1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:05:08
二条城
3 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:15:52
三原城
四稜郭
5 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:21:55
五城目城
6 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:22:00
五稜郭
7 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:30:32
七尾城
8 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:31:54
八代城
9 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:33:29
九戸城
10 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:34:14
十河城
11 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 16:48:31
土城
12 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 18:16:18
十二所城
13 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 18:07:25
十三福島城
14 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 19:13:18
紫禁城
15 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 02:35:01
失禁城
16 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 20:39:22
水城
17 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 22:58:55
火城
18 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 17:47:55
姫路城
19 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 22:17:25
広島城の小天守の古写真、平成13年発見のもの、どこかにありませんか?
20 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 16:16:42
nijyujyou
21 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 08:40:30
白石城
22 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 20:24:07
age
23 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:54:08
24 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:55:23
ここは、まともな城総合スレッドですな。
25 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:55:55
たわけ!
26 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:58:35
田辺城の水門って、実用性のある機能を有していたのですか?
28 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:03:44
岸和田城って、犬走り広くないか?
29 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:25:48
和歌山城
30 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:26:35
大坂城
31 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:47:36
城壁厨の粘着力が怖い。
さすがキムチ。
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
35 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 08:59:29
安土城
36 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 09:19:55
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
城壁厨はなんでこんなに必死なの?
40 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 15:05:56
熊本城
41 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:55:12
本丸御殿の復元計画のある城ってありますか?
名古屋城
キモスレで質問しても無駄
44 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 08:34:52
名護屋城?
45 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 13:40:25
江戸城に、石垣の・・・
46 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 14:31:37
天守で城に?
47 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:32:47
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
49 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:47:08
名古屋城の縄張りは、実戦的なのかなあ?
横矢射るの難しそうだし。
50 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:44:24
52 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 05:48:44
デアゴから1/90安土城巨大天守模型が発売される。毎週部品を小出しに販売して約二年で組み立てる。既に新潟県で書籍店で先行販売。様式は内藤案でなく三浦案。残念だ。
53 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 06:49:52
日本の城郭
尾張名古屋は城で持つ
55 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 18:49:04
城のプラモデル持っている住人は居る?
57 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:00:47
信長「私はホトトギス」
58 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:03:21
名古屋は素晴らしい
59 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:24:17
大納言
名城シリーズ
大阪
61 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 08:06:29
安土城
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
テレ東のTVチャンピオンで城通選手を募集してるよん
正答を間違えそうなテレ東スタッフ
65 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:00:36
名護屋城天守台の発掘結果により天守の初層が従来の定説の半分程度の大きさとなった。7間×6間と言う。大洲城天守、江戸城富士見櫓と同等規模で五層である。板倉家伝来の名護屋城図屏風の天守がやたら細長い謎が解明された。
ソース貼ってね
67 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 18:44:22
ソースは名護屋城博物館に直接照会。来年度に発掘調査報告書が出るとの事。7×6間の新説は小学館系の城郭本に発掘情報を元に既に取り上げられている。
名護屋城博物館の展示はなぁ…
正直サヨク臭がぷんぷん。
>小学館系の城郭本に発掘情報を元に既に取り上げられている。
ソース希望
70 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 22:26:30
小学館は間違い。学研の歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城」21肥前名護屋城他の9ページ。
つーか名護屋城天守台の柱間は南側は1間=6尺5寸で北側がは1間=10尺で、複数の柱間が混在していて、
名護屋城天守が7間×6間ってのは北側の柱間の1間=10尺を基準に解釈した規模だろ?
南側の柱間の1間=6尺5寸を基準にした場合は約8間×9間程になり、その規模は全然違うことになるが?
>>65 つうと、調査では三層程度しか出来ないと言われている
大和郡山も五層以上の可能性もあるということかい?
大和郡山城天守の復元図参照
74 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 05:38:56
名護屋城は屏風に描かれているようなペンシル型建築だろ。金沢城の内部五階の三重櫓がイメージに近い。
城壁厨ドット・コムへようこそ!
76 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:11:35
OMG!
77 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 17:36:57
櫓建つたのか
城郭櫓は五層ある
79 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:42:14
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
81 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 17:39:07
今、当スレで御城の歴史が語られた
82 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 17:44:09
天守のか?
83 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 18:39:03
日本の御城のですがなにか?
84 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:01:08
どうもすいませんでした!
85 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:38:58
初層6間×7間の桑名城は4層六階、大洲城は4層四階。名護屋城が6間×7間だって五層六階は可能だろ。
名護屋城は6間×7間じゃねえよ
天守台の測量図を確認しろや
そもそも名護屋城は五層六階じゃないがな
88 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:31:27
測量図は穴蔵の地面まで削りとられた寸法では?そこに石垣を積み重ねると推定初層寸法7×6間らしい。屏風でやたら天守が細長く描かれているのも納得できる。
>測量図は穴蔵の地面まで削りとられた寸法では?そこに石垣を積み重ねると推定初層寸法7×6間らしい。
こっちは天守の柱間の寸法話しをしてんだよ。石垣を積み重ねても推定初層寸法7×6間にはならないし
自 分 の 目 で 測 量 図 を 確 認 し ろ
崩れた穴蔵の不足分なんかせいぜい半間から1間だろ
少な目に見積もっても6間×7間にはならないぞ
想像で納得するなっての
91 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:08:07
六間×七間説は名護屋城博物館の公式見解らしいがね。石垣山城の天守も小さかったようだが。
>六間×七間説は名護屋城博物館の公式見解らしいがね。
だからなに?
つか名護屋城博物館の公式見解らしいじゃなく、 護 屋 城 博 物 館 の 公 式 見 解
そんなことは各種資料でとっくに知ってるが
言いたいことがあれば天守台の測量図を見てから言え
>>92 天守台は22m×18mだからねえ。
間をどう考えるかしれんが、12間×10間と見るべきじゃろう。
天守は東西の礎石列の梁側の1間が9、4尺
南北の礎石列の桁側が1間が6、5尺
六間×七間の高瀬説は1間を9、4尺として天守全体の規模を導き出している
しかし1間を6、5尺とした場合の天守全体の規模はまた違ってくる
中華式だよばーーーーーーーーーーーーーーーーか
96 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:25:41
世界の名城は日式だがな
97 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:37:26
肥前名護屋は金でモツ
城は作られた。戦国の
埋
メ
豊臣大阪城の遺構は皆無とされてきたが竹生島の宝厳寺唐門がそれに
あたるのではないかという研究論文がネットにあがってた
102 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 00:08:47
103 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:17:42
104 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:49:57
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
105 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 09:50:19
106 :
102:2008/09/11(木) 18:00:44
>>103 俺は城壁よりも天守の方が好きなんだがなぁ
107 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:56:12
このスレでいう城壁は中国式城壁
108 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 08:39:35
梅
110 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 17:41:54
110
111 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 18:37:48
大和郡山城天守は二条城、伏見城のどちらに移建されたのか?現状伏見城天守台の推定平面寸法は大和郡山城天守台と一致すると言う説もあるが。
113 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:17:46
114 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:02:17
低脳城壁厨乙w
115 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:03:28
低脳城壁厨乙w
116 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:04:22
低脳城壁厨乙w
117 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:05:08
118 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:56:09
119 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:59:18
城壁w
良スレ
121 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 02:32:36
同意
122 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 08:33:24
>>111 郡山城の天守は、どのような形状だったか判明しているのか?
123 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:39:58
天守が大小二つある城はあるのでしょうか?
124 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:59:18
歴史は作られた
125 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:02:54
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
127 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:17:26
そして400か・・・
128 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:24:00
いずれは100で
これはお城の掲示板、ネットのですがね。
130 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 20:29:33
130
131 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 02:48:02
松本凸はチャチい!
見てガッカリ…落とす気にもなれん
132 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 03:08:50
凸
凸凸凸
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
134 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 13:41:50
>>1=
>>2=
>>4=
>>6=城壁厨
前スレのレスが900と少しで勝手に次スレ立てて自分で乙。
相変わらずあたまがイカれている。
135 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:56:16
姫路城って、江戸期の藩の石高からみて、
篭城に耐える兵力をそろえることができるのだろうか?
136 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:30:40
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
137 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:40:33
>>111 郡山城→家康伏見城→家光二条城
家康二条城→淀城
こんな説明が二十数年前の小学館の本に載っていた
さてどうなのよ
138 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:41:12
>>135 城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
139 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:42:56
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
140 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:50:08
>>137 城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
>>135 実高二十万石くらいはあったらしいが。
外堀なんて到底守れそうにないね
142 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:15:15
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
143 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:06:54
>>141 町人や農民から徴兵は無理かな?
兵農未分離な戦国時代なら、容易だったろうけど。
145 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 08:37:38
守備兵900人らしいよ
147 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 11:27:38
天守の?
148 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:05:56
高取城なんて、藩の動員力から、
有効に城の縄張りが生かせるのか?
149 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:28:03
戊辰の役で城郭は簡単に落城、開城したでしよ。三百年間藩庁だもんね。世襲だと藩士の年齢もバラバラで戦力にならない。江戸前期には城の役割は終わっていたと思う。
150 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:38:34
152 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:16:52
瓦も転用しろよ。もったいない。
153 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:19:58
154 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:31:57
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
↑
このキチガイはなんでこんなコピペを繰りかえすの?
なんか変な妄想でもしてんの?
156 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:00:24
>>149 西南戦争での熊本城は?
明治期での戦争でも落城してないぞ。
>>155 基地害はスルーで。
158 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 06:05:39
もっとも古い小天守の記録は坂本城だろうか
有名どころは松本、名古屋、姫路、広島、熊本など
159 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 06:40:59
姫路は小天守3つあるっちゅうに。
160 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 06:58:00
大小二つを見逃してた
広島も小天守2つあったな
161 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 07:14:59
駿府城は二の丸坤櫓の復元が進みつつある。櫓台の石垣が完成した。作事が楽しみだな。
162 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 08:32:00
>>161 駿府城はなぜ平城(一応高台にあるが)にしたのだろうか?
163 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 08:42:41
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
164 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 10:57:20
>>162 発想としては名古屋城と同じ。
対大坂方の兵站基地の面があったから。
武田流の松代・松本と通じるじゃなかろか。
165 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 11:06:18
>>164 名古屋城の非実戦的な縄張りは如何なものか?
総構も完成したとしても、単にだだっ広い無用の長物となってしまいそうだが。
166 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 12:37:34
城下町の発展とか時代の違いは眼中にないのかね?
さすがクソスレ
>>165 高い石垣広く深い堀
これだけでも十分すぎるほど実戦的だが?
168 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 18:00:49
>>167 横矢が効果的に射れない構造になっている。
169 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 18:48:44
小田原、大坂のように孤立無援の長期籠城は考慮されていない。援軍が到着するまで十日前後維持できればよし。
170 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 18:56:53
>>168 名古屋城クラスの大城郭になると横矢なんかほとんど意味がない。
171 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 20:14:08
>>170 お前さんは、縦深というものを理解しておらんな。
172 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:23:16
名古屋城の縄張りこそが実戦経験に裏打ちされた築城術の極致よ。
それより後、太平の世の軍学の主張する築城術なんてまさに机上の空論、屁だ。
つーか釣りじゃねえの?
あの時期に築城された城が日本の城の完成形だってのは城ヲタの常識だろ
174 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:02:27
>>123 元亀2年(1571年)の坂本城だけでなく、
天正8年(1575年)築の神戸信孝の神戸城にも小天守が有った
安土城にも多聞城から移築してきた四階櫓を小天守として再利用した説を本で読んだことがある
天守と小天守がつながっていないのは米子ぐらいなもんじゃろう。
176 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 06:20:44
「名古屋城の縄張りこそが実戦経験に裏打ちされた築城術の極致」というのは
釣りにもならんな。
実戦を経験している西洋の軍学からも、名古屋城は非実戦的。
177 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 12:40:07
会津若松城籠城1ヶ月で降伏。まあ名古屋城もこの程度だろ。
178 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 13:47:32
宣教師がローマに報告している。日本の城は木造で脆弱だ。ヨーロッパのカノン砲で簡単に粉砕されると。
何時の時代の大砲を想定するかにもよるけど
戦国末期の大砲程度の威力なら太鼓壁で防御できるよ
180 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 13:56:35
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
>>178 宣教師の報告は色々裏があるから額面通り信じるのは危ないと思う。
182 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:30:07
>>179 五稜郭のような土塁だったら、
衝撃を吸収する性質があるので、
現代の砲でもある程度大丈夫だろう。
183 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:37:17
会津若松も五稜郭も垂直に落下する榴弾砲に猛攻撃を受けて降伏開城。大坂冬の陣でも球弾に淀君の居室を打ち抜かれて侍女が即死。結果和議へ。日本の城は砲撃に弱い。
184 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:44:49
>>183 それは土塁の高さや、城そのもの立地条件もあるだろう。
五稜郭は、築城当時の大砲の飛距離からは、
充分対応できるものだったし。
大砲の射程能力の問題もあるんだよ。
185 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:45:20
攻城塔って戦国時代の日本にもあったらしいけど、どのように運用されていたんだろう。
具体的な戦史知ってる人いる?
186 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:52:00
朝鮮の役で加藤清正が用いた亀甲車がある。大型の台車に数人が入れる木組を建てて牛革で包んだもの。朝鮮の高い城壁から浴びせられる弓矢や沸騰した油から身を守り城門に近づく兵器。
187 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:00:10
日本の城郭攻略には有用ではなかった?
>>183 しかし備後福山城の鉄板張天守は敵の砲弾を弾き返した!
>185
釣り井桜のことかな?
偵察兵器だけど敵も城内を覗かれまいと木を植えたり筵を
張ったりして対抗したとか。割とポピュラーみたい。
190 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 06:57:01
>>187 攻城塔は山岳地帯には、容易に投入できないだろう。
平城への攻城戦くらいしか、投入できないんじゃないかな?
191 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 08:21:26
戦国末期の平山城の攻略で、外郭部を突き崩して一気になだれ込むには有効だった?
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
193 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 15:52:55
>>191 平山城の攻略でも、攻城塔は生かしきれないぞ。
195 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 16:58:05
西洋や中東で攻城塔が多用されたのは、丘陵を利用した要塞自体が少なかったため?
196 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 03:51:53
>>197 いつものことだがいい加減しっかり怒っておかないと
嘘もつき続けば本当のことにされてしまうからな。
日本だけでなく中国にも高句麗の話とか漢字・孔子がウリナラ起源とか
やって中国怒らせているからアホとしか言いようがない。
いずれ、朝鮮の役の時の倭城も起源扱いされそうだわ。
日中で嫌韓同盟を作るべき
200 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:53:01
朝鮮の倭城を復元しろ。朝鮮半島に林立する天守を仰ぎたい。
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
>>200 城名は知らんが最近倭城で櫓門が復元された
写真を見たが、日本式、琉球式、朝鮮式が混ざったような感じの建築だったw
話題が中国式に近づいてきました
205 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:09:16
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
207 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:55:59
名護屋城博物館に「破城された石垣は唐津に移したのか」と質問したら、城跡は明治時代まで採石城になっていて破城と近代の持ち去りの差は不明だと言う。特に天守台の破壊は近代の可能性が高いそうだ。
208 :
曲学の徒:2008/09/25(木) 19:20:02
209 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 06:44:13
211 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:59:27
>>209 >石垣の上に塀を築いた、全国でも珍しい構造をしていたとみられる。
石垣の上に塀があるとして、何が珍しいのか分からない
城壁厨が自作自演してるだけ。
213 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 17:38:13
27日28日で姫路城と岡山城に行ってきた。
214 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:30:56
城一つに一日か。姫路はそれでいいが、岡山ならもう一箇所くらいは回れるだろうに。
赤穂とか、福山とか。
215 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:20:22
吉田郡山城跡行ってきた。
難攻不落の名城ってのを足で体感してきた。
御本丸の櫓台になんか立派なキノコがはえてた!
218 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:16:04
埼玉三名城
川越城
岩槻城
忍城
219 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 17:56:52
>>218 全部違う。
埼玉三名城と言えば、鉢形、松山、杉山だ。
221 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:02:42
222 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:24:15
223 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:53:18
>>221 それまでのありきたりな想像図が、内藤晶以後はっちゃけちゃった様子がよく分かったw
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
225 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 11:54:37
213だが先週に引き続き、昨日は名古屋城に行ってきた。
岡山・姫路と見てきたが、天守閣の規模は圧倒的にデカかった。
石垣もすごかった。
戦災で焼失しなきゃ、世界遺産も確実だったろう。
なんせ天守・御殿が残ってるなんて、ここ以外にはなかった。
226 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:34:39
× 四層
○ 二層四階
>>217 やはり佐藤案は最新の復元案ということもあり、最も現実に近いことは疑いない。
すべての資料に矛盾ない唯一の復元案なのだから当然と言えば当然なのだが。
吹き抜け大空間なんて論外だが、龍を描いた宮上案は暴走族のアジトみたいで嘲えるw
230 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 09:47:15
>>229 吹き抜け大空間は、当時の建築技術では不可能なのか?
