1 :
日本@名無史さん:
初代=徳川家康
二代=徳川秀忠
三代=徳川家光
四代=徳川家綱
五代=徳川綱吉
六代=徳川家宣
七代=徳川家継
八代=徳川吉宗
九代=徳川家重
十代=徳川家治
十一代=徳川家斉
十二代=徳川家慶
十三代=徳川家定
十四代=徳川家茂
十五代=徳川慶喜
2 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:15:57
3 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:58:36
こっちは将軍本人の人物像や業績、むこうは一族親類の話題か。
4 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:00:00
早速だが、「上様」と「公方様」の使い方の区別がよくわからん。
「篤姫」なんて見てたら、「公方様」って言い方の方が多いようだが。
5 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:09:01
隠居した将軍を「大御所」と呼ぶように、「御所様」という言い方もある。
6 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:20:06
時代がへるにつれて公家と武家が結びすぎた
7 :
あ:2008/10/28(火) 21:29:07
>>4 一般的に公方家は足利時代 将軍家のみではなく 寒冷家も呼ぶ
その名の通り 公 おおやけの方といういみ
しかし江戸器になると、公儀=将軍家 →公方家となっていった
上様 は地方大名家でも お上 目上の様ということで誰でも上様とはいわれてる
暴れん坊など時代劇のみすぎだろ あまり上様なんて当時は使われていない
8 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:58:16
>>7 しかし、家光が死去した際、今日から家綱と「上様」と呼ぶように
と言うようなお触れが出なかった?
9 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:15:44
国史大系「続徳川実紀」では、家定・家茂の実紀は未編集の生の史料の羅列なのだが、
そこでは徳川宗家の家督を継いだ時点で「上様」、将軍宣下を受けた時点で「公方様」と、
それぞれ「称し奉る」ようにと達しが出ていた。
だいぶ前に読んだ記憶なので細かい点まで覚えてないが、確かそんな使い分けだったな。
10 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:17:39
家綱って徳川15代で一番地味だよね
>>7 > 一般的に公方家は足利時代 将軍家のみではなく 寒冷家も呼ぶ
寒冷よりは温暖がいいな。
12 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 19:07:52
この15代で、毒殺されたのはだれだれですか?
家茂、家定はそうらしいけど。
13 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 19:09:57
幻の11代将軍、徳川家基は?
14 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 19:46:17
家継と家治も怪しい
15 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:00:29
家継は吉宗、吉宗は何人殺したのよw
16 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:31:44
綱教、頼職、吉通、五郎太、家継。
そう易々とバレずに五人も殺せるわけが無い。
17 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:33:06
慶喜と水戸志士 川上彦斎
18 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:38:14
慶喜と水戸志士 川上彦斎
19 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 01:47:39
おまえ等さ 徳川家に生まれても3歳で毒殺されんのと
Bでうまれたが80まで長生きできるの
どっちがいい?
ていうか、家茂と同い年の庶民の婆さんが昭和30年代まで生きてたんだよな。
将軍として20歳で死ぬのと、一庶民のまま110歳くらいまで生きるの
どっちがいい?
21 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 02:00:30
>>20 そんな選択なら誰でも将軍ていうにきまってるだろばかめ
庶民で長生きしても 現代と照らし合わせて容易に想像がつくしな
ばか
22 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 02:23:23
農民や町民で長生きがいいっつ人も多いんでないけ?
オラもその一人だよ。
20歳で死ぬのはもったいなかんべ。
23 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 02:34:14
ばかはそうかもな
ただ将軍なんて経験できなかんべよ 回廊を歩くだけで老若男女ひれ伏す
長生きしても今と変わんねえべ
そんで生きることにつらいというと 瀬戸内寂聴のようなのが生きてることに意味があるといつの時代も説教たれてしかられる
あほくさ
24 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 11:54:46
家宣はもっと評価されるべき。
吉宗のせいでいまいちぱっとしないが。
25 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 18:32:38
小林やと、弘化3年2月5日(1846年)3月2日 - 昭和39年(1964年)5月29日
資料によっては小林やそという表記も見られる。
同い年である弘化3年生まれには、徳川家茂、和宮親子内親王などがいる。
1964年(昭和39年)5月に死去。118歳。
弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と10の元号を生きた。
26 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:24:47
>>14 家継は元々病弱だから暗殺で死んだわけではないだろう。
27 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:29:09
家継は違うな、月光院がバカなんだよ。
綱吉なんか毒殺は間違いなけどね。
慶喜の権力は家康よりどれくらい強くなったのでしょうか?
30 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:00:04
慶喜は大奥を利用できなかった唯一の将軍なんだが、
彼が将軍在位中に住んでた二条城とか大坂城には大奥的施設やスタッフはなかったの?
31 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:17:05
>>30 二条城には住んでない
近くの屋敷から出勤してたはず
32 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:39:22
最初は小浜藩邸を宿舎に使って、そこから通勤していたが、
慶応3年になって本丸に仮御殿を作って入居した。
しかし、すぐに大政奉還やら王政復古やらがあって大坂城に退去した。
慶喜は京都に新門辰五郎の娘を愛妾として同伴していたはずだが、
いわゆる「奥向き」の人員・組織はあったのだろうか?
33 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:06:57
現当主の徳川恒孝さんは秀忠の男系子孫だよね
34 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:50:02
現当主は会津松平容保の曾孫だけど、容保は水戸系の血筋だから
秀忠の男系じゃない。
秀忠の男系って絶えてない?
絶えてるのは家光だっけ?
36 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:37:20
秀忠の男系も家光の男系も絶えてる
37 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:52:19
>>35 >>36 家光の男系は絶えているが
秀忠は落胤だと言われる保科正之の男系子孫が残っている
38 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:58:44
保科正之の男系って残ってたっけ?
会津松平家は容衆で秀忠の男系が途切れたと思うけど。
39 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:13:32
少なくとも大名には残ってない。
家臣になった子孫がいるかどうかはわからん。
40 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:23:47
>>1 1家康(戦国の覇者)、2秀忠(その三男)、3家光(長男)、4家綱(長男)
5綱吉(弟)、6家宣(甥)、7家継(子)、8吉宗(紀伊家から)、9家重(長男)
10家治(長男)、11家斉(一橋家から)、12家慶(子)、13家定(子)、
14家茂(紀伊家から、家斉孫)、15慶喜(一橋家から、水戸家出身)。
41 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:49:57
19代目宗家はやはり家○という名前?
43 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:54:29
19代目の家広氏はベトナム人と結婚したらしいな
20代目はハーフになるのか、養子をとるのかは知らないが
44 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 03:09:33
1家康(戦国の覇者)、2秀忠(その三男)、3家光(長男)、4家綱(長男)
5綱吉(弟)、6家宣(甥)、7家継(子)、8吉宗(家綱・綱吉の又従弟)、9家重(長男)
10家治(長男)、11家斉(家治のちんば従弟)、12家慶(子)、13家定(子)、
14家茂(家定従弟)、15慶喜(家慶正室甥)。
45 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 03:16:15
ベトコンとのハーフじゃ地方じゃまだまだ偏見あるからな〜。いくら徳川家とて偏見はまぬがれないだろ
46 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 11:49:56
>>43 ありえないな、養子をとるだろうよ。
宗家に外国の血がはいるなんて考えられない
どこかの王族の血ならまだ許せるがな
47 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:37:17
とはいうがイングランド王家はドイツゲルマン系カール血脈だからな。スコットランド王家のエジンバラ公家がエリザベスじのおとっつぁんだ。
だが、外国といっても崇高な人類最強人種アルビノコーカソイドの中での外国だ。
しかしベトコンはな。沖縄人だってありえないかもしれないだろ。あからさまな異民族なんだから。やはり一番無難なのが本州の醤油面の弥生渡来系が一番安心だな。
しかし詳しくはわからないが、中には明石藩の藩主松平家が、在日朝鮮人二世タレントの伊沢遥と結婚してる。
在日朝鮮だぞ!知っていたらありえたのだろうか。在日朝鮮と南方アジアンと、どっちがみなさんは受け入れがたいですか?
48 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:57:13
徳川宗家と言っても今は一般人なんだし、誰と結婚しようが自由だろう。
人の結婚に赤の他人があれこれ口出しする義理はない。
49 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:11:57
だが、当の徳川家の輩は、自分らはたかが一般人という現実を認識できていないんですよW
50 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:22:25
家広に兄弟いないの?
つーかスレ違いじゃね?
52 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:27:44
19代目は「いえひろ」氏だそうですが、
漢字表記は「家広」「家宏」のどちらでしょうか。
現御当主の恒孝氏は18代目ということですか。
ご存知の方、お教えください。
家廣(廣は広の正字)です。
54 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:41:23
19代目は「家広」氏。現当主の恒孝氏は18代目。
55 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 21:18:03
家広の弟が20代目になれば良いよ
家広はベトナム人と結婚したが40過ぎて子供なし。宗家に外国人の血が入る事は無いだろう
56 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 21:19:06
家広なんて架空の人物で、妄想ぶっこいてんじゃねえよ。
57 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:37:42
大五郎が鍋松が将軍になった時まで生きていたら、大五郎、鍋松どっちが将軍になったんだろう。
58 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:38:36
テスト
未だに妄想を語る者がいるとは。
家廣氏はちゃんと『平成新修旧華族家系大成』に記載されているんですがね。
ご自分で図書館などで確かめることですな。
60 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:46:47
家広厨の妄想はいい加減にしてほしい。
家広なんて奴はネラーの脳内にしか存在しない。
61 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:51:23
家廣はどうでもいいが、どっちにしても、高須四兄弟の系統だから、水戸じゃん。
62 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:51:52
すごいサイト見つけました
最新ソフトを格安で入手できます
「格安PCソフト」で検索してみて
後払いで安心して買えました
63 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:54:10
美濃高須四兄弟は、ほのかにチョン面香ばしい一門だよな
64 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 23:10:51
もう朝鮮はうんざりだハン板池、スレ違いだ。
16代だけど、徳川家達って津田梅子と従兄弟なのな。
田安慶頼の側室(家達生母)と梅子の母が姉妹なの。
>>59はちゃんとソースをあげているのに
>>60はそれをあっさり否定しちゃうんだね。しかもソースを提示せずに。
どちらが妄想か、誰が見てもわかるね。
高須四兄弟が「水戸系」って、
兄弟の父親が水戸家からの養子なの?
68 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 07:23:12
>>67 大体そんなとこです。
祖父さんの義和が水戸出身。
【徳川】御三家・御三卿・親藩スレ3代目
753:2008/11/04(火) 17:05:26
松平容保って保科正之の男系子孫じゃないの?
754:2008/11/04(火) 17:38:46 [sage]
水戸系じゃなかったっけ755:2008/11/04(火) 17:56:16 [sage]
753
尾張分家の高須四兄弟の一人です。
もっとも754さんのおっしゃるように、祖父の義和は水戸治保の子なので血統は水戸系です。
ただ義和から三世代五十年経ってますので、血筋が水戸系だ、というのはあまり問題にされなかつたようです。
むしろ父義建が斉昭と親しく、正室も水戸の姫(慶勝と越智松平に入った武成を産む)なので、
水戸の影響をかなり受けていました。
(むろん血統からも水戸に親しかったのですが)
斉昭の影響は結構大きくて、春嶽もそうです。
幕末の「賢い」殿様は斉昭や斉彬の薫陶を受けてる人が少なくないです。
70 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 12:05:05
だから大五郎が生きていたら、鍋松じゃなくて大五郎だったのか?
>>50>>55 家廣氏に弟はいません。妹は二人いますが。
>>70 あなたのは
純粋にわからないから質問している
のか
釣りなのか
どちらともとれます。つまり、それほどわかりきったことなんです。
だから皆答えないんですよ。
逆に、大五郎が生きていたら将軍を継げるかどうかを不明だと思っているのは何故ですか?
72 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 20:44:14
そりゃどっちも側室腹だろうし、大五郎の方が兄だから、もし生きていたら大五郎が将軍だとおもうけど。
73 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:42:28
あの、わたくしいちを徳川姓を名乗っとるんですが、わたくしは徳川家の家系と繋がりあるのでしょうか?両親に事情があり身内は居ません。おやはもういません。手掛かりがない。
病院などで、徳川〇〇さんと呼ばれると全員に注目されるので小さい頃からストレスでした。いつも、将軍様?と聞かれるので返答に困ります。徳川姓を名乗っているだけで末裔と思い込むのは安易でしょうか?
安易ですね
75 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 05:59:31
徳川の名字は一族以外名乗ってる人いないんじゃないの?
