952 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 14:59:55
中平刀や三角鏡が国産でも、畿内説の体勢は変わらないんだがねえ。
953 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 16:52:15
日本で何万枚出土しようが△は舶載です。
954 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 17:15:34
日本製品だな。
△は楽浪産
956 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:51:22
>>950 一概に、的外れとも言えないと思う。
庄内期の年代なども、他の専門家の意見を聞くでもなく、議論するでもなく
年輪年代ですぐに宣伝、一般化へと走った。
年輪年代に疑問を持っている人が多いのも事実で、もっと広範囲の議論、
あるいは年輪年代に対する検証があっても良かったと思う。
閉鎖的というか、独断的というか、そういう印象はあるなあ。
957 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:56:15
だから、中平刀や三角鏡が国産だったとして、
いまさらどういう影響があるっての?
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 18:02:36
畿内説が大ウソだったということになる、
959 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:06:09
どうして?
ちゃんと説明してくださいね。
三角縁神獣鏡は
@そのすべてが国産である
Aそのすべてが舶載である
B一部国産で一部舶載である
と分けたら、たぶんBじゃないのかな?
@とかAとかは極端で、俺的にはついて行けない感じ。
だってもう発掘調査なんかしなくてもいい、生産地は掘
る前から決まってる、って言ってるようなものだろ。
961 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:59:59
>>957 三角縁神獣鏡が、魏鏡だとすれば、日本に入ってきたのは西暦240年頃になる。
つまり、三角縁神獣鏡の出る古墳や遺跡の年代は、それが基準になる。
まあ、遺跡から出たという話は聞かないけれども。
一方で、よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半と
すれば、それが年代の基準になる。
いろんな意味で、この年代の差は大きい。
962 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 19:42:05
>>961 議論が古すぎる。
もはや鏡だけで年代を決める時代じゃない。
963 :
ローガン:2009/05/24(日) 19:43:16
>>961 > 三角縁神獣鏡が、魏鏡だとすれば、日本に入ってきたのは西暦240年頃になる。
> つまり、三角縁神獣鏡の出る古墳や遺跡の年代は、それが基準になる。
それを遡らないと言う意味でね。
>>961 >よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半とすれば、
そんな仮説、よく言われるなんてことはないぞ。w
三角縁神獣鏡を副葬していた古墳に兵庫県の権現山51号墳がある。
この古墳からは円筒埴輪の最も古い型式である都月型円筒埴輪も出ているので
古墳時代前期前半の古墳であることは間違いない。
古墳時代前期前半を、4世紀後半まで下げて充てることは絶対にできない。
そんなことをしたら前期後半や中期の全国古墳編年が大支障をきたしてしまう。
965 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:44:24
>>958 どうして? ちゃんと説明してくださいね。
966 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/24(日) 20:51:45
巻向 ホケノ山古墳 240年 鏡には少し早いが
黒塚古墳からは鏡が山ほど出た。
おまけが 水銀朱。
967 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 20:55:06
あれは△のほうの話だ。日本製じゃぁ、もう卑弥呼の鏡ではない。
倍暦計算で
景初3年=239年=崇神即位3年
だ。そして その前年=238年=景初2年=崇神即位2年 に天照大神宮
が成り、この年崇神天皇は同床鏡殿策により別の鏡を殿内に奉安
した。その畿内住民への鏡祀りの右へならへの勅があったと観て
よい。だから景初3年鏡は同朔の翌年であり、だから畿内からうんと
出るんだろうが。w 続いて
崇神没年=259年
であり、記の崇神崩年干支がほぼ正解だったことが倍暦計算で
知れる。つまり年代においては菅政友、橋本増吉に258年説が真で
あったことが裏づけられるのだ。△は卑弥呼の鏡にあらずということ
になる。
968 :
389:2009/05/24(日) 20:57:11
>>964 それは「九州説論者の間では」という言葉が抜けてるんだよ。安本美典氏が箸墓古墳を
4世紀後半というようなもの。
969 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 21:10:43
970 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 21:46:35
>>961 >よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半とすれば
ほうw
で、その提唱者に誰々がいてその根拠は何なのかな?
