なぜ邪馬台国を大和と認めないの?3

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
いつまで幻想見てんの?w


前スレ
『なぜ邪馬台国を大和と認めないの?2』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1212934340/l50
2日本@名無史さん:2008/08/25(月) 03:14:28
3日本@名無史さん:2008/08/25(月) 03:40:25
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

http://sawyer.exblog.jp/tags/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA/

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
4日本@名無史さん:2008/08/25(月) 03:42:04
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf

淀江町角田遺跡
http://www6.ocn.ne.jp/~sako07/sumita.jpg
珍敷塚古墳
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50018910.html
隼人の盾
http://www.kazuart.com/nazo/kodaibunmei/hayato/kiji/hayato/index.html
5日本@名無史さん:2008/08/25(月) 04:50:52
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
6日本@名無史さん:2008/08/25(月) 06:47:26
7夏祭:2008/08/26(火) 14:30:32
>>1
本家畿内説スレ復活乙
「畿内説w」に取って代わろう。
8日本@名無史さん:2008/08/26(火) 18:20:41
9日本@名無史さん:2008/08/26(火) 19:25:25
邪馬台国の王家と大和朝廷の開祖とされる神武さんは親戚なのですよ。
卑弥呼と神武は同時代の人物で、従姉弟ぐらいの血縁です。

アマテラスは邪馬台国王家のお宝娘でしたが
西都にある強国を懐柔するために、嫁入りさせられました。
アマテラスが高千穂の峰を越えて西都王国にやってきて、
西都王国の跡継ぎを生んだのが天孫降臨神話です。
西都王国の王=神武はアマテラスの子孫です。

神武は邪馬台国連合の騒乱に嫌気がさして東征し、
畿内に九州を越える王国を築きます。これが大和朝廷です。

お分かりですね。
邪馬台国宗家の卑弥呼もアマテラスの血筋であり、
神武は当然にアマテラスの子孫。
10太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 19:42:24
卑弥呼は神武の時代ころの人物ではない。そうだとかなり古代の
各天皇の在位年数がスシ詰めに近く、無理が出るだろう。卑弥呼の
活躍したのは崇神の頃の時代だよ。
11夏祭:2008/08/27(水) 08:17:23
>>9
東遷と呼べるような出来事があっても、2世紀後半あたりだよ。
高地性集落の分布状況から見ればね。
12日本@名無史さん:2008/08/27(水) 12:32:44
>>11

どうして2世紀後半と言えるの?

庄内が4世紀なら高地性集落は3世紀だろ。
13:2008/08/27(水) 16:51:18
分家の神武が東征に際し宇佐に行ったのは、本家へ承認を得るため。

邪馬台国王家の本拠地は宇佐。
秦末期の混乱を避けるため、ある勢力が九州へ上陸。
海岸線は防衛上の心配があるのと、土着勢が既に大陸と交流があって
今ひとつ信用できなかったので険しい道程を経て宇佐を根拠地とした。
内陸国の秦出身者にとっては、海は国家成立の重要要素ではなかったのかもしれないし
なにより故郷の漢中に似た土地であった。

宇佐に
卑弥呼(邪馬台国王家直系)
神武を祖とする天皇家(邪馬台国王家の分家)
それぞれの痕跡が色濃くあるのは、こういう状況だからです。
さらに、宇佐の八幡神が大陸風の印象があるのもこういうことなのです。
14:2008/08/27(水) 16:56:03
倭人伝の使者が伝えた「邪馬台国」(の首都)は福岡県北部、おそらく太宰府あたり。
太宰府は後に政庁が置かれたことからも、九州統治の適所である。

3世紀の九州は、宇佐を本拠とする邪馬台国を盟主とした連合国家。
連合国家の首都機能は太宰府にあった。
徳川家の聖地が三河で幕府の首都機能が江戸であるのと同様である。
15:2008/08/27(水) 17:12:09
西都国の王であった神武は東征に際し宇佐の邪馬台国王家の承認を経て正統性を得る。
王家直系最後の人物卑弥呼の墓を、戦乱が続く首都周辺ではなく自らの本拠地西都に築く。
後に畿内へ入った神武は、ここに祭壇を築き(箸墓)卑弥呼の魂(王家の魂)を迎えることにより
自らの新王朝の正統性と、その霊力にあやかろうとする。
16:2008/08/27(水) 17:26:55
神武から数代後には、出雲や中部地方も支配下に置き、九州の連合国家を凌ぐ勢力となり
ここに大和朝廷が成立する。
大和朝廷は本家である連合国家に格別の配慮をし、大きな自治権を認めていた。
これを良いことに好き勝手に振舞い、独自に(まるで独立国であるかのように)大陸と交流を持つ王もいた。
こういう状況が「九州王朝?」と思わせる事象である。
ついには気概があり過ぎる磐井に対し黙認できなくなった大和朝廷が制圧に乗り出す。
また、大陸に強大な統一国家が成立したことで、防衛上の必要性からも九州を自治州ではなく直轄地とする必要があった。
以後、邪馬台国王家の末裔は宇佐で静かに先祖を祭ることとなる。

※卑弥呼の代以前から連合国家の支配者は、各王国の中から実力のある王が
邪馬台国本家から承認されることで、その地位に就いていた。
17日本@名無史さん:2008/08/28(木) 00:58:16
とりあえずここにも貼っておこうw


卑弥呼?それとも後継者? 大規模周濠の一部を初確認 奈良・箸墓古墳
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080827/acd0808271107006-n1.htm
卑弥呼の墓?奈良の箸墓古墳 前方部正面に幅60メートルの外濠
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080827STXKC086126082008.html
浮かぶ権力者の威光、被葬者論争にも一石 箸墓古墳周濠初確認
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080827/acd0808271115007-n1.htm
1817:2008/08/28(木) 01:09:49
・・・で、

確か石塚の周濠って前方部分の手前が極端に狭くて
板をわたしたら直ぐに前方部分に入っていけるんだっけ?

箸墓は周りと完全に隔絶された形をとっているのかな?

19日本@名無史さん:2008/08/28(木) 02:20:00
そもそも「上ツ道」はこの周濠を埋めたてて作ったんだろうか?
それとも既に消失していたのか?

例の安本センセイの鐙のお話
ただでさえ我国の国道一号とも言うべき上ツ道の傍らで
「ポイ捨て」の結果紛れ込んだんじゃねえのか?と思っていたのに
(まあ出土状況から”沈み込み”は無いと誰かがレスしていたが・・・)

益々アヤシイなwwww

20夏祭:2008/08/28(木) 09:54:21
畿内説と言えば畿内自立説しか知らない人間にはうんざりだ。
21日本@名無史さん:2008/08/29(金) 01:58:13
>>20
とは言うものの「クニ」単位での人口移動があったとも思えずw

纏向の発展に外部の要因が強く働いたとしても
その発生において主体は畿内の勢力だったんじゃねえの?

例えば卑弥呼の出自
和邇氏の出身と言う説も聞いた事があるが・・・
(そう言えばこの板のコテ、ローガンもそんな事言ってたっけな?)
22日本@名無史さん:2008/08/29(金) 02:57:03
古墳時代の天皇の配偶者で九州出身者は1人もいません。
これで東遷説が捏造であることが証明されます。
物証もないので日本民族大移動などありえない話しです。
23日本@名無史さん:2008/08/31(日) 00:21:59
鐙が箸墓の周濠、布留1の層から出てきたと言う話だが・・・

木製の鐙で自重により沈み込むことは無いらしいが
例えば5世紀以降に何処かのオッチョコチョイが馬ごと周濠に突っ込んで
周濠の底にズブズブと相当沈みこんだ状態で鐙を無くした・・・
なんて可能性は無いのか?w

どのみち鐙一個じゃあ話にならないと思うが・・・
他の馬具や馬自体の骨はどうした?って話で。

24日本@名無史さん:2008/08/31(日) 01:43:27
馬じゃなくて、鹿に乗ってたんじゃないの?
25日本@名無史さん:2008/08/31(日) 04:19:36
>なぜ邪馬台国を大和と認めないの?

まあなんだかんだ言って九州説は百年からの歴史がある。

邪馬台国論争の一方の雄どころか主役だった時代もあるわけでw
机上・理論上可能とあらば、そうおいそれとは捨て去るわけにもいかないだろうwww

だが九州説が昔日の勢いを取り戻す事が果たしてあるのかどうか?
たまに考えるよねw

もはや「親魏倭王」の金印が出るか
「奴婢百余人」の卑弥呼の墓が出るかぐらいの事でもなければ無理だろうw
26日本@名無史さん:2008/08/31(日) 09:25:06
>>9
シンプルな質問なんだが、あなたの意見だと「天子降臨」で良くないですか?
なんで「天孫降臨」なんですか?どの意見を聞いてもこれを説明できていない
と思います。
27のんびりひまじん:2008/08/31(日) 10:01:24
>>25
>なんだかんだ言って九州説は百年からの歴史がある。

⇒いいえ、千年の歴史だと思います。

平安時代、入宋した日本僧ちょう然は、日本の王年代記一巻を皇帝に提出した。その中には、
聖徳太子が法華経を求めた記事が、対中通交の最初となっている。
これを受けて新唐書には、隋の開皇の末(西暦600ころ)、
「初めて、日本は中国と通じた」と記載されている。

日本(=今われらが明仁陛下の天皇王朝)が、
三世紀に中国と通じたという主張(=邪馬台国近畿説)は千年前にはなかった。(上記記述、むしろ九州王朝説に矛盾しない。)
28日本@名無史さん:2008/08/31(日) 10:15:40
そんなこと言ったら、最初の九州説は記紀だろう。
見事に中国文献の邪馬台記事を漉かしてるのだから確信犯だ。
1300年前の元祖九州説だね。
29日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:15:15
記紀は、神功が(たぶん)卑弥呼だと書いてるだろ。
30日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:18:32
>>29
> 記紀は、神功が(たぶん)卑弥呼だと書いてるだろ。

書いてはいないよ。
31日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:34:29
記紀の中では卑弥呼は記録から抹殺されている。
32日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:50:59
>>30
だったら、九州の邪馬台国は神功皇后が討伐して滅ぼしたということでいいね?
33日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:07:48
>>32

> だったら、九州の邪馬台国は神功皇后が討伐して滅ぼしたということでいいね?

何でさ?
34日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:23:22
俺は九州の邪馬台国を神功皇后が滅ぼしたんだと思ってる。
ちなみに>>32ではないよ。
35日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:40:30
>>34
関 悠二さん 乙w 
36日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:46:18
>>35
誰、それ?w
37日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:29:54
最終的には九州勢力が畿内勢力に屈したのは違いないが、
その時期が5C〜8C初めの何時かが謎、
8C初めではないかとの説がだんだん勢いを増している。
38日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:38:13
透視した結果、卑弥呼は中国南部〜ベトナム〜琉球〜北部九州〜山口と流浪してきた部族の出身で山口生まれ、部族代表たちに担がれて
奈良に居住して邪馬台国となった、とFBI捜査官は申しております。
39日本@名無史さん:2008/08/31(日) 18:27:46
FBIもいいかげんだな。
40夏祭:2008/08/31(日) 22:58:02
>>37
>勢いを増している
教団内での熱狂が激しくなってきただけのことだろう。
41日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:16:35
>>40
インターネットの影響か最近、九州王朝説を知っている人が増えている。
42日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:36:50
ネットも「邪馬台国九州説」や「九州王朝説」にとっても諸刃の剣かな?

ちょっと検索すればアカデミズムの場では畿内説が優勢になっているのが分かるわけだし

「九州王朝説」の場合、連中がネタとして使っている記紀の矛盾や不可思議な点について
何も「九州王朝」なんてトンデモを持ってこなくても、もっとまともな合理的な仮説がいくらでも拾えるwww

まあ邪馬台国論争自体が下火と言うか昔のように盛り上げる事は無いんだろうがwwwww
43日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:06:43
九州王朝説は寄生虫のような存在である

その支持者のすることのできることといえば、
畿内説や日本書紀や古事記の記述の矛盾点を突いて喜ぶことぐらいであり、
かなしいかな畿内説に依存する存在である

自分自身では何もできず、ただただ畿内説の矛盾を栄養源にして増殖するだけ

「九州説」なるものは実在しない
「アンチ畿内説」が存在するだけである

 ↓ ↓ ↓

そ れ を 言 っ た ら お し ま い で し ょ − が !

44日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:09:22
>>42
>もっとまともな合理的な仮説がいくらでも拾えるwww
合理的な仮説とはどんなものを考えておられますか?
45日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:21:42
>>44
例えば記紀に蘇我氏の専横が書いてあれば九州王朝説の連中にかかれば
「それは蘇我氏が畿内の天皇より上位のものから地位を約束されたから」
となるがw

普通に考えれば藤原氏の意が繁栄されていたと考えるのがマトモだし

今日、甘樫丘の発掘調査により蘇我氏はむしろ外敵から天皇を守ろうとしていたと言う事も言われている。
(飛鳥の地形や宮や城の位置が百済の扶余を真似たとも)

要するに九州王朝説なんてトンデモのお世話になる必要は無いって話でwwwww
46日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:24:48
>>44が哀れに思う

この人もまた九州信仰にやられてしまったのでしょーかwww

47日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:36:00
>>13
想像力が豊か過ぎるようですね

海岸線をいやがったのは、いまいち在地勢力が信用ならなかったのですか
あなたは九州王に聞き取り調査でもしたのですか?
48日本@名無史さん:2008/09/01(月) 01:38:08
故郷の漢中 → 関中 でしょーがwww

来た人がイスイ盆地出身者であることや、そいつらが故郷とおなじような景観を好んだ趣味や
宇佐がイスイ盆地とにていることなどなど、すべてお前のイマジネーションだローが (怒)

49日本@名無史さん:2008/09/01(月) 09:56:08
九州が出自と言うことがそんなにいやなら、記紀に筑紫の日向に降臨したなんて書かなければいいのにな。
少なくとも、書いた当時はあまりにも自明で、嘘を書けなかったか、九州出身であることが隠すべきことではないか
またはむしろ誇るべきことだったんだろうと思う。

筑紫の日向が宮崎なのか福岡なのかは言及しないとしても、神功皇后でも結局九州に関わっているから
あのあたりに何かのルーツがありそうなことは容易に想像してしまう。記紀がねつ造しているとしても
ごまかし切れていないところが微妙。もうちょっとやりようはありそうな物だが。
50日本@名無史さん:2008/09/01(月) 14:22:46
卑彌呼の読みが安定しないなら、ヴィヴィオにしようよ。
51日本@名無史さん:2008/09/01(月) 14:43:11
>>なぜ邪馬台国を大和と認めないの?

文武天皇が即位のとき、持統天皇に言わされて
「俺様は今日から九州王朝と畿内王権を引き継ぎました」
と宣言してしまった。

邪馬台国は九州王朝の前身、畿内王権は銅鐸国の後身で、
全く別な国。その両方を引き継いだと文武が宣言しても、
邪馬台国が大和にあったわけじゃない。
52日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:23:12
九州王朝なんて存在しないのだから引継ぎようもないが。
53日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:09:02
54日本@名無史さん:2008/09/02(火) 08:45:16
九州王朝説は寄生虫のような存在である

その支持者のすることのできることといえば、
畿内説や日本書紀や古事記の記述の矛盾点を突くぐらいであり、
かなしいかな畿内説に依存する存在である

自分自身では何もできず、ただただ畿内説の矛盾を栄養源にして増殖するだけ

「九州説」なるものは実在しない
「アンチ畿内説」が存在するだけである

 ↓ ↓ ↓

そ れ を 言 っ た ら お し ま い で し ょ − が !
55夏祭:2008/09/02(火) 22:48:35
>>54
それを言ったら御仕舞よ、桜ちゃーん、てか。
連中は未だに畿内説=右翼だと信じ込んでいるが、
安心しろ、それは確実に邪馬台国東遷説に引き継がれた。
ほらほら、畿内説と戦う前に、まずは東遷説と戦って九州説の主流とならなくちゃあ?
自分の領域ですら雑魚なのに、異種格闘技戦は無理だよねえ?
56日本@名無史さん:2008/09/03(水) 18:45:07
また漢籍が読めない、夏祭か。
57のんびりひまじん:2008/09/03(水) 21:02:00
日本の上古代史は、事実があいまいで諸説ある。中心権力所在としては、1世紀:北部九州、8世紀:平城京ということは、まず一致する。詳細説として
・ヤマト自生説:九州権力の移動なく、関西に起こった勢力が、そのまま周囲を征服し支配地を広げたというもの。
(津田左右吉博士がこのヤマト自生説だが、3世紀にいついては、九州ヤマト(山門)と近畿ヤマト(大和)対立としての九州説であった。)
・九州権力が東遷したとする諸説が存在する
少し区分すると;
1世紀:北部九州は弥生の首都圏・・・金印だけじゃなくて、絹・鉄・鏡・玉・青銅器の分布を見るべし
3世紀:邪馬台国は温暖、南、短里、棺桶あるも墓室ない墓・・・と文献にあるのをどう言い抜けるものか、このときすでに関西に中央権力=邪馬台国があったと言う学者が今も存在する。
          とくに奴国が東遷したのち、邪馬台国となったとする説があった。(原田大六氏も、その師中山貞次郎さんを受け継いでいた。)
5世紀:倭の五王・・・大古墳が関西に多い時期なので大勢としてこの時期には中央権力が東遷したという学者は相当にいた。
7世紀:都城の始まり・・・この時期に中央権力が東(=関西)へ移動したというのが、実は九州王朝説である。
ここで、都城についての九州王朝説を概説する。
@倭京=太宰府(の第1期):九州年号倭京年間(618〜622)建設
A難波京:九州年号白雉元年(652)首都・倭京の副都として完成・・・九州官人の半数くらいが移住してきた→朱鳥元年(686)焼失
B藤原京:持統8(694、九州年号朱鳥9)年 完成遷都→翌年は九州年号が改元され、九州年号の大化元年だが主導権は藤原京勢力に傾斜していたと見る。
C平城京:和銅3(710、九州年号大長7)年 完成遷都→2年後九州年号は終わる=九州王朝の滅亡
都城(京)というのは、天皇の宮殿・官庁街・公務員住宅という施設群であり、人口は最低数万規模を言うべきである。

(今回は情報提供にとどめる。相手の論点を知らずにハンターイとしか言えないのではみっともない。また進歩もしない。)
58日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:33:10
「情報」?
59夏祭:2008/09/03(水) 22:12:33
>>56
生憎ながら、俺には君等のような奇妙な読み方は出来ないんでね。

九州王朝論者の奇妙な論理
・小林行雄説(畿内自立論・伝世鏡論)
・原田大六説(伊都東遷論・反伝世鏡論・方角のズレは太陽の運行)

この前提で、奥野正男はこんな感じの事を言った。

畿内説では、邪馬台国即ち大和朝廷は最初から畿内で発生したとされる。
しかし、これは考古学的に無理がある。
また、畿内説では鏡は長期間伝世されていたとされる。
しかし、これも考古学上覆されている。
そして、原田大六は方角のズレの原因を太陽の運行に求めるが、
魏の使者が夏に来たとは限らない。
よって、畿内説は嘘である。
60夏祭:2008/09/03(水) 22:18:19
>この前提で、奥野正男はこんな感じの事を言った
これは表現が不正確だった。
「このような説が出ている中で、奥野正男はこんな感じの事を言った」
この方が正確だ。

>>59の論理のどこがおかしいか?
まず、奥野正男は、小林説こそ畿内説のスタンダードとしている。
従って小林説を論破できれば畿内説を論破できるという風に読者を騙したい。
しかし、それには小林説の根幹を成す畿内自立と伝世鏡、両方を間違っているとする原田説の存在がじゃまである。
そこで、原田説を方角のズレの説明の所で槍玉に挙げておき、
間違っているとして、彼の伊都東遷・伝世鏡批判は闇へ葬り去ったのだ。
こうして、畿内説には小林行雄に異論を唱えるものはいないかのように見せかけ、
まんまと虚偽の畿内説嘘証明を行ったのだ。
61日本@名無史さん:2008/09/03(水) 22:50:09
>>58

> 「情報」?
フフ違うよ。空想
62のんびりひまじん:2008/09/03(水) 23:42:44
>>57補足(情報つまり根拠事実提供の次に議論を起こそう)

『なぜ邪馬台国を大和と認めないの?』 の現在の解答の一つである。

7世紀に都城の東遷(太宰府→難波京)をやや長々述べた。

その他の解答
・仏教の日本列島内での東伝(兵庫→飛鳥):元興寺縁起によると、敏達13(584)年蘇我馬子が針間国から僧尼を得た。
(これを日本書紀では「仏法の初め、これよりおこれり」とする。飛鳥は播磨より仏教後進地域だった。)
・初期古墳の器台なんとかいう埴輪は、吉備地方から、伝わった。すなわち、埴輪の東伝(吉備→箸墓)。
・布目順郎さんの「絹の古代史」によると、弥生時代に北部九州限定だった絹の遺物は、古墳時代に東進してゆくとある。

再度言う。
>都城(京)というのは、天皇の宮殿・官庁街・公務員住宅という施設群であり、人口は最低数万規模と。

まとめ
⇒いろいろの東進・東伝現象が見える中で、最後に、首都が遷(うつ)ってきた。
63日本@名無史さん:2008/09/04(木) 00:21:28
京の作り方だけな
64日本@名無史さん:2008/09/04(木) 00:22:49
九州の東遷があったとしても、
カメ棺墓が奈良に無い以上、邪馬台国以前の東遷はありえない。

九州の東遷があったとしても、
九州が衰退してるので、邪馬台国以後の東遷はありえない。

=九州から畿内への東遷はありえない。

65日本@名無史さん:2008/09/04(木) 00:50:25
もうね、九州王朝説なんて トンデモ+過去の遺物 で・・・

7・8世紀どころか弥生末期の九州の衰退の中で邪馬台国が九州にあり得たかどうか?
・・・を議論している今日で
「お前は一体何を言ってるんだ?」
の世界ですよwwwwww

そもそも古代の九州の繁栄の源は言わずもがな
半島に近く大陸半島の文物の入手に有利と言う事で
九州で銅や鉄を産した訳でもなく、その入手ルートを奪われてしまえば地理的なアドバンテージも無くす。

瀬戸内ルートは関門海峡を封鎖すりゃどうにかできようが
日本海ルートはどうしようもない。

66日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:02:08
九州が大陸半島の文物の入手に有利だったというだけで、
九州の一地域だけで、どういう経済力があって入手できたのか議論がされてないのが残念。

大陸半島の文物をタダでもらえたとでも思ってるのか?
力ずくで奪い取ったとでも思ってるのか?

魏志倭人伝でも、鉄を貨幣のように使うとかいてあるように、
鉄と倭国の産出品を交換して、鉄を手に入れていた。
では、鉄と交換できる倭国の産出品とはなんだ?
半島から、鉄と交換出来そうな倭国で作られた物産が出てくるのか?
それは九州で産出されたものなのか?

67日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:24:10
>>66
>大陸半島の文物をタダでもらえたとでも思ってるのか?

つ生口
68日本@名無史さん:2008/09/04(木) 07:06:29
69日本@名無史さん:2008/09/04(木) 07:35:42
>>62

「根拠」?
「事実」?

まずは、日本語の勉強からだね。
他人に通用するような用語用法を学習して来て下さい。
それからでないと議論のしようがない。
70日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:53:52
>九州が衰退してるので

7世紀末以前に、九州全体が衰退したということはないでしょ。
機能が終了して、ある遺跡が衰退したということは、
九州だけでなく畿内にも無数にあるが、これと勘違いしてない?
71日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:56:23
夏祭は、「奥野の脇を突けば、九州王朝説が崩壊する」
と信じちゃってるのが、笑えます。
72日本@名無史さん:2008/09/04(木) 14:12:06
九州と近畿のどちらに勢いがあったか、などというのはしょせん根拠の乏しい推測。
倭人伝をどう読むのか、そこを飛ばして近畿だとか九州だといっても話にならない
と思うね。
73日本@名無史さん:2008/09/04(木) 14:18:04
絹・三種の神器・鉄・青銅器の出土量と分布で、北部九州しかありえません。
74夏祭:2008/09/04(木) 17:43:09
>>71
九州王朝説への批判と九州説の一論者のペテンの暴露をごっちゃにするんじゃないよ?

しかしあれだな、九州王朝説と九州説は、創価学会と日蓮正宗のような関係だな。
75日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:05:40
タカミムスビは九州の神だと言ってた人がいたけど、
調べてみてもタカミムスビを祖神としてる氏族っていないんだよね。

ということは、タカミムスビは古い神じゃなくて、7世紀頃に創作された神とも言えるかも?
76日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:18:17
>>75
タカミムスビに限らず、氏神以外の神は、全て記紀編纂以降に創られた神。
77日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:22:27
>>73を、ちゃっかり無視する夏祭w
78日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:59:19
夏祭はペテン師です。
79日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:21:38
神武東征も、創られた話だろうね。

神武と一緒に東征してきたとされる中臣の本拠地は茨城県だし。
80日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:16:33
露骨な脚色があるのは当然だが、ゼロからの創作にしては、うすみっともない敗戦ぶり。
兄が戦死して壊走し、夜盗よろしく熊野の山道を必死に登るブザマな神武部隊。
すでに親類縁者には広く知られていた「初代の苦労話」だっただろう。
81夏祭:2008/09/04(木) 22:15:26
>>77
>>73はいつもの事さ。
誰かが「輸入した」と言う可能性を考えると、全面的に潰しにかかる。
>>80
大体、全くの創作なら大和に天孫降臨すれば良いわけだし。
神武東征神話を、九州勢力の畿内への進出とか、九州勢力の一派の進出とか考えるのは
無理な話ではない。
82日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:46:33
邪馬台国を特徴づける出土物が、北部九州に偏在しているのは、
夏祭が誤りである証拠。

邪馬台国を特徴づける温暖な風土が、畿内大和には存在せず、
九州にはふさわしいのは、
夏祭が誤りでである証拠。
83日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:48:02
>>80
血統争いもあるから、きっちりしとかないといけないしね。
神武東征からして同族との戦いだから特に。
84日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:52:17
>>82

来るな。バカ。サイキバ。
85日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:57:51
>>81
>大体、全くの創作なら大和に天孫降臨すれば良いわけだし。

大和に天孫降臨したら、さすがにウソがばれるだろ。
ウソがばれないところ=交流の無いところとして九州に降臨したんだよ。
86日本@名無史さん:2008/09/05(金) 00:39:18
天孫降臨伝承は、本家九州王朝の関係者が大勢知っているから、
露骨なウソはつけないが、神武はこのとき降臨したニニギの傍系
にすぎないのに、記紀のなかでまるで直系であるような、
誤解させる書き方になっている。

本当は、九州王朝下に直系がいたはず。
87日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:12:05
>>86
>本当は、九州王朝下に直系がいたはず。

隼人のことか?

それ以外には考えられんが。
88日本@名無史さん:2008/09/05(金) 04:01:35
北部九州に天族がいたでしょ。これが九州王朝の中心。
西部の熊襲も協力して九州王朝を支えていたはず。
南部の隼人は九州王朝にどちらかといえば不服従の傾向。
89日本@名無史さん:2008/09/05(金) 05:59:19
記紀は南九州を熊襲の地としながら、その地、日向から天皇の后妃を選んだように書いている。
例えば、景行は日向のミハカシ姫、仁徳は髪長姫。地方では、ほかに、日向ほど后妃を出したところはない。
日向を特別に描く理由を考えると、実は熊襲とは、邪馬台国をわざとけなしたのではという見方ができる。
そこで、問題になるのが倭建命の物語。倭建命は熊襲の兄弟を倒した。
兄を倒して倭建命が名乗ったのは倭男具那王、弟を倒してもらった名前は倭建命。
倭男具那王は倭の男王・狗奴国王、倭建命は邪馬台の王。
これは、兄弟を倒して倭建命が狗奴国王と邪馬台国王の地位を得たと解釈できる。
となれば、熊襲=狗奴・曾(これが邪馬台国)をもじったものであることは明白。
もともと、天孫降臨が曾の高千穂だったことも理解できる。
要するに、記紀は南九州に狗奴国や邪馬台国があったことを描いている。
ここに気づかなければ、本当の倭国王朝は理解できない。
90日本@名無史さん:2008/09/05(金) 06:07:22
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。
91日本@名無史さん:2008/09/05(金) 06:27:28
>日向ほど后妃を出したところはない

吉備を忘れてませんか?
92日本@名無史さん:2008/09/05(金) 07:01:54
>>90
>日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識できていなかった
>ことは事実である。これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、・・・
それよりも、倭国までの行程と倭国王が男性だったということが問題です。
行程は、九州に上陸して海岸に至る、後十日で都に到達したとあります。九州から十日
では大和は無理。それに記紀によれば、当時の天皇は推古女帝、男王ではありません。
裴清らは大和ではないところにある倭国王朝を訪ねたと読むべきです。
日本書紀の記事は、608年の4月から8月までを空白としています。長すぎるでしょう?
この間に、裴清は倭国王朝に行っていた、帰りに大和にも寄ったという趣旨なのですよ。
93日本@名無史さん:2008/09/05(金) 07:28:17
>>91
吉備出身の后妃って誰です?
吉備津彦の娘とか言っても、吉備津彦は都にいたかも知れないのですからね。
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/05(金) 07:48:46
600年代では卑弥呼の邪馬壹国は遠い彼方の時代であって、日本国内
でも卑弥呼の国の状況は不明確になっており、当時日本人でさえ
ヤマトの国名で埋めつくされていたろうことから彼らでさえ正論が
できない誤認があったから、これを信じて断定した裴世清の言い分
はその誤認の解説であってアテにはならず、棄却すべきである。
95日本@名無史さん:2008/09/05(金) 09:22:51
>>93
黒比売、兄媛、稚媛
入れてもいいのなら稲日大郎姫、伊那毘若郎女
あと倭建命の妃に吉備穴戸武媛
96日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:13:17
すっと前から言っているのだが

古代日本は、祭祀王(宗教的権威)と世俗王(政治的権力)に分かれていたんだろう?
だからこそ、一部、記紀の記述に大混乱が生じている。

記紀というのは、基本的に、こういう
祭祀王と世俗王の二頭体制というのを否定して
中国型の皇帝制度を導入しようとしたわけだから
皇帝らしきものが二人いるなんて問題なんだろう?

魏書でも、卑弥呼が鬼道をやって、
それを実際の政治を行っていた男弟がいたとある。

で、天武天皇が隠したかったのも、こういう二頭体制で
神武皇統というのは、高い確率で世俗王だったんだけど、
おそらく、祭祀王の流れを受け継ぐ家系というのが別に存在し、
その一族のことを古事記で記述を弱めた。

(しかも、こういう、宗教権威と政治権力の2頭体制の場合、普通は
宗教権威のほうが、政治権力よりも、形式的には地位が上というのは洋の東西の共通。
欧州では、ローマ教皇>皇帝 だし、中世日本では、天皇>征夷大将軍 だった。)

だから、後世の歴史家が大混乱している。
97日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:18:52
そして、その宗教権威の家系というのが

天照国照彦(天津と国津の両方の勢力者)を名乗った火明命の嫡流である
熱田神宮の尾張氏。

火明命は、古事記では、ニニギ命(神武皇統の祖)の兄とされており、
彼の妻は、出雲の大国主命の娘である。
98日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:46:43
>>97
>彼の妻は、出雲の大国主命の娘である。

もし、ニギハヤヒを大物主と思ってるなら大間違いだぞ。
ニギハヤヒの妻はナガスネヒコの妹だと日本書紀に書いてある。


99日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:50:36
>>95
古事記の系譜をみるとK比売は后妃に列せられていないのかな。
イナビ姉妹は針間とあるし、吉備穴戸武媛は天皇の后妃ではない。
大和との距離も考えれば、やはり日向は異常に多い、何かあると感じませんか?
100日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:51:03
>>97
>そして、その宗教権威の家系というのが
>熱田神宮の尾張氏。

これはある意味正しい。
神武が大和に入る前には、奈良盆地は尾張氏の土地だった。

神武軍は、葛城の高尾張の部族を倒したし、ニギハヤヒは尾張氏の祖だからな。
奈良は東海系土器がよく出土する。

101日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:55:00
102日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:56:31
>>99

ちなみに、神武は日向にいるとき、アヒルヒメを妻にしているが、
大和で初代天皇に即位してからは、ヒメタタライスズヒメを娶った。
神武が死んだ後に、アヒルヒメの子のタギシミミが皇位を狙ったが、
ヒメタタライスズヒメの子のカムヌナカハミミが殺して天皇になった・

それ以来、大和と九州とは断絶している。
103日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:04:57
>>98
ニギハヤヒと火明命が同一人物かどうかは分からない。
物部氏がそう主張しているだけであって
皇室や尾張氏がそう主張しているわけではない。

また、物部氏・旧事本紀は、ニギハヤヒには二人の妻がいて
正妻のほうは、出雲大国主命の娘だったとある。

このことは、国宝・海部氏系図でも記載されている。
また、大国主命から娘婿の火明命に領土が譲渡されたのは
播磨国風土記にもその記載がある。つまり、出雲国譲りだ。
よう見てみろ。

そんなわけで、仮に火明命=ニギハヤヒだったとしても、
その正当な子孫は、尾張氏であって、物部氏ではないことになる。

天武天皇は、草薙の剣の保持について、熱田神宮の尾張氏と
大喧嘩している。
104日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:11:26
高天原について、延喜式では葛城のこととしており、
江戸時時代初期までは、そのように思われていた。
京都朝廷がそのような認識だったのである。

つまり、ニニギ命は、高天原(葛城)から高千穂(九州南部)に派遣されたのである。
そして、それを命令したのは、天照大神とされているが、
実は、ニニギ命の兄(弟という説もある)である
天照国照彦・火明命だったと思われる。

しかし、江戸時代になると、本居宣長や徳川光圀などが
日本の歴史について論争をはじめ
そこで、いつのまにか、高天原の所在地が大混乱する。

しかしながら、明治天皇が東京へ行く前に、わざわざ
葛城にある高天彦神社にそのことを報告していることからも
その時代までは、高天原=葛城という認識が京都朝廷にあったもよう。
105日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:03:22
高天原は壱岐北部。
106日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:37:39
>>104
>そして、それを命令したのは、天照大神とされているが、

いや、命令したのはタカミムスビですよ。
もちろん、葛城のタカミムスビのことだけども。
107日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:11:03
>>94
>卑弥呼の邪馬壹国は遠い彼方の時代・・・裴世清の言い分は誤認の解説であってアテに
>はならず、棄却すべきである。
倭人伝には、北九州から南へ少なくとも水行十日陸行一月は行ったように書いてあります。
裴世清はその倭人伝を読んでいた、にもかかわらず、何も訂正することなく、自ら訪問し
た倭国の都を「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」と書いたのですよ。
訪問先が近畿大和ならば、北九州から東へ何日とか、当然、訂正を書いたはずでしょう?
訂正しなかったということは、裴世清が訪ねた先もやはり南だったということです。
棄却すべきなどとすましていてはいけませんな。



108日本@名無史さん:2008/09/06(土) 07:19:55
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。
109太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 07:35:31
>>107
近畿大和に行ってないならなおさら調査不十分であり、イヨイヨもってアテには
ならない。推古の世を越えて九州までヤマトの国の呼び方に変わっていたことは
充分言えるわけで、九州での卑弥呼女王国時代が裴世清のいう呼び方だったと
いうことにはならず、当人もその時の九州人も分からなかったということだね。

要するに彼の時代では大した調査をやってもヤマトの名が浸透していて女王国名
は消えていたということなのだ。それを九州人も知らずヤマトだと思っていて
それを彼が飲んだから、彼の断定となったもの。裴世清の断定は完全な誤認で
あり、現今の畿内説の元祖のようなもので、棄却するのが正解。
110夏祭:2008/09/06(土) 08:42:54
…畿内説が間違っていたとしても、
それと九州王朝説の合否は一切別の話なんだけどね。
まず、九州王朝説自身が九州説の主流になる努力をせい。
111日本@名無史さん:2008/09/06(土) 09:14:32
>>110
主流になる様に努力?
政治じゃあるまいし。
偏見を持たず、客観的に検証するだけで良い。
112日本@名無史さん:2008/09/06(土) 10:12:47
>>109
>近畿大和に行ってないならなおさら調査不十分であり、イヨイヨもってアテにはならない。
何を勘違いしているのですか?裴清は倭国の都へ行ったのです。そこが、近畿大和ではなかった
というにすぎません。倭国の都でもない近畿大和へ行かなかったからといって、調査不十分はな
いでしょう。倭国の都へ行っているのですから、都についてのその報告は信用できるのですよ。
113日本@名無史さん:2008/09/06(土) 10:44:48
>>112

じゃあ 裴清は どこに 行ったと解したら よいのでしょうか?
114日本@名無史さん:2008/09/06(土) 10:51:59
>>108 >>113

小野妹子は九州地区に足跡はありますか?
墓は大阪府南河内郡太子町にありますが・・
ちなみに、聖徳太子の御陵から東2kmに位置しています。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 11:15:32
>>112
紀の原書群に女王国のことが載ってないんだよ。そうだろうが、畿内に卑弥呼の
国がなかったからさ。当時九州は畿内から別国だったから情報が届かず、殆ど
記載できなかったということだ。だから彼が畿内へ行ったって600年代に朝廷の
連中から女王国の国名なんぞ明答は得られっこない。だから彼の言い分は不十分
の調査からのもの、却下するのが相当だ。
116日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:16:50
>>107-109
>>112-114

>裴世清はその倭人伝を読んでいた、にもかかわらず、何も訂正することなく、自ら訪問し
>た倭国の都を「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」と書いたのですよ。

そう書いたのは裴世清じゃねーだろうが。
誰も突っ込まないのかよw
117日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:52:47
>>114
小野妹子は隋の国書を紛失したことになっている。
普通ならば厳重に処罰されるはずが、お咎めなしだった。
これは実際には、畿内王権から遣隋使など派遣していない証拠。
118日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:08:21
紛失については、「日出ずるところの天子〜」の挑発に対して、
それ相応の返書となったため、見せられなかったという憶測には
それなりの説得力がある。罰せられていれば別だけど。

119日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:23:02
>>118
こちら側から相手を侮辱したのは百も承知なんだから、隋煬帝の激しい内容は
承知の上だったのであって、「見せられない」とい説得力は全くないです。
120日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:54:14
「全くない」なんて極論は馬鹿げてるね。
121日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:11:06
>>120
自分で認めてるでしょ。>>「日出ずるところの天子〜」の挑発って。
122日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:17:42
>>113
裴清が訪ねたのは九州にあった倭国王朝。日向にあったと考えられます。
@ 隋書は、倭人伝の記事をまったく訂正していない。
 倭人でを素直に読めば、邪馬台国は北九州から南へかなり行った所。
A 隋書が書く行程によれば、北九州に上陸して東に陸行、海岸に至るとある。
 したがって、その海岸とは中津か大分あたりと考えられる。
 そこから、更に十日(後十日とある)。これは当然水行と考えられる。
 南へ水行十日ならば、目的地は日向と考えるのがもっとも自然である。
 
123夏祭:2008/09/06(土) 22:21:00
>>111
だから、客観的な検証に耐えうるような説になる努力をせいと。
客観的な検証の結果、畿内説や一般的な九州説からも批判されている状況を打破できない限り、
古田説を真実とすることは出来ないよ。
最も、「批判する人間は全て皇国史観の輩、真実は我々にあり」と信仰を捨てずに、
現実を見ようとしないのならどうぞご勝手に。
124日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:23:07
だから、夏祭は隋書イ妥国伝を読んだことがないだけなんだよ。
125日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:25:08
>>116
もちろん、隋書の編者は魏徴ですが、「夷人里数を知らず〜即ち魏志に云うところ
の邪馬臺なり」は、倭国を訪ねた人でなければ書けることではありません。
したがって、この記事は、裴清らの報告書がもとになっていると考えるべきです。
126日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:36:19
>>123
倭人伝の行程記事はどう読むのか、畿内説が信仰を捨てて現実を見た場合に
どう読むのかを聞かせて欲しいな。
127日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:46:44
倭人伝の行程記事をきちんと読めば、沖縄に行くはずだが?
128 サガミハラハラ:2008/09/06(土) 22:48:33
いやそんなことはない。きちんと読めば(棒読みでなく)佐賀県小城市甘木に
到着します。
129太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 22:54:56
沖縄〜?www
単純計算からのお粗末論理。黒部峡谷の奥には専門家でも200m行く
のに5日もかかるところがあるという。九州内奥は黒部のそこほど
でもないだろうが、そんなのの準々くらいの所でもありゃぁ、沖縄
なんかには行きっこない。途中台風でも来りゃぁ、留まってなけ
ればなるまいて。w 陸行一月で沖縄なぞ考え外でよい。
130日本@名無史さん:2008/09/06(土) 22:55:33
「悲しき金印」監督・和泉聖治
大和考古学研究所副所長石本浩伸(六角聖治)は、奈良県纏向遺跡の発掘調査中に大変なものを発見した。
それは、なんとあの卑弥呼が魏から貰った「親魏倭王印」であった。これが本物ならば、不毛なる邪馬台国論争に決着を付けることになる。
同研究所は、一週間後に金印の公開鑑定を研究所付属博物館で行うことを発表した。
発見者・石本はマスコミに大きく取り上げられ、一躍時の人となった。
そして、公開鑑定当日。運命の瞬間。ところが、鑑定結果は「最近作られた贋作」であった。
「発見者」石本は一気に「捏造者」石本とされ、あちこちのマスコミからパッシングを受けた。
そして、邪馬台国九州説陣営主導により、反石本・反畿内説運動が展開された。
その主導者は、独自の文献学的手法を駆使した研究により、一躍九州説の顔となった文学博士、安田実(高嶋政信)。
独自の仮説を打ち立て、一部からカルト的人気を誇る神話学者・古市岳夫(伊東史朗)。
そして、古くからの大和考古学研究所員で、石本とも親しかった森高一郎(河原さぶ)。
己の無実を証明するため、本物の金印を探し出すため、石本は立ち上がる。
一方で、九州説陣営にも、石本捏造説を疑う人間がいた。
それは、唯物史観歴史学者、都丸清太(岸部一徳)であった。
石本と都丸は出会い、そして真相を追究してゆく。

こんな映画が見てみたい。
131ローガン:2008/09/06(土) 23:02:07
>>124

> だから、夏祭は隋書イ妥国伝を読んだことがないだけなんだよ。

ははは。 あの人は読んでますよ。書き込みよめば、判るでしょう?
もっとも貴方がよんでないなら、わからなくても、仕方無いですが。
132夏祭:2008/09/06(土) 23:03:34
>>126
畿内説と言ったって、最終的に畿内へ着くまでの道筋には色々な説がある。
具体的にどの説の言い分を聞いてみたい?
>>127
確かに、何もかも本気にしてたら少なくとも沖縄までは行きそうだ。
>>128
あんたの説に一番近いのは藤原偉作の筑紫平野説あたりかな。
「邪馬台国は沈まず」があったら一応読んどくよ。
>>129
まあ確かに、沖縄なら一月も陸行の仕様が無い。
133日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:04:28
そうね。ちゃんと理解できないだけでしょう。
134日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:04:38
>>131
いえ、あなたも隋書イ妥国伝を読んだことはないでしょう。
たとえ眺めたことはあってもね。
135ローガン:2008/09/06(土) 23:07:57
>>129

> 沖縄〜?www

太国さん、暫くです。では太国さんは万二千余里ってある数字をどうお考えでしょう?
136日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:13:17
>>132
126ではないが、
コロコロと意見を変えなければ、お好きな説でどうぞ!
ご自身は日本海経由にしたそうなのは見え見えだけど

>>127
>確かに、何もかも本気にしてたら少なくとも沖縄までは行きそうだ。
1里何kmで計算してその結論に? どうせ適当でしょ?
137日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:14:48
>>132
>畿内説と言ったって、最終的に畿内へ着くまでの道筋には色々な説がある。
>具体的にどの説の言い分を聞いてみたい?
ご自分の説はもっていないのですか? やっぱりね。
138日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:16:16
里程論も大事だが、邪馬壱(台)国は温暖な地域なのだから、
記述されている風土に合わない土地は、間違いだと知るべきである。
139太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 23:17:41
そこはそれがしの研究個所ではないよ。それがどうしたのかい?
それはいいとして、女王国は畿内では推古の世からだよ。女王で
ないのを女王にゴリ押しするのは、女子ソフトの準決勝だったか、
延長戦での日本の3塁を狙う2塁からの無理な足離れのしすぎで、
封殺された失敗論理の如き。
記紀を見てごらん。伝の少しの借り物以外卑弥呼の卑に字もない。
紀無い説は貴方の強力な願望から出たひいき目的の説であり、全然
成立は無理な算段。〜こういうところをしっかり考えるんだよ。
体は大丈夫かな? えらい目にあったな。また話し合おう。zzz・・・
140日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:18:57
>>137に同意。
夏祭氏は邪馬台国東遷畿内説だそうですが、その論拠の聞いたことなし。
141ローガン:2008/09/06(土) 23:28:31
>>139

> そこはそれがしの研究個所ではないよ。それがどうしたのかい?