つか、どっかの徳川家の末裔ならば、
例え両親がいなくても「手がかりがなく、自分があの徳川家とつながりあるのかわからない」
なんてことは絶対に有り得ない。
現代は勝手に「徳川」に改正も出来るし、じっさいそういう実行例もあるらしいよ。
>>1>>40>>44 1家康(1親等)、2秀忠(1親等)、3家光(1親等)、4家綱(1親等)
5綱吉(2親等)、6家宣(3親等)、7家継(1親等)、8吉宗(8親等)
9家重(1親等)、10家治(1親等)、11家斉(4親等)、12家慶(1親等)
13家定(1親等)、14家茂(4親等)、15慶喜(17親等)。
ちなみに家光は秀忠の長男でなくて次男だよ。
スマヌ。
×慶喜(17親等)→○慶喜(18親等)
徳川家の2大将軍継嗣抗争での候補者
8代将軍
尾張継友(6親等)、紀伊吉宗(8親等)
14代将軍
紀伊慶福(4親等)、一橋慶喜(18親等)
>>37>>39 『徳川諸家系譜』を見たが、正之の子孫の男子で(家臣も含め)他家に養子にいったものはいない。
よって正之の男系子孫は絶えているといえる。
80 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:02:21
Wikipediaで徳川家を調べると関連項目に「ベトナム」が入っている件
11家斉(4親等)→11家斉(5親等)だろ。
8代将軍吉宗
↑ ↓
宗尹 家重
↑ ↓
治済 家治
↑
家斉
順位 苗字 世帯数
5343 徳川 478 トクガワ
おっ結構いるもんだな
>>81 ゴメン。頭の中で数えてたんで。治済抜かしてた。
84 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:23:03
>>82 そのほとんどはやっぱり明治時代勝手に名乗った家なのかな?
まあ、徳川家も宗家も最後の将軍も結局水戸系なわけか。
ところで、慶喜は、家康から数えての親等なんだろうけど、母系の霊元院から数えたら何親等だろうかねぇ?
霊元院、江戸時代の尊成、尊治と言われるぐらいの帝だが、自分の子孫が大政奉還して、幕府閉じたわけだから、ある意味本望かもな。
86 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:22:20
霊元天皇-職仁親王-織仁親王-吉子女王-徳川慶喜
徳川慶喜は霊元天皇の玄孫で4親等
87 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/08(土) 23:58:38
>>85 後鳥羽(顕徳)天皇と後醍醐天皇かな?
とりあえず「様」をつけなさい。
88 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:39:55
慶喜って、けっこう天皇家に近い存在だったんだな。
イギリスみたいに女系継承OKだったら、慶喜が皇位継承してもよかったわけだ。
89 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:44:56
秀忠、家光の頃に天皇家を完全に乗っ取ってしまえばよかったのにな。
90 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:26:15
和子の男子が夭折(毒殺説あり)されたことで
徳川幕府による天皇外戚→天皇家乗っ取りは失敗したんだろ
91 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:31:31
南北朝時代に西園寺氏(藤原氏)の広義門院が治天の君になった先例を生かして、
後水尾の院政を廃して、東福門院を治天(天皇家の主人)にして、なしくずし的に
徳川天皇に取って代えることはできなかったのか?
できなかった。
93 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 13:35:21
霊元は、偽有栖川と同じ名前の識仁か。
94 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 13:43:54
イケメン三羽烏は
6代目、14代目、15代目だと思う。
肖像画では13代もイケメンだぞ。
俺は13代は病弱で政治的に無能なだけで、精神や知能は常人だと思ってる。
白痴とか障害者云々はデンパ本とかで面白おかしく書いてるだけだし。
>>78 継友は六親等じゃなくて九親等じゃないの?
初代徳川家康
↑ ↓
義直 秀忠
↑ ↓
光友 家光
↑ ↓
綱誠 綱重
↑ ↓
継友 家宣
↓
家継
ずれまくりで家継が継友の子供になっているが言いたい事はわかるよ。
継友は家光の外曾孫(長女千代姫の孫)だから6親等なんですよ。
髭が濃いのは第10代。
実は一番イケメンだったのは第9代らしい。
ひょっとこみたいになっているのは、発作か何か。
第七代の髭は薄い。
100 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:47:40
>>99 第7代は髭どころかちん毛も生えてないし、剥けてないだろ。
数えで8歳つーことは、満で言えば6歳か7歳だからなあ。
ああ、誕生日前に死んだから6歳か。
たけしなら7歳にして下の毛・胸毛・ヒゲが生え揃っているんだけどね。
江戸時代リーダーではあっても世紀末リーダーじゃないから無理だな。
>>101 もう20年ほど早く生まれて、すぐに将軍になれたら世紀末リーダーだったけどね。
実際の世紀末リーダーは五代と十一代。リーダーというよりはトップと言った方がいいけど。
歴史の本で勉強してるんだが家重だけ見つからない・・・
この人はいったい何をやったんだ?吉宗のあとだけど
104 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:23:20
田沼を小姓に取り立て、息子の側近として残したという「業績」はある。
個人的には将棋の本も書いてる。
105 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 19:04:44
正室の子で将軍の座についたのは家光くらいなんだが
やはり正室って飾り物か
106 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 19:26:28
今話題の家定ってほんとアホだったの?
小児麻痺ってウィキにのってたけど。
107 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:08:43
病弱で政治的に無能なだけで、精神や知能は常人
最近の研究では、大御所吉宗は殆ど寝たきり上代であったことが判明し、
家重自身政治力も人並みにあったことがわかっています。
109 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 21:25:18
>>108 それほんと?家重ってアホかなと思ってた
110 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:38:15
将棋の達人で自ら将棋の本も書いてるし、知能は普通よりも上だろう。
ただ言語障害で思うようにしゃべることができなかったので、誤解されている。
111 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 02:31:48
で、吉宗を将軍に推したのは天英院なの?月光院なの?
112 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:15:58
天英院が吉宗を支持したとは考えにくい。
天英院としては自分の姪を正室に持つ継友を将軍にしたかっただろう。
113 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:26:12
>>112 天英院が「夫の遺言」で吉宗を将軍にしたのは何でなの?
継友を将軍にしたいなら
「亡き夫の遺言」でいくらでも将軍にできただろうに。
114 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 00:10:22
「夫の遺言」で清武かその子清方を将軍してほしかった。
115 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 00:15:24
117 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:14:54
もしも家康の霊魂が慶喜を見ていたら、どのように映っただろうか?
ほめたと思うよ家康たんは
119 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/14(金) 00:34:46
十五代目(慶喜さん)に神号を与えてくんないかな?ムリか。
昔の大河ドラマ「徳川慶喜」で、慶喜が孝明さんに拝謁したとき、
御簾の中から孝明さんが慶喜の顔を見て「有栖川の顔やなあ。。」と言ったシーンを思い出した。
実際に言ったかどうかは知らんが、有栖川宮数代の顔立ちと慶喜の顔つきが似てるようには思えないよな。
121 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:31:05
>>120 慶喜の外戚の有栖川宮の写真は残ってないから
慶喜の外戚と直近数代とは顔が違ってたかもよ。
女系に似れば父子でも全然顔立ちが違うし。
もっとも、慶喜は同年生まれの異母兄池田慶徳とそっくり。
腹違いの兄と似ているくらいだから有栖川系の顔ではなかっただろうけど。
徳川将軍家もどっかで女系に似たんだろうね。
幕末の将軍は狸親父の開祖徳川家康の肖像画とは似ても似つかないし。
有栖川タルヒトとその親父、タルヒトの弟の写真は残ってるじゃんw
慶喜と池田慶徳とはそんな似てないと自分は感じた。
異母兄弟かなりたくさんいるけど、自分は島根の浜田藩に養子に行った弟と
もわ〜っとした面影が似てると感じたなあ。
123 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 23:26:22
>>122 熾仁(たるひと)親王は慶喜のいとこの子で5親等
その父幟仁親王で慶喜のいとこの4親等
遠くないか?
慶喜の母吉子女王の父で慶喜の実祖父あたりの写真が残ってれば
有栖川の血かどうかよくわかっただろうけど。
124 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 09:34:35
慶喜が将軍になったとき、池田慶徳・茂政に徳川姓を与えて三家に準ずる地位を与えれば、
両池田を味方にできただろうか?
125 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 09:45:05
味方って戊辰の役かい?
>>124 幕末のあの時点では血縁や家格はもはや効力がないから無理でしょう。
家格では尾張、血縁では越前を考えれば、そう思います。
越前藩は江戸期を通して名門の誉れ高い藩なのに、
福井って何であんなに田舎なんだろw
128 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:14:55
129 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:31:19
水戸も関東圏にありながら
田舎すぎるぞ
130 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:43:19
松江が最も悲惨
松江や高松もキラキラの名門だけど、福井ほどの石高ないでしょ。
そういう点からしても、福井最強w和歌山は大阪と至近じゃんw
132 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:18:18
鳥羽伏見で紀州藩が動いていればな。
133 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:41:08
紀州藩は和宮との関係があったからな
134 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 02:08:21
晩年の吉宗は弱りまくって悲惨だったってホント?
筋骨隆々のワイルドなプロレスラーみたいなイメージと弱りきった爺さん、どっちが史実?
135 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 02:44:19
上同士で血縁関係をもつものではないな
家臣と持つべき
136 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:17:18
素朴な疑問なんだけど
紀州(和歌山)の人たちは 今でも徳川家に親近感あるのかな
関西はどうも徳川家は嫌われてるから
吉宗は紀州なわけだし、その後の将軍はほとんど紀州だから。
水戸 尾張はどうなの
138 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 13:39:03
御三家筆頭の尾張からは、結局一人も将軍出さなかったよね。
紀州ばっか。家斉とか、御三卿ももとは紀州だし。
不思議だよね
どう理解すればいいんだろう
やっぱお由利の方は偉大だなあw
139 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 13:47:49
尾張は天下を狙っていると何度も疑われたからね。
それを言うなら三卿「筆頭」の田安からもでてませんぜ。
(家達は将軍じゃないので除く)
141 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 17:35:16
田安と紀州では、家の古さが比べ物にならないだろw
それに田安は今では徳川一門の集まりでは
「ほとんどの家が田安から出ている」(徳川宗英氏談)と言われてるほど
田安の血で徳川一門を席巻してるよ。越前も尾張も宗家も紀州もそうじゃん。
142 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 17:58:57
戦前まではね。
いまは尾張は堀田さん、宗家は会津経由の水戸、紀州は日系人のナントカ剛さんの子孫。
>>141 別に突っかかる必要はないでしょ。
つか、歴史の話をしてるのに語尾にwをつけるなよ。
大体あなたの言っている田安は血統では一橋系なんだが。
俺が言いたいのは田安にしろ尾張にしろ、「筆頭」ゆえに宗家に警戒されたんじゃないかってこと。
田安はともかく尾張は紀伊より優遇されていたから、増徴してたし、警戒もされていた。
田安も宗武が家重に警戒されていたよね。
そういうことを言いたいんだよ。
明治以降を語ると系図厨が沸いてくるからさけたいんだが。
現在の宗家は尾張の分家の血を引いている。
ま、その分家も水戸系だけどね。
>>134 御三家スレの初代か二代目かで検証されていたよ。
大御所側近の文書があるんだと。だから多分史実だろうね、吉宗寝たきり説は。
145 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 02:53:35
一番長身でイケメンは、6代将軍らしい。
でさー、綱吉ちびっ子説はマジ?
綱吉の肖像があまり残っていないことと関係あるんかな?
147 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 09:33:10
栄養失調で発育が悪かったとか。そのせいで子どもも出来にくかったんだろう。
ドラマでは晩年までキリッとした姿で描かれるが、晩年はヨボヨボだったみたいだね。まぁ当時の64歳と言うとかなりの年齢だけども。
148 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 10:31:58
綱吉がちびっ子なのはマジ?
