1 :
日本@名無史さん:
;ヾ ;ヾ ;";ヾ;" ;ヾ ;ヾ ;
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" |l i l゙l|
,,,, ",,,," ,,, " ∧ ∧ ,,, |l | ゙ || '' ,, " " ,, < ドンと来い,ゴルァ!!
( ゚Д゚)∬ ノノ 从ヾ ヽ、 ,,, ''
'' ` ` / @(_)旦. /
/ / '''' ""
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 40
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1237602647/l50
2 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:57:20
じゃ俺、西イエメン説ね。
3 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:57:58
4 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 01:17:05
モモソを卑弥呼とか言ってる人多いけど
古事記では、彼女の事は粗スルーなんだよな
書紀でしか活躍の場が無いのはおかしいだろw
卑弥呼は、記紀その他で活躍する人物だよ
5 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 02:02:20
卑弥呼の痕跡が、記紀に残っているかどうか。
畿内説にしてみれば、大和にいる人間でないと困ることになる。
神功皇后は時代が異なるから、倭迹迹日百襲姫とか倭姫とかになる、という
ことだろうな。
6 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 02:49:11
>>4 古事記のほうは、日本書紀に比べて
分量が少なすぎる書物だからね。
まあ、古事記のほうも
系図のところで、ヤマトトトヒモモソ媛命は登場するし、
名前からして重要な人物のように思える。
欠史八代の天皇の前期までは、葛城地方に宮があるのに
ヤマトモモソ媛命のあたりから、三輪山のほうに移転し、
そのあたりはヤマトといわれているし。
卑弥呼をヒミコと呼ぶのならば卑弥狗でも良かったように思うのですが
ヒミカと読むのでしょうか
伊都から邪馬台へ向かった船はどんな船でどのくらいの大きさだったのでしょう
帆かけ船でしょうか、手漕ぎの船でしょうか
おそらく伊都の東端、筑前5ヶ浦廻船でも有名な今津あたりから船出したのでしょう
水行十日でどこまで行けるでしょうか
知り合いの海上自衛隊の艦長や瀬戸内海航路の船長の方たちに聞いたことがありますが
動力なしの昔の船で潮の逆巻く瀬戸内海を十日で横切るのはかなり難しいのではないか、と
今と違って風向き潮の流れに大きく左右されたであろうから十日では不可能という方もいました
海自の艦長(当時)に私が地図を指しながら、これだけの距離しかないのだから十日もあれば充分でしょうと言うと
「それは海をナメているんじゃないですか?」と言われてしまいました
このあたりは古代船を復元して実際に航海実験をしてみるのも面白いかもしれません
水行十日の後の上陸地点も書かれていないところから
水行ならば十日、陸行ならば一月という意味なのでしょうが
だとすれば邪馬台は海岸に面した場所にあった可能性が高いのでしょう
今も人気のあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼などは
舗装された道を一日に7時間歩いて、だいたい一日に20キロ前後の行程だということですが
邪馬台の時代は一日にどのくらいの距離を陸行できたでしょうか
畿内説にしろ九州説にしろ伊都から女王の都する所へ
古代の道をたどって具体的にどのような旅程で陸行したかに関する研究はもっと為されて良いようにも思います
伊都から畿内に向かうには一度どこかで本州へ渡らねばならず
そういう旅程が果たして「陸行一月」と書かれただろうかという疑問もあります
四国の瀬戸内海に面した側の者としては古代の瀬戸内海航路には非常に興味があります
10 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 10:31:24
>>9 >水行十日の後の上陸地点も書かれていないところから
>水行ならば十日、陸行ならば一月という意味なのでしょうが
>だとすれば邪馬台は海岸に面した場所にあった可能性が高いのでしょう
「ならば」と読むのはどうかなあ
直感では「水行プラス陸行」の方が正しい解釈のような気がするよ
「ならば」と2通りのコースがあるように読ませたいなら、
それなりの書き方するんじゃない?
漢籍をいろいろ調べて、似た用例を探す必要がありそう
でも誰かもうやってないのかなあ
11 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 12:14:13
>>4 書記だけでも問題ないだろ。
両方で活躍していないといけない根拠は何?
12 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 13:37:46
>>8 幕末の高杉晋作が、当時最新鋭の蒸気船で、下関から和歌山まで確か40日
かかっている。いくらなんでも時間がかかりすぎという声もあるが、
そういうこともある。
動力のない船の場合は、風や潮の影響を受けやすいから、これも何とも
言えない。
内藤湖南は、方向の相殺として、船でそれだけ進んだら、東シナ海に出て
しまうと言ったが、当時の船のスピードがわからない限り、それは詭弁
だと思う。
13 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 15:17:36
>>7 卑弥呼(上古音 pieɡ - mier - hag)=ピミホ
オシ(ホ)ミミ
(ホ)ノニニギ
(ホ)スセリ
ヒコ(ホ)(ホ)デミ
(ホ)アカリ
卑弥呼=ヒミヲ (万葉仮名:呼=ヲ)
スサノ(ヲ)
>>13 中古音だとどうなります?
ちなみに「邪馬台」の発音も。
16 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:39:49
>>11 書紀よりも古い古事記でスルーされている時点で、マイナーな人物確定
竹内文書をよく読めば、神武天皇以前にもフキアエズ朝があったことがわかる。
18 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 21:20:40
>>12 漢書の記述にシリア辺りからローマ(大秦国)まで船行すると、良風で一年、悪風なら三年かかるとあるね。
後漢書が倭地を東西5ヶ月行と表現するのも納得出来るスピードだね。
総→そう スマソ
21 :
サガミハラハラ:2009/04/03(金) 22:23:45
卑弥呼はヒミカと発音するのが正しいです。
アイヌ語のピリカと同義です。
ピカピカ光るや、ピカ一や、光と同じ種類です。
つまり、とても素晴らしい方といういみです。
22 :
九州王朝大好き:2009/04/03(金) 22:38:20
魏志倭人伝
『從郡至倭
到北岸狗邪韓國△△里、至○○國△△里、・・・・、至不彌國△△里
至投馬國××日
至邪馬壹國×日×月
自女王國以北・・・
其餘旁國遠絶不可得詳、
次有斯馬國、次有○○國、・・・・、此女王境界所盡
其南有狗奴國、・・・・・、不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里』
文の構成は上記のようです。
よって
『從郡・・・至投馬國』
『從郡・・・至邪馬壹國』
となり、
郡と投馬國の距離は水行二十日
郡と邪馬壹國の距離は水行十日+陸行一月
と理解されます。
放射説の基点国は伊都國と不彌國となります。
次の国へ行くときに動詞がない国が放射された国です。
23 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 01:05:35
>>8 帆の使用については土器の線画はともかく現物としての出土例は無かったと思う。
仮に使用していたとしてもやっぱり副次的な物で
主に手漕ぎに頼っていたのでは?
いや、それより潮の流れに頼っていた部分が大きかったんじゃないかと思う。
瀬戸内海の場合、潮の流れが複雑で、それが変わるのを待つ時間のロスが相当あったんじゃないかな?
誰もが知る源平の戦いクライマックス壇ノ浦。
勝敗の帰趨を決したのは一日の前半と後半で変わる潮の流れだったと記憶しているが。
瀬戸内海は潮の流れを熟知していればそれに乗るだけで楽々航行でき
外洋に比べれば波も穏やかと言うメリットもあるが
長い距離一気に航行するには案外不便だったのではないかと思っている。
その点では日本海のほうが有利だったか?
まあ素人の想像でしかないがwwwwww
倭人伝なんか読むと、当時の中国人は
日本列島を日本海側から眺めているんだよね。
25 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 02:13:36
広志逸文を読むと、案倭西南海行1日有伊邪分国とあり、屋久島かと言われている
ようですね。屋久島が見えるコースをたどったのかな?
ヒント
つ 案
広志には「倭国から東南陸行五百里、伊都国に至る」
「女王国の北には斯馬国が有り、次に已百支国、次に伊邪国が有る」ともありますが
ここでの倭国=末ロ国だとすれば伊邪分国はあるいは元寇でも有名な伊万里湾の鷹島を指すのかもしれず
伊邪国という国が伊万里湾岸にあった可能性も出てきます
末ロ、伊都、奴、不弥・・・皆その領域が旧郡のひとつかふたつ程度であるところから
邪馬台とその30ヶ国ほどの傍国は
全体で旧郡の30から40個分ほどの広さに広がっていた可能性が高いようにも思います
あるいは海行=渡海、水行=川や運河などの水路を使った移動
を指すのかもしれませんが問題は伊都から南には「水行」できそうな地形が見当たらないことです
28 :
サガミハラハラ:2009/04/04(土) 07:16:04
そうですね。つまりはイト国を前原に比定することが間違いなのです。
唐津から松浦川沿いに東南に抜け、有明海にでると南に水行できます。
29 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 07:16:12
>>27 広志の「倭国」は末盧国ではなく九州の意味でしょう。九州に至って東南陸行五百里で
伊都国に到る、九州の西南海行1日有伊邪分国というわけですね。
伊万里湾の鷹島は、九州本島から海行1日もかかるはずはありません。それに鷹島だけ
九州とちがって布の代わりに革を用いているなどということも考えられません。
伊邪分国は道里戸数も書いてありませんから、女王国以北の国でないことも明らかです。
鷹島の可能性はまったくないと思いますよ。
30 :
サガミハラハラ:2009/04/04(土) 07:35:12
斯馬国は糸島半島周辺でしょう。
伊邪国は福岡市南部にあてられます。イヤナガバルという地名があります。
女王国は佐賀平野ですから、斯馬国の糸島半島は北にあたります。
邪馬台国の所在地であったかは別にして
佐賀県の、とくに西部(武雄温泉〜多久付近)は地理的に非常に魅力的な地域ではありますね
佐世保などの東シナ海沿岸と有明海を陸路で結び、山ひとつ越えれば玄界灘沿岸にも出ることができる
さまざまな文化の交わる場所であり、あるいは一時期でもこのあたりの王が
大きな力を持った時期があったのかもしれないとも思います
吉野ヶ里をしのぐ規模の大きな遺跡が出てきても驚けない地域のひとつではないでしょうか
32 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 09:17:29
>>30 >女王国は佐賀平野ですから、斯馬国の糸島半島は北にあたります。
しかし、斯馬国については道里戸数が記載されていない。
33 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 20:13:20
>>31 その付近は、伊都国と考えたほうがつじつまが合うと思うけど。
末盧国から東南に陸行五百里も合うし。
伊都国が佐賀だと畿内説も困るじゃないか、
でも唐津から東南方向だったら佐賀だよね。
だから、魏志倭人伝の方角はずれてる事になるんだな、
東南が北東で、南が東、ゆえに邪馬台国は畿内になる。
35 :
九州王朝大好き:2009/04/04(土) 21:17:52
>>31 その付近は、伊都国と考えますね。
東の端にある惣座遺跡は規模不明だけれど、吉野ヶ里に匹敵するものかもしれない。
36 :
九州王朝大好き:2009/04/04(土) 21:23:01
純度の高い銀製指輪も出土しているよ。
城郭の一部が発見されただけれども、吉野ヶ里とよく似た構造だよ。
37 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:25:45
ずーっと伊都国は博多にあったよ。
委奴国の金印が博多湾にあったこともその根拠だし、
古墳が前原市に円墳350基、前方後円墳11基と同じ族が長く治めていたことから
も推測できる。
通説の唐津〜前原は誤りで、博多湾早良〜春日が正しい。方角も正しいし、
距離は20キロ位。目視、または歩いて計るので500里は20キロ位ですよ。
38 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:37:21
だから大宰府が奈良以降の要地になったのは伊都国のなごり。
奴国のナは高句麗語で中という意味。
奴国は後に那珂郡になった。
那珂郡がかつての伊都国の立場になり、
隋書のタリシヒコはこの那珂郡に住んでいた。
だから記紀の名前に見られる中の字は博多の那珂郡のことを指している。
39 :
サガミハラハラ:2009/04/04(土) 23:52:51
確かに記紀の葦原中国は福岡市那珂川流域から福岡湾一帯です。
40 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 00:10:40
>>37 20kmでは300里だ。
伊都國が春日は無理。
春日にあったのは餘旁國のひとつ。
それも巨大な。邪馬壹國に匹敵する国。
倭奴國の流れをくむ国。
卑彌呼が魏使に知られたくない国。
春日は魏使が女王國に行く時に避けたいルート。
不弥国は宗像だろ、完全に方角ずれてる。
畿内説を証明しているようなもんだな。
42 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 02:47:26
■垣内遺跡取り壊さず保存
淡路市教委、県や地元の理解得る
弥生時代後期(1世紀中頃〜3世紀初め)の国内最大の鍛冶(かじ)工房跡であることが分かった淡路市黒谷・垣内(かいと)遺跡を、埋め戻した上で保存することが決まった。
同遺跡はほ場整備の過程で発見され、本来なら調査終了後に取り壊す計画だったが、歴史的価値が高いことから、市教委が県や地元の理解を得て計画変更をまとめた。風化を防ぐために、早ければ今月末頃から作業を始め、将来の史跡指定を目指す。
同遺跡は標高約200メートルの丘陵にあり、市教委が今年1月発表した時点での調査区域は約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡(最大で直径10・5メートル)と判明。
弥生時代最大規模の鉄器生産工房で、鉄器生産の技術が朝鮮半島から九州北部、瀬戸内を経て東に伝わる〈鉄の道〉の一端が明らかになったとして、関係者の注目を集めた。
価値の高さから、事業者である県や、地元の五斗長(ごっさ)土地改良区も保存していくことでまとまった。
県洲本土地改良事務所によると、同地区でのほ場整備面積は27・7ヘクタール(受益戸数51戸)で、2006年度から6か年かけて実施。総事業費は約9億9800万円。
保存区域は調整中だが、直径10・5メートルの円形工房と、大型鉄板(縦約5センチ、横約20センチ、厚さ約3センチ)の見つかった同9・7メートルの円形工房がある付近などを想定。ほ場整備区域は外さず、工事をしない区域として残すことになるという。
土地改良区の植野喬雄理事長(67)は
「垣内遺跡は地元の誇り。地域としては公園にしてもらい、全国の人に喜んで来てもらえるよう整備してほしい」
と話し、市教委の伊藤宏幸・社会教育課長補佐は
「現地を訪れる人にも本物があれば感動してもらえる。歴史的に重要な遺跡を後世に残せることはありがたい」
と話している。
同遺跡では1月の発表後、さらに建物跡6棟が見つかり、うち1棟が鍛冶工房跡であることが分かっている。
(2009年4月4日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20090403-OYT8T01087.htm
>>37 前原市のすぐ隣、福岡市西区今宿の大塚古墳は素晴らしい前方後円墳ですね
二重の濠に囲まれて全長約100メートル、6世紀初頭のもののようですが発掘はまだされていません
墳丘の北側を中心に大規模な環濠集落が発見され発掘中です
伊都国の官ニキはさながら古墳銀座の様相を呈している今宿から周船寺にかけての高祖山山麓にいたのでしょうか
5世紀初頭に倭国の人質となった百済の太子トムキと新羅の王子ミシ=クムも
ここを通って倭都に連行されたのでしょう、あるいはこの地域に幽閉されていたのかもしれません
>>41 伊都国の東端、今津・今宿付近から東の方向を遠望すると
今津湾、博多湾をはさんで旧糟屋郡が見渡せます
今津・今宿付近から船で東に行けばたどりつくこのあたりが不弥国ではなかったでしょうか
仲哀天皇が不審死された伝説のある香椎宮付近がその中心であったように思います
讃岐富士、見事な円墳ですね。大きくて力強くて、しかも実に美しい。
この山を見ると古故郷に帰ってきたなと実感します。
街のどこにいても方向がわからなくなることはありえませし、
この巨大な円墳こそ卑弥呼様の墓に違いないと思います。
と、讃岐うどんを食べながら考えます。
46 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 08:35:24
福岡県の甘木に行ってきた。
そこらへんの小山からして墳墓のようだった
47 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/05(日) 10:20:17
あれ? 太国氏??
お亡くなりになったらしいと聞いてたんだが…
49 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:45:15
最近の九州説は元気ないねえ。
九州はもうだめぼ…
しかし、魏志倭人伝も、よりによって、倭の國の東遷と重なる
ややっこしい時代の話を残してくれたものです。
伊都国から南にあった時期と東の畿内に移った時期の話が
混在している。だから、90度回転したなどというとんでも説まで
飛び出てしまうのです。
魏志倭人伝に書かれている内容を整理して、九州にあった時期
の話と畿内に移ってからの話を分ける作業が必要です。
52 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 18:22:51
東遷なんていう事実は無いよ。
53 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 19:13:51
54 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 19:25:26
事実は無いから、事実は無いって書いたんだよ。
事実があるなら、その根拠となる証拠を出してください。
55 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 20:35:46
>54 つまり日本に邪馬台国が存在した事実は無い。そういうことでいいんでしょうか?
56 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 21:08:44
>>55 東遷と、邪馬台国は、全然別問題だよ。
九州に邪馬台国があってもいいが、東遷は無い。
>>55 当事者ではないんだが、横レスさせてもらう。
>>54は
>>53を受けて反論しているのは明白で、
その
>>53は
>>52を批判しており、
また、
>>52は
>>51を批判している。
>>54と
>>52は明らかに同一人物が書き込んでいる。
それで、議論の元々はレス
>>51にあるわけだが
>>51は邪馬台国は九州にあり、それが後に畿内に移った、との前提でレスしている。
いわゆる「邪馬台国東遷説」である。
したがって
>>52の
>東遷なんていう事実は無いよ。
は
>>51の「邪馬台国東遷説」を、それは事実として認め難い、と主張するものであって、
邪馬台国ぼ存在自体を架空としているわけではない。再レス
>>54もまた同じ主張を繰り返すに留まる。
つまり
>>54はあくまで「邪馬台国東遷説」の否定をやっているだけであり、邪馬台国があったか無かったかの議論ではないのである、
>>55はこうした点が読み取れていない。
こうした簡単なことさえ読み取れないのに、記紀や魏志倭人伝を読み解ける筈が無い。
あるいはわざと読み取れていない風を装っている、とも考えられるが、
ともかく学問板には相応しくなく、質問
>>55はまことにくだらないの一語につきる。
58 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 22:07:10
邪馬台国の問題は、議論の分かれるものが多いわけだから、「…だと思う、」
と書くのが普通で、当然、その理由も書かなくてはならない。
にもかかわらず、断定的なことを言ってそれでおしまいと来るからおかしい。
九州説(東遷説)をとるか、畿内説をとるかは、非常に重要な問題で、記紀や
倭人伝、あるいは考古学の信頼性にまでかかわってくる。
59 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 22:36:02
九州説終わったな…と思ったのは
『邪馬台国を考える会(仮称)』ってのが奥野、高島の肝いりでできるそうだが
なんでも吉野ヶ里を邪馬台国に比定して研究を進めるとの事…
「今更、吉野ヶ里かよ…」
と思ったのは俺だけでないはずwww
この板の九州説連中によると
九州には吉野ヶ里より有望な遺跡が目白押しって聞いたんだがwwwwww
>>59 俺は九州のなかで遷都を繰り返していたという説なので、問題ない。
後の時代でも畿内で遷都(王宮の移動)を繰り返している。
吉野ヶ里も一時的には王宮が所在していただろう。
というか、王宮と城郭が出土している。
九州説で、1か所が100も200年も政治の中心であり続けたと主張する説があるとすれば
「頭がおかしいのではないか?」と素直に思うのだが。
61 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 22:54:33
邪馬台国吉野ヶ里は観光が目的だろ?
地元では昔から吉野ヶ里遺跡は卑彌呼の城郭なんだから。
むかしボランティアガイドのおばちゃんに
ここは卑彌呼に負けた側だと言ったらいやな顔をされた。
62 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 22:55:56
吉野ヶ里はそれなりに邪馬台国の条件を満たしているとも言える。
「宮室、樓觀、城柵」かな?というのが見つかっているわけだし。
それに比べ、纏向はどうなんだ。
とりあえず、纏向を邪馬台国ということにしておいて、証拠はあとで
探せばいいさ。なかったら三角縁神獣鏡みたいにうやむやにすれば済む事。
ってことかな。
63 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 22:58:10
吉野ヶ里=不彌國の城郭(女王國連合の構成国)と思うんだけれど。
64 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 23:00:35
間違い修正
× ここは卑彌呼に負けた側だと言ったらいやな顔をされた。
○ ここは卑彌呼に取り込まれた側だと言ったらいやな顔をされた。
65 :
サガミハラハラ:2009/04/05(日) 23:03:59
だから吉野ヶ里の北内郭は卑弥呼がすむためにたてられたんだってば。
66 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 23:05:43
>>60 西暦107年に、後漢に生口160人を献上したとされる倭国王・帥升はどこにいたと
思う?
67 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 23:07:14
>>60 >九州説で、1か所が100も200年も政治の中心であり続けたと主張する説があるとすれば
>「頭がおかしいのではないか?」と素直に思うのだが。
この文どう思う
『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条
68 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 23:11:10
>>66 >西暦107年に、後漢に生口160人を献上したとされる倭国王・帥升はどこにいたと思う?
横レスだが、
帥升の城郭は吉野ヶ里
69 :
サガミハラハラ:2009/04/05(日) 23:24:44
横レスだが、
帥升は当時の中国語でシュセンと発音するとのことです。
倭面土国王がいたところは、福岡市西区の周船寺です。
70 :
九州王朝大好き:2009/04/05(日) 23:30:26
>>69 吉野ヶ里の近くには、
倭面土国を音源とすると思われる米多(メタ)、目達原(メタバル)がある。
71 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 23:31:25
吉野ヶ里は八十女とか言う土蜘蛛が住んでいた。
72 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 23:37:39
>>62 じゃあ対抗ネタとして「婢千人」と高い出土率の搬入土器が共立された
王の住む都に相応しい場所である事の2点でも挙げておこうかな?w
前者は果たして実数かどうかは怪しいが
卑弥呼の直接仕えていたと言うのだから一般的な奴婢とはまた違った階層だったろう。
そんな人間が千人、話半分でも五百人といた可能性がある遺跡なら
纏向以外に無いと思うが?
(「宮室、樓觀、城柵」なんかよりは相当特殊なネタだなw)
吉野ヶ里に推定されている人口千人ぐらいを全てそれに当て込むか?
それとも内郭部に千人押し込めるか?
いずれにしてもリアリティの無いお話w
奥野、高島にしてもそんなアホなことは言わないだろうwwww
この板の九州説のアホな部分は畿内説を否定するのに
倭人伝を持って来るのは良いが頭に血が上って
それは自分達にも諸刃の剣であることを全く失念している。
九州にしたところで倭人伝どおりの遺跡なんてありませんよとwwwwww
73 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 00:14:05
>>72 各地の土器があるから邪馬台国なんて言えないし、広いから邪馬台国とも
言えない。
邪馬台国のことが書かれているのは、倭人伝だけ。あるいは他の中国の文献だけ。
だったら、それを参考にすべきで、土器がどうの、広さがどうのというのは、
勝手なイメージに過ぎない。
というわけで、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」は重要だろう。
「婢千人」については、そういう痕跡が見つかってからの話だろうな。
74 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 00:26:55
>>73 宮室、樓觀、城柵だけでも邪馬台国といえない話って事だよw
そもそもそれらを古代に吉野ヶ里だけにあった特有の物と言っている学者なんていない。
発掘された材料を宣伝材料にしているだけの話www
「婢千人」以外とて吉野ヶ里に奴婢百人の殉葬の跡が見られる墓があったか?
どの道、九州に倭人伝通りの遺跡なんて無い事には変わりは無い。
まあこの板の九州説連中なら畿内説を否定できれば満足なんだろうがwww
75 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 00:46:16
>>73 土器の流入はそれに伴う活発な人の動きを想定させる。
仮に単純に九州の何処かの遺跡を邪馬台国に比定し
地図上で適当にその勢力範囲を言ったところで
その遺跡が勢力範囲の中心だったのかどうか分かった物じゃない。
今日九州説が下火なのは遺跡単体のお話だけじゃなくて
そう言った広範囲にいわば「統合」の動きが見られない事も大きいのだろう。
弥生末期、威信財体系や祭祀形態でそれを想定しうる物があれば
おのずとその範囲や中心地も絞れて九州説も百家争鳴のカオス状態から脱却できる物をwwwwww
76 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 01:16:39
規制されてた・・・やっと解除されたよ。
前々スレ
>>346 >>玉璧(中国でもこれほどののものは出土してない国宝)が、串間で発見されたのは文政元年(1818)な
串間の玉璧が最初に世に出たのは、大正10年(1921年)。
その箱に「文政元年(1818年)に王之山から出た。明治10年(1877年)」(意略)
と書かれていたってだけでしょ?
つまり大正時代に玉璧を中国からもってきて、古い箱に文字を書いたって可能性が否定できない、というより高いような代物なんじゃないの?
発見から60年近くたってからの箱書き、驚くほど詳しく地名が書かれるも、現存しない。見つかったときの話も伝わっていない。
と私は考えているのだけど、他に何か取りこぼしている情報があるか?
77 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 01:23:34
>>58 九州説だが東遷はないよ。記紀にも東遷は書かれていない、神武のそれを東遷と言うのが間違い。
邪馬台国は九州。神武は日向を追われて畿内へ行き、その後ヤマト政権は畿内から発生した。
それだけのことでしょ。
>>59 『邪馬台国を考える会(仮称)』で、吉野ヶ里が邪馬台国って、私の説が知らぬ間に受け入れられたのかと思ってしまったよw
まぁ私の説が間違えている可能性は低いようなので、その内本当に採用されるかもしれないね(妄想)w
誰かが言ってたが、佐賀大和から八女までが邪馬台国ってのは、結構あたっているのかもねw
>>63 そのように思っていた時期が私にもありましたw
http://yamat-2007.blogspot.com/
79 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 01:31:53
ちょっとズレた質問。知ってたら誰か教えてくださいな。
1.
八女あたりを見ていたら岡山なるものがあって、いまは公園になっているらしいのだけど、
おなじところで岡山公園遺跡なるものがあるらしい。がググってもよく分からなかった。
どのような遺跡で何時ごろのものと考えられているのかとか、分かりませんか?
2.
先日読んだ本に、神社がつくられそこに住む神主が登場したのは仏教の影響だ、ということが書かれていたのだけど、
仏教伝来以前にさかのぼることが確実な神社ってありましたっけ?
出雲大社とか、出典は記紀の国譲りだけど、実際の神社が何時ごろから作られていたか確実にわかるのだろうかと・・
どうでしょう?
80 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 01:33:30
>>78 ただのお話でしょ? どこにあるの?
その箱型石棺、本当にあったの?w
81 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 02:37:37
>>80 串間市から1818年に出土したものだということを
幕末から明治時代にかけて活動した松浦武四郎という探検家が書き記しているのよ
だからその松浦武四郎の時代までさかのぼれるのは確実
82 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 02:50:39
84 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 10:22:25
>>81 >>82 なるほど、そうでしたか。
大正時代に多気志樓の名を語った可能性(低い)と、明治に松浦武四郎(多気志樓)が偽った
あるいは騙された可能性はまだあるものの、箱書きしたのはこの人という事なのですね。
しかしどうもあやしいのは、発見した当時の様子などが伝わってないようなところですかね。
金印のほうは誰それが長老に話して殿様にってな泥臭い話があるのに。
まぁぱっと見、価値の分かりにくいものだから、それほど騒がなかったのかもしれないか。
>>69 >帥升は当時の中国語でシュセンと発音するとのことです。
shusen
shusano(wo)
tyu > shu > su
王 iuang = wang > ヲ(wo)
王 iuang = wang > ワウ(wau) > オウ(ou)
86 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 11:34:23
>>77 邪馬台→大和 名前が似ているんだよね。
ちなみに、帥升の国とされる倭面土も似ているかな?
陳寿は、帥升と卑弥呼を同じ系列と考えているように思える。
87 :
九州王朝大好き:2009/04/06(月) 16:53:45
>>77 >
>>63 >そのように思っていた時期が私にもありましたw
>
http://yamat-2007.blogspot.com/ 書いておられることがよく解りませんが、
私の説と違うようです。
伊都國の城郭=惣座遺跡・伊都國には王がいるので女王國ではない。
奴國の城郭=佐賀城址・奴國は女王國の構成国。
不彌國の城郭=吉野ヶ里遺跡・不彌國は女王國の構成国。
投馬國は不彌國に南接・投馬國は女王國の構成国。
邪馬壹國は不彌國に南接・邪馬壹國は女王國の構成国であり女王の都(城郭)があるところ。
テポ?
89 :
サガミハラハラ:2009/04/06(月) 17:21:27
帥升のシュセンは、王であるからシュセンオウとなりますね。
北部九州ではサをシャ、スをシュと訛りますからスサノヲともなります。
となるとスサノヲは周船の王だったことになります。
記紀ではスサノヲは海原をおさめたといいますから、海を越えて直接中国の都へいったというのも納得できますね。
ちなみに、倭は上古、ヰと発音し倭面土はヰメンドとなります。
御前手前は訛って、オメエテメエとなるので、メンは前(マエ)であったようです。
周船の近くに前原とありますので倭面土国は糸島周辺ということになりますか。
スサノヲが北九州なまりね〜。そのでんで他の神々の名称についても説明できるんかね。
姉のアマテラスやツクヨミも九州弁なんかね?
91 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 22:56:23
倭人伝の地名はだいたい高句麗語、高麗語、で読み解ける。
たまにアイヌ語でも。
それは北海道のそれのように地名がアイヌ語で残ったのと同じ理屈。
ただアイヌ語は倭人(南方人)との混血により倭人語も多く混入していると思われるが。
チブサン古墳はアイヌ語でチブは船、サンは坂、小高い山ということで
船山古墳だ。近くに江田船山古墳というのがあるので
チブサンは船山というのはほぼ間違いない。
又、サンは(川下る)行くという意味もある。
オブサン古墳のオプは入れ物、サンは山で箱山古墳かな?
或いは石棺の形の船、箱を示しているのか?
例外には漢字で意味を指す国もある。例えば朱儒国、黒歯国、裸国などは
国の名前ではなく国の特徴を指している。
92 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 23:33:00
91つづき
それとマオリ語でも解せる土地名もあるようだ。
縄文土器はポリネシア人の土器らしい。
また縄文人骨からもポリネシア人が日本にいたであろうことは推測できる。
93 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/06(月) 23:55:06
>>87 私の説を読んでくださり、ありがとうございます。
私の説は、邪馬台国=筑後川下流域に、福岡平野ルートと佐賀平野ルートの2つのルートがあったのでは?
というものです。
この読み方は私が最初に提唱したものらしく、その意味でもユニークな説です。
が、比定地が筑後川下流域以外にはもっていきようがないのでトな説を求める人には不人気なようですw
投馬国、邪馬台国の南接説は、古田氏のアイデアですね。この部分を書いた著書の文章はなかなか説得力が
ありましたね。私も1年前までは同様の解釈を採っていました。今はその必要がないことに気がついたので、捨てましたが。
佐賀平野ルートの欠点は、伊都国、奴国の有力な比定地がないこと。福岡の金印の説明ができないこと。
これらの定説を覆すことは今後も不可能でしょう。放射説とあわせてト説の温床になりつつあるのは悲しいことです。
逆に福岡平野ルートの欠点は方位が45度〜90度ずれること。と距離もあやしくなること。
満足できる説明ができないから、いかに倭人伝があいまいな文章であるかを必死に力説するしかない始末。
結局、2つのルートを想定するのが理に適っていると私は思うのですがね。
94 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 00:54:30
>>93 金印については、志賀島の畑の中から出たというのが謎。
有望な遺跡の中から出たのなら、そこが金印をもらった国と考えられるが、
そうではないので、どこからか持ってきたと考えられる。
一番近いところから持ってきたと考えるのもありかもしれない。
しかし、もっと遠くから持ってきたというのも有り得るかも。
倭人伝を読む限りでは、行政の中心は伊都国と思う。
卑弥呼の所在する邪馬台国までは約120kmの距離しかない。
(実際はもっと近かったかも)
国の重要事案を吉凶の占いで判断するのに、陸行一月は無いだろう。
それじゃ情勢が刻々進化するのに対応出来ない。
重要事案発生→審議→占いで決めるに衆議一決→使者派遣→占い実施→神託ok
→使者帰朝→神託披露→国策決定
陸行往復2月もかけたら情勢変化に対応できん。
馬ぶっ飛ばして2〜3時間が妥当なところ。
よって邪馬台国は伊都国近郊と推定するよ。
96 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 01:11:03
>>95 一大率を伊都国に置いていた・・・・この理由を考えてみるべし。
倭人伝の行程も無視、一大率の記述も無視・・・・では、話にならん。
近畿説では山口、東九州の一部まですでに邪馬台国連合なんだよ。のろし実験では情報
は、北九州から近畿まで数時間で伝わった。
>>94 百姓はどこかの墓か遺跡をあばいて取り出したんだろ
本当のことを言えんから、畑から出たと領主に持って行って褒美に預かろうと考えた
倭人伝の「陸行1月」は魏国の正式外交代表団が、威儀を整え、行列を組み、
倭国連合国家群のそれぞれの首邑を巡回して邪馬台国に至るまでの日程
じゃないか?
倭国連合国家群を構成する首長にそれぞれ敬意を示した後、最終目的地である
邪馬台国に到着したと考えれば、謎は解ける気がする。
同様に「水行10日」も、連合国家群のうち、海に面して港湾のある地域を巡回視察
したんじゃないか?
時代ははるかに下るけど、朝鮮往来使や出島のカピタンが徳川将軍に表敬訪問
したような風景を想像しています。
>96
一大率の本拠地が伊都国だったと考えた。
一大率は伊都国から各地に巡察に行ったんじゃないかと。
101 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 01:37:53
一大率は諸国を検察する。なぜ、その一大率が伊都国にあるかというと、
邪馬台国がかなり離れていて目が届かないから、ということになる。
邪馬台国が近くにあったら、わざわざそんな役人を置く必要はないわけで。
もう一つは、伊都国付近には、検察すべき国がたくさんあったということ
ではなかろうか。要衝の地ということかな。
102 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 01:40:39
>>93 >佐賀平野ルートの欠点は、伊都国、奴国の有力な比定地がないこと。
>福岡の金印の説明ができないこと。
1〜3世紀の有明海沿岸地形をみれば佐賀平野ルートの欠点はなくなります。
吉野ヶ里のすぐ近くまで有明海が入りこんでいました。
吉野ヶ里の南東の米多は倭面土国王帥升の港湾だったのでしょう。
又その北は目達原です。
吉野ヶ里遺跡は帥升の城郭だったのです。
帥升は北方へ攻め上がり倭奴國を滅ぼし、その捕虜をつれて安帝に会いにいったが会えなかった。
漢は金印を与えた倭奴國以外の王を正統な倭王と認めなかったのです。
これが倭面土國王帥升の名が後世に伝わった理由でしょう。
その後倭の諸国は互いに抗争状態に入り倭國乱に突入したのです。
福岡平野には、倭奴國の後継国である強大な国が倭國乱後も生き残り、
新興邪馬壹國の卑彌呼にとっては魏使には見せたくないものだったのです。
伊都國は倭面土國の後継国で、その城郭は吉野ヶ里から惣座(肥後国庁跡)に移動したのです。
奴國は3世紀の佐賀平野全体占める国です。
不彌國は佐賀平野と北野地域の間にある背振山地裾の地峡部です。
不彌國の南には西側海岸に面して投馬國があり、その城郭は大川か柳川にあったと推定します。
東側内陸部には邪馬壹國があり、その城郭は久留米南部地域です。
この地は3世紀から618年大宰府に遷都するまで都が置かれました。
また8世紀に入ると筑後国庁も置かれたのです。
以上お話風に結論だけを書きました。
装飾古墳の豪族たちが邪馬台国の文化を何がしか受け継いでいるとすると
あのオドロオドしい彩色も、解るような気がするな
死者の魂を乗せてあの世に向かう「太陽の船」は、三重県からも埴輪の形で出ているよ
楔文様も円弧文様も、三輪山付近の古墳から普通に出る
師升は光武帝の金印の継承者ではなかったかという感じもします
師升は北侵して玄界灘航路を手に入れた有明海沿岸の王なのではないでしょうか
今宿から周船寺にかけての旧イト郡に一大率を置く意味のひとつもここにあったのだと思います
玄界灘航路を手にした者が半島や華北との交通路を確保でき交易、とくに南鮮の鉄を手にできる
今宿の北西に今山という小さな山がありますが
あるいはここは一大率の基地だったのではないかとも感じます
高祖山山麓に広がる平野のどこに立ってもこの山の威容が間近に迫ってきますが
その姿はさながらイト郡全体に睨みを聞かせる山城のようです
安曇氏の根拠地志賀島、福岡西部の姪浜からもその威容はよく見えますし
対岸の福岡市東区付近の海岸からもこの山の姿が見えます
私は現地の遺跡を見てまわりながら常に目に入ってくるこの山の姿が気になりこんな考えを持ちましたが
今山が邪馬台時代の基地ではなかったかという説は既に何人かの方が出しておられるようですね
105 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/07(火) 07:22:44
>>102 伊都国、奴国、金印、何ひとつ説明できてない。3アウトw
伊都、奴の地名、川名、湾名、なにもなし。何を根拠に伊都、奴と言ってるの?
そんなで前原、福岡の比定をくつがえせないよ。
伊都国=肥後国庁跡、奴国=佐賀平野だと東西が史の記述に反してるし、
佐賀平野に奴国があるのになんで伊都国は奴国に近い西に移動してるのか訳分からん。
106 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 12:53:03
>>104 104さんの意見とは矛盾するところがありません。
>>105 ◆.L.MXSPOgcさん
金印の説明は出来ているとおもいますが。
金印の倭奴國は倭面土國王帥升に滅ぼされた。
金印は帥升の手から逃れたゆえに、帥升は倭の正統と見做されず、面会出来なかったのです。
伊都國と奴國の位置は魏志倭人伝の里数による道程記事からでてきたものです。
伊都國(城郭)は奴國(城郭)の北東100里にあります。
奴國の国域は3世紀の佐賀平野の北東部を除く全域です。
107 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 13:06:53
間違い修正
× 奴國の国域は3世紀の佐賀平野の北東部を除く全域です。
○ 奴國の国域は3世紀の佐賀平野の北西部を除く全域です。
108 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 14:59:36
再度間違い修正。
× 伊都國(城郭)は奴國(城郭)の北東100里にあります。
○ 伊都國(城郭)は奴國(城郭)の北西100里にあります。
× 奴國の国域は3世紀の佐賀平野の北東部を除く全域です。
○ 奴國の国域は3世紀の佐賀平野の北西部を除く全域です。
109 :
九州王朝大好き:2009/04/07(火) 15:35:13
追加説明
伊都國(惣座)は倭面土國の本拠地(吉野ヶ里)が邪馬壹國によって佐賀平野西部に追いやられたものです。
一大率は倭面土國(伊都國)が作った海峡を主目的とした監視検察組織です。
本来は一大國がになっていた組織でしょう。
伊都國の検察組織を邪馬壹國がそのまま使ったのです。
だから卑彌呼の代理者として伊都國には王が居続けることができたのです。
>>104さんの見解と矛盾しないとは以上の理由からです。
又、福岡平野には倭奴國の流れをくむ大きな国があったことを否定するものでもありません。
卑彌呼を立てることにより倭國乱が収まったのは、この福岡平野の勢力との合意よるものと思います。
ますますお話風の説明になってしまいましたが。onz
110 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 17:49:22
>>106 帥升が、なぜ後漢に朝貢したのかというのも考えなくてはならないかも。
わざわざ中国まで行き、生口を160人も献上したのは何か理由があるはず。
また、帥升は、安帝に会ったのではないかと思う。遠来、朝貢してくる王を
拒否する理由はないわけだから。生口を献上したのは確かなので、なおさら
そうだと思う。
日田から鉄鏡が出ている。魏でも皇帝クラスしか持っていなかったとされる
非常に貴重な鏡である。なぜ、日田からなのかはさておいて、この鉄鏡を
いったい誰がもらったのか。
もし、卑弥呼がこの鏡をもらっていたとしたら、倭人伝に記されていると
思う。だから、卑弥呼ではないだろう。倭奴国の王は金印をもらっている。
文献から見ると、「倭国王」とされた(認められた)帥升以外にはないと
思われる。
西暦107年に後漢に朝貢した帥升を、倭国王(倭王)の始まりと考えていいと
思う。倭人伝によると、大乱の前の「其國本亦以男子爲王、住七八十年」に
それが伺える。大乱は、後継者不在の状態であり、後継者をめぐる争いだろう。
他の書物には、「歴年無主(王)」の記述がある。
倭面土を「ワメド」と読めば、「ヤマト」と似ているような気がする。
倭人の言葉を聞いた人が漢字で表記したわけだから、誤差の範囲のような
気がする。とすれば、同じ場所の可能性もあるわけだが、気のせいかな。
アメリカも、昔は、メリケンと呼んでいたわけだし。
111 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 20:29:58
疲れた
邪馬台国がどこにあったか判明したら、現代、未来に(日本国民OR人間)が
どうなるなか。
問題だ これに誰か答えてくれ
112 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 20:31:38
疲れた
邪馬台国がどこにあったか判明したら、現代、未来に(日本国民OR人間)が
どうなるなか。
問題だ これに誰か答えてくれ
113 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 20:52:35
>>106 帥升を名前だと思っているようだな
帥は、異民族の酋長のことだぞ
つまり
「倭国の王や升酋長たちは生口を160人遣史させた」となるんじゃ
もしくは、升も役職だとすると
「倭国の王や酋長や大臣たちは生口を160人遣史させた」
となる。
115 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:08:40
116 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:39:51
118 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 23:33:30
俺はいろいろ忙しいので、この板にはたまにしか来ないのだ。
119 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 00:24:28
伊都国、志摩国の語源は、古代アジアの両強国、インドとシナから来てるんだよ。近畿の
伊勢と志摩もそう。じつは東南アジアの各地にも、インドとシナに似た地名がセットになって
近くにある例がよく見つかるんだ。つまり糸島半島というのはインドシナ半島ってことなんだね。
糸半島は伊豆半島。
邪馬台国は富士王朝の都だった。
卑弥呼は木花咲耶姫の別名、火を操る巫女だった。
卑弥呼の墓は富士山そのものなのです。
121 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 07:39:06
122 :
九州王朝大好き:2009/04/08(水) 13:09:18
委面 「漢書地理志」
倭面土 ヰメト
米多 メタ
目達原 メタバル
筑志米多 チクシメタ
ヰメト (倭面土)
↓
ヤマト (邪馬台)
↓
ヤマト (大和)
↓
ヤモト
↓
ヒモト
↓
ニノモト (日本)
↓
ニッポン (日本)
考古学板に間違えて書いてた。
九州説講座
1. 短里である=北部九州に限定される。南九州死亡。
2. 東に海がある=九州東海岸に限定される。福岡、熊本、長崎ほか死亡。
1,2を満足するものは大分ぐらい。
3. 壱岐の南にあるマツロ国から、さらに南のほうにある。大分死亡。
結論。
すべてを満足する九州説は存在しない。
すべてを満足させる畿内説も存在しないでしょ?
