52:53
やれやれ、明日は纏向の話か・・・。
686 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 02:14:51
本筋に戻ろうか。俺は大彦の墓は櫛山古墳じゃないかと考えている。
・崇神稜の上に位置することからは、崇神より年長である。
・大彦は孝元の第1子であり、崇神のおじにあたる。
・しかも北陸から関東まで遠征した将軍である。
・活躍時期は崇神の時代であり、崇神の側近である。
・タケハニヤスヒコの乱を予言したモモソヒメと大彦の伝承は、モモソヒメの箸墓の
位置と櫛山の大彦の位置も関係していると考えられる。
・大彦が長生きしたとすれば、古墳築造時は崇神より古い双方中円墳であり、
祭祀のときは新しいどきというのも説明できる。
大彦を櫛山古墳にすると、吉備の楯築は吉備津彦になる。
688 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 02:55:57
楯築と箸墓は特殊器台でつながり、一件落着。
>>672 その場合、メスリ山がイワレヒコ(磐余の首長)の墓だろうな。
690 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 06:27:58
>>686 ・上にあるからより古い古墳だ、などという古墳一般に通じる法則はない。東殿塚は西殿塚の上だが西殿塚よりも新しい。
・現崇神陵の行燈山古墳が崇神の真陵と確定する根拠は何も無い。江戸時代は行燈山古墳は景行陵と伝えられていた。
・櫛山古墳は前期後半であり古墳群の中では比較的新しい。組合せ式の長持形石棺と碧玉製腕飾類が前期後半の古墳である証拠。
・櫛山古墳は双方中円墳と形状分類されて久しいが、近年の研究では張り出し部を別に設けた前方後円墳と理解されている。
・この種の張り出し部は土を高く盛ることなく低平坦面であり、上面に傾斜やピークがない。近年、類例が多く見つかっており祭祀の場と理解される。
>>687 ・楯築弥生墳丘墓は双方部の長さがともに長く対称形で、設計意図が櫛山古墳とは全く異なると見られる。
・楯築弥生墳丘墓を吉備津彦の墓とする根拠は何もない。
・楯築弥生墳丘墓と櫛山古墳の間には相当に長い時間的間隙が横たわる。ウィキは「100年ばかり後」とするが恐らくもっと長く、200年とみてもおかしくない。
691 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:48:19
楯築遺跡が吉備津彦というのは年代的にムリがあるだろう。櫛山古墳は690のいうように
前方後円墳に祭祀場として張り出しが加えられたものと見た方がよいようだ。ただ、鉄剣・
鉄斧などの副葬品から武人の墓と考えても不都合はない気がする。
692 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:53:50
あと俺は、西殿塚=崇神陵説だな。
崇神帝は古事記によれば、山邊道勾(まがり)之岡上に葬られたとある。また、かなり後代
になるが、延喜諸陵墓式に、手白髪皇女(継体天皇后)の衾田陵について、
>守戸なし、山邊道勾之岡上の陵戸をして兼守せしむ。 とあるように、崇神陵と近接して
存在していると考えられる。
衾田陵については東殿塚古墳説もあったが、近年、真の継体陵とされる今城塚古墳と同じ
新池埴輪窯で焼成された埴輪の出土が見られた、西山塚古墳に比定することがほぼ定説
となりつつある。
693 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:55:20
つまり、西山塚古墳に近い大型古墳として、西殿塚古墳=崇神陵であると俺的には考えてる。
手白髪皇女が継体帝の后となった理由については、よく言われるように、応神帝五世の
子孫といわれる継体帝に古くからの血筋を繋ぐためのものであったろう。そして、崇神帝
からの血をひく最後の女性である手白髪皇女は、大阪高槻にある継体陵の近くではなく
その一族発祥の地である崇神陵の近在に葬られたのではないか。
>>662 > 卑弥呼が実在の人物であるのは、まず疑いのないところ。
どうだろうねえ。
倭人伝はいろいろな地域の話が混ざっているとしか思えないし、
自国の影響力が広範囲に及んでいることを宣伝する目的があるから、
外交に関わるところでも信頼しすぎない方がいいと思う。
実際古代史では邪馬台国が関わってくると迷走することが多いしね。
>>693 > 応神帝五世の子孫といわれる継体帝に古くからの血筋を繋ぐためのものであったろう。
少し離れた有力豪族の娘貰っただけで、
「古くからの血筋」うんぬんは、
ヤマトを復興した継体朝の後付けかも知れない。
山城や河内に対抗するために。
少し万世一系の考えに犯されすぎではないか。
696 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 12:33:44
>>690 楯築だけを古くするのは無理だよ。
特殊器台(器台形土器を含まない)は祭祀のときの使い捨ての土器。
だから、30箇所から出土してもせいぜい5〜10年の期間にすぎない。
ヤマトでも特殊器台は数箇所だけで箸墓などは複数型式並存である。
つまり、特殊器台は複数の形式が並存してせいぜい10年の期間しかない。
そうなると、10年の期間内に楯築と箸墓は収まる。
とすると櫛山も同時期になる。
こんなのは簡単なことだよね。ふつうに考えれば誰でもわかる。
それにしても100年とか(笑)、いや200年とか(大笑)
弥生末期に環濠が解体して、前方後円墳が造られるまでに200年を要したのかな。
ということは、埴輪を用いている前方後円墳もせいぜい10年間ぐらいしか作られなかったということですね
>>695 あなたは逆に「非万世一系」の考えに犯されすぎではないか?
嫁にもらった「少し離れた有力豪族の娘」を崇神陵の近くに葬ることによって、
崇神帝以来の「万世一系を作り上げ」、その作為された威光をもって「周辺諸国を牽制する」ことが出来たとか、
(そしてそれらを継体帝が行ったとか)、本気で考えてるの?
699 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 13:46:32
>>696 古墳から次の2つの類型を提示しよう。
@ 割竹形木棺を使用する。碧玉製腕飾類は副葬されない。
A 長持形石棺を使用する。碧玉製腕飾類を副葬する。
今は埴輪によってさらに時期を細分するが、以前は@が前期前半の古墳の特徴(指標)であった。
Aは前期後半以降の特徴である。以上のことは古墳時代の考古学を学ぶ者には基本中の基本である。
箸墓と櫛山が同時期などと嘘ッぱちを平然と書いて恥じないのは、
考古学を何も勉強していないことの何よりの表われである。
700 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 14:01:09
696はスルーしたほうがいいね。楯築遺跡、箸中山、櫛山が10年以内の築造ということ
は考えられないし、特殊器台が使い捨てだからというのは根拠にはならない。
余談だが、奈良教育大学の脇田宗孝氏の指揮でメスリ山の大型特殊円筒埴輪が復元製
作されたが、現代工法でも2本のうちの1本は焼成時に割れてしまっている。
701 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:10:33
>>700 使い捨ての特殊器台が30個の古墳で使われていたとして、その期間は何年だろう?
全国で十数万もある古墳のうちの30個である。
短く見積もればせいぜい1、2年、長く見ても5〜10年というのは当たり前の考えだよね。
それを100年とか200年とか、もうアホかとww
702 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:20:58
>>699 築造から、埋葬までの流れを考えようよ。
築造時に割竹形木棺が使われていれば、築造とほぼ同時期に埋葬されれば、割竹形木棺でよい。
築造10年後はどうだろう?
築造20年後はどうだろう?その頃には長持形石棺でも問題ないよね。
築造30年後はどうかな?割竹形木棺が使われていたら逆に不自然だよね。
つまり、櫛山、楯築が同時期に築造された双方中円墳であるとして、
その10年後に箸墓が作られ、楯築の被葬者と近い時期に祭祀が行われる。
その10年後に長生きした櫛山の被葬者が埋葬され、祭祀が行われる。
これで全部説明できるよね。
>>702 >つまり、櫛山、楯築が同時期に築造された双方中円墳であるとして、
本当に同時期なのか? それをどう証明する?
碧玉製腕飾類の説明は?
704 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:43:40
>>702 >長生きした櫛山の被葬者
長生きしたという証明は?
705 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 16:11:29
スルーしろよ。マジレスなわけない。わざと一部分だけ変なことをいって反応を見て遊んでる
だけだろ。
706 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 16:12:10
オレは思っているとか、考えているってのは勝手だが
それなりに根拠を示してレスしろよ、でないとただの与太話だからな
707 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 16:18:00
<前方後円墳集成編年から>
1期
箸中山(箸墓)、西殿塚、中山大塚、端山(〜2)、藤崎1号
2期
桜井茶臼山、本林崎
3期
行燈山、渋谷向山、メスリ山、佐紀陵山(〜4)、三雲築山、一貴山銚子塚(〜4)
4期
櫛山、佐紀石塚山、巣山、津堂城山、網野銚子山、鋤崎、老司
5期
コナベ、室大墓、仲津山、石津ヶ丘、黒姫山(〜6)、造山
6期
ウワナベ、掖上鑵子塚、誉田山、作山
7期
大山、土師ニサンザイ、太田茶臼山
8期
狐井城山、岡ミサンザイ、石人山
9期
鳥屋見三才、市尾墓山、野中ボケ山、白髪山、河内大塚山(〜10)
10期
平田梅山、見瀬丸山、岩戸山
709 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 17:07:00
>>707 質問になっていないだろJK
〜としては「前提」だよ。
「〜の前提で、〜が説明できる。」
そういうこと。
<吉備総合編年・上東編年と畿内編年・集成編年の併行関係>
[−d期 鬼川内V 畿内X 楯築墳丘墓
\−a期 才ノ町T …………………………………………………
\−b期 才ノ町U 庄内
\−c期 〃 〃
]期(前) 下田所
……………………………………………………………………………
]期(後) 亀川上層 箸中山古墳 集成編年1期
………………………………………
〃 2期
布留 ………………………………………
〃 3期
………………………………………
櫛山古墳 〃 4期
………………………………………
>>708 基本は特殊器台〜埴輪の変遷だね。
でもこれは、「埋葬祭祀がいつおこなわれたのか。」からしか見ていない。
「古墳の築造がいつであるか。」は別の問題。
>>710 こっちは特殊器台を無視しているね。
どうして各特殊器台と土器の対応関係を見ないのだろうか?
なんてのはヤボな話かな。
712 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:08:41
おーい、こいつ(711)を規制してくれ。
713 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:37:36
では「無人都市マキムク」について語ろうか。
714 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:55:10
畿内厨の低脳さには呆れる・・・・・
>>711 前方後円墳集成編年は
埴輪の変遷だけではなく
副葬品や埋葬施設の変遷などを組み合わせたもの
あんたの論法で古墳の築造がいつであるか
証明してくれ
吉備と畿内の併行関係の方は
見る人が見れば分かるようになってるから。
分からない人間が特殊器台を語ってる時点で
電波決定
716 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 00:28:15
>>715 特殊器台の変遷を型ごとの完全なタテ配列にしても、特殊器台の長期編年は
成り立たないよね。
そこで、器台形土器とごっちゃにしてごまかすというやり方とか、
土器編年だけの編年にさりげなく付け加えてごまかすというやり方とか、
いろいろ苦心しているなあ、と同情はしますよ。
庄内が出土しない地域は100年くらい土器なしで生活したのかなあ、とか
素朴な疑問もあるけど。
何言ってんだ?
頭沸いてるのか?
楯築=立坂型の古い段階=鬼川内V=畿内X
箸墓=都月型の古い段階=亀川上層=布留0
相互の共伴関係が確定しているわけだが
718 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 01:12:52
>>717 じゃあ、庄内の100年間は、特殊器台を博物館にでも入れて伝世させたのかな。
それとも、その期間は土器は使わなかったのかな。
>>710では庄内に対応する特殊器台が抜け落ちているが、その空白はどうなる。
もともと出土状況では庄内の大半は、それ以前の土器と布留との並行であって、
庄内だけで独立して長期間を与えるなんて不可能。
このことは庄内を出土しない地域では、明白になる。
それが分かっていれば、
>>710をみても楯築と箸墓が10年と離れていないと
いう考えが揺るがないことは自明である。
立坂型→(中山型)→向木見型→(矢藤治山型)→宮山型
特殊器台のこと全然知らないんだねw
吉備の日常土器は10年かそこらの間に5段階もの変遷を遂げたのか?
一小様式=2年?