ほら又逃げる!


> 記紀を見てごらん。伝の少しの借り物以外卑弥呼の卑に字もない。

前にTHEで書いたやん。反論しなかったくせに…

> 紀無い説は貴方の強力な願望から出たひいき目的の説であり、全然
> 成立は無理な算段。〜こういうところをしっかり考えるんだよ。

いつもながらの上から目線、乙。

> 体は大丈夫かな? えらい目にあったな。また話し合おう。zzz・・・

ご心配いただき痛み入ります。
142日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:36:03
>>130
>大和考古学研究所副所長石本浩伸
>独自の文献学的手法を駆使した研究により、一躍九州説の顔となった文学博士、安田実(高嶋政信)。
>独自の仮説を打ち立て、一部からカルト的人気を誇る神話学者・古市岳夫(伊東史朗)。
>古くからの大和考古学研究所員で、石本とも親しかった森高一郎(河原さぶ)。

・・・元ネタの人達と一字しかマッチしてねえよな?!wwwww

でも

>唯物史観歴史学者、都丸清太(岸部一徳)

・・・って元ネタ誰?w



143日本@名無史さん:2008/09/07(日) 06:41:48

>>138
いつものことだが、倭人条のどこに 邪馬台国が温暖と書かれている?

これなら書かれてるけど・・ 「倭地温暖冬夏食生菜皆」
144日本@名無史さん:2008/09/07(日) 07:50:37
>>143
確かに「倭地温暖」ですが、邪馬台国はその温暖の地ではないとでも?
倭地といっても、対馬や末盧国は温暖の地というわけではないと思いますよ。
邪馬台国こそが温暖の地と考えるべきでしょう。
145カ州王朝説:2008/09/07(日) 08:28:26

私は古代史は多元的に見ることができるんです。

  あなたとは違うんです。。
146日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:29:25

>>144
倭人条を書いているのは彼の地の方ですよ・・
あくまで、洛陽の都や、帯方郡と比べてのことでしょう?

147日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:56:42
>>146
洛陽の都や、帯方郡と比べてとはどこにも書いてありません。
稚内に住む人が札幌の状況を書いても、「札幌は温暖、冬夏生菜を食す」
と書くことはないと思いますが。
148日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:06:16

>>147
比べて書いたとは書いていないが、彼の地で書かれているのは事実であり
北方の方の感覚では、九州北部でも畿内でも温暖と報告を受けたはず

そのようなあげあしをとって楽しいですか?
149日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:11:53
>>148
>そのようなあげあしをとって楽しいですか?
あなたがくだらない屁理屈をいうからです。
150夏祭:2008/09/07(日) 09:38:46
>>137
俺オリジナルの説と言われてもねえ。
別に俺は独自の説を妄想しているわけじゃない。
基本的に俺は原田大六支持者と言うスタンスだから。
>>142
藤間生大(とうま せいた)じゃない?
著名な唯物史観歴史学者で「トマル・セイタ」の発音に似ている人物というと、
彼ぐらいだ。
151日本@名無史さん:2008/09/07(日) 10:00:55
井上光貞説?笑止。
そんなものは存在しない。
彼の邪馬台国論は、古今東西の様々な学者の論を引用しているだけだ。
それをちゃんと「○○の説のこの部分は信用に足る」と言う風に引用元を紹介すればよいのだが、
彼はさも自分の研究のように言いふらす。
152太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 10:22:43
>>141 ローガンさんよ、故意逃げてるわけではないネ。ただ
それがしは学者じゃないんだぜ。倭人伝の一字一字を隅々まで目を
通すのはいいことで、そういう方は敬服するが、女王国所在の判断
はそこまで調べなくても正確にできる。ただし九州だと決まっても
じゃぁそれからそこのどこなのかということは、そこまでは判別でき
うるものではないがね。北九州説だと卑弥呼の国の情報は畿内に
入りやすいから、記紀に記載がないことはいくら九州でもそこの北
は考えにくい。やはり奥九州とかの以南が妥当だよ。それ以上は
倭人伝を読んでも、距離がどうのこうの言っても、まず困難だぜ。

モモソ媛を女王でないのに女王とくっつけるのは、先述のたとえの
とおり女子ソフトボールの準決勝の延長戦だったか、日本の2塁走者
が刺される紀見が大なのに無理に3塁接着を狙う失敗の如きやり方
であり、そういうのは無理、強引な論説なのであるんだよ。また彼女
が単に神がかりとか時代が合致してるくらいで卑弥呼とくつけちゃう
のも無理なる3塁からの本盗であり、これまた本盗失敗が当選確実
の軽率な愚挙なわけ。畿内説の方はよくこういう無理を平気で
やり、同説を保持させているが、所詮2盗からの失敗の上塗りよ。

貴方は畿内自生説だとか言われているが、そうなんですか? ならば
神武以前に卑弥呼を設定してるようで、これだと歴代の天皇在位が
スシ詰めの不合理をイヤでも孕むわけだから、沈没だな。
153日本@名無史さん:2008/09/07(日) 13:00:44
>>これなら書かれてるけど・・ 「倭地温暖冬夏食生菜皆」

ああ、そうか。「倭地温暖」ね。
これなら、邪馬台国がちょっと寒くても関係ないな。
とにかく、寒くて稲作も出来ない朝鮮から倭にくれば「温暖」なのは確かなことだ。
テンプレに入れといたほうがいいね。

まったく魏志倭人伝を読んでないのは九州説のほうなのがハッキリした。スッキリした。
154日本@名無史さん:2008/09/07(日) 13:09:59
みんな邪馬台国があること前提で議論するが陳寿の勘違いってことはないのかい?
155夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/07(日) 15:07:32
>>152
色々言いたいことはあるが、一つだけに留めておこう。
文章は分かりやすく読みやすく、言いたい事を簡潔に。
>>154
邪馬台国が存在しなかったという事の証明をした人間なぞ誰もいない。
156日本@名無史さん:2008/09/07(日) 15:08:37
倭地温暖なら、奈良県じゃないことだけは確かだ。
畿内大和なら、「倭地寒暑」「夏食生菜皆」になるからな。
157日本@名無史さん:2008/09/07(日) 15:12:56
>>154-155
これは夏祭も154も誤り。
陳寿が小さい頃に生きていた卑弥呼の国は邪馬壱国であって
邪馬台国という国はなかった。
同時代を生きた陳寿は、国名を間違えることなく邪馬壱国と記した。
158夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/07(日) 15:16:15
>>157
お前は古田武彦以外の本をちゃんと読んだか?
「邪馬壱国の陰謀」とか読んだか?
159日本@名無史さん:2008/09/07(日) 15:38:06
むしろ読んでいないのは夏祭だがな。
160日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:14:51
>>142

都出比呂志も知らんのか。
161日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:25:03
つーか、ここに居る大半のヤツって、
本なんかまともに読んでないだろう。
読んでいてもサイキバ君の様に
感銘を受けたであろうところの
その説の論旨も理解できないのもいるが。
162日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:28:20
>>160
「都」の一字で直ぐに思い浮かんだが

都出比呂志って基本畿内説だろ?

もう少し話の流れを読んでから噛み付いてくれwwwwwww
163日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:36:39
畿内説なら唯物史観で通るよ。
164日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:18:25
畿内説は唯物史観というよりは単なるトートロジー
165日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:35:03
>>162

まあ、藤間生大説も有力だけど

都出や畿内説の太宗 と 唯物史観が結びつかない、キミの知識はどうかと思うよ。
166日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:37:37
>>157
そうだね。魏志の邪馬壱国と後漢書の邪馬台国はべつの国だね
167日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:55:20
>>157 >>166
なるほど。で、あなた方は邪馬壱国は玄界灘沿岸あたりにあったと考えるわけですね。
まあ、お好きなように、邪馬壱国探しをお続け下さい。
我々は、後漢書や隋書が伝える邪馬台国がどこにあったかを、倭人伝も参考に
考えていきますので、口出しはしないでね。
168日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:56:59
じゃあ、卑弥呼の宮殿、卑弥呼の墓、卑弥呼の国、なんて決して言うなよ。
169日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:05:49
>>168
> じゃあ、卑弥呼の宮殿、卑弥呼の墓、卑弥呼の国、なんて決して言うなよ。

何でさ
170日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:07:52
>>150
>俺オリジナルの説と言われてもねえ。別に俺は独自の説を妄想しているわけじゃない。
あれっ、畿内説は妄想と自覚されているのですか? 少し進歩されたかな。

原田説と言われても、方向修正、連続説、岡山あたりを投馬国、大和を邪馬台国ぐらい
だったかな、という程度しか知りませんが。どこに特色があるのでしょう?
現実をみて本当に合理的に説明できてるのかな?

171夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/07(日) 22:41:07
>>170
君は文章を曲解するのが上手いね。
そんな風にして中国古文書から虚妄の九州王朝を導き出すのか。
参考になるよ。
誰がいつ「畿内説そのものが妄想」と口走ったのかな?
俺は只「むやみやたらに自分オリジナルの説を妄想するなんてことはない」と言ってるだけ。
まあ、九州王朝(違ったらスマン)教の教義では、畿内説は無条件で妄想、となってるそうだけど。
>原田説
詳しく説明してやろう。
末盧国は松浦、伊都国は怡土、奴国は那珂、不弥国は穂波、投馬国は玉島、狗奴国は毛野が名前の名残。
九州各国の中心地は末盧が唐津市桜馬場、伊都国が前原市三雲、奴国が春日市須玖岡本、不弥国が飯塚市立岩。
末盧国の玄関呼子から東に伊都国、そこから東に奴国、そこから東北に不弥国。
それぞれ倭人伝の方角から45度北にずれている。そして投馬国、邪馬台国は90度。狗奴国にいたっては135度。
彼は邪馬台国までの方角のズレを夏の太陽の運行に求めた。
その方角の求め方は彼の著作「邪馬台国論争」に詳しく記されている。
そしてこの本には、あらゆる詭弁とペテンと誤謬に満ち、
「現実をみ」ず、「合理的に説明できて」いない九州説と、
同じように嘘にあふれた小林行雄の畿内説の正体が明かされている。
両論者の人間も、逃げずにこの本を読むと良いだろう。
もっとも、九州論者にとってこの本を読むことは、
飛鳥昭雄信者が「大真実」を読むのと同じぐらいつらいことだろう。
もしくは、飛鳥信者と同じように「嘘に満ち溢れたトンデモ本」として逃げるか。
172日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:48:21
原田はまだ、夏祭よりマシじゃないか。
夏祭説だと、奈良県の倭人が海で潜水漁するんだろ?
冬寒いマキムクが、冬でも温暖だと思うんだろ?
だったら、畿内説って南極説とかわらないなw
173日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:48:53
>>171
色々言いたいことはあるが、一つだけに留めておこう。
文章は分かりやすく読みやすく、言いたい事を簡潔に。
174日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:55:32
>>172

「奈良県の倭人が海で」
こんな強引な言い換えをしないと他説の批判もできないほど九州説は追い詰められてるのかw
175日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:58:22
なんで現代の気候で考えるのか?
176日本@名無史さん:2008/09/07(日) 22:59:15
漢籍を読まないと、夏祭になっちゃうよ。
177日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:39:40
だから、邪馬台国時代は九州でも小氷河期なんですけどね。
178日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:51:08
なら近畿では凍結状態なのかな
プゲラ
179日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:56:21
小氷河期に温暖な土地って、寒い畿内?
180日本@名無史さん:2008/09/08(月) 00:06:25
181日本@名無史さん:2008/09/08(月) 00:11:24
>>171 説明していただきどうも。
>彼は邪馬台国までの方角のズレを夏の太陽の運行に求めた。
しかし、何と説明しようと中国人が方向を間違えたというのは現実をみた説明と
は言い難いですな。
ところで、最後の陸行一月はどうなってるんです。「邪馬台国論争」をパラパラ
とみても、どこに書いてあるのやら。誰かと同様簡潔な記載ができないみたいで。

>九州論者にとってこの本を読むことは、・・・つらいことだろう。
九州論者が困るほどの批判が書いてありましたか? 人を罵倒することがお好きな
人だったんだなとは思いますが。
182夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/08(月) 08:49:30
>>181
>しかし、何と説明しようと〜
じゃあ君は投馬国が邪馬台国の南に来たり
不弥国から水行しなかったり
邪馬台国への直接の道筋にない国への行き方も詳しく書いたり
邪馬台国から離れてよく分からないはずの国が近くに合ったり
「誇張だ」で全て済ませたりするのが「現実を見た説明」と言うのかい?
距離の問題を「誇張だ」で済ませてきた数々の九州論者よりも、
方角問題に対する原田の姿勢の方が、「何故」そうなったかを求めようとする分マシだと思うがね。

>九州論者が困るほどの〜
そら困るだろうな。あそこまではっきりと本当の事が書かれていたのでは。
>人を罵倒することが〜
おやおや、都合の悪いことをはっきりと言うのが「罵倒」かw
危険な教団から救出して他の宗教を押し付けるわけでもないのに「強制改宗」
悪魔教団(こんなカルト教団も昔実在した)でもないのに「サタン勢力」
自分達で作っておいて「国家権力の毒ガス攻撃」
これらの言い訳と対して変わらないな。
183日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:31:21
>>182
>距離の問題を「誇張だ」で済ませてきた数々の九州論者よりも、方角問題に対する
>原田の姿勢の方が、「何故」そうなったかを求めようとする分マシだと思うがね。
マシかも知れませんが、真相解明にはほど遠いということですね。中国人が方角をま
ちがえるなどという考え方は非現実的です。

>あそこまではっきりと本当の事が書かれていたのでは。
例えばどんな?

>都合の悪いことをはっきりと言うのが「罵倒」かw
大人としての言葉使いというものがあるはずですよ。あなたには分からないかも
知れませんが。




184夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/08(月) 16:47:11
>>183
>中国人が方角を間違えるなど〜
はいはい、「方角だけはなんとしても正しい、そうでなくてはならない」
と言うのが九州説全体の言い分なのはよく分かった。
で、君はどのように「現実的」にこの謎を解明するの?
何か君の考えに近い本があれば教えてくれ。
君オリジナルの考えがあるのなら言ってみてくれ。
>例えばどんな?
榎一雄、斎藤忠、井上光貞達の、自己矛盾、事実誤認、誤字、剽窃、改竄、その他誤謬の数々。
誰のから聞きたい?
>大人としての言葉使い
確かに彼の文章には怒り、訴えるような感じがあるが、
別に彼の文章を「言葉使いが悪い」と感じたことはないね。
それに、学問的な論争の決着と言葉使いを同列にされちゃ困るよ。
185日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:26:25
>>184 夏祭
>はいはい、「方角だけはなんとしても正しい、そうでなくてはならない」
>と言うのが九州説全体の言い分なのはよく分かった。
正しいのは方角だけじゃないよ。

逆に畿内説の根拠となるような記述が魏志倭人伝の中に何か一つでもあるの?
186日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:29:39
いつまで文献だけに固執してるんだよw
187日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:57:49
>>186
>いつまで文献だけに固執してるんだよw

つまり魏志倭人伝には畿内説の根拠はないってことですね
188日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:01:57
文献に重きを置いて畿内説に疑問を呈する学者はいるだろうけど
文献のみで九州説を強弁する学者もあまりいないんじゃないのかな?
(市井のアマチュアなら腐るほど居るだろうがw)

と言うかまともな史学者なら文献資料としての倭人伝の限界を認めるんじゃないかな?
(断っておくが無論考古学にも限界があり万能と言うわけではない)

まあこの板の九州説の場合かなりの部分、暗号解読ゴッコだから
その解読ができれば場所も分かると言う前提が無いとそのお遊びも成り立たないわけでwwwwwwww

189日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:19:13
>>184 夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU
>斎藤忠

・・・おいおい、その人って九州王朝説じゃなかったか?('A`)
190日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:47:10
>>188
文献に限界があるのなら、文献+αで考えるのもありかも知れんが、
文献無視のαだけで考えたら、何でもありになってしまうのでは?

あっそうか 何でもありにしなければ畿内説は成り立たないだっけ!
191日本@名無史さん:2008/09/08(月) 21:09:00
>>184
>185さんの言うとおり、方向だけではなく距離も倭人伝どおりにいきましょう。
末盧国で上陸したら、伊都国は東南五百里。当然、有明海沿岸ですね。
伊都国からは放射式。奴国、不弥国は筑後川の沿岸。
そして、投馬国は水行二十日だから薩摩、邪馬台国は熊本で上陸して陸行一月、
当然、日向です。方角のごまかしも日数のごまかしもありません。
日向には九州最大の古墳を始めとする無数の古墳があるし(初期の古墳も少な
くありませんよ)、日向は記紀も天孫降臨の地とするところです。
192日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:35:09
夏祭は、

 「九州から2世紀半ばに畿内へ来た勢力が、畿内で邪馬台国を作った」

・・・とする、邪馬台国東遷畿内説。この説明だけでも、もう矛盾噴出。
193夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/08(月) 22:49:44
>>191
まてまてぃ!
放射式なのはまあ良いとして、
二十日もあったら薩摩よりも南に行けるのではないのか?
熊本まで水行十日もかかって、上陸してから日向まで徒歩一月もかかるか?

実際に方角も距離も正しいと仮定して進むと、沖縄あたりになるのが現状。
194日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:57:40
>>193
>実際に方角も距離も正しいと仮定して進むと、沖縄あたりになるのが現状。
一里を何kmと換算して?
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/08(月) 23:09:27
PuPu!ww
196日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:11:47
魏の使者は不弥国で熱烈歓迎の宴会に招待されていた。
それで予定の日程が延びた。
197ローガン:2008/09/08(月) 23:41:44
>>191
> >185さんの言うとおり、方向だけではなく距離も倭人伝どおりにいきましょう。


なるほどね。背振山地の北側は行程から外れるとお考えなのですね。
ま、さておき倭人伝の行程にある8国で15万戸以上?
三韓とほぼ同じ。 あと22国あるようですが。 どう考えますか?

198日本@名無史さん:2008/09/09(火) 00:16:47
>>193
>実際に方角も距離も正しいと仮定して進むと、沖縄あたりになるのが現状。
水行、陸行の速度をかってに速いと考えてるだけですね。あなたが考える速度は
どこにも書いてないはずです。

>>197
>あと22国あるようですが。 どう考えますか?
狗奴国は志布志湾沿岸あたりでしょう。
旁国は大きな国の傍らにある国、日向や薩摩、それに大分、熊本などに散らばっていたかと。


199日本@名無史さん:2008/09/09(火) 00:28:15
>>197
>背振山地の北側は行程から外れるとお考えなのですね。
国々を大きく考えます。奴国は大国ですから、福岡市、久留米市、八女市などを含む。
伊都国も玄界灘沿岸(怡土)から背振山地を越して佐賀まで広がっていたと。



200ローガン:2008/09/09(火) 08:14:21
>>199
> 国々を大きく考えます。奴国は大国ですから、福岡市、久留米市、八女市などを含む。
> 伊都国も玄界灘沿岸(怡土)から背振山地を越して佐賀まで広がっていたと。


その範囲で二万一千余戸?
日向に七万戸ですか?
201日本@名無史さん:2008/09/09(火) 09:49:07
>>200
伊都国は魏略か何かに万戸とありましたから、伊都国と奴国で三万戸かと思います。
小山氏の人口密度推計によると、九州における当時の密度大の地域は筑後平野と
都城盆地、前者に奴国・伊都国があった、後者に邪馬台国があったと考えられるの
ではないでしょうか。甘木説の安本氏も、もし南九州とすれば都城が注目地域と言
ってましたね。だいたい、九州はもともとは北九州よりも南九州だったのですよ。
202日本@名無史さん:2008/09/09(火) 10:28:44
>>201
> 小山氏の人口密度推計によると、九州における当時の密度大の地域は筑後平野と
> 都城盆地、前者に奴国・伊都国があった、後者に邪馬台国があったと考えられるの
> ではないでしょうか。


投馬国は??
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/09(火) 10:42:25
七万戸数えるとなれば陸行一月はやすい。女王国の連中とかはあまり数えること
の出来る連中は少ないだろうし、出来た奴もいたろうが、そいつだけでは七万
数えるのは骨だな。容易ではない。
204日本@名無史さん:2008/09/09(火) 10:55:50
>>202
中心は川内平野でしょう。推計では密度大から外れていますが、後に薩摩国府
が置かれたところ、遺跡もありますし、邪馬台国時代にも繁栄していたと考え
られます。
205日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:02:34
>>203
いちいち数えるのではありません。徴税制度があるのですから、戸数は分かるのです。
10戸の小班長、小班長10人を束ねる中班長、中班長100人を束ねる大班長を考
えれば? 大班長が7人いれば7万戸ですね。
206太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/09(火) 11:08:17
じゃぁ文字が読めてたんだな。w
207九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/09(火) 11:25:00
筑後平野ではなく、筑紫平野だろ?


筑紫平野=佐賀平野(嘉瀬川流域+筑後川下流右岸地域)
    +白石平野(地域)(六角川流域)
    +筑後平野(筑後川下流左岸地域+矢部川流域・久留米以南)
    +北野地域(筑後川中流域・久留米より東北)

福岡平野(那珂川流域+室見川流域)
208九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/09(火) 11:33:29
>>205
それは俀國の10万戸の考え方を当てはめているのだろう?
350年も時代が違う邪馬壹國と俀國を同列に並べるのはどうかな?
209日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:54:35
>>206
? あまり関係ないように思いますが。
>>207
そうですね。どうも。
>>208
ピラミッド組織はいつの時代でも似たようなものです。
210ローガン:2008/09/09(火) 14:48:07
>>201
> 伊都国は魏略か何かに万戸とありましたから、伊都国と奴国で三万戸かと思います。

>>191では方向と距離については倭人伝どおりにいきましょう…と。
しかし戸数に関しては「倭人伝どおり」ではなく、翰苑の注が引く魏略の方が正しいというわけですね?
ダブスタのように思います。
211日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:07:31
単純な誤記にまで固執する気持ちはありません。邪馬台国、一支国などもね。
212日本@名無史さん:2008/09/09(火) 17:18:30
213九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/09(火) 20:23:40
>>201
小山氏の人口密度推計は当てにしないほうが良いよ。
彼は3世紀の筑紫平野の地勢についての知識がないから。

@佐賀平野と白石平野は、有明海が現嘉瀬川沿いの長崎本線のあたりまで北に入り込んでいたので、繋がっていなかった。

A筑後平野と佐賀平野は、有明海が吉野ヶ里の南側あたりまで北に入り込んでいたので、繋がっていなかった。
 又、筑後川は久留米からそのまま西進して、吉野ヶ里の南の足元にある有明海に流れ込んでいた。

B吉野ヶ里は、背振山地と有明海に挟まれた地峡にあったので、
 佐賀平野と筑後平野を繫ぐ軍事的に重要な地点であった。

C伊都國は末盧國から佐賀平野への入り口に当たるところにあったので交通の要衝であった。
214夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/09(火) 22:17:31
>>196
中国人は方角も距離も間違えるはずはないんだろ?
だったら、
自分達がとどまっただけの期間をさも不弥から投馬までの期間のように書くような
頭の悪い真似はもっとしないだろ?
普通ちゃんと「不弥国で接待を受け、これだけとどまった」旨の事を書くだろうが?
215ローガン:2008/09/09(火) 23:44:23
>>214

夏祭さんこんばんは!
今日早く帰れたので、新井宏さんの「理系の視点から見た考古学の論争点」 読み返していました。
P.50に表5として「紀年鏡の相互間の鉛同位体類似指数」とありますが、見てびっくり!
島根県神原神社古墳出土の景初三年三角縁神獣鏡のpb206/204 pb207/206 pb208/206について…
B1が 18.261 0.8573 2.1226
B2が 18.277 0.8577 2.1227
自身の類似指数の論拠にしたいようなんだけど、これ、同じ鏡の年次の違う分析の数字です。
殆んど同じで当たり前。どうもこの人、トンデモっぽいですね。


あ、お邪魔しました。議論を続けてください。
216日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:01:07
>>215
さすが曲解の名人。というよりわざとですね。

B1とB2の類似が新井氏の言わんとしていること?
217日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:30:57
>>214
倭人伝は伊都国から放射式。不弥国から投馬国の期間などでてきません。
218ローガン:2008/09/10(水) 00:32:05
>>216
> さすが曲解の名人。というよりわざとですね。

いえ、わざとなんてとんでもない。ただ16年も前の数字を並記するのがなんか不自然に思ったのですよ。

> B1とB2の類似が新井氏の言わんとしていること?

自身の結論に対する傍証くらいに考えておられたのではないかって思います。

ただ私ごときが気付くのですよ。新井さんが「別々の鏡」だと認識したとは思えない。勝手な想像ですが…


貴方は詳しそうですね。良ければ色々教えてください。
又、明日にします。ZZZZ…
219日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:38:45
夏祭やローガンのように、我田引水式に漢籍を勝手読みし、畿内に持っていくのは、
学問ではないわけです。
漢籍も考古学も、つまみ食いと勝手読みと部分的無視をすれば、地球のどこでも
思い込みの場所に持っていけます。

邪馬壱国・邪馬台国は小氷河期ですら温暖だったわけですし、絹や玉などがある
地域に限定されるのです。

220日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:45:21
>>219

サイキバ君 乙。
221日本@名無史さん:2008/09/10(水) 05:40:38
>>220
お前、つまんないよ。
222日本@名無史さん:2008/09/10(水) 06:28:22
>>191
伊都国からは放射式〜

だから、他の魏志○伝のなかで、行程表示が普通に「放射式」で
書かれているなら理解できる。

でなければ、辻褄合わせでしかない説だな
223日本@名無史さん:2008/09/10(水) 06:55:00
>>219

倭人之条のなかで、邪馬壱国・邪馬台国には絹や玉があると明記されている
部分はどこ? 温暖の地と書いてある部分はどこ??

倭国の説明している箇所にはあるけど、何故に邪馬台国に限定するかな?
『其死有棺無槨封土作冢』にしても、邪馬台国の葬儀風習でもない。
だって、邪馬台国まで行ってないんだもん。分からないよ。

また、『計其道里當在會稽東冶之東』にしたって、郡よりの方向、距離から推測
すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美大島の西対岸)の真東にあたると
認識されるほど相当に倭国のなかでも南方と理解されていた。

北部九州はありえない。だがら、『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』なんだから
日向(宮崎)あたりしか想定できない。
224日本@名無史さん:2008/09/10(水) 07:22:19
>>218
>新井さんが「別々の鏡」だと認識したとは思えない。勝手な想像ですが…
新井氏が別々の鏡といった説明をされていましたか?
もし別々の鏡として扱っていたのなら新井氏の誤りでしょう。

因みに貴方はB1とB2のどちらのデータをどういった理由で
消し去るべきだと考えていますか?

同一青銅器で測定したデータ。それはそれで貴重なデータだと思います。
225日本@名無史さん:2008/09/10(水) 07:44:47
>>223
>北部九州はありえない。だがら、『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』なんだから
>日向(宮崎)あたりしか想定できない。
宮崎の東はアメリカ大陸までほぼ海だけでは?
226日本@名無史さん:2008/09/10(水) 08:22:22
>>217
放射式とか何十年も前の説を今頃言うな。
227日本@名無史さん:2008/09/10(水) 08:23:18
>>223
>邪馬台国まで行ってないんだもん。分からないよ。
使者は邪馬台国へ行っていると解すべきです。行かなければ、風俗、産物など、
具体的なことは書けるはずがありません。
>女王国の位置は会稽・東冶の真東にあたると認識されるほど相当に倭国のなかでも
>南方と理解されていた。北部九州はありえない。『女王國東渡海千餘里復有國皆倭
>種』なんだから日向(宮崎)あたりしか想定できない。
そのとおりだと思います。
>>225
>宮崎の東はアメリカ大陸までほぼ海だけでは?
女王国は邪馬台国を含む国々。大分あたりも女王国、渡海千余里は大分から四国をみ
た状況ですね。



228日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:51:42
>>222 >>226
伊都国から先を放射式に読むべきことは、既に多くの方々が論究しているところ
なので、ご研究ください。

一つだけ指摘しておきましょう。原田大六は「倭人伝は確かに放射式で書いてい
るが、それは陳寿がまちがえたのだ」と主張しています。原田は行程記事を連続
的に解釈したかったのですが、その原田でも倭人伝が放射式に書かれていること
は否定できなかった、この一事をみても放射式に読むべきことは明らかです。
229日本@名無史さん:2008/09/10(水) 10:57:05
>>228
陳寿の間違いを指摘できるほど、原田は陳寿をこえたか?
230太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 11:05:41
紀の卑弥呼の女王国の記事は遠方大陸育ちの倭人伝の「副理由遠」
以外は、「台馬」の卑弥呼の「主留演」たる記事がまるで無い。これ
では紀無いに卑弥呼の女王国があったとの論は肯定し難い。
危機に卑弥呼「台馬」の記事として「主留演」が無いなら、畿内説は
検定不成立という他はない。
231日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:07:14
>>230 意味不明
232日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:39:26
>>228
放射式も連続式も誤り、里数で説明した行程を日数で再説明しただけのこと。
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 15:29:40
>>231
紀無い説では、記紀に「台馬」卑弥呼の主留演が検出されてない。僅かに副流煙
が神功39年等に検出されるくらいであるから、「台馬」は畿内には九州されて
いないという検定結果になるということだ。
234日本@名無史さん:2008/09/10(水) 15:35:02
学問板なんだから誤字くらい直そうよ…
235日本@名無史さん:2008/09/10(水) 15:39:48
いいえ、太国氏は結構わざと使ってます。
もしかして太国の名すら、「台国」のハズシかも。
236ローガン:2008/09/10(水) 15:53:49
>>224
> 新井氏が別々の鏡といった説明をされていましたか?
> もし別々の鏡として扱っていたのなら新井氏の誤りでしょう。

別々の鏡とはありません。本文ではこの鏡についてなんら言及されてません。
しかしP.50で、自身の「A鏡とB鏡の間の鉛同位体比類似指数の定義」に基づきB1とB2の類似指数を計算しているのですよ。
類似も何も同じ鏡です。

> 因みに貴方はB1とB2のどちらのデータをどういった理由で
> 消し去るべきだと考えていますか?

> 同一青銅器で測定したデータ。それはそれで貴重なデータだと思います。

測定値を消し去る必要はないと思います。ただ2鏡間の類似について考える時に何故、年次の違う同一鏡のデータを引き合いに出すか? 疑問です。
237日本@名無史さん:2008/09/10(水) 16:43:11
>>236
同一鏡での測定誤差のレベルが分かるからだろ。
別固体で測定誤差レベルの近似値なら同時製造との推定がしやすい。
238夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/10(水) 22:35:50
>>228
でもその一方で原田は、
・伊都国を中心に放射式に国が存在して、かつ邪馬台国が目的地なら、まず「南至邪馬壱国〜」の記述が来るはずだ
・榎の放射式読み方説だと、邪馬台国から離れているはずの小国がかなり近くに来る
等、放射式読み方説の弱点も挙げていることを忘れずに。
239日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:55:47
>>238
ですね。しかし、原田が指摘するところは、放射式読方の本来的な弱点ではあり
ません。伊都国や邪馬台国を榎のように比定した場合には、放射式では矛盾がで
るという趣旨です。比定に問題があったのです。
240日本@名無史さん:2008/09/11(木) 04:45:48
原資料が複数有ったと考えていいのではないですか?
群から伊都までの路程式で記述された記録と
伊都からの放射式の記述の記録が有って、
それを合成したのが倭人伝。
距離、方角の表現以外にも伊都以前と以後では微妙に違います。
対馬〜末羅の各国では風土の簡単な説明もある見聞録的な要素も有りますが、
奴國以降は官名だけしか記述していません。
文体の違いというよりも記録者の視点が異なっているのだと思われますが。
241日本@名無史さん:2008/09/11(木) 07:31:37
>>240
複数の資料があったとすると、甲資料の伊都国以後はどのように書かれていた
のか、乙資料の伊都国まではどのように書かれていたのか、という問題が生じ
ます。私は1人の目で統一的な思考で、書かれていると思いますね。
末盧国までとその後の書き方が変わるのは、奴国・不弥国はあまり重要でない
こと、投馬国・邪馬台国については風俗等の記事にまとめて書いたことによる
ものと考えます。
242日本@名無史さん:2008/09/11(木) 07:40:36
>>239
少なくとも九州には邪馬台国は収まらないよ。
243日本@名無史さん:2008/09/11(木) 10:07:37
と言えるなられば、九州説が成立しないことははっきりする訳ですが。
倭人伝によれば、倭の地は周旋五千里、方四千里の韓地よりも小さいことは
明らかです。となれば、本州まで含めると大きすぎる、九州しかないですね。
244九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/11(木) 13:08:20
>>243
倭の地「周旋可五千餘里」を円として換算すると「方可千四百餘里」と同じ面積。

倭は一大國の20倍の広さ。
韓は倭の8倍の広さ。
夫餘と高句麗は倭の2倍の広さ。

倭28ヶ国(除く對馬國・一大國)がある島は、方可千四百餘里の広さ。

以上により、
「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國水行十日陸行一月」は、
帯方郡より各々の国までの距離を示す。
帯方郡へ、投馬國からは海ルートのみ、邪馬壹國からは海ルートと陸ルートで。
投馬國は海沿いの国でしょうね。
245日本@名無史さん:2008/09/11(木) 14:07:02
246日本@名無史さん:2008/09/11(木) 15:41:19
>>244
>倭の地「周旋可五千餘里」を円として換算すると「方可千四百餘里」と同じ面積。
勝手に円として換算するのはどうかと思いますが。

>倭は一大國の20倍の広さ。韓は倭の8倍の広さ。
壱岐の20倍とか韓の8分の1とかいう大きさでは、合致する島はありませんね。
周旋五千里の考え方に問題があるように思いますが。

247日本@名無史さん:2008/09/11(木) 16:19:52
>少なくとも九州には邪馬台国は収まらないよ。

じゃあどの辺まで邪馬台国?広島?神戸?
248日本@名無史さん:2008/09/11(木) 16:43:38
>>243
いやいやそうじゃなくて、邪馬台国の位置を北九州にとどめることが不可能っていってるの。
九州は九州でも宮崎や鹿児島ならまだ分かるが。
249日本@名無史さん:2008/09/11(木) 17:44:52
>>241

甲は伊都までだけ、乙は伊都からだけ、という場合もあり。
甲は漢代で伊都までしか漢人が来なかった時の、
乙は伊都に拠点が出来て、その伊都を中心とした資料。
そのように考えてもよろしいのではないですか?
250九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/11(木) 17:52:49
>>246
「周旋可五千餘里」をどのように読みますか?

