戦国日本軍 vs スペイン・ポルトガル軍

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
世界一の鉄砲生産を誇っていた豊臣戦国日本軍が
明、朝鮮ではなく、アジア侵略を画策していたスペイン
ポルトガル軍と東南アジア近辺で衝突した場合
どうなっていたか
2日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:36:20
ロシア軍圧力のが怖いぞ
3日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:42:07
>>1
ウリ民族の抵抗には豊臣日本軍も敗退せざるを得なかったニダ

なんてレスがつくぞ。
4革命家:2008/09/07(日) 18:00:50
おもしろそうな糞スレだな
5日本@名無史さん:2008/09/09(火) 03:25:57
6日本@名無史さん:2008/09/09(火) 08:19:24
>>1
ん???当時日本の商人はその日本武士を連れアジア諸国を圧巻してたろ?
商売の方法でも群を抜き、武士の力もあったからそこまで延びたはずだよ?
鎖国しなければアジア諸国を裏で支配していた国になったかもしれない
7日本@名無史さん:2008/09/10(水) 15:59:14
テルシオスVS三段撃ち
8日本@名無史さん:2008/09/11(木) 17:49:58
ミラバケッソ
9日本@名無史さん:2008/09/11(木) 17:58:58
陸上ならともかく、海上での艦隊決戦になったら日本に勝ち目無いぞ。
10日本@名無史さん:2008/09/11(木) 18:49:08
地中海-イギリス間の距離で半数以上が遭難したスペイン船団が無事アジアまで来れると?
11日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:48:12
スペインは中南米やフィリピンでも侵略に成功してるしな…
当時のフィリピンはスペイン領ですが。

日本の造船技術は、スペイン・ポルトガルに遠く及ばないぞ。
秀吉だって明に攻め込もうとした時、
スペインから外航用の帆船を購入しようとしてたくらいだからな。
12日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:15:55
フロイスは丹羽により琵琶湖で作られた大型船をスペインのガレー船そっくりと評した
自分が教えてないスペイン船のレプリカを作っていたのです
当時船の技術は最大の軍事機密であるにも拘らず情報を掴んでいた信長
秀吉はともかく信長はガレオン船の技術をも仕入れるルートを持っていた事になります

フィリピンは当時無政府に近い土地でマニラ建設も好きなように造りました
調略と内乱で併合したアメリカ大陸とは大きく違います
その後フィリピンでスペインオランダがアジアの勢力を賭けた海戦を行いますが
スペイン船2隻VSオランダ船3隻(うろ覚え)と言う少ない激突でした
逆に現地の人間が加勢しなければその程度の規模が覇権争いなのです
オランダ船などが我が物顔で走り回る世界は日本で言う江戸時代に入ってから
13日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:36:04
>>12
思ってたより、スペインも船を持って無かったんだな…
イギリスに大敗したのを引きずってたのかな。

現地での事前調略次第では、戦いようがあったって訳か。
14日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:03:03
船数は多いだろうけどほとんどが商船だったのではないかな
スペイン軍は元々対オスマントルコ用の軍隊と言ってよいかと
15日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:28:53
>>12
佐和山の大船はどんな船だったか記録がないに等しいのだが

普通に安宅船の大きい奴でしょ。櫓でこぐ船だからガイジンがガレー船そっくりと評するのは当然。
湖でガレオンなんか作る理由は何も無い。
16日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:11:45
人口密度や収奪物からみてメリットが無いから意味も無い

厨房は日本は凄いって結論だけが欲しいのだろうね
17日本@名無史さん:2008/10/15(水) 03:12:10
朱印船を軍船に転用すれば日本人がガレオンと戦うのも不可能ではなかったろうが、
そう言う使用例はあいにく史実に無かった

スペイン・ポルトガルとは衝突するよりむしろ同盟関係結んで中国に攻め込む方がかしこい希ガス
18日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:04:04
戦国日本vs西葡両国
19日本@名無史さん:2008/10/21(火) 01:38:24
>>13
スペインはガレー船主体の艦隊で、陸兵がアボルダージュしての西洋ちゃんばらが多かった
わけだから、盾を有効に使えない狭い戦場の白兵戦では、日本刀と手槍の日本の武士+鉄砲
足軽の方がスペイン兵を圧倒しそう。
20日本@名無史さん:2008/10/21(火) 01:51:21
元弱すぎ
21日本@名無史さん:2008/10/21(火) 02:19:01
ぷww
硝石を全量輸入していた国が鉄砲の数を誇ってなんの役に立つの?www
石油や鉄をアメリカに依存していながら太平洋戦争で勝つつもりだったバカ並に知能が無いなwwww
22日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:00:33
>>21
おい、頭大丈夫か?
ゆとりは黙っておいた方が良いぞ^^;;;^;^;;;;
23日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:23:31
鉄砲が使われていた当初は、火薬の原料の硝石を輸入に頼っていたが
戦国も後期になると、糞やヨモギなどから硝石を作る技術も出来て、国産化にも成功していたらしい。
富山あたりがその硝石の生産地になっていて、本願寺などはその国産の硝石を使ってたみたい。
24日本@名無史さん:2008/10/21(火) 18:21:14
>>19
スペイン船に乗り込んで、刀や槍が届くくらいの白兵戦になれば
確かに日本兵は当時世界最強だろうからな・・
100年以上続いた乱世で、何世代にも渡るプロの軍人ばかりだし。
25日本@名無史さん:2008/10/22(水) 05:15:07
>>19
ガレー船は東洋まで来られないから、おのずと日本人が戦うのはガレオンになるだろうけどな。
26日本@名無史さん:2008/10/22(水) 12:00:31
しかし西洋人が大型安宅船見てガレー船そっくりと言うのか激しく疑問
他国の船も全部スペイン風ガレー船て事になる罠
竜骨構造の技術を手に入れていたのかが肝の部分ですな
ガレオンなんかで来られたら甲板高くて登るの大変そうだけど
風(神風)が吹かなければ何とかなるかも試練
27日本@名無史さん:2008/10/22(水) 14:40:35
たしかフィリッピンだかで日本の侍集団がスペイン軍をこてんぱんにやっつけ
たとかいう話をNHKかなんかで見た記憶が。いいかげんですまん。
28日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:10:03
外国人宣教師が安宅船を見てガレー船そっくりって言ったのは、
ただ単に水夫が艪を漕ぐタイプの船だったからじゃないかな?それと大きさとか・・
29日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:04:12
>>26
他国の船と言ったって、宣教師が見た可能性があるのは
インド洋のジーベック船や中国のジャンク船のような純帆船ばかりだろう。
安宅船や関船のような、近海航行用の櫓でこぐ船を見るのは、母国を出て以来久々だったと思うぞ

信長が竜骨作る技術を手に入れていたら、信長の水軍を受け継いだ秀吉が
朝鮮の役の時にたくさん竜骨船を作らせてたはずだから、ありえん。
30日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:46:06
安宅船や関船中心の日本の水軍が、どれだけ脱落せずに東南アジアまで行けるかってのも問題だな。
朝鮮までだって、途中で沈没する船があったって言うし。やっぱり当時の日本の船は、外海には向いてないんだよ。
てか、日本の船で東南アジアまで何日かかるんだろ?朝鮮までは15日くらいで行けたって言うな。 

>>12さんが言うように、スペインの東南アジアでの戦力が当時の現状であるなら、
ある程度の戦力を温存したままで辿り着ければ、相手がガレオンであれ戦えるとは思うんだけどね。
31日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:59:37
またニートのゴキウヨスレかw
32日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:39:42
>>30
前半はそうだと思う。朱印船のベースは中国のジャンク。
航海力、艦砲搭載力ともガレオン戦の敵ではない。

後半は?東南アジアでの当時の日本の戦力はゼロ。
日本の政策が史実とは違う仮定なのに、スペインの政策が史実通りでは比べられないと思う。

太平洋戦争のイフでも、日本軍は史実と違う戦術を採ってるのに
米軍は馬鹿正直に史実通りの作戦展開してボロ負けと言う話は良くある。
ジャンケンの後出しだ。
33日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:45:53
↑「朱印船のペースは・・・」→「朱印船ですらベースは中国のジャンク」
34日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:40:00
当時の日本の船は沿岸用だから、外洋用の船を如何に多く製造できるかが鍵だけど
いきなり大海を経てフィリピンに攻め込むのも考えれば馬鹿げてる

琉球→高山国(台湾)→フィリピン

これならリスクも少なく進出できる。
高山国も当時は無政府地域で、また明商人の密貿易の場であったことから
補給前線基地にもなるし、支配地域としてのメリットもある。
フィリピンに在住するスペイン、ポルトガル兵なんて千にも満たない程度だし
琉球、高山経路で攻めれば間違いなく1年以内にフィリピン全土を掌握できるよ。
問題はどうやって維持、開発するのかだけど
35日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:08:55
支倉遣欧使節団
サン・フアン・バウティスタ号(洗礼者聖ヨハネという意味 推定500トン)
は、1613年10月27日総勢180人以上の侍や商人を中心とする日本人を乗せ、
遥かローマを目指しミュージアムの近くの月の浦を出帆して太平洋を東に向
かった。90日間の航海の後1614年の1月、当時スペイン領だったメキシコのア
カプルコに入港しようとしたが、予告無しの突然の入港。しかも、明らかに
スペインのものとは異なる日本で独自に建造した帆船だったので、最初は敵
船かと警戒されたとようだ。そこで、掲げたのがハプスブルク家の双頭の鷲
の旗。1516年から1713年までの約200年間スペインはハプスブルク家が治めて
おり、当時の国王フェリペ3世もハプスブルク家の人間だ。ミュージアムの
ジオラマ模型にも双頭の鷲の旗を掲げている姿が史実に基づいて再現されて
いた。

注 ミュージアムとは仙台にある同使節団の資料館。

これより数十年前には有名な天正少年遣欧使節団が出発している。
帰国した者たちの持ち帰った西洋楽器と音楽を秀吉が好んだという
記録が残されている。

信長は安治川口の合戦で多分世界最初の大型の鉄甲船をつくり砲撃
により村上水軍との海戦に勝利した。
36日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:45:14
>>27
うん、堺屋太一原作の「黄金の日々」の大河ドラマだったような。
あの頃は、日本は全ヨーロッパより沢山の鉄砲を国産していて
技術も上、ルソン島で鉄砲でスペイン軍を破ったんじゃなかった
かな。刀も使ったかな。調べれば史実は分かると思うけど。
37日本@名無史さん:2008/10/26(日) 02:21:28
鉄砲は豊富だが大砲はないに等しいから、船同士の砲撃戦になったらまずかなわんだろう
38日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:31:19
大砲はないに等しいから、って根拠も示さず言うと
たんにお前の思い込み、決め付けになるんだが。
歴史学の基本がわかってないようだな。
39日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:38:42
>>37じゃないが、日本の船(安宅船)には大砲は多く詰めない。
信長のヤツでさえ大砲3門だ。しかも安宅船の外洋航行力は低い。機動性もワルイ。
フリピンなんて行けたモンじゃない。

ちなみにスペイン無敵艦隊の旗艦サン・マルチン号。 
1567年頃建造。長さ37.3m、幅9.3m、深さ4.55m。排水量1000トン。
<大砲48門>。船員117名、兵士300名。

安宅船と違い朱印船は中国のジャンクがベースで当然外洋航海力はある。
がこれを兵船に改造したところで、アヘン戦争のジャンク兵船(小火砲6門)の無様っぷりからすれば
200年以上前のガレオン戦艦相手でも大きく違いはないだろう。
40日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:24:59
>>38
戦国日本の大型火器でもっともポピュラーだったのは30〜50匁(砲弾重量113〜187g)程度の大筒で、
これは大砲と言うよりは大口径の火縄銃とでも呼ぶべきものだ。
ttp://www.wsk.or.jp/work/d/tani/10/image08.jpg
これ以上大口径の大筒は「石火矢」とか「国崩し」と呼ばれたが、その大半は海外からの輸入品である。
日本の戦では大型火器が必要とされる局面がそもそも少なく、また山がちな地形ゆえに運用にも困難が伴ったため
石火矢はきわめてイレギュラーな兵器であった。
その使用は関ヶ原の戦いや大坂の陣のような大いくさで、まれに見られる程度に過ぎなかった。
大砲があらゆる戦において欠かせないものとされているヨーロッパとは条件があまりに違うと言える。

国産砲で最大級と思われるのは、徳川家康が大坂の陣に先立って作らせた「芝辻砲」であるが、
弾重量 一貫500 匁=約5.6kg
有効射程700m前後(砲身長と口径からの試算)
これでさえヨーロッパで言えば小口径のデミ・カルバリン砲に相当するに過ぎない。
鋳造でなく鍛造であったため、一門製造するのに二年を要したと言う。
(参考までに:16世紀末のヨーロッパの艦載砲)
カノン砲    砲弾重量22.7kg 射程200m
カルバリン砲       8.16kg   1800m
セーカー砲        2.26kg   450m
41日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:14:42
日本も本格的外洋船サン・フアン・バウティスタ号を作っているんだから
こう言う船をより大型化してたくさん造れば良いはず。大砲共々。
42日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:17:48
スペイン人の技術指導の元で造ったんだが・・・

まあ例えば本能寺の変が無かったとしたら、日本人の海外進出はどんどん進み、
17世紀前半には国産のガレオン艦隊も編成され、
東南アジアで英・蘭・西と激しい勢力争い・・・と言うことも十分考えられはする。
実際その手のイフは商業誌でも取り上げられたりする。
日本人が外国の技術を自家薬籠中のモノにするのはほとんどお家芸と言える。

だがここは戦国末期の「実際」の日本の軍事力・技術でスペインと戦ったらと考えている。
江戸時代(本能寺が無かったら安土時代?)の架空の日本軍(艦隊)が戦ったらではない。

君の意見は、太平洋戦争のイフを話題にしてるときに
日本も高速レシプロ機「震電」、ジェット攻撃機「橘花」、4発大型爆撃機「連山」
世界標準の4式中戦車、重装甲空母「大鵬」を造ってるし、レーダーやソナーだって作ってる。
だからあの時点で戦争なんかせず、もっと軍事技術を十分に高めてから戦えば良いはず。
と言ってるのと同じだ。

そういうイフもモチロン考えられるが、それはもはや太平洋戦争のイフではない。
43日本@名無史さん:2008/10/28(火) 02:55:24
戦国日本の取り柄をリストアップしておくと

・豊富な貴金属資源。特に、全世界の三分の一の生産量を誇る銀
・全ヨーロッパに匹敵する量の火縄銃
・百年に渡る戦乱で鍛え抜かれた錬度の高い兵
・外国の技術をたやすく習得する高い手工業力

欠点は
・羅針盤や六分儀を使った外洋航海術を持たない
・製鉄法が伝統的なたたら吹きしか無いので、大砲が作れない
・馬が少なく、騎兵と言う兵科がない。馬車も存在しない。

部分的には異常に優れ、部分的には異常に劣るという、
諸外国と比べていびつな発達を遂げた国と言えるな。
44日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:23:32
>>42
純粋に史実に沿って考えたら、史実通り日本には手が出ないで
仕舞いだと思う。

>>43
そう言う「日本vs全世界・諸外国」という比較に意味は無いかと。
何処の国も特色を持っているだけのこと。日本を特殊化するより
もっと一般化して考えた方が良いと思う。

羅針盤や馬は外国から導入した国々が持っているので有って日本他
特定の国が持っているかどうかは、つまり、
導入すれば持っているし導入してなければ持っていないだけのこと
45日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:26:14
>>42
>架空の日本軍(艦隊)が戦ったらではない。

いや >1 の設定ではその「架空戦」のこと
46日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:09:41
>>44
>43は史実の戦国日本が保有する戦力を羅列したまでの事
これをどうやって活用するかはアイデア次第
47日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:26:05
>>43の方が比較箇所を上げてる分
具体性を帯びた進展した考えであることがよく分る

こんなもの所詮は架空話にすぎないが
実際に攻めるとなると、こーいった具体的な比較は当然必要になる
48日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:11:55
具体的に、日本が東南アジアまで出向いて行って戦うとなると
必然的に外洋船を建造することになるし羅針盤他も必要と
なるから取り入れるし大砲も・・・・・って事になる。

逆に史実に沿ってそんな技術を取り入れないとすれば、やっぱり
史実通り鎖国に向かうことになって戦争にならないと。
49日本@名無史さん:2008/10/28(火) 16:35:35
>>45
ちょっと言葉が足らなかったか。
確かに架空の豊臣艦隊を想定するわけだが、それはあくまで1590年代の
日本の造船技術による艦隊でなければ意味がない。
外洋に出るのだから朱印兵船による艦隊になるだろう。

和製ガレオン船による艦隊を作らせたければ、時代は確実に17世紀にずれ込み
また相応の史実の改変を仮定しないと(手っ取り早いのが本能寺無し)ならない。

スレタイと無関係じゃないから、このスレで取り上げるのは良いと思うが、
豊臣日本軍が中・朝でなく西・葡と戦ったらのイフではない。
50日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:00:48
ガレオンに対抗出来るだけの船が当時の日本に無いんだったら、外国から買うってのもあるな。
秀吉の時は宣教師は追放したりしたけど、南蛮人との交易は続けてたはず。
秀吉がしようとしたように、戦争相手に仮定されてるスペインから軍船を買うことは出来ないだろうが、
イギリスにだって無敵艦隊を破った軍船がある。砲の数も射程もスペインの軍船に劣らないしね。
イギリス人商人は日本に来てなかったのかな?

ただ問題は、そういう軍船が手に入ったところで船を操れる人材がいないのは確かだから
外国人船乗りの指導を受けるとしても、人材の育成には時間がかかるけどな。
矢や鉄砲を撃ちかけて、接近しての接舷戦法に慣れた日本の水軍に、距離を置いての砲撃戦の経験もあるわけないし。
51日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:15:57
あくまで直接マニラへ攻め込む想定なの?
普通に考えたらスペインって宗教と覇道の二本立てで拡大する国だから
宗教戦争と位置づけられ泥沼化すると思いますが
まあスペイン船は砲撃オンリーでは無く基本白兵戦仕掛けてくる軍なので侍でも・・・
52日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:34:29
>>1があれだからな。
具体的な想定はほとんどされていない。
九州のどこかから直接東南アジアに向かうよりは、
>>34の言うとおり、沿岸の港に寄港しながらの方が現実的だけどね。
53日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:48:21
倭寇を日本の勢力に取り込むってのはどうだろう?
ヨーロッパが海賊を私掠船として外国の通商破壊に利用したように、
日本も倭寇を懐柔して飼いならす事が出来たなら、海事がらみの問題は一挙に解決するかも。
史実では秀吉がアホだから利用するどころか取り締まって消滅させてしまったが、
対外進出するなら海賊の力を借りない手はないだろう。東南アジアなんか彼らの庭のようなものだからね。
小西行長とか、亀井茲矩あたりの貿易事情に詳しい人物なら、うまく交渉できるんじゃないかと思う。
54日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:58:51
ていうか、もうこの頃になると
普通に東南アジア諸国に
商人や主家を失った侍たちが移住して日本人町を作っているし
馬尼羅(マニラ)にも日本人町は存在している。
その町に日本人移住者を本格的に増やしつつフィリピン本土から情勢を覆すのも無理な話ではないよ
実際、当時のフィリピンなんて国として存在してるというより
各村落、各部族規模の生活がメインの地域なのだから
数さえ増やせば日本人の国にすることは意外と楽だったかも
55日本@名無史さん:2008/10/29(水) 09:07:44
倭寇=海賊=水軍 全て同じ人達ですよ
56日本@名無史さん:2008/10/29(水) 09:50:28
>>55
倭寇に加わった水軍はあるが水軍全部が倭寇ではない
後期倭寇になるともう日本人自体あんまりいないがね
57日本@名無史さん:2008/10/29(水) 10:04:46
横からだけど

ただ当時の水軍自体
日本海だろーが太平洋だろーが瀬戸内だろーが
みんなその海域で海賊してるような輩なんだから
倭寇の場合はそれが中国や朝鮮相手だったってだけだろ?
結局、日本海軍作るとなると海賊メインなのは変わらない

それよりも台湾抑えることによって
その倭寇を騙った中国の海賊も支配下におけないかな?
58日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:43:53
日本で「海賊衆」と言った場合、基本的には海関を通る船から通行料を取る代わり海路の安全を保障する
ボディガードの押し売り業の事を指す。
戦国時代の倭寇は、中国人・日本人・朝鮮人・ポルトガル人・琉球人、なんでもありの無国籍密輸ネットワーク

台湾は間もなくオランダ人が来るから迅速に取る必要がありそうだな
59日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:25:12
当時輸入規制などないから密輸ではなく普通の武装商人と言ったところ
まあ大名の直臣水軍も陪臣国人水軍も武装商人も海賊と呼ばれていたのは間違いない
60日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:35:39
貿易の規制は日本じゃなく中国がしてた
海禁
61日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:08:30
>>41
江戸幕府の安宅丸は、竜骨に肋材を配した西洋式の構造を持つ
約1000tの巨艦だったが、こうした技術が継承・拡散しなかっ
たのは、日本の船大工は自分たちの技術に自信をもってたという
ことなんじゃないかな。
長崎では、ジャンクが建造・修理されていて、清の商人が買ったこと
もあるそうだ。

62日本@名無史さん:2008/11/01(土) 14:16:09
>「江戸幕府の安宅丸」

その名の通りベースが安宅船だから実用性はゼロ。
実用性ゼロの技術が、帆走性にすぐれた弁才船を押しのけて拡散はしないだろう。

>日本の船大工は自分たちの技術に自信をもってたということなんじゃないかな。

確かにそうだがあくまで「井の中の蛙」の技術。
弁財船も沿岸航行の際の取り回しは優れていても、外洋航行には不向き。
技術は広く交流しないと発展しない。
63日本@名無史さん:2008/11/01(土) 14:23:52
日本がシー・パワーに目覚めて欧米にも負けない船舶を造りまくるのは近代以後のこと。
(もっともちょっと片寄った目覚方だったが・・・)。

なんで前近代の日本の造船技術をムリヤリにでも高く評価しようとする人が多いのだろうか?
ウリナラマンセーは隣の国にでもまかせておけば良い。
64日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:14:06
日本の航海技術が著しく外洋に不向きになったのは
江戸の鎖国で沿岸航路しか進まなくて良くなったから。

それまでも基本、沿岸航海ばかりだが
戦国期の終わり頃から江戸の初期あたりになると
日本でも外洋向きの船が造られるようになった
65日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:59:51
朱印船のことだろ。ベースは中国のジャンク。
軍艦としての能力は当然ガレオン船より著しく低い。前述したが付け加えると、
アヘン戦争序盤にイギリス海軍は2隻のフリゲート(500トン程度、大砲20数門)で29隻のジャンク兵船を撃破したという。

200年以上前のスペインのガレオンは、そのフリゲートに比べれば大砲の射程は短く、
連射も時間がかかる(2輪砲架のため砲身を船内に引き戻せない)。また船自体の機動性も劣る。
よってアヘン戦争ほど無惨にはならないだろうが、マトモにたたかったらやはり勝負にはナラン。

大砲の数は多いし1発の威力も高い。速力も朱印船より悪いはずがない。
スペイン艦隊は白兵戦重視云々とあったが、接舷前の一斉射撃で防御力の弱い朱印船など粉砕(もしくは大破)される。
一回で撃破できなくても朱印兵船の火力程度は問題にならない。じっくり再装填してまた撃てばよい。

また、スペイン船も高威力・短射程のカノン砲ばかり積んでいたわけではない。
イギリスと同じくカルバリン砲も積んでいた。

どうあがいてもマトモにやり合ったら日本船に勝ち目は100%無い。
マトモにやり合わずに、海上補給路をどう確保するかを考える事だな。
陸戦なら十分に渡りあえるだろうからな(地理的には当然日本の方が大兵力を送り込める。船が無事なら。)
66日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:09:31
外洋に耐えうる船であれば、その他の性能なんて正直どーでもいい
フィリピンに常駐するスペイン艦隊なんて数自体しれてるし
上陸するのも、そう困難な話じゃない

むしろスペイン人をフィリピンから追っ払って、その後どうするのか?
問題はこれに尽きる
67日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:31:40
>フィリピンに常駐するスペイン艦隊なんて数自体しれてるし

スペインが増援を派遣しないとどうして言い切れるんだ。
日本が史実と全然違うことをやってるのに、スペインは馬鹿正直に史実通りか?
それにいったん上陸させたって、その後兵站の確保はし続けないとダメなんだぞ。
その場合、船の性能がダンチだから1隻でもスペイン船は驚異となる。

太平洋戦争のイフでも多いんだよな。日本軍にだけ史実と違う作戦取らせて
米軍は間抜けにも史実通りの展開ってのは。もう日本軍が勝ちさえすればそれで満足なんだろうな。
68日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:59:55
増援も何もスペインは1588年にイギリスに大敗して
ご自慢の無敵艦隊がボロボロになってる。
また、同じくアジア覇権に乗り出すオランダとも抗戦状態で
正直、艦隊を率いてまでフィリピンを死守するなんて出来ない。

それは当時、フィリピン本土で生活するスペイン人が全体でも数百人程度しかいないことを見ても明らか

要は、当時の状況を省みて
日本にはアクションを変更する余地もあるが、スペインにはその余地なんてないということだ

なので私は日本にだけ有利なイフの話をしてるわけでも何でもなく
当時の状況を判断しながら、そこから推移して話してるだけ。
その当時の状況を君が知らなくとも、それは私の責任ではない

69日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:32:40
当時のスペインにはまだ艦隊を再建できる余裕はあった。
更に朝鮮征伐のマンマの日本水軍ではフィリピンに大軍を送ることなどできない。
朱印船はあったから、それを元にすれば外洋艦隊も出来た「ハズ」と言ってるだけだ。
朱印兵船の艦隊など実際は存在しなかったことをお忘れ無く。

更にアマルダの海戦が無かったことにしてもいい。
朝鮮征伐がなかったんだから、こっちが無くても構わんだろ?