結論を急ぎすぎです。そそっかしいのかなw
1,2までは同意。
帥升は「スサ」とよんで、互選の王、大臣、盟主、大王、ハーンとおなじ、俗権の王
皇は「スメ」とよんで、祭司王
天照=祭司王
須佐之男=俗権の王
の二頭政治
>>125 いやあ、普通の九州説の人は九州説は倭人伝に忠実。不一致はまったくない。
畿内説は間違いだらけ、って言う人が大半でしょ。
九州説も矛盾だらけって事に気づいてもらえればそれでいいのですよ。
128 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 23:23:25
>>126 >天照=祭司王
>須佐之男=俗権の王
はい、九州説破綻。
129 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 00:44:00
>>124 九州説講座
1. 短里である=北部九州に限定される。南九州死亡。
2. 東に海がある=大分が含まれる。
3. 壱岐の南にあるマツロ国から、さらに南のほうにある。大分+福岡+熊本。
結論。
すべてを満足する場所は北部九州。
130 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 08:29:44
「陸行一月」でダウト
131 :
サガミハラハラ:2009/04/09(木) 09:32:57
水行十日陸行一月は郡から邪馬台国の都までの総日数です。
132 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 10:22:21
それは勝手な解釈。
133 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/09(木) 10:28:43
勝手な解釈をしたのは、水行二十日や水行十日陸行一月を行程に掛かる日数とした中国人。
134 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/09(木) 10:45:35
>>109 まったく根拠のないお話で説明できたと思っておられるようですが、妄想の付き合いは疲れたw
倭面土國(伊都國)が福岡まで征服して、委奴国を滅ぼして金印が島に埋められ、
その伊都國(吉野ヶ里?)は邪馬壹國で何故か西の小領域においやられ、さらになぜか奴国が間にできたのですね。
よく分かりませんw
当時、地名はあっても国名なんて概念あったのかな。他の土地に移動して国名持って行った?
記紀の神武でさえそんなことしてないよ。
135 :
サガミハラハラ:2009/04/09(木) 10:56:46
>>132いいえ、もっとも合理的な解釈です。
里程のつぎの日程が、そのまま続くとみた従来の解釈がおかしいのです。
細かく里程の説明があったあと、いきなり日程でのおおざっぱな(途中の寄港地もない、どこに上陸するのかも書いていない)行程に変化したのはなぜか考えてみる必要があったのです。
136 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 11:11:03
>>135 全然だめ。
中国人は「里」の概念を知ってるのだから、
「十日」とか「一月」なんて原始的な距離表記はしない。
倭人は、距離の概念を知らず、日数で距離を測ってたと、文献に明記されてるのは知ってるよな?
「水行十日陸行一月」は、倭国についてからの、倭人から聞いた距離表記だよ。
137 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 11:31:27
狗邪韓 ゴゥイェハン
對馬 ヅィマ
一大 イダ
末盧 モル
伊都 イドゥ
奴 ヌ
不彌 ブミ
投馬 トゥモ
邪馬台 イェモタィ
狗奴 ゴゥヌ
卑弥呼 ビミクゥ
卑弥弓呼 ビミゴォクゥ
狗古智卑狗 ゴゥコォシィビゴゥ
一大卒 イダヅゥ
倭 ウォ
台与 タィヨ
138 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 11:32:17
斯馬 シマ
已百支 イバシィ
伊邪 イイェ
都支 ドゥシィ
彌奴 ミヌ
好古都 ハォコォドゥ
不呼 ブクゥ
姐奴 ジェヌ
対蘇 ズイスゥ
蘇奴 スゥヌ
呼邑 クゥユ
華奴蘇奴 ファヌスゥヌ
鬼 グゥイ
為吾 ウェイゥ
鬼奴 グィヌ
邪馬 イェマ
躬臣 ゴォチェン
巴利 バァリ
支惟 シィウェイ
烏奴 オゥヌ
奴 ヌ
139 :
サガミハラハラ:2009/04/09(木) 11:36:53
其の倭人は、総日数のことをいったのでは?
140 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 11:39:44
>>139 倭人が郡から総日数を言ったというのか?
バカ言うな。
141 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 13:27:19
>>110 >帥升が、なぜ後漢に朝貢したのかというのも考えなくてはならないかも。
>また、帥升は、安帝に会ったのではないかと思う。
>>134 物語スタイルで書きますね。
帥升は半島の鉄をメインとした大陸側の文物を得ることを目的とした。
有明海側にいる帥升は、先ず倭奴國を滅ぼしたが、金印を得ることも出来ず、
倭奴國から禅譲を受けた正統な倭の後継者にはなれなかった。
帥升は、倭奴國の捕虜を生口百六十人として示すことにより、
倭の新支配者であることは漢に認めさせたが、
漢は、正統な後継者(無印綬)であることを認めなかったが為、
帥升自らが安帝への請見を願っての訪漢であるにも関わらず、
安帝は帥升と面会を拒否したのである。
そこで、帥升は、壱岐国と組み魏代の一大率にあたる組織を作り海峡を支配しのであろう。
しかし、福岡平野の勢力も力を取り戻し始め、又、投馬國や新興邪馬壹國が台頭し始め、
倭面土國の権力は失墜し倭國乱へと突入して行ったのある。
福岡平野(イト地方は含まれない)の権益を失った倭面土國は、末盧(松浦川河口湖)を窓口に、
後背地として佐賀市大和にイト國を置き、一大率を運営し、海峡の権益は守ったのである。
卑彌呼共立以降、邪馬壹國(連合投馬國)が勢力を伸ばし、倭面土國の王都吉野ヶ里は打ち破られ、
邪馬壹國によって不彌國が置かれた。
倭面土國王は西方の隣国である伊都國(惣座遺跡)へ移らざるを得なかったのである。
一方佐賀平野の中南部には邪馬壹國側の奴國が成立した。
女王國とはこの4国(邪馬壹國・投馬國・不彌國・奴國)を指して言うのである。
だからこそ魏使の道程上にない、本来ならば餘旁國であるはずの被放射国である、奴國と投馬國が記載されたのある。
142 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 13:31:56
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜一大國┃◎┃↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ │
〜〜〜〜〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜[竹斯國] 末盧國◎→○→┐∵∵∵∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │末盧國:唐津
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:佐賀市大和
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國構成国
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃●●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃投∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃馬∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國:佐賀城
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜〜┃國∵┌─────── │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:菊池
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵狗奴連合國∵∵∵ │狗奴連合國(10〜15ヶ国)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
143 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 13:55:45
從郡至倭・・・(以下女王國迄里数表現が続く)
至投馬國水行二十日
至邪馬壹國・・水行十日陸行一月
倭人からの伝聞
投馬國と帯方郡との距離が水行二十日
邪馬壹國と帯方郡との距離が水行十日陸行一月
邪馬壹國は倭人の宗主国として狗耶韓國(倭人の最北端国)から陸路を取ったと思われる。
又、「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は、倭人の距離単位での表現であって、
「水行で20日かかる距離」とか「水行で10日と陸行で1ヶ月かかる距離」ではない。
本来の意味は必要とする時間で表す距離だったと思うが。
144 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 14:20:19
全然ダメ。
145 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 15:00:03
証拠(遺跡)はないけど断言できる!邪馬台国は北部九州
これってかなり問題なんじゃねーの?
「遺跡なんてゴロゴロある」とよく言ってるが具体的にどの遺跡なのかと問われればしーん・・・
146 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 15:49:51
>>144 :日本@名無史さん:2009/04/09(木) 14:20:19
>全然ダメ。
そんなに内容が気になりますか?
確かに、説明は全然ダメですね。
十分に論理的に説明すると、長大な文になるので、
お話風にしか書けないものでごめんなさい。
147 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 18:21:14
>>143 > 至投馬國水行二十日
> 至邪馬壹國・・水行十日陸行一月
ハラハラもそうだが、君たちは「郡から」の日数だといいながら、
この2行ですでに矛盾してるだろ。
「陸行一月」が、朝鮮半島内の陸行を意味するなら、投馬國はどこにあるんだ?
148 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 19:05:29
倭人伝の行程の記述は、いわゆる順次説(連続説)を取っている。
帯方郡から狗邪韓国、狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐。壱岐から末盧国と
いう具合。
投馬国と邪馬台国だけ、突然、帯方郡が出発点というのはおかしい。
誰かがぽつりと言っていたが、不弥国(放射説を取るなら伊都国でもいいが)
から投馬国あるいは邪馬台国までの距離が書かれていないのもおかしい。
149 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 19:40:00
>>148 そのとおりだけれど、九州王朝には何を言っても通じないと思うよ。
150 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 19:57:10
>>147 >>142の地図を見てください。
投馬國から帯方郡へは有明海から五島経由で直行です。
私は、郡からの日数ではないと言っているのです。
>>148 不彌國までは里数表示方式の道程ですから、ここで終わりです。
投馬國から新たに日数表示方式の道程に切り替わるので、
從郡至投馬國水行二十日
從郡至邪馬壹國水行十日陸行一月
と文の構成になるのです。
放射式は「至」の直前の動詞の有無によって決まりますので(古田説支持)、
上記文構成とは別の問題です。
151 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 20:08:48
>>148 郡から伊都国までの行程と
郡から邪馬台国までの行程
の元資料は別物じゃないかな
152 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 20:10:16
>>150 >投馬國から帯方郡へは有明海から五島経由で直行です。
使者はイト国に駐留すると倭人伝に書いてあるわけだが、
魏志倭人伝を無視するわけか。
なんでもありだな。
153 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 20:21:57
説明忘れによる追加
奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国は、
女王國を構成する国々ですから、
互いにその領域は隣接しています。
国間の距離を示す必要が無いのです。
154 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 20:33:00
>>152 伊都國は魏使の女王國(邪馬壹國)への待機場所ですから。
女王國の手前に待機場所があるのです。
シナでも権力者に拝謁する為には、
訪問者は、その城郭から何日かの距離を置いた場所で、
拝謁許可が出るまで待ちます。
155 :
九州王朝大好き:2009/04/09(木) 20:35:35
上記は敵意が無いことを示す習慣だろうな。
156 :
サガミハラハラ:2009/04/09(木) 21:06:06
>>140まるで、その場に居て聞いたようなことをおっしゃいますね。
157 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 21:48:10
[まるで、その場に居て聞いたようなことをおっしゃいますね。]
>>152 伊都國は魏使の女王國(邪馬壹國)への待機場所ですから。
おもてなしのできる温泉があったほうがいい。
シナでも権力者に拝謁する為には、
訪問者は、その城郭から何日かの距離を置いた場所で、
拝謁許可が出るまで待ちます。
伊都に行くならハトヤ♪・・2000年も続く伝統です。
159 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:11:14
宇佐の南に久土っていう町があるのは外出ですか?
161 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 00:59:08
162 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 08:13:24
南とは、不彌国(佐賀県小城市小城不二町)から邪馬台国の都(佐賀県小城市甘木)への方角です。
距離は短く1.0km(15里)です。
不彌国以降の距離が記載されていない事情であるが、この部分から、別な資料を用いているからです。
元元は邪馬台国の都は吉野ヶ里であったのであり、陳寿が引用した資料もそこまで記録されていたのであるが、
230年代に現代の小城市甘木に遷都してきたことから、不彌国以降の記述を変更(魏使の報告から?)したわけです。
つまり、使えなくなった部分を削り、新しい部分を付け加えたわけです。
ところが、魏使は距離を計測していなかったために、方角は記載できたが、距離は書けなかったということです。
魏使が距離を計測しなかったということは、倭人伝の尺度が魏尺ではどうにも解釈できないということからわかります。
163 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 08:37:53
>>162 >距離は短く1.0km(15里)です。
むちゃくちゃだな。
164 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 10:07:04
言葉の通じない人たちですから・・
165 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 10:19:32
私は、その対象の時代の用法をもって解釈しています。
現代でもって解釈しては理解不能となります。
166 :
九州王朝大好き:2009/04/10(金) 11:14:19
>>161 陳寿の文の読み方については古田説を支持し、踏襲しています。
文の構成から考えると「南至投馬國」も「南至邪馬壹國」も「南」の基点は帯方郡になります。
しかし、同じ事(女王國は郡の南方)を重ねて書かない陳寿の筆法を考えると「南」の基点は不彌國となります。
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡になるから、不彌國の国域は神崎市からみやき町にかけて
背振山地の山裾に東西に伸びる地峡となります。(吉野ヶ里遺跡[神崎市・吉野ヶ里町]のすぐ南は有明海。)
この不彌國の東よりの国域の南に投馬國と邪馬壹國の国域が並んで隣接しています。
(不彌國の西よりの国域の南は北に入り込んだ有明海)
吉野ヶ里城郭から見て近いほうが投馬國、遠いほうが邪馬壹國となります。
つまり、投馬國は有明海に面した臨海国、邪馬壹國は内陸国。
>【質問】 この「南」とは、どこからどこへの方角であると解釈されるか?
上峰町みやき町町役場あたりから見て、みやき町三根方向。
投馬國の城郭は大川市中心部、邪馬壹國の城郭は久留米市南部と推定しています。
167 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:27:07
とりあえず、九州説の残党は、太国とサガミと王朝だけか。
まあ、なかよくやってくれ。
サガミさんは、学校の先生までやめて
これにかけてきたんだ。
だから、がんばってほしいが...
でも、最近の纏向遺跡の研究の成果は
彼にとっても残酷だ。
169 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:01:35
自分の投資に失敗したってことだよ。
後は、引き際をどうするか、本人次第だな。
170 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:20:59
実際、在野の古代史愛好家で九州説にそれこそ一生をかけてきた人って
いっぱいいるんだろうな。
彼らが人生の晩年にこのような展開になってきて
今何を思うか…。
でも論争の結末がどうであれ情熱を打ち込める対象を得たと言う事で言えば
そう悪い人生じゃなかったんじゃないのかな?
いや皮肉でなくてw
171 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:41:32
文献上は九州説で決まりだが、
畿内説の学者は偽の考古学で誤魔化したり
ホラ本とか書いて宣伝してるだけ。
172 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 13:57:49
考古学的にも畿内説は崩壊したよ。銅鐸勢力が鏡の勢力にやられたことは明白だ。
とてもじゃないが、邪馬台国にはつながらない。
173 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 14:15:07
邪馬台国九州説は間抜けなトンデモ本の中に存在する愚かな幻想に過ぎない。
174 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 14:32:42
>>172 今時そんな事を言っているのはこの板の九州説か安○先生だけw
和辻哲郎がその説の元をぶち上げた大正〜昭和の時期と違って
考古学の進展により埋納時期もその地域もバラバラである事が分かってきている。
もはや前提条件そのものが違って来ている。
いやそれ以前に大型青銅祭器の祭祀が常に連続していると言う保障すらない。
実は九州にしても広形銅矛や銅戈が終焉してもかなりの時間精々小型倣製鏡しか無い時期と言うのが続くw
175 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 15:59:27
銅鐸と銅矛あるいは銅戈はちょっと意味合いが違いと思う。
銅鐸は、実用性のないもので、祭器として発展したと思う。
銅矛や銅戈はしょせん武器の発展系で、祭器というよりは威信財。
威信財としての青銅器は、より価値の高い鉄剣や刀に変わる可能性が高い。
九州の祭器としての意味を持つのは鏡だろう。
その意味で、東日本で銅鐸が消え、鏡が普及するのは文化の連続性、非連続性を
考える上で意味がある。
176 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 15:59:33
177 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 17:19:57
>>175 そもそも大型青銅祭器によって文化の連続性云々を計ることにどれだけの意味があるか?
九州以東では大型青銅祭器による祭祀から大型特定首長墓での祭祀にシフトしたと見れば
現実により合致する。
じゃあ弥生中期に埋納されている山陰の銅鐸はどのような勢力によって滅ばされたのか?
その勢力がもってきた青銅祭器は何なんだ?
むしろ四隅での祭祀にシフトしたと見れば分かりやすいw
今更な話だがw
ここら辺、文献史学の基礎のある人にレクチャーしてもらいたいんだが…
そもそも 魏志倭人伝=単一史料 をもって邪馬台国の位置とかを確定するのは無理と言うのはもう常識だろう。
無論単一史料とて検証のしようはあるんだろう。
1)他の中国史書と比較しその内容の信憑性を検討するとか
2)考古学の成果と照らし合わせるとか
しかしこの板の九州説の多くは考古学と聞いただけで嫌悪し避ける傾向が強いw
それに他の中国史書との比較と言っても隋書の
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」や太平御覧の連続読み等々
都合の悪い物も多く
(九州王朝説でもなければそれらは畿内大和と誤認した
・・・と言う事になるだろうがそれでも方角は別に南でも問題ないということになるw)
また、一見して魏略や広使に先行する史料を基ネタにしたものと思われるものでも
結局「魏志」に当時の知見を加えたものに過ぎなかったりで
いきおい魏志倭人伝だけで暗号解読ゴッコに挑もうとする愚を犯しているw
魏志倭人伝の記事の正確さを計るに、その記事の任意の解釈をもって挑もうってんだから
もう救いようの無い馬鹿としか言いようが無いwww
もし以下の事が俺の記憶違いだったら正して欲しいが…
謝銘仁他中国人による魏志倭人伝の読み解きは日本で出ている物でも
数冊あって放射説とかもあるが
>水行十日陸行一月は郡から邪馬台国の都までの総日数
…と言うのはその誰もがとっていない解釈じゃなかったっけ?
まあ、それとて中国人の学者全ての中にはその説をとる人間もいるだろうがw
180 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:01:37
>>179 郡からの総日数なんて話は聞いたことが無いよ。
というか、サガミや王朝みたいな人は、
「誰も立てて無い説を自分が発見して得意になる」ことに満足する人々だから。
他人の説に後追いするより、独自の説を立ることで、
自分が他人よりスゴイ人間のように思い込めるわけです。
181 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 19:41:23
そうです。私は奇代の天才です。
182 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:46:45
>>181 おいおい先生。
そりゃ「希代」か「稀代」じゃねえのか?
そんな変換候補出てきたのか?
サガミハラをいじめるなw
まあ、やつが勝手に言っているのには、別にかまわないよ。
184 :
サガミハラハラ:2009/04/10(金) 20:35:58
すみません、変換ミスでした。ご指摘ありがとうございます。
185 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:45:22
弥生時代末の甘木に、何か権威を持った豪族の集落があったのかどうか、
その検証をするのが先だろう。
次に、甘木の豪族集団が、九州のどれくらいの範囲に影響力を持っていたか、
それを、考古学上の証拠をもとに調べること。
次に、甘木の豪族集団が、朝鮮半島や大陸とどの程度関わっていたか調べる。
次に、大陸・半島と繋がりがあり、広範囲に影響を及ぼしてた集団が甘木にあったという証拠を出す。
ここまで証拠を出して、初めて邪馬台国が甘木にあったかどうか、議題に上げることが出来る。
まだまだ、その段階じゃない。
文献だけいじくってるだけじゃ永遠に無理。
186 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:16:44
>>178 >そもそも魏志倭人伝=単一史料をもって邪馬台国の位置とかを確定するのは無理と
>言うのはもう常識だろう。
それがとんでもない思い込みだな。確かに、伊都国を怡土に比定したらあとは倭人伝
どおりに進めなくなるのは常識だ。しかし、伊都国は東南陸行五百里。東南と東北を
まちがえるはずはない、怡土に行くのに陸行するはずはない、南水行するのに玄界灘
沿岸のはずはない、そう考えて伊都国=佐賀平野と見当をつければ、あとは倭人伝ど
おりで何ら問題はない。ちゃんと投馬国も邪馬台国も確定できるんだよ。
これまでの学者は先入観にとらわれて基本的な読みができなかっただけだ。
187 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:30:33
>>178 倭人伝は、邪馬台国について書かれている、言わば大元だから、これ抜きに
邪馬台国は語れないと思う。
考古学は、かなり発掘調査がなされた吉野ヶ里遺跡でさえ、なんと言う国か
わからないわけで、あまりあてにならない。
たとえば、親魏倭王の金印が見つかれば、かなり有力な邪馬台国の候補地と
なるわけだが、これだって、倭人伝に書かれているからわかるのであって、
倭人伝を否定して、金印なんて嘘だなんて言いはじめたら、邪馬台国問題は
永久に決着が付かない。
とりあえずは、倭人伝に忠実に解釈して行くのが本道だと思う。
188 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:35:27
銅鐸祭祀は、邪馬台国連合になって卑弥呼が「鬼道」やるってんでやめたんだと思うよ。
卑弥呼の共立が180年代とすれば、銅鐸廃棄の2度目のピークにも、まあ合うし。
「あのムラまだ銅鐸やってんだって、おっくれてる〜」て感じ。出雲・東海・瀬戸内・四国等の
大連合なら、それくらいの画期だったと思うが。あと、画文は、九州先行ってことは絶対ない。
考古学的に畿内主導で移入で間違いないと思う。
189 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 21:48:10
そんなに簡単に先祖代々の祭祀を捨てたりはせんよ。
銅鐸に関しては、銅鐸祭祀などと単に民族文化論で語れないような気がする
大型で薄肉しかも彫りが精緻な銅鐸は、それだけで技術の粋だし、一つの成熟した文明の証だと言えると思う
技術というものは、発達したらそう簡単に消えてしまうものではないと思う
文明の利器というものは、民族が替わっても必ず継承されるはずだと思うんだな
ところが、三角縁になると鋳造技術は一気に低級になる
鏡そのものが簡単な平面形なので鋳造するのは簡単だし、うまく鋳込めてない粗悪な量産品と言ったところだ
青銅に関する基礎技術が継承されてないと思うんだな
銅鐸祭祀をやめて鏡祭祀に替わったとしても、技術まで一気に廃れてしまうものだろうか?
191 :
九州王朝大好き:2009/04/10(金) 23:15:42
>>180 >というか、サガミや王朝みたいな人は、
>「誰も立てて無い説を自分が発見して得意になる」ことに満足する人々だから。
>他人の説に後追いするより、独自の説を立ることで、
>自分が他人よりスゴイ人間のように思い込めるわけです。
合理的に説明できる仮説を作っただけです。
この仮説に不合理なところが出てくれば修正してゆきます。
仮説を作るのが楽しいだけです。
その他独自な仮説は、
倭の5王・磐井・多利思北孤・薩野馬は弟王である。
久留米南部地域は3世紀から617年までずっと倭都であった。
等々色々あります。
192 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 23:18:51
不合理なことを理解できないのだから仕方がないな。
193 :
九州王朝大好き:2009/04/10(金) 23:23:27
ああそれに、天智も天武も九州王朝の弟王ね。
194 :
九州王朝大好き:2009/04/10(金) 23:36:16
195 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/10(金) 23:47:32
>>161 二氏ではないが、私の説も書かせてもらおうw
南至邪馬壹國の南は、梯儁ルート(福岡ルート)のものなので
基点は1つ前の投馬國(久留米)で、ちなみに四方位の南。
何か不明な点があれば聞いて下さい。
>>168 私も九州説です、忘れないでw
>>180 俺も俺もwww
>>187 そうそう。畿内説のやつらは、畿内に邪馬台国があった確定的な証拠が出てからものを言うべきだ。
確定的でない現時点で他の可能性を考えようとしないのは非科学的な思考形態なんだよ。
196 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/10(金) 23:53:18
>>141 読もうとしたけど面倒くさい。いや読んだけど面倒くさい。
くだらない裏付けのない妄想物語を、つっこみ入れるために理解しようなどと思えない。
なんか長ったらしく書けば論理的に説明できると思っているようだけど、
あなたの文章を見てると、とても出来ないとしか思えないです。
197 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 00:29:00
>>191 >仮説を作るのが楽しいだけです。
引用するのはチト悪いが
九州王朝説のみならずこの板の邪馬台国九州説全般に言えることだと思うw
魏志倭人伝を弄くって自前の仮説を作ったところで
それを証明する次のステップに踏み出せない
…と言うよりそもそも最初から考えていないw
パズルゲームよろしく
「この仮説だと倭人伝の内容にピタリ当てはまる」
で終了。
外から
「そもそも倭人伝の内容なんか当てにならない」
なんて言い出したらゲーム自体が成り立たないわけでw
九州説の連中が
「魏志倭人伝ウソツカナイ」
と自らハードルを上げるのは構わないが
そんな倭人伝にピタリと一致する遺跡やクニなんて九州には無いw
まあ倭人伝の行間に邪馬台国探してる連中にはななんら不都合は無いんだろうがwww
198 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 00:33:20
>>196 ココは裏づけまで書くには短すぎる。
妄想と思われる物語を書くだけでも長くなる。
199 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 00:59:28
>>198 後漢書・東夷伝の帥升について書かれた部分は、
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
これだけだからねえ。ちょっと膨らませ過ぎ。
200 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 01:08:09
>>197 厳しいお言葉。
その様な面もなきにしもあらず。
仮説を作り、裏づけ作業で現地も旅行し、満足して帰る。
発表したくなれば自費出版でもするか。
40年来の憧れだった趣味の人生に今は満足しています。
九州旅行は楽しいな。
くにゃくにゃ中国道をスポーツカーでぶっ飛ばして。
だが夜はだんだん見難くなってきた。
1000円で行けるしな
南とは東のこと。
東とは北のこと。
こんなことを主張して良識を疑われてまで、
畿内説を主張することはない。
もっと、自分を大切にしたほうがいいですよ。
203 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 01:13:38
これから片道は1000円で行けるな。
中国道に入る最寄のインターは西宮北。
204 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:28:59
方角の問題については
>>178で言ったように後代になっても相当いい加減であり
元々マトモに取り扱う必要すらあるのか疑問だw
よく畿内説が『混一彊理歴代国都之図』を引き合いに出して90度ずれていたなんて言うが
そんな規則性もあったかどうか怪しい物だw
話はチトそれるが例の井沢の『逆説の日本史・ビジュアル版』にあったんだが…
梁代の『職貢図鑑』に描かれた最古の倭国人の絵なんかを見ると
ペルシャ(イラン)やタジキスタン、百済の使者はきちんと靴を履いてそれなりの格好はしているが
倭人は裸足で上半身は肩から布をかけているだけ・・・と言った風に描かれている。
ただこれは梁代に実際に見たものではなくて「あくまでイメージ」らしいがw
当時の中国の人間にしてもかなり文明社会の外の世界の人間と言うイメージだったっぽいwww
そんな海の彼方の国の地理なんか北が南でもどっちでも良かったんだろうwww
205 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:35:34
嘘読みをしないでピタリと当てはまれば、大変なことなんだよ。
これまでは絶対に当てはまらないと信じられていたんだから。
206 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 01:36:41
しかし、郡使は、実際に日本にやって来ているわけだから。
倭人伝には、来ていなくてはわからないようなことがたくさん書かれている。
実際にやってきた人の報告書だから、方向で間違えるはずはないと思う。
あちらにいる人が勝手に想像しているわけではないから。
207 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 07:27:08
見てきたような嘘を書く才能がないとこういう仕事はできないのですよ。
208 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 07:42:26
帯方郡は、魏以前の公孫氏時代から倭とは交流があったのだから
帯方郡の報告書を基にした倭人伝の内容は信憑性が高いだろう。
短里は公孫氏の制定したもので東夷で短い間だけ使用されたものではないかな。
209 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:01:18
>>207 見てきたような書き方だということは認めるわけね。それを敢えて「嘘」だと言い張る。
素直じゃないねえ。倭国を訪問した使者らがいた、見てきたような書き方になっている、
では、見たから書いたのだろう、それが素直な読み方なんだよ。
帯方郡の位置を疑ったほうがいい。
出発点が変われば到着点もおのずと変わる。
遷都したのは帯方郡のほうだったのだ。
とうとう邪馬台国完全解明の糸口が見えてきた。
>>189 同感です
>>190 まったく同感ですね
邪馬台国が九州にあったとしても畿内や出雲、吉備などに
邪馬台国とは別の、相当な勢力を持つ集団国家連合があったのは確かなことではないかと思います
九州にいた倭人は大陸の江南地方にルーツを持つ海洋民族
畿内や出雲にいた日本人は半島の新羅あたりにルーツを持つ北方民族ではないかという感じがしますね
銅鐸など今でも北京に近い天津や石家荘あたりの民家の軒先に吊るしてあるものに似ています
古代人が太陽の位置や星の位置を頼りに航海し、船を操り、陸行したことを考えれば
南を東の誤りだという御説は古代人を少々馬鹿にしているようにも感じますね
212 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:10:23
>>174 >考古学の進展により埋納時期もその地域もバラバラである事が分かってきている。
福永は次のように書いている。「一貫して巨大化へ向かっていた畿内・東海の見る
銅鐸」は、その巨大化が頂点に達した弥生後期後半に突如姿を消す」(邪馬台国から
大和政権へ) これをバラバラといって目をつむろうというのは間違いだな。
213 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:29:21
>>194 >>166 >文の構成から考えると「南至投馬國」も「南至邪馬壹國」も「南」の基点は帯方郡になります。
>しかし、〜陳寿の筆法を考えると「南」の基点は不彌國となります。
結局、どっちと言いたいのかな?きちっと言わなければ何を考えているのか分からんよ。
基点が帯方郡ならば、倭は帯方の東南大海の中なのに、何で「南〜水行」なんだ?
基点が不弥国ならば、水行二十日、水行十日陸行1月の投馬国や邪馬台国がなんで隣村なんだ?
214 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:43:21
距離の説明は次から次えと順番に説明しているのだから
日数の説明も
「南至投馬國」の基点が帯方郡なら
次の「南至邪馬壹國」の基点は投馬國になるはずだろ。
>>213 >基点が帯方郡ならば、倭は帯方の東南大海の中なのに、何で「南〜水行」なんだ?
>基点が不弥国ならば、水行二十日、水行十日陸行1月の投馬国や邪馬台国がなんで隣村なんだ?
烈しく同意!
216 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:05:22
伊都国から放射説
伊都国中心から東に7`不彌国中心
伊都国中心から東南に7`奴国中心
不彌国中心から奴国中心の距離5.3`
二辺7`底辺5.3`の二等辺三角形となり
不彌国中心から奴国中心のズレの平行距離はたかだか2.1`
よって不彌国の南は奴国であり邪馬台国の入る隙間がありません
217 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:30:06
>>213 >基点が帯方郡ならば、倭は帯方の東南大海の中なのに、何で「南〜水行」なんだ?
『倭人在帶方東南大海之中』
主語は倭人であって女王國ではありません。
『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』の倭人も含まれます。
ですから、倭人全体としては南ではなく東南となるのです。
冒頭の文ですから倭人全体のことを述べているのです。
「南〜水行」はそれぞれ投馬國と邪馬壹國に対してです。
>基点が不弥国ならば、水行二十日、水行十日陸行1月の投馬国や邪馬台国がなんで隣村なんだ?
投馬國と邪馬壹國への「南」の基点です。
「水行二十日」と「水行十日陸行一月」の基点は帯方郡となります。
陳寿は同じ事を繰り返して書きません。
不彌國までに里数による道程で、投馬國や邪馬壹國が帯方郡の南であることを述べています。
同じことの繰り返しを避ける為、より詳細に説明する為に「南」の基点を不彌國に置いたのです。
狗邪韓國→對馬國
對馬國→一大國
一大國→末盧國
上記3つは南方向への移動であると陳寿ははっきりと書いているのです。
それが判る方々なら上記説明も理解していただけると思います。
ご理解出来ない方々にはより詳しい説明が必要となります。
繰り返しますが、
以上は古田説による読法で読んだものです。
古田説の陳寿文の読法を支持しています。
218 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:33:17
>>214 >「南至投馬國」の基点が帯方郡なら
>次の「南至邪馬壹國」の基点は投馬國になるはずだろ。
動詞+至+国名
と
動詞無し+至+国名
の違いはご存知でしょうか。
順次説と放射説のことです。
繰り返しますが、
以上は古田説による読法で読んだものです。
古田説の陳寿文の読法を支持しています。
219 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:42:53
>>214 「邪馬台国はなかった」古田武彦著
上記内容を一度知って下さい。
220 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:43:52
>>217 「南至投馬国水行十日」は、不弥国の南に投馬国がある、帯方郡から水行十日だ、って
読もうということかね。方角の基点は不弥国、距離の基点は帯方郡? 文章の読み方と
して、無茶苦茶だね。それが古田説なら古田は文章を読む力がまったくないということだな。
221 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:47:29
>>218 >動詞+至+国名と動詞無し+至+国名の違いはご存知でしょうか。
>順次説と放射説のことです。
古田の妄説はともかく、順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしではないよ。
222 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:56:24
どうせ行ったこともないトコの、又聞きの話(by陳寿)
223 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:59:01
>>216 主張の通りです。
これを3世紀の地形(佐賀平野)に当てはめると、
不彌國の中心地の直ぐ南には有明海が北に入り込んでいます。
奴國の中心地の東側は北に入り込んだ有明海です。
不彌國の領域で南が有明海で無いところは、
不彌國の中心地から2km以上東に行ったところです。
伊都國の中心地から正確に東南方向に7km進むと、
現在より北侵している有明海の中になります。
224 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 11:03:46
>>221 順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしですよ
225 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:10:17
榎の「邪馬台国」でも読んでみたら? 動詞のない放射式の文章が載ってるよ。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:17:50
不弥の南に投馬があるのなら不弥から何里でいいのでは?
投馬国を郡から総日数で表す意味はなんなの?
最終目的地である邪馬台国までの総日数だけを記載すれば
いいんじゃないの?
たとえば
南至さいたま水行二十日
南至東京、総理之所都、水行十曰、陸行一月。
至さいたま水行二十日←東京に行くのにコレは必要か?って話
南至大阪水行二十日
南至東京、総理之所都、水行十曰、陸行一月。
つまりこれは水行二十日 と 水行十日陸行一月
は大国の位置を示してはいるが場所がまるで違うってことだろ
227 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:24:06
228 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:25:34
倭人伝原文は
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
だよ。
で、この下線部を九州王朝大好きさんは
不彌國の南に邪馬壹國があり女王が都する所。帯方郡から水行十日陸行一月
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
と読むわけ?
そしたらここを同じ感じで現代語に訳してみてよ。
東南至奴國百里
229 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:11:24
>>224 動詞のあるなしで順次と放射の区別などない、
全て順次である、
動詞のあるなしで順次と放射がつくとする根拠は?
里数から日数に変わったところで基点が郡に戻るのは
同じ事を詳しく説明する為に別の表現で言っていると考えられるから正しいだろう。
230 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 12:23:27
>>226 投馬國と邪馬壹國は不彌國と領域で南接しているので、領域間の距離は0里です。
倭人伝には韓伝と異なり城郭が無いとの表記がありません。
各国々には当然のごとく城郭があり、国々の距離は城郭間のそれになります。
奴國と伊都國の距離はそれぞれの城郭間の距離です。
邪馬壹國には城郭があることはわかりますが、不彌國のそれとの距離は記載されていません。
それは不彌國も邪馬壹國も女王國内のことだからです。
投馬國も当然城郭があるでしょう、しかしやはり女王国内のことなので省略されています。
邪馬壹國と投馬國は倭人国のなかではは群を抜いた大国です。
この2国は常時帯方郡に使節を送っていたので、
魏は、それぞれの国と郡の距離を特記したものと理解しています。
この距離表現は、それぞれの国の遣郡使の派遣ルートに基づいた倭人側の距離単位であると理解しています。
>>228 不彌國に南に(領域が南接して)邪馬壹國があり女王が都する所。帯方郡から陸行一月と水行十日の距離である。
伊都國(の城郭)の南東方向100里で奴國(の城郭)に至る。(実際には行っていない、東南方向を指しているだけ。)
231 :
九州王朝大好き:2009/04/11(土) 12:29:35
>>229 順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしであることを、
古田武彦氏はその著書「邪馬台国はなかった」で論証している。
僕の拙い説明を求めるよりも、その著書を読んで下さい。
232 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:36:26
>>212 その『邪馬台国から大和政権へ』のp27あたりを読めw
その前の埋納のピークに言及しているwww
そもそも「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」で工人の系譜も使用している銅も違うのではないかと
書いている福永の著述から銅鐸がある時期に一斉に消えたなんてどうやったら読み取れるんだよwww
233 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:40:20
ちなみに「大型青銅祭器の祭祀」から「大型首長墓の祭祀」へのシフトと言うのは
どこかで寺澤が書いていたことだと記憶しているんだが
読んだ時ちょっとした「目からうろこ」だたwwww
銅鐸から銅鏡へ青銅祭器の連続をぼんやり考えていたが
何の根拠も無かったんだと気づかされたwwww
>>224 > 順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしですよ
ちょっと表現が違いますかね。
「至」を動詞(至る)と取るか、介詞(至るには)と取るかのちがいです。
「至」を「介詞」的に用いた例が、漢書西域伝の記述法です。
大月氏國、治監氏城、去長安萬一千六百里。不屬都護。戸十萬、口四十萬、勝兵十萬人。
東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行 (以下略)
「東、都護治所に至るには四千七百四十里、西、安息に至るには四十九日行」とでも訳しますか。
この文章は「旅行記」では無く、単なる「大月氏國」の地理的説明です。
誰かが具体に「長安(A点=第一視点)」から「大月氏(B点=第二視点)」を経由して
「都護治所(C-1)」や「安息(C-2)」に移動したと言っているわけではありません。
まず、長安(A点)から大月氏(B点)までの距離を示し、
次に、視点を大月氏に移し、そこと周辺要地(C−1、C−2)との位置関係を記述しているのです。
これを基に倭人伝の地理的記述を読んだのが「放射説」
從郡(A点)至倭、(中略)東南陸行五百里、到伊都國(B点)、
南至奴國(C-1)百里。東行至不彌國(C-2)百里。南至投馬國(C-3)水行二十日。
南至邪馬壹國(C-4)、女王之所都、水行十日、陸行一月。
まずは、郡から伊都までの経路を順次説明し、伊都に到った後は、伊都と周辺要地との位置関係になります。
倭人伝では、A点からB点までの距離が、頭では無く、段落末で「自郡至女王國萬二千餘里」と
語られている点以外は、両者の記述法に違いはありません。
で、伊都を界に記述法が変わってしまう理由ですが、これは、渡海ルートに関するものと、
倭地諸国間の位置関係に関するものの一次資料が別々の物であるためだろうと思います。
書きそびれましたが、伊都以前の「至」は述語ですので動詞的用法です。
236 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:59:10
>>212 ついでに…
その引用部分の続き書いておくわw
(p50 第五章 卑弥呼の宗教改革と青銅器管理 )
>これと競うように長大化した北部九州の広型銅矛も同じ運命をたどった。
銅矛文化も何処かの勢力に滅ぼされたのかい?w
それとも九州のは自主的な「チェンジ」で畿内のそれは征服劇だったとでも?www
237 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 13:05:01
北部九州説の人たちが比定する場所には遺跡どころか
柵の跡すら見つかっていないのが現状だけどね。
数十万戸にも及ぶ集合体が存在していたにしては
その痕跡のあまりの少なさに可哀想に思えて仕方が無い
東遷の結果、銅鐸文化が一掃されたと考えてる考古学者はまずいない。そこに見られるのは
明らかな文化の切り替わりだね。これは九州を除く多くの倭人のクニが漸次的に連合して
いった証左とみるのが自然。個人的には、共食儀礼を含む首長霊信仰が、卑弥呼の「鬼道」か?