149 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 12:38:28
>>148 綱吉は135ぐらいだったかな
かなりチビだったわけだ。
150 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:23:36
135・・・、体のサイズも人間より犬に近かったのか。
なるほどね。
>>143 >つか、歴史の話をしてるのに語尾にwをつけるなよ。
は?どこにそんなルールがあるだろ。粘着君はりきりスギ
その一橋も紀州だし
意味不明〜
一般的に、政事総裁職は松平慶永の役職として有名だが、分家である川越→前橋の松平直克もやっていた。
ただし、普通の人はほぼ知らない。
このまま幕府が何となく続いていたら、越前系松平氏でたらいまわしになったのだろうか。
>>145 綱吉小人説は
「三河大樹寺にある徳川歴代将軍の位牌の高さは身長にあわせてある」
という俗説からきたものです。
それによれば
「増上寺に葬られた五人の将軍(東京タワーが建てられるときに改葬され、
その時様々なデータがとられました)の身長と位牌の高さはほぼ一致し、
誤差は5センチ以内である」
そして
「綱吉の位牌は124センチだから、誤差を考慮しても当時の男子平均身長(
155センチくらい)と比べてもかなり低い」
というのです。
しかし歴代将軍の位牌の高さを並べてみると、数え八歳(満六歳)の家継が
135センチだったり、「並の人より頭一つ飛びぬけて大柄」と記録のある吉宗
が平均身長とほぼ同じ155センチであったりと、首を傾げざるを得ない部分が
あります。
また「誤差5センチ以内」というのが六代家宣の160センチに対する位牌の156
センチであるわけで、比率で考えると、「わずかな誤差」とは言いがたい。
そして綱吉低身長説の根拠はこれだけなのです。残っている衣装とか、身の回
りの品とか文献からは何もわかっていません。
以上から歴史学会では俗説とされています。
154 :
153:2008/11/17(月) 18:24:33
ちなみに現代の6歳児の平均身長が113.2cmくらいですから、現代で考えても
家継は大柄な子供となります。(135センチは10歳児に相当)
綱吉小人説に従えば同時に「家継巨大児説」が唱えられてしかるべきなんです
が、そんな気配はないですよね。
156 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 19:40:59
綱吉=小人説は科学的な根拠のない与太話だよ。
大樹寺の将軍位牌の高さが将軍の身長と同じって力説してウィキにまで書いてる連中がいるけど、
歴代将軍の位牌と増上寺で発掘された将軍の遺体を比較しても、とうてい一致してるとはいえない。
連中は誤差の範囲とか言って強弁してるけど、それはあまりにも恣意的だろ。
しかも寛永寺の綱吉の遺体が発掘されてない以上、何の実証もされてない、単なる憶測であって、
そんな憶測だけで綱吉が小人だったとか言って貶めるのは学問的態度ではないな。
157 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 20:22:48
遺伝子的にみたら、京の八百屋の娘がかーちゃんだぜえ。
身体不具の子供なんか産まれんだろー
>>151 >>143の上からのもの言いや絡むような書き方も悪いが、相手を揶揄するように受け取れる書き方は
褒められたことじゃないよ。ルールというよりマナーな。
学問板なんだから、釣りや挑発はやめてね。お願い。
>>153>>156 綱吉は評判の悪い将軍で『三王外記』でもよく書かれてはいない。
もし低身長が本当なら、格好のネタだから何らかの形で他の文献にも残っているはずだね。
だからお二人のお説の通り。位牌の高さ自体も矮小化させようという悪意を感じさせるね。
現存する黒小札空色縅二枚胴具足や松葉小紋裃を見たことがあるけれど、そんなに小さくはなかったよ。
これらがストレートに綱吉の体の大きさを表してはいないが、位牌の高さよりはずっとましだと思うよ。
大奥のご婦人方の平均身長はどのくらいなんだろうか
「江戸時代の身長と棺の大きさ」(平本嘉助『江戸時代の墓と葬制 江戸遺跡研究会第9回大会発表要旨』江戸遺跡研究会,2102/115/9)では
江戸庶民の平均が“男性155〜157cm,女性143〜145cm(江戸時代前期〜後期)”“将軍・大名(男性)の平均が157cm”“正室・側室(女性)
が145cm”で階級による大きな身長差はなかった、と推察しています。
ですから大奥の女性の平均も大体これくらいでしょう。
161 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:07:39
>>113 既に吉宗を擁立することは老中の合意で決定しており、
箔付けの為に天英院の指名ということにしたかったんだろう。
162 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:39:27
>>158なんか胸糞悪い奴だなー
張り切ってスレ主か?
「w」を付けないのがマナー?
なんだそれ。2ちゃんで2チャン語使うな、ってくらい笑えるwww
阿呆とされてきた九代十三代も知能は決して低くなかった。
光圀や宗春、重倫などの馬鹿殿に比べればはるかにマシだな。
十一代も精力絶倫とか好色とかばかり話題になるが、性格が破綻してたと
かの欠点がある訳ではなく、当時の傑出こそしてないが平均点以上はつけれる。
>>158 まあ、なんというか…
馬鹿はスルーしろ。
165 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:44:46
Wikipediaの徳川家の関連項目に「ベトナム」が入っている件
166 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:47:12
とりあえず、家広なんていない、架空の人物だと釘をさしておく。
168 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:56:56
>>163 11代は政治に熱心でなかっただけで、一個の人間としては並み以上の人物だろうな。
ひ弱な将軍が多い中で、吉宗以来のアウトドア派の将軍だし、早死にが多い中で家康に次ぐ長寿だったし、
フランスでいえばルイ15世みたいなタイプの君主だったんだろうな。
13代は別に大河がどうこうじゃなくて、実際に側近の回想に普通の人物だったとある。
薩摩侯や越前侯と比較するから見劣りするだけで、同時代の多くの大名と比べたら別に愚物ではないと、
元小姓の朝比奈という幕臣が明治になって語っている。
ハリスも回想録で将軍に会った印象を「よく通る堂々とした気持ちのいい声」と好意的に記しているし、
肖像画でも普通にイケメンだし、まあ、病弱で政治に無関心なだけで、ごく平凡な人だったんだろう。
こちらはルイ16世タイプだな。
光圀宗春はともかく、重倫が将軍だったら文字通りの「暴れん坊将軍」だったろうな。
ただ時代劇のヒーローにはなれそうもないが。
家斉は家基の怨霊を恐れてたと、昔永井路子さんの本で読んだことがある。書名は忘れたが。
171 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 00:08:51
家継は文字通りの「甘えん坊将軍」だったな。
田安亀之助が家茂のあとに将軍になってたら、やはり「甘えん坊将軍」になったろうな。
もっとも篤姫は、写真で見る限り、甘えさせてくれるようなキャラではないが。
172 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 13:11:32
歴代将軍を長寿の順番に並べてみた。
慶喜77歳
家康75歳
家斉69歳
吉宗68歳
綱吉64歳
家慶61歳
秀忠54歳
家宣51歳
家治51歳
家重50歳
家光48歳
家綱40歳
家定35歳
家茂21歳
家継8歳
やはり上位には屈強なイメージの将軍が並ぶが、弱いイメージの綱吉も意外と体が丈夫だったのかもね。
173 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 15:52:41
はっきり言えるのは。
綱吉:マザコン将軍
家継:チャイルド将軍
慶喜:最後の将軍
174 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 15:58:27
家光:生まれながらの将軍
吉宗:米将軍
家治:公家将軍
五代 犬公方
八代 米公方
九代 小便公方
176 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:17:54
八代:暴れん坊将軍
九代:DQN将軍
十三代:虫歯将軍
酒井忠清が描いていた有栖川宮将軍は、15代で達成されたって事かな?
179 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:51:38
将軍の御落胤って
小説以外で何人かいるけど、
どのくらい信憑性があるんだろう…
180 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:55:33
天一坊?
181 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:57:57
>>176 9代は病気のため、意思伝達に難があっただけで、知能は高かったらしい。
182 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:59:09
市井に紛れてしまった
御落胤とかいるのかな?
吉宗以外に、
家斉・家宣とか
可能性ありそうなんだが…
183 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 08:36:46
二十代:ベトコン将軍
184 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 09:06:36
滝田栄 滝田栄
185 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 10:30:57
家光と家督を争った挙句に、蟄居・自殺した弟の隠し子が
長七郎とかいって、江戸の庶民の間で大活躍したんだよな。
186 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 16:39:01
「長七郎江戸日記」でしょ、里見浩太朗主演の時代劇連続ドラマにもなったよね。
ラストに葵のご紋付の着物と刀で現れカミングアウト、周囲をひれ伏せさせ若様が快刀乱麻、という
勧善懲悪の一話完結・水戸黄門ばりのお決まりの流れ。
実在したらしいね、確かに「長七郎」という名前らしい。
どんな人生送ったのか定かではないが、どっかの寺の過去帳で存在が確認されてるらしい。
187 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 16:42:33
あ、確認されてないね、不詳のままだった、訂正。
188 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 17:52:32
9代は、小児麻痺と精神疾患が若干あった。
弟は、真逆のインテリだったが。
歴代将軍を直系先祖の将軍数で並べて、孫を調べてみた。
家康(主な孫:家光)
家継 4人(家康、秀忠、家光、家宣) 孫:なし。家茂まで同じ。
家定 4人(家康、吉宗、家斉、家慶)
家綱 3人(家康、秀忠、家光)
綱吉 3人(家康、秀忠、家光)
家宣 3人(家康、秀忠、家光)
家治 3人(家康、吉宗、家重)
家慶 3人(家康、吉宗、家斉)
家茂 3人(家康、吉宗、家斉)
------------------------------------これより以下、孫有り
家光 2人(家康、秀忠) 孫:家宣
家重 2人(家康、吉宗) 孫:家基
家斉 2人(家康、吉宗) 孫:家定
秀忠 1人(家康) 孫:家綱
吉宗 1人(家康) 孫:家治
慶喜 1人(家康) 孫:慶光
思いつきで並べてみたから、孫の有無で分かれたのは驚いた。
190 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 09:13:01
家継を孫いるかいないかの対象にするってw
ギネス狙ってるのか!
家康→ずる賢い狸
秀忠→関ヶ原大遅刻
家光→武家諸法度、参勤交代
家綱→新井白石登用
綱吉→生類哀れみ
家宣→生類哀れみ廃止
家継→すぐ死ぬ
吉宗→享保の改革
家重→????
家治→田沼に政治任せしっちゃかめっちゃか
家斉→ヤリチン
家慶→????
家定→病気がち
家茂→天皇妹と結婚、若くして死亡
慶喜→大政奉還、鳥羽伏見で逃亡
192 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 11:03:16
193 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/20(木) 12:39:06
徳川に恨みでもあんのか?
194 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 19:38:14
>家綱→新井白石登用
???
195 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 20:32:30
家慶は、親父と子作りを競い合ったストロンガーだぞ!!
196 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 20:38:12
徳川夢精
197 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 23:47:01
側近
家康→本多正信 天海 崇伝
秀忠→土井利勝
家光→松平信綱 酒井忠勝 忠世 天海
家綱→酒井忠清
綱吉→柳沢吉保
家宣→間部詮房 新井白石
家継→↑同じ
吉宗→大岡越前
家重→大岡忠光
家治→田沼意次
家斉→松平定信 信明 水野忠邦
家慶→水野忠邦
家定→阿部正弘
家茂→井伊直弼 勝海舟
慶喜→勝海舟 渋沢栄一 清水次郎長
198 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 09:09:18
本多正純・堀田正俊・松平乗邑・堀田正睦・小栗忠順も入れとけ。
199 :
191:2008/11/21(金) 13:30:00
あー家綱は新井白石登用じゃなかったな家宣が新井白石登用したんだった
家綱→玉川上水作った
200 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 14:18:13
家慶は、父親(オットセイ)が20年くらい早く死んでたら名君だったろう。
201 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 15:56:19
綱吉&家継=ちびっこ将軍(ガチ)
202 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 18:27:29
家斉、家慶、家定がそれぞれ、あと20年くらい生きてたら、
幕府滅亡は回避できた。
家斉が1868年に生存していたら95歳。
家慶が1868年に生存していたら75歳。
家定が1868年に生存していたら44歳。
この三代が1868年に健在だったらと悔やまれる。とくに大御所様。
203 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 19:14:18
幕府瓦解の諸悪の根源は家斉だろ!
大塩平八郎の乱を勉強しなおせ。
204 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 20:46:23
>>202 家茂を忘れちゃいかん。
あと十五代目は慶頼で良かったんじゃねえの?
205 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:48:29
水戸志士万歳
206 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 20:51:30
ちなみに辞官納地って200万石分だろ?
大坂や長崎はともかく江戸も入ってたのかな?
最後は70万石静岡藩だろ?
応じてればどうなっとったんだろ?
200万石の大名でいられたのかな?
207 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:53:00
>>204 家茂が長生きしていて最後の将軍だったらどうしていたのかな?
家茂は義兄である孝明天皇に弟としてよく仕えていた
あっさり大政奉還して
皇女和宮の婿として皇族の一員扱いになっていたかも
208 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 20:59:04
孝明天皇崩御とフランス借款失敗が運のつき。
209 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 21:00:50
とりあえず駿府城天守復元してほしい。
210 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:10:35
つーか和宮と合体していたのか?
211 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:23:18
慶頼って隻眼じゃね?
212 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:23:24
慶頼が将軍候補になれなかったのは、案外それが理由かもな。
あの写真を見る限り、どう見ても片目が(ry
213 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/21(金) 23:47:19
斉民公や慶永公も候補だと思うが。
慶喜公は失態をおかすしな・・・
とりあえず200万石の大名家であってほしかった。(哀)
214 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 00:48:35
マジで20代目どうするよ?