やべぇ、腹がよじれすぎてちぎれそうwww
>>719 それを完全に区分してタテに並べられないってことを書いたのだが。
同一地域での土器変遷と特殊器台の変遷が対になっていればまだしも、
現状では近藤さんのあの話にはついていけないよ。
近藤さん自身もちょっとぼかしているよね。
721 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 01:34:37
近藤さんは考え方の方向性を示唆して、それを他の人が先鋭化するという
やり方は、バチ形古墳の話でもあったね。
近藤さん自身は、年代論には一切言及しないし、自制心をもって考えの
方向性だけを示唆しているとも言えますが。
日常的に作られる土器の型式変化と
ごく少数の選ばれた人物の葬送に際して特別に作られる特殊器台の型式変化が
対になっていなければならないという必然性はない
で、一小様式=2年の説明はどうつけるんだ?
普通の研究者は日常土器の変化の方を基準にして考えるがね
>>721 いや、自制心を持ってとか、そんなことはないと思う
自制心を持って行動できるんなら
箸墓被葬者吉備東遷説なんて主張はしないだろうし
弟子や大学の元部下との確執なんかも生じなかったと思うけどね
724 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 04:31:17
なかなか難しいね。
土器の編年というのは、未来の人が今の時代の車の変化を語るようなものか。
これが先に出来て、これがその後だというような。
ハイブリッドや電気自動車あるいは燃料電池車が入ってくると複雑になる。
併行関係というのは、アメリカの自動車と中国の自動車の年代をつき合わせる
ようなものだろうな。
古代は現代のように、技術交流が活発ではなかったろうから難しいだろうな。
725 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 06:29:42
話をオオヒコに戻せよ
古代史の連中はスレタイ無視して
あたり構わずスレ違い議論ばかりおっぱじめる
悪いクセだ
726 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 11:04:39
大彦は実在したってことで決着がついてるからね
大彦と孝元天皇が関係ないなんて
難癖もいいところ
>>725 でも若干同情する。数ある進路先の中から、江戸時代で研究が出尽くした
古代日本史専攻なんて選んだド変態連中は就職先なさそうだしな。
もしどらえもんみっけたら、古代日本史の奴らにレンタルしてやるよw
発掘考古学の史学への反映なんて6世紀以降だろ。
例外が>1の稲荷山鉄剣なのだが。
729 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 11:24:21
>>726 >大彦と孝元天皇が関係ないなんて
>難癖もいいところ
記紀より200年以上も古い新発見の稲荷山鉄剣銘文に
大彦と孝元天皇の関係が全く書いてなかったのだから
研究者のみならず誰でも疑いを持って当然。
難癖ではない。
730 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 11:44:28
書いてないから関係ないってのが難癖だろ
731 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 12:20:56
書いてあっても、それが書物だと「捏造」と言われるしね。
葛城君が居るからこのスレの勢力図が分かりにくい
733 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 13:23:34
稲荷山鉄剣のオオヒコの時点では、孝元に繋がる系譜がまだ出来てなかったのだろう。
欠史八代が証明されたとか何言ってんだか
734 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 13:29:43
鉄剣が発見されなかったらオオヒコだっていないことにされていた
欠史の系譜は後の創作だという根拠自体が崩れたのだ
しかもオオヒコは記紀の時代より数百年も前の有名人らしい
そのような人物を編者の好き勝手な系譜に組み込むことが出来るだろうか?
そりゃあ、ないね
735 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 13:38:49
いやさ、オオヒコなんて名前、普通名称みたいなものでありふれてると思うのだが。太郎みたいなもので
736 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 13:48:50
>オオヒコなんて名前、普通名称みたいなものでありふれてると思うのだが
はいはい、まずこれの根拠を示してな
例えば記紀にどれだけオオヒコの名の人物がいるかを示すとか、きちんと説明せえ
737 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:52:25
議論がループしているので、大彦の子孫について。
>>4にあるとおり、「テヨカリワケ=豊韓別(トヨカラワケ)」で同一人物であろう。
しかし、「カリ」が「カラ」のなまったものであるとは、一概にいえない。
>>212に出てくる六雁はイワカムツカリ
>>289で「カリ」であることが確定している。
つまり、テヨカリワケが元の名前で伝承の中で「豊韓別」となった可能性も十分にある。
少なくとも最古の資料ではテヨカリワケである。
738 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:53:57
>>734 >鉄剣が発見されなかったらオオヒコだっていないことにされていた
いかに稲荷山鉄剣が重要で貴重な古代資料か、ということだな。
だが、その鉄剣ではオオヒコと孝元は繋がらないわけだ。
これもまた重大な事実。
740 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 17:37:05
>>739 >だが、その鉄剣ではオオヒコと孝元は繋がらないわけだ。
>これもまた重大な事実。
なんで?
まあ崇神実在を補強できれば、それはそれで大きな成果だと思う。
欠史八代の証明は欲張りすぎ。
関係ないが豊城入彦命・武渟川別命・大彦と、この時期が東国のエポックだったのだなと。
尾張・美濃・伊勢はそれよりずーっと前だから、畿内勢力の成立はかなり古い。
紀元前とか(笑)
鉄剣のオオヒコでは未だ大王系譜に繋がっていない。
まずこれを認めないと話にならんな。
743 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:21:39
文献史学にかかればイエスも非実在
イエスの実在を伝える客観的史料が存在しないから
744 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:39:53
>>742 その考えの基本にあるのは捏造史観なんだよね。
全ての出発点に捏造がある。
その異様さを自分では気付かないようだけど、かなりの腐臭を撒き散らしている。
745 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:43:59
捏造てか、記紀に書いてあることをそのまま鵜呑みにする態度が学問的でないと言ってるだけ。
考古学的に欠史が証明出来たらいいね。今のところ否定的意見ばかりだけど
746 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:58:19
ってか、記紀の記述を捏造と称してわけのわからん珍説をひねり出す方がよほど学問的じゃないと思うぞw
747 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:03:02
洗脳されている人間は、自分が洗脳されていることを認めたがらない。
これを「自分のことだ。」と思った人は洗脳されていない。
>>746 >記紀の記述を捏造と称してわけのわからん珍説をひねり出す方が
まあ、売名行為なんだろうねえ・・・ 長野県を振り出しに道府県渡り鳥の某高校教師とかw
749 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:10:56
>>746 珍説てか、俺とか考古学に軸足置いてる人間は珍説は言ってないと思うが。
750 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:12:39
>>139でも書いたけど、捏造の人って全体観がなさ過ぎるんだよね。
大彦まで実在として孝元を認めないとなれば、大彦は誰の子だろう?
大彦の派遣自体も捏造になるのか?
大彦を派遣した崇神も捏造か?
というように、「捏造の連鎖」をさじ加減して調整しなけりゃ収拾がつかなくなる。
しかし、古事記も日本書紀も別のグループが編集しているのに、奇跡的にそのさじ加減が
一致してしまった・・・・・なんてことはあり得ないよね。
751 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:18:33
オオヒコなんて名前は、偉大な英雄程度の普通名詞だろ。始祖王は大体神の子というのが相場。
それが後に固有名詞になり実在の人物とされ大王系譜に取り込まれた。
世界史とかでも当たり前に起こってる話。
勉強が足らんぞ
>>750 ただ、大彦命と崇神までは伝承かき集めて遡れたが、上は無理だったのかもしれんよ。
久しぶりに日本史板に来て数週間経つが、崇神断層の大きさに気づかされた。
それ以外の断層は無視できるレベルで、後世でも類似例が見られるパターン。
753 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:24:24
実際大彦後裔自称の阿倍臣にしても、実際に中央豪族として活躍しだすのは7世紀以降だからな。
新興の阿倍氏としては大王系譜に繋がる来歴が欲しかったのだろう
>>751 捏造史観の人は、考古学上の成果が出てきてあっさり捏造を覆されても、
そうやって屋上屋を重ねて捏造するわけだw
>>750 というか、系譜に対する意識みたいなもんが出てきたことが
考古学的に確かめられるのが稲荷山鉄剣銘なわけでしょ。
それがようやく5世紀後半。それ以前は歴史とか系譜なんて
認識すらあったかどうかわからない状況だよ。
758 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:34:54
記紀にオオヒコって何人登場するの?
ジンギスカンも系譜は謎でしょ。
戦闘力と由緒正しさは関係ない。
760 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:42:12
>>755 そう。運良く考古学的に証明されたのが5世紀後半なわけだ。
その鉄剣銘には先祖の名前がずら〜りとのっていた。
といえばわかるな?
ようするに5世紀後半よりずっと前から先祖の系譜というものが認識されてたんだよ。
2世紀中期ザ・デイ・アフターで、帯方郡から魏の役人がやってきて
すべてが始まったのではなかろうか 木片に正の字を書いて数を数えましょうとか
女が威張ってちゃ駄目とか 王様が一番偉いとか
>>760 >ようするに5世紀後半よりずっと前から先祖の系譜というものが認識されてたんだよ
どうしてそういう結論になるのか分からないよ。
>>763 オワケの時代に、すでに上祖オホヒコよりオワケまで
8代の系譜が認識されていたことが明らかだから。
オワケ以前より系譜が意識され、記憶されていたんだよ。
766 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:11:03
稲荷山鉄剣の系譜創作説ってないの?
7代父子相続ってありえないだろ
倭の五王も兄弟相続と父子相続が半々ぐらい
応神〜雄略にも兄弟相続が普通にある
欠史八代同様、父子相続で連続している稲荷山鉄剣の系譜は怪しい
稲荷山鉄剣の系譜
上祖、名はオホヒコ。
其の児、(名は)タカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。
其の児、名はタサキワケ。
其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。
其の児、名はヲワケの臣。
767 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:19:37
はぁ?父子「相続」って馬鹿なの?
家督相続を書いた家系図なの?
768 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/27(土) 22:21:00
日本に漢字の入ってきたのは、魏の時代=景行時代
「日本武尊」の文字はその当時の謂われのある文字「日本」=大倭=大和
大倭国統一の最終章で活躍した為、「日本武尊」と云う漢字を使って表記された。
結して”後付け”では無い。
日本と呼ばれる元
▼『唐会要』/(倭国は)古倭奴国也。
これは、筑紫倭王が金印を貰った頃の話だ。
「倭」が「やまと」と発音されるのは、魏国が大きな誤りを犯した為。
景初2年? 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、
筑紫倭王は、国内の混乱を鎮められず、女王卑弥呼を共立する。
卑弥呼には、軍事的実力が無いため、九州30王の頂点に立てた。
楽浪郡より、魏国への朝貢を促す使者が、卑弥呼の元へ来る。
その時 任那を治める大和王の同行も求める。
大和大王「伊支馬=イクメ=垂仁」は「都市牛利=田道間守(任那王の末裔)」を選任。
田道間守の帰朝した翌年には垂仁は崩御していた。
正始元年 倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人
景行は代替わりの報告に「伊聲耆、掖邪狗=伊勢のベテラン、磐鹿(六雁)」を送り込む。
魏王は、この時 大和大王景行を「倭王」と呼んでしまった。
この誤りに対し大和政権は、筑紫倭王との違いを表さなければならない、その時の表現が
ホ23044 ヤマトクニ マトのオシエは のぼるヒの モトなるゆえに
ヒノモトや しかれとヤマト なすてそよ
大和倭国は日の本と表現。
魏王が景行を「倭王」と表現した裏には、魏王より景行に対し、大倭国統一の要請が
有ったのではないか?
景行は大倭国統一を受諾する、魏王は景行を倭王と表現する。
ヤマトタケルの尊=倭建=日本武尊
この時点でヤマトタケルが日本武尊と表現されるイワレは有る。
769 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:21:30
>>766 よくわからんけど、オオヒコの嫡流の系譜じゃなくって
オワケのご先祖を一族の祖、オオヒコまで遡っただけなんじゃない?
つまり徳川吉宗なら
上祖家康
その子頼宣
その子光貞
その子吉宗
みたいな。
770 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:58:23
>>752 伝承を基本に考える立場の俺でも、たしかにこの部分はやっぱり引っかかるね。
神話〜神武東征までの流れは登場人物が緊密に練り上げられていて連続性が強い。
しかし、神武以降〜崇神まではストーリーが抜け落ちて、系譜のみになっている。
7〜9代目は子孫との複雑な系譜があるが、2〜6代はあいまい。
2〜6代の天皇になれなかった候補者の事跡が系譜が全く残っていないのも不自然である。
そこで神武=崇神という説も魅力的ではある。
まあそうだろうな
応神〜継体同様
欠史八代
大彦〜ヲワケ
天之忍穂耳〜神武
これらは父の父の父・・・を記したもので当主や大王の系譜ではない
『上宮記』逸文
伊久牟尼利比古大王(垂仁)
生児伊波都久和希
児伊波智和希
児伊波己里和気
児麻和加介
児阿加波智君
児乎波智君 娶余奴臣祖 名阿那爾比彌
生児都奴牟斯君 妹布利比弥命(振媛)也
773 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/27(土) 22:59:45
>>768 垂仁≠伊支馬
将棋で言えば、相変わらず幼稚な手を指してるねぇ。ww
こんなこと言ってるんじゃ、みなに笑われるよ。bbbbbb bbbbb
774 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/27(土) 23:06:05
>>768 そのうち卑弥呼は卑弥弓呼だと言い出すのかねぇ??wwwww
嘲笑のマトが当選確実だな。bbbbb!
