♪邪馬台国 ドンと来い♪ 43

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1日本@名無史さん
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              l:|;::::::::::iヽ              / |:::::::::::::::::::::!::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
 九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 42
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1240914465/l50
2日本@名無史さん:2009/05/07(木) 01:31:37

>>1 otu otu otu


トヨタン・・・・・・・・・・ トヨタン・・・・・・・・・・ トヨタン・・・・・・・・・・
3前スレ ラスト5:2009/05/07(木) 01:57:21
996 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/05/06(水) 23:23:38
遠絶の「絶」の意味は、ハッキリしておいた方がいいかな。
「誰かが疎遠で交流が絶えている」と訳してそのまま信じられているようだけど、
「女王の境界が尽きるところ=そこまで女王の国」と「交流が絶えている」は若干矛盾していると気づくはず。
それも20カ国以上疎遠とか、情けない状態!?
絶は4箇所登場して、すべて「陸続きじゃない」という意味なんだよ。
女王国の乗っている島や対馬は「絶」在している。→(朝鮮のような半島でなく、)陸続きじゃない島だ。
遠絶の国々は、南西諸島のこと。国の数と南西諸島の主だった島の数は一致しています。
素もぐりで魚を取るのがメインなんだから、不便じゃなくむしろ良い土地だったんでしょう。
敵対する国は「沖縄本島」です。
沖縄の言葉が分離したのは、今から約1800年前と言われているようですが、
この敵対が原因だったのかもしれませんね。
絶の意味がちゃんと分かっていれば、初めから畿内説なんて無かったかも。
周囲5000里あまり(帯方郡から韓国南岸より短い)絶島とハッキリ書いてあるんだから。

997 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2009/05/06(水) 23:24:42
>>994
毎度御苦労。証拠といい出したからにはオマエのほうが先に証拠
を出せ。どこに徐福らが日本へ来て漢字の黙秘権を行使してたのか?
その証拠を言い出した側から見せるんだな。wwwwwwwwwww
ナイナイズクシで〜〜ないのか?ww

998 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/06(水) 23:27:52
徐福が日本で漢字をばら撒いたと最初に言い出したあなたに、その立証責務がある事ぐらいは理解できるでしょ。
十分な立証をしない限り、あなたの言い分は、立証不足で先に進めない。よってあなたの言い分は、
自動的に棄却される。

999 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/06(水) 23:29:06
日本中から出てくる土器に漢字が書かれて無いんだから、だめだよ。

1000 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/05/06(水) 23:29:17
多数の国の連合体が、たった一国を滅ぼせなかったのは、「絶」すなわち、陸続きでなかったからです。
4日本@名無史さん:2009/05/07(木) 02:06:20
倭人伝や晋書なんかには、通訳がいたと書かれている。
中国と交流するために、あちらの言葉を学ばせたわけだから、
ついでに、読み書きも習わせるだろう。

鏡の文字なんかもあるわけだし。
もう、三角縁神獣鏡の年号も日本製でいいんじゃないかな。

だから、かなり古くから日本にも文字があったに一票。
5日本@名無史さん:2009/05/07(木) 07:43:27
>>3
あなたの日本語は変です。この世の中に、「陸続きではない島、陸続きの島」
などという現象表現はありません。
よってあなたのどんな発言も、その一言で全て「絶え」ます。

周りが全て水域で囲まれているから島
6日本@名無史さん:2009/05/07(木) 12:11:43
通訳や一部の者が喩え文字を識っていたとしても、倭国社会が必要を感じなければ、
言語ツールとしては使われないだろう。
倭国に永らく文字が無かったのは、知らなかったのではなく、必要がなかったのでは。

中国社会は、歴史上余りにも早く広域社会が発展、言語の異なる人々の交流が早くから普遍化、
しかも大陸性の気性特有の個人主義――文字(漢字)の発達が必然だったのでは。
7日本@名無史さん:2009/05/07(木) 12:17:48
古代中国の識字率ってどんなもんだったのかね
農民とかも使えたのかな
8河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/07(木) 13:21:19
当時の中国国学者達が扱ってきた漢字の数は、実に数十万文字と言われる。
しかし、今私達が扱う漢字は
多くて数千文字
当時の1%にも満たない数だ

数十万文字を扱った学者に対し、今
誤字だ、誤写だと言ってる蚤の姿は
実に滑稽に写るであろう。
9日本@名無史さん:2009/05/07(木) 13:28:53
いや、既に魏や晋の時代――否、漢の武帝の時代には既に、中国社会で使われる漢字は
せいぜい5万字以内に安定している。書体に至っては全く今日と同じ。
そこで、「臺」と「壹」、「月」と「日」云々となると、誤写も含め何らかの意味・事情
がある――ということになる。
10河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/07(木) 13:55:38
仮に五万文字としても、現代の十倍強の値
大人と子供の差程ありますね
11太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/07(木) 14:30:00
>>3

徐福が日本に来て漢字で名前を倭人に直接言ったかどうかまでは定かではないが、
彼のお供が沢山いたんだろうし、ある程度日本に住めば大陸の漢字はこうだああ
だと興味ある倭人に教えるのは時間の問題だよ。おまけに不老長寿の薬をもらえ
るときに、なんの大陸の贈答品も出さないいる徐福一行ではあるまい。そうなって
考えると大陸の文化はある程度は倭人に伝わったろう。そのころは神武以前
だから、大陸から持ってきたブツは永い時代の経過で地に還元されてるのが
行き着く先。字がないって言ったって、厳格には悪魔の証明を言った奴が言って
たが、無いは証明困難だ。だから前スレ>998は、古代史論ボクシングの選手から
兼古代史論の審判になって自ら論法の規則の制定と採点をやる行為に出て負けを
逆転しようと〜くやしいんだろうがその策謀に出たわけで、選手兼審判を一人
で並用して頑張っているわけ。要するに論の持ち駒がなく事例をうんと出されて
負け運んできたから、審判を自己の大駒として余に対戦を仕掛けてきたもの。w

相手の選手がその試合の審判なら、自己に有利に採点、規則違反を立てれば
いいわけで、彼の審判論法は裁判論法の大駒打ちでやっつけてやろうとの所作。
負け運んだ奴は勝つには、証拠を出せか〜審判兼選手の自己採点で妄想の負けを
土俵際で頑張るわけだ。www

~\~
12日本@名無史さん:2009/05/07(木) 14:34:50
自分と同じで、仕事は月曜からってのが案外居るようだな・・・。
せいぜい野山を歩いておこうと思っていたが、雨では2chを覗いてるしか仕方が無い。
13日本@名無史さん:2009/05/07(木) 16:42:30
邪馬台国の女王台与が晋に使節を派遣し竹林の七賢人を日本に連れて来たので
その後、中国に使節を派遣する必要がなくなった。
14日本@名無史さん:2009/05/07(木) 18:46:00
よいこのための畿内説講座〜前編〜

A「まず方角な。日本列島を90度回転して、南を東に読み替える。行程は順次式。これがポイント。」
B「90度回転?」
A「これを見ろ。15世紀の朝鮮で(以下略)」
B「その地図、否定されてるんじゃ・・・」
A「ちっ。記述通り進んだら、日本の遥か南方になってしまうんだよ。」
B「解釈次第で日本のどこかに・・・」
A「ねえよ。」
B「でも南と東を間違えるかな?」
A「いいか、当時は日の出の方向を東としてたんだ。で、夏至の頃は(以下略)」
B「そのくらい補正するでしょう。北極星だって知られていたのに。」
A「・・・平面に引き伸ばされた地図ではな、少しずつのズレが、遠くなるにつれてだな(以下略)」
B「そのズレも補正するでしょうに。彼らは日本より遠くて広い国にも行ってるんだし。」
A「じゃあ何か、奴らが一時たりとも間違えなかったとでも言うのか? 誤記や改竄の可能性も否定するのか?」
B「そんな無茶な・・・」
A「だろう。いいから南を東に読み替えろ。これが大前提だ。」
B「・・・」
15日本@名無史さん:2009/05/07(木) 18:47:25
よいこのための畿内説講座〜中編〜

A「帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐。壱岐から千余里渡海して末盧、今の唐津か松浦市あたりだ。」
B「千余里? せいぜい五百里では・・・」
A「大体でいいんだよ。末盧から'北東'に五百里陸行して伊都、前原市あたりだ。」
B「五百里陸行? 何で船で行かなかったの?」
A「知らねえよ、そう書いてあるんだから。伊都から'北東'に百里で奴国、福岡市あたり。'北'に百里で不弥国。」
B「歩いて?」
A「多分な。で、玄界灘から'東'に水行二十日で投馬国、瀬戸内海のこの辺だ。」
B「船は唐津に置き去り? 何で不弥国まで船で行かなかったの?」
A「だから、知らないって。唐津まで一度戻ったんだろ。帰りにも使うんだから。」
B「歩いて?」
A「くどい。倭人の船で戻ったか、船の方が先まわりしてたか、倭人の船で瀬戸内海に向かったんだ。」
B「・・・20代か30代もしくは40代から50代の男性または女性・・・」
A「何だそれ。」
B「あのう・・・壱岐から北九州を経由して瀬戸内海に向かうなら、乗ってきた船で港伝いに進むでしょう、普通。」
A「それは素人の発想だ。(当時の状況、魏使の目的、高度な地政学的見解、その他熱弁)」
B「でも・・・」
A「お前、漢文の訓み下しすらできないだろ。実は、よく読むと船で港伝いに進んだ、とも解釈できるんだ。」
B「えっ?」
A「冗長を避けて省略したんだな。説明しようか?」
B「いえ、いいです。」
16日本@名無史さん:2009/05/07(木) 18:48:18
よいこのための畿内説講座〜後編〜

A「投馬国から'東'に水行十日で、岡山あたりに上陸。陸行一月で邪馬台国がある奈良盆地に到着する。」
B「陸行一月? 大阪まで船で・・・」
A「ああ、岡山から水行なら十日、陸行なら一月ということだよ。」
B「ここだけ順次式じゃないの?」
A「もちろん順次式さ。実は日本海を水行したんだ。敦賀あたりから陸行一月でピッタリだろ。」
B「ええっ? 何でわざわざ外海から遠回りしたの?」
A「・・・瀬戸内海を大阪まで水行したんだよ。一月は一日の誤りだろうな。」
B「・・・」
A「邪馬台国の南には狗奴国があって、敵対している。熊野あたりの蛮国だ。」
B「南? 熊野?」
A「あ、南は東な。狗奴国は東海地方の強国だ。倭人伝にも東を千余里渡海して倭種の国あり、と書いてある。」
B「東? 海って伊勢湾のこと?」
A「うるさいな。東は北で、海は琵琶湖だよ。」
B「琵琶湖!」
A「・・・邪馬台国は卑弥呼の都で、七万戸の大国だ。」
B「奈良盆地に七万戸? 確か三世紀頃は湿原で、神武東征にもそれらしい記述が・・・」

A「お前、七万戸は誇張に決まってるだろ。何が湿原だ、見た奴でもいるのか。東征なんておとぎ話だ。」
A「とにかく倭人伝は誤述が多すぎる。記紀はでっちあげだし、大昔の文献なんぞアテになるか。」
A「都合よく解釈すりゃあいいんだ。学者だってそうしてる。何でいちいちケチつけるんだ。」
A「コウコガクで考えろ、畿内しかねえだろ。畿内じゃなくても畿内にしとけよ。」
A「大体、婆あが鏡やら絹やら貰ったのが悪いんだ。じゃなきゃ今頃、箸墓が奴の墓で決着してたのに。」
A「欲かきやがって、掘っても掘っても出やしねえ。待てよ、本当に貰ったのか? おい、どう思う?」
17日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:02:11
九州説講座

1. 短里である=北部九州に限定される。南九州死亡。
2. 東に海がある=九州東海岸に限定される。福岡、熊本、長崎ほか死亡。
 
1,2を満足するものは大分ぐらい。

3. 壱岐の南にあるマツロ国から、さらに南のほうにある。大分死亡。

結論。

すべてを満足する九州説は存在しない。
18日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:13:14
水行十日とか陸行一月というのは短里?
19日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:20:53
@『三國志』本篇は極めて簡素。『演義』が無いと意味不明、歴史物語にならない。
(その点、司馬遷『史記』がそのまゝ口語に直訳しても立派な物語になるのと好対照)
Aそんな中で、東夷傳・倭人の記事だけが、やたら詳しい――まるで文体が異なる。
(卑弥呼没まで、まるで『史記』の世家・列傳如く物語になっている)
B理由は、「親魏倭王」を与えた値打ちを高からしめている。(倭は、それほど大国だ)
(対馬〜邪馬台国までの戸数計15万戸。魏の洛陽7万戸、魏国全部でも10万戸を割る)
C倭地温暖。習俗を挙げて「會稽の東に在るはず」。風俗を挙げて「海南島と同じ」。
D即ち、陳寿自身が、頻りに日本列島を逆さまに向けて江南海上の南へ南へと持って行っている。
E九州北岸の不弥国までは里数、以降は里数定かならぬほど遠方ゆえ日数。畿内となるべし。
(全1万2千余里は正に海南島近海。同時に、後漢が王とした大月氏の距離との均衡)
F「親魏倭王」としたぐらいだから、邪馬台国実在は事実だが、とにかく大国、南方熱帯の位置にしたかった。
Gそこは、正に呉の背後海上に当たる。
20日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:33:55
もっと簡単にいこうか。
末盧国は唐津あたりだな。そこに上陸して東南陸行五百里。伊都国は佐賀市
付近だ。→畿内説、北九州説はいずれも壊滅。
21日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:41:07
そうだよ!
里数を日数に変えてるんだから、いつまでも九州をウロウロしているハズがない。
方角は、陳寿が意図して変えたんだ。
それで、皆、つじつまが合う。
22日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:49:21
対馬や壱岐では「至」や「到」の前に「行」がなく、歯黒国とかだと「行」が付くから、
もしかしたら「行」は「もし行くとすれば」の意味ではないかと思って読み替えたけど、
どうしてもおかしくなる


金印があんな所から見つからなければよかったのにw
23日本@名無史さん:2009/05/07(木) 19:52:09
句奴國を除いても戸十五万なら、勝兵優に十数万人――軍事大国。
大月氏の場合、「戸十万、勝兵十余万人」だからな。
24日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:03:41
>>22
金印をもらった国の王様(たぶん後継者)は、金印を持って志賀島に逃げて
来たんだろう。そして、つかまった。捕まる前に金印を隠した。
さて、どこから逃げてきたか。博多湾岸からも知れないし、もっと遠いかも
しれない。

後漢の後ろ盾をいいことに、実力もないのに威張っていたが、ついに
強国に征服されてしまった。

強国というのは、帥升の国つまり倭面土国。
だから、帥升は、後漢に生口160人を献上して謝りに行った。
ついでに、私は倭国の王ですと宣言した。
25日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:08:15
陳寿一行は北部九州を海岸沿いに進んだんだろう。(ここでは地名の一致のほうが勝ると思う。)
自らが足を運んだところは距離(里)で書かれてある。
で、行程が遠賀川(南へ水行)に及んだ時に彼らの船は川へ入れないため、
倭人達に聞いた方角と距離が「南に水行‥‥」だ。(倭人たちは日数で距離を把握していたのだ。)
26日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:11:28
>>25
陳寿は日本に来ていないって。来たのは、梯儁と張政。
27日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:14:06
>>26
君、職場で嫌われていないか?
28日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:27:51
>>20

>末盧国は唐津あたりだな。

そう。ほとんど異論がない。

>そこに上陸して東南陸行五百里。伊都国は佐賀市付近だ。

ところが多くの学者が、そうではなく伊都国を糸島方面と考えている。
学者の圧倒的多数と言っていい。大学教授、研究機関の研究員ほか皆おしなべて。
昔もそうだし、現在もそうだ。

あなたはきっと悔しいだろう。
 「なぜだ!糸島方面なら唐津から東北ではないか!90度違う!」
と叫びたいだろう。その気持ちは私でもなんとなく分かる。

しかし学界の通説は厳然として伊都国=糸島だ。
 「倭人伝の方角通りに佐賀へ持って来い!」
といくら叫んでも駄目なのだ。

多くの学者がここで方角通りにしないのは、きっと理由がある。
その理由の是非を考えてみるのは無益ではないと思うが
 「理由もへったくれもない!東南は東南だ!」
と叫ぶだけでは、恐らく学界の通説はいささかも変わりないだろう。
29日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:33:57
>>25
俺もそう思う
あのころは日本の大集落地帯では稲作やってる
九州は鉄製農具も出てるぐらいだ
ほんの一部の生活圏だけで、全ての倭国人の暮らしぶりを伝えてるとは思えないんだよね
30日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:36:49
となると、陳寿は邪馬台国に足を踏み入れていないことになるな
31日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:49:30
>>30

そんな事は当たり前の話なのだが・・・
32日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:49:33
水行20日→水行10日→陸行1月で、九州なんて、とっくにあさっての彼方(かなた)だよ!
すぐに、九州なんぞ豆粒ほどにも見えないや!
33日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:55:27
>>17
前にも同じこと書いてましたが、
北部九州(福岡、熊本、大分、佐賀、長崎)全体を邪馬台国と考えれば
全てを満足すしますよ。


34日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:55:59
折角、水準の高いレスしたのに、三戦板のDQNみたいな奴らがスレ独占して困る。
ここは、三国志ゲーム板でも戦国ヲタク板でもSFヒミコ板でもないんだぞ!

こうなりゃあ、18氏や大国氏に、早く登場してレベル上げてもらわないと、どうにもならないや。
35日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:58:15
でも、18氏と大国氏は、仲悪いしなあ

松本清張と司馬遼太郎みたいに・・・仲悪い・・・
朝青龍と白鵬みたに・・・仲悪い・・・
36日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:09:11
>>34
お前がオカルト板に逝けばすむことだ
37日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:26:07
>>11
また犬国が吼えているのか!

こいつが審判うんぬん言うのは要するに負けがこんでどうしようもなくなった奴が
「俺が負け続けなのは審判が相手とグルだからだ」と言っているようなもんで

いや、サッカーの試合に乱入してきてボールを手に持ってゴールまで突進して
「俺の勝ち!」とかほざいている馬鹿に
「ボールを手に持って運んだらもうサッカーじゃない」と言ったら
「お前が勝手に審判としてルールを作るな!」と意味不明のことをわめいている
・・・みたいなもんだなw

まさに「 負 け 犬 国 の 遠 吠 え 」 www
38日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:32:03
>北部九州(福岡、熊本、大分、佐賀、長崎)全体を邪馬台国と考えれば

不思議なのだが…
畿内説(と言うか今の考古学の通説?)が線的なゆるやかな首長連合といえば
まるでアレルギー反応を起こしたが如く反発するのに

こうやって九州内でのかなりの広域の面的な連合体は普通に出てくるよなwww
(九州の半分とかを完全に支配掌握する方がよほど難しいとも思うが)

まあ>>33自身が畿内説のゆるやかな連合体に異を唱えている者かどうかは知らんが…
39日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:41:08
>>3
>徐福が日本で漢字をばら撒いたと最初に言い出したあなたに

そもそもこの「漢字をばら撒いた」と言うのが如何なる状況なのか良く分からないw
倭人に対し数日間レクチャーしてやったら自由自在に使いこなせるようになるってもんじゃないだろうしwww

まあそれが舶載だろうが倣製だろうが漢字の銘文のある銅鏡が出土している以上
漢字を理解する人間はいたのだろう(無論極少数に限られるだろうが)

が倭人がそれを使いこなして自らの歴史を残すような水準に達するには
身分階層が更に分化して書記・書司といった役割の人間が出てくるまでは難しいのではないのか?

3世紀頃となれば流石に難しいと思うが・・・
40日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:41:28
>>37
夕べのレスを読ませてもらったが、確かにキャンと泣いてる。
41日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:49:50

         /⌒ヽ
        (U^ω^)きゃんきゃんお!
      C/    l
       し−し−J
42日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:52:26
きのうの話題を、きょう帰ってきて又蒸返すとは、こだわりの強い人たち。
話題が変わっているのだから、その話題で続けないと。
2チャンネラーは、どうも、陰湿だ!もっと、淡白でカラッとしてないと・・・。
新話題に意見が無いのなら、次の話題へ進めること。
43日本@名無史さん:2009/05/07(木) 21:55:36
こだわりこそが古代死だあ キャイ〜ン
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/07(木) 21:57:13
>>37 ジョーカー
オマエはどうせバットマンに負ける運命〜!wwwwwww
45日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:05:35
>>22
「行〜」が頭に付く文は、真っ直ぐ目的地を目指すのでなく、「道々」とか「道すがら」って
ニュアンスを表わすんではないだろうか?
行程文の場合には不適当かも知れないが、他の漢文の場合の感覚が抜けないので・・・。
46日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:07:19
>話題が変わっているのだから、その話題で続けないと。

じゃあ水行陸行のお話でいいのかな?

そもそも魏使は邪馬台国に行ったとしても
(皇帝の勅使が途中の地で留まると言うのは流石に無理があると思う)

じゃあ陳壽が行程記事の参考にした情報はその魏使のもたらした物かどうか
…だと思うのだが?

むしろそれは魏使ではなく頻繁に九州北部に訪れていた(あるいは常駐していた)
郡使による物だとすれば
途中から日数に変わる…等の不自然さも理解しやすいと思うんだが…

またそのせいで
「魏使は邪馬台国の卑弥呼のもとにまで行っていない」
なんて説が喧伝される羽目になっているとwww
47日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:13:44
陸行や水行の日数は、風待ちや移動手段や道の整備状況で変わります。
そこへいくと、方向は間違えない。
やはり問題は方向です。
邪馬台国の方向を中心に話題を進めるのが賢明かと思うのですが。
48日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:21:29
そうですね。方角は一番問題がないところ。
49日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:29:24
「方向は間違えようが無い
 方向の記述には絶対の信を置くべき」

…なんてのを煎じ詰めていけば
じゃあ遣使の訪れた地は大和ではなく九州の何処か

…と結局行き着くところは九州王朝説にならざるを得ないだよなあw

もっともそれで問題ないのがこの板の九州説の大勢なのかもしれんがwww

50日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:30:39
誤)じゃあ遣使の訪れた地は
 ↓
正)じゃあ隋使の訪れた地は
51日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:34:05
>>49
そうは決め付けていません。
出発地が異なれば、行き着く場所も異なりますし、
方向重視は、九州説擁護のための方便ではないのです。
誤解の内容にお願いします。
52日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:35:18
>>38
大分を除いて、九州のこの地域は、発生期の甕棺が分布している地域。
つまり、紀元前3世紀あたりから同じ文化圏だったと言える。

また、現在でも同じ系統の言葉を話している。
古くから、かなり密接なつながりがあると思う。
また、支配関係は、こういう風に同心円的な広がりをするのが、普通と
いうか常識だろう。

一方で、緩やかに首長連合なんてのは、邪馬台国が、九州の壱岐や対馬まで
支配している現実との兼ね合いから生まれたもので、畿内説の都合による
極めて非現実的な考え。
53日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:38:23
>>47
方向に忠実だと畿内説は兆にひとつもありえませんね。

ただ、完全に方向に忠実だとゆきずまるのも事実なので、
1:方角
2:地名
3:距離(「里」と「日」は別物)
4:人口
が対立する時、どちらがより信憑性があるかを考える必要があるんでしょうね。
54日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:44:41
>>52
文化圏を短絡的に支配構造に重ねるのは
普通でもないし常識でもないwww

じゃあその甕棺王国か帝国だか知らんがその中心王都は何処だったんだい?

そもそもそんな事を言い出したら銅鐸王国wは西は中国地方東は東海に及ぶ一大勢力
広型銅矛王国にしても四国にまで勢力を及ぼしていると言う話。

もう戦国時代なんか目じゃないくらい巨大勢力同士の激突だなwww
5518:2009/05/07(木) 22:45:55
もちろん現場に来た魏使が方向を間違えるはずもないと思うが、問題は陳寿に正しい情報
が伝わっていたかどうかだな。禅譲により魏から晋に変わっても、まあ魏帝詔書(親魏倭王卑
弥呼に制詔す・・・)など、もともと中国側に控えのあるものについては信頼はおけると思うが、
外地からの調査報告が、完全な形で陳寿の手に渡ったものか。
ちなみに239〜247の8年間で帯方郡太守は4人も変わっている。

さらに俺は、報告書の内容いかんに関わらず、陳寿には会稽・東治の東に倭国がある・・・
南に伸びる日本列島という抜きがたい先入観があったと考えてる。・・・なんだか話が前スレ
とループしてるが。
56日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:46:17
引用→→→ >>19
C倭地温暖。習俗を挙げて「會稽の東に在るはず」。風俗を挙げて「海南島と同じ」。
D即ち、陳寿自身が、頻りに日本列島を逆さまに向けて江南海上の南へ南へと持って行っている。
E九州北岸の不弥国までは里数、以降は里数定かならぬほど遠方ゆえ日数。畿内となるべし。
(全1万2千余里は正に海南島近海。同時に、後漢が王とした大月氏の距離との均衡)
F「親魏倭王」としたぐらいだから、邪馬台国実在は事実だが、とにかく大国、南方熱帯の位置にしたかった。
Gそこは、正に呉の背後海上に当たる。
57日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:57:26
>>52

その北部九州特有の甕棺は、弥生末にはどこもすっかり廃れてしまう。
しかし、より広域的だった木棺・箱式石棺は、古墳時代に入ってもずっと継続する。

なぜか、と理由を考えてみたことがあるか? 難問だが。
58日本@名無史さん:2009/05/07(木) 22:57:28
>>54
中心王都は伊都国です。
「世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
まず「世有王」と伊都国には代々王がいたとあり
次に「皆統屬女王國」と倭の国々は女王國に統屬していたとあり
代々王が女王(卑弥呼、壱与ら)であったことが分かる
なので「郡使往來常所駐」と郡使が伊都国に常に留まっていたのです。
5955:2009/05/07(木) 23:07:44
さらに、陳寿厨(いるかどうか知らんが)には悪いが、正史である晋書によれば、陳寿の私怨
による曲筆を疑う話もすでに取りざたされている。

何が言いたいかというと、このスレが「倭人伝の一字一句すべてが正しい」ことを前提として
行うゲームであるなら、南→東はルール違反で退場となるが、実際現在ではそのような学問
態度をとる学者は極めて少数だし、そのあたりのことは100年論争で、すでに言い尽くされて
いる。俺的には、畿内説でも九州説でも、考古学でも人類学でも民俗学でも、使えるものは何
でも使って迫るのが(いろんな分野に詳しい人がいる)2chらしいと思うが。

60日本@名無史さん:2009/05/07(木) 23:23:50
>>54
同じ文化圏と言っても、別に支配・被支配の関係で考えなくてもいいだろう。
たくさんの国があり、関係を持ちながら、時には争いあうと言うような
ものだっただろう。漢書・地理誌によると、百カ国余かな。

吉野ヶ里からは、戦乱で傷ついたとみられる遺骨がたくさん出ているので、
争いの方が多かったかもしれない。

そこに登場するのが、倭国王とされる帥升の登場だろうと思う。
西暦100年頃、それらの国々の頂点に立つ国が登場したと考えてもいい。
その系統の中で、倭王・卑弥呼も出てくることになる。と思う。
61日本@名無史さん:2009/05/07(木) 23:30:05
>35
司馬遼太郎と言えば
邪馬台国についての言及ってあったっけ?

畿内説だったか九州説だったかも聞いたことが無いが・・・

62日本@名無史さん:2009/05/07(木) 23:34:51
松本清張、九州説。
司馬遼太郎、「古代史を語るのは、言い得、殴り得、何とでも言える」
63日本@名無史さん:2009/05/08(金) 01:01:45
>>53
その考えはおかしいな
記紀は伝承、すなわち二次情報を元にしていると明言しているわけだが、此れは一次情報を元にしていると思われるのに伝聞なのかどうかさへあやふやだし
一次情報とするなら、たとえ一部においても、記録として誤りがあると認められるなら全てにおいて否定されなければならない
否定というのは、この記録を根拠に語る事はできないってことだ
記紀より質が悪い
64日本@名無史さん:2009/05/08(金) 01:33:00
>>53
どこが行き詰まりますかね。
南九州ならば全く問題ありませんよ。
65九州王朝大好き:2009/05/08(金) 12:33:04
>>53
>1:方角
>2:地名
>3:距離(「里」と「日」は別物)
>4:人口

どこが行き詰まりますかね。
卑彌呼の都が筑後平野北部ならば全く問題はありませんよ。

>>64
魏志倭人伝によれば倭地に南九州地域は存在しません。
(倭人伝の国々は中部九州以北になります。)
66日本@名無史さん:2009/05/08(金) 12:40:47
九州だけは絶対に無いね!
不弥国までは「〜里」「〜里」で来て、以降、日数に変えてるのに、
何で、いつまでも九州の狭い地をウロウロしてなきゃならねえんだ?

投馬国以降にも群小の国々があって(「女王国以北」云々)、その先が邪馬台国。
スケール的に畿内に位置すること明白。
67日本@名無史さん:2009/05/08(金) 12:45:19
陳寿が、意図的に日本列島を逆さまに向けていることは、
>>19によって明らかなんだから、日数道程になってからは方位を反対方面に考えるんだ!
68九州王朝大好き:2009/05/08(金) 12:57:17
魏志倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔投馬國:水行20日(天草灘・五島・済州島経由)
〜〜〜〜一大國┃◎┃↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ │郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(倭地韓地陸行)
〜〜〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │       [城郭位置]
〜〜〜[竹斯國] 末盧國◎→○→┐∵∵∵∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │末盧國:唐津鏡中原遺跡等
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:惣座遺跡(肥前國庁址)
〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國を構成する国
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里遺跡
〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃│●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川中心部
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃●投馬國∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米南部
〜〜〜〜〜〜狗┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國  :佐賀城
〜〜〜〜〜〜奴┃∵┃┗┓∵┗┓有〜┃∵∵┌─────── │
〜〜〜〜〜〜國┗┓┃〜┃∵∵┃明〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜連〜┃┗┓┃┏━┛海〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:菊池 狗奴國連合(15〜25ヶ国)の中核国
〜〜〜〜〜〜合┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜┏┛┏━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │倭地:狗奴國連合以北の九州島
〜〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃島〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │    (周旋可5000餘里[350km余])
〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛原〜┃∵狗奴國連合∵∵∵ │[秦王國]:唐津浜玉
〜〜〜〜┗━┛天草灘┗━━━┛〜湾┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │[十餘國] :伊都國〜投馬國・近隣餘旁國の後継国
69日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:04:51
>>68
あなたのような話では、使者は九州が島であることも分からないな。
70日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:08:31
71日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:36:49
俺も方角は>>19
F「親魏倭王」としたぐらいだから、邪馬台国実在は事実だが、とにかく大国、南方熱帯の位置にしたかった。
Gそこは、正に呉の背後海上に当たる。
と同じ。
きわめて政治的な理由でもって歪曲したと思う。
72日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:47:05
そんなに呉は嘘に踊らされる程のアフォの集まりか?
73日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:53:02
自分自身で行ったことがないかぎり信じるしかない。
74日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:55:33
>>72
実際、そうだよ。
呉は、會稽の民が海に潜って魚をとったり、昔東方の島へ行った者があるという伝承が遺っていただけで、
孫權始め誰も東方海上がどうなっているか知らなかった証拠が幾らも有る。
三国時代の呉の官吏などが、どうなってるんだろう?て詩に詠ったのがたくさんあるぐらいだから。
事実を知らないで、惡態をつくことのみ考えてるんじゃないよ!
75日本@名無史さん:2009/05/08(金) 13:56:36
俺も最初は九州だと思ってたが、実際にそれに比定できる遺跡が出てこない、
放射説にも無理がある。で、今は7:3で畿内説。
76日本@名無史さん:2009/05/08(金) 14:31:12
>>68
すごい労作ですね!
ちょっとうかがいますが博多や前原に国はなかったの?
77日本@名無史さん:2009/05/08(金) 14:32:22
2世紀末から3世紀だよ!
九州の狭い地にこちょこちょ国々があるもんじゃない。
78日本@名無史さん:2009/05/08(金) 14:43:27
はあ?
79九州王朝大好き:2009/05/08(金) 15:27:41
>>76
>ちょっとうかがいますが博多や前原に国はなかったの?

3世紀にもありましたよ。
須久岡本遺や前原等の、「餘旁國」と書かれた国家群が福岡平野にありました。
倭奴國の流れを汲む旧勢力です。
彼らは帥升に滅ぼされて、倭國の中心権力に顔を出すのは6世紀になってからです。
(多利思北孤も元旧勢力の出身。磐井を破った勢力も。)


>>69
>あなたのような話では、使者は九州が島であることも分からないな。
九州が島であることは、もっと広域の地図にすると示されますが、ここでは省略しました。

>>77
>九州の狭い地にこちょこちょ国々があるもんじゃない。
「君」(大王)と呼ばれる人物が九州には数多くいましたが、畿内では天皇だけです。
つまり「君」の人数以上の数の国々が、九州には数多くあったのです。
80日本@名無史さん:2009/05/08(金) 15:37:47
>>79
> 「君」(大王)と呼ばれる人物が九州には数多くいました

倭人伝には、全倭国に三人しかいない、ことを明記しています。
伊都国にひとり、邪馬台国の女王、狗奴國の男王――以上です。三人とも「王」です。

何十国という国々が九州から邪馬台国までの間にあった、と倭人伝は書いています。
瀬戸内海沿岸と山陰地方・他の畿内のことです。
2世紀末〜3世紀になってまで、幾十という有力な国々が九州だけに固まっているハズがありません。
いや、「ハズが・・・」どころか、現に倭人伝が道程的にそう書いているのです。
81日本@名無史さん:2009/05/08(金) 15:38:59
途中から、日数に変えて書いてるのに、
何で、いつまでも九州の狭い地をウロウロしてなきゃならねえんだ?
82日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:13:07
>>81
邪馬台国が強硬に阻止したんだろ
行ったように見せかけたんじゃないかな

倭を仲間にしたかった
倭は半島の利権にしか興味がなかった
中国の見栄により倭に請われてよしみを結んだような形にした
83日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:22:38
>>80
>倭人伝には、全倭国に三人しかいない、ことを明記しています。
そんなことは、どこにも書いてないよ。
だいたい、後漢書には各国に王がいたとあるんだ。後漢時代にいた王がそんなに
急にいなくなるわけないじゃないか。
84日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:41:50
>>81
しょうがないじゃん
中国に認識されていた国は九州にしかなかったのだから
85日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:43:38
>>81
里数で書かれている行程と
日数で書かれている行程は
同じ行程を二度別の言い方で書いてあるのです。
>>83
後漢代には各国に王がいたが倭國亂で
倭の王は邪馬壹國の卑弥呼と狗奴國の卑彌弓呼の二人になった。
伊都国の王は卑弥呼です。
86日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:51:04
>>85
チョセン人っぽいロジックだなw
87日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:54:44
九州王朝説、騎馬民族征服説
今時、チョン人か天皇嫌いの左翼しか支持してないよ
88日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:55:04
>>86
何処がチョセン人っぽいロジックだ?
89日本@名無史さん:2009/05/08(金) 16:57:56
>>87
九州王朝説をチョン人や天皇嫌いの左翼が支持してるなんて聞いたことないです。
九州王朝説を支持してる人は普通の日本人の歴史好きな人達ですよ。
90日本@名無史さん:2009/05/08(金) 17:04:03
>>88
彼らは根拠を提示せずにいきなり乱暴に自説を展開する癖があるんですな

>>89
聞いたことが無いという時点でアウトですな
91日本@名無史さん:2009/05/08(金) 17:29:19
>>90
畿内説の人でも提示せずにいきなり乱暴に自説を展開するひとは多いですよ
九州王朝でもそんな人もいるかもしれませんが
九州王朝では基本的に根拠を提示して反論を待っていますが
多くの場合「そんなはずがない」で終わり、
まともな反論が無いのが現状です。
九州王朝説をチョン人や天皇嫌いの左翼が支持してるとは幻覚でしょう。
日本史の古代を研究すれば
だれでも通説に疑問を持ちます
九州王朝説はこの疑問に答えてくれるのです。

9255:2009/05/08(金) 17:41:19
前スレでも書いたんだが、再録しとく。三国志呉書孫権伝。

>黄竜二(230)年(中略)、孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲
 および亶洲を探させた。亶洲は海の中にあり、長老は言い伝えをこのように述べている。
 
「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に童男童女数千人を連れて航海させ、蓬莱山と不死の
 の仙薬を求めさせたが、徐福たちはその島に留まって帰らなかった。代々子孫が続いて数万
 家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。会稽の東の県人は海
 に出て風に流され、そのまま亶洲に漂着した者もいる」

その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。だが、夷洲に
は行くことができ、数千人が帰ってきた。(意訳 俺)

・・・まあ、三国志に見られる呉の海上認識はこんな感じ。夷洲は台湾とする説が強いようだが、
亶洲については諸説あるもトンデモも多い。
93ローガン:2009/05/08(金) 17:47:32
>>91

> 九州王朝では基本的に根拠を提示して反論を待っていますが
> 多くの場合「そんなはずがない」で終わり、まともな反論が無いのが現状です。

是非、その「根拠」をうかがいたい。「九州王朝があったと考えると説明しやすい。」といった書き込みは何度も拝見しましたが
仰るところの「根拠」は聞いた事がありません。

94日本@名無史さん:2009/05/08(金) 17:54:58
どうりで、なぜ中国が半島と一緒になって倭猿、倭人呼ばわりしてこんのか。
そう言う事だな。
95日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:05:21
馬、牛・・・が居ない、って、当時、何で、倭人は馬を活用しなかっただろう?