『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』
僕は、「島々の大きさを周囲で表現すると5000里余り」であると解釈します。
当時シナ人は、九州島の北部四分の一だけが倭の島々との認識で実際よりかなり小さく評価していた、と思います。

東夷の国土面積と人口を比較して見ます。
夫餘  : 方可二千里: 八万戸: 0.02戸/平方里: 冬季極寒冷平野
高句麗: 方可二千里: 三万戸: 0.0075戸/平方里: 冬季極寒冷山岳地
韓    : 方可四千里: 十六万戸: 0.01戸/平方里: 冬季寒冷荒地山地多
倭    : 方可千四百里: 十六万戸以上:>0.08戸/平方里: 冬季温暖平野多魚介豊富

倭人伝の記述範囲が九州島の60%位の範囲とすれば、
倭の面積は、方可三千里となります。
その場合の人口密度は、>0.018戸/平方里
 
251日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:42:44
>>250

> 僕は、「島々の大きさを周囲で表現すると5000里余り」であると解釈します。

それりゃ無理でしょう。
島は星の数ほどあるのですよ。
5000里の範囲に収まるもんじゃない。
252九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/11(木) 20:03:18
>>251
僕は、「島々(群島全体)の大きさを周囲で表現すると5000里余り」であると解釈します。
253日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:08:06
>>251
お前、馬鹿だろ。南鳥島や波照間島まで入れてるのか?
254日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:53:04
>>244
>「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國水行十日陸行一月」は、帯方郡より
>各々の国までの距離を示す。
トンデモ読みですね。陳寿ほどの人間が読者にそんな読み方を要求するはずはあり
ません。

>>250
>当時シナ人は、九州島の北部四分の一だけが倭の島々との認識で実際よりかなり
>小さく評価していた、と思います。
「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國水行十日陸行一月」は、九州島に上陸
してからの話です。当然、九州の大きさを極端に小さく誤解していたなどというこ
とはありえません。



255日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:05:56
>「南至邪馬壹國水行十日陸行一月」は、九州島に上陸 してからの話です。

陳寿はそんなこと=(九州島上陸してから)を言っていないわけだが、
証明してくれる?>>254
256日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:58:30
>>255
>陳寿はそんなこと=(九州島上陸してから)を言っていない
倭人伝の文章をみて上陸してからだと理解できない人には、何を言っても無駄でしょう。


257日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:02:02
>>255
そんなのまともによめばあたりまえの話。

君はよく2ちゃんで書いているが 自説を書くわけでもなし。
言葉尻を捕まえて質問して、なんか会話に加わってるつもりなんだろうね。ww

258日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:10:08
>>256

証明できないワケね。私が説明しましょう。

1:最初に「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす」と巨視的に説明。
 ここで、畿内説が否定されてますね。

2:次に「郡より倭に至るには〜〜〜」と行程を説明していきます。
 ここで、「山島に至ってより倭に至るには〜〜〜」という説明じゃないと明言してます。

3:最後のほうに「水行十日、陸行一月」とありますから、2の「「郡より倭に至る」の締めですね。
 「郡より倭に至るには〜〜水行十日、陸行一月」というわけです。
259日本@名無史さん:2008/09/12(金) 07:30:38
>最後のほうに「水行十日、陸行一月」とありますから、「郡より倭に至る」の締めですね。
最後の方にあるから締めとは限りません。締めがない場合も多々あります。
1 締めならば、「帯方の東南」と方角を一致させるはず、方角がちがいます。
 そもそも、里程記事で方角は書いているのですから、方角は書かなかったはず。
2 締めならば、前に「邪馬台(壱)国」が出てくるはず、いきなり新地名は不自然。
3 文章は読者に正しく伝わるように書くもの。水行十日陸行一月が郡からならば、
 「郡より邪馬台国に至るには」と明記するはずです。
あなたのような読み方をしていると、文章のイロハも知らない、と評されます。
これを機会に反省された方が良いかと思いますが。

260日本@名無史さん:2008/09/12(金) 13:15:09
>>259の読み方は、畿内に無理やり持っていこうとするから、
そう読むハメニなるわけです。ちゃんと学問をしましょう。
261日本@名無史さん:2008/09/13(土) 06:27:21
>>250
周旋五千里を一回りした距離と解釈しているようですが、それでは倭地を極端に
小さく誤解していたとみることになり不自然です。>254
周旋は、従来から「倭の地の始まる地点から、その地の尽きる所までの距離」と
解釈されています。基本的にはその考え方が正しいのです。
その「倭の地」に対馬など島々を含めるとおかしな結果になりますが、倭の地は
「地」ですから、九州本島のことで、上陸した地点から、その地の尽きる所まで、
すなわち末盧国から九州の南端までと考えるべきです。もちろん、直線ではなく
回りを巡った距離です。つまり、これまでの「倭の地の始まりから尽きる所まで」
という解釈は正しいのですが、対馬などを含めてはいけないわけで、本島だけを
考えるべきだということですね。五千里は350〜400キロ、ぴったりでしょう。
262日本@名無史さん:2008/09/13(土) 06:46:07
>>249
後漢時代には、AD57 107に倭側からの朝貢があっただけで、漢側から倭国に使者
が派遣されてきたことはないと解釈されています。
したがって、伊都国までの甲資料、伊都国以降の乙資料というのは想定しにくい
ですね。それに、倭人伝の記事は簡潔に一連のものとして書かれています。
原資料を作成した人物もかなりの知識人、その人の手になる一つの資料と考えた
方が良いでしょう。
263日本@名無史さん:2008/09/13(土) 07:55:19
>>261

> 周旋五千里を一回りした距離と解釈しているようですが、それでは倭地を極端に
> 小さく誤解していたとみることになり不自然です。>254
> 周旋は、従来から「倭の地の始まる地点から、その地の尽きる所までの距離」と
> 解釈されています。基本的にはその考え方が正しいのです。

「周旋」とは「巡る」と言う意味でしょう。
ただ、その巡り方には種類があって、ぐるっと廻る場合も有れば、要所々々をジグザグと辿る場合もあります。
「周旋」の仕方はその対象と手段によるのかと思います。
一つの島を船で、また、湖を馬で「周旋」すると有れば、それば外周をぐるっととなります。
ただ、これが群島地域を船でいく場合であれば、大好き氏が想定するような外周説以外にも、
ジグザグ説も成立するでしょう、多分、こちらの方が一般的かと思いますが。
また、一つの島を馬で「周旋」するならば、海岸線にそってぐるっと回ったり、島内をジグザグと巡るのも有り。

> その「倭の地」に対馬など島々を含めるとおかしな結果になりますが、倭の地は
> 「地」ですから、九州本島のことで、上陸した地点から、その地の尽きる所まで、
> すなわち末盧国から九州の南端までと考えるべきです。もちろん、直線ではなく
> 回りを巡った距離です。つまり、これまでの「倭の地の始まりから尽きる所まで」
> という解釈は正しいのですが、対馬などを含めてはいけないわけで、本島だけを
> 考えるべきだということですね。

倭地は「絶在海中洲島之上或絶或連」なのですから、一つの島のことでは有り得ません。
また、一つの島で無いからには、「周旋」の手段は馬や徒歩では無く船だと考えるべきです。
なので、九州島内をジグザグ巡る「五千里」でも無いでしょう。

> 五千里は350〜400キロ、ぴったりでしょう。

短里説の方でしたか。
264日本@名無史さん:2008/09/13(土) 08:24:37
その人による一つの資料ーーー
えーっ!!!
265日本@名無史さん:2008/09/13(土) 08:46:53
≪計其道里當在會稽東冶之東≫

郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美大島の
西対岸)の真東にあたると認識されていた。
方位も相当に不正確であり、日本列島が南北に垂れ下がっていたように
認識されていたんじゃないかな。
266日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:08:50
>>263
>大好き氏が想定するような外周説以外にも、ジグザグ説も成立するでしょう、
>多分、こちらの方が一般的かと思いますが。
ジグザグ説といっても、それは外周を伝ってという意味になると思います。文字
どおりのジグザグでは行ったりきたりで距離は長くなるわけですから、それを書
く意味はありません(倭国内を何里歩いてきたという自慢にはなるかな)。
周旋を書いたのは、それが倭の地の大きさを示すからです。ということは、外周
を伝って(つまり、距離)反対側の端まで行くという意味でなければなりません。
>「絶在海中洲島之上或絶或連」
これは島の外周の情景です。半島かと思えば島があり、島かと思えば半島が突き
出ていたといったことを表したものと考えます。

>>264
>その人による一つの資料ーーー
>えーっ!!!
最初に来た人こそ、これまで知られていなかった倭国の状況を報告しようと、熱
心に行程などを書き記すのですよ。2番手からは、熱意が薄れます。
267日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:15:06
その熱心にかきしるした倭国の距離がなんで過大なのでしょうか?
268日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:16:55
>>265
其計とあれば話しはそれでいいが、計其と書いてあるので、女王国や邪馬台国なんて対象外だよ。
269日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:18:04
>>266

>或絶或連

「連」は、繋がると言う意味ではありませんよ。
連なっている様、近接はしていても相互に離れている状態です。
なので、半島地形の説明にはならないでしょう。
「絶」は、近くにそういったものが無い状態です。
つまり、或絶或連とは、島々が連なっていたり、離れていたりと言う情景じゃないですかね。
270日本@名無史さん:2008/09/13(土) 10:27:55
なるほど。しかし、相互に離れていることが要件かと言えば、そうでもなさそう
ですよ。島かと思ったのが本島とつながっていたというのも連のうちでしょう。
271日本@名無史さん:2008/09/13(土) 10:44:59
>>267
周の古尺とか東夷の慣用とか言われますが、はっきりしないようですね。
しかし、意識して過大な数字を書いたのではなく、何かの規準、すなわち
1里=7、80メートルの規準があったと考えられます。
それに、誰も、伊都国を末盧国から二百数十キロ先には比定しませんね。
272日本@名無史さん:2008/09/13(土) 11:17:43
>>271

>周の古尺とか東夷の慣用とか言われますが

そんなこと言ってるのはF田氏だけ。
273日本@名無史さん:2008/09/13(土) 11:26:49
>>272
倭韓における短里をいうのは、藤田元春です。
274夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/13(土) 17:42:53
補足しておくと、最初に放射式の読み方を提案したのは
畿内説の豊田伊三美。
大正11年に書いた「邪馬台国論を読みて」(三宅米吉「邪馬台国について」の書評)にて。
もともと畿内説の立場で考えられたものを、北九州に邪馬台国を持ってくるように使うんだから、
無理な解釈が行われて当然。伊都国から放射式だとしても、
伊都国から邪馬台国までは水行十日と陸行一月、若しくは水行十日か陸行一月せねばいかん。
だが、榎は一月は机上の空論で切り抜けた。
275日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:16:07
夏祭は、2世紀半ばに九州から畿内に来た勢力が邪馬台国を建国したとするが、
2〜3世紀の畿内は銅鐸国家が支配していた。
その銅鐸国家は、4世紀初めにあっけなく滅亡。

  → 4世紀以降、邪馬台国はなくなっちゃいました。これが夏祭説。
276日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:39:32
>>275
質問!
畿内説で必ずは邪馬台国は4世紀以降も存続していなければならなかったのか?
崇神、応神、継体の前後3期には、王朝の再編がなされた形跡があるん
ですが・・
277日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:44:11
>>276
4世紀に滅ぶことなく、三国志・隋書・旧唐書に出てくるんですが。
278日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:45:58
279サガミハラハラ:2008/09/13(土) 22:12:13
>>273倭韓においては周尺がつかわれ、それは1里67.5mであるとしたのは福永晋三であり、
それを立証したのは後藤幸彦であります。
短里とは周尺のことであったのです。
280日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:25:36
>>279

>倭韓においては周尺がつかわれ、それは1里67.5mであるとしたのは福永晋三であり、
それを立証したのは後藤幸彦であります。

それで、その周尺なるものの尺の値は現在の何cmになるのでしょうか?
そして、その周尺一里は何尺をもって一里となったのですか?
そしてそして、その周尺なる曲尺は現存しているのでしょうか?
そしてそしてそして、その周尺なる度量衡とやらが記されている文献を教えていただけないでしょうか?

以上の質問お答えいただきくおもいます。
281日本@名無史さん:2008/09/13(土) 23:22:01
>>279サガミハラハラさん。>>280です。

先ほどの質問には答えていただけないのでしょうか?
それとも何か聞いてはいけない事でも触れてしまいましたか?
282サガミハラハラ:2008/09/14(日) 00:35:10
わりーな、太王四神紀をみていた。

角川漢和中辞典によれば(あー、今まで何度この書名を書いたことか)、周の時代の1尺は22.5cmです。
1里67.5mですので、1里は300尺となります。
始皇帝のときに、度量衡の改定が行われ違反した者(間違った場合でも)におれまでは厳罰がくわえられたため、みんなはそれまで使用していた計測器をすべて捨ててしまいました。よって一つも
残っていません(福永氏によると、 近年周時代の墓から一本だけ出土したとのことです)。
文献は先にかきました、角川漢和中辞典です。
283夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/14(日) 06:59:37
>>282
>わりーな
おや、貴方にしては珍しい言葉使い。
いや、別に良いのですが。
284日本@名無史さん:2008/09/14(日) 08:42:48
>>279 >>282
それで、後藤氏は何をどのように立証したのですか?
285日本@名無史さん:2008/09/14(日) 09:58:12
>>282
>角川漢和中事典

昭和の文献ですか?しかも何も考えていない孫引き。
286日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:23:44
>>282

>始皇帝のときに、度量衡の改定が行われ違反した者(間違った場合でも)におれまでは厳罰がくわえられたため、みんなはそれまで使用していた計測器をすべて捨ててしまいました。よって一つも
残っていません

紀元前3世紀に失われたはずの曲尺が、どうして500年後の文献で採用されているのでしょう?
原器がなければ復活させることも出来ないのが度量衡の世界、
全くもって矛盾した話というよりも、極めてマヌケなダブスタです。
一里=300尺なんて何処から持ち出したというより、一里67・5mをどうしても成立させたい一念から
単純に割り算したに過ぎない事も見えみえです。
いいかげんリサイクルにもならないゴミをまき散らすのはよして下さい。
287サガミハラハラ:2008/09/14(日) 10:25:30
>>283朱に交われば赤くなるともうします。

その周尺が魏志倭人伝の里でつかわれているということです。つまり、倭人伝の各間の距離(海上を除く)が67.5mでぴったりだということです。

優秀な資料であればまた引用者よりはるかに格上の場合は孫引きひ孫引きでもかまわないと思います。
288日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:29:07
>>284
>それで、後藤氏は何をどのように立証したのですか?

何も立証などしていません。ただ彼は夢を見ているだけです。
仮に立証したのであれば、それは建築偽装のアネハ並みの立証なのでしょう。
289日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:31:45
>>287

>その周尺が魏志倭人伝の里でつかわれているということです。

ウソ。
韓地の4千里だけだろう。それも千里単位の大まかさでなw
後は、計算上の位置に、比定地をばら撒いてるだけなんだから、
倭人伝の記述と周里の証明は関係ないね。
安っぽい循環論法の見本みたいな話だ。
まあ、それがサガミハラハラ説の真髄ですけどw
290日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:40:32
>>287
>倭人伝の各間の距離(海上を除く)が67.5mでぴったりだということです。

一里=67・5mでピッタリな場所を選び各地点を想定すれば、当然ピッタリになります。

>その周尺が魏志倭人伝の里でつかわれているということです

原器が存在しないのだから、使われることはありません。
ここは魏代の話なんですから
291サガミハラハラ:2008/09/14(日) 11:17:43
そうではないんです。
倭人伝の各国間を、倭人伝の里数や地勢遺跡を基にして国の位置をさだめ、 
最終的にその距離を改めてだした結果、1里は68m弱とでました。
当時はこの数字が何によるものかわからなかったのですが、福永氏の周尺1里67.5m節を知り、
これが、周尺であることにいたったわけです。はじめに周尺ありきではありません。

この周尺には箕子朝鮮がからんでいると思います。朝鮮は周制の国であり、周尺を使用していたようです。
よく、倭人伝は魏使の報告書をもとに描かれたという論議を耳にしますが、陳寿は晋の図書館で、そこに収集されたおおくの記録書をつなぎあわせて倭人全を完成したようなのです。
その中に、この行路記事があったわけです。漢書には距離が万里などの記事もおおかったため、陳寿は倭人伝の里数が漢尺にしては過大であるとはきづかなかったようです。
292日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:50:26
単純な人だなあw
そのレスの中でも思いっ切り自白してるじゃないか!
倭人伝の里数をもとに比定したとw
293日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:53:50
>>291
結局、都合が良いということで飛びついたというだけですね。

>陳寿は倭人伝の里数が漢尺にしては過大であるとはきづかなかったようです。
そんなはずはありません。帯方郡から南へ万二千里は、1里=435mで計算
すれば、赤道付近に達する距離です。けっして会稽などの東になるはずはない、
陳寿がそれに気づかないはずはありません。陳寿が中国の主要都市などの間の
おおよその距離を知らないはずはないのですから。となれば、陳寿をも納得させ
る別の規準があったと考えるべきです。

294日本@名無史さん:2008/09/14(日) 12:37:53
>>291
現在までに掘り出された遺跡が全てで、その遺跡から標識でもでてきたのかな?
全てご都合では?
周制を採用したくても、原器は全て秦時に破棄されたんだろう?無理じゃん。
295日本@名無史さん:2008/09/14(日) 14:23:33
>>289
>韓地の4千里だけだろう。それも千里単位の大まかさでなw
他の記事でも当てはまっていたはず。本当に確認した?
296日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:30:16
サガミさんだけでなく、多くの人が証明しています。
数学の漢籍でも、壱岐でも赤壁でも一里=67・5mは証明されてるから、
もう議論の必要などありません。
297日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:34:41
>そんなはずはありません。帯方郡から南へ万二千里は、1里=435mで計算
>すれば、赤道付近に達する距離です。けっして会稽などの東になるはずはない、

全然関係ないけど、昔はこの距離が畿内説有利と言われている時代があった。
よくそんなトンデモが当たり前のように流布できたものだ。
298サガミハラハラ:2008/09/14(日) 15:35:57
あるHPに「魏志倭人伝の行程記事には、モデルとなった先行史書があった。
『漢書』西域伝に倭人伝の行路記事とそっくりな書き方が多数出ています。・・・倭人伝の行路記事の読み方に日膣の案を
提示した論考です。」とあります。
KAWAMURA AKIRA’S CYBER WORLD  日本古代史

かなり難しいので、まだ読んでいませんが。 
299サガミハラハラ:2008/09/14(日) 15:37:08
訂正ー日膣は一つの誤りです。
300夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/14(日) 16:52:41
>>287
すみませんな、自分が貴方を朱で染めてしまいましたか。
301日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:58:03
邪馬台国短期滅亡説の夏祭は、矛盾の塊。
302日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:57:00
>>299
> 訂正ー日膣は一つの誤りです。

誤変換で「日膣」ってw
普段どんな文章書いてるんだよww
303日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:36:40
>>302
膣に突っ込みを入れない! スルーしなさい
304日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:45:41
スレ読まずにカキコ
倭人伝に書かれている邪馬台国の様子は明らかに九州の状況なのに
なんで今だに近畿説とか言ってるのか、バカなんだろうか
305日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:56:10
>>304
汚染米食べて脳ミソ破壊された九州説の人こんにちは。
306日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:57:21
>>302
妄想を硬く大きく膨らませ、潤い頃合いを見計らい、膣に突っ込みを入れる。
307日本@名無史さん:2008/09/15(月) 01:04:20
>>304
畿内説の人たちの言葉遣いをみればその程度は知れよう。

308日本@名無史さん:2008/09/15(月) 08:03:28
>>305>>307
こういうのはアンチ畿内(別段北九州説を実証しようとしてるようにも見えない)の
自作自演かもね。
309日本@名無史さん:2008/09/15(月) 12:50:14
君が一番低レベル>>308
310日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:41:22
僕畿内説だけど那国は大和だと思うよ。
311日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:52:13
>>309
皆さん、これがアンチ畿内教信者のレス。
何の根拠も無く、只罵倒だけ。
312日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:56:21
邪馬台国は大和だと思います。
313日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:02:55
314日本@名無史さん:2008/09/16(火) 13:06:06
>>304が正解。
黒馬を白馬だと言いくるめるのが、畿内説の特徴。
まもなく魏志倭人伝を改竄して、
「纏向」「前方後円墳」「三角縁神獣鏡」の文字を入れる予定。
315日本@名無史さん:2008/09/16(火) 13:44:42
明史 日本伝

「日本国王良懐」という王を記し、その上奏文を載せている。 
「良懐」というのは、後醍醐天皇の皇子で、
南朝の征西大将軍として九州で活躍していた「懐良(かねなが)親王」のことある。
 懐良親王を日本国王と間違えたうえに「懐良」を「良懐」と逆に記している。

「参謀阿奇支(アケチ)という者があり、罪を信長に得た。 
秀吉に命じて兵を統べ、これを討たせた。
俄にして信長が、その下明智のために殺された。 
秀吉は方に攻めて阿奇支を滅ぼそうとした。」
316夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 15:13:44
そのうち畿内説を唱えるものは牢にぶち込まれるんでなかろうか。
戦前に共産主義者がそうなったように。
いや、邪馬台国東遷論者も「畿内説に媚びている」とぶちこまれそうだ。
どんなに畿内説を否定しようが関係なく。
古田教信者の言動を見てると本気で心配になってくる。
317日本@名無史さん:2008/09/16(火) 15:20:04
倭錦と鉄鏃の出土状況を見れば、九州>>>>>>>>>>>畿内。
畿内説は偽証罪にしたいね。
318日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:33:59
「古事記はモンゴル語で書かれている」東大教授が新説発表
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1221500761/
319のんびりひまじん:2008/09/16(火) 18:00:16
>>316
九州王朝が存在したと考えることと
九州王朝が神聖であったと考えることは別。

白村江の惨敗で大勢の悲惨な犠牲者を出した、呪うべき存在だったと当時の人びとが共感したから
後継者たちは歴史(=日本書紀)から抹殺した とワシは考えるようになってきた。

白村江敗戦後のトンデモ説:九州王朝なんてなかった(日本書紀)。
大東亜敗戦後のトンデモ説:天皇たちはキバ民族の子孫に違いない(キバ民族説)。
320日本@名無史さん:2008/09/16(火) 18:47:04
今、天皇陛下が判断していること

「日本は律令制からです」・・・つまり壬申の乱以降でしょう。
天皇の言と九州王朝説とは符合しますが、
神武東遷畿内説(夏祭)や畿内自生説(ローガン)とは符合しません。
321日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:02:38
鉄鏃と倭錦は九州説有利というが、倭人伝を詳細に検討し、かつ考古学的見解をくわえるならば、この鉄は石の字の誤写でありることは間違いなく石鏃が正しい。
また倭錦であるがこれも錦の字の金へんの部分をまちがってつけくわえたものであって、絹織物ではない。
以上から邪馬台国は大和であると断言できる。
これも考古学の成果であり、考古こそ倭人伝の誤謬を訂正することができるものである。
322日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:10:34
>>321にような、白馬=黒馬論は畿内説の特徴。
鏡の時代考証が合わなければ、鏡の伝世論。
古墳の時代が合わなければ編年の繰上げ。

要するに、畿内説にあわせて、魏志倭人伝も考古学も

牽強付会

これぞ、畿内説。
323日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:12:10
>牽強付会

言ってみたかっただけですね?
わかります。
324日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:22:13
畿内説が、

三笠フーズ並み、社保庁並みだって、わかりますね。
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 21:40:18
上の紀無い説は Pu! ww

 壹→臺
 南→東
 鉄→石
326日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:06:02
好きな将軍アンケート
http://find.2ch.net/enq/result.php/26216/l50
327夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 22:36:17
>>320
別に九州王朝が正しいという前提に立たなくても天皇の発言は正しい。
「日本」と言う国号そのものが壬申の乱の勝者天武天皇によって名づけられたんだから。
さらに「天皇」号や三種の神器を公式に定めたのも天武天皇。
「日本」の始まりは壬申の乱以降と言うのは、九州王朝関係なく当たり前。
>>321>>322
…自演だろうな。
敵対する立場から余りに低レベルな書き込みをして、
それを自分で罵倒するのは良くあることだ。
328夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 22:37:00
>>325
古田武彦は
西南→西
329日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:40:55
>>328
許容誤差だな。

畿内説の場合は、確信犯による原典改竄。
330のんびりひまじん:2008/09/16(火) 22:41:04
>>319
>白村江敗戦後のトンデモ説:九州王朝なんてなかった(日本書紀)。
>大東亜敗戦後のトンデモ説:天皇たちはキバ民族の子孫に違いない(キバ民族説)。

追加します。もう黙ってません。
明治のトンデモ:畿内説

もともと、お飾りの天皇を、増飾のため、「邪馬台国なんぞ熊襲」というのが主流の九州説でした。
(事実認識において、熊襲=九州王朝の存在は前提)

その程度じゃ、飾りが不足だから「邪馬台国も天皇さまご先祖」と増強飾するため、
壹→臺
南→東    こんな強引(文献無視=事実歪曲)を言い出した非主流の近畿説でした。
※東西の帝国主義大学での、お飾り天皇をもっともっと増飾美化する競争だったと、そろそろ気付かれたい。

戦後、共産主義者たちが、非主流を採用しました。(科学的○○どうなってるの?)
その上、この板では
鉄→石    を追加ですって?(共産主義崩壊後のトンデモ説!)

目をさまそう! 近畿説生まれて100年、論拠のヒドサを自覚なされませ。
331ローガン:2008/09/16(火) 23:29:53
>>330

>>319
> >白村江敗戦後のトンデモ説:九州王朝なんてなかった(日本書紀)。
> >大東亜敗戦後のトンデモ説:天皇たちはキバ民族の子孫に違いない(キバ民族説)。

> 追加します。もう黙ってません。
> 明治のトンデモ:畿内説

> もともと、お飾りの天皇を、増飾のため、「邪馬台国なんぞ熊襲」というのが主流の九州説でした。
> (事実認識において、熊襲=九州王朝の存在は前提)
> ↓
> その程度じゃ、飾りが不足だから「邪馬台国も天皇さまご先祖」と増強飾するため、
> 壹→臺
> 南→東    こんな強引(文献無視=事実歪曲)を言い出した非主流の近畿説でした。
> ※東西の帝国主義大学での、お飾り天皇をもっともっと増飾美化する競争だったと、そろそろ気付かれたい。

> 戦後、共産主義者たちが、非主流を採用しました。(科学的○○どうなってるの?)
> その上、この板では
> 鉄→石    を追加ですって?(共産主義崩壊後のトンデモ説!)

> 目をさまそう! 近畿説生まれて100年、論拠のヒドサを自覚なされませ。
332日本@名無史さん:2008/09/17(水) 00:03:04
>>330

のんびりひまじんの化けの皮を剥いでやるか。

邪馬台国は九州でいいよ。
で、その後、邪馬台国はどうなったの?

遅くとも4世紀には、畿内を中心に前方後円墳体制を軸とした王権が出来た。
遅くとも7世紀には、畿内に大和朝廷が成立していた。

九州は、歴史上、確実に、畿内の大和王権の傘下に入っている。
さて、九州の邪馬台国は、いつの時点で畿内の大和王権にひざまずくことになったのでしょうか?
弥生時代には九州は豊富な鉄器を持ち、畿内を凌駕していたのに、
なぜ、九州は畿内に屈服しなくてはならなかったのか? その理由は?

答えてみなさい。

333ローガン:2008/09/17(水) 00:03:42
>>330よこから失礼。
帝国主義とか共産主義とか…
よく知りませんし、興味もありません。そこを指して声高にのべられても正直…引いてしまいます。
私は記憶として学生運動をかろうじて知っている世代ではあります。
ただ、右であれ左であれ、自己逃避のすべを求めているような気がして…
上手く書けませんが、そういう思想 云々はさておき、個別の案件についてぼちぼちでもお話できれは幸いです。
334ローガン:2008/09/17(水) 00:07:32
>>331はミスです。失礼しました
335日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:19:32
× 遅くとも4世紀には、畿内を中心に前方後円墳体制を軸とした王権が出来た。
× 遅くとも7世紀には、畿内に大和朝廷が成立していた。
× 九州は、歴史上、確実に、畿内の大和王権の傘下に入っている。

○ 遅くとも4世紀には、畿内王国が滅びて非軍国主義国家を樹立、九州も含めた
   諸国連合を軸とした新王権が出来、前方後円墳造営に注力し儀式を重んじた。
○ 遅くとも7世紀には、畿内に九州王朝副都心が成立していた。
○ 九州は、歴史上、確実に、畿内の大和王権を傘下にしている。
336日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:44:39
サイキバ君乙。
337のんびりひまじん:2008/09/17(水) 02:06:49
九州王朝の滅亡は
712(続日本紀の和銅5)年と思われる。←この年に九州年号が大長9年で終わる。
713(和銅6)年秋7月5日隼賊を討伐した将軍士卒1280余人に叙勲(続日本紀)。上記九州年号消滅と対応する。
        ただし、これだけ大勢の叙勲なのに、対応する戦闘描写がない。例によって
        九州王朝かくしが日本書紀から続いている。
注)九州王朝かくし:例えば首都(太宰府)の建設がかくされている。考古学現象として、日本列島最初の都城なのに建設経緯不明。
          ここで都城というのは、中央官庁の官庁街+公務員住宅群その他で人口数万規模。 

九州王朝かくしの事情については、白村江敗戦犠牲についての憎しみとして次回としよう。
338日本@名無史さん:2008/09/17(水) 02:19:33
>>337

そうか、のんびりひまじんは、九州王朝だったかwwwww


おぼえておこうwwwwwwwwwww

339日本@名無史さん:2008/09/17(水) 02:38:32
ローガンは、邪馬台国畿内自生説。

夏祭は、九州勢力東遷邪馬台国設立説。

漢籍をちゃんと読み、考古学をまっすぐ見れば、
二人のような過ちに陥りません。
良い子は二人のマネしちゃいけません。
340のんびりひまじん:2008/09/17(水) 03:47:42
>>338
九州王朝説は、いまのところ諸現象を説明できている仮説だから有力と考えるだけ。
九州王朝VS近畿王朝ではなくて、九州王朝内の好戦的首都太宰府派VS平和的副都関西派(+在地豪族)だったのかも分からない。

実は、九州王朝が見えてくるにつれて、とんでもない憎まれものと考えつつある。これじゃ抹殺したくもなるだろうと。
九州王朝≠東條英機・富永恭次・辻政信・・・・VS明仁陛下のご先祖
341日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:04:25
大和の天皇自身が、「真人」などを「賜姓」されているのも、九州王朝抜きに考えがたい。
342日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:04:37
>>340
>実は、九州王朝が見えてくるにつれて、とんでもない憎まれものと考えつつある。

我田引水
343日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:17:29
思い込みとは恐ろしい。

かつて、細菌の存在が知られていなかった時代が長かった。
かつて、九州王朝の存在がしられていない時代も長かった。

いまだにこんな思い込みが闊歩している。
→「邪馬台国なんてヤマトと読むにきまってるじゃん」
→「古代、ヤマトの天皇以外に、日本の最高権力者などいるわけないじゃん」
→「九州なんてド田舎に、マトモな王国なんかあるわけないじゃん」
→「畿内の前方後円墳こそ、古代の最高権力と最高国力の証にきまってるじゃん」
→「記紀こそが、大和朝廷が日本を支配してきた証拠じゃん」
・・・これ、全部思い込みです。まったくのマチガイなんです。
344夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 07:28:55
>>329
それなら南→東だって許容誤差だよお前w
>>333
必死でしょう、こいつら。
短絡的なイメージで「畿内説=皇国史観」と決め付けて、
まともに戦おうともせずに廃棄しようとする。
神武実在を主張する自分を右翼扱い。
親父の代からの共産支持なのに…
イデオロギー関係なく、古代史を語れる日が来ることを望んでます。
神武実在=右翼なんてレッテルが張られなくなることも。
原田大六氏もこういう目にあってるんですよ。
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 07:38:49
90度のズレはダメだな。許容範囲は30度くらいまでだが、場合によっては

 α<45°  だろうな。それ以上はありえない。
346日本@名無史さん:2008/09/17(水) 07:56:51
>それなら南→東だって許容誤差だよお前w
すげぇ 畿内説
347日本@名無史さん:2008/09/17(水) 08:00:57
皇国史観と結びつけられるのは、神武なんて呼称を使うからだよ。
ヤマト王権の開祖は、九州出身。
その時代は一世紀のこと、とか言うだけでいいじゃん。
立証しがたい仮説であることは間違いないけど。
348日本@名無史さん:2008/09/17(水) 08:48:22
>>340 のんびりひまじん
>実は、九州王朝が見えてくるにつれて、とんでもない憎まれものと考えつつある。
>これじゃ抹殺したくもなるだろうと。

自分達が受け入れられ無いのは 、それが都合の悪い者達に阻害されているからだと・・・
陰謀説の典型的パターンだなwww

かつてオウムは自分達の存在はアメリカに都合が悪くよって徹底的に潰されたとか言い
ミラーマン植草教授は舌鋒鋭く政府を批判する自分が邪魔で政府により濡れ衣をかぶせられたとか言ってたなwwwww

やっぱ九州王朝説の連中って脳味噌沸いとんのか?wwwwww

目を覚ませ九州王朝説のアホども!

てめーらが世間一般に相手されないのは
「とんでもない憎まれもの」
…じゃなくて単に
「トンデモなもの」
だからだ!!wwwwwwwwwwww
349日本@名無史さん:2008/09/17(水) 09:06:03
まあ畿内説にも色々あるが・・・

白石センセイなんか盟主の座は複数の有力氏族の間を移動していた・・・なんて言ってんだぞ?w
もう、そうなると「三朝交替説」すら吹っ飛ぶわなwwwwww

所詮、九州王朝説は大和王朝皇国史観のラベルを九州王朝に張り替えただけのもの。
1枚のコインの裏表wwww

九州王朝説のアホどもってのは
実は大和皇国史観を羨望していてそれにとって変わろうとしたか

それともそれに対する反感のあまり 木乃伊取りが木乃伊になっちまった なれの果てか?wwwwwwww
350のんびりひまじん:2008/09/17(水) 10:12:56
>>340途方も無いミスを訂正させていただきます。
>九州王朝≠東條英機・富永恭次・辻政信・・・・VS明仁陛下のご先祖

九州王朝∽東條英機・富永恭次・辻政信・・・・VS明仁陛下のご先祖

今も東條たちを憎む人が多いだろう。同様に、白村江敗戦につながった
一連の朝鮮半島への出兵・干渉への恨みは深かったであろう。抹殺したくなったであろう。


351九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 12:16:36
新スレを建てた後、何故か全板で、どのIDでも、突然書き込みできなくなりましたので、
遅レスになりました。

>>266
周旋は一周(往復)か半周(片道)かについて迷いました。
半周説なら倭群島の大きさは径可三千二百里となるので方可3千里を併記しました。

この場合女王國は倭群島の北端(末羅國)から600里の位置になり、
女王國(女王國の北端の国は不彌國・万二千餘里より)は倭の北部の位置になり、
狗奴國が女王國と比べて巨大過ぎないかとの疑問が出てきます。
しかし、投馬國、邪馬壹國が筑後平野であり狗奴國が肥である説とうまく合致します。

僕は周旋半周説が適切と思います。周旋が半周でも良いこと示す類例でもあれば決まりだと思います。
352河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/17(水) 12:30:11
>>351王朝さん。お久しぶりです。

「周旋」は半周ではなく、周する事が出来る、その折り返し地点を周旋と言います。
形は左右対象とばかりとは限らないので、半周と言う限定された言葉は使えません。
周旋が一周なら、「周〇〇」で言葉は足ります。
353日本@名無史さん:2008/09/17(水) 15:50:24
プラム=河童虫 → 字引を勝手読みするだけのレス
354日本@名無史さん:2008/09/17(水) 16:07:47
>>351
周旋は半周という理解で結構だと思いますが(>352は私には意味不明)、「この場合
女王国は〜」以下の意味が理解できません。女王国をどのように理解するのでしょうか?
355日本@名無史さん:2008/09/17(水) 16:10:02
356夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 17:11:01
>>345
でもよ、古田説では「魏志倭人伝はどこも間違ってない」んだろ?
だったら「西南→西」はまずいよな。
畿内説や一般的な九州説は「魏志倭人伝はどこかが間違っている」と考えている。
だから根拠を持って色々解釈したり修正すると言う行為は必要になってくるんだが
「魏志倭人伝は全て正しい」と言っている古田御大が
「西南→西」はまずかろう。
>>346
「魏志倭人伝は全て正しい」と銘打っておいて
「西南→西」の方がもっとすごいよ。
>>347
フハハハハ!
全く同じことを主張しても、名称次第で左右が分かれるのか!
共産党が作った「天皇制」と言う言葉を使ったら即共産党支持か!
357夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 17:16:17
>>349
拍手!
九州王朝説なんてのは所詮、
「悠久の大和王権、筑紫なぞ偏狭に過ぎぬ!」
という北九州蔑視史観を裏返しただけ。
悪(皇国史観)を打ち破る正義の味方(九州王朝説)…
実はその正義の味方も形を変えた悪に過ぎなかった…
20世紀少年みたいな話だが、これが現実だ。
358日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:19:43
厳格に360℃で書けば当然誤差はある。人の背丈もある草ぼうぼうの倭地で、
現代地図上でのわずかな方位誤差はありだ。
これは、畿内説の根本思想=原典改竄自由自在とは、似て非なる内容。
359日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:21:47

夏祭の妄想


  神武天皇=邪馬台国建国者=天皇家始祖=大和朝廷始祖

歴史って、こんな単純じゃないんですよ、夏祭さん!!
360日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:33:32

九州王朝説(笑)

361日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:38:27
壬申の乱で、あっさり崩壊した畿内王権。弱いからいつも崩壊しちゃってます。
362日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:02:34
>>361
お金、返して!
363九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 18:15:26
>>352
>「周旋」は半周ではなく、周する事が出来る、その折り返し地点を周旋と言います。

やはりその様な意味でしたか。
半周とは、倭群島が円であると模式化した場合の折り返し地点のことです。
倭群島が円形をなしているとの意味ではありません。
倭群島の面積を推定する為の手段として模式化しました。
364九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 18:50:09
>>354
女王國は帯方郡から12000里の位置にあります。
魏使の行程記事から、不彌國が郡から12000里の位置になります。
故に不彌國は女王國であることになります。
魏志のルートから外れ餘旁國であるはずの奴國が敢て記載されているのも
群から12000里の女王國であることを示していると思います。
不彌國の南にある投馬國と邪馬壹國も女王國になります。
女王國内の大国である投馬國と邪馬壹國の郡から距離がわからなくなるので、
それら国名の後に「水行二十日」「水行十日陸行一月」と記載し、
郡からの距離を示しているのです。
又これらの表現は投馬國が海岸沿いの国であり、邪馬壹國が内陸国であることを示しているのです。

奴國、不彌國、投馬國と邪馬壹國の4ヶ国連合が女王國です。
だから邪馬壹國のことを「女王之所都」とわざわざ書いてあるのです。

複雑なことを簡潔に表現する
陳壽さんはすごい。
365日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:03:11
>>364
>奴國、不彌國、投馬國と邪馬壹國の4ヶ国連合が女王國です。
>だから邪馬壹國のことを「女王之所都」とわざわざ書いてあるのです。

ここだけは正解かな。
邪馬台国は畿内大和だけど。
投馬國は、吉備だろう。

366日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:05:18
>>364
それで、周旋五千里は具体的にはどこからどこまでの距離ですか?
伊都国、不弥国、投馬国、邪馬台国はどこに比定するのですか?
367日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:15:15
松木武彦の列島創世記を読んだが、説得力があったな。

結局マキムクが強大化したのは、畿内地域ではいまだ鉄が寡少で、
遠隔地交易の窓口足り得る指導者に権力が集中した結果だと。
368河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/17(水) 19:15:26
>>363
「周旋」(周す事の出来る折り返し地点)は、
『舟行一年至參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連』
倭地で最も遠い『可五千餘里』(韓域より若干大きめ)の島に周旋の地点はあります。
369九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/17(水) 19:48:30
>>366
倭の領域は九州島および附属諸島全体です。
薩摩と大隈は倭領域の認識外だったかもしれません。

伊都國:佐賀市大和(肥前国庁付近)
不彌國:吉野ヶ里
投馬國:筑後平野海岸沿い(神崎市千代田大川市以南)
邪馬壹國:筑後平野内陸部(八女市以北)及び北野地域(卑弥呼の城郭は久留米市南部)
370日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:26:29
>>369
伊都国、不弥国は合格。しかし、投馬国、邪馬台国は×。
あなたは、自分が文章を書くときに、帯方郡からの日数ということで倭人伝
のような書き方をしますか?
私ならば、必ず「自郡至投馬国」と書きます。それに、帯方郡からの日数を
書いただけでは、投馬国、邪馬台国が不弥国などとどうゆう位置関係にある
のか分かりませんね。陳寿は評価が高かった史家。変な書き方はしていない
はずと信用して、変な読み方はやめるべきです。
371日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:30:41
投馬国は吉備。
邪馬台国は大和。

こんなの常識だろ。
372日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:37:48
単なる思い込みです>>371
373日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:41:20
>>371
何も考えないで、そう思い込んでいるのですね。典型的畿内説論者と言うべきかな。
もし、倭人伝との関係を考えたらどうなります?
たまには、頭を使って答えてみませんか?
374日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:49:33
アインシュタイン曰く

『 常識とは十八歳までに身につけたしまった、偏見のコレクションのことをいう・・ 』

>>371 pu

375日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:13:09
アインシュタインこそ、思い込みの塊。

宇宙が膨張することも認めなかったし、
量子力学も認めなかったな。
376日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:34:19
絹や鉄鏃の出土量が九州>>>>畿内を認めない畿内説より、
アインシュタインのほうがマシ。
377日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:42:45
>>376

鉄器や絹の豊富な北九州が、どうして4世紀には畿内王権に屈したのか説明ができなければ、
鉄器や絹の量と邪馬台国を結びつける因果関係の説明にはなりません。
378日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:43:04

>>364
魏書には東夷伝の他にも西域伝などがある。東夷伝が特別ではなく、
他の伝紀も含めて勘案して倭人条を解釈していく必要がある。
少なくとも、西域伝には「鮮卑」の説明があり、鮮卑の東西の範囲
を14000里として説明している。東夷伝による倭国12000里に
対して鮮卑の範囲が14000里である。
知ってのとおり、鮮卑は旧の匈奴の範囲で今のモンゴル程度はあった
とされる国である。
googleマップのアドレスは以下のとおり
ttp://maps.google.co.jp/

九州説派による短里の行程解釈は、東夷伝に限定した解釈にすぎない。
三国志全体から読む必要があり、伊都国からの放射状行程なんかは結
論です。他に放射状行程で説明している伝記はあるのでしょうか。

また、魏書東夷伝には「扶餘」についても記載されており、戦前の満
州国の範囲であった国である。東夷伝の扶餘之条で其国は、万里の長城
より北、南は高句麗に、東は邑婁に、西は鮮卑に接し、方約二千里の
範囲に及んだと記載されている。

満州国が方2000里と明記されている分けです。帯方郡(現ソウル
付近)から邪馬台国が12000里であれば、北部九州なんて考えられ
ない。なぜ、三国志全体から、倭人条を解析しようとしないの??
379日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:45:41
そんなことには、一切関係がありません。
魏志倭人伝の描写にしたがって、記載どおりかどうかを判定するだけです。

また、4世紀初頭に畿内を支配していた国家が滅亡していることは、ご案内のとおりです。
380日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:48:04
三国志全体には短里で記載されているものが相当あります。
極東の記載は短里ですから、帯方郡から短里で12000余里は
北部九州になります。
381日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:23:50
>>380
短里ってなんだ?
382日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:27:28
>>379
>また、4世紀初頭に畿内を支配していた国家が滅亡していることは、ご案内のとおりです。

なんの論拠も示されていませんなあ。
どうしてこう、九州王朝説は、九州が日本を支配したなどという傲慢な戯言を平気で口にするんでしょう?
383日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:44:33
>>377
>鉄器や絹の豊富な北九州が、どうして4世紀には畿内王権に屈したのか説明ができなければ、
>鉄器や絹の量と邪馬台国を結びつける因果関係の説明にはなりません。

邪馬台国の問題でどうして畿内王権の説明が必須なのか意味不明です。

倭人伝に書かれていないような固定観念は一度捨ててみてはどうでしょう?
384日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:49:33
>>383

おまえの頭には倭人伝しかないわけか?

