定子様と中関白家を語ろう

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1日本@名無史さん
一条天皇とその后である藤原定子。
及びその親兄弟姉妹や周辺人物について語りましょう!
2日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:49:40
定子様は一条天皇最愛の后!!
3日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:52:24
定子と彰子はどっちがかわいかったの?
4日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:52:54
なまみこ婆が立てたスレだろ。
歴史上の人物に「様」をつけるなんて狂ってるな。
5日本@名無史さん:2009/01/06(火) 23:11:29
6日本@名無史さん:2009/01/07(水) 15:48:04
なまみこあげ
7日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:07:40
なまみこ物語の一条天皇と定子様が好きだ。
まさに至高の純愛。
きっと史実もこうだったのに違いない。
8日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:27:49
定子様最高
9日本@名無史さん:2009/01/08(木) 13:13:23
一条天皇の辞世の句は定子様へのもの。
10日本@名無史さん:2009/01/09(金) 08:41:59
定子は頭の悪いブス
11日本@名無史さん:2009/01/09(金) 11:43:50
>>10 彰子の間違いでした
12日本@名無史さん:2009/01/09(金) 20:16:58
馬鹿はどうかはともかく定子に政治力がなかったのは事実。
学才はあったけど政争に負けた伊周を見ると、
兄妹そろって教養はあっても政治に関する才能はなかったのかも。
でも、だからこそ定子は愛される女だったと思う。
男はちょっとお馬鹿な女の方が好きって言うけど、
一条天皇も政治に翻弄されるだけの定子の頼りなげなところに惹かれてより深く愛した。
実資は賢后と言った彰子は確かに賢くて政治能力あったんだろうけど、
なんか地味というか面白みのない女って感じ。

賢しいだけのつまらない女よりも、
政治に疎くても明るくて朗らかな定子が愛されるのは当然。
13日本@名無史さん:2009/01/09(金) 20:21:44
彰子は定子の子を我が子のように育てたんだろ?
美談じゃん
14日本@名無史さん:2009/01/09(金) 20:54:07
>>12
一条天皇は定子が去るとすぐに新しく後宮に入ってきた女性たちとなじみ
退出した元子には優しい言葉もかけていたっけ
定子は東三条院に呼び戻されるまで一条天皇に放置されていたのだし
特に一条天皇がお馬鹿な定子をほかの誰よりも愛したとは思わない
晩年には彰子の退出を惜しみ産後間もない彰子の産所へ
先例をやぶって押しかけたくらいだし
賢帝と言われた一条天皇はやはり賢后彰子と言われたことを
もちろん愛していたと思うよ
15日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:32:35
>>14 妄想 乙
16日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:03:57
>>12
妄想乙
17日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:38:51
また立ったんだ、しょーもない類似スレが。

なまみこは論外にしても、定子ヲタという人達は、
一条天皇が定子以外の女性も愛したことがどうしても許せないのだな。
>>14だって妄想じゃないだろが。

なんだか必死すぎて苦しそう、定子に自己投影でもしてるのか?
18日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:56:17
定子ヲタ定子厨どもは、脩子の父親が一条ではないことに関して
定子をどうやって擁護するんだ?
まさか「ちょっとお馬鹿」で済ませるつもりか
19日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:24:34
>>15
史料に基づいて話しているんだよ
悔しかったら「資料に基づいて」反論してご覧。
なまみこ物語と暴れん坊少納言は除外ね。
20日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:43:20
>>18 不敬罪で通報
21日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:46:56
つまり
まともに反論できません。定子は夫以外の男に股を開いた馬鹿女です
と認めると
22日本@名無史さん:2009/01/11(日) 14:59:19
>>21通報
23日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:24:11
>>20
彰子について史料に基づかない罵詈雑言を浴びせている
なまみこ婆のほうが不敬罪だろ。
定子と違い、彰子は現在の天皇家の直接の先祖、つまり皇祖母なんだから。
24日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:39:36
道長の悪行でそうなったんだから
25日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:49:02
両親と兄弟と自分自身の悪行で見事に落ちぶれた定子&中関白家
26日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:00:17
>>24
道長の悪行じゃないだろ、彰子の息子達が即位したのは一条天皇の意思。
だから、敦康親王が東宮から漏れた時に叔父の隆家が一条天皇を「人非人」と非難した。
道長の所為ならば、隆家は天皇ではなく道長に対して言っていた。
27日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:06:03
気骨のあった隆家の性格からして道長が権力者だから何も言えず、
代わりに一条天皇に苛立ちをぶつけたなんてことはないだろう。
権力者に阿るような隆家じゃないし。

と言うか、スレタイに中関白家とあるんだから、
定子だけじゃなくて隆家や伊周についても語ってもいんだよな?
28日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:14:49
>>24
中関白家は定子をはじめ人望のないもの揃いだった。
敦康親王が即位できなかったのは自業自得。
彰子に養育されたおかげで内裏に住めただけでも
感謝しないと。
29日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:35:05
一条天皇は敦康親王を秘蔵っ子のようにかわいがってたから
周囲の環境上泣く泣く親王の将来を考えたんだろう。
敦康親王は幾人かいる光源氏のモデルの1人ともされてるから。
30日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:53:45
別に天皇に即位することが敦康親王の幸せとは限らないしね。
中関白家としてはそりゃ即位して貰いたかっただろうけど、
父親の一条天皇としては後見のない息子が即位したところで・・・と
逆に即位させたくなかったのかもしれん。
皇統は後見の強い彰子の息子達に託し、
一品宮の敦康親王は政争に巻き込まれることなく一宮家として幸多い生涯を、
そう思うのもまた親心だよな。
天皇に即位することが必ずしも幸せではないと一条天皇自身も分かっていただろうし。
31日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:58:21
>>29
「源氏物語」で桐壺帝は母を亡くした光君を
「母親のいない子に免じて可愛がってほしい」
と妃たちの局へ一緒に連れて行ったというが、敦康親王もそんな感じなのではなかったのかな。
敦康親王の魚味始めは中宮彰子が、脩子内親王の袴着は女御尊子がそれぞれ後見を務めているが、
すでに母親を失っているこれらの皇子女たちを、
それ以外の妃たちが死んだ母親のことは無視して後見を務めた感じがする。
ただ単に一条天皇の意思というのではなくてね。
里の失脚している敦康親王が即位できる可能性は限りなく低く、
東宮だった三条天皇の四皇子のほうが可能性としては高かったために、
むしろ皇位から遠いこれらの皇子女たちは他の妃たちから同情を買ったのかも。
一条天皇が泣く泣く敦康親王に帝位を譲らなかったというのではないだろう。
一条天皇が伊周を退けた時点で敦康親王の立太子はありえないものになっていたから。
32日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:21:34
一条天皇も成人後には花山天皇退位の経過とか分かっただろうし、
だからこそ敦康親王の即位を望まなかった気がする。
例え東宮にしても引きずり降ろされるかもしれないし、
しかもその時には自分はいないから守ってもやれない。
だったら最初から東宮レースから降ろしてしまった方が安全。
一条天皇は結構気苦労が多かったようだから我が子が可愛いと思えば
天皇として即位=幸せとは考えられなかっただろうね。
むしろ彰子に息子が産まれてほっとしたんじゃないかな、
確かな後見のある親王なら心おきなく東宮に出来るから。
33日本@名無史さん:2009/01/13(火) 10:58:25
敦康親王の妻にもっと有力なのを早めに複数投入して欲しかった。
定子様の孫がいっぱい出来ただろうに。
34日本@名無史さん:2009/01/13(火) 11:38:50
多くの女性と関係しても世間が妻と認めるのは一人ないし二人。
たくさん女を侍らせていればそれでいいと言うものではない。
もっとも敦康親王は奥さん一筋で真面目な人柄だった。
実資もその死にあたって「好色な冷泉院の皇子達のようだったら、その死を世間も同情しなかった」
と言っているからかなり品性方向な宮様。