そもそもが当時の状況云々するなら、豊臣秀吉がフィリピン征伐する理由など無いし、
そんなモンに当時の大名が素直に従ったとでも?フィリピンの土地を恩賞でもらっても嬉しくないんだが・・・

日本はどーゆーワケかフィリピン征伐にやる気満々で、
実際には存在しなかった朱印船の船団・艦隊を整備してんのに、
スペインの方は当時の状況を判断云々・・・どこが日本に有利なイフじゃないと?
70日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:50:58
16世紀の時点では朱印船の性能がそれほど劣っていたとは思えないな。
もちろん元々が軍艦として作られてないから、戦闘能力でかなわないのは当たり前だが
航海能力(速力その他)と信頼性に関してならヨーロッパの商船には特に見劣りしてない。
元がジャンクなので船体の内部に水密隔壁があって浸水に強いし、
上から下に帆を降ろす洋式船と違って、重い帆を上に巻き上げる方式だから
アジアの海に特有の急な突風に対してすぐに対応できるなどのメリットもある。

問題は船そのものより航海士の腕だろ。
朱印船はほとんどの航海士が雇われの中国人や南蛮人だったのはまずい。
まともな海軍が育つには、贔屓目に見積もっても2、30年はかかるだろう。
>>57
村上水軍のような在来の海賊は、外洋ではたぶんまったく役に立たないと思う。
あいつら日本近海から出たことないから。
71日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:33:04
フィリピンに運良く上陸できたとしても今度は城塞都市=イントラムロスに対する城攻めが待っている。
このスレでは「落とせて当然」みたいな雰囲気があるが、
当時の日本軍の装備で洋式城郭の守りを破れるかどうか、相当怪しいと思う。
そもそも城塞都市自体、日本にないしな。
イントラムロスは1571年に出来たばかりだからヨーロッパの最新式。
兵力は確かに1000人程度ではあるが、守備側が鉄砲を持って城砦に立て篭もった時の脅威は日本軍も周知の通りのはず(島原の乱の苦戦を見よ)
72日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:22:57
戦国厨はこんなんイってるから世界史板とかだと穀潰し扱いなんだよな
73日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:36:05
>>71
台湾で牢人傭兵隊がオランダの城砦抜いていますけど?
74日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:37:16
まずは学校を卒業することをお勧めする。ものを考えるということ、
知識をもつこと、それらの基本を100万回練習しても君では無理なんだろう。
諦めて肥溜めの中でウジウジしていなさい。
75日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:54:15
外洋と日本近海で海の種類が違うのですか?
76日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:39:46
>>73
鄭成功みたいなのの指揮の元でだったら、もしかするかもしれないけどな。
ちなみに言っておくと、その「傭兵」はスペイン側が雇う可能性もあるぞ。
>>75
関船とかは海岸線が見える範囲での航海(地文航法)しか出来ない。
遠乗りしたらあっというまに難破間違いなし。
外洋を渡るにはそれ相応の船と天文航法が必須。
ガレーとガレオンは同じ船に見えてもまったく別の世界の存在と思った方がいい。
まあ航海士じゃなく水夫としてなら素質は十分かもしれないが>水軍
77日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:40:24
>>69
>当時のスペインにはまだ艦隊を再建できる余裕はあった。

再建したしとして本国の目と鼻の先にあるイギリスを放っておいて
先にフィリピンに援護を出すなんてこと普通に考えれば有り得ない

>更にアマルダの海戦が無かったことにしてもいい。朝鮮征伐がなかったんだから、こっちが無くても構わんだろ?

君が知識不足で知らなかっただけなのに、自論の強行の為に勝手になかったことにしないで貰いたい
事実、無敵艦隊が敗れた後もスペインのフィリピン統治は続いてる。この両出来事は基本的に別々に進行しているのだ
ただ、仮にフィリピンが日本に攻められても当時のスペインには大艦隊なんか率いて援護する余裕などないというだけだ

>そもそもが当時の状況云々するなら、豊臣秀吉がフィリピン征伐する理由など無いし

さすがにここまで来ると「スレタイ読め」としか言いようがない。君は完全に論理破綻している

>そんなモンに当時の大名が素直に従ったとでも?フィリピンの土地を恩賞でもらっても嬉しくないんだが・・・

君如きに、嬉しいとか嬉しくないなんていう当時の大名の気持ちなんか分らないし、実際に唐入りには大名たちは従っている。
それと当時から商人たちはフィリピンや東南アジアと貿易をし莫大な富をあげている
日本とそれら諸外国の交易を1度往復するだけで孫の代まで遊んで暮らせると当時でも言われていたそうだ

結論から言って君は、このスレに書き込むには相応しくない人間のように思える。
知識から想像の否定をするならまだしも、君の場合は逆に無知からの自論を展開し、それを指摘されると
スレ趣旨自体の否定により自分の自論を押し通そうとしているだけだ。なら最初から書き込まなければ良いだけ
いい加減、自重してもらいたい
78日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:48:25
>>70
確かに造船技術と並んで航海士の問題も大きいね

>>71
さすがに地上戦ではスペイン軍はどう足掻いたって日本に勝てないよ
実際、その城砦に住む人間の大半は現地のフィリピン人だし
戦う以前に結果は見えてる
後、島原の乱はさすがに攻め手自体の力量不足が攻めあぐねた原因かと
79日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:55:50
>>72>>74
言葉は悪いが少し同意。
当時のスペインのフィリピン支配の実情もスペイン本国周辺の状況も
何一つ知りもしないのに、自論を展開する・・までは良い

だが、指摘に対して、勝手に逆上して支離滅裂な反論をされると
勉強し直して来てからレスをして欲しいと感じる

私も戦国板をよく覗くが、実際こういうタイプの人間が非常に多い。
その傾向は、とくに信長ファンに多く見受けられるが・・
80日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:39:34
>>77
おいおい>>39書いたのは自分だ。アマルダの海戦シランかったとでも思うか?

>「スレ趣旨自体の否定により自分の自論を押し通そうとしているだけだ。」
それは君の方。>>1は「アジア侵略を画策していたスペイン・ポルトガル軍と・・・」と言っている。
秀吉はフィリピン征服に意欲満々で、有りもしなかった朱印船団・艦隊を編成してガチで攻め入るのに
スペインは史実通りか?アジア侵略を画策してるんならやはり相応の体勢整えていると考える方がフツーだろ。

言っておくが朝鮮征伐の日本水軍ではフィリピンなんぞへは行けん。
それをムリヤリ行かせるのはOKで、アジア侵略に燃えるスペインが増援艦隊送るのはダメか?
>>1が言いたかったのは、幕末には4隻の軍艦にてんやわんやだった日本だが
戦国末だったらヨーロッパ軍相手でもガチ戦えたんでね?ってトコだろ。

ムリヤリ日本に有利な条件を立てて、それで日本に勝たせて悦に入りたいんならどーぞ。
自分はそれとは別に考えるから。
81日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:57:25
もういいって。
今さらなに言っても泣き言にしか聞こえないし
君が知っていようといまいとスペイン艦隊がイギリスに大敗して
新たに編成した艦隊をイギリス相手じゃなく
わざわざ遠く離れたフィリピンに差し向ける可能性なんて著しく低いと言ってるの

それとフィリピンに常駐するスペイン人が千人にも満たない数なのに
日本のアジア侵略にだけは躍起になって対抗っていうのも想像としてズレてるよね
そんなに死守したい大切な土地ならば、もっと早くに多くのスペイン兵を送り込んでるはず
で、実際に当時、フィリピンにはスペイン人以外に日本も移住して町を作り上げて
互いに接しながら生活してるしね。

ようは、当時はまだフィリピンにおいて互いにそんな意識しかなかったの。
なのに、そんな時代背景も知らずに何で、
スペインだけそんなに是が非でもフィリピンを死守するために国を挙げて全力で立ち向かおうとさせるのか?
本当、中学生が知ったかぶりして背伸びしたいだけの発言にしか取れないよ・・

>自分はそれとは別に考えるから。

それは大いに結構だが、むしろ専用のスレでもご自分で立てられては如何かと率直に思う。
82日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:37:26
>「そんなに死守したい大切な土地ならば、もっと早くに多くのスペイン兵を送り込んでるはず
で、実際に当時、フィリピンにはスペイン人以外に日本も移住して町を作り上げて
互いに接しながら生活してるしね。
ようは、当時はまだフィリピンにおいて互いにそんな意識しかなかったの。」

さすがにここまで来ると「スレタイ読め」としか言いようがない。君は完全に論理破綻している
スレ趣旨自体の否定により自分の自論を押し通そうとしているだけだ。なら最初から書き込まなければ良いだけ
いい加減、自重してもらいたい。
83日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:37:55
ついでに君の>>68の君の意見を例によって太平洋戦争時のイフに置き換えてみよう。
「日本がアメリカと開戦せず、イギリスとだけガチで戦ったら勝てたか?」と言うイフに対し、君は

 当時イギリスはヨーロッパでドイツ相手に抗戦状態で
 正直、大戦力を派遣してマレーをを死守するなんて出来ない。
 それは当時マレー駐留の植民地軍の内、本国兵は2万人程度しかいないことを見ても明らか
 要は、当時の状況を省みて
 日本にはアクションを変更する余地もあるが、イギリスにはその余地なんてないということだ 。

と言ってるのと同じ。
こんな状態のイギリスに勝たせて日本マジ強えーと言ってるわけだ。
いやそれよりワルイな。この時日本には強力な海軍力が「現実」にあったわけだから。

実際には日本はアメリカを無視して英・蘭とだけ戦うことなど出来なかった(出来たらそうしてた)。
君はソコを無視してムリヤリ日本に有利な条件を仮定してウリナラマンセーしてるだけ。
やるのは結構だが、自分の邪魔はしないで貰いたいものだ。
84日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:01:10
ちょっと書き忘れ。
>>81
>なのに、そんな時代背景も知らずに何で、
 スペインだけそんなに是が非でもフィリピンを死守するために国を挙げて全力で立ち向かおうとさせるのか?
 
なのに、そんな時代背景も知らずに何で、
日本にだけそんなに是が非でもフィリピンを征服するために国を挙げて全力で立ち向かおうとさせるのか?

あーコロコロ意見換えるヤツの相手はめんどくさい。
日本軍とスペイン軍戦わせるのがスレタイだと自分で言ってるだろ。
それにマトモに反論できなければ「泣き言にしか聞こえない」か。サイキョーだね。
もう自分の負けだ。まいった。
85日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:03:47
>>82
バカにされたと悔しいのは分るが
正直、何をどうやり返したつもりになってるのかも私には理解できない(失笑

互いに接して生活してるからと言って「だから侵略は止める」なんて私は一言も言っていないし
むしろ日本軍にとって、その気さえなれば移住者を増やすと装って兵を増やし内陸部にまで補給基地を設け
上陸がさらに容易になる条件であるというのに
君一人が勝手に早合点の勘違いをおかしただけだろ?
というか歴史背景を知らない人間と話すと、ここまで基本的な事すら通じないものかと片腹が痛いよ(笑

>>83
なんでここで「ただ侵攻対象地域が同じだけ」という理由で全く関係のない太平洋戦争の話が出てくるのやら(爆
取りとめもないな君の話は。言われてることも皆目理解できず、言ってることも荒唐無稽
全く、ただの知識のない中学生が背伸びしたいだけかと思ってたら
根本的に何か違うようだ。考える力を最初から持ち合わせていないとか、変な思想に染まってるとか
例えば、かつて日本に侵略支配された隣国からの希望移住者のような非常に稚拙な発想で動いてそうだね


86日本@名無史さん:2008/11/02(日) 04:36:18
つか、朝鮮出兵の代わりにフィリピンに出兵するってことだろ。
フィリピン以前に島津や琉球の抵抗に遭うこと必至じゃん。
堺や九州で軍船の準備する段階でスペイン側も気付くだろうし。

まあ運良くマニラ攻め落としてもそこを維持するだけで国力が摩滅しかねんな。
いくらなんでもマニラが落とされたらスペイン側も反撃に転じてただろ。

で、第二次大戦みたく、グダグダの長期戦に耐えられず、
最悪の場合、隙をついたスペイン艦隊とそれが運ぶ第十次十字軍に大坂城やその他の拠点を占領されて
九州か四国か丸ごとティモール島みたく征服されかねないと。
87日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:26:03
>>78
鄭成功のゼーランディア城攻めでは、2万5000の鄭成功側がたった1600のオランダ兵に対して
9ヶ月もの攻囲戦を余儀なくされてるし、そう簡単にも行かんでしょう。
日本人が持ってる一貫目くらいの大筒じゃ歯も立たんと思う
兵糧攻めするにしても、兵糧が運び込まれるのをガレオン船を持ってる連中が黙って見てるわけもなし
88日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:26:22
>>86
そーゆー事態も考えられるな。
日本だけが史実と違う計画を誰にも邪魔されずに着々と進めて、
スペインの方は史実通りでなーんの対策も取らないなど、都合のいい話だよな。
89日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:38:40
>>86
琉球はかわいそうだけど抵抗しても無力
島津に至っては、その琉球を真っ先に支配するために先陣切るのも史実を見れば必定

>堺や九州で軍船の準備する段階でスペイン側も気付くだろうし

気付いたところでどーなるのか?と
それと唐入りと違って大規模な地上戦にもならないので少数での侵攻になる確立も高い

>まあ運良くマニラ攻め落としてもそこを維持するだけで国力が摩滅しかねんな。

そこだけは史実と全く異なる展開になるので想定が難しいよな。その維持開発だけが確かに疑問

>いくらなんでもマニラが落とされたらスペイン側も反撃に転じてただろ。

転じたところでイギリスともオランダとも抗戦してるスペインにフィリピンだけに戦力を集中させることは不可能

> 最悪の場合、隙をついたスペイン艦隊とそれが運ぶ第十次十字軍に大坂城やその他の拠点を占領されて

余りに妄想が荒唐無稽。日本を占領できるくらいの戦力があるなら、真っ先に朝鮮あたりの弱小国が占領されてるはず

90日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:46:28
ん?ん?ん?なんだコイツ?
豊臣日本軍が朝鮮出兵をしないでフィリピンに出兵するってこと自体が荒唐無稽だってわかってないのか?
戦国厨は何でもありだなww
91日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:48:20
>>87
戦国時代を経た当時の日本人の戦闘力は異常。そんな戦争素人のシナ人と同一には語れない

「朝鮮や明を支配するためには日本の戦慣れした侍の力が必要。彼らさえいれば明や朝鮮なんかすぐに支配できる」と。

スペインの宣教師自身が本国に、こういった内容の手紙を伝えてることを見ても当時の日本兵の強さは明らか

>>88
だんだん、やることも言うことも幼稚になって行ってるようだけど
何度も言うがスペインには当時、他のアクションを起す余裕がない。
日本だけが・・と思うのは君の勝手だが、それは君のただの感情論
92日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:50:26
>>91
鄭成功軍には日本人傭兵もいたんだが
93日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:53:31
>>90
一言「スレタイ読め」と
唐入りにしたって当時の大名の間では荒唐無稽な計画に映ったが実行に移されている
その矛先がフィリピンになるだけで、それほど有り得ない話でもない
ただスペインが日本を支配できるとかの妄想ともなると、
さすがに戦国板でも叩かれてる「厨www」としか言わざるおえない
94日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:55:53
>>92
指揮者が無能なら兵が強くともどーしようもない
そんなことは言わずと知れたこと
95日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:57:58
>>88は俺>>90
>彼らさえいれば明や朝鮮なんかすぐに支配できる

お前秀吉の朝鮮出兵がどうなったも知らないわけかよwwwwもうムチムチwwww
96日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:16:31
>>94
「国姓爺」鄭成功を無能って、あんたも豪気だな
日中ハーフでほとんど日本の武士と言っていい人物なんだが
97日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:21:05
反応ねーな。もいっかい書くか
>「朝鮮や明を支配するためには日本の戦慣れした侍の力が必要。彼らさえいれば明や朝鮮なんかすぐに支配できる」と。
>スペインの宣教師自身が本国に、こういった内容の手紙を伝えてることを見ても当時の日本兵の強さは明らか

お前の脳内では強い日本の侍が明や朝鮮を支配してるようだなwwww
98日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:13:23
仮に大成功したところで、維持管理コストが逼迫して放棄するのがオチ
99日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:15:51
たとえば豊臣日本軍が朝鮮全土から撤退したとき、
鬱陵島と済州島だけ確保することは可能だっただろうか?
100日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:40:12
むしろ実際の朝鮮出兵でこの二つの島をスルーしてることの方が不思議だ。
101日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:48:37
戦国時代の日本に存在した軍を当時の世界最強とする向きもあるが、疑いを持つ面のほうが多い。
日本は大量の火縄銃を生産できたが、鋳鉄砲は生産できなかった。
日本の製鉄技術では鍛鉄砲しか製造できなかったからである。
製鉄技術という面だけを見るなら、当時でも西欧と日本は一世紀ほど格差があったと言える。
西欧諸国が開国を迫ったとき日本人が最も恐れたのは宗教でも道徳でも文明でもなく大砲であった。
強力な大砲とそれが必要とする科学技術を崇め恐れたのだ。
102日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:38:53
まあ青銅砲という手もないではないけどな
鉄より高価だからあまり数は揃えられないだろうが
103日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:38:58
>>98
それについては未知数なので俺も懐疑的なんだが
例えば呂宋の壺って知ってる?呂宋ってのは当時のフィリピンのことな。
その壺は呂宋に行けば、末端の庶民の家に転がってるような粗末な雑器のこと
でもそれが日本に持ち込まれると、たちまち利休みたいな茶人によって何十貫何百貫の値打がついて
交易した商人がウハウハ状態になるってことな。

つまりは当時の南海の特産物はじめ雑器類に至るまで、日本ではものすごい価値があるの
ということは交易の観点から見れば維持管理コスト以上の利益を充分生み出す土地かも知れないのな

後、忘れてはいけないのは日本よりもっと遠く離れたスペインでも維持管理できるほど
当時のフィリピンってのは支配する側にとっちゃ楽な地域であったという事実もあるの
勿論、奴らは宗教で洗脳するというやり方を用いたわけなんだけど
それなら日本だって何かしらの相当案を出すのにヒントになるよな。
知識もないのに、いつまでも意地になって否定してないで少しは勉強しなさいね
104日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:42:58
>>99
可能なんじゃない?
もともとが朝鮮南部一帯は古代から日本の固有の領土と属国の地域だったわけだし
済州島なんてその下にある売春島でしょ?
その気なら充分可能だったと思うよ
105日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:49:38
>>100
不思議もなにも、君に余りに歴史知識がなさすぎるから疑問に思うんだよ

朝鮮出兵なんて言葉使い出したのは、そもそも太平洋戦争後のことだし
こんなの所詮は韓国の立場で語ってるだけの言い方だろ?