考古学も日本書紀もこの世には存在しないわけか?

これが倭人伝原理主義ってやつだな。
倭人伝を、聖書やコーランのごとく絶対神聖視し、邪馬台国は九州にあったと盲信するわけだ。

385日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:52:42
邪馬台国って漢籍にしか出てこないんだよ。
前方後円墳のサイズや数で決めちゃダメです。
そんなものは漢籍に出てきませんから。
386日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:57:30
>>378
>魏書東夷伝には「扶餘」について〜方約二千里の範囲に及んだと記載されている。
>満州国が方2000里と明記されている分けです。
一方で、高句麗は方二千里、韓は方四千里とされていることをご存じでしょうか?
あなたの理解で、これらの国々が重なることなく存在し得るのですか?
387夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 23:07:50
>>371
常識が何故常識なのか分からない人の事も考えてあげなよ。
388日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:09:13
>>384
>考古学も日本書紀もこの世には存在しないわけか?
存在するけど、それで?

もしかして、考古学や日本書紀が存在したら、
魏志倭人伝に書かれてあることを無視し、
書かれていないことの方を尊重することの理由になるとでも考えてます?

そうだとしたら、めでたすぎ。

魏志倭人伝の問題を
魏志倭人伝を無視する方法でしか語れない畿内説はすでに詰んでます。
チェックメイト!
389ローガン:2008/09/17(水) 23:24:42
>>379

> そんなことには、一切関係がありません。
> 魏志倭人伝の描写にしたがって、記載どおりかどうかを判定するだけです。


サイキバ君こんばんは。 「一切関係ない!」ですか?邪馬台国の所在を考える際、倭人伝以外は一切関係ないとお考えなのですね?

それはそうと、貴方が「中国は漢以来薄葬」とした根拠に、文帝薄葬の詔を挙げた事に対して、
それは根拠にはならないのではないかという旨の質問をしました。
何度も回答の催促をしましたが、ずっとスルーですね。
なぜですか?

又、「樟(クスノキ)は畿内にはなかった。その存在は全て楠正成に纏わるもの以降である」
に対する反論として、樟本神社を挙げました。樟本神社三座が楠正成以降だとすれば、
延喜式は南北朝を下ると考えねばなりませんが、如何ですか?
390日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:30:38
>>388
邪馬台国が九州にあったと「仮定」しても、
その「仮定」は、4世紀以後の歴史と矛盾するわけです。
よって、邪馬台国が九州にあったという「仮定」は間違いとなるわけ。

九州説の人が何を言っても、4世紀以後は王権が畿内で誕生してることは事実。
弥生時代末では、九州には鉄器が多く、畿内では乏しい。
しかし、古墳時代では畿内にも鉄器が流れてきます。
つまり、九州に鉄や絹が多くあったとしても、九州一島だけではクニが維持できず、
畿内王権の傘下に入るしかなくなったというわけ。

で、九州が畿内王権の傘下に入ったのが、3世紀。
なぜ3世紀かというと、北九州は3世紀から衰退を始めてるからです。
391日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:39:37
卑弥呼は、箸墓のヤマトトトヒモモソヒメです。

崇神天皇が死んだのは、古事記干支で318年と推定した場合、
ちょうどその頃に大きな影響力を持っていた巫女がヤマトトトヒモモソヒメだからです。

これだけ、考古学・文献ともに状況証拠が揃っているにも関わらず、
魏志倭人伝の方位の間違いだけに拘って九州説を唱えるのは愚かであり滑稽です。

392日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:55:43
>>390
>邪馬台国が九州にあったと「仮定」しても、
>その「仮定」は、4世紀以後の歴史と矛盾するわけです。
>よって、邪馬台国が九州にあったという「仮定」は間違いとなるわけ。
事実と自分自身の希望はちゃんと分けるべき。
矛盾を指摘するには論理的な説明が必要。

証明ってのは貴方が思っているほど楽なもんじゃないよ。
希望的観測を並べることだけが証明だと思ったら大間違い。

そもそも邪馬台国の問題と4世紀以後の歴史とは別問題。

二つの結びつきを証明してから、多くの類例を参考にして矛盾を指摘しないと、
誰も理解できないよ
393ローガン:2008/09/18(木) 00:22:32
薄葬を言わなくなったら、鉄! 鉄! 鉄の連呼。
(森岡)弥生X様式の初め、かなり鉄器が普及していなければ、これだけ石器は減らないなと言う印象がありますが、減少した分に見合う鉄製品はまだまだ出ていないように思います…(中略)
石器の激減した背景に鉄製品の浸透を考えないと、道具が無くなるという時期があるわけです。(シンポジウム弥生時代の考古学)

X様式以降、畿内に鉄がなかったとは考えられない。
つまり結果として九州は埋納方法が遺物としての残りが良かった。
古墳時代に鉄製品が畿内で多く見られるのは、急増したというより遺物として残りの良い「古墳」に入れられたからではないでしょうか?
又、土壌の酸性度の違いに言及する人もいますが… 未確認ですので又改めて。
394日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:24:28
>>392
>そもそも邪馬台国の問題と4世紀以後の歴史とは別問題。

別問題ではありません。
邪馬台国は、3世紀の倭国。
大和王権は、4世紀の倭国。

もし、3世紀の邪馬台国が九州なら、
4世紀になったとたん、九州の邪馬台国が消滅し、畿内に大和王権が登場し、
関東北部まで勢力が広がり前方後円墳を作らせたことになります。
大和王権といえど、それほどの急激に影響範囲を拡大するような力を持ちえたとは考えられません。
ましてや、九州勢力が東遷して一気に関東北部まで勢力下にしたとも考えられません。
よって、3世紀の時点で、すでに九州〜西日本〜関東は、
畿内中心の邪馬台国連合に参画していたと考えるほうが、はるかに合理的なのです。

この合理的解釈を否定するためには、以下の3説のどれかを立証する必要があります。

A、3世紀末から4世紀初頭までの短い期間に、畿内が九州を攻め滅ぼした
B、3世紀末から4世紀初頭までの短い期間に、九州勢力が関東北部まで制圧した
C、九州王朝説

A,B,Cの立証は、畿内説より、はるかに困難です。


395日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:26:04
>>391
崇神が死んだのは、日本書紀によれば前30年(古事記では前43年説がある)。それを
後世の学者が勝手に3、4世紀のはずだと考えて「修正」しているに過ぎません。
しかも、崇神の存在も、ヤマトトモモソ姫の存在も確認されていないはずです。
箸墓の被葬者は本当に女性ですか?棺があるだけで槨がないことは確認されていますか?
確かな状況証拠は一つもないように見えますが、いかがでしょうか?
396日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:32:47
>>394の論点から、
もしも、邪馬台国が九州にあったとした場合、
考えられるシナリオは、「九州の邪馬台国の自滅」。

九州の邪馬台国は、なんらかの要因で自滅し、
畿内王権の傘下に入るしかなくなった、というもの。
畿内大和は、九州が自滅してくれたおかげで、鉄を入手できるようになったというものです。

この邪馬台国自滅説に賛同してる九州説の人は、サガミハラハラ氏だけのようですが、
大多数は受け入れがたい説でしょうね。

397日本@名無史さん:2008/09/18(木) 05:08:26
畿内は皇国史観歴史学者によって
土器など200〜300年歴史が早められてるから
その分遅くかんがえないと正確な時代考証はできないよ。
逆に北九州は没落したわけでもないのに古墳時代は人っ子一人いないように印象操作されてるしね。

398太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 06:53:11
>>390
3世紀は九州を傘下には出来ていない。倍暦計算にて

 景行即位年=293年

これは3世紀末で、景行は九州行幸してはいるが、これは傘下に
入ったんではない。旅行しただけのこと。

畿内が九州にだいぶ影響して来たのは雄略天皇の御世だ。このころ
天皇の勢力が関東、九州くらいまで拡大している。稲荷山鉄剣と
江田船山鉄刀銘文からそれがわかる。景行のころはまだ朝廷の勢力
は紀無い一円くらいだぞ。
399太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 07:01:43
>>391
倍暦計上にて

 崇神崩御=259年

である。これは古事記の崩年干支と1年違いであり、非常に同干支
が正確であったことが云える。
モモソヒメは卑弥呼に似た個所がある女性であり時代もほぼ合致
しているが、卑弥呼ではない。エリザベス女王がサッチャー首相
だとするのは野球の盗塁失敗のごとき業。紀無い説はこの前の
北京での女子ソフトボールの準決勝あたりでの日本チームの3塁を
伺って飛び出しすぎて相手チームに2塁送球で刺されたその浅はかな
その飛び出しがあんたの考え。紀無い論者はこういう無理な盗塁行為
が大好きのよう・・・。
400日本@名無史さん:2008/09/18(木) 07:09:28
>>394
>もし、3世紀の邪馬台国が九州なら、
>4世紀になったとたん、九州の邪馬台国が消滅し、畿内に大和王権が登場し、
>関東北部まで勢力が広がり前方後円墳を作らせたことになります。
ここまでは順序立てた説明。おそらく多くの人が理解できるでしょう。

>大和王権といえど、それほどの急激に影響範囲を拡大するような力を持ちえたとは考えられません。
>ましてや、九州勢力が東遷して一気に関東北部まで勢力下にしたとも考えられません。
ここは貴方の憶測。何か可能で何か不可能かの証明もなければ説明もありません。

>よって、3世紀の時点で、すでに九州〜西日本〜関東は、
>畿内中心の邪馬台国連合に参画していたと考えるほうが、はるかに合理的なのです。
ここは貴方の希望的観測。合理的と主張するだけの説明がありません。
また、この希望的観測を理由に魏志倭人伝を全面無視するのは本末転倒。

>この合理的解釈を否定するためには、以下の3説のどれかを立証する必要があります。
魏志倭人伝を改ざんしてまでも上記の憶測が合理的であるという立証がなければ
敢えて否定する必要もなし。肯定されてないものを否定する必要もありません。

そもそも魏志倭人伝の記述を全面否定して、
魏志倭人伝の記述を実証することは可能なのでしょうか?
401太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/18(木) 07:10:08
>>395
倍暦の精緻な計算は重要である。紀は通常の等倍暦での記述で
あるから、素通りで時代を考えるといつになっても合うことはない。
同計算にて

 崇神即位=237年=景初元年
 同 崩御=259年

だから天皇は3世紀の人物で卑弥呼と時代がだいぶ合う。

この天皇は稲荷山鉄剣銘文から朝廷の配下オオビコと天皇のシキ宮
の記載があるから、天皇の実在は堅い。
402夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/18(木) 07:30:54
>>384
いや、倭人伝原理主義は違うだろう。
倭人伝を素直に呼んだら、北九州の中に邪馬台国は持っていけれない。
403日本@名無史さん:2008/09/18(木) 08:02:37
それにしてもいつから文献史学の問題において、
対象とする文献を読んだら原理主義と呼ばれるようになったのだろうか?

鉄器が畿内では融解してしまうなど、考古学的な事実に反するのは問題だけど、
考古学的事実は事実として捉え、文献の記述も自己都合で改ざんしない範囲、
九州説は非常に常識的な研究手法をとっていると思うよ
404ヨコからだが・・・:2008/09/18(木) 08:12:46
405ヨコからだが・・・:2008/09/18(木) 08:18:41
>>395
おいおい、それ言い出したら九州説がヤバイんじゃないのか?wwww

「古墳時代は4世紀から」
と言う年代観は祟神が3・4世紀に実在し
死んだと言う前提で成り立っているんだから…。


まさか小林説の三角を舶載としての部分を採る訳じゃないだろうしwww
406日本@名無史さん:2008/09/18(木) 09:06:18
まあ九州説は現状自分達のアドバンテージを
「自説こそが魏志倭人伝に忠実に添ったものなり」
と繰り返すしかないわけだが・・・

畿内説を攻撃する時には
「魏志倭人伝を無視している!」
と威勢良いが
自説で倭人伝を読み替えする時には自分が言った事を忘れているアホぶりw

古くは「陸行一月」を「陸行一日」としたりw

さらに「漢籍」と言う範囲に広げれば「太平御覧」に連続式で書いてあっても放射式を平気でとったり
隋書の裴世清の件も「それは邪馬台国の後の当時の畿内大和に合わせて書いたもの」
となる(あ、九州王朝説に基づく電波はこの場合カンベンなwwwww)

じゃあ仮に九州から年代や規模から邪馬台国の有力候補が出てそこに卑弥呼の墓かもしれないものがあっても
奴婢百人の殉葬の跡が認められなければ邪馬台国・卑弥呼云々言わないんだろうな?www
無論人口規模も7万戸は厳にクリアしてもらわんとなwww

つうかその場所を「会稽の東治の東 」、同じ緯度の地に求めてもらわないとなwwwwwww
407日本@名無史さん:2008/09/18(木) 09:43:04
九州だ畿内だと騒いでいるうちはお子ちゃま会話だから、とるに足りない戯言と。
408日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:11:27
>>406
>「太平御覧」に連続式で書いてあっても放射式を平気でとったり
本来の倭人伝が放射式、太平御覧が連続式のときには、どちらが正しいか慎重に
検討しなければいけないのは当然ですよ。

>「会稽の東治の東 」
読み方が間違い。正しくは「会稽と東冶の東」です。

> 同じ緯度の地に求めてもらわないとな
当然です。記録者に若干の誤解はあるかも知れませんがね。
409日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:20:46
>>405
古墳はいつからでも、正しい答えがでるならそれで結構なのですよ。
もっぱら考古学的に考えるべき問題でしょう。
私は崇神などはまったく基準にしていません。
崇神やモモソヒメを実在の人物と考えて論を立てるのは間違いの元ですね。
410日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:27:27
>>402
そのとおり。北九州説も近畿説も倭人伝をトンデモ読みしなければ成立しないのです。
411日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:28:09
>>409
>崇神やモモソヒメを実在の人物と考えて論を立てるのは間違いの元ですね。

それは首肯できるw

年代観で争う九州説がよって立つ
「古墳時代は4世紀から」 なんて旧来の年代観は
なんの根拠も無いと言う事だなwwww
412日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:38:30
この世に「魏志倭人伝」なるものがあろうと無かろうと

 古墳時代が旧来言われていたより早く3世紀中頃には始まっていたんではないのか?

 纏向の地に発生した前方後円墳と言う埋葬文化を軸に広範な首長連合が形成されていたのではないか?

 もし3世紀に魏志倭人伝に出てくる邪馬台国があったとするのなら畿内大和が一番蓋然性が高い。

…と言う事なんだろう。

無論魏志倭人伝との齟齬を取り出してそれを否定する事は幾らでもできようが
じゃあ九州にそれより蓋然性を持った遺跡や事象が無ければ畿内説の相対的優位は変わらないぞ?ww

でないと最後には
「九州説が言う魏志倭人伝に描かれた通りの邪馬台国なんて本当にあるのか?」
って話になり兼ねないwwwwwww
413日本@名無史さん:2008/09/18(木) 11:01:45
>>396の通り、魏志倭人伝と考古学の齟齬を埋めるなら、
3世紀まで九州に存在した邪馬台国は、4世紀初頭に自滅したという説が最も妥当。

弥生時代末まで鉄器が乏しい畿内に、古墳時代から鉄器が流入したこと。(畿内説の欠点)
前方後円墳が4世紀から北関東まで拡大したこと。(東遷説の欠点)
邪馬台国の朝貢が4世紀から途絶えたこと。(九州王朝説の欠点)

あとは、九州説論者が、自分達の好きな邪馬台国が自滅したという仮説を受け入れるか、
畿内説論者が、邪馬台国と大和王権を同一視するのを諦めるか、それだけだ。
414日本@名無史さん:2008/09/18(木) 11:34:33
>>413
仮に4世紀になって九州邪馬台国が消滅したと言う事にしても

じゃあ4世紀まで九州に邪馬台国が存在していたと言う考古学的資料は?
・・・って問題があるのではないかな?

邪馬台国を中心に30ヶ国ほどの勢力圏があったと言う根拠を何に求めるか?
それを、九州説は良く弥生時代通しての遺物を挙げるが
そんな?%
415414:2008/09/18(木) 11:37:37
>>413
仮に4世紀になって九州邪馬台国が消滅したと言う事にしても

じゃあ4世紀まで九州に邪馬台国が存在していたと言う考古学的資料は?
・・・って問題があるのではないかな?

邪馬台国を中心に30ヶ国ほどの勢力圏があったと言う根拠を何に求めるか?
それを、九州説は良く弥生時代通しての遺物を挙げるが
そんなものは言うなれば「過去の栄光」だw

ピンポイントで邪馬台国時代の九州独自の威信財体系・埋葬文化等々・・・これらが出てこないから
今日九州説が下火になっていると介してしるんだがwwwwwwwwww
416日本@名無史さん:2008/09/18(木) 11:44:36
>>413
>弥生時代末まで鉄器が乏しい畿内に、古墳時代から鉄器が流入したこと。(畿内説の欠点)

古墳時代になっていきなりに鉄器が畿内に流入したと言うのは「?」だな。
ややタイムラグがあると思う。

実際、纏向は皆無ではないがそれでも鉄器の出土は少ないと言わざるを得ない。
まあ本格的古墳時代を纏向以後とするかもしれんが・・・

そもそも畿内説でも卑弥呼の共立・畿内邪馬台国の勃興を
鉄器の入手ルート確保に求めるか否かは意見が分かれている所wwwwwwwwwww
417日本@名無史さん:2008/09/18(木) 12:29:48
  金印>銀印>銅印>泥印  中世の琉球(金メッキ銀印)

日本は古代より金印(公印)>韓国は泥印(公印)銅印(私印)であり
中世の地位は琉球(金メッキ銀印)>朝鮮,銅印(公印)でしたとさ。
哀れ韓国。
http://www.geocities.com/lookeast20022002/wa.html
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfriend&page=13&nid=50586

「倭国」・・「漢委奴国王」・金印
「邪馬台国」・・「親魏倭王」・卑弥呼,金印紫綬
「クシャン朝」・・「親魏大月氏王」・ヴァースデーヴァ(波調)金印紫綬
「雲南,滇王」・・「滇王之印」・金印
「光武帝の子」・・「廣陵王璽」・金印
418日本@名無史さん:2008/09/18(木) 12:31:21

後漢光武帝の建武元年(25年)に復設された制度として、諸侯王には金璽綟綬(きんじれいじゅ)、
公候には金印紫綬、九卿などの中二千石・郡太守などの中二千石・校尉や中郎将などの比二千石には
銀印青綬、以下は銅印黒綬、銅印黄綬が与えられている。

「倭韓遂屬帶方」倭韓は
帯方太守の管轄下にあったはずであるが、太守の銀印青綬より位の高い金印紫綬を卑弥呼は得ており、
「難升米を以て率善中郎將となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し」ということで、彼等が
同等となり、太守の心境は複雑であったろう。

使いの者と帯方太守が同等とは、倭国の評価がそれだけ高かったと言える。
419日本@名無史さん:2008/09/18(木) 12:51:15
>>418
内臣と外臣の違いがある。
420日本@名無史さん:2008/09/18(木) 15:30:47
いずれにしても、畿内に鉄が乏しく、九州に鉄が多いことで九州の優位性を唱えることは、
畿内に鉄が流れた時点で、九州は優位性を失ったことを認めるわけですからね。
かつ、朝貢も途絶えたことで、鉄器の優位性を根拠に九州説に立てば、九州の内政が破綻したと見るしかない。
421日本@名無史さん:2008/09/18(木) 15:55:58
魏志倭人伝を自己都合に合わせて身勝手に取捨選択すれば、
火星でも南極でも、畿内にすら邪馬台国を持っていける。
422日本@名無史さん:2008/09/18(木) 16:04:13
金印もらったのは今で言う福岡あたりの国でその頃は畿内は弩田舎な。
423日本@名無史さん:2008/09/18(木) 16:14:05
>>420
鉄器は武器の材料。邪馬台国が必要な所に送っただけ。
424日本@名無史さん:2008/09/18(木) 16:39:06
いや九州から畿内に、必要な鉄器を下賜してやったから、畿内から鉄器がわずかに出る。
425日本@名無史さん:2008/09/18(木) 17:38:51
>>403
原田大六が「邪馬台国論争」をまとめたのは何のためだったんだろうかね…
「考古学的事実に反」し、「考古学的事実は事実として捉え」ず、
「文献の記述」を「自己都合で改竄」する、
「非常に常識的」でない九州説の実態が暴かれているというのに。
まあ、あの本は古いから、中々出回ってないわけで。
若い人たちが目にする機会に恵まれないのも仕方ないか。
426日本@名無史さん:2008/09/18(木) 18:00:38
人の著書の品表して、何か得られるの?
427日本@名無史さん:2008/09/18(木) 18:19:46
う〜ん、その原田大六ですら、誤りだらけの畿内説を攻撃している一方で、
九州王朝説に一目置いていたのは無視しちゃうわけね。
428427:2008/09/18(木) 18:30:44
>>427>>425へのレス
429日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:37:04
九州説は魏志倭人伝にある邪馬台国を探し、
畿内説は魏志倭人伝にない邪馬台国を探すってことで
とりあえずは平行線で落ち着きそうですね。
430サガミハラハラ:2008/09/18(木) 22:15:13
>>429
うまい表現ですね。座布団5枚。
431日本@名無史さん:2008/09/18(木) 23:34:13
>>430
調子に乗るな。
邪馬台国が滅亡したと考えながら、
高天原を九州起源の神話と考えるのは間違いだぞ。

記紀神話に卑弥呼が登場しないように、
魏志倭人伝にはアマテラスは登場しないのだからな。
432日本@名無史さん:2008/09/19(金) 16:50:03
古代日本人 = 倭人 X

古代日本人 = 奴隷 O

倭人 = 南方モンゴロイドを総称

後代に倭=日本列島 倭人=日本人で意味が縮小

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm

http://enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pmything&nid=36026
433日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:50:45
>>426
お前には読書の価値なんざ一生分からないんだろうな。
>>429
甘いな。正解は、
「九州説は遠方にあるはずの邪馬台国を近場に探し、
畿内説は南にあるはずの邪馬台国を東に探す」だ。
九州説は距離を縮めることの合理的理由(月は日の書き間違い、陰陽思想、放射式読み方説等)を探し、
畿内説は南を東へ持っていくことの合理的理由(南は東の書き間違い、太陽の運行、90度逆転地理感等)を探す。
どちらにも弱点は存在し、それを克服するために様々な方法を試みている。
それを忘れて勝手に九州説勝利宣言されても困る。
もっとも畿内説も、今の所考古学的に有利だというだけで、
平塚川添遺跡から親魏倭王印が発掘されたら一巻の終わり。
もっとも、この「親魏倭王印」の危険は、九州説にも常に存在することをお忘れなく。
434日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:54:04
「親魏倭王印」は動産だから、畿内で見つかっても畿内説の決定打にならないとされてますが。
435日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:06:51
そこまでして畿内で見つかった場合の予防線を張らなきゃいけないなんてw
436日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:08:40
阿蘇山を畿内から九州に動かしたとは初耳だ。
437日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:41:46
>>433
>「九州説は遠方にあるはずの邪馬台国を近場に探し、
>畿内説は南にあるはずの邪馬台国を東に探す」だ。
遠方にあるはずってのは貴方の想像でしょ?
根拠に「そう思う」ってのをもってくると何でも言えちゃうじゃん

それに比べると、
総里数から推定してそう遠くないと考えている九州説は至極まともと思うけど

それとも、畿内説は総里数も捏造しちゃいます? 1万7千里くらいに
438日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:47:22
いやいや、>>429は割とうまい事言ってると思うw

むしろ>>433の言う畿内説と九州説の対立軸は些か既に過去の物・・・と言う気がしないでもないwww

膨大な日数の問題にしても放射説がダメなら台湾のナントカ言う学者先生の言うように
天候が悪いと言っては休み、悪い卦が出たと言っては休み・・・
実際に移動に費やした日数はどれくらいか分からないとなればもう何でもありで
如何様にも逃げ道はあるw

>>429をアレンジして言わせてもらえば

 九州説は今だ見つからない邪馬台国を魏志倭人伝の中に探し
 畿内説は実在する畿内ヤマトに合わせ魏志倭人伝を読み解く

・・・って事でwwwwwwwwwwww
439日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:03:18
>>393 ローガン
>薄葬を言わなくなったら、鉄! 鉄! 鉄の連呼。
ローテーションだよ
ロ ー テ ー シ ョ ン ! w
次に登板予定は「阿蘇」「金印」「絹」とかかな?www

>又、土壌の酸性度の違いに言及する人もいますが… 未確認ですので又改めて。
またまた、そんな九州説の連中が喜んで食いつきそうなネタをw
ひょっとして釣りっすか?wwwwww

まあマジなお話。
鉄と言ってもその詳細を見れば、例えば
弥生後期、弁韓・辰韓の特産品の「梯形鋳造鉄斧」を半島から追って行くと
対馬・壱岐までは辿れるが、北部九州では見つからず
むしろ瀬戸内や山陰から見つかり、それからも北部九州の相対的地位の低下が推測されるとかw
440日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:24:58
× 畿内説は実在する畿内ヤマトに合わせ魏志倭人伝を読み解く

○ 畿内説は空想の中だけに存在する畿内ヤマトに合わせ魏志倭人伝を改竄する

441日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:32:57
>440
「畿内ヤマト」が空想?

何言ってるんだよ馬鹿wwwwww

言いたいのは「畿内邪馬台国」だろう?

脊髄反射で書き込む前に少しは考えような?w

まあ考える事のできる脳味噌があればの話だがwwwwwwwwwwwwww
442素人:2008/09/20(土) 02:36:49
邪馬台国が機内にあったのなら
末盧国〜伊都国〜奴国〜不弥国を、いちいち歩かないんじゃないの。
443日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:39:33
そうだ、それが常識だ。
444日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:49:30
>>442
そのとおり。問題は伊都国の位置。末盧国で上陸したのは何のためか?
445素人:2008/09/20(土) 02:50:14
邪馬台国は狗奴国に滅ぼされてしまって
後に狗奴国は何らかの理由で分裂して、追い出された方が神武東遷説で
追い出した方が、後の熊襲になって、それで古事記や日本書紀に親の仇のように熊襲が頻繁に出てきてるんじゃないだろうか。。

これダメ?
446日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:57:19
>>445
熊襲を出しているのはおかしいと思わないか?記紀を書いたときは、南九州は
「国内」になっているのだ。どんな経緯があるにしろ、自国内の民を馬鹿にし
たような話は普通は書かない。そこを考えると、熊襲とは何かが見えてくる。
447素人:2008/09/20(土) 03:00:41
末盧国での上陸は、とりあえずは補給かなぁ?
でも補給だけなら、伊都国、奴国、不弥国には用事ないと思うんだけど。。
448日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:04:05
>>447
伊都国が怡土ならば、上陸の必要はない。船で直行すればいいんだ。
449日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:35:25
>>445
神武東征は1世紀ですよ。

>>446

ふーん。
で、クマソって何?
邪馬台国?
呉の同盟国?
それとも、天皇の故地?
450日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:47:31
>>449
呉の同盟国であったからといってけなす必要はない。天皇の故地をけなす理由もない。
451日本@名無史さん:2008/09/20(土) 05:23:51
>>450
天皇の故地は奈良県だ。
452日本@名無史さん:2008/09/20(土) 05:48:41
末盧国は今の大阪湾周辺
那国は伊勢
453日本@名無史さん:2008/09/20(土) 06:04:18
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者は推古天皇ではなく、実質的には、嶋大臣の
蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。
454日本@名無史さん:2008/09/20(土) 07:17:55
邪馬台国は奄美諸島にあった。
奄美諸島から沖縄にかけて、地殻変動で海に沈んだ幻の文明があったのです。
邪馬台国=アマ大国
これなら方向も距離も合います。
455日本@名無史さん:2008/09/20(土) 07:19:57
>>453
他にも隋書倭国伝には以下のような記事もあります。

◇其國境東西五月行
 ・その国の境は東西に五カ月 
◇南北三月行
 ・その国の境は南北に三カ月
◇其地勢東高西下
 ・その地形は東高西低
◇内官有十二等…大徳〜小信
 ・内官には十二等級あり…大徳〜小信
    ↓↓↓
○九州なら南北の方が長くなり、本件記事に反する。
○当該各所の邪馬台国の比定地で東高西低の土地は??
○やはり本件は歴史で習った「冠位十二階の制」でしょう。大和朝廷の記事ですね。
456太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 07:28:59
裴世清は畿内説の元祖かそれに近い人物だよ。彼が日本に来たときは年月が
経ちすぎていて、当の日本人でさえ知らんのだ実態だから、その調査は失敗
だったということだな。

さっきの誰かが書きこんでたが、畿内にあるんなら北九州上陸より山口県でも
上陸したほうがテマがかからんよ。北九州上陸ということは九州にあったという
ことが合理的だな。おまけに記紀には倭人伝の少しの借り物以外卑弥呼女王国の
記述は0と云ってよい。畿内から並外れた日本でない遠い外国に日本の女王国
のほぼ詳細が書かれているのに、畿内にあったなら畿内あたりで書かれた記紀に
女王国の記事が伝以上に満載される。それがまったく無いということは、女王国
の情報が畿内に入り難い九州でも北ではない奥九州、以南にあったということだ。

陸行一月なんて別におかしくはない。これは大陸人が行ったことの無い奥九州、
以南へ行ったことで道間違いとか薮蛇的、盗賊、地理的険しさで後退したり、
休憩で留まったりしたために存外かかった時間経過だよ。大陸から半島、対馬等、
北九州までは結構大陸でも状況が知られていたから、北九州以南よりもスムーズ
に直行できたということだ。北九州より奥へ行くと右往左往、蜘蛛の巣の張った
準密林を書き分けながら女王国をさがせば、当然日数は増加するのは当たり前。
457九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/20(土) 08:36:53
>>455
>◇其國境東西五月行
> ・その国の境は東西に五カ月 
>◇南北三月行
> ・その国の境は南北に三カ月
>◇其地勢東高西下
> ・その地形は東高西低
>◇内官有十二等…大徳〜小信
> ・内官には十二等級あり…大徳〜小信
>○九州なら南北の方が長くなり、本件記事に反する。
>○当該各所の邪馬台国の比定地で東高西低の土地は??

上記読み方は現代読みで間違っている。
◇其國境東西五月行
 ・その国の東西の境界の長さは五月行である
◇南北三月行
 ・その国の南北の境界の長さは三月行である。

◇其地勢東高西下
 ・その地形は東高西低・・・正しい

◇内官有十二等…大徳〜小信
 ・内官には十二等級あり…大徳〜小智が日本書紀。

○九州は南北の方が長く、本件記事に一致する。
○当該各所の邪馬台国の比定地で東高西低の土地は久留米である。
○やはり本件は歴史で習った「冠位十二階の制」と冠位名の順位が異なる。九州王朝の記事ですね。
458日本@名無史さん:2008/09/20(土) 08:38:33
女王を立てたことで、九州は平和になり、盗賊など出なくなりました。
459夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/20(土) 08:47:16
>>434
漢委奴国王印はちゃんと九州にあったじゃん。
>>437
まあまあ落ち着きなさい。
伊都国から邪馬台国までは最低でも水行十日と陸行一月しなければいけないわけだ。
それが北部九州に収まると思うかね?
>>454
魏志倭人伝が全部正しいとしたら最低でもそれぐらいまで行っちゃうのが現状だからなあ。
俺がやってみたら沖永良部島辺りになっちゃった。
少なくとも、北九州には邪馬台国はないわな。
460九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/20(土) 08:58:45
>>457の追加説明
隋書百済伝
「其南海行三月有タ牟羅國南北千餘里東西數百里」
百済の南の海の200〜250kmにタ牟羅國がある。
タ牟羅國(チュジュ島)は東西方向が70〜80kmの長さ、南北方向は約40kmの長さ。

里:短里 1里=70〜80m
461日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:00:18
>>459
東京⇒横浜も約4000qある。
462日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:08:51
>>453
>日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識できていなかった
>ことは事実である。
そんな馬鹿な。推古26年には「隋の煬帝〜」の記事がある。推古16年が隋の時代で
あることは分かっていて、そこではわざと「大唐」と書いたんですよ。

463日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:18:27
>>459
>伊都国から邪馬台国までは最低でも水行十日と陸行一月しなければいけないわけだ。
>それが北部九州に収まると思うかね?
これはそのとおりですね。北九州説は完全に破綻しています。

>魏志倭人伝が全部正しいとしたら最低でもそれぐらいまで行っちゃうのが現状だからなあ。
>俺がやってみたら沖永良部島辺りになっちゃった。
これは勝手にかなり速い速度を考えてのこと。水行、陸行の速度はどこにも書かれていません。

464日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:26:28
>>463
常識は書かない。
現代人からすれば未知の部類も、当時の人には常識なの
それが証拠に
後の書に、一日に進む距離が細かに記載されている。公務員が記載する資料は、一日に進む距離まで厳格だった。


だから貴方の思考はペケ
465日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:34:12
例え一つ一つの資料がバラバラな内容であっても、一度公文書となれば
当時の官制に準じ、換算され
公認史料となる。
だから、現代人の個人的な思考なんて一切いらない。いらないどころか、邪魔だ。
寝言は嫁の耳元で、囁いていればいい。
466日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:17:43
>>464
あなたは何をもって常識というのかな。水行1日、陸行1日の距離は?
それと、魏時代の常識が後世の常識と一致するとは限らないね。
467太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 10:45:27
>>458
〜世に盗人のタネは尽きまじ〜と云われているぜ。
468日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:02:43
464じゃないけど確か水行も陸行も1日は30kmくらいではなかったかな。
469日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:05:43
>>466
限らないとする理由は?

