筑紫東遷が考古学的に否定された今、次の段階に進まないと。
953 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:17:04
>>924 >並立説−九州から畿内の広域連合は無い。邪馬台国と畿内王権が同時に存在した→九州の邪馬台国は滅んだ
リアルじゃあ九州説の主流はそれなんだろうけど、この板じゃあ人気が無いw
何故か?
言わずもがなこの板の九州説は「九州王朝説」「邪馬台国東遷説」が主流だからw
>>927 >具体的にどれだけの小勢力が独立性を有していたのかな?
>その独立性の程度は?
具体的には弥生以来の拠点集落の首長レベルが政治単位だったと思う。
律令期の郡司レベルだな。
畿内のみならず、筑紫にしろ吉備、出雲にしろ、拠点集落の首長たちが
対外的にオウを祭り上げて連合したというのが実相だろう。
一つのまとまったクニであったとは思えない。
その前段階が、筑紫の広形銅矛だったり、吉備の特殊器台、出雲の四隅突出型墳丘墓。
畿内、東海の見る銅鐸。共通の葬送儀礼もしくはレガリアで連合していた様子が窺える。
>全体の代表者を民主選挙で選ぶのかな?
比較的後世でも、天皇位は有力豪族に推戴される形式をとっている。
有力者の会議のような形で決められていたのだろう。
記紀を読む限り、ひとつの血統による世襲は応神以降かと思う。
>どうやって「連合」から「王権」に変わったのかな?
王権の定義によるな。巨大な古墳が造られると、まるで強大な王朝がその時誕生したかのように
錯覚してしまうのだろう。
実際のところ、先文字時代、オウの偉大さを民衆に示すには巨大な王墓を
築くしかなかったんだよ。
初期大和王権は実質有力豪族たちの連合政権であったと見るべき。
有力御家人に支えられた鎌倉幕府みたいなのを想像すればいい。
955 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:46:52
>>948 >帯方郡から女王国に着くまで一万二千里なんですよね?
>で松浦国までで一万里。残り二千里って事は邪馬台国は九州のどこかですよね?
女王国まで万二千里という記事から、邪馬台国が九州内だという結論はどうかな?
女王国と邪馬台国とはちがうよ。
956 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:51:31
>>953 > 言わずもがなこの板の九州説は「九州王朝説」「邪馬台国東遷説」が主流だからw
九州王朝説?ははは、その可能性だけはないよね。 サイキバの脳内だけにあるトンデモだ!
まだ東遷説の方が論理的だね。九州王朝説には全く論理がない。
あっと!東遷説じゃないよ。俺は。
九州説だけどな、トンデモの九州王朝脳内説と邪馬台国九州説を一緒にはして欲しくないって考えているwww
957 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:56:59
>>954 先代旧事本紀の成務天皇の時代の国造の記事からは、それは無理だよ。
まあ、直木のように成務は実在しないってやれば良いんだろうけど・・・
四道将軍の派遣(崇神)→ヤマトタケル→景行天皇の子息を各地に派遣
→成務天皇のときに国造が急増
という流れからは、崇神時代に土着化してきた地方の統治官の引き締めと入れ替えが
始まって成務の代に完成したってことになる。
その後、国内統治を終えて、仲哀〜神功の代から三韓征伐って流れになる。
三韓征伐後に新羅の王子を人質にして日本の来させたって流れも続く。
新羅に対抗して百済が歴代の王族子弟を日本に質として送ったってのもある。
その人質が百済で王として即位して、墓碑も見つかったってのもある。
百済からの最後の人質が、白村江の戦いの前に百済に帰国して即位したってのもある。
・・・王権の確立を遅らせるのが、反皇国史観として流行った時代もあったけど、未だに
それを続けている人は一部の突出したマルクス主義史観の人だけだろうに・・・
魏志で各地の「官」と「副官」がさんざん書かれているのに「連合」とか無理だよう・・・
958 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:59:18
>>951 >九州島内にあるなら「伊都国から陸行何日」ぐらいに書いてくれればよかった。
同じだろうな。関門海峡を越えるぐらいは省略して全部陸行と書いたというだろう。
邪馬台国を畿内に比定したいと思い出したら、どんなことが書いてあっても目に
入らなくなるんだよ。
倭人伝の記述だけで明確なんだよ。伊都国又は不弥国から南へ水行十日陸行一月。
どう考えたって九州から出るはずはない。また、北九州の中のはずもない。でも
納得しないだろう?