>>172 大正元年まで生きた慶喜は環境が異なるから別として、やはり初代の長命が目立ちますね。
吉宗と同じ享年だったなら加藤清正が、綱吉と同じだったなら結城秀康がまだ生きていました
から、豊臣との関係もどうなっていたかわからない。
僕は将軍在任期間順に並べてみました。
11代 50年(4年) 72%
四代 29年 72%
五代 29年 45%
八代 29年(6年) 43%
三代 28年 58%
十代 26年 51%
二代 18年(9年) 33%
12代 16年 26%
九代 15年(1年) 30%
14代 8年 38%
13代 5年 14%
六代 3年 6%
七代 3年 38%
初代 2年(11年) 2%
15代 1年 1%
( )内は大御所としての年数ですが、家重は唯一言語を解せる大岡忠光が死去した
ために引退したので、実権はありません。また吉宗も実は健康が悪化したために実権は
なかったのではないかと言われています。
また慶喜は宗家当主となってから将軍になるまで3ヶ月半、将軍を辞職してからも宗家
当主とだった期間が半年ほどあります。(それを言えば家康は宗家当主の期間がかなり
長いのですが)。
216 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/22(土) 12:09:44
田安家から出せばいい。
とりあえず慶頼公の男系の子孫だな。
>>213 斉民が候補だったというのは俗説です。
春嶽は家格からして候補外。斉民にいたっては家格、年齢ともにランク外です。
すでに隠居していた45歳を候補にするほど、徳川は人がいないわけではありません。
>>201 綱吉低身長説は何の根拠もないと、このスレでも検証済みですよ(
>>153>>156)。
それに綱吉低身長が本当なら、家継はチビとはいえなくなります(
>>154)。
過去レスくらいちゃんと読んでくださいね。
スレタイをよく見て!
明治以降の話題はスレ違。系図厨や津山厨がわいてくるからやめてね。
219 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 12:22:42
すでにわきでている。
>>217 十四代候補は慶福と慶喜。尾張慶勝は年齢が高いため外されたと慶永が証言している。
斉民は名前すら上がってない。井伊が将軍後見にと考えていた程度だ。
十五代は田安亀之助と慶喜。家茂の遺志は亀之助だったが、緊急事態ゆえ中継ぎとして慶喜になった。
十六代は亀之助と尾張元千代。新政府は初め元千代に跡を継がせるよう押し付けたが、亀之助に落ち着いた。
221 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/22(土) 13:17:29
>>217 吉宗公の場合は?もとは鯖江の殿様だぜ。
222 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 13:23:38
紀州の連枝(本家の継承資格有り)
↓
紀州藩主(将軍位の継承資格有り)
↓
8代将軍
つか、なんで斉民? そこまで広げなくても、三家の慶勝、慶福、慶篤、三
卿では慶頼、慶喜と揃ってるのに。
斉民のどこが将軍に相応しいと?
家斉の子というなら薄弱だぜ。家斉の孫の後継ぎを決めるのに、世代も年齢ももう古いからね。
血統、資質、年齢ともにふさわしいと思うが。
45歳って高齢か?
家宣や家慶が将軍を継いだ年齢をご存じ?
225 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 14:20:33
弟の蜂須賀斉裕同様、他家に養子に出たのが惜しい。
三家三卿にとどまっておれば可能性はあったが、親藩の越前家では外様大名と同じ。
そもそも血統資質年齢だけで言うなら、松平慶永もふさわしかった。
結論
将軍は英明である必要はない
でなければ家光、家重、家定は外されていた。
斉民はそんなに英明だったのか?
その割には無名だが。
229 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 15:31:45
そもそも、家康の遺訓など無視されたんだから
9代将軍を優秀な田安宗武にすべきだった。
230 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 17:07:27
宗武とか優秀とは限らんよ
空気嫁なさそうだしさ
歴代徳川将軍の中で庶民人気が一番高かったのは誰なのかなぁ
案外、生類憐みの令を就任後即廃止した家宣だったりして
232 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 20:18:12
>>231 案外じゃなく、実際に家宣が庶民人気が一番だったと言われているよ。
233 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/11/22(土) 20:23:27
宮将軍が実現してればよかったんじゃないかな
234 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:14:45
血で血を洗うトーナメントを勝ち進んだ初代が庶民だろ!
235 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:28:09
歴代将軍の肖像画は、どういうわけか下絵しか残ってないのが多いけど、
7代の肖像画なんて単なるラフスケッチでしかないな。
ていうか、完全に写実を放棄してるだろ。
一方、9代や12代はモデルから苦情が出なかったのかと思わせるほど、
ヤバイほどに写実に徹してるな。
>>202 11代・12代がそのくらい長生きしてまだまだ子作りに励んでいたら、明治維新は起きない。
なぜなら、全大名が養子政策で徳川の血筋になtってしまうからだw
237 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/11/22(土) 22:51:04
十一代目は前田侯を将軍にしようとしてなかったか?
>>235 >下絵しか残ってないのが多い
徳川家にはもともと本画が伝来していたが、これらは幕末の混乱などで
焼失してしまったらしい。下絵類はその後に狩野家から取り寄せたもの。
239 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 11:04:59
家定候が、宮崎あおいに性欲を覚えなかったことが、徳川幕藩体制終焉の主因だよ。
>>236 実子を各藩の養子に送り込むという政策、「押し付け養子」は、反面反幕の萌芽に
つながったケースもありますから、痛し痒しですね。
それに幕末の政局では血縁はあまり重要なファクタではありません。
田安家出身の春嶽や高須四兄弟、慶喜の兄弟の動向を見ればわかるかとおもいます。
>>232 家宣は先代が人気無かったことと先代の「悪法」を取りやめたこと、さらに短期政権だったから
人気があったんだろうね。
今ドラマで人気のある吉宗も庶民の人気はあまりなかった。
これは彼の政策が「お上のため」で庶民よりのものが殆ど無かったことと、やはり長期政権だった
からだろうね。
>>215が出してくれた中で、20年以上のものは長期と見ていいだろう。家斉、綱吉、吉宗と庶民に
不人気な将軍派皆長期政権だ。
家治の田沼時代は天災がかさなったために不人気だが、家治自身の人気はどうだったんだろう。
242 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 11:23:42
>>239 家定「侯」じゃなくて家定「公」ね。
「侯」だと諸侯、つまり一大名と同じことになってしまう。
徳川の系図では将軍は「公」。庶子は一部が「君」、三家などは「卿」、外様は何もつけない。
>>241 初期の家康や秀忠なんかは別として、
将軍自身が政に積極的に関与したケースって、むしろ少ないよね。
庶民の批判は田沼や松平定信なんかの実際の政策執行者に向かったんじゃないのかな。
もしそうだとすると、
将軍自身が庶民の批判の的になったのって、綱吉や吉宗くらいのもんなんじゃないの。
>>234 家康は庶民じゃないよ。土豪松平本家の嫡男。
「人質」生活でも結構優遇されていた。
245 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 12:03:23
とはいえ、家宣なんかは政務に熱心だったけどね。
この人は温厚で控えめな性格だった上、在位が短期間だったから
その他の政務に無関心、不熱心な将軍と一からげにされがちだけど。
246 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 12:06:57
家慶も水野忠邦に命じて改革を行わせたくらいだから、全く政務に無関心ではなかったし、
大御所が亡くなった時点ではけっこう前向きだったと思うが、粘りや気概がなかったんだろうな。
そういう意味では凡庸(あくまで平凡な人という意味)な君主。
家宣の評価で白石の証言は無視できないのだけれど、
その白石が色眼鏡で見てるからなあ。
徂徠なんかも白石の評価が定番にされてるんだけど、実態は違うらしいね。
白石としては前政権、後政権との対抗上、しかも恩人だから家宣を褒めるしかない。
とはいえ、家宣は学問が好きでなかったと、マイナス面も書いているけれどね。
>>239 んー、漏れも宮崎あおいではパグ犬的かわいさは覚えても性欲までは覚えないな。
>>247 伊達家の買収に応じるような白石はダメ学者ダメ官僚。
徂徠じゃなくて重秀だろう?
まあいずれにせよスポークスマン白石を持った家宣の評判がいいのは道理だな。
それを差し引けば人柄の良さ、政治に対する取り組みなど家綱と同じレベルだと思うよ。
文治政治路線の時代では将軍も機関の一つに過ぎない存在になるのかもな。
だから、将軍本人に政治への関心があろうと無かろうと、
普通に将軍職を勤めてる限り、後世から見ると良くも悪くも目立たなくなるのかもしれない。
そういった意味では、家綱、綱吉、家宣と続く文治政治の流れ中で、
綱吉は本当に特殊な将軍といえるのかもねw
251 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/11/23(日) 16:39:18
名前忘れたけど綱吉には変な坊主がついてたらしいから。
>>215 家茂は8年か。
しかしその8年は上洛し、出陣しと密度の濃い8年だったな。
こんな思春期を送った将軍は家康と家茂くらいだろうな。秀忠もか?
>>252 家光や(年齢的に)一世代下の尾張光友、水戸光圀は平気で辻斬りをしてたらしい。
今思えば随分殺伐とした思春期だ。
254 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 20:49:15
家斉って庶民に人気なかったの?
化政文化が発展した時代→町民が活躍→そう悪い政策じゃなかった
ってイメージしてたんだけど
松平はそれはもう厳しかったみたいだけどさ
255 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 20:54:01
一番人気あったのは家宣でしょ。
幕臣に一番人気あったのは家茂らしいね
勝は嘆いて、いつも泣いていたとか
家臣の失禁をかばった話とかな。
本当の話かどうかは知らんが。
>>250 将軍機関説ですな。
江戸時代には菊池武夫とか上杉慎吉みたいなのがいなくてよかったね。
258 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 23:20:51
徳川なんてしょせん三河の山奥のきこりの親分、って表現したのって司馬遼太郎だっけ?
いまでも愛知県北東部あたりには「松平」姓多くない?別に江戸期の大身の末裔でもなんでもないんだよね
なかぬなら 鳥屋へやれよ ほとゝぎす
家斉を風刺した川柳だっけ?
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
というのもあるぞ
>>255 家茂は小栗にも勝にも、つまりタカ派ハト派両方のあくの強い人物に慕われていたから、
本当に幕臣に人気があったんだろうね。
素直でけなげだから守ってあげようという気持ちになるんだろうね。
262 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 01:07:47
c
263 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 03:55:58
264 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 09:59:17
>>254 化政文化で恩恵を受けたのは、庶民じゃ富裕層の商人ぐらいだろ。
地方では一揆が出始めたし、大塩平八郎の乱もあったし。
265 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 15:55:15
11代が50歳くらいで死んだら時代は変わった。
267 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 21:25:58
ベトコン将軍・・・
268 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 21:34:30
家広なんていない。ネラーの妄想の産物だ。
269 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:53:43
じゃ、家廣
270 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 23:37:14
で、おまえらはベトコンを受け入れるのか?
271 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/11/25(火) 00:05:09
越南守にすればいいよ
272 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 12:53:38
>>270 受けいる事はできないだろう
つーか、徳川宗家、御三家、御三卿が黙っていないだろ
273 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 19:04:29
架空の人物でよく盛り上がれるな>家広
274 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 19:45:25
小早川て春日局に毒殺されたのか?
275 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 19:46:42
発狂したんだよ。
276 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 19:49:55
白虎に一票!
