1 :
日本@名無史さん:
__ 人 __ ! ./´ ./ | イ ∧: l トヽ丶 |` ー‐ァ' | `Y´
`Y´ } / ./ i 斗‐|/‐ト./|′ヽ. |! |,斗 代: 下. 丶く. | |
| ノ / .イ .:| ./ __,V ミ¨’ ヽ|ヘ{ _ ヽ 丶|}ハ }、 V | _ 人 _
..,/ / | :∧{! ′ 从}ノ `} ! `Y´
_人_ /′ 人{:..:ト >ァ=='^ ^`===ぐ' i{:.. 小 ト、 | l
`Y´ / ′ ∧、ハ:j xxxx , xxxx }|:. {.∧ l \ - + -
/ / / ./i':..小. 小 iト、.ヽ . 丶 l
! ' / //../ .i!/ l|7ヽ iー―‐‐r イ: |:. l|:.... ..丶 、 ヽ.
- + - / / / /../ ..:l|′l!...:il:\ 、 ソ .イ:l{:l:..l:. l|:...ハ... ヽ. ヽ. _人_
! / / / / /′..i| l| .:ルくfミi . `ー ´ . rく`Yト、!|从.. V....∧......\ ∧ `Y´
/ / / /.{ ..l| l|./ { ≧` ニニ ´ 彡 {ノ∧i:.....:.. V.......l!:......{ \ ハ
.′ { / .′..__| l|′ 丶 , -<_`ヽ./ ヽ.∧.. V:....|:.......l ヽ、 | 十
ノ l / , く´ | ll \/ , -<__\} 厂 :.. ヽ、}:.......| } |
../ ∨ /./ ヽ. | lト、 / / /- 、 ヽ.ヽ / ヽ. ヽヽ....V / {
'′ } / ,′ ヽ.| l| ヽ `i(ノ' , -‐ヽ__)i′ / ∧ Y:....∨ / |\
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 43
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1241626923/l50
伊代はまだ♪16だからぁ〜♪
あなたに誘われて♪あなたに触られて♪
センチメンタルジャァーニー♪
4 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 17:35:02
だいたい、鏡を東遷の根拠にしようってのは、大間違い。
ならば、戦国時代に鉄砲が広まったのは、ポルトガルが日本占領したのか?って話。
昭和にテレビ・冷蔵庫・洗濯機が広まったのは、アメリカが占日本領したからか?って話。
単なる文明の利器が広まっただけであって、東遷の証拠になんぞ、まったくならん。
5 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 17:36:27
>>4おっとミスった。
×アメリカが占日本領したからか?
○アメリカが日本占領したからか?
6 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 17:52:27
>>1乙
さて前スレの最後の方にも三角縁神獣鏡のネタが出ていたが…
まあ内容はいつもの万年ループネタと言うか
九州説論者と言うより東遷説論者による毎度おなじみの露骨な牽強付会だがwww
ふと考えれば
じゃあ考古学的見地による九州説の(畿内説を否定して自説を有利にするんじゃなくて)自律的?証明みたいなのって
この板では今まで聞いたことが無いなwwww
ピンポイントでどの遺跡を邪馬台国にするか?
…これは将来出てくる可能性もあるし既に削平された可能性もあるし
まあ良いだろう(吉野ヶ里だって本来なら工業団地が建っていたんだしw)
じゃあ、もう少し範囲を広く取って邪馬台国と30ヶ国の勢力の範囲を
どういう考古学資料でどれくらいの範囲にするか?
…これも邪馬台国をいわば老舗wのクニとし30ヶ国の連合体を「昔ながらの古〜いお付き合い」とすれば
弥生末期に現れたような新たな威信財体系、祭祀形態に頼る必要も無いかもしれない。
では邪馬台国が魏から冊封された事によって日本にもたらされた変化を何に見る?
(魏によってもたらされた恩恵と言うか…)
…これも九州説の連中が三度の飯より大好きな鉄も鏡も弥生時代末の九州は順調に右肩下がりw
仮に年代観を九州説論者に好きなようにさせてやってもその衰退傾向自体は変えようが無い。
例えほんの一時でも持ち直してええのんとちゃう?www
さてさて、ここまで無い無い尽くしでどうやって考古学的見地で九州に邪馬台国を見れば良いのか?
少なくともは
「現在影も形もござんせん」と言うしか無いと思うのだが?
俺が考えているような事を吹き飛ばす、すんごいネタ一発おながいしますwwwwwwwww
魏帝−邪馬台国
VS
呉帝−狗奴国
という2つの冊封体制で戦争していたんジャマイカ?
卑弥呼は、銅鏡(後漢鏡≠三角縁神獣鏡)を配布することによって魏帝のバックアップを知らせ、女王国内の同盟の引き締め(裏切り予防)を図ろうとしたのでは?と妄想していまつ。
8 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 18:21:01
三角縁神獣鏡は、むしろ呉鏡なのでは?
9 :
6:2009/05/25(月) 18:27:31
ついでに三角縁神獣鏡ネタでもう一つ・・・
三角を魏鏡説を否定する材料に、その銘文の韻も踏んでいない稚拙さ云々を言うことが良くあるが
そもそも卑弥呼に下賜した銅鏡に、その銘文にメンツかけなきゃならないほどの価値があったのか?
あまりにも銅鏡を過大評価しすぎていないのか?…と言うのが疑問なんだがw
まあ倭人伝にも
「金印紫綬を仮し」とあり、この「仮す」と言う語は全幅の信頼をもってあげちゃうと言う事ではなく
どちらかと言うと相手に対し半信半疑と言うニュアンスも汲み取れる・・・なんて話を聞いた記憶もあるが
どうなのか?ここら辺は漢籍マニアに任せるwwwwwwww
フォルクスワーゲン・ビートルを参考に、(ローコストで家族4人が乗れる)スバル360を作ったみたいに、
呉鏡(狗奴国経由)を参考に、大和地方で和製されたのが三角縁神獣鏡ジャマイカ?と妄想していまつ。
呉の神獣鏡(内区)に、分厚く&見栄えが悪くない三角形▲断面の外縁部を付け足すことで、鋳造後、型から外す時に欠けないように工夫したんジャマイカ?
魏鏡→邪馬台国→九州王朝(倭の五王・日出処の天子)?
VS
呉鏡→狗奴国→大和朝廷(箸墓の王都纏向)?
11 :
6:2009/05/25(月) 19:04:54
仮に…
魏&九州邪馬台国 VS 呉&畿内ヤマト
の構図を描くとしても、じゃあ畿内ヤマトはどう言うルートで呉と交渉を持ったか?だなwwww
組み合わせが逆で九州邪馬台国を南九州に置くならあるいは南西諸島ルートを想定できるかもしれんが・・・
(とは言うもののリスクが高く恒常的な交易ルートとしては無理っぽいと思うが)
ヤマトが呉と交渉を持てるとしたら呉と公孫氏の蜜月時代か?
まあ、それとて北部九州・玄界灘周辺を介さねば無理だろうし・・・
12 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 20:22:29
狗奴国が呉に正式に冊封されてたんなら、呉書に一章を立てるだろう。魏の後継国家であ
る晋とは違って、呉の公文書は多く残ってなかったのかもしれんが、陳寿が三国志を書いた
とされる280〜290年頃なら、まだ事情を知ってるものもいたはず。(呉滅亡はいちお280年)
鏡は対馬・一支をはじめとする沿海諸国の「南北市糴」によって輸入され、
女王の派遣する「大倭」の監督下で、諸国の「市」において交易され、
ひろく首長層の手もとにわたり、蓄積されていたと思える。
と言うか、△は神仙思想(道教)の神獣鏡と、天孫思想(檀君神話)のミックスした術具だと思うが
女王が配布したのなら、バチカンから配布されたイコンの様なものと言えるだろうか
前スレの△の問題ですけれども、当初は国内で作られていたけれど、
競争が激しくなって、人件費の安い中国で生産し輸入するようになったのだと考えます。
現在の日中関係、国民の知的水準の違いからして当然かと思います。
△は、魏から贈られたのではなく、生産を委託していたのです。
魏志倭人伝の記述は自国を良く見せるために書き直されています。
16 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 21:22:32
>>4 必死だねえ。しかし、ずいぶんごまかしているねえ。
鏡が近畿に出るようになったことだけを言っているんではないんだよ。
唐古、鍵は何で消えたんだ? 一度できた都市が消えるというのは尋常じゃ
ないぜ。銅鐸はどうして消えたんだ。祭祀方法がいっせいに変わるとい
うのも尋常じゃないぜ。弥生の葬制はどうしてガラリと変わったんだ?
これも、弥生の葬制が徐々に進化して前方後円墳になったわけではない。
そこへ出て来たのが鏡だ。記紀だって九州勢力が東征したことを伝えている。
これは九州勢力が近畿を征服したな。そう考えるのが当然なんだよ。
17 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 21:58:18
邪馬台国の前身(発祥)と言える国は九州にあって
移動しながら周辺の国を吸収合併して大きくなって、
近畿に本拠地を構えたのが邪馬台国という国になった
ではダメなん?
18 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:14:32
>>9 三角縁神獣鏡は、単なる葬具でしかないというのが今では一般的。
黒塚古墳などを見ればわかるが、棺の中にあったのは画文帯神獣鏡がたった
一枚で、三角縁神獣鏡は、棺の外に数十枚もあった。
どちらが重要かがわかるというもの。三角縁神獣鏡はその他大勢の扱いしか
受けていない。これは、今まで出土した枚数からもわかる。
しかも、黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、鋳型から取り出したばかりで、
製品としては完成していなかった事もわかっている。
19 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:33:04
>>6 畿内では、ある時期大きな変化が起きている。これは確か。
銅鐸の製造も祭祀も終わる。
だいたい時を同じくして突然、大きな古墳が出来る。
その古墳の棺の中にあるのは、鏡、剣、玉類といった弥生時代から続く
九州の系統のもの。大きな古墳の被葬者は、間違いなく支配層である。
大きな変化を新しい支配層の出現と考えることには妥当性がある。
その支配層が、墓の副葬品から九州の系統と考えることにも妥当性がある。
古代において、死生観あるいは宗教観は非常に重要なものだから。
しかも、記紀にそれをうかがわせるような記述がある。
つまり、大和朝廷自身が九州の出身を示唆しているわけである。
東遷説には妥当性があり、一番適切な考え方だろう。
20 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:46:16
>>16 うん、そうだと思うよ。
で、3世紀の畿内で即位したのが卑弥呼ね。
4世紀に東征? アホ抜かせ。
21 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:47:37
>>17 その認識でOK。
年代は、1〜2世紀頃ね。
で、3世紀の畿内で即位したのが卑弥呼ね。
22 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:52:26
卑弥呼は中国に朝貢してた九州の売国奴だろ。
畿内に来ないでください。女酋は九州にお似合いです。
23 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 23:00:17
日本神道の最高神である天照大神(卑弥呼)が、中国に朝貢して金印をもらったというのが真実。
日本政府・宮内庁はその事実を隠蔽してるわけだがな。
時代が変わっても、土下座外交は2000年の伝統を引き継いでいる。
卑弥呼が天皇家の祖である以上、日本が中国より下位なのは仕方ないことだがな。
24 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 23:01:42
>>20 >>21 九州と畿内の関係は基本的に分かった。で、その東征の時期は?
倭人伝が伝える邪馬台国は、北九州に上陸してから南、南へ行ったところだ。
その風俗は南方のもの。そして、地理的には会稽東冶の東といわれるような
南方。となれば、倭人伝が伝える邪馬台国時代は九州にまちがいない。
東征の時期は、そのことを確認したうえで考えればいいってことだ。
25 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/25(月) 23:04:17
アマテラス≠卑弥呼
コレを同一人物だとすると、卑弥呼は神武以前の女ということに
なるから、239年が神武以前になる。そうなると神武より後代の
天皇の在位期間がスシ詰めとなる不合理がミエミエとなる。
よって上の不等式が正解である。
26 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 23:11:40
卑弥呼は、中国に朝貢してた九州の売国奴です。
27 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 23:15:18
>>24 卑弥呼は九州の売国奴に間違いないんだが、
東征したことにして、責任を薄めようという魂胆だな?
天皇の祖であり、日本中の神社で敬われている天照大神を中国の犬だと売国奴認定したいわけか。
28 :
12:2009/05/25(月) 23:31:54
前スレでほぼ結論が出たと思うが、卑弥呼=天照は成立しない。朝廷の祭祀は基本的に、
大嘗祭などに見られる農耕信仰、首長例信仰。マキ向が朝廷発祥の地であることは明らか
だが、土坑の遺物や早期大型古墳などがそれを裏付けてる。鏡があるという人もいるだろ
うが、特に三角は18氏のいうように葬具という印象が強く、黒塚古墳で棺外にあったのは
僻邪の意味があるのかもしれない。
29 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 23:32:36
ぜひ伊勢神宮に行って、天照大神は魏の明帝に朝貢してた人だって、吹聴してきて欲しい。
30 :
ローガン:2009/05/25(月) 23:45:15
>>8 > 三角縁神獣鏡は、むしろ呉鏡なのでは?
いや、魏鏡でしょう。洛陽は尚方焼かれて以降三国分断までは、呉の領域での鏡の生産に頼った為、神獣鏡が流行った。
分断後、入手困難。 官営工房は立て直したものの本場の様には精緻な半肉彫鏡は作れない。
31 :
12:2009/05/25(月) 23:50:05
27首長例→首長霊
書紀の異説などから、三品彰英氏らが論じているように、本来は高御産巣日神が皇祖神
であった可能性は十分考えられ、天照の話は俺的にはとってつけた感が強い。wwwのい
う持統帝=天照まではどうかと思うが。
俺的には、天照信仰は道教の影響を受けて4世紀頃に誕生した可能性があると考えてい
る。(あまり自信はないが)Wikiにあるように、天照大神・月読の太陽・月の神の「目」からの
誕生は、道教の教典に「「左の眼を日と為し、右の眼を月と為し・・・」とあるものだし、中国
で3世紀頃?に誕生した盤古神話ともほぼ内容が一致している。
日本の皇祖神の変遷
ヤマト王権時代(五世紀〜七世紀)タカミムスヒ
律令国家成立以降(八世紀〜 )アマテラス
33 :
12:2009/05/26(火) 00:01:18
続き
伊勢神宮の大神、神宮、斎宮、斎館、紫御衣、明衣、幣帛、などはすべて道教の用語と同一
であるし、神宮を内宮と外宮とに分ける観念などもそうだ。他の記紀の神々とは違って、天照
大神の伝承の残る地は全国的に極めて少ない。(ただし摂社である神明社は全国にある)
天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張とさまよった倭姫の伝説は、
新来の神の概念が旧来の古神道からつながる三輪山の神と相容れなかったためとも
考えられる。これ以外に、伊勢の地に追いやられた理由を捜すのは俺的には難しい。
天照は人格神だからな
たかむすひ
>伊勢の地に追いやられた
三輪山の真東に伊勢神宮がある
追いやられたにしては、三輪山とは縁が切れていない気がするが・・・
紀記や朝廷祭祀の由来は道教、三輪山は道教とは違うと言いたいのかい?
36 :
12:2009/05/26(火) 00:20:05
続き
中国の盤古神話が文献に見られるのは、3世紀呉代の神話集「三五歴紀」からであり、
中国神話の中では比較的新しい概念である。盤古は天地創造神であるため、本来は
すべての他の神々以前にその存在がなくてはならないが、実際は伏羲・女?などの三
皇五帝などよりはるか後代の成立であるとみられている。
この3〜4世紀頃、東アジアにインド由来の「リグ・ヴェーダ」の原始巨人プルシャを祖型
とする天地創造神話が流布し、中国経由で日本において天照神話となったというのが、
俺の現在における仮説である。(ただ俺は考古系なので、これにそれほど自信があるわ
けではない。)
37 :
12:2009/05/26(火) 00:27:34
>>35 画文や三角の紋様や吉祥句から見ても、古来からの朝廷祭祀に道教の影響があるのは
否定できないだろう。鬼道といわれる五斗米道も、農耕祭祀的な側面が強くあるものだし。
ただ、三輪山信仰については研究者によっては縄文からといわれる磐座も存在し、日本
的なアニミズムと道教が融合した概念であるのかもしれない。
いずれにしても、それらは新来の太陽信仰とは相容れなかったと考えてる。(何度もいう
が自信はないよ)
>新来の神の概念が旧来の古神道からつながる三輪山の神と相容れなかったため
三輪山の真東に伊勢神宮があるが、偶然だと?
39 :
12:2009/05/26(火) 00:42:58
>>38 さあねえ、各地をさまよったあげく奈良から見て太陽の昇る方角にあるから都合よいとな
ったかもしれない。敬して遠ざけるというか、そのへんは本論ではないんでよくわからない
ね。
40 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 01:02:10
もういい加減うんざりだがw
この板の東遷説論者の銅鐸から鑑へのシフトをもって東征の証となす…
もう 東遷厨による「与太話」と言うしかないレベルで
残念ながら神武がヤマト入りした3世紀末か4世紀初頭だかには
ヤマトじゃあ既に銅鐸のピークは終わっちゃっているわけでwww
(何度も書いたが山陰の銅鐸の終焉は更に早いw)
そもそも
じゃあ”逆に考えて”だ・・・
九州勢力の東征のような現象が無ければ銅鏡と言うアイテムは
九州から東に伝播しなかったのか?って話で
もうアホの戯言と言い切っていいと思うwww
今後もその「銅鐸から銅鏡へのシフト」なんて理論が
まともに学説として陽の目を見ることは無いと思うがwwww
41 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 01:38:22
それぐらいしか拠り所がないんだよ、きっと。
42 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 01:41:07
>>31 >俺的には、天照信仰は道教の影響を受けて4世紀頃に誕生した可能性があると
個人的には道教の影響を受け誕生したのは「天御中主神」じゃないかと思っている。
つまり最初には高皇産霊神・神皇産霊神の2神がいて
そこに中国の「鼎の思想」と言うか道教で言うところの『三清』 になぞらえて
もう一柱加えたとwwwwwww
良く「天照は日本神話・神道における最高神」などと言う奴がいるが
神道に「最高神」と言う語が果たして馴染むのかは疑問だが
そりゃ天照より天御中主の方がエライさんなのは間違いないんだがw
なんでも意外と平安時代頃までその天御中主を奉る神社って意外と無かったとも聞くが…
(盛んになるのはもう少し後世、妙見信仰と習合してからだとも・・・)
ちなみに天照に道教的要素が持ち込まれるのは3世紀4世紀の話ではなくて
天皇号の使用が始まった時代だろうと思ってもいるw
今日でも伊勢神宮へ奉納する海産物を積んだ船は「太一御用」ののぼりを立てるが
これも冷静に考えればおかしい話で
太一(乙)とは天空の北極であり天皇大帝のことでもある。
まあ天皇号の採用で太陽神に北極信仰を無理矢理くっつけちゃった・・・と言うわけだwwww
そこら辺のアバウトさと言うかいい加減さ、良く言えば大らかさは日本文化のキモでもあるwwwwwwwww
43 :
12:2009/05/26(火) 02:10:25
>>42まあ、神話系は苦手だし、長レスしてはみたが、こんな単純なもんでもないだろうとは思う。
しかし、持統=天照説はどうかな。孫への王位継承を正当化するため、突然マイナーな神を
持ち出したのなら、書紀を読んだやつは、「見え見えでどっ白け」となる気がするんだが。
銅鐸の埋納・遺棄の状況は遺跡ごとに様々であるが、村を外れた丘陵等からの出土が多
く、浅い穴に横たえた状態で埋められている場合が多い。これは、常時は埋められており
祭りの時期に掘り出して使われていたとも論じられている。
44 :
12:2009/05/26(火) 02:13:58
続き
武力侵攻により遺棄された結果であるとする明確な状況証拠は存在しない。破砕がその証
拠になるとはいえない。それよりなら、宗教および文化のゆるやかな切り替わりと考えたほう
が、よほど事情に合っている。俺が何度もこのスレに書いたように、「まだあの村、銅鐸やって
るんだって!おっくれてるー。」といったような状況。
東遷厨がなぜそれほど、3・4世紀の東遷にこだわるのか、俺にはとうてい理解できない。
それを示す直接証拠はないし、間接証拠といってもこじつけとしか俺には思えないものば
かり。俺は関東在住で皇国史観ではないし、近畿をひいきにするいわれもない。ただ客観
的にそう思えるだけ。まあ、2世紀以前の東遷というか、九州からの人の移動なら否定はし
ない。前スレに書いたように縄文晩期の土器の移動は広範囲である。
>>43 まあ再三再四言っているが俺にしても「持統=天照説」を積極的に支持しているわけではないw
しかしこの説の強みは
「それをいつ、何処で、誰が、何のために…」と言う事をかなり具体的に説明できる。
対して「卑弥呼=天照説」は雲をつかむような話で
少なくとも「岩戸隠れ」だの「天孫降臨」だのと言うパターンはアジア・南太平洋地域にも見られ
「邪馬台国」の存在を考えなくても十分その成立を説明できる。
むしろ邪馬台国の史実を元にしたと言うのなら、その成立の過程を考えれば
かえって困難なお話になるw
それと…
>突然マイナーな神を持ち出したのなら
これはチト的外れだと。
壬申の乱で天武が天照を遥拝したと言う事からして
もし天照を格上げしたとすれば持統の旦那の天武じゃないかな?w
46 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 02:56:12
>>43 単なる文化の変化で、祭祀の対象が銅鐸から鏡に移ったとしたら、銅鐸を
溶かして鏡を作ったらいいと思う。
大切なものが盗まれるかもしれないのに、村はずれに埋め、さらにそのまま
忘れ去ってしまうというのがありえるのかどうか。
むしろ、大切なものを取られるのが嫌で、隠したと考えたほうが妥当な気が
するのだが。
>>46 銅鐸の「埋納」がいつ頃から見られる現象なのか分かって言ってるのか?
まさか突線紐式もそれ以前の扁平鈕式までの物も
ある日突然一斉に埋められたなんて事言い出すんじゃないだろうな?www
48 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 03:11:25
>>47 銅鐸の場合は、伴う土器がないために、埋められた時期を特定するのは
難しいらしいが、
>>46は一般的な意味で言っているのだが。
49 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 03:15:16
>>47 ついでに言えば、銅鐸の形式は関係ないと思うが。
違う形式の銅鐸が共存しても不思議ではないし、同じ時期には、一つの形式
しかないと考えるほうがおかしい。
>>49 一つの時期に一つの形式なんて誰も言っていないぞ。
形式の「組み合わ」せも色々パターンがあるが
新旧全ての種類が揃って出てきただのと言う話も聞かない。
大概はその前後の時代のものが組み合わさって出てくる。
銅鐸の製作された時期もその埋納された時期も長期にわたると言うのが
今の 日本人の常識です www
もし東遷厨が銅鐸の埋納を
「略奪を恐れて埋めた物」と言ったところで
そりゃ弥生中期頃にも見られる現象って事で別に東遷説の証拠にも何もなりゃしない。
51 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 03:48:47
征服や滅亡がなくても、社会が大きく変化すると、祭祀の形式や崇拝の
対象は意外と変化しやすいんじゃないか。
靖国神社のご神体は太刀だと言うし、形式は名簿に名前を書くだけ。
結婚式も、江戸時代は人前式だったものが、明治からは神道形式になり、
戦後はキリスト教式が人気になる。
52 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 04:57:04
素人意見ですが、「ヤマタイ」国って通常読んでますが、日本語の
響き的に「ヤマト」国の方が自然な気がします。仮に支配系統が
変わったとしてもこの部分は「ヤマト」に近い言葉であったような
気がするのですが、どうなんでしょうか?その方が歴史の連続性を
現代にも想起させる気がするのですが。邪馬台国と大和国だとそこで
分断されたようなイメージを持ってしまいます。
53 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 06:04:16
>>52 新井白石は、「ヤマト」と読んでいたらしい。
でも、大和が念頭にあったからかもしれないから、定かではない。
『ヤマタイ』としか読めないという意見もある。
54 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 06:49:00
>>50 弥生終末だけではなく弥生中期にも埋納があったと言いたいんだろうが、そんなことは
問題じゃない。弥生中期にも埋納しようという事件が起こったというだけだろう。その
ときは銅鐸が消滅したわけではない。銅鐸勢力同士の戦いだったとみて不自然ではない。
弥生終末に銅鐸がいっせいに埋められて何で鏡に変わるんだ? それまで銅鐸をありが
たがってきた古老はどうなったんだ? 普通ならば「あそこは新しいものに飛びついたが
うちはちがう」というのが沢山でる。けしていっせいに変わったりはしないんだよ。
日向の墳墓は古墳と横穴墓が並行して営まれている。流行を取り入れて変わるときは、そ
んなふうに流行に流されない連中も必ずいるものだ。
横からだけど、やっぱり一斉に埋められたと思ってるねww
56 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 08:14:16
横から
次のような邪馬台国の東遷説は、全く成り立たないと思う。
「3世紀の前半は、倭王として卑弥呼という女王が倭の頂点にいた。
卑弥呼の居住地は都があった邪馬台国で、これは九州の何処かにあり、戸数7万余りの大国だった。
3世紀の中葉になると卑弥呼は帯方群を通じて魏と盛んに外交を行い、魏帝から親魏倭王のお墨付きを得た。
銅鏡100枚という大量の鏡を貰い受けたのもこの頃である。
その後卑弥呼は死去し径100歩余りもある大きな墓に埋葬された。
また卑弥呼の後継は、一時混乱があったが、台与という若き女王が選ばれて倭王の地位に就いた。
これはだいたい250年頃のことである。
その後九州にあったこの邪馬台国は、大和へ東遷を行った。
東遷勢力が都を置いたのは大和纏向であった。
東遷勢力は纏向の地を開発し、大規模な土木工事を行って宮都としての陣容を整えた。
全国から多くの人々が纏向の地に参集した。
また東遷の課程で、それまで本州において盛んに行われていた銅鐸祭祀を禁じ、銅鐸をことごとく地下に埋めさせた。
これ以後、本州の銅鐸祭祀はすっかり止み、代わって銅鏡祭祀が行われるようになった」
何がおかしいかと言うと、もし上記の東遷説の通りだとすれば、銅鐸の埋納や纏向遺跡の造営開始は
3世紀後半以降のこととならざるを得ないが、それは実際とはまるで異なるからである。
銅鐸の埋納や纏向遺跡の造営開始は、もっともっと早い時期に行われている。
57 :
56:2009/05/26(火) 08:16:36
帯方群 × 帯方郡 〇 訂正。
今のところ、
−倭国(邪馬台国・九州王朝)も大和朝廷(纏向)も、出雲スサノオが統一建国した(後者は3男のニギハヤヒを派遣し建国させた)。
−倭国(九州王朝)が東遷したわけじゃなくて、両王朝は並立し続けていた。
−7世紀になって倭国(九州王朝)出身の天智が、乙巳の変で大和朝廷(纏向)を乗っ取ったが、天智の死後、
−大和朝廷(纏向)出身の天武が壬申の乱でそれを乗っ取り返した。
−その後、両王朝を統一し日本を統一国家とするために倭国(九州)に全国から防人を派遣し続け、
−藤原時代になってやっと倭国(九州王朝)を征服し、傘下に納めて天下統一を完成させた。
という理解なんでつが、何点でつか?
魏鏡は独自に九州の各首長が保有していたと思う。
その一部が、ヤマト王権に服属するさいに、提出を命ぜられ、残ったものは古墳に
埋葬されたと考える。
服属の時期は4世紀はじめであり、同時期の畿内古墳に収納されるのは当然である。
61 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:05:19
>>56 九州勢力による畿内への東征は、少なくとも2回にわたって行われていることに気づかない
といけないな。まず、3世紀初めの東征。これは北九州勢力によってなされた。その勢力は
公孫氏から入手した画文帯をばらまいたんだよ。次に、3世紀中頃の東征、これは北九州を
勢力内におさめた邪馬台国勢力によってなされた。これが三角をばらまいたんだ。
記紀だって、まずニギハヤヒが天下りしていた、次いで神武が行ったといってるだろ。
62 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:05:57
>>54 ったく学習能力の無い奴だな毎度毎度同じ事を繰り返す…
まあすがるものが神話以外ではそれぐらいしかないからかな?www
それほどまでに
「銅鐸は一斉に埋められて銅鏡の祭祀に取って代わられた」
と言うのなら…
それは一体いつの時代、実年代でAD何年の事だ?
それは最初に何処で起きた?大和でいいのか?
その時に廃された銅鐸の形式、代わりに祭祀に用いられた銅鏡の形式はそれぞれ何なんだ?
その銅鏡を持ち込んだ勢力は何処から来た?如何なる考古学的資料をもってその勢力を限定する?
(念の為言っておくが、日向なんて弥生時代を通じ銅鏡はお寒い状態だぞ?w)
きちんと答えてみろ。
まさか何時かも、何処かも、廃された銅鐸の種類、登場した同郷の種類…それすら分からず
とにかく
「銅鐸はある日突然に銅鏡に駆逐された」
なんて言ってないだろうな?
63 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:06:41
そもそもこの板の東遷厨は銅鐸と一括りにしてその終焉なんて語っているが
銅鐸の最後の形式、突線紐式だと肝心の大和からはあまり出てこない。
むしろ南紀、近江、三河・遠江(三遠)にそれぞれ分布する。
−しかもそれすら最後の方の4式5式ともなると相当に寂しい状況になる
(まあ大和で作られた物がそれらの地に重点的に配分されたと言う説もあるが
じゃあその製作は大和の何処で行われたのか?となると考古学的な立証には至っていない
候補に唐古鍵を挙げる学者もいるみたいだが…)
>銅鐸勢力同士の戦いだったとみて不自然ではない。
自然・不自然と言う前にそんな見方はできない。
扁平紐式までで終わった地域が全て(大型化の一途を辿る)突線紐式に移行しているわけではない。
無論その地域が先んじて鏡にシフトしたなんて事も無いwww
何度も言っているが山陰は大和より更に先に銅鐸が終わっている。
で、新しい形式の銅鐸になるわけでもなく、銅鏡による祭祀でもなく
四隅と言う大型首長墓による祭祀に移行している。
>けしていっせいに変わったりはしないんだよ。
だから一斉に替わったわけじゃない。
一斉に替わったなんてのはお前の脳内で起こっている妄想劇。
そんなに銅鐸祭祀に執着した古老の姿を見たけりゃ
先に挙げた南紀、近江、三遠辺りにでも見とけやアホwwwwww
64 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:10:20
まあ年代観は学者によっても違うし、どうせ言っても水掛け論になるんで言わなかったが…
そもそも銅鐸の終焉時期と畿内における銅鏡(普通に言えば画文かな?)の
著しい増加時期を重ねるのは相当に難しい話w
画文の登場時期を古く見る学者は当然、銅鐸の時期も古く見るのであり
そんな東遷厨に都合の良い…
「銅鐸の終焉時期と銅鏡の登場時期が重なるかほぼ隙間無く連続している」
…なんて言っている学者っているのか?www
65 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:14:26
>>61 おーい。
山陰の銅鐸を打ち止めにした九州勢のお話が抜けてるぞw
以前それも九州勢力によって廃止にされたと言ってたろ?www
66 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 17:27:32
>>63 奈良盆地は、近畿地方の中でも後進地だった。
鉄器の出土状況などからもそれは明らか。
銅鐸でもそれがいえるのだろう。
ちなみに、東遷説は、当たり前だが、すべてが卑弥呼の死後から始まると
考えるのが普通。常識的に考えても、巫女的な女王では変化は起きにくい。
武力を指揮できる男王の誕生が変化の始まりだろう。
記紀でいえば、高皇産霊尊(高木神)ということになる。
東遷説を阻止しようとするなら、この年代観を変える以外にない。
まあ、畿内説の考古学者はすでにやっているわけだが。
だから、畿内説は纏向の年代をきちんと説明すべきだろうな。
命の綱というわけだから。
67 :
ローガン:2009/05/26(火) 17:40:20
>>66 > 常識的に考えても、巫女的な女王では変化は起きにくい。
いや、魏との外交が始まり、文化、技術の流入という変化を考えないといけませんよ。
68 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 18:15:04
>>66 はっきりと、「武力を指揮できる男王の誕生が」東遷したと言ってしまいましたな。
こんな自己矛盾は無い。
いったい、マキムクのどこに武力侵攻の痕跡があるというのか?
ぜひ聞かせてくれ。
>>66 >ちなみに、東遷説は、当たり前だが、すべてが卑弥呼の死後から始まると
>考えるのが普通。常識的に考えても、巫女的な女王では変化は起きにくい。
>武力を指揮できる男王の誕生が変化の始まりだろう。
>記紀でいえば、高皇産霊尊(高木神)ということになる。
>東遷説を阻止しようとするなら、この年代観を変える以外にない。
阻止するも阻止しないも、どうでもいいって感じ。ただただ笑止。w
神様のタカミムスビが「武力を指揮できる男王」などとは、妄想以外の何物でもないだろうね。w
70 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 18:26:10
>>66 >記紀でいえば、高皇産霊尊(高木神)ということになる。
前スレで、
高皇産霊尊(男王)が天照大神(卑弥呼)の岩戸伝説(卑弥呼の死後)の後に登場したとほざいてた奴だな。
前にも指摘してやったが、高皇産霊尊は天照大神よりもはるか前に高天原に登場した神。
登場する順序は、
高皇産霊尊→イザナギ・イザナミ→国生み→天照大神
さらに東征神話を引き合いに出すなら、神武が東征した場所は橿原であってマキムクではない。
さらに高皇産霊尊が祀られてる場所は、葛城国であって大和国ではない。
断片的に神話を聞きかじって、都合よく脳内で補完してるから、
こんなトンデモが平気で言えるんだろうが。
71 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 18:27:39
>>66 はあ?
ちょっとよく理解できませんが、あなたは二人目の女王台与は何処で即位したと考えてるんですか?
72 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 18:33:23
73 :
12:2009/05/26(火) 19:12:23
しかし、卑弥呼の後、台与の前の東遷(この理解でいいんだよな66は?)というなら、それ
ほどの重大事件がなぜ倭人伝に記載されていないのかを、まず説明してほしいね。
では機先を制して・・・・・・・・トヨタン。
74 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:16:34
>>70 高皇産霊尊は、天地が開けてからすぐに登場した神となってはいる。
しかし、その後は登場していない。
その後、伊邪那岐命・伊邪那美命が登場し、国を生み、その他諸々を生む。
ここでは、高皇産霊尊は登場しない。
そのあとに天照大神が誕生するが、そこでも登場しない。
素戔鳴尊との争いでも全く出てこない。やがて、天照大神は天岩戸に隠れる。
ところが、天照大神が岩戸から出ると、突然登場し、中心人物として活躍する。
こういうことは常識だと思うが。
ト、トヨタン・・・・・・・・・・
too late. Aha!
76 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:24:14
>>69 記紀によると、出雲の国譲りは高皇産霊尊が主導している。
まず、天穂日命を派遣する。復命しないので次に天稚彦を派遣する。
やはり、復命しないので次に経津主神と武甕槌神を派遣する。
すると、大己貴神は、国を譲ることを約束して姿を隠す。
従わないものは平定する。これは明らかに武力制圧と考えられる。
>>74 みんな神サマだろ、実在の人物じゃないぜよ
>>75 おまい、わりとユーモアあるなww
>>72 偉大なる女王、魏に使いして開闢の祖と言っていい女王が、
後の世に、卑弥呼=天照大神 としてあがめられる事はあり得るんじゃないの?
79 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:30:45
>>68 何があれば武力制圧の根拠となるのかな。
古代の戦いにはそのような根拠が明らかに残っているのかな。
たとえば、壬申の乱はどうなんだろうね。
磐井の乱はどうなんだろうね。
ちなみに、記紀によると、神武東征の前に、饒速日命が高天原から大和に
天磐船に乗ってやってきたとなっている。
神武天皇が戦った長髄彦は、饒速日命に仕えるものとなっている。
神武東征は、第二陣と考えるべきではなかろうか。
80 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:34:50
>>73 台与の前の男王ではなく、台与が王になったあとの男王ということかな。
だから、倭人伝には登場しない。
これは、梁書に記載されている。
復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命
この男王のこと。
81 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 19:57:40
>>79 >何があれば武力制圧の根拠となるのかな。
柱が焼かれてるとか、鏃の刺さった骨とか。環濠の存在。
マクムクには環濠は無い。
>古代の戦いにはそのような根拠が明らかに残っているのかな。
北九州にはあるだろ。山陰にもある。
大和には痕跡は無い。
82 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 20:33:28
東遷説の人は、卑弥呼を天照大神としてるみたいだが、
その天照大神が奈良を追い出されたのはなんで?って説明が全くないよな。
邪馬台国が九州であったとしても、
結局、箸墓のモモソヒメは三輪山の大物主の巫女であって、
征服者であるはずの天照大神も高皇産霊尊も、マキムク周辺では祭られて無いわけで。
東遷してきたと考えるには、あまりにも粗末な扱い。
九州から東遷してきたけど、やっぱり大物主が恐ろしくて伊勢に逃げちゃったんですか?
それは武力制圧とは、ほど遠いな。
>>82卑弥呼を一人の人物とするから時代的にも地理的にも行き詰ってしまう
のではないでしょうか?卑弥呼は世襲の女王。そう見れば、九州東部に居て
魏に使いを送ったのも、四国徳島に居たのも、紀氏の祖となったのも、大和に
箸墓を造ったのも東征を繰り返した歴代の卑弥呼だったことが理解できます。
ちなみに、大和からさらに東征し伊勢に移り、三河に移り、関東に移って政権を
打ち立てたのも、実は卑弥呼の子孫だったことはあまり知られていないようです。
>>83 巫女さんが政治できるわけない。
ありゃ、今で言うなら芸妓みたいなもんだ。
86 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 22:07:20
>>62 ごちゃごちゃ言わず、自分で調べろ。自分でやれば、少しは賢くなるだろう。
卑弥呼は稗田一族ではないのか?
88 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 22:27:38
>>83 そうやって、東征していったという考古学的な証拠がまったく無いのですよ。
卑弥呼が東征したなら、従者を大勢引き連れていたはずでしょ?
九州から生活物資(土器)が東に移動していったような形跡は全くないの。
おわかり?
>>88荷物になる家財道具はすべて置いて夜逃げでもするように移り住むのが流儀です。
90 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 23:21:59
なんじゃそりゃ。
邪馬台国東遷説の人に訊きたいが
邪馬台国7万戸のうち何戸ぐらいが東遷に参加したのかね?
半分の3万5千戸ぐらいかね?
ちと多過ぎるかね、1割の7千戸ぐらいかね?
畿内説の人なら、少数の王族貴族が国内移動しただけと言うだろうな
平民は連れ行かないだろ、遷都なんだから
93 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 23:41:04
>>92 だから、それが東遷説の自己矛盾だっていうのが、わかんないのかね?
