1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:27:30
3 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:37:00
4 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:44:03
勝った!勝った!!
文書主体の行政体制と内部統制を強化する組織の完成度は評価に値するな。
それ以上でもそれ以下でもないのが惜しいところ。
6 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 18:05:56
北条氏の一族の結束は戦国屈指
毛利や織田、徳川など普通の大名とそれほど違わないんじゃないのかね。
ただ養子とかあまり入れずに血縁関係ばかりで固めただけでしょう。
血縁の少ない上杉や壮絶な親子の相克をおこした武田がお隣にあるからそう見られてるみたいだけど。
8 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:09:40
>>5 以上でも以下でもないかも試練が、そのシステムを構築した
事自体が時代的に考えて稀有なことだろう。
しかも現在に残る文書中でも、計算間違いがほとんど無いらしいね。
>>7 武田は信玄に限らず信虎は叔父を殺してるし、祖父信縄も弟他を殺して
るしなあ。信玄も義信以前には叔父の油川信恵他を攻め殺してるし・・・。
今川も花倉の乱じゃ兄弟で殺し合いしてるし、その前の氏輝の死もクサイ。
東のお隣じゃあ、里見の後継争いは北条も加担したけど壮絶だったし、
真里谷武田の内紛とか・・・・。
周りをみてくと小山・結城レベルの小大名くらいしか比較的穏健に
後継していった大名は思いつかん。
そう考えて行くと、やっぱ北条の結束の堅さは評価に値すると思うが。
それゆえ、同族経営の危うさも・・・
10 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:13:47
>>7 織田は信長と信勝(信行)、徳川は家康と信康の対立があるからなあ・・・
北条が一族で争わなかったのは、
にわか政権だったからで、
体制とは無関係。
12 :
8:2008/11/29(土) 12:07:51
訂正
油川信恵を殺したのは信虎だった。しかも弟だわな。
信縄・信玄は叔父兄弟を殺しては無いわ。
スマン、東光寺に腹切りに逝ってくる・・・・・・・。
13 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 12:25:46
一族も多くないしな
14 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 19:49:38
北條揚げ
17 名前:池田犬作:2008/11/15(土) 08:00:54
池田の元側近の証言です
「池田大作は北条さんが亡くなると、その通夜と本葬で集まった1億5000万円の香典、東京の戸甲記念講堂で行われた本部葬、ならびに全国の会館で併行された葬儀で集まった約20億円の香典のほとんどを遺族の手に渡さず、学会本部の金庫へ入れた。
一家の柱を失った遺族は、長年往み慣れた聖教新聞社前の和風二階建ての家から即刻立ち退きを命じられた。
池田大作がそう命じたのである。
北条未亡人はやむなく遺産をはたいて都心から離れた狭い一軒家に移り住んだ。」
(藤原行正著『池田大作の素顔』から)
池田討つべし。
松田・大道寺・遠山・富永・朝倉・大藤の
子孫はどうした。
17 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:08:02
松田・大藤は知らないが、その他は大道寺は津軽藩士、他は旗本に
なってないかい?子孫いるんじゃないか?
18 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 01:29:49
太・・・新太郎氏邦、彦太郎氏隆
二・・・孫二郎康元
三・・・源三氏照、三郎、新三郎氏信
四・・・四郎氏光
五・・・助五郎氏規、源五郎
六・・・新六郎氏時、六郎氏忠
七・・・七郎直重
八・・・新八郎
九・・・新九郎氏綱、新九郎氏康、新九郎、新九郎氏政、新九郎氏直、彦九郎為昌、善九郎康成
十・・・十郎氏房
19 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 01:34:48
【陸奥守】氏照 【安房守】氏邦 【美濃守】氏規 【上総介】綱成 【常陸介】氏繁
【尾張守】松田憲秀 【筑前守】松田筑前守 【肥後守】松田肥後守
【丹波守】遠山氏 【大和守】内藤氏 【駿河守】大道寺氏 【山城守】富永氏
【伊予守】垪和氏 【伯耆守】垪和康忠 【越前守】笠原氏 【美作守】笠原綱信
【能登守】笠原康勝、朝倉能登守、猪俣邦憲 【上野介】清水康英、山角康定
【豊前守】間宮康俊、太田豊前守、安藤良整 【若狭守】間宮綱信
【三河守】布施三河守 【佐渡守】布施佐渡守 【因幡守】南条昌治、松田因幡守
【信濃守】関為清 【下野守】石巻氏 【紀伊守】山角定勝 【周防守】多米氏
【加賀守】中田氏、興津氏 【出羽守】近藤綱秀
ナンミョー系の話は自重しようぜw
南無阿弥陀仏こそ真理。
南無妙ホウレン草
23 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:37:08
おお!俺のご先祖の名が・・・。
24 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:08:29
なにがご先祖だよw
26 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:18:00
>>25 中田氏じゃあない。ズバリだと特定されてしまうから失礼。
いまじゃほぼ普通の勤め人級の財力しかないが、先祖が中興した
寺への盆暮れの付き合いとか、改築あれば寄進とか大変だ。
俺は次男だからいいんだが、家継ぐ兄貴はかわいそう。w
27 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:41:36
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| ゝノ
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|iiiiiiiiiiiiiiiii| /ヾ ;; ::≡=-_ ナニヤッテンダヨ バカモノガ !!
|iiiiiiiiiiiiiiiii| /:::ヾ \
|iiiiiiiiiiiiiiiii||::::::| キンマンコ |
|iiiiiiiiiiiiiiii|ヽ;;;;;| -==≡ミノノノ ≡=-|ミ
|iiiiiiiiiiiiiiii|/ヽ ──| ∀ | ̄| ∀ || / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|iiiiiiiiiiiiiiii|ヽ < \_/ ヽ_/| < んもー常にageとけって
|iiiiiiiiiiiiiiii|ヽ| /( )\ ヽ | 言ってるだろ!
|iiiiiiiiiiiiiiii|| ( ` ´ | | \_________
|iiiiiiiiiiiiiiiiii| ヽ \_/\/ヽ/ |
\iiiiiiiiiiiiiiiヽ ヽ \  ̄ ̄/ /
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|iiiiiiiiiiiiiiiiiii|_  ̄ ̄ ̄ ̄/
28 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 01:31:39
個人が特定されるほどのことでもないのに先祖が誰かを書けないなんて・・・
自演?
いや、めずらしい名字なら特定されるかも知れないな。例えば垪和氏とか。
あなたの方こそネットの怖さというのを理解していないんじゃないか。
30 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:31:24
自分の先祖は垪和康忠だと書いたら個人特定される?
頭悪すぎるだろw
俺の祖先は無名だけれどこんなところで名前を出すつもりはないな。
ネットってのは不必要な場で微塵たりとも個人情報を出すべきじゃない。
32 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:48:47
ここは小田原北条氏のスレであって自分の先祖を語るスレじゃない
33 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 13:21:28
2ちゃんでの先祖自慢は嘘くせーのばかりだよ
特定されるとかの理由じゃなくでまあ嘘なんだろうな
34 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/22(木) 22:24:02
>>33 いや本当だと思うよ。客観的には与太なんだけど本人たちは本気なんだよ。
現実界にもたくさんいるもん。
35 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:31:01
そもそも90%以上が農民だったのに、男系が武士の先祖ってほんの一握りだろうに。。。。
36 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:32:51
そりゃ男系にしぼらなきゃ先祖巡って行けば誰か偉人にはだどりつくだろうけどね。
どうでもいいがな。
38 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/22(木) 22:40:17
世間の人は系図が嘘八百、伝承のたぐいはほぼ与太話、親や祖父母などの先祖話には潤色が多いとか
思わないんだよ。ナイーブなんだろう。
39 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:06:04
世間の人だが、信じてねぇよ。
40 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/22(木) 23:14:53
>>39 マジョリティがね。周囲の人に訊いて当たれや
41 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:20:03
太田十郎氏房は〜守みたいな受領名とかないの?
42 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 07:57:50
>>35 そりゃ江戸時代に武士だった階級に限りだろ?戦国期に武士だった階級の
子孫は意外と多いぞ。仕えていた家が滅んだりして帰農して地元の有力者って
パターンは結構多いぞ。
もっとも高級家臣以外は、武士と農民の区分があいまいだけどな。
43 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:26:35
うちの先祖は水呑だと言い切っていたうちの祖父さんパねぇな。そう考えれば
44 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:31:29
後北条家で最も男色好きだったのは誰ですか?
ナッちゃん、どっかいってて。
46 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/25(日) 01:12:47
>>42 それも伝承という奴が多いんだよ。
確かにそういう連中はいるが、伝承があるだけじゃ分からない。
あと戦国時代の農民は兵農分離していない。
黒澤明の『七人の侍』に出てくるような農民はいない。あれは考証がメチャクチャなんだよな
47 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 08:31:39
永代兵役免除の村落とかかもな
48 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:55:51
後北条はかなり兵農分離してる
>>46 兵農未分離=農民全てが兵、という訳でもない。
46は短絡的すぎる
あのなあ
戦国時代だろうが江戸時代だろうが、
武士百姓の別を問わず、ほぼ全ての階級が武装してたんだよ。
基本的には自分の命は自分で守る、自分の村は自分で守る、
これが当時の自力救済という慣例だよ。
これは安土桃山、江戸、近代を通じて、
政府のサービスが向上していくにつれて徐々に否定されていく。
武装している人から見れば慣例的な権利の剥奪ということになるけどな。
兵役を免除されてようがいなかろうが武装しているし、
兵農分離が進んでようが進んでなかろうが武装していることに変わりはない。
武装していない顔して武装していたじゃねーか>七人の侍
七人の侍の寒村は「百姓だから、たとえ野盗でも専門職の武士だった連中には勝てない」
というのを素直に表現しただけだろう。ちゃんと落ち武者狩りも隠し田も描写している。
現に武力で抵抗を主張する農民も出てくる。武具もちゃんと隠し持っている。
ただ、今まで戦場や野武士との接点で散々痛い目に遭遇して厭戦気分が充満してしまっていて、
不条理に立ち向かうことを忘れたってことだ。
55 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:14:28
作り物のドラマなんかで熱くなるなよ。あほくせぇ
>>46 映画なんてどうでも良いから兵農分離していないというのを史料で示してよ
維新後は兵農一致で間違いないけど
57 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 16:46:55
>>56 ブヨ子援護のつもりはないんだが してたって資料は?
58 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:13:00
兵農分離を明確に打ち出したのは織田信長。
それ以前には兵農分離はなかったのは明らか。
60 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:21:35
>>59 おめぇ、知らなかったらしいな。常識だぜ。
61 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 10:40:17
UP !
62 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:12:30
小田原北条氏の場合、侍と百姓・小代官層がかなり明確に分離されていたと思う。
小田原合戦等危機レベルが高い時は侍以外にも根こそぎ動員をかけたみたいだが臨召みたいなものみたいだし
いまどき兵農分離を織田が率先してやったなんて本気で言ったら笑われるぞ。
64 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:05:50
なんか井沢元彦原理主義者が一人いるな
逆説の日本史そのまんまってのも芸がない
65 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:51:13
いまどき兵農分離を織田が率先してやらなかったなんて本気で言ったら笑われるぞ。
では兵農分離とは何かの説話と、信長がそれを他に先んじて実行した、ないし重視した証明を頼みたい。
他人の論文内容の紹介でもいいぞ。
67 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:26:55
第三者がスマン。兵農分離っていうより織田の特色と言われる常備軍を組織したは信長じゃなくて信秀じゃ無かったっけ?
68 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 03:35:37
現存する織田家の史料は少ない
69 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 06:20:58
織田にだけ常備軍がいた?