277 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:26:06
>>272 その徳川宗家の嫡男がベトコン連れて来たんだよね
宗家は猛反対したが、強引に結婚
我々一般人があーだこーだ言っても何にもならないだろうね
願わくば生粋の日本人である徳川家の男子を養子に迎えてくれたら
いいかげんスレ違な書き込みはやめような。
徳川15代を語るスレなんだよ、ココは。
279 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 09:28:07
未だに外国人を拒絶なんて、哀れな一家だな。
280 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:53:08
>>279 徳川宗家だよ、宗家。
おまえみたいなエタ ヒニンとは違う
281 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:58:58
とりあえず、イエヒロなんていない、架空の人物だ、と釘をさしておく。
282 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:55:02
家廣必死だな。w
おまえら、あまりスレ違いな事ばかり書くと、家基公がお怒りになられるぞ。
284 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 07:07:21
9代は小児麻痺の後遺症だね。
千代田城内には家基公をまつる神社があったそうな。
286 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 18:35:04
1853年、ペリー来航の直後に12代家慶が亡くなったとき、
家慶には嫡子家定のほかにもう一人、前年に生まれたばかりの長吉郎という男子がいた。
ところがこの長吉郎は、父の死の直後に後を追うように亡くなっている。
タイミング的に家定サイドの謀略の匂いがプンプンするんだが・・・
一橋派の方が怪しいと思う
288 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:21:20
長吉郎が普通に成長しておれば、家定の後継者は長吉郎で決まり。
慶福や慶喜の出る幕はなかった。
289 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:30:52
静岡の田安徳川家亀之助
(徳川家達)
イギリス留学
帰国後、縁談で元公家の近衛娘と結婚
一度、総理大臣の候補者に昇るが
徳川時代彷彿させると断り
赤十字社の社長歴任し昭和15年死去
290 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:37:18
松平容保(会津藩主)
戌辰戦争後 生かされ 江戸に幽閉 解かれた後
徳川家康 日光東照宮 宮司になる。
徳川埋蔵金は 日光東照宮間下に
隠されているのではないかと勝手に思っいこんでます。
291 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:13:34
徳川埋蔵金は
徳川家康の墓に
292 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:25:36
慶昌が普通に成長しておれば慶喜は単なる水戸の庶子でしかなかったろう。
294 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:22:40
20代目宗家:徳川・バン・ドン
295 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:14:53
>>293 いや慶喜は幼少時より複数の大名家から養子縁組み話しがあったそうだ。
慶昌存命でもどこかの大名家当主におさまってるでしょう。
その時は、官軍として西郷の指揮下で幕軍と戦ったかもしれんな。
皮肉な話しだが。
296 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:21:07
>>263 徳川将軍家の江戸城の再現CGは、無いのですか?。
297 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 13:43:05
徳川将軍家の日常生活は、
何じゃかんじゃと先例や規則に?縛られて、
窮屈そうなイメージがありますが、
実際の徳川将軍家の日常生活(まあ、時代や将軍個人によって変わってくるでしょうが…)は、どんな日常生活を送ってたの?。
現在の天皇家の日常生活をイメージすればいいの?。
298 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 14:50:40
暗殺可能性?
家康→豊臣残党による暗殺
秀忠→病没
家光→病没
家綱→病没
綱吉→正室による毒殺
家宣→吉宗による毒殺
家継→↑同じ
吉宗→病没
家重→病没
家治→病没
家斉→病没
家慶→病没
家定→篤姫による毒殺
家茂→慶喜派による毒殺
慶喜→病没
以上です。
299 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:55:58
>>297 起床(午前5時〜6時頃)→洗顔→髷を結いながら朝食をとる→
髷結いは時間がかかるので朝食後、医者の診察をそのまま受ける→
大奥へ移動→御台所から挨拶を受ける→仏壇に礼拝→中奥に戻り政務
→昼食→政務(ここまでが概ねの毎日のスケジュール)→何もなければ
夕食まで自由時間(書を読んだり書いたり、乗馬など)→大奥入りの
時は大奥へ、行かない時は小姓と将棋や囲碁をして楽しむ→就寝(午後
9時頃)
歴代将軍の命日には大奥入りは控える。
300 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 21:18:43
>大奥入りの時は大奥へ、行かない時は小姓と将棋や囲碁をして楽しむ
ぶっちゃけ、将軍本人にとってはどっちがいいんだろうか?
女だらけの大奥の方が楽しいのか、男同士の方がリラックスできるのか?
301 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 21:33:27
>>300 大奥は規律が厳しいし、御年寄等の難しい役職の人がいるので(将軍は、大奥の御年寄には気を遣っていた。)、
かえって、気心が知れている小姓等が居る中奥で過ごす方が楽だったのでは?。
…もっとも、大勢の側室を持ち、子供を五十五人も産ませた一代家斉あたりは、大奥で過ごす方が楽しかったかも知れんが…。
302 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 21:36:01
>>301 ×一代家斉
〇十一代家斉
に訂正。
…すんません…。
303 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 21:47:43
>>299 小姓や小納戸衆は、交代勤務だから週休は結構ありそうだし、
無役の小普請組なんかは、毎日が日曜日って感じだが、
将軍は、毎日が出勤日だから、さぞ大変だっただろうなぁ〜。
…そういえば、小姓や小納戸衆は、もしなれたにしても、
多忙な公方様だけにはなりたくないと話し合っていたらしい…。
304 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:31:15
>>303 十一代家斉は、50年間も将軍の座に居座っていたから、
将軍在職中の50年間、ずっと出勤日だったという事か…。
…いくらタフガイな家斉とはいえ、さぞかし、きつかったのでは?。
>>298 によれば、家定が毒殺されたってあるけど本当なの??
背景とか教えて下さい
306 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:45:55
>>305 十三代家定を毒殺?して、
誰が一番得な立場に居るんかな?。
307 :
日本史@名無しさん:2008/11/30(日) 23:17:30
>>306 篤姫を送り込んだ薩摩などの一橋派ですか??
だけど、結局将軍は家茂になったんですよね
それで、その家茂も目障りだから一橋派が消したって事ですか??
308 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 01:06:34
>>306 大老井伊掃部頭直弼の線はどうかなぁ?。
将軍家定の後継に紀州慶福を推してたから、
将軍家定が消えて、紀州慶福が次期将軍に就任すれば、
擁立者である井伊大老の思いのままの政治が出来るんだが…。
…ちと考えすぎかなぁ?。
309 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 01:31:35
いや毒殺じゃないかも。
篤姫が腹上死させたんじゃないかな。
腹上死なら夫婦和合の結果だから、誰からも怪しまれないはず。
篤姫のテクは、養父斉彬にタップリ仕込まれて嫁いできたに違いないはず。
310 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 07:29:00
>>309 …家定って、確か病弱で癇癪持ちだったのでは?。
…病弱な将軍が、腹上死ってのもどうかと思うが…。
311 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 09:47:52
そういえば、やたら脚気であの世に逝ってしまう将軍が結構いるが、
将軍の食事って、そんなに贅沢な内容だったのかな?。
312 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 18:19:50
江戸開城後、徳川宗家は静岡70万石の大大名になったわけだが、
そのクラスの大名なら大奥なみとはいかずとも、ある程度の規模の奥組織があるはず。
大奥も改組縮小の上で、静岡藩の奥組織にそのまま移行できなかったのだろうか?
亀之助がまだ幼少とはいえ、女主人の篤姫はじめ、本寿院やら実成院もいたのだから、
そういう組織が維持されてもおかしくないと思うのだが。
313 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:43:38
20代目の名前が気になる
314 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:28:27
>>313 徳川宗家十九代予定者?家広に、世継が居るの?。
315 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:50:16
家定は何で三度も御台所を迎えたんだろうか?
吉宗、家重のように御台所不在でもいいだろうに。
316 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 00:25:39
>>311 贅沢な食事云々より、大正時代くらいまでは脚気は日本の国民病だったよ。
結核・脚気・癌・中風あたりが日本人の死因トップクラス。
317 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 06:50:17
15代将軍それぞれにキャッチフレーズをつけましょう!
318 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 19:05:54
とりあえず、イエヒロなんていない、架空の人物だ、と釘をさしておく。
319 :
正義VS法:2008/12/02(火) 20:01:54
徳川家が天皇家を打倒できる瞬間は、大阪夏の陣で豊臣氏が滅んだ瞬間の
1615年から、家康が死ぬ1616年までの間であったように思う。
このタイミングなら、豊臣氏討伐の邪魔をした容疑で、徳川皇帝家設立と
天皇家のお家断絶をいいわたせば諸大名はしたがったであろう。
その後の時代は神君家康公が天皇家にたいして決定した仕置きが禁中並び公家
諸法度なので、これ以上の権威剥奪は、よほどの英雄が現れないかぎり
不可能であると思う。しかし、徳川家は権威においてトップにならなかった
のがよかったかもしれない。フランスのようになれば、せっかく権威でも
トップに上りつめても、悲惨である。
>>319 まあその頃の朝廷は日本神道の教祖様であり大名の格付け機関のような存在だったわけで
利用出来るものは最大限に利用するのが徳川家康という男だったわけで
とりあえず家康〜秀忠までは
葵 徳川三代見ようぜ マニアックにえがいてるから
おまえらもはまると思うよ
322 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 23:25:02
初代家康は、外国との貿易や米相場等で、
しこたま儲けていたそうだが、
それ以降の歴代将軍は、
家康のやり口を継承しなかったのかねぇ〜?
>>322 家康のようにキリスト教蔓延防止と貿易とを両立させる頭脳がありませんでした
324 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 00:17:15
家康はウィリアムアダムスを家臣にしてたよね
秀忠以降もそういうのがあれば バカな鎖国なんてしなくてよかった
325 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 00:40:59
326 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 07:04:57
>>322 八代吉宗は、米公方のあだ名があっただけに、
毎日の米相場の動向に注目して、反古紙に米の値段を書き連ねていたそうだが、
それだけ米相場に関心があれば、
米相場の情報を利用して、一儲け出来そうだったが…。
>>324 どちらかと言うとあの当時は総理大臣=秀忠、
大統領兼外務大臣=家康みたいな感じじゃなかった?
秀忠としては、大御所とはいえ家康が下手をすれば
伴天連共に国土を侵されかねないような勝手な事を
しているのを内心苦々しく思っていたかもしれない。
328 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 19:54:47
>>323 織田信長が一向一揆を徹底的に弾圧したように、
家光の頃はキリシタンを徹底弾圧したから。
一向一揆は国内に根付いた仏教勢力との争いだったから外国は関係なかった。
むしろ、一向宗を排除するためにキリシタンを保護した。
島原の乱が家康時代に怒っていたら、家康は激怒、
鎖国どころか国内中の外国人やハーフに対する大弾圧をおこなってそうだ。
鎖国時代もキリシタンと関係のないオランダや清、朝鮮とは貿易してただろ。
329 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 20:48:00
330 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 09:58:36
忠長が生きてれば 直系の血は吉宗で切れることは
なかったろうに 家光ってアホなんだね
徳川時代の将軍は自分が一番偉い存在と思って天皇なんか歯牙に
もかけないでしょ。
将軍宣下は地鎮祭で神主呼んでお払いするような感覚
>>331 宗教として考えれば地鎮祭で神主を呼ぶ側(信徒)より神主の方が格上ってか
スレが違うぞ
333 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 12:17:32
>>329 将軍の食事って、
どんな物食ってたんかねぇ〜?。
やっぱり、御馳走攻めだったんかねぇ?。
334 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 13:45:29
脚気になるような、ビタミンBの乏しい食事だろ。
335 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:02:56
今年の大河ドラマでは、家茂派と慶喜派の有名な後継争いが描かれていたけど、
家慶の後継が家定じゃなくて慶喜になっていたらどうなっていたのかなぁ・・・
336 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:07:17
歴史にif、もし〜だったらは無いです
337 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:24:11
ウィキによると
家慶は家定ではなく 慶喜に継がせたかったみたいだね
家定は自分より、聡明な顔の慶喜に嫉妬したとか・・
家定って顔にアザあったんでしょ
13代将軍が慶喜だったらという前提で色々想像してみると
阿部正弘主導の幕政においては、有力外様大名との協力関係が築かれていた訳だし、
慶喜が13代将軍になっていれば、
(史実上の安政の大獄後と比べれば)比較的安定した政権基盤の下、もっと彼の能力を活かしきれたのかもな。
もしかしたら開国路線も幕府主導で各藩が共同歩調を取れて、倒幕運動もなかったかもしれない。
お父さんが強硬な攘夷論者なのが懸念材料ではあるけどw
ただ家慶の直後だと慶喜はまだ10代半ばだから
いくら聡明とは言え、黒船来航時の混乱の中、
慶喜自身がリーダーシップを獲れたかどうかは疑問では有るな。
すると幕政に参加することによって発言権を増したであろう有力諸侯に対して
将軍家の威光を保ち続けられたかどうか分かんないよね。
仮に数年間できちんとした政治力をつけた場合だと、
史実では慶喜は諸侯会議を無力化させるような行動もしていた訳で
有力諸侯との関係がどうなったか結局分かんないな^^;
そうなると政局は波乱含みになりそうだし......。
まぁ、慶喜が将軍在任中には倒幕にまでは至らないような気はするはするけどね。
ともあれ、やっぱりこの前提条件だとifが多すぎるな^^;
339 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 23:16:37
慶喜が13代になれば、水戸の父ちゃんがとんでもないことしただろうなー。
水戸家を正式な副将軍家として宣下を受けて、それに見合う石高へ加増させたりと…。
それを不満とする紀尾井あたりが、朝廷を担ぎ出して有力外様を抱き込んで…。
そしてペリーがやってきて、幕府は朝廷に攘夷を約束させられて…。
結局、過程は違えども結論は変わらないかもな。
340 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 14:31:20
そろそろ議論が出尽くしましたかな?