つうか「九州説論者」と言うよりもっと限定的に「東遷説論者」の間で
言われている事じゃないのかな?
無論、三角に先行する画文を考慮しての事だろうし
いや、それだけじゃなく東遷説の本場w甘木の神蔵からも三角出てるんで
それも考慮しているのかな?www
971 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:18:33
鏡は女性が使うものだから流行り廃りが早かったはず。
大量出土は、流行遅れになった鏡を地方に売りさばいて
ぼろもうけをした業者さんがいるということです。
>971
中国で普通に化粧道具として使う鏡は、裏(というか表?)を研磨して水銀を塗ってある
日本で出土するやつは、そんな処理されて無いだろ
画紋帯が鋳物としては彫りが深くて精緻、△が安っぽい粗い鋳込みだと言うくらいだ
973 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:45:46
>>972 >日本で出土するやつは、そんな処理されて無いだろ
それが本当なら、三角が舶載かどうか、すぐわかるじゃん?
974 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:55:00
975 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:26:41
まあ前方後円墳が定型化され、それ自体が被葬者もしくはその後継者の権力を示す物=威信財となったら
(多段構造で、側面にびっしりと葺石を施し、墳頂には埴輪・・・ そりゃ見る者を圧倒したろう)
副葬品の鏡の重要性は低下せざるを得ないわけで
三角がやっつけ鋳造レベルの物が出てくるのも必然なのかな?w
後漢の舶載とされる画紋帯も、水銀塗ってないはず
中国でも日用品じゃない系統があったということ
神仙思想の銅鏡の術具として入って来た訳だろ
卑弥呼が欲したのも
978 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:58:48
というわけで、三角縁は国産ということで決着しましたね。
自分は972、976だが
>978
舶載だとしても粗悪な量産品といった所だろうな
舶載が少数あって、それを型に起こしてレプリカを国内で作ったという意見もある様だな
でも、原版は今のところ見付かっていない
原版とレプリカは鋳込みの深さに差が出るので、原版△が出れば原版と解るのだが
今のところ△の粗悪さはどれも同じなようだ
980 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 01:45:37
>>979 たしかに、最近はほんの一部だけ舶載であとは国内での複製とする現実主義の舶載説も
出てきましたね。現状で過半数が舶載とか主張したら、頭がおかしいと思われるのがオチだし。
しかし、もともと舶載説は、三角縁の過半数が舶載という説ですよ。
△の紀年鏡が文様の変遷の後半期に位置づけられる以上、過半数を舶載としないと紀年鏡が
国産になってしまうから、昔は過半数を舶載としていたのです。
まあ「一部だけ舶載説」が出てきてからは、この問題に触れる人はほとんど居ないけどね。
981 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 01:55:43
△の問題は年代論にとっても、重要だね。
例えば、△を240〜400頃に流通したとて、デザインや文様の変遷を年代ごとに
割り振ると、初期(240頃)の鏡が後半期と一緒に出土する事例をどう解釈するか
という問題が生じる。
普通に考えれば、A〜Gまでの変遷のうち、A〜Eまでが同伴することが多ければ、
これらは同一世代に出回っていたこととなり、100年以上の長期流通は否定される。
素直に見れば、4C半ば頃に日本で△の製造が始まったということになる。
そこで、△を240まで古くする説は、240年にA〜Fあたりまでを中国から一括して
持ち帰り、国内でちびちびと配布したと主張する(岡村説)。
つまり、△が舶載で240年頃に「原鏡」が来たとする説は、△の過半数が舶載で
240年頃に一気に持ち込まれて、ちびちび配布したという説にならざるを得ない。
水野も「王の蔵」で厳重に管理して、ちびちび配布したと主張する。
・・・このトンデモ感を堪能するのが、古代史の醍醐味ですな。
982 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 02:08:55
>>981 要するにだ…。
「短期編年」の立場を是としておいて
三角の流通の終焉(ケツ)から逆算してその登場時期を決めたいわけだろ?www
まあいつもの東遷説論者だろうが目的ははっきりしているなwww
普通、遺物の年代なんて登場時期から探ってその上限がいつまでなのかを検証するのが常道なんじゃないのかね?
