952 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:19:41
税金で考古学やってる奴いないよおおおおおおおおおお
953 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:26:03
ごめん、
>>945です
保護に金のかからない、収益上がる文化財、(将来も国民の負担無い・・・今でなく長年の経験値や平均で)はいいと思う。
一攫千金は税金じゃ駄目だよ。
>>947 神話を神話学的に考察するならバカにするつもりは一切ない。邪馬台国と結びつけるの
もまあいいだろう。しかし、はじめに自説ありき、九州なり畿内なりの自分の候補地を想定して、
紀記や考古資料を見るから、結果としてねじまがった奇妙なものをさらすことになるのだ。
ただ、歴史の勉強はよい趣味だし、結果として知識や情報収集能力が身につくのもまた
確か。われわれはプロではないのでどこに責任があるでなし、2chという場を考えれば、
ネタとしていじって楽しむというスタンスなら、否定するつもりはないよ。
考古学は、邪馬台国で話題になる弥生後期ならまだしも、近世や中世は予算も少なく、
本も売れず悲惨なものだぞ。まあ本人らは好きだから、土器片に番号をつけて分類する
などの作業を嬉々としてやっているが。
955 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:41:19
もとに戻そ。
趣味と一過言の人たちの考古学のスレでいいじゃん。
学会で発表する人はスレなんか参加しないよ。
他で生計たててるから。
956 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 20:44:22
>>923 伊都国、前原説は明らかに間違い
方角もおかしいが、内陸部でない所をわざわざ陸行するわけがない
>>882 浪漫ティックだね都城w
邪馬台国=高天原w
957 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:00:49
>>954 あなたの過去レスからわかりますが、
いつもバカにしていますよ。
あなたは神話の都合の悪い部分だけ否定して
神話学的に考察して神話を現実のこととして
そのまま信じていると思いますね。
始めに自説ありきじゃないです。
私はこれまで、ほんとの初心者のときは近畿を指示していました。1日位。
その次がイトは佐賀あたりになって有明海を南下、邪馬台国は宇佐か宮崎になった。
放射説になったり。
結局今は連続説で山門郡山川に収まったよ。
あなたこそ自説ありきだと思うけどね。
>>940 面白いです
装飾古墳はあるいは玉名地方あたりで発生したものではないかと思っていましたが
阿蘇がその発祥の地である可能性が高いのでしょうか
959 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:41:53
宇佐は渡来人が開拓した土地だから、
邪馬台国では絶対にありえない。
>>957 宇佐を候補に入れるなんて、根本的に勉強が足りなさすぎだ。
960 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:44:13
山門郡なんて、距離が全然近すぎる。
そこまで魏志倭人伝を否定するなら、畿内説でかまわないはずだ。
961 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 21:54:09
>>959 ですから初心者でしたから。
でもですね、宇佐も渡来人が開拓した以前も人がいたことはわかりますよね。
新羅系が開拓したのはわかりますが、
その前は倭の五王系でその前は邪馬台国+狗奴国の支配していた土地かもしれないんですよ。
魏志倭人伝での邪馬台国は山門郡だと思いますけど。
歴史は流れをぶった切っちゃだめだと思いますね。
962 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:05:11
上古の官道が山川町の今の佐野の葉日の窪を起点に豊後の
玖珠に到着し出雲に達する一線と宮崎日向に達する一筋があるんですよ。
これは邪馬台国+狗奴国連合が領土を広げていった証だと思いますね。
かも知れないし、違うかもしれない・・それが問題だ・・・
>>959 宇佐には赤塚古墳という箸墓と同じくらいの時期の古墳があるんだが
伊都国って、邪馬台国が一大率おいて
諸国を監視していたところだろう?
しかも、規模は奴国の片隅にあるようなところ。
966 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:20:30
魏使の九州上陸は、
釜山⇒対馬 南千里
対馬⇒壱岐 南千里
壱岐⇒ ?千里
からして博多と見るのが妥当でしょう
海流を考えても東に上陸する方が楽
上陸後も東の方角へ使者は進みます
>>959>>961 おまえらに突っ込むが
なんで、宇佐が渡来系が開拓したところになるのか?