一方では、タカミムスビが軍隊率いて征服したと言い、
一方では、少数の王族貴族が国内移動しただけという。
前者は、戦闘の痕跡が無いからアウト。
後者は、もっともらしいが、
魏志倭人伝にあるように「同盟関係の無い隔絶した東の倭種の土地(九州説の言う大和)」に、
少数の王族だけが引越しなんて無謀すぎる。まったくありえない。
94 :
九州王朝大好き:2009/05/27(水) 00:37:50
邪馬台国東遷はなかった。
邪馬台国(筑紫平野北部)は狗奴國(菊池川流域)に滅ぼされた。
横穴式装飾石室墓の北進がそれを物語っています。
阿蘇のベンガラ鉄兵器武力が筑紫平野の経済力を打ち破ったのです。(鉄鏃・槍鉄穂頭)
95 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 00:43:44
>>61 の理屈だとホケノから画文を出している纏向は差し詰め 「ニギハヤヒの都」 と言ったところか?w
まあこの馬鹿のよってたつ所は
「とにかく銅鐸の終焉はあまりにも急激で外部勢力の侵攻を考えざるを得ない」
と言うことに尽きるだろうが
ニギハヤヒが大和入りしたと言う3世紀初頭には既に大和での銅鐸のピークはとっくに終わってしまっている。
突線紐式いわゆる「聞く」銅鐸にしてもかなり減少している時期。
最終の突線紐5式の埋納がそろそろ始まった頃か?
それのかなり早い時期に行われたとされるのが徳島の矢野遺跡か?
適当にググったものだが参考に
http://www.tokushima-maibun.net/fukyusiryou/h10kyouzai/yano.htm 何も東遷厨の妄想にお世話にならずとも普通に衰退して終焉を迎えつつあったというのが実際のところw
はっきり言えば、大和入りするのが遅すぎんだよアホwwwwwwwww
無論早くしすぎると今度は鏡がついてこれない羽目になるわけだがw
あと山陰の件はどうした?
神話との辻褄合せしたお話はまだできていないのかな?
まあ素戔鳴でも出してくると予想するがwwww
96 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 00:57:10
そもそも画文を北九州出身のニギハヤヒがばら撒いた…なんて何を根拠に言えるのかって話で
画文は数も質も 畿内>九州
分布を見れば畿内が九州にちょこっとおすそ分けしたって感じだがwww
銅鐸がある日一斉に終焉したわけでもなければ
銅鏡=画文も九州から持ってきたとする根拠も無い
(ところで三角は日向発生なのか?w)
つまりは東遷厨の妄想の産物と言うのが結論にならざるをえないwwwwwwww
弥生時代の物資の交流に注目。
大阪市和泉市池上曽根遺跡、奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡において、ほかから搬入された土器は、東は愛知県・静岡県西部におよび
西は岡山県の南部、さらに和歌山にまで産地が広がっている。
また三輪山の北西山麓にひろがる纒向遺跡でも、外来系土器として、中距離では、三重県・愛知県・遠距離では、西は福岡、東は静岡県東部、
北は、島根・鳥取・石川・富山の土器がまとまって発見された。
さらに、一点だけ鹿児島県の土器もある。
土器だけでなく、管玉、勾玉、銅、腕輪、装身具、輸入された銅鏡なども交易、遠隔地間の流通によって各地に広まっていったと考えるほうが自然だ。
全国の首長層間で交易があったのだろう。
98 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 03:55:08
結局、九州説の根拠は、魏志倭人伝の中の東となるべきところが南と書かれてるの一点につきる。
その他はいろいろ出てくるが、物的証拠はなく、状況証拠も不利であり、文書の解釈もこじつけに近い。
99 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 06:43:34
>>95 >突線紐式いわゆる「聞く」銅鐸にしてもかなり減少している時期。
へえー、突線紐式は「聞く」銅鐸に分類してるんだ。
100 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 07:18:00
>>96 >分布を見れば畿内が九州にちょこっとおすそ分けしたって感じだがwww
多く分布している所の真ん中に配布者がいたとみる、この考え方がだめなんだよ。
鏡なんてものは、ブリキの勲章みたいなもんだ。もともと従ってくれてる忠臣
に今更そんなものをくばるか? 新しく従った連中にくれてやるもんなんだよ。
>銅鐸がある日一斉に終焉したわけでもなければ
ある日一斉に? アホか。いくら九州勢力だって、ある日いきなり本州全土の
支配を始めるわけじゃない。西の方から征服して東へ進むんだ。一斉って言っ
たって、ある程度の期間を考えるんだよ。
> 画文を北九州出身のニギハヤヒがばら撒いた…なんて何を根拠に言えるのか
ニギハヤヒなんて個人を考えるわけではない。それは物語。九州勢力と言ってるだろ。
鏡は九州で重用されてたものだ。畿内はそんなものに興味を示さず、銅鐸祭祀を行って
きた。それが急に銅鐸が埋納され、鏡が配られるようになったんだ。棺の中に朱を入れ
る習慣ももともとは九州でみられた習慣だよな。唐古、鍵も亡んだ、環濠も埋められた。
九州の勢力にやられたな、そう考えるのが当然だろ。
101 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 08:41:48
女王国の都は北部九州に在った
狗奴国の都は畿内に在った
狗奴国の始まりは日向である
狗奴国は日向-四国-畿内と西から東に勢力を拡大した
倭人伝に書かれた狗奴国の位置と魏略に書かれた狗奴国
の位置はどちらも正解である。(日向狗奴と四国狗奴)
戦いに勝利したのは狗奴国で、それが後の大和になった
敗北した邪馬台国は熊襲になった
倭人は邪馬台を(やまた) 狗奴を(くない)と読んでいた
102 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 08:41:58
>>100 >西の方から征服して東へ進むんだ。一斉って言ったって、ある程度の期間を考えるんだよ。
そうだね、西の方から征服するなら「ある程度の期間」が必要だろう。
でも、奈良には九州の土器は少なく、東海からの土器が圧倒的に多いのはどう説明するのかね?
103 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 08:46:00
>>101 狗奴国を畿内にするにしろ、日向から東征なんて無理。
東海からの土器の多さを、どう説明するのかな?
南九州の土器はカケラしか見つかってないのに?
>>100 横からだが
>それが急に銅鐸が埋納され、
また矛盾したこと言ってるじゃねーかwwwwwwww
105 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 09:35:11
「銅鐸が急に埋納された事」に関する説明を求めているのに
「銅鐸が急に埋納された事」を前提として説明する。
いわゆる循環論法ですね、分かります(笑)
106 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 09:56:31
>>105 私は九州勢力が鏡をくばったとみる根拠を書いただけだ。「銅鐸が急に埋納された事」に関する説明
を書いているわけではない。そんなことは、学者の本でもみればよい。いくらでも書いてあるよ。
>>102 >奈良には九州の土器は少なく、東海からの土器が圧倒的に多いのはどう説明するのかね?
奈良の土器っていつ、どこに持ち込まれた土器のことかな?
いつ持ち込まれたか、その根拠も示してくれ。
107 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 10:10:31
>>103 >南九州の土器はカケラしか見つかってないのに?
そのカケラは文様から成川式土器と判るもので現物が橿原考古学研究所博物館に展示されているが
成川式土器は南九州とは云っても日向の方ではなく薩摩の土器である。
成川式土器は弥生時代終わり頃から薩摩地域で生産されたのは確かにそうらしいのだが変化に乏しく
また大変に息の長い土器であって古墳時代以降、飛鳥・藤原時代さらには奈良時代まで使われた。
問題となるのは纏向遺跡で見つかったこの成川式土器のカケラは発掘調査によるものではなく
採集品なのであって他の土器との層位関係は全く掴めないのである。
庄内期併行と見るか布留期併行と見るか或いはそれ以後と見るかは今のところ良い手がかりが無い。
>>106 >そんなことは、学者の本でもみればよい。いくらでも書いてあるよ。
東征なんて事態を考えなければならないほど「銅鐸が急に埋納された事」を書いている学者って誰ですか?
その本の表題は?
なんか最後は有耶無耶にして逃げようとするのはこの板の九州説の悪い癖(笑)
「いくらでも書いている」んだったら2・3挙げるぐらいなんてことはないですよね?
109 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 11:06:58
>>107 つまり、南九州の土器はいっさい発見されてないってことだよね。
これで日向からの東征は、まったく根拠を失ったわけだ。
110 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 11:52:01
>>109 おめでたいねえ。東征のときに土器を担いでくるって、誰が決めたんだ。
111 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 11:53:52
もうみんな不毛な議論に殺気立っちゃって、ドキドキしちゃう!
>>100さんへ
>鏡は九州で重用されてたものだ。畿内はそんなものに興味を示さず、銅鐸祭祀を行ってきた。
>それが急に銅鐸が埋納され、鏡が配られるようになったんだ。
100さんに反論したいのだが、そうする前に一点、伺っておきたいことがある
以前からこの邪馬台国スレや謎の女王卑弥呼スレでは、伊都国、奴国の比定地を
通説の前原市、福岡市付近ではなくて、佐賀県方面に持っていく御仁が数人ばかり居られるようだ
100さん、あなたは伊都国、奴国はどこにあったと思うのかね?
通説通りでいいかね?
113 :
112:2009/05/27(水) 13:44:44
>>100さんへ
ついでにと言ってはなんだが、邪馬台国のあなたの比定地もご披露願いたい
114 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 13:52:50
>>110 東征の時に、裸で来るわけですか。
すごいですね。
>110 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/27(水) 11:52:01
>
>>109 >おめでたいねえ。東征のときに土器を担いでくるって、誰が決めたんだ。
>
>114 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/27(水) 13:52:50
>
>>110 >
>東征の時に、裸で来るわけですか。
>すごいですね。
横からだけど、土器を着るのかw 落ち着け。
116 :
ローガン:2009/05/27(水) 14:45:15
トーセン君も落ち着いて頑張れw
117 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 14:56:59
>>112 >>113 伊都国は佐賀市周辺。奴国は城島あたりかな。
投馬国は川内、邪馬台国は都城だね。
118 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:17:34
纏向ったって、地元の土器が85%。東海地方の土器が7%。その他が8%と
いうところだろう。
まあ、地元の土器が圧倒的に多い。
なのに、搬入土器が圧倒的に多いとか宣伝して、だから、各地の首長が
連合しただの、だから邪馬台国だの、というのはおかしかないかい。
119 :
ローガン:2009/05/27(水) 15:24:35
>>118 > なのに、搬入土器が圧倒的に多いとか宣伝して、
他の遺跡と比較して搬入中土器の比率が圧倒的に高いから。
120 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:25:45
>>118 その他の遺跡で、纏向以上に搬入土器の多い遺跡があるのかな?
纏向が邪馬台国で無い場合、
纏向が邪馬台国を上回る人的交流の場だった、ということになるのだが。
121 :
ローガン:2009/05/27(水) 15:28:59
それに通常、纏向=邪馬台国ではないですよ。纏向⊂邪馬台国 七萬戸ですから。
122 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:29:53
>>119 >だから、各地の首長が連合しただの、だから邪馬台国だの、というのは
おかしかないかい。
こちらの部分はどう説明できるのかな。
土器の割合で決めるなら、圧倒時に地元のものが多いわけだし。
123 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:34:25
>>122 その他の遺跡で、纏向以上に搬入土器の多い遺跡があるのか?っての。
124 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:38:23
邪馬台国勢力が纏向に進出した。畿内はもちろん、東海あたりまで征服した。
「新しく加わった諸国はそれぞれ労働者を出せ」、「弁当持参」。そして、墓を造
らせた。年期のあけた連中に対して、「みんな、ご苦労。土産をやるぞ、王さんに
渡せよ、よろしくな」。その土産が三角だったとか。
125 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:43:29
>>123 搬入土器が多いということは、どういうことなのかな?
箸墓古墳が卑弥呼の墓だという証明はどこまで進んでる?
127 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 15:51:47
>>126 ぜんぜん進んでいない。
というか、どこから箸墓が卑弥呼の墓というのが出てきたのだろう。
129 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 16:02:54
130 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 16:15:35
>>99 スマン、素で間違えたw
巨大化する突線紐式は「ビジュアル系」だったなwww
>>100 あん?
「ある日一斉に終焉」と言うのは
「考古学的に見ればある日突然にと言えるほど」tって意味だ当然。
一々言わせるな阿呆w
結局、銅鐸が突然に終焉したなんてお前の妄想でしかない。
ニギハヤヒが画文を持って大和入りした時には
もう大和での銅鐸祭祀のピークはとっくに終わっているwww
唐古鍵がどうした?
環濠集落の解体がそれほどに特異な現象なのか?
それとも唐古鍵に東征勢力に滅ぼされる以外衰退しちゃいけない特別な理由でもあるのか?w
銅鏡がブリキの勲章でも何でも構わないが
結局のところ画文が九州から持ち込まれたという根拠は何も示せないわけだw
何から何まで妄想の世界。
ところで山陰のお話はまだできていないのかな?
神話と辻褄合せるのなら神武より早くニギハヤヒより早く狗奴國=スサノヲが東征して出雲を征服した
…なんてお話になると予想しているんだがwwwwww
131 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 16:23:14
縄文人は海洋系狩猟民族。
弥生人は揚子江の南、越国の倭人が中国春秋戦争から逃げ流入。
○天高原はフヨ国(モンゴル東部)。
フヨ系王族が支配する馬韓より追放された王族スサノウは出雲へ。
出雲で日本海沿岸にかけて大王国を作る。
神社を全国に作ることで支配(祭神はスサノウ、ニギハヤヒ、オオクニヌシ)。
スサノウの子孫ニギハヤヒ(物部氏)大和まで到達。邪馬台国(ヤマト国)建国
東の国まで支配を広げる。支配の為大和に出雲政権を移動(大国主の国譲り)。
魏志倭人伝の倭国大乱は大和と筑紫の戦争。
スサノウの9世代後が卑弥呼。(籠神社より系図発見・国宝)
卑弥呼時代に筑紫と和解。筑紫の円墳と大和の方墳が合わさり前方後円墳発生。
大和と筑紫の人質交換(神武天皇東征伝説)。神武は物部に婿入り大王家となる。
大和朝廷成立。大和とは大連立。ヤマト読みは前の地名(邪馬台)のなごり。
大王家は祭祀のみ、政治は物部と大伴(筑紫系)。
○秦の始皇帝の下で万里の長城などを作っていた民族は辰韓に逃げる。(秦氏)
この民族の一部は筑紫に渡来(天孫降臨)。馬を持ち込む。筑紫にて応神出生。
応神東征、香坂王・忍熊王を倒し即位、応神天皇河内王朝成立。
新羅、百済より秦氏他渡来人を呼び寄せ土木技術で巨体古墳、神社を作る。
アマテラスは応神の神。全国の神社にアマテラスを合祀させる。
>>127 確か炭素何とか検査であの古墳が今まで考えられていたより
もっと古い時代まで遡れることがわかって
その時代が卑弥呼の時代と重なるとかいう理由だったような気がする
134 :
ローガン:2009/05/27(水) 16:45:06
>>122 > おかしかないかい
いえ、別に。纏向に於いて、各地の墓制を総花的に採用して首長墓を作り初めてますね。これは元々の大和の葬制ではない。
各地の祀りを接収したというより、温度差の違いはあるかもしれないが、各地が参加したと考えるほうが妥当でしょう。
この「求心カがあった地」の遺跡から他の土地からはみられない高い割合での搬入土器が出ている。
別におかしかないですが…
搬入土器があったということは、巻向の王と緊密に連絡を取り合うために、そこに列島内の各国の大使館があったということだからね。
現在でも東京にある各国大使の夫妻は、祖国から食器とか家具とか持って来るでしょう?それと同じ。
136 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 17:01:31
>各地の墓制を総花的に採用して首長墓を作り初めてますね。
前方後円墳って本当に首長墓なのか? 全国にいっぱいありすぎるな。
でかいからって首長墓とはかぎらないのでは?
137 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 17:02:23
>>134 >この「求心カがあった地」の遺跡から他の土地からはみられない高い割合での搬入土器が出ている。
これにつきますな。
九州には、求心力を備えた土地は無いってことだよ。
あるなら例を出してみてください。
木っ端役人や庶民の墓に10年も掛けますですか?
139 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 17:03:20
>>135 単に仕事探しに出てきた連中の弁当箱では?
140 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 17:13:36
そもそも、この日向東遷厨が
「銅鐸祭祀は突然消えたと」
言っているのは具体的にどれぐらいの期間を言っているんだろう?
10年?20年?
寺澤で銅鐸のマツリの終焉を庄内、地域によっては布留0まで射程に入れる必要があるとしているから
その年代観で言うと半世紀50年ぐらいは巾を見ているのかな?
かなりに短期間に見る学者だとどれくらいで見ているんだろう?
個人的には50年もの巾があって
東征勢力による銅鐸祭祀の廃絶を考えなければならんほど
急激な現象と言うのは理解に苦しむwww
もともと日向にいた神武一派が畿内に引越しして熊襲が南九州で勢力を伸ばしたとも言えるしな。
ん?
神武さんは東征に行くんなら、もっとしっかり足場を固めてから出発すりゃよかった、と?
そこを神武さんがおろそかにしたため、子孫の代々の天皇が尻ぬぐいさせられる羽目に、と?
つうか、んなアホなww
143 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 19:35:47
>>140 銅鐸がいつ埋められたかについては良くわからないというのが現実だろう。
間違いなく言えるのは、
その後、一切作られることがなかった。
古墳から出土することはない。
記紀にも銅鐸は一切登場しない。
ということかな。
144 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 19:53:16
>>140 庄内期、まして布留期まで銅鐸が残っていたということは、要するに
纏向が出現してもしばらくは残っていたという意味だろう。
つまり、ある時期を境にいっせいに姿を消したわけではない。
東征のような変化ではない、と言いたいわけだろうな。
しかし、上でも書いたように、銅鐸は共伴する土器が少ないために年代を
特定するのは難しい。
その中で、最も新しいタイプの突線鈕5式に共伴する土器は、弥生後期後半の
ものだといわれる。たとえば、徳島県・矢野遺跡から出土した銅鐸。
大阪の亀井遺跡の銅鐸片もX様式の土器を伴うとされる。
だから、普通は庄内期の前に終焉を迎えたといわれるのだが。
145 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 19:58:19
>>144 銅鐸の消滅を東征と結びつける短絡思考はなんとかならんのかね?
九州の土器がほとんど出てこないのに。
146 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 20:10:27
九州の土器がほとんど出なく、東海の土器がたくさん出るということは、
九州の人はほとんど畿内にやって来ず、東海の人がたくさんやってきたということ。
さて、こういう状況で、東征がどのように起こり得ただろうか?
九州の人は、日常生活の必需品としての土器を持たずに、来たというのか?
土器は、日常生活の必需品では無かったのか?ならば、東海系土器の多さは何を意味するのか?
普通、遺跡から土器が出れば、そこに人が住んでいた痕跡と見るだろう。
吉野ヶ里も土器の存在が発見につながった。
早い話が、奈良には九州の人はほとんど住んでいなかった。
つまり、東征は無かったということだ。
147 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 20:34:19
九州は、広くシラスなどの火山灰に覆われているから、あと数メートル掘り進めば、
いろいろ出土すると思うのです。しかし、現在の人口密集地と古代の集落跡が
重ならないことが発見が遅れた原因です。
首都圏や大阪圏のように、ほぼ全ての土地を掘り返せば、予期せぬ発見もあるのです。
148 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 20:47:02
>>146 >東海系土器の多さは何を意味するのか?
それをよく考えてみたらどうかな。
ちなみに、地元の土器が85%で、東海系が7%ということも考慮に入れて。
>>147更に書けば、縄文時代の海進期の集落は、今ではかなり内陸部に位置し、
しかも、扇状地になっている場合が多く河川の堆積物で埋まっている。
その下まで発掘しようにも、今では人のほとんど住まない過疎地帯ですから・・
邪馬台国時代の遺跡は永遠に発見されることはないかもしれません。
150 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 20:59:28
>>123 >その他の遺跡で、纏向以上に搬入土器の多い遺跡があるのか?っての。
比率からして纏向遺跡が一番だと思うけど弥生末〜古墳初頭にかけて存続した大きな
拠点的集落遺跡だとどこでも搬入土器は結構多いんだよ。
福岡市の比恵・那珂遺跡群、博多遺跡群はやっぱり纏向と同んなじ傾向で、
列島各地からの搬入土器がいっぱい来てるよ。
他にも搬入土器の多い遺跡あるんだけど福岡のはやっぱ注目しとかなきゃいけないと思うんだ。
大陸・半島産の土器はまあ博多なら当たり前かと思うかもしれないけど、
東海のパレス壺なんかがはるばる九州まで入ってるのを知ったらきっと感動するよ。
>>146 九州だと長旅になるから土器は持ち込まないだろ。
また、広島とか岡山に立ち寄ったけど、東征は波状的になされたのではなく、かなりピンポイントに攻撃している。
152 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:24:19
>>150 それなら、福岡が邪馬台国でいいんじゃないの?
153 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:28:10
>>150 なんにせよ、福岡に東海式土器が存在するなら、
魏志倭人伝の「隔絶した東の倭種」は東海地方よりさらに東(関東)ということになるな。
そうでなければ、魏志倭人伝の記述は信用できないことになる。
154 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:37:02
>>152 >それなら、福岡が邪馬台国でいいんじゃないの?
えーと、これは元祖九州王朝説の、古田先生の意見だよね。
でもこのスレの九州王朝説シンパさんは、みんな御大古田先生の邪馬壱国博多説を
ちっとも認めてないみたいなんだよね。ww
古田ねぇ、
遠い過去の人だな。
トンデモ電波だったと微かに記憶にある。
156 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:40:05
古田は、東日流がなあ・・・
157 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:40:42
>>153 倭国の人々は倭国の中でしか取引をしなかったと思ってるのかい?
古田はもうだめぼ…
159 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:41:36
このスレの東遷説の人も、安本先生の「庄内式土器は九州発祥」という説を認めてないよな。
安本先生によれば、庄内式土器は九州発祥で、
それが畿内に大量に持ち込まれてるから、東征の証拠だと言ってたはずなんだが。
庄内式土器の話が全然出てこないのは、どうしてぇ?
160 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:44:25
古田の説を読んで、こりゃ駄目だって思わないようだったら、その人は駄目だな。
161 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:45:41
これだな。いまでも、堂々と掲載されているが。
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm >庄内式土器は北九州一円と、近畿地方では、大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての地域に分布する。
>北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。
>これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。
まさか、東遷説の人は、安本先生の説を否定しないだろうね?
162 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:46:01
>>159 >安本先生の「庄内式土器は九州発祥」という説
これは駄目だよ、全然。
まるでお話にならないよ。ww
163 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:46:17
元高校教師の分際で売名行為をしたものだから、
袋叩きにあったのです。学会とは怖いものですね。
安本はもうだめぼ…
165 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:51:33
所詮、東遷説の人も、
安本先生の「庄内式土器は九州発祥」という説には呆れてついていけないと思ってるんだろうな。
そうでなければ、外来土器の話題で、まっさきに庄内式土器の話が出るはずだった。
残念だよ。
166 :
12:2009/05/27(水) 21:56:58
あの年代の人たちは、自分が生きてる間に結論は出ないって確信があるんで、怖いもの
はもうないという心境なんだろうね。
167 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:57:26
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm >大阪や奈良の庄内式土器の出土地は、物部氏と関係の強い地域である。物部氏が、饒速日命とともに九州から近畿地方に天降ったり、九州の人びとが神武天皇に従って奈良に入ったことと関係すると思われる。
安本先生は、庄内式土器の存在が「九州から畿内への人の移動」と認識している。
しかし、このスレの東遷説の連中は、それを否定してるようだ。
”搬入土器の多さと東征は無関係”というのが、総意らしい。
つまり、仮に庄内式土器が九州発祥としても、それは東征の証拠にならないということだ。
168 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 22:10:03
土器なんていろいろな解釈ができるからね。
どこの土器が何パーセントなんて言ったところで、あてになる話ではない。
そんなものであれこれこじつけなくても、九州勢力が東征したってことは
明らかだってことだよ。
>>167 >>大阪や奈良の庄内式土器の出土地は、物部氏と関係の強い地域である。物部氏が、饒速日命とともに
>九州から近畿地方に天降ったり、九州の人びとが神武天皇に従って奈良に入ったことと関係すると思われる。
荒唐無稽だってば。ww
それと饒速日なの?神武天皇なの?どっちでもいいの?ww
神武天皇は河内でいったん侵攻失敗するでしょ。一旦退却、で紀伊半島大回りの迂回作戦だよね。
でも庄内式土器は八尾市の久宝寺遺跡、東郷遺跡、中田遺跡、その他のもろもろも河内の大勢の住民が
大量に作ってますよ。ww
搬入土器の広がりは、以下の二つのケースがあったと思われる。
@軍事的なルートで搬入された。
A全国の首長層間での交易によって各地に広まっていった。
171 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 22:38:55
>>168 土器をあてにしなかったら、それこそ何にも証拠は無いわけだが。
172 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 22:46:27
それは東征を否定しようという立場からの話だろ。東征説の立場からすれば、証拠
なんぞ掃いて捨てるほどあるんだよ。
173 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 22:47:21
で、どうするの?
東征の証拠に、庄内式土器を使うの?
それとも、庄内式土器は畿内発祥と認めた上で、
あるいは土器とは無関係に東遷説を強弁しますか?
どーするぼ?
175 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:03:09
東征というより九州と本州とが倭種有りという間柄でないことの証明だわな
倭人伝がおかしいのか九州説があり得ないかの二択になってしまう
176 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:15:13
「倭種有り」は関東(蝦夷)だろ。
177 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:18:10
東遷説の人は遺跡にも詳しいみたいだから、
庄内式土器についても、自分の見解を持ってるはずだよな?
安本先生のおっしゃられる通り九州発祥なのか、
安本先生の説はデタラメで、畿内発祥とするのか、どっちなんだよ?
早く発言しろ。
178 :
12:2009/05/27(水) 23:33:01
庄内式が九州発祥なわけないじゃん。北九州なら西新式平行で、安本氏の発言は土器の
ことで責められてムリクリひねり出したんだろうが、地道に北九州編年をやってきた研究者
を、ずいぶん ないがしろにした話だよな。
畿内でも、北九州でも、東海でもこつこつ地味な研究をやってる人がいて頭が下がるが、
東遷厨は「土器など関係ない」の一言で終わりだからな。まあそれが2chといってしまえば
それまでなんだが。
179 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:39:33
庄内式土器について研究したことはないが、どちらかと言えば安本説に分があり
そうだな。近畿では出るところが限定している、使われてる土も決まっている、
窯は発見されていない、2系統あるとはいうものの形式はほぼ決まっている。
となれば、近畿発祥で徐々に発展していったとは考えにくい。それよりは、九州
から少数の工人が来て専従でつくったとみた方が良さそうだ。
180 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:50:02
>>144 >だから、普通は庄内期の前に終焉を迎えたといわれるのだが。
>>140で言った最大、布留0まで銅鐸祭祀は続いたと言うのは
突線紐5式に話を絞っての話で1〜5式全体となるとまあ全体に時期はもう少し早くなるだろうな。
ただし当然その時期の”巾”は広がらざるを得ないと思うがw
徳島矢野遺跡の物も5式の埋納と言うことで言えばかなり早期に埋められたと言うのが大体の共通認識だと思うが…
そもそも征服勢力によって突然廃止にされたと言うのなら
埋納の”ピーク”があってその後もぽつぽつ事例があるなんてのはあまりに半端w
そんなんでなんで「急激に消えた」と言えるのかって話でwww
日向東遷厨の説を成り立たせようとしたら「その時期」と「その巾」二つをクリアしなければならないが
(…前者については銅鐸を滅ぼしたニギハヤヒがばら撒いた画文を公孫氏から貰ったと言うのだから
公孫氏が帯方郡を新設し魏に滅ぼされるまでの間AD196〜238の間と言うのは動かないと思うが)
前者の「時期」については具合のいい説はまああるだろうが
後者「巾」についてまで東遷厨に都合の良い説なんかあるのか?www
181 :
12:2009/05/27(水) 23:53:44
182 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 23:55:06
>>179 >庄内式土器について研究したことはないが、
(中略)
>九州から少数の工人が来て専従でつくったとみた方が良さそうだ。
何様だよ。
安本は罪深いな
184 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:06:36
安本は、自分が攻撃してた古田の間違いと同じ轍を踏んだんだよ。
あまりに自説を強弁しすぎた。
どうやら、ここの東遷厨でも、庄内式土器が九州発祥だと思ってるやつは少ないみたいだが。
>>179は、それでもドロ船に乗るのかな?w
185 :
12:2009/05/28(木) 00:19:14
まあ、安本氏はまだ理解できるんだよ。九州説=この世に生きたあかし だろうし、支援者やら
邪馬台国の会の会員さんやら、大学の教え子やら、守るものがたくさんあるんで、トンデモ連
発でも、もはや良心は痛まないっていうか、ここで日和るほうが、彼にとっては裏切りなんだ
ろ。問題は守るものなどないくせに、尻馬に乗ってデタラメをいうやつだよな。
つーか、東遷厨はもう沈みかかってるじゃんw
187 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:27:16
良く分からないのはヤマトに侵攻した神武だかニギハヤヒだかは
よほどお急ぎの旅で土器も現地調達だったらしいが
そのくせ鏡は持ち込んでいるとw
ついでに言うと武具にも農具にも余程、鏡よりは実用品であったろう鉄も持ち込んだ形跡が見られない
(ヤマトにおける鏡の増加と鉄の増加はだいぶタイムラグがあると思うが…)
土器の持込が無いというのは九州からの兵站線・補給ラインが無く
九州を片道切符の特攻で出てきてヤマト目指したのかな?wwwwww
188 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:28:27
土器は生活用具。生活文化的なもの。
こういうものは、権力などとは無関係。
どちらが機能的か便利かで優劣が決まり、優位にあるほうが広まっていく。
ただそれだけのことだろうな。
庄内式土器は、弥生式土器に比べて薄く仕上げてあるので煮炊きに便利に
なっている。庄内式土器の位置づけについては難しいらしいが。
189 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:38:57
>>187 記紀によると、神武天皇は急ぎの旅ではなかった。
宇佐に立ち寄り、筑紫に立ち寄り、安芸に立ち寄る。次の吉備では
古事記によると八年、日本書紀では三年滞在している。
吉備では、武器や食料や船を調達するなど十分に準備をした。
ということだから、これに従えば、神武天皇が土器を持ち込んだとすれば、
吉備系の土器ということになるんだろうな。
190 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:50:09
まあ今ここで中心になっている日向東遷厨は元々同じ東遷説とは言え
安本流wとは年代観が根本的に違うだろう?w
画文を公孫氏から貰った
…なんて安本史観からすりゃトンデモもいいところwww
まあ、ある意味新鮮っちゃあ新鮮wwwwwwwwww
191 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:54:47
>>161 引用先の分布調査をしたのは橿考研だろ。
文句なら橿考研に言うべきだな。
A、庄内式が北部九州で広く分布しているのに対して、畿内では狭い地域に限定される。
B、九州の庄内式は、環濠集落である吉野ヶ里の末期に出現するなど弥生末期にまで
遡るが、畿内の庄内式は古墳時代の遺跡が多いこと。
C、九州の庄内式は畿内の庄内式のうち河内型よりも古い様相の大和型と類似する。
つまり、古い様相の庄内式は北部九州の広い地域に存在するのに対して、畿内では
大和などの狭い地域にピンポイントで存在するのみである。
この問題意識が出発点になるはずであるが、東遷=皇国史観という現状では誰も
スタートラインに立てないんだよなあ。
192 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:54:50
>>189 宇佐や吉備では立ち寄っただけで戦闘はしてないな。
吉備は九州と敵対してたわけではなく、友好国だったということだろう。
じゃあ、邪馬台国は九州か?となると、
吉備と友好国だった以上、海を渡った東の倭種の地がどこか不明になる。
結局、倭人伝の記述は信用が置けないということになる。
193 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 00:58:25
>>191 まあ、しかし、
>大和などの狭い地域にピンポイントで存在するのみである。
ピンポイントでしか存在しないから、そこが終着地だと考えるのはどういう理屈からなんだろうか?
普通は、製作現場と考えるものだが。
194 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 01:28:41
>>190 東遷説といっても全部同じではない。
特に、邪馬台国の位置についてはさまざま。
安本氏の甘木説と同じ人はそれほど多くないんじゃないかな。
安本氏の最も安本的なところは、地名の類似性に基づく甘木説なので、
東遷説の中でもかなり個性的だと思う。
しかし、年代観は同じじゃないかと思う。
天照大神=卑弥呼(+台与)から始まるから。
でも、違う人もいるかもしれない。
195 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 01:37:15
>>194 安本の甘木説で無い東遷説というは、以下の項目に同意するわけだね?
1、地名の類似を東征の根拠にしない
2、庄内式土器を九州発祥にしない
では、君らの東征を事実とする根拠は何なの?
196 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 07:08:29
>>193 >ピンポイントでしか存在しないから、そこが終着地だと考えるのはどういう理屈からなんだろうか?
>普通は、製作現場と考えるものだが。
狭い地域にピンポイントで存在するだけで、他に存在しないのならば、そのとおりだ。
しかし、一方で古い様相の庄内式が北部九州の広い地域に存在するとなれば、そちらが
発祥地と考えるのが普通だな。
197 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 07:19:45
>>192 >戦闘はしてないな。吉備は九州と敵対してたわけではなく、友好国
物語をもとにそんなことまで言うのは無理だろう。
>吉備と友好国だった以上、海を渡った東の倭種の地がどこか不明になる。
意味が分からんな。 邪馬台国が九州だったら本州や四国は東の倭種だろう。
いよいよ皆既日食の日が迫りました。
邪馬台国は、伊都国(糸島付近)から南、
奄美大島付近にあったことがはっきりします。
『水行十日 陸行一月』が帰路だとすれば、
距離や日数も一致する。
7月22日に注目です。
199 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 08:20:28
>>130 従来は、新古の銅鐸全てが前方後円墳出現直前の弥生終末期にいっせいに埋納
されたとする理解が有力であった。
一貫して巨大化へ向かっていた畿内・東海の見る銅鐸は、その巨大化が頂点に
達した弥生後期後半に突如姿を消す。
福永は上のように書いているな。そして、埋納2段階説を称えるが、成功して
いるようには見えん。
200 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 09:19:19
>>199 そう東遷論者がいまだにすがっている(まあ殆どネット上かごく一部のセンセイだと思うがw)
銅鐸祭祀が征服勢力によって廃されたと言う筋書きは
>従来は、新古の銅鐸全てが前方後円墳出現直前の弥生終末期にいっせいに埋納
>されたとする理解が有力であった。
この様な理解がされていた時代の産物。
今じゃもう通用しない。
>突如姿を消す
の部分に飛びついたんだろうが外部の勢力に征服されたと考えるしかないほどと言う意味でもない。
「埋納2段階」のうち最初の埋納のピークを社会構造の変化に求めている以上なw
上っ面の言葉の切り取りと言うお前の芸風はいただけ無いwww
ちなみに福永の著書で全く同じ文章に続けて書いたものがある
( 「邪馬台国から邪馬台国政権へ」大阪大学出版会 p50)
>一貫して巨大化へ向かっていた畿内・東海の見る銅鐸は、
>その巨大化が頂点に達した弥生後期後半に突如姿を消す
>これと競うように長大化した北部九州の広形銅矛も同じ運命をたどった。
だとさw
さあ大変だ、北部九州もどこかの軍団に滅ぼされたらしいぞ?w
もう一度ストーリー練り直せwwww
201 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 09:21:46
>>199 >そして、埋納2段階説を称えるが、成功しているようには見えん。
成功も何も出土データとしてその組み合わせからすればもう火を見るより明らかで
お前の見ている福永の本はそのデータ載せていないのか?
ちなみにwikiにすら埋納のピークは2回と出ているがwwww
202 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 09:29:33
>>199 で、お前はその銅鐸の終焉と言うのはどれくらいの”巾”で見ているんだ?
その根拠は?
書籍をあたれば「突如消えた」「突然消滅した」ぐらいの語を見つける事はできるだろうが
その語句から妄想膨らましてお話されても埒があかないwww
例えば
「ユカタン半島のマヤ文明は突如として姿を消した」
と言う語をそのまま捕らえて
マヤ人が本当に姿を消したと言っているようなもんだwww
203 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 09:48:57
>>200 >北部九州もどこかの軍団に滅ぼされたらしいぞ?w
>もう一度ストーリー練り直せwwww
練り直してどうするんだ? そのとおりなんだよ。北九州もやられてるじゃないか。
だから、一大率に支配されたんだろうが。
204 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:20:13
一大率を置いたのは大和国だね。
205 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:25:25
>>200 >この様な理解がされていた時代の産物。
>今じゃもう通用しない。
福永大先生の一言で、学者はみんな恐れ入ってそれまでの説を捨てたってか?
「いい加減なことを言いおって」という学者も少なくないだろ。
簡単に通用しないなんて言えるものか。
206 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:29:37
『 ニギハヤヒ・神武の2段階東征を唱えている日向東遷厨へ 』
とにかく銅鐸の終焉がAD何年から何年までと想定するのか?
その根拠とともに出せ!
何処かの著書から「突然」と言う語句だけを摘んできて主観で話されても埒があかん。
一応
>>140にこっちは事例を示した。
有耶無耶にするのはお前とて本意であるまい?wwwwwww
207 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:35:38
>>205 ん?
何を勘違いしているんだ?
福永の著書に「突如姿を消す」を見て金科玉条の如く言っているのは東遷厨なんだが?
そもそも今時
「銅鐸勢力は東遷してきた銅鏡勢力に滅ぼされた」
なんていっている考古学者って何人いるんだよ?
有名どこで何人か挙げてくれwww
−北九州の博多湾〜日田にかけての邪馬台国を中心に、同心円状に余旁国が取り巻き、邪馬台国の国境を形成(警備)していたとする。
(その円の直径に相当する)邪馬台国・女王所都(博多)⇔姐奴国(大分)を結び、その直径の
@北半径(斯馬・己百・支有・伊邪・都・弥奴・好古都・不呼)を「水行十日」とし、
A南半径(對蘇・蘇奴・呼邑・華奴蘇奴・鬼・為吾・鬼奴・邪馬・躬臣・巴利・支惟・鳥奴・奴)を「陸行一月」とし、
B姐奴国から女王の同盟国である投馬国(宮崎)→「水行十日」とする。
−投馬国まで「水行二十日」=@+B
−「水行十日陸行一月」=B+A
で解決。
209 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:39:43
都合が悪くなると「主観」か? 「突如」が気にいらんのなら、福永に文句を言え。
福永の立場からすれば、「突如」なんてあまり言いたくないはずだ。その福永が
「突如」と言わざるをえなかった、そのぐらい「突如」だったと言うことだな。
「消えた」が不満ならば、古墳時代に使われた銅鐸、奈良時代に使われた銅鐸でも
出してみてくれ。
210 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:43:22
>>209 >そのぐらい「突如」だったと言うことだな。
なんだそりゃ?w
「突然と言ったら突然なんだ!」
とガキがわめいているとしか聞こえんわw
だから実年代で言えと言っているんだアホw
AD何年から何年までの間の事なのかな?