>>229 佐藤案は最新の復元案にもかかわらず全体的に作為的
すべての資料にご都合解釈で土屋氏、古川氏両案以下の出来
佐藤案が当時の記録に基づき龍を描いたことは内藤案と宮上案と同じで評価できる
>>230 >>229は無知無学
233 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:32:04
>>229 佐藤案は、座敷の有る身舎の周囲にただっ広い縁を巡らしており薄暗いことこの上なく、
結局、土屋氏、古川氏両案と大差ない出来だね。
234 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 17:23:54
>>233 佐藤案は南北破風の間を二段にしてるのも合点がいかん
天主台入口も滋賀県史跡調査報告天主跡実測図の補修箇所と元からの遺構を区別することなく完全に無視してる
ソース(廣島史学研究会・史学研究・第255号)安土城天主の平面復元に関する試案・・・・・・佐藤大規 P17の註(13)
うんこスレでなにマジになってんだよw
空気嫁
>>230 不可能。
木造での吹き抜け大空間の上に、2重の望楼部なんて論外。
大量の瓦や太い柱で構成される望楼部の大重量を支えることはできない。
鉄骨だってこんな構造は無理。よって吹き抜け大空間なんかあり得ない。
また天守閣(木造高層建造物)用の石積み技術が確立していない時代に、
不等辺八角形の天主台いっぱいに建てられていたというのも疑問で、
やはり宮上案もしくは、西ヶ谷案が最も妥当な復元案だと断言できる。
>>236 天主吹き抜け説の根拠である
『天守指図』は基本的に正しいと考える某サイトの主張はどう思われますか?
天守指図は計画案で吹き抜けや舞台、橋は中止にしたんじゃないだろうか
しかし天守指図の吹き抜け空間を納戸化しても柱を増やしたりすると、公記や日気と柱本数も違ってくるからそう単純にもいかないだろうが
天主周囲の塀を伺わせる宣教師の報告もあるので天主は矩形かもしれないが
「美しき石段を上がると、まず廓をもって取りかこまれた大堂に達する。この廓は絵をもって装飾せられ・・・」 イエズス会日本年報
※ 「廓」は「城郭」と同じ、囲われた区画を意味する
239 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 18:43:35
吹き抜けは単に床を張らないだけだ。構造上問題なし。安土を天下人の城の模範とした家康の駿府の天守にも吹き抜けがあったとスペイン人の記録にある。
中華式だよそれは。
241 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 21:27:54
じゃあ家康は中華マニアか。
242 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 21:49:58
>吹き抜けは単に床を張らないだけだ。構造上問題なし。安土を天下人の城の模範とした家康の駿府の天守にも吹き抜けがあったとスペイン人の記録にある。
松本城天守のような1間四方の吹き抜けとは訳が違うぞ
それも大陸式城壁です
正しくは中国式じゃね?
247 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:18:44
>>239 >吹き抜けは単に床を張らないだけだ。
駿府城天守内に吹き抜けが有ったとしても安土城の場合、天守指図をよく見てみろ。
吹き抜け空間に柱がなくてどうして上階を支える?単に床を張らないだけの問題ではない。
248 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:30:25
駿府城の吹き抜けは天守指図とスペイン人宣教師の談話で証明されてる。
249 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:27:12
信長はせっかちな人だったから、最上階からすぐに降りられるように、吹き抜けを作って
消防署のようなバーを設置する必要があったんだよ。
家康の駿府城の場合は、年甲斐もなく若者ぶりたかったんだろう。戦国時代は
なめられたらおしまいだからな。
盛岡城に盛岡城郷土舘なる桃山城天守閣みたいな模擬天守を造る計画があったんだな
頓挫してよかった
251 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:57:43
天守指図は江戸時代の人間が安土城跡を見に行って、
信長公記を読んで、安土城はこうだったんだろう、と
前田の殿様に報告した物
と考えるのがいちばん妥当
まったく現実的ではない図面
252 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 18:20:05
天主台を修復しても天守指図の内容を実際に建てるのは構造状不可能だと思うが、
戦前の天主台の実測図(発掘前で天主台外周が約10角形になってるやつ)や引き橋その他を見ると創作は無理な感じがもする
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
255 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 18:54:11
鶴丸城は?
中華式
仮に鹿児島に熊本城級の城郭があれば、西南戦争で西郷軍が最後に立てこもって一戦有ったろうに
と夢想してみる
370人かそこらしかいないのに守れるかっての
鹿児島は近代戦に耐えられるとこじゃない
錦江湾に軍艦並べて艦砲射撃されたら終わりだし
城山に大砲あげて打ちかえせば大勝利だよ。
260 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 02:36:33
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
262 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 11:35:53
近世の天守建築は中国式城壁(北京の天安門みたいなの)の究極の形態だろう。
263 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 12:05:25
264 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 01:28:40
265 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 17:20:05
CGへぼい
266 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:09:38
>>264 西の丸天守と言うより、本丸四階櫓じゃろ
>>262 中国式城壁と総構え、中国式城壁と日本の城の塀と石垣や土塁、
天安門はどうだか知らないが城門-甕城と日本の枡形、
天安門-日本の城の楼門と比較するなら分かるけど、
天守建築と楼門と城壁はそれぞれ目的が全然違うし、
天安門はあくまでも城門。
天守建築と天安門の共通点は「権力の象徴」「望楼」以外にはないのでは?
気持ち悪いスレですね
269 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:51:26
270 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:47:02
>>267 >>262は粘着荒らしだから、スルー。
多門形式の城門は日本でもあるが。
城門の上に櫓のような構造物を作っていたりなど。
>>1が粘着荒らしだから、このスレごとスルーが正解。
272 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 14:45:07
↑
スルーできないヴァカ
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
Part10は909で次スレが立って、
Part11は852で次スレがたった。
そのうち500あたりで次スレがたつな。。。
来月に大垣逝く予定です。予定では大垣城、墨俣城、関ヶ原を見ようと思いますが、
ほかに周辺でおすすめはありますか? ※稲葉山城は攻略済み
なお中世城郭でも資料館でも大歓迎です。
>>274 交通の便が悪そうだが竹中氏館はどうだろうか?
276 :
275:2008/10/24(金) 19:03:43
277 :
275:2008/10/24(金) 19:04:47
278 :
274:2008/10/24(金) 19:26:50
279 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:51:09
来週の美の壺は天守閣
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
281 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:24:45
中華式のレスだな。
282 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:22:01
和式
283 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:23:15
日本の名城シリーズ
284 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 09:30:18
ビジュアル・ワイド 日本名城百選 村田 修三 (監修) 小学館の選考はどんな感じっすか?
中華っぽかったよ。
中華は最低だな
>>284 メジャーな城ばかりを集めた大衆向けの本
これといって面白いとは思えなかったのでスルー
288 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:18:02
289 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:34:56
>>287 サンキュ
近所の本屋においてなくって読めなかったんだよ。
縄張の解説が詳しいとか、表紙の写真が宇土櫓だったりとかでちょっと気になって。
290 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 12:36:39
日本の名城ベスト100
古代から近世まで、国内の名城ベスト100を選定した『日本名城百選』が小学館から出た
〈1〉縄張(なわばり)(城の設計プラン)の優劣〈2〉現存遺構の価値
〈3〉歴史性を考慮して、全国の研究者28人が各都道府県のベスト5(計237件)を選出。
その中から、総監修の村田修三・大阪大名誉教授を委員長に4人の専門家が厳選した。
ちなみに、ベスト10は〈1〉大坂城〈2〉熊本城〈3〉江戸城〈4〉名古屋城〈5〉松山城
〈6〉彦根城〈7〉姫路城〈8〉安土城〈9〉会津若松城〈10〉小田原城。
世界遺産の姫路城が7位とは意外だが、「内城の縄張の単調さ」が減点の対象となったとか。
玄人筋の目はなかなかに厳しい。
本書は100城すべてについてカラー写真を掲載し、
それぞれの歴史と特徴を簡潔に解説しているが、目玉はオールカラーの「縄張図」。
城の構造が一目瞭然(りょうぜん)で、まさに「百名城の決定版」と言える好著だ。
税込み3990円。
(2008年10月17日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081017bk02.htm
>>290 > 世界遺産の姫路城が7位とは意外だが、「内城の縄張の単調さ」が減点の対象
姫路城について書かれたそのほかの本で、姫路城の縄張を単調と評しているのは見たことがないんだが。
さすが玄人筋の目は厳しいなw
姫路が単調なら大坂や名古屋はどうなるんだろう?
294 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:34:00
玄人というよりはボケ老人じゃないのか??
中華式でないと評価されない
296 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:29:57
すべて評価されないから順位は変わらないだろ。
297 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:13:55
大阪大名誉教授が選んだベストは地元の大坂城か( ´_ゝ`)フーン
単調かどうかは分からんが、漏れも姫路城の縄張りは
防御と言う点でパーフェクトかと問われれば甘いと思う。
姫路城は江戸城や大坂城のような天下人の巨城ではないからね。
規模も劣るし、縄張りも小細工を弄したものになりがち。
もっとも城というものは、大きくなればなるほど縄張りも大ざっぱになりがちだが。
単調言ったらヴォーバン式の五稜郭は最悪だな
>>299 そんなはず?と思って航空写真で見てみたが、
姫路城は総構えまで含めてやっと江戸城の内郭と同規模だね…
姫路城
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E&sll=35.684675,139.755495&sspn=0.031581,0.047722&ie=UTF8&t=h&z=14 江戸城
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E7%9A%87%E5%B1%85&sll=34.834025,134.709463&sspn=0.035648,0.076904&ie=UTF8&ll=35.684675,139.755495&spn=0.035276,0.076904&t=h&z=14 大坂城
http://isv.sakura.ne.jp/naniwa/siro/siro-imeigi/sogamae.gif http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9F%8E&sll=35.684675,139.755495&sspn=0.035276,0.076904&ie=UTF8&ll=34.67797,135.524426&spn=0.035715,0.076904&t=h&z=14&iwloc=addr
100名城の本は、結構どうでもいい雑魚城が大杉。
ベスト10城に絞って、カラー10ページづつくらいで
もっと奥深くまで詳しく解説して欲しかった。
それで1500円なら買うね。
100名城のリストってないの?
まあめぼしい城は網羅されてるんだろうけど。
縄張りの規模や防御性なんか考えたら安土城はトップ10に入らないだろう
石垣の規模では観音寺にも劣る
しかし歴史的価値はナンバー1だと思う
305 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 03:38:07
306 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 09:54:10
今われわれが眼にしているのは大阪城なんだが。
豊臣大坂城は跡形もないはずなんだが。
307 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 10:31:54
>>304 安土城は政庁としての役割を果たし、
万が一の時は背後の観音寺城も含めての
防衛構想があったとかいう話を
聞いたことがあるようなないような?
308 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 13:06:25
観音寺城って廃城になってなかったのか
中華式じゃないから廃城
観音寺城の石垣は安土築城の際にも使われずにそのまま保存されてただろ
つうかさ、観音寺城ってもともと使えるの?
家臣の屋敷も山の上にあげたりして、規模だけでかいけど張り子の虎ってイメージが・・・。
>>311 防衛施設専門として考えるならわざわざ家臣の屋敷を山の上に上げる必要ないと思うけど?
家臣の屋敷は安土城にもたせるだけで十分。
観音寺城には万が一の時の為の兵糧と武器弾薬貯蔵施設と石垣、土塁他、胸壁、城壁があればおk。
>>299 >>301 地方大名で、天下人相当の縄張りの巨城を作ってしまったのは、
全国でもおそらく伊達政宗の仙台城だけだろう。
「裏山をどこまで含めるか」という面で縄張りの算出が難しいが、
少なくとも千六百一桁年代までは、
同時期の江戸城を超える規模の縄張り設定をしていた可能性が高い。
縄張りとして江戸が仙台を完全に規模で越えるのは、
明暦の大火後の江戸大改造以降だろう。
何をする気だったのか知らないけれど、
妄想でも何でも、大風呂敷の大きさでは突出するものがあるなww>政宗
(なお、仙台城の縄張りは未だ市街地として全域が埋まっているわけではない)
>>311 小谷ですら落とすのには数万の兵と半年以上の月日がかかったからな
ガチで観音寺に1万の兵で篭ったら落とすのに5年はかかるだろう。
>>314 あの山に1万も立て篭もられたら、
兵糧攻めにするにも相当な兵力が必要になりそうだな。
恐らく10万前後は必要か?
観音寺城の調査には最低50年かかって
安土城再調査はその後他の城跡調査してからだってさ
信長廟発掘なんか300年ほど先になるな
最低でも安土城天主台の発掘をしろよ
318 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:03:05
観音寺城の天守台は大正時代あたりに神社の改築の際に邪魔になるから撤去されたようだ。
中華式じゃなきゃ意味ないね
古写真に見る日本の名城は結構面白かったな。
321 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:46:18
NHK 美の壷
【城下町】
11/7 午後10時00分〜 教育
【天守閣】
11/6 午前0時45分〜 教育・デジタル教育1(再放送)
11/6 午前0時45分〜 教育・デジタル教育3(再放送)
11/7 午前7時00分〜 BS hi(再放送)
11/8 午前5時15分〜 総合・デジタル総合(再放送)
http://www.nhk.or.jp/tsubo/#
>>321 歴史業者の三浦が出てきた時点で萎え。
つくづく天守閣という建築が外見だけで中身のないものだということが判った。
あんだけこだわって建てても武器庫くらいにしか使わないんじゃ、あっという間に廃れる罠。
>>322 まあ内外装について姫路城の天守閣と二条城の二の丸御殿比較すると、
姫路城の天守閣はまさに張りぼてだしね。
はりぼてっつーか中華式なんだよ。
馬鹿かお前
中華宮殿では見張り塔は見張り塔でしかなく主役にはならない
しかし中華の下僕である小日本では中華よりみすぼらしい見張り塔が
天守と称して城の主役になっているので惨めで面白い
>はりぼてっつーか中華式なんだよ。
つまり中華の城もはりぼてってことか
中国の城というか宮殿は中身空っぽの殺風景ながらんどうだよな。
中華式と日式の模倣物、それは朝鮮式といえる
そう言えばロバート・フォーチューンが、北京城の楼門には無数の銃眼があるが、
そこから覗いている大砲は木製の“なんちゃって”大砲だった、とか言ってたっけ。
無用の長物
万里の長城
天守閣
宇宙戦艦ヤマト
城壁厨暗躍中ゲラゲラ
332 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 16:37:30
↑
本物の城壁厨乙w
333 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:32:08
墨俣一夜城って城址を発掘調査して城が本当に存在したことを裏付けるような遺物とか出てきたのか?
334 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:56:48
美の壺
三浦教授が出てきて、CGは宮上とは、これいかに?
(NHKには三浦教授の弟子もいたはずなのだが)
335 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:08:31
NHKは内藤平井シンパじゃなかったのか
336 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 01:58:38
>>333 調査目的だったかは忘れたけど、発掘で発見されたという戦国期の兜が模擬天守閣に展示されてたけど、城自体の遺構は何も触れてなかったから、見つかっていないかと
337 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:36:03
338 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:44:00
デカ!
人の手で運ぶのかよー。
中華式運搬法だよ
340 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 07:01:44
憲法9城
341 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 08:23:15
中華式なめんなよ
343 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 09:28:05
人数の桁が違うのか。
345 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 22:02:21
高知県の安芸城に行って来たが、ここはたしかに戦国時代に城とされていたけど
江戸時代はわずか1100石の山内家家臣が使っていたが、実際には土塀に小規模な
枡形と櫓門と水堀があるだけで城としては貧弱なものだった。
この程度のものをいわゆる陣屋級の小城というのだろうか。しかし、一国一城令
に引っかかりそうなものだが、黙認されたのは不思議だ。
347 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 21:32:17
城とは?
348 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 09:43:33
349 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 13:00:04
江戸城平川門について質問です。
不浄門とされ、浅野長矩が刃傷事件後愛宕下の田村屋敷まで
護送されるときに通ったといわれますが、三の丸のほうから見ると
まず巨大な渡櫓門があり、その先が枡形になり、右手は高麗門で、
橋を渡ると毎日新聞社前に出ます。
一方枡形の左手には渡櫓門と棟続きの帯曲輪〜竹橋に続く小さな
門があり、ウェブサイトによってはその小さい門を「不浄門」として
紹介しているものも見かけますが、実のところどうでしょうか、
平川門全体を不浄門というのか、帯曲輪へ続く門を不浄門というのか。
また城内で死亡した将軍や大名、幕閣、正室など身分の高い者の遺体は
平川門の高麗門から出たのでしょうか。
東京市史稿によれば、何人かの将軍は北跳橋門(北桔橋門)から出棺していますね。
351 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:28:46
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
353 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:26:34
354 :
日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:39:41
>>351 ハァ?何勝手に仕切ってんだよ?いつ殺し合いが始まってもおかしくない
そんな雰囲気がいいんじゃねーか。玉なしオカマ野郎はすっこんでろよ!!
疑問なんだが、堀の上に架けてある橋や道は戦争の時邪魔にならないか?
戦いの時、破壊したりしたのかな?
356 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 15:47:07
当たり前だろ。堀の上の橋どころか、城下町まできれいさっぱり焼くのが戦国流だ。
でも、大坂城など巨大な城の道はそう簡単に破壊できなくない?大きすぎて。
それとも、当時は橋だったのかな?
358 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 16:21:24
崩さないことが前提の道なら、敵が門に取り付いた際に周囲から飛び道具を集中できるような
縄張りにしてある。
>>358 なるほど。サンクス。今確認したんだけど、大坂夏の陣図屏風もよく見るとそうなってるね。
江戸城の屏風絵では橋みたいだね。
360 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 19:51:43
361 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:47:41
敵が来たからといってずっと城に引きこもってたわけじゃないんだよ。機を見て撃って出るのも防戦の一つ。
だから虎口が発達したし、城門も多く造られてるんだよ。
362 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 05:55:28
四国に来たんですが城がいっぱいあってどれから見たら良いかわかりません。
時間的に制限も有りますので皆様のオススメを教えていただけませんでしょうか?
