後醍醐天皇の皇子たちを語るスレ

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1日本@名無史さん
後醍醐天皇には数多くの皇子がいました。
そして、その皇子たちは、それぞれが非常に興味深い生涯を
送っています。

このスレでは護良、尊良、宗良、世良、恒良、成良、懐良親王などに
ついてまったりと語りませう。
2日本@名無史さん:2008/10/31(金) 04:53:00
>>1、乙。・・・・だが・・・・

憲良(義良)親王が、抜けておるではないかッ!たわけめッ!(怒)


憲良親王(のちの後村上天皇)ほど、ご生誕からご崩御まで、
血の滲むような幾多の御苦労をなされた天皇は、他にはおられぬと存ずる。(泣)

ご幼少にして二度の奥州御下向。戦塵の中でお育ち遊ばされ、
ご即位後は父・後醍醐天皇の遺訓を守り続けられ、ただただ、「打倒!尊氏ッ」ひと筋のご執念で
悪戦苦闘なされた悲運の後村上天皇・・・・・・・・、嗚呼〜〜ッ!(号泣)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87

>  四つの海 波もをさまる しるしとて
>            三つの宝を 身にぞつたふる    (新葉和歌集1425)

> 【通釈】 四海の波も治まり、天下はやがて太平となるだろう。
>その確かな前兆として、皇位継承のしるしである三種の神器を我が身に伝えるのである。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gomurakami.html#SM
3日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:24:30
で、男系子孫は?
4日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:41:21
>>2
大阪人には今でも楠正成・正行の親子を敬愛する人は多い。

しかし後村上については敬愛どころか、全く知識がない。

後村上の事跡を見れば
 「歴代のなかで最も大阪に所縁のあった天皇」
なのに、ほとんど知られていない。

住吉大社近くの後村上最期となる行宮跡なんか、国指定史跡だし
もっと大阪府民が訪ね偲んでもよさそうと思うが、閑散としている。
5日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:42:08
大阪は特亜だから気にする必要はない。
6日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:00:13
尊良親王
「太平記」に切腹するシーンがあるけど本当にこの人は切腹したの?
父親の後醍醐天皇はどこまでも逃げ回っているのに
息子たちの潔いことと言ったら・・・
7日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:33:06
満良親王=無文元選
知良王  =龍泉令淬

これは本当か?
8日本@名無史さん:2008/11/03(月) 03:21:40
>>6
皇子殺しの汚名を避けるために
自決したことにしたんじゃないのかな?
9日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:57:35
>>8
でもこのとき親王と一緒だった新田義顕は自決している。
「太平記」はこのとき金ヶ崎城を落とされた恒良親王が
足利方に毒殺されたことを書いている。
護良親王が足利直義の命令で斬殺されたことも書いているよね?
本当は金ヶ崎城を攻めた足利方の斬殺だったのならば
別に隠すことなんかないんだけど。
10日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:07:09
>>1
>懐良親王

九州を任され、一時はいい線まで行ったのにな。惜しい。

ところで懐良親王の墓は、宮内庁指定のは熊本の八代市だが、福岡の星野村にもある。

どっちが本物だ?
11日本@名無史さん:2008/11/06(木) 01:27:52
>>10
懐良というと、五条頼元の存在は大きかったよね。
後村上天皇の手紙にも「いまや先帝の志を果たそうとするものは
頼元ひとりしかいない」と出てくる(四条隆資などは既に死亡)
12日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:23:34
懐良親王と言えば北方氏の「覇王の門」がよかった
13懐良親王墓:2008/11/15(土) 00:52:18
【宮内庁指定】
熊本県八代市妙見町宮地字中宮谷2472番地 悟真寺内 御廟所(円墳)

【候補】
福岡県久留米市山本豊田2287番地 千光寺内 懐良親王御陵墓(自然石数個)
福岡県八女郡星野村空谷山 大明神山墓 征西大将軍一品式部卿麗宮悟慎大禅定門(五輪塔)
大分県日田市琴平町 普門寺内 王様ノ御墓(石塔2基)
熊本県八代市妙見町悉地院405番地 八代神社下 七神森(詳細不明)
熊本県上益城郡御船町滝尾水越 将軍社(小社+五輪塔群)
14日本@名無史さん:2008/11/15(土) 13:36:39
懐良親王もだが、普通の御世なら皆平凡で優雅で幸せな一生だったんだろうが、
大変な騒乱に巻き込まれて、悲惨なことになった方もおられる。