宇佐は、神功皇后が半島遠征の折に
かなり、あの周辺を開拓したところだろう?4世紀くらいに。
その時に、戦争捕虜を使って開拓しただけのことだろう?
むろん、それ以前から宇佐には歴史があり
おそらく紀元1世紀の神武東征の頃から
あそこには明確に歴史がある。
でも宇佐だと、水行の件はどうやって説明するんだ。
放射読みで、
伊都国から南へ水行20日で投馬國、
伊都国から南へ水行なら10日、陸行なら1月で邪馬台国。
こう読んでも苦しいんじゃない、宇佐は福岡から見てもほぼ真東だし、
水行は関門海峡経由、陸行は海沿いを歩くのかい、
それでも近すぎないだろうか?
969 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:23:06
宇佐は豊の名にあるように邪馬台国の後継者トヨの時代に
領土を広げた土地ではないかなと思いますね。
トヨの邪馬台国と狗奴国は結局和平を結び、狗奴国が指導的立場になったと考える。
その時、北部沿岸の伊都国などは仲間であったかなかったかはまだ勉強不足で推理できてないけど。
970 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:23:55
>>970 いやそういう意味じゃないんだが。
渡来人が開拓しなくてもそこにはすでに一つの権力が存在しているということだよ。
972 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 22:33:20
渡来人だと認めるのが嫌だから、過去を隠すために編纂したのが記紀でしょう?
>>969 トヨとは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命のことだろう?
>>972 そんなアホなw
記紀の編纂目的がいつからそうなったんだw
そもそも、記紀には普通に外国関係の話も多く載っているしs
むしり、いかに日本の国威が海外までも広がっていたか
強調したつくりになっているw
日本書紀とは、律令体制への以降が大きな目的で
その過程で、対中国外交に必要な歴史書の編纂が必要になったから
つくられたもの。
そのひとつに編年体で書かれているのが大きな特徴。
それ以前の日本の史書には、編年体で書かれたものがなかった。
それ以前の日本では、古事記のように大雑把な年代
たとえば、天皇の干支没年とか天皇の寿命みたいなものしか書かれてはいなくて
それ以外は風土記のように時系列ではないような記録が残ってなかった。
>>974出雲神話を引用したり、や九州王朝の系統を使って、
天皇家の正当性を主張するために編纂された聞いていますが・・・
976 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 23:10:02
>>973 記紀では誰に当たるのかちょっとわからないけど、
西暦でいえば、紀元250位〜350位の間に
領土を広げたと思う。(トヨは26?年位で退位している)
紀元350以降は倭の五王に実権は交代する。
百済の建国とほとんど時を同じくして、扶余系の王が渡来したと思う。
婚姻で姻戚関係になったと思う。記紀の記述の名前などから推理すると。
大抵そうやって昔の豪族達は政略結婚で自国の安泰を計っていたから。
トヨタン・・・・・・・・・・
百ちゃん・・・
979 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 23:27:21
>>968 「伊都国から南へ水行20日いったところの投馬(つま)國」なら西都原の「妻」国しかないだろ。
サクヤ姫が妊娠したときニニギに「俺の子じゃないのでは?」と疑われ家に火を放ちながら生んだという伝説の。
ところで当時「倭国を探していた呉」と敵対する「魏」の使者は邪馬台国だけでなく周辺国を魏の味方につけねばならず、宝物を見せびらかしながら行く先々で歓待を受けたはず。
「未知の島国で岸沿いの国々を回りながら」ならやはり20日ぐらいかかる(かけた)だろう。
馴れた船乗りがとばせば5日でつける距離でも現実に20日かかったとして、皇帝に対して「私の勘では5日ぐらい」とは言えないはず。(むしろ「20日もかけて苦労しました」というだろう)
荷物の少ない帰りは陸路だろうが、あの魏志倭人伝の「詳細な倭国の内情の記録」を見る限り、1週間や10日見聞きしたものではなく最低ひと月かけて九州を縦断して北九州に戻っただろう。
>>975 そんな面倒くさいこと、なぜ
しなきゃいけないんだ?