神話の中に各氏族の祖先神が取り込まれているのは、連合の構成部族の首長霊にそれ
ぞれ敬意を表しているのではないかな。こういえば反論必至だろうが、神武東征伝説は、
九州勢が最後に邪馬台国連合に加わらざる得なかったことを示しているように思われる。
つまり、厚遇していると。
こう考えれば、太陽信仰の見られないマキ向=邪馬台国=大和朝廷に、後に天照大神信仰が
見られるようになったのも、北部九州あたりに配慮した結果かもしれない。しかし、やはり主流
にはならなかった。伊勢に追いやられたわけだから。
>>238 異議なし、同意。
あえてその後を付け加えるなら天武・持統あたりで天照が皇祖神に祭上げられたでよろしいでしょうか?w
しかし墓域内で「共食儀礼」行われていたと言われるんだから
後世の日本人の感覚からは考えられんねw
240 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:17:16
>>238 連合なんていうのは考えられない。
古代は戦いの連続で、完全な弱肉強食の時代。
「大乱」もあれば、狗奴国との争いもある。王が不満だとなれば、すぐに
戦いになり、1000人余を殺しあう。
吉野ヶ里の甕棺の遺骨を見てもそれはうかがえるし、青谷上寺地遺跡の
遺骨の状態からもその状況がわかる。
中国の古代を見ても同じで、すぐに殺し合いになってしまう。
こういう時代背景を前提に歴史を考える必要があると思う。
歴史が動くときには必ず戦争があるというのは、常識だろう。
鎌倉時代の初め、室町時代の初め、江戸時代に始め、明治維新、すべて
大きな戦争がある。
戦乱なしに歴史が動くと考えるのは机上の空論に過ぎない。
考古学者が歴史に口を出すから空論がまかり通る。
>>240 長い戦いの後戦いが収束して戦いの無い時期が続くのもまた事実
鎌倉時代〜江戸時代幕府や明治維新政府
別に近代的な理想主義のなせるわざじゃなくて力の均衡ねw
242 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:28:58
>>233 寺澤薫って以前は東遷説だったのかな。
昔の、ある雑誌の対談(森浩一Vs石野博信)でこんな話が出ている。
森「…やはり、九州の大勢力がある段階でヤマトに大きな影響を与えたのは
まず動かないと思います。」
石野「研究所の寺澤君は盛んにそういいますね。私はそこまでは行けません」
243 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:31:17
>>242 それ東遷説なのか?
九州勢力が大和にきても、
大和に卑弥呼が登場する以前なら東遷説とは言わないだろ。
244 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:33:16
>>241 戦いのない時代ってのは、ほとんど何も変わらないからねえ。
245 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:03:02
從とは従って行く、行軍する等の意味で
「從郡至倭」「郡から倭に至るには」とは郡から倭に至る道順を説明するとの意味です。
道順の説明なので倭(邪馬壹國)への途中で目的地とは別の方向へ枝分した説明ありえません。
「大月氏國」の地理的説明とは異なります。
里数と日数は丁寧に説明する為に同じことと考えても問題はない。
246 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:59:08
>>230 >伊都國(の城郭)の南東方向100里で奴國(の城郭)に至る。
伊都国の南東に奴国がある。帯方郡から百里のところだ。
あなたの読み方ではそうなるはずだろ。
247 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 18:21:45
>>232 前のピークなんてのは問題じゃないんだよ。古い銅鐸の埋納が行われた時期は
弥生中期末から後期初頭と言ってるな。一世紀ころの話だ。そんなのは、銅鐸
勢力内部の再編とみることもできるだろうし、新式の銅鐸が流行してそれに乗
り換えたとみることもできる。銅鐸→銅鐸だ。銅鐸祭祀の基本に変化はない。
しかし、突線紐式銅鐸の埋納はそうではない。弥生後期後半に突如、まさに銅
鐸祭祀が終焉したんだ。仏教が入ってきたって神道は続いている、キリスト教が
入ってきたって仏教、神道は続いている。ほかの地域から新しい祭祀方法が入
ってきたって、普通ならば銅鐸祭祀も続くんだよ。時を同じくして周溝墓も終わ
っている。弥生葬制と古墳との間に連続性が認めがたい。だから、権力の交替を
考えるべきなんだよ。
248 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:02:23
>>240 同意
「連合」ってのは「統一王権」を否定するためのイデオロギーだね。
一つの権力によって統一されていたとすると、天皇の権威が増してしまう。
左翼史観が支配する学界ではこの結論は受け入れがたい。
そこで、何が何でも「連合」という結論に持っていこうとする。
あの時代に民主的連合も、策略的連合もありえないことは明白だから、
はたから見ると正気とは思えない。
それが「連合」という宗教。
249 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:26:09
>>248 それは魏志倭人伝を否定する、ってことでいいんだよね?
(数十国が一人の女王を共立した)
250 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:43:37
畿内説の有利なところは大和王朝とその近辺の遺跡が
優先的に国によって管理されてきたこと。
無関心な九州特に南九州では古墳くらいしか遺跡としての認識がなく、
河口付近、川岸は昔から住宅地・農地と変遷したため、
遺跡があったのかなかったのかすら今となっては不明である。
しかしそれが畿内説が正しいということは否である。
この先、九州のどこかまたは他の地で、偶然的発見があるかもしれない。
いまのままであれば九州説の確固たる証拠を見出すのはそれしか方法がないのである。
非常に残念であるが。
251 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:49:20
また、考古学の致命的欠陥は「おらが町」主体で、結果ありきの発掘である。
地方自治体や大学が主体的に動いたところで、どうなるか想像できないわけがない。
「邪馬台国がどこにあったのか」という本来の目的を忘れ、文献や出土品を
無理やり「おらが町」へ結びつける精神は、いままで続いた論争を見ても
何の利益もないことは明白である。
さっきも書いたが、畿内説は有利である。それは大和時代の遺跡として
特別な管理をされているからにすぎない。
結論から言えば、考古学的発掘は国または独立の法人が主体的に行うべきである。
地方自治体(教育委員会)は不要である。
>国または独立の法人が主体的に行うべきである。
これには基本的に賛成なんだが、主体が国であっても産業、今生きてる人の生活優先だから、
住宅地や工場地帯をわざわざ発掘はありえないと思う。このスレの人が考えるほど古代史フ
アンは多くないし、価値も認識されてないんでないの。
253 :
251:2009/04/11(土) 20:04:26
>>252 国でないとすれば、学者や地自体がお互いの情報を共有して
共同プロジェクトを発足するしかないでしょう。
いまの非合理的的な発掘よりまだましなはず。
253は理想的だね。地方教育委員会が発掘するのは、ムラ起こしマチ起こしの側面が強い
んだろう。共同プロジェクトでもなんでも税金使う以上、国民的コンセンサスが必要だし、
今のご時勢なら、そんな金があるなら派遣対策にまわせとかなんとか・・・。
続き
量子物理学で莫大な金額の巨大加速器を作ったりするのは、真理探究もあるが、研究成果が
軍事や産業に役立つかもしれんからなんだよね。
>>249 共立したのは支配者層の王族では?
国とは書いていない。
そもそも魏志に出てくる「王」は2名のみ。
他の地域には「官」が居て支配下にある。
仔細なツッコミだが・・・
倭王卑弥呼・狗奴国王卑弥弓呼・名前のわからん伊都国王数代。
二人じゃないよな。
>253
学者なら共同より独占したがるだろうな
国や自治体から金を引き出し、発掘資金を得、研究機関を設立してもらい、自分が館長におさまる
学者とはそういうものだから
259 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:30:54
木を見て森を見ないどころか、
枝を見て木を見ない狭い視野のアマチュア歴史愛好家の皆さん乙
方向は一番大事ですよ。距離は移動手段や地形、潮待ちで変わるけれど
南と東を取り違えることはありません。その点はしっかり頭に入れて倭人伝を呼んでください。
でないと、あまりにも低次元の話になって、見てられません。
260 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:38:21
方角が、枝葉でないという根拠を示しなさい。
261 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:56:38
狗奴国のククチヒコのククチとは。
熊本の菊池市の西、七城をご覧あれ。
ここは古の土着人がククチと呼んでいた処。
クは繰るの意。クチはしっかり閉じているもの、口。高麗語より。
地図を見ると、
平野部で川の支流が複数本、一箇所で集まり、
しかもその形が他では見られない特殊な形をしている。
古の地形も遠からず近い地形をしていただろう。
つまり狗奴国、官は狗古智卑狗とは熊本の菊池平野の辺りを言うのです。
で、女王国に属していないとはっきり書かれています。
近畿にもしヤマト国があったなら、
北部九州にある伊都国から程近い狗奴国がまだ治められてなかったというのは
とても不自然です。
つまりヤマト国は北部九州の熊本菊池の北側にあったということです。
近畿のヤマトの北に熊野があるのはとても意図的。
吉野、大津、サカなど偶然以上の一致を見せるのは、
倭人伝にある邪馬台国は近畿にありましたって言いたかったから。
師長国造(しながのくにのみやつこ・しながこくぞう)は相模国西部を支配した国造。磯長国造とも。
これが帥升の正体。古代富士王朝の名残として残されていた。
263 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:25:53
わははw方角?んなもん枝葉も枝葉www
じゃあ例えば隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」をなんと介する?話で
九州王朝説でもない限り、邪馬台国九州説の立場からすれば
それは隋側の”誤認”と言う事にならざるを得ない。
しかし仮に誤認だとしても大和は九州から南進した地にあってよいと言う事になる。
隋書に「いやあ魏志の記述は方向は間違っているんだけど…」
ってただし書きが無い限りwww
まあ当時の中国にとって日本の地理情報なんてそんなもんだったちゅうこっちゃねw
264 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:29:45
>>261 狗奴国の官は狗古智卑狗。これを読むと、クコチヒク?
それともココチヒコ?
どっちでもいいが、これを菊池と結びつけるのは無理があるかと…。
それに、官名と地名の類似を言うのなら、伊都国の爾支はどう繋げるのかな。
対馬や壱岐の卑狗は、どうなんだろう。
邪馬台国にも伊支馬という官がいるけど、これはどう言う地名と繋がるのか。
そう考えると、狗古智卑狗と菊池の繋がりは、こじ付けのように思える。
265 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:33:06
>>248 >あの時代に民主的連合も、策略的連合もありえないことは明白だから
民主的連合もあり得ないと言うのは当たりまえとしても
策略的連合もありえないというのはいかなる根拠なのかな?
(それは逆に言えば強大な武力による統合しかあり得ないと言う事を意味しているのかな?w)
266 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:42:46
>>263 まったくその通り。
邪馬台国が九州にあったなら、隋書が間違ってることになり、
隋書より昔に書かれた倭人伝の信憑性も疑うことになり、
邪馬台国が方角的に九州にあったという根拠も成り立たない。
267 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:55:01
>>264 その前に地図をご覧あれ。
一遍でこの辺りはククチだって納得できる。
古に土着人がそう呼んでいたんだから。
狗奴の熊とククチの菊池と方角の南と
北には山門(やまと)や女王山や。
これだけ合致しているんです。まだまだ探せそう。
そもそもこの論は2ちゃん以外では定説ですから。
狗奴国:扶余や高句麗の流れを汲み、半島から渡ってきた人が立てた国
王:卑弥弓呼、高句麗国を建てた「朱蒙」とおなじ名(ルイ、ヘンリーみたいなものか)
官:狗古智卑狗、高句麗領内のハルビン地域(扶余)を治めた官とおなじ名
この国は東南アジア系の流れを汲む邪馬台国には入っていなかった
269 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:00:56
>>267 それが定説かどうかは置いといて、邪馬台国関連で定説というのは、その説に
とって都合がいいということが多い。伊都国=怡土も同じだと思う。
>>263 方向は枝葉ではない。畿内説にとっては致命的。
270 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:14:29
>>269 >方向は枝葉ではない。畿内説にとっては致命的
別に方向のみならず(普通に考えてありえない)戸数とか風俗も枝葉なんだがw
で、お前は九州王朝説なのかい?
もしそうで無いなら
>>263であげた隋書の件はどう言う解釈をするのかな?w
271 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:17:21
当時の狗奴国は扶余系ではない。
倭人伝には倭国に牛、馬がいないと書かれているので、
少なかったとみえる。
円墳装飾古墳には馬がいて矢を射る絵があるので、
倭の五王(カヤ経由の扶余系)が470頃に西夷を平定する以前は
倭人と伽耶からの倭人と先住民(巨石文化を持つポリネシア人と樺太周りの北方人の混血か?)
だよ。
だから、古墳は巨石と絵文字と円の塚なのだ。
よかったら
>官:狗古智卑狗、高句麗領内のハルビン地域(扶余)を治めた官とおなじ名
これの出所を。
272 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:35:14
なぜ半島からの倭人であって扶余ではないかといえば、
扶余ならば方墳を築くはずだからだ。
百済も新羅も実は円墳。
高句麗は方墳だそうだ。
高句麗は扶余から出ている。
そして百済の王族も扶余。
南加羅にいた騎馬民族が4世紀初頭に大勢を引き連れて
移住してきたらしい。
それが倭の五王だ。服装も中国の胡公頭の帽子に似ていると南史には書いてある。
肥後の古墳を見る限り、副葬品からいっても、
円墳は古く、前方後円墳は新しい。
273 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:03:45
>>270 隋書については、その当時の中国人が、3世紀の邪馬台国について知っていたか
どうかだろうな。隋書が編纂されたのは7世紀なので、記紀とだいたい同じ頃。
日本人でさえ、記憶にあるかどうかわからない邪馬台国のことを知っていたと
考えるのは疑問。
そう考えると、単なる思い込みと取れる。
それに、隋書の記述は、東遷説を示唆していると取れないこともない。
一番、時代の近い、倭人伝にはっきりと「南」と書かれているわけだから、
あいまいな隋書と相殺はできないと思う。
274 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:14:23
■ふるさと納税は「畿内説」に軍配
邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡のある奈良県桜井市が、ふるさと納税制度を利用して同遺跡調査向けの寄付金を募ったところ、3月末までに全国から約600万円が寄せられたことが分かった。
邪馬台国九州説の拠点・吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、吉野ヶ里遺跡関連の寄付金は両市町で約55万円にとどまった。
畿内か九州かで二分される邪馬台国論争。全国からの纒向への寄付金も九州からだけはゼロとライバル意識も見え隠れするなか、ふるさと納税では畿内に“軍配”が上がった。
ふるさと納税制度は、出身地や応援したい自治体に寄付した場合、税金の一部が控除される仕組み。
桜井市は昨年8月から、「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」として、纒向遺跡の調査研究▽産業や観光振興▽医療・福祉充実−など7項目の使い道を示し、市民らが希望の項目を選んで1口1000円で寄付をする。
全体では3月31日現在で172件、1162万7000円が寄せられ、そのうち纒向遺跡関連は109件、596万2000円で半分以上を占めた。
特に、1月末に同遺跡の発掘計画が新聞などで報じられたのを機に急増、2、3月だけで63件、計559万3000円に上った。
3月に行われた発掘調査では、3棟が規則正しく並ぶ宮殿構造の建物群跡が出土。
「卑弥呼の神殿か」と話題を集め、同月22日の一般向け現地説明会には全国から約2500人が参加し、市が説明会会場でふるさと納税を呼びかけたところ、20人の歴史ファンが計3万7000円を寄付した。
遺跡関連の寄付はほとんどが個人で、数十万円単位の大口もあったが、5000〜1万円が大半。
遺跡の散策の途中で市役所窓口を訪れ、数千円を寄付するリュックサック姿のハイカーもいるほか、東京や北海道など遠方からの寄付も多く、邪馬台国ロマンが全国に広がっている状況も浮き彫りに。(つづく)
275 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:15:59
>>274 つづき
一方で、畿内説への肩入れを拒んでか九州からの寄付は皆無。2月に福岡県内の男性から寄付金の問い合わせがあったが、同市税務課担当者は「邪馬台国九州説の人が探りを入れてきたのかも」と余裕の笑みを浮かべる。
谷奥昭弘市長は「寄付金を通じて、邪馬台国解明に結びついてほしいという熱い思いを感じた。九州の人たちは、地元こそ邪馬台国と思っているだろうが、吉野ヶ里遺跡は50〜100年も時代がずれている」と強気の姿勢。
同市は寄付金のうち125万円を21年度当初予算に組み込み、調査などに活用する。
一方、吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、「吉野ヶ里歴史公園活用や観光振興」などを名目にふるさと寄付金を募集。
神埼市では、昨年7月から今年3月末までで同遺跡関連は53万円(4件)、吉野ヶ里町も同期間でわずか1万5000円(2件)にとどまった。
両市町では遺跡公園周辺の植栽や観光パンフレット発行などにあてることにしているが、地元出身者からの寄付が大半で、全国的な広がりはみられないという。
吉野ヶ里町企画課担当者は「大規模な発掘が行われた平成元年には年間200万人が訪れたが、すでに主な調査も終わった。吉野ヶ里ブームのころに寄付金を募ったらもっと集まったのではないか」と悔しそうに話していた。
4月10日 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090410-00000661-san-soci
276 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 04:25:34
>>273 >そう考えると、単なる思い込みと取れる。
だーかーらー
九州邪馬台国(邪馬臺)を大和(邪靡堆)と誤認した=思い込んだ… って事だろうが?
隋使にとって方角の違いなんて問題じゃ無かったって事だよwww
(もしくは方角なんて最初から気にもしていなかったか?w)
要は隋代においてでさえそのように地理情報なんていい加減だったって事。
この時点で魏代の地理情報の正確さなんて疑問を呈すべき
疑わざるをえない史料があるのに
それでも
「いいや魏使倭人伝の方角は絶対間違っていない!」
と言うのならもう宗教レベルw
277 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 04:57:30
魏志倭人伝の風俗の記事について怪しいなと思う小ネタを一つあげておくw
良く九州説の連中が倭人伝には矛は出てくるが銅鐸は出てこないなんて事を言うが
(もっとも倭人伝に出てくるのは実用兵器としての矛だが…)
素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?
何故かあまり指摘する人間はいないんだが
弥生時代相当ポピュラーな兵器だったらしいのだが…
本当に当時日本で使用されていた兵器を見て書いたんか?w
まあ一般向け図書のイラストなんかじゃあ剣や矛は描いてあっても
戈が描いてある事はまず無いがwww
278 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/12(日) 08:25:25
>>276 随書の記録は、当時のヤマト政権の意見が取り入れられているだけでしょ。
ヤマト政権は記紀が示すように、日本を生んだ神の子孫が代々日本を支配しているって話をつくっている。
ところが数百年前の中国の記録(三国志)に邪馬台国なる国が倭の30国を卑弥呼なる女王が居た、と書いてある。
中華帝国の記録は無視できないから邪馬台国の記憶などないのに、神功皇后が卑弥呼のことなんじゃないか?とか
しらを切る一方、自分たちをヤマトと名づけ邪馬台国の末裔のような振りを偽装したんでしょ。
もちろん隋の人にもそう説明するから、随書には「ヤマト(政権)は邪馬台のことだ」と書かれた。
>>277 > 素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?
九州タイプの大型鉄戈は大陸では出土しないので、漢人から見れば目立でしょうね。
280 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:43:07
戈は、対戦車用武器だから、山海がちの日本には戦車が役に立たず、当然戈も使い道がない。
281 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:47:18
>>280 はああ?
戦車って馬が引くアレだよな?w
お前中国の騎馬・戦車戦で使われた物と今言われている物と区別できて無いだろう?
まあイメージとしては「バールのような物」をでっかくした物と言えば分かりやすいかな?www
282 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:30:42
そういうお前は、いままで中国での戈の使用目的を知らなかったんだろ。
283 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:36:23
つうか弥生時代の日本を馬に引かれた戦車が駆け巡っている光景を思い浮かべるなんて
どんだけのアホなんですか?www
284 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:47:10
>>279 銅戈は、朝鮮半島からも出ているらしいので、帯方郡の人間にしてみれば、
それほど珍しくもなかったのではないかな。
記憶によると、鎌のように引っ掛けて手前に引いて使う武器だったような。
日本の銅戈は戦闘跡のあるものは、ほとんど出土してないよ。
古代の道は野越え、山越え、谷を越え、河を越えて直進した。
それはなぜかというと、めぼしい目印がないので曲がると道が
わからなくなってしまったのと、修行を積んだ天狗様しか使って
いなかったからです。その道案内をした部族こそ猿田彦と呼ば
れた日本の先住民。
287 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:55:59
288 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:02:34
>>286その直線的な道を宇治(兎路)と呼んだのです。
平城京、平安京の直線的な区画だけではなく、村と村をつなぐ道も
地形的な条件を無視して直線的に結んだのです。
>>287 唐古・鍵の絵画土器からの復元創造図かな。しかし、これは兵士ではなくシャーマンだと
思うが。
290 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:07:50
>>289 まあ羽飾りとかはどうかと思うが
中々思ったような画像が見つからなかったんでなw
しかし弥生時代、剣や刀よりは近接戦において主だった戈の形としてはこれでいいだろう?www
いやでも、日本のは非実用的なほど刃部が大型化してて、戦闘使用例はほとんど見られ
ないんだよな。中国のは、騎馬戦士の使用が本来だったはず。まあ、このようなウオーピッ
ク系の武器は世界でも実用的なものだったろうけど、日本はちょっと違うんだよね。
292 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:43:32
竹槍のほうが攻撃力あるのに、なにいってんだか。
293 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:57:33
>>263 おいおい、何を勘違いしているんだ。隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
は南九州の邪馬台国を指しているんだよ。
隋書だって、倭人伝の方角が誤りだったなんて一言も言ってないぜ。
294 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:00:33
>>263 >>266 なんか勘違いしているようだけど九州は「北九州」だけじゃないからな。
視野が狭すぎるよ君たち。
295 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:07:41
>>277 >素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?
あまり使ってなかったからだろ。
倭人伝が書く武器は矛と木弓だ。弓は問題ないだろうが、矛は畿内にあったのかな?
296 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/12(日) 21:21:38
卑弥呼の時代大和には環濠さえ無い。
297 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:29:20
卑弥呼の時代に邪馬台国は存在しなかった。
これがファイナルアンサーです。
298 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:32:46
さすがにfishでは釣れんだろ
300 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:23:41
>>287 戈は、確かにそういう風に、木の先につけて使ったと思う。
ただ、吉野ヶ里で見たものは、もっと幅が広いというか、平べったかった。
たいしてインパクトのあるものじゃないと思う。長さは20cmちょっとかな。
それに対して、銅矛は1mくらいはあったと思う。でかくて見るからにすごかった。
302 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:46:18
>日本に既に津y買われていた
日本語でおk。
303 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:52:03
裸国=ヤノマミ族のいる南米で決定
304 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:07:09
>>301 みたいなやつの場合、矛?戈?他になにか記述の仕方があるのかな?
305 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:09:07
ヤノマミ=邪馬弥国
306 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 07:04:30
>>295 遺物の一覧表をみる限り、近畿から矛は出土していないな。
307 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 08:23:01
へそだし制服って、セーラー服のことですか?
高校のころセーラー服の女子が背伸びをしたりするとへそがみえたことがありましたね。
卑弥呼って邪馬台国の女王なのか?
倭の女王と思っていた・・・
邪馬台国が畿内であったとする傍証が見つかりました。江戸の切絵図です。
江戸時代ですら北を上にするという決まりごとがなかったため、絵図に描か
れた地図の方向はまちまちでした。しかし、江戸全図ではほとんどが西が上
に描かれていました。
もう、おわかりでしょう?帯方郡の使者が持ち帰って地図も西が上、南は
左に描かれていたため、報告を受けた倭人伝の編集者が方向を取り違え
たのです。
これで、ほぼ全ての謎が解けたことになります。
311 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:10:43
木簡に日本地図が書かれていたのか?
312 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:29:16
■特別展 弥生建築 ─卑弥呼のすまい─
・大阪府立弥生文化博物館
・平成21年4月25日(土)〜6月7日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし5月4日[月祝]は開館し、7日[木]休館)
・入館料 一般600円/65歳以上・高大生400円
これまで、弥生時代の建物は、その全容がわかる状態でみつかった例はありません。そのため、弥生時代の建物を知るには、遺跡の調査でみつかる掘立柱建物や竪穴住居など建物の跡をもとに、建物の構造や柱の並び方、大きさなどを考えます。
そして、その上にあったはずの建物については、鏡や大刀の飾り、土器や土製品に表現された建物を参考にして考えてきました。
ところが近年、鳥取県青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡(鳥取市)で弥生時代の建築部材がまとまってみつかり、建物の姿をより具体的に考えることができるようになりました。
ここでは、溝のなかから柱や壁、床などの板材、角材のほか、屋根材がまとまってみつかり、建物を復元することが可能になったのです。
こうして青谷上寺地遺跡で出土した建築材をもとに、掘立柱建物や竪穴住居の跡がまとまってみつかった鳥取県妻木晩田[むきばんだ]遺跡(西伯郡大山町)では建物が復元されています。
また、みつかった柱や桁、床板などには、材をつなぐために加工した孔やくり込みや、材の表面を平らに削ったあとが見られます。
弥生時代の工具は石斧や石鑿など石製のものが主ですが、青谷上寺地遺跡では鉄斧、鉄鑿など鉄製の工具が数多くみつかっており、建築部材の加工には、こうした鉄製のさまざまな工具も使用されたと考えられます。
竪穴住居を建てるには、まず、穴を掘ることで床と壁ができあがるため、あとは柱を立て、桁と梁を組み、屋根をかけることでできあがります。一方、掘立柱建物は、柱を立てて床を貼り、あるいは壁を立ち上げ、屋根をかけることでできあがります。
床を貼るためには、柱に穴をあけ、材を組み、床材が必要となり、壁を立ち上げるためには柱に穴をあけ、くり込みを入れ、壁材が必要となります。
つまり、掘立柱建物を建てるには、材に細かな加工を施すことができるさまざまな工具が必要であり、鉄製の工具はこうした加工に威力を発揮したと考えられます。(以下略)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html
313 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:41:10
江戸時代の地図を弥生時代の陳寿が見たと信じなければ、畿内説にならないのか。
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/13(月) 23:52:24
方向なんて取り違えるわけがない。曹操は赤壁の戦いでコテンパに負けた。
某方向の風が吹きっこないと考えていたという。レッド・クリフは某方向の風が
吹くことはないという気象的経験とかが、彼とその取り巻きにあったのだろう。
呉側のほうでも吹かないと信じていて諦めムードだったろうが、蜀の諸葛孔明が
神様ごとで北斗の足取り等儀式を行えば吹きますよということで、そのとおりに
したらその某方向からの神風が吹いて曹操の船団は火攻めで一網打尽になった。
この戦いが239年の31年前の208年だ。この苦い経験を知る魏の連中が2度目も
31年前のことで方向で間違えるほどの間抜けではないぞ。ww
だから魏の連中は方位にはうるさく敏感のはずであり、しかも数歩譲って、
女王国が東だと想って陸行一月とかを北九州から1ヶ月も南?の畿内で旅をして
れば、毎日太陽が東から昇るのを見てるわけで、かつ北斗も毎晩とは云わないが
かなりの夜の日数見ていることは当然である。確かに曇天雨天もあろうが、
少なく見積もっても1ヶ月もあればそのうち10日ばかりは晴れるとかあるいは
晴れ間があるわけだから、こういう1ヶ月とか歩いて旅をしてれば、日、月、
星辰の運行からうすうすこれは自分らは東行してると感づくに決まっている。
そしてついには東だと目がさめる。なると帰って来て最初から東行したと
待ってる皇帝重臣他にそう進言するのが当然だ。だから伝に最初がら南ではなく
東になっているに決まってるぜ。という事は畿内節は成り立たないのだよ。
315 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:53:02
大阪府立近つ飛鳥博物館 開館15周年記念
■春季特別展 「卑弥呼死す、大いに冢をつくる─前方後円墳の成立─」
・大阪府立近つ飛鳥博物館 (大阪府南河内郡河南町東山299)
・4月25日(土)〜 6月28日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし、5月3日の月曜日は開館します)
・入館料 一般600円[480円]、 65歳以上・高校・大学生400円中学生以下・障がい者手帳をお持ちの方(介助者を含む)は無料
大阪府立近つ飛鳥博物館は、平成6年に「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテ−マにかかげ、おもに古墳と古墳時代の専門博物館として誕生し、今年で開館15周年をむかえました。
日本列島では、3世紀中頃から6世紀まで、およそ350年間で数十万基ともいわれる古墳がつくられました。そのはじまりと考えられる3世紀中頃は日本列島において弥生時代から古墳時代へと時代が移り行く変革期にあたります。
巨大な墓を築くことでそれぞれの存在を示し、その巨大な墓が媒体となり各地の権力者が結びつく。ひとつの墓が様々な意味を表す時代が到来したのです。
このたびの特別展では、各地につくられた3世紀の墳墓の副葬品と埋葬施設から弥生時代の終わり頃にみられる各地の首長墓の特色を描き出し、巨大な前方後円墳の成立を考えてみたいと思います。
・内行花文鏡(福岡県平原方形周溝墓)[国宝]
・ガラス釧(島根県西谷2号墓)
・銅釧(京都府芝ケ原古墳)[重要文化財]
・二重口縁壺形埴輪(奈良県箸墓古墳)
・画文帯神獣鏡(奈良県黒塚古墳)
ほか
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2009_spring/index.html
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/13(月) 23:54:58
>>314 訂正
× 女王国が東だと想って
○ 女王国が南?だと想って
317 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:36:25
318 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 01:25:59
距離よりも方向の方がずっと大事。
古代に旅する人が方向で間違えるのは致命的だろう。
たとえば、山に入り、道に迷ったとする。神様が降りてきて、目的地までの
距離か方向かどちらか一つだけ教えてやる、と言ったら、誰でも迷わず
方向を教えてもらうはず。
極論すれば、距離なんてどうでも良い。方向さえ間違わなければいつか
目的地に到着する。
319 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 01:37:25
>>318は、日本の真東がアメリカ合衆国だと思ってるんだろうなあ。
320 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 02:38:35
>>319は、アメリカ合衆国が南にあると思っているのだろうなあ。
321 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 04:15:03
322 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 04:34:02
松本清張の邪馬台国を題材にした短編「陸行水行」の最後の一説。
>詩人の彼らは、昼は太陽の運行を眺め、夜は北極星をみつめて
>決して「南を東に取間違える」ようなことはなかったであろう。
・・・この文中の”彼ら”とは魏使ではなくてそのコースを実際歩いて検証しようとして
最後ドザエモンになってしまう市井の九州説のマニアだがw
松本清張は距離や戸数については誇張その他で信用するに足らない数字と
バッサリ切り捨てているんだが「方角」だけには信を置いているw
まあその姿勢は今日の九州説にも見られるんだが…
お前らアホかとw
魏使が案内も無しに事前に伝えられた方向や距離の情報だけで自力で
邪馬台国目指したとでも思っているのか?www
九州王朝説をとらない限り隋書は平気で魏志の邪馬臺と大和=邪靡堆を一緒にしている。
九州説の立場なら誤認ということになるだろうが
古代の中国人にとって日本の地理情報なんてその程度だったと言う事で
方角だけは間違いないという九州説の論拠も吹っ飛ぶと言う話やねwwwwww
323 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 04:53:19
「戈」について言っておくと
確かに出土した物を見ると刃巾が広く一見して「大鎌?」と思わせるような形のものが多いのは承知しているが
だからと言ってそれらが非実用的で近接戦において剣や刀が主であったとは思えない。
そもそも弥生時代の鉄剣なんて全長が60センチを超えることはまずなくて
多くは20〜30センチ程度の物。
剣と言うよりは殆ど「ナイフ」だw
おまけに軟鉄だったろうから刃こぼれどころか折れたり曲がったりで
こんなもんに命預けるのなら棍棒の方がはるかにマシだw
まあこの板の九州説の頭の中じゃあ
「ぼく の かんがえた むてき の きゅうしゅうぐんだん」が
「百人斬ってもダイジョーブな」鉄製の大刀をブンブン振り回しているんだろうがwww
九州説の連中が銅鐸が倭人伝に出ていないのはおかしいと言うのなら
やはり近接武器で主力であった戈が出ていないのはやはりそれ以上にあやしいw
実際の見聞に基づく物ではなく 「タン耳・朱崖」 の風俗を参考にして書かれた可能性を疑うべきw
324 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 07:31:07
>>322 >隋書は平気で魏志の邪馬臺と大和=邪靡堆を一緒にしている。
隋使が会ったのは男王だ。大和にいた推古ではないよ。
隋使は大和へ行ったわけではない。
>>324 >九州王朝説をとらない限り
って書いてあるだろ?
つまり九州王朝説でないかぎり合理的な説明はできない。
水行十日でどれほどの距離を移動できるものなのか
「土佐日記」くらいは読まなくてはならないでしょうね
それよりさらに八百年ほどさかのぼる時代にはどうだったか、と
327 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/14(火) 08:46:07
>>321 なるほど。
戟も戈も刀も、面倒?だからまとめて矛と書いたってことで良いのかな?w
>>322 >>魏使が案内も無しに事前に伝えられた方向や距離の情報だけで自力で
>>邪馬台国目指したとでも思っているのか?www
そんな解釈をするお前がアホだ。
>>九州王朝説をとらない限り隋書は平気で魏志の邪馬臺と大和=邪靡堆を一緒にしている。
理論展開の破綻が認められる。(日本語も多少変だが。)
328 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 08:53:12
>>322 何のことはない。倭人伝など多くの書物を無視し、都合よく解釈できるものを
都合よく解釈したに過ぎない。
329 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/14(火) 09:04:18
>>314 赤壁
慣れない南方の遠征で疫病が流行り脱落者が多数出たために退却することにしたが、
そのとき不要になった船を焼き払ったところ、敵の手柄となってしまった。
と誰かが言っていましたw
あまり方向云々に良い例えとは思えませぬ。
それより、10日とか20日とか1月とか、本当に行程なのか?というところを
議論すべきではないかと、私は思うのですが・・
(私説ではこれらを邪馬台国への行程から外しています、つまり行程記事ではないという立場です)
他の皆さんは、この部分に疑問を持たないのでしょうか?
(1)九州王朝説をとらず隋使の訪れた邪靡堆=大和とする
(2)ならば方角が全く違うのに何故倭人伝の邪馬臺と同じにしたのか?
(3)可能性その1
隋使は自分達の進んできた方向が分かっていなかった。
隋代ですらそれぐらいいい加減なのに魏代に「間違う事は無い」と断定できるのか?
(4)可能性その2
隋使は方向の違いを認識していたがあえてそれを正すことなく史記に記した。
結局古代の中国史書において日本の地理情報に求められる正確さなんてその程度の物
倭人伝の地理・行程記事に関する事に絶対の信を置くのは無理。
魏志を他の中国史書との比較検証する中で言うとこうならざるをえない。
>>328 後世の方が地理情報も正確であろうというのは常識の範疇。
九州説の方が他の史書の都合の悪い部分を無視したご都合主義。
もしお前が九州王朝説で無いのなら
なぜ隋書かかる不合理的な記述があるのか?
きちんと説明してみろ。
332 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 09:29:22
>>331 倭人伝をよく読んでみるとよい。あれは実際にやってきた人でなければ
書けない文章。
つまり、郡使は、海を渡って邪馬台国時代の倭国にやってきている。
隋書が編纂されたのは、それよりも400年も後のことになる。
邪馬台国や卑弥呼のことを知っていたかどうか疑わしい。
邪馬台国の場所についてどちらが信用できるか明らかだろう。
333 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 09:38:36
九州説が流布したのは、隋書より1000年以上後だけど、
どっちが信用できるのかね?
>>332 >あれは実際にやってきた人でなければ
>書けない文章。
どの部分なのか具体的に言え。
そもそも他の史書との比較以前に
およそ考えられない戸数とか
考古学的には一例も確認できていない殉葬とか
その内容に疑問を持つに十分な材料はある。
なのに行程記事の方角は間違っていないと言うのはよほどの根拠を出さない限り
単なる我田引水の為の思い込みとしか言わざるをえない。
>>332 ちなみに「郡使」と「魏使」の区別はできているか?
>>327 ◆.L.MXSPOgc
>戟も戈も刀も、面倒?
>だからまとめて矛と書いたってことで良いのかな?w
さて「短兵」も「長兵」もゴッチャにしたというのはユニークな意見だが
他の中国の史書にそのような例がないかぎり考えにくいな。
337 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 10:28:59
>>325 >九州王朝説でないかぎり合理的な説明はできない。
どこが説明できないのかな?
338 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 10:59:31
>>329 あんたはあんたの自説に合うのが良い例なのか? よくない具体的説明がないね。
この前、MXTV9ch で三国志をやっていたが、諸葛亮の家へ劉備、関羽、張飛
らが軍師抜擢のため3回目に行ったところ、孔明先生が昼寝中なので起きるまで
日時計を見ながら起きるのを待っていた。日時計がるくらいの大陸で90度の方位
が間違えるのはよっぽど低劣な野郎らだということだ。曹操は赤壁で風の方位で
負けたんだから、30年後の苦渋を飲んだ事で間違えるような愚かな連中では
ない。だいたい1ヶ月とか南行?していて、北斗と東からの日の出の太陽の方向
は具体的に見聞でき、もしそれが東行してたなら、うすうす俺達は南でなく東に
進んでいることを気がつくに決まっている。ww 妄想のため信用度を故意に
抽象語で落とすマネはやめたまえ。
このことから卑弥呼の国が畿内にあったなどとは到底容認できない。
陸行一月は九州説でもおかしくはない。神武も畿内へ行く途中、某所で数年滞在
してたようだし、大陸からの遣使が九州地域の途中滞在だとか停泊だとか病人
を抱えての一時停止だとか、道間違えとか山賊やきつい風雨で休憩をとって
いたとかを考えるべきで、九州説は肯定するのに不審はない。
339 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 11:02:22
訂正
× 日時計がるくらいの大陸で
○ 日時計があるくらいの大陸で
340 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 11:05:54
>>338 「三国志演義」をベースにした映画や漫画を鵜呑みにして語るのは
恥ずかしいから止めておけw
341 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 11:35:37
>>340 それは誇張はあるだろう。だが方位で負けたんじゃなけりゃぁ、そんなことは
大々的に知れてるよ。この前の世界不思議発見でも、少ないが1年に3回くらい
はその風が吹くという。それに大陸の連中は八門遁甲とかで方位に厳しく
こだわるのは、あのころでも変わりはなかろう。伝説話に格下げして妄想の防衛
にいそしむことはないよ。南?行していて毎日東から太陽が昇って来るん
だからうすうすこれは東行してるんだとオマエでも現実にやれば気がつく
だろうが? それともなにか〜? 1ヶ月も九州から畿内へ歩いていて、
オマエは気がつかないのか〜?ww Pu! ハッハッハッ!!wwwww
気がつかないならそのむね書きこめ。なお笑ってやるぞ。wwwww
342 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 11:37:44
>>338 >曹操は赤壁で風の方位で負けたんだから
なにを言ってるんだこいつは?
