1 :
日本@名無史さん:
__ 人 __ ! ./´ ./ | イ ∧: l トヽ丶 |` ー‐ァ' | `Y´
`Y´ } / ./ i 斗‐|/‐ト./|′ヽ. |! |,斗 代: 下. 丶く. | |
| ノ / .イ .:| ./ __,V ミ¨’ ヽ|ヘ{ _ ヽ 丶|}ハ }、 V | _ 人 _
..,/ / | :∧{! ′ 从}ノ `} ! `Y´
_人_ /′ 人{:..:ト >ァ=='^ ^`===ぐ' i{:.. 小 ト、 | l
`Y´ / ′ ∧、ハ:j xxxx , xxxx }|:. {.∧ l \ - + -
/ / / ./i':..小. 小 iト、.ヽ . 丶 l
! ' / //../ .i!/ l|7ヽ iー―‐‐r イ: |:. l|:.... ..丶 、 ヽ.
- + - / / / /../ ..:l|′l!...:il:\ 、 ソ .イ:l{:l:..l:. l|:...ハ... ヽ. ヽ. _人_
! / / / / /′..i| l| .:ルくfミi . `ー ´ . rく`Yト、!|从.. V....∧......\ ∧ `Y´
/ / / /.{ ..l| l|./ { ≧` ニニ ´ 彡 {ノ∧i:.....:.. V.......l!:......{ \ ハ
.′ { / .′..__| l|′ 丶 , -<_`ヽ./ ヽ.∧.. V:....|:.......l ヽ、 | 十
ノ l / , く´ | ll \/ , -<__\} 厂 :.. ヽ、}:.......| } |
../ ∨ /./ ヽ. | lト、 / / /- 、 ヽ.ヽ / ヽ. ヽヽ....V / {
'′ } / ,′ ヽ.| l| ヽ `i(ノ' , -‐ヽ__)i′ / ∧ Y:....∨ / |\
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 44
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1243236991/l50
2 :
|ω・`):2009/06/03(水) 05:49:19
おう
>>1 乙!
…しかし、こう、九州説が光明を見出せるようなニュースってないよなあ。。
4 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 09:07:28
この間の箸墓の件、春成氏の独走がすぎるということでもう話題にもなりませんですね。
5 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 09:57:32
>>4 歴博グループの今回の研究発表の主眼は、古墳時代初頭の
土器型式である庄内式〜布留0式の実年代がいつか、
これを理化学的年代測定法を用いて測定した、という点だろう。
春成名誉教授のコメントは確かに要らずもがなの感もあるが
べつに目くじらを立てるほどのことでもあるまい。
コメントの有無にかかわらず、理化学的年代測定法で箸墓古墳の
築造期の実年代を探って、一定の数値が得られた点が重要で、
較正をどうしたか等々、細かい批判点は色々あるかもしれないが、
研究の意義は大いにあった。
今後もこの研究成果は議論され、何かにつけて話題になるだろう。
6 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 10:11:51
目くじらをたてるほどのことでもあるまい、とは、これは春成氏の研究姿勢の問題であろう。
勿論この姿勢はかれの研究成果にもあらわれるものである。
つまり、彼の研究については、あまりにも恣意的でとりあげるわけにはいかないということになる。
こういう年代測定って第三者機関がやらないと、あまり意味がないと思うんだよね。
○○年のはず、的な予断を持ってたらまずダメでしょ。
とはいえそんなトコないだろし。
8 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 10:22:16
そもそも有名なところで笠井新也とか箸墓=卑弥呼の墓なんて昔から言われている事だし…
邪馬台国論争に関わった学書の研究は全て信の置けないものになるって事だなw
まあ、焦りなさんなw
9 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 10:25:21
大体、考古学者の殆どは畿内説と言われている現状でどうしろと?w
10 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 11:04:02
そもそも箸墓が卑弥呼の墓とされたのは、箸墓は女性の墓だということと大きさが卑弥呼の墓に近いということからである。(その前に邪馬台国は大和という先入観があるが)
ヤマトがヤマタイコクとされたのは語呂がにているからである。
つまり、初期の邪馬台国論は語呂合わせで進んだのである。
現状でどうしろと
考古学者は邪馬台国論争から撤退していただきた。出土品の年代はいつごろとだけ正確に算出し、
だからこれは卑弥呼の墓だなどと妄想しないでいただきたい。
11 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 11:06:16
>>6 学会発表のどういう場面で春成氏が卑弥呼に言及されたのか、
じつは小生も新聞報道しか読んでおらず、よく分からないのである。
箸墓周濠出土の布留0土器の付着物にからこれを240〜260年と測定し、
箸墓築造もこの時期であったろうとは、春成氏ほか歴博グループの
研究者全員が一致してそう考えたのであろう。
その上で春成氏が箸墓を卑弥呼の墓と断じたのは、春成氏独自の
推論があったはず。そう考える然るべき理由もあったことだろう。
しかし今の段階では、その詳しい理由は新聞等で報じていないので、
春成氏自身からの論考発表を待つしかないと思っている。
なお文献史料の問題点を、考古学専門家が論及していけないとは、
小生は思わない。
学問の自由は、立場の違いにかかわらず誰にでもあるのだから、
最大限尊重されるべきである。外圧で研究者の口を封じてはいけない。
12 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 12:02:01
>>10 >初期の邪馬台国論は語呂合わせで進んだのである。
九州説は今もそれをやってる。
というより、それが彼らのほとんどすべてと言って良い。
13 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 12:34:15
考古学者の本は、少し読めば明らかなように単なる思い込みで書かれている。
学問的な価値はないんだから、放っておけばいいんだよ。そのとき、そのときの
新聞ネタにはなるだろうが、すぐに忘れられる内容だ。
恨みつづる
九州男子の
目に涙
16 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 13:11:40
九州説の間では、アポロ11号が月に行ってないことは常識だよな。
アメリカとユダヤの陰謀は常識だし、物理学に学問的価値はない。
17 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 13:16:31
大和と邪馬台国が同じだとしてる畿内説
畿内説の考古学者が大阪のおばちゃんみたいな発想してる、それが素晴らしい
涙目を
拭きても拭きても
また涙
19 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 13:40:29
九州説「おまえらはノストラダムスの大予言を正しく解釈してない」
「鉄の○○とはナチスのことで、○○の人々とはユダヤ人のことを指してるのが分からないのか!」
20 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 13:43:30
でも、正しく解釈したはずなのに何一つ出てこない。
しょせんはアナグラムやコジツケの域を出ない。
21 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:24:17
弥生時代の絹と鉄と三種の神器で、畿内説は死んでいる
畿内説が一度も反論できないので笑えます
ひきつりて
笑う口へと
涙落ち
23 :
↑:2009/06/03(水) 14:50:31
追い詰められて、箸墓だけにすがって生きる、畿内説の悲鳴あわれ
24 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:14:33
絹や鉄は動産。
動産が出てくるからといって、そこが邪馬台国であることを証明したことにはならない。
呉や佐世保で軍艦を作ってるからといって、そこが首都であるわけでもないし、
日本とは別個の独立国だということにならない。
25 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:16:23
要するに都に推定される遺跡を見せてくれればいいわけです。
26 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:20:15
都や王墓が出てくるからここが都だろう
これが普通
鉄や絹が出てくるからここが都だろう
説得力なし。
27 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 15:37:49
都の跡なら鉄や絹が出てくる
鉄や絹が出てくるからここが都だとは言えないが
鉄や絹が出てこない所は都の跡ではない。
28 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:04:58
鉄や絹が出てくるから邪馬台国は纏向に決定した。卑弥呼の巨大な古墳もある。
29 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:10:08
以前、歴博のC14年代測定で、弥生時代の始まりが紀元前10世紀とされた。
これは大きな話題になったが、実は九州大学でも出土人骨を用いたAMS法による
年代測定が行われた。
その結果は、歴博年代論に比してはるかに妥当であるものの、なお50〜200年は
古く出ており、依然として海洋リザーヴァー効果による年代の遡上を十分に
補正できていないと判定できることから、さらに内陸部出土の人骨やシカ
などの草食動物骨を用いたAMS法の実施と、より有効な海洋リザーヴァー効果
補正法の開発が急務となる。
となっている。こちらはあまり話題にならなかったようだが。
要するに、海洋性の日本では、もともとC14の濃度が低いため、AMS法では
年代が古く出がちということだろう。
これが、海洋リザーヴァー効果ということなのだろうな。
30 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:19:26
倭人伝に出てくるものが出てこない畿内に勝ち目なし。
31 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:33:15
畿内説とか、まったく眼中にない、ツーカー畿内説は面子の固まりにでしかない
32 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:50:05
鉄と絹で決まりって本当に何もないんだな。
33 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 16:54:35
そもそも「南」を「西」にわざわざ読み替えるのも
いかがなものかと思うんだが・・・
そしたら伊都国までの行程はどうなっちゃうのさ
俺は九州でも畿内でも無いと思うね
34 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 17:00:00
畿内説に何言っても無理なんだけどね、今回奈良での測定の結果、卑弥呼と一致する年代だから確定なんて言ってるのが痛い
九州にも四国にも一致する年代は確認されてるはず、四国はわからんが、九州ではされてる
それを知らなかったのか?それともゴットハンド?なのかわからないが、測定だけで確定と決めつけるなんて、たいした考古学者ではないと思う
35 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 17:43:22
またゴットハンドか。
根拠もないのによく頑張るね。
36 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 17:50:23
>>34 >九州にも四国にも一致する年代は確認されてるはず
はあ?
何を言っているのか意味不明だな。
何処かの墳丘墓の年代か?
具体的に言え。
37 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:03:56
997 日本@名無史さん New! 2009/06/03(水) 01:04:01
千なら畿内説はうんこちゃん
998 日本@名無史さん New! 2009/06/03(水) 01:05:30
千なら畿内説は妄想でしかない
999 日本@名無史さん New! 2009/06/03(水) 01:06:58
千なら邪馬台国は九州で決まり
九州派はアホな上に1000も取れずw
38 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:04:23
>砂鬼四荼羅
前にも誰か書いてあったが邪馬台国に一切の先入観の無い中国の学者
(漢籍の知識があれば日本人でも良さそうではあるが日本人なら多かれ少なかれ先入観はあるだろうから)
を何十人か集めて先ず文章だけで大まかなイメージをさせ後に地図上でそれを再現させる・・・
これが一番「素直な読み」だろうが結果は大体想像がつく
・・・と言うか皆分かっているはずだw
「文章どおりに進んだら九州のはるか南方の海中に没する」とその学者達は一度は行き詰まり頭を抱えるだろうwww
で、どうしても地上の何処かに収めるために方角や距離を弄って(この段階で放射説のアイデアが出るかもしれない)
百家争鳴の状態になるとwwww
そもそも倭人伝の読み解きだけで「(俺様が言っている)九州説が正しい」なんてどうして言えるって話で
良く「文献史学者も今は殆ど畿内説」なんてレスを見る事があるが
正確にはまともな文献屋さんなら倭人伝だけで位置を特定するなんてきっぱりあきらめるんじゃねのか?wwwwwwwwww
39 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:09:24
九州説は否定できるよ。
北九州なら伊都国に外交機関を置く意味がない。
南九州だったら、女王国より北の国は里数が記載できるはずなのに、
不弥国までしか記載されていない。
つまり九州ではありえない。
40 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:24:33
17?年〜248年 卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命)
???年〜258年 崇神天皇
258年〜311年 垂仁天皇
>>39 そんなことは皆思ってる。
だけど、畿内だとしてもあり得ないことが書かれてる。
これほどまでに九州畿内が揉めるのは伊都国での議論がないからだ。
この定説になってる日本語訳に問題がある。
43 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:33:32
世に王あり
なんでこれが代々の王と訳すんだよ!
45 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:42:34
地図で見ても、唐津の呼子から糸島半島(伊都国)から志賀島(金印)と、うまいこと繋がってるね。
対馬、壱岐、呼子、なるほど九州説が有力なのがよくわかる
46 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:45:24
>>38 倭人伝の通りに南にいけば、南シナ海に出てしまう。だから、南は東の
間違い、というわけだろう。
でも、水行がどれくらいのスピードか分からないのに、勝手に南シナ海までの
距離と決め付けるのはどんなものだろうか。
しかも、よりによって、だから、南は東の間違いなんていうのは、初めから
目的地を決めている論法だろうな。
九州説は有力というか確定してるだろ…
畿内巻向、邪馬台国への玄関口として。
48 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:50:00
>>44 それは、「世有王、皆統屬女王國」だろう?
「代々王あり、皆女王国に統属する」と訳すのが普通かな。
49 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:00:43
>>41 >そんなことは皆思ってる。
何だ、思ってるのかよ。
なら九州はないということだな。
もはや九州説を貶すしか手がないとは見苦しい。
早く畿内説を語ってくれよ。道程も説明してくれ。
51 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:28:12
実際魏の使者が倭国は南に長いと認識していたから、東を南と書いてしまった。
不弥国からは瀬戸内航路で、水行二十日で吉備の投馬国へ、そこから水行十日又は陸行一月で巻向の女王国へ。
陸行の場合一月かかる理由は推測するしかないが、敵対勢力が邪魔で迂回した進路をとらざるをえなかったから。
54 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:35:14
日本海コースで
投馬国=島根半島の恵曇(えとも)
(ちなみに御覧引倭人伝では投馬=於投馬(えとも?いずも?)
丹後・若狭辺りから一路南下で纏向。
恐らくツッコミとして
「なんで波の穏やかな瀬戸内を通らない?」
「大和川の遡上の方が余程楽」
…と言うのがあるだろうが
そもそも倭人伝の行程記事の元となった情報が魏使のものとは限らない。
つまり魏使は確かに卑弥呼の下に行ったが
邪馬台国までの行程の情報は伊都国あたりに常駐していた郡使によるもの。
で、その郡使の耳に入った情報と言うのが
日本海ルートを往来していた山陰の人間から得た物だったと。
そうすりゃ当然日本海コースを使っての説明になるw
…ただしこの説、副作用として「放射説」の可能性が出てくるwww
つまり郡使の放射状コースで説明した物がどこかで連続式になっちゃったとwww
陳壽本人は当然連続式で書いたと思うが元ネタがそうであった保障は無いwwwwwwwww
>>51 南に長いと認識していた、というのはまさか1400年代の韓国だかの地図を根拠にしてないよね?
56 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:42:09
魏志倭人伝をどう読んでも、どこにも畿内の文物が出てこない。
畿内説を、真面目に検討するだけ無駄だと思う。
57 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:48:33
温暖な気候や照葉樹林の記述があるし、これって南方系の描写だよね。
魏の使者からしたら、半島からずっと南下してきたので、
倭国も半島と同様に南に長いと認識していたのだろう。
58 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:50:36
外国の使者は伊都国に駐留してるんだし、畿内の記述がないのはあたりまえ。
畿内の冬が温暖とは
60 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:58:37
>>57 ちなみに現在の箸墓を覆っている木々は照葉樹だとか…
たしかに古墳って遠くから見てもチョッと樹木の雰囲気が違う場合が多いように思う。
上手く言えないが「モコモコ」っとした感じでカリフラワーっぽいっちゅうかwwwww
61 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:01:05
>>59 基準を何処に置くかだなw
今でも北海道の人間からすればチョッと小雪が舞ったぐらいで
騒いでる関西人なんか馬鹿に見えるだろうしwww
62 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:02:26
>>45 地図を見て、唐津の呼子から船で伊万里湾、九十九島、佐世保湾、大村湾、天草、島原湾など、有明海から陸で呼子まで距離がわからないな、有明海から大きな川で筑後川があるね
63 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:02:47
現代人の認識を捨てねばならん。九州は台風の上陸率が高いから、
古代では大変な被害がでたはず。なので畿内に中心で九州は一地方だったはず。
>>61 風俗が海南島と同じと描いてあるのに、基準は北海道?
65 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:10:38
魏志倭人伝では対馬(対馬国)壱岐(邪馬壱国)であれば、次は唐津(呼子)・・・
魏志倭人伝から畿内説に持ってくには、無理がありすぎるんだよ。
>>58のずーっと福岡あたりにしか滞在してない、って方がまだしもマシ。
となると以下全てはあやふやな伝聞情報となり、邪馬台国の存在さえ不確かなものとなる。
>>64 「海南島と同じものはなし」って書いてある
68 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:26:14
道程からでは女王国の位置は割り出せないね。
倭国大乱が九州限定だったか、西日本一体だったかで、女王国の位置も決まると思うね。
高地集落の分布状況から、西日本一体の可能性のほうが高いし、
倭国大乱後に卑弥呼が共立され、女王国中心の連合体制になるんだし、
その当時の倭の中心地は巻向だから、卑弥呼は巻向にいた可能性が高いね。
69 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:33:03
唐津の呼子から有明海までの距離がわかる人いる?
>>68 どの地名に置き換えてもいいテンプレ文かw
71 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 20:37:05
>>67 『所有無與儋耳朱崖同』
>>67さん以外は、上記を読んで何故海南島と同じであると思うのかね?
>>66 無理が有りすぎるのは九州説も同じ。
特に候補地が北部九州では巻向以上に無理がある。
気候風土的には南九州、歴史的考察では畿内巻向でしょ。
特に百襲姫という候補までいる以上、畿内説有利は動きようがない。
74 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:45:40
気候風土的には、有明海よりの福岡県だな。
>>72 俺は南部九州だと思ってるよ。北部九州だと思ってる人いるの?
76 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:48:55
南九州で対抗できるのは高天原の天照くらいだなw南九州説の場合、邪馬台国は東遷することになるし。
まあ東遷なんて考古学的にはありえないけど。
77 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 20:53:39
唐津の呼子から有明海まで徒歩で行くのに、あまり時間がかからないとすれば、邪馬台国はこの一帯ではないかなー
対馬、壱岐、呼子、有明海
78 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 20:55:31
>>73 『所有 無與○○○○同』
有る所は、○○○○と同じで無い。じゃないのかね?
即ち「○○○○と同じものはなし」の意味。でしょう?
大和地方のみ発展してたと考える方がおかしい。
大体、魏志倭人伝を、6世紀後に編纂された日本書紀の神話に合わせろって言われてもね。
80 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:02:44
南部九州と思ってる人の理由が知りたい
>>79 大和地方のみ発展なんて誰も考えてないと思うけど。
それに日本書記の神話にしても、何らかのモデルはあるでしょ。
83 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:25:44
せっかくカッパがいなくなったのに、まだ漢文珍解釈やるやつがいるんだな。。やれやれ、
うんざり。論理学とまではいわないけど、せめて言語意味論を学んでから出直してこい。
84 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:25:57
85 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:36:39
九州説は崩壊だな、
86 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:41:20
南部九州説だと狗奴国はどこ?
87 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:49:36
ま、インドネシアだろう。
89 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:57:30
たしか狗奴国は女王国の南だから、南九州説だと、熊本宮崎はないな。
鹿児島くらいしかありえない
90 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:10:49
91 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:32:45
92 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:36:22
93 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 22:36:35
>>81 >その前の文を嫁。勝手に余白を作るな。
勝手に余白を作るな。
原文は文字間が等間隔。区切りがわからない君の為、読みやすいように区切って書いただけ。
原文には句読点もないのだ。
>その前の文を嫁。
その前の文には、儋耳朱崖によく似た倭の風俗が書かれている。
しかし、「儋耳朱崖と同じものではない」と書いてあるのだ。
ついで、「倭地は(儋耳朱崖と同様に)温暖だ」と続いている。
>>83 >論理学とまではいわないけど、せめて言語意味論を学んでから出直してこい。
半世紀近く前、名物教授のもと、論理学を勉強しました。成績は優でした。
倭界頃の学習だったので、まだまだ良く覚えています。
94 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:49:55
説得力ないし、カスリもしてないじゃん!南九州ないと思うよ
96 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:57:37
>>92狗奴の読みはクナではない、クトだ。
奴はトと発音するのが正しい。
クトは転訛してウトとなり宇土半島にその名をとどめている。
97 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:58:56
南九州説よりも畿内説は劣る
98 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:00:58
説得力のある畿内説なんてあるわけねーだろうがWWW
>>96 >奴はトと発音するのが正しい。
通説と違うね。根拠は?
こくちひこが菊池彦なら狗はキと発音したんだろ。
キノコクつまり紀の國
畿内派の屁理屈に付き合う必要ないよ。
地名が残ってりゃ、こじつけてるだけ。
地名が無けりゃ、説得力がない。
呆れるわ。
103 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:24:53
学生の頃匈奴(キョウド)奴隷(ドレイ)とならいました。また、奴婢(ヌヒ)とも習いました。
けど当時は奴はナと発音する(した)とはおそわりませんでした。
名と発音するようになったのは、千五の邪馬台国研究社らが、奴国がナ国と読むのが都合がよかったので、
強引に奴はナと読むと主張し、言語学者もそれにひきずられて、歴史学者がそういうなら無視できないそうだったのだろう、
として最近は辞書にもナとのるようになったのです。
104 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:32:35
伊都国(前原市)から先に進まない
いや、マツロから進まない。
ずっとそこに住んだらいいよ
107 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:51:02
そろそろ九州王朝の出番ですよ。
108 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:53:50
>>103 漢和辞典を引いても、「奴」は「ど」あるいは「ぬ」の読みしか書かれて
いないね。
また、ひらがなの「ぬ」は、「奴」の草書から来たものらしい。
となると、「奴国」も「ぬこく」が正しいのかも。
奴国は以前から福岡市付近に比定されていた。ここは那の津とか呼ばれて
いたらしい。地名の類似ということで、奴国を「なこく」とせざるを
得なかったということかもしれない。
奴国を「ぬこく」と読めば、福岡市とは関連がなくなり、奴国に比定する
必要もなくなるなあ。
>>78 > 『所有 無與○○○○同』
> 有る所は、○○○○と同じで無い。じゃないのかね?
> 即ち「○○○○と同じものはなし」の意味。でしょう?
素朴な疑問。
その解釈だと倭地の説明にわざわざタン耳・朱崖を引き合いに出す理由が全く無いですね。
それと接続辞「與」を挿んでいるので、「無」と「タン耳・朱崖同」は同格になるかと思いますが、
王朝さんの解釈では「無」は「無い」で述語、「タン耳・朱崖同」は名詞になり、「與」の機能には合わないかと。
やはり、ここは「タン耳・朱崖」と同格となる言葉は「所有無」でしょう。
「所有無」とは「男子皆露ケイ〜」以下の風俗説明を受けて「(これらの)ところの有無は」と解したい。
110 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 00:06:15
つまり語呂合わせですすんだとなると、どうしても奴国のオンのところが博多近くになければならないと考えたwけです。
それで、ヌとナは同じな行だなとばかりに(ナノツがあった)強引に奴をナとしたのです。
111 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 00:08:32
>>102 地名をこじつけてるのは九州説も同じだがw
113 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 01:23:59
九州説が圧倒してる事実を受け入れる勇気がない畿内派
>>103 匈奴をキョウドと読むのは、日本式の音読みだよ。
匈奴は世界史ではフン族。
中国の発音で「フンヌ(ナ)」のヌ(ナ)はヌとナの中間の息を吐く
抜ける音だったので、フン族といわれた。
匈奴にも奴国にも「奴」の字が使われるのは、画数が少ない漢字を外来語の
当て字に使ったから。
「奴国」はヌコクと読むよりもナコクと読むほうが音便が自然である。
これをドコクとかトコクとか読むと当時の中国音を無視することになる。
九州説が圧倒してるのは金儲けのイベント数だな。
異論は認めない。
ぬこ国
117 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 01:49:29
>>115 くやしいのか?!畿内説の信憑性がまったくないおかげですよ。
118 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 01:56:26
九州説という間違った言葉の使い方はやめるべきだ。
九州説といっても、九州のはずだというだけで、その中身は千差万別で互いに矛盾してる。
山門なのか、博多なのか、甘木なのか、宮崎なのか、宇佐なのか、あるいはもっと別のところなのか。
その山門でも、福岡なのか、熊本なのかで全然話が違ってくる。
九州説と言うから、素人に九州vs畿内のような誤解を与えてしまうが、
実際は福岡山門説vs纏向説、熊本山門説vs纏向説、日向説vs纏向説というべきだろう。
119 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 02:00:20
>>118 まずは魏志倭人伝を読め
邪馬台国より卑弥呼の立場を考えてみればわかる
120 :
九州王朝大好き:2009/06/04(木) 02:11:12
>>109 「うましか」さん
>それと接続辞「與」を挿んでいるので、「無」と「タン耳・朱崖同」は同格になるかと思いますが、
『所有 無與儋耳朱崖同』とそっくり同じ「與」の用例が下記です。
『言語 不與夫餘句麗同』魏志挹婁伝
魏志東夷伝には「與」の用例が30箇所近くありますので、あえてそっくりな用例を1つだけあげました。
>その解釈だと倭地の説明にわざわざタン耳・朱崖を引き合いに出す理由が全く無いですね。
倭は風俗だけでなく気候も儋耳朱崖に似ているが全く別ものであるとの注意書きです。
古田武彦流儀の反論は嫌いなのですが、うましかさんの突っ込みが鋭いので。すみません。
121 :
田5作:2009/06/04(木) 02:17:33
匈奴はフン族かぁ。
ジンギスカンはラムよりマトンが好きです
122 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 02:30:55
123 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 02:32:23
124 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 02:44:06
>>122 なんでさ、まともやんね。邪馬台国も九州国の一つとして考えたらね
それに卑弥呼が巫女なら庶民の支持もあり九州中に信者がいたでしょう。
今は邪馬台国がどこかよりもどの辺かが問題でしょう。
126 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 02:58:47
オカルトなくだらん推測しますよ
卑・弥呼
日・巫女→日(太陽)巫女→神に使える者(天気、飢饉、病、災い)おさめる事が出来る人
邪馬台国は古代シャーマンの集まりですよ。
妄想乙
そうだよな、諸国王の下にも祭祀儀礼の小卑弥呼が当然居るよなw
まあ、首里王府の変則系みたいなもんか。
>>117 証拠も確証もないのにイベントばかりしてるのは、
単なる印象操作だな。、それは変な宗教と同じ。
少なくとも九州内では候補を統一しなきゃね。
129 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:17:42
あ〜ぁ、畿内派に同情するよ。畿内派とのいろんな論争が楽しくてしょうがなかったのに残念だ。畿内派の卑弥呼の墓と推測してるとこの調査はこれ以上出来ないのな、言ってる事わかるかな〜
畿内の調査は限界に達し何もわからないまま終わったってことなんだよ。今後、現状維持で言い張ることしかできないわけだよ、希望も夢も失ったんだよな、畿内派にお悔やみ申し上げます。
九州説の人はさっさと調査を進めて、納得させる候補地や
人物を出せば良いだけ。情けないとは思わないのだろうか?
つい最近までは九州説に傾いていたが、今では巻向が
注目されてるのは事実なんだからね。
131 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:32:50
ヤマトのゴロあわせだけだと、各地にヤマト地名があるのでヤバくなり、
[三角縁神獣鏡=卑弥呼の魏鏡]説も鏡が100枚以上出てきて破綻しちゃったので
次はゴッドハンドで箸墓の年代を卑弥呼まで繰り上げました。
畿内説の歴史は捏造の歴史です。
132 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:34:19
× 今では巻向が注目されてるのは事実なんだからね。
○ 今では箸墓の年代判定偽装が注目されてるのは事実なんだからね。
133 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:40:51
九州にはたくさんの候補地があるわけで、別に焦らなくても邪馬台国が九州だったと確信していますし、大半の方がそうだと思いますよ。
畿内説は調査打ち切り、限界終了ですからよかったら九州説を手伝いませんか?! その方がロマンがあるよ!