そんなことしなくても、畿内中心主義で行きたかったら
普通に畿内王朝だけの記載を書けばよいだけで。
出雲王朝の記述に関しては、畿内王朝が全国を統一する過程で
重要な材料だったから、ずっと出雲神話も重視してきたんだろう?
あんまり、詳しくと、ネタバレになるから書かない。
このへんの真相に関しては、2ちゃんで書くのはもったいない。
>>976 >百済の建国とほとんど時を同じくして、扶余系の王が渡来したと思う。
そんなこと、これっぽちも文献には記載されてないだろう?
だいたいさ、新撰姓氏録にも、ちゃんと諸蕃というカテゴリがあって
渡来系氏族という項目があるわけだからw
別に、そういう氏族はどうどうと記載されているわけだし
もし、皇室が渡来系氏族なら、どうどうと書くだろう?そういうふうにw
そもそも、隣国の百済は、王家が堂々と
自分たちは、中国東北地区の扶余の出身だって
どうどうと名乗っていたわけだしw
日本の皇室だって、もし、そうだとしたら
どうどうと、そういう風に名乗るだろうがw
2ちゃんでは書きたくないんだけど
日本を統一した現在の皇室の祖先は、やはり畿内(中でも葛城)で発生し
全国を統一したのであって、
そのへんは、西暦5世紀の倭王武(雄略天皇)も
そのように発言しているだろう?
倭王武が中国皇帝に説明した文では、どうみても
畿内を中心に、西日本、東日本と統一して、最後は半島へも攻めていった
としか書かれていない。
でも、あの神武東征がなかったのか?というと、そうは思わない。
そして、畿内王朝が全国統一する過程で、出雲を平和的に降伏させた事件が
後の畿内王朝の継承者にとって重要だったことが推測できる。
これについては詳しいことは書かない。
983 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:46:21
九州説は、出雲を無視してるからねえ。(笑)
984 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 02:38:07
>>982 >2ちゃんでは書きたくないんだけど
>これについては詳しいことは書かない
別に書かなくて良いよw
もうその手の話はおなかいっぱいなんでwww
>>981 神功皇后が朝鮮からの渡来人だったのではないかという説はあるようですね
神功皇后・応神天皇の時代は弓月の君をはじめ朝鮮半島から大勢の人間が入ってきた時代でもありますね
986 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 07:00:55
>>981 そう言えば、太伯の子孫だと名乗っていたね。
987 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 07:28:53
>>970 他人を笑えないな。箸墓も径百余歩には合わないよ。
988 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 13:21:11
記紀がなぜ本当のことを正直に書かなかったいうのは、
白村江で大敗したので、
唐や新羅を牽制する目的と
その反面強国化を計ろうとするために、
唐の文化や新羅との交流により他国の進んだ文化を
積極的に取り入れて
なるべく日本は古い歴史を有する国であって
由緒正しい系図を持っているということをアピールしたかったからだと思う。
今の皇室は書紀の記述よりもっとずっと後だよ、申し訳ないけど。
けど、今となっては千年以上の長い由緒ある家系なのだから
無理してAC660〜始めなくてもいいと思う。
そのころは九州の隼人族あたりが九州に上陸して大陸文化を伝えたころだよ。
989 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 15:05:09
風土記で大海命の子孫となってる宗像氏が、姓氏録では大国主命の子孫となっている。
>>985 それは、神功皇后の時代に三韓征伐に出かけたからだろう?
当然、半島へ軍事侵攻する場合、半島から戦争捕虜を奪うことは当たり前。
戦後、そういった戦争捕虜を労働力として、公共事業などに使うためだ。
だいたい、もし、皇室が半島系なら、わざわざ
新撰姓氏録に、諸蕃という項目をもうけて、
どうどうと渡来系の豪族まで書かないだろう?
記紀で皇室が隠したかったことは、もろ、熱田社の尾張氏のことだろう?
