1 :
日本@名無史さん :
2009/03/17(火) 20:40:38 こっちにも立ててみた。
2 :
日本@名無史さん :2009/03/17(火) 21:07:48
スレ立て乙。 世界史板から移動ね。
3 :
日本@名無史さん :2009/03/17(火) 21:50:31
武士厨騎士厨騎馬厨中華厨隔離スレ
>1 日本史板の元寇スレと住民が被っているんだけど・・・ 何故世界史板で続きをやらないの?
時代的に隔絶した存在を比較するの禁止な
6 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 03:08:33
隔離スレってことにしたいんだろうな
8 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 11:02:26
>>6 自分達が論破されたんを認めたくないんだろうねえ
みだれうちvsまもり
11 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 22:46:13
プwチョンにサムライジャパンまた負けたんだって?プw
12 :
日本@名無史さん :2009/03/18(水) 23:35:13
スレ違いかつ板違い
「板違い」との指摘だけで十分であろう
たしかに鎌倉武士と騎士は似てるよね。 どちらも、 領地の地名を苗字にし 家紋を持ち いくさに出かけるときは自分の領地の若者を従者や兵士として帯同 ドラゴン退治や鬼成敗などの怪物退治伝説を持つ 西欧も日本も非常によく似た精緻な封建時代を経験したから、似たような 工業先進国になったんだろうね。
ドラゴン騎士団
武士道も騎士道も実際に存在しなかった、という点では同じだな
竜騎士vs鬼武者 という電波を受信した。
いいよ 話してよ
騎士とか日本史と関係ないじゃん 世界史板にカエレ
20 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 01:40:22
>>19 むしろ歴ゲー板か戦国時代板か歴史難民板に立てるべきだったな
あそこならこの手の話題が好きなガキが多いし
21 :
4 :2009/03/20(金) 02:13:08
普段は質問スレで雑談している連中までもが参加して熱中し、話題がループし初めて厭きたからといって 関係ない他所の板に廃棄スレを立ててバックレル世界史板のモラルってどうよ?
22 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 19:02:17
十字軍、モンゴル、そしてオスマン帝国と何度も異文化圏との戦いを経験し 多彩な戦術や兵器が生み出された西洋の戦争と 島国の中でひたすら内輪の小競り合いに終止し、騎兵すら存在せず 対外戦争では朝鮮の兵にすら負けてばかりの日本では比較にすらならない
>>22 宗教でオツムが硬化していた騎士
だから彼らは中世で滅び、武士は近世(西洋区分なら近代)まで生き残った
24 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 20:19:21
>>23 それは単に日本全体がおつむが硬化したから
武士みたいな存在が近代まで平然とあったんだろう
>>24 硬化していた割には教育水準は高いけどね?
>>24 なんか、その必死さが痛々しい
でもかわいいよ
27 :
日本@名無史さん :2009/03/20(金) 20:49:01
えへへ、ありがと♪
>>20 確かにそうだな
特に歴史難民板でやるってのはいいアイディアだ
どう見てもこのスレは日本史板のジャンルから逸脱してる
30 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 00:27:12
かと言って世界史板だと白人厨に荒らされるのがオチだからな。 軍板だと流石に板違いっぽいし。戦国板や難民板は何気に 日本史板や世界史板よりずっとこの手の話題に詳しい住人もいる。
ローマ帝国末期の混乱で古代メソポタミアからの知識が断絶してしまった時代の西欧なら 古代中国からの知識を存続させてきた鎌倉日本の方が 文化も戦術も上。
またぁ
くぱぁ(i)
>>30 あそこも大概厨率高いが、少なくとも日本史板や世界史板みたいに
変な妄説に振り回されてそれありきで語るドアホが住み着かないだけマシだな。
いや、難民板もたまに変なのが住み着くことあるけど。
35 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 05:00:22
個人的にむしろ軍板に立てるのがベストだと思うんだがどうだろう? スレの話題を武士と騎士に限定するのではなく12〜16世紀を中心に 近代以前の世界各地の軍隊の戦術や装備を比較するスレにすれば板違いじゃないし というか前スレだって途中から武士と騎士というより 武士と欧州、もしくは中華の軍隊を比較するスレになってたし。
某研がくるぞーーーーーー!
37 :
日本@名無史さん :2009/03/21(土) 10:14:33
早まるなよw軍板の連中気難しいし
VSとか止めろよ
そうそう、いちいち対立煽るようなスレタイにするから
>>22 や
>>31 みたいなバカが寄ってくるんだよな。
同じように戦術や軍備を語るスレでもVSとか
どっちが強いだなんて言ってないスレは荒れにくくて良スレになりやすい
世界史板の武士厨はうざかった ろくに論説もせずに史料嫁えらそーに命令するか人格攻撃するかだけ 騎士厨も似たようなもんだが武士厨は人間的にオワットル
42 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 05:02:01
むしろ糞コテとクルセイダーっぽい奴のウザさで あまり気にならなかったがな
正直どっちもうざかった 畑違いなせいか、互いに相手側の事全く知らずにわめき立ててるだけな奴が目立ちすぎ そういう面でもちゃんぽん上等な軍板向きだろうな 食い物スレで終わる可能性もあるがw
スレ主は立て逃げに等しいアホ。 条件によって全然違う。 「時代」 卑怯でも勝利第一の戦国〜忠義重視お役人化の江戸 「武器」 日常の護身具は日本刀〜戦場の主力は弓槍 「防具」 騎士にしても、レザーアーマーから馬上用のフルプレートまで幅がありすぎ
直接交戦したことも無いのに比べられるわけないだろ。 この手のスレでよく見る 「重たいだけの鎧着てる騎士なんてアウトレンジでフルボッコ」 「原始的な軍制の日本じゃグスタフアドルフの戦術に対応出来ない」 どっちも言ってることがナンセンス極まりないよ。
あと、モンゴル(元)を比較材料にするのも無意味。 騎士はモンゴル騎兵と戦い、 武士は高麗・南宋兵が主力の上陸兵と戦った。(弘安の役) (文永の役は、兵数や矢玉数とかで、威力偵察の可能性が高い)
比べるのが無意味なのには同意だがお前さんの >主力は南宋・高麗兵 >武威偵察 はどっちも現在では否定されてるぞ。 あとヨーロッパ遠征軍にもモンゴル人以外の兵もいたしな。
48 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 13:19:18
49 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 14:08:02
こういう上から目線で語るバカばっかだから騎士厨はバカなんだよ
50 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 17:12:34
つーか、本当の歴史では騎士と武士は戦っているのだから どっちが強かったかは明らかなのでは?
51 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 18:03:11
52 :
日本@名無史さん :2009/03/23(月) 22:00:36
AOEだとどっちのが強かったっけ?
53 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 02:46:53
この手のスレの一生 まずコテつけた奴が西洋マンセーし日本を貶す ↓ 日本側が史料上げつつ反論する ↓ そのうちネトウヨだのニートだのと罵倒が始まるがそのうち大人しくなる ↓ レスが無くなったあたりで日本厨が調子に乗って妄言ぶちまけまくる ↓ まともな住人がいなくなる ↓ そのうち過疎化すると比較的学術的な話題が始まる(この頃が一番スレが落ち着く) ↓ しばらくするとまた厨が現れスレが荒れだす ↓ 反論に困った側が今更ながら「比べるなんて無駄」と言いつつ ○○はこっちのが上とやっぱりどっちかをマンセーする ↓ 結局最後まで話は平行線をたどり人格攻撃で無駄にレスばかり消費されて終了
武士のほうがつえーんじゃねえか。日本刀って1キロから3キロくらいだろ。 ヨーロッパの剣ってすっげー重そうじゃん。 ヨーロッパ人が剣を三回振り回す間に武士は五回くらい振り回せると思うぞ。 総マン慣れしてる奴は少年用の軽い金属バットを使うからな。
55 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 06:16:07
>>54 無知だな。
鎧を着てる戦場なら、刃物類は主力にならない。
普段なら、西洋もフェンシングのように細身の剣だ。
56 :
55 :2009/03/24(火) 06:17:43
△刃物類は主力にならない。 槍は主力になる。刀剣類は二の次。
57 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 07:30:55
戦国期の日本なら、刀よりも槍、槍よりも投石で戦果を挙げるからな。 相手の戦意を挫いて逃走させ、追撃戦で討ち取るのが野戦の基本戦術だから。
58 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 08:40:02
投石というより弓だったんじゃね?
59 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/03/24(火) 09:13:52
騎士の剣は斬るためでなく振動でダウンさせるためだって テレビでやってた。
60 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 09:22:54
>>58 弓も投石も殺傷原因の中では、刀槍よりもかなり割合が高かったようだ。
61 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 09:38:49
>>59 というか武士にとって太刀がサブウェポンだったのと同様
騎士にとっても剣はサブウェポンだったからねえ。
むしろ日本でいう金棒みたいなメイスで兜ごと
ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー♪してたみたい。
62 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 10:46:05
日本でも強力自慢の武将には、太い棒に目釘を入れた打撃用武器を使って敵を フルボッコするものもいた。 ただ、槍も突くだけじゃなくて石突の方で敵の頭を砕いたり、長さを利用して 叩いたり掬ったり薙いだり突いたりでフルボッコするのが本来の使い方だ。 日本の脇差も、甲冑でがちがちに固めた相手の防具の隙間に差し込んで ぐちゃぐちゃにかき回し、失血させて抵抗力を奪ってから首を取るのが本来の 使い方だし。
63 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 11:41:17
ごめん、なんか今マンガで不良が使う釘バット連想した
投石って日本にカタパルトはないだろ。
65 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 16:02:32
カタパルトじゃなくてスリングの方でしょ
66 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 18:36:24
古武道演武大会で槍術の演武を見ると 鎌槍で敵の武器を引っ掛けて引き倒す技も多いようだ
67 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 20:13:48
68 :
65 :2009/03/24(火) 20:30:20
スリングなら弥生時代の遺跡からも見つかってるし 戦国期にも小山田くんが使ってたよ
69 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 20:36:09
全盛期のアーノルドシュワルツネッガーみたいな人間が重装甲の鎧を 着て、普段から武芸に打ち込んでいたんだから、武士に勝ち目は無いよ。 結果は、秀吉の朝鮮出兵。あれは、実は日本に来ていたヨーロッパ軍と 日本勢の戦争。 戦闘で勝ちまくる日本兵側・・・ヨーロッパの兵隊 戦闘で負けまくる明・朝鮮兵側・・・日本の兵隊 そもそも、武士は「白人の残した日本監察官」なんだから、騎士から 派生したような存在。
うん 春だね
71 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 21:01:06
このスレの存在そのものが春だよw
72 :
日本@名無史さん :2009/03/24(火) 21:13:34
たまにはふりずんばいも思い出してあげてください(´・ω・`)
取りあえず、鉄砲が普及する前の武士の主兵装は弓矢だろ。 投石はその補助でしかない。だから、スリングでグルグル回して時間と範囲を無駄使いするより、 密集してポコポコ投げてた方がいい。
甲冑を着てる相手に通用するの?
76 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 01:31:55
ぼーくさーつ戦士ー♪メイスでゴスゴスナイトちゃーん♪
甲冑着てても、石の雨が降り注ぐ中には入りたくないな
なんか印字打ちの衆を合戦に投入した例がなかったっけ
79 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 15:32:43
>>61 スレチだがぴぴるぴるぴるぴぴるぴー♪は復活させる時だよ。
石投げの基本って、山城の上から投げ落とすんじゃないの?
81 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 21:32:03
熱湯や糞尿を掛けたりな
82 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 21:36:26
なんか一昔前のバラエティー番組の罰ゲームみたい
83 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 21:56:51
風雲ちはや城だな
84 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 14:30:40
たけし城ちゃうの?
85 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 14:53:45
大楠公を知らんのか
86 :
日本@名無史さん :2009/03/27(金) 16:45:10
ああ、千早嬢のことか
振飄石も知らんのか
>>85 楠公は偽壁の計略も面白いですね。
攻撃側が城壁に取り付いたらただの板でそれが倒れて大損害っていう。
89 :
日本@名無史さん :2009/03/30(月) 21:17:19
三河武士ほどの質実剛健な軍団ならスパルタ軍にも勝てる
vsスパルタなら、薩摩隼人の方がいいと思う。 いや、それより一緒に戦う方が面白いか?
それより応永の外冦を題材に東洋版「300」作ろうぜw This is SAMURAI!!
374 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 21:38:01
>「葉隠」の説く武士道を考える
> -「葉隠」武士道の犬死理論の陥穽-
>著作と責任/佐藤弘弥
http://www.st.rim.or.jp/~success/hagakure_ye.html 佐藤弘弥なる視野狭窄な御仁による珍葉隠論。
珍文章のしょっぱなから、ヒステリックなオナニー全開である。
「ヤンキースのマツイ」のたとえだとか、
そこらの中学2年生も感涙にむせびそうな、すばらしい思考のお綴りである。
この特大場外ホームラン級の知性が書いた小児的ファンタジーが
ネットで上位にひっかかり、目に★な方も多いだろうから、
とりあえずこのスレで駆除しておく。
377 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 22:47:23
>>.374
佐藤弘弥(笑)
空き樽は音が高いっていうか、キジも鳴かずば打たれまいに・・・
閑古鳥が鳴くサヨ系じゃんじゃんで市民記者を
しょぼしょぼやってればええのに(笑)
【検索ワード】
葉隠、佐藤弘弥、馬鹿、思い込みの禿しい爺さん、三島由紀夫
武士道、山本常朝、田代陣基、新渡戸稲造
93 :
日本@名無史さん :2009/04/10(金) 10:51:39
倭猿最弱伝説w 白村江の戦い→わずか7000の唐軍に惨敗 刀伊の入寇→撃退したと主張するも実際は掠奪、拉致を完了した女真族が帰国しただけ (壱岐では住民が35人に激減) 一部の女真族が高麗を攻撃したが、高麗水軍に敗れ拉日致されていた日本人を解放帰国させた 文永の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される 暴風雨により帰国していただく 日本側大勝利を喧伝するも海路侵攻にも関わらず敵の高級将官を一人も捕虜に出来ず 弘安の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される 前回より兵力は多かったが、多くは武器より農具を多く持ち込んだ旧南宋の老兵 暴風雨により帰国していただく 今回も日本側大勝利を喧伝するも日本側に捕虜にされた将官は皆無 応永の外寇→いとも簡単に朝鮮軍に対馬を占領される。日本は朝鮮に朝貢すると土下座してお帰りいただく コシャマインの乱、シャクシャインの乱→アイヌモシリ侵略しようとしたらアイヌの土人にボコられる。騙し討ちでなんとか事なきを得る 秀吉の朝鮮侵略→中国制圧という戦略目標はおろか、朝鮮制圧も達せず、長い年月と多額の費用、 多数の犠牲を出し敗北撤退 多数の犠牲を出し敗北撤退 下関戦争→わずかな水兵が上陸しただけで長州兵は恐れを成して砲も破壊せず遁走 連合軍は無傷の砲を多数捕獲 薩英戦争→英艦隊に圧倒され敗色が濃かったが、英艦隊が砲弾が少なくなったため、撤収 薩摩側は完敗を認め賠償金支払い
95 :
日本@名無史さん :2009/04/18(土) 15:12:59
パステルス「日本スペイン交渉史」 ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙 「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。 カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。 シャム、ここは1500人で征服できます。 いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・ 日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
全然延びないな。 やっぱ世界史板じゃないとダメだなw
最強厨ってのは軍板では侮蔑の対象だしね 「武士と騎士どっちがつおいの」 って問いに対しては 「兵站と訓練と情報と指揮統制はそれぞれどうなってる? 戦場の状況は? 各陣営の勝利条件は?」 と問い返すのがよく訓練された軍オタ
99 :
日本@名無史さん :2009/04/25(土) 20:48:19
十字軍時代の騎士100騎と鎌倉時代の武士100騎が平原で会戦した場合は、 騎士がランスチャージで突進してくるところに、鎌倉武士が矢を射掛けて、 武士の陣にたどり着く前に1/3は減っているだろう。それに、接近戦になった 場合、長刀や長巻のように振り回し斬撃できない騎士のランスは、一旦武士 にかわされて接近されたら、太刀で馬から突き落としたりする武士の戦法で 落馬させられ、落馬したところをチェーンメイルの隙間から鎧通しでぶすりと やられて、一方的に負けると思う。 十字軍時代の騎士の鎧は柔軟性はあっても重くて、それでいて長弓から 矢の直撃には容易に貫通したチェーンメイルだし、視界の悪いバケツヘル メットだから、地上での組討では死角から飛び込まれて装甲の薄い鎖骨の 部分や首筋の辺りに太刀や鎧通しをぶすりとやられるだけのように思う。
100 :
日本@名無史さん :2009/04/26(日) 00:17:20
>>98 軍板だと唐入りスレや蒙古襲来スレもまともな考察スレになってるしね。
バカウヨの巣窟の日本史板やバカサヨの巣窟の世界史板とは違うよ。
まあそんかわし、基本的なところ勘違いしたりする人は結構いるが。
102 :
日本@名無史さん :2009/04/26(日) 12:19:56
確かに、どっちが強い、みたいなスレは馬鹿っぽい、てかガキっぽい
騎士最強 頭の上にでかすぎる飾りのついた鎧しか着てない武士じゃ動けるわけないだろw シンプルで機能的な騎士が勝つよ
でたでた キモイよ騎士厨
>>103 あれは木・紙・革でできてます
騎士様の様な何とかの一つ覚えの様に全部が鉄ではありません
>>103 頭に無意味な飾りをつけたり
するのはヨーロッパでもよくあることなのを知らんのかね
騎士厨ってその正体は「騎士厨」ではないんじゃないの?
単に武士が優秀であることに対して嫉妬・火病になる連中が騎士を隠れ蓑にしているだけでは?
ナニ厨であろうが軍板で厨はバカにされるのが宿命
いつの時代を比較するの?
どの兵装での対決を想定するの?
>>1 よその辺の設定を明確にしてくれ。
109 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 13:39:00
外国を持ち上げ自国を叩くことは日本人の謙虚さの現れですw
文永の役の武士と ワールシュタットのドイツ騎士団の比較でどうだろう
鎌倉武士最強厨が居ないと盛り上がらんな
>>103 みたいな騎士厨はなにも資料を提示しない分盛り上がりに欠ける
反論しようにもただの印象操作だけだもんな
114 :
日本@名無史さん :2009/04/30(木) 18:20:43
もうベルセルクのガッツ(鷹の団時代)VS花の慶次の前田慶次でよくね?
それじゃ意気投合して 一緒に黙って酒飲んで終わっちゃうよ
116 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 15:53:46
順当な比較では、騎士が戦闘員として意味を持っていた十字軍時代と同時代の鎌倉〜南北朝 までの武士の比較が妥当だと思うけど。
117 :
日本@名無史さん :2009/05/02(土) 16:13:50
マジレスすると最強なのは南都や本願寺の僧兵と仏騎士軍を撃滅したフランドルの農民
南都の僧兵w
>>103 実際白兵戦を担当する下級武士はそんな飾りつけてないよ
また、武将クラスの飾りも実際はさほど重量に影響ない
>>105 の言うとおり
>>91 公家に撃退されるような敵では柔らかすぎて盛り上がらんな
121 :
日本@名無史さん :2009/05/04(月) 17:41:33
ロバート・フォーチュン 「幕末日本探訪記」 その辺りの平地の所で、サムライが始終教練を行っているらしい。 囲いの高い柵や潅木の茂みで視界がひどく妨げられたが、時々兵隊の旗や、武器が見えた。 大名達は彼らの藩兵に、戦争の技術を絶えず訓練させていたのである。 そのころ江戸の大名屋敷の傍らを通ると、剣術をやっている喧しい物音が聞こえた。 私が江戸に滞在している間に、同じような音響をしばしば耳にした。 もし、不幸にして、ヨーロッパ諸国が日本と戦うようなことが起こったら、 日本人はシナ人よりも非常に優勢なことが判るだろう。 しかし、そのような、日本人と戦うようなことは、遠い将来のことにさせたいものだ。
123 :
日本@名無史さん :2009/05/28(木) 14:30:27
>>114 最終的にはガッツが慶次に感化されて家来になってそう
124 :
日本@名無史さん :2009/06/05(金) 12:07:20
日本史板に来たら盛り上らなくなったね このスレ
もともと分断工作ネタの延長みたいなもんだからな
126 :
日本@名無史さん :2009/06/08(月) 19:52:20
実戦に対戦した記録(平服、武士 打ち刀 騎士 マント&レピア)では、開幕数秒で籠手を斬られて武士の負け。 どんな達人も武器を持てなくちゃ戦えないからね。 そのために、イタリア式の古流フェンシングではバインドからの籠手技が異常に発達している。実に理論的だ。
test
128 :
日本@名無史さん :2009/06/12(金) 21:23:38
>>126 >実戦に対戦した記録
ここkwsk
いや、調べても実際に武士と騎士が対戦した記録って見当たらなくって。
戦前に剣道とフェンシングが何度か対戦してフェンシングの方が勝率高かったって
話なら見つけたんだが。
129 :
日本@名無史さん :2009/06/13(土) 02:30:40
>>126 居合いとフェンシングなら居合いの方が強いと言うか有利だろう。
日本人の勇猛さには疑問の余地が無い。 自ら軍事国家と呼んでいるくらいで、幼少の頃から戦争道具を生きる道に選び、 刀と弓、この国固有の二つの武器の使用法を教えられる 日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、 相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。 当然のことながらこの武器は極度に危険な物と見なされ、 刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを殺しても正当防衛と認められる。 一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである 「日本素描」 エドゥアルド・スエンソン
131 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 23:13:44
Q――士道とは何か。 三島由紀夫:…ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。 内面的なモラルといつてもいい。 内面的なモラルといふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。 それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。 今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。 ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
132 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 23:14:38
抵抗に死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。 たとへば抵抗は楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。 ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないで フランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが非常にいやなんです。 抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。 内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。 …自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。 抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
133 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 23:15:41
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。 三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。 「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、 自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。 「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。 われわれの心の中を探つてみると、心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。 やましいものがあれば、士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。 なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。 一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
134 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 02:23:53
>>130 うち武士の家系だったらしいけど、俺は格闘技まったくやったことない
エンゲルベルト・ケンプファー「今日の日本・日本誌」 日本人は、戦争に於て勇あり。 確心あり。 彼等は愛も憎も尊敬も軽蔑も子々孫々これを伝えて凡ての凌辱は必ずや報いられずば止む事なく、 相手の一方が絶滅するに至って始めて偲止す。
「the fighting man of Japan 」 F. J. Norman (1868年に日本の将軍家の剣術指南役のもとで剣術を学んだ元イギリス騎兵の著作) 「両手を用いる日本の剣術は、ヨーロッパのどの国のFencingよりも格段に優れている」
「懲秘録」 日本人はよく刀槍を用ふ、我に堅甲なきがゆえに、敵するあたわず。 さればよろしく厚鉄を用ひ、満身の甲を作り、 兵士をしてこれをつらぬき、敵中に入らしむべしと。 これに於いて取り敢えず、これが見本を製造して、 これを試用したが、とてもその重きに堪えずして、これを廃した。
138 :
日本@名無史さん :2009/07/05(日) 21:54:51
足軽とかじゃなくてちゃんとした武士なら、同時代の騎士より強いだろうね。 ランスアタックしか出来ない騎士など、騎射でも槍の上からの撃ち込み でも、武士の方が攻撃のパターン多いしな。落馬させて徒歩での白兵戦 なら、武士の圧勝だろうし。
ま足軽の場合 数メートルの長槍で上から打ち下ろしてくる戦法が多いので 騎士の装備じゃ、足軽は弱くても、足軽には勝てないんだけどね
140 :
日本@名無史さん :2009/07/13(月) 03:07:38
騎士なんてランスチャージしか能がないから、遠戦では弓を使い、距離が近づけば槍・長刀 を使い白兵戦になれば刀剣を使える武士の方が、攻撃の手法が多い分圧倒敵意有利だろう。 大体、騎士がまともに戦士だった鎌倉時代の武士と相対したら、フルボッコだろう。
一応騎士も ポールアームやら使う時代もあるにはある けしてランスチャージのみ封じればいいというわけでもないとおもうよ どっちにしろ機動性に差がありすぎるので軍隊として考えた場合には まあ焼け石に水なのは確かだが… というか動員数だけで比べても 圧倒的すぎてどうしようもないわけだが…
まぁ欧州はクロスボウがな
クロスボウは威力はあっても守備用だからなぁ
146 :
日本@名無史さん :2009/07/23(木) 04:26:56
>>138-140 騎士がフルプレートアーマー着ている時代なら
武士の弓は痒くもなんともないから、どの時代で比べるかを書こう。
白兵戦でも、武士は盾かガントレットで殴られて顔面破壊されて終わり
だと大方予想がつくところだが、そこをあえて武士の圧勝と述べるならば
その意見に何らかの根拠が欲しい。
数に関して言えば、騎士の数も少ないが武士の数も少ないだろう。
信長以前の時代は戦になると農民を駆り出してたそうだ
(そのため田植えの時期などは戦ができなかった)。
ただこのスレの趣旨から言えば、数の差や騎士や武士以外の登場人物を
考慮に入れて議論するのは妥当ではないだろう。
しかし日本でも西欧でも重装騎兵が単独で戦争していた訳ではないが?
148 :
nomu :2009/07/24(金) 00:55:34
(※中世騎士VSサムライはどう?と聞かれた西洋人の書き込み ) 戦いの観点では、サムライはずっと速く動けるという強みがあった。 サムライは甲冑をまとっていたとはいえ、騎士が着用していたようなものではない。 時代にもよるが、おおむね1200〜1700年代にサムライがまとっていた甲冑一式は、鎧と呼ばれ、 騎士の甲冑の一揃によく似ているが、はるかに動くことが可能だった。 後期にはサムライは甲冑を減らし、身を守るのに甲冑ではなく己の剣術を頼みとするようになった。 サムライは重い甲冑ではないおかげで、より持久力もあった。 騎士は防具が多く、サムライはすぐには疲れないという利点があったんだ。 大変興味深いことに、中国人はブロード・ソードによく似ている、実際ほとんど同一の剣を使った しかし、日本人が朝鮮を経て1592年に中国に侵攻した際、中国人は日本刀の優越を認め、 日本刀を使うためすぐにその様式を捨てた。 日本刀は中国軍の正規品の一部となった。 様式と製法は異なっていたが、その刀は同じといえる。 自分は全般的にサムライ寄りなんだ。騎士は着用した甲冑により大変厳しい戦いになるだろう。 とはいえ、それこそが優位なところだと思う。が、サムライは身軽で、きっと勝つだろう。圧勝さ。 ― hitokiri_gensai ― (※西洋文化圏の人間自身が西洋甲冑の動きの悪さを指摘しているのに なぜか外野の日本人が必死に「西洋甲冑は凄い超兵器だ!」とか大風呂敷広げてる状況に失笑を禁じえない)
>信長以前の時代は戦になると農民を駆り出してたそうだ そりゃお互い日本人同士、動員数の多いもの同士が戦うからだろ 相手の武士が多ければそれ以上の人数がほしい、 あいてが増員するならこちらも増員する。 そういうインフレーションの結果だろ。
それ以前に、ヨーロッパ一国の騎士身分と日本一国の武士身分だと、 後者の方が圧倒的に多いというところを突っ込むべきだろ。 後、騎士を他兵科から切り離すとまったく使い物にならないぞ。 装甲槍騎兵ほど、他兵科の援護を必要とする兵科は中々無いからな。 単独で汎用性に富む武士と比較すると、差が更に開くんだが……
此六十六箇國には多數の都市あり、廣大にして人口多く、C潔にして秩序正しく、 欧洲に於て之と比較すべきものを發見すること困難なるべし。 而して陸路を行くこと二百レグワを超ゆるも人の居住せざる地一レグワを見ること稀なり。 家屋市街及び城郭は善美にして、これを過賞すること難し。 人民の數非常に多く、悉く國内に容るゝこと能はざるが如し。 人口二十萬の市多く、都の市は八十萬を超えたり。 此等の住民若しイスパニヤ土人の如く野蠻ならば恐るゝに足らざれども、 彼等は長銃を有し最も熟練せる兵士の如く巧妙に之を用ふ。 又弓、矢、鎗、及びカタナ(cathanas)と稱する劍及び短劍を有す。 而してイスパニヤ人と同じく勇敢なるのみならず 議論及び理解の能力に於ても之に劣ることなし。 ドン・ロドリゴ『日本見聞録』
花郎が最強だよ 武士なんて弱っちいのより 花郎 vs 騎士のほうが盛り上がる
なにそれ?男娼かなにかか?