さっさと答えろ!
邪馬台国イメージ図
北半径国(水行十日)
邪馬台国(博多)―――姐奴国(大分)
南半径国(陸行一月) |
狗奴国(熊本) |(水行十日)
投馬国(宮崎)┘
212 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:52:06
>AD何年から何年までの間の事なのかな?
あなたは何年から何年までの間と考えるのかな? 証拠も出してね。
213 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 10:52:51
邪馬台国イメージ図
┌@北半径国(水行十日)┐
邪馬台国(博多)―――――姐奴国(大分)
└A南半径国(陸行一月)┘.|
狗奴国(熊本) |B(水行十日)
投馬国(宮崎)┘
投馬国まで「水行二十日」=@北半径国(水行十日)+B(水行十日)
投馬国から 「水行十日陸行一月」=B(水行十日)+A南半径国(陸行一月)
215 :
213:2009/05/28(木) 11:16:00
>>140で言った事をもう一度繰り返すが…
寺澤の場合、突線紐式の3式以降については第Y様式末から庄内期を経て
下限(5式)を布留0とまで考えているらしい。
そうすれば彼の年代観からするとAD210〜280あたりか?
(3式より前の物も考慮すれば当然より古くなる)
まあ年代自体は学者によって前後するだろうが
とりあえず70年ぐらいの巾を見ている。
70年と言えば優に3世代はあるだろう。
これだけの期間を要して東征勢力によって滅ぼされたと言うのは根拠になるのか?って話だなw
>>215 それよりも、その期間だったら日向説自体の成立困難だろうなw
217 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 11:37:08
ちなみにここまで何度か出ている徳島の矢野遺跡の銅鐸
(銅鐸の最終形式の突線紐5式のもので5式の中では早期に埋納されたと見られいてる)
は茶褐色の砂質土から木箱に入れられていた事が想定され
随分丁寧な埋納をされていてさらに埋納坑の周りにピットが見られ
簡単な建物が建てられたと推定されている。
東征勢力のニギハヤヒを恐れて急いで隠したとしたらアホお話。
わざわざ目印まで残しているんだからwww
まあこんな事例は他にそうそう無いかもしれんが…
218 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 11:52:37
>>213 206を読むと140に書いてあるみたいになってるが、140には何もないねえ。
219 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 11:57:47
>>218 寺澤の年代観と照合すれば自ずと答えは出てくる。
>>215でも書いてやったからそれで満足しろwww
年代の”巾”については50年でも70年でもどっちでも良い。
いずれにせよ10年20年30年とか言う話じゃない。
一体、日向東遷はどれくらいの期間を考えているのか?その根拠は?
今慌てて考えて根拠探しているのかな?www
220 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 12:34:41
銅鐸がある時期にいっせいに姿を消した。
これを肯定すれば、東征説(東遷説)を認めることになる。
東遷説を認めたくなく人たちは、否定することに躍起になるだろうな。
箸墓は卑弥呼の墓だ。纏向は邪馬台国だ。三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡だ。
こんなことを平気で論じてきた畿内説の考古学者が、銅鐸終焉について
都合の良い論理を組み立てるなんて朝飯前だろう。
銅鐸について昔から言われてきたのは、共伴する土器が少ないために
埋められた時期を特定するのは難しい。
古墳からは銅鐸は出てこないということだろう。
銅鐸の性格も難しいな。個人の所有物とは思えない。集落の宝物というのが
妥当じゃなかろうか。その意味じゃ鏡などとは異なると思う。
また、記紀に銅鐸が登場しないのも、銅鐸が皇統の辿った文化圏とは別の
文化圏で発展した物だったことをうかがわせる。
221 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 12:43:02
続きだが、
銅鐸は、村社会の産物と考えられるかも。
その意味じゃ、特定の支配者の存在が明らかな古墳時代とは相容れないもの
なのだろう。
222 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 12:47:38
>>220 >銅鐸がある時期にいっせいに姿を消した。
>これを肯定すれば、東征説(東遷説)を認めることになる。
勘違いするな馬鹿。
仮に一斉に姿を消したとしても東遷説以外で十分説明がつく。
少なくとも紀元前後あたりに1回目の埋納のピークが来ている。
これも東征勢力でなければ説明できんのか?
「一斉に姿を消した」と言うのは東遷厨が最低限証明しなければならない
言わば必要条件(無論十分条件ではない)
それでやっとスタート地点に立てる程度の物。
で、現在出てきているのは
「○○先生が突然と言うから突然なんだ!」
と言う呪文の繰り返しだとwww
223 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 12:49:28
何を考えているんだ? まさか、毎年、銅鐸をつくっちゃ埋めていたと考えて
いるんじゃないだろうな。金がかかって仕方ないぜ。
まあ全てのシリーズ、バージョンが揃って出てきた出土例でもあれば
東遷厨にとって良かったんだろうがw
225 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:25:48
>>220 九州の土器がほとんど畿内から出てこないんだから、
逆立ちしたって東遷説が成立する見込みは無いよ。
せいぜい、2ちゃんで人生無駄にするんだな。
226 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:32:43
>少なくとも紀元前後あたりに1回目の埋納のピークが来ている。
ずいぶん、素直に信じたものだな。銅鐸の年代の割り付けはかなりいいかげんな
ものだ。本当のところは分からないんだよ。
1回目の埋納が3世紀でないとどうして言える?
227 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:35:24
>>220 確かに銅鐸が埋められた時期を特定するのは難しいがまったく手掛かりがないわけではない。
この問題にずっと取り組んできたのが寺沢さんで、彼の論考をよく読んでほしい。
寺沢さんによると銅鐸埋納のピークは2回あり
最初は弥生中期→後期の変わり目あたり、2度目は弥生後期→古墳時代の変わり目あたりで
有名な出雲の加茂岩倉や荒神谷の銅鐸は最初のピークでの埋納になる。
しかし弥生後期は銅鐸生産をやめていたわけではなく、
突線鈕2式より新しい大型銅鐸、いわいる“見る銅鐸”は後期につくられている。
「ある時期にいっせいに姿を消した」は、資料が乏しかった頃は確かにそう言われたこともあったが
今はもう明確な誤りと言ってよい。
それから注意しておくが、邪馬台国問題を論じている考古学者の多くは畿内説とみてもいいと思うが、
箸墓は卑弥呼の墓でないとする人もあり、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとする人もいる。
そういうこともよく本を読めば判る筈で、それをしないのは不勉強というものだろう。
228 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:37:41
狗邪韓国
対馬
一大(壱岐)
末盧→伊都→【不弥】→斯馬・己百支・伊邪・都・彌奴・好古都・不呼
/博多【邪馬台国】 \
奴 支惟・巴利・躬臣 爲吾・鬼 姐奴(大分)
鳥奴 邪馬・鬼奴 華奴蘇奴・呼邑・蘇奴・対蘇/
そもそも和辻が銅鐸祭祀の終焉で東遷説を唱えたのって
大正から昭和にかけての話だろ?
無論古いから間違いって話じゃないが
流石に現在に至るまでの考古学上の進展にはもう通用しないわな
231 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 14:05:48
>>226 >1回目の埋納が3世紀でないとどうして言える?
難しい問題だなw
土器の供伴も大概稀だと言うし…
素人の俺にはお手上げだが
年代はともかく少なくとも出土の組み合わせからピークが2回あったことは言える。
「扁平紐式以前と突線紐2式以降のものとの共伴例が皆無」
と言うのはお前が引用した福永の著書にあるw
もし新旧全てが一斉に埋納されたと言うのなら
その組み合わせが皆無であるのはおかしい。
まあ、そこまで話をひっくり返すなら
そもそも銅鐸の終焉時期の年代を画文に合せる事自体が無理w
で銅鐸の終焉時期の年代・期間は?
AD何年から何年までなんだ?
日向東遷厨は
「突然と言ったら突然なんだ」
と繰り返すのみなのかな?wwww
232 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 15:08:45
■ 銅鐸の謎を探る ■ (引用)
http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/hakubutukan/20071215.html Z 銅鐸の埋納
約500例発見されている銅鐸の大多数が偶然の発見によるものです。このため銅鐸がどのように埋納(まいのう)されていたかも定かではありませんでした。
近年になってようやく発掘調査で発見される事例が増え、銅鐸の埋納方法も明らかとなってきました。
調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。
この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。
銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。
島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。
また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。
多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。
なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、
複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。
このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/hakubutukan/20071219c.html
埋納というより埋棄だろ。
234 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 15:32:04
少しは銅鐸の年代のむずかしさが分かってきたかな。中期までの銅鐸と後期の銅鐸が
別々に埋められているなんて言っても、中期の銅鐸を持つだけで、新型銅鐸を持たな
かった連中は、終末期に中期銅鐸を埋めたかも知れないんだ。
新型銅鐸を入手したときに、それまでの古い銅鐸を埋めれば、古い銅鐸の埋納と新し
い銅鐸の埋納は別々になる。つまり、中間の埋納はどうとでも解釈できる話なんだ。
重要なのは弥生終末に銅鐸が姿を消したことなのだよ。
銅鐸が姿を消したのはそれに替わる新しい施設(道具)が普及したことを意味している。
それが古墳そのものではないだろうか?
それにしても当時金属は貴重だったはずで、なぜ溶かして再利用しなかったのだろうか??
237 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 15:39:23
>>234 >重要なのは弥生終末に銅鐸が姿を消したことなのだよ。
それが何か?
姿を消した事が東征勢力の登場に繋がるのか?
年代が確定できないのに何故、銅鐸の終焉と銅鏡の登場時期を重ねるなんて事ができるんだ?
で銅鐸の終焉時期の年代・期間は?
AD何年から何年までなんだ?
日向東遷厨は
「突然と言ったら突然なんだ」
と繰り返すのみなのかな?wwww
誤魔化さずにいい加減答えろよアホ
238 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 15:54:22
>年代が確定できないのに何故、銅鐸の終焉と銅鏡の登場時期を重ねるなんて事ができるんだ?
素人は困ったものだ。考古学では毎度のことなんだよ。相対年代って聞いたことあるだろ。
>>233 いや、埋納でいいよ。上の
>>232に書いてるように
銅鐸の埋め方はみんな丁寧だから。
ガラクタを穴掘ってドバーッと棄てるのとは全然違うよ
>>236 ムラによっては再利用したとこもあったんじゃない?
溶かして再利用するのに忍びなかったとこが
埋めちゃったわけで。。。
240 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:20:08
要するにだ
「銅鐸は古墳時代までに姿を消した」
と言うことはできても
「銅鐸は弥生時代末に一斉に姿を消した」
と言う根拠は何も無い。
>>234 >新型銅鐸を入手したときに、それまでの古い銅鐸を埋めれば、
>古い銅鐸の埋納と新しい銅鐸の埋納は別々になる。
そりゃ埋納坑は別々になるだろうがw
わざわざ別の集落にまで運んで埋納するのか?
扁平紐を入手して後に突線紐を入手した大和の人間は扁平中を大和に埋納して
新たに手に入れた突線紐のものはわざわざ近江や南紀に埋納に向かったと?www
241 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:24:04
>>238 >考古学では毎度のことなんだよ。相対年代って聞いたことあるだろ。
画文帯神獣鏡と銅鐸の終焉を合せる相対年代とは何かな?
具体的に述べてもらえないかね?
それとも語句だけ並べて終わりかい?
242 :
ローガン:2009/05/28(木) 16:27:31
>>233 ん〜どうでしょう。
もう、要らないって言う事なら土を充填したりするだろうか…
243 :
233:2009/05/28(木) 16:33:38
244 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:35:12
日向東遷厨による東遷説ここまでのまとめ
・・・つうか初見の人もいるだろうからw
九州勢による東征とは2回に渡って行われた
一回目、北部九州のニギハヤヒがヤマト入り銅鐸祭祀を終焉させる。
この時ばら撒いたのが画文帯神獣鏡で公孫氏より入手
※公孫氏の帯方郡の新設がAD196〜219 魏によって滅ぼされるのがAD238
次に北部九州をも勢力下に収めた日向邪馬台国から神武が東征。
神武がばら撒いた鏡が三角縁神獣鏡
※尚、山陰の銅鐸の埋納については以前九州勢の関与を述べていたものの
現在まだお話はできていないご様子、こうご期待?w
■名東銅鐸 名東遺跡出土(徳島市名東町)
1987年(昭和62年)に徳島市教育委員会によって実施された天理教
国名大教会地点では、扁平鈕六区袈裟襷文銅鐸が方形周溝墓群の
一角に埋納されていた。
銅鐸が埋納された時期は、周辺の遺構の年代などから弥生時代中
期末(約2,000年前)頃と考えられる。
文献
・名東遺跡発掘調査委員会『名東遺跡発掘調査概要 』1990年
・徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第14集「名東遺跡」1995年
>>244 銅鐸収埋は、出雲はスサノオ、北九州と近畿はニギハヤヒによって止めされられた。
第一回目のニギハヤヒ東遷(平和的)は同意。鏡についてはよく判らん。
しかし第二回目の東征については異議あり!
神武は東征というより夜逃げに近かったんじゃまいか?
247 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:51:29
>>241 簡単だよ。銅鐸の終焉→画文の始まりだということ。その時期は、西暦何年
とかいう絶対年代ではきめかねるが、相対的に考えようということ。
銅鐸が180で終わればそのときが画文の始まり。220で終わればそのとき
が画文の始まりってことだな。
248 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:57:24
>>247 >銅鐸の終焉→画文の始まりだということ。
アホかお前は?w
「銅鐸の終焉→画文の始まり」の根拠聞いているのに…
もっとも本当に「銅鐸の終焉→画文の始まり」と言うのが証明できれば畿内説万々歳なんだろうがwwww
ニギハヤヒは銅鐸祭祀を止めさせて、東遷した大和で(呉の王家公孫氏から入手した)画文帯神獣鏡を配った。
三角縁神獣鏡は、公孫氏の画文帯神獣鏡を国産化する過程で生み出され、ニギハヤヒの王都・巻向に集まった全国各地の大王に配ったものと推察いたしおり候。
■八王子銅鐸 一宮八王子遺跡出土(一宮市大和町)
一方、八王子銅鐸は外縁付鈕式の古い段階ないしは菱環鈕式と古く、
県内では最古段階の銅鐸である。埋納時期はまだ絞り切れないが、
弥生中期中葉から末頃の間で、高蔵期の大型方形周溝墓築造以前
である。弥生中期の環濠との並存関係は微妙だが、同時期の竪穴住
居の存在から集落内に埋納されていたことは確実である。本来の埋
納坑は遺構検出面よりかなり上から掘り込まれていたと考えられるの
で、現況の埋納坑より大きな規模の作業スペースがあった可能性が
高い。検出面での埋納坑が隣接する別の土坑を切っていることを調査
時に確認しているため、この隣接する土坑から出土する土器によって
さらに埋納時期の上限が絞られてくることが期待できる。また、この銅
鐸が集落内に埋納されていたことが、はたして常時土中に保管してい
たことを示すのか、あるいは非常時に際して急きょ隠匿されたのかも
これからの問題といえよう。
埋蔵文化財愛知 no.49
http://www.maibun.com/top/modules/mydownloads/visit.php?cid=38&lid=250
251 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 17:13:01
>「銅鐸の終焉→画文の始まり」の根拠聞いているのに…
私はあなたの「年代が確定できないのに何故、銅鐸の終焉と銅鏡の登場時期を
重ねるなんて事ができるんだ?」という質問に答えただけだよ。
252 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 17:29:48
>>251 答えになってないなアホ。
銅鐸の終焉と画文の登場、それぞれ実年代が分かりそれがぴたりと重なると言うわけでもない。
相対年代といっても両社に共通する”物差し”があってその時期が重なる事を証明できているわけでもない。
結局は日向東遷厨の脳内の
「銅鐸の終焉と画文の登場はぴたりと重なる」と言う思い込みだけ。
仮に最後に埋納された銅鐸と画文の登場がぴたりと重なったとして
銅鐸が一斉に埋納されたなんてどうやって分かるんだ?
時期についても根拠が無ければ
期間についても言及なし。
ただ単に思い込みだけの妄想w
253 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 17:47:18
東遷説なんて、まだ信じてるアホがいるのか?
20年前から時間が止まってるんだな。
254 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 18:50:28
加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸は、また別にして考えるべきだろうな。
あれは特異な例だと思う。
荒神谷遺跡の銅剣も数が異常で、通常の考えでは説明できない。
255 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 19:08:01
銅鐸の中には、捻じ曲げられたり、粉々に破壊されたりして、かなり無残な姿で
埋められているものもあるらしい。
続日本記には、8世紀頃、銅鐸が見つかったとこのことが書かれているらしい。
それによると「常に異にして…」となっている。
何じゃこりゃあ、見たことも聞いたこともない楽器だ、ということらしい。
記紀にも全く登場しないところを見ると、やはり銅鐸は異なる文化圏の
産物なのだろう。
256 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 19:16:29
>>255 オモイカネが銅鐸の神だよ。
ヤマタイカ読んで無いのか?
257 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 19:19:09
>>252 考古史料なんてしょせんそんな物だ。銅鐸の終焉と画文の登場がぴたりと重なるかどうかなど、
誰にも分かりはしない。しかし、福永は次のように書いているな。
「列島在来のシンボルであった国産大型青銅器にかわって登場するものを、考古資料の中で
探すとしたら、その第一候補は中国製銅鏡である。弥生終末期に現れるのは画文帯神獣鏡と呼ばれる
あらたなデザインの銅鏡だった。」
あなたが理解できるかどうかはともかく、私は、銅鐸から画文への移行は、考古学的には問題なさそ
うだと考えて、その先を考えるわけだ。
銅鐸は少し前まで皇室が贈答用にもちいてるだろに
259 :
12:2009/05/28(木) 20:06:55
あじ、あじ。剣道部にはつらい季節の始まりだな。
>>257 銅鐸祭祀が「突如として」廃れたんではないということを認めるんなら、近畿の宗教的シンボル
が、銅鐸から画文に移ったということは俺は認めてもよい。で、その先は?
260 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:17:36
冠婚葬祭の引き出物として使用されていたのではないでしょうか?
262 :
12:2009/05/28(木) 20:37:56
まだ参段すよ。考古資料の実年代は確かに不確かで水掛け論になりやすい。年代幅が
ある場合、お互い自説に都合よいように、上限下限を用いて論を展開するわけだし。ここ
はやはり文化人類学が必要だな。この方面の人はいないのかな。
銅鐸は上で誰かが書いてたように、村落共同体のもので、たぶん農耕・狩猟に関わる祭具。
画文などは、個人のもの?で、葬具としての側面が強い。東遷はともかく、明らかな宗教
文化の推移があるんだろう。で、どうしたってそれと卑弥呼の鬼道を結びつけて考えたく
なるよなあ。
263 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:42:48
葬祭道具が伝播したからって東遷は無いわな。
キリスト教が日本に伝わったからって、バチカンに支配されたわけじゃないし。
264 :
12:2009/05/28(木) 21:00:00
なんか誤解があるな。俺は畿内説だし、銅鐸→画文でOK。
徳川家康はイギリス海軍の援助を受けてイギリス王室の庇護の下に
徳川幕府を開いたことを知らなかったのかい?
266 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/28(木) 21:05:02
>銅鐸もまた堰や水路・堤防工事、水田開墾などの土木工事の地鎮具として埋納されたんじゃないかとにらんでいる。
銅鐸の類で最後まで使われたのは、諏訪大社の「鉄鐸」これは戦国時代「誓詞の鐘」として
鳴らされた。
何故諏訪では、後世まで伝わったか?
諏訪の神「建御名方」は手研耳の乱(西暦60年頃)に荷担し伊勢津彦と共に信濃に流される。
この時建御名方は、親の大物主から勘当を言い渡され、神無月に出雲に集合する事を禁じられる。
この「勘当」が後々の伝統継続に繋がる
崇神6年(193年) 大国主は未曾有の凶作を乗り切れず、畿内近方の国々を崇神に譲り渡し、
大物主(振根)は、親(スサノオ)の国 出雲より西方を治国とする。ただし出雲の国も崇神の
治国に含まれる。
崇神は出雲の宝を検察する、この時の行き違いに依り振根は殺される。
九州まで影響力の有った「振根」が殺された事により特に九州の治安に動揺が広がる。
垂仁は太子の時、出雲を再興する。
ここから皆さんの知られざる事実。
垂仁2年ホムツワケ誕生、ホムツワケは崇神の子供で崇神没後に生まれる。
垂仁が腹ぼての妃と共に引き取り、自分の子供として養育、
この様な事は、当時としては常識であり懿徳天皇は安寧天皇崩御の時 安寧の妃と共に考昭を我が子としている。
ホムツワケの口が利けない理由として「出雲の神の祟り」とされたのは、ホムツワケが崇神の子供
で有ったから。
奈良時代の魑魅魍魎が水銀から来ていることを知らなかった、奈良時代の魑魅魍魎から見れば単純
で分かり易い。
267 :
12:2009/05/28(木) 21:14:13
うーむ。真偽はともかく、これぞ唐松山レス。
>奈良時代の魑魅魍魎が水銀から来ていることを知らなかった、奈良時代の魑魅魍魎から見れば単純
>で分かり易い。
有機水銀中毒による水俣病の例を見れば、手足が震えて歩けなくなり、奇形児が生まれた理由がすぐわ
かるかと思います。
>>117 ほほう、邪馬台国は都城と。
ならば日向説でしたか。
それでは
>>100さんに対する批判点を申し上げる。
>>100 >鏡は九州で重用されてたものだ。畿内はそんなものに興味を示さず、銅鐸祭祀を行ってきた。
>それが急に銅鐸が埋納され、鏡が配られるようになったんだ。
弥生時代に鏡が九州で重用されていたというのは同感である。
ただし九州も広い。九州のどの地域が最も鏡を重用してきたかが問われることになろう。
私見では、と言うより通説であるが、これは北部九州限定である。
弥生時代、北部九州にあって甕棺を使用していた地域こそ、鏡の出土量が最も多い。
とりわけ福岡県の旧怡土郡、すなわち現前原市における鏡出土数が群を抜いているのは
どなたもお認め頂けるであろうと思う。
翻って、あなたが邪馬台国に比定する日向はどうか。
管見の限り、宮崎県における弥生時代の銅鏡は、なんと僅か次の4点しかない。
・宮崎市 下那珂遺跡 キ龍文鏡破片
・西都市 松本原遺跡 内行花文昭明系異体字銘帯鏡破片
・新富町 銀代ケ迫遺跡 内行花文鏡?破片
・高千穂町 神殿遺跡 鏡式不明鏡破片
いずれも小片である。また都城市域の弥生遺跡からは、今のところカケラも出ていない。
270 :
269:2009/05/28(木) 22:19:08
続きである。
批判されるべき点は、むしろ大方の同学の諸兄にはお解り頂けるであろう。
日向や薩摩、或いは肥後南部といった南九州地域は、鏡を少しも重用していないのである。
否、ほとんど鏡を入手し得ていないのである。
南九州地域は、こと弥生の鏡に関する限り、本州四国と大差ない後進地であり、
鏡祭祀の大先進地である北部九州とは、歴然とした落差が存するのである。
かような地域に生まれ育った者が畿内へ東遷し、銅鐸の棄却を命じ、
代わりに鏡の祭祀を主導し、各地豪族に鏡の配布を行うなどとは、
まことに滑稽千万な作り話であって、決して有り得べきことではなかろう。
以上。
271 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 22:21:52
>>263 しかし、宗教間の対立は、いつの時代も根強い。
宗教弾圧というのも歴史的にも珍しくないし。
日本でも、キリスト教弾圧というのがあった。
>>270 >南九州地域は、こと弥生の鏡に関する限り、本州四国と大差ない後進地であり、
>鏡祭祀の大先進地である北部九州とは、歴然とした落差が存するのである。
>かような地域に生まれ育った者が畿内へ東遷し、銅鐸の棄却を命じ、
>代わりに鏡の祭祀を主導し、各地豪族に鏡の配布を行うなどとは、
>まことに滑稽千万な作り話であって、決して有り得べきことではなかろう。
烈しく烈しく同意!
>>191 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/28(木) 00:54:47
A、庄内式が北部九州で広く分布しているのに対して、畿内では狭い地域に限定される。
安本のサイトでさえ、そんな無茶苦茶なことは書いてないよ。
よく読め。
もっとも、キミみたいに「誤解」してもらえるような表現にはなっているがw
B、九州の庄内式は、環濠集落である吉野ヶ里の末期に出現するなど弥生末期にまで
遡るが、畿内の庄内式は古墳時代の遺跡が多いこと。
九州では草創期の出現例を、畿内では「多いこと」と言うように主要期を例にして、
次元の違うもの同士で先後関係を決め付けてるねw
何か貴方は安本流の安っぽい誤魔化し方に影響されてるね。
それに庄内が古墳時代に多いって、ちゃんとソースを掛けて出してねw
C、九州の庄内式は畿内の庄内式のうち河内型よりも古い様相の大和型と類似する。
初期河内型から派生したのが大和型だとする考えの方が主流なんだけどね。
まあ、河内・大和のどちらが古いかは意見の違いと言うことにしておきましょう。
安本のサイトに書いてあることから言えることは、次のような事実だけだ。
九州庄内式は北部九州の広い地域に「散在」するのに対して、
畿内型は「その生産地こそ狭い地域にピンポイントで存在するのみである」が、
その出土域は遠隔地も含め相当広範囲に出土する、が正しい。
安本は、九州における『出土例の分布図』と畿内における『生産拠点の分布域』と言う
次元の違うものを引き合いに出して広狭を論じるというお間抜けな戦法を使っているのだ。
こんなものを「問題意識の出発点」にされたても話にならんなw
274 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:09:28
どんどん、安本の化けの皮がはがされていく。
良いことだ。
>>270 神話とからめると、神武は鏡を携帯していない。
大和についてからも、神武は天照大神を祀ることはなく、祀ったのはタカミムスビのほう。
だから、南九州に鏡が浸透してなかった事実と、よく一致する。
神武東征が、銅鐸を駆逐して鏡を持ちこんだなんて話は神話研究からも噴飯モノ。
銅鐸
祭器として使用するとき以外は、人知れず山中に埋めておかれた
祭りの日に神を降ろす依り代であり、普段は余人が神を降ろして悪用しない様に、神官の手によって隠す様に埋められていた
また崇神が天照の御神体を同殿共床に祭るのを恐れ多いとして憚ったのと同じ意味でも、村から離れた山中に埋めておいたのである
276 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:16:02
しかしまあ銅鐸の終焉と言っても最初は俺は突線紐式の後期のもの(見る銅鐸)に絞って話してやってたんだが・・・
まさか日向東遷厨が弥生中期に埋納されたと言われているもの(扁平紐以前)まで風呂敷を広げるとは思わなんだw
ある意味、和辻が銅鐸の廃絶をもって東遷説をぶち上げた頃にタイムスリップと言うか先祖がえりしたようなものかな?
(もっとも和辻の著書を読んでないんで一体銅鐸のネタで何処まで引っ張っているのか知らないがw)
しかしニギハヤヒと神武の2段階東征と言うのは東遷説と言うより奠都説(てんとせつ)に近いか?
まあこの場合九州邪馬台国とヤマト纏向が同時期に存在していてもかまわないというメリットがあるんで
今後東遷説の主流になっていくんだろうか?ww
277 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:20:26
>まあこの場合九州邪馬台国とヤマト纏向が同時期に存在していてもかまわないというメリットがあるんで
東遷説くんが、そのメリットを受け入れるとは思えんがね。
なにがなんでも、纏向を4世紀にしたいらしいから。
278 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:45:25
基本的な流れとして、銅鐸は、近畿地方あるいはその周辺で発展していく。
徐々に巨大化していく。最大のものは、144cm、重さは45kgにもなる。
それが頂点に達した頃、製造・祭祀が終焉を迎える。
古墳時代の人々は銅鐸とかかわりを持つことなく、その後一切作られることは
なくなる。
これをどのように捉えるか?
古墳時代の支配層は、鏡を非常に重要視している。古墳の棺からは大量に
鏡が出土する。
鏡といえば、弥生の早い時期から九州の棺の副葬品であった。
東征あるいは東遷を考えるのが普通だろうな。
279 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:47:07
>>278 >東征あるいは東遷を考えるのが普通だろうな。
だから、九州の土器が畿内に乏しいから無理だって。
頭悪いの?
280 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:50:22
よくて、九州のほうで流行ってた鏡の祭祀を畿内が独自に受け入れて発展させた、くらいの話だろ。
そんなものは文化の伝播であって東遷とは言わない。
九州から王族が乗り込んできて畿内王権を樹立しただの、それは妄想。
九州勢力が武力で侵略なんて、ありえない話。
281 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:53:11
>>277 東遷説論者の最終的な目的は結局のところ
記紀神話を史実を元にしたものであった言う事の証明じゃないかな?
邪馬台国東遷説の場合、史実とは無論、九州邪馬台国が高天原であり卑弥呼が天照であるという事になる。
その為なら纏向の年代なんかは意外と妥協するんじゃねえの?w
(まあ安本先生なんかは過去の遺産があって、そうそう態度変える事はできないかもしれんが)
ある意味、神話にとり憑かれた連中と言うかwwwwww
ただしその神話も脳内で変容して「My神話」になってしまっていているんだろうが
282 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 23:57:39
と言うか、鏡の副葬と言う文化がニギハヤヒだか神武だかの東征と言う行為を通じて出ないと
関門海峡から東に伝わらなかったのか?っちゅう話だなwww
283 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 00:09:25
>>281 記紀や中国の文献をもとに古代を考えるのは、それなりに意義のあること。
そうでなかったら、何を拠り所にするのかってことだろうな。
もう、想像力の世界でしかなくなる。
多分、畿内説は想像力の産物なんだろう。
284 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 00:14:52
結局、鏡なんて単純に言い切ってしまえば「お供え物」w
無論それは大変に有り難味があり、舶載のものなら相当に珍重されただろうが
古墳時代は古墳が築かれたから古墳時代なのであって
古墳とは即ち大型首長墓による祭祀で、それは九州以東で列島規模で起こった現象。
(山陰の四隅、吉備の墓域内の祭祀に使う特殊器台、前方後円墳、前方後方墳…)
それから言えばある意味九州は取り残された地域と言うか
平原を見れば大型青銅祭器による祭祀に固執した地域ともいえるかな?
ただ銅鏡の取り扱い方については永らく論争の中心的存在だったと言う経緯もある。
単に東遷厨の牽強付会を攻めるわけにも逝かないだろうと仏心で多少の理解を示してやったりwwwwwwwwwww
285 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 00:33:05
>>283 だからね、神話の話をするなら、神武東征は紀元前660年ですよ?
4世紀だとかってねじまげてるのは、そっちだろ?
もっと年代が後だとしても、畿内には戦乱の痕跡もなければ、
九州から人が流入してきた痕跡もない。
こっちは、ひたすら想像を排除し、証拠をもとに立論してるだけ。
想像のカタマリなのは九州説のほうですが。
鏡は「お供え物」というより、宗教観とかを象徴する、やはり偶像的な物なんだろうな
仏のかわりに目に見える仏像を身近に置くのと同じ
だから墓にも入れてあげる
287 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 02:23:54
>>279 九州勢力が東征したからって、九州の土器が近畿にくるわけではない。
東征軍が土器を運ぶわけはないからね。土器は物流にしたがって広まるものだ。
畿内からは東海の土器がいっぱい出ているが、だからといって、東海が畿内を征服した
わけではないだろ?
288 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 02:56:32
>>269 考え方がなってませんね。南九州が弥生の鏡に関する限り後進地というのはそのとおり。しかし、
南九州が北九州を飛ばしていきなり東征したのではないよ。まず、当然のことながら、第一段階と
して北九州を支配下に納めて九州全体を平定したんだ。そこで、邪馬台国は北九州の鏡に接した。
北九州の鏡をみて、鏡をシンボルとすることを学んだということだな。
だいたい、卑弥呼が魏から鏡をもらったことは明白。北九州みたいに早くから鏡を手にし、大型鏡
をつくることさえしていたところが、魏の小さな鏡を欲しがるかって考えてみたら分かるだろう。
南九州はそれまで鏡の習慣がなかったからこそ、魏から鏡をもらったんだよ。
289 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 03:38:12
>>288 >鏡をシンボルとすることを学んだということだな。
駄目。
南九州の勢力が銅鏡祭祀を学習した痕跡が無い。
それより前に南九州の勢力が北部九州まで席巻した痕跡が無い 。
全て妄想、脳内ストーリーの範疇w
290 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 06:57:12
>>269 甕棺の場合は、盗掘が少なかったということがあるんじゃなかろうか。
平原の場合もたまたま盗掘されていなかっただけとも言える。
方形周溝墓の規模も小さいし、全体的にそれほど立派といえるわけでもない。
たまたまたくさんの鏡が出てきただけかもしれない。
しかも、大型の内行花文鏡だけでなく、すべての鏡が国産だとされている。
すべて国産ならば、それほど力のあった人物とは言えないだろう。
少なくとも、卑弥呼の鏡とは無縁だったと考えられる。
さらに、集落の規模も、吉野ヶ里などの比ではない。
もし、平原の木棺が盗掘されていたら、ほとんど顧みられなかっただろう。
さほど大きな勢力があったとは言えないのではないかな。
291 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 07:01:00
>>289 「痕跡がない」。「痕跡がない」。
何を根拠にそれほどはっきり言い切ることが出来るのやら。
292 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 07:10:05
293 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 07:23:51
>>289 銅鏡祭祀を学習した痕跡って何のことかな。学習した机でも出てくるはずだと
いうのかい。考古資料で学習した痕跡などあるわけがないね。
南九州の勢力が北部九州まで席巻した痕跡? これも何のことやら分からんね。
北九州は邪馬台国時代以降、徐々に衰退している。一方、南九州はどんどん隆盛し、
九州第一の繁栄をして数千基の古墳を残している。石野ですら、3世紀後半に九州
最大の王者が現れたと言っている。南九州の勢力が北部九州まで席巻したからこそ、
そうなったんだろうね。
294 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 08:07:43
>>293 北部九州で銅鏡祭祀を取り入れ魏から鏡を貰い
なら邪馬台国内で鏡の需要はいやがうえにも増加したはず
それまで殆ど無かったところに突如発生した需要
それも倭人伝中最大のクニだ
余程、銅鏡が南に流れなければおかしい。
魏からの供給が無ければ征服した北部九州で鋳造させればよい。
土器や青銅器その他何も痕跡が認められない。
全て妄想、脳内ストーリーの範疇w
295 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 08:26:07
銅鐸文化のクニを銅鏡文化のクニが滅ぼした
・・・こんな短絡的な理屈が通用するなら
南九州日向をヤマト=前方後円墳文化のクニが征服したでも成り立つw
なんせ独自の埋葬文化や青銅祭器も乏しい地域だ。
征服もさぞ容易だったろうw
もし古墳文化は単に新しい文化として受容したというのなら
畿内における銅鏡も同じ事。
東征があるなら西征もあるわなw
>>293 >石野ですら、3世紀後半に九州最大の王者が現れたと言っている。
石野先生が・・・?
どういう理由で?詳しく・・・
297 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 08:55:04
磐井の乱の後は肥の君が勢力を筑紫まで勢力を拡げたが時代が違う。
>>295 古墳時代の銅鏡(道教)文化が、弥生時代の銅鐸祭祀に取って代わったという理解でどうですか?
なぜ取って代わったか?こんな仮説↓を立ててみますた。
【弥生時代の銅鐸祭祀終焉→古墳時代の道教(銅鏡)文化全盛】
弥生時代の晩期、すでに聞く銅鐸(暦としての実用品)から見る銅鐸(ステイタスシンボル)へ形骸化していた。
→(銅鐸を使っているにもかかわらず)地球規模の寒冷化による凶作・飢餓の頻発
→隣国同士で食糧備蓄を奪い合う弥生戦国時代に突入(例:倭国大乱)
→自衛のための武器の生産が盛んになる
→防衛&略奪上手な武人が、稲作上手な酋長に取って代わり、大王になる(王権の発生)
→武人大王の生前の業績を称えて、その後継者のやる気を高めるために古墳が盛んに作られるようになる
→マキムクを王都とする古墳時代に突入
無用の長物となった見る銅鐸多くは銅矛や銅鉾、銅剣に再利用されたが、
少ない例ではあるが銅鐸文化を惜しむ人々によって地中に埋納された。
どうでしょうか?
299 :
298:2009/05/29(金) 09:10:37
【訂正】
銅鐸文化を懐かしむ人々によって、あまりにも上手く鋳造できた傑作(名器)だけ、後世に残すタイムカプセルとして地中に埋納され、
無用の長物となった見る銅鐸の多くは熔かされて、銅矛や銅鉾、銅剣、銅鏡など再利用されたと。
300 :
298:2009/05/29(金) 09:37:26
100円ショップでカレンダーや腕時計で手軽に買える漏れたち現代人と違って、古代人にとって暦(春分・夏至・秋分・冬至)はまさに生活に必要不可欠な必需品だった。
縄文(石器)時代のストーンサークル、弥生(青銅器)時代の銅鐸は、季節や時間を知るカレンダー兼日時計であり、祭りのシンボルだった。
−縄文時代は新しく村を作る際まず中心地点にストーンサークルを作ってから、それに合わせて公共の建物を建てていったらしい。
例:秋田県大湯遺跡の環状列石
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3 −弥生時代は、銅鐸祭祀を行う広場を中心に置き、神殿や酋長の家を建てていたらしい。
−古墳時代は道教(銅鏡)とともに紙に書かれた暦が中国から入ってきて、それらの原始的な道具類は不要になり、それを独占する大王に権力が集中し、墓が巨大化したのではないか?