でも当時は唐入りって言ったの。
つまり秀吉も諸大名も最初から朝鮮なんか相手してなくて中国支配だけ目的として軍を進めたのね
その間に朝鮮があるから必然的に通らなきゃいけなくなるけど
オマエらは、その中国までの道案内をしろ!って最初は朝鮮に要求したの
それを朝鮮が断ったから攻めただけで、元々、朝鮮本土すらも相手にしてなかったのね。
だから済州島とかなんか無視して当然だったわけな
106日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:55:34
>>101
まぁ、当時から技術面では西欧諸国には劣ってたわな
江戸末期の開国の話は、ここでは一切関係ないとしても・・

でもスペインは日本には技術面で勝っていても、同じ西欧列国のイギリスやオランダとも抗戦してるから
それは国際外交の不変の法則から見ても、敵の敵は味方。これで何とか挽回計るのが
日本の次のステップになるのは必定だよね。要はスペイン以外の国から技術は吸収すればいいだけのこと
107日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:49:26
なんつーか疲れてきたんだが、成功派ってなんか
「当時の日本人なら最強だから何でもできる」って感じで超楽観的だよな。
フィリピンに渡ってルソンを攻め落とすまでを置いとくにしても、
その後にスペインが何も手を打たないわけないだろうが。
英蘭だって異教徒の日本人にそうそう簡単に最新の技術を教えないだろうし、
それどころか、スペインの出方によっちゃ代わりにフィリピンを奪いにくるかもしれない。
で、江戸や大阪からルソンに至る通商路をスペインが襲撃したら、
占領軍の数万人の食糧とかどうすんの?
108日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:35:30
秀吉は済州島と鬱陵島だけ取って満足してればよかったと思う。
それなら明の介入もなかったろう。
109日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:44:50
>>107
1.後先考えずに先制攻撃
2.緒戦では勢いに任せて大勝利
3.だんだん兵站が追いつかなくなって前線で餓死者続出

なんかどこかで見た負け方だなあ
110日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:30:11
日本軍は、戦国時代の終末期に位置する、この時代の世界有数の陸軍を持っています。
有名な関ヶ原の合戦では、あまりにも鉄砲足軽の比率が高まりすぎて、長槍で突撃する足軽の数が足りなかったという逸話すらあるほど極端に高い鉄砲装備率を誇っています。
もっとも大砲の装備数に関しては、火薬の原料となる硝石の希少性からか、鉄砲装備率の割合から考えると極めて少ないようでした。
なお、日本で大砲が戦場で登場するのは、九州大友氏の国崩しが恐らくは最初です。
同時期の信長の鉄鋼船への搭載も有名でしょうか。しかし、信長から20年近く経過した関ヶ原の合戦では、西軍は三成が3門持っていたという資料がある程度で、たいして役には立っていません。
攻城戦でも大砲が有効に機能したのは、限定的な意味ですら大阪冬の陣などごく限られた例しか見受けられません。
少なくとも、大砲で物理的に破壊された城というものは僅少です。かのオスマン朝がコンスタンチノープルの城壁を巨大な大砲で撃ち破ったのが何時だったかと思うと、日本での大砲運用は全くなされていないとすら思えます。
111日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:42:05
歩兵、砲兵、騎兵の三兵編成でケンカを売ってくるのですから、多少騎兵を有していようが戦国時代編成・装備の日本軍が苦戦することは間違いないでしょう。
なにしろ日本側には、野戦用の大砲がありません。
兵団の基本単位は、旅団単位(約5000名)を基本として見ていきます。
戦国時代末期の日本軍は、槍、弓、鉄砲が基本兵科です。これに武士(重騎兵)、騎乗士(軽騎兵)、黒鍬(工兵)、荷駄(補給)などが加わって戦国スタイルの混成部隊を構成します。
このうち、黒鍬(工兵)、荷駄(補給)は、純粋な戦闘部隊に含めません。
(含めた場合は8000人程度の集団になるでしょう。)
戦闘部隊の比率は、槍4:弓2:鉄砲3:武士・騎乗士1=計10ぐらいでしょうか。
時期と場合によって鉄砲の装備率が違うことがありますが、この世界の日本軍の場合は、比率で挙げられるぐらいに騎兵が増えて槍兵、弓兵が減る編成になるのが違いでしょう。
騎兵の方が歩兵に対して強いという事
112日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:26:45
この時代はまだ三兵戦術は確立されてないから日本軍が戦う相手はテルシオになるだろう

グスタフ・アドルフのように鉄砲足軽で漸進射撃戦術をやればよい
113日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:33:03
111につっこむべきなのは、そこではないとおもうが・・・
114日本@名無史さん:2008/11/05(水) 10:07:18
その近代旅団よりまともに組織されたテルシオのが強そうに感じるのは気のせい?
115日本@名無史さん:2008/11/05(水) 14:31:42
アイヌ軍の全体的雰囲気は、一時期のロシアやオスマン朝に近くなるでしょうか。
アイヌ軍は、外征軍(野戦軍)と国内軍(城兵軍)で編成が大きく分かれます。外征軍は騎兵主体。
国内軍は鉄砲兵、砲兵主体です。 外征軍は、抜刀突撃する重騎兵、弓と軽鎧の軽騎兵に欧州的な槍兵、鉄砲兵が加わります。
違うのは、欧州同様弓兵が副兵科になっている点と、騎兵の比率が大きく違う点、そして大規模な砲兵部隊を持つ点です。
この時代の欧州では既に弓兵は廃れており、欧州でも戦争をしているアイヌも同様の筈です。
日本でも鉄砲に取って代わられつつあります。
それはともかく、歩兵の主力はあくまでアルケビュースやマスケットを装備した銃兵と機動性重視のため中程度の槍を持った槍兵です。
銃兵の護衛と機動性の確保のため、長すぎる槍は既にアイヌにとって不要です。 比率は、騎兵2:砲兵2:槍2:鉄砲4=計10ぐらいでしょうか。
国内軍は、国境線の要塞守備が基本なので、騎兵は偵察や連絡用部隊以外持ちません。主力は鉄砲と大砲。防御力も要塞そのものが担うので槍兵も副兵科。要塞修理のための工兵は増えますが、備蓄物資を使うので輸送部隊がいらず最小限で済みます。
戦闘部隊の比率は、砲兵3:鉄砲6:その他1=合計10ぐらいでしょう。
以上、どの比率も極めて大雑把なものですが、単純な兵器の装備率を比較するならこの程度の数字に落ち着くと思います。
116日本@名無史さん:2008/11/05(水) 14:35:01
そして、騎兵の方が歩兵に対して強いという事と、アイヌ側の守備軍が要塞に寄って防戦に努めるという要素を加味すれば、日本側に勝機はありません幅100メートルもの空堀を構え、要所は巨石や焼きレンガで堅固に構築されています。
要塞各所からは、鉄砲だけでなく大砲、天雷と呼ばれる炸裂弾、場合によってはロケット砲すら飛んでくる始末です。
豊臣方からすれば、やっぱり魔王の城に攻めるようなものでしょう。
かといって要塞を無視して迂回進撃しようとすれば、機動性と集団性、組織力において懸絶した騎兵軍団が現れるので、歩兵主体の日本側に為す術無し。
野戦でも大砲を大量運用するアイヌ軍相手では、戦国時代編成の日本軍では太刀打ちできません。
じゃんけんで二つの手しか使えないようなもんです。
世界中で大規模な騎兵運用を常道としてきているので、
戦場での装備、戦術の先進性も疑うべくも世界中の戦争で鍛え上げた歩兵、砲兵、騎兵の三兵編成でケンカを売ってくるのですから、多少騎兵を有していようが戦国時代編成・装備の日本軍が苦戦することは間違いないでしょう。

架空大国だがロシア帝国、オスマン帝国並みで欧州と同じ編成だ、>>111の戦国時代日本軍で欧州軍と戦ったても勝つのは困難だ。
117日本@名無史さん:2008/11/05(水) 18:57:55
オフィシャルでは、史実の「五大老・五奉行」をもじった官僚制度の整備に伴う中央集権と地方分権の促進と、ガレオン艦隊、常備軍の設置に象徴させました。
上記の改変は、日本がイスパーニャと戦うために、可能な限り必要なファクターばかりです。
官僚制度を整備して中央集権と地方分権を確立しておかねば、安心した外征は行いにくくなります。
ガレオン船がなければ外洋に出られませんし、スペイン海軍にも太刀打ちできません。
常備軍とそれに伴う軍制改革がなければ、総合的なシステムとしてスペイン軍の誇るテルシオに対抗できません。
118日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:00:30
ここでは特に常備軍について見て次に進みましょう。
常備軍は、特に欧州では国民軍と類似イコールの存在となります。
ドイツ三十年戦争頃のスウェーデンでその萌芽がみられ、鉄の軍規を用いた厳しい訓練により優れた軍制を生み出しました。
金と命が大事な傭兵軍ばかりが蔓延っていては、欧州でも優れた軍制改革はあり得なかったでしょう。
なにしろ近代軍制の基本は優れた行軍と規律であり、傭兵に求められていた事と合致しません。
いっぽう戦国時代の多くの時期に日本で発達したのは、半農半兵の足軽達です。
織田信長台頭の頃に始まる職業軍人による常備軍の原型が発達したのは、農工業すべての産業が発展していた近畿地方を中心とする経済的に余裕のある地域だけです。
この点、ネーデルランドでテルシオを次ぐ軍制が発達した欧州と少し似ているのかもしれません。
お金がないと、生産活動を行わない常備軍は持てないのです。 また、日本の戦国時代末期は、膨大な数の軍勢が長期にわたり遠征するという形が恒常化します。
特に織田信長、豊臣秀吉が実践した数々の大規模な戦争行為は、農業から切り離された大量の職業軍人による常備軍なしには語れないでしょう。
119日本@名無史さん:2008/11/07(金) 16:55:14
ヨーロッパのような平原が広がってる所が戦場なら、騎兵や大砲も効果あるだろうけど
東南アジアみたいな山の多い所ではあまり使えんわな。
元も日本侵略には馬をたくさん運べなかったし、馬を輸送しようにも船の上では暴れて仕方がない。
120日本@名無史さん:2008/12/07(日) 10:48:55
イエズス会のコエリョ管区長が何度も、マニラ総督に派兵を依頼したが
きっぱり断られているし、イエズス会本部上層部は、浜辺で
全滅必至と承知していた。
121日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:27:02
その前に、秀吉の朝鮮出兵の際さえ兵站で結構失敗しているのに、
さらに遠いフィリピンなんて言ったら・・・
122辺無宇叫 ◆eaYqa3SeLE :2008/12/07(日) 15:39:03
仮にフィリピン攻略できればスペインの策源地はグアム、メキシコにまで後退するから
わざわざレガスピの時以上の大船団こしらえてやってくることはないとは思うけど(逆を考えてみれば非現実的すぎることに気付くだろう)、
それから後に日本人に異民族統治、特に南部のムスリムの統治なんて出来るのかが心配。
レコンキスタ終えたスペイン人がアカプルコから出航して世界を半分廻ったところにまで、
かつてイベリアから追い散らしたモーロ人がいたのを見た時の心境はどうだったんだろうね。
123日本@名無史さん:2008/12/07(日) 18:19:23
秀吉は、マニラ総督に臣従せよとの、使者を一応出したけど、使いの
イエズス会士がマジ、困ったとか。

彼自身は、朝鮮で頭いっぱいだったろう。
124日本@名無史さん:2008/12/08(月) 01:09:32
イエズス会士の手紙か何かに書いてあったの?
125日本@名無史さん:2008/12/08(月) 06:48:06
このスレおもろい
126日本@名無史さん:2008/12/09(火) 22:29:03
1593年に秀吉が、マニラ総督あてに朝鮮の役の余勢でマニラまで
押し寄せる旨、脅しであるが、イエズス会を通じて行っている。
マニラ側は、10万の日本兵が来るのでは、と脅威を感じていたらしい。

巡察使ヴァリニアーニが使いだったかもしれない。
1597年にマニラ総督から返礼というか、交易しようではないか、と
聚楽第に総督本人がやってきた。
127日本@名無史さん:2008/12/09(火) 22:43:35
ところでヴァリニャーノがフィリッピン総督に
「シナの侵略のために日本を傭兵として利用するべきだ」
みたいな手紙出しているけれど、まさか秀吉はそのシナリオに沿って動いてしまった。。。
なんて事は無いよね?
128日本@名無史さん:2008/12/09(火) 22:49:09
いいれす
129日本@名無史さん:2008/12/10(水) 22:08:35
日本がスペインの言うことに耳を貸すというより
秀吉が余剰過剰の戦力の投入、公共事業として朝鮮の役を企図したことは、
自分の勝手都合からだろう。

スペインが中国への利権といっても、ポルトガルを介して
マカオにへばりついていただけだろう。

17世紀になって、オランダが台湾に手を出した頃には、もうスペイン
ポルトガルの海上戦力は衰退しきっていた。
130日本@名無史さん:2008/12/10(水) 22:35:01
>>129
そうだろうねえ。
統一が成ったら武士の仕事ないんだし。
経済も大名が戦争することで回ってたんだから。
統一後、秀吉が金使いまくったのも無理ない。
131日本@名無史さん:2008/12/11(木) 02:34:07
元寇もモンゴルがシナを征服したあと、邪魔になったシナ兵、高麗兵を日本へ追い出すのが目的で、

途中で失敗して全滅しようがかまわなかったらしいな。
132日本@名無史さん:2008/12/11(木) 20:21:22
大日本帝国陸軍の中国進出も、似たところある。
なにせ、弾薬だけ持たせ食料は現地調達前提だったから。。
133日本@名無史さん:2008/12/11(木) 22:54:42
ネトウヨが 「んなことはない」とやってきそう。

やつらも、文禄慶長の役、秀吉の肩はもたないみたい。
李朝の悪口は言いたがるが。

スペインの日本にのめりこめなかった理由の一つに、当時の日本人が劣っていた
外洋航海技術、造船術を学んでしまうことが怖かったこともある。
日本人が渡航するには、一枚帆の和船では困難だった。
明のジャンク船をチャーターしていたが、ウイリアム・アダムズが来日して以来、
浦賀、遅れて座礁したスペイン船を手本に、伊達政宗のもとでも西洋船の建造が行われた。

知的所有権の争いは、当時からあった。
134日本@名無史さん:2008/12/11(木) 23:04:38
>>133
>スペインの日本にのめりこめなかった理由の一つに、当時の日本人が劣っていた
>外洋航海技術、造船術を学んでしまうことが怖かったこともある。

初めて聞いたけど、そんなことありうる?
135日本@名無史さん:2008/12/12(金) 09:42:04
航海術は日本相手だけじゃなく全ての国に対し最大級の機密事項
突っ込み入れるべきはその後の文章だとおもw
136日本@名無史さん:2008/12/12(金) 11:52:28
>ネトウヨが 「んなことはない」とやってきそう。

↑こういう事をわざわざ書く奴に何を期待しているんですか?
おまいら


137日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:07:24
当時ってまだ日本じゃ南蛮胴が無い時代だよな?

鉄砲で撃っても無効だったら終わりじゃないかww
138日本@名無史さん:2008/12/13(土) 00:02:06
秀吉が九州征伐ののち、博多湾で長崎からやってきた、イエズス会管区長
コエリョオが廻航してきたポルトガルの小型船に乗りこみ、湾を一周した。
はじめてみる西洋船の隅から隅まで彼は見聞し、一度で気に入ってしまった。
露骨に欲しがるそぶりを見せた。
独裁者のそぶりを見た高山右近、黒田如水は、コエリョに対して、必死で
船を献上するように説得した。が、本国からの命令なしでは船を外国人には
贈与できないと、頑迷に応じようとしなかった。
その数日後、伴天連禁止令がでることとなった。

アダムズが60トンほどの日本初の小型西洋帆船を建造したのは
伊豆の伊東だった。船を江戸湾に廻航して家康らを喜ばせた。

その後、150トンの中型船を彼は図面を引き、日本人船大工を指導、
建造したが、ちょうど難破して日本に来ていたマニラ総督に
気前よく家康はプレゼントしてしまった。
なんか事情があったと思うが、忘れた。

伊達政宗が500トンの大型西洋船を建造した時は、江戸幕府の
後援というか、西洋船の技術を得た船大工派遣の支援を受けていた。
これに支倉常長らの慶長使節がのった、といことだっけ。

いろいろ諸説あると思うが。

139日本@名無史さん:2008/12/13(土) 01:55:40
朱印船の構造って、ガレオン船の影響があったんじゃなかったっけ?
140日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:07:49
朱印船はシャム王国の船がベースになってて、そのシャム船がガレオンの影響を受けてる
141日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:16:37
シャムの船って?
142日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:44:01
>>141
ジャンク船に洋風のバウスプリットや船尾縦帆がついている折衷船で、
タイ語ではルア・サムパオ、南蛮人からは「ミスツィス(混血)つくり」と呼ばれていた。
当時のアユタヤ王朝は貿易で栄えていて先進国だったから船も高水準だったんだな。
日本で作られた型の朱印船はそれに和風の櫓や艪床が追加されて、さらに改良されている。
143日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:44:03
ガレオン船の影響受けた船なんて日本では幕末の話
戦国当時はキャラック船の影響すら受けてない
ただ織田が西班牙のガレー船もどきを作った話はフロイスが書いている
144日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:58:45
大砲というのは、城壁破壊に意味がある国でこそ意味があるわけで、
土塁や石垣が防御の中枢である日本の城には意味が無い。
意味が無い上に、山を越えないと隣の国に行けない日本では移動に不便すぎるし、
日本の合戦のほとんどは山城をめぐる攻防だからますます意味が無い。
当時の大砲は炸裂するわけでもないから野戦では今一だし。

大砲のもう一つの役割は海戦。日本は今一海戦に興味もなく、今一だったことは事実
145日本@名無史さん:2008/12/13(土) 15:04:34
秀吉の紀州根来攻めの際、総大将の小西行長が乗っていた旗艦の話

「彼はわがガリヤン船に似た船に乗り、多数のモスケット銃および豊後の王が信長に贈った大砲一門を載せ、
敵の通過する和泉国の海岸に上陸し、敵兵の多数を殺した」(イエズス会士日本年報)

商人上がりの行長の船だからもしかすると本当にガレオン並の外洋船だったのかもしれないが、
装備がもらいものの大砲一門というのはガレオンにしては心もとないな。
146日本@名無史さん:2008/12/13(土) 18:50:28
太田城水攻めの際、城の周囲にできた水ぼりに、大砲を積んだ安宅船を小西行長が
陸上輸送で運び込み、城壁のそばまで寄せてぶっ放し雑賀衆の度肝を抜いた、
とかの伝説がある。
白石一郎の「海将」に出てくる。
商人上がりといっても、当時の大規模な貿易商人は軍人に近かったらしい。
147日本@名無史さん:2008/12/13(土) 20:27:58
西暦1600年人口(wiki他各国人口統計局サイト、Angus Maddisonより)

中国1.6億人                 (現在の領域)
インド1.3億人                 (現在の領域)
オスマントルコ3000万人
ロシア2000万人               (現在の領域)
フランス1800万人              (現在の領域)
神聖ローマ帝国1600万人
イタリア1300万人              (現在の領域)
日本1300万人                (現在の領域)
インドネシア1000万人            (現在の領域)
スペイン*820万人              (現在の領域)
イギリス700万人               (ブリテン島とアイルランド島全域)
ポルトガル300万人             (現在の領域)
メキシコ250万人               (現在の領域)
スカンジナビア諸国200万人        (デンマーク含む)
オランダ150万人               (現在の領域)
148日本@名無史さん:2008/12/13(土) 21:11:25
西暦1600年の各国経済力(国際ドル換算)
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_past_GDP_(PPP)

96,000ドル・・・明朝中国(人口1.6億)
74,250ドル・・・ムガール朝インド(人口1.4億)
24,088ドル・・・極東合計(シベリア、日本、インド、中国除く)
22,000ドル・・・アフリカ
20,789ドル・・・スペイン帝国総合
15,559ドル・・・フランス(人口1800万)
14,410ドル・・・イタリア(人口1300万)
12,637ドル・・・中東及び西アジア総合
12,432ドル・・・ドイツ(人口1600万)
*9,620ドル・・・日本(人口1300万)
*7,416ドル・・・スペイン単体(人口800万)
*6,007ドル・・・イギリス(人口700万)
*2,093ドル・・・オーストリア(人口200万)
*2,052ドル・・・オランダ(人口150万)
**,850ドル・・・ポルトガル(人口300万)
**,626ドル・・・スウェーデン(人口100万)
149日本@名無史さん:2008/12/13(土) 22:46:45
>>145
『イエズス会士日本年報』って雄松堂から出てるやつ?
今度読み直してみるか。
150日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:00:04
朱印船とか遣明船の構造について書いてある、いい本って何か無いですか?
151日本@名無史さん:2008/12/14(日) 00:44:46
>>150
学研「日本の船を復元する」あたりかな
152150:2008/12/14(日) 00:47:18
>>151
おお、これは面白そうですね。
早速読んでみます。
153日本@名無史さん:2008/12/14(日) 08:41:44
>>148
1600年の各国経済力なんてどうしてわかるの?教えて
154日本@名無史さん:2008/12/15(月) 06:46:00
タイトルの印象とは違って、勉強になるいいスレだなぁ
155日本@名無史さん:2008/12/15(月) 14:34:09
>>153
この時代はまだまだ農業生産力が経済の基盤で、
それを基にして大方の経済力が測れたはず。
156日本@名無史さん:2008/12/15(月) 15:12:36
1600年にはもうないが、インカ帝国の人口・農業生産力なんかものすごかったろうな
157日本@名無史さん:2008/12/15(月) 18:43:47
>>148
ヨーロッパ勢順位高すぎないか?
東南アジアにもアユタヤ王朝などアジア貿易の中心的王朝が
あるのに。特に世界的な貿易に参画していないスウェーデンが
アユタヤ朝より上とは思えない。
158日本@名無史さん:2008/12/15(月) 23:01:57
その頃のスウェーデンにはグスタフ=アドルフという軍オタ好みの王が居てだな







まぁいいか(苦笑
159日本@名無史さん:2008/12/15(月) 23:20:11
あの、バルト海の王者となるべき最大最強のガレオンを作ったら
処女航海でいきなり沈没されてしまった人だな
160日本@名無史さん:2008/12/16(火) 12:04:57
グスタフ=アドルフが活躍する時代だと江戸時代日本軍VSスペイン・ポルトガル軍
になる。
161日本@名無史さん:2008/12/16(火) 12:58:06
日本側とポルトガルの交戦なら、あの有名な事件が。

1609年に,有馬晴信がマカオでの日本人商人40名の殺害
トラブルから、長崎港沖でマカオの海軍司令かだれかが乗る
ポルトガル船を襲撃した有名な事件があった。

ググって見たら、市川雷蔵主演の映画も有るそうな。
有馬晴信は、百そうほどの小舟で包囲して焼き討ちしたが
降伏を拒んだポルトガル船の反撃も凄まじく,多大な死傷者を出し相当手こずったとか。
ポルトガルの責任者を尋問するべし、との家康の意を組んでの行動で、
岡本大八がその目付でいたことが後の命取りの事件につながったらしい。
162日本@名無史さん:2008/12/16(火) 23:51:29
実際にシャムで日本の不正規軍とスペイン艦隊が交戦しましたが、
それは参考になりませんか
163日本@名無史さん:2008/12/16(火) 23:53:26
戦国日本軍のメンバーはどうなってますか???
164日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:34:15
この手の後出しジャンケンは日本人の悪癖。
そんなに覇を唱えたかったら戦国時代と言わず今から始めろ。
165日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:41:55
そうだよな。
地球滅亡まではまだまだ長いぞ。
166日本@名無史さん:2008/12/17(水) 14:20:04
全盛期のスペイン無敵艦隊といえど、当時日本に到達できたのは
半分以下になるだろうし、日本の九州沿岸部を襲撃、一時的占領できるのが
やっとだったろう。

日本も、和船、安宅船では朝鮮海峡を渡るのが精一杯だし、
風向きが悪ければ、フィリピンまで行くのも困難だったはず。
また当時の日本人水夫は、三浦按人設計、建造の西洋帆船のマスト
をよじ登っての作業がなかなかできなかったらしい。