どこの大名だって当たり前にいたんだが。
70 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:24:45
基本は常備兵
臨時で農兵
これどこでも同じこと
もちろん常備兵の末端には村から連れてきた百姓もいたが数は多くない
71 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:31:14
>>71 いやそれはそうだけと、織田家はその臨時の農民徴収が無くいつも常備軍のみの編成で戦をしていたとうこと。だから信長の征服スピードは、主に農閑期にしか戦出来ない他の大名と比べてかなり早かった、という話があったと思う。今携帯だから調べたらまた書き込む。
いや、北条ネタにもどれ。
>>71 信長だけが出兵速度が速かったとか、
農閑期農繁期に関係なく出兵できてなんてのは、
データ的裏づけの取れていない小説の戯言だよ。
74 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 14:49:54
>>73 「データ的裏付けがない」と批判するなら、自分もデータ的裏付け資料を持ってきて批判しようなwどこどこでは農民兵はいなかったとかさ。このスレ、いつまでたっても根拠のない批判の応酬に終始してしまう。
でもこの話題がスレ違いという指摘には納得m(_ _)m
「俺の死んだ祖父は時速一万キロで走れた」
「証拠は?」
「証拠は、と批判するなら自分も証拠を出せ!」
76 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 15:48:07
アホらし…兵農分離が織田だけではないとするなら、それを立証する資料もだせるはずだろうが。まぁいいやw根拠のない言い争いを永遠にしてなさい…
悪魔の証明ですな。
78 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:41:40
織田家が兵農分離?
他の大名の多くの収入源、つまり国家の原動力は米である。
支配する側として、農民たちを組織化、つまり戦争に加えることは
国の中で会社のように機能できるして、収入アップやデータ解析できる
ようにしたんだと思う。
信長は、尾張という国が凶作の問題がないくらい潤っていて、農民兵
の組織化に気を配ることも無かったけど、彼の収入の多くが永楽銭、
つまり商業によって成り立っていたからじゃないの?
信長の敦賀攻めや浅井との同盟、堺の奉行職も全部、国内商業の活性化、
や統治を目指していたわけであるから、早くに「完全な軍隊」を作れたのでしょう。
信長さんも農民に気を配らざるを得なかった大名もすごいね。
そろそろ 北条の武勇伝を語りましょう!
スレを立ち上げた方 スイマセン
ちょっと長いぞ、と先に連絡。
「織田が兵農分離してた」ってことの根拠としてよく使われるのが、
天正四年(1576)に安土城下で弓衆の福田定一
じゃねえや与一が火事を起こしたときの話(信長公記)。
城下集住させたはずの弓衆や馬廻りなどの侍衆が、
家族をかつての在地に残してきていたのを信長が知って、
その在地の屋敷や林を破壊して、罰として重労働をやらせたというもの。
この記事では馬廻りと弓衆の120人が城下にいたと書かれている。
この120人はほんの一部で、やっぱり他の地侍などは普通に在地で
中世風に過ごしていたと見るのが、現在の主流な考え方だと思われ。
こうした大小の地侍や土豪と呼ばれる在地領主は、その土地で普段は
金融や輸送業などを行い、小作や奉公人などを使って田畑を耕作させ、
加地子や公事を取り、或いは払っていた。兵農分離とは、こういった
在地領主を土地から切り離し、大名の被官にすることであって、
そのためには彼らを前述の中世的な権益から切り離さなければならない。
これは容易なことではなくて、実際には上記の福田与一の例の通り。
しかし与一の例もまたある意味簡単な事例。
兵と農を分離して常備兵にするということは、兵と農の中間的な層を
完全に兵と農に分離しなければならないからだ。
即ち、「年貢を払う者」と「年貢を取る者」に分離するということだ。
中世では「払う者」がときには「取る者」だったことに注意。
仮にこれを一律にやるとすれば(そうでなければ千、万単位の
「常備兵」を備えることは不可能)、大規模な地侍や土豪の蜂起が
起きてもおかしくはない。実際それは起きていて、鎮西九国でも
奥羽でもかなりの規模で鎮圧されたことは知られているとおり。
与一などの例が上手くいったのは、そういう権益を破壊された
地侍土豪が極少数だったことを示しているといっていい。
そういう意味では織田の「常備兵」もしくは「兵農分離」は、極めて
部分的なものだったのだ。ということは他の大名でも多かれ少なかれ
やっていたかも知れないと見ることが出来る、ということでもある。
北条の場合、岡本政秀という馬廻衆の着到状から察すれば、
彼は半常備兵的な存在だったように見える。
相州東郡吉岡に59貫の所領を持ち、そこから六人の兵を連れて来いと
書かれており、それ以外に寄子侍4人と侍付の足軽4人の8人で
着到しろとある。吉岡から6人連れてくるということは、彼が在地して
いたことを示している。下山治久は小田原と吉岡の両方に屋敷を
持っていたのだろうと推測しているが、オイラもそう思う。
北条の実体は恐らくこの岡本政秀を例にして差し支えないと思う。
82 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:38:17
これって歴史ほとんど知らない自分でも戦国時代の世に兵農分離なんて無理だと思った。
織田家の合戦の動因兵力って何万規模でしょ。それを合戦のためだけに養うのって普通に考えたら無理だと思った。
上にもでてたけど、兵農分離のイメージって足軽雑兵にいたる全ての兵士が職業軍人として雇われてるイメージだけど
それって常識的に考えて織田家にかぎらず無理だよなとおもった。
83 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:59:35
織田家が農村の百姓を戦闘員として徴発した史料はあるの?
84 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 03:03:05
足軽ていうのは農村から出てきたわけではない
都市部から生まれたわけだ
85 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 03:18:22
こんな時間に書き込みするのは引きこもりニートか登校拒否学生
俺は前者ね(>.<)y-~
>>83 そんなんほとんどの大名にないよ。
わずかな史料が一握りほどの大名にあるだけ。
>>83 勘違いしやすいところだが、戦国大名は百姓を「徴発」したりはしない。
郷村は基本的に自治で、地侍や名主がいる所領や荘園は彼らに従っているので、
大名がいきなり「徴発」など出来ない。出来るのは「契約」までだ。
村ごとに、あるいは地侍や土豪がいる場合にはそれら単位ごとに軍役や夫役など
という「契約」があって、それにしたがって大名権力等に奉仕することになっている。
こういった「契約」は郷村、地侍と大名領主権力の政治的駆け引きによって
軽重が決まる。戦国時代だと概ね前例を安堵する程度に留まる。
安土城の普請など大規模な工事があれば、不足の人足は銭や米で雇い入れる。
大名権力は、思ってるほど強い権力じゃなかったのだ。
ちなみに織田は北条の着到状のようにカッチリと軍役を決めていなかったようで、
どうも割といい加減だったっぽい。あるいは王者の余裕かもしれない。
「徴発」に近い例としては、上のほうのレスにもあったと思うが、北条が秀吉に
攻められそうになった時に15〜60歳(だっけ?)の村人に国家の一大事とか
ナントカ言って小田原に集まってくるようにさせたのがある。ただしこれは稀有な例。
そんで百姓は普通戦闘員じゃなくて、もうちょと別の用途で連れてくる。
雑兵というやつがそれ。地侍や土豪は「いくさだよー」と触れがあれば課役(軍役)に
従って、百姓を雑兵として連れて来て、自分達は足軽や侍として活躍する。
オイラ的にはこの足軽や侍、あるいは雑兵も必ずしも戦争を
忌避していたわけではなくて、積極的に参加してたやつも少なくないと思う。
88 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 19:19:38
つまり織田でも小田原北条でも以前から兵農分離はされてたってことだね
89 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 02:42:06
農閑期にギャラもらえて、略奪もできるしレイプもできる。
やめられませんな!
90 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 03:08:27
直轄領の年貢米で養う近臣を、城下町に住まわすことは、当時の戦国大名なら当たり前。
拠点の移動(清洲→小牧→......)なども、三好長慶のほうが激しく行なっている。
また、農兵だから農繁期に動員出来ないということはなく、
謙信なども何回か、農繁期なのに関東や越中などで作戦を遂行している。
実際に、農民といっても、家族数人でやっている零細農家は殆ど無く、大規模経営で、
実際の耕作は、数十(または数百)の使用人がやっているわけで、一割程度を軍役に取られたとしても
耕作が不可能になるわけではない。
91 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 03:28:25
>実際に、農民といっても、家族数人でやっている零細農家は殆ど無く、大規模経営で、
実際の耕作は、数十(または数百)の使用人がやっているわけで、一割程度を軍役に取られたとしても
耕作が不可能になるわけではない。
何時代の話だw
>謙信なども何回か、農繁期なのに関東や越中などで作戦を遂行している。
つまり兵農分離してたわけだ
どうせ倅者とかの存在も知らないんだろうね
94 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 05:10:44
だいたい
>>90の言う通り。
農繁期の出兵は普通にみんなやっているもんな。
大規模農業の形式も古代から定着していて、
それを示す制令札が発見されたりしている。
そこじゃ富裕層が貧民を餌で釣り、種蒔きなど大事な時に人手を独占して、
富裕層は益々富み、貧民層は益々飢える仕組みを政府が禁止していたのが読み取れていた。
95 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 05:17:07
大規模農業?
96 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 09:46:22
違うよ。
謙信はかわいい女の子だから
体目当てで反乱が起きたんだよ。
98 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:17:31
武士が出陣に際して村から連れるのは2〜3人程度。
また従者を連れず1人で出陣する階層も多い
また雑兵に志願するものがかなりいた
飢饉だからだ
==く・::ヽ
. /: :::ヽ よ〜しパパ、
>>99踏んじゃうぞ〜
| :::::|
_,.--、| /::/::|
. >!´.)| |:::|:::::,!
l y〈:::| レ'::::/ でも
>>100とか踏んじゃうんだよね、パパ
ヽソ:::|、 ::|
>〜l_l`H ,、:ゝ
~~ ~'zノzソ ~
百地丹波参上
101 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 10:50:57
天正十三年(1585)に北条氏直の近習・田村千代丸をはじめとする四人の若侍が
連続的に切腹自害して果てたという事件があったと聞きました。
おそらく『北条五代記』あたりに記載されているのでしょうが、
その詳しい理由や経緯、また自刃した他の三名の氏名などを教えて頂けませんか。
お願いします。
五代記ぐらい自分で調べなさいな。
それも調べられないでネットに尋ねに来るぐらいなら歴史を調べる能力なし。
北条滅亡後に関東に入って、徳川家が幕府を開くにあたって北条家の政策の影響を受けた。
みたいなことをよく見るんだが、具体的に何か分かってることはあるのですか?
105 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 18:14:52
>>103 里見や千葉の旧領だった房総はともかくとしても
江戸時代の相武は幕府官僚・旗本・御家人・寺社領らの所領が錯綜している。
その原型と言える状況が後北条時代の土地所有制にあるのは確かだ。
小田原本城の馬周り衆や各支城の扶持衆、寺領などが混在していて、
各人の給付地と収納石高・動員兵力などが一見してわかりづらい。
このあたりは徳川氏の関東支配において後北条時代からの遺産をそのまま
引き継いだ結果と言えるのではないか。
まあ房総や伊豆はそうではないかもしれないけれども。
106 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:56:53
武田領も武士の所領が分散してるよ
家康が甲斐を領した時に武田旧臣に安堵された所領もかなり細分されてる
107 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 02:25:03
>>102 手許に無いから問うた迄のことぢゃ。
それよりもお前自身が調べる能力が無いから
慮外な口のきき方をして居るのかゑ?