134 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:50:20
魏志倭人伝のどこを読んでも、畿内の気候風土に合致しません。
倭人伝に出てくる建築は九州の吉野ヶ里等に見られる様式のものばかり。
福岡県から出た金印や弥生の絹が、歴代の倭人の国家の所在地を示している。
トンデモ畿内説では、畿内が福岡県を配下に置いていたから矛盾無しとするが、
これは畿内説が、ゴッドハンドの援用をしているだけでなく、
畿内説自身がすでにオカルトの領域であることを示しています。
135 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:51:28
最後の調査が測定しか残されてなかったんですね。
ゴットハンドを使ったお気持ちわからんでもないです。合掌
畿内説なら福岡(少なくとも関門海峡から玄界灘の制海権)を押さえてないと魏との交流は不可能だろ
遣唐使だって新羅付近の制海権を失った以降は東シナ海横断ルートという命懸けのルートを使わざるを得なくなった
137 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:24:39
気候風土がおかしいというなら九州でもない。
冬に生野菜なんか食べられない。
138 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:25:45
>>136 >畿内説なら福岡(少なくとも関門海峡から玄界灘の制海権)を押さえてないと(以下略)
押さえていたはずだよ。
あなたの言う通りで、畿内側からして福岡がもし敵対地であったなら大陸との交流は困難だろう。
畿内説論者のほとんどがそう考えている。
畿内説論者は3世紀に畿内と九州が対立していたとは思っていない。私もだ。
しかし九州説論者のかなりの人が「畿内対九州」という対立概念を持っているようだね。
139 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:26:58
うちの母親は鹿児島の坊津生まれだったが、生前、大阪より鹿児島の方が寒いと良く言ってた。
140 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:27:47
>>134 そうですね。弥生の終末に九州勢力に征服された銅鐸国が北九州を支配下に
おいたなどという可能性は皆無です。
141 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:28:43
気候的には福岡もおかしいでしょう。
142 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:32:12
143 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:38:20
現代なら大阪と鹿児島なら大阪の方が暑いよ
144 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:41:33
145 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:42:30
1971年〜2000年(平年値)における、「年間の真夏日の平均日数」の多さは、
全国主要都市では、那覇(85.3日)、鹿児島(71.3日)、熊本(71.2日)、
大阪(67.9日)の順。大阪が1番ではないものの、沖縄・九州の“南国”に
混じって4位にランクインしているので、大阪は相当暑いということになる。
今回の論点は“真夏の暑さ”ということで、「8月だけ」を見ると、
大阪は鹿児島と並んで27.7日で1位。おお。日本一暑いではないか。
さらに、「8月の日最高気温の平年値」は、大阪が33.0℃でなんと
全国主要都市の中で1位とのこと(2位は京都で32.9℃)。
これだけのデータがあれば、真夏の暑さは大阪が日本一強烈と
言ってしまっても十分良いのではないだろうか。
146 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:45:18
147 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:46:04
>>142 悪いが何度も何度も聞いてる。
夏は鹿児島の方が暑いそうだが、冬は寒いらしい。
昔と今とでは建物の断熱性なども違うので一概に正しいと言う気はないが、
少なくとも、九州が熱帯性の気候で冬でも生野菜が食べられるということはない
148 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:48:42
>>147 鹿児島に行ったことあるんか?ないくせに嘘ばかり言うなよ
149 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:50:26
気候的に畿内がないと言いながら、他方で福岡や熊本を比定地にする九州説は矛盾してる。
150 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:50:35
大阪は大阪湾が原因で熱が溜まったままになって暑いらしい
気温だけじゃなくて湿度も多分全国最高だしね
年間降水量も何年か前の調査じゃ全国で下から二番目だった
昔は河内湖があったから、更に暑い条件が揃ってるよね
151 :
138だが:2009/06/04(木) 15:52:40
>>138だが
下から2行目、
>畿内説論者は3世紀に畿内と九州が対立していたとは思っていない。私もだ。
の「九州」を少し改めて、「北部九州」に変えさせてもらう。
3世紀の南九州にはまだ一部に畿内王権と対立する勢力が存在したかもしれないから。
しかし正直言ってこの点、私にはよく分からない。もっとよく勉強しなくてはと思っている。
152 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:56:27
で、なんで鹿児島が関係あるのかよくわからんが無知なのか?
153 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 15:58:43
154 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:01:57
「気候的に温暖な筈だから鹿児島とか宮崎だ!だから九州説は正しくて畿内説は間違い!」
これが言いたいんでしょ
鹿児島が暑い暑いと言いたい人は
155 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:08:53
156 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:15:35
倭人伝の温暖云々は倭の地全般に関する当時の中国人の認識だろう。
邪馬台国は温暖にて…と倭人伝に記載されているわけではないから。
邪馬台国の位置比定の決め手には使えないと思う。
157 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:19:19
今後期待の持てない畿内説惨めすぎWWWWW
158 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:32:49
九州派の気候論は崩壊したな
159 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:00:51
つまり九州でも畿内でもないということで
実は関東だったり
160 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:09:34
>>156 倭の地全般についての認識がどうしてできるんだ。
161 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 18:00:59
地図みたら畿内はないと思うのだが
162 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:02:45
邪馬台国九州説の人は古事記です。
163 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:22:33
三世紀の古代人が、現代人と同じ地図の認識があったわけないだろ。
江戸時代前半くらいでもまだ日本は広大な領土を持った国くらいの認識しかない。
まして古代人なら、ひょっとしたら、九州を本州と間違え、南にいけば九州があるとでも思ってたんじゃない?w
権力が封建化し囲い込めば地理観なんて退化するだろなw
165 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:39:17
畿内説って面白くないしネタもないから、畿内派はこれ以上しゃしゃり出るなつーのW
166 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:50:36
その、邪馬台=大和 ってなだけな真実を、あれやこれやと
無駄に解釈して議論したりしてるだけ。そんな無駄なことに時間費やしてるやつこそ面白みのないやつ
167 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:28:17
鹿児島や大阪より抜群に暖かいのは、有明海沿岸。
畿内はどうひっくり返しても邪馬台国として不適。
168 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:39:21
>>165 >」畿内説って面白くないしネタもないから
いやお前の言うとおりだ。
「面白さ」では畿内説は九州説には勝てないw
現に過去、コミックや映画小説で邪馬台国をネタにしたものは殆どが九州説じゃないかな?
なんせ想像の領域が大きいから話を膨らませ易いwwwww
おまけに「王朝説」だの「東遷説」と言った強烈なオプションもある。
(もっともオプションじゃなくてそっちが本命かもしれんがw)
どうあがいても畿内説じゃあ面白さで九州説に勝てる道理が無い…orz
169 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:41:45
トンデモ東遷説は、オカルト畿内説の専売特許
170 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:43:05
畿内説なら、ゴッドハンドで箸墓の年代も自由自在
なにこれ
罵りスレ?
172 :
九州王朝大好き:2009/06/04(木) 20:54:36
>>167 有明海沿岸より更に暖かいのは熊本平野。
熊本の桜の開花時期は、有明海沿岸より1週間は早い。高知とほぼ同じ。
冬の温暖な気候が示す邪馬臺國は有明海沿岸(久留米南部)。
伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬臺國は有明海沿岸。
狗奴國は熊本。
奈良の冬は盆地で底冷えして寒いぞー。冬の生野菜は無理。
最近は温暖化して(ミカン栽培が出来るようになった)それほどでもないが。
それにしても60年前は寒かった。
>>167 自分の邪馬台国比定地が一番暖かいと言い張ってる希ガス
畿内説も大阪だの奈良だの山口だの、全然統一してない。
175 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:19:58
>>174 山口は畿内じゃないぞドアホw
それに山口とか言ってるのはナントカ言う超能力者の言った事を真に受けている
九州説の人間じゃなかったか?www
相容れない説=九州説と決めつけてますね、危険な思想です。
177 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:59:01
そう言えば以前「京都県」なんて事を言っていた馬鹿がいたがw
(サイキバ君だったのかな?)
思想の問題じゃなくて知能の問題だろうwwwwww
しかし、歴博の一件で人が増えたな。前はこのような場合、九州説の代表者の一人として
安本氏がコメントを求められることが多く、「棺有れども槨無く」や「径百余歩」を用いてお決
まりの反論をしていたのだが、今回はどうなのかな?
まあ、歴博の件では、年代観もそうだが調査の手法に関する疑問は畿内説からも多く出て
るよ。
学閥なんか関係ない一般人は自由な発想ができる。
専門的に学んでる人とって、それこそ鼻で笑うようなトンデモ説も飛び出すが、
妙な先入観なしに柔軟に考える姿勢は、まず研究者こそ持つべきと思う。
>>178 その反証を覆せてないだろ。
っていうか、箸墓が卑弥呼だと確定すれば余計に魏志倭人伝の不確かさが明らかになってしまう。
181 :
178:2009/06/04(木) 22:46:38
まーねえ、真の一般人(何のこっちゃ?)なら先入観もないんだろうが、このスレには東遷説や
南九州説に固執する頑迷な一般人?がけっこういるんだよ。
え? 畿内説に固執する頑迷な一般人がいないとでも?
南九州は宮内庁関係ねぇだろ。どんどん掘れよ。
184 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 22:59:54
宮崎県は日向国ということで神武以前の神話時代の天皇家の祖先の墓と比定されるらしいよ
185 :
178:2009/06/04(木) 23:19:10
神代三山稜は明治期に比定されたが、けっこうスッタモンダがあった。特にウガヤフキアエズ
とタマヨリヒメの吾平山上陵の比定については異論が大きかったんでなかったかな。
自然丘陵に見えるが、掘ってみるのは面白いだろう。しかしここらも宮内庁の陵墓参考地で
発掘は不可だな。
欲かき過ぎだぜお役人、何がしたいんだよw
187 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:36:22
>>183 男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳は陵墓参考地。瓊瓊杵尊とその妻の墓との
伝説がある。南九州もけっこう宮内庁に管理されている。
>>185 鹿児島県の可愛山陵、高屋山上陵、吾平山上陵は、御陵じゃなかったかな。
日向三代の御陵だが、全部鹿児島県にあるのは、指定されたのが明治時代で
薩摩藩の政治力がものをいったらしい。
しかし、全て宮崎県という説も根強く、それぞれの場所が宮崎県で陵墓参考地
として宮内庁の指定を受けている。
188 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:47:50
189 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:53:08
190 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 23:59:33
>>120 横レスにご丁寧なレス、どうもです。
> >それと接続辞「與」を挿んでいるので、「無」と「タン耳・朱崖同」は同格になるかと思いますが、
> 『所有 無與タン耳朱崖同』とそっくり同じ「與」の用例が下記です。
> 『言語 不與夫餘句麗同』魏志挹婁伝
無與・・・同、同じじもの無し、ですか。
不同、無同・・・私には「無」と「不」では、例が異なるように思えます。
否定的に比較した記述としては、韓伝(辰韓)「其言語不與馬韓同」、
同じく韓伝(州胡)「言語不與韓同」、ユウ婁伝「言語不與夫餘、句麗同」
皆、不與・・・同、・・・と同じからず、が使われていますから。
192 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 00:15:55
193 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 03:12:22
近畿説は証拠がないものだから、講演会や企画展で支持者を増やそうとしているんだな。
194 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 05:20:17
九州説は煽りしかできなくなってる。
かなり追いつめられてると見た。
そのくらいで煽りとは、随分と過剰反応ですね
196 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 06:20:36
> 律令制下では怡土郡(いとぐん)と志摩郡(しまぐん)に分かれていた
今は半島だけど当時の島が志摩で山側が怡土(いと)だったんだってさ
こりゃもう怡土郡は伊都国でしょ
197 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 07:24:59
語呂合わせだけで判断してはいけませんよ。
198 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 08:09:28
奴国は、名島。
199 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 09:03:41
畿内派は現場に行ってそこから書き込みしなよ、ネタが全然なさ過ぎて、畿内説の援護もこれ以上きびしいよ。
200 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 11:04:56
馬鹿の一つ覚え・・・「広範な首長連合を想定する畿内説」
考古学的に、広範な首長連合の証拠がさっぱりないのだ。
むしろ銅鐸文化圏のなかにありながら銅鐸がない、
全国的にも孤立していたのが畿内。
連合がいちばん見られない地域が、3世紀の畿内といえる。
201 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 11:55:20
>>200 > 律銅鐸文化圏のなかにありながら銅鐸がない、
大和は 人口が少ない空白地帯だったのかな。九州勢力に征服され、銅鐸を召し上げられて
鋳つぶされてしまったということも考えられるが。
3世紀で畿内の何処が孤立してるんだよw
203 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 12:12:16
なぜ銅鐸が忽然と消え去りあるいは破壊されて出土するのか
俺は明治時代の廃仏毀釈みたいなのが当時の日本列島でも行われたと考える
「もう銅鐸の時代じゃない!」「銅鐸ダセェ」なんてことになると容赦しないよ日本人は
204 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 12:29:26
>>200 「首長連合の証拠がない」ねえ…
各地の埋葬文化のキメラとのような大型(巨大)首長墓前方後円墳
その前方後円墳の全国展開
纏向から出土する他に見られない頻度の全国からの搬入土器
そして銅鏡もそれまでの「西から東へ」のセオリーに反して
畿内を中心に分布するようになる…
ひるがえって、じゃあ九州にどれだけの範囲に30ヶ国を想定して
それをどんな考古学資料で裏付けるのか?
>連合がいちばん見られない地域
これははっきり言って九州。
本州で発生したような大型首長墓もない九州はそのムーブメントから取り残された地域と言わざるを得ない。
(もしくはあえてシフトしなかった理由があったか?)
下らないレス書き込む暇があったらきちんと説明してみろよクズ。
銅鐸文化といっても3世紀頃は近江・南紀・三遠とかに分布が別れ
銅鐸祭祀が絶えたのは大和だけじゃない出雲はどうなんだ?
今じゃあ邪馬台国論争とか関係なしに通用しない銅鐸への解釈を振りかざして
ケチレスつけるしか脳が無いのがこの板の九州厨のアホどもとww
九州の吉野ヶ里でも銅鐸のマツリやってたんだよなww
福岡市や佐賀県鳥栖市じゃ銅鐸を製造していたんだよなwwww
206 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 12:41:07
列島規模で起きた現象を説明するに
「首長連合」が今のところ最有力と言うか
そもそも対抗するような仮説を聞いた事が無いwww
「ありえない、ありえない…」と繰り返すしか能の無いのがこの板の九州説の連中w
畿内説の広範な主張連合体にリアルじゃあ相手にもされないレベルのイチャモンつける暇があったら
九州に卑弥呼を盟主に仰いだ30カ国の勢力を考古学資料でどうやって見出すのか?
そっちを考えたほうが良いだろうなw
無論そんな物が無いから今日の九州説の低迷を招いているんだろうがwww
207 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:14:12
畿内だけ銅鐸が出なくて、淋しく孤立。
これのどこが首長連合?
畿内だけ、首長連合から仲間はずれじゃん。
208 :
九州王朝大好き:2009/06/05(金) 13:15:04
>>191 うましかさん
>無與・・・同、同じじもの無し、ですか。
>不同、無同・・・私には「無」と「不」では、例が異なるように思えます。
『言語諸事 多與夫餘同』魏志高句麗伝
『言語法俗 大抵與句麗同』魏志濊伝
『所有 無與儋耳朱崖同』魏志倭人伝
『言語 不與韓同』魏志韓伝馬韓条州胡
納得できませんか?
『所有無 與儋耳朱崖同』とすると、
前述(男子〜骨鏃)の倭の風俗の有無は、儋耳朱崖と似ている程度ではなく、全て同じであるの意味になります。
これはありえないですね。
>>207みたいな馬鹿を九州説の人間は放置しといて良いの?
「九州説は馬鹿です」って宣伝してるようなものだろ
畿内にもそれなりの国々、もしくは連合国があっただろ。誰だよ無いなんて言ってのは。
同時期、九州には邪馬台国があった。
それだけの事。
211 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:40:15
>>204 >各地の埋葬文化のキメラとのような大型(巨大)首長墓前方後円墳
>その前方後円墳の全国展開
前方後円墳は流行だろう。けして支配、被支配の関係を証するものではない。
>纏向から出土する他に見られない頻度の全国からの搬入土器
土器はそれ自体が売買されたり、物流に従って拡散したりするもの。権力関係とは
ほとんど関係がない。これまでだってそう指摘されてるだろ。
近畿に東海の土器が多いからって、近畿が東海に征服されたとはみないんだろ。
>そして銅鏡も〜畿内を中心に分布するようになる…
九州勢力が畿内を征服し、銅鏡をばらまいた。それだけのことだろう。
近畿を中心とした首長連合なんて証拠はまったくないな。
212 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:47:48
>>211 >九州勢力が畿内を征服し、銅鏡をばらまいた。それだけのことだろう。
初耳だがそれはいつのことだ?
2世紀か? 3世紀か? 4世紀か?
213 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:55:08
214 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:02:48
>>211 >前方後円墳は流行だろう
その流行が今までは「西から東へ」と言うのがセオリーでそれに反して広がりを見せるのは不自然
加えて初期型の前方後円墳の分布を見ても畿内を中心にそこからグラデーションを描くように広がるのではなく
「飛び飛び」に何らかの意思をもってと思われるように分布している。
>物流に従って拡散したりするもの
物流が盛んになった結果と言うのなら同時代に全国あっちこっちに「流通センター」のような物が無ければおかしいなw
で?
百歩譲って将来現在言われている畿内説における連合体の証に対しもっと違った解釈が出てくる可能性を認めても
じゃあ現在九州に九州に邪馬台国以下30ヵ国の勢力があったのはどういう考古学的資料で立証するのかな?
日向厨だか東遷厨だか知らんがイチャモンつけるだけじゃあてめえの唱える九州説に先は無いぞw
もっともそのイチャモンが世間じゃあ全く通用していない「ト」レベルと言うのが悲しいわけだがwwwwww
215 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:06:02
そもそも銅鏡がバラ撒きによって拡散したというのは証拠あってのことなのか
それは絶対的権力者が家臣に下賜したことによって拡散したのか
それとも何らかの取引や交換によって拡散したのか
あるいは銅鏡を多数抱えていた勢力が敗戦しその戦利品として各地に拡散したのか
普通権力者ならその権力の象徴をバラ撒くことなんかしない
その権力者の代理人が地方に赴くときに持たせるのがせいぜいだろう
そして当時の日本が複数の首長による連合国家なら相手首長は盟主にとっては
取って代わられる可能性のあるライバルでもありそんな相手に「自身の権力の象徴」など渡さない
>九州に邪馬台国以下30ヵ国の勢力があったのはどういう考古学的資料で立証するのかな
そこまで仰るなら、まず30ヵ国の勢力は絶対に無かったという考古学的資料を出して下さい。
217 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:13:25
>>206 卑弥呼の共立によって倭国の大乱が収束する。
これを畿内説の都合の良いようにひねくり出すと、「ゆるやかな首長連合」
なんてのが出てくるんだろう。
でも、非現実的なんだよなあ。根拠がないというか。
倭人伝にはちゃんと卑弥呼共立と非常に似たことが書かれている。
それは台与の共立。
卑弥呼が死んだあと、男王が立つが国中が不服。
1000人余を殺しあう状態になる。そこで台与を王にすると国は定まる。
どうして、これを無視するのかわからない。
つまり、卑弥呼の出現が、跡継ぎ争いの結果だというのが畿内説には不都合
なのだろう。卑弥呼が跡継ぎならば、その前に「倭王」が存在したことに
なるわけだから。
現実に、倭王は存在する。西暦107年に後漢に朝貢した帥升がそれである。
つまり、西暦100年頃にはすでに、倭国王を盟主とする倭国連合が出来ていた。
しかし、畿内説の考古学としては、いくらなんでもその時代までは大和は
遡らない。だから、非現実的な「ゆるやかな首長連合」なんていうのが
出てきたのだろう。
218 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:16:43
>>213 >3世紀だろう。
3世紀の前半の倭の様子は魏志倭人伝が描いているが
そこには九州勢力が畿内を征服したような記述は無い。
すると征服は3世紀後半だったというわけだな。
では後半を二つに分けて訊くが、3世紀第3四半期か? 3世紀第4四半期か?
>>216 その主張は変だろ。存在を主張するなら証明責任はある。
220 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:21:47
中国正史における倭王なんて足利氏でも大内氏でもありのいい加減なものだがな
>>217 君の主張は奴国王帥升の何代か後の後継者が邪馬台国の卑弥呼になるなの?
221 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:25:47
>>216 最後には相手に「悪魔の証明」を吹っかける…
この板の九州説のパターンだなw
>>219 畿内には30カ国あったっていう考古学的資料があるの?
>>217 戦前はともかく、倭国王帥升を畿内の王と考えている考古学者は、今はほとんどいないと思うよ。
224 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:33:33
そもそもここの東遷厨の馬鹿丸出しの自己矛盾は
現在「銅鐸の埋納のピークは2回あった」と言うのが定説と言ってもいいと思うが
それじゃあ東遷厨には都合が悪いのですべての型式は弥生末期に” いっせい ”に埋納されたとしている。
銅鐸の埋納時期を探るのは極めて困難とか言うのがその理由だが・・・
じゃあ仮に
「銅鐸の埋納時期なんて分からない」
と言うことを前提とするのなら、一体何をもって3世紀に銅鐸が終焉したなんて言えるのか?と言う話。
つまり、2回あったとされる銅鐸の埋納のピークのうち1回目のものは自説に合わないので認めないが
2回目のものは自説に都合良さそうだからパクっているとwww
(もっともその2回目のものすら銅鏡と入れ替わるように突然と言うのは立証されないと思うが・・)
>>222 誰かそういう主張をしたか?
つまり30国という数字は九州説も畿内説も同条件、
語呂合わせの推定しか出来ない状態だろ。
九州とも紀伊半島とも取れる。
226 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:43:40
>>214 >「西から東へ」と言うのがセオリーでそれに反して広がりを見せるのは不自然
どうゆうふうに広がったか、まだ分からないのではないかな。西からかも知れないよ。
>現在九州に九州に邪馬台国以下30ヵ国の勢力があったのはどういう考古学的資料で立証するのかな?
畿内説論者が30国の考古学的資料をだせないのと同じく、九州説においても考古学的資料など出せない
というだけのことだよ。 考古学的資料では、国の分布などとても確定できるものではない。
考古資料はともかく、列島全体で30国をどう配置するのかな。畿内説ではその構想すらできないと
思うが。たとえば、南九州には何国? 四国には何国?
>>225 なんだよ、畿内は証拠があるのに、九州には無いって事かと思ったよ。
つまり、証明しろだの偉そうに騒ぐ奴はアホという事だな。
228 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:46:22
>>223 >戦前はともかく、倭国王帥升を畿内の王と考えている考古学者は、今はほとんどいないと思うよ。
その通りだ。俺は畿内説だが帥升は九州の王と見ている。
帥升の朝貢は後漢安帝の永初元年(107年)だがこの時点では畿内王権はまだ存在しない。
「畿内王権は倭国大乱を経て生まれる」というのが大方の考古学者の意見だ。
纏向の造営開始もその頃で、考古学的に見て整合性がある。
でさ、畿内説の人は、九州も支配下にあったと考えてるんだよね?
230 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 14:56:31
邪馬台国の三十ヶ国を考古学的資料で実証しろと言ってるやつがいるが
それより時代の下った倭王武の上表文にある
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国」
の計二百十一ヶ国を実証できるやつがいるんだろうか
どっちも倭王・倭女王の自称でしかないだろ
畿内説で30国を予測するなら、東限は伊勢湾までとなるのでは?
邪馬台国に反対する勢力は紀伊半島南部、
あとは現在の資料では単なるこじつけ程度でしか無理だろう。
232 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:03:43
>>224 別にピークが2回あるというならそれでもいいんだよ。1回目は銅鐸国同士の
戦いか、新しい銅鐸を入手して古い銅鐸を処分したか、いろいろ考えられる。
1回目が弥生中期の話だとしたら、九州勢力の東征とは無関係な埋納だろう。
問題は、2回目のピークだ。それがいっせいだといっているんだよ。銅鐸が消えて
鏡に替わった。墓制もかわった。主要な都市も消滅した。これは九州勢力にやられ
たな、そう考えるしか説明がつかないってことだよ。
233 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:05:20
>>226 30カ国の配置なんてどの道分からんよw
地名との照合もあまり意味が無い。
(かつて湖南がやった事を九州説の学者が同じ事を九州の地名でやって見せた例があるw)
がその範囲は畿内説ならMax=初期型前方後円墳の分布域と言うことになるだろうな。
一応範囲に言及できるし連合体があったことも根拠がある。
じゃあ九州説は?
九州のどこら辺に30ヶ国の範囲を想定する?
その考古学的資料は?
そもそも弥生末期にそんな連合勢力が九州にあったこと自体どうやって説明するんだ?って話で
今のところ九州には邪馬台国そのものとされる遺跡もないし
(まあそれは将来見つかるかもしれないし、もう破壊されたかもしれないが)
30ヶ国の連合勢力があったなんて想定できる材料が無いのが現実wwwww
まあそれを認めると畿内説のアドバンテージを認めなきゃならないから
馬鹿が必死にイチャモンつけているのがこの板の現状なんだろうがw
リアルのもう少しまともな九州説ならそれはそれで置いといて
トンデモ扱いされるような論拠で否定するなんてアホな真似はしないと思うがwwwwwww
まだ言ってるよ…
畿内30カ国の西限は九州でいいのね?
236 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:11:46
30国の首長国連合など持ち出さなくても証明できる九州説。
3世紀の遺跡・出土品は、圧倒的に北部九州だからね。
ありもしない「畿内中心の首長国連合」を妄想しないと成り立たない畿内説。
237 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:13:52
>>229 >でさ、畿内説の人は、九州も支配下にあったと考えてるんだよね?
帯方郡へ使者を派遣し郡から魏側の使者も来る。
倭人伝によれば3世紀はそうしたが何度も行われ別段トラブルが発生した様子も無い。
少なくとも畿内から壱岐・対馬を経て帯方郡へ至るルート上にある北部九州のクニグニは
畿内王権によって統制されていた。
238 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:17:03
でその王都畿内は、鉄も絹も宮殿もないわびしい村落でしたとさ。
畿内説って、オカルトですか?
239 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:18:06
>>236 >3世紀の遺跡・出土品は、圧倒的に北部九州だからね。
その遺跡名を挙げてくれないか。5つほど。
240 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:19:42
>>238 日本の遺跡ってそういうものだから
九州の遺跡も大陸人が都市と呼べるような都市遺跡はないだろ
ありもしない卑弥呼の宮殿と墓を妄想しないと成り立たない九州説はもはや宗教の域です。
242 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:23:49
243 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:25:28
魏志倭人伝にでてくる建築物は、吉野ヶ里と同一文化圏だな。
畿内には存在しないから、畿内だけは除外だな。
244 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:26:08
>>241 墓は存在する(した)だろ
宮殿は過去にも日本中のどこにも存在しないだろうが
>>237 thx. 北九州から奈良までが、水行十日陸行一月なのか。
途中瀬戸内海の島(国)に全然立ち寄らなかったのかな。
淡路島もでかいし。そのあたりに違和感感じるんだよね。
九州論者が鬼道を以って民を惑わそうとしているのがよく判るw
惑う馬鹿が誰一人いないのが救いではあるがw
>>238 巻向は宗教都市だから。それに何度も言われてるが丹の産地の入り口だ。
いい加減この当時ある意味一番重要な物質なのは理解しておこうな。
わざわざ魏史にも卑弥呼の欲してるものとしても記述されてるのに。
248 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:39:07
九州から投馬国一ヶ所のみ立ち寄るだけで畿内に直行なんて不可能だね
だから魏使は女王の都の邪馬台国までは行かなかったと考えられる
では魏使が都に行かずに金印仮授などができるのか?
実はできる。女王など政権首脳がまるごと伊都国など九州に行幸していれば
魏使は水行十日などの旅程をこなす理由が一切なくなるのだ
249 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:40:42
産地に暮らしてるのなら欲しがらないのでは?
250 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:41:14
>>238 >でその王都畿内は、鉄も絹も宮殿もないわびしい村落でしたとさ。
纏向遺跡のことを言っているのか?
纏向遺跡からは鉄器も絹も出土している。
巻野内尾崎花地区の調査では断面V字形の溝を検出し、その上方に大規模な区画が造営されていることが判っている。
253 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:50:55
>>250 ほとんど出ていないけどね。わずかな量ね。
畿内がいかに卑弥呼とは無縁だったかという証拠だね。
奈良の「あおによし」の「に」は「丹」だからな。
赤と青の対比を歌ったものだが、大和にゆかりの言葉なのは間違いない。
255 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:53:14
ベンガラは、阿蘇山の名産だ。
水銀という証拠もないしね。水銀なら畿内じゃなくて四国だね。
256 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 15:58:50
九州説の人って鉄と絹がふんだんに使われた3世紀頃の大宮殿が九州の中にあると信じてるの?
それってどれくらいの規模?当然木造とかじゃないよね木造じゃせいぜい大仏殿くらいの大きさしか無理だろうし
>>255 だから俺は南九州か大和巻向の説をとるけどな。
徳島が産出なのも畿内連合の説に一致するかもしれない。
>>242 これは福岡市の文化財の紹介ページだね、
ちょっとたずねますが、242さんは福岡市が邪馬台国だと思ってるの?
ふつう福岡市は奴国でしょ
>>236 >30国の首長国連合など持ち出さなくても証明できる九州説
おいおい、無茶な事を言うなw
「邪馬台国そのものと推定できる遺跡もありません。
その上に30国の連合体ができた形跡も示せません」
…これでどうやって九州に邪馬台国の姿を見ろと?www
ついでに言うと出土品で言えば九州厨の大好きな銅鏡も弥生末期にかけて順調に右下がり
これは年代をどう争ってもどうこうなる話じゃないw
魏に冊封うけて特別に百枚の銅鏡を貰ったんだから仮にほんの一時期でも持ち直せよwwwwwwwww
>>255 そう言えばベンガラって食えるんか?