そういや「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」に相当するような記紀の記述ってあるの?
そこんとこどうなの太国?
776 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:28:12
太国は反論されるとブチギレるキ○ガイだから
無視するのが吉
たしかに孝元天皇と大彦が100%繋がっていたとは証明できていない
しかし繋がっていないとも言い切れないだろ?
現状では鉄剣と文献とで矛盾はないのだから
繋がってる可能性の方が高いと考えるべきじゃないのか
大彦が大和朝廷とは関係ない関東の英雄とか
単なる普通名詞とするのは現代人の考えた妄想で何の裏づけもない
でもなぜか妄想の方を優先する人がいるんだよね
778 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 01:32:28
そもそも
「この実在性が高まったんだから系譜上の親の実在性も認めろ!」
なんて理屈を言い出したら、それこそ神武まで、いや或いはアマテラスまで遡るw
まあ元々纏向スレでこのネタに執着してい奴の目的はそこにあるのかもしれんがw
事実
>>357じゃあオオヒコの祖父と言うから
孝元より前、孝霊までは実在と言いたげだwww
>>778 そりゃ祖父がいなけりゃ父は生まれんだろ。
コウノトリに運んでもらうわけにもいくまい。
まあ問題は大彦の祖父が王位にいたのかどうかだけど。
大彦が北陸、東国に派遣された将軍であったとすれば、その親は当然天皇だろう。
遠征軍の大将は王に最も近い親族が適任である。
となると、天皇である親の、親(祖父)もまた天皇である可能性がもっとも高い。
780 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 01:54:27
>>779 無論、生物学上の親やその上の世代は当然いたって話だがw
孝元や孝霊が天皇・・・と言うより大王位だな・・・にあったするなら
記紀に出ている或いは過去現在指定された宮や墓所はどうもそれに相応しくない
と言うか全く外れているっぽいと言うのが最大の問題。
王の親は王と言うのなら始祖王の神武まで遡るのはやはり同じ理屈だなwww
「疑わしきは罰せず」の法廷じゃないんだから
個別、単品で見て実在性の根拠の薄いものは疑って当然。
子の実在性云々で言い出したらこの世の全ての系図には嘘はなくなるよwwwww
781 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 02:04:03
ま、オオヒコ→孝元 の部分に見解の相違があることはずっと上のレスからループしてる。
それは記紀の記述に対する信頼度の相違ともいえるわけだから、いつまでたっても溝は
埋まらないだろうね。
780は、纏向スレに書いた俺の説はどう思う?(南九州東遷デブハゲ爺)
782 :
780:2009/06/28(日) 03:43:49
単に実在が不確かであると主張するのと珍説を唱えて否定するのとでは全然違うな。
784 :
781:2009/06/28(日) 06:51:57
882,888.889
785 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 07:51:31
>>777 とても同意です。
非実在説の方たちの主張って、否定というより「無視したい」と懇願…というより実はもう哀願しているレベル。
妄想で自分を納得させているんでしょうね。
786 :
780:2009/06/28(日) 07:59:32
>>784 別に大した意見は無いが・・・思い出したのは庄内甕なんかも
どうも近畿系の物が北部九州の各地に伝播したというより
福岡平野でワンクッション置かれてアレンジされ
そこから九州の各地に流れて言った形跡があるらしい
( 参考『邪馬台国時代のツクシとヤマト』 )
どうも九州において九州以東の文物の流入の窓口は福岡平野っぽいw
で、やがて那珂八幡とかの古墳が造られる事になるとwww
チト、スレチガイになるが話の出たついでに言うと
そもそも九州と言っても福岡平野と筑紫とじゃあ事情が全く違う。
この板の九州説の連中は頭に血が上って、古代の九州も畿内ヤマトに対抗すべく
一枚岩でガッチリ、スクラム組んでいるとでも妄想しているようだがwww
元々福岡平野で作られた矛が瀬戸内や山陰でも出ていて
福岡平野の勢力にしたら東の本州・四国は、ええお客さんだったのではないかとw
787 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/28(日) 12:25:16
>>775 そんな記事は記紀に無いだろうが。畿内で鬼道を卑弥呼がやってたと
一言あれば、もう論争なんかおきちゃぁいないよ。
それが無いということは、畿内に卑弥呼の女王国なんぞ無く、百襲媛
が卑弥呼でないことは軽くわかる。ただし双方ほぼ同時代の女性だ。
どうやら百襲媛のほうが7年ばかり卑弥呼より先に死んでいる。こう
いうことで、卑弥呼は畿内ではなく九州の女王だ。
788 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 12:39:16
神武と欠史八代を実在とする見方にも二通りあって
@ 記紀は神武〜開化を全て父子継承とするが、その通りである。
A 神武〜開化の9代の天皇は実在だが、これを全て父子継承とするのは後世の作為によるものである。
それぞれ意見を述べてほしい。
B 綏靖〜開化の8代は崇神の直系尊属として実在し(若しくは伝承され)ていたが、
これを全て天皇(大王)とするのは後世の作為によるものである。
何を以て天皇というのかよく分からんけど、
8代は崇神の(おそらく)血縁のかつての王たちだろ。
大王・治天下大王と称せるほど有力だったかどうかは疑問だが。
存在自体は記憶されていたが、系譜は曖昧で、
漠然と直系であるかのように理解されてたのではあるまいか。
記紀編纂時には、稲荷山の鉄剣銘文のように、
「Aその児B、その児C、その児D・・・・・・その児イリヒコ(崇神)」
と崇神にいたる系図を書いた書物があったはずである。
しかし、一方で神武を基点とする伝承も残っていた。
「イワレヒコ、その児B、その児C・・・」
王統が変わったなどという伝承は存在しないから、記紀編纂者は両者が
接合するはずと考えて、4、5代目あたりで両者をつなげた。
実際は歴史に名を残さなかった神武の8人目の子供の4代目の子孫が
崇神になったのかもしれない。
795 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/28(日) 16:44:20
>>788 > @ 記紀は神武〜開化を全て父子継承とするが、その通りである。
これが間違い。
考昭は、懿徳の義理の弟
安寧崩御の時、考昭は妃の腹の中、安寧崩御により妃は懿徳の妃となる(腹ぼての妃を懿徳の妃とする)
安寧初年{腹ぼての妃}は考昭を産む=一応懿徳の子供として登録
安寧治世3年で崩御、この時考昭数えの3才、1年の喪の期間を経て考昭5才で即位。
『白河本旧事紀』の「天皇本紀」より 考昭の一部
天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。
然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)の然(しか)らしむる所ろなり。
考昭は幼くして即位と読める。
これと同様に垂仁の初子ホムツワケは、崇神の子供である、為に出雲の祟りが
降りかかる。
796 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:04:36
孝元天皇の都は軽境原宮、伝承地は橿原市見瀬町の牟佐坐神社。主祭神は江戸期には菅原道
真公を祀る天神社として確認されているが、「日本書紀」天武天皇元年(672)によれば、壬申の乱で
金綱井(現橿原市内)で戦った時、高市県主許梅に牟佐社の生魂神がかかって勝利に導いたので、
これを厚く祀ったとされる。
またこのときの許梅の神がかりには、「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に馬と種々の兵器を奉れ」
との有名な言葉も含まれる。まあ、これらの記述の解釈は難しいが、許梅という人物の口を通して、
天武側は、古い皇統との繋がりをことさらに強調しているとはいえるのではないか。
797 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/28(日) 17:10:52
>>788 @が正解だ。履中に至るまで兄弟継承はない。あとはデタラメだ。
798 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:40:39
続き
孝元天皇の御陵は剣池嶋上陵。4〜5世紀と推定される中山塚1〜3号墳(円墳2基、前方
後円墳1基)と自然丘をまとめて前方後円形に似せられているが、これは文久の大修陵時
の造作か?「日本書紀」には、応神天皇11年 軽池等と共に剣池を造った、という記述があり
御陵名は後代に付けられたもののようだ。
また、皇極天皇3年(644)の6月、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍しい蓮が見つ
かるとあり、当時繁栄の絶頂期にあった蘇我蝦夷は、「これは、蘇我臣が栄えるという目出度
い前兆だ」と考え、金泥で蓮の花を描かせ、大法興寺に献上したとの記述がある。この翌年が
大化の改新であり、馬子が編纂に携わったとされる「天皇記」は焼失した。
ちなみに蘇我氏は、孝元天皇の曾孫(孫)武内宿禰を祖としている。武内宿禰は300歳前後の
寿命と推定され、他にも紀・巨勢・平群・葛城など有力豪族の祖とされる。
799 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 17:52:15
796,798レスから、7世紀において、2方向からの流れが孝元帝との繋がりを志向していた
といえるのではないか。蘇我氏と天武帝である。また、余談ではあるが、五代の天皇に仕えた
とされる武内宿禰の異様な長寿は、多くの氏族の祖とされるために必要だったとする説もある。
800 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/28(日) 18:08:58
@の思考では、
天押男の孫娘世襲足媛が考昭の妃になるのか?
801 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/28(日) 19:58:36
そんなことよりどこに3代4代が皇位のヨコ流しだとあるのか?
ホツマか?
ホツマになけりゃぁ例のあんたの気ままな妄想さ。ww
802 :
南九州東遷デブハゲ前期高齢者:2009/06/28(日) 20:07:42
あーあ、せっかく苦手な記紀を基に頑張って書いたのに、太国ー唐松山論争に挟まれるん
じゃどうしようもないな。孝元帝実在派の人は、年代的にどう考えているのかな?
803 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/28(日) 20:29:59
孝元世は倭国大乱の直後の天皇だよ。天皇は188年即位し206年崩御
だ。大乱は178〜183年で先帝孝靈の代に起こった。その戦火の火の粉
が畿内にかかりそうなので、孝靈天皇は山陰行幸を果たした。だから
九州の大乱のほとばしりが山陰まで及んでいたんだろう?
以上、天皇の代は倍暦計算による。
804 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:07:50
孝元天皇の年齢は、書紀では(前273年)- (前158年)で116歳、古事記に(前214年) -
(紀元前158年)で57歳となってる。これは干支による一般的な解釈であるが、年齢はとも
かく、記紀尊重派はこの年代観をどう見るのだろうか。上レスでも出てきたが結局あいまい
に終わってしまった。このまま、前2〜3世紀の人と見るのが素直な解釈なのか?それとも
太国、唐松山の大家ww 2人のように独自の年代観が必要となるのだろうか。
稲荷山鉄剣銘にある辛亥年を471年とみて、ヲワケの臣から七代遡っても、もちろん紀元前
となることはない。この説明はぜひほしいところだろう。
>>799 良く言われることだが、
ヤマトネコを号に持つのは、
7代孝霊、8代孝元、9代開化
22代清寧
41代持統、42代文武、43代元明、44代元正
806 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:33:04
>>805 まあそうなんだが、それを言うと怒り出す人がこのスレにはけっこういるんだな。
54代仁明も日本根子天璽豊聡慧尊
この代を持って和風の諡号はおしまい
808 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:31:10
>>789 のBが現実性が高いとおもうけど
稲荷山鉄剣の銘文系譜のような口伝が残っていて
天皇記か帝紀が書かれたのではないかと考えられるから
大和朝廷が全国政権化する以前の皇室の出身部族の始祖まで
遡って天皇とされたんだろうね
809 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:31:41
>>789 のBが現実性が高いとおもうけど
稲荷山鉄剣の銘文系譜のような口伝が残っていて
天皇記か帝紀が書かれたのではないかと考えられるから
大和朝廷が全国政権化する以前の皇室の出身部族の始祖まで
遡って天皇とされたんだろうね
ただ、弥生時代末期から、古墳時代初期にかけてのオオヤマトには
後に言う天皇クラスの大王がいたのは、古墳を見ても明らかだと思う。
すなわち系図が正しいことにならないと言うだけ。
>>805 オオヤマト南部の繋がりを強く意識していると思う。
「根子」はどういう意味があるのだろう。
「日子」との関係は?