それにしても、ほかに、虎・豹・羊も居ないと、詳細に科学的な観察をしている。
魏使は、やはり邪馬台国まで行ったことは間違いない。

答礼使・使者というのは外地偵察も目的なんだし、使者を遣わした国まで行かなければ
答礼使として失礼であること以前に、自国の周辺国から卑下されるだろう。
96日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:10:35
>>91
いろいろ噂は聞くよ
全員そうだとは思わないけど。。。
97日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:12:07
>>95
その後、ぷっつり交流が絶えてる
98日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:15:53
大和説だから九州説を擁護するわけではないが、
九州説・騎馬民族国家説がサヨクという認識だけは誤っている。

著者は文化勲章を受章しているし、昭和天皇は度々騎馬民族国家説の講説を求めて聴いている。
記紀を分析する限り、有力な一説であることは間違いない。
スサノオノミコトが各地へ馬で進攻したと読める箇所が随所にある。
邪馬台国よりずっと後の時代を写した説話だろうが・・・。
99日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:20:23
事程左様に、魏使が邪馬台国まで行ったことは間違いないのだし、詳細な観察もしているのだから、
方位・道程は、独り陳寿が筆を曲げたものであることは間違い無い。
100日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:23:24
出雲の須佐とか紀伊半島の天照は書かれた当時になされた接着剤と言われてる
古代史とは切り離すべき
101日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:42:42
「騎馬民族国家説」
渡部昇一という上智大学の教授(今、名誉教授か?)が、記紀に「馬」は出て来ない、
と著書に書いて説を否定――これが保守層に広がった。
記紀を読んでいない(分析していない)こと明白。
出た本の出版各社編集部に、「先生宛」じゃなく編集部宛に抗議の手紙が集中したのに、
何ら応えていない――その後、訂正したかどうか知らないが。
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/08(金) 19:44:42
天斑馬を逆剥ぎの剥ぎて・・・
103日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:45:26
>>102
それも明白な一つ。
10455:2009/05/08(金) 19:46:36
やはり倭人伝の伊都国までの描写がそれ以降に比べて詳しいのは、
>郡の使の往来して常に駐る所なり
とあるように、ここまでの報告書は数種類あったため、詳述することができたと考えて大きな
間違いはないだろうと思う。
105日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:10:39
>>104
>やはり倭人伝の伊都国までの描写がそれ以降に比べて詳しいのは、

そう?
詳しいのは対馬国、一支国、末盧国の3ヶ国でしょ。
伊都国は違うと思うな。

最初の対馬、一支、末盧国はなんかこう紀行文調の描写が共通なんで、多分同じ資料から引いてる。
でも伊都国にはそんな紀行文調の描写はないよ。
106日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:27:20
>>98
日本人だけどニダ〜ですか?
今に至ってまでも騎馬民族征服説支持する人なんて左翼と自称日本人しかいないよ
107日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:27:59
>>95 軽んじられたくなくば、「卑下」の正しい用法くらい覚えて来い
ここはvipじゃねーんだ

>>56 興味深い考え方だと思うんだけど
三國志の成立は呉の亡びた280年以降だろ
それ以前に曲げた記述が残ってしまったということかねえ
108日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:57:01
>>107
呉の遺民が呉を再興するのを牽制
109日本@名無史さん:2009/05/08(金) 20:57:12
>>106
そこまで断言できる根拠プリーズ
110日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:25:42
>>107
いくら晋の世になったからとて、各地には旧国復興のエネルギーがみなぎっている。
現に、しばらくして五胡十六箇國の乱世が到来。
111日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:34:04
>>109
現実に根拠を求めるの?
112日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:36:43
「騎馬民族国家説」は、右翼も別に故障を申し立てていないのに・・・。
なぜ、本物の右翼でもない人が「サヨク」の説だって断ずるのか?
113日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:58:34
>>110
五胡十六国時代は何度本を読んでも頭に入ってこない。
謎の4世紀(倭)を理解するためちゃんと五胡十六国は勉強しとかなくちゃと思うのだが
読んではすぐ忘れ、また読んでもすぐ忘れ……この繰り返し。
楚漢の争いより三国志の方が遥かに面白い。それなら16も国々が入り乱れる十六国志だったら
もう無ッ茶苦茶面白いはず……ではないんだな。w
おれ五胡十六国時代は一生かかっても分からないままで終わりそう。 ○| ̄|_
114日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:00:29
>>112
え〜っと何から説明したらよいのか
まぁ〜、万世一系
その裏付けとして記紀
その記紀の皇統譜で朝が入れ替わったとか
新羅とか百済が天皇になったとか
記紀はハングルで書かれていたとか
マスコミがさんざん煽ったのよ
今でもNHKがやってるらしいねw

漠然ではあってもその疑義を広く日本人に広めることは左翼にとっては
国会で議席を獲得するよりも遙かに効果的な方法なのよ
戦前なら憲法第一条に違反するわけで、戦後におもしろおかしくやっている側面もあるわな
115日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:09:53
>>113
禿しく同意。自慢じゃないがwww
116日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:12:09
馬の話をすると、古代の馬は蒙古馬で小さかったらしい。
蒙古襲来のときの馬や、源義経などが乗った馬は小さかったことになる。

戦国時代に宣教師の持ってきた馬をみて、こりゃあいいと交配し、
あっという間に今の馬になったらしい。
馬なんて、短期間に普及するものなのだろうな。

ちなみに、宮崎県都井岬の馬は日本古来の馬だが、起源は2000年前、中国から
渡ってきた蒙古馬とされる。2000年前というのは微妙な数字だな。

http://k-kabegami.com/toimisaki/12.jpg

この程度の大きさ。
117日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:17:52
>>115
俺もだ、入り乱れすぎていて、頭によく入らない・・・
118日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:30:01
倭国大乱も同じような状況だったと考えられます。
そして、卑弥呼が共立されるにいたった背景には、
地の利、時の利があったと考えられます。
九州でも出雲や吉備でもない中立性を保った国の
女王、それが卑弥呼です。
何を言わんとするかは、もうお分かりでしょう?
119日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:32:25
>>118
しかし、実態の無い「国」には、絶対「親魏倭王」は与えられないぞ!
120日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:31:22
>>118>>119
こういうのは現状追認ということがあるんのではないかね
つまり卑弥呼が共立されてすぐに使いを送ったとしても、中国は時期尚早として認めなかっただろう
しかし卑弥呼即位からすでに四〜五十年ほどは経ち、この間倭は卑弥呼の下で曲がりなりにも平和を保った
魏はそうした形勢を重く見て「卑弥呼を倭王に認定してよし」と考えたんだろう
121日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:35:49
そう言えば左翼っぽい言動の多かった上岡龍太郎師匠は
九州王朝説の支持者だったらしいが…w

まあ今日右からも左からも見捨てられているのが九州王朝説だろ?www

>日本史の古代を研究すれば
>だれでも通説に疑問を持ちます
>九州王朝説はこの疑問に答えてくれるのです。

まさにこれが九州王朝説の存在意義と言うか
連中が生きていけるニッチ(スキマ)なんだなwww

ところが記紀に対し疑問が公然と取り出されて論議されるようになると
その存在意義、存在領域であるニッチも消えてゆくw

タリシホコが男であると言うのなら無理に女帝推古に重ねる必要は無い
厩戸の王子でも馬子でも良い。
少なくとも九州王朝なんてゲテモノを持ち出すよりよほど合理的www

大化の改新を単純な勧善懲悪劇とみなす風潮も無くなり
教科書から「聖徳太子」の文字も消えるのではないかと言われている現在
九州王朝説の存在意義も無いw

「記紀絶対視」と言う仮想敵国=寄生主が無ければ
九州王朝説も生きていけないwwww
122日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:36:15
>>116
宣教師が西洋馬を持ってきた?うそ〜ん
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/08(金) 23:41:31
年号があるから説は消えることはないぜ。
124日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:41:57
それにしても、邪馬台国の時代、何で、倭人は馬を活用しなかっただろう?
125日本@名無史さん:2009/05/08(金) 23:56:00
>>122
そういう話が記憶に残っていたのだが、ちょっと間違いで、戦国時代も蒙古馬
だった可能性もあるね。
チンギスハンも蒙古馬でユーラシア大陸を駆け回っていたのかな。
126太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/09(土) 00:01:53
多鞍馬汗w
127日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:36:08
>>124
まあ西日本については瀬戸内と言う便利な海上交通路があったからじゃないかな?
西日本に馬が導入されなければ東日本にも伝わらなかったと…

で半島で南下する高句麗との戦いの中でその必要性を認識して導入に至ったと…

まあもっともこの板の東遷説論者によると
高天原=邪馬台国 らしいから邪馬台国にも馬がいたと言うことなんだろうwwwwwwwww


128日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:45:14
瀬戸内海は、小島も多く海賊が出没したので安全ではありませんでした。
むしろ南回り、土佐の高知経由のほうが安全。
日本海側は出雲が制海権を握っていたし、若狭から陸路も不便でした。
129日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:53:21
>>124
その当時の自然条件はどんなだったんだろう。
山がちで森林が鬱蒼としてたら、馬はかえって不便だったとか。
中国も南船北馬とか言うしね。
130日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:58:52
>>128
>瀬戸内海は、小島も多く海賊が出没したので安全ではありませんでした。

3世紀の瀬戸内海に海賊が出没したという史料があったら示してくれ。
或いは考古学の方からそう判るのだったらどこのどんな遺物なのか書いてくれ。
131ローガン:2009/05/09(土) 01:22:35
>>130

横からですが、まあ海賊が出るくらいだったら、よく利用された航路だったんでしょう。
132日本@名無史さん:2009/05/09(土) 01:31:22
>>128
個人的に、古代船で旅をするなら絶対に瀬戸内海航路。
波も穏やかだし、万一難破しても、泳ぎ付ける場所がいくらでもある。

四国沖を通ったら、波は高いし、沈没したらおしまいだから。

現代船でも同じ。船酔いはつらいんでね。
133日本@名無史さん:2009/05/09(土) 01:51:04
>>128
ウソばっかり書くな!
「海賊」・・・解決済み。海賊が発生するのはもっと後世。平安朝も大分進んだ以降。
「高知経由のほうが安全」・・・超危険な荒波海上だから瀬戸内海航路があるんじゃないか。
「出雲が制海権を握っていた」・・・出雲族が出雲に移ったのは、ずっと後世。
大和政権に大和盆地から逐われた勢力が出雲族。まだ、勢力という者共が住んでもいない。
134日本@名無史さん:2009/05/09(土) 02:26:55
>>120
即位してから50年もたって魏のお墨付きを欲しがるかな。それに、60年も
たってから、卑弥呼が死亡したらとたんに内乱が再燃?
倭国の乱の時期がおかしいと思わないかな? 
135日本@名無史さん:2009/05/09(土) 07:01:06
>>101
それはちょっと違う。
氏は、騎馬民族なのに馬に乗った天皇は出てこない、と言ってた。
いつものように左翼が都合良く改竄してネットで流しているのだろう。
スサノオの下りで馬が出てくるくらいのことを知らないとは思えない。
136日本@名無史さん:2009/05/09(土) 08:45:28
>>133嘘だというのなら、証拠を出したほうがいい。
根拠のない自分の主張を押し付けてはいけない。
おれは、>>128の説も一理あると思う。
137日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:20:52
海賊がいて通れなかったという説を立てるなら、まず、それを主張する側が出さないと話にならない。
自分に置き換えて考えると分かると思う。
「高知沖は海賊が多くて通れなかった。否定するならいなかったという証明をしろ」と言われても困るでしょう。
138日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:29:29
一向に困りません。
海賊行為に証拠が残るでしょうか?
文字のなかった時代に海賊がいたという証拠を
示せというのがもともと無理な話なのです。
瀬戸内海に海賊がいたという説もいなかったという説も
そちらも仮説に過ぎず、それを証明する手立てなどないのです。
139日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:36:31
>>136
3世紀における瀬戸内の海賊の有無は史料がないので水掛論。

それで、当時の九州〜近畿間の想定され得る航路として

 @瀬戸内航路 A日本海航路 B太平洋航路

を比較するわけだが、>>128は海賊が史料的に証明できないにもかかわらず
そのことをまるで自明であるかのように前提にしてBを@Aより安全なコースと主張する。
これは史学の方法として何ら実証的ではないので、斥けなければならない。

むしろ考古遺物や後代の文献記録(万葉集、木簡など)を勘案するなら
Bよりも@Aの方が遥かに利用されていたとするのが妥当。
距離的にもBは@より大幅に不利。

Aの日本海航路は鳥取の青谷上寺地遺跡や丹後半島・越前近辺の遺跡を見るかぎり
弥生時代後期から相当な利用があったと思われ。
140日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:52:25
>瀬戸内海に海賊がいたという説もいなかったという説も
そちらも仮説に過ぎず、それを証明する手立てなどないのです。

要するに根拠はないということですね。
それなら、根拠はないが自分はそう思ってる程度にしておくべきですね。

141日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:55:03
当時の海運技術がどれほどのものだったかという認識の違いがあるようです。
みなさんは、丸木舟に毛の生えたような船を想像しているのかと思いますが、
実際には、レッドクリフに出てくるような大型船を建造する技術があって、
島伝いより外洋航路のほうが安全だったとも考えられます。
142日本@名無史さん:2009/05/09(土) 10:13:23
3世紀というか、弥生時代後期における九州〜本州四国間の活発な交易を認めてしまうと
当時九州島だけが倭と認識されていたとする邪馬台国九州説の方々は少々やりにくくなるのではないかな。
143日本@名無史さん:2009/05/09(土) 10:18:41
持衰の習慣があったことを考えると、外洋はあまり安全ではなかったということ
でしょう。
144日本@名無史さん:2009/05/09(土) 10:52:29
朝鮮に渡るのと
本州を渡るのとどちらが楽ですか?
一世紀頃、、、
145日本@名無史さん:2009/05/09(土) 11:08:02
どこから?
146日本@名無史さん:2009/05/09(土) 11:14:40
たとえば、1世紀ころと元寇の12世紀ころの造船技術、航海術は、
どちらが優れていたと思いますか?問題は、海洋民族が大きな勢力
を維持していたかどうかによって決まってくるのです。
騎馬民族が自ら船を作って航海に出ることはできません。
たとえば、紀元前10世紀ころのフェニキア人は、世界を股にかけて
交易を行っており、日本にも来ていたかも知れません。
それは、海図と星読み風読み、食料や水の調達基地としての港の
確保、国により異なる商習慣の知識、語学力など総合力が必要に
なるからなのです。
147日本@名無史さん:2009/05/09(土) 11:43:49
キュッチュからです
148日本@名無史さん:2009/05/09(土) 11:45:32
>>146
元寇時の船は、みんな、海洋民族である朝鮮人に作らせて攻めて来たんだ。
149日本@名無史さん:2009/05/09(土) 11:57:32
海洋民族の割には海の神話とか海戦の話は出てきませんな。
150日本@名無史さん:2009/05/09(土) 12:15:43
>海洋民族である朝鮮人

はあ??????
隼人(縄文人)は海洋民族だけどな
151日本@名無史さん:2009/05/09(土) 12:26:34
まだ騎馬民族とか言ってんのか。
ト説は別のところでやってくれ。
152日本@名無史さん:2009/05/09(土) 12:53:12
帯方郡から女王国まで1万2千里で、帯方郡から倭の北岸(北界)である狗邪韓国まですでに7千7百里強だ。
水行10日陸行1月は1万2千里の行程を日数になおしたものと読み取れる。
上陸地点のマツラ(4千戸)の描写は唐津付近だが、実際には海岸伝いに博多湾まで船を進めていると考えられる。
博多湾から東南百里で奴国(2万戸)の都で奴国自体は福岡平野全域
博多湾から東百里のフヤ国(千戸)は奴国の東の軍事拠点の町
博多湾から東南5百里の伊都国(千戸)は倭国最大の軍事拠点で大宰府付近
博多湾から南の(帯方郡から水行20日)投馬国(5万戸)は宮崎か鹿児島のあたり
博多湾から南の邪馬台国(7万戸、帯方郡から水行10日博多湾から陸行1月)は筑紫平野全域
邪馬台国の都は久留米市あたりか
其の他の某国は狗奴国以外の九州や中国地方に点在する町や邪馬台国や奴国の領域にある町
狗奴国は熊本平野一帯
シュ儒国は四国
裸国、黒歯国は沖縄、台湾、フィリピンあたり
153日本@名無史さん:2009/05/09(土) 12:59:06
>>152

> 狗邪韓国まですでに7千7百里強だ

何で7,700里なの?
154日本@名無史さん:2009/05/09(土) 13:39:29
海賊の定義って何なのよ?

あえて言わせてもらうが、瀬戸内海には弥生時代を通じて海賊はいただろう。
その海賊とは、海賊が職業ではなく、瀬戸内海の島に住む漁民。

普段は漁をしているが、ときどき、目の前を通る他から来た交易船を襲ったりしただろう。
交易船は、島では得られない穀物やら絹やら鉄やら積んでたろう。
まだクニが出来る前なら、他の船を襲って略奪する猟師は普通にいただろう。

「交易」が「略奪」よりも効率が良くなるのは、クニが生まれて交易船が安全保障されてからだ。
155日本@名無史さん:2009/05/09(土) 13:47:46
漁民による海上の略奪行為について、直接的な資料は無いが、
高地性集落がその傍証。
海岸が安全地帯なら、わざわざ高台に居を構えたりしない。のろし台もある。

また、鉄器が九州から畿内まで搬送されるさい、
九州>吉備>畿内と、鉄器量が減少していくのも、
途中で海賊に襲われて鉄器を奪われていったからだろう。

また庄内式土器が、畿内から九州まで瀬戸内海を直線的に搬送されていることからも、
瀬戸内海交易ルートが存在したことは疑いようが無い。

畿内の庄内式土器が北九州に拡散していることから、
北九州の人々が畿内を知らぬはずはない。
つまり、魏志倭人伝に言うところの、隔絶した東の地とは畿内ではなく、関東のほうであろう。
邪馬台国の時代には、九州〜畿内の瀬戸内海交易ルートが存在していたのだから。

はい、反論どうぞ。↓
156日本@名無史さん:2009/05/09(土) 13:48:10
>>154

ソース、ソースと言う奴らと同じ考えで居てるから、そんな的外れのこと言ってるんだ!!
>>133に、ちゃんと、「平安朝も大分進んだ以降」て書いてるだろうが。

海賊行為が何であれ、貿易であれ、それが出来るだけの生活上・経済力上の条件が揃ってなければ、
海賊行為をやろうにも出来ないんだぞ。
文献資料が整のって以降平安朝までの各史料を解説した歴史書をちゃんと読め。
157日本@名無史さん:2009/05/09(土) 13:49:54
>>156

海賊行為が出来ない、って何の話?

意味がわからん。
158日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:10:02
>>155
>つまり、魏志倭人伝に言うところの、隔絶した東の地とは畿内ではなく、関東のほうであろう。

???
君、倭人伝のどこを言ってるの?
お手数だけど原文を書き抜いてくれないかな
159日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:20:29
>>153
7千里の間違いだった
んで、帯方郡からマツラまで1万里
160日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:29:11
>>157
ちょっと幼過ぎる。
海賊行為であれ世の中の悪事であれ、出来るだけの経済的条件が無けりゃ出来ん。
いわんや、貿易において、をや。
もっと教養水準を上げてから、物言いな。

それと、ソースは上に挙げた通り。
161日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:30:28
瀬戸内海に海賊がいたかどうかの話をしているのではなく、
邪馬台国の時代、外洋を航海できるだけの造船技術と
航海術をもった海族が邪馬台国にいたことを述べたかった
のです。
それが難升米なのです。
162うましか:2009/05/09(土) 14:31:07
>>156

> 海賊行為が何であれ、貿易であれ、それが出来るだけの生活上・経済力上の条件が揃ってなければ、
> 海賊行為をやろうにも出来ないんだぞ。
> 文献資料が整のって以降平安朝までの各史料を解説した歴史書をちゃんと読め。

貴方の「海賊」の定義については、その「歴史書」を読んでいないのでわかりませんが、
私のイメージする「弥生時代の海賊」は、後世の「倭寇」ほど組織的では無いものの、
船団を組んで移動する武装集団で、「海賊行為」の対象は船舶と言うよりも沿岸の集落と言うようなところです。
はば、>>154氏のイメージと同じですが、さらには、船を使わない集団、「山賊」も居たのではとも思います。

また、「海賊行為」が成立する条件ですが、

 ○ 相当数の武装人員を運ぶため、船団を組んで移動できる航海技術と根拠地
 ○ 自ら生産手段を取得して得るより、武力により収奪した方が効率的な対象。

この二つだけだと思うのですが、御異論がありますでしょうか?
弥生時代も中期を過ぎれば、瀬戸内はこの条件を満たしているかと思います。
163うましか:2009/05/09(土) 14:42:34
>>161

> 邪馬台国の時代、外洋を航海できるだけの造船技術と
> 航海術をもった海族が邪馬台国にいたことを述べたかった
> のです。
> それが難升米なのです。

難升米さんについては、確かに私も海人系なのだろうと思います。
でも、「邪馬台国」の人では無く、玄海灘沿岸諸国の出身ではなかったかと思っています。
特に根拠も有りませんが、女王の名代だからと言って、都の人間でなければならない理由もないでしょう。
航海と言っても倭・韓の往来となると末羅や一支の人間の方が馴れていますでしょうし。

164日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:46:46
> 船団を組んで移動できる
居なかった、と言ってる。
> 武力により収奪
居たとしたら、海賊でなく、おか(陸)の盗賊だ。話が変わっている。

しかも、なぜ当時、盗賊が居てるんだ!
これも居てるだけの条件が無けりゃならない。
盗賊なんかしてるより、並みの交易した方がよっぽど効率いゝんじゃない?
毎日毎日四六時中、盗賊してりゃ、商売にもなるかも知れんが、そんな保証無いじゃないの?
当時は・・・。

辺りは物なりのいゝ瀬戸内地方だ、喰うにも生活用具にも困らない。
答礼使の財宝珍宝なんぞ奪って、一体、どうして何と交換するんだ?誰がそんなもん引き取ってくれるんだ?
そんなヒマあれば、他地方の珍しい食べ物・役立つ物を得るべく日常的に確立しているシステムで
交易している方がよっぽどマシなんじゃないのか?

悪いことするにも、その条件が無けりゃならん、と言うのですよ。
165日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:47:28
↑これは、>>162に対するレスだ。
166日本@名無史さん:2009/05/09(土) 14:56:33
海賊よりも、わざわざ高知を沖を通ったというところが考えられない。
古代の船や航海技術では海賊に遭うより危険だろうし、
途中寄港したはずの港や都市も見当たらない。
167ローガン:2009/05/09(土) 14:56:47
海賊が仮にいたとして…
出逢うと難儀なので途中から陸路w
168日本@名無史さん:2009/05/09(土) 15:02:34
>>155
>高地性集落がその傍証。

海賊の?違うだろう。
高地性集落が外敵からの防御目的だとしたら、もっと規模の大きい集団に備えたのだろう。

高地性集落が弥生の各期で異なる分布を示すのも、単発の海賊対策なんかではなく
もっと政治的、軍事的な事情を示すものと思われる。

それに古墳時代に入ると高地性集落は消えていく。
169日本@名無史さん:2009/05/09(土) 15:16:41
海賊よりも、むしろ「陸族」がいたと思う。

・・・・・荷物を積んだ船が
「ちょっと水を補給させてくれ」
と立ち寄った、ほとんど馴染みのない小さな港・・・・・。

「どーぞどーぞ(^o^)」と、やけに親切で、
「もう日暮れも近いし、きょうはお泊りやす」と。

ところが、夜もふけて・・・・・・・・・。

船乗りたちは一気に寝込みを襲われ、皆殺し。
船荷はすべて略奪され・・・・・。
170日本@名無史さん:2009/05/09(土) 15:18:14
「陸族」 → 「陸賊」 訂正スマソ
171日本@名無史さん:2009/05/09(土) 15:23:00
>>166邪馬台国が宮崎平野にあったとすれば、わざわざ瀬戸内海を通るより、
    土佐湾沿いを進んだほうが近いし安全だったと考えます。
    そして和歌山から紀ノ川を遡上すれば奈良盆地はすぐそこです。
    遠洋漁業を得意とした串本の漁労民の存在も気になるところです。
172うましか:2009/05/09(土) 15:23:53
>>164

> 船団を組んで移動できる
> 居なかった、と言ってる。

船については、瀬戸内でも現物が出土していますからある程度の大きさは確認できます。
大きさはさほどのものでもないので、100人とかで移動するのであれば10隻以上の船団を組むでしょうね。
一つのムラを襲撃するのに100人は要らないかもしれませんが。
船団については日本海側ですが、青谷上寺地出土の線刻画でそれっぽいのが描かれてるじゃないですか。

> しかも、なぜ当時、盗賊が居てるんだ!
> これも居てるだけの条件が無けりゃならない。
> 盗賊なんかしてるより、並みの交易した方がよっぽど効率いゝんじゃない?
> 毎日毎日四六時中、盗賊してりゃ、商売にもなるかも知れんが、そんな保証無いじゃないの?
> 当時は・・・。

相手が弱けりゃ「盗賊」した方が効率良いに決まってるじゃないですか?
勝てそうも無い相手だったら、穏便に「交易」するだけのこと。
ただ、「交易」には「モノ」が必要なんですよ。
相手が欲しいものを自分達が持っていなければ、交易は成立しない。

> 辺りは物なりのいゝ瀬戸内地方だ、喰うにも生活用具にも困らない。
> 答礼使の財宝珍宝なんぞ奪って、一体、どうして何と交換するんだ?誰がそんなもん引き取ってくれるんだ?

話が跳びましたね、弥生時代の瀬戸内に海賊が居るか居ないかの話だけをしています。

> 悪いことするにも、その条件が無けりゃならん、と言うのですよ。

つまり、弥生時代の瀬戸内は裕福だったから争いごとは起きなかったと・・・いうことですね。
173日本@名無史さん:2009/05/09(土) 17:16:08
>>171
本当に海賊が跋扈してた平安時代でさえ、そんな奇妙なルートは使わなかった。

>そして和歌山から紀ノ川を遡上すれば奈良盆地はすぐそこです。

地図を見たらそう見えるのかもしれないが、紀ノ川と淀川では訳が違う。
あんな急流を遡上するって。
174日本@名無史さん:2009/05/09(土) 17:17:35
この時代は淀川→大和川か。
175九州王朝大好き:2009/05/09(土) 17:28:42

神武の東方への移住船団も海賊みたなものだ。
相手が強いと、その懐に入り込み当面の逗留を頼み、又は道案内を請う。この場合は商人。
相手が弱いと見ると、強行上陸強奪を試みる。結果は相手が強すぎたが。この場合は寇。
17618:2009/05/09(土) 19:55:33
うーん不思議な話題になってるな。海賊??・・・倭国乱のときに、川を舟で上下して相手を
攻めたことはあるのかもしれないが、弥生時代に職業的な海賊っていたんだろうか。
まあ、大和朝廷時代には水軍であり、海賊行為もした集団はいたかも。ずっと後代だが、
天慶の乱の藤原純友らは、水軍であって海賊という感じがする。

水軍として有名なのは阿曇氏とかで、もともとは志賀島あたりが本拠、綿津見神の子孫と
され、全国に広まった。渥美半島、伊豆の熱海とか。応神帝の頃には大和水軍を構成する
有力氏族となり、有名な安曇比羅夫は白村江で戦死。
17718:2009/05/09(土) 20:09:11
続き
東遷説の人は、九州の各氏族が全国のどこへ散らばったか、朝廷でどんな役職に就いて
るかなんかある程度わかるから、おおざっぱなこと言ってないでそんなの調べれば自説の
根拠にはなるんでないの。
178日本@名無史さん:2009/05/09(土) 20:09:37
藤原純友らは、海賊と言ったら聞こえが悪いが
行き来する船から税をとって生業とする、海の領主だと考えれば、
荘園領主、受領、武士、地頭と同じ事だ
平家は、西国平定を通じて海族を配下に収めたから、宋との貿易が出来たんだろ
博多ではなく直接、大和田の泊(兵庫)まで宋の船をいれる計画も、瀬戸内海を制していたからこそ
179うましか:2009/05/09(土) 21:22:56
>>176

> うーん不思議な話題になってるな。海賊??・・・倭国乱のときに、川を舟で上下して相手を
> 攻めたことはあるのかもしれないが、弥生時代に職業的な海賊っていたんだろうか。

いや、私は、専業海賊の存在なんて考えていません。
海賊だけで喰っていくのはリスクが高すぎるでしょう。
時と場合によって海賊行為を行う集団がいただろうと言う話です。
私はこの「海賊」さんたちの活動と防御的高地性集落の存在を絡めて考えているので。

> まあ、大和朝廷時代には水軍であり、海賊行為もした集団はいたかも。

ヤマト王権成立後に限らず、交易連合の成立にも瀬戸内の「海賊」と言う要素は大きかったと思います。
互いに奪い合うよりも互いに安全を保障し合うと言うことですね。
180日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:38:04
>>172
人間の知恵、物の考え方は、千年経とうが二千年経とうが、そうそう変わるものではない。
苦痛・損得・効率の考えは余り変わらないでしょう。
変化しているのはイノベーションのレベルでしょう。

邪馬台国の時代に、果たして、海賊や盗賊が楽な行為だったでしょうか?
必要な物・欲しい物を入手するのに、效率的な方法だったでしょうか?
基盤として、そんなことが出来る経済的条件が有ったでしょうか?
その条件ゆえに、海賊や盗賊の技術があったでしょうか?或る程度の人数が組織的に動く技術があったでしょうか?
食べ物・生活用品・生産技術・芸術は、相当高度なレベルの社会ではあったでしょう。
しかし、海賊や盗賊が発生するほど高度な発展段階には至っておりません。

交易は、こちらが物を持っていなければならない、と言うが、永年代々の経験から、どの集団が
何を欲するかは常に把握しています。
それに、予め「こちらが持っておく物」だけではない、相手が現われてから、山・谷へ採りに行くことも多いのです。
又、材料を採取して来て、それから制作することも多いのです。即ち、相手の顔を見てから行動にかかる。
来着した相手が待つための宿泊場所なんかもちゃんと用意されていました。

海賊や盗賊すら、ひとつの高度な文化です。
社会がある程度以上進まないと生じない。従って、そういう意思も生まれないのです。
ぜひ、そういうことを書いた歴史解説書(史資料に基づくもの)を読むことを勧めます。
181日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:44:56
>>135
> 馬に乗った天皇は出てこない

そうだったのですか。
自分も、>>101を見て、そうだったかな?何か、違うと思うけどなあ、と思っていました。
それで納得です。

そもそも、渡部氏が記紀に馬が出てくることを知らないわけがないですよね。
182日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:45:06
>>180


>ぜひ、そういうことを書いた歴史解説書(史資料に基づくもの)を読むことを勧めます。
ぜひ、その本を教えてください。
いったい、誰に入れ知恵されてるのか知りたい。

183日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:47:42
騎馬民族とか、古い話が出てるが、
騎馬民族説がウソなのは、去勢の習慣が日本に無いことから明らか。

鐙を使用してることも騎馬民族で無い証拠だし。
184日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:56:36
高句麗騎兵の鐙・・・
185日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:05:20
>>182
入れ知恵も何も、従来より既に標準の史学項目になっている。
社会世相史の分野って言うか、何もそんなに狭く考えなくても、史学関係の書物探せば
幾らも見つかるよ。何しろ標準の史学項目なんだから。
余り、史学関係の書籍に触れたこと無い?――それなら、何をか言わんや、だ。
186日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:15:06
>>182
いや、>>185を言い直すよ。
>>180に書いた程度のことを知らないのだろうと考えて、同レスをしたのだ。

なのに、感謝するどころか、悪態をつき、何か無根拠・不認知の説を述べているような
扱いをする――書物を教えろ、とか――。

現在の史学レベルも知らないことを自覚することが先決なのでは。
俺ばかりに悪態つかずに、また俺ばかり指名せず、他の住人に向けて質問をしてみな。
187日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:27:07
>>186

間違ってるのはおまえ。

どんな本に洗脳されたのか、言ってみろよ。
188日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:33:27
>>187
> 俺ばかりに悪態つかずに、また俺ばかり指名せず、他の住人に向けて質問をしてみな。
189日本@名無史さん:2009/05/09(土) 22:39:50
まあ昔のヨーロッパの海賊も普通は商船として交易活動をしつつ
洋上で敵国の船を見つければ海賊船に早変わり…
で、その活動も自国の王の商人済み。
映画やマンガに出てくるような海賊業専門なんてのは極少数
…って話だっけ?w

古代の日本でも普段は漁労や交易に従事し
沖にカモになりそうな船を見つけたら海賊行為に及ぶ
…なんてのは普通にあるんじゃないのか?
無論時には集落を襲うという事もあっただろう。

正直俺も>>180の言っている事が良く分からないwwwwww

「標準の史学項目」とやらに

 海賊盗賊の発生は社会がある程度の段階にならないとありえない。

・・・なんて事が書いてあるのか?

もしそうだと言うのなら俺も>>182と同じく是非その書名や著者を教えて欲しいのだがw
190太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/09(土) 22:44:20
倭寇か〜?
191うましか:2009/05/09(土) 22:45:45
>>180

長文のレス、ありがとうございます。
でも、貴方の仰っていることはピンときません。

> 邪馬台国の時代に、果たして、海賊や盗賊が楽な行為だったでしょうか?

私は、もう少し前の時代を想定しています。
で、「海賊」、私の定義は「別の集落等を襲って住人や財産等を略奪すること」としておきますが、
人がその行為を行うのは、楽か否かでは無く、必要があるかどうかでしょう。

> 必要な物・欲しい物を入手するのに、效率的な方法だったでしょうか?

どうしても必要なものについて、その生産手段も交換手段も有していなければ、選択するんじゃないですか。

> 基盤として、そんなことが出来る経済的条件が有ったでしょうか?

貴方が、この「基盤」とやらをどう考えているのかがわかりません。
私は米の集団備蓄など資産の集積が行われている社会であれば十分経済条件は満たしていると思います。

> その条件ゆえに、海賊や盗賊の技術があったでしょうか?或る程度の人数が組織的に動く技術があったでしょうか?

無かったとでも言うのですか?
自分より弱そうな相手を見定めて襲うだけです。
必要があれば習得す技術です。
弥生中期の西日本が、貴方の言う平安時代以降とどう違うと言うのですか?

> しかし、海賊や盗賊が発生するほど高度な発展段階には至っておりません。

残念ながら、私にはこれも理解できません。
192うましか:2009/05/09(土) 22:51:26
>>191の続き

> 交易は、こちらが物を持っていなければならない、と言うが、永年代々の経験から、どの集団が
> 何を欲するかは常に把握しています。
> それに、予め「こちらが持っておく物」だけではない、相手が現われてから、山・谷へ採りに行くことも多いのです。
> 又、材料を採取して来て、それから制作することも多いのです。即ち、相手の顔を見てから行動にかかる。
> 来着した相手が待つための宿泊場所なんかもちゃんと用意されていました
> 海賊や盗賊すら、ひとつの高度な文化です。
> 社会がある程度以上進まないと生じない。従って、そういう意思も生まれないのです。
> ぜひ、そういうことを書いた歴史解説書(史資料に基づくもの)を読むことを勧めます。

何度か同じ御呈示を受けてさせていただきましたが、あまりに漠然として御呈示です。
できましたら具体的な著者名なども御教示下さい。
193日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:04:30
今ここで問題になっている「海賊」と言う問題については
スレ的には以下のことに関係してくる問題なんだろうwwwww

 (1)高地性集落の発生に関する問題
 (2)畿内説で魏使のルートを瀬戸内にするのか否かの問題

(1)に関して言えばそう言った海賊が横行していたなら
高地性集落はそれに対する防御で東征や西征と言ったお話とは関係なくなる?www

また(2)に関して言えば治安に問題があったから日本海コースを選んだ
もしくは海賊銀座wを避けてかなり手前から陸路に切り替えた(ローガン説?w)
…って事になるんだろうか?w
194日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:08:52
瀬戸内海を航海するような一団は、それぞれの国を代表するようなもの。
もし、海賊が出るようなことがあれば、それなりに準備をするだろう。

一介の海賊に、対抗できるような船を作り、対抗できるような戦力を
整えることが出来たかどうかだろうな。

瀬戸内海に海賊が出るくらいなら、どこを通っても同じで、やはり海賊は
出るだろう。

結局、海賊説は、瀬戸内海航海を成り立たせたくないための方便かな。
195日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:11:37
天皇といえば天の浮舟で移動するもの。
牛に車をひかせることはあっても、
馬になど跨ったこともないはず。
196日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:14:34
>>193
畿内説としては、瀬戸内海を通っては、陸行一月の説明が出来ない。
だから、日本海を通ったことにして陸行一月をひねり出した。
でも、日本海ルートはあまりにも不自然。だから、海賊を創造した。

まあ、畿内説らしいな。
197うましか:2009/05/09(土) 23:15:50
>>194

> 結局、海賊説は、瀬戸内海航海を成り立たせたくないための方便かな。

私は「瀬戸内海航路」は成立していると思いますよ。
「海賊」が出ようが出まいが、必要があれば通るべき航路です。
また、太平洋航路と言うものも否定はしません。
ただ、そちらの方が治安がよかったとも思いませんが・・・
198日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:23:40
>>195
そういうことですね。
たとえば、古事記だけをとっても、馬は神様の時代に出てくるだけ。
天皇の諡した人物の説話に、馬を使う場面は出て来ない。

ずっと上の方で渡部説云々と言ってるのは、ゆえ無き個人攻撃、的外れだと思います。
199193:2009/05/09(土) 23:23:56
>>196
まあ「陸行一月」の難易度は九州説にしても同じだろうw

そういえば日向説の奴はわざわざ熊本あたりから
九州山地を横断するようなコースを想定していたが
普通に考えれば海路で日向沖まで行ってそこから歩いた方が楽w

九州説のほかの比定地にしても距離を縮める工夫をするか
一月かけなければならない遠回りを想定するか・・・似たり寄ったりw

ここぞとばかりに噛み付いてんじゃねえよアホwww

200日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:31:05
瀬戸内の水軍はずっとずっと後
保元の乱などで戦いに敗れた武士集団が野武士化して出来た
全然時代が違う
当時において舟で戦が出来るんなら全国統一を彼らがしている
いや、中国も落とせた筈w
201日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:38:37
>>199
ところで、畿内説はどういうルートを通るのだったかな。
末盧国まではいいとして、そこから伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て
邪馬台国というルートが見えてこないのだが。

ちなみに、日向説だったら、日本書紀にある景行天皇の九州巡幸の逆コース
だろうな。読んだことある?
202日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:48:39
>>199
>普通に考えれば海路で日向沖まで行ってそこから歩いた方が楽w
東回りでか? 玄界灘には難所がある上、黒潮に逆流することになるな。それに
関門海峡は出雲勢力が押さえていたんじゃないかな。

西回り? 狗奴国の鼻先を通過するつもりかね。
203193:2009/05/09(土) 23:51:34
まあ心情的には畿内説の日本海コースを支持したいが

それでも海賊の存在を理由に瀬戸内航路をパスしたと言うのは頂けないwww

そりゃ大事な大事な魏使御一行なんだから海賊如きは
裸足で逃げ出すぐらいの護送船をつけただろう…

ひょっとしたら瀬戸内は潮の流れが複雑すぎて一気に長距離を進むには案外不便で
その為に日本海コースを選んだ・・・とも考えるんだが
(源平の壇ノ浦でも勝敗を決したのは一日のうちで変わる潮の流れだったと…)
まあ
 日本海航路=急行
 瀬戸内航路=各駅停車
…ってイメージでwww

ただそれでも仮に洋上での時間を稼いでも最後陸路で大和まで歩かねばならないのはキツイw
なんせ纏向のウリは大和川の水上交通なんだしそれを使わない手は無いwww
トータルで考えればどうしても瀬戸内コースに軍配が上がるかなwww
204日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:51:35
畿内説で、陸行一月は、
日本海ルートで、但馬あたりから上陸して奈良を目指す、
というのが良さそうだけど、どうだろう?

日本海ルートでも、瀬戸内に海賊行為が横行してたという意見には賛成。
205ローガン:2009/05/10(日) 00:14:21
>>193

そんなん冗談半分でいっただけですよ。海賊がいたかどうかなんてどうでもいい事。
それに、前から気になってたんですが…「船に乗ったほうが楽。」って言う人いますよね?
どうしてでしょう?陸路が楽でしょ。詔書抱えた勅使なんてどうせ歩かないんだからw
206日本@名無史さん:2009/05/10(日) 00:23:37
>>205
>詔書抱えた勅使なんてどうせ歩かないんだからw
それって輿に乗って移動したって事?
もしくは馬を持ち込んだ?
207ローガン:2009/05/10(日) 01:13:12
>>206

> それって輿に乗って移動したって事?
> もしくは馬を持ち込んだ?

そんなことはわかりません。どちらともいえます。
208日本@名無史さん:2009/05/10(日) 04:59:35
「郡より女王國に至ること萬二千余里」と書かれているしね。

・郡から狗邪韓國までは七千余里。
・そこから対馬國までは千余里。
・そこから一大國までは千余里。
・そこから末盧國までは千余里。
・そこから伊都國までは五百里。
・そこから奴國までは百里。

これらを合計すると郡から奴國までは一万千余里くらい。
引き算すれば残りは千里前後。

末盧國から奴國までの距離の1倍〜2倍くらいの所に邪馬台国は
あることになるよね。
というわけで筑紫平野のどこかというのが妥当な線だな。
209日本@名無史さん:2009/05/10(日) 05:33:08
>>208
女王国と邪馬台国は完全にイコール(=)かどうか。
水行十日陸行一月をどう考えるか。
筑紫平野に3世紀中葉の径百余歩の墓が見出されるか。・・・・等々

倭人伝から都合の良い箇所だけで自説を組み立てるのではなく、
あらゆる記述に、また他のさまざまな資料にも、できるかぎり目配りし、
手間ひま掛かっても確固たる自説を組み上げた方がよいと思う。
210日本@名無史さん:2009/05/10(日) 05:51:54
> 女王国と邪馬台国は完全にイコール(=)かどうか。

それを疑う根拠は?
自分に都合の悪い記述を無視するのはやめた方がいいと思う。
211日本@名無史さん:2009/05/10(日) 06:26:33
>>210
郡より女王国に至る万二千余里以下に書かれているのは、女王国の風俗です。
けして倭国全体の風俗ではありません。そこに、諸国の文身などと複数の国があることが
明記されています。
また、伊都国から先は千五百里、しかし、水行十日陸行一月という行程(これが邪馬台国
までの行程であることは明白)が千五百里よりも遠いことは明らかです。女王国=邪馬台
国とは到底考えられない。
それに、女王国=邪馬台国ならば、なぜ断りもなく言い換えるのか、そこが分からない。
一度は、女王国すなわち邪馬台国と断りを入れるはずでしょう。
女王国の境界は奴国の先であることも明記されています。してみると、女王国都いうのは、
邪馬台国を中心とする複数の国、しかし、以北の国々は含まないということが分かります。
212日本@名無史さん:2009/05/10(日) 06:28:46
下から2行目の「女王国都」は単なる「女王国と」の誤り。
213日本@名無史さん:2009/05/10(日) 08:04:55
>>208
よく見かける論法だけど問題は
そんなふうに引き算すれば邪馬台国への里数が簡単に判るのなら
どうして最初からその里数で書かなかったのか?ってことなんだよ。

投馬国も読みようによっては同じような問題がかぶってくるわけだけど
この問いは割と難問なんだよね。
214日本@名無史さん:2009/05/10(日) 08:24:51
>>213
里数で書かなかったのは、里数がよく分からなかったからだろ。
万二千余里はおいといて、投馬国や邪馬台国は日数だけで考えればいいんだよ。
215日本@名無史さん:2009/05/10(日) 12:37:26
ミミ、ミミナリという官がいた国は奈良の耳成山付近だろうな。
216うましか:2009/05/10(日) 12:52:13
>>211

>>210氏ではございませんが

> 郡より女王国に至る万二千余里以下に書かれているのは、女王国の風俗です。
> けして倭国全体の風俗ではありません。そこに、諸国の文身などと複数の国があることが
> 明記されています。

「諸国の文身などと複数の国」のことが書いてあるからこそ、一国に限った風俗説明では無いと思うのですがね。
他にも「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。」と言う文章を見ても倭国全体についての文章だと
考えなければなりません。公孫氏の東夷支配前に「邪馬台国」が「使」を送った記録はありません。
永初元年の帥升は「倭國王」ですしね。
だとしたら、「其使詣中國」の「其」とは「邪馬台国」では無く、「倭」と解するべきでしょう。
他にも「國國有市」なんかも倭國全体の説明文であるからこそ書ける表現だと重います。

> また、伊都国から先は千五百里、

私的にはその計算に疑問を持っています。
萬二千餘里−(七千餘里+千餘里+千餘里+千餘里)
つまり、(12,000+餘a)−(10,000+餘b+餘c+餘d+餘e)となります。
「餘」をどの程度の数字と考えるかによりますが、伊都以降を1,500とするのであれば、
12,000−10,000が2,000なので、餘a−(餘b+餘c+餘d+餘e)の値は500、
餘の値が999を超えることは有り得ず、餘b+餘c+餘d+餘eの合計値が4未満と為ることはないので、
餘aのは999以下、504以上となり、その中間値は751.5。
また、餘b+餘c+餘d+餘eの合計値も499を超えることはできないので、最大499、最小4、中間値は251.5。
これの中間値を4で割ると平均62.875。
これでは、同じ「餘」でも萬二千餘里の「餘」と他の「餘」では10倍以上の違いあり、ちょっと不公平では?
では、公平に「餘」は全て500だと見做してあげるとどうなるでしょうか?
つまり、12,500−(7,500+1,500×3)、答えは解かりますよね。伊都國までで萬二千餘里は使い切ってしまいました。
これでは、伊都國=倭ではありませんか、これはこれで困ります。

あと、「女王国=邪馬台国」の件も倭人伝の困りものですが、基本的には邪馬台国の意で使われているかと思います。
217うましか:2009/05/10(日) 12:59:21
>>211

一所懸命計算をしたのですが、末盧・伊都の500里を足し忘れていました・・・
なので「伊都國=倭」では無く「末盧國=倭」でしたか。
218日本@名無史さん:2009/05/10(日) 13:08:45
>>216
まあ余里の余がすべて500だというのも仮定だからね。
残りがゼロになるというのはそのあなたの仮定が間違っていたと言うことでしょう。
逆にこれにより奴国のすぐそばにあったと言うことは明白ですね。
219日本@名無史さん:2009/05/10(日) 13:21:21
万里の長城は5000キロ。
魏の都から南へ5000キロというと、オーストラリア大陸ということになります。
倭人の風俗は、オーストラリア大陸の原住民アポリジンの風俗と共通する。
これで全ての謎が解けた!
220日本@名無史さん:2009/05/10(日) 13:40:53
>>219同意。邪馬台国は日本にあったという先入観から早く抜け出したほうがいいと思う。
221うましか:2009/05/10(日) 13:42:48
>>218

まあ、倭人伝の文章は弄くりがいが有るという一例でございます。
222日本@名無史さん:2009/05/10(日) 13:47:37
>>208>>218
矛盾したことを言うものではない!