ついでに当時の有力貴族といえば道長くらいしかないんだが。
まぁ四女のうち二人しか子を得なかった(うち一人は妊娠したまま死亡)道隆の娘と違って
道長の娘は誰一人の例外もなく最低一人の子供は産んでいたから、
敦康親王の妻となればもっとたくさんの子を残してくれたかもね。
35日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:22:14
>>33>>34
敦康親王は数え19歳で没。
この頃、体の発育は遅く、彰子も定子もこの年までに子供を産んでいない。
若年死した敦康親王が好色だったところでさほど子孫は残せなかっただろう。
後ろ盾のない宮さまの子は、男子は軒並み寺に入れられて出家させられ
根絶やしにされることも多いし。
嫄子はまだ女性であったことで俗世に置かれても使い道があっただけ。
これが男子だったら、賜姓源氏ですぐに受領階級にまで落ち、
子孫はのこらなかった可能性も高い。
36日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:51:00
>>35
でも早世した敦康親王の遺児が道長の孫だったら、そこまで粗略にはされないんじゃないかな?
例え男児だったとしても小一条院と道長孫娘との間に産まれた源基平程度の官位は与えられそう。

結局のところ敦康親王の一番の後見は父親の一条天皇だから、その父親がいないと頼りない身の上なんだよね。
彰子が敦成親王を産む前に一条天皇が三条天皇に譲位して、敦康親王をその東宮にしてしまえば良かったのにそれもしないし、
一条天皇にとって敦康親王は可愛い我が子であっても、帝位につけるには後見の無さもあって不適正だったのかな。
37日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:05:06
>>36
あなたが思っているほど敦康親王は帝位に近くなかったと思うんだよね。
敦康親王の外戚の見事なまでの失脚ぶりは、世の人がこの皇子を振り返ることなど
ないようにしてしまうに十分だった。
一条天皇が生前譲位して敦康親王を東宮に立てるなんて不可能だったし、
一条天皇が生前譲位するなら三条天皇の四人の皇子に帝位がいっていた可能性が高い。
敦康親王が道長の娘をめとるには相当帝位に近いことが条件だったと思うが、
敦康親王はそれに該当しないために道長の娘を妃にすることはなかった。

あなたが例に挙げた源基平だが、この人は参議。
娘の基子は後三条天皇の寵愛を受け、本来更衣とされるべきところを
特別に大納言以上の息女のみに与えられる女御にされたとあり
けして帝位に近い人ではなかった。
基平の後は受領階級になってしまっている。
敦康親王と正室の間の子が男子なら、子の代は参議程度、孫の代で受領かな。
基平の子は出家させられた者が多く、途中で絶えてしまっている。
38日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:18:33
なるほど、敦康親王の外戚の弱さはそのまま帝位への距離だったんだ。
一条天皇が譲位しても敦康親王が東宮となる可能性は低かったのかな。
でも三条天皇の皇子達も、生母藤原娍子の父は既に亡く、しかも大臣になってなかったから、
後見の弱さでは敦康親王とどっこいどっこいな気がする。
一条天皇・三条天皇共に東宮に立てるだけの皇子がいなかったから、
一条天皇は敦成親王誕生までは譲位しなかったってこと?
39日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:30:27
>>38
たしかに藤原娍子の父は大納言のまま亡くなっていたが
失脚することも貴族社会に恨みを買うこともなかった人。
これまでにも即位時に外戚が大臣以下であった天皇はいたし
天皇になれば外祖父や外祖母に贈位することは通例だったから、
外戚が内裏にすら参内できない敦康親王とは比べ物にならなかっただろう。

もっとも、一条天皇の後宮には現役三大臣の娘
(左大臣道長の娘彰子、右大臣顕光の娘元子、内大臣公季の娘義子)
があったのであり、彼女らの所生ならば東宮に立つのに何の支障もない。
また、一条天皇がむやみに彼女らの可能性を奪って譲位をしようものなら
娘を入内させている3大臣の恨みを買うことにもなっただろう。
結果的に左大臣道長の娘彰子が第二皇子敦成親王を産むこととなり、
一条天皇は彰子の皇子を東宮に立てることを条件に三条天皇に譲位している。
40日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:42:57
>>38
藤原顕光などは長女元子を一条天皇に入内させる一方、
次女延子を早くも三条天皇の長子敦明親王に入れている。
藤原隆家が敦明親王の同母弟敦儀親王と長女を結婚させようとしたところ
道長の不機嫌のために延期されたなどという記録もあり
三条天皇の四皇子は早くから目をつけられた存在だったんだね。

一方、敦康親王の嫁の選び先は養母彰子が頼通に養女との結婚を要請したのみで
貴族たちが敦康親王の後宮に娘を入れたがった様子は全く見受けられない。
将来有望であると貴族たちに目をつけられる存在ではなかったようだ。
41日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:43:38
別に皇子を産むのは彰子ではなく義子でも元子でも良かった。
敦康親王は東宮には不適正だけど、彼女らの皇子ならOKだったってことか。
一条天皇が敦康親王を即位させたければ、外戚の中関白家及び高階一族を復権させれば良く、
そうしなかったのは、他ならぬ一条天皇自身が敦康親王の即位を望んでいなかったからとなるね。

ならどうして彰子は敦康親王立太子を阻んだと父道長を恨んだり、
行成が「敦康親王は伊勢に不敬のあった高階一族の血を引くから〜」とか言ったんだろう?
一条天皇の意思が敦康親王にないことは身近にいた二人なら分かっていただろうに。
42日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:51:43
高階氏が在原業平と活子内親王の子孫だって言うのは本当なの?
43日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:13:16
道隆は貴子がとっぽど良かったんだろうか?
44日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:45:05
>>41
彰子が道長を恨んだというのは確かに疑問が残る。
自分が皇子を産めばその子が敦康親王を越えて即位することは最初から分かり切っていたことで、
一条天皇と彰子はそれを十分承知の上で子づくりに励んでいたのだろうから。
継母の彰子がなさぬ仲の敦康親王のためにわが子すら差し置いて、というのはどうも矛盾が多く、
「栄華物語」の一説は彰子を美化するために付け加えた一説だと見ることもできる。

また、一条天皇は行成に対して「帥宮(敦康親王)をどうすべきか」と尋ねており、
別段敦康親王を東宮に立てるために知恵を貸せなどと言っているわけではない。
行成が道長との間を奔走して一品が与えられることになったことで一条天皇は十分満足しており、
これ以上敦康親王に何も望まなかった気がする。
むしろ、敦康親王の将来について期待することが大きかったのは、一条天皇ではなく
むしろ親中関白家であった行成のほうだろう。「権記」によれば、
行成が敦康親王と脩子内親王姉弟の方違えに頻繁に奉仕している様子が見える。
さすがに世間がわからないわけではない行成は彰子が敦成親王を産むと
生後半年の敦成親王の顔を初めて見たときの感想として「帝王の相がある」
などと日記に書き付けているわけだが、行成はもともと敦康親王の身辺にあった人物。
行成は期待を寄せて世話をしてきた敦康親王が立太子できないのを
どうにもできない高階氏の血のせいにでもしなければやってられなかったのかも。
実際には後の世に多少遠いが高階氏の血を引く天皇や高階氏出身の寵妃を侍らせた天皇はいるのだし、
母親が高階氏の定子も入内・立后する際にそれがとがめられることは一切なかったので
別段敦康親王の祖母が高階氏であることと敦康親王が太子になれないことに
因果関係はないのだが。
45日本@名無史さん:2009/01/15(木) 13:07:37
行成(字が上手い)は、道長の犬だけど。
46日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:55:03
>>45
行成が道長の犬になったのは後一条天皇即位後だろ。
道長の六男長家を長女の婿にするために奔走、
長家に不憫な生活はさせられないと
自ら志願して太宰権帥になったりしている。