リアル知障?
仮にあのストーリーを史実だとしても
魏軍がミスを犯したのはある季節極僅かな間風向きが変わると言う
気象情報を把握していなかったと言う事で
方角を間違えたからではない。
>>342 そいつはこの板の名物キチ○イコテだから相手にすんなw
ああ、そうなんだ。某HPの掲示板でも活躍してるしなぁ・・・
345 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 12:13:20
>>344 活躍してるというかあれは荒らしてるだけだろwwww
何処に出しても恥ずかしいコテハン太国さんであった…w
347 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 13:34:44
>ww Pu! ハッハッハッ!!wwwww
みっともねえな ガキじゃあるまいしよ
348 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:33:45
>>340 言い逃れは無用だよ。吉永も邪馬台国関係の映画で卑弥呼をやってるだろう。
岩下志麻も同様だ。邪馬台国も映画になってるんだよ。
三国志演義では誇張はあろうが、その全部ではないね。うっちゃろうと
必死に映画だと片付けていいものかねぇ? あんたの自説がおの点検をしたほう
が利口なお脳の持ち主だと考えるがねぇ〜?ww
それに大陸は河図洛書での方位が厳格に決まっているのだ。だから方位が90度も
間違えるほど陳寿に誤算はないね。
>>342>>343 オマエらも九州から畿内まで歩いて旅行して東の日の出を毎回拝んで、1ヶ月も
日の出方向を南だと畿内到着まで気がつかないほどの間抜けなのか? そうでは
ないだろうがねぇ?ww 百歩譲ってもうこれは南ではない〜東だと
感づくはずだと思うぜ。ww 〜つまり畿内節は妄説なんだよ。
349 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:35:40
訂正
× 自説がおの点検
○ 自説の点検
350 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 15:35:59
クスクスクス
351 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 15:39:49
>>348 比定できる遺跡が見つかってから言おうねボクちゃん♪
352 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:44:46
いいかいエジプトのクレオパトラの墓だって卑弥呼同様見つかっては
いない。吉村先生にでもそれをオマエは言うのか〜?
そんなことしか云えぬということは、余の説明をオマエのお脳は
くつがえせないことを意味してるとみなす。
353 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:46:22
卑弥呼の遺跡は畿内でも見つかってはいないぜ。
354 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 15:54:49
>>352 ふふふ。比定できる物がある畿内とそれが無い九州
クレオパトラまで話が飛んじゃっているけど大丈夫ですか?
そのうちムー大陸やアトランティスの話まで飛び出すんじゃないかと
心配しちゃいますよ大国君?比べるものがない今の時点でキミの言って
いることこそ夢物語じゃないのかな?
>>353 候補となる墳墓はたくさんありすぎるけどね
むしろありすぎて困っているんだよこっちは。南九州説のほうが
まだ現実味があるのではないのかな?ふふふ
355 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:57:59
>>354 な〜んだ、オマエも九州から実地に畿内まで歩いて日の出を毎回拝んでて、
うすうすでも気がつかないお脳なんだ〜?wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww PuPu!
356 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:01:09
>>354君
よ〜くよ〜く考えてご覧?ww 1ヶ月も気がつかないほどオマエのお脳の
程度はお粗末なのかねぇ〜?Pu! ww それとも強度の近視か〜?ww
357 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:02:01
>>355 怒ると子供かえりしちゃうのかな?小学生によくあるタイプだよね?
まあ極まれに大人でもそういう浮いちゃってる人もいるけどね♪
で、先ほどの質問には答えてくれないのかな?私は九州の
比定できる遺跡を教えてくれと言っているんだよ?
言えないのかい?無いのかい?どうなんだい?ん?
358 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:03:50
そこ候補地は全部落選だ。それは男王国(天皇国)の遺跡だな。卑弥呼の
女王国の遺跡ではないね。畿内で女王国が出現するのは推古の時代だよ。w
359 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:13:00
>>357 オマエはクレオパトラの遺跡をしっかり言えと吉村先生に突っこんでから
そんな口をたたけ。畿内の候補地は全部落選!!
遺蹟というのは天災、噴火、台風洪水、噴火、盗掘、建築等で失せやすいもの
なんだよ。オマエは遠回しに遺跡の崩壊を喜んでいるわけで、トンでもない
野郎だ。遺蹟が無いから卑弥呼がいなかったことにはならない。
ほれ〜九州から畿内まで1ヶ月も旅行していて日の出を毎回拝めるはずなのに、
南ではなく東へ進行してるのに気がつかないほど俺(←オマエ)
は間抜けではない〜こんなことは小学生でも気付くぞとな。wwwww
360 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:18:10
>>358 吉野ヶ里の時はどうだった?「邪馬台国発見」「やはり九州にあった」
と大騒ぎしてたよね?しかし調査が進むにつれ年代はどんどん遡り
結局卑弥呼の時代より古くなってしまったわけだ。畿内にもそれは
充分いえるわけであり、調査が進むにつれ、古墳時代から遡って
しまうという可能性だってあるんだよ。どうする?卑弥呼の時代
にドンピシャになってしまったら?また歯軋りするのかい?
>>359 クレオパトラはどうでもいいんだよ。最終的にクレオパトラ=卑弥呼
なんて言い出すんじゃないだろうね?まあ春だからキミみたいな
人も増えるのは仕方ないんだけど。
361 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:23:16
さあ私はそろそろ行くよ。結局私の質問には答えてくれなかったね?
まあ答えようがないんだろうけど・・・無いものを言えと言う私が悪かった
かもね。じゃあね またクレオパトラについて話を聞かせてくれよ
362 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:23:31
>>360 倭人伝には女王国以外多数の小国がある。だからそれらの国の遺跡だという
ことも可能性は相当ある。余は吉野ヶ里が女王国だと云った覚えはないぞ。
そういうことは、九州説でその主張をしてる奴らに言え。
下段はもはや論説ではない。
363 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:26:46
>>361 何の話のことだ。
それより畿内のどれが卑弥呼の遺蹟なのか? オマエは候補だけで、オマエ
でさえもはっきり云えないではないか。そんなことではこちらのことを墓で
つつけるか。
364 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:32:26
候補地でゴマ化すなよ。云えないのはオマエもだろうが。ほかの奴だったら
逃げるのかと云われるぞ。だが余はそういうことはよくないから今回逃亡だと
は云わないが、すこしは先述の1ヶ月の南?行で日の出を毎日(曇り雨は除く)
拝んでいて、うすうす東行だと気付かずに違いないと考える余裕をもてよ。
仕事でいそがしいのか? まぁ頑張れ。
365 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 16:33:55
訂正 失礼
× 気付かずに違いない
○ 気付くに違いない
>>360 >と大騒ぎしてたよね?しかし調査が進むにつれ年代はどんどん遡り
ちがうんだな。発掘当初はメディアのフィーバーとは対照的に
考古学の人はみんな古すぎるといってたんだ。
ところが予算がついて大規模な公園計画が進展するうちに、
理由が不明のままいつの間にかどんどん新しくなっていった。
367 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 18:36:27
>360
卑弥呼の時代だけ吉野ヶ里があったわけじゃないから無問題。
邪馬壱国の記述に全く合致しない畿内は、邪馬壱国足りえない。
368 :
九州王朝大好き:2009/04/14(火) 19:04:15
>>366 >理由が不明のままいつの間にかどんどん新しくなっていった。
観光資源卑彌呼に合わせる為に新しい時代であるイメージに修正PRし始めた様に思う。
よく調べていくと曲りなりにも3世紀頃まで存続していたらしいことがわかってから。
最初は期待を込めて卑彌呼の時代まで続いていたかもしれない程度の感触だった様に思う。
僕が行ったのは遺跡が南内郭だけの頃。
北内郭は未だ未調査地。
南内郭の西も南も未だ水田だった。
東西に走る真ん中の道路もなかったな。
369 :
九州王朝大好き:2009/04/14(火) 19:11:46
今グーグル写真で見て驚いた。
吉野ヶ里遺跡公園の範囲が僕の行った頃の100倍以上はありそうだ。
神埼駅からタクシーで行った時代だからな。
370 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 19:52:50
>>369 歴史とは時の治世者によって作られるものだということが理解できたかと思います。
事実より利益優先。これが記紀や倭人伝で歴史が改ざんされた理由でもあります。
371 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 20:05:02
邪馬台国九州説とか九州王朝説など汚い公衆トイレに過ぎない。
372 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 20:43:55
>>371> 邪馬台国九州説とか九州王朝説など汚い公衆トイレに過ぎない。
まて。トンデモ王朝説と一緒にするなW
373 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:23:42
>>368 そりゃ、地域内の前方後円墳まで「遺跡」に含めてるんだから、
時代はドンドン新しくなるさw
まあ、集落の解体時期はほかの弥生集落と変わらない。
ピークはとっくに過ぎているが、生活痕跡は庄内並行期までは降れますね。
この点は博多湾側や畿内と同じですが、ほかと異なる点は、
付近に後継拠点が見当たらないと言うこと。
374 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:18:52
>>366 吉野ヶ里が話題になった頃の雑誌なんかをたくさん集めたが、畿内説の
考古学者でも、吉野ヶ里が古いなどと言ったものは一つもなかったな。
あの石野博信でさえ、少なくとも卑弥呼が死んだ時期は含むと言っていた。
金関恕という人も、倭人伝の国の面影と重なったと言っていた。
ついでに、あの頃は、庄内式土器は、弥生時代の土器というのが大勢だった
らしい。ごく一部に古墳時代の土器と言う人もいた。
375 :
九州王朝大好き:2009/04/14(火) 22:30:00
>>373 海岸線が南へ後退し、佐賀平野と筑後平野(北野地域)を結ぶ、
背振山地裾野に東西に伸びた地峡にある軍事拠点として、
吉野ヶ里城郭はその存在意義がなくなった。
吉野ヶ里は後継拠点を佐賀市中心部か肥前国庁に譲ったのでしょう。
376 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:35:01
仮説。
前方後円墳は倭の五王系の墓。
AD600のアマタリシヒコは秦氏で別系統。
五王は470頃に肥後勢力下に。肥後八女地方は前方後円墳に変化。
又東方面は400年過ぎから直ぐに東征、出雲までは470頃までに勢力下に。
その後は近畿関東東北まで、子孫が国を作る。
AD550頃ワカタケル大王の頃が全盛期。大王はイトにいる。
半島南の任那地方も勢力下なので。
しかし、元々根拠地は半島南。半島南にも前方後円墳が確認できるらしい。
上表文に「封国は残念ながら遠く、藩を外につくり・・」や、
「外海に藩を作り・・」などの表現でわかる。
600年過ぎから完全に近畿関東以北の五王系を一掃するのは、
700くらいまで続く。
したがって近畿の前方後円墳は470〜650位までの間の築造とみる。
五王系は蘇我氏として紀に登場、完全に滅ぼした、
中臣系藤原京は壬申の乱で勝った天武系で百済王族系。
天智系はその後再度復活、秦氏系で天中主命、アマタラシ系。
中臣は臣下、中主は主の違いに注目。
中臣藤原氏は一時的に天武から数代天下を取ったとみる。
その後、藤原氏は平城京、平安京と天皇にはならずとも、摂関政治による権力を欲しいままに。
古の昔から、「君臨すれども統治せず」の伝統なのだね。
377 :
九州王朝大好き:2009/04/14(火) 22:35:35
>>375の修正
× 吉野ヶ里は後継拠点を佐賀市中心部か肥前国庁に譲ったのでしょう。
○ 吉野ヶ里は後継拠点を佐賀市中心部か惣座遺跡(肥前国庁)に譲ったのでしょう。
>>374 > ついでに、あの頃は、庄内式土器は、弥生時代の土器というのが大勢だった
> らしい。ごく一部に古墳時代の土器と言う人もいた。
ちょっと理解が違うね。
庄内期を弥生終末期に区分する説と古墳草創期に区分する説がある。
単に時代区分の表現方法の違いに過ぎない。
今でも論者によって、表現はマチマチだ。
ある人が、A遺跡は弥生終末期のものと言い、別の人が古墳草創期のものと言っていても
時代区分に対するそれぞれの定義が違うだけで、実は結論は全く同じ場合がある。
379 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:51:16
はっきり言って、土器では時代は計れないよ。
>>379 > はっきり言って、土器では時代は計れないよ。
これもちょっと理解が違うね。
土器は時代区分のメジャーには為り得るね。
A式土器の時代の次はB式土器時代で次はC式土器の時代。
ちゃんとした編年を作れば、A式の時代とC式の時代が逆転するようなことは無い。
ただ、絶対年代の計測器にすることは出来ないのは確か。
381 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 01:00:13
はっきり言って、畿内考古学お手盛りの土器編年で測れるのは、畿内の年代だけ。
九州の年代は甕棺の編年を土台にして出来上がってるんだが。
383 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 05:47:24
>吉野ヶ里は後継拠点を佐賀市中心部か惣座遺跡(肥前国庁)に譲ったのでしょう。
なんだかなあ…
とりあえず近くの遺跡あげてみました…って感じだなw
吉野ヶ里は鉄や銅、あるいはガラス製品の製造と工業生産の一大拠点でもあったわけで
その惣座遺跡がそのような性格を持っているなんて聞いた事が無いが…
つうか本当に吉野ヶ里の後継として十分なものなら
邪馬台国の比定地候補としてもっと名前が売れてるよwwww
吉野ヶ里の衰退は単に一集落の衰退と言うより
ツクシ全体の衰退を受けているように思う。
工業生産の中心を福岡平野に持っていかれたと言うか…
384 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 07:03:09
>>383 福岡平野に吉野ヶ里に続く工業生産の発展地の遺跡が存在するというわけかな?
どこの遺跡のことを言ってるの?
385 :
サガミハラハラ:2009/04/15(水) 08:20:52
吉野ヶ里が急速に衰退したわけは。
吉野ヶ里は邪馬台国のすなわち倭国の都であったのですが、230年代の卑弥呼の御代に
もう少し西の小城甘木に遷都したのです。
その結果の衰退です。
386 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 08:26:13
>>385 先生!
吉野ヶ里から小城甘木への遷都を示す物証・考古学的資料はありますかあ?
387 :
サガミハラハラ:2009/04/15(水) 09:33:30
考古関係の人に聞いてください。
388 :
九州王朝大好き:2009/04/15(水) 10:02:34
吉野ヶ里が急速に衰退したわけは、
吉野ヶ里は、倭國王帥升の後継者の都、すなわち倭国の都であったのですが、
後の邪馬壹國及び投馬國との勢力争いに破れ(倭國乱の頃)、少し西の惣座遺跡に遷都したからです。
その結果の衰退です。
ですから、惣座遺跡からは王位に関連するような遺物は出土しても、
工業生産に関わる遺物は出土しないのだと考えられます。
なお、倭國乱以降、倭5王勢力(肥勢力)の台頭(4世紀末)前までは、
筑紫全体が文化的にも経済的にも低迷していたと。
筑紫全体の低迷期は壹與以降一世紀は続いたと見ます。
389 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 11:47:17
想像力が旺盛ですね。
390 :
九州王朝大好き:2009/04/15(水) 11:57:07
仮説に先立つ想像力が大切ですね。
想像力
↓↓
仮説
↓↓
論証
想像力なんて、まったく、必要ないね。
歴史の記録->遺跡による実証
これだけ。
勝手に妄想は次元が違うんだよ。
392 :
九州王朝大好き:2009/04/15(水) 12:19:24
勝手に妄想はいけません。
393 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 14:04:54
394 :
九州王朝大好き:2009/04/15(水) 15:20:06
>>393 論証が終わっていない部分も多々あります。
395 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 16:36:21
「呉の脅威」は三国時代(220〜280)だけだから、吉野ヶ里が巨大軍事都市である必要もなくなった。
396 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 18:48:47
どれもこれも九州説論者の妄想。
吉野ヶ里を舞台に大河ドラマの脚本でも作っているのかね?www
(´・ω・`)しらんがな
399 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:48:39
鉄器も三種の神器もない畿内王国は未開のまま、木器とサヌカイトでウハウハやっていました。
粗悪な鉄器より、切れ味のいい黒曜石のナイフが安く手に入りました
401 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 23:30:13
畿内で手に入る黒曜石は、最も近くても諏訪の和田峠であり、黒曜石よりサヌカイトのほうが手に入りやすい。
畿内サヌカイト軍団の甲冑は、九州王朝の鉄器軍に、軽々と射抜かれました。
たしかに遺跡から出土しているものだけから考えれば
畿内地域の国家がそろえることができた武装では
九州からやってきた軍団の前では赤子の手をひねるようなものだったでしょうね
404 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 01:10:38
ぼく の かんがえた むてき の きゅうしゅう ぐんだん
…例によってスレがリアル小学生レベル以下=サイキバ君レベルになってるなw
まあ武装面で九州勢がアドバンテージ持てるとしたら紀元前後あたりかな?
畿内に侵攻する前に山陰山陽を手中にしようぜ?w
どの道、兵站線も何も考えないのはアホ丸出しw
以前から不思議なのだが仮にも『日本史』を看板に冠する板なら
もう少し軍事軍略の常識と言うものを持ってても良さそうなんだが…
三戦厨に語らせてももう少しマシな展開になると思うw
この板の九州説の連中見ていると歴史よりオカルトとか
アッチ系の人間がたまたま邪馬台国ネタで歴史問題に首を突っ込んでるって感じだよなwww
405 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 01:22:12
>>374,378
ある年を境に日本全国一斉に弥生時代から古墳時代になった、という理解ではいけない。
もし日本古代史の年表に、
______________
弥生時代 | 古墳時代
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
となっているものがあれば、それは間違った表現だ。
正しくは、
______________
弥生時代 \ 古墳時代
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
としなければいけない。
406 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 01:53:14
>>405 厳密に考えればそれは正しいが、地域差が1〜2年なのか10〜20年なのか、
さらにはそれ以上なのかは議論があるだろうね。
最近は、初期型が畿内以外からも出ていて、「ほぼ同時」に前方後円墳が
全国展開し出したことは、共通認識だろう。
問題は「前方後円墳以前」、この点まで同時性を認めるかどうか。
>>406 3行目 >議論があるだろうね。
6行目 >共通認識だろう。
自分で平気で矛盾したこと書いておきながら全くそれに気付いていない馬鹿だな
408 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 02:19:32
>>407 それは学説史を知らなさ杉だよ。
昔から畿内の古墳は作られた時期ごとに設計が変化していくことが知られていた。
しかし、昔は地方(九州、関東)では畿内の設計が100〜200年遅れて伝わったと
いう考えが支配的だった。
今は、ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られているというのが基本認識。
その「ほぼ同時期」の範囲が問題となっている。
409 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 02:40:03
410 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 03:03:19
各地の初期型が「全国展開」により一斉にもたらされたほぼ同時期のものだとしても
畿内のそれと各地のものとでどれぐらいの時間の開きがあるのか?
確かにその時間の開きが大問題。
もっと具体的に言えば九州北部の纏向型と畿内の纏向型の時間の開き。
ここら辺になると畿内説による、いよいよ「詰め」の段階でw
卑弥呼の存命中、あるいは没後直に九州北部に纏向型が出現していたとなれば
魏と交渉を持つになんら不都合は無いという話になるだろうし…
もっともそれでも「偽僭説」かそれに準ずるような形をとれば九州説も成り立つが
この板の多くの九州説論者の
「ぼくのかんがえたきゅうしゅうやまたいこく」
はそのプライドが許さないだろうと思うがwwwww
411 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 03:09:20
俺は歴史に興味をもって、世界の歴史や
日本の歴史(昭和〜飛鳥時代)などを制覇してきたけど
最近、中国の歴史に興味もって始皇帝の時代と三国志を制覇したぜ!
制覇=自分なりに納得のいくまで理解できた!
始皇帝と三国志を制覇したとたん、今まで興味が無かった
あやふやで曖昧な弥生時代が急に見えてきた!
この時代を制覇したいなら、始皇帝と三国志を知っといたほうがいいぜ☆(ゝω・)vキャピ
俺は三国志経由で弥生時代に辿りついた!はっきり言って500年ぐらい遅れてるわ
だけど三国志を知ったおかげで、この時代はそんなに大昔に感じなくなったわ
まだ調べ中だけど、おそらく後から天皇が現れて乗っ取っただろ?
4世紀に天皇が出てきて支配した!3世紀は卑弥呼、それ以前はうんこ^^
412 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 03:11:32
いや北九州じゃねーぞ!初めはそこに居たかもしれんが!
間違いなく現・奈良周辺だ!
最近、弥生時代に興味もった俺でもわかるぜ!
>どの道、兵站線も何も考えないのはアホ丸出しw
これは畿内説にのみ通用する指摘
414 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 04:21:51
>>413 残念。
そこら辺は考慮されているから「”ゆるやかな”首長連合」と言う言葉が使われるw
今で出ている話で言うと、少なくとも俺は纏向型の分布を武力征服による結果だなんて話を聞いた事が無い。
この板の九州説以外ではwww
逆に九州王朝説やその亜流の九州説じゃあ古代にいきなり強固な中央集権国家を想定するわけで
(ゆえに「ゆるやかな首長連合」と言う表現には反発するw)
『 九州版皇国史観 』とは言い得て妙wwwwwwwww
>ぼく の かんがえた むてき の きゅうしゅう ぐんだん
神武紀を読めば九州の勢力が無敵でないことなどわかりそうなものですが
畿内にあった勢力が強力であったからこそ
九州勢はなりふり構わずあの手この手を使ったのではないですか?
忽然と姿を消した、失われた偉大な銅鐸文化についての研究もこれからもっと進んでいくでしょう
邪馬台国が畿内にあろうが九州にあろうが
九州から入った勢力が畿内に侵入した、この可能性は高いのではないですか?
「東遷」も一度に一気に行われたのではなく何次にもわたって
先に東遷していた集団が後から東遷してきた集団にとってかわられることもあったでしょう
この板ではっきりしているのは
九州説の方々はその説に賛成できない点はあれ
少なくとも人を馬鹿にした発言はなさらないということです
対して畿内説を唱える者に人を馬鹿だアホだと中傷する者がいるのは非常に残念なことです
どちらかといえば畿内説を応援したい私としては
畿内説の品位を下げるような書き込みには哀しい感じを持ちますね
418 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 06:27:17
そう、神武天皇が大和で戦ったのは、饒速日命の部下である長髄彦。
饒速日命は、天神の子で、神武天皇と同族。
つまり、日本書紀によると、最初に大和に入ったのは饒速日命ということになる。
そして、後からやってきた神武天皇と戦った。
419 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 10:02:48
それは、紀元前の話だよね。
唐古・鍵は、紀元前から存在してるんだから。
420 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 10:56:40
>>415 いやいや鉄器で武装した九州軍団の戦闘力を高く評価するのは
この板の九州説の好んでとるところだが何か?
それに銅鐸の研究が進めば進むほどにその地域も時代も広がっている。
もはや銅鐸圏を東遷勢力が滅ぼしたなんて単純なストーリーは通用しないのが現実。
421 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:06:28
>>416 そこまでいったら普通「東遷」じゃなくて文化の「東進」だなw
稲作勢力が東遷したなんて誰も言わないだろう?
神武東征神話をそう言った文化の東進を象徴的に表したものと見る先生もいるみたいだが…
しかも文化としてみるなら古墳文化=大型首長墓による祭祀は九州には見られず
土器を見れば西進すら認められ
神話と単に銅鏡を頼んで東遷と言っているに過ぎない。
まあファンタジーだなw
>>419 紀元前なら九州厨の妄想している 鉄器VSサヌカイト の戦いもありえたかもしれんねw
422 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:13:53
神武東征などと言う茶番劇はなかった。天皇家の先祖は磯城県主葉江である。
>>415 良く考えれば微妙に言っている事がわけが分からないなw
銅鐸の研究とやらに期待すると言うのは東征を示す考古学的資料として期待しての事か?
文化を一変させるなんて事になったらとてもじゃないが
九州から落ち延びてきた小集団じゃあ無理だろうに…
結局、ある時は小集団と言ってみたり、ある時は文化を一変させた勢力と言ってみたり
その規模もどれほどを想定しているのかはっきりしない。
まあ東遷説なんて大体そんな物で
とにかく「東遷と言う事実があった」と言う結果が先にあって
後はあやふや規模や時期、その目的がはっきりしない物が多い。
>>414 畿内王権独尊主義者は、
文献学の立場からは「野蛮人=九州=邪馬台国≠崇高な大和朝廷」の立ち場をとり、
考古学の立場からは「「唯我独尊の畿内=邪馬台国=崇高な大和朝廷」と考える。
>>414 「”ゆるやかな”首長連合」って、何の根拠もない妄想であり、畿内王権が全国制圧をしていたと言い張らんがための前提にしかなっていない。
8世紀後半以降は別として、畿内が九州を制覇していった様子などない。
だからゆるやかな首長連合
>>424 >文献学の立場からは「野蛮人=九州=邪馬台国≠崇高な大和朝廷」の立ち場をとり
その低レベルはサイキバ君かな?
文献学の立場?
さっさと首釣ってあの世で内藤湖南先生に土下座して謝ってこいw
畿内説の何たるかも知らず、九州説の何たるかも知らない。
流石にこの程度はこの板の九州説でも最底辺のレベルだとは思うがw
論争史を根本的に勘違いしている奴は多いんだよなあ・・・
要するにこの板の九州説の連中の頭の中には
「強固な中央集権国家」と言うモデルしか無いんだよなあw
ところが(雄略あたりを画期とし)ヤマト王権が変質していき
最終的に中央集権が完成するのは律令制の完成を待つ…なんてのは
もはや畿内説とか九州説なんてくくりを越えて常識レベル。
恐らく小中学生を対象にした本でも書いてあるような内容だと思うが
そう言う意味でもこの板の九州説って異様だよなw
430 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 14:48:40
「強固な中央集権国家」というモデルを使わないと、
東遷説が成り立たないだろ。
431 :
九州王朝大好き:2009/04/16(木) 15:54:16
>>429 >要するにこの板の九州説の連中の頭の中には
>「強固な中央集権国家」と言うモデルしか無いんだよなあw
そう思っているのあなただけ。
九州王朝説でも各地の大王国の非常にゆるい連合体が日本列島の状況。
ただシナ側は倭國を日本列島を代表する国と思っていただけ。
旧唐書の時代までのシナの認識ね。
432 :
九州王朝大好き:2009/04/16(木) 16:04:46
>>430 九州説では、「東進説」「東侵説」「東浸説」が主流。
「東遷説」は少数派 or 異端。
433 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 17:55:18
「東浸説」 ってなに?
西から何が東に浸透していった?
>「東侵説」「東浸説」
俺も始めて聞いたw
435 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 18:08:57
436 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 18:19:07
>「東侵説」「東浸説」
なんだろうな?
想像↓
東の畿内は折からの洪水で、多くのムラや田畑が浸水する大被害。
本来はみんなで助け合って復興を目指さなければならないのに、
博愛精神のカケラもない九州の糞野郎共は、無慈悲にも隙を突いて東方侵略。
なんの罪もない女たち、子ども、老人たちまで皆殺し・・・・
とりあえずググってみましたwww
>東浸説 に一致する情報は見つかりませんでした。
>検索のヒント:
>キーワードに誤字・脱字がないか確認します。
>別のキーワードを試してみます。
>もっと一般的なキーワードに変えてみます。
>>436 ひでえ奴等だな、九州は。
昔も今も九州はちっとも変わっとらん、ケッ。
なんだか「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」みたいな
440 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 19:28:58
邪馬台国九州説をとった場合は、東遷説を考えるのが主流。
邪馬台と大和で国名が同じ。
卑弥呼も倭王、後の大和朝廷の大王も倭王で、同じ国を表していると考えられる。
記紀もそれを示唆しているし、王年代記などは、もろに「(神武天皇の前)
凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す」と書かれている。
畿内説は、今も昔も単なるアンチ東遷説。
441 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 19:49:17
神武東征は1世紀なんですよ。
442 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 20:09:23
神武天皇とは三輪山の大物主のこと。
したがって祟神と同じ4世紀の人物ということになる。
私は「東遷」と言う言葉を用いるなら、王統の所在地が移転した場合に限るべきだと思います。
単なる人の移動では、たとえどこかで血がつながっていても、歴史的には大した意味を持ちません。
戦国時代の徳川や織田のように名家の出自を僭称していてもそれより重要なことは、
如何にして政権を担うこととなったかと言うプロセスです。
やはり、東遷と言う言葉は、万世一系思想と切り離すべきではないでしょう。
また、単に西からの移住者が王様に為ったと言うだけなら、
それは東浸でも東侵でも無いとも思います。
戦乱で荒廃した九州よりも、混乱のなかった畿内を中心にして国の運営を始めたのが九州王朝の天武天皇。
都庁を東京から新宿へ移したような話だ。
「東遷」なんていうと「巨大帝国大移動」「支配階級全員移転」のように錯覚するが、
実体は首長の指令場所を変えただけ。
まあこの板の電波が何をほざこうが
現在、青息吐息の九州説の中にあって更に異端と言うか
九州説の中ですら否定されているのが東遷説だからなあw
446 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:03:06
九州説の考古学者でも東遷なんて考えてないしな。
そもそも東遷説といってもマトモにその時期や規模
あるいはその目的をきちんと示したものがあるのやら…
恐らく良いところその可能性を示唆したに過ぎないのが殆どじゃないかな?
しかしこの板で東遷説と九州王朝説の二大電波を排除したら
九州説ってどれくらい残るんだろう?www
ていうか、考古学的に畿内説など学問外だから、九州説と九州王朝説しか取り上げる価値がないわけだが
しかし九州王朝説が『 九州版皇国史観 』なら
東遷説は『 九州版ウリナラ起源説 』と言ったところか?wwwwwwww
畿内説は
『 唯我独尊畿内皇国史観 』
『 変態キンキー絶対崇高史観 』
まあ2ちゃんでこんな事を言っても意味が無いのかもしれんが
この板の九州説の殆どは学問じゃなくてゲームw
暗号解読ゴッコとか珍読ゴッコとかのwww
「魏志倭人伝ウソツカナイ」と言う仮定で
「オレ、オレ、オレの説こそ正しい読み方」と仮説を強弁しても
じゃあそれを証明する手段はどうするって話で
そうなるとどうしても考古学的な検証をもってするしかないだろう
無論そんな物を借りずに文献の検証だけで決着すればいいのだが
過去100年以上の経過を見れば不可能だと誰でも分かる。
そもそも考古学に多大な期待を寄せていたのはむしろ九州説で
少なくとも吉野ヶ里ブームの頃まではそうだったはず。
無論吉野ヶ里を邪馬台国そのものとした学者はそういないだろうが
それでも邪馬台国に繋がる期待は高まったはず。
吉野ヶ里の有名なキャッチコピー
『吉野ヶ里から邪馬台国が見える』
…まあ結局待てど暮らせど見えなかったわけでwwwwww
453 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:33:23
>>399 >鉄器も三種の神器もない畿内王国
今更なんだが…w
このサイキバ君テイストにあふれるレスを見て思ってたんだが・・・
そもそも九州に三種の神器なんてあるのか?
銅剣と鏡と言う組み合わせならともかく
そこに勾玉まで加わった出土例ってどれくらいあるんだ?
そもそも「三種の神器」と言うのは王位継承の証(レガリア)であって
墓の中に入れちゃったら意味が無いと思うのだがw
サイキバ君に言っても無駄かな?wwwwww
454 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/16(木) 21:54:42
455 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:11:23
>>453 畿内のサイキバ君は三種の神器(鏡、珠、剣)が九州で大量に発見されているのを知らないらしい。
456 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:19:29
>>455 九州で出土した魏の年号鏡でも見せてもらおうか。
457 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 23:13:15
三種の神器が東遷の証拠なら、
昭和時代に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が普及したのは、
アメリカが日本に東遷したことになる。
ばかばかしい議論だ。
458 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 23:24:02
>456 中国鏡には年号は無いと昔TVで考古学者が言っていたが。
年号が制作年を書いていれば現代人の研究には非常にありがたいことである。
しかし,年号が制作年を書いている根拠は無く,何であるのかは,
まったくわっていないのでは。
>>458 > 中国鏡には年号は無いと昔TVで考古学者が言っていたが。
そんなこと言う「学者」がいるとは思いませんがw
ちなみに劉永明編の「漢唐紀年鏡図録」と言う本には、
漢鏡44面、三国魏鏡6面、三国呉鏡55面,西晋鏡17面、東晋鏡4面が収蔵されています。
魏鏡の「少なさ」がよく判る比率ですね。
> 年号が制作年を書いている根拠は無く,何であるのかは,まったくわっていないのでは。
普通は製作年でしょう。
「景初三年陳是作鏡」とか書いてあるんだから、それ以外に考えようもないかと。
460 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 23:55:50
>>457 それでもお笑い王朝説よりましだろうがあ!
中国の学者は、日本の三角縁神獣鏡のすべて中国製じゃないと断定してる。
巨大古墳の数においても、魏志倭人伝には古墳が多数あるとする記述がない。
鉄器も出ない、倭錦も出ない畿内は、100%無理。
462 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 00:15:02
>>461 △に関してはこれ以上日本の恥をさらしてほしくないねえ。
463 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/17(金) 00:18:07
>>338 そう何でもかんでも噛み付きなさるな。
赤壁の例は風向きがかわったことが大切なのであって、風向きの正確な方位が問題なのではない。
だから良い例と思えないと書いたのですよ。
あと私は、こてこての九州筑紫説ですが?
北斗と日の出、は以前私がどこか(邪馬台国掲示板のどこかだったか?)に書き込んだ、
「日の出・日の入の方角や極星から、方位を間違えたとは思えない」旨の書き込みにそっくりなのですが・・
せっかくのコテハンなのに、説を覚えてもらえる程では未だない、ということなのか?w
学者の世代交代とともに、畿内説が自動消滅していくのがわかるから、
論じなくても同じかな。
465 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 00:28:43
>>462 三角縁神獣鏡には畿内説のすべてが詰まっている。
根拠のない仮説を立てる。その仮説を畿内説の根拠にする。
考古学者がその仮説をPRし、定説化し、死守する。
やがて、破綻しても知らん顔。
纏向、箸墓、年代観、みんな同じだな。
466 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/17(金) 00:38:11
>>459 倭製の場合、当時の倭人が漢字を理解していたか不明。
そういうおまじないの模様という認識だった可能性がある。
うちの近くにでかい倭製の鏡がでてきた古墳があるのだが、元になった鏡の漢字(1文字)が書かれている部分が
◆の模様に替えてあるw おそらく漢字を理解していなかったのだろう、と私は思ったのだがどうだろう。
話は違うが、墓に行くと木の板に凡字で何やら書いてあるものがあるが(幽霊の背景に良く使われるアレw)、
凡字を読めるやつがそうそういるとは思えないのだが、まぁこれと似たようなものだったのではないだろうか。
467 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:04:58
>>465 東遷説には九州説のすべてが詰まっている。
根拠のない仮説を立てる。その仮説を九州説の根拠にする。
エセ学者がその仮説をPRし、定説化し、死守する。
やがて、破綻しても知らん顔。
468 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:14:26
>>465 同意です。
畿内説の人たちは戦前は皇国史観で言論統制されていたというが、
戦前の方が今より格段にマシ。
他の分野の学界では、「A説の根拠はa、b、c、d、e・・・、これに対するB説の
根拠はア、イ、ウ、エ、オ・・・」と説を客観的に並列化して検討するのが常識。
しかし、この分野でこのやり方を見るのことはほとんどない。
反対説は徹底的に無視されて、予定調和の結論が正しいとされる。
まるで北朝鮮の人民会議のようである。
畿内をどうしても邪馬台国と断定したい
→そのためには箸墓を卑弥呼の墓と断定したい
→そのためには箸墓造営年代判定を古く古く改竄して卑弥呼の没年に合わせたい
畿内をどうしても邪馬台国と断定したい
→そのためには三角縁神獣鏡を卑弥呼がもらった魏鏡と断定したい
→そのためには矛盾をすべて無視したい
→100枚をはるかに超えた数が出土しても気にしない
畿内をどうしても邪馬台国と断定したい
→魏志倭人伝に書かれている風景が吉野ヶ里にぴったりなのは無視したい
→邪馬台国には鉄器や倭錦が出てくる記述は気にしない
→魏志倭人伝には載っていないが、巨大古墳の数の多さが畿内説の証拠だと断定したい
471 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 02:11:52
↑
九州説の悲鳴が哀れ。
↓
472 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 02:40:53
九州説論者は、実のところ畿内説は問題にしていないんだ。だいたい、>471
のような書き込みばかりで、理論的なことは何も返ってこないからね。
473 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:20:43
まあ、笑えるのは三角縁を魏鏡という前提で導き出された小林理論による年代観を九州説はありがたく固守しているって点だなw
>>469-470みたいに毎度毎度同じ事を繰り返すしか無い馬鹿ぞろいw
出土した全てを魏鏡とする説もあるかもしれんが今日において主流でもないし
仮に倭錦他が大和で産出しなくとも「お取り寄せ」で問題ない。
広域首長連合なのだからw
それどころか魏に遣使として出向いたのは九州北部の人間でも問題ないwww
吉野ヶ里の楼観があの遺跡特有と言う学者なんて聞いた事が無いし
倭人伝との一致と言うのならあの遺跡の何処に「婢千人」を押し込めるんだって話で
ついでに言うと
恐らく日本でもっとも発掘された大型環濠集落であろうのに百人の殉死者を伴う墓なんて見つかってもいないwww
とにかくこの板の九州説は全部が全部と言わないが殆どのものが読むに値しない幼稚極まりない
この俺に言われるんだから間違いないwww
474 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:25:35
>>467 つうかそもそも「東遷説」なんていまだ学問として遡上に上っているのかって話で
はっきり言えば現時点それこそ「雲をつかむような話」www
精々「記紀神話に出てくるんだから何らかの由来はあるんじゃないのか?」
って程度で
じゃあ本当に史実として東征なんてものがあったと考えるのはあまりにも材料不足
神話を基ネタにしたファンタジーwww
ムーとかアトランティスとかと同じレベルwwww
475 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:33:16
三角が倣製なのか舶載なのか?
どちらで決着がつくのかは俺は予想もできない。
三角以外、他の項目でも畿内説の中で意見の相違はある。
が絶えず新しい説に更新されていくのが学問だろう?
この板の九州説はドグマに縛られてよしとするみたいだがwww
恐らく畿内説は今後もどんどん変わっていくだろうなwww
その度に九州説の怨み節が増えていくわけだw
476 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:39:33
>>475 畿内説は変わっていくというよりも、次々に破綻していくので、
それに代わる新しいものを作っていかざるを得ないというのが本当だろう。
架空説の悲劇だろうな。
477 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:40:51
で、近畿説は学問としての体裁をもっているのであろうか?
倭人伝の行程とはまったく合致しない・・
三角縁も箸墓もぶち上げてしばらくたつと「だめだったか」
はっきり言えば現時点それこそ「雲をつかむような話」www
478 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 03:57:57
>>458-459 まあ
>>459の言うのはデタラメもしくは勘違いで
魏代の物も少ないながら出土例はある。
特に「黄初」年号の物だと神獣鏡で
(多分
>>459の言う6面のうち5面がそうだと思うが…)
その他の物にしても
九州説のイチオシの「方格規矩」や「内行花紋」は”中国出土”の物の中には無い。
まあ
「三角縁神獣鏡は中国では一面も出ていない」
・・・これは間違いじゃないんだが
中国での極僅かの出土例を見る限り「卑弥呼の鏡」は神獣鏡である可能性は高いと言わざるを得ないwww
もっとも「三角縁神獣鏡」なんてカテゴリーは現代人が考え出した物に過ぎないんだが・・・
なんと言うか九州説によるペテンの一つの好例だなwwwwww
479 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 04:07:59
>>477 >倭人伝の行程とはまったく合致しない・・
で、倭人伝の行程記事が間違い無いという検証は済んでいるのかい?w
読み方もバラバラなのが現状だと思ってたがwww
そもそも今日、伊都国は「前原」が定説。
さすれば「東南」の方向の記述も怪しいって事になるw
要は行程記事の方角にしても絶対の信をおいていないのが現実で
九州説的には
「幾らなんでも東を南に(90度も)間違えない」
と言わば程度問題www
480 :
478訂正:2009/04/17(金) 04:22:45
(正)まあ
>>458の言うのはデタラメもしくは勘違いで
481 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 04:35:31
>>479 九州説では、伊都国=前原と思っていない人がかなり多い。
文字通り、東南陸行で、有明海の方に出たと考えているわけ。
もちろん、九州説でも伊都国=前原と思っている人もいるが。
482 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 04:49:09
>>481 まあそう言うことは承知しているが
じゃあ定説以外の伊都国の比定は一体何を持って根拠とするんだ?って話で
例えば地名の一致以外にも
三雲遺跡からは他の遺跡なら一つでも出れば御の字の「楽浪土器」が多数出土して
倭人伝言うところの「郡使の常駐」を想定させるものがあるw
「倭人伝ウソツカナイ」としその記述どおりに伊都国を末盧國の南に探したとして
一体何をもって蓋然性を高める材料にするのか?