帶方郡は京城、狗邪韓國は釜山。
七千里は、直前文(郡面積を韓半島が何倍にもなる数値にした)に合わせた誇大数値。

>萬二千余里
前後の文からして、陳壽の全体距離認識とするのは意味が無い。
ここは「魏使が行くまで世間では萬二千餘里と云っていた(しかし、そうじゃなかったことは上述の通り)」
と読むんだ。「萬二千余里」では、口語訳になっていない。そのまんまじゃないか。

> 引き算すれば残りは千里前後
「水行十日陸行一月」とその前の「水行二十日」を漢文の慣行通り読んでいない。
何度も言うように、遙かに遠い何百年も前に、漢文の語法は熟し安定している。
連続的に先へ先へと延ばして行く読み方をしないと正確な読みとは云えない。

陳壽は、「邪馬台国までの距離は里数では計れない」と言ってるんだ。(全体の文で)
223日本@名無史さん:2009/05/10(日) 14:44:34
>>220
半島の連中が倭猿だの倭奴だの云って煽ってんのに
小日本だの鬼子だのわけの解らん煽り方だろ中国の連中はw

呼称、地域呼称は国家戦略的な意味も含む日本に適当な学者あてがって
相槌打たせてる可能性すらあるw
224日本@名無史さん:2009/05/10(日) 19:13:42
>>216
私の説明を誤解されているようですね。
>一国に限った風俗説明では無いと思うのですがね
そのとおりです。その点は私もあなたと同じ考え方です。
>倭国全体についての文章だと考えなければなりません。
問題はここです。一国に限った説明ではないからといって、直ちに倭国全体の
説明ということにはなりません。
私は、倭国は大きく分けると、女王国(邪馬台国+投馬国+旁国21国)と女
王国以北の国(対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国)とに分けることがで
きると考えるわけです。そして、風俗記事はその女王国の説明ということです。
225日本@名無史さん:2009/05/10(日) 20:11:32
>>224
>そして、風俗記事はその女王国の説明ということです。

それは根拠無いなあ。
226うましか:2009/05/10(日) 20:40:04
>>224

> >倭国全体についての文章だと考えなければなりません。
> 問題はここです。一国に限った説明ではないからといって、直ちに倭国全体の
> 説明ということにはなりません。

先に私の想定を説明しておきましょう。「想定」なので、特に根拠のあるものではありませんが。
倭人での体裁は倭國全体についてです。
しかし、実際のところは、特定の地点での観測情報+倭人からの伝聞情報だと思います。
「特定の地点」としては伊都國かなと思いますが、植生などは背振山地以南に見えるという
意見があることも承知しています。

> 私は、倭国は大きく分けると、女王国(邪馬台国+投馬国+旁国21国)と女
> 王国以北の国(対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国)とに分けることがで
> きると考えるわけです。そして、風俗記事はその女王国の説明ということです。

つまり、貴方の「女王國」は、背振山地の南側と言うことなんですね。
227日本@名無史さん:2009/05/10(日) 21:38:30
>>226
私は伊都国は、佐賀市付近に比定します。
女王国は、熊本、大分以南。投馬国は薩摩、邪馬台国は日向です。旁国は両国の
周辺にあった小国、種子屋久も女王国のうちかも知れません。
風俗記事は南九州を中心に描いているとみます。
228日本@名無史さん:2009/05/11(月) 00:35:59
28 :日本@名無史さん:2009/05/07(木) 20:27:51
>>20

>末盧国は唐津あたりだな。

そう。ほとんど異論がない。

>そこに上陸して東南陸行五百里。伊都国は佐賀市付近だ。

ところが多くの学者が、そうではなく伊都国を糸島方面と考えている。
学者の圧倒的多数と言っていい。大学教授、研究機関の研究員ほか皆おしなべて。
昔もそうだし、現在もそうだ。

あなたはきっと悔しいだろう。
 「なぜだ!糸島方面なら唐津から東北ではないか!90度違う!」
と叫びたいだろう。その気持ちは私でもなんとなく分かる。

しかし学界の通説は厳然として伊都国=糸島だ。
 「倭人伝の方角通りに佐賀へ持って来い!」
といくら叫んでも駄目なのだ。

多くの学者がここで方角通りにしないのは、きっと理由がある。
その理由の是非を考えてみるのは無益ではないと思うが
 「理由もへったくれもない!東南は東南だ!」
と叫ぶだけでは、恐らく学界の通説はいささかも変わりないだろう。
229うましか:2009/05/11(月) 01:13:55
>>227

アイヤ、日向説の方ですか。
では、貴説に迎合したネタを一つ。
倭人伝の植生ですが、熱帯原産種でも橘、椒、薑とかは、実際には畿内で自生、栽培可能なのですが、
中には、記載されていても現生種の何に該当するのか不明なものや、
温暖化の進む現在でも屋外栽培が難しそうな種類も記載されていますよね。
楓香(タイワンモミジ)とかは、南九州が限界かなと思います。
この辺りは畿内説では説明の苦しいところですね。
私は「誤伝」だろうとしておきますが。
230日本@名無史さん:2009/05/11(月) 01:56:39
>>228

方角が90度ずれてるのが倭人伝の標準ということだろう。
231日本@名無史さん:2009/05/11(月) 05:24:40
>>228
佐賀説論者が悔しがっていると思っておられるようですが、とんでもありません。
人はこんな単純な問題も見えなくなるんだと、面白く見させてもらっています。
「理由もへったくれもない!伊都は怡土だ!」 といくら叫んでも、そこでまちが
った道へ進んだ以上、その先はありません。あなたも、少しは考えたのでしょうが、
合理的な理由を見つけることができずに、「多くの学者がここで方角通りにしない
のは、きっと理由がある。」と数を信頼するしかないのでしょう。
多くの人たちの盲信がいつまで続くのか、面白いですねえ。
232日本@名無史さん:2009/05/11(月) 05:37:10
>>229
なるほど、参考になりました。植物は少し検討すれば、南九州でなければという
ものがあるだろうとは思ってましたが、面倒なので、つい怠っていましたね。
233日本@名無史さん:2009/05/11(月) 05:58:08
東南陸行五百里到伊都國

伊都国を怡土とすれば、方向も違うが『陸行』というのも不可解。
また、どうして末盧国を経由しなければならなかったかも分からない。
壱岐から直接、前原でもいいわけだから。

末盧国を唐津付近としたなら、どうして文字通り東南に陸行するという
当たり前すぎる説が登場しなかったのか。

これは長らく、邪馬台国論争が北部九州と畿内で争われてきたからだろう。
畿内説の場合は、有明海の方向に行ってしまったら即死。
北部九州も、鏡が大量に出てきた玄界灘沿岸だけに注目していたから、
新井白石の比定した伊都国=怡土に乗っかってしまったのだろう。

しかし、近年、遺物また特に遺跡に関しては有明海沿岸の方がかなり優勢に
なってきている。
弥生後期の人口の調査でも、北部九州(福岡・佐賀・長崎・大分)よりも、
南九州(熊本・宮崎・鹿児島)の方が多かったという説の方が有力。

だから、伊都国を有明海沿岸に比定するのも十分にありえる。
それが一般的にならないのは、やはり認めれば、即死が待っている畿内説や
北部九州説が触れたがらないということなのだろう。
234日本@名無史さん:2009/05/11(月) 07:20:06
>>233
> しかし、近年、遺物また特に遺跡に関しては有明海沿岸の方がかなり優勢に
> なってきている。

ほう、どういう遺跡なのか具体的に名を挙げて
その遺跡の何が伊都国を有明に持っていけるほどの材料なのか説明してもらえないかな?

235日本@名無史さん:2009/05/11(月) 07:25:21
>>225
>>そして、風俗記事はその女王国の説明ということです。
>それは根拠無いなあ。
根拠は倭人伝が明記しているところです。郡より女王国に至る、万二千余里。
これが、風俗記事の冒頭部分なのですね。従来の読み方では、風俗記事はどこの
ことを書いているのか、まったく分からないということになります。陳寿ほどの
史家がそんな拙い文章を書くはずはないのですよ。
236日本@名無史さん:2009/05/11(月) 07:31:36
>>234
まさか、吉野ヶ里を忘れてるとか?
237日本@名無史さん:2009/05/11(月) 10:15:37
>>234
吉野ヶ里遺跡と惣座遺跡があるではないか。
吉野ヶ里の全面発掘に比べ、ほんの一部しか発掘されていない惣座は無視できない。
惣座遺跡がごく一部しか発掘されていないにも関わらず、
その出土物と城郭の一部であるがその構造は、吉野ヶ里に匹敵する。

惣座の調査が、肥前国庁跡から地主宮天照宮の範囲まで全面的に及ばないかぎり、吉野ヶ里との比較は難しいが。
全面発掘があれば郡使が待機駐在した建造物跡も見つかるであろう。
238日本@名無史さん:2009/05/11(月) 10:35:01
吉野ヶ里は、弥生後期に衰退してますが。
239日本@名無史さん:2009/05/11(月) 10:42:41
風俗で言うなら
馬韓、辰韓、弁韓そろって入れ墨文化がある
特に弁韓は倭と似ていると東夷伝には書かれている
240日本@名無史さん:2009/05/11(月) 11:12:49
>>238
吉野ヶ里は倭國乱と卑彌呼の台頭によって衰退しました。
吉野ヶ里は卑彌呼の城郭ではないと言うことです。

惣座は、吉野ヶ里よりはその規模で劣りますが、
吉野ヶ里より小規模ながら弥生後期まで継続していたのではないかと思います。
惣座遺跡の大部分が未発掘の現在、推測の域をでることはありませんが。
241日本@名無史さん:2009/05/11(月) 12:42:07
京都、奈良盆地周辺の(山)には(ヤマ)と発音する山が多い後に仏教が
入ってから(サン、セン)と発音する山がふえる。邪馬台国の耶麻信仰の影響か?

(例)三輪山みわやま天香具山あまのかぐやま畝傍山うねびやま耳成山みみなりやま
生駒山いこまやま若草山わかくさやま笠置山かさぎやま東山ひがしやま
鞍馬山くらまやま三笠山みかさやま等々
242日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:08:07
ヤマの語源が九州とは恐れ入った。
243日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:35:49
>>237

吉野ヶ里と惣座ねえ…。

良い意味で予想を裏切った答えで
こっちの知識が少しでも更新されるのを期待したがやっぱり無駄だったなw

学者により年代観は異なるが吉野ヶ里なんかは3世紀には衰退の一途。
惣座に郡使の常駐を想定するなんて聞いたことも無い。

どうせ毎度同じ奴だろうから何度も言った事があると思うが
三雲・井原ならば他の遺跡なら一点でも出ればおんの字の楽浪土器が大量に出ていて
しかもセットになっており楽浪人の常駐を十分想定できる内容。
無論、青銅器やガラス製品も多数出ている。

お前は惣座から大型建物跡が出てきたら
「これこそ郡使の常駐した建物です」
とでも言うつもりなのか?w

単純にそこに遺跡がある・・・と言うお話ではなく
その遺跡の”性格”を想定できる材料・遺物と言う話。

通説に果敢に挑戦するはその意気や良しだがw

言うにことかいて
>触れたがらないということなのだろう。
…などと陰謀論の如き事を言っているようじゃあ
2ちゃんのこの板でさえまるでお話にならないw
244日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:37:38
遺跡は古くたってかまわない。むしろ、古いほうが早くから大陸との交流が
あったことを示していることになり、有明海に通じる道が開けていたことに
なる。

中国鏡が見つかった甕棺墓のある遺跡はたくさんあるが、一例を挙げると、
東小田峰遺跡、三津永田遺跡、二塚山遺跡、椛島山遺跡など。

弥生後期にかかる遺跡としては、一本谷遺跡、五本谷遺跡、柴尾橋下流遺跡、
惣座遺跡、池ノ上遺跡、都遺跡、吉野ヶ里遺跡などがある。

熊本県にも大規模な環濠集落として方保田東原遺跡
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1338
あるいは、うてな遺跡などがある。

ちなみに、吉野ヶ里遺跡は、卑弥呼時代に重ならないと言い切ることは出来ない。
考古学者は、みんな重なると言っていたわけだから。
今でもそう思っている人はいる。

畿内説の人は重ならないと言わざるを得ないんだろう。
もし重なったら、吉野ヶ里は、倭人伝の記述にぴったり来るし、
何よりも、纏向が4世紀になってしまう。
245日本@名無史さん:2009/05/11(月) 13:45:10
>>242 京都、奈良盆地周辺の(山)には(ヤマ)と発音する山が多い後に仏教が
入ってから(サン、セン)と発音する山がふえる。邪馬台国のヤマ信仰の影響か?

(例)三輪山みわやま天香具山あまのかぐやま畝傍山うねびやま耳成山みみなしやま
生駒山いこまやま若草山わかくさやま笠置山かさぎやま東山ひがしやま
鞍馬山くらまやま三笠山みかさやま等々
246日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:14:16
>>243
吉野ヶ里が衰退などというが、倭国の乱が終わって環濠が埋められただけだろう。
人が住まなくなったわけではない。古墳時代に玄界灘沿岸よりも有明海沿岸が栄えた
ことは明らかだしね。
三雲、井原は古すぎるな。栄えた時期もあったのだろうが、邪馬台国時代にはとても
とてもだな。それこそ、衰退地域と言うべきだろう。
247日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:17:01
>>244
たくさん遺跡を挙げてくれているが伊都国王墓はどれかね?
御説の如く佐賀が伊都国ならその王墓は糸島の平原墓を凌ぐ内容でないと駄目だと思うがね。
248日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:40:47
>>246
>栄えた時期もあったのだろうが、
そう、だから
「千余戸有り」と昔日の栄光の面影も無いわけで
そこら辺は倭人伝の内容と一致するかな?w

で、吉野ヶ里や惣座に郡使の常駐した事を思わせるものがあるのかな?
単に遺跡を挙げてみましたじゃあ話にならんよ。

古くから栄えた邪馬台国の言わば対半島大陸の玄関口として
永らく栄えたんだろう?ww

それと…

>古墳時代に玄界灘沿岸よりも有明海沿岸が栄えたことは明らかだしね。

これは一体何を根拠に言っているのかな?

青銅品の鋳型の出土等を見れば弥生時代後期には有明から福岡平野にその中心がシフトし
更に北部九州全体が交易の中心的役割から低下する。

・・・と言うのが俺の認識だったんだがw
249日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:45:24
>>247
伊都国の戸数は千戸余となっているから、大きな国とは言えない。
邪馬台国や投馬国はおろか、奴国の二万戸よりもはるかに少ない。
王がいたことは確かだが、その王の墓がどんなものだったかも分からない。
王墓の規模で伊都国が決まるわけではないと思うが。
250日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:50:25
>>244
>中国鏡が見つかった甕棺墓のある遺跡はたくさんあるが、一例を挙げると、
>東小田峰遺跡、三津永田遺跡、二塚山遺跡、椛島山遺跡など。

ほう。椛島山遺跡は甕棺墓か……。wwwwwwww
251日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:52:30
伊都国についてはその規模がどうあれ
通説だろうとここで言う佐賀大和説であろうと
半島大陸との交易の言わば「玄関口」と言う性格を与えていると言う点については同じだよな?

通説の方は>>243で言ったような内容を挙げる事ができる。

で、佐賀大和説はどうなんだ?

腕輪だか指輪だかを、あるいは他の遺物を、その証拠に挙げるのか?w

252日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:56:35
>>250
椛島山遺跡は箱式石棺墓だった。
あまりにもたくさんに遺跡があるので、ちょっと混同した。
253日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:00:31
>>252
訂正はそれだけか。wwwwwwww
254日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:05:31
>>253
あのねえ。ケチばっかりつけていないで、畿内説のたった一つの生命線で
ある吉野ヶ里の年代について自説を述べてみろ。
255日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:13:47
>>251
窓口だったかどうかは分からない。あちらからの人がやってくるケースと
いうのは少ない。というか、わずかに2回しか記録されていない。
しかも、たまたまのケースであり、窓口という考えはなかっただろう。

それよりも、伊都国の重要性は、諸国を検察する一大率の存在にあるような
気がする。諸国を検察するに最も適した場所というのが伊都国だったと思う。
256日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:23:30
>>255

「魏使」と「郡使」をごっちゃにしないように。
257日本@名無史さん:2009/05/11(月) 15:24:55
>>251
倭国乱より前の楽浪土器なんぞ、何で伊都国の証拠になるんだ?
朝鮮半島に一番近いところに半島から渡ってきた人たちがいたことを伺わせる
だけのもんじゃないか。当たり前の話だろ。
258日本@名無史さん:2009/05/11(月) 16:09:52
>>257
三雲井原のそれが
「倭国乱より前」と確定できるのかどうかはしらんが
半島からの人間がそこに集中しているのは事実。

十分に伊都国として想定する材料になると思うが?

じゃあ佐賀大和は何をもって伊都国とするのか?って話で

>>233は遺跡遺物にそれを優勢にするものがあると言っている。

一体それは何なんだ?って話だよ

259日本@名無史さん:2009/05/11(月) 16:27:00
おいおい、伊都国に朝鮮半島からの人間が集中しているなんてことはまちがった
前提だよ。そんなことは、どこからも出てこない。
伊都国の特徴は、一大卒がおかれていたこと。→>>255
各国がかってなことをしないよう、目を光らせるに都合の良い所。それが伊都国
を考える上で重要なことだ。前原にいて玄界灘を見ていたって何にもならんよ。
260日本@名無史さん:2009/05/11(月) 16:36:54
伊都国は郡使の常駐していたところ・・・と言うのは
もう畿内説だろうが九州説だろうがコンセンサスとれていたと思っていたが・・・

ましてやここで佐賀大和説を言っている奴は放射説で
その起点が伊都国だと言うのなら尚更
伊都国は郡使常駐の場所として考える方が自然じゃないのかい?w
261日本@名無史さん:2009/05/11(月) 16:47:35
伊都国なんぞに郡使が常駐してどうするんだ?
郡使は邪馬台国まで行かなければいかんのだよ。常駐していたなんて読んでる
ようじゃいつまでたっても邪馬台国は見えてこない。
262日本@名無史さん:2009/05/11(月) 16:59:54
郡使は伊都国に常駐して、諸国を監視する。
魏使はそれを横目に見ながら素通りして邪馬台国に向かったと思ってたよ?
263日本@名無史さん:2009/05/11(月) 17:03:53
シナ側の官人には国都に行く使命があるだろうけど
受け入れ側からすれば、素直に入れたとも限らないだろう
ずっと後世江戸期の釜山日本館のような例もあるし
大和朝廷での大宰府や難波宮に相当するところに迎えたかもしれない。
特に、副都で迎えたなら両者面子が立つだろう
って、それを示唆するテキストが無いか。
264日本@名無史さん:2009/05/11(月) 17:47:25
>>261
また魏使と郡使の区別ができていないようだが・・・

そもそも、じゃあ伊都国=佐賀大和説の連中は
 「郡使往来常所駐」
をどう解釈しているのだろう?

それと・・・
>>248
>古墳時代に玄界灘沿岸よりも有明海沿岸が栄えたことは明らかだしね。
これについても根拠を言ってくれ。

少なくとも青銅器鋳造の鋳型は玄界灘より有明に古い物が出土する(by高島忠平)

福岡平野なら須玖岡本から、後に近畿系土器や前方後円墳を積極的に取り入れた
比恵那珂遺跡へと古墳時代にかけて台頭してきた遺跡があるが

有明となると頭に浮かんでくる物が無いwww
265日本@名無史さん:2009/05/11(月) 18:20:12
どのみち北九州が衰退してるのは事実なんだから、
邪馬台国の記述とは一致しないんだよ。
266日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:33:07
>>264
魏使と郡使は同じ意味です。区別する必要はありません。
267日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:39:17
うわぁ
268日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:55:05
邪馬台国に行ってないどころか卑弥呼にも会ってないんだろうね
当時の巫女の特徴について言及してないからな
269日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:19:22
>>268
行ってなければ倭人伝に邪馬台国なんて出てこないし、会ってなければ卑弥呼なんて登場しません。
270日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:32:50
>>269
そんなことはない
投馬国、邪馬台国の行程は突然に里数ではなく日数になる
当時の倭人は里数を知らないとあるのだから、暗に倭人による伝聞であることを示している
271日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:50:08
倭人伝は時間軸が混乱してると思うな。郡使たって、公孫氏滅亡以後の事じゃないの?
だから、卑弥呼朝貢で答礼の魏使が来た時には、まだ伊都国は >郡使の往来して常に駐る所なり
にはなってなかったんじゃないの?
272日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:51:53
伝聞までもが方角を間違うのか
こりゃあ困った倭人さんだわw
273日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:54:31
>>270
里数が日数になると、伝聞になり
その謎解きは、何百年も後の書物の編纂まで
待たなければ謎解きが出来ない仕組みなの?


変なの〜。
274日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:01:23
里数に計ることは重要なんですよ

>>272
真面目に答える必要もないだろ
明日には侵略者になるかも知れないし

>>273
魏志倭人伝の作者が解を持っていたとは思えない
わからないままに書いたと理解する方が自然
275日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:04:30
倭人伝は魏代の倭国を網羅的というか偏在的に書いてると考えてるんで、時間の前後が
よくわからない。
>伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。
>特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。

例えばこの二つの記述は同時代とは思えず、数十年隔たってる気がするけど違うのかな?
276日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:10:05
>>275
いい加減に主観的な発言は止めろよ
277日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:12:23
>>274
自ら生口送っておいて、侵略者もなにも
秘密にする必要性もない。
278日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:13:06
里数から日数に替わったのは、正確な里数が出しにくかったからと考えて何も
不自然ではない。
郡使は投馬国や邪馬台国を訪ねた。単なる伝聞でならば、投馬国や邪馬台国以外
の国々についても、倭人がおよその行程を知らないはずはない。旁国についても
道里戸数をかけたはずだ。それを書いていないのは、使者が自ら確認していない
ことを伝聞で書くことをしなかったからだ。
風俗記事は伝聞では書けないことが多く含まれている。木の種類などを伝聞で書
けるか? まさか植物採集させて標本を届けさせたわけではなかろう? 言葉が
違うにもかかわらず、木の種類を書いているということは直接の観察を示す。
倭の地は温暖、冬夏生菜を食すなどということも、伝聞ではまず書けない。
倭の地にいない動物をみないでどうやって確認するんだ? 当然、倭の地を旅し
たからこそ書ける話なのだ。
279日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:18:57
>>277
柵封を受けたからといって今の感覚とは全然違う
対馬領主も代替わりするたびに朝鮮に出向いて挨拶していたが
これも柵封といえるが実態は全然違う
近代国家の植民地とか朝鮮の属国状態をイメージするが
風俗街で店を出す場合に地元のやくざにチップを渡す感覚のほうがより近い
逆に伊都國の存在はオープンにしていない良い証
280日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:23:40
>>278
不自然ですね
その里数で測れなかったというなら全体の距離も測れないのに何故か里数で積み重ねた結果だとしてる
この時点でその論は破綻を来してる

事細かに書いてるのは里数で表された地域で得た情報なんでしょうね
281日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:55:21
>>279
言ってる事目茶苦茶。
282日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:28:16
>>279

ヤクザが金印を渡すのかよ。

子分にしたから、渡すんだろ。
283日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:32:11
>>280
>何故か里数で積み重ねた結果だとしてる
どこにも、そんなことは書いてないじゃないか?
284日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:32:17
>>281
メチャクチャに感じるのも無理は無いよ
事実、アメリカにずっといた初代韓国大統領の李承晩は
対馬が柵封を受けていたという歴史事実を根拠にして対馬が韓国固有の領土であると主張したわけだしね
今の人がそう誤解をしても仕方がない面がある
285日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:34:20
>>282
急に邪馬台国に来るからそういう誤解が生じる
近代アジア史を勉強すれば理解出来るよ

>>283
書いてあるよ
286日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:36:38
生口を送るということは、
隠し事は致しません的な。情報公開宣言。
287日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:40:07
>>285
>書いてあるよ
どこに?


288日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:44:44
>>287
魏志倭人伝に書いてあるよ
289日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:56:48
トンデモ読みか。
290日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:16:45
邪馬台国は魏に対し正確な位置を知らせないように隠した…ねえ。。

まあそれだけ聞けば懸命な判断とも思えなくはないが
じゃあ正始八年ni
狗奴國の男王卑弥弓呼と交戦状態になった事を
わざわざ知らせているんだからもう笑い話だなwww

で、結局、伊都国=佐賀大和 説は考古学的資料にそれを補完するようなものは無いって事なのかな?

そこは別に郡使が常駐する場所ではないが、一大卒がスタンバっている場所…と言うことだが
佐賀大和では半島から入ってきた文物の検閲をするには如何にも不便と言うか
普通なら玄界灘周辺・九州の北岸地域に置くよな?w

「伊都国=佐賀大和説」は通説とは場所のみならず
想定しているそのクニの性格も違うって事か?w
291日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:24:28
もういいだろ

そんなの興味ないっす

続きはチラシの裏でどうぞ
292日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:05:30
>>290
考古学的な資料では、国の名前は分からない。
どんなものが出れば何という国かの関連が明確ではないから。
あれだけ調査された吉野ヶ里だって何という国かは分からない。

だから、国名が明確で、それについて記述のある文献、つまり倭人伝以外
では分からないことになる。

末盧国から東南に陸行五百里。これだけが唯一の手がかりと言っていい。
だから、伊都国が佐賀平野というのは十分に可能性がある。

なお、一大卒ではなく一大率。
293日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:07:38
吉野ヶ里から出てくる骨って渡来系ばっかりなんだろ?
邪馬台国ではないな。
294日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:15:44
>>292

そう、結局、現時点では「倭人伝とは方向が違う」の一点張りしかないんだよなw
(地名の一致すらみないのだから・・・)

まあ残念だがそれじゃあ定説をひっくり返すには無理だと思うぞw

適当に遺跡をチョイスして
「これが倭人伝言うところの伊都国です」
と言われてもねえ・・・www

295日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:29:02
そもそも「伊都国=佐賀大和説」で南九州・日向説をとる場合

伊都国に交易拠点の性格を与えてしまっても意味が無いというより
ぶっちゃけ不味い事になるかもしれんw

そもそも宮崎・鹿児島は九州説の連中があれだけ好きな鉄器や鏡も出土数がさほどでは無いのだから
交易と言う項目に関してはノータッチと言う方が都合が良いのかな?ww
296日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:19:11
>>295
>そもそも「伊都国=佐賀大和説」で南九州・日向説をとる場合

きみの意見(鉄器や鏡)もあるし、もっと引っ掛かってくるのは広形銅矛。
九州のシンボルのように言われる弥生後期の広形銅矛だが、分布を見ると

長崎(対馬)〜佐賀〜福岡〜熊本(北部)〜大分〜愛媛〜高知

と南九州にはまったく及んでいない。
http://www.yu-ji.com/douken.htm

むしろ四国西南部の方向へ広形銅矛の分布が伸びており、南九州の空白とは対蹠的だ。

なお、上の方で太平洋航路の話が出ていたが、
沿岸を見ながらの航行ならやはり豊予海峡辺りが九州〜四国をつなぐポイントと言える。
宮崎・鹿児島〜高知間の直接的な水上交通は、この時代ではまだまだ少なそうだ。
297日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:39:23
>>296
ご紹介のサイト、この板の東遷説の連中みたいに
「銅鐸から銅鏡へ」なんて今時誰も言わないような事じゃなくて

「青銅器祭祀から墳墓による祭祀」と
きちんと現実をわきまえているだけでも好意がもてるwww

しかし、もし北部九州から西四国にまたがる銅矛祭祀圏を
何らかの政治勢力に重ねる事ができるなら
(銅矛文化圏を一つの政治勢力に直結するには慎重な態度をとっておくw)

それに対抗すべく(背後から突っつくような形で)
ヤマト王権が日向に相当な力を注いだであろうと言う想像もできるかな?
298日本@名無史さん:2009/05/12(火) 03:36:38
>>297
>きちんと現実をわきまえているだけでも好意がもてるwww

そうですね。
ただ惜しむらくは、銅剣・銅矛・銅戈については型式編年までよく勉強されているのに
銅鐸の捉え方があまりに包括的過ぎて、後期末葉時点での近畿周辺の状況が、あの図ではよく分からない。
それで銅鐸分布域=「大和国連合」なる奇妙な考えから抜けられないのでしょう。

実際は、最週末段階の突線鈕5式はもう大和も河内でも消えており
紀伊田辺湾近辺、三遠、滋賀といった各所ごと、なにかもうひっそりとという感じで
最後のお祀りをしている・・・。

もう残り火がちらちらするだけで、分布の中心とか核とかが見られないわけですね。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html#totsu45
299日本@名無史さん:2009/05/12(火) 03:43:44
>>298訂正。

最週末段階の (誤) → 最終末段階の (正)
300日本@名無史さん:2009/05/12(火) 06:07:20
>>292
そのとおりで、倭人伝どおりに進んで、南水行が可能な所、しかも後の肥前国府
の所在地と一致するところに至る以上、そこが伊都国の可能性は極めて大という
べきですね。

>>295
>伊都国に交易拠点の性格を与えてしまっても意味が無いというより
>ぶっちゃけ不味い事になるかもしれんw
伊都国が交易拠点だなんてことは、あまり考えない方が良いだろうね。
その面が重視されていたのならば、一大率は伊都国ではなく、末盧国に置かれていたはず。
伊都国に置かれていたからには、持ち込まれたものは伊都国まで持ってこさせて検閲して
たんだな。だいたい、郡使は239が最初、始終行き来していたなんてのが妄想。
301日本@名無史さん:2009/05/12(火) 06:21:02
一大率は女王国から派遣されてきて、伊都国で伊都国、奴国など以北の国々を
かなり強圧的に検察していた。となれば、以北の国々が反乱を起こしたときな
どに本国と直ちに連絡をとり、本国から応援をもらわなければならん。
通説の伊都国では、連絡をとるために奴国、不弥国を経由しなければならず、
極めて不便、実際上連絡は不可能だ。佐賀市周辺ならば、直接伝令を出すことが
可能、本国や熊本から応援を呼ぶことができる。
302日本@名無史さん:2009/05/12(火) 13:29:23
>>301
前原市や福岡市には弥生の遺跡が豊富で前期古墳もあるので
ここに2つのクニがあったのはまず間違いないです。

でもあなたの説のように伊都国は佐賀で、前原市福岡市が倭人伝の伊都国奴国ではないとすると
前原市や福岡市は倭の30国には含まれないという大変奇妙なことになってしまう。

前原市福岡市の地域は倭ではなかったと強弁するつもりですか。
303九州王朝大好き:2009/05/12(火) 15:39:13
>>302
>伊都国は佐賀で、前原市福岡市が倭人伝の伊都国奴国ではないとすると
>前原市や福岡市は倭の30国には含まれないという大変奇妙なことになってしまう。

前原や福岡平野には餘旁國があったのですよ。
前原と福岡平野は、郡から女王國への魏志のルートから外れた地域で、
尚且つ女王國以北ですから、餘旁國があった地域になります。

何が大変奇妙なのですか?

又この地域には大きな経済力があり、倭奴國の後継国がある地域でもあるので、
弥生の遺跡が豊富にあり、
倭奴國の有力な後継国が女王國滅亡後の3世紀以降も続いていたと見られるので、
前期古墳があるのです。
前原市福岡平野には、卑彌呼共立で何とか納得できる、邪馬台国に対立する国々があったのです。

304301:2009/05/12(火) 16:05:21
>>302
303のように旁国があったと考える人もいるようですが、私は伊都国、奴国を大きく
考えます。玄界灘沿岸から背振山地を越して佐賀市付近まで、伊都国が広がっていた、
また奴国も福岡市あたりから筑後川左岸すべて奴国だった、と考えるわけです。
当時の国の首都は遷都がつきもの、邪馬台国時代は稲作が盛んなときですから、農地の
少ない玄界灘沿岸ではなく、筑後川河口付近に首都が集まっていたとみるわけです。
305九州王朝大好き:2009/05/12(火) 16:34:44
>>304
>農地の少ない玄界灘沿岸ではなく、筑後川河口付近に首都が集まっていたとみるわけです。

考え方は同じです。
筑後川河口付近だけでなく筑紫平野全体に各国の首都(城郭)があったと考えます。
筑後川河口付近が首都(城郭)の集中地帯だと考えます。
奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・幾つかの餘旁國の首都(城郭)が筑後川河口近辺にあった。
306日本@名無史さん:2009/05/12(火) 16:39:32
>>303
>尚且つ女王國以北ですから、餘旁國があった地域になります。

わけわからんな。
戸数道里を書いてない旁国21か国は女王国以北ではない筈だ。女王国より以南か以東か以西だ。

倭人伝には
「女王国より北はその戸数、道里を略載できるが、その余の旁国は遠絶で記載することが出来ない」

だから戸数や道里を書かなかったその余の旁国というのは
女王国以北ではない遠く離れた国ぐにのこと。
307九州王朝大好き:2009/05/12(火) 16:57:15
>>304
>玄界灘沿岸から背振山地を越して佐賀市付近まで、伊都国が広がっていた、

玄界灘沿岸(怡土?)から背振山地を越して佐賀市大和に、伊都国が移転したと考えます。
理由は複雑な説明になるので、今は遠慮します。

奴國の首都(城郭)は佐賀城で、その領域は佐賀平野の大部分と考えます。
その領域には白石平野も含むかもしれません。
308日本@名無史さん:2009/05/12(火) 17:26:34
>>307>玄界灘沿岸(怡土?)から背振山地を越して佐賀市大和に、伊都国が移転したと考えます。理由は複雑な説明になるので、今は遠慮します。

今書け
理由を人に明らかにできないようでは得手勝手な妄想だろうと全員から思われる
309日本@名無史さん:2009/05/12(火) 18:14:06
少なくとも現在 「伊都国=佐賀大和説」は限りなく”ト”レベルってことでw

方角の記述に誤りは無いという一種ドグマ(教条)からスタートして

怡土から佐賀市大和への遷都だの
福岡市から筑後川上流域にまたがるクニだの

もう何処かに出ていた司馬遼太郎の台詞じゃないが
「言った者勝ち」の世界だなwww
310日本@名無史さん:2009/05/12(火) 20:00:07
邪馬台国について魏志倭人伝が誤解してるという説もここでいいの?
311日本@名無史さん:2009/05/12(火) 20:37:03
生口が倭国の主要輸出だったとすれば
その原産地はどこか?っていう話で
北九州の港町から出航するのであれば、やはり近くにいる
倭種ではなさそうな熊襲がターゲットになったんじゃないかな?と思うわけで
邪馬台国が大和朝廷だとするならば
3世紀から5世紀にいたるまでずっと戦争をしていることになる
これも少し変な話なのであって、そんなに長い間の戦争を絶えうるような
体力は大和朝廷にはあったかも知れないが、熊襲側にそんな体力は無かったと思える
長期にわたり奴隷狩りを邪馬台国はしていたんではないのか?と疑ってしまう
312日本@名無史さん:2009/05/12(火) 20:48:37
生口といっても、お歯黒に刺青で、命令も理解できない原住民では、
買い手も付かないだろう?生口は、熊襲だったのではないでしょうか?
313日本@名無史さん:2009/05/12(火) 21:09:33
何で外部に供給源を求めるんだ?
奴婢制のある社会なら問題ないだろ。
それにギニア湾岸の奴隷は同じ部族の分派程度の別部族に売られたんだぜ
自国で調達できなければ熊襲じゃなくて隣国に手を伸ばす方がありそうだ
314日本@名無史さん:2009/05/12(火) 22:08:48
>>313
自国の人間を輸出したら、一体、誰が畑を耕すんだ?
315日本@名無史さん:2009/05/12(火) 22:32:05
>>314朝鮮半島から狩ってきた、より安い生口。
それが商売ってものです。
現在でも高級品は、より需要の高い地域に輸出して、
中進国の国民は最貧国から輸入した安物で食いつなぐ
のが普通です。
316九州王朝大好き:2009/05/12(火) 23:15:06
魏志倭人伝の生口は狗奴國の捕虜と考えるのが順当。
ちなみに、後漢書倭國伝の生口は倭奴國の捕虜。
317日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:37:37
記紀を読めば、騙し討ちとか罠とか当たり前に出てくるわけで、魏の使者に対してそのまま素で倭の本拠地に迎え入れたなんて思えないわな
318日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:46:42
卑弥呼も台与も巫女なんだから、うけひはしているはずなんだ
319日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:51:51

トヨタン・・・・・・・・・・
320日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:53:32
安寿と厨子王じゃないが、自国民奴隷の売買は中世以前珍しい話じゃない。
奴隷取引をする人間は、一番高く売れるところに奴隷を売る。
一番高く売れるところ=天然リソースに比して人的リソースが希少な地域
321日本@名無史さん:2009/05/13(水) 01:40:10
>>311の続きだが
もしも狗奴国との紛争が一方的な邪馬台国の動機によるものだとすると
なぜ魏がせっかくの紛争介入を回避したのか理解出来る
魏の帯方郡も加羅に鉄資源を求めていたから
おそらく邪馬台国は魏と共同して半島の統治もしくは経営を持ちかけたのでは無いのか?という憶測もありうるのでは無いだろうか?
狗奴国との紛争解決ではなく、半島における利権および軍事的行動の容認を求めたが、結果として中立を宣言させられてしまった
黄幢の下賜を受けながら、いざ紛争解決に当たって中立を宣言させられるのは実に不可解なところなんだが、魏が邪馬台国の野心を見抜いたとすれば、その魏のあやふやな行動決断もありうる
野望が打ち砕かれた邪馬台国は直後に魏との交流を止めるわけで
それも先の仮説に立てば納得しうる行動である

だとすれば、恐るべし、邪馬台国、そして崇神天皇!!
322301:2009/05/13(水) 02:48:14
>>306
>戸数道里を書いてない旁国21か国は女王国以北ではない筈だ。
これは、そのとおり。

>女王国より以南か以東か以西だ。
そのいずれでもなく、女王国そのものを構成していると考えることができる。
旁国というのは、傍らにある小国の意味です。何の傍らにあるのか? 当然の
ことながら、邪馬台国や投馬国といった大国の傍らにあるということ。
例えば、九州説では呼邑国は日向の児湯郡付近という説が有力。邪馬台国より
は北だが、それが女王国を構成しているなら、女王国以北ではない。

>女王国以北ではない遠く離れた国ぐにのこと。
どこから離れた国々か? 郡使がいたところからだ。つまり、邪馬台国に滞
在中、郡使は旁国を訪ねてみるということはしなかった、そのため道里戸数が
よく分からなかった。邪馬台国が広ければあり得ることだ。
323日本@名無史さん:2009/05/13(水) 02:55:30
>>316
>魏志倭人伝の生口は狗奴國の捕虜と考えるのが順当。
それより、倭国の乱で百余国は30国に統合された、その過程でできたと考える
べきだろう。
324九州王朝大好き:2009/05/13(水) 05:26:06
『自女王國以北 其@戸數道里可得略載 其A餘旁國遠絶不可得詳』
其@は直前の「女王國以北(の国々)」を指す。
其Aは直前の「戸數道里可得略載(の国々)」を指す。
よって餘旁國は、女王國以北に存在することになる。

『此女王境界所盡 其B南有狗奴國』
其Bは直前の「女王(の國)」を指す。
よって女王の國に南接して狗奴國がある。

以上より、最も南にあるのは女王の国(邪馬壹國)である。
その南は敵対する狗奴國。


>>323
献上品の生口は狗奴國との対立を魏に示す証拠品である。
325日本@名無史さん:2009/05/13(水) 06:41:21
>>324
>其@は直前の「女王國以北(の国々)」を指す。

これは、正しい。
それで、『自女王國以北 其@戸數道里可得略載』は何を言っているかというと、
女王国より北の国は戸数道里を略載できると言っている。
つまり「女王国以北(の国々)」=其@=「戸数道里可得略載(の国々)」。
で、
>其Aは直前の「戸數道里可得略載(の国々)」を指す。
なんだから、

其@=「女王国以北(の国々)」=「戸数道里可得略載(の国々)」=其A

だから、
「其A餘旁國」=「倭の30国の内の、女王国以北の国々でない余りの傍らの国々」
よって、餘旁國は、女王国以北以外に存在することがわかる。

『此女王境界所盡 其B南有狗奴國』
この「此」は、直前の「次有奴國」の奴國を指す。其Bは同じ奴國を指す。
女王の境界尽きる所は奴國だから、視点が奴國にある場合の奴國に対する指示語は「此」。
「其南有狗奴國」以下は狗奴國の説明だから、
視点が狗奴國にある場合の奴國に対する指示語は「其」。
326301:2009/05/13(水) 09:48:38
>>309
伊都国が有明海沿岸だとしたら即死となる畿内説論者が必死になるのは、分からないではない
が(>>233)、もう少し理論的なことが言えないのかね。
いつも非難罵倒だけでは、まともな畿内説論者が泣くよ。
327日本@名無史さん:2009/05/13(水) 10:16:46
畿内説に関係なく、
伊都国が有明海沿岸なんて無いって。
328日本@名無史さん:2009/05/13(水) 10:47:15
生口は奴隷ではなく留学生・研修生かも知れない。
329日本@名無史さん:2009/05/13(水) 11:41:56
>>325
それは日本人が日本語的に見た感覚。
漢語日本語感覚で捉えちゃダメだよ

@番目の「其」は、もじどおり前文の「自女王國以北」に掛かるが
A番目の「其」は、「自女王國……略載」全てに掛かるんだよ


自女王國以北に其戸数道里可得略載があり、そのさらに北に其餘傍國があるんだよ だから「其餘」と書いたの。
「其餘」がなんであるかわからないと、絶対に理解出来ない文章。

對馬の所に書かれた「方可四百餘里」の「餘」と、同じ意味で
水行〇〇餘里の餘とは分けて考えなければならない意味
330日本@名無史さん:2009/05/13(水) 11:59:16
もう一つ
「傍國」と書かずに「旁國」としたあたりにも意味がある
現代人よりも、数十倍の漢字を扱う人達だから出来る「技」
漢字そのものが
意味もさることながら、形までも利用している典型的なモノだろうね。

だから「其餘旁國」
331日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:24:16
>>328

研修生ではないよ
生口を送った記録はあるが、戻った記録はないので
研修生ではない。
332日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:36:24
では「方可四百餘里」、「其餘旁國」の「餘」とは何か?
結論から述べると、
当時魏王朝とは公式国交のなく、倭人ではない倭種の営む
列島の中心的な存在「大倭」

對馬は、方可四百里の倭人の治める地と、
正式国交が無いので数値化する必要のない
倭人の治める對馬の範囲からあぶれた餘地(大倭の治める地)を合わせた
「方可四百“餘”里」が規模。
333301:2009/05/13(水) 15:42:52
>>332
「方可四百餘里」は、方四百里よりは少し大きいというだけのこと。変なこじつけ
解釈はしないことだ。「其餘旁國」は、そのほかの旁國というだけ。
334日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:50:55
対馬は、日本から大陸に渡る為には
絶対に欠かせない島
だからこの島には、二つの治世があった。
一つは
正式国交のあった倭人の治める邪馬壹國
もう一つが
正式国交のない、倭種の治める大倭
335日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:54:28
>>333
小学生の日本の歴史じゃないんだよ
こじつけとしか考えられない脳味噌は
何とかならんのかね

しかも
こじつけとしか考えられなければ
いちいちのレス無用。
336日本@名無史さん:2009/05/13(水) 15:57:03
>>326
伊都国を怡土に比定したのは、新井白石なのだが、彼は地名の類似性だけで
倭人伝の書かれている国を比定しているように思える。

『古史通或問』では、邪馬台国を大和に比定している。投馬国は広島県か
あるいは兵庫県あたりとしている。連続説ということかな。
一方で、狗奴国は熊本県球磨郡。ちょっと遠い。

『外国之事調書』では、邪馬台国は山門郡になり、投馬国は熊本県玉名に
なった。これは放射説を想定しなければならないだろう。

このように、新井白石の比定した国が絶対というわけではない。
しかし、伊都国が怡土というのはいつしか定説化した。
なぜかは明白だろう。

しかし、伊都国=怡土(前原付近)とするならば、どうして一支国から末盧国を
経由しなくてはならなかったのか。どうして末盧国から陸行なのか。
なぜ方向を間違えたのか。これらを説明する必要がある。

一方で、伊都国を佐賀平野に比定すれば、文字通り東南陸行で全く問題ない、
というか、これが普通の解釈だと思う。
337日本@名無史さん:2009/05/13(水) 17:05:38
生口について、何かで読んだ記憶があるんだけど、すぐには探し出せないや
ソースなくてすまん。

奴隷とか捕虜みたいなものではなく、魏の宮殿での奉公とか、特別な技術を持った者、兵役に就くための者などだったようだよ

でないと、魏に向かう途中で逃亡したり、逆襲したりと、とにかく足手まといでしかなくなる。
338日本@名無史さん:2009/05/13(水) 17:08:50
>>337
もちろんそうだよ。

反抗的な奴隷を贈られても、相手も困るだけだからな。

奴隷は「奴婢」とかと書くだろ。
339日本@名無史さん:2009/05/13(水) 18:17:56
>>326=301

いやあ、畿内説と言うか現在畿内説九州説に関わらず
定説となっている物をさっさと即死にしてもらいたいもんだwww


倭人伝の方角通りに伊都国を佐賀に持ってきたはいいが
「二万戸」の奴国をそのままでは求める事ができず

福岡市から筑後川上流域にまたがるクニ
…なんてものを作り出した。
もう 「言った者勝ち」の世界 そのまんまだなw

無論クニの形なんてこれと言って決まった物があるわけじゃないだろうが
広範な地域を考える場合でも例えば一つの水系であるとか
もしくは一つのクニであったと考えるに足る遺物遺跡等があるとか・・・

確か主都は佐賀にあって王墓は福岡にあったなんて言っていたよな?
もう出たとこ勝負のツギハギも良いところw

まあ後代、大和と河内で宮と王墓が離され作られたって話はあるが
3世紀以前の九州においてそんなものを想定する話なんか聞いたことも無い。

一体その南北に伸びる奴国の存在を示す材料は何なんだ?