日本が三角帆を積極的に研究取り入れ、実用化したのは
18世紀くらいではなかったか。
あれで日本沿岸部の海運が飛躍的に発展した、ときいた。
167日本@名無史さん:2008/12/17(水) 15:04:48
>全盛期のスペイン無敵艦隊

イミワカラン
そもそも無敵艦隊って名前に騙されとらんか?
168日本@名無史さん:2008/12/17(水) 21:32:21
無敵艦隊という語を作ったのはイギリス。
169日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:39:29
スペイン、ポルトガルの艦船は、あちこち日本の近くでも
イギリス、オランダと出会ったら戦闘していたが、
当時の日本人には、奇異にみえたらしい。

170日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:27:26
1600年の人口
http://www.ipss.go.jp/syoushika/site-ad/index-tj.htm
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-128.htm
http://www.geocities.jp/kingo_chuunagon/kikaku/kokuryoku.html

16000万人・・・中国
13500万人・・・インド
*8400万人・・・欧州総合
*2400万人・・・オスマントルコ帝国
*2000万人・・・フランス、ロシア
*1600万人・・・ドイツ(現在の領域)
*1300万人・・・イタリア半島、日本列島
**800万人・・・スペイン
**700万人・・・イギリス総合
**600万人・・・朝鮮半島
**500万人・・・ポーランド
**400万人・・・ハンガリー
**250万人・・・メキシコ、北米、エジプト
**150万人・・・オーストリア、ポルトガル、オランダ
**100万人・・・スウェーデン、ベルギー
***90万人・・・摂津国
***70万人・・・武蔵国、陸奥国、京都府領域
***50万人・・・デンマーク
***45万人・・・和泉と河内、千葉県領域、両毛
***40万人・・・尾張国、越後国、大和国
***35万人・・・岡山県領域、出羽国
***30万人・・・フィンランド、美濃国、伊勢国、近江国、広島県領域、静岡県領域
***25万人・・・肥後国、筑前と筑後、肥前国、常陸国、信濃国
***20万人・・・ノルウェー、伊予国、紀伊国、島根県領域、山口県領域、オセアニア総合
***15万人・・・沖縄列島、土佐国、阿波国、讃岐国、薩摩と大隅、北陸3県各領域
***10万人・・・豊後国、日向国、豊前国、甲斐国、相模国、鳥取県領域
171日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:58:41
1600年当時の都市人口
http://www.tulane.edu/~august/H303/handouts/Population.htm
http://www.openhistory.net/
http://www.etext.org/Politics/World.Systems/datasets/citypop/civilizations/citypops_2000BC-1988AD

70.6万人 北京(中国)
70.0万人 コンスタンチノープル(イスタンブール、現・トルコ)
50.0万人 アーグラ(インド)
36.0万人 大坂(日本)
30.0万人 平安京(日本)
27.0万人 杭州(中国)
24.5万人 パリ(フランス)
22.4万人 ナポリ(イタリア)
20.0万人 カイロ(エジプト)
20.0万人 ビジャープル(インド)
19.4万人 アフマダーバード(インド)
18.7万人 ロンドン(イギリス)
15.1万人 ベネチア(イタリア)
15.0万人 エディルネ(トルコ)
13.8万人 西安(中国)
13.4万人 蘇州(中国)
12.6万人 セビリア(スペイン)
11.0万人 プラハ(チェコ)
10.5万人 パレルモ(イタリア)
10.2万人 ローマ(イタリア)
10.0万人 駿府(日本)
*8.0万人 山口(日本)
*2.5万人 ウィーン(オーストリア)
*1.0万人 ストックホルム(スウェーデン)
172日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:37:57
>>171
ここ面白そうなんだけど、何度アクセスしてもエラーになってしまう。
ttp://www.openhistory.net/
173日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:15:45
>>172
自分は見れたが(microsoft wordで出てくる)・・・。

ちなみに1600年頃の他の町の主な人口
リヨン(フランス)・・・・・・・・・・・・・・8万人
アムステルダム(オランダ)・・・・・6万人
堺(日本)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5万人
マルセイユ(フランス)・・・・・・・・・5万人
石見銀山(日本)・・・・・・・・・・・・・4万人
金沢(日本)・・・・・・・・・・・・・・・・・4万人
ハンブルク(ドイツ)・・・・・・・・・・・4万人
トゥールーズ(フランス)・・・・・・・・3万人
プラハ(チェコ)・・・・・・・・・・・・・・・3万人
ミュンヘン(ドイツ)・・・・・・・・・・・・1.8万人
エディンバラ(スコットランド)・・・1.7万人
ストラスブール(フランス)・・・・・・1.6万人
ベルリン(ドイツ)・・・・・・・・・・・・・・0.9万人
グラスゴー(スコットランド)・・・・・0.7万人
熱田(日本)・・・・・・・・・・・・・・・・・0.5万人
174日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:58:56
まあ、いくら人口が多くても明のように少数民族に滅ぼされるてる例もあるし
戦争の強弱にあまり関わりないのでは?
175日本@名無史さん:2008/12/18(木) 03:09:54
>>174
その地域の経済力のバックヤードがどれだけあるかとか、
国全体でどのような人口分布をしているのかとか、そういう
データってそこそこ重要なキーワードになってくる気もする。
直接的に戦争の強さにまで比例するかといわれたら正直
厳しいものはあるけどさ。

中国やインドは人口も面積もデカすぎるし一概に比較するのは
難しいけど、少なくとも欧州や日本列島ほどのサイズなら割と
お互いにとっての相応の参考にはなると思うよ。
176日本@名無史さん:2008/12/18(木) 14:44:17
この時期の明王朝は、やはり国力最強だったのでは。
177日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:26:01
秀吉の伴天連追放令の口実の一つに、日本人奴隷輸出反対!

があったが、実態はどうだったのだろうか?
178日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:53:04
スペインはもう落ち目という情報が漏れ伝わってたんじゃないかね。
これ以上カトリックとつるんでても得はない、
むしろ新教国を敵に回す事になって不利益という判断があって手を切ったんだろう
179日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:05:04
>>178
うーむ、そうかも。

江戸幕府も幕末に、当時すでに最強だったアメリカと外交関係を結んだし、情報はかなりしっかり持ってたようだよね。
180日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:48:34
カトリックを見限ったのは、秀吉でなくて家康だろう。
1600年にW・アダムズが豊後に漂着するまでは、
イギリスなんて国があることさえ、大半の日本人は
知らされていなかった。

アダムズが来て、一番あわてたのはイエズス会のポルトガル人の連中で、
不法な海賊だ、処刑するように、と家康を口説き落とそうとした。
胡散臭く思った家康は、アダムズを尋問するうちに、西洋事情の変化を
敏感に悟ったようだ。

秀吉には、まだそのような情報は伝わってなくって
キリシタン大名らの自分への忠誠心を疑い始めてから
カトリックを嫌い始めたのでは。
181日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:41:01
>>179
いやいやアメリカが台頭してきたのは、第一次大戦後あたり。
幕末当時はまだまだ。

日米戦争開戦当時ですら、いまほど一国独走ではなかったし。
182日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:53:44
>>181
違うんだな。
もう当時から国力的には世界最強だったんだよ。

1830年代にはアメリカが最強なことが日本の一部でも知られてたそうな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E6%A9%9F%E8%AB%96
183日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:01:59
最強って、アホかと。

ドラゴンボールでも読んでろ
184日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:54:25
最強というよりはアヘン戦争以前の清みたいな扱い。
欧州に出かけた場合は第二次大戦中頃まで弱兵の扱い。
185日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:04:17
>>184
そうか?
アメリカ南北戦争知らんの?

総力戦で殺して殺して殺しまくってるんだが。
186日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:09:27
アメリカ国内の南北戦争で殺しあうことと世界最強の称号と
どういう関係があるのか、説明したけりゃしなさいよ!
187日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:19:54
>>186
兵器の質や数とかさ、兵員の数とかさ、いずれもかなり高いだろうと。

そうでなければ、総力戦で殺して殺して殺しまくることは不可能でしょ。
188日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:31:35
じゃあ、アフリカの国には世界最強の国がたくさんあることになるな。
189日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:53:02
>>188
「当時としてはだよ」

まあ北軍にはイギリスからの支援があったのかな。
190日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:57:48
アフリカには、当時としては世界最強の国がたくさんあったの?
何か意味わからん
191日本@名無史さん:2008/12/26(金) 01:05:37
いやいや、アメリカのことだよ。
当時あれだけの大戦争ができる軍隊をもった国なんて少ないだろ?そういうことだけどさ。
192日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:15:55
↑アメリカの太鼓持ちですか?
193日本@名無史さん:2008/12/26(金) 17:22:36
まあ,戦国時代は前半、スペイン、後半オランダ、イギリスでは。

オランダの衰退というのが,輸出と為替差損、日本と似てるのでは。
194日本@名無史さん:2008/12/27(土) 01:28:32
ポルトガルはあえて抜かしてる?
195日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:25:37
ポルトガルはお隣のフェリペ2世に乗っ取られ、ぜんぜ〜ん、元気無かった頃。
196日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:05:15
それは末期だろう。
197日本@名無史さん:2008/12/30(火) 10:08:54
でもない。
198日本@名無史さん:2008/12/30(火) 10:18:14
戦国時代前半は、海上帝国時代だけど?
199日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:45:04
そのころはまだ日本にたどりついてないだろう。
200日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:31:59
この際、日本の話は関係ないと思うが。
201日本@名無史さん:2009/01/03(土) 19:13:16
naruresu
202日本@名無史さん:2009/01/05(月) 06:32:34
人口(当時世界三位)、経済力(世界屈指の金銀産出)軍事力(世界最多の鉄砲、百年鍛えぬかれた練度)などからみて、実はこの頃が日本のピークだったりして…
203日本@名無史さん:2009/01/05(月) 12:10:22
国民生活レベルは最低だけどな。
204日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:21:00
海のはて、極東の不思議な国だね。

フロイスらもそう記述していた。
不思議なまで礼儀正しく学問好き、清潔好き、好奇心旺盛。

で、残忍で冷酷。腹の底、本心を絶対に見せない。
国土は地味乏しく貧しい。飯まずい。
極度に重罰、治安が良好。が戦乱ばかりで王侯の命運といえど
定かでない。
205日本@名無史さん:2009/01/07(水) 14:31:00
治安が良好だったのか。
これが一番意外。
206日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:53:09
良いといっても戦乱がない時期、領主の権威が
強固な時期だけど。

フロイスやオルガンティーノは、秀吉以前は各地で
強盗の被害にあっていた。


それと西洋人の国情に比べれば、あるいは
他の東洋諸国と比較して、という意味もあるだろう。
207日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:06:46
過去の栄光だね。もう今の日本に未来は全くない。
208日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:21:00
いやいや、紅毛どものかの国々が、贅沢三昧、
民から搾取の限りを尽くしておるうちに、台所がままならぬ
有様であるからして、直に良くなるじゃろう、日ノ本は。
209日本@名無史さん:2009/01/16(金) 08:15:52
結局、明治維新ってたいしたことじゃなかったのでは?
世界経済の成長史という本によると1820年代で日本のGDPは世界6位。
明治から急に日本が成長したというわけではない。
明治維新の意義は、政権が変わったことと西洋化したことだけだろ。
210日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:17:39
明治維新論をここで、となると大変つかれる話だ。

が、あのまま鎖国続けようとしていたら清のようになってたぽい。
211日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:48:21
ここでやったら?

なんで徳川幕府のまま開国しちゃだめだったの?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1195298540/
212日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:44:32
関連スレ
ポーランド軍と信長軍が戦争したらどっちが勝つの?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1231573427/
213日本@名無史さん:2009/02/04(水) 13:37:47
信長軍とオスマン軍は戦争したらどっちが強いの
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1230724338/
214日本@名無史さん:2009/03/09(月) 14:47:02
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。

パステルス「日本スペイン交渉史」
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
215日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:56:53
陸戦なら日本の戦国大名の軍のほうが強いだろ。フィリピンやタイで日本の浪人の傭兵が
10倍以上のスペイン、ポルトガルの軍をボコっているし。
216日本@名無史さん:2009/03/11(水) 07:56:13
>>215
その話よく聞くんだけど何年のどこの話なのかkwsk
217日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:25:55
1613年オランダ平戸商館開設間もない時期に、
最初の集団契約移住者がローデレーウメット・パイレン号で
バタヴィアに向かったが、同時期に艦隊司令官として着任したクーンが、
13隻690人の兵員でのテイドール島遠征には40名の日本人一隊が
参加しているのはモルッカ遠征の為の募集に相異なかろう。
同年9月9日イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に
一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため
多数の戦傷者をだしたと戦況報告をしたためている。
218日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:27:45
有能な知事フレデリック・ハウトマン(1621年)の名簿にも、
オランダ人40名マルダイケル25名、日本人20名の名簿があり、
カラマタ城塞篭城戦では、イスパニア側戦死11、負傷40、
オランダはオランダ人7名、日本人3名戦死、20名が負傷している。

アドリヤーン・ファンデス・デユッセンの総勢九百人の兵力での
バンダ遠征には、日本船一隻が随伴してプロウ・アピ攻略に向かい、
隊旗を掲げて進撃したことをクーン自らが報告している。
翌年のヤン・デイックゾーン・ラムは陸兵7隊、水兵3隊、
日本兵23名でプロワイ攻略に向かっている。
この事から日本人傭兵は直接参加、バタヴィア遠征隊
(旗艦ニューホランデイアに42名)と相当数と想像出来る。
1621年3月14日、旗艦上で作成の決議録には
オランダ志願兵34名、日本兵15名に論功行賞60レアル30レアルを授与している。
219日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:28:44
東インド会社使用人ドイツ人ヨハン・シグムント・ウルフバインの
1634年1月24日の日記には‘刑吏トマス・茂助Moschは、
シナ人料理店から裸足で歩いてきて、斬罪宣告の罪人を
片手で一刀で斬首して役目を果たした’と書き残し、
絞首罪や鞭打ちは奴隷に任せたとも書いている。
脱走した兵卒ヨハン・ヘルマンも死刑を宣告され同様に斬首されたとも。
220日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:07:42
短パン
221日本@名無史さん:2009/04/11(土) 09:01:22
パステルス「日本スペイン交渉史」

ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙・・・コーチシナ、
ここは1000人で征服できます。カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の
生活の面倒をみてくれています。シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。
222日本@名無史さん:2009/04/16(木) 16:57:26
文禄の役
釜山に上陸した日本軍に対し、朝鮮軍はあっという間に敗北。
釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申立戦死)
などで日本軍は勝利を重ねた。
日本軍は第1軍(小西行長、他)、第2軍(加藤清正、他)、第3軍(黒田長政、他)を先鋒に
三路に分かれて急進し、翌5月には首都漢城(現在のソウル)を占領。

朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都して避難、
さらに日本の進撃が迫ると遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、
冊封に基づいて明に救援を要請するが、
その間にさらに北上した日本の第1軍と第2軍は平壌を占領して進撃を停止した。

あまりに容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落したため、
日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、
各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた

平安道 第1軍小西行長他、 
咸鏡道 第2軍加藤清正他、 
黄海道 第3軍黒田長政他、 
江原道 第4軍毛利吉成他、 
忠清道 第5軍福島正則他、 
全羅道 第6軍小早川隆景他、 
慶尚道 第7軍毛利輝元他、 
京畿道 第8軍宇喜多秀家他、

日本軍は北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、
加藤清正の一隊は国境を越えてオランカイへ攻め入った。
223日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:32:27
ほー
224日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:15:49
海軍力では、スペイン・ポルトガル連合軍には勝てないが
地上戦に持ち込めば、勝機も生まれる。
だが、地上戦でも鎧で身を固めた豊臣軍は南方の暑さに大変苦労するだろう。
225日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:17:41
>だが、地上戦でも鎧で身を固めた豊臣軍は南方の暑さに大変苦労するだろう。

は?南方ってどこのこと?
226日本@名無史さん:2009/05/06(水) 12:11:15
スレタイに東南亜細亜と書いてありますよ
>ポルトガル軍と東南アジア近辺で衝突した場合
どうなっていたか

一例として東南亜細亜とは、フィリピンやマレーシアなどなど
南方とも表現します
東南亜細亜=南方亜細亜
南方だけでは言葉足らずだったかな…
227日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:32:23
743 名前:とてた ◆0Ot7ihccMU 投稿日:2009/05/05(火) 10:01:42 0
オフ会絡みで。


明治期には「東南アジア」という地域区分はなかったこと。
僕が入手した明治時代の尋常小学校用教科書では、
インドシナ・シャム・ビルマは前印度、印度・バルチスタンは後印度となっていました。
フィリピン・ボルネオ・蘭領印度はオセアニアの区分でした。
228日本@名無史さん:2009/05/08(金) 02:28:40
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。

南方で勝ってるな
正規の日本軍ではなく日本人傭兵団だが
229日本@名無史さん:2009/05/10(日) 02:58:55
>>228
最初は飛び道具の打ち合いでも相手の陣地を崩すには結局接近戦になるが、接近戦は武士
の方が強いからな。
230日本@名無史さん:2009/05/12(火) 18:50:58
武士が強いのは確かだが
それだけの例じゃな
ヨーロッパでも鎧をつけず、短剣と投槍だけで
オスマン相手に連戦連勝して
重装騎兵も恐れさせた
アルモガバルスって気違いみたいな傭兵集団がいたからな
本国から本格的な戦闘員連れてきたらどうだろうね
231日本@名無史さん:2009/06/04(木) 13:09:03
(中略)

陸戦では日本は強かった。スペインも日本を恐れていた。
実際、秀吉がルソンに朝貢を促した時、スペインのあわてぶりに驚く。

ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」


実際やったらどうかというより
スペインのほうはもうやりたくなかったみたいだな

ちなみにパステルスはルソンに朝貢をうんぬん言ってるが
朝貢じゃなくて開城だった気がするんだが…
232日本@名無史さん:2009/07/10(金) 18:24:34
結局>>1についてはifの定義によるんじゃないの?

史実では朝鮮出兵すら失敗しているわけで、東南アジアまでいってポルトガルスペインと戦うのは不可能
でも、不可能だから敗北というんではifの意味がない
とはいえそれを可能にするifの条件(日本の補給は万端で現地の協力あり、とかね)によっては日本の勝利が確定してしまうと
233日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:16:21
「明史」の記述

 「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
 「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった」
234日本@名無史さん:2009/07/30(木) 16:07:43
プロシア「最近アジア方面での貿易で日本に押されてるらしいけど貴国の軍事力ならさっさとあんな小国黙らせられるんじゃないの?なんなら俺が変わりにやってやろうか?」
スペイン「いややめといたほうがいいっすよ。たしかにウチらの海軍力なら日本には圧勝だと思いますよ艦砲射撃の段階までなら。でも制圧するには上陸しないといけないじゃないすか、これがきついっす。」
プロシア「なんで?楽勝だって」
スペイン「あいつら平民はおとなしいし楽勝なんですが貴族がやばい。サムライって言うんですがあいつらは侮辱されたりしてキレると手がつけられない。
どこまでも追いかけてきて自分を侮辱した相手が死ぬまで諦めないんです。こっちが鉄砲撃とうが何人いようがあとで自分が死刑になろうがお構い無しですよ。知ってます?あいつらの死刑って自殺するんすよ。自分で腹を切るんです。どっかおかしいんすよあいつら」
プロシア「グロいなそれ」
スペイン「しかもキレてるだけじゃなく実際ケンカも強いッす。カターナっていう刃物もたれたら俺らじゃどうしようもないッす。他国の海兵隊で以前奴らともめたのがいたんですが、毎晩のようにゲリラ戦をされ
ライフルごと斬られたりカターナを受け止めきれずに頭にライフルがめり込んだりした乗組員の死体の山が出来たそうですよ」
プロシア「マジかよあり得ねー」
スペイン「結局示談になったらしいっすが生き残った乗組員のほとんどもノイローゼになったって話すよ」
プロシア「うわ悲惨」
スペイン「おだてておけばおとなしいし銀とかいっぱい持ってますからね。信仰においては野蛮人ですし攻め滅ぼしたいのは山々なんですがここは仲良くやっとくほうが利口だと思いましたよ俺」
プロシア「大変だなお前も」
235日本@名無史さん:2009/08/07(金) 20:01:56
ポルトガル人が日本に鉄砲を持ち込んだのはヨーロッパ史上最大のミステイク
236日本@名無史さん:2009/08/07(金) 20:25:43
シャムの日本人傭兵部隊がイスパーニャ艦隊と交戦して勝ったらしいな
237日本@名無史さん:2009/08/08(土) 09:22:16
>>1
日本が勝ったに決まってるでしょ。
遠路はるばる数年かけてやって来る本国と意志疎通も途絶え々々の集団に
なぜ負けることがある。そんなに日本は弱小国じゃねえって。
圧倒的な地の利があるのに。

ちなみにスペインは対明攻撃に秀吉の援護を要請していたようだが。
対外戦なら、向こうの航海技術と日本の戦闘力が組めば無敵だったかもな。
歴史のifでした
238日本@名無史さん:2009/08/10(月) 06:45:10
地の利とかの前に日本がヨーロッパにあったとしてもヨーロッパごとき雑魚に負けるかよw
白人なんて所詮食いっぱぐれて産業革命起こしてからでかい顔してるから参っちゃうね
239jyonniru:2009/08/10(月) 22:54:04
いい加減ネット右翼も現実を理解しろ!
別に戦国時代の日本を特別弱いとは思ってない!
200年間の平和を貪っていた正規軍7・8千人の朝鮮
を16万からの大軍であっという間踏み潰すぐらいは強いと思うよ!