交通手段や交通網の目まぐるしい程の発展がないかぎり
その基準は余り変わらない。

後世の王朝は、先の王朝と禅譲で繋がっている。仮に途中目まぐるしい変化があっても、それはそれで必ず変化を記載し後世に繋ぐものだよ
そんな記録なかったけどね。
470日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:08:00
水行、陸行の一日の距離なんて
ネットで手軽にしらべられるから 探してみてくれ。
471日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:15:39
東海道53次は18日間くらいが普通だったようです。
早い人は12日ってくらいだったとか。
陸行1月となると、江戸から安芸の宮島あたりまで行けそうですね。
472日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:19:09
>>468 >>470
そうゆう思考方法をとってるから駄目なんだよ。唐六典なども、原文に当たれば
いろいろな状況を考えて「このような時には〜」と書いている。簡単に「規準」
などと言えるものではない。
倭人伝の伝える水行陸行がどうゆう状況か、一行の構成(老若男女、人数、荷物)
どのような水路、道、障害の有無などでいくらでも変わるのだ。
473日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:23:07
>>472
負荷が変わればその変化を記載し、後世に繋ぐ
それがないのは、一般常識で書かれていて
一切の個人的な主観が入らないから。
474日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:24:21
>>471
魏の使者の場合、勝手にホイホイ行けばよいというものではない。
言葉は通じない、倭人からすれば見たこともない連中がきたという状況。
一大率の配下が案内したのだろうが、先に伝令を走らせ、受け入れ準備を
させ、少しずつ進む、連日ご接待という状況を考えなければならない。
475日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:26:00
>>472
それは貴方の描く、平成版魏志倭人伝。
個人的に頭の中で楽しむものだよ
476日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:29:06
北九州から陸行1月となると、
やっぱり、九州から沖縄石垣島、台湾まで陸続きだったと考えたほうが理屈に合いますよ。
与那国島沖で発見された宮殿跡、あのあたりが邪馬台国とすれば、すべてが解決する。
477日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:30:37
>>474
それは個人的に楽しむ妄想。
連日の接待なんて何処に書いてあるの?
478日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:32:56
もうそろそろ
夏休みバージョンは終わりにしようぜ。
479日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:50:06
>>476
論外
480日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:51:23
>>476
東に向かったとしたら関東付近に邪馬台国はあったのでしょうね。
481日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:23:19
>>480だから何度も言うように、南と東を間違えることはありません。
    素直に、その時代は、沖縄まで陸続きだったと考えればいいのです。
    どうして地形は不変だと思ってしまったのでしょう?
482日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:28:05
>>481
沖縄まで陸続きであった事を、地球物理学的に証明せよ
483日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:53:45
日本列島はこんな感じだった

http://www.kodai-bunmei.net/blog/1500.gif
484日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:55:02
>>483
だから早く、地球物理学的に証明してくれ
485素人:2008/09/20(土) 12:59:24
>>483
これって、いつの時代ですか?
486日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:03:15
ポールシフトで東と南が入れ替わったんだろ。わかってる。
487日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:04:25
>>485
卑弥呼の時代の少し前くらいです。
卑弥呼の時代は、もっと陸が減ってきていますが、
イメージ的にはこんな感じでつながっていました。
488日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:09:01
これで陸行1月は南であって、現在の沖縄付近に邪馬台国があった
ことが証明されましたね。
489日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:24:17
>>487
だから早く、地球物理学的に証明してくれ
490日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:28:36
自分で作ったサイトを紹介した詐欺師的な誘導ですか?
491日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:42:29
大和説のウソがばれたようですね。
アタフタするんじゃねえよ。
492日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:45:36
>>491
私は九州説ですが、頭大丈夫?
493日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:59:46
畿内説ですが、何か?
494日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:04:55
沖縄説に一票。
素直に読めばそうなりますね。
495日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:15:35
円周率が3の人と、3.14人では、話しははじめから噛み合わない。
496日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:19:09
だから今度立つ新スレは、3の人と、3.14の人を分けようぜ。
497日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:23:36
方向・行程・   到・狗邪韓国・距離

   行程・距離・至・対海国・          有千餘戸
方向・行程・距離・至・一大国・          有三千許家
   行程・距離・至・末盧国・          有四千餘戸
方向・行程・距離・到・伊都国・          有千餘戸

方向・      至・奴国・  距離・      有二萬餘戸
方向・      至・不弥国・ 距離・      有千餘家

方向・      至・投馬国・    行程・日程・可五萬餘戸
方向・      至・邪馬台国・   行程・日程・可七萬餘戸


伊都国までが女王の都までの行程。
奴国、不弥国は女王の都より先。
下の2行は到に対応した日程。
498日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:40:38
>>497
それは貴方だけが脳内で楽しむ、平成版魏志倭人伝です。
499日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:34:05
>>497を読めば、
投馬国、邪馬台国が九州よりはるか遠方なのがはっきりしてるじゃん。

倭人は距離を知らないから、日数で行程を示してるわけだ。
500日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:36:24
勝手読みすると、そうなる。
501日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:47:13
どこが勝手なの?
502日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:04:08
>>499
>倭人は距離を知らない。
何処にそんな事が?
503日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:39:24
>>470
>水行、陸行の一日の距離なんて
>ネットで手軽にしらべられるから 探してみてくれ。
ネットで手軽に調べて探してみました。

ユウ婁は夫余の東北千余里に在り(魏志東夷伝ユウ婁条)
ユウ婁は不咸山の北に在り、夫餘を去ること六十日行可りなり(晋書列傳粛慎氏)

千余里=六十日ですね
504日本@名無史さん:2008/09/20(土) 19:29:42
>>457
まじレスになるけど、
○やはり本件は歴史で習った「冠位十二階の制」と冠位名の順位が異なる。九州王朝の記事ですね。

九州王朝って、なぜ?
どの書物の何処に九州に王朝があったと記載されているの?
冠位にかかる箇所はどこに??

まさか、その後の畿内王朝が書物を破棄して現存していないとか言わないよね?ww
505日本@名無史さん:2008/09/20(土) 19:41:44
>>457
上記読み方は現代読みで間違っている。
◇其國境東西五月行
 ・その国の東西の境界の長さは五月行である
◇南北三月行
 ・その国の南北の境界の長さは三月行である。

◇其地勢東高西下
 ・その地形は東高西低・・・正しい

◇内官有十二等…大徳〜小信
 ・内官には十二等級あり…大徳〜小智が日本書紀。

○九州は南北の方が長く、本件記事に一致する。

           ↑

 えっ! 何故、記事に一致してるの??
  反してませんか??ww
506のんびりひまじん:2008/09/20(土) 19:49:20
>>494
お墓が立派なら、生活が貧しくても、そこはヤマト政権=邪馬台国。

現代なら沖縄県(本当に沖縄の人はお墓を大事にされています。)
507日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:01:46
>>457
九州王朝説って、早稲田大の大槻教授とバトルしている、あの韮澤潤一郎がUFOや
超常現象を真剣に力説しているのにだぶって思えてきます。
508太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 20:10:07
>>507
あれと一緒なら卑弥呼畿内説もそれに入ろう。年号が多々出てるから
もう決まりだな。あとは反論者がイカサマとか私年号とかケチを
つけて妄想の自説保全にやっきとなるだけだ。w
509日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:19:50
畿内に志賀島や阿蘇山があったというオカルトが畿内説
510日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:28:52
>>509
何故に畿内説で「畿内に志賀島や阿蘇山があった」って言わなければ
ならないの? 意味わかんねぇーww
畿内説の場合は九州の諸国も含めて倭国だから・・・
511日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:32:37
たった1日で邪馬台国沖縄説とやらが優勢になったみたいですね。w
まあ、九州説も畿内説も矛盾だらけの説だからしょうがないけれど
なんだか情けない。
512日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:50:26
>>507

> 九州王朝説って、早稲田大の大槻教授とバトルしている、あの韮澤潤一郎がUFOや
> 超常現象を真剣に力説しているのにだぶって思えてきます。


大書店では九州王朝説の本はそっち系のコーナーにある。
勿論、普通の書店ではおいていないwww
513日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:53:57
>>502
隋書倭国伝の冒頭付近に
…夷人不知里數、但計以日。

東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
514日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:55:05
オカルトコーナーには、畿内大和=邪馬台国系の本がどっさり
515日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:13:03
>>513
>東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。

なぜ里数を距離と訳したの?
516曲学の徒:2008/09/20(土) 22:19:13
卑弥呼の墓発掘プロジェクトをご支援ください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/keizibann/Project-H.html
517日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:20:41
>>515
まさか、里(さと)の数??www
518日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:22:10
九州王朝説

現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本
史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書
においては記載されずに無視されている説であることに留意する必要がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
519日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:25:08
>>511
>たった1日で邪馬台国沖縄説とやらが優勢になったみたいですね。w
そのようにして魏志倭人伝を無視する方向にもっていかなければ
畿内説に主張できることはありませんからね

方向と距離を自由に設定できるという展開にする為に
相変わらず畿内説は必死です

いい加減に観念しなさい。
520日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:27:34
>>514
それは何県何市の何書店だ?
俺は旅行に行く時も本屋に立ち寄ることが多いんだが、
オカルトコーナーで邪馬台国関連の本を発見することすらないのに、
最近珍しい畿内説の本がどっさりあるのか。
機会があればぜひとも立ち寄りたい。さあ、何県何市の何書店だ。
答えられないなら、お前の嘘として扱うが?
521日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:30:39
>>519
魏の国の使者は、南も東もわからなった?
そんなことありえないですよね。
522日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:32:36

>>520

こら! そんなにマジレスで詰めてあげるなよ。
バレバレなんだから・・・
523日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:34:49
>>511 矛盾のない説を紹介しましょう。
末盧国で上陸したら、伊都国は東南五百里。当然、有明海沿岸になります。
伊都国からは放射式。奴国、不弥国は筑後川の沿岸。
そして、投馬国は水行二十日だから薩摩、邪馬台国は熊本で上陸して陸行一月、
当然、日向と考えられます。これで、方角のごまかしも日数のごまかしもあり
ません。日向には九州最大の古墳を始めとする無数の古墳があるし(初期の
古墳も少なくない)、日向は記紀も天孫降臨の地とするところ、考古学的、文献
学的にもまったく矛盾するところはありません。

524日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:36:38
お前のような猿か熊しかいない僻地の本屋じゃ、雑誌ぐらいしか置いてないだろ。
首都圏どこへ行っても、ヤマトはユダヤだの、ヤマトに宇宙人降臨だの、ヤマト××ヒメは卑弥呼だの、
宇宙を支配したヤマトのアマテラスだの、電波でむちゃくちゃな本ばかりだろ。
525日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:36:43
>>517

>まさか、里(さと)の数??www


いやっ
「里を数える」と認識していたから 聞いたまで
526日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:39:23
>>523
そして、たどり着いたのは、与那国島付近w
527日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:45:04
>>526
はい、あなたの思考力はその程度ね。
528日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:50:18
>>514
>オカルトコーナーには、畿内大和=邪馬台国系の本がどっさり

うーん、どうしようもなくサイキバ臭がwwwwwwww

まあ初心者・素人の俺の持っている歴史関係の本だと割と吉川弘文館とか学生社が多いけど
どちらにも九州王朝のラインナップは無かったんじゃなかったかな?

そうそう以前、本屋で九州王朝の本(文庫版)を見たが確か出版は
『 学研M文庫 』になってたw

「学研」と来て「M」と来りゃ、恐らく「ムー」の事だと思うんだがwwwwwwwwwwww


>>520
一発ネタの書き逃げ。
ピンポンダッシュはアホの九州王朝説論者サイキバ君の常だから
あんまマジにならない方がイイヨwwwwwwwwwwww
529日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:08:39
畿内説論者=負け犬の遠吠え。
魏志倭人伝で南と書いているわけだから、邪馬台国は南になけ
ればいけない。
いくら邪馬台国と酷似した遺跡があったとしても、それは他人の空似
あんたらの主張は全く無意味。
それがわからないなんて、相当頭悪いんじゃないかな?
530日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:35:55
じゃあ「会稽・東治の東」同緯度に邪馬台国を探してきてくれよ…っちゅう話だなwww

まあ九州説論者が畿内説を否定するに倭人伝との齟齬を持ち出すのは構わないし
十分正攻法の範疇だろうが

それは諸刃の剣で自説に対してもハードルの高さを上げる事に気付こうな?wwwwwwwwww

531日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:36:02
古地図で、日本が南北に長く描かれてるのがあったな。
532日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:44:02
>>530
>じゃあ「会稽・東治の東」同緯度に邪馬台国を探してきてくれよ…っちゅう話だなwww
畿内説ではちゃんと説明がつくの?

九州説の問題点はだいたい畿内説でも問題点。

因みに、問題点の少ない方を蓋然性が高いとするのが常識だけど、
畿内説論者はひょっとして逆なのかな?
533日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:47:27
畿内説は、自説の矛盾をもぐら叩きすることが、自説の展開なのです。
ですから、矛盾が多ければ多いほど、補強されることになります。
534日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:48:19
>>530
>「会稽・東治の東」同緯度に邪馬台国を探してきてくれよ…
南九州にあったと考えれば、何の問題もありません。かなり良い線で推測して
いるなという感じですよ。
535日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:50:48
>>534
そうですか? 南を東と読み替える合理的な理由は明治時代から見つかっていない
ようですが。どこが補強されたのでしょう。
536日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:51:38
>「会稽・東治の東」

呉と敵対していなければ、記述のとおりに有明海から邪馬台国に入れます。
佐賀に近い福岡ですから。
537日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:53:01
>>535 >>534>>533に訂正
538日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:53:31
じゃあ邪馬台国南九州派以外は九州説語るなよw
539日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:56:33
>>532
そんな無茶苦茶な地理、合理的な説明ができる訳が無いww

より蓋然性の高い方の選択と言う問題じゃなくて
元々の資料が間違っていると見るのが普通だろう?wwwwwww

まあこんなネットの掲示板じゃなくてリアルの九州説の学者で
「南」一字で畿内説と徹底抗戦している奴もいないんじゃないのかな?wwwwwwwww
540日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:58:55
絹の分布でわかるでしょ。福岡県内以外にありえません。
541日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:58:56
>>539
>元々の資料が間違っていると見るのが普通だろう?wwwwwww
それが浅はか。 説明してやろうか?
542日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:04:16
早くしろよw
543日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:04:51
して下さい、だろうが。
544539:2008/09/21(日) 00:06:45
>>541
ああん?

まあ聞いてやっても良いぞw

説明してみろwww
545日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:16:55
「会稽・東治の東」は、会稽と東冶の間に女王国が広がっているという趣旨。
女王国の始まり(北の境界)は、万二千里のところ。女王国の南の境界は邪馬台国
の南の奴国、女王の境界の尽きる所。
帯方郡から万二千里。その間、南へ進まなかったのは朝鮮半島にそって乍東し
たことのみ。だから、使者らは南へおよそ一万里から女王国が始まるとみた。
帯方郡から短里で一万里は八百キロ、ちょうど会稽あたり。女王国は極めて大きい
からその尽きるところを1万五千里ぐらいのところに想定した。それが東冶。
それでぴったりだよ。

546日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:21:27
>>545の追加。
彼らが読み違えたのは、乍東の時に若干東北へあがっていたこと、狗邪韓国
からのコースが南東だったことによる。それで少しずれたが、帯方郡からどの
程度南下したところが中国のどこにあたるか、結構良く読んでると言えると思
うがね。
547のんびりひまじん:2008/09/21(日) 00:24:03
>>518
一つの評価として理解しましょう。確かに、いまはトンデモ説と多くが考えています。

諸君に、一万のトンデモ説のうち、トンデモない真理説があるの見分ける方法を伝える。

そりゃ、トンデモない現象を説明するのか否か。例えば、

ヒマラヤの高山に、大昔の三歯虫、アンモナイトの化石が出る理由は・・・・
←ここまで聞いて、そんな高山にそんな海洋生物があるわけないって誰もが思った・・・

(いったん切ろう。)
548のんびりひまじん:2008/09/21(日) 00:28:06
>>547続き
今はだれもが疑わないプレートテクトニクス系統の大陸移動説が平凡社世界大百科事典に
始めて出たのは、ワシが高校入学祝いに勝ってもらった1960年当時の第32巻の補遺だった。
このときまで、大陸移動説は、トンデモ説じゃった。

万一ということがあろう、一万のトンデモ説の中の一つがトンデモない真理説ということ。

諸君は、その万一を目の前にしているのかも知れない。

(続く)
549日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:31:10
>>539
>そんな無茶苦茶な地理、合理的な説明ができる訳が無いww
それは畿内説として説明しようとするからです。

それにしても、畿内説では「合理的な説明ができる訳が無い」と
分かっているところがちょっと悲しいですね。

・畿内説では合理的な説明ができない
・畿内説以外で魏志倭人伝が説明できるならば魏志倭人伝は無視する

一度、この二択からは離れ、魏志倭人伝の記述に最も適合する場所を探してみては?
550のんびりひまじん:2008/09/21(日) 00:36:05
大王クラスの大古墳に発掘事例が少ない中で、その
石棺の
半分以上、        
10台以上     が九州産である。

トンデモない現象と思うか、否か
http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=32057298
551のんびりひまじん:2008/09/21(日) 00:50:07
大王クラスという特に大きい古墳について(トンデモない現象かも)

発掘例の半数以上の石棺が、
10台以上の石棺が       九州産だった。


(小さい古墳、中くらいの古墳の棺は近くの石。)


http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-6965-1.htm
(ささやきがあった。九州の大王は、九州で死んで棺に納め関西の墓へ運んだ・・・)
552九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/21(日) 01:09:25
>>551
>九州の大王は、九州で死んで棺に納め関西の墓へ運んだ・・・

そんなことない。
考えられることは、
@ 関西の大王は九州出身者又はその子孫、
A 及び、九州に忠誠を誓った関西大王。
553日本@名無史さん:2008/09/21(日) 01:12:00
そういえばヤマトの天皇は最高権力者の「はず」なのに、どういうわけか賜姓されているのは変。
554のんびりひまじん:2008/09/21(日) 01:32:13
もし、お墓にだけ注目していると、近世は

日光王朝・栃木政権 を主張することになる・・・・

近畿説・近畿王権説は古代のお墓(古墳)の考古学にだけ注目していないで、
もっと土師器だとか普通の日常生活品、お墓以外での武器、住宅集中具合とかの
普通の考古学から、主張することできませんか?
555のんびりひまじん:2008/09/21(日) 01:44:31
>>552
他のスレでやりません?
こういう事実を知らずにいた人びとには、冷静に関西の考古学事実を
古墳時代を含めて再考いただくこのスレがよろしいのかと思いますが。

悪口言い合うのでなく、自己の主張に不利でも事実を直視し分析いただく。
556九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/21(日) 01:59:29
>>555
古くは允恭と推古の石棺、新しくは継体の石棺、
そして横穴式石室にも着目しています。

芦屋市・茨木市・高槻市に横穴石室墓がたくさんあるのはなぜかな?
557日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:03:24
>>549
はいはい。

九州説論者は大抵
「我が説こそ魏志倭人伝を合理的に介する物なり」
とのたまうwwwww

大体どうやったら九州だろうが畿内だろうが「会稽・東治の東」に持って行けるんだよアホwwww
もしそんな物理法則すら超えた超理論があるなら、こんなとこじゃなく世間一般に向けは発信すれば良い。

明治以来100年を超えて決着が付かない論争に終止符を打てお前の名が後世にまで残るぞ?wwwwwwwwww
558日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:07:54
ざっくりとした話、外れてないでしょ。
559日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:26:52
>>551 のんびりひまじん
>(ささやきがあった。九州の大王は、九州で死んで棺に納め関西の墓へ運んだ・・・)

どうどうwwww

兎に角九州に関係があるものを見つけたら直ぐに九州王朝に結びつけるのは九州王朝信者の悪癖だなwww
妄想癖とも言うがwwwwwww

仮に「石棺」がメイドイン九州だとて驚くに当たらない。

既に畿内前期古墳の時点で石室石材の採石地は和歌山・徳島にまで及んでいる。



560日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:56:17
> のんびりひまじん

まあ九州王朝説がトンデモであると言う事を自覚しているのは
サイキバ君と比べればマシな方か?w

1万のトンデモの中の1つの真実か・・・
確率的にえらくしんどい話だなww

まあ1万分の1の確率の「当たり」が出たら
その時点で九州王朝説は考えるからwww
561日本@名無史さん:2008/09/21(日) 07:16:01

>>551

隋書倭国伝には

…有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭。…

とある。

≪概要≫
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、
因って祭祀を執り行う。

阿蘇産のピンク石は畿内の大王家の石棺に多く使われている事実がある。
でも5世紀以降の陵墓だけどね。

562日本@名無史さん:2008/09/21(日) 07:28:02
少なくとも、伊都国から邪馬台国までは水行十日or陸行一月せねばいかん。
北部九州という近場には押し込められないだろ。
すくなくとも宮崎・鹿児島あたりまでは行く。
確かに畿内説は方角が難点だが、北部九州に比べたらまだあり得る範囲だ。
563太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 07:48:38
>562
>せねばいかん
しなくても行ける可能性は相当ある。遣使は観光を兼ねて途中あっち見、
こっち見してるし、休んだり途中道草をやってることがありうる。
直行すればもっと時間がかからん。
だいたい畿内にあるなら、山口県日本海側へでも着船したほうが得策
だろうが。孝靈年間、月支国船団が出雲攻撃で出雲へ行ってる。
564日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:17:21

>>563
どうして危険極まりないルートをとるかなww

普通なら弁韓(旧:狗邪韓国)→対馬→壱岐→マツラ でしょ。
地図みたら一目です。

当時は倭国からは「持衰」を用いて命がけで渡海している。
天候が芳しくない冬季は避けてきたかもしれない。正に命がけでね。

当時は韓半島南部は「馬韓」「弁韓」「辰韓」に敵対位置していて、狗奴韓国
にあたる弁韓から馬韓(月支国)は出航できなかった。

普通に考えたら対馬海流に乗って単なる遭難でしかない。
韓半島の西側からピンポイントに出雲に航海できる航海技術があったとは
到底おもわれない。

565日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:23:05
>>557
>大体どうやったら九州だろうが畿内だろうが「会稽・東治の東」に持って行けるんだよアホwwww
>>545 >>546を印刷してゆっくり勉強でもしたら?
566日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:31:22
>>564
>当時は倭国からは「持衰」を用いて命がけで渡海している。
千里は視界が良いときは見通せる距離です。「南北に市テキす」つまり普段商売
で行き来しているところでもある。そんなところで「持衰」が必要ですか?
これは南九州から直接中国に渡るときの話なのですよ。
567日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:52:39
>>545
つまり、下の古代地図のような地理感覚で述べているんだよ。
海中に消えた幻の大陸スンダーランド。
そこにあった幻の女王国こそ邪馬台国。
その伝説を伝える記事が魏志倭人伝。

徐福が探し求めた国も実はスンダーランドなんだよ。
これですべての謎が解けた!

↓参考地図
http://www.kodai-bunmei.net/blog/1500.gif
568日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:19:21
>なぜ邪馬台国を大和と認めないの?

この板にかぎって言えば
「邪馬台国を大和と認めない」
と言うより
「魏志倭人伝から邪馬台国の位置を特定できない事を認めない」
だなwwww

それを認めちゃうと暗号解読ゴッコの前提が崩れてしまうからwwwwww

で珍説奇説百出で各々が「我が説こそ正解」と口々に言う様を呈するwwwwww


569日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:52:32
>>568
>「魏志倭人伝から邪馬台国の位置を特定できない事を認めない」
>だなwwww
ある程度特定できるが正解。
ただ、畿内説ではあまりにも非常識な結果となる為、
畿内説は自説の存続にかけ、魏志倭人伝にない邪馬台国を探そうとする

しかし、魏志倭人伝にない邪馬台国は何?ってツッコミが来た時、どうするのだろう。

畿内説が探している何かと邪馬台国が関連していることをちゃんと説明できるのかな?
できないと思う。
570日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:00:26
>>569
それも所詮九州説の

 「自分が行う文献内容の取捨選択は正しい」

と言う思い込みに過ぎないだけだよwwwwwwwwwwww
571太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 10:01:22
>>564
じゃぁ山口県最西附近での日本海側あたりに〜北九州沿岸に接近したところで
左折して同県のそこへ行ったほうが早いだろう。北九州上陸で歩いた後再び水行
で中国地方(←大陸の中国の意味でなく)に渡る面倒をするという事は、結局
九州に女王国があったからだと見るのが相当である。でなければ直接出雲の沿岸
とか若狭湾あたりの上陸したほうが面倒がない。実際、月支国船団も出雲上陸を
企てている。それが海が荒いとかなら、山口県の日本海側の西端あたりの上陸
したほうが畿内行きはてっとり早い。
572日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:10:29
>>562
おっしゃるとおり、北部九州というのは無理な話。
しかし、畿内説の南を東というのも無理。使者一行は長旅をしてきた連中。
それが倭の国内に長期間いたのに、方角を間違えるはずはない。風俗記事
に描かれていることも南へ行ったことを裏づけている。
北部九州説も畿内説もまちがっているということを素直に認めて、考え直
してみることが必要なのです。
573日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:19:54
>>571
>北九州上陸で歩いた後再び水行
倭人伝の問題は、この部分にあるのですね。末盧国で何のために上陸したのか、
なぜ、伊都国に陸行したのか、です。
畿内に行くのならば、直接船で伊都国に入り、一大率に挨拶し、案内を請えば
よいわけです。伊都国が怡土ならば、誰だってそうしたはずです。
上陸したのは、伊都国が船で行けない所だからです。末盧国から東南五百里、
有明海沿岸だったと考えてみましょう。それならば、上陸して陸行する、それ
しかありません。伊都国からは船も倭の船に乗り換えるのです。
伊都国が有明海沿岸だとなれば、畿内説成立の余地がないものだから、畿内説
論者はこの考え方を無視します。しかし、倭人伝を素直に読めばそれ以外ない
ことはすぐに理解できると思いますが。
574太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 10:27:36
一大率は畿内に詳しいのか?ww 畿内のことはよく知らぬと言うだろう?
575日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:49:36
魏志倭人伝を素直に読めば、九州説は誤りであることがすぐ分かる。
それを単里、長里などというまやかしものを使って証明しようとするか
ら胡散臭いものになる。

まともな神経の人がそんなもの信じるわけがない。
576太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 10:54:41
>>575
具体性があまり書いていない。説得力はまるでな〜い。
577日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:56:36
>>576
畿内説論者が説得力のあること言ったの見たことあります?
578日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:57:02
>>575
>魏志倭人伝を素直に読めば、九州説は誤りであることがすぐ分かる。

だからそれはもう水掛け論だよwww

畿内説はもうそんなものに付合う必要は無いw

3世紀の古代日本を見れば九州説は少なくとも蓋然性において畿内説に劣る事は誰の目にも明らかなんだからwww


今日の九州説の劣勢は何も彼らが珍読合戦に敗れたからではないwwwwwwwwwwwwwww
579日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:02:10
魏志倭人伝は偽書。そういう結論になる。
580日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:17:31
>>578
>3世紀の古代日本を見れば九州説は少なくとも蓋然性において畿内説に劣る事は誰の目にも明らかなんだからwww
畿内説論者は「明らか」とか「すぐ分かる」とかいう言葉を多用されますが、
具体的な説明が一切なされていません。この不明瞭さが畿内説をいかがわしいものにしています。

九州説が畿内説を非難する時は、ここは九州に読み取れるが畿内には読み取れないという形をとります
畿内説が九州説を非難する時は、ここは畿内に読み取れないが九州にも読み取れないという形をとります

これでは畿内説に有利な内容って何一つないのでは?って考えてしまいます。

畿内説論者が例として挙げるものは邪馬台国との関連が証明されていないものばかりです。
まるで証明すべき内容と根拠としている内容との区別がついていないように見えます。

そんな曖昧な状態で蓋然性が高いと言われても、
ステレオタイプ的な見方でそう思い込んでいるだけでは?と考えてしまいます。
581太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 11:21:15
女王国が畿内にあれば畿内で書かれたろう記紀に、遠い女王国が何たるかが
分かりにくい畿内から遠方の外国の大陸倭人伝以上に詳しく舎人らによって
卑弥呼の記述されるはずだ。しかも倭人伝の数倍以上記紀に卑弥呼の記事が具体的
に載るに決まっている。しかも北九州上陸よりも上陸寸前に山口県日本海側西端
にでも着岸したほうが畿内に行くのにてっとり早いし、案内者は畿内に近い所に
接岸したほうが得やすいのが道理だ。畿内に女王国が出来るのは推古の世から
であり、それまでは畿内に女王はいない。それでも神武以前なら畿内に女王が
いた可能性はあるも、そうだと神武即位が239年後となるから、これだと歴代
天皇の在位期間がすし詰めになり不合理極まりない。ということは神武以前にも
卑弥呼が畿内にいたとは云えない。よって卑弥呼は九州所在だと判断できる。
582日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:24:54
>>580
なかなか冷静な分析だと思います。
583日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:29:34
>>579
>魏志倭人伝は偽書。そういう結論になる。
答えを言ってしまえば、九州説を否定する為には確かにその手段しかありません。
このことを理解していれば、
ここで畿内説論者がどういう方向に話を進めたいのかがよく分かります

畿内説に不利となる魏志倭人伝を俎上に挙げてはダメという
畿内説論者の必死の奮闘が涙ぐましくさえ見えてしまいます。

しかし、諸刃の剣で邪馬台国比定地論争そのものが消滅してしまいます。
584日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:33:45
他方を否定することで自説を補完しようという方法は誤りだと
いっていたのはどなただったでしょう?

要するに畿内説も九州説も誤り。
邪馬台国は、実在しない幻の国だったのです。
585日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:34:04
>>580
じゃあ具体的に言おうか?

画文帯神獣鏡に始まる威信財たる銅鏡の分布が畿内にシフトした事。

箸墓が卑弥呼の墓かどうかは畿内説でも意見が分かれるが
纏向の出現自体が邪馬台国の時代に重なる事はもうガチだろうとw

その纏向を中心とした首長連合が果たして半島大陸の文物を欲さず魏への朝貢を画策しなかったとは考え難い。

…等々だなwwwww

年代観の争いを全て九州説に譲ったとしても九州の右肩下がり長期衰退傾向は変わらないw
(あ、九州王朝説は勘弁してくれよw)

一体、九州邪馬台国を中心とした勢力の存在を何に見れば良いのか?
威信財体系、祭祀形態等々・・・なんかある?wwwwwwwwwwww

>畿内説論者が例として挙げるものは邪馬台国との関連が証明されていないものばかりです。

これは九州説にこそ言える。

連中が挙げて来るのは往々にして弥生時代通しての九州の繁栄を物語るものであって
後漢朝の衰退・滅亡その煽りを食らって起きたであろう倭国大乱…そんな時代背景をまるで失念し
まるで「この世は全て事も無し天下泰平めでたしめでたし」と考えているかのようなボケぶりwwwwwww
586日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:24:20
全く方向が違うところにある畿内から何が出土しようと、
邪馬台国が畿内にあった証拠にはなりえないんだよ。

なぜ、そういう当たり前のことがわからないのだろう?
587日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:26:17
卑弥呼の時代と同じ頃、畿内にあった別の国
と考えるほうが至極妥当だと思うのだが・・・
588日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:00:45
我が国で大きな墓を造ったりするのは邪馬台国の人の他には
いない、そう考えているのでしょう。
589太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 13:01:44
そうなら天皇と女王卑弥呼の交易、戦争等の記事が記紀に載るよ。それば無いと
いうことは、女王国が紀無いに無いことを物語っており、至極妥当ではない。
590日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:11:12
>>588他に見当たらないから畿内という論法そのものが誤りだと言っているのに、
    わかってないみたいですね。(駄目な人ですね)w
591日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:18:44
>>585
>画文帯神獣鏡に始まる威信財たる銅鏡の分布が畿内にシフトした事。
>纏向の出現自体が邪馬台国の時代に重なる事はもうガチだろうとw
>その纏向を中心とした首長連合が果たして半島大陸の文物を欲さず魏への朝貢を画策しなかったとは考え難い。
>…等々だなwwwww

畿内説論者が例として挙げるものは邪馬台国との関連が証明されていないものばかりです。

纏向の出現が邪馬台国の時代で、かつ、画文帯神獣鏡が邪馬台国の時代のもので、かつ、
纏向を中心とした首長連合が半島大陸の文物を欲さずにおられず魏への朝貢を画策した
ということは未だ証明されていません。根拠にはできません。

まるで証明すべき内容と根拠としている内容との区別がついていないように見えます。

もし、これらのことがすでに証明されているとするなら、それは事実の捏造です。

>年代観の争いを全て九州説に譲ったとして九州の右肩下がり長期衰退傾向は変わらないw
その後、九州が衰退しようと繁栄しようと邪馬台国の所在地論争とは直接的には関係ありません。
東京に首都があったとして、その後の京都の歴史によって平安京の位置が変わりますか?

>>連中が挙げて来るのは往々にして弥生時代通しての九州の繁栄を物語るものであって
弥生時代通しての九州の繁栄に圧倒されて、勘違いされておられるようですが、(確かに重要ですが)
それよりも重要なことは魏志倭人伝の記事と合致することです。

例えば、魏志倭人伝の「竹箭或鐵鏃或骨鏃」が「竹箭或銅鏃或骨鏃」と書かれてあれば、
鉄鏃が銅鏃より優れていようとも考古学的に九州説にとって不利と判断されたでしょう。

結局、考古学的事実を考慮するところは、畿内説も九州説も同じ。
ただ、魏志倭人伝と合致する考古学的事実に重きを置くか、
合致しない考古学的事実に重きを置くかの違いがあるだけです。
592日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:19:37
畿内にあったのは、邪馬台国ではなく別の勢力だと素直に認めたほうが、
より豊かな発見があると思うのだけれど・・
もう転向は無理な人も多いみたいですね。
せめて、若い世代には自説を押し付けないほうがいいですよ。
593日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:45:48
>>591-592
>畿内説論者が例として挙げるものは邪馬台国との関連が証明されていないものばかりです。

だから>>578で「蓋然性」って言葉をわざわざ使っているんだよw

で、九州邪馬台国が冊封を受けても九州においてその影響・恩恵と見られる現象が無い。
それも蓋然性の無い話www

>畿内にあったのは、邪馬台国ではなく別の勢力だと素直に認めたほうが

九州にほんの一時期でも相当な勢力が発生した痕跡でもあれば
そう言う想定をするのに吝かではないし
恐らく史学・考古学もそう言う流れになるだろうよwww
594日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:03:18
>>592
>畿内にあったのは、邪馬台国ではなく別の勢力だと素直に認めたほうが、

それを認めるのは、九州説の人のほうが無理。
だって、「九州の邪馬台国は3世紀に滅亡した」ってことを認めないといけない。

東遷説も、九州王朝説も、邪馬台国が3世紀に滅亡したなんてことは絶対認めないだろう。

595日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:05:25
>>593
発見されていないだけのことです。
それをいいことに、方向が全く違う畿内に邪馬台国があった
と言いはるのはいかがなものかと思いますねえ。
596日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:06:43
>>593
>だから>>578で「蓋然性」って言葉をわざわざ使っているんだよw
魏志倭人伝の合致していれば、蓋然性が高いってことは言えるとは思うけど
私はこう思いたいってのを幾ら並べても蓋然性が高いとは言えないのでは?
高い低いの判断がつかないよ〜

>連中が挙げて来るのは往々にして弥生時代通しての九州の繁栄を物語るものであって
&
>九州にほんの一時期でも相当な勢力が発生した痕跡でもあれば

畿内説論者の主張はコロコロと変わりすぎです。あると言ったり、ないと言ったり。

例えば、吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡にしても邪馬台国の時代を彷彿させる大規模な遺跡です。
それだけでも九州に遺跡が皆無とは言えません。そのあたりないなどと捏造しないように。

しかし、九州説論者はそれだけを理由に邪馬台国の候補がこの二つだけとは断定しません。

畿内説程度の論理思考であれば、
吉野ヶ里遺跡=邪馬台国で九州説の意見はまとまっているかも知れません。

しかし、九州説は魏志倭人伝を無視することを基本とはしない為、
旅程記事など検討すべき課題も多く、
デカけりゃいいみたいな短絡的な結論は許されないのです。
597日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:10:33
>>591
>弥生時代通しての九州の繁栄に圧倒されて、勘違いされておられるようですが、(確かに重要ですが)

ここだけの話、正直言うと 大陸半島の文物の豊富さ等は
「だからそれが何?」…って感じる事が多々あるwww

例えば「鉄」
九州の保有数が他地域より多いとしても

じゃあ鉄製の武器を量産して軍事力において他地域を圧倒したのか?
農耕において収穫量が他地域を圧倒し人口にでもその結果が出ているのか?

・・・等々考えれば九州説の連中が喧伝するほどのものではないだろうとw

まあ畿内説も釣られて鉄の保有数のギャップを埋めようとした恥ずかしい過去はあるんだろうがwwwwwwww
598日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:11:52
一生懸命、九州に邪馬台国があったと証明したあげく、
結局はトヨの朝貢の後、畿内の大和王権に滅ぼされたなんて結末を、
九州説は受け入れられるのだろうか?

そこで、哀れな九州説信者のために関裕二は「トヨ東征説」なんてのを作り出したけど、
九州説な人の人気はどうなんだろうね? 本はそこそこ売れてるみたいだけど。
599日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:16:02
>>595
>発見されていないだけのことです。

言っておくが俺は邪馬台国自体の遺跡とか言って無いぞ?
纏向とて邪馬台国だと決まったわけじゃ無し
それを鬼の首でもとったかのごとく言うほど馬鹿じゃないwwwwwwwwww

遺跡その物の「点」ではなく言わば「面」の勢力圏のような物を言っている。

それが見つからないのは
「何処かを掘ったら出てくる」
で済む話なのか?wwwwwwwwwwww
600日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:22:20
「邪馬台国が九州にあって、3世紀まで繁栄していた」

こういう前提を想定すると、結局4世紀以後の歴史観が破綻してしまうのだよ。
3世紀まで繁栄していたという九州の邪馬台国はどうして滅亡したのか?
畿内の大和王権に列島の主導権を明け渡してしまったのか?
九州説で説明しようとすると、あまりに不都合な矛盾が多すぎる。
それこそ、九州の邪馬台国が、なんらかの要因で勝手に自滅してもらわないと辻褄が合わない。

ところが、畿内説だと、簡単に説明がつく。
3世紀には大和王権が列島の主導権を握り、大和王権は邪馬台国と呼ばれていた。
大和王権が列島の主導権を握った契機が倭国大乱といえる。
高地性集落が作られた頃。激しい戦乱の痕跡は無いが、平穏な時代だったとも言えない。

九州説は九州だけしか見ないから、倭国大乱と高地性集落の関係も考察できない。
関裕二の「トヨ東征説」も、高地性集落が4世紀のものなら説得力は増したんだろうけどね。
601日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:24:41
>>596
>畿内説論者の主張はコロコロと変わりすぎです。あると言ったり、ないと言ったり。

はあ〜・・・そこまで説明しなければならないのか?


>九州にほんの一時期でも相当な勢力が発生した痕跡でもあれば

・・・と言うのは確実に倭国大乱以降の年代と判る痕跡の事だよ。

そんなものがあれば

「ああ、な%8
602601 2重カキコスマン:2008/09/21(日) 14:26:09
>>596
>畿内説論者の主張はコロコロと変わりすぎです。あると言ったり、ないと言ったり。

はあ〜・・・そこまで説明しなければならないのか?