「倭人伝の記事から想定できる」の一点張りかな?
・・・だとしたら馬鹿馬鹿しい

「聖書に書いてあるから世界は紀元前数千年に創造されたものだ!」
とかいっている連中と同じレベルだなw下らない。

340日本@名無史さん:2009/05/13(水) 18:48:26
>>339
倭人伝の見方について聖書を例えにしてみたようだが、
倭人伝の例えに
聖書を持ち出す根拠はなに?
341日本@名無史さん:2009/05/13(水) 19:14:03
原理主義者だから。
342日本@名無史さん:2009/05/13(水) 20:06:26
倭人伝と聖書の違いを理解できないから。
343日本@名無史さん:2009/05/13(水) 20:16:52
古文書の一字一句を真実とみなしてるから。
344日本@名無史さん:2009/05/13(水) 20:41:02
>>343
古文書の一字一句を、虱潰しに検証し直したのかい?大概は
そうした作業もせずに、そう言われている事を鵜呑みに使用してるにすぎない。
345日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:19:29
奴婢と生口が同じなのか?ってのもあるし
生口が労働力だったのか食料だったのか?ってのも定まってないんだよね
卑弥呼の献上した生口は女が多いから食料用だったのかも知れない
当時の女は太ってて食料用としては肉が軟らかそうで男より適していたと思われるからね
まぁ、そんなのは実際わからないし今後もわからんだろう

それよりも解明して欲しいのは
なぜ狗奴国と紛争していたにもかかわらず男王擁立で内紛が起き
外の世界をも知らない巫女である十三歳の少女が即位して内紛が収まるのだろうか?
外敵と紛争していれば古今東西の世の中は統治能力の優れた強力なリーダーを選ぶはず
>>311でも書いたけど
狗奴国とは紛争状態だったけれども、そんなに脅威では無かったと思う
魏を呼び込むための方便であったように尚更に思うわけだ
346日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:23:11

トヨタン・・・・・・・・・・
347日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:33:15
>>339
ノアの方舟を発見したというロン(ロナルド)・ワイアットとか?トンデモだが、ああいうのは
好きだな。
348日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:34:25
仮に自分が当時の魏の人間だとしたら
邪馬台国のヘルプ要請はまたとないチャンスなんだよな
邪馬台国側に戦術を与えるなりして軍事的顧問として結びつきを深めるのもいいし、調停役を買って出て恩を売るのもいい
得はあっても損のない話
事実、魏はホイホイして倭に乗り込んでくるわけだ
だけど、張政は台与を「ふざけんな!」って感じで叱りつけるだけに終わってるんだよな
これは卑弥呼は誰だったとか?何処に邪馬台国はあったのかよりも摩訶不思議な事件なんだよ
349日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:47:38
更に面白いのは張政達はそそくさと帰ってしまう
で、邪馬台国が貢物を用意する時間も与えずにだ
普通なら帰国に合わせて一緒に送り届ける筈
経費もバカにならないわけで、掖邪狗なんて張政送ってすぐさま都に引き返し、貢ぎ物を用意してまた届けてる

この顛末を見ても魏側が尋常な帰り方をしていないと思った方がいい
350日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:53:28
読み筋がちがってるんだろ。
351日本@名無史さん:2009/05/13(水) 21:59:00
あぁ、間違ってたなw
352日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:00:41
>>345

>なぜ狗奴国と紛争していたにもかかわらず


紛争なんてしていないし。

いい加減に、マンガ邪馬台国は止めようよ。
353日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:03:44
あぁ、いいよ
漫画でもなんでもいいから言っとくれ
今日はどんな罵倒でも甘んじて受ける
354日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:10:15
生口というのは、やっぱり労働力ではなくて、生娘、つまり処女なのではないでしょうか?
奴隷といっても人格があるわけでうまく扱えないし、その点、生娘なら部下への支給品に
もなるし、側室にするにも下女にするにも都合がよかったのではないだろうか?
355日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:16:26
>>354

童貞と処女と言う意味かい?
生口は男と女って書いてあるから
356日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:22:29
徐福がつれてきたのと同じように、
主人の言うことを聞く童男童女ってことでしょうね?
357日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:23:20
つまり、人攫い、山椒大夫のようなものだったといえます。
358日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:40:06
そうかなあ。ただの処女なら、仮にも後宮3000人といわれる中国皇帝、いくらでも手に入
ったんでないかい。それとも倭人が珍しくエキゾチックだったか。・・・しかしそう考えるより、
卑弥呼の朝貢では、男四人・女六人と少人数だったんで、特殊技術者(潜水とか)と考え
たほうがいいんでないかな。
359日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:48:13
>>356
それなら普通に「童男女」と書くよね
360日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:53:23
毎日妄想に耽って楽しいか?
はたからみてるとキモい
361日本@名無史さん:2009/05/13(水) 23:02:42
つい最近まで、北朝鮮では生口を無理矢理拉致して行ったようだけど
古代では、こちらから差し出したようだね


>>358
海のない洛陽に、潜水技術士は必要ないだろう。
362358:2009/05/13(水) 23:16:53
前レスで潜水と書いたのは、そう根拠のあることではないんで妄想ととられてもいいんだが、
やはり倭人伝には海のイメージがある。

>好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 とか
>倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。とか

台与の朝貢品である、
>白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

の「白珠」が天然真珠であるとするなら、五千はかなりの数。後代の万葉集には真珠を題材
とした歌も多く、当時の代表的産地は愛媛県宇和海や三重県英虞湾でアコヤガイから採取
されたもの。
363日本@名無史さん:2009/05/13(水) 23:17:43
>>361
拉致されても経済協力優先を主張する変態議員が福岡選出だっけ
歴史の皮肉だな
っていうか、これこそ漫画だw
364358:2009/05/13(水) 23:31:19
俺は狗奴国=伊勢湾一帯の考えてるんで、対狗奴国戦争に勝利した台与の朝貢品として
英虞湾の真珠はぴったりなんだがな。
365日本@名無史さん:2009/05/14(木) 04:53:25

トヨタン・・・・・・・・・・
366日本@名無史さん:2009/05/15(金) 06:24:34
>>296
弥生後期の広形銅矛の分布が南九州に及んでいないことが、伊都国=佐賀平野
説あるいは邪馬台国日向説との関係で問題だということのようだが、どうゆう
意味かな。広形銅矛の分布などどうでも良いことだと思うが?
367日本@名無史さん:2009/05/15(金) 07:49:04
倭人伝に記されている事を全て真実だなどと言うことを前提にして邪馬台国を探しても見つからないよ。
卑弥呼の宮殿に奴婢1000人と言うが、弥生時代の最大の遺跡、吉野ヶ里でさえ住人は最大1000人程度だ。
距離が5倍程度に書かれている事を考えれば、奴婢1000人も、人口2万人も1/5で考えた方がいいだろう。
368301:2009/05/15(金) 09:46:19
>>367
吉野ヶ里は不彌国だろうが、現在出ている遺跡だけですべてではない。当然、その周辺
も入るわけだ。距離が5倍というのも、かってな決めつけ。まずは、倭人伝を信じて進
んでみるべきだよ。
369日本@名無史さん:2009/05/15(金) 09:52:36
>>302
>前原市や福岡市には弥生の遺跡が豊富で前期古墳もあるので
>ここに2つのクニがあったのはまず間違いないです。
遺跡からでは二つとは言えないな。一つの国と見ることも可能だ。
370日本@名無史さん:2009/05/15(金) 11:11:48
>>369
クニが二つか一つかはまあ後で考えることにして、でも、
とくに前原市については、いま知られてる九州全体の考古事実からすれば
後漢〜三国期において、九州最強の権力が所在したところだろうと。

鉄器青銅器の集中度と、井原と平原という二つの墓の卓越度がそれを示す。
背振山地以南では、こんな豪華な墓は全然見つかってない。

古今東西、力のある者がいた場所には、財の多大な集中が見られる筈。
邪馬台国南九州説なんて、もう論外だろう。
宮崎鹿児島など、鉄器も青銅器も、3世紀以前はお寒いかぎり。
371日本@名無史さん:2009/05/15(金) 14:41:26
>>370
井原や三雲は邪馬台国時代よりも数百年前の遺跡だ。平原は問題があるが、それも
かなり前だろう。邪馬台国時代は倭国の乱のあとだ。井原、平原などの勢力は倭国
の乱で消滅した勢力かも知れない。そんな遺跡で伊都国があったと考えるのは、とう
てい無理だな。

>邪馬台国南九州説なんて、もう論外だろう。
倭人伝は邪馬台国に銅剣や銅鏡があったと書いているのかい?
そんなものがあるところは邪馬台国じゃないんだよ。
372日本@名無史さん:2009/05/15(金) 15:15:30
>>371
あなたは銅鏡が出ない所が邪馬台国だとのお考えですが、それは完全に間違っています。
銅鏡が出る所こそ邪馬台国の候補地となり得るのです。
373九州王朝大好き:2009/05/15(金) 16:07:44
>>317
>記紀を読めば、騙し討ちとか罠とか当たり前に出てくるわけで、魏の使者に対してそのまま素で倭の本拠地に迎え入れたなんて思えないわな

非常に常識的で良い発想です。僕も同意。

そこで邪馬壹國の卑彌呼女王はどうしたか?

郡使が邪馬壹國の女王に訪問する前に、
女王への訪問許可が出るまでの間、
郡使を常に駐らせたのが伊都國であった。

その時間に女王側は不測の事態を想定して準備もできる。

女王の訪問許可が出ると、
郡使は警備の兵士も無しで丸腰で邪馬壹國に向かったのである。

郡使が宗教者女王に拝謁するのは夜であるから、
(顔も判別できない薄暗さ、しかも簾越し←古式の新嘗祭や大嘗祭を想定)
伊都國から邪馬壹國までの行程は1日以内で近くない距離であったと言える。

つまり、伊都國(佐賀市大和)と邪馬壹國の城郭間距離は20〜30kmであったと推定される。


こんな話、洋の東西を問わずありましたね。
374日本@名無史さん:2009/05/15(金) 16:32:53
と邪推と妄想を重ねて妙な結論に至るわけだ。
375日本@名無史さん:2009/05/15(金) 16:55:26
>>372
銅鏡がたくさんあったら、魏から銅鏡なんぞもらわないだろう。
何で、銅鏡の出るところが候補地になるの?
376日本@名無史さん:2009/05/15(金) 17:18:51
>>375
そういう意味ではなく、魏から贈られた鏡100枚は女王卑弥呼が都する邪馬台国へ届いている、
したがって邪馬台国の候補となるべき地にはその銅鏡がある、という意味だ。
377日本@名無史さん:2009/05/15(金) 17:35:04
>>371
>井原や三雲は邪馬台国時代よりも数百年前の遺跡だ。

三雲はそれでいいが、井原鑓溝遺跡の後漢鏡をたくさん出した墓は、1世紀後半〜2世紀初頭頃のものである。
邪馬台国時代よりも「数百年前」ではない。200年未満である。
378日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:37:01
>>373 九州王朝大好き
>こんな話、洋の東西を問わずありましたね。

はて?

皇帝が地方の王を呼びつけた場合ならともかく
冊封を受けた邪馬台国がそんな態度に出る事ができたのか?wwww

少なくとも魏使が詔書を読み上げる時には、邪馬台国側の人間にとって魏使は皇帝そのものであり
平身低頭、息を殺して面を上げることもかなわなかっただろう。

…と言うのが普通にイメージされるシーンだと思うのだが?w

一度その「洋の東西を問わず」あったと言う事例を挙げてもらえないかな?
379日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:43:14
>>378
その質問とは無関係だが、君は何かを勘違いしてないか?
380日本@名無史さん:2009/05/15(金) 19:12:34
>>366
>広形銅矛の分布などどうでも良いことだと思うが?

これ日本古代史に関心持つ全員にアンケート調査してみたいところだな。
おれはどうでも良いとは思わないに一票。w
381日本@名無史さん:2009/05/15(金) 19:16:39
結局、南九州説・日向説は元々方向が合わない畿内説、距離に難のある北部九州説に対し
倭人伝の行程記事に照らし合わせれば、連続式に読もうが放射式に読もうがアドバンテージがあるのは間違いないだろうw

が、考古学的資料となると、もう絶望的に相性が悪いwww
ここまでのレスを読んでも分かると思うが…

更に理解しかねるのは
この板にも南九州説も何人かいるが、そのなかでかなり熱心に書き込んでいる奴は
東遷説にも色気を出して、そこでは
「銅鏡勢力」だの「銅鐸国」だのと言っているんだから

もう何が言いたいのかワケワカランwwwwwww

>>379
はて?
俺が勘違いしているとすれば
自覚していないと言うことだから
それが何か書かなければ話は進まんぞ?w

言いたい事があったらはっきり言えボケ
382日本@名無史さん:2009/05/15(金) 20:04:15
>>381
まだ1時間も経ってないから気付かないんじゃないか?
あと数スレくらいROMっておけ
383日本@名無史さん:2009/05/15(金) 20:29:45
>>382
さあて、俺が勘違いしているんじゃなくて
お前が勘違いしている可能性もあるわけだがw

その場合お前はそのネタを開陳しないと
死ぬまで勘違いしたままかもしれんぞ?

怖がってないで手札を出してみたらどうだ?www

もうこの板で九州説論者による
この手の意味の無い謎賭けはうんざりだなw
384日本@名無史さん:2009/05/15(金) 20:43:34
>広形銅矛の分布などどうでも良いことだと思うが?

…これについては
「どうでも良い、関係ない」と言うことは可能だろう。

その場合、日向邪馬台国を広形銅矛の分布圏とは関係の無い
あくまで「新興勢力」とみなせばだ…
(まあここの日向説はそのような立場ではないがw)

ただ厳しいのは
じゃあ、南九州に古墳時代に入って鉄だの銅鏡だのがヤマトのように急増するといった現象も見られないこと。
つまり 邪馬台国=新興勢力 と言う図式も描きにくいと言うのが現状。

使える材料としては所謂「纏向型前方後円墳」と言うことになるだろうが
そもそも、それがヤマトの物に対しては勿論
北部九州のそれにも先行すると言う確証は無い。

無論、前方後円墳と言う新しい埋葬文化、祭祀形態を日向が受け入れただけであって
その新旧は邪馬台国の位置論に関係しない
(それどころか日向邪馬台国が首長連合の一員であっても構わない)
と言う主張はできるが

・・・となるとクニが興ったのは説明できるとしても
それが邪馬台国であったと言うのはやはり苦しいw
385日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:07:14
>>383
お前は何か見えないものと戦ってるんだよwww
386日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:32:51
>>376
そうか、そうか。邪馬台国は古い鏡はでない所。このことはいいんだな。北九州
は問題外ということだ。
では、卑弥呼は魏から貰った百枚をどうしたんだ? 自分でかかえていたわけでは
なく服属した連中にくばったんだろ。魏の皇帝もそう言っていたよな。
そしたら、邪馬台国に鏡が残ってなくても不思議はないじゃないか?
387日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:42:20
>>384
>南九州に古墳時代に入って鉄だの銅鏡だのがヤマトのように急増するといった現象も見られない。
>つまり 邪馬台国=新興勢力 と言う図式も描きにくいと言うのが現状。
銅鏡なんてどうでもいいんだよ。しょせん、ブリキの勲章だ。
そんなことより、南九州に3世紀後半、九州最大の王が出現した、石野の本にはそう書いてあるね。
それでも、南九州に邪馬台国があったという図式が描きにくいのかね。
北九州はたそがれて、南九州には九州最大の王。九州説をとる以上、南九州以外候補地はないと言
っていいかと思うが。
388日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:45:07
3世紀前半のこのころは
畿内+吉備+出雲+東海の連合体が確立しているのは既成事実
そのカウンターパワーとしての九州王朝を仮定したところで
魏の使者は西域は無視出来ないだろ
似通った地名が畿内にも多くあるから、九州は邪馬台国のカウンターパワーではなく、連合体の仲間であるとしたほうが妥当
神武東征が歴史的事実であるなら尚更
俺が思うに九州ブロックと西域ブロックに分かれて租税徴収を行っていたと思うな
魏の使者はいずれも北九州で足止めされたに違いない
誰にも会わないという女王に会いに行くわけ無い
当時の旅行は命がけなのである
名刺を置いて帰るわけにはいかないのである
卑弥呼を女王としたのは意志最終決定は巫女が行うからだ
古神道の集まりであった神風連の乱でも最終的に宇気比を行って乱を起こした
389日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:57:38
えーっと、それに巫女の件ですが
はっきり言ってしまえば統治能力はゼロです
もちろん外交能力もゼロです
当たり前です
人との交わりを避けていた人間に外交の駆け引きが出来るわけがありません
当時は夜は神様達の時間なので巫女もそれに合わせて活動します
そういう生活を物心ついたときからしてます
頭とか顔を変形させてますので異様な風采をしております
人々の前には出られません

卑弥呼=巫女という定説をやめるか
卑弥呼は即位しておらず、魏が勝手に王だと思い込んだか
どちらかでしょう
390日本@名無史さん:2009/05/15(金) 21:59:29
>>387
はあ?
石野の本に書いてあったからお前にとってそれが真実なのか?www
悪いが「3世紀後半南九州に最大の王が出現した」なんてのが定説になっているなんて寡聞にして知らないwww

石野の挙げているその根拠は何なんだ?はっきり書いてみろよ。

話はそれるが…

邪馬台国=高天原 説 で白鳥を持ち出しているのもお前だろう?
ただ単にビッグネームを挙げても意味が無いぞ?

そのくせ一人の学者のみならず(畿内説、九州説に関わらず)多くの学者が定説として認めているものに
異を唱えようってんだから、もうご都合主義もいいところwwwwwwwwwww
391日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:04:48
なぜ九州ブロックと西日本ブロックにわけるかと言えば
海上では安全性の問題があるし、陸上だとしても経費と時間がかかる
合理的な方法として中央集権の二元化だったと思うな
392日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:15:44
>>390
石野は畿内説だからな。畿内に有利な証拠は過大評価しているおそれが高いが
九州の証拠は冷静にみているだろう。私の評価とも一致するから、ちょっと借
用したまでだ。知らんのならば読んでみたらいい。「邪馬台国と古墳」だ。
393日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:17:50
ぶっちゃけ、はっきり書けばだ…

南九州に前方後円墳が築かれるような時期になれば
北部九州にも畿内瀬戸内の首長連合の勢力が伸びていたと考えるのが妥当だろうw
(まあここら辺は古墳の年代が確定しないかぎり結論は出ないが)

仮に3世紀後半南九州に九州最大の勢力が誕生していたとしても
すでに北部九州に基盤を持った首長連合が「親魏倭王」の座を南九州の女王に譲る必要はおよそ考えられないwww

それだったら実際に外交交渉に当たる北部九州の勢力に
その地位を預けると言うシナリオがよほど説得力があるwwwwww
394日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:21:48
>>390
>>387ではないが、
天照大神=卑弥呼+台与についてはずっと前から書いている。
倭人伝と記紀の類似性ということで。再度書くと。

一、共に、王であること。女性であること。独身であること。

二、卑弥呼には狗奴国との争いがあり、その頃死ぬ。
  天照大神には、素戔鳴尊との争いがあり、それが原因で天岩戸に隠れる。

三、卑弥呼が死ぬと、千人余が死ぬ争いが起きる。
  天照大神が岩戸に隠れると、高天原が真っ暗になり悪い神が騒ぎ出す。

四、台与が王になることにより、争いはついに定まる。
  天照大神が岩戸から出ると、高天原はもとのように明るくなる。

五、台与が王になると、また男王が立ち、中国の爵命を共に受ける。
  天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、共に高天原の
  主宰者として君臨する。

このように考えると、記紀の流れに沿った一つの物語が見えてくるのだが。

なお、伊都国を佐賀平野に比定するのは、何も日向説だけではない。
395日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:26:25
>>393
wwwは化粧板に書いてるのか??!!??!!
396日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:29:02
>>393
記紀の流れで歴史を考えると、日向には天孫が降臨することになる。
つまり、高天原の流れを汲む正統の後継者?が日向に行くことになる。
これの後継者である神武天皇が大和に東征し、大和朝廷になることになる。
397日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:30:31
>>394
だったら
何故、高天原に馬が出てくるのか説明しろ。

天照や素戔鳴を卑弥呼や狗奴国にあてるのは良いが
じゃあ『 三貴神 』として誕生している月讀はどうする?

類似しているところを恣意的にチョイスしても
それだけじゃあ話が進まないって事だ。

一体神話がどの時代にどういう史実を下敷きにして
どういう変遷を辿って記紀神話に見えるものになったのか…

それをきちんと説明せず
「神話には史実が含まれる可能性がある」
だけ繰り返されてもらちがあかないwww
398日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:34:03
神武東征は前660年だろう? 記事は援用するが年代は無視するでは記紀を用いる意味が
ない。
399日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:37:33
>>397
朝鮮人の学者や左翼系の学者に言わせると
高天が原は半島だということだ
天皇はもともと扶余系で特に弁韓は馬に乗らないが馬はいたそうだ
言葉も日本語に似ていて入れ墨もしていた
幼少の頃から頭に板を強く押し当て扁平にしていたそうな
これは古代巫女の姿に似ている
400日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:41:20
>>397
古代中国の文献と日本の記紀が完璧に一致することはありえない。
もっとあとの倭の五王にしても、名前さえ一致しないし、誰に比定するかに
ついても諸説ある。

そういうことならば、類似点の最も多いものを挙げるのが普通。
誰が最も類似しているかという問題だろう。
401太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/15(金) 22:43:41
>>398
倍暦計算によって、神武東征B.C.7年。この年九州から出発した。
402398:2009/05/15(金) 22:44:20
皇紀2600有余年は単なる讖緯説ではないぞ。他スレに書いたものだが・・・

橿原遺跡・・・橿原神宮外苑、縄文時代晩期中心の西日本を代表する大集落跡として知ら
れる。皇紀2600年記念事業として、外苑の整備工事に先立ち、昭和13年から約2年半、
面積約10万m2の当時としては類例のない大規模発掘調査。縄文時代後期後半の宮滝式
土器から晩期後半の凸帯文土器までほぼ継続した形で出土。中には稲の種籾が入ったもの
も。

注目点としては、、イチイガシ(檪樫)の大樹根が多数出土したこと。遺物には東北地方中心
に分布する大洞式系土器も含まれ、後に「橿原式土器」と呼ばれるものは、この東北系土器
の強い影響下に成立したと考えられること。
403日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:44:41
>>398
いまどき、そういう年代観を持っている人がいるのかねえ。
404398:2009/05/15(金) 22:48:23
続き
さらに、戦後、鹿沼景揚氏が、これらの遺物に米ミシガン大学においてC14による年代測定を
実施したところ、前600年±200年の結果が出たとされている。また、この遺跡だけでなく神武
帝の事績が伝承される地には縄文晩期の遺跡が見られることが多い。

ただ、戦前の調査に関しては国威発揚などの観点から割り引いて考える必要があるだろうし、
発掘や年代測定の技術水準の問題もある。

しかし、俺的には、神武伝説は縄文晩期の物語であり、なんらかの史実が反映されていると
考えざるを得ないデータと見る。さらに、そこには九州からの東遷どころか、東北地方との強い
結びつきが感じられる。
405日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:51:26
>>393
>南九州に前方後円墳が築かれるような時期になれば、北部九州にも畿内瀬戸内
>の首長連合の勢力が伸びていたと考えるのが妥当だろうw
おいおい、首長連合なんてどこから出てくるんだよ? 倭国は乱れていたとある
だろう。環濠もあれば山城もある。そして、銅鐸勢力がやられたあとに乗り込んで
きたのは鏡の勢力だ。連合の仲間に裏切られたってのかな?
406日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:54:47
>>405
纏向知らないの?
バカなの?死ぬの?
407日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:57:11
朝鮮半島から渡来し、大和朝廷を起こした蘇我氏は、
半島の歴史より古い九州王朝の系統を仮冒することで、
天皇の系統の正当性を示そうとしたのです。
神武天皇は2世紀というのが通説ですが、九州王朝は
紀元前から続く正統王朝だったのです。
408日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:58:47
>>404
そういう年代観を認めると、歴代天皇のありえない寿命や在位期間も
認めなくてはならなくなる。たとえば崇神天皇の168才なんてのは無理。

その遺跡の存在については良くわからないが、神武東征との関連付けには
無理があると思う。
409太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/15(金) 23:01:13
>>400
一致しない主因は大陸と日本の暦法に当時重大なる根源的相違が
存在したため、大陸と日本の年代に百年以上の段差ができてる時代
が出て、これが不一致につながっている。→倍暦のためである。
梁書の記事から、倍暦計算にて

 永元元年=499年=顯宗即位元年

の結果を得る。すると

 502年=仁賢即位元年

であり、502年は梁書で武王が征東将軍号の年だから、仁賢が武王と
せねばならなくなる。だから安康、雄略、清寧、顯宗、仁賢が五王
でなければならない。
ところが倍暦計算で

 安康即位=467年

となるから、この年以前に讃王〜済王の記事の年代が宋書等の記事
(済王死=462年など)があるから、五王は安康〜仁賢の天皇では
ないこととなる。ということは五王は畿内の天皇ではない。従って
彼ら五王は九州王権の王なのである。
410日本@名無史さん:2009/05/15(金) 23:07:38
>>409
九州王権が何かを説明出来ない示せない人がそんなこと現実社会で言えば
精神病棟に叩き込まれるぞ
いや、既に経験済みだったら謝る
411398:2009/05/15(金) 23:08:18
>>408
俺は別に記紀の年代すべてを認めるなどとはいってない。ほとんどはトンデモない話。ただ
縄文晩期から 橿原=樫の原であるという伝承が現代まで残り、神武伝説も同時期の史実
の反映があるだろうと考えてる。

遺跡については橿原市教育委員会HPを参照。
412太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/15(金) 23:11:20
>>410
オマエ、ガリレオが基教関係側からの圧力で軟禁されたようなアジ
な真似をやる(云う)じゃないか。
413日本@名無史さん:2009/05/15(金) 23:18:31
>>394
もうこの手のお話に付き合うのもいい加減馬鹿馬鹿しいが・・・

「天照=持統 説」はこの板で一度ならず聞いたことがあるだろう?
(知らないのならネットで検索すれば幾らでも出てくるだろう)

天照=女帝持統、高皇産霊=藤原不比等に当てて
そこには出ていないニニギを持統の孫の軽皇子(文武天皇)に当てる。

すると天照が子のアメノオシホミミではなくて孫に当たるニニギを地上に遣わしたという
いわば隔世での王位継承劇が上手く説明できるw

しかも持統と不比等のコンビなら記紀の編纂にタッチできると言う状況www

容疑者にその動機があり尚且つ犯行可能な状況があるなら
そっちの方が断然蓋然性が高いって話だよw

所詮、類似性云々と言うお話にしても 天照=卑弥呼説 はいいところワン・オブ・ゼムに過ぎない。

で、天照=卑弥呼説の場合、一体いつ誰がそんな隠れたメッセージを忍び込ませるような作業をしたのかな?www

414太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/15(金) 23:24:41
>>410
倭の五王が当時の天皇などとは古代史の天動説である。ww

当時大陸は諸葛亮の言うとおり魏、呉、蜀の天下三分の計たる時代
であった。同様に当時の日本は畿内朝廷と九州王朝の天下二分の系
の時代であったのである。五王権が九州王朝と別系ならば、五王当時
は短期ながら大陸同様、天下三分の系たる時代が一時あったという
こととなる。
415398:2009/05/15(金) 23:31:57
ちなみにWikiでは、

>なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮
による橿原神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期〜晩期の大集落
跡と橿の巨木が立ち木のまま十六平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。
鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン
大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前
後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実
の反映があるとする説もある。

マキ向の30年前の神殿跡とされる建物発掘例もあり、古い調査報告を鵜呑みにできない
ことは学習済みだが、これらがすべてねつ造でもなかろう。
416日本@名無史さん:2009/05/15(金) 23:39:32
>>413
記紀の年代観では、卑弥呼の時代は神功皇后の時代に相当する。
日本書紀の編者も、そのような考え方に立っている。
つまり、天照大神と卑弥呼の類似性は、誰の作為でもない。
作為でないのに似ているというのが、すごいことだろうな。

持統天皇には、夫もいれば子もいる。
卑弥呼とも天照大神とも似ていない。

それに皇祖神を創作する意図があったとすれば、なぜ、女性にしなくては
ならなかったのかが説明できない。なぜ、持統天皇でなくてはならなかった
のかがわからない。
417日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:03:55
この板の神話大好きっ子の九州説・東遷説厨の言う内容が馬鹿馬鹿しいのは…

そもそも日神・月神がいて「蝕」を引き起こす神がいると言う三神セットの神話や
太陽が岩の中に隠れて世界が真っ暗になり困った神々や人々が
これをおびき出すと言う岩戸隠れの神話…

そして天孫降臨神話も>>399では半島の学者や左翼系の学者となっているが
それが扶余を含む北東アジア系の神話であるのも、もはや周知の事実w

記紀神話のルーツや海外の神話との類似が明らかになっている状況で
それが邪馬台国で起こった一連の史実を基に起こった、さもオリジナルと言うのはもうトンデモw

まあ「可能性はゼロじゃない」と言われればそれまでだがwww

現実的に可能性を考えるのなら元々あった神話に何らかの史実を” 仮託 ”したと言う話。
あくまで意識的に神話の中に史実を練り込むが如き作業をしなければならないだろう。


天照=卑弥呼 説の場合、それをいつ誰が何処でやったのか皆目わからないわけだがwwwwwww
418日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:15:50
基本は口承なんだから、特定のパターンに事象を何でもかんでもぶち込んでしまうのは
むしろ当たり前。
親が自分の小さな子供に思いつきのお話を話そうとすると、
子供が主人公の浦島太郎やら、桃太郎もどきになってしまうようなもん。

だいたい、パターンの強固な維持を大前提にしないと、
>扶余を含む北東アジア系の神話
とか何とかいう根拠も消失してしまうだろ。
419日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:24:49
>>416
まあこの板では九州説の連中に散々意味の無い謎賭け
…と言うか体の良いトンズラされているんで俺もたまには真似をさせてもらおうw

持統・不比等と言うコンビでその動機が分からないのかな?w

言っておくが個人的には天照=持統説を支持するものではないが
説としては良くできている。
いや、あまりにも良くできすぎている。
思わず退いてしまうほどにwwwww

それでも卑弥呼説と持統説どちらかを選べと言われれば後者をとる。

ちなみに、この持統・不比による陰謀論の背景は
後の道鏡事件にまで繋がる事になるのであった・・・
まあこれもヒントの一つって事でwwwwwww
420398:2009/05/16(土) 00:28:30
東遷説といっても、神武帝の存在は認めるが、127歳の年齢は信じられない。東遷は認める
が前660年の年代は認めない・・・と俺にはご都合主義にしか見えない。そのくせ、即位の地
とされる橿原にどんな遺跡があるかも調べない。2chはそんなものといってしまってはそれ
までなんだが。

ちなみに藤原京跡の下層からは縄文晩期〜弥生初期の遺物が出土することがあり、ほぼ
ぼ全域にわたって存在するとの推定もある。また、上記「橿原式土器」は瀬戸内海東部から
関東地方まで幅広い地域での出土例がある。が、何よりの意義は、東北地方との強い結び
つきが証明されること。

まあ、三内丸山などの事例からから、縄文人の交易の様子も明らかになりつつあるが、
史実は東遷氏らの脳内とは大きく違っている。
421日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:37:38
>>386
>では、卑弥呼は魏から貰った百枚をどうしたんだ? 自分でかかえていたわけでは
>なく服属した連中にくばったんだろ。魏の皇帝もそう言っていたよな。
>そしたら、邪馬台国に鏡が残ってなくても不思議はないじゃないか?


そんな珍説珍解釈は、初めて聞いた。ww
倭人伝のその部分は、読み下すと、

>今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て
>汝が献ずる所の貢直に答う。
>また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口
>・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。
>還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。
>故に鄭重に汝に好物を賜うなり

となっている。

魏の皇帝は卑弥呼に対し、品々を受け取ったことを「悉可以示汝國中人」と、つまり
「示せ」と詔しているのであり、決して「手元に残さずに全部くばれ」と言っているのではない。
422398:2009/05/16(土) 00:48:53
>>421
俺はその引用の >汝に好物を賜うなり の部分に興味を持ってる。漢文の解釈は苦手なん
だが、たんに良い物という意味なのか?俺は倭朝貢使は、現地でかなりの聞き取り調査を
された可能性があると考えてる。・・・そこで倭人は鏡がほしいと言った??
公孫氏からもらっていた画文のような鏡が・・・?
423398:2009/05/16(土) 01:23:37
続き
当時魏では用いられなくなっている、実用品とはいえない大きな鏡が???
・・・かなりdeepなとこに来ちゃったんで、これはいつかコテハンに戻ってやりたい。

>縄文時代の奈良盆地には大和湖と大湿地帯があり、標高60m以上まで縄文遺跡の存在
があり、それ以下は湖面・湿地帯であったと考えられる。その後、大和湖を形成していた水は、
大和川となって大阪湾に流れ込み、奈良時代には完全に干上がり現在の盆地底となったと
される。神武天皇の諸々の伝承地も縄文遺跡の限界である標高60m線にぴたりと沿って存在
する。これは神武伝説の舞台が縄文晩期であることを証明するものである。

・・・これはあるホームページの説だが、俺も地図片手に検証してみた。結果は・・・うーん
微妙。
424日本@名無史さん:2009/05/16(土) 07:49:40
>>406
頭の足りなさを示す決まり文句だな。纏向は首長連合なんてものの証拠
には到底ならんよ。
425日本@名無史さん:2009/05/16(土) 07:59:00
>>421
>そんな珍説珍解釈は、初めて聞いた。ww
単にあなたが不勉強なだけだ。この理屈は畿内説論者が何度も使っているよ。

>魏の皇帝は卑弥呼に対し、品々を受け取ったことを「悉可以示汝國中人」と、つまり
>「示せ」と詔しているのであり、決して「手元に残さずに全部くばれ」と言っているのではない。
単に見せるだけなら1枚あればいいじゃないか? 百枚もくれたのは「配れ」って趣旨にきまって
るだろうが。当然、そう解釈されてんだよ。何でも因縁つければいいってもんじゃないぞ。
426日本@名無史さん:2009/05/16(土) 08:32:58
卑弥呼が魏の帝王に貢物をしたというのは本当だろうか?
実は、魏の帝王が世界の支配者卑弥呼さまに貢物をした
というのが真相ではないでしょうか?
度重なる天変地異のため、国力が衰えてしまったとはいえ、
九州王朝は縄文時代から続く世界最古の王朝。その女王
たる卑弥呼さまが認めた王だけ中原の支配者になれたの
です。
427日本@名無史さん:2009/05/16(土) 08:43:32
半島に交易に来てた倭人が公孫氏を倒した祝いに花を添えるために都まで連れて行かれたんだろ。
428日本@名無史さん:2009/05/16(土) 08:47:33
半島南部に人が達したのはいつごろのことなんだろう
429日本@名無史さん:2009/05/16(土) 08:49:59
九州には邪馬台国があって畿内には大和朝廷があったんじゃないの?
別々に
430日本@名無史さん:2009/05/16(土) 09:07:10
>>425
五尺刀はどうしたらいいんだ?
2本しかくれなかったぞ
431太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 10:29:01
>>420
神武の頃は倍暦の行使をしていた時期があったので、実際は127歳とか
ではなく、現代人とあまり変わらない通常の寿命だよ。
432日本@名無史さん:2009/05/16(土) 11:00:30
現代だって酒もタバコもやるのに100才超えてる人だっているんだから、
昔の純天然食なら120才くらい生きられる人がいても不思議じゃない
ただ現代が圧倒的に医学が進んでるってだけ。
433日本@名無史さん:2009/05/16(土) 14:51:47
古代は、子供の早死にで「平均寿命」が下がってただけだからな。
434日本@名無史さん:2009/05/16(土) 14:52:46
>>432
古代は幼児死亡率が非常に高かったと考えられるし、成人しても、
その平均寿命は30代だったとされる。
栄養状態や衛生状態が悪かったんだろう。

現代は、特に、病気が少なくなっている。伝染病はほとんど根絶しているし。
幼児のときに予防接種が行われているし。
435太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 14:58:32
古代は現代より空気が綺麗であったろう? いまは廃氣ガス、工場の
煙もあろうし、こういう点では古代の方が体にはいい。
とにかく朝廷は全国から一般短命人民とは違いうまいものが集まって
朝貢しただろうから、結構長寿はありうる。古代エジプトの王も、
王しか飲めない酒だとか珍味うを食してだろうし、ラメシス2世は
92歳くらい、半島の長寿王も90余歳などからして、武内宿禰が日本一
の長寿者と仁徳認定していたことから、実際の寿命は百余歳で
あったろう。
436日本@名無史さん:2009/05/16(土) 15:06:09
それだけではない。
古代はオゾン層が厚く、現在より地上に降り注ぐ放射線の量が少なかったと
推測されます。そのため、古代人は遺伝子を傷つけられることが少なく、
現代人より長生きできたのだと思われます。
そしてオゾン層破壊の原因となったのが火山の爆発により吹き上げられた
火山灰と地球温暖化だったと推測できます。
437日本@名無史さん:2009/05/16(土) 15:32:12
>>419
>>394にちょっと付け加えると、天照大神と卑弥呼の共通点として、

どちらも巫女的な性格を持っている。
また、卑弥呼を日御子と考えれば、どちらも太陽神としての意味がある。

このように、倭人伝では卑弥呼、記紀では天照大神が、意図していないにも
かかわらず、非常に良く似ている。

仮に、持統天皇をモデルに天照大神を創造したとすれば、もっと似ているはず
なのにほとんど似ていない。
神武東征の話は、明治維新後に出来たという説があるらしい。
何でも、薩摩主導の明治維新を正当化するために作り話だとか。
天照大神=持統天皇説は、これと良く似たトンデモ説ということだろうな。
438日本@名無史さん:2009/05/16(土) 15:44:08
天照大神=卑弥呼=持統天皇・・・人間の区別がつかないのですか?
439日本@名無史さん:2009/05/16(土) 15:47:17
>>435
現実問題として、古代の墓から出てくる人骨は、30代と見られるものが多い。
いろんな統計資料を見ても、15歳以上生きた人でさえ、平均寿命は30才くらいと
される。

たとえば、
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html
440日本@名無史さん:2009/05/16(土) 16:10:04
殯(もがり)にしていったため、骨はほとんど残らなかったのです。
日本書紀を読めばわかると思います。
441日本@名無史さん:2009/05/16(土) 16:18:29
>>434
乳幼児死亡率を高くみれば、平均寿命はどんどん下がるよ。
しかし、長寿者もけっこういるんだよ。
442日本@名無史さん:2009/05/16(土) 16:42:08
>>437

似てないよ。

アマテラスは、スサノオに怒って岩戸に隠れたが、
卑弥呼にはスサノオに相当する人はいない。

スサノオは、出雲の人であり、
卑弥呼が戦ったのはクナ国。
443日本@名無史さん:2009/05/16(土) 16:44:53
巫女的性格で似てるというなら、モモソヒメの方が似てる。

アマテラス→スサノオ(出雲の神)に怒って岩戸に隠れる
モモソヒメ→大物主(出雲の神)の正体を見て死ぬ
444日本@名無史さん:2009/05/16(土) 17:17:40
>>442
素戔鳴尊は、出雲の人ではなく、高天原から出雲に追放された。

>>443
百襲姫は、王じゃないから。
ハツクニシラススメラミコトと称され、日本の古代史で燦然と輝く崇神天皇が
無視されていることになる。
445日本@名無史さん:2009/05/16(土) 17:34:32
みんないったい何を言ってるんだ?
全く話に統一性がないじゃないか?
読んでる人が迷惑するよ。
446398:2009/05/16(土) 17:38:58
俺的には卑弥呼は王ではあっただろうが、実権は持たなかったかもしれないと思う・・・いや
迷ってる。例えば、卑弥呼が自分の権力基盤を強固にするために「○○を殺せ」(自分の意志)
はできなくても、神のお告げとして「○○を殺せ」(神の意志)とすることはできたかもしれない。
これは実権を持つ・・・ということになるのか??

なお、○○は武埴安彦というわけではない。
447日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:21:50
300才以上行きた人もいるから倍歴とかじゃ説明できないんだよな
448日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:44:05
左翼のキチガイが皇統の水増しを主張してるが逆に間引いたんじゃないのかな?
持ち回りで王を決めていたが反乱一族を後から間引いたんじゃないのか
449日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:44:19
>素戔鳴尊は、出雲の人ではなく、高天原から出雲に追放された
その前に、スサノオは新羅の地と海原を治めろと言われている
それを断って高天原に登ってアマテラスと誓約をする
生まれた女子は宗像三神、男子は出雲を治めている
スサノオ一人では治められず、アマテラスの血を受けはじめて治められたという話
450398:2009/05/16(土) 18:46:08
まあ13歳といわれる台与の擁立時には、後見となって関わったものが実権を握っていた
可能性はあるのかもしれん。この頃は難升米はすでに死んでいた??

>壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。
この頃のバックアップメンバーは掖邪狗なんだろうかね?

トヨタン・・・。(先に書いとく)
451日本@名無史さん:2009/05/16(土) 18:51:58
>>437
>持統天皇をモデルに天照大神を創造したとすれば

はあ…いい加減相手が言っている事を学習しろよアホwww

あくまで元々あった太陽神に人物を 仮託(←意味が分からないのなら辞書で調べろ!) すれば良いだけの話。

太陽神が岩戸に隠れて世界が真っ暗になるという日蝕起源のお話は海外にもある。
何も邪馬台国の混乱と言うネタで一から創造する必要は無い・・・等々。

もし一連の神話を邪馬台国の事件を元に” 創造された ”と言うのなら
じゃあ三貴神の月讀は誰に当たるのか説明しろ。
何故高天原に馬がいるのか説明しろ。
何故外敵であるはずの狗奴國の卑弥弓呼を弟として登場させなければならなかったのか説明しろ。

まあそこら辺は時代とともに変化したと言う事でお茶を濁すんだろうが

自説の「似ていない部分」については時間経過での変化を認め

相手の「似ていない部分」については仮託されたものであるなら
全てを似せる必要も無いのに類似を認める。

あまりにも幼稚。

もうアホかと馬鹿かと・・・。
452451:2009/05/16(土) 19:02:00
所詮 「天照=卑弥呼説」 なんて似ている似ていないの印象論の範疇w

まあ神話と文献と考古を適当に混ぜ混ぜして
「ボクの神話」を作ってうっとり自己陶酔している馬鹿はこの話で延々続けるのも楽しいんだろうがwww

結局のところ
じゃあその九州にあったという邪馬台国は何処なんだ?と言う話に戻るわけでw

少なくとも南九州は弥生時代の遺跡遺物の寂しさからそんな物があった雰囲気すらないと言うのが現状で
先にも言ったが、新興勢力としても考えるのも難しいwww

日向厨は「石野の本に書いてあったから正しいんだ」と言うだけだしwwwwww


453451:2009/05/16(土) 19:14:34
ちょっと話が神話の方に逸れちゃったんでもう少しリアリティのある話に戻しておくと・・・

先に魏が卑弥呼に銅鏡百枚を与えたのは
邪馬台国側から”おねだり”wがあったか
魏側が事前のリサーチをしたか・・・なんて話があったと思うがw

何れにせよ倭国側で鏡の需要があったのは間違いないだろう。

なのにだ
九州ではその鏡が微増に転じた痕跡すら無い。
せっかく邪馬台国が冊封されたと言うのにだw

もし魏からの鏡がその百枚だけでとても足りない状況であったなら
自前でコピー品でも作って配れよ、サービス悪いやっちゃなwww

岡村の漢鏡編年といえばこの板の九州説の連中にはつとに受けが悪いがw
あれの年代をどう動かしても九州で右肩下がりの減少傾向だったというのはどうやっても変わらないwww

これも俺が九州説を見限った理由の一つwwwwwwww
454451:2009/05/16(土) 19:25:21
>>451訂正

誤)全てを似せる必要も無いのに類似を認める

正)全てを似せる必要も無いのに類似を求める

455日本@名無史さん:2009/05/16(土) 19:36:01
頭の悪い人は、聞きかじりの神話をちょこちょこいじるしか無いんだよ。

知能のある人は、神話学を学ぶ。

そうすると、記紀神話がアジア共通神話のパッチワークであることに気が付く。
卑弥呼とアマテラスが同一なんて発想はどこからも出てこない。
456日本@名無史さん:2009/05/16(土) 19:36:38
すっげ〜流れたな
みんな心の底では皇国ファンなんだねぇ
包み隠さなくていいよ
457太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 19:37:23
>>447
倍暦で説明可能だ。
458398:2009/05/16(土) 20:00:19
>>453 その鏡についてなんだが、 >故に鄭重に汝に好物を賜うなり

の部分を考えて、魏朝は、手元にあった雑多な鏡を混ぜて渡したもんだろうか?方格規矩
とか盤竜鏡とか。俺的には、魏帝の威儀を示すためにも同型鏡(同氾はムリだろう)をビシッ
とそろえて渡したと考えたいんだが、これには時間的制約もあるかな。

難升米が郡に詣ったのが6月、洛陽についた時期は不明だが秋頃か?魏帝の制詔が12
月・・・はたして鋳型を作って、100枚の鏡をそろえる時間があったか?
この頃の魏は財政難とする説もあるが、公孫氏討伐の軍費に比べれば、銅鏡100枚は
大したこととは思えない。
459日本@名無史さん:2009/05/16(土) 20:07:57
>>457
それじゃ、武内宿禰の寿命をその倍暦とやらで説明しとくれ
まぁ、カキ逃げするんだろうけどw
460日本@名無史さん:2009/05/16(土) 20:26:16
九州と畿内とで交代で王になっていたんじゃないだろうか?
月読と天照の関係のように、交代制ね
461日本@名無史さん:2009/05/16(土) 20:54:30
>460
九州が本家(卑弥呼)で畿内(台与)が移住組かもしれない
卑弥呼が死に、九州(卑弥呼)→畿内(台与) に権威が移った
焦ったスサノオによる高天原押しかけ登城=誓約、乱暴、追放、出雲行き
462太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 21:05:43
>>459
だから3倍暦をやってたんだよ。但し例外の時代あり。彼は105歳だ。
463日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:16:21
>>460-461

妄想の語り合いだな。

464日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:23:13
アマテラスは、魏に朝貢したこともないし、
誰かから金印をもらったこともないし、
鏡を他の誰かに配ったことも無い。

まったく卑弥呼とは無関係。

もし、卑弥呼がアマテラス神話に投影されてたなら、
少なくとも、アマテラスは神々に鏡を配らないといけない。
実際には、鏡は、日本の神様の一人が作ったという説話があるだけ。
しかもその神話上の最古の鏡は、和歌山県・日前神宮にある。

465日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:40:16
東遷説では、
なぜ、神話上の最古の鏡が九州の神社に無いのか、
なぜ、奈良に東遷したはずなのに、和歌山に神話上の最古の鏡があるのか、
まったく答えを持っていないし、知らん振りしてる。

ちゃんちゃらおかしい。ヘソが茶を沸かす。
466日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:48:33
神話上の最古の鏡が九州の神社に無いのは、
九州説全体にとって、致命的。
卑弥呼が九州にいて、鏡を配り、神道の鏡と直結してると考えるならば、
九州の有力神社に、神話上でも実年代でも最古級の鏡が祀られていないとダメ。

実際は、最古級の鏡が祀られているのは丹後の籠神社。

アマテラスと卑弥呼を結びつければ結び付けるほど矛盾が露呈してお話にならない。
所詮、神話を自分でちゃんと調べないで、子供騙しの東遷説本を読みかじってるだけだから、
はずかしい発言しかできないんだよ。
467日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:53:47
>>458
まあ同型で作る場合そのオリジナルの鏡を新たに作ったのか?
それとも既にあったものを利用したのかで話は違ってくるかと思うが…

個人的には卑弥呼の鏡が色んな物の詰め合わせ=アソート(例;缶入クッキーなんかである色んなものの詰め合わせw)
と言うのは流石にいただけないwww

ただどうなんだろう?
あの銅鏡を含む品々全てを難升米の目の前に並べる必要があったんだろうか?
先に目録を渡しておいて現物は後からでも良かったのでは?と思うのだが・・・


468日本@名無史さん:2009/05/16(土) 21:59:17
同型鏡100枚って、おいおい、ちょっと待てよ。

ひとつの鋳型で鏡が何枚作れるんだ?

469467:2009/05/16(土) 22:00:56
>>458
あ、それと・・・
画文を公孫氏から貰った物としれっと言っているみたいだが
この板の九州説の連中からは反発食らうのは必至なので心しておくようにwwwwwwwwwww
470日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:03:32
>>468
同じ鋳型なら 同氾 だよw


471日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:08:40
>464
鏡を配ったとか、そもそも何処から出てきた話なの?
漢籍にも何処にも書いてない、考古資料も語ってない
472日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:22:36
>>462
あんたもそれぐらい長生きしそうな勢いだの
473日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:25:07
九州は別に鏡を必要としなかったからだろ
トライ系が多かったからな
474日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:36:02
そもそも、なんてせ鏡を必要とするんだ?
生きてくうえで必要か?
475398:2009/05/16(土) 22:42:08
>>469
確かに岡村編年は、俺的にも納得できない部分はいろいろあるんだ。最近は夏王朝につい
ての本でもかなり・・・。まあもはや怖いものなしの境地か。画文は岡村編年より中国科学院
の編年のほうが近いと思う。

前から尚方にあった鋳型を使ったか・・・。うーん。

476日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:43:36
>>452>>455
東遷説を述べている碩学が、神話について知らないとでも思っているのかな。
白鳥庫吉、和辻哲郎、井上光貞みんな相当に精通していると思うが。

少なくともオタクらが参考にし、引用している人よりもね。
477太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 22:47:09
>>472
それがしの寿命は今回の論説とは無関係です。
478日本@名無史さん:2009/05/16(土) 22:56:44
>>476

精通してるといいつつ、
根拠が、アマテラスと卑弥呼が似てるってだけじゃ、話にならん。

他にどんな根拠があるんだか。

九州に最古級の鏡を祀ってる神社があるのか?
無いなら、卑弥呼の鏡と神道は無関係。
卑弥呼はアマテラスではない。
よって、東遷説は妄想ということ。


479日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:06:13
卑弥呼=天照大神は、邪馬台国九州説、ひいては東遷説そのもの。
だから、畿内説は必死に反論せざるを得ない。

普通なら、古代史上最も有名な二人の女性が同一人物というのは、一度は
考えてみるものだが、まあ受け入れるわけにはいかないだろうな。

>>478
最古級の鏡というのは前漢鏡かな。
それがどうして神社に祀られていなくてはならないのか。
また、それがどうして卑弥呼と関係あるのか、分からないな。
480日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:10:42
そもそも、九州でアマテラスを祀る神社自体が少ない。

アマテラス=卑弥呼で、皆が卑弥呼を共立したなら、
アマテラスを祀る神社が九州にいっぱい存在しないといけないはず。

九州でアマテラスを祀る有力な神社があれば、そこが卑弥呼の女王国だと推定できる。
それが、神話学というものだろう。
そういう前提で語るなら、有力なのは、鹿児島県の枚聞神社なわけだが。
誰もそういう論点で語らないのはなぜ?

481日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:13:41
>>479
>また、それがどうして卑弥呼と関係あるのか、分からないな。

どういう意味で言ってるんだろう?

神社で祭られてる鏡は、アマテラスそのものだろ。
君らは、アマテラス=卑弥呼だと言ってるわけだから、
卑弥呼と鏡が関係ないなんて、頭から矛盾してるじゃないか。

482日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:17:00
>アマテラス=卑弥呼で、皆が卑弥呼を共立したなら、
>アマテラスを祀る神社が九州にいっぱい存在しないといけないはず。
なんで王を共立したからって、信仰の対象にまでなるんだ?
まして、現存する神社に祭られる必要がどこにあるんだ?
陵墓と勘違いもはなはだしいな
483398:2009/05/16(土) 23:21:16
>>479 これのことだろ。Wikiより。

>息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の
 作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古。

これらの鏡は海部直伝世鏡といわれてて、

>神社の伝承では饒速日命が天津神から賜ったものである。

の部分の記述とか、国宝の海部氏系図とか、その方面が好きな人にはたまらんだろうと
想像する。
484日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:22:56
>>482


証拠は無い、って白旗あげてるのと同じだろ。
バカじゃねーの?
485日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:23:36
今日の「私の日本語辞典」は卑弥呼の話題で面白かったですね。
再放送がありますよ。
次回は出雲、筑紫の君磐井(このネーミングに萌え〜 かっこいい 優雅 優美)等。

http://www.nhk.or.jp/r2bunka/nihon/
486日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:25:35
饒速日命の話が出たが、アマテラスは饒速日命という説もあるよな。

饒速日命の本名は、天照〜なんちゃら饒速日命。

頭に「天照」が付く神様は、饒速日命と天照大神だけなんだよね。
487日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:29:11
>>484
証拠がないのにあるようなふりをして頑張っているよりよっぽどましだな。
488398:2009/05/16(土) 23:31:06
まあ神話学は俺はよく知らんし、天照大神もとりあえず置いとくとして、太陽信仰 の日本
の宗教史における位置付けは極めて難しいものがあるんだよな。
489日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:32:58
>>488

話は戻るが、アマテラスは、藤原氏の創作だって説のほうがよほどもっともらしい。
490日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:41:52
>>483
それは内行花文鏡なんだろうなあ。
内行花文鏡は前漢時代にもあったのかな。

前漢鏡は、九州では棺の中から出てくる。
しかし、他のところで出たというのは聞かない。
本物なのかな?
491日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:42:04
>>484
いや、それは違う
古代の王(女王)を論じている時に、なんで神社の話が出てくるのか解らんと言ってるんだ
卑弥呼なら、祭られている筈だという観点がおかしい
492日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:44:15
>>488
>太陽信仰
少なくとも神社は太陽信仰ではないよ
493日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:45:04
アマテラスは、元は男神だったという説もあるし、
アマテラスについて調べれば調べるほど、
卑弥呼=アマテラス説は遠のいていく。

記紀神話では、アマテラスが天皇家の祖神のように書かれてはいるが、
これも、本当の祖神はタカミムスビの方という研究もあり、説得力がある。

そうした説を全部知り尽くし、全部批判した上で、
卑弥呼=アマテラスと言ってるなら、それもいいが。
494日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:47:07
>>491
アマテラス=卑弥呼だと主張してるのはそっちだろ?

テーブルをひっくり返すなよ。
495日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:51:55
>>493
>アマテラスについて調べれば調べるほど、 卑弥呼=アマテラス説は遠のいていく。
それは、卑弥呼=女王 という中国の視点に振り回されているだけでは?
記紀は8cより前には遡れない、でも何かの記憶を残しているとは思わないのかい?
魏志倭人伝については、色々ご自由な読み方をするのに、記紀については字面で論じるのか?
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/16(土) 23:53:28
卑弥呼≠アマテラス
497日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:54:46
>>495

そういう君は、アマテラスの成立年代を卑弥呼の時代の九州に定めてるようだが、
その根拠を聞きたいね。

俺は、アマテラスの岩戸神話は、古くみつもるなら、縄文時代くらいまでさかのぼれると思うがね。
アジアのどこかから、日本に伝播してきたとも言える。

アマテラスの成立年代を卑弥呼の時代の九州に定める根拠はどこにもない。
498日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:06:33
>>493
記紀では、天照大神が岩戸から出ると、なぜか高皇産霊尊が登場する。
どちらが上なのか良くわからないが、高皇産霊尊が主導権を握っているように
見える。日本書紀には、高皇産霊尊を皇祖と記している。
明らかに並存している。

一方で、台与が王になると、また男王が立つ。中国の爵命を並受く、と
ある。これも並存していると取れる。良く似ている。
少なくともこのようなことは他にはないだろう。

復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命 (梁書)
499日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:09:28
>>497
それを言うなら、魏志倭人伝も神話じゃないか、魏の皇帝の徳を称える神話だ
はるか東方の島国にも皇帝の威光が及んでたって言う

記紀は天孫神話だよ、朝鮮半島的なものだ
500398:2009/05/17(日) 00:09:56
>>490
http://www.motoise.jp/main/houmotu/kagami.html

日本各地で、天照大神の伝承の残る地は極めて少ない。また、天照誕生の部分は、中国の
盤古神話とよく似ている。しかし、実は盤古は天地創造神でありながら、初めて記述されるの
は呉代(3世紀)の神話集「三五歴紀」においてであり、「史記」等に登場する他の中国の神々
(三皇五帝など)よりかなり新しく神格化されたものと考えられている。
501日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:10:49
>>497
縄文時代の記憶が、記紀の編纂された8世紀初めまで残っていたかどうか。
それが問題だろうな。少なくとも縄文時代の日本には文字はなかっただろう。
502日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:11:43
>>476
>白鳥庫吉、和辻哲郎、井上光貞みんな相当に精通していると思うが。

いいね、いいねw

じゃあ、そのお歴々が支持している根拠を言ってみろよw

(例えば和辻の銅鐸圏が国が滅んだ…なんてお話で東遷説を支持するなんて
 今じゃもう過去の遺物と言うか
 そもそも銅鐸から銅鏡へ大型青銅祭器による祭祀に連続性を見る必要性すらない
 ・・・と言うのは散々説明したぞ?w)

「神話に一定の史実が含まれている可能性を考えてみるべき」
程度のお話ならそんな高名な学者でなくとも俺みたいなド素人でも言えるって話だなwwww

普段は定説になんやかやと異を唱えながら

こう言う時だけはビッグ・ネ−ムに頼る・・・情けない奴だwwww
503日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:13:37
>>498

>少なくともこのようなことは他にはないだろう。

「このようなこと」って何が?

崇神とモモソヒメだって並立してるが。

504日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:15:51
>>500
神社にしろ、後世の人が作るものだから、伝承というのは大事な要素になる。
その意味で、天照大神のいた高天原は、後世の人には天上の出来事として
捉えられている。

地上に、伝承のものを作るのは難しかったのだろう。
伊勢神宮は、天照大神が地上に降りてきて鎮座した場所となっている。
505日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:16:49
卑弥呼の前に男王が立っている
この時点で天テラスさんではないと断言出来る
で、その後の台与の話まで持ち出す
よくわかりません

僕が天テラスさんと卑弥呼のイメージがダブらないのは
卑弥呼が女王になった以降(少女時代から)だれも彼女の顔を見てないと
倭人伝で記しているのに、天テラスさんはそれとは反対に社交的で
子供も産んでいる
全然性格イメージが違う

卑弥呼はやはり神ではなく巫女だろ
506日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:18:26
>>503
並立というのは、共に王であるということ。
倭迹迹日百襲姫は、単なる皇女に過ぎない。
507日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:19:37
>>506

単なる皇女が、ずいぶんとまたでかい墓を作ってもらったもんですなあ。

508398:2009/05/17(日) 00:23:33
天照・・・Wikiより。
>イザナギがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際に、左目を
 洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサ
 ノオと共に、三貴子と呼ばれる。

盤古・・・同。
>盤古の左目からは太陽が、右目からは月が、頭と体からは中国の神聖な山である五岳
 (泰山など)がうまれた。

これらの元はどちらも 「リグ・ヴェーダ」の原始巨人プルシャとする説もある。しかし、神話
はコピペ頼りだな。もう少し勉強しないと。かつて太国氏の倍暦否定に、日本神話で月神が
活躍してないのを根拠にあげたこともあったな。倭人は月齢を数える習慣がなかったと・・・。

509日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:26:48
倭人伝ですら、卑弥呼らの系譜は女系だと記している
家父長制の中国ですら東夷の政体を認めて、女王としている
記紀や皇統譜は後世の視点で男系で書かれている、女系で見なきゃならん

510日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:26:49
>>507
あの古墳が箸墓である証拠はない。

仁徳天皇陵といわれる古墳でも、実際に仁徳天皇の墓かどうかわからないので
大仙古墳と呼ばれるのと同じ。

単なる皇女の墓があんなに大きいはずはない、あれは大王クラスの墓だと
よく言われる。
511日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:32:29
誰とも会わないくっら〜い女が何で太陽神なんだよ
わらかすな、バカ!
512日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:43:18
>>509
外国の極めて不正確な伝記を基本とするならそれでいいじゃないか
君は立派な地球市民だ、おめれとう
513日本@名無史さん:2009/05/17(日) 00:47:14
>>512
いやいや、貴方へこそ、ろくに記録も残せなかった我が日の本の古人のために、
日々のお骨折り、ご苦労様と申し上げる
514398:2009/05/17(日) 00:47:54
箸墓は、後円部を頭とすれば、夏至の日の出の方向を向いてるとする説があるな。
俺が信じてるわけじゃないんで、誤解のないように。
このあたり、古墳の向きなどいろいろ調べてる人もいるが、確たるものは出てきてないよう
だし、ちょっと間違えるとレイ・ラインなどにいってしまう。
515日本@名無史さん:2009/05/17(日) 01:13:38
日本書紀にも、崇神は、鏡を畏れて宮中から追い出してるわけ。

だから、崇神は、鏡に耐性が無かったってことで、
この記事からも東遷説は否定されるし、アマテラスが皇祖という設定も怪しくなるわけ。
モモソヒメは、大物主の巫女なんだから太陽と関係あるとも思えないわけ。
ぶっちゃけ、太陽信仰が3世紀にあったという物証はなんにもないわけ。

アマテラスなんていなかったと思うよ。
516日本@名無史さん:2009/05/17(日) 01:30:49
記紀は太陽信仰じゃないよ、皇祖崇拝でしかない。
国土の創造神の子孫だからと、地上の支配権を主張しているだけ。

でも、伊勢神宮が三輪山の真東に位置している事は、興味を呼ぶ
なんで聖地がこうも東西に並ぶかね
太陽の運行を意識して配置された様に見えるのだ゙が
いっぽう、古墳については方向性が無い
宮殿や神社が、南北の機軸線を持つのは、中国の影響以後だろうな
517日本@名無史さん:2009/05/17(日) 01:34:47
まあ天照を奉る伊勢はヤマトから見て東の地にあり
信濃の戸隠には天の岩戸伝説が残る…

少なくとも天照を九州発生の神がどうかは
短絡的に決め付けない方が良いだろう。

東遷厨の脳内じゃあ 九州発生 は確定事項なんだろうがwwww
518日本@名無史さん:2009/05/17(日) 01:53:35
♪「ラ〜ララ、ラ〜ララ、東の空へと〜」と、ひたすら東へ領土を広げていったのが大和政権で
伊勢の二見が浦からみれば、はるか海上から太陽が昇り、少し目を内陸に転ずれば蓬莱山(富士山)も望めるという、
東方フロンティアへの野心をたぎらせる場所が、伊勢だったんじゃないかな
そういう野心に正当性を与える形で、日本神話は書かれたという事だ
519日本@名無史さん:2009/05/17(日) 03:12:44
>>517
>信濃の戸隠には天の岩戸伝説が残る…

そうだね。
ウズメも、実際に祀られてるのは、そのへん。
ウズメと結婚したサルタヒコは伊勢の神で、伊勢以外じゃ祀られて無い。
天岩戸伝説や天孫降臨神話が、けして九州発祥じゃないことがわかる。
ろくに神話伝承を調べない人に言ってもしょうがないが。
520日本@名無史さん:2009/05/17(日) 03:16:34
だいたい、九州への天孫降臨で伊勢のサルタヒコが天孫を道案内したと言うのに東遷は無いわな。
方向が、違いすぎる。
521日本@名無史さん:2009/05/17(日) 03:21:57
高天原や天岩戸は多数あったという事だろうね
天孫降臨神話を共有する地方豪族は、それぞれ巫女による祭祀政治をしていた訳だから
巫女の中の巫女が、卑弥呼や台与だと思う
アマテラスも、実に多くの神を生んでいるね、そして女神はどこぞやの神社の祭神となっている
つまり、地方豪族の擁するシャーマン巫女には、中央の巫女の血が入っている訳だ
522521:2009/05/17(日) 03:23:51
そういう意味でも、女系だね
523日本@名無史さん:2009/05/17(日) 04:10:15
>>497
>俺は、アマテラスの岩戸神話は、古くみつもるなら、縄文時代くらいまでさかのぼれると思うがね。

この板では恐らく支持者はあまりいないだろうから
一応賛意を示しておくwww

無論、天照や今日に伝わる岩戸隠れの神話がそのまんま縄文時代にあったと言う事じゃないがw
>497もそんな事を言うつもりは皆目無いだろうwww

アマテラスは恐らく相当に原初的な性格を持つ可能性がある。
まあこんな事を言ったら東遷厨は拒絶反応を示すかもしれんが
そもそも記紀神話のイザナミ・イザナギの国生み神話にしても相当にプリミティヴwwwwww

記紀神話を扱う時注意すべきは神話の中の時系列と
その神話の成立時期が相当にちぐはぐになっている可能性。

神話中でアマテラスやナギ・ナミよりもっと原初に近い「造化三神」が道教の影響を受けたものではとする声すらあるwww
(天武は道教オタクでその女房の持統もまあ道教には詳しかっただろうw)
524日本@名無史さん:2009/05/17(日) 05:13:02
>>520
とりあえず、記紀の筋くらいは把握してから書き込んで欲しいな。

天照大神とその子・天忍穂耳命までは高天原時代。
 このとき、出雲の国譲り、つまり出雲征服があり、天孫の日向降臨もある。

三代目・天孫・瓊瓊杵尊から五代目・鵜葺草葺不合命までの日向時代。

六代目の神武天皇(神日本磐余彦)が東征し、大和時代が始まる。

つまり、皇室の系譜は、高天原→日向→大和と移っていることになる。
525日本@名無史さん:2009/05/17(日) 07:24:40
>>524
>つまり、皇室の系譜は、高天原→日向→大和と移っていることになる。

と8世紀の文献に書かれている、・・・そういうことだ
526日本@名無史さん:2009/05/17(日) 09:58:56
8世紀に500年も前の出来事が正確にわかるものだろうか?
しかも文字のなかった時代のことですよ。
口伝なんて全く当てにならない。
527日本@名無史さん:2009/05/17(日) 10:06:29
神武が生駒山山麓まで船で乗り入れてナガスネヒコと戦う記述
古河内潟が存在したのは弥生後期までだから、神武の部分はあながち嘘ではないと言われているな
畿内に入ってからの描写は、現実の地理と符合するものが多い
528太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 10:16:56
>>508
月神は神武よりもっと前だろう。倍暦の件は神武以降のことだよ。
神武より古い時代に倍暦を行使していたかは判然としてない?
529日本@名無史さん:2009/05/17(日) 11:22:57
日嗣の御子(ひつぎのみこ)=皇太子の尊称
530日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:20:15
>>526
1900年も後の、何も知らない人間が勝手に想像するよりはましだろうね。
531日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:34:29
記紀の神代は、まず高天原が舞台になる。

次に登場するのが出雲。
出雲は高天原とは別系統で、敵対勢力なのだが、なぜか詳しく書かれている。
最終的に、出雲は高天原の軍門に下る。

このあと、天孫降臨があり、舞台は高天原から日向に移る。
もう、高天原が登場することはない。

神武東征以後は大和が舞台になる。
高天原も日向も登場しなくなる。
532日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:42:48
つまり、記紀の神代は主要な三つの地域が舞台になっている。
高天原、出雲、そして日向。

こう考えれば、高天原の場所も分かってくるはず。
出雲と日向の間にあり、古代最も栄えていたとされる地域以外にないだろう。

逆に言えば、出雲や日向が主要な舞台になっているのに、そこが記紀に
全く登場しないというのはおかしい。
533日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:51:00
アマテラスのテラスとは、フランス語のテラスと同義なのです。
つまり少し高くなった祭壇を意味するのです。
アマテラスとは太陽神を祭る祭壇、つまり前方後円墳のことだったのだ。
534日本@名無史さん:2009/05/17(日) 14:55:13
>>532

高天原の場所???

高天原とは人が住む所ではなく神様たちがお住まいになっていらっしゃる所ですから
天上界です。古代人の想像の産物です。具体的に地図のどこかの場所ではありません。
535日本@名無史さん:2009/05/17(日) 15:04:42
もしかしたら、アマテラスという言葉に高天原の文字を当てたのではないだろうか?
536日本@名無史さん:2009/05/17(日) 16:06:07
アマテラスとは人名(神名)ではなく、一般名詞だった。
そして、天照らす高台が高天原だったとすれば、日本中に
太陽神の居ますテラス、つまり高天原があったことになる。
そして、アマテラス巫女こそが卑弥呼だったのだ。
537日本@名無史さん:2009/05/17(日) 17:01:34
>>532

あのねえ、
(高天原)→出雲→日向の並びを地図で見てみなよ。

その理屈で言えば、高天原は畿内なんですが。


538ローガン:2009/05/17(日) 18:05:31
きょうは近つ飛鳥へ鈴木靖民先生の講演を聴きに行ってきました。まあ講演というより授業でしたね。通りいっぺんのお話だったんで。
終わってから質疑応答の時間も設けられなかったので、先生つかまえて自論の「七支刀百済下賜説」を…
いうやいなや「そんなことは百済・倭対等説で充分説明できる!」と一喝されました。
叱られるとは思わなかったw 再来週は白石先生。
倭人伝に卑弥呼の墓の規模に関する記述があるのになぜ肝心の「高さ」に触れなかったか? を訊いてみるつもり。乞う御期待。
失礼しました。
539日本@名無史さん:2009/05/17(日) 18:19:36
>>538
墳じゃなくて冢だから。
540ローガン:2009/05/17(日) 19:47:11
>>539
> 墳じゃなくて冢だから。

え、墳と冢ってどう違うの?
541唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/17(日) 20:03:27
七支刀の百済・倭対等説って
近肖古王王で考えれば 倭に下賜。
書紀で考えれば 献上

中を取った思考ですね。
542日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:21:15
>>536すばらしい推理じゃないですか。感心しました。
アマテラスを信仰した部族は、失われたイスラエルの十支族の
一つガド族が起源だったとすれば全てが繋がりますね。
伊勢神宮の石灯篭にダビデの星が刻まれていることも。
543ローガン:2009/05/17(日) 20:30:34
>>541

それと唐松山さん言う通り。「七支刀は鋳造である、確認されたので間違いない」と
544日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:34:38
七支刀とは北斗七星、すなわち、北辰信仰と密接な関係があります。
545うましか:2009/05/17(日) 20:37:06
>>541

> 為倭王旨造傳示後世

『後世に伝え示す』のが倭王の役目と取れる文章でしょう。
いろいろ『解釈』のある銘文ですが、命令口調です。
貰った方がどう思ったかは別にして、贈った方には『貢献』のつもりなど無かったでしょうね。
546398:2009/05/17(日) 20:38:21
>>540 よく引き合いに出されるのが、「魏史 韓伝」の、韓人の住居を説明した部分で、

>居処は草屋土室を作り、形、冢の如し。  また興味深いことに次のような記述もある。
>その葬は槨あり棺なし。  まるで倭人伝と対句のようになってる。

あとは、古田御大も引いてる・・・「蜀志 諸葛亮伝」の、孔明が漢中の定軍山に葬られた際の
記述、

>山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る。 が有名。
「山に因りて」は「自然の山を利用して」ほどの意味か?
 
これらの記述には、多数の解釈と議論がある。俺は文献解釈は苦手なんで興味ある人
やってみたら?考古学的知見はまだまとまらないんで、いずれそのうちに。





547日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:50:20
秦の国だけではなく魏の国も失われた10支族が陰で支えた国ではないでしょうか?
そして、大和朝廷こそ・・、
548日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:55:49
ユダヤと言えば猿田彦だろ
549日本@名無史さん:2009/05/17(日) 20:58:44
因みに伝統的に外人というか異民族の居住地には「宇」という文字が地名に付いてないか?
550太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 21:28:39
>>542
伊勢神宮参道の石灯籠のダビデの星はすでに撤廃されて、確かもう
ついてないだろう。ユダヤの陰謀とかで撤去したんだろう?
551398:2009/05/17(日) 21:55:10
ふーん、変な話題だな?? あのダビデの星(ソロモンの封印)は日本では、カゴメ紋とも
呼ばれて、九字切りとかと同じ辟邪の意味があるとされる。ダビデの星は六芒星だが、五
芒星の晴明桔梗印も似た意味を持つ。

いわく、魔は多数の目(籠目)をもつものが苦手。いわく魔が目の数を数えてるうちに逃げ
切れるなど。九字を切ると目は12できるのかな?

伊勢神宮の灯籠はすべて奉納といわれてて、制作は西宮市の木藤石材工業株式会社、
依頼主は誰かというと、実に面白い話があるんだ・・・。

552日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:04:30
それからそれから?
553太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 22:06:31
五芒星っていうのは「ソロモンの星」というそうな・・・。
554398:2009/05/17(日) 22:12:08
これ以上書くと命が危ないんでwww ここ参照、日ユ同祖論では有名な話。

http://hikari-ryu.269g.net/article/12037932.html

ただ、これに深入りして太国氏のような存在になっても、俺は責任もてんよ。
555日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:12:24
調べてみると、石灯籠は伊勢神宮とは関係ないらしい。

石灯籠の許可は、三重県知事、伊勢市長が出したもので、六芒星は
「伊勢三宮奉賛献灯会」のシンボルマークなのである。

となっている。
マークはたまたま似ていたということなんだろうなあ。
556太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/17(日) 22:16:36
一部のカルトは治安を乱す。
557日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:27:01

東遷説 → 神話ネタ → オカルトネタ → 糞スレ化

…いつものパターンだな
558日本@名無史さん:2009/05/17(日) 23:49:16
>>540ローガンさん

>え、墳と冢ってどう違うの


え〜っと、その前に

本来「墳と冢」の文字に、墓や土を盛る と言う意味はなく、結果そうなった事が
後世に、標準的に使用される意味になった


今書いたこと、理解してもらえるかなぁ?
559398:2009/05/17(日) 23:51:59
ま、クソまじめと思われても困るんで、たまにはいいだろ。この日本ユダヤ同祖論など、もち
ろんトンデモなんだが、後の世になって未来人が20世紀を理解するためのよい資料の一つ
にはなるだろ。たぶん2chの記録なんか、21世紀の世相資料としては最高でないかな。
560398:2009/05/18(月) 00:30:01
それに551レスは、最後の2行をのぞいて、いちお民俗学だぞ。スカタンだけど。

あと20年もすれば、「初期2chに見る21世紀初頭の世相」とか、馬鹿な論文書くやつが
出てくると思うよ。
561日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:47:14
天皇家の発祥は、葛城の高天でしょう?
葛城地方には、高天原関連の遺跡が集結している。
奈良県御所市周辺の地名や神社を見てみろ。
「高○○」とか、「葛○○」とか、「秋津○○」そんなのばっかだ。
そんなのばっかだ。
とくに、近畿王朝初期の豪族の祖先の地が終結している。

現在の奈良県御所市高天。 葛城の高天に本拠地がある勢力が、出雲を併合したんだろう。
それは、ニニギ命(神武天皇の曽祖父)のあたりの時代の話だ。
紀元前1世紀か、紀元1世紀くらいの話かな?
その後、ニニギ命は、九州の高千穂に降臨する。
だから、九州から近畿へ東征した神武天皇の話も、決して間違いではない。

たしか、唐か宋の時代に中国に派遣された日本の使者が
「倭国が西にあって、日本が東にあって
もともとは東の日本は小国だったけど、倭国を併合した。
でも、その後も、ずっと日本は倭国の名前を継承していたが
この名前が好きではないから、変えてくれ」って
言っているんだよね。

あと、倭王武である「雄略天皇」が、中国への上奏文でも、
「私の国は、西に数十カ国、東に数十カ国、平定して
次に海を越え北に数十カ国を平定した」と説明している。
この私の国の本拠地は、どうみても、近畿地方、なかでも葛城の高天でしょう。
562日本@名無史さん:2009/05/18(月) 01:16:45
>>561
出雲がその地域は先に支配してたんだよ
563日本@名無史さん:2009/05/18(月) 01:19:39
>>562

それは無い。
四隅突出型墳墓は、畿内には無い。
564日本@名無史さん:2009/05/18(月) 01:25:45
>561
紀記を信じてるんだね・・・・
565日本@名無史さん:2009/05/18(月) 01:26:59
>>563
時代の流れがムチャクチャ
バカバカしい
566日本@名無史さん:2009/05/18(月) 03:28:08
>>565

バカはおまえ。
出雲が支配してた証拠は?
567日本@名無史さん:2009/05/18(月) 12:33:28
皆さん、どうされましたか?
事問いし岩根、木根立ち草の掻き葉をも言止めて、になっておられますけど
もとの路線に戻って議論続けて下さい
568ローガン:2009/05/18(月) 13:24:43
>>558

> 本来「墳と冢」の文字に、墓や土を盛る と言う意味はなく、結果そうなった事が
> 後世に、標準的に使用される意味になった
> 今書いたこと、理解してもらえるかなぁ?

昨夜酔っ払って早く寝たのでごめんなさい。続きをどうぞ。
569日本@名無史さん:2009/05/18(月) 13:27:46
方角と里数・日数に戻ったら、結局同じことの繰り返しw
570日本@名無史さん:2009/05/18(月) 15:53:47
>>561
古事記を読んだら、葛城の高天だろう? 高天の原って。
しかも、どうも、葛城の高天には、
出雲の大国主命の息子の事大主が赴任していたか、
あるいは、その時代は既に、葛城の高天王朝の人質になっていた。
571日本@名無史さん:2009/05/18(月) 16:20:27
>>538>>541>>545
この時代の話をする時に、日本と半島の二者関係で見てはいけない。
中国や満州を含めた四者関係で見ないといけない。
日韓の歴史学者や考古学者の先生も、それを言う人は少ない。
いっぺん、中国の学者先生も多く参加させればよい。

この時代の朝鮮半島情勢、最大の主役は中国王朝です。
あの任那日本府の件も、結局は中国王朝の権威が関係していて
西暦369年に、倭国と高句麗が朝鮮半島で交戦して以来
高句麗は、倭国の朝鮮半島への軍事行動を、高句麗の版図への侵略行動と非難し、
倭国は、自分たちの朝鮮半島への軍事行動は、
自分たちの勢力圏を守る正当な行為と主張していた。
だから、西暦5世紀になると、倭国は積極的に中国と外交を展開(朝貢)
(この時代に、倭国は、中国外交のために、
その当時の正式な漢文の知識が必要になった。)
西暦438年から、倭国王は中国皇帝に、韓諸国を軍事を管理する官位をくださいと要求している。
しかし、当初は、中国皇帝は倭国王の要求を聞くだけで、返答はしなかった。
何故なら、倭国王の要求の中には、中国と直接主従関係を結んでいた百済に対する
軍事管理権も含まれていたからだ。
そこで、西暦478年、倭王武(雄略天皇)が業を煮やして、勝手にその地位を宣言、
そして、自分の治める天下は、中国皇帝の治める天下と別だ、と宣言している。
ある意味、中華秩序への反抗。認めてくれなきゃ、俺はあなたの臣下にならないと。
だから、根負けして、中国皇帝は、倭国王に韓諸国の軍事を管理する官位を与えた。
ただし、その中で百済政権に対して直接的な軍事管理権は外した。
(しかし、百済の領国周辺を殆どが、中国の権威の下、倭国王の軍事管理権とされた)
ちょうど、この西暦5世紀後半から、この半島南部に、小型の前方後円墳が出没する。
任那日本府も、この時代の頃、中国皇帝のお墨付きを貰っての話でしょう。
572日本@名無史さん:2009/05/18(月) 17:27:51
>>568ローガンさん

では昨夜の>>558の続き。

「冢」
この文字に“墓や土を盛る”と言う意味はあるません。これも墳と同様、結果が後に意味として使われているにすぎません。

例えば“墓”の場合
墓域の中に死体を埋葬し、墓域の範囲(広さ)をこえないで “死体を埋葬した”
と、墓域の内側に結果目印を付けたもの
これが「冢」です。

平らな墓域に穴を掘り、死体を埋葬し土を被せ、また平にし、その上に死体を埋葬した目印の石を置いたり、木を刺したり植えたり
したものを冢と言います。
これが後に、土を高く盛り上げて目印にした為に
高く土を盛り上げたものを「冢(塚)」といい、墓の意味となりました。

だから、広大な墓を“冢墓”といい、距離を目的にした印しを“一里塚”
と、言います。

「冢」は、冢とする範囲(広さ)の内側に、本来の目的である主部が有るのも特長です。
573日本@名無史さん:2009/05/18(月) 17:28:34
西暦369年の戦いは百済と高句麗の戦いであったと思うのですが、倭国も参加していたとのソース
お願いいたします。
574日本@名無史さん:2009/05/18(月) 18:22:54
>>568

ま、早い話し
「冢」は
主部(墓なら死体、距離なら計測点)によって、その範囲は主部以前に設定されていて
その範囲の内側に必ず
主部を印す目印があるもの。

だから
砂場で砂山を作り、その砂山の上に枝を刺しても
それは「冢」ではありません。
その枝(砂山)には
枝(砂山)が何んの為の目印か、目的がありませんから


これは砂の“墳”
山の形をした“墳”です。
これで 墳のイメージも掴めたでしょうか?
575398:2009/05/18(月) 18:29:28
今ちょっと、?基百科(中国版wiki)
576ローガン:2009/05/18(月) 19:22:27
>>572

> これが後に、土を高く盛り上げて目印にした為に
> 高く土を盛り上げたものを「冢(塚)」といい、墓の意味となりました。

詳しい解説乙。 貴方の言う通りとすれば、三國志が書かれた頃、冢は大きな土盛を指す語だったのでしょう。
孫権は冢に登って張遼軍から逃れるのですから。平地に刺した枝では逃げた事にはならんでしょう。
577日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:31:23
唐書でも昔から日本人は嘘を言うから中国人は疑いの目で見ていると伝えてるぐらいだから邪馬台国側が何らかの嘘を言ってバレた可能性があるわな
578日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:34:36
卑弥呼は王ではなかった
魏側を欺くために、ワザと大きな墓を作った
これが俺の結論
579日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:57:15
>>576

いいえ
それなら“墳に登り”でも“小山に登り”でもいいわけで、
しかしここでは“冢”と特定して書かれています。

文字が違えば、必ず意味も違いますよ。

でも文脈によっては、その冢に対して重きを置かない構成なら、
その冢の意味を「土を盛った」と解しても、別に差し支えはないでしょう。


飽くまでも私の説明は、使い分けを知っていても損はしない
程度に受け止めて下さい。イザという時役に立ちます。

で、「墳」はどうします?このまま続けますか?
580398:2009/05/18(月) 19:58:06
>>575
スマソ。簡体中国語変換ソフトをインストールしたら、パソコンがおかしくなり今やっと復旧
した。 維基百科(中国版Wiki)などをいくら引いても、冢は高大な墓所としか出てこない。
特に高さが強調されてる。

「冢、高墳也」とか「即祭土神的高大土壇」とか、「高而大的墳」とか、このような記述ばかり。
また、史記 高祖本紀にも、「項羽焼秦?室、掘始皇帝冢」とあり、あの始皇帝陵についても
冢の文字は用いられている。

581日本@名無史さん:2009/05/18(月) 20:04:03
>>580

周りの景観よりも高くしたり、高さを強調すること
そのものが 目印であり
象徴になりますから。
582398:2009/05/18(月) 20:17:36
続き 
また、「卑弥呼」を維基百科で引いたら、

>卑弥呼女王在位七十多年,於九十多歳高齢去世。死後大作冢,四周長百余歩

となってる。「九十多歳高齢」とか「四周長」というのは中国Wiki編者の解釈だろうが、なか
なか面白い部分がたくさんある。日本なら独自研究といわれかねんような。

にしても、簡体中文をコピペしてから日本の字に直すのはめんどくさい。直接コピペか、中文
で書き込むには、フォントを買うしかないのか?

http://baike.baidu.com/view/89745.htm
583日本@名無史さん:2009/05/18(月) 20:26:11
>>582

太国の倍暦によれば、90歳というのは、45歳ということになる。

しかし、在位70年とは矛盾する。
中国人が金印を与えた女王の在位期間を間違えるわけないしな。

ここに、「倍暦は無かった」と結論できるわけだ。


584398:2009/05/18(月) 21:00:42
倍暦はどうせないものだからともかく、俺がさっきから50以上の中国語サイトを検索した
結果、 今のところ 墳>冢 つまり冢より大きいものが墳 という記述は見つからない。
これは多分違うね。

それに、倭人伝の >径百余歩 の部分も、上記の中国人は「四周長」と解してるわけだし、
倭人伝の一字一句を細読することの意義も問われてる感じだな。やはり571のいうように
中国の学者先生大勢に参加してもらって読むのが当を得てるだろう。


585ローガン:2009/05/18(月) 21:05:00
>>584

説文に「冢高墳也」と。
586ローガン:2009/05/18(月) 21:08:48
あら>>580で既出でしたね。
587398:2009/05/18(月) 21:14:50
>>585
やはりキーワードは「高い」だね。「冢」は「腫」、山頂が高く腫れあがっていること。(「釈喪制」、
「釈山」等) これはいつかやるつもりの考古学編とも一致してる。
588唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/18(月) 21:21:04
>>573
364 新羅、倭兵が大挙して侵入=仁徳天皇五十三年
この繋がりで369年が有る。
この時期に、七支刀の鋳造先は?
589太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/18(月) 21:32:23
>>583
何軽率な結論を下してるんだ?
女王国は九州にあったのだ。九州は倍暦を行使してたどうかは
分からん? それがしの論は畿内朝廷のほうだ。
それに3倍暦だったら90歳は30歳だぞ。しっかりしてくれよ。
590日本@名無史さん:2009/05/18(月) 21:38:09
>>589

太国は、九州は通常暦で、畿内は倍暦だと言ってるのかー?