240jyonniru:2009/08/10(月) 23:03:36
いくら石器の武器のみでも、たったの480人や180人の兵力で
何万人、何十万人の大軍を相手にして殲滅戦に勝利したスペイン人
よりは弱いっていってるだけだよ!
241日本@名無史さん:2009/08/10(月) 23:16:15
いい加減ネット右翼も現実を理解しろ!
別に戦国時代の日本を特別弱いとは思ってない!
200年間の平和を貪っていた正規軍7・8千人の朝鮮
を16万からの大軍であっという間踏み潰すぐらいは強いと思うよ!
いくら石器の武器のみでも、たったの480人や180人の兵力で
何万人、何十万人の大軍を相手にして殲滅戦に勝利したスペイン人
よりは弱いっていってるだけだよ!
242日本@名無史さん:2009/08/10(月) 23:26:14
スペイン人がなんぼのもんじゃい!
インカの仇討ちじゃ
243日本@名無史さん:2009/08/11(火) 01:20:39
騎馬と鉄砲に腰を抜かして戦意喪失したインカ軍と安土桃山時代の日本軍を並べて何の意味があんの?
244jyonniru:2009/08/11(火) 01:32:04
16万もの大軍を動員しながら、朝鮮ひとつ手入れられなかった
日本軍と480人や180人でアステカやインカを征服したスペイン
軍をくらべているんだよ!
245日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:11:15
ヒント:疫病
246日本@名無史さん:2009/08/11(火) 05:47:39
いらなくなったから捨てられただけなのにw
七年間も占拠され続けていたのにw
講和がなったから引き上げてあげただけなのにw

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
247日本@名無史さん:2009/08/11(火) 05:50:35
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
248jyonniru:2009/08/11(火) 23:12:30
漢城退却
3月。漢城に立て籠もる秀吉軍に一大事が起こります。
明軍の経略(←参謀の意味)・宋応昌(そうおうしょう)が、
漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫を襲撃して焼き払うという
戦果を挙げました。この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の
二か月分の兵糧:1万4000石が貯蔵されていたため、
漢城駐留軍は明軍と講和することを余儀なくされました。


249日本@名無史さん:2009/08/12(水) 00:40:33
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」

支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。
250jyonniru:2009/08/12(水) 11:03:21
>>249
確かに『明史』においては正直に
明・朝鮮軍は勝算がなかったって
言っているが、じゃあ日本側には勝算
があったって思っているのか!
あの派手好きの太閤秀吉が死んだのに
葬式もせず、密葬で済ませている事態
からも日本こそ明・朝鮮以上に勝算が
まったくなかったことを証明しているのに!
251日本@名無史さん:2009/08/12(水) 11:13:19
わしの死を三年伏せよ

by武田信玄
252jyonniru:2009/08/12(水) 11:31:31
>>251
て言うか、その後すぐに秀吉の遺言にないのに
撤退をはじめているんですが!
253日本@名無史さん:2009/08/12(水) 17:58:49
日本らしくその場の空気で撤退しているよね
254日本@名無史さん:2009/08/12(水) 22:06:27
ぶっちゃけあのままシナ本国の主要都市占拠しても日中戦争の
合わせ鏡になってたと思うよ。
255日本@名無史さん:2009/08/12(水) 23:02:58
日中戦争は中国は這々の体でにげまわりましたが
アメリカが日本をボコったおかげで中国は助かりました。
唐入りの場合だと、ヌルハチ率いる後金軍がアメリカの役割を果たすのかな?
256日本@名無史さん:2009/08/12(水) 23:35:53
支倉常長の船がスペインの無敵艦隊の中に混じって
アルマダの海戦沈没してるはず
257日本@名無史さん:2009/08/13(木) 00:12:23
ネタだろうけど時系列合わねえよw
258日本@名無史さん:2009/08/14(金) 05:27:30
偉大な英雄 李舜臣物語

朝鮮軍を徹底的に壊滅させた日本軍は明に攻め入る勢いで北上していました
しかし朝鮮は宗主国の明国様に援軍を乞いました
明は属国の朝鮮を助けるために日本軍を上回る大軍を派遣してくれました
しかし、それでも日本軍は優勢です

打つ手を失った朝鮮は日本軍の兵糧を断とうとして朝鮮全土を焼き払い焦土作戦に出ました
と同時に、戦前は無実の罪で犯罪者扱いされていた李舜臣を再登用して
日本軍の兵糧ばかりを狙うゲリラ作戦に出ました
ちなみに李舜臣が罪人扱いされた率右は他の朝鮮人よりは優秀であったことに対しての妬みだったようです

李舜臣は軍船とは戦わず、徹底して輸送船を狙いました
が、現地で多くの城を築いた日本は和城からの砲撃との連携によりすぐに巻き返します

やがて秀吉が病死し、大陸の戦争より国内の政争へ動き出す日本は講和へと路線が変更になります。
講和が成立し日本軍は撤退を開始します。
さて、明軍と朝鮮軍の連合軍(連合軍といっても朝鮮軍は数も少なく士気も無く全く役に立たなかった)は
撤退を見るやすぐに約束を忘れ、勢いづいて、追撃してきます
しかし日本軍は巧みな撤退によって無事に退却していきました

そして朝鮮南部の海岸線に築かれた和城での籠城戦では20万の明朝連合軍に対して日本軍は1万。
それでも日本側籠城軍の大将、加藤清正の奮闘によって20万の明朝連合軍は大敗し、
明の将軍も討ち取られてしまいました
李舜臣も同様に日本に退却していく日本の船団に追撃をかけましたが、残念ながらそれは正規の戦闘軍。
あっけなく返り討ちにあって島津義弘の軍勢に捕縛され、邪魔だということで海に捨てられて溺死してしまいました
捕縛ではなく戦闘による戦死と言う説もあるようですが当時の人間の間では(明朝鮮にとっても、日本にとっても)どの道大した人物ではないので、その死に際についてはあいまいなようです。
259日本@名無史さん:2009/08/14(金) 12:55:54
李舜臣の評価としては、勝ち易きに勝つ典型的な良将といったところだが、
それすら冷遇する朝鮮の糞っぷりが見事だったなw

生き残っても、どうせ朝鮮の糞文官どもに濡れ衣着せられて殺されるのがオチだったろうし、
最後の最後に武人として死ねて良かったろうな。




まあそうは言っても、李舜臣程度では欧州勢を蹴散らし恐怖させた鄭成功の足下にも及ばんと思うがw
260日本@名無史さん:2009/08/15(土) 03:30:32
> …浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
> 1620年代、シャムにおいてだ。
> どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
これは、有名な山田長政ね。
261日本@名無史さん:2009/08/15(土) 13:56:38
>>260
タイのサムイ島の沖合にはスペインの船がまだ沈んでいるそうです。
そしてその船の積み荷は本国との決済用の銀です。
数多くのダイバーがお宝ハンティングに挑戦しましたが、ことごとく失敗しています。
沈めたのはシャム王国リゴール海軍。山田長政が知事を務めた地域の艦隊です。
262日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:52:49
ツュンベリー
その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、
これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。
刃は比類ないほどに良質で、特に古いものは値打ちがある。
それはヨーロッパで有名なスペインの刃を、遙かに凌ぐものである。
263日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:20:47
>>259
海音寺潮五郎だったかが「生まれる国を間違えた男」と評してたな>李舜臣
264日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:11:59
世界最強の陸軍国家だった戦国時代の日本
265日本@名無史さん:2009/08/17(月) 18:32:23
1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、
スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。
さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。
人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。
こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。

実はこれは日本人にとっても他人事ではない。
戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、
日本が信長や秀吉や家康のようなすぐれた人物に恵まれず、
また民族的なエネルギーも不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。
現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。

イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、
武士の戦闘能力とその動員数、そして鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、
本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。
そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、
九州の神社仏閣を破壊し、日本の中にキリスト教区を作ろうとした。
さらに明の侵略にも使おうとしたのである。

豊臣秀吉は、明がスペイン人に征服されては、いずれは日本にも魔手が伸びると考え、
バテレン追放令を出し、さらにスペインの明への侵攻を牽制すべく先手を取って明に向かったのである。
それは文禄の役のときフィリピン総督府あてに脅迫的な手紙を出していることでも明らかだ。

歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せている。
これではキリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としてしか描けない。

266日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:18:43
インカやアステカは青銅器文明の段階に過ぎなかったし、
軍隊が来る前に既にヨーロッパ由来の疫病が流行して混乱のさなかにあった。
アジアで16世紀に欧州諸国が占領できたのはマラッカのような弱小の都市国家程度のものと、
国家以前の部族社会に過ぎなかった東南アジアの島嶼部の一部のみ、
しかも台湾に至っては、明末の一軍閥である鄭成功によって追い出されている。
要するに当時の欧州諸国が送り込める程度の兵力は、日本や明に対して軍事的脅威にはなりえない。

そして、いわゆるキリシタン大名も、そのほとんどは南蛮貿易の振興等の面で、
自分達にとって有利になると考えて改宗したに過ぎず、別に欧州諸国の走狗になる必然性は何もない。
267日本@名無史さん:2009/09/21(月) 11:44:11
たしかに
268日本@名無史さん:2009/09/21(月) 22:25:42
戦国時代の日本は世界一の銃保有国家だったからな。
地上戦だったら絶対勝つな。
269日本@名無史さん:2009/09/29(火) 12:59:30
宣教師フロンソ・サンチェス (スペイン国王への手紙より)
シナ人は自国のおびただしい人口に自信を持っているものの、
スペインのわずかな鉄砲隊で、
何百万人ものシナ人を滅ぼせるという事が理解できていない。
先年僅か13人の日本人の搭乗した小舟が一艘渡来し、
3000人以上のシナ人に包囲され、洞窟に閉じ込められたが、
彼らはそこから脱出するや、
直ちに多数のシナ人を殺してしまった。
シナ人は彼らを一昼夜に渡り包囲しながらも攻撃を加えることができず、
脱出した日本人は近くの海岸に行って舟を奪い、
それに乗って逃げてしまった。
シナの征服は日本人の軍事力を利用してすべきである。
270日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:40:20
秀吉のルソン遠征計画ばかり言うけど、

松倉重政のルソン遠征計画も忘れてはいけない。

キリシタンの根拠地を滅ぼす目的で、ルソン(フィリピン)を攻略しようと考え、幕府に意見を献上。

家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどし、

遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。

出兵実施の矢先、寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死。

あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれる。

1609年(慶長14年)に、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて当時琉球の領土だった奄美大島に進軍。

沖縄本島も攻略し、奄美諸島を薩摩藩領にした。

この後に島津家は、ルソン攻略計画の意見を幕府に献上している事から松倉重政のルソン遠征計画に参加していた可能性も有る。

また、島津家と松倉重政のルソン遠征計画は別なのか?
271日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:54:17
確かに松倉はルソン遠征を目論で、家臣を商人に変装させてルソンに送り地理風俗を研究する一方、
三千挺の鉄砲弾薬を用意したので、小藩ながら類例のない鉄砲を貯蔵していた。
この口之津の鉄砲庫を一揆軍に占領されてしまったので、大変な事になってしまった。
272日本@名無史さん:2009/10/07(水) 08:00:06
東シナ海の交易ルートをイスパニアが牛耳っているから
この海を巡って西国大名も含め周辺が集結した可能性はある。

北京には宣教師が在留し、朝鮮の布教のみまだ。
朝鮮出兵に向かったのはキリシタン大名が多数を占める。

もし朝鮮出兵が成功していたら、
東シナ海を中心とする覇権が生まれて政権は九州に移動したかもしれないね。
朝鮮まで3日。明まで一週間。
名古屋から上方東国を臨むのと大差ない。

ウチの国は島国なのに陸戦が得意という本当にアホな国だなあ
273日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:01:01
そもそも大軍を乗せて大海原を渡る船がない時点で日本はどうにもならんよ
南蛮軍が上陸して本土防衛戦なら日本軍の勝利は明らかだろうが
日本から南方に攻めていくことは無理
274日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:20:47
信長だったら船がなくても海を泳いで渡るか、海に橋を架けていただろう。
275日本@名無史さん:2009/10/08(木) 03:11:04
無い物は作ればよいだけよ
276日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:18:38
当時の日本の技術ではできません
川舟で海渡れってかw
277日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:53:23
>>276>>273

つ 慶長遣欧使節
278日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:17:42
バカだね
戦国よりずっとあとの話じゃん
しかもあちらの技術がなければ建造は無理
279日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:38:08
>>277
サンフアンが何人乗りだったか知ってる?

どこで建造するの?技術的にどこでも出来る船じゃないんだよ?
材料は?財源は?技術は?
なにも解決しないのに実行?
まるで幸福実現党だな信長はw
280日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:45:31
なあにスペインも大西洋の大波に耐えられない地中海仕様の艦隊でイギリスへ向かって
大量の船と兵士失っとる
似たようなもんだ
キャラック船一隻捕獲して竜骨構造と大型マストの立て方さえ習得できればどうって事無い
問題は操船技術のほうだが東南アジアと往復してた商人が結構いるようだし何とかなるさ
281日本@名無史さん:2009/10/08(木) 14:15:43
実際出来なかったんだからなんとかならない件
282日本@名無史さん:2009/10/08(木) 16:24:36
必要がなかったんよ。
あんなスポ人みたいにギャンブル航海してなかったから。
いざとなれば現地の船奪って帰れるレベルの範囲しか
移動してなかったから。
283日本@名無史さん:2009/10/08(木) 17:03:22
やるときはやるとか、中二病だな。
本当はガレオン船造る能力がないだけ
284日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:26:45
日本国民は勇敢で絶えず軍事訓練をしている。
したがって日本を征服しても益はないが、スペインが中国に進出するときのよい足場になるので、日本を重視する必要がある。
私が、ここで陛下に断言できることは、迅速に遠征するならば、シナを簡単に征服できるということである。
そして、このことを一層容易に運ぶには、シナの近くにいる日本人が、すすんでこれに加わると思えるのである。
日本人は、シナ人に対して非常に効果的である。

スペインの宣教師バリニャーノ
スペイン領フィリピン総督あて
285日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:09:49
だからやるときはやるとかじゃなくて
必要ないから無いんだよ
なに言ってんだ
バカなのか

日本にはキリシタンがいっぱいいたから
評価が高かったのは当り前だろ
本当に布教したい先は大量人口を抱える明だったわけだし
宣教師もいい足場作ったと自画自賛しとるわけだよ

東洋で最初にキリスト教諸候の立ち並んだ国
でも鉄砲は覚えたけど船は覚えなかった
286日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:03:28
そんなの理由にならん
いずれにしても当時の日本に海外に出る船も造船技術もないことには変わりなし
287日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:41:18
基礎研究を甘くみてるのがゆとり馬鹿の典型です

288日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:47:20
造ろうと思えば航洋ジャンクは造れるだろうし、それがあれはガレオンはそれ程必要でない
289日本@名無史さん:2009/10/09(金) 22:59:47
重要なのは、造船技術よりも外洋航海術なのにな
290日本@名無史さん:2009/10/10(土) 04:35:39
>>289
そうだな。外洋航行術では日本に勝ち目ないのに、ゆとりは理解出来ないw
291日本@名無史さん:2009/10/10(土) 05:20:20
基礎というかなんというか
読みもしないで全てに突っかかってる造船バカがうっとうしい
お前が一番ゆとりだよ
書き込みはママに読んでもらえ。お前じゃ無理だ
292日本@名無史さん:2009/10/10(土) 13:32:20
技術もなにも日本が持たなかったのは事実なんだから。
そんなに歴史が嫌いならこんな板見ない方がいいぞ
293日本@名無史さん:2009/10/10(土) 14:51:21
どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。

ノエル・ペリン
294日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:53:04
日本はどこも征服してないけどな
273のとおり本土防衛なら日本は勝つさ
でも日本から外国に遠征する力がなかったのも事実
295日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:32:55
歴史の好き嫌いの話なんてどこにも書いてねえけど
架空の書き込みで話作るなよ。
造船技術はなくても捏造技術は長けている造船バカ。
296日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:13:05
そうだ、日本が海外に進出なんて捏造するやつはバカ
297日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:18:42
東南アジアくらいには進出しているけどね
298日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:11:23
日本軍がかなうわけないだろ アホか
299日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:23:58
日本は海外に進出しまくりだろ
倭寇も知らんとは
造船バカが船のこと知らなかったらバカしか残らないぞ
300日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:38:42
おいおいせいぜい朝鮮半島近辺をあらしてただけだろ
東南アジアから中央アジアからアフリカの奥地まで交易していた
イスラム商人とは比較にならんし
新大陸に到達した西欧人とも比較にならん

日本人がカイロやローマやイスタンブールやサマルカンドや
フィレンチェやヴェネティアまで交易で訪れたことあったのかね?
301日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:43:25
全部海外じゃん

「海外に進出してない」とか言う虚言し対しての批判だ
距離が問題なら距離を言え
302日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:02:47
マジレスすると、慶長遣欧使節のサン・フアン・バウティスタはスペインのガレオン船をパクッて造った船。
現実に建造しているんだから、建造そのものは可能。
ちなみに、この船の完成は大阪の陣の前だから、まだ戦国時代。

問題は外洋航海術。
逃亡したビスカイノを追って出航した、殆ど日本人だけの西洋式帆船は速攻で座礁している。
また、戦争ともなれば日本側は自力で航路を発見せねばならず、また、航路上でスペイン船と遭遇すれば
戦闘になり、質・量共に不利な和船の勝ち目は薄い。

ただ、東南アジアに進出する程度の事ならガレオン船なんか必要ない。
数の上でも圧倒している。
この事は、スペイン人自身が認めていること。

攻め込まなかったのは、未開の蛮地を攻めた処で得る物など何も無かったからにすぎないよ。
303日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:06:22
うるさい
お前ちょっと黙ってろ
お前ら同レベルなんだから
304日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:07:33
大体からして本国から離れて圧倒的な不利なスポ人と
なにをどう比較しろっつうんだよ。

中間のインド洋あたりで一戦交えんのか?
1000%日本の負けだろ。まずそこまで行けねえし。

でも日本本土防衛戦をやるって話なのか?
スポ人が勝てるわけねえじゃん。
あの太平洋戦の米だって単独ではやらない話なのに、
どうやってそんな遠征で勝てるんだよ。補給とかあんのか。ドアホか
305日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:28:59
>>304
完全なるスレ否定です。
本当にありがとうございました。

どうぞ、速やかにお引き取り下さい。
306日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:50:40
フロイスは朝鮮の役の終わりを見ることなく死んだが、
フロイス日本史の朝鮮出兵のところで「日本が中国に勝てるわけがない」と断言している
周りの南蛮人もみんなそう言ってるってよ
その理由が「日本人は海外のことを何も知らないのに、あまりに無謀すぎる」だってさ
日本人が弱いと書いてるんじゃないよ。フロイスは日本人の武力の高さを評価している。
でも海外の情報を大して持っていないのに、攻めてそのあとどうするの?ってこと書いてる
誰が地理を知ってるの?言葉はどうするの?食料はどうするの?ってかなりツッコミ入れてるね
「(朝鮮なのに)日本にいるのと同じ感覚で戦っている」とかね
武力を持っていたとしても、結局は、どれだけ情報に通じているかが勝敗を決めるんじゃないのか?
その点を考えるとスペインポルトガルになんて絶対勝てないだろうね

ところで上で「スペインの宣教師バリニャーノ」って書いてる奴なんなの?
ヴァリニャーノをスペイン人と間違えてるアホを初めて見た。それとも捏造か?
こいつはナポリ出身のバリバリのイタリア人だぞ
この人、別の手紙で「スペインはとっとと日本から出て行け」って書いてるんだがな
307日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:16:11
>>305
お前の方がスレ否定だろ
海外進出はない、とか
日本に価値がない、とか
そりゃお前の気分だっつうの。

一番単純な答えなら、
日本にスポが攻めて来た場合日本が勝ちます。
戦国日本軍vsスペインポルトガル軍・・・日本の勝ち。

お前みたいな馬鹿の為に角度付けて説明してあげてんのにw
308日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:18:43
>日本が中国に勝てるわけがない

はい勝てるかも知れません
勝てないかも知れません。

でもスペイン・ポルトガル軍には勝てますから。

もしかすると遠洋航海の大変さを知らないバカなのかな〜
309日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:25:29
308の言っている意味がまったくわからない
バカがお前だろ
310日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:31:11
>>307
オレは>>302で、日本が東南アジアに攻め込む価値が無いと言ったんだが?
海外に進出したしないの人たちとは全くの別人。
311日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:34:05
>でもスペインポルトガルに勝てますから
>もしかすると遠洋航海の大変さを知らないバカなのかな〜

煽るだけじゃなくて、お前の考えを書けよ
どうやって勝つのか説明してくれよ
反論するわけじゃなくて、純粋に知りたいから
312日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:18:16
>>306
別に日本人全部が海外に対して全くの無知だったという訳じゃない。
そういう人らは、初めから朝鮮出兵に消極的だった。
朝鮮出兵は、下層民出身で海外事情に疎い秀吉のごり押しだし。

後、その説明だとスペインポルトガルが日本より情報収集能力が優れいていたという証左にはならないぞ。
大体、当のスペイン人が情報戦能力度外視してインカ・アステカを征服したり、
また反対に、計画の段階で破綻していたアルマダの海戦では大敗を喫している。

全体的な国際事情については確かにスペインの方が日本より上だろうが、
それが戦局を左右するようなものだった訳じゃないぞ。

ちなみに先に行っておくが、オレは別に>>307じゃないから。
313312:2009/10/11(日) 15:25:25
間違えた。
オレは>>308じゃないに訂正。
314日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:32:27
>>312

>別に日本人全部が海外に対して全くの無知だったという訳じゃない。
そういう人らは、初めから朝鮮出兵に消極的だった。

朝鮮出兵中もフロイスと文通をしていた小西行長あたりはそうだっただろうな
あと「情報」というのは、戦争に関することだけでなく、
航海に関する知識なども含めてそう表現したんだが、大雑把な表現ですまなかったごめん。

俺の考えとしてはもしスペインポルトガルが日本本土に攻め込んでくるという設定ならば、100%日本が勝つ。
逆に、日本が外に出て行って、インド洋あたりでスペインとガチで戦ったら、負けると思っている。
そもそも日本軍がそこまで行けるとは思わない。


俺も>>307とは全く関係ないよ
315日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:33:56
ああ、>>308とは違うということね
親切に答えてくれてありがとう
316日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:44:24
>>310
そうか
ここ幼稚な脊髄反射的煽りが多すぎて区別が付かなかった。

>>309
日本語学べ

>>311
304を読め
317日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:48:56
>>316
あんたのその書き込みこそが幼稚な脊髄反射的煽りだと思うね
318日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:47:31
>>314
朝鮮役の情報収集不足を航海術まで含めるのは無理があるが、とりあえずそこの処はおいとくとして、
外洋に出てしまえば日本に勝ち目はないというのには賛成する。

ただ、今問題になっているのはルソン等の東南アジアにおけるスペインの植民地に日本が攻め込んだら
どうなるかという事と、日本に外洋航海は可能かという事だな。

東南アジアにおいては、スペイン人自身が日本が来たら壊滅すると言っているのだから日本が勝つ算段が大きいが、
外洋航海においては航海術がネックになっている。
319日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:51:30
パステルス「日本スペイン交渉史」
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
320日本@名無史さん:2009/10/11(日) 17:31:21
しかしルソンに攻め込む力がなかったというオチ
321日本@名無史さん:2009/10/11(日) 17:41:57
サンファン号はせいぜい百人乗りだから大軍を送るには相当の数を作る必要があるけど
時間も人手も材料も造船場も不足

そもそもサンファンを戦国とは詭弁だな
322日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:03:50
>>321
重要なのは、日本のガレオン船を建造する能力があったかどうかだろ。
323日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:40:05
当時既に日本は、スペイン・ポルトガルなど束になってかかってきても楽勝できる程の強大国だったという
ことも知らない世界史音痴が沢山いるようだね。

近くに中国という超大国がいるから日本人はついそれと比較してしまうが、水耕田耕作を初めて以来、日本は
世界の中で超大国の地位を守り続けてきた。まあ、米の生産性がそれだけすごいということ。

当時のヨーロッパ諸国の兵力動員数は、戦国日本の1大名のそれに毛の生えた程度。もし、日本をスペインの
隣に横付けすれば、多分フィリップ2世がハプスブルグ家が総力をあげても日本にはかなわなかったろう。
秀吉が日本を統一した頃の日本の職業軍人数は大体50万くらいだといわれている。