以前テレビでベンガラ入りのコンニャクを見た記憶があるがw
(ぱっと見レーバーだたwww)
260 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:12:56
>>253 鉄と絹の出土量と卑弥呼の居場所がなぜ関係するのだ?
>>259 おいおい、無茶な事を言うなw
「卑弥呼の墓だと一研究者が推定している巨大な墓しかありません。
その上に30国の連合体ができた形跡も示せません」
…これでどうやって畿内に邪馬台国の姿を見ろと?www
ついでに言うと出土品で言えば畿内厨の大好きな銅鏡も国産疑惑が出る始末
これは年代をどう争ってもどうこうなる話じゃないw
魏に冊封うけて特別に金印を貰ったんだから大事に仕舞っとけよwwwwwwwww
262 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:20:47
>>236の九州説君は
> 3世紀の遺跡・出土品は、圧倒的に北部九州だからね。
これだけで九州説を確信してるの?
263 :
218:2009/06/05(金) 16:28:40
>>211 >九州勢力が畿内を征服し、銅鏡をばらまいた。それだけのことだろう。
その時期に関して質問したのだが俺の
>>218は見落としたのか。
もう一度書いておく。
3世紀の前半の倭の様子は魏志倭人伝が描いているが
そこには九州勢力が畿内を征服したような記述は無い。
すると征服は3世紀後半だったというわけだな。
では後半を二つに分けて訊くが、3世紀第3四半期か? 3世紀第4四半期か?
264 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:31:17
煽るしか能のない九州説君は都合の悪い質問は一切無視なんだろう
>>211 >九州勢力が畿内を征服し、銅鏡をばらまいた。それだけのことだろう。
その畿内征服時に銅鐸を埋めさせたと?
それが3世紀後半だと?
まるでお笑いだね。w
いや、笑ってごめんな。
で、ばらまいたという鏡は何なんだい?後漢鏡かい?wwww
266 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 17:03:35
畿内説は完全に学者まかせだけど、九州説はいろんな考えを独自でもってる人が多い。
よく九州のどこか特定してみろよ、みたいな事言う人いるけど、あれはおかしいよね。
畿内説って草を生やすことなんですね。よくわかりました。
268 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 17:06:46
>>265 誰が埋めさせたと言った? 誰が3世紀後半と言った?
思考力のない奴だ。まったくお笑いだな。
>>268 >誰が3世紀後半と言った?
あんたは九州が機内を征服した、に賛成派なの?
じゃあいつなのよ
>>266 そうなんだよね。。まともな畿内説の人は他に行っちゃったんだろね。
>>266 おかしいか?学者まかせというより、入手出来る資料に
限りがある以上は仕方ない部分だよ。
九州説の人は色んな説や研究資料を取捨選択しないのか?
>>271 おかしい人が悪目立ちしてるだけだろ。
畿内説の人全てがおかしいわけじゃない。
273 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 17:58:05
>>271 もちろん研究資料の選択はするけどそれをまるっと間にはうけないよ。畿内説なのに奈良しか候補がない、つーのがどうなんって思うね。
274 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:02:01
俺が畿内説を考えるなら瀬戸内海経由からせめるけどね。
で、結局、この板の九州説は邪馬台国以下の30カ国を
どれぐらいの範囲に見るかについて
きちんと考古学的資料をもって説明できないで良いんだな?
遺跡単体と言ういわば『点』でも説明できず
もっと広く30カ国と言う『面』でも説明できず
大陸との関係でも衰退傾向しか見えない遺跡遺物の中には
その影響を見出す事はできず
結局オレサマ流珍読暗号解読ゴッコしか根拠は無いわけだwwwww
276 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:12:37
>>228 >俺は畿内説だが帥升は九州の王と見ている。@
>帥升の朝貢は後漢安帝の永初元年(107年)だがこの時点では畿内王権はまだ存在しない。A
>畿内王権は倭国大乱を経て生まれる B
レスを区分けして@ABと番号をふった。
それぞれに意見があったらレスしてくれ。
277 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:21:06
>>236 >3世紀の遺跡・出土品は、圧倒的に北部九州だからね。
「弥生時代全体を通して」と言うのならまだ話は分かるが
3世紀に限定してとなると皆目見当もつかない。
弥生時代通して鳴かず飛ばずの南九州は論外としても
筑紫とて衰退の一途だと思うが?
吉野ヶ里だって今回の年代とは関係なく邪馬台国には古すぎると言うのは
畿内説の学者のみならず以前から言われていた事だ。
精々畿内の文物を積極的に取り入れた形跡のある福岡平野ぐらいしか思い浮かばない。
やっぱりこれもこの板の九州説厨によるいつもの書き逃げなのかな?www
>>276 反論になってないが
あれほどの生口をどんな過程で獲得したかってのもある。
また輸送手段は船だろうから、そんな船なら瀬戸内も楽々横断出来ただろうな。
279 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:23:40
>>275 >結局オレサマ流珍読暗号解読ゴッコしか根拠は無いわけだwwwww
そういうこと。
甘木だ宇佐だといっても、じゃ、甘木が標準になるかって言ったら、ならない。
佐賀や日向が横槍入れてくるだけ。
結局、根拠が脳内解釈しかないから、所在地もバラバラ。
畿内説に対する反論をする時だけは、馴れ合って協力してるけどな。
あれ?
まるで民主党のような・・・
280 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:26:56
>>279 民主党?
いやそう言う政治の話に絡めるのは止めておこうよw
今や畿内説は「右」も「左」も関係ない。
無論その立場においてどう言う解釈をするか、どの部分にスポットライトを当てるかは違ってくるだろうが…
281 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:28:11
>>118 >九州説と言うから、素人に九州vs畿内のような誤解を与えてしまうが、
>実際は福岡山門説vs纏向説、熊本山門説vs纏向説、日向説vs纏向説というべきだろう。
これなら、簡単に畿内説大勝利なんだけどな。
282 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:30:27
>>275 おい、ハゲ!頭皮がかたい、いやハゲは頭がかたいんだよ。オレサマ流で言えば畿内と九州は五分五分だ。
ただ面白いのはと言えば九州なんだよ、素人のオレサマ流で卑弥呼の墓を見つけ金印をいただく、最高じゃんWWW
283 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:32:03
>>278 あれほどの生口って百六十人だろ
倭王を称するならそれくらいの人員は用意できると思うが
284 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:34:12
>>280 いやいや、根底にあるイデオロギーから目をそむけちゃいかんよ。
邪馬台国の卑弥呼だって、所詮は魏に朝貢して、臣下にしてもらった人なんだから。
3世紀の倭国が、魏から冊封を受けていたのは事実。
冊封を受けていた範囲が、九州だけなのか、近畿まで含むのか、というのは結構でかい問題だ。
個人的には魏から冊封を受けていたのは九州の田舎モノだけでOK。
近畿は三輪山の麓で大連合していた、それでいいんじゃないかと思うが。
285 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:36:43
>>281 「各個撃破」と言う奴だなwwwwwwww
286 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:39:27
日本書紀を読んでも、
古代のヤマト朝廷が魏に朝貢してたなんて記録は無いよ。
漢倭奴国の金印の記載だって無い。
つまり、ヤマト朝廷は、中国から冊封を受けていたという事実はまったく無いわけで。
そういう恥さらしな行為は、全部九州が単独でやってたこと。
4世紀になって、ヤマト朝廷は九州に侵攻し、倭国を統一した。
九州はそれに反発してしばしば反乱を起こしてるが、そのつどヤマト朝廷に征伐されている。
287 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:44:14
よく九州説の中には、
アマテラスが卑弥呼だと言い出すやつもいるが、まったく違う。問題外。
卑弥呼はクナ国と抗争してたが、
アマテラスは出雲のスサノオと抗争したいた。
まったく立場が違う。
魏志倭人伝は、卑弥呼の死ぬ時代まで記載があるのだから、
卑弥呼がアマテラスなら、スサノオを出雲に追い出した記載もあるはず。
だけど、そんな記載はどこにも無い。
九州説では、魏志倭人伝に出雲の地名すら無いことになってるからな。
これをもって、アマテラス=卑弥呼説は破綻してるわけなんだ。
288 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:48:04
>>284 イデオロギーに振り回されて現実を見失ってるな
倭王は外交上の都合あるいは経済利益を求めて皇帝に謁見を求めて朝貢したけど
皇帝に隷属したり皇帝から土地を拝領したという記事はないよ
朝貢だの冊封だのはそういう外交しか受け入れなかった中華帝国の名目でしかなく
実質は皇帝の支配の及ばない独立国家というのは揺るがない
289 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:51:25
ちなみに、朝鮮半島からは、山陰系の土器も出土してる。
九州を通じて、出雲と朝鮮半島が交易していたことは間違いない。
玄界灘の宗像三女神は、スサノオとアマテラスの誓約で生まれている。
玄界灘の航路は、出雲と共同で開発されていることをうかがわせる。
北九州が単独で航路を持っていたなら、
わざわざスサノオを絡める必要は全くないからね。
玄界灘航路は、スサノオとアマテラスが生きていた時代に作られた。
つまり、アマテラス=卑弥呼なら、卑弥呼が生きてる時代には、
北九州は出雲と協力関係にあったことになる。
同時に、出雲のオオクニヌシの分身が三輪山の大物主として祭られてる。
3世紀以前から出雲と畿内が繋がっていたことは明らかであり、
それはつまり、九州と畿内が繋がっていたことを意味するものである。
290 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:54:06
>>279 >畿内説に対する反論をする時だけは、馴れ合って協力してるけどな。
最近その感が強い。反論というよりも煽りレスばかりだが。
歴博発表のマスコミ大報道で九州説は危機感を抱き、なんとなく固まろうとしているのかもしれない。
甘木、宇佐、佐賀、日向・・・・また東遷説、九州王朝説・・・・、互いにもっと切磋琢磨し、
相互批判の積み重ねからベストな九州邪馬台国を割り出せば、よほど建設的だと思うのに。
、
だが例の宇佐の大会や最近の季刊邪馬台国を見ても、相互批判は昔ほどやっていないようだ。
吉野ヶ里を考える会などは、馴れ合いの最たるものだとも思う。
291 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:54:18
つまり、こうすれば辻褄が合うんじゃないか?
邪馬台国Part1…九州のどこか
邪馬台国Part2…???←魏志倭人伝の記述にある「邪馬台国」
邪馬台国Part3…畿内のどこか
292 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:54:51
>>228 >実質は皇帝の支配の及ばない独立国家というのは揺るがない
違うね。
金印は、極東地域の支配者として贈られたもの。
もし、朝鮮半島の王に金印が贈られていたら、
朝鮮半島の王の許可無くして、倭国は貿易が出来なかった。
交易権で、魏の支配を受けていたことに他ならない。
293 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:00:09
>>291 別に東遷説でもいいが、
東遷があったのは1世紀だろう。(つまり、邪馬台国は畿内)
どうして4世紀でなくてはならないのか?その根拠が無い。
もし、4世紀に東遷したとしたら、直後に前方後円墳を作り始めたことになるが、
同時に三輪山の祭祀を廃止できなかった、という事実もある。
新旧の宗教を混在させた、複雑な政治背景を抱えたまま、全国支配ができるとは思えんね。
古代から三輪山祭祀は継続しており、近畿の崇拝を集め、
延長線上に、前方後円墳が生まれたと考えるほうがずっとシンプル。
294 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:01:04
自分ところより武力のない王の許可がないからって貿易自粛するバカがいるかよ
だから中華思想に洗脳されたサヨクバカは現実が見えてないというんだ
安価くらいまともに打てよ・・
296 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:04:18
しかも、前方後円墳だけじゃなく、
前方後方墳というものまである。
九州の一大王が東遷したなんて、単純な話で語れるものじゃない。
297 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:05:22
> 新旧の宗教を混在させた、複雑な政治背景を抱えたまま、全国支配ができるとは思えんね。
日本ならできる
日本の宗教ってのはあちこちの宗教から自分たちに都合のいいところだけ寄せ集めて出来あがった歴史を持つ
298 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:07:36
日本は宗教でさえ流行に流されやすく
しかも勝手に自己流アレンジを加えて平然としてるからね
たとえ敵国の文化でも「前方後円墳かっけー!」ってなったら平気で真似するよ
299 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:08:42
>>294 バカをさらけ出すなよ。
「魏から金印を送られた」という名目が重要なのであって、
実際の国力がどうのとかは関係ないの。
あほか。
交易の際には、品物にハンを押して封印し、「倭国の交易品」として運ぶ。
交易相手は、ハンを確認して「魏から認められた国の交易品」として輸入する。
その交易品には、実際以上の価値があるわけだよ。
国の実力とか関係ないの。
九州説=東遷説と決めつけないでほしいとこだが、
九州説で且つ日本書紀なんか眼中にないのは俺だけか?
301 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:09:52
>>297 だったら、鏡、剣、勾玉の三種の神器が九州から畿内に伝播したとしても、
東遷の証拠にはならないね。
はい、東遷説は、すべての根拠を失いました。
302 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:11:11
>>286 日本書紀は勅撰の史書だ。
日本国の独立性、天皇制の正統性を、歴史の記述として綴っているものなのだ。
古代日本が中国の冊封体制下にあったとは、たとえ編纂者が気付いていたとしても、決して掲載できることではなかった。
303 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:14:10
>>299 つまり「魏公認」のプレミアがつかないだけで普通に貿易できるんだよね
>>292じゃ朝鮮王の許可がないと貿易できないってアホなこと書いてあるんだけど
304 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:14:55
>>302 「冊封体制下にあったけど、書けなかった」は、
君の想像でしかない。
なんにせよ、間違いなく中国の冊封体制下にあったのは、北九州。
これだけはガチ。
中国にケツふってろよ九州。
305 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:17:20
>>269 銅鐸の埋納→画文→三角という順序は、まず正しいだろう。
しかし、銅鐸埋納が3世紀のいつころか、簡単に決めることはできない。
いろいろな想定をしないといかんのだよ。学者の意見が一致しないところを
馬鹿みたいに何時だ、何時だと決めてかかっても意味がない。
306 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:18:22
>>303 プレミアが必要ないなら、なんで朝貢しないといけないの?
プレミアが欲しいから朝貢するんでしょ?
プレミアがあると、それだけ交易に有利になるってことだよ。
意味わかんないのかね?
だから九州の連中は、必死に中国に媚をうって、金印を欲しがってるんだよ。
現代もね(笑)
307 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:22:55
九州ですら冊封"体制"下にないよ
それどころか韓半島南部すら長らく皇帝の冊封"体制"下にはなかった
そこでは倭の覇権国の"体制"下にあって漢も魏もその後の南朝諸王朝もそれを後付けで認めることしかできなかった
唐代になって白村江で勝利するまでは
308 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:25:24
とにかく畿内説にこれ以上の進展がないのは確定している。
309 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:25:48
>>306 体制下にあったとか支配下にあったとか言う主張はどうしたのよ
プレミアの発行権が君の言う支配権かい?
310 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:29:04
>>307 トヨだって朝貢してるっていうのに、
何を根拠に冊封"体制"下にないなどと。
冊封の意味わかってないね。
>>309 君みたいなバカにわかりやすく説明しただけだよ。
311 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:30:16
畿内説のまとめ
ヤマト国=邪馬台国の語呂が合うから、畿内説は正しい
ゴッドハンドで箸墓を3C中と判定できたから、畿内説は正しい
312 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:31:44
九州説のまとめ。
魏に冊封を受けていたのは九州だけ。畿内は関係ありません。
九州だけ冊封を受けてたっていいんじゃない?
何か問題あるのか?
314 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:36:47
ないよ。
だよね。
316 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:40:33
>>310 認めちゃったよw
今日の電波君のまとめ。
冊封体制とは商売における「皇帝公認」のプレミアを配る制度のこと。
このプレミアがつくと高い値段で買ってくれるらしい。
もちろん非公認の交易品も多数流通し、これらは「皇帝公認」のプレミア品も含めて皇帝の統制に関係なく流通している。
なお「皇帝の支配権」とはその政治支配力が及んでいるかではなく、相手が「魏公認」のプレミアを出してくれるということである。
317 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 19:42:06
>>302 紀には神功39年に卑弥呼らしき記述があるから、掲載していること
になる。だか掲載できないということは成立しない。
318 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:42:21
319 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:43:54
>>316が正しい冊封体制を定義してくれるそうです。
謹んで拝聴しましょう。
今日、宇佐神宮本宮まで登ったが、あの山は古墳じゃないのか?
321 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:14:08
322 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:18:13
古墳というのはミササギつまり高貴な人物がその身を捧げて山に霊力を注ぎ込んだもののこと
6世紀くらいにはそんな純朴な信仰は忘れ去られてただの墓になってしまったようだが
後背に山を持つ神社・山を祀るように作られた神社はそういった霊を祀りその地や人々の安寧を願うために作られた
>>317 しかしそこ(神功39年)は、魏志云としながら、魏志をそのままでは引かない。
倭女王とするが「卑弥呼」の名は出していない。
印綬も、「親魏倭王」はなぜか伏せている。
太国氏よ、こうした注とした理由は考察するべきだろうよ。
324 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 20:24:47
出せばいずれはバレるだろうから、分かっちまう。バレたく
ないなら、そんなわかりそうなことを載せるはずがあるまいが。
だから掲載できないなんてことではなく、畿内に女王国がなく遠国の
九州奥地あたりに女王国があったから畿内に情報が来ないために
記載材料がなかったということだ。
325 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:42:45
>>324 この場合、「情報」と言うのは、魏志の記載事項のことであって、
九州の山奥にあったのかもしれない蛮族の女王のことじゃないだろう。
神功紀に註を付けた人が、魏志を見たけりゃ、役所の書庫に行けば善いだけの話。
遠いも何もあったもんじゃないw
326 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 20:49:12
遠いだろうよ。マラソンの42.195kmよりケタ違いに長いぞ。当時
九州まで新幹線や航空機があったのか〜?w
犬は三世紀の九州と八世紀の畿内の区別もつかない時空を超越した大天才。
328 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 20:55:44
お前は皇空紀のある時代と古代との区別がつかない耄碌者なのか?w
太国氏はたしか、奥九州邪馬台国と畿内大和朝廷が並立・・・との考えだったな。
奥九州邪馬台国はいつまで存続したと?
景行朝ごろには、もうなくなっちまったのか?
まさか大九州王朝に発展・・・な〜んてゆめ云わないだろうと思うが。
330 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 21:07:39
だから九州王朝の始祖的人物が卑弥呼だよ。ただし王朝の完全性は
まだまだだったろうから、このころは年号などはなく、次第に王朝化
して言ったということだ。その勢力は畿内の朝廷よりは相当軟弱で
あっただろうが、なんとか文武天皇の代の前後まで持ちこたえた。
宇佐神宮の比売大神も九州王朝の女王級の人物だよ。彼女は卑弥呼
ではなく、卑弥呼より後代の人物だ。次いで元明朝あたりからは
畿内朝廷の勢力がほぼ全国に達して来ただろう。まぁ蝦夷は別かも
知れんが・・・?
331 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:13:00
犬国
(U^ω^) わんわんお!
C/ l
し−し−J
う〜む。
まあ例の箸墓240〜260の歴博発表あっても、太国氏はめげることもないわけだな。
九州王朝派だったら、おしなべてそんな感じか・・・
すると、なにより苦しい立場は、安本流の東遷説一派だろうな。
333 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 21:25:28
百襲媛の没年は倍暦計算により240年(あるいは見解により241年)
の結果が出ましたから、卑弥呼は247年または248年没ですので百襲媛
は卑弥呼ではありません。
334 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:34:33
太国さん、三世紀に九州の奥地に七万戸もの人口抱えた大国があったなどと、
想像がつかないのですが。
335 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:37:12
1世紀の帥升クラスですら正史に残るくらいまで皇帝との接触を試みることができたんだから
その気になればその後の倭王にも謁見を求めることは可能だったと思うがね
それでも卑弥呼まで現れなかったのは「その力がなかった」からじゃなく「その必要がなかった」からだろう
>>335 公孫が失脚したからな。
狗奴国との紛争も?がつく。
337 :
178:2009/06/05(金) 22:16:40
わー、スレのびてるな〜。歴博発表の影響だろうかね。
俺は卑弥呼は、景初3年以前は公孫氏を後ろ盾にしてたという説。公孫氏が直接倭国内に
力を行使することはなかっただろうが、北九州勢力を押さえるとはできただろうと考える。公孫
氏滅亡後の機敏な魏への朝貢から、倭国は大陸情報を積極的に収集していたことがいえるの
ではないか。まあ、今のところこれの直接的な証拠はないがね。
晋書倭人伝の >漢末倭人乱 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑弥呼 宣帝之平公孫氏也
この部分の記述を取り上げて、卑弥呼=公孫氏説を説く人もいるが、これはさすがにトンデモ
だろう。
338 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:18:08
どうやら、九州が魏に冊封されていたのは確かなようだ。
魏に冊封されるのは歓迎で、畿内から支配されるのはイヤだと言うわけだ。
それが九州説。
そんなにヤマト王権が嫌いならそのまま中国の属国になればいいのに。
誰も止めないよ。
339 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 22:19:26
>>334 古代マヤ文明の小型版ですよ。あの密林の奥地のパレンケ、コパン、
チチェンイツァ等にゴマンと個別にマヤ各族が住んでいたん
ですから、九州奥地あたりは密林ではないんだからそれくらい
住めるでしょう。
340 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:26:39
>>334 小山修三とかいう人の人口推計によると、九州の古代の人口密集地は、筑後川
流域と都城だよ。北の密集地は伊都国と奴国、南の密集地は邪馬台国だ。
古墳時代に入って、九州最大の古墳地帯は日向だ。古式古墳も極めて多い。
七万戸の人口ぐらい、何てことないんだよ。
341 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:30:10
魏から金印をもらったのは九州で、
魏に朝貢してたのも九州で、
魏の張政から激励をうけたのも九州で、
いまでも中国様の権威にすがりたいのが九州説。
畿内はもちろん、関係ありません。
大和と連合なんてもってのほか。
国交を持つなら、大和より魏。それが九州説。
大和朝廷から見たら、こんな反抗的な国は無いな。
どうりで、何度も反乱を起こしては制圧されてるわけだ。
こりゃ、邪馬台国は、やっぱり九州しかありえないな。
342 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:37:35
九州王国の徴兵から逃げてきたのが畿内の土人
だから畿内には、鉄器も宮殿もありません
>>338 ヤマト王権が嫌いだから、中国の後ろ盾を欲したんじゃね?
344 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:44:52
九州には宮殿があるんだwで、どこ?
今んとこ七万戸の都にしてはショボい遺跡しかなさそうだけど
345 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:45:45
>>276 >>俺は畿内説だが帥升は九州の王と見ている。@
>>帥升の朝貢は後漢安帝の永初元年(107年)だがこの時点では畿内王権はまだ存在しない。A
>>畿内王権は倭国大乱を経て生まれる B
ABは賛成
@は保留。帥升がヤマトの王でないのは間違いないと思うが
ひょっとして帥升はイヅモかその周辺のの王だったかも。北部九州7割、山陰3割という感じかな
346 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:47:02
魏に冊封されていた邪馬台国の女王・卑弥呼は、
どうやらアマテラスのモデルらしい。
つまり、アマテラスは魏の冊封を受けた臣下だったわけ。
ぜひ、教科書にしっかり載せてほしいね。
毎年新年に神社におまいりにいくときも、このことを忘れないでおこう。
いま、お参りしてる神道の最高神アマテラスは、魏に朝貢してた臣下だった。
つまり、自分は魏の皇帝に頭を下げてるのと同じことなんだと。
え?自分は魏の皇帝に頭を下げるつもりは無いって?
でも、アマテラスを最高神とする神社にお参りにいくなら、同じことですよ。
だって、アマテラスは、卑弥呼であり、魏に朝貢してた臣下なんだから。
みなさんも、中国様にしっかりお願い事してくださいね。
347 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:51:49
>>343 そうだね。
九州人の大和王権嫌いは2000年の歴史があるからね。
大和の属国になるくらいなら、中国にしっぽふったほうがいいってわけ。
「魏から倭国王と認められて金印をもらったのは九州なんだ〜。」
と、2000年間ずっと中国様にひれ伏してるのが、九州。
こうした背景を考えても、邪馬台国は九州しかありえない。
348 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/05(金) 22:55:43
倍暦計算から百襲媛の没年は240〜241年だが、卑弥呼は247〜248年
だ。鑑定値も前者は240〜260年に合致していて矛盾はない。
ところがアマテラスは神武以前だから卑弥呼ではない。時代が違う。
百襲媛と卑弥呼の没年差は7年くらいだから別人なわけで、007は
二度死んでも、百襲媛は二度死なないだろうが。
だから百襲媛は卑弥呼ではない。
349 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:56:12
アマテラス=卑弥呼もまだ定説じゃなく一説でしかないことを一応書いておく
350 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:59:34
351 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/05(金) 23:09:20
だから善徳女王と卑弥呼の朝貢の話は内容も干支も同じなんだってば
352 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:11:16
>>346 都合が良かろうが悪かろうが、気分が良かろうが悪かろうが、事実は事実と
して受け入れる態度がないと歴史はゆがんだものになる。
隣の国を見ればわかるだろうに。
353 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/05(金) 23:20:53
>>346 魏志倭人伝以外の漢籍書を読んで来てみ
魏ってシナの事じゃないよ
つかそもそも中国なんて60年しか歴史が無い国じゃん
354 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:22:35
>>346 >魏に冊封されていた邪馬台国の女王・卑弥呼は、
>どうやらアマテラスのモデルらしい。
「らしい」、となぜ書く!?
おまえは自信がないのだな!
それでいて
>いま、お参りしてる神道の最高神アマテラスは、魏に朝貢してた臣下だった。
>つまり、自分は魏の皇帝に頭を下げてるのと同じことなんだと。
>でも、アマテラスを最高神とする神社にお参りにいくなら、同じことですよ。
>だって、アマテラスは、卑弥呼であり、魏に朝貢してた臣下なんだから
宮参りする日本の善男善女を、レトリックのみで誹謗中傷する。
おまえの腐った性格がレスにそのまま表れている。
355 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:29:01
しかしアマテラスはともかく応神天皇は倭の五王の一人ってのは定説に近いから
八幡宮にお参りする人は南朝宋の臣下にお参りしてると言えなくもないw
356 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:35:29
自演が多いスレですねw
357 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:37:08
358 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:46:23
国家神道はともかくもともとの神道で天照大神が最高神なんて考えられない
伊勢神宮の由緒はもともと大和で祀られてたのが大国主命が怒って追い出されて
近畿各地を転々としたてようやく今の地に鎮座したんだぜ
ギリシャ神話でいえばゼウス神殿が格下の神に追い出されて各地を転々としたようなものだ
こんな神のどこが最高神なんだ
359 :
九州王朝大好き:2009/06/05(金) 23:57:17
>>276 >>俺は畿内説だが帥升は九州の王と見ている。@
>>帥升の朝貢は後漢安帝の永初元年(107年)だがこの時点では畿内王権はまだ存在しない。A
>>畿内王権は倭国大乱を経て生まれる B
@帥升は吉野ヶ里を本拠の城郭とする倭面土國王である。倭(筑紫)米多(目達)國
A神武難民団の東方移住開始原因か?
B崇神王権の成立。垂仁が畿内の銅鐸文化国家を滅ぼす。
360 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:01:37
>>357 事実を指摘されたら逆ギレですか?
かっこわるいですね〜。
>>208 > 『言語諸事 多與夫餘同』魏志高句麗伝
> 『言語法俗 大抵與句麗同』魏志ワイ伝
> 『所有 無與タン耳朱崖同』魏志倭人伝
> 『言語 不與韓同』魏志韓伝馬韓条州胡
>
> 納得できませんか?
「多與・・・同」は、推量(〜と同じか)、「大抵與・・・同」は類似(おおよそ〜と同じ)と言うところ。
「無與・・・同」を訓ずると「〜と同じもの無し」とでも訳すのでしょうか?
余り見ない文型ですね。
>
> 『所有無 與タン耳朱崖同』とすると、
> 前述(男子〜骨鏃)の倭の風俗の有無は、タン耳朱崖と似ている程度ではなく、全て同じであるの意味になります。
> これはありえないですね。
それはそうです。
100%同じとかは有りえません。
でも、そんなこと言い出せばきりが無い。
「「無與・・・同」、これを「〜と同じもの無し」と訳すなら、
倭地に有るものは、逆にタン耳朱崖に有ってはならないことになります。
タン耳朱崖に「鐵鏃」とかが有ってはならいことになりますよ。
天照さんは神様であり巫女ではない。
巫女は巫女でそれにつながる神様はいるわけで幾重にでも否定できる。
卑弥呼は巫女。
箸墓なら、なおさらに巫女。
363 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:04:58
>>354 どこがレトリック?