「権記」を読んで御覧。
定子が敦康親王を産んだとき「天気快然(一条天皇の機嫌がことのほか良かった)」
と書いたり、中関白家を称賛する言葉が並んでいるよ。
47日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:10:07
敦康親王が生まれた時帝は「中宮が皇子を産んだこれほどうれしいことはない」といっていた。
48日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:22:01
>>47
また「なまみこ婆」かw
定子が敦康親王を産んだときの一条天皇の様子は
行成が「天気快然」だとしている以外、史料はなし。
御堂関白記には当日彰子の入内の記事しかなく、
小右記はこのあたりの記述が残っていない。
一条天皇がそんなコメントをした事実はない。
なまみこ婆はコテハンにでもしろよ、紛らわしいだろ。
49日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:46:13
日本語のあやしい一行レスはなまみこ婆か、婆の自演だからすぐわかる。

行成が道長の犬だとしたら、道長はこのうえなく有能な、何にも代えがたい
犬を得た果報者だな。
自分はどちらかつうと、行成は一条と次代の朝廷をどうすれば安泰に
できるのか考えたすえに道長につくのが正しいと結論したと思うが。

それにしても
>(字が上手い)
って、小学生の感想文かよ。なまみこにとっては、それが行成に
ついて知っている全てなんだね。
50日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:02:58
行成書体つーのがあるの知らんのかボケた>>49
51日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:09:29
>>50
せめて「能書家」くらいは言えよ。
といっても、なまみこ婆は意味を知らないだろうけど。
「字が上手い」なんて小学生むけの説明だろうが。
52日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:06:38
貴様ら低脳に向けてわかりやすく説明してるのでは?
53日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:26:41
>>41
しょう子さまはあつやす様を心中応援していたんでつか
54日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:33:40

なまみこ婆、あんたの文章が小学生レベルだって
いいかげん気づけば?
自分のレスに自分で擁護してるのも、みんな知ってるよ。
55日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:42:38
>>52
史料を読めないなまみこ婆を上回る低脳が
このスレにいるのかい?
残念だったな、なまみこ婆w
56日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:48:38
四の君と定子様は似ていたんだろう、定子様の面影が強くある四の君を
定子様のことを恋しく思い出し、恋人にして妊娠させたんだろうね。
57日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:03:21
妊娠させたところで女官の子なら認知されずに僧にされるか受領になるだけなのにね。
58日本@名無史さん:2009/01/21(水) 10:52:31
四の君は定子様の妹だから子供が出来ていたら親王、内親王にはなれたよ。
59日本@名無史さん:2009/01/21(水) 13:15:10
女御ならいざ知らず、姉が皇后だったからって女官に過ぎない妹の子供まで親王・内親王宣下は有り得ない。
ああ、高階一族が中関白家と皇后という権威を振りかざして無理矢理(内)親王宣下を迫るんですね。
(元)権力者一家のやりそうなことですねw
60日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:36:38
>>58
四の君が里へ帰るときには兄の伊周らが恥を忍んで
こっそり退出させたとあり、一条天皇は知らん顔だった。
失脚した定子の皇子女ですらなかなか親王・内親王宣下を受けられなかったのに、
一条天皇は女官腹の子を認知することすらなかっただろう。
一条天皇の子後冷泉天皇も女官に手をつけてしまったことがあったが、
こっそり受領の養子に出されていて、
一生親子名乗りなどできず子も受領として一生を終えた。
61日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:25:02
一条天皇は四の君寵愛の頃は
四の君がNO1の恋人だったと思う。
62日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:20:26
恋人だろうがなんだろうが、賢帝である一条天皇は道理に合わないことはしないよ。
罪人である兄伊周を匿った定子は蟄居させ続けたし、
女官の四の君が子供を身籠もっても認知しない。

公私(政治と恋愛)の区別はしっかりつけていた。
63日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:07:43
ここの妄想オバサマ古文板の源氏スレでもあちこちで暴れまくり
あっちはID出るから解りやすいけど
それもあさきしか読んだこと無いみたいで、すぐに下ネタにしたり
ご自分のワケワカラン恋愛論語ったりで、皆にスルーされまくりだが
夕霧がお気に入りみたいだけど
しかも漢字が読めないらしくて「塗籠」を「ぬりこめ」とかさ
まあ仮名なら濁音ないからそのとおりなんだけどさ
この発情オババ殿に学問版の意味を教えてあげて(ここも学問版だし)

ここが彼女のハウスみたいだし
64日本@名無史さん:2009/01/22(木) 08:57:28
>>62 その時までに帝の子を宿していたのは中関白家の娘だけだよね。
65日本@名無史さん:2009/01/22(木) 14:27:11
ナマミコてだれ?実在の女
66日本@名無史さん:2009/01/22(木) 14:51:52
>>64
中関白家ではない元子も妊娠してるよ。
67日本@名無史さん:2009/01/22(木) 17:51:20
>>66 釣?妊娠してないけど(女御としては)帝以外の男の子供は妊娠したけど
68日本@名無史さん:2009/01/22(木) 17:58:12
一条の生前に一条以外の男の子供を妊娠したのは定子だろw
しかも近親相姦、天皇をだまして内親王にしたというオマケつき
69日本@名無史さん:2009/01/22(木) 18:31:52
>>67
元子は結果的に水を産んだわけだから本当に妊娠したかは定かではないけど、
あの時代の人間、夫・一条天皇を含めた人々は彼女の妊娠を疑わなかった。
ついでにそれは間違いなく一条天皇の種だった。

四の君は妊娠したまま死んでしまったから本当のことは分からないけど、
解剖してみたら案外想像妊娠だった可能性もあるし、元子のように水を産んだ可能性もある。
実際に子供が産まれてみなければ本当の意味で妊娠の有無は分からない。

結果的に一条天皇の子供を産んだのは、定子と彰子のみ。
70日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:50:52
>>67
元子は女御時代、妊娠を発表しているよ。
藤原顕光と盛子内親王(村上天皇第五皇女)の長女として誕生した元子は、
長徳2年(996年)11月13日、一条天皇に入内。同12月1日、女御宣下を受け、
与えられた殿舎の名から承香殿女御と呼ばれた。
翌長徳3年、元子は一条天皇の子を懐妊したことを発表、
当時ともに一条天皇の後宮にあった義子の女房らの羨望のまなざしの中、大々的に退出。
ところが産み月になっても元子に出産する気配はなく、父顕光とともに太秦の広隆寺におこもりしたところ、
寺で産気づくが、水が流れ出るばかりで子はまったく出てこなかった。
(水を産む云々は栄花物語のみにある話なのでぼやかした言い回しになってるかもしれないが)
この事件により元子は一条天皇の内裏に戻れなくなり里がちになってしまったらしい。

おたくが言っているのは一条天皇の没後、元子が源頼定との間に娘を産んだという話でしょ。
頼定との間にはたしかに娘が生まれたらしいから元子が頼定との子を産んだのは確実だけど、
元子は女御時代にも一条天皇の子を懐妊したと発表したことはあるって話。
71日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:03:30
一条天皇は四の君の妊娠も疑わなかった。
72日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:23:41
>>71
一条天皇の正式な女御で周囲も皇子を産むことを期待していた元子に比べ、
四の君は今でいうところの内裏に勤務するだけのただの独身ОL。
一条天皇の所有物ではない四の君は当然内裏で一条天皇以外の男と交わる可能性もあったのだし、
一条天皇が四の君に何の処置も考えていなかったのも出生を疑ったからかも。
姉定子の例もあるしね。
73日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:37:08
元子は、京大の有名な学者さんが、腹水のたまる婦人科系の病気か、
それに伴う流産だったんじゃないかって書かれてる。

高貴の女御について、小さい赤ちゃんが死産で出て来た、とは
あからさまに当時流布させられないだろう。

その後普通にお産されてるから、医学らしい医学の無い当時で、
自然にリカバー可能な病気だったんだろうけどね。
74日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:23:08
>高貴の女御について、小さい赤ちゃんが死産で出て来た、とは
>あからさまに当時流布させられないだろう。
何で?
死産なんて当時はむしろよくあった事でしょうに。
75日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:45:40
>>73
死産は記録に残っているよ。
同時代でも、後冷泉天皇の女御藤原歓子(のちに皇后)が、
永承4年(1049年)3月14日、男子を死産したことが記録に残っている。
また、流産も記録に残っており、
康和元年(1099年)4月4日、堀河天皇の女御藤原苡子が流産した(性別不明)記録が残る。