1546年 川越の戦い:北条軍 11,000 vs 上杉憲政 上杉朝定 足利晴氏 70,000(80,000とも)
1555年 厳島の戦い:毛利元就 4,000-5,000 vs 陶晴賢 20,000-30,000
1560年 桶狭間の戦い:織田信長 3,000 vs 今川義元 25,000
1561年 第4回川中島の戦い:上杉軍 13,000人 vs 武田軍 20,000人
1569年 三増峠の戦い:武田軍 20,000 vs 北条軍 6,000〜20,000(諸説あり)
1570年 姉川の戦い:織田・徳川連合軍 34,000 vs 浅井・朝倉連合軍 18,000
1572年 三方ヶ原の戦い:武田信玄 27,000 vs 徳川家康 11,000
1575年 長篠の戦い:織田・徳川連合軍 38,000 vs 武田軍 15,000
1578年 耳川の戦い:島津軍 20,000-30,000 vs 大友軍 30,000-40,000
1582年 山崎の戦い:羽柴軍 40,000 vs 明智軍 16,000
1583年 賤ヶ岳の戦い:羽柴軍 50,000 vs 柴田軍 30,000
1584年 小牧・長久手の戦い:羽柴軍 約110,000 vs 織田・徳川連合軍 約18,000
1589年 摺上原の戦い:伊達軍 21,000 vs 蘆名・佐竹連合軍 18,000
1590年 小田原征伐:豊臣軍 本隊 161,135 船手衆(水軍)20,630 北国衆 35,000 vs 北条軍 82,000
1592年 文禄の役:日本 158,000(9軍団) vs 朝鮮 正規軍172,400 非正規軍 22,400 明軍 53,000
1598年 慶長の役:日本 140,000 vs 朝鮮 150,000 明軍 100,000
1600年 関ヶ原の戦:東軍 104,000 vs 西軍 82,000
1614年 大坂冬の陣:江戸幕府 約200,000 vs 豊臣軍 約100,000
1615年 大阪夏の陣:江戸幕府 約155,000 vs 豊臣軍 約78,000
324日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:48:15
フランスvsスペイン(ハプスブルグ家)
1525年 パヴィアの戦:フランス 歩兵17,000 騎兵6,500 vs スペイン 神聖ローマ帝国 歩兵19,000 騎兵4,000
対オスマントルコ
1526年 モハーチの戦い:オスマン帝国 50,000-60,000 vs ハンガリー王国 30,000 援兵5000(戦闘に間に合わず)
1529年 第一次ウィーン包囲:オスマントルコ 120,000 vs ハプスブルグ 歩兵20000 騎兵2000 市民義勇兵1000
1683年 第二次ウィーン包囲:オスマントルコ 150,000 vs ウィーン防衛軍 20000 キリスト教国援軍 120,000
30年戦争
1631年 ブライテンフェルトの戦:スウェーデン軍23,000 ザクセン軍17,000 vs 神聖ローマ帝国 33,000
1632年 リュッツェンの戦:スウェーデン+ドイツ諸侯 歩兵12,800 騎兵6,200 vs 歩兵10,000 騎兵7,000
1634年 ネルトリンゲンの戦:スウェーデン王国 ザクセン選帝侯 ハイルブロン同盟 歩兵16,300 騎兵9,300
vs 神聖ローマ帝国+スペイン王国 歩兵20,000 騎兵13,000
1636年 ヴィットストックの戦:神聖ローマ帝国軍 25,000 vs スウェーデン軍 18,000
1643年 ロクロワの戦:フランス王国 歩兵17000 騎兵6000 vs スペイン王国 歩兵19000 騎兵8000
英国内
1642年 エッジヒルの戦:イングランド議会軍 歩兵10,000 騎兵2,500 vs 国王軍 11,000
1645年 ネイズビーの戦い 国王軍 騎兵7,000 歩兵 6,000 歩兵 14,000 vs 議会軍 騎兵 4,100 歩兵 3,300
1644年 マーストン・ムーアの戦:国王軍 騎兵6,000 歩兵11,000 vs 騎兵7,000 騎馬歩兵連隊 500

1700年 ナルヴァの包囲戦:スウェーデン 15,000-20,000 vs ロシア 30,000-40,000
1704年 ブレンハイムの戦:フランス約60000 vs ハーグ大同盟軍 52000
1757年 ロスバッハの戦:プロイセン 22,000 vs オーストリア ザクセン公国 フランス 55,000
1757年 ロイテンの戦:プロイセン 35,000 vs オーストリア 65,000-70,000
1759年 クネルスドルフの戦:プロイセン 49,000 vs ロシア オーストリア 71,500
1805年 アウステルリッツの戦:フランス(ナポレオン) 73,000 vs オーストリア ロシア帝国 87,000
1815年 ワーテルローの戦:フランス(ナポレオン) 124,000 vs 英蘭軍 95,000 プロイセン軍 48,000
>>http://finch.ploogy.net/finch/www.weblio.jp/content/%E6%88%A6%E9%97%98%E4%B8%80%E8%A6%A7
325日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:12:14
勿論、日本からスペイン遠征などは全く不可能だけれど、フィリピンのスペイン人辺りは倭寇で十分。当時
確かに日本は外航の知識が少なかったのは確かだが、秀吉当時の朱印船貿易は実質的には倭寇の技術で行な
われていた。

鄭成功の親父 鄭芝龍は頭目の座を千隻のジャンク船と共に譲り受け、江南人だけで2・3万の動員力はあった。
しかもライバルの徐海も同じくらいの力を持っていた。

倭寇でなくて日本軍を東南アジアへ送りたければ、倭寇に船と船頭を調達させればいい。数百隻くらいは直ぐに
集まる。

まあ日本も江戸幕府が治安対策で船の制限しなければ、そこそこの外洋船は作ったんじゃないかな。1609年の
規制で500石以内、マスト1本、キールは禁止じゃまともな船は作れないわな。

一応、規制外の御朱印船じゃあ初期にジャンク船とガレオン船のミックスみたいなのは作ってたらしいがね。
でも、江戸時代に難破船が漂着し、幕府の許可を得て帰る時、設計図を見せたらあっという間にその通り
作ったとか・・・。その気になってれば作れたんじゃないかな。

しかし、東南アジアなんか出て行っても日本には余りメリットは無かった。胡椒を魚に降りかけても仕方が
無いし、フィリピン・インドネシア辺りへの移住じゃ病気が大変だっただろ。

それより惜しかったのは、北米移住じゃないかな。ピルグリム・ファーザーズが1620年だから、同時期くらいに
東海岸のカリフォルニア辺りへ移住してれば米も作れるし、当時弱小国だったイギリスに遅れをとることは
無かったんじゃないかな。
326日本@名無史さん:2009/10/12(月) 02:22:32
>>325
北米移住かあ……
考えたこともなかったな。

ただ、あんまし楽しい未来図は予想できないなあ。
よしんばガレオン船の量産能力と外洋航海術を手に入れたとしても、
血みどろの植民地争奪戦に巻き込まれると洒落にならない損害受けるだろうし。
おまけに政権を最終的にとったのが、あの超現実主義の家康だからなあ。
まあ、まかり間違って正宗あたりが幕府開いてたら、イケイケジャンジャンでアメリカ大陸に突入してたかもしれんがw

他は概ね同意。
倭寇に関しては大半が壊滅していたが、自前で船団そろえれば良いだけなんで問題ないし。
327日本@名無史さん:2009/10/12(月) 09:50:33
>>1
鉄砲に欠かせないのが火薬、火薬に欠かせないのが硝石、
スペイン、ポルトガル商人を経由せずに硝石を輸入出来るかどうかがカギ
それも安く大量に
または国内で生産出来る様になるか
328日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:18:49
藁にオシッコをかけて硝石を作るようになったのはいつ頃?
329日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:51:49
日本の戦国時代、ヨーロッパではすでに人工的に硝石を作っていた。
しかしそれは日本に伝わらなかった、と言うよりヨーロッパ人が秘密にしたのだろう。
330日本@名無史さん:2009/10/12(月) 14:03:34
硝石の生産は、肉を保存して食べる文化の国では珍しいものでは
ないんだけどね。
 日本は、かなり特殊。
331日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:18:54
>>327
火薬が発明されたといわれている国はどこだと思ってる?。
>>中国の唐代(618年 - 907年)に書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を
起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。

ついでに、黒色火薬=硝石75%+硫黄10%+木炭15% だが、日宋貿易の日本からの主な輸出品の一つは硫黄。
これは当然火薬の原料として使われていた。その中国人が硝石の製法を知らないわけは無いだろう。特に
硝石は水に溶けて流されるから(だから床下の土から作る)、乾燥地帯で無いと析出しないのだが、雨の多い
南宋では天然物は手に入れるのが難かしくなっていたから、自分で作っていたと思われる。

だから当然、硝石は結構ありふれたもので、倭寇が中国産のものを輸入してきたもの。ヨーロッパやチリの
独占品などではなく、倭寇からいくらでも手に入る。

一方、戦国時代、1550年くらいからすでに白川郷から五箇山にかけての一帯は日本有数の火薬原料の産地。
五箇山 >>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1
>>戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年 - 1580年)の織田勢との
戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の
囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…)と、
蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を
解いてから南米のチリからの硝石の輸入によって廃れてしまう。

つまり伝達ルート:中国→倭寇→根来・雑賀衆(堺の商人)→石山・加賀の門徒宗→秘密保持のため白川・五箇山
だから、ひょっとすると、戦国大名は堺の商人から「これは輸入品だから高い」とか言われて、国産の原価が
タダ同然の「蚕の糞」や「馬の小便」原料のものを高く買わされていたのかも知れないね。
332日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:34:39
兵力動員が超大国って・・・

そんなもん千年前の中国でも20万や40万はゴロゴロ出て来るぞ
くるっくるパーなほどのアホがいる。
333日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:45:20
問題は支那はスペインではないということかな
古代の支那が20万だろうが40万だろうがそれで中世ヨーロッパの動員数が増えるわけでもない

日本とヨーロッパとの比較なのにわけのわからないことを言う人がいるな
334日本@名無史さん:2009/10/12(月) 18:50:43
>>332
くるくるパーがなんか言ってるw

この時代、10万規模の動員が可能な国は間違いなく軍事超大国だぞw
歴史を勉強して出直してきなw
335日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:13:27
>>332
パーだのアホだの、そんな言い方するなよ。
別に悪意でウソ付いたわけでも、ましてやあんたの悪口言ったわけでもなかろう。
しかも >>334 によると、あんたの方が間違ってるっぽいし
336日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:30:00
このころ10万規模の大軍を編成出来る国は、
@スペイン帝国
Aオスマン=トルコ帝国
Bペルシャ=サファブィー帝国
Cインド=ムガル帝国
D中国=明朝
E日本=豊臣政権
以上6ヶ国
337日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:38:02
>>336 【追加】
フランス王国もだったかな?
338日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:01:18
>>336
超借金国家のスペインが10万も動員したら財政吹っ飛ぶよw
フランドル兵が名簿上6万らしいが、ろくに給金払えなくて反乱が日常化していたうえ、
前線の中隊長の給料ピンハネによって実数とかなり隔たりがあったらしい。

少なくとも、16世紀の段階ではスペインもフランスも10万規模の軍隊を
一度の合戦で投入することは不可能だよ。
339日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:48:25
日本の場合は総員の三割が戦闘要員で後は後方要員だけどね
340日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:51:21
>>338
じゃあヨーロッパはゼロ、日本を入れて5ヶ国
341日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:55:27
>>339
ヨーロッパの場合、総員の二割〜七割が輜重隊(女子供商人博徒などなんだかよく分からん集団)なんだけどな
342日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:54:54
>>336
スペインは無理だね。

かき集めれば10万くらいの軍隊はあるだろうけれど、それを全て外征に出せば、国内はがら空きになる。
10万以上の軍隊を集めるだけなら朝鮮だって出来てた。

つまり、外征に10万以上の軍を出すということは、最高に少なくともその倍、大体3倍の30万くらいの
軍が常時いなければいけない。スペインはそんな強大な国じゃないよ。

もし、スペインにそれ程力があったなら、たった3万の兵を送って負けたからといって、諦めたりはしな
かっただろ。それも、イギリスを制裁することは当時のスペインとしては是非必要だったのだからね。

もし、イギリスを打ち負かしてさえいれば、カリブ海や大西洋での通商の安全が確保され、アメリカ大陸に
競争相手はいなくなるんだからね。そして、南北アメリカはスペインが自由に出来ただろうからね。

まあ、当時スペインが10万の兵を自由に外征に使えてれば、オーストリア・ローマカソリックと組んで
手にやればアメリカだけじゃなくて、ヨーロッパ全土を支配できたかもしれない。
343日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:08:16
>>341
あいつらのカウントは戦闘要員だけ
なぜなら給料を払うのに必要だから
344日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:52:27
どのみち中世ヨーロッパの動員数は日本と比べ物にならんほど小規模でしたというのは
いまさら議論する余地もないほど常識的なことだと思うのだが
345日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:59:50
日本は純粋な戦闘要員だけで、余裕で10万はいるだろ。
346日本@名無史さん:2009/10/13(火) 02:12:25
その前に、日本の非戦闘員7割というのは違う。
大体三割から五割。
347日本@名無史さん:2009/10/13(火) 06:12:42
>>346
寛政期に策定された尾張藩の軍備を参考>非戦闘員7割
348日本@名無史さん:2009/10/13(火) 08:52:41
>>347
軍備は参考にならない。話の筋が違ってる。

ここでの話はある戦闘での動員数だろ。
349日本@名無史さん:2009/10/13(火) 09:30:49
>>348
動員する際に引き連れる数
350日本@名無史さん:2009/10/13(火) 09:58:45
時代はやや下るが30年戦争のヴァレンシュタインの私兵も10万くらい
351日本@名無史さん:2009/10/13(火) 10:40:30
戦国時代終わって百年以上経った後の
大名行列ソースにされてもなあ
352日本@名無史さん:2009/10/13(火) 11:35:35
>>333-335
お前らの動員力も板では上の方だな
普通はせいぜい2連投だ
353日本@名無史さん:2009/10/13(火) 11:41:52
なんでもいいが欧の動員に基準はねえのか。
日本の場合千石あたり25人の軍役義務から大体計算出来るわけだが。
総石高千六百万石→四十万くらい。

日本だって十万の動員はかなりギリギリだ。
四百万石諸候しか出来ないからな。
354日本@名無史さん:2009/10/13(火) 12:27:13
>>351
尾張藩が京に変事が生じた際に、派遣すろ部隊の編成だからそれなりに実戦に則しているかと
355日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:01:51
>>349
>>寛政期に策定された尾張藩の軍備を参考って書いてるぞ。>>347
平和な江戸時代の寛政期にどこへ動員したの?。

動員シュミレーションにしても、平和な時期の贅沢な動員予定と、戦国時代の国や一族郎党の命運をかけた
時代の輜重じゃ比べ物にならないと思うがね。

それに、輜重兵の割合はその戦闘によって違う。篭城しているのに輜重兵は要らないし、彼らも立派な戦闘
要員で、戦闘が始まった時には戦う。更に戦場への距離によっても当然輜重兵の割合は異なる。

更に、輜重兵だからといって敵は見逃してはくれないし、かといって戦闘が始まれば真っ先に逃げ出す分け
じゃない。一部兵糧を守る兵を除いて大いに戦いに参加する。

遠征などの場合は輜重兵の割合が多くなっただろうが、それもあくまで、一般の兵が輜重を受け持つという
ことで、当然戦闘になれば戦いに参加する。というより逆に、戦国時代は手柄によって恩賞が決まるわけだから、
誰も輜重などやりたくは無い。戦闘になれば昇進のチャンスだから進んで戦う。

それと、戦国時代に輜重専門要員や一般人は基本的には使わない。何故なら、荷駄を運ぶのも人間だから、
彼らも食べなければいけない。例えば、輜重専門の人間が5割必要だとすれば、遠征に必要な兵糧は倍いる。

つまり、2万の遠征で輜重専門要員の非戦闘員が1万なら兵は1万。しかし、2万の兵を輜重にも使えば2万の
戦闘員がそのまま使える。

勿論、輜重をやらせる兵だからといって命運のかかった戦いに弱兵を連れて行くわけではないし、輜重をさせ
られているからといって志気が無いわけでもない。戦闘になればかえって他の兵よりチャンスをものにしたい
と考えて士気は高いくらいだっただろう。戦国大名は合理的で馬鹿ではないよ。

更に、かえって、輜重などさせてじらしてから登用していくなどという心理作戦まで使ったかもね。秀吉など
は信長にその手で上手く使われていたのかもしれない。
356日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:03:59
もう一つは、輜重など考えていると機動性にかける。だから戦国大名は最前線に近いところに小さな城を作った。
なんであんなに簡単に落ちる城をと考えてる人もいるかもしれないが、あれは篭城するだけのものではない。
兵糧をおいておいて機動性を確保するためのものでもある。だから、まさか関が原に両軍とも兵糧抱えて終結
したなどとは思ってないよね。

参考までに西軍の拠点となったのはまず大阪城で兵糧の心配など誰もせず集まった。そして次には大垣城だが、
ここには7千石の兵糧が備蓄してあった。東軍はまず福島正則の清洲城に家康同盟軍が集積。家康は9月1日に
約3万3,000の兵とともに出陣。当然途中での兵糧の調達は考えた上での出陣だから、輜重兵など殆どいなかった
だろうね。島津はわざわざ兵糧抱えて関が原に来たのではないんだよ。

だから9月十五日、関が原に布陣していた両軍には輜重兵など殆ど0に等しかった。
357日本@名無史さん:2009/10/13(火) 14:29:34
>>350
財政的に略奪によってささえた一時的兵力。財政的基盤が無いから長続きはしない。

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583年〜1634年)
>>ボヘミヤの新教徒貴族の家に生まれ13歳で孤児となったヴァレンシュタインは、傭兵隊長として
オーストリア大公フェルディナント2世に仕えるようになります。当初はヴェネチア軍と戦い、三十年戦争が
始まると1625年に皇帝軍の総司令官となります。

ヴァレンシュタインの軍隊は最初2万名でしたが、進軍とともに兵力を増していきます。当初の彼は、
兵士の掠奪を認めず征服した土地に貢納金品を命じて、それを兵士たちに給与していましたが、軍隊が
大きくなってくると兵士の掠奪も認めるしかありませんでした。不敗の彼のもとで戦えば掠奪給与は確実
なので、兵士たちは喜んで戦闘に参加します。

ヴァレンシュタインはデンマーク軍を破って1628年にメクレンブルク公になりますが、今や10万名に
膨れ上った大兵力を養うために容赦のない貢納金の取り立てや掠奪を繰り返して、同盟カトリック諸候や
教会から怒りをかい、皇帝軍総司令官を罷免されてしまいます(1630年)。

スウェーデン軍の侵攻が開始されて戦況が悪化すると1632年に再び皇帝軍総司令官となり、
「リユッツェンの戦い」でグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍と戦います。この戦いでグスタフを
戦死させましたが、戦闘では敗北してしまい、その後は敵主力との対決を避けて、カトリック連盟軍と
ベルンハルト指揮のスウェーデン軍との衝突を傍観する姿勢をとりました。

こうしたヴァレンシュタインの行動は反カトリック的だとして密かに皇帝軍総司令官を罷免され、皇帝派の
将校により暗殺されてしまいます。
>>http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who10.html

358日本@名無史さん:2009/10/13(火) 19:14:08
>>353
この頃の欧は給金制だから財政に比例するんだが、まともに支払うことなんかまず無いし、
大借金抱えてまで募兵するし、臨時雇いは多いし、補給は略奪頼みだし、
とにかく別の何かを基準にするのはちょっと無理がある。

一応、兵員名簿とか徴兵記録とか残ってるんでそこから算出することも出来るが、
中隊長が給金ちょろまかす為に実際より多く兵員を申請していたんで、
かなり割り引いて計算しないといけない。
359日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:21:52
>>355
>>354
戦時には大衆が後方要員(人夫)として動員されている

>>356
家康の軍令には小荷駄に関するものがあるし、本戦前夜の移動中に福島は
宇喜多の小荷駄と接触している
他にも小荷駄に関する話は多くあり、暴論と言うほかない
360日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:18:55
武士は海外ではやる気がないよ。
361日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:32:42
>>359
>>339(>>323)以降の話の筋を呼んでの反論なのか?