卑弥呼がアマテラスのモデルだと言ってたのは九州説では?
それに、神社にお参り=中国にお参りすることのどこが誹謗中傷なのかもわからんね。
卑弥呼は魏の臣下になったのは事実だし。
倭人がそれを望んでたわけだろ。
そして、現代の九州の人も、古代の九州の女王が魏の臣下であったことを望んでいる。
違うか?
で、仮に魏志倭人伝がいうように狗奴国との紛争において魏に助けを請い願うなら他の豪族らの離反を招きかねないわけで、恐らく魏の勇み足だったと思う。
その事実を隠蔽するために檄文の奏上な訳だ。
これは実におかしな話。
別に直接出向いてまで伝えることじゃない。
数カ月も時間を費やすことでは全然無い。
>>363 スレ違いだろ。
政治板か民俗・神話学板か
冠婚葬祭板か心と宗教板か、好きな板へ往けよ。
366 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:17:21
>卑弥呼がアマテラスのモデルだと言ってたのは九州説では?
初めて聞く説だな。天照大神は1〜2世紀の対馬の女王だろ。
卑弥呼は3世紀の筑紫の女王。タイムマシン使わなければ無理だ。
367 :
九州王朝大好き:2009/06/06(土) 00:17:29
>>361 >「無與・・・同」、これを「〜と同じもの無し」と訳すなら、
>倭地に有るものは、逆にタン耳朱崖に有ってはならないことになります。
「無與・・・同」、これは「〜と同じもので無し」との訳になるので、
倭地に有るものは、タン耳朱崖に有るものとは違うの意味になります。
伊都国の王の件も不思議。
卑弥呼も王なので、王朝は当然に異なる。
地元の豪族を王と呼んだというなら、他の大きな国にも王がいて当たり前なのだが、狗奴国しか他にいない。
監視役を置いた重要な国に別の王朝をはべらすものなのだろうか?
369 :
178:2009/06/06(土) 00:27:49
レトリックもなにも、卑弥呼=アマテラスとかは、卑弥呼の鬼道が何か(太陽信仰、その他)
を明らかにした時点で、はじめていえることだろ。記紀からその根拠を持ってくるのは本末
転倒だし、倭人伝には太陽信仰をうかがわせる記述はない。
370 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:29:19
九州説を束ねてる安本が吹かしてるじゃんw
372 :
178:2009/06/06(土) 00:50:33
この銀印は羌人がもらったものだろ。
374 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 01:04:52
>>371 出所が書かれていないな。
それに駝紐の印と書かれているが、これはどちらかといえば、西側の諸国に
与えるときの紐なのだが。
印の出来もあまり良いようには見えない。
第一、これが本物ならば、畿内説の人がもっと大々的に宣伝するはず。
375 :
178:2009/06/06(土) 01:11:55
まあ、どういった経緯でこの博物館の所持になってるかわからないんで、断言はさしひかえる
が、「晋率善羌中郎将」の印文は、晋朝に味方した羌族の武将に与えられる蛮夷印と思われる
が。
羌族はチベット系の遊牧民族で、現在タングートと呼ばれるのかな?卒善中郎将は中国が
外地などで戦ってるとき、軍勢を率いて援護した他民族の長に与えられるものだと思う。まあ
晋代にはその性格は変化しているだろうが。
難升米がもらったのは、おそらく 「魏卒善倭中郎将」。これはともかく将軍位なんで、いちおう
建中校尉梯儁(尉官)より上の位ということになるんだろう。
また畿内説が有利になる材料が増えた訳だな。
377 :
371:2009/06/06(土) 01:43:23
失礼した。
「羌」を見落とした。
378 :
九州王朝大好き:2009/06/06(土) 01:48:34
この銀印は、戦前に青海省に探検に行った人が持ち帰ったか、
戦前のシナの市中から略奪してきたものが寄贈されたからではないか?
だから博物館は銀印の来歴を示せないのだろう。
河内の豪族、塩じいの寄進かな
>>363 だったら中国も日本の首相の靖国参拝を歓迎すべきじゃないのwww
バカ杉www
381 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/06(土) 04:21:19
>>358 天照は最高神じゃないよ
あと天照が祀られてるのは伊勢神宮じゃなく恵那山と皆神山だよ
伊勢神は猿田彦だよ
九州人は遺伝子で九州説を確信してる
例え畿内説であったとしても文化文明は
九州を通して伝わった 水銀も
383 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 07:58:12
大局的なものの見方ができる人間は、九州説が正しいと理解するんだよ。
倭人は帯方の東南大海の中、山島によりて国邑をなすとある。しかし、我が国の
本州が島であることは、旧唐書などをみれば明らかなように、唐時代になっても
理解されていなかった。倭が島だという以上、九州島しかありえないんだ。
384 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 08:47:16
だが、新唐書では訂正されてる。
1 日本は昔の倭奴である。←いきなり旧唐書の間違いが訂正されてる。
以下、旧唐書倭人伝と新唐書日本伝の共通点
2 京師から1万4000里、新羅の東南の海中にある島である。
3 距離は東西5月、南北3月。
4 城郛がなく、木で柵を作って、草の家に住んでいる。
5 50あまりの島があり皆(倭または日本)に属している。
6 一大率(新唐書では本率)を置いて諸国を検察している。
面倒なので以下省略
どうみても同じ国です。
九州説の言うように、畿内の日本が倭を併合した、九州の倭が畿内を併合したという仮説が事実ならこうはならない。
少なくとも、距離や島の数、一大率などが併合後も同じであることはおかしい。
>>367 > 「無與・・・同」、これは「〜と同じもので無し」との訳になるので、
> 倭地に有るものは、タン耳朱崖に有るものとは違うの意味になります。
無人、無料、無期限、無残、無神論、無国籍・・・
確かに現代日本語で「ない」は、否定を表す助動詞として扱われますが、
漢文の「無」は否定ではなく、「存在しない」の意でしょう。
哲学的には「絶対無」と言う定義もありますが、基本的には「有るか無いか」の「無い」です。
不明、不良、不信、不幸、不忠・・・・
これに対して「不」とは論理的否定を表すはずです。
ですので、「不」は、ある状態を否定する場合に使われます。
つまり、「不美人」と書けば美人でないこと、「無美人」と書けば美人が存在しないことです。
こう言う表現があるのかどうかは知りませんが、「無同」ならば同じものが存在しないことになります。
まあ、後は見解の相違ということにしておきましょうか。
386 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 10:01:23
>>384 新唐書で訂正されたとみるのは相当ではない。その点は、岩波の解説16頁を
参考に検討してみるべきであろう。
新唐書は、旧唐書が別の国として書いた倭国(九州)と日本国(畿内)とを同
じ国だとみて旧唐書の倭国に関する記事を国名のみ日本国に改め、あとは倭国
の記事をほとんどそのまま引用したにすぎない。新唐書が書くところが、列島
全体を表しているわけではない。
387 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 10:46:12
>>374 >それに駝紐の印と書かれているが、これはどちらかといえば、
>西側の諸国に与えるときの紐なのだが
確かに志賀島出土の金印は蛇紐だったからな
(ただしこれが長らく偽印だと言われた根拠にもなってたが…)
まあ日本から蛇紐が出た事自体
古代中国人が日本を相当に南方に位置する国と思い込んでいた事の傍証にもなるがwwwwwwwwww
つまり12000里は遠方という事だな。
畿内の人は中国嫌いは、つまりは魏志倭人伝の存在だろ。
あれさえなけりゃといつも考えてるからね。
大陸の先進技術を取り入れて発展して来たのが古代日本。
恥でもなんでもないのに。
>>387 >古代中国人が日本を相当に南方に位置する国と思い込んでいた
それって、以前から気になってたのだが、
証明する古い地図て残ってないの?
391 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 11:23:24
12000里という数字には何の根拠も無い。
遠いという意味だけ。
弓月国にも同じ12000里という数値が与えられている。
正確な数値では無い証拠。
392 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 11:24:45
>>389 九州の人だって、魏の臣下になることは何の恥でもないのに、
どうして卑弥呼は魏の臣下だって事実をきちんと認めないの?
で、当時の倭人(ヤマト、イズモ、ハヤト・・・)などは言葉は通じてたのかね。
言葉が同じだったら、同じ民族だろうから
誰が中心になってもかまわんと思うけど。
ヤマトが蝦夷と呼んだ、アテルイとかそういう部族の言語もどうだったのか。
誰か知ってる人いません?
タイムマーシンにお願い〜♪
396 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 12:22:38
しかし、タイムマシンができたとしても行きたい過去には行けない可能性がある。
全く別の過去にたどりついてしまわないとも限らない。
そして、帰ってきたはずの時代も現在とは別の現在に変わっているかも・・
過去とは、取り戻すことのできないものなんだよ。
397 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 13:28:15
邪馬台国は東経135°上にあった
135(ヒミコ)
>>397 ■経度
経度は、その地点と北極・南極を通る大円と、ロンドンの旧グリニッジ天文台を通る大円(本初子午線)とのなす角度で表される。本初子午線よりも東側を東経、西側を西経と言い、それぞれ180度まである。
■グリニッジ天文台
グリニッジ天文台は、ロンドン郊外グリニッジ地区のテムズ川河畔グリニッジ・パーク内に存在する天文台。1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計。
1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計
1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計
1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計
1675年にイングランド国王チャールズ2世が設計
399 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 13:59:05
山口県の須佐に舞い降りて太陽の道に沿って東遷した。
卑弥呼の時代には、倉敷市付近の瀬戸内海が有力。
400 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 14:13:51
>>384 訂正というより、倭国・日本国両方の言い分を載せたのが旧唐書であり、
戦勝国である日本国(畿内)の言い分だけにしたのが新唐書だ。
当然、旧唐書のほうが偏向のない客観的に正しい内容になっている。
401 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 14:23:19
>>399 日本書紀には卑弥呼が東遷したなんてことは書いてません。
妄想はお断り。
402 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 14:40:20
九州の神武が、わずかな兵を引き連れて、大敗も喫しながら、
やっと畿内にわずかな領土を得た、という都落ちの話しか載っていない。
日本書紀には天皇は神の子孫と書いてあります。
妄想全開。
404 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 14:57:30
天照大神・・・対馬で王ののち神になった
ニニギ命・・・筑紫で王ののち神になった
卑弥呼・・・王統ではないが倭国王ののち神になった
神武・・・ニニギ命の子孫だったが王統ではなかったので
畿内で初めて領主になり、のち神になった
405 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 14:58:16
ちなみに初代天皇は天武。
のちに神?
407 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 15:15:43
神武東征は日本書紀によると、
10月5日に兄三人を含め、兄弟四人で日向を出発。
大分県の宇佐を経て、11月9日に筑紫国の岡水門に到着。
12月27日に安芸国に到着。翌年3月6日に吉備の高島宮に入った。
このあたりはけっこう急ぎ足の旅となっている。
吉備では三年(古事記では八年)を過ごし、武器、船、兵糧を整えた。
近畿地方に到着するが、道が険しく、生駒越えを試みる。孔舎衛坂で
長髄彦の軍と全面衝突。しかし、前に進めない。長男の五瀬命は傷つく。
自分は日の神の子孫なのに、太陽に向かって進むから良くないと
いうことで、迂回する。
このとき、暴風雨にも遭い、結局、兄三人を失う。
熊野から八咫の烏に導かれ、大和に入り磯城彦を征伐。次に激戦の末、
長髄彦の軍を破り、橿原の地で即位する。
古代史というのはある意味で刑事裁判に似ていて、
自白(古文書、石碑)と状況証拠(時代背景)、遺留品(遺跡)が重要。
しかし、最も重要なのは、やはり動機なのです。
なぜ、神武は畿内に移ったのか?それが犯罪捜査の重要なカギになります。
そして、検察官たるものは、先入観を持って犯罪捜査にあたってはいけない。
素人の裁判員の皆さんも、検察官の誘導に乗せられないようにしてほしいものです。
動機は本人が自白しなければ、単なる状況証拠です。
410 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 15:45:37
狭野命(即位後の名は磐余彦・神武天皇)も後の天皇家の祖になったから東征の英雄になったが
実際には移民・植民集団のひとつの長でしかなかっただろう
もし別の首長の子孫が日本統一王朝の大王になったらなおのこと
411 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:04:46
>>409その自白というのが曲者で、警察の厳しい取調べで嘘の自白を強要され、
裁判でも自らの自白を覆すこともできなくなってしまった例は数知れず。
時の支配者の圧力に屈してしまった歴史家がいかに多いことか・・
412 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:27:16
現代人の出身地で決めるつもりなら、東京だなw
414 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:40:49
>>408 神武東征の動機なら日本書紀に書いてあるだろ。
「畿内は日本の中心で素晴らしい土地だから、自分も行きたかった。」
415 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:44:15
声がでかいから正しいなんて錯覚してはいけない。
真実は常に一つ。いいですね?
416 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 18:18:43
417 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:19:06
神武都落ちの動機は、有明海から海外派兵をする時代に、
遠洋航海が苦手で、長崎〜熊本の土地勘がなく、
糸島郡の沿海戦しか経験のない神武ら久米軍は、
役に立たずに、リストラされてしまったから。
418 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:36:12
>>383 たしかにそうなんだがwww
ずばり邪馬台国はどこ?
419 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:04:46
勿論佐賀県小城市甘木ですよ。18年前に発見されています。
>>418 IDでない板でそんな聞き方されても答えないだろJK
421 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:19:17
422 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:27:41
勿論佐賀県小城市甘木ですよ。18年前に発見されています。
423 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:46:10
424 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:56:26
倭人伝の記述から考えるに、筑後川より北はありえない。
南だろうなあ。
425 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:56:55
佐賀大和も何かあるねwww
426 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:01:54
427 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:03:08
ぬこ国
428 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:12:13
筑後川近辺もあやしいよなwww
>>414 「日本の中心」とは、日(太陽)の本(本拠)のど真ん中という意味
太陽信仰だから
430 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:16:14
卑弥呼の墓が残ってる可能性は低い
431 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:25:32
日本書紀によると、神武東征のとき、神武天皇が船で到着したのは、
河内の国草香邑(大阪府日下)白肩の津となっている。
現在の日下は内陸部だが、西暦400年くらいまでは河内湖となっていて
船で生駒山の近くまでいけたらしい。
つまり、記紀が編纂された頃はすでに陸地となっていたにもかかわらず、
このことが書かれているのは、神武東征が史実だからではないかという説も
あるらしい。
ここのトヨたん・・・とかいう自演自作するやつみらんね
433 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:38:10
小城市甘木の小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓です。
434 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:41:33
>431
神武の様な伝承があったと言うだけで、
それが即、紀記の通りだとは限らないけどね。
紀記は、過去を整理して作られたものだと思う。
436 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:48:22
437 :
AAを作ってみた:2009/06/06(土) 23:54:43
帯方郡
|南7000余里
狗耶韓国
|渡海1000余里
対馬国=対馬
|渡海1000余里
一支国=壱岐
|渡海1000余里
末櫨国=佐賀県松浦郡
\東南500余里
伊都国=福岡県糸島郡
\東南100余里
奴国――――不弥国
ll 東100余里|南水行20日
福岡県糸島郡 投馬国
|南水行10日
|陸行1月
邪馬台国
438 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:58:06
439 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:01:25
>>437 御手並みハイケン
もっと詳しくいってみろ 間抜けなこといったらボコボコねw
440 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:12:42
>>438-439 ???
いや、これ魏志倭人伝の記述をただ図にしただけなんだけどw
ちなみにこのAAでは右方向が西、下方向が南
>>440 ちなみにこのAAでは右方向が西、下方向が南
お前、馬鹿か?
東南がどう転んだら西南になるんだよ
いや、連続読みになってるし、奴国=儺県=博多ではないようだから、十分自説でしょう。
西から昇ったおひさまが♪
444 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:43:40
>>441-442 じゃあこれで
帯方郡
|南7000余里
狗耶韓国
|渡海1000余里
対馬国=対馬
|渡海1000余里
一支国=壱岐
|渡海1000余里
末櫨国=佐賀県松浦郡
/東南500余里
伊都国=福岡県糸島郡
/東南100余里
奴国――――不弥国
東100余里|南水行20日
投馬国
|南水行10日
|陸行1月
邪馬台国
>>444 お前 字が見えないのか?
東南とか書いてるのになんだそれは こんなのしかおらんの?レベル低すぎw
446 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:54:39
「南」を「西」とわざと履き間違えて読んでいる輩がいるってことが
言いたかっただけなんだけどね・・・
440の >ちなみにこのAAでは右方向が西
ここ間違えただけでないの?? まあ続きをどうぞ。
449 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 01:28:46
帯方郡
\ 南東7000餘里
狗耶韓國=慶尚南道
|渡海1000餘里
對馬國=対馬800餘里
|渡海1000餘里
一大國=壱岐600里
|渡海1000餘里
末盧國=唐津鏡中原遺跡
\東南500餘里 東100餘里
伊都国=佐賀大和惣座遺跡――――不彌國=吉野ヶ里遺跡〜帯方郡12000餘里
\東南100餘里 | |
佐賀城=奴国 水行20日帯方郡〜投馬國=大川市 邪馬壹國=久留米市〜帯方郡水行10日陸行1月
>>449 ダメだね、論外。
佐賀周辺にどれだけ人が住んでるんだよw
佐賀県〜福岡県って、ひとつながりの土地なんだよね。
佐賀県→面積狭い→人口少ない、っていう条件反射はやめような。
452 :
449:2009/06/07(日) 03:49:06
>>450 奴國の領域は佐賀平野と白石平野で2万戸(佐賀市・小城市・江北町・白石町)
奴國の城郭が佐賀城
奴國城郭周辺人口は、5千から1万人程度
投馬國の領域は筑後平野 5万戸
邪馬臺國の領域は八女市以北と北野地域 7万戸(うきは市・鳥栖市・八女市・筑紫野市に囲まれた範囲)
453 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 03:58:25
>>452 まあ、有り得る説とは思うが、その佐賀城というのは何とかならないかな。
ピントがずれているように感じられるから。
454 :
449:2009/06/07(日) 04:01:42
>>451 >佐賀県〜福岡県って、ひとつながりの土地なんだよね。
現在ではその通りだが、
3世紀には吉野ヶ里の南まで有明海であった。
佐賀県と福岡県の平野は、有明海によって東西に分断されていた。
455 :
449:2009/06/07(日) 04:09:50
>>453 >その佐賀城というのは何とかならないかな。
佐賀平野では、唯一の城郭適地が佐賀城の場所。
456 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 04:53:00
>>449 城郭がどうのこうのというのはおかしいし、とにかく、水行20日が帯方郡からだとか、
水行10日陸行1月が帯方郡からだというのは論外だな。
それが帯方郡からの日数だったら、伊都国(放射式)や不弥国(連続式)との関係が
まったく分からないこととなる。そんな馬鹿な行程記事はないよ。
日数だけなんとかこじつければいいという考えではだめだな。
458 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 09:23:58
倭人伝の行程は、原資料を書いた人物は、読んだ者が理解できると思って書いて
いるんだ。クイズみたいな読み方のはずはない。分かりやすく書いているはずな
んだよ。
水行20日が帯方郡からなら、投馬が出雲で邪馬台国が
大和という線も説明つくな。方角だって誤差が減る。
460 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 09:56:59
貧すれば鈍するって言葉があったな。
461 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:00:48
邪馬台国への道筋を順次にかいていっているのであるから、投馬国への20日が郡からということはない。
462 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:13:12
邪馬台国だと思う場所へ今日行く人いる?
俺は毎日巻向の横なら車で走ってるけどな。
464 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 12:35:53
466 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 13:13:53
平城京跡を掘った馬鹿がいたな。
467 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 13:33:00
>>466 西大寺の?w
どこら辺を掘ったん?www
468 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:23:45
朱雀門か、太極殿の近くで無かったかな?
469 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:38:19
ドタキャンなら吉野ヶ里にでも掘りに行くかー
邪馬台国比定地は巻向を含むかなり広い範囲だったというし、
夜中にこっそり掘りかえると石碑が出てくるかもしれない。
やっぱり石碑が大事だと思うのですよ。
男狭穂塚、女狭穂塚を掘ってみたい衝動に…
でも宮内庁が、あそこには古代の重要な女王やら男王やら金印が埋まってるから掘ってはダメだって言うんだよ
472 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 16:08:39
ふふふ、古墳に秘められた真の恐怖を知らないようだな。
夜中に古墳に近付いた経験のあるものしか、あのぞっとするほんとうの恐ろしさは分かるまい。
ふふふ。
わたしは週2回は、仕事に帰りに近所のスーパーの敷地内にある古墳の
上の神社を1人で参拝してますが、怖いということはありません。
ただ、時々、人の気配がしてぞくっとすることはありますが祟りはありません。
オレはガキの頃遠足かなんかで箸墓へ行った時、
しょんべんしようとしたらデカい蛇に出くわしてビビった覚えあるわ。
476 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 17:47:49
平城京跡は1m未満なら掘る事OK。
平城宮跡は掘ってはいけません。
478 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 18:56:25
埴輪の発見付近では必ず事故なりで、人が死ぬという都市伝説を信じてる奴に、発掘は無理だろうなwww
>>475 その蛇は三輪山の神オオモノヌシ様じゃったのだぞ。
オオモノヌシ様はかつてわが妻としたモモソヒメ様が自害なされたのをまことに哀れに思い
こうしてときどき三輪山から箸墓に来られ、モモソヒメ様のご霊前へお参りをなされておられるのじゃ。
おぬしはビビって正解じゃった。
もし構わずしょんべんを続けておったなら、蛇は怒りのあまりおぬしの首に巻きついておぬしを窒息させ
最期はとどめの毒牙が突き刺さり、おぬしは一瞬にして絶命していたであろうぞ。
480 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 20:26:27
蛇の口の中から金印発見
481 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 21:39:59
>>473 んな事言うてたら、奈良の人間なんか夜外に出ていけませんがなw
奈良は夜外に出ても何もないし
奈良の大型前方後円墳で円筒埴輪の破片を拾ってきた
表採というか、みかん畑にふと落ちていたのだ
タタリ等はない
何度も言うようですが、狙いばズバリ石碑。
もし、箸墓周辺から、広開土王碑のような石碑が見つかれば・・
日本の歴史が塗り替えられるほどの大発見になります。
485 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:36:43
486 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 22:41:25
箸墓には碑石が出てるということです。それには百襲媛の戊寅年10/2
の没年の文字があります。
487 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:43:39
今、石碑を造ってますので、もう少しお待ち下さい。 考古学会
「ちょっと、それは言わない約束でしょ」
橿原考古学研究所
>箸墓には碑石が出てるということです。それには百襲媛の戊寅年10/2
>の没年の文字があります。
証明は?
490 :
178:2009/06/07(日) 23:17:44
491 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:17:48
石碑さえ出れば・・すべてが明らかになります。
492 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:21:03
テスト
493 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/07(日) 23:24:16
>>489 曲学の徒氏の邪馬台国掲示板
倍暦計算で暦法の交錯の照合
同板「箸墓論争」No.8045 No.8046 No.8048 No.8050
zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・・・
494 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:31:57
今までに、石碑とか墓碑とか出てきた古墳があるのかな?
495 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:32:07
「古代日本に倍暦・倍干など存在しない!」MR・BRAIN氏。
496 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:34:37
497 :
178:2009/06/07(日) 23:42:47
498 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 00:14:56
>>496 「太国は池と沼の違いがわからないからである。」MR・BRAIN氏。
499 :
辛い天神:2009/06/08(月) 00:23:48
>>497 くわばらくわばら・・・wwwwwwwww
500 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 01:11:32
それでも10万人ぐらいはみているぞ。
501 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 09:48:58
502 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/08(月) 10:43:41
>>495 存在しない根拠はどういうことにあるのか?
否定して仁徳前の天皇の超長寿をいかように倍暦以上に納得され
られるようにどう説明するのか? 妄想の讖緯説じゃぁ、思慮の浅い
烏合の衆は騙されても、こちらは騙されはしないぜ。そんなのは伴と
那珂の研究不十分で結論つけたいい加減な妄想なんだぜ。w
否定の具体論〜それを合理的具体的に語れや。
503 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 11:26:35
>>502 神話に合理性を求めるのは変じゃないですか。
504 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/08(月) 14:36:04
>>503 神武以後は年月日が記載されてるから、神武手前の神代とは異なり、
これは神話ではない。神話なら年はあったとしても月日までの精度を
記載するはずもない。神話なら年代がピンボケのはずだ。
但し神武以後でも神話がかった記述はあるにはある。そこはよく検討
して考察すればいい。そんなのが神武以後に挿入されてるのは、
当時はいまだ高等教育を受けてる連中が殆ど無であって迷信を脳内に
溜めこんでいる者が多勢であるから、そういうものが記述の中に
入ってしまうし、これが近代に記載された文献でない根拠にも
なろうし、有効部分もある。
こういう迷信は現代でもあるわけで、それがしも若いころに田舎で
昼食をとって寝転んだら、grandmaから「牛になる」とかたしなめ
られたが、こんなことは数十年前でも迷信としてあったのだ。さらに
オマエもそうだろうが、結婚式になると大安に集結し仏滅なんぞには
日本の連中は殆どやらんだろう? こんなことで単純に神話などと
断を下すのは早計である。
>>504 御祖母様による教育的指導を単なる迷信と断じてしまうあたり、
柔軟性を欠き、頑迷な思考力の持ち主である事を物語っている。
506 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:37:43
町おこし邪馬台国九州説はなんとかならんか?
507 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:59:25
邪馬台国なんて、魏志倭人伝に載っているから注目されるだけであって、3世紀の日本の文化なんてしょうもないよ。
何しろ入れ墨入れて貫頭衣着てた時代だからね。邪馬台国はおそらく巻向だろうけれど、近くには弥生時代の唐古鍵遺跡や
飛鳥の遺跡群、藤原京跡、神武天皇陵なんかがあってで遺跡だらけの場所なんだ。巻向が邪馬台国だったとしても
地元民にとっては、ああそうですかぐらいの思いだよ。
牛にならずに、犬になったか。wwww
神武天皇陵(笑)
510 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:47:54
畿内は町おこししてないのか?
>>510 一生懸命してるじゃん。せんとくんを知らないのか?
512 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:56:47
>>511 きもキャラのせんと君はしってるよ、でも邪馬台国と関係なくない?
せんとくんっていうくらいだから、東遷説を訴えてるんだよ
514 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:08:37
奈良もやってんじゃん(笑)他県の事ばかり言ってないで、畿内派は恥を知れよ。
ていうか、畿内派=奈良の人、九州派=九州の人って短絡は
あんまりすぎないか?w
畿内派はそんな程度の人ばかりか。がっかりだ。
517 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:19:53
難癖の畿内派
誠実な九州派
518 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:30:49
>>517 きみは誠実な人には見えないから、畿内派だね?
519 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:34:20
まあ確かに、どんだけ誠実でもバカじゃしょうがないしねえ。
521 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:41:17
誠実な九州派=砂鬼四荼羅教徒
邪馬壱国は邪馬台国の改竄して、
ヤマトと読んで畿内にしちゃえば
奈良県がウハウハ
・・・これが畿内説の根本思想です
523 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:03:10
524 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:03:33
525 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:06:39
くだらねえアオリをだらだら書いてるヒマがあったら、
少しくらい自説を語ってみたらどうなんだ馬鹿が。
526 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:16:00
毎日新聞はかつてあのトリックを暴いたことがあったもんなw
ゴメン、名前ド忘れした
心配しなくても奈良県内では
誰も邪馬台国なんて騒いでないってw
遷都祭の方で忙しいんだよ。
ああ思い出した
旧石器捏造事件だわ
あれスクープしたのが毎日だった
でも毎日は正直信用したくないな。
箸墓より一時代前とされるホケノ山古墳の測定値が
2つの炭素とも揃って三世紀後半と判定された。
しかし箸墓だけは、三世紀中ごろに判定。
さすがは、ゴッドハンドの畿内説。なんでもアリです。
532 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:51:54
畿内説=ゴットハンド
九州説=魏志倭人伝
あなたならどちらを支持する?
畿内説
534 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:01:11
畿内説
九州人=粘着
を、支持することにしました。
536 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:05:10
文献の場合は、みんなに平等に資料が提供されているが、C14とか年輪年代とか
あるいは考古学の資料とかは、普通の人の手に届かないところにある。
九州人=粘着説を支持します
畿内派ってこんな人ばかりか。ますますがっかりだ。
否定されたときの言い訳ができるかどうかかな
畿内説を支持して九州に卑弥呼の墓が確定したら
「じゃああの膨大な古墳はどう説明すんねん」で逃げられるけど、
九州説を支持して畿内に卑弥呼の墓が確定したら
馬鹿扱いだろうからなあ
畿内説に一票!
