1 :
日本@名無史さん:
ということだよぅ
導尿カテーテル2げと
3 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 21:28:57
せんぱ〜い 何だ榎本
4 :
あ:2008/07/15(火) 21:53:18
慶喜はヘタレの側面と教養ある面と両方が全面的にひいでている奴
政権から退いて、内乱さけることが慶喜の役目じゃないか。
江戸城明け渡し、恭順謹慎。ただのヘタレじゃない。
一応、立花種恭が大坂から帰った慶喜に堂々と帰還とすべきか、お忍びで帰還とするべきかの相談をしようとした時、慶喜は微笑を浮かべていて、相談したら大いに笑った、ってのがある。
6 :
あ:2008/07/16(水) 11:44:13
>>5 甘いぜ小僧
第一次聴衆征伐の際の慶喜の采配は完全な過ち
あの時以外長州をぶちのめセル時期はなかった それをあいつは解散した
さらに朝的の汚名を自分が貼られるのを異様に恐れすぎたためのあまりのヘタレぶりに 薩長のB侍どもにつけこまれた
長州なんか朝的になろうが 常にストロングスタイルでメチャクチャつっぱしりゃ いつのまにか維新の功労者じゃん
やってることは暗殺と喧嘩と賄賂と挑発と追い落としと裏工作と毒殺しかやってないのに
7 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:05:49
>>6 慶喜は反対したよ
でも征長総督の徳川慶勝が薩摩藩に進言されて中止を決めたからだろ
将軍や老中も支持しちゃったし慶喜一人ではどうしようもない
8 :
あ:2008/07/16(水) 13:36:19
いいか 一次生長は慶喜が止めた
あいつが自信の影響力を誇示せんがため 解散した
それにあいつは 自分の名誉を考えすぎてる
そもそも薩摩のB侍が どのような考え方かすら憶測をあやまってるから議会制すら実現できなかった
あいつはあさはかなんだよ考えが 。どれだけ展望ある政策をつくってようが
足元すくわれてんじゃはなしにならない
一次生長の際何が何でもつぶさない限り後がないことくらい察せなかったあいつは無能
大政奉還や議会制など後ずけ評価にすぎない
一次生長の際の長州への処分も甘すぎた
保守派雑魚家老のきたねー首三つになんのいみがあんのか
その結果 革新派の台頭を逆にゆるすはめになった
井伊さえ生きていればあんな失対などなかった
井伊の方が数百倍上手
9 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:58:46
家茂が生きていたら大政奉還は無かった?
10 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 18:14:34
今のところ自演だね
11 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 18:16:53
この自演してる人なんか恐ろしく知識が乏しいよね
>>8 元々将軍になりたくなかった奴に何言ってんだよ。大政奉還の五年前に、既に幕府を無きものとみて、の発言してんだから。
13 :
あ:2008/07/18(金) 04:08:58
↑
知識雑魚ばかりよの〜 ぷっ
五年前幕府は無きものとして考えてても あくまで宗家中心の議会制じゃ
四百万石の力をバックに議会で発言力を強めた形があっての奉還 これが前提としての考え
しかし それすらバロスだからえた侍の薩長藩士どもが江戸総攻撃 および幕府暴走での朝敵汚名をきせ すべてを奪うことにぜんりょく尽くした
結果は史実のとおり すべてカBどものおもうつぼに
かろうじて駿府再興許された程度
わかるか低農
もっと勉強しろ小僧
>>13 日本語でおk。全く話が噛み合ってない。
五年前ってのは長州征伐すら始まってない、京都上洛の頃だぞ。
大久保一翁、松平春嶽が随分前から大政奉還を意見してること(ちなみに一翁の案は駿遠三の一大名として)や、幕府無きもの発言、後見職や将軍就任の拒否。
慶喜はねじあげ上戸とか呼ばれたりもしているが、単に潰れるものと思ってる幕府なんざ担ぐ気がなかったんだろ、って言ってんだ。
誤算と言えば薩摩の無法だが、相手を倒すことが目的じゃない奴に、ああすれば勝てていたとか言って何の意味があるんだ?
15 :
あ:2008/07/18(金) 13:46:26
だからな 担ぐ着はなかったのはわかとるんだよ
そのとおり慶喜は封建的象徴の幕府から近代的中央集権的議会政治が必要と考えてたことから 将軍就任はふさわしきないと考えてたんだろう
しかし そもそも長州やサツマイモをつぶす着はないのが打算だといってるんだよ
そもそも小御所会議においてもB侍どもが四百万石没収といってんだよ
そこまでむこうが意志表示しなきゃわからないくらい事態は徳川宗家どころか全てを薩長中心の世の中にしようとしてるということを甘くみてた
といってんだよ
大体金門や調停工作の度々をみてりゃ 潰す以外徳川中心の諸侯議会なんてありえないと判断できなかった能力
あいてにキンキとしての正当性を与えるまでに膨張させ また徳川を一手すら全て出ないほどにまで弱体化するまで長州をほっといたのは慶喜に責任があるといってんだよ
一時成長の際も慶喜はごり押しできる権限あったのにあいつは判断見謝り解散した
あの時全ての時流を察し 潰せるときに潰さなかったからあんなB侍どもの暴挙がまかり通る羽目になったということいってんだよたわけ
16 :
あ:2008/07/18(金) 14:01:36
さらにいえば 鳥羽伏見で あんなふざけた戦いで敗北し さらには譜代の淀や津にまでなめられ入場拒否どころか発砲間でされおいかいされるまでにいたった宗家にしたのは義信そのものだろ
あれをジキサンの暴走というなら それすら押さえられなかったと言うより 簡単にB侍のおもうつぼの展開にはまり またそもそも庄内藩 いや江戸市中すらままならない足下すくわれた馬鹿
そもそもすべてがなってない 徳川中心の議会政治とのぞむなら そこにいきつくにはクロムウェルやシャコバンのような
革命成功後の恐怖政治を行う必要すらあんだよ
そもそもそこにいきつくまでの 宗家構造改革や治安の徹底維持 また藩壊滅もいとわない徹底弾圧
こういった基本の土台すら上の空でなにが議会政治だよ できるわけねーだろ
ある意味ではこれらをはじめようとした井伊の方が数倍先見の目が合ったと言わざるを得ない あくまで徳川家中心という前提ではなすなら
>>16 ああ、まだ前提が微妙にずれてるな。
俺は慶喜がもう徳川中心すら考えてなかったと思ってるよ。ただの中継ぎ的役割。
一番恐れたのは国内二分化、列強の介入だろ。薩摩がイギリスの傀儡になっては意味がない。
外交にも一応道をつけている。