811 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 23:56:45
話題を一つ、橿原市北部に葛本弁天塚という古墳があったが、開発により失われている。
全長60m前後の帆立貝式の前方後円墳であったようだが、過去2回の発掘調査があり、
上で話題になった特殊器台(宮山型)と特殊壷の破片が多く出土したとされる。資料がなく、
俺にもよくはわからないのだが、おそらく出現期の古墳であり、吉備の影響がうかがわれる
ものだろう。詳しい人がいたら教えてほしい。消滅は残念であり、被葬者の興味は尽きない。
根の国の「根」ですから、日子とは対極の尊称でしょうね。
冥界の子、くらいの意味では?
813 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:01:18
ヤマトネコを号に持つのは、
7代孝霊、8代孝元、9代開化
22代清寧
41代持統、42代文武、43代元明、44代元正
54代仁明
これから解ることは・・・
7代孝霊、8代孝元、9代開化
22代清寧
41代持統、42代文武、43代元明、44代元正
これらの8人は、
7世紀の54代仁明を元に創作された架空の天皇である
814 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:09:07
7世紀の54代仁明(笑)
815 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:14:39
いくらなんでも持統、文武以下まで架空というのは、ありえないだろう。
仁明、文武は橘氏繋がりだな。
葛城王が臣籍降下して橘諸兄。
母の犬養三千代が文武の乳母。
仁明の母が橘嘉智子。
嘉智子の祖母が橘奈良麻呂。
こういう地名+ヒコ、ネコ、ワケ、マロ
って個人名はどういう時につけるのだろう。
817 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/29(月) 10:44:14
818 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/29(月) 18:21:43
諱を調べました。
ホ04185 マコトナを ヰミナとたゝゑ アネにミツ われはヨツなり
… タマキネいわく ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず
カンヤヰミミノミコをうむ イミナイホヒト=後のミシリツヒコ
綏靖、神沼河耳、神淳名川耳 カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
安寧、師木津日子玉手見、磯城津彦玉手看 イミナシギヒト タマデミコ
懿徳、大倭日子{金且}友、大日本彦耜友 ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコスキトモ
ソフヲシエ カエシネミコをヨツギなる コトシソヤなり 懿徳12年 カエシネを太子とす、18歳
孝昭、御真津日子訶恵志泥、観松彦香植稲 ウチのうむミコ カヱシネの イミナミルヒト
孝安、大倭帯日子押人、日本足彦国押人 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽 ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
開化、若倭根子日子大毘毘、稚日本根子彦大日日 イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
崇神、御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植 ウチのうむミコミマキ イリヒコの イムナヰソニヱ
垂仁の兄 ミマキヒメ シギにうむミコ トヨキヒコ イムナシギヒト
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ その前に生まれたホンヅ(譽津別)の皇子は?
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ 諱ウヂヒトは ヨツギミコなり
☆ イミナを四つに分けるのは、自分でして下さい。
ヤマトネコ→(イリオモテ)ヤマネコ
820 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:31:38
なんだ、天皇もネコフェチだったのかorz
821 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 20:33:36
しかし、こんだけ長文レスでも意図不明なのが、カラマッチョの凄いところだよな。
822 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:00:56
考古学を無視して、記紀だけで行けばこんな電波になる典型。
スレの軌道修正が必要だよと。
つまりは考古学的に欠史八代はどこまで証明できるのか?
823 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:30:53
考古学的にも文献史学的にもイエス、欠史八代は証明できない
だが架空とも証明できない
824 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:03:53
証明出来なければ架空とするのが学問的態度だよ
考古学的に証明され得るのは崇神以降、三輪山山麓に宮を置いたとされる大王から
825 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:15:59
海部氏勘注系図の14世孫、竹野姫命の横に「大比毘命妃」と書いてあります。
「大比毘命妃」は「オオヒコノミコトキサキ」と読めないでしょうか?
まあ文献史学とか考古学とか言う前に「欠史八代」の定義づけだな問題はw
単に祟神に繋がる系譜と言うのなら、そりゃ祟神の御先祖さんが奈良盆地の
何処かにいたと言う想定には何ら無理はないが
あくまで「天皇=大王」としての系譜と言うことであれば
ヤマト王権は三輪纏向よりスタートしたであろうと言う事が
常識と成りつつなる今日では
「欠史八代はやっぱり欠史でしたw」
…と言うのが大方の見方にならざるを得ないだろうwwwwwwwww
827 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:30:51
まあループしないようなネタをふっておくと…
他でもないこの板の邪馬台国九州説の重鎮、犬国大先生の持ちネタ
>>495 この日付の件に関して欠史八代をそれこそ机上の産物とする人間にすれば
「ほらミロこの不自然さ、欠史八代はやはり机上の産物w」
…となるだろうなw
実在派はどう説明するのかな?
倍暦と言う泥舟に乗り込む?wwwwwww
まあ
「日付関係だけは後付けでした」
ぐらいの話が一番可能性が高いのかな?
崇神がハツクニシラスを名乗っていることからも、崇神=ミマキイリヒコイニヱを
始祖王とするのに議論は待たないだろう。
四囲に将軍を派遣したり初めて租税を取ったり、初めて船を作ったりなど
眉唾ではあるが始祖に相応しい業績を残している。だからこそのハツクニシラスなんであって。
では欠史八代や神武の系譜が崇神の上に加上されたのは何故なのか?
ということ。
欠史八代の議論はもうこのあたりから始めていいように思う。
根拠薄弱の記紀解釈はもういいからw
どんと来いの美濃もん太は太国さんなんかとは比べ物にならねえぜ
太国はまだまだ修行が足りない
>>825 「大日日命(大毘毘命)妃」で開化天皇妃の丹波竹野媛のことだろ、jk
831 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:16:53
>>828 崇神=初代とすると、神武のような征服伝説をもたないという問題がある。
そこで神武=崇神とすると、神武の系譜と崇神の系譜に類似点を見出せないという問題がある。
従って、神武が東征して奈良盆地に拠点を置くまでのストーリーは、崇神のストーリーとは
完全に独立したものとせざるを得ない。
よって、 神武≠崇神 つまり崇神は王権を継承したのであり、自ら作り出したのではない
これを否定して、崇神を始祖王にするのであれば、それは記紀に記された崇神とは
ことなる崇神ということになる。それはもはや崇神ではない。
832 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 01:25:41
>>831のつづき
そこで、崇神は王位を継承したという前提で考えると・・・
崇神は、地方に配置された統治官の増長を押さえ込むために、四道将軍を派遣した。
地方の統治官が言うことを聞かなくなってきた(それはその後の時代でもたびたび起きる)
ことから、引き締めのために将軍を各地に派遣して、王権への忠誠を誓わせた。
地方の統治官はそれまでは、物部や大伴などの豪族であったのが、のちに王族を配置する
地ならしとして軍を派遣したと考えられる。
この業績が「ハツクニシラス」とされたのであろう。
いやだからそういう解釈は無意味だろうと
834 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 05:46:33
>>831じゃないけど
無意味ではないよ
>>831のいうように
>崇神=初代とすると、神武のような征服伝説をもたないという問題がある。
わけで崇神の上にわざわざ九代をもうける理由や
欠史八代から別れた氏族が存在する理由が説明つかないんじゃない?
崇神が最初の大王としても始祖としての伝説を持っていない以上
プレヤマト王権の中心を形成した部族の始祖はそれ以前に存在していて
崇神にいたる系譜をもっていたと考えるのが自然
もしくは王朝の初代である神武の正当性を説明する為。
ただの征服者じゃなくて神の子である神武に連なる王様なんですよと。
837 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:08:10
崇神の頃の倭国は母系社会で、おそらく女の大王がたびたび立てられていたと思われる。
そのあたりのことがまったく伝わっていないことも、記紀の欠史八代系譜を疑わしく思うところなのだが。
ましてや当時の衛生状態、医療技術で父子相続が連綿と続いたなんてないない
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/30(火) 14:14:13
それなら兄弟継承だったとしてもないないだ。〜ついでに皇統は
途切れて現代まで至っていないということになるが、現に今上が
ましますんだから、あるあるだよ。
839 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:25:07
>>824 イエス架空説をまじめに唱えている学者はほとんどいない
840 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:31:01
大王位の父子相続が如何に非現実的かについて。
当時の大王は実際に軍事的指導者であらねばならず、幼少の者には勤まらなかったであろうこと。
官僚体制が整備されていくのは5世紀以降か?
そもそも父子相続に拘ったのは天武持統朝以降で、
その天武持統にしても、何度も中継ぎの女王を立てないことにはそれが達っせられなかった。
ていうか途中断絶。
そういう古代の平均寿命を考えて、父子相続は現実的ではない。
むしろ、持統が父子相続を望み兄弟相続を排そうという意志を汲み取り、
記紀編纂者は太古父子相続が行われていたという形を創ったのかもしれない
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/30(火) 14:35:28
創りゃぁ舎人親王らは公文書偽造罪で死罪かよくて島流し、蟄居等
は免れはしないぜ。あんたの記紀の内容を逸脱した妄想なんだよ。
842 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:37:00
>>837 前提となる
>崇神の頃の倭国は母系社会で、おそらく女の大王がたびたび立てられていたと思われる。
これからして全くの思い込みw
以下読む価値なしw
843 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/30(火) 14:40:47
九州王朝では少し女が多い傾向のようだ
844 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 14:40:51
あえて書くけど、倭人伝に書いてるじゃん。
初期前方後円墳を掘れば、半数以上女性が被葬者じゃないかと思う
なんで倭人伝の記事は無条件で信用しちゃうかな。
記紀以上に眉唾だと思うけどね。支那人結構いいかげんだよ。
倭国伝と日本伝の二本立てにするぐらい適当で無関心。
846 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 15:19:32
中国人とはいえ、同時代史料だし一級品だろ、倭人伝は。
記紀は雑音が入り過ぎている
847 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/30(火) 19:20:09
倭人伝も書紀も同じ時空を通過している。
簡単に言えば倭人伝の記事を書紀で確認できる。
ただ皆さんが考えているであろう時代と少しずれる。
私の読む時空は、垂仁末年〜景行20年五百野姫あたり。
倭人伝って男の王が基本だって書いてあんじゃん?
女系社会じゃないし。
849 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 21:05:15
男の王が基本って、倭人伝のどこに書いてんだよ。
卑弥呼や台与が立ってるだろ
トヨタン・・・・・・・・・・
851 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 21:50:03
>>849 >その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
>倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
>卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
>更に男王を立てしも、國中服せず。
どう見ても男王が基本ですが。
え?魏志倭人伝読んだことなかった?
あ、そう。
852 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:10:47
>>851 「男子を以て王となし」とか「男王」と言う語を使っている時点で厳然たる父系社会であったかどうかが疑問だなw
そもそも中国なら「男王」と言う言葉自体が殆ど使われないんじゃないかな?w
珍読がどうあれ現に古墳の被葬者が女性と言う事例が数多くあり
単純に古代の日本が父系社会であったと言う方が無理っぽいwww
卑弥呼や台与がたって事が丸く納まったのは
そう言う「地」が当時の倭人社会にあったからと考えた方が無理が無いだろうwwwwww
「本また」てどういう意味?
>>852 馬鹿かお前?
王とは男女問わず王を意味するし、
女王である卑弥呼との対比でしてるんだから、
「男王」と書かなければ意味が通らないだろうが。
855 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 07:06:42
>>854 珍読の講釈は結構だ、うんざりだからw
お前の引用部分、意味づけ等で当時の倭人社会が
父系社会であった事が担保されるなんて事言ってる学者がいるのかよ?w
それに各地で被葬者が女性である古墳が見つかっている現実は変わらないぞ?
ついでにお前が言っている倭人伝の記事で言うと
「その会同・坐起には、父子男女別なし」
…これも倭人社会で女が強かった事を示す傍証だなw
まあ記紀にも戦場に出てくる勇ましい土蜘蛛の女とかも結構出てくるし
それも傍証足りえるかな?w
念の為、言っておくが以上のことはフェミニズムとかは別の話だからな。
こう言っておかないと「連合」の二文字に近代的民主主義まで持ち込むドアホウがいるからなw
856 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 10:02:41
え?倭国が女系国家だとか馬鹿なこと言ってた奴は宗旨変えしたのかな?