301 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:00:08
>>294 勉強不足だねえ。銅鏡なんぞ、安上がりな勲章みたいなもの。
もともとの忠臣に配る必要はない。新参者にくれてやるものなんだよ。
だから、邪馬台国内からはほとんどでないのが当たり前。
畿内説論者もそのことは前から言っていたぞ。
302 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:11:08
■奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。
放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。
邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。
周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は
「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」
と話している。(渡辺延志)
朝日新聞2009年5月29日
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
303 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:15:28
>>295 日向は弥生時代の葬制が古墳時代まで続いている、都市が崩壊した事実もない。
弥生の繁栄が古墳時代につながっているんだよ。だから、大型古墳は流行を取り
入れたということで、何ら問題はない。
畿内の場合は、ちがう。唐古・鍵など弥生の都市は消滅してしまった。弥生の葬
制と古墳時代のそれとの間には明らかな断絶がある。しかも立派な銅鐸がいっせ
いに消えて鏡になった。だから、鏡の勢力に征服されたと考えることになるんだ。
304 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:25:13
>>303 >都市が崩壊した事実もない。
そりゃ最初から無かったんだから崩壊のしようが無いw
305 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:27:09
九州はもうだめぼ…
307 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:47:48
>>301 >銅鏡なんぞ、安上がりな勲章みたいなもの。
>もともとの忠臣に配る必要はない。新参者にくれてやるものなんだよ。
常に新参者が沸いて出てた北部九州であったw
308 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:53:03
>>302 布留0が240〜260か・・・
今の畿内説でもかなり古く見る年代観だな。
309 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 11:00:18
卑弥呼の墓が特定されたな、
九州は朝鮮領で決まりだな、
310 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 11:59:31
明○天○の命令で西都原は極秘に発掘されているよ。
伝承通り墓の主が大陸人だってことがわかって落胆しまくったそうだ
これは今でも○内庁のシークレットwww
彼はその他のさまざまな伝承、伝説に関わるとされている土地を
堀まくっているよ。「日本中央の碑」とかもその一端
312 :
サガミハラハラ:2009/05/29(金) 12:48:14
箸墓はヒモモソ媛の墓といわれており、崇神天皇の10年にその記事がでてきます。
復元日本書紀紀年法によると崇神10年は273年にあたります。
考古とは13年の開きがあるようです。
313 :
298:2009/05/29(金) 12:52:11
−飛鳥時代は、仏教が伝来し、大和王権(物部氏)が巨大な前方後円墳を作りすぎて(築造に10年)国家の発展に支障を来たし、蘇我氏が守屋を誅し、仏教を国教とすることで王の墓を簡素化し、近代的な律令国家(条坊制の都、五街道の整備)に整えようとした。
−奈良時代は、その蘇我大王家を暗殺した天智を誅した天武(現天皇家に繋がる)によって、日本国王が大王から天皇へと代わり、律令制が導入された。
これで日向からやって来た神武によって邪馬台国が作られた事が証明された訳だな。
315 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 13:49:41
@ 神武、欠史八代は架空
A 大彦≠意富比魁(稲荷山古墳出土の鉄剣銘文)
B 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命
これから導き出される結論は・・・
316 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 14:19:54
>>315 己の都合である部分は架空である部分は事実かよ
恥をしれ
319 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 14:36:46
320 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:08:50
>>302 布留0が240〜260年というのはすごいな。
C14の信頼性にも一石投じるかも。
さらに、年代が同じだから、卑弥呼の墓だというのもすごい。
それは、戦国時代の城を調べて、この城は徳川家康と同じ時代に存在して
いるから、徳川家康の城だというようなものだろう。
神武は熊襲だろw
322 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:15:04
>>320 数の問題、規模の問題がある。
戦国時代末期に築かれた城はたくさんある。大きな城も多い。
しかし240〜260年に造られた墓で箸墓古墳と同規模のものが、他にたくさんあるか?
>>314 倭国=邪馬台国(女王国)+投馬国+狗奴国
建国者は(新羅より渡来した)出雲スサノオ。
神武は女王国配下の姐奴国の酋長。
324 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:22:18
>>323 スサノオは大陸から出雲に来て、新羅に渡ったけど
不毛の土地新羅はつまらんと言って、日本に戻ってきましたとさ。
325 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:29:39
>>322 同じことだよ。年代が同じというだけでは根拠にならない。
それに、年代が同じというのもかなり考えにくい。
まあ、箸墓の年代がそんなに遡るなら、C14で年代測定したら、同じくらい
遡る古墳もあるかもしれない。全国の古墳を調べるべきだろうな。
だいたい箸墓は、大きさがぜんぜん違う。形も違うだろう。
個人的には卑弥呼の墓なんて興味が無いというか
どの道、確定は無理だと思ってはいるが…
箸墓=卑弥呼の墓の候補の筆頭 と言う立場なんだろうなあ
それでも九州説の連中はファビョるとw
327 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:45:29
>>325 箸墓古墳以上の規模をもつ古墳も10基ほどあるが、全て時期は箸墓古墳よりも新しい。
時期は埴輪の相対的な新古で判る。宮内庁管理下の古墳が大部分だが、出土した埴輪は公開されている。
328 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:53:21
>>325 箸墓は大きすぎるんだよ。径百余歩=140メートル前後。径はさしわたしと
いう意味だから、前方後円墳の場合、長さを示すはずだ。だいたい、径百余歩
と書いたのは、卑弥呼の墓が大きいということを伝えようとしたもの。後円部
だけの直径など言うはずはない。長さをいうはずだ。
となると、箸墓は270くらい。径二百歩と書かれるべき墓だ。それに倭人伝
が伝えるのは「棺ありて槨なし」。箸墓は槨があるはずで、その点も一致しない。
329 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:57:16
>>327 倭人伝に書かれている卑弥呼の墓は径百歩余。145mが限度だろうな。
それより小さく考えることは出来ても、大きく考えるのは無理。
箸墓は、282m。ぜんぜん大きさが違う。
330 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:00:26
一大国(壱岐)を「方」三百里と書いていることから、
「方(四角)」と「径(円)」は区別していたことが判る。
径百余歩つまり、直径100歩あまりで、仮に大きく見積もって1歩=1mとして最大直径100mの円墳。
1歩=50mとして最小直径50mの円墳。中間値を取って、直径75mの円墳と考えるのが最適。
332 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:05:04
それに「さしわたし」は、平面上での事象。
334 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:31:51
歴博のC14年代測定もいろいろ物議をかもすなあ。
弥生時代の開始も500年くらい古くなったし。
布留0も微妙な数字だ。いっそ、200年くらいになっていれば面白かったのに。
335 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:36:07
産経新聞 別報(関西版)
2009年5月29日
■邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳
「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。
その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。
しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。
「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。
年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。
箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、
これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜260年に絞り込むことができたという。
研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。
一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。
かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は
「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」
と指摘する。
箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も
「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」
と慎重な立場だ。被葬者像については
「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」
と話した。
http://www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php
336 :
331:2009/05/29(金) 16:36:26
>>333 1歩=50「cm」として最小直径50mの円墳。
337 :
ローガン:2009/05/29(金) 16:39:44
銅鐸は祭器。其の時代の民は銅鐸を通じて神を感じる訳ですね。
首長(王)とは単に祭の主宰であった訳で、抜きん出た存在とはいえ全体の内の一構成員でしょう。
ところが祖霊信仰となると、首長は死後祀られる対象になります。つまり、首長(王)になるということは死後、神になる事が約束された立場を得る事。
前首長を盛大に神として崇めるという行為は、死後 次の王が自分を神として祀ってくれる…又、生きている間は最も神に近い存在としていられる。
「祖霊とは神である」そして「王とは最も神に近い存在である」 この考え方により、いままで王と神の間にあった青銅祭器による祭を止めさせたんじゃないかなあ?と
>>337 慧眼!
神を感じるための銅鐸であり、古墳であったわけですね。
考古学 VS 科学
多地域進化説 VS アフリカ単一起源説
寺沢薫、石野博信 VS 小林謙一
つまり銅鐸と古墳(王権)は、互いに相容れない水と油の関係であったわけです。
後者が人間であれば、前者を駆逐しようとするのは当たり前田のクラッカー!
341 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 16:57:07
>>331 「徑」に円の意味なんかない。
円の差し渡しを表すと、自ずと直径になるので
そこから径〇〇と記されようになった。
底辺の形状が円の立体物を表す場合、
主に対象物の周囲を計測し、その規模を表す「周」を使う。
既存する立体形の円墳の差し渡しを計測する事は不可能ではないが、極めて不合理であり、意味のない行為。
342 :
ローガン:2009/05/29(金) 16:58:38
>>328 > 箸墓は大きすぎるんだよ。径百余歩=140メートル前後。径はさしわたしと
> いう意味だから、前方後円墳の場合、長さを示すはずだ。だいたい、径百余歩
> と書いたのは、卑弥呼の墓が大きいということを伝えようとしたもの。
え?どっち?140mなの?それとも「ただ大きいもんだ」っていういい加減な数字という事?
>後円部だけの直径など言うはずはない。長さをいうはずだ。
はずだって云われても…根拠は?
>それに倭人伝が伝えるのは「棺ありて槨なし」。箸墓は槨があるはずで、その点も一致しない。
箸墓に槨があるってどういう意味ですか?
344 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:01:12
まあ大概の九州説論者にとってもこれは既に織り込み済みだろ?
で、死活問題に直面するであろう安本先生のコメントが是非聞きたいもんだwww
(当然予想はしてただろうがw)
345 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:03:29
>>341 円墳に接する並行の二直線の間を計測すればいいんだから、
別に全然難しくない。
百歩なんて大雑把な値だろうから、
円墳を横に見て、大体、ここからここまでって感じで計測すればOK。
347 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:07:53
棺と槨って、考古学の世界じゃないから
考古学でいう棺と槨とは別物。
>>344-345 Y先生近況.....
(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
( もうだめぼ.....
Ο(
⌒ ο 〜〜〜〜〜〜
⌒ 。
___
___/⌒ \__
/ | |( ) |
| | | ∨ ∨ヽ │
__| | | \ | _|_|
ヽ、(_二二⌒)__) \
____| | \二 ⌒l. \
| | ̄ ̄ | | ̄ ̄||
| | | | .||
| |_ | |_ .|| """::
(__) (__) .||
349 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:17:14
奠都説に鞍替えしていたI沢先生はセーフwww
350 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:25:12
>>346 机上の計算にしか過ぎないよ。
自然条件に相応しくない。まわりがガサヤブの時、何処に線を引くのかな?
351 :
ローガン:2009/05/29(金) 17:33:29
>>340 権力者の登場だと思います。出雲、吉備が早く、ヤマトはそれに倣ったものかと。
いずれにしても、東遷でしか説明できない、という類いの話ではないですね。
今回は250年に絞れたからね。
魏使が北九州だけ足を踏み入れてないのもほぼ確定だからね。
落ち着くところに落ち着いたって感じ。
間違った
北九州だけってのが正解
更に間違い
北部九州が正解
355 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:37:57
しかし柔軟に考えればいっそ九州の早期の前方後円墳を卑弥呼の墓に当てても良いと思うが。
別に九州の所謂「纏向型」と畿内の箸墓が時代的に平行していても問題ないと思う。
まあ、この板の九州説論者の ウリナラ起源説的メンタリティ がそれを良しとしないかもしれんがwwwwww
356 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:41:50
>>355 そうだね。
九州説の人達は、
卑弥呼の墓は、前方後円墳ではない、と考えている。
それでいて、前方後円墳を造ってたヤマト王権は、九州から東遷したものなんだと。
この論理矛盾に気付かないアホが多すぎて困るわ。
357 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:59:21
東遷説が否定される論点。
A,銅鐸は、一気に消滅したわけではない。
九州の銅矛も消滅しているので、一方的に銅鐸のみが消滅したわけではない。
B,庄内式土器は九州発祥ではない。
かたくなに九州発祥を唱えているのは安本氏ただ一人。
C,畿内から九州の土器はほとんど出てこない。
とくに、南九州からの土器は皆無に等しい。
D,ヤマト王権の前方後円墳は、九州発祥ではない。
卑弥呼の死後に墓制が変わるようなら、遷都とは言えない。
あと、何がある?
>>350 建設現場が藪にうまってるわけないw
共立された女王の墓のまわりが藪って。
359 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 18:12:03
>>335 年輪年代の難点は、データ非開示で科学性がないこと。
こんなものに言及する時点で問題がある。
C14の難点は、歴史時代の遺物データとの比較がされていないこと。
5〜7Cの年代がほぼたしかな遺物のC14データとの比較さえもなされていない。
かれらのやり方は科学的ではない。疑似科学に過ぎない。
360 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 18:25:59
>>335 によると
@布留0=240〜260 でA布留1=260〜 となるが、その先はどうなる?
普通にB布留2=280〜450とすると布留2だけが長くなりすぎて、あまりにも不自然だわな。
年代遡上の連中は、この問題には触れたがらない。
白石は、B布留2=300〜350を目指しているが、前提となる須恵器開始350年が苦しい。
仮に須恵器が350年からとなっても、布留との並行が5C後半まで続くという問題がある。
そこで、布留2の後半を切り離して、別形式にするという方向に向かうのか?
布留をさらに細分化して布留5〜10まで分けるのか?
まさに泥縄式ですな。布留0は360年頃にしとけってことだ。
361 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 18:30:50
布留0は360年頃????
362 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 19:14:12
>>357 その程度の理由しか思いつかないのか。やっぱりアホだ・・・
>>361 いつもの人だから過剰に反応しないで下さい
>>337 素晴らしいレス、サンクス。
民が農閑期に王の墓を10年かけてコツコツ造り、王は民のために全身全霊を込めて国造りをする。
まさにノーブレス・オブリージュ(貴族の義務=上に立つ者の自己犠牲精神)の鏡。
これが既得権益化して崩壊に向かったのが古墳時代末期。そして仏教寺院による王墓の簡素化壮麗化(蘇我氏が推進)が始まる。
日本は古墳時代の道教から、飛鳥時代の仏教へ。そして奈良時代の律令制に突入する。
365 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 19:40:32
読売新聞 別報(関西発)
■「箸墓古墳の築造は240〜260年」…歴博 卑弥呼死亡時期と一致
土器年代測定…「誤差ある」反論も
「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。
この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の所在地論争にも影響を与えそうだ。
同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は
「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」
と話している。
*
年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。
箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。
今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は
「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」
と主張する。
邪馬台国論争を巡って、畿内説をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は
「分析の精度は極めて高いと認められ、造営年代に科学的な裏付けが与えられた」
と指摘。
一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(同)は
「今回の測定法で築造年代が決められるのか疑問。邪馬台国の所在地を決めるにはさらに議論をすべきだ」
と語る。
(2009年05月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90529a.htm
366 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 19:59:38
>>357 土器とは何かを良く考える必要がある。
煮炊きをするもの、貯蔵するもの、要するに台所用品。
台所用品は誰が使うものか。
権力の所在と結び付けて考えるのはどうかと思うが。
367 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:08:00
>>366 権力者が九州から来たら、従者も大勢連れてこないとだめだろ。
護衛の兵士だって必要。
その家族だっている。
彼らは、自分達が住んでいた土地(九州)の文化を当然持ち込むはず。
だって、九州のほうが先進国だったんだろ?
後進国(畿内)の生活をそのまま受け入れるわけないよな?
ならば、従者達は土器も九州の様式で作り、煮炊きするのは当然だろ?
権力者が従者をほとんど連れずに畿内に入ったとでも言うの?
368 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:10:04
>>366 >土器とは何かを良く考える必要がある。
>煮炊きをするもの、貯蔵するもの、要するに台所用品。
違う。
土器は、場合によって台所用品などとはかけ離れた用途にも使われる。
纏向遺跡の性格を知るためには、出土土器にどのような器種があり、どのように使われているか、よく見極める必要がある。
369 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:10:58
それより酷いのは、
卑弥呼の墓は、前方後円墳ではない、と言いながら、
前方後円墳を造ってたヤマト王権は、九州から東遷したと言う人がいること。
こんなあからさまな論理矛盾は無い。
370 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:22:37
>>358 薮はたとえ。
非現実的な行為と、いう事
直径150mもある円に外接する平行な線分なんて、
まるで現実味のない話し。
机上は何処まで行っても机上だよ
371 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:32:11
巍志倭人伝で卑弥呼は倭王となってるが、卑弥呼は天皇家の先祖にあたるの?
>>370 まあ、出来る出来ないなんて、こんなところで書いててもしょうがない。
それにしても、無計画に土を盛り上げて行ったら、こんなん出来ました!ってのが墳墓じゃないだろう。
最初に、これくらいの規模の墳墓を作りましょうという計画があるだろう。
魏の使者が、この墳墓はどのくらいの大きさですかって聞いたら、答えるだろう。
できちゃった墳墓の大きさは測りようがないなんて、なんでそんな思い込みしてるんだかわからない。
373 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:40:48
邪馬台国は3世紀
ヤマト朝廷ができたのは何世紀?神武天皇がヤマト朝廷つくったんだよな?
神武天皇は2600年前。
矛盾してないか。
邪馬台国があるときにすでにヤマト朝廷があることになるじゃん
卑弥呼は天皇の祖先?
はっ?
374 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:42:42
>>372 倭人に聞いて倭人が答たら「倭人曰」
漢人の歴史じゃないからね漢人が自分達で計測するから漢人が携わる歴史。
それに、出来た墓を測量するなら
結果は「周〇〇」
或は「方〇〇」
または「全長」か「南北〇〇東西〇〇」
ぐず垂れるなよ。
「さしわたし」は、平面にのみ用いるものだよ
375 :
12:2009/05/29(金) 20:44:05
376 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:44:17
377 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:50:29
邪馬台国はやまたいこくとも読めるしやまとこくとも読めるわけだから
やまとこく=ヤマト朝廷ってことは
卑弥呼は神武天皇の子孫に当たる。
って解釈で良いのかな?
378 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:12:04
>>377 卑弥呼は神武の祖じゃないです。
卑弥呼は独身の巫女ですよ?
孝霊天皇の娘のモモソヒメです
379 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:13:57
魏志倭人伝にでてくるのは、邪馬壱国。
やまととは絶対に読めませんが何か?
>>374 君は河童か?なら、徒労を避けるために、これ以上の議論は断るが。
381 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:24:08
確か箸墓って、濠をめぐらせていたんだよね?
ん〜ん
382 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:35:40
NHKも間抜けですね。
時代が一致しても、方向が一致しないのだから、卑弥呼の墓のはずがありません。
歴史を歪曲するのはやめて欲しいものだ。
決定的な証拠はいつまでも出ないんだろうなあ
どんな証拠を出しても自分の見解と違えば認めないって奴がいるからな
385 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:49:34
>>382 倭人伝の方角の記述はアヤフヤなんだよ。
対馬と壱岐の地図を広げて、両島が最接近してるところを見てみろよ。
壱岐は対馬の南じゃないだろ。東南だろ。
ここでもう45度ほど方角が怪しくなってる。
387 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:00:19
388 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:04:42
>>385 否定しないところを見ると、やはり河童かw
389 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:17:39
Have you ever seen the Kappa?
390 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:18:10
>>388 河童じゃなくて、桃太郎が鬼退治にきたんだろ
391 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/29(金) 22:18:27
報ステAGE
392 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:27:35
>>374 きちんと勉強してから言え。馬鹿馬鹿しすぎる。
393 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:49:47
>>365 >同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は「これで箸墓古墳が卑弥呼の
>墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」と話している。
本当にこんな言葉を吐いたのか??だとしたら、言葉の軽い人間だな。
C14でも都合の悪いエジプトは無視とか、新井の指摘も徹底無視とか、ちょっと考えものだな。
394 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:55:53
新聞に名前をのせてもらいたかったのでは?
395 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:58:08
>>392 馬鹿馬鹿しいと感じるのは、貴方の心と脳みそと懐が淋しいからだ
・懐は、株でも教えてあげよう。
・脳みそは、私が先生になってあげよう。
・心は、知らん!
取り敢えず、500万の資金と、信用取引口座を作りなさい
今なら実績がなくても金さえあれば
ネット証券なら作れる。
396 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:59:28
>>386 対馬と壱岐はいいんだよ。誰がみたって、南の方をみれば壱岐しかないんだから。
間違えるはずのないところは、大ざっぱな方角でも問題はない。
それが何度ずれてるとか言って、地上の方角表示をずらそうとするのは愚の骨頂。
397 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:01:04
398 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:04:40
>>369 卑弥呼の墓が前方後円墳でないというのは、倭人伝の記述からはそのように
受け取れるということ。
また、前方後円墳はそれまでどこにもなかったものだから、どこかの誰かが
作り始めたものだろう。東遷を契機に作り始めたと仮定しても、そんなことは
ありえないとも言えないだろう。
399 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:11:26
卑弥呼の墓は径百余歩の円墳。
前方後円墳なら違った表現になったはず。
第一方向が違う。
卑弥呼の時代の別の遺跡の発掘、お疲れ様。
400 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:11:45
>>398 >東遷を契機に作り始めたと
まず、卑弥呼の墓は前方後円墳でないのだな?
そして、次のトヨタンの墓も前方後円墳ではないと考えてよいな?
トヨタンは266年頃に朝貢してるから、
トヨタンが死んで、次の王が東遷し、その王が死んでから、
前方後円墳が出現ということでいいんだな?
東遷は、神武か崇神を想定してるだろうが、どちらも長生きだ。
つまり、前方後円墳は早くても350年以後に出来たわけだな?
401 :
12:2009/05/29(金) 23:12:57
335は、年輪補正のデータとかも出すだろうから、31日の学会発表待ちだな。近畿からも
けっこう来るだろ。
402 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:13:50
>>397 そんな事言ってるから
何時までも懐が淋しいんだよ
チャンスはひょんな所から現れ、そして一瞬で消える。
403 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:17:19
>生前から墓をつくり始めていたのだろう
調子こいて墓穴掘るなよ
404 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:32:50
>>400 それについては、確定的なことは言えない。
しかし、個人的な考えを言えば、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないだろう。
台与の墓は分からない。しかし、近畿地方にあるということはない。
前方後円墳が出来たのは3世紀後半、早くても西暦280年以降。
神武東征に相当する出来事は、まあ4世紀初めかな。西暦320年かそこらかな。
記紀の記述に頼るなら、饒速日命と神武東征の二段階を考えるわけで。
405 :
ローガン:2009/05/29(金) 23:37:02
方角が何より大事なら、畿内説と話しても仕方ないでしょう。
「三國志」という書に書かれたものは何一つとして誤りがないという姿勢で、それを共感出来る者同志で語り合う事をおすすめします。
もし、畿内説と議論しようと考えるなら、「史料批判」という作業を畿内説支持者はしている事を 理解したうえで議論したほうが良いように思います。
406 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:37:28
>>403 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」
生前から出来ていたとは思えないね。
408 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:40:23
>>404 だから、戦闘の痕跡が無いとなんどいえばわかるのかな?
このバカは。
とんだ墓穴を掘ったな
410 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:45:37
>>408 戦闘の痕跡がないなんてのは誰が言ったんだ。
全部、くまなく掘ったのか。
戦闘の痕跡はすべて残るのか?
ないことの証明は「悪魔の証明」といわれる。
そんなことを軽々しく口にするような人間を信用しないことだな。
411 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:46:07
>>400 あほ!
あれほどの墓が作ってるのに、昨日来たやつが今日作れるのかよ
東征はずっとそれより昔なんだよ
412 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 23:48:35
とにかく朝鮮人がなんでしゃしゃり出てくるんだろ?
413 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 00:11:28
>>406 どなただったかな、こんな読み下しがあったのを覚えている。
正確ではないけど、多分こんな感じ。
・卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作らむとす。その徑、百餘歩あり。
これだと寿陵みたいに思えるし、卑弥呼は
まあ自殺というわけじゃないだろうけど、死期をすでに悟って自分の死を最大限に演出・活用し、
クニグニ分立の形から一君主国家という形へと、少なくともその概念だけでも人々に植え付けようとして
国家事業的な墓造りを試みたのではないのか、と。
つまり、始皇帝に倣おうとするような意志が卑弥呼の晩年にはあったのでは、と。
>>412 お前は朝鮮人という言葉を、どうやら差別的な言葉として使っている様だけど、
同じ日本人として情けないよ
朝鮮人がお前に何か害でもあたえたのか?
平然と、反論できないものを差別するのは、屑のする事だ
同じ人間だぜ
何故ここの住人達は平然とスルーする?同じ日本人として恥ずかしくないのか?
悲しくなるよ
415 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 00:29:53
>>413 寿陵という意味でそう読むのはちょっと納得いきません。
「卑弥呼、将に死せんとするを以て」
だったら、寿陵を作ったんだなと思えますが。
416 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 00:30:47
417 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 00:37:36
>>413 それでは卑弥呼が死んだことの記述がない事になる。
なのに、戦いが起きて、台与が王になるということでおかしい。
418 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 01:04:27
>>405 >「史料批判」という作業を畿内説支持者はしている
資料批判と称して、理由なく倭人伝の内容を否定し、かってな妄想をたくましく
しているだけだね。
本当に資料批判というのならば、きちんと説明してもらいたいものだ。
419 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 01:15:25
>>416 箸墓=卑弥呼の墓といいたいんだろうが、箸墓は卑弥呼の墓とはまったく合致しない。
その箸墓が本当に卑弥呼の死亡時期と合致するならば、それは畿内説が誤りであること
を考古学的に証明したことになるだろう。
卑弥呼の墓の2倍もの墓があるところが邪馬台国のはずはないからな。
420 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 02:08:56
>>406 「作大塚」でなく「大作塚」だから、「塚を大いに作った」ってことだわな。
しかも「塚」であって「墳」ではないから、高さはせいぜい人の背丈くらい。
>>420 「塚」に、高さ何メートル以下などとの規定的意味はない、用例もない筈だ
422 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 02:31:13
>>421 「塚」であって、「墳」でないことは重要だよ。
まず塚を作って埋葬し、その上にさらに土を持って墳とする
塚を埋葬する考え方が墳、遺体は2度埋葬される事になる
424 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 02:45:25
>>419 箸墓の規模が何メートルかとかも問題かもしれないが、
3世紀半ば、魏と正使をやりとりしたなんらかの勢力が存在した事実こそ最重要。
425 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 03:38:50
一年中、冬でも生菜を食する習慣は、邪馬台国が畿内じゃない証拠。
426 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 03:46:28
>>418 >本当に資料批判というのならば、きちんと説明してもらいたいものだ。
そもそも根本的な疑問としてだ…
「方角は間違えようが無い」として畿内説を否定し九州説を説くのなら
隋使の訪れた邪靡堆は大和ではなく九州の何処か…
と言うことにならざるを得ないと思うが?
普通ならそこで
「ああ、古代中国人の日本の地理(方向)についてはいい加減だったんだ」
と言う理解になると思うが
方向を絶対視する九州説=『 九州王朝説 』と言うことなのかな?
先ずそこをはっきりしてもらいたいなwwwww
427 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 04:15:40
>>420 説文解字によると、「冢、高墳也」ってことだから、
冢は墳の中でも特に高いものを言うんだ。
しかも、冢には山の頂上という意味もある。
詩経にその用例がある。
だから、「冢」は「墳」よりも小さいというのは考え違い。
むしろ、「墳」ではなくて「冢」だから、かなりでかいと考えないとね。
>>423は何を言ってるんだろうね。
428 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 04:46:45
巨大古墳群など、漢籍に全然出てこないわけで、
卑弥呼が畿内にいなかったことだけは明らかだ。
>>413 >つまり、始皇帝に倣おうとするような意志が卑弥呼の晩年にはあったのでは、と。
うん、これはあったかもしれないね、
国家や王朝の始祖の墓は一種の政治的シンボルともなり得るからね
卑弥呼は外交を通じて始皇帝の逸話を知る機会があっただろうし・・・
実は九州王朝の末裔が秦の始皇帝。
朝献してきたのは実は魏の使者のほうで、
しかし、卑弥呼は取り合わなかったということだろう。
431 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 06:41:58
>>378 孝霊天皇は紀元前2世紀
卑弥呼は紀元後2世紀
ありえない
ありえない
ありえない
432 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:07:49
まあ今回の 布留0式=240〜260年 については補正が適正なものかどうか異論を唱えるものもいるんだろうが
20〜30年程度ならとりあえず箸墓は3世紀に収まる。
なら別にホケノその他候補に挙げられる古墳は他にもあるわけで
(しかも箸墓より前のものなら前方部分も短くなりより円墳の形に近づくw)
庄内自体を4世紀にでもしない限りどう転んでも畿内説の相対的優位性は動きようが無いと思うのだが?wwwwwww
433 :
12:2009/05/30(土) 07:16:56
>>427 だね。冢については、前スレでほぼ結論を出した。50以上の中国語サイトに当たったが
冢が墳より小さいとする記述は一つもない。むしろ墳の中で高さのあるものが、冢とされる
場合がほとんど。中国版Wikiでも、「冢・・・高大的墳墓」となってて、「詩・大雅・・」では「即
祭土神的高大土壇」、「史記」には「項羽焼秦?室、掘始皇帝冢」とあり、皇帝陵の中でも
高大なものに使用されてる。これについての古田氏の見解、
>山のようなのが「墳」、棺が入る程度の小さな塚、ほんの小さい盛土程度のものが「冢」
が一人歩きしているようだが、誤り。
434 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:25:18
>>426 >>405 >「方角は間違えようが無い」とすれば、九州の何処か…と言うことにならざるを得ない〜
>普通ならそこで「ああ、古代中国人の日本の地理(方向)についてはいい加減だったんだ」
>と言う理解になると思うが
おいおい、それじゃまったく、九州はありえない、畿内に決まっているんだという先入観だけ
じゃないか。ローガン、お前のいう「史料批判」もそんないいかげんな話か?
435 :
12:2009/05/30(土) 07:32:52
白石氏の布留0式260年程度、というのも過激でとばしてるという印象があったが、「生前
から墓をつくり始めていたのだろう」はけっこう驚きのコメント。自信があるんだろうから、学会
発表が楽しみ。同じ畿内説でも、これまでの年輪年代をめぐる経緯などから反感持つ人もい
るんだろうな。
436 :
426:2009/05/30(土) 07:41:40
>>434 で、隋書の件については結局どうなんだ?
きちんと説明しろ!
九州説=九州王朝説 の立場をとると言うのならそれでも良いが。
話が理解できていないから、念の為と言うか、公平を期して言っておくが
「古代中国人の日本の地理観がデタラメ」
だったとしても九州説を否定する材料にはならない。
”方角”をもって畿内説を否定するのがナンセンスってだけ。
中国人の日本の地理情報が誤ったものであっても
本州や四国であって、少なくとも九州の中を移動するにおいて方向をそう大きく間違う事は無いだろうと思う。
つまり不弥国から一路南下した位置に”あっても構わない”とwwww
安本先生と井沢先生のコメント、まだぁ〜??
438 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:50:17
>>437 I沢先生は奠都説だから影響ないんじゃね?w
439 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 07:53:56
>>436 古田某の九州王朝説ではないが、隋書自体が「邪靡堆は魏志にいう邪馬台」と書いている
んだから、邪馬台国が九州である以上、そこに決まっているだろうが。ほかの読み方がで
きるか?
もし、「邪靡堆は大和」っていうことならば、隋書は「魏志の方角はまちがい」って指摘
するだろう。魏の使者は魏志を読んでいるんだ、自分は都を訪ねているんだ、方角がちが
っているのにそれを無視して、「邪靡堆は魏志にいう邪馬台」というわけはない。
440 :
河童虫 ◆E2pz5a.Eic :2009/05/30(土) 08:01:04
『河童の説文解字@』
「冢、高墳也」
これだけでは、左側の土盛が高さ2m、右側の土盛が3mの場合、右側が冢であると、捉えられてしまう。
しかし、説文では
そういう高さ比較の意味で「高墳」と掲載したのではなく
“目立たせる”墳と言う意味で高墳とし、冢、高墳也と記した。
だから冢には目印と意味も込められている。
で、その「墳」だが
墳は単に土盛りするだけではなく、土盛りに加え植樹が加味され墳とし
その文字の中にも「梅」と言う文字や意味が込められている。
これは、その土盛りを崩さず形を継続させるという
本来の目的があるからで、「墳」と「土盛り」の違いだ。
植樹は土盛りを維持継続させる。だから“梅”
墳の熟語は形にこだわるのもその一つ
円墳、方墳、汝墳
「冢」と「家」と「塚」
使い分けがわからない、
442 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:10:50
>>357 仲間割れして一部が東に行ったという説をとれば全部解決じゃんw
443 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:14:15
>>439 隋使が「魏志の方角はまちがい」と指摘しなかったとについて考えられる理由は二つ
・本当に魏志どおりのコースで九州の都についたから
・方向を間違って認識していた。
で九州説論者は前者を取るわけだ。
まあ、それならそれで構わない。
はっきり言えばもうお手上げ状態でこちらから言う事は無い。
まあその言葉でカテゴライズされるのは嫌がる奴もいるかもしれんがwww
この板の九州説=九州王朝説 として認識させてもらうだけ。
444 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/30(土) 08:16:40
九州のどこなんだよ
>>414 なんで朝鮮人が差別語なんだよ
お前って、歪んでるね
>>443まるでこのスレには九州説論者が1人しかいないか、
もしくは、九州説が統一されているみたいな言い方じゃないか。
どうして、九州か畿内かといった単純な構図でしか
物事を考えられないのか不思議だ、頭悪そう。
447 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:24:03
>>446 しかし現実問題
>>426 の質問に関して九州王朝説以外で答えた人間は記憶に無いwwww
まあ恐らく九州王朝説にはついていけないが
さりとて畿内説を否定するのに方向を捨てる事もできず
ダンマリ を決め込んでいる奴もいると思うが?wwwwwwwww
で、
>>446のお前はどうなんだ?
448 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 08:59:57
>>443 そう、魏志どおりのコースで九州の都についたんだよ。
「方向を間違って認識していた」なんてあるわけはない。そんな考え方は、魏志の
倭人伝の方向が間違っているという説と同じ、畿内にちがいないって思い込みだけ
の合理性なんてものは度外視した説だ。
日本書紀が隋使が来たことを書いているなんて言うのかも知れないが、日本書紀は
そんなことは書いてないんだよ。600のことは触れてないだろ。それに隋の使者
とは一言も書いていない。こちらのトップは推古女帝だ。日本書紀の編者らは「隋
の使者が来たとはまったく書いていません、間違って読んだ人がいてもそれはその
人が馬鹿なだけ、我々の知ったことではないよ」という立場なんだな。
449 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:07:20
450 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:21:35
まぁ、今まで散々ああだこうだとあったが、
>>416で決まりだろw
皆の者、大儀であったw
451 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:22:05
>>447 九州王朝説なんて妙なものばかり覚えてるから、正しい見方ができないんだよ。
九州に邪馬台国があった、それだけのことだ。邪馬台国を中心とした倭国のあり方
は、支配下に入った国の独立性をある程度認めていくということだ。倭国の中に伊
都国や奴国、投馬国があったようにな。邪馬台国が本州に勢力を広げてもやり方は
同じだ。吉備国、大和国など50数か国が入った。それぞれ、独立性を認められて
るから、かってに好きな大きさの王墓も造れる。それだけのことだな。
九州王朝なんて言えば、大和王朝と九州王朝の対立はどうなったのかとなる。いつ
か決着がついたはずだ、と考えないとおかしいからな。しかし、邪馬台国中心でか
たまってたんだから、対立なんてまったくないんだよ。
452 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:28:01
>>451 何が言いたいんだ?
「中国史書において方向の記述は間違いは無い」
と言う前提なら九州王朝説にならざるを得ない。
今話しているのはそう言うお話。
453 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:32:41
>>452 頭が固いな。中国史書の方向の記述が間違いなくとも、九州王朝説になるとは限らない。
隋のころには、我が国は一つ、邪馬台国はもとのまま九州にあった、と言ってるんだよ。
>>448 そうだよ
だから魏志倭人伝には
「東南陸行五百里到伊都國」と書かれた。
伊都=都に入る(都の入口)
455 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:37:37
>伊都=都に入る(都の入口)
これは違うな、伊=霊力を持った聖職者=卑弥呼 伊都=卑弥呼の都だな
456 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:44:59
>>453 それはどう見ても九州王朝説にしか見えんわw
隋使は当時の日本の地方都市に向かったわけじゃない。
もうここまできたら平行線。
九州王朝説は好きにやってくれとwww
457 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:52:09
>>455 じゃあ、卑弥呼が存在する以前は伊都ではなかったんだね?
458 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 09:55:38
>>456 当たり前だ。地方都市に向かうわけはない。都に向かったんだよ。
ただ、都にいた倭王が実力第一かどうかは分からないけどね。鎌倉以後の朝廷と幕府
の関係みたいに、倭王は格式第一、実力では大和幕府が第一ってこともありうるかも。
倭国の乱を勝ち抜いた邪馬台国だっていつまでも実力第一とはいかないかも知れない。
しかし、格式が第一ならば、そこが都なんだよ。外国の使者は当然、都を訪ねるんだ。
459 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:00:28
460 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:07:09
>>458 どうでも良いわそんなお話wwwwww
お前が言うようにヤマト幕府と九州京があったとして
九州の何処にそんな都があったのか?って話で
「いや中国の史書に書いてある以上あったんだ」
と主張するのなら俺としては九州王朝説と何ら変わらんw
どの道、九州王朝説にしたって河内の巨大古墳を消し去るわけにはいかないんだしw
461 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:14:50
>>459 それは貴方の脳内での事、
「伊都はいにしえの倭奴也」なんて説明が、何処かに記載されているのかな?