また皇子だけでなく、内親王、皇女も忘れないようにしたい。
例えば、斎宮候補になって野宮まで行きながらなんかの事情で取り消された、
   
     「子内親王」

新葉和歌集 巻第九
  野宮より退下の後、雪をみて
忘れめや 神のいがきの榊葉に 木綿かけ添へし 雪の明けぼの

他にもおおくの皇女がいたようだが名前も判っていないのもおられる。いったい
どんな一生だったのか。
15日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:08:30
東慶寺に陵墓がある皇女もいたね
16日本@名無史さん:2009/01/31(土) 05:11:27
用堂尼な
17日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:11:19
sage
18日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:53:56
sage
19日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:54:28
sage
20日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:55:56
sage
21日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:15:15
伊勢慶光院が南朝皇女祥子が初代 今は二条家 だよー
22日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:29:15
慶光院は廃仏毀釈で取り潰された筈だが
23日本@名無史さん:2009/04/10(金) 22:49:25
祥子内親王は一度も伊勢へ行っていないはず。
伊勢慶光院と関係あるなんて初耳だ。
24日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:35:45
>22
>23
維新できつかったのは 男子戸主制で二条男子迎える
宮橋名乗るも 慶光院の直す 内親王は 宮川の上に住み
船で最後の伊勢斎宮ちして 嵐山野々宮どまりで
僧籍の初代として 慶光院の院の綸旨もらうのは
後奈良帝で 歴代慶光院のスポンサーが
伊勢神宮の 歴代南朝大塔系の社家
25日本@名無史さん:2009/04/12(日) 09:28:26
>>24
伊勢慶光院は臨済宗の尼寺だったが、廃仏毀釈で明治時代に廃寺。
建物のみ伊勢神宮の管轄になり現存する。
慶光院がいつ成立したかは定かではない。
戦国時代には存在していたことが確実で、代々の門主が復興のために全国行脚した。
徳川家光の側室となるお万がここの門主であったことは有名。
ただし、存在が確実なのは戦国時代の1500年代からのことで、
南北朝時代に伊勢慶光院が確実にあったことは史料の上から立証できない。

祥子内親王と伊勢慶光院は当然、全く関係がない。
後醍醐天皇と阿野廉子の皇女として生まれた祥子内親王は、
建武の親政下でしばらく途絶えていた伊勢斎宮を復活させた後醍醐天皇の意を受け、
最後の伊勢斎宮に就任。
ただし、野宮で潔斎を行っている最中に建武の親政は崩壊、
祥子内親王も伊勢斎宮を解かれ、よって祥子内親王は一度も伊勢に下ったことがない。
祥子内親王はその後、都の保安寺で出家、尼になっている。
26日本@名無史さん:2009/04/12(日) 22:18:19
>>25
伊勢市図書館の慶光院旧記に、細かくあるよ
今の二条慶光院さんも 何度かあったが
今の慶光院家は>>24の立場ですよ
良ければ、紹介しますよ。 よく勉強してるね。
27日本@名無史さん:2009/04/12(日) 22:20:57
26の>>25は>>24で
28日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:27:55
親王宣下あるから、大塔若宮興良親王は、京から花山院脱出時、比叡山にて宣下、男山に移る、
そこで四条や中院に奉じられ、河内初陣。援軍の粉河寺の僧兵と共に吉野に、常陸の親房に奉じられ
しかし護良の家臣に守られ、親房のいう事きかず別行動、小山氏に守られ駿河城入り、吉野戻り、一方の
親房は負け戦さで、知多半島に1人落ちる、後村上帝より征夷大将軍に任じられ、兵部卿として父の熊野水軍率いる
父の家臣赤松則佑と赤松宮といい京挙兵、父の仇打ちする 加古川の高氏処刑日は同じ月日。
29日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:48:51
さらに、赤松は仇打ちのため 住吉大社の後村上帝と和し、正平一統する。若宮は京から丹波平定後
追討受け、赤松の白旗城入る、赤松氏範連れ吉野に、1360年4月25日護良の遺臣の十津川衆や氏範つれ
南朝に反乱吉野行宮焼き払い、 賀名生を皆殺しに、吉野後村上帝の老兵の二条が環俗し
追討受け大和落ちし氏範負傷、 野長瀬に守られ白浜まで出る 大塔若宮興良ー一男帝釈、二男大釈は僧籍、三男度会神主秦道三郎。
30日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:12:44
南北朝・足利義満関係のスレに日本語のおかしい
変な人が出てきてるね
31日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:46:15
>>30はやくざの南朝右翼のスレで 負かされたストーカーですからー
秦道の秦に、反応する基地がい