動員数の話になるとヨーロッパは勝ち目がなくなるからなぁ
騎士が一番期待されているのは戦闘能力じゃなくて金でしょ 戦争での手柄はいってみれば戦争運営のための資金を出してくれたことへの まあ報償みたいなものなんじゃないの 協賛者へのサービスコンペみたいなもんで だから、事前に下級兵士が戦って、士気も統制も崩壊させたところへのみ さっそうと突っ込むという かっこいいところをお膳立てしてもらってるわけで もし士気も統制もきちんと機能した殺気ムンムンの敵軍にそのまま突っ込んだら 、あの鎧はまさに鉄の棺桶になるだろうね ビフィズス菌に包囲され食いつくされる悪玉菌を連想するような惨事に
157 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 08:24:10
>>149 hitokiri_gensaiってハンドルネームからして、この外人は日本アニメヲタクだろう。
この手の海外掲示板ではこの手の日本アニメヲタクはよく叩かれてるぞ。
アニメで身に付けた乏しくまた誤った情報しか持ち合わせてないくせにバイアスが強いって。
実際は騎士の鎧はとても良く設計されていて、軽く、人の動作に対する制限も殆どない。
全身鎧でも20kg程しかなく、またオーダーメイドなため体に密着していて重量は体全体に分散されている。
素早く走り回ったり、横たわった状態から跳ね起きて立ったりなどは普通にできたし、
鎧着用時での戦闘訓練を子供の頃から積んで育てられた騎士は、全身鎧の姿で1人で
馬に乗れて1人前と見なされた。
またプレートアーマーは剣や弓矢による攻撃には完全な耐性を持っているから
武士の持っていた攻撃方法で通用するものはなかったと思われる。
なお、関節や隙間を狙った攻撃に対する防御もミラノ式甲冑の時点で完全なものとなっているが、
それ以前の時代でも、下にチェーンメールを着込んだり鎖や板金板を縫い付けたギャンベゾンを
下に着こんでその対策を行っていた。
実験だと和弓は1.6mm厚のフライパンを抜いているし、金砕棒による攻撃もある 一概に抜けないとは言えないかと
>>157 全身鎧で20キロなんてマクシミリアン式くらいだろ
しかも完成した直後に銃器が登場してすぐ廃れてるし。
それを騎士鎧のスタンダードみたいに語るのは、イメージ先行しすぎじゃね?
そもそもプレートメイルがある時代なら 武士は鉄砲撃っておわり
熊に勝つための鎧を作ってるアメリカ人思い出したw そいつは車でひいてもハンマーで殴られても平気な完全無欠の鎧を作ったんだが、 いざ熊と戦うために山に降り立ったら 歩くこともままならず、転んでそのまま動けなくなり スタッフに救助され、ヘリで吊り下げられて回収されてた 戦う前に敗北 鎧に対する西洋人の考え方は中世から全く変わってないらしいw
162 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 17:32:02
>>156 ちょっとその認識はおかしいのでは?
仮にも騎士は厳しく訓練された戦闘のプロであり、
食生活も農民よりはずっと良かったので体格も優れていただろうね。
士気も統制もきちんと機能した殺気ムンムンの敵軍であっても、
訓練されてもいない栄養もとれてない下級兵士じゃ束になっても騎士の敵ではないだろうね。
騎士がフルプレート装備していたらなおさら。
なるほど 曲がりなりにも鷹狩りなどによって軍事教練を行わされていた足軽とちがって 向こうの下級兵士は訓練ゼロでいきなり本番だったのか てっきりちゃんと訓練していると思ってたよ 部下を使うという 戦略レベルでは日本のほうが準備が周到だな
鎌倉時代の徒士なんかだと 騎射こそしないが主人の屋敷に集められて 剣術の稽古をしたなんていうこともあったようだぞ のちに登場する足軽と比べてほとんど前線で戦わないのに
165 :
nomu :2009/07/26(日) 19:15:13
しかし、そんな日本軍が天下人秀吉の下 16万から20万の大軍を率いても200年 の太平を貪り歴史上最も弱かった頃の朝鮮に 攻め入りながら7年の歳月をかけても寸土も 手に入らなかったのはどうしてだ! スペインはコルテス指揮下の500名、ピサロ 指揮下の180名でそれぞれアステカやインカを 征服しているのに!
七年も占領されてた事実は変わらない
歴史上もっとも弱かったというが 李氏朝鮮は滅びるその日までずうっと弱いままだったじゃん
ここは自分たちに適した全身鎧もまともに作れない国の人には関係ないスレだよ 「懲秘録」 日本人はよく刀槍を用いる。 我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。 そこで厚鉄を用い全身鎧を作り この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。 取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、 これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
単なる歩兵が武士と勘違いされているからね・・。 江戸〜明治期の武士のインフレが原因で。
170 :
nomu :2009/07/26(日) 21:03:22
当時の朝鮮には正規軍7千人、後は両班の私兵(といっても 戦闘経験のあるものは皆無、日本の場合も殆どは農民だが、 戦国時代だけに殆どが歴戦の武装農民) 16万から20万の兵力を持ってすれば余裕で制圧できるはずだった。 でも実際には私兵集団に手こずり、侵攻から9ヶ月たってようやく 到来した明軍5万人に押し切られて北部朝鮮を取り返されている! その言い訳として冬将軍のせいにする言説が見受けられるが、 北部朝鮮を完全に制圧していれば現地人の住居を陣地にして暖を とることができるはずだ!
171 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 21:19:57
>でも実際には私兵集団に手こずり、 一ヶ月足らずで首都に迫られたのに? >明軍5万人に押し切られて 日本軍が一箇所に集まってたと思ってるのか? >地人の住居を陣地にして暖をとることができるはずだ! 貧しい朝鮮で現地徴用もできず補給がおぼつかないのに? 10点。 もうちょっと勉強しといで。
172 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 21:30:08
>>162 厳しく訓練された戦闘のプロだけど、
頭脳が哀れなくらいお粗末なので、
突撃しか能がないんだよね。
第四回十字軍の騎士が、ブルガリア帝国のコミ族みたいな
素朴な遊牧民族にワンパターンでやられまくり、
皇帝が生け捕りにされたのにはワロタ
>>172 十字軍あたりの時代に限定しても「突撃しか能がない」ってのはあり得んなあ。
当時のノルマン人の戦争なんかについて調べれば分かるけど。
174 :
日本@名無史さん :2009/07/27(月) 00:54:38
>スペインはコルテス指揮下の500名 それはこの資料を提示してくれというフリかな? パステルス「日本スペイン交渉史」 ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙 「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。 カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。 シャム、ここは1500人で征服できます。 いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・ 日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
175 :
nomu :2009/07/27(月) 01:01:01
>>174 お前って途方もない程の大馬鹿でね!
当時のスペインがルソン植民地にどれだけの
兵力をおいていたと思っているのパステルス
の書簡からも1000人か1500人、多くて2000人
程度だぞ!
日本は文禄の役に16万から20万も投入した。
兵力が違いすぎるだろう!
つまりあれだ、日本は東アジア伝統の人海戦術
でルソンを占領できることをお前は言いたいんだな!
つまり君は朝鮮が日本に対抗できるだけの軍事力を発揮できなかった言い訳を一生懸命しているわけね
>>175 釣りか天然か知らんが、馬鹿なことを言ってるのはおまえだろw
当時世界でも一、二位を争う明帝国を相手にした朝鮮征伐と、
武器は石器で馬も知らない土民国家のインカ、アステカ征服を同列に語るのは無理がありすぎる。
それでもスペイン有利を主張したいなら、まず両軍の兵站能力から語ろうか。
二度も破産したフェリペ二世には酷な話だけどなw
>>156 そのあたり下級歩兵と上級騎兵との関係だけど
ちょうど鎌倉時代の日本と真逆だな
鎌倉時代の日本だとまず上級騎兵である武士同士が激突し
両者が矢を打ちつくして白兵戦へ移行し
乱戦になってから下級歩兵が参戦する
無傷の状態の敵に最初からぶつからなければいけなかった
当時の武士は自分で戦況を打破する力が要求されていたわけだな
「どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。 ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。 スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。 1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして 「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」 との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。 ただ一度だけ、日本の不正規軍… …浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。 1620年代、シャムにおいてだ。 どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。 支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。 だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。 そのことは支那自身が明言している。※ (中略) 1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、 「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。 ノエル・ペリン noel perrin( ダートマス大学英米文学教授)が分析した戦国日本の軍事力(著作「鉄砲を捨てた日本人」より)
>>158 単にプレス加工されたフライパンと鍛錬され抜いた鎧じゃ
話にならんくらい強度が違うぞ・・・。
181 :
日本@名無史さん :2009/07/27(月) 03:55:06
ステンレス鋼舐めんな
フルプレートなら絶対矢が通らない!だから無敵なんだ!なんてのは 軍事板らしからぬ妄想だな
>>182 >フルプレートなら絶対矢が通らない!
これは書いた。
>だから無敵なんだ!
これは書いてない。
フルプレートに対抗して重量のある武器が発達しただろう。
板金鎧が普及したのはルネサンス頃なのでむしろ火器との関連で考えたほうが良い
だな
鎧で本当に矢が無力化できるならアジャンクールは違った歴史になってることだろう
189 :
nomu :2009/07/27(月) 23:26:05
>>177 だれも大明帝国とアステカやインカを比べてない!
大体、日本が攻め込んだのはあくまでも朝鮮じゃん!
明の国内には寸土も入り込めなかったじゃん!
アステカやインカは確かに武器は石器だけど、首都の
テノチチトランやクスコは世界的な大都市で、兵力はともに
10万〜20万を要する、そこをわずか480人や180人で攻め込んで
2年ほどで滅ぼしたんだぞ!
ルソン諸島についても300人ほどの兵力で2年余りで征服しているんだぞ!
日本の武人なんてせいぜい山田長政がシャムの傭兵として出世した程度!
190 :
日本@名無史さん :2009/07/28(火) 00:29:24
このスレ、前は世界史板にあったけど、日本史板に移動したんだな。 多様な民族との絶え間ない戦いの中で発達した西洋の武器防具戦闘技術、 島国で殆ど他の民族との戦いを経験しなかった日本の武器防具戦闘技術、 どちらがより優れたものに発展したかは想像に難くない。 どうやったら武士が騎士に太刀打ちできるか、と模索するのが精一杯って所だな。
>>189 言ってることがしちゃかちゃすぎてワロタw
とりあえず、講和がどことどこの国で結ばれたか調べてから言ってもらおうか。
その主張だと、三十年戦争とかで直接対決したのに戦争してないという国が出てくるがいいのか?
それと、土民国家征服しても別に軍事的になんら自慢にならんから。
それより、シャムで浪人にボコられた事実をどう言い訳するんだ?
後、兵站能力については何か無いのか?
「ハプスブルク家の勢力圏は、戦略的にみて過剰散開の史上最高例に数えられる」
と、ある政治兵站学専門の歴史家が語っていたが、言い訳があればどうぞw
>>190 >どちらがより優れたものに発展したかは想像に難くない。
断然武士ですね。分かります!
……軍事史的に馬鹿にされてる騎士の時代に、何を期待して言ってるんだろうか。
騎士と言って一番良く思いつくフランスの、自身で歩く事すら出来ない突撃騎馬の甲冑だが、
そもそもこいつらって、馬自体の足が遅いから歩兵組み合わせないと日本の武士の重装弓騎兵に敵わないからなぁ。
北欧とかになるとそれほど大型の馬が居なくなるから重騎兵が生産出来なくて、
他国の重騎兵に対抗する為に重装のパイクで戦ったりするが。
>>157 それは、下馬騎士や重歩兵用じゃない?さすがにアニメに出てくるような重騎士は歩けないよw
日本の武具は防御を廃して攻撃特化だからなぁ。
刀も盾を持つ概念が無いが如く、足先から胸元近くまである長さ重さだったからなぁ。
日本刀といえど、実際はその重さで叩き斬るものだったし、
和弓もロングボウより長く複合材(後期からだが)で作られた強い弓だったからねぇ。
ロングボウ持った重装騎馬ってのも面白い。
日本刀は幕末頃に最後の巨大化ブームがあったらしいね。
>>188 それは弓の有効性の否定にはならんな
鎌倉武士だって射撃の後の白兵で決着付けてるよ
>>191 たとえばバイキングとかランツクネヒトとかね
騎士以外のいくつかの西洋戦士たち、
これに関しては武士にちゃんと比肩した敬意を表するに値する立派な戦士だったと思ってるよ
もちろん素行ではなくて戦闘能力ね
なんでわざわざだめな連中で武士に勝とうとするのかわからん
>>192 日本の武具は防御を廃して攻撃特化とはいえないよ
半身で沈身になることを前提にした全身鎧なだけ
おかしな言い方だが当時の日本人の体の癖全開のやつが着れば
受攻面積はほとんど消える
196 :
nomu :2009/07/28(火) 23:10:08
>>191 どちらにしても、200年の太平を貪っていた正規軍4万3千の朝鮮に対し
4月中旬、16万〜20万の大軍で攻め込みながら、翌年1月に明軍4万3千
が来襲したら瞬く間に平壌を奪われ、北部朝鮮を放棄してソウルにまで
逃げのびた日本軍がスペイン軍より強いとはとても思えない。
シャムで山田長政がスペイン軍を撃退したのも、日本義勇軍を中核とした
シャムの大軍で押し切ったからだろう!
大体、山田長政がシャムでの権力闘争に負けた後、日本人町はシャムの軍勢
攻め滅ぼされているんだから、日本兵が強いといってもたいしたことはない!
197 :
nomu :2009/07/28(火) 23:12:20
>>191 どちらにしても、200年の太平を貪っていた正規軍4万3千の朝鮮に対し
4月中旬、16万〜20万の大軍で攻め込みながら、翌年1月に明軍4万3千
が来襲したら瞬く間に平壌を奪われ、北部朝鮮を放棄してソウルにまで
逃げのびた日本軍がスペイン軍より強いとはとても思えない。
シャムで山田長政がスペイン軍を撃退したのも、日本義勇軍を中核とした
シャムの大軍で押し切ったからだろう!
大体、山田長政がシャムでの権力闘争に負けた後、日本人町はシャムの軍勢
攻め滅ぼされているんだから、日本兵が強いといってもたいしたことはない!
198 :
日本@名無史さん :2009/07/29(水) 00:01:15
199 :
日本@名無史さん :2009/07/29(水) 00:42:43
日本史板で真剣に「山田長政」とか勘弁しろよ…
>>196-197 焦って二重投稿する前に、とりあえず兵站の話しようなw
いくら屁理屈こねくり回しても、結局戦力を決定付けるのは兵站だぞw
それとも、当時のスペインがどういう兵站システムだったか知らんのか?
>>196 どっちにしろ
数をそろえられなかったってことは
弱いってことなんじゃねーの?
朝鮮が、さ
>騎士と言って一番良く思いつくフランスの、自身で歩く事すら出来ない突撃騎馬の甲冑だが、 百年戦争時にはよく徒歩で戦ってるぞ >そもそもこいつらって、馬自体の足が遅いから歩兵組み合わせないと日本の武士の重装弓騎兵に敵わないからなぁ。 どういう状況を想定してるの?
たしか上のアジャンクールでも最終的には徒歩で闘って、 そして英国の軽歩兵にやられてるんだよね
正確に言うと騎兵とメンアットアームズと矢を使い果たして手近な武器を取った弓兵ね。 激戦の中で王弟ハンフリーがダガーで腹を刺され、ヘンリー5世が兜がへこむほどの強打を受け、 同じく頭部を強打されたヨーク公が死亡したというから、戦える人間は全員投入してたらしい。
205 :
nomu :2009/07/29(水) 22:52:27
206 :
nomu :2009/07/29(水) 22:56:29
ドイツに於いても言えると著者は言う。ワールシュタットの戦いに於いて
大勝したバトゥは、なぜか西征軍を引き返す。これを、日本の教科書では、
モンゴルの皇帝が死んだことによるクリルタイの開催のためだという。
ところが、史実を調べると、この説明では日にちがあわない。
驚くべくことに、そのような説明が主流になっているのは日本だけである
そうで、欧州では既に「継戦困難の故に撤退した」のが通説であるという。
ドイツ騎士団は、主将が討ち死にという状況に至っても、なお各地の城で
頑強に抵抗をつづけ、モンゴル軍は結局これを攻めきれなかったのだと
いうのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/singleandover40/archive/2009/1/9
207 :
nomu :2009/07/29(水) 23:06:47
ゲルマン人の大柄な体格を活かして、重厚な鎧をまとって巨大な剣を
振り回す、突撃力と防御力に特化した重騎兵への道が模索されたので
した。
この重騎兵を主体にしたオットー率いるドイツ諸侯たちが軽騎兵を
主体としたマジャール軍を打ち破ったのが955年のレヒフェルトの
戦いで、これによりマジャール人はオットーに服従するようになり、
西ヨーロッパを脅かしていたマジャール人による被害は沈静化します。
そして、これ以降、ヨーロッパの諸侯たちの間では重騎兵が主要戦法
となり、更なる馬の品種改良、馬具や武器、甲冑の改良も、全てこの
重騎兵戦法の充実のためになされていくようになったのでした。
http://kn2006.blog66.fc2.com/?mode=m&no=480
208 :
日本@名無史さん :2009/07/29(水) 23:55:26
さっぱり騎士の凄さがわからん
でもドイツはやがて重騎士の限界に気が付く ドイツ最強の傭兵団ランツクネヒトの登場である。 ランツクネヒトは重装甲すぎず、簡易すぎず、丁度いい鎧を着ていた。 胴鎧と兜はしっかりとつけるがオープンフェイスで手足は軽装。 あれ?この装備って当世具足と同系統の思想じゃね
211 :
nomu :2009/07/30(木) 22:48:55
>>209 はいはい、スペインの兵站システム、スペインの兵站システム
スペインは480人の兵力で2年かけてアステカ帝国征服、180人の
兵力で2年かけてインカ帝国征服、300人の兵力で1年ほどでルソン島
を征服している。
対する日本は、朝鮮王国を14万〜20万の兵力で7年かけても征服でき
てない!
兵站システムってそんなに重要か!
騎馬民族の戦争をはじめ、前近代の戦争にとって必然じゃないんじゃないか!
んなアホな
213 :
日本@名無史さん :2009/07/31(金) 00:08:57
日本軍は18日でソウルを攻略 中国軍の人海戦術で停滞 中国皇帝は日本には勝てないと宣言 日本軍の撤退は秀吉の死による
>>211 何も言わず、そのままさらっと消えればいいのに、ワザワザ敗北宣言なんかしなくてもw
兵站軽視とか、人が聞かれたら笑われるよw
まあ、散々ネット内を探し回ったんだろうけど、結局良い資料は見つからなかったのねw
……とりあえず、本を読め。
当時、スペインを含めたヨーロッパ各国の兵站は、ほぼ酒保商人と呼ばれる民間の商人に丸投げされているのが普通だった。
それも国が雇うのではなく、末端の兵士が給料の中から必要な分を直接買い入れるという無責任極まりないシステムだ。
当然のことながら、酒保商人は民間人だから、勝って略奪品で潤っている軍隊には群がるが、負けて金のない軍からは消えていなくなる。
それでも給料がキチンと支払われている間はまだ良いが、財政が火の車であったスペインでは、
遅延、不払いが当たり前で怒った兵士による反乱が日常化していた。
それに加え、当時の整備されていない劣悪な街道によって、補給線の確保すら考えられないものであった。
「フランドルに槍兵を配備する」という言葉は、当時では「難事を成し遂げる」ということを意味する慣用句である。
ただしその分、軍隊の機動は自由であった。もっとも、その速度は非常に遅い。
この原因は、テルシオと呼ばれる極端に密集した防御偏重の方形陣にもあるが、それ以上に独語で「Troß」と呼ばれる者達の存在による。
これは、日本語で「輜重隊」と訳されているが、実を言うとこれにあたる概念は日本にはない。あくまで、便宜上の訳である。
寧ろ、英語で「Camp-followers」と書き、それを日本語で非戦闘従軍者と訳したものの方が意味は近い。
これは、大半が兵士の家族である女子供であったが、その他にも、酒保商人、料理人、手工業者、御者、車力、家畜番、占い師、護符売り、
博徒、墓堀人夫、はては娼婦など、とにかく雑多な一団であった。
これらを経験豊富な娼婦取締長が率いていくのだが、当然のことながら彼らの足は遅い。
彼らのことを、神聖ローマ帝国の将軍モンテクッコリは「障害物」と言って憚らなかったが、
当時の軍隊が彼ら抜きでは成り立たなかったのもまた事実であった。
尚、余談ではあるがのスペインの財政状況を書いておこう。
1574年、フェリペ二世の財政収入は600万ドゥカード。これに対し歳出は1000万ドゥカードを超える。
その内訳は、債務の返済に300万、通常の国防・行政費に200万、ネーデルランドとの戦費が370万、
地中海での戦費が200万あまり。結局、フェリペは二度目の破産宣告を出すことになる。
この後、オスマン帝国の後退とアメリカからの銀の急増によってなんとか持ち直すも、
アルマダの大敗を境に大国の地位からのし上がった時と同じくらいの速度で転げ落ちる事になる……。
スペインの船には、失業した騎士が多く乗り込んでいたから付き合ってきたけど、
本来ならもっとふさわしいスレがあるからそっちに来いよ。
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1232975660/ もちろんレスするなら、過去レスをちゃんと読んでから書き込めよ。
馬鹿にされるから。
>>213 支那との講和による休戦(でも講和を破って攻められるが返り討ちにする)も追加しとかないと
,,-――-ヘ 敗 戦 記 念 ♪
. /./~ ̄ ̄ヽ ミ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Macarthur_hirohito.jpg | | . | | マッカーサー元帥の下に呼び出され、戦犯ヒロヒト記念撮影
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http://en.wikipedia.org/wiki/Hirohito General . |/=・=| =・=ヽ|
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. MacArthur | ._, | /./ ̄ ̄ ̄\ |
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. \ / \/ /.戦犯 | ▼ | ヒロヒト |
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`ー" `ー"
↑ 火器のない時代、そもそも欧米人と日本人のこの体格差はどうしようもないだろ。
体格差なんて戦争ではたとえ白兵戦でも何の役にも立たない。 日本兵を持ち出すと自画自賛になると言うのならば、 現代でもグルカ部隊は常に前線に出て白兵戦も厭わない勇敢な部隊。 体格は日本人と同程度か、もっと小さい。
太刀や槍を振り回す時代に体格なんて(それ単体では)意味ない それどころか 日本の伝統的な構えではだいたいさらに頭を低くする 頭が低ければ低いほど、相手はこちらの体を攻撃できなくなる。 結果相手が攻撃しやすい個所は限定され、予測が立てやすくなる。 一方体がでかく、なおかつろくに腰を落とせない人間は全身が的になってしまう。 つまり低ければ低いほど有利。 新陰流なんかでは相手の拳より自分の肩を低くしろと教えられる。 結局体格が大きいことにもメリットデメリットがあり、小さい人間にもでかい人間とは別のメリットデメリットがある。 そういう特性を「知っている」ものが強いのであって体の大きさ自体は決定的なものとはなりえない。
ロバート・フォーチュン 「幕末日本探訪記」 その辺りの平地の所で、サムライが始終教練を行っているらしい。 囲いの高い柵や潅木の茂みで視界がひどく妨げられたが、時々兵隊の旗や、武器が見えた。 大名達は彼らの藩兵に、戦争の技術を絶えず訓練させていたのである。 そのころ江戸の大名屋敷の傍らを通ると、剣術をやっている喧しい物音が聞こえた。 私が江戸に滞在している間に、同じような音響をしばしば耳にした。 もし、不幸にして、ヨーロッパ諸国が日本と戦うようなことが起こったら、 日本人はシナ人よりも非常に優勢なことが判るだろう。 しかし、そのような、日本人と戦うようなことは、遠い将来のことにさせたいものだ。
>217 日本やイギリスのような立憲君主国家では、君主にいっさいの政治的、法的責任はありません。 これを「君主無答責」と言います。 政治責任は全て政府が負担します。 政治責任の所在をごまかすことは、国家の民主的運営を阻害し、 先人の努力の末に獲得した民主主義の理想を貶めることにしかなりません。 大人の世界では責任の所在をごまかすことは許されません。 昭和天皇に戦争責任があるように言う人は、現在の民主的な日本を破壊して、北朝鮮のような国にしたいという人なのでしょうね。
体格や単純な運動神経だけで戦争に勝てるならアフリカは 西洋の植民地になってないわな
やっぱりこのスレは世界史板に立てるべきだったな
B・シンプソン イギリス人義勇兵 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、 王府の高い壁の守備にあたっていた。 その壁はどこまでも延々とつづき、普通ならばそれを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。 しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。 公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。 彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。 実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。 僕は、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。
229 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 20:35:41
>>228 日本軍も実際には秀吉軍だな
明が滅んだ原因を作ったのは秀吉
秀吉のせいで明が弱体し、清に滅ぼされた
230 :
日本@名無史さん :2009/08/06(木) 20:43:02
攻めた順番が逆なら弁髪令は丁髷令になってたかもなw
231 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 00:25:49
>230 明までの中国の髪型は日本の公家の髪型に近いから別に丁髷令など必要ないだろ。 庶民が月代を剃るようになったのは武士の真似というか足軽で従軍した庶民が戦から かえっても総髪にしないで月代を剃り続けたのが定着していったんだよね。
232 :
日本@名無史さん :2009/08/07(金) 14:28:25
>>189 インカの件は王様を人質にとったからだろうが。
233 :
jyonniru :2009/08/10(月) 23:06:08
いい加減ネット右翼も現実を理解しろ! 別に戦国時代の日本を特別弱いとは思ってない! 200年間の平和を貪っていた正規軍7・8千人の朝鮮 を16万からの大軍であっという間踏み潰すぐらいは強いと思うよ! いくら石器の武器のみでも、たったの480人や180人の兵力で 何万人、何十万人の大軍を相手にして殲滅戦に勝利したスペイン人 よりは弱いっていってるだけだよ!
>>233 アルマダの海戦で、国力5分の1以下のイギリスに上陸すら出来ずにボロ負けしたのはどこのどいつだw
今度は秀吉の兵站システムを調べてから来いよなw
とりあえず、「大垣大返し」でググれ。
逆立ちしても、陸戦じゃスペインが勝てないって分かるから。
あと、誘導したスレちゃんと読め!
160 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 17:23:58 ID:ZoxyOaxI
あれだけ高度な文明を誇ったインカやアステカが
スペインに簡単に滅ぼされた原因は3つ。
1.スペイン人達の容姿や侵入が、中南米の伝承で彼らを滅ぼすと言われてた者達の特徴に酷似してたから。
2.鉄砲や馬に恐れおののき国王があっさり捕らえられ殺されたから。
3.スペイン人が持ち込んだ旧大陸の病原菌やウィルスに大量感染したから。
>>234 あと内紛もあったらしいな
要するに後のことを考えず、とりあえず今の王権が気に入らないって理由で
スペインの手先になって国を売った馬鹿どもが大勢いたんだそうな
236 :
jyonniru :2009/08/11(火) 01:46:35
>>234 【質問】
なぜスペイン人たちは500倍の敵を相手に圧勝できたのか?
【回答】
ピサロ側が有利だったのは,鉄製の武器と甲冑,銃器,そして馬を持っていたことである.
一方,アタワルパ側は石・木・青銅の武器しか持っておらず,騎乗して戦場に乗り込んでいける動物もなかった.