畿内説は、女王之処都の遺跡を出してみろ!の一点張りだなw
正解は、板付(福岡)空港の滑走路の下だよw 掘り返しても徹底的に破壊されて何もないけどw
明治天皇が板付を彫ってみると、女王卑弥呼の都が大規模発掘されてしまい、
こりゃヤバイ!(記紀の嘘がバレる!)となり、発掘物は宮内庁が接収、遺跡は徹底的に破壊されて
海軍の飛行場として整備、戦後、福岡市に払い下げられたw
463 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:20:19
>>462 ・・・で、むっちゃんが掘り当てた遺跡は何をもって邪馬台国とされたのかな?www
465 :
464:2009/05/30(土) 10:24:43
うわっ
草生やす馬鹿と微妙にそっくりな文章になった
467 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:27:50
>>462 >明治天皇が板付を彫ってみると、女王卑弥呼の都が大規模発掘されてしまい、
>こりゃヤバイ!(記紀の嘘がバレる!)となり、発掘物は宮内庁が接収、
この部分のソース、典拠を、挙げてください。
468 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:37:12
>>460 河内の巨大古墳なんてなんちゅうことないな。→
>>451 それより、中国史書は、旧唐書でさえ倭国が九州にあったと書いているじゃないか。
中国史書は一貫しているんだな。
469 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:40:44
>>461 伊都国は魏略 逸文で戸万餘。
魏志倭人伝で伊都国は有千餘戸、奴国が有二萬餘戸。
魏略の伊都は伊都国と奴国を合わせたものだ。
「漢委奴国王」の金印が伊都国、奴国付近から発見されており
古の倭奴国がこのあたりに存在したことは間違いない。
漢書の倭奴国が魏志倭人伝の伊都国であると考えてもいいだろう。
470 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:47:49
>>460 九州京都の所在地は、倭人伝を正しく読めば分かるとおり高千穂の麓、都城だ。
日本書紀だって、同じ所に天孫の都があったと書いているじゃないか。
日本書紀は大切なところでは嘘はついていないんだ。隋使が大和にきたなんて
一言も書いてないのも、そうゆうことだ。
471 :
463:2009/05/30(土) 10:48:52
>>466 いや「むっちゃん」と言うのは睦仁(むつひと)からなんだが…wwwwwwww
472 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:50:34
>>469 だからそれは
貴方の脳内での出来事でしょ
そして魏略逸文は、「魏略曰」として翰苑にて掲載されたもの
魏略をそのまま写筆したものと、断定するものではありませんよ
魏略は魏略として解釈するものです。
473 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:50:49
>>462 よど号ハイジャックの時福岡から平壌に飛び立って行ったテレビ映像は記憶にあるけど、
筑紫平野のド真ん中で、なんであんな見晴らしがいい最高な立地に空港なんか作ったんだろう??とは前から薄々思ってたけど、そんな理由があったとは…
空港滑走路の下とは、最高の隠し場所ですな。なんか映画「ナショナルトレジャー」日本版みたい。
ニコラス刑事を薄毛つながりで(雨上がり決死隊)宮迫あたりに演らせるかw
474 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 10:54:39
475 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:04:45
>>472 勿論魏略逸文は逸文ですから参考程度にしかなりませんが、
漢書の倭奴国が魏志倭人伝の伊都国であると考えるのには問題なく
最も自然な見方でしょう。
477 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:24:56
>>474 今までの九州説がチマチマしすぎてんだよ。北九州なんていうから、一つの国は郡か村ぐらいの大きさだろう
なんて話になるんだ。しかし、そんな小国で魏が親魏倭王なんて特別待遇をしてくれるはずがあるか?
倭人伝が伝える倭国は九州全体を統一する寸前だったんだよ。だからこそ、次には本州を支配下に入れていっ
たんだ。そして、朝鮮半島へ。そう倭王武の上表文に書いてあるじゃないか。
近畿の大和はその勢力を拡大した倭国の中で、一番の稼ぎ頭だったということだろう。
今の考古学者は、一番大きな古墳を造ったのが、倭国のトップだったって思い込んでいる。
しかし、そんなことはない。稼ぎ頭が墓ぐらいでかいのを造って遊んでいたからって誰も
とがめなかったというだけだな。
478 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:30:49
>>477 なら日向は狗奴國で北部九州の邪馬壹國と対立していたのですか。
479 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:31:50
>>477 お前が日向王朝説なのは良く分かったw
まあ都を北に置くか南に置くかで
九州王朝説とどう変わるのか素人には分からないがwww
480 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:32:34
481 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:36:49
結局この板の九州説ってのはなんだかんだ言って
殆ど九州王朝説なんだよなあ・・・
神武東征にしたってそれを「遷都」ではなく「奠都」とすれば組み込み可能なわけでwwwwwwww
漏れは今のところ九州王朝(倭国=邪馬台国+狗奴国+投馬国)説を採っているが、
神武東征はなかった(神武は邪馬台国の崩壊とともに大和に夜逃げしてきた)と考えている。
九州説=神武東征
という短絡的な見方は止めてほしいwww
483 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:54:19
>>482 夜逃げであろうがその大和入りした元ネタで
神武東征神話が作られたってんなら同じじゃないのか?
大して変わらないと思うw
悪いがそこまで細かい分類やってらんねえwwwww
484 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/30(土) 11:56:29
神武天皇は徳川で言う特阿見みたいなもんだよ
>>483 おまいの天職が考古学だということはよく判ったwww
486 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:57:19
畿内説が圧勝に終わったのに、まだ九州なんて(ry
487 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:57:49
日向は邪馬台国、狗奴国はその近くにあった旁国の一つ。狗奴国の王は卑弥呼と仲が
良くなかったというだけだろう。卑弥呼が死亡して間もなく、邪馬台国に組み込まれ
たのではないかな。
>>483 漏れは今のところ、
「(スサノオの命令による)ニギハヤヒの河内→大和入り」→「神武東征(夜逃げ)」
「(ニギハヤヒの息子)ウマシマジの東征(大和王権参加の説得全国行脚)」→「日本武尊の東征」
にそれぞれすり替えられたと思ってゐる。
489 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:05:29
>>479 九州王朝説っていうのは、それが大和王朝と対立していたって考えるんだよ。
私の説は、日向に倭国王朝があっただけで、我が国にはほかに王朝はないという
考え方だな。
490 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:07:07
九州説がどんどんムー化していってるな。
箸墓が卑弥呼の墓と確定してしまった以上、畿内説で決まりなのにねw
邪馬台国は九州だったが卑弥呼の墓は大和に作った、とか言い出しそうな勢いだなwww
492 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:14:04
九州王朝説以外の九州説や畿内説は滅びる運命にあるようだ。
493 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:17:16
>箸墓が卑弥呼の墓と確定してしまった
この言葉は畿内説の焦りを感じますね。
494 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:18:27
もう、連呼するしかないってね、
オナニーしようと箸をおまんこに入れた弾みで子宮に突き刺して出血多量で死んだ間抜けな姫にあんな立派な墓を作るか?
箸墓=卑弥呼の墓
で決まり!
496 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:22:55
しかし
>>335は安本先生の所はもとより
4月に発足したばかりの『邪馬台国を考える会』にとってダメージ大きいのかな?
吉野ヶ里を邪馬台国に・・・ってのが会の趣旨だったと思うが
布留0=240〜260だとどうなるんだろう?
「卑弥呼の時代吉野ヶ里はまだ現役」と唱えていた会の顧問、高島の年代観との相違はどれくらい?
庄内開始時期=西新式開始時期を300〜だったっけ?
吉野ヶ里は少なくとも庄内期の終わりまでには完全に廃絶と言うことだったと思うがw
497 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:28:46
大丈夫。誰も信用しない話だ。
498 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:29:38
>>745 そりゃ問題ないよ
貴方が出した問題を、貴方が答えているんだから
自問自答ならなんら問題も起こらないよ
でも、他人の答はNOだ
「伊都はいにしえの倭奴」の記載を提示しないかぎり。
そして金印は
動産であることも忘れずに。
ロングパスキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
501 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:38:59
九州王朝って、確か、壬申の乱も、大化の改新も、九州で起きた事件だとか言ってるあれでしょう。
502 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:42:44
>>501 壬申の乱や大化の改新が九州で起きた事件ではないかとの意見があるが
九州王朝説でもまだ確定していない。
503 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:43:22
どうやら畿内説で決定だね。
九州説は、キリストの墓とか、与那国海底遺跡とか、日本のピラミッドとかと同列の地域興しが入りの
トンデモ説と同列ってことになったわけだ。
一部熱烈に支持する人がいるトコも同じだ。
大化の改新はなかった。
乙巳の乱は飛鳥で、壬申の乱は九州で起きた。というトンデモ説を連呼するのが古田九州王朝説w
506 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 12:48:56
>>495 子宮を突く事は、構造的に可能かな?
しかも、箸で突いたぐらいで出血多量死は考えずらい。
畿内説以外は考古学的裏付けを欠く点で妄想だと言われてもしょうがない
508 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:16:33
しかし魏志も罪作りな史書だったな。
これだけの妄想を生んだのだから。
509 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:18:13
鉄器も宮殿もない畿内の国が、高句麗好太王碑に出てくるわけないだろう。
510 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:19:44
実際は、子宮ガンなどの病気で出血が止まらなくなって死んだ
ということではないのか?その美貌で女王になった卑弥呼への
やっかみが、そういう噂になって流されたと推測できる。
出血が止まらなかったら誰だって必ず死ぬよ
512 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:26:58
なして箸墓が卑弥呼の墓なんだ?
箸墓は、桃尻ちゃんの墓だと書いてあるだろう。
人の墓を勝手に別人の墓にするな!
人は名前を二つ以上持つこともあるよ
改名、襲名なんてこともよくあるよ
514 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:36:22
安本氏の甘木説は崩壊したな、
古田の気違いと変わらないことが証明された。
515 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:42:06
>>513 改名や襲名は否定しないが、改名・襲名した記録は?記録がない限り、改名襲名は通らない。
これが罷り通った日には、歴史なんて目茶苦茶必至。
九州畿内の領域を越えた疑問だ。
既に墓の主が文献にて記されているにもかかわらず、敢えて違った名詞(代名詞)を充てるのだから
当然そこには考古学ではなく、文献史料の裏付けが求められる。
3世紀の文献なんて日本には何もないんだよ
517 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:51:16
>>516 ヤマトの桃尻だって
記紀からの引用だし、マキムクの土台も記紀
今更国内の3世紀書物なんて誰も求めない。
箸墓の主は記されているんだよ 「ヤマト桃尻」と
518 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:51:31
安本流東遷説の今後・・・
(1)年代観について徹底抗戦
(2)敗北宣言かそれに等しい形でフェイドアウト
(3)奠都説へのリフォーム
519 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 13:54:16
うわぁわぁわああああん!(>△<)
九州説おわた、おわたよ!
完全におわたよ!(T△T)
でもそれは記紀ができた奈良時代の人が記憶してた名前でしょう?
もう一つ名前があったけどそっちは忘れちゃってたら駄目だよ
521 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 14:06:42
522 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 14:11:15
>>520 都合がいいなあ
死因まで克明に記載された記録に対し、忘れたから記載されないは通らない。
箸墓の主は卑弥呼ではなく、今は「ヤマト桃尻」
学者が卑弥呼と関連付けたのは
発表に色を添えて、注目されたかっから
悪意はなかったと思う。
523 :
ローガン:2009/05/30(土) 14:33:01
>>434 > おいおい、それじゃまったく、九州はありえない、畿内に決まっているんだという先入観だけ
> じゃないか。ローガン、お前のいう「史料批判」もそんないいかげんな話か?
あのね、史料批判ですから全ての記述を取り敢えず疑ってかかるのですよ。
そのなかで、他の史料との異同、整合性等を考えて 出てきた批判に耐えうる記述が、史実とされたり、通説になったりするんですよ。
頭から「三國志に間違いはないとか、倭人伝に少しの誤りも存在しないとか、陳寿は絶対間違えないとか」
そういう考え方を前提にする事自体が誤りなんです。
「はじめから畿内に決まっているという先入観」なんてありませんよ。
うんうん、そのとおりだね
525 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 14:40:23
邪馬台国と大和朝廷に連続性があったとは思えないんだよな
>>526 本家と分家の関係だよ。戦国時代の京都と江戸(東京)を思い浮かべればいい。
北九州(京都)は整備されつくしてしまい開拓の余地などほとんどなかったのに対し、大和盆地(江戸)は大胆に開発できた。
しかも後者は湿地帯。それが灌漑の必要性を生み、王権の誕生と共に大型古墳を生んだ下地と言えよう。
528 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 14:59:24
今日の通説が明日のトンデモ説、
畿内説に明日はない。
529 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:00:12
>>529 嘘とは真実を覆い隠す事。嘘をつく者は、必ず真実を知っていなければ、嘘をつく事は出来ない。
間違った言動を嘘とは言わない。
日本語の使い方が出来ていませんね。
531 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:19:37
>>523 文献資料は、まず正しいという前提で研究する。
つじつまの合わない部分があったら批判的な考察が必要。
最初から疑ってかかるというのは、要するに自分に都合が良いかどうかが
先にあるということになる。
先入観で読むというか、自分なりの価値観で読むことになる。
九州説さん、相当いらついてますね
>>530 邪馬台国の真実は九州にあり
捏造を繰り返すのみが学問とは思いませぬ
534 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:23:14
四国説
沖縄説
535 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:28:04
とにかく、歴博のC14年代測定は、箸墓だけやってもしょうがない。
案外、関東の古墳を年代測定したら、西暦250年頃の数字が出たりして
「これが卑弥呼の墓に間違いない」とか、九州の古墳を調査したら、
やはり、西暦250年頃の数字が出て、「これこそ卑弥呼の墓だ」と言ったり
するのかもね。
でも箸墓は大きいです
537 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:33:50
>>527 家康はニギハヤヒを自認して、江戸入りを果たしたのかもねw
死後は東照大権現(天照国照彦)の諡号を朝廷に贈らせていることからもそれは明らか。
箸墓は江戸城に相当w それぞれ大和盆地、江戸湾灌漑の基点となったわけだ。
開発され尽くした京都に、江戸城みたいな巨大城郭がないのも当然といえば当然で、
巨大城郭がないという一点を以って京都と江戸に文化的共通点がない、などと言えないもの みつを
>>538 そうそう。
家康江戸入りの264年後、明治維新で(文化先進地域の)京都(北九州)から(文化後進地域の)江戸(大和)に奠都したこともそっくりw
540 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:42:36
家の墓地も歴博に調査測定してもらおうかな?
結果250年±10年だったりしてワラ
541 :
ローガン:2009/05/30(土) 15:56:11
>>531 > 文献資料は、まず正しいという前提で研究する。つじつまの合わない部分があったら批判的な考察が必要。
ん!つじつまの合う合わないの判断は何に基づくの?他の様々な資料使って裏をとるでしょ?それでやっと「つじつまが合う」といえるんじゃないの?
> 最初から疑ってかかるというのは、要するに自分に都合が良いかどうかが 先にあるということになる。
> 先入観で読むというか、自分なりの価値観で読むことになる。
何、訳の判らん事言ってるんですか?批判してから説を組立るんですよ。
542 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 15:57:39
>>521 >ナ、ナント4スレ目ダヨー!!
ニュー速でこれだけ反響あるのはやっぱりインパクトがあるんだな
レス見てきたが卑弥呼はみんなよく知ってる
それと宮内庁管理陵墓の発掘調査を望むレスが多い
うんうん、そのとおり
544 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:09:42
>>531 >文献資料は、まず正しいという前提で研究する。
>つじつまの合わない部分があったら批判的な考察が必要
で、その結果が不弥国までの比定地の定説(不弥はやや分かれるが)
少なくとも方角を金科玉条に信じても駄目だとw
「倭人伝どおりに読んだ全ての土地を掘り起こしてないから駄目」
とでも言うかい?ww
546 :
ローガン:2009/05/30(土) 16:18:12
古田さんの影響かなあ。「倭人伝を徹底して読む」の冒頭に「陳寿を信じ通した」とあるが…
547 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:19:59
このスレを見ると、炭素測定を使った、新手の畿内説偽装派が跋扈しているのが良くわかるw
548 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:38:34
誰か炭素測定について語れるやついたらテンプレ作ってくれ
特に原理とかそっち系
このままじゃ感覚的には「大御所のA氏が畿内って言ってんだから畿内に決まってんだろ」的な感覚なんだが。
549 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:39:12
邪馬台国九州説は九州の自治体と観光業者が営利目的で宣伝しているトンデモ説です。
550 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:40:46
>>546 古田といえば元々親鸞の研究家だったんだよねえ?
で、親鸞といえば
「法然上人にだまされ念仏したために地獄へ堕ちたとしても決して後悔いたしません」
と言った台詞が有名だと思うけど
やっぱそう言ったパトスの世界wってのは通じるものがあるのかねえ?wwwwwwwww
畿内説の勝ち鬨の声と九州説の捨てゼリフが虚しくこだまするスレと化しますた!
552 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:43:25
>>551 安田講堂に立て篭もった連中の勝利宣言みたいだな。
>>551 同じ畿内説も歎いている。「余計な事言いやがって」と、
箸墓はヤマトトトヒモモソヒメの墓であるのに、それを一言も触れずに
卑弥呼を持ち出すなんてと。
554 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:51:46
九州説は十人十色で、みんな言うことがバラバラなんだな。
邪馬台国比定地も、山門あり吉野ヶ里あり甘木あり博多あり宇佐あり日向ありで
まあ言うならば何でもアリだ。
だから九州説は信用されない。
仮に一人が正しいとしても、残り九人はみんなウソのつき合いをしているわけだ。
555 :
12:2009/05/30(土) 16:52:56
556 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:55:24
>>554 だから〜っ、ウソじゃないのよ
ウソつく人は真実を知ってるの
その「嘘」一つとっても、正しい認識の元で使われてなく、
そう言う些細な間違いが積み重なっているのが
現代の邪馬台国論争なのよ
558 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:09:04
まぁ九州説は非科学的だというのは確実だがな
559 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:10:48
>>557 なんかわかるw
誰かが思いつきで適当なこと言って、次の人はそれを前提に考察して、
さらに他の人がその考察を土台にして考えてるみたいなw
560 :
12:2009/05/30(土) 17:22:11
でもなあ、「倭人伝を素直に読めば・・・」とかいう人も多いんだよな。
561 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:23:21
>>548 簡単に言えば、自然界には、C12に混じってわずかにC14という放射性の
元素がある。C14は、β崩壊しながら、徐々にC12に変わっていく。
C14の半減期は確か5730年だったかな。つまり、これだけの期間で、C14は
半分に減少することになる。
だから、もともとC14がどれくらいあったかが分かっていれば、現在の
C14の割合を知ることにより、どれくらいの時間がたっているかがわかる。
問題は、ある過去の年代にC14がどれくらいあったかということ。
C14の割合は、その年その年によって変化する。
この数字を間違えると、間違った年代が出ることになる。
今のところ、ここが一番の問題点だろうな。
562 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:25:37
>>560 その素直と言う表現も、その人が持っている感覚だし。
563 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:27:14
>>554 畿内説だって、年代観はバラバラ。考古学の人は、卑弥呼の頃に大和に
大きな勢力が出来たというし、文献重視の人は、卑弥呼の時にはすでに
大和朝廷のようなものが出来上がっていたという。
まあ、畿内説が間違いなら、みんな嘘をついているわけだが。
564 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:29:54
>>560 倭人伝は素直に読むのが常道だろうね。
卑弥呼のことに関するバイブルだから。
これがなかったら、卑弥呼は存在しないわけだし。
565 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:32:28
566 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:39:27
そもそも倭人伝の一言一句を全て是としたら凄い事になりそうだがw
卑弥呼に仕える奴婢だけで1000人の巨大集落があり
その近くには考古学的には一例も確認されていないであろう
殉葬跡(しかも100人もの!)を有する卑弥呼の墓があり
邪馬台国だけで7万戸、九州説なら九州だけで事によったら100万人近い人口を想定しなければならない。
また80歳90歳100歳の老人もゴロゴロしていると言う長寿国家と言うから
何か長寿の秘薬でもあったか倍歴でも持ち出すか?w
まあ他にもツッコミどころは多々あるんだろうが
こんなもん本当にあったら邪馬台国論争なんて枠超えて
日本の古代史の根本がひっくり返ると思うのだが?
もっとも
「九州王朝説上等!!」の連中にとっては何てこと無いんだろうがwwwww
567 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:44:22
♪曖昧3世紀
,,==二==、、
/ ヾヽ
ヾヽ
_. .─:─-、_ l l
,-‐: :  ̄: : `:‐´: : : : : : : : : : : :ヽ | /
/:_:_: : ‐: : : : : : : : /: : : : : : : : : :`:ヽ.」/
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l: : : : :l: :/l |T::::::::ト l: : l l:l ヽ: : : : : : ヽ: : :l
l: : : /:/: :l l lo::::::l V:/ テ'ミ=、」、: : : l: : l: : l
l: : :/ l/.: :l 辷り V b:::::::::://〉: : :ト: : l: /
l: / l l: :l 、 ` 辷:::り/ /ヘ: ::ハ: l/
( ̄\ V l:/: 、 ,、,、__ . l:ハ: :ノ: ヽl
\_ `‐、,‐ l/: : :`>、_ `─ ' ,/:/: : l/: : :l`
( ̄ ̄` ‐' ,/ , \ l: : : : //: :`>,‐-─,<:´: :/: : : ハ: : : l
 ̄ ⊃ , ‐,` l_ /: : : : :/- '´,-' l, ヽ: /: : : :ハ: : : :l
. r ´, ‐、 ィ l , ヽ l : : : :/ /_ / /: : : :く: : l: : : ヽ
.`‐´ フT //、 /l: : : / / >´ /: : : :/==ヽ: : : :ヽ
/ 冫' //,l / l: : イ / / /: : : : /彡彡=l : : : : ヽ
568 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:45:21
>>566 それは素直とは言わない。貴方の認識で捉え、訳したもの
「嘘」の使用と同じ原理だ。
569 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:48:17
根本的な誤りを積み重ね、それを正しい認識としているのさ
間違って言った者に対し「嘘付き」と批難する
端から見たら、とんだ漫才だよ
570 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:49:04
>>568 ゴタクはいいからw
じゃあ「素直」な読みでどうなるのか正してみてくれ。
571 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 17:54:44
>>570 ゴタクじゃないだろ
素直という表現の根本を正しているだけ
一つだけ取り上げれば
奴婢がどうして千人居たんじゃダメなんだ?
千人と書いてあるだろう?
572 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:15:03
573 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:15:24
素直に読んだ結果が九州のいたるところに邪馬台国w
自称正直者の大バーゲンセールw
さてさてどいつが正直でどいつがひねくれ者か?www
対馬と隠岐からして全然おかしいだろ
575 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:34:38
576 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:40:12
>>566 つーか、原文を素直に読むなら、伊都から奴までなどはきっかり百里でなければならい。
同じ文中に「余里」と端数を示す表現が存在する以上、ここはきっかり読まないといけないはずだ。
577 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:45:33
邪馬壹國は魏志倭人伝に書かれているのに
魏志倭人伝の記述を無視する畿内説は何なんだろう???
>>577 単に、当時の日本で東西南北が間違って扱われていたってことじゃないの?
579 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:02:20
>>572 宣伝、乙。w
しかしまあ、なんというグッド・タイミングの講演会!ww
満員で入れない人も出ちゃうんじゃない?www
580 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:16:13
魏志倭人伝を無視するのが、畿内説の常套手段
581 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:17:55
>>572 館長がクビにならないようにする講演ですね、わかります
582 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:21:48
>>581 まあ今のご時世何処も厳しいんじゃないのか?w
大阪府立なら橋下知事にいつ潰されるかヒヤヒヤもの?www
白石さんも日本考古学協会の会員だろ、
歴博研究グループの発表がある学会総会は、きっと行きたいだろうな
館長だから留守居役ってことかな
584 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:49:01
>>576 それを偏った読み方と言うんだよ。
伊都から奴が百里
何処にそんな事が書いてあるんだい?
と言う疑問が生じる事も視野にいれているかな?
そして、百里は
色んな意味にも使われる事も視野にいれてるかな?
585 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 20:10:39
>>561 ありがとうございます。
測定自体は何を測定してるんでしょうか?
現在のC12とC14の量の割合を測定してるんですか?
>>580 それは無視しているんじゃなくて、根本的に理解出来ていないから
結果無視する形になっているんじゃないかな〜?
587 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 20:30:56
畿内説は畿内だとの結論が先に有って、
無理やりに理論をこじ付けようとするから
結果、魏志倭人伝の内容を無視する形になっているだよ。
588 :
ローガン:2009/05/30(土) 20:41:13
>>579 > 満員で入れない人も出ちゃうんじゃない?www
そうかも。ちょっと早く行くようにします。
二週前の鈴木先生の時は結構空席があったんですが。
>>587 そんなところから、史料批判なる体系が出来上がったんじゃないかな?
少なくても私達よりも優れた人が編纂した書物なんだから
疑う前に、前向きに読む可きであり
向き合った結果に疑問が生じるものだと考える。
ただそんな疑問も、読み手の知識不足からくるもので、無駄な疑問かもしれない。
>>584 > それを偏った読み方と言うんだよ。
スレの皆さ〜〜〜ん。
「偏った」読み方しか出来ない元コテさんがこんなこと言ってますよぉwwww
592 :
12:2009/05/30(土) 21:24:23
590、591・・・面白すぎる。
593 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:28:27
>566は、自分流の漢籍の読み方が、完璧に間違っているのを自己証明しただけ。
594 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:32:29
伊都から奴が百里とするには、そこで百里と値を出す作業の結果
しかし、ここには作業の行為を表す語句が記載されていない。
倭人伝で言うところの移動方法だ、
水行なら船、陸行なら徒歩と これらの移動方法が、計測作業であり伊都から奴への移動証明だ
しかし、ここにはそれがない。つまりないと言う事は、百里と言う数値に
区間距離を求める事は非常に困難な状況、だから区間距離とは別な百里の意味を求めるわけ。
595 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:35:22
>>593 貴方が私以下の能力しかない事を知っただけでも収穫だよ。
大儀。
597 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:50:41
598 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 22:13:07
>>596 日本語がまだ、たどたどしいようだが、
無理に背伸びしなくてもいいんだぞ
ゆっくり、ゆっくり
焦らず覚えればいい。
先生は君を見捨てたりなんかしないから な!
599 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:06:17
>>570 >「素直」な読みでどうなるのか正してみてくれ
行程の読みは連続読み
里数と日数は同じ行程を別に言い方で説明したもの、従って
狗邪韓國〜不彌國と投馬國、邪馬壹國も同じ地域を言い方で説明したもの
600 :
12:2009/05/30(土) 23:22:59
しかし、カッパレスを読むと、マジなことを書き込もうとする力が失せる。不思議だな。
601 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:53:53
>>600 マジレスなんて、一生に一回すれば十分。
後は全てヲタ話でOK
お互い暇潰しなんだし
602 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 23:54:21
ほらほら 河童さん言われてるやんw
言い返せw
603 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 00:10:41
それにしても長い悪禁だな〜
一週間の解除挟んで
かれこれ三ヶ月かよ
『 砂鬼四荼羅教(すなおによんだらきょう)ノススメ wwwwww 』
「素直に読んだら…」これはこの板の九州説の常套句なんだが
ふと思ったのは、一度「素直に読んで」得た結論は後から得た知識に基づき変更できないのではと…
新しい知識を得た後での読み方が正しいとすればやはりある種の知識を得ないと読めない。
単に「素直に読んだら」だけじゃあ駄目だと言う事になる。
将来的にも変更される余地がある。
逆に”引き算”で今まで自分の目を曇らせていた要素を捨て去って「素直に読んだら」としても
じゃあ現在の自分にもう読み方を誤らせる要因がないとどうやって断言する?て話でwww
じゃあ頭に語を付け足して限定的に「現在の自分が素直に読んだら」とすれば
それは他者の「素直読み」を認めざるを得ず結局意味の無いものになる。
「科学は反証可能な仮説体系」と言うのを史学や考古学に当てはめて良いのかどうか分からないが
普通なら絶えず自分が間違っている可能性も認めつつ
現在の持ちえている材料でベストの結論を出すのが謙虚な態度だろうwww
「素直に読んだら」…謙虚にも聞こえる台詞だがその実排他的でに傲慢
何せ自説以外は素直じゃない歪んだ見方をしているんだからw
まあ学問とかじゃなくて宗教のドグマってやつだと解すればそれもうなずけるお話wwwww
605 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 01:59:07
>>585 出土物に含まれているC12とC14の割合。
僕も素人なので、間違ってたらすまんけど、大体の説明です。
大気中でC14が生成する量と崩壊する量が釣り合って、C12とC14の割合が一定になる。
生物は生きているかぎり炭素循環で外界の炭素を取り入れるので、
個体内でのC12とC14の割合は外界の割合と同じになってる。
個体が死んで地中に埋まったりして外界との炭素循環から切り離されると、この割合が変化する。
C12は安定しているので減らない。C14は崩壊して減って行くけど、
外界との炭素循環から切り離されているのでC14は新たに供給されない。
結果、時間がたつほどC12に対してC14は減って行く。
その減り方が半減期ということではっきり解るので、
C12にたいしてC14がどれだけ減っているかを調べると、
埋まってからどれだけ時間が経ってるかが解る。
>>604 「素直に読んだら」
漢籍に精通した漢学者で、邪馬台国問題に一切関心が無く、予備知識もない。
そんな人を20人程度集めで初見で読ませる。
その結果えられた知見が、一番素直な読み方。
漢文も言語なんだから、その言語に習熟した人に初見で意味が解らないはずがない。
分かち書きされていないので、句読の切り方で、多少意見の分かれる所はあるだろうけど。
漢籍に精通した者でも、邪馬台国問題に深入りしてしばらくたつと、
漢文の常識を無視した妙な事を言い出すことがある。
結論のでない問題に無理に結論をだそうとしたり、
倭人伝ばかりに気が行って、木を見て森を見ずの状態になってる。
>>606 それに、地理の情報や、考古学的発見の情報を加味しないと意味がないだろ。
608 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 02:46:03
>>607 地理情報や考古学的発見を加味したら意味がないだろう。
当時の洛陽や長安の御方たちは、そんなものを知らない。
そういう人が読んで解るのが史書だから。
>608
「読んで解る」必要はあったのだろうか
お偉い方に出す内部文書なんて、読んで解らないものばかりだ
書式と体裁が整い、お偉い方の体面を崩さない内容ならば、支離滅裂でも通るのだ
ましてや、地理との整合性など都にいて検証のしようが無い
だから、概念の羅列だけで通るのだ
はるか東方の島国と通好していたと、魏の領土は広かったと、語るだけでいい
西晋は魏を正統とし、まさに魏の領土を既得権として東に伸びようとしている国だったのだから
その様に書いてあげるのが、官僚もしくは御用学者の務めだ
>>609 読んで解らんと文章ではない。
そして、陳寿は倭国なんか何もしらない士大夫が読んで解るように書いた。
ただ、解った内容が、現実の倭国の通りである保証はない。
「素直な読み」は「正しい倭国」ではない。
陳寿が意図したとおりに読むのが「素直な読み」だろう。
それが正しいかどうかは、陳寿の持ってた知識が正しいかどうか次第。
611 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 03:45:39
>>609 しかし、九州にたどり着くまでの行程は、だいたい合っているんだよな。
帯方郡から狗邪韓国を経て、対馬国から一支国、そして末盧国というふうに。
地理的にもほとんど問題はないし、ここまでの行程にはまず異論はない。
ところが、伊都国から先になるとかなり意見が分かれる。
東南陸行五百里到(伊都國)
東南至(奴國)百里
東行至(不彌國)百里
南至(投馬國)水行二十日
南至(邪馬壹國)女王之所都水行十日陸行一月
何でだろうな。
>>611 そりゃ単純に目的地があるか無いかの違いじゃね?
とりあえず郡から九州の北岸に着く必要がある。
ここまでは目的地がはっきり見える。
当然そのルートも絞れる。
が末盧國に着いて
「さあ、ここから何処を目指すか?」
で分かれてしまえば歩の進めようが無いwww
613 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 05:03:20
邪馬台国論争は学問の域ではなく、妄想の域。まともなやつは手を出さない。
現実は、呉を牽制すべく、会けいの東にあたるように、東を南と書き換えた可能性もあるわけで、
それを後世の我々がああだこうだ真面目に読み方を議論するのはバカバカしい。
>>612 末廬の港に着いた。
魏志倭人伝の行程記事はここでおしまい。
「郡からの長旅ご苦労様でした。」
倭人伝の地理記事に書かれている行程記事は
意外とあっさり系。
書かれてもいない事を、あ〜だこ〜だするから意見が分かれる。
615 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 07:53:20
>>611 末盧国が唐津であることはまず大方の意見が一致するところ。次の東南陸行五百里到(伊都國)
、これを前原とするのが問題だ。唐津から前原は誰がみたって東南ではない。唐津から東南五百
里(それまでの千里のおよそ半分を考えるべきだろう)、佐賀市付近になる。
有明海沿岸だね。となれば、南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
は有明海を南へ行くことだということになる。何の問題もないではないか?
伊都国を妙なところに比定するから、それからあとが滅茶苦茶になる。
617 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 08:18:39
>>613 全く同感。
信頼できるのは末盧国まで。
伊都国以降の地理は左回りに90°傾けて読むか、資料的価値がないと無視するのが学問的良心というもの。
618 :
田代目線で見えた:2009/05/31(日) 08:22:04
彼女に近付く目的の文が、いつの間にか
彼女のスカートの中を覗くようになり、仕舞いには
「僕のチンチンが彼女のマンコにおさまる」
妄想を膨らまし、股間を膨らます官能小説に
「倭人在帯方東南大海之中」
620 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 08:36:06
疑心暗鬼、被害妄想が充満しているな。可哀想に、これまで伊都国を前原に比定して
それから先がうまくいかず、多くの時間を無駄にしてきたせいだね。
だいたい、考えてみよう。邪馬台国はどうみても南、南ということしか書いてない。
その南へ行くのに、唐津から東北の前原へ行ったり、東南百里の奴国、東百里の不弥国
と何で方向違いの動きをするんだ? 南へ行きたかったら、なるべく南へ進路をとって
進むはず。東北や東はどうみても無駄。おかしいんだよ。
しかも、唐津で何のために上陸するんだ?船で行けないからだろ。唐津から記載どおり
に東南へ進むのが一番合理的な話じゃないか。
621 :
田代目線で見えた:2009/05/31(日) 08:42:58
倭人は帯方の南そして東に広がる海の中に住まう。
何処に「田代目線」で倭人を覗けと
書いてあるのか?
やはり今の邪馬台国論争は異常だ。
通常の目線では我慢出来なくなった学者どもは、やがて「田代目線や植草目線」を生み出す事に
素直に読むとは、こう言う事だよ
623 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 08:54:59
逆だろうな。田代や植草は、合理的な思考で身を律することができず、本能にのみ
したがって身を誤った。畿内に相違ない、北九州に相違ない、なんて思い込みだけ
で合理的思考ができない伊都国=前原説論者の方が「田代目線や植草目線」と言わ
れるべきものだ。邪馬台国は倭人伝が伝える国、他に史料はないといって過言では
ない。
>>617みたいに考えるならば、邪馬台国論争に参加すべきではないだろうな。
古代史マニアなんてのは、もともと変態の集まりみたいなもの。
興味の対象が一般人とかなり違うところにあるからな。
普通の人は邪馬台国がどこにあろうとなかろうとほとんで意に介さない。
625 :
田代目線で見えた:2009/05/31(日) 09:17:10
626 :
田代目線で見えた:2009/05/31(日) 09:23:10
>>623 俺から見れば
伊都国=前原
伊都国=有明海側
なんて、田代や植草に見える。
パンツの色が白か黒かを言い争ってるようなものだ
「スカートの中を覗くな!」
だ。
627 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 09:34:24
細かいことだと思っているのかも知れんが、そこをきちんと押さえると邪馬台国問題は
簡単に解決するんだよ。伊都国が佐賀市周辺。そのことだけで、畿内説は即死だ。畿内
の遺跡がどうの、三角がどうの、箸墓がどうのなんて、一切論じる必要もない。
それに、投馬国、邪馬台国の位置も簡単に推測できる。行程を丁寧に書く倭人伝が投馬
国、邪馬台国について一見あっさりと書いている理由も分かる。
>>600 > しかし、カッパレスを読むと、マジなことを書き込もうとする力が失せる。不思議だな。
それは、不思議でも何でも無いでしょう。
>>601で御本人が仰っているように「ヲタ話」なんだからw
ヲタと言うものは、その嗜好が異なれば、相手の趣味には全く興味が沸かない。
629 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 09:38:35
伊都国=前原
間違いなかろう。一致する地名がある。
前原は明治初年までずっと怡土郡(いとぐん)だった。
遺跡も豊富だ。
630 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 09:40:42
>>627 失礼ですが、ゴッドハンドさんですか?
「ここだ!」の一言で世紀の大発見を連発し、歴史学を塗り替えたという。
631 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 09:44:22
適当に地名を言ってたら専門家で飯が食っていけるんだから、
九州説は気楽でいいね。
>>627 >行程を丁寧に書く倭人伝が投馬国、邪馬台国について一見あっさりと書いている理由も分かる。
東南至奴國百里
南至投馬國水行二十日
「あっさり」度はどちらの文章も同じに見えるが・・・
633 :
田代目線で見えた:2009/05/31(日) 09:47:09
>>627 行程文は末廬の港まで
これで行程文の目的は達成されている。
だから次に「伊都(いと)」
「倭人在帯方東南大海之中」
は、對海・一大・末廬のある島
後はスカートの中なのさ
行程文とは別の
スカートの中の世界。
634 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 09:50:29
>>629 3世紀に怡土という地名があったなどという証拠はまったくないね。
8世紀になって、やっと伊斗村だ。3世紀に大国だったにしてはマイナーすぎる。
遺跡は邪馬台国時代よりもだいぶ前の墓だけだ。倭国の乱で消滅した国の遺跡か
も知れん。伊都国に結びつくと言えるものではない。
>>624 正にその通り。
「ヲタ話の世界にようこそ」
ここでどんな綺麗事言っても、ここに書き込んだ瞬間に
みんな「ヲタ」なのさ
ま、中には
自分は違うと書き込んでる奴もいるだろうけど
彼もやっぱり、世間では見向きもしない「ヲタ」なのさ
636 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/31(日) 10:14:47
壱岐だって壱岐、伊岐、伊吉といろいろ表記があるんだから
怡土=伊都=伊斗でもそんなに可笑しくはないと思う。
637 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 10:28:08
>>632 内容を考えよう。奴国、不弥国はたかが百里だ。投馬国は水行二十日、邪馬台国
は水行十日陸行一月。これだけ、長旅なのに何で乍東乍南とか途中の経由地を書
かないのかということだよ。原資料を書いた使者は、ごちゃごちゃ書かなくとも
十分に分かるはずだと思ったんだろうな。
638 :
田代目線:2009/05/31(日) 10:28:34
「伊都(いと)」
(いと)は
・「いとをかし」 の“いと”
・「いとおしい」 の“いと”
>>634 >3世紀に怡土という地名があったなどという証拠はまったくないね。
こんな言い方をしたらどこだって同じw
「3世紀の佐賀ににイトという地名があったなどという証拠はまったくないね」。ww
640 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 10:59:12
>>639 そのとおり。同じなんだよ。だから、地名なんぞにとらわれず、合理的に伊都国を
比定することが必要なんだ。
641 :
サガミハラハラ:2009/05/31(日) 11:07:35
都という字は当時はタと発音していたらしいですよ。
もっともイタがイトと転訛したというならそれもそうかもしれませんが。
一大率という役人が居たようですが、壱はイ、大はダまたはタ、率はソでイタソとなります。
イタソとはイタグ、イタガン、ユタ、ウタにみられるように神聖な言葉という意味で
卑弥呼や神の言葉という権威をもって国国に畏憚されていたようです。
やはり邪馬台国はやまだ国と読んだのですね?