959 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:02:32
960 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:13:33
そもそも「連合体」に反応しちゃっている人達は
ヤマト王権が当初から強固な中央集権国家でその範囲をジワジワ広げて行ったと言う認識なのか?
ヤマト王権の中央集権なんて試行錯誤を繰り返し
最終的には律令制の完了でやっと成る…と言うのがもう常識じゃないのか?w
吉備には全国でベスト4(築造時は国内最大とも)に挙げられる5世紀前半築造とされる巨大古墳があり
5世紀の奈良盆地西南部でさえ馬見古墳群からはヤマト王権がその地域を完全掌握していたかどうか疑問視されると言うのに…
もうそれこそ「皇国史観」の亡霊なんじゃないかとも思うがwwwww
961 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:18:28
倭国大乱の後、大和国及び周辺諸国に擁立された卑弥呼は九州征伐軍を編成し
九州に侵攻して奴国王を志賀島に追い詰める。
奴国王は金印を放棄して九州北部の諸国王と共に殺された。
卑弥呼の九州征伐軍はさらに南下し九州の女首長・田油津媛を討ち取った。
その後大分県日田市にある小迫辻原遺跡に狗奴国を迎撃する拠点を築いた。
962 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:21:29
>>960 だったら、魏志に「官」と「副官」がいちいち書いてあることをどうするんだ。
これも誤記なの?えらい具体的な誤記が連続するんだなあwww
というか、年代遡上をすれば、最後にはこの点で王権確立の遡上に向かう。
魏志の時代=遡上年代のヤマト初期になるわけだから。
「神武東遷を認めるのは皇国史観だ」として、年代遡上に狂奔して、結局は
より強固な皇国史観に行き着くってえのは、笑えない喜劇だよなあ。
963 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:23:05
祟神代の「四道将軍」を持ち出している人がいるが
アレは夫余の「四出道に将軍を配した」と言う話が原型と言う説があるが・・・
大体初期の古墳の分布を見ても、畿内と言っても、もっぱら大和川水系周辺で
いきなり畿内を完全掌握なんて事は考え難いと言うのが普通の見方だと思うがw
964 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:25:54
>>955 女王国までは郡から万二千余里。これは伊都国から千五百里。これは倭人伝の
里からすればせいぜい百キロ余りだな。一方で、伊都国から先の行程は少なく
とも水行十日陸行一月。これが百キロ程度の話でないことは明白。
それに、女王国=邪馬台国ならば、倭人伝は、邪馬台国までの日数に続けて「自
郡至邪馬台国万二千余里」と書いたはずだ。理由もなく、邪馬台国を女王国と書
きかえたりもしないものなんだよ。
女王国とは何か?これは、邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々と考えるべき
だね。邪馬台国や旁国を書いてから「女王の境界の尽きる所」という言葉が出て
くる。これが女王国の遠い方の境界。万二千余里から始まった女王国が狗奴国の
直前まで続いているということ。そのことに気づかないと倭人伝は理解できない。
965 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:28:20
966 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:31:47
>>962 先ず「役職」として考えられるのは複数見られる「ヒナモリ」
だとすれば後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?