九州説はシロウトがあーだこーだとうるさく騒いでいるだけの印象しかない。
542 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:17:17
畿内派って、違った時の言い訳まで考えてるわけねwww
かっこ悪いし、つーか自信ねーのかよ(笑)
これなら九州説を支持するわ。
もし畿内説に確定したら‥
JR九州は涙目だろうなw
544 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:22:45
545 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:23:59
メンツばかり気にしてる畿内派は悪徳官僚みたいだな
ゴットハンドを使ったのも理解出来る。
546 :
ローガン:2009/06/08(月) 23:45:39
>>531 > 箸墓より一時代前とされるホケノ山古墳の測定値が
> 2つの炭素とも揃って三世紀後半と判定された。
それ、詳しく教えてくれませんか?
547 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:57:33
>>544 珍読しかできない御仁が、まともな説を理解できずに珍読と攻撃するか・・
九州説が珍読かどうかはともかく(例も多いしな)、だけど
名詞の音の類似であれこれ言いだすと電波臭くなることは確か
畿内説なんて珍読するような場所は投馬しかないけどな。
目的地は大和巻向しかないのだし。
>>548 ふーん。畿内説の人もよく言いだしてるけど電波なんだ。
551 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:53:06
投馬国なんてほとんどの地方自治体にはどうでもいい存在なんだろ
もしマキムクからここが投馬国だと決定づける遺跡が出てきても桜井市は嬉しくもなんともないんだろ
>>550 そうだね
おれはどっち派でもなくニュートラルに興味を持ってるだけなんでね
どっちかに固執することを前提にしてる人たちはどっちも電波くさい
553 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 03:06:35
倭人伝の記述の中で、これは間違いなく近畿地方のことを書いているに
違いない、と言える部分はないんじゃないかな。
ところでさすがに畿内説でも伊都国は北九州にあるんだろ?
555 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 08:10:10
556 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 08:11:18
>>553 君はこの時代の近畿地方の正解な様子がわかるのか?
>>554 それは間違いないだろう。
個人的には伊都は前原のみではなく、もっと範囲が広いと思うが。
558 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 09:37:32
>>556 そんな悠長なことを言っていたら、わしの命がもたないんだよ。
九州説の人はほとんど鉛丹についてはスルーしてるよね。
卑弥呼が特に欲しているものと倭人伝にも書かれてるのに。
呪術的要素の強い邪馬台国の卑弥呼は、貴重な
鉛丹の産出地を求めて東へ向かって行ったのだと思うけど。
560 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 10:01:48
>>559 卑弥呼東遷説かよ。ww
根拠は?
史学は史料に基づく実証が肝心なんで、ただ想像するだけじゃ駄目なんだよ。
>>560 この時代の推移を説明、裏付け出来る史料なんて完全に残ってるのw
根拠は鉛丹の産出地を調査してゆけばいいじゃないか。
当時ならそんなに深く採掘出来ないのだから、枯渇すれば
当然採掘場所を求めて移動してゆくだろ。
するとこの時代だと必然的に熊本〜徳島〜宇陀の周辺に限られるからな。
伊都、那賀なんて地名が高野山紀の川沿いにもあるし、
この辺りに丹生川は集中してるのは探し回ってる証拠じゃないか?
562 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 11:44:18
奈良は大仏のイメージが強くパンチパーマをかけてる人がたくさんいる。
九州は美男美女のイメージが強く明太子ばっか食べてる人がたくさんいる。
>>560 > 史学は史料に基づく実証が肝心なんで、ただ想像するだけじゃ駄目なんだよ。
史料ね…倭人伝に卑弥呼の国には「丹」がある、
又卑弥呼が特に欲するものとして真珠(海の方じゃない)、
鉛丹を賜ってるという記述がある訳だが。
九州説はこれをどうもスルーしがちに見えるけどね。
何十年も国を維持出来る程の鉛丹、丹(金貨、呪術、薬でもある)が
北部九州に存在していたとはとても思えないので、
発掘隊が先発〜国家移動というのはあり得る話だと思うが。
564 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:05:13
九州には丹と卑弥呼の墓が見つからないが、畿内は卑弥呼の墓(未定)以外全て揃ってるわけですか?!
565 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:45:47
>>564 ありますよ?
西日本全体が邪馬台国ですから。
566 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:57:19
>>557 対馬国が千余戸
一大国が三千許の家
末盧国が四千余戸
伊都国は千余戸
奴国は五万戸
伊都国はあまり大きくないよ
>>565 つまり北部九州は邪馬台国への玄関口ですね。
568 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 13:37:03
温暖だとか冬でも生菜を食すというのは倭の地についての記述であって邪馬台国の記述じゃない
真珠・青玉・丹を産出するというのも倭の地の記述だ
倭の地の範囲を示しても邪馬台国の場所を特定する記述ではない
>>568 しかし範囲が九州のみという可能性は低くなるでしょ。
この時代で鉛丹の採掘なら徳島周辺か、紀伊半島ですよ。
570 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 14:01:49
>>564 丹をベンガラと考えれば、阿蘇はベンガラの大供給地。
>>570 ベンガラは一番安価でしょ。
記述でも朱と丹、鉛丹は区別されてるし
この時代一番貴重なのは鉛丹じゃないかな。
572 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 14:42:00
ていうか、九州地方を中心とした広大な地域が倭国。
絹も鉄もでない畿内は、その最果ての地。
染色具としてはベンガラは縄文〜弥生時代の主力。
弥生後半以降は辰砂がメインです。辰砂は
その時代だと徳島阿南か大和葛城山周辺が採掘場所となります。
水銀だとやはり宇陀周辺なので、弥生後期に
何らかの移動があったとしか思えないな。
>>573 >絹も鉄もでない畿内
真っ赤な嘘である。
絹も鉄も、3世紀と推定される畿内の遺跡から出土している。
>>573 へー、その最果てに皆競って集結してゆくのかw
577 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 15:22:57
>>576 焼酎でも飲んで九州で石ころ発掘してろ。
水銀は九州でも採れる
580 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 17:52:45
>>570 ベンガラを土器に塗って輸出してた最大の国は東海なんだが。
>>563-564 九州説の真実がわかってる人が釣ってるんですね
わかります
しかし九州だと何で都合が悪いんですかね
583 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 18:43:13
>>581 反対にどうして九州しかいけないのかね。
他説に反論しても時間の無駄
自説の検証に努めよ
翡翠を送ってるんだから東海も勢力範囲内何だよね。
さすが3世紀に入って倭国を九州内で30国収めようとするのは無理だよな。
587 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 20:57:49
島一つで1国扱いだがな
伊都国ってのが大元で
あとまとめて 邪馬台国とか
まあ専門家や卑弥呼オタクじゃねえし
よくわかんねえけど
アマテラスに妹っておったん?
中国でさえ三十国はなかったんだから、倭国はもっと広くなくちゃいけませんね
中国の一国は1000戸くらいだったんか?
そうも思えないけどなあ
>>589 その論に従えば、日本全土で2国あったかもあやしくなるんだけどね
592 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:30:02
>>536 まあ、そこがかつて邪馬台国論争が市井の歴史マニア・郷土史家を巻き込んだブームになった一因であり
今日そのブームが衰退してしまった原因でもあるw
基本史料は「魏志倭人伝」の約二千文字(無論これをベースに様々な書籍が加わるが)
スターターキットとしてはお手ごろw
それで象牙の塔の住人、学者先生を相手に渡り合えて、ひょっとしたら日本の古代史をひっくり返す事ができるかもしれない・・・
そりゃモチベーションもあがるってもんでwwww
で松本清張あたりによって先鞭がつけられ一気に大衆化した邪馬台国論争だが
結局「悪貨は良貨を駆逐する」とまで言えば言いすぎだろうが
比定地を絞り込むどころか拡散の一途を辿ったと・・・
( 正直「放射説」もそう言った大衆化の背景がなければ出てこなかったか
出てきてもさほど注目されぬまま消えていったろうと思っているwww )
結局南極、百年余の邪馬台国論争は何だったのか?
・・・もうそろそろ総括してもいい頃なのではと思う今日この頃wwwwwwwww
>585
産地と対等に交易しても手に入る
何でも支配下とか勢力下という見方をするのは安直過ぎる
私的には、奈良時代に入っても東国は、完全には内地化していなかったと思うよ
製造国中国、と入ったTシャツを着ていても、現代の中国が日本の支配下と思う人はいないだろ
594 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:39:37
悪貨が何かほざいているな
魏志倭人伝は北九州について書いてあるな
邪馬台国が別の所にあったにしても
中国人は畿内のことは伝聞の伝聞くらいの知識しかなかったはず
完全緘口令しいて2,30年後に真実国民に知らせるとか
実は記紀はって 酔っ払うと 遺伝子がうずいてくるよなあ
597 :
ローガン:2009/06/10(水) 00:18:09
>>592 > 結局南極、百年余の邪馬台国論争は何だったのか?
> ・・・もうそろそろ総括してもいい頃なのではと思う今日この頃wwwwwwwww
中華との国交樹立に伴う技術、文化等の流入により最も変化が大きかった地域が 魏との国交に携わった主体である。
総括になったでしょうか? zzz…
598 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:01:53
ともかく魏史倭人伝は北九州までは方角も距離もおおよそ正確だ。
そこから突然アバウトな記述になるのは、全く未知の遥かに遠い場所だから。
邪馬台国が北九州や近辺なら最後まで方角と距離を書くのが当然。
方位と距離が正確な最後の場所から十日の航海と一月の陸旅にあるんだから北九州からは遥かに遠い場所。
599 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:13:27
>>598の条件で考えると、
九州説は論外。
しかし大和説も、瀬戸内海を難波経由でも、日本海を若狭経由でも、十日も航海するか疑問だし、陸旅が一月なんてあり得ない。
陸旅が一月なら東北まで行ける。最低関東。
神奈川県大和市じゃないですか?
行ったのだとしたら、せめて南あるいは東へ等の記述はあるだろ。
いきなり南水行20日だからな、ダイジェストにもほどがある。
これは帯方郡から南方面の遠い国という解釈だと思う。
>>599神奈川県大和市
現在の市名の由来
「鶴見村」は下鶴間村、深見村、上草柳(かみそうやぎ)村、下草柳(しもそうやぎ)村、上和田村の一部が合併してできた村。
下鶴間村の“鶴”と深見村の“見”をとって名づけられたとされている。
その後分村問題などの末、当時の八須賀村長の提言を元に、皆が「大いなる和」で協力していこうという意味から、1891年に「大和村」に改称したのである。
(明治以降誕生した大和村・大和町はほぼこれと似たような意味から付けられている。)
603 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 03:34:29
里数が突然日数になるってのもあるけど
陸行する前の上陸国が書いてないのも非常に怪しい
邪馬台国へ向かうのに最初に上陸する所だぜ?
しかも、一月も歩くのに途中に補給とか宿を取れるような中継ポイントも無い
最初からその大雑把さがあれば別だが
明らかに前半部分の行程記録とは差がある
604 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 03:39:15
邪馬台国に向かうのに最初に上陸する場所だから
伊都国のような関所機能と海上交通の要でもある筈だから奴国のような
商業都市機能も持っていた筈
そこに官も居ないのか?
わらかすなよ、陳寿さん
605 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 06:56:44
>>603 >一月も歩くのに途中に補給とか宿を取れるような中継ポイントも無い
何を考えているんだか。使者の一行を一大率の配下が案内するんだよ。
次々と宿が用意できるところは用意して、少しずつ進むんだ(ない所は野営も
あるかも知れないが)。わらかすなよ。
>明らかに前半部分の行程記録とは差がある
郡から狗邪韓国まで1日で来たと思ってるのか? 何度も補給に補給を重ねて
たどりついてんだよ。
邪馬台国九州論て九州の人間が、如何にしっかりしてないかだろ!
九州にあったなら、遺跡とか伝聞を大事にしろよ!
何も残っていないのに騒ぐだけ!
607 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 09:11:58
>>599 朝鮮通信使でさえソウル〜江戸まで水行10日陸行一月以上かかっているだろう。
伊都国まで郡から1万里で全行程が1万2千里なら伊都国〜邪馬台国までは2千里しかない。
これを基準にすれば九州内しかない。2千里は伊都国〜狗邪韓国(釜山辺り)までの距離と同じだ。
大月氏国もペルシャもアレキサンドリアも萬二千里ですが。
609 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 09:21:41
長田夏樹氏の倭人語=九州弁かつ非関西弁説もある。
610 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 09:46:49
郡から狗邪韓国までは魏志東夷伝韓条に記される地域
狗邪韓国が倭国北岸でここから南が倭人の地だからここから詳述したと考えられる
そりゃ九州も倭なんだから。
関西の中心、大阪平野はこの時代大半海ですw
612 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 11:06:37
613 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 11:23:18
>>605 日本に関するものだろ?
狗邪韓国は日本領だから、それ以外は割愛して当然
614 :
邪馬台国はこれで決まり:2009/06/10(水) 12:09:36
>>607 >伊都国まで郡から1万里で全行程が1万2千里なら伊都国〜邪馬台国までは2千里しかない。
× 伊都国まで郡から1万里で全行程が1万2千里なら伊都国〜邪馬台国までは2千里しかない。
○ 伊都国まで郡から1万里1千九百里だから、郡〜女王國の全行程が1万2千里なので、伊都国〜女王國は百里しかない。
奴國と不彌國はそれぞれ伊都國から百里だから、
奴國と不彌國は女王國に含まれる国々となる。
616 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 12:52:29
しー、古田教信者なんだから知らんふりしてた方がいいよ。
617 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:19:54
>>611 こういうのが、典型的な、「無知からくる九州説」なんだな。
まず、九州が先進地域で、畿内は不毛な土地だと思ってる。
邪馬台国時代に、クニがあったのは九州だけで、畿内にはクニなんて無いと。
しかし、こういう考え方は、
4世紀には確実に大和王権が登場したこと(前方後円墳登場)と大きく矛盾する。
どうして不毛な土地に王権が生まれたのか?
九州説は「東遷した」で答えが出せたと思ってるだろうが、
そんな物的証拠は無いわけだが。
和歌山の伊都ってなんだろな
620 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 14:23:43
東征の物的証拠
弥生都市の消滅。銅鐸の埋納。弥生葬制の断絶。
九州勢力のシンボル鏡の配布。
621 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 14:28:02
支配者が自分の支配権を裏打ちする象徴をいつ裏切るかしれない相手にホイホイ渡すんだろうか
622 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 14:32:32
ホイホイ渡したから、一つの墓から何枚も出てくるんだろうが。
>>620 弥生都市?弥生都市の消滅?
どこの遺跡のこと?
624 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 14:33:57
だからそれは支配の象徴じゃないんだよ
もし支配の象徴だったら敗戦国のものを戦利品として分配されたものだ
>>620 >九州勢力のシンボル鏡の配布。
ホントかどうか知らんが、九州勢力と言っても北部九州限定だよな
少なくとも南九州(日向)は除いとけよww
626 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 15:02:55
景行天皇が筑紫に向かった際に一国の長である神夏磯媛が剣や鏡を差し出して降伏している
象徴を渡すとはつまりそういうことなんだろう
627 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 15:18:36
>>625 日向に邪馬台国があった。となれば、魏から銅鏡をもらったということは、邪馬台国
も銅鏡をシンボルとしただろうってことだ。
628 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 15:20:27
>>626 大和は周辺の国々に降伏したってことか?
>>618 大和銀山の豪族、丹生氏が活動拠点にしていたそうだ。
その丹生氏のルーツが伊都出身だそうだ。
つまり九州の北部からやってきた一族と考えられるでしょう。
630 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 15:27:21
>>599 朝鮮通信使はソウル〜江戸へ4ヶ月〜半年がかりで行っているぞ。
水行10日、陸行一月ではせいぜい奈良までだろうな。
>>627 日向から鏡はほとんど出ない
北部九州とは雲泥の差だ
>>631 西都原の博物館にたくさんあったよ?
まあたぶん時代が違うんだろうけど
633 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 15:58:37
>>631 墓の副葬品は盗掘されるから。
北部九州でも、鏡の大半は甕棺から出てくる。
盗掘されずに出てくるほうが珍しい。
宮崎の持田古墳群は、ほとんど盗掘されているらしい。
また、宮崎では、工事現場で鏡が出てきて、貰ってもいいかと尋ねると
じゃんじゃん持ってけ、なんて言われたという話も聞いたことがある。
634 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:05:00
>>633 盗掘云々なんて何処も条件は同じ。
宮崎・鹿児島が極めて少ない事の理由にならない。
どの道、邪馬台国南九州説は考古学的には極めて相性が悪い、もう絶望的なほどにw
あとは行程記事との合致で何処まで引っ張るかだなw
635 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:09:04
いまだに銅鏡を東征の証と言っている奴に聞きたいんだが・・・
もしニギハヤヒだか神武の東征がなかったら銅鏡は九州以東に伝わらなかったのか?w
>>632 ほとんど持田古墳群のだろう?時代が違う
弥生の鏡は北部九州が他を圧倒
637 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:12:42
南九州説が考古学的に問題だなんてのは、分かってないだけの話だね。
何の問題もない。いや、南九州こそ考古学的にも邪馬台国に合致するんだよ。
鏃をみろ、北九州や近畿ならば、銅鏃が書かれるにきまっている。
近畿に矛があるか? 南九州だからこそぴったりなんだよ。
638 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:16:17
銅鏡は新参者にくれてやる安上がりな威信財だ。配布の大本のところには、
なくていいんだよ。話の種に少しもってきた程度のことだろう。
639 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:21:20
安上がりなら威信にならない
威信あるものをくれてやったら叛乱時に格好の威信具になる
642 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:56:11
日向では矛はあちこちから出てるよ。
644 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:02:26
邪馬台国の会の一覧表を見てるな。ないと思ってんだろう。
確か「宮崎の考古学」(石川)とかいう本にのってるよ。調べてみな。
挙げてみれ
646 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:35:25
>>629 このように、東遷説は、なんでもかんでも九州を起源と考えるわけだ。
メンタリティが朝鮮人そっくり。
大和=日本人は、もっと奥ゆかしさがある。
そういう意味からいって、九州は邪馬台国≠大和なんだろ。
647 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 18:14:47
速報!・・・・・邪馬台国九州説に、会社更生法の適応が決定しました。
ドン!
なぜだろう、
>>649のURLから嘘臭さが漂うのは
>>646 俺は629だが邪馬台国=畿内説だけど。
ただ水銀を求める動きは西(というか中国)からだと思うだけで。
652 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:37:58
結局、日本史で言いたい事、デタラメ書けるのは邪馬台国と卑弥呼だけ!
654 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:38:57
銅矛の年代はなかなか難しいらしいが、一番新しいとされる広形にしても
卑弥呼の時代よりはかなり前と思われる。
もし戦国時代が3世紀だったとしたら・・・
九州説と畿内説のように大阪説と東京説があって
今日のこのスレのようにやり合ってんだろうな・・・
少数派の中に京都説ってのがいてさ、大阪城遺跡とか
江戸城遺跡なんか発掘された日にゃもう・・・
「大阪城遺跡や江戸城遺跡に見合うような城跡が京都にあるの?」
「寺跡しか見つからない京都涙目www」
言われてるに違いないw
657 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:12:07
串間出土の璧は、中国が倭の王と認めてくれたもの。倭の王が串間にいた
ことを中国が認めてる。璧は壊れやすい。クーデターで手に入れようと
すると壊されてしまう。翡翠製です。
658 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 21:38:59
>>655 自説に都合のいいたとえ話をつくるなよな。
659 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:06:23
クイズミリオネア
大和説と九州説、どちらかが絶対に正しいとして、正解なら100億円で
美女10人と一生遊んで暮らせる。もし間違えれば拷問の上死刑に
なる状況を想像してみよう。君ならどちらと答えるかな?
660 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:19:28
>>645 南方古墳群、富高古墳、西都原古墳群などだな。槍は少ないが、鉾は各地の
古墳から見出されるって書いてあるな。
661 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 22:25:47
昔、スモン病という病気があった。悲惨な病気だったらしいが、その原因が
特定できない。京都大学はウィルスが原因だといい、東京大学はキノホルムが
原因だといい、かなりの論争が繰り広げられた。
しかし、決着が付かない。論争とは決着が付かないものらしい。
そこで、ある人がとにかく、キノホルムの使用を止めてみようじゃないか、
それで患者の発生が止まれば、キノホルムが原因ということがわかる。
ということで、使用を止めたところ患者が発生しなくなり、原因が特定された。
論争とは決着が付かないものだというのが良くわかるが、恐ろしいのは
論争している間も、原因物質のキノホルムが大量に使用されていたこと
だろう。
662 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:14:49
北部九州説と近畿説の論争が続くのは、両説が間違っている証拠。解のない
ところでは解は見つからない。正解は、両説以外にあると論争史は語って
いる。
663 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:26:17
>>662 同意。そして、正解に一番近いのは南九州説だよ。読み方にまったく無理がない。
考古学的にも、何ら問題がない。
664 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:42:56
>>662 北部九州説と近畿説で論争などない。
近畿説の人が根拠も示さず妄想を垂れ流しているだけだ。
665 :
邪馬台国はこれで決まり:2009/06/11(木) 00:04:11
ここで言う北部九州説の場合、
邪馬台国は何処にあるの?
福岡平野?北野地域?筑後平野?佐賀平野?
さてどれだ?
上記4地域の何処にあるかで歴史の流れが全く変わってくる。
後、直方平野、京都平野、中津平野、大分平野も可能性がないとはいえない。
菊池平野、熊本平野、八代平野は中部九州説になるか?
ちなみに僕は筑後平野説だ。
そういえば福岡県の京都(みやこ)郡は何で京都て書くんだ?
いくらなんでも北部九州には無いだろ。
伊都があるのに全く無意味だ。
668 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:27:26
奴国は、金印などから、福岡で確定していいと考える。不彌国は、東だ。
そして、南に水行するから、九州の東海岸を南に行く。不彌国は、行橋市と
する。不彌国から、南、南だから南九州の東海岸に邪馬台国があった。
筑後平野は、西だから、逆では?もちろん方位は東でなく南と魏志には
ある。
669 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:28:05
邪馬台国ですか?
わたしはサガミハラハラの小城甘木説で正解だと思います。
670 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:40:38
>>666 日本書紀には、景行天皇が熊襲征伐の折に立ち寄り、行宮を築いて休んだから
都という名前が付いたと書かれている。
しかし、休んだだけで都としながら、日向の高屋宮には六年住んでいたが、
都とは言わない。ちょっとおかしいと言えばおかしい。
671 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 00:43:13
奴国が2つあることがポイント
伊都の東南百里の奴国と女王の境界の尽きる所にありその南に狗奴国を有する奴国
この第二奴国から東百里に不弥国、南に投馬国、さらに南に邪馬台国
>>659 橿原の学者全員を死刑にするのは大変すぎて
中止になるから心配するな
673 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:00:25
>>669 小城甘木説:東海岸でないので間違い。これは北部九州では?
>>671 原文みてください。それは読み方ちがいます。誤読です。
陸行1月は、起点国名、方位がないので、これは、あるいは式に読む。
不彌国から邪馬台国までは水行30日になる。水行1日を50kmと
仮定すると、不彌国から1500kmに邪馬台国があることになる。
福岡から、奈良までの直線距離は500kmである。ゆえに、東としても
奈良では距離は合わない。1500kmでは太平洋の中になる。
これは1日50kmとした換算単位がまちがってるのである。
九州の南北は300kmである。1日を7.5kmにするなら、30日で
225kmで、南に行っても九州内になる。1日を17kmとすると、30日
で510kmで奈良になる。東にすると。
674 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:10:42
国名のみの21か国は、邪馬台国でUターンして、水行30日の陸を北上し
奴国まで戻ってくる。奴国重出。奴国から東へ行って、南に邪馬台国が
あるので、奴国の南はあいてる。地図を見ると、福岡の南に熊本県がある。
熊本県が狗奴国。
675 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:20:22
676 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:28:46
陸行1月は、あるいわ式で読むと、南に水行すれば10日。南に陸行すれば
1月。つまり、南北に海岸がなっている。地図でみると、延岡市から宮崎市
の75kmである。水行10日=陸行1月=75km
邪馬台国は宮崎市では?串間市あたりまで含む。魏志では何丁目何番とまでは
無理。璧を考えて串間でもいい。宮崎市の大淀川そいに、生目古墳群が
ある。イキメと読む。邪馬台国の1番目の官名のイキメでは?
天孫降臨が宮崎になった説明も楽では?
あの記述できっちり距離、方角なんて出せる訳ないでしょ。
しかも途中から伝聞で書いてる可能性大なのにさ。
678 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:37:32
行橋市から宮崎市までの直線距離は内陸になるが200km。国東半島
迂回をかんがえれば225kmでほぼ合う。
伝聞なら倭人から聞いたのでは?倭人は何度も行き来しているので正確
なはず。
679 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:39:23
第一奴国は伊都国と不彌国に挟まれてて
第二奴国は女王国の尽きるところ
どう考えても別物だろ
680 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:48:59
郡から狗奴韓国までが7000里。倭は端から端まで5000里。
郡から女王国まで1万2000里。つまり、邪馬台国は、倭の最南端。
邪馬台国の南には、倭は無い。
>>第二奴国は女王国の尽きるところ
女王国ではない。女王のつきるところ。南の端であればいい。北部九州
と東九州で逆L字形に女王連合があり、たいし、西九州の狗奴連合が
対立していた。中央は山でくぎられ、熊本県北部が両国の前線。
吉野ヶ里の塀、堀、物見やぐらは前線基地では?
681 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:52:17
>>676 或いは式はおかしいな。投馬国に陸行が書かれていないことの説明ができない。
或いはと読むと、投馬国に比較して邪馬台国がずっと近い国となる。何のために
投馬国を書いたのかがわからない。しかも、投馬国が遠いならば、近い邪馬台国
を先に書くはずではないか?
682 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:55:00
>>660 それらの古墳群の出土品をネットでざっと
調べたが、銅矛が出土品となってる古墳は
一つも見当たらなかった。
そもそも銅矛は弥生時代の遺物だから、こ
れが古墳から出たとなると一大ニュースだ。
でもそんなこと書いてるサイトはなかった。
その本は大丈夫か。信頼できる書物か。
いまの考古学だと「鉾」じゃなくて矛を使うし
古墳の槍なんて記述があるのが怪しい。
考古学の専門教育を受けてなく、発掘調査
の経験もないようなドシロウトがときどきそん
な怪しい考古学の解説書いたり本を出したり
することがある。小田先生が書き直す前の
「九州考古学散歩」なんか特にひどかった
(著者が新聞記者)。
宮崎県に本当に銅矛の出土地がたくさんあ
るんだったら、すぐにとは言わないが、ちゃ
んと確実な報告書で調べて、出土遺跡名を
一覧してくれ。頼む。
683 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:55:44
対馬、壱岐は海の中の目印。末ロ国は水行からの上陸地点。伊都国は、郡使
のとどまるところ。奴国は????不彌国、陸から水行の港。投馬国水行、
陸行の換算のため。邪馬台国:卑弥呼のいる国。奴国は、狗奴国の位置
説明のためでは?
684 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 02:03:26
>>681 邪馬台国までの説明で関係ない国はかいてない。ただ、投馬国は、ものさし
として必要なので、ここだけ2つの方法を示した。それは海岸が南北であり、
後世の人が距離を復元できるから。
685 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 02:05:14
7000里は、狗邪韓国だった、、、狗奴韓国x
686 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 02:16:33
>>660>>682 宮崎県各地の古墳の副葬品に鉾(銅矛?)がたくさんあったなんて、嘘っぱちもいいところだ。
鐙(あぶみ)か鎧(よろい)と書いてあったのを早トチリして、鉾の字と勘違いしてるんじゃないか?
687 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 04:20:50
邪馬台国に矛が沢山あるって、どこに書いてあるのですか?自分の思い込み
でしょ?邪馬台国とは関係ないですよね。だから、考古は陶芸教室の一部
って言われるんだ。
688 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 06:28:58
>>682 あきれた奴だな。銅矛は実用物ではない(単なる祭祀物)。古田某は銅剣、銅矛なんぞを論じて
いるがそんなものは倭人伝は問題にしていないんだよ。実戦に使用されるのは鉄矛だ。
>>660にあげた古墳は「宮崎県の考古学」石川恒太郎の一覧表から目についたものを拾っただけ。
その本の316頁には、太刀に関する記事に続いて、「このほか武器には鉾・槍があるが、鉾は柄
が袋穂となっているもので、槍は中茎を有するものである。槍は少ないが鉾は各地の古墳から見
出され、東諸県郡六野原出土の三叉鉾は注目すべきである。」とある。
ネットで工夫してググって見ろ。すぐに出てくる。弥生の鉄矛としては、都城の平田遺跡がある。
689 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 06:43:20
南九州の土壌は鉄を腐食させやすい。したがって、鉄矛はなかなか出土しないんだよ。
しかし、前述の古墳やそのほか横穴墓からもでており、南九州で矛を使っていたことは
明らかだ。平田の出土でさらにそれが裏づけられた。
>邪馬台国に矛が沢山あるって、どこに書いてあるのですか?自分の思い込みでしょ?