全国200万人の山田一族のひとりとして誇らしく思います。
宮崎県都城市山田町山田
高千穂を望むこの地こそ邪馬台国にふさわしいと思われます。
643 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 11:34:18
邪馬台=山田だとすると、佐賀市大和付近に山田というところがあります。
そこが、邪馬台国の代官、一大率の治所があったところかも知れないね。
644 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 11:38:25
邪馬台国は畿内で決まりというのになかなか収まりがつかないようですな。
ここはw
645 :
改め:2009/05/31(日) 11:45:19
>やはり邪馬台国はやまだ国と読んだのですね?
この子は小学1年生かw
河童さんみたいなこと言うやっちゃな〜ww
邪馬台国 ← ヤマタイコク
ヤマタイコクて読むんだよ
ヤマタイコク
まるで舌足らずの幼児の発音だなw
普通にヤマト国だろう
648 :
河童虫 ◆E2pz5a.Eic :2009/05/31(日) 11:49:26
>>641 イタが時間を経るとイナ
イタとイトの関係は連用です。
だから今でも
痛い、痛とうて
居たい、居とうて と
649 :
九州王朝大好き:2009/05/31(日) 11:49:56
>>640 >地名なんぞにとらわれず、合理的に伊都国を比定することが必要なんだ。
そのとおり。
更に当時の地形地勢を加味して比定しなければならない。
そうすると以下の次レスの様になる。
650 :
改め:2009/05/31(日) 11:50:08
>全国200万人の山田一族のひとりとして誇らしく思います。
>宮崎県都城市山田町山田
>高千穂を望むこの地こそ邪馬台国にふさわしいと思われます。
邪馬台国 ← これがどう読んだら「山田」て読めるの?
こんなレベルしかいないのかww
651 :
河童虫 ◆E2pz5a.Eic :2009/05/31(日) 12:00:46
>>641 そして
「イト」は、「イタホ」あるいは「イタオ」が転訛したもので
「イタ」からの転訛ではありません。
652 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/31(日) 12:01:03
邪馬台=耶麻登=耶麻土=大和=やまと
653 :
河童虫 ◆E2pz5a.Eic :2009/05/31(日) 12:05:30
>>652 「やまと」は、漢字表記「大和」の意味。
漢字表記「大和」は、漢語表記「大倭」の音を、日本で漢字表記したものです。
654 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:20:49
「奈良はウリナラ(私たちの国)という意味ニダ」
「雄略天皇の歌は朝鮮語で○○という意味ニダ」
→「日本は韓国人が建てた国であり、日本王も韓国人ニダが、日本王はその事実を隠してるニダ」
九州説と似てますね。
655 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:22:54
>>650 しょせん倭人の発音を聞いて漢字をあてただけだ。ヤマタイ→ヤマタ。
似た音であることはまちがいない。
656 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/31(日) 12:41:08
まあ明史があれだから魏志もやっぱ同じくらいとんでもなんかねえ。
657 :
改め:2009/05/31(日) 12:42:46
>>655 >しょせん倭人の発音を聞いて漢字をあてただけだ。ヤマタイ→ヤマタ。
>似た音であることはまちがいない。
オロチ伝説とごっちゃになってるのでは?
邪馬台国を山田国とかいうやつ初めて聞いたわww
どいつもこいつも笑わせないでくれw
そうかな?
山田姓の起こりとしてありうると思う。
659 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:31:26
山田姓は近畿に多く、九州では少ない。
電話帳
660 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:41:42
それも東遷した証拠の一つじゃないか。
661 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:54:51
信州の栄村は断トツだな
あんな辺鄙なとこが邪馬台国だったのか・・・・
663 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:46:26
おい! おまいらは馬鹿か!
山田姓の多い少ないが邪馬台国と関係?
いったいどういう脳ミソしてるんだ、情けない!
664 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:58:37
>>662 信州には天岩戸があるよ。
手力雄神社もある。
信州は滋野など、古代神話に関わっているな。
邪馬台国とは関係ないと思うが、古代国家の
歴史としてはいろいろ出てきそうだ。
666 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:17:57
鬼頭氏の人口調査によると、弥生時代の東山(長野、山梨)の人口は多い。
九州全部、近畿地方全部、関東地方全部、これらの地域に匹敵するくらいの
人口がある。山陰・山陽(中国地方)よりずっと多い。
地名は、記紀にもけっこう登場するね。
667 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:32:59
来年、奈良にとって重要な事件が起きる。
668 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:36:38
善光寺式阿弥陀三尊は、欽明天皇の時代552年に百済の聖明王から献呈されたものとされている。
一方、法隆寺は、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てら
れているので、由緒は、善光寺のほうがずっと古い。善光寺如来と聖徳太子の往復書簡の存在が
知られているように、当時の長野は進んだ文化をもった先進地域として大和からも一目置かれてい
たことがわかります。
669 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:49:46
善光寺は何時出来たの?
670 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 16:15:08
ひみこ=ひむか
ほとんど同じやね
671 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 17:57:42
>>665 >邪馬台国とは関係ないと思うが
それがそうでもないかもしれないw
布留0=240〜260なんて年代なら庄内期の纏向型前方後円墳は3世紀前半
そしてヤマトのものと各地のものがそれほど時間差が無いとしたら
北限は会津まである纏向型も邪馬台国時代にかかる可能性が出てきた…?
何れにせよ纏向の勃興はどうしても西日本だけでは理解しにくいところはあると思うwww
672 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 17:59:18
天武天皇は信濃国に遷都する計画があった。
なぜ信濃国が注目されてたかも関心をよせなければ、何も見えてこないよ。
673 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 18:08:10
会津といえば、四道将軍の時代に征服されており、
崇神天皇、モモソヒメとも同時代の頃だな。
纏向型が、モモソヒメの時代の伝承とピタリあうなら、信憑性は高まる。
674 :
12:2009/05/31(日) 18:52:53
信濃の前方後円墳のあるあたりは、濃尾平野勢力の影響が強いのかな。弘法山古墳(松
本市 3世紀?前方後方墳)からは、元屋敷式土器と推定される土器が出てて、ちょうど
今話題の布留式の最古級程度に平行すると思われる。土器は葬送儀礼に使われたもの
で、鏡、剣、勾玉のセットや東海の影響の強いS字甕が出土している。
まあ、信州はいろんな面で示唆的なんだな。
675 :
12:2009/05/31(日) 19:35:16
674 1行目 前方後円墳→前方後方墳 スマソ わけわからんね。
俺は狗奴国=東海説なんで、以前は前方後方墳は卑弥呼の鬼道と対立する概念だと
思っていたが、最近はちょっと自信ない。遺物からは後円墳の祭祀と、そんなに大きな
違いは読み取れないんだよな。
長野県は縄文遺跡が多く、この時代の中心地の一つだったと考えられてる。諏訪神社の
御柱祭りは古事記に、建御名方神がこの地に逃げてきた際に、これより外に出ないこと
を誓って神社の四隅に結界の柱を立てたのが始まり、という記述があるが、実際は縄文
祭祀と考えられる、ミシャグジ神信仰に関わるもにであるとする研究を読んだ記憶がある。
676 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:46:11
九州説の人は認めないだろうけど、
天岩戸伝説に出てくる、手力雄、ウズメなんかは信州で祭られている。
ウズメの結婚相手は伊勢のサルタヒコだから、
信州と伊勢の繋がりを神話からも感じさせる。
まだまだ信州を舞台にした面白い話は山ほどあるけど、
九州説の人にはどうでもいいことだろうな。
677 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:01:33
魏志倭人伝に天岩戸伝説が載っているというのは、畿内説の妄想でしょ?
679 :
12:2009/05/31(日) 20:12:18
続き
長野の歴史は、けっこう研究されてて、弥生文化の流入は、東海地方から県南西部へと
伝わるルートと、その後に北陸地方から北部へと伝わるルートとの2方向からという説が
有力視されてる。
中野市の柳沢遺跡は、東日本で唯一、銅鐸(5)と銅戈(8)がともに出土したことで知られて
いるが、この銅戈も畿内型と九州型が混在しており、複雑な文化背景があることが伺える。
つい最近この遺跡から、前1世紀と推定される、シカを描いた絵画土器が出土し、話題になった。
シカは豊作をもたらす霊力を持つという説があり、西日本型の農耕祭祀といえる。従来のシカ
絵土器の分布の東端は石川県であったたが、おそらく北陸経由でこの地に伝わったもの
ではないか。
680 :
12:2009/05/31(日) 20:13:38
続き
これらのことから、縄文期から列島内での人の移動、交流は大きかったと推測され、倭人伝
の記述が、九州島内だけを範囲としているのではない一つの証左となると考えている。
あと673のいうように四道将軍の話は、かなり史実をよく伝えているという気がする。
長レス スマソ。
681 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:13:39
古代ナガ大国は信濃で復活する!
682 :
12:2009/05/31(日) 20:44:37
あと、信濃はもともと「科野」であり「科の木(シナノキ)」の産地であったからとする説が有力
である。シナノキは繊維がロープ原料になる。海のない長野で、もやい綱が作られていた?
としたら面白い。
「科野」は、さらにさかのぼれば「シナヌ」であり、古事記の記述にある 建御名方神が建御
雷神神に追いつめられ、「この地から出ないから殺さないでくれ」といって命を助けられた
ことから「シナヌ」になったのならこれも面白いが、もちろん妄想。
683 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:03:01
684 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:06:48
685 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:09:39
こんなところに、北野天満宮まである。
686 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:39:26
>>676 日本書紀によると、天孫・瓊瓊杵尊が日向に降臨するとき、五部の神が供を
したが、その中の一人が天鈿女命。
途中道案内をしたのが、猿田彦で、猿田彦は、天孫を高千穂に送り届けると、
伊勢に向かった。そのとき伊勢まで猿田彦を送っていったのが天鈿女命。
ということで、九州と無関係というわけではない。
687 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:44:44
諏訪ねぇ
スサノオがおちのびた土地だね
688 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:55:07
>>686 九州高千穂に降臨するのに、伊勢の神が道案内するっておかしいと思わないのか?
689 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:56:16
>>686 ついでに書くと、瓊瓊杵尊に従って日向に降臨した五部の神とは、
中臣氏の遠祖・天児屋命(アメノコヤネノミコト)
忌部の遠祖・太玉命
猿女の遠祖・天鈿女命(アメノウズメノミコト)
鏡作りの遠祖・石凝姥命(イシコリドメノミコト)
玉造の遠祖・玉屋命
となっている。
690 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:01:22
>>688 日本書紀によると、猿田彦は、「天孫が日向にお下りになると聞いて
お待ちしておりました」となっている。
そこから伊勢に行ったわけだから、もともと伊勢にいたわけではないと思う。
>>690それはどういうことかというと、猿田彦は徐福の子孫で、
天孫族は秦の始皇帝の子孫ということです。
692 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:07:11
>>689-690 まるで史実みたいに受け止めるのはどうかしてる。
忌部の拠点は四国だぜ?
693 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:14:12
>>687 素戔鳴尊は、高天原を追放されて出雲に行った。そこで大国主神などの
先祖になるわけだが、そのあと根の国に行ったとなっている。
諏訪大社は、素戔鳴尊を祭っているから、根の国というのはここら辺と
いうことになるのかな。
694 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:16:16
>>692 史実とは言っていない。日本書紀によると、と言っているはずだが。
695 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:24:29
>>694 ならば、日本書紀が編纂された当時の氏族の力関係で、
神話の記述が影響されたと推察できるはずだが?
つまり、サルタヒコは伊勢の神だったが、
神話を体系付けるときに天孫降臨の道案内役とされたわけ。
天神ではないが、征服されたわけでもない、という位置づけなんだよ。伊勢は。
696 :
12:2009/05/31(日) 22:25:39
シナツヒコか。「シナ」は「息長」という意味で、台風の象徴であるのかな?33レスで伊勢神
宮への道教の影響を書いたが、これはもっと古代の農耕信仰という感じがする。「風伯神社」
の風伯自体は道教用語なのだと思うが。サルタヒコは、目が八咫鏡のように輝いてるといった
記述から、もともと天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もあるね。
もちろん、これらのことはそれぞれ意味があるんだろうが、記紀が書かれる後代までに加
えられていった挿話もあるだろうし、神話から史実を読み取るのは難しいなあといつも思う。
697 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:37:35
>>695 確かに、記紀の編纂時の状況が影響していると言えなくもない。
しかし、それは伊勢についても言えるかもしれない。
698 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:37:51
699 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:42:18
>>698 五部の神は、遠祖となっているから、どっちが早いかといわれると
天孫降臨の方が早いんじゃないかな。
まあ、後付の可能性も否定は出来ないが。
700 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:45:01
701 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 22:52:21
>>699 もし、天孫降臨が、ある年代の史実で、氏族もその時代を起源とするなら、
鏡作りの遠祖・石凝姥命(イシコリドメノミコト) はどう考えるつもり?
鏡の国産化が成功してから高千穂に天孫降臨したとでも?
鏡作りの遠祖・石凝姥命を祀る神社は、奈良の鏡作坐天照御魂神社が有名だけど、
九州にはあったかな?
702 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:03:18
>>701 日本書紀の言わんとするところは、高天原つまり天上から降りてきた神々の
子孫が全国に広まったということじゃないかな。
つまり、日向が最初で、その後全国に広まったと言うことを示唆している
わけだろう。もちろん、史実かどうかは定かでないが。
703 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:42:37
704 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:42:52
高天原は壱岐。
畿内で政権とった天武のころには、その伝承がわからなくなっていただけ。
705 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:44:43
>>702 >日向が最初で、
むちゃくちゃ言うな。
706 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:48:28
707 :
12:2009/05/31(日) 23:50:09
703は神社の関係者の人が書いてるのかな?だとしたらご苦労様です。
708 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 23:53:37
邪馬台国九州説、おまえはもう死んだ。
九州には継体天皇と比肩する勢力をもった磐井が実在していたのだし
立派な遺跡も残っている。古墳の内部をnhkで紹介していたけど、すごいね。
高松塚より豪華じゃん。
卑弥呼に負けず劣らず魅力的な観光資源だから、それを大々的に宣伝したほうがいいよ。
古代史好きの歴女が増えているから、効果はあるよ。
TVドラマ化してくれないかな。
筑紫の君は、是非金城武で。
709 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 00:07:10
九州王朝系の天武が、壬申の乱で樹立したのが、
九州王朝系大和朝廷。法隆寺も九州から運びました。
畿内に初めて王朝ができたのは、このときだったわけです。
昔は鉄器も宮殿もなかった畿内が、立派な国家になりました。
710 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 00:15:38
■箸墓古墳:歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから
──考古学協会理事、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請──
──データの信頼度など会場から質問続出──
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。
247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240〜260年を導いた。
発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は
「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」
と述べた。
しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。
中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】
毎日新聞 2009年5月31日
http://mainichi.jp/select/today/news/20090601k0000m040042000c.html?link_id=RSH02
711 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 00:36:55
712 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 01:51:50
箸墓の年代判定だけにすがって生きる、畿内説のはかなさが笑えます。
纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に
5月31日22時26分配信 産経新聞
早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。
纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年
ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末〜
3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り
込まれることになった。
また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220〜260年ごろ、
矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は
220〜240年ごろの築造の可能性が高いという。
研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、
卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240〜260年築造との見解を出しており、
纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳
(3)箸墓古墳−の順に築造された可能性が高いとしている。
炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの
春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで
年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者に
ついては「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」と
している。
邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が
擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090531-00000575-san-soci
714 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 02:48:54
>>713 >纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳
>(3)箸墓古墳−の順に築造された可能性が高いとしている。
ふむふむ。
そしたら
(1)纒向石塚古墳 ・・・卑弥呼のお父さん
(2)矢塚古墳 ・・・卑弥呼のお母さん
東田大塚古墳 ・・・卑弥呼の叔父さん(か叔母さん)
(3)箸墓古墳 ・・・卑弥呼さん
ということでいいんじゃね。
ようやく墓の主が判って、よかったよかった。
めでたしめでたし。
こらこら、勝手に決めちゃいかんぞ
箸墓古墳、卑弥呼の生前に築造開始か 歴博が研究発表2009年5月31日20時36分
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が西暦240〜260年ごろとする
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究成果が31日、東京・早稲田大で開かれた
日本考古学協会の研究発表会で報告された。春成秀爾(はるなり・ひでじ)・同館名誉
教授は「箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した墓の可能性が強まった」との見解を示した。
同館は箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素年代を測定し、
築造時期を絞り込んだ。春成名誉教授は中国の史書「魏志倭人伝」の記述から、
卑弥呼が247年に死去したと推定。「全長280メートルの古墳を築造するには10年前後
かかったとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、
死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥呼自身が箸墓古墳を築造していた
可能性が高い」と報告した。
会場となった教室は400人の聴衆で満員に。「付着物の年代が土器より古い可能性も
あるのでは」という質問も出たが、春成名誉教授は「同時に出土した植物の種も測定
したが、ほぼ同様の年代が出ている」と応じていた。
http://www.asahi.com/culture/update/0531/OSK200905310039.html
717 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 06:35:47
>>588ローガンさん
入れましたか?
聴講されたのなら会場の雰囲気とかレポートよろしく。
白石さんはまあ著書と同じことを喋られたと思いますが、w
ひょっとしてなんか新見解とかオモロイことなど言っておられませんでした?
718 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 06:54:30
考古学界はまた神の手を使い、記紀の内容を抹殺しようとしている。
箸墓は、モモソの墓だ。
●縄文人は海洋系狩猟民族。
●弥生人は揚子江の南、越国の倭人が中国春秋戦争から逃げ流入。
●天高原はフヨ国(モンゴル東部)。馬韓王族の伝承。
フヨ系王族が支配する馬韓より追放された王族スサノウは新羅を介し出雲へ渡来。
出雲で日本海沿岸にかけて大王国を作る。
神社を全国に作ることで支配(祭神はスサノウ、ニギハヤヒ、オオクニヌシ)。
現在、ほとんどの神社の祭神にはスサノウ・ニギハヤヒ・オオクニヌシが入っている。
スサノウの子孫ニギハヤヒ(物部氏)が大和まで到達。邪馬台国(ヤマト国)建国
関東地方まで支配を広げる。支配の為大和に出雲政権を移動(オオクニヌシの国譲り)。
魏志倭人伝の倭国大乱は大和出雲連合と筑紫連合国との戦争。
ニギハヤヒの9世代後が卑弥呼(モモソヒメ)。(籠神社より系図発見・国宝)
卑弥呼時代に筑紫と和解。筑紫の円墳と大和の方墳が合わさり前方後円墳発生。
大和と筑紫が人質交換(神武天皇東征伝説)。神武は物部に婿入り大王家となる。
大和朝廷成立。大和とは大連立の事。ヤマト読みは前の地名(邪馬台)のなごり。
アマテラスは神武の神。全国の神社にアマテラスを合祀させる。
大王家は祭祀のみ、政治は物部と大伴(筑紫系)。
●漢末の戦乱から逃れ弁韓に留まっていた西漢氏(神功皇后)
が筑紫に渡来(天孫降臨)。馬を持ち込む。その子供として筑紫にて応神出生。
応神東征、騎馬の威力により香坂王・忍熊王を倒し即位、
応神天皇河内王朝成立。応神の神は住吉神社。(海運・交通の神)
半島より東漢氏、秦氏他渡来人を呼び寄せ高度な土木技術で巨大古墳、神社を作る。
●筑紫勢力に政権を奪われた大和勢力は越前、剣神社(祭神・忍熊王)
にいた忍熊王の5世代後子孫、男大迹王(継体)を擁し反逆する。
20年間の戦に勝利し継体天皇が大和入りする。
翌年、継体は半島との外交ルート確保の為、筑紫の磐井の乱とされている戦い
を起こし、物部麁鹿火が筑紫王・磐井を平定する。
大和朝廷(物部王権)は、君主独裁制ではなく合議制だとよく言われるけど、それは今で言うEUみたいな感じなのかの?
加盟各国の首相が半年毎に交代で議長を務め、EU全体としての課題や問題を話し合って、
最終的にはストラスブールにある欧州議会で、各国の票数持ち分による多数決で決めるみたいな。でなければ、
−纏向で全国各地の土器が出土している理由
−巨大な前方後円墳が、(大和だけでなく)全国各地に分布している理由
が説明できん…
721 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 11:31:31
>>720 朝廷に貢献した部族には前方後円墳を作る権利と技術を与えた。
貢献によって土器が集まり、各地に前方後円墳が広がった。
722 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 12:47:56
安本説は崩壊
これははっきりした
723 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:07:38
畿内の古墳から卑弥呼が魏に使いを送った年号を記した銅鏡が出土してるし。
そんな偶然の一致がある訳がない。畿内の古墳は明らかに魏志倭人伝の邪馬台国
の記述と関連がある。
724 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:11:26
現在の日本の政治でさえ数年数ヶ月で流れが変わるので当時の日本でもいくら
統一しても地方から反乱分子がでてきたことでせう。
725 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:24:22
卑弥呼の墓は、円形で土盛りの低い塚だ。つまり、
箸墓が卑弥呼の墓じゃないのは、千数百年前から決定してる。
悔しかったら卑弥呼の遺跡を提示してみろ、この古田信者が!www
>>725 で、卑弥呼の塚は九州のどこにあるの??www
728 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:43:41
>>725 冢は大きく高い墓。径は図形のさしわたし。円形とか低い塚という意味はありません。
前方後円墳であってもかまわないのです。しかし、問題は前方後円墳の場合、径は長径
(長さ)と短径(幅)のいずれかであるということです。けして、後円部の直径など
ではありません。倭人伝は倭人の墓が大きいということを伝えようという記事ですから
当然、その径は長径のはず。となると、前方後円墳ならば長さ百余歩すなわち長さ140
ぐらいのものです。長さ280の箸墓は卑弥呼の墓ではありえません。
結局、「近畿説ではありえない」を連呼するだけの九州説であったwww
730 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:49:23
>>727 日向の生目古墳群の古墳は、時代も大きさも問題ありません。
時代と大きさが合うというだけで、畿内説論者みたいにすぐに卑弥呼の墓で
決まりだなどと軽率に断定はしませんが。
>>730 結局、断定できないんですねwww
箸墓は卑弥呼の墓ではありえないと決定しているのにもかかわらずwww
732 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:54:28
「漢委奴国王」印が出土した場所が卑弥呼の遺跡
卑弥呼は邪馬壹國の王都である伊都国(倭奴国)にいた
魏から「親魏倭王」印を新たに貰った
卑弥呼が死んだ時、不要になった「漢委奴国王」印は卑弥呼と供に卑弥呼の墓に埋められる
「漢委奴国王」印が出土しているので卑弥呼は破壊されて無いと考えられる。
733 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 14:07:18
>>731 ジンギスカンの墓を見つけてきたら、探してあげる。
734 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 14:08:28
>>728 >しかし、問題は前方後円墳の場合、径は長径
>(長さ)と短径(幅)のいずれかであるということです。
それは不正解という証拠です。
存在しない遺跡を卑弥呼の遺跡に比定なんて、九州説は性質の悪い宗教みたいですね。
736 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 14:24:00
もし卑弥呼の墓が現在も存在していたなら
各地で遺跡の調査が進んだ今日
卑弥呼の墓は既に発見されているはずである
未だに何の手がかりも発見されていないのは
卑弥呼の墓は破壊されてしまって
現在は無いとしか考えられない
無関係の箸墓を無理やり卑弥呼の墓に比定なんて、畿内説は性質の悪い宗教ですね。
九州には遺跡も墓も無いとしか考えられないんですねwww
738 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 14:29:14
>>737 現在の日本に遺跡も墓も無いとしか考えられないんですよ
>>736 卑弥呼の遺跡も墓も破壊されてしまっているとすれば、九州説は考古学的に証明しようが無いなぁ。
証明しようがない九州説が畿内説を宗教呼ばわりする資格はないと思う。
それこそ宗教だ。
740 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:10:50
741 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:11:25
九州説の証明は魏志倭人伝の解読と
「漢委奴国王」印の出土で十分。
742 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:15:12
親を発見?w
「親発見」× 新発見です。ごめんなさい
>>741 実質「漢委奴国王」金印が九州論者の唯一の論拠ってことですね。
745 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 15:35:48
俺、久しぶりに来たっすw
746 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:41:03
箸墓はモモソの墓
747 :
ローガン:2009/06/01(月) 15:42:29
>>717 > ローガンさん 入れましたか? 聴講されたのなら会場の雰囲気とかレポートよろしく。
> 白石さんはまあ著書と同じことを喋られたと思いますが、w ひょっとしてなんか新見解とかオモロイことなど言っておられませんでした?
はい、行ってきました。少し早く着いたので入れましたが、入れない人も多く、シアターでモニター聴講する人が多数でる程の盛況でした。
講演自体は仰る通り著作に沿った内容でした。まあ、一時間半しか時間がないので、細かい部分にあまり言及されなかった。
定刻終了後に20分程時間を設けて、このたびの歴博発表の件についてお話がありました。
内容については発表がちょうど、この講演と同時なので、事前に配布された資料以上の事は知らないと。
ちなみに関係者に出されたこの資料を「土曜日迄書くな」と言っていたのに、朝日新聞がフライングしたらしいです。
又C14については「日本は他の国より、年輪年代法が遅れていたがこれでやっと炭素年代法が使えるようになった。しかし炭素年代法の歴史とは考え出されて以来、修正の歴史である事を理解しておかねばならない。」
そして、寿陵と思わせる記述が何も無いのにもかかわらず、「箸墓はヒミコが生前から作りはじめた」と言った春成さんを揶揄してましたね。
実は私も全く同感で例の新聞記事見たとき、250年だったら箸墓はヒミコの墓にならんだろう?って思ったんです。わ〜少し古くですぎたなあって。
748 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:43:07
>>741 金印の発見によって奴国は博多湾岸と確定、ということかな?
でもそうすると倭人伝の方角の記述はあてにならなくなるんだよ
方角にずれがあるから畿内説の芽が出てくるんだよ
>>745 モンタキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
750 :
ローガン:2009/06/01(月) 15:52:43
>>736 なるほど、現在見つからないからといって、「なかった」とは云えない。
同意。 「鉄」とかもね。
751 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 15:54:02
「冢、高墳也」
箸墓のまわりにある低い墳は何?
>>748 方角、距離についてはもとから当てにならないと思う。
753 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 16:00:48
邪馬壹國ってさ、別に謎でも何でもなく、ちゃんと古書を読めば何処にあったのかぐらい解るよ
あと「倭人」ってのは「委う人」って意味で日本人って意味じゃ無いよ
何を委ってたかって言うと大和朝廷の国造りを委ってた人って意味だよ
記紀とかにも「国造り」の話は沢山あるでしょ?
あれが日本の文化の封建社会だよ
ちなみに「魏」も「倭」も同じ「委」を使ってる字って事解る?
「人」と「鬼」の違いなだけだよ
魂、魁、魅、魏、魑魅魍魎
つか「魏」ってのはむしろ日本の朝廷の事だと思うけどなあ
魏志倭人伝ってのは魏が国造りに向かった倭人から、倭人達が向かった土地の事を伝え聞いた事だと思うよ
つかそもそも今の中国にある漢書って、明治維新後に日本から清朝廷に持ってった書物で、中国にあった書物じゃないよ
(,メ`m´)ノ カエレ!!
755 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 16:09:40
つか古代の東アジアの文化の中心は日本だよ
つか今言われてる中国の歴史なんてのは史実とは全然違うよ
そもそも「秦」ってのはローマ(古代イスラエル)の事だし
「夏」ってのは中東やインド北部のシュメール朝の事だし
「漢」ってのは今の韓国にあった満州氏族の朝廷の事だしさ
例えば「元」ってのはモンゴル氏族の朝廷だって事は解るでしょ?
そもそも三國志ってのは中国の話じゃないしさ
>>747 >ちなみに関係者に出されたこの資料を「土曜日迄書くな」と言っていたのに、朝日新聞がフライングしたらしいです。
また朝日か。
757 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 16:27:41
まず「漢」ってのは中国じゃなくて今の韓国の事だよ
「韓」と「漢」ってのは同じ意味の漢字だよ
漢王朝ってのはソウルにあった王朝で、満州人達の王朝だよ
で、その韓国(漢国)に国造りに向かったのが、日本の朝廷の命を受けた日向三代だよ
で、彼らが韓国(漢国)の南部を治めて農地などを開拓し、百済や任那や新羅を作ったんだよ
その中に倭人(任う人)の女王が治めてた「弥烏邪馬國」ってのもちゃんとあるよ
墓は須観山の北部の何とか山(ごめん、名前忘れた)だよ
墓って言うか、当時は山岳信仰の時代で国之常立命は御岳山
天照の胞は恵那山
天照は皆神山
見たいに死んだ偉い人達は、山に埋められ山そのものに宿るんだよ
ちなみに須観山ってのは仏教では「世界の中心の国(中つ国)にある山」とされてるけど、これ日本の事だよ
758 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 16:46:11
あと根本的な事だけど、当時は「国家」や「国」なんて観念は存在しないよ
「国家」なんて観念は産業革命の時に産まれたものなんだし
ちなみに日本も明治維新によって初めて「日本国」っていう国家観念の元に造られた国家って奴になったんだよ
中国大陸では満州国が初の国家
それ以前にアジアには「国」なんてのは無いよ
「國」ってのは「地域」って意味だよ
だから邪馬壹國ってのも倭も漢も魏もシナも清も大和も、国の名前じゃないんだよ
(;゚д゚)ポカーン
760 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 16:57:35
>>758 国じゃないのは当たり前。当時国文字はなかった。
>>760 もん太を構うな。
近代国家(nation)まで概念を広げた泥沼に引き込まれるぞw
762 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 17:10:23
>>759 「國」ってのは「地域」だってば
明治維新前まで日本の幕府や朝廷や天皇の事を「王」なんて呼ばないでしょ?
「國へ帰らせて貰います!」
ってのは、生まれ育った地域に帰るって意味なんだよ
筑紫國、尾張國、信濃國、百済國、会津國、、、
國王や女王なんてそれぞれの地域に要るんだよ
「王」なんてのは「藩主」と同じ意味だよ
天下を統治した人は王じゃなくて「帝」だよ
例えばヨーロッパも昔は沢山の城があってそれぞれその土地を治める「王」が住んでたよ
んで、それらの王を束ねてる人が「帝」だよ
帝って言うか要は朝廷だね
卑弥呼は単なる「女王」なだけだよ
んで、百済も新羅も朝廷は無く朝廷に従える「王」達が治めてた土地ってなだけだよ
日本の記紀にある「國造り」ってのは、ようは地域拡大の意味だよ
そうして朝廷の身内の氏族達が朝廷が統治する範囲を広げて行く事だよ
そうやって信州の天照の血統氏族の物部氏族が奈良や京都を治め、関東も九州も治め、漢半島の南部の百済や新羅までも統治してったんだよ
日向三代達が國造りに向かった漢半島南部は、白江村の戦いで負けるまで、日本の朝廷が治めてたよ
763 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 17:28:19
「箸墓=卑弥呼の墓」…これを崩したければ
「百人の殉葬跡が確認されていない」と言えば一番手っ取り早いw
無論、内部の調査がされていないのだから出てくる可能性はゼロではないだろうが
ぶっちゃけそんな物があるなんて考えている学者もそう多くないんじゃないかな?w
無論その事は九州説にもブーメランとしてかえってくる話ではあるが
とりあえず攻撃材料には一番手っ取り早いんじゃないかな?www
正直、個人的には箸墓が卑弥呼の墓かどうかはどうでも良いことで
(まあ話題づくりとしては分からないでもないがw)
布留0=240〜260なんで年代は今後九州説も最低限
纏向と九州邪馬台国が並存していた事を前提としなければ成り立たないって事。
…安本先生サヨナラw
後は九州の初期型前方後円墳の出現期がいつかが分かれば
卑弥呼の時代首長連合の範囲は九州にまで及んでいたと言うことで
畿内説は一応の完成を見るんではないかな?
畿内の庄内期の纏向型と九州の物にそれほど時間差が無ければ十分ありうる話で
九州の卑弥呼の時代に既に前方後円墳が作られ土器も流入してた・・・って話
764 :
河童虫:2009/06/01(月) 17:32:26
なんか長閑でいいな〜
2ちゃんに来ると、浮世の風を忘れさせてくれる
765 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 17:33:34
>「箸墓=卑弥呼の墓」…これを崩したければ
魏志倭人伝の記述に畿内地方自体が不適合なので、
畿内説は初めから成り立たないので心配するな。
766 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 17:34:04
>>760 うん
で、卑弥呼ってのは帝でも朝廷でもなく「王」なんだよ
「藩主」って言えば解りやすいかな?
あと血統だね
日本人ってのは神代からの血統の由来を持ってるから日本人なんだよ
卑弥呼が日本人の女王だと言うなら日本の朝廷に従えて、邪馬壹地域を統治してたってだけの人だよ
もし卑弥呼の血統が日本人じゃなく沖縄人やアイヌ人だったとしたら、日本の朝廷により統治された邪馬壹地域の女王なだけだよ
まあ卑弥呼は前者だよ
邪馬壹國ってのは日本の朝廷が治めてた地域の1つなだけだよ
倭人ってのは朝廷の命を受けて國造りを委された人って意味なんだよ
だから「倭國」ってのは「その委された人が治めた地域」って意味であって、日本全体を表す意味じゃないよ
九州や漢半島南部の百済や新羅が倭人達が治めてた倭國だよ
九州説の人はもう、邪馬台国なんて無かったと
主張するしかないんだよw
768 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 17:45:48
>>764 まあもともと邪馬台国論争なんて浮世離れした話ではあるがw
この板の九州説だと九州だけ倭人伝だけと更に浮世離れと言うか
歴史そのものからも離れていく傾向が強いなwwwww
( 例:方角の絶対視→隋使が訪れたのは九州の何処かの都 )
まあ荒神谷や加茂岩倉、青谷上寺地、あるいは丹後での遺跡遺物の発見により
日本海側がクローズアップされ
恐らく今後、東日本もより重要になってくるだろう(纏向の勃興にも関わってくる話)
もはや3世紀ごろの日本を知るのに九州ときないだけ考えてりゃ済む時代は
とっくに終わったって話だなwwww
769 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 17:49:49
邪馬壹國に九州説も畿内説も無いよ
だいたい邪馬壹國だなんだなんて、近代の学者が勝手に「日本の発祥だ」見たいに言ってるだけだし
だいたい魏志倭人伝以外の漢籍書にも邪馬國の記述は沢山あるんだし、倭人の女王が治めてた邪馬地域が何処なのかなんて普通は解るはずなんだけどな
少なくとも明治維新の前までは、漢は中国の事じゃなく、漢半島にあった満州人の朝廷だって事や
日本が國造りで漢半島に渡り、土地を開拓して百済や新羅を作った事なんて当たり前の認識だったのにね
なんか戦争で負けてからは、それまでの日本の歴史認識を捨てて、中国や韓国の主張する歴史の認識に従わなければダメって事になっちゃってるし
秦や夏や元や漢や清まで、まるで中国大陸にあった中国人の昔の国見たいな事にされてるしさ
これが間違いだって事を気付かない人は、卑弥呼や邪馬壹國処か、ずっと日本の歴史自体も解んないままだと思うよ
そもそも米や紙は日本が大陸に伝えたものなんだよ
770 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 17:52:48
日本史板で、言葉の通じない2大巨頭
@美濃もん太
Aプラム=河童虫
771 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:00:20
そう言えば今後、歴史教科書の記述も変わるんかね?
いや現行の教科書の内容も良く知らんが…
「古墳時代は3世紀から」とするか
もしくは古墳時代の前に「プレ・古墳時代」を設けるか?www
772 :
河童虫:2009/06/01(月) 18:28:26
>>768 単に本州について記録した記録書が残っていないだけの話し
倭人伝に記録されていないからと言って、決してマイナーなわけではない。
当然九州以上の高い文明が存在したであろうし
それを無視するわけにはいかない。
本州は倭人伝とは切り離し、倭人伝なぞ構わず先に進めばいいと考える。
倭人伝は、列島の一部分をメインとした漢人が携わった記録だ。
倭人伝は、列島全体の歴史書ではない。
773 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:29:19
骨って腐らず残るよね?
てことは古都の周辺なんかは大昔の墓を持てなかった一般人の骨が大量に埋まってるのかなぁ?
774 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 18:29:52
>>770 つか俺はもうとっくに邪馬壹國が何処にあったのか解ってるってば
魏志倭人伝以外の古書を読めば、弁韓や辰秦の記述の中に詳しく書いてあるんだし
ちなみに「卑弥呼」とか「邪馬壹國」とか、呼び方が違うだけで、日本の記紀の中にもちゃんと書いてあるよ
卑弥呼の墓の事とかも卑彌呼の事とかも、ちゃんと書いてあるしさ
ただ「倭人」の意味や、漢は中国じゃなく韓国の事だとか、百済や新羅は日本人が統治した国だって言う事だとか
そういう正しい歴史をちゃんと認識出来ない人には一生、邪馬壹國は何処の事なのかなんて解らないよ
君と俺じゃ、まず邪馬壹國とか以前のアジアの歴史の認識が全然違うでしょ?
例えばさ、秦や夏や漢が中国にあった国だとかってのは、君の思い込みだよ
けど、それを俺がいくら説明した所で、君は聞く耳を持たないだろうしさ
言葉が通じない訳じゃなく単にそれだけの話だよ
だから話がずっと合わないだけだよ
775 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:39:24
>>772 >単に本州について記録した記録書が残っていないだけの話し
はあ?
それは九州説を前提にしたお話で
故に九州説は九州だけで完結していると言ってるんだなw
分からんやっちゃなw
そもそも古代の中国人がなんで関門海峡で区切って
地域を認識しなければならないのかが良く分からないw
よく推理小説で外部との連絡も絶えた孤島のような条件で
事件が発生したと言うプロットの物があるが
九州説はあのノリに近いwww
舞台設定として九州限定。
推理材料として魏志倭人伝限定。
…この設定でスタートするゲーム。
まあ知的遊戯としては高尚な部類に入るだろうが(無論論者によりピンキリw)
776 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:43:18
畿内説に根拠は何も無い。
「箸墓=卑弥呼の墓」等とは笑わせる。
箸墓から卑弥呼の表札でも出たのか?
魏志倭人伝の解読は終わった
伊都国が邪馬壹國の都で問題は解決されたのだよ。
777 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:52:57
中国人の距離感からすると九州と畿内はごくごく近所かも?
しかし昔の人はタフだなぁ!