さすれば哀れなる奴でしか無いな。
なんだナッちゃんか
109 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 12:59:56
>>104 両所権現は後北条の影響というか鎌倉幕府以来の関東武士の伝統
徳川が北条の政策継承なんてのも俗説くさいな
111 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:46:03
領地を継承したから色々受け継いでるだろうな
両所権現の件も徳川が関東に入ってからだし
112 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:32:39
北条ひいきのバカ学者による捏造。
徳川家康の時代、風魔小太郎が北条の残党として、盗賊として関東を荒らしていたが、
これは、家康が北条旧領の関東支配にてこずっていると豊臣に思わせていただけで、
徳川は風魔と密約していたが、徳川の天下が確定して、もはや用無しとして、
切り捨てられた。
江戸城を拡張して、江戸の街を整備したのは間違いなく家康。江戸氏や太田道灌ではない。
これも北条および関東武士ひいきのバカ学者の捏造。
豊臣に包囲されて間抜けな降伏をした北条などの関東武士を擁護するため。
家康は、今川旧領においても、駿府城、浜松城の築城など、各種城郭の整備、
吉田大橋の架橋などの整備を行っている。
今川・北条・武田の時代にすべてが整備され尽くされていたわけではないのに、
関東ひいきの小和田などの捏造学者は、徳川に恩着せがましい。
北条の統治と民政が不十分であったため、関東は荒れ果てていた。
ゆえに家康の関東移封がなされたわけで。
114 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:53:32
早雲は、一代で伊豆・相模を攻略し、今川の名代として、
三河に出兵、徳川と交戦するなど、幅広い活躍。
氏綱以降の凡人は、信長・秀吉・家康、信玄・謙信らと絡んでくるため、
どう考えても早雲より劣るのに、能力の過大評価がなされた。
山内上杉とか扇谷上杉とか古河公方の足利とか、足利幕府の残党を一掃するのに、
氏康時代までかかったあげく、弱小の佐竹や里見を潰せない。
家康が、旧北条領を得て、10年で天下を取ったということは、
北条の歴代当主は100年かかって滅亡するなど、間抜けである。
115 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:54:38
徳川家って三河時代から伊津箱根両所権現に誓ってたの?
116 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 03:30:09
>>112 そりゃ家康以降とは比較にならないけど、
江戸は元々栄えていたんですよ?
少なくとも南北朝以前からかなりの人口かつ、
物流集積地。
>>116 それにひきかえ江戸の発展に北条は寄与するどころか、疲弊させる一方だったろうな。
伊勢氏が出ないほうが関東は安定して発達したと思う。
118 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 12:30:29
北条の本拠地は、小田原。
江戸は徳川入封後、本拠地となり、やがて日本の中心となった。
発展に差があるのは、あたりまえ。
119 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:26:52
小田原なんて関東から取り残された寒町だぜ。いかに北条時代のインフラ整備が悪く発展の余地がなかったか。
早雲だって鎌倉公方を鎌倉から追った強力な今川軍を使って疲弊した両上杉の内乱の漁夫の利を得ただけ。
こんな楽勝なことなら足利義輝でも簡単に関東を統一できる
>>119 最後の一行を除いては同意だね。
長年小田原を本拠地にし続けた理由はそれ以上前に拠点を移すのも後退も出来なかっただけだろう。
北条姓を名乗るぐらいなら鎌倉に拠点を持てと思うがw
そのつもりだったのが挫折したのかも知れないけれどね。
鎌倉って手狭な感じがするけどね。
もう山が迫りすぎで平地が少なすぎる。
確かに狭い。121は行った事無いんだろ。
124 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:34:12
風魔は、忍者というより盗賊(無法者)に近い。
伊賀や甲賀とは違う。
そもそも、後北条のホームは確かに小田原だが、
玉縄(鎌倉)、江戸、八王子と、領土拡張に伴い重要拠点を定め
そこをいわば副都心として地方のネットワーク網を整備したという
事実を知らずに「小田原のみ」とか言い切る奴アホすwwww
>>124 まあ、伊賀甲賀衆も基本的には地侍もしくは傭兵なんだがな…
126 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 01:16:04
>>117 北条時代も、江戸は物流集積の一大拠点都市でしたよ。
関東の物資が全て集積されていたのが江戸。
だからこそ、家康も拠点に選んだんですよ。
127 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 02:27:15
128 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 21:00:36
129 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 02:43:22
いや本当ですって、、、
当時は現在の利根川は存在していなくてね、
隅田川、多摩川なんかが江戸に集まってて、
上毛や下野、武蔵、多摩からの物流と交通の重要地点だったんだよ。
だからこそ上杉も北条も江戸を抑えようとしてたし、
家康も物流の「要」として目をつけたんだよ。
130 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 03:34:27
江戸湊は太田道灌の時代から、確かに交易の一拠点。
但し、
>>126 >北条時代も、江戸は物流集積の一大拠点都市でしたよ。
というほどのものではない。
鎌倉の物流の重要拠点だった金沢湊とどっちが重要だったのかな
古東海道は、三浦半島から江戸湾を渡って、上総国 木更津に至っていた筈。江戸は低湿地でルートから外れていた。よって、古東海道筋に近い金沢の方が重視されていたのではないか。
133 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:12:29
最近の戦国ブームに乗って上杉謙信調べていたんだけど
そのうち北条氏康に突き当たりいろいろ調べてみると
北条家のその後の日本に与えて影響は大きくない?
四公六民はそのまま徳川幕府に受け継がれたし
文章主義、支城による統治体制、合議制など近世に近いものがある。
とりわけ氏康は感性が現代風で自分が遣えるとしたらこの人かなとおもう。
でも何ゆえ地味な存在なんだよね・・
何故かわかる人がいたら教えて欲しい。
134 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:40:07
結局は伊豆箱根両社権現
135 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:30:21
>>132 低湿地というより、古代は入り江と岬が入り組んでいて、
陸路で横断するには不便だったんだよ。
大河を二つも渡らなきゃいけないし。
建武の頃にはもう一大拠点だよ。
136 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 12:03:39
>>133 家訓に「上司に会う前に同僚に探りを入れて空気読め」とか
「人生一つくらいは趣味がなくてはつまらん。どんなことでもいいから芸を身に着けろ」なんてのがあるくらいだから、
ものすごくフツーのサラリーマン体質国家になるのは当然の成り行きかと。
>四公六民はそのまま徳川幕府に受け継がれたし
>文章主義、支城による統治体制、合議制など近世に近いものがある。
四公六民? 徳川のもっと低いんじゃない?
北条は表向きこの税率だけれど実際には臨時徴発という名の収奪が多いから農民の逃亡が相次いでるよ。
合議制や文書主義なら足利幕府がそうでしょう。
138 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 00:13:00
家康が関東入りしたときって小田原城は北条のそのままの規模だったの?
関が原まけたら小田原に篭る気だったのかな?
>137
詳しくはないんだが、臨時徴発が多かったのは
飢饉や戦災が連続したから仕方ないんじゃない?
それに一大名を幕府と比較してどうこういうのも
どうかと思う。
140 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 01:24:20
>>138 総構えとか、都市住民とかどうしたんだろうね。
関東入りしたあと、小田原に配置されたの誰だっけ?
141 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 05:04:30
>>140 大久保忠世、4年後に息子の忠隣。
総構えは取り壊されたと、何かで読んだ気がする。
徳川幕府が北条みたいな一大名から行政方途を受け継いだとか与太が過ぎる。
仮に受け継ぐものがあったとしても北条の為政が先進的で優位なものだったからじゃなく、
時代的地理的な要因からに過ぎないだろう。
143 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 03:04:56
>>141 総構え壊したのは、
大久保が政争に負けて飛ばされたあと。
それまでは近代化改修したくらい、かな?
144 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 08:35:59
徳川氏が小田原北条氏より継承したもの
領国
家来衆の一部
書式
吾妻鑑
このくらい?
145 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:30:25
拡大引っ越しなら、それは普通の範疇じゃね?
sage
147 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:28:16
age
148 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 10:23:55
天正十三年(1585)に北条氏直の近習・田村千代丸をはじめとする四人の若侍が
連続的に切腹自害して果てたという事件があったと聞きました。
おそらく『北条五代記』あたりに記載されているのでしょうが、
その詳しい理由や経緯、また自刃した他の三名の氏名などを教えて頂けませんか。
お願いします。
>>148 夏目犬千代
津川丑松
地山某
やったのは冬だと思う。
んで、切腹理由は殉死とあるが、誰のための殉死かは不明。
乙女丸っていう侍も切腹しようとしたけれど、これは止められた。
氏規の正式な血縁じゃないだろ?
チョンコロ大作教の幹部の北条家は
>>149 > 夏目犬千代
確か写本では夏目が多いが、
信用できる原本だと奈瀬だった気がする。
犯罪をおかして切腹かも。
152 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 23:23:24
>>148 しらべもしないでコピペ絨毯爆撃
ネカマのナッちゃんうざすぎ
153 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:46:07
北条は男色が盛んだもんな。
早雲とともに下向した侍衆は
同性愛で結び付いていたんだっけ。
あんまあてにならん説だが北条らしいかも知らんね。
156 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 16:52:00
ナッちゃんからお礼レスがこないな
氏房が九州・名護屋陣でなくなった際にも
何人か家臣が切腹していて、佐賀県内の寺に
その供養塔があるよ。
158 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:04:22
>>157 なんて名前のお寺?初めて聞いた。
4月から単身転封されて豊前に居るので、時間ある時に
是非参拝したいと思いまつ。
ちょっと税を計算してみた。
モデルは5反の土地を持つ農民。畑は何を作っているかによって随分違うので今回は無視して、
米を作っている田だけを考える。
まず最初は米の収穫高。
一反あたりいくら採れるかは太閤検地基準とする。上田は1,5石、中田は1,3石、下田は1,1石。
関東平野は沃野とは言えないので、ここでは中田と下田の間の1,2石採れることとする。
つまり、太閤検地基準では5反の田から6石採れることとなる。
ただし、太閤検地の一反は300歩。でも、北条家の一反は360歩で1,2倍。
この基準を揃える。6石×1,2で7,2石。つまり、この農民の田からは7,2石の米が収穫できる。
次に税を計算する。
まず、北条家の貫高では一反につき500文が標準。よって五反で2500文。
さらに反銭がかかる。2500文の6%で150文。
懸銭は畠課税なので無視する。
棟別銭35文、正木棟別銭25文を加える。
課税額の合計は2710文となった。これを米に換算する。
北条家の当納法は百文に一斗二升〜四升だったと思う。間を取って一斗三升としよう。
(2 710 ÷ 100) × 0,13 = 3,523 ここから税率を計算する。
3,523÷7,2=0,4893…
49パーセント。約五割だね。
でも、関東では二毛作ができる。二毛作分は非課税だから、その辺で帳尻が合うはず。
まあ、税にもこれに+αがあるようだが。
それでも、二毛作ができない越後で一反700文の課税よりは低税率だろうかね。
まあ、棟別銭と正木棟別銭がどういうものかちょっと良く分からないから、そのあたりは正確さに
欠ける。
>>159 >関東では二毛作ができる。
上野以外はほとんどできないよ。
日本では二毛作は気温の問題よりも水の問題で、
関東の水田はほとんど湛水田だから麦作に切り替えられない。
>>160 なるほど。おっしゃるとおりだ。
田は稲専門に近い状況っぽいね。少なくとも穀物らしきものを二毛作で作るのは難しそう。
二毛作ができる一部地域と貧富の差が大きくなりそうだ。
畠の方も一応計算しておこう。税は一反夏成り100文、秋成り65文。計165文
モデルは関東に中の下クラスの田五反と畠五反を所有する農民。
多分、豪農とは言えない、普通の農民といって良いと思う。
田と棟別銭等については159で計算したので省略。
畠の収穫高は太閤検地基準で中畠1石下畠8升の間をとって米9升分となる。
で、五反の畠の収穫高4,5石。太閤検地基準の一反300歩を北条基準360歩に直して5,4石。
貫高は825文。懸銭4パーセントで33文。
畠の税は合計で858文。
で、全ての税率計算。
159の税を足して3569文。米に換算。4,6397石。
よって五反の田、五反の畠を持つ農民の税率は0,368230159・・・。約37パーセントとなる。
ちなみに、江戸期に中畠0,8石下畠0,6石計算になっているという話もきいたが、
それをもとにすると約40,5パーセントとなった。
まあ、長々やったが、、畠は何を作っているかによって随分違うので参考程度の数字と思ってほしい。
それにこれだと畠の方がわりが良すぎる気もする。徴税は米重視であったのだろうか?