優先順位を付けて三つくらい。
よろしくお願いします。
高知城と松山城は押えておきたいな
どっちも江戸時代からある天守があるし、高知城は本丸御殿もある
>>362 現存12天守 松山城、宇和島城、高知城、丸亀城
木造復元天守 大洲城
模擬天守 今治城
宇和島城と丸亀城も江戸時代からある天守があるんだけど、
天守の規模が、山を登る苦労の割にはちょっとガッカリするかも
あっ、丸亀城は寒いので冬季は休業だったw
367 :
362:2008/12/25(木) 06:53:15
色々な情報ありがとうございます。
四国をゆっくり回りながら見る予定だったんですが高知城が26日〜31日の間休みだと知りテンパっちゃいました。
とりあえず高知城は外しちゃいけないっぽいので今日は先ず高知城から行ってみます。
松山城は29日以外はやってるようなので後回しで。
四国にこんなに現存天守があるとは思ってませんでした。
城巡り、楽しんできます!
368 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:11:36
現存12天守すら知らんやつが学問板に来るじゃねえ。
国内旅行板ででも聞けばいいだろ。
てゆーか城に興味があるなら少しは本くらい読め!
相馬中村城模擬天守!
相馬は福島県じゃねーか!
休みになると、旅行板へいけ!
つー書き込みがあるな…
多分同一人物だろうが親が当てにならんのなら
バイトでもして、自分の金で見聞をひろめようとは思わんのかな
372 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 03:39:50
中華風スレでなに力説してんだよwww
来るじゃねえとか言ってんなw
誰だってなんだって初心者のときがあるんだ
こういうの嗤うやつってどうせ建築物だけ見て城見た気になっちゃう輩だろ
374 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:34:00
>>359 敵の攻め込んでくる場所を特定させる役目があるんだよ。
攻めやすくしておかないと、城の広大な周囲のすべてを守らないといけなくなる。
籠城側は兵力が少ないから、効率的に守備できるように、あらかじめ攻め手の攻撃正面をわざと限定してあるので橋は落とさない。
そのかわり、攻撃正面は横矢をかけたりと堅い守りの縄張りに作られている。
なんせ橋を落としまくったら、広大な堀のどこを渡って攻めよせてくるかもわからんし、各城門にも多数の兵力を駐屯させるハメになる。
橋を落とさなければ、的側もわざわざ水に浸かって鎧が重くなる不利を気にして堀には入らないし船で攻めるのも、堀底をキレイにしなければならない。
まー山城も登山口と言う攻め口が限定されるけど、それを平城で再現したようなものかな。
だから橋を焼け落とすのは守備側が手薄にしたい攻撃正面以外の橋だけ。
つか旅行板行けとか不親切なヤツは前によく登場した自称城のプロだろw
旅行板以外にも、戦国板や三戦板にも城スレあるよな。
376 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:57:50
377 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:59:40
まちがえた。368だったW
379 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:54:56
さすが大陸式は違いますね
380 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 15:10:10
中華式なら水堀なんて余計なものは必要ないからな
381 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 16:11:53
あれ?水堀の石垣の根駄に杉の木を使うと、水に浸かっている限り腐らないっていう知識、日本古来からのもの?大陸由来じゃなくて?
382 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 16:31:37
盛岡城は、本丸が狭くて御殿が二の丸にはみ出してた
383 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 20:30:29
水口城や淀城は、本丸御殿を将軍家が使うから、藩主が使う御殿は本丸からはみ出してた。
384 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:34:16
385 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:03:42
御殿がはみ出してることになにか意味があるの?
ほとんど城では本丸御殿が手狭になって、ニの丸や三の丸に移ってると思うが・・・
>>385 本丸から移住しなければならないほど手狭なわけではないが、ちょっとだけスペースが足りない場合
秀吉大坂城の千畳敷とか
387 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:07:04
信濃の交代寄合の伊豆木小笠原家は、敷地が足りないから、よりによって当主の
御殿部分だけを清水寺のようなせり出しの形で建てた。その部分と玄関だけを
維新後に当主末裔が居住する形で現存。
388 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:17:27
清水寺のような城なら美濃苗木城が最強だろう。
どうすりゃあんないびつな形になるのだろうW
苗木城ってなんか野蛮だよね。中世土豪の城を無理矢理でかくしたような感じ。
390 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 14:13:52
それなら駿河田中城の方が野蛮だろ。
391 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 14:27:06
名古屋城は本丸御殿の再建が決定
総工費150億円だってさ
392 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 15:23:15
トヨタがこけてそれどころじゃないと思ったけどな。
393 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:10:22
野田城は日本の歴史を転換させた城である。
三方ガ原で徳川軍を撃破した武田軍が次に向かったのがこの城。
信玄は簡単に落とせると思ったが、案に相違して頑強に抵抗した。
守っていた武将は菅沼定盈(すがぬまさだみつ)。
彼の頑張りの結果、武田信玄の天下盗りの野望もここに潰えた。
それから2年後、長篠の合戦に臨んで織田信長はわざわざ菅沼定盈を招き「先年、信玄を引き受けて籠城して持久したのは、昔の楠正成にも劣らぬ」と褒めた。
394 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:56:28
>>393 お前は宮城谷が好きだろ。
春秋戦国時代の話の方が面白い中華式城壁厨だろ!
395 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:26:57
そうさ中華式
読んでないから分からんけど、宮城谷の小説では菅沼の評価が滅茶苦茶高いらしいな。
なんでやねん。
城壁がない要塞は城とはいわない
398 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:39:06
そうだ!当たり前ニダ。
>>369 つーか、土佐だろ。相馬は四国じゃない上に模擬天守なぞ建っておらん。
>>375 つーことは、攻める側は残ってる橋に派手に陽動しつつ、落ちてる橋の堀をこっそり渡って攻めればいいのかw
>>401 普通,別の方角にも見張りを置くと思うけどw
403 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:51:52
>>385 盛岡城は築城時から本丸に御殿の地積が無く、御殿を二の丸にも分割建設し
御殿同士が渡り廊下ならぬ橋で繋がっていたそうだ。
これなら珍しいでしょ。
奥向きの用が増えて手狭になり移した後世の他の城とは違う。
404 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:48:44
>>403 盛岡城って丘全体を総石垣造りにしててすごいと思ってたけど案外狭いんだね。
その本丸御殿は幕末まで使われてたの?
405 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 02:28:05
盛岡藩の珍妙さは、そんなレベルじゃ済まないぞ。
>>405 津軽乙。その話を始めるとスレが荒れるので自分の巣に帰ってやってくれw
407 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 11:58:30
>>404 藩の財政が困窮しっぱなしだったらしいので、多分そうだと思う。
南部は田舎者城よりも鎌倉風の豪族屋敷の方がお似合いかと。
409 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 14:34:41
どうせ津軽も南部も松前も、日本文明に飲み込まれたエミシに過ぎないし。
410 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 15:36:50
411 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:27:01
>>408 弘前や盛岡よりもどっちかつーと仙台の方が居館ぽくね?
敷地は広いし高石垣もあるけど、館の集合体や根小屋詰城ぽくって中世城郭まんまな気がする。
412 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:09:18
大阪の陣では既に大砲が使用されている。
つまり、もはや天守閣を備えた城らしい城の有効性は無くなっていたということだ。
高い楼閣は標的にもなるしな
414 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:16:49
いや天守じゃなくて縄張のことなんだが。
曲輪同士が離れすぎて互いに連携できなさそうじゃね?
当時の大砲なんてたいしてきかんでしょ。
幕末の大砲ですら会津城天守破壊できなかったんだし。
416 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:34:37
淀君の繊細な心はズタズタになりますたよ?
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
幕末のパークスが江戸城は大砲の備えができていないと言うてるが、
実際は長大な外郭線が、内郭を大砲射撃から守るためのものだった
自然地形に近いから、人工物と判断できなかったのかな?
419 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:16:31
江戸湾に軍艦を浮かべて艦砲射撃すればひとたまりも無し。
>>414 って言うか築城当時は二の丸はないよ? 今刑務所になっている若林城の機能を二代藩主が移したのが二の丸。
そもそも、籠城して云々という城じゃないだろ。何のための四十八館だ。
仙台藩の要害ってほとんどが役にたたんようのものじゃね?
424 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 19:31:19
>>422 そうなんだ。だから館が二つ並んだような形になってたんだね。
>>423 役に立たんどころか要害ならぬ有害だろ。もっとも伊達家自体が有害物質だけどなw
426 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 09:59:24
伊達に戦略戦術なし。
427 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:10:10
>>399 正に「渾身」ってか全身全霊をぶちこんだHPだな。
余りにも長文なので読みはしなかったが・・・
428 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:36:03
ちょっと見て引っかかった。
唐破風は建物の正面を示す飾りとして、姫路城を例の一つにとって南北についていると書いているが、
東西にもついてるっちゅーの。
429 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:24:57
平戸城へ行くんだが、松浦〜平戸あたりで歴史館や見所って他にどこかある?
430 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:36:28
五島まで足を伸ばすのがチョーおススメ
431 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:41:35
432 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:22:02
>>429 城に興味があれば松浦市今福の梶谷城を薦める。
松浦党発祥の城と云われ、城跡からの眺めも良いし、
時期的に寒椿が咲いていると思う。
国道から城跡まで道は狭いが対向車両は殆どいない
山道の途中に松浦一族らしき墓塔が建っていた。
あ〜ぁ俺も再度行きたくなったな。
一本だけ黒椿が有ったんだよな
>>428 あれは特に最上階の件だろ?
件のサイトでは加納城御三階も例で出されてたな
宮上氏は加納城御三階を、ほぼそのまま岐阜城天守台に乗せた復元図を発表してたが、
やっぱ破風の配置等からして加納城御三階≠岐阜城天守は輝政時代の新築か、信忠の天守を輝政が大改修してる気がする
因みに明治の陸軍の実測図では岐阜城天守台北側に犬山城に似た小規模な張出し部分が記載されている
434 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 01:47:44
横スレすみません。お城に詳しい方が多いスレなので、
もしご存知の方があれば教えて下さい。
鎌倉〜藤沢の間で、あまり大きくないお城で、戦で落城したあと、
現在跡地が小学校になっているお城の名前をご存知ありませんか?
>>434 小学校では無く中高一貫校があり、落城では無く開城ではあるが、
現在でも難攻不落な玉縄城しか思いつかん。
あと玉縄城の出城といわれている村岡城址の近くに小学校はあります。
436 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 12:22:46
昨日の天地人、大阪城じゃなくって熊本城だった。
437 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:19:05
>>436 別にエエがや。
大阪城かて、戦後のつくりもんやで〜
438 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/01/05(月) 21:09:11
よかったじゃん
439 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 00:39:06
>>435 ありがとうございました。
笑われてしまうかもしれませんが、もう10年くらい前になりますが、
極端にリアルな落城の夢を見たことがあり、(不意打ちに近い戦?)
夫人の辞世の句まではっきりと見ました。
ごく普通のOLでしたが、近くの大庭城の夢かなとも思ったのですが、
あれからとても気になっていたので、とてもうれしいです。
本当にありがとうございました。
度々すみません。村岡城址、というほうだと思います。
ネットで検索してみたのですが、>鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、
元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、
室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になった。>というのを見つけました。
ど素人なので、自刃=落城と思ったのですが、そうじゃなかったかもしれません。
とにかく、大きな木がうっそうとしている所の城址の碑、確かにこれ夢で見ました。
とにかく、怖いくらいリアルな本気で怖い夢だったので、詳しい方に教えていただいて、
やっと安心して忘れられます…夢の話なのにすみません、本当にありがとうございました!
441 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 07:08:48
戦の場に女がいるなら攻められる側だろうなあ
広島球場跡地に広島城内にある護国神社
移転できねーかね
443 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 15:42:46
神戸城天守復元希望
444 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:53:21
↑いらない。
445 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:16:49
桑名城天守復元希望
446 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:53:19
津城に二の丸堀の掘削と
鉄筋コンクリート製冷暖房完備エレベーター付天守風
歴史資料郷土公民地場産業振興展示即売市民ギャラリーミニホールシアター館希望
>>442 つまり市民球場建設以前の状態に戻すということだよね
448 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:13:22
高松城天守復元まだーー?
>>448 俺らが生きてる間にはどうにもならんだろ
とりあえず天守台積みなおし完了を待って、その後は桜門だろう
ここまでは計画として上がってる
天守は今後資料がどれだけ見つかるかによる
450 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 07:05:02
名古屋城本丸御殿の再建は、いよいよ着工のはこびとなった。
巨額の利権に関連業者が群がり、この不況下にもかかわらず、潤う役人。
1 :日本@名無史さん :2008/08/20(水) 13:53:52
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
松本城 二の丸御殿
松山城 二之丸大書院
岡山城 表書院
再建できんかな
453 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 08:54:24
で、実際に今後1、2年のうちに完成予定の計画は何かあんの?
伊予大洲城は良かったなぁ。
特に1、2年のうちではないが
名古屋城本丸御殿 小幡陣屋(楽山園) 小田原城 五稜郭 金沢城 熊本城 駿府城 福岡城
455 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 22:31:48
>>427 そのサイトの秀吉の天守が丈間で望楼が二間四方説で思いだしたが、聚楽第天守も二間四方になってるな。
さらに、林原美術館蔵の洛中洛外図の伏見城天守では、望楼部分は三間四方だが、
その下の軸部分は上の階と同じ三間四方の規模だが柱割りは二間四方になっている。
屏風絵をよく見るとの名護屋城天守も二間四方の気がしてきた
出入口
■━◆━■━◆━■
┃ ┃
■ ■
┃ ┃花灯窓
┃ ┃
■ ■
┃ ┃
■━◆━■━◆━■
出入口
江戸期の再建なのにあえて望楼型にした高知城はえらかった。
458 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:56:06
>>456 ショッキングだったのは、複数の柱間が混在していたことだね。
入り口のある正面中央が6.5尺間で、左右が9尺間、10尺間(7尺間も?)と不可思議な構成なんだけど、
どんな意図があったのかな。
459 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 17:50:44
名護屋城天守は屏風でやたら細長いので空想的な描き方かなと思ったら金沢城のご三階櫓によく似てる。蓮池城の小ぶりな田舎天守を移築改装すれば不恰好に仕上がったのかもしれない。
>>458 天守台中央部の13尺四方の空間だが、もしかしたら五重搭に近い耐震構造の天守だったんじゃないだろうか
中央部の空間が東西と南北、いずれの礎石列からも数尺ずれてるのが謎だが
461 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:41:24
移築改造による縮小や拡大で仕方がなく柱間の寸法がまちまちになったんじゃないの?
463 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:23:46
名護屋城博物館に電話したら天守台の発掘整備は終了だそうで斜面は一切手を付けないと断言してました。
464 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 15:19:18
徳川伏見城は建物の大半が大和郡山の移築とか、やはり備後福山の伏見櫓は大きさ雄大な意匠からして聚楽の遺構であろう。
>>453 岡崎城復元櫓、岐阜城模擬御殿、岐阜城模擬櫓風展望台、が建設中か建設予定だったはず
466 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 06:26:48
ついでに櫓台の積み直しが完了し復元作事に着手する駿府城坤櫓。
467 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 08:01:27
468 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 10:36:29
斜面は天守台の外側の勾配の面。鯱やら金瓦やらが破城された石垣と土砂に埋もれていると考えられる。この部分は掘り返さないと言う。天守台の完全復元はしないそうだ。
469 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 10:59:43
江戸時代の名護屋城の天守台には唐津藩の古城番所が建てられ、明治維新から昭和二十年代まで採石所の飯場があった。礎石の配置が怪しいのはこれらの建築物のせいではないのか。
470 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:24:48
>>468 そうですか。ありがとうございます。
天守台発掘調査の際、見に行った事が有りましたので
中華式だからに決まってるだろ
>>466 ぐぐってみたら財政財政難で坤櫓の建設はかなり先になるってまじか?
>>453 今後1,2年で完成する予定っつったらこんなもんかなあ。
小田原城馬出門(2009年3月?)、岡崎城東曲輪隅櫓(2010年?)、
金沢城河北門(2010年春)、五稜郭奉行所(2010年7月)、名古屋城本丸御殿玄関(2010年)、
小幡陣屋の何か、福岡城潮見門?、久保田城黒門(2011年?)