778 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:57:45
魏の郡使は殆ど船で移動したんだよ。
779 :
河童虫:2009/06/01(月) 18:58:14
780 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:00:41
そもそも「広範な首長連合」を主張している畿内説にとって
仮に倭人伝の風俗記事が九州のであっても
またそこに出てくるクニが九州のものが多くても何ら不都合な事は無く
そう考えるのが当たり前w
(まあこの辺の事もあって「首長連合」と言う語に強く反発する奴がいるんだろうがw)
よくこの板の九州説だと
「倭人伝には前方後円墳なんて出てこないから畿内説はありえない」
なんて事を言う奴がいるが
今回発表された年代だと卑弥呼の時代九州には既に前方後円墳が出現した可能性が
非常に高くなってきたわけでwww
>>776 >伊都国が邪馬壹國の都で問題は解決されたのだよ。
これは古代史の素人にも他の多くの九州説論者にも「???」の気持ちを抱かせるレスだ。
そういうレスをいくら書き連ねても大方の賛同は得られない。
むしろ「九州説って奇妙な主張する人多いから信用できないな」と思われてしまい、まったくの逆効果だろう。
782 :
河童虫:2009/06/01(月) 19:06:55
九州を治めていた勢力は、本州を治めていた勢力よりも規模も文化も引けをとっていた。だからどうしても大陸の
後ろ盾が欲しかった。
大陸側の後ろ盾なくしては、安定した治世を営なめなかった
列島の文化の中心は、やっぱり本州だよ
783 :
河童虫:2009/06/01(月) 19:16:28
道理から言えば
小さな勢力ほど、大きな力の後ろ盾を欲しがる。
784 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:17:49
785 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:22:02
>>783 それは一方の側だけの損得勘定の話で
じゃあ、その大きな力の勢力(魏)が弱小勢力(九州邪馬台国)の後ろ盾になるメリットは?って話がすっ飛んでるw
無論理論上ありえない話ではないが最大勢力を抱き込む場合より
色々と「お話」を付加せねばならず蓋然性と言う点において劣ると言わざるを得ないw
786 :
河童虫:2009/06/01(月) 19:34:03
>>785 それが地の利と言うやつじゃないの
もん太君じゃないけど
大陸側には、九州を丸め込む事で何等かのメリットがあった。
787 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:35:17
>>784 リンク先のサイト全部読まずに目に付いたところだけで話して申し訳ないのだが…
そのサイト大丈夫か?w
>遣唐使の航海術
>倭=畿内大和とすると、なぜ遣唐使船が簡単に難破するのでしょうか?
>しかし、倭≠畿内大和、倭=九州であると考えると
>「遣唐使船は辺境の畿内大和王朝が初めて大陸に送った船であり、
>畿内大和地方には渡海するだけの経験や知識が無かったから多くの遭難船を出した。」と簡単に理解できます。
そもそも8世紀に新羅との関係が悪化し従来の壱岐・対馬を経由して半島にいたると言う
最も安全確実なルートから東シナ海横断ルートにならざるをえなかった…というのが常識ではないのか?www
788 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 19:42:05
漢籍書のさ、「南史」と「北史」を読んでみ
【南史】
倭国の出所及び、所在の地は北史に詳細に記してある
【北史】
倭国は百済新羅の東南部の水陸三千年里
大海中の山島に居する
山島の魏、中つ国30余国は皆種子
夷人の里は不知
その国境は東西五月、南北三日月
倭国に添って水行すると歴朝鮮国
その七十里に楽浪群があり、、、
まあ、いろいろ詳しく書いてあるよ
ここでは「魏」は「倭(委された人)」に対しての
「魏(委した側)」って意味で書かれてるよ
「魏」ってのは「高い、でかい、上の」って意味だよ
魂、魁、魑魅魍魎、魏、魅、
「鬼」ってのは霊的な力の象徴見たいな意味だよ
鬼が委し、それに従がえるのが委された人
日本のこの封建制度は江戸時代まで続いてたよ
朝廷(幕府)に委された藩主がその土地を治めてたのが日本の封建社会だよ
倭国が朝鮮半島南部にあり、倭人のボス(魏)は大海中の山島に居る
邪馬壹國ってのは倭国にあったんだろ?
漢籍書の北史に倭人が治めた倭人の地域も、倭した朝廷の所在も詳しく書いてあるよ
宋書にも随書にも倭国の事や、魏志倭人伝にも宋書にも三國志にも、百済、高句儷、倭の三國志の時代の事が詳しく書いてあるよ
789 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:45:09
790 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 19:58:43
日本史板で、言葉の通じない2大巨頭
@美濃もん太
Aプラム=河童虫
791 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/01(月) 20:01:14
>>784 には、>王国の伊都國王と女王に従属していない狗奴國王だけです。他の国の王は何故登場しません。
こんな記事が記載されている。
倭女王と倭王は別人だ。そして倭王≠狗奴國王
我田引水の為には、倭女王=倭王 この程度は常識の範囲と言うことか。
792 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 20:01:17
>>786 だからその「何等かのメリット」を具体的に説明・立証しないかぎり
蓋然性において九州説は畿内説に劣ると言う理屈が分からないかな?
793 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 20:04:36
熊襲と呉が同盟していたため、
邪馬台国と魏が同盟して、これに対抗したと思われる
794 :
河童虫:2009/06/01(月) 20:10:53
>>792 申し訳ないけど
畿内、九州なんてこだわりないし、
そんなレベルで見ていないよ
795 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 20:11:07
漢字ってのは表意文字って言って、発音には意味は無く、字の持つ意味で解釈するんだよ
で、この表意文字ってのは、言語の違う民族同士でも、お互いに漢字を使ってれば、字を書くことでコミュニケーションが取れるって言うメリットがあるよ
例えば北京語が話せなくて困ったら、中国人には漢字を書けばある程度は伝わるよ
ただし表意文字の漢字ってのは、発音や人名を一切表せない文字でもあるんだよ
(日本以外では、漢字に訓読を付ける文化は無い)
日本には漢字以外に表音文字の平仮名やカタカナがある
同じように、満州人は満州文字を、モンゴル人はモンゴル文字を、朝鮮人はハングル文字をそれぞれ持ってるんだよ
中国のように、漢字に訓読みも付けず、漢字以外の表音文字すら持って無い民族は、「文章や言葉を伝える」って目的の「文字」を持って無いんだよ
(ちなみに今の中国は表音文字でアルファベットを採用してる)
表音文字を持って無いって事は、記号や絵で伝えてるのと同じだから
なぜ中国が表音文字すら持って無かったかと言うと、中国は日本や満州やモンゴルに比べて、文化の発達が遅れてたからだよ
何が言いたいのかって言うと、古代の中国が大国だったなんて嘘だって事だよ
アジアの文化を築いたのは日本人や満州人(古代漢人)やモンゴル人なんだし
796 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 20:15:02
>>794 河童
てめえが舞台設定を九州限定にしておいて
その捨て台詞はねえだろう?
「今日の所はこれで勘弁しておいてやる」か?w
下らない奴だなwwww
797 :
河童虫:2009/06/01(月) 20:26:14
>>796 舞台は常に流動的だよ
たまたま倭人伝の舞台が九州だっただけ
本州は本州の舞台があり、九州が浅草演芸場なら、本州はブロードウェイだ
798 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 20:31:25
良く「倭国の王が中国の朝廷に貢ぎ物を」なんて言われてるけど、あれ中国の朝廷って意味じゃ無いよ
だいたい古書物が書かれた時代には「中国」なんて国は無いよ
あれは「中つ国」って読むんだよ
ちなみにイザナミとイザナキが降り立った地も「中国」で、中つ国の事で要は日本の事だよ
そもそもモンゴル帝国の元朝廷以前に、中国に朝廷があったなんて記述は何処にも無いよ
秦の始皇帝ってあるけど、あれは中国大陸まで領土を広げたローマ帝国の皇帝の事だよ
古代のシナ大陸は、トルコ帝国やギリシア帝国やローマ帝国が支配してたよ
んで、そんな強国を打ち倒して中国大陸からヨーロッパまで勢力を広げた強国がモンゴル帝国
その後は明、そんで近代は満州人の清朝廷が治めてた
ちなみに今の中国を作った毛沢東やショウカイセキは河南の山東民族だよ
それこそ近代まで文字すら持って無かった民族
つかモンゴル帝国は強かったけど、それでも日本の朝廷が中国大陸を治めてたモンゴル帝国に従ったり貢ぎ物をしたりなんて事は無いよ
明にしろ清にしろ文化も国力も日本より遥かに下の朝廷だった訳だし
だいたい中国の文化とか言われてる文化はほとんどが満州人とモンゴル人の文化だよ
河童は吉本新喜劇だな。
強いとは何か?要するに人殺しが得意なこと。無慈悲な冷血漢ということ。
決してほめ言葉ではない。そのことを肝に銘じてほしい。
それ以上に卑劣なのは、狼の衣を借りて政治力を高めようとする国の存在。
魏に貢物をして生口(若い娘)を献上して自国の後ろ盾にしようと画策した
女王、情けないというか、見苦しいというか。そんな女が九州にいたはずが
ない。
アメリカの軍事力、核の傘の下でぬくぬくとしている今の日本と同じだ。
801 :
ローガン:2009/06/01(月) 20:49:39
しかし、東遷説が去った王朝説かいな…
もんちゃんの書き込みが一段落したら、参加するとしましょう。
802 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 20:54:32
>>801 まあ元々、王朝説においては東遷説は奠都説なんじゃないのかな?
(当然のことながら神武東征神話にも触手を伸ばしているとw)
けど実際、邪馬台国九州説を唱えることが九州王朝説を唱える事と
ほぼ同義になりつつなるというのが現状なんかねえ?wwww
803 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:03:59
卑弥呼=ひみこ=ひむか=日向
台与=とよ=豊の国
偶然か?
804 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 21:06:31
邪馬壹國の場所が知りたきゃ、魏志倭人伝以外の、南史、北史、宋史、随史、唐史、三國史伝、三國史伝、新羅紀、、
魏志倭人伝なんて倭人や邪馬壹國や卑弥呼の事を一番省略して書いてある書物だよ
だいたいそういう書物を全く読まないからちゃんとした歴史が解らないだけだよ
邪馬壹國の場所なんか謎でも何でも無いよ
あと漢籍書を読んで解るのは、中国が正史としてる24史には中国の歴史じゃなく、日本と朝鮮半島周辺の満州人、それとシルクロードを渡って半島まで来た秦人の歴史が書かれてるんだよ
「魏」「髄」「宋」「梁」
これ、書物の名前なだけで、こういう名前の国や王朝が中国にあった訳じゃ無いよ
日本の大和朝廷を中心に、倭王や新羅王や百済王や卑弥呼や、、
そういった事が書かれてるんだよ
中国が「中国4000年の歴史」って呼んでるものは、日本と朝鮮半島の歴史だよ
遣髄師や遣唐師ってのも、大陸の文化を学びに行ってるんじゃなく、大陸に仏教や漢字や暦などの文化を普及させる為に行ってるよ
つか遣髄師とかって全部仏教徒だし
キリストの宣教師見たいなもんじゃん。あれ
805 :
12:2009/06/01(月) 21:08:22
まあ、今回の歴博による調査は、まだ揉める部分はかなりありそうだが、4世紀東遷説に
はダメージあるだろ。
それにしても、もん太レスはあいかわらずハードコアだな。秦の始皇帝はローマ皇帝!
善行女王説はどうなったんだ?
806 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:13:23
>>802 安本も古田も、記紀の取り扱い方に問題があると思うんだよ
三国志と違って、やっぱずいぶん後になってできた書物だからそうとう慎重でないと。
安本は神話を史実だと思い込み杉。
古田は、なんつうか、そんなこと記紀に書いてないのに、
これこれこうだと勝手なストーリー作って、これ以外にない!て決め付けちゃうんだよね
ついていけないよ
807 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:15:31
各地方から大和に有力豪族の子弟が学びに行ってたっていうが
纏向時代は九州色が薄いんだよね
3,4世紀の九州の政治状況はどうだったんだろう?
>>806 安本の方がナイーブってわけだな。
古田は恐ろしくひねくれていると。www
しかしぶっちゃけた話、今まで邪馬台国に関するシンポジウムとか催された場合
九州説側のパネラーとして安本先生はお呼びがかかることが多かったと思うんだが…
こんな年代観が出てくると流石に厳しい状況で露出も減ってくるのかな?
それともネームバリューで変わらず出てくる?
「ポスト安本」としては誰かな?w
九州邪馬台国と纏向の並存を前提としている中で有名ドコを挙げれば
武光センセイ?それとも関センセイ?w
(そう言えば武光センセイは最近TVで歴史バラエティに出てたっけ?)
810 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 21:31:09
>>800 韓国の斉州島の神話には
「海から来た三人の神が土地を耕し米や麻などの農耕や多くの文化を伝えてくれた」
とある
ちなみに百済や新羅の建国神話にも同じ記述がある
んでこれは日本の、日向三代が國造りで高千穂の素冨里に降り立った神話と全く同じだよ
ちなみに素冨里ってのは「ソウル」だよ
つか仲哀天皇の話読めば解るでしょ?
仲哀天皇は筑紫のクマソを倒して筑紫を治めたんだよ
その後、神巧皇后は仲哀天皇を殺して、朝鮮半島に兵を送り、朝鮮半島南部を統治して、百済を海の向こうの宅宮としてる
で、半島にいた漢人達の文化に触れ、儒教や漢字などの文化が素晴らしいとして、これを取り入れ、仏教と共に大陸の梁や唐に伝えた様子も書かれてるよ
あと西洋の秦からの氏族人がシルクロードを渡り半島まで来て日本に蚕を伝えた様子とかも書かれてるよ
これは漢籍書にも書かれてるよ
つか漢籍書にしろ日本の記紀や風土記にしろ、あれが本当の歴史書なんだから、まずは歴史書をちゃんと読んで歴史を知る事だよ
中国大陸には「魏」なんて國も王朝も無いよ
ちなみに漢って氏族や王朝も中国大陸にあった訳じゃ無いよ
アジアの文化は誰が作りどう広まったのかとかちゃんと書いてあるよ
漢字も儒教は中国じゃなく当時漢半島の漢城にいた満州人(古代漢人)が作り、日本が唐に広めたものだよ
だから文字を持って無かった唐では、教えられた漢字を使うしか脳が無いから、日本やモンゴルや満州のように漢字以外の表音文字を使う事すら出来なかったんじゃないかな?
中国大陸って沿岸部や河川部はともかく、山岳部は最近までアフリカぐらいに文化も文明も遅れてた土地だしさ
もん太よ、だんだん1レスが長くなってきたぞ。ww
もう誰も読まんぞ。wwww
きょうはその辺で切り上げて、そろそろローガンに譲ってやれよ。
812 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 21:46:59
>>806 てか三國史を読んだ事無いでしょ?
漢籍書でくぐって、三國史を探して読んできてみ
あれは朝鮮半島の倭國、百済、新羅の三国の話を伝える歴史書であって、中国の話じゃないよ
あと時代も2000年前とかじゃないよ
日向三代が半島に渡り、白江村の戦いで飛鳥朝廷が負けて、京都へ宮を遷都するまでの話だよ
日本の記紀の神武東制もこの時の話を伝えてるんだよ
神武の話は2600年前の話じゃないよ
そもそも人類の文明が開花してまだ約2000年なんだし
813 :
12:2009/06/01(月) 21:47:43
いや、こいつが来るとスレがすぐ終わってしまうんだよ。
>神巧皇后は仲哀天皇を殺して とかハードなことを書いてるんだが、レス量が多くて
細部を誰も見ないというか・・・自然災害のようなものだな。
814 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:52:30
神巧皇后って何て読むんだ?
815 :
12:2009/06/01(月) 21:54:29
彼の脳内にある、統合されてない何か・・・・だろう。
>>813 だよな。
「ねえねえ、仲哀暗殺てみんな知ってる?実は犯人はナント・・・」
とか2〜3行に収める芸ができたら読みやすいし、もん太ファンもできるのにな。ww
その点さすが河童の方が上だな。おやっと気を惹かせるレスを短文でうまく書く。
だてにコテキャリア長いだけじゃない。ww
河童誉めてる俺もヴァカだよな。wwwww
817 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 22:22:36
>>805 善行女王と善徳女王すね
ちなみに推古と皇極だよ
ただね、別に名前を特定する必要は無いよ
特定する必要は無いって言うか「○○天皇」って呼び方は危険だよ
前も言ったけど、景行とか武烈とか開化とかってのはさ、単なる元号であって、この元号を天皇の名前としちゃってる事が間違いな気がするし
元号の付け方や天皇の呼び方って、明治維新の前と後じゃ全然違うんだよ
暦も年齢の数え方なんかも明治維新以降の元号の付け方だと年数や年齢の計算も出来なくなっちゃってるんだよ
例えば昭和60年の1月1日に産まれた人は、平成11年の1月1日に何歳になるか解る?
平成元年の12月1日に産まれた人は
平成14年の1月1日には何歳になるか解る?
還暦ってのは産まれて60年目のはずなのに、明治以降の日本人は産まれて61年目が還暦となっちゃってるよ
そもそも一世一元なんてのは明治以降に始まった事であって、明治天皇以降だよ。元号+天皇って呼ばれるようになったのわ
学者達の解釈を見る限り「景行○○年」とか「武烈○○年」ってのを、そのまま天皇の在位期間に当てて解釈してるだけな気がする
記紀では「景行天皇は」なんて書き方はしてないよ
景行天皇じゃなく大足彦とか大足彦代別天皇とかだよ
818 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 22:33:36
>>816 >おやっと気を惹かせるレスを短文でうまく書く
そりゃ「撒き餌」として、できるだけ多くかかってくれる事を計算してやってるだけだろう?w
もっとも興味示して食いついても、あまりに中身が出てこないから、結局、皆離れていく。
もっとも本人にすれば
「安売りはしない」と言うことなんだろうがw
でもやっぱり自説を聞いて欲しいから又餌を撒く作業に戻るとwww
819 :
河童虫:2009/06/01(月) 22:47:02
>>818 「なんかちっぽけだな」
悲しくなってくるよ
でも、そんなもんだよな今の世の中。
820 :
12:2009/06/01(月) 22:49:49
善徳女王は、こないだ調べた。ググったらヒットが多いので驚いたが、韓国のTVドラマに
なってるんだな。善徳は新羅の第27代の王で、確かに皇極女帝と時代はかぶるし、事績も
似ていることが多い。偶然といいたいところだが、同一人物説は話として面白い。ここをふく
らませていけば一つの読み物として成立する気はする。
実在性は善徳女王のほうが皇極帝より上かな。旧唐書に朝貢・冊封記事が出てる。ただ
こないだは善徳=卑弥呼といってたと思ったが?
821 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 22:53:49
>>819 河童虫
まあ気にするな。
それにひっかかって時間を無駄にしてしまったとて
それはひっかかった人間の自己責任。
君には何の咎も無いwww
822 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/01(月) 23:14:08
>>818 うーん
つかどうやれば上手く纏めて書けるのか良く解らんー
えっと元号の事で言えば「元号○○年ってのでは、それが西暦何年の事なのかは解らないよ」って事だよ
例えば卑弥呼は「景初2年」だっけ?
この元号からそれが何年前の出来事なのかなんて事は計算するのは無理なんだよ
景行2年=西暦214年(だっけ?)
こんなの単なる推測でしか無いよ
元号なんて暦と関係無い年号なんだしさ
西暦ってのも権力者が勝手に定めてるいわゆる元号だよ
つか何年前の事かを調べる時は、アジアの暦の場合は元号じゃなく干支で計算するんだよ
その為に干支があるんだし、記紀も漢籍書も干支が書かれてるんだよ
清王朝にしろ江戸幕府にしろ、帝の即位に合わせて改元なんてしてないしさ
例えば景行2年なんて書いてあるけど、じゃあ景行は何年まであったのかとか解らないでしょ?
記紀も漢籍書もだけど「景行は34年まで続き、この年は新たに○○元年となりました」
なんて書いてる訳じゃないもん
記紀も漢籍書も干支が書かれてるから干支を計算するんだよ
例えば
甲子年、景行2年に卑弥呼が、、、
甲子年、武烈12年に○○が、、
とあった場合は、景行2年〜武烈12年は60年だって解る
ただ、この60年の間の年号は
「景行48年→武烈12年」とは限らないよ
「景行10年、○○15年、○○36年、武烈○○年、」なのかも知れないんだし
823 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 00:00:39
>>820 善行女王はあと神巧皇后とも被るんだよ
善行女王→男王→善徳女王
皇極天皇→男王→斉明天皇
卑弥呼も、卑弥呼と卑呼弓が居るでしょ?
善行と善徳は姉妹ってのが一般的だけど、同一人物じゃないかとも言われてるよ
皇極と斉明も同一人物説はあるし
神功→気長足姫
皇極→天豊財重日足姫
斉明→天豊財重日足姫
あと例えば仁徳と山幸彦
山幸彦→兄弟との確執があり3年間、豊玉姫の国に身をよせ、豊玉姫の国の人の力をかり水を操り(貯水)川下の海幸彦をやっつけた
仁徳も親の応仁天皇が鮮魚を釣ったり釣れなかったりの話があって、兄弟の確執があり3年間ぼろ屋で過ごした後に渡来人の秦氏の力を借りて治水工事をしてる
記紀を読んで思う事は、まずやっぱ年代がめちゃくちゃ
1つの話を登場人物の名前を変えて複数に分けてるだけな気がするよ
つか一般的に言われてる記紀の解釈が間違ってるんだと思うよ
記紀では斉明天皇とか皇極天皇とか言う名前で書いてる訳じゃ無いんだしさ
初代の天皇がどうだとか言う話を書いてる訳でも無いと思うよ
824 :
河童虫:2009/06/02(火) 00:09:47
>>821 >自己責任
8874ジョイントを信用で目一建ててる奴どうしてるかな?
今頃追証に悩み、樹海さ迷っているのかな〜
きついよな!
825 :
田5作:2009/06/02(火) 00:10:46
無関係の遠い地でもほぼ同時に起こる現象?だか進化だか?
百匹目の猿って言うんだよね!
826 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:18:41
>>825 昔流行った「ニュー・サイエンス」でライアル・ワトソンの言った
「100匹目のサル」だな。
ある臨界量を越えると遠く離れた地域でも同時進行的に現象が進むとか言う奴・・・
で、何が言いたいんだ?
827 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:20:01
言葉が通じない2大巨頭
@美濃もん太
Aプラム=河童虫
生来、対話することが出来ません。
828 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:20:08
素人だからよく知らないけど、巻向から九州の土器が大量にでれば、
畿内が九州をコントロールできていたわけで、畿内説で決まりじゃない?
829 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:25:04
>>838 纏向が邪馬台国だというためには、やはり王宮の跡とかあるいは樓觀の跡とか
そんなものが出てこないとどうしようもない。
土器なんてのは、ただお茶を濁しているだけだろう。
830 :
12:2009/06/02(火) 00:29:27
「100匹目のサル」については否定的な見解が多いと思うが・・・前方後円墳同時多発的発
生説とかいうのもあるんだよな。
823の、 >1つの話を登場人物の名前を変えて複数に分けてるだけ
元は一つの話がいろんな人の事績として取り上げられてるのは、俺的にもあるように思えるね。
831 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:30:12
九州王国の徴兵を逃れて諸国から人が集まったのが、畿内です。
832 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:31:29
巻向が邪馬台国というより巻向を中心とした大和地域が邪馬台国でしょ。
箸墓の年代がほぼ卑弥呼の死亡時期と一致してるし、
金印をもらう倭王が巻向を無視して、九州の一地方の王だとは考えづらい。
833 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:38:13
まあ九州に卑弥呼やトヨの伝説がなんも残ってない、邪馬台国の伝承もない時点で、
九州は白でしょ。単純に大和が邪馬台と考えたほうが自然。
834 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 00:39:10
邪馬壹國の場合に関しては謎でもなんでも無いってば
魏志倭人伝は詳しく書いてないだけで、南史や北史や唐書や三國史新羅史とかには、倭國の場所から邪馬國の場所から、詳しく書いてあるじゃん
そもそもなんで「倭國=日本」「魏=中国の朝廷」「漢=中国の朝廷」なんて思い込んでるのさ
その歴史の認識が間違ってるって事に気付かないから解らないってだけだよ
先入観と思い込みだけだよ
そもそもなぜ魏志倭人伝しか読まないのさ?
魏志倭人伝に詳しく書いてないなら他の漢籍書を読めば良いじゃん
835 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:40:33
>>829 畿内説論者はそんなものがでれば大喜びするだろうが。
そんなものは、どこの国にもあったんだよ。王宮の跡とかあるいは樓觀の跡が
みつかったとしても邪馬台国だったとは言えない。
836 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:46:09
九州説だとしたら、何故古事記日本書紀に邪馬台国が登場しない?
姿形もみえないのはおかしいだろ。
837 :
12:2009/06/02(火) 00:49:59
まあ、三内丸山の掘立柱を見れば、中国の影響は別として、やぐらと呼べる程度のものは
どこでもありそうだな。今回の歴博調査のマスコミ報道で、宮内庁の姿勢に少しでも影響
が出れば・・・と思うが。九州説でも箸墓発掘は賛成だろ?
838 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:53:38
>>836 記紀は邪馬台国を描いているが、それに気づかないだけだ。
>838
高天原が、九州邪馬台国といいたいのか?
840 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:59:13
>>840 九州のどこが高天原なんですか?
何県の何市ですか?
古代ではそこは何国の何郡でしたか?
どうしてその地名が記紀に書いてないのですか?
遺跡がありますか?
卑弥呼の墓の候補となる墳墓がありますか?
842 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 01:12:09
卑弥呼→日の巫女→オオヒルメノムチ→天照
↓
当然 邪馬台国=高天原
↓
おおっ!ピッタリじゃん!俺って天才!
↓
バンザーイバンザーイ\(^o^)/
…まあ誰もが一度は通る道って事でwww
天孫神話=檀君神話
高千穂の峰=太伯山(天帝の子、桓雄が天から降ったところ)
高天原=神市(桓雄が神檀樹の下に作った国、仙人と人が住む)
高木神=神檀樹(太伯山の頂上に生えた木で、その木の下に天下った)
桓雄と熊女の子、檀君王倹からが人間の王の時代=畿内大和政権の時代
だから、九州高天原は神市と同じで、仙人と人が混ざって住むような神仙界の絵空ごと
844 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 01:54:24
檀君4000年の歴史
紀記は、天皇の先祖は天(高天原)から天下ったと言っている
紀記が言いたいのは、天孫説話なのだ、具体的な場所ではない
だが、天下った場所を筑紫の日向の高千穂の峰とも言っている
つまり九州の一画を、天孫説話としての聖地としている訳だ、なんら関係のない土地ではあるまい
紀記は、大和朝廷の出自を正確には伝えていないが、天皇権限の由来は天孫説話であると明瞭に語っている
つまり天皇の先祖は、天孫神話を持っていたのだ、そういう思想が流行っていた土地が出自なのだ
846 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 02:26:14
>>840は
>>841の問いに全部答えろよ。
答えないままだと、また九州厨の勝手な思いつきか、脳内妄想か、と受け取られるぞ。
847 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 02:35:48
卑弥呼が祀られた山、俺解ったよ
須弥山(妙高山)の南の辺り調べたら女神岳があった
めっちゃ人工の山だよ
で、犬山や尾張と共に善光寺が開帳
善光って善徳女王の息子の善光百済王が善徳女王を祀った寺なんだね
信濃は新羅神社や新羅三朗も居るし
皇極(=斉明)が祀られてるよ
信濃は天照が埋められた皆神山や戸隠山もあり大國主やスサノオがいた土地でもあるもんな
848 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 02:54:05
>>845 記紀をちゃんと読もうな
まずさ、天孫やイザナミイザナキより遥か以前に、国之常立命が地上に降りたってるんだよ
ちなみに降り立った地は飛騨の位山
んで国之常立は御岳山の神として崇められてるよ
で、飛騨から下流に下ると古くから「中つ国」って呼ばれてる中津川市があるよ
中津川市にはイザナミイザナキが降り立った地には古代の巨石遺跡が今も残されてるよ
んで、イザナミが天照を産んだ場所が中津川の近くの「阿木」って場所
ここにはイザナミが産まれた天照を寝かした岩や血沼神社や、産湯に使った泉などもある
んで、イザナミと天照が産まれた時にくるまれてた胞は、大権山の恵那山に埋められてるよ
んで、中つ国から大権山を越える坂ってのが神坂峠って言われる峠だよ
ここを越えた場所が信濃の天高原だよ。ようは「こうげん」だよ
天照は神坂峠を越えて天高原に行って、皆神山の中腹に祀られて、その穴は岩戸で閉められてたんだよ
けど後に猿女達によって、その岩戸は開けられて、岩の戸は戸隠山まで運ばれたよ
天孫ってのはその信濃の天照の血統氏族の人達の事で、天照の氏族がそれまで日本を納めてた大国主の氏族から國譲りを受けた信濃の物部氏族だよ
849 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 03:08:41
で、乾国に渡った天孫(ようは天照の血統氏族)の日向三代が百済や新羅を納めて
んで百済や新羅を納めてた日向三代達が蘇我朝廷に反乱を起こして九州から東制して蘇我氏を倒して実権を握ったのが大化の改新
日本ってのは大陸からは大山人が住む「扶桑国」って呼ばれてたし、日本の高天原にある妙高山はインドなどの仏教徒からは須弥山と呼ばれて世界の中心とされてた国だよ
国之常立命が金星から降り立った艮の神だからなんだと思うけどさ
国之常立命は明けの明星の神で、仏教や密教の釈迦や空海は明けの明星が体に入った事により、曼陀羅を極めて秘術を身につけたとされてる人達だよ
インドの須弥山信仰以外にも、チベット仏教も大海の中の六山御岳の伝承があるよ
記紀をきちんと読めば解るでしょ?
天孫は日本の高天原から国造りの為に乾国の素冨里に降り立った人達だよ
日本から稲作や暦などの農耕文化を伝え農地わ開拓し、百済や新羅を建国したのが日向三代だよ
850 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 03:21:53
日向三代が降り立った地は古事記にちゃんと書いてあるように「乾国の素冨里」だよ
乾も漢も韓も「水気が無い乾いた土地」って意味で、乾国=漢国=韓国、どれも朝鮮半島を指す地名だよ
新羅や百済にも海中から来た神様が稲作などの農耕文化を、農地を開拓し百済や新羅を建国したとちゃんと伝えられてるよ
記紀の何処をどう読めば、天孫降臨が天皇の由来となるのかが全く解らん
実際に記紀を読んだ事が無いだけなんじゃないの?
まず国之常立命が降りたった所から始まるんだよ
それからイザナミイザナキまでの神様は全く子供が作れなかったけど、天照が産まれた時に神鳴りがあり、ようやく長年降り続いた雨が上がり、それ以降の神は沢山の子供を授かれるようになったんだよ
イザナキとイザナミが子供を作る為に四苦八苦してる様子とかもちゃんと書いてあるでしょ?
それまでは奇形しか産まれなかったんだよ
851 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 03:37:23
で、天照は高天原(信濃)を納めて、スサノオは中つ国を治めてたんだよ
んで、スサノオが反乱
神坂峠を越えて天照を責めに行って天照が眠る皆神山まで行って岩戸を外し、岩戸を隠したんだよ
んでその後はスサノオ氏族の大国主が渡来人達(秦氏?)と国造りを始めたのを見て、信濃の天照の氏族が「この国は天照の氏族の我々が納めるべきだ」って言って大国主を責めて、追い詰められた大国主は天照の子孫らに国を譲ったんだよ
それが大国主の国譲り
で、国を譲り受けた天照の子族がクマソを倒したりして国造りを始めるんだよ
で、日向三代は国造りの為に乾国に降り立ったんだよ
記紀を読めば解るけど、日本の発祥は日本だよ
大陸から渡来人が渡って来て治めたって国じゃないよ
もし仮に大陸から渡って来た渡来人が原住民を倒して治めたと言うのなら、日本や日本人の発祥は中国やら韓国って事になるよ
記紀の何処にもそんな事は書いてないよ
852 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 04:11:13
日本人はちゃんと日本の歴史を知った方が良いよ
特に古代の日本は世界で最も文明文化に優れてて、少なくとも平安時代には既に戸籍があり、日本民族であれば誰しもが血統の由来がハッキリ解るようになってたし、平安時代には既に大学まであったんだよ
例えばこの頃すでに使ってた和暦ってのは今のキリスト暦よりも全然正解な暦で、天文学1つとっても欧州なんかよりも遥かに進んでたんだよ
欧州で大航海時代が来る遥か以前から、船で沖まで出てクジラを取ったりもしてたんだよ
近代だってCDやブルーレイやカップラーメンや、、
日本の発明した沢山の文明が世界中にひろまってるんだよ
今の朝鮮や満州を開拓しライフラインや鉄道を作ったのも日本人だよ
853 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 05:50:18
この前、NHKで、大日本史の徳川光圀のことをやっていた。
光圀は編纂の方針として、後世の人の役に立つように、徹底的に調査して正確を
期すこと、出典を明示することを挙げていた。
日本書紀も案外そういう方針で編纂されたのかもしれない。
さまざまな出典の記録が明示されている。「一書曰」という風に。
それにしても、日本書紀の前にもいろんな記録が残っていたのだな。
素人目でこのスレを読むと、
1人の学者が箸墓が卑弥呼の墓っぽいって言ってるだけなのに、
1人の学者が主張する九州説は間違ってる、って事なんだね。
馬鹿みたいな煽りレスも畿内説を持ち上げてる人だし、
ここまで読んだけど、畿内説はもう少し理論的に語ってほしい。
日本史板だから、日本の古文書を中心に考えてる人たちが多いんだろうけどね。
855 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 06:50:50
>>853 日本書記にしろ古事記にしろ、単に各地にあった風土記の中の1書物だよ
確か愛知の寺にあった書物だったはず
日本書記や古事記ってのは先代旧事記や他の詳しく書かれた風土記とちがい、内容も曖昧だし、何より氏族や系譜の書が紛失してしまってる書物だよ
つかね天皇の正統ってのは本来は北朝系なんだけど
薩摩長州潘は、大和朝廷を滅ぼして、皇族達を御所から追いやって皇族や藩主達や一般庶民でさえも、自分の血統を他人に風潮する事を法律で禁止してるんだよ
つまりそれまで日本にあった先祖崇拝でもある氏神信仰を一切禁止して、各家庭に氏神の変わりに伊勢大麻を配布して天皇を崇拝する事としたんだよ
その上で、天皇の血統も本来は北朝系で続いてきた血統を南朝系を正当として、歴代の天皇の歴史や血統まで書き換えてるよ
明治政府は日本書記を正史と定めた訳じゃなく、他の全ての書物を偽書とし、神武を初代天皇とし
九州から2600年前に東制したっていう、明治政府の歴史解釈以外は認めないってやっただけだよ
古事記が正史から外れた理由も、古事記には天孫が降り立った地が乾国の祖冨里って書いてあるからだよ
だから古事記も明治政府から言わせたら偽書だよ
日本書記や古事記ってのは、先代旧事記は勿論、各藩主や寺小屋などが要してた風土記と比べても、内容が余り詳しく書かれて無い書物だよ
だから日本書記には、天照が生まれた時の状況や、国之常立命以前の天御主命の時代の伝承とかも一切書かれて無いでしょ?
けどだからこそ日本書記は明治政府により日本の正史と定められたんだよ
856 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 07:47:53
>>853 「一書に曰く」
それは出典を明らかに、とは言わない。
一書とぼかしているわけだから、逆に秘匿する態度だよ。
「蘇我の家伝に曰く」とか言う表現が「明示」すると言うことだ。
一書に曰くが多い天地開闢譚については、どれを正当としても、
豪族間の出自争いには影響がないので、
各家の家伝を列挙しただけだと思うけど。
九州説で飯を食ってる学者の精一杯の抵抗が始まりますた!!
858 :
サガミハラハラ:2009/06/02(火) 10:29:03
一書とは書名を明示できない書なのである。つまり書名がなかった記録である。日本旧記のごとくあればのっていた。
そのほとんどは語り部による口承であったのではないかと思う。
家伝については、その家名を明記することをあえてさけたのではないだろうか?
859 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 11:07:54
先代旧事本紀ってデタラメ、でっち上げ本だろ、
神武天皇がショッカーの怪人みたいに書いてるぞ
860 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 11:11:49
「○○曰く」
こんなの別に深く考える必要は無いよ
日本書記も古事記も、沢山あった風土記の一つで、風土記の中でも対して詳しく書かれてない書物だよ
江戸時代までは各部落に寺小屋があって、その各藩や寺小屋には、その地域の目から見た日本の歴史が風土記として沢山残ってたんだよ
例えば江戸幕府が聖典としてた先代旧事記は必然的に氏神の物部氏の活躍を書いた物となる訳だしさ
明治政府は先代旧事記や各地の風土記を焼却して回ったけど、それでもまだ多くの伝承や風土記は残されてるよ
記紀に詳しく書かれてない部分は他の書物やその土地に伝わる伝承とかを調べれば解るよ
861 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 11:25:08
>>859 つか基本的にさ、記紀にしろ先代旧事記にしろ「神武天皇」なんて名前の人は出て来ないってば
先代旧事記の中では「金山幸彦」とかじゃないの?
つか呼び方もさ、地方によっても書物によっても違ったりもするよ
スサノオの事を牛頭大王て呼んだりもするしさ
聖徳の太子って呼ぶ地域もあれば、馬宿の王子と呼ぶ地域もあるし
例えば豊○○姫の「豊」ってのは名前ってより出身地の事だろうしさ
862 :
河童虫:2009/06/02(火) 11:28:43
「一書曰」
“〜らしい”とする推量で、〇〇と言う根拠をともなう推量
一書曰の場合の根拠は「一書」
魏略曰の場合の根拠は「魏略」
一書や魏略は「曰」とする根拠だから、“らしい”とする推量文が
そのまま記載されていたとは限らない。
★ただ、河童の言う事だから話し−1000%の与太話
863 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 11:53:16
あと日本って幼名とか名前を継ぐとかって風習もあるでしょ?
どれが名前なのかとかってのはイマイチ良く解らんよ
ただ少なくとも「○○天皇」なんて書き方をしてる書物は無いよ
誰が天皇に即位して次は誰で、、なんて事を書いてる訳じゃないと思うよ
864 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 12:00:44
違うわ
一応○○天皇って記述もあるわ
男尽○天皇とかさ
けどどのみち神武天皇とかそういう名前じゃないよ
それに基本的に天皇は「天皇」だよ
865 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 12:54:51
つかいまちょっと日本書記の原本見てきたけど卑弥呼って日本書記の17卷にちゃんと出てきてるじゃん
17卷の新羅女王ってのが卑弥呼だよ
(日本の)朝廷に貢ぎものしてたり、夫も子供も居ないと答えてたり
ただ、なんか他の氏族との子供だったから隠してたみたいだね
神功皇后と同じじゃん
その子供がイワレビコかな?
筑紫城で数年過ごしたりなんだりしてるよ
866 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 13:10:51
つか卑弥呼や邪馬壹國に関しては、謎でも何でも無いじゃん
倭国と日本の違いや魏は倭人を使わした日本の朝廷の事だとか、邪馬國は辰韓にあった国のうちの一つだとか
他の漢籍書を色々見れば普通に詳しく書いてあるじゃん
つかそもそも誰が謎の邪馬壹國なんて言い始めたの?