個人名と役職名のゴッチャと言うのはきちんとしてた組織編成で無かったのでは?w
倭人伝中の官や副がどのような性格だったのか?・・・が正確に分からないのに
中央集権国家機構の一部の如きに言うの%
四道将軍の記述は、当時強盛な地域だった越・東海・吉備・丹波が
大和王権に参画したということなんだよ。
中央から地方に皇族将軍を派遣したとかではなく、
大和王権と同族化したことで、神話や始祖王を共有化したということ。
それが後に欠史八代の伝承になる。
968 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:34:15
>>962 先ず「役職」として考えられるのは複数見られる「ヒナモリ」
だとすれば後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?
個人名と役職名のゴッチャと言うのはきちんとしてた組織編成で無かったのでは?w
倭人伝中の官や副がどのような性格だったのか?・・・が正確に分からないのに
中央集権国家機構の一部の如きに言うのは早計だなwww
969 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:34:15
>>961 倭人伝は卑弥呼共立で倭国は戦いが収まったと書いているのに、卑弥呼共立の
後に大戦争が起こったというわけ?無茶苦茶な話だな。
970 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:41:41
>>968 >後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?
官と明記されているのに個人名のはずはないだろ。
>>962の意見は官と副の任命者がそれぞれの国王だということをまったく
理解していないんだろ。
971 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:45:26
>>970 もし任命権者が各地の王とするのなら
「官」や「副」は中央の管理機構とは別の話しという事だなwww
972 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:51:19
そもそも祟神代の「四道将軍」と言っても
その活躍は日本書紀にも具体的に書かれていない。
出てくるのは何故か畿内のタケハニヤスヒコの反乱平定のお話でw
973 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:52:57
>>967 稲荷山の鉄剣に四道将軍のひとり「オオヒコ」が出てきて、詳細な系譜まで
書かれている。
これを「後世の伝承」なんてことで片付けるのは無理だよう。
年代遡上は、反皇国史観にとって「ミイラ取りがミイラ」なんだよ。
974 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:54:18
>>971 >「官」や「副」は中央の管理機構とは別の話しという事だなwww
当然。中央の管理機構は「一大率」。
倭人伝はちゃんと分かるように書いているんだよ。
975 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:55:55
中国から見れば、倭国での王はあくまで邪馬台国の親魏倭王だけ。
倭国内に王は、形式的には他には存在しないことになる。
実際は違ったのだろうが。
976 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:56:41
>稲荷山の鉄剣に四道将軍のひとり「オオヒコ」が出てきて、
こんな一般的な名前を四道将軍のひとりと断定はできんだろ。
977 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:59:00
>>964 >女王国とは何か?これは、邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々〜
>万二千余里から始まった女王国〜
壱岐国や対馬国はたまた伊都国なんかは女王国に統属してないんですか?
もし仮に松浦国が女王国(邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々)の始まりなら
女王国まで一万里でいいのでは? 以上素人からでした。
ちなみに倭人伝に出ている倭国の数は30国でクヤ韓国までは七千里って
書いてありました。
978 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:59:51
>>975 倭国王は1人だが、倭国というのは狗奴国を除いた国々、その国々に王がいた
ことを否定しているわけではない。「形式的に他には存在しない」というのは
どうかな。
979 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:01:32
>>974 で?
畿内から遠隔の地に「一大率」をワンポイントで配した。
・・・これで連合体の否定になるのか?w
しかし
>>962 で
>だったら、魏志に「官」と「副官」がいちいち書いてあることをどうするんだ。
>これも誤記なの?えらい具体的な誤記が連続するんだなあwww
・・・とぶっつけてきたのは何の意味があるんだ?
行き当たりばったりもいい加減にしろよ、 安本チックな皇国史観君wwwwwww
980 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:02:32
>>977 伊都国などは女王国に統属する国々。女王国に従う国々であって、女王国を構成
する国ではない。そこを間違えないように。
981 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:15:25
>>980 ほんとに素人で教えてちゃんですいません。
女王国を構成する国ってなんですか?