この時代、二毛作がどの地域までなされたかの記録や研究はあるんですかね。
知りたい。
163 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:26:10
「天地人」で北条氏政が出るが、演じるのは伊吹五郎。
「侍戦隊シンケンジャー」の爺やっておいおい。orz
164 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 22:25:34
あの氏政じゃ伊吹の無駄遣いだな。
165 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 02:06:14
ていうか家康フケすぎじゃね?
ていうか月代にのせてる布みたいなのあれ何?ウケ狙ってんのw?
166 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 06:02:37
所詮大河の題材にすらならないマイナー大名だよ
167 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:39:07
かなりメジャーだろ
168 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:10:08
親父と飯を食っててダメだしされた人だっけ?
169 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:40:56
飯の食い方くらい、好きにさせろよ。
親父がそういう細かいやつだから、息子が駄目になったんだ。
親父じたいもうろくしてたしね 晩節怪我しまくり
>>169 意外とそういう些細な事が、結果的に歴史を大きく左右する原因になってるのかもね。
172 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:23:16
さっさと上洛して出仕すれば、上杉、徳川なみに安泰、
戦ったとしても実力の差を知り、長宗我部氏、島津氏なみに
途中で頭を丸めて降伏すれば、1/3〜1/4程度は安堵されたのに
お馬鹿さんとしか言えない。
173 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:28:27
別に北条氏は途絶えてねえし。
関東政権は平安時代の昔から中央政府(近畿)になびかない特質がある。
だからしょうがない。
それをもってして現在に至るわけだし。
こんなもん北条じゃなくてパチモンだろw
175 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:44:28
関係ない関係ない
単なる氏(ウジ)だから
上杉謙信だってただのナガオさん
長尾は上杉から公認されてる
北条は自称
177 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:21:54
そんなもん徳川だって自称だ。
源家康ってw
178 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 06:47:27
北条氏の家宝である日光一文字、北条白貝、吾妻鏡は黒田家にあると。
179 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 12:54:36
私見だけど歴史が伝えているように お馬鹿さんだから滅亡したのかな 本当に
秀吉の仕置きを見てみると不自然さを感じるんだよ 何か公になっていない真実があるかもしれないと考えてしまうんだよ
180 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:21:15
滅亡してないわけだが?
181 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:40:30
>>179 後に、秀吉は北条の名跡を1万石で残してあげたわけだが、
秀吉のやりかたは特に不自然ではないけどね、上杉、徳川らは上洛、臣従なので全領安堵、
長宗我部、島津は戦ったものの、途中で降伏し臣従を誓ったので減封のうえ安堵、
北条は小田原城に籠城し徹底抗戦したものの衆寡敵せず降伏、改易。
秀吉は直接血を流す戦争はあまりせず、安全運転、北条ももともとは滅ぼす気は無かった。
名胡桃城事件の後でさえも12月までに出仕すれば北条を攻めないと言う立場で、
北条からの返書がきたらすぐに送れと家康に命じている。
なにをグズグズしていたんだかw。
182 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:19:02
はっきり言って徳川家康が悪いよね
183 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:41:53
確かに北条の対秀吉への動きは重い。
北条と他大名との違いは、一向宗やキリシタン勢力と邂逅していないこと。
単独関東政権だから択一の選択を迫られる他大名と同じ発想にはならなかったのでは。
正直、謙信に十万で包囲されたときも眼中なかったわけだし、
鎌倉近辺では戦国初期からこういった大規模戦闘を何度もやっていた。
逆になぜこうあっさりと陥落してしまったかも気になる。
まあ籠城戦で勝てる試しはないのだが。
...
ちなみに北条さんの末裔は、
残念なことにあの某巨大宗教団体のか・・・うま待てなにをすrkj9j49..,f;e:
184 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:00:51
氏政氏直のどちらかが上洛する為の準備も確かにしてたんだけどなんで実行しなかったんだろ?
185 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:13:39
例えば秀吉の九州平定なんてのは、
九州の島津征伐はイスパニアも要請を受けていて、
秀吉とイスパニアの共同歩調になる可能性もあった。
島津がいち早く秀吉に頭を下げることは両者の利害も一致していた。
これは他の大名も「キリシタン」を「一向宗」と読み読み替えることで
同じことがいえる。
京大坂の地ですら同じことが言える。
186 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 02:24:17
>>183 謙信に包囲された件は参考にはならんだろ。
三国同盟があって、晴信も碓氷峠あたりに出没して謙信を牽制していたし、
陥落さえしなければ、補給の問題もあり、なんとかなった。
徳川などは、秀吉に出仕しないなら娘を返せと、完全に秀吉の家臣として行動しており、
助けてくれる国はないのに.....
187 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 07:41:43
>>186 言いたいことはわかるけど、
北条所領は関東管領の管轄で
当初から中央政府に匹敵する巨大な存在が相手だったから、
他地域と比べて戦闘規模がデカい。
川越夜戦など 三千vs八万 という壮絶な戦闘を勝ち抜いており、
二十万だからといっても過去の経緯から見れば
絶望的な数字ではなかった。
それが大阪城よりも巨大な日本史上最大の小田原城。
188 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 13:04:55
>>川越夜戦など 三千vs八万 という壮絶な戦闘を勝ち抜いており、
>>二十万だからといっても過去の経緯から見れば
>>絶望的な数字ではなかった。
もう少し真剣に話しませんか?
189 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 19:02:27
河越夜戦とは
(1)関連文書が皆無であり、河越夜戦があったことを裏づける信用できる史料がない。
(2)大合戦にはつきものの信用できる感状もない。
(3)軍記物の記述はそれぞれ相違しており、敵味方の陣地の記述もまちまちである。
(4)天文6年(1537)7月20日に討ち死にしたはずの難波田弾正が再度登場している。
(5)『北条五代記』の合戦の記述は夜戦ではなく、日中の戦いの描写である。
(6)戦いの時期の記述がいろいろあるのも不思議であり、これは同一の大戦争ではなく、いくどかあった戦いを編集創作したものであろう。
(7)元来、合戦に慎重な北条氏としては、理屈に合わないところがある。味方に十倍する戦いを北条氏が仕掛けたことは理解にくるしむ。
なのだそうです。
190 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 19:10:24
川越を上杉から取ったことが武蔵進出の足掛かりだったことは間違いない
191 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 19:11:06
川越を上杉から取ったことが後北条氏の武蔵進出の足掛かりになったことは間違いない
192 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:30:20
本質がずれてるのはそちらです。
軍紀ものの誇張とそれに水を指すプチ歴史探偵の話をしたいわけじゃなく、
数万以上の大規模戦闘が多かったという話をしています。
三千vs八万でも八万vs八万でも、私の言いたいことは同じです。
小が大を制した部分を言いたいわけではありません。
秀吉軍二十万に対して北条軍は六万近くで籠城した。
それで全戦力とも思えず協力者活動次第では
別に破滅的な対峙にはならなかったのでは。
193 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:43:59
平野だから野戦しやすかったんだろう まあヒキコモリにはかんけーない話だが
194 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:49:49
お前の二文めの方がよほど関係ないが。
連想の仕方が己の事実を如実に表している。
195 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:45:48
>>192 協力者なんて幻影にすがってるようでは、やはりアホだな。
天正14年、秀吉は旭姫を送る一方では、
東国出陣(徳川・北条の撃滅)の準備という硬軟両用の手段を取ると、
北条と連合しても秀吉に対抗できないと判断した家康は、上洛して臣従。
まだ、秀吉への敵対勢力があるうちに、自分をある程度高く売れた家康は勝ち組。
後詰の期待があっての籠城だけどね、当然、伊達や津軽なども乗り遅れない内に参陣するわ。
196 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:06:07
>>195 伊達は遅参して会津を没収されたのでは?
197 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:07:32
>>195 だからなんなのだ。
参陣してない連中だっていくらでもいる。
伊達だってギリギリ。
そもそも関東の土豪を全て集めきれてないだろ。
封建時代なんだから同盟者を探すのは当り前。
198 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:14:32
家康は野戦で結果を出してるからなぁ 篭城するだけのどっかのモグラは
叩かれるだけで終わった
つまらん
200 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:20:57
>>197 同盟者が集まると考えたのなら、よほど幸せな人なのだろう。
関東に固執してるだけで変態としか思えない
202 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:33:11
簡単に言えば、井の中の蛙、夜郎自大ってことでしょう。
203 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 02:23:15
関東の武士が上方の武士に負けるはずないと思ってたんでは?
204 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 03:16:22
家康に騙されたんだよ。かわいそ。
205 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 09:12:42
>>198 25万とも言われる軍勢に囲まれたら普通野戦なんてしないよ。
206 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 11:10:58
>>204 騙すもなにも、起請文で
「出仕(秀吉への)の儀、納得無きに於いては、家康(の)娘(督姫)を返し給わるべき事」
秀吉に臣従しないなら娘を返せと言ってるわけで、騙しているわけではない。
家康自身、何度も氏政を上洛させようとして失敗しており、
北条征伐では働きを見せる必要があった。
207 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 11:57:33
太田十郎の二度の夜討ち
208 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:30:17
>>206 同盟して頑張っていこうね!をひっくり返され、
最終的に秀吉方の道案内になってるわけで。
家康があくまで抗戦してくれれば、
北条がケツ持って共闘できた。
209 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 03:19:20
伊達が征伐されるのを避ける為に挙兵したのが北条。
>>208 そして仲良く滅亡かよ。迷惑な存在だな、小田原はw
211 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 05:43:48
>>200 結果論だろ
孤立ってほど孤立してたわけでもない。
関東征伐前の秀吉版図はまだ日本の半分。
俺の考える北条の不利は
・キリシタン支持ではない
・一向宗支持ではない
・秀吉の太政大臣宣下(官職がない)
といったところで、
戦国期中もっとも戦国大名らしい戦国大名だった北条氏は
これらのメリットと無縁だった。
212 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 10:40:02
そもそも、北条を裏切った腰ぬけが伊達と徳川なんだよね。
秀吉にビビり過ぎw
213 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 12:10:51
里見は?
214 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 12:19:05
>>211 歴史の知識がおかしいぞ、
秀吉が北条征伐の軍令を発した時点では(天正17年11月)
秀吉は、はるか昔に島津征伐も終わっており(天正14年)、
この情勢を見た家康も同天正14年に上洛し臣従(上杉も同じ年)、
関東(北関東を除く)と東北(出羽の一部を除く)以外は秀吉配下であり、
石高で言えば4/5を占めるだろう。
これで、北条に付くとしたら、よほど幸せな人だろう。
215 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 17:53:38
小牧長久手の戦いの時に北条は由良長尾兄弟を騙して小田原に監禁し新田・足利へ出兵していた。
家康はその分を援軍にまわして欲しいという気持ちもあってか
皆川広照から頼まれて由良長尾兄弟を返還するように使者を送るが北条はこれを無視した。
そして結局家康は秀吉と和睦せざるを得なくなる。
こういったやり口の汚さと大局眼の無さゆえに家康から見捨てられたんだろう。
216 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 18:32:57
もし氏政が上洛していたら
どの程度領土は安堵してもらえていたんだろうか?
同盟してた家康に後門の狼と疑われまくってる時点で北条オワットルだろw
甲信を巡って争って間もないのに前門の虎太閤に対抗できるわけないじゃん
218 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 19:51:17
小牧長久手の時北条は豊臣に通じていた佐竹や宇都宮と戦っといたわけだが?