32日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:52:10
>>30の人 ブタ作とか創エロ会と書くと逃げるよー
33日本@名無史さん:2009/04/14(火) 23:33:53
>>30
赤松宮が、気になるのかなー伊勢の禰宜が、本で渡来の秦隠すため 新聞に投稿したり大変だが
山本七平が公開求めた、明治天皇の伊勢神宮の秦の神宝ー例の部分隠したいんだろ 知り合いの天皇家
出入りしてるツレの口止めしてきたしー 東宮にアポなし出入りの人物のも 渡来秦は伝えたわー
明治天皇南朝説では この秦道末だからー伊勢とダビデの星のタブーのー
34日本@名無史さん:2009/04/14(火) 23:41:20
33
パソコン音痴で 文がうまく書けないんです
指1本打ちで あしからず。
35日本@名無史さん:2009/04/15(水) 00:15:06
森茂暁「皇子たちの南北朝」を読み返していたところだけど、歌人宗良親王はもとより、
尊良親王にしても平穏な時代なら歌人親王として暮らしたんだろうね。
大塔宮は平々凡々と生きていけたかどうか、わからないという気がしなくもないけど。
36日本@名無史さん:2009/04/15(水) 00:48:31
>>34
どんなにキーボードでの文章入力が下手くそでも
きちんとした日本語能力があれば
誰でも普通に理解できる文章を打つことができるはずですが?
37日本@名無史さん:2009/04/15(水) 01:50:20
36スルー>>36は読まんでよろしー
>>35三河の井伊大老の先祖の井伊谷に妃えてー 難破して三河に着き縁地に、今はそこに宗良の墓あり、 歌人で知り合いの神職は奉職後
今伊勢神宮にいるよ。宗良さんの母は定家二条末だから名家、晩年は大和の長谷寺らしいよ 
38日本@名無史さん:2009/04/15(水) 02:56:20
秦道って何? 泰道氏のこと?
39日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:38:58
>>38
伊勢の吉田兼好の末や、秋篠宮に出入りの神職から聞いた、明治天皇裏面史に出てくる南朝皇統。
公言した伊勢吉田神道当主の祖父が、明治に口封じで暗殺されたり、最近の公言の伊勢神宮神職が
資格はく奪されたり、タブーの人。
40日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:05:29
>>35
父親が強烈な個性を放った人だったからね。
懐良だって平穏な時代に生まれてたらガキの時分から各地を転戦する
なんてことはなかったろうしね。
41日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:47:50
>>40
懐良は九州征西前に、熊野にいて阿曾宮と地元で確か呼ばれ、居た湾にその宮の名が今も残る
南朝天皇の許可なく、伊勢志摩の海賊衆に土地安堵の令出し混乱させた。北勢の今の菰野町から
落城した南朝方佐倉城主が九鬼浦で九鬼名乗る頃で、九鬼は熊野別当末は江戸時代の辞典に
徳川幕府下の価値観で先祖きめらたようで、鳥羽にもう1家別系九鬼さんいますねー
42日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:32:05
ゴダイゴ天皇
43日本@名無史さん:2009/04/19(日) 14:22:53
福厳寺
隠岐から逃げて来た、後醍醐天皇がこの寺に入り頭痛を患った。そして福厳寺の井戸水では無く、わざわざ余所の違う宗派の寺である、近隣の薬仙寺の水を飲むことに寄り頭痛は完治した。
44日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:12:34
>>43
詳しく説明してよー
45日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:07:36
のろい
46日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:17:30
入ってから偶然に頭痛になったのではない。呪咀・施毒されたから帝は、あえて近隣の薬仙寺から水や食料を取り寄せた。
47日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:26:28
福厳寺は代々鎌倉幕府の保護を受けた鎌倉の建長寺の蘭渓道隆の系統の大覚派に属する寺院。代々の住職も鎌倉派。帝を呪咀、施毒したことも否定できない下地がある。
48日本@名無史さん:2009/04/20(月) 12:44:14
祟り、怨霊封じ。
49日本@名無史さん:2009/04/20(月) 12:55:57
ぶっちゃけ倒幕っすね
建武の新政ウィッシュ!!
50日本@名無史さん:2009/04/24(金) 07:25:06
隠岐から逃げてきた、後醍醐は正成が迎えに来るまで立川流のセックス三昧。坊さんそれ見て喜んでたんだろな!後醍醐は史上最悪の天皇!寺で安心かんから解放感にひたり淫乱セックス!
51日本@名無史さん:2009/04/25(土) 23:56:45
50さん 大塔宮が暗殺されると北畠以外の万里小路 吉田の3房は後醍醐見切り 二条良基らも 所謂大塔宮派の彼らは二代足利将軍と内通の1360年4月25日南朝に反乱し吉野焼き払う大塔宮若宮興良さんについてますよ
52日本@名無史さん:2009/04/26(日) 05:41:16
文章の内容もアレだが改行や句読点など
他人に読んで貰うっつーことを意識してカキコしてくれ
読みづらい
53日本@名無史さん:2009/05/15(金) 10:54:46
後醍醐天皇は、隠岐から兵庫の福厳寺に逃れてきて、阿野廉子と立川流のアブノーマルセックス三昧。
54日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:17:58
帝王後醍醐
55日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:26:31
大塔村に護良親王の足跡をめぐる。