もう一度、倭人伝を読め。兵用矛、楯、木弓〜鉄鏃或骨鏃とある。
邪馬台国候補地に矛がなかったら話にならんのだよ。
690 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 13:01:18
>>689 倭にあるから、邪馬台国に沢山あるとは論理の飛躍だ。あと100回ほど
倭人伝読め。話にならん。
691 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 13:14:20
南端の北に南端は存在する。逆L字形で考えると南端は2辺ある。最南端
は1つだが。
実は、陳寿はこれが理解出来なかった。南端の南に南端と考えた。で、魏志
を読んだ研究者も国名だけの21か国を邪馬台国の南にしてしまった。
実際は、国名だけの21か国は、邪馬台国の北にあった。これで、ほとんど
邪馬台国問題決着つく。
692 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 14:02:24
>>689 >もう一度、倭人伝を読め。兵用矛、楯、木弓〜鉄鏃或骨鏃とある。
>邪馬台国候補地に矛がなかったら話にならんのだよ。
それは邪馬台国のところに出てくる記述じゃないんだよ。
倭人の習俗をいろいろピックアップした部分なんだからどの国とは言えないんだよ。郡使が滞在した伊都国での見聞かもしれないし。
邪馬台国探しの決め手にはならないんだよ。
つか倭人の習俗を書いてる部分を邪馬台国探しの決め手にするのは危なっかしい方法なんだよ。
それと倭人伝は3世紀の倭について述べてるんだから、古墳時代の副葬品をもってくるのはピント外れだよ。
考古学を邪馬台国探しに利用するのはだめだとは言わないど、利用するんだったら3世紀の遺跡でないとおかしいことになるよ。
大体記述は一回見聞した物でもないしな。
色んな資料を後日まとめただけだろ。
694 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 14:44:12
因縁つけたり、屁理屈言ったり、なんとかごまかそうって必死になってるって感じ
だな。恥ずかしいと思え。
>>690 >邪馬台国に沢山あるとは論理の飛躍だ。
私は倭人伝を引用しただけだ。「沢山」などと言ったのはあなたがただろ。
>倭人の習俗をいろいろピックアップした部分なんだからどの国とは言えないんだよ。
>郡使が滞在した伊都国での見聞かもしれないし。
女王国に関する記事の中の記載だ。女王国で使者が訪ねたのは投馬国と邪馬台国。
しばらく滞在したのは邪馬台国だろう。当然、邪馬台国についての記事だ。
伊都国は女王国には入らない。
>3世紀の倭について述べてるんだから、古墳時代の副葬品をもってくるのはピント外れだよ。
弥生時代後期の遺物として鉄矛が出ている、古墳時代にも出ている。となれば、邪馬台国時代
にも使われていたと考えるのが当然だ。ピントは合ってるんだよ。
695 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 15:08:55
倭の地に関する記載は豊富だが
まさか伊都国は倭の地ではないとか言いだすんじゃないだろな
696 :
九州王朝大好き:2009/06/11(木) 15:09:22
>>694 >女王国で使者が訪ねたのは投馬国と邪馬台国。
>伊都国は女王国には入らない。
伊都國城郭を惣座遺跡とするならば、全く同意。
2chでは初めて見る同意見です。
あなたがコテハン餅ならば、どちら様でしょうか?
697 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 15:38:24
投馬国はどこ?
698 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 16:23:55
しかし、694が言ってるのは、「弥生時代の兵用鉄矛が南九州から出土してる」ということ
だけだろ。そんなもの他にも出てるし、もっと多い。考古学的には何も言ってないのと同じだね。
699 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 16:37:55
近畿はどの程度でているのかな?
700 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 16:53:10
そういえば東三河って説があったけど、
これはどうなの?
701 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:12:54
ねえねえ、投馬国はどこなのよ?
702 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:17:35
703 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:26:16
鉄矛か。多いのはやはり銅矛と同じで北九州だよな。伊都ー奴国あたりで見たんじゃないの?
704 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:53:09
>>694 >当然、邪馬台国についての記事だ。
はて?
あの風俗を書いた部分を邪馬台国のそれと断言できるなんて聞いた事がないが?
「其地」とあってタンジ・シュガイに同じとくれば倭地全体と解するのが普通ではないのか?
少なくとも邪馬台国限定と言うのは根拠がない。
別に倭地の風俗として九州の事が書かれていても
広範な首長連合を唱える畿内説には何ら支障はないw
705 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 18:17:54
それはそう。北九州の風俗は魏使は必ず見てるわけだし、そっから畿内なり南九州に行った
だけだろ。風俗記事は704のいうように倭地全体のものだろう。倭人伝であって、邪馬台国伝
ではないからね。
706 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 18:45:42
>>701 投馬国 延岡市といいたいけどな、、、、妻でもいいし。西都市でもいいな。
耳川とか、美々津って、投馬国の官名に近いな。邪馬台国以外は、従来の
北部九州説と同じでは?狗奴国熊本県とか。
邪馬台国は、宮崎市。まあ、がんばってくれ。
あ、そうだ。白珠5000は、臼玉だと考えてるけど。岩波文庫の写真は
白珠。臼になってる魏志ないかな?生目古墳から臼玉2つでてる。
707 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 18:57:57
|−−−−−−|
| |
|−−− |
A B| |
| |
|−−|
C D
南端CDの北に南端ABが存在する。
708 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 19:36:40
>>694 >当然、邪馬台国についての記事だ。
こういう決め付けは絶対におかしい。
が、仮にだよ、694の主張のように風俗習慣記事が邪馬台国での見聞記録だったとしても、
同じような風俗習慣が邪馬台国以外の他の国々でも行われていたんだったらどうなる?
つまりだ、鉄矛を邪馬台国所在地の決め手にできるのは、
・文献史料によって鉄矛は邪馬台国で使われた、が、他の国々では使われていなかった
と明らかにした上で、
・考古学的発掘調査から当時の鉄矛はその候補地だけ(たとえば宮崎だけ)しか出ない
という事実が明らかになった場合だけだろう? 違うか?
だからな、694はまず「邪馬台国以外では矛は不使用だった」と文献史料から明らかにするべきなんだ。
それができないのなら(絶対できないはずだ)、矛は邪馬台国所在地決定のなんの決め手にもならない。
当時の鉄矛の考古学的な分布の方は、これは考古に詳しい人が書いてほしい。頼む。
まあ、素人考えだが、宮崎だけしか出てこない遺物じゃないと思うぞ。
709 :
九州王朝大好き:2009/06/11(木) 20:18:39
>>697 >投馬国はどこ?
>>701 >ねえねえ、投馬国はどこなのよ?
投馬國城郭:大川市郷原
投馬國領域:筑後平野有明海沿岸地域 北端:みやき町三根(3世紀筑後川河口南岸)、南端:大牟田市
(八女市以北の内陸部は邪馬壹國)
だから、宮崎は少ないほうだよ。畿内も少ない。しかし、上レスに書いたように、風俗記事は
倭人全体のものだろうから、伊都国あたりで一大率警護の兵とか(これは妄想)が持ってる
のを魏使は見たんじゃないの。
これは九州説の奥野氏の本から取ったものらしいが、資料が古い。しかし銅矛と違って
なかなか見つからない。スマソ。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page014.html 矛は柄との接合部が袋穂とよばれるソケット状で、槍は槍は茎(なかご)を差し込んで固
定するという違いがある、といわれてはいるが、中国での区別けっこうあいまいである。
まあ、銅製武器はもろいためソケット状にしたのだろうと思うが、この加工は手間がかかるし
鉄製武器になって、矛が廃れるのは自然だろう。
711 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:23:24
>>709 放射式?無理だな。邪馬台国までの道を書いてるとこに、関係ない投馬国
とか記述の必要性がない。陳寿は美文を書く。つまり同じ記述を嫌う。
順番が異なっても、解釈を変える必要はない。連続式のほうが、不彌国
とかの説明に無理がない。
>>702 自分で調べるのは大切なこと。
しかし俺はぐぐれとは言わんよ。
ネット検索だと無駄な情報に山ほどぶち当たってしまう。
つうかネット上の歴史サイトはあまり参考にするなと言いたいね。
2ちゃん日本史板が一番当てにならんww。
図書館で調べるのがベスト。
どんな本がいいかはとりあえず司書さんに聞いたらいい。
>>709>投馬國城郭:大川市郷原
えらく細かいがww理由はなんだい。
なにか遺跡があるのかい?それとも地名?
投馬國の情報は
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
だけだが、島原半島大回りを想定してるのかな。
吉野ケ里遺跡なのだけれど、
あの巨大な柱の上に何が建っていたか?
出雲大社のような巨大な神殿だったことは確か。
どうしてあんな掘立柱にしてしまったんだろうね?
古代人を舐めてないか?
出雲大社?しかし、中古16丈(48m)と伝えられる社殿は、平安〜鎌倉期にかけて七度倒壊した
といわれてるんだが。神様が環濠内に降ってくることになるぞ。
715 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:54:14
>>713 埋葬施設から王がいたといわれてる。卑弥呼ではなく、いわば、村長さん
だな。その家があったのでは?邪馬台国ではない。邪馬台国は、東、海を渡る
だったかな?千余里、倭種がいた。吉野ヶ里では東に海はない。
716 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:25:52
>>706 熊本を狗奴国というのは、その北部に邪馬台国があったことを前提として
成り立つわけだから、根拠は薄い。
熊本と名前が似ているから狗奴国というのも短絡的で、熊本という地名が
古代からあったわけじゃない。火の国とか肥後とかの方が古い。
名前が似ているということを根拠にするなら、新井白石が比定したように
狗奴国は、球磨になるだろう。
球磨地方といえば、卑弥呼とだいたい同じ時代に呉のあたりで作られたと
される鍍金鏡が出ている。串間の穀璧も江南のもの。
ひょっとして、南九州は呉と結びつきがあったのかもしれない。
熊襲ってのは球磨と関係があるの?
球磨と熊本は関係あるの?
718 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:44:03
>>717 球磨と熊襲の関係についてはなかなか難しい。
関係ある、つまり球磨地方は熊襲に入るという意見の方が多いと思うが、
関係ないという人もいる。
日本書紀の景行天皇は、熊襲を征伐したあと球磨地方に立ち寄っているので、
少なくとも本拠地じゃなかったんだろう。
現在、球磨地方は熊本県の中にあるけれども、名前としては関係ない。
明治維新の廃藩置県のとき、現在の熊本県は、白川県と八代県に分かれていた。
その後、合併して熊本県になった。
熊本城という名前は加藤清正が決めたもの。
うーん、一般的には肥後国球磨郡(くま)と大隅国贈於郡(そお)が合わさったものとされる
ことが多いが、718氏のいうように異論もあるね。
中村明蔵氏は、熊襲の本拠は国分、隼人、霧島周辺であったとしているようだ。
720 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 02:04:10
>>715 >埋葬施設から王がいたといわれてる。卑弥呼ではなく、いわば、村長さんだな。
村長だなんてとんでもない。
倭國(倭面土國)王帥升の墓があるよ。
721 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 02:05:09
>>712 >投馬國の情報は『南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸』だけだが、
>>711 >放射式?
城郭が吉野ヶ里である不彌國領域の南に、
3世紀の筑後川河口を挟んでその南岸に、
投馬國と邪馬台国が並んでいます。
その西側が投馬國、東側が邪馬台国です。
>邪馬台国までの道を書いてるとこに、
>関係ない投馬国とか記述の必要性がない。
>陳寿は美文を書く。つまり同じ記述を嫌う。
女王國の一部分をなす邪馬台国ではなく、
女王國までの道順が書いてあるのです。
陳寿の嫌う無駄な記述はありません。
目的は女王國までの道順について書くことですから、
女王國を構成する国々は全部書く必要があるのです。
伊都國で枝分かれし東南百里の奴國や
不彌國に南接する投馬國が書かれているのは、
それらの国々が女王國を構成する国々だからです。
722 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 02:05:58
続き
魏使は、伊都國の東南100里に見える奴國の城郭を見て、
「おっ!あそこが女王國だ。」と奴國を記載したのです。
次いで、魏使は伊都國から東へ出発し、100里行ったところで不彌國城郭(吉野ヶ里遺跡)に着きました。
女王國に着いたのです。不彌國で帯方郡から丁度12000餘里の道程です。
不彌國に着いて南方を眺めると、3世紀の筑後川の対岸に投馬國と邪馬台国の領域が見えます。
右(西)側の地域が投馬國、左(東)側の地域が邪馬台国です。
魏使は「あぁ、この先が帯方郡に使者を送ってくる投馬國と邪馬台国だ。」と思ったのです。
又、「海辺の投馬國はひたすら海路のみを水行20日で使者を送ってくるのだな。」と思いました。
「邪馬台国は内陸国だから、海峡を渡るのに水行10日で、
あと倭地と韓地は陸行1月で使者を送ってくるのだな。」と思ったのです。
「邪馬台国は内陸国なので船を操るのが下手なんだ。
だから、一大率(一大國の人)を使って海峡を支配し、
ついで倭の諸国の支配をもしているんだ。」とも思ったのです。
723 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 02:06:49
>>712 >>投馬國城郭:大川市郷原
>えらく細かいがww理由はなんだい。
>なにか遺跡があるのかい?それとも地名?
筑後平野はゆっくりと沈降している平野だが、
海水位低下の縄文期に最も早く陸化したところ。
即ち最も古くから人が住んだ歴史があるところ。
そこでも城郭に適した高台。即ち浸水の心配のない標高の高いところ。
高台の周囲は自然の環濠でもある。
そんなところを地質データで探した。
筑後平野に上記条件の場所が見つかった。
それが大川市郷原。
もし郷原を全面的に掘り返せれば弥生遺跡が続々でてくるであろう。
「郷原」の地名も否定材料ではなかった。
724 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 03:03:19
>>708 >同じような風俗習慣が邪馬台国以外の他の国々でも行われていたんだったらどうなる?
女王国についての記事だということは倭人伝が明記している。だから以北の国である
伊都国や奴国、不弥国などの話ではない。それに北九州の話ならば、鏃には銅鏃が入
ってくるはずだろう。鉄鏃或いは骨鏃は南九州だからだよ。
女王国には投馬国、邪馬台国と旁国が入るが、旁国は道里戸数が分からない、つまり
使者は訪ねていないんだ、だから投馬国か邪馬台国の様子ということになるが、主た
る訪問先であり滞在が長かったのも邪馬台国だ。当然、邪馬台国の様子とみるべきだ。
>鉄矛を邪馬台国所在地の決め手にできるのは、
一つの問題を決め手だというほど、私は軽率ではないよ。重要な状況ということだ。
だいたい、矛は北九州にはある程度はあるだろ。近畿からは弥生のものは出ていないかな。
倭人伝の記載からすれば、邪馬台国時代に矛を使用していた形跡が認められないとなれば
極めて具合が悪いということだよ。
まあ、決め手云々と騒ぐところをみると、矛の問題がかなり重要だと意識されたというこ
とかな。今まで、あまり指摘する人がいなかったがね。
725 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 03:18:20
>>711 >邪馬台国までの道を書いてるとこに、関係ない投馬国とか記述の必要性がない。
邪馬台国を訪ねるのには行程的には行く必要がない投馬国へ行ったから、放射説で
書いているんだよ。何のために投馬国へ行ったのか?その点は、「邪馬台国の暗号」
(安田哲也)が女王国と呉との通交状態の調査だとみている。考えられるのは確か
にそんなところだろう。南九州説が良く理解できる、読んでみたら?
>>721 伊都国=惣座遺跡は結構なんだが、その後の、水行二十日などをごまかすところは
まったく同意の余地なしだ。馬鹿な読みはさっさと捨てなって言っても無駄だろな。
726 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:31:13
>>716 その南に狗奴国あり。だから、その が、何を指すかである。通常は、
邪馬台国を指すといわれてるが、原文みてもらいたい。邪馬台国は
はるか前の記述。ここは、その直前の奴国を指すととらえるのが、
合理的な解釈。
あと、女王国は、邪馬台国なんですが、どおしてこんな基礎的なこと
間違えるのかな?基礎ができてないんだろうな。独学の限界なのかな?
文献史学するには、これらが出来ないと、、、、
727 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 09:26:24
>>726 >文献史学するには、これらが出来ないと、、、、
ちゃんちゃらおかしい。
文献史学するのに必要なのは資料批判だ。
おまえは、魏志倭人伝について、どのような資料批判をしてるのかな?
728 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 12:44:45
>>726 女王国=邪馬台国と決めつけてるレベルのやつに文献史学云々いわれたくねえw
729 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 12:51:04
「南至邪馬壹國 女王之所都」だから女王國=邪馬壹國です。
邪馬壹國に女王の都がある。
女王の都がある国は女王國。
つまり女王國=邪馬壹國です。
730 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:00:00
>>726 「其南有狗奴國」のその南のそのは「此女王境界所盡」をさす
つまり女王國の南に狗奴國があった。
奴國は女王國の一部。
731 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:04:51
>>729 「南至邪馬壹國 女王之所都」だから女王國=邪馬壹國ではないんだよ。
すなわち、女王国の中の女王が都をおいている国が邪馬台国だ。
当然、女王国には邪馬台国ではない国も含まれるということになる。
732 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:14:53
>女王国の中の女王が都をおいている国が邪馬台国だ。
違いますよ、邪馬壹國は女王が都をおいている所ですとはあっても
女王国の中に邪馬壹國があるとは何処にも書いてない。
女王が都をおいている所は女王国
女王国=邪馬壹國です。
何をもって女王国の中に邪馬壹國があると言うの?
733 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:24:05
女王が都をおいている所は女王国ではなくて邪馬台国なんだよ。
では、女王国というのは何かとなるね。
女王国の始まりは万二千余里。終わりは奴国の先、女王の境界のつきる所だ。
だから、女王国には万二千余里から奴国に至るまでの諸国、すなわち、投馬国
邪馬台国、その他の旁国が含まれるということになる。
>>732 女王のいる「都」が、邪馬台国なのであって、
女王国=邪馬台国なんてどこにも書いてないんだよ。
現代みたくクニと国を使い分けてないから混乱するけど。
もちろん、どっちが正解かは断定できない。
両方の可能性があるってことすら受け入れてないくせに
文献史学云々ぬかすなって話。
735 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:35:04
>>733 意味がよく分かりませんが
女王が都をおいている所が女王國でしょ。
女王國の正式名称が邪馬壹國。
「自郡至女王國萬二千餘里」ですから
帯方郡の中心の郡庁から女王國の中心である奴國までが万二千余里。
女王の境界のつきる所とは女王國の範囲を説明したもの。
女王國=邪馬壹國ですから投馬國は女王國には含まれません。
736 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:38:11
もっといえば、情報収集と記述の時間軸に幅があるわけだから、
「女王の都するところ」の女王は、すでに卑弥呼ではない可能性もある。
もちろんあくまでも可能性だが、それを確実に否定する材料もない。
737 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:48:45
>>734 >女王のいる「都」が、邪馬台国なのであって
女王の「都」がある国が、邪馬壹國なのであって
女王のいる「都」が、邪馬壹國なのではないですよ。
そうだね。そういう解釈もできるね。ってだけの話。
自分の妄想を前提にして文献を読むのはやめなさい。
739 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 13:52:37
>>737の続き
「可七萬餘戸」もの「都」があるとは考えられないですよ。
「可七萬餘戸」は女王國全体の戸数です。
740 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 14:00:00
「可七萬餘戸」もの邪馬壹國が女王國の都とは完全な妄想ですね。
わかんねーやつだなあ!そこでは都=クニという解釈が普通にできるの!
そのクニ連合の首長国が女王の都する邪馬台国だと。そう考えれば、
投馬国が5万だっけ?それより多くてもなんにもおかしくねーだろ?
ああ、語弊があった。都=クニじゃない。重箱の隅つつかんでくれよ。
女王の都するクニが邪馬台国。なんの都かといえば女王国。そゆこと。
743 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 14:53:12
>>735 女王国の忠臣が奴国なんてのは、よほどのトンデモ読みですよ。
邪馬台国が女王国の正式名称なんてどこにも書いてないですよ。
744 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 16:03:31
原文を読めば以下のことが書いてあると理解できる。
女王の都するところが邪馬壹國。
女王がいる邪馬壹國は女王國に含まれる。
女王國には、郡より12000餘里の国である奴國と不彌國が含まれる。
女王國に含まれる奴國と邪馬壹國に文中で挟まれている投馬國は女王國に含まれる。
以上により、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國は、女王國に含まれる4ヶ国である。
女王國以北の餘旁國は遠絶で不可得詳であるから、女王國に含まれるかどうかは判らない。
不可得詳で重要度のない国々だから、女王國に含まれないと考えるのが妥当であろう。
745 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 16:09:41
>女王國には、郡より12000餘里の国である奴國と不彌國が含まれる。
この両国は、万二千余里にはならない。 なるとする読みはトンデモだね。
>女王國以北の餘旁國
何を言ってるんだか理解できないな。倭人伝が対比させているのは、女王国以北と
其の余の旁国。余旁国なんて変なものを発明しないことだね。
746 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 16:13:18
訂正
倭人伝が対比させているのは、女王国以北と其の余の旁国。
↓
倭人伝が対比させているのは、女王国以北と其の余。
747 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 16:31:15
>>745 >この両国は、万二千余里にはならない。 なるとする読みはトンデモだね。
古田読みは正しい、支持している。
>女王国以北と其の余の旁国
これなら同意見だ。
倭人伝が対比させているのは、女王国以北と其(女王国以北)の余の某国。
君はプラムこと河童蟲氏と同意見だね。
748 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 16:50:18
「可七萬餘戸」もの邪馬壹國が女王國に含まれるとか女王國の都とかトンデモ説ですね
馬韓が十餘萬戸、辰韓、弁韓が四五萬戸ですから
邪馬壹國は三韓と同じくらいの大きさなので三韓と同じような国邑の連合体で、
「南至邪馬壹國 女王之所都」とは
女王國=邪馬壹國のことですよ。
「南至邪馬壹國 女王之所都」と書いたので
後は邪馬壹國と書かず女王國と書いてある。
749 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:15:30
>>747 >古田読みは正しい、支持している。
それは例の「島めぐり」だろ。とんでもなくヒネった読みだよ。
陳寿自身だってあんな変な読み方はしないよ。陳j寿はきっと呆れてるよ。ww
全戸数を調べるのは思う以上に難しくて、ただの数人の調査隊どころか当時の邪馬台国でも不可能だと思った方がいい。
魏使達は都市の規模を示してるに過ぎないと思った方がいい。
751 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:22:49
>>749 「島めぐり」は正しいよ。
「方可三百里」や「方可四百里」を距離に算入することに問題はない。
「方可○百里」とはもともと一辺が○百里の土地の意味、
そこから○百四方の面積を表す意味も生まれた。
752 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:28:03
>>748 >後は邪馬壹國と書かず女王國と書いてある。
前にだって「女王国に統属す」と書いてあるだろ。それが問題なんだよ。
753 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:31:29
魏使は邪馬壹國の規模を「可七萬餘戸」と馬韓、辰韓、弁韓と同程度だと推測している。
「可七萬餘戸」を単一の国邑とはとても考えられない。
邪馬壹國=女王國であり、倭人伝に記載されている国々の多くは邪馬壹國内部の説明と考えた方が理解しやすい。
754 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:34:03
>>752 「皆は女王国に統属す」は邪馬壹國=女王國と考えると
倭の国々は邪馬壹國に統属すると読み取れる。
755 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:34:11
>>751 隋書に「水陸三千里」とあるだろ。けして、4400里ではない。
島のまわりなんか入れるわけはないんだよ。
756 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 17:39:54
隋書は隋書。
7世紀の隋書は参考にしてもよいが根拠にはならない。
757 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 18:36:58
狗奴国はもちろん女王国には含まれない。これは異論なし、全員賛成だと思う。
それfで女王国なんだが、
女王国 = 邪馬台国 + 旁国21国
だと思う。
21国は邪馬台国の北でも南でもいい、(東でも西でもいい)
が邪馬台国を中心に、つまり女王の権威を中心にまとまっている、これが女王国。
倭人伝の初めに出てくる対馬国から投馬国までの国々は女王国に含まれない。
北部九州の国々は女王が任命した一大率が監視していた。
ただ投馬国は北部九州とは考えにくい。一大率の監視の目が届いたかどうか疑問が残る。
狗奴国のような女王に逆らう国ではないが、投馬国はやや独立性があったのではと思う。
投馬国の官名が独自なので(ミミ・ミミナリ)、そう考えられると思う。
758 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 19:25:44
狗奴国はもちろん女王国には含まれない。これは異論ない。
女王國=邪馬壹國で
邪馬壹國を構成するくには
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國と旁国20国の計26国。
邪馬壹國の王都は伊都國。
邪馬壹國中で最大の国は奴國で邪馬壹國の中心地。
「自女王國以北」とは奴國以北の對馬國、一大國、末盧國、伊都國で
これらの国々は首都から大陸への交易路だったので一大率を置いた。
投馬國は狗邪韓國を含む朝鮮半島南部。
邪馬壹國の「可七萬餘戸」とは對馬國、一大國、末盧國、伊都國、不彌國の平均が2000戸であるから
旁国20国の平均も2000戸と推定し奴國の20000戸を加えたもの。
奴國の20000戸も平均的な国の10倍の意味だろう。
使者が居る伊都國から見て南に狗奴國があったんだよ。
伊都、奴、不彌の3つの国が密集している場所だからこそ女王國の南と記した。
つまり狗奴國は伊都の南でもあり奴の南でもあり不彌の南でもある。
邪馬台国の南に狗奴國があったわけじゃないんだよ。
760 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 19:39:08
>>758 >邪馬壹國の王都は伊都國。
>邪馬壹國中で最大の国は奴國で邪馬壹國の中心地。
>投馬國は狗邪韓國を含む朝鮮半島南部。
このあたり、理解不能。
まるっきり納得できない。
理由も示さず、いい加減な思い付きをレスしてるだけとしか思えない。
761 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:00:07
>>760 758には何を言っても無駄。言葉の通じない人として無視するにしかず。
762 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:01:00
>>760 伊都國の説明に「世有王 皆統屬女王國」とある
意訳すると「伊都國には魏代に代々王がいた。倭の国々は皆、女王國に統屬していた」となる。
また漢字の「伊」の意味は霊力を持った聖職者であり、「伊」とは卑弥呼のことだと考えられる。
伊都國とは卑弥呼の都の意味と取れる。
>>761まるで土蜘蛛みたいな扱いだですね。
わたしは
>>758と何のかかわりもないけれど、
人を人と思わない態度には賛成しかねる。
764 :
760:2009/06/12(金) 20:04:23
765 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:06:04
>>760 「自郡至女王國萬二千餘里」とあるが「方可四百餘里」と「方可三百餘里」を
距離として考えると奴國までで丁度12000里である。
女王國の基点として考えられている場所は奴國であり、
奴國が女王國の中心地である。
766 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:08:54
>>757 私も最初はそんなことも考えてみたが、投馬国も女王国に入れた方がよさそう。
@ 文章的には国々を列挙して、万二千余里で区切っている。それより南で女王国で
ないと明記するのは狗奴国のみ。
A 旁国は邪馬台国ばかりでなく、戸数5万の投馬国にもあったと考える方が自然。
となると、旁国を全部女王国に入れて投馬国のみを外すのはおかしくなる。
B 風俗記事は女王国に関するもの。その中に、投馬国に関する記事と考えられるも
のがある。例えば持衰。
767 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:13:31
>>760 狗邪韓國と伊都國にだけ「到」が使われ他は「至」が使われている。
伊都國は邪馬壹國の王都であるから狗邪韓國は投馬國に対応している。
また投馬國について官名、戸數、日数等が記述されているから
投馬國は「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とあるように
女王國より北にあったことが分かる。
768 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:15:38
769 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:25:37
>>763 おおせのとおりと反省。ただし、相手するのはお任せ。
770 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:41:37
771 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 20:42:05
772 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:50:45
おまえら根拠あげてカキコしろよ.。www
773 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 20:53:52
>>771 何処がばかげているのでしょうか?
九州王朝大好きの説より矛盾が少ない説だと思いますが?