北条はなにもかも相手まかせ自分から動いて状況を作り出すような才覚はない
越相同盟にしろお舘にしろ小牧長久手にしろ
結局関東箱庭をチマチマして遊んでただけ
220 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:35:44
>>214 別に戦国期なんだから、配下に付いたばかりの存在が
完全忠誠誓ってるわけじゃない。
それにその計算もな。南部とかとのいくさはまだ後にもやっている。
伊達が臣従しただけで東北ほぼ全部という計算もなんとも言えないし。
逆に言えば関東の土豪が北条に全部出てきてるわけじゃないぜ。
戦国期ってのは中間の曖昧な存在ゴマンといるわけで。
例えば上杉十万で北条包囲っつっても、
地図上の版図じゃそんな存在印されてねえだろ。
もちろん上杉単独でそんなにいるわきゃないし。
豊臣二十万というと、
当時の兵役比率は千石あたり250人ほどだから
二十万で800万石。
日本全土で当時1600万石ほどなので、
後方残留組を計算に入れても総数で日本の6、7割が妥当。
221 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:38:31
だから徳川さえその気になれば、
まだまだやれたはず。
そう信じられていたからこそ、北条家中にはよそからの
「反豊臣」も合流していたのだから。
家康のへたれー
222 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:45:52
>>220 >「配下に付いたばかりの存在が完全忠誠誓ってるわけじゃない。 」
希望的観測過ぎて、笑うしかないな。
勢力が拮抗してるなら、ぐらつきもするが、200万石程度の大名と
徳川や上杉を勘定に入れなくても1000万石を越える秀吉とでは、ぐらつきようがない。
秀吉、上杉を後ろ盾にする北関東の佐竹や佐野、沼田の真田なども満足に撃破できない北条が、
秀吉の上洛要請を蹴るなんて千年早いだろう。(秀吉の勢力を恐れて上杉、徳川さえも上洛)
多分、上洛を要請した時点で、すぐに上洛していたら、上杉、徳川の慣例どをり全領安堵だったろう。
223 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 02:11:26
>>221 北条と同盟しても、秀吉には対抗不能と判断したので、
上洛して臣従(北条征伐の3年前)したわけで、
万が一にも家康が北条に付くわけがない。
「秀吉に臣従しないなら、娘を返せ」と起請文を出してるし、
北条との関係を疑われないように必死の家康であった。
224 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:55:54
北条が全領土安堵されてたら
豊臣政権やばくないか
東海・甲信地方に徳川もいるし
まあ、徳川が移った後に信雄いれようとしていたくらいだし、
その状況はありえただろうね。
226 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 06:27:03
>>218 佐竹の目的は由良を救うことだ。
だから佐竹は由良と北条の和睦を条件に兵を退いたが
北条はこれを破ってまた由良を攻めた。
こういうことも皆川を通じて家康に報告されていた。
227 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 06:52:13
>>222 なにが希望的観測なんだかよくわからん
徳川や上杉除いて1000万石もねえだろ秀吉は。
お前本当に知ってるか? 知らんだろ。
なぜ無知で食い下がる。
信長400万石を引き継いだが、直領は全部ではなく
滅んだ柴田や佐々の分だけ。
島津もそのまま毛利もそのまま長曽我部もそのまま。伊達は厳封分のみ。
お前封建時代の仕組み知らんだろ。
アメリカ配下の国とアメリカそのものとは全然違うだろ。
どうして中央集権制と封建制の仕組みを知らん奴が多いんだろう。特に2chとかには。
親元から離れられてないタイプの人間が多いからだろうか。
228 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 07:22:45
大物だけ単純計算したってその他勢力は
上杉120万石徳川240万石毛利120万石島津200万石→80万長曽我部100万→40万石
前田100万石伊達150万→70万
他に毛利派諸将や旧キリシタン系諸将含まれていない。
大物でも秀吉子飼いは除いている。
さんざん取り潰し改易を繰り返して増長した
江戸時代の将軍だって800万。
どうして外様ばかりの秀吉が1000万も持ってるわけがあるw
同盟者と直轄は違うんだぜ。
>227
おまえさんは「配下に付いたばかりの存在が完全忠誠誓ってるわけじゃない」
つまり、秀吉の支配は緩いといってるわけで、それが希望的観測なんじゃないか。
緩かろうが緩くなかろうが日本国土の大半が秀吉に従っている現状で、
氏政はなにをのんびりしていたんだか。
信長の武田討伐のときものろのろしてて信長の不興を買っていたよなw
230 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:23:19
>>227 秀吉に臣従を誓った家臣の領地は、軽く1000万石は越える。(直臣以外も含む)
北条宗家の直轄領は30万石or40万石程度?
足利氏、江戸氏、太田氏、成田氏...その他多数は、配下に付いたばかりの存在?
231 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:30:26
232 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 21:08:50
確かに北条の「直領?」は少ないだろうな、
けど、松田憲秀よりは多いだろう
ただし、北条氏の代官によって直接管理している領地の割合は大きい。
直轄領割合はどこの大名も似たり寄ったりだが、戦国期から北条家はその辺が違う。
俺は豊臣との比較はまだしてないけど。
234 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:21:17
豊臣は中央の政権
小田原北条は最初で最後の戦国大名
北条は戦国大名にしかなれなかったね。
近世大名への道が最初から閉ざされていたんだ。
違いの方がすくねぇよ。江戸時代の伊達とかよりよっぽど近世してる。
どこが?
どこが違うの?
239 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:34:39
北条は江戸期にも大名だっつうのw 河内狭山藩一万石。 なんですぐ滅亡扱いになんだろ。
まあ事の本質には関係ないけど。
その時代の領地ってその範囲が百%勢力下にあるってわけじゃないから、
細かいレベルでは臣下に付かない存在もたくさんいた。
それをいかにコントロールするかであって。
>>229 例えば今アメリカは世界を支配している、と言えるが、
そうでないと考える者も大勢いる。というか普通そうだろ。
だが十年二十年後、もっと勢力統一が強化された場合、
その者達は『なにをのんびりしてたんだか』と言われてしまうだろう。
全ては結果論だよ
240 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:37:36
最初で最後の戦国大名?
かっこよすぎるだろw
>>239 滅亡と断絶とがごっちゃじゃね?
信長相手にのんびりしてたのはヤバイぐらい危機感がないと思うよ。
本能寺がなければ確実に滅ぼされてる。
242 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 03:15:23
美濃の斉藤や、越前の朝倉のほうが
より早い時期の戦国大名だと思う。
小田原落城を北条の滅亡と見ていない研究者がいたら教えて欲しいもんだよな。
244 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 16:10:32
九州征伐後に臣従したとして本当に全領地を
安堵してもらえたんだろうか?
北条が臣従したとしてその時点で100万石以上は
尾張などに織田信雄100万石
東海地方に徳川家康150万石
関東地方に北条氏直250万石
中国地方に毛利輝元150万石
北陸地方に丹羽長秀120万石
東北地方に伊達政宗150万石
織田、丹羽、伊達は減封・改易されたけど
北条は無事で済んだだろうか?
245 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 18:16:46
腑抜け家康や不義政宗と北条を一緒にすな
弱腰毛利に恭順島津・長宗我部、こいつらに
比べれば豊臣と最後まで戦った北条家は
後世の史家を以て顕彰されるべき。
島津・長宗我部が内城・岡豊城とかで
最後まで籠もってたなら別だがな。
246 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 20:42:27
>>244 政宗と同じで、惣無事令以後に獲得した領地は失うかもしれない。
170万石くらいか?
247 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 20:44:32
惣無事令以後に獲得した領地ってどのあたり?
248 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:05:01
>>241 信長は信玄や謙信が相次いで亡くなったから、
覇を唱えられただけで、
その両者とさんざん渡り合った北条が
上方を舐めるのは当り前。
だって小田原の方が格上なのだから
249 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:09:37
>>247 宇都宮氏(宇都宮国綱)などが代表的なところか?
250 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:22:29
>>245 腑抜けと言えば北条では?
島津などは野戦を戦ってるが、北条は城に籠るばかり、
山中城が半日で落ちたのはお笑いだが、
小田原城も士気が上がらず、成田氏長や松田憲秀の息子が裏切り、
城内では降伏か抗戦かで小田原評定.....
結局、ろくに戦わず、秀吉の情けにすがって降伏。
こんな腑抜けでは、島津とは違い、全領土召し上げたとて無問題だわな。
野戦で戦うほうが根性あるのかー。新しい見方だな。
252 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:56:19
最終的に豊臣に逆らったのは後北条の宿命か
253 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:34:56
島津とは違う。
何度か出てるが、
足利体制は京公方と関東公方があり、関東は室町時代の元々から別統治。
関東では京幕府の任命する関東公方をしばしば認めず、
地元土豪である関東管領が実質支配する。
関東管領の支配地は関八州奥羽伊豆に及び、
京将軍とは別国家の様相を呈していた。
これを目指したのが北条氏であり上杉謙信であり、
滝川一益にも管領就任の説もある。
だから他の諸地域と違って
上方の中央政権に参加するという発想が元々薄い。
この辺も歴史ではあまりはっきり教えない。
254 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:40:40
豊臣は中央の政権
北条は最初で最後の戦国大名
255 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:45:23
つまり前時代的な、田舎視野のままで、
時勢の変化に対応できなかった、ってことですよね。
256 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:48:46
257 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:51:01
いわゆる皇国史観は厳密には近畿型皇国史観であり、
畿内を中心に征夷鎮西するという和型中華思想に乗っ取っている。
対して三大武家政権は全て関東で起こっていることについて、
武士道と皇国史観を同時成立させる為にどうしても矛盾が出る場合がある。
これを解消する為に、
征夷大将軍という形骸化した蝦夷への備え用官職を
武士の棟梁という位置付けとした、
という解釈でなんとか乗り切っているのが今日の歴史教育。
258 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:57:13
>>251 それはそうだろう、後詰が無いのに籠城するよりは、少ないながら可能性がある。
北条が対戦していた上杉軍などは、補給が貧弱(現地調達がメイン)
だったため長期の包囲戦なんどは無理だったわけだが、
秀吉軍は20万石以上の米を調達し、長宗我部、宇喜田、九鬼らの水軍に
米の輸送にあたらせて補給ルートを確保、物資が豊富な秀吉軍は長期攻囲はOK。
城攻め経験バッチリ(三木城、etc...)の秀吉にとってはルーティンワーク。
家康を手下に、緒戦の成功に浮かれた義元はお陀仏、
堀を埋められ、野戦に打って出た大坂勢の前に3倍の兵を有しながら家康もお陀仏の一歩手前。
まあ、謙信、信玄、家康相手の野戦では、ヘタレぶりを暴露してたから籠城は無理も無いか?
259 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:11:42
なんて浅い論だ
260 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:18:36
自演は嫌いです
最近スレの前の方と変わってしょっぱい感じだよなぁ。
262 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:59:35
しばらく話題を「氏綱」縛りとかにするか?
263 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:29:35
それ、語ることがあんまり、、、
>>258 当時の状況で北条はどこで野戦をやるの?
俺はどう考えても小田原城に篭るのがベスト
だと思うけどね
北条正子に演説でもさせて京へ攻め上ればいいんじゃね?
266 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 13:27:25
>>264 北条氏邦は、どこで野戦しようと考えていたんだろうね。
それはともかく、延命治療(籠城)では、もって余命半年〜1年、
それよりは、だいぶ進行してしまっているので危険だが、
外科手術(野戦)のほうがいいだろう。
篭城で国を開いたためしなしとか聞いた
やはり打って出ないとな まあ北条には逆立ちしてもできないんだけどさ
268 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 21:46:10
>>250 家康より北条氏政・氏直が腑抜けだと?
戦ってもいないで上洛した奴よりもか?