さすがに恥ずかしすぎる珍説だもんねw
857 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 13:06:24
日本社会には母系の伝統が色濃く残されてる、ってのはいろんな学者が言ってることだろ。
勉強が足らん
858 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 17:32:20
アホが煙に巻こうと必死
元はこれ
>崇神の頃の倭国は母系社会で、おそらく女の大王がたびたび立てられていたと思われる。
妄想爆裂
859 :
855:2009/07/01(水) 20:26:44
まあ俺は倭人社会が母系社会であったとまでは言わないが、少なくとも
「厳然たる父系社会であってその系譜が(文字が無ければ)祟神朝より以前
欠史八代の頃のより(2世紀頃?)口承されてきた」
…なんてお話はチョッと待てだなw
と言うか、多分、王朝と言う概念の縛りで、それが続いていたか否か…
だけに終始して、そんな事考えたこと無いんだろうがwwww
860 :
855:2009/07/01(水) 20:44:04
話のついでにもう一つネタをふっておくと…
森浩一が書いていたことなんだが、日本で出る銅鏡の銘文にしても
元々、大陸で出るそれだと、鏡を所持した時の効能を、男女それぞれの場合で分けて記すというのは極稀で
和泉黄金塚の出土の物だと、あろう事か、男が所有した時の部分を省略して、女が所有時の効能のみになってたりする。
森浩一自身は黄金塚の中央棺の被葬者を女性と見ているらしいが…
(尚、具体的な銘文のどの部分があたるか…等は鏡の事に好んで首を突っ込んでいる奴なら
俺なんかが言わずとも直ぐに分かるだろうから割愛しておく、メンドイw)
まあここまでくればそれこそ母系社会まで射程に入れて考えても良いのではないかと思うwwwww
861 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:53:09
ま、 東王父、西王母が並び立つ神獣鏡が好まれた時点で、母系というか、両性間の尊卑
の差は大きくはなかったということはいえるかもしらんね。
862 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 21:04:19
あと、こんな研究もある。前期古墳について、この時期につくられた小型・中型の古墳322例のうち
男性44%・女性24%・男女とも16%・不明その他16%、大型古墳46例のうち、男性24%・女性20%・
男女とも20%・不明その他36%。
863 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 21:09:07
ただこれは形質人類学ではなく、副葬品からの推定が多いだろうから、それほど信頼度の
高い数値ではないかもしれない。しかし、女性の地位はけっこう高かったとはいえるだろう。
864 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:06:46
>>858 なんで煙にまく必要があるんだか。
当時の倭国は母系社会だからこそ、女王が立てられて国が治まったんだよ。
そもそも欠史八代の父子相続なんてのは普通に考えれば眉唾と分かるだろ。
なんで記紀に書いてるからと頭から信じられるのか。知性を疑う
865 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/01(水) 22:12:52
>>864 いや、普通に考えれば眉唾ではないね。ただ年代は一見おかしいと
感じることは分かるが、これも当時倍暦をやってたんだから、いまの
人間と同程度の寿命だったわけであり、これもおかしくはなかった事
となる。
>>864 どう見ても男系社会ですね。
どうもありがとうございました。
867 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:18:08
原田大六がアマテラスの墓とか言って有名なヒラバル王墓にしても、
被葬者は女性とされてるし、当時の倭国で女王はわりと普通だったんだろうと思う。
それを母系社会と呼ぶかどうかは議論の分かれるところだが、
私が言いたいのは大王位がずっと男系できたなんてリアリティがない王統譜だなー、ということ。
議論のすり替えはお前だよと
868 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:21:40
記紀原理主義者に何を言っても無駄か。
学問と言うより宗教だなこれは
869 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/01(水) 22:22:18
>>867 男系で来たんだろ。卑弥呼女王の記事が崇神相当年代前後で記紀に
ないんだから、女天皇は当時畿内にいないよ。いるようになったのは、
推古の代からだぜ。
870 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/01(水) 22:27:35
神道には教義はないぜ。だからこれだと宗教にはならない。「宗」
のみだよ。ちゃんと古墳があるべき所にちゃんとあるんだから、記紀
と古墳の数字は不合理はない。それはたまには埋葬者の間違いは
あろうがね。だから畿内は男王国という天皇国であり、当時畿内に
女王なんかいないぜ。それにあんたは倭人伝至上者なわけだよ。
つまりにたりよったりなわけさ。w
871 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:29:44
ヤマト王権のエポックメーキングとされる箸墓を考えろよ。
お前の大好きな記紀でも女性を被葬者としてるんだが。
母系社会と女王即位とはイコールではないよ。
母系制は基本的に、母家の財産を娘が(実質的にはその夫が)、
母家の権威・権力を息子が(母方のおじ→甥)引き継ぐというもの。
たとえば卑弥呼―台与の関係性のバックグラウンドにあるのは、
母系制ではなくじつは父系(男系)制のほう。魏志倭人伝によれば、卑弥呼は未婚だし、
台与は卑弥呼の宗女(つまり父系同族の女)と書かれているからね。
だから、この場合クローズアップされるべきは、むしろ卑弥呼・台与の属した父系一族なわけ。
むろん、母女王から娘女王へという、女系相続によった首長が存在した可能性は否定しないし、
私も欠史八代の直系系譜は鵜呑みにはしていないけどね。
873 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 22:52:45
うーん。どうなんだろ?
宗女が父系で確定というのなあ。母系の可能性もあると思うが
卑弥呼未婚の問題は確かにあるが。
母系で入り婿が大王になったというイリ王朝説なんかは魅力的だと思う。
日本では妻問い婚が一般的で、大王の子たちは妻の実家で育ち外戚が力を持つという歴史だった。
葛城氏にしても蘇我氏にしても、藤原氏にしても。
まさに母系社会の名残だろう
イリだから入り婿なんて言ってる人今もいるの?
875 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:01:19
>>874 記紀原理主義者に向けては書いてないからさ。
君は箸墓問題とか、記紀の王統系譜で女王がいない問題を考えてくれればいいから
876 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:04:44
記紀の欠史八代とか崇神以降にも女の大王がいないから、
卑弥呼や台与をアマテラスに比定する。
どう考えても無茶苦茶だろ
877 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:25:45
記紀に父系と書いてるから父系。
シンプルで分かり易い思考だが、本当にそうだろうか?とか理性的に検証してみるとかしないものなのか?
だから原理主義とか言われてしまう
アマテラスでなくとも、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命、台与を豊鋤入姫命に否定する説はあるんじゃ?
二人とも女帝じゃないじゃないか、と言われるかもしれないが、
逆に魏志倭人伝の、「姿を見る者少なし。婢千人が仕える。男子一人のみが飲食を給す」なんて卑弥呼の描写を読むと、
卑弥呼ってほんとにいわゆる「王」なのか? 日本書紀にある斎王のような巫女王の姿の方が本質をついているのではないか?
と思えたりもするんだよね。
ご承知の方も多いと思うけど、中国の史書だからといって必ずしも正しいわけではなくて、明史では
懐良親王なんかを国王にしてるし、織田信長だって関白になってる。勿論卑弥呼・台与のケースとは単純に比較出来ないけど。
>878
訂正 ×否定 → ○比定
880 :
ローガン:2009/07/01(水) 23:32:46
田邊史伯孫が婿家に、娘が産んだ子を見に行くんですから…
母系社会オンリーだとは言えないでしょう。
881 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:39:49
古く政はあくまでマツリゴトで宗教と不可分。倭人伝にも巫女を女王として共立したと書いてるしなあ。
神聖性を保つために人目にさらさないというのは、原始社会の祭祀王としてはわりとよくある形態。
それだけをもって実際の王ではなかったと言うのは言い過ぎでは?
男弟が実際の政治を取り仕切っていた可能性はあるが、男弟はあくまで女王の取り次ぎ役、サニワとして機能していたのだろう。
そうでなければ男王と書くだろうし、わざわざ女王とは書かない
882 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/01(水) 23:45:22
天皇に金印が行ってないから、卑弥呼は確実に女王、女帝であり、
当時は崇神の代にしてその頃畿内に女王国のあった記事は記紀に伝の
借り物記事を除いて、独立した女王国の記事は根子の額よりも狭小
すなわち0と言える。畿内で女王国は推古の世まで待たねばなら
ない。
このことは畿内の女王国が当時無かったからであり、となると男王国
でない女王国は畿内以外と考えるのが合理的であり、当然九州に
卑弥呼の国があったという結論になる。
883 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 23:50:35
>>880 古く近親相姦のタブーを考えてみようか。
日本においては同父兄弟姉妹はオッケー。同母のそれはタブーとして皇位継承権を剥奪される程厳しく罰っせられた。
なぜこんなことになったかと言えば、同父異母は別々に母方の実家で育つのに対し、
同母の場合は幼い頃より一つ屋根の下で一緒に育つため、精神的に忌避感情が強かったため
884 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 00:00:10
>>878 箸墓の被葬者というだけでなく
記紀の系譜が正しいとすると
百襲媛=卑弥呼の可能性は高くなるだろうね
確かに中国側の史料は倭の政治事情に疎いことはあるだろうから
女王として共立したってとこから倭王とは別に当然国々に王がいたんだろうから
倭の女王とは別に邪馬台の王が存在していたということも考えられるよね
885 :
ローガン:2009/07/02(木) 00:04:22
>>883 それはわかりますが、成長した子供は 母方を名乗りますか?
稲荷山鉄剣銘文も父系です
>>885 氏の問題は難しいよ。
ウジってのがいつ成立したかの問題になるから。
おそらくは父性原理が徐々に強まりひとつの到達点として氏という概念
が生まれたと
887 :
ローガン:2009/07/02(木) 01:16:20
>>886 > おそらくは父性原理が徐々に強まりひとつの到達点として氏という概念が生まれたと
うん。その時期を「父制原理の到達点」とするならば、木梨軽の失脚が、母系社会であったという根拠にはならないようなきがしますが。
ごめんなさい、挙げ足とりみたいですね。失礼。
888 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 04:59:47
母系・父系という議論は難しいな。たとえ、母系出自・母系継承・母系相続・母方居住制の
多くの条件を満たしている社会でも、女性に支配権の優越があったとされるケースは世界
的にもほとんど見られない。まあ、上レスで書いた前期古墳の被葬者の性別分類などから、
当時倭国において、宗教的祭祀を司る巫女王と、実際の政治権力を持つ男性の王はほぼ
同等に尊崇されていた、とはいえるかもしれない。
まして、鉄剣銘にあるヲワケの臣は代々杖刀人の首という武官位を受け継いできたもので
あり、政治(軍事)と祭祀の分離という観点から、父系(男系)と見てよいのではないか。記紀
においても、積極的に軍事行動に関わったとされる神功皇后は大王位には就いていない。
889 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 07:41:12
>878
大きな古墳に女性がたった一人葬られたものがいくつか見つかっているので、
女王は確かにいたと思う。
記紀の上でそれが現れているのが天照大神だろう。
また、いわゆる箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓かどうかはわからないと思う。
崇神天皇陵といわれる古墳が、本当に崇神天皇の墓かどうかわからないのと
同じで。
>>887 父系と母系がある瞬間に突然切り替わったとかはないだろ。
母系の影響を強く残しつつも、徐々に父系に変わっていくのが歴史の
流れ。記紀編纂時にはまだ母系の影響が強かった。
891 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 07:58:56
双系を考慮すべきだね
記紀だと女性の記述が多いのは圧倒的にヤマトけど、
考古学的には河内や摂津でも多いんだよね。
>>860
893 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/02(木) 17:38:08
>それならばなぜ鉄剣銘文に大彦以前の系譜を書かない?
>鉄剣銘にあるヲワケの臣は代々杖刀人の首という武官位を受け継いできたもので
あり、
ヲワケは、杖刀人の首の系譜を書き残した。依って大彦より前に「杖刀人の首」はいない。
>倭の女王とは別に邪馬台の王が存在していたということも考えられるよね
だから、倭人伝には、倭女王と倭王と書かれている。
894 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/02(木) 18:07:56
景初二年六月 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻
汝來使難米牛利渉遠道路勤勞 今以難米率善中郎牛利率善校尉假銀印綬引見勞賜遣還
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳緜衣帛布木短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎印綬
其八年 太守王到官 倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和
景初二年六月 倭女王
其四年 倭王復遣使
其八年 太守王到官 倭女王彌呼
倭女王と倭王は別人です。
倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗=イセキイワカ=伊勢のベテラン、イワカ=
磐鹿=六雁=大彦の孫
伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の~、始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。
垂仁時代 伊勢に天照大神を移す、この時アヘ武濡河も同行。
895 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 18:20:27
>それならばなぜ鉄剣銘文に大彦以前の系譜を書かない?
何で書かねばならんのだw
「上祖」から過不足なくしっかり書かれている。一体何の文句があるというのか。
もう言い掛かりもいいとこだな。
896 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 18:40:23
>>894 一緒。どちらも卑弥呼。
「制詔親魏倭王卑彌呼」というのもあれば、「倭女王卑彌呼與狗奴國
男王卑彌弓呼素不和」というのもあるから。
897 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 18:53:03
記紀の内容はともかく
系譜のことを考えると
史記の殷(商)の系譜は殷墟の甲骨文からわかる系譜との
異同はすくなかったんだよね?