特に重要なのは騎馬で,ピサロ側には60騎の騎兵しかいなかったがこれが大活躍した.
騎兵はその後,対騎兵戦法を身につけたインカ帝国軍との戦いでも,少数の部隊で大軍を何度も打ち破っている.
銃については実は大した役割をしておらず,銃声は確かに心理的効果があっただろうが,12丁しかない上に,装填に手間のかかる火縄銃だった.
それよりも鉄製の武器と防具が重要だった.
インディオの主力武器である棍棒では,鉄の鎧や兜に身をつつんだスペイン人を効果的に殺傷することはかなわず,逆にインディオたちの刺し子の鎧は鉄製の武器を防げなかった.
高瀬巧一郎のキリシタン時代の研究によれば少なくともスペイン自体は日本を相当恐れていたようだ スペインが強かろうが弱かろうが戦う前から日本には白旗あげてたとはいえそうだな
238 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 02:09:35
ヒント:旧大陸から持ち込まれた疫病。 君中学生なんだからまず教科書読もうよw
>>236 おいおいw結局武器しか勝因が挙げられないのかい?
じゃあ槍、刀、鉄砲を大量に装備し、
当世具足で防備された武士&長槍鉄笠装備の足軽には勝てないですって自分で認めてるようなもんだぞ
240 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 10:03:25
>>234 ただ純粋な海軍だけだと、むしろイギリスの方が強いとスペイン人も思ってたみたいね。
接舷戦法なら陸兵の数、質とも圧倒的だったスペインが有利とされてたみたいだが。
242 :
jyonniru :2009/08/11(火) 22:59:45
碧蹄館の戦い 日本軍 4万1千人 明軍 2万人 小早川隊の先陣である粟屋四郎兵衛と井上五郎兵衛ら3000人が 明軍に攻撃を開始。明軍は大砲などで応戦して大軍を繰り出したため、 粟屋隊は敗走してしまいますが、井上隊が鉄砲の一斉射撃でこれを 押し留めると、小早川隆景率いる本隊は小丸山を駆け下りて敵陣に突 入し、刀槍を用いた白兵戦が繰り広げられます。 この時、明軍は日本刀の切れ味にたいへん驚いた、という話が残って います。 この様子を見ていた立花宗茂は再び軍を率いて右翼に切り込む形で 側面から攻撃。さらに、左翼には宇喜多勢が攻撃を仕掛けたため、 明軍は三方向から攻撃を受けることとなり、戦況は次第に秀吉軍に 傾いてきました。李如松は、形勢挽回のために前線に出て部下を 叱咤激励するとともに、自らも弓で応戦するなど奮戦しましたが、 戦の帰趨が明らかになると撤退を指示。後退→応戦→後退という 正退法を見事に演じて、敗走することなく整然と引き上げていった そうです。
243 :
jyonniru :2009/08/11(火) 23:04:17
幸州山城の攻防戦 日本軍 3万人 朝鮮軍3千人〜4千人 本城の攻防戦は午前6時に始まり、午後4時まで続き、 この間3度攻撃しましたが、いずれも攻めきれずに失敗。 籠城軍は、川から船で矢の補給を受けることができるため、 しばらくは籠城に耐えうる可能性が高かったことに加え、 全羅道から援軍が来る気配があったため、秀吉軍はついに 攻撃を断念。退却します。この時、枯れ草を集めて死者を 火葬したため、後で朝鮮軍が死体の捜索に来た際に得た 秀吉軍の首級の数は130と、伝えられています。 戦死者の数は、もっと多かったと考えられています。 こうして、幸州山城の攻防戦は朝鮮軍の勝利で終わりましたが、 朝鮮軍も戦力の低下が大きかったそうです。守将の権慄は、 二回目の攻撃は防ぎきれない、と判断したため、間もなく城を 放棄して撤退しました。結果的には、幸州山城の脅威は去った わけですが、攻城戦に失敗した秀吉軍の戦力・士気の低下は 大きかったようです。
244 :
jyonniru :2009/08/11(火) 23:07:17
幸州山城の攻防戦 日本軍 3万人 朝鮮軍3千人〜4千人 本城の攻防戦は午前6時に始まり、午後4時まで続き、 この間3度攻撃しましたが、いずれも攻めきれずに失敗。 籠城軍は、川から船で矢の補給を受けることができるため、 しばらくは籠城に耐えうる可能性が高かったことに加え、 全羅道から援軍が来る気配があったため、秀吉軍はついに 攻撃を断念。退却します。この時、枯れ草を集めて死者を 火葬したため、後で朝鮮軍が死体の捜索に来た際に得た 秀吉軍の首級の数は130と、伝えられています。 戦死者の数は、もっと多かったと考えられています。 こうして、幸州山城の攻防戦は朝鮮軍の勝利で終わりましたが、 朝鮮軍も戦力の低下が大きかったそうです。守将の権慄は、 二回目の攻撃は防ぎきれない、と判断したため、間もなく城を 放棄して撤退しました。結果的には、幸州山城の脅威は去った わけですが、攻城戦に失敗した秀吉軍の戦力・士気の低下は 大きかったようです。
245 :
jyonniru :2009/08/11(火) 23:09:21
漢城退却 3月。漢城に立て籠もる秀吉軍に一大事が起こります。 明軍の経略(←参謀の意味)・宋応昌(そうおうしょう)が、 漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫を襲撃して焼き払うという 戦果を挙げました。この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の 二か月分の兵糧:1万4000石が貯蔵されていたため、 漢城駐留軍は明軍と講和することを余儀なくされました。
>>242-245 坊や、頑張ってネットを探し回って、数少ない明朝鮮連合軍の勝利記録を掻き集めて来たんだね!
偉い、偉い!!
じゃあ坊やを見習って、おじさんも頑張ってコピペするよー!
八十年戦争
モンス奪還に成功したスペイン軍は、降伏した都市で暴行掠奪を繰り返しながら北上し、
12月10日、3万の軍勢でホラント州ハーレムを包囲した。翌1573年7月12日にハーレム市は
7ヶ月もの篭城戦の末に力尽きて降伏するが、男子3000、婦人部隊300、工兵隊1000を動員した激しい
抵抗によってスペイン軍は1万7000もの兵を失い、アルバ公はスペイン宮廷内での支持を失って失脚する。
後任の総督に任命されたレケセンスは、10月から南隣の主要都市ライデンを包囲したが、ここでも反乱軍は
兵糧攻めとペストに苦しめられながらも抵抗を続けた。スペイン軍は、翌1574年3月にライデン救援に訪れた
反乱軍を撃退してローデウェイクを戦死させたものの、ライデン防衛隊の用いたアイセル川の堤防を決壊させる
洪水戦術に悩まされ、10月に攻略を諦めて撤退した。
スペイン軍の攻勢が続くなか、1576年3月5日にレケセンスが急死し、11月4日、給与未払を理由に 暴動を起こしたスペイン兵が、アントワープ市を占拠して暴行掠奪を行うという惨事が発生する。 ネーデルランドの北部諸州と南部諸州とはこれまで宗教の違いなどから対立していたが、 これを機に反スペイン感情で一致し、4日後の11月8日に「ガンの和解」を締結してウィレム公のもとに結束した。 しかし、北部と南部との蜜月は長くは続かなかった。新たにネーデルランド総督となったレパントの海戦の英雄 オーストリア公ドン・ファン(1547〜1578)は、やむなくスペイン軍の退去を約束したものの、1577年7月には 態度を変えて再びスペイン軍を呼び戻し、翌1578年1月31日、ゾンブールでネーデルランド全国議会軍を撃破する。 スペインはネーデルランドの外交的分断、離間工作に力を注ぎ、10月1日に没したドン・ファンの後任 パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545〜92)は、1579年1月、南部10州に「アラス同盟」を結成させて フェリペ2世に忠誠を誓わせることに成功した。ただちに北部7州も「ユトレヒト同盟」を結成してこれに対抗し、 1581年7月26日にはフェリペ2世に対する忠誠破棄宣言を公布してネーデルランド連邦共和国(オランダ)が成立する。
苦しい戦いの続くなか、ウィレム公の跡を継いだオラニエ家のナッサウ伯マウリッツ公(1567〜1625)は、 スペイン軍の強兵に対抗するために従兄のウィレム・ローデウェイクと協力して軍制改革を行い、 歩兵2万と騎兵2000からなるヨーロッパで最もよく訓練された軍隊を作り上げた。1589年にパルマ公が フランスのユグノー戦争に介入するためにネーデルランドを離れると、マウリッツ公率いるオランダ軍は スペイン支配下の都市を次々に攻略して北部7州の領土をほぼ回復する。1600年、マウリッツ公はホラント州の指導者 オルデンバルネフェルトの要請に従い、スペインの私掠船が拠点としていたニューポールトへと侵攻した。 しかし、7月2日に行われた会戦でオランダ軍1万2000余は、アルベルト公指揮するスペイン軍約1万2000に 戦死3000、捕虜600という損害を与えて勝利したものの、ニューポールト攻略を断念して退却し、これ以後マウリッツ公と オルデンバルネフェルトは次第に対立するようになる。
1621年に休戦期間が終わると戦闘が再開されたが、双方ともに城壁の修復や戦線の整理などの十分な 備えをしていたため、陸上では戦争の拡大は免れた。1639年、三十年戦争の戦況のために「スペイン街道」を 切断されたスペインは、フランドルに1万3000の兵を海路輸送するため、「サンタ・テレサ」を旗艦とする 100隻の大艦隊を派遣する。これに対してマールテン・ヴァン・トロンプ提督(1597〜1653)率いるオランダ艦隊18隻は、 9月16日に英仏海峡の西端で敵艦隊を捕捉して砲撃を加え、損害を受けたスペイン艦隊は休戦状態にあったイギリスの港に 逃げ込んだ。スペイン艦隊の提督デ・オケントはイギリス王チャールズ1世(1600〜49)に調停を求めたが、 オランダ中の艦艇をかき集めて96隻の艦隊を擁するに至ったトロンプは、12月21日、イギリス艦隊の警告を無視して 総攻撃を開始する。この海戦でスペイン艦隊は戦艦の3分の2を失う大敗を喫し、フランドルへの軍事物資の補給は陸路、海路ともに 不可能になった。
「どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。 ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。 スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。 1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして 「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」 との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。 ただ一度だけ、日本の不正規軍… …浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。 1620年代、シャムにおいてだ。 どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。 支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。 だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。 そのことは支那自身が明言している。 (中略) 1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、 「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。 ノエル・ペリン
252 :
jyonniru :2009/08/12(水) 10:35:02
253 :
jyonniru :2009/08/12(水) 10:42:02
254 :
jyonniru :2009/08/12(水) 10:50:41
>>246-250 PHP研究所の『歴史街道』9月号でほざいているような
明・朝鮮軍15万の大軍を4万程の日本軍が撃破した
小説のような勝ち戦しかお前が信じていないんなら、
なにを言っても同じだからね!
でも実際は日本軍の方が2倍の大軍であり、地の利を
生かせて撃退したが、追撃するだけの余力はなく
また明軍も後退→応戦→後退というみごとな正退法
による撤退(敗走ではない)したにすぎないんだよ!
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。 だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。 そのことは支那自身が明言している。 (中略) 1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、 「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。 ノエル・ペリン
ジョンイルは結局何が言いたいのかさっぱりわからん 延々支那朝鮮が負けた言い訳を繰り返してるのか
257 :
日本@名無史さん :2009/08/12(水) 12:32:33
こいつ!を多用することから見てnomuとかいうコテ使ってた馬鹿だよなぁ
258 :
日本@名無史さん :2009/08/12(水) 16:55:20
>>252 > ヨーロッパは基本的に北ヨーロッパ(北欧・オランダ・
> ドイツ所謂ゲルマン諸国)のほうが南ヨーロッパ(イタリア
> ・スペイン所謂ラテン諸国)より強いと考えている!
ハプスブルク家のオーストリア大公として召集したドイツ、中欧軍は弱い。
30年戦争でもスペインハプスブルク家のスペイン軍のテルシオに頼りきり
だろ。
259 :
日本@名無史さん :2009/08/12(水) 17:50:42
>>257 何度もコテ変えてる(以前はまさおだとかホットパンツだとか名乗ってた)
今年の春ぐらいからこの手の「武士って強かったの?」的なスレに沸いてる奴だよ。
書き込みが長期休みの時に集中してるとこを見るとガチで中学生かもねw
何故か蒙古襲来スレには一度も沸いてないが。
>>252-254 >>233 >>236 これはおまえのレスじゃないのかw
もう、フォビョり過ぎて言ってることが支離滅裂w
後、日本が戦国時代だったときにヨーロッパ最強だったのはどう考えてもスペインだぞw
動員数では勿論だが、質においてもマウリッツが軍制改革を行うまではヨーロッパ最優。
海戦でイギリスに負けはしたが、テルシオの発祥国として陸軍力ではヨーロッパ随一!
でもまあ所詮、オランダを攻めきれず最終的にボコられて叩き出される、儚い最強でしかないんだけどなw
後おまいさん、結局何が主張したいんだw
ちょっとおじさんにも、
>>242-245 を引用した意図を説明してくれw
大人になってレポートや論文を書かないといけなくなったとき、最初に主題を明確に示さないと人に読んでもらえないよw
後まあ、歴史街道なんて600円の安い「雑誌」なんか読まずに、ちゃんとした「本」を読もうなw
金がないなら、図書館へ行け。返却期限はちゃんと守るんだぞ!
>>257 え、こいつnomuと別人のつもりで書いてたの?
てっきり、気分でコテ名を変えただけだと思ってたよw
>>255 何回もバカの1つ覚えのようにコピペしてるね。
それは一個人の主観的な意見だよねw。
主観ねえ… 文禄2年1594年マニラ総督宛ての秀吉の書状 スペインを牽制すべくだされた手紙 予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。 これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、 『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と 言った。 この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。 (中略) もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、 彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。 こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。 予は我ら(日本とスペイン)が永久に友好を保つことを希望する。 これを書き送られよ。 遠隔の地を理由にカスティリャ国王(フェリペ1世)が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。 「パステルス・松田毅一訳『日本・スペイン交渉史』」より
265 :
日本@名無史さん :2009/08/13(木) 16:26:56
つーか「!」を多用してるアスペルガーの厨房にも言ってやれよ>バカの一つ覚え
>>263 なんかズレてるな。
長文はご苦労だが、
その長文は
>>251 や
>>255 が客観的な事実を記しているのか
主観を記しているに過ぎないかに対する何の説明にもなっていない。
またそれ自体も日本がスペインよりも強かったなんていうトンデモ説や
日本の朝鮮討伐が成功だったというトンデモ説を証明する客観的な事実でもない。
単なる井の中の蛙である秀吉の書状であり、それ以下でもそれ以上でもない。
えー
秀吉の脅迫に対し本国へ泣きを入れる総督府
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
パブロ パステルス「日本スペイン交渉史」
どうやら
>>251 や
>>255 は歴史的資料をもとにしたもののようだねw
だいたい同時期の話でこんなのもあるな↓ 此六十六箇國には多數の都市あり、廣大にして人口多く、C潔にして秩序正しく、 欧洲に於て之と比較すべきものを發見すること困難なるべし。 而して陸路を行くこと二百レグワを超ゆるも人の居住せざる地一レグワを見ること稀なり。 家屋市街及び城郭は善美にして、これを過賞すること難し。 人民の數非常に多く、悉く國内に容るゝこと能はざるが如し。 人口二十萬の市多く、都の市は八十萬を超えたり。 此等の住民若しイスパニヤ土人の如く野蠻ならば恐るゝに足らざれども、 彼等は長銃を有し最も熟練せる兵士の如く巧妙に之を用ふ。 又弓、矢、鎗、及びカタナ(cathanas)と稱する劍及び短劍を有す。 而してイスパニヤ人と同じく勇敢なるのみならず 議論及び理解の能力に於ても之に劣ることなし。 ドン・ロドリゴ『日本見聞録』
また266は大恥かいてるのか
>>266 は、提督クラスから国王への公式文書を、一体何だと思ってるんだろう
というかこいつは、コテを外しただけでまた別人になったつもりなんだろうかw
>>263 >>267 を踏まえたうえでもう一度
>>251 のここ読むと重みがまた変わるね
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
もともと明を征服する気だったのはスペインのはずなんだが 後乗りしてきた秀吉に怒りをぶつけるどころか、すごすごと引き下がったってことになるな もし明がスペインに取られちゃったとしたら日本海のすぐ向こう側に西欧列強の前線基地ができちゃうことになる。 さすがにそれだと武士がどんなに精強ったってヤバい。 西欧のアジア浸食を喰いとめたってだけでも秀吉には感謝したいね
273 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 17:03:43
>>270 !を多用してるバカには何も言ってないし
海戦は兎も角、陸においてもスペインが日本より上だなんて
決めつけた上で言ってるところを見てもそうだろうねえ
騎士≦花郎>>>>>>>>∞>>>>>武士 これが日本以外での常識
なにそれ男娼かなにかか?
結局ここの騎士擁護派は西洋厨の皮をかぶった在だったことの証明になったな
280 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 13:24:19
このスレは世界史板に立てろべきだな
日本語がおかしい在日が自演できないからな
282 :
日本@名無史さん :2009/08/28(金) 17:23:31
いっそハングル板でやろうぜw
283 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 23:50:07
必死な日本厨がいるが、いくらでっちあげ資料のコピペに徹しようが スペイン>日本 の事実に変わりはない。 しかも秀吉なんて戦下手で頭の悪い奴が天下の時代の日本はとりわけ弱すぎる。 朝鮮征伐なんてキチガイ染みたことやって結局フルボッコされて退散してきたっけw。 さらに言えばスペインは西洋で最強では全くないことも理解しておけ。 最強ならば西洋諸国を征服するが、それができないため後進国を植民地にしていった。
よく分からんが大航海時代のスペインと日本なら別に専用スレが立ってるけど
285 :
日本@名無史さん :2009/08/30(日) 01:58:48
>>283 残念ですが日本とスペインが正面衝突していないので君の話自体が根拠がない妄想です。
286 :
日本@名無史さん :2009/08/30(日) 02:18:35
スペインが西洋諸国を征服しないのは 当のスペインが被征服あがりだったから。 スペインは応仁の乱くらいまでイスラムからの解放運動(レコンキスタ)を500〜800年くらいやっていた。 それが完了した直後から大航海時代に入る。 自国の解放手伝ってもらってたヨーロッパを征服するわけねーだろ。 全ヨーロッパで数百年かけてやっとイスラムからスペイン一国取り戻した。 解放あがりでイケイケ揃いが冒険に出たのは確かだが、 ヨーロッパはユーラシアで最強でないことを理解しておけ。 最強ならばイスラムを征服する。
ちなみに当時のスペインはヨーロッパ最強 つまり イスラム>スペイン>他ヨーロッパ 東洋では明弱体化が顕著(そもそも日本等の周辺国暴発にはこの影響もある。 日本がなぜ直接明に行かず朝鮮に行ったかは永遠の謎) 日本>明 他勢力予想 オスマン・ペルシャ・ムガール>スペイン>明 つまりこんなもん オスマン・ペルシャ・ムガール>日本=スペイン>明=他ヨーロッパ
>>263 とかの「日本スペイン交渉史」 がでっちあげだったらそっちのほうが逆にすげえよw
スペインに保管されてる古文書を日本がどうやって改ざんしたんだw
そんな力が日本にあるのか
>>287 朝鮮経由だったのは普通に北京へにらみを利かせるつもりだったんじゃないのか?
>>286 まーた283が大恥かいただけになったな
291 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 04:20:30
>>289 しかし朝鮮経由で北京も結構遠くてだな。
かつて寧波あたりで気楽に大暴れしてたのを考えると
やはり地の利に恵まれなかったのだな。
ヌルハチよりは相当不利だ。
気楽に大暴れできたのは 小規模な部隊で拠点を設ける必要がない遊撃中心だったからじゃないのかな シナが反撃したくてもそのころはもう海に逃げてる、で、気が抜けた頃また突然攻撃と。 15万も動員するとなると朝鮮経由になるんじゃないか
まあどのみち スペインは日本との対戦を避けたがってたわけで 実際全面戦争になってない以上 「スペインはビビっていた」ぐらいしか確定的なものはないけど。
294 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 05:19:20
そうなのか ただ北虜南倭とか言って 倭寇が明を脅かしてたのは基本南海だから。 まあ倭寇を全て日本と思い込んでるわけじゃないが。 朝鮮行くと当の北虜エリアがルートに入ってしまうから 敵がひとつ増えて損だと思うんだよね。 スペインが日本より強いなんてのは妄想もいいトコで、 今の話題の距離でも地の利が云々言ってるのに、 一体何人バスコダガマが必要なんだと。
どうでもいいけど今俺はネウヨの味方をしたのか? シナなんてモンは戦国時代にねえよ。 バカが くだらねえ差別語を日常化してるからそんなことになるんだ。
寧波の乱もピンポンダッシュみたいな戦いだったと思ってやがる。 琉球あたりでバンバンやり合ってるのに寧波でも同じだろ。 ネウヨ実は日本を過少評価、はありがちな話。 案外自分で大げさだと思ってたり。ちアホらし
297 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 09:20:24
シナは別に差別用語ちゃうやろ知ったか
支那が差別用語とか無知もいいとこだな
日本人の勇猛さには疑問の余地が無い。 自ら軍事国家と呼んでいるくらいで、幼少の頃から戦争道具を生きる道に選び、 刀と弓、この国固有の二つの武器の使用法を教えられる 日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、 相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。 当然のことながらこの武器は極度に危険な物と見なされ、 刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを殺しても正当防衛と認められる。 一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである 「日本素描」 エドゥアルド・スエンソン
>>293 ビビルってのは2種類あって弱い奴がビビるのと強い奴がビビルのがある。スペインは強いが故に怖さが分かるからビビるのだろう。
夜郎自大なチビは基本的にビビらないからね
比較する価値もない朝鮮と違って スペインは日本と比較するに足る猛者だったのは間違いない
日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、 彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。 我らの主デウスが人類に何を伝えたもうたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい。 彼らは不必要なことを外面の表情に表すことはなく、 甚だ忍耐強く、大度ある国民で、悔悛は真摯にして信心深く、 儀礼に大いに気をつかい、交際においては丁重である。 我々ヨーロッパ人は、互いの間では賢く写るが、 日本人に比べるとはなはだ、野蛮であると思う。 私は毎日、日本人から教えられることを告白しなければならない。 私は世界の中で、これほどまで天から才能を与えられた民族はないと思う。 京都は、ヨーロッパならローマにあたるが、 科学、見識、文明はローマよりはるかに高尚である。 信仰さえ別にすれば、我々は日本人よりもあきらかに劣っている。 私は日本語がわかるようになってからは、 世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った。 オルガンティーノ
当時から明のこと支那って呼ぶことはあったと思うけどなー
宣教師フロンソ・サンチェス (スペイン国王への手紙より) シナ人は自国のおびただしい人口に自信を持っているものの、 スペインのわずかな鉄砲隊で、 何百万人ものシナ人を滅ぼせるという事が理解できていない。 先年僅か13人の日本人の搭乗した小舟が一艘渡来し、 3000人以上のシナ人に包囲され、洞窟に閉じ込められたが、 彼らはそこから脱出するや、 直ちに多数のシナ人を殺してしまった。 シナ人は彼らを一昼夜に渡り包囲しながらも攻撃を加えることができず、 脱出した日本人は近くの海岸に行って舟を奪い、 それに乗って逃げてしまった。 シナの征服は日本人の軍事力を利用してすべきである。
まだこのスレあったのかw
支那って言われるのを嫌がるのは 中華人民共和国が自称する領土より「支那」によってあらわされる領土や人種、民族が狭いから 支那というとウイグルやチベットや満洲は除外される 「中国」や「中国人」のくくりの中にウイグル人やチベット人を無理やり埋没させたい中共の意図にそぐわないので支那と呼ばれたくないわけだ
これは世界史板に立てるべきスレだな
これ野生生物と対決できないの?
>>1 武士がパイク持つしかないな。
それか武士も騎乗して、ある程度距離が離れたら騎士の馬を射るか。
もちろん馬鎧があるが、馬は興奮状態の時に投射物が当たると竿立ったり暴れる可能性が高い。
これなら武士が勝つ可能性も出てくる。
問題は武士と騎士のフル装備騎乗時、
どっちのほうが機動力があるのかだが。
時代によるが南北朝より昔ならば騎馬武者の機動性のほうが上だな 戦国時代になると伝令以外では騎馬のみの運用は減るからな ただ姉川合戦図や信長公記ではないが、わりと戦国時代も馬上打ちもの残ってたりするので単純に線引きは出来ないんだけど ルイスフロイスあたりにいわせると戦国期の騎馬武者はちょっと強さヤバい的な記述がある 騎乗にこだわらなければ宣祖修正実録、懲秘録のように騎馬兵を大太刀でぶった切る連中がごろごろいた様子。 ただ戦国時代だと騎士のほうが絶滅状態じゃないのかなということで まあせいぜい戦国初期ぐらいまでの武士で想定すべきなのかもね
まあそもそも騎士自体が機動性を売りにしたものじゃないけど
騎士のランスチャージをどう無力化するかが鍵。
ランスチャージは味方の歩兵が足を止めておかなきゃもともと当たらないシロモノだし 騎士と同時代の武士は和弓騎射ズンドコかましてくる連中だし
どうあがいても当たる。
和弓の矢がね
まあランスチャージに限定して言えば
>>138-141 の流れが答えだな
>151 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 02:00:04
>それ以前に、ヨーロッパ一国の騎士身分と日本一国の武士身分だと、
>後者の方が圧倒的に多いというところを突っ込むべきだろ。
>
>後、騎士を他兵科から切り離すとまったく使い物にならないぞ。
>装甲槍騎兵ほど、他兵科の援護を必要とする兵科は中々無いからな。
>単独で汎用性に富む武士と比較すると、差が更に開くんだが……
落馬させてからが前提なのが痛い。
落馬したら騎士は終わりだからな
アジャンクールの再現になりそうな気がするな まあ鎌倉時代の武士だと英国歩兵よりは重装備だけど
なるほど武士が杭を地面に固定してれば安定して勝てるというわけですね。
結論から言って、西洋甲冑は間合いもくそもない至近から殴り合う場合のみ抽出すれば最強の防具とも言えるが、反面犠牲にした物が多すぎる。 結局皆が西洋甲冑をつける事により、歩兵戦では主力が鈍器になるが、これもお互いに避ける能力が低くなったからこそ可能な装備。 まともによけもしないもの同士が鈍器で殴り合うというのではせっかくの鎧の 意味も薄れてデメリットの方が大きくなってしまった感がある。 もっともお互いが同じように鈍重ならちゃんと当たるのだからデメリットとは言えないかもしれないのだが。 ちょうど南北朝時代に鈍重だが破壊力抜群の鉞や金砕棒が流行するも、鎧の運動面の発展とともに「当たらなくなって」廃れていったのと似ている。
327 :
日本@名無史さん :2009/10/21(水) 00:30:33
議論を重ねても無意味だな。 このスレの連中が武士と騎士の装備一式をそろえてガチの殺し合い をして優劣差を実証したらいい。
騎士は絶対数が少ない。 フルプレートや全身を覆うようなホーバークを着れるような騎士は更に少ない。 騎士が完全装備で戦場に立つためにはそれこそ貴族の屋敷が立つぐらいの費用がかかる。 穀物に換算して第二次大戦時の相場であらわすと最新鋭戦車一台分に相当するそうだ。 日本の鎧も高価ではあったがさすがにこんなにしない。 騎士一人分の費用があれば武将クラスの意匠を凝らした高級品でも10領以上作れるんじゃなかろうか 一般の武士用のものならもっと安く出来るわけで。 もし双方で消費できるコストをそろえたら 完全武装の騎士一人に対して完全武装の武士が数十人用意できることになる 騎士は武士団にあっというまに飲み込まれて終わりだな
>穀物に換算して第二次大戦時の相場であらわすと最新鋭戦車一台分に相当 犯人は20〜40歳台、若しくは50歳以降。或いは少年。ってコメントを思い出したw
マスケット銃兵と武士ならどっちが強い
まあ動員数ではヨーロッパはお話にならないってのは同意
>>328 数億円分ぐらいかな。
何で、そんなに高いの?