(小牧長久手は織田信雄等健在時で羽柴
絶対優勢時でないため除)
>>268 家康は小牧長久手で戦った上で冷静な状況判断をしてる。
北条は現実が全く判ってない。この差は大きい。
270 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:20:29
>>269 それはそうかもな。
だが趨勢の決した後、戦ったところは
やはり、強者に屈さぬという点で評価
しないとな。と思うが
>>270 でも結局、一時の感情に任せて死ぬよりも、我慢して頭下げて生き続ける方が難しくて偉いの。
272 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:48:22
>>270 >趨勢の決した後、戦ったところは
趨勢が決したあと戦ったのなら単なるバカ。
戦うと決めたのなら、徹底して欲しいものだが、
実際にはろくに戦わず、三ヶ月で開城、降伏。
どうせ、戦うと決めたのなら、
岩屋城や、魚津城なみに玉砕したら褒めるのだが。
玉砕したら褒められるのか。へぇ。面白い価値観だねぇ。
274 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 02:10:13
家康マンセーなんて、そんなもんだよ。
275 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 03:04:14
茶々役の
深キョンかわいすぎw
276 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 03:36:38
>>272 家康も三方ヶ原で玉砕すれば褒められたんですね、わかりますw
幕末まで河内で大名として家名を残した北条家は賢いと思いますけどね。
277 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 09:07:12
>>272 小田原城は岩屋や魚津のような小城とは
違いますから
それに民も共に籠もっていたしな
籠城はもっとできたが家臣領民を
思って氏直公は降伏された
降伏の際「己の一命と引き換えに
家臣領民を助命」と言ったのは有名ですな
278 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 09:09:04
>>273 玉砕自体を褒めるんじゃない、
そこにある忠義の心を褒めてるんだ。
と思う
小田原城が玉砕しても忠義を捧げる相手がいない。
まあ、
>>272に褒めて欲しくもないだろうけど。
しかし、最近の糞スレっぷりは異常だねぇ。
280 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:28:19
だから氏綱縛りで
じゃあ氏綱のわりと有名なところで。
氏綱の五箇条の書置の三つ目は、当時の武士が金に困ったらどういう行動を
とるかわかるから結構面白いよね。
他にも結構いろいろ深い。
どこ見てもこの文質素倹約を良しとするって要約してるけど、
それって意味の矮小化じゃないかな?
『人馬小勢にて 見苦敷けれは、此度の御供ハ如何』とか凄い深いと思う。
これって、軍役の上限の制限と解釈するんだけど。
氏康は他所の大名みたいに兵はなるべく多くつれて来いみたいな命令だしてたっけ?
特殊な総動員令みたいな状況じゃなくて。
ごめん。
氏康→氏綱以降
283 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 10:50:10
氏康→氏綱“以降”って
ちょっと意味わかんない
>>283 >>281の『氏康は他所の大名みたいに兵はなるべく多くつれて来いみたいな命令だしてたっけ?』
の訂正。281では氏康に限定したがそれでは話題が狭くなるので氏綱の代以降という意味。
285 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 03:24:52
氏綱の代に、北条は大発展しているのに、
凄まじく地味だよね。
286 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:52:52
287 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 17:00:28
花の慶次ではだだの大酒のみ扱いの
北条氏政が好きだー
288 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 19:15:36
花の慶次って何だ?パチンコ?
289 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 20:21:36
まあ小田原合戦で最も激しかった関東の戦国時代は終わりましたね
関東で行われた最後の大規模な合戦だね
290 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 03:59:37
北条名乗るのは、氏綱から?
291 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 04:34:58
PHP文庫(プ)の書き下ろしの、伊東潤の「北条氏照」って、
昔の「戦国関東血風録」の焼き直しなのかよ・・・
少し売れてきたからって、いい気になってるんじゃないの?伊東。
293 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:02:47
北条氏は当時一般に五公五民や六公四民であった年貢率を
四公六民というとても民衆を優遇した政策で領地運営した領主。
その税率は後年河内一万石に転封されても変わらなかったという。
294 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 01:43:15
>>293 直轄領だけだけどな。
そう言えば、伊吹吾郎(氏政)は、お馬鹿な役をちゃんと演じていたな。
295 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:26:43
上杉が景勝でなく景虎(二代目)の方だったら
歴史は変わっていたのかも
上杉北条連合
1182年(寿永元年)1月頼朝、走湯山五堂の灯油料と、船50艘を寄進する。(伊豆山神社文書)
走湯山とは、熱海の伊豆山神社のことだから、あの辺りに大きな湊があったはずなのだが
見当たらない。ところが、熱海の海底に湊の跡らしい遺跡が発見されたのです。
この北条氏の海軍基地というべき湊がいつごろ陥没したのか?もともと北条氏がそれを秘匿
していた上に、秀吉の小田原攻めによる資料の散逸によって、年代が特定できなくなっている。
しかし、それが北条氏の経済力は衰え、鎌倉幕府若しくは鎌倉公方が滅んだ原因になっている
と思われます。
どなたか詳しい人います?
昨日、小田原城に行ったんだが天守閣の周りだけ復元した公園で昔の雰囲気が
あんまり感じられなくてがっかりだったよ。
あれなら今川氏真でも落とせそう。
昔はあれに塀や堀が何重もあったんだろうね。
298 :
日本@名無史さん:2009/07/21(火) 15:18:41
っていうかそれ、江戸時代の大久保小田原城ですから。
北条の小田原城の遺構も、あるにはあるけど別のところに散在。
>>297 日本国中をみても、昔の雰囲気なんて感じられない復元天守や
公園化された城はやたらと多いわけなんだが。
雰囲気のある場所が見たかったら、山中城址とか八王子城址とか
滝山城とか・・・
それに小田原城は江戸時代の大名家の城でもあったことを理解してない?
300 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 02:59:15
今の小田原天守閣は観光コンクリだけどさ。
北条時代には天守あったの?
>>292 PHPだろうが徳間だろうが、後北条関連の小説なら
一応は入手しておこうと思って、近所の本屋に注文したんだけど
>「戦国関東血風録」の焼き直し
なのか、失敗した。
アレ、自分的にはほんとにつまらなかったんだよな・・・。
小田原城の元敷地内を鉄道が貫いてるからな
新幹線口の北条早雲公銅像の後ろの小山も元は小田原城内
日本各地の城は鉄道がぶった切ってるケースが多いな
甲府城なんかもそう
栃木の東武日光線の藤岡駅、あそこの駅が城の中です。
北条氏に味方したばかりに、八王子城の没落とともに廃城になってしまった。
北条氏とともに滅んだ氏族って結構多いですよね?
>303
沼尻合戦の舞台になった藤岡城?
藤岡から古河の辺りは、利根川と渡良瀬川の合流する湿地帯で、
一雨降れば大きな湖になったので、渡良瀬川を挟んで睨み合った
ところで、重い鎧をまとった騎馬兵ではどうすることもできません。
両軍、戦わずして破れたり。
306 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 18:19:34
日光一文字って北条家の前はどこが持ってたの?
307 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 02:55:58
両軍″敗れた″、はないだろ。
戦いにならなかった、ならともかく。
308 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 05:37:49
>>307いいえ、両軍が敗れたのです。
小田原攻めのあと、藤岡城は廃城になったけれど、
その土地が召し上げられて領民が移住させられたといった話は聞きません。
それが定住地を持たない、いわゆる舟人の強みというものです。
北条の主目的はあくまでも新田、館林。
沼尻では佐竹軍の進軍を防げれば充分だった。
しかも和議で佐竹をだましたので、北条の(汚い)勝利。
311 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 01:53:07
じゃあ北条の勝ち
勝てばよし。
つーことはオレオレ詐欺も
おまいらより儲けてるんだから、
おまいらはこの詐欺師に負けてる。
>>312 「犯罪も辞さず、とにかく金持ってる奴が勝ち」という一面的な価値観のみで判断する
ならば、「オレオレ詐欺の犯人は勝ち」と見るのも、その見方の中では間違ってない。
パチンコ屋の御曹司で、伊東美咲を嫁にもらったやつは勝ち組。
世の中そういうものだろう?
そういうものだと思ってるお前が負け組。
>>312,314
何を持って勝ちとするか負けとするかは個人の価値観によって決まることだから、
一概にはどうとかいえないな。
例えのセンスがないのに例えたがるのはちょっとどうかと思うよ、全然例えになってない。
なんのスレだか忘れられててワロタといいたいところだが酷すぎて笑えない
詐欺の例えもアホすぎる。まるで戦国時代扱ってるとは思えんなぁ。
まぁ後北条が微妙だしね。。
319 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:22:16
絶対に池田大作にほめられることの無い一族。
320 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:54:31
その池田氏だが、その祖先が東国の六腹と呼ばれた池田朝臣ではないことを証明する手立てはない、
322 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:18:56
売国民主党は日本の癌
売国奴の巣窟
大道寺政繁つえーwww
革新
統率53 武勇51 知略67政治 86
足軽D 騎馬 D 弓 D 鉄砲 D 計略 D 兵器 D水軍 C 築城 A 内政 A
↓
天道
統率73 武勇82 知略61 政治86
足軽A 騎馬D 弓B 鉄砲D 戦法 槍衾3
氏政「必殺『獅子天雷閃迅槍・絶牙』」
いや、どこの熊犬だよ
北条家家臣団は生まれた時代を数百年誤った。
今の小田原市の凋落っぷりは見てらんない…
このスレ住人で、大河のキャストや構成を考えてやって、
小田原城に観光客が来るようにしてくれまいか。
脚本は小松で。
>>324 小田原はそんなに凋落しているんですか?
>>326 北条氏の頃は、まだ今の関東と言えば、田舎でした。
それでも、他の国でも採用するような立派な政治システムを確立したり、
街の整備を徹底して、職人を集めた美しく賑やかな街だったそうです。
今でも街はきれいな方だと思います。が、賑やかさが極端に足りない。
人の流れが近隣都市の茅ヶ崎や藤沢に出る方向に向いてしまって…。
職人は集めていないよ。三島の職人に依存していた
>>327 残念だなあ
海も川面平野も山もあって箱根も近い小田原はやはりいい
都内の延々と続く平地には飽き飽きした
仕事さえあれば戻りたいなあ
330 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 13:26:18
>>324 まず地元が、
「北条時代の小田原城を復元する」ところから始めてください。
話はそれからだ。
331 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 18:39:34
飯の食い方まで家臣たちの前でケチつけられたら
いじけて凹むよな
きっと説教と嫌味言われまくりの日常だったんだろう
氏政殿に同情する。
>>331 夜8時に跳ねて朝4時に起きないやつは駄目
なんて言われてもなあ
334 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 18:59:32
いまの時代なら
育て方に問題があるといわれるよ
飯くらい好きに食わしてやれよ。
ぶっかけご飯の汁をおかわりしたくらい構わないじゃないか
実ってる麦を氏政殿がその場で食べたいと所望した話を信玄が聞いて笑ったらしい。
信玄がいうには
麦は何個か工程を経てやっと食べられるらしい。
氏政殿はボンボンだから知らないんだろうと。それが信玄はおかしかったらしい。
飯の食い方に嫌味言う前にそういうことをきちんと教えろよな。
335 :
練習:2009/10/01(木) 19:51:10
惣構まで再現されたら周辺住民大迷惑w
正確な模型とかがあればいい
339 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 02:13:58
そんなもんがあったら苦労しねぇ。
城が焼き討ちされたことを良いことにちゃっかり住みついた新住民は去れ。
小田原城は是非再興してほしいものです。
あまり歴史に詳しくないが織田が武田を滅ぼした時
北条はどんなスタンスでいたのだろうか?
一緒に武田領に侵攻した。
基本的には上杉家の御館の乱のときに景虎方から景勝方に寝返ったのでそのときに
武田と北条の同盟が決裂。
北条氏は織田と結ぶ。
ただ、武田征伐で北条氏は領地を得るどころか
上野への影響力を失うとか不利益が大きかった。
織田も北条もそっこーで滅んでよかったよかった
>>331 >>334 まあまあw
けど見ている人はきちんと見ているみたいですよ。
統率 75→82
武勇 51→63
知略 69→78
政治 83→89
氏政さんパワーアップ!