ついでに復元計画のある近世城郭建築をピックアップしてみた。
弘前城本丸御殿ほか、仙台城大手門・巽門ほか、山形城、鶴ヶ城御三階(〜2015年)、
小幡陣屋(〜2012年?)、川越城富士見櫓、松本城外堀・東北隅櫓ほか、上田城、
富山城御涼所ほか(〜2014年)、金沢城橋爪門・宮守堀ほか(〜2014年)、福井城巽櫓、
小浜城天守、駿府城坤櫓、西尾城天守、名古屋城本丸御殿(〜2017年)、大垣城、
和歌山城、鳥取城中ノ御門・太鼓御門(〜2018年)、
高松城桜御門・高松城天守(2010年?〜)、丸亀城、
福岡城、熊本城第二期復元(〜2019年頃?)、鶴丸城本丸門、首里城黄金御殿・寄満ほか(〜2013年頃)
補完よろw
これは期待できそうだな
鶴ヶ城「御三階」復元へ 整備計画方針を決定
天守閣再建50周年に向け、復元される御三階のイメージ
ttp://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/image/img/news/2008/20080925020jd.jpg 国史跡に指定されている若松城(鶴ケ城)跡の整備を進めている福島県会津若松市は、本丸に「御三階」を復元するほか、
天守閣の外壁塗り替え、黒瓦から幕末当時の赤瓦へふき替えるなどの方針を決めた。本年度から文献調査を始め、
文化庁の了解を得て天守閣再建50周年に当たる2015年度までに完成させる計画だ。
御三階は、かつて本丸東側にあった建物。明治初期に市内の七日町にある阿弥陀寺に移築された。
外観が3階で内部は4階の構造。倉庫や密議の場として使われたとみられる。
現在の建物は移築時に手が加えられていることなどから、市の「若松城整備審議会」は新たな建築で復元するよう市に答申していた。
天守閣の赤瓦については絵図に描かれていて発掘調査でも出土している。史料などによると、1648(慶安元)年、会津本郷(現福島県会津美里町)で、
雪国でもしみ割れしないうわぐすりを掛けた赤瓦が開発されたという。天守閣に採用されていたのは全国的に珍しい。
10億円近くとみられる総事業費は、天守閣の入場料収入の一部などを充てている若松城整備の基金や国の補助金で賄う。
さらに市はふるさと納税の中に「若松城整備」の項目を設け、寄付を募る。1万円以上を寄付した個人には「鶴ケ城通行手形」を贈呈。
天守閣や茶室への入場料が1年間無料になる。
菅家一郎市長は「御三階の復元とともに、史実にある天守閣に赤瓦を再現することで、史跡全体の魅力が増すと思う」と話している。
市は1996年度に策定した「史跡若松城総合整備計画」に基づき、2001年に、食糧貯蔵庫の「干飯櫓(ほしいやぐら)」と
武器庫の「南走長屋(みなみはしりながや)」を復元している。
2008年09月26日金曜日
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2008/09/20080926t61007.htm
476 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 07:33:45
この御三階で思い出したが江戸城西丸にも太鼓櫓と言う数寄屋風の二重だか三重櫓が坂下門の内側にあってさ関東大震災で皇居内で唯一焼失した建物だったんだが復元もされずに完全に忘れ去られ城郭史にも取り上げられないな。
874 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 13:46:20
>>873=
>>81=キチガイ城壁厨乙w
877 :日本@名無史さん :2008/08/21(木) 14:15:20
>>871=
>>871=
>>875-876=キチガイ城壁厨乙w
レスアンカーもまともに使えないほど必死なのはわかった。
涙目乙ですw
961 :日本@名無史さん :2008/08/31(日) 16:39:08
>>96 同意
478 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 18:52:25
>>474 名島城址に天守閣風コンクリ展望台おっ建て計画。
地元の公民館元館長と九州歴史博物館館長とが対立中。
479 :
これか:2009/01/15(木) 19:02:25
福岡・名島城跡:展望台建設に「待った」 考古学専門家「美観損なう」
初代福岡藩主・黒田長政(1568〜1623年)の居城で、九州初の近代城郭とされる名島城跡(福岡市東区)に、
市が建設を計画している鉄筋コンクリート造りの天守閣風展望台を巡り、考古学専門家らの団体が24日、「待った」をかけた。
市公園建設課は地元住民の要望を受け、10年かけて計画を進めてきただけに「中止はあり得ない」と困惑している。
団体は「名島城跡顕彰会準備委員会」(山田専太代表)。西谷正・九州歴史資料館長をはじめ学識経験者ら131人が名を連ねる。
先月21日、「展望台は歴史的根拠もなく美観を損なう」と、市に建設中止を求める要望書を提出。この日、工事の差し止めを求め、吉田宏市長に“直談判”した。
市によると、名島城は博多湾を見渡せる高台にあり、九州を平定した豊臣秀吉から筑前国を与えられた小早川隆景(たかかげ)が1588年に築城。
その後、入城した黒田長政が手狭などを理由に福岡城(中央区)に移るまで名島城は筑前国の中心だった。
10年前、地元住民が「歴史的財産の保存と整備を」と要望。市は自然景観を生かした形で公園として整備し、展望台を建設する計画を決めた。
08年度当初予算に公園整備・建設費約1億2000万円を計上して、12月には資材を発注、年明けから着工の予定だった。
ところが、今回の要望を受け工事は中断。地元・名島校区自治協議会の内田実会長は「地元が長年要望してきた経緯もある。
一刻も早く完成させて」と話している。【鈴木美穂】
毎日新聞 2008年12月25日 西部朝刊
http://mainichi.jp/seibu/shakai/archive/news/2008/12/25/20081225ddp041040022000c.html
こういう地元の人が望んで地元の人が利用するための施設を
学者ふぜいが非難するって最低だな
はたして地元住民の要望「歴史的財産の保存と整備を」に模擬天守キボンヌが含まれていたかどうか・・・
保存と整備というと模擬天守を造ることではなく、名護屋城や安土城のような史跡の保存と整備のようなやりかたもある。
自分は模擬天守マニアだが、これに勢い付いて福岡城に黒田屏風ばりの復興天守が建てられるのは避けたい。
それって中華式城壁ありますか?
福岡城は武具櫓を早く復元キボンヌ
485 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 07:45:07
>>481 名島城のどのあたりなんでしょうかね?
神社裏で立ち入り禁止になっている天守曲輪あたりでしょうかね?
石垣も福岡城造営のときあらかた持ち去られているので、今となっちゃ
歴史的根拠は薄いが、美観もへったくれも無いと思うが。
名島城に建てようとしてるのは模擬天守?
それとも普通の展望台に城郭風の屋根だけのせた怪しい建物?
後者であれば美観を損なうと言うのもわかる。
市が建設を計画している鉄筋コンクリート造りの天守閣風展望台
↑これは模擬天守でしょ
489 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:27:53
フム。
そういえば小牧城(小牧長久手の合戦で有名な城)だが・・・
小牧山の頂上に天守閣のような建物が建っている。
が、実は天守閣ではなくて歴史資料館なんだな。コレガ
小牧山の頂上って発掘調査しないで、いきなり歴史資料館を造ったそうだな。
信長時代の楼閣建築の遺構などが埋れてたかもしれないのに。
歴史資料館を設計したのは岐阜城天守や安土城天主の研究もしていた城戸博士だが、発掘するように助言とかしなかったのだろうか。
鶴ヶ城は復元櫓にもほとんど解説ないし入ったらいきなりみやげ屋、
しかも保温のため早く閉めろ!みたいなこと言われて天守入ったら極寒。
暖房ついてるのは売店だけ。これ以上再建する必要ないよ。
492 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:05:59
南房館山の城山公園山頂には天守閣様式の
「八犬伝博物館」(正式には「館山市立博物館分館」)が建っているお
なかの人は苦笑しつつ「築城当時、こんな建物が在るわけないだろ!とか言われるけど、
この建物はあくまでも博物館の分館なんだから…」といっていたお
493 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 05:02:05
なんでも建物ありきってのが土建談合国家の悲しいとこだよね
>>486-487 moro後者。一階にトイレ完備
そもそも名島城に天守閣が存在したという確認すらされていない。
天守がないと観光客が来ないんだよね
石垣だけでも見に来る人はいないし、ましてや石垣もない城址といわれても
一般人にはただの山
羽衣石城や山方城のように、模擬天守造る時にちょびっとだけ発掘調査しましたという所も結構ある。
歴史に対する態度が根本的に間違ってるとしか言いようがない。
城壁の話はしないの?
497 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:14:29
>>490 信長時代の遺構の可能性はまず無い。
何故かと言えば、信長時代の小牧築城時には、天守閣はまだ発明されてなかったから。
信長の時代の小牧城は砦に毛が生えたようなもの。
天然の地形を利用して急造しただけの簡単なものですな。
信長が岐阜城へ移った後は放置されていた。
小牧長久手の合戦に際して、徳川家康が突貫工事で堅固な防御施設に造り替えたという経緯がある。
そのときも防塁などの工事が主体で、戦闘や防御には無用の天守閣などは造られなかった。
天守の有無はともかく、信長は家臣の屋敷もろともたびたび拠点を移してるから、
信長の初築城(出城は除く)になる小牧城は本格的な殿舎建築を備えていたものかと思っていたが
まあ、小牧、長九手の合戦時に家康によって撹乱、改変されてる可能性もあるが
499 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 04:18:37
本丸には僅かに石垣が残ってるし、山中には堀切や井戸跡、曲輪もあるんだが、どっちの遺構かよく分からんな
500 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:21:24
曲輪は家康築城の遺構であることが分かっている。
曲輪の内側に戦闘部隊の隊列を整えるための広場が造られている。
現在は公園として整備されて、桜や紅葉の季節には実に見事な景観である。
501 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:36:43
502 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:47:47
>>501 平面図で見るからそう感じるだけ。
実際はちょっとした山だから、そう単純な構造ではない。
503 :
+:2009/01/18(日) 20:22:45
504 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:23:59
小牧城は近所だからよく行くけど、一直線の大手道って市役所建物の横にある道?
あの道は現代に登山道として作られた道にしか思えんな
505 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:51:34
最近、主郭の調査してたようだな
主郭地区:(試掘調査)平成16〜18年度 (本調査)平成20年度〜
今回の調査の主な成果
主郭(曲輪001)で織田信長築城時の大規模な造成工事の痕跡と石垣を確認しました。
石垣は、主郭北西辺斜面に露頭する石垣と一連となる可能性が高く、自然石の巨石を用い、3段以上築かれています。
織田信長築城時の大手道と両端を画する石垣を確認しました。大手道は当時の通行によるためか踏み固められており、
中央付近には排水路があります。石垣は人頭大の自然石で約3段築かれています。
小牧・長久手の合戦で徳川家康が改築した土塁を確認しました。前述の織田信長築城時の大手道を大規模に埋め、
大手道沿いの山側に巨大な土塁を築いています。
石垣について、その築造時期を永禄期とした場合、
●城郭の石垣として県内最古級
●織田信長の城(織豊城郭)として石垣を採用する初現
●「土の城」、「緑の山」という従来の小牧山城のイメージではなく、堅固な「石の城」の外観
となり、戦国時代、織田信長の築城技術に対する従来の定説を覆す、極めて重要な成果と言えます。
http://www.city.komaki.aichi.jp/contents/11101710.html
506 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 07:57:48
当時の戦国大名で拠点を移す発想を持っていた人なんてあまりいない。
今でこそマンション等のビルが建っているから、判りにくいが
平坦地なので、当時も近くの楽田城のように本丸にも高層建築があれば
相当遠くからも見えるので、何らかの効果は大きかったのではないか。
言うなれば、秀吉の石垣山城の嚆矢となったとは言いすぎかな。
信長のオヤジはしょっちゅう居城うつしてるよ。
508 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 08:44:38
弱肉強食の世界なんだから、軍事上政治上経済上の理由で必要に応じて
最適な場所に居城を構えるのは当然。自領の範囲の変化によって最適地が
変われば居城を移すのが当然。
武田信玄、上杉謙信、北条氏康、
あれれ?
510 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 10:07:29
最適地が変わらなければ居城が動かないのも当然。
武田は名家であることが求心力だから、本拠地を移すと軽んじられる恐れがある。
上杉は反乱が多いから、家臣に本拠を預けるのは危なっかしくて仕方がない。
北条は勢力拡大方面が守備の難しい関東平野だから小田原を離れにくい。
>>510 北条はむしろ北関東から小田原まで相手を消耗させる、ロシア方式を戦略としていたからでしょう
後方は外交で安全を図る、それが破綻したのが駿河の徳川が敵になった小田原役
512 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 11:12:45
>ロシア方式を戦略としていたからでしょう
単に消耗戦が目的なら、居城は南関東沿岸部のどこでも構わないわけだから、
小田原に居城を置く理由としては弱い。
>>512 箱根のふもとである小田原こそが関東で一番の辺境なわけだが?
514 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 11:36:12
家康が背後を固めてくれたから安心して拠点を京へ近づけていっただけだろ…
三好や大内だってみんなそうだ。
515 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:22:22
>>513 領内統治を第一に考えれば、所領の中心付近に置くのが最も効率的。
にもかかわらず不便な所領の端に置く理由は何故かという問題。
仮想敵である北関東からの距離が、南関東沿岸拠点と小田原とで
大きく違うわけでもない。その状況で、「ロシア方式戦略の観点で最も
辺境だから」という理由が成立するわけもない。単に守りやすいのが
平野部でなく小田原だからというのが理由。
516 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:26:29
武田勝頼は韮崎に新府城を建設して、武田家の本拠地を移そうとしたよな。
517 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:42:14
>>516 その種の行動を軽挙妄動として主家を軽んじるようになった家臣団ワロスwww
自主的に居城を何度も替えた戦国大名なんてほとんどおらんよ。
信長は天才だから
>>515 南関東沿岸だと里見がいるので、三浦半島以西でなければならず
それだと山に囲まれた土地となると小田原しかないのです
521 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 14:43:04
北条は兄弟を要地に派遣して任せてるし
武田も要地には養子送り込めば良かった。
信長に優秀な親族も子供もいないから京から往復に時間のかからない場所に自ら移動せざる負えない
522 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 15:17:16
当主自身が京に頻繁に入ってこそ上洛の意味がある。要地を軍事的に
押さえるだけなら城を格の低い城代に任せていれば済むこと。
523 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 15:20:36
松平家なんか、ずいぶん頻繁に居城を変えてるぞ。
三河山間部の松平郷→岩津→安祥→岡崎→浜松
北条も居城変えてるね。
広告事情→韮山城→小田原城
武田も信虎の代に居城(居館)変えたはず。
525 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 16:56:11
広告事情ワロス
信長のように一代のうちに転々と居城を変えるのと
何代かかけて居城を変えるのとでは意味合いが違うと思う。
528 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 21:42:28
>>527 「何代かかけて」という事例は皆無。
変わるときは1年以内に変わっている。
1年以上かけて引越しした事例があるなら例示されたし。
530 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 21:56:09
>>528 >>527のいう「何代かかけて居城を変えるのとでは」と言うのは、
「5代のうちで(たとえば)3回居城を変えた」、ということを言っているのでは?
>>527 一代で拡大したか数代で拡大したかの違いだろう。
意味合いは別に違わないと思う。
>>513>>515 後北条も、故地である箱根の西に傾いたままの「伊豆勢力」だったんだよ。
この点も、頼朝の鎌倉幕府とよく似ている。
一面低地の緑色になる関東平野の地形図を見ると騙されてしまうんだが、
関東は、北東側半分と南西側半分は、今でも方言が全く違うように別世界。
これは古墳時代にまで遡る対立で、
北東側は南東北とほぼ一体、南西側は静岡甲信と強い結びつきがある。
後北条のイメージとしては、故地の伊豆からすぐ出先の小田原を拠点にして、
扇状に関東南西部を押さえるという戦略だったんだろう。
>>532 関東と言っても広いから全てが一体だとは言わんが、
武家の時代では伝統的に関東はほぼ一体と言ってもいいぞ。
関東が二つに分かれ、それぞれが東北と甲信に結びついていたんじゃない。
関東の勢力が関東の外に勢力を拡げたんだよ。
現代の方言が違うからと言って武家の時代の関東に南北対立があったわけではない。
534 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 07:29:32
北条の版図は、単に軍事力の限界のために、関東平野の先にある山がちの敵勢力本拠地に
踏み込めなかっただけだよな。平野ではとにかく数を集めればたいてい勝ちだから、平野を
押さえるためには、軍事動員力と在地勢力との信頼関係が主であって、山地大勢力相手で
必要になる軍事能力とは別物だし。
535 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 09:58:21
1番城を作ったのは秀吉?家康?
536 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 10:09:54
文禄慶長の役で配下が作りまくっていそうだが、あれは秀吉にカウントされるのか。
538 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 14:15:14
戦国時代の城って夜の警護は交代制でやっていたのかな
例えば100人の山城だと夜は何人が起きていたんだろうか
539 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:25:49
540 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 21:57:15
すごく良いと思います!
>>533 特に中世以降は、南北というより東西対立だな。
中世は、基本的に関東平野が政治的・文化的に「分断」されている典型的な時期だよ。
「家康はなぜ江戸を選んだか」に詳しい。
ただ、この南西側と北東側には、常に力の差があって、
南西>>北東
これが有史以来の鉄板となる。新田義貞が一瞬ひっくり返したようにもみえるが、
上野国は、中世以降は実は「南西側」なんだな。
常に日本史上「日が当たる」のは「南西側」で、
南西側が関東全域を政治的・文化的に制圧している時期がかなりある(現在も含むww)ので
「関八州は一体」のようにみえるだけ。
客観的に見れば、今の都道府県で言えば、「茨城栃木」と「東京(島嶼除く)神奈川」では、
近畿と東海西部(尾張や美濃など)くらいの差はあると思う。
敵対するというよりは、政治的に協調している時期のほうが多いんだが
ベースとなる文化は全く違うし、気質も本来は相容れない。
そして、大きな文化的・政治的不均衡がある。ひっくり返ることもあるが、可逆的ではない。
関西と中京を文化的に一体だという奴はいないだろ?