よろいを作る技術が高くつくのか、鎧じたいより装飾が高くつくのか。
騎士じゃないけどたしかバイキングなんかでも 袖まで付いた全身を覆える鎖帷子着れるのは長クラスだけだったとか
騎士はとにかく重そう。 馬上とかなら分厚いよろいに覆われた騎士のほうが強そうだけど 地面の上に立って闘うと思うように騎士は動けなさそうだから武士のほうが強そう。
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙 「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。 カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。 シャム、ここは1500人で征服できます。 いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・ 日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」 パステルス「日本スペイン交渉史」
>>332 西洋鎧を作れる職人が少ない
材料となる板金が少ない
製作期間が異常に長い
フリーサイズの概念がない
関節部が変形しやすくすぐに動かなくなる&すぐ錆びるので維持費もかさむ
338 :
日本@名無史さん :2009/12/25(金) 22:01:10
ラストサムライで トムクルーズがサムライの村で 練習していた剣術がすごい。 柔術と剣術が合わさっている。 最後はアキレス腱固めを していた。
339 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 00:26:09
へー ただ柔術は鎧をつけた侍の取っ組み合いの 組みうち術が由来の一つだから剣術と柔術は一体ともいえるから不思議ではない 講道館柔道でも古式の型として残ってる アキレス腱固めは遊牧民が羊などを抑える技だとおもうからサンボ由来とかかな? 江戸の捕縛術も柔術の由来の一つだが、その捕縛術にアキレス腱固めみたいのがある可能性もある。 とりあえず柔道の抑えこみなんかは江戸で発達した捕縛術
340 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 14:28:58
というか江戸時代以前の武術って元々徒手格闘だけでなく 剣術や槍術や水練なんかもセットで覚えてたもんだからね。 今でも高名な武道家は 柔術オンリーとか剣術オンリーとかじゃなくて 色んな武器の扱いに精通してる人が多い
341 :
日本@名無史さん :2009/12/26(土) 14:32:13
あとサンボ由来ってのは違うんじゃない? サンボって元々のロシアの格闘術に 日本の柔術とかレスリングとか 色々取り入れて生まれた格闘技だし。 まあサンボの源流になった中央アジアやシベリアの 遊牧民の格闘術が源流というなら有り得るけど。
>>315 チャージしか能が無い欧州騎士はスィパーヒー騎兵やモンゴル弓騎兵にぼっこぼっこにされましたがなにか?
広瀬武夫とロシアの人々 コヴァレフスキー海軍少将がロシアの将校たちを招待して晩餐会を開いた。 ペテルブルクに留学中の日本海軍大尉広瀬武夫も招かれ、少将から武道の達人だと紹介された。 食後、別室でくつろいでいる時、日本の柔術が話題に上ると、一人の大男が突然、広瀬に右手をさし出して、さあやってごらんなさい、と構えた。 広瀬は、 「日本の柔術というものは、そんなものではありません。 私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」 と言った。 男が腰を下ろそうと、気合いが少し抜けた瞬間に、 「こんな風にやるのです」 と叫びながら、広瀬は大男の右手をとって部屋の真ん中にどしんと投げ出した。 大男が腰をさすりながら、おどけて 「日本の柔術コワイコワイ」 と言うと感嘆の声が部屋中に湧いた。 相手の虚をつくその機転、大の男を投げつける武勇が、驚くべき日本人という印象を深くきざみつけた。 「ヒロセ君に乾杯」の声があがった。
344 :
日本@名無史さん :2010/01/19(火) 18:47:40
jy
「我々の同僚であった通訳生は、昼も夜も彼につきまとう恐怖感で頭がいっぱいになり、 公使館の門から決して出ようとせず、第九連隊の一団と大勢の護衛がいるにも関わらず、 さらに防御を固めるためにアームストロング砲を二門本国から取り寄せてほしいと公使に懇願したのである。 ある晩、哀れな若者はそれ以上耐え切れなくなった。 彼は仲間と一緒に静かに食事をして自分の部屋へ戻った。 銃声が二度聞こえた。 最初の一発が失敗したのは、手が震えたせいだと思われるが、 その弾丸は天井から発見された。 二度目が致命傷であった。 自殺は伝染するというが、その週のうちに横浜で二度同じような事件が起きた」 「回想録」Algernon B. Mitford 1871年 「英国外交官の視た幕末維新」
346 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 14:32:53
>>330 マスケット銃兵なら日本にもたくさんいたから推して知れ
349 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 15:04:15
>>347 本物使っても同じ結果でしょ?
しかも実際に戦場で使われてた量産型のものも
そのドイツ人が作ったものと似たようなもんだろ?
はいはい言い訳言い訳。
>>349 製法が日本刀とドイツの刀じゃ全然違うじゃん。
その実験で使ってるのは日本刀じゃないんだから何の意味も無いよ。
351 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 15:15:44
>>350 動画みる限り、実験者はちゃんと日本刀の製法踏まえてるよ。
そういう意味じゃ実際に日本で使われてた量産型の刀と一緒。
そして銘刀なんて戦場じゃ滅多に使われなかったんだから
むしろ量産型の刀を使ったのはより現実に沿ってると言える。
353 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 15:45:37
玉鋼使ってる刀使ってもきっと同じ結果w
>>351 お前さあ、見よう見まねで刀作れると本気で思ってんの?
職人舐めてんじゃねえよ。
427 :名無し三等兵:2010/03/05(金) 22:57:44 ID:??? それ日本刀の形してるだけで刀ですらねぇじゃん… 430 :名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:07:35 ID:??? 動画主が自分で刀作ってる動画あるけどもうムチャクチャ。 せめて玉鋼使えよと。 609 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 00:49:42 0 ドイツのオッサンが形だけ真似て作った日本刀モドキで実験wwww 610 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 01:38:30 0 そりゃ単に形だけ真似て作っただけなら、厚のあるブロードソードが勝って当然だろ 618 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 03:40:51 O 本当にオッサンが作っててワロタ 619 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 03:54:44 0 日本刀つくりたいなら、まず玉鋼を調達しなきゃなあ。 631 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 12:00:54 O 実際アホな実験そのものなんだから困るわww 431 :名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:50:44 ID:??? 専門家が作った日本刀じゃなく個人で作った日本刀だろそれ ブロードソードと日本刀じゃ作る難易度が違うんだわ
359 :
日本@名無史さん :2010/03/17(水) 10:47:32
世界史板に立てろよ
結論から言って、西洋甲冑は間合いもくそもない至近から殴り合う場合のみ抽出すれば最強の防具とも言えるが、反面犠牲にした物が多すぎる。 結局皆が西洋甲冑をつける事により、歩兵戦では主力が鈍器になるが、これもお互いに避ける能力が低くなったからこそ可能な装備。 まともによけもしないもの同士が鈍器で殴り合うというのではせっかくの鎧の 意味も薄れてデメリットの方が大きくなってしまった感がある。 もっともお互いが同じように鈍重ならちゃんと当たるのだからデメリットとは言えないかもしれないのだが。 ちょうど南北朝時代に鈍重だが破壊力抜群の鉞や金砕棒が流行するも、鎧の運動面の発展とともに「当たらなくなって」廃れていったのと似ている。
この手のスレの一生 まずコテつけた奴が西洋マンセーし日本を貶す ↓ 日本側が史料上げつつ反論する ↓ そのうちネトウヨだのニートだのと罵倒が始まるがそのうち大人しくなる ↓ レスが無くなったあたりで日本厨が調子に乗って妄言ぶちまけまくる ↓ まともな住人がいなくなる ↓ そのうち過疎化すると比較的学術的な話題が始まる(この頃が一番スレが落ち着く) ↓ しばらくするとまた厨が現れスレが荒れだす ↓ 反論に困った側が今更ながら「比べるなんて無駄」と言いつつ ○○はこっちのが上とやっぱりどっちかをマンセーする ↓ 結局最後まで話は平行線をたどり人格攻撃で無駄にレスばかり消費されて終了
-よくある勘違い- 西洋の鎧のほうが日本より発展しているというイメージ。 実際のところいわゆる「板金製の全身鎧」は日本では三世紀には実用化されている。 そして十世紀にはあえて四肢を軽装にし、着用部を頭と体と脛に集中し腕腿の防御は胴から垂らした大袖や草摺に任せる「大鎧」にがらりと変えている。 これらの時代西洋の大半の地域では革鎧か青銅の胴鎧と兜か鎖帷子である。 まだまだ全身鎧とはいいがたい。 そしてようやく西洋で全身鎧が使われ始める頃には 日本では当世具足といって鋼と革と布をたくみに組み合わせた運動性と防御性能のバランスの取れた鎧を着用。 そして西洋ではマクシミリアンによってフルプレートは極められたが、 極めた結果「それでも動きづらくて使えない」ことに気がついた戦士達、ランツクネヒト登場となる。 そう、まるで古代日本律令制の全身板金鎧が侍によって否定されたように… 日本人が10世紀には気づいていたことに西洋人は何世紀までかかってんの?
筑海の颶氣、天に連なって黒し 海を蔽うて来る者は何の賊ぞ 蒙古来る 北より来る 東西、次第に呑食を期す 趙家老寡婦を嚇し得て 此を持して来り擬す男児の国。 相模太カ、膽甕の如し 防海の将士人各力む 蒙古来る 吾は怖れず 吾は怖る関東の令山の如きを 直前、賊を斫って願みるを許さず 吾が檣を倒して虜艦に登り 虜将を擒にして吾が軍喊す 恨む可し東風一驅大濤に附し 羶血をして尽く日本刀に膏らしめざりしを
1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、 スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。 さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。 人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。 こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。 実はこれは日本人にとっても他人事ではない。 戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、 日本が信長や秀吉や家康のようなすぐれた人物に恵まれず、 また民族的なエネルギーも不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。 現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。 イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、 武士の戦闘能力とその動員数、そして鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、 本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。 そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、 九州の神社仏閣を破壊し、日本の中にキリスト教区を作ろうとした。 さらに明の侵略にも使おうとしたのである。 豊臣秀吉は、明がスペイン人に征服されては、いずれは日本にも魔手が伸びると考え、 バテレン追放令を出し、さらにスペインの明への侵攻を牽制すべく先手を取って明に向かったのである。 それは文禄の役のときフィリピン総督府あてに脅迫的な手紙を出していることでも明らかだ。 歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せている。 これではキリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としてしか描けない。
365 :
日本@名無史さん :2010/06/04(金) 16:39:31
>>361 どこ行ってもそんな感じだよ。西洋マンセーというか日本アンチは
最新の研究ではとか、実験ではとかそれらしいことを言う割に具体的なソースを出さない。
366 :
日本@名無史さん :2010/06/13(日) 21:30:27
西洋マンセーでも日本アンチでもないが、 異国との戦争の多かった西洋とほぼ国内での戦争だけだった日本で どっちがより実践的な戦術、装備、人材育成が発展したかは『明白』だろう。 日本人として武士に軍配を上げたいという気持ちは分からないもないが。 西洋は異国との戦争の中で支配されないために命がけでそれらを模索した。 その結果完成されたのが長い槍を使った騎馬による戦闘だ。 さらに十字軍時代は鎖帷子だったため異国の弓矢に対する対抗策の必要性に気づかされる。 そこで装備も進化を遂げ最も強力な弓矢も無力化してしまう板金鎧が登場する。 防具の進化と武器の進化の激しいいたちごっこの中で防具と武器は完成された。 ランス、ハルバードやフルプレートアーマーはその完成品といえよう。 フルプレートアーマーはそれ自体が武器となった。 鎧の重みを衝撃力に変えてランスチャージの威力を壊滅的なまでに高めた。 またガントレットで殴ることは金槌で殴ることと同じ意味を持った。 火器の発展でこれらの武器・防具は廃れたがフルプレートアーマーは初期の鉄砲の弾も跳ね返した程 優れたものであり、信長もその実力を認め日本の風土に合わせて取り込み、鉄砲対策として自ら着用している。 また、これら武器防具の進化はその使い手にも進化を促した。 原始的な武器防具と違って使いこなすには多くの鍛錬が必要だったからだ。 その人材育成として騎士見習い制度が効果的だった。 騎士は戦闘のエキスパートとして幼い頃から他人に預けられて訓練を強いられる生活の中で 騎士道精神と共に戦闘技術を叩き込まれて育ったのだ。
盾を捨てたのも散兵戦術も日本の方が西洋より早いですが何か?
>>367 盾は白兵戦など使い方によっては有効だろうに
>368 盾を使用した方が有利な場合には日本でも使われていましたが何か? つーかその理屈では西洋で片手剣が長剣に取って代わった……この話このスレか世界史板の前スレでやらなかったか?
370 :
日本@名無史さん :2010/06/13(日) 23:06:28
>>366 異国との戦争って、ドイツVSフランスとかじゃないよね
西洋VSイスラム・モンゴルとかの事?
そのおかげでランスチャージが生まれたりして、日本とは比べようもなく戦闘力が発達したと?
>>366 はT田の受け売りだなw
とりあえず
>>362 をそのままレスにできる内容だな
-よくある勘違い-
西洋の鎧のほうが日本より発展しているというイメージ。
実際のところいわゆる「板金製の全身鎧」は日本では三世紀には実用化されている。
そして十世紀にはあえて四肢を軽装にし、着用部を頭と体と脛に集中し腕腿の防御は胴から垂らした大袖や草摺に任せる「大鎧」にがらりと変えている。
これらの時代西洋の大半の地域では革鎧か青銅の胴鎧と兜か鎖帷子である。
まだまだ全身鎧とはいいがたい。
そしてようやく西洋で全身鎧が使われ始める頃には
日本では当世具足といって鋼と革と布をたくみに組み合わせた運動性と防御性能のバランスの取れた鎧を着用。
そして西洋ではマクシミリアンによってフルプレートは極められたが、
極めた結果「それでも動きづらくて使えない」ことに気がついた戦士達、ランツクネヒト登場となる。
そう、まるで古代日本律令制の全身板金鎧が侍によって否定されたように…
日本人が10世紀には気づいていたことに西洋人は何世紀までかかってんの?
騎馬兵を大太刀でボコボコにする武士たち 「宣祖修正実録」 天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、 道険しく、泥深くして駆けること能はず。 賊(日本軍)長刀(大太刀)を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし 「懲秘録」 賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。 賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ち振るい、人馬の区別なく斬り伏せた。 全くその勢いには抗すべき道がなかった。 戦国時代では騎士のほうがもう絶滅しているが…
何年か前に朝のニュース(オズラが出てる奴)で 外国で行われた最強の騎士を決める戦いの映像が流れてたけど ぶっちゃけ弱そうだったしオズラも「弱そうじゃん」的な事を言ってた
>>373 称号はあっても戦闘のプロとしての騎士は、
映像が登場した時代にはもういないだろ・・・。
そんなの日本の町興しやサークルでやった場合の最強の武士を決める戦いと同列だろ。
そんなの持ち出して強さを議論して何がしたいのか。。。
西洋厨はよくそういうエキシビジョンの結果を 「実験の結果、騎士のほうが武士より強い」とかおかしな流用するしな
皮肉な話だよね。 ランツクネヒトはフルプレートを着ず、手足は軽装で胴体のみ武装という比較的日本の鎧武者に近い思想の鎧を身につけ、 ポールアームや両手剣や段平相当の剣カッツバルケルなど、これまた日本の鎧武者に近い思想の武装で戦った。 ランツクネヒトは重装騎士を戦争の主役から引きずり落とした三つの立役者の一つ。 言ってみれば騎士狩りのための白兵戦武装と日本の武装は何の偶然か比較的近いものだったわけだ。 究極のフルプレートを生み出したマクシミリアン陣営の最強軍団がフルプレートの鈍重さと防御力の限界を一番知っていたわけだ。
378 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 02:55:22
>>371 >そして西洋ではマクシミリアンによってフルプレートは極められたが、
>極めた結果「それでも動きづらくて使えない」ことに気がついた戦士達、ランツクネヒト登場となる。
勉強不足も甚だしいな。
オーダーメイドで高価なフルプレートアーマーを一介の戦士(ランツクネヒト)なんかに着せられるわけないっつーの。
着ていなかったというよりは着れなかったのだ。
「それでも動きづらくて使えない」というのもよくある憶測だが
可動部は技術の粋を極めているし、全身への加重のかかり方も考慮されていたので
フルプレートアーマーを装備することは訓練された騎士にとって殆ど戦闘の妨げになることはなかった。
379 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 03:07:56
>>377 >ランツクネヒトは重装騎士を戦争の主役から引きずり落とした三つの立役者の一つ。
>言ってみれば騎士狩りのための白兵戦武装と日本の武装は何の偶然か比較的近いものだったわけだ。
個としての戦闘能力の高さは騎士の方が遥かに上だったがコストが高く、
度重なる戦争で慢性的な財政難に苦しんでいた国家は騎士を登用することが難しくなっていった。
そんな中で重宝され始めたのがコストの低い傭兵や一介の兵士達だ。
騎士を戦場の主役から引き降ろしたのは国家の財政難。
>究極のフルプレートを生み出したマクシミリアン陣営の最強軍団がフルプレートの鈍重さと防御力の限界を一番知っていたわけだ。
だからフルプレートアーマーは鈍重でないって。現在の軍隊の装備の方が重いぞ。
防御力は火器の発達で確かに限界を知ったね。
380 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 14:04:24
1565年のマルタ騎士団とか相当に強いぞ。たぶん武田信玄や上杉謙信と 川中島で戦っても負けないんじゃないか?
381 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 17:09:20
ジャン・ド・ヴァレットはマルタ島の英雄
382 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 18:15:28
クロアチア総督ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ将軍は1566年の シゲトヴァール要塞の包囲戦で僅か2千3百の兵力でスレイマン大帝 指揮する10万のオスマン帝国軍を相手に一ヶ月間忍耐強く守り抜き 最期は全ての兵士が突撃して玉砕した。
383 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 18:44:26
戦闘に勝利したオスマン帝国軍であったが包囲戦の最中にスレイマン大帝が病没。 兵の犠牲も甚大でそれ以上の進軍が困難となり、退却せざるを得なくなった。 スレイマンの死後、後継者問題で内乱が勃発しオスマン帝国の衰退が始まる。
384 :
日本@名無史さん :2010/06/18(金) 19:00:23
武士も騎士も時代ごとに、戦術が変わっているだろ。 年代をそろえてフェアにやろう。 もともと武士といえば、流鏑馬だ。
386 :
日本@名無史さん :2010/06/19(土) 11:18:08
騎士厨が二言目には自慢するマクシミリアン式の生みの親の資金源でもあったマクシミリアン1世が一番頼りにしていたランツクネヒト。 そいつらはフルプレートガチガチに着込んでいたかといえば実はNO 「いろいろ工夫してみたけどやっぱフルプレート鈍臭いわw有効なのは胴鎧だけ」 っていってんのにそこは無視だもんな。 ランツクネヒトの剣カッツバルケルは当時のフルプレート着用の敵相手に使用されていた。 こいつがクリーンヒットすれば頭はつぶれ小手は吹き飛ぶ。 材質的・構造的には日本刀のほうがはるかに頑丈なわけだから、 そのうえでカッツバルケルと同じ質量の太刀もってくれば 西洋のフルプレートでも割れてしまうってことだな。 カッツバルケルはサイズ的には普通の太刀と変わらず、 ちょっと重ねが厚いぐらいかなぐらいのものなので それこそ同田貫と変わらないし大太刀もってくれば確実ってわけだ。
387 :
pi :2010/06/19(土) 19:42:25
だいたい武士の強さなんか、中世ヨーロッパ社会がイスラム社会に対して、 200年間に渡って投入された十字軍よりも多い大軍、文禄の役(16万〜20万) 慶長の役(14万〜18万)を投入しながら5万〜10万の明軍と200年に渡る 平和ボケの朝鮮郡相手に沿岸部の倭城を追い詰められた日本軍の強さを見れば 武士なんてたいしたことがないとわかる。
>>379 >だからフルプレートアーマーは鈍重でないって。現在の軍隊の装備の方が重いぞ。
現代の兵士の装備重量って10kg程(行軍時は25〜30kg)だった筈だけど、フルプレそんなに軽かったっけ?
というか、マクシミリアン1世が騎士の弱さに絶望して組織したのがランツクネヒトだよなw 動機としては、金羊毛騎士団がスイス農民兵に負けてブルゴーニュ公が討死したのが発端。 他にも経費削減や失業対策とかあったが、騎士が金のかかる割りには大して役に立たないというのは変らんな。 後、コンポジットアーマー、フルプレートアーマー、キュイラッサーを混同してやがる。 コンポジットアーマーは、騎士がまともに活躍していた時代の全身鎧で鎖と金板を組み合わせたもの。 でもすんごく重い。こけたら自力では起き上がれない。クレシーとかで負けたのはこの鎧の頃。 フルプレートアーマーは、マクシミリアン式甲冑とかの総板金製鎧。 でもすんごく高い。ちなみにこの頃の騎士は役立たず。これの半分版をランツクネヒトは使用。 キュイラッサーは、胸甲がすんごく厚い防弾使用の4分の3甲冑。 防御力としては最強だが、この頃に騎士なんぞいない。そしてカラコールによって退場。 これの半甲冑なんかが日本に伝わって南蛮鎧になった。 結局行き着いたのは、日本式とあんまり変らん半甲冑。 基本的に鎧が進化するごとに騎士は役立たずになっていくんだがw
390 :
日本@名無史さん :2010/06/20(日) 21:02:30
やはり騎士といえばウマウマ抜きでは考えられない。 モノホンの騎士の乗る馬はそもそも体格が全然違う。 武士の乗る木曽馬、南部馬は最大でも500kg以下。 フランスのペルシュロン馬はでかいのは1トン以上。 ナポレオンの騎兵でも胸甲騎兵はペルシュロン馬、軽騎兵は体重500kg以下のアラブ馬だった。 馬防柵設置するとかモンゴル軍みたいに距離とってひたすら弓で攻撃するならともかく、 昼間に不意に衝突したらやっぱり馬小さい方が不利だろう。
391 :
日本@名無史さん :2010/06/20(日) 22:04:42
対応戦術を採られたら勝ち目がないから、 視界のよい時間帯かつ、不意打ちかつ、突撃戦しかないって事か
392 :
日本@名無史さん :2010/06/20(日) 22:11:19
>>390 スウェーデン騎兵の軍馬は日本の軍馬より小さかったけどあの活躍ですが何か
393 :
日本@名無史さん :2010/06/20(日) 22:16:38
まあ日本の武士が普段から長柄足軽とか鉄砲足軽とか弓足軽とか雇ってのも、 できるだけ自分に都合よく相手を白兵戦に持ち込むためだし。 スイス槍兵、ジェノバ弓兵、砲兵もフランス騎士からすれば足軽と同じ。主役は自分。 山の敵はスイス槍兵で追い出し、籠城する敵は砲兵で粉砕し、 平地におびき寄せたスペイン兵を騎士で蹂躙、と言うのがフランスルネッサンス式。
394 :
日本@名無史さん :2010/06/21(月) 22:33:11
スペインの騎兵がカラリコールやってたのはイタリアでフランス騎兵に馬の体格で勝てなかったかららしい。 しかし長年の習慣でスウェーデン騎兵にもカラリコールで相手してしまったということか。
395 :
日本@名無史さん :2010/06/21(月) 23:24:25
396 :
日本@名無史さん :2010/06/26(土) 19:08:03
>>386 >そいつらはフルプレートガチガチに着込んでいたかといえば実はNO
>「いろいろ工夫してみたけどやっぱフルプレート鈍臭いわw有効なのは胴鎧だけ」
>っていってんのにそこは無視だもんな。
だーかーらー全身鎧は高価過ぎて揃えることができたのは金と地位のあるほんの一握りだったの。
本当はフルプレート着れたら着たいけど、とても手が出せないからってことで着てなかっただけなの。
想像たくましいのう・・・
>ランツクネヒトの剣カッツバルケルは当時のフルプレート着用の敵相手に使用されていた。
>こいつがクリーンヒットすれば頭はつぶれ小手は吹き飛ぶ。
それじゃフルプレートの意味がないでしょ。
もしそれが本当ならば、高価なフルプレートをわざわざ造らせて、
それを着て生死をかけた戦場に行くなんてそんなバカはいないでしょ?
戦場での生き残りに有効だから着てたわけで。
フルプレートについて何も知らないのな。
高くて装備できないなら 結局実質的に戦うやつは着ていない=使えないお飾り
398 :
日本@名無史さん :2010/06/27(日) 10:59:29
まあマルタのド・ラ・ヴァレットみたいに自ら剣をふるって戦局挽回する奴もいるがな。 マルタ騎士団はフルプレート着て小銃も大砲も撃ってたみたいに見えるが。 あとマルタ騎士団はハプスブルグ家に黄金の鷹贈るぐらい金持ってた。 しかも常に最前線。
399 :
日本@名無史さん :2010/06/27(日) 17:09:06
西洋甲冑の最大の弱点は重さよりも「暑さ」。 殆ど例外なく西洋の甲冑を付ける場合、下に分厚い生地の服を着込むから熱が篭って大変な事になる。 とてもじゃないが長時間全力で動く事は出来ない。 屋外じゃ簡単に熱中症になる。 まぁ普通に考えて、炎天下に鉄板をおけば物凄い熱を持つ事は容易に想像は出来る。 サーコート一枚程度じゃどうにもならなかったようだな 日本の鉄鎧が漆や皮、布によって表面が覆われているのもうなづける。
400 :
日本@名無史さん :2010/06/27(日) 17:14:03
十字軍とかは中東の暑さをどう克服していたんだろうか?
たしか水飲み場でこけてそのまま溺死した貴族がいたような…
酸欠
403 :
日本@名無史さん :2010/06/27(日) 18:38:45
まあロンメルとかアフリカでも戦車で戦ってるし。 戦車でどうにかなるなら甲冑でもどうにかなるんじゃね?
昔の人って栄養無くて今より体が小さかったのに 重い鎧を付けて自由に戦えたの?
405 :
小野孝也 :2010/06/28(月) 02:03:21
気合いだーっ、気合いだーっ、気合いだーっ
「西洋鎧を使用中は過度の運動は避けてください。窒息の原因になる場合があります」
>>403 戦車にはクーラーついてたぞ
マレー進攻時の97式戦車にもついてた
>>389 結局自分で着て自分一人の人力で支えるわけだから
外表面を鉄で覆うってのも限界があるんだね
やりすぎて犠牲者が出るまで気がつかないってのも歴史上いろいろなところであったことなんだろうな
>>389 はデタラメ。
>コンポジットアーマーは、騎士がまともに活躍していた時代の全身鎧で鎖と金板を組み合わせたもの。
>でもすんごく重い。こけたら自力では起き上がれない。クレシーとかで負けたのはこの鎧の頃。
んなわけない。
トーナメント用の全身鎧でも立ち上がれるのに。
実戦で使えるように作ってあるんだぞ。
>>410 フルプレート騎士、転がったまま起き上がれてないなw
みんながクララが立った状態で応援してくれる中立ち上がる容易さと
立ち上がりを狙ってボコボコにしてやろうみたいな敵意の渦の中で立ち上がれるかという難しさとじゃ全然違うってことだな
まんまアジャンクールの再現だな
413 :
日本@名無史さん :2010/06/29(火) 21:44:20
414 :
日本@名無史さん :2010/06/30(水) 07:26:49
プレートアーマーを着けれるような騎士は、捕まっても生きていれば、身の代金を払って解放されるから… 戦闘出来るかどうかは、あまり問題なかったかもしれないね。 昔の絵で見る限り、チェーンメイルで戦っているシーンが多いみたいだし…
415 :
日本@名無史さん :2010/06/30(水) 19:41:28
いやイスラム教徒には関係ないと思うぞ。金が目的じゃないから。
416 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 00:07:31
けっこう解放されているみたいだよ。 もっとも、キリスト教徒同士の戦争のつもりで書いたんだけどね。
417 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 00:10:49
為朝とか篠塚重広とか豪傑として昔から人気あるけど 個人武勇で有名な騎士っている?