光栄さんパネェっすw
345 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 22:08:05
玉縄城(鎌倉)の城跡に住んでる俺が来ましたよ。
2012年は500周年なので、いろいろやるっぽいよ。
車に折りたたみ自転車積んで行って知らない町を自転車で走り回るのが好きなのだが
鎌倉だけはマジ怖い地元の人間は道路事情が分かっているから危険な運転はしてこないけど
他府県ナンバーの車が狭い道で突っ込んでくるからな…
347 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:06:25
ほんとに鎌倉は道が狭いですね。
これは敵が集団で攻め入れないようにするためではないでしょうか?
切り通しも山を越えて谷間をくぐるという感じですよね。
348 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:15:59
349 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 10:03:21
>>344 おー氏政殿の評価が上がってる。
初期は低かったからなー
ようやく陽の目を見るようになったか
>>349 今回は氏政殿だけではなく
北条家全体が上がってるみたい。
北条氏康 統率96 武勇79 智略94 政治107 足軽S 槍衾極 統率アップ&数人しか持ってない優秀な戦法
北条綱成 統率92 武勇96 智略79 騎馬S 八幡の備え 専用戦法追加で陪臣最強クラス
北条氏政 統率82 武勇63 智略78 政治89 弱くないどころかもはや一流武将の仲間入り。
北条氏照 統率86 武勇74 智略70 北条家の領土を最大まで広げた功労者がやっと評価された
北条氏邦 統率85 武勇77 こちらも評価アップ。
大道寺政繁 統率73 武勇82 政治86 完全に政治キャラだった前回から一気に急上昇。政治も据え置き
北条氏綱 統率92 智略84 政治110 統率アップに加え、政治評価でついに全国トップ
北条早雲 統率97 智略98 政治105 落ち着いたがまだ優秀、礎を築いたのは氏綱であると言う事が反映された模様。
351 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:11:53
おーよかった。
やっと評価されるようになった。
北条一族は人数多いわりにみんな能力低めだったんだよね
ご丁寧に
ありがとうございます。 (・ω・)
北条は人の評価上がったけど、国力は全シナリオ武田以下という謎仕様。
能力は人それぞれだけど、領土は厨房でも調べられるのに。
353 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:38:27
北条早雲を大河ドラマに
シナリオ1だと大抵の場合、今川に滅ぼされている気がする。
むしろ、海戦が無くなった分、北条の直接脅威に晒されない里見の方が楽だったりして。
355 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 00:10:16
>>348 たしかに城の最中心部は女子高になってるけどね。
住宅地や山林になっている部分もある。
遺構っぽい地形も多少残ってるんだけど、よその人がウロウロするのが嫌だから、
みんなあんまり言いたがらないんだよね。
>>352 今回の能力値アップでさらに国力も増えたらお隣の太田さんが蒸発してしまいまする。
南原幹夫という作家の「謀将 北条早雲」を呼んだんだが、
なんであの作家は早雲を若く清らかな青年武将にしようと思ったんだ?
当時としては古老ともいえる年齢から一国一城の主まで上り詰めたというのが
早雲という英雄の最大の魅力だと思うんだが、その設定をあえて変える意味がわからん。
子供の大切にしているカブトムシの角を折るような暴挙だと思うんだが・・。
早雲は今じゃそれほど年寄りじゃない説が有力。
> 当時としては古老ともいえる年齢から一国一城の主まで上り詰めたというのが
> 早雲という英雄の最大の魅力だと思うんだが、
などとは思わんな。それなら毛利のじじいに劣る。
早雲の魅力はもっと別のところにあるだろ。
下克上系の大名は調べれば調べるほど夢のない真実が見えてくるな。
道三も父子二代説がほぼ確定的になったし。
とはいえ、大衆の間では、早雲の生年に関しては、五十半ばから本格的活動に入った説のほうがまだまだ一般的だろ。
最大の魅力かは人によるだろうが、そっちの方がロマンがあるのは確かだしな。
一介の素浪人などではなく、そこそこいいとこの出だったことは確定したとしても、そこだけは譲れないってのはあるな。
360 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:01:56
>>358 元就は大器晩成ってイメージでもないけどな。
20代ごろの活動の記録もそこそこ残ってるし。
>そこだけは譲れないってのはあるな。
年寄りはだまってろw
362 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:42:45
>>361 別に俺は年寄りじゃないんだが、
早雲のイメージとして、老人になってからサクセスストーリーをスタートさせたということが
異説はあろうとも、今なお大きな特色であり魅力として語られてるのは事実だし、
そちらの方が遥かに高い支持を得る要素があるのは、おまえがいくら一人ぼっちで頑張ろうが覆せない事実だと思うぞ。
まあ、数値や業績でしか武将を見れないんだったら、おとなしくノブヤボやっとけ。
363 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:52:14
>>361 自分の意見が受け入れられなかったからって相手を年寄り扱いする前に、
お前が早雲の一番の魅力だと思う点を存分に語れよ。
なんかねぇ。
折角早雲ファンになったんなら少しは人格面も学ぼうや
366 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 16:36:52
>>357 歴史作家ってのは、普通の作家以上に、自分の知識をやたらにひけらかしたがる傾向のあるのが多いからな。
それがあっと驚くような真実であればいいんだけど、大概の場合、どうでもいいような知識や、
まるで根拠の無い異説や奇説の類をぐだぐだと述べるだけで、肝心の人間が書けてないってことが多い。
割と他のジャンルに比べて、書き手の年齢層が高いこともあいまって、一言で言えばオナニー作家が多い。
せっかく若年層の間で歴史の関心が高まってるというのに、その点は嘆かわしいな。
>>357 それ俺も読んだけど、
若いってのはそういう説もあるから、一人ぐらいその設定で書く奴がいてもいいと思うし、
テンポを殺ぐように随所で挟まれる官能描写は、個人的には全く受け付けないが、
この作者の作品ではお約束みたいなものらしいし、それもいいだろう。
一番問題なのは、爽やかで清らかな性格である点、これに尽きると思う。
作者の美学か知らんが、これほど早雲の実情、逸話などから逸れた設定は無いだろう。
豪放磊落の上にも周囲の気配りも忘れない、野心と精気に満ち溢れた乱世の梟雄の姿は影も形もない。
最後まで根性で読んだことを、時間の無駄だと恥じたほどだったよ。
357って時代劇板にもまるで同じこと書いてるぞw
だけど、「南原幹夫は今やたいした作家でもないので
気にすることもない」ってサラッとかかれて終了だったけどね。
他者との違いや独創性も問われるのが小説家なんだから、
ただの「いち作家」が書いた設定に、いちいち突っかかるのも変。
>>368 >>367に書いたように、一つだけじゃなく色々酷い作品だったから、どこかで叫びたかったって気持ちはわからいでもない。
早雲主人公の作品に、他に口直しになるほどの秀作も無いしな・・。
でも「謀将シリーズ」は、みんな突っ込みどころ満載な作品だからね。
時代小説読みの間では、あんまり話題にもならない。
話題になっても「相変わらすだなw」ってくらいだもの。
>早雲主人公の作品の、他に口直しになるほどの秀作も無いしな・・・。
それは何十年も前からそうなんだから、もう致し方ない事かと。
別に爽やかな若者として書こうが小説なんだからいいじゃん。
つまんないのが問題じゃねーの?叩く場所が違う。
宮城谷も太公望を若者として書いたけど、それ自体は別にどうでもよかった。
問題は主人公が無個性でつまらないだけと言う話で。
早雲が若いからって「それは認めん!!!!」というけど、
南原はそれ以前だろ。もっと他で評価しろってw
>>357だが
軽い気持ちで書き込んだんだが、こんなに波紋を呼ぶとは予想だにせんかったw
考えたら、南原が早雲を若者にしたのは、あのくだらない官能描写のためだろうな。
早雲が老齢で、北川殿が歳の離れた妹という昔ながらの設定だとかなり危険な話になるからな。
まあ指摘されてるとおり「他は完璧だが早雲が若いからはだめだった」ではなく
「何から何までダメだった」から、たしかに俺の言ってることはおかしいっちゃおかしかったかもしれん。
>>361 老人からの成功にロマンを感じる=年寄り
てどんだけ単純な思考回路なんだよ・・。
いつまでも旧説に固執する、
それは精神的に老化していますよ
早雲も旧時代の遺物と嘲るでしょうね
新説が確定したわけでもないのに「否定された旧説」扱い。
固執してるのはどっちだよ・・。
確定されてるよ。
黒田基樹、小和田哲男など一級の北条研究者が確証をもって説明し、
これを否定する論者はなく、多くの史家もこの説を継承している。
これで確定していないと言うなら、何をもって確定というの?
君のような頑迷な人が根絶されなきゃダメってことかい?
黒田先生はともかく小和田先生がでると途端に胡散臭くなるけどなw
それはともかく、まあ、完全に否定されたわけじゃないが老人説には根拠はあんまりないってところ。
ロマン追い求めたいならそれでいいじゃない。
あ、もちろん小和田先生の北条や今川研究は素晴らしいと分かってる。特に城郭関係。
あの人が無茶するのは織豊がらみだ。その辺損してるなーと思う次第。
以上いらないつけたし。
>>377 〇〇歳じゃ若すぎる
当時平均年齢40歳代だったのに86?はあり得ない
〇〇というのは父親と混同したものと思われる
って言うだけじゃ説得力ない
>>380 Wikipediaじゃなくて関連論文あたってから議論に加わりなよ
>>377 「単純な思考回路」と嘲られて一生懸命頑張って調べたんだ。
信じたいことだけ真実だと思ってるなんて
幸せでうらやましいな。
早雲は道観と同年齢だと言い張りたいなら、
日本史板ではなく文学の板に行くべきだろう。
北条ファンってキモいんですね
>>377 早雲の生年が従来より若かった、て話は確かにそちらの方が優勢だけど
道三父子二代のように誰もにそう認められているわけではなく、学者や作家にもいまだ
旧来の説を採る人物も多く、とくに大衆では旧説がいまだに一般的。
これが事実であって、君の態度こそむしろ頑迷と言えるんじゃないか。
そもそも何か勘違いしているようだが、このスレには「旧説の方がロマンがありいい」としてる人はいるけど
「新説を全て否定」してる人間は一人もいないと思うんだが。
むしろ新説のほうがリアリティがあることは、誰もが一致する見解だと思うぞ。
早雲を、年配でないと価値がない、
そのような表現をして、汚した。
それが、許せなかったんじゃないか?
と北方先生みたいに言ってみる。
388 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 16:18:27
>>387 「年配だからこそ価値がある」と考える人は意外にいるんだよ。
「いや道三の業績は一代のもの」「信玄があと10年生きていれば・・」「朝鮮出兵は誇大妄想の極み」
だって大衆レベルでは、まだ死んだわけではない。
その中にあって、「早雲はそれほど年寄りでなかった」は上記三説に比べればまだパワーが弱い。
旧説を頭から否定する段階にない、ということでしょ。
頭から否定したいなら、「だれそれがこう言ってました」じゃなく、その説を自分の言葉にして、
対抗論者に示さないと、そりゃ相手は納得しないよ。
まー、北条に価値がないからね。
なんか意味あったのか、あの一族は。
391 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 17:00:32
小田原北条氏が特別なのは現存する史料の豊富さだろう
他大名に比べて現存史料が多いというのは、発行した文書そのものが多いと考えて良いのだろうかね。
北条氏照関連の古文書についての著書がある下山治久氏の書いたものに
若い頃、多摩地区の古い家や寺や、奥多摩や秋川流域の山村を
古文書を求めて歩き回った・・・って述懐があったっけな。
下山氏や加藤哲氏(氏照←藤菊丸」という説を発表した)など
地味だけど熱心な研究者がもっと評価されればいいのに。
394 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 10:49:05
勝った!勝った!