341 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 16:31:27
>>339 なにしろ大奥に押し入ったヒヒ親父だからな
慶喜の弟作りをやらかしたかもしれん
342 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 19:32:13
家斉が1850年代中頃まで生存(80代前半)し、
家慶が1870年代中頃まで生存(80歳くらい)していたら、
確実に徳川幕府の崩壊は免れただろう。
せめて家慶・家定父子が家康なみの寿命(70代)に恵まれていたら、
史実とはだいぶ違っていたはず。
343 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 19:35:02
あと家慶の実弟で御三家を継ぎ、その中では比較的長命だった紀伊斉順・尾張斉荘が、
兄よりも長生きしてたら将軍継嗣問題もおこらなかっただろう。
344 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 19:55:12
家斉が史実より長生きしていたら、幕府の財政がもっと酷くなるような気もするけどな。
水野忠邦がどの様な形でからんでくるかによるか。
345 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 22:54:50
宮崎あおいが篤姫役に選ばれたのは名前が「葵」だからなのか?
346 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 23:33:02
それもあるだろう
347 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 01:21:48
後家でも姫って呼ぶんかいな?
348 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 09:26:34
篤姫のことならば後家じゃない。
後妻だな。
姫と呼んで宜しかろう。
349 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 10:58:30
篤姫は後妻であるが後家でもある
後家とは夫を亡くした妻のことを云うらしい
350 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 22:40:30
まあ、その通りではあるが、篤姫は家定が逝去してからは、姫と呼ばれてないはずだ。
篤姫に限らずだが後家=仏門に帰依。
えーと、篤姫は何とか院だよな…。すまんど忘れした。
351 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 22:46:42
家定が死ぬ前も大奥で姫なんて呼ばれてねーよ
352 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 23:03:07
嫁いだのに姫ってのもな・・・
353 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 13:05:14
篤姫って家定公を殺したんだよね
354 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 18:34:08
親孝行将軍コンテスト
綱吉
家康
慶喜
356 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 20:39:14
>>354 吉宗もあまり語られていないが、母を江戸城に呼び寄せている
から親孝行しているんじゃない?
357 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 21:29:32
吉宗の母親って忍者だったって本当?w
358 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 21:54:16
吉宗の母親は、山田邦子。
359 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 21:56:11
山田邦子の息子は西田敏行かいw
360 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 13:09:29
吉宗の母親はブスって言われてるからね。
でも「昔、部屋住みだった自分を忘れるな」と
いつも息子に話し聞かせた良い母だった。
>>359 マツケンと言わないところがまたマニアックなw
363 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 16:47:48
休憩は終わりだ
364 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 11:27:57
終了
365 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:38:45
このスレッドは365を超えました
【完】
366 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:28:32
>>356 吉宗の母は紀伊の町人の出身だったと言われる。
紀州藩の江戸屋敷には住んだが江戸城大奥には住んでいないはず。
江戸城に登城して吉宗に対面したことはあるが
大変謙遜の心が強い人で遠くから息子に拝謁したという。
367 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:48:39
とりあえず15代の中で評価すべき将軍はだれ
368 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 04:42:50
>>367 とりあえず初代家康、二代秀忠、八代吉宗辺りは高い評価を与えても良いだろう。
369 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/19(金) 10:55:24
オレは
1位・家康公
2位・秀忠公
3位・家宣公だな。
家光と吉宗と慶喜は過大評価されすぎ。
オレの中では十五代目は慶頼。
370 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 11:53:27
>>369 確かに2代目に政治的能力が無ければ3代目以降は不安定だっただろう(戦は下手だったが)
6代目は、せめて10年くらい生きていたらよかったが、在位が短かったのが残念。
吉宗のおかげで持ち直すが、その後DQN息子と清水の養子のせいで・・・
371 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:28:43
6代目が10年長く生きてたら、新井白石はどうなっていただろう?
学者は、欲も執着心も無いからな。
372 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/19(金) 14:00:40
むしろ間部詮房の方が気になる。
373 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 17:59:05
>>371 経済オンチで学者の新井白石が実権を握ったままだったら、
財政面から幕府はヤバそうな気がするが…。
374 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 13:03:41
神君家康公って大阪より西、下野小山より東に行ったこある?
375 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 13:13:33
西は名護屋城まで出かけたと思うけど
竹千代だった将軍と
将軍になれなかった竹千代は
それぞれ何人ですか
377 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/22(月) 11:45:31
初代・・・竹千代
二代目・・・長松丸
三代目・・・竹千代
四代目・・・竹千代
五代目・・・徳松
六代目・・・虎松
七代目・・・鍋松
八代目・・・源六郎、新之助
九代目・・・長福丸
十代目・・・竹千代
十一代目・・・豊千代
十二代目・・・敏次郎
十三代目・・・政之助
十四代目・・・菊千代
十五代目・・・七郎麿
378 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/22(月) 11:49:18
将軍になった竹千代は4人。
将軍になれなかった竹千代は・・・
信康とか家基あたりか?
ちょっとわからん。
誰か代わりに調べて下さい。
379 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 20:54:11
>>366 浄圓院は江戸城入りして二之丸に居住していたはず。
奥入りしなかったソースは?
将軍になれなかった竹千代は
松平信康
徳川家基
徳川家斉の長男の竹千代
徳川家慶の長男の竹千代
の4人だと思う。
381 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:12:52
11代から大いに狂ってしまった。
9代を弟の田安殿にすればよかった。
長幼の序も最後は意味無かったし。
382 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:25:48
秀忠はどうして忠輝を追放したのか
383 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:04:37
徳川将軍は噛まなくなったから体が弱くなり滅亡したと何かの本に出てたな。
確かに後半で健全と言えば紀州育ちの吉宗や常陸育ちの慶喜くらいだな。
2人共田舎育ちで玄米食か
384 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:10:52
>>382 忠輝が兄の命令に従わなかったから。
将軍の供奉に従わず、船遊びをしていたり。
忠輝はもとより大外様大名伊達政宗の娘婿であったから
横暴な態度は幕府を脅かすと思ったのだろう。
385 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:28:29
>>383 贅沢をした十一代将軍家斉は、
六十九歳まで長生きしているが…。
彼の場合は、どんな秘訣があったんですかねぇ?
386 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:50:04
家斉は今で言うチーズのような乳製品を好んだり生姜を毎日食べていたらしい。
遊び人のイメージだが晩年は酒を控えていたとか。
家斉は偏頭痛の持病持ちだったが、水野出羽は偏頭痛をピタリと止める
388 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 15:35:46
家斉が、乳製品を食おうが、生姜を食おうが勝手だが、
幾らなんでも、五十五人もの子供は、
明らかに造りすぎだな(^-^;)。
将軍家には、男子は世継とスペアに2,3人居れば充分だと思う。
女子は、政略道具として?使い道があるから、
ある程度の数はいるかな?
389 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:09:59
家斉にそんなに子供(特に女子)が居たんなら、
姫の内の一人を、
天皇家に入内(女御としてか?)させて、
朝廷の統制を強化する一方で、
幕初の頃のように、
天皇家の外戚になって、
将軍家の権威を高めるといった政略(まるで、摂関政治みたいだが…)を採用すれば良かったんだが…。
既に家斉が太政大臣、家慶が右大臣、神田橋老人治済が准大臣になっており、これ以上権威を高める必要もなか
391 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:14:03
>>389 徳川家が朝廷を気にしていたのは創立期の3代将軍までと
幕末の14代将軍頃から。
3代将軍徳川家光が入京して妹婿の後水尾天皇に拝謁したのを最後に、
14代将軍徳川家茂が義兄の孝明天皇に拝謁するまで、
4代〜13代の将軍は天皇に会ったことがないのはもちろん、
上京すらしたことがない。
幕府は安定期にあり、
内裏で軟禁状態にある天皇に娘を嫁がせる必要がなかったのだろう。
特に、江戸期には五摂家が摂関と天皇の女御を交代で出していたので
ここに武家が割り込むと話がややこしくなる可能性もあった。
徳川幕府は公家の官職である摂政や関白を欲しなかったのと同様、
初期をのぞいては
公家の娘の最高の地位である后の座も欲しなかったんだね。
392 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:05:44
でも、正室には皇族や摂家の娘を迎えているね。
393 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:40:34
武家(大名)は全部家来=目下だから、どうしてもそうなる。
394 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:03:29
しかし公家の女は皆早死にじゃのぉ
395 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:40:23
>>394 そうでもない気も・・・
・鷹司孝子(本理院;3代将軍家光室)=享年73歳
・近衛熙子(天英院;6代将軍家宣室)=享年74歳
・鷹司信子(5代将軍綱吉室)=享年59歳
・一条美賀子(15代将軍慶喜室)=享年60歳
将軍の平均年齢と比べて特に早死にというわけでも。
8代将軍吉宗室理子女王、9代将軍家重室増子女王は
寿命というより産による死亡。
396 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 13:26:21
二代秀忠の正室以外に
将軍の正室が世継(男子)を産んでいないのには、
何か理由があったんですかねぇ〜?
姫(女子)を産んでいる正室は、それなりにいるんですが…。
397 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:05:26
>>396 夭折を含めれば子供を生んでいる御台所はいる。
ただ、乳幼児の死亡率が高くて正室の産んだ子が生き残らなかったのと、
高齢出産が制限され、一定の年齢後は将軍の寝所に侍らない風習があったために
必然的に正室が産む子の数自体が少なかったことがあげられる。
これは側室でも同様で、将軍の子を産んだ側室でも1人が産んだ数はせいぜい1人〜3人。
秀忠の正室お江与は秀忠との間だけで7人の子を産んだが、
このうち半分は30歳を過ぎてからの子で、末子の和子は35歳の時の子。
大奥制度成立以降、お江与のように将軍の子を7人も生んだ女性は
正室でも側室でも存在しなかった。
398 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:19:24
側室ならいるだろ。
399 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:41:30
>>398 30超えたら寝所に侍れなかったせいもあり
側室でも7人も子を産んだ女性は江戸時代の大奥に一人もいないよ
将軍も女性の誰かを特に尊重して生涯寝所に侍らせて寵愛するといった
夫婦愛的なこととは大奥は全く無縁で、
あっちに手を出しこっちに心代わりをしと
同じ側室を何年も召し続けるということがなかったし
>>396 春日局関係の本読むと出てるよ。来たらすぐに丸薬がなんか与えて、
妊娠できない体にさせちゃう。嫡子ができたら公家の口出しがウザイから。
貴族の姫は柳腰で、元々妊娠しにくい人もいたろうが。
秀忠室のころは、まだほとんど戦国だったからね。大奥が出来きってない。
401 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:58:15
>>400 丸薬が与えられたなんて、小説の読みすぎ。
公家の姫がそんなに嫌なら、大奥に入れなければ良かっただけだし。
大名の息女でも迎えておけばよかったでしょう。
実際には、公家出身の正室や側室が妊娠・出産した例はある。
大奥では側室すら子だくさんはいなかったのだし。
>貴族の姫は柳腰で、元々妊娠しにくい
これは根拠がない。
武家でも公家でも町人の娘でもいいから大奥に入れていた徳川将軍家は
何度も途絶え、他家から養子を入れた。
それに対し、基本的に天皇に侍る女性は側室も全部含めて
公家の姫のみだった天皇家は、
徳川将軍家よりはるかに続いている(1600年ぐらい続いてる)。
公家の姫のほうが生命力が強かったことになる。
てか、結婚してもセクロスしなきゃいいわけで…相手に困るわけでなし
何もわざわざ薬飲ます必要がないわな
歴代の将軍正室の中で、近衛熙子も真宮理子も比宮増子も五十宮倫子も楽宮喬子も出産もしくは妊娠
してるし、
次期将軍が出なかったのは、単に偶然そうなったんだろな
403 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 07:44:59
>>399 屑め、嘘つくな。
家斉側室の速成院、本性院は7人、
さらに家斉側室の皆春院は8人産んでいる。
404 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 14:34:26
徳川将軍家には、天皇家が所有している
三種の神器のような物があったんですか?
また、あれば、どんな物が三種の神器みたいな
扱いを受けていたのでしょうか?
405 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 18:54:35
徳川宗家当主が代々受け継ぐ物として、徳川家康が所有していた
大馬印と歯朶具足があり、特に歯朶具足は幕府の儀式として毎年、
将軍以下幕臣が礼拝し、将軍代替わりごとに複製が作られたりしている。
406 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:48:52
徳川家康の遺愛刀だった本庄正宗は、
四代将軍家綱の時に、紀州頼宣から徳川将軍家に献上されて以降、
徳川宗家の三種の神器のように取り扱われ、
常に将軍の居間に置かれていて、
徳川将軍家を継承する時に、
金扇の馬標と共に、譲り受けていたそうです。
…ということは、徳川将軍家の三種の神器に相当する物は、
さしずめ、徳川家康伝来の歯朶具足・金扇の馬標・本庄正宗の三点セット
が、
徳川将軍家の三種の神器に当たるのかな?