・・・っちゅう話だなwww
483 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:31:07
>>482 >じゃあ定説以外の伊都国の比定は一体何を持って根拠とするんだ?
当然、倭人伝そのものだよ。倭人伝の記事に合わない所を比定しようとすれば、
似た地名だとか、遺跡だとか、あれこれ理由をあげなければならない。
しかし、倭人伝の行程記事どおりに比定するならば、そこが国が存在したとみ
ることが不自然な地形等でない限り、何ら問題ではない。
しかも、佐賀付近というのは、後の肥前国府が置かれた所だ。倭人伝どおりに
進んだ所が古代の要衝地、それで何が不足なの?
484 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:41:20
>倭人伝の行程記事が間違い無いという検証は済んでいるのかい?w
魏志を著した陳寿が優れた人物であったことは定評がある。しかも、魏の使者が
倭国を訪ねたときからさほど時代を経ないで書かれた史書だ。まず、魏志倭人伝
の書いているとおりに進んでみて問題がなければそれでいいじゃないか?
従来、倭人伝どおりでは、方角と距離(日数)、それが絶対に矛盾すると言われ
てきた。整合的に読むことは不可能とあきらめてかかっていたんだ。しかし、それ
は伊都国を前原と信じて考えていたからであって、そこを倭人伝どおりに佐賀付近
に比定することで、方角も距離も何ら矛盾しないことが分かったんだよ。そしたら
倭人伝が指し示す所に邪馬台国はあった、そう考えるのが当然だろう。
485 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:44:36
>>483 倭人伝の内容に疑問を呈している人間に対して
倭人伝が正しいから自説が正しいって言ってもラチがあかないって話だなw
倭人伝通りに読んで末盧國の東南の地に誰が見ても
「なるほど伊都国に相応しい」
ってものがあれば
「やっぱり倭人伝の方向の記述は正しかったんだ」
となるだろうがw
倭人伝が正しいと言う事を強要してスタートする
…それが「学問」って言う奴なのかい?
ドグマにがんじがらめになった宗教だなwwww
そんな珍読ゴッコのルールを押し付けられても困るって話だなwwww
486 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:54:42
駄々っ子だね。邪馬台国を伝えるのは倭人伝だ。その倭人伝を理由もなく、信用できない、
信じたくない、っていうんならば、邪馬台国探しなどやめることだ。
487 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:55:21
>>484 要するにだ…
「これ以外の読み方はありえないんだからこれが正しいに決まっている」
と言いたいんだろうが(いつもの日向厨かな?w)
放射説を是とするのなら
何処を分起点とするのか?
分岐点を一箇所でなく複数とするのか?
…という問題も出てきて
加えて日数を距離に換算する絶対的基準もなければ
その組み合わせで相当な”自由度”があるw
極端な話、行程記事を一度、不弥国までで切ってしまい
邪馬台国への道のりを郡から水行十日陸行一月にしてしまえば
九州の何処でもOKってことにすらなりかねないwww
つまりだ、お前さんが享受した自由度によって
お前さんの説のアドバンテージはなくなるってお話だなwwwwwww
あと陳寿に対する人物評価と行程記事のソースについては別の話
分けて考えようぜ?www
488 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:59:25
>>486 信用するに値する材料があれば信じるし
なければ信用せず疑う。
何か問題でも?www
お前にとっては
「全部信用するか?しないのか?」
の二択しか無いのか?www
489 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 05:59:39
>倭人伝通りに読んで末盧國の東南の地に誰が見ても「なるほど伊都国に相応しい」
>ってものがあれば
私はそれがあると思うよ。伊都国は末盧国から陸行したところだ。何のために陸行
するのか? 末盧国から水行できないからだろう。しかし、一大率は「津に臨みて
捜露・・」とある。伊都国には港があるはずだ。そして、南水行ができる所。それら
の要件を全て満たしているのが佐賀市大和付近なのだよ。
490 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 06:13:29
>放射説を是とするのなら何処を分起点とするのか?
>分岐点を一箇所でなく複数とするのか?
トンデモ読みの連中に惑わされてはいけないな。放射式というのは伊都国分岐に
決まってるんだよ。そこから語順が変化している。複数分岐なんてありえない。
漢文(というより文章かな)に慣れれば、そんなことは簡単に分かることだ。
491 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 06:23:14
>>490 じゃあ放射説ですらない連続式で読んでいる
「太平御覧」はトンデモのトンデモだなw
お前がどれほど漢文の知識を持っているかは知らないが
(俺に関して言えば完全にゼロだがw)
中国人の学者が読んでもバラバラなのに
「オレ、オレ、オレの読み方が正しい」
と言われてもねえwwww
「読み方はこれ以外無いのだから・・・」
式の主張はやめておけwww
結局、倭人伝の記述の正しさを自分の倭人伝の読み方に頼る・・・
もう学問とか以前の問題wwwwwwwwww
492 :
サガミハラハラ:2009/04/17(金) 07:35:36
津にのぞみてとあるのは、伊都国から唐津までは、ある程度の距離があるということです。
伊都国が港にのぞんでいるなら、そんな書き方は必要ないですよ。
なんで、日本史板って、邪馬台国関係のスレ以外流行ってないの?
しかもなんか粘着が勢いつけてるだけみたいだし。
494 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 09:13:30
>463
大陸は河図洛書で方位は重要なんだよ。風向きが変わるということは方角が
変わってるの。風向きが変わることは方角は変わらないわけがあるまいが。
「向き」というのは方角に対面してることだろ。
だから風向きが変わることが力点があるということは即風の吹く方角が重要だと
いうのと大差ない。当時の戦いでは縁起をかつぐことはけっこうある。神武も
日に向って戦うから勝てないんだろうと逆に日を背にしてるわけで、これだと
180度的に方角の変更だ。あんたは風向きという語をちらつかせて方角の重要なの
をくらましているだけのこと。
あんたの論を隅々までおぼえちゃぁいないよ。まだそんなに君と多数論を
かわしたわけでもあるまいが。それもあんたの抽象的コテハン名が覚え
にくい因になってると思う。こちらがあんたのコテハンを書くこむのに面倒
だから、その論まで覚えるまえに記憶が挫折しちゃう。具体的名に変更したら?
495 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 09:40:38
畿内説はとうに破綻しているので
今の「権威」の方々が次々と鬼籍に入ってゆかれると同時に
ほぼ消滅するだろうと聞いたのですが、これは本当ですか?
若い研究者で畿内説をとっているのは教授の犬のような者だけだとか
説が破綻する前に何とか遺跡遺物と邪馬台国を関連づけようと焦っているのは
畿内説の連中だ、などということも聞きましたが
496 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 09:53:45
学者は面子があるから、間違いましたとは絶対言いたくない。そいういうことで
臥海の親分の考えはAだと決めたら死ぬまでAで、その取り巻きは首が危うい
ので逆らえない。また妄想というのは全員ではないが、いったんはまりこむと
いくら間違いだよと忠告しても聴く耳は持たないのが大半だな。
しかし先述したとおり卑弥呼が天皇の親族等、百襲媛、倭姫命だったら、大陸は
金印を卑弥呼にはやらずオオキミ(天皇)に渡すに違いない。だから彼女ら
が卑弥呼だということは絶対に近くありえないのだ。
497 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 10:01:00
>>495 本当です。
史学考古学に携わっている人なら誰でも知ってます。
おまけに畿内説が都合のいい政治家や
更にその背後にはイルミナティやフリーメーソンと言った秘密結社も関わっているなんて噂もあります。
この板の九州説の皆さんは日夜畿内説の陰謀と戦っている戦士なのです。
今はまだ世間の耳目を集めるに至っていませんが
やがて時が来ればここに書かれている九州説の正しさが万人に理解されるでしょう。
498 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 10:10:08
(・∀・)ジサクジエンデシタ
500 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 10:29:25
>>492 港の中に一大卒の館があるわけではないでしょう。館から出かけて港へ行く、
それが津に臨みてということですよ。
伊都国と唐津は40キロ、船が入るたびに一大卒が唐津まで行くはずはない。
501 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:01:42
>>496>>497 ありがとうございます
九州説だと徹底的につぶしにかかられるとか
畿内説でないとなかなか出世できないとか
門外漢からすればてっきり都市伝説の類の話だとばかり思っていました
ウォーキングとか楽しんでる身としては、片道10Kmが程ほどじゃね〜の、思うのですが。
503 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:37:46
>>405 >______________
> 弥生時代 \ 古墳時代
> ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この図は正しいと思うんだが。
ある地域で古墳がつくられ始めた、すなわちそこは古墳時代に突入した、しかし
同じ年代に、別のある地域ではまだ古墳というものをつくらなかった、
つまりそこはまだ弥生時代であった、これでよいと思うんだが、
反論が出てるね。
>>408 >今は、ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られているというのが基本認識。
そんな基本認識はないと思うんだが。
具体的に聞くが、長崎県、熊本県、島根県、鳥取県、高知県、和歌山県、滋賀県、岐阜県、愛知県で
それぞれ最も古い古墳を挙げてみてくれないか。
そいつらは奈良県の纏向古墳群とほぼ同時期か?同じ設計か?
答えられなかったら408が間違っているわけだが。
504 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:56:15
崇神が3〜4世紀初めの人物であることはほぼ間違いないわけで
そうすると神武東征は2世紀後半の出来事
これは倭国大乱の時期とも一致
そうすると邪馬台国東遷説は消える
邪馬台=大和とするなら偽僣説
もしくは大和朝廷とは全くの別物
どっちかだろ
505 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:02:59
畿内説に対する疑問
・いくら古代人と言えども方角を90度も間違えることはありえるのか
・東の海を伊勢湾とするのは無理矢理すぎないか
・卑弥呼=百襲媛だとすれば記紀の内容と大きく食い違う
506 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 13:11:46
誤差はあるが、最大でも45度くらいまでだな。だれか他のスレで
言ってたが、太陽が黄色くてよく見えなかったとか子供騙しの
抗弁で、視力が一行全員0.1以下なかと言うと、遺跡が出ないこと
と遠回しに喜んでいるように、とうとう遺跡を答えてくれませんで
いたねえとか、手負いの獅子は餌をくれないと必死に要求していた。
遺蹟はこういう奴が墓泥棒とか災害、地震、噴火、台風と遺跡の
上に建造物を建てれば出てきやしないのを推奨してるような抗弁で、
まぁ弱い奴ほど威嚇とか卑怯な応手で抵抗するようだ。wwwww
507 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:15:13
記紀とも倭人伝とも決定的に食い違う畿内説の
最後のよりどころは考古学的発見だけだが
それも邪馬台国が畿内だという根拠になるものは何もなく
むしろ纏向遺跡周辺に崇神、垂仁、景行の都があったという記述の裏づけになり
記紀の信憑性が増しているだけ
508 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 13:16:59
>むしろ纏向遺跡周辺に崇神、垂仁、景行の都があったという記述の裏づけになり
実際は崇神の宮の伝承地は遺跡よりやや南なんだが・・・
で、それほどに重要な地にある箸墓以前の前方後円墳についてはスルーしているんだよなあ
場所も大きさも「見落としてました」じゃあ済まないだろうにw
欠史八代は本当に欠史だった蓋然性が増したと思うがw
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 13:34:13
稲荷山鉄剣には大彦と崇神のシキ宮があるから心配はない。
511 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:36:07
大和朝廷が朝鮮半島に外征するのは4世紀後半だろ
卑弥呼のいた3世紀中盤に九州で独自政権=邪馬台国が存在したとしても
何もおかしくないよね
512 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:53:13
自分の祖先の墓じゃなければ普通スルーするだろ
>>511 そう、例えヤマとを中心にした首長連合の勢力が九州北部にまで及んでいたとしても
九州の一定のエリアで邪馬台国を中心にして魏と交渉を持ったと言う説は成り立つ。
日に日に自分達を圧迫するヤマトの勢力に対抗する為
あるいは首長連合に参加しておきながらチャッカリ魏には倭王として朝貢したとかw(偽僭説)
ただ、2〜3世紀にそのような新勢力(30弱の国々による連合体)が九州に登場し
その中心の邪馬台国が冊封された結果と思われる現象が九州には見られない。
(威信財体系の変化、祭祀形態の変化、銅鏡等の量の変化 etc・・・)
−畿内説だと纏向の登場
それまでの古墳と隔絶した大きさを持つ箸墓の登場
銅鏡の九州と九州以東のシェア逆転etc・・・
無論それらは年代観の争いはあるが九州説と違って争えるネタはあるw
今日九州説が下火なのは単に遺跡の一つが出てこないとか
そんなこの板の九州説の連中が考えている単純な話ではない。
>>512 自分の家の敷地に他人の家の墓(それも相当に大きい)のを作らせるのか?
515 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:17:10
それまでの古墳と隔絶した大きさを持つほど強力な政権なのに
南の狗奴国との戦いに苦戦するのかね
紀伊半島に強力な政権なんて存在するわけないだろ
516 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:19:10
>>514 纏向に本拠地を移したときにはすでにあったんじゃないの?
マキムクって半島や大陸絡みの出土物ってあったっけ?
519 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:55:42
520 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:06:15
倭人伝には男王を立てたが争いが起こったから女王を立てたと
経緯まではっきりと書いて女王国だと言っているからには
単なる巫女を女王だと勘違いしたとは思えないよね
ということは卑弥呼の時代に男王しか書いてない記紀は嘘ということになる
なぜそのような捏造をしたのだろうか
521 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:10:33
箸墓の規模は、明らかに「女王」の性格だけどね。
ほかに古墳をつくってもらった巫女はいないんだから。
522 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:21:32
箸墓古墳の被葬者が女王とは限らないけどね
魏志倭人伝に古墳が出てくるのはたった一つだけ=卑弥呼の墓
これが、古墳だらけの纏向は邪馬台国ではない証拠だ。
鉄器も出ない、倭錦も出ない、金印も出ない、
冬に生菜を食べる風土もない畿内に、邪馬台国などそもそも
あった筈がないという当たり前のことが、当然ながら真実なのだ。
524 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:36:30
>卑弥呼の時代に男王しか書いてない記紀は嘘ということになる
神功皇后がいるだろ。男王しか書いてないってだれのこと?
卑弥呼の時代の倭は女系社会。
イワレヒコが卑弥呼に婿入りして、その子、神武が天皇になったということです。
種馬のほうは用が済めばお払い箱。その後どうなったかは神のみぞ知る。
526 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 21:02:20
夜明けの方向=東これは誤りで夏場であれば日の昇る方角は正確には東北東。
倭人伝の記述から記録を残した人物が倭国に行ったのは夏場であるのは間違いない
東と東北東では約22.5°の角度の差がある。これは正確な地図を持つ私達とのズレ
もう一つ、この方向を記録に残した人物が都の人間か、帯方郡の人間か
これによっても方向のズレは生じてくる。福岡を基準にした場合、洛陽の人間であればさらに6°のズレ
があり帯方郡(ソウル付近と仮定する)の人間であれば4°のズレが生じることになる。
このズレは緯度の問題から発生する。これは現在の我々が緯度の違う外国に行っても同じズレを必ず生じる
つまり26.5°〜最大28.5°程度のズレが発生している可能性があることになる。
「季節のズレくらい昔の人間なら考慮に入れて補正している」という意見もあるかも
しれないが対馬-壱岐-唐津の実際の位置は記述の南ではなく南東である説明もできるし
唐津からの糸島までの方向も説明できる。
倭人伝の記述の伊都国は糸島半島 奴国は博多近辺 不彌国は新宮町近辺であり
ここが水行の始まりであり周防灘を抜けて(ry
527 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 21:05:05
>>524 神功皇后は西暦400年頃の人物だろ
卑弥呼であるはずがない
>>519 ニュースはチェック入れてるんだけどみっかんなかった
どんなのが出たの?
529 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 23:12:04
とにかく誤差は頑張っても45度ばかりまでさ。日の出を見てさらに
通行路に住む住民に手まねで訪ねれば、狂ってもそのくらいが
精一杯だな。それをなんとか頑張って90度もズレていたなどと主張
しても、子供騙しの論理に過ぎない。w
>>529 倭人の太陽による方角読みは正確さ。なんせそれで、二至二分による古代太陽暦を用いて
いたんだからな。つまり、太陰による倍暦などなかったという証拠なんだよ。グエグエ。
531 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 23:51:28
そんなのは証拠にならないね。いい加減なオマエの出鱈目さ。
ならば仁徳以前の天皇の超長寿を合理的にいかさま扱いで逃げずに
説明してみろ。〜そんな論じゃぁオマエの底が見えてるぞ。
ZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
古代天皇は道士徐福の子孫だから、不老不死術の心得が残ってたんだよ。グエグエ。
なんて合理的なレスだろww。
533 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:15:46
534 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:04:58
535 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:24:37
>>521>>522 箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓であるのは間違いない。
でも、一般的に箸墓といわれているあの古墳が、箸墓である証拠はない。
仁徳天皇陵と言われている大仙古墳が、仁徳天皇の墓かどうかわからないのと
同じ。
要するに、あの古墳を箸墓と呼ぶのが間違っている。
536 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:27:05
>>520 卑弥呼の時代が、記紀のどの時代に該当するのかを決めるのが先だと思うが。
神代の時代だったら立派な女王がいる。天照大神が。
537 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:30:34
>>533 神功皇后は、応神天皇の母となっているから、応神天皇の時代を
考えればだいたいの目安になるかも。
>>476 >畿内説は変わっていくというよりも、次々に破綻していくので
まあ新しい発見によりそれまでの有力な説が破綻すると言うのはあって良いわけで
九州説にしても古くは神籠石とか今からすれば年代がどう考えてもあわないものが
邪馬台国に由来する遺跡とか考えられていた時代もあったわけでwww
(それが時代が下るにつれそう言うドラスティックな動きが無くなっていった感がある。)
この板の九州説論者ってのは九州説と言う物を
それこそ『 不磨の大典 』とでも考えているんだろうなw
まあ宗教なら仕方が無いがwwwwww
畿内説は
三角縁神獣鏡国産説が破綻
環濠集落は畿内のみ→吉野ヶ里で破綻
箸墓卑弥呼古墳説が破綻
・・・全部ダメじゃん
540 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:34:55
神功皇后が卑弥呼だとするなら
記紀に書いてある年代がそのまま正しいということになり
仁徳天皇あたりまでの不自然な長寿も本当だったってこと?
しかも広開土王碑をはじめ外国の記録とも全く整合性がとれなくなる
記紀の作者が神功皇后=卑弥呼だと思い込んで引き伸ばしたんだろ
>>539 >三角縁神獣鏡国産説が破綻
三角縁神獣鏡が国産であっても畿内説には構わない。
九州説が即死を免れるだけwwwwww
>濠集落は畿内のみ→吉野ヶ里で破綻
はて?
「濠集落は畿内のみ」なんていつ誰が言ったのかな?
そんな話初めて聞いたがwww
ぜ ひ 詳 細 を 聞 か せ て く れ ! w
>箸墓卑弥呼古墳説が破綻
箸墓が卑弥呼の墓でなくとも畿内説には一向に構わない。
それより古い古墳なら複数あるし
現時点でも卑弥呼の墓はそっちだと言う説もあるんだがw
なんだか情けないぐらい低レベル・・・サイキバ君レベルだなあ。。
542 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:48:37
卑弥呼=天照なら神武=崇神にすれば年代もほぼ合ってくるか
それならまだ倭迹迹日百襲姫の方が可能性あると思うな
・いかに古代人といえども90度も方角を間違えるのか?
・南に存在した狗奴国とはどこか?畿内を中心に西日本全体を支配する
邪馬台国が魏の支援を必要とするほど強力な国がどこに存在したのか?
・卑弥呼の時代、記紀には女王は存在しない
倭迹迹日百襲姫も倭姫も女王ではない
・邪馬台国の東に存在する倭種の国とはどこか?
伊勢湾や琵琶湖を海を渡ると表現したとするのは強引すぎる
・倭人伝にある邪馬台国の葬制との食い違い
畿内説は倭人伝も記紀もことごとく無視しないと成立しない説。
そこまで無視するならもはや邪馬台国の存在すら怪しくなるのでは?
>>539 >濠集落は畿内のみ→吉野ヶ里で破綻
はて?
「濠集落は畿内のみ」なんていつ誰が言ったのかな?
そんな話初めて聞いたがwww
ぜ ひ 詳 細 を 聞 か せ て く れ ! w
・・・正直に言おう
生まれて初めて聞いた話だw
もしそんな事を今の今まで知らなかったのなら、どえらい事なんで是非是非詳細を頼む!
まさかサイキバ君の得意技
一発ネタのピンポンダッシュの書き逃げじゃないんだろう?wwwww
さてさて
片や倭人伝の記述とはかなり食い違うものの
3世紀には実在したことが確認されつつあるクニ。
片や倭人伝に合せて組み立てられた理論上のクニ。
どちらを選択するかだなw
世間の趨勢は前者を採りつつあるのは間違いないが
この板じゃあ後者を採るのが主流とwww
546 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 06:01:45
邪馬台国は、倭人伝に書かれていることだから、倭人伝に沿って解釈する
のが筋であり、そのほかの方法で解釈するのは、いくら妥当な場所と
思っても、それは自分にとって都合の良い妥当性でしかない。
つまり、勝手に邪馬台国はこういうものだと決め付けて、ほら、だから
これが邪馬台国だと言われてもねえ。
547 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 06:45:38
>>408 >今は、ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られているというのが基本認識。
まるっきりの出鱈目だ
548 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:00:56
>>543 そのとおりだねえ。近畿説の言うのは、近畿には一番大きな古墳がある、我が国の
最大の権力者がいたと考えられる、よって邪馬台国があったところにふさわしい、
それだけだもんな。倭人伝が伝えるところとは、まったく合っていない。
>>546 >>546 だからさあ・・・
過去百年以上にわたって議論・研究が続いてきて
倭人伝の文章通りのクニなんて実在してそうに無いというのが結論なんだよw
でその当然の事に収束しつつあると言うのが今日の状況なわけよwww
この板じゃあ畿内説の学者による陰謀論が花盛りだがw
細かい事を言えば
じゃあ、邪馬台国では潜水漁法で蛤を獲るのか?って話で
事によったら生物学の常識をもひっくり返さねばならないwww
アムール川沿いに倭人が住んでいて日本と同じ校倉つくりの倉や村の入り口に
鳥居があるというから、邪馬台国とはアムール河からバイカル湖地方にあったと
する仮説を立ててみました。
帯方郡からの方向は南ではなく北ということになりますが、当時の中国では
方向の間違いは問題にならないし、距離の点では合致すると思います。
551 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:33:53
>>549 何をくだらん未練をたらたらと・・・
倭人伝の文章通りで何がまずいんだよ。近畿には合わないってだけじゃないか?
552 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/18(土) 07:43:27
>>538 >>神籠石とか今からすれば年代がどう考えてもあわないものが
不勉強で申し訳ありませんが、神籠石はどういう理由で何時ごろのものだと分かったのでしょうか?
教えてもらえませんか?
白村江の後というのは記紀からですが、よく読むと別の城であることが分かりますよね。
朝鮮半島のほうで、山城は3世紀に遡らないという説でも出たのでしょうか?
>>551 「我が説こそ倭人伝の文章通り」なんていってるのは
それこそゴマンとあるわけでそれだけじゃあ世間にも認知されたいと言うのが実情なんだな残念ながらw
それに古代中国史書における日本の地理情報のいい加減差は
隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」その他で実証済みだからなあw
(九州王朝説による解釈を除くw)
554 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:54:49
>>546 >邪馬台国は、倭人伝に書かれていることだから、倭人伝に沿って解釈する
>のが筋であり、そのほかの方法で解釈するのは、いくら妥当な場所と
>思っても、それは自分にとって都合の良い妥当性でしかない。
倭や邪馬台国について述べた史料は倭人伝(三国志)以外にもいろいろあるから
そうした史料も併せて考察するのが妥当だと思う。
555 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:06:00
>>549 >倭人伝の文章通りのクニなんて実在してそうに無いというのが結論なんだよw
発耳です。誰がそのようなことを言っているんですか?
556 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:08:31
倭人伝(三国志)に沿って解釈し、倭や邪馬台国について述べた他の史料も参考にするのが妥当でしょう。
557 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:19:15
>>553 何を言いたいのか意味不明の言葉だな。
隋書は大和朝廷とは別の倭国王朝があった証拠だろ。私は九州王朝説では
ないが、そう読むよ。推古天皇とは合わないからね。
558 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:28:03
郡から狗邪韓国まで七千里という時点で里数が破綻していると思うのだが
>そこまで無視するならもはや邪馬台国の存在すら怪しくなるのでは?
まあはっきり言えばそれでも問題ないと思うw
以下あくまで私見だが・・・
畿内説というのは
「邪馬台国なんてクニは無かった、あったのは邪馬台国と呼ばれたそのモデルになったクニ」
と言う事ではないのかな?
これは今日
「聖徳太子はいなかった
モデルになったう厩戸王子はいたが
数々の超人的逸話を持つ聖徳太子その人はいなかった」
…と言うのに近い物があるのではないかと思うw
今後恐らく九州説はよほどの考古学的発見がないかぎり廃れていく一方だろう。
が、その事は邪馬台国論争そのものが終焉していくに他ならない。
なにせ”邪馬台国”は無かったのだからwww
560 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:46:08
「其山有丹」
丹が大量に採れるのは中央構造線上の伊勢、紀伊半島、淡路島、四国、大分、八代
>>554 しかし現実問題、邪馬台国論争の特に位置論に関して
有益な情報をもたらす物ってそう多くないんじゃないのか?
つうかあるのか?
例えば「御覧」引倭人伝なんか魏略にも先行する史料を元に書かれたのではないか?
・・・と考えられた時期もあったに聞くが
結局、「魏志」倭人伝に梁代の知見を加味したに過ぎない物
簡単に言ってしまえば魏志倭人伝の改変コピペだったりするわけじゃん?wwwwwww
>>557 >隋書は大和朝廷とは別の倭国王朝があった証拠だろ。
>私は九州王朝説ではないが、そう読むよ。
>推古天皇とは合わないからね。
ちなみにお前さんはいつもの日向説かね?
それって最早九州王朝説とも思うのだがw
結局のところ
「古代中国史書の日本の地理情報の正確さを担保する」
=「魏志倭人伝の行程記事の方角のアドバンテージを担保する」
…為には九州王朝説かあるいはそれに準ずるものにならざるを得ないということだなw
まあそれはそれで筋は通っているが正直もうついていけない世界だなwww
>>552 > 不勉強で申し訳ありませんが、神籠石はどういう理由で何時ごろのものだと分かったのでしょうか?
> 教えてもらえませんか?
> 白村江の後というのは記紀からですが、よく読むと別の城であることが分かりますよね。
> 朝鮮半島のほうで、山城は3世紀に遡らないという説でも出たのでしょうか?
「神籠石」に正式な定義というものは行われてはいませんが、大部分の業界人が使う用法としては、
○山間部に築かれた「朝鮮式山城」風の組合せ式列石
○記紀等にその建造記録が残されていないもの
の二つの条件を満たすものかと思います。
ただし、軍事用施設とは認めがたいものも含めて言う場合もあり、
軍事的正確が顕かな場合は「神籠石式山城遺構」と呼ぶ場合もあります。
多くの場合、組み石技法が7世紀以降の石造物と類似していたり、
「唐尺」を用いて設計されているように見えること等から、
白村江以前に遡るものでは無いと考えられています。
ちなみに「神籠石」と言うコトバ自体は、久留米市の高良山にある列石遺構が、
古くから「こうごいし」と呼ばれていたことに由来します。
564 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:15:16
>それって最早九州王朝説とも思うのだがw
古田あたりのケチな話と一緒にしないでくれ。
>>564 どこがどう違うのやら・・・
ちなみに隋使がたどり着いた邪靡堆は何処なのかな?
当然そのコースは倭人伝の魏使のそれと同じ物であって
ついた先はかつて邪馬台国のあった場所なんだろう?
随分永く栄えていたんだなw
>>565 >>557の「大和朝廷」を「記紀の記載」と言う意味で捉えれば、別におかしな話でもないよ。
きっと「別の倭国王朝」と言うのが、後の「朝廷」のことなんだろう。
まさか、裴世清は数ヶ月間も阿蘇山の周りをウロついてから倭の都に着きましたとかは読んでないよ。
>>544 >「濠集落は畿内のみ」なんていつ誰が言ったのかな?
九州説と畿内説の論争で、畿内説の全員が、「環濠集落は九州にはなく畿内だけ」といってたな。
畿内説論者に、例外はなかったぞ。
568 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:59:21
吉野ヶ里が知られる前ね。>568
570 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:11:36
>>567 きちんとソースを出してくれ。
そもそも日本中で環濠集落なんていくつ発見さえているんだ?・・・て話で
例えば有名な朝日遺跡は吉野ヶ里より先70年代には発掘が始まってるんだが?
571 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:29:03
>>569 吉野ヶ里以前なら当然ネット上の与太話じゃあないなw
学者同士の討論かそこそこの見識を持ったマニア同士の討論か・・・
何れにせよソース・詳細を出してくれ。
>>567 > 九州説と畿内説の論争で、畿内説の全員が、「環濠集落は九州にはなく畿内だけ」といってたな。
何だ、それは。キミの脳内で行われた「論争」なんてソースにならんよ。
比恵遺跡の環濠なんて昭和初期から知られていることだゾw
近代考古では、これが初の確認例だ。
九州には、吉野ヶ里以前にも板付とか有田とか吉武とかが発掘済み。
無知にもほどがある。
>>567には「カンゴウ」君という称号を贈ろう。
サイキバ君と並び立つ九州説の巨頭誕生だw
574 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:50:02
>>567 俺は信じてるぞ!
引き続きソース・詳細を待つw
いや、もしその話が本当だったら俺ショックで
もうこの板書き込むの止めるかもしんないwwwww
>>573 同一人物説に一票w
高地性住居の分布の移り変わりを見れば倭大乱が
どのように収束していったのかわかる。
そこで発掘された土師器などの出土物から
神武東遷の編年が可能であり、2世紀末には畿内に
達していたことはほぼ間違いない。
その過程で、神武の抵抗勢力であった吉備が味方し、
むしろ尖兵として働いてい他のではないかと思われる。
576 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:20:12
>>575 >土師器
おまい、土師器の定義を述べてみ
577 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:20:58
>>575 はいはい。
じゃあ土器から『神武東遷の編年』とやらをやってみてくれ。
九州を出て大和へと東に移動して行った足跡が分かるんだろ?
>>567の脳内ソースの素はこれかな?
黒岩重吾の「古代史を読み直す」の一節
WEB公開済みの書物なので著作権とか関係なさそうなので原文のまま出すよ。
「昭和62年(1987)に発表されて新聞各紙をにぎわした佐賀県の吉野ヶ里遺跡というのは、
日本一の環濠集落です。環濠集落というのは、唐古遺跡のときに少し述べましたけれども、
濠、つまり溝によって家などが囲まれている集落です。
これまで九州には大きな環濠集落はないといわれていたけれども、
それが突然、日本一の巨大な環濠集落が出たので驚愕したんですね。」
彼は下から二行目の「九州には”大きな”環濠集落はないといわれて」と言う部分の
”大きな”を読み落としているんじゃないかな?
紀の仏教伝来ネタの時にも感じたんだが、彼にはそう言う読文上の性癖があると思う。
>>575 > 神武東遷の編年が可能であり
東遷の編年ってルートの順番ってことか?
そんなもんなら日本書紀に書いてあるんだからそれでいいじゃん。
何か違う順番を思いついたんならもそっと詳しく書けや。
580 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:51:02
神武東征は1〜2世紀なのは、考古学から裏づけされてる。
なのに、4世紀だと言い張ってるのが東遷説。
581 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:52:44
>>578 う〜ん、それでも「環濠集落は畿内のみ」に至るには
数度の脳内変換を経ねばならないんジャマイカ?
あと
>>567を読む限り複数の論者の論争だし・・・
もうわけ分からないっす!wwwwww
582 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:53:53
583 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:55:46
畿内に大きな環濠集落というのは、唐古・鍵だろう。
最近、影が薄いな。
もてあそばれて、見捨てられたのか。
>>583 発掘が進まないので忘れ去れました・・・
585 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 14:06:42
唐古・鍵は一生懸命掘ったらしいけどね。
出てきたのは、絵の描かれた土器くらいかな。
一時は、畿内の希望の星だった。いまや、その座は纏向へ。
>>585 工房跡とかそれなりに出ているが、遺跡上に現存集落があるため、これ以上発掘できないのだ。
発掘保存状況から言えば一番恵まれているのが吉野ヶ里なのかな?
邪馬台国サマサマだなw
「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」
なんてコピーがあったが待てど暮らせどいっこうに見えてこず
主役がいつまで経っても舞台に登場しないもんだから
最近じゃあその前座を主役にしちゃおうとする動きがあるみたいだがw
588 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 14:19:18
四角形の住居跡が邪馬台国の遺跡で、円形の住居跡は邪馬台国の遺跡ではない。
589 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 14:28:45
>>587 それを言うなら、「吉野ヶ里の望樓に登ると邪馬台国が見える」だったろう。
高島忠平さんは、もともとは邪馬台国八女説だったと思うが。
591 :
九州王朝大好き:2009/04/18(土) 15:07:02
吉野ヶ里の望樓に登ったが邪馬台国は見えなかった。
そのの日は春霞だった。
592 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:10:15
神武東征は1世紀なんだから、
畿内に大和王権、九州に邪馬台国があったってことだろ。
なにか、文句あるのか?
593 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 15:10:28
>>532 徐福の子孫だということがどういう根拠で言えるんだ? 云えないと、妄想を
ストレートにオマエの頭に入れるのが単純なオマエの眼と耳ということだ。w
園の日とは、心豊かな環濠の祭り。グエグエ。
徐福は古文献に出ている。2倍年暦は脳内にしか存在しない。グエグエ。
596 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:14:16
そろそろ認めてはいかがですか?
NHKスペシャルで報じていました。
邪馬台国(ヤノミヤ)は奥アマゾンにあった。
帯方郡からの日数も、古代の浮船(高速艇)
を使えば一致する。巨大な集合住宅、夫も無く子を
精霊のまま森に返した少女卑弥呼。
これですべての謎が解けた。
597 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 15:15:21
な〜んだ、云えないわけか〜。wwwwwwwwwww
だろうな。オマエのお脳が即興で考えた〜いい加減で出鱈目な論述なわけだ。ww
>片や倭人伝の記述とはかなり食い違うものの
>3世紀には実在したことが確認されつつあるクニ。
邪馬台国とは別に存在した大和朝廷
>片や倭人伝に合せて組み立てられた理論上のクニ。
大和朝廷とは別に存在した邪馬台国
これで納得
おおのくに!!また規制くらうぞwww 俺はお前が45度がなんたらとかいって、倭人の
太陽観察の制度を賞賛するのは、そのまま古代太陽暦の肯定にもつながり、陰暦2倍暦
の否定になりかねないって、忠告してるんだがwww。グエグエ。
あと「太陽が黄色い」はカミュの「異邦人」だろ。教養ないな。かえるだって知ってる。グエグエ。
制度→精度
畿内説に従えば邪馬台国が存在したということ以外は
全てデタラメということらしい
それなら邪馬台国自体も中国人の妄想だったってことでいいだろ
畿内から発掘される遺跡は全て大和朝廷のもの
デタラメであるはずの魏志倭人伝を根拠にして
無理矢理邪馬台国と結びつけるな
602 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:29:04
>>580 神武東征は2世紀くらいだろうな
すでに邪馬台国東遷説は破綻している
東遷説は畿内説と同じく邪馬台国=大和朝廷という間違った前提で
考えてるから破綻してしまうんだろう
邪馬台国は大和朝廷ではないと考えるのが自然だよ
603 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 15:38:10
>かえる
オマエは唐土(toad)の人間か〜? すると中国人のようだな?
そのうち唐土にカエルのか〜〜??ww
神武が徐福だと妄想してるわけだな?wwwww
604 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:41:19
>>580 東征は一度ではないのだよ、
1〜2世紀、4〜5世紀ど何度もあったんだよ。
いやいやwww。大和朝廷 徐福起源説と太陰2倍年暦は、どちらも同じくらいのトンデモ
なんだが、どっちかといえば前者のがまだ可能性高い。グエグエ。
606 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:44:00
4世紀のは応神天皇だろ
邪馬台国とは関係あるまい
応神武天皇
608 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:54:47
「神」の付く天皇は三人。神武天皇、崇神天皇、応神天皇。
そのほか神功皇后もいるが。
崇神天皇以外は九州に関係があるな。
古代ローマの最古の暦は太陽暦だし、中国古代殷周の観象授時暦も、太陽暦に生物季節を
加えたようなもの(+星辰)。農耕においてまず大切なのは種蒔き、収穫の時期。二至二分の
太陽暦で十分、太陰で日を知る必要はないんだよ。グエグエ。
610 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:58:16
611 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 16:01:10
卑弥呼が死んだくらいで争いが起こる国なのだから
台与が死んだら再び争いが起きたであろうことは想像に難くない
266年を最後に朝貢が行われていないことから考えても
台与の死後邪馬台国は瓦解したか攻め滅ぼされたんじゃないかな
そして4世紀前半の景行天皇の九州征伐で
弱体化した邪馬台国もしくは邪馬台国を滅ぼした国も滅ぼされた
612 :
九州王朝大好き:2009/04/18(土) 16:15:40
>>611 景行紀の九州行幸は、旧狗奴國勢力の九州統一(九州東岸)遠征話を転載したもの。
肥と筑紫の記事は国内旅行(行幸)になっている。
>>612 景行天皇は誰の子? 何処に景行天皇の宮があった? 御陵は何処?
614 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 16:34:32
景行天皇は、日向に高屋宮を建て、6年かけて熊襲征伐を行ったが、
それでも、熊襲は滅びず、ヤマトタケルノミコト、仲哀天皇などがさらに
征伐を行っている。
これほど南九州に手こずりながら、そのほかの九州とはほとんど目立った
戦いはない。
6世紀初めの磐井の乱は、恐らく初めての大和朝廷との大きな戦乱だと思うが、
これは総力戦みたいなところがあった。
このように見てみると、やはり邪馬台国以後、磐井の乱までに熊襲以外の
九州と争ったほかの地域の勢力はなかったと見るべきではないかな。
615 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 16:51:08
内紛で統一を保てなくなっていた邪馬台国は
戦わずに大和朝廷に服属したのかもな
616 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 18:27:07
>>599 >>605 >>609 唐土
そんな権威のような名前を金魚のうんこみたくつけるくらい、オマエは度胸が
ないようだな。ww じゃぁ以下はどうなんだ?
【紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
このように当時の日数は1日〜14日の2週間しかな〜い。これは当時1ヶ月が
2週間の半月位しかなかったからだ。つまり当時の1年は2倍暦法を行使して
いた時期があったのである。このように2倍暦の文証はハッキリしている。
15日以降は全部0の無だ。
研究所の人間なら、上っ面の抽象的説明で誤魔化さずキチンと合理的具体的に
反論してみろ。今度は徐福とかの1行言葉で逃げるなよ。
617 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:01:34
>>616 ある一家の記録に、
某年3月 A男大学卒業
4月 就職
某年3月 B助 大学卒業
4月 就職
某年6月 C子 結婚
某年3月 父親 定年退職
某年5月 祖母 死去
とあったとする。
この記録は、この国で一年が6ヶ月しかない倍歴をやってた証拠になるのか?