死産した歓子や流産した苡子がその後天皇のもとへ戻れなくなったということはありえず、
栄花物語にこのことが原因で里がちになってしまったという元子の状態が
流産や死産と異なるのは明らかで、ようするに胎児を懐胎していなかったのだろう。
想像妊娠でも生理が止まり、腹が膨れることがあるそうなので、
そもそも妊娠すらしていなかった可能性がある。
婦人系の病気持ちだとはいっても、元子は一条天皇が没した後、そこそこの高齢出産で
源頼定の娘を安産しているので、当時20代前半ぐらいの元子が重い婦人病を患っていたとも思えないし。
76日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:36:27
元子が水を生んだつーのは婦人科系の疾患じゃなくて消化器内科系の疾患だと思うし、なんかの本にも書いてあったよ。
77日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:39:15
一条天皇が四の君を寵愛していたのは事実だけどね。
78日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:55:21
>>63
>夕霧がお気に入りみたいだけど

夕霧って「源氏物語」の夕霧だろ
確かに古文・漢文板の「源氏物語」関連のスレのうち、夕霧スレだけ異常に伸びが早い。
そして夕霧の妾の藤典侍ヲタが異常にウザイ
文章からして「もしや?」と思ったが、やっぱりな。この板の定子ヲタとダブってたのかw
79日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:25:46
>>76
消化器系の病気で生理が止まるの?
おたくの自称公立病院勤務医師の旦那さんって、
無知なのね。
80日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:44:51
>>78
〜だと思う。〜だと思う。
と、主観(というか単なる願望)しかない馬鹿丸出しのレスに特徴あるからすぐわかるよ。
81日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:48:45
帝が定子様を愛していたのは事実です。
82日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:10:42
一条天皇が定子「だけ」を愛したって証拠はどこにもない。
83日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:02:33
最後まで心の中に定子様を・・
84日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:48:51
定子ヲタ気持ち悪い
85日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:43:55
うわ・・・
スレが上がった途端、古文板から戻ってきたなまみこ婆w
一日中2ちゃんねるを監視してるんだな
どんな暇人w
86日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:02:24
一条帝の最後の歌は定子様へ・・・・
87日本@名無史さん:2009/04/03(金) 21:16:04
_ノ乙(、ン、)_
88日本@名無史さん:2009/04/07(火) 18:58:50
クソスレに成り下がりそうだから元子の話に戻すと、水を産んだってのは、確か寺だか神社だかじゃなかったっけ?

寺とか神社とかで出産(しかも死産)てのは当時はケガレ深い、って考えられて、公表できなかった、とは考えにくいかな?
89日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:17:13
>>88
元子が産気づいたのは広隆寺ね。
寺で産をするのがそんなに縁起が悪いならそんなことをそもそも
元子が寺で産気づいたことを載せんだろ。

それに、元子は産み月になっても全く産をする気配がなく、
月日は過ぎ、あまりにもおかしいので仏にすがるしかない、と
父顕光と一緒に広隆寺にお籠りすることになったはず。
臨月に出産していれば元子はたとえ死産だろうが自宅で出産していた。
元子の妊娠に何らかのおかしい点があったために
異例の妊婦姿での寺へのお籠りという事態に
なったということをまず考えるべきだろう。


90日本@名無史さん:2009/04/09(木) 09:47:07
えーと、というか、縁起が悪いとかそういう類でもなくて。
あくまで、説明しにくいけど、ケガレ(死・血・出産)思想関連で。
天皇の女御ともあろう人が、寺で出産(ケガレ)・しかも死産(ケガレ)。
それを隠そうとして、なかなかそんな病気はないんじゃないか、的な、水を産んだ、というかなり無理がある説明になっちゃったんじゃないかな?筆者も元子を守ろうとして。

だから元子も自分がケガレているから参内するのを自重して、それを一条が大丈夫だよ、戻ってきなよ、という流れだったのかな?と。

定子が亡くなったときも、一条は、我が御幸ともしずやあるらむ、と詠んでるし、ケガレなんて関係ない、と思ってたのかな、とエスパー。
91日本@名無史さん:2009/04/09(木) 19:56:04
>>89
妃が産をするときには天皇から女官が遣わされてくる。
「紫式部日記」などには彰子が敦成親王(後一条天皇)を産む際の
詳細な記録が残っているが、彰子が苦しんでいる几帳のすぐ外には
宮中から使わされてきた女官たちが控えて
逐一宮中に産の進み具合を報告する義務を負っていた。
一件の後、一条天皇からも東三条院からも女官が遣わされたようだし、
嘘の報告を宮中にするほうが罰当たりだと思われる。
流産、死産はこの時代今よりもはるかに多くあり、
流産、死産したからと言ってそれが原因で妃が宮中に永久に戻れなくなることなどなかった。
産も汚れだが、妃は2〜3か月自宅で療養したあとその汚れた我が子を抱いて宮中へ戻るわけだし。
顕光は、道長の娘彰子が幼い今、元子が男子を産めば第一の東宮候補で一躍政界のトップに躍り出ることができ、
死産や流産なら元子は宮中に戻って次の子を狙えるのに、
あえて水を産んだために娘を宮中に戻れなくするのは意味はない。

一条天皇は汚れを関係ないと思っていた、というのは誤り。
定子の産んだ皇子女たちは母定子の喪が明けるまで参内できなかった。
当時の風習を守ることが帝王の務めでもあったしね。
死産や流産なら元子はまた産の汚れがとれ、喪が明ければ宮中に戻れる。
元子がそれ以来里がちになりずっと宮中に戻れなかったのはけがれのためではなく
女房たちまでがあれほど得意気になって退出したのに水を産むというおかしな事態になって
宮中で笑い物になっていたためだよね。
92日本@名無史さん:2009/04/28(火) 00:25:15
あげてみるw
93日本@名無史さん:2009/04/28(火) 00:26:36
下げて
94日本@名無史さん:2009/04/28(火) 07:05:46
>>91 長男がいるし
95日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:34:15
>>94
元子の一件があったとき、一条天皇に長男は誕生していない。
彰子は幼くてまだ入内しておらず、
定子は長女脩子のみを産んでいた。
元子が一条天皇の第一皇子を産めば、
立太子は十分可能だった。
96日本@名無史さん:2009/07/07(火) 01:56:35
元子って水を産んだんだよね。


で、長男は定子様が!
97日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:23:33
>>96
本当は日陰の身の上で親王宣下も危うかったが、
道長の妥協によって彰子の養子になってたから人並みの生活がおくれたんだけどね。
彰子に男子が誕生すればもはや世間からは用なしだった。
彰子のお陰で頼通の養女と結婚できたけど。
98日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:24:30
>>96
漫画板の「あさきゆめみし」スレで馬鹿丸出しして相手にされなくなったから
また日本史板に戻ってきたな。なまみこ婆が。
99日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:15:14
>>97
いくらなんでも皇后出生の第一皇子が親王になれないってことはないんじゃないの?
東宮になれなかった時も、世間のひとはおおっぴらには言えないけど同情してたし
いくらなんでも道長のやり方は外戚の枠通り越して独裁すぎる。
奥さんって頼道の妻の姉妹じゃなかったっけ?それとも奥さんの妹を養女にしたのか?
養女にしたのは、その奥さんとの間に生まれた娘のほうだったと思ったけど
100日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:31:29
>>99
定子の第一子は出生後1年も内親王宣下がなくて、
東三条院の同情によってようやく内親王宣下が受けられた。
敦康は入内したばかりの彰子の立場を悪くする存在だったし、
一条天皇が彰子を中宮に立てて彰子の産む皇子に皇位継承権を約束することで
ようやく親王宣下が実現した皇子。
彰子が立后宣下を里で受けるために宮中を退出した隙に
敦康は参内して親王宣下、
そのあとすぐ彰子に立后宣下、彰子が参内する前に敦康と定子は宮中退出。
敦康は后腹で唯一立太子できなかった皇子と言われるが、
当時は里方の失脚した定子自身が后としての役割をはたしていなかったから。
101日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:37:28
>>99
伊周の朝政復帰がないのに敦康の立太子は不可能。