>九州にほんの一時期でも相当な勢力が発生した痕跡でもあれば

・・・と言うのは確実に倭国大乱以降の年代と判る痕跡の事だよ。

そんなものがあれば

「ああ、なるほど九州で卑弥呼が共立され、邪馬台国が魏から冊封されて
そう言った勢力が発生したんだな・・・」

って誰でも思うだろう?wwwwwwwwwww
603日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:27:37
九州は鉄器や絹が多いから先進国だから云々という人は、
それこそ魏志倭人伝の内容を理解してない。

卑弥呼は、政治的に統治したのではなく、巫女として精神的に統治した。
それはつまり、九州がいかに先進国であったとしても、
精神的よりどころを、別の地域の巫女に求めたということであって、
それが奈良というド田舎であっても、巫女の隠匿地と考えれば、かえって説得力が高まる。

たしか、宇佐説は、大和朝廷が君臨した時代にあっても、
朝廷は宇佐の神託を求めたとか言ってたよな?それと同じ論法だよ。
604日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:02:29
>>600
>「邪馬台国が九州にあって、3世紀まで繁栄していた」
>こういう前提を想定すると、結局4世紀以後の歴史観が破綻してしまうのだよ。

貴方の歴史観が破綻するからと言って、魏志倭人伝から導き出される結果を無視できません。

・魏志倭人伝(三国志)を偽書として葬り去る
・貴方の歴史観を修正する

の2択でしたら、私は後者を選びます。

邪馬台国滅亡のシナリオなんて、不確定情報が多くて、邪馬台国所在地の根拠にはできません。

普通であれば、確定している情報から論理を組み立てます。

>>603
>九州は鉄器や絹が多いから先進国だから云々という人は、
>それこそ魏志倭人伝の内容を理解してない。

とりあえず、鉄器や絹について
九州説の方が魏志倭人伝に合致するということを無視し、
鉄器や絹が多いから先進国という主張のみにすり替えたのは
九州説が考古学的に魏志倭人伝に合致することを認めるのは
畿内説にとってはヤバウィッシュってことを認められたということですね。
605日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:08:00
九州説が生き残るためには、
箸墓が3世紀の古墳で、3世紀に大和王権が生まれたことを認め、
かつ、九州にも国際外交の窓口としての邪馬台国があったとし、
鉄器など先進物の交易によって独立を維持し、
卑弥呼やトヨなる女王が統治していたが、徐々に巫女の求心力は低下し、
4世紀には畿内の大和朝廷の傘下に入り、畿内の大王に従い大和連合の一部になったと、
明確に宣言することだね。

これなら、そうとう偏屈な畿内説論者でも賛同してもらえるんじゃないかな?
いまのままだと、九州説はトンデモ扱いされて黙殺されていくだけだぜ。

畿内説をやみくもに否定し、認知されることなく、トンデモ扱いに甘んじるか、
九州説を学問的に延命させるか、どっちがいい?
606日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:10:41
>>604

では聞くが、
邪馬台国は、3世紀いっぱいまで九州で繁栄していたとして、その後はどうなったんだ?



九州の邪馬台国は4世紀に勝手に滅んで、畿内の大和朝廷の傘下に入ったことを認めるかね?



607日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:23:03
>>599
>言っておくが俺は邪馬台国自体の遺跡とか言って無いぞ?
>纏向とて邪馬台国だと決まったわけじゃ無し
なんだかごまかそうとしている感じがする、ずるい言い回しですね。
608日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:32:15
>>607
ん?

ピンポイントでの「邪馬台国自体」の遺跡では無く
それを中心とした「勢力圏」を示すものを問うのが何処が誤魔化しなんだ?w
十分フェアな問いだと思うが?www


「分布圏」「勢力圏」「文化圏」等々も「何処かを掘ったら出てくる」で済むのなら

「畿内の鉄も発掘されず何処かに眠っているだけ。
 何れ九州より大量の鉄が見つかる」
…でもおkやんけwwwwwwwww

609日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:44:25
>>604

>普通であれば、確定している情報から論理を組み立てます。

確定してる情報は、遅くとも4世紀には畿内に王権が生まれたということだね。
九州説は、これにどう整合性を持たせるかが問題。

昔流行った東遷説はとっくに死滅したようだし、
九州説で邪馬台国の滅亡を認めないならば、残るは九州王朝説のみ。
九州王朝説のほうが、不確定な要素が多いと思われるが、
おまえの歴史観は4世紀以後どうなってるんだ?

「4世紀以後は知らん。だけど、邪馬台国は九州だ。」なんてのは、お粗末すぎる。
610日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:02:57
>>605
>九州説が生き残るためには、
>箸墓が3世紀の古墳で、3世紀に大和王権が生まれたことを認め、
>かつ、九州にも国際外交の窓口としての邪馬台国があったとし、

九州邪馬台国が首長連合に参加して尚且つ魏から冊封を受けた
…って仮説を唱えられたら、畿内説はもうお手上げだなw

(薩摩と明の二股かけた琉球王国のイメージかな?www)

ぶっちゃけ年代さえ合えば卑弥呼の墓を九州の初期前方後円墳にしても良い訳でwwwww
611日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:12:20
4世紀の畿内の王権は、大和地方の一豪族。
612日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:14:39
>>610

>九州邪馬台国が首長連合に参加して尚且つ魏から冊封を受けた
>…って仮説を唱えられたら、畿内説はもうお手上げだなw

九州邪馬台国が畿内王権に無断で魏から冊封を受けてたことに腹を立てた畿内の大王は、
九州に派兵して九州の直接経営に乗り出し、それが、
景行・神功の九州平定とすれば、日本書紀の記述とも合致する。

どういうわけか、誰も唱えない説だけどな。どこにも不備は無いのに。

そもそも、九州の中では、景行天皇の九州巡幸を歓迎する祭りがある。
九州が畿内王権の統治を受け入れた動かぬ証拠だよ。

613夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/21(日) 16:20:13
>>605
2ちゃんねる内にも君のような九州論者が増えて欲しいものだ。
結論誇示と罵倒ではない、学問的論争の出来る九州論者が。
九州説と言うのをなるべく考古学的現実に合ったようにしていくとそんな風になる。
3世紀当時に畿内が未開の地だった、なんてことはない。
3世紀中ごろに、北九州勢力が畿内に東遷、なんてこともない。
あったとすれば、100年代〜200年代。
3世紀当時、畿内が栄えていたことも、北九州が栄えていたことも事実。
北九州には末盧国や伊都国、奴国、不弥国等の国々が栄えていたのだから。
将来的に、
・北九州筑紫説…邪馬台国は筑紫の国々の中の首長国
・畿内大和説…邪馬台国は大和王権
こういう形で学問的な論争が行われれば良いのだが。
614日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:23:09

景行天皇の九州巡幸を歓迎する祭りは、熊本県山鹿市の山鹿灯籠まつり。

ttp://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/08-tourou/08-01gaiyou.html
>その昔、菊池川一帯に立ち込めた深い霧に進路を阻まれた景行天皇のご巡幸を山鹿の里人が、
>たいまつを掲げてお迎えしました。
>その時以来、里人たちは行在所跡(大宮神社)に天皇を祀って、
>毎年たいまつを献上したのが祭りの由来となっています。



はい、九州王朝説終了。

615日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:24:16
>>605
>九州説が生き残るためには、
>箸墓が3世紀の古墳で、3世紀に大和王権が生まれたことを認め、
箸墓を卑弥呼の墓としない九州説にそんな足枷はないと思うけど
貴方の願いを他説に強要してはいけません。

>>606
>邪馬台国は、3世紀いっぱいまで九州で繁栄していたとして、その後はどうなったんだ?
別に知らないけど? 寧ろ、知っていると主張する貴方は怪しい。(霊媒師じゃあるまいし)
たぶん、貴方は自分自身の妄想を現実のものと取り違えてらっしゃる。
因みに東京遷都を文字資料なしの考古学的遺物だけで分析したら、どこまで細かな予想ができます?

>>609
>確定してる情報は、遅くとも4世紀には畿内に王権が生まれたということだね。
そうせいぜいそれだけです。邪馬台国=大和朝廷はまだ確定していないのです。
邪馬台国と大和朝廷の間でどういったことがあったかは想像するばかりです。

不確定の部分で整合性があると強く主張されても、
魏志倭人伝に殆ど合致しないという明らかな不整合がある点が既に問題点です。

不確定な部分でしか整合性を示せないという点が
畿内説の重大な欠点と言えましょう。
616日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:33:36
>>613

>・北九州筑紫説…邪馬台国は筑紫の国々の中の首長国
>・畿内大和説…邪馬台国は大和王権

3世紀の北九州が、畿内大和王権連合に参画し、
かつ、魏とも冊封を受けて金印をもらってた、という仮説を立てた場合、
畿内説がこれを否定するのは非常に困難だろうね。
ようするに偽僭説だけど。

九州説は偽僭説に立てば、生き残れる。 それ以外は無理。
なぜ、偽僭説にもっと目を向けないのか不思議でならない。

偽僭説VS畿内説というのが、今後の学問的方向性だと思うけどね。
617日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:36:58
>>615

>邪馬台国と大和朝廷の間でどういったことがあったかは想像するばかりです。

おまえが、どう想像しようと、
九州に邪馬台国があった場合、
「大和王権とは別政権だったが、滅亡した」か、「偽僭説」しか道は無いんだよ。
九州説を採るなら、どちらの説を採るつもりなんだと聞いてるのだ。

618日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:44:57
>>616
>九州説は偽僭説に立てば、生き残れる。
偽僭説は無理。対馬国から南九州まで女王国の支配のもとに動いている。
一大率の指揮のもとで使者一行を女王のもとまで案内したはず。
偽僭者がそんなことまでできるわけはない。

九州に倭国王がいたと考えるべき。


619日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:47:37
>>605

九州では鉄器をバンバンつかっていた時代に、畿内に木器・石器主体の王権があったことは、
九州説の全員が認めてるでしょ。畿内説の妄想はいいかげん、よしましょう(夏祭もね)。
620日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:54:15
>>619
んでサイキバちゃ〜ん

「九州では鉄器をバンバンつかっていた」事と
九州に邪馬台国があった事は理論的にどう繋がるのかな?w

(ちなみに俺の鉄に関する考えの一端は>>597に書いてあるんだけど)

きちんと説明してみ?wwwwwww
621日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:00:30
【韓国】日本人を「チョッパリ」と呼ぶのは何故なのか、あなたは知っていますか?★2 [09/21]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1221978964/

代表的なのが、私たちが日本人を卑しめて呼ぶ「チョッパリ」だ。ネット上には「チョッパリ」以外
にも「沢庵国」「寿司国」という新造語もあるが、何といっても日本に対する蔑称は「チョッパリ」
だ。アメリカの場合、第二次大戦当時に日本を称する蔑称は「Jap」「monkey」だった。まさに
日本猿というわけだ。
(中略)
この伝統的な日本の履き物を「地下足袋」と言う。日本の忍者映画が好きな人は、もしかしたら
見たことがあるかもしれない。この履き物を見れば、目ざとい人は「チョッパリ」がそういう意味
なのか分かるはずだが…。形がまさに豚足 kkk
(中略)
平安神宮の前で人力車を牽くバイトをする学生だ。炎天下で二人一組で外国人を相手にバイトをする学生だが、
私はなんだか申し訳なくて乗らなかった ^ ^
豚足みたいな日本の履き物「地下足袋」、そこから私たちが日帝時代に日本人を卑しめて呼ぶ
ときの「豚足(チョッパル)」が「チョッパリ」になったのだ。
(中略)
夏に私たちが好んで履く「ジョーリ」(訳注:日本語の「草履」が転訛した語)。その起源は日本
の履き物だと分かって履こう。^ ^ ソウルの奨忠洞の豚足料理店で豚足(チョッパル)を食べるとき
は、「チョッパリ」を齧る気持ちで食べればもっと美味しいかもね?^ ^ 【鄭ジェハク編集委員】

▽ソース:デイリアン/Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2008-09-21 11:18)
http://www.dailian.co.kr/news/n_view.html?kind=culture&id=126755
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=13&articleid=20080921111843783h4&newssetid=85
622日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:07:43
>>620

邪馬台国の特徴は、倭絹と鉄鏃って知ってた?これ、畿内説は成り立ちませんってことなの。おわかり?

・・・・あ、ごめん。理解できないから畿内説に固執してるわけネ。たんなるお馬鹿さんでしたか、こりゃ失礼!
623太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:21:37
だいたい女王国が畿内にあるんならなにも北九州上陸なんかより
山口県日本海側に接岸したほうが面倒がなくてよい。海賊だとか
海の荒れで出雲とか若狭湾とかが無理だというなら、北九州沿岸に
接近した時点で一寸船を左折して山口県のそこに着岸するのが
お利巧さんだということだ。それをしないで北九州へ上陸したのは、
女王国が九州のどこかにあったというのが合理的である。あとは観光
とか九州のいろいろな沿岸を水行しては各所で船をとめてどんな所か
見物して、そのうち陸内も探検して、あるとき卑弥呼の国へ到達
したということだ。記紀に卑弥呼の独立した記述がなく、神功39年等
の副流煙くらいしかの雀の涙wwほどの記載しかない。主流煙
たる独立した記載は、畿内にあるというなら、倭人伝以上に多大な
記述が記紀に載るはずだが、この主流煙たる多大な記載が畿内説の
畿内で書かれたはずの記紀にうんとあるはずだが、それが検出
されないのは、紀無いに卑弥呼の国が無かったと考えるのが相当
である。つまり卑弥呼の女王国は九州にあったのだ。紀無いに女王国
ができるのは推古の世を待たねばならない。
624日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:23:03
>>618

>九州に倭国王がいたと考えるべき。

九州の倭国王は4世紀に畿内に屈服したといことでいいですね?

625日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:24:56
>>623


九州王朝の太国は、>>614の山鹿灯籠まつりについて説明してみなよ。
626日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:27:17
ヤマトの天皇側が賜姓されてるんじゃ、どう考えても畿内が傘下だろ。
627太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:28:55
>>625
景行の九州行幸は視察目的とかで、神功は半島攻めのためであって、九州支配
のためではないよ。朝廷が九州にいよいよ勢力を伸ばし始めたのは雄略の代
だよ。それまでは畿内か畿内一円+αであって、九州まで支配には至っていない。
628日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:30:53
景行天皇は九州王朝の天皇だったんだよ。
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:34:19
景行は九州王朝の天皇ではないな。畿内の天皇だよ。たまたま視察
で巡幸したもの。神武の世で畿内天皇国の基盤となり、崇神でその
畿内が強固になったわけで、それから2代後にもう九州支配など
まだまだ出来ないだろうが。もっとあとだよ。
630日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:38:17
いまさら、あわてて言いつくろってももう遅いって。

631日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:38:40
畿内の勢力が九州に及ぶのはもっと後の時代。
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:43:04
あわてたってしようがない。つくろいも無いよ。ありのままさ。
景行が九州へ行っただけのことで、支配なんか出来てないよ。当時
まだまだ朝廷の勢力は 紀無い一円+α さ。
633日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:45:54
>>581
581 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 11:21:15

>遠方の外国の大陸倭人伝以上に詳しく舎人らによって卑弥呼の記述されるはずだ。
・遠方だから倭国の玄関口の九州諸国の記事が紹介されただけ

>しかも倭人伝の数倍以上記紀に卑弥呼の記事が具体的に載るに決まっている。
・意味がわからん

>しかも北九州上陸よりも上陸寸前に山口県日本海側西端にでも着岸したほうが畿内に行く
のにてっとり早いし、案内者は畿内に近い所に接岸したほうが得やすいのが道理だ。
・どうして航海の困難な山陰側に付けるのかな? 遠回りしても安全な所に着けますよ。
大型船ならまだしも
634日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:48:11
>>622
やっぱりサイキバ君は馬鹿だなあw

邪馬台国以外は鉄鏃を使っていなかったのかい?w

鉄製・青銅製の鏃は北部九州で紀元前2〜1世紀頃
瀬戸内・近畿・東海では紀元前後〜紀元後1世紀頃から使用が始まっている
(戦う倭人―松木武彦)

絹にしても倭人伝の何処に「邪馬台国内で絹を産した」って書いてあるんだよアホwwwwwww

まあこうやって文献のつまみ食いで自説を膨らますのが九州王朝説のアホの常wwwwwwwwww
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:49:45
>>633
だから北九州上陸してでも、そこから歩かないですぐ再度乗船して
紀無い行きすればいいではないか?ww
本来ならばちょっと北九州沿岸でちょこっと左折して山口県に接岸
すればお利口さんということよ。ww
636610:2008/09/21(日) 17:59:44
>>612
うーん・・・
そうすると景行の九州征伐は3世期末?
その時点で畿内ヤマトがそこまでの軍事力有していたとは思えないなあ。

ついでに言うと畿内に邪馬台国があったとて外交の主体は
あくまで北部九州の勢力に委ねていただろう(半島から畿内の土器が出ない等)

まあ卑弥呼が魏に泣きを入れたクナ国との戦いをブチ切れた畿内ヤマトが攻めてきたと言うのは
良くできた話ではあるがwwwwwwwwwwww
637太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 18:02:06
孝靈の代でも、月支国が出雲に船団で来てるよ。いま云ったように、
そんなに北九州にこだわるなら、そこから歩かないで船で山口県
あたりに渡ればい事だ。それが歩いてるということは九州視察目的
だからで、そのまま今度は九州陸内の視察だよ。記紀にないんだよ〜
副流煙の神功39年等のネコの額位の書きこみ。天皇国の隣に卑弥呼
がいたのなら、天皇と卑弥呼の交易、戦争の記事が記紀にこれでも
かと載る。それでも天皇のいない神武より古い時代に紀無いに彼女
がいたというんなら、239年が神武以前の位置になるため、これでは
後代天皇の在位期間が寿司詰めとなって不合理極まりなく、これも
成立はありえない。
638日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:17:15

>>637
エンジンが付いている大型船ならまだしも、江戸時代の参勤交代時でも、
内海とされる瀬戸内海で潮待ちして航海していたことを・・・・
ご存知でしょ?? 博学の太国なら。
639日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:23:43
>>636

景行は4世紀末頃でいいかと。

>ついでに言うと畿内に邪馬台国があったとて外交の主体は
>あくまで北部九州の勢力に委ねていただろう(半島から畿内の土器が出ない等)

これは同意できる。

九州は、後の時代になっても畿内から独立心が旺盛で、朝鮮と結託することばかり。
そのつど、大和朝廷から討伐されてるが。

だから、九州人が九州説に拘る習性はよく理解できるし、
だから、3世紀に九州が勝手に魏と外交してたとしても不思議じゃない。
魏が滅んでからは、後ろ盾が無くなって、畿内に泣きついてきたという所だろう。

もっとも、邪馬台国が九州でなければならない理由も無いけどね。
九州説は、もっと「邪馬台国が九州でなければならない理由」が欲しい。


640日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:47:42
>>635
畿内に邪馬台国があったなら、九州に寄り道して上陸はしない。
船でそのまま大阪湾あたりに上陸。
九州の情報より畿内にの情報が多く記載されるはずだな。
641日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:47:45
箸墓を3C半ばから後半にして、纒向石塚やホケノ山をその前にする説は
ちょっと魏志とは両立しないよね。

九州では古墳時代になると南九州に比重が移って、西都原で纒向型の古い
古墳が作られる頃には、伊都国は没落している。
これでは代々王がいた重要拠点とされる伊都国の扱いに合わない。
古墳時代は少なくとも邪馬台国より後であることは、明白だよ。


642日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:52:11
魏志は各地域を「国」としたのは、環濠で囲まれて独立した外形が存在していたから。
環濠が埋められて、統一企画の古墳が作られる時代に、ただの地域を「国」とは
言わない。

魏志では卑弥呼の居所を環濠に囲まれた状況として描写していて、古墳時代とは
全く異なる。高見やぐらは環濠に囲まれていた状況でなければ意味がない。

古墳時代を遡上させると、環濠集落の時期として描写している魏志と合わない。
643日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:53:43
>九州では古墳時代になると南九州に比重が移って、西都原で纒向型の古い
古墳が作られる頃には、伊都国は没落している。

古墳と国の盛衰は直接はかんけいしない。
大型の古墳は地域の流行だな。
大型の古墳がないから大きな勢力が無かった等とは断言できない。
644日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:56:53
三角縁に見切りをつけて、画文帯を邪馬台国時代にする説があるが、
画文帯は北部九州での出土はとくに少ない。

この状況で画文帯を邪馬台国の時代に持ってくるのは無理。
画文帯が日本に来たのは320年頃以降だろう。
645日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:01:39
三国志魏書の倭人伝の国には2種類ある。
この時代にはまだ倭国はないので地域としての国(投馬国と邪馬壹国)。
環濠で囲まれて独立した外形を持つ都市国家郡(狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国)
646日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:03:13
>644
>画文帯は北部九州での出土はとくに少ない。

だから勢力の中心が畿内にシフトしたんだよww

「邪馬台国は九州」の結論ありきの無茶苦茶言ってるぞお前wwwwwwww
647日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:12:53
>>645

韓では、

馬韓、辰韓、弁韓

爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、
臣濆沽国、伯濟国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、
素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、占卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑彌国、
監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、内卑離国、感奚国、萬盧国、
辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不彌国、支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、
莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、
不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国
彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、安邪国、瀆盧国
已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国、如湛国、戸路国、州鮮国、斯盧国、優由国

倭では、

投馬国と邪馬壹国

狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国
648日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:13:59
>>644
>画文帯が日本に来たのは320年頃以降だろう。

根拠は?

まさか呉の滅亡に+αして弾き出したって事はないよな?w
649日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:15:58
邪馬台国は大和しか無いだろう。

九州だとしたら、水行の説明がつかない。

650日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:24:46
水行は郡から九州までのかかる日数の説明。
651日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:33:13
>>641
>古墳時代は少なくとも邪馬台国より後であることは、明白だよ。

ということは、3世紀に隆盛していた北九州は勝手に没落し、
主導権が田舎の畿内に移ったということだな。

明白なんだから、そう言い給えよ。
九州の邪馬台国が4世紀に自滅したと。

652日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:40:49
倭の五王も九州の王だな。
畿内に王が居たまま朝鮮に大軍を出すのは無理。
九州に王がいたから朝鮮に大軍を出すことが出来た。
653日本@名無史さん:2008/09/21(日) 19:58:39
>>652
>倭の五王も九州の王だな。

OK。

で、そのころ河内には巨大墳墓を作った王権があったわけだが、
九州にそれに匹敵する巨大墳墓ってあるの?
654日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:05:10
ことごとく論破される九州王朝説(笑)
655太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 20:05:20
>>639
景行の在位は3世紀末から4世紀始め頃。倍暦計上にて

 景行即位年=293年
 同 崩御年=322年
656太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 20:13:04
>>653 >>654
禰名(DNA)が一致すまいが。ww それとも若子宿禰だとでも
云うのか?ww それとも武内宿禰か〜〜??www

五王当時の朝廷はそろそろ九州、関東に触手を伸ばす日の出の勢い
のころだ。陵なんかどデカい物を造れる。方や九州の五王は王権が
短期で朝廷よりは勢力はかなり小さい。そんな王らがデカい墓なぞ
造ってはいまいが。ならば徳川家康の墓が仁徳陵と比較して小さいの
は何故なんだ。反問する。
657日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:25:36
>>656
朝鮮出兵した国力は九州のどこにあるの?

しかも、5世紀の九州には独自の墳墓形式も無いし。
政治基盤は何?
658日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:30:06
北部九州は、弥生時代はカメ棺墓が主流だったが、
そのカメ棺墓は九州以東に広まることなく、畿内の前後後円墳にとってかわったな。

九州勢力の東征なんてものはないし、
宗教(神話)が東に移動したこともない。
九州は、政治も宗教も、畿内の様式を受け入れてるんだよ。
659日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:33:19
>>656
南朝の宋書に有名な一文が掲載されている。

倭の五王に関する記述で、『…昔より祖禰自ら甲冑を貫きき、山川を跋渉し、寧処に遑

あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北

を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。…』

これらの五王も九州王朝の王と言ってるみたいだけど、西は衆夷を服すること六十六国

なんですが・・・無理な展開はいただけません。

660のんびりひまじん:2008/09/21(日) 20:33:35
>>656 DNAが出たところで、思考範囲(=大枠)の参考データを見て欲しい。

(遺伝子に見る、縄文人VS弥生人)
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

(弥生人に追い詰められた縄文人)
http://www.isobe.or.jp/column/sanka/s61/s61-2.html

→弥生人が日本列島に最初に進出したのは、北部九州。
九州の縄文人を南部に追い詰める(土ぐも伝説)一方で、
弥生人たちは東へ東へと、移住しつつ、瀬戸内・関西・東海へ進出した。

(大枠提供はいったん、ここまで。)
661日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:37:12
>>645
2種類あるのは
壹大國

壹支國

「大」は「支」の古い書体の見間違い。
稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文の中の「支」の字体が
魏志倭人伝の原典に近い字体。

今日の魏志倭人伝版本は宋代のもの。
誤認が多い。
662太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 20:39:56
>>657
君は九州の地中の中をスーパーマンのようにX線透視が出来るの
か?ww

>無いし
遺跡は全部とは云えないが、崩壊するんだよ。クレオパトラの墓も
見つかってはいまい。だからと云って彼女がいなかったということ
にはなるまい。体表面に変な痕跡がなければ体内はなんでもないの
か? そうだというなら君は医者なら藪遺捨だぞ。体表にガンの
形跡が見られなくても、体内はどうだかわからんぞ。

卑弥呼の時代に九州で卑弥呼が周辺国を従えていたくらいだから、
そういう五王の戦力もあったことは疑う必要もあるまいが。
当時の日本は1国ではなかったということをはっきりと思い知ること
だ。大陸も半島も多国に分立しており、1国的ではなかった。この
ことから日本も朝廷が牛耳る畿内政権だけだと観るのは大間違い。
現に倭人伝にも女王国のほかに多国の記事がある。五王の当時は
畿内は1国支配的であったが、九州は支配性がまとまってはいなか
ったかもしれないが、戦国的か? それはわからんが、九州は他国
があったと観てよい。
663太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 20:44:39
>>659
ひとつも無理ではない。五王の先祖が支配していた時代は五王の
居座る土地だとは必ずしも云えまい。神武も九州から畿内へやって
きて統治している、逆に五王の先祖が畿内から九州に来たとなれば
別におかしくはない。畿内かどうかわからぬが他の土地だとかだよ。
664日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:45:53
九州王朝説(笑)
665日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:50:34

>>663

わぁおー

さすが太国先生
666日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:57:40
>>662 犬国◆yVAs7uaYlY
埋葬文化、墳墓形態…と言うのは一つ二つの遺跡を見つけられるかどうかと言う話とは別次元だ。




667日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:58:48
九州王朝の王の一人が天武天皇。
天武が畿内王国を乗っ取って、律令制の地盤を作っていきました。
668日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:12:41

>>667と太国先生は、「※ 九州王朝はなかったのか? ※ 14」
に即時移動をお願いいたします。
669のんびりひまじん:2008/09/21(日) 21:12:51
>>9
>西都王国の王=神武はアマテラスの子孫です。

>神武は邪馬台国連合の騒乱に嫌気がさして東征し、
>畿内に九州を越える王国を築きます。これが大和朝廷です。

日本書紀にあるが、南部九州からの出発は、遺伝子状況から支持されない。

>>660 ポイントは、いずれかのタイミングでの東遷説が支持される。
ちなみに、九州王朝説は、7世紀天武ころの東遷説というだけ。そう特殊ではない。
670日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:25:32
この板の邪馬台国スレで直ぐに五王やその他の時代の話に移ってしまうのは

結局九州説がその中身が九州王朝説論者が大半を占めることが原因だろう。

連中にとって7世紀頃までは一繋がりの問題で、九州皇国史観を証明する為には
そのお題はどの時代でも良いのだろうwwwwww
671日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:37:54
>>647
この時代の朝鮮南部は小国分立時代であることは、定説。
各小国が独自の城をもち独立しつつ提携していた。

日本も「国」と書かれたのは小国が独自の城(この場合は環濠)を持った
状況だったというのが、20年前までの定説。
卑弥呼の居所の描写がその裏付けとされた。

邪馬台国が古墳時代であったとする年代遡上説は、文献史学では否定される。
672日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:45:16
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者は推古天皇ではなく、実質的には、嶋大臣の
蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。
673のんびりひまじん:2008/09/21(日) 21:46:58
>>660 >>669 西→東(西先東後)の現象を掲げる。
・初期古墳の特殊器台埴輪は、吉備→関西
・初期古墳のホケノ山古墳から玉が出土しなかった(壱與女王の青大勾珠魏への贈与いかに?)
・関西の大王級古墳(中小は除く)の石棺は阿蘇凝灰岩ピンク石:石棺の東送(ご遺体も九州王では?)
・絹は古墳時代となってようやく東流が始まる(絹の考古学 布目順郎著 壱與女王の絹織物魏への贈与いかに?)
・蘇我馬子は播磨から僧尼将来・「これより仏法おこれり」:仏教の列島内東伝(播磨→アスカ)
・太宰府(初期)の理化学測定値 435〜610年→難波京:都城の東遷(これは重要で、関西に難波以前の都城未発見)
674日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:52:26
>>671
「クニ」を中心集落の環濠集落とその周辺の集落ぐらいにするならば
一大(一支=壱岐)国の三千家と奴国の二万戸の差が説明がつかないなw

壱岐の場合恐らくはその中心は「原の辻」だろうが中々に大きな環濠集落である事は分かっている訳でwww

投馬国や邪馬台国なら
「倭人からの尾ひれがついた伝聞をそのまま記録した」
と言う事もできるかもしれんがwww
675日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:34:02
>>671
>邪馬台国が古墳時代であったとする年代遡上説は、文献史学では否定される。

邪馬台国が九州なら、3世紀末に自滅したって言いなさいよ。
そしたらいくらでも話を聞いてあげるよ。
676太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 22:36:34
>>665 >>668
先生はいらないよ。アマチュアなんだからね。
677日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:42:10
自滅したのは、2世紀の畿内じゃないかな?
九州国家は遷都している気配 → 九州の発掘遅すぎで不明多すぎ
678太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 22:45:03
>>672
だからもうあいつの調査は失敗なんだよ。卑弥呼存在の後、長い年月
が経っていて当の日本人でさえ、もう知っているやつは殆どいない。
そんなころに行って調査して、そのころの日本人の説明あたりで結論
を出したんだろう。だから裴世清の断定は大間違いだ。要するに
畿内説者の元祖かその次あたりの人物で、棄却が妥当だ。
679日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:50:35
邪馬台国は九州でもなく、もちろん、機内でもなく、別の場所にあった!
この説がいま一番熱い。
680日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:51:12
そんなことありません>679
681日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:51:33
>>673 のんびりひまじん

邪馬台国の魏・晋への貢物(勾珠・絹)は広域首長連合の畿内邪馬台国ならお取り寄せで問題無しw

あるいは>>636でも言ったが外交を北部九州の勢力にアウトソーシングしているとなれば取り寄せる必要すらないwww


これは スレ違い だが大宰府の都城の遷都と言うが何を持って太宰府を都城と言うのか?

恐らく第二期の層から出土の瓦に付着していた炭化物の測定値の事だろうがw

第二期の礎石の配置は現在地表にある物と同じだったはず。

規模や構造に都城だと断定できるほどの違いがあるのか?
682日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:51:43
>>677
>九州国家は遷都している気配 → 九州の発掘遅すぎで不明多すぎ

遺跡ひとつでもいいから、
九州から遷都している気配のする畿内の遺跡を挙げてみなさい。



683日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:57:17
>>682

その前に、絹や鉄鏃(どちらも魏志倭人伝に出てくる)が、

   九州>>>>越えられない壁>>>>畿内

であることを、屁理屈で言い訳しないと畿内説が成り立たないことに気づけよ。
話はそれからだ。
684日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:59:54
685日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:03:57
>>683
やっぱりサイキバ君は馬鹿だなあw

邪馬台国以外は鉄鏃を使っていなかったのかい?w

鉄製・青銅製の鏃は北部九州で紀元前2〜1世紀頃
瀬戸内・近畿・東海では紀元前後〜紀元後1世紀頃から使用が始まっている
(戦う倭人―松木武彦)

絹にしても倭人伝の何処に「邪馬台国内で絹を産した」って書いてあるんだよアホwwwwwww

まあこうやって文献のつまみ食いで自説を膨らますのが九州王朝説のアホの常wwwwwwwwww
686日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:04:29
太国・・・クレオパトラは墓が見つかっていないからと言って存在は否定出来ないってか?
おう〜い。トンデモ九州王朝のアホのサイキバ!
太国のレス、クレオパトラを鉄に置き換えて読んでみろ。
サア アホのサイキバ! 太国のアホに間違いを教えてやれ。

馬鹿バッカリ。2ちゃんの九州説はホント駄目だな。
あ、すまん。 九州説ではなく、トンデモの九州王朝だな。
687日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:05:57
その程度の判断力が、畿内説w
688日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:08:52
犬国の大好きな古代エジプトだが(まあ他にマヤとかがあるがw)

結局、鉄の民族とも言えるヒッタイトはエジプトを滅ぼすどころか
自身は何処の馬の骨とも分からない謎の海洋民族に滅ぼされたとwww

689太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 23:09:44
>>686
古史古伝にもウガヤ朝70数代とかの記述がある。
それにもう年号も多々出ている。まぁ諦めたほうがいいぜ。こういう
証拠に忠実になることだ。そんああっちもこっちも偽造天国では
な〜い。倭の五王も九州だ。禰名(DNA)も合わないし、これはもう
畿内の天皇ではな〜い。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・
690日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:16:37
>>674
韓でも数百〜一万戸を越える国があった、三千家〜二万戸の差は問題ないな。

投馬国や邪馬台国は韓なら馬韓や弁韓にあたる。
691日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:17:54
>>685
>邪馬台国以外は鉄鏃を使っていなかったのかい?w

畿内は鉄鏃よりも銅鏃の方が出土量多いでしょ?

魏志倭人伝:「竹箭或鐵鏃或骨鏃」
692日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:20:31
>>659
西は衆夷を服すること六十六国・・・これは九州内のこと。
693日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:35:55
>>687
なんだ、言い返す事すら出来ないのか。
サイキバ!情けない奴だな。
「見つからないからと言って否定は出来ない」言っているアホな爺に教えてやれよ。
見つからないものは存在しないって。
言葉選んでしっかり書け! アホの畿内にもうこれ以上馬鹿にされるな!お前のせいでさんざんだ。

荷が重いか?まあ、無理があるならスルーしろ。 泣きべその駄レスは不要だ。わかったな。
694日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:38:22
>>690
じゃあ実際問題、奴国の中心の環濠集落は原の辻の一体何倍の規模なんだ?っちゅう話だよw

そもそも現在文献史学で国の構成から
邪馬台国は古墳時代ではないとする―それは当然畿内説を否定する―のが主流なのか?www
695日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:44:28
>>694
魏書に韓でも一万戸を越える国があったと記録されている。
奴国の中心の環濠集落が原の辻の何倍かは分からないが巨大なものだっただろう。
奴国は邪馬台国の経済の中心都市であったのであろう。
福岡市の地下には奴国の中心遺跡が眠っているかもしれない。
696日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:47:27
>>683

東遷説は死滅してますが、何か?
697日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:50:51
>>696

あっそう。だから何?
698のんびりひまじん:2008/09/22(月) 00:43:12
>>696 >>697
弥生人の東遷(北部九州→関西)はあったに違いない。

弥生人東遷の出発地とタイミング(いつの時代)とを考えるべきデータを再提出。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.htm

辺境へ追い詰められた縄文人
http://www.isobe.or.jp/column/sanka/s61/s61-2.html


699日本@名無史さん:2008/09/22(月) 00:44:36
>>696
東遷はいまや当たり前の前提ですね。問題はその時期だけでしょう。

考古学では、 <九州の繁栄 → 畿内の繁栄> の流れは証明済みの定説。

鏡のなかった畿内に、鏡崇拝文化という特殊なものが伝わったのも決定的ですね。
南海産の貝を模した石製品も、これまた決定的な証拠。
銅鐸文化が滅んでしまったのも、決定的な畿内文化滅亡の証拠。

記紀も先代旧事本紀も古語拾遺も全て東遷を述べていることも決定的な証拠。

新撰姓氏録などの古文献では畿内の豪族の95%以上が九州出身とされているのも決定的。
文献史学を普通にやれば、東遷は当たり前でしょう。問題はその時期だけです。

古代人がこれほどまでに強調した歴史を全部ウソという「オカルト」が東遷の否定ですね。
まあ、『ムー』でも東遷の否定はしないでしょう。
700のんびりひまじん:2008/09/22(月) 00:49:41
701日本@名無史さん:2008/09/22(月) 00:51:34
>>699
畿内説の学者は、弥生時代の畿内とくに、環濠集落の墳墓での鏡の出土例が
ほとんどないという事実を意図的に隠すのは良くないね。

環濠集落の時期の九州では鏡は数百面出ているのに、畿内は0に近い。
この状況が、古墳時代になると一変する。
もう東遷は明白すぎる。

・・・いったい学者のプライドって何なんだろう。
自分の研究に真摯でない学者人生なんて無駄な人生だよね。
702のんびりひまじん:2008/09/22(月) 00:54:28
>>699 >>700

遺伝子も、弥生人の東方移動を示します。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html
703日本@名無史さん:2008/09/22(月) 03:25:44
>>699

文献上の神武東征は紀元前。

史実としても1世紀。

東征が事実としても、邪馬台国以前に、東征が完了してますが、それが何か?