卒業就職結婚、は社会的慣習で春にやることになっている。
だから、立太子・即位・立后の日付は、倍歴の証拠にはならない。
死去だけは社会的慣習では決められない。
しかし、秦の始皇帝や武田信玄の例を見ても解るように、
為政者の死去の日付は恣意的に発表されうる。
さらに、無数の人が死んでいるのに、たった数人の死去の日付だけで証拠として事足れりとは出来ない。
>卒業就職結婚、は社会的慣習で春にやることになっている。
ここ、間違った。
卒業就職は、社会的慣習で春やることになっている。
結婚もジューンブライドなんていって、6月が流行った事がある。
619 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:26:46
>>616 おまえの言うように、ひと月が15日しかないなら、
365日で1月〜12月が2回繰り返すことになる。
つまり、1月が冬の場合と、1月が夏の場合があるはずだ。
しかし、1月が夏だというトンチンカンな記述は記紀にはないのである。
620 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:35:13
2倍暦に関しては根拠が乏しいように思う
しかし外国の記録や考古学と刷り合わせると
おおよそ2倍程度寿命などを延ばしたのは間違いないのでは
>>616 これ実は、おおのくに とは2つくらい前のスレで同じことやってんのよねww。で、たしか暦の
考古学とか、マヤ文明とか持ち出して俺が圧勝しようってときに、「美濃もん太」が乱入してき
て収拾つかなくなったん、覚えてないの??
それにこれ、美濃もん太の1年24ヶ月説でも証明できてしまうんだよねwww。ケロロロ。
622 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 19:59:25
>>617 それじゃぁ仁徳以前の天皇の超長寿の説明がなってない。片手落ちの抗弁だな。
そんなオマエの抗弁だと仁徳前の天皇の百数十歳が連続で続く不合理は
説明できな〜い。それを説明できなけりゃぁ、こちらの言い分のが正解だ。
およそ8回も死亡日時を10日までに押しこねばならない特段、利害大なる動機
があったとはとうてい思えな〜い。それは1、2回はオマエの言う言い逃れの
死亡日変更の可能性はあったとしても、残り6回も全部恣意的の動機がな〜い。
そういうことは動機も言わなきゃぁ〜ねぇ。な〜ぜ8回も死亡日を変えねば
ならぬ事由があるのか? それがなきゃぁ、あんたの言うようにだ、死亡日は
自殺他殺とか以外変更できないんだから〜そういう偽装日とした因は何なのか?
あんたの言うことじゃぁせいぜい日では誤差が30日以内だろうが?これでは
1歳も歳のズレはありえない。だからたとえば150歳とあればこっそり死亡日変更
をしたとしても、やはり歳は149〜151歳内に留まる。つまり天皇の超長寿の
説明が出来ていない。これがオマエの片手落ちなところなんだよ。
そういう表のことは確かにあろう。言われなくともそんなことは考えている。
当時、月前半が積極的活動をしていて、月後半は信仰的に忌み日だったから
その間じっとしていたため紀記述が少ないようなのだ。しかしこれが全部では
ない。全部ではないが、オマエの言う状況は紀に一部分あることはある。
オマエの抗弁でその天皇の超長寿を説明してみろ。
623 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:05:31
>>619 開化の時代は2倍暦をやってたんだよ。天皇は11月即位だ。なのになんで暑い
太陽が2個も並ぶ大日日尊としたのか? 11月即位でなぜ春日宮の宮号を
つけたのか? ならば春とか夏の即位すればよかったではないか?w こんな
11月に、本来ならば即位することはなかろう?
孝安天皇は1月即位なんだよ。言わずと知れた冬即位だ。なのになぜ宮名が
秋津島宮にしたのか? ならば秋に即位すればよかろうがねぇ〜?ww
オマエ、記紀を本当は全部読んでないな?
>>623 関係ない話で誤魔化そうとしてるね。
何で季節が逆の月が一つも無いの?
やっぱ倍暦なんて太国のデタラメの妄想なの?
625 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:10:18
>>621 証明はできていな〜い。紀に22月とか23月とかの記述はな〜い。だから24月制で
当時やってたというのはもん太の即興の抗弁であって、検証もなく妄想だ。
それをなんの用心もなくオマエの脳内に許容するオマエの脳は、出鱈目の歓迎脳
だということになる。w
626 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:10:46
太国さんって30歳くらいでしょ?
627 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:12:24
>>624 関係はある。これは記紀にあるんだから当然関係があ〜る。
そういう言い分はオマエが答えられないことを遠回しに表明したも同然だ。ww
628 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:13:32
季節が逆の月だと。もっと具体的に言え。突かれるから上っ面で終りか。ww
まあ、あのときは旗色が悪くなってくると、「朝廷内の秘事」とかトンデモの常套句を持ち出して
ねばってたよねw。いずれ616は、プロの書いた本にも解決策が出てるし、初心者だましだよ。
単に初期天皇の年代を引き伸ばす時に朔望が混乱しただけなんだろ。
それより、俺があんとき持ち出した、
・欽明14年(553?)に百済から暦博士を勧請していること。実際に律令として暦博士の制度
が整ったのは8世紀。・・・それだけ日本人が暦法を習得するのに時間がかかったとみている。
・考古学的には、日本最古の暦として出土しているのは、持統3年(689)3月4月の木簡。
もちろん中国の元嘉暦。それ以前の・・・例えば結びひも や粘土板に刻み目を入れたような
素朴なものさえ出土はない。
・和算の歴史から・・・万葉集には九九を扱った歌があり、平安時代には算木による計算法が
発達している。また大規模古墳造営にはある程度の幾何学は必要だろうが、それでも中国
の数学史とは比べものにならない。古代日本人に複雑な天文計算ができたか?
これらの疑問にひとつも答えなかったじゃないかww。ケロロケロッグ。
>>628 >季節が逆の月だと。
つまりこういうことね
↓
1 春 *1 秋
2 春 *2 秋
3 春 *3 秋
4 春 *4 秋
5 春 *5 秋
6 春 *6 秋
7 夏 *7 冬
8 夏 *8 冬
9 夏 *9 冬
10 夏 *10 冬
11 夏 *11 冬
12 夏 *12 冬
「*」のつく月は1年の後半、二順目の月です。
1月でも春と秋がある。
12月でも夏と冬がある。
自説を
「月の前半に集中するのはおかしい」
と確率をもって言っているのに
確率をもって反論されたら誤魔化して逃げるの???
631 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:26:19
>>624 季節が逆の月が紀になければおかしいと言いたいわけか〜。
何のことか分かった。紀の各月の前にある春とか夏とかの語は、紀の
編者らが天皇に見せるために一定の官僚式の文で書いたから、殆ど
の月の前にこういう季節の語を入れているんだ。だから大半が連中の
後付けであり、紀の原書群は春とか夏の季語がないのがうんと
あったはずだ。事例として、まず例のホツマ伝もほぼ全部は季語が
ついてはいないはずだ。唐松山氏を突いてみるといい。w
632 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:30:07
>>629 オマエ研究所員のそぶりをしてるが、そんな齧ったくらいの
ゴマ化し説明では見破られるねぇ〜。ヘヘッ wwwwwwwwww
Pu! そんなんで倍暦否定の論にはなっちゃいない。
633 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:36:27
>>630 オマエ、そこまで言うなら早く仁徳以前の天皇がなぜ大半が
百数十歳の長寿の連続なのか、そんな焦点をはぐらかした質問を
してゴマ化さないで、これをうすとぼけないで説明してみろ。
出来ないんだろうねぇ?ww だろうなぁ〜〜?www
ホツマがでたらめなんは、他スレで俺の分身が証明してたよ。dat落ちしたけど。
629に出てるのは、みんなまともな資料から取ったホントの話。
だいたい古代農耕なら、太陽暦からくる二至二分で十分なんだよ。民俗学的にも土用、八
十八夜、入梅、二百十日などの雑節は、いまだ庶民の生活に色濃く残ってるが、2倍年暦
の痕跡が何か残ってるかね?まさか中秋の名月とかいうんじゃないだろな〜www。ケロロ。
635 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:40:39
>>629 オマエの書きこみを見てれば、あ〜こいつは以前余と倍暦で言い合い
をやってた野郎だな位は察しがつく。ww
そんな反論の続編をやるなら、当然仁徳前の天皇の超長寿のオマエが
これだと確信を持って言えるブツを出さにゃぁサマになるまいが?w
ないのか〜? 説明出来ないようだな。wwwwwwwwww
>>631 だめだよお馬鹿さんもうちょっと頭使わないとw
じゃあ原書に季節が書いてなかったとしたら
原書に単に12月と書かれていたら読んだ人間には
夏か冬か分からないじゃん!
倍暦使っていた人間はどうやって判断したんだよ?w
あんた阿呆ですか?w
>>633 記紀の皇統譜がデタラメだったからで無問題。
極めて合理的な解釈。
およそ実用性の無い倍暦などと言う事を考えるよりはね
実際に相当する人物がいて「順序」はあっているのかもしれないけどねw
638 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:47:37
>>634 痕跡は表を出したろうが。だからオマエの言う恣意的死亡日変更
が8回もするわけがなかるが。動機がなくてそんなことを反論
したって、暖簾に腕押しだ。表のとおり当時一ヶ月は2週間だっ
たのさ。つまり1ヶ月が当時は1日〜14日までだよ。15日以降の日
がなかったんだよ。同様に1900年代で2月は30日という日の記録は
グレゴリオ暦ではないんだよ。そうだろう。当時の世紀は2月は
30日がなかったからさ。30日の出来事をだオマエのいうように恣意的
に他の日に変えなんではな〜い。2/30の日がなかったということさ。
639 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:51:20
>>636 少し口を気をつけろ。
だから紀の編者らは倍暦に気付かずにいたわけだ。倍暦使用当時は
季節がなくてもわかってたろうが。午後1時でも13時でも、現代人
は判別できるだろう。オマエは判別ができないのか?wwwww
>太国 ◆yVAs7uaYlY
逃げないで答えてねお馬鹿さん。
1年を24ヶ月とするのなら
1月から24月と言う表記にするのならともかく
1月から12月を2回使う場合、1年に2回出る月を区別する必要がある。
季節を記していないのならどうやって区別したの?
>>639 もう少しまともに頭使ってねw
単に文章に「1時」としか書いてなかったら午前1時か午後1時か分からないよ?
>>638 しかし味方が一人もいないのは、これまでの所業を物語ってるね〜。
記紀は好きで読んでるが、すべて真実が書かれているという学問態度ではない(カッチョイー)。
だから、太陰暦は月の朔望から、1〜30とかの日をわり出すのに必要なもんであって、
弥生時代の農耕にはほとんどかかわりのないものなんだよ。どうして日付が必要なんか
まず自説を整えてから話をしてほしいね。ケロピケロロピ。
>>639 >午後1時でも13時でも
気でも狂ったか太国w
”午後”と前にあれば誰でも区別つく判別できない人間なんているのか?
13時と言う24時制の表記なら誰でも区別つく判別できない人間なんているのか?
何を言ってるんだお前?www
だいたい、日本人に天体運行のイメージ化が苦手な人が多いのは、学校の理科の本の
終わりのほうに載ってるwwこともあるが、素朴な太陽暦から、太陰暦を自分たちで作り出す
前に、大陸から暦法を導入したからだと思うが。
俺は、「記紀」のその部分は事実とみなしてないって答えをいったぞ。629や634、641
の俺の疑問にもひとつでも答えたらどうだ??ケーロケケケ。
644 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:18:31
>>631 季節が捏造なら、日付も捏造を疑うべきだろ。
月の前半に日付が集中するのは、あとから創作したからだよ。
月後半の日付が少ないのは、つけたし出来るように開けてあるだけだ。
寂滅したか・・・。ケロ。
646 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:19:39
つけたしっていつ誰がつけたしするんだよw
そんなアホな
>>639 太国
オレが1時に風呂に入ったと書いたら、君は、それが昼の1時か夜の1時か解るのか。
648 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:28:16
165 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY 投稿日:2009/04/18(土) 20:58:57
>かえる
とうとうどんとこい〜あっちは規制をかけられた。しようがない、またな!
ひろゆきのやり方か? 猿はひどい言い方だ。こっちは真面目にやってるのに・・・
649 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:00:10
畿内説の欺瞞を指摘されたら太国叩きで話をそらしたね。
これだから畿内説は・・・。
神武や欠史8代のころの天皇は、実際に長生きでした。
倍暦など駆使しなくても編年に困ることはありません。
651 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:46:03
神武天皇とか欠史八代の天皇など存在しない。磯城県主葉江の子孫が天皇家だ。
畿内でまっとうな天皇と呼べるのは、天武以降でしょ。
それ以前は実際の天皇とはいえない。
653 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:40:45
あれ?邪馬台国って遺跡がこの間発見されたから、畿内説で決定だったんじゃなかったっけ?
以前は大王と表記されていた。
金石文がある。
>>653 あの遺跡が邪馬台国と決まったわけではない
崇神以降三代の皇居が纏向遺跡周辺にあると書いてある
日本書紀の記述の正しさが証明されただけ
年代的にもピッタリだしね
656 :
◆.L.MXSPOgc :2009/04/19(日) 04:46:23
>>563 >多くの場合、組み石技法が7世紀以降の石造物と類似していたり、
>「唐尺」を用いて設計されているように見えること等から、
>白村江以前に遡るものでは無いと考えられています。
少しググって見ただけなのですが、
「南朝の小尺(二四・五cm)でほぼ十二尺であり、唐尺として時代を特定するのは、少し無理がある。」
「八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。」
など、反論もあるようです。
私のいる近くのものも、その辺りが栄えていたのが古墳が作られた年代から5C前半あたりまでで、
5C後半には(おそらく海退の影響で)廃れていったように思われます。
とすると大規模に見える神籠石の山城も、それ以前に作られたのだろうと考えるほうが納得できるのですけどね。
神籠石に関しては、マイナーで研究者が少ないってのもよく分からない一因であるようですね。
657 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 06:50:09
658 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 10:54:32
祟神が2世紀後半の人だというのは、既に定説です。
ただし、稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年が471年か、531年かによって獲加多支鹵大王=雄略
から遡った祟神の年代に大きく影響するわけで、同時に発掘された土器その他の資料に基づいて
正しく編年を行うことが邪馬台国の謎を解く大きな鍵となっているのです。
659 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 11:00:25
獲加多支鹵大王の鉄剣が関東で見つかってるんだから、
九州王朝は無いわ。
とっくに破綻した説にしがみついてる太国は本当にバカだなあ。
2世紀後半じゃ昔すぎないか
661 :
サガミハラハラ:2009/04/19(日) 11:13:23
崇神天皇は、復元された日本書紀紀年法によれば、西暦271年春年後年即位で同288年春年後年崩年となります。
3世紀後半の人となります。
纏向の集落は朝廷への生活必需品等を支給するための人々が居住していたとかんがえられますので、その形成年代も270年代
としてかんがえるのが適当かと思われます。
662 :
九州王朝大好き:2009/04/19(日) 11:21:00
>>658 榛名山噴火時に火山灰に埋もれた木のC14測定結果に対して、その火山研究者の研究論文外の記述を読むと、
辛亥年が471年である可能性が高い。
しかし、その火山噴火の研究者は、その研究論文では古代史の定説に従い、辛亥年が531年であるとしているが、
その内容に疑問を呈している。
C14測定値からは辛亥年が471年であると言外に書いている。
664 :
サガミハラハラ:2009/04/19(日) 13:03:48
雄略天皇は、復元された
日本書紀紀年法によれば、西暦461年秋年T類の即位で、同478年秋年T類(日本書紀によれば479年)崩年となります。
よってこの辛亥年は471年が該当すると思います。
665 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 13:26:55
2世紀の末 急に巻向から地方の土器が出土する。
此に対応する記事を書紀からさがせば 崇神11年「異族多帰」になる。
666 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 14:19:18
>>665 そこまで認めてるなら、
九州説がスケールの小さい話だってわかりそうなものを。
667 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 16:10:50
668 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:25:09
>>658 >祟神が2世紀後半の人だというのは、既に定説です。
崇神が実在の人物か否かすら問題があるのでは? となれば、2世紀後半の人物
というのが定説などとはとても言えませんよ。
>>408 >今は、ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られているというのが基本認識。
>>503 >そんな基本認識はないと思うんだが。
>具体的に聞くが、長崎県、熊本県、島根県、鳥取県、高知県、和歌山県、滋賀県、岐阜県、愛知県で
>それぞれ最も古い古墳を挙げてみてくれないか。
>そいつらは奈良県の纏向古墳群とほぼ同時期か?同じ設計か?
>答えられなかったら408が間違っているわけだが。
>>408は
>>503の問いに答えろ!
670 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:10:05
>>668 それを言うなら、邪馬台国や卑弥呼の実在も疑ってくださいね。
かなり詳細な鴻臚の記録からの引用と見られる詔勅の中に名前があるからね。
実在を疑う必要はないんじゃない。
ヒメミコという一般的な名詞を個人名と勘違いしたとかはあるかもしれないけど。
672 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:20:24
邪馬台国はどこに? 来月17日 宇佐神宮で論争大会
2009年4月16日(木)10:30
大分県宇佐市のパロディー国家「新邪馬台国」は15日、
同市の宇佐神宮で5月17日に開く「第5回全日本邪馬台国論争大会‐アマチュア研究家大集合」の5人の論者を発表した。
それぞれ「宇佐説」や「日田‐吉野ケ里説」など邪馬台国の場所について持論を展開した後、来場者も一緒になって議論する。
同大会は約20年ぶりに復興した新邪馬台国の第一弾イベント。論者5人は、全国の17人の応募者から提出論文のユニークさを基準に選んだ。
鹿児島市の主婦高橋ちえこさん(64)は、邪馬台国を「ヤマダ国」と呼び、宇佐市に小山田神社があることから宇佐説を唱える。
ほかに「魏志倭人伝の倭国(わこく)は北部九州を指す」とする日田‐吉野ケ里説や、中津説、朝倉説、
山陰説を主張する5、60代の考古学ファンが東京などからも集まる。
大会は午前10時から。参加希望者は事前申し込みが必要(5月10日まで)。
参加費2000円(古代米を使った弁当付き)。同市観光協会=0978(37)0202。
=2009/04/16付 西日本新聞朝刊=
--------------------------------------------
↑すごくレベルが低そうでしかも参加費2000円というあたりが観光ビジネスになりさがってる九州説の現状。
>>672 いやいやいや、歴史を象牙の塔の住人の物だけとせず
広く一般市民の参加できるものにするという意味で良いことだと思うよw
相対する二つの学説が長きに渡って対立している・・・なんてのは
他の学問のジャンルでもあるダルけど邪馬台国論争の特異なところは
一般のマニアまで巻き込んでいるところじゃないのかな?
(まあ火をつけたのは松本清張だろうけど・・・
流石に今はもう昔日の盛り上がりは見る影もないんだろうがwww)
ただ老婆心ながら心配なのは九州説の場合あまり邪馬台国で引っ張っておくと
もし畿内説でほぼ決着を見た場合その反動がねえ・・・www
(畿内説の場合、邪馬台国でなかったとしても大和の歴史と言う観点で注目はされるんだろうが)
吉野ヶ里だって邪馬台国に関係なくてもその価値には何ら変わりはないんだしw
674 :
♪S・A・G・A 佐賀〜:2009/04/19(日) 21:37:51
そう言えば
>>590の「邪馬台国を考える会」の設立趣意書に・・・
>会の活動によって「佐賀の元気」を全国に発信します
ってのがあるがw
「SAGA」vs「NARA」なわけだwww
675 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:52:39
>>669 古墳の年代は難しいんじゃないかな。
地域が異なれば土器も異なる。だから、異なる土地間の年代合わせも難しい。
前方後円墳は、畿内で発生し、全国に広がったという前提があるらしいが、
これはどんなものなのだろうか。
676 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:12:58
>>651 今だに おめでたい日本人いるんだあ。2000年不変の神道みないとね
神武認めない外人に、古代三輪山近くの皇女の話は解明できんよー
2000年後アメ車や遺跡ディズ二ーランド見て、千葉はアメリカ国と
言いそうだあ。2000年後の神道は今と変化ない不変。
677 :
サガミハラハラ:2009/04/19(日) 23:40:04
>>673畿内節で決着うを見た時その反動がって、心配無用です。邪馬台国は北部九州で決着です。
678 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:47:19
>>677 北部九州ねえ。
こっちには、九州説を粉砕する隠し玉があるんだけど、
アマチュアの夢を壊すのも野暮だから言わないでおく。
せいぜい幸せな人生をまっとうしてくれ。
679 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:54:20
680 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:24:22
何もない者同士がやりあってるねえ。
681 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:26:27
2ちゃんで決着するような論拠が出たら笑うわ
>こっちには、九州説を粉砕する隠し玉があるんだけど、
空砲しか見たことないけど
683 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 01:13:07
>>678 九州説の人間は何を言われても大丈夫です。
その隠し玉とやらを出して、九州説を粉砕してください。
お願いします
684 :
けんた:2009/04/20(月) 02:23:58
邪馬台国吉備説はどうでしょうか。
吉備はクナ国です
686 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 11:16:56
まだ
>>659みたいなこと言ってる人がいるんだ!驚きだね。
688 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:12:37
689 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:58:48
■吉野ケ里説を草の根運動に 「邪馬台国を考える会」設立
神埼市郡の吉野ケ里遺跡が邪馬台国であったことを歴史的、考古学的に検証する「邪馬台国を考える会」の設立総会が19日、佐賀市のグランデはがくれで開かれた。
同会役員らが今後の研究を「草の根」の運動に発展させようと、参加した市民に協力と参集を呼び掛けた。
1989年の「吉野ケ里ブーム」から20年を機に、邪馬台国論争において吉野ケ里説を、よりアピールしようと研究者らが中心となって発足。
筑紫古代文化研究会を主宰し、熱心に吉野ケ里説を唱えてきた奥野正男氏=福岡県=を会長に、高島忠平佐賀女子短大学長を顧問に迎えた。
会では、石戸敏治副会長が、奥野会長のメッセージとして、畿内説などを訴える熱心なPR運動を紹介し、
「歴史をつくるのは普通の人々。歴史を学ぶことは、現在の生き方や進むべき道を知る手がかりにもなる」
と、市民への広がりに期待した。
松本茂幸神埼市長、江頭正則吉野ヶ里町長も
「日本史を学べるまちづくりに向け、吉野ヶ里説を盛り上げたい」
と決意を述べた。
今後は、5月23日に佐賀市駅前中央のiスクエアビルで開く研究会を皮切りに、講座を中心に、現地見学会などを予定している。
佐賀新聞 2009年04月19日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1238416.article.html
690 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 23:22:46
吉野ヶ里考古学研究所とか佐賀国立文化財研究所とかも作ればいいのにね。
>690
貧乏県だから金出せません
スポンサーいないのにそんなもの作れません
692 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 02:53:18
奈良県も貧乏県だと思うけど。
佐賀の遺跡調べようと思ったけど、佐賀県って埋蔵文化財センターもないんだね
694 :
九州王朝大好き:2009/04/21(火) 11:33:49
観光資源の少ない県
佐賀県・徳島県・埼玉県
佐賀=卑弥呼の秘宝が眠っているとされる候補地の一つ
埼玉=東国の大王の秘宝が眠っているとされる候補地の一つ
徳島=ソロモン王の秘宝が眠っているとされる候補地の一つ
あと一押しだな。
697 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 20:45:13
百体ミイラの剣山
698 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 20:54:23
23日発売
週刊 「世界百不思議」(講談社)で邪馬台国特集だとさ。
699 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:20:16
>>698ただし、九州説は置き去りだったりして・・十分ありうる
700 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:38:42
日本で最も文化不毛な地、関東。
毛の国の大王の時代がもうすぐ来ます。
702 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:17:26
ならば講談社の見解とみなしちゃうね。
埼玉から群馬、栃木にかけての地域も非常に魅力的ですね
このあたりを治めていた大王の伝説は文字として残ってはいないのでしょうけれども
704 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 02:43:16
705 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:39:15
■垣内遺跡:保存へ、淡路市教委が関係機関と調整 /兵庫
◇弥生時代後期の鉄器鍛冶工房跡──学術的価値高い、国の史跡指定を
淡路市教委は、弥生時代後期の国内最大級の鉄器鍛冶工房とみられる竪穴建物跡などが見つかった「垣内(かいと)遺跡」(同市黒谷)の保存に向け、関係機関と調整を始めた。
発掘調査報告書がまとまり次第、文部科学省へ国指定史跡を申請する。
ほ場整備に伴い、07年度から2年がかりで発掘調査を実施。竪穴建物跡が計23棟見つかり、炉のある工房跡11棟が確認された。工房跡からは鉄の鏃(やじり)や鉄片、中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品が70点以上出土した。
遺跡保存を巡っては、弥生時代の鉄製品の生産・流通を解明する上で重要なことから、考古学者や県教委、文化庁関係者は「学術的評価が高く、保存する価値がある」との立場。
地権者も保存に前向きなことから、08年度に発掘調査した7776平方メートルを含む遺跡を保存する方向で調整を始めた。
これに伴い、県洲本土地改良事務所は、ほ場整備工事区域(約27・7ヘクタール)から除外。市教委は、風化しないよう土を盛って埋め戻し、恒久的な保存方法を検討する。
出土遺物が多く調査報告書作成には1年以上かかる見込み。
淡路市教委の伊藤宏幸・社会教育課長補佐は
「来月にも遺跡の埋め戻し工事に着手し、国史跡の指定を受けて公園整備し、観光客誘致など地域活性化につなげたい」
と話している。
毎日新聞4月22日朝刊〔淡路版〕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090422-00000196-mailo-l28
706 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:54:05
九州説最後の牙城が崩れたか。
弥生の鍛冶遺跡なら、枚方の星が丘遺跡が以前から知られているじゃないか。
708 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:30:46
これは製鉄施設ではないようだし、九州にも畿内にもまだたくさんあるよ。
709 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:42:08
官営八幡製鉄のような高炉じゃないのだから
タタラ式の鞴はちょっとした国ならどこにでもあったのではないのか?
それより、原材料の褐鉄を集めるために広大な葦原が必要だった。
豊葦原中国こそ邪馬台国であった可能性が高い。
それは湿地帯の続く佐賀平野ではないだろうか?
畿内に遷都したのも奈良盆地の褐鉄が目当てだったのだ。
710 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:45:43
何がなにやら分からないうちに「観光客誘致など地域活性化」を言うところが
すごいな。そのうちに、「邪馬台国の工房」という看板が立つんだろう。
711 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:54:28
佐賀銘菓「邪馬台クッキー」
邪馬台国の住民が食べていたどんぐりや栃の実の粉で作ったクッキー
当時の製法を忠実に再現しました。(実は中国製)
>>711 邪馬台国の住民は皆中国へ移民したわけですね、分かるます。
>>711 皇帝の国からもたらされた菓子。
倭の民からすれば、超先進国の食物じゃん。
714 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 06:25:29
>>408 >今は、ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られているというのが基本認識。
>>503 >そんな基本認識はないと思うんだが。
>具体的に聞くが、長崎県、熊本県、島根県、鳥取県、高知県、和歌山県、滋賀県、岐阜県、愛知県で
>それぞれ最も古い古墳を挙げてみてくれないか。
>そいつらは奈良県の纏向古墳群とほぼ同時期か?同じ設計か?
>答えられなかったら408が間違っているわけだが。
>>408は
>>503の問いに答えろ!
>答えられなかったら408が間違っているわけだが。
間違ってるでいいみたいだよ
716 :
サガミハラハラ:2009/04/23(木) 07:31:06
>>408は定形型古墳のことだと思います。
まきむく型ははたして定形型に先行するものでしょうか?
古墳時代が定形型古墳の登場をもってはじまりとするならば、
>>408の図は、斜めではなく
垂直となります。
箸墓がヤマトトトヒモモソ媛の墓であるならば、それの築造年は273年秋年後年となります。
717 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 09:46:18
>>408はまちがってないだろう。
>箸墓がヤマトトトヒモモソ媛の墓であるならば、
これはないな。
718 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:10:16
>>717 >
>>408はまちがってないだろう。
では
>>717は
>>408に代わって
>>503の問いに答えろ!
>>503 >具体的に聞くが、長崎県、熊本県、島根県、鳥取県、高知県、和歌山県、滋賀県、岐阜県、愛知県で
>それぞれ最も古い古墳を挙げてみてくれないか。
>そいつらは奈良県の纏向古墳群とほぼ同時期か?同じ設計か?
719 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 11:50:38
ほぼ同時期としても、50年くらいの開きはあるだろう。
築造期間もあるし。
720 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 11:56:34
>>718 具体的に問題にしたいのならば、あなたが挙げてみたらいいだろう。
それを聞いた上で、同意できるものとできないものとを考えるよ。
721 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 12:19:17
722 :
九州王朝大好き:2009/04/23(木) 13:16:58
>>709 着眼はすばらしい。しかし。
土壌に鉄含有の火山噴出物が少なく、湿地として歴史の短い佐賀平野や奈良盆地では、
製鉄原料として足る量の褐鉄鉱の堆積はない。
鉄原料としての褐鉄鉱を佐賀平野と奈良盆地の湿地帯に求めることには無理がある。
鉄原料として足る褐鉄鉱の最大の供給元は阿蘇リモナイトだ。(阿蘇以外でも産出があるが)
九州では、製鉄原料としてだけでなく、貴人の遺体の消臭剤として、ベンガラ顔料として、リモナイトは使われていた。
723 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 19:13:34
724 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 19:57:03
まだ
論争してるの、すきだからいいけど。
でも税金で、大学生や教授が研究するには、大和か九州か他でもいい国民に
どのように税金が還元されるのか。邪馬台国どこでもいいじゃん。
邪馬台国で趣味でマスかく奴好きだけど、税金でマスかく奴いないよな。
725 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 20:19:32
726 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 20:46:07
やぱりキーワードは、褐鉄ではなくて丹(水銀)です。
となると、四国か丹波、ということになる。
727 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:07:45
丹は倭人伝に出てくる倭の産物の話ですね。
今の話題は、鉄生産の適地ですが、これは倭人伝の記述とは離れた論点です。
728 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:17:34
>>717 >箸墓がヤマトトトヒモモソ媛の墓であるならば、
>これはないな。
なぜ?
次の選択肢の中から選んでみてくれない?
@ モモソの実在がありえないから
A 箸墓の築年代と記の記述が一致しないから
B 箸墓は卑弥呼の墓だから
C 特に理由はない
D 教えたくない
つ D 教えたくない
730 :
九州王朝大好き:2009/04/23(木) 22:23:29
>>725 >褐鉄鉱なんて、日本中の湿地にあるよ。
少量の褐鉄鉱ならね。
製鉄の原料とするだけの多量の褐鉄鉱を産出できるところはそれほどないんだな。
>>729 > つ D 教えたくない
オマエは太国かww
732 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 22:42:30
>>727 倭人伝の「其山有丹」かな。その山に丹あり。
阿蘇は、九州全体にベンガラを供給していたとされる。
遺跡を発掘すると、墓はもちろん、住居跡からも大量のベンガラが出るらしい。
もちろん、阿蘇は山。
だから、これは阿蘇のことを言っている可能性が高い。
>これはないな。
こんなふうに理由も書かず思わせぶりなコメントをするヤシはみんな荒らし。
対応しだすとキリがない(対応するのはヤシらの思うツボ)。
この手のレスは完全スルーでいこうぜ。
734 :
717:2009/04/24(金) 00:31:00
>>728 @ 4世紀以前の記録などあるわけない。話も非現実的。
735 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 18:45:13
>>723へ
それならば貴君へのレス
>>718は取り下げる。
「ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られている」(
>>408)を貴君は深く検討もせずに付和雷同しただけであり
ましてや証明など考えてもおらぬようだから。
それでは改めて
>>408に言う。
>>408よ。
>>503の問いに答えろ!
>>503 >具体的に聞くが、長崎県、熊本県、島根県、鳥取県、高知県、和歌山県、滋賀県、岐阜県、愛知県で
>それぞれ最も古い古墳を挙げてみてくれないか。
>そいつらは奈良県の纏向古墳群とほぼ同時期か?同じ設計か?
>>735 1箇所づつ自分で検討しろよ!
粘着はみっともないぞ。
いやいや、
>>735の質問は実によい質問だ。俺も訊くのに賛成。
738 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:00:40
>>735 どちらの考え方が真実に近そうか、というだけの話だ。
証明何ぞできる話ではない。軽々しく証明なんぞと言わないことだ。
A=BかつB=C、よってA=C
理科系なら証明なんて言葉は
日常的に使います。
残念だが、ここは文系カテなんだ
741 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:47:56
そんなことはありません。
論理的な話のできる理科系の人も大勢いらっしゃると思います。
742 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 22:20:24
>>735 それぞれの県で最も古い古墳を挙げろというのは無理な話。
全部、調査されているわけではないし、仮に調査されていたとしても
わからないだろう。
にもかかわらず、けっこういろんな説が出ている。
たとえば、前方後円墳は畿内で発生して全国に広まったとか。
古墳の全てについて分からなければ語ってはならないということはないと思うが。
出雲の方墳に九州の円墳がドッキングしたのが前方後円墳だという感じもしますが
744 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:19:01
>>743 感じがしますというだけでは駄目なんですよ。
せめて、自分なりのやり方でもいいですから、
それを証明しないと。
745 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:56:38
>>744 あなたの言うのはせいぜい「説明」だね。証明とはいえないよ。
「畿内が日本の先進地であり、文化と権力の中心でなければならない」
・・・という妄想を前提にして考えるから、矛盾百出
実際のところ弥生時代の九州では円形墓は主流じゃない
円形墓が多いのは播磨や讃岐だねぇ
実際3世紀頃の先進地は機内だったと思うよ
しかしそれが邪馬台国ではなかっただけでね
749 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 01:17:14
今の畿内説の年代観を本気で信じている学者っているのかな?
主張している本人も?って感じがするね
750 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 18:45:05
>ほぼ同時期に同じ設計の古墳が全国に作られている
この問題は非常に興味深い。
特に邪馬台国論争においては九州の所謂「纏向型」と言われる
早期の前方後円墳が大和のそれとどれくらい時間の開きがあるのか?
『畿内説の最後の鍵』として果たして畿内ヤマトを中心にした首長連合の
勢力範囲が九州北部にまで届いていたのかどうか?
幾らその連合体の範囲が大きかろうと大陸と交渉を持つには
九州北部に手が届いていなければ話にならないわけでw
期待するのはやっぱり年輪年代法かな?
無論九州説論者には蛇蝎の如く忌み嫌われているがwww
仮にその弾き出す年代が信用するに足らないものだとしても
とりあえずは「同じものさし」を当てれば年代の開きは計測できるのではないのか?
確か九州にも少ないながら年輪年代の測定サンプルがあったと思うが…
(しかし九州と関西の地域差はどういう処理になるんだろう?)
まあ両者がほぼ同時期と言う結果が出れば
俺としてはもう邪馬台国論争は完全決着だなwww
いまだに纏向型とか言ってる血沼がいるのか。
ありゃ、設定自体が間違ってたんだよ。
「畿内が日本の先進地であり、文化と権力の中心でなければならない」
・・・という妄想を前提にして考えるから、矛盾百出
753 :
750:2009/04/25(土) 20:36:42
>>751 ああ別に定義・カテゴリーにはこだわらんよw
…にしても今日一口に「九州説」といっても比定地の前に年代観で大きく分かれるなw
九州邪馬台国と纏向が果たして並存していたのかどうか?
まあ「邪馬台国東遷説」は死活問題でそこは絶対譲れないんだろうがwww
>>749だと九州説と畿内説で単純に年代観は二分されているのかな?www
754 :
750:2009/04/25(土) 20:44:13
ちなみに九州の早期前方後円墳で三角が出ている物があるというのは興味深い。
那珂八幡・神蔵(甘木)・赤塚 …
もし纏向のものと築造時期がそう変わらなかったら
纏向の古墳にはあえて三角を副葬しなかったと言う事か?
>>752 サイキバ君いつもの芸風やねw
最近じゃあ「カンゴウ君」とか言う新人が出たみたいだからがんばれよwwwwwwww
756 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:26:21
>>755 サイキバちゃんさあ…
この板でもう数え切れないほど畿内説論者の
「(ゆるやかな)首長連合」って言葉見ただろ?
『 文化と権力の中心』…って九州説や九州王朝説はいざ知らず
3世紀にいきなり中央集権国家なんて考えてる奴いないと思うぞ?
(皆無とは言わんが、まあ主流じゃないだろう)
もうさあ、いい加減学習しようぜ?
これだけ繰り返せばゾウリムシでも学習するぞ?wwwwwwwwwww
757 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:51:40
ビクビク過剰反応、乙 >756
>いまだに纏向型とか言ってる血沼
何という言い草でしょうか
いまだに纏向型などとほざく輩は
血沼などというレベルではありません
白雉と呼ぶべきですよ
759 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 23:11:35
結局、邪馬台国問題は、3世紀の日本をどのように考えるかという問題に帰結
する。
九州説を取ると、その頃、日本全体に力を及ぼすような勢力はなかった、
ということになる。
畿内説の場合は、一般的には、すでに中央集権のような全国的な規模の
国家があったということになる。
これは、壱岐や対馬まで畿内の勢力が及んでいるとなると、その中間や
その背後も当然支配しているはずだから、かなりの大規模な国家を
想定しなくてはならないからである。
しかし、これはいくらなんでも考えにくい。後の大和政権に匹敵するか、
あるいは凌駕するほどの勢力がその時代にあったとは思えないからである。
だから、「ゆるやかな首長連合」なんていう苦肉の策としか思えないもの
が出てこざるを得なかったのだろう。
しかし、これは非現実的だと思う。いったい誰がそれを主導し、どうして
他の国が素直に従ったのか。何のためにそのようなことをする必要が
あったのか。など、かなり無理のある仮説だろう。
760 :
ギーコギーコ:2009/04/25(土) 23:28:17
主導したのは大国主命ってところでどうでしょか。
761 :
ローガン:2009/04/25(土) 23:34:49
>>758 > >いまだに纏向型とか言ってる血沼
> 何という言い草でしょうか
> いまだに纏向型などとほざく輩は
> 血沼などというレベルではありません
> 白雉と呼ぶべきですよ
あのう、私よく知らないのですが、「纏向型」って聞いた事ぐらいはがあります。
(血沼、白雉… 意味がわかりません。教えてもらえませんか?758さん。)
「いまだに纏向型などとほざく輩」 纏向型という用語が不適切という意味? それとも「いまだに」ということは、古い認識だと言う意味なんでしょうか?
根拠とともにご教示ヨロシク。
>759
>いったい誰がそれを主導し、どうして 他の国が素直に従ったのか。
連合に主従の関係は無いよ。
>何のためにそのようなことをする必要が あったのか。
考えてもみ
大陸のしかも半島の小国ではなく、直接魏の皇帝に朝貢している。
何のためか? それは貿易だよ、半島から鉄(鉄挺)を輸入する為に、帯方郡を置いて半島を支配している王朝に頭を垂れに行ったのだ。
魏は邪馬台国を日本列島における正当な王権と認め、軍事物資ともなりうる貴重な鉄の交易権を保証してやったはずだ。
アジア交易圏における貿易独占権は誰にでも得られるものではなかったろう、鉄を欲しがる諸国は、競って邪馬台国に従ったのではないかな。
763 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 23:47:01
>>759 あなたは九州説を信奉してるみたいですが、
あなたの主張はですね図式化すると
畿内説・・・
・中央集権国家的な想定・・・・・ × 有り得ない
・ゆるやかな首長連合の想定・・・・・ × 非現実的で無理
どっちにしろ畿内説じゃ×
ですね。
それぢゃ聞きますが九州説は当時の倭とは九州のことで
そこに30か国ぐらい国々があって狗奴国は別だけど
残りの国々は女王に属してた、それで女王は邪馬台国にいたと解釈するんですよね
そしたら話を九州限定の倭としてけっこうですから
狗奴国を除いた九州はどういうかたちだったんですか、
邪馬台国中心の中央集権的国家だったんですか?
それともゆるやかな首長連合だったんですか?