明治政府に慶喜を参加させなかったのも妥当だと思ってる。政治が変わったことを知らしめるのに慶喜が中枢にいては意味がない。何もせず、生き延びることに意味がある。
甘いと言えば甘い。確かに潰せるときに敵を潰してない。というかあれは明らかに薩摩の暴走、無茶のしすぎだろ。
水戸と長州の盟約も、父の盟友、薩摩の成彬の意思もどこか信じてたんじゃないか。
18 :
あ:2008/07/18(金) 15:19:25
君は反論しがいがある意見だから俺クラスがいまから享受してやろう
すこしまちたまえ
19 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 15:57:45
日本語でお願い
20 :
あ:2008/07/18(金) 16:12:02
あのね そもそも慶喜はあくまで徳川を四百万石のバックボンであくまで主導権の元の議会こうそうであったから大政奉還をいともかんたんに応じた
西周による大統領議会政治をきいていた慶喜は 戦中ハッサクとあいまって この大統領になろうとかんがえていたのが慶喜
なぜなら爆心や譜代審判含めれば間違いなく外様より有利な立場で議会に参入し また新時代で舵をとることもできる
あくまで一大名であっても 徳川の一門である以上徳川主導で政治を あらたな中央集権国家形成をたくらんでいたのは 西周がまとめた議題草案でわかる
しかも その気があるのも慶喜の行動からも伺える
例えばトウサツの表 確かに旗本の面目もあったろうし 押さえられなかっただけではない
徳川一門としての最後の意地と誇りを感じられる でなければ絶対自ら出陣するはずがない
しかしさらに甘さが路程
まさかキンキが 官軍がなるとまで想定してなかった 調停工作での甘さ さらに敵はB侍だからと見下しすぎてた嫌いがある
慶喜は後見色の時代と将軍就任後ではまた違う
特に就任後はやはり一門として徳川の面子も保とうとする部分と また自分かわいさに とにかく朝敵の汚名で後世に名を残したくないという保身が全面にでた施策がすべて裏目裏目にでたという形なのだよ
日本語で頼むよ
何を議論してるのかもわからないよ
>>20 で、どこから慶喜の意思が伺えるわけ?
西周は西周。
十五代将軍拒否の時点で一度は政権が朝廷に返ってるはずなのに、ほとんどの大名が召集に従わなかったというのがある。結局は慶喜がやりたくもない中継ぎをやらざるを得なくなった。
大政奉還てのはあの時点で成り立ったにすぎんのだよ。案なら一翁からも春嶽からもすでに随分前から出てる。政争の延長でわいたわけでもない。
自分で出向いたのは、追い出された会津、桑名の鎮静、岩倉達との交渉のためだろ。
敵である慶喜に金を何度もせびるほど緊迫してたんだ。慶喜はそれに対して金を秘かに渡してるし、フランスのロッシュの加勢も断ってる。
京都を戦場にするつもりも、財政がわからぬほど話の分からぬ相手でもないと思ってたんだろ。
先鋒の滝川隊など八十人しかいないし、装備もろくでもない。やる気なんぞはなからない。
徳川の面子のため、がどこら辺を指すかはわからんが宗家を継いだ以上ある程度はあたりまえ。幕僚なんざ味方と言いがたいし、大奥とか大の慶喜嫌いだろ。
朝敵の名も保身以前に、尊皇を中心にした当時、迂闊に朝廷を巻き込ますことができないのは当たり前。内乱にする気かよ。
で、もう一度聞くがどこら辺から慶喜の意思が汲み取れるわけ?
23 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:10:58
漢字変換が出来無いアホが暴れている
24 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:13:42
「あ」って奴は分裂症か?日本語が書けてない!
25 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:19:46
日本語だけではなく征長についても間違いだらけだよ
まずはこのくらいは読んでからにしてほしい
長防追討録
防長回天史
吉川経幹周旋記
督府征長紀事
征長出陣記
基本的なものだから是非読んで
26 :
あ:2008/07/18(金) 18:27:17
いいか 慶喜は幕府という組織が必要ないと考えていたのはお互い共通した認識
しかしなぜ必要と考えていたかの認識が違う
そもそも慶喜は将軍になって 自分の名と権限で諸侯の会議を召集さ 海港チョッキョなどをえようとしてたのは紛れもない事実
おさらいすれば後見色だったけろはサンキン交代緩和や賄賂厳格制限や幕府の軍政近代化に熱心な一面みせてる これは幕府に望みを見いだしてたということがわかる
でも一時成長で 幕府内部の無能と無駄に絶望したわけだ
しかし現状言えば 二次成長で長州一般の反乱鎮圧すらすることかなわないシニタイの瀕死の幕府
現実はどうにもこうにもならないとさとったうえでの切り離し
しかし 由伸はあくまで宗家中心で政治を納めようとしてるのは 自分が議長という形での政治をあくまで宗家の財力と権威を 一大名家という枠に落としながらも維持下形で外様を牽制しながら中央集権国家の名手になろうとしてたのはあきらか
必要ないのは幕府という政治機構のみ
こういうことなんだぞ!わかるか?
27 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:28:57
28 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:31:05
29 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:33:30
なんか新書を一冊読みかじりましたみたいな感じだな
30 :
あ:2008/07/18(金) 18:39:23
なにが親書だぼけ はじめから主張がいっかんしてんだろかす
俺はさっきまでファンキ〜フライデーきいてたんだよ たこ
はなしはもどるが その長州正当の際 慶喜が解散させ 自分の影響りよくたかめようとした行いこそなによりの証拠だろ
31 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:39:25
「あ」は、日本語でok
32 :
あ:2008/07/18(金) 18:46:30
>>26 日本語でお願いします。
わかりません、というか、わからす気ないだろ。
俺が言えたことじゃないが、論破するつもりなら細かく書けよ。
慶喜はこういう人間だから、と、ただ単に自分の慶喜像を先にして語ってるだけじゃねえか。事実との因果関係がほとんど見えてこない。
中継ぎの意味わかるか?
やるべきことは代わりの新政府ができるまでやるのが役割と言える場合もあるだろ?