704日本@名無史さん:2008/09/22(月) 04:00:51
記紀によれば、神武東侵の結果、神武軍(たいした人数ではない)が畿内に
ささやかな土地を得ただけですね。

これをもって、「畿内に巨大王国=神武王国が建国された」であるとか、
「九州から神武王国が移転して、畿内全域を征服した」ということは、
事実なかったからでしょうが、記紀には一切載っておりません。
705日本@名無史さん:2008/09/22(月) 04:11:25
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/12-3tetukenn.htm

>私は「おおひこ」から乎獲居臣までの時間幅は、おおよそ200年弱と考えている。
>鉄剣が作られた471年から200年くらい前、すなわち西暦270年くらいに、
>八代孝元の皇子「おおひこ」なる人物が実在したと考える。

埼玉稲荷山鉄剣の発見で「オオヒコ」の実在が見えてきました。
オオヒコは崇神天皇のおじさんなので、3世紀で間違いないでしょう。

稲荷山鉄剣→オオヒコは3世紀
記紀→オオヒコの叔母さんがヤマトトトヒモモソヒメ→箸墓に埋葬される
箸墓→3世紀の古墳

稲荷山鉄剣、記紀、箸墓すべてが、3世紀の大和王権の存在を示唆しております。

706日本@名無史さん:2008/09/22(月) 04:25:45
>>705
1代を何年とするかで結論が変わるね。
20年として200年遡る →271年
10年として100年遡る →371年
15年として150年遡る →321年

古代では13、4歳位で成人して、14〜6歳頃から子供を作り、40〜50歳で没する。
家督は兄弟も継いだりするので、1代10年くらいが適当。
707日本@名無史さん:2008/09/22(月) 06:19:47

>>678
文字のない時代の伝承ってそんなものではない。
世界中に未だに文字を持たない部族が存在するが、伝承はされている。
先祖の功績は特にね。
708日本@名無史さん:2008/09/22(月) 07:03:16
九州説(特に北部九州説)の方に質問

どうして伊都国に常駐していた郡使は、邪馬台国に踏み込まなかった
のでしょうか。見聞きしている程度の倭人条の記載であり、到底、
実地踏査はされていないと思われます。何故 何故??
709太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 07:11:56
>>707
梁書 巻五十四 列伝 第四十八
「扶桑国、齋の永元元年、其の国の沙門慧深有り、来りて荊州に至り、説いて
 云う。『扶桑は大漢国の東二萬餘里在り、地は中国の東に在り・・・・・・
 【文字有り扶桑の皮を以て紙と為す。】・・・・・国の王を名付けて
 乙祁(オケ=顯宗天皇)と為し・・・・・・・・・・』・・・」

倍暦計上にて

 永元元年=499年=顯宗即位元年
710太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 07:35:37
>>707
始皇帝の時代の徐福が日本へ来てずっと居座ってたようだから、その時点で文字
は日本へ入ってるよ。金印も使えば文字が写るし、王印の意味がわからないで
王が目クラ判ばかりじゃないだろう。貨泉もある。貨幣は利害が甚大だから文字
を知らんでは騙されバカを見ることとなる。現今でも目のご不自由な方が判別
できる紙幣のはずだ。畿内から出土の鏡も中国から出てない類の鏡がうんと
あるそうで、これだって日本人が造ったなら、文字が読めねば景初三年はいいと
して、「景初四年」は文字を知らなけりゃぁ製造は無理だろう? 『四』を
知らず読めないんでは造り難いと思う。
711日本@名無史さん:2008/09/22(月) 08:15:02
>>699
文献史学しかやらない人は「オカルト」に走りたがる良い例ですね
712日本@名無史さん:2008/09/22(月) 08:40:46
>>708
伊都国は既に邪馬台国の一部。
伊都国は女王の都。
713日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:15:33
>>699
>まあ、『ムー』でも東遷の否定はしないでしょう。

ムーで紹介された超能力者によると、邪馬台国は畿内だそうで。
714日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:26:33
ムーで畿内説が正しいと認定されたのだから、畿内説は正しい。
715太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 15:31:20
ムー誌の連中は最初から紀無い説でマクモニーグルを錯誤させたと思えるから、
最初から誘導があった疑念が相当ありうる。だからあんなふうになったわけ。
それに卑弥呼の絵像も、これとは別に吉永小百合の美麗な卑弥呼姿も、いずれも
真の卑弥呼には似てはいない。本物はあんば美女ではない。
716日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:39:29
>>708
それは読み手側が、邪馬壱国(邪馬台国)の定義を誤っているから。
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 15:58:51
>>715 訂正
× あんば美女   ○ あんな美女
718日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:23:25
マクモニーグルが透視した卑弥呼も美人だったの?
719日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:34:22
>>715
見たことあるのか
720日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:50:38
実は本人
721日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:56:28
卑弥呼の絵みつけた。
ttp://ameblo.jp/public/image/displayimage.do

わりと説得力はある。

ttp://www.gondo.com/cnn/news/080211-1.htm

>散々調べたが山口県と邪馬台国や卑弥呼の関係は、全く見つからなかった。

卑弥呼は山口と、奈良を行き来してたそうだが、
これも、高地性集落の分布図と照らせば説得力はある。
そもそも、山口とは「大和への入り口」という意味だろう。
「山田」という姓も近畿に多く、九州は少ない。
722日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:59:37
ttp://ameblo.jp/gitarcla/entry-10086040129.html
卑弥呼の画像はこっち
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 17:05:45
>>719
能ある鷹は爪を隠す
724日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:18:37
超能力者にも見限られた九州説wwwww

オカルト以下かよ。
725太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 17:36:06
おそらくマクモニーグルの超能力は古代のには効果が少ないんだはないかと
思う? 九州説を吟味しなかったムー誌の連中の誘導的失敗だと感ずる。
連中はもともと先入観で紀無いだと思ってたんだよ。これが失敗の根源。
726日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:38:48
>>724
オカルトに認められて喜んでいるWW。
727日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:49:36
つうか>>699は釣りの臭いがプンプンするんですがwww

「オカルト」とか「ムー」ってのはその逆を読めって事だろ?w
728日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:17:56
東遷を認めることは皇国史観の復活につながります。
東遷を認めれば徴兵制が復活して日本はまた戦争を始めてアジアの国々に迷惑をかけます。

その昔、門脇先生は東遷説を「軍靴の足音」と言われました。
直木先生も東遷説を軍国主義の亡霊であると断言しております。
日本を戦争をする国しないためにも東遷説は否定するべきなのです。
729日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:29:45
新聞屋さんとしては考古学は定番ネタだからなぁww
ナベツネさんなんかネタを採るために共産党の山村工作隊に
監禁されて、殺されかけたもんなぁ。
それなら考古学ネタのほうが手間もかからんし、一定の読者も
確保できるし後々本も書ける。
邪馬台国もいつまでも九州だ近畿だともめていたほうがネタになる
九州なんかおらが街にも邪馬台国をで何かとイベントをやって
ネタを作ってくれる。(ミス卑弥呼なんてネタもやっているww)
あげく月刊ムーや鋼鉄ジーグだって卑弥呼をネタにしている
やはり九州と畿内でもめて盛り上げないと駄目だろう
730日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:44:32
東遷じゃない、神武東征。
731日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:45:04
>>728
歴史を政治の道具にする輩が戦前戦中にいて日本は大変な目にあいました。
歴史の事実を事実と認めることが大事なのです。

あなたはベクトルを逆にしただけで、戦前の軍国主義者とまさに同類です。
732日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:54:21
古事記や日本書紀が書かれたころの皇族や家臣達は、自分たちが九州から
来たという歴史を固く信じていたんだよねえ。
東遷は当然の前提で細かい伝承の違いをいちいち異伝として載せている。

先代旧事紀も、東遷の骨格は否定せずに、東遷に携わった物部氏の功績を伝える
ために書かれている。

・・・・と騙されてはいけないwwwwwww

これは皇室の権威を高めるために捏造されたものである。
権力者が自由に歴史を捏造できた時代の産物で、事実とは全然違う。

神武東征というのは、皇族が空から天下ってきた「神」であるとして支配権を正当化する
ための産物。王権神授説の日本版である。

架空の物語の上に成立したのが、「古代絶対王政」で、民衆を搾取して圧迫した歴史を
覆い隠すために作られたウソの歴史が古事記や日本書紀である。

この皇国史観を復活させることは徴兵制の復活につながります。
あなたは子供たちを戦場に送り出してもいいのですか。
733日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:54:25
漢字を借用して、話し言葉をそのまま記述したり、同じ漢字を
音読みと訓読みで使い分ける方法を編み出したことで、日本
語は大きく発展したけれど、それ以前には文字が全くなかっ
たわけではない。
彦島のペトログラフは、6500年前の文字といわれている。
734日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:59:19
三角縁神獣鏡が日本で500面以上出土して、外国では1面も出ていないとか
言う人が居ますが、それは些細な問題に過ぎません。

三角縁神獣鏡には魏の国の年号が書かれているではありませんか。
これで決まりなのです。中国で出土しないのは日本向けに特別に鋳造したからです。

三角縁神獣鏡を日本製という人が居ますが、それは軍国主義のなせるわざです。
735太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 20:04:17
>>732
だったらなぜ雄略、武烈の悪業を消さずに記紀に載せたのかね? それ
を載せないほうがよっぽど皇室の権威が増すぞ。それに皇族の殺害
とか浮気なんかも記紀にうんと載っている。これもケムに巻いて
記紀に入れなければもっと権威が増すというものだがねェ。
どうして権威が増すはずなのに、こういうことが書かれているんか?
東遷で徴兵制〜? まるで風が吹けば桶やが儲かるような説明と
しかとれんね?
神とあるのは当時今で云う現代風の意味での迷信がはやっていたから
で、そういう迷信とかからは神云々という状況になるのは、当時は
自然の成り行きだよ。
736日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:09:03
>>735
泣いた赤鬼の寓話をご存知でしょうか?
悪役がいてこそ天皇の直系子孫の徳が
浮き立つものです。
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 20:14:27
>>736
そうならば【仁徳】は聖帝とか言われている。これを悪帝と云えば
あんたの云うように直径子孫の【徳】がもっともっと浮き立つという
ことになるが、そうはなってないね。 どういうわけだ?
738日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:23:00
>>734

老顔か?
739日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:29:51
神武東征というのは、畿内の天皇が九州から下ってきた九州王朝皇族であるとして家系の正当性誇示する
ための産物。
740日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:30:34
>>737だからと言って、あからさまな嘘は書けませんからね。
741日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:59:46
以下のことは区別されたい

「神武軍の東侵」・・・少数からなる神武軍の畿内小領土占領話だから、単なる盗賊集団居座り事件
「人や物の大量流入」・・・・大量に流入しても、もといた場所にも残るから、単なる流入
「国家の引越し」・・・・・引越し後にの場所には国がなくなるから、国家東遷
742日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:27:51
>>741
問1◇少数からなる神武軍・・

ってどれぐらいの人数になるんでしょうかね?



問2◇単なる盗賊集団居座り事件・・

神武軍が文化不毛だった土着近畿人に、文化をもたらした功績は考慮しないのかな?
743日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:35:28
>>742


神武の大和入りは、すごく苦戦してましたけどねえ。
744太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 21:43:49
>>740
今でも無神論者はけっこういるだろうが? それこそ神だなどと
彼らからすれば、この記紀の記載は赤らさまではないか?ww
745太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 21:46:53
>>739
九州から抜け出したんだし、畿内王朝皇族としたほうが誇示に
なるように想うが〜?
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/22(月) 21:50:20
>>740
かといって、赤らさまに書かないと浮き立つようにはならないぞ?
それこそ浮き沈みだがねェ〜??www
747日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:54:18
>>743
何で神武軍にとって、大和に旨みがあったクエスチョンだが
すごく苦戦したって、想像上でどれくらい人数だったのかな?
気になるねぇ。
748日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:06:58
>>742

熊野の隘路から奇襲できる程度の少数人数。
良く誤解されるのが、「神武東進=巨大王国国民大移動」だけど、
実際は、敵に気づかれずに山道を通り抜けられる程度の人数でした。
749日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:13:07
>>748
問うたMeがわるかった
禅問答は深遠かもしれない(笑)
750日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:15:24
はあ?記紀に書いてある通りに答えてるんだが?
それとも君は霊能者?>749
751日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:19:25
>>750
どうだろうか?
単なるばかです。
752日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:36:17
>>741
「神武軍の東侵」・・・少数からなる神武軍の畿内小領土占領話だから、単なる盗賊集団居座り事件
表現が問題だがこれが一番事実に近いと思う。
九州内で宇立の上がらない神武が、一族を連れて東方を征服し殖民したのがヤマト。
753夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/22(月) 23:40:43
一旦文章を書いたけど、そしたら物凄い量になったので、
何を言いたいか完結に記す。

・筑紫の衰退、大和の隆盛、こういう事があったのは事実。
問題はそれは何時ごろか。考古学、文献学双方からの研究の結果、
100年〜300年の間という事は分かっている。
なお、自分は「梁書」の記述と「魏書東夷伝倭人条」の記述を参考にして、
177〜187年の間とする。

・日本神話が全て天皇家支配正当化のためのものなら、
九州に天孫降臨させる必要は無い。最初から大和に天孫降臨させりゃいい。
それをしないのはどういうことか考えろ。
754日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:58:50
>>753

>・日本神話が全て天皇家支配正当化のためのものなら、
>九州に天孫降臨させる必要は無い。最初から大和に天孫降臨させりゃいい。
>それをしないのはどういうことか考えろ。

じゃ、マジレスすると、古代の神話で、
王族の祖が遠く離れた山に降臨したというのはよくある話し。
ストーリーは朝鮮からの輸入だろう。

アララト山に降臨したというユダヤ人の創世神話も同じ理屈だよ。
755日本@名無史さん:2008/09/23(火) 00:17:18
自立精神文化が無いゆえに、混沌に依存し
不毛文蚊ゆえに、一部浮遊霊達が周囲を引きずりこみながら
根拠のない「漢のお下がり文蚊」○鮮コンプレックスを引きずる。
特殊ウイルスを撒き散らす人間形態の表れ。
756日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:45:50
>>753
>日本神話が全て天皇家支配正当化のためのものなら、九州に天孫降臨させる必要は無い。
>最初から大和に天孫降臨させりゃいい。それをしないのはどういうことか考えろ。
邪馬台国が九州にあったからだな。大和も元は邪馬台国から出ていることを示したいのさ。

>>735
古事記はけして天皇家支配の正当化のために書かれたものではない、という説があったな。


757日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:50:19
邪馬台国は、大和ですよ。
758日本@名無史さん:2008/09/23(火) 02:39:24
>>757
そんなことを信じている限り、神武東征の意味は理解できないな。
759日本@名無史さん:2008/09/23(火) 06:00:32
>>758
古墳時代に日本民族大移動など存在しない。フン族でも攻めて来たのかな?
760日本@名無史さん:2008/09/23(火) 07:11:18
隋書倭国伝

◇其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
解説−その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。

少なくとも邪馬台国が筑紫島になかったことは確かです。
761太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 07:26:30
隋書だは時代が後代で、そのころはヤマトの意味合いが違うね。
それは日本四島の広さの意味かも知れんし、卑弥呼の女王国には直接
役には立たない。卑弥呼の国は筑紫の中。
762日本@名無史さん:2008/09/23(火) 08:42:24
>>760
>隋書倭国伝
魏志倭人伝で説明できなきゃ、意味ないでしょ

これだと、魏志倭人伝の邪馬台国ではなく、
隋書倭国伝の邪馬台国を探す結果になるだけです
763日本@名無史さん:2008/09/23(火) 08:50:27
>>759
新しい技術、金属器を持った民族が数回に渡って畿内に東侵し、
日本民族大移動とはいかなくとも支配層の交代はあったのではないか。
764日本@名無史さん:2008/09/23(火) 08:55:40
>>756
日本全体を支配する正統性を訴えるのには九州出の方が都合が良かった。
代々の畿内では単なる侵略者だ。
765夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/23(火) 09:03:29
>>756
邪馬台国が東遷して大和王権を作ったか、
奴国や伊都国が東遷して邪馬台国=大和王権を作ったか。
とにかく、筑紫東遷という事があったのは間違いないわけだ。
>>758
奴国東遷や伊都国東遷による邪馬台国大和説というのもあるのだが。
まあ、最初から大和が優勢だったというのは確かに嘘だがな。
>>764
どういう理屈?
766日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:04:17
>>760
隋書倭国伝

◇其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。

これは変。
月行は900kmだいたいくらい、
東西五月行、南北三月行は、東西4500km、南北2700kmとなり、在り得ない大きさ。
東西五月行、南北三月行は、東西五日行、南北三日行の誤りで、東西150km、南北90kmが妥当な大きさでしょう。
767日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:25:12
>>753
>・筑紫の衰退、大和の隆盛、こういう事があったのは事実。

大和が隆盛になったのは事実としても、筑紫の衰退はどうでしょう?
筑紫(倭)は朝鮮半島の覇権争いに巻き込まれたために衰退したように見えるだけではないかな。
768日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:51:40

>>761  >>762

魏書で混迷しているから、他の資料(記紀、隋書、漢書、宋書など)や
考古学的見地でもホローしているんじゃないの?
769日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:53:43

>>766

勝手に記載内容を変えてはならない。

それが可ならなんでもあり。
770日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:11:32
>>768
>魏書で混迷しているから、他の資料(記紀、隋書、漢書、宋書など)や
>考古学的見地でもホローしているんじゃないの?
魏志倭人伝に合わないから、別の時代の倭国の資料ってのは極めて危険。
ヘタこきゃ、別の時代の倭国の説明でしかないかも知れない。
そんなの関係ねぇってのはちょっと荒い主張です。

他の資料を使用する際に、
それが魏志倭人伝に記された邪馬台国と本当に関係があるのか、
その蓋然性が果たして高いのか低いのかを示さないとダメ
771日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:42:48
>>769
しかし東西五月行、南北三月行はいくらなんでもないでしょう。
倭国は大陸か?
772日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:00:03
>>771
だから何度も言うように・・
鬼界カルデラの噴火や一連の地殻変動で海に沈んだ幻の大陸
スンダランドがあったという伝承をもとに書いているんですよ。
それなら全て辻褄があるでしょう?

↓参考地図
http://www.kodai-bunmei.net/blog/1500.gi
773日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:01:26
↓参考地図(最後のfが抜けてた)

http://www.kodai-bunmei.net/blog/1500.gif
774日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:23:46
>>771
考え方一つで、これはあるのですよ。九州の場合、南北(唐津〜薩摩半島)は
割合まっすぐに歩けます。これが3か月。
しかし、東西は日向から長崎となると、日向から一旦福岡あたりまで北上し、
それから西行しなければなりません。これが5か月。
九州の山地が迂回コースを余儀なくさせることを考えれば、上記のような見方
も可能でしょう。
775日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:28:37
南北(唐津〜薩摩半島)も東西を日向から長崎でも徒歩10日ぐらい。
776日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:30:04
>>774

> 東西は日向から長崎となると、日向から一旦福岡あたりまで北上し
> それから西行しなければなりません。これが5か月。

竹田から日田に貫ける小国街道は、最高地点でも標高1000mくらい。
当時も普通に陸路として機能してますでしょう。
阿蘇、久住連山は東西交通の難所ではあるけど、
南北の場合だって、霧島、姶良間は同じくらいの難所。
距離の短い東西行が、長い南北行を2ヶ月も上回る理由にはなりませんよ。
777日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:39:16
>>771
>しかし東西五月行、南北三月行はいくらなんでもないでしょう。
>倭国は大陸か?
倭国では一ヵ月に進める距離が短いだけです。謎でもありません。
778日本@名無史さん:2008/09/23(火) 13:34:03
>東西五月行、南北三月行

九州は横に長いのか?

ぶわはははっは。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 14:02:33
だから四島のことじゃないの?
780日本@名無史さん:2008/09/23(火) 14:18:39
>>778
> >東西五月行、南北三月行
> 九州は横に長いのか?
一般的な九州説から見れば、隋書の倭国は大和朝廷。魏志倭人伝の邪馬台国とは別。
因みに畿内説から見れば、隋書の倭国は大和朝廷? 邪馬台国?
781日本@名無史さん:2008/09/23(火) 15:16:58
>>765

× とにかく、筑紫東遷という事があったのは間違いないわけだ。

○ とにかく、筑紫勢力の一部東侵という事があったのは間違いないわけだ。

・・・何度デマを吹聴しても、東遷などという記紀の伝承も考古学的事実も、一切ありません。
782日本@名無史さん:2008/09/23(火) 16:38:34
>>765
邪馬台国以前の話とはいえ、筑紫東遷に拘る理由がわからない。

その頃の考古学的な物証は何もないでしょ?

文献を重視するなら、神武東征は紀元前だし、
少数の盗賊が九州から大和に侵入し、たまたまその盗賊の子孫が後に王位についた程度の話でしょう。
783日本@名無史さん:2008/09/23(火) 16:51:04
>>777
倭人だけが足が遅いことはない。
中国でも日本でも1日の行程はだいたい30km。
784日本@名無史さん:2008/09/23(火) 16:51:55
>>782
神武軍が盗賊って・・だいたい不毛な土地だったろう大和に
天皇集団が統治する以前に、いわゆる文化財と呼べる代物が大和あったのか?
785日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:04:09
>>783
ユウ婁は夫余の東北千余里に在り(魏志東夷伝ユウ婁条)
ユウ婁は不咸山の北に在り、夫餘を去ること六十日行可りなり(晋書列傳粛慎氏)

千余里=六十日。他でも十分遅いじゃん。嘘つき!
786日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:06:12
>文献を重視するなら、神武東征は紀元前だし、

神武東征のような九州勢力の東侵は紀元前から5〜6世紀ぐらまで繰り返しあったのであろう、
最後の神武東征は古墳時代より後ではないかな、
だから巨大古墳の被葬者が分からない。
787日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:08:52
>>784

唐古・鍵遺跡は何だと思ってるの?
788日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:24:47
>>780
旧唐書をみれば、唐時代ですら、我が国の東北地方の認識はない。
となれば、南北で距離が長いのは近畿(敦賀〜南紀)か九州。いずれがが
3か月とされていると考えるべき。それと比べると、東海から九州西海岸まで
が5か月というのは短すぎる。5か月は本州の話ではないと考えるべきだ。

>>776
>竹田から日田に貫ける小国街道は、最高地点でも標高1000mくらい。
>当時も普通に陸路として機能してますでしょう。
>距離の短い東西行が、長い南北行を2ヶ月も上回る理由にはなりませんよ。
その前提が問題。小国街道ではなかったら? >>774のコースならば東西が長い。
789日本@名無史さん:2008/09/23(火) 19:56:59
邪馬台国は、沖縄付近にあった幻の女王国。
そういう合意ができつつありますね。
これで、(方向がおかしい)大和だ、(距離がおかしい)九州だ
といった不毛の争いはなくなりました。
790日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:02:37
沖縄からは絹など邪馬壱(台)国を示すものが出ないから、最初から無理ですが。
791日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:16:15
>>790沖縄は、たび重なる気象変動で、いったん人の住めない無人地帯になっている。
    その他と住み着いたのは、アイヌ系の倭人です。
792日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:25:11
>>791アイヌ系の倭人という言い方はおかしいな。(笑う)
もとは、沖縄にも台湾の高砂族の子孫も住んでいた。
しかし、6500年前の鬼界島カルデラの噴火などの地殻変動で
人が住めなくなった。その後、地殻変動が落ち着いて住み着
いたのが、南九州を追われた古モンゴロイド。つまり、アイヌ人
と同じ血を引くいまの沖縄住民だったのです。
793日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:52:16
帯方郡の使者が邪馬台国を実際に見ていたのなら、
方向や距離を間違えるわけがありません。それほど
愚かではないはず。

結局、邪馬台国の部分は、言伝え(昔、そういう国があった)
ということを書いているのだいう意見に賛成です。
794日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:53:32
795日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:22:09
>>784
梅原末治が金印を無視して筑紫は昔から後進国とかいうのと同じだよ、お前。
796日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:05:50
チェックポイント

末盧国=唐津市
伊都国=前原市(平原遺跡)
は九州・畿内説とも異議ないところ

伊都国(前原市)が千余戸で、郡使が往来時に常に留まるところ
そして、一大率が常駐し他の国々を監察していた

もしも邪馬台国が北部九州にあった場合には、一大率を置く必要もなかったし、
郡使はわざわざ千余戸の国に留まることなく、安全な地・邪馬台国に常駐して
もよかったろう
邪馬台国の規模は伊都国(前原市)の70倍もあったのだから・・
少なく見ても20-30倍の規模はあったろうに

鳥栖・朝倉では行程上も近すぎるし規模もそんなに大きくならない。
ましてや、一大率を置く必要もなかつたし、郡使が直に邪馬台国に踏み込んだ
はず。

やはり邪馬台国は絶縁の地であった
 
797日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:24:17
邪馬台国は大和国。

大和国と思えない人は、世間に対して病的な反抗心をもってるだけだろ。
798日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:27:38
むしろ大宰府以南に邪馬台国があったからこそ
北部沿岸に一大卒をおく必要があるんじゃないかな
鉄と絹の通称国家であり寄せ集めの連邦国家なんだから
799日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:16:23
邪馬台国は大和。

九州は、イト国があるだけで満足しとけよ。
800日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:33:58
>>797
>>799
「思う」とか「満足」とかw畿内説は宗教だな。
801日本@名無史さん:2008/09/24(水) 05:43:02
邪馬台国九州説は主体思想でキムチ臭い。
802日本@名無史さん:2008/09/24(水) 05:48:36
なんでも起源を求めるチョンと感覚が同じなんだよ。>九州説
劣等感のかたまりなのかね?
803日本@名無史さん:2008/09/24(水) 06:30:10
畿内説が必死に起源求めてるだろ?
マキムクは最大だとか最古だとチョンw
マキムクを中心に日本を征服してたとかもチョン
鉄絹出てないのに隠すところもチョン
史書より自分のお花畑歴史を信望するところもチョン
劣等感に苛まれるのは関西説だろwおまえは朝鮮人か?



804日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:00:07
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
死ぬとき このレスの事思い出してから地獄へ行けよ
ニヤ(・∀・)ニヤ(・∀・)
805日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:07:47
>>803
九州説=嫌韓
と言う最悪のレッテルを君は自分自身の手で貼らそうとしてるのだよ
分かる?
806日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:08:43
仮説

女王国=卑弥呼を共立する連合国家
邪馬台国=卑弥呼の都する所

たとえば、女王国を現在の関西州と仮定した場合「大阪」「京都」「兵庫」「奈良」
「滋賀」「和歌山」の各府県(国々)が存在することとなる。

この場合は、首都(県庁所在地)を奈良県にした場合であっても、九州・山陽側から
関西州に入る場合は、兵庫県の赤穂市付近で境界となり、関西州突入となる。

やはり女王国は連合・共立した国全体の通名として、邪馬台国はその女王の
いる都と解するのが自然じゃないの。

807日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:40:52
>>805
韓国が嫌いというのはそんなに悪いことか?
嫌いなものは嫌いで何が悪い?

808日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:42:05
チョン公関西説出てこいやww
809日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:17:23
九州説だと九州の倭が朝鮮半島を古代は支配していた事になるから韓国は嫌ってるのかな。
宮内庁も九州王朝説を敵視してウィキ等ででは工作活動してるらしい。
ここにも宮内庁関係者いるのかな?
810日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:24:18
ウィキ等ででは北朝鮮関連の書き込みも総連関係者が監視していて北朝鮮に関する不都合な書き込みは出来ない。
811日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:44:48
>>785
時代が違う、大陸の民族は移動するし、勢力も大きくなったり小さくなったりして比較にならん。
812日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:59:43
   /⌒⌒⌒⌒⌒⌒ ))    |  世界の支配者ジョンイル君が来ましたよ
  (   从    ノ.ノ      |  在日同胞に、ウィキの監視を頼んであるよ
   ( ./  ̄ ̄ ̄ ̄\     |  先日、温家宝から貰った餃子と乳製品を食ったら
   |::::::  ヽ     丶.   |  なぜか意識不明に・・・
   |::::.____、_  _,__)  ∠  あ、それからメタボ検診受診は絶対に断る
  (∂: ̄ ̄| ・ー |=|・ー |   \_________
   (  (   ̄ )・・( ̄ i
   ヘ\   .._. )3( .._丿
 /  \ヽ _二__ノ|\
/⌒ヽ.   \__/\i/\_|
|   ヽ       \o \
|    |          \o \
813日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:59:54
>>807>>808
これ以上日本と日本人と邪馬台国九州各説の評判に傷をつけないように頼む。
814日本@名無史さん:2008/09/24(水) 17:47:58
まあ九州説は、ともかく、九州王朝説はウリナラ起源説だわなw

815日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:29:20
最大・最古・日本を支配・巨大・マンコに箸を刺す

朝鮮人が好む文言、マキムクは朝鮮人の心をくすぐる。
816日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:31:45
サイキバ君はわかりやすいなぁwww
817日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:10:38
邪馬台国は沖縄にありました。間違いありません。
818日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:16:26
大阪は在日の巣。だから畿内説を支持しちゃう奴が多い。
819日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:47:56
九州北部は在日の巣。だから九州説を支持する馬鹿が多い。
820日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:14:55
在日が日本一多いのは、大阪だろ。だから畿内説マンセー。
821日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:20:16
日本中、在日だらけになってしまったことが、日本の国際競争力が衰えた最大の原因。
出生率の0.1%の差が、何百年、何千年もの間に、日本の人口構成を大きく変化させ
てしまった。
もう、日本のもとの住人(縄文人も弥生人)は少数派。朝鮮系住民が日本人の大多数
を占めるようになった。
こんな国には、住めないです。シュメール人の子孫は、もうシュメーません。
822日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:40:26
>>814
古田武彦は騎馬民族説を否定しているのだが?自分の説のバカバカしさは棚に上げて。
>>818_>>821
こいつら皆馬鹿でー。
こうなったら邪馬台国論争も糞もなくなる。
823日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:56:53
金正日は収益の見込める畿内説を支持します。
824太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 23:02:04
卑弥呼の女王国が紀無いにあるんなら、北九州上陸での末盧国、
伊都国、奴国、不弥国、投馬国に至るとかいう倭人伝の個所が、
山口県日本海側西端部附近に上陸して、あとは日本海側か瀬戸内海側
かのいずれかで、順に山口県、広島県、兵庫県とかの畿内行きでの
A国、B国、C国、D国、E国という中国地方の県に相当する地名と
なる国名の羅列での記載内容になるはずだが、倭人伝はそうなって
はおらず、北九州上陸で山口県方向の国にはなっていない。という
ことは、卑弥呼の女王国は紀無いにあったとは云い難い。卑弥呼の
国は九州にあったというのが正であるのだ。
825日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:06:07
>>太国

2倍暦なんてものは無いんだぜ?

826太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 23:13:03
なんで?をつけるんだ。wwwwwwwwwwwwwwwwww
お前の自信がない証拠だな。
そんじゃまた聞くが、仁徳前の天皇の超長寿をどのように合理的に
他の方法でできるんだ?←疑問符はこういうときにつけるんだよ。
わかったかリドラー殿。単に年代を故意に拡張したではおバカさん
はどうだか分からんが、それ以外は説得力は0だな。wwwww

ZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
827日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:16:11
>>太国

大歳祭は、1年に1度しかないんだよ。

828日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:17:38
神武天皇の東遷出発の地といわれる宮崎県美々津、
ここには耳川があり、2代の綏靖(スイゼイ)天皇、
謚名「神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)」の名と符合する。
神武東遷はBC.666年という説が正しいとなると、
BC.200ころには、すでに大和政権は大和に移って
いたことになる。

829日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:33:44
>>828
>神武東遷はBC.666年という説が正しいとなると、
>BC.200ころには、すでに大和政権は大和に移って
>いたことになる。
はい。そうですね。
830日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:37:00
まだ二倍暦なんて夢を見ているのですか?
831日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:39:08
神武東遷と言う日本民族大移動などなかった。
大和朝廷は最初から奈良県にあった。
832日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:42:57
木器と掘っ立て小屋しかない大和朝廷
833日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:45:44
一年は昔も今も変わらない。変わったのは
一年に刻む歳の数だけ
834日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:48:52
一年に
お彼岸も2回
収穫の2回

歳時をもって年を数える倭人の習慣
835日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:52:32
文字の無かった畿内で記憶として神武東遷があったんだから、そんな遠い昔ではないのではないか。
4〜5世紀の出来事と思う。
836日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:07:02
>>828
>神武東遷はBC.666年という説が正しいとなると、
>BC.200ころには、すでに大和政権は大和に移って
>いたことになる。

もちろん、その通り。

837日本@名無史さん:2008/09/25(木) 01:35:11
神武天皇=磐余彦が船出したとされる宮崎県美美津
海岸には、神武天皇船出の磐というものがあり、
「日神―祈るー大地女神―大地男神」という意味の文
字が刻まれたペトログラフも残っているらしい。
838日本@名無史さん:2008/09/25(木) 02:19:33
倭国大乱=神武東征
神武即位=西暦181年
神武が建国した国=邪馬台国の南にあった「狗奴国」

第8代孝元天皇〜第10代祟神天皇までに
邪馬台国を吸収合併

ってのもありだな。神武建国のころは小国で邪馬台国と敵対

邪馬台国の風俗は大和と違いすぎるしね。

839日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:27:00
>>862
「?」をつけて相手に問いかけるのは自分の言説に自信がないからだ、
なんて屁理屈は初めて見たよ。
>>828
何故正しいと思うの?
840太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/25(木) 07:45:10
>>827 >>830
【紀の欠史八代の即位、立太子、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0     当時 ↓ のカレンダーはこうだ。
2日 2  16日 0
3日 3  17日 0     日 月 火 水 木 金 土
4日 3  18日 0           1 2  3 4 5
5日 6  19日 0       6  7 8  9 10 11  12
6日 3  20日 0  13 14
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0 書きこみの不可抗力で数字の位置が
9日 3  23日 0     ズレるかも知れないので悪しからず
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0     当時の1ヶ月は14日間の2週間。
12日 3  26日 0     つまり2倍暦法を行使していた時期
13日 3  27日 0     があったのだ。
14日 7  28日 0
       29日 0
       30日 0

上表を見て、15日以後が全く無い。ということは当時月後半の日が
無かったのだ。1900年代を調べて見ると2月の事件事象を集めて
みると、他の月と較べて30日が全く無い。これは同年代、2月は30日
が上表の如くに無かったからである。同表は2倍暦行使の文証。
841太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/25(木) 07:47:14
こういうことから倍暦計算編年をやると、卑弥呼の年代は

 景初元年=237年=崇神即位元年

となる。
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/25(木) 07:49:17
>>840
書きこみの不上手で13、14日等が左へつまってしまったが、理解
されたい。
843日本@名無史さん:2008/09/25(木) 08:41:47
単純な疑問なんだけど

台与がトヨなら

邪馬台はヤマト

ではないでしょうか
844日本@名無史さん:2008/09/25(木) 09:26:51
>>843
「台与」という異体字(代替字)を使うべきでない。

実はあまり知られてないが、
「台」には「イ」という音があるのだ。
章子怡Zhāng Zǐyíチャン・ツーイーという
中国女優がいるだろう。
「怡い」は「台い」が音を表す形成文字。
「台与」と書けば「イヨ」と読んでも間違いではない。
「臺与」と書けば「イヨ」とは読めない。

「邪馬台」と書けば「ヤマイ」と読める。
「邪馬壹」と書けば万葉仮名の読み方で「ヤマイ」と読める。
「邪馬臺」なら「ヤマイ」とは読めない。
845日本@名無史さん:2008/09/25(木) 11:10:24
>>843
それはタブーです。。
九州説をとると必然的にヤマト国の東遷となります。
神武東征を認めるのは皇国史観です。
畿内説の敗北は学界の敗北です。
そんなものは認められません。
846サガミハラハラ:2008/09/25(木) 12:00:46
つい最近豊田有恒の新説・奇説邪馬台国の謎(H4発行)を読んだ。面白いところがあったのでレスします。
戦後、いったん、学問研究が自由になったかに見えた。
だが、今度は、戦前の反動が起こった。戦前、「記紀」をうのみにしなければならなかったぶん、反動も強烈になった。「記紀」の文献批判が、マルクス主義的な立場から、教養されるようになった。
これは、逆検閲のような規模だったという。歴史学者にとって、皇国史観と呼ばれることは、ふつうの人が、おまえは泥棒だといわれるより、ずっと苦痛なのだそうだ。実際には皇国史観でないにもかかわらず、皇国史観というレッテルを貼られて、
学者的生命を断たれた人もすくなくなかったという。

こういう時代もあったのですね。
847サガミハラハラ:2008/09/25(木) 12:02:31
教養は強要の誤りです。
848日本@名無史さん:2008/09/25(木) 13:13:04
>>845
だいじょぶだ
今の奈良、和歌山、大阪辺りを古代邪馬台国として後の大和国となった。根拠は地図にもある通りこの一帯は近年まで大和と読んでいた。
849日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:06:11
卑弥呼も倭の5王も、畿内にはいなかったから心配するな。九州だ。
850日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:33:16
>>849
在日朝鮮人の方コンニチハ
851日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:55:32
日本一多い大阪の在日さん、ウリナラ畿内説の強要?>850
852日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:00:35
邪馬台国は畿内ですよ。
853日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:06:24
絹と鉄器の出土状況が、畿内を完全否定してるから、心配するな。
854日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:08:08
邪馬台国が九州にあっても、3世紀には滅亡したから心配するな。

855日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:09:48
それは九州王国の単なる遷都だから心配するな。
856日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:14:10
銅鐸使ってた畿内人は、みんな奴隷にされて、畿内王国は消滅したから心配するな。
857日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:47:23
邪馬台国は大和の国、卑弥呼は天照大神、台与は豊受大神だから心配するな。
858日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:59:21
859日本@名無史さん:2008/09/25(木) 16:02:36

トヨタン・・・・・・・・
860夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/25(木) 17:03:39
>>846
全くだね。
原田大六はまさに皇国史観呼ばわりの被害を受けてるよ。
最近は更にこの状況を利用して、明らかに皇国史観的なのに
「私は皇国史観とは無縁だ」とのたまう人もいて、もう滅茶苦茶。
861日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:14:45
>>846 サガミハラハラ
>豊田有恒

最近の著書なのかな?
まあえらく懐かしい名前だなw
「学園ジュブナイル」とかのカテゴリーの本ガキの頃読んだ記憶がw

あと変わったところで「いい加減にしろ韓国」とかw
2ちゃんの馬鹿ウヨは「嫌韓流」ぐらいしか知らないかもしれんが
嫌韓ネタなんざあ昔からあったってことでwww

書籍の話題が出たんで最近久々目にした邪馬台国ネタの本

 『 舞い降りた天皇 』  加治 将一

これ読んだ人はおらんかね?
感想聞かせてもらいたい。
立ち読みでチラッと数ページ読んだが面白くなさげだったんだが・・・
862日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:24:50
>>846
戦後は古代〜現代史まですべての学界がマルクス主義者に支配されて、「マルクスに屈せぬものは
教授になれない。」という状況になって、それが現在まで続いている。

戦後は王朝交代説のような反天皇制を打ち出したトンデモ説がもてはやされた狂乱の時代だった。
「古代絶対天皇制の打破」なんてことを10年くらい前まで真面目にやっていたりする。

「神武東征を認めてはならない」、「欠史8代を認めてはならない」、「神功皇后の実在性を認めてはならない」など
色々なタブーが複雑に入り組んでいて、主体思想の解釈に気を使う北朝鮮を彷彿とさせるものがある。
あの世界は言論の自由がない、ってのが一番痛いところかな。
863日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:38:00
あんまり言うとスレがあらされちゃうよ
864日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:47:36
>>846
15年前から、弥生時代の『畿内の後進性』をみとめる学者が出てきたけど、それまでは悲惨だったね。

1900年頃に中山博士が、古墳時代より前になると畿内からは全く遺物が出土しないと主張していた頃から、
この傾向ははっきりしていた。しかし、これを認めると医学博士であって、歴史学者ではない中山に屈するとして、
無視されてきたし、学界でも言わせない雰囲気が当時から強くあった。

それが、戦後は九州説=東遷説=皇国史観という考えと結びついて、より頑なに『畿内の後進性』は否定されてきた。
鉄器では約100倍、絹では300倍、鏡でも数百倍(破鏡ゆえに正確な比較値は出せない)という圧倒的な差を
無視・拒絶し続けた時代が合計100年ほど続いてきた。

事実は明白であっても、これを認めることは学界のアマチュアへの敗北でもあったし、神武東征に結びつく
危険さえもあり、学界での立場を考えれば誰も認めることができなかったのである。

しかし、学界生え抜きでない奥野や安本が、出土状況をグラフや表で明確に何回も著書で書いたため、無視できなく
なり、ようやく控えめながらこれを認める学者が出てきたというのが15年位まえのこと。

それと同時に古墳時代の開始を約100年遡らせて、「それでも邪馬台国は畿内にある」と言いはじめたのもこの頃。
・・・・・学界の懲りない面、と言ったところか。
865日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:32:11
まあ幾ら九州説が『弥生時代通しての九州の先進性』とやらを強調しても
邪馬台国の時代の九州の繁栄の根拠にならないのが痛い所だなw

それは何も畿内説が強引に時代を区切った訳でも何でも無く
後漢朝の衰退滅亡、その煽りを食らっての倭国大乱…

一体、九州の邪馬台国の存在の影を何に求めれば良いのか?

確実邪馬台国の時代と思われる九州独自の威信財体系や祭祀形態等々
それらが見当たらないが故に今日の九州説の衰退を招いていると思うが?w

『弥生時代通しての九州の先進性』ってある意味、勘違い商法みたいなもんだwwwwww

866日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:46:01
九州王国は九州内で遷都もし、半島側にも領土があったために、
畿内説からは九州王国の滅亡やら、衰退やら言われているが、
どう言い逃れしてみても、隋の煬帝に対等外交を迫ったのは九州王朝。
867日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:47:47
そもそもここの九州説の連中って何故現在九州説が畿内説に押されていると思っているんだろう?

 戦後学会に浸透したマルキシズムの残滓?w
 皇国史観の亡霊?
 金儲け=商業主義?

一回聞いてみたい気がするような、しないようなwwwwwww
868日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:51:50
× そもそもここの九州説の連中って何故現在九州説が畿内説に押されていると思っているんだろう?

○ そもそもここの九州説の連中って何故現在畿内説がシーラカンスのように奇跡的に生き残っていると思っているんだろう?
869日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:57:37
磐余彦は、東遷するまでは日向に住んでいたし、その後は大和に住んだ。
しかし、その前は、奄美大島にも滞在していたし、関東にも行ったことがある。
海人だから、船に乗って世界中を旅していたのではないかな?
だとしたら、九州説も大和説もどちらも正解。めでたしめでたしですよ。
あ、卑弥呼か?磐余彦の娘だろう?
870日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:00:08
答え

就職の少ない考古学の世界では、捏造までしなければ食っていけないような状況で、
畿内説=主体思想でないと、生きていけない北朝鮮さながらの生活の知恵があるから。
871日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:09:21
古事記や日本書紀では卑弥呼らしき人物は
推定出来ても壱与らしき人物がねぇ…
872日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:14:03
>>870

0点。
採点の対象にならない。
やり直せドアホw

お前はアホの九州王朝説論者サイキバか?