>>541 何をいっとるのかいまいち分からんのだが、関東で地域による対立などない。
鎌倉幕府から鎌倉公方、小田原北条氏、江戸幕府と、南部が栄えることが多かったが、
だからといって南北対立、東西対立などという地域性、文化性による対立が発生したわけでもない。
歴史的に見ても頼朝対佐竹 北条対新田足利 鎌倉公方対上杉 後北条対上杉
全て政治的な対立であって、地域性は無関係。
543 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 10:06:32
地勢的にお国柄の違いによってそれぞれ独自の勢力が立ちやすく、
勢力争いが生じたという状況は事実だろうな。
544 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 10:41:32
日本国内で摩擦が起きるほどお国柄が異なる地域はあったのかね?
たとえば信長なんか尾張から美濃、近江と本拠地を移してるが、
別に摩擦なんかないしなあ。そもそもあったら本拠地なんか動かせないでしょ。
545 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 13:42:08
江戸時代の人間が聞いたらあきれ果てることだろう。お国柄という言葉が
有名無実だとでも思っているのか。
>>545 ばっかじゃねーの?
誰もお国柄などと言うものが存在しないとは言ってないのに。
547 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:38:57
>>546 君はまず人国記でも読んで戦国期におけるお国柄の違いについて把握し、
戦国末期から江戸初期くらいにかけての諸大名と地侍勢力との抗争について
学んで、おのれの無学さを恥じるのがいいんじゃないか。
地侍勢力との抗争って、それお国柄と言うよりも
検地刀狩りとかの被支配者への締め付けの話じゃないか。
もともとの話は関東の南西対東北の地域間対立はあったのか、ってことだろ。
550 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:56:39
自立心が強く領主に反抗しがちな土地と、比較的従順な土地の違い。
>地侍勢力との抗争って、それお国柄と言うよりも
たとえば伊賀や紀伊。
>>551 征服されたらあっさり収まったね。>地侍
553 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:40:29
伊賀は、さすがに根切りされたらどうしようもないわな。のちの領主はあの藤堂だし。
紀伊は、御三家の所領になったのちも、和歌山城から遠い熊野辺りでは、江戸末期に
至るまでかなり不穏な情勢だった。なにしろ元海賊の漁師の集団が代官をぶち殺すために
代官所に乱入するような土地柄だからなw
>>542 政治的な対立と、地域としての文化的区別がそんなに截然と分けられるかよ?w
政治単位の境界線が、同じようなところで歴史を通して何回も引かれるとき、
そこは文化的にも地域の大きな境界線となっているのが普通だ。
政治的に不倶戴天の敵で、何度も決戦を行う必要など無い。
近畿と東海(中京・濃尾)を「一体だ」という馬鹿は、誰もいない。
近畿と東海が文化的に大きく異なることを否定する者はいない。
だが、近畿勢と東海勢が決戦を行ったことなど実は一度も無い。
他の勢力が、関ヶ原・不破を舞台に決戦を行ったことは2回だけあるが。
地域性の対立なんてそんなもんなんだよ。
これと比べれば、おまえさんの書いたように
300年で4回も政治勢力の大対立があるなんて、
よほど大きな断絶線がそこに存在するとしか思えないじゃないか。
555 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:47:14
へんな主張をするやつが多いなあ。アンカー先の人間じゃないけど、
ちょっと指摘させてもらう。
>近畿勢と東海勢が決戦を行ったことなど実は一度も無い
双方に異なる統一勢力が存在すること自体がなかったんだから当然だ。
地域対立の有無とは関係がない。
556 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:56:25
あるいは
>近畿勢と東海勢が決戦を行ったことなど実は一度も無い
信長vs浅井・六角・三好・北畠・別所・波多野・本願寺などいくらでもあるじゃねーか、
とツッコミ入れるべきなのか??
>>553 伊賀って実はそれほど殺されてなかったりする。
有力豪族は知らんけど、中下級はかなり生き残って藤堂に召し抱えられたり
無足人(郷士)になったり庄屋になったりしてるよ。
つい最近まで似たような階層同士通婚したりしてた。
>>554 >300年で4回も政治勢力の大対立があるなんて
この4回のことか?
>歴史的に見ても頼朝対佐竹 北条対新田足利 鎌倉公方対上杉 後北条対上杉
頼朝対佐竹が1180年頃?後北条対上杉が1560年頃?まあ400年かな。
・頼朝対佐竹
これって佐竹が平氏よりだったことに加えて直接の原因は
頼朝配下の上総と佐竹の領土争いだよな。別段鎌倉と常陸太田の文化対立ではない。
つうかそれほど大きな対立でもあるまい。
・北条対新田足利
典型的な政治対立だな。北条と対立してきたのはむしろ同じ南関東の比企や三浦。
足利なんかはむしろ優遇されてた。文化対立の要素はないな。
・鎌倉公方対上杉
これって独立志向の強い鎌倉公方対協調派の上杉の対立だわな。
敢えて言うなら京都対鎌倉の対立まあ文化対立的とも言えるかもしれんが
あくまで京都対鎌倉であって、関東内部ではない。つうか鎌倉公方も関東管領も
同じ鎌倉府の人間だし。しかも両者ともよそ者だし。関東内部の文化対立ではない罠。
・後北条対上杉
上杉家の内紛を利用して他所から侵入してきた後北条に上杉が打倒されたわけだが、
小田原の大森や三浦、江戸の太田など、みんな上杉配下。よそ者に征服されただけであって、
関東内部での文化対立など見られないなあ。
脱線しすぎ。ここは城スレだ。よそでやれ。
560 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 06:11:02
お城はいつの時代から作られるようになったんですか?
561 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:01:46
原始人が猛獣から住処を守るための工夫を始めたのが城の始まり。
脱線しすぎ。ここは城壁スレだ。よそでやれ。
563 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 13:54:33
結局、坂東太郎たる旧利根川が関東を分断してるに過ぎない。
上杉対古河公方の抗争も利根川で線引きされていた。
利根川の水利通商権の奪い合いなど対立要素はいろいろあるね。
上杉への対抗から作られた関東八屋形や鎌倉公方への対抗から作られた京都御扶持衆も利根川以東。
>>563 上杉対古河公方の対立は上杉対鎌倉公方の延長戦。
両者とも本来利根川以西同士。
>>563 鎌倉・古河公方VS関東管領上杉の戦いは、伝統的な京都VS坂東の対立構造だぞ。
坂東政権志向の鎌倉・古河公方VS京都政権と融和的な関東管領上杉氏と言う図式だ。
両者とも立場上(鎌倉公方・それを補佐する関東管領)、本来の本拠地は鎌倉。
ようするに鎌倉政権内部の内紛(ただし京都からの介入有り)であって、
利根川を挟んでの対立ではない。というよりも
>>564の言うとおり利根川以西(上野・武蔵・相模)
を中心とする争いだな。
566 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:44:42
上杉と古河公方対立が成立し、お互いが決定打が出せない状況は利根川があったから。
公方の領地も本来、古河や関宿周辺に点在してるし(小山から召し上げた分も含めて)
上総や安房なども早い段階で武田や里見を派遣して上杉から横領に成功してる。
上杉がいくら強大でも利根川以東に手は出せない。
逆に古河は利根川以西の上杉領の横領は失敗してる。
利根川渡河ポイントのある新田荘のあたりの岩松氏は、古河派や上杉派に分裂し、相続を巡る内紛になり、由良氏の台頭を許してる。
利根川が対立成立を促している。
だいたい結城の乱で没落した者達が反上杉で復権を狙って成氏を担いだと言う関東の事情があったわけだし。
567 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:49:38
OK.
じゃあ上杉対古河公方が利根川はさんでの東西対決だとしよう。
では古河公方はもともとどこにいた?鎌倉だな?
利根川の西じゃ〜ないですか。
利根川西側の代表勢力である鎌倉公方が利根川東に来てもピンピンしていられるんだよ。
しかも本拠地移して。
ほら、ぜんぜん東西対決じゃないじゃないかw
全関東の統治者である関東公方とその家来の関東管領がケンカした。ただそれだけの話。
東西対決などない。
>>567 というか、古河上杉の戦いは関東同士の戦いと言うよりは
関東武士の頭領対京都からのお目付役の戦いだわな。
だから最終的な講和を「都鄙合体」というわけだ。
>>568 「関東武士の頭領」といっても、もともと武士の頭領は京都の将軍だし、
古河公方が関東の武士を統率できていたとは言い難いけどな。
鎌倉公方は鎌倉に城を作らなかったの?
571 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 03:56:28
つうか鎌倉公方の領地は利根川以西にはなかったんじゃないの?
鎌倉公方の家臣だった関宿城の梁田氏(竹冠に梁)とか利根川と江戸川の間あたりでしょ。
小弓公方だって利根川以東だし、堀越公方領の場合は上杉が領地を割譲したもんだし。
鎌倉は単なる政庁であって公方の領地じゃないだろ。
あんな山と木々で守られた不便な場所は戦乱で荒廃し、商人が激減すれば田畑もないから収入も少ないし。
だいたい相模守護は扇谷上杉なんだし。
武蔵や上野も上杉。
尊氏の母系の関東の新参者の上杉が利根川以西を支配(かっては三浦氏に仕えた平家長尾氏を利用)
それに反発する関東の名門たる八屋形が利根川以東。
将軍が公方を牽制した利根川以東から奥羽にあった京都扶持衆は持氏滅亡と共に役目を終えてるし。
成氏の挙兵時代には室町殿の関東への影響力はほとんどない(応仁大乱も関東での将軍権力の無能ぶりから統治者能力無しと思われ全国へ飛び火したとも言える)
鎌倉御料所は将軍御料所になってた旧北条所領から
分け与えられたんじゃなかったか?
伊豆相模武蔵下総あたりに散在してたと思う。
脱線しすぎ。ここは城壁スレだ。よそでやれ。
なんで鎌倉は中華式城壁をめぐらせなかったの?
古河城の城壁は中華式だったの?
575 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 12:58:09
ちなみに長尾氏は鎌倉郡長尾郷に領地あり(いまの大船駅近く)
公方持氏に横領され激怒し、太田とともに公方を襲撃。
鎌倉公方って結構横暴だからね。
鎌倉公方と上杉の対立も、暴走する鎌倉公方を上杉がなだめ、
それに激高した鎌倉公方が上杉を虐げるという構図。
577 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 13:49:25
>>574 もともと鎌倉の地形は、周りを天然の城壁ともいえる山々によって囲まれ、出入りできるのはいくつかの切通しだけ。
守るに易く攻めるに難い。
新田義貞も攻め入るのに苦労して、干潮のときにわずかに通行可能となった砂浜から侵入したほど。
それにしてもお主「中華式」という言葉がよほど気に入っているようだな。
お主はラーメン屋のせがれか?
城壁厨のガイドラインってあったね。
日本語に不自由している、知識が浅薄、レスに困るとオウム返し、
自分を批判するレスは多数を装う同一人物によるもの
このスレを立てた低能クンw
偉大な歴史は語られる運命にある。。。
>>571 鎌倉公方の領地は相模が中心。
鎌倉幕府方から没収した領地から功のあった武将に恩賞を与え、
残ったカスみたいなのが鎌倉公方の直轄地。
もともと尊氏は気前が良くて領地もホイホイ家臣達に与えちゃったから
京都の将軍も鎌倉公方も基盤が脆弱だった。
自分の力で守護達を押さえると言うより自分の権威で
守護たちの担ぐ御輿に乗っかってる感じかな。
それから何か誤解があるようだが、守護は一国の支配権を丸々与えられたわけではない。
最初はただの警察権のみ。南北朝の争乱の中で次第に権力を強めていったが、
国内に寺社や国人、国衙など、直接の支配の及ばない土地が少なからずあった。
鎌倉公方の所領なんかもその中の一つ。
あと関東八屋形は家格であって反上杉組織ではない。
あなたの挙げている京都扶持衆は事実上対鎌倉公方組織だが。
結局ねえ、利根川はさんで東西対決したのなんで享徳の乱中の一時期だけなんだよ。
それもたまたま足利上杉の境界がそこになっただけの話であって、関東が2つに割れて争ったわけでもない。
581 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:01:59
まだやってるのかw
関東なんてグチャグチャで東西なんかに分かれてねーよw
たとえば西の頼朝に東の小山千葉が加担したり
西の上杉に東の千葉小山宇都宮が加担したり
西と東が協調した例なんていくらでもあるんですけど。
582 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:05:44
NHK名古屋で小牧山
583 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:23:50
>>582 おう! その番組、見たぞ。
新しい発見があったっちゅうことや。
これでますます信長人気が高まるやろ。
しかし、石垣は徳川時代のかもしれんやん!
585 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 07:42:59
昨日、NHKの司馬遼の番組で江戸城やってた。
586 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 17:49:02
>>582 それ面白かったね。ちょうど名古屋出張中で観れたよ。
個人的には、岐阜の信長居館の2階が渡り廊下だったとか興味ある。
もっと解明されてくるといいね。
積んだぜ!
石垣は中華式に決まってるだろ
>>587 模型的には石垣が残念
考証的にはまあ色々言いたい人も多いのでは
592 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 16:05:05
三浦案は内藤案に岡山城の構成をアレンジした不恰好なものだ。
内藤案は建てた瞬間に崩壊するような天主だがな。
後期望楼型や初期、後期層等型のように洗練される以前の初期望楼型天守は不細工なのが普通なんじゃないのか?
一応、工学博士の建築学者なんでしょ
そこら辺ちゃんと計算するんじゃないの?
ひょっとすると「天守指図」は天正6年(1578)5月に倒壊したとされる初代天守の設計図なのかな。
597 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:03:20
>>587 塗装は自分でやれってか。めんどくさーって感じ。
マガジンの内容もショボイ。
完結後、塗装済み完成品がオークションにでもでたら買うかもね。
598 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 13:19:52
このキットの部品を応用して豊臣大坂城か伏見城を作るぞ!
>>591 フォトギャラリーを見ると、石垣はより再現性を高める予定です
って書いてる。
600 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:50:18
>>596 天主台を調べた結果、天守指図は由緒ある図だと思っているが、
吹き抜け部分の構造や、二重望楼がウィンゲの木版画と全然違うとか、そのへんがいまいち納得できん
ついでに天守指図と聚楽第図に描かれている聚楽第天守にはたくさんの共通点(天守と御殿を繋ぐ廊下、片側にずれた望楼など)がある
602 :
597:2009/01/31(土) 20:34:15
>>600 >幾らで買う?
まぁ、17〜20万なら買う。
604 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:49:59
これ本気で作る人なんているの!?
総額16万3000円だよ!?
最後の部品が届くの2011年2月の3週目だよ!?
そんな十何万も掛けて、チンタラチンタラ待ちながら作るなんて無理!!
605 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:51:31
>>602 ちょいとお前さん、幾らなんでも17万は無いでしょ・・・
606 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:26:31
送料別でも20万だね。
そこまでいくと本当に美術品だな…
608 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 19:09:10
ウィンゲの木版画の切妻屋根って最上階なのか三層、四層あたりの張出しなのかわからないが内藤、三浦案も何処にも切妻屋根はないな。早く屏風絵が発見されれば良いのに。
学問板とは思えないほどバカと工作員しかいない
610 :
↑:2009/02/01(日) 21:01:56
お前を筆頭になwwww
610 :↑ :2009/02/01(日) 21:01:56
お前を筆頭になwwww
それも全て朝鮮式
いわゆる中華式城壁、バカの壁です。
613 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 17:04:49
>>608 戦中イタリア軍の財宝に日本の屏風が有ったらしいぞ
もしかしたら連合軍に押収されて別の国に渡っているんじゃないだろうか
最近オーストリアで発見された豊臣期大坂図屏風のようにどこかに現存してればいいが
614 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 18:37:13
オーストリアの大坂城は白亜の天守閣だね。
てか4枚ある絵がてんでんばらばら、
どれが本当なんだろう。
615 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:28:14
オーストリアの豊臣期大坂図屏風と大坂城図、京大坂祭礼図は極楽橋の造りが共通してる
大坂城図、祭礼図、冬の陣図は天守の造りと建物の配置が共通してる
616 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:20:35
さほど、リアリティにこだわっていなかったんじゃないの?
だとしたら、バチカンから見つかったとしても決定打にはならない。
信長の偏執的こだわりに期待
618 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 09:42:21
安土天守台は内藤案通り八角形で通説になったんか?三浦案は内藤案プラス岡山城プラス信長公記であるな。
619 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:00:40
あの八角形天守台は本来の姿のままなのか。
破城で四隅を破壊された痕をあんな風に修復しただけじゃないのか。
どうなのよ
中華式が基本
元が矩形なら90゚で交わる線が一本もないのは妙だ
622 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 17:35:14
>>619 無知まる山車だね。
アハハハハ・・・・・
>>619 四隅を破壊された痕をあんな風に修復しただけじゃないのかって説は発掘によって完全に否定される結果になった。
よって八角形天守台基底部分は本来の姿のまま。
ただ天主台上部の復元に関しては、内藤氏のように強引に扇の勾配をつけたり、宮上氏のように二段石垣にしたり、
佐藤氏のように調査報告書の注記を無視して元から有る箇所を後世に積まれた石と勝手に判断して無き物にしたり、と様々。
624 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 19:58:28
八角形だったなら天守指図はかなり重要な資料だな。焼失後荒廃した安土に出かけて指図にあるような天守台の構造を調査するのは不可能だったと思う。
625 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:15:24
四台もPC持って何やってるん
626 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:09:32
>焼失後荒廃した安土
って、直ぐに廃城になった訳じゃないよ。
三法師を城主として再建が図られており、結局、秀吉の天下になって廃城に
なった訳で、それまでに天主の再建を目的として天主台の実測が行われた
可能性も否定できない。
ことに天端外周部は著しく崩壊していたと考えられるから、指図の一階が
不自然な復元をしなければ納まらないのもそのためかと・・・・
指図の一階を乗せるとどうしても熊本城天守のようにはみ出してしまうな
はみ出さずに乗せる方法もあるにはあるが
628 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 22:35:33
私の願いは安土城よりも伏見桃山御陵の裏側に現存している天守台の残骸を見てみたい。小山のような土壇があるらしいが・・・
伏見木幡山城本丸に攻忍び込んだ猛者はいないのか?