じゃ、倭人伝の「倭人は長寿」という記述は正しく、
記紀の天皇の長寿は倍暦のせいだと言ってるのかー?
591太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/18(月) 21:44:26
九州のほうは倍暦をやってたかどうか、確認はとれないだろう?
卑弥呼がそのとおりに長寿でもおかしくはなさそうだ。ラムセス2世
は92歳位、半島の長寿王も90余歳だから、卑弥呼が80歳生きても
かような事例があるからありうることだが・・・?
592日本@名無史さん:2009/05/18(月) 21:47:02
オゾン層の破壊で、放射線を浴びる機会が増えたために人類は短命になった。
遮光土器の着ている宇宙服みたいな服は、実は放射線防御服だったのだけれど、
それを作る技術が継承されなかったために、天皇も短命になったのです。
593日本@名無史さん:2009/05/18(月) 21:57:49
遺伝学的に長寿因子をもった人達がいたらしいことは認められてる
594398:2009/05/18(月) 21:59:27
>>588
東晋で問題がありますかね?前燕洛陽侵入の混乱期なんですが、徐州あたりから百済は
近いですよ。まあ、俺はこのあたり自説は特にないんでどこでもいいんですが、唐松山 さん
はどう思うんですか?

表金象眼銘文の、
>泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
「泰和四年」は東晋年号の太和四年(369)ではないと?
595唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/18(月) 22:07:11
>>589 あらあら
書紀は364年(甲子年)=仁徳天皇五十三年 (甲子年)と主張して居るんですよ。
其処に同じ記事の双方向から見たと思われる記事が掲載されている。
特に私の主張という事でもない。
596太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/18(月) 22:11:00
>>595
今回は相手を間違えてるんではないの? 乱心ですかな?><
いま仁徳の件での話はこちらはしてないよ。
597398:2009/05/18(月) 22:14:06
俺も意味不明ですね?? 唐松山さん、七支刀の鋳造先は?
598398:2009/05/18(月) 22:23:08
あ、今意味がわかりました。588レスは573レスに反論してたんですね。それで、「七支刀
の鋳造先は?」という言葉があると・・・。新説があるわけではないと。読解力がなくてスマソ。ww
599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/18(月) 22:23:15
>>453 「七支刀は鋳造である、確認されたので間違いない」と
600唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/18(月) 22:29:32
七支刀と神功
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
273年 神功前紀 日食
274年 神功元年
326年 神功52年 七支刀 ←1年の狂いあり
328年 皇紀915乙亥年 肖古王崩御

>徐州あたりから百済は近い 確かにだが
この時期に百済と高句麗が反目しあっていたら、
601日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:39:49
>>588三国史記をみてみましたが、高句麗の記事がでてくるのは392年でそれも使者が来たとのことですが?
その時は倭と高句麗はなんともなかったようですが?
602日本@名無史さん:2009/05/18(月) 22:58:24
>>585

>説文に「冢高墳也」

で、墳とは何?
と、謎は深まるのが説文。
603ローガン:2009/05/18(月) 23:05:11
>>587
> やはりキーワードは「高い」だね。「冢」は「腫」、山頂が高く腫れあがっていること。
はい。何処まで高く「腫れるか」?認識出来ないまま離倭したので、墓を語る際の必須事項である高さに触れなかった。
これは縦穴式石室の構築手順から考えてみました。
> これはいつかやるつもりの考古学編とも一致してる。

楽しみにしてますよ。
604太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/18(月) 23:09:40
日食は数日間も続かない。もう1回学校へかよったほうがいいよ。
605ローガン:2009/05/18(月) 23:10:47
>>600
> これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、

十一月で確定のようです。他の可能性があるとすれば十二月。
606日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:15:14
>>601
三国鼎立時代とは何年までかご存じか?
607ローガン:2009/05/18(月) 23:24:20
>>602

> >説文に「冢高墳也」
> で、墳とは何? と、謎は深まるのが説文。

まあ「謎が深まった」としても、冢が高墳である事は確認できましたね。
608日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:39:05
>>604
今年の7月22日に、南西諸島で日食が見られる。
屋久島と奄美大島の間あたりを通過するのかな。
真っ暗になる時間は、4〜5分程度だったと思う。
609日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:43:19
以前から浮かんでは消え、また浮かぶものに、狗奴国=出雲がある。
後漢書には、

自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王

とあり、ちょっと拠り所にしたいところなのだが。
610日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:53:12
>>609
だから、その卑弥呼の時代である3世紀中頃には出雲の国譲りは完了してるというのが
考古学的資料により定説になってるんですな
611サガミハラハラ:2009/05/19(火) 00:04:16
出雲国譲りですか・西暦39年頃の事件です。
612日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:16:51
>>607
説文で墳は、「墳墓也(墳は墓なり)」です。
段注は、「一緒にして言えば、墳は墓の一種。区別して言えば、墓は平らで墳は高い」とあり、
その後に幾つか例文を引いてる。
「墓して墳せず」とか。「土の高き者を墳という」とか。
あと、方言という書物の「冢は秦晋の間ではこれを墳という」とかの、
冢と墳は、地域別の方言の違いだというのも引いてる。
613日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:18:10
>>610
考古学的××は、当てにならないから。
614日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:21:18
>>611
西暦260年前後の出来事だと思う。
615日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:23:21
東遷説ですか(笑)
616日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:36:17
>>615
そうだよ。

山陰を代表する遺跡である妻木晩田遺跡の最盛期は、弥生時代後期後葉と
される。しかし、古墳時代の初めには、ほとんど人が住まなくなったらしい。

青谷上寺地遺跡も同じ頃、衰退している。

妻木晩田遺跡のHPでは、西暦250年頃衰退となっているが、実年代については
参考程度に考えておいたほうがいいかもしれない。
617日本@名無史さん:2009/05/19(火) 01:06:46
で、東遷があったという考古学上の根拠は?
618日本@名無史さん:2009/05/19(火) 06:39:05
銅鐸、銅剣の埋納。
619日本@名無史さん:2009/05/19(火) 07:03:52
出雲の東遷は認めない、だが出雲には邪馬台国の称号を与えよう
620日本@名無史さん:2009/05/19(火) 07:04:32
>>618
荒神谷遺跡は銅矛だって16本も埋納してるんだよ。九州産の銅矛だよ。
もし九州が出雲を制覇したんだったら、銅矛まで埋めちゃマズイだろ。ww
621日本@名無史さん:2009/05/19(火) 07:10:32
>>620
必要なくなったからだろ
622日本@名無史さん:2009/05/19(火) 10:52:08

ただいまニュース速報+板にて激論中!

【大分】 「魏志倭人伝には九州内のことしか書かれていない。畿内説はねつ造と同じ」 邪馬台国論争 宇佐神社で大会
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1242691879/
623日本@名無史さん:2009/05/19(火) 14:31:28
出雲は高天原に征服される。

日本書紀などによると、高天原の天照大神と高皇産霊尊は、出雲に神を
派遣して平定しようとする。
最初に派遣した神は、帰ってこなかった。
二度目に派遣した神も帰ってこなかった。

次に、経津主神と武甕槌神の二柱の神を派遣した。
そこで、出雲の大己貴神は、国を譲ることを約束して姿を消した。
二柱の神は、従わないものを平定して復命した、となっている。

これが有名な出雲の国譲りということになる。

東遷説的には、高皇産霊尊が登場するのは、台与の時代なので
出雲の国譲り的な出来事は、3世紀後半になる。
624日本@名無史さん:2009/05/19(火) 14:36:31

トヨタン・・・・・・・・・・
625日本@名無史さん:2009/05/19(火) 15:17:22
>>623
>東遷説的には、

高皇産霊尊が登場するのは、台与の時代という根拠は何さ?
626日本@名無史さん:2009/05/19(火) 15:34:13
>>625
天照大神=卑弥呼+台与で、天岩戸に隠れるまでが卑弥呼、岩戸を出てからが
台与となる。
高皇産霊尊が登場するのは、天照大神が天岩戸を出てからだから。
627日本@名無史さん:2009/05/19(火) 15:45:18
>>626
>高皇産霊尊が登場するのは、天照大神が天岩戸を出てからだから。

その根拠を聞いてるんだが?

628日本@名無史さん:2009/05/19(火) 15:48:16
まあ、記紀を読んでる人間には常識な話だが、
神々が登場する順番は、

高皇産霊尊→イザナギ・イザナミ→国生み→天照大神だから。

その順番が違うというなら、相応の根拠を示してもらわんと。
629日本@名無史さん:2009/05/19(火) 15:54:13
>>623の理屈で言えば、

天照大神(=卑弥呼)よりもずっと前に、国譲りは終わってるわけ。
だから、東遷説は否定される。
630日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:06:30
>>628
まあ、神代の最初の頃にも登場するが、高皇産霊尊といえば、天照大神と対で
登場するときのことを指すのが普通。

ついでに言えば、天照大神の息子と高皇産霊尊の娘との間に生まれたのが、
日向に降臨する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)となる。
瓊瓊杵尊のひ孫が神武天皇。
631日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:10:15
>>630
>高皇産霊尊といえば、天照大神と対で登場するときのことを指すのが普通。

残念だがねえ、記紀の研究では、
高皇産霊尊が本来の皇祖神で、天照大神は後付ということになってるんだよ。
根拠はいろいろあるから。もっと調べてごらん。

632日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:12:28
ちなみに、古事記が偽書で、日本書紀を引用して書いただけ、という説の根拠も、
「高皇産霊尊と、天照大神と対で登場するから」なんだよ。

日本書紀では、対で登場なんてしないから。
633日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:34:44
>>631>>632
あわてなくてもいいから、少しは記紀を読んでみたら?

これなんかでもいい。
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki009.html

高皇産霊尊は、天照大神が天岩戸を出てから登場する。
出雲の国譲りも瓊瓊杵尊の日向降臨も高皇産霊尊が主導する。
これは常識。

日本書紀では、高皇産霊尊は皇祖と書かれている。一般的には、天照大神が
皇祖とされるが、この意味からも両者の存在価値は拮抗している。
634日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:38:45
>>633
へんなサイトに騙されるなよ。

神が登場する順は、

高皇産霊尊→イザナギ・イザナミ→国生み→天照大神だから。

まず、これを否定する根拠を示しなさいよ。
635ローガン:2009/05/19(火) 16:39:01
>>612
ご教示をどうも。

> あと、方言という書物の「冢は秦晋の間ではこれを墳という」とかの、
> 冢と墳は、地域別の方言の違いだというのも引いてる。

あ〜、そうなんですか?しりませんでした。楊雄ですね。
墳が秦晋の方言ですか… 三國志に「墳」の使用が少ないので、成都辺りは「冢」かなあとか思ったんですが、逆なんですね。
ただ、秦の言葉が共通語になったとか…難しいですね。
636日本@名無史さん:2009/05/19(火) 16:46:55
>>634
あのねえ。記紀を全く読んだことがないのが見え見え。
じゃあ、こっちでも読んでみる?
http://j-texts.com/jodai/shoki2.html
637日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:02:42
>>636

いきなり、「日本書紀 巻第二 神代下」は無いだろ。

おまえの中では、「神代上」は存在して無いことになってるのか?

http://j-texts.com/jodai/shoki1.html

こっちから読めよまったく。

638日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:05:42
>>636
まったく…。
今、問題になっているのは、出雲の国譲りであり、高皇産霊尊と天照大神の
関係なのだから、それが書かれている部分を示したんだけどね。
639日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:06:32
高皇産霊尊の初出は、これ。

>《第一段一書第四》一書曰。天地初判。始有倶生之神。号国常立尊。次国狭槌尊。又曰。高天原所生神名。曰天御中主尊。次高皇産霊尊。次神皇産霊尊。皇産霊。此云美武須毘。

高天原にいる神は、天御中主尊,高皇産霊尊,神皇産霊尊。

天照大神は、まだ高天原にすら居ない。
640日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:07:12
>>638
>>636は、>>637の間違い。
641日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:09:36
天照大神の初出はこれ。
イザナギ・イザナミの国生みのところ。

>《第五段本文》次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。既而伊弉諾尊。伊弉冊尊共議曰。吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。
>於是共生日神。号大日〓貴。〈大日〓貴。此云於保比屡〓[口+羊]能武智。〓音力丁反。一書云。天照大神。
642日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:10:26
>>639
だから、>>630で書いただろう。
>神代の最初の頃にも登場するが、高皇産霊尊といえば、天照大神と対で
登場するときのことを指すのが普通。

って。
643日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:11:57
>>633
>高皇産霊尊は、天照大神が天岩戸を出てから登場する。

まず、↑のとぼけた発言を訂正することだな。


644日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:13:25
>>641
めんどくさいので、最後まで読んでから書き込んで欲しいな。
特に、「神代下」はちゃんと読むように。
645日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:17:58
>>644

だから、どこをどう読めば、↓の根拠になるんだよ。

>高皇産霊尊は、天照大神が天岩戸を出てから登場する。

ソースがあるんだから、該当箇所を引用してみろよ。
646日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:18:00
>>643
高皇産霊尊は、天照大神が岩戸に入る前には登場しない。
伊邪那岐命・伊邪那美命の部分にも登場しない。
そういう意味で、岩戸を出てから登場すると書いたのだが。

高皇産霊尊の存在時期はそれが正しいと思う。
ただ、それでは、高皇産霊尊の誕生が抜けていることになる。
恐らく、それを補うために、神代の最初の部分に加えたのだろう。
647日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:19:08
>>646

>恐らく、それを補うために、神代の最初の部分に加えたのだろう。

おまえの空想なんて聞いてられないっての。ばかたれ。

648日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:27:19
なんでもドンと来いとは謳っているけど、一応ここは邪馬台国スレなんだよね。ww

神代については「民俗・神話学」板があるから、そっち行って存分にやったらどうよ。www
649日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:27:56
>>645>>647
とにかく読んでいないのでは話にならない。
記紀の筋も分からないのに、ウェブでちょっと見かけた部分だけを頼りに
想像で話を進められてはかなわない。

今晩じっくりと読んで、明日書き込んで欲しいな。
明日の夜にまたレスするから。
650日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:43:58
>>649

おまえのことだろ(苦笑)
651日本@名無史さん:2009/05/19(火) 17:55:10
>>646

>恐らく、それを補うために、神代の最初の部分に加えたのだろう。

こういう推論を許すなら、アマテラスのモデルが持統天皇という説もあることを忘れないで欲しいな。

神話の話になると、好き勝手に解釈するだけで、結局は何もわからんのと同じ。
根拠にならん。
652日本@名無史さん:2009/05/19(火) 18:25:57

■近つ飛鳥博物館:前方後円墳の成立過程、副葬品など300点で探る /大阪

 弥生時代から古墳時代への転換点になった3世紀の前方後円墳の成立過程を、出土した副葬品や埋葬施設の写真パネルで紹介する「卑弥呼死す 大いに冢(ちょう)をつくる」が、河南町の近つ飛鳥博物館で開かれている。6月28日まで。

 弥生時代末には、全国各地で地域の首長の墓(墳丘墓)が造られるが、日本海側では四隅を突出させた墓、吉備地方では特殊器台と呼ばれる土器を乗せた墓が出現するなど、地域によって多彩な特徴があった。
それが、「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が3世紀中ごろに成立して以降、全国の首長の墓が前方後円墳や後方墳に規格化され、全国的な政治連合が成立する古墳時代が始まったとされている。

 会場には吉備地方の特殊器台や、平原方形周溝墓(福岡県前原市)の巨大な鏡のほか、箸墓古墳でも見つかった特殊器台の破片、黒塚古墳(奈良県天理市)の三角縁神獣鏡など約300点が出品されている。

 月曜休館。開館は午前10時〜午後5時。一般600円、大学・高校生と65歳以上は400円、中学生以下無料。問い合わせは同館(0721・93・8321)。【大森顕浩】

毎日新聞 2009年5月19日
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090519ddlk27040448000c.html


■大阪府立 近つ飛鳥博物館ホームページ
http://chikatsu.mediajoy.com/index_j.html

・平成21年度春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる ─前方後円墳の成立─」
http://chikatsu.mediajoy.com/2009_spring/index.html
653日本@名無史さん:2009/05/19(火) 19:10:31
>>652

宣伝、乙。w
654日本@名無史さん:2009/05/19(火) 20:36:06
>高皇産霊尊は、天照大神が天岩戸を出てから登場する

この奇妙奇天烈なレスは要するに東遷説論者の…

>台与が王になると、また男王が立ち、中国の爵命を共に受ける。
>天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、共に高天原の
>主宰者として君臨する。

↑この筋書きに合せたお話って事だなw

つまり岩戸隠れより先に高皇産霊尊が登場するのは不味いわけだwww




655日本@名無史さん:2009/05/19(火) 20:59:06
>高皇産霊尊といえば、天照大神と対で
>登場するときのことを指すのが普通。

そもそも高皇産霊尊と言えば神皇産霊尊と対で語られるのが普通で
ついでに言えば天御中主尊と合せて3柱セットで語られるのが普通w

いい加減、東遷厨によるご都合主義の神話の切り取りは止めてもらいたいwww
656日本@名無史さん:2009/05/19(火) 21:11:48
>>652
>弥生時代末には、全国各地で地域の首長の墓(墳丘墓)が造られるが
>日本海側では四隅を突出させた墓、吉備地方では特殊器台と呼ばれる土器を乗せた墓が出現するなど
>地域によって多彩な特徴があった。

・・・が、九州にはそれに相当する物が無かったとw

もし九州に弥生末に山陰の四隅のような独自の「○○型墳墓」と言われる物があれば
邪馬台国論争ももっと違った形になっていたんだろうが・・・

大型首長墓による祭祀…このトレンドには九州は取り残されている感があるwww
657日本@名無史さん:2009/05/19(火) 21:24:56
海部氏勘注系図に古記に云うとして「豊受大神は、またの名を天照豊受皇大神。
またの名を天照大神和魂。一云として豊受姫命。またの名を國常立尊。またの名を
天御中主尊」とあります。
658日本@名無史さん:2009/05/19(火) 22:13:46
九州応援したいけど厳しいね
659日本@名無史さん:2009/05/19(火) 22:57:04
>>857またの名を卑弥呼
660日本@名無史さん:2009/05/19(火) 22:57:44
いずれにせよ魏志倭人伝の記述は当時の北九州の様子だよな。
661日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:07:10
阿蘇山の記述が無いのが惜しいねえ。

662日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:24:30
>>661
倭人伝の「其山有丹」の「その山」とは、阿蘇のことだろう。
663日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:27:27
阿蘇のどこから丹が取れるって?
664日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:47:48
中華人が行ったのはせいぜい筑後川の手前までじゃないかな。
665日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:52:55
だったら奈良でも同じことだな。
666日本@名無史さん:2009/05/20(水) 00:13:44
>>664
南九州まで行ってるよ。
667398:2009/05/20(水) 00:34:51
・・・神話は難しいな。俺には全然わからん。天孫降臨した瓊々杵尊が天照大神の子であ
る天忍穂耳尊と、高御産巣日神の娘である栲幡千千姫命の子であるのは、両者を結びつ
ける何らかの意図があったものかな??

いずれこのあたりの記述は日本書紀は作為があるかもしれず、古事記を参照したほうが
神話学的にはよいのかもしれん?
668日本@名無史さん:2009/05/20(水) 00:39:40
>天照大神の子である天忍穂耳尊

もう、この時点で、アマテラスは卑弥呼じゃないってわかりそうなものを。

卑弥呼は独身で、子供なんていなかったわけだし。
669日本@名無史さん:2009/05/20(水) 00:52:36
>>666
言ってないと思うよ
3世紀から4世紀の南九州は畿内とよく似てて
北九州だけが外来人の居留が許されたんじゃないかと思う
幕末の横浜みたいに感じで
670日本@名無史さん:2009/05/20(水) 02:14:38
>>667

まあこんな話は言わずとも分かっているんだろうが…

持統=天照 説なら持統・不比等コンビによる天智系の強調。
あるいは外戚と言う事で言えばその後延々と続く藤原氏のポジションの強調と言うことになるwww

そこら辺も本当に良くできた話ではあるwww

671日本@名無史さん:2009/05/20(水) 02:23:06
〜の神の子孫は誰々、というくだりは、後からの創作と見るべき。
もちろん、天皇も同じことで、
アマテラスの子孫は天皇、という設定は創作だろ。

神話を真実だと思ってるやつは、
檀君神話を信じてる朝鮮人レベルの脳ってことだ。
672日本@名無史さん:2009/05/20(水) 02:52:09
>>667
そのあたり内容は、古事記も日本書紀もほとんど同じ。
字がちょっと異なるだけで固有名詞の読みもだいたい同じ。

たとえば、 高皇産霊尊は、古事記では高御産巣日神あるいは高木神。
天照大神は、古事記では天照御大神。
瓊瓊杵尊は、古事記では邇邇芸命という具合。

>>668
「天の安の河の誓約」というのがあるのだが、調べてみるといい。

>>670
話にならん。

>>671
記紀は、日本の古代を知る上で、中国の文献を除けば唯一の資料といえる。
神代の部分に創作があるのは事実だが、それは当時の人々の考えというか、
思想の反映のようなものだろう。

とにかく、記紀が無視できない歴史資料であるのは確か。
自分にとって都合が良いか悪いかで考えるべきではない。
673日本@名無史さん:2009/05/20(水) 03:08:25
>>672
>自分にとって都合が良いか悪いかで考えるべきではない。

おまえがな。
674日本@名無史さん:2009/05/20(水) 03:47:23
まあ東遷厨の解釈だと・・・

三貴神の「月讀」が浮いちゃって
今度は「神皇産霊」と「天御中主」が浮いてしまうwww

ついでに岩戸隠れ以前に出てくる「高皇産霊」は後付けと言うことで
神話の中の時系列もいじっておkw

もうコレだけ自説には自由度を与えておいて

>>672
>自分にとって都合が良いか悪いかで考えるべきではない。

…はもう笑い話以外のなにものでもないwwww
 アホか?w
675日本@名無史さん:2009/05/20(水) 07:02:52
神話を読んだら分かるが
天照大神と天忍穂耳命の間には、直接的な親子関係など無い。
天照大神とスサノオの誓約してできた、何人かの一人が
この天忍穂耳命。
この記述からみて、実質的に、天忍穂耳命からが、皇室の初代であり、
天照大神というのは、この天忍穂耳命が信仰していた神様にすぎない。

だから、天照大神は、天忍穂耳命の玄孫の神武天皇の時代にも
天照大神が登場する。
ことことから、天照大神とは、実在の個人を表しているのではなく
皇室の祖先が信仰していた葛木地方の高天地区の神様ってかんじ。
676日本@名無史さん:2009/05/20(水) 07:11:51
もう一つ、実在したか、
実在の人物ではなく神話上なのか、で区別できるのは
大国主命と大物主。
大物主とは、大国主命の和魂とされている。
つまり、大物主は、三輪山に大国主命を記念して祀られた神様で
実在の人物のことではない。
だから、何代にも渡って、大物主が登場するが
そのいずれも、実態が蛇だったり、人間の形をしてなかったり
完全に架空の存在である。

おそらく、当時、巫女が
大物主という神様と交わる宗教的な儀式が会ったんだろう。
むろん、この大物主とは、人間ではない。
677日本@名無史さん:2009/05/20(水) 07:23:23
>>669
判断力がないんだよ。現地へ行かず、言葉のちがう国で、木の種類など、どうやって
確かめるんだ? いちいち、標本を取り寄せなければならんだろ。そんなことをする
はずがない。棺ありて槨なしだって、槨を知らない倭人からそんなことを確かめるの
は大変なことだ。見たから書いているに決まってるんだよ。
678日本@名無史さん:2009/05/20(水) 09:08:54
>>672
>「天の安の河の誓約」というのがあるのだが、調べてみるといい。

あなたは誓約についてどう考えているの?
まさか3世紀に実際にあった史実とでも?ww
679日本@名無史さん:2009/05/20(水) 12:59:01
>>677
他の東夷伝の国々でも墓についての記述が必須項目であるかのように必ずと言っていいほど書かれてる
棺ありて槨なしってのは正に北部九州での埋葬方法であって
竪穴式石槨方式であった邪馬台国まで足を伸ばしていない証拠
680日本@名無史さん:2009/05/20(水) 13:29:50
畿内の墓は「土を盛りて塚を作る」ではなく、「石を貼りて塚と成す」だ。
鉾もないけど、鐸はたくさんある。
魏使が畿内まで行かなかったことは確かだな。
681日本@名無史さん:2009/05/20(水) 13:36:13
竪穴式石槨方式であった邪馬台国ってどこのこと?
682398:2009/05/20(水) 14:22:06
この神は実在の人物だとか、モデルがいた・・・というのは神話学の対象ではない。ただ、
シュリーマンの例もあるし、歴史に絶対はないのもまた確かだが、神話からの史実の推定
は万人が納得する根拠を持ち得ないのがつらいところだね。

シュリーマンの「トロイア実在説」は、当時決して完全否定されてたわけではなく、事実それ
以前にも発掘の試みはあった。また、考古学的知識の欠如から、遺跡をかなり損傷した。
まあ、私財を投じた情熱は評価されるものであるが。
683日本@名無史さん:2009/05/20(水) 17:01:21
>>675
天照大神あたりまでは『神代』になっていて、神様なので死なないことになっている。
天照大神も死ぬことはなく、伊勢に鎮座するという言い方をする。

これが天孫の瓊瓊杵尊になると、人の世になるので死んでしまう。
瓊瓊杵尊は、筑紫の日向の可愛之山に葬られたとなっている。
684日本@名無史さん:2009/05/20(水) 18:25:37
>>683
>瓊瓊杵尊は、筑紫の日向の可愛之山に葬られたとなっている。

その理屈をこねるなら、イザナギ・イザナミの墓がどこにあるか調べてみ。
九州じゃないよ。
685サガミハラハラ:2009/05/20(水) 18:48:17
そういえば、いざなぎもイザナミもスサノヲもどこにほうむられたか記されているのに
アマテラスが葬られたところは記述がないね。
686日本@名無史さん:2009/05/20(水) 19:13:59
だって、アマテラスは創作だもの。
687398:2009/05/20(水) 20:19:50
律令期の神祇省八神にも天照大神は入っていない。神祇省八神は、神皇産霊神、高皇産霊神
魂留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、御膳神、事代主神 で、これらの神は天皇を守護
するものとして御所の八神殿で祭られていた。こうしてみると、やはり天照大神は敬して遠ざけられ
てる感があるかも。

日向三代の御陵は、考古学的には欠史八代の陵墓(自然丘陵か後代の古墳)と同じく、意味のある
ものとは考えにくいが、瓊瓊杵尊の御陵については、宮内庁比定の新田神社のものではなく、北川市
可愛(資料なく正しい地名わからん)の経塚といわれる円墳とする説もあるな。

http://goryo3.hp.infoseek.co.jp/
688日本@名無史さん:2009/05/20(水) 20:45:45
>>685*686
>そういえば、いざなぎもイザナミもスサノヲもどこにほうむられたか記されているのに
>アマテラスが葬られたところは記述がないね。

伊勢の地は知ってますか?
イザナミもスサノヲは知っててなんでアマテラスは知らないwww
689日本@名無史さん:2009/05/20(水) 20:49:36
神祇省八神もそうだが、普通に文献を調べていけば、
高皇産霊神が主格の神で、アマテラスは後からとってつけた感があるのは否めない。

天岩戸神話ばかりが有名で、それしか知らないおこちゃまは、
アマテラスが最高神だと思い込んでても仕方ないっちゃあ仕方無いが。
卑弥呼に結びつけるならもっと理論武装してこいよと。wwwwwwwwwww


690サガミハラハラ:2009/05/20(水) 20:59:01
>>688伊勢にほうむられたということですか。文献等をおしえてください。
691日本@名無史さん:2009/05/20(水) 21:02:25
>>690
 唐松山さんに聞いてよ
692日本@名無史さん:2009/05/20(水) 21:09:52
>>690
竹内文書とかもよんでみなよ
693日本@名無史さん:2009/05/20(水) 21:20:41
良く皇祖神として奉られているのは天照じゃなくて高皇産霊だと言う説がある。
その根拠は一々ここでは列挙しないが

そもそもその設問自体に意味があるのか良く分からない話ではあるw

確かに公には天照を皇祖神としているわけだから
あとは祭祀におけるウェイトの置き方とかの問題じゃないかとwww

で問題の「高皇産霊神」は別名「高木神」
この名前自体が天孫降臨神話の故地である北東アジア出身であると言う話がある。
高い木に天上から神が舞い降りてそこに宿ると言ういわば「垂直の世界観」を示す物だと。

参考までに以下のものをあげておくPDFだが・・・

http://www.seikei2.juntak.net/2006/1108/handout_1108-2.pdf

>(1) カミは天上にあって、人間界へは山上、森、樹梢に降下してくるという
>カミの出現を垂直的に表象する信仰で、祭事における樹木、樹枝、柱はカ
>ミ降下の依代よりしろであり、また招代おぎしろであり、カミの座でもある。

結局のところ何が言いたいのかと言うと
天孫降臨神話においては「高皇産霊神=高木神」こそが主役であり
天照は後付けであったろうとw

太陽神天照は太平洋・東南アジアのいわば南洋系
高皇産霊神主役の天孫降臨劇は北東アジア系

東遷厨が一連の出来事を神話化したものとして妄想しちゃっているお話は
あくまで元ネタは別の二つのお話の合わさった物。

まあアホな妄想はやめときなはれwwwwwwwwww
694日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:04:07
>>690
だから、天照大神は神様だから死なない。
伊勢に鎮座していることになっている。

日本書紀によると、垂仁天皇の時代に、天照大神は始めて地上に降りてきた。
垂仁天皇の皇女である倭姫は、天照大神が鎮座される場所を探し回る。
伊勢に来たとき、天照大神が、ここは美しい場所だから、ここにいたいと
言って鎮座された、ということになっている。
695398:2009/05/20(水) 22:06:26
高木神ー上下する世界観ね。まあ、縄文巨柱と世界樹信仰の関連はよく説かれるところだ
し、縄文巨柱と弥生の鳥竿の関連も以前からいわれてる。実は俺のHNも、世界樹とは深い
繋がりのあるものだ。起源は揚子江中流域だが。

・・・このレスはおおかたの人には意味不明だろうな。
696日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:34:21
倭姫命は伊勢を天テラスさんを祀る場所に選んだけど
同時期に景行天皇は日向に出向いてるんだよね
697日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:53:04
>>694


日本書紀のその部分には、「天照大神が始めて天より降りた所」という記載もある。

まさか、君は東遷説じゃないよね?
東遷説だと、完全に矛盾するからね。


698日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:01:38
安本説のように卑弥呼=アマテラスなら
倭人伝で100歩余りと記された卑弥呼の墓は、すなわちアマテラス大神の墓ということになる。
安本説だと邪馬台国は朝倉市付近だから、アマテラス大神の墓もその辺りにあるわけだ。

ところがどうしたことか地元朝倉の連中は所在を忘れてしまっている。
神サマの墓なのに築造後、お参りやお祀りするのを誰もやろうとは思わなかったのかい?

で垂仁朝になって伊勢などという妙な所におやしろを造り、アマテラスを祀る。

そんな変な祀り方するなよ!
ちゃんとアマテラス=卑弥呼の墓を九州に探し出して、そこで祀れよ!

・・・・というわけで安本説は奇妙奇天烈の一語に尽きる。w
699日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:04:20
もういっじゃないか。済んだことだ。
700日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:05:52
安本は朝鮮人
701日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:10:21
終止符スレにレス数では負けるなよww

702日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:34:50
安本はもうだめぼ…
703日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:38:45
邪馬台国レベルの連合国は当時いくつかあったんじゃあるまいか。
北九州にも南九州にも畿内にも四国にも。
704日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:43:04
しかし >>622の宇佐で開かれた

「第5回 復活!全日本邪馬台国論争大会」も
安本センセイがコーディネーターって立場らしいよw

九州説のパイ全体が収縮していても
(まあ畿内説にしてもそもそも邪馬台国論争全体のパイが縮小はしてるんだろうがw)

そのパイを独占寡占の状態にできるなら結構いい商売じゃね?wwwwwwwwww
705日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:49:07
畿内説にしろ南ではないという致命的な弱点があるし、
一般人は、邪馬台国がどこにあろうと気にしちゃいない。
ズームイン朝で東京の女子高生に聞き取り調査をすれ
ば、邪馬台国の認知度は、ほぼゼロだと思う。
706日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:49:50
安本はまだまだやるぼ…
707日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:57:02
倭迹迹日百襲媛命は子宮がんもしくは膣の病気だと思うな
708日本@名無史さん:2009/05/20(水) 23:59:15
>>697
東遷説といってもいろいろあるんだろうが…。

記紀の立場からすれば、天照大神は神様なので、死ぬという結末には
したくなかったのだろう。しかし、天照大神が実在の人物の反映とすれば、
垂神天皇の時代にはとっくに死んでいる。

だから、天照大神が自分で「ここが良い」などと言うのはありえない。
垂神天皇の時代に地上に降りてくるというのもありえない。

当時の人々に、伝承に残っている天照大神を祀る場所を決めたいという
気持ちがにあったのだろうと思う。それが倭姫の物語となったのだろう。
日本書紀のこの部分は物語性がかなり強いと思う。

高天原は、古くから天上のことと考えられているが、天照大神が実在の人物の
反映とすれば、これも当然、高天原も実在の場所の反映であっただろう。

天照大神が地上に降りてきたとされる場所がどこであれ、東遷説とは矛盾する
ものではないと思う。
709日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:06:49
アマテラスは文字通り太陽を神格化した神だからな。

それを卑弥呼とか実在の人物と考えるのはおかしい。

ともかく俺が危惧するのは、宇佐神宮とかがとち狂って
「宇佐が邪馬台国だ、ヒメ大神が卑弥呼だ」などと客寄せに喧伝はじめたら最悪だなってこと。
そうやって、歴史は捏造されていくものだからな。

現実に、「カンナヅキ(神の月)」が、漢字表記で「神無月」とされてるところを、
出雲大社は「神有月」と称して、「出雲に神が集まりまる月ですよ」と、宣伝し、
見事に定着させてしまった。

「出雲に全国の神様が集まる」なんて伝承はどこにも無いっての。
710日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:14:10
>>708
垂神天皇は、垂仁天皇の間違い。
「すいにんてんのう」で変換したら、垂神天皇になってしまう。
711日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:19:37
終止符スレはなんであんなに低レベルなんだろうか?

昔は九州説でも、もっと骨のある論客がいたもんだけどな。

みんな九州説から卒業していったんだな。
712日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:30:54
>>711
オメー、そんなに昔から居て飽きねえか?
それに、ここも大して変わりねえぞ
713日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:31:15
>同時期に景行天皇は日向に出向いてるんだよね

しかし日本書紀を読んでも景行が日向で
「この地こそは我がご先祖様降臨生誕の地・・・」とか言っている事はないんだよなあw

全くのスルーと言うか日向で詠んだ歌は「国しのび」の歌で
内容的には大和を懐かしんだと言うかホームシックか?wwwwwwww
714日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:34:47
昔から続いている固定は、サガミに太国、王朝にプーぐらいか?
715398:2009/05/21(木) 00:38:00
まあ、古田氏、安本氏、奥野氏みな老いた。九州説では大学ポストなどの面でも厳しい
のではないかな?(よく知らん)地方教育委員会のポストなど限られたものだろうし、高島
氏は本当に運がよかった?
716日本@名無史さん:2009/05/21(木) 00:54:18
>>704
>第5回 復活!全日本邪馬台国論争大会

いったいどういうメンメンが論争?
ニュー速+の記事には出てなかったので調べたら
宇佐市観光協会のサイトにちょこっと載ってたっす。以下引用っす。

5月17日
古代史最大の謎邪馬台国の所在地を巡って邪馬台国ファンが自説を主張 論争する「全日本邪馬台国論争大会」を開催した。
この論争大会の最大の特徴は論文を発表する論者、会場の参加者がアマチュアであることが参加条件だ。
全国の邪馬国ファンから論文を募集し16人の応募の中から選考して5名が発表

東京都練馬区 元会社員役員 鷲崎弘朋さん(宇佐中津説)
千葉県山武市 農業 金田弘之さん(朝倉説)
大阪府吹田市 会社員 井上修一さん(日田・吉野ヶ里説)
鳥取県境港市 田中文也さん(山陰説)
鹿児島市 高橋ちえこさん(宇佐説)

が持論の研究論文を発表した。

コーディネーターの季刊邪馬台国編集責任者安本美典先生の巧みな発表者と会場のコーディネートにより大いに盛り上がって楽しんだ邪馬台国論争大会でした。
参加者も350名が集まり反響の大きさにビックリ。来年は一般の人も参加して楽しめる企画を考えたいも思っています。 ご協力を頂きました方々に感謝です。
http://www.usa-kanko.jp/blog/2009/05/post_7.html

アマチュアだけど案外有名な人もいるっすね。ww
717日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:00:43
こんな写真もあったっす。
ヒミコさまかイヨタンだろと思うけど、めっちゃピンボケっすよ。ww

http://www.usa-kanko.jp/blog/archives/1242602033_0.jpg
718日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:02:57
>>716
>安本美典先生の巧みな発表者と会場のコーディネートにより大いに盛り上がって楽しんだ

やっぱり「場慣れ」してるんだろうなあwwww
719日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:08:51
まあ宇佐つったら戦後だったか地元で作られた物に
「 MADE IN USA 」
といれてアメリカから文句が来ても突っぱねたと言う武勇伝があるらしいからなあwwwwwww



720日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:15:06
もっと詳しい記事めっけたっす。
読売新聞っす。まるごと引用っす。ゴメンナサイっす。ww

邪馬台国所在地を議論
23年ぶり全日本大会
 古代史最大の謎・邪馬台国の所在地を巡って持論を出し合う「全日本邪馬台国論争大会」が17日、宇佐市の宇佐神宮で開催された。全国各地の論者が語る諸説に、県内外約350人の古代史ファンが夢を膨らませた。

 点在する古墳などから「宇佐が邪馬台国だ」と主張し、1976年に発足したまちづくりグループ「新邪馬台国建設公団」(高橋宜宏総裁)のメンバーら実行委員会の主催。読売新聞西部本社など後援。

 論争大会はアマチュア研究者を集め、81年からの6年間に計4回開催。その後、途絶えていたが昨今の経済不況などの閉塞(へいそく)感を打ち破るには「笑いとユーモア」が必要と、23年ぶり5回目となる復活開催を決めた。

 論者は全国公募した17人から選ばれた東京都練馬区、元会社役員鷲崎弘朋さん(66)(宇佐中津説)、千葉県山武市、農業金田弘之さん(62)(朝倉説)、大阪府吹田市、会社員井上修一さん(59)(日田・吉野ヶ里説)、鳥取県境港市、
会社員田中文也さん(53)(山陰説)、鹿児島市、主婦高橋ちえこさん(64)(宇佐説)の5人。

 鷲崎さんは、宇佐神宮でまつる比売(ひめ)大神を挙げ、「日本書紀では天照大神の尊称を除いた本名はヒルメで現代語で言えばヒメ。卑弥呼も戦前まではヒメコと呼ばれており、卑弥呼と比売大神、天照大神は同一人物だ」と主張。

 田中さんは「畿内には銅たく、九州には銅矛、銅剣という定説があるが、すべての青銅器がそろう山陰地方が、弥生時代の中心」としながらも、「畿内、九州など場所を特定せずに研究することが日本文明の解明につながる」と訴えた。

 初めて参加した宇佐市の自営業吉用春孝さん(75)は「諸説があっていいし、それが邪馬台国の魅力。これから自分も勉強してみたい」と話し、
高橋総裁は「予想以上の反響。来年以降も大会を続けたいし、二十数年前に行っていた『春の園遊会』なども復活させ、暗い世相を吹き飛ばしたい」と意気込んでいた。
(2009年5月18日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/oita/news/20090517-OYT8T00743.htm
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20090517-783067-1-N.jpg
721日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:36:56
任那の歴史を取り合う日本と韓国の構図にそっくり
722日本@名無史さん:2009/05/21(木) 01:41:39
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20090517-783067-1-N.jpg

どこの老人会だよ・・・・・・・・・・・・・
723日本@名無史さん:2009/05/21(木) 06:47:12
>>716
伊都国が佐賀だと気づいた説はなさそうだな。
724日本@名無史さん:2009/05/21(木) 09:28:20
>>723
書類選考の時点で落とされたのでは?w
725日本@名無史さん:2009/05/21(木) 10:36:13
おまいら邪馬台をヤマタイと読んでいない?