そもそも吉野ヶ里ブームの頃は九州説が優勢だったと直木孝次郎ですら認めている。
873日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:29:36
>>871
邪馬台国は大和に滅ぼされたんだろ。

というか、伝説すらないし・・・
874日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:33:02
>>862
まあ王朝交替という概念をトンデモとは思わないけど、
確かにそういう堅苦しい雰囲気はあったね。
言論の自由が保障され、科学も充分に発達した今こそ、
日本神話信仰の強要を恐れることなく神話を学問的に研究すべきなのに、
戦前の科学レベルに戻って全否定とくらあ。情けないね。
>>865
確かにね。
弥生時代の長い間筑紫が栄えていた、だからどうした?
2世紀の倭国大乱で東へ移ってっちゃったんだよ?
てことだ。
>>872
あのころは確かにね。
「佐賀県三田川町に倭面土国の首都があった」と言う原田大六の予測が
彼の死後一年見事に的中したようなものなのに、
皆それには目をつけず、邪馬台国だ邪馬台国だしまいには山田異国の地さ踏んだべよと
偉い騒ぎだった。
875日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:12:21
結局、「絹と鉄が出ない」という急所を押さえ込まれて、畿内説は言い逃れ議論だけか・・・
876日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:23:03
>>875
>結局、「絹と鉄が出ない」という急所を押さえ込まれて、畿内説は言い逃れ議論だけか・・・

それは結局、
古墳時代には、九州の邪馬台国は滅んだという意味だが。


鉄器の多い九州の邪馬台国は、鉄器の少ない畿内の大和王権に滅ぼされたということでいいんだね?


877日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:34:18
× 九州の邪馬台国は滅んだという意味だが。

○ 畿内には邪馬台国などありませんでしたという証拠だが。
878日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:59:51
九州にあった邪馬台国は、鉄を畿内に輸出しなかった

古墳時代になると、畿内でも鉄器がいっぱい出てくる

九州の邪馬台国は滅んだ

鉄器の多い九州の邪馬台国は、鉄器の少ない畿内の大和王権に滅ぼされた
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

九州説を唱えるなら、まず↑を認めたまえ。
話はそれからだ。



879日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:01:56
>>875
邪馬台国九州説の人達は恥ずかしい捏造をする。
奈良県天理市の下池山古墳から景初三年に卑弥呼が魏に献上した
絹の斑布と同じ物が出土している。
また奈良県桜井市のメスリ山古墳から大量の鉄器が出土している。
したがって古墳時代前期には近畿地方に絹と鉄器が大量あったことになる。
880日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:10:31
>>878
邪馬台国のその後など、諸説あって確定しない話。
いか様にも解釈可能。水かけ論が落ち。

それにしても、なにゆえ、確定しない話を根拠にしないと説明ができないのだ?

憶測の中にしか根拠が見いだせないのなら、畿内説は成り立たないってことでは?

>九州説を唱えるなら、まず↑を認めたまえ。
>話はそれからだ。
こう認めてくださいと相手にすがるのは、見ていて、あまりにもみじめ。
頼むのではなく、根拠を示しましょう。
881日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:16:48
>>880

3世紀に邪馬台国というクニがあった(事実)

4世紀に畿内に大和王権が生まれた(事実)

-----------------------------------------


仮定A、3世紀から畿内に大和王権があり、それが邪馬台国と呼ばれた(畿内説)

仮定B、3世紀に九州に邪馬台国があったが、4世紀に畿内の大和王権に滅ぼされた(九州説)


仮定A(畿内説)を認めないならば、
「鉄器の多い九州の邪馬台国は、鉄器の少ない畿内の大和王権に滅ぼされた 」となる。

どこに根拠不足があるのだね?
882日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:17:33
>>879
>また奈良県桜井市のメスリ山古墳から大量の鉄器が出土している。
>したがって古墳時代前期には近畿地方に絹と鉄器が大量あったことになる。

重要なところだけど、メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?

竹箭或鐵鏃或骨鏃
883日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:22:12
>>881
どこがどこの国を滅ぼしたかなんて、遺跡の情報だけでは判断できないよ。
遺跡だけで戦国時代の細かな変遷が読み取れますか?

だいたい仮定Aと仮定Bに絞ること自体が変な論法。
884日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:23:27
>>846  サガミハラハラ氏に朗報です。
『重要文化財 東大寺山古墳出土 金象嵌銘花形飾環頭大刀』は読みましたか。

例の中平刀の環頭の飾りは国産と認めています。
あの飾りは日本で多数出土して、外国での出土例はないので、国産は当然ですが、出土から
40年以上も報告書を書けなかった理由はこれを認めることができなかったからです。

その上で、中平年の刀身を4Cに環頭の飾りをつけて作り直したと無理な結論を述べていますが、
はっきり言って、環頭を国産と認めた時点で全部が国産で確定ですね。
環頭を接合する作業の後に銘文を入れたと考えないと、あの精巧な細工の説明はできません。

刀身の内反りも認めていますが、同時に出土した10本以上の国産刀と同じ反りです。
これでも国産と認めない往生際の悪さは白石先生ならではと言ったところでしょうか。

この状況で国産の可能性すら検討していないという異常な雰囲気は失笑ものです。
885日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:29:30
>>883

では仮定Cとして、

「九州の邪馬台国は、畿内の大和王権の下位の同盟国になった」

なんにせよ、鉄器の多い九州が、鉄器の少ない畿内の統治下に入ったことは間違いないが?
違うというなら、おまえの考えを聞こう。



886日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:40:59
>>885
>では仮定Cとして、
仮定Cでも仮定Dでも勝手に並べていなさい
>違うというなら、おまえの考えを聞こう。
水かけ論のような非生産的な論議につきあう気はないよ。

そういや、「メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?」の答えまだかな。
明らかなことを根拠にした話だから、畿内説では答えは出せないかな。

都合のよい言い訳を見つける為、
今頃、桜井茶臼山古墳あたりを調べていたりして
887日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:43:37
>>886
>水かけ論のような非生産的な論議につきあう気はないよ。

仮定ABCとも違うのなら、残るは、東遷説か九州王朝説か。
どちらにせよ、お笑い種だな。

先に東遷説か九州王朝説の実証をしてから、九州説を立てたまえ。



888日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:53:45
>>882
鉄器が、槍先200以上、斧頭14、手鎌19、槍ガンナ51、刀子45以上と記録されている。
889日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:00:31
>>884  
銘文刀でついでに、太国がいつも書いている話を

埼玉古墳群の稲荷山古墳の銘文も学者の紹介の仕方は異常ですね。
「ワカタケル」に言及しても、大半の学者は「オオヒコ」は無視する。

「オオヒコ」と言ったら、崇神天皇が東国に派遣した四道将軍の一人の「大彦」しかあり得ない。
古墳の場所からも、まずそれに言及しないのは、とんでもなく不自然。

しかし、『シリーズ「遺跡を学ぶ」−鉄剣銘115文字の謎に迫る・埼玉古墳群』では
この話に全く触れない。本の表題に偽りありまくりです。

まあ、「オオヒコ=大彦」とすると、崇神の伝承全体の信用性が増す。
すると、崇神や大彦の親の代の伝承の信用性につながり、「欠史8代」のタブーに触れる。
モモソヒメ=箸墓の被葬者の信用性が増すのも困りものという問題がある。

学者の「学問に対する誠実性」なんて所詮この程度なんですね。
890日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:16:28
× 九州の邪馬台国は滅んだ

○ 九州の邪馬台国は遷都もしたが隋の煬帝とは対等外交をし、
   畿内王権からも出兵応援させながら、白村江で唐・新羅連合軍と戦った


× 鉄器の多い九州の邪馬台国は、鉄器の少ない畿内の大和王権に滅ぼされた

○ 鉄器の多い九州の邪馬台国は、鉄器の少ない畿内の大和王権を傘下に置いたが
   壬申の乱で九州邪馬台国の後継勢力が畿内王権を滅ぼした
891日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:26:31
>>890

九州王朝説。
892日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:22:58
>>890
日本国籍を持ってない人は半島に帰りなさい。
893日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:25:25
大阪は在日の巣=ウリナラ畿内説
894日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:38:05
九州は在日のゴミ箱=ニダニダ九州説。
895日本@名無史さん:2008/09/26(金) 03:34:15
金正日将軍様はウリナラ畿内説
896日本@名無史さん:2008/09/26(金) 03:51:37
遅れた畿内が北部九州を滅ぼしたというより
進んだ北部九州が遅れた畿内に進出した
その後の九州派兵は南九州の伸張を抑えるためと考えるのが妥当だろう。
なんで畿内説は畿内は九州を滅ぼしたという解釈になるかな?
897日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:09:03
>>896
>進んだ北部九州が遅れた畿内に進出した

九州の土器が畿内からほとんど出ませんね。
残念でしたね。

かわりに、畿内の土器は九州から出てきます。
人的移動は、西征を示します。
898日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:17:08
畿奴隷階級の陶工を九州に連れてきたと考える。
朝鮮陶工を秀吉が日本に連れ帰ったようにね。
899日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:26:43
畿内の陶工は技術が進んでたのか。

銅鐸も現代の技術で再現が難しいしな。
900日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:31:25
銅鐸は隠されるように一斉に破棄されたけどな。
九州から来た王がよっぽど怖かったんだろう。
901日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:37:55
土器なんか、土地の土と職人で焼いたほうが簡単。
なんでわざわざ九州から運んで持ってくる必要があるのか疑問。
902日本@名無史さん:2008/09/26(金) 07:21:54
北九州説の人間は、はっきり言って畿内説を批判してる場合ではないと思う。
お前等の方がよっぽど矛盾が多いんだよw
伊都国から最低でも水行十日or陸行一月かかるんだぜw
北九州どころか九州島飛び出るぞおいw
903日本@名無史さん:2008/09/26(金) 07:30:24
重要なところだけど、メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?の質問の答えが

>>888
>鉄器が、槍先200以上、斧頭14、手鎌19、槍ガンナ51、刀子45以上と記録されている。

? 答えになっていません。

なぜ邪馬台国を大和と認めないの答えがここにあります。
わざと鏃の説明を抜いている。資料操作です。
やはり畿内説論者は信用できません。

ただ、畿内説論者のいつものへんてこな主張よりも
畿内説論者のこういった資料操作の方が彼らの考えが理解しやすい

やはり鉄鏃は鬼門なんですね。
904太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/26(金) 07:31:50
>>>902
飛び出ないね。それは停泊だとか遊覧をしてのんびり観光をやってたん
だよ。それに未知の土地だから鬼が出るか蛇が出るか、すなわち薮蛇が
怖い。道間違いもやっただろう。だからそれだけ時間経過したということ
だ。旅行案内書を読むと、旅行の第2日目は初日の歩行距離の半分あたり
にしろとある。旅の疲れが溜まって来るからだ。だからこれに従うと
2日目は同距離で2倍の時間をかけることとなる。3日目ももう少し
減らしてスタミナを確保しろ旨の記載になっている。黒部峡谷の奥地では
専門家でも200m進むのに5日もかかる難所があるそうだ。だからそこ
まで至らないが、当時の九州も険しい未知の土地があって難渋したことは
うかがえる。そういうわけでこれでも九州説に不合理はない。
905日本@名無史さん:2008/09/26(金) 07:58:04
太国氏によれば。水行十日のうち九日休んでても水行十日になるそうです
906日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:08:40
>>902
漢籍では距離と時間とで同じ行程を2度説明するのは普通にある。
水行十日陸行一月とは狗邪韓国から伊都国までの日数。
907日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:14:45
>>902
おまえ大和とヤマタイが似てるから関西説なんだろ
それだけだろww哀れよのう哀れよのう。
908日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:15:45
>>875
> 結局、「絹と鉄が出ない」という急所を押さえ込まれて、畿内説は言い逃れ議論だけか・・・

ヒント=愛知県、浜名湖周辺
909日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:30:08
>>875
奈良県の纏向遺跡からは絹製品も鉄器も出土しています。
910日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:35:26
愛知県石巻山周辺が弥生文化発祥の地
紀伊、愛知辺りが邪馬台国であり大和国
当然、機織りが盛んであるし、古代製鉄後もある。
九州は倭の中の裸足、刺青で描写された人々だ
911日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:38:30
>>903
奈良県から大量鉄器が出土していることを指摘されて火病を起こしているな。
さらに素敵な情報が、奈良県のメスリ山古墳から出土した鉄製弓・鉄製矢が
橿原考古学研究所附属博物館にあるそうだ。
お前の大好きな鉄鏃も鉄製矢に含まれているぞ。ニダニダ九州説は崩壊した。
912日本@名無史さん:2008/09/26(金) 08:57:01
古代大和の正式名称
豊葦原中津国
豊橋 豊田などの残る愛知周辺
津 三重周辺
大和の地名が残る奈良周辺要するに紀伊半島一帯が邪馬台国なのだ
913日本@名無史さん:2008/09/26(金) 09:47:53
>>912
武豊の居る栗東もだよな
914日本@名無史さん:2008/09/26(金) 09:51:14
トヨタ自動車も邪馬台国
915日本@名無史さん:2008/09/26(金) 10:34:31
>>914

そうだ。
邪馬台国の高官だった豊田佐吉は、朝貢交易のおり覚えた織物技術を生かし、トヨタ自動車の前身となる『豊田自動織機』を立ち上げた。
916日本@名無史さん:2008/09/26(金) 12:57:57
邪馬台国の記述には、絹と鉄鏃がでてくるが、畿内からは少々しか出ず、
北部九州からは圧倒的な量が出る。畿内は時代が下がらないと量が出ない。

各種新発見にもかかわらず、この事実は、一貫して変わらない。
917サガミハラハラ:2008/09/26(金) 13:18:33
畿内からの鉄の出土がすくないということは、畿内では鉄は貴重品であったということである。よって、鉄製品の
使用は九州よりも丁寧であり、捨てるということはなかったということである。
鉄器が少ないということと鉄製武器がすくないこととはかならずしもおなじ比率であるとはかぎらない。つまり、畿内の鉄が九州の鉄の100分の1だとしても、畿内の鉄製の武器が九州の武器の100分の1であるとはかぎらない。
畿内では少ない鉄を補うために、たとえば戦闘のあとなどには、それこそ草の根わけても使った矢を回収したであろうし、破損した鉄器をくりかえしつくりなおしたであろう。
そう考えるならば、かならずしも戦争において九州が鉄製武器が多く有利とはかぎらないのである。
918日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:34:20
>>917
鉄が貴重品であったと実感出来るのは、当時希少で有るか、周りと比較しなければ得られない感覚。
貴方は現在と比べていませんか?
希少であるという感覚も
或豊富な物と比べての話し、自分の価値観を歴史に挿入してはだめですね。


『失格』
919日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:50:21
道具何て言うものは
初めて数が少なくても、利用価値大ならば
必ず量を増やし、それを主要するのが人間の行動だよ。
それが見られないということは、その地域に
鉄を利用する価値観が生まれなかったか、鉄の利用に制限がかけられていたかのどちらかと読む可きだろう。
利便性を感じていたならば、当時畿内には
何らかの規制がかけられ、それと同時に
畿内に制限をかけられる存在が、同時間帯に存在していたという事だよ。


by 河童虫
920サガミハラハラ:2008/09/26(金) 14:11:14
>>918いいえ、当時の感覚で当時の人間の立場に立って考えています。
921サガミハラハラ:2008/09/26(金) 14:13:25
>>917付け足し 3行目 鉄器がすくないということと→出土鉄器がすくないということと
922日本@名無史さん:2008/09/26(金) 14:22:05
>>920
では、何と比べ希少とはんだんしたのです?
923サガミハラハラ:2008/09/26(金) 14:39:53
考古資料では九州で鉄器の出土が多く畿内では少ないということから畿内では鉄は貴重であると判断しました。
物品で貴重なものは希少なものでもあります。石炭とダイヤモンドではダイヤモンドのほうが希少なので同じ炭素でもダイヤモンドのほうが貴重なのです。
924日本@名無史さん:2008/09/26(金) 14:53:52
>>923
現代の視点ではね
それと当時の目線が同じと言えるのですか?

出土数が少ないと判断できるのは、他の資料を比べての判断かと
畿内だけの判断では、出土した数が知り得る絶対数ですから、少なくは有りません。
925日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:00:52
魏志東夷伝の弁辰の条には
「国、鉄を出す。韓、穢、倭、みなしたがってこれを取る。
もろもろの市買にはみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し。」とある。
当時、鉄の短冊型のインゴットは貨幣の役割も果たす重要な戦略物資だった。
926日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:45:05
畿内の発掘規模・費用>>>>>>>>北部九州の発掘規模・費用

北部九州の絹と鉄鏃出土数>>>>>>>>>畿内の絹と鉄鏃出土数
927日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:14:20
>>926
絹と鉄鏃を根拠としたニダニダ九州説は崩壊している。キムチ臭いから消えろ!
928日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:42:41
>>927
火病らずに考古学上の成果を尊重しようよw
929日本@名無史さん:2008/09/26(金) 17:22:08
>>928
今だに邪馬台国ニダニダ九州説の人から考古学上の成果など聞いたことがない。
九州には邪馬台国時代から古墳時代前期の考古学上の成果が何もないのか?
九州に行っても見るべき魅力的な遺跡も遺物もないことになる。
九州に奈良県の山の辺の道みたいな歴史街道がないのは恥ずかしいことだ。
930日本@名無史さん:2008/09/26(金) 17:32:03
>>907
君は本を読んだことはないのかい?
漢籍を読む前に現代の畿内説の本を読め!
己を知るのも良いが敵を知らないと百戦どころか一戦も危ういぞ!
931日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:44:46
重要なところだけど、メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?の質問の答えが

>>911
>橿原考古学研究所附属博物館にあるそうだ。
>お前の大好きな鉄鏃も鉄製矢に含まれているぞ。ニダニダ九州説は崩壊した。

? 答えになっていません。

で、メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?

畿内説論者の方は捏造が畿内説有利になると考えているみたいですけど、
違いますよ。信用を失うだけです。
932日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:27:59
今の畿内説の年代観を本気で支持している学者って居るのか。
古墳時代が200年頃からとかギャグだよな。
やぶれかぶれ。
933祥雲:2008/09/26(金) 23:22:23
>>930
畿内説学者の本だと思って読んだら、「少し考えたら畿内説はだめだった」て
なこと書いてあったぞ。
934日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:43:39
>>931
橿原考古学研究所附属博物館に行って自分の目で確かめたらどうかね。
ついでに桜井市立埋蔵文化財センターにも行って。近くに山の辺の道もあるぞ。
参考に滋賀県八日市に雪野山古墳と言う古墳時代前期のマイナーな古墳がある。
鉄鏃が33本、銅鏃が64本出土している。お前の言っている比率だ。
京都府天橋立の籠神社に前漢時代の昭明鏡と後漢時代の長宜子孫内行花文鏡が
伝世されているが類似の鏡が九州の神社・旧家に伝世されているか
又は遺跡から出土しているか答えろ。なければ九州は後進地域になるぞ。
935日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:52:34
九州の圧倒的な量に比べて、鉄鏃がぜんぜん少ないね。
で、3世紀の絹は大量に出たの?まさかゼロなんてことはないよね?
3世紀当時、世界で中国と邪馬台国の2国でしか産出していなかった、
決定的な証拠が絹なんだけど、まさか出なかったなんてことはないよね?
936日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:57:41
>>907
>>902
> おまえ大和とヤマタイが似てるから関西説なんだろ> それだけだろww哀れよのう哀れよのう。

似てるどころかそのものだぞ?
邪馬台国は大和国の当て字であり台はトと読む。
だれがタイなどと読み始めんだ…バカよのぅ
937日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:58:57
畿内説ってそのレベル。
だから日本中の「ヤマト」地名候補が大合唱。
938日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:02:46
>>916
それはぁ
畿内は鉄器が豊富なので実用品だったわけ。だから残らないのさ
九州は鉄器が貴重品だったのさ。だからありがたそうに埋葬してるわけ
939日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:22:30
>>934
畿内では鉄鏃よりも銅鏃の方が多く、魏志倭人伝に一致しないってのは分かったけど、
どうして、メスリ山古墳から雪野山古墳に対象をすりかえたの? 理由を教えて?

>参考に滋賀県八日市に雪野山古墳と言う古墳時代前期のマイナーな古墳がある。
>鉄鏃が33本、銅鏃が64本出土している。お前の言っている比率だ。
古墳名をすり替えておいて、お前の言っている比率だと言い切るところが怖い。

で、メスリ山古墳の鉄鏃と銅鏃の比率は?
940日本@名無史さん:2008/09/27(土) 01:04:38
畿内説は、矛盾だらけの思い込み「ヤマト=邪馬台」を嘘で守って、矛盾を言い逃れするのが主たる議論の内容。
>>938がその典型。「鏡伝世論」というタイムマシンで時空も変幻自在。土器編年の改変も自在で何でもアリ。

・・・これが、畿内説。
941日本@名無史さん:2008/09/27(土) 01:54:35
>>939
鉄鏃より銅鏃の方が多かったら、なぜ魏志倭人伝と一致しないか答えろ。
雪野山古墳を取り上げたのは奈良県から離れた所からも鉄鏃が出土すること
証明する為だが、なぜ対象のすり替えと思ったか答えろ。
メスリ山古墳を知りたければ自分の目で確かめろと言ったが字が読めないのか?
昭明鏡と長宜子孫内行花文鏡の類似の伝世鏡が九州にあるか答えろ。
奈良県天理市の東大寺古墳から出土した中平年銘環頭大刀と類似の鉄刀が
九州にあるか答えろ。(後漢、中平年間184〜189年)
奈良県天理市の下池山古墳から出土した日本固有の絹(倭文)が九州にあるか
答えろ。なければニダニダ九州説は大崩壊する。
942日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:10:23
倭錦・絹の出土は、圧倒的に九州。畿内は例外的。百万言を費やして矛盾に満ちた畿内説を糊塗すればするほど、矛盾百出。
943日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:13:34
魏志倭人伝に載っているものが、あるかないか、
魏志倭人伝に載っているものが、どちらが多いか、

答えはいつも、九州が正解。

百万言を費やした畿内説の言い訳を、百年聞いても、真実は一つ・・・・答えは九州。
944日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:52:49
>>943
滅多に手に入らないから、大事に持っていた証拠だな
945日本@名無史さん:2008/09/27(土) 03:32:08
そういう出土状況じゃないから、>>944は純粋な詭弁
946日本@名無史さん:2008/09/27(土) 05:18:39
時空を超えるだけならまだしも
無いものを大量にあるに持っていくロジック
詭弁の術だけは見習うものがあるなw
947日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:30:40
実に下らない。

一体倭人伝の何処に
「邪馬台国で絹が採れた」
「邪馬台国は鉄器が豊富」
と書いていると言うのか?

そもそも広域首長連合の畿内ヤマトにすれば
九州でしか産しないものであろうが倭国特産品としてお取り寄せすれば済む話でw

まあその程度で九州説を優位にあるいは決定付ける事ができるのなら
今日の九州説の衰退は無いわけでwww

948日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:35:10
>>941
>鉄鏃より銅鏃の方が多かったら、なぜ魏志倭人伝と一致しないか答えろ。
「鉄鏃或骨鏃」とある。邪馬台国では銅は使っていなかったか、少なかったと
考えられる。
949日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:46:32
>>947
>今日の九州説の衰退は無いわけでwww

九州説で埋め尽くされてるスレにおまえ(畿内説)が一人久しぶりに来たわけだが?
950日本@名無史さん:2008/09/27(土) 08:28:19
>>948
邪馬台国では魏から贈られた銅鏡100枚の同笵鏡を製造するのに
大量の銅を使用しました。
951日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:26:56
投馬国、若しくは伊都国から邪馬台国まで「水行十日陸行一月」。
この時点で邪馬台国を九州島に比定する事は出来ないと分かりそうなものだが。
誇張だとか捏造だとか主張するのは簡単だが、何処にその根拠を見出す?
畿内大和説に弱点はあるが(全ての説に弱点はある)、
だからと言って九州各説に加担しようとは俺は思わない。
九州には伊都国・奴国・末盧・不弥国等の国が存在し、栄えていた。
それだけでも十分九州は立派じゃないか。
明らかに九州島以外のどこか遠方にある邪馬台国を村おこしのために引っ張ってくる必要はない。
前原市住民を見ろ、自分達の市に伊都国があったという事実を大事にしているじゃないか。
952サガミハラハラ:2008/09/27(土) 09:38:33
>>951(すべての説に弱点はある)とおっしゃいますが、私の小城甘木説にどのような弱点があるのか
ご指摘願いたい。
953日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:53:01
>>941
>鉄鏃より銅鏃の方が多かったら、なぜ魏志倭人伝と一致しないか答えろ。
これは>>948が答えてくれました。魏志倭人伝くらい読んで議論しましょう。

>雪野山古墳を取り上げたのは奈良県から離れた所からも鉄鏃が出土すること
>証明する為だが、なぜ対象のすり替えと思ったか答えろ。
>メスリ山古墳を知りたければ自分の目で確かめろと言ったが字が読めないのか?
対象をすり替えておいて「なぜ対象のすり替えと思ったか答えろ」は変な話。

素環頭大刀の地域別出土数、内行花文鏡や伝世鏡、下池山古墳の話は
要点ずらしという形でなく、普通に主張すれば、九州説の人も相手してくれるでしょう。

>>951
>投馬国、若しくは伊都国から邪馬台国まで「水行十日陸行一月」。
>この時点で邪馬台国を九州島に比定する事は出来ないと分かりそうなものだが。
九州説は説明をするが、畿内説は説明しない。そこが問題。
水行十日陸行一月を何里と計算したかと問うと、畿内説論者は
メスリ山古墳が銅鏃ばかりという事実を必死に隠した時と同じ振る舞いになるのは明白。

で、水行十日陸行一月を何里と計算?
954日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:03:22
誘導尋問か?
955日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:38:30
>>948
>「鉄鏃或骨鏃」とある。邪馬台国では銅は使っていなかったか、少なかったと考えられる。

馬鹿馬鹿しい。

書いてないから銅鏃(あと石鏃もか)のシェアは0%と断ずるのなら
じゃあ鉄鏃と骨鏃の比率を出してみろって話でwwwww


956日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:45:59
現在に出土する鉄器の量と古代の各地域の鉄器の量の話で言うと…

そもそも出土する鉄の量=実用されていた鉄の量 では無いわけでw

威信財や祭器は勿論実用品ではないし
また一見実用品であっても交易の為の商品ぶっちゃけ「商売モン」と言う事もある。

出土する物を全て実用されていた物だと言うのなら
鏃や剣が大量に出てくる原の辻は巨大軍事国家と言う事になりかねないぞ?wwwwww
957九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/27(土) 11:12:08
>>956
>鏃や剣が大量に出てくる原の辻は巨大軍事国家と言う事になりかねないぞ?wwwwww

壱岐(一大國等)は海峡を支配する通商軍事国家だよ。
958日本@名無史さん:2008/09/27(土) 11:16:05
>>956
畿内説に不利だからという理由で考古学的成果を否定するのはどうかと思います。

「鉄鏃或骨鏃」だから銅鏃より鉄鏃が多い九州・・・九州説
「鉄鏃或骨鏃」だから鉄鏃より銅鏃が多い畿内・・・畿内説

畿内説の説明ははっきり言って分かりづらいです。

それにしても、魏志倭人伝を否定し、考古学的成果を否定する
畿内説の拠り所って、いったい何?
959日本@名無史さん:2008/09/27(土) 11:49:06
>>957 九州王朝大好き.◆I.THkUKc4Y
お、九州王朝大好きだw

他スレの話だが・・・

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1221167935/59

>59 名前: 50 投稿日: 2008/09/21(日) 05:38:30
>>51 九州王朝大好き.◆I.THkUKc4Y
>で、一体俺が書いた何が「でたらめ」なのか?
>どうにも分からないので教えてもらえるかな?

答えてもらえないかな?
960日本@名無史さん:2008/09/27(土) 11:49:31
>>958
>魏志倭人伝を否定し、考古学的成果を否定する

そっくりその言葉返すわ
961日本@名無史さん:2008/09/27(土) 12:00:17
そもそも「鉄鏃銅鏃」なんてお話は邪馬台国1国のお話ではなくて倭地のお話。
しかも、タン耳・朱崖の風俗との混同の可能性もある。

こんな物で考古学的成果云々言われてもって話だなw

このネタでここまで引っ張って九州説を強弁している学者もまあ今日日いないだろうw

結局、邪馬台国の時代、九州に独自の威信財体系も祭祀形態も見られず
九州の長期衰退傾向が一時的にでも止まった形跡も見られないと言うのが
現在の考古学の結果であり

その中で九州説が下火になるのは当たり前と言う話だなwwwwwww


962日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:08:58
>>962
>そもそも「鉄鏃銅鏃」なんてお話は邪馬台国1国のお話ではなくて倭地のお話。
>しかも、タン耳・朱崖の風俗との混同の可能性もある。
あれれ〜?これって変じゃない?
倭地全般的に鉄鏃が多く、銅鏃が少ないっていう考古学的事実ってあったけ?

なるほど。都合が悪いことはタン耳・朱崖にすればいいんですね。勉強になりました。
さすが畿内説。屁理屈の魔術師。
963日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:29:27
サイキバ君を筆頭に屁理屈だの捏造だので逃げる九州説は楽で良いよね
964日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:41:20
>>953
邪馬台国が魏から贈られた銅鏡100枚の同笵鏡を製造するのに使用された
銅は無視ですか?妄想より考古学的成果を重視しろ。
マイナーな雪野山古墳から鉄鏃が出土したことが九州説に都合が悪いとみえる。
中平年銘環頭大刀を素環頭大刀へ捏造!後漢の中平年間184〜189年の
銘文がある鉄刀が出土して九州説は困るのか?
倭国大乱時代に畿内で鉄刀が常用されていたことになるからな。
昭明鏡を無視し長宜子孫内行花文鏡を普通の内行花文鏡に捏造!伝世も無視!
弥生時代の九州の優位性が崩れるからな。
卑弥呼が魏に贈った斑布二匹である日本固有の絹織物倭文の出土を無視!
メスリ山古墳から出土した大量の鉄製武器を無視し銅鏃の数に粘着。
脳度の低い邪馬台国ニダニダ九州説は終了した。
965日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:31:14
>>958
で、実際の出土状況で九州じゃあ

「鉄鏃」と「骨鏃」の二本立てって事が確認されているのかね?www
966日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:45:03
しかし「鉄鏃」の他は「銅鏃」も「石鏃」も無く
「骨鏃」との二本立てってそんな地域実際にあるのかね?w

967ローガン:2008/09/27(土) 15:33:09
>>953
951さんではありませんが…

> で、水行十日陸行一月を何里と計算?

漢書注記に「帯方東南萬里」とあります。魏代の認識ですね。
これが北部九州を指すものである事に異論はないでしょう?
魏志では女王国迄、あと二千餘里です。魏代の1里は約420mですから、約840km余り離れた所、しかも最後の行程の陸行1月が可能な所が女王国となります。福岡→奈良間を当て嵌めて考えても、まあ目くじらをたてるほどの事はないでしょう。

又、この「二千餘里」ですが、仮に1日の移動距離を40里(≒17km)とすると、二千餘里だと50日余り。ほぼ水行30日陸行1月になりますね。

まあ単なる机上の計算ですが。
968対馬人:2008/09/27(土) 15:45:25
実際は邪馬台国なんかより対馬の方が遥かに進んでいた。
969日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:45:43
>>967
二千里が800qなら
帯方東南萬里は、帯方東南4000qだろう?
970日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:56:23
>>967
対馬から壱岐まで1000里
福岡から奈良は2000里か?
どういう地理感覚なんだよ
それと一方で総距離12000余里と書いてある
畿内説ではそれは無視か?
971日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:13:28
>>966
青銅器の時代を経ていないのではないかということですよ。北九州や近畿は
銅の鏃が結構出ている。しかし、南九州は青銅器の文化を経験していない。
青銅器の時代には取り残され、いきなり鉄器を手にした。だから、主たる武
器も剣ではない。
972日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:21:29
ヤマト大国
973日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:24:24
>>971
まあ銅鏃が少ないって事はあっても
石鏃も無く代わりに骨鏃が出土するなんて事があるのかい?w

所詮「鉄鏃或骨鏃」で銅鏃や石鏃が皆無の如き解釈をする事自体がナンセンスなんだよwwwwww

974日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:24:36
>>967
>漢書注記に「帯方東南萬里」とあります。
次の話と一致するようにも思えますね。
帯方郡から万二千里。その中で南でないところを探すと「乍東」と「東南陸行五
百里」のみ。つまり女王国は郡の南およそ一万里から始まるとみることができる。
会稽の緯度は郡の南約八百キロ。いわゆる短里で計算すると一万里にピタリと合う。
975日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:31:03
>>973
>「鉄鏃或骨鏃」で銅鏃や石鏃が皆無の如き解釈をする事自体がナンセンス
皆無とは言っていませんが。しかし、鉄族や骨鏃が目について銅鏃は目につ
かなかった、銅鏃は少なかったのであろう、と考えて良いでしょう。
銅鏃を作る習慣があったならば、骨鏃は廃れるのではと思うのですが、如何
ですか?
976日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:42:53
>>975
そもそも「鏃」と言っても対人用の兵器としての物と狩猟用の物とあるだろう。
別に全てを同じ素材で統一する必要もない。

大体、銅鏃が作られる地域は骨鏃が廃れ
鉄鏃が作られる地域では骨鏃が廃れないなんてどう言う現象なんだよwwwww


逆に問いたい。
九州じゃあ鉄鏃と骨鏃の二本立てだったのかとwwwwwwwww
977日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:42:56
>>975
>銅鏃を作る習慣があったならば、骨鏃は廃れるのではと思うのですが、如何
>ですか?
それは貴方の妄想。貴方の妄想で魏志倭人伝の記述は改竄できません。(キッパリ)

「鉄鏃或骨鏃」だから銅鏃より鉄鏃が多い九州・・・九州説
「鉄鏃或骨鏃」だから鉄鏃より銅鏃が多い畿内・・・畿内説

あとは平行線でしょうから、どちらがナンセンスかは個々人が判断すれば良い。(笑)
978日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:49:22
>>977

で?

九州じゃあ骨鏃が銅鏃や石鏃を押さえて多く出土すると言う現象でもあるのかい?wwwwwww
979日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:08:17
結局「鉄鏃或骨鏃」で
鉄鏃が銅鏃を押さえて多いと言う発想は良かったのかもしれんが

じゃあ骨鏃が銅鏃や石鏃より多く出土する事になってしまうと言う事にまで
頭が回らなかったのが不味かったなw

一発ネタに狂喜して飛び付くのはアホの九州王朝説サイキバ君の芸風だぞ?wwwwwwwww
980日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:41:54
>>979
>結局「鉄鏃或骨鏃」で
>鉄鏃が銅鏃を押さえて多いと言う発想は良かったのかもしれんが
ようやく畿内説論者の方もそのレベルのことまでは理解できたようですね。+50点。

>じゃあ骨鏃が銅鏃や石鏃より多く出土する事になってしまうと言う事にまで
>頭が回らなかったのが不味かったなw
木鏃や骨鏃や鹿角鏃の類は残存率が低い為、わざわざ石鏃より多い少ないを論じて
魏志倭人伝を否定する人はまずいません。−50点。

全国的な骨鏃出土率の低さを根拠に畿内説の生き残りをかけたようですが、
一発ネタに狂喜して飛び付くのはサイキバ君の芸風だぞ?wwwwwwwww
981日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:52:48
倭人伝にある習俗は、伊都に駐在してた中国人が九州の習俗を
見て記述したものだろ、普通に考えて。
ただだからと言って、女王国が九州にあったとは断言出来ない状況に
なっている。
982日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:57:10
>>967
>1日の移動距離を40里(≒17km)とすると

朝鮮だけで半年も掛かってるなww。
983日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:03:10
>>981
まあ、そうなんだけどねw

ただ鉄鏃と骨鏃が併記されていると言うのはタン耳・朱崖の風俗との混同の可能性を考えて良いと思う。
骨が入手しやすいと言うのは狩猟に重きを置く環境じゃない?w

石鏃で言うと九州じゃあ半島伝来の磨製石鏃が使われ
近畿ではそれが伝わらず縄文の伝統を継ぐ打製石鏃が使われたと言うから
(「戦う倭人」松木武彦)
むしろ鉄鏃と骨鏃の組み合わせなら畿内の方が可能性高いかもしれないw
まあ、あまりマジに考える必要も無いネタだと思うがwwwww

984日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:15:39
>>979
>>980が言うように骨鏃は残存率が低い。しかし、それでも宮崎からは骨鏃がかなり
出土している。銅鏃よりはずっとね。そのことをご存じないのですか?
985日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:37:36
>>984
おっ、やっと具体的なお話が聞けそうだw

まあ知らなかったわけだがw
じゃあソースとか具体的な出土の割合、遺跡名、その年代等々…
教えてもらえるのかな?

特に年代は弥生末期頃の話で無いと意味が無いだろう?w

986日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:40:58
その気になってご自分で調べれば分かると思いますが。
987日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:47:39
>>986
やっぱりなwwwwwwww

この板の九州説って最後はその捨て台詞が多いなw

まあ「出さない」のか「出せない」のか知らんがwwwwwww
988日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:34:16
畿内説

漢籍の都合の良いところは採用、都合の悪いところは漢籍や中国を蔑視しデタラメ・誤りとして無視。
畿内の出土物や遺跡は土器編年を自由自在に改変して、なんでも卑弥呼の時代に偽装判定。
非常識の極限を追求したあまり、三角縁神獣鏡の舶載伝世論や、金印偽作説、箸墓円墳説、
九州絹九州鉄鏃貴重品説など、奇妙キテレツな珍理論を生み出している。
このように、畿内説の研究・議論は、無数の矛盾を言い逃れ・糊塗するためになされている。
989日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:29:02
>>988
感情的反論はどうか。情けない。

土器編年を自由自在に改変とか意味がよく分からない。
どういうこと?編年と実年を混同してる?

今の実年代は色々証拠があってのことで、
今までいい加減に決めてたのを根拠を提示しながら修正しているのが現状。
現実を認めないと。
990日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:35:08
>>989
年輪年代に証拠があるのか?あれは宗教だろ。

ホケノを布留式にしながら3C前半とか、カルだな。
石塚も周濠の土器は布留だが、年輪一筋80年かww
991日本@名無史さん:2008/09/28(日) 00:57:33
ホゲ様がどうした
992日本@名無史さん:2008/09/28(日) 00:59:48
おのれタムドク
993日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:01:07
火天会かw
994日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:01:55
NHK見てたなお前ら
995日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:03:07
995
996日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:14:38
千鳥
997日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:16:12
997
998日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:17:05
998
999日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:17:47
999
1000日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:18:41
畿内説

漢籍の都合の良いところは採用、都合の悪いところは漢籍や中国を蔑視しデタラメ・誤りとして無視。
畿内の出土物や遺跡は土器編年を自由自在に改変して、なんでも卑弥呼の時代に偽装判定。
非常識の極限を追求したあまり、三角縁神獣鏡の舶載伝世論や、金印偽作説、箸墓円墳説、
九州絹九州鉄鏃貴重品説など、奇妙キテレツな珍理論を生み出している。
このように、畿内説の研究・議論は、無数の矛盾を言い逃れ・糊塗するためになされている。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。