議会を開こうとしてもどいつもこいつも動こうとしなかったり、薩摩みたいに自己勢力をはろうとしたりの状況なんだから。
明治政府がどれだけ幕府の施策を吸収したと思ってるんだよ。
34 :
あ:2008/07/18(金) 19:04:21
だからな?明治政府が吸収したのは当たり前だろ
新政府のB侍など なんの政治的高潔さなどなく ただひたすら権力ダッシュの門閥願望しかないから 暗殺 火付け 毒殺 暴動 合戦 工作 賄賂
こんなヤクザしかしてねーじゃん
そもそも小御所会議で 幕府の草案に対抗して出した参与制なんて どうしようもない次元の低いものじゃん なんもかんがえてねーから幕府の草案を吸収していったんだろが
なんどもいうが中継ぎなんて気持ち由伸はねーつの
あのな なんども慶喜は自己求心力えんがための工作なんどもやってんだろが
なんで中継ぎ意識の政治だと思うわけ?
ダメダメだよ 中継ぎなんてってるようじゃ
由伸は さいごまであくまで議会での議長として 徳川宗家の看板やバックをりようして また自己のカリスマ性を高めて求心力をたかめて 独裁政権を民主議会政治という名の中で独裁政権をきずこうとしてるていてをだよ
だって事実として慶喜がおこなってきたことは説明が付くじゃん
35 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:05:42
小御所会議w
36 :
あ:2008/07/18(金) 19:08:21
なにがおかしんだ
37 :
あ:2008/07/18(金) 19:12:52
まとめれば 慶喜は幕府という組織を必要としていなかっただけで
徳川家という看板は最大限利用しまた価値を高め 威厳と権威で明治での政治を、中心として暗躍していこうとしていたということ
>>34 人の話を聞かない奴だな。人に説明したきゃ例示をしろよ、例示を。
それは違う、の一言で終わらせてやろうか?
てか、不毛すぎる。そんなんならさっさと帰れ。2ch初めてだろ?
39 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:21:15
また自演だね…
40 :
あ:2008/07/18(金) 19:21:35
なめんじゃねーぞかす
論破王だぞ 例示て だからいってんだろ 長州正当解散 これこそ自分のカリスマ性を また求心力をたかめようとしたなによりの行動だろぼけ
何億回いわせんだよ
41 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:29:31
長州征討解散?
42 :
あ:2008/07/18(金) 19:31:08
それ以外なんかあんのかよ 聞き返さなくてもそれしかないんちゃうんかい
43 :
あ:2008/07/18(金) 19:34:36
そういっとるやないか〜〜い♪
44 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:37:42
人権板にお帰り下さい
45 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:47:19
>>40 「あ」こと「論破王」は、ルールをお守り下さいね
>>40 いや、それがどうカリスマ性に繋がって、主導権握ろうとしてることになるんだよ。推測を偉そうに語るのが好きなら数億回でも語ってろ。
列強の下関砲撃くらい知ってるだろ。内部分裂なんかそうやってられない。
あとはただでさえ薩摩と一緒に名声上げて、幕臣からの疑心を高めてるから無理に動かないのが普通。
身内の水戸の天狗党もその時期に暴れてんだからそんな温い立ち位置じゃねえ。
47 :
あ:2008/07/19(土) 02:59:05
わかんねーやつだな
なんで憶測なんだよ
慶喜は後見色時代の構造改革着手も 成長解散も なんの意味や意図が含まれてると思ってんだよ
もう少しおまえはちゃう学時代の教科書からよみなおし また考察する力をやしないたまえ
後見時代に目立っても幕臣からの疑いを強くして、立場悪くするだけなんだけどな。水戸の子と思われてんだから。
征長解散も何らかの利益のため、というよりは、ただの現実的に捌かねばいけなかった問題、という色が強い。列強に対しての考えが甘すぎ。
そっちがそう思うって言ってるだけで、その理屈は納得に足りないよ。いうならもっと細かく取り上げな。
君はまず人の話を聞く気と聞かせる気と基本的な国語力から学びなよ
自分の史観が絶対に正しいとは思ってないけど、論議にすらなってない。
というかもう面倒だから近代史の方の慶喜スレいって好きなだけ叫べば?
49 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:51:53
>まずはこのくらいは読んでからにしてほしい
>長防追討録
>防長回天史
>吉川経幹周旋記
>督府征長紀事
>征長出陣記
こいつが読めるわけないだろ
長期的に日本の国益を考えて云々という説があり、俺も傾倒したが
どうにも徳川慶喜を知れば知るほど単なるヘタレ(それなりに賢い、要はお前らに近い)としか思えなくなった。
同様の理由で徳川家光も。
日本の将来をどうこうではなく、
単に無知な外国嫌いだったからあそこまで徹底した強行外交が出来た(使いに来た欧州人を皆殺しにしたりした)。
本当に日本は運が良かった。
欧州列強の本気の怒りを買ったら、鎖国しようが何だろうが日本は雑多なアジア諸国の一つになってる。
「資源や奴隷を求めるなら他の東南アジアのほうが早いし、気候も温暖でいい。バナナおいしい。新大陸オモロイw」などの理由もあったのだろうが。
(我々には分からない感覚だが、白人は「温暖な気候」に並ならぬ楽園的価値を感じるらしい)
51 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 10:19:18
ほとんど大樹御名代の時の話だな
52 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:41:41
昔クルセイダーっていうキチガイが居たけど、あを見てそいつを思い出した。
クルセイダー?そんなの知らね
54 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:04:27
「あ」=クルセイダー=アジアシステム開発=水野陽子
いや、たぶん2ch初心者だろ。名前にあなんて入れてるのがどうもなあ。
頭悪いやつにはまったく興味ないな
江戸時代における庶民の苗字帯刀についてのスレに要らないよ
どこにもいらね
58 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 04:24:17
>>56 と寝言ほざくお前が誰からも相手にされていない件
59 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 05:38:23
相手にされるとかされないとか気にしてるなんて加藤みたい
長州一藩相手に返り討ちにされ(彦根などボコボコにされて逃げ帰り)た幕府の軍事的実力の
現実では諸藩との協調によることでしか幕府の存続はできなかったのが当時の幕府の現実。
それを理解できずに幕権独裁に拘り諸藩との協調を切り捨てた幕府は自滅せざるを得なかった。
長州と戦争しているのに旧紀州派の連中が大奥とくっついて慶喜のネガティブキャンペーンずっとやっていたんだもんな
こらダメだと割り切っちゃうのはまあ仕方ないかも
63 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:30:47
第二次成長期に高橋由伸が聴衆を盗撮した・・・・まで読んだ。
大阪から逃げた言い訳まだあ?