測量する計画はあるらしいが実現はいつになることやら・・・
630 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 00:41:45
ちょっと前までアメリカでは日本円にして1兆8000万円のボーナスを貰ってた
連中もいたが、あいつらが本気になれば、豊臣大坂城でも江戸城でも伏見城でも
いわゆる巨城を悉く完全復元できるのでは?
631 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:52:06
名古屋城本丸の焼け残った2つの櫓。そのうち東の櫓に入ったことがあるが、面白いことに一階と二階で作りが異なる。
一階の柱は、仕上げに槍鉋を使っているため、柱の表面に細かい凹凸があるのに対して、2階の柱は表面が平らで滑らかで丁寧な仕上げ。
これは戦闘などで2階に身分のあるものが宿泊することを想定しているためか。
この櫓、常時公開はしていないが、特別展などがある時公開されることがある。
632 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 14:43:32
そもそも櫓、しかも本丸の櫓に寝泊まりする状況というのがかなり芳しくない状態にある気がする…
太鼓楼に藩主が登ったことが「藩主にあるまじき軽率な行為」とされた話も聞くから、いささか苦しいと…
633 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 15:18:46
名古屋城本丸御殿は、尾張徳川家のためではなく、将軍家が来訪した時の宿泊所。実際には家康を家光が一回づつしか使わなかったようだ。
その時、警護の責任者等が本丸四隅の櫓に宿泊したことは十分考えられると思う。
これらの櫓は、多聞櫓によって結ばれていたから、そこにも宿泊可能。将軍の随行員のかなりの部分が本丸に泊まったのではないか思う。
634 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 17:42:18
将軍上洛時宿泊用の本丸御殿があった藩はいくつかあるようだけど、維持はどうしていたんだろう。
火事で焼ければ再建した? 普段から維持修理を行っていた?
近江国では柏原御殿や伊庭御殿のように専用御殿が4か所あったけど、どれも17世紀末には
破却されたようだね。
635 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:56:56
>>632 津山城備中櫓なんかは書院造りで藩主も利用してたんじゃないだろうか
名古屋城本丸の櫓は寝泊りというより密談等での利用を想定してたのかも
636 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:15:00
豊臣伏見城本丸御殿の部材が血天井として多く現存しているが、やはり焼け残りがあった事を証明している。
637 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:02:05
本当に本丸御殿のものかどうかは分からん。
638 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 03:25:48
639 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:31:23
>>634 18世紀の初頭は東海地方では地震が多発しています。そのため小田原城、
豊橋城の本丸御殿はそれが原因で大破→解体されたままとなりました。
加納城も17世紀には本丸御殿の残存物により存在が確認されています。
また、浜松・掛川・西尾の城主は二の丸に住み、本丸は空き地であったことから
これらにも、上洛用の御殿ないしはそのスペースであったと推測されます。
ただ京−江戸間の多くの大名は5万石程度であり、維持は大きな負担に
なっていた思われ、明治期まで残ったのは水口と名古屋ぐらいだったことから
多くの城郭では、将軍上洛がなくなった17世紀の終わりごろから、火災
地震等の災害を理由に再建されなくなったと思われます。
640 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:47:05
幕府自前の御殿壊しておいて、諸藩に維持しろとはいえないだろうな。
淀城の将軍家用本丸御殿は残ってなかったかなあ。
641 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:42:19
どこの城でも、藩主はほとんど二の丸に住んでいる場合がほとんど。本丸に住んでいたケースはあるんだろうか。
すべての城の本丸は、その藩ではなく幕府のために用意されていたのではないかと考えるのだが。山内一豊が自分の城を家康に捧げたのは、そういうことではないか。
642 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:49:09
↑お馬鹿?
643 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:55:44
>>641 土佐藩の高知城本丸御殿は藩主の儀式用の御殿だよ。
本丸は二の丸や西の丸より狭い事が多いため、不便だから普段は使わない
だけ。
一応、名古屋城本丸御殿や水口城の本丸御殿も藩主が使った事はある。
名目上は将軍の御成用としてあるので、公式には使わない、というだけ。
つーか、名古屋城も水口城も大名の城であって、城代が預かる幕府の城
では無いのだから。
644 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:58:00
将軍の上洛、日光社参時の道筋の城が宿舎として本丸を提供している例がほとんど。あえて本丸に住まないのは手狭で不便だから。細川氏等は熊本城を嫌い城外の屋敷に住んだ。
645 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:56:47
織豊期研究閉鎖?
646 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 07:04:09
↑荒らし防止のため、土日は停止してるんじゃないかな。
>>628 諸国古城の図に木幡山城の天守は十六間十七間五重とあるが縄張りは比較的正確なので、
豊臣大坂天守台の最大幅も含めて考えると真実なのかもしれんな・・・
648 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 04:54:40
16×17間とは徳川大坂、江戸城天守台に匹敵する規模だが実際は豊臣大坂城天守と同じ12×11間だったらしい。この寸法差は会津若松城天守のような構造だったと考えられる。
>>649 まわりの地名が凄いね。
大名の名前残りまくり。
遊園地は綺麗に無くなってるな
どうせなら縄張りを復元してほしかった
ただでさえ向島城も指月城も壊滅してるのに・・・
652 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 09:20:59
現状の天守台の土壇から推定しても9×8間?程度の規模と言う話もあるが移築予定だった淀城天守台は13.5×12.5間この差は破城による掘削か?あるいは大和郡山城天守9×8間を伏見城に移築したと言う説が正しいのか?
654 :
653:2009/02/10(火) 14:18:44
拡げて見てたらリンクずれてた・・・OTL。
リンクの左上ね。
すげえ
桓武天皇陵に島津、鍋島、毛利、松平、正宗、、、
きっちり碁盤の目の道路
なんだこの場所はw
政宗は正宗なのねw
つうかファーストネームかよ!
なんかいっぱいありすぎてよくわからんな。
三栖山殿?、木下屋敷町、島津町、肥後町、竹中町、南部町、伯耆町、周防町、弾正島、弾正町、鍋島町、松平筑前、
鍋島、片桐町、道阿弥町、筑前台町、毛利長門、桃山町金森出雲、羽柴長吉、福島太夫、筒井伊賀、長岡越中、
井伊掃部、下野、永井久太郎、島津、水野左近、正宗、最上、深草大亀谷金森出雲、
内膳、五郎太、敦賀、安芸山、日向、遠山、西尾、和泉、因幡、美濃、駿河、丹後、根来、伊賀、
与五郎、本多上野、松平武蔵、板倉周防、三河、
東奉行所、西奉行所、東大手、西大手、百軒長屋、大蔵、治部小丸、二ノ丸、古城山、北堀公園
向島本丸町
深草加賀屋敷、深草柴田屋敷、深草出羽屋敷、深草越後屋敷、深草大島屋敷、深草佐野屋敷
>>655 伏見は京都南部有数のDQN地帯だから行くなら注意してねw
659 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 08:52:50
相変わらずクソスレですね
>>1がバカだからどうしようもないのですか?
660 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 09:16:21
>>659 君のような粘着がいるからどうしようもないのですよ。
学研「城造りのすべて」読んだけど、
天守よりも櫓最強じゃね?
特に土塀の代わりに多聞櫓で城を囲んだら最強じゃん
天守は飾りと言うのは常識だろう。
大型はしご車1台あれば充分だよね。
一応最後に立て篭もるっぽいイメージで縄張りとか作られてるけど、
なんか観念的なんだよな
現代における兵士の拳銃みたいなもんか
忍者部隊?
>>662 土塀は燃えないけど多聞櫓は燃えるじゃん
668 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 14:29:36
土塀も長時間熱せられると内部の木部が炭化して発火し土塀は素焼きのように焼けて崩れ落ちます。これが木造建築の限界なのです。
669 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 18:58:29
木材は酸素から遮断されているのに、土壁を通るわずかな酸素で
燃えるものだろうか。
>>668 そんくらい燃えるときゃ、もう城は落ちてるよ。
土塀は乗り越えられるが
多門を乗り越えるのは無理。
銅板張多聞櫓、これ最強。
熱そうだな。
真夏だったら城兵蒸し焼き、敵も逃亡しそうだ。
674 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:40:41
実際は水掘をわたって石垣に張り付いて城内に侵入を試みるんじゃなくて
門を壊して攻め入るんじゃないの?
強行的に城壁から進入してもあっという間に斬り殺されるだけだと思う。
676 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:17:30
銅葺きは瓦屋根より悲惨。熱の伝導の教科書を思い出せ!金属は火の粉は防げても近隣の猛火で高熱を木部に伝え内部から発火する。江戸中期内裏は総銅板葺きに改めてたが大火で素早く全焼。以後湿気を保つ檜皮葺に復古した。
金沢城は火事のとき、空から鉛が降り注いで悲惨だったらしいな。
今でもあっちこっちの石垣に鉛がこびりついてるらしい
678 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:14:57
多聞櫓も、漆喰で固めた壁のものが多いだろう。
中は木造だからね。窓から火が入ればあえなく炎上。
680 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:54:06
欧州の巨大高層建築物も、
内装や骨組みは木造がほとんどだけどなw
681 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 07:33:03
漆喰は海藻の粘着力で固形化している。梅雨や長時間で水性の糊ゆえ溶解剥落する。白亜白漆喰の総塗込めの城は補修が頻繁で金がかかる。幕府では小普請組と言う修理専門の役職さえできた。
682 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:08:55
下見板張りの黒い色は何で出しているんだろう。現在ならペンキで簡単、防腐剤のクレオソートも黒のうちだ。漆なら鉄分によって黒を出せるが、高価で大きなものには使いづらい。安土城や東照宮のみ。
杉板など表面を焼けば黒くなるが、建物に使うのは耐火性に問題があるだろう。墨では真黒にならない。
>>682 信州松本出身だが、松本城は漆黒と聞いてる。
漆を塗ると耐火性も向上するから、まともな城なら漆だろう。
「墨では真っ黒にならない」と言うが、漆喰を真っ黒にするのは大変だが
板壁なら植物性顔料で真っ黒に出来る。ただ、防火性はない。
ちなみに松本城は明治時代に民間基金で改築されてるから、
今は漆かどうかは分からん。
ちなみに戦国時代の天守は黒が主流。
包囲軍に銃で撃たれたときに、城壁が白いと、弾痕がはっきり残って
敵に被害状況が分かってしまう。
また白壁に弾痕は痛々しくて、味方の士気を削ぐ。黒いと弾痕が目立たない。
684 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:40:07
赤土で木材を塗ってる城ってある?
古代史は好きなんだが中世からは駄目なんだ
>>683 板壁は土壁に貼ってあるだけだから別に燃えても問題ない
ほとんどは腐食防止を目的として植物性顔料で黒くしている
昔は土壁むき出しだったが、それでは外見が悪いので
化粧として黒板や漆喰が用いられた
>>684 普通に土壁には赤土が用いられているので、柱の塗り込めというなら
大筒や石火矢などの大口径火器が用いられるようになった関ヶ原以降より
大壁造りが一般化した
>>682 豊臣秀頼寄進の出雲大社本殿は総漆塗りだったというが
どんだけ費用がかかったことか
あと、どんだけ漆にかぶれた人間がおったことか。
岐阜県の苗木城は赤土の壁で別名赤壁城
木材にぬってたかどうかは知らんけど
>>688 そこの赤土はそうとう酸性で鉄が酸化しているかもしれません、それで赤くなっている可能性はあります
漆喰が直ぐに剥がれる逸話がありますが、漆喰の石灰はアルカリ性なので、酸性の赤土と反応して
剥離した可能性がありますね
中国式の城壁は何製ですか?
>>691 場所や時代による。
秦の始皇帝の頃は、粘土質の土塁を徐々に積み上げる方法が主流だった。
北部は乾燥しているから、土塁の積み上げでもそこそこ頑丈になる。
その後は、日干レンガ使ったり、石を使ったり。
693 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:21:48
日本も一時期レンガの城壁があったよね
694 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:51:09
最近では少なくなったが、名古屋地方の小洒落た数寄屋造りの建物では赤い壁土が多かった。あとから色をつけたのではなく、はじめからその色の土を使う。
この地方には赤土が多いが、これがそのまま使えるかは知らない。
中国の城壁は版築で作ると聞いたことがある。土を盛り上げて突き固める。日本の古墳もおなじ方法。
695 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:53:30
>>682 金子の算段のつくところ、材料が豊富なところ→漆
金子が十分でないところ→柿渋+煤(すす)
696 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:53:41
最近では少なくなったが、名古屋地方の小洒落た数寄屋造りの建物では赤い壁土が多かった。あとから色をつけたのではなく、はじめからその色の土を使う。
この地方には赤土が多いが、これがそのまま使えるかは知らない。
中国の城壁は版築で作ると聞いたことがある。土を盛り上げて突き固める。日本の古墳もおなじ方法。
697 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:22:20
>>690 「酸性」と「酸化」とは関係ない。
どちらも「酸」という文字が使われているが、内容はまったく別。
酸化鉄が多く含まれていれば赤い色になるが、酸性というわけではない。
中央の穴については、従来宝塔の下に甕を埋めた穴であるとか、掘立建柱の痕跡であるとかいった説が
唱えられてきましたが、穴の形状からみて両説とも当てはまらないことが明らかとなりました。また昭和15
年の調査でこの穴を埋めていた土から
備前焼きの甕の破片が発見され、今回の調査でも同じものが発見されましたが、もともとこの穴に完形の
甕が埋まっていたのではなく、穴を埋めた土に甕の破片が混ざっていたのに過ぎないことが確認できまし
た。また安土城築城の際に「蛇石」と呼ばれる巨石を運び込んだといわれており、天主中央の地中に埋ま
っているのではないかと考えられていましたが、穴の底にはそうした石は確認できませんでした。
結局、天主の穴についてははっきりとしたことは分かりませんでしたが、従来提唱されていた仮説がいず
れも当てはまらないことだけははっきりしました。
滋賀県安土城郭調査研究所
699 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:27:29
蛇石は加工して信長廟になりました。
ってどうよ。
700 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 17:34:13
700get!
366を読んで天守は諦めて丸亀城に行ったけど天守に入れたので報告
今年から冬でも入れるそうな
物凄い風と寒さで城守りの人達は大変そうだった
703 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:13:22
天守と櫓の違いは、全周を石垣に囲まれているか否か。丸亀城、弘前城は一方が地表と同一平面だから実際には櫓。天守として代用しているにすぎない。
名古屋城御深井丸の清洲櫓は規模としてはこれらより大きいが、櫓の名で呼ばれる。
高知城天守は櫓かよ。
大洲城もか?
706 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:26:47
弘前城天守は、江戸初期に焼失した5層天守の代用として、
江戸時代後期に本丸辰巳櫓を改修し造営された御三階櫓
708 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/02/21(土) 13:34:40
小峰城天主は正式名称三重御櫓だけど
大洲城天主は石垣なしでも天主みたいだ。
710 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:52:45
徳川伏見城天守台の寸法が15間四方、8×9間と諸説あるが最新の定説は?まさか淀城天守台の外寸だよとは言わないでくれよな。
城戸博士の論文参照
713 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 09:21:37
20数メートル四方を仮に26メートルで換算すると約14間半。石垣を積めば約15間。淀城天守台の外周が約13×12間。会津若松城のように天守台に余白を残して建立されていたと想像される。
714 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 08:05:56
会津若松は七層望楼型から五層層塔型にしたという話もあるだろ。
715 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 08:25:08
巨大な天守台土壇が残っいたのは驚きだな。高さ面積は佐賀城天守台よりやや大きめをイメージすれば良いかな。
会津若松は元々は七層望楼型ではなく七層等型の大天守
天守台にも七層時代の痕跡が残っている
717 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:22:45
↑妄想
↑妄想も何もお前が無知なだけの話
719 :
717:2009/02/24(火) 20:52:15
明治に破却された天守は約12間四方の正方形の平面だったが、
現存する天守台は約14間×17間ほどの長方形。
そのまま下の2層を取り除いて5層になったとは考えられない。
天守台の痕跡は、多分、多聞矢倉のような付属建物のものだろう。
上の2層を取り除いたんだよ。
↑↑若松城七層大天守の詳細は以下の本にあり。
●近世建築史論集/中央公論美術出版
●会津若松城―士魂支えた風雪の城 (歴史群像・名城シリーズ (15)) /学研
722 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 06:32:29
地元の郷土史料館だったか天守内部に七重の巨大天守の模型が展示されていたが現実的ではないと思った。やはり一階の狭間の廂屋根を入れて六重とか称したレベルの話なんではないか?