歴史の先公はアホばかりだからな騙されるなや

「ヤマト」と読めや

魏志の国名を下に挙げるがみな2−3文字だで

斯馬 巳百支 伊邪 都支 弥奴 好古都 不呼
姐奴 対蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 為吾
鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 奴 狗奴

これで分かっただろ ヤマトは山(三輪山)ふところの大倭 大和だということが

九州説のアホの安本は早く死ねや
726日本@名無史さん:2009/05/21(木) 10:53:13
1文字や4文字があることに気づかなかったのか?
727日本@名無史さん:2009/05/21(木) 10:55:02
台は「と」と読め
728日本@名無史さん:2009/05/21(木) 11:24:28
>>725

>「ヤマト」と読めや


読めない。
「ヤマト」はそもそも、漢字表記“大和”の意味。
で、その大和は
漢語表記「大倭」の音(ダイワ)を、日本で“大和”と漢字に置き換えた。


だから邪馬台をヤマトと読む事はできません。
729日本@名無史さん:2009/05/21(木) 11:29:11
>>728

でたらめも酷すぎる。
730サガミハラハラ:2009/05/21(木) 11:35:52
奈良県の大和(ヤマト)は、福岡市西区の山門の移植ですよ。今でも下山門の駅があります。
ここはかつて山門の庄がおかれていたところで、近くに日向という地もあります。
神武はここで生まれ育って、奈良に移住しても故郷のヤマトの名を新天地につけたのです。
731日本@名無史さん:2009/05/21(木) 12:04:53
なるほど、わかりやすい説明だ。結局は単純な説がもっとも的を射ているんだろうな。
732日本@名無史さん:2009/05/21(木) 13:20:37
>>730

現代では日本語の母音は5つしかありませんが、
古代では日本語の母音は8つあったことが知られています。

記紀成立の時点まで「イ・エ・オ」に対して甲乙2種類の母音を使い分けていました。

「ト」の場合、
「門」は甲音の「ト」を表し、
「登」は乙音の「ト」を表します。

九州の「山門」は、甲音の「ト」であり、
大和の「夜麻登」は、乙音の「ト」であります。

この違いを区別していたことに留意しないと、古文献を読むことはできません。

>>730は古代史を語る資格はありません。
もと教員だそうですが、教員免許も返上すべきです。




733日本@名無史さん:2009/05/21(木) 13:35:55
女児に悪戯する教師に比べれば、まだまだ修行がたりませんので
免許返納には及びません。
734サガミハラハラ:2009/05/21(木) 13:54:23
それは昔の話です。
時代をへるにつれ、もとはA音だったのがα音に変化することもあります。
もとはヤマタァだったのがヤマトと変化する場合もあります。
この場合がどちらが(九州か奈良か)変化したのかはわかりません。
735日本@名無史さん:2009/05/21(木) 14:39:49
わからなきゃ出てくんな馬鹿教師
736日本@名無史さん:2009/05/21(木) 16:41:34
>>734

本人もわからないと認めてる説明を信じて納得しちゃう>>731は、
まあ、サギには気をつけろよ。
壷とか、マイナスイオンとか、抗菌とか、九州説とか。
737日本@名無史さん:2009/05/21(木) 18:05:41
じゃあ畿内説は見つけた見つけた詐欺だな
738398:2009/05/21(木) 20:27:28
まあ、倭人伝は倭語をなるべく一字一音で表そうとしている感じはあるがな。だから「ヤマ
タイ」なら、「邪魔太異」とか書きそう。これは邪魔で異常な太国という意味ではないよ。ww
冗談はともかく、「一大率」が一字一音と思えないのは、何か意味があるんだろう。
739日本@名無史さん:2009/05/21(木) 21:35:19
音に関してはそこまで厳密なのかねぇ
日本だってイギリスとかスイスとかオーストラリアとかの当て字には
?だったりするわけだし。
740サガミハラハラ:2009/05/21(木) 21:36:30
>>735わからないとかかないと、わからないことがわからないじゃないですか。
741日本@名無史さん:2009/05/21(木) 21:50:33
邪馬台国と書いて「ヤマタ国」と読む。
全国200万人の山田氏の祖先。
742改め:2009/05/21(木) 21:51:50
それゃないわw
743日本@名無史さん:2009/05/21(木) 21:53:31
山田という姓は近畿に多いわけだが。
744日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:24:32
>>730
>神武はここで生まれ育って、奈良に移住しても故郷のヤマトの名を新天地につけたのです。

大和と山門、どっちが古いのか
…なんて事を知る手立てがあるのか?

つうか「倭名抄」とやらに見えるYamatoの地名はその二つだけなのか?

まあ結局これも神話頼みで東征神話がある以上西から東と言う流れだと強弁するんだろうがw

そもそも、古儀には「大和」とは三輪周辺のことだったと思うが…

それだけ懐かしんだんなら何故大和=三輪周辺でなく橿原で即位したのか?

日本書紀にも神武は都造りにさいし
「畝傍山の東南の橿原が都に相応しい」と言う旨を言っている。

つうか名前に磐余(いわれ)と言う地名がつけられている時点で話のオチは見えていると思うんだがwww
745日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:28:07
好古都は博多で対蘇は鳥栖じゃない?
746日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:36:51
大和はどうみても当て字だろ
やまと=山?ってことになる
747日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:37:09
そもそも神武は日向の出身であって、
北九州の山門とは何の関係も無いんだけどね。
東征ルートにも入ってないし。

どうして>>730みたいなウソがつけるのか理解に苦しむ。
748唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/21(木) 22:43:42
ホツマによると
大和は山後川の水源地
神武が橿原で即位したのは、大物主と春日で都造りをするより
よその土地で(紀の国)独立したかったから、春日を1年弱で離れ
橿原の地(畝傍山に遮られ大和の湖は見えない)を紀の国と思い
この地の明日香川辺に環濠を作り移り住んだ。
749日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:46:03
>>748
ホツマも怪しいものだが、
資料を引用してるだけ、サガミハラハラよりはマシだ。
750日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:06:53
甘木周辺に橿原って地名あったっけ?
751日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:17:05
サガミハラハラは人として終わってると思う。
752日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:21:56
そもそも「大和」と書いて「ヤマト」なんてのも変なんだよなあ
後付け感が目一杯漂ってくる
753398:2009/05/21(木) 23:31:21
「大和」の漢字が使われ出したのは8世紀といわれてる。
754日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:35:12
邪馬壱国=サマリハン国 と読むらしいが 「サガミハラ」とは関係ない(笑
755389:2009/05/21(木) 23:36:24
wikiより引用

>奈良中期の737年(天平9)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養
徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19)には再び「大倭国」へ戻さ
れた。そして、752年(天平勝宝4)もしくは757年(天平宝字元)橘奈良麻呂の変直後に
「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。
756日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:39:09
 倭(やまと、わ)→大倭(大いなる倭、大は美名)→大和

・・・でなんか問題あるのか?

倭=山門とすれば如何にもスケールダウンした感は否めないと思うが?w

畿内ヤマトによって貶められたか?
一度は抹殺されたが人々の記憶に残っており
それがかかる文字として表現されたか?

何れにせよ色々ストーリー考えなきゃならないわけwww


757日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:49:50
>>756


>大いなる倭


大きい倭、大きな倭
(大、中、小)の大です。
758日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:53:38
大和の「ヤマ」は「山」がコンセンサス。
「ト」は学会でも意見が分かれている。


ソース:英語版wiki
759日本@名無史さん:2009/05/21(木) 23:56:57
「倭(わ)」は当時の中国人が日本人を呼んだ蔑称。

「やまと」は当時の日本人が呼んだ、当時の日本国の名前。

だから、日本人は中国語の「倭」を「やまと」と読んだ。

「やまと」を、中国人にもわかるように正しい発音の漢字に訳すと、
「夜麻登」となる。

「門」は甲音の「ト」を表し、
「登」は乙音の「ト」を表すので、山門は畿内のヤマトとは同一地名ではない。

ここまでは常識。

760日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:00:55
>>759
でたらめ、つーか中学生?
761日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:01:42
記紀に出てくる、人名を調べてみればすぐにわかるが、
「やまと〜」と名前が付く人は、みんな畿内の人。
九州在住の人で「やまと〜」と名前がつく人は一人もいません。

九州の人は、「やまと」という地名を名前につけるのを止めちゃったんですか?ってこと。


762日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:04:20
>>760
だったら何処がでたらめかちゃんと教えてあげないと。
763389:2009/05/22(金) 00:25:22
「大和」の用字がされたのは、「日本」国号が制定されて「倭」の字が忌避されたからでない
の?まあ、旧唐書の記述はいろんな点で興味深いが、

>日本国は倭国の別種なり。
 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
  あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
 あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
 その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国焉れを疑う。

九州王朝をはびこらせた罪は重い。
764日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:27:47
倭=ウィ だよ
漢委奴国=ハンウィラクゥ
765日本@名無史さん:2009/05/22(金) 03:52:32
>>759
甲音の「ト」と乙音の「ト」って実際に発音はどうちがうの?
766日本@名無史さん:2009/05/22(金) 07:05:40
漢字で表記された「大和」の意味が “やまと”
767日本@名無史さん:2009/05/22(金) 09:07:20
>>765

「登」「門」「台」の発音の比較が出来れば、邪馬台国の場所はすぐにわかる。

「台」を「ト」と発音したとして、「登」「門」のどちらの発音に近いのか、
中国語を研究すればわかるはずなんだが。
そういう研究報告は聞かないな。
768日本@名無史さん:2009/05/22(金) 11:10:43
>>763
>九州王朝をはびこらせた罪は重い。

烈しく同意。
769日本@名無史さん:2009/05/22(金) 11:35:11
発音に拘るのは何か違うと思う。
今の日本をきちんとした発音で「にほん」とか「にっぽん」と言えてる言語があるの?
うちで雇ってる中国人留学生なんか「ありがとうございます」すら満足に言えないよ
770日本@名無史さん:2009/05/22(金) 11:49:35
◆邪馬台国は島根だろ!
日本の八百万神の神々が集まる所、
<邪馬台の大蛇>がいて草薙の剣、
後にヤマト朝廷に国譲りをした所!
日本最大の大社をヤマト朝廷造らす出雲!
771ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/22(金) 12:19:16
邪馬台国の読みがやまとだったとしても実際に日本人が
やまとって言ったかどうか。ミランダ王だって彌蘭でダ
が抜けてるし。
772日本@名無史さん:2009/05/22(金) 15:47:49
>>768
畿内説が存在することの罪の方がはるかに重い。
古代史的にも考古学的にも。
773日本@名無史さん:2009/05/22(金) 17:57:53
>>772

烈しく同意。
畿内説のクズどもが日本の古代史や考古学を低レベルにしている。
774日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:46:11
■大阪府立弥生文化博物館 講演会
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html

大阪・滋賀博物館連携企画特別講演会
5月23日(土)

◆「卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」

奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長  寺沢 薫 氏

◆「鼎談 卑弥呼の居処[すみか]とその周辺」

奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長  寺沢 薫 氏
滋賀県立安土城考古博物館学芸課長     大橋信弥氏
当館館長                       金関 恕

時 間:午後2時〜4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場 所:当館1階ホール
定 員:170名(当日先着順)
聴講料:無料(要入館料)

大阪府立弥生文化博物館 大阪府和泉市池上町4丁目8-27(JR阪和線信太山駅から西へ約600m)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/

◇新型インフルエンザ対応について

大阪府立弥生文化博物館は、現段階では博物館所在地(和泉市)が、患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となっていない段階のため、通常どおり営業しています。
23日(土)講演会、24日(日)ミュージアムコンサートも現時点では開催する予定です。
なお、感染拡大防止のため、当館職員はマスクを着用させていただきます。また、ご来館者の皆さまにおかれましても、マスク着用等にご協力くださいますよう、お願いいたします。
今後博物館所在地が患者所在地および患者が発生した学校等の所在地となった場合は、臨時休館する場合があります。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/infuru.html
775日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:46:31
>>763> 九州王朝をはびこらせた罪は重い。
そんなの蔓延ってないし。ごく少数のカルト。
776日本@名無史さん:2009/05/22(金) 18:58:17
>>774

宣伝、乙。w
777日本@名無史さん:2009/05/22(金) 19:02:42
畿内説ってのは、△鏡を舶載とかいうカルトの集まりだよな。
778日本@名無史さん:2009/05/22(金) 19:34:53
九州説と言う愚かな説は人食い人種の熊襲の王朝があったと言うオカルトだね。
779九州王朝大好き:2009/05/22(金) 19:50:10
「梁書諸夷傳扶桑國条」を何故無視するの?

@『扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東』
A『扶桑葉似桐 而初生如笋 國人食之 實如梨而赤 績其皮爲布以爲衣 亦以爲綿』
B『有文字 以扶桑皮爲紙』
C『名國王爲乙祁』
D『車有馬車牛車鹿車 國人養鹿 如中國畜牛』
E『其地無鐵有銅 不貴金銀』
F『其俗舊無佛法 宋大明二年(458) [冠网厂垂扁炎旁右剣]賓國嘗有比丘五人游行其國 流通佛法 經像 教令出家 風俗遂改』

上記@〜Fを統合して考えると、
扶桑國は播磨國の様に思えてならないのだが。
780太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 20:33:30
>>779
ローガンの野郎もそこの梁書の既述をネジ曲げて、妄説を防衛
いている。こいつも古代史のガンだ。
この書に対する奴のつつき方が尋常ではない。
781:2009/05/22(金) 20:38:14
九州王朝さん
こいつっていうのはあんたではなくローガンのことだよ。

訂正
× 既述
○ 記述
782日本@名無史さん:2009/05/22(金) 21:07:14
>妄説を防衛いている
おま、人として壊れ取るだろ? これなんじゃら?
783太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 21:15:45
スマン
「防衛している」と書きこんだのだ。目が悪いんで訂正が多くなる。
784389:2009/05/22(金) 21:28:00
ま、有名なのは扶桑国=
785389:2009/05/22(金) 21:36:11
スマソ、扶桑国=メキシコ説で、18世紀にフランス人地理学者が発表した。これは「南史」
についての研究だが。これをもって、中国人アメリカ大陸発見説を今だに唱える人がいる
ね。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/mex.htm
786太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 21:43:08
邪馬台国がジャワやタイとかにあったというのと似たようなもの。w

ローガンはミクロネシアやポリネシア、ハワイとかのような妄想を
主張してる。あいつが違うと言ったんなら、499年ころに日本が
ミッドウエー海戦地域あたりに存在していたような口ぶりだ。
あいつは支離滅裂の状態。w
787日本@名無史さん:2009/05/22(金) 21:45:16
しかし、魏志倭人伝のどこに、邪馬台国が日本にあったと書いてあるんだ?
788太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 21:52:25
梁書の「乙祁」とはオケ=袁祁(顯宗天皇)のことだよ。倍暦計算で

 永元元年=499年=顯宗即位元年=皇紀1145年(乙丑)

だ。倍暦だから、通説とは14年のズレが出る。
この即位年は干支が「乙丑」で、十干が名と一致している。
789太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 21:54:06
>>787
オマエ、邪馬台国火星説も通用する言い回しはやめろ。
790日本@名無史さん:2009/05/22(金) 21:58:47
火星にあったんですか?>太国説
791九州王朝大好き:2009/05/22(金) 22:00:45
>>780
梁書は大和説潰しの材料です。
播磨風土記も。
@梁の東1400kmに扶桑國がある。
A扶桑即ち青桐の利用術に長けている。
B木簡竹簡ではなく扶桑の皮の短冊に文字を書いている。
C播磨にいた弘計or億計の名前がある。
D鹿の飼育(春日大社の神鹿があるが)
E銅山があり銀金も豊富に採掘
F播磨では、大和に播磨から仏法が伝わる100年も前に仏法が伝わっている。

その他記載事項にも播磨の風俗と見られる記述があります。
継体以前には大和はあらゆる面で播磨より遅れていた。武力は圧倒的に継体の勝。
又、播磨國は684年までは、九州王朝からもある程度の独自性を維持していたようです。
792日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:04:51
なんだサイキバ博士の説かよw
793日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:08:58
>>791
>梁書は大和説潰しの材料です。

まあ倭人伝をきちんと『 連続式 』に読んでいるのは評価できるなw

当たり前と言えば当たり前なんだがwwwwww
794日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:18:24
梁書が連続式だって? どこからそんなことが言えるんだ?
795日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:20:14
まあ今日の畿内説の隆盛といっても殆どの学者は積極的にと言うより
「なんとなく空気を読んで」と言うのが実情じゃないだろうか?w

積極的に畿内説を支持しているのはごく一部。
もっとも積極的に九州説を支持しているとなると更に小数なんだろうがwwww

九州王朝説が蔓延っているなんて思わないが
これから邪馬台国九州説は九州王朝説的論法と言うか芸風を色濃くしていくだろう。
特に市井の好事家、更に言えばネット上では拍車がかかるwwww

(「南といったら南!」「九州で100万人に迫る人口でも問題なし!等々…)

796日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:30:22
ま、邪馬台国論争は一人一説とも言われるから、なかなか噛み合わないな。
797日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:32:58
そうそう、先に母音の発音の問題が出ていたが・・・

これはスレ違い、ないしは俺の記憶違いかもしれんが
タイヤのメーカーを「ブリジストン」じゃなくて「ブリヂストン」と表記するが
「ヂ」の発音は九州人ならナチュラルに発音できるとか何とか大昔聞いた記憶があるが
誰か知らないかな?

まあこの板でも九州説論者は九州人とは限らないと言うか九州以外の人間が多そうだがwwwwww

798日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:33:28
邪馬台は九州にあって大和は畿内にあったと。
それでいいじゃないか。
799日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:38:27
川村明氏の九州王朝説批判。
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

大変な労作だが第1章「中国史書の「倭」と「日本」」だけでも読めば
いかに古田の論理が出鱈目で破綻しているのかが判る。

第1章だけでも読めば為になる。
古田の批判されるべき点が判ると同時に奈良平安期における日唐外交の
史料と詳細とが自然と身につく。l読んで損はない。
800日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:39:55
そんなもの読まなくたって古田の説が破綻してることぐらい分かるよ。
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 22:40:11
>>790
そんなの大妄想だろうが・・・。wwwww
802日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:40:56
>>795
たしかに学問というより、思想・イデオロギーの対立の方が前面に出ている面がある。
左翼全盛の戦後の旧体制がいつまで続くことやら。
803九州王朝大好き:2009/05/22(金) 22:41:55
>>793
>まあ倭人伝をきちんと『 連続式 』に読んでいるのは評価できるなw

何の事?
自分では放射式と思っていますが?
伊都國と不彌國が分岐点の読み方。
804日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:48:14
>>798
その邪馬台と大和が、関係あったのかなかったのかが大問題。
805日本@名無史さん:2009/05/22(金) 22:50:14
>>803
梁書諸夷伝で邪馬台国に至るまで頭に「又」の一字をつけて明確に連続式で解している
(御覧引倭人伝も同じ)

これすら放射式に読むというのは聞いたことが無いが?


806ローガン:2009/05/22(金) 22:57:59
アホの太国のおっさん。昨夜は悔しくて寝られへんかったみたいやな。場所を変えて中傷か?あほ。


まあ、すまん。悪いことしたな。 お前に対していつもはそんなことはしないのに、昨夜はついうっかり、まともな人相手の会話のノリで書いてしまった。許せ。
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 22:58:14
通常暦法でやっても倍暦でやっても、天皇と五王の年代がかみ合っ
たことはあまり聞いたことがない。つまり五王は九州の王なのだ。
808389:2009/05/22(金) 22:58:33
>>795
まーねぇ、倭の五王にしても隋書の記述にしても、もちろん邪馬台国にしても明快な証拠つ
きで完全解明が期待できるものではないんで、九州王朝なども細々ながらいつまでも残る
んだろう。ただ、引退して趣味で古代史やってる人ならともかく(コテハンさんには多そうだが)
俺ら大学生だと、奇矯の説では生きにくい世の中になってきてると感じられるね。常識的な方
向へと収斂していく流れがあるというか・・・。今後古田氏のような人が出てくる素地は少ない
んでないかな。

それはそうと、こないだ簡体中文を日本の表記に変換するソフト(翻訳でない)を導入して
からパソコンがおかしい。中国製マルウエアがあるようだ。・・・中国初中等教育の賜だな。
809日本@名無史さん:2009/05/22(金) 23:00:21
>>802
確かに戦後、戦前への反発等の理由からマルクス史観が流行ったのは間違いないんだろうが
じゃあ今日の畿内説の隆盛は単にその遺物・・・なのかどうかだなwwww

このスレの九州説カルトの連中にすれば
左傾化しまくった現在の畿内説を支えている老人が消えれば九州説も
もっと日の目を見るって事なんだろうが・・・

まあ下らないガキの妄想、陰謀論の類だなw

現に吉野ヶ里ブームの頃は九州説も流行っていたじゃないかwwwwwww

自分達の立場の困窮振りを「言われなき迫害」とかに摩り替えるのはカルトの特徴w

オームはアメリカに攻撃されていたとか言っていたし
手鏡で痴漢行為を働いていた大学のセンセイは
「府にとって舌鋒鋭く政府を批判する自分の存在を看過できず冤罪を仕組んだ!」
とか言ってたなwwwwwwwwwww
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 23:02:32
>>806
よーく寝られたぜ。オマエのほうが寝られなかったんだろうがね。w
「乙祁」は即位年の干支も適合し、顯宗天皇である。

運転時右で曲がるときに左にハンドルを切るのがオマエの習癖だろ。
危なくて同乗できはしない。
811日本@名無史さん:2009/05/22(金) 23:09:53
>>808
なんでも松本清張は今年で生誕百年らしいがw

松本清張によって一気に大衆化されたかつての邪馬台国論争ってのは
長い目で見れば一種の「 学問的モラトリアム 」だったんじゃないのかとも思っているwwww

まあある意味世知辛い世の中になっちまった・・・とも言えるのかな?w

まさかとは思うが、古田や安本みたいに一発当てて…なんて夢を見ていないだろうな?wwwwww

812太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 23:25:36
>>810
倍暦計算で

 永元元年=499年=顯宗即位元年

だ。つまり通説での即位485年と14年の差があるのだ。だから顯宗
即位年を485年にしちゃうと編年は失敗するだろう。

そして真の(倍暦)485年は雄略世の通説の辛亥年の471年なのである。
即ち

 皇紀1131年=通説の西暦471年(辛亥)=雄略15年=485年(倍暦)

となり

 471+14=485年

である。通説の471年は、真は485年なのである。そして稲荷山鉄剣
の銘文の辛亥年は実は

 雄略元年=471年(辛亥):倍暦計算

となるのだ。鉄剣の銘文は雄略元年を書きこんだものと考えている。
813389:2009/05/22(金) 23:27:58
まさか。www まあ、古代史などに対する世間の関心自体がもはや期待できないんだろう。
こないだの宮ア 康平氏をモデルにした映画でも、起爆剤にはほど遠いようだし。も少し中
国語を頑張ってみるか・・・。
814日本@名無史さん:2009/05/22(金) 23:28:23
>>805
「又」の字をつけたら連続式になるのか? なぜ?
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/22(金) 23:42:24
オーヤオヤ〜〜ローガンの野郎逐電か〜?ww
1回書きこんでひっこんだか? 紀脳か?だれかをしつこく呼び出し
てたのにねぇ〜。眠れない云々言ってたから、そうとう余にやられて
寝られなかったようだな。ww くやしいらいく、最後は小細工まで
して不良行為論の捨てゼリフで消えたんだったけねぇ〜。ww

妄想が脳内でショートしてるんだろう?ww
816ローガン:2009/05/22(金) 23:51:12
>>810
> 「乙祁」は即位年の干支も適合し、顯宗天皇である。


おい、アホのおっさん。ほんなら、即位年の十干がオオキミの呼称として、民が使ったとする例を複数挙げてみ。
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 00:00:22
ま〜だ頑張ってるんだねぇ? 大阪弁かね〜?
相当くやしいらしいなぁ〜? いいのかいな、寝られなくなるぜ。
まあ余も0時ころになるから、さすがもう寝るがね。z
例もクソもないぜ。梁書の乙祁は乙丑年即位の袁祁(=顯宗天皇)
だよ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

崩したけりゃぁ、自ら編年して大陸文献の五王の記述と合理的に
合わせてみな。できるならね。明日以降でいいよ。あまり興奮
すんなよ。合わせられないと想うよ。五王は天皇ではないからzz
それから不良の小細工はやめたほうがいいね。zzz
818ローガン:2009/05/23(土) 00:13:05
>>815

幼稚なカスが!屎生意気な事をぬかすな。アホ。
お前に歴史は無理だ。
819日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:13:37
>>814
ん?
そりゃ前段部分をうけて「そこからまた(ふたたび)・・・」と言う意味だと思っているが?

じゃあお前は倭人伝に見える「又」をどう解釈しているんだよ?

そもそもこれで放射説の介在する余地があるのか?
今の今まで聞いたこともないし

御覧引の倭人伝は内藤湖南も「すっきりした読み方」として高評価しているわけだがwww

つうか今更こんな話が出てくるのがしんじられんわwww


820日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:17:11
>>819
で、すっきりと倭人伝の記述を辿っていくと、どこに行き着くのかな。
821日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:23:33
>>820
馬鹿を甘やかすのもいい加減しんどいw

あとは自分の脳味噌を使って感げろカスwww

取り敢えず梁書や御覧を放射説で読み解くと言う超アクロバットをやってみてくれw





822日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:33:47
>>821
伊都国から先は、こう読むんだよ。「又は・・、又は・・」、これこそ放射式
を書いてることになるじゃないか。
823日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:35:38
>>818
> お前に歴史は無理だ。


今頃気がついたのか・・・・
824日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:41:17
>>822
伊都国の前までも「又〜」が出てるがどうする?って話だ馬鹿が。
自説にあわせて伊都国からの読み方を変えるのか?

ガキが悔し紛れでその場しのぎの屁理屈言っているんじゃねえぞカスw

825日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:49:18
>自説にあわせて伊都国からの読み方を変えるのか?
そのとおり。いかんか?
826日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:52:37
中国人でも放射説は指示してないのに、、、
827日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:53:10
>>825
それはお前の自由w
だがお前の説に同意できない者にはその読みもできないって話だなwww

 放射説=特定の目的を持ったお仲間にしか通用しない説

で終了だなwww
828日本@名無史さん:2009/05/23(土) 00:56:02
>>826
まあ名前は失念したがいることはいるらしいw

ただ日本の邪馬台国論争について地理やその他の情報を得ている人間の話だから・・・

日本の邪馬台国論争について地理その他一切の先入観を持たない中国人に読ませたら
果たして放射式で読む人間が出てくるものやら・・・w
829日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:05:40
まあ、屁理屈なんてのは、何とでも言えるものよ。
ただ、真面目に言えば、梁書が明確に連続説だなんてのは、書き方に差異を認める立場に
立ってこそ、言える話だ。倭人伝が書き分けているのを「特別の意味はない」と言いなが
ら、梁書は明らかに連続式だなんてのは、その主張自体自己矛盾だということ。
梁書が連続式だというならば、それとちがう書き方をしている倭人伝は放射式ということ
にならざるをえんだろ。
830九州王朝大好き:2009/05/23(土) 01:07:34

現代シナ人にとっては、7世紀以前の漢文は、日本人以上に外国語。


「又」は読み手の自由裁量に任せる為に入れてあるんだよ。
831日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:14:21
>>830
いくらなんでも裁量し過ぎ
832日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:32:35
>>799
最近、テレビで取り上げられる、
「西の倭国を、東の日本国が併合した」
「東の日本国は、もともとは小国であった」

これの解釈で抜けているのは、
中国の著者は、こんなこと言われても「倭国の使者=日本国の使者」と認識しているし、
また「倭国の使者は、倭国という名前が嫌だから、日本国に変えてくれ」と
言っている文も登場すること。
つまり、なんだかんだ言っても、中国人は、倭国=日本国というふうに解釈している。

これは、自分の推測だが、この日本の使者の言い分から
もともと倭国という名称は、大和王朝誕生以前からの
おそらく、出雲王朝とかが使っていた日本列島の名称だったんだけど、
大和王朝が出雲王朝を併合した後も、ずっと倭国という名称を継承していた。
しかし、この名前は、自分たち大和王朝が誕生する以前からの名称なので
そろそろ、違う名前「日本国」に変えてくれないか?
嫌なんだよ、倭国という名称が。ってことだろう?

だから、邪馬台国の頃の倭国は既に、大和王朝の倭国だし、
ただ、紀元前に中国に使いを送っていた国の中で主導していたのには
出雲王朝の倭国があったかもしれない。
833日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:39:18
あと、安本氏とか、すごく神武東征神話にこだわるが
彼らは、ちゃんと文献を読んでないけど
大和王朝が出雲を併合したのは、
神武東征よりも、もっと前の時代の話だ。
そして、それは、神武天皇の曽祖父のニニギ命の時代の話。

その後の倭王武の上奏文や、西の倭国、東の日本国の話などから
出雲を併合した高天原というのは、出雲よりも東にあった可能性が高く
それは、おそらく、葛木の高天だろう?って思う。
834日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:45:46
まあここの板みたいな極端な事は無くとも
邪馬台国九州説と九州王朝説、東遷説の垣根はどんどん低くなって
一括りで語られる事が多くなるんだろうなw

先にも宇佐のシンポを安本先生がコーディネイトしたなんて記事もあるし・・・

で、一般人はどうしても引いちゃって、ますます九州説全体がイロモノ扱いされていくと言う悪循環とwwww

835389:2009/05/23(土) 02:03:37
>>833
まあね。記紀を論拠に用いる者ほど、記紀の記述に忠実に解釈しない。自説に都合のいい
とこどりなんだな。しかし記紀は本来そのように扱うべきものじゃない。だからそれが気に入ら
なくて、402のような神武 前600年実在説なんか出したりしてる。国譲り=併合かどうかはと
もかく、奈良と出雲の関係は極めて古いものだよ。

836日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:09:01
>>835
>奈良と出雲の関係は極めて古いものだよ。

俺は畿内説だが、
出雲との関係が深いという理由がわからないんだが、
どういう根拠で、そういう考えをしてるの?
三輪の大物主だけ、っていうなら、根拠薄弱だと思う。
考古学的な物証が何かあるの?
マキムクから出る山陰系土器にしても、けして多くないし。
837日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:16:15
>>835
そう、記紀に拘るやつほど、記紀をちゃんと読んでない。
大和王朝、というか、高天原が出雲国譲りしたのって
神武東征よりも前の話だからw
つまり、神武東征よりも以前に、高天原によって日本は統一されている。

その後、高天原の王族の出身であるニニギ命が、九州の高千穂に派遣される。
ちなみに、神武天皇が九州から大和へ遠征した時、
大和の地元の豪族によって助けられて、ナガスネヒコに勝っている。
その協力した豪族たちは、神武の親戚だったりしているw
また、神武さんも、自分は、あなたがたと同じ天津(高天原)の出自で
しかも天孫(高天原の王族)の出身だと言っているわけで。
838日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:23:58
出雲の取り扱いについては十分注意が必要だろうな。

雲太和ニ京三…と歌われたと言う出雲の巨大神殿にしても平安時代にもあったもの。
要するに記紀における出雲の重視ぶりはなんの事は無く記紀編纂時の政治状況の反映の可能性もあるんジャマイカ?w

確かに前方後円墳の葺石は出雲の四隅からとか言う話もあるが
でも出雲は前方後方墳が多い地域なんだしw

相当な難問wwwww
839日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:24:15
>>836
たぶんだな、仮に
出雲から大和に覇権が交代したとしたら、
紀元前1世紀か、紀元1世紀くらいの話だと思うんだがな...

考古学的には、四隅突出墳丘墓の分布、
紀元前1世紀中頃から、広島県の三次盆地で発祥し、
紀元前1世紀中に、島根県東部・鳥取県に広がり
それが、日本海沿岸部の広範囲に広がるんだわな。

まあ、纏向遺跡の時代の頃には、とっくに出雲は平伏していると思う。
魏志倭人伝に登場する投馬国は、出雲国だという説もあるし。
840日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:33:26
>>838
系図から解釈したら、出雲国譲りの条件は何だったのか、だいたいに見当がつくけどね。
それが、近畿王朝の皇位の正当性になり、
その正当性が、神武皇統には微妙になかったんだろう?(皇室が隠したこと)

古事記のほうでは、出雲国譲りの条件では、
出雲大社の建設が条件みたいになっているが
それだけじゃない、大倭王を誰に継がすのかというのも条件にしたように思う。

旧事本紀とかにも記載されているが
出雲大国主の娘の天道日女命が、天火明命(ニニギ命の兄貴)に嫁いでいて
二人の間に、天香語山命(大和三山の名称にもなっている)が誕生している。
彼に継がせることが条件だったのでは?

ちなみに、出雲大国主が、娘婿の天火明命に降伏する話が
播磨国風土記に残されている。
つまり、ここで、出雲国譲りの高天原(葛木の高天)側の主役が誰なのか
明らかにされているw
播磨国風土記をぐーぐれw
841日本@名無史さん:2009/05/23(土) 02:52:32
>>839
考古学的に、奈良盆地がどんな様子だったかを考える必要があるんじゃないかな。
纏向以前に奈良盆地にあったとされるのは、唐古・鍵遺跡だが、これは
畿内説の考古学者からも見捨てられている。
掘っても掘っても、石器しか出てこない。

奈良盆地は近畿地方でも後進地域だったわけで、とても大きな勢力の存在する
場所ではなかった。
となると、纏向に期待するのだろうが、では纏向はいつ頃誕生したのか。

そういうことを踏まえて、神武東征などは考える必要がある。
842日本@名無史さん:2009/05/23(土) 03:02:47
>>841
今、纏向遺跡が邪馬台国の可能性が強まっているという話だが
もし、そうならば、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命のことであり、
だとすると、神武天皇は西暦1世紀中頃の人ということになる。
これだと、神武東征も西暦1世紀中頃でしょう?

また、出雲国譲りは、紀元前1世紀くらいということになる。
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)は、この時代くらいに高千穂に降臨、
彼の兄の天火明命が、葛木の高天の王で
出雲を併合したと可能性があると思う。
843日本@名無史さん:2009/05/23(土) 03:17:55
>>842
神武天皇が紀元前の人だとすれば、どこに住んでいたのかが問題かな。
それらしき遺跡は見つかっていないから。
唐古・鍵遺跡は、登呂遺跡のような農村集落だと思う。
100年ほどかけて、ものすごい発掘調査をしたけど、結局、見捨てられた
ようなことになり、畿内説の人もほとんど話題にしなくなった。
844日本@名無史さん:2009/05/23(土) 03:43:37

「唐子鍵は畿内説の学者にも見捨てられた」

…どういう意味なのかさっぱり分からんわwww
845日本@名無史さん:2009/05/23(土) 04:03:18
>>844
唐子ではなく唐古。字を間違えるほど、認知度も低いということだろう。

以前は、自生説といって、大和朝廷は奈良県で芽生え、発展したというのが
あった。その期待を目いっぱい受けて調査されたのが、唐古・鍵遺跡。
ここの人々が纏向に移ったのだということだった。

でも、今はそんなこと言う人はいない。連合説なんてのが主流。
畿内説の考古学者からも振り返られなくなった遺跡と言っていいんじゃ
ないかな。
846日本@名無史さん:2009/05/23(土) 04:19:07
かといって、じゃあ大和以外からのクニレベルでの人口流入があったのか?と言われれば
今のところそんな話も聞かないw

言っているのは東遷説論者ぐらいかな?www

自生・外来と言ってもそれはもっぱら文化的要因の話ではないのかな?

847日本@名無史さん:2009/05/23(土) 04:31:25
>>843
神武天皇が紀元前の人とは言ってないのだが。
なかなか、2ちゃんにざーっと書いただけじゃ
何を書いているのか分からないと思う。

まあ、纏向遺跡が邪馬台国の都市なら
神武天皇は西暦1世紀の中頃ぐらいになる。
ちょうど、倭奴国が金印を貰った時代ぐらいの人。

あと、どこに住んでいたかは、記紀をみれば分かる。
でも、そういう住居跡って、なかなか遺跡としても残りにくいもの。
残る場合は、池のそこになってしまったりとか、
そういう場合が多い。
848日本@名無史さん:2009/05/23(土) 04:38:10
まあ福岡平野の須玖から比恵那珂への人口移動をとなえる人間もいるが
これもまた考古学的には支持されていないらしいw

かように同じ平野・盆地内の直ぐ近く?であっても集落から集落への人口移動と言うのは
そうそうあるもんじゃないらしいw

言わんやヤマト以外から人がやってきて纏向を打ち立てた・・・なんて筋書きは相当に難しいと考えざるを得ないw

849日本@名無史さん:2009/05/23(土) 06:15:51
>>832
旧唐書をよく読んでいないようだな。
倭国は新羅東南大海の中、山島なんだよ。一方、日本国は東西南北数千里、西界
南界は海だが、東界と北界は大きな山があってその先は毛人の国だ。倭国と日本
国とは陸続きじゃないんだよ。
850日本@名無史さん:2009/05/23(土) 07:17:48
九州が倭で本州が日本ってか
九州が邪馬台国で本州が大和だな
851日本@名無史さん:2009/05/23(土) 07:22:37
誰か>>837にツッコミは?
852日本@名無史さん:2009/05/23(土) 07:32:04
神武天皇と祟神天皇は夫婦だった。
神武=アマテラス=卑弥呼=オオタタネコ。
853日本@名無史さん:2009/05/23(土) 09:32:26
倭は九州に決まってるだろ
アキヅシマが本州で両方あわせて大倭
854日本@名無史さん:2009/05/23(土) 09:52:31
神武東征なんて、どうでもいいはなし。
九州から1世紀頃に小集団が橿原に移住してきた、だから何?
彼らが、即、奈良盆地をを平定して大和国を作ったわけではあるまい。
葛城すら征服できなかったのに。
その子孫が、3世紀にやっと崇神として大王になったというだけだろ。

神武の前には大和にニギハヤヒがいたというのは、万人の認めるところ。
ニギハヤヒの居城は唐古・鍵しか考えられない。
その唐古・鍵は、紀元前から続いている。

ニギハヤヒは高天原のアマテラスの子孫だから、
アマテラスの岩戸隠れもスサノオの活躍も国ゆずり神話も、紀元前の遠い昔のこととなる。
記紀をちゃんと読めばな。

855日本@名無史さん:2009/05/23(土) 09:57:00
>>832

> 「西の倭国を、東の日本国が併合した」
> 「東の日本国は、もともとは小国であった」
>
> これの解釈で抜けているのは、

その解釈で余計なものは「西」と「東」ですね。
旧唐書には倭國と日本國の位置関係なんて書かれていないわけですから。

> そろそろ、違う名前「日本国」に変えてくれないか?
> 嫌なんだよ、倭国という名称が。ってことだろう?

「倭」と呼ばれることが嫌だったと言うのは、そうなんでしょうけど、
日本の隋・唐への外交方針は「対等」、漢〜南北朝代までの「朝貢」とは全く違います。
多分、日本書紀とかも携えて行ったと思いますので、相手もそれを読んでいる。
そこに書かれている万世一系の歴史観は、中国側の「倭」に対する知見と相容れないものなのです。
なので、中国からすれば「こいつらの言っていることはよく判らない」と言うことになるわけです。
856日本@名無史さん:2009/05/23(土) 10:06:04
>>854
ニギハヤヒって名前、記紀に多く出てくるから人気だけど
どちらかというと、天火明命のほうがメインだと思う。
というか、ニギハヤヒと天火明命は
本当に同一人物なのか?