774 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:02:57
女王國=邪馬壹國で
邪馬壹國を構成するくには
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國と旁国20国の計26国。
邪馬壹國の王都は伊都國。
邪馬壹國中で最大の国は奴國で邪馬壹國の中心地。
「自女王國以北」とは奴國以北の對馬國、一大國、末盧國、伊都國で
これらの国々は首都から大陸への交易路だったので一大率を置いた。
投馬國は狗邪韓國を含む朝鮮半島南部。
邪馬壹國の「可七萬餘戸」とは對馬國、一大國、末盧國、伊都國、不彌國の平均が2000戸であるから
旁国20国の平均も2000戸と推定し奴國の20000戸を加えたもの。
奴國の20000戸も平均的な国の10倍の意味だろう。
伊都國の説明に「世有王 皆統屬女王國」とある
意訳すると「伊都國には魏代に代々王がいた。倭の国々は皆、女王國に統屬していた」となる。
また漢字の「伊」の意味は霊力を持った聖職者であり、「伊」とは卑弥呼のことだと考えられる。
伊都國とは卑弥呼の都の意味と取れる。
「自郡至女王國萬二千餘里」とあるが「方可四百餘里」と「方可三百餘里」を
距離として考えると奴國までで丁度12000里である。
女王國の基点として考えられている場所は奴國であり、
奴國が女王國の中心地である。
狗邪韓國と伊都國にだけ「到」が使われ他は「至」が使われている。
伊都國は邪馬壹國の王都であるから狗邪韓國は投馬國に対応している。
また投馬國について官名、戸數、日数等が記述されているから
投馬國は「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とあるように
女王國より北にあったことが分かる。
何処がばかげているのでしょうか?
スルーだよん♪
776 :
九州王朝大好き:2009/06/12(金) 21:13:18
>>773 >>758の書いていることを、魏志倭人伝からは誰も何一つ読み取れない。
だから、皆は全部ばかげていると思っているのではないのかな。
魏志倭人伝から
>>758の様に読み取れる根拠を示さなければ。
有史以前の古代は、日本が世界の中心だったとする竹内文書を信じるわしとしては、
邪馬台国が魏の支配を受けていたような記述は信用できない。
逆じゃないのか?邪馬台国が魏を支配していた。
何の権威をもたない天皇家が生きながらえたのも、紀元は2600年どころか、
1万年以上の歴史を持つ世界の天皇だったからだと考えた方が理解しやすい。
778 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:27:46
>邪馬台国が魏を支配していた
もう笑うしかない
780 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:28:26
>>777 確かに卑弥呼やトヨが魏に軍事的援助を求めたってのは、真に受けない方がいい
半島での軍事的協力を倭に求めたってのは事実みたいだし
これは明らかに矛盾してるんだよねw
いろんなのが湧いてくるなww
782 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:31:20
>>779 >>781 別に笑おうと思えば笑えるんだろうけど、倭人伝の方が笑えるんだよ、実際
だって、半島での軍事的出兵を求めておきながら、なんで狗奴国での
軍事的協力を要請されるの?
変な話だろ?
783 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:31:51
>>776 全部説明すると膨大な量になるんですけど。
基本的に古田説の改良版です。
朝鮮半島内陸行説をやめて朝鮮沿岸を通ったとし、
里数と日数は同じ行程を別の言い方で2度説明しているとし、
同じく投馬國、邪馬壹國も別の言い方で説明しているものを再度説明していると
考えたものです。
784 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:41:30
>>744の九州王朝大好きさんの意見も
単に自分勝手な解釈を示しているだけで根拠が全くないでしょ。
785 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:56:08
>>776 「南至邪馬壹國 女王之所都」の一文でも
邪馬壹國=女王國
邪馬壹國は女王の都
邪馬壹國は女王國に含まれる
等どうとでも採れる。
邪馬壹國=女王國の説を採ったのは
邪馬壹國は「可七萬餘戸」で韓の三韓と同規模で
到底、女王の都とか女王國に含まれるとは考えにくいから。
邪馬壹國は女王の都
邪馬壹國は女王國に含まれる
では女王國が大きすぎて収まりきれない。
786 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:00:15
魏に近い半島で倭に軍事要請
魏に遠い倭国内の狗奴国で倭が魏に軍事支援要請
これは互恵で成り立つ話じゃない
どちらか一方が事実では無いということ
さて、どちらが嘘か?
僕は狗奴国の件が嘘だと思うね
根拠は中華思想
787 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:02:26
まあ、文献解釈は根拠にならないということだと思うが。別に漢文に限らず、現代中文でも
日本語文でも、どうとでもとれる表現は多い。結局、陳寿を信ずるといっておきながら、信じ
てるのは自分の脳内だろ。
自説をいうなら、別文献や考古資料から裏付けを取る必要があるんだが、邪馬台国問題で
はなかなかそれができない。そしてそれが原因でいろんなやつが湧いてくることになる。
788 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:08:17
最も矛盾の少ない解釈が、正解に一番近いと思うのだが。
矛盾の少ない解釈をすると辻褄合わせとか言うやつがいる。
789 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:08:50
>>787 その通りだね。
とにもかくにも、「これが正しいという自説」を前提に物言うやつは
みんな電波。検証をしろ検証を。自説からこそ検証を始めろ。
790 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:33:55
倭人伝は最初に地理的記事があり、後半には卑弥呼が登場する歴史的記事を置く。
それらに挟まれた中間に、倭の習俗や風物や社会組織について非常に詳しく述べた部分がある。
この中間部の記事に関して
>>694氏は、
>>694 >女王国に関する記事の中の記載だ。女王国で使者が訪ねたのは投馬国と邪馬台国。
>しばらく滞在したのは邪馬台国だろう。当然、邪馬台国についての記事だ。
とレスされた。
伊都国など他の諸国の習俗や風物は書いてなく、使者の邪馬台国での見聞記録なのだ──とのご意見のようだ。
私はこの
>>694氏の意見には賛成できない。
ただ反対の理由を述べる前に
>>694氏に確認しておきたいことがある。
次は、邪馬台国の会サイトにあった倭人伝の意訳解説ページから、記事に安本美典氏が付した小見出しと番号を、中間部(第二章倭の風俗)から抜き出したものである。
15.黥(いれずみ) 16.会稽東冶の東 17.風俗・髪形・衣服 18.栽培植物と繊維
19.存在しない動物 20.兵器 21.耳・朱崖との類似 22.居所・飲食・化粧
23.葬儀 24.持衰 25.鉱産物 26.植物 27.存在する動物 28.ト占
29.会同・坐起 30.寿命 31.婚姻形態 32.犯罪と法 33.尊卑の別
34.租税と市 35.一大率 36.下戸と大人
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm 16.21.35.は明らかに邪馬台国での見聞記録とは性質を異にするので省くが、残りの記事全部について
>>694氏に尋ねたい。
あなたは、16.21.35.以外のこれらの記事すべてが使者の邪馬台国での見聞記録と主張するのか。
伊都国など他の諸国の風俗習慣は本当に含まれていないのか。もしあるとすればどの記事か。
以上、ご回答をお願いしたい。
791 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:44:40
>>790 24の持衰は投馬国、産物の中には他国から運ばれてきたものがあるかな。
山の木や動物の有無などは陸行一月の間に観察したものもあるだろう。
あとは邪馬台国における見聞記録と考える。
792 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:47:53
793 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:53:13
>>791に追加。海に関する話は水行の間の見聞が入るだろうな。
794 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:54:30
795 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:58:41
>>730 女王 って書いてあるのに、次の行で、女王国になってる。これもあり?
べつの人
邪馬台国が魏を支配ですか。やわらかな脳だな。うらやましい。
確かに、満州に日本いたな。時代はグーと下るが。
796 :
九州王朝大好き:2009/06/13(土) 00:19:33
>>783 >>784 >>785 僕の説は古田説と殆どが同じです。
異なる所は、魏使の上陸地点末盧國を東唐津にしたことと、
伊都國を東唐津から東南500里の位置にしたことだけです。
残りの考え方は殆どが古田説そのまま。
伊都國王と倭國王帥升についての考え方は古田説と異なるものを付加しています。
又判断の基準に地形地質論が古田説より多用されていることです。
韓3種と女王國の人口
解説は長くなるので省略します。
韓3種で14〜15万戸
女王國は14万戸(邪馬壹國、投馬國、奴國、不彌國)
韓3種と女王國の
水稲可耕平野面積比は2:1 女王國は筑紫平野全域
人口密度比は1:2
単位面積あたりの水稲収穫量は韓地<筑紫平野 倭地は温暖なので
筑紫平野は海に面しているのでタンパク質が韓地より豊か
797 :
九州王朝大好き:2009/06/13(土) 00:41:32
女王國地域(筑紫平野)の比定
邪馬壹國:八女市以北の筑後平野内陸部・北野地域
投馬國:筑後平野海岸部・佐賀平野東部(3世紀の筑後川河口以南)
奴國:佐賀平野・白石平野
不彌國:背振山地南面地峡部・南は有明海と3世紀の筑後川河口(吉野ヶ里とその東部)
妄想は楽しいよねえ。おれも妄想するの大好きだ。
799 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 01:00:51
しかし、いい齢をした じいさまが中坊も見てるスレで九州王朝とかって恥ずかしくねえのかな。
書き込みは、誰も見ねえような地名の羅列だし。
>>796 妄想は自由だが、さすがに3世紀でそれは無いな。
伊都国は女王国の一部じゃないの?
802 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 04:37:19
803 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 04:45:57
804 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 06:02:25
>>801 女王国は伊都国が従っていた相手、すなわち盟主国だ。
当然、伊都国とは別の国。
805 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 06:11:52
>>803 >国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)
>を上回る可能性も出てきた。
北九州より上だ。よって邪馬台国は畿内だ。そう言いたい訳ね。
806 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 09:34:16
>>789 掲示板に自説を書き込む目的は他人に批判してもらい
自分では気付かない自説の問題点を指摘してもらうことにある。
各自が「これが正しいという自説」を前提で物言うのは当然だろう。
807 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 09:50:08
>>796 それでも北部九州の極狭い範囲(筑紫平野)に女王國(14万戸)は不可能です。
>韓3種と女王國の
>水稲可耕平野面積比は2:1 女王國は筑紫平野全域
>人口密度比は1:2
>単位面積あたりの水稲収穫量は韓地<筑紫平野 倭地は温暖なので
>筑紫平野は海に面しているのでタンパク質が韓地より豊か
水稲可耕平野面積比は2:1の根拠は?
人口密度比は1:2では韓3種は現在の韓国くらい(?)ですから全九州は必要でしょう。
それで、私は邪馬壹國を北部九州全域、投馬國を朝鮮半島南部とし、
一大國などの26国は邪馬壹國の構成国と考えました。
808 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 10:13:47
>>807 もういいよ、お前
ホントどうでもいいから
809 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 10:16:33
魏志倭人伝の官曰彌彌、副曰彌彌那利(ミミナリ)
大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)を支配していた王
つまり、神武こそが彌彌だった。
そして大和三山とは、古代ピラミッドだったのではないでしょうか?
もう何でも有りだなw
>>806 順序の問題だ。おまらは個人的に望む結論を前提にして、
その傍証を無理矢理にでも探し出し組み上げようとする。
無心でデータや記述を検証するところから始めろと。
>>791 > 産物の中には他国から運ばれてきたものがあるかな。
> 山の木や動物の有無などは陸行一月の間に観察したものもあるだろう。
> あとは邪馬台国における見聞記録と考える。
私も倭人伝の風俗・社会制度記事については、
>>790氏とほぼ同意見で、
「邪馬台国における見聞記録」として特定できるものは無いと考えています。
貴方の考えで「あとは」として残るのは
15.黥(いれずみ) 17.風俗・髪形・衣服 20.兵器 22.居所・飲食・化粧 23.葬儀 28.ト占 29.会同・坐起
30.寿命 31.婚姻形態 32.犯罪と法 33.尊卑の別 34.租税と市 36.下戸と大人
でしょうかね。
その中でも、15.黥は「諸國文身各異」として複数国での比較として記述されているので、まずは除外対象ですね。
それと同様に34.租税と市も「國國有市」と複数国での状況として書かれているので除外、残りは兵器を含めて11項目。
私には、この11項目と貴方が「陸行一月の間に観察したものもあるだろう。」と除外した10数項目について、
こちらは邪馬台国における記録、片や別国での見聞、と分けて取り扱う根拠は無いように思えます。
つまり、35一大率の場合のような特定国の話題を除けば、「倭地では」と記述されている以上は、
倭地のどこかについての記述であって、邪馬台国における見聞と断言するようなことは避けた方がよろしいかと。
まあ、「女王国で使者が訪ねたのは投馬国と邪馬台国。」などと言う前提あたりが本当の論点なんでしょうが。
814 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:06:02
電波が濃くなってまいりました
オカルト板でやれよ。
817 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:26:03
既成勢力にとって不都合な真実はいつも迫害されるものです。
そういった妨害を気にする必要はありません。
信念を持って書いてください。
818 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 11:27:24
投馬国の彌彌(ミミ)は神日本磐余彦の子手研耳・八井耳・神渟名川耳の耳(ミミ)だろう
卑狗(ヒク)は磐余彦などの彦(ヒコ)
819 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 12:28:32
>既成勢力にとって不都合な真実はいつも迫害されるものです。
どうやら副島隆彦が来てるみたいだなw
820 :
九州王朝大好き:2009/06/13(土) 12:51:22
>>978 >>水稲可耕平野面積比は2:1の根拠は?
大量の水稲耕作に適した沖積平野の面積を調べました。
>>人口密度比は1:2では韓3種は現在の韓国くらい(?)
韓には大きな沖積平野は2つだけです。
漢江流域は帯方郡ですから韓から除かれます。
錦江流域と牙山湾の南部東部の平野。
上記はどちらも馬韓です。
内陸には盆地がありますが、治水の発達していない弥生時代では、
水稲作の適地ではありません。
>それで、私は邪馬壹國を北部九州全域、投馬國を朝鮮半島南部とし、
全羅南道と慶州南道は倭人居住地域ですが、でもそこは韓地の倭です。
特に慶州南道の倭人は韓人とモザイク状に混住(接界)しているので
韓人のみの地との誤解が起きやすい。
821 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 15:44:49
水稲作しか考えていないようですが、朝鮮では近代になるまで
雑穀類が主食で稲作は余り振るいませんでした。
雑穀類の生産も考慮しないと比較になりませんよ。
822 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 16:05:09
>>818 宮崎県の川の名前ってのは、どこから取ったのか妙にいわくのありそうなのが
多いな。
延岡の五ヶ瀬川。神武天皇の兄の五瀬命を連想させる。
その南にあるのが五十鈴川。どこかで聞いたような。
その南には、耳川というのがある。
その南にあるのが一ツ瀬川。これはあんまり関係ないが、西都原につながる川。
その南には、大淀川がある。これもどこかで聞いたような。
>>809 神武を思わせるような記述があるのに、そこは無視?
都合良すぎる。
824 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 17:42:34
>>813 >黥は「諸國文身各異」として複数国での比較として記述されている
水行の途中で目撃したかな。また、邪馬台国へは各国の人が出入りするだろう。
>租税と市も「國國有市」と複数国での状況として書かれているので
邪馬台国と投馬国で見ているだろうね。また、その他の国々については邪馬台国へ
出入りする人から聞いたかも知れない。
兵器は、主に邪馬台国での目撃と考えるべきだろう。投馬国もあるかも知れないな。
北九州ならば、剣や銅鏃があるはずだが、それは書かれていない。南九州での目撃
だからだろう。
私は基本的に風俗記事は女王国についての記事と読む。だから、北九州は書かれて
いないと判断する。また、北九州らしき記事は見当たらない。
825 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 17:48:18
>>822 3つの解釈が可能ですね。
(1)記紀成立以前から存在する地名であり、神武東征伝説の元となった何らかの史実と関係がある。畿内と似た地名はここから発した政治勢力の移動に伴って畿内に持ち込まれた。
(2)神武東征伝説の成立後に後付けで命名された。畿内と似た地名は赴任した国司や在庁官人が畿内の景勝地になぞらえて命名。
(3)まったくの偶然の一致であり、神武東征伝説とも畿内の類似地名とも一切関係がない。
しかしまぁ、(3)の可能性は幾らなんでも低いでしょうね。地名の成立時期がはっきり分かればいいんですが。
826 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 18:40:35
827 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:13:07
828 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:15:31
風俗記事に北部九州のそれが入っていないと言うのは無理っぽいなw
末盧國の部分で既に「魚鰒を捕らえ」とある。
後の例の太伯伝説の部分の「魚蛤」に比べればリアリティのある話で実際の見聞に基づいた物だろう。
そもそも蛤(はまぐり)を潜水漁法で採取する例は無いwww
まあ「魚蛤」と言うのが単に「魚貝類」と言う慣用句なのかもしれんが
それでもわざわざ鰒(あわび)を出しているのはやはりリアルであるw
で末盧國で鰒の記述の前に
「前を行く人間が多い茂った草木で見えない」と言う文があるが
これが草木の多い茂る夏場であれば鰒漁のシーズンと重なるw
829 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:21:13
兵器体系の話にしても大雑把すぎて、やれ南九州だの北九州だのの断定材料にはとてもなるまい。
そもそも剣や戈の記載が無いのは、じゃあ邪馬台国の人間は剣が届くような間合いになっても矛を使い
剣や戈のような接近戦の武器は持っていなかったのか?と言う大変馬鹿馬鹿しいお話になるwwwwww
そもそもその武器体系が対人兵器なのか狩猟も含むものなのかはっきりしないわけだがwwwwwww
830 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:22:43
>>827 関係者乙。
いつもいつも御苦労じゃね。w
831 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:30:49
>>802 こういった墓上での祭祀と言えば四隅にも想定されているが
恐らくは首長霊信仰に基づく祭祀
それを執り行うために墓域内に祭祀場(←サイキバじゃなくて ”さいしば” なw)を設けると言うのは
と言うのは九州には見られない(あったか?)
埋葬文化・墓制の構成要素そのルーツと言う事でいえば
別に東征勢力が持ち込まずとも伝播したであろう銅鏡なんかは副次的なもので
大型(巨大)首長墓による祭祀と言う点では九州はコンセプト自体が違いすぎて
大きさだの形だのと言うレベルじゃない。
むしろそのルーツからは真っ先に消去して良いのではないかとさえ思っているwwwwww
832 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:34:58
>>827 >「卑弥呼死す、大いに冢をつくる−前方後円墳の成立−」
前方後円墳の成立って…。
833 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:36:09
うーん、鉄矛が用いられるようになったため、銅矛は祭器として大型化したのだろうが、そ
もそも鉄矛は武器としてムリがあるものだ。根本がソケット状の袋穂になってるのは、銅製
の場合、茎(なかご)構造では壊れやすいからだろう。鉄製になってからは、加工に手間が
かかる袋穂構造である必要はなく、徐々に廃れていった。
834 :
九州王朝大好き:2009/06/13(土) 19:39:55
>>821 >水稲作しか考えていないようですが、朝鮮では近代になるまで
>雑穀類が主食で稲作は余り振るいませんでした。
>雑穀類の生産も考慮しないと比較になりませんよ。
雑穀は収量が少ないので、水稲に比べてわずか人々しか養えません。
水稲は連作ができ、連作をしても収量は落ちません。
それに対して雑穀は連作ができず輪作をしなければなりません。
輪作の周期の数年間の平均単位収量は水稲に比べれば僅かなものです。
日本が統治して水稲化を進める前の韓地の人口は少なかったことを知っていますか?
又、韓地が豊葦原水穂の国なれなかったのは、関東平野より北で寒冷な為です。
比較的温暖な水稲作適地は、全羅南道と慶尚南道で、そこは倭人の居住地域です。
特に栄山江流域は、水稲作適地でしたが、倭人居住地域で、馬韓ではなかったのです。
韓3種の居住地域では、水稲作可耕地は馬韓の錦江流域しかなかったのです。
別の視点から見ると、畑作文化であったのが韓3種、
水稲作文化であったのが韓地の倭人で、気候にあわせて住み分けていた。
魏志韓伝には、魏と同じ畑作文化である食べ物について記載されていませんが、
倭人伝には、魏とは異なる水稲文化である食べ物についても記述しています。
又、同じ水稲作文化である會稽東冶や儋耳朱崖と比較したり、
「難升米」など倭人の名前に「米」を使ったりしています。
835 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:41:18
>>831 >と言うのは九州には見られない(あったか?)
前原市の平原1号墓は?
発掘した原田大六は柱穴からモガリの建物を想定。(だったか?当方も自信ナシw)
836 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:44:17
弥生時代、鉄矛より鉄剣の出土数が多いのはこれと、あとは戦い方の変化もあっただろうが
そのあたりはよくわからない。魏使が目撃したのは儀仗用の武器かもしれず、829のいうように
倭人伝のあの記事だけで何かまとまったことを言うのは難しいな。
837 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:44:19
>>835 ああ、それね。
でも四隅や前方後円墳のように地域的な広がりはないべ?
どっちかと言うと「大型(巨大)首長墓による祭祀」よりは「大型青銅器による祭祀」の発展系だともwww
838 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:50:27
>>833 鉄矛がわんさか見つかったのは桜井市のメスリ山古墳。
200本以上もあった。(と思う)
京都府の椿井大塚山古墳でも何本か出てる。(と思う)
839 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:54:40
802に関しては、鏡の数はともかく、殯や共食儀礼が首長霊信仰の祭祀として行われて
いたのだろう。ただ、これをあまりいうと「ゆるやかな首長連合」についての議論が復活す
るのかな?
840 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:57:22
・・・しかし墓上で飲み食いと言うのは現代の感覚から言うとトンデモだなwwwww
841 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 20:00:55
>>838 いちお古墳時代とは区別しててレスしてる。ただ、これまでよく用いられていた「弥生時代の
鉄製武器は・・・」という論法が少しずつ難しくなってきている感じ。あと、この古墳時代の畿内
における鉄矛出土数の増加を東遷説の一つの証左として見る人もいるんだが、俺的には
遺物の素直な解釈のしかたとは思えない。
842 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 21:22:03
>>841 弥生時代に近畿で矛が使用されていたのかどうかだな。
843 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 21:43:48
>>841-842 卑弥呼・台与が生きた邪馬台国時代とは弥生時代から古墳時代への変わり目の頃でしょう。
なかなかどっちの時代とは限定できない気がします。
844 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 21:50:39
だね。本来は教科書の年表のように縦線をひいて区分できるようなものではないんだが。
845 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:04:11
日本史の時代区分でビシッと縦線が引けるのは奈良時代以降ですよね。
846 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:16:37
邪馬台国時代よりも前であることがはっきりしていればいいんですよ。
847 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:20:32
848 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:26:00
849 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:45:53
>>843 卑弥呼時代が古墳時代かどうかはちょっと疑問。
倭人伝では、卑弥呼の墓について径百歩余と書かれている。
これをもって、大きいから古墳だと断定してよいかどうか。
倭人伝には、葬儀の様子や棺のことも書かれているが、古墳らしき記述は
ない。また、吉野ヶ里の墳丘墓から明らかなように、墳丘墓自体は
かなり古くからある。見た目がちょっとした丘のようなので、墓との認識は
なかったらしく、ならされて畑なんかになったりしたものもあり、
残っているものは少ないと思われる。
国の戸数などを考えると、倭人伝の数字はあまりあてにならないので、
卑弥呼の墓の径百歩もそれほど信頼が置けるとは思えない。
普通の墳丘墓の可能性もある。
とにかく、卑弥呼時代に古墳が出現していたとする根拠は薄いと思う。
850 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:56:22
>>849 >とにかく、卑弥呼時代に古墳が出現していたとする根拠は薄いと思う。
いや逆に卑弥呼の時代に
「まだ古墳は出現していない」
とする方が根拠薄弱だろう。
例の歴博の年代がどうなるかはしばらくは様子見するしかないと思うが
何れにせよ布留開始を4世紀にすると言うのは今日では少数派なのではないかな?
で庄内を半世紀ぐらいの巾を取りかつヤマトの前方後円墳と九州のそれとを
さほど時間差の無い物とすれば少なくとも卑弥呼の晩年には九州に前方後円墳が出現していた可能性は高いだろうwwwww
>>849 卑弥呼の没年はほぼ確定してると思うが。
852 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:11:39
>>850 倭人伝には、葬儀の様子が詳しく書かれている。
「有棺無槨、封土作冢」あるいは、「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣…」
など。当然、古墳があれば目立つので、詳しく書かれているはず。
しかし、書かれていない。多分、よくある方形周溝墓のようなものだったと
思う。
倭人伝の記述からは、古墳の存在は認められないと思う。
853 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:19:49
箸墓が早く卑弥呼の墓だと認定されてほしい
魏の使いが実際には奈良まで行ってないことが証明されるからね
>封土作冢
古墳的な感じでは?
855 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:26:11
>>852 その部分をどう解釈するかはお前さんの自由だがw
>>850で言った内容は倭人伝に記述があるかないかとは関係なく成り立つ話だww
何か勘違いしていないかな?www
856 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:29:29
まあ今後九州の前方後円墳の出現時期が3世紀となれば
よく九州説の連中が言う
「倭人伝には前方後円墳の事が出ていないから畿内ではない」
なんて論法は、はなから通用しなくなるわけでw
ただそうすると卑弥呼の墓が九州の前方後円墳のどれかでも良いという事になる可能性が出てきちゃうわけだがwwwwwwww
857 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:36:04
>>854 有棺無槨は、棺をそのまま土に埋めるということで、石室がないということ。
古墳の場合は、古いものでも竪穴式石室がある。
つまり、棺を納める部屋のようなものがあるわけで、有棺無槨からも
古墳の存在はうかがえない。
858 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:45:20
まあねえ、古墳時代(この区分概念のよし悪しはともかく)開始の時期が300年から早まる
のは、邪馬台国問題を抜きにしても、もはや趨勢だろう。考古学会の過去の清算ということ
もあるのかも。
あと、コマンチ団の笑い男は倭人伝の記事はガリバー旅行記といってるから、議論しても
噛み会わないと思うよ。
>>857 >古墳の場合は、古いものでも竪穴式石室がある。
考古学がこれまでの調査研究で明らかにしてきた事実とは相反する明白な虚偽である。
どうしてこのような嘘を平然と述べるのか!
中高生など若い人たちも見ているかもしれないというのに。
竪穴式石室を用いず埋葬を行った前期古墳は決して少なくない。
860 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 00:18:43
861 :
ローガン:2009/06/14(日) 00:20:32
>>857 > 有棺無槨は、棺をそのまま土に埋めるということで、石室がないということ。 古墳の場合は、古いものでも竪穴式石室がある。
> つまり、棺を納める部屋のようなものがあるわけで、有棺無槨からも 古墳の存在はうかがえない。
横からすみません。それが女王墓について書かれたものかの議論はとりあえず横に置いて…
有棺無槨って作ってる最中しか確認出来ませんよね。
竪穴式石室についてですが 黒塚とか下池山とかの写真、見たと思いますが、木棺と板石の間に人、つまり作業員の入るスペースないでしょ?
これを構築するには棺を先に置いてから石室の板石を墓壙の外側から積む以外方法ないでしょう。
とすると、大きく墓壙を掘るかもしくは、あらかじめ墓壙底迄しか、土を盛っておかないか…いずれにしても、何もない平らな面に先に木棺を置いたと考える以外ないでしょう。
それを板石を積んで取り囲む作業を見たとしたら、無槨と認識したことは至極、もっともであると思いますが いかがでしょう。
そういう解釈もできるねー、でも、あっちの解釈もできるねー
としかいいようのない話だ
863 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 00:45:30
>>861 >板石を積んで取り囲む作業を見たとしたら、無槨と認識したことは至極、
>もっともであると思いますが
そうであれば、単に「土を封じて冢を作る」ではなく、石で囲うことも
書くだろう。「封土石作冢」ならそうかなとは思うが。
>>861 積み石の囲みが狭いからって、棺を先に入れて、石を積んだってのは、さすがに無理。
棺を入れるのは、積み石の囲みができてからだろ。
そうしないと石を積むのに棺が邪魔になる。
雪の山古墳のように、生前に石積みを途中まで作ったことが確認できる例もある。
そういう恣意的な解釈のレベルで常識的なことを言わせてもらえば、
埋めてる現場を見ている可能性は極めて低いと思うよ?
「部屋作って棺を入れるのか?」「いや部屋は作らない」
という程度の取材に基づく情報である可能性が一番高いだろう。
866 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:01:47
槨が無ければ副葬品はあまり納められないな
それに副葬品が豪奢なら記述するはず
868 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:28:56
ところで、箸墓の場合は石室はどんなんだろうね。
まさか、槨がないとは思わないが。
普通に考えたら縦だろうねえ
870 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:41:47
>>868 ホケノと同じような「石囲い木郭」なんじゃないのか?
築造後、何十年か何百年の後にはグシャっと崩壊して土や石の中と・・・wwwww
もしかして箸墓にまだ棺を納めた空間が維持されていると考えている人間が多いのかな?
871 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:42:55
>>859 古いタイプの古墳といえば、纏向石塚古墳と纏向勝山古墳。この二つは
埋葬施設が確認されていない。つまり、古墳かどうか不明ということになる
かもしれない。
纏向矢塚は不明。東田大塚も不明かな?