418 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 00:42:42
ランスロット
419 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 01:09:54
何つーかなあ優劣差を比較するならきちんと条件を 設定した方がよくね? 重装騎兵である騎士に対して飛び道具で勝てるから 武士の方が上とか言われても何のこっちゃいな?ってな感じ なのだが。
420 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 02:09:09
>>417 シラノ・ド・ベルジュラック
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
ロバート・ブルース
バヤール
辺りかな?
421 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 03:05:53
>>417 ラ・イール
ジャンヌ・ダルクに従い百年戦争で活躍した武人。
キニジ・パール
大剣を両手で自在に操ったハンガリーの豪傑。
>>419 弓馬の道が専業の武士に弓を使うなというほうが無茶だろ
っつーか戦争にきまりなんてないんだから十字軍対鎌倉幕府軍のガチンコ勝負で勝ったほうが強いでいいじゃん
425 :
日本@名無史さん :2010/07/01(木) 22:42:06
これならどうだ? ジューストVS流鏑馬
426 :
日本@名無史さん :2010/07/02(金) 03:44:28
>419 一騎打ちか集団戦かによる。 一騎打ちなら個人の能力しだい、集団戦なら当時最大威力を誇る弓の前に 西洋騎士はあっけなくやられる。 実際蒙古と対決したとき蒙古の弓の前にボコボコにやられてるが、鎌倉幕府軍は奇襲攻撃 されたのに2回ともフルボコにして追い返してる。
428 :
日本@名無史さん :2010/07/02(金) 19:40:55
イングランドの騎士が蒙古と戦ったら下馬してウェールズ平民に弓攻撃するかも。
429 :
日本@名無史さん :2010/07/02(金) 20:18:00
ドーバー海峡VS対馬海峡
騎士は弓を使わんが、農民が強力な弓兵(ロングボウ)とかに。 全部を総合すると、勝敗は判らん。 日本は、半農民の足軽も、一応武士だし。含める範囲が違うね。 蒙古を比較対象にするのも難しい。 騎士は、モンゴル騎兵と闘ったが、 日本は、高麗・南宋兵が多い上陸兵。
431 :
日本@名無史さん :2010/07/03(土) 15:36:10
>>騎士は、モンゴル騎兵と闘ったが、 >>日本は、高麗・南宋兵が多い上陸兵 蒙古は単独でヨーロッパに戦いを挑んだの? 蒙古は基本的に混成部隊でモンゴル単独は初期だけじゃないかな? 文永の役は福岡平野で圧倒的多数の騎兵を少数で撃破してる。 >>騎士は弓を使わんが、農民が強力な弓兵(ロングボウ)とかに 防御が高い鎧をきた騎士は弓なし(攻撃力低)で攻撃力ある農民は防御力(鎧)なしでは 両方持ってる武士がどう考えても強すぎw。 しかも数が鎌倉時代で総数15万はいる。 これではヨーロッパが蒙古にまったく対抗できずに敗退した理由がわかった気がする。
武士VS騎士と言うより、どちらの軍勢が勝つか考えるなら、 西洋の弓兵(騎士ではない)も含めて、考える必要がある。
軍勢で比較するなら、騎士はヨーロッパの過半を集結しないと武士団に対抗出来んのだが……
434 :
日本@名無史さん :2010/07/03(土) 22:01:19
435 :
日本@名無史さん :2010/07/03(土) 22:16:59
つーか十字軍のときは騎士も相当な数集まったぞ。明らかに九州に集まった鎌倉武士団より多い。 十字軍騎士には「ギリシャの火」という火炎放射器もあるし。
437 :
日本@名無史さん :2010/07/04(日) 03:30:02
>>435 文永の役は1万弱、弘安の役は4万の前衛部隊で鎌倉幕府の本体は宇都宮貞綱率いる6万が京都に居た。
まぁ弘安の役は東アジア(蒙古、金、南宋、高麗)総結集で攻めてきたけどね。
>>436 そこの人アホじゃね?www
クロスボウは威力が高いですが、城での待ち伏せ程度しか運用し難いが欠点です。
実績では蒙古弓が一番有名かな。
ロングボウと和弓は同じ張力だと威力はほぼ同じ。
和弓は構造上非対称なため馬の上でも射れるし地面にしゃがみながらでも射れる
のが攻撃面で断然有利です。
ロングボウなどの大きい弓は結局立って撃つしかなく馬の上では大きすぎて取り回しが効かない
蒙古も地上兵は大きい弓、騎馬は小さい弓で使い分けてました。
えっと、
>>437 は病気なの?
そもそも武士も騎士も形式的な一騎打ちがほとんどじゃん。総じて弱い軍隊。
バトゥの侵攻、元寇もほぼ同じ経過をたどった。
最初の衝突でモンゴル軍にコテンパンにやられたが、モンゴル軍はなんらかの事情で引き上げてしまった。
日本の場合はおそらく台風や疫病、ヨーロッパの場合はモンゴル側の政治的情勢の変化。
いずれにしろ、純軍事的にはまったく歯が経たなかったと。
439 :
日本@名無史さん :2010/07/04(日) 04:37:51
>>438 一騎打ちとか・・・
もうなんと言っていいのなら
441 :
日本@名無史さん :2010/07/04(日) 05:02:02
無作為に選んだ武士と騎士を戦わせたらだいたいは武士が勝つと思うけど 代表同士を戦わせたら騎士が圧勝だと思うわ
442 :
437 :2010/07/04(日) 06:05:16
>>438 よう朝○人、ちゃんと反論してみな、お前のほうが病気以前に無知すぎる
勉強してから出直して来い。
>>436 弩と弓はまったく違うものだろうに……
そもそも欧州で、クレシーで弩兵揃えた仏軍が長弓兵集めた英軍に大敗しただろうが。
>>444 どうみても比較対象が現代のアーチェリーです。
本当にありがとうございました。
イングランドの長弓が、弓としては一番単純な丸木弓だということも知らないのか……
>>443 最近の研究じゃあイングランドの長弓ではフランス騎士の鎧を貫けない
(矢傷により死亡した騎士はほとんどいなかった)
雨で地盤が緩んでいた場所でフランスの騎兵が動けなくなった所を
叩いたというのが真実らしい
ロングボウと和弓は、和弓が若干射程が長いらしいな。 遠距離での飽和射撃で有利か。 でも距離が近づけば、連射と命中性でロングボウが上らしいな。 日本は、逃げ回って和弓を撃ってる内は良いかもな。 近づけば騎士の突撃やロングボウ兵に押されそうだ。
448 :
日本@名無史さん :2010/07/04(日) 11:57:51
武田勝頼が率いる武士団だったらウェールズ弓隊に正面から突っ込んでって負ける。
449 :
437 :2010/07/04(日) 12:26:34
>>449 あれは、ヤフー知恵袋をソースにしているというより、
ろくに弓も歴史も知らない無知が日本側に不利な材料をネットで適当に探して、
なんとか見つけたそれっぽいのを何も考えずに書き込んだだけだろうよ。
だから、たぶん
>>436 と
>>444 は同一人物。
普通ならすぐにクロスボウとアーチェリーって気付いて和弓とは比較対象にならないって分かるのに、
嬉々として書き込んでるのがその証拠。
>>449 >近くで撃てば鉄板も貫通しますが、西洋弓兵は遠距離主体で脅しに毛が生えた程度。
その脅しに脅えまくって集団で羊のように一ヶ所に逃げ集まった挙げ句、
おしくらまんじゅう状態で次々に圧死したのが西洋騎士だよなw
騎士って、普段威張って味方の弓兵すら平気で踏みつぶしていく癖に、
新戦術や異民族に出会う度にボロ負けする役立たずだよな……
まあ、文字も読めない脳筋だと新戦術なんて考えようもないから仕方ないかw
同時代の武士が、漢詩を詠めるほどに語学に通じて、あまつさえ国家の支配者になってる程なのになあw
>>449 その動画だって、スポーツ見せ物の類だろ。
実戦で使ってた強弓より引きが軽いと思う。
>>451 騎士はモンゴルの弓騎兵集団に狩られたかも知れないが、
武士はそれらと戦ってないし。
陸続きなら持たなかったろうよ。
>>453 騎士が負けたのはモンゴル騎兵だけじゃねえよw
新しい敵や戦術と出会う度に噛ませ犬のごとく負けてるんだよw
後、山河が多く起伏の激しい日本じゃモンゴル騎兵は役に立たねえから
船で大量のモンゴル騎兵連れてこられたとしても、結果は同じだったから
>起伏の激しい日本 なるほど。 海の他、国内でも地の利に助けられる訳ね。
>>455 地の利を利用できるほど異民族に攻め込ませた事のないのが日本
同じモンゴルを相手といっても、 武士と騎士では、戦った相手の性質が違うし。 比較対象にならないね。
こんな所で、話を断定して勝ち誇るのが、痛々しい訳で。 当時と同じ体格に近い人を用意し、 中世から伝わる鎧と槍(先は安全処理)で、馬に乗せぶつけ合うとか。 中世から伝わる実戦弓で、射程、命中、連射性能を競うとか。 話だけでは空しいだけ。
モンゴル、モンゴルと…… 騎士の汚点は対モンゴル戦だけじゃないんだけどなあw 後、内容を精査するなら、未知の相手と右も左も分からずに戦ったという点では同じ。 モンゴルを舐めきって簡単に敵戦術に引っかかって殲滅された騎士と、 油断することなく相手の戦術や新兵器に素早く柔軟に対応して撃退した武士とじゃ、 どっちが有能か子供でも分かるな?
>未知の相手と右も左も分からずに戦った 一度目は威力偵察説もある攻撃だったな。 二度目が来る間に、防塁等の対策ができる猶予があったのは良かったな。
461 :
437 :2010/07/04(日) 13:30:17
462 :
437 :2010/07/04(日) 13:40:17
>>一度目は威力偵察説もある攻撃だったな 元史ししか読まなかった馬鹿勝手に行ってるだけ高麗史も読めば威力偵察なんてありえないよ なんせ1ヶ月以上の食料積んでるんだから1泊もせず帰るなんてボロ負けしただけ。 >>二度目が来る間に、防塁等の対策ができる猶予があったのは良かったな 防塁付近で戦ったのは約2ヶ月間の戦闘の内、最初の1日で別の所から上陸試みるも 連戦連敗で逃げ回ってますよ蒙古はね。 陸続きの国は防衛しやすいんですよ国境に強固な砦築けばいいから、 ところが島国はそうは行きません、なぜなら何処から上陸されるかわからないから 故に分散配置しないといけない、総兵力12万5千いても九州にはたったの4万しか置けませんでした。
>>461 >なぜ体を綺麗に覆うことより敵の攻撃を防ぎ攻撃しやすい鎧を作らなかったのだろうね?
騎士にとって、戦争は殺し合いじゃなくてスポーツとか見せ物だったからだろうなw
だから、本気の戦争をするようになったクレシー辺りからどんどん役に立たなくなっていったんだろうよw
騎士の軍事演習でのエピソードで、霧で相手側の部隊が見えないからというので、
手短な味方側で適当に相手を見繕って「殺し合い」をしたという話を聞いて、
こいつら本当に戦争を舐めきってるなってつくづく呆れたよ……
>>463 ハラキリ切腹丸を思い出した。五右衛門きらきら道中のラスボス。
465 :
日本@名無史さん :2010/07/05(月) 04:12:42
>>461 そんな少数派を出せば武士にもいるだろ、川渡ってる最中に落馬して溺死ってのは。
実際に当時の戦争で全身を覆う強固な鎧は有効だったから発達したわけだろ。
剣も弓矢も全く寄せ付けなかったからな。
466 :
437 :2010/07/05(月) 04:53:11
468 :
日本@名無史さん :2010/07/06(火) 02:49:42
>>466 意識もうろうとなって落馬死ってのは君のもうそうかい?
そりゃ気候の熱い所に行けば誰だって熱射病になるが
騎士が活躍したのは冬は寒く、夏はあまり熱くならない西洋だろう。
熱対策がそれほど必要ではなかった土地だったからこそ
このように鎧は防御力を極限にまで高める方向に進化できたと言えるだろう。
日本での経験を例にあーだこーだ文句つけても何の意味もないだろ、
日本で騎士が全身鎧で身を固めてたって話じゃないんだから。
君が心配しなくても、西洋がもし日本と同じ気候だったならば鎧は全く違ったものになってたよ。
469 :
日本@名無史さん :2010/07/06(火) 03:00:56
470 :
日本@名無史さん :2010/07/06(火) 05:58:16
>>468 ってことは北欧限定ってことだね。
イギリス、フランス、ドイツの夏は普通に熱いよ、イタリア、スペイン、南フランス
更に熱く日本とあまり変わらない。
>>469 転んだら起き上がれない点で、やはりどちらかというと儀式中心なんだね。
で視界はちゃんと確保されてるの?戦場では兜は取るのかな?w
471 :
日本@名無史さん :2010/07/06(火) 13:30:53
ものすごく騎士にコンプレックスがあるようだな。
反論出来なくなると個人を中傷するのは良くあることだなw
武士には実績があるけど騎士にはなんかあるの?
オスマンや蒙古などの外敵にやられたい放題でヨーロッパの端っこで細々と戦ってぐらいしかないけど。
蒙古のときなんか運良くオゴダイが死んでくれたから助かったけど死んでなければヨーロッパ
全滅だろうな。
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b07_mongol/mongol.html 落馬すれば腰の骨折れて死亡、前方視界が悪く同士討ち頻発、頼みの絶対防御の鎧はオーダーメイドで
量産できず、鈍器で殴りあいw。
騎士では日本や中国に勝つのは不可能だけど下手すりゃ朝鮮にも負けそう。
とりあえず補足として 鉄は熱を伝えや易く、触れた面から急速に鉄の方に熱が移動するので冷たく感じる。 そのため、鉄で覆われた西洋騎士の鎧は意外と涼しい。 また、冷熱を逃がさないように上から綿製、絹製の服(サーコート)を着ていた。 しかし、見れば分かる通り 兜が密閉されてて、とても息苦しい
474 :
日本@名無史さん :2010/07/06(火) 22:12:24
そういやテンプル騎士団とか白くて涼しそうなコート着てるよね。
475 :
pi :2010/07/06(火) 23:06:19
>>472 今谷明著の「封建制の文明史観」の第1章モンゴルの世界征服と封建制
2.バトゥの西征とヨーロッパにおいてモンゴル軍が撤退したのはオゴ
タイ急死のみが原因ではなく、リーグニッツ戦以後に侵攻したドイツ
国内での城塞都市における激しい抵抗や会い結局1都市も落とせず撤退
している。
>>475 あれ、ヨーロッパ側だけの資料で、モンゴル側の資料から裏をとってなかっただろ。
477 :
pi :2010/07/06(火) 23:35:01
>>476 オゴタイの急死によりモンゴル高原に撤退したといっても
ロシア平原はそれ以後も200年以上にわたってモンゴル
の支配化にあった(所謂タタールのくびき)のにどうして
目と鼻の先のポーランドやドイツを征服しなかったのかを
考えればモンゴル騎兵がドイツ騎士を恐れていたと主張した
エドワードギボンの主張も間違ってないと思う。
>>477 間接的すぎて裏付けとしては弱いだろ。
もっと、直接的な事例を挙げないと。
479 :
pi :2010/07/07(水) 01:07:33
>>478 はあ?
間接的じゃないだろ。
上でも言っているようにモンゴル軍のリーグニッツで勝利したのが
1241年4月なのにモンゴル高原に撤退したのはオゴタイハーンの死んだ
1241年12月11日から考えても翌1242年の1月〜2月にかけて、即ち10ヶ
月間もドイツやポーランドに駐留してたんだ。
その観ブレスラウ・リーグニッツ・オルミュッツ・ブリュン・
ノイシュタットなどの城塞都市を攻めながら1つも攻め落とせなかった。
ドイツ騎士のドイツ市民の激しい抵抗にモンゴル騎兵も恐れていたんだろう。
>>479 その間にウィーン近くまで攻められてるんじゃん。
頑健に抵抗したというなら別にいいが、恐れられてたというのは言い過ぎだろ。
遠征の疲れや、牧草が不十分だった事や、動きづらい森林地帯の問題もあったしな。
>>470 は
>>469 のどこを読んだらそういう解釈ができるんだ?
転んでも難なく起き上がれることができたから。
youtubeを見れば分かるが、全身鎧姿で身軽に側転しまくってるぞ。
どう見ても
>>470 の発言には私情が多分に入ってるとみえる・・・w
あとイギリス、フランス、ドイツの夏は熱いとはいえない。
暖かいという程度なので全身板金鎧でも問題ない。
イタリアやスペインは熱い。さすがに夏の暑い時期は別の装備をしていたのだろうと思われる。
騎士に劣等感抱いてるやつはすぐにモンゴル軍の話を持ち出すがw、 モンゴル軍なんてフルプレートの時代の騎士にはどうあがいても勝てないだろ。 未開な武器で攻撃してもかすり傷ひとつ負わすことができないだろうな。 モンゴルがいつまでも13世紀の状態で這い蹲ってる間に差はさらに開き、 西洋は遥か上の存在になってしまったw
>>482 ヒストリーチャンネルの実験で、イングランドのロングボウでは充分に貫けなかった
コンポジットアーマー相当の鉄板を、モンゴルの短弓は軽くぶち抜いてたんだがw
それ見たけど、鉄版と鎧は違うよ。 鍛錬もせず曲面も作ってない代物を鎧と同じ扱いにしたら甲冑職人が浮ばれねぇ・・・。
485 :
日本@名無史さん :2010/07/07(水) 02:31:56
欧州における騎士は階級的には日本における大名だろ
>>485 貴族の一番下っ端だろ
だから国王に簡単に所領没収されて没落することのなる
騎士にも階級があるだろうて。
武士、騎士VS蒙古人になってるから笑える 学問の板なんだから架空戦記なんていいよ
489 :
日本@名無史さん :2010/07/07(水) 13:30:11
騎士と言ってもベルトラン・デュ・ゲクランやジャンヌ・ダルクのような訳分らんが凄い奴等もいる。 国王に所領没収されてもデュ・ゲクランのような奴に拾われてまた所領与えられることもある。
>>485 騎士=戦士。
王であり騎士である人物もいれば、
領地も何もないけど騎士なのもいる。
ちなみに実際に戦争で戦うのは、領地も持たない雇われの貧乏騎士。
日本で言えば足軽で、当然よくあるイメージのような豪奢な鎧なんか着けてない。
現存する騎士の鎧と呼ばれるものは、伯爵とかの大名級の鎧だけ。
492 :
日本@名無史さん :2010/07/07(水) 21:08:18
まあドンレミ村のジャンヌダルクだって領地なんか持ってないが、 フランス国王から甲冑もらって実際に戦っていたからな。
武器大辞典では射程は 重藤弓で90〜180 弓胎弓で200〜300 ロングボウで90〜275
494 :
日本@名無史さん :2010/07/08(木) 13:45:22
弓道の距離は28m〜60m。アーチェリーの距離は30m〜90m。 矢の飛ぶ最大射程と狙って当たる距離は違う。 まあ和弓でも洋弓でも100m以上離れた敵を狙うことはまずないだろう。
>>493 どんな弓、クロスボウでも狙って当たるのは最大50Mぐらいまでだろうね
鎧を貫通するには30M以下でないと無理だと思う、矢の空気抵抗が大きいから
100Mなんて布切れ着た兵士ぐらいしか倒せないはず。
結局敵に最も脅威になるのが
弓(当時最大射程+高威力)と鎧(狙って当てるには近づかないといけない)と
馬(機動力)を組み合わせるのがベスト。
馬で接近したら、矢の相対速度がupしそうで怖いっス
武器辞典での続きで 種子島の説明で 実践に使う矢は最大射程400m、殺傷距離80m、確実殺傷距離30mに対して 火縄銃は殺傷距離200m、確実殺傷距離50mと書かれてある >493で書いたのは射程の一覧の表記 この表では種子島の射程は100〜300m 他では、弩は150〜200m、クロスボウは60〜300m、火箭が500〜800m 見た限りでは、有効射程〜最大射程っぽい書かれ方をしてるみたい
戦場では一々狙ったりしないだろうけど 有効射程に入ったらとにかくひたすら撃ち続けるだけ クロスボウが意外に使えないのは連射能力がないせい だから柵や土塁など野戦築城が重要なんだな
499 :
日本@名無史さん :2010/07/09(金) 22:19:19
500 :
日本@名無史さん :2010/07/09(金) 23:26:19
ジャンヌダルクもオルレアンでは矢で肩やられたな。
501 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 23:26:13
しかしそんなにロングボウが強いならなぜウェールズ弓兵はイングランド騎士に降伏したのだろう?
502 :
日本@名無史さん :2010/07/11(日) 01:10:17
クロスボウ、弩などは訓練度低くても何とかなるが弓は訓練度低けりゃ使い物にならない。 その辺の農民かき集めてクロスボウ、弩持たせれば即席の軍隊の出来上がり。 弓は職業軍人でしか無理。 和弓は弓史上最大威力の弓で陸兵から騎馬兵まで使える唯一といっていいぐらいの優れた弓だけど 最大の欠点は扱いが難しく、その辺の素人農民では扱えない。 勝ち戦が続いてるときはいいが、連敗が続き錬度高い兵士激減したとき弓よりクロスボウ、弩だろうね。
503 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 19:32:29
ウェールズ最後の大公は船で移動している最中に捕虜になった。 その弟は森林の中で抵抗していたが騙されて捕虜になった。
モード・アングレってのは防御戦術でそ
>>499 徒手空拳の輩が凄い速さで走ってきても全く意味が無いな。
和弓て弓の中で高性能だったんか
507 :
日本@名無史さん :2010/07/16(金) 05:06:45
高性能どころか傑作でしょう
普通の弓では威力を上げるために大きくすると立って射らなきゃいけないので攻撃を受け易くなり
遠く離れた所から撃つので当たらないし結局威力が下がる。
大きい弓では取り回しが悪く騎乗して撃てない。
ところが和弓はグリップ(握り)が下から3分の1にあり低い体勢でも撃て騎乗でも射れます。
和弓とアーチェリーの比較ですが3分の1だとちょうど振動が発生しにくく強い張力でも撃てるらしい。
洋弓は顔の手前までしか引けず、和弓は顔の後ろからでも撃てるの威力が高い?
http://hr-inoue.net/zscience/topics/bow/bow.html
>>506 射程距離はトップレベル。
扱い易さや、的を狙う能力は低レベル。
509 :
日本@名無史さん :2010/07/16(金) 19:32:40
場所:関ヶ原 東軍:家康連合軍 西軍:チュートン騎士団 東軍司令官:家康 西軍司令官:ユンギンゲン さあどっちが勝つ?
510 :
日本@名無史さん :2010/07/16(金) 19:36:01
せめて同時代の軍隊に設定しないと意味がない。
511 :
日本@名無史さん :2010/07/16(金) 19:55:11
チュートンは騎士団の中でも弱そう。1600年のマルタ騎士団なら家康でも楽勝とはいかないだろう。 カルバリン砲やセーカー砲の扱いは確実にマルタ騎士団の方が上。 異教徒との戦闘にも慣れてる。
512 :
日本@名無史さん :2010/07/16(金) 20:04:14
ジャン・ド・ヴァレットVS徳川家康
514 :
日本@名無史さん :2010/07/17(土) 04:09:31
>スポーツとしての和弓は置いといて戦争では他より抜きん出てるが 和弓が、他の弓を圧倒した事例は? >騎士の鎧はどうかな?〜ロングソードおろか日本刀ですら切れない 対斬撃なら、高い鎧じゃなくても、チェーンメイルで充分。弓には強くないが。 鎧は切る物じゃない。 鎧に対する武器は、切れ味は二の次。頑丈な物で上から殴りつけるのが主流。 また日本の様に、しばしば組み合いになり(柔術のルーツ)、隙間から鎧通しで刺す等。
>>515 文永の役、まぁ和弓は職業軍人専門だけどね。
でも鉄砲の前に消えていった…
>>514 >斬ってる人
この人は戦争映画で有名なリー・アーメイだな。
元軍人とはいえ66歳の剣の素人には無理だと思う。
>>514 防御力という点においては、西洋のプレートメイルは他より抜きん出てるよ。
ただ、それに伴うデメリットが大きすぎて使い物にならないだけ。
重すぎたり、高すぎたり、鉄砲に無意味だったりと、間違った方向に進化してしまった。
結局行き着いた先は、胴だけ頑丈に守って後は適当という当世具足とあまり変らない形式。
そしてその頃には、騎士はとっくに滅びていた。
要するに騎士という存在は、中世ヨーロッパという特殊な時代の特殊な地域でしか活躍できない御当地ヒーロー。
インフラが破壊され、戦争能力も動員能力も極端に下がった時代にお山の大将気取ってただけ。
古代ローマやマケドニア時代の戦術に比べるとカスにも等しく、その時代の戦術や動員能力を取り戻した
近世や近代に影も形も無くなるのは、ごく当然のことだな。
519 :
日本@名無史さん :2010/07/17(土) 13:03:58
>>518 >要するに騎士という存在は、
>中世ヨーロッパという特殊な時代の特殊な地域でしか活躍できない御当地ヒーロー。
違うだろ。
元は動きやすい鎖帷子(チェーンメイル)が主流だったが、
十字軍あたりで異教徒と戦うと、容赦ない矢の撃ち合いになるので、
除々に板金の面積が増えてプレートアーマーに向かってゆく。
弓には、それなりに有用だった。ただ鉄砲防御だと重量が大変で廃れた。
鉄砲以前の時代と考えれば、それなりに優れもので、
落馬したら困る様な鎧は、戦場では使わない試合用の物。
521 :
日本@名無史さん :2010/07/17(土) 13:29:16
騎士は中東や北アフリカでも死ぬほど戦ってるし。
522 :
日本@名無史さん :2010/07/17(土) 13:57:25
イギリスからエジプトやシリアまで何度も遠征していることを考えれば 武士より騎士の方がはるかに行動範囲広い。兵站はジェノバやベネチアの商人が確保している。
産業革命までのヨーロッパは弱い 少しずつ強くなりだしたのが300年前くらいで200年前からは機械化が進むのと比例して逆転しだした その前は鴨
西欧なんて南米から じゃがいも、トウモロコシ、トマト等の痩せた土地でも出来る 植物が入ってくる前は、蝦夷地以下の僻地だぞ
ここで粘着して騎士・欧州叩きしてる輩は、 ・騎士が異教徒の地に、しばしば出征した事も知らない。 ・産業革命以前の大航海時代から、世界に勢力拡大開始した事も知らない。 ・試合用の馬上重鎧を、戦場用と勘違いして叩く。動きやすいチェーンメイルも無視。
>>523 江戸時代の停滞で武士がまったく進歩しなかったから逆転されたわけで
527 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 06:00:12
実際に戦わせれば結論は出る。
528 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 15:07:28
銃ありなら織田時代の武士>同時期の騎士 だろうね。 三段重ね戦術とか向こうはとうとう開発出来なかったみたいだし。
>>526 イギリスの産業革命がありえないレベルだっただけ
すべてを一変
フス戦争でターボル軍が車陣+鉄砲斉射戦術で十字軍を破ってなかったっけ?
531 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 20:49:22
だいたい桶狭間の三段撃ちって昭和の陸軍参謀本部が広めた俗説だろ。 スペインは槍襖+四隅の銃列=テルシオを開発してる。 大坂夏の陣の徳川軍VSテルシオならどうよ。
532 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 20:52:44
家康の本陣に火縄銃を乱射しながら近づいていくテルシオ。 その回りを馬上筒を乱射しながら回ってるレイター。
機動力ゼロでとっとと包囲殲滅されるテルシオ
極論すると鉄砲いっぱい持ってる方が勝つ
>>536 日本の圧勝じゃないか!!