別に三角を3世紀半ば頃からとしている人間でも短期編年の立場をとる学者も普通にいるしw
極端な話、俺が自分の墓に三角を入れたら、そこから計算して
三角の登場は20世紀…なんて事になりかねんwwwww
△もいろいろある様だな
ホケノ山から出た画紋帯の一次レプリカというのを手にして触った事があるのだが
すごく彫りが深くて、神獣の鱗や毛流の線が細かく、リアル感がある
一見して△とは質感が違ったですよ
△は線の細かさと言った描画のタッチ以前に、鋳込みが悪く、巣が入って欠けている部分もある程じゃないか
984 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 09:54:08
舶載説が維持できなくなったと思ったら、近畿説論者はあっさり三角から手を
引いてしまったという感じだな。舶載ではないとしたら、誰がどうゆう理由で
作ったかということになるはずだが、そこまでは頭が回らないらしい。
三角縁神獣鏡って横から見るとこう↓なってるから三角縁神獣鏡というのか…知らんかった。
三角縁→▲__∩__▲←三角縁
邪馬台国は、出雲スサノオが統一した九州の100余国(熊襲除く)=倭(和)国がスサノオ亡き後、
100余国あった倭(九州)諸国の利害対立が噴出して内戦状態になった(倭国大乱)結果、
平和への模索として共立された女王国(卑弥呼=スサノオと※向津姫の間に生まれた宗像3姉妹の誰か)。
魏志倭人伝の記述からも、
−「倭は山島をもって国となし」とあるから、倭=(山)島であることが誰の目にも明白である。本州ではありえない。
−「東は海(=塩水)をもって境となし」とあるから、この(国境となっている)東の海が、大和盆地のように山を隔てた伊勢湾や琵琶湖(淡水)ではありえないことは明らか。この時点で九州か四国になるが、
−「女王国の南4千里に朱儒(=小人)国に至る」とあるから(朱儒国=沖縄と判り)、南に何もない四国は(大和も)消去され、倭国=九州が確定する。
また中国は後に倭(ワ)国をイ妥(タイ)国と表記するようになることから明らかなように、邪馬台国=山(島)イ妥国 となり、中心に山(阿蘇山)が聳える島、つまり九州にあったことが判る。
よって(南に何もない)邪馬台国大和説は最初から成り立たないことは明白だが、出版社(九州説)とマスコミ(大和説)の自作自演で人工的に論争を引き起こし、古代史オタク(小金持った年金生活者)から小遣いを巻き上げてる図式に気付け!