日本近代史板の慶喜スレ落ちた。だれか新スレ立ててはくれまいか。
自分は規制かかっててたてられない。
67 :
1:2008/08/14(木) 14:07:51
櫻井朔太郎(織田裕二)が担任する3年1組の優等生、
澤水羽菜(谷村美月)と楠木大和(冨浦智嗣)が恋に落ちた。だが、
心を通わせたと同時に、微妙なすれ違いも始まる。
自分の心に一段落つけたとクールな大和に対し
羽菜は恋のスタートで受験勉強に感じていた
疑問が一気に膨れ上がっていく。
次の日、模試でトップテンに入った羽菜は全校集会のスピーチをさせられる。
スピーチ用の原稿は、柴草修平(八嶋智人)から渡された。しかし、
壇上に立った羽菜は渡された原稿を読まず、
自分の言葉で勉強への疑問を問い始める。
教師陣の制止も無視して、次々と疑問をぶつける羽菜。
異変に気づいた根岸洋貴(岡田洋貴)たちも、
羽菜を止めるよう側にいた櫻井に頼む。だが、
櫻井は生徒たちに話を聞けと促し、
壇上から強制的に降ろされる羽菜にただ一人で大拍手を送る。
68 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 21:22:34
池田慶徳ですが七郎麿は乱暴者の単なるドキュン
慶喜を嫌うのは腐女子
70 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 06:02:52
71 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:02:37
徳川慶朝の「徳川慶喜家にようこそ」を読んで、慶朝と慶喜が大嫌いになった。
らんらすれ
74 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:28:05
親藩・譜代の戦力を統合して、長州・薩摩の維新軍と決戦すれば勝てたんじゃねーの。
幕府だけでも200万石あっただろ。
慶喜自身が広島まで出陣して、幕府・佐幕派軍を指揮してれば
萩は落ちてたな。少なくとも、大政奉還する必要なかった。
帝が統幕の綸旨出しても足利尊氏みたいに無視して、
佐幕派総結集して、京都を攻めればよかった。
75 :
あ:2008/10/28(火) 12:05:01
↑
広島遠征はいつの時代なら可能だといってるんだかわからないが、
そもそも慶喜が頭がいいのと また深く後先を考えすぎた結果の値首かかれた失策の実行力ではちがうが、
まずいえることは一次成長の時以外は幕府は現実的に勝つことはできない
なにしろ甘すぎたのが慶喜
一次成長の際 叩けるときに長州ごときの虫けらの集まりの藩など根絶やしにすべきだった
そうではないなら改易か また斗南あたりに転封すべきだったよあんな腐れ人間どもの家畜州ごときは。
それに反発したなら根絶やしにしてやればいい
諸般が不満漏らすなら 合図、桑名 庄内 京都所次第、旗本、大阪城代藩、摂津防海総督府、これらだけで津和野口、芸州口から攻め、
また下関から小笠原、幕府海軍のみでも一次成長なら根絶やしにできた
二派に、旧式の譜代や審判を後発にせめさせ、取りあえず皆頃しにすべきだったよ
長州藩主親子は謹慎させ、藩に預からせておき、沈静化するまで監禁する
いずれにしても 大政奉還は免れないだろうが、しかしさほど江戸時代とかわらぬ時代が続けられた。 小作の末裔ごときがタメ口聞く世の中なんてまっぴらだぜえ
取りあえず 長州だけは 長州だけは 長州だけは 何が何でも一次成長の際、藩主親子以外は一人残らずあの世に送るべきだった
あの時ならできた あの時以外はできなかった
>帝が統幕の綸旨出しても足利尊氏みたいに無視して、
>佐幕派総結集して、京都を攻めればよかった。
そう言う人種でないからこそ将軍後見役にもなれ、孝明天皇にも信頼されたわけで。
慶喜は骨の髄から尊皇思想の本家のエリート教育を受けた人間だから
長州の自己流尊攘志士とは毛並みが違う
経済危機に対処した玄人政治家のブッシュ父政権が、
成果が出ないうちに負けて素人のクリントン政権に政権を譲って下野したのと一緒で
よく危機に対処したのに責めを問われるのは、理不尽なことでもないかも知れない
77 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:02:06
>>74 幕府の直領が400万石だが、兵として役立つのはゼロで、
ゴロツキなどから、あらためて幕府歩兵隊などを作っている始末。
旗本8万騎のハズだったんだけどね。
78 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:22:03
旗本は長年の都会生活で文弱で遊惰な高等遊民と化していた。
しかも直参として貴族的なプライドも無駄に高かった。
いまさら足軽なみに鉄砲かついでオイチニなんてできない。
蘭学や洋学かじった若手が士官になったほかは、軍事なんて他人事だった。
長州征討のときも、動員を恐れて若隠居した連中が多かった。
大坂まで行った連中でも、食べ歩きや名所見物など観光気分の者がいた。
79 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:23:26
>69
徳川家のために江戸城に立てこもり自害するつもりだった篤姫などは
徳川慶喜が大嫌いだったらしいが。
篤姫は腐女子なの?
80 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:27:03
旗本も様々だからな
勝海舟のような小作出自 榎本 川路としあきらなど みんな御家人株で成り上がった出自小作だらけ
小栗くらいだよ名門生粋は。
81 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 12:33:35
大将に向いてないと言われても仕方ないことをしちゃったけど、
政治家としては優れてたと思う
83 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:01:40
政治家としては〇
将軍としては×
ヘタレだけど同情の余地はある。
>>79 大河板レベルのレスだね。
もともと大奥は水戸家嫌い。
85 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:38:30
慶喜があと5年、将軍を放り出したりしなければ、時代劇も深みが増したことだろうな
86 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 18:23:51
慶喜が大坂城で泰然自若として、どっしり構えていたら、朝敵にはならず、
土佐や越前の工作で新政府の首班として迎えられたよ。
徳川宗家を中心とする雄藩連合の形で、事実上、徳川政権を存続できた。
慶喜は事ここに至るまでの行動があまりにも不定見過ぎるからな
徳川政権存続と言うなら小笠原長行の率兵上京の時がチャンスだったのではあるまいか
88 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:05:32
大阪に本陣置くのが間違いだろ。遠くて戦況がわからない。
前線近い広島に布陣して、幕軍数十万で攻めれば、第二次も勝てた。
にしても、こういう時の為に各地に大藩として配置させておいた
親藩がなぜ活躍しない?