敦康のことは養母の彰子は同情してたみたいだけど、
世間の人は伊周の摂政就任を容認していなかったし、
結構冷たい視線だったよ思うよ。
公任、行成ら当時の生粋の政治家たちも
敦康支持にも同情にも回らなかった。
102日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:53:43
>>99
頼通の妻、祇子女王
頼通正室隆姫の父具平親王が没したあと、
隆姫の弟妹達は頼通が養育したとあるのでこれによった。
隆姫、祇子女王らの同母弟源師房が
一時頼通の養子として跡取り扱いされたのは有名。
敦康親王没後、祇子女王は出家してしまったので、
姉の隆姫が一人娘の嫄子を養育した。
嫄子はのち頼通と隆姫の養女として後朱雀天皇に入内。
103日本@名無史さん:2009/08/01(土) 20:57:37
平安時代、あんまり詳しくないので、概説的な本読んだんだけど、
人間関係が錯綜しすぎでゴチャゴチャしててよくわからん。

天皇や貴族の名前もなんか似たような名前ばっかりだし、
后妃や側近連中の名前なんてとうてい覚えられん。
104日本@名無史さん:2009/08/01(土) 22:34:27
行成は、裏で道長の犬になっていたからね〜(字は上手いけど)
105日本@名無史さん:2009/08/01(土) 22:37:38
>>104
そうでもないだろ。
敦康親王の親王宣下に尽力したのは行成。
御堂関白記にない敦康親王の出産に関しても記述している。
行成は幼いころに父親を亡くしていたのを関白道隆に拾われ
蔵人にしてもらった経緯があり、
むしろ伊周や定子に近い人間だった。
106日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:07:03
敦康自身は品性方向だし、出来の良い皇子だったけど、
とにかく彼を取り巻くものがね・・・色々問題多かったからね。
世間的には境遇その他には同情を寄せる皇子だけど
政治的立場からは支援出来ないし、したくない存在ってとこか。
107日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:15:25
それを言うなら品行方正
108日本@名無史さん:2009/08/02(日) 08:19:56
一条天皇は、心底定子様を愛しておりました。
109日本@名無史さん:2009/08/02(日) 09:38:57
保立さんが一般向けに書いた本の中で、璋子のことを「准太政天皇」と表記してたが、
女院は准上皇と解釈していいのかな?
110日本@名無史さん:2009/08/02(日) 19:26:46
>>109
ここは璋子(待賢門院)スレではないのでこの板にある
女院スレへでも行ったほうが良いと思うのだが・・・

ちなみに保立さんがどういう理由で
女院を「准太政天皇」としたのかはわからない。
詮子が最初の女院、東三条院となった際には
国母である皇太后に上皇待遇を与えるというものだったので、
女院は太政天皇そのもので、准太政天皇ではないので。
111日本@名無史さん:2009/08/03(月) 06:35:59
一条天皇は定子様と同じ蓮の葉の上に・・・・
112日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:36:45
一条天皇は、道長への憎しみの漢詩を
残していて、それを観た道長が切れて
破り捨てたんだよね〜マジDQN
113日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:48:23
>>112
その話は同時代の史料には一切残ってない。
200年ほどたった鎌倉時代成立の愚管抄のみに突然出てくる。
(しかも慈円はこの説を必死に打ち消している)
信憑性が危ういのがわかるよね。
114日本@名無史さん:2009/08/03(月) 23:46:59
>>113
そもそも定子は一条を愛していたのか?
4歳も年下のガキで、しかも自分の実家を見捨てた男と死んでまで一緒にいたのか?
顔だって父の円融天皇は別に美形でもないし、母の詮子も美人とは言われていないから
一条は美形どころか不細工かよくて平凡な顔の男だっただろうし・・・
教養はあっただろうが、女としてそこまで惹かれる相手とは思えないな
同時代にはまさに教養もあれば顔も良い光少将みたいな男がいたんだし
まぁ自分の兄弟に冷たくて十人並みの冴えない男でも良いってなんなら定子の男の趣味が悪いだけだが
115114:2009/08/03(月) 23:48:39
>>113じゃなくて
>>111
116日本@名無史さん:2009/08/04(火) 07:24:45
>>114
113じゃないが、定子だって別に美女じゃないだろう。
一条天皇のいとこなんだから、一条天皇がぱっとしない容姿なら
定子もぱっとしないだろ。
多分、女性最高の地位ということに満足して他はどうでもよかったと思うが。
定子の第一子は明らかに一条の子ではないし。

>自分の兄弟に冷たい
一条天皇は賢帝だといわれていたから、一条天皇の外戚でもないのに
強引に関白になろうとする伊周を退けたことは称賛されたはず。
政治に私情を持ち込まないということで。
逆に左遷される兄弟の手を握って政治妨害した定子は
処罰されてしかるべきだったがな。
117日本@名無史さん:2009/08/04(火) 19:50:36
一条天皇と同じ蓮の葉の上にいるのは彰子
尼のくせにセクースして子供生んだ定子は、地獄で鬼に輪姦され放題
118日本@名無史さん:2009/08/04(火) 20:56:36
彰子 の魂は宇治で彷徨ってるだろ
119日本@名無史さん:2009/08/04(火) 21:11:47
>>118
現在の天皇家は一条天皇と彰子の間の子孫。
定子の子孫は3代で滅んだ。
どっちが蓮の上かわかるよね。
一条天皇と彰子は今現在も宮中において
天皇の祖先の一人として祀られている。
120日本@名無史さん:2009/08/05(水) 20:39:26
家柄&血筋では元子がNO1だね
121日本@名無史さん:2009/08/05(水) 21:00:05
それ言ったら定子が一番卑しいということになる
なんせ母親が受領の娘
しかも高階とか
122日本@名無史さん:2009/08/08(土) 20:53:20
なまみこってのがどんなものかと思って懐漫覗いてきたが
見てるだけで疲れた
小説元にしたフィクションなんだから、たらればのみで議論になったり
感情論でキャラ叩き合いが横行するのは仕方ないとして
土台となるべき教養なさすぎ
若いねーちゃんばかりなんだろうから仕方ないが
こっちへ戻ってくるとほっとする
妄想レスをねちねちいじったり、ヒステリックに叩くんじゃなく
淡々と歴史資料を提示して論破するのは見ていて気持ちいいわ
123日本@名無史さん:2009/08/09(日) 11:11:46
一番卑しいのは暗部屋女御だろ!

元子は妊娠してなかったのが定説
124日本@名無史さん:2009/08/09(日) 15:02:01
>>123
暗部屋女御=藤原尊子
父;関白藤原道兼
母;左大臣藤原師輔の娘藤原繁子(道兼の叔母に当たる・一条天皇乳母)

尊子の母繁子は左大臣の息女。
受領の娘である定子の母高階貴子のほうがはるかに身分は卑しい。

125日本@名無史さん:2009/08/09(日) 15:45:43
元子は体面を失い、プライドから頑として参内しなくなり、
(時期はいつだか失念)父の恨み言も聞き流し、一条崩御後には
幸せな結婚をして、子供にも恵まれたんだよね。
126日本@名無史さん:2009/08/09(日) 16:31:07
元子の再婚相手源頼定は父顕光が激怒するのも頷ける位
女性関係が派手でちゃらちゃらした男だったからな〜
しかも、頼定は村上天皇の孫だが官僚としてはいまいちで
一条天皇没後三条天皇の世では
かつて頼定が三条天皇の東宮時代の妃綏子を寝とっていた関係で
昇進が止まっていたはず。
駆け落ちした時点で元子が頼定に惚れまくっていたのは事実なんだろうが
元子の再婚生活が幸せだったかどうかまでは分からない。
127日本@名無史さん:2009/08/09(日) 18:09:26
幸不幸は当人の主観の問題だから何とも言えないね

>>123
一条天皇の妃の出自一覧
藤原定子
父:関白左大臣藤原道隆
母:高階貴子(式部大輔高階成忠女)