※向津姫=出雲スサノオに征服されたイザナギ族の娘、スサノオの九州現地妻(正妻は櫛田姫@出雲)で、後の天照大神(現天皇家の先祖)に祭り上げられる。
986 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 10:57:30
行程がそれまで里で書かれてて次日数とかの問題は
朝鮮系の人でかつ日本の知識をほとんど持っていないような老人とかに
書いてもらったらと思うんだ。
英語と日本語は文法違うし、そこに人種の考え方の差も出るし
987 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 11:39:00
そんなに難しく考える必要はないだろう。水行20日とか水行10日陸行1月
は長い旅程だ。里数がよく分からなくなったから日数にしたまでだろう。
魏志倭人伝の邪馬台国や女王についての記述が漠然としている。
水行10日、陸行1月を要するというのも、実際旅程に即した累積的な記録と思われない。
伊都における伝聞記事ではないかと思う。
989 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 12:15:02
>>984 東遷説も、あっさり手を引いたほうがいいよ^^
鏡より前方後円墳や円筒埴輪のほうがはるかに重要。
>>986-988 「南至投馬國水行二十日」→(帯方郡から)南へ船で20日で投馬国に着く。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
→(帯方郡から)南へ船なら10日、(帯方郡から仮に海の上を陸のように)歩いたなら1月で(女王が首都にしている)邪馬台国に着く。
船で10日=徒歩で30日(一ヶ月)
つまり陳寿は「水行は陸行の3倍のスピードで飛ばせるよ!船は速くてスゴイよ!文明の利器だよ!」ってことを、
邪馬台国にかこつけて言ったんじゃまいか?その根拠はこちら↓
「帯方郡から女王国に至るには、合計1万2000余里(約900km)」
船で10日なら1日あたり90km、徒歩で一ヶ月(30日)なら1日あたり30km、なら妥当じゃまいか?
今流に書くなら、
「西至大阪市、新幹線行三時」→(東京から)西へ新幹線で3時間で大阪市に着く。
「西至名古屋市、新幹線行一時半、車行三時」
→(東京から)西へ新幹線なら1時間半、車なら3時間で名古屋市に着く。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
南に水行十日(つまり)陸行一月で邪馬台国(女王所都)に到着する。
↑このように、水行十日と陸行一月に間に「つまり」「ご存知のように」「言うまでもないが」を補って読めばどうよ?
992 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:00:16
前方後円墳や円筒埴輪は、東征かどうかなどはなかなか分からない。
鏡は、勢力の動きを良く示しているよ。
993 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:02:52
>>990 いきなり郡からと読むのは、文章的にとうてい無理。
それに郡から日数のみを書いたところで、投馬国がどこか、邪馬台国がどこか
まったく分からない。そんな無駄な記事を残すはずもない。
郡からと読むのはしょせんトンデモにすぎない。
>>992 銅鏡は自動車のホィールキャップみたいなもんだと思う。
ひき逃げ現場にホィールキャップが落ちてれば、メーカー(工房)と車種(思想)が一目瞭然。
銅鏡(ホィールキャップ)ほど被葬者(思想=勢力)を語るものはない、には禿同!!
>>993 >>990-991だけどサンクス!
やっぱり、投馬国や邪馬台国だけ(帯方郡から)とか(つまり)とか補って読むのは無理があるよね…
995 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:14:50
>>991 オレも、最初に倭人伝を読んだ時、ここ「水行なら十日、陸行なら一月」と読んだけど、
でも、それなら「水行十日或陸行一月」みたいに、「或」くらい書くんじゃなかろうか。
いまだに、どっちか決めかねてる。
996 :
988:2009/05/25(月) 13:15:33
魏志倭人伝の記述は、邪馬台国を狗邪韓国から順次南へ展開した八国の最後において、
「女王国より以北、その戸数、道里は略載すべきも」として、投馬国にも、戸数と道里を記載しているのであるから
以北の八国のなかに投馬国は明らかに含まれている。
また、「女王国より以北は、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」とある「諸国」の中にも、文脈上、投馬国は含まれているはず。
したがって、邪馬台国は「水行10日と陸行1月」と、累積的に読むべきだと思う。
ところが累積的に読むと長大だし、およその日程で示しているとしか思えない。
といっても、郡からってのは賛成できないけどね。
連投すみません。
998 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/25(月) 14:23:44
999 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 14:26:34
対馬の南に壱岐は無い
>>995-997 サンクス!
確かにもし【水行なら10日=陸行なら30日】という意味なら「水行十日【是/即】陸行一月」とか書くはずだもんね。
陳寿が裏で海運会社も経営してて、その宣伝をしてるのではないか?という妄想がムクムク、すみませんですた!
確かにここは素直に【水行で10日+陸行で30日】と読むべきだね。また振り出しに戻りますた!(鬱)
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