紀州・尾張の兵力だけで、長州・薩摩の維新軍を圧倒してるはず。
89 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 14:16:00
負けて威信を失ったのに、空気読めずにいすわろうとして失敗した安倍
政策手詰まりで当事者能力喪失で逃げ出した福田
もはやこの先見えないと、各藩閥が勝手ばらばらに動き始めた麻生
90 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 14:27:54
いかに徳川の代紋がいかに地に落ちていたとしても
大阪城から単身にげたらあかんやろ??? あれはあかんがな。
将軍が逃げたらあかん。
91 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 14:33:18
>>88 尾張は薩長土肥に続く芸尾の一角
三条実美文書に越前の松平春嶽について
「王政復古一挙の際には土芸尾三藩と共に廟謨を賛成これあり」
92 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:31:35
親藩・譜代が、幕軍に参加しなかった理由は?
戊辰戦争でも本来は佐幕派が勝てたはず。
93 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:51:40
>>91 越前と土佐は徳川寄りだよ。
実際、小御所会議のときも、そのあとも慶喜を擁護して、
慶喜の復権寸前まで持ち込んだし。
尾張は藩内でも佐幕派と反幕派が抗争してたけど、
宗家の押し付け養子や幕府独裁に反発してたわけで、
公武合体路線に変わりはない。
芸州は微妙だが、中立的で状況次第で越前・土佐陣営に転ぶ。
94 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 02:40:08
>>88 >紀州・尾張の兵力だけで、長州・薩摩の維新軍を圧倒してるはず。
ボケにしては面白くないな。
ミニエー銃と、その派生銃は、それまでの銃に比べて3倍の有効射程(約270メートル)、
しかも藩内抗争で戦慣れし、西洋の近代兵学(歩・騎・砲兵士官教育)で武装した長州に勝てるわけがない。
(尾張藩などは慶応三年の時点で小銃8千丁あったが、全て前装銃)
慶喜の好物。
牛肉・豚肉、鳥撃ちの獲物、毎朝朝食前に,甘い焼き味噌をまぶした田楽、
ドラ焼煎餅、富士見軒の西洋料理、永坂の更科の蕎麦、鯛の目玉の佃煮、
鯛の塩汁、お菓子は「風月堂」の特製品、ベッタラ漬、「ハマヤ」のふき豆、
お雑煮は小松菜入りの鴨(本鴨)雑煮、春には,土筆ごぜん、雪が降ると雪見豆腐、
刺身は白身か鮪、煮魚は鰈、青魚は嫌い、日曜の朝はパン食、バタートーストと紅茶、
時にコーンフレーク、味噌汁には砂糖を入れる、鯛、鰹、鮃などの刺身、雲丹、海鼠、
鶏卵の半熟、酒はかなり飲んだ、保命酒、少量の白葡萄酒、桑酒などを晩酌に、
煙草は薩摩の刻みを少し…
慶喜が食やセクースの快楽に惚けるために幕府は滅んだ…
こいつの怯懦な小市民根性はとても醜い。
96 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:29:11
慶喜が大政奉還拒否して、幕軍が京都制圧。討幕派公家、萩へ亡命。
薩摩軍が北上して、萩で長州・肥前・土佐軍と合流。木戸を総帥とする維新軍結成。
全国各地から親藩・譜代・佐幕派外様の軍が大阪に集結。幕軍、数十万に増強。
広島あたりで、維新軍対幕軍の決戦(第二の関が原)行われたらどうなる?
97 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:32:20
それにしても、親藩・譜代の幕府支持が薄いのが気になる。
この時代もう将軍の威光はなかったのかな。
98 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 13:11:14
時の勢い、時代の流れに大名ごときが逆らえるわけないのよ
99 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 14:26:55
>>97 御三家の水戸家が尊皇の総本山だったものな。
現代の俺らだって人それぞれ色々考えて、必ずしも外面的な型にはまらない行動をするように、
昔の人も色々必死に考えて、必死に生きていたわけだね。
100 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 15:54:51
肥前が薩長にくっついた時点で趨勢は決まった。
肥前が保有していた近代兵器は半端じゃないからね。
当時の日本で唯一、洋式軍艦の建造能力があった(というのはチト大げさだが)ほどの技術力があったのは事実。
101 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 16:48:07
大阪の陣の豊臣家みたいに幕府が恭順拒否して、
江戸城に立てこもって、佐幕派の大名に挙兵促したらどうなった?
維新軍が江戸包囲しても、落城しなかったかね。
>>97 14代将軍を決めるときに家茂支持の南紀派と慶喜支持の一橋派に分かれて
結構争ったから、親藩、譜代、旗本の中でも慶喜を支持したくない人物がいた。
結局は家茂が14代になったが、大阪城でころりと死んでしまった。
これも毒殺説があるから、対立と反感が原因ではないかな。
103 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:12:04
大阪で篭城すれば勝てただろう。
紀州・尾張から幕軍集結させればよい。
そして藤井寺から紀州・尾張軍、
城からは慶喜軍で、維新軍挟撃。
104 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:49:44
>>103 数があっても、兵器の質と戦術が違う。(極端に言えば、竹槍と機関銃)
但し、大阪城に籠城されると、多少は面倒だ。
尾張藩などでは藩祖自体が尊王で「王命によって催さるる事」という遺命があり、
朝廷の前では将軍家も尾張徳川家も同格というのが代々の立場、
鳥羽伏見での幕軍の敗報が伝わるや、名古屋ではすぐに、京都(朝廷側)に派兵しようとしたほど。
なので尾張が幕府側で戦うわけがなく、また、紀州藩のヘタレぶりは芸州口の戦闘で証明済み。
(敗走する味方の姿を、突撃してくる 長州兵と見間違えて、戦わずに敗走)
既に、藤堂や稲葉(淀城)なども裏切っているわけで、朝敵となった徳川宗家に付くハズがない。
105 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 09:08:46
いや、足利尊氏は朝敵となっても全国の大名がついて、朝廷軍を倒した。
源氏も、安徳帝を擁する平家を孤立させ、帝もろとも滅ぼした。
幕府も、武家政治継承を旗頭にすれば、朝廷に勝てる。
実力こそが、武家を従わせる。武門が皇位より強いのが歴史が証明してる。
106 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 09:30:15
>>105 それはそうだが、慶喜に「武家政治こそ天下太平の王道」と宣言する能力がなかった訳だ。
室町幕府初代尊氏と江戸幕府最後の将軍を慶喜を比較することは慶喜にあまりにも気の毒。
結局慶喜は思い切りが悪かったんだよな