家斉は明君だよ。
408 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:14:04
家斉名君説は当時からあった。
家斉が存命中に正一位という高位に叙され、その在位期間も長く太平の世が続いたことによる。
409 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:07:41
う〜ん、どーだろね・・・
幕府サイドから見れば、幕府の財政破綻をさらに促進した愚将軍に見えるけど、
まぁ庶民にとってみれば、吉宗や、家斉前期の松平定信時代の様に
上から締め付けられるようなことがなかったからラクだったかもね^^;
まぁ本人の能力とは関係ない話ではあるけれどな。
410 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:17:54
>>408 どいうところが名君なの?
セックル将軍しか印象ないけど
411 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:56:07
>>408 生前に、正一位の極位に昇叙した
徳川将軍はいませんが…。
412 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 18:38:36
家斉は、水野忠邦の育てたショボい菊を誉めたり、家臣が寒いから酒を勧めたのに
「そこで呑まぬが男よ」
と言ったエピソードから見て生気溢れる健康な将軍て感じ。
暗君ではないが明君でもない。
413 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 19:37:29
ベトコンに子供できた?
414 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:44:03
慶喜の実子は何で当主にならなかったの?
隠居した時点で慶喜は子なし。
家達が宗家を継いだのちに慶喜は別家を立てて公爵になる。
416 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 15:56:06
徳川幕府の権威権力の強化の為に奔走して多忙を極めていたから、
小伜や小娘を産ませるような余裕が無かったんでねえの?
417 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 14:57:28
とりあえず慶喜はもっと評価されるべき
418 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 15:38:16
慶喜の判断ミスで、いったいどれだけの命が失われたのだであろうか。
為政者として、低ランカーと言ってもよいのではないだろうか。
慶喜はあくまで眼代ですから。緊急時の。
北条の長時や政時と同じ。
たとえ当時子供がいても継承できない。
>>416 慶喜が隠居する前に作った子は夭折していた、が正しい。
と言っても、女子だが。
慶喜は将軍になる前の安政2年(1855年)、正室の一条美賀子と結婚。
慶応2年(1857年)慶喜、将軍に。
翌慶応3年、慶喜の将軍在任中に美賀子が女子を産んだがこの子は生後5日で死亡。
慶喜の子を10人産んだ新村信、13人産んだ中根幸はいずれも慶喜隠居後の側室。
421 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:10:15
家綱って影薄いよな
在位は30年間近いのにね
423 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 20:16:34
419の意見は違う
長時たちは執権であっても北条氏の得宗ではなかった。
執権は鎌倉幕府の公職
得宗は北条氏の惣領
慶喜は正式な徳川家の惣領
>>423 慶喜は「正式な」総領ではないよ。
家達も先代扱いしていない。
総領か否かというのは判断が難しい。継承する職や権能、物品だけで決める事ができない場合もある。
平時ならいざ知らず激動時は特に。
一番身近な同時代の徳川将軍家の人々が慶喜を正式な歴代に加えてない以上、
正式な総領ではない、とも言える。
だいたい「亀之助を後継ぎにする」という条件付きで大奥を納得させている時点で
慶喜の子に継承権は期待できない。
426 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:06:39
じゃ、惣領は誰なんだ?推測で否定した訳でもあるまい
今迄を読めば明白だと思うが?
言っておくが俺は慶喜が総領でないとは一言も言ってないよ。
場つなぎだ。「正式な」総領と「見なされていなかった」。
特に鳥羽伏見以後は完全に徳川存続が明確になる迄の繋ぎ。いざという時は首を切られるからね。
それから「同じ」と書いたから悪かったが、北条とまったく同じとも思っていない。似てるとすればよかったのかな。
慶喜から亀之助への継承を年表にすればわかるよ。
まあそういう考えかたも当時からあったということだよ。
勿論歴史上では慶喜があの時期の徳川宗家当主だから、総領だというのが普通だね。
ただこうした慶喜の微妙な立場を理解しておくと、彼の行動にも情状酌量の余地はあるんじゃないかなあ。
429 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:49:33
慶喜の将軍就任って血筋から考えると、
室町幕府における細川氏とか斯波氏が将軍になるような感じなのかなぁ
430 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:12:54
結局は結果論なんだよ。
慶喜が徳川の中継ぎのような印象を受けるのは鳥羽伏見で賊軍になってその後に引責辞任してるからだよ。
家達の実質的な後見人だった篤姫が慶喜を嫌っていて、徳川宗家と慶喜を分離したのも大きい。
慶喜が権力を維持出来たら田安亀乃助に絶対に将軍職は回らなかったはず
慶喜が正統な徳川家の惣領だったのは間違いない。
431 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:24:10
20年位前にやってた大河ドラマ「八代将軍吉宗」の家重役の演技がいまだに脳裏から離れない
めっちゃインパクト強かったw
慶喜が中継ぎであるこては板倉や勝、大久保、松平勘太郎などの態度を見て感じる。
彼を支持する者は少なかったから、苦難の道則を歩まされた訳だ。
ま、詳しくは『幕末の将軍』を読んでちょ。
ともかく従来の家総領、将軍とは全く違うタイプ。
近代政治家の先駆だね。
>慶喜が権力を維持出来たら田安亀乃助に絶対に将軍職は回らなかったはず
それはあったかもしれない。ただし幕臣達の支持を取れないと無理だろう。
結果論といえば得宗もそうで、経時から時頼系に得宗が移動したのはまさにそれだと言われている。
これも経時の遺児が幼く、時頼が混乱をよく押さえ、重時や政時などの支持を得たから
で、もしかしたら経時の遺言は別だったかも知れない。
時頼が実績を見せ、北条長老や御家人の支持を得たように、慶喜ができたら、慶喜系が総領となれたかも知れない
とゆことで
慶喜は北条長時の立場に近いが、状況によっては時頼になれたかもしれない
亀之助は隆政・頼助(二人とも経時遺児)みたいに歴史から忘れられた存在になっかもしれない
連投したが
まあ歴史にはいろんな解釈があるということだよ。
俺は君の意見を否定してない、つか君が述べた方がポピュラーだろう。
だけど俺の述べたような解釈も昔からあって、
ぶっちゃけ慶喜は幕末ま明治も嫌われてたんだな。
あれだけ有能な人が、カリスマだけないためにずいぶん苦労した。
宗家家督を継いでも、実績(長州のケリ)をあげてから、立場を強くしてから将軍になろうと画策
いわゆる「捩上げの酒飲み」みたいな真似をしたのも、そのあらわれだろうね。
これが本来の総領なら、いや言葉が悪いか、総領の家に生まれていれば、こんな苦労はしなかったろう。
俺は慶喜は国王ではなく宰相の器だったと思う。
国王は家茂や昭和天皇のタイプかな。カリスマというか、徳がある。
>>429 先代より年上、または上の世代が後を継ぐのは本来ではないからね。
徳川では吉宗がそう。
家定の後を決めるのでも、田安慶頼と尾張慶勝は年齢で外された(春嶽の証言)
慶喜の場合も吉宗に近い。足利でいえば関東公方家か斯波だろうね。
吉宗と違うのは先代の遺言もはっきりしてるし、次の世代もちゃんといた事。つまりは亀之助。尾張の元千代も候補だった。あくまで名前があがっただけだけど。
だから一部で眼代だと言われるんだね。
俺は太政大臣と准王(准三后とも違う)も兼ねるから、
徳川幕府よりも上。もちろん世襲(甥を養子にする)。
天皇は置物。議会も政党も国民・住民投票も無い。
超人の俺が指導しない限り日本に夜明けは訪れない。
437 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:22:13
徳川家康を始祖とする第一徳川将軍家(初代家康〜七代家継)、
徳川吉宗から始まった第二徳川将軍家(八代吉宗〜十四代家茂)、
さらに、上手くいけば、徳川慶喜から始まる第三徳川将軍家のスタートが切れる筈だったんだが…。
吉宗も家康の子孫なのだがね。
>>438 慶喜もね。
>>437氏は恐らく、秀忠系から紀伊系、水戸系への変遷を言いたいのだろう。
だけど438氏が指摘している通り、男系で繋がっていれば変遷とはならない。たいていの外国の王朝もね。
漢の劉氏みたいに断絶があれば別だけど。
例外はイングランドのプランタジネットで、ランカスターもヨークも単なる分家なんだが、それぞ
れを別の王朝に数えている(むろんリチャード三世迄をプランタジネット朝とする歴史家も多い)。
これはそれぞれが王位を力で奪ったからで、吉宗は勿論、慶喜にも当て嵌まらない。
ただ慶喜が自分の子孫に総領権を伝えるとすれば、クーデタに近いものがあるだろうから(なにせ
本来の宗家の血統は別にあるから)、その場合は第二徳川家みたいに言われただろうね。
>439
別にイギリスが例外というわけじゃなかろう?
フランスだって、ヴァロワ家もブルボン家もカペー家の男系の分家だよ。
441 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 09:27:52
>>435 尾張藩の継友が将軍になれなかったのもそれが原因だな。
五郎太→継友と逆相続だし。
442 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 18:11:40
443 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 09:06:33
徳川将軍家の中で一番良かったのだれ
444 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 11:47:31
まあ家康だろ
445 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:13:30
吉宗だろ
447 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:20:25
慶喜だろ
448 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:21:08
オットセイかも
449 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:33:38
西洋では庶子はその家の子に数えないから
父系で血が繋がっていても別家になる
450 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/09/01(火) 01:45:24
451 :
日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:14:10
家康以外考えられないって
徳川将軍家ナンバー1
実は秀忠
453 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 14:30:51
慶喜はもっと評価されるべき
大阪城とか天狗党討伐がインパクトでか過ぎなだけで、他にも色々やってるんだ
評価してもいいと思うんだが
454 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 06:09:36
二枚舌のヘタレやん
455 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:41:05
大政奉還後も徳川が実権を握るなんて、建前や名目論の恐ろしさを知らない子供の発想だぉ
456 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 01:57:13
どっかの本では薩摩藩城代家老の小松帯刀が大政奉還に賛意を示して
摂政に受理するよう働きかけてまでくれたから
大政奉還で薩摩も矛を収めたと慶喜が考えて緊張を解いたと書いてあった
457 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 13:24:51
幕藩体制は鎖国を前提に成り立っているから開国した段階でアウト→幕府沈没
458 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 14:08:06
小泉純一郎は例えるなら綱吉。
指示されない法令でも強引に制定(生類憐みの令)郵政民営化・医療福祉政策など。
お気に入りの者を重用(側用人に柳沢吉保)建部勉・小泉チルドレンなど。
己の意の侭にならない者を罷免(堀田・酒井など例え譜代で重職に在っても)田中真紀子・亀井静香・郵政民営化反対議員など。
社会的弱者は切り捨て(荻原重秀?の経済政策)規制緩和・竹中平蔵など。
安倍と福田は家治。
殆どを家臣任せ(何を進言しても「そうせい」としか言わないので「そうせい様」のあだ名)
麻生は家重・家斉・家定
遊ぶ事に関しては長けている。(家斉の豪勢な生活)
感情剥き出しで幼稚、人心を掌握する魅力が無い。(知恵遅れの家定は三十路過ぎてもガチョウを追い掛け回して遊ぶ)
>>455 幕末は建前が現実になってしまった恐ろしい特殊な時代だと思うけどな。
460 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 17:50:18
支持されないというが小泉人気は今でも高いよ
切り捨てというが民主党のようなバラマキのほうがおかしいだろ
461 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:34:10
>>459 幕末が特殊な時代だとは思わない
馬鹿馬鹿しいけど権力闘争は建前論や名目論が結構重要なの
462 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:45:36
家定が痴呆だとか知恵遅れとかいう俗説がまだまかりとおってるのか。
家定に仕えていた近臣の証言とか、ハリスが好印象を書き残していることから、
政治的には無能でも、一個人としては普通の知能と人格の持ち主だろうに。
463 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:50:27
司馬遼あたりが面白おかしく脚色して小説に書いたせいもあるけど、
一橋派サイドの風聞で必要以上に貶められてる気がする。
明治になってから、旧近臣の朝比奈某が旧事諮問録のインタビューで答えたように、
ごく普通の人だったのに、ことさら愚者扱いされてるのは不憫すぎる。
いわゆる名君賢君と比較したら格段に劣るにせよ、一個人としては平凡な普通人だったのに。
464 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 20:13:50
庭で鴨を追っかけたとかの話も、どっかの新聞の連載小説で始めて出た話らしいじゃん?