もしそうなら、家康が江戸から連れてきた3万3千の軍勢の7割なり5割なりが輜重の非戦闘要員だったと
本気で思ってるのか?。

勿論、家康が小荷駄隊を連れてきたことくらいは知ってるし、輜重が特異な大久保某?と言う人物が
いたことくらいは知っている。彼らは武士ではない非戦闘要員なのか?。

関が原の布陣の折、彼らがいたとして、家康が危機に瀕した時彼らは非戦闘要員で、武士ではないので
戦わなくてよかったのか?。

石田光成も輜重が得意だったが、立派な武士で、関が原の実質的大将になって奮戦してる。
362日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:43:01
>>361
何を言いたいのか知らんが管理職は侍、その下で荷物持ちをされるのは動員された民衆

そして低くても五割位はいるでしょう非戦闘員

人間の喰い物だけでなく、馬の食い物(これが人間の数倍は喰う)、
鎧、武器、各種大道具の運搬、馬(乗馬・駄馬)の口取、大工や土木作業者も必要
これらは全て輜重隊として一元管理されていたのではなく、侍はそれぞれ自身が
動員もしくは雇用した後方要員を引き連れているし

例えば侍一人に最低でも槍持ち、馬の口取、小荷駄を必要とする
半分戦闘員の槍持ちを入れても五割

これがより資材を運搬する必要がある軍全体になるとどうなるか
お解りになると思うが
363日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:07:55
>>362
もう一度 >>323 から読み直して、話の筋を理解してから出直してくれ。

要するに、ある戦闘における動員人数に非戦闘要員が含まれてるか含まれていないかと
言うことを議論している。まずそれが基本。

その流れで行くと、君の意見では、江戸から来た3万3千の徳川軍の半分が非戦闘員と
言うことになるが?。

ついでに書かせてもらえば、馬の秣の手配くらいは大久保某が行く先々で滞ることがない様に
手配しただろうね。それも出来ないような馬鹿なら家康がわざわざ輜重の専門にしたりしない。
364日本@名無史さん:2009/10/14(水) 08:28:49
>>358
やはり弱小国家の欧では話にならないのかな。
スペインポルトガルが優秀だったのは渡航能力だ。
世界最強を論ずるならユーラシアのイスラム三帝国を出さないと。
365日本@名無史さん:2009/10/14(水) 08:42:21
大体そもそもスペインが日本に来てること自体が弱小国の大迂回なのに。
まあヨーロッパじゃ強い方だったか知らんけど。

自殺行為にも等しい遠洋探検をやってのけるのは大変なことだが、
なぜそうまでしても地中海を避けたのか。
地中海を通るのは自殺よりも恐いのか。
366日本@名無史さん:2009/10/14(水) 09:32:12
しょうがない。
武士非武士の話でもめているようなので
この俺がまたウルトラマクロを持ち出すとするか。

千石25人の軍役兵士に対する人口は、
石高≒人口 の近似により千人。
男子半分で500人、うち老人子供除いて250人
そのうち軍役者が25人ということは、
一般に言われる武士人口一割に一致する。
だから臨時雇いでも運搬でも多分武士ですよ。単に卒兵。

戦場まで行って非戦闘員なんてあり得ないでしょ。
そうだったら誰かが守らなきゃいけない。イラク戦での自衛隊の矛盾じゃないけど。
367日本@名無史さん:2009/10/14(水) 09:37:11
あと、数キロ歩くだけで集落がある集住日本と
スカスカの大陸野山じゃ補給の仕方は違うんじゃないかな
368日本@名無史さん:2009/10/14(水) 10:21:44
>>363
その通り、戦場近くまで出張る者は半分が非戦闘員
そして道々といっても宿に泊まるのは一日単位、その間の休憩や食事の度に
物資は消費される
何より不意の事故で宿で物資が供給されない事態も考えれば、最低でも数日分は
自前で持ち歩くべき
後、大久保長安は輜重の専門でないよ、代官が本職

>>366
それが全員戦闘要員ではない
例えば藤堂藩は1000石に対し、若党5人、弓者1人、鉄砲者1人、薬持1人、道具持4人、
具足持2人、馬取5人、甲立1人、指物竿(さしものさお)1人、挟箱2人、弁当2人、
草履(ぞうり)取2人、人足3人、合計30+自身1人
この内、戦闘要員は若党、弓者、鉄砲者の7人となる
2割強だな
369日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:33:00
草履取りってなにすんだ
謎の仕事は全部戦闘要員じゃねえのか
それ一応江戸期入ってからの固定ルールだよね
まあ軍役人数もそこ基準ではあるけど

華の慶次では岩兵衛は道具持ちだし
捨丸は馬取だけど普通に戦闘に参加してたぞ。
370日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:35:59
>>369 不覚にもワロタ
371日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:59:44
「信長の忍び」によれば
草履取り=パシリ
372日本@名無史さん:2009/10/14(水) 17:34:32
関連スレ

武士VS騎士
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1237290038/

リトアニア大公国軍VS織田信長軍
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1254662224/

スウェーデン軍VS徳川幕府軍
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1238497104/
373日本@名無史さん:2009/10/14(水) 19:10:04
>>368
関が原の合戦については、殆どの本やサイトには徳川の軍勢は3万〜3万5千とか書いて有りますがね。
実際は戦闘員はたった17000前後とは・・・。異説ですねえ。

それとも、徳川軍は記述どおりの3万〜3万5千で、別に近くに江戸から連れてきた3万人以上もの輜重の
非戦闘員がいたということなのかな?。
374日本@名無史さん:2009/10/14(水) 19:32:06
>>373
総勢と書かれているから前者
そしてその点について家康本隊を論じた本やサイトは皆無

但し、先発隊の井伊隊については井伊達夫が『井伊軍志』や
『赤備え』で論じている
375日本@名無史さん:2009/10/14(水) 20:29:25
いや、
薬持、道具箱、とかそうゆう奴らは
一応役があるってだけじゃないの?
薬持は一生薬持ってんのか?
置いときゃいいじゃん。
若党ってのが士官レベルになるんじゃないの。
兵卒がいねえじゃん
376日本@名無史さん:2009/10/14(水) 20:46:38
>>375
薬持というのは鉄砲の玉薬持ちの事、道具持は各種宿営道具や雨具等を持つ
こういうのは置くということはしない、何故なら直ぐに盗まれるから
若党というのは徒侍のこと主に騎馬の主人の援護役
兵卒は鉄砲者や弓者だがこの場合は若党と同じ、主人の援護役

一般的な集団戦をする鉄砲足軽などは大名級が別個に編成して鉄砲組を
形成している
377日本@名無史さん:2009/10/14(水) 20:58:54
いやいや士官と兵卒がいないと軍にならんでしょ
鉄砲や弓は砲術や弓道を学んだ技量がいるぜ
足軽はいないのか

千石といったら家老クラスの大身。
それが7人しか戦闘力がいないなんて
378日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:04:58
つーか戦国時代「当時の」武田軍とか織田軍の
ソース持ってくりゃハッキリすんじゃね?

そんな大名行列ばっかソースにしてないでさあ
379日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:16:59
>>377
指揮官を守る護衛小隊と参謀と考えてほしい
それとは別に実戦闘を行う侍や足軽組などを大名級の主君から
付属されて初めて独立戦闘が可能な「備」ができる訳

>>378
はっきりいう
「備」の様な編成例が記載されている史料は今までの所、
関ヶ原時の井伊隊先手を最古としそれ以前は確認できない
おそらく最も「備」について精通している一人としていわせてもらう
380日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:22:29
なんかどっちも極端だなあ……

とりあえず、軍編成については江戸時代のものより、
ttp://homepage2.nifty.com/inutomononohu/aketimituhide8.htm
や、
信玄が河窪信実に宛てた軍役定書の騎馬3、鉄砲5丁、持鑓5本、長刀5本、長柄10本、弓2張、旗3本(397貫文目の給地に対し)
を、参考にした方がいい。

後、輸送隊である荷駄隊と補助戦闘員である道具持ちとかを混同してる。
二つとも全然別物。ちなみに、二、三日程度なら携帯食料で十分だから。
大阪夏の陣のとき家康が「今度は手間もかからないから、小荷駄はいらない。三日程度の腰兵粮で充分」
て、言ったのは有名な話。
それと、戦場に出ているのは補助戦闘員を含めてほぼ全員武装してる。
槍組や鉄砲組との違いなんて手に持ってる物の違いでしかない。
いざとなれば、刀を抜いて戦うのを考慮した武装。
しかし、かといって完全な戦闘員という訳じゃない。

いずれにしろ、兵員の99%が完全戦闘員というのも、2、30%しか戦闘員がいないというのも、どっちも極端な話だ。



余談だが、色んな資料で「明智光秀家中軍法」から千石につき32人の動員力って計算している人が結構いるが、
>軍役の人数は百石について六人とする。百石未満の場合もこれに順ずる。
って、書いてるのにおかしくないか?
32人計算だと34万石の明智家が動員力10880人になって本能寺1万3千に届かないし、
それに32人に旗持ち10人は多すぎる。(江戸時代だと万石級の旗持ち数)
人数として明記されているのは「甲をかぶった者」だけで、他は全部道具の数で、補助戦闘員は殆どいない。
これは、あくまで道具の数を記載しただけで、軍役人数はあくまで100石につき六人の方が色々つじつまが合う。
(100石六人計算だと、明智家動員力2万4百、鉄砲充足率8%×長篠合戦織田軍3万=鉄砲2500で通説3千に近い)
誰がこんな計算の仕方を始めたか知らんが、素人でも分かる事になんで気付かないんだろう?
381日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:32:13
>>380
武田家のは軍役つまり動員数であってそれがどのように部隊運用されていたかは例えば
「甲陽軍鑑」のように与力や同心などが付属されているのが普通

後、荷駄と道具持ちにそれ程の差はない
上にいるのが数百石の侍か数万石の大名かの差があるだけ
あと後方要員の持っている刀は良くて、今でいう護身用の拳銃レベルのものでしかない

確かに輸送規模で荷駄の人員が変化するのは事実
382日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:06:36
慶長10年(1605)の軍役規定はほぼ戦国のそれと同等と見て良いとおもうが
それだと1000石当たり23人、うち戦闘員は鉄炮2挺、弓1張、鑓5本、騎馬1騎
383日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:09:11
少しややこしいので改めて書く

中世と近世で一番変化したのは民衆の動員方法
中世では侍が各々に後方要員等を動員していたが、近世では蔵米制の普及に伴い
大名が一括して動員し、それを配分する方式に変化している

特に食料関係は中世では侍個人の小荷駄があったが、近世より一括して備単位の
小荷駄隊などが管理する例が多くなる
もっともこれは各大名家によって差があるので注意
384日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:16:32
>>382
総員が記載されるようになったのは寛永からのじゃなかったかな
385日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:24:01
>>384
そのようだ失礼
慶安2年(1649)には1000石あたり21人になってるな
386日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:31:25
その頃になると槍の数が減っているんですよ2本くらいに
387日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:43:18
槍2人とは別に侍(徒)5人とあるが
388日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:58:34
確かに、彼らを入れると半分くらいか
それでも石高が増大すると非戦闘員の割合は大きくなるけどね
389日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:00:19
>>381
オレは荷駄隊と道具持ちを含めた補助戦闘員は違うといってるんだが
兵糧奉行までついて、略奪襲撃に対処しないといけない荷駄隊と、
旗持ちや手替えまで含めた補助戦闘員と一緒にするのは乱暴すぎだぞ。

後、雑兵が持つ刀なんてみな数打ちで大したもんじゃないが、
戦わないのに具足まで支給されているのは過保護な話。
無論、積極的に戦う訳じゃないが、劣勢になって攻め込まれれば刀抜いて戦うしかない。
要は、戦闘員と非戦闘員の中間的存在ってこと。
ただし、旗差しは除く……


ちなみに、単にリロードしてなくてタイミングが悪かっただけで、別に>>380>>376>>379への反論じゃないぞ。
だから、与力同心については別に否定しない。
390日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:18:13
>>389
荷駄と道具持ちを分ける形で無くむしろ
道具持ちの中に格があり、槍持ちや玉薬持ちは中間ということで
戦闘補助員といえるが草履取りや挟箱持ちは荷駄運びと差がない
と言いたい
391日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:22:19
どっちにしろ、その非戦闘員とやらを考慮しても
ヨーロッパより少なかったわけじゃないだろ
392日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:25:02
単純な数比較はしてはいけないという話
393日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:32:26
だーかーらー、非戦闘員の事言い出したら
ヨーロッパや中国も、そういうのに言及しないといけないでしょって話。

ほぼ全員が戦闘員だなんて
「初期の」モンゴル帝国みたいな、遊牧民国家ぐらいなもんでしょ。
394日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:39:09
ヨーロッパの30年戦争辺りとかは戦闘員に金を払うので戦闘員の数が普通
つまり歩兵いくらとか騎兵いくらとかの話
中国は双方の場合がある
395日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:52:50
ヨーロッパのばあい戦闘員:輜重隊は1:2〜3くらいの割合だが
娼婦やら乞食やらの雑多な集まりである輜重隊なんて
数を数えてどうなるもんでもないから誰ひとり把握してる人間はいないだろう
396日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:54:13
で、>>338とか>>358みたいな事になるわけか。
397日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:00:06
じゃあ日本と大して変わんないじゃん。>1対2〜3
398日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:08:59
>>390
なんか、微妙に話が噛み合わないな。
まず、荷駄と荷駄隊を分けてくれないだろうか。
奉行級の武将まで含める荷駄隊と、一般部隊内の小荷駄は違うから。

んで、一般部隊内の編成について話そう。
オレが大雑把に道具持ちなんて括りで書いたからこんがらがってる(ごめん)みたいだから、
幕府規定の千石級の着到をモデルにしよう
侍5人
立弓1人
鉄砲1人
槍持2人
甲冑持2人
草履取1人
長刀持1人
挟箱持2人
馬の口取2人
押し足軽1人
沓箱持1人
小荷駄2人

計21人

この中から、専門に戦闘する人、戦闘をする可能性のある人、まずもって戦闘をしない人に分けて欲しい。
まあ、草履取りや挟箱持ちなんて戦場じゃいらないんで、背負い物や行李背負いとかに換えた方がいいんだろうが……
399日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:22:04
>>398
一般部隊というのは
侍の軍役としての動員という意味ですね

それではこんな感じかと
戦闘専門職 侍(+自身騎馬武者)
可能性あり 押し足軽、立弓(弓持)、鉄砲(持筒)、槍持、長刀持ち
なし 甲冑持、草履取、挟箱持、馬の口取、沓箱持、小荷駄
400日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:29:15
>>397
仮に割合が変わらないなら人口が多い日本のほうが戦闘要員多いってことでいいよね
401日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:33:03
因みに16世紀のイングランドは、日本どころか朝鮮より人口少ないぞ
402日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:33:51
だからヨーロッパは総数でなく、戦闘員数の場合が多いと言っているのだけど
403日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:37:18
>>358
404日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:40:56
ならなおさら単純比較は禁物
ヨーロッパの水増しの割合を計算し、日本の総数に対する戦闘員の割合を
算出して初めて比較できる
405日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:50:12
>>399
おk
つまり、運搬要員でも武器を運んでいる人は戦闘する可能性があるってことね。
そこから計算すると、比率は戦闘員52%、非戦闘員48%だと推定。

後、しつこく云って申し訳ないが、戦闘しない人は乱戦に巻き込まれたらどうするのか、
戦闘中何をしているのか、考察やらソースやらをお願いします。
そういう人らが戦闘に参加するっていうこっちの根拠は、武装してるからってだけなんで、
ものすごい根拠がある場合はお手柔らかにお願いします。


ちなみに甲冑持は、若党とか小者で足軽身分だから、戦闘には参加する可能性があると思うぞ。
だから戦闘員62%、非戦闘員38%だと推定。



どうでもいいけど、ヨーロッパの兵員状況書くのにまで手がまわらねえorz
406日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:25:20
こんな議論ちまちまするより明治に使節団送ったように優秀な人間をたくさん
ヨーロッパに派遣させて造船術から航海術から日本にない向こう独自のものを
学ばせて鎖国なんかしないで植民地獲得競争に参加させてりゃよかったんだよ
でいらなくなった侍をたくさん殖民させてそこらに散らばしときゃ世界の歴史は
大きく違うものだっただろうな
日本語の浸透度が英語以上な世界になったろう
407日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:57:55
なんか話が妙な方向にそれてるが
要するに実質的な戦闘員の動員力は
スペイン>日本って言いたいの?
408日本@名無史さん:2009/10/15(木) 03:18:23
かなり無理があるなそれは
409日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:47:28
そんな結論は誰も求めてないと思うが。
実際の動員力を具体化してってるだけで。

うむ、俺も千石25人としたがあくまで幕府規定だからな。戦国終了後。
戦国の時はもっと多かっただろ。
あえて言うなら、戦力を全部外に狩り出してしまったら
地元の治安を守る奴がいなくなってしまう。
だから潜在戦力としては、さらにプラス何割分くらいはあったのでは。

ただそもそも臣下クラス同士の山崎の合戦で 四万vs一万六千 とか
既に異常なインフレ状態だと思うぞ。
信長軍団がいかに怪物化してたかを表してる。
410日本@名無史さん:2009/10/15(木) 08:47:30
そういえば織田家の場合は
今でいうニートとかフリーターを雇ったから
兵そのものは糞弱かったが、農家が忙しい時だろうが何時だろうが
大軍を動員出来るのが強みだったというのが一般的な説だが
実際どうだったん?
411日本@名無史さん:2009/10/15(木) 08:59:06
ソ連兵みたいな方針だな。
乞食浮浪者は強制徴兵って。
412日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:03:40
乞食浮浪者どころか、女兵士も多かったんだよね。
尤もこっちは志願兵だけど。
413日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:18:42
>>405
雑兵物語では草履取りが主人の鉄砲を持っている際に自分にも撃たせてくれといって叱られるも、
主人の危機に撃って手柄を立てるも、その後に負傷したという話がある
これは持筒の話と捉えて良かろう
また、沓持も戦闘中には邪魔になるから手出しをするなとある

鉄砲・弓・槍足軽とか若党とかは戦闘における心構えが書いてあるが、それ以外の者は各々の仕事
に専念するように書いてある
そして武器以外の荷物持ちは戦闘中は後方に置かれ(おそろらく小荷駄奉行の管理下に入ると思われる)
ているのが合戦図屏風でも確認できる
戦闘時に主人の側にいるのは主人の武器を持つ者や馬の口取、若党位、もちろん侍によって草履取を
武器持ちにするとか色々あるでしょうが
口取が馬を放した後、どうするかは知らないが、恐らく後方に戻ると思われる

因みに後方まで突破されたら、総崩れなので、それ以降は生存の為の戦いになるのでこれは戦うための
戦闘とは言わない
414日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:31:55
ちょっとよくわからんのだが
じゃあ戦国時代の合戦ってのは
今の兵士の全員銃携帯で己の管理は自分のみという状態とは全然違ったってこと?
市街戦とかありえんじゃん。
めちゃめちゃ過保護な力比べじゃね?
415日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:39:35
今の軍隊でも輜重部隊は軽装備だし、護衛隊を付けてもらってますよ
因みに戦国期に市街戦はそれ程ありません
普通はその前に敵味方の手で焼き払われます
416日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:44:26
ちょっとちょっと
じゃそれなら下手すりゃ民間人やってるよりも
軍の中にいた方が安全なんじゃ
417日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:46:12
そんなことは無い
この時代は民衆も武装しているのだから
下手な軍隊なんて自力で排除できるくらい
418日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:50:26
因みに抵抗が無意味な場合の市街地における民衆の対処
1.家財道具を檀家の寺や神社に預ける(寺社は軍隊より乱暴狼藉の禁制をもらう)
2.武装して近くの山に逃げ込む(事前より砦化されている)
3.弁当広げて戦の見物
4.終わったら引き上げて家屋敷の再建
こんな感じ
419日本@名無史さん:2009/10/15(木) 14:17:20
近代でこそ南京大虐殺や強制連行による従軍慰安婦あったなかったで論争されてるけど
こんなの中世以前は世界中いたるところでは異国人どころか同胞相手にいくらでもあったろうな
420日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:23:25
韓国とか朝鮮戦争のころでも
米軍相手の慰安婦を強制連行で集めてたり自国民同士の虐殺やってたりするしな
421日本@名無史さん:2009/10/17(土) 01:34:29
>>413
おk
実は、こっちも手持ちの資料洗い直してたら、同じ結論になったッス(´・ω・`)ノ
持弓や持筒が刀働きをやろうと意気込む一方、沓持は馬が疲れないよう馬沓の交換するのが武辺の第一だと云ってたんで。
ただ、草履取りが主人の鉄砲使ったのは、持筒というより緊急時の例外といったところだろう。
他の荷物持ちと違って、主人の近くに付き従う草履取りは戦闘に巻き込まれる事が多かったんだろうし。

まあ何れにしろ、日本の動員数の大半が非戦闘員だったなんてのは無い話だな。
この他にも鉄砲や槍の足軽隊が専門にいる訳だし、モデルにした江戸時代の軍役は非戦闘員の割合が戦国時代より
だいぶ多い編成になっている。
それを加味して考えると、動員数の大半が戦闘員か準戦闘員だったと考えるべきですな。




さて、そろそろ欧州の兵員状況について取りかかることにしよう……。
422日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:14:52
個人的には色々言いたいけどまあいいや
最後に関ヶ原合戦時の井伊隊先手木俣隊は
総数775人内、騎馬侍と歩卒が戦闘要員で285人、比率は36.8%という数字がある
下人を一律そして長柄中間(30人)も排除しているので半分くらいは増えるだろうけど
423日本@名無史さん:2009/10/17(土) 22:51:11
関連スレ

ヨーロッパ中国の兵士と比べ戦国の武士は戦闘力低い
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255772105/
424日本@名無史さん:2009/10/18(日) 05:46:39
どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。

ノエル・ペリン
425日本@名無史さん:2009/10/19(月) 01:27:14
>>422
その辺はもう、そちらに任せる。
出来れば、詳しい編成内容を書いてもらうと凄い助かるんだが。

まあとりあえず、こちらはスペインの兵員状況について取りかからせてもらう。

フランドル兵6万という数は、現実とそれほど乖離した数字ではないが、
これが実際に数値通りの戦果を期待できたかという話になると答えは否である。
理由は簡単。補給の概念が薄く、大軍を支えるべき財政基盤もボロボロだったからだ。
カール五世の治世末期である1556年に通常歳入の68%だった長期国債フーロの利子払いは、
65年には84%となり、フェリペの治世末期の98年にはフーロの債務総額は年間歳入のほぼ8倍となっていた。
これに伴い、1560年、1575年、1596年、1607年、1627年、1647年、1653年の各年に破産布告が出される事となる。
このような状況のスペインにおいては兵士に給料が支払われるのは稀で、略奪による現地調達に頼らざる得ず、
結果一ヶ所に戦力を集中することが出来ずに、それどころか兵の反乱が日常茶飯事となっていた。

では、これ程の大軍を何故動員したかというと、支配した領土の守備と支配に必要だったからである。
普通の事に思えるかもしれないが、この時代は極端に防御が偏重され、野戦が嫌われた時代だ。
戦略的行動はゆっくりとした速度で行われ、軍隊は出撃可能な位置につくため絶えず移動させられたが、
結局出撃することは少なかった。つまり、殆どの戦闘は要塞をめぐるものだったのだ。どん亀のような軍隊である。
しかも、一つの要塞における守備兵は数百人規模だったというから、余程分散していたのだろう。
事実、敵手たるマウリッツは1589年から1609年の間に29基の要塞を奪取し、3回の解囲作戦に成功したが、
その間に野戦を行ったのはニューポールの一回だけで、それも彼にとって望まない戦闘だった。
また、その稀な野戦で使われる戦術は、これまた極端に防御偏重で鈍重なテルシオで、
その数も定数の半分以下であるのが普通であった。

戦国日本もスペインもそれぞれ欠点を抱えていて単純には比較できないが、
兵站に欠陥を抱えているスペインが陸戦で有利になる事はあまり無いだろう。
426日本@名無史さん:2009/11/01(日) 20:12:12
もし日本が東南アジアでスペイン・ポルトガルと一戦交えると
仮定した場合、日本が勝利する鍵は現地の王朝及び諸侯との同盟を結び
兵站を確保できるかどうかにかかっていると思う。
427日本@名無史さん:2009/11/02(月) 09:54:03
日本産小麦は輸出禁止にして、中国産小麦も高値で買い占めるだぎゃぁ
いくさをチェッカーだと思ってる南蛮人なんか楽勝だがねー
428日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:00:15
戦いたいなら台湾まで橋を架けてみろ
話はそれからだ
429日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:27:17
兵站w
日本は海を越えられないから兵站以前の問題なんだがね。
「船を造れば済む」という人は厚生労働省役人になればいいよ。
お前らなら「ワクチン不足は作れば済む」で万事解決だ。
430日本@名無史さん:2009/11/18(水) 03:07:53
船は造れば済む
ワクチンも作れば済む
財源は作れば済む
雇用も生み出せば済む

信長信者の思考なら今の日本は安泰ですなw
431日本@名無史さん:2009/11/20(金) 02:03:29
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
432日本@名無史さん:2009/11/20(金) 02:04:25
文禄2年1594年の、マニラ総督宛ての秀吉の書状が残っている。
スペイン国王に開城するように申し渡している手紙である。

(前略)
予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。
これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、
『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と
言った。
この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。
(中略)
もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、
彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。
こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。
予は我ら(日本とフィリピン)が永久に友好を保つことを希望する。
これを(カスティリャ王に)書き送られよ。
遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。