責任を取りたがらない性格と言うか
アホだが自分で責任を取れるだけ親父の斉昭のほうが全然まし
軽薄才子というだけでも無かろうと
色々と調べてみると
やはり軽薄才子だったのかという結論にたどり着く。
非凡だったのは間違いないだろうけど、トップよりNo2〜3くらいが似合う人物だったよなぁ・・・
日本人ってこういう奴多すぎ。安倍元首相も官房長官時代の方が輝いてたよ。
110 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 22:40:59
錦の御旗と言っても、政治的謀略の産物。慶喜はナイーブ過ぎる。
御所を奪還すれば、幕府が朝廷側。
長州藩など長州征伐で、実質、朝敵になったが、すぐに天皇側で、倒幕。
111 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 22:44:40
それにしても、切腹寸前まで行っていた慶喜が、赦免後は、累進して
公爵。切腹と公爵は、紙一重だな。
中国なら、徳川宗家の墓は全部暴かれるw。
慶喜が爵位を賜ったのは、爵位令が出て直後ではないし。
それまでの慶喜の娘たちは、駿府を離れて華族女学校に通うために
宗家の千駄ヶ谷御殿の厄介になっていた。戸籍も家達の家の中。
「別座敷」のお姫様、とか言われててね。肩身の狭い居候。
と、言ったところで老女に乳母に囲まれて、
おつきの女中つきで人力車で通っていたお姫には違いないんだが。
寛永寺・増上寺にはお墓造らないようにということで、谷中にお墓造ったはずなのに
谷中の慶喜公墓地は寛永寺管理になってるのね。
親父の斉昭は別にアホではない
着眼自体は当時一級で、物事を円滑に進める力が欠けているだけ
補佐の会沢や藤田が消えたのは痛かった
正直慶喜が何を目指していたかが見えんと何が正しいのかはわからない
朝廷を利用して政権を維持できても、朝廷の権威を落とすことや国内を疲弊させることの方が慶喜にとっては大敗北だったのかもしれない
115 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:15:25
水戸藩が派閥争いで消耗していたのが痛かった。
本来なら全国でも指導的立場にある藩だったのに。
慶喜も水戸藩の力をバックにできていれば、もうちょっと違った手を取れたかも。
水戸はかえって慶喜の邪魔になる気がしなくもない
幕府内の支持基盤が薄いのも水戸生まれのせい
天狗党の乱は慶喜を窮地に追いやった最例
部外者に崇められ、部内者に敬遠される慶喜の立ち位置は異端
117 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:08:08
>>93 芸州藩はありえんね。
あれは第二次長州征伐のときに、すでに実質長州側だった。
118 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 01:28:13
水戸藩は将軍にならず、幕府が滅びた時に、帝に仕え、徳川を絶やさないための保険機構
はいはい後付後付
薩長以上に倒幕に貢献した藩に対して失礼です><
121 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:28:34
へタレに見せかけて、戦乱を回避したのだから、頭の良い人だよ
ヘタレだろ
小賢しい頭の良い人ではあろうけど、ヘタレなんだよ。
むしろ恭順を貫ける分、肝が太い
カッとなって玉砕するパターンなんか歴史にはいっぱいあるし
有栖川宮家の外孫だから
127 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:18:14
幕末を書く人間って、学者から小説家まで「慶喜は○○を裏切った」って言い方が好きだよねー
実際にはその○○(薩摩・一橋派・旗本御家人・大奥・会津・勝海舟・家茂・天狗党…)
に裏切られまくりふりまわされまくりの人生だったってのに。
128 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 15:11:30
ヘタレかどうかは知らんが、剛腹でないことは確かだ
>>127 薩摩は徳川潰す気だったんだから裏切られたはおかしいだろw
勝に関してはむしろ感謝すべきだと思うんだが。
はて?会津や家茂にいつ裏切られた?
っていうか裏切った回数の方が遥かに多いと思うんだが。
>>127 旗本御家人はむしろ慶喜に裏切られたような部分はあるし
大奥のことを軽んじてたくせに、謹慎前は頼み事をしにおもむいたり
家茂も勝も、かえって慶喜に振り回されたんだと思うけどね。
その時々の場当たりで、周囲を翻弄してたのは慶喜のほうなんじゃ?
旗本御家人は幕府存続時は一切幕府に非協力でおまけに慶喜の側近を斬殺した
存在自体が慶喜への裏切り
大奥はこれはもう存在自体が害悪なんだから疎まれるのはアタリマエ
幕府に寄生してさんざん贅沢したんだから頼み事の一つや二つ、罪滅ぼしに聴くのもアタリマエ
つうか自分も死にたくなかっただろうしな篤姫も。
家茂
無能なくせに慶喜の足をひっぱることだけには異常なバイタリティーを燃やす
勝
幕臣が将軍のために尽くすのは当然
会津は大政奉還に反対し、鳥羽伏見ではゴリおしで出陣してボロ負けし
幕府朝敵化の糸口になった。
薩摩にいたっては、慶喜が頼みもしないのに将軍候補や将軍後見職に祭り上げ、
そのたびに慶喜の幕府内での位置は最悪になった。
そのくせ薩摩は慶喜が自分の思い通りにならないと見ると逆ギレした。
まあ、これだけ書いても「長文乙」とかで絶対に受け入れないんだろうけどね。
132 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 10:13:45
大政奉還って結局やらなかった方が幕府の寿命は延びたかな?
133 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 18:18:12
>>132 大政奉還をした時点で幕府はなくなるということだから、
しなかったらその分は寿命は延びた。
薩長が倒幕の密勅を出してから、幕府と薩長で戦になってただろう。
134 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:57:28
大政奉還してなければ天皇強奪のクーデターは防げたかも知れないな。
大政奉還していたから大義名分無く御所を固める強行策に出れなかったんだろう
>>131 慶喜贔屓は少数派なんで大変だね。
啓蒙活動ご苦労さん。
136 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 04:50:09
慶喜を薩長は「徳川家康の再来」とか言ったそうだが
どこが似てんだよw
普段冷静でも戦になると熱くなる家康・・・普段口数が多いくせに戦になると逃げ出す慶喜
優秀なブレーンが多くいた家康 ・・・家来から恨まれた慶喜
平和な世の中の制度設計をした家康 ・・・自分の老後の保身第一だった慶喜
全然違うじゃん。
137 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 05:34:52
似てる!安倍晋三に!
参院選で惨敗、テロ特措法の更新が困難になると辞任でトンズラ!
衆議院の力で強行策採れば良かったのに!
兵力残しながらトンズラした慶喜と同じだね!
>>136 篤姫スイーツの方ですか?