723 :
717:2009/02/25(水) 11:18:48
上の2層を取り除き、さらに全体の規模も縮小したのだろう、
というのが七層説派の主張だが、だったら最初から下の2層を
取り除けばすむことで合理的じゃないし、その場合、旧材を
転用しての新築ともいうべき再築だろう。
『新編会津風土記』だったかな、上の2重を壊し5重にした
というのは、おそらく天守台の空地から見ての石垣上の
階数を減じたと言う意味だろう。
ただそれは、元々、石蔵(2階)を含めての内部7重を
外観のうえでのことと誤認したものと考えられる。
石蔵は江戸時代に塩蔵として上部階とは隔離されていて、
以降、天守の階数は5重を公称していたことも誤認を
生じた一因だろう。
外観を7重に描いた絵図もあるが、偽造とする意見もあるし、
その姿が5重天守によく似た層塔型なのは、天守台が
長方形であることからも疑問だ。
年代的にも創建時には最上階は3間四方の規模のハズだから、
もし本体が天守台一杯に建っていたとすれば望楼型であった
ハズだしね。
天守の構造状上 『J・K』 二重を壊したわけではなであるぞ
改築後の幕末の五層目が3間だから建設当初の七層目は1間半から2間程になってしまうではないか
詳しくは以下の本を読まれたし
●近世建築史論集/中央公論美術出版
元が五重七階の望楼型だったんじゃないの
>外観を7重に描いた絵図もあるが、偽造とする意見もあるし、
蒲生氏郷が幕府に提出した七層天守の絵図面を偽造と申すか
どう考えてもニセモノだなw
蒲生氏郷は幕府出来る前に死んでます。
729 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:16:32
秀吉の大坂城天守には銀箔が貼られていたし銀閣にも銀箔が貼られていたて。
永徳の絵は全てが空想の産物で信憑性は皆無。
安土城の信長の御殿は天皇の行幸御殿と同じで七尺二寸。行幸御殿は別名、南殿ともいうが安土城では特別例外で行幸御殿と南殿は別々に建てられていた。
氏郷の七層天守が痛み、それを改築するため加藤明成が幕府に提出
結論:≫727の負け
731 :
717:2009/02/26(木) 12:50:55
>>730 後代に捏造されたものというのが宮上の主張。
>氏郷の七層天守が痛み、それを改築するため加藤明成が幕府に提出
寝言ですか?
中国式城壁も模擬城壁だったりするのですか?
↑↑
妄想か?
かの絵図は信憑性が高いというのが藤岡と平井の主張
若松城天守台の外側は野面積みだが
石蔵内は落とし積になっている
天守が改築されてるのが証明されたなWwWWWwwwWW
735 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 19:21:52
>>733 >かの絵図は信憑性が高いというのが藤岡と平井の主張
故人と老人の戯言。
736 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:12:47
737 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 11:49:30
絵図には層塔型で外観7重の天守が描かれているが、現存する天守台は
長方形だから当然望楼型でなければならないはずで、問題の絵図には、
後から(写しの段階)その姿を想像し書き加えらと考えられる。
738 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 15:06:09
元の話は伏見城の天守台が巨大だから現会津若松城と似た天守構造だったのではないか?と言う話だったんだが。それで伏見城天守はどんな構造だったのかな?
739 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 15:10:03
天守は天守台からはみ出すくらいに大きく作るのが男というものだ。
清正公の爪の垢でも煎じて飲むがいい。
740 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 16:49:23
741 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 18:32:16
伏見城天守を移すはずであった淀城に二条城から天守(慶長度)が移された
ことで、じゃあ伏見城天守は二条城に移されたという伝承が生じたんじゃないかな。
すると大和郡山城の天守はどうなったのよ
743 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 19:14:49
慶長度二条城天守は大和郡山城からの移築という説(『愚子見記』だったか)もあるね。
744 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:12:35
【大和郡山城天守】二条城現二の丸(旧本丸)に移築
│
↓
【二条城】←―【伏見城天守】二条城現本丸に移築
│
↓
【淀城】大和郡山城天守
745 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 19:28:27
七重の大和郡山城天守を伏見城に移築したと言う説はどうなの?
746 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:42:04
伏見城ついでに聞きたいんだが、養源院や正伝寺にある血天井は、本当に伏見城から移築されたものなの?
748 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 05:54:38
血天井があると言う事は本丸御殿は焼け残ったと言うことか?
血天井を科学的に測定したら、確かに当時の人血がこびりついてることが確認されたんだっけか。
だから、もしあれが偽物だったとしたら同じ状況の他の場所から用意した物ってことになるな。
普通に考えれば、伝承通りってことで問題ないでしょ。
750 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 07:41:13
まあ徳川方の将兵の自決の跡だから顕彰と供養のために保存されたんだろうな。江戸城伏見櫓の多聞にも血天井があると伝承されているな。豊臣伏見城は全焼せず焼残りがあった証明だと思う。
751 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:55:57
血天井、源光庵で観たことあるけど、手の跡とかあって気持ち悪かったなぁ。
というか、豊臣伏見城は色んなところに移築されてるね。
縁起悪そうな気がするんだが・・・
そういえば、姫路城の菱の門も伏見城(徳川伏見城?)から移築されたんだっけ。
752 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:17:17
徳川伏見城は大和郡山城の一切を移築した急造の城らしい。徳川大坂城ほど徹底的に作り直したのではないようだ。
753 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:34:33
大和郡山城は高台院の仲裁で秀頼を5万石の大名にするためにそのまま残しておいたんじゃないのか?
754 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:23:02
指月と木幡は、どっちが大きかったんだろう。
755 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 07:50:57
>>753 篠山にも秀頼を移して大名として残すために、
大書院が大きかったという話がありますな。
756 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 09:48:32
家康は片桐市正に伊勢か大和に移れと申し渡したが伊勢だったら何城なの?
757 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 10:45:22
758 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 10:52:25
田丸城も捨てがたい。
759 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 07:22:48
760 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 11:37:28
落書きの元祖は二条城の番士だろ。台所や門の柱にキツネや槍、馬印を刻んでいる。閑職でやりきれなかったんだろうが将軍の城によくやるよな。
761 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:16:25
法隆寺には、創建当時の大工がもっと下品な落書きをたくさん残しているな。
皇族がつくった仏教の聖堂によくやるよな。
762 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:33:17
>>760 番方は花形だし、番方がヒマなのはどこも同じ。
花形なのは大身の就任する上級職だけじゃね?
764 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 21:46:42
無役の人間が多く、役方の特に勘定方が嫌われていたことを考えれば、
武士の本分である番方は花形といえる。
766 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 06:15:45
では甲府城の番士はどうですか?身持ちの悪い旗本の左遷先と言う話もありますが?
767 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 07:07:55
あそこは例外扱いだろうね。土地自体は田舎大名の城付きと似た環境ながら、
人は名実ともに無役以下のごろつき集団。上司の甲府勤番支配の変死が多発
とかってのも無茶すぎる。
対して二条城は三都の一つの真っ只中だから、一日の勤めが終われば
江戸と代わらないくらいエンジョイできただろう。
768 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 08:39:49
江戸城本丸御殿でも落書きが発見されて大騒ぎになった事あったよね。誰か切腹とか罰せられたしなかったっけか?
日本史の教科書に豊臣大坂城を落書きしました。
770 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:36:23
そして769さんは受験に失敗しました
771 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 06:20:06
アンコールワットに日本のサムライの落書きがありましたね。
天竺はここか、とかなんとかいうやつ
773 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:12:20
江戸時代の初めに大規模な改装を受けた天守がある。宇和島城、藤堂高虎が建てた下見板張の無骨な天守から、現在の塗込めの層塔式へ。
大垣城、望楼式からやはり塗込めの層塔式へ。南蛮造りで有名な高松城も、もとは下見板張だったのを塗りこめに改装している。江戸城は家康創建のものが解体され、何度も建て替えられている。
莫大な費用をかけてまで改装や建て替える必要があったのだろうか。
774 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:25:01
江戸城なら諸大名の散財自体が目的じゃん
>>773 高松城が下見板張から、塗りこめにしたのは防火の意味合い
が強いかと。もちろん白い土壁に、意匠的な意味合いがある
とは思うけど。江戸城は初期から大火に悩まされてるから、
幕府の防火対策は重要なウエイトを占めてると思う。
776 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 05:11:00
高松城は生駒氏改易の後に親藩松平氏入部に際して幕府の威光を示すために大改築したもの。天守は日本で十位以内の規模。姫路城を参考に意匠を凝らした。
778 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:06:33
肛門様の息子の養子先だから?
関係ないか
779 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:49:28
生駒氏の天守は南蛮造りではなかったらしいが屏風絵だと南蛮造りだ。姫路城天守を模して造れと命じたが大工が姫路城は大規模で高松では無理と答申したそうだが高松城の方が姫路城天守より巨大である。特に最上階は江戸城天守より巨大である。
780 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 14:42:10
南蛮造りの定義は?
そして何故「南蛮」なの?
781 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:21:59
西洋の塔みたいに最上階が大きい造り?
小倉城天守もそうだな。
782 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:26:20
下階より上階が張り出しているのが物珍しいから南蛮の技術の応用だと思い込まれたんだろう。古代創建の薬師寺東塔なんて南蛮造り的だがWWWWW
783 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:46:18
784 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:45:57
浜松城天守じゃね?
787 :
784:2009/03/17(火) 22:08:58
788 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:00:47
堀氏が春日山城を廃して福島城を築いた根拠となっている
慶長5年以前に秀吉か家康によって出されたと言われる
天下一統山城停止令について知ってる人いますか?
789 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:39:56
>>782 薬師寺の様式は竜宮造り、というらしい。たぶん唐の最新技術だったんだろうが、中国には全く残っていない。ただ、水墨画にはそれらしきものが描かれていた気がする。
790 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 10:37:17
791 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 14:37:08
真に南蛮造りと言えるのは安土城天守だろ。教会建築がモチーフになっている。
792 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:40:18
薬師寺の張りだし部分は人が入ることを想定していない。塔も、近年再建された金堂も内部の構造はどうなっているか知らないが、少なくとも広い空間はない。つまり外観を整えることだけが問題だった。
そこへ行くと城の南蛮造りは、現存例がないものの、十分な内部空間が確保されていたようだ。
>>792 建物の使用目的が違うから城と五重塔を比べても無意味。
794 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 08:36:15
戦災で焼失した岡山城は、安土城の影響を受けたと説明されるし、安土城の復元イメージは旧岡山城を反映しているように見受けられる。でもこれって時間的におかしくないか。
安土炎上は1582年、本能寺の変の直後、このとき羽柴秀吉は備中高松城で毛利勢と対決していたのだから、毛利の一族の小早川隆景およびその周辺の者が、安土城を目にした可能性はない。
岡山城の建設は1590年代の中頃以後、安土炎上から十数年を経ている。なぜ、小早川の建てた岡山城が安土城の影響を受けるのか納得がいかない。
安土城を建てた岡部以言は信長と本能寺で運命をともにしているが、中井大和守は安土城建設にも参加しているから、安土城に関する知識がすべて失われたわけではないが、中井と小早川は接点があったのだろうか。
795 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 08:46:02
安土城をリアルで見た人間は豊臣政権下では数多いんだから、信長公記を回し読みするような
信長ブームで、大大名が安土城のオマージュの天守を作りたいと望めば、いくらでもデザインを
確保する手段はあるだろうな。
岡山城って1590年代の中頃以後小早川がたてたの?
797 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:16:50
小早川じゃなくて宇喜多だな。
岡山城は宇喜多秀家が豊臣秀吉の支援のもと築城した。
799 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/03/22(日) 16:03:37
南蛮造りって近代造語じゃなかったかな。
元号が平成になった時のこともイカ天も昨日のことのように憶えてる身には
十数年という時差がそんなに意味があるとも思えない。
801 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 16:57:11
>>800 自分で経験したことなら確かにそうだ。でも見たことがない城にそんなにこだわるか。
802 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 17:17:23
>>794 実は安土城内には、岡山城天守石垣のそれと似た平面形を持った石垣がある。それは天主ではない。もし安土城全体の平面図があれば確認してもらいたいのだが、本丸の北にある通称八角平と呼ばれる郭である。
この八角平の北側は岡山城天守石垣の平面形に似ている。岡山城では横に一段低くなって付け櫓があり、ここから出入りしたのだが、八角平にも横に一段低くなった部分がある。ただし岡山城が向かって左にあるのに対し、ここでは右側。
八角平は、南にかなり広く広がっているが、実はこの郭あとから南方向へ広げた形跡がある。(まだ立ち入りが可能だった時期に確認済)
つまり、八角平の北側に天守相当の建物が建っており、それは安土炎上後も焼け残って後まで使われ、それを手本として岡山城が建てられたのではないかと推測した次第。
岡山城が安土城を手本としたのは事実だが、有名なあの大天主ではなく別の建物ではなかったか。
>>802 三の丸に四層ほどの小天主(大坂城月見櫓に該当)を妄想していたが八角平ときたかw
805 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:32:24
>>805 でもその写真見ると守る側も攻める側もフツー日本の戦国時代の武装だったとしても
本場の方が構造が複雑で五稜郭より難攻不落そうだな・・・
予算不足で五稜郭は未完成になってしまったというのは本当だったか・・・
807 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 15:15:21
百個師団に相当する地勢の日本で、何を好き好んで平地守備用の
幾何学的形状の要塞などをつくらにゃならんのか。
>>807 知らん。平地の多い蝦夷地だからじゃねーか?
五稜郭の縄張りを担当した武田斐三郎にでも訊いてくれ。
>>807 >平地守備用の
旧来の日本の平山城なら、野砲の絶好の射撃目標になってしまうから。
五稜郭スタイルなら、攻撃側は着弾点が分からないので、盲撃ちするしかない。
>幾何学的形状の要塞
守備側に死角を作らないようにするため。
言い換えると、攻撃側は必ず十字放火を浴びる事になる。
810 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 16:29:56
当時は高地から観測して弾着修正という技術はなかったのか?
連絡くらい、光か音でできないだろうか。
>>810 必要なかったんだろ。
たとえ盲打ちでも間断なく弾が降り注げば守りきれない。
これが古代ローマあたりなら、敵陣を見下ろせる高い望楼を建設しただろうけどね。
813 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 20:27:39
じゃあ結局は、五稜郭や類似の西洋城塞は無駄金を食う無用の長物だったってことで
五稜郭って、城壁内部の建物を見えにくくする必要性を理解しないで
中の建物に天守閣よろしく物見櫓くっつけたせいで
戊辰戦争のとき大砲の良い標的にされてしまい、慌てて物見櫓を壊したけれど
そのときは既に着弾地点を正確に割出されてしまって大変な事になった
って本当?
さぁ・・・?
だいたい五稜郭君は、堡塁のくせして撃たれるばっかでろくすっぽ反撃できてないのがオワットル
城はこしらえても大砲がヘボ
>>814 物見の塔くらいどこの西洋城塞にもあるが。
物見櫓なくたって五稜郭程度の規模ならばどこでも狙い放題だが。
自然地形無視して、幾何学を無理に押し進めたイタリア式築城は
要塞造って財政破綻という本末転倒な代物
五稜郭みたいな要塞は守るべき街を複数で囲むように
構築するって何かで読んだ気がする
>>818 本城だけでなく支城をたくさん造って防御する鹿児島の街みたいな考え方だね。
五稜郭ってポジション的に郭/くるわ/曲輪ってことなん?
でもあれで全部だよね
>>820 曲輪で言ったら五稜郭って本丸と出丸しかないよね・・・。
>>818 そのとおり。函館も、数個建設する予定だったが、結局ひとつしか
作れなかった。
五稜郭はそこそこの規模があるため数個の予定だったが、本場
ヨーロッパでは、時代が進むにつれて、一つ一つの要塞の規模が
小さくなり保塁に変化していった。そして、一つの都市を十数個の保塁で
ぐるりと囲んで、それを塹壕で結ぶようになる。ロシアが作った
旅順要塞なんかまさにこれ。
最終的には、保塁がトーチカにかわって、トーチカ+塹壕の連続線
で都市を守るという形になっていったわけ。ベルダン要塞がその典型。
>街を複数で囲むように
お台場もそんな感じだね。
海側にしか造られてないけど。
五稜郭や四稜郭の位置からして、海側から函館への侵攻を想定してないの?
つか今の函館市はあったんかな当時
函館の五稜郭ですらこんなにボロクソ書かれてしまったら
龍岡城の立場はどうなるんだ?
佐久の五稜郭は近所の山から大砲で狙い放題
そもそも街道からずれてて誰も落とそうと思わないし
敷地が小学校だからカメラ持ってうろうろしてると通報という攻めにくい城ではある
829 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 01:19:29
★韓国人自身が知らない歴史の真実★
●日本は、日清戦争の勝利後(1895)、それまで清の属国であった朝鮮を独立させた。
●韓国併合(1910)後、
・日本は朝鮮に、鉄道・道路・電力など数々のインフラを整備。
・近代医療の導入と農業生産力を向上させ人口を増加させた。
・奴隷制度を廃止し教育制度を充実してハングル文字を普及させた。
その結果、李氏朝鮮時代とは比較にならないほどの近代的な暮らしを
民衆は手に入れた。
(このことを、日教組、朝日、TBS、NHKは一切放送しようとしません)
830 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 16:12:07
龍岡城は、城としては機能しないな。城壁が低すぎて防御の役にたたないもの。
831 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 16:50:46
なんつーか自分の家に天守閣作っちゃう人と同じ感じがするよなw
832 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 22:23:20
「天地人」の安土城は、誰の?
833 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 06:20:11
龍岡城以外に前橋城も西洋式に改築したらしいが、どの程度よ?