殷の滅亡は史記が成立する千年近く前だから
記紀の系譜だってそう間違ってるとは思えないけどね
898 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/02(木) 19:08:52
>>896 一緒。どちらも卑弥呼。
是までは倭女王=倭王で読まれてきた。
ならば何故いまだに解決しないのか?
文字と口伝が同じ次元かよw
900 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 21:50:44
>>899 まあね、語り部の口伝は厳しい修練があったのかもしれないが、それだって長い間には伝言
ゲーム化した可能性は高そうだね。
901 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 22:25:20
定説の変遷
少し前まで
応神以前は架空
出雲神話、日向神話は架空
政治勢力のいない僻地の出雲日向を神話の舞台にした
現在
崇神天皇は実在
出雲には九州大和に対抗しうる勢力があった
欠史八代は架空
当然神武も架空
日向神話は架空
政治勢力のいない僻地の日向を神武の出身地にした
902 :
860:2009/07/02(木) 23:07:25
>>892 うーん、どうなんだろうねえ…
記紀に見る記述と言う事であれば、そもそも登場人物は畿内大和の方が多いんだから
母系要素が多く見られるのは畿内か九州か?と言う問題だと
( 女性/その地域で出てくる人間の数 )…と言うパーセンテージでも出さないと比較できないんじゃないかな?w
まあ九州にも、兄とともに神功と闘った土蜘蛛の油津媛や景行に対し恭順の意を示した神夏磯媛や速津媛とか出てくるし
考古学的には先に誰か言ってたが平原の事例とかはわりと知られていると思うけど
多分、畿内も九州も関係なく当時の倭人社会全体が、かなり母系的要素が強かったんじゃないのかな・
まあ銅矛と言う武器型青銅祭器を持つ九州の方がより父系社会の要素が強い…とパッと見思っちゃったりしがちなのかもしれんがwwwwwwwww
903 :
860:2009/07/02(木) 23:23:21
ただ「母系社会」と言う定義は俺のような素人が考えても難しいだろうなあとは思う。
女性があらゆる場面で政治軍事の主導権をとり
男が皆家でハウス・ハズバンド(主夫)やっている…なんてのはまあ無いだろうなw
それこそ神話のアマゾネスか、人類は諦めてアリンコの生態か
チンパンジーの亜種とも言われていたボノボか
いっそ中生代まで遡ってティラノザウルスまで持ち出すか…でもしないと無理かな?wwwwww
ただ、倭人社会がある時期に大陸の文化・制度の導入により、元々母系要素が強かった社会が
かなりの急ピッチで父系社会にシフトしたのではないか?とは思っている。
『ヤマト王権の変質』のお話でよく言われる古墳の副葬品の変化
呪術的なものからより軍事的な(槍や剣)物に変わっていくと言う状況にそれを見る事ができるかな?w
904 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 23:49:31
俺もこれはわからん。
>その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。
を真として、子供はそれぞれの母の家に住み、財産を母系相続していたかも。しかし、
>その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。
からは父系出自・父系継承という感じがする。考えてみれば平安時代などとあまり変わら
ないような?まあ、母系・父系はあくまで社会制度であって、権力構造とはまた違うのだろ
う くらいしかいえんな。まったく専門外であり、降参。
905 :
860:2009/07/02(木) 23:56:26
多分、留意しておく必要があるのは
文字そのもの、そしてそれを使って系譜を書き記すと言う文化は当然大陸から
父系社会の文化とセット・不可分で日本に入ってきただろうと言う事だなw
906 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:01:29
当然の話だが、世界中どこでも母系まず先にあって、それが時代を経るにつれて父系に塗り替えられてきたということ。
まずここは前提にしてくれないと
907 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:03:31
>>897 殷の王の名も十干からとられていて実在が疑われていたんだよね
名前のせいで存在が消されてる天皇に似てるな
908 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:06:32
殷墟みたいな発見があってから語れよ糞が
909 :
860:2009/07/03(金) 00:15:00
まあ多少板違いかも入れんがw
今日の琉球神道なんかには本土で消え去った所謂「ヒコ・ヒメ体制」が残っているのかもしれないwww
参考) 琉球の信仰…wikiより
>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%BF%A1%E4%BB%B0 >祭祀において、行事の一切を取り仕切り、来訪神の依代となるのが集落の神官であるノロである。
>琉球では女性を神聖視して、霊力(セジ)を持つ女性をノロやユタとした。
>一般に女性は血族の男性の霊的な守護神であると概念しており、これをおなり神(妹神)信仰という。
>この考え方は、現在も残っており、各集落のノロ職は、もともとその集落の宗家や
>あるいは有力豪族の血縁の女性(妹や姉や母)に由来すると考えられ、代々世襲とされているほか、
>民間のシャーマンであるユタも多くが女性とされている
910 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:19:35
>>908 鉄剣銘文発見されてるだろ
大彦なんて単純な名前だから神話上の創作された人物だと思われてたじゃないか
911 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:28:40
鉄剣はオホビコのことは刻まれてても、孝元とは繋がっていない。
そういった系譜はその当時生まれていなかったということ。
何度書けば分かる?もしかしてバカなのか
912 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:41:08
>>909 ヒメ・ヒコ体制とは少し違うが、「妹の力」なら近代まで残っていただろう。太平洋戦争時は
姉妹などの近親の女性から髪などを受け取ってお守りとして出征した兵も多かったと聞く。
913 :
860:2009/07/03(金) 00:47:20
>>912 まあ文化的に見れば中国や韓国と同じ儒教文化圏にありながら
現在に至っても(必ずしも父系直系に拘らない)「イエ」の思想を持つ日本は
やはり元々単純に父系社会だったと見ないほうが良いだろうなあwwwwww
914 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:48:01
>>911 その論が説得力がないからこのスレッドがあるわけだけどw
915 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 01:02:54
>>913 かもしれない。霊力は女系で継承されるというような面があったかも。しかし太平洋戦争と
か書くと、また前期高齢者とか・・・・。
916 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 01:08:42
とりあえず、古代倭人社会を単純に父系社会だと論じる根拠は無く
むしろ母系社会の要素が色濃いと言うのはここまで述べたとおりw
また別の観点から、欠史八代を実在とし祟神の代に四道将軍の派遣記事に見られるような
全国の平定があったとするには疑問なのは…
他でも無い、この板の九州説連中が三度の飯より好きな『鉄』ですよ 『 金失 』 !! wwwwwwww
確かに古墳時代に入ってヤマトも急激に鉄が流入してきたかのように見えるが
そりゃ、あくまで「当社比」のお話w
絶対量じゃあ古墳時代の初期においては、そりゃ北部九州が圧倒的に上回る。
いや、九州だ中国地方だという前に畿内においてもヤマトは相当な鉄欠乏症www
(ここの九州説の連中には畿内とヤマトを一緒にしてしまう馬鹿が多いが)
九州説連中のように鉄の出土量を即軍事力と考えるのは幼稚だと思うが
全国に軍を派遣したならそりゃ鉄製武器の生産も相当な物があったと考えられるだろうし
遠征軍を送る側の国の国力は迎え撃つ側の何倍もの国力でないとお話にならないのは常識だろうw
大体、記紀のシナリオを丸呑みすれば祟神までに畿内は、ほぼ統一してなきゃならんのだが
纏向以前のヤマトにそんな国力を認められるような考古学的資料があるのか?と言う話でw
ちなみに『無人都市纏向』理論を提唱する東遷厨他は祟神以降のヤマト王権の勢力を示す物も無いので
それも合せて探してくるように・・・宿題追加だなwwwwwwww
917 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 01:15:47
>>909 非常に面白いね。
日本の古代神道がそのまま残っているような感じがする。
祖霊信仰、神との交信ができ、神をその身に憑依させるノロは、まるで
倭迹迹日百襲姫や神功皇后を見ているような気がする。
卑弥呼も同じような存在だったのだろう。
宗女の台与があとを継いだのは、ノロと同じように血縁関係を重視したため
だったのだろう。
918 :
ローガン:2009/07/03(金) 01:21:34
万葉集1759「 …未通女壮士之往集加賀布櫂歌爾他妻爾吾毛交牟吾妻爾他毛言問…」
人妻に吾も交らむ 吾が妻に他人も言問へ
フリーセックス…子のIDを担保できるのは母だけでしょう。
兄妹、姉弟が確認できるのは同母だけ。よって濃血が確実である同母婚は避けたのでしょう。
これを差して母系社会云々とは言えないと思います。
後は
>>888さんと同意見。
>>918 乱交の時代はむしろ父親を特定できないから、そもそも父系社会なんてものが
成立し得ない。
ていうか「父」という概念自体が「母」に比べて大分後に出来たもの。
O彦?
オバQの仲間か?
>>903 「母系社会」が話題になっているけど、倭人伝(贋作臭いがw)と白鳳天平と
の間に差はないと思うが。男王だと荒れるので女王→男王が未成年なので女王
→直系の男子が絶えたので女王。基本的に男系DNAのバックアップの役割である。
現在で例えるなら、直系第1子の某愛k(ryが即位すれば純粋な女系・母系ではあるが。
922 :
ローガン:2009/07/03(金) 15:54:37
>>919 > 乱交の時代はむしろ父親を特定できないから、そもそも父系社会なんてものが成立し得ない。
言い方が悪かったかな?勿論
>>918の例は父系社会を意味するものではありません。
私はカガヒ、歌垣とは単に原始共同体における共食共婚の遺習だと思います。よって、この習俗等を指して古代が「母系社会であった」との根拠には使えない という考えです。
勿論すべてが父系相続社会であったと迄は言い切れませんが…
>>880で書いた例などは明らかに「母系社会」とは相反する記述でしょう。
923 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 16:59:51
>>903 >倭人社会がある時期に大陸の文化・制度の導入により、元々母系要素が強かった社会が
かなりの急ピッチで父系社会にシフトしたのではないか?とは思っている
『源氏物語』や『蜻蛉日記』でもわかる通り、卑弥呼より7〜800もあとの中世日本社会でも相変わらず妻問婚ですがな。
元々父系的要素が強いとされる関東ですらそう。
都の貴族が関東に国司等として赴任し、在地豪族の娘と結婚して子供が生まれた場合、その子は母方の家で養育された。
もっとも、母方の家自体の家長は男であったし、養育された子供も姓は父方のほうを継ぐので、この辺が純粋な母系制社会とは異なることになるが。
924 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 17:04:05
純粋な母系と異なるどころか明らかに父系なわけだが。
925 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 17:10:22
>>924 妻の実家で養育される風習・習わしのどこが
>明らかに父系
なのさ?
っていうか飛鳥時代って妻土井婚だっけ?
927 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/03(金) 21:30:23
縄文時代、歯に刻みを入れたり、抜歯の風習が有った。
この模様?は各村により違いがあり、其れを調べることで、母系か父系か察しが付くらしい
其れによると、強い村(人口を養う余裕がある)には、他所から父が入る確率が高くなる。
つまり男でも女でも好きな村へ入って行ける風習であったらしい。どちらの村で暮らすかは本人次第
これを西日本と東日本に別けると、西日本の方が妻の村へ入る夫が多かったみたいだ。
928 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:39:06
>>922 うーん。議論が噛み合ってないなー
子供の父親を特定させたいという「父性原理」側の要請があったからこそ、
乱交は野蛮であると禁止され、夫婦やら婚姻という制度が生まれた。
古く原始社会は乱交で母系社会。まずはこれを認めてもらった上で
『元始、女性は太陽であった』平塚らいてう
原始、女は太陽だった
作詞: 及川 眠子 作曲: MASAKI 歌:中森明菜
恋に落ちて 私は燃え尽きて
孤独という氷河をさまよった
不幸に愛された運命はまた
この心を手まねくけど
太陽が昇る 裸の胸に
いま哀しみさえ
生きる力に変えてく
誰・誰・誰・誰・誰も恨んでないわ
ねぇ誰・誰・誰・誰・誰か だから見つめて
揺るぎない私のすべてを
931 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:31:48
>>918はウェスターマーク効果を知らんのか。
同母婚の忌避がフリーセックスだからとか何書いてんだか
932 :
ローガン:2009/07/04(土) 00:39:39
>>928 >まずはこれを認めてもらった上で
仰る意味は理解しているつもりです。男に子は産めないのですから。 族内婚におけるあらたに産まれた構成員の養育は「産んだ母」を中心とした族内集団でおこなわれたと。
それが何故、母系社会なのですか?(勿論、父系でもありませんが。)
原始共同体の習俗としての「家」の系譜が祖母→母→娘であるとどうして云えるのでしょうか?