というか、動員能力にかなり差があるんだが……
538 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 21:32:14
物量で負けてる日露戦争の時代でも最強といわれたロシアに日本が圧勝する まだ兵器の力が弱く”人”でうわまれる時代 武器が原始的すぎる武士vs騎士の時代の戦では話にならんほど武士のが強い ていうか東アジアと産業革命前の西洋ではレベルが違いすぎる
539 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 21:51:56
レイター対伊達の馬上鉄砲隊。お互い弾なくなるまで回り続けてドロー。
ここで粘着して騎士・欧州叩き、武士を美化自慰してる輩は、 ・騎士が異教徒の地に、しばしば出征した事も知らない。 ・産業革命以前の大航海時代から、世界に勢力拡大開始した事も知らない。 ・試合用の馬上重鎧を、戦場用と勘違いして叩く。動きやすいチェーンメイルも無視。 ・西洋からの鉄砲が戦国を決定づけ、火薬も頼ってたのに、東洋がずっと上と妄想自慰。 ・日露戦(英米の力を借りる。実質引き分けに近く、これ以上は限界)を、圧勝と勘違い。
541 :
540 :2010/07/20(火) 22:23:53
硝石は中国からも輸入してたな
武力については単純に比較できない。 武士の終焉であった幕末維新期には、既に欧州もプロイセンのユンカー連中は 騎兵を時代遅れの代物としていた。 精神については、両方とも不当な美化が施されている。 中世から近代における各種の戦闘では、騎士道なんてお笑いの残虐非道劇が繰り返されたし、 戦国期の日本も伊達政宗あたりは本当に酷い。地域住民自体を根こそぎ葬っている。 騎士道は絵空事、武士道に至っては明治以降に新渡戸稲造が騎士道を武士道に挿げ替えただけの本を出し、 欧米人の歓心を買おうとした。 実際は、もっと卑怯かつドライかつ残酷なものだ。
543 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 23:04:16
>>騎士が異教徒の地に、しばしば出征した事も知らない でもオスマンや蒙古にボコられ >>産業革命以前の大航海時代から、世界に勢力拡大開始した事も知らない メチャメチャ弱い国見つけて占領、日本(戦国)や明は強すぎて断念w >>試合用の馬上重鎧を、戦場用と勘違いして叩く。動きやすいチェーンメイルも無視 それですらフル装備した部隊は稀で矢や剣で突かれれば死ぬのでプレートへと行くが更に量産困難で フル装備した人は更に稀になるw >>西洋からの鉄砲が戦国を決定づけ、火薬も頼ってたのに、東洋がずっと上と妄想自慰 あっという間にコピーして量産し戦術レベルまで仕上げて、気づいたら数ではヨーロッパを凌ぐ勢い >>日露戦(英米の力を借りる。実質引き分けに近く、これ以上は限界)を、圧勝と勘違い 勉強不足、開戦時400万対20万でも、兵の士気の高さがいかに重要かこの戦争が物語ってる。 海軍では日本の圧勝、陸軍では辛勝、裏工作では勝ちよって日本の勝ち 世界中の誰もが日本の勝ちと認識してるが圧勝なんて誰も思ってない。
>(日露戦)圧勝なんて誰も思ってない。 538みたいな馬鹿は思いこんでるらしいなw
>>543 >でもオスマンや蒙古にボコられ
武士も明出兵でボコられ
>あっという間にコピー
物まねし、火薬も頼りながら、相手の文明を見下したがる卑小さ。
>海軍では日本の圧勝
三笠なども西洋製w
>>545 感情での考察は何も生まん
ネットが広がりすぎてそれでは誰もだませんのよ
戦国も、幕末も、日露戦も、 西洋の技術や、支援などに左右されながら、 「西洋はカス、日本圧勝」とか自慰する輩の卑小さw
548 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 23:29:45
>>武士も明出兵でボコられ もっと勉強しろ、明出兵ではほとんど日本が勝ってる。 大陸渡って加藤清正に勝った奴いるか? >>物まねし、火薬も頼りながら、相手の文明を見下したがる卑小さ。 銃をすばやくコピーし量産した職人の凄さとすぐに扱いをマスターした兵士 いい物はすぐ取り入れしかもすぐ生かすのが生き残りをかけた戦争では重要 でないと朝鮮みたいにず〜〜っと属国。 >>三笠なども西洋製w 戦争では何製なんて重要か?勝敗だよ いまでも日本製の部品使用してないのは少ないだろ。
騎士・欧州叩き、武士を美化自慰してる輩の主張まとめw 産業革命以前の西洋は、話にならないカスで、 騎士は落馬したら終わりの、当地のみの存在で、 日露戦は日本の圧勝で、
事実は変わらん
日露戦も、西洋の技術や支援に頼った辛勝(実質引き分け)なのに、 それを大勝利と勘違いする馬鹿が続出して、 日本は特別な神国だ、とうぬぼれ、後の無謀な独走の一因に。 このスレにいる様な馬鹿の事だ。
制約かけないなら第二次大戦まで個の強さでるね アメリカの物量に負けたけどイギリス含め西洋はボロボロ 近代戦ですら向いてない
騎士じゃ結果見えてるから武士VSマムルークでいいのに
ここで粘着して騎士・欧州叩き、武士・日本を美化自慰してる輩は、 ・騎士が異教徒の地に、しばしば出征した事も知らない。 ・産業革命以前の大航海時代から、世界に勢力拡大開始した事も知らない。 ・試合用の馬上重鎧を、戦場用と勘違いして叩く。動きやすいチェーンメイルも無視。 ・西洋からの鉄砲が戦国を決定づけ、火薬も頼ってたのに、東洋がずっと上と妄想自慰。 ・日露戦(英米の力を借りる。実質引き分けに近く、これ以上は限界)を、圧勝と勘違い。 ・WWUでも、米にキルレートで負け、対欧州も独暴れ後に植民地奪うも、英にインパール以降ボコられたのに、 「連中は近代戦に向いてない」と見下したがる。
555 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 00:32:30
長篠の戦は1575年。世界史的にはどうなのだろう? 1503年「テリニョーラの戦」 イタリア、ナポリ郊外 スペイン軍が豪を堀り、その土で土手を築き陣を構え鉄砲で待ち構え、フランス騎兵を撃破。 1514年「チャルディラーンの戦」 カスピ海西南タブリーズ南方110キロ オスマントルコ軍が大砲の砲車を鎖でつなぎあわせ即席の防壁をつくり、 大砲と小銃でサファビー朝ペルシャ騎兵を迎撃し、撃破する。 1526年「モハーチの戦」 ハンガリーのモハーチ平原 オスマン軍がハンガリー騎士軍を火砲隊で破る オスマンの戦場画には最前列に大砲、その後ろに二列になって二段撃ちする銃砲隊がはっきり書かれている。 戦場のモチーフ画なので実際には必要に応じて何段にもなったのだろう。 こうして世界史の観点から史実をみると長篠の戦での鉄砲戦術が世界初だとはとうてい思えないのである。
556 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 00:32:54
13世紀は元に蹂躙されてその後オスマン 16世紀のスペインもあのとおりだし産業革命前はフォローしようがない
557 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 00:47:47
16世紀のスペインはアルマダの敗北を除けばそつなく勝っている テルシオの前にフランス騎兵が壊滅したチェリニョーラの戦い(1503年) 同じくテルシオの前にスイス槍兵が壊滅したビコッカの戦い(1522年) テルシオ陣形にカラコロール戦術 そして何よりスペインのみならず‘西欧’軍は防御に強い いい例が1540年から7回の当時ユーラシア最強のオスマン・トルコ軍の攻撃を撃退したマルタの聖ヨハネ騎士団 特に1565年の攻撃ではイェニチェリ6300を含む40000のオスマン軍を騎士、従士わずか700と島民民兵8000で撃退した
558 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 00:49:50
当時の西欧はイタリア式築城術を完成していた 恐らく戦国の日本軍はイタリア式築城術で造られた防御拠点を一つも落とせないだろうし 突撃すればテルシオの火砲の突撃破砕射撃と縦深数列の銃隊と縦深40列のパイク兵の前に潰えるだろうし 動かなかったりすれば火砲の攻撃準備射撃に膚接した十数列に及ぶ騎兵のカラコール戦術の銃火の前に混乱することだろう
>>555 長篠でのぼせてる輩が居るが、
鉄砲を列になって撃つ位、よそでも考えるよな。
戦国日本と西洋にしても、
攻め込んだ方が不利、程度の話でしかない。
傭兵は騎士ではないし足軽は武士ではない。
562 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 13:38:38
キリシタン大名ってある意味騎士。
563 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 13:48:26
「お館さま、イスパニヤ勢のテルシーオが横に並んで本陣へ一斉に押し寄せてまいりまする!」 「あせるでない!鶴翼の陣で押し包んで討ち取るべし!」 「されどイスパニヤ勢は仏朗機砲を馬で曳いておりまする!」
鉄砲以前で比較しなければ騎士対武士の比較として意味が無い
じゃあ応仁の乱ぐらいから
鉄砲以前なら武士、元、マムルークの三つ巴だな
陳朝とハルジー朝も
568 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 19:49:52
楠木正成VSベルトラン・デュ=ゲクラン
長い長い消耗戦になりそうだなw
お互い膠着状態になって終了
>>554 せめて543,548を反論してからコピペしろ、情けないぞ。
>>558 アホなん?どの時代何処でも城攻めは大変だろ。
なんで騎士だけ城がプラスされるんだ?
>>563 でた大馬鹿発見、戦国時代日本に来たスペイン人は自国の王になんって報告したかなw?
やたらスペイン持ち上げてるけど日本も明も占領を諦めてるんだけどw
日本だけで職業軍人が30〜50万人いるし、明も数では負けてないし。
でスペインは?
>>571 >スペイン持ち上げてるけど日本も明も占領を諦めてるんだけど
おまえの言う城責めも考慮してるだろ。西洋から伝わった鉄砲もな。
なにが「騎士だけ」だよw
やたら武士・日本を持ち上げ、騎士・西洋を貶す輩は、
毎回イタさを披露してるな。
ここで粘着して騎士・欧州叩き、武士・日本を美化自慰してる輩は、
・騎士が異教徒の地に、しばしば出征し、それなりに活躍した事も知らない。
>>518 ・産業革命以前の大航海時代から、世界に勢力拡大開始した事も知らない。
>>523 ・試合用の馬上重鎧を、戦場用と勘違いして叩く。動きやすいチェーンメイルも無視。
>>466 ・西洋からの鉄砲が戦国を決定づけ、火薬も頼ってたのに、東洋がずっと上と妄想自慰。
>>538 ・「スペインが占領諦めた日本が強い、でも西洋の城は考慮するな」なるダブスタ。攻撃側が不利なだけ。
>>571 ・日露戦(英米の力を借りる。実質引き分けに近く、これ以上は限界)を、圧勝と勘違い。
>>538 ・WWUでも、米にキルレートで負け、対欧州も独暴れ後に植民地奪うも、英にインパール以降ボコられたのに、
「連中は近代戦に向いてない」と見下したがる。
>>552
574 :
日本@名無史さん :2010/07/22(木) 11:22:38
ってかヨーロッパって美化されすぎだな なんでも
騎士は武士と比べる段階に無い なぁなぁの戦争とか10人未満の戦争とか
騎士と武士を見ても、戦争の強さは計れない。一部の存在にすぎないから。 戦国日本の軍編成は、普段は畑仕事の半農足軽、または徴兵農民が8〜9割。 ヨーロッパの軍隊も、騎士には該当しない弓兵の方が戦場の脅威になるだろう。
577 :
日本@名無史さん :2010/07/22(木) 20:06:09
いや昔の戦争の目的は基本的に個人を殺害したり捕虜にしたりすることだからな。 たとえ兵力が9割でも農民は主役ではない。十字軍や一向一揆は別だが。 英仏百年戦争だってあくまでフランスの王位を決めるのが第一目的。 薔薇戦争はイングランドの王位。 桶狭間や河越夜戦だって個人を討ち取った時点で勝敗決まった。 領主、君主が死んだ後で戦場に農民9割が生き残っていても無意味。
>>576 足軽は常雇と臨時雇の混在で、陣夫は徴募
日本は基本的に戦闘要員は自己意思
>>578 村ごとに徴兵人数を割り当てたりしてたろ。
>>579 あれは陣夫といった後方要員
戦闘要員としての動員は緊急時に、期間限定、兵糧の給付、恩賞の約束、
任務も後方警備とされていた
>545 「明史」 「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」 我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった 明軍はボコるどころかボコられたと考えてるようだが
582 :
日本@名無史さん :2010/07/23(金) 05:32:44
日本の小荷駄の農民が従軍するのは自分の村の中だけじゃなかったっけ。 隣村までいったら今度は隣村の農民が徴用されて、自分たちはまた自分の村に戻る。 後方警備も自分たちの村を守るだけ。 まあ状況によってはそいつらも皆殺しにして村も丸焼きにするんだろうけど。
>>582 そこら辺は様々な例があるので良く解らんが、戦場まで行くという例はあったはず
584 :
日本@名無史さん :2010/07/23(金) 09:46:00
武士の強弱については秀吉が行った文禄・慶長の役ですでに結論は出ているyo 200年の泰平を謳歌した朝鮮軍7千人に対しては水陸合わせて16万以上 の大軍により質量ともに圧倒できたが、明軍に対しては、李如松率いる 李家軍 4万3千人に圧倒されてわずか3ケ月たらずで支配領域を朝鮮半島全土から南朝鮮沿岸 部のみに追いやられたことからも両軍の強さがわかる。 やれ朝鮮半島の寒さにやられただの、やれ朝鮮半島の貧しさ故に食料の調達が できなかったなどの見苦しい言い訳をするが、明国征服を目的に水陸合わせて 16万以上の大軍で侵攻しておいて甘ったれた言い訳なんて通用しない。 朝鮮半島の寒さや食料調達の難しさは明軍4万3千人にしても同じなんだから。 むしろ明軍がやってきた文禄2年正月の時点では日本側がホームに対し明側が アウェーの状態なのだから日本軍の方が明軍より強ければ、朝鮮半島の外に撃退 できるはずなのに。現実は明軍4万3千の来襲で水陸16万以上の軍勢がいながら 占領地を朝鮮半島全土から南朝鮮沿岸部分のみに追いやられたのだから日本軍より 明軍の方が強いことが証明されたともいえる。 120年間にわたる戦国時代の集大成とも言うべきこの当時の日本軍から して この程度だから武士の強さなど知れている。
585 :
日本@名無史さん :2010/07/23(金) 10:01:31
また、慶長の役だって、朝鮮南部4道の征服を目的に水陸合わせて14万以上 の大軍で攻め込んでいながら実態は沿岸部に倭城を作ってそこに立て籠 もり攻め寄せる明・朝鮮軍相手に何度か撃退したこと(泗川を戦い他)を さも日本軍の強さとして主張しているが、城攻めについては基本守城勢が有利 なのだから、敵を撃退した後どのような戦果を獲得したかが重要だが、 どの戦いについても追撃戦を行っていない。 すなわち撃退するのがやっとだったと言うことだ。(朝鮮半島沿岸部に水陸合わ せて14万以上も駐留していながら) 明軍に対する唯一の野戦での勝利である碧蹄館の戦いについても、瞬く間 に平壌を取り返した明軍が日本軍を侮り李如松率いる李家軍1万2千人が 先行してソウルの日本軍4万1千人の攻めかかった戦争だ。 以前は碧蹄館の戦いに投入された明軍は4万だったといわれていたが、 それだとそれから1か月後のソウル放棄・講和交渉の開始が説明できない。 (ソウル放棄の直接的理由は兵糧庫を明軍に焼かれたことだが、そもそも 平壌奪回戦もおこなわずソウル周辺で防備を固めていたのは明軍の脅威に さらされていたからであり、つまりは碧蹄館の戦いで明の全軍近くを相 手にして勝利を納めていたのであれば理屈に合わない。)
586 :
日本@名無史さん :2010/07/23(金) 14:03:39
夏休みの風物詩が遊びに来てくれたぞ。 おいみんな、ジュースとお菓子出してもてなしてやれ
>>572 アホ発見wスペインが何時城攻め考えたんだ?城攻め以前に諦めてるんだよ。
スペインが自国の王に送った報告書読め。
>>573 >>西洋の城は考慮するな
日本語勉強しろ在日、そんなこと言ってない誰であろうとも城攻めは厳しいんだと書いたんだ。
>>584 ,585
長文書く暇あるなら明出兵をもう一度勉強しろ、日本は連戦連勝でほとんど負けてない。
討ち取られた有名武将いるか?みんな無事で帰ってきたのは何故?
北条攻め25万、九州征伐20万で…隣の国には15万(兵士は実質10万弱)
秀吉は日本有力武将攻めるよりも少ない部隊でせめて大きな戦いは12〜3回あって
ほとんど勝ってるんあだけどね。
日本どころか加藤清正に勝った奴いないだろ>>明、朝鮮、女真族
>スペインが何時城攻め考えたんだ
攻略を諦めるのは、防御拠点も含めてな事すら知らん馬鹿。
>>587 もちろん鉄砲のコピー生産に成功した面なども大きいが、
それも西洋からの技術だし、西洋を見下す根拠でもないね。
「鉄砲あるから日本攻略できない」てのも、 鉄砲を "城" の鉄砲窓などで重要防御兵器にした部分も含むし。 動員できる兵力も、西洋・日本双方とも時期や地域でかなり違うし、 それが文明の優劣を決定づける訳でもない。
「日本が西洋の鉄砲コピー生産に成功して手出せない」 「日本の国まとめ後の兵動員力はかなり」 とかは、 「武士サイコー、西洋はカス」 なる主張の根拠にならない。 西洋の技術に国内情勢が左右された事に変わりないし、 西洋は分裂してた事が、進化をもたらす競争を生み出す要因となった。
秀吉の朝鮮出兵は米軍の朝鮮戦争と似てるんだよな。 米軍が弱かったかというと、そうでもないだろう。
592 :
日本@名無史さん :2010/07/23(金) 20:58:24
武士最高なんて誰も言ってないだろ でもww2なんかでもロカク技術で逆襲とか普通にアリだし
593 :
SAGE :2010/07/23(金) 23:10:38
>>587 連戦連勝なのになぜか兆戦半島の沿岸部に追い詰められる
日本軍。
なんで?
>>593 慶長の役なら講和条約守らなかった明、朝鮮への懲罰で半島南部確保の上で賠償金が日本の要求だが?
■■■日本軍と明軍の主要な戦闘■■■ 1.文禄1(1592年)7月16日 祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲 →小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利 ※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定、平壌にて正式な講和使を待つ 2.文禄2(1593年)1月6日 李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃 →正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。 明軍は平壌城を奪還 3.文禄2(1593年)1月26日 碧蹄館の戦い 李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。 体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突 →日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している) ※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される 4.文禄2(1593年)6月21日〜29日 第二次晋州城攻防戦 明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が普州城の救援に向かったとの報を受け、 立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃 →日本軍が撃退に成功 ※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。秀吉、部隊を段階的に帰還させる。 が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。 講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり(事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
5.慶長2(1597年)6月19日〜7月16日 漆川梁海戦 →朝鮮水軍壊滅、日本軍勝利 6.慶長2年(1597年)8月12日〜15日 明・朝鮮連合軍が守る南原城を日本軍が襲撃 →陥落 日本軍勝利 7.慶長2(1597年)8月16日〜8月18日 明・朝鮮連合軍が守る黄石山城を日本軍が襲撃 →陥落 日本軍勝利 8.慶長2(1597年)9月7日 稷山の戦い 稷山で解生率いる明軍先遣隊明軍2千(援軍2千)と黒田長政率いる日本軍5千の部隊が遭遇戦 →一進一退の攻防の末、明軍は戦意を喪失。 日本側に援軍2万5千が現れたのを機に撤退 日本軍勝利 9.慶長2(1597年)12月22日〜慶長3(1598年)1月4日 蔚山城の戦い 楊鎬、麻貴率いる明軍四万四千と、朝鮮軍一万二千の連合軍が完成前の蔚山城を襲撃 →加藤清正を指揮官とする篭城側一万が防戦、 その後日本軍一万二千が駆けつけ連合軍を大破 日本軍は敗走する連合軍を30里に渡って激しく追撃し、壊滅的な打撃を与えた 日本軍勝利
10.慶長3(1598年)9月〜10月 第二次蔚山城の戦い 麻貴率いる明軍二万四千、 金応瑞率いる朝鮮軍五千五百の連合軍が 再び蔚山城を襲撃 →日本軍は巧みに防戦、明・朝鮮軍は攻略の目途が立てられず撤退 日本軍勝利 11.慶長3(1598年)10月1日 泗川の戦い 董一元率いる明・朝鮮連合軍およそ三万七千(諸説あり)が泗川城を襲撃 →島津義弘配下七千が城外へ打って出て明・朝鮮連合軍壊滅 日本軍勝利 12.慶長3(1598年)10月2日〜7日 順天城の戦い 劉テイ率いる明軍二万二千、権慄率いる朝鮮軍六千、 陳リン率いる明水軍二万、李舜臣率いる朝鮮水軍七千の連合軍が順天城を襲撃 →小西行長配下一万三千が防戦し、明・朝鮮軍を撃退 日本軍勝利 ※八月から伏せられていた秀吉の死去が公表され、10月、撤退命令。 13.慶長3(1598年)11月18日 露梁海戦 明・朝鮮連合水軍五百隻が島津水軍五百隻と激突 →双方に甚大な被害。 しかし島津水軍は小西行長らを撤退させるという作戦目標を達成し、 連合軍は明水軍副将のケ子龍、朝鮮水軍大将の李舜臣が戦死 どう見ても明が時間切れで勝ったようにしか見えんね
598 :
SAGE :2010/07/24(土) 01:05:32
毎度毎度話のすり替えばっかだな。 たとえば碧蹄館の戦い なぜ明軍4万を撃退したのに平壌を奪回するどころか 2ヶ月ほどでソウルまで放棄して南朝鮮沿岸部に撤退したんだ? 慶長の役でも連戦連勝を続けていたのに、終始倭城に立てこもって いたんだ?
599 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 01:42:04
「明史」 「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」 我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
601 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 02:03:09
日本における武士の起源は坂の上田村麻呂あたりかな。
602 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 02:08:16
>>600 明確な戦争の敗北だな。
兵站をロジスティックという。
昨今日本じゃ後方支援なんて言っているが、補給はまさに戦争の一部。
後方支援じゃないわ。
補給のない戦争なんかあり得ないというのが帝国軍人に限らず
日本人は分からないのだろうか。
>>597 などは、戦闘で勝った勝った、強いぞ強いぞと言ってるだけ。
戦争は負けてるという事実がわからない。
愚かだわ。
603 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 02:35:42
>>599 明史は「勝つ見算をたてられなかったが秀吉の死で終戦になった」
と客観的な歴史の記述をしてるだけであって、
秀吉の死がなかったら我がほうの負けだったなんていってない。
逆にいえば「秀吉の死がなかったら日本が勝ってた」なんて明史は言ってないし、
そんなのなんの根拠もない。
>>528 織田時代の西洋には「騎士」など存在しない。貴族もただの「軍人」だ。
騎士というのは中世の存在で、せいぜい14、5世紀で終わってるの。
鉄砲云々というのは戦術の問題であって、騎士と武士そのものの問題ではない。
だいたい鉄砲使うのは足軽で武士じゃねーだろ。
軍隊の強さの比較なら軍事板逝けよ。
605 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 03:27:01
>>602 おいおい戦略目的未遂が敗北にしていいなら元コウは日本の勝利になっちゃうな
じゃこれ結論な
鎌倉武士>>モンゴル>南宋、高麗
606 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 04:01:35
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった 資料には勝てん
>だいたい鉄砲使うのは足軽で武士じゃねーだろ。 >軍隊の強さの比較なら軍事板逝けよ。 この理屈だと、西洋も弓兵抜きで、軍隊の強さではなく、 個々の武士と騎士を比べる事になる。 馬上一騎打ちなら、弓が使える武士が序盤は有利だろうが、 和弓は命中性が悪いし(しかも馬上)、連射も苦手だし、で近づかれて槍突撃されたらヤバイね。 普段着の一騎打ちなら、剣道とフェンシングは、刺すだけならフェンシング有利。 肉を切らせて骨を断つ気構えでやれば、驚異的な攻撃を見せつけられるかも。
・
>>602 logistics=ロジスティック
tactics=タクティック
・普通の人
logistics=ロジスティクス
tactics=タクティクス
609 :
SAGE :2010/07/24(土) 10:15:39
>>600 碧蹄館の戦いで明軍4万あいてに大勝しておきなから
その敗残の明軍に兵糧庫を蚊やれてソウルからも撤退
てずいぶん間抜けているね。
小早川隆景や立花宗茂あたりもたいしたことなかったんだな。
>>606 秀吉生きてたら日本が勝ってたと思うのか?
慶長の役は1597年2月に14万以上の大軍で南部4道を征服する目的で
始まったが、結局沿岸部に倭城をつくりそこに立てこもって防衛に
終始していた。秀吉の死は98年8月だから慶長の役が始まってすでに
1年6ヶ月もたっている。
その間沿岸部の倭城を拠点にソウルに攻め込むでもなく、守りに徹して
いてとてもじゃないが明軍に勝てるとは思えない。
>>607 マジレスすると
武士の弓攻撃
カンカンカン
騎士に0ダメージ
熟練のロングボウ兵ですら貫通出来ないのに、馬上弓でどうにかなるとでも?
馬でも狙うの?
>>609 文面読む限り致命的なピースが抜け落ちてる
碧蹄館から漢城放棄までの流れ言ってみて
>>610 武士が騎射やってた時代の騎士はチェーンメイルだろ
カンカンカンはおかしい
>>612 武士と騎士の時代は限定しなくて良いと思うが、
プレートメイルでもチェインメイルでも、
離れてる限りは、弓を討てる方が幾らか有利そうだな。
614 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 22:59:28
>>605 元寇と朝鮮出兵はちがう。
前者はモンゴル帝国のごくちいさな支作戦にすぎない。
最初から失敗しても大した話じゃない。
対して日本は全力を挙げての戦争に敗れた。
それから元の敗因の一番は台風。
天候のアクシデントで艦隊が壊滅した。
日本は朝鮮で純軍事的に敗れた。
全く違うよね。わかった?
>614 >前者はモンゴル帝国のごくちいさな支作戦にすぎない 『中国史のなかの日本像』 王勇著 「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、 その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。 注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」 小さな作戦ねぇ >対して日本は全力を挙げての戦争に敗れた 本隊である秀吉どころか家康も渡航してないのに全力ねぇ 歴史勉強してるか?
>それから元の敗因の一番は台風。
>天候のアクシデントで艦隊が壊滅した。
文永の役では嵐に会う前に逃げてるし、弘安の役では志賀島に上陸したが武士団に叩き出され、2ヶ月も海上逃げ回って嵐に遭遇してるんだが
>日本は朝鮮で純軍事的に敗れた。
>>595-597
617 :
日本@名無史さん :2010/07/25(日) 00:25:30
>>615 >小さな作戦ねぇ
小さいだろユーラシア全土をにらんでる元には。
>>全力ねぇ
じゃ、元は全力かい?
そんな詳しいなら両戦役での日本と元の総兵力に対する割合を述べよ。
で、台風は?
元寇の失敗の最大要因は台風だろ。
歴史勉強してごらんw
618 :
日本@名無史さん :2010/07/25(日) 00:38:47
>617
>小さいだろユーラシア全土をにらんでる元には。
南宋の艦隊失った事で各方面に影響でてるが?
外征の失敗で反乱起きるわ治安悪化するわと元朝のターニングポイントなんだが
>そんな詳しいなら両戦役での日本と元の総兵力に対する割合を述べよ。
少しは自分で調べな
>で、台風は?
>元寇の失敗の最大要因は台風だろ。
はいアホ確定
>>616 でどう書いてる?