学問系の板では恥をかくだけですよ
いや別に間違ってないだろ
篤姫は駄目な大河だったけど慶喜は大体あんな感じじゃん
恥の上塗り
141 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 16:12:38
結局は切腹もできない超ヘタレ
江戸に逃げ帰った時点で、腹切って首差し出して
徳川宗家の安泰と幕府軍恭順を願えば、薩長も大義名分をなくしただろう。
慶喜をただ批判するだけなのはどうもって思うけど
それに反して、やたらに賢明だの英邁だのと持ち上げるのもな・・・
そんな失礼な!
秀忠以来の愚妹でない将軍なんですから><
お前は愚昧だな
>>141 篤姫脳ですか?
大政奉還し、謹慎しただけでも薩長に大義名分はなくなっている
江戸城に籠って戦闘したなら褒めるのか?
池沼家定と歯抜け青びょうたんの家茂の負の遺産を受け継いだ以上、どうしようも
なかったろうに。
147 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 00:01:23
>>146 今の小泉の負の遺産みたいなもんだよな。
タイミングが悪かったとしかいようがないと思う。
148 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/25(日) 00:17:30
平和になっても毒殺を恐れてて、毒があるかどうか食物を火に炙ったりしてたらしいから恨まれる覚えはあったんでしょ。
どうでもいいけど部下を見捨てるリーダーなんて日本史上にはたくさんいるから、慶喜なんてよくいる冷たいリーダーにしか見えない。
松平容保が無責任な好戦主義で周囲を巻き込み、慶喜は政治家としては彼のせいで全てを失ってしまった。
長州のテロリスト退治しただけじゃん。
薩長なんてアルカイダと一緒。
151 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:52:11
>>150 テロが長州?
日本史を勉強しましょうね。暗殺の主体は土佐勤皇党、特に岡田以蔵。
他には薩摩の田中新兵衛が有名。
ちなみに、幕末四大人斬りは河上彦斎(肥後藩)、中村半次郎(薩摩藩)、岡田以蔵(土佐藩)、田中新兵衛(薩摩藩)。
152 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:53:19
>>151 長州は御所を攻撃した朝敵
王政復古の大号令まで朝敵
偽勅のおかげで官軍気取り
>>153 今は岩倉具視らが工作してニセの勅命を出させたと分かっているけど
戦前にそれはタブーだったの?
京都守護職松平容保に絶大なる信頼を寄せた孝明天皇。
息子の明治天皇が松平容保を討て!では絵に描いたような親不幸者だな。
156 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:39:46
>>153 >長州は御所を攻撃した朝敵
それは、「変」(戦)であってテロではない。
暗殺は土佐や薩摩が得意?だけどね。
157 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 19:30:16
>>156 襲撃ならば、水戸も加えられるな。
何しろ、時の大老井伊直弼や、老中安藤信正を襲撃したり、
外国人や公使館もしくは領事館等を襲撃したりしてるからな(^-^;)。
山口県人はアルカイダと同等以下。
土佐や水戸はせいぜいがハマス程度だな。
159 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:23:53
>>145 その後鳥羽伏見を起こしたのは幕府なんだけどw
英雄・名君では無いかもしれないが
十分賢明な政治家だと思う。
内乱の危険性を自覚してただけでも立派だよ。
現代でさえ、外圧に頼って政権交代しようとするアホがいるくらいだよ。
外圧に頼って政権を維持しようとするって自民か
自民も公明も民主も死ねばいいのに
>>159 へ?
最初に攻撃したのはどっちだ?
ニセの錦の御旗まで用意してさ。
スイーツ全開か?
163 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:06:49
先祖の光圀や斉昭は将軍経験者じゃないにも関わらず正一位を与えられた
慶喜は実権を失ったにも関わらず公爵
その血統も公爵や子爵と優遇されている
これが最期の将軍に対する明治政府=同時代人の評価なんだよ
水戸は天皇シンパだからね。
代々、身内の公方様より天子様の方が大事だったんでしょ?
幕末の人間は普遍的に尊王の思想を持ってたけど
天皇家の威光を利用しての政治工作はどこの勢力でもやってるよな。
討幕派側に朝廷工作に負けて朝敵にされたのは当時から知られていたんだから
慶喜は「皇室に刃向かう気はない、それを利用した討幕派側の方が悪い」と言って抗戦できなかったの?
君側の奸を討つって奴すね
まあ自分でけつ捲くっちゃったし勢いも相手側にあるしで
諦めて自分の待遇を良くする方に方針を切り替えたんじゃないの
167 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:05:13
慶喜はヘタレだろ
総大将なのにこっそり逃げ返るとは…
どう考えても大坂城で踏ん張るべきだった
168 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:09:37
水戸学正統の慶喜公に
錦の御旗に弓引けるわけがない。
ヘタレとか失礼なことを言うな。
169 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:15:20
慶喜公が徹底抗戦していたら
大阪、江戸は灰燼に帰し、
日本の近代化は50年は遅れただろう。
170 :
國學院大學卒:2009/04/12(日) 18:36:00
慶喜公はガチの水戸尊皇派です。
歴代将軍の中で神式葬儀を
挙げたのは慶喜公だけでしょう。
>>169 つか、列強の植民地だろう。
男は奴隷で、女はあひゃひゃ
172 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:04:21
だね。植民地になってた
可能性は高い。
>>168 慶喜は有栖川宮家の外孫だから
それまでに将軍とはちと違うわな
174 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:39:50
植民地になってた可能性大。
今頃フランス語かな、俺ら?英語?
175 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 16:57:09
スレ最初のほうにあった「あ」と名無しの論争って
ようするに慶喜の理知的な判断によって引っ込んだのか
へたれだから引っ込んだのか
って感じだろうか?
結局慶喜ってどっちが近いん??
176 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 18:08:54
>>171-172 維新から80年もたたないうちに、アメリカ軍に国土を蹂躙されて
事実上の属国になっちゃったけどな。
植民地化が80年遅れただけのことだろ。
177 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 19:14:46
ヨーロッパからだと日本は一番遠いからコストがかかる上に
たいした産業も資源もない
内戦であっても一応軍事政権が敷かれてるからそれなりの軍備はあり
いざ対外戦争になると連合して歯向かってくる可能性もある
少なくとも幕末当時の情勢で植民地化されること
は考えにくいんじゃないのか?