藤原彰子
父:摂政太政大臣藤原道長
母:源倫子(左大臣源雅信女)

藤原義子
父:太政大臣藤原公季
母:名不詳(兵部卿有明親王女)

藤原元子
父:右大臣藤原顕光
母:盛子内親王(村上天皇皇女)

藤原尊子
父:関白左大臣藤原道兼
母:藤原繁子(右大臣藤原師輔女・一条天皇乳母)

どう見ても定子及びその妹の御匣殿が一番血筋が劣っています、はい。
128日本@名無史さん:2009/08/09(日) 19:25:24
定子は父は彰子より上
129日本@名無史さん:2009/08/09(日) 19:43:16
藤原道隆・道長
父;右大臣藤原師輔
母;摂津守藤原中正女時姫

道隆と道長は同父同母の兄弟で血筋では同じだろ
いずれも母親は受領の娘で卑母

公季や顕光のほうが父母の家系は良いからな

130日本@名無史さん:2009/08/09(日) 20:51:24
>>126
なんか源氏物語の朧月夜を思い出すな…
131日本@名無史さん:2009/08/09(日) 23:03:42
>>129
道隆・道長・道兼の父は師輔 じゃなくて兼家な。師輔は祖父だよ。

藤原定子、彰子、繁子は父方は三人とも同じ(祖父は藤原兼家、祖母は時姫)だけど、
母方は定子が高階氏(受領)で、彰子は源氏(宇多天皇筋)、繁子は藤原氏(藤原師輔)
母方が皇族でも藤原氏でもない定子の血筋が一番劣っている
>>128が何を根拠に父が上と言っているのか分からん・・・父方の身分と血筋は兄弟だから一緒なのに
132日本@名無史さん:2009/08/11(火) 23:08:19
長男が一番や
133日本@名無史さん:2009/08/11(火) 23:12:33
房前は次男
冬嗣も次男
忠平は三男
師輔は次男
兼家は三男
道長も三男
134日本@名無史さん:2009/08/11(火) 23:21:50
すまん忠平は四男、道長は五男だったか
135日本@名無史さん:2009/08/12(水) 10:04:24
>>132
長男が一番だったら、中関白家では伊周より道頼が一番になるな
定子は全然この長兄を敬っていないけど
136日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:55:17
>>135
「全然敬っていない」のソースを知りたいな。
137日本@名無史さん:2009/08/12(水) 20:09:37
道頼の母も定子らの母も同じ受領階級出身で母親の身分は同程度だった。
しかし、道頼の母は早くに道隆の寵愛をなくしてしまい、
道頼は長男でありながら道隆に愛されなかったので祖父兼家の六男と称していた。
兼家は初孫であった道頼を溺愛していたため祖父存命中にはそこそこには昇進できたが
兼家の死後は父道隆の意向で異母弟伊周にも官位を超えられた。

定子と道頼の仲だが道頼は枕草子にもほとんど登場せず
祖父の恩恵で大納言にまでなりながら中関白家の蚊帳の外に置かれているがごとくだった。
定子の御前に常に召されているのは何と言ってもその同母兄の伊周。
たまにやんちゃざかりの同母弟隆家、出家していた同じく同母弟隆円という感じ。

定子には異母妹も多かったのにね。
道隆が父兼家の妻の一人対の御方(綏子の母)との間に作った娘とか。
やっぱり異母妹たちとも疎遠だったみたいだ。
138日本@名無史さん:2009/08/13(木) 00:01:30
待て待て、まさか枕草子のみじゃなかろうな<ソース
清少納言はあれで結構ミーハーだから
人間関係についての言及はそれなりに偏ってるし
フィルターもかかってるぞ?
政治的にまずかろう部分は意図的に伏せられてるし
まあ参考にはなるが
139日本@名無史さん:2009/08/13(木) 07:47:38
>>137
道隆が道頼を冷遇していたことは「大鏡」に見え、
「公卿補任」などで弟伊周に官位を超えられていたことが見える。

定子のサロンに異母兄道頼の姿が見えないのがそんなに異様?
そうでもないだろう。
定子の母高階貴子は出たがりで有名な人で(大鏡・栄花物語より)
関白夫人になってからもどこかで歌会があると聞けば必ず出かけて行った人。
勿論、定子のもとにも頻繁に出入りしていた。
貴子腹以外の道隆の子が頻繁に定子のもとに出入りする理由もないし、
定子がそれでもなお道頼を同母兄弟よりも信頼していたなら
特に清少納言がフィルターかける必要もない。
道頼は早くに死んだせいもあるけど、
中関白一家の中では評判いいほうだったしね。
法皇の殺害未遂罪&業務執行妨害&女官の身の上で姉の夫と姉妹丼と
道隆の正室腹の子たちはよりどりみどり揃っていたし。
140日本@名無史さん:2009/08/13(木) 16:25:26
藤原家は全体的に次男がいけてるな【長い歴史では】
141日本@名無史さん:2009/08/14(金) 07:27:48
通い婚が常識の当時、異母兄弟が疎遠なのは珍しくないんじゃない。
姉妹丼って、姉が死亡後、妹が寵愛を得ることもそんなに非難されること?
なんか悪意にみちてないか。
142日本@名無史さん:2009/08/14(金) 10:41:24
歴史通と、風俗通は別ものだという生きた見本だな。
幾ら史実に詳しくても、現代の価値観しか知らなければ
一変とおりの解釈しかできないっていう。
143日本@名無史さん:2009/08/14(金) 12:09:38
異母兄弟の親疎なんて結局はその時々の人間関係しだいで、一般的なことは言えんと思うけど
道長と道綱は結構親しかったと思うが
倫子の妹を道綱は妻にしてるし、息子の兼経は道長の養子になってるし
144日本@名無史さん:2009/08/14(金) 13:33:01
枕草子観るだけでも、実質の嫡子伊周より
実際の長男大納言道頼の方がイケメンで優れていたように感じる。

道隆が父親と仲が悪かったのは、父の女に手を出したからか・・・。
145日本@名無史さん:2009/08/14(金) 14:14:29
道隆が対の御方に手を出したのは兼家の存命中?
だとしたら、兼家はよくそんな息子を後継者に選んだものだな
146日本@名無史さん:2009/08/14(金) 18:49:53
>>145 だから、親子の仲悪かったし、兄弟も仲悪かったんだよ!兼家の頃から。
147日本@名無史さん:2009/08/14(金) 20:03:10
>>144が読んでいる枕草子は自分が読んでいるのとは別物らしい
148日本@名無史さん:2009/08/14(金) 20:38:46
>>144
枕草子には
「にほひやかなるかたはこの大納言にもまさりたまへるものを、
かく世の人はせちに言ひおとしきこゆるこそいとほしけれ」
とある。
伊周よりも優れていると清少納言は言っているよ。
149日本@名無史さん:2009/08/14(金) 21:59:52
淑景舎の登花殿来訪の段だな。
>148の直前で「山井の大納言は、いりたたぬ御兄にても、いとよくおはすかし」
縁遠い兄弟でありながら、中宮とはうまくいってる、とあるんだが
>137の異母妹たちとも疎遠ってのはどこから出てきたんだ。

結縁の八講の段では、(その後まもなく出家した)中納言と比して
(すっきりしたスタイルの中納言に比べ)決まってるけど暑っくるしい格好と評してるし、
登花殿でのベタ褒めはどうも、伊周と比べても素晴らしい大納言が
なんで世間では悪く言われるかなあ!って悔しさの表現に見える。
(伊周より男前だったのは間違いないとして)
150日本@名無史さん:2009/08/15(土) 07:55:09
>>149 その段のとき、一条天皇は昼真っから
定子様と***そして、夜も定子様を求めて・・・。
151日本@名無史さん:2009/08/15(土) 10:04:36
淑景舎も東宮に呼ばれて早々に渡ってるしな。
おおらかな時代だったもんだ。
152日本@名無史さん:2009/08/15(土) 14:13:56
>>150
一条天皇は、道隆が権力の座にいる時になにがなんでも皇子を
定子に産ませて、中関白家の地位を盤石にさせてやりたかったんだよ。
>昼夜を問わずのお召。それは実らなかったし、いまさらしかたないこと
なんだけど、その当時の一条天皇はただの好色漢ではなく、定子のことを
愛していただけ。まあそれをぶち壊したのは伊周なんだけど。