395 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:26:22
駿河の深澤城が開城した時の城将は
綱成と氏繁のどちらなんでしょう?
甲陽軍艦だと綱成ではなく氏繁だと
書いてありますが。
396 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 04:36:36
>>388 朝鮮出兵は、まあ誇大妄想だっただろう。
>>388 信玄が10年生きていれば…は
いまだに学会でも歴史が変わっていただろうと
いわれてる
>>393 綱成。
信玄が深沢城主に降伏をすすめた深沢矢文の宛先は綱成。
むしろ10年生きてても変わらないとか言ってるのは
2chの一部くらい
>>398 やっぱりそうですよね。
なんで軍鑑が、世間の誤解を正すかのような書き方で
「綱成ではなく氏繁だ」って書いているのかが気になってしまって。
401 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 03:34:07
綱成は名将なので、明け渡しとかしない。
という先入観
402 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 03:34:50
なんで北条家臣に朝倉いるん?
403 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 14:09:13
あと、ある史料の北条の一門衆の中に、
「伊勢備中守」とか「伊勢兵庫頭」とか「大和兵部少輔」とか(うろおぼえだが)、
そんな室町幕臣系の名前があったのはなんで?
404 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 15:02:20
そら伊勢盛時は元々幕府文官トップの家柄だし、かっての同僚の子孫が亡命してきてもおかしくない。因みに伊勢備中守は早雲の叔父貞藤の子孫で後に本家ついでる
405 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 02:07:06
足利官僚がいっぱい来ている割に、
肝心の足利家をあんまり尊重してないね。
官僚は幕府を見限って関東まで来てるわけだし
北条は義氏以降は古河公方を利用していたので
中央に対して、尊重する意識は低いだろうね。
407 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 16:39:56
足利がもうだめだと思ったからこそ官僚は亡命したんだろ。
北条は今川監視だけど
408 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 16:00:35
岡山三大偉人
星野仙一 北条早雲 宮本武蔵
仙一を偉人だなんて図々しいにもほどがある。
替わりに桃太郎でいいじゃん。
宇喜多直家が選出されないことに(´・ω・`)ショボーン
伊勢盛時が駿河に下向して今川家の一武将として働く中で
属領として政治的に伊勢家が独立できたのはどうして?
その辺りがイマイチよくわからん
幕府の派遣人としての立場もあるから今川家での働きはあくまで手伝いみたいなものだったんだろうか?
>>411 盛時の幕府での地位から考えたら
幕府の命で調停の為に出向くとは
考えづらいが、勝手に出向くのは
もっと考えづらい。よって幕府の命令。
…今川家の盛時の扱いを考えてもね。
>>412の続き
今川家としては幕府の直臣でもあり、
親族の客将でもあるって扱いじゃない?
俺が分からないのは、堀越公方の討伐から
伊豆獲得は本人の意思かどうか?
俺は幕命で、その恩賞が伊豆一国かと…
横浜在だから
あるはあるは あちこちに城跡が・・北条の。
>>413 宗瑞の伊豆討ち入りは中央の政変と連動したものという説があるみたいだね
なんでも堀越公方の茶々丸が義植支持派だったので
義澄支持派の伊勢氏が幕命を受けて宗瑞が侵攻したとか
研究者ではないのでどの程度信憑性があることなのか詳しくはわからないけど
それにしても伊豆一国とはとんでもない恩賞だよなぁ。
自前の兵とは言いがたいのに。
1国といっても切り取り次第だろうしね
中央と連動した結果だとしたら、義澄側も味方を増やしたかっただろうから
政策としては正解じゃないかな
あの時期頃から将軍家と関東公方家が仲間増やす為に領地や役職を濫発してるからな
管領なんかは何家も任じられて後々訳が分からない事になる
>>415 それ以前の問題として、茶々丸と義澄は異母兄弟で茶々丸は継母を殺した。
それがどういう意味か分かるな?
>>419 つまりそれゆえ茶々丸は義澄に対抗するために義植派と組んだ、と
その説が主張される裏付けとしてそのような事実があるということか?
相手の意図をくみ取るのは苦手なんだすまない
茶々丸は義澄が将軍になった時点で反逆者確定なんだから、これを討つというメシウマな話を逃す方が阿呆。
しかも、もう片方の隣国の上杉は内紛状態だし。
>>421 東国の既存秩序(鎌倉〜古河公方系)のことを考えると、そう簡単ではない
と思われる。
423 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 19:15:17
堀越公方は義澄を将軍にする運動をする為に上洛した際に大量の金を持ってきて幕府要職の人々や朝廷へバラまいたと言われている。
これは従来知られていたより前から伊豆が大量の金を産出していた事を意味する。
結局、堀越公方は死去してしまうわけだが、
早雲が伊豆を狙ったのも堀越公方の財力を知っており、その豊富な金を生み出す東国一の伊豆を奪い軍事費に充て自立するためだったと言われている。
>423
ハツミミデゴザル
425 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 00:51:38
今川後継争いの調停にきた人間と伊豆乗っ取りをした人間は別人。
426 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 07:30:05
北条は信長が死んだ時は最強軍団だった。なんかすればよかったのだが・・
427 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 08:38:17
やるとすれば甲斐だな
北条が直接西に影響力を及ぼすためにはどうしても必要
家康もまた東に影響力を及ぼすためには甲斐が必要
家康に盗られたのが痛い
428 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 11:03:37
429 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 18:10:16
縁故を利用して、甲斐駿河、遠江を「ちゃんと」確保していれば・・・
茶々丸ってのが本当に情けない名だ
おまえ何歳まで茶々丸で居るんだよ
>>430 追われていたから元服出来なかったという話もある。
433 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 01:47:18
>>430 元服していたが実名は残らなかった、という話もある。
434 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 21:23:42
一個の人間として扱われていなかったとも考えられる。
もしかしたら、被差別民の子を玩具としてそばに置いたのではないのか?
幽閉されてたからなあ
436 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 22:44:31
438 :
日本@名無史さん:2010/02/07(日) 20:50:29
439 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:40:53
>>426 最強なのか?
四万の兵力がありながら、5千(一説には7千)の上杉に川中島四郡を取られるし、
8千の家康勢にも勝てず....とほほ
あのときは四面楚歌だったとはいえ
家康との直接対決を有利に運べなかったのは大きいね
まあでもあの状況で上野だけでも確保できたのは関八州を統一するという観点からしたら許容範囲じゃないかな
兵力は多いとはいえ外交的には完全によろしくない状況
子孫が池田大作の偉大なるイエスマンだったわな
甲斐と信濃を取っても、周囲を敵に囲まれた状態で
家康相手に維持するのは難しかったろうね。
北からは上杉も出張ってくるし。
上野と西側の同盟国を得て十分でしょ。
444 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 15:50:10
早雲は今の日本に必要な人。
領民中心に政治をしたのが素晴しい。
それに比べて今の政治家ときたら。
層雲はなぜ小田原に一度も入らなかった?
446 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 07:40:12
は?と言っておこう
447 :
日本@名無史さん:2010/04/03(土) 13:29:40
>>430 北条氏が記録を抹殺したという説があります。
足利家の当主を討つ、というのは外聞がよくないので、
まだ当主になってない(足利家内の家督争い中)という形に
したかったんじゃね?
448 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 15:47:33
説って根拠があればいいけど、推論=説って言われてもな
449 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:56:06
>>447 もし中央の記録まで抹殺したってんなら
どう考えたって幕府公認だろ
450 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 21:08:08
>>447 勝手な推論だけど、元服したくても出来なかったんじゃないかな?
関東公方(当然、その継承を名乗る堀越公方も含む)の後継者の元服は原則として京の将軍家に許しを得て一字を受ける慣例になっていた。
永享の乱の一因として、足利持氏が還俗将軍の許可を得ずに自分の嫡男を元服させたことが挙げられている。
母や弟を殺して後継者に名乗りを挙げた茶々丸が京都の幕府から後継者と認められて一字拝領を受ける可能性は低いだろうし、
そもそも父・政知が茶々丸を座敷牢に入れたと言う話が本当ならば政知は茶々丸を元服させずに鎌倉にでも送って出家させる積りだったのでは(古河家の空然(後の小弓公方義明)みたいに)?
451 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 17:47:53
『早雲の軍配者』を読みました。
風魔の小太郎が足利学校卒の北条氏康の軍師だったとは知りませんでした。
452 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 18:38:16
後北条氏の一門に伊勢なんちゃらとかいう京都下りの幕臣が複数いたのが、
納得できない。
元は京都で幕府に仕えていたんであろうから、仕方ないじゃん。
何が不満なのやら。
むしろ、早雲がどっかの根なし草の素浪人であって欲しいと言う願望では?
エリート幕臣の一族じゃ、どっかの守護とか守護代出身の大名家と大差ないし。
455 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 06:35:21
違うんじゃないの?
守護や国人は地付きだけど幕臣の一族でも下って
自分で国切り取ったわけだし
それが差だと思うけどなぁ
456 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 16:24:36
だから、早雲以後の伊勢氏=後北条氏はあくまで「後北条氏」であって、
幕臣伊勢氏ではない。
なのに、北条姓の早雲の血族以外に、京から流れてきた伊勢なんちゃらやら、
その他の室町幕臣が一門衆として遇されているのは納得できない。
>>456 んー
家康以前の松平系の分家を一門として扱うとか、割と普通……
というか、現代より地縁・血縁が人的なつながりの多くを占めてる中世においては
そういうつながりは大事よん
458 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 10:46:19
汁かけごはんの食べ方を間違えて親父に嘆かれたバカ息子www>氏政
「納得できない」とか現代人に言われても・・・
460 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 18:05:58
養父の一族を優遇するのは普通でしょ
>>457 室町の大きな争乱北近江の菅浦争論の際に領主日野裏松家の被官松平益親も一門になるんですかね?
実際に三河から兵を出したという史実(菅浦文書)が残っているようですので近江松平氏の益親は
三河松平氏の一族なのかも。
話脱線しましたが、安祥の松平長親は、実際に宗瑞入道と相合見えることはあったのですか?今川と
戦ったのはわかりますが。
北条って国民国家的な要素があったよね
だから強かったのかな
463 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 08:49:49
北条氏綱公→氏康公→氏政公
のラインで大河ドラマを作るんだけど、まるで戦の描写がなく、
徹底的に内政シーンしかやらない大河ドラマと言うのはどうだろうか。
うっわ、相模の国、超豊か。みたいな。
464 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:10:04
豊かでもないんじゃない?
災害、凶作、戦乱で逃散もあるし。
でも何だかんだで領民への人心掌握は巧みだった感じ。
>>464 戦乱の耐えなかった関東の他国に比較すれば、相対的には豊かだったよ
466 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:40:25
茶々丸の場合、自分で元服しても認める(=記録残す)人がいなかったからな。
味方は狩野氏と犬懸上杉氏くらい?
467 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 17:42:25
>>439 四万なんて軍記類にしか書いてねぇよこのボケ
家康は若御子対陣時の北条軍を2万と記し小田原合戦時の陣立書にも総軍3万4千程と書かれてる
家康は元々武田旧臣を抱きかかえてるし北条軍は滝川追い出すため上野方面に出兵が先決だから
甲斐制圧の手が家康の方が速く伸びるのは当然だ
歴史ろくに知らんのに北条貶めてんじゃねぇよこのチンカス野朗
468 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 17:43:57
ほっとけよ
小説くらいでしか天正壬午の事知らんのだろ
家康も総軍1万だろ
山岳線なら2倍の兵力比なら先に制圧し現地の香具師かかえてたら徳川優勢なのは
当たり前だ。
諏訪高島の陣なんてむしろ酒井の方が敗走してるくらいだしな