パステルス「日本・スペイン交渉史」
433日本@名無史さん:2009/11/20(金) 07:07:49
だから日本はどうやってルソンに行くというんだ?
泳いで海を渡るのかww
434日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:27:28
ん?フィリピン攻略の話って基本的に
明攻略に関連して「うまくいったらやるかもよ?」レベルの話だろ

つまり日本からどうやって行くのっていう質問自体が愚問
明朝鮮に拠点を築いたうえでの話だから、聞くなら
明からどうやっていくの?と聞かねばおかしい
435日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:36:40
というか>>432読む限り秀吉は朝鮮から行くつもりだったようだな
陸路で進むつもりか
黄海を飛び石しながら南下するつもりかわからんが
まあどっちかだろね

436日本@名無史さん:2009/11/20(金) 16:30:28
豊太閤みずから改宗し、法王猊下に傅けば平和的に東南アジアに進出できたのでは?
そうすれば日本の近代化ももっと早く進んだだろうし、後世、残忍な国家神道に
傾倒することもなかったろう。
437日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:30:18
うわきも
438日本@名無史さん:2009/11/20(金) 18:28:38
まずは朝鮮中国を支配してからの話だな。
泳いで海を渡るのと同じレベルだ。
439日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:44:36
>>425
なるほど、参考になった
440日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:19:21
スペイン軍は世界最強だよ。
これより強いのはイタリア軍だけ。


ネタスレにマジレスしてスマンw
441日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:44:44
日本国民は勇敢で絶えず軍事訓練をしている。
したがって日本を征服しても益はないが、スペインが中国に進出するときのよい足場になるので、日本を重視する必要がある。
私が、ここで陛下に断言できることは、迅速に遠征するならば、シナを簡単に征服できるということである。
そして、このことを一層容易に運ぶには、シナの近くにいる日本人が、すすんでこれに加わると思えるのである。
日本人は、シナ人に対して非常に効果的である。

スペインの宣教師バリニャーノ
442日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:10:32
1587年秀吉が九州征伐の陣中から妻に宛てた手紙
「高麗の王に早船で『日本の内裏に出仕せよ、さもなくば来年成敗するぞ』と
申し遣わした。私の命あるうちに、唐国まで手に入れる所存だ」

1592年日本軍は釜山に上陸し、わずか二十日あまりで漢城を占領した。

国民の歴史 西尾幹二著 
443日本@名無史さん:2009/12/09(水) 08:20:13
ピサロがインカでは無くジバングに直接来ていて
1530年代(鉄砲伝来前)の時点で将軍か天皇を騙して監禁する事に成功してたとして
その後の展開がなかなか読めないな
ピサロ政権は日本に鉄砲を盧獲?されて国産火繩銃を揃えられるまでは善戦するだろうか?
444日本@名無史さん:2009/12/09(水) 18:53:04
>明、朝鮮ではなく

それはあくまで手段です
目的は対スペインでした
そもそもそのために行ったのです
445日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:41:03
>>443
1531年フランシスコ・ピサロは約180人の手勢と37頭の馬を引き連れ、ルソンを出港し、日本への侵入を開始した。
和歌山で騎馬隊を下船させ、堺まで北上し、芥川城を建設した。
その後、管領細川晴元を追って北上した。1532年に室町館で細川晴元と会見し、その場で生け捕りにした。
細川家の混乱に乗じて勢力を伸ばした三好長慶に京を包囲されると
足手まといになった晴元が邪魔になり1533年京都六条河原で処刑を敢行した。
その後三好党との激しい市街戦の末に京都を追われ、近畿各地を転々と逃亡し、11月には吉野山中へ逃げ込んだ。
1535年1月に吉野植民地の首都として里麻城を建設した。
しかしその支配地の分配、特に侵略失敗の責任論をめぐってアルマグロと対立し始め、1537年から仲間割れが始まった。
1538年にアルマグロを処刑したが、1541年6月26日にアルマグロの遺児一派に追われ逃亡先の新宮で暗殺された。
446日本@名無史さん:2009/12/15(火) 11:17:59
アルマグロクロマグロ
447日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:15:41
>>428-429-430-433
ID出ないからって自演バレないとでも思ってるの?

>>443
インカの皇帝と違って、将軍や天皇に関しては利用価値が無くなれば
わざわざ助ける事はないと思われるから効果はないんじゃない?
日本側に銃が無くたって、たかだか数百人レベルの軍隊で日本の一大名と
勝負になるとも思えないな。

もちろん、当時のスペインは世界最強だし、総力戦になればさすがにスペインが
勝っただろうが、南米やアジアの数ヶ国を相手にした数百〜多くても数千レベルの兵力で
日本を侵略するのはさすがに無理ありすぎ。
448日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:24:38
>>447
>当時のスペインは世界最強

冬厨か?
もう少し過去レス遡ってからレスしな。
449日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:21:45
>>447
で?
日本兵がどうやって海を渡るか説明しろよw
450日本@名無史さん:2009/12/28(月) 01:40:30
>>449
海ならちゃーんと渡って朝鮮、中国相手に連戦連勝ですが何か?
>>433と同じ意味なら>>434がとっくに答えてるわw
しかし「海を渡る」事にこだわるなwそれしかないのか?w
第一、日本側は元々海外に攻め込む気なんかない国だったから、外海用の
軍船が発達しなかったのは当たり前。恥じる事もなければ悔しがる必要もないね。
逆にその気になればあっさり日本に攻め込めるはずのスペインが何もしてないって事の
方が情けねえわなw
451日本@名無史さん:2009/12/28(月) 04:20:50
しかし、日本の異常な動員能力っていうのは戦国時代だからなのかね?比較的安定の時期だとどんなもん?
452日本@名無史さん:2009/12/28(月) 09:13:07
鎌倉時代にはかなりのレベルだとおもうけどねー

比較的安定した時代ってのが難しい概念だな
平安末期から江戸時代までで長らく特に戦がない時期ってないと思う
室町の最初のほうぐらいでしょ。それも一瞬といってもいいんじゃないかという程度だし。

453日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:33:26
少なくともモンゴルと戦った時には
既に最低でも10万は動員出来てたよ。
454日本@名無史さん:2009/12/28(月) 12:45:49
>>450
嘘言っちゃいけない。
朝鮮相手に敗退した事実くらい知ってるだろう。

ここのスレタイは相手が南蛮を想定してるから海を渡るのにこだわるのは当たり前。
海峡をこえて半島にいくのと、大海を渡ってルソンに行くのでは違いすぎる。
事実日本では何もできなかった。

あと、あんたが言うように恥じることはないが、
そこは多くの信長ヲタ相手に説教したほうがいいよ。
455日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:25:47
文禄の役って日本軍が朝鮮半島南部を征服したまま講和になってるんだから、日本の勝利だよね。
456日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:30:06
まあ少なくとも朝鮮を制圧していた当時の日本に対して
海がどうのこうのというのは愚問だね
------------------------------------------
434 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:27:28
ん?フィリピン攻略の話って基本的に
明攻略に関連して「うまくいったらやるかもよ?」レベルの話だろ

つまり日本からどうやって行くのっていう質問自体が愚問
明朝鮮に拠点を築いたうえでの話だから、聞くなら
明からどうやっていくの?と聞かねばおかしい
-----------------------------------------------------

457日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:31:16
文禄2年1594年の、マニラ総督宛ての秀吉の書状が残っている。
スペイン国王に開城するように申し渡している手紙である。

(前略)
予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。
これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、
『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と
言った。
この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。
(中略)
もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、
彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。
こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。
予は我ら(日本とフィリピン)が永久に友好を保つことを希望する。
これを(カスティリャ王に)書き送られよ。
遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。

パステルス「日本・スペイン交渉史」
458日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:32:13
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
459日本@名無史さん:2009/12/28(月) 18:03:59
慶長の時は敗退してるんだが。文禄も拠点もつくれず終わったんだから何もならんよ。

朝鮮に渡るのとルソンに渡るのでは雲泥の差。
朝鮮ならピストン輸送も可能だが、遠いルソンはそうもいかない。

スペインの書簡など話にならないね。
日本は攻める力もないからスペインの杞憂というもの。
460日本@名無史さん:2009/12/28(月) 23:05:14
犬と電信柱に止まってる小鳥で、
「だからどうやって犬が電柱に上がるんだよwww」
って言ってるのと同じだな、スペイン厨の言い分はw
461日本@名無史さん:2009/12/29(火) 00:20:58
>>459

蔚山でも、泗川でも、順天でも明軍は敗退していますが?w
それ以前にも明軍は南原城の戦いで敗退、稷山の戦いで敗退、第一次蔚山城の戦いでも惨敗。
慶長の役では、明軍は一度も勝利できなかったんですけどw

360 名無しさん (2009/12/21(月) 19:09:45 ID:ja5ZKbCM)
明軍は投降した日本人捕虜など数十人を北京へ連れて行って全員処刑し、
そのうち数人は宗義智や島津義弘といった「倭将」として凌遅刑に処した。
凌遅刑とは歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑であり、
本来は反乱の首謀者などが対象となる。明は面子を保つために、
単なる一兵卒に過ぎない捕虜を「宗義智」や「島津義弘」といった将軍クラスであると
でっちあげて凌遅刑に処したのである。

日本軍が討ち取った明の将軍
載朝弁、史儒、 張国忠、馬世隆、廬継忠、楊万金、李寧、廬徳功、ケ子龍、陶明宰

明軍が討ち取った日本の将軍
中川秀政
462日本@名無史さん:2009/12/29(火) 01:29:05
>スペインの書簡など話にならないね。

あのな、対日本人向けの社交辞令やお世辞ならともかく、自国王に向けた報告での評価だぞ。
それを話にならないってお前・・・w
463日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:24:35
>拠点もつくれず終わったんだから
釜山だけで20以上もの城を築いてますがなにか?
464日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:35:45
 「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
 「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった」
465日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:09:42
13 :世界@名無史さん:2009/06/03(水) 01:00:51 0
>>8
実戦で朝鮮水軍に日本水軍は負けてたじゃん。

14 :世界@名無史さん:2009/06/03(水) 11:18:10 0
>>13
朝鮮水軍は、文禄の役前半の輸送船に警護船が数隻ついただけのような日本船団にこそ
勝ってたが、日本側が海岸の要所を押さえて防御網を整えると、熊川−南海島ライン以東には
進入することもできなくなり、そして日本が軍船を整えて臨んだ慶長の役では、緒戦で
朝鮮水軍はあっけなく壊滅、件の李舜臣は残兵を収容しての撤退戦こそ成功させたものの、
その後は明水軍が到着するまで単独では攻勢に出ることすら全く出来なかったワケだが。
で、最後には急造の上に戦力的にも劣る島津水軍に返り討ちにあってるし。

史実はこんなモンだよ。



>>15
閑山島海戦は陸から再び船手に戻された脇坂が功を焦って先走っただけでしょ。動員定数1500で
実数は1000に満たなかったと思われる脇坂勢が朝鮮水軍全力(5000〜7000ほどか)に包囲されて
袋叩きだから勝てるわけがない。

当初計画通り、加藤・九鬼と合流して当たっていればまた違ったと思うよ。




466日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:20:37
戦争は戦闘行為だけじゃなく、戦場に行く手段や平坦を確保するのも含みます。
どこかに戦場を設定して白兵戦をすれば、日本軍はスペインポルトガルくらい撃破するでしょう。
しかし実際に戦うためにはルソンに行く手段がない日本は戦えなかったというのが事実。
スペインのほうでも日本に攻めてきたって勝てやしないんだから戦争にはならないんですね。
ちなみに朝鮮の話だけど、拠点を作っても維持できなかった時点で日本は負けも同然ですよ。

結論:
日本は守ることはできても攻めることはできなかった
467日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:23:58
追記。
スペイン書簡の仮定法ですが、ヨーロッパ言語の仮定法の使い方で、
この文は「ありえないことだが」という条件付の仮定法と思われます。
「朝青龍にぶん殴られたら俺死ぬわ」みたいなもので、
実際に心配しているわけではありません。
本当に心配したものであれば、スペインは日本の高校技術力のなさを知らなかっただけで、
ここに書いてあるから日本が勝てるというものではないと私は考えます。
468日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:36:06
163 :世界@名無史さん:2009/08/22(土) 08:06:18 0
スペインなんぞは、実際には原始時代みたいなところしか占領できなかったけどな。
スペイン人の半島人特有の誇大妄想と他者の過大評価が大きすぎ。

345 :世界@名無史さん:2009/12/23(水) 19:29:17 0
日本軍と明軍の主要な戦闘

1.祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲   
  →小西行長の配下一万によって撃退される

2.李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃  
  →小西行長とその配下一万五千はたまらず敗走、明軍は平壌城を奪還 
  
3.李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍二万と激突   
  →日本軍が数に劣る明軍を大破(碧蹄館の戦い)。

4.晋州城攻防戦(第二次)において、
明将劉テイ指揮下四万が普州城の救援に向かったとの
報を受け、立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃   
  →日本軍が撃退に成功

5.明・朝鮮連合軍が守る黄石山城を日本軍が襲撃   
  →陥落

6.明・朝鮮連合軍が守る南原城を日本軍が襲撃   
  →陥落


469日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:37:15
346 :世界@名無史さん:2009/12/23(水) 19:30:11 0
7.稷山で解生率いる明軍先遣隊八千と黒田長政率いる五千の部隊が遭遇戦   
→一進一退の攻防の末、明軍は戦意を喪失。日本側に援軍が現れたのを機に撤退

8.楊鎬、麻貴率いる明軍四万四千と、朝鮮軍一万二千の連合軍が完成前の蔚山城を急襲(蔚山城の戦い)   
→加藤清正を指揮官とする篭城側一万が防戦、
その後日本軍一万二千が駆けつけ連合軍を大破
日本軍は敗走する連合軍を30里に渡って激しく追撃し、壊滅的な打撃を与えた

9.麻貴率いる明軍二万四千、 金応瑞率いる朝鮮軍五千五百の連合軍が再び蔚山城を襲撃(第二次蔚山城の戦い)    
→日本軍は防戦に徹し、これを退ける

10.董一元率いる明・朝鮮連合軍およそ三万七千(諸説あり)が泗川城を襲撃(泗川の戦い)
→島津義弘配下七千が城外へ打って出て連合軍壊滅(すげえ)

11.劉テイ率いる明軍二万二千、権慄率いる朝鮮軍六千、
陳リン率いる明水軍二万、李舜臣率いる朝鮮水軍七千からなる連合軍が順天城を襲撃(順天城の戦い)
→小西行長配下一万三千が防戦し、これを撃退

12.明・朝鮮連合水軍五百隻が島津水軍五百隻と激突(露梁海戦)
→双方に甚大な被害。しかし島津水軍は小西行長らを撤退させるという作戦目標を達成し、連合軍は明水軍副将のケ子龍、朝鮮水軍大将の李舜臣が戦死した

日本圧勝だな


470日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:46:04
>どこかに戦場を設定して白兵戦をすれば、日本軍はスペインポルトガルくらい撃破するでしょう。

別にこれさえ認めるならいいんだけどね。しかし、

>しかし実際に戦うためにはルソンに行く手段がない日本は戦えなかったというのが事実。

スペイン厨がここに拘るから話がこじれるw

>ちなみに朝鮮の話だけど、拠点を作っても維持できなかった時点で日本は負けも同然ですよ。

うん、それをもって日本の負けだと主張するなら別に日本の負けでいいんだよ。
実際の戦闘では朝鮮側の連戦連敗だという事実さえ認めるならね。
明和の歴史板でこれを言ったら朝鮮厨が何故かWWUの日本vs米を持ち出して煽る馬鹿がいたけどw
471470:2009/12/30(水) 21:48:24
あ、考えてみたらほとんど日本vs明で、朝鮮はかやの外同然だったw
472日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:37:29
>実際の戦闘では朝鮮側の連戦連敗だという事実さえ認めるならね。

それは事実だから認めますが。私とだれかと勘違いしているのでは?


ちょっと自分の前の書き込みで変換ミスが多かった。
戦争ってのはゲームじゃない、勝つだけでは意味ないんですよ。
なんのために戦うのか、ここ重要ね。
このスレの仮定であればルソンを占領しに行く話はしていないから、
「ルソンを取れれば日本の勝ち、できなかったら負け」という話にもならないはずですが、
しかし白兵戦でスペインを倒すことだけが目的なら、
「戦闘行為からはじめる」という条件があれば日本が勝つと主張するものです。

書簡の書き込みが少し話をこじらせているようですが、
「日本がルソンをとりにいくなら」という話をすれば、
残念ながら移動手段も兵站も確保できない日本は勝てない(ルソン占領は無理)ということです。
実際にルソンをとっても維持する意味がありませんから、それを恥じる必要などないはず。
473日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:46:46
前のほうの書き込みを見てみたら、船の話で

「慶長遣欧使節(キリッ」

なんてありますね、これは失笑モノ。
サンファンバウチスタ号なんてせいぜい100人乗れればいいほうで、
とても海外に派兵する力なんかありません。
もし100人送っても、またとんぼ返りして迎えにいく、なんて繰り返していたら、
個別撃破されるか出兵先で全軍餓死するのが関の山です。
船を造ればいいってものじゃない、簡単に造れるほど技術がないし、
だいいち、いきなり100人が乗れるほどの船を造ったんではないのですよ。
段階的に大きな船を造っていき、ようやくその時にサンファン号が造れるようになったんです。

ゲーム感覚で話をすれば、最初から船があり、兵は飯も食わずに生きていけるし病気にもならない、
しかも故郷を離れルソンに島流し同然でもなんら望郷の感情も持たないという、
サイボーグみたいな足軽しかいないと思っているのでは。
474日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:21:35
スペインってまともな文明持たない国を征服しただけで、それ以外には目と鼻の先の
アルジェすら征服できなかった国だろ。
ザコじゃん。
475日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:19:17
例えば朱印船だと1604年新造の加藤清正船が800d、1610年の島津忠恒船が700d。
両方とも300人以上乗船できるし、ルソンはもちろんアユタヤやパタニまで航海できる。
ルソンまでの移動手段がないとか幻想だよね。
476日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:56:03
ぼはま?
477日本@名無史さん:2010/01/03(日) 21:34:22
>>473
>もし100人送っても、またとんぼ返りして迎えにいく、なんて繰り返していたら、
>個別撃破されるか出兵先で全軍餓死するのが関の山です。

クソワロタwww
こいつの頭には同じ船を何十何百も作るって発想はないらしいwww
せめてそっちの発想で「それだけの数の船を作るのにどれだけの時間がかかるか?」
で攻めればいいのにw

>ゲーム感覚で話をすれば、最初から船があり、兵は飯も食わずに生きていけるし病気にもならない、

だから日本側がそういう点を考えないとでも思ってるのか? って話なんだがw

478日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:06:23
>>445
細川自らは会わないでしょ
幾ら運が良くても、武装解除した状態で香川氏とか安富氏とかの細川四天王が接見する程度

それに和歌山に漂流した所で
傭兵と見間違うような異教徒集団に囲まれてガクブルするのがオチ

479日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:41:23
日本とスペインが交戦する可能性があったとすれば、
琉球諸島を占拠された場合等だろうから日本側の補給はさほど問題ないと思う。
480日本@名無史さん:2010/01/11(月) 13:05:07
>>478
時代は違うけどこれを思い出したよ

 「伏見で我々が会ったのは土佐藩の護衛のサムライたちだったが、
 彼らは悪夢に出てくる怪物そっくりの格好で、見た目も荒々しく、
 鎧を着て、恐ろしい形相の仮面を被り、兜から両肩にかけて、
 黒と白の馬の毛で作った長い乱れ髪が垂れていた。
 この恐ろしい無言の悪魔に護衛されて、我々は京都へと進んだ。」
 
                 Algernon B. Mitford回想録1871 
481日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:11:03
>>474
>スペインってまともな文明持たない国を征服しただけで

インカ、アステカは武器が原始時代レベルから発達しなかっただけで、
それ以外の文化は欧州や中華&日本と比べても特に劣ってなかったと思う。
アタワルパ以後の新・インカ勢力は、スペイン軍から奪った銃や馬も使い
こなしてるし。
482日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:08:51
>>481
銃や馬ぐらいなら、インディアンでも使いこなしてる。
冶金技術どころか、まともな文字体系すらない時点で、
日本でいう縄文時代程度の文化レベルでしかない。
483日本@名無史さん:2010/01/14(木) 10:22:14
オーパーツスキーは歴史板よりもオカ板の方がお似合いですよ
484日本@名無史さん:2010/02/13(土) 05:54:29
満州やモンゴル諸国から見ても、大陸の明朝と半島の李朝は兄弟国であった。
明は白蓮教徒の明主が建てた国だったので明という。
元朝に宗教反乱で立ち向かい、モンゴル人の放漫な紙幣濫発政策に対する反省から、
当初は反商業的な国家として誕生した。
同時期成立の李朝はこれを真似し、明がそれを捨てて発展していたころ、なおも反商業的であった。

商店も筆屋と鍮器屋くらいしかなく、人々は市場と行商人に頼っていた。
曲げ物の技術がなく、車輪も樽もない。
物は背負子に担いで人が運んだ。
染料も顔料もないので、民間人は白衣、陶磁器は白磁だった。
李朝は、いわば世界が中世期の頃に、古代国家として発生したインカ帝国に近い存在として特筆される。
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor0912290245000-n1.htm
485日本@名無史さん:2010/02/18(木) 10:32:59
>>482
インディアンに対する偏見丸出し
486日本@名無史さん:2010/02/20(土) 08:32:11
インディアンは土地の所有に関する概念が希薄だったのはまずかった
ガラス瓶とかボタンとかどうでもいいがらくたと交換で簡単に土地を譲ってたと聞いたことがある
事実なのかアメリカンジョークなのか知らんけど
487日本@名無史さん:2010/03/09(火) 11:55:02
どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。

ノエル・ペリン
488日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:33:29
ほほー
489日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:33:07
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
490日本@名無史さん:2010/06/08(火) 05:19:43
文禄2年1594年の、マニラ総督宛ての秀吉の書状が残っている。


(前略)
予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。
これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、
『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と
言った。
この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。
(中略)
もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、
彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。
こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。
予は我ら(日本とフィリピン)が永久に友好を保つことを希望する。
これを(カスティリャ王に)書き送られよ。
遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。

パステルス「日本・スペイン交渉史」
491日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:26:35
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。

・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。

・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
 (金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。

・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。

・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
492日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:27:36
日本は秀吉の天下統一まで一枚岩じゃないし、
朝鮮はともかく台湾に派兵する能力はないから。
493日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:34:24
攻め込むことは無理だけど日本が制圧されることもない。

戦場を決めて戦うなら日本は強いが戦場まで行く能力はない。
494日本@名無史さん:2010/06/10(木) 15:55:34
>>2
ジグムント3世のポーランド=リトアニア共和国が対ロシア戦争を成功させ、
ポーランド=リトアニア=ロシア共和国を成立させていたら、
あの時代で既に日本と戦争になってたな
495日本@名無史さん
そんなもんヌルハチ様が退治してくれる