153日本@名無史さん:2009/08/15(土) 14:47:55
なまみこ婆以外にも頭悪くて夢見がちな定子厨がいるんだな
面白い
154日本@名無史さん:2009/08/15(土) 14:51:20
>>153
定子厨・厨は出てけ!
155日本@名無史さん:2009/08/15(土) 16:12:59
なまみこ婆w
負け犬定子にしがみついて何が楽しいんだか
おまえみたいなのがくっついてたら定子も迷惑だろう
定子自身の生前の行いが良くなかったから罰ゲームみたいなものか
156日本@名無史さん:2009/08/15(土) 18:28:38
>負け犬定子にしがみついて何が楽しいんだか

悲劇のヒロイン像を脳内で作り上げて、それに酔ってるんでしょw
まあ中高のおにゃのこの妄想ならかわいらしいんだが、
いい年したババアがそんな妄想にしがみ付いてるのは痛すぎる
157日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:14:45
没落後も、40日くらいしかいなかった定子様だけに通いつめて・・・。
158日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:33:14
>>155>>156
おまえらみたいな定子攻撃粘着厨のほうが異常。
とっとと巣に帰れ!
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666/l50
159日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:50:14
なにキレてんだババア
整理か?w
160日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:33:06
彰子が宿下がりした後、還俗した定子様が
宮中に召された時は、他の女御のところには行かず
定子様と毎日隠れて愛し合っていたんだよ。
161日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:13:33
なまみこ婆
なまみこマンセー婆がいるよ
よかったね
ますます定子様大迷惑
162日本@名無史さん:2009/08/16(日) 17:23:43
>>160
そんな記事ないでしょ。
定子は敦康親王に母乳を一切与えていないから
(育児は全部乳母任せ)
出産後の生理の再開が早かったのねとしか。
163日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:03:05
>>152
道隆存命中、定子は一条天皇の後宮を一人で独占していて、
一条天皇は定子以外の女性とのセックスを禁じられていた。
愛とか恋とかいう問題ではなくて、
関白道隆の機嫌を損ねないためには唯一の妻定子と
セックスに励む以外に方法がなかった。

その証拠に伊周が失脚するとどんどん他の女御を迎え入れて
寵愛しているしね。
164日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:11:46
>>149
枕草子は定子没後に書かれている。
そのため、清少納言は自分がいかに藤原道長と仲が良かったかを力説し、
藤原道長を称賛している。
同様の理由で、中関白家で唯一評価がまあまあの道頼を称賛しただけでしょ。
清少納言は後々のことまで知っているので、
定子の母親高階貴子のことなどあまりよく書いてないし。
165日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:14:00
>163
いいからクーラーつけれ
そんで水分とって首の後ろ冷やして安静にして寝てろ
166日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:18:09
>164
確かに政治的にまずい部分はぼかされてるが、
そこまで道長におもねた内容でもないぞ?
伊周の事は終始ベタ褒めだし、
道長が道隆に跪いた件で道隆を賞賛した段もある。
政治的な配慮がないわけではないが、
彼女は自分の感性の方が優先じゃね。
167日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:25:07
>>166
伊周はそんなに褒めてないけど。
女房にすぎない自分の袖を引いて廊下を歩いてくれたとか
アッシー君にしたのよ、的なことしか書いてない。
道長の件では弟が兄に膝まづくのはどうって話じゃないが、
清少納言はあれほど立派な人(道長)が関白様に膝まづくはずがない、
とやたら道長を持ち上げている。
中宮様も、のちのあの方(道長)のご出世ぶりを見たら、
私の言うことがきっとお分かりになったはずだわ、
と道長ののちの出世のことにまで言及している。
168日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:26:04
>>165
うん、お前も愛だの恋だの書き込む前に
昼寝でもしてろ。
169日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:35:50
>>165
後宮は政治だ。
それを否定したいお前の書きぶりのほうが
日本史板ににつかわしくないが?
170日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:35:16
褒めるの定義が噛み合ってないなあ。
後宮は政治の舞台ってのも、枕草子でその舞台裏が覗けるのも異論はないが、
枕草子そのものは政治色が薄いってのを言いたかったんだが。
何故そうむきになるんだ。

説教の講師は顔!で一段使うようなエッセーだぞ?
伊周がかっこいい、センスいい、ってのも
道長が大物、威光が半端じゃない、ってのも
清少納言にとっちゃ褒め言葉に代わりはあるまいに。
何故どちらを持ち上げているか、ってところへ目が向くんだ?
そもそも、彼女が誰より褒めちぎっているのは
伊周でも道長でもなく、主の定子なんだから。
171日本@名無史さん:2009/08/17(月) 05:13:52
>>164
> そのため、清少納言は自分がいかに藤原道長と仲が良かったかを力説し、

お前、枕草子読んだことないだろ?
172日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:03:10
>>171
どうも話がかみ合わないと思ったら、
枕草子を読んだことないやつかw

枕草子は伊周を褒めていないし、
清少納言が道長賛美をしていて
定子との政治的対立をわざと描いていないのは
研究者もいってることだぞ?

まあ、史料を読んだことのないやつが
この板に出入りしていることからしておかしいんだが。
173日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:06:34
>>172
お前の「褒める」の定義と文中の実例を出してくれ
話はそれからだ

つーか、威光を讃えないと褒めた事にならないと思ってないか?
女にとっちゃ顔がいいとかセンスいいとかのきなみ褒める意だぞ?
174日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:30:28
定子様は総毛立つほど美しかった。
175日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:32:58
>>173
こりゃ、ほんとうの馬鹿だw

顔がいい、スタイルがいい、それをもって政治を語るなよ。
清少納言は道長の将来性をたたえ、
それが現実のものとなった(本当に出世した)ことを書いているだろ。

いいから、レスはするな。
お前がほんとうの馬鹿だということがわかったから。
176日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:18:35
>>175
レス元追ってみろよ…
道隆と伊周の容姿を比較する参考に枕草子が出ただけなのに、
清少納言は道長マンセーしてすり寄ってる!ってレスが出たから
すりよってるか?両方褒めてるだろ?って方へ話がズレたんだよ。
道長は政治的な威光を賞賛されてる
伊周は貴公子としてミーハーに賞賛されてる
どっちも清少納言にとってはエッセイのネタの一つに過ぎないのに
どこをどう読んだらルックスで政治を語ってるって結論になるんだ?
浮かれたレスする前に、ちゃんと流れ読め。
人をバカにするレスで自分の読解力の欠如を露呈してどうする。

枕草子は本来政治色薄いエッセイだから
政治を語る参考資料にはなりうるが
土台にするなって突っ込まれてんだろ
177日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:27:48
>>176
枕草子は政治色薄いといいながら
道長の政治的威光を褒めてるって矛盾してるだろが。
そもそもこの場面ではまだ
道長の兄たちは生きていて誰も道長の出世を予見しなかったからね。
しかし、清少納言は時空を飛び越えて後のことをかき、
道長の出世を描いているわけだ。

伊周の容姿を褒めたことなど問題にしていない。
ここは日本史板であって文学板ではないから
清少納言がだれをハンサムだと思おうがどうでもよい。
容姿と出世をどっちもおんなじことだと定義して
読解力の欠如を露呈してるのはそっちだろが。
178日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:52:55
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179日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:58:46
だから何で、枕草子に政治性を求めるんだよ…
>容姿と出世をどっちもおんなじことだと
「清少納言にとっては」を意図的に落としてんのか?
四季の風雅と宮中ゴシップがメインのエッセーで
作者がどっち褒めようが作者の勝手だと言ってるんだが。
よりにもよってエッセー分析しなくても
このスレタイなら大鏡でも何でもあるだろう。
他の資料何も持ってないのか?
180日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:32:08
すまん、>>179だがレス内容は完全に撤回する。
暑さで頭が沸いてたようだ。
問題は資料の種類じゃなく、資料をどう取るかなんだな。

・後宮は政治の場
・後宮を描写した枕草子は、政治ルポ的資料
・清少納言は時の権力者道長におもねて持ち上げ、
 失脚した定子の兄伊周は褒めていない
この板の見解はこれでいいんだな?