ホケノ山古墳は、有名な石囲い木槨。
なかなか難しいが、槨のない古墳が確認されているとは言えないのでは
ないかな。
872 :
ローガン:2009/06/14(日) 01:50:52
>>864 > 棺を入れるのは、積み石の囲みができてからだろ。
> そうしないと石を積むのに棺が邪魔になる。
うん。ですから墓壙側ではなく外側から積んだんじゃないかと考えているんです。
それには当然作業スペースを含めた、墓壙底レベルでの広く平らな面が必要になりますね。
盛り土後、大きな墓壙を掘ったか?もしくはテラスのレベル迄でいったん、盛り土を止め、木棺据え付け→石室完成後、墳丘の盛り土をした…
作業性を考えると後者かなあと。
> 雪の山古墳のように、生前に石積みを途中まで作ったことが確認できる例もある。
これは知らなかった。調べてみます。
873 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:56:29
>>865 しかし、倭人伝には葬式の様子が細かく書かれているから、現場を見たことは
間違いないと思う。
たとえば、死んでから10日余は喪に服する。その間、肉は食べない。
喪主は哭泣する。他の人は歌舞飲食に付く。喪が明けると、家の者は
みんな水中に入り、沐浴する。
なんていうようなことが書かれている。
874 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 01:59:26
>>871 石囲い木槨は、竪穴式石室とは違うよ
天井石がないんだよ
木槨の構造で支えてないと石はバラケて落ちてくるよ
875 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 02:14:11
876 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 02:26:21
877 :
ローガン:2009/06/14(日) 02:27:26
>>874 丸太を並べたような天上はあった様だな
あれを木造の埋葬室と呼ばない理由は何だろ
879 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 07:34:45
一つのクニの大きさは百里もなかったということだよな。
次のクニまで百里というような表現があるということは。
880 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 08:03:02
>>879 地形によるだろ。この当時隣接してりゃ
5万、7万戸なんて人口で
集団生活維持出来るとも思えないし。
882 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 09:56:58
これだけの人口を養うのにどれだけの農地が要るのか?
883 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 10:07:06
884 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 10:28:28
大和盆地の人口はどれくらいだったんだろうね
>>883 濃尾平野も1200年程前なら木曽三川河口付近は
大半湿地帯か海でしょう。
人口だけでみても北部九州に邪馬台国7万戸を
想定するのは根本的に無茶な話だよ。
方角は間違いだとか、距離も適当だとかいうくせに、
戸数は正確だとでも??
887 :
ローガン:2009/06/14(日) 11:02:13
>>880 > あ、どうも縦目です。
あ、こんにちは。雪野山の石槨は二段のようですね。これなら、足場もよく木棺を後から降ろせそうですね。
では、岡村先生の講演行ってきます。又報告いれます。
888 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 11:06:37
>>886 自説に都合のいい記述は正確で、自説に都合の悪い記述は間違い。
それが邪馬台国論争クオリティ。
>>886 別に戸数も正確だとは思ってないよ。
でも長官の名前がわかるなら、参考程度にはなるだろ。
奈良時代の日本の人口は約500万人、農地は100万町(約120万ヘクタール)。
1戸=父母+息子夫婦3世帯と仮定して、口分田の支給率で行くと、
1戸=2段×4+2段×2/3×4=13.3段=160アール=1.6ヘクタール(126m四方)。
奈良時代には、全国で750000戸あった事になる。
邪馬台国に、5万戸、7万戸なんていう国がいくつもあったのなら、全体で奈良朝時代の支配領域を仮定せねばならない。
ありえない。
じゃあ日本じゃないな
追捕
750000戸×8人(人/戸)=600万人となり、人口は約500万人を上回るが
これは全人口がすべて良民だったらの話
少なくとも人口からみると、投馬、邪馬台国が
九州内に無かったという事だな。
そうですか角度が間違ってるんですね
方角は海を渡った時点から間違ってるしな。
距離は合ってるんですね
897 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 16:44:44
>>834 九州王朝大好きさんへ遅い返事
食料を自給自足していた江戸時代の天明5年(1834年)の
日本の総人口は2,700万人、
内九州の人口は 345万人、
当時の朝鮮の人口は調査記録だと600万人台だが実数の推定は1,000〜1,300万人
(李氏朝鮮では国民の大半を閉める賎民が人口の調査の対象になっていなかった)
北朝鮮と韓国の人口比は1:2なのでこの比で南部の人口を計算すると600〜800万人
朝鮮南部が九州の人口の2倍です。
898 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 16:45:56
距離的にみても邪馬台国は大和だろ。
万二千余里は遠い国という表現だし。
900 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 18:20:54
万二千余里はちょうど筑紫平野だよ
久留米近辺
方角、距離、移動手段、どう読んでも台湾です
>>900 大月氏国、アレキサンドリア、ペルシャと同じ距離ですかw
レス読んでっと、方角/距離/風俗全部合わねえんだから、つまり日本じゃねえんだよ。
ずばりインドネシアだね。狗奴國はパプアニューギニア。
対馬だ壱岐島って言われてんのは台湾、沖縄。
これでスッキリ解決だ。ご苦労さん。
実際色んな伝聞情報が混じってるのだろう。
906 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 21:52:15
台湾は小琉球、沖縄は大琉球だから違うと思うが・・・
琉球は魏志に出てこないじゃん。
当時の中国人の地理認識に基づいて考えないと。
908 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 01:23:03
邪馬台国は九州のどこかだよ、畿内派は意地張らずに、そろそろ認めて次に進もうや。
邪馬台国が九州に無いことだけは確かだ。
910 :
859:2009/06/15(月) 06:11:02
>>859 竪穴式石室を用いず埋葬を行った前期古墳は決して少なくない。
>>860 >具体的にはどこ?
全国的に指摘し得るのであるが、以下は九州に限って幾つか抽出しておく。
祇園山古墳(中央主体部)
津古生掛古墳(〃)
津古2号墳
西一本杉古墳
双水柴山2号墳
津和崎権現古墳
妙法寺2号墳
名島古墳
光正寺古墳
徳重本村2号墳
原口古墳
赤塚古墳
若八幡宮古墳
これら前期古墳のうちその幾つかは非常に早期のものも含まれる。
邪馬台国九州説論者も話題に上げることがあり、考古学的には著名なものばかりである。
911 :
サガミハラハラ:2009/06/15(月) 09:32:03
>>909邪馬台国は九州の佐賀県小城市甘木と確定しております。
今年で18周年です。8月12日は邪馬台国の日です。
912 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 10:31:49
>>910 ありがとう。ゆっくり当たってみましょう。
913 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 12:45:45
>>911勝手に決めないでくれ。
5月31日のほうが適切ではないか。
915 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 14:22:16
>>911 なんでや〜?たまに通るけどそうは思わん
916 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 16:34:26
古墳の定義自体がなかなか難しいな。
辞典を見ると、
古代、土を高く盛り上げてつくった有力者の墓。現在では、墳丘をもつ墓は
弥生時代にさかのぼることが判明したため、前方後円墳出現以降のものを
古墳とよぶ。
となっている。
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、明らかに有力者の墓だが、紀元前に出来たらしい
ので、墳丘墓ということになる。まあ、特定個人の墓というわけではないが。
祇園山古墳の場合も方墳で、人によっては墳丘墓と読んでいるので、
古墳がどうかは難しいところ。
>>916 それは古墳の定義が難しいというより「古墳時代」という概念の
扱いに困っていることの表れだよ。弥生時代もいつの間にか
素知らぬ顔で稲作の始まりより青銅器を重視するようになったしね。
918 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 20:12:58
稲作は縄文時代から始まってるだろ。
>>918 そう、だからさ・・・戦後の考古学界の流れも少しは勉強しようよ
ま、今でも水稲ってとこに固執して過去の過ちを誤魔化してるけどねw
920 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 21:11:27
弥生時代というのは、弥生文化が発現した時代ということだろうけど、水稲耕作をはじめと
する弥生文化の定義そのものの不確かさの度合いが増してきているようだ。また、地域に
よる文化進展度の違いもあり、ひとくくりにいうのはなかなか難しい。
ざっくりと遠賀川式系土器の受容、とかで線を引けばいいじゃないか。
922 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:05:41
弥生時代というのは、要するに弥生式土器の時代というわけだろう?
その意味じゃあ、古墳時代というのは違う概念だな。
923 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:43:08
縄文、弥生、これは土器型式で時代区分。
だから稲作や金属器使用と明確にはリンクしない。
古墳時代、これが日本史の時代区分として唯一異質な概念によっている。
そこが問題を難しくしている原因。
弥生後期の土器と古墳時代の土師器は明確に区分できない。連続面が多い。
むしろ弥生中期と後期の土器型式差の方が目立つ。
飛鳥・藤原、奈良、平安、これは都の所在地で時代区分。
鎌倉、室町、安土桃山、江戸、これは武家政権(幕府等)の所在地で区分。
明治、大正、昭和、平成は天皇在位で区分。
時代区分として適切なのは奈良、鎌倉、江戸だけではないかなと思う。
近代は1945年が最も大きな時代区分の画期だが、昭和で括られてしまう。
弥生文化は定義できても、A地点で弥生文化やってる時代にB地点では
まだ縄文文化やってたりするわけだから。そんで縄文時代からすでに
細々と少しずつ渡来人は入って来始めてるわけで。
本当は「縄文時代と弥生時代の線引きはできない」ってのが結論。
「古墳時代」というのももうやめて、ヤマト政権の成立を基準にすればいい。
という論もあるが・・・ヤマト政権成立の判定がまた難しいわけだw
925 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:54:53
古代の軍事道路は大和政権ができてから作られたんだろ?
邪馬台国の時代はまともな道路はなかったよねたぶん。
926 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:05:17
大陸の玄関口の末盧国でさえ草木茂盛で行くに前人を見ずなんだから陸上交通の整備は全く期待できない
昔の教育を受けたが、古墳時代という言葉を習った覚えがないなあ。
確か「大和時代」じゃなかったかと記憶してるんだが。
大和時代→飛鳥時代→白鳳時代→天平時代じゃなかったかな。
教室の黒板の上に大きな年表が貼ってあったのを思い出したよ。
馬もいないから移動は船が主力だな。
929 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:26:22
>>927 う〜ん、そんな記憶もあるような。
ちょっと調べたら、大和時代は、4世紀から6世紀にかけての時代をいい、
時に、飛鳥時代も含めた約400年間をいうとある。
要するに、大和朝廷の発生期というわけなのだろうが。
930 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:31:37
そういえば、以前は大和朝廷だったのが、最近は、よく大和王権と言われる。
これはどういうことなのだろうか。
日常的に大量に使われる財が、長距離を移動しないと、
道の整備を政治権力が担うメリットがないよね。
つまり、当時の政治権力は、徴税能力自体がない。
もしくは、税となる財は、船でしか移動できない。
海辺かそれなりの河川いずれにも面さない小集団は、人狩りくらいしか
政治権力の最大の権能を発揮する場面がないことになる。
932 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:37:06
ヤマト王権と片仮名書きすることが多いかな。別に決まりはないんだが、「弥生の村」を「弥
生のムラ」と書くようなものかな。
933 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:40:37
畿内説が、首長連合なんて言い始めてから大和王権という言葉ができたんじゃ
ないかな。大和朝廷というと、最初から強力な王の存在がうかがわれる。
それじゃ困るというわけで。
934 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:41:11
>>926 その末盧国だけが特に道路事情が悪かった、とも考えられるのでは?
伊都国、奴国、不彌国、邪馬台国には、そんな記述はないからさ。
>>928 でも海のない山梨や長野にも弥生遺跡はあるよ。
ムラとムラをつなぐ道は大事にしてたと思うけどな。
塩なんか必需品だろ。
935 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:41:44
道路の整備と治安維持はセットだろう
治安維持もできないのに道路を整備したら通行者は山賊に襲われ敵国には攻撃路として使われる
936 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:43:38
>>934 伊都国以降はそもそも光景描写自体がないだろ
倭地温暖〜以降がそれに当たるかもしれないがそこにも道路整備されてると思われる描写はない
>>927 それはたぶん、美術史の編年じゃないか?
いまは、ええと、わりとうろおぼえで適当言うけど、
ヤマト王権≠大和朝廷ってことじゃなかった?
大和朝廷は大化の改新からってことだったような・・・
ぜんぜん自信ない。ごめんw
938 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:49:27
まあ、海路をとることが結局は便利だっただろうが、当然陸路もあったろう。上に出てきた
雪野山古墳のある琵琶湖東岸あたりも、古くから畿内からの交通の要所の一つだったと
思う。
939 :
ローガン:2009/06/15(月) 23:50:46
>>927 > 大和時代→飛鳥時代→白鳳時代→天平時代じゃなかったかな。
辛うじて40代ですが、美術的なくくりで覚えた記憶ありますね。
飛鳥時代はアルカイックスマイルとか…白鳳っていえば必ず、興福寺の山田寺仏頭が出てきました。
懐かしいですね。
940 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:53:05
>>927 大和・飛鳥・白鳳・天平というのは文化史での区分では?
美術の本では古代のことを「上古」とも書いてた。
>>930 律令国家以前の王権が、「朝廷」というほど制度が整っていなかったり、
世襲王権として未熟で確立したものとは言えなかったからでは?
>>932 「ヤマト」という地名に「大和」があてられたのは奈良時代以降のことで、
それまでは「倭」とか「大倭」とか表記が一定してないからでは?
ヤマト王権、大和王権、倭王権など、本によって表記にバラつきはあるね。
このスレ(板もか?)が同世代だらけだということはわかったw
942 :
ローガン:2009/06/16(火) 00:18:49
そうそう、時代区分で思い出した。昨日の岡村秀典氏の講演で…
中国史の時代区分論として、内藤湖南にはじまる「京都学派」は漢迄が古代。漢末から唐迄が中世、宋からが近世。
「東大派」は唐迄が古代、宋から中世という区分だそうです。
学者先生が「古代」って発言したら、出身校を確認せないかんw
ただ、ご当地、中国ではアヘン戦争迄が古代だそうです。
943 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:19:04
>>932-933 今は考古学の方だと「畿内王権」を使うことも多い。
朝廷→王権の書き換えは、「王朝」とも言えるような世襲の継承があったか、考古学では証明できないから。
大和→ヤマトの書き換えは二つの立場があって、初期王権は盆地東南部に限定的だった点を強調する立場(葛城・曾布等を除くのだと)、
と、大和を越えて大和川流域を河内にまたがり大阪湾まで支配していた点を重視する立場(大和と河内併せて広義のヤマトと)。
「畿内王権」は、考古学も史学者も使うが、史学者は記紀から応神、仁徳、継体、孝徳などの宮が実際に大和を離れることもあったらしい点を重視。
考古学者で「畿内王権」を使う人は、古市、百舌鳥の両古墳群の存在から、権力の所在地を奈良盆地には限定できないのかもと(河内王権説)保険をかけるわけだ。
つくづく、「私が間違ってました!」って認めることが嫌いな世界だねえ。
プロもアマチュアも。
そうか、あの年表は美術史年表だったかもね。
美術教室に貼ってあったのかな。
そういえば仏像やなんかも描かれてたような気も。
どうも記憶が・・・・せっかく思い出してもハッキリしないなあ、トシだなあwww
946 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:25:49
>>943 よし、じゃあ今後は「畿内王権」と言う語を努めて使うようにしようwwwww
個人的に纏向は祭祀にだけ特化した都市で
政治中枢は河内の方にあった可能性も考えているんでw
947 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 00:35:34
そういうニュアンスでの「畿内王権」って表現と、
「九州王朝」って表現、あまりにも対照的で笑えるねw
いやべつに特定ナニカの悪口のつもりじゃないんだけどさ。
948 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:03:47
>>947 君の言いたい点は分かり過ぎるほど分かる。
専門の古代史研究者はそれなりに用語の一つ一つを吟味して、自分の学説に最適な表現を選ぼうとする。
学界として統一感がなくバラけた感じになってしまうのが難点だが、自説と他説の違いを用語にも反映させて曖昧にさせないためでもあり、用語の不統一は学問領域ではある程度やむを得ない面がある。
自分と違う主張をしているライバル研究者の立場も、一応は尊重するからなわけだ。
古田も、最初に「九州王権」説として出していたら、全然違った展開になっていたかもと。
しかし古田派は、「九州王朝を認めるか、認めないか、さあどうする」とばかりの二択で迫る。
「九州王朝宗」なる新興宗教の折伏みたいで嫌になる。
949 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:08:11
>>942 >漢迄が古代。漢末から唐迄が中世
それは、日本の都合に合わせた時代区分じゃないのかなあ。
950 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:11:20
大和王権・大和政権と言う言葉は極悪NHKの古代史捏造番組でよく使われる
左翼造語ですね。よほど朝廷と言う言葉が嫌いなのでしょう。
さあ、すごいのが紛れこんでまいりました!
952 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:13:43
>>950 NHKは、韓国と畿内説にえらく気を使っているのがわかる。
953 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:35:22
まあこの板で「ヤマト王権」とか「首長連合」って言葉に噛み付いているのは
(全員とは言わないが)殆ど ”九州版”皇国史観 の持ち主なんじゃないのか?w
面白いのは首長連合にしてもその広さではなく形態としてありえないと言っているところだなw
しかし現実問題、5世紀頃までには畿内の王家のそれに匹敵するような大型の古墳が各地に作られ
例えば吉備なら全ての古墳の中でも五指に入るようなものまである。
まあこれに対する九州版皇国史観の連中の反論は分かっていて…
「各地に配属された王家の人間が代を重ねるに従い土着化
ついに中央に反旗を翻すに至りヤマト王家がこれを鎮圧。
で、再び王族の人間を派遣し同じことの繰り返し・・・・」
…と言うのが連中の言い分だが
(イメージとしては桓武五世孫の将門の反乱とかが近いのかな?)
分家の専横を許し手に負えなくなるまで放っておく本家(王家)と言うのが
俺に言わせればそっちの方が脳味噌お花畑だわwwwwwwww
5世紀迄数える必要があるんですか?
955 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 04:02:38
出雲から畿内に行くのは舞鶴あたりから陸路かな
それとも瀬戸内海経由かな
おそらく海路で行ったんだろうな
956 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 04:10:33
今週の「少年ジャンプ」29号、巻末の編集者コメント(OK!JUMP GUY)に邪馬台国ネタが出てるぞw
>箸墓古墳が卑弥呼のお墓
>という可能性が高まったら
>しい。と言う事は邪馬台国
>も?! 謎が解けるのはいい
>けど何か寂しいな<大西>
>>955 宮津か毎鶴まで海路
そこから南下だろうね。
投馬国が出雲としたら
水行10日陸行1月の記述にも合致する。
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/06/16(火) 11:15:11
959 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 12:07:46
>>956 お前漫画とか信じてるわけバカ丸出しじゃん、かめはめハ練習して何年たったよW
960 :
九州王朝大好き:2009/06/16(火) 12:48:17
>>897 半島についての認識が違いますよ。指摘しておきます。
>当時の朝鮮の人口は調査記録だと600万人台だが実数の推定は1,000〜1,300万人
>(李氏朝鮮では国民の大半を閉める賎民が人口の調査の対象になっていなかった)
上記が間違っていると言う訳ではないのですが、
20世紀初頭の半島の人口は、1000万〜1200万人。(日本の半島併合の頃)
日本統治下の30年間に、半島の人口は2倍米の生産量も2倍になっています。
>北朝鮮と韓国の人口比は1:2なのでこの比で南部の人口を計算すると600〜800万人
>朝鮮南部が九州の人口の2倍です。
日本統治下の半島人口は北部朝鮮>南部朝鮮です。
又、工業生産力は、北部朝鮮:南部朝鮮=2:1です。
朝鮮戦争の頃の人口は、北部朝鮮≧南部朝鮮です。
韓国の人口が爆発的に増大し、人口比が北朝鮮:韓国=1:2になったのは、朝鮮戦争停戦後です。
韓国の人口が増大できたのは、日本統治下に米の増産指導政策があったからです。
南部朝鮮の米は準内地米として、日本に供給できる様になっていました。
(準内地米としては台湾米と北海道米もあった)
韓3種の居住地域
現在の韓国の地域であるが下記の地域は除く。
@漢江流域以北の帯方郡
A全羅南道 倭人居住地域
B慶尚南道 弁人、辰人と倭人の混住地域あり
韓3種の居住地域は現在の韓国の半分程度の面積
961 :
九州王朝大好き:2009/06/16(火) 13:01:12
>>953 九州王権: 〜511年
九州王朝:512年〜700年
大和王権: 〜700年
大和朝廷:701年〜
962 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 15:13:25
963 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 17:48:57
>上記が間違っていると言う訳ではないのですが、
>20世紀初頭の半島の人口は、1000万〜1200万人。(日本の半島併合の頃)
>日本統治下の30年間に、半島の人口は2倍米の生産量も2倍になっています。
李氏朝鮮の調査による朝鮮の人口推移
1717年683万人
1753年730万人
1850年750万人
1904年710万人
>日本統治下の半島人口は北部朝鮮>南部朝鮮です。
>又、工業生産力は、北部朝鮮:南部朝鮮=2:1です。
>朝鮮戦争の頃の人口は、北部朝鮮≧南部朝鮮です。
>韓国の人口が爆発的に増大し、人口比が北朝鮮:韓国=1:2になったのは、朝鮮戦争停戦後です。
>韓国の人口が増大できたのは、日本統治下に米の増産指導政策があったからです。
>南部朝鮮の米は準内地米として、日本に供給できる様になっていました。
可笑しいな?朝鮮戦争の前から人口は、北部朝鮮:南部朝鮮は1:2のはずですが。
資料はなんですか?
>韓3種の居住地域
>現在の韓国の地域であるが下記の地域は除く。
>@漢江流域以北の帯方郡
>A全羅南道 倭人居住地域
>B慶尚南道 弁人、辰人と倭人の混住地域あり
>韓3種の居住地域は現在の韓国の半分程度の面積
これは良く分かりません。
韓3種の居住地域と倭人の居住地域があったとは思いますが
どの位の範囲か???
福岡県の英彦山(ひこさん)
↓
ひこ
↓
日の子
↓
日の巫女
↓
卑弥呼
ただ言ってみたかっただけ
それがどうしたと言われても俺は知らんw
>>963 三韓時代における倭人の韓地での痕跡って、あまりないと思いますけどね。
かろうじて、南端の沿岸部や島嶼部がやや濃密と言う程度では?
三国時代になれば、文献や全羅南道の例の前方後円墳とかが出て来ますが。
966 :
964:2009/06/16(火) 23:16:58
英彦山の南東には耶馬渓がある
だからどうしたと言われても俺は知らんw
967 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:18:26
>>965 冗談で言ってるんだろ?
文献では痕跡というか国家の成り立ちに関与してるし
大きな石碑もあるじゃないかw
969 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:15:36
970 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:52:07
倭人と韓人って人種的にちがうのかい? 倭国に住んでるから倭人、韓に
住んでるから韓人ってだけじゃないのかな? 韓に住んでる倭人をどうや
って見分けるんだ?
言語かな
972 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 01:39:06
言語 風俗 容姿
半島には東南アジアやポリネシアの血は入ってないと思われる
蒙古やツングースの血は日本列島にも半島にも入っている
習俗を見ても古代の日本は南方系の血が強かったんじゃないかな
だからその後の混血により民族性は違いを見せていった、という事だろうな
974 :
美濃もん太:2009/06/17(水) 03:59:46
>>970 「韓人」なんて居ないっての
まず今の朝鮮半島の事を当時は「乾国(韓国)」って呼んでたんだよ
で、その乾国をどの民族のどの氏族達が納めてたかって事だよ
漢人→古代の漢族の氏族(今の満州民族)
秦人→古代イスラエル地方からシルクロードを渡って来て、日本やアジアに養蚕を伝えた氏族
倭人→日本の朝廷の命を受け、九州や乾国の開拓統治を委された日本人氏族
975 :
美濃もん太:2009/06/17(水) 04:26:37
まあ正確に言えば、満州族と漢族は違う民族だけどね
基本的に極東は「五族」だよ
・大和族→日本、大和、倭、百済、新羅、魏
・モンゴル族→モンゴル帝国、元、北京
・満州族→藩陽、清、満州、
・漢族→藩陽、乾(韓)、漢、明、漢城(ソウル)、長江(韓国ソウルを流れる川の名前)
・朝鮮族→高句麗、李氏朝鮮、鮮卑
今の中華人民共和国を建国したのは大陸の山東族で、孫文やショウカイセキや毛沢東が山東族だよ
突っ込む気にもならんwww
977 :
美濃もん太:2009/06/17(水) 06:10:39
>>976 文字にしろさ、清にしろ元にしろ、漢字を使ってた訳じゃ無いんだよ
あと日本にしろ平仮名や片仮名ってのは漢字以前にあった文字だと思うけどな
中華人民共和国の中の少数民族にしたって、漢字以外の独自の文字を持ってるんだよ
中国国内では、現在でもなお60種類以上の文字が使われてるよ
共用字が漢字なだけ
今の中国は例えば上海語の上海人と四川語の四川人が話をする時は、共有語の北京語を使って会話をする
けど、北京語が中華人民共和国の共有語となる前までは、大陸の違う語源の民族とは英語や日本語を使って会話してたよ
つか日本は漢字に日本語の訓読み発音を付けて使ってるけど、中国では音読みしか無いよ
もし訓読みが無かったとして、漢字使ってみ?
「明日は晴れるでしょう」→「みょうにちは、せいれるでしょう」
漢字ってのは語源を表せない文字だよ
だから日本は訓読みを付けて、日本語として使えるようにしたんだよ
漢族にしたって漢字以外の表音文字は持ってたよ
満州族も朝鮮族もモンゴル族もベトナムもタイも東南アジアもウイグルもヤオ族も回族もミャンマーも、、何処も漢字を使ってた国だけど、何処も漢字以外の文字を持ってるよ
978 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 06:23:26
乾韓
979 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 18:54:21
山大国
太陽(日)巫女
邪馬台国は高い場所を中心にあったシャーマンの国
伊都国を一望できる場所が邪馬台国の中心と考えられる。
漢人が「ここはどこか」と聞いたときに九州弁で「山たい」と答えたので邪馬台国
漢人に「あたしが女王の座を継ぐとよ」と九州弁で言ったので後継者の名前は台与
トヨタン・・・・・・・・・・
982 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:03:14
983 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:06:36
九州弁はここ何千年も変化がない、「なんなんとよ」や「なんなんたい」は古代語
九州に邪馬台国が存在したのは明らかである
984 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:27:32
延喜式は、今から1000年以上も前のものだが、そこに書かれた地名は今も
生きている。ひょっとすると、もっと前から変わらなかったのかもしれない。
その意味で、地名から倭人伝の国名を推定すると、筑後の上妻、下妻
その南の山門は、以外に無視できないかも。
985 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:30:31
>>980 > 漢人が「ここはどこか」と聞いたときに九州弁で「山たい」と答えたので邪馬台国
いままで聞いた九州説の中でもっとも、根拠のある話だ。
986 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:39:40
やはり睨んだとおり邪馬台国は九州にある
987 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 06:36:05
畿内説やめて九州説を支持してもよろしいですか?
988 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 07:01:43
魏の使節が来日した時、邪馬台国の人から「おこしやす」と言われた。鏡をあげたら「おおきに」
と言われた。また、魏の使節に出されたのは都路里の「白玉あんみつ」で美味しかったとのこと。
989 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 08:16:23
990 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 09:50:27
奈良在住ですが九州派ですw
991 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 09:59:34
中国から冊封されたのは九州の土人ということでいいよ。
九州の人、涙ふけよw
993 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:08:37
中国から冊封された九州の土人の子分だった畿内の土人。
994 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:17:47
文献的には、宋書倭国伝に出てくる東の毛人だよ。
995 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:36:57
婆ちゃんは奈良だけど邪馬台国は九州だろうって言ってたよ、誰も箸墓が卑弥呼の墓なんて思ってないんだって、、、、
畿内派てインチキな奴ばかり、ココも見てそう思ったよ。
まあ九州説は宗教だから‥
だからつるし上げなんて平気なんだよなw
このスレみてもよくわかる。
997 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 11:42:51
>>992>>996は重症の畿内教徒のようだ
畿内教徒はオウムの信者と同じで現実より
記紀にかかれた妄想を信じる。
998 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 12:38:09
そして、畿内説論者は理論的なことは言わない。いや、言えない。
999 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 12:41:15
>>997 いや機器にかかれた神武以来の系譜をそのまんま信じるのは
むしろ九州説一派の方が圧倒的に多いわけだが・・
まあ九州版皇国史観だなW
1000 :
999:2009/06/18(木) 12:42:03
訂正 機器→記紀
1001 :
1001:
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