可能でしょうか?
56日本@名無史さん:2009/06/21(日) 07:16:03
戦前は湊川神社の楠公武者行列は隠岐から逃げてきた、後醍醐が兵庫に還幸してきた寺、福厳寺の前を通り敬意を表していた。

それが今は無し。話題にも上らずでした。
57日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:06:20
>>55 私も行きたい。
58日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:33:56
師ね
59日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:49:11
パクリ天皇

醍醐が最初に「俺はヨーグルトが好きだ」ってつけた名前だもん。
醍醐の方が尊敬されてたからって、後醍醐なんてつけるんじゃねーよ。
60日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:36:26
>>59
「醍醐」はもともと仏教用語だよ。
醍醐という言葉が先にあって、醍醐天皇も醍醐寺も「醍醐味」も
それにちなんだ後付けだから。
ヨーグルトって・・・
61日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:35:46
チーズ臭いってこと?
62日本@名無史さん:2009/06/27(土) 07:32:43
そう嫁さん、フェラチオへたくそでまんこチーズ臭いんだ!
63日本@名無史さん:2009/06/27(土) 10:47:44
醍醐が好きでよく食べてたから醍醐って名前にしたってなんかで読んだ。
64日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:07:25
醍醐味の語源はどこからきたのか
65soopllofeiv:2009/06/27(土) 20:13:14
なにがおもろいネン
在日シナ人の王様の歴史の
アホらしw
66soopllofeiv:2009/06/27(土) 20:14:22
宮内庁は2ちゃんでゴマスリが仕事なのかい?
67soopllofeiv:2009/06/27(土) 20:15:14
純粋ナ日本人・・うはは(^^
68日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:44:53
なんだか、
街で一人、ぶつぶつ言ったり、時々怒鳴ったりして、
道行く人々に見てみぬ振りをされてる人を連想してしまった・・・^^;
69soopllofeiv:2009/06/28(日) 00:48:34
貴方はかわいいひとだな68さん
70日本@名無史さん:2009/09/19(土) 18:03:21


>在日韓国人の同胞たちよ、
>民主党が政権を握る今こそチャンスだ。
>
>日本の天皇制を廃止させる方向に持っていこうではないか。
>日本の皇室は世界唯一にして最古・最後の王朝で
>彼らの世界的権威には目を瞠るものがある。
>
>生き続ける伝統として世界遺産級の価値があるだけに留まらず、
>絶大な権威を持つ皇室外交を有するのは我々には好ましくない。
>
>天皇制度を廃止させられれば、日本をただのアジアの小国に成り下がらせる事ができる。
>
>幸いにも、倭奴たちには皇室の存在意義というのは浸透していない。
>皇室は単なる飾りのシンボルであると認識している民衆が大半で
71日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:09:38
ガンダーラ
72日本@名無史さん:2010/03/19(金) 18:21:55
異形の王権を今ひとたび紐解きませう
73日本@名無史さん
神戸市兵庫区門口町の臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。