古事記を編纂し始めた晩年、天武天皇は三種の神器の天村雲剣の所有をめぐって
尾張氏と大喧嘩し、大騒動を巻き起こしている。
この頃、天武天皇は病気になって、これは天村雲剣の祟りだとか言って
結局、尾張氏に謝って、それを返却している。
で、記紀の謎の最大の部分を
時系列に並べると
出雲国譲り、
ニニギ命の高千穂への天孫降臨、
神武の東征
欠史八代(この時代に倭国大乱が起こり、卑弥呼が擁立されたとみえる)
このあたりに、皇室と尾張氏の謎が隠されている。
日本書紀編纂後、だいぶんたって、平安時代に入ってから
続日本紀というのが朝廷によって編纂された。
実は、これには、古事記や日本書紀には書かれなかった内容が補足されている。
その内容が、壬申の乱時における尾張氏の凄まじい活躍ぶり。
はっきりいて、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で勝てたのは
尾張氏のおかげといってもいい。
そもそも、大海人皇子は、その名前の由来は、
尾張氏の一族の大海氏に養育されたからきたものであり、
彼は尾張氏の勢力圏内で養育されたわけで。
そんな恩人である尾張氏の功績を、天武天皇は古事記で、削除している。
しかも、天村雲剣を奪おうとしたり。
何があったのか?
で、その尾張氏の御先祖様が、天火明命。
皇室の先祖ニニギ命の兄とされている神様(上様)で
またの名を天照国照彦といい、
日本全国にある男の太陽神アマテルを祭っているのは、この神様(上様)
よく、天武天皇が、古事記を編纂する時に
もともとは男の太陽神アマテルを皇祖神として祭っていたのを、
女神アマテラスとして祀りなおしたという説があるが
だとしたら、天武天皇は、この部分でも、尾張氏の存在を
大幅に薄めようとやっきになっていたことが分かる。
そして、播磨国風土記や、旧事本紀、海部氏系図には、
出雲国譲りを達成し、天下を統一したのは、天火明命だとなっている。
この天火明命の后は、大国主命の娘であり、播磨国風土記には
大国主命が義理の息子である天火明命に降参する話が出てくる。
どうでもよいけど、邪馬台国九州説で食っていけるのは
いつまでなのかな?
これまで、邪馬台国九州説で食ってきた作家や在野の学者さんって
多いだろうしね。
普通のアカデミックの学者さんと違って
在野の学者さんとか、本の売り上げに依存するしねw
まあ、作家さんは、それ以外の分野で小説を書けばよいから
別にかまわないかもしれないけどw
994 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:14:20
でも、魏志倭人伝で邪馬台国(無かったかも)畿内説と誤解した日本人かも。九州のある程度大きな邑にたどりついた漢人。その邑の長が教えた似非邪馬台国、日本を大きく見せ、邑を攻撃されない口実。邪馬台国でっち上げた。君たちが来たのは
邪馬台国支配下の小さな小さなで九州の邑。これ以上、踏み込むと大変だよ。日本強いよ。漢人、おののき、これ以上先に行くのがめんどうか、怖いから。九州で機内かどこかわからない邪馬台国の寓話を誠らしく話、聞いたので
歩いて000日とか、知ったかぶりかでっち上げの話、魏志倭人伝に書いちゃった、中国の王朝にうそつき任務終了。
この推論だめかな 教えてくれ。
というか、隋のあたりの時代だったか
はっきりと、邪馬台とは、大和のことだよって
中国の史書にも記載されているんだけどね。
あれは、本当のことだろう?
996 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:18:09
>>993 >どうでもよいけど、・・・・(以下略)
だったらレスなんかするなよ〜www
997 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 21:46:58
>>991 >そんな恩人である尾張氏の功績を、天武天皇は古事記で、削除している。
はあ?
天武が古事記を最終校訂したのか?
天武天皇が古事記を編纂しはじめたんだろうけど、
完成したのはずっと後。
ただ、もし、尾張氏と天武天皇の争いごとが
出雲国譲りで、天火明命のことなら、
天武天皇個人というよりも、現在の皇室全体に関わることだよな。
なぜなら、現在の皇室は、ニニギ命の子孫だし。
999 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:07:44
まじで、尾張氏の話はうざい。
邪馬台国九州説を主張する俺にとっては邪魔な主張。
尾張氏の話は、邪馬台国畿内説を補強する内容だから、許せない!
1000 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 22:08:29
1000ならば、邪馬台国畿内説で確定。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。