家定可哀相に。
>>461 それはわかるんだけどね。
江戸時代後期から国学者や公家が細々と唱えていた空虚な名目が、
幕末になると、雄藩や志士たちの手で現実になっていく様は恐ろしいものがあるよ。
しかも、大政委任論のもとをたどれば、徳川綱吉の文治主義に行き着いてしまう。
徳川家が実力で手に入れた天下。それを権威づけるために綱吉は朝廷に頼った。というか、頼らざるを得なかった。
以降、尊王論、大政委任論の理論が着々と積み上げられる。
467 :
日本@名無史さん:2009/10/03(土) 00:17:04
元和の大殉教、天草の乱でググったが
凄まじいな・・
拷問や虐殺の詳細を知ったが。。
20万人は殺ってるし・・
今でも原城跡地には沢山の遺骨が埋まってるからな・・
468 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:23:36
政治的には何もやってない、というか側近政治と放漫財政の元凶だからなあ。
でも、一個人としてはナイスガイだったみたいよ。
469 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 17:13:15
>>458 小泉が綱吉タイプだとはオレも思ってた。犬面だし(笑)
ただ「そうせい様」は家慶です。念のため。
470 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 21:40:16
そうせい様は家綱だろ。だから酒井が下馬将軍になったんだろ。
早世さまは家継ぐだろ。
472 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:37:23
三河の将軍家菩提寺の大樹寺にある歴代将軍の位牌の丈は死亡時の身長を写している。大体百五十センチ前後。一人だけ成人で異常寸法は綱吉の百二十センチ前後。何これ?
473 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:41:08
またそのネタか。
そんな田舎の寺の位牌になんの根拠もないだろ。
そんなに気になるなら、寛永寺の綱吉廟の発掘調査でも気長に待てや。
474 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 07:29:26
松平清武の存在は気になる。秀忠、家光唯一の男系子孫が将軍家を継げなかった。まあ清武の嫡子が早死にしてるから結果は同じだったかもしれんがな。
475 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:00:15
清武の処遇を考えると、
家宣ってよく言われるような名君でも人格者でもなんでもないよな。
冷たい兄貴だ。
476 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 18:28:02
家宣は将軍になった時二人男子がいたから清武が疎ましかったんじゃないか?あと家継の不例の場合は尾張と言っていたから基本的に清武を嫌ってと思うよ。
477 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 23:03:10
>>475 身内優遇が「名君」か?
むしろ、名君と呼ばれる君主は身内に厳しいと思うが。
それはともかく、家宣は生まれながらの将軍ではないので
御三家や幕閣に気を使うだろうし将軍就任早々、弟の優遇
なんてできないだろ。
吉宗でさえも、将軍就任してしばらくは、綱吉時代からの老中
らには気を使っていたし、天英院や月光院などにも気を使っていた。
長福丸を世子にできたのは、将軍就任から数年後。
家斉も、自分の親父を大御所にできなかった。
家宣が後5年以上生きていたら、清武をそれなりに処遇できたであろう。
家宣は遺命で清武の加増を命じていたので、気を掛けていた。
478 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 18:38:03
では家宣は継嗣問題をどう思っていたんだろう。家継は幼年病弱だし。家宣自身が兄弟相続の流れだから清武を有力候補に考えて当然なのだが。
479 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 07:47:28
家宣と清武は同腹の兄弟。
>>478 ヒント 年齢
家柄や人物も問題だったらしいがね。
同じ理由で綱條も。
継友や吉宗じゃなくて八三郎や長福丸を八代にしようとしたくらいだからね。
吉通が生きていれば家柄も血統も問題なかったのになあ。
でも吉宗で結果的によかったんだけどね。
482 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 09:28:44
では遡って家康晩年の子供三人に将軍の継承権を与えて上の秀康以下の兄達に徳川の姓さえ名乗らせず粗略にしたのは何故?中には秀忠と同腹の弟もいるが。
483 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 11:41:39
>>482 秀康は最終的に結城家へ 忠吉は東条松平家へ 信吉は武田家の名跡を 忠輝は長沢松平家へ
それぞれ養子にいっているからでしょうね
一度他家へでてしまうと実家の継承は難しいでしょうね 秀忠の継承はきまっていたし
末の三人は他家へは行ってないからね
>>483 しかも、忠吉と信吉は早くに死んでしまったからね。
>>482 それはそれぞれの時期の徳川家の実力による。
上の人が言っている通りそれぞれ養子に出されたのだが
秀康は臣従の証として羽柴へ出され、秀吉の以降で結城に行った。
家康、秀忠と折り合いが悪く終生警戒された。
忠吉(東条松平)、忠輝(長沢松平)、信吉(武田)はそれぞれの家をつぐ事でその家臣団を吸収するのが目的。
忠輝は秀忠に改易されたが、他の二人は長生きしていれば恐らく子供の代に徳川に復したと思われる。
というのは義直、頼宣はそれぞれ兄の家臣団を引き継いでいるからだ。
武家諸法度により二人は無嗣断絶となったが、実質は義直頼宣が継いでいるんだね。
下の息子三人はいずれも家康が天下人になってから生まれたので他家に出されることはなかった。
とまあそれぞれの背景があるんですよ。
付け加えれば忠吉はかなり優遇されているし秀康もそれなりに優遇されているよ。
家康が御三家を定めた訳じゃないし、将軍継嗣を限定した訳でもないです。
既に指摘のように
家康の子供で晩年まで残ったので結果的に徳川を名乗れたに過ぎません。
秀忠の時代は尾紀駿+水戸
家綱では尾紀+水に御両典とありました。
駿河は尾紀と同等でしたから、この時代尾紀水をセットでとらえる事はほとんどありません。
御両典は尾紀水より官位が一段低い。この頃から御三家という表現があらわれはじめます。
越前は秀忠から警戒され、またお家騒動もありまして一時没落してます。
ところで最近の研究では駿河、甲府、館林の名乗りは徳川ではなく松平であったという説もあります。
江戸時代を通じて尾紀水が残ったため三家三卿が将軍継嗣候補という意識になりましたが、
それは吉宗以降の話ですし御三卿も、特に初期には存続が危ぶまれた事が何度かありました。
488 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 20:06:41
家綱没後に継承順位、継承者が明確に決まってなかったようだが。酒井大老は有栖川宮の擁立を言いだすし光圀が儒教の論理を持ち出して綱吉に落ち着くのだが、この有様だったら御三家にもチャンスがあったように思える。
>>488 一説には酒井が有栖川宮をおしたのは家綱の側室の一人が懐妊していたため
生まれてきたその子が男子なら成長の暁には宮には京都に戻ってもらおうという事情があったという。
件の女性は流産したが。
また御当代記には綱吉でなく
徳松(綱吉長男)、甲府綱豊(後の家宣)、尾張綱誠(母は家光娘千代姫)そして松平義行(綱誠同母弟)も候補に出ている。
いずれも家綱、綱吉より一つ世代が下で
先述されている八三郎や長福丸擁立と同じ意識だね。
吉宗の場合、最終的には「世代が上」という理由で将軍になったという
話だね。「尾張殿より権現様に近い」ということで。
世代論も、所詮は後付の理屈ということでしょう。
吉通が生きていたら間違いなく彼に決まっていたでしょうからね。
吉通は尾張の嫡流であり千代姫の孫でもある。
この千代姫は将軍家の姫であることに非常にプライドを持っていて
「自分は女だから弟(家綱)に将軍をやらせている」
みたいな発言もあります。息子綱誠に側室をどんどん奨めたのも彼女で、自分の血統を少しでも多く残したかったのでしょう。
492 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 12:54:30
だいたい病弱で嫡子もいない家綱が臨終の床まで後継者を決めていないのが不思議?妊娠中の側室が男子を産む保証もないのに。堀田に託した綱吉を指名する書き付けも偽作だろうし。とにかく家綱の継嗣問題はおかしい。
家綱までの約80年間は嫡子相続でずっときていたので、ぎりぎりまで望みをたくしたというのが一般の解釈ですね。
養君継承は何せ初めてのことですから。
家光家綱のようにセレモニーの将軍でいきたい、
傍流から来るとなれば当然家臣達もともにくる。それをなるべく避けたかったのではないか。
以上は幕閣の立場から。
家綱個人は謎が多いです。在位30年もありながら実紀の中でも逸話が殆どなく、個性が感じられない。
似たような立場の家治と比べても没個性的。
老中達を見て誰を指定しても無駄と悟ったのか、或は後継者を指定してたが握り潰されたか。
これが小説なら、後継者を決めずに死んだのは家綱の精一杯の自己表現(ニヒリズム)となるんでしょうが、
これも義持(家綱よりはるかに個性的だが)に同じようなネタが描かれてるしね。
そういえば大河の家定もそうか。
明暦大火(所謂振袖火事)で退避勧告を跳ね退けて江戸城内に留まったことから武家の棟梁、大将
軍の自覚、プライドを強く持っていたと思われる。
太平の世の将軍として変に個性を出すことなく君臨し続けた。ある面弟綱吉より上だな。
495 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 18:20:02
家綱については幼少より深謀遠慮の人格者としての逸話も多いが「さょうせい様」と揶揄され政治的実務を放棄していたと言う話もある。とにかく後嗣を明確にしなかったのが不思議だ。
496 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 07:05:54
(´・ω・`)ねぇねぇ俺のひぃおばあちゃんね明治40年うまれなんだ
どういうことかわかる?
そう、それは15代将軍けいきが生きてたときに
俺のひぃおばあちゃんは生きていたってことさ!!!
497 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 07:25:42
慶喜が将軍になったのは失敗だった。吉宗系と全く関係なく正当性に欠け幕臣の支持もなかった。そして後世の批判を恐れて敵前逃亡した。
控えおろう
499 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 13:09:01
なんで水戸黄門は綱吉に犬の毛皮送っといて
なんのお咎めも無しだったの?
>>495 嚆矢はヨシムネ 紀州田舎侍から江戸入り その前に尾張制覇
鎖国延長(ほんとは開国したかたが本家の伝統をたてるため)
>>500 まちがえた 家繼の嚆矢
家綱→甲府中納言綱豊卿のはずが 酒井か何か反対して館林犬公彷に
御蔭で甲府家宣さまはお浜離宮甲府藩邸や桜田邸で長らく正徳の治で善政に戻すまで 待機なされた
恐れ多くも先の副将軍
503 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:17:08
水戸黄門の養子綱條は大人しいのにな
なんで將軍家なりのちちは 1橋なの? ご3家潰し でも15代に水戸1橋返り咲くw→ばくふ滅亡(>_<)
505 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 21:50:28
紀伊から入った徳川吉宗の時に吉宗が自分の息子に御三卿を起こさせた
これからは自分の血筋が徳川宗家を継ぐという強い意志の表れだったのだろう
当然のことながら御三家よりも御三卿のほうが当時の将軍に血筋が近いということで
優先的に将軍になることができた
徳川慶喜が将軍になれたのは御三卿の一橋家に養子に入ったからだよね
慶喜には同母兄があったのにこちらは御三家の水戸家を継いでいたから将軍になれなかった
三国志が大好きだった第11代徳川家斉。幕閣をゾロゾロ
引き連れて散歩中に、
「余はどうして孔明のような部下に恵まれないのだろうなぁ」
と嘆息。
凍りつく一同。
そこで上様曰く
「まぁ、余も、劉備のような名君ではないからなぁ」
ほっとする一同。
恐れ入りまして、御座います。
突然、幕閣に「お前らが作った菊を見ながら酒を
呑みたい。今度、みんな持って参れと」通知した
第11代徳川家斉。
豪華絢爛たる菊が続々と運び込まれる中、
ひとつだけショボショボの菊。
その菊を献上した幕閣を召した上様
「みんなの菊は、名人が作ったのを
買って来たのだろう。正直なのはお前だけだ。
余はお前のを見ながら呑むぞ」
508 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/16(日) 01:49:38
509 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 08:16:44
吉宗は米将軍といわれてますが、将軍って今の農水大臣や財務大臣みたいな仕事もやってたんですか?
国政・ 財務農林水だいじんは 勘定ぶぎょう様→御だいかんさま?→村役人
地方自治・藩はダイミョー→家老→勘定方?
511 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/06/09(水) 01:04:48
>>512 地方の没落皇族の末裔から身を起こして、まがりなりにも一国の君主にまで
上り詰めたんだから、それなりのものじゃないのかな。
将軍家の公式ストーリーでも、世良田/得川という一時は新田嫡流だった家
の末裔が再び身を起こして…ということになっているわけだし。
514 :
日本@名無史さん:2010/06/11(金) 18:49:41
松平清武、清水重好、松平斉民の3人は将軍の弟だったのに、不遇だよな。
515 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 21:45:03
三代将軍家光の次男である甲府宰相綱重の次男として生まれ、四代将軍家綱の甥なのに
松平清武はいらない子扱いだったんだろ
カワイソス
516 :
日本@名無史さん:
家宣は生きてるうちに清武を甲府藩主にしてやるべきだった。