933 :
ローガン:2009/07/04(土) 00:51:50
>>931 ウェスターマーク効果を知らんのか。
私の友人の両親の従兄妹婚です。四国の山奥の集落の方で幼い頃から家族同然で暮らしたそうです。
友人が誕生しているのですから ウェスターマークは間違ってるって事ですかね?
垂仁天皇が誉津別命を引き取る時に、
「子の名は母親が名付けるものだから」
>>933 一例で統計的傾向を否定することはできない。
学問的態度の基本中の基本。
936 :
ローガン:2009/07/04(土) 01:07:08
937 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:10:50
文化・社会人類学による家族制度研究史の概要
19世紀のL・H・モルガンのアメリカ・インデイアンの研究による「社会進化主義」では、人類社
会は原始乱婚の時代から血族婚家族、母系の半血族婚家族(いずれも集団婚)を経て、私有
財産制の発展とともに父系制に転換し、最後に一夫一婦制からなる核家族に到ったとされる。
しかし20世紀に入り、実証主義的フィールドワークを重視する「機能主義」が発展し、原始社会
における多夫多妻婚の事例がほとんど見いだせず、実質的に社会進化主義(人類史における
集団婚の存在)が否定されていく。そして、一対の夫婦とその子供からなる家族が人類史の古
い時代に登場し、未開部族においても普遍的に存在しているという見方が支配的になってきて
いる。(一夫多妻婚や一妻多夫婚などの事例も、一夫一婦婚の複合的な形態であると見なされ
る。)
さらに20世紀半ばには、G・P・マードックらの「構造主義」により、民族データの統計的解析が行
われると共に、統計的な裏付けの下、親族構造の基本単位として核家族の存在がより強調され
ることになる。しかし、これにはレヴイ・ストロースらによる批判もある。
938 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:37:18
20世紀後半には、E・サービスがモルガン説をを批判的に継承し発展させた「新進化主義」
を唱え現在に至る。新進化主義とは、社会(部族)の個々の集落に居住する同一出自集団
(ソダリティ)を重視する考え方であり、これは日本的には氏族といってよいものだろう。これ
らの集団は、神話によって裏付けられた同祖の系譜意識によって同族としてまとまったもの
であるとされる。
サービスの進化段階は、バンド社会(血縁を核にして結合した小集団)→部族社会→首長
制社会→国家社会の過程をたどる。ソダリティの概念は、上レスに出てきたオオヒコ=共通
祖先いう考え方に近いものといえるだろうが、家族論の範囲からは大きく逸脱してしまっている。
939 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:06:23
考古学的には、「出自表示論」とでもいうべき考え方により研究が進められることが多い。
これは、墓群や被葬者をある特徴によって二分し、一方がそのムラで生まれ育った在来者、
他方が結婚によって他所からムラに入ってきた婚入者と仮定し、どちらか一方、例えば婚入
者がほとんど女性であれば父系、逆ならば母系、男女ともであれば双系というようにして親
族関係を探るという方法である。
このことを、田中良之氏が形質人類学的に歯冠を特徴として分析した研究から見てみると、
伊川津貝塚(愛知県海岸部)縄文晩期では、墓地被葬者の内、少なくとも男性に血縁者が含
まれており、結婚後も男性が集団にとどまる夫方居住婚か、嫁取りと婿取りの双方が混在す
る選択居住婚のどちらかと考えられ、父系あるいは双系であるといえる。また、津雲貝塚(岡
山県笠岡市)縄文晩期、中妻貝塚(茨城県)縄文後期・晩期などは双系との結果が出ている。
まあ縄文晩期は原初社会とはいえないが、考古学的にたどるにはこのあたりが限界である。
人類学的には、上レスで述べたように多夫多妻婚には否定的であり、きわめて古い時代から
の一夫一婦婚による核家族の存在が重視されている。
http://www.7andy.jp/books/detail/?isbn=9784642056526
940 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:32:00
まあ双系社会であれば問題の鉄剣の所有者は父系で繋がってきたと考えるに
不都合は無いのかな?
まあ素朴な疑問としてはそもそも「系譜」を伝えると言うのは
双系もしくは母系色の色濃い社会であるうるのかどうか…
母系なり父系なり一つの基準が無ければそもそも系図(文字が無ければその概念)も
作成できないんじゃないかと…
941 :
デブハゲ:2009/07/04(土) 02:43:20
937は、ほとんどコピペ。しかし勉強になった。俺的には、専門外の分野は間違って思い込
んでることがたくさんあるな。939はその遺跡の時代で見た横断的評価ということかな?
>>932 >原始共同体の習俗としての「家」の系譜が祖母→母→娘であるとどうして云えるのでしょうか?
乱交で父親が認定出来ないんだから母系制にならざるを得ない。
>>940 一つの集落内だけで婚姻関係が完結してしまうような、極小規模な、そして閉鎖的な社会であれば、
家系とか血族とか言う概念は、子供の養育や財産の継承に必要なもので、父系でも母系でも、
そして「双系(よくわかりませんが)」でも何でもありですよね。
しかし、有る程度まで発達した社会では、近親婚の忌避や交流による政治的安定などを目的として、
嫁入り、婿入りなどの形で域外婚も行われることとなり、ここで、男を集落外に出せば「母系」、
女を出せば「父系」社会であると考えられます。
ただし、戦闘要員である男を出せる社会と言うのは、比較的平和な闘争の少ない社会でなくてはなりません。
優秀な戦士を将来、敵になるかもしれない相手に渡すのは軍事的にマイナス、また、使い物にならないような男では、
交換要員として成立しない。
なので、闘争性の高い社会では必然的に嫁入り婚の父系社会となるのだと思います。
日本の場合、社会情勢は時代によって違いますが、中央アジアのよりは闘争性の少ない、
ポリネシアよりは平和でない中庸な社会ですが、少なくとも弥生時代では、漢籍に見られる「倭の大乱」のように
闘争型の父系社会であったかと思います。
あと、系譜は文字が無くても、八代前くらいまでなら普通に口承できると思いますが。
>>943 妻問い婚の問題は?
オオクニヌシにしろニギハヤヒにしろ、神武にしろ、
婿入り婚に読めるが
945 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:06:19
>>943 神武から今上天皇まで125代諳んじられますが?
戦前は小学校で124代暗誦は必修でしたよ
>>945 > 神武から今上天皇まで125代諳んじられますが?
> 戦前は小学校で124代暗誦は必修でしたよ
貴方はそれを文字無しで習得されたのですか?
それは、貴方のお子さんやお孫さんに口承されていますか?
947 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:23:25
歌を覚えるみたいにすれば出来るんじゃね?
アイヌのユカラみたいに。
梅原猛だったか、藤村久和だったかの本に、人間は文字を取り入れた途端に記憶力が悪くなっていく、みたいなことが書かれていたのを以前読んだことがある。
だから梅原猛は思いつきの出鱈目ばかり書いているわけか?
説得力があるな。
949 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 16:24:57
>>933 ソトオリ姫伝説の例もあるから、別に不思議ではない。
そもそも近親相姦のタブーは、それを破る人間がいるからわざわざ作られたものだし、
必ずしも家族同然に育ったからと言って恋愛感情を持たないとは言えない。
近親相姦の事例は枚挙にいとまないだろ?
あくまで近親相姦を避けるという傾向があり、それがその社会一般感情として是とされた。
どこまでを近親とするかは社会文化によって違う。ここが大事
950 :
ローガン:2009/07/04(土) 16:49:24
原始共同体の共婚つまり族内婚では産まれた子は族内で育てられ、族の構成員となる訳ですから、この社会に母系も父系もないでしょう。
そして、族外婚になっても関係を持った男女は、それぞれ別の族に所属しています。
女は当然自分の族で出産するので、生まれた子はその族の構成員になる、ただそれだけの事です。
これは「父系母所制」です。
一族の系譜が祖母→母→娘と連なっていく母系相続社会ではないのです。
951 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:23:25
族婚なんてのが行われたっていう根拠を示せよ
竪穴式住居の規模からいったって核家族としか思えん
建物ごと中の人間が潰されたような移籍がいくつも見つかっているが
基本的に一夫一婦その子供の構成だぞ、縄文からな
952 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:38:46
神武から始まる欠史八代の直系系譜というのは、ヲワケ臣にとってのオオヒコに繋がる
直系系譜と同様なもので、いわば崇神の祖先伝承を語ったものなんじゃないかな
フトニ − クニクル − オオビビ − イニヱ(初代大王・イリヒコ)
だとすると、クニクル(孝元)は大和に地盤を持つ有力豪族の一人程度であり、
後に四道将軍と呼ばれるオオヒコと比較すれば、少なくとも5世紀の時点では
知名度という点で劣っていたのかもしれない
その後、歴史書編纂の段階でクニクルに大王位と和風諡号、漢風諡号などが
与えられたため、クニクル(孝元)とオオヒコの知名度に逆転がおきたが、
ヲワケ臣にとって祖先伝承上一番重要だったのはオオヒコだったという仮説も
あり得るんじゃないだろうか
まあ、ここまで書いておいてなんだけど、クニクルとオオヒコに親子関係がある派
というわけでもないんだが
ところで、開化天皇にはなんとなく違和感がある
それは実母であるウツシコメ(父ウツシコヲ)の叔母で、孝元妃のイカガシコメ(父同)を
妻にしている点で、先帝の妻を妃とするのは天皇家の中では異例じゃないだろうか
(ウツシコヲは穂積臣の祖で、ニギハヤヒとナガスネビコ妹の子孫)
そのイカガシコメは孝元との間にヒコフツオシを産み、武内宿禰を経由して多くの氏族
(巨勢、蘇我、平群など)に繋がっている
一方で、開化との間には後に崇神と呼ばれるミマキイリヒコとミマキヒメを産む
また、孝元とウツシコメからは開化の同母兄としてオオヒコが産まれている
流れをそれぞれの視点で見ると、
孝元の子 オオヒコ、開化、ヒコフツオシ
孫 タケヌナカワ、崇神、ヒコイマス、武内宿禰
ウツシコヲの子 孝元妃、開化妃
孫 オオヒコ、開化、ヒコフツオシ、崇神、ヒコイマス
ひ孫 武内宿禰、タケヌナカワ
孝元、開化期における婚姻政策で孝元を頂点とする有力一族が誕生し、それを活かした
崇神が「四道将軍」を用いて大和を中心とした新たな権力を獲得したかのように見えるけど、
実は複雑な婚姻を用いてウツシコヲの一族が急拡大したようにも見える
案外、崇神による大王勢力圏の拡大はニギハヤヒ・ウマシマヂの子孫や同化した土蜘蛛の
子孫を上手く取り込んだ結果なんじゃないだろうか
更に想像を働かせると、鬼道的な要素を持つ土蜘蛛の子孫でウツシコヲの親戚に当たり、
後に祭司を担当した物部氏の祖先に卑弥呼がいるのかもしれない
という夢を見たのだった
954 :
ローガン:2009/07/04(土) 18:33:53
>>951 > 族婚なんてのが行われたっていう根拠を示せよ
> 竪穴式住居の規模からいったって核家族としか思えん
共婚は祭礼でしょう。戸外ですよ。住居のきぼは関係ない。根拠もなにも、村祭りの夜の共婚神事なんて近世まであったでしょう。
上で書いたカガヒも同様。原始共同体からの遺習ですよ。
まあ自分が交わった複数の男性の中から女性側が夫を決めると言うだけで
複数の男女が同じ住居で暮らすと言うことではありませんよと
956 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/04(土) 19:21:16
>>953 見方が間違っている
開化は父の妾をもらう、開化は其の妾(庶母)の情の細かさに惚れ込み
妃にしようとするが、所詮妾(庶母)の地位では妃に成れない。
そこで開化は妃と妾の人体入れ替えを行う、
崇神の諱をもう一度確認してください、諱にヒト、ヒコ、キネ、ウシ、等
高貴な生まれに付けられる諱が付けられていない。
これは、崇神の母親が庶母であった為です。
諱は少し前に 此所に掲載していますから 初めから読めば出てくる。
957 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 20:31:17
>開化は其の妾(庶母)の情の細かさに惚れ込み あいかわらず見てきたようですね。
開化天皇についても、考古学的にいえることはほとんどない。都は春日率川宮で奈良市内の
率川神社が比定地であるが、神社の創始は推古元年(593)であり、開化帝と直接の関係は
なさそう。御陵は春日率川坂上陵で、宮内庁は同じく奈良市内の念仏寺山古墳に比定。これ
は約100mの前方後円墳で、5世紀頃の埴輪片の出土があったといわれる。
ただ、前に読んだ鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」では、大和平野の北端に都が置かれた
のは、山城国南部を流れる木津川の利用および山城国への政治的進出を企画してのことと
書かれてた。確かに后は物部氏の女、妃は丹波の女であるが、これは有力豪族と系統をつな
ぐため後付けされた可能性もあるかな。この妃、竹野媛(丹波大県主由碁理の女)は話題の
曲学の徒氏が台与に比定していたと思う。
958 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 20:42:53
スレチだが、
宝賀寿男がおバカなのも、日本は中世までは婿入り婚(妻問い婚)だったという事実を(恐らく故意に)無視しているからなんだよな。
「○○氏は祭祀体系が源(平藤橘)氏のものとは明らかに違う、よって仮冒であろう」なんてのが大杉w。
だが、婿入り婚だった当時の社会背景を考慮に入れれば、それは当たり前なんだってのw。
氏は源平藤橘でも、中身は母系集団の一員として育ってるんだから。
「実際は古族の末裔であろう」なんてのもバカかアフォかと。
国造に代表されるような「古族」が、時代時代の中央勢力の一族(源平藤橘など)から婿を取って、父方は中央貴族、実体は母方の一族を継承しているってのが殆んどなんだから!