835 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 22:05:46
丹波亀山城
836 :
日本@名無史さん:2009/04/06(月) 22:53:10
837 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 02:19:18
>>836 内藤案は昔は 【N・H・K】 の歴史番組で頻繁に起用されてた。
内藤氏は≪N・H・K大河ドゥラムァ≫の建築考証もしてたはず。
今は平井氏の出番が多いようだが。
内藤案の格好良さは異常
加賀藩の大工乙
840 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 16:27:19
西洋にもその名が知られた安土城は日本の名城シリーズから世界の名城シリーズへと発展したといえるだろう
江州安土は鬼でもつ
842 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 20:52:44
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
843 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 21:15:47
844 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 22:10:02
藤堂高虎の複雑な外観の宇和島城天守、ヒョロッとした丹波亀山城天守は、それぞれ聚楽第天守、肥前名護屋城天守を模してる気がしてきた
845 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 22:20:25
ところでおまえら、今までで感動したした石垣ってどこよ?
おれは大坂城、熊本城、金沢城。
大阪・熊本はでかさと迫力、
金沢はきれいさとバラエティの豊かさ
846 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 22:55:53
江戸城天守台だな。あと、丸亀城の石垣も見事。
847 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:01:50
羽州新庄城の亀甲積み
石垣で思い出すのは津山城と高取城。
850 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:29:51
丸亀や津山はすごそうだなあ。
やっぱどうしても西日本の城の方が見ごたえあるよな
北では白河小峰城が良い
呼び方は忘れたが独特な石の積み方で良かったよ
852 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 18:23:29
>>851 笑積だっけ。あの城いいよね。
北側の水堀越しや阿武隈川から見る景色もよかった
853 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 22:23:03
古河一夜城
松江城は色んな積み方が見れるよ。牛蒡積みもある。
856 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 01:25:36
高さ、大きさ、規模、総合的に大坂城だなやっぱり。
重機の無い時代に人間の手で積み上げたのかと
>>846 俺は天守台『以外』の江戸城だな。
石の乏しい関東で、なんとか伊豆と言う地元に近い所の石を使い、
ハンディを克服したあの高石垣は、なんともユニークで魅力的だ。
土質(黒土)と、石(玄武岩)の色調がぴったりマッチしていて美しい。
そりゃ、同じところ(伊豆箱根火山帯)からの噴出物だから当然だが。
その上の白漆喰と鉛瓦の調和も美しい。
あの「吉宗天守台」はどうかと思う。
西国からもってきた花崗岩という石自体、江戸にはあまりにも場違い過ぎる。
国会議事堂(これも西国の花崗岩だ)とならんで、
東京の「場違い石造物」の代表例だろう。
858 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 06:19:05
大阪城の石垣の半分は伏見城からの移築。最近伏見で発掘された石垣群は大阪城の石垣によく似ている。
859 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 23:02:33
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
>>858 残念!だったな。
俺は、4代前から、東京生まれの東京育ちの、正真正銘の日本人だ。
お前こそ、朝鮮で生まれて、朝鮮で育った、正真正銘のチョンだろうが。
861 :
↑:2009/04/20(月) 09:41:45
バカのひと?
862 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:29:30
天地人は、誰の安土城(まさか、西ヶ・・・〉
マルチうざい
天地人の安土城のベースは初期の宮上案だが赤い窓や天主台などの細部は伊勢・安土桃山文化村のオリジナルでデタラメ
(竹林舎の安土城天主宮上案は自案を度々変更していた為5〜6種類程ある。その後、宮上氏が亡くなってから竹林舎の木岡氏が宮上案を手直ししている。)
865 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 00:59:16
866 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:42:17
867 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 01:58:47
868 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 09:59:14
>>887 イメージ図見ると丸岡城天守を参考にした復興天守にしか見えないんだが…。
869 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:00:17
870 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 05:30:58
>河村市長はこれまで「本丸御殿は一度立ち止まって検討する。
>玄関の復元だけでもいいのではないか」と、全体の復元には否定的な考えを示していた。
川越城並みになるなw
もっとも個人的には御殿より本丸の多聞を全部復元して、天守を旧観に復してほしいがね
それよりも大手馬出の復元を
872 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:10:48
873 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:55:41
甲府城櫓門:復元の効果は? 整備検討委が初会合 /山梨
◇専門家ら8人で7月ごろまとめ
甲府城本丸の櫓門(やぐらもん)復元の是非や経済効果などを検討する「甲府城跡櫓門整備検討委員会」が設置され、
21日に第1回委員会が開かれた。7月ごろまでに全4回の会合を開き、意見をまとめる予定。
委員は歴史や観光の専門家ら8人で構成。委員長には萩原三雄・帝京大文化財研究所長が選ばれた。
21日の委員会では、これまでの発掘調査や関連資料などの説明や現地視察を行った。
昨年度まで設置されていた「甲府城跡保存活用等調査検討委員会」の報告では、本丸の櫓門の
銅門(あかがねもん)と鉄門(くろがねもん)の2棟については復元のための資料がそろっているという。【小林悠太】
毎日新聞 2009年4月22日 地方版
http://mainichi.jp/area/yamanashi/news/20090422ddlk19040118000c.html
>>872 戦国時代の守護大名居館の絵図にあるような門だね
>>874 蔀戸、二階に登る階段が無いところをみると日常において番小屋のようには使えないだろ
寺の山門をリサイクルしただけの飾りだろうか?
そのわりには大小天守は鉄砲狭間と石落としで武装しているが・・・
877 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 21:35:24
今年の夏は東北と函館に行くか
篠山、佐賀、熊本、長崎奉行所の一部、五稜郭箱館奉行所…
御殿や奉行所も地味ながら着々と復元されてるんだな。
箱館奉行所復元の暁には五稜郭でG20サミットやるべだなw
880 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:23:29
天地人の大坂城は宮上?
881 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:52:13
石井正明案だよ。
883 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:50:08
201X年 日本国政府「国内全城跡・城郭復元整備法」制定
日本国国内に在る全ての城跡を完全に復元・整備する事を法律で定めた。
この結果、大阪城や名古屋城を始め、全国で城跡復元が実行されるに至った。
しかし、旧江戸城跡である皇居を如何にするかが問題と成った。
そこで、旧江戸城天守閣を復元し、皇居宮城天守閣として
天皇陛下に御公務の際に御使用頂くと。
>>882 >夏の陣図と中井家所蔵の天守台図のみを資料とした宮上案を初めとする復元案は、
>あくまで模擬天守であって、史実の秀吉天守とはかけ離れているだろう。
夏の陣図の描写内容はともかく、中井家の本丸図の精度の高さは
発掘でも実証されており、第一級資料なのだが・・・
中井家の本丸図と同様の腰曲輪を持った天守台が冬の陣図、京・大坂図、大坂城図にも描写されてるだろ?
885 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 15:50:05
だから佐藤は後者をもって復元案を発表してる。
ただデアゴの安土土城同様いただけないけど。
三浦・佐藤なんて詐欺師だろ。
皆さんの一番きつかった城はどこですか?
岩殿山城、岩櫃城、岩村城、小谷城、観音寺城、高天神城、八王子城、坂戸城に行ったけど、
坂戸が一番きつかった。城らしいところ少ないし、あの長い階段は拷問かと思った(でも景色は一番良かった)。
山城は雰囲気がいいんだけど、木が生えてなければなあ…っていつも思う。
今度は岐阜城を麓から登ってみようと思う。
金華山内に分散してる砦を全部攻略してレポしてくれ!
889 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:50:09
#887
私も全部登ったが坂戸城はつらかった。
日曜日だったせいか頂上の城跡に4,50人が休んでたが全員登山者だった。
ここは城跡だとは誰も知らなかった。
しかし結構遺構は残っていたよ
南北朝期に築かれた城は高い山にある上に遺構はパッとしないんだよね。
南北朝期ではないが豊前長岩城石積櫓への道が一番きつかった。
一遺構の見学に命がけ…
>>887 岐阜城をケーブルカーによらず歩いた。疲労困憊したッス。
あれを攻め落とした池田福島勢らは偉いわ。
892 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:28:45
>>891 織田配下時の秀吉も落城させてるぞ!
二度も落城してるし、実は対したことないんじゃ?という話だよ。
馬の背道を歩いたのか?
真夏に百曲がり道を登ったけどキツかったなー
関が原の時は、城から打って出たけどボロ負けしたから
城にはほとんど兵隊がいなかったんじゃ?
>>891 徒歩で山頂までとは、すごい健脚ですな。
俺も歩いて登ったことがある。
軽装で登ってもしんどかった。
鎧兜をつけて戦闘しながら攻め登ったなんて、昔の連中はホントに凄かったとつくづく思った。
896 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 07:43:07
参勤交代でも一日十里とかだからな。俺は十数キロでも足の裏にマメができて
足も上がらなくなり、極端に歩く速度が落ちる。
電車・バス・自動車なんか無い時代だったから、どこへ行くにも基本は徒歩。
知らず知らずのうちに常日頃から鍛えられてたんだろう。
だが、それにしても凄いと思う。
あまりにも山の上に有り過ぎてみんな無視してたら笑うな〜
攻城戦のときには無視もしておれまいに。
千早赤阪なんて放っておけばいいじゃん
あんな山の上。しかも小勢だし。
とかダメなの?
>>900 そうもいかなかったんじゃねぇの?
北条君から叱責されるからよお。
「おらぁ〜!なにモタモタしとるんじゃい!早よ首もって来んかぁ〜!」
「モタモタしとると、てめぇの首を代わりにすっどぉ〜!」
とかさ。
>>902 富士見櫓って、名前からして3層くらいの櫓を想像していたけど、結構
しょぼいのね・・・。
>>902 時代に逆行する計画だな。
税金の無駄遣い。
名古屋じゃあ、名古屋城本丸御殿の復元計画が見直されようとしている。
>>904 時代に乗ってるんでしょうよ。今は復元がブームだし
無駄かどうかは人それぞれだな
まぁ名古屋みたいに自治体が決めればよいことでしょ
>>900 城は防御施設なだけじゃなく兵士の集合場所だから
無視して進軍は出来ないんじゃない?
押さえの兵を置くハメになるか落とすかになる気がす
補給線がつながらなくなるじゃん。
908 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 20:37:12
909 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 09:50:39
浜松城なんて富士山の麓なんだから一重の櫓で十分だろ。それより二重櫓があったはずだが?
>>909 菱櫓のあった場所は地盤ごと削り取られて消滅したものと思われまつ…
松本城の整備計画について
http://oshiro-m.info/quiz/q11_4.pdf 6 内堀復元 7 黒門門台石垣の改修 8 市立博物館の移転 9 辰巳櫓の復元
10 古山地御殿跡整備 11 八千俵蔵の復元と周辺整備 12 西南外堀の復元
13 南隅櫓の復元 14 東北隅櫓の復元 15 二の丸御殿の復元 16 北馬場総堀の整備
17 御幸橋付近の総堀の整備 18 周辺景観の整備と町並みの保全
>>913 世界遺産への登録を狙っているだけあってやる気まんまんだな
やる気まんまん度なら、熊本城がトップだろ。
世界遺産の野望があるかどうかは、知らん。
工事業者からの見返りを期待してる政治屋の利権あさり。
>>916 利権だけでない事情もあったりするのだ。
故:宮上茂隆氏の新刊出たぞ
城の論文集もお願いします木岡氏
薬師寺伽藍の研究
宮上茂隆/著 木岡敬雄/編修
920 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 07:13:34
松本城なんてまとまりのない城を完全復元しても見映えはよくないだろうな。特に本丸に櫓が少ないから面白くないだろ。
921 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 07:36:06
移築現存櫓を組み込んで復元した三日月陣屋は一見の価値あり。
922 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 09:18:34
大洲城もそうだが何百年の古材に新材組み込んでも大丈夫なのかな?収縮率が違うだろうからお互いの部材に悪影響がでそうだが。
924 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 07:49:02
日本の木造建築は収縮に備えてゆとりを持った組み方をしているからな
925 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 08:23:32
壁土に隠される部分に切れ込みを入れておいたり
926 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 08:31:21
見えない部分に刺繍をしたり卑猥な落書きを書いておいたり。
927 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 09:08:41
>>924 × 日本の木造建築
○ 韓国起源の木造建築
他国の文化盗むな。
928 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 09:42:53
法隆寺は韓国なんて国ができるよりもずっと昔に建てられたものだからね。
アホかw
はええよw
932 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 18:01:21
総構が往時の状態を残してる城はありますか?
ないんじゃね?
道路とかになって部分的に地図上はっきり分かる、っていうのならちょくちょくありそうだが。
934 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 08:49:03
?
935 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 09:02:24
山城ならけっこう残っていそうだ。
936 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 10:12:57
総構のある山城ってあるのか?
総構って武家屋敷や町を堀や土塁で囲んだものだから山の中には無いと思う。
有名なのは姫路城かな。街中に水堀・土塁・石垣が良好に残っている。
938 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 18:56:37
>>937 姫路城のどの辺りに土塁が残っているのでしょうか?
行った限りは、目に付かなかったのですが。
岐阜城って総構えがあったようなこと聞いたけど。
江戸城は神田川でお腹一杯
総構は町屋敷を囲むものだから城は山にあっても
総構遺構は平地にあるのが普通。
でも常陸小田城みたいに近くの山城を外郭線として取り込んでる城だと
山の中に総構が残ってると言えなくないかも…
943 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:48:29
945 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:06:28
姫路城の土塁なら城の南にもある。
JRや山陽電鉄の駅から北に城方向に伸びる大通りの、大手前交差点のところ。
この交差点の東西の道路はむかし堀だったのを埋めて道にした。この東西の道の
すぐ北側には土塁が残ってる。
946 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:10:46
スレ立て早杉の城壁厨は今でも貼り付いてんだなwww
948 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 09:23:57
姫路城はまちに石垣のこってるね。
あれ結構目立ってるのにな。
>>938 が姫路に行ったときどこを見てたのか疑問だ。
あと土塁だけにこだわるところも。
951 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 17:56:07
>>950 通常の観光では、内濠内しか見てないだろ。
952 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:12:46
それじゃあいくら探したって見つからないよw
953 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:40:01
内堀のすぐ内側に土塁があったように思うが。大手門を入ってすぐ右とか。
内濠の内側にあるなら総構の土塁じゃないだろ?
話がかみ合ってないようだがあんたは総構の土塁を探してるの
それともただ姫路城の土塁を探してるの どっち?
955 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:15:23
内堀内で総構の土塁を探すわけがないというのが常識的判断ではあるまいか。
956 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:32:04
>>954 とりあえず、それぞれの場合の土塁の現存している箇所をまとめた方がよいのでは?
957 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:44:20
>>956 なぜそこまで土塁だけにこだわるw
堀・石垣・虎口は無視ですか?
セットで考えなきゃ意味無いと思うけど…
958 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:50:59
>>956 総構や土塁についてそんなに知りたければ人に聞きばかりせずに自分で調べてみれば?
>>944が示した地図に「市立城内図書館」ってあるだろ?
そこには城郭専門の書架があって関係資料が充実しているから行って調べてみたらいい。
ついでに姫路城の土塁や総構でも見てくるといい。
960 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:58:05
961 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:59:06
>>954が、偉そうに
「内濠の内側にあるなら総構の土塁じゃないだろ?
話がかみ合ってないようだがあんたは総構の土塁を探してるの
それともただ姫路城の土塁を探してるの どっち? 」とか言っているからだろ。
それなら、当然
>>956のように言われる。
>>956は別に土塁に興味があると言うわけではなさそうにみせるのだが。
明らかに
>>954を受けてのレスなだけだろうに。
963 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:02:55
常識的なことを言っててもバカにはエラそうにしてると見えるらしいw
965 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:33:10
966 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:34:31
967 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:43:01
でた〜オウム返しw
城壁厨の登場だw
968 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:48:48
でた〜オウム返されw
城壁厨の登場だw
江戸城の総構えは釣堀になって残っているぞ。
2ちゃん=江戸城総構え?
971 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:37:54
意味がわかりません。
釣堀って市ヶ谷フィッシュセンターのことだろ。
974 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:43:10
陣屋で多門櫓や天守があるのがあるって聞いたけど、本当?
そういえば、陣屋ってなんで陣屋なんて名前なんだろうね?
陣じゃないのに。いや陣なのか?
976 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 09:57:29
陣なのだよ。
園部陣屋のかわいらしさは異常
978 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:43:29
大名の江戸屋敷は一種の陣屋である。名護屋城の城下と同じ。屋敷の四隅に櫓を上げ総多聞構。これは屋敷城である。
979 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:50:32
>>977 園部は新政府の許可を得て城になりましたが。
980 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:51:40
吉良様の城はわずか50人弱の兵により落城したというわけだ。
981 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:15:39
園部は明治天皇の行在所として想定されたから分不相応に格式が高く造営されている。
982 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:20:54
明治天皇の行在所なんて、各地の本陣や豪農屋敷程度の格式だろ。
>>974 松坂城のことだろ。
もともとは歴とした城だったが、紀州藩領になった時陣屋(代官所)にされ
数十年間はそのまま天守も残されてたという。
984 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:52:46
>>974 旧城郭を利用した陣屋は櫓を温存したものがあるそうですな。
985 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 18:42:05
哀れ相良藩。本州最後の本格的築城と言われ三重天守が聳えた。田沼意次の失脚に伴い完全破却。田沼藩奥州へ転封。家斉の贖罪の念から田沼家帰封につき相良城二の丸跡に陣屋を造営する。
987
988
989
990
991 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:54:13
九九一
992 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:32:20
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