764 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:23:51
まあ、「ゆるやかな首長連合」は毎度毎度、九州説の連中には不評だがwww
無理があるとか言われても
じゃあ纏向の搬入土器とか各地の埋葬文化のキメラの如き前方後円墳は
どう説明するんだって?話で
「緩やかな首長連合」というのはむしろ必然的に出てくる話。
それに九州以東の西日本には大型首長墓の祭祀が各地域ごとに
見られるようになる(出雲の四隅等…)
地域ごとの首長層の連帯のようなものが生まれていたんだろう。
ある日突然にヤマトの王が
「みんなこの指とまれ!」
って叫んだわけじゃない。
恐らく離合集散繰り返しての結果だろう。
九州には弥生末期そう言った「統合の動き」と言う物がない。
(何かあったかな?)
これも今日九州説が廃れている理由の一つだろうwwwwwwww
連合は、弱い者達がするものだよ
九州は半島に近く、鉄の入手が比較的容易だった
畿内を含め本土のほうの国は、九州を通して買うか、または後進国である他なかった
九州 : 国ごとに独立していても成り立ったので、連合や統合の動きが無かった
本土 : 鉄の交易ルートを求めて大陸への朝貢、その為に連合しなければならなかった
貢物に白珠(真珠)とあるが、愛媛県宇和海や三重県英虞湾のアコヤガイから採れる物である事から、
その地方の国も連合に入っていたのだろう
鉄の供給を受ける見返りに、貢物になるような特産物を供出した、そういう連合体だったのだろう
766 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:50:30
>>763 まあ、倭国の範囲は九州限定かな。これは少なくとも卑弥呼の時代までは
そうだったと思う。
キーポイントは、後漢書に登場する「倭国王」帥升。
少なくとも、後漢の安帝は、帥升を倭国の王と見ている。
だから、少なくとも西暦107年には、倭国の30カ国余の体制が出来ていた。
これは、帥升の国(倭面土国?)が、武力で他の国を支配下に置いたと考えられる。
それは、後漢に献上した生口160人にうかがえる。
吉野ヶ里でさえ、500人とか1000人とか言われるかなり前に、これだけの
人間を献上出来るのは他の国を征服した以外には考えにくい。
つまり、2世紀初頭あたりから、倭人伝に書かれている体制はできていた。
やがて、後継者がいなくなって大乱が起き、卑弥呼が共立される。
これは、倭人伝の記述からも妥当性がある。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年
大乱の状態を、隋書や北史等は「歴年無主」とか「歴年無王」とか記述しており、
これも倭王の不在を示していると思われる。
つまり、帥升時代からの倭国は、江戸時代の幕藩体制に近かったと思う。
もちろん、その範囲は九州の一部限定だが。
>766
漢倭奴国の貢物は生口160人だったわけだが、
邪馬台国の貢物には真珠(白珠)5000個、翡翠(青大句珠)2枚が含まれている
真珠は愛媛県宇和海か三重県英虞湾、翡翠は新潟県糸魚川なのだが
さて九州限定で調達できるものかな?
768 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:02:10
>>767 権力は九州限定でも、交易は列島全体で行われていたのではないかな。
769 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:02:32
>768
そうだね
九州の豪族は翡翠を沢山所有していた、古墳に入れるくらいね、糸魚川でしか採れない翡翠をだ
それは鉄の対価として本土の豪族が支払ったものだろう
つまり鉄は九州を通して流通していたのだ
邪馬台国が魏に朝貢して、直接交易の許可を取り付けるまでの体制はそうだったのだ
771 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:16:03
>>766 で、そのお話を裏付ける考古学的資料のようなものはあるのかい?
そもそも、帥升等の生口160人の献上も
九州のみならずある程度は西日本も含まれていたんじゃないかという話もある。
(帥升自身は玄界灘周辺のクニの人間としても)
どこまでいっても九州限定と言うのは単なる推測でしかない。
ゆるやかな首長連合ってどういったものなんだろう?
古代ギリシャの都市国家同盟みたいなもの?
中世イタリアの都市間同盟みたいなもの?
神聖ローマ帝国やドイツ連邦みたいなもの?
幕藩体制って言ったらかなりの権力を持ってるよね
>772
中世イタリアの都市間同盟
あるいはハンザ同盟みたいなもの、では
要は鉄とかの必要物資の流通を通して自然に成り立った連合なのだろう
775 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:23:28
年代遡上ってのは、極左が支配する学界のイデオロギーの産物なんだよなあ。
九州説で、卑弥呼=アマテラスとすると、その後に神武東征によりヤマトで王権が始まる。
まさに記紀に書いてあるとおりの歴史が認められることになり、皇室の権威が増す。
極左が支配する学界では、こんな結論は認められない。
そこで、九州説を否定する。
つまり、アマテラス=卑弥呼の可能性を否定すれば、記紀否定につながるという発想。
さらに、ヤマト王権を否定して、初期は「連合」だったとのトンデモに飛びつく。
そうしないと天皇の権威を古い時代から認めることになってしまうという極左の発想。
その上で、記紀は後世の創作が主体と言い張る。
その結果、記紀は皇国史観で悪であるという、強烈なイデオロギーだけが残る。
776 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:29:08
>>775 邪馬台国東遷説も大変だなあwww
小林理論は否定してもそこから導き出された
長らく学会を支配していた年代観はチャッカリ持ち続けているw
>>767>>768>>770 交易が九州⇔本州間で行われていたのなら
とりたてて倭を九州限定に考える必要はない、むしろ不自然でおかしい。
九州と本州で人種が違う、言語が異なっている等が明確にあれば別の国と意識するかも知れないが
そうではないのだから、倭とは九州に本州・四国も含めた地域と解するのが自然だ
ロンバルディア同盟やハンザ同盟は
周辺に強国があってそれらの脅威から自衛するためにできたものだろ
当時の日本列島がそんな状況だったとは考えにくいな
戦国時代に「ゆるやかな連合」が成立したか?
779 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:35:22
>>775 そう、天照大神=卑弥呼とすれば、それなりに筋の通った一つの物語が出来る。
でも、それを許せば、天照大神のあと、つまり卑弥呼のあとの神武東征が
待っている。
これは、邪馬台国東遷を物語っていることになり、畿内説としては
絶対に容認できないところ。
つまり、畿内説が、天照大神=卑弥呼(+台与)に駄々をこねるのは、
邪馬台国東遷を認めることになるからというわけだろう。
東遷説の是非はともかく
記紀を否定したい極左イデオロギーの信奉者と
記紀をことごとく否定しなければ成立しない畿内説の
親和性が高いのは間違いないよね
各地の豪族が独自に前方後円墳を導入したというのも
王権による統一を否定する思想だろうね。
学界の長老たちは戦後60年以上も皇国史観と戦ってきたのよ。
つまり歴戦の勇者なのよ。
所詮、亡霊との戦いだったが。
今でも軍靴の足音に敏感で9条の会で活動したりとかしている。
783 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:52:20
>>775 >まさに記紀に書いてあるとおりの歴史が認められることになり、皇室の権威が増す。
なるほど皇室典範改正の時
「神武のY染色体」がどうのこうの言ってた奴がいるわけだwwww
>782
お国に寄ったり離れたりで、微妙にスタンス変えて生きている生き物なんですね、学者先生とは
785 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:57:04
この板の九州説論者はイデオロギー闘争のお話が大好きwww
あと陰謀論もwwwwwwwwwww
学者がみなイデオロギーと無関係とは言えまい
戦後の学界が皇国史観なるものと戦ってきたのは
疑いのない事実でしょ
もちろん畿内説全てが極左イデオロギーに影響されたものとは言わないよ
そういう人が畿内説には多いねってだけで
788 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:12:57
畿内説が皇国史観なのかと思ってた。
789 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:23:02
>>766 >>773 >幕藩体制
その後の明治政府と比較するなら江戸時代の徳川幕藩体制は
相当な地方分権を認めていた。
確かに江戸初期においては徳川も相当な強権で外様を改易したりしたが
結局のところ外様の雄藩の多くが幕末まで命脈を保ち
そのことは最後になって徳川崩壊の大きな要因となった。
それから卑弥呼の登場と徳川開幕で見逃せない相違点がある。
家康は長い間かかって武力を蓄え、それを行使して実力で
まさに武力で将軍の座を手にしている。
これに反して卑弥呼は、倭国大乱を武力で制覇して倭女王の座をもぎ取ったのではなく
恐らく彼女の宗教的能力を買われて、クニグニの首長たちから共立されたのである。
卑弥呼の時代を説明するのに徳川幕藩体制を引き合いに出すのは適切とは言えまい。
790 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:29:17
>恐らく彼女の宗教的能力を買われて、
そんなことがあり得るかな? もう少し合理的な理由があるのでは?
将軍に従っていたから潰されなかっただけだろ
792 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 03:26:18
>>789 幕藩体制(に近い)と言ったのは、卑弥呼共立のときが始まりではなく、
帥升の時だと言ったはずだが。
>>766 卑弥呼は、帥升体制の単なる後継者に過ぎない。と思う。
793 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 03:29:26
幕藩体制は近代以前ではかなり強権的な体制じゃないか?
近代中央集権国家と比べれば緩やかだがなw
藩のイメージが先行してるだけじゃないの?
幕藩体制が適切ではないのなら他に例を挙げてほしい。
緩やかな連合国家というものが机上の空論じゃないなら挙げられるでしょ。
それとも地球上で他に全く存在しなかった特異な体制だったのかな?
>>767 翡翠は熊本の八代、古来天然真珠の産地といえば長崎の大村湾ですね
795 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 05:30:38
>>793 >それとも地球上で他に全く存在しなかった特異な体制だったのかな?
そういっても構わないと思うが?wwww
今日の日本の文化を見ても日本はかなりユニークな存在だろうw
少なくとも千年を越えて継続する皇室。
独立言語とされる日本語。
等々・・・
その特殊性を生み出した要素として
先ず第一に地形・地理かな?
半島から島伝いに九州へ、そこから瀬戸内を通り近畿まで行ける。
九州に入ってきた文物が関門海峡で足止めされる理由は全くないw
796 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 05:42:41
近畿まで行ったことは行っただろうが
入ってくる量が違うだろ
独自の政治体制があったというなら証拠を出してほしいな
現状では妄想に合わせて考え出された机上の空論ではないだろうか
797 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 05:57:54
>>796 ある時期から畿内を中心に分布しだす舶来品の銅鏡。
初期古墳の分布。
(漫然と同心円状に広がるのではなく極めて意図的と思える分布状態)
無論、年代の論争はいまだあるが
じゃあ九州説にそのような連合体のできた形跡を示す考古学的資料があるのか?
もう随分この板で問いかけているがいまだにまともに答えた奴はいないwww
半島から九州に入ってきた文物を入手するためには首長のネットワークを形成する必要があり
そりゃ東西に細長い列島の地形なんだから”面”じゃなくて多分に”線”にならざるをえないわなwww
この板の九州説の連中がおのおのどれくらいの範囲で考えているのか知らんが
”面”で連合体を作るのは利害関係が衝突しかえってやり辛い部分もあるだろう。
古来より『遠交近攻』は外交の基本w
のほほんと
「きゅうしゅうは なかよしこよしの となりぐみ」
なんて思ってんじゃねえぞとwww
798 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 06:18:53
「緩やかな首長連合」を否定する奴は
纏向の搬入土器の件やら
全国に広がった初期型前方後円墳について合理的な説明をしてくれ。
その現象をより上手く説明できる対案も出さずに
「無理だ」とだけ念仏のように繰り返すだけなのか?w
円墳に出入り口を作ろうぜ
800 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 06:55:41
>(漫然と同心円状に広がるのではなく極めて意図的と思える分布状態)
どのあたりが意図的と思えるのか説明してくれ
あと銅鏡は国産だろ
畿内説に一人ファビョっている奴がいる、と
研究者の間で今話題になっている邪馬台国スレとはここですか?面白いですね。
wwwは焦りと怒りの印、しばらくROMらせてもらいますよ
802 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 07:19:28
面ではなく線のネットワーク?
連合国家じゃなく単なる経済同盟じゃね?
その程度の連合体が女王を共立したり
魏まで使いを送ったりするのだろうか。
というか交通手段も乏しかったであろう古代に
そんな細長い連合体が成立しえたのか?
803 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:14:12
なぜ交通手段が乏しかったと決めつけるのか不思議でなりません。
日本書紀の応神天皇記には、『応神5年(270年頃)冬の10月、伊豆の国にふれを出して船を作らせる、
長さは10丈である。試しに海に浮かべたら、軽く浮かび、その速さといったら走るがごとくだった。そこ
でその船を名付けて、「枯野」と言った。』とある。
日本でも古代から、帆が付いていて風に乗れば水中翼船のように高速で走行できる双胴カヌーが使
われていたことが知られています。
確かに船は当時でも速かったでしょうけど、そんなに簡単に利用できる乗り物とは思えないな。
交通手段といえば普通は陸路がメインなんじゃないかな
805 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:23:29
>>800 >どのあたりが意図的と思えるのか説明してくれ
例えば関東なら千葉あたりに集中して見られる。
単純に文化の伝播なら畿内を中心にグラデーションを描いて同心円状に分布すると思うが?
飛行機もなかった時代そうやっていわば「飛び地」で存在するのは
人の意思の介在なくしてはありえないと思うが?
しかも古墳築造はそれなりの人員を要する。
>あと銅鏡は国産だろ
仮に国産だとしても各地の首長に分有されている事実には変わりはないなw
・・・で
その古墳の分布や鏡の分布が「連合体」を想定するに足らないなら
何故そのような現象が起こったのか説明してくれ。
あと纏向の搬入土器の件や
九州に如何なる根拠をもって連合体の存在を見るのか?
806 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:40:47
朝鮮ルート開拓しておきながら関門海峡以東は倭の地ではありませんって話があるわけないじゃないか
807 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:42:44
>>801 ええ?研究者?
2ちゃんのこの板話題にするっていかにもレベル低そうだなw
まあリアルの邪馬台国論争からも乖離して珍説奇説の類ぶちまけている
この板の九州説論者にすれば自分らの説を見る事のできるこの板を
よほど過大評価するのかもしれんがwwww
なんか聞いているこっちが恥ずかしいから止めてくれないかな?w
808 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:49:36
>>802 単なる経済目的の同盟だとしても
大陸半島の文物の入手において魏との交渉は必要だなw
809 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:12:48
810 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:54:59
>>807 焦りまくりで平静なレスもできない馬鹿がよく言うよ
せいぜいここで恥を晒してなw
ここじゃハッキリ言ってお前のレスだけが浮きまくり
笑いもんになってることにも気づけぬ低能が
せいぜいほざいてろよwwwww
お前みたいな馬鹿が畿内説ぶちあげるからよけい不利になるだろうがw
失せろ!このクズwww
811 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:10:40
>>810 で、その「研究者」さんたちってリアルじゃあどのような活動をしているのかな?
まさかここで珍説奇説書き散らしているだけじゃないんだろ?www
自称、自宅研究者の俺様がきましたよ。
813 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:26:00
実際「連合体」の想定は今日確認できる考古学的資料について
その現象をもっとも合理的に説明できる仮説だろうと思うが
「連合体なんて無い」と言うだけじゃなく
じゃあもっと合理的に説明できる仮説をもってこいって話だなw
そう言えば「緩やかな連合体」と言う物に対し
「そんな物はありえない」とこの板の九州説の連中みたいに言い切る学者っていたっけ?
無論その時期については邪馬台国の時代3世紀ではなく4世紀の話と言う
学者ならいるとは思うが
じゃあ3世紀から4世紀の間に交通手段の特段の飛躍があったのか?
と言う疑問もある。
いやそれどころか5世紀に乗馬の文化が入ってきてもそれで全国の街道が整理され
畿内ヤマトの勢力が一気に伸展したとも思えないwww
814 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:26:44
815 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 16:03:52
>>798 その「緩やかな首長連合」がどういうものか説明するのが先。
実態が分からないから、有り得ないと言っているわけで、否定する、しない
以前の問題だと思うが。
畿内説は、以前は自生説だった。つまり、邪馬台国は大和で生まれ、
発展成長するというもの。しかし、その母体となるものがない。
しかも、大和には連続するものがない。ある時期を境に大きな変化が
見られる。
これを説明するのには、神武東征に相当する出来事を想定するのが一番
分かりやすい。いわゆる、邪馬台国東遷なのだが。
しかし、畿内説としては、これは容認できないところ。また、卑弥呼が
大和にいたとすれば、東遷はありえないことになる。
これは畿内説の矛盾するところで、倭王と呼ばれる女王がいて、広範囲に
勢力を及ぼしていた邪馬台国の前身がない。
九州の勢力が大きくかかわっていたことを認めるわけにはいかない。
でも、大和には邪馬台国という大きな国が都として存在している。
その苦肉の策として生まれたのが、「緩やかな首長連合」というわけなの
だろう。苦肉の策なので非現実的。
やはり、卑弥呼のかなり前から、大陸と交流があり、力を蓄えた九州の
勢力が徐々にまとまり、やがてその勢力範囲を広げていく、というのが
現実的な考えであり、歴史的にも常道だろう。
816 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 16:15:18
>>815 >やはり、卑弥呼のかなり前から、大陸と交流があり、力を蓄えた九州の
>勢力が徐々にまとまり、やがてその勢力範囲を広げていく、というのが
>現実的な考えであり、歴史的にも常道だろう。
これをちょっと訂正。
やはり、卑弥呼のかなり前から、大陸と交流があり、力を蓄えた九州の
勢力が、徐々にその勢力範囲を広げていく、というのが、現実的な考えで
あり、歴史的にも常道だろう。
まとまったというよりも、拡散していったと考えるほうが適切。
817 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 16:54:42
>>815 >畿内説は、以前は自生説だった。つまり、邪馬台国は大和で生まれ、
>発展成長するというもの。しかし、その母体となるものがない。
>しかも、大和には連続するものがない。ある時期を境に大きな変化が
>見られる。
>
>これを説明するのには、神武東征に相当する出来事を想定するのが一番
>分かりやすい。いわゆる、邪馬台国東遷なのだが。
「大和には連続するものがない。ある時期を境に大きな変化が見られる」、は凡そその通り。
纏向遺跡の形成、纏向古墳群の築造がこの「大きな変化」に当たるだろう。
「これを説明するのには、神武東征に相当する出来事を想定するのが一番分かりやすい」、は
一番分かりやすいかどうかは別にして、過去にそう考えた研究者がいたのは事実。
代表は原田大六氏であり彼は北部九州勢力の畿内征服という考えを1950年に表明した。
1950年は自生説の小林行雄氏が「古墳の発生の歴史的意義」を発表した年。
したがって、「畿内説は、以前は自生説だった」は、誤りである。なぜなら原田大六氏は
1950年の時点から一貫して邪馬台国は畿内という立場を貫いたからである。
学説史を述べるなら今少し正確を期して頂きたい。
畿内に移り住んだ勢力とは吉備である。
その権威を高めるために利用された古の九州王朝。
九州から畿内に移り住んだのは神武と卑弥呼の兄弟のだけだったとすれば
文化的なつながりが薄いこともうなづける。
819 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:07:42
>>815 「緩やかな首長連合」の実態?
散々その痕跡として初期古墳や銅鏡の分布を挙げてるだろ?
何をループさせる気だ?
仮に東遷説を是としても
それらの事について説明した事にはならないぞ?
神武が大和入りして幾世代かの後
初期型古墳や銅鏡が機内を中心に広がる。
それが緩やかな首長連合のせいで無いとしたら
どういう理由によるのか?
説明の先延ばしでお茶を濁さず答えろw
>大和には連続するものがない
>ある時期を境に大きな変化が見られる
それは邪馬台国を新興勢力と見るかどうかだけの話。
そもそも九州の勢力が範囲を広げていった足跡とやらは
如何なる考古学的資料に基づくのか?
・・・もうぜんぜん駄目、反論のはの次にもなっていない、やり直し。
820 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:18:12
連合体なんてありえないというこの板の九州説の言う事を真に受けるならば
ヤマト王権は奈良盆地の南に誕生して
そこからジリジリその版図を広げていったと言う事か?
正直そんな歴史観で書かれた本も読んだ事が無い。
まあいいのがあったなら紹介してくれw
俺は連合体の想定なんててっきりもはや日本人の常識だと思っていたがw
大和葛城の馬見古墳群とかを見れば
5・6世紀頃でさえヤマト王権は奈良盆地を
全域手中にしたかでさえ怪しいのだがwww
なんかすげー久々に覗いてみたら、いつの間にか九州説が連合体を否定してる図式が出来上がってて困惑中
822 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:16:45
>>821 流石に全部じゃないと思うが
この板の九州説じゃあ否定派が多数だと思うw
「東遷説」や「九州王朝説」は認めたくない説だろうしw
823 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:30:42
ゆるやかな首長連合?ありえるだろう。まず当時のクニは後代の国や藩と比べて、格段に
規模が小さく、人口も少なかったと考えられる。まあ、吉野ヶ里周辺を一国と考えれば、その程
度のもの。倭人伝の七万戸などの数値はちょっと信じがたい。さらにクニ内部の支配力が緊密で
大人、下戸、生口などの身分制が強固なこと。つまりこれらのクニは王と一握りの取り巻き連
によって支配されており、クニ内部に決定に反するような勢力は生じようがなかったと考える。
後代のように様々な勢力がクニ内部に入り乱れている状態ではなかった。
これらのクニの王たちは好き好んで連合したわけではない。あくまで倭国大乱により疲弊し
人口減や稲作に影響が出るようになったため、しかたなく協定を結んだという意味合いが
強いのではないか。これは、高地性集落や環濠の発展と終焉からも読み取ることができる
と思う。王たちは互いの面子があるため、一人をリーダーとして仰ぐことには承服しがたいが、
神の声には従うことができる。そしてその神の声を聞くことができる装置こそ、卑弥呼の鬼道
だった。
九州説が首長連合を否定するのなら、倭人伝の「共立」の文字をどう解釈するのだろう?
また、連合が緩やかなものだったからこそ、卑弥呼は朝貢して「親魏倭王」の権威=後ろ盾を
求めたのではないか。
824 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:11:36
>>823 >九州説が首長連合を否定するのなら、倭人伝の「共立」の文字をどう解釈するのだろう?
この疑問は小生も九州説論者に問うてみたい。
「共立」は「連合」とほとんど同義だと思うのだが。
それともなにか、
卑弥呼は九州に君臨した絶対的専制君主で、
吉野ヶ里か宮崎か知らんが邪馬台国の都が九州の中枢として存在し、
女王卑弥呼は九州の大部分を中央集権国家として支配したとでも?
825 :
823:2009/04/26(日) 20:12:44
上レスを読んだが、的確な論述もあって、たとえ倭人伝の30国がすべて九州島内部だった
としても、それがまとまったものは緩やかな首長連合と呼ぶしかないのではないかな。
三世紀のこの時期に、九州島(中北部でもよい)に一つの大王国ができあがっていたとは
考古学的に認めがたいし、何より30国という記述に反している。
wwwのレスは不遜な書き方だが、前方後円墳が多地域で同時多発的に発生したとはとう
てい考えられないし、どこかに伝播源があったことは間違いない。最近でこそ初期前方後
円墳の異タイプも言われるようになってきているが、マキ向型と共通する設計の前方後円
墳がやや時間差をもって広まっていったことを完全否定できる説もまだ出ていない。
マキ向遺跡がそれまでの倭国文化と隔絶した感を与えるのは、それこそ卑弥呼を共立した
諸国によって計画的に設計された証だろう。環濠がみられないこと、多地域からの流入土器
古墳に見られる各地葬制の集合など、すべてがそのことを物語っているように俺には思えて
ならない。
やっと畿内説を理路整然と述べる方が出てきてくださいましたね、良い流れです
827 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:46:10
>実際「連合体」の想定は今日確認できる考古学的資料について
>その現象をもっとも合理的に説明できる仮説だろうと思うが
「畿内がその連合体の中心出なければならない」という前提での
「連合体実在論」はありえない。
畿内説の根拠なし。
828 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:56:13
畿内説はペテン説
「畿内が全国を支配していた」→それは無理
慌てて言い換え→「全国が連合体をなしていて畿内が首長国だった」
相変わらず
「箸墓が卑弥呼の墓だということにして年代判定改竄」
「東遷説でも自生説でもとにかく畿内説が正しい」
829 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:02:35
ETV特集 日本と朝鮮半島2千年
今日(4月26日)、22:00からですからね。お見逃しなく。
NHKは日本と朝鮮半島をどのように捉えているのか?
邪馬台国問題の将来を占う一つの指標になります。
830 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/26(日) 21:02:49
今夜午後10時ころ NHK教育 3ch で一部やるみたいだな。
831 :
823:2009/04/26(日) 21:19:33
マキ向の隔絶性を東遷の帰結とするなら、もっとはっきりと九州文化の影響が見られなく
てはならないだろう。それ以前の九州島人の近畿圏への移入を否定するものではないが、
典型的東遷説?の言うように、魏志の年代内にそれがあったとするなら、それほどの重大
事件が、なぜ倭人伝をはじめとする中国資料に記載されていないか、当然説明する必要が
あるのではないか。
俺は畿内説なのでそれに従って論を進めていくが、後代の大和朝廷の四道将軍や倭建の
西征・東征などの説話は、邪馬台国のゆるやかな首長連合から完全な実力支配に変わる
過渡期をダイナミックに描写しているものと見ている。そして神功皇后の時期までには大陸に
出兵できるまでの力を蓄えた。その間、卑弥呼朝貢(239)から広開土王の、辛卯年(391)まで
およそ150年である。
832 :
ギーコギーコ:2009/04/26(日) 21:35:01
九州が緩やかな首長連合って、諸国を畏憚させた一大率の存在をどうとらえるかだね。
連合の掟をやぶる輩を取り締まるのが一大率
緩やかな連合体でも法の番人は必要
834 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:10:15
>>824 おいおい・・・
「共立」と言っても各地にいるのは、王権が派遣した「官」ばかりで、魏志からは、
「王権」の支配しか読み取れませんよ。
それを頑なに無視し続けなければならないのは極左思想の賜物ですな。
魏志に出てくる「王」は、卑弥呼と狗奴国の王のみ、しかも両者は争う関係に
あるから、これは普通に考えれば王族内部での権力争いである。
つまり、「共立」というのは、王族が皆支持したといういみでしかない。
仲良く王位継承者を決めたということ。
これを各地に独立した王がいると考えるのは、言葉を理解しない獣の類でしかない。
というか、赤い思想に脳まで侵された哀れな極左ですな。
親魏倭王、字のごとく王と呼ばれるのは卑弥呼ひとり
大和朝廷になってからも、地方豪族が国造(クニの御奴)として官にされた
諸大名が知藩事になったようにね
836 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:18:01
国という以上、そこに王がおり、官がいることは常識なんだけどな。
我が国の学者は、そうゆう常識も欠いたのが沢山いるからややこしい。
>835
補足
中国の魏から見てという話
838 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:22:44
NHKは、邪馬台国の候補地として九州や近畿・・と九州も一候補地に入れてはいるけれど、
邪馬台国の首都は巻向に確定したというニュアンスの報道姿勢ですね。
そして、九州の住人の8割が半島出身だったとも。
NHKの番組制作の中枢は半島系に乗っ取られた。
839 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:39:05
ホツマツタエには縄文時代からの口伝が残っていますよ。
そんなの始めから分かりきってたじゃん
841 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:01:11
>>823 >>824 前にも書いたが、倭国の体制は、帥升の時つまり2世紀初頭には出来ていた。
卑弥呼は、その体制の後継者をめぐる争いの末に王となった。
これが共立であり、卑弥呼のあとの台与の場合と共通する。
台与の場合も、後継者をめぐる争いの末に決められた。
台与が王になったことにより、新しい体制が出来たわけではないのと
同じで、卑弥呼の場合も首長連合などとは結びつかないと思う。
帥升→卑弥呼→台与 血統的に繋がりがあるなら、何という名の王族だろう
漢籍はまったく王統の名は記していない
台与が宗女というだけで血脈の正当性にはまるで興味が無いかのようだ
「共立」という言葉を特筆しているだけ
つまりそれが言いたいのだよ倭国のシステムは「共立」だと
843 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:25:47
>>842 この当時の王位は、世襲制ではなかったと思う。
有力な国の王が代表で連合の王になる
つまり連合なんかな
845 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:45:28
NHKの「日本と朝鮮半島2000年「古代 人々は海峡を越えた」
…今見終えたが普通に連合体と言っていたなw
邪馬台国論争の畿内説とか九州説とかコップの中の争いレベルじゃなくて
既に日本の古代史を考える上でコンセンサスだろう?www
>>825 勿論その ” 時間差 ” は考慮しているよw
別に西と東で100年以上の差があったとしても
とりあえず広域連合体があったかどうかには直接関わらない。
それは広域連合の進展のプロセスの速さ
各地に勢力が及んだ年代に関わる事であって・・・
で、結局この板の九州説論者による
前方後円墳や銅鏡の分布、纏向の搬入土器に関して
連合体の想定に対抗するアイデアは無しかw
つうか皆無だなwww
それにしてもNHKの番組、原の辻のあとは吉野ヶ里だと思っていたが
いきなり纏向にはワラタwwwwww
>>841 同意
100人以上の生口を中国に運ぶためには、2、3百人の大使節を中国に
送ったということになる。
ならば、少なくとも九州全体位はほぼ手中に入れた王がいたことは間違いない。
その後に本州にも版図を拡大して行ったのだろう。
その経過のなかにあるのが、魏志倭人伝の邪馬台国。
帥升以前の時代でも、九州各地から特定個人墓が多数出土している。
これも「各地の王」ではなく「王権の中の王族」と考えるほうが良い。
独自の交易をしていた物産の違いが確認できない。
847 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:55:50
この板の九州説の連中は”線”的なつながりの連合体はありえないと言う。
じゃあ九州にあった連合体は”面”的な広がりを持つ地域連合だというのか?
その30カ国ほどの範囲は?
九州の1/2?1/3?
それとも
>>846の言うような九州全土を手中にした大九州王国?www
戦国の世でもそれこそ天下を狙える大大名だなwww
畿内説の考える連合体と比較して
控えめに言っても難易度は甲乙つけがたいと思うのだがww
日本列島の古代は百数十ヶ国のうち、三十余国だけ連合していた。
畿内説では「畿内が日本の中心でなければならない」という妄想から、
証拠なく「国家連合体」があったとし、「連合体を畿内国が統括」して
いたのだと、ひたすら根拠なく断定している。
そもそも九州説では、列島全部が連合体を組織していたなどと妄想する必要がない。
連合していたのは百数十ヶ国のうち、たった三十余国だけだし。
850 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:03:12
>>845 残念ながら、後半しか見ていないが、あの番組は韓国の言い分にそった放送だった。
任那については、日本書紀にもあるが、宋書にも出てくる。
そのことには触れず、任那はなかったというようなことを言っていた。
851 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:17:25
>>847 倭人伝には、「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」とある。
その国、もとまた男子を持って王となす。住まうこと7,80年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年。及ち、一女子を共に立て王となす。名を卑弥呼という。
畿内説では、卑弥呼共立の7,80年前にいた男子の王が説明できない。
連合説では、意味不明となる。
しかし、男子の王を帥升とすれば、うまく説明できる。
卑弥呼を後継者と考えればぴったり来る。
852 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:29:51
>>851 >畿内説では、卑弥呼共立の7,80年前にいた男子の王が説明できない。
>連合説では、意味不明となる。
はあああああああああ?
その「卑弥呼共立の7,80年前にいた男子の王」を無理矢理畿内に求める必要があるとでも?
少なくとも俺は畿内説の場合邪馬台国は帥升の時代の体制とは違う新興勢力と考えるのが
主流だと理解しているが…
お前その内容からしていつもの日向厨じゃないのか?
同じ事はもう何回も言ったぞ?
お前のレスが意味不明だよw
853 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:33:03
>>852 男子の王を畿内に求めなければどこに求める?
倭人伝は、いかにも繋がっているような書き方なのだが。
ちなみに、日向説ではない。
854 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:39:01
>>853 創価、日向厨蛇内野火、すまんかったなwwwwww
だがもう何回も書いているんだし目にとめたのも一度や二度じゃないはずだろうに・・・w
いや、その前に常識として畿内説でその男王を畿内に求めるなんてあまり見た記憶もないんだがw
つううか回答するなら 玄界灘周辺のクニ で何か問題でもあるのか?
「繋がっているから九州に違いない」なんてお前さんの主観だろ?w
855 :
823:2009/04/27(月) 00:40:53
>>845 俺のことを変態とか呼んでたのに、いちお味方してやってんだぞ。ww
856 :
845:2009/04/27(月) 00:46:13
857 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 01:07:56
>>851 同意。
そうなると、「其國本亦以男子爲王、住七八十年」は、「神代7代」だよなあ。
その後に卑弥呼=アマテラスが出てくるところまで一致する。
858 :
823:2009/04/27(月) 01:22:54
あれは蚕の背の斑紋を表してるという説もあるが、俺は違うと思う。謎だな。
859 :
823:2009/04/27(月) 01:36:29
山海経なんかみれば、奇形崇拝というか かなり奇妙な世界観があったのは確かだろう。
>意図的と思える分布状態・・・まあわからんが赤塚あたりは北九州に対する牽制と俺
は考えてる。寝る。
860 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:02:48
連合体を否定しているのではなく
実体のわからない連合というものを
都合よく使ってることに対して批判的なんだがな。
861 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:15:19
かつて日本に存在したかもしれない連合国家のイメージとしては
古代ギリシアのデロス同盟などが思い浮かぶが
ペルシアの脅威とアテネという有力都市国家が主導することで成立したものだろ
当時の日本にそのような大国の脅威はあったのだろうか?
北部九州という一部地域だけなら、当時力を伸ばしてきたであろう他地域に対抗するために
卑弥呼を共立して同盟を結んだというのも分かるけどね
そもそも何で「緩やかな連合」という解釈が必要なんだ?
国と国が面つながりで接していたとは考え難い
耕作不可能、共同入会地でもない、そんな無駄な土地まで含めて国の領土として管理するだろうか
吉野ヶ里を見ても、環濠集落というのは同心円の構造を持っており、大きく見れば一つ一つは点だ
グローバルな地図の中に、そんな斑紋が点々と分布していたに過ぎないのだ
経済単位が国なのだ、交換経済の範囲が国のまとまりなのだ、だから国と他の国はそんなに有機的には結び付いていない
そんな国々を束ねてみたところで、連合にしかならない
巨大な国家を妄想するのはやめたらどうだろう
>861
古代ギリシャにしても、ポリス同士は普段なら相互に干渉せず、独立を保っていた
ペルシアの侵略とか、交易のライバルとか、そういう物と戦う時だけ連合していたのだ
邪馬台国の場合、連合へ向かうモチベーションは、大陸との交易
鉄を安定的に輸入したいが為に、連合し共立の王を立て、その王の名をもって魏に朝貢したのだ
関東武士団が、頼朝という共立の王を立て、朝廷に己が権利を談判しに行ったのと似ているな
865 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:39:12
866 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:41:38
神武が東征しなけりゃ日本は分裂していた可能性が高い
その点でやはり神がかってるとしか言いようがないな
867 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:42:08
それだと各国がかなり独立してると思うんだけど
邪馬台国が畿内じゃなくてもよくなるのでは?
その大きな連合を構成する1つの連合が
独自に魏に遣使したかもしれないね
というか畿内にある邪馬台国がわざわざ魏まで遣使するか?
国内の交易で精一杯じゃないの?
868 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:45:00
つまり九州北部の勢力であれば連合国家の盟主でも
盟主でなくても魏に遣使することが可能であったと思うが
畿内が主導して魏に遣使するにはもっと強力な政権でなければ
できないのではないか?という疑問
869 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:47:23
畿内が起点じゃなく北九州が起点
東征とワンセットで成立しえる
別に神武グループだけが畿内に入ったわけじゃない
神武=崇神だとするから話が見えてこない
870 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 02:51:14
魏と交易するならばなおさら鉄が最初に持ち込まれる
北部九州の方が立場は上になるだろう
畿内が主導するには軍事力を持っていなければ無理
経済的な結びつきだけの連合国家だとするなら邪馬台国は北九州でしょう
871 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 03:34:31
>そもそも何で「緩やかな連合」という解釈が必要なんだ?
今日の解釈と言うより
古代には半島大陸からの文物を入手するためにも必要だったと言う事が一つ。
それに現代からの視点で言えば
今日実際に目にできる考古学的資料・・・
・初期型前方後円墳の分布
・画文以後の銅鏡の分布
・纏向のそれまでの遺跡にはない頻度で出土する搬入時 等々
から言わば帰納的に導き出される結論。
(念の為断っておくが連合体云々の話に絞れば各々の絶対年代が3世紀であるかどうかなんて関係ないからな頭冷やして分けて考えろよw)
何も机上の理論だけで無理矢理ひねり出した物でもなんでもない。
否定したかったら方法の一つとして
「そんなもの…という仮説を組み立てれば”緩やかな連合体”なんて物より、よほどスムーズに説明できる」
といった物でも言ってみろって話だなwww
」
872 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 08:20:26
やっぱり畿内説の連中は沸いてるな
>そもそも何で「緩やかな連合」という解釈が必要なんだ?
「畿内が日本列島の唯一最高権力だ」と言いくるめるために必須だからです。
874 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:36:39
>>871 これで説明した気持ちになれるってのは、宗教か何かの方でしょうか?
875 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:58:08
>古代には半島大陸からの文物を入手するためにも必要だったと言う事が一つ
これは、朝貢貿易的なことを差しているのかな?まあ、その側面も確かに否定はできない
だろうが、それほど大きな要因ではないと思う。連合成立後、北九州を窓口として画文帯
神獣鏡などが取り入れられ、それら文物の統御などのために一大率が置かれたとしても
それは卑弥呼共立から10〜20年後のことだろう。
やはり連合成立の最大の原因は、数十年続いたと思われる倭国乱を収めることにあったと
思う。古代の戦争では、移動や物資補給に限界があるため(このあたり当時倭国の文明度を
史記などと比べてはいけない)どこかのクニがとびぬけて覇王化することもならず、ただただ
疲弊と消耗が続いたと考える。そこで窮余の策として持ち出されたのが、卑弥呼の共立。
上レスでも書いたが、王同士は長い因縁もあって、互いの下に立つことができなかったで
あろうが、第三者的な、あるいは絶対者である神の声を聞くことができる卑弥呼には従う
ことができるからだ。「ゆるやかな連合」は、それまで >相攻伐すること歴年 の集団群が
たどる次のステップとしてきわめて当然の過程のように思えるのだが?
876 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 16:31:52
まあどの道この板の九州説の連中が火病をおこしどんなにわめこうが
首長連合の存在は、もはや邪馬台国論争なんて物を越え常識レベルwww
…つうかリアルの学者でそれを真っ向から
「ありえない」と言っている学者っているのか?w
後は邪馬台国畿内説として最後に詰めなければならないのは
その勢力範囲が3世紀に果たして九州北部にまで届いていたかどうかの検証。
如何にその連合体が大きいものであっても
大陸との交渉の為には玄界灘周辺にまで影響力が及んでいないと話にならない。
877 :
875:2009/04/27(月) 16:42:01
卑弥呼の共立自体は突然でも不思議でもないだろう。それぞれのクニ、各部族には固有
のシャーマンがいただろうことは、人工変形頭骨や日常生活に差し障るほど多数の貝輪を
つけた人骨の出土例からも十分推測可能だ。もしかしたら、戦闘結果の成否などは、指揮者
である武官よりも、専らシャーマンのせいになされていたかもしれない。・・・これらの構図が
各クニ レベルから拡大して、連合全体の祭祀者として押し上げられたのが卑弥呼であろう。
とすれば、卑弥呼が倭王となったのはきわめて当然のことである。
倭国乱を収めるため、難升米らの手で、素質に優れた巫女が幼少時から密かに養育され
ていた。・・・これは妄想。
畿内説だと
「古代日本列島全体で諸国が連合体を形成しており、
その首長国が畿内国だったのだ」
・・・という結論を導きたいがための「連合体論」にすぎない。
漢籍には、列島全体が連合体を成していたとは、一切書かれていない。
連合体が少しずつ畿内一国に収斂されていったわけじゃない。
九州王朝出身の天武天皇が、一気に畿内政権を簒奪・支配したというのが現実。
879 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 17:21:36
>>877 ギリシアのアテネ連合が一番近いのかもね、イメージ的に
しかしそれだと縄文と弥生の混成はどのように消化されていったんだろうか?