親・兄弟がいる国って事?女王国に従う国々が女王国でないの?
>>980 それ正解。
女王国の中心に(政治的な意味だが)邪馬台国がある。女王台与はそこにいる。
壱岐対馬から伊都国奴国不彌国投馬国までは女王国の領域ではない。
証拠は
「郡より女王國に至ること萬二千余里」
トヨタン・・・・・・・・・
984 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:26:54
女王国と女王国に従う国はもちろん別。それをごっちゃにする説はトンデモ説
のほかにはない。
女王国=邪馬台国とする説が多いが、それは間違い。女王国とは邪馬台国、投
馬国そして両国のまわりにある旁国の連合体。
その女王国と北九州諸国(これが女王国以北と言われる)が戦ったのが倭国の
乱。北九州諸国が実質的に敗れたから、女王国から派遣された一大率の監視下
に置かれていたというわけ。
>>984 いや、投馬国も女王国には含まれぬと思う。
986 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:38:30
>>985 投馬国については、確かに難しい問題はある。しかし、女王国は万二千里
から始まる。したがって、水行二十日の投馬国は女王国が始まってからの
国となる。それに倭人伝は、女王国と以北を書くだけで、投馬国を独立の
立場には描いていない。結局、投馬国は女王国の構成国とみるのが妥当。
987 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:41:42
過去に遡れば、遡るほど、人間は神仏化されてゆくので
卑弥呼etcの存在自体、危ういと言うか信憑性が無い。
988 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:47:16
>>987 今からみれば千七百年以上も前の話だが、倭人伝が書かれた当時は卑弥呼が
死んでほんの30年。しかも、その資料は卑弥呼を訪ねた使者の記録と考え
られる。信憑性は十分。
989 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:50:56
2000年ぐらい過去に戻ってみたいものだね。
日本の創世記を見てみたいなぁ
990 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:18:04
邪馬台国が何処にあろうと
どうでもええやん。。
991 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:33:54
>>984 >女王国とは邪馬台国、投馬国そして両国のまわりにある旁国の連合体。
というのが良くわかんないですね。倭人伝に記載がないし
倭国内乱の後国々が協議して一人の女を王に立てたんですよね。
女王国が連合体ならば壱岐対馬から伊都国奴国不彌国投馬国までは
女王国の領域ではない、というのは変でしょ。一大卒は伊都国にいるし
帯方郡の使節は行き帰りに必ずここに滞在しますよね?
とすると帯方郡から女王国に着くまで一万二千里も素直に解釈できますが。
992 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:50:41
993 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 06:01:07
>女王国
倭人伝から「女王國」と記述している部分を拾ってみた。
5か所あるようだ。(Aは刊本によっては「女三國」となってる)
@ 東南陸行五百里到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
A 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
B 自郡至女王國萬二千餘里。
C 自女王國以北特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
D 女王國東渡海千餘里、復有國皆倭種。
Cの書き方だと、「諸國」や伊都國は、女王國とはやっぱり別の国だね。
そのほか「女王」だけが数箇所あった。
わらわは卑弥呼ぢゃ
995 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 06:19:35
>>993 女王国=邪馬台国だろうな。
AとCから一つの国であることがうかがえる。
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。
三品先生は、古代朝鮮史の研究をされたから他の学者たちとは違った。
ここのスレのアマチュアたちは、ほとんど魏志倭人伝だけを議論している。
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。 そして、出現したのが
短里説 であった。(古田武彦 「邪馬台国」はなかった 1971)
↓
安本美典が追随する、一方で二倍年暦を指摘した。
↓
古田武彦が、追随した。
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。
この指摘が意味するのは、
それまでの学者たちが魏志東夷伝を読まないで論争していたことが分かる。
韓の地が 方四千里 ばかり と
書いてあることすら知らずに議論していたのであった。
999 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 07:26:36
ばーか
三品彰英先生は畿内説だよ。www
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。