何で台風に遭遇したか理解できるようになってからおいで
619 :
SAGE :2010/07/25(日) 11:03:23
海音寺潮五郎著作「武将列伝‐江戸編-」第2章立花一族102ページにおいて 文禄の役で立花宗茂にしたがって従軍した天野源右衛門覚書において明軍の ことを「馬の大きさはけしからず候、男もけしからず大きく候」とかいてあり、 また、従軍した武将らが「武辺強き唐人かな」と驚嘆してもいるから明軍は 立花勢から見ても精鋭だったとわかる。
もともと遊牧民とガチのドツキ合いやってた軍だからにゃー 弱いわけが無いのにゃー
621 :
日本@名無史さん :2010/07/25(日) 14:04:42
今もそうだが中国は優秀な奴と駄目な奴の差が半端ねえからな。 諸子百家丸暗記してる5人と文盲100人で編成されてる感じ。
622 :
SAGE :2010/07/25(日) 20:32:19
>>490 1241年4月に行われた2つの会戦
1つはポーランドのシロンスク公ヘンリク
率いるポーランド軍(ドイツ騎士団の援軍含む)
とモンゴルのポーランド派遣軍との間で
行われたリーグニッツの戦い
2つ目はハンガリー王率いるハンガリー軍とモンゴル
の主力軍の間で行われたモヒの戦い
この2つの会戦でモンゴルは圧勝したが、負けた両国は
騎兵で有名ではあるが、騎士の国では無い。
その後、この2つの会戦での勝利の余勢を駆って
ドイツ国内に侵攻し、10ケ月にわたり各地の城塞都市を
攻撃したが1つも落城させられず、オゴタイハーンの急死
の報に接してこれ幸いと撤退した。
その後もロシア平原を200年にわたって支配し、ポーランド
北部には再三侵攻したが結局ドイツ領内には2度と侵攻できなかった。
まさしくこのドイツこそ正真正銘騎士の国である。
騎士が城に引きこもったら、相手が勝手に帰ったか・・・。 しかも、野戦ではなく、籠城戦ねえ。
624 :
日本@名無史さん :2010/07/26(月) 07:18:48
武士は倭城に引きこもったら船焼き討ちされて日本米食えなくなったがな。
> 624 どこの火葬線紀読んだんだ? 現実の明、朝鮮水軍はゲリラ戦で時々襲った程度で、文禄、慶長共に日本の補給線は繋がったままだが
626 :
日本@名無史さん :2010/07/26(月) 23:26:04
>>625 それなのに釜山中心の南部に追い詰められたのか。
戦闘に弱かったということ?
>>616 事実が間違ってるね。
両戦役とも元軍が引いた理由は台風。
君は小さな日本軍の勝利を言ってるだけ。
それらは元軍が引いた理由と関係ない。
あとね、南宋船団は宋の老兵を積載してきた足手まとい。
これは少し本を読むとわかるよ。
夏休みもこれから。図書館とか行ってごらん。
歴史をちゃんと勉強すると楽しいよ。
がんばってね。
627 :
日本@名無史さん :2010/07/26(月) 23:29:49
現実が認められない、夏なのに年中春なかわいそうな子が湧いたスレはここですか
628 :
日本@名無史さん :2010/07/27(火) 13:33:34
台風じゃねえよ。 お前チョンだろ。
629 :
日本@名無史さん :2010/07/27(火) 13:38:12
ウヨ的には元が退却した理由は台風じゃなくて神風といいたい訳だな。
630 :
SAGE :2010/07/28(水) 00:20:58
アルギルダス 第3代リトアニア大公 アルギルダスの重要な功績は1362年に南ブク川における青川の戦い(ジュチ・ウルス2万人対リトアニア大公国2万5千人)でモンゴル人のジュチ・ウルス(いわゆるキプチャク・カン国)に勝利したことである。 これにより、ベラルーシやウクライナをも支配下に収めた。 完膚までに叩きのめされたジュチ・ウルスはより南方に移動することを余儀なくされ、後のクリミアとなる彼の地に本拠を築くのである。 ケーストゥティス リトアニア大公国共同統治者 1370年に宿敵のドイツ騎士団領に侵攻した(ドイツ騎士団国1万人対リトアニア大公国1万7千人)が撃退されている。
>>626 君の脳内では文永の役のとき台風がきたんだね
日本軍の小さな勝利なのに、嵐が来そうになっても陸に上がって陣地を敷かなかったんだね
しかも船も停泊しないで大破してるだね
君が持ってる歴史の知識では、小さな敗戦をしたら軍が壊滅するような嵐がきても停泊もせず陸にも上がらないんだね
>あとね、南宋船団は宋の老兵を積載してきた足手まとい。
これ何の資料に載ってるの?君の脳内妄想じゃなかったら載ってる原本をおしえてよ
これは少し本を読むとわかるよ、と書いてるから書かれてる原資料を知らないわけないよね
632 :
日本@名無史さん :2010/07/28(水) 03:15:47
いまどき元寇は台風で勝ったと思ってる知恵遅れまだいるんだなw
>>624 、626
少しぐらい前のレスぐらい読め、595、596、597読んでみろぼけ
慶長の役では南で倭城建築してただけ、この絶好のチャンスを抜け目なく明は大軍で
攻めるがすべてで敗退し壊滅されてる。
でどっかの国は撤退中の敵を撃つというこれ以上ないぐらい圧倒的有利な条件で敗北し
その間抜けな国では英雄とされてる人は死んじゃってますw
>>631 読解力がなく思い込みと願望が強い人は一回目はボロ負けしたのに
なぜか勝って老兵だと勝手に思い込む。
元史を読めば2回目はいかに用心深く攻めてきたかわかるのにね。
633 :
SAGE :2010/07/28(水) 23:22:54
前近代において日本人と西洋人の体格には現在のような差はなかった、
というような主張がなされている。
たしかに日本人と西洋人との文化交流が始まった16世紀後半当時、両者には
あまり体格差がなかったのは事実だろう。
しかし、それはたまたま西洋の人口が増加して1人当たりの食物摂取量が減っ
たためにおこったことであり、
下記のとおり1350年のペストの大流行以降1500年くらいまでは西洋の人口減少
のため、1人あたりの食物摂取量が増え、両者には相当体格差があっただろう。
肉の摂取量
イギリス 1400−10年(農 民):72kg/人/年(197g/day)
1600−10年(住民平均):33kg/人/年 (90g/day)
ドイツ 1400−10 年(住民平均):100kg/人/年(274g/day)
1500−10年(農村住民):12kg/人/年 (33g/day)
フランス 1480年 (ラングドッグ農村労働者):40kg/人/年(110g/day)
1700−10年(ジェヴォーダン農村住民):2−10kg/人/年(5−27g/day)
また、それ以前やそれ以降においても軍隊を構成する騎士などの上流階級や
都市住民などの中流階級または傭兵に限定してみれば肉の摂取量は相当あり、
体格も同時代の日本人より恵まれていたことだろう。
http://d.hatena.ne.jp/kuiiji_harris/20091224/1261657291
634 :
日本@名無史さん :2010/07/29(木) 04:01:20
>>622 ワールシュタットの戦いで普通に負けてますよ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10952900 10ヶ月程度では自慢にならん、南宋は襄陽・樊城の戦いで5年間も戦ってる。
功城戦は長期かかる、短期間で負けるのは余程戦力差ないと無理。
>>633 無駄な長文だな。
150cmの人間でも鉄砲、弓、槍、剣、刀で200cm人間を殺すことは十分可能です。
動物と人間は多少異例はあるが体温保存のため北に行くほど体が大きい。
北欧の人に長身が多いのはこのためらしい。
サッカーが一番わかりやすいけどね、身体能力はアフリカ人が一番。
フランス革命の時でも平民側の平均身長は150前半しかなかったなんていわれてるしね 貴族側は160ちょっとあったらしいが フランス革命のときでこれだから産業革命で国力あがるまで西欧はどれだけ貧しかったか
636 :
日本@名無史さん :2010/07/29(木) 14:08:37
武士VS騎士の場合は人の体格より馬格の差の方が深刻。 フランスのペルシュロン馬は馬体重1トン。日本和種は500kg以下。 衝突したら日本和種はまず即死。 秋山好古でもコサック騎兵との格闘は極力回避するよう厳命していた。
637 :
日本@名無史さん :2010/07/29(木) 14:32:35
>>フランスのペルシュロン馬は馬体重1トン。日本和種は500kg以下 こんなでかい馬使ってるから蒙古に騎馬戦でボコボコにやられるんだよ。 小回りが利かない直線番町ではどう考えても勝てない。 1、小さい馬の方が速度が遅くしかも上下運動が小さいので騎乗での弓が正確に射撃できる (更に蒙古の馬は特殊な走り方をする) 2、でかいので小回りが利かず矢を射る方からすれば動きが単調で当てやすい。 3、でかいので当然落馬時に高いところから落下するため落下時に致命傷を追いやすい。 (鎧、武器、など装備品で10〜30Kgぐらいあるので手足はもちろん背骨腰など折れてしまう)
中世の軍馬の大きさは、長い間議論の主題であった。伝説によれば、騎士の馬は頑丈な軍用馬であり、 これは、現代の荷馬車用の馬と同じぐらいの大きさがあったことを意味するが、そのような馬の遺物は 十四世紀以前には発見されていない。中世後期以前の考古学遺跡から出土した馬の遺物は、体高は、 せいぜい一四二・二センチであった。 J.クラットン=ブロック『馬と人の文化史』
639 :
SAGE :2010/07/30(金) 00:25:32
>>634 622については、リーグニッツの戦いがワールシュタット
の戦いのことだよ。
ドイツ騎士団はこの戦いには援軍として参加しただけだ。
モンゴルの戦術に嵌り前衛部隊、中衛部隊か敗走した後、
後詰のヘンリク2世とドイツ騎士団の本隊はモンゴル軍に
必死の抵抗を行ったが、既に劣勢の戦いであったことから
モンゴル軍の勢いに陣営を突き破られ、潰走したんだよ。
633についてはお前がなにを言いたいのかはわからないが、
ローマ帝国がはるかに文明の遅れたゲルマン民族を征服
できず最後には滅ぼされたのはゲルマン戦士の体格が
ローマ兵より優れていたことも関係してるよ。
640 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 03:25:30
馬とか家畜は人間によって色々品種改良されてきたけど、大きな馬はいつの時代からの品種なんでしょうか。
641 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 03:27:39
直線番長的に品種改良されたサラブレッドなどは大型でもないし耐久力には劣るし。
642 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 03:52:00
643 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 04:46:47
644 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 05:31:10
wikiだとペルシュロン=成立は8世紀で重装騎兵の乗馬とはっきり書いてあるな。 あとペルシュロンは槍で敵重装騎兵を落馬させるための馬で弓の使用は論外。 分厚い槍衾でもないかぎり他の敵は1トンの体重乗せた馬蹄で秒殺できる。 普通の人なら落馬したら死ぬだろうが、たぶんペルシュロンに乗れたのは 白人総合格闘選手のようなコーナーポストから飛び降りても平気なような奴等だったんじゃないだろうか?
コーナーポストから飛び降りるのはマットのやわらかいプロレスだけどな 夢見すぎ
646 :
SAGE :2010/07/30(金) 11:28:39
>>642 お前は何をいってるんだ。
ローマは北欧やアフリカ黒人を征服したと言いたいのか?
ローマが征服した地域でローマ人より体格に恵まれていたのは
ガリア地方くらいだよ。
そのガリア征服においてもカエサルのガリア戦記では北部ガリア
に住むベルガエ人(当然ガリアの中でも体格に恵まれている)が
ガリア最強と主張している。
また身体能力に優れた黒人って騎士や武士と同時代のアフリカ黒人
ではなく近代以降に白人との混血により登場したアメリカ黒人や
ヨーロッパ黒人のことだろ。
だいたい日本においても「平家物語」によれば東北の武士が最強
で関西の武士7人分の働きを次が関東の武士で関西の武士4人分
身体能力がわずかに高くても勝てないのは戦争最弱のアフリカ見てればわかるじゃん サッカー、野球も勝てないしね 平均IQが60と東アジア人より半分近く低いほうが問題なのよ だから発展しないし戦争も戦術的スポーツも弱い
649 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 14:36:11
>>ペルシュロンは槍で敵重装騎兵を落馬させるための馬で弓の使用は論外。
槍なんてせいぜい2〜3mで、弓は狙って当たるのは20〜30mだから勝負にならんね。
>>646 やはり真性かw
650 :
日本@名無史さん :2010/07/30(金) 21:38:19
しかしプレートアーマーは避弾経始よさそうだから垂直に命中しないと装甲貫通できないんじゃないだろうか。 的は移動してるし、滑って弾かれたら串刺しかペシャンコ。
651 :
SAGE :2010/07/30(金) 23:29:12
鉄砲が戦場の主役になってからは変わってきたが、 それ以前は白兵戦主体の戦争だったので、兵士個人 の戦闘力が意味をもっていた。 それは弓騎兵主体の軍隊でも例外ではない。
652 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 00:10:20
>>632 元寇は大規模な嵐で壊滅した。
これは史実なの。
それは今日台風だとわかってます。
それから君みたいに、
ちいさな戦役で勝った勝ったと言ってもなんの意味もない。
太平洋戦争とおなじ。
戦争の全体で日本軍は釜山近辺に逼塞する結果となったのが事実。
もっと勉強しましょうね。
>>652 だからソース出せw
随筆じゃねえんだから、信頼できる資料を元に話をしろ。
>これは史実なの。
って、完全に駄々捏ねてるガキの戯言じゃねえかw
654 :
SAGE :2010/07/31(土) 01:14:54
文永の役はわからんが弘安の役は台風の襲来により 決着がついてる。 日本側は東路軍4万を相手に海岸沿に作った防塁の お陰で善戦していたが、江南軍10万との合流後まもなく 台風の襲来により元軍が壊滅したお陰で危機を逃れた。
655 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 03:28:16
>>654 無知にも程がある。
文永の役
3万(兵士は2万5千)で奇襲攻撃するそれに対して日本は海岸付近に居た準備不足の御家人と早まった武士は
少数で攻めて敗戦し壊滅してしまう。
しかし午後から準備万端の御家人数千で福岡平野と海岸で騎馬戦で蒙古軍を蹴散らし、副将まで討ち取り
蒙古軍は急いで撤退し船へ乗船する。
高麗側は船を焼いて背水の陣で戦えば何とかなると申し出るも蒙古はこれから援軍が集まり我々に勝ち目なしと判断
1泊もせず上陸用の小船200〜300隻を回数もせず大慌てで夜逃げ。
帰路で嵐にあって多数死ぬ。
656 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 03:30:03
弘安の役 東路軍4万と江南軍10万(江南軍はやっと攻め落とした南宋の兵士が主体) 蒙古、金、高麗、南宋とアジア諸国大連合14万の大軍で満を持して日本を攻撃する。 それに対して鎌倉幕府軍は島国であるため陸続きの国みたい国境付近で砦を築き迎え撃つという ような防衛圧倒的有利な作戦は通用せず、何処から攻撃されてもいいように「分散配置」で迎え撃ち 九州には北条実政4万しか配置できず、本体は宇都宮貞綱率いる6万は京都に布陣する。 1281年6月6日博多湾に上陸するも鎌倉幕府軍の攻撃をうけ上陸断念し志賀島に上陸する。 防塁での防衛戦は1日で決着、蒙古軍が攻撃鎌倉幕府軍が防衛は終了。 ここから鎌倉幕府軍は攻撃に転じ蒙古軍は2ヶ月以上も逃げ回り台風で逃げる船すら失い平戸島で虐殺され壊滅する。
657 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 05:54:55
東路軍4万が2ヶ月攻撃しなかったってのは江南軍10万が来るのを待ってただけだろ。 4万対4万なら無理に攻撃しないのも当然。そもそも江南軍が遅れたのも台風のせい。 6月6日は総攻撃じゃなくてただの威力偵察だろ。決着とか誇張。
658 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 09:35:54
モンゴルが負けたのって日本とベトナムとトルコだけだっけ? やっぱ産業革命前の日本も輪をかけてすごいな
659 :
SAGE :2010/07/31(土) 11:32:15
>>658 モンゴルを撤退させた(撤退するまで持ちこたえた)
だったらドイツもはいるよ。(弘安の役の日本も台風が来る
まで持ちこたえただけだから)
あとお前はごかいしているようだが産業革命=強国じゃねえぞ
産業革命=富国だ、もし産業革命で強くなったんだったら、19世紀
初頭に産業革命を達成したイギリスが他のヨーロッパ諸国を征服している。
ナポレオンのフランスがヨーロッパに覇権を確立したのも、産業革命中
のナポレオン三世のフランスがプロイセンドイツにより一時的に征服され
たことからも産業革命では強い国は作れないことの証明だ。
660 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 12:03:02
アホかw 産業革命=強国だ 機械文明はあらゆるすべてを変えた 最初はまだ初歩なだけ
661 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 13:36:02
200年で原爆できて月にいく
662 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 14:20:11
>>657 ,659
在日必死すぎw、底なしのアホだな。
6月6日博多湾上陸するが鎌倉幕府軍(全兵力の3分の1)にフルボコ
志賀島に逃げる、島といっても細い1本道で陸とつながってるため
攻め込まれて逃走w、攻め込むのが細い1本道しかない防衛にもってこいの
地形なのに3日も防衛できずフルボコw。
6月9日志賀島から撤退するが鎌幕府軍は小さい小船で夜襲など仕掛けられなすすべなし。
少数で乗り込んでくる日本刀持った武士に歯が立たず部下から撤退しようと告げられるが
江南軍と合流すればなると受け入れずひたすら逃げ続ける。
6月18日遅れて江南軍が慶元を出港7日掛けて日本へ向かい先行部隊は壱岐で東路軍と合流する
6月29日から7月2日少弐経資指揮のもと壱岐島を襲撃し蒙古軍は耐え切れずまたも逃亡w
7月7日逃げる蒙古軍を鎌倉幕府軍は追撃し平戸島へ逃走w
そのころ江南軍の後続部隊は平戸島で集結し陣を張る。
7月27日蒙古軍の斥候部隊が鷹島へ移動し鎌倉幕府軍は7月28日29日攻撃を加える。
7月30日台風が訪れ蒙古軍はほとんどの船を失い指揮官たちは残された少数の船で逃走w
ほとんどの兵が島取り残されてしまう。
翌閏7月5日取り残された10万の蒙古軍の掃討戦で一部を除いて皆殺し。
そこで質問があるんだけど、鎌倉幕府軍は何隻船をもってたの?
色々調べたけど大雑把で約200〜500隻ぐらいだと思うんだけどしかもほとんどか小型船で
10〜20人程度しか乗れない小船だとすると4万もいても実際戦ったのは約2000〜5000人前後だよね?
その程度で2ヶ月間もフルボコにされたの?
>>659 その時代のイギリスがヨーロッパ諸国を征服するメリットなぞ何もないわけだが。
664 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 17:25:20
665 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 17:28:37
カミカゼは無かった 文永の役 * 元軍の目的は陸軍揚陸地の確保。 * 作戦時間は短期(大宰府をを確保し陣地化・維持する)。 * → 初日の揚陸作戦失敗で撤退を決定。 o 統率が取れていない鎌倉軍に上陸すらままならずボロ負けし、副将を失い、長期戦になることを恐れたため。 * 船団が忽然と消えた為、カミカゼと勘違いされる(対馬−朝鮮間は台風が無くても沈没する可能性は高いが)。 弘安の役 * 長期戦を想定(屯田用物資と大量の食糧を載せている)。 * 北九州の屯田制圧化が目的。 * → 鎌倉軍に一月以上揚陸を阻止され、台風シーズンに突入し船団壊滅。 o 長門、平戸、博多など広範囲に揚陸攻撃をしかけるが全て阻止される。 o 土塁の武士を一掃するどころか、逆に和弓で集中砲火。 o 毎晩の様に小舟による夜襲を食らう。 o 鎌倉軍は相変わらず組織攻撃が出来ていない。指揮官と戦略家が居れば、夜襲で船に放火・沈没せしめるなどを繰り返し、もっと早く撃退していた可能性が高い。 しかし、御家人は首級の数を競っていたため、夜襲が海賊・略奪行為の繰り返しになっていた。 * 江南軍が到着しても、元軍は揚陸出来なくどちらにしても台風シーズン突入は免れなかった。 o 江南軍と高麗軍が合流しようとしたところで台風にやられている しかも上陸後に兵が展開しにくい平戸に向かっていた。
666 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 17:30:05
元寇考察で、いつも抜け落ちている点 * 対馬を陥落させているのに拠点化していない o 対馬は、朝鮮半島から日本へ向かう場合、補給中継点として、絶対必需の要地だが、その逆は無い。 九州−対馬間の渡航は容易だが、対馬−朝鮮間の渡航が容易では無い。 可能性 * 沿岸部で略奪・殺戮をしただけで壱岐・対馬は占領できていなかった(内部に逃げ込んでいたがそれを追っていったら、応永の外寇と同じで罠にかかって壊滅の可能性がある。) * モンゴル人はともかく高麗人も漢人も宋人も北九州周辺の地理に全く詳しくなかったし、調査しなかった。 o 要するに海の怖さを知らない。
667 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 17:31:49
もう一つの元寇 元軍は、北から攻めたのですが、追い返されました。 樺太アイヌ(骨嵬)とモンゴル軍の戦い 1284年 フビライが、骨嵬に兵1万を派兵 (-1308) 元史/本紀/卷十三 本紀第十三 世祖十/至元二十一年 冬十月丁未,享于太廟.戊申,四川行省言金齒遺民尚多未附,以要剌海將探馬赤軍二千人討之. 己酉,敕:「管軍萬戶為行省宣慰使者,毋兼管軍事;仍為萬戶者,毋兼贋民政.」壬子,定漣海等處屯田法. 辛酉,征東招討司以兵征骨嵬.宋有手記軍,死則以兄弟若子繼,詔依漢軍籍之,毋文其手. 丁卯,和禮霍孫請設科舉,詔中書省議,會和禮霍孫罷,事 * 1297年 蝦夷管領安東氏率いる(海保嶺夫説による)樺太アイヌがシベリアに渡り、アムール川で元軍と戦う。 * 1308年 骨嵬と元が和睦。 * 1320年 奥州アイヌが蜂起、安藤氏と戦争になる。 * 1322年 蝦夷管領安藤氏の内紛。 * 1387年 骨嵬、アムール川の元の勢力を放逐。
668 :
SAGE :2010/07/31(土) 17:35:33
>>663 だったらアメリカは征服は。
1812年〜1814年に米英戦争で痛みわけしてる。
当時はナポレオン戦争の最中だったんでしょうがないが
終戦後なら兵力にも余裕があったはずだ。
669 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 17:38:15
蔡温『中山世譜』巻三、英祖王紀 第一次琉球モンゴル戦争 @1291(英祖32)年 琉球水軍、沖縄本島へ東上中のモンゴル水軍を海上に撃退 モンゴル水軍将は、副万戸・楊祥 第二次琉球モンゴル戦争 A1296(英祖37)年 沖縄本島に上陸するモンゴル軍を琉球住民が撃退。モンゴル軍大将は省都鎮撫・張浩 英祖32年 世祖改流求曰瑠求。遂遣副万戸楊祥等。率六千軍。 給金符賚詔。以降我国。楊祥行出海洋。遽会一山軍 相戦小挫。未至我国。而引還。 ー(略)ー 英祖37年 (世祖崩成宗嗣立。改元元貞)福建省平章政事高興。 上言。瑠求未従。宜発兵襲之。成宗遣省都鎮撫張浩 等。率軍抵国。時我国臣民。深沐王化。皆委身愛国 之心。見元兵来侵、国人合力拒戦不降。張浩無計可 施。卒虜百三十人而返。
670 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 21:52:07
その琉球は台湾のことだろ。
671 :
日本@名無史さん :2010/07/31(土) 22:16:38
672 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 11:09:01
文永の役で6000頭もの馬を連れて行くが自慢の騎馬兵も重装備した武士にかなわず1日で逃亡。 弘安の役ではアジア大連合で攻めてもまともに戦うことすら出来ずに壊滅。 直接攻め落とすのがほぼ絶望的になり周辺諸国から落としていこうと考えたんだね。 妥当な考えだけど周辺諸国も粘り強く戦って撃退してるんだな。 どの国も戦力さ承知の上で戦ってるのに朝鮮だけ小さい島に逃げてあっさり国を明け渡したのが 際立つねw 鎌倉幕府軍が弘安の役で南宋兵10万と3500隻の船を壊滅したのが元にとって致命的になったみたいだけど。
673 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 12:38:54
武士がそんなに強いなら豊臣秀吉が明を秒殺できると考えたのも無理はないな。
674 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 12:46:05
よく身体能力の話をする人がいるので、一言言うと・・ 戦場で必要な身体能力は、持久力。これに尽きる。 ずっと全力で走り続けているわけではないが、絶えず動いてはいる。 徒歩とゆっくり走るのを繰り返すようなもの。で、時に白兵戦ガチバトル。 平野部ならまだしも、山越え谷越えの行軍となると、山岳民族は粘り強い。 日本人もそうだし、グルカ兵なんかもそう。 日本人の場合は海にも精通していて小舟も泳ぎもできるから、相手からしたらかなり嫌らしい。
675 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 18:27:47
欧州白人でもスイス兵とかスコットランドハイランダーとかいるし。 ビルマの日本兵は確かに強かったが英国もウィンゲートとか相当に粘り強いやつらがいた。
676 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 19:34:26
いたから何だと言うのか
677 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 20:48:42
牟田口の作戦が失敗
英軍は孤立した部隊に空から補給物資を投下した 一方日本は(ry
679 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 21:13:45
脱線は続くよ どこまでも♪ 野を越え山越え谷越えて
>>675 スイス槍兵もハイランダーも騎士じゃないし。
というか、そういう優秀な兵や新しい戦術が次々と出るのにも拘わらず、
いつまでもランスチャージに拘って馬から下ろすのも一苦労だった騎士が
アホ過ぎるという話をここでしてる訳で。
そのくせ、自国の弩兵踏みつぶして突撃するようなキチガイだから、
救いようがないw
681 :
SAGE :2010/08/01(日) 22:32:30
>>662 お前さー、偉そうに人をお決まりの在日認定したり、
底なしのアホ呼ばわりして、お前ネトウヨだろ。
偉そうなこといっててもお前も
>7月30日台風が訪れ蒙古軍はほとんどの船を失い
と弘安の役が台風の来襲により決着がついてこと
を認めてるジャン。
682 :
日本@名無史さん :2010/08/01(日) 22:35:51
フランスの騎士は貧乏なスイスの槍兵は金で雇えばいいという柔軟な姿勢だった。 弩兵はジェノバ人だし。 山越え谷越え平気なスイス人が敵を平地へ追い出し、ペルシュロンに跨ったフランス騎士が踏み潰す。 それに対抗するためにコルドバが苦心して考え出したのがテルシオやカラリコル。
683 :
日本@名無史さん :2010/08/02(月) 02:41:08
>>681 お前頭弱いのさらけ出しておもしろいの?