卑弥呼なんかより、不思議というか、それをハッキリさせて欲しい
880 :
875:2009/04/27(月) 18:45:56
>>879 ???縄文から弥生への文化の移行は、テーマが壮大すぎてなんと答えてよいやら。
一般的には、
精霊信仰(アニミズム・・・万物に精霊が宿る)→祖霊信仰(祖先の霊が、自然物の精霊に
影響を与え、作柄の良否や天候などを決定する・・・ある種の農耕信仰)→首長霊信仰
(祖先が神となって、現在生きている大王と同一化する。・・・王権を正当化するための一
種の装置ともいわれる。)
となるのかな。・・・素直に降参、わかりません。ww
881 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 18:46:31
鉄を朝鮮半島に頼っていた時代には、
鉄を手に入れやすい半島に近い九州の軍事力が畿内を圧倒していたであろう。
倭に連合体が存在していたとしても、それは九州を中心としたものであったはずである。
畿内の勢力が優勢となるのは、鉄が国内で生産されるようになって以後の出来事であるはずである。
882 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:06:45
>>871 >(緩やかな連合は)古代には半島大陸からの文物を入手するためにも必要
紀元前からそれぞれの国が大陸と交流し、いろんなものを手に入れている。
倭奴国などは金印ももらっている。
連合して入手する必要はないし、それで手に入れて、みんなで仲良く
分けようというのもおかしい。
鉄などは、出来れば自分たちだけで独占したいと思うもの。
みんなで手に入れたりすれば、分け前でけんかになってしまう。
現代以上に高度な政治的組織がないとそんなことは不可能だろう。
弥生後期の鉄器については、阿蘇が最も盛んだったのは常識になっている。
仮に、鉄を輸入していたとすれば、阿蘇で列島最大の鉄器生産が行われていた
のをどのように説明するか。
阿蘇の周辺に輸入鉄を独占できるような勢力があったのか。
それとも、阿蘇では製鉄が行われていたのか、のどちらかだろうな。
883 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:15:21
通信も交通も未発達の古代に、
畿内から九州までの広域の連合体があったなんて
とても信じられる話ではない。
884 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:18:46
>>883 鏡を使ってたんじゃないかな
光通信ってやつ
885 :
875:2009/04/27(月) 19:46:40
いちおう実験考古学による のろし実験では、北九州から畿内までけっこうレベルの高い
情報でも数時間で伝わっている。ただし、のろし跡は高地性集落遺跡などで普遍的に
見られるものの、長距離通信手段として用いられていたという確証はない。
畿内ー北九州の交通を考えれば、それは船で何十日もかかるだろうが、畿内説ゆるやか
な連合論wwでは、下関、また赤塚古墳などから豊の国の一部あたりまで連合の一員と
考えることが多いので、少なくとも北九州勢にはプレッシャーになっただろうと考えている。
886 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:50:09
九州を中心とした国家などない。NHKの番組「日本と朝鮮半島2000年」で
弥生時代、順調に増加していた九州の人口が途中で急減したグラフを見た。
充分な通信手段が無くとも卑弥呼は遥か大陸の魏王朝の存在を把握していた訳だが
連合なんかしなくても、中国経由で北朝鮮のマツタケでも、
イランの木の実でも、普通に買える。古代でも同じ。
889 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:09:20
ありもしない「緩やかな首長連合」などを持ち出さなくても、
物資は流通するものだ。
馬鹿馬鹿しい例
「服を着ている世界中の民族は、緩やかな首長連合で組織されている」
「パソコンを使っている各国は、緩やかな首長連合で組織されている」
「イスラエルとパレスチナの武装集団は、ともに武器を所有しており、緩やかな首長連合で組織されている」
「同じ言葉や道具を使っている韓国と北朝鮮は、緩やかな首長連合で組織されている」
890 :
875:2009/04/27(月) 20:22:40
>>887 238年の遼隧の戦いによる公孫氏滅亡の翌年が卑弥呼朝貢。情報の伝達は早いともいえ
るが、これは、それ以前は公孫氏に対して朝貢していたものと考える説も強いようだ。
それこそ地球規模での情報伝達網と物流網が存在している現代の事象を引き合いに出してくる時点で終わってるな
892 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:24:44
>>887 卑弥呼は大陸に近い北九州に居たんだよ。
893 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:27:20
>>886 そのグラフ見てないんですが、
何故九州の人口が途中で急減したんですか?
>>890 おっとレスがついてた
直接大陸からではなく遼東からにせよ
情報伝達網はまがりなりにも現代の国境を越えてまで繋がっていたわけで
いわんや倭の領域をや
895 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:31:26
>>891 石器時代から黒曜石とかは交易で広範囲で使われていたでしょ。
物流に緩やかな首長連合など必要ないです。
896 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:37:52
>>870 >鉄が最初に持ち込まれる北部九州の方が立場は上になるだろう
鉄の問題はよく九州説厨が畿内説を否定するために持ち出してくるが、
ある意味これは九州説にとっても自己撞着となってしまう点に気づいていないらしい。
こういうことだ。
九州島で鉄を最初に手にする国はどこだ?
倭人伝の国名記載の順に従うならそれはマツロだ。
もしマツロが他国への鉄の供給を絶ってしまうと、他の国々はもうマツロには歯が立たない。
すなわちマツロこそ九州島内の盟主的立場に立ち得る唯一の国ということになる。
そうすると畿内説同様、南九州説なども深刻なことになるが、
もしマツロに鉄をストップされる事態を想定するなら
これはたとえヤマタイ国を肥後や宇佐や或いは筑後山門や吉野ヶ里に比定したところで同じだ。
しかし倭人伝を読む限りヤマタイ国こそ倭の盟主であってマツロは盟主でない。
すなわち鉄が最初に持ち込まれる地域云々などと鉄にばかり執着する姿勢では
ヤマタイ国をどこに比定したところで自己撞着となってしまう。
897 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:42:48
>ありもしない「緩やかな首長連合」などを持ち出さなくても、
>物資は流通するものだ。
「それまで物資は全く流通せず首長連合ができて初めて流通する」
なんて誰も言ってない。
それまで大陸半島から来た文物は九州に入りそこから東に流れた。
当然九州に一番集中して見られるのが常。
それがある時期を境に分布が九州以東に比重が移る。
大型首長墓(古墳)や土器は逆に東進する…etc
その画期が首長連合の成立と言う話。
ゆえに
>>882の質問もピンボケ。
(…ったくそれを否定するならするでも自分が相手している側が
どういう説なのかいい加減学習しろよ)
九州の鉄も古墳時代に入り減少していく
それと入れ替わるように大和や東日本で急増する
つまりその画期が首長連合の形成と言う事・
ただし絶対量は以前九州の方がはるかに勝っており
この板の九州説の連中は中々その傾向に気づかない
ゆえにアホの一つ覚え
「鉄!鉄!邪馬台国と言ったら鉄!
弥生時代は九州が鉄の本場!
ゆえに邪馬台国は九州!!」
とサイキバ君よろしく繰り返すのみwww
確かに単なる物の流通だけなら連合体なんて想定する必要はないよ
問題なのは前方後円墳に代表される新しい政治的・宗教的装置が
それまでの地域の枠組みをはるかに凌駕する範囲で
地域の墓制の伝統をぶった切って現れてくるところだよ
ここで連合体をやっきになって否定してる人は古代社会における祭りの重要性をちっとも考慮してないのが問題だね
899 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:46:04
>>896 末盧國ではないが伊都国が邪馬壹國の王都だから問題ない。
伊都国には「世有王 皆統屬女王國」とあり
「王(女王)が(魏代に)代々いた 皆(倭の国々)は女王國に統屬す」の意味だ。
900 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:51:47
>>894 >情報伝達網はまがりなりにも現代の国境を越えてまで繋がっていたわけで
早いと言っても何ヶ月も掛かってわけだし、
情報伝達だけで実際の支配も及んでいないようだが。
901 :
871:2009/04/27(月) 20:53:21
>>875 >やはり連合成立の最大の原因は
>数十年続いたと思われる倭国乱を収めることにあったと思う
確かに学者の中にも首長連合の成立に大陸半島の物資(特に鉄資源)の確保を
第一の要因と考えるには疑問視する意見も多いと聞く。
だから
>するために”も”必要だったと言う事が一つ
と書いた。
倭国大乱の事態収拾の為と言うのは大いに考えられると言うか
恐らく連合体の中核・コア(瀬戸内東部)な部分はそう言うことだろうと思ってもいるが
「じゃあ何故大和なんだ?」となると中々分かりやすい説明はできないwww
まあそこら辺を言っちゃうと話がややこしくなるだろうから省いた。
(恐らくこの板の畿内説でも色々意見が分かれるだろうwww)
>>900 古モンゴロイドはその情報伝達手段として狼煙を使用していた。
狼煙とは要するに1と0の二進法のデジタル通信である。
地形によって4キロから4キロおきに狼煙台を設置し、
こちらで伝えた情報が相手側に正しく伝達されたことを確認してゆく。
モンゴルのチンギス・ハーンの帝国でも狼煙の連携による情報
通信が行われていた。その伝達速度は時速140kmに及んだと
いう。武田軍団は甲斐から小田原まで数時間で情報が伝達され
ている。
>>896 >ある意味これは九州説にとっても自己撞着となってしまう点気づいていないらしい
もっと馬鹿馬鹿しい話で言うとだ…w
この板の九州説の多くは鉄の保有数(と言うより正確には各時代の出土数)が
軍事において絶対的アドバンテージとのたまうのだが
すると半島からの鉄資源を得るためには鉄器で武装した
「むてきのきゅうしゅうぐんだんw」を相手にせねばならないが
当然鉄器に乏しい勢力は勝てない。
つまりヤマト王権の誕生は国内で製鉄が行われる時代を待たねばならない…
…日本史の教科書の古代史の部分の内容がもう全く別物と言うぐらいに変わりますw
無論「九州王朝説」は万々歳だろうがwww
904 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:09:01
レンゴウ君って、ただの荒らしだよね。
905 :
875:2009/04/27(月) 21:12:45
>>898 そのとおりだと思う。邪馬台国から数百年のちの世でも陰陽道による方違、物忌、反閇など
現在の常識からすればきわめて馬鹿馬鹿しいことが真面目に信じられていた。卑弥呼の鬼
道の正体を明かすことは、邪馬台国問題の新たな展開につながると思われるが、これは倭
人伝の記述からだけでは、なかなか見えてこないものなんだよな。
自分の都合のいいように相手の主張をでっち上げる、または一部のみを取り上げるのはいかがなものか
907 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:25:44
>>903 今の教科書の古代史なんて、
記紀を鵜呑みにしてるだけじゃん。
908 :
875:2009/04/27(月) 21:35:38
>>903 白石太一郎氏などは、鉄入手説でひところはかなり飛ばしていたが。マキ向遺跡の発掘
成果とはいまいち合わない。
「相攻伐すること歴年」は実際に戦争状態だったというのではなくて、
王もなく無秩序な蛮族社会だった事を象徴して言っているだけだと思う。
中国から見れば、卑弥呼共立から後が文明。
朝貢の礼も尽くして来た卑弥呼、よって魏が認めるところの親魏倭王、以って魏の冊封国となすという感じ。
910 :
875:2009/04/27(月) 21:56:24
>>909 「桓 靈帝時代は王徳が低下し、それが蕃夷の国の治安にも影響を及ぼした」というような
うがった説もあるくらいだから、その論もありだろうが、では卑弥呼を「共立」した主体は何か?
理由は何か?という疑問が出てくると思うが。
911 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:03:09
定説の定まらない古代史と生具い近代史は試験問題に馴染まない。
最近の若者は、卑弥呼も聖徳太子も、東条英機も吉田茂も知らない。
912 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:27:21
>>903 日本での製鉄の開始時期は、通説よりも古いかもしれない。
米の伝来が古くなっているからというわけでもないが、製鉄もその可能性がある。
鉄の素材を輸入しているだけだったら、わざわざ阿蘇まで素材を持っていって
で鉄器を作る必要はない。阿蘇では製鉄が行われていたと思う。
さらに、出雲でも行われていた可能性がある。出雲の場合は、斐伊川の
砂鉄からではないかと思う。
鉄の質としては、砂鉄から作る出雲の方が良かったのではないか。
そうなると、出雲争奪戦というのも考えられる。
記紀に書かれている、ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣なんかは、それを
表しているのかも。
>>897 > それがある時期を境に分布が九州以東に比重が移る。
> 大型首長墓(古墳)や土器は逆に東進する…etc
> その画期が首長連合の成立と言う話。
3世紀前半、鉄製品の消費バランスが吉備・畿内>九州だとは思えませんね。
この時点では、まだ九州>吉備>畿内と言う分布じゃないでしょうか?
2世紀以前からの蓄積も含め、穏当な評価ではないかと思います。
ただし、北部九州は、鉄輸入の入り口ではありますが、本来の供給源は韓地です。
売り手側が卸し先を限定してくれていれば、北部九州は倭地内での鉄資源の供給源として、
絶対的な優位は維持できます。
しかし、商行為の常として、売り手より買い手の数が多ければ売り手が有利。
倭地内に北部九州以外の買い手、例えば出雲や丹後などが出現したすれば、
売り手市場が形成され、価格高騰など買い手、倭側に不利な状況ともなります。
公孫氏の衰退、滅亡など半島側の情勢変化に伴い、韓地からの鉄供給が不安定化し、
買い手側に不利な状況が出現したとき、鉄貿易に代表される、対外交渉窓口一本化が
「緩やかな連合」として行われる条件ではないでしょうかね。
北部九州が、衰退し、交易連合に吸収されるとしたら、これが最大の要因かと思います。
>>913 ヴぁか
そう言った”売り手側”からの視点と言うのは
自分の読んだ本の中にもあったんで一部書いておく
(ちょうど今机の上にあるんでwwwww)
>倭政権が必要としたから、その供給地として弁韓・辰韓の鉄の生産地があるといういうような
>一方的な論が多いのですが、そうではなくて朝鮮半島の南部には独自の政治的な動きがある。
( 途中略 )
>彼ら独自の戦略から、近畿地域を見据えた交易のルートの設定がなされた面もあります。
915 :
914:2009/04/27(月) 22:56:40
まあ平たく言えば販売ルートの新規開拓っちゅうこっちゃねwwwwwww
916 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 23:04:58
当時、朝鮮半島に鉄の売り手なるものがあったかどうか。
取った者勝ちの世界のような気がするが。
917 :
875:2009/04/27(月) 23:15:59
>>914 当時の朝鮮半島は扶余系、韓系、中国系が交錯して複雑な情勢だったようだから、倭国
以外の視点から一つ一つの現象を見ていくことは大切だろうと思う。
にしてもレスの書き方がひどいぞ。自分から周りを敵だらけにしてるようなもんだ。あと897
の東進は西進の間違いでないか?
918 :
897:2009/04/27(月) 23:25:53
>>917 >あと897の東進は西進の間違いでないか?
あ、本当だ間違えているw
いつも東遷説叩く時に頻繁に「東進」って使っているからノーミソに染み付いちゃったかな?wwww
あと芸風に関してはいらぬお世話だw
「煽り叩きは2ちゃんの華」ってモンだ バカヤロウ!ヽ(`Д´)ノ
>912
阿蘇で製鉄をしていた集団と、鉄素材を輸入に頼っていた集団があると思う
とうぜん阿蘇の製鉄集団から購入する事もあっただろう
北九州は輸入派だと思うがな
舶来もんは高くつく。
自前で技術を導入して
材料の入手から精錬、最終的な製品まで手がけるようになった集団が物部。
>>918 アタマは悪くなさそうなのに言い方で損するタイプだな。
ふつうに書き込めばみんなもっと考えてくれると思うよ。
言ってることはたいしておかしくもないし。
923 :
875:2009/04/28(火) 00:14:44
>>918 まあ、2chなんでいらぬ世話ではあるんだが、説自体は俺とけっこう似てるんでなんか
気になる。考古資料を順を追ってみていくとこうなるんかね。
疑われるといやなんでいちおいっとくけど、これは自演でないよ。俺は縦目仮面というHNも
持ってる。
>>916 > 当時、朝鮮半島に鉄の売り手なるものがあったかどうか。
> 取った者勝ちの世界のような気がするが。
そうでも無いと思いますけど。
「取った者勝ち」と「売り手」の存在は別に矛盾しません。
鉄について、三国志韓伝では
>國出鐵、韓、シ歳、倭皆從取之。
とは書かれていますが、
>諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
とも書かれており、この観察が正しければ、鉄交易は存在します。
と言うか、「鉄」自体が交易の中心財ですね。
また「取」と言う文字を採掘の意で理解するのも微妙な話で、
「入手」するぐらいの訳が適当ではないでしょうか?
銅ですら奈良朝まで「国産」ではなかった
関東がようやく支配下に入り、埼玉県秩父の銅山から最初の銅が献上されたのを記念して、
708年(和銅元年)和同開珎が鋳造された、そう正史が記しているんだよ
だったら、それ以前の銅鐸や銅鏡はどこから素材を得ていたのかという話だよ
必ずしも畿内朝廷が地政学的に絶対的だったとは言え無いと言うことだ
奈良の大仏さんが作られる時代になっても、必需品を外部に頼っていたのが日本なのだ
926 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 02:00:09
畿内から北九州までの連合体ができたとして
その中心が畿内でなければならない必然性なんてどこにもないんだよね
北九州にあったと思われる邪馬台国と
後に大和朝廷になる畿内の王権は別物だと考えた方が自然じゃないの?
927 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 02:04:53
北九州まで届いている連合であったとして
さらにその連合の目的が魏との交易であったならば
立場は北九州>畿内のはずでしょう?
なぜ邪馬台国が畿内にあったという結論になるのか
畿内でいくら発見があったとしてもそれは大和王権があったことの証拠であって
それだけで邪馬台国は畿内だという結論にはならないよね
畿内と北九州は別の王権がそれぞれ存在したとする方が自然だろう
928 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 02:22:08
中国地方や南九州からの圧迫に耐えかねた
北九州の諸国が連合を組んで
魏の権威を求めたという方が自然だね
>>927 そう、それは正論
ぶっちゃけ九州邪馬台国がその首長連合に参加していても別に構わないと言う話w
所謂「偽僭説」と言うものがあるが
それどころかヤマトや他の地域の首長公認で魏に朝貢した可能性…あると思います!w
九州邪馬台国が魏に朝貢しようとしてヤマトがそれを阻止すべく
もしくは事の後で制裁をくわえるべく軍事行動に出る…なんてのは非現実的だと思う。
なんせ”ゆるやかな”首長連合(=強大な軍事力を背景にしたものではない)なんだしwwww
…ただしそれはあくまで理論的な可能性の話。
はっきり言ってしまえば何らかの物証(考古学的資料)の一つでも欲しいところw
畿内説が最後に詰めきれないニッチがあるからといって九州説の証明にはならない。
少なくとも現在の趨勢はひっくり返る事はない、永遠の寸止め状態www
930 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 03:28:34
で、畿内説によると、その「ゆるやかな首長連合?」が、やがて大和朝廷に
発展していくというわけか。
どこの誰が、どうやって大王への道を歩んでいくんだろうね。
記紀なんかにその痕跡があるのかな。
931 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 06:19:15
纏向型の西キ原81号古墳はどうなんだろうね
3世紀前半だとも言われてるし
932 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 06:37:38
>>931 古墳の築造年代の比較はなかなか難しい。
でも、畿内のどの古墳よりも古いかもね。
もちろん、畿内説の人はそんなこと認めないだろうけど。
933 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 06:41:18
ついでに言えば、神武天皇は日向から大和に東征した。
仮に、日向に古い古墳があれば、東征を考古学的にも証明することになる
かもね。
934 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 07:21:04
石野の「邪馬台国と古墳」を読んでみたら、3世紀後半に宮崎生目付近に九州
最大の王者が現れたとみているんだな。日向説は考古学的には何の問題もない
といえるだろう。
935 :
875:2009/04/28(火) 07:34:23
そう、古墳の年代比較はきわめて難しい。実年代を決めるものはないし、81号墳の年代
推定も土器などによるものと思われるが、畿内土器との編年のすり合わせが確実にでき
ているとはとても言いがたい。
九州地方の初期古墳に関しては、地元新聞などが「畿内に先立つ?」とか「前方後円墳の
発生起源に一石」とか大きく書いて、後で新らしめに訂正されることもあった。これは批判し
てるのではなく、長い目で見なければわからないということ。
考古学者は、発掘を続けたいためにセンセーショナルな言を恣意的に用いることも多いし。
936 :
うましか:2009/04/28(火) 08:02:14
>>927 北九州が「゚協同購買゚連合」に参加したと言う仮定の話なら、
それは、北九州が鉄の供給者では無く、吉備や畿内と同じく消費者であるわけですよ。
937 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:04:53
>>936 もちろん、そうだよ。
九州一島だけで、鉄を購入する経済力がどうやって維持できたというのかな?
人口だって少なくなってる=食料自給率低下してるんだし。
938 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:13:16
九州説が、鉄器の多さでうんぬん言う前に、
九州一島だけで、鉄を買い付けられたことを証明して欲しいね。
魏志倭人伝には、鉄を貨幣のように売買してたとあるのだから、
物々交換で鉄を買ってたわけだ。
鉄と匹敵する産物は何で、九州一島だけでまかなえたのかどうか?
全く論考ができてない。
邪馬台国が九州だとして、九州と吉備との関係はどうなのよ?
畿内に鉄が無くても、吉備には鉄が流れてるんだから、
九州と吉備は無関係じゃない。
つまり、魏志倭人伝にある「東の海を渡った遠くの倭人」は吉備のことではない。
ならば当然、畿内も九州とは無関係ではない。
九州説が、30余国を九州一島だけで考えようとしてることには、無理がある。
弥生時代から、銅矛文化は、吉備まで広がってるんだからな。
邪馬台国が九州だとしても、関係する国は吉備にまで広げる必要があるし、
そうなると、畿内ともつながってくるのだ。
939 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:17:51
>>927 >畿内と北九州は別の王権がそれぞれ存在したとする方が自然だろう
そうなると、いいかい?
魏志倭人伝にある、卑弥呼に属さないクナ国というのは、どこか?ということになる。
南九州と考えるより、広範囲の畿内王国があったのに、魏志倭人伝はそれを無視したことになる。
卑弥呼も、畿内を脅威には思っていなかったことになる。
つまり、九州の邪馬台国と畿内は友好国(ゆるやかな連合国)だったことになる。
九州説を唱えるなら、まずここまで認めるべきだね。
940 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:26:49
ようするに、九州説は、破綻しまくりなんだよ。
邪馬台国は九州と考えるのは良い。
次は、論考だ。
卑弥呼を共立した30余国の構成国はどこの範囲なのか?
当然、吉備は含むことになるよな?
クナ国が南九州なら、吉備は友好国として、鉄を供給してもらっていたはずだからだ。
九州の邪馬台国友好国が吉備を含んだら、畿内も含むことになる。
吉備と畿内は関係が深い。
少なくとも、クナ国のように卑弥呼に属さないわけじゃない。
畿内は鉄が少しでも欲しくて、九州と接触してたはずだから、
九州と畿内は友好国だったと考えるしかない。
すると、上のほうで、九州説が必死に否定してる「ゆるやかな連合」が、
事実だとわかるだろう。
941 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:35:38
高地性集落の件にしても、
弥生時代には多く作られたが、卑弥呼の時代にはすでに終わってる。
つまり、卑弥呼共立で、瀬戸内海は平和になったわけだ。
これは、卑弥呼共立に吉備も賛同したことを意味する。
九州説の考えが違うというなら、違うと明言してほしいね。
1、弥生時代、吉備は銅矛文化圏内だった。
2、鉄は吉備まで流れていた。
3、クナ国が南九州なら、吉備は友好国のはず。
4、高地性集落は、卑弥呼の時代には終焉してる。
1〜4を事実として肯定するのか?
肯定してもなお、吉備は、30余国に含まれていなかったと考えるのか?
942 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 09:06:54
本当は狗奴国は南じゃなくて東の海の向こうにあって
貿易を独占したかったんじゃないの?
いや、実際は敵対していなくて従属関係にあったのかも知れない
昔の薩摩藩みたいにね
30国ってのも怪しいし、数カ国を除いて2次情報ってのがホントだろうし
卑弥呼、台与の他力本願ぶりを見てもそんなに大連合国を支配してた風格は感じられないよね
27 :日本@名無史さん:2009/04/04(土) 06:31:06
広志には「倭国から東南陸行五百里、伊都国に至る」
「女王国の北には斯馬国が有り、次に已百支国、次に伊邪国が有る」ともありますが
ここでの倭国=末ロ国だとすれば伊邪分国はあるいは元寇でも有名な伊万里湾の鷹島を指すのかもしれず
伊邪国という国が伊万里湾岸にあった可能性も出てきます
末ロ、伊都、奴、不弥・・・皆その領域が旧郡のひとつかふたつ程度であるところから
邪馬台とその30ヶ国ほどの傍国は
全体で旧郡の30から40個分ほどの広さに広がっていた可能性が高いようにも思います
あるいは海行=渡海、水行=川や運河などの水路を使った移動
を指すのかもしれませんが問題は伊都から南には「水行」できそうな地形が見当たらないことです
944 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 09:15:15
九州説は、「ゆるやかな連合」を否定してはいるが、九州説にとってもお門違い。
邪馬台国が九州であっても、
「ゆるやかな連合」は吉備〜畿内に及んでいたことは、九州説も認めるしかない。
「ゆるやかな連合」という形態を認めないなら、
吉備と邪馬台国の関係は何なんだ?ということになる。
吉備の首長は九州には無関心で、商人が勝手に九州から鉄を買い付けていたとでもいうのか?
鉄が高級品ならば、鉄を交易してた商人は、首長クラスまで成長したはずだろう。
弥生時代末に、鉄が吉備まで流れていたのにも関わらず、
もしも、「ゆるやかな連合」という形態を否定するというなら、
1、吉備の首長は九州には無関心で、商人だけが鉄を売買していた。
2、鉄を売買してた商人は、鉄が重要な交易品であっても、吉備の首長クラスまで成長することは無かった。
上に対して「イエス」と答えて欲しいね。
どうする?
945 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 09:20:20
畿内説は記紀を強引に解釈しないと無理だよね
卑弥呼が百襲姫というのも苦しい
946 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 09:32:49
>>944 3、吉備とは一時的に友好関係だった
女王を共立するほどの関係でなければならない理由はない
947 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 10:26:34
>>938 なんか、必死だなあ。九州には鉄がたくさんある。九州にそれを買う力があった
ことはその存在自体で明らかじゃないか。
948 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 10:37:23
>>940 >卑弥呼を共立した30余国の構成国はどこの範囲なのか?
>当然、吉備は含むことになるよな?
ならんね。九州説は30国を九州内に考えるんだよ。
本州や四国は倭種の国ではあるが、倭人伝が伝える倭国ではない。
そこと倭国との間で交易があったとしてもそれは関係ないことだ。
949 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 11:16:04
要するに交易範囲とは商活動・経済活動であって
卑弥呼共立に繋がる政治的活動とは別…
とりあえず『 政経分離説 』とでも名づけておこうか?w
3世紀の日本偉く発達した社会だったんだな、ひょっとして商人という階層が出現していた?
流れる石のこの俺でも憑いて逝けんわwwwwwwwwww
まあ百歩譲ってそう言った政経分離を認めるにしても
じゃあ卑弥呼共立に関わったであろう30カ国をどれくらいの範囲に想定し
それを如何なる材料をもって担保するのか?
…っちゅう話で、それついて出土した遺物も使えないとなると
また元の木阿弥、めいめいが倭人伝を読んで受けた印象のみで語るのか?
そもそも「政経分離」なんて言い出したら(常識と言うか基本的合意事項であるはずの)
様々な出土物に見られる九州の弥生時代通してのアドバンテージすら吹っ飛びかねないw
「経済活動は九州内に比重を置いたが政治的には九州以東の西日本とつるんでました」・・・でもおkw
はっきり言ってゲームを思うように進められなくなった奴が癇癪を起こして
テーブルをひっくり返す(ちゃぶ台返しw)ようなもんだwwwwwww
950 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 11:48:53
>>947 ダメ。
九州を通じて吉備も鉄を入手してたのは明らか。
おまえは、九州一島だけで鉄を入手して、吉備にタダでおこぼれを与えたと思ってるのか?
そんなことはない。
吉備から得た物資で鉄を買い付け、吉備に鉄を売った商人がいたはずだ。
「商人」がいなければ、それは「首長」だ。
それはつまり、九州と吉備は「ゆるやかな連合」を築いていたということだよ。
九州説は「ゆるやかな連合」を否定する限り、内部破綻するわけさ。
>>946 一時的に友好?
苦しい解釈だな。笑わせる。
951 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 11:54:02
>>950 頭が固すぎるんだよ。
直接、朝鮮半島から入手したかも知れんじゃないか。
952 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 11:57:05
九州説は、九州一島に固執すればするほど、
現実の考古学的事象を説明できなくなるんだよ。
せめて、「卑弥呼を共立した30余国に吉備も含まれる」といえば、
まだ九州説には救いがあるんだがな。
自分自身で九州説を破綻させてるんだから、滑稽としか言いようが無い。
953 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 12:09:25
>>951 >直接、朝鮮半島から入手したかも知れんじゃないか。
その可能性はきわめて高い。
半島からは山陰系の土器も出ていると言うしw
で、半島から独自に文物を取り寄せ力を持った勢力が九州以東に既に存在していて
九州で作られた青銅品も山陰山陽まで広がっている。
・・・このような状況の中で
「卑弥呼共立に関わった30カ国は九州限定!」
と言い張る根拠はあるのかって話だなwww
954 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 12:33:46
山陰といえば、そもそも出雲風土記の国引き神話からもわかるように、
朝鮮半島と関係が深いね。
邪馬台国の時代、山陰は、朝鮮半島と交易してなかったとでも言うの?
出雲の人々は、九州を経由しないで、直接朝鮮半島と行き来してたの?
それって、すごい航海技術だと思うなあ。
仮にそうだとしても、朝鮮半島にいた魏の使者が山陰の噂を知らないはずはない。
もっとも、スサノオはアマテラスと喧嘩してたから、
邪馬台国時代に卑弥呼(アマテラス)と出雲(スサノオ)が仲たがいしてても辻褄はあうよな。
その場合、男弟はスサノオじゃなくなるわけだが、
じゃ、卑弥呼(アマテラス)の男弟は誰だ?って言う話。
ほら、卑弥呼=アマテラス説は破綻した。
955 :
九州王朝大好き:2009/04/28(火) 13:27:37
>>953 >「卑弥呼共立に関わった30カ国は九州限定!」
>と言い張る根拠はあるのかって話だなwww
根拠は以下だ。
『倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑』
『參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里』
「周旋可五千餘里」とは、およそ200km×200kmの範囲だ。
倭人の30ヶ国は、海中の島々にあり、その島々はおよそ200km×200kmの範囲にある。
の意味だ。
上記に該当する地域は九州及びその近辺諸島しかない。
『女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種』
九州から海を渡って70km余にある国は倭種である。
中四国地方は倭種がいる地域だ。
958 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 13:46:44
>>955 >上記に該当する地域は九州及びその近辺諸島しかない。
九州と本州の間は関門海峡という細い海峡です。
その幅は九州〜壱岐や九州〜対馬の距離に較べて遥かに狭いのです。
959 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:07:27
>>955 で、その距離をどうやって測定したんだよ?
それによってその数値の信用性、誤差も決まるからな
今日船のスピードは「ノット」だが
何でもその昔スピードを計るのに一定間隔で結び目(ノット)をつけたロープを垂らした事からの名残だそうだが・・・
960 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:07:53
>>958 使者は有明海の方から邪馬台国へ行ったから、関門海峡は知らないんだよ。
961 :
? :2009/04/28(火) 14:20:53
?
962 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:21:19
そもそも九州全土が納まるエリアを「五千餘里」と里数で表示しているんだったら
尚の事邪馬台国にいたる距離を途中から日数に変えるんだ?ってのが疑問だなw
無論
「それは郡からのトータル日数云々」
とかのご高説が出てくるんだろうがw
結局文献の内容の正しさを説明できる考古学的資料は無いって事なのかな?
963 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:33:46
証明されてもいない「ゆるやかな連合体」を持ち出さなければならないのは、
「やがて連合体は、首長国=畿内国一国に収斂されました」と
畿内自生説に都合が良いというだけが根拠。いわゆる妄想です。
>証明されてもいない「ゆるやかな連合体」を持ち出さなければならないのは
ではすでに証明されている説を述べてみてください
>>960 >使者は有明海の方から邪馬台国へ行ったから、関門海峡は知らないんだよ。
関門海峡を知らなかっただと?
もしそうだったら中国史書は九州と本州は陸続きとの認識で書かれてることになるな
九州と本州が一体化したものが倭ってことだな
966 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:47:13
まあ連合体を否定している奴は視野狭窄で邪馬台国論争の範疇でしか
物事を考えていないんだろうが…
3世紀の邪馬台国の時代のみならずその後も考えてみればよい。
行き着くところは九州王朝説だw
967 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:54:04
>>965 九州に一番近い島は四国だと思っていたんだよ。山島によりて・・・とあるだろ。
本州が島だってことは倭人だって知らなかっただろ。
968 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:55:33
>>966 >行き着くところは九州王朝説だw
行き着くところは東遷説。
>>967 そういうことではなくて
もし九州と本州を隔てている海(関門海峡)の認識を中国側が欠いてるのなら
倭人伝の倭とは九州島限定なんて絶対言えないだろうが
970 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:12:05
>>955 >周旋可五千餘里
それはぐるりと一周して「五千餘里」って事なのかな?
わざわざ古代の中国人は九州を一周して測定したのかw
正直真に受けて計算するのも馬鹿馬鹿しいと思うが…
魏代の一里≒434m
よって五千餘里≒2170km
正方形で考えて 2170km÷4=542.5km(一辺)
円形で考えて 2170km÷π≒691km(直径)
>200km×200kmの範囲だ
…どういう計算なのかイミワカンネw
971 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:44:49
>>964 いいえ、畿内自生説が捏造だと証明されました。
972 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:50:09
>>970 短里で計算してみな。五千里=400キロ。周旋は一周ではなく、ぐるっと巡り
ながら向こうの端に行き着くこと。200キロで曲がればあと200キロだし、
250で曲がればあと150キロだ。
>>671 そんな事を聞いたのではなく、あたかも証明された説が存在しているような言い方だったので是非知りたいと思ったまでですが
974 :
九州王朝大好き:2009/04/28(火) 15:55:15
>>970 >周旋可五千餘里
倭地の行き着いた先で5000餘里
片道です。一周は別の言葉がある(思い出せないが)。
魏志東夷伝の1里は短里で約70m。
片道5000里は350km。
倭地の全体の形が正方形として考えると、
概形200km×200kmの正方形になる。
(韓、對馬國、一大國は、方可○○里と、概形を正方形で表している。)
九州王朝大好き氏は、本州と九州は関門海峡で切れてるという認識が魏側にあったたと思うか?
あったたと思うか→あったと思うか
魏志倭人伝の記述だと九州より大きな大陸に渡った感じはしないよね。
畿内と九州でもめるのも必然だと思うよ。
レポートとしてはあまりにも手抜き。
日本を知らない人は更に誤解する。
意図的に誤魔化したようにも思えてくる。
979 :
918:2009/04/28(火) 16:35:39
>>928 >説自体は俺とけっこう似てるんで
まあ似てるも何も今日の畿内説ではベーシックな部分は大概共有されているんだから
似てて当たり前じゃないかな?w
その基本部分の上に立って色々と差異があると、例えば…
先に挙げた首長連合の形成の第一要因を鉄資源の確保に求めるか否か
果たして三角縁神獣鏡を舶載とするか国産とするか…等々
考えれば畿内説の中でも議論して全体の進歩を促す事はでき
九州説の畿内説から見ればアンチテーゼとしての歴史的役割も既に終えた感があるwwwwww
980 :
979:2009/04/28(火) 16:48:49
間違えた>979は
>>923宛ね。
しかし自分で
>畿内説ではベーシックな部分は大概共有されている
…と書いたが逆に言えば九州説がバラバラ過ぎるんだよなw
同じ比定地であっても例えば邪馬台国を弥生中期から続くような老舗国家とするか
はたまた新興勢力とするかとか…
もう迷走状態が止まらないというか…
いや迷走と言うより妄想だから仕方ないんだけどなwwwwwwww
981 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:55:22
>>963 >証明されてもいない「ゆるやかな連合体」を持ち出さなければならないのは、
ふーん。
で、吉備に鉄が普及してたのは、どういう理由から?
鉄に足が生えて、勝手に吉備に歩いていったの?
ぷっ
あまりにもレベルが低すぎる。
証明されていないのは、「鉄器が威信財として王権に必要だった」という前提のほうだろう。
983 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:57:48
畿内説にしても、「鉄器が威信財として王権に必要だった」という前提で話をしてる感があるが、
それはマキムクの状況と一致してないことは認めろよ。
マキムクには鉄が無いんだからな。
鉄以外の理由で、求心力となるモノが大和国に存在したとしか考えられない。
984 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:00:13
山口県というのは、今も昔も九州の文化圏の範疇。
山陰・山陽よりも九州と関係が深いよな。
これで、邪馬台国に山口県が関係ないとは言わせないわけだが。
985 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:04:40
>>981 地域間の交流はあっただろう。
九州では、前漢鏡も出ているから、弥生中期から大陸と交流している。
貝輪は、沖縄で作られたことがわかっているから、沖縄あたりとも交流している。
吉備などとも交流があったのは当然だろう。
交易と言うか、物々交換としての交換経済などは相当に古くからあったに違いない。
986 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:07:17
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。
人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
どうにも畿内を中心に語ってるように思えない
987 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:14:50
ゆるやかな連合に固執するあまり
何でもありになってるな
九州説の立場として邪馬台国と吉備が友好関係にあっても問題ないのだよ
それを連合というなら連合と言えばいい
ただし魏志倭人伝に伝える30ヶ国に入れる必要はどこにもない
988 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:22:15
989 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 17:35:00
邪馬台国は卑弥呼が共立される前も死後も
争いが起きている非常に不安定な国
その国が後の大和王権に発展したとするのは考えにくい
990 :
ローガン:2009/04/28(火) 17:58:28
>>988 > >マキムクには鉄が無いんだからな。
>
> ウソ偽りの出鱈目。
そうですね。厚葬になって残りがよくなったのでしょう。
991 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:37:17
>>989 別に卑弥呼の国が大和王健に発展したとしなければならない必要はどこにもない
争いを続けながら邪馬台連合のどれか一つが後に力をつけて連合の絶対的盟主になったとすれば、連合の名称であるヤマトを自分の国号にしたと考えられる
正当性を示すためには前政権の歴史ごと取り込むのは普通だからね
逆に連合と全く関係の無い国が邪馬台とよく似た国号を使ってる方がおかしい
992 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:39:00
ところで、そろそろ次のスレ立てた方が良さそうだね
>>986 >どうにも畿内を中心に語ってるように思えない
…と言うよりそもそも本当に日本なのかどうかも怪しいと思うのだがw
994 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:51:16
「従郡至倭」と書かれているから、
倭に実際に来て見聞した内容であることは確かです。
995 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:58:56
>>992 スレ立てようと思ったが、スレ立て規制になっていて立てられない。
誰か立てられるかな?
996 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:06:32
>>993 邪馬台国は畿内にはないのに、畿内にあることを想定して考えるから
何もかも、つじつまが合わない。
ただそれだけのこと。
>>995 さんざん粘着や荒らしをした報いだ。w
三日三晩山中に籠って精進潔斎し、神々に祈って許しを請い、おのれの罪を贖うべし。ww
998 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:17:22
>>997 アホか。スレ立て規制というのは、スレ乱立を防ぐためのもの。
地域やプロバイダーによって定期的に規制されるもので、個人的な規制では
ない。
999 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:17:32
まあ次スレがたたなければ
ドツボんトコの「女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!」スレに移ればいいだけのことwww
1000 :
九州王朝大好き:2009/04/28(火) 19:18:49
>>975 >九州王朝大好き氏は、本州と九州は関門海峡で切れてるという認識が魏側にあったたと思うか?
本州と九州は関門海峡で切れてるという認識が魏側にあった。
倭地は大海中の島ですから。
しかし、30ヶ国の中に山口県側の国が入っていなかったとは断言できない。
時代は下がるが、景行記の九州統一遠征話に、遠征地として山口県側が入っているので。
なお『東渡海千餘里』の倭種の国は多利思北孤の愛人がいた伊予だと思う。
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。