少なくとも、新撰姓氏録では、別ということにされているんだろう?
自分は、天火明命の系統から王位の座を奪おうとしたのが
ニギハヤヒの一族だと思うんだがね。
857ローガン:2009/05/23(土) 10:42:05
>>855

はい。その通り。
858日本@名無史さん:2009/05/23(土) 10:47:22
>>856
そうだね。
新撰姓氏録では、ホアカリは尾張氏の祖、ニギハヤヒは物部氏の祖となってる。
ホアカリとニギハヤヒが同一だと書いてるのは、物部氏の旧事本紀だけだっけ?
なら、答えは明確で、物部氏の権威付けなんだろう。

ニギハヤヒと天火明が同一とは、記紀には書いてなかったはずだが、
ただ、神武と戦ったのはニギハヤヒの方と明記されてる。

もうひとつ、物部氏が歴史に登場するのはずっと後だから、
神武の頃に物部一族がいたわけではない。
物部氏が、ニギハヤヒに祖を求めているだけであって。
859日本@名無史さん:2009/05/23(土) 10:53:16
>>855
>旧唐書には倭國と日本國の位置関係なんて書かれていないわけですから。
日本国については、「その国日辺にあるを以て」と書いている。倭国よりも東という
趣旨だよ。
860日本@名無史さん:2009/05/23(土) 11:08:09
>>855
まあ、趣旨としては、「その国日辺にあるを以て」だから
倭国の東に日本国あるという感じ。

>>858
まあ、国宝海部氏系図にも、天火明命とニギハヤヒを合体したような名前で出てくる。
ただ、旧事本紀にしても、海部氏系図に関しても
平安時代に書かれたもので、平安時代に書かれたものみたいだし。
出展元は同じじゃないのか?と言われている。
ちなみに、海部氏は物部氏を同族とは見てなかったぽい。

861855:2009/05/23(土) 11:34:00
>>859

> 日本国については、「その国日辺にあるを以て」と書いている。倭国よりも東という
> 趣旨だよ。

>以其國在日邊、故以日本爲名

これは「日本」と言うネーミングの説明をしているわけですが、
倭國より日辺に近い(東にある)からと言っているのではないでしょう?
ただ漠然と「東方」にあるからと言っているに過ぎませんよ。

では「西方」はどこかと言うとこれは「倭國」ではありません。
隋書の「日出處天子」が東方の天子と自称したように、
西方の天子(日没處天子)がおわすところは中国です。

日本と言う国号を何のため立てたか、それを考えて見れば
「西方」が九州を飛び越えて、中国にあることは自明のことだと思いますが。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 11:47:55
倭人伝に
倭女王と倭王の二人が書かれています。
倭女王は、九州倭国連合により担ぎ上げられた女王であり、景初2年の朝貢団
を派遣する、
次の朝貢は倭王の派遣であるが、「復朝貢」と記録される、是は初回景初2年の朝貢団に
含まれていた事を表すものである。
では「倭王」とは誰か、倭王とは大和景行の事である、

景行は九州の乱れを軍事力で平定、九州王「卑弥呼」と「男王」の相次ぐ死により
九州王位を継ぐ者の不在、景行は「五百野姫」を送り込む事により、
大倭国統一を成し遂げる。
これ以降「倭」を「やまと」と発音する。
863太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 11:52:37
平定なんかしちゃいな〜い。景行九州行幸は旅行だよ。朝廷の九州
併呑はずっと後さ。妄想野郎!
864日本@名無史さん:2009/05/23(土) 11:59:01
>>863

倭女王と書かれていれば、これは性別をもって区分けされているので
倭人伝の中に倭男王の存在を知らしめるものです。
865日本@名無史さん:2009/05/23(土) 12:01:24
もう、神武東遷なんて
誰も信じません。

記紀を読めば分かるが、神武の先祖は、もともとは近畿地方の出身。
高天の原とは、葛木の高天の平原。
今の奈良県御所市の高天・北窪地区。
神武天皇の曽祖父のニニギ命は、このあたりの出身。

神武一族は、近畿王家の九州分家の出身で
近畿王家本国で内乱があったので、援軍として駆けつけたのにすぎない。
866日本@名無史さん:2009/05/23(土) 12:52:46
ttp://www.remus.dti.ne.jp/~n-makoto/izushinto/shingashi1.html

↑は出雲国造神賀詞全文と口語訳だが、

>高天原の尊貴なる神、高御魂命が皇御孫命に天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時に、

出雲国造は、天皇に対して、その祖神が「高天の神王高御魂命」と語ってる。
ポイントとしては「天照大神」が登場しないこと。

朝廷による出雲国造が置かれた時点で、天照大神信仰は存在しなかったわけであり、
卑弥呼=天照大神なんていう図式はまったく成立しないわけ。
867日本@名無史さん:2009/05/23(土) 13:52:50
卑弥呼=天照大神 になったのは後世だろうな、紀記が書かれた頃
868日本@名無史さん:2009/05/23(土) 15:07:48
>>865
「高天原の尊貴なる神、高御魂命」というのは、日本書紀の高皇産霊尊で、
「皇御孫命」は、瓊瓊杵尊に相当するわけだろう。

日本書紀の記述からすれば、当然、そのとき天照大神もいたことになる。

ただ、戦争のようなものは高皇産霊尊が主導権を持っていたとみられるので、
征服される側からすれば、高皇産霊尊が表に立っているように見える
のではないかな。

逆に、皇統という面から見れば、天照大神も際立っている。
869日本@名無史さん:2009/05/23(土) 15:17:59
そういえば、唐古・鍵遺跡は、もともと邪馬台国の期待を込めて掘られて
いたのだったなあ。
当時、纏向遺跡は、卑弥呼時代のあとと見られていたから。
870日本@名無史さん:2009/05/23(土) 15:48:45
鍵唐古・・・・・・ちんけな集落だ、東南アジア臭い
とりあえず邪馬台国って噂流しとけばってのが気に入らないな
871日本@名無史さん:2009/05/23(土) 16:54:30
■邪馬台国の会 第280回講演会 5月24日(日)
http://yamatai.cside.com/katudou/teiki.htm

◆特別講演会 「土器から見たホケノ山古墳・箸墓古墳」

 奈良県立橿原考古学研究所 関川尚功氏

 元産能大教授(邪馬台国の会主宰) 安本美典氏

・日時 5月24日(日) 13:30-16:30
・会場 文化シヤッターBXビル 多目的ホール(東京都文京区西片1-17-3)
・参加費  一般1500円/学生1000円

※参加ご希望のかたは直接会場へおいで下さい。

邪馬台国の会サイト
http://yamatai.cside.com/index.htm
872日本@名無史さん:2009/05/23(土) 17:17:16
>>871
これは…
近いから行ってみるか
873ローガン:2009/05/23(土) 18:06:16
>>853

> 倭は九州に決まってるだろ
> アキヅシマが本州で両方あわせて大倭

規定で「倭」を2文字にしたものですよ。紀を紀伊にしたのと同じ。
874389:2009/05/23(土) 18:46:48
ローガンさんがいってるのは令制国としての「やまと」で、二字の好字で統一されたもので
すね。それが8世紀に大倭→大和となった。「あきつしま」はトンボのような形の島の意?
で、確かに本州のことだが、古事記の国産み神話では「大倭豊秋津島」で、「倭」の字も
出てくるね。
875日本@名無史さん:2009/05/23(土) 19:48:39
畿内説も統一性がないというか、バラバラという感じがするなあ。

畿内説の考古学者さんは、奈良盆地の始まりを纏向としている。
さらに、纏向の建設を西暦200年頃とし、何とか卑弥呼の時代に絡ませようと
している。何もない大和盆地に突然、纏向が出来たことの理由として
連合説なんてのも出ている。

つまり、奈良盆地はいくら遡っても、考古学的には200年以前は無理。
西暦200年自体が無理で、せいぜい西暦300年という声もある。

一方で、神武東征は卑弥呼よりずっと前という人もいる。
ひどいのになると、その神武東征のずっと前に畿内の勢力が日本を統一
していたというのもある。

倭人伝に沿って畿内説を成り立たせるためには、3世紀初めの畿内には、
卑弥呼の国がなければならない。
記紀に沿って、畿内説を成り立たせるためには、卑弥呼のあとに神武東征に
相当する出来事があっては困る。

というわけなのだろうが、そのために整合性がなくなっている。
876日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:02:36
(1) 記紀の元になった口承の伝説がどの地域のものなのか
(2) 記紀に出てくる人物・集団がどの地域のものなのか

この2つを混ぜて考える人が多いから、ぐだぐだになる。
877日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:09:23
>>875
>卑弥呼のあとに神武東征に相当する出来事があっては困る。

マキムクが4世紀だとしても、
神武東征に相当する出来事があった証拠はゼロなんですが?

マキムクに集まる搬入土器の割合の最も多いのは東海で、
最も少ないのは九州ですよ。九州の土器なんてカケラしか見つかってない。

878日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:17:35
東遷説の言ってることは、
「邪馬台国は九州」
「畿内は九州から隔絶した土地」

仮にマキムクが4世紀としても、卑弥呼の死後50年くらいで、
なんだかわからない隔絶した土地に都を移して、
そしたら、東海から土器を持った人がわんさか押し寄せてきた、ってこと。

いったい、そこにどういう政治状況が読み取れるんでしょうねえ?
九州から奈良に東遷してきた王に対して、東海の見返りは何?
鉄器について言えば、4世紀の東海の鉄器は減少してるわけだし。

しかも九州からの土器はほとんど持ち込まれて無い。
王様だけが従者も従えずに、乗り込んできたんでしょうか?
神武東征神話では、戦闘に苦しんでたのに。
879日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:23:28
>>877
同じ会社の支店本店同士が送り合いするわけがない
880日本@名無史さん:2009/05/23(土) 20:23:32
>>877
九州の土器が少ないってのは、東征を否定する材料かな? 東征した勢力が征服した
人々を徴用するときには、自らの故地は除くよな。九州の土器が少ないのは、そこが
特別扱いされてる土地だってことなんだよ。
881ローガン:2009/05/23(土) 20:37:34
>>880

取り敢えず、あまり人が来ていないということでしょう。
882日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:11:34
まあこの板では東遷説は不動の人気と言うか
九州説におけるほぼデフォって事でw

「自生説」を否定し「連合体」を否定する。

そこから何が浮かんでくるかと言えば
一つの巨大勢力が奈良盆地に入って纏向を造ったと言う構図なんだろうwww

大型の拠点集落は単体で存在する物ではなく大小さまざまな周辺集落を従えてなる。

一次産業従事者の居住跡が見られない、勾配がきつい扇状地、ちょっと掘れば湧水層にあたった土地・・・
と言う纏向の立地条件を考えれば尚の事。

神武軍団がやってきて奈良盆地を征服。
周辺の人間をこき使って纏向を造ったと言うお話なのかな?w
883日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:15:15
>>871
参加費1500円とは、高いなあ・・・・・ >。<
884日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:22:26
>>883

ヤスモト先生の老後の蓄えだから。
信者なら安いものじゃないの?1500円くらいくれてやんな。
885日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:24:17
仮に九州が近畿を併呑するにしてもなぜ併呑する必要があるのか
東海の食器が多量に巻向にあるが九州が東海の勢力と談合でもして
近畿を征服したのか
886日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:26:30
纏向の土器の大半は祭祀用の供え物だろ
887日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:28:36
>>880

つまり、君は、安本の言ってる「庄内式土器は九州発祥」という説を否定するんだね?

よろしい。よろしい。それでいいんだよ。

888日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:29:08
しかし >>875 を見て思うんだが・・・

この板の九州説って過剰に奈良を人が人っ子一人いなかった地にするよなwww
そう言えば纏向も普段は人がいないが市の時だけ人が集まる
巨大フリーマーケットみたいな説があったがw

>奈良盆地の始まりを纏向としている。

・・・ってなんだそりゃwwwww

唐古鍵や纏向以外にも布留、紀寺南、長寺、東大寺、芝、加茂都波、矢部・・・etcとあるんだが?w
邪馬台国の事でアタマの中一杯一杯になってしまっておるw

889日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:36:20
>>875は支離滅裂なんだよ。

>何もない大和盆地に突然、纏向が出来たことの理由として連合説なんてのも出ている。

マキムクの外来土器の多さは他の遺跡では見られない。
それが連合説の根拠。

東遷説のほうこそ理由が一個も無い、
神武東征神話を根拠としてるらしいが、九州からの土器はカケラしかない。

まあだ、九州王朝説のほうが理屈にあってる。
890日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:38:20
末盧国→伊都国→奴国→不弥国→

この方向の先は奈良のほうに向かっているジャン

891日本@名無史さん:2009/05/23(土) 21:50:58
まあ奈良盆地に唐古鍵と纏向しか遺跡を見ず
鉄や銅鏡といったものの出土数から当時の奈良を人もまばらな辺境ド田舎と言うのなら

神武東征の出発の地の日向、南九州も同じか更に輪をかけたド田舎と言う理屈にならざるを得ないと思うのだがwww

そんな辺鄙な地から出てきた勢力が瀬戸内海を横断しヤマトを征服したなんて与太話以外のなんだと言うのだ?www
892日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:00:24
>>890
そこで放射説ですよw

仮に九州説でもそこからツクシに「引き返す」ルートは想定しにくいし
関門海峡・豊予海峡を越えて九州の東から上陸すれば今度は「陸行一月」がしんどくなるとwwww
893日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:03:04
なぜ畿内が突如として発展したのか?
その謎が解く鍵はやはり方向にあります。
三輪山から西へ直線を引くと山口県須佐にたどり着きます。
さらに直線を延ばせば、朝鮮半島の先っぽ珍島を通り、
中国大陸は徐州を経由して西安郊外に達します。
つまり、東征してきたのは秦王朝の末裔。
そしてさらに西へたどれば・・・
894389:2009/05/23(土) 22:06:31
まず「東遷」という絶対的な観念があって、それに不都合な考古資料はムリにねじまげる
しかないんだろうが、まあ、ゆずっても3世紀以降の東遷はどう考えてもありえないところま
で研究は進んでる。それこそ松本清張時代と比べれば、アマチュアがものをいえる範囲が
大きくせばまってるんで、それに対する無意識の反発が大きいように俺には見えるんだが。
895日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:12:06
>>894
観念?
日本の正式な歴史書に載ってることが観念?
はぁ?
いや、国書が絶対に正しいとはしないが、それを崩す根拠を示すのが筋だろ
順序が違う
896日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:15:36
ヨコだが・・・

>>895

神話を史実と言うのならそれだけの材料を出せと言うのは当たり前の話で
お前の方が順序を履き違えているとしか思えないわけだがwww
897389:2009/05/23(土) 22:16:56
>>895
俺のレス読んでないだろ。東遷というか九州からの人の移入はあっただろう。邪馬台国以前
の時代に。国書を信じるなら、それは前660年。自分の都合のいい時代に設定するのが
ご都合主義といってる。
898唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/23(土) 22:17:59
マキムクの外来土器の多さは崇神11年異族多帰の結果であり2世紀末。
899日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:19:38
>>896,897
いや、観念の世界ではありませんから
900日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:22:14
>>894
俺はアマチュアだが、畿内説と神話のすり合わせはすごく面白い。
最新の情報を得れば得るほど、神話の史実性が大きくなると感じるよ。

九州説にこりかたまってると、永遠にその中に閉じこもるしかないから、
八方塞に思えるかもしれないがな。

まず、神武東征は1世紀頃。
卑弥呼の時代はモモソヒメの生きた時代と重なる。
九州説であっても、ここから認めていかないと生き残れないと思うがね。

901日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:32:06
もうね、殆ど唯物史観
左翼の性癖ですな
文字を使用しない口承だけで代々語り継いでいった人々の歴史も観念の一言で括ってしまうわけだ
何とも憐れですな、古代の人がね
902日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:33:25
>>899
ほう、じゃあ物語の中で主人公を助けた
金鵄とかヤタガラスと言った霊鳥も実在したと?

とりあえずそのUMA(ネッシーと同じカテゴリーw)を探してきてくれw

「ポケモンヤタガラス、ゲットだぜ!」www
903389:2009/05/23(土) 22:34:38
観念というのは、東遷厨の脳内にある「卑弥呼の後、台与の前」といったような(これは一
例)国書の記述をねじ曲げた、自説に都合のいいだけの東遷説のこと。
ループになるので避けるが402,405、415、420で書いたように、前6世紀ころの橿原
には大きな遺跡があるんだよ。俺は神武伝説を構成する一つの要素と考えてる。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/kashihara.html
904日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:37:54
>>901
逆に言えばだ・・・

古代人は目の前で起こったことをそのまま伝えるしかない
物語を紡ぎ出すイマジネーションも創造性も無い連中だったんだな

哀れだなwww
905太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/23(土) 22:37:55
たまに黄金の蛙発見だとか人面魚だとか真っ白な虎だとか、珍獣
が新聞に載るからいただろう。ただ絵画にみるような強力な光輝は
誇張だろうな。だから金色といってもまばゆいばかり光ってたんでは
なく、うす光くらいだがあまりみかけない位の光だったんだろう?
そんなところが実際のところだろう。
906389:2009/05/23(土) 22:43:19
>>901
俺は剣道家で、どっちかっていえば右翼的っていわれるww なんか学問的に反論してみ
たらどうだ?お前が哀れだよ。
907日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:49:23
>>905 犬
とりあえず金色に発光する鵄の発見例をだせw
大体そんなぼんやりとした発光で戦局を一変できると思っているのかドアホwww

ちなみにヤタガラスは人語を解しますwwwwwwwwwwww
908日本@名無史さん:2009/05/23(土) 22:54:21
>>906さんは剣道家だそうですが

錬士 ですか?それとも教士?
もしかしたら 範士?
909389:2009/05/23(土) 22:56:54
すんません訂正します。ただの剣道部員です。「家」はよけいでした。
910ローガン:2009/05/23(土) 23:05:48
>>889

> まあだ、九州王朝説のほうが理屈にあってる。

そうかなあ? 東遷説のほうが九州王朝説より遥かに説としては、ましかなあって思えますが。
911389:2009/05/23(土) 23:13:18
横レスすれば、それはマキ向から九州土器の出土がないことについてでは。王朝内にこ
もっていたと。俺は1〜2世紀頃なら九州より、出雲との関係が気になる。このWikiの記述
をどう見るか?

>>邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像な
 どに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達し
 ており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲
 のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形
 成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

912日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:24:00
>>881
土器なんてたかが土器。

徳川家康が、江戸に幕府を開いたからといって、三河や浜松の土器が大量に
江戸になければならないということはない。むしろ少ないだろうな。

遠くから重い土器を担いでやってくるとしたら、それは貢物じゃなかろうか。
普通は、土器を作る人がやってきたと思うが。
古代、土器を作っていたのは女性だといわれる。
913389:2009/05/23(土) 23:49:37
続き
北陸を中心とした、環日本海諸国と呼べるものがあったのは確かだと思う。妻木晩田遺跡や
竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されており、大陸系のものも含まれる。
壱岐の原の辻遺跡からは、出雲系土器も出土しており、出雲からは大陸系の遺物の出土も
ある。(有名な硯は2世紀頃)
数多く見つかっている「野だたら」跡の時代を特定するのは難しいが、俺的には弥生後期
には鉄の輸入と鍛冶により、日本海側に大きな影響を及ぼしていたと考えてる。

ただ、出雲=投馬国とすると、日本海航路になってしまうのがジレンマなんだよな。
914日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:50:12
>>910

東遷説がどういう風にマシなの?

東遷の可能性が1%でも有り得る、とするなら、その根拠を教えて。
915日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:52:52
>>913

出雲〜丹後〜越が発展してたのはわかるよ。

でも、それが奈良にどういう影響を与えていたのかがピンと来ない。
どういう物証があって、日本海諸国と奈良が通じていたと考えているの?
916日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:55:54
>>912
土器の製作が普通に生活の一部だった時代のことに対して
日常の食器も商品として流通していた時代のことを引き合いに出してる時点でダメだめ
917改め ◆qexCkQtLcY :2009/05/23(土) 23:57:17
ん?畿内説てほとんど漫画じゃん。

そのうち、「卑弥呼は男」とか言い出しそうだしwww

あ、パスワード変更しました〜悪用する人いて...。
918日本@名無史さん:2009/05/23(土) 23:58:20
>>900
記紀によると、

(高天原時代) @天照大神 (高皇産霊尊) A天忍穂耳命
   ↓
(日向時代) B瓊瓊杵尊 C彦火火出見尊 D草葺不合尊
   ↓
(大和) E神武天皇 (F綏靖天皇〜M開化天皇 欠史八代) N崇神天皇

となっているから、倭迹迹日百襲姫は、孝霊天皇の娘ということで、
天照大神の十三代目の子孫となる。
だから、倭迹迹日百襲姫を200年頃の卑弥呼とすれば、それ以前があまりにも
古くなりすぎると思う。
919389:2009/05/24(日) 00:03:51
続き
沿岸航海だからそんなに危険はなかった? 懐かしい大陸に繋がる海だからかえって安心
できた? 昔から大陸ー山陰・丹後等への直通ルートがあった(あったとは思うが)?
丹後上陸とかにすれば「陸行一月」を説明できる?

・・・と、こう日本海ルートに有利な点を列挙しても、そうは思えないんだよな???
倭人伝に上陸地点が書いてないのは何故だ、と当然いわれるだろうし。
920日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:04:03
>>917

漫画は、九州説ばっかりなんだが・・・

畿内説の漫画なんて見たこと無いぞ。
921日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:09:07
>>911
出雲が重要なのは確かであって、記紀で多くの紙面を割いているのも確か。
でも、出雲は、高天原に征服される土地であり、国津神の土地とされる。

しかし、日向も多くのことが書かれているし、日向は皇統のど真ん中にいる。
なのに、ここを重要視する人が少ないのはどうかと思うが。
922日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:20:02
>>920
冷静なツッコミw


923改め ◆qexCkQtLcY :2009/05/24(日) 00:21:03
だから邪馬台国の東に海があるのは確定なんだから
畿内はあり得ないの。
924日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:21:20
>>921

出雲が重要なのは確かだが、具体性がない。それこそ観念ではないか?

マキムクに、山陰系土器が少ないのが納得いかないのだが。
925389:2009/05/24(日) 00:27:35
>>915
俺は畿内説だから、ゆるやかな邪馬台国首長連合を支持してて、それ以前からあったと
思える出雲系諸国と没交渉ではなかったと思う。ただ考古資料による傍証は少ない。
いちおマキ向からの北陸・山陰系土器の出土は15%程度で、比率としては東海に次ぐ
ものではあるが。

気になる最大のものは、大神神社の祭神が「大物主」であることかな。古事記によれば
「大物主」は「大国主」の幸魂奇魂で、これが何か俺にはわからんが、姿を変えた「大国主」
ということか?ただ「大物主」信仰は新しいともいわれてはいるが、崇神時代には天照大神
よりポピュラーな感じの記述もあるし。
926改め ◆qexCkQtLcY :2009/05/24(日) 00:29:52
おいおい〜またパスワード盗んだな

>>923は私のレスではないし...。

2ちゃんてこれだから嫌なんだよね。
927日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:32:33
むしろ、出雲は崇神の頃まで大和とは距離を置いてたような書き方が日本書紀に見られる。
出雲の神宝の献上を拒否してるし。
928改め ◆qexCkQtLcY :2009/05/24(日) 00:32:43
やられた。
>>926は偽物です。
929日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:36:56
>>925
丹波からは、開化天皇が媛をもらってるので、丹波と大和が連携していたのはわかる。

でも、歴代天皇は、「出雲の媛」を娶っていないんだよ。
930ローガン:2009/05/24(日) 00:52:01
>>914

> 東遷説がどういう風にマシなの?

あくまで私的には九州王朝説と比較すれば、ということです。レベルの問題であり、東遷説を支持している訳ではありません。
> 東遷の可能性が1%でも有り得る、とするなら、その根拠を教えて。

私は畿内説支持ですから、当然「広域倭国」と考えています。広域であれば、王の出身を大和に限定出来ませんよね。
例えば、元いわき明星大学の前沢教授は「吉備主権勢力の大和入り」とします。
ともあれ他地域からの王権参加は否定できないですよね。
東遷説…勿論、考古学的には現状で考えないといけないんでしょうけど、素人的には今後の発掘調査による一発逆転!を頭の片隅に。って事で。
論理性に欠ける王朝説よりはましな様な気がします。
931日本@名無史さん:2009/05/24(日) 00:55:25
>>927
出雲の神宝を強奪したのが7世孫、武諸隅命(海部氏勘注系図)です。別名が
丹波縣主由碁理命となってます。
932日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:04:15
>>930
>私は畿内説支持ですから、当然「広域倭国」と考えています。広域であれば、王の出身を大和に限定出来ませんよね。

他から王がきた、という話は、
証拠がないと、所詮は空想の話だよねえ。
933日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:05:22
>>930
>ともあれ他地域からの王権参加は否定できないですよね。

ところがこの他の東遷厨は「連合体」そのものを否定するのだから
それもありえない話になってしまうw

時代は異なるが応神(にあたる人物が)畿内ヤマトに
「入り婿」と言う形で迎え入れられたと言う話があるが

そう言う形式も成り立たない。
つまり東遷厨にとって神武とは征服王朝でなければならないw
934日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:09:19
仮にだ、
箸墓古墳の発掘が許可されてだ、
そこから、金印が見つかったとしてもだ、
だから、それが何の証拠になる?

畿内説にとっては決定的証拠かも知れないが、
東遷説の人々は、それこそ、東遷の証拠だというかも知れない。
金印が一個みつかったからって、東遷の証拠として見ていいの?ってこと。

935日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:20:53
金印を墓に埋葬するわけがないだろ。
博多のやつは持ってた奴が反乱を起こした時にそれを持って逃げ回ってたんだろ。
936389:2009/05/24(日) 02:56:56
前にも書いたが、例えば4世紀後半とされる天理東大寺山古墳の金象嵌中平紀年銘刀、これ
は明らかな中国刀で、中平は後漢の霊帝の年号(184〜189)。他の30本近い鉄刀・鉄剣と
ともに出土。この年号から、卑弥呼共立の記念に中国より下賜されたという説もあるが、
これにしたって、
@ 近畿の邪馬台国がもらい、長期間伝世したのち埋納。
A 九州の邪馬台国がもらい、近畿の大和朝廷が略奪。
B 九州の邪馬台国がもらい、東遷時に移動して埋納。
・・・と、なんとでも言うやつがいる。自説が先にありきで、遺物を見る目が曇っている。結局、
何が出たって自説に反するものは認めないってことだろ。

卑弥呼の金印は、台与と目される倭女王が「親晋倭王」をもらったとしたら、そのときに返納
した可能性が高いんでないの。



937日本@名無史さん:2009/05/24(日) 07:23:04

トヨタン・・・・・・・・・・
938日本@名無史さん:2009/05/24(日) 08:25:28
九州にも畿内にも四国にも邪馬台国級のクニはあったんだよ。
シナ人が直接知っていたのは九州の邪馬台国で
その先にもいくつかの邪馬台国があることは伝聞で知っていた。
939日本@名無史さん:2009/05/24(日) 09:31:01
国といえるような機能を持った集団は、大和と日本だけでした。
あとは、蝦夷の日高見国というのもあった。
940ローガン:2009/05/24(日) 10:16:37
>>936

中平刀…金関氏によると、他刀の例から中国で紀年刀を作る際、叙爵があった年であるといいます。
この年の叙爵は公孫氏ですね。公孫度は封ぜられた「印」を怒って蔵にいれた。
(気に入らないなら棄てればいいのに、蔵にしまうなんて度はケチな奴、と金関氏談)
同様に下賜された刀も保管され、その後平群氏に渡った。
環頭を作り替え、長く使われた後、副葬されたと。
941日本@名無史さん:2009/05/24(日) 10:55:52
考古学者らしい駄弁だ。しょせん妄想の域を出ない。
942日本@名無史さん:2009/05/24(日) 11:31:42
良くわからないが、中平刀って、三角縁神獣鏡の年代の議論と絡んで
いるんじゃないのかな。

景初三年銘の三角縁神獣鏡は、景初三年に作られたとされてきた。
年号は、作製された年を意味するというわけで。
それが、畿内説の大きな支えとなってきたわけだが。

ところが、中平刀が、中平年間より後に作られ、年号だけが中平だとすれば、
三角縁神獣鏡の年号も作製された年を意味しないことになる。
三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではなく、もっとあとの日本製でもよいことに
なる。

それでは困るというわけで、中平刀は中国製であり、中平年間に作られたと
されてきた。

三角縁神獣鏡魏鏡説が廃れた今、中平刀はどのような立場にあるのだろう。
もうどうでもいいということで、議論もされないのかな。
943日本@名無史さん:2009/05/24(日) 11:36:43
>>942

年号だけ見て、舶載だの、後世の日本製だのと考える時代じゃないもの。
944日本@名無史さん:2009/05/24(日) 12:33:43
日高見が国だってwww
そんなもん畿内人の妄想の産物だろw
945日本@名無史さん:2009/05/24(日) 12:37:27
大和が国だってwww
そんなもん畿内人の妄想の産物だろw


946日本@名無史さん:2009/05/24(日) 12:57:28
卑弥呼は売国奴だから、九州の女酋でいいよ。
畿内に来るな。
947日本@名無史さん:2009/05/24(日) 13:03:12
当時のまともな国といったら出雲と吉備しか考えられない
あと文献に見える奴国くらいか
948日本@名無史さん:2009/05/24(日) 13:19:22
>>936 >>940   中平刀は、国産だろJK。

1、環頭部分が国産(日本にしかないデザイン)であることは定説。
2、刀身部分の逆そりは中国では見られない。
3、逆そりは同時に出土したほかの国産品と同じである。
4、中国の年号が書いてあった1本だけを無理に舶載品とした。しかも刀身だけ。
5、ほかの国産品とともに材料の成分分析をすればよいのだが、なぜしない。

国産と考えるべき根拠があっても発言不可能。まさに日本のなかの北朝鮮。
学者の世界は非常識だけがまかりとおることの典型例。
あれを舶載という連中は、少なくとも問題点の指摘をしなければ、学者とはいえない。
949日本@名無史さん:2009/05/24(日) 13:26:36
>>942
絡んでいるだろうね。
日本で年号が入れられたとなると、三角縁でも同じ議論が可能になる。
いわゆる学界のデリケートゾーン。
950ローガン:2009/05/24(日) 14:05:58
>>948

まあ、ここで云うより考古学会に「成分分析」を依頼される事をすすめます。
北朝鮮…云々って、そんなに嫌いなら、もっと他の事に興味を持てばいいのに…
951日本@名無史さん:2009/05/24(日) 14:42:37
北朝鮮が民主化されれば、帯方郡の発掘が進み、
新しい発見あるかもしれない。楽しみですね。

952日本@名無史さん:2009/05/24(日) 14:59:55
中平刀や三角鏡が国産でも、畿内説の体勢は変わらないんだがねえ。

953日本@名無史さん:2009/05/24(日) 16:52:15
日本で何万枚出土しようが△は舶載です。
954太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 17:15:34
日本製品だな。
955日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:50:19
△は楽浪産
956日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:51:22
>>950
一概に、的外れとも言えないと思う。

庄内期の年代なども、他の専門家の意見を聞くでもなく、議論するでもなく
年輪年代ですぐに宣伝、一般化へと走った。

年輪年代に疑問を持っている人が多いのも事実で、もっと広範囲の議論、
あるいは年輪年代に対する検証があっても良かったと思う。
閉鎖的というか、独断的というか、そういう印象はあるなあ。
957日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:56:15
だから、中平刀や三角鏡が国産だったとして、
いまさらどういう影響があるっての?

958太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 18:02:36
畿内説が大ウソだったということになる、
959日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:06:09
どうして?

ちゃんと説明してくださいね。
960日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:29:04
三角縁神獣鏡は

@そのすべてが国産である
Aそのすべてが舶載である
B一部国産で一部舶載である

と分けたら、たぶんBじゃないのかな?

@とかAとかは極端で、俺的にはついて行けない感じ。
だってもう発掘調査なんかしなくてもいい、生産地は掘
る前から決まってる、って言ってるようなものだろ。
961日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:59:59
>>957
三角縁神獣鏡が、魏鏡だとすれば、日本に入ってきたのは西暦240年頃になる。
つまり、三角縁神獣鏡の出る古墳や遺跡の年代は、それが基準になる。
まあ、遺跡から出たという話は聞かないけれども。

一方で、よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半と
すれば、それが年代の基準になる。
いろんな意味で、この年代の差は大きい。
962日本@名無史さん:2009/05/24(日) 19:42:05
>>961
議論が古すぎる。

もはや鏡だけで年代を決める時代じゃない。
963ローガン:2009/05/24(日) 19:43:16
>>961

> 三角縁神獣鏡が、魏鏡だとすれば、日本に入ってきたのは西暦240年頃になる。
> つまり、三角縁神獣鏡の出る古墳や遺跡の年代は、それが基準になる。

それを遡らないと言う意味でね。
964日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:03:16
>>961
>よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半とすれば、

そんな仮説、よく言われるなんてことはないぞ。w

三角縁神獣鏡を副葬していた古墳に兵庫県の権現山51号墳がある。
この古墳からは円筒埴輪の最も古い型式である都月型円筒埴輪も出ているので
古墳時代前期前半の古墳であることは間違いない。

古墳時代前期前半を、4世紀後半まで下げて充てることは絶対にできない。
そんなことをしたら前期後半や中期の全国古墳編年が大支障をきたしてしまう。
965日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:44:24
>>958
どうして? ちゃんと説明してくださいね。
966唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/24(日) 20:51:45
巻向 ホケノ山古墳 240年 鏡には少し早いが
黒塚古墳からは鏡が山ほど出た。
おまけが 水銀朱。
967太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 20:55:06
あれは△のほうの話だ。日本製じゃぁ、もう卑弥呼の鏡ではない。
倍暦計算で

 景初3年=239年=崇神即位3年

だ。そして その前年=238年=景初2年=崇神即位2年 に天照大神宮
が成り、この年崇神天皇は同床鏡殿策により別の鏡を殿内に奉安
した。その畿内住民への鏡祀りの右へならへの勅があったと観て
よい。だから景初3年鏡は同朔の翌年であり、だから畿内からうんと
出るんだろうが。w 続いて

 崇神没年=259年

であり、記の崇神崩年干支がほぼ正解だったことが倍暦計算で
知れる。つまり年代においては菅政友、橋本増吉に258年説が真で
あったことが裏づけられるのだ。△は卑弥呼の鏡にあらずということ
になる。
968389:2009/05/24(日) 20:57:11
>>964
それは「九州説論者の間では」という言葉が抜けてるんだよ。安本美典氏が箸墓古墳を
4世紀後半というようなもの。
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/24(日) 21:10:43
>>697 訂正
× 同朔
○ 同策
970日本@名無史さん:2009/05/24(日) 21:46:35
>>961
>よく言われるように三角縁神獣鏡が作られたのが、4世紀後半とすれば

ほうw
で、その提唱者に誰々がいてその根拠は何なのかな?

つうか「九州説論者」と言うよりもっと限定的に「東遷説論者」の間で
言われている事じゃないのかな?

無論、三角に先行する画文を考慮しての事だろうし
いや、それだけじゃなく東遷説の本場w甘木の神蔵からも三角出てるんで
それも考慮しているのかな?www


971日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:18:33
鏡は女性が使うものだから流行り廃りが早かったはず。
大量出土は、流行遅れになった鏡を地方に売りさばいて
ぼろもうけをした業者さんがいるということです。
972日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:26:48
>971
中国で普通に化粧道具として使う鏡は、裏(というか表?)を研磨して水銀を塗ってある
日本で出土するやつは、そんな処理されて無いだろ
画紋帯が鋳物としては彫りが深くて精緻、△が安っぽい粗い鋳込みだと言うくらいだ
973日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:45:46
>>972
>日本で出土するやつは、そんな処理されて無いだろ

それが本当なら、三角が舶載かどうか、すぐわかるじゃん?
974日本@名無史さん:2009/05/24(日) 22:55:00
>>972すごい発見ですね。びっくり。
975日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:26:41
まあ前方後円墳が定型化され、それ自体が被葬者もしくはその後継者の権力を示す物=威信財となったら
(多段構造で、側面にびっしりと葺石を施し、墳頂には埴輪・・・ そりゃ見る者を圧倒したろう)

副葬品の鏡の重要性は低下せざるを得ないわけで
三角がやっつけ鋳造レベルの物が出てくるのも必然なのかな?w
976日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:27:03
後漢の舶載とされる画紋帯も、水銀塗ってないはず
中国でも日用品じゃない系統があったということ
神仙思想の銅鏡の術具として入って来た訳だろ
卑弥呼が欲したのも
977日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:28:35
>>976
×銅鏡  ○道教
978日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:58:48
というわけで、三角縁は国産ということで決着しましたね。
979日本@名無史さん:2009/05/25(月) 00:50:28
自分は972、976だが
>978
舶載だとしても粗悪な量産品といった所だろうな
舶載が少数あって、それを型に起こしてレプリカを国内で作ったという意見もある様だな
でも、原版は今のところ見付かっていない
原版とレプリカは鋳込みの深さに差が出るので、原版△が出れば原版と解るのだが
今のところ△の粗悪さはどれも同じなようだ
980日本@名無史さん:2009/05/25(月) 01:45:37
>>979
たしかに、最近はほんの一部だけ舶載であとは国内での複製とする現実主義の舶載説も
出てきましたね。現状で過半数が舶載とか主張したら、頭がおかしいと思われるのがオチだし。

しかし、もともと舶載説は、三角縁の過半数が舶載という説ですよ。
△の紀年鏡が文様の変遷の後半期に位置づけられる以上、過半数を舶載としないと紀年鏡が
国産になってしまうから、昔は過半数を舶載としていたのです。

まあ「一部だけ舶載説」が出てきてからは、この問題に触れる人はほとんど居ないけどね。
981日本@名無史さん:2009/05/25(月) 01:55:43
△の問題は年代論にとっても、重要だね。
例えば、△を240〜400頃に流通したとて、デザインや文様の変遷を年代ごとに
割り振ると、初期(240頃)の鏡が後半期と一緒に出土する事例をどう解釈するか
という問題が生じる。

普通に考えれば、A〜Gまでの変遷のうち、A〜Eまでが同伴することが多ければ、
これらは同一世代に出回っていたこととなり、100年以上の長期流通は否定される。
素直に見れば、4C半ば頃に日本で△の製造が始まったということになる。

そこで、△を240まで古くする説は、240年にA〜Fあたりまでを中国から一括して
持ち帰り、国内でちびちびと配布したと主張する(岡村説)。

つまり、△が舶載で240年頃に「原鏡」が来たとする説は、△の過半数が舶載で
240年頃に一気に持ち込まれて、ちびちび配布したという説にならざるを得ない。
水野も「王の蔵」で厳重に管理して、ちびちび配布したと主張する。

・・・このトンデモ感を堪能するのが、古代史の醍醐味ですな。
982日本@名無史さん:2009/05/25(月) 02:08:55
>>981

要するにだ…。

「短期編年」の立場を是としておいて
三角の流通の終焉(ケツ)から逆算してその登場時期を決めたいわけだろ?www

まあいつもの東遷説論者だろうが目的ははっきりしているなwww

普通、遺物の年代なんて登場時期から探ってその上限がいつまでなのかを検証するのが常道なんじゃないのかね?
別に三角を3世紀半ば頃からとしている人間でも短期編年の立場をとる学者も普通にいるしw


極端な話、俺が自分の墓に三角を入れたら、そこから計算して
三角の登場は20世紀…なんて事になりかねんwwwww
983日本@名無史さん:2009/05/25(月) 02:13:51
△もいろいろある様だな
ホケノ山から出た画紋帯の一次レプリカというのを手にして触った事があるのだが
すごく彫りが深くて、神獣の鱗や毛流の線が細かく、リアル感がある
一見して△とは質感が違ったですよ
△は線の細かさと言った描画のタッチ以前に、鋳込みが悪く、巣が入って欠けている部分もある程じゃないか
984日本@名無史さん:2009/05/25(月) 09:54:08
舶載説が維持できなくなったと思ったら、近畿説論者はあっさり三角から手を
引いてしまったという感じだな。舶載ではないとしたら、誰がどうゆう理由で
作ったかということになるはずだが、そこまでは頭が回らないらしい。
985日本@名無史さん:2009/05/25(月) 10:35:37
三角縁神獣鏡って横から見るとこう↓なってるから三角縁神獣鏡というのか…知らんかった。

三角縁→▲__∩__▲←三角縁

邪馬台国は、出雲スサノオが統一した九州の100余国(熊襲除く)=倭(和)国がスサノオ亡き後、
100余国あった倭(九州)諸国の利害対立が噴出して内戦状態になった(倭国大乱)結果、
平和への模索として共立された女王国(卑弥呼=スサノオと※向津姫の間に生まれた宗像3姉妹の誰か)。

魏志倭人伝の記述からも、
−「倭は山島をもって国となし」とあるから、倭=(山)島であることが誰の目にも明白である。本州ではありえない。
−「東は海(=塩水)をもって境となし」とあるから、この(国境となっている)東の海が、大和盆地のように山を隔てた伊勢湾や琵琶湖(淡水)ではありえないことは明らか。この時点で九州か四国になるが、
−「女王国の南4千里に朱儒(=小人)国に至る」とあるから(朱儒国=沖縄と判り)、南に何もない四国は(大和も)消去され、倭国=九州が確定する。
また中国は後に倭(ワ)国をイ妥(タイ)国と表記するようになることから明らかなように、邪馬台国=山(島)イ妥国 となり、中心に山(阿蘇山)が聳える島、つまり九州にあったことが判る。

よって(南に何もない)邪馬台国大和説は最初から成り立たないことは明白だが、出版社(九州説)とマスコミ(大和説)の自作自演で人工的に論争を引き起こし、古代史オタク(小金持った年金生活者)から小遣いを巻き上げてる図式に気付け!

※向津姫=出雲スサノオに征服されたイザナギ族の娘、スサノオの九州現地妻(正妻は櫛田姫@出雲)で、後の天照大神(現天皇家の先祖)に祭り上げられる。
986日本@名無史さん:2009/05/25(月) 10:57:30
行程がそれまで里で書かれてて次日数とかの問題は
朝鮮系の人でかつ日本の知識をほとんど持っていないような老人とかに
書いてもらったらと思うんだ。
英語と日本語は文法違うし、そこに人種の考え方の差も出るし

987日本@名無史さん:2009/05/25(月) 11:39:00
そんなに難しく考える必要はないだろう。水行20日とか水行10日陸行1月
は長い旅程だ。里数がよく分からなくなったから日数にしたまでだろう。
988日本@名無史さん:2009/05/25(月) 12:01:45
魏志倭人伝の邪馬台国や女王についての記述が漠然としている。
水行10日、陸行1月を要するというのも、実際旅程に即した累積的な記録と思われない。
伊都における伝聞記事ではないかと思う。
989日本@名無史さん:2009/05/25(月) 12:15:02
>>984

東遷説も、あっさり手を引いたほうがいいよ^^

鏡より前方後円墳や円筒埴輪のほうがはるかに重要。
990日本@名無史さん:2009/05/25(月) 12:35:26
>>986-988
「南至投馬國水行二十日」→(帯方郡から)南へ船で20日で投馬国に着く。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
→(帯方郡から)南へ船なら10日、(帯方郡から仮に海の上を陸のように)歩いたなら1月で(女王が首都にしている)邪馬台国に着く。

船で10日=徒歩で30日(一ヶ月)

つまり陳寿は「水行は陸行の3倍のスピードで飛ばせるよ!船は速くてスゴイよ!文明の利器だよ!」ってことを、
邪馬台国にかこつけて言ったんじゃまいか?その根拠はこちら↓

「帯方郡から女王国に至るには、合計1万2000余里(約900km)」
船で10日なら1日あたり90km、徒歩で一ヶ月(30日)なら1日あたり30km、なら妥当じゃまいか?

今流に書くなら、
「西至大阪市、新幹線行三時」→(東京から)西へ新幹線で3時間で大阪市に着く。
「西至名古屋市、新幹線行一時半、車行三時」
→(東京から)西へ新幹線なら1時間半、車なら3時間で名古屋市に着く。
991日本@名無史さん:2009/05/25(月) 12:42:55
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」

南に水行十日(つまり)陸行一月で邪馬台国(女王所都)に到着する。

↑このように、水行十日と陸行一月に間に「つまり」「ご存知のように」「言うまでもないが」を補って読めばどうよ?
992日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:00:16
前方後円墳や円筒埴輪は、東征かどうかなどはなかなか分からない。
鏡は、勢力の動きを良く示しているよ。
993日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:02:52
>>990
いきなり郡からと読むのは、文章的にとうてい無理。
それに郡から日数のみを書いたところで、投馬国がどこか、邪馬台国がどこか
まったく分からない。そんな無駄な記事を残すはずもない。
郡からと読むのはしょせんトンデモにすぎない。
994日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:11:18
>>992
銅鏡は自動車のホィールキャップみたいなもんだと思う。
ひき逃げ現場にホィールキャップが落ちてれば、メーカー(工房)と車種(思想)が一目瞭然。
銅鏡(ホィールキャップ)ほど被葬者(思想=勢力)を語るものはない、には禿同!!

>>993
>>990-991だけどサンクス!
やっぱり、投馬国や邪馬台国だけ(帯方郡から)とか(つまり)とか補って読むのは無理があるよね…
995日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:14:50
>>991
オレも、最初に倭人伝を読んだ時、ここ「水行なら十日、陸行なら一月」と読んだけど、
でも、それなら「水行十日或陸行一月」みたいに、「或」くらい書くんじゃなかろうか。
いまだに、どっちか決めかねてる。
996988:2009/05/25(月) 13:15:33
魏志倭人伝の記述は、邪馬台国を狗邪韓国から順次南へ展開した八国の最後において、
「女王国より以北、その戸数、道里は略載すべきも」として、投馬国にも、戸数と道里を記載しているのであるから
以北の八国のなかに投馬国は明らかに含まれている。
また、「女王国より以北は、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」とある「諸国」の中にも、文脈上、投馬国は含まれているはず。
したがって、邪馬台国は「水行10日と陸行1月」と、累積的に読むべきだと思う。
ところが累積的に読むと長大だし、およその日程で示しているとしか思えない。
997日本@名無史さん:2009/05/25(月) 13:16:39
といっても、郡からってのは賛成できないけどね。
連投すみません。
998太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/25(月) 14:23:44
>>994
被魏車か〜?w
999日本@名無史さん:2009/05/25(月) 14:26:34
対馬の南に壱岐は無い
1000日本@名無史さん:2009/05/25(月) 14:31:58
>>995-997
サンクス!
確かにもし【水行なら10日=陸行なら30日】という意味なら「水行十日【是/即】陸行一月」とか書くはずだもんね。
陳寿が裏で海運会社も経営してて、その宣伝をしてるのではないか?という妄想がムクムク、すみませんですた!
確かにここは素直に【水行で10日+陸行で30日】と読むべきだね。また振り出しに戻りますた!(鬱)
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