邪馬壹國って普通に韓半島の新羅にあった国って書いてるよ
倭人が半島南部を統治してた事とかもちゃんと書いてあるしさあ
867 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:14:00
ニュー速では九州説の方が有力て形で決着ついたみたいだよ。
たしかに放射性炭素年代測定なんてあてにならんし、証拠としたいなら全国の古墳を測定しないとね。
畿内説ゴットハンドにより有力、、、は認める
868 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:43:40
涙目で勝利宣言か。
九州説も追い込まれたな。
869 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:47:07
畿内説派のオカルト好きに何言っても無駄
870 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 14:04:04
ゴットハンドw
871 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 14:09:39
>>841 横レスだが、高天原は壱岐(海軍の根拠地)。
九州王権の権力者=天武が壬申の乱で畿内を統一し、
孫の文武の代に「対馬王権」「北部九州王権」を引き継ぐ宣言をした。
天照大神やニニギ、神武らを包括的に皇統に組み入れた。
だから記紀は皇統として北部九州王権も含んでいる。
九州説が涙目で必死なのは町興しの一環だから。
ホント死活問題なんだよ。
873 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 14:22:38
鉄器も弥生の絹も出ない畿内は、はじめから邪馬台国の候補じゃないから心配するな。
遺跡も墓も示せない九州説ついに絶命。
子どもたちのけんかスレみたいだなww
弥生の絹も城柵都市も見つかっている畿内説に対し、九州説は考古学的な裏付けが全くない。
魏志倭人伝の完全解読に成功したなどとほざいては下らん本を売りつける詐欺師の温床となっている。
所詮、古代史は金儲けの道具(経済活動)ですからねw
九州はもうだめぼ…
879 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 15:37:22
>>874 え?畿内に卑弥呼の墓なんてあるの?証拠は?
九州涙目ww
>>879 え?九州に卑弥呼の遺跡なんてあるの?証拠は?
少なくとも「丹」の山がない北部九州は候補地ではない。
まだ徳島の方が可能性高い位だ。
是非北部九州説の人の見解を聞きたいね。
>>877 危なく騙されるところでした!
これからも古代史(特に九州論者)の本になんかになんかビタ1円使いません!!
884 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:04:28
畿内説はオカルト好きの願望であり、放射性炭素年代測定に依存しすぎ。全国の古墳を測定してからにしろよW
特定したと言ってるだけで証拠も何もありませんね、いい加減に名誉ほしさのゴットハンドはやめましょうよ。
885 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/06/02(火) 18:16:44
魏志倭人伝=ノストラダムスの大予言
886 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:19:54
九州に邪馬台国の証拠は何もない。九州には年代を測定する遺跡も皆無ですね。
887 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:22:25
魏志倭人伝を読めば馬鹿でも九州ってわかりますよ
888 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/02(火) 18:30:01
倭国大乱登場人物
崇神(ミマキ イリヒコ イムナヰソニヱ)西暦188年4才で即位32才崩御
大物主、(フリネ又はフキネ)崇神6年までは、倭国の大王
伊支馬=垂仁 (イクメ イリヒコ イムナヰソサチ)西暦215年13才で即位41才崩御
倭王=景行(ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ) 西暦239年18才で即位46才崩御
都市牛利=タジマモリ 、 アメヒホコの4世孫、ホケノ山古墳に祀られる
240 伊聲耆掖邪狗=イワカ=六雁、大彦(169年生まれ)の孫=率善中郎將
240 難升米=倭女王の部下で大夫=率善中郎將
240 狗奴國=狗古智卑狗
ついでに書紀より
248? 倭女王卑弥呼=巾3尺の石
249? 男王=筑紫の大木
250? イヨ=五百野姫 、景行の子 13才で筑紫治り神の巫女、斎王となる。
タケハニヤス、孝元の子供で大彦より数才年下
神夏磯媛 香椎宮を本拠とする
889 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:32:18
魏志倭人伝を読んでも九州説の人は、アホ・馬鹿・間抜け・愚か者だからわからない。
890 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:13:24
>>886邪馬台国九州説の証拠ですか?
魏志倭人伝ですよ。倭人伝の行路に沿った場所が邪馬台国なのですよ。
そこに記述どおりのおおきさの丘があったらそれが卑弥呼の墓ですよ。
891 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:15:50
>>890 だから砂鬼四荼羅沖縄じゃん
でも沖縄で陸行一月は無理じゃん
892 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:16:26
倭人伝には、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」と書かれている。
吉野ヶ里遺跡ではその痕跡が見つかっている。
ということは、倭人伝に書かれた倭国の様子は、吉野ヶ里遺跡の存在した時代
だと考えるのだ妥当。
畿内ではそんな痕跡は見つかっていない。
纏向は、4世紀になってからだろうな。
箸墓の年代や纏向の年代など、年代をいじくってそれを根拠にするのは
やはり限界があるということだろう。
893 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:21:40
>>892 >纏向は、4世紀になってからだろうな。
根拠は?
そもそも「いじくる」も「遡上」も元々九州説の言う年代観の根拠は何によるものだって話だなwww
894 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:25:52
畿内説って学者のメンツみたいなのがあって、後には引けないみたいなイメージが強い、九州説を覆す根拠もなくもがいてる感じが痛い
895 :
893:2009/06/02(火) 19:31:23
まあ話を手っ取り早くする為
「古墳時代は4世紀から」
なんて年代観の根拠で出てきそうなものを予め並べておくと
(1)長らく考古学の世界で強い影響力のあった小林説によるもの
ただしこれは今日畿内説からも否定されていて
そもそも三角舶載を前提にしたものなのだから九州説が採りようが無いw
(2)伝祟神の古墳をその崩年干支から3世紀中頃とし、そこに至るまで
まあ50年ぐらいの期間を見ると言う極々大雑把なもの。
無論理論的な根拠は無い。
精々暫定値=ダミーデータ程度か?w
(3)須恵器の登場年代から逆算して…
以前東遷説論者が言っていたが、そもそも須恵器が土師器に取って代わったと言う話でもない。
まあ案の定「邪馬台国の会」のサイトに載っていたがw
896 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:38:06
>>894 無論学者のメンツだの何だのドロドロしたものはあるとは思うがw
そもそも
「覆さなければならないような九州説」
ってものが無いんだよなwww
897 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:00:29
ならば測定ぐらいで確定する様な発言はやめてほしいよね、ゴットハンドふたたびの印象が強い
898 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:03:47
九州説論の中では近頃、遷都論が論議されるようになってきています。
理由の一つは吉野ヶ里の存在でしょう。
倭人伝の描写ぴったりでありながら行路がうまく合わないことや、歩百歩の丘がないことがうけいれられない理由なわけですが、
ここが一時期都であったとすれば、倭人伝の箇所は遷都後の所をのべているのだということになります。
しかしそれでも、では倭人伝の都はどこだとなりますが。
つまり
第1次邪馬台国・・・九州(天高原?)
第2次邪馬台国・・・?
第3次邪馬台国・・・畿内
第2次が倭人伝の記録に残ってるやつ
じゃないの?
900 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:25:53
貿易基地として北九州は優れた立地条件にあるが
軍事的な面からすると、博多辺りを都とすると非常に危うい
都城、八代、大隅あたりが首都とするにはふさわしい
その中でも都城は非常に都合がいい感じがする
恐らくはここが九州の首都であったんではないか?
901 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:48:43
>>747ローガンさん
>入れない人も多く、シアターでモニター聴講する人が多数でる程の盛況でした。
レポ乙です。
そんな仕掛があるんですか?
カメラで撮影て別室のスクリーンに映す?
じゃあ定員オーバーでもなんとかなるわけですね。
例の考古学協会総会での歴博グループ発表が、マスコミでもこの2ちゃんでも話題沸騰ですが
学会発表は30分ぐらいですかね?質疑まで入れたら。
みんな関心あるんだからネット中継したらいいのに。w
中継じゃなくてもビデオライブラリーで考古学協会か歴博のサイトで見れたらなと思いますよ。
>わ〜少し古くですぎたなあって。
土器底にこびりついたススは、土器を土鍋みたいに火にかけて、
そこで燃料として燃やしたマキやワラの炭素成分がススになるんですよね。
C14法で考えると、測定される年代とは、土器を火にかけた時──ではありませんよね。
燃料のマキやワラになった植物が枯れて、光合成を停止したとき──です。
もし燃料のマキに古い廃材なんかが多かったら、そのうえ心材の付近ばかりを燃やしてたら・・・
──仮にそう考えると、この科学的年代測定方法も、いろいろと検討課題が多いように感じます。
902 :
12:2009/06/02(火) 20:54:09
うーむ、もん太レスはあまり進んでないな。おそらく誰も相手にしないからだろうな。しかし
俺はこの人が書く時空の混乱した世界が、単なる冗談なのか、本気でそう思ってるのかは
とても興味深い。まるでオートマティスム。
903 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:56:06
904 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:03:24
吉野ヶ里と言うと庄内並行期の遺構が殆ど無く
内外の環濠も庄内・布留並行の土器で埋め尽くされ完全に廃絶するんだっけ?
今回の年代だと卑弥呼の時代だとゴーストタウンの一歩手前か?w
まあ環濠集落の解体自体は特に珍しくも無いんだろうが
吉野ヶ里の場合どうしてもツクシ全体の没落と重なる。
弥生末期にかけ繁栄していった遺跡と言うと何があるのかねえ…
ぶっちゃけ倭人伝の行程記事なんか無ければ
今頃ツクシより福岡平野が九州説の最右翼になってると思うがwww
905 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:20:10
邪馬台国が九州だとしたら、卑弥呼の伝説が残ってないとおかしい。
まあ九州説は畿内説に対しなんちゃらモンスターとか
クレーマーとかばっかりやっているんじゃなくて
自説を如何に証明するにしっかり取り組んでもらいたいものだwww
で畿内説の今後と言うか個人的な期待としては
九州北部の前方後円墳の出現時期がいつなのかを割り出して欲しい。
特に福岡平野のもの。
(庄内土器も畿内から北部九州の各地に渡ったと言うより福岡平野で一度アレンジが入って
そこから北部九州の各地に拡散しているらしい。
九州の中では畿内の文化を逸早く取り入れている)
それまでとは隔絶した規模に跳ね上がる奴国で
既に前方後円墳が築かれていた時期ならヤマトが大陸と交渉を持つになんら不足が無い。
>>906 君は江戸幕府が開かれて、すぐに上方が廃れたと思ってるのか?
908 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:44:31
>邪馬台国が九州だとしたら、卑弥呼の伝説が残ってないとおかしい。
畿内での綏靖以下8代の伝説を披露してくれるかな?
上方(大阪)が繁栄したことなど、今も昔も無い。
あそこは不毛の地。住民が下品すぎる。
910 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:51:30
熊襲の女酋長が、卑弥呼だという可能性は何%?
911 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:54:45
>>909 なんやと〜
ドサクサまぎれに何ぬかしとんじゃい!われ〜!
>>910 いと国に本当に立ち寄ってるなら可能性はゼロ。
なぜなら、少なくともそれ以降は倭国の案内役と護衛がついてるからだ。
邪馬台国の次に興味が沸くのがいと国。
ここには王がいるし、関所というか江戸時代の出島みたいなところだからだ。
914 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:05:22
いと国は前原市あたりと考えてOK?
915 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:11:40
前原の可能性はないな。
916 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:14:23
では、どこだと思う?
917 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:14:33
伊都国は、伊豆半島の伊東国だった可能性はないの?
918 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:15:57
いと国の王が卑弥呼とトヨだったのではないか?
世に王ありというのは、その時代の王と云う意味でないのか?
外国要人と接見する都がいと国だったのではないのか?
920 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:27:55
どう考えても九州なんだよな〜それも広い範囲、宮崎、大分、福岡、佐賀
>>919だけどビンゴかもしれない。
官の名前は書いてあるが、肝心の王の名前書いてないじゃん。
やはり、王とは卑弥呼とトヨじゃん!
これって紫綬褒章もんの発見だろ!!
卑弥呼の墓は上には城が建ったんだろ。
戦国時代は丁度いい小高い丘と認識されたろうし。
城趾は石垣のみでも文化財として保存され、誰も掘り返したりしない。
トヨタン・・・・・・・・・・
924 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:42:52
昔から、考古学的には畿内説という声が良く聞かれた。
これは、裏を返すと、歴史学的には九州説ということになる。
では、考古学的には畿内説とはいったい何なのか、これは三角縁神獣鏡こそが
卑弥呼がもらった鏡だということ。
畿内説は長い間これ一本でやってきた。
最近では、残念ながら三角縁神獣鏡が魏鏡だという人はまずいない。
つまり、畿内説は歴史学的にはもちろんのこと、考古学的にもつまずいて
ひっくり返ってしまっていることになる。
もう年代を捏造してでも…、という立場にある事は間違いないところ。
>>924 なぜ歴史学的には九州になるのw
結局九州なら何処なのさ?
926 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:48:13
>>916 唐津で何のために上陸したのか?伊都国が船では行きにくい所だからだろう。
伊都国かその先の不弥国あたりから南へ水行しなければならない。玄界灘沿
岸から南へ水行することはできないな。
唐津から前原ではその進路は東北だ。しかし、倭人伝は東南五百里という。
伊都国は北九州諸国を検察する一大率が役所を置いたところだ。前原では北
九州諸国を検察するのには極めて不便。古墳時代にはジリ貧の地だ。
倭人伝の記載通り東南に進むんだよ。そうすれば、佐賀市付近に出る。後の
肥前国府が置かれた要地だ。そこが伊都国だよ。
>>919だけど、さらに理解できた。
皆が女王国に属するっていうのは、全員が邪馬台国直属で派遣されてきたってことじゃん!
完全管理されてて人口も少ない。
されども、世に王あり
ここに臨時的にいたんだ!
邪馬台国にも行ってないし、卑弥呼の墓もみてないんだよ。
完全に俺は理解できた。
928 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:49:55
929 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:52:07
>>924 その『 昔から 』と言うのは一体いつの時代からの話なのかな?
学術的な論争がスタートした明治から?
大衆的な興味の対象になった戦後最近の事かな?
それに残念ながら畿内説にとって三角が舶載でも倣製でもどっちでも良いんだよ既にww
>>924 〉最近では、残念ながら三角縁神獣鏡が魏鏡だという人はまずいない。
よくもまあこんな出鱈目をぬけぬけと書けるもんだ
昨今の九州説論信者には
こんな嘘つきか
その嘘を見抜けない情弱か
そんな嘘を真実と思い込みたい信者くらいしかいないようだ
>>928 黒田藩は福岡だからないだろう。大分、宮崎辺りと思ってるが九州は城が多いな。
またまた
>>919だけど、いと国が女王国に属するのは後段で示している。
だけど、ここだけが皆が属するとしている。
国が属するのならその住人も属するのは当たり前。
ここは直轄地なんだ。
だから王がいたとしても、それは別の王朝の王ではないんだよ。
しかも、その土地で一番偉い王の名前を示していない。
なぜなら別の箇所で記しているからだ。
933 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:09:57
>>931 宮崎だと、いと国がきびしくなるのでは?いき、対馬を考えれば佐賀、福岡、長崎に絞られる
ではなぜヒミコたちは魏の使者たちを畿内に招き入れなかったか?
理由は三つ考えられる。
@
九州より田舎だった畿内に招き入れたら、倭国が軽んじられる恐れがあった
A
他の豪族たちに柵封の実態を知られたくなかった
B
防衛上、倭国の西域交通ルートを遮断し秘密のベールに包みたかった
935 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:12:35
>>924 >昔から、考古学的には畿内説という声が良く聞かれた。
確かにそうだ。
だが、
>これは、裏を返すと、歴史学的には九州説ということになる。
アホ!!!
「文献史学的には・・・」と言うのなら考古学と対比してもいいが、
なんのたくらみか、「歴史学」を出すとは・・・。
今日の歴史学は考古学と対立する概念ではない。
それに三角縁神獣鏡の小林説以前でも、つまり戦前だが、文献史研究家にも多くの畿内説論者がいた。
白鳥・内藤論争は知っているのか。
九州説、畿内説、ほぼ拮抗していた。
ウソの学説史を捏造するな!
936 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:19:39
前原市あたりにに、いと島半島があるね
937 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:25:39
とりあえず北九州説はありえないよ。わざわざ末盧国から、
実質東北へいき伊都国にいき、そこに駐留し、一大卒がいるのは、
北九州説では説明がつかない。北九州ならわざわざ東北方向に伊都国を目指さずに、
末盧から、まっすぐ女王国を目指さばいいのに。
938 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:31:12
前原市を伊都国と考えて平原遺跡があるね
939 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:32:15
>>933 伊都国は福岡なのでは。それに、温暖で冬も生野菜が採れる土地となると温泉地のある大分か。
940 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:33:05
北九州といわれると、北九州市と間違える場合があります。よって歴史考古では北部九州といいます。
南九州は南九州市というのはありませんので、南部九州とする必要はありません。
941 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:33:36
>>935 「文献史学的」と「歴史学的」がどう違うのかというのも問題だが。
まあ、一つ問題を提起すると、卑弥呼の時代というのは、3世紀前半。
女王となったのは、2世紀終わり頃と考えられる。
この時期に、九州の国もかなり統属しているとある。あるいは狗邪韓国まで
支配が及んでいるようにも思える。
伊都国などは、代々王がいて、皆女王に統属するとある。
大和の邪馬台国が、この時期にこれだけ広範囲に支配している状態が想定
できるのか。
それにしては、倭人伝に倭国の国として紹介されている国の数が30カ国
なのはあまりに少ない。
邪馬台国畿内説には、歴史学的に見て非常識と思われる点が多い。
また、非常識を想定しないと成り立たないともいえる。
942 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:34:56
やはり佐賀、長崎、福岡、この辺一帯が邪馬台国と言える
943 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:37:05
944 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:42:22
大分には耶馬溪って地名があるね
945 :
ローガン:2009/06/02(火) 23:46:31
>>901 > もし燃料のマキに古い廃材なんかが多かったら、そのうえ心材の付近ばかりを燃やしてたら・・・
なるほどね。「心材と辺材」サガミさんもどうなの?って言ってました。
それにリザーバー効果とか?何をどのていど勘案して数字にどう反映させているのか?私などにはよくわからない事が多いです。
仰る通り今後の検討事項の「ネタ」が又増えたかなあと。
それに記憶で書きますが… 箸墓の濠から出た布留0の土器って花粉被ってなかったですかね?
花粉が墳丘から落ちたとすると、墳丘に二次林が形成される期間。つまり布留0の時間幅を考える時、この期間を考慮しないといけない…
とすればってところから 「わ〜古くですぎたなあ」って 感じた訳です。
946 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 23:46:54
>>902 めちゃくちゃ本気
時空を越えたって言われても、俺はそもそも一般的に言われてる「神武2600年前」「卑弥呼西暦200年頃ってのを否定してるよ
否定って言うか、どんな偉い学者がどんな説を唱えようと、それを鵜呑みにして、それを無条件に前提にはしない
例えば卑弥呼の景初2年が、西暦200年頃と言われてるとしたら
どんな理由で景初2年が西暦200年頃とされてるのかを調べるよ
したらさ「元号を追った」って理由だったよ
元号ってのはその時代から現在までずっと
「昭和は昭和25年(1262年)3月2日まで続き、3月3日からは平成と改められた。平成は平成32年(1294年)4月4日まで続き、、」
って言う記録でも無い限り、その元号が付けられたのが西暦何年の事なのかなんて解らないんだよ
三國志にしろ記紀にしろ、一切そんな記述の仕方はしてなかったよ
例えば日本書記に「神武3年」とあったとして、じゃあ神武元号は何年まであるのか解らないでしょ?
1900年、明治元年、明治政府がスタート
1945年、昭和25年、日本は太平洋戦争に負ける
これじゃ明治が何年まであったのか何て解らないよ
そもそもその間に大正があるんだし
>>941 直轄地に従属する王は不要です。
官僚だけでいいはず。
948 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:49:31
九州に30カ国の連合勢力をどの範囲にどう言う考古学的資料をもって見るのかって話で…
九州以東に発生した大型首長墓による(首長霊)祭祀と言うのは
言わば地域の連合体のシンボルでもあったわけで(四隅が好例)
「統合への動き」と言うのは列島規模で起きていた現象。
ヤマトを中心にした連合体の動きは何も下地の無いところから突然沸いたわけではない。
しかし何故か九州はそれの蚊帳の外。
地域独自の大型首長墓による祭祀は発生しなかった。
(あれば指摘ヨロ)
九州説の連中が適当に
「九州のここからここまでで30ヶ国想定可能です」
と言うことはできるだろうが本当にそんな連合勢力があったかどうかすら怪しい。
これも九州説のネックの一つ。
「お隣同士だから仲良しこよし」じゃあ脳味噌お花畑だwwww
949 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:49:57
伊都国が外交機関としての役割を担っているわけで、
外国からの使者が伊都国に駐留するということは女王国は伊都国から離れたところにあることもわからないの?
耶馬溪って地名は江戸時代に頼山陽が名付けたんじゃがのぅ
とネタにマジれす
951 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:53:07
>>941 >倭人伝に倭国の国として紹介されている国の数が30カ国なのはあまりに少ない。
そのとおりだね。しかも、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と北
九州にあったことが明らかな国だけで、既に6か国も使っている。残る国は、投
馬国、邪馬台国は大国であるが、旁国はそのまわりにある国々にすぎず、そう大
きな国があるようには見えない。倭国の全体を30国で埋めるとなると、本州は
大きすぎて到底埋めようがない。
そのことから考えても、九州説以外に考えようがないのさ。
952 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:56:33
>>951 本州の大和連合のほうが九州より大きいのに、
魏が金印を贈ると思うか?
矛盾だらけだな。
953 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/02(火) 23:57:03
>>924 >昔から
昔から、、、?
少なくとも1600年以上続いてる日本の歴史上で
「日本は女王の卑弥呼が納める邪馬壹國だった」
なんて言う事が言われたのが俺の知る限りは戦後になってから
たかだか60年ぐらい前
あと少なくとも記紀や漢籍書の時代から、戦後の60年前までは「百済や任那や新羅は日本人が統治してた国」ってのが日本やアジアの歴史認識だったよ
戦後になって「百済や新羅は朝鮮人が建国した朝鮮人の国」って言われるようになっただけだよ
954 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 23:58:34
>>950 ありがとう、勉強になったよ。三十国は島一つも一国として数えたとは考えられないかな?
955 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:02:02
>>948 >何故か九州はそれの蚊帳の外。
>地域独自の大型首長墓による祭祀は発生しなかった。
認識不足も甚だしいな。日向には古墳の最古型式からすべてがそろっているんだ。
日向の古墳と大和の古墳、そのどちらが先かは考古学的には分からないのさ。
南九州独自の大型墳墓が近畿に伝播したのが前方後円墳だという可能性も十分にある。
956 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:06:33
>>952 面積は確かに広いがね。当時、本州はまだまともな国の体をなしていなかったんだな。
畿内なんぞは毛人の国だったんだ。
957 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:07:58
>>955 「前方後円墳は日向王朝発生ニダ!<ヽ`Д´> 」…かw
958 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/03(水) 00:13:27
つか俺、自分自身も変な「先入観」持ってる事に気付いたよ
おれずっと個人的な解釈で「天皇は天照氏族で物部氏」「歴代の幕府も天皇と同じ血統氏族」って前提で記紀とかを読んでたっす
けどさ、何度も読んでて思ったけど、それ間違ってたかもしれないよ
天皇ってのは「国を治める氏族(幕府やせいい大将軍や総理)を任命する人」なだけかも知れない気がする
例えば「天下を統一した織田信長をせいい大将軍と任命した時の天皇は誰?」って言われても名前なんて出て来ないでしょ?
良く考えたら、藤原は新羅氏だし、徳川は物部氏だし、曽我は曽我氏だし、、、
徳川が物部氏族だからって別に天皇も物部氏族でなきゃ行けない訳じゃないすね
あと記紀読むと天皇は天照じゃなくて、スサノオや大国主の方の血統氏族のような気もするよ
天照は渡来してきた氏族と一緒に国造りをしてた大国主に対して「我が氏族が国を治める事を認めろ」って言って大国主に言わば「任命」されて国造りを始めてるよ
これ良く考えたら大国主の方が天皇で、天照の方が、せいい大将軍の立場な気がするしさあ
959 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:15:42
>>956 その国の体をなしてなかった畿内が4世紀に九州を征服したんだよな?
矛盾だな。
あれ?もしかして君、東遷説?
それなら、改めて聞くが、東遷前の畿内は、ニギハヤヒor出雲王国が栄えてたんだよな?
国の体をなして無かったとは、何を根拠にそう思えるのかな?
960 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:16:13
>>952 矛盾? 何でもこの言葉で済ますクセがあるようだな。
魏使は日本の全体図など知らない。邪馬台国民だって知らない。海の向こうに別の国が在る事はわかっている。
魏使には正直にそれを伝えている。ただそれだけだ。
961 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:22:12
>>960 >魏使は日本の全体図など知らない。
魏使が、山口県や出雲を知らない、とは思えないけどな。
矛盾だな。
あれ?そういえば、九州の邪馬台国と出雲は全然無関係の国なの?
だったら、卑弥呼とスサノオも無関係ってことで、
九州にアマテラスはいないし、九州は高天原でもない、ということでいいね?
もし、卑弥呼=アマテラスだとしたら、
九州の邪馬台国と出雲が無関係なんてことは言えないものね。
矛盾するよね。
962 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:26:30
>とは思えないけどな。矛盾だな。
自分の考えと違えば矛盾なのかw
日本語からやりなおせ。
963 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:27:22
まあ所詮この板の九州説なんざあ言葉遊びだからなw
方角の問題も隋書の
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
を持ち出せば片付く程度のお話。
まあ九州王朝説なんてものを持ち出さなければ
邪馬台国九州説の立場としては隋使の”誤認”とするしかないわけで
じゃあ方角の絶対的アドバンテージなんてものも無くなる理屈wwww
>>963 隋書ねえ。随分時代が違うねえ。日本がずっと同じ場所に都を置いていたとでも?
965 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:30:00
神話では、アマテラスは、スサノオに高天原を荒らされて困ってたはずだよね。
でも、魏志倭人伝では、卑弥呼はクナ国と仲が悪かったわけで、
卑弥呼=アマテラスだと、話が全然矛盾するよね。
卑弥呼≠アマテラスなら、東遷説は不成立なので、
4世紀に、畿内が九州の邪馬台国を滅ぼしたことになるね。
そういうことでいいね?
そうなると、畿内が弱小国だったという話と大きく矛盾するね。
九州説は矛盾だらけだね。
966 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:30:41
>>959 畿内が4世紀に九州を征服したとか出雲王国だとか、どっからそんな妄想が
わいて出るのかねえ。不思議だ。
967 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:31:58
今のとこ佐賀が有力だな
968 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:32:36
>>962 じゃあ、君は、出雲の噂がまったく九州に伝わってなかったと思ってるんだね?
そうならそうと、断言してね。
できるものならね。
969 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 00:33:46
>>963 >邪馬台国九州説の立場としては隋使の”誤認”とするしかないわけで
隋使は誤認していません。
魏志倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜一大國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜〜[十餘國]:伊都國〜投馬國・近隣餘旁國の後継国
〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜[秦王國]:唐津市浜玉
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜
〜〜〜〜〜┏┯┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵倭28ヶ国∵∵┗┓〜倭in倭地:今譯所通28國(狗邪韓國・對馬國・狗奴國 除く)
〜〜〜〜〜┃│┃↓〜┏┛(餘旁國) ◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗━
〜〜〜〜〜┃│┗↓━[秦王國] ∵∵∵大宰府∵∵∵∵∵∵∵∵∵郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜┏━━┛│∵◎→◇→→┐∵∵∵∵◇倭京∵∵∵∵∵∵∵∵郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(倭地韓地陸行)
〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵(餘旁國) ∵∵∵郡⇔投馬國:水行20日(天草灘・五島・済州島経由)
〜〜〜┃倭∵│[竹斯國] ∵∵↓∵不彌國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵●印:女王國メンバー国 範囲(浮羽-白石-大牟田-筑紫野)
〜〜〜┃∵非└┐∵∵伊都國◎→→●┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵末盧國:唐津鏡中原遺跡
〜〜〜┗┓∵28└┐∵∵∵∵└┐┏┓├●邪馬壹國[邪靡堆] ∵∵伊都國:惣座遺跡(肥前國庁跡)
〜〜┏┓┗━┓ ヶ└┐∵∵奴國●┃┃│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵奴 國:佐賀城
〜┏┛┗┓〜┃∵國└┐┏━━━┛●┘投馬國∵∵∵∵∵∵∵∵不彌國:吉野ヶ里遺跡
〜┃∵∵┃〜┗┓∵地└┨〜〜〜〜┃∵∵┌─────────投馬國:大川市中心部
〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵域┃有明海〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國:久留米市南部
〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵∵∵狗奴國:保田東原遺跡
970 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:33:49
>>966 もちろん、
畿内が4世紀に九州を征服したとか出雲王国だとか、そんなことは思ってないよ。
だって、3世紀から、畿内の邪馬台国が九州を連合下に入れていたんだから。
>>968 わかりもしない事を断じろって? 大笑いだ。
972 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:37:47
>>961 >魏使が、山口県や出雲を知らない、とは思えないけどな。矛盾だな。
畿内説が南を東と読み替えるのは、日本列島が南へ垂れ下がっていると思い込んで
いたという理屈じゃなかったかな? 山口や出雲を良く知っている(これが本当だ
ろうが)ならば、列島が南へ垂れ下がっているといった誤解をするはずはないんだ
がね。それこそ、畿内説の場当たり説明、矛盾だあ。
973 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:38:17
>>969 だ か ら ・・・
>まあ九州王朝説なんてものを持ち出さなければ
つったろうがw
まあ実際のところ邪馬台国九州説も九州王朝説も同義になりつつあるんだろうから
精々仲良くやりなはれwww
その間にリアルの世界じゃあドンドン話が進むだろうがwww
974 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:39:17
>>961 >もし、卑弥呼=アマテラスだとしたら、
>九州の邪馬台国と出雲が無関係なんてことは言えないものね。
>矛盾するよね。
なかなかスルドイので、この部分、禿同。w
>>871 >横レスだが、高天原は壱岐
壱岐は倭人伝で明確に一支国(or一大国)だ。
なぜ一支国が高天原なのかさっぱりわからん。w
975 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:40:38
976 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:41:49
>>884 >放射性炭素年代測定に依存しすぎ
それならオカルトではないのでは?
>>887 >魏志倭人伝を読めば馬鹿でも九州ってわかりますよ
距離も方角も正しくないから記述の信頼性が疑われてるのでしょう。
正しくないものを分かりきってるというのは科学ではないですね。
977 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:42:05
>>973 進むどころか逆行してるよ
先日の箸墓の時代認定だって卑弥呼説が強まるどころか疑問が大きくなってる
それまではおぼろげだったものが強い光をあびて影がよりいっそう強くなったって感じ
978 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:43:20
倭国大乱がターニングポイントで、ここで九州から畿内に中心が移動。
高地集落の分布からも西日本一体で争いがあったことが確認。
卑弥呼は巻向にいたのは間違いない。
979 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:45:00
>>978 その前に男王が立ったと書いてあるのは無視するわけだw
いいかげんにしろ
980 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/03(水) 00:45:32
あと記紀よんでて1つ気付いた
記紀は確か「帝記」「旧辞」「稗田阿礼が伝え聞いた伝承」をまとめた書物とされてるすよ
何を根拠にそう言われてるのかとかは(記紀にそう書いてるのかな?)、まだ調べて無いからコレが本当かどうかは知らないけど
仮にコレが本当だとした場合はさ
記紀は「それぞれの書物や地域では、どう言う内容で伝えられてるのかってのをまとめたもの」って事と思うよ
例えばスサノオはスサノオって呼ぶ地域も有れば牛頭大王って呼ぶ地域もある
スサノオを英雄としてる地域もあれば、追いやられた氏族や地域からしたらスサノオは悪い奴だと伝えられる
例えば会津の侍は会津の将軍の事は「殿」と呼び、尾張の将軍の事は「尾張の藩主」と呼ぶ
けど尾張の侍は尾張の将軍の事を「殿」と呼び会津の将軍の事は「会津の松平将軍」って呼ぶ
書物や地域によって、その人物の呼び方も変わるし、描かれる人物像も伝えられる内容も変わって来るよ
記紀の中で、例えば山幸彦と大ホサギの命(仁徳)とか、イワレビコと大海人(天武)とか
なんか同じような内容がある人物ってのは実際には同じ人物の同じ出来事を書いてあるんだと思うよ
ただ書物や地域によっては記述の仕方や人物像や、伝わる内容はそれぞれの立場や目線から見た話や記述で伝わるから全く同じ内容にはならないだけでさ
あと例えば干支などの記述が無い書もあれば、干支もその地域や氏族が付けた元号も記述してる書もあるだろうし
わざわざ天皇の崩壊年なども注釈として記述する立場の氏族もいるだろうしさ
記紀は藤原宮に遷都するまでの事が書かれてる
それなのに大化の改新の事や「曽我入鹿」や「曽我馬子」の事が出てこない
けど例えば神功皇后の話の中に「浜辺に行くと鼻の傷付いたイルカで満ちていた」なんて解釈がされてる記述がある
これはんな話じゃなく曽我入鹿の事を記述してあるのに、アホの近代学者が「浜辺にイルカがいて」って解釈してるって事なような気がするよ(原文はまだ確認してないけど)
981 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:45:53
>>907 江戸も大坂も、日本国内の都市で、江戸幕府の直轄地でしたよ。
九州もヤマト国の一部で、ヤマト政権に服属してたということですか?
982 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:48:23
>>965 卑弥呼は、狗奴国にすごく困って、帯方郡に使者を送り援軍を要請した。
太守の王頎は、わざわざ都に出向いてこのことを伝えた。
でも、魏もけっこう大変な時期で、援軍は来なかった。
代わりに、調停のために、黄幢を持って張政がやってきた。
というわけで、素戔鳴尊の乱暴に匹敵するくらい困っていた。
そして、卑弥呼は死んでしまう。
つまり、天照大神=卑弥呼が成立する。
だから、東遷説が成立する。だから、矛盾しない。
983 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/03(水) 00:49:44
>>974 天高原は信濃だよ
つか要は単に「こうげん」だよ
「○○高原」って呼ばれる地域は各地に沢山あるでしょ?
信濃の高原地帯一帯が天高原て呼ばれてたんだよ
神坂峠が何処にあるのかとか知らないですか?
あの峠を越えた場所が天高原だよ
984 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:51:06
高天原に馬が出てくるので
高天原=邪馬台国 は通用しない、ハイお終いw
で月讀はどう言う役どころなのかな?
東遷厨にハブられて可愛そうwwwwww
985 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/03(水) 00:52:58
>>964 髄、百済、唐、新羅、宋、漢、倭、遼、、
全部同じ時代に存在した地域なり氏族をさす言葉だよ
これって中国大陸にあった歴代の朝廷の名前じゃないよ
986 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:54:00
まあ東遷説とか九州王朝説なんてトンデモは別にして
現在の九州説の保守本命のツクシ説にとってあの年代は辛いよなあw
>>982 素戔鳴尊は狗奴国王という意味?
それと、それじゃ高天原神話で張政が登場してる?
なんという神さま?
>>983 信州に扉温泉ってあるよな。そこの岩を投げて天の岩戸と。
ほんとアホらしいことしか書いてないな、正当な日本史とやらは。
989 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:57:31
九州が邪馬台国?
宮崎の高天原や、大分の比売大神の宇佐神宮があるのに、
卑弥呼のいた痕跡はまるでないわけ?ありえないでしょ。
990 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:57:46
朝廷?=畿内との、九州=邪馬台国との交流があったのは認めるよ
991 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:58:14
一大卒は、進駐軍の長のようなものでしょう。倭国大乱で瀬戸内一帯を平定した邪馬台国
連合の前に、北部九州は従うほかなかった。巨大勢力を前にして、ぷるぷるの状態。まあ、
邪馬台国連合にしても、古くからの王がいる北部九州を完全に武力鎮圧するのは、リスク
が大きいため、にらみ倒し状態。これが220年頃かな。このあたりで、北部九州を介して
公孫氏から画文帯神獣鏡を移入したんでしょう。
992 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/06/03(水) 00:58:24
魏志倭人伝以外に23の漢籍書があるよ
それらを読んでみ?
邪馬壹國の場所とか詳しく書いてあるよ
別に邪馬壹國なんて謎じゃないよ
つか他の書物とかも読めば倭が今の日本を差す言葉じゃ無いってのも解るよ
993 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 00:58:33
>>984 月読尊は、記紀でも影が薄い。
古事記ではほんとで出てこないし、日本書紀でも、食べ物を口から出して
もてなした保食神を切り殺して、天照大神から二度と顔を見たくないと
怒られて、その後二度と会うことはなかったとなっている。
994 :
九州王朝大好き:2009/06/03(水) 00:59:27
>>963 隋書俀國傳地図
〜〜〜〜┃◎┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→┐┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜經都斯麻國迥在大海中
〜〜〜└→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜迥在大海中又東至一支國
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜一支國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜〜┃唐┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗竹斯國の湊:魏志の末盧國の後継地
〜〜〜〜〜〜〜┃津┗↓━┛秦王國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵秦王國:唐津市浜玉、『東至秦王國』
〜〜〜〜┏━━┛∵∵◎→◎→┐∵∵∵∵∵∵◇倭京∵∵∵∵∵∵倭京:大宰府、『此地帝都・・・遷京北方』
〜〜〜〜┗┓∵∵竹斯國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵十餘國:魏志の伊都國〜投馬國+近隣餘旁國の後継国
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵(伊都國) ◇→→→┐海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵經十餘國達於海岸
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵∵┏○→→◎邪靡堆(久留米)∵邪靡堆:久留米市南部、『其地勢東高西下都於邪靡堆』
〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵┃┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 『邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者』
〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵┏━━┓∵┗┓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜長崎┃◇┏┛〜〜┃∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵∵
995 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:00:44
996 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:01:42
>>993 その食物起源をハイヌウェレ型と言う。
かなり原初的な性格を持つんだろうな。
後付で出てくるような神様じゃないぞ?w
いや、そもそも日神に対して月神が後付なんて事は無い。
さあ東遷厨の妄想神話はどういう変遷で成立したのやらwwwwwwwww
997 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:04:01
千なら畿内説はうんこちゃん
998 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:05:30
千なら畿内説は妄想でしかない
999 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:06:58
千なら邪馬台国は九州で決まり
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。