まぁ底なしのアホだから上記のレス読んでもまだ台風で勝ったとか笑えるw
文永の役も弘安の役も島国相手に勝つための絶対条件が「橋頭堡を築く」こと
お前はこんなことすら知らない知恵遅れ。
もう一つが絶対条件が何処でも何時でも攻めれる島国に対しに「出来るだけ早く」
橋頭堡を築くこと、なぜなら3ヶ月食料あっても現在みたいにペットボトルないから
「清潔な飲み水」を確保しないといけない。
東路軍6月6日博多到着から永遠と逃げてるだけ、江南軍先方隊6月25、26日ごろ壱岐島で合流
少数の小船に乗った武士にフルボコにされ、後続部隊が陣をはってる平戸島へ逃げる。
台風が来たのは7月30日この間東路軍は2ヶ月、江南軍は1ヶ月鎌倉幕府軍に敗北逃走をくり返し
士気が大幅に低下台風で残った船で指揮官だけ逃亡w
元軍はアジア地域の大連合14万に対して鎌倉幕府軍は12万5千で迎え撃つが島国ゆえ分散配置して
九州にはたったの4万でしかも船が小さく少ないので実際に攻めてたのは1万もいないと思う。
台風で勝ったなんていうのは当時どんな小さな国でも元と必死で戦ったのに情けなく小さい島に逃げてあっさり
国を明け渡した朝鮮人ぐらいw
684 :
日本@名無史さん :2010/08/02(月) 13:02:32
685 :
日本@名無史さん :2010/08/02(月) 13:38:37
居合い道の達人をスペインの闘牛に出場させたら一刀で牛殺せるかな? ただし突きはなし。
なんで居合いw 抜いた状態で両手で振り下ろしたほうが威力あるやん
687 :
日本@名無史さん :2010/08/02(月) 20:59:26
>>684 RPGとかに出て来る皮鎧なんて気休めにしかならんだろって思ってたが
これ見る限りそれなりの効果は有るんだな。
689 :
日本@名無史さん :2010/08/03(火) 01:05:24
ということは日本刀に対してはは南蛮胴とかは無意味ということか。
690 :
日本@名無史さん :2010/08/03(火) 19:19:01
居合いも両手斬りはあるよ。
691 :
日本@名無史さん :2010/08/03(火) 19:31:43
居合いより両手持ちで剣道家か野球選手にフルスイングさせたほうがいい。
>>689 いくら何でも、そんなこと無い。
南蛮胴は耐弾を想定して分厚く作られたキュイラスの改造品。
騎士の時代のペラペラなプレートメイルとは物が違う。
>>691 剣道家や野球選手だと刃筋通らないよ。
一番良いのは薩摩の野太刀自顕流あたりだな。
色んな動画で素人がバンバン切ってる 野球選手のスイングスピードとパワーなら簡単さ
695 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 00:36:18
いきなりだとアレだが、ちょと練習すればいけるよ。 むしろ普段刃物に接していない人が、怪我しないかどうかの方が心配。
696 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 13:22:57
剣は武士の方が上で馬は騎士の方が上か。 弓は微妙で槍は大差なし?
697 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 14:05:11
総合力で騎士の大差負けってことかと モンゴル、オスマン見ても
698 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 15:36:45
>>馬は騎士の方が上か でかい馬のメリットはない、小さいほうが機動力と振動が少なく弓が当てやすい でかい馬はエサと水の消費量が多く多数で長距離遠征は向いてないと思う。 攻撃力(+弓) 小型の馬>>>大型の馬 機動力 小型の馬>>大型の馬 スピード 大型の馬>>小型の馬 >>弓は微妙で槍は大差なし 弓と槍だけならな弓兵と槍兵ならまったく別。 日本の鎧は防御力が高く量産しやすいので弓兵、槍兵とも重装備(鎧+日本刀)で戦える。 西洋の弓兵、槍兵は数が増えれば装備が貧弱になる、特に弓兵は布切れに毛がはえた程度の装備。
699 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 20:40:47
いや、でかい馬のメリットは接近格闘になったときなんだよ。 でかい馬体そのものが武器。 平安・鎌倉時代の武士でさえ弓だけで決着はなかなかつかずに太刀打ち、組打する訳だし。 鎌倉武士が奥州の馬や南部馬に競って乗ったのも和種の中で一番馬体がでかいから。 それに騎士の馬の使い方は長距離機動より、城と城の間の短距離の機動逆襲だと思う。
小さな馬に乗るモンゴルに蹂躙されてるし
702 :
日本@名無史さん :2010/08/05(木) 04:58:37
>>でかい馬のメリットは接近格闘になったときなんだよ 近づく前に弓で射られて死ぬけど残党は何とか接近戦できるってことだろ。 西洋ではランスチャージで攻撃だけどこれも接近できて初めて攻撃できる。 ランスチャージも馬での格闘も結局近づくことが前提できわめて攻撃範囲が狭い。 結局主力武器は弓⇒鉄砲で、大型の馬での戦闘なんて終始日陰の存在だろ。
703 :
日本@名無史さん :2010/08/05(木) 06:23:54
日本の武士の身分制度を見てもむしろ日陰は弓や鉄砲。弓も鉄砲も足軽の武器。 武士の功績の第一が「弓」から「槍」に変わったのを見てもわかる。 しかも一番偉いのは馬上で槍を使う武士。 小型馬&馬上弓最強だったら日本で馬上槍は普及しなかったはず。
>>武士の功績の第一が「弓」から「槍」に変わった
705 :
日本@名無史さん :2010/08/13(金) 17:21:04
「武門秘録」によると当時の功績順は、第一が槍、第二が弓、第三が組打ち、第四が太刀打ちとある。 槍って言っても足軽が使う長柄じゃなくて持ち槍。
↑鎧でなくただの曲げた鉄版。
そのロングソードも見た目からして素人が作ったものだな。 ホントはもっと太くて重量に任せて叩くもの。
709 :
日本@名無史さん :2010/08/14(土) 15:41:08
>>707 つまり曲げた鉄板に刃が立たないのが西洋の剣なんですね。
まあ、日本刀と違っていくらやっても革一つ切断できないし。
>>708 文句ならヒストリーチャンネルに言えよw
710 :
日本@名無史さん :2010/08/14(土) 22:04:23
711 :
日本@名無史さん :2010/08/15(日) 13:36:44
リーアーメイみたいな老人でも余裕で使いこなせるのが日本刀で 気合を入れた兄さんじゃないと使い物にならないのがロングソードってことか。
712 :
日本@名無史さん :2010/08/15(日) 16:21:23
何か巻きワラ斬るより生々しいな。
713 :
日本@名無史さん :2010/08/15(日) 18:45:07
確かに巻きワラじゃかえってすごさがわからないもんな。
>>708 初期のロングソードは鉄製で、非常に折れやすいので幅広で分厚く作った。
板金の鎧が再登場(古代ローマには存在したが中世に一時消滅)する頃になると剣にも鋼が使用されるようになり、
>>706 のような丈夫で切れ味の良く扱い易いロングソードが作られるようになった。
鉄のロングソードなら、氷を切る段階で折れてるんじゃないか?
715 :
日本@名無史さん :2010/08/16(月) 20:04:20
北欧では昔から鋼鉄で剣つくってたらしいよ。 イングランド征服したノルマンディー公の剣は鋼鉄。 日本の製鉄会社は今でもスウェーデンの鋼鉄真似して作れないってプロジェクトXでやってた。
716 :
日本@名無史さん :2010/08/16(月) 22:10:31
717 :
日本@名無史さん :2010/08/16(月) 22:14:03
いまのロングソードは現代の技術で作ってる 当時のロングソードでやんないと
そのあたりがよく分からないんだよね 外国の刀剣についての ある程度まとまった日本語の本があったら教えて欲しい
719 :
日本@名無史さん :2010/08/16(月) 22:55:50
720 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 05:20:38
721 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 08:01:03
まあブロードソードだと動作に無駄が出るのは一目瞭然だから、 ヨーロッパでもフェンシングの剣みたいに細くなったんだろう。 日本刀だって両手で持つようになったのはルネッサンスの後だし。 ブロードソードと比較するなら反りの強い太刀を片手で使わないとな。
722 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 08:04:15
同時代的には、 ブロードソードVS太刀(片手) 片手半剣・ラピアーVS打ち刀(両手)
723 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 19:09:41
724 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 19:27:26
わずか1kg前後しかないのに切れ味抜群でしかも両手持ち サブウエポンとしても16世紀以前にこれは抜けすぎてる 槍術剣術の発達もあわせてやばい
725 :
日本@名無史さん :2010/08/17(火) 20:48:17
いや最終決定戦は組打で脇差対コンバットナイフだろ。
清朝の歴代皇帝の帯刀が日本刀 豆な
729 :
日本@名無史さん :2010/08/18(水) 17:05:03
>>728 日本に嫉妬し悔しくて悔しくてしょうがないのがにじみ出てるな
建国以来自国だけで戦争に勝ったことがなくて貧しく貧弱な民族の嫉妬は醜いね。
自分たちに誇るものが何一つないってのが人間の心をいかに醜くするかいい例だ。
蒙古にはあさっり国を明け渡しやられたい放題、秀吉にはたった20日で首都占領され
唯一の英雄は撤退してる敵を攻撃して死亡w、清には国王による屈辱的な土下座石碑を建てられる。
こんなみじめな国に生まれてこなくてほんとよかった。
>>726 乾隆帝の佩刀見たことあるけど、明らかに日本刀では無かったぞ
花郎(かろう)は新羅の青年組織。ウィキペディア 花郎は主として軍事組織である、あるいは準軍事機関とする言説は、綿密な 再調査により覆されている。しかし、韓国では、第二次世界大戦の後、ナショナリズムに 迎合した花郎讃美が大々的に行われ、花郎軍事組織説が定着している。 結局のところ、花郎が軍事教練を行ったこと記す史料は存在しない。 韓国における状況が変化したのは、李承晩大統領の指示のもとで大々的な宣伝が 行われてからである。1949年に李?根によって発表された『花郎道研究』の中で、 愛国心をかき立てる後世の数々の出来事を花郎精神の発露とされた。国民国家形成の ために花郎精神なるものが創造され、報国精神として喧伝された。 皮肉なことに、尚武精神が評価されるようになったのは、朝鮮が日本の 支配を受けた結果である。極端な武蔑視が支配的だった李朝時代には 考えられないことである。「花郎精神」はある意味で日本統治下で宣伝された 武士道精神の代替であるにもかかわらず、韓国では逆に「日本の武士の原型は 新羅の花郎」などとまことしやかに語られている。 花郎神話には韓国の武道諸団体も飛びつき、その起源の一つと主張するようになった。 ITF(国際テコンドー連盟)は、花郎を段位の名前としている。「花郎道」という名の武道団体は、 それが新羅の花郎によって実践されたと主張するが、実際にはハプキドー(合気道)の 亜種である。こうした動きは、逆に彼等の主張が現代の創作であることを証明している。 なお、「花郎道」なる用語は史料には登場しない。「武士道」との類推から作られたと見られる。
733 :
日本@名無史さん :2010/08/20(金) 20:29:03
734 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 00:41:19
ロングソードを使って戦っている日本武士みたい。
735 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 05:39:48
坂上田村麻呂のころの日本武士の剣はロングソードみたいだよな。 エミシの剣はワラビ手刀だったけど。やはりワラビ手刀の方が有利だったらしい。
736 :
月孔雀 :2010/08/21(土) 12:56:09
武士>騎士だと思う。武士は、騎射(流鏑馬)できるから。
737 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 13:30:23
フルプレートは弓矢と刀による斬撃を無効化する
738 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 13:39:55
騎射なんか戦国時代にはとっくに廃れてた。 日本の武士も最終的にはランスチャージを採用した。
>>738 >日本の武士も最終的にはランスチャージを採用した。
はあ?
740 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 19:51:20
>>737 >>フルプレートは弓矢と刀による斬撃を無効化する
少し上のレスぐらい読め、プレートメイルを斬ることは出来ないが衝撃によるダメージは
ロングソードより大きい、肋骨ぐらい折れる。
弓矢と刀の突きであって斬撃じゃない、蒙古にボコこられ砦に籠って引き上げるまで耐えてた時点で
プレートメイルは無敵じゃないのは明らか。
>>738 おまえはもっと勉強しろ。
741 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 21:40:47
で、なんで上級武士は弓を捨てて槍を使うようになったんだ?
742 :
日本@名無史さん :2010/08/21(土) 21:44:28
信長は武田の騎射に対抗するために火縄銃何千丁も用意した訳じゃないしな。
743 :
日本@名無史さん :2010/08/22(日) 03:34:48
騎射で射れる的はせいぜい10メートル
744 :
月孔雀 :2010/08/22(日) 08:17:37
蒙古の騎馬兵が、ポーランドのラッパ兵(物見櫓にいたと思われる) を瞬殺しているので、最高100mくらい。
745 :
日本@名無史さん :2010/08/22(日) 11:00:13
それは自分が停止していて目標も停止してると言う条件からだろう。 自分が乗馬で相手も乗馬で移動していればやっぱり10m以下。 逃げる敵を追うなら騎射も有効だが、相手も突っ込んできたら逃げるか格闘するしかない。 そうなるとやはり槍持ってるほうが有利。
746 :
日本@名無史さん :2010/08/22(日) 11:10:12
747 :
月孔雀 :2010/08/22(日) 12:06:25
ポーランドで、ドイツ騎士団とポーランド兵が、蒙古と戦ったが、 蒙古の完勝でした。
>>745 パルティアンショットという一撃離脱戦法で蒙古の軽装弓騎兵は欧州の重装槍騎兵に優越した
後の欧州が似たような戦術としてカラコールを創出したが、射程の面で彼らが用いたピストルは
マスケットの敵ではなく、効果は少なかった
胡服騎射
750 :
日本@名無史さん :2010/08/22(日) 14:11:10
カラコールはスペインを征服していたアラブ騎兵の騎射のパクリ。
>>741 弓の改良とか騎射戦が出来ない層の台頭とか
動員人数の増大による戦術の変化とか
色々な要素がからんでいると思われ
752 :
日本@名無史さん :2010/08/22(日) 20:47:42
しかし徳川吉宗が流鏑馬を復活させた話読むと、三河武士で騎射できる奴はほとんどいなかったようだな。 個人レベルでは少しはいたんだろうが。やっぱ三河では弓よりトンボ切りか。
755 :
日本@名無史さん :2010/08/23(月) 02:54:35
そもそも騎馬による突撃は戦いに有効なのか?
756 :
月孔雀 :2010/08/23(月) 03:56:01
騎馬隊の突撃は、戦車が生まれるまで、戦の花形。
757 :
日本@名無史さん :2010/08/23(月) 04:45:35
ワーテルロー!
758 :
日本@名無史さん :2010/08/23(月) 08:50:18
内藤正成は歩射の達人だったんじゃないか?凄腕の弓足軽みたいな。
>>758 武士なのだから、騎射は心得ているでしょう
>>755 一応、格ゲーでいえば超必殺みたいなもの。
ただし、弱点も多く対抗策もたくさんあるので決めるのが大変。
武士が何でも出来るリュウタイプのオールラウンダーだとすると、
騎士はスクリューパイルドライバー頼みのザンギエフだな。
761 :
日本@名無史さん :2010/08/23(月) 14:16:00
コーカソイド重装騎兵の突撃力は 矮小Japを粉微塵に粉砕する
762 :
日本@名無史さん :2010/08/23(月) 17:22:28
次すれは世界史板でやれよ
763 :
日本@名無史さん :2010/08/24(火) 03:39:26
>>754 日付もなく指揮官の名前もわからないのでは信憑性は低くないかい?
a fictional battle って架空の戦いってあるけど?
>>761 その日本人はアジアでは元寇でモンゴル、南宋(漢民族)、金(女真族)、朝鮮(ゴキブリ)を
フルボコにし、明征伐でも明(漢民族)、オランカイ(女真族)、朝鮮(うんこ)でもフルボコ
にしました。
764 :
日本@名無史さん :2010/08/24(火) 04:52:22
武士だから騎射を心得ているとは限らねえ。 御歩士町ってのがあるぐれえで馬には乗れねえ武士もいらあ。 馬に乗れんのは藩にもよるが100石から200石以上。 室町時代以前でも奥州甲州は馬にのれた奴が多いが、関西以西は馬に乗れない武士も多い。 そのかわり水軍が多いんだろうが。
765 :
日本@名無史さん :2010/08/24(火) 23:14:32
766 :
日本@名無史さん :2010/08/25(水) 04:43:27
中国の刀は硬い鋼と軟らかい鋼を挟んで叩いただけで日本刀のように
焼き入れまでしてないので刃先がマルテンサイト(高炭素鋼)じゃないので斬る、突くで
日本刀に大きく劣り元寇、明征伐で武士に歯が立たなかった。
しかし大量生産には向いてる。
製造法や剣術のど素人のブログではアホ晒してます。
http://zhongguo.livedoor.biz/archives/50340479.html ここの動画で明らかなのは日本刀は動きに無駄がなく斬る(動画では素人なので叩いてる感じ)
動作で体のブレが小さいのに対して中国刀はヒョイっと振りかぶってエイっと体がブレてぶっ叩いてる。
背筋(振りかぶる時)腹筋(斬る時)をかなり使ってやっと煉瓦が砕ける。
斬る動作に入る瞬間一旦体を少し引き上げるので相手に悟られやすい、そして斬った後体が前かがみになってるので
隙が大きい。
結論、733に張ったある動画を比べれば中国刀では日本刀にもロングソードにも勝てない。
767 :
日本@名無史さん :2010/08/25(水) 05:10:43
お前もっと自分で体動かした方いいよ。スポーツチャンバラでもいいから。 たぶんお前が居合いやっても全然切れないと思う。
768 :
766 :2010/08/25(水) 14:32:09
>>767 反論できないと個人への中傷か、国籍ばれるねw
日本刀以外のたいていの動画は日本刀に対抗しようと素人が必至こくから
体を大きく使って必死にぶった切って「どうだ」って感じで笑えるw
上で張った動画の音に注目してほしい日本刀だと「… ガツン」だけど中国刀は
背筋腹筋と体全身使って必死なため息を大きく吸う音が聞こえますw
「すぅ〜〜…ガツン」顔の表情も比べてみ見てほしい、中国刀の方は必死の形相です。
ジャブでノックダウン出来る日本刀とストレートじゃないとノックダウン出来ない中国刀
769 :
日本@名無史さん :2010/08/25(水) 19:47:26
中国刀なんて言葉が通用すると思ってんのは素人だけ。 柳葉刀とか青龍刀とか言えんのか? 柳生心眼流の技とか見ればわかるがどっちみち日本刀でも甲冑とか切れないから。 それに甲冑着て日本刀使うには反動つけなきゃ無理。 戦国時代の剣術は剣を後ろに引いた八相や脇構えから思い切り反動つけて袈裟斬りするスタイルが大半。 斬り付けた後は右膝つくのも普通。後はチンチンや腋の下に剣先ねじこんだりしないと相手殺せない。
騎乗弓射>長柄武器>棍棒>刀>剣(笑) だろ?
771 :
日本@名無史さん :2010/08/26(木) 00:24:19
刃物って、例えば包丁でも切れる包丁と切れない包丁がある。 西洋包丁でも日本包丁でも切れる包丁は切れるしきれない包丁は切れない。 いい包丁といい職人がセットになるといい仕事ができる。
772 :
日本@名無史さん :2010/08/26(木) 09:13:44
まあ戦場では日本刀ってピストルみたいなもんであくまで自衛兵器。バックアップ。 軍役上も日本刀だけじゃ戦力に数えられない。 戦力として貴重なのは先ず馬、火縄銃、長柄槍、あと弓。
773 :
日本@名無史さん :2010/08/27(金) 03:51:33
>>中国刀なんて言葉が通用すると思ってんのは素人だけ。
>>柳葉刀とか青龍刀とか言えんのか?
中国自体武器の種類が多いから大雑把に言えば中国刀だろ、一般的に有名なのは柳葉刀だけど
http://www.gaopu.com/dict003.html >>柳生心眼流の技とか見ればわかるがどっちみち日本刀でも甲冑とか切れないから。
>>それに甲冑着て日本刀使うには反動つけなきゃ無理。
日本の鎧は武器同様進化して優秀だから日本刀といえど簡単には殺せない作りになってるが
海外(もちろんアジア)日本刀で結構戦っていて恐れられてる。
元寇時船では鉄の鎧だと落ちると溺れるから軽装備だったらしいから日本刀で蒙古軍は殺されまくってるし、
明征伐でも朝鮮兵は分厚い綿みたいな鎧?しかなく日本刀を持った侍に歯が立たず接近戦を禁止させたりしてる。
http://www.gaopu.com/gunpuku.html このサイトをどの程度信用性あるかわからないけど中国の鎧もどちらかといえば軽装備。
日本刀で十分倒せるレベルだし実際殺しまくってる。
774 :
日本@名無史さん :2010/08/27(金) 05:56:48
藤甲兵には刀の攻撃はまったく効果が無く 武士など一方的殺戮されるレベル
775 :
日本@名無史さん :2010/08/28(土) 22:34:45
中国の甲冑の知識は全然ないので突っ込めない 朝鮮の甲冑なんてさらにわからん。
中国の鎧は小札や鱗状の鉄片や革片を縫い合わせたものや鎖帷子だね。 また三国志でお馴染みの明光鎧(本当は当時には無かったけど)のように部分的に鉄板で強化していたらしい。 もちろん、このような重装備は一部だけで、大多数の歩兵がどのような装備だったかは知らない。
777 :
日本@名無史さん :2010/08/29(日) 19:36:35
コーカソイド重装騎兵一個師団で日本は制圧できる
>>776 明光鎧はあったよ
三国志「呉主伝」の注釈に明光鎧が出てくる
ちなみに注に引かれた「呉歴」は呉の胡沖が書いたので間違いない
779 :
日本@名無史さん :2010/08/30(月) 03:35:29
780 :
日本@名無史さん :2010/08/30(月) 19:49:25
日本の甲冑を着て倭銃隊を指揮した鄭成功がわざわざ「鉄人」と呼ばれたことを考えると、 やはり日本の甲冑・刀剣は明清の甲冑・刀剣より堅牢だったと思う。
そりゃ、この時代の明の主兵装って綿甲とか鎖帷子だし……
782 :
日本@名無史さん :2010/08/30(月) 23:01:14
783 :
日本@名無史さん :2010/08/30(月) 23:04:39
下瀬七兵衛「朝鮮陣留書」によると 大明國しゆこしらへの事面には赤きとろめんを仕り候て裏にはくろかねを二寸四方ほとに切り候て くさり付候ながき道服のやうに候甲もくろかねを白くみかき候て着候小手もくろかねにて矢も不立候 刀共にて候少もきれず候 少なくとも矢や刀による攻撃はそれなりに防げたようだ。 フロイスの「日本史」にも明軍の装甲について「従来最優秀をもって知られていた日本の 刀や槍が通用しなかった」という記述がある。
785 :
日本@名無史さん :2010/08/31(火) 05:50:54
>>783 やはり現存してなくて絵しかないね、現存してないと構造や重さや動きやすさが
わからない。
武器で見れば鍛冶職人のレベルが日本の方が上だから防具の性能も高そう。
西洋鎧はかっこいいけど極めて量産性が悪そう、しかも視界が悪すぎて混戦時や悪天候時
に弱そうだね。
>>784 明征伐で装備が充実しているであろう指揮官レベルの人たちが武士に殺されてるのに
通用しないはさすがにない。
そもそも武士崩れの倭寇に苦戦してるレベルだし。
786 :
日本@名無史さん :2010/08/31(火) 13:19:03
別に視界不良のときはバイザー上げればいいだけのこと。 日本の甲冑だって面頬つければ視界悪いだろ。
787 :
日本@名無史さん :2010/08/31(火) 17:13:18
>>786 上のサイトの騎士の兜でバケツ被ったみたいなやつは何処から開けるの?
日本の面具はメガネかけてる人ならわかると思うけどあれぐらい大きければ
視界はそんなに悪くない。
フルフェイスのヘルメットのバイザーにテープ張って視界を遮り騎士の兜みたいに
やったら遠くは見えるが近くの視界がかなり悪い、映画トロイで「石ころに手柄はやらん」
ってセリフを思い出した。
788 :
日本@名無史さん :2010/08/31(火) 19:05:59
日本の硬度に欠ける鎧など 百済刀で容易く切り裂くことができる 日本で一番硬い鎧を着ていたシマズが李舜臣将軍様の 一撃で鎧ともども真っ二つに切り裂かれたのは有名である
>> >明征伐で装備が充実しているであろう指揮官レベルの人たちが武士に殺されてるのに >通用しないはさすがにない。 装甲自体に歯が立たなくても介者剣術の技術で殺傷は可能では? >そもそも武士崩れの倭寇に苦戦してるレベルだし。 それは江南のほとんど実戦経験してない官軍。
790 :
日本@名無史さん :2010/09/01(水) 09:20:06
倭寇に苦戦したのは甲冑とか刀剣の問題以前に単純に海岸線が長すぎるからじゃないか? 日本だって朝鮮水軍に苦戦したのは事実だし。
>倭寇に苦戦したのは甲冑とか刀剣の問題以前に単純に海岸線が長すぎるからじゃないか? 嘉靖の大倭寇なんかでは上陸してから延々と陸上行軍して荒らしまわってるが。 当時の史料でも脅威とされてるのは主に刀術。あと現地官兵の弱体。
そりゃそうだ。天下太平で文治の国に、いきなり仲間うちの殺し合いを勝ち抜いてきた蛮族が攻めてくれば 大抵のところは荒し回られる。
>そりゃそうだ。天下太平で文治の国に、いきなり仲間うちの殺し合いを勝ち抜いてきた蛮族が攻めてくれば >大抵のところは荒し回られる。 江南に関してはそういう感じ。北辺ではまた別だが。
武士対騎士の仮定も面白いが刀剣に関しては古刀対新刀の上下概念に行き着く気がする。 硬軟の鋼を合わせた製法でない単純な古刀の方が刀剣界では上とされている。 古刀の優位性が他の文化圏の刀剣に当てはまるなら西洋剣<日本刀の構図は崩れるのではないか? 結局まず日本刀カテゴリ内の製法の優位性を問い直す事が武士の実力の世界史上の位置を考えるのに有効じゃないのか。
武士の表芸は弓馬の道なんで刀なんぞはっきりいってどうでもいい
>>794 古刀新刀の優劣は、素材である鉄の優劣なんだが。
あと、上古刀を除けば古刀の作刀は最低でも甲伏。
古刀だろうと新刀だろうと、焼きが剥がるからと研ぎすら出来ないなまくらなんぞと比べるのは失礼だ。
>>796 上古刀<甲伏の古刀と考えて良いの?
甲伏でない古刀にしろスプリング刀にしろ一枚鋼の伝説めいた話は結構有る。
貴重な古刀で比べろと言うんでなく現代刀でも実際に原料含めた製法でどんな違いが出てくるのかデータで知りたいのよ。
確かに騎士が持った西洋剣は比べる位置にないのかもしれないがトリビアじゃないけど日本なら製法別に用意した現代刀で強度を比べる事ができる。
玉鋼以外の刀を用意するのが難しいが中国の協力があれば何とかなるかもしれない。
結果、日本刀伝説に多少の影が差すかもしれないが逆にぐうの音も出ない優位性の証拠も出てくると思う。
しかもアラビアやインド辺りの曲刀がどんな水準にあったとか、より面白い推定が出来るようになるんじゃないか。
>>797 上古刀は直刀で古代刀とも呼ぶべき刀だから、正確には日本刀の分類には当てはまらん。
後、洋鉄は不純物も多く、鍛接性も無いから折り返し打ち鍛えることも出来なくて脆い。
その品質は、和鉄が出回ると洋鉄がまったく商売にならなくなる市場が証明していた。
古刀も作刀によっては玉鋼使ってないが、甲伏せとか鋳造とか言う以前に、
洋鉄と和鉄じゃその品質はまったく違うから、比べるのもアホらしいぞ。
古刀の素材については現代科学を持ってすら分からん事もあるんで、
日本刀同士の比較については専門の板で聞いてくれ。
>>798 一枚鋼の古刀が日本刀と言えないなら上の仮定は意味が無くなるかな。
てっきり一枚鋼の古刀、世界各地の名剣伝説、スプリング刀やらの偶然の産物、
コールドスチールの実験なんかが一本の線でつながるんじゃないかと妄想したんだけど。
で世界中で鍛冶の技術が進展する中で一枚鋼の業は失われた。
そして日本の刀工だけがそれに準ずる製法を編み出したてことでなかったかと。
要するに失われた素材と甲伏せの技が同居した時代の古刀があらゆる刀剣の頂点であることが推定できるんじゃないかとか。
スレ違い気味だけど、どうせ規制ですぐ消えるから勘弁して。
今後もドイツのおっさんの様な人は後から後から出てくると思うんだよね。
だからどんな日本刀がどんな理由によって優れているかハッキリするのは悪くないと思う。
やっと規制解除 >上のサイトの騎士の兜でバケツ被ったみたいなやつは何処から開けるの? 開けられない この兜はバルムヘルム、グレートヘルムと言って十字軍あたりで広く使われた兜 この頃はまだ開閉式の兜は登場していない (また写真のようなフルプレートも登場していない) 開閉式は百年戦争あたりでバシネットやピコケなどが登場する