宝賀寿男さんを支持してる人て多いよね。
そんなに有名な人なんですか?
960 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/04(土) 21:42:57
開化天皇六年(己丑前一五二)正月甲寅《十四》◆六年春正月辛丑朔甲寅。立伊香色謎命爲皇后。〈是庶母也。〉后生御間城入彦五十瓊殖天皇。
庶母が皇后になりその子が天皇に成る。
ホ32214 アにツキひとつ ハハはツキ シモメはホシよ これをめす
天に月一つ 母は月 下女は星よ これを召す。
開化が下女を皇后にして、崇神を産む。
事の次第は前記の如く。
961 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/04(土) 21:58:56
ああ〜唐松山さん こんなところにいたんだw
最近、見かけないと思ってたらw
962 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:19:19
もう大体結論が見えてきたと思うけど、
古く母系制だった系譜を、無理矢理、男系の万世一系に書き替え。
その時生まれたの欠史八代。
963 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:31:06
>>959 宝賀の受け売りで鬼の首取ったように、あれも仮冒、これも仮冒言う宝賀厨はこの板でも戦国板でも多いね。
でも少なくとも中世前期までの各豪族の系譜については、
>>958で述べた理由により、大幅な“見直し”が必要と思うんだけどね。
964 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:49:07
>ただ、前に読んだ鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」では、大和平野の北端に都が置かれた
>のは、山城国南部を流れる木津川の利用および山城国への政治的進出を企画してのことと
>書かれてた。
但馬あたりは祟神王朝系が絶えず妃を求めてきた地であって
三輪王家は婚姻関係をもって木津川を通って山科、但馬にと北へ北へと勢力を伸ばしている節がある
…と言う見方があるが、やっぱ日本海交易がもたらす鉄資源他の物資に惹かれたんだろうか?wwwwwwwww
>>944 > 妻問い婚の問題は?
> オオクニヌシにしろニギハヤヒにしろ、神武にしろ、
> 婿入り婚に読めるが
オオクニヌシさんとかニギハヤヒさんが何時の時代の方なのか存じませんが、
神様たちの場合は、多少事情が違うのではないでしょうか?
特にオオクニヌシさんなどは、かなりの多重神格で、いろいろな名前であちことと出現して、
お子をもうけていますね。
神武も別に大物主家に婿入りしたわけではないでしょう。
天神の家系を標榜しているわけですから。
私は「倭國大乱」といわれた時代は嫁入り婚ではないかと思っているだけです。
平和な時代には婿入り婚も自由に選択してください。
966 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:08:24
>>964 木津川市山城町といえば、もちろん椿井大塚山。副葬品は多数の鉄剣、鉄刀、鉄族、鉄製
工具類が出土。興味深いのは鉄銛、鉄ヤス、釣針の出土から、被葬者は船舶および津の
管理者とも考えられていること。
967 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:16:01
>>965 神話はある程度実社会の様相を反映すると思うが。
たとえば箸墓説話にしろ、当時箸が使用されてなかった時代だから、その説話は後世の生活様式に影響を受けて改変されていることが分かる。
口伝は時代によって変化していく。文字にされたらそういった事態は起こり得ないのであるが。口伝えの神話は実生活と切り離せない。
あと戦乱だと父系制が進むというのは事実だろうが、それはあくまで徐々に変わっていったものであって、
有事は父系、平時は母系なんていう類の話じゃないよ。
事実日本は比較的後世まで母系の影響を色濃く残していた
968 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:30:46
>口伝は時代によって変化していく。文字にされたらそういった事態は起こり得ないのであるが
これは俺に言わせれば逆だな
例えばアイヌの三時間も掛かる膨大な伝承を、継承者は一字一句、数十年間も
間違えなしに記憶し続けた。これは金田一京介も検証している事実。
文字資料は編者によっていとも簡単にねじ曲げられてゆく。
政治的な理由やらなにやら、好きなように改変されてしまう。
焚書なんてどの国でも当たり前のように行われた。
文字のない時代だからこそ口伝の能力は高められ重視されたんだ。
970 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:43:27
実際、確実に人口を増やしていこうとすると女の数が多い方がいいんだよね。
一夫多妻が理想。
事実農耕社会では母系制が多い。
戦乱で父系が進むのは、成年男子の取り合いなんかではなくて、
軍事的指導者である男が力を持つようになるから。
倭人伝では平民まで一夫多妻であると書かれているが、
果たしてそれ程の大家族を養える程、経済力を平民がいたのかどうか。
単に妻問い婚のことを記述しただけではないかと
辛亥の年七月に記します。
わたくしはヲワケの臣です。
遠祖の名は大彦命、その子は屋田心命、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子はハテヒ、その子は笠原、その子がわたくしヲワケの臣です。
先祖代々親衛隊長として大王に仕え、今に至って折ります。大泊瀬幼武大王が磯城の宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのをお助けしてきました。
そこで、このよく鍛えあげられた刀をつくらせ、私が大王にお仕えしてきた由来を記しておくことに致します。
972 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:48:29
>>970 加えて、戦争で男の数が減って必然的に一夫多妻にならざるを得ないんじゃないのかな?w
現実イスラムで4人まで妻帯おkと言うのは戦争未亡人の救済(?w)も理由だったと聞くがwwwwwwww
973 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:51:39
>>968 じゃあ箸墓説話は?
3世紀の日本に箸があったの?
倭人伝では手掴みになってるけど
974 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:52:40
住居の崩壊に巻き込まれた遺骨を調べると、一夫多妻の痕跡が見あたらない
975 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:53:32
>>973 三世紀の口承をお前は聴いたのかよ
記紀に記された「文字資料」しかお前は知らんのだろ
そういうことだよ
976 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/04(土) 23:56:15
>>971 屋田心命?豊韓別?高橋別?多沙城別?ハテヒ?笠原?ヲワケの臣?
聞きなれない名ばかり、いったい誰なんでしょうね・・・。
私は、卑弥呼専門であり、大彦命のことはよく知らない。
誰か調べた人がいましたら教えてくれませんか。
>>967 箸墓のあの説話はいつごろできたのかな。
記紀が成立したとき?まさかそこまで新しいわけはなかろう。
もともとの古墳の名称を消し去って新たにあの説話を作る理由もない。
かりに記紀の200年前にその説話ができ、その頃から箸墓と言われてきたとすると、
その説話の成立当時は箸を使っていなかったことになる。
つまり、ごく一部の者だけは紀元前後から箸を使ってきた可能性があるということ。
その一部の者とは祭祀に携わる者である。
モモソヒメはまさに箸を使って神に食物を供えたのであろう。
979 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:06:40
箸墓のハシが箸とは限らんからな
別な説を唱えている研究者だっている
980 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/05(日) 00:11:15
>>977 >ドツボ
へぇ〜ここのスレにも私のこと知ってる人いたのか。
意外だな〜っ!
終止符スレから出ることが少ないので、
私のこと、知ってる人少ないと思いましたわw
>スレの最初から読嫁、度粕
あらら、親切じゃないな〜 まあ仕方ないか、了解。
>>975 意味不明。
口承が変化していくなんて常識なんだが、それを否定してるのか?
文字にされたら、変化途中のその時点の話が記録される。
写真みたいにね。
982 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:19:01
>>981 口承が変化していくのが常識ならば、せめてそれを唱えている研究者なり論文を教えてくれ。
その正確さと変わらなさを検証した研究者と事実は俺は書いた。
そもそも記紀に記された伝説を、なにを持ってして口承と同じとしているのか分からん。
箸が話に出てくることから後生、貴族が箸を使い始めた7世紀に成立した話だとする説も有力ではないか。
983 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:23:22
笠原といえば武蔵国造
984 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:24:53
世界中で口承は研究されたが、正確に長い年月覚えていくことが驚きを持って検証されてる。
簡単に変わっていくなんて話、俺は聞いたことがない。
985 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:27:42
>>982 めんどくさい奴だな。
>【口承文学】口伝であるため、物語は固定されることがなく、途中で新しいエピソードが
>挿入されたり、話の筋が変わったりすることもままある(うぃきぺでぃあより)。
これでいいか?w
987 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:34:59
>>986 そんなもんがなんの証明になんだよ。
それを許したらお前がそれを書き込んだっておkじゃねえか。
頭を冷やして出直してこい。
988 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:35:43
しかも、ままあるとか書いてあるしw
どういう意味の日本語か分かってるか?
989 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:36:45
>>986 wikiが証拠なんて言ったらこの板じゃ笑われるぞ、お前
990 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:36:47
ウィキペディア(笑)
991 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:39:24
一生懸命検索してもそれしか見つからなかったのだから許してやろうじゃないか
992 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:42:18
当たり前のことにいちいち根拠とか学者とか提示できるか。
ていうか時間の無駄だよ
993 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:43:36
どうでもいいからwikiでも眺めてウキウキしてろよ、お前。
お前の知識の源はwikiなんだろ、アホらしくて話にならねえよ。
994 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:46:34
ウィキペディア程度でいいと思ったんだが?
まともな反論とか不要だろ。
口伝が変わらず、ずーっと昔のままとかさ、頭大丈夫?
995 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:48:05
>>992 提示できないって時点でお前の負けだよ
だってその話を読んだ本の名前さえ挙げられないんだろ?
思い込みでレスしちゃ駄目だねえ
996 :
縦目仮面:2009/07/05(日) 00:50:38
もうすぐ終わりですね。名無しでたくさんレスさせてもらいました。面白かったです。
口承と文字の伝達…どちらが変化しやすいか否か…あまり意味のある話に思えないがw
どっちも伝えるのは人間である以上何らかの作為が入る可能性はある。
視覚情報か聴覚情報かではなくて、その情報が置かれた環境が問題だろう。
口承がコロッと変化してしまった例で
相当に極端な事例を言えば「シリウス・ミステリー」とかはどうかな?www
まあググれば詳細は分かるが、ざっとあらすじを言っておくと・・・
欧州のある学者がアフリカのドゴン族の古老から聞いた神話に
肉眼では絶対に見ることができない「シリウスの伴星」が出てきた
・・・と言う話で当然これが紹介されると
「ドゴン族は過去に宇宙人と接触した?」
なんて事がささやかれたとかw
まあ種明かしをすれば西洋人と接触した人間が当時天文学の最先端の知識を得て
それを自分達の神話に組み込んでしまったらしい・・・と言うオチwww
つまり西洋文明との接触と言う環境の変化が口承の内容をガラリと変えてしまった事例と
う〜む、流石に極端すぎる事例だなwwwwww
998 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:54:59
箸墓のハシの解釈についても数説ある。
それどころか「箸」の日本での普及から考えて7世紀の成立とする研究者もいる。
だのにその説話が3世紀からの口承と頑なに考え、そして箸の部分だけが時代とともに変わったのだと主張する。
デタラメにも程があるが、これが「うぃきぺでぃあ」脳の限界である。
999 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:55:51
提示できないから負けか。
子供の相手は疲れるよ。
なんで口伝が変わらないとか、言い切れるのか理解に苦しむ。
お前の根拠として提示したユーカラにしても誕生してから変わってないとか本気で思ってる?
1000 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/05(日) 00:57:19
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