古典板じゃ、個人個人で差はあるが
・後宮は政治の舞台であり、教養の最高峰を極めた文化発信地
・枕草子は文学作品であると同時に、
 当時の後宮風俗や人間関係、貴族の感性を伺える文化資料
・後の権力者道長に配慮して伏せられた部分もあるが、
 概ね定子の立ち位置に拠って描写されているため
 失脚した伊周について都合の悪い部分は書かれていない
この辺が落としどころなんで、そのつもりでレスしてたよ。
資料の定義が食い違ってるんじゃ、
どれだけ議論しても話が噛み合うわけないな。
板によって常識違って当然なんだから、そこを配慮しなかった自分が悪い。
すまんかった、今後はレス控えるよ。お互い住み分けよう。
181日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:43:36
お寺には、金も精力も有り余った坊主が大勢いるから
タップリ注ぎ込まれていそう。
182日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:58:40
一条天皇の辞世の句は定子様へのもの!
183日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:13:52
そうだそうだ!
184日本@名無史さん:2009/08/29(土) 20:18:57
定子様〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
185日本@名無史さん:2009/09/05(土) 23:34:47
定子最高
186日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:41:39
一条天皇は最後まで定子様を愛し続けた!
187日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:09:15
その割に、定子が死んだ当日にも、
新しい妃の彰子を寝所に召したんだよな・・・>一条天皇
188日本@名無史さん:2009/12/09(水) 18:32:52
一条天皇は定子だけを愛したわけじゃなさそうだね。
189日本@名無史さん:2009/12/11(金) 21:52:25
当たり前じゃないか
190日本@名無史さん:2009/12/13(日) 21:46:20
>>187
流石にそれは彰子の方で遠慮したらしいけどね
191日本@名無史さん:2009/12/17(木) 17:36:55
あれ、こっちは中関白家礼賛スレではないんですね。

>>188
それは確かだよね。とくに元子にはあの「右近内侍」に(枕草子の「常陸介」の段・・)
お手紙持っていかせたし。働きものだよね、彼女。

しかし、ほんとに中関白家を嫌っていたなら四の君に手出しは
しなさそうだけどね・・。定子の晩年にはみくしげ殿として
彼女に仕えてた。人となりはそれなりに知ってたんでは?
192日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:16:29
いはむとぞおもふ
193日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:32:04
藤原信頼でーす
194日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:31:38
近衛は麿の甥じゃ
195日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:57:17
南家如きの信西坊主とは違うのじゃ
196日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:47:40
麿こそが関白に相応しい家柄じゃ
197日本@名無史さん:2009/12/21(月) 18:45:47
麿こそ関白に相応しいのじゃ
198日本@名無史さん:2009/12/23(水) 01:43:35
麿は院と同じ蓮の上にいくのじゃ
199水無瀬信頼:2009/12/23(水) 14:54:56
なぜ麿を持ち上げてくれぬ
200日本@名無史さん:2010/01/09(土) 21:21:25
>>191
定子の存命中から四の君と通じていたという話もあるよね。
201日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:20:51
ソースは?
202日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:41:36
清少納言は主君の夫を寝とった四の君のことをよく書いていないね。
203日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:25:55
そうなの?
204日本@名無史さん:2010/05/28(金) 14:37:27
栄華物語に四の君が定子の死後、その子供の母代わりとなったが、
一条帝の子を懐妊してひっそりと里へ下がり、
しかし産む前に亡くなってしまったと書いてありました。
205日本@名無史さん:2010/06/05(土) 21:27:51
「枕草子」に四の君が頻繁に出てきている。
それによれば四の君は姉の中宮定子のもとで嫁入り見習いをしていたみたいで
一緒にいたみたいなんだよね。
四の君は清少納言にもこっちに参上して話相手をしろなんて命じてるが
定子様オンリーの清少納言は四の君の命令をうざったく思って理由つけて断ったりしている。
ただし、父道隆が死んだとき、一番下の妹だった四の君はまだ誰とも結婚しないまま。
そのうち兄弟も失速して適齢期になっても結婚すらせず、あいかわらず姉の定子に近侍していた。
一条天皇も最初に四の君と関係を持ったのはいつだったのか・・・
四の君は父の存命中に宮中から御くしげ殿の官位を受ける女官であったから、
姉のそばにいるとはいっても立場的には直接の主君は一条天皇であって、
取次に出てもおかしくない立場だったわけだね。

四の君が一条天皇の子を懐妊するのは定子没後。
四の君は女官であったし姉の定子のもとにいたことで定子の遺児たちもなついているので
姉の残した皇子女を連れて一条天皇のもとへ宮仕えに出たわけだ。
しかし、すぐに懐妊。
正式な妃の懐妊ではなくお手付き女官の懐妊なので、兄の伊周・隆家も大変気まり悪く、
こっそり四の君を里へ引き取った(栄華物語)。
でも四の君は妊娠中に17歳で死んだんだったかな。

206日本@名無史さん:2010/06/12(土) 15:39:26
栄華では伊周・隆家は決まり悪くは思っていなかったと思う…
207日本@名無史さん:2010/06/12(土) 17:56:05
栄華の作者は好意的だったけど、当人たちは決まりが悪いに近い表現があったよ。
正式な女御なら行列を組んでの里下がりだが女官の里下がりはこっそりだ。
女官の妹が一条天皇の子を産んでも子供は養子に出されるか僧になるかで
一条天皇の認知を受ける可能性はまずない。
後冷泉天皇のとき、藤原氏系の后妃たちには子が誕生しないのに
天皇がこっそり女官に男子を産ませてしまった。
この子は乳母のつてで受領のところへ養子に出され
顔が天皇にそっくりなのに大臣や納言たちに下々の者として仕えていたらしいしね。
208日本@名無史さん:2010/06/17(木) 15:42:10
一応身分は御匣殿だし、落ちぶれたとはいえ前関白の娘なんだから、
後冷泉の女官とは同列にはできないかもね。
栄華は道長家礼賛に終始してるから。もし彰子に子が生まれなかったらどうなってたか。
道長の娘が後冷泉を生んだ時の身分も同じ御匣殿でしょ。
209日本@名無史さん:2010/06/17(木) 18:29:09
同じ御匣殿といっても父親がいない、兄弟も頼れない御匣殿と、女御・中宮になる前段階で親兄弟がそろっている
嬉子といっしょに考えちゃだめでしょ。
仮に彰子が親王を産まなかったとしても敦康親王の養母になっていたわけだし、それがいやなら東宮に娘を入内させて
親王誕生を待てばいいのであって、御匣殿の子供に出番はなし。
210日本@名無史さん:2010/06/17(木) 22:12:38
女御の前段階の御匣殿と嫁入り修行の御匣殿とじゃ立場が違うしな
嬉子はあのまま生きていれば後ろ盾ばっちりで確実に女御だけど
嫁入り前の腰掛け女官で父親が死んで嫁入り先もなくなった道隆四女は
子供を産もうが女御になれるような立場にはなかったと思う
211日本@名無史さん:2010/08/18(水) 19:35:57
藤原信頼
藤原成親
阿野廉子
坊門清忠

みんな藤原隆家の末裔
212日本@名無史さん
>>208
道長には大勢娘たちがいたのだから
たとえ彰子に皇子が誕生しなくても
妹たちを次々入内させて親王誕生を待ったでしょう。
大勢の娘たちがいてもそれが万が一無理な場合に備え、
やむなく敦康親王を彰子の元へ引き取らせた。
東宮(三条天皇)はせい子との間にすでに大勢の皇子持ちだった。
一条天皇の後ろ盾のない女官との隠し子に帝位がいくくらいなら
東宮の皇子に帝位が行くだろうと思う。