>>176 負けた戦争をしたのは、薩長から政権を奪った東北地方の連中だったけどね。
179 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 23:31:55
井伊大老が存命ならば
へたれ慶喜が将軍になることはなかった
かえすがえすも徳川家にとっては桜田事変が残念であったろう
>>177 遠いから拠点足り得る。
支店は本店の隣には作らない。
当時のヨーロッパにとっての日本の位置は、現在のアメリカにとっての沖縄に近いだろうな
182 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:32:05
当時のヨーロッパは、日本のクレイジーな侍を恐れた。
幕藩体制がどうしようもなく時代遅れな事は、聡明な慶喜は気づいていたが
260年続いた体制を、列強の植民地にならず、徳川家を存続した上で
終わらせるのは大変な事だったと思うよ。
それを見事にやってのけたんだから凄いとしか言いようがない。
第日本帝国を滅亡させた、80年後のバカ指導者達は、
慶喜の爪の垢を煎じて飲め。
ガチンコの内戦をしていたら確実に国力は疲弊して内外的にもやばい事になってたろうな
最悪日本の一部は共産圏になってたかも知れんな
185 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 02:53:38
1868年当時に共産主義思想はまだまだできていませんがw
今度は頭の血管が詰まったのですか?
いや、あの時点では植民地化の可能性は低いよ。
あれは国内世論向けの口実だな。
187 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:22:53
公明党大田が調子こいてたら、地方の党員が大作の勅許をもち反乱
2chならこう書けばわかりやすいんじゃね?w
188 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:56:34
>>184 民権と共産の違いがわからないなら引っ込んでろw
189 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:38:42
190 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 16:16:58
>>188>>最悪日本の一部は共産圏になってたかも知れんな
???
ガメラですかw それともピグモンですかw
191 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:12:03
>>179 都合が良すぎる桜田門外の変と、家茂急死は
慶喜黒幕説もあるからね。
桜田門は、脱藩浪士としているがその後の歴史を見ると刺客かもしれんな。
孝明天皇急死は、慶喜は何の得にもならんので
関与はないはずだが。
開国絶対反対、攘夷回帰論の孝明天皇の存在は、徳川慶喜にとってあまり良いものではなかった。
徳川家茂の急死と相次いでいるのも不自然。
鎖国、攘夷を唱える天皇は薩長にも邪魔でしょう
慶喜にとっては±0でも薩長にとっては-でしかない
194 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:20:32
孝明天皇は無理な絶対攘夷論を振りかざす天皇だったので、
日本の実質的な政府であった幕府にとって都合が悪く、
逆に、薩長の幕府叩きの手段としては、天皇の言行が必要だったことは間違いない。
>>193 薩長にとっては-でしかない、という論理がわからない。
天皇は実際は外交上実行不可能なことを言っているから、政府にとっては都合が悪い。
つまり君の論理では、幕府は孝明天皇の死の直後に政権から降りると薩長は予測していた、ということになってしまう。
徳川慶喜は薩長と内密に政権譲渡で合意していたということになる。
195 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:29:09
孝明天皇は、強烈な攘夷主義者でリアリストな幕府からは
辟易されていたが
松平容保・徳川慶喜を絶大に信頼して幕府を支持していた。
だから慶喜説はないと思う。
逆に、岩倉や長州にとっては攘夷思想のうちは孝明天皇は使えたが
開国に考えが変わると、消したい存在でしかなかったはず。
岩倉も長州も、孝明天皇に御所から追い出された恨みがあるから。
196 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:31:46
つまり、政治上は幕府側に殺害理由があり、薩長側には乏しい。
だから感情論に訴えて薩長説を煽りたい、ですか。
話になりません。
197 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:36:45
孝明天皇は殺された。
明治天皇は殺された。
大室が天皇になった。
これはがち。
孝明天皇は殺された。
明治天皇は殺された。
大室が天皇になった。
これはちが。
>>196 なんでそういう結論になるのかわけがわからねえ
お前が馬鹿なのか?それとも俺に電波を受信する機能がついてないのか?
政治的には幕府、薩長どっちにとってもマイナスで
感情的には幕府が+、薩長が−だろうが
200 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:31:15
>>199 徳川慶喜が自ら大政奉還をしなければ、薩長は政権に就けない。
孝明天皇が政権維持に邪魔な存在だとしたら、この点では幕府側しか動機はないのさ。
お前の発想は間違いだらけ。
中村昭彦は意図的に事実を隠蔽してこの薩長犯行説を流布させたのだが、
そいつに今も騙されているとは、お笑いだ。
201 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 11:37:37
おっと、中村彰彦の間違いだ。
彼は意図的な嘘を維新史本のあちこちに紛れ込ませた小説家なので、
彼の記述を利用するには他の資料の裏づけが必要だ。
どうにも理解しかねる。詳しい説明を頼む。
203 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:42:53
徳川慶喜が政権を朝廷に返上しない限り、日本の政府は幕府であった。
なのに、なぜ薩長が政権捕りの目処もたたない時点で、政府叩きの題材を手放すものか。
徳川慶喜が孝明天皇崩御の直後に政権を投げ出したから、孝明天皇の死が薩長に有利に働いたのだ。
徳川慶喜の大政奉還行動は、薩長の意思だったのか?
そうでないのなら、薩長側には動機がないのだ。
204 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 04:10:40
孝明天皇暗殺説は謙信暗殺説、信玄暗殺説と同じレベル。
毒殺説では、快方に向かっていたはずが病状が急変したことになってるが、
快方に向かっていたというのは主治医達の政治的発表に過ぎず、
実際は悪質な疱瘡と認識しており、それを裏づける中山慶子の書簡、
山科言成の日記などもある。
また、毒殺説では砒素中毒としているが、その症状は、天皇の病状が書かれた史料と合致しない。
疱瘡は、「表向は御軽目の筋」だが、実際は「全体初発より御難痘の御煩」。
だが、原口清が20年前にそれ言い出すまでは石井孝も佐々木克も毒殺説採ってたんだよ。
70年代、80年代の本読めば分かる
信玄暗殺説とはややレベルの違う説であったことは事実
206 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 18:45:03
徳川慶喜は過小評価され過ぎだな
207 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 20:44:13
明治天皇より長生きしたってのは渋太いね
208 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:16:51
家茂よりはマシ
209 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 04:06:27
晩年何気に貴族議員になって明治政府に入閣してるとこもちゃっかりしてるね。
>>206 過少評価は、実際にたいした人物ではないので妥当なところだ。
>>209 まあしかし、爵位を貰ったのは遅いからな。
徳川宗家に出入りしても、一応は遠慮深くかしこまっていたというし。
静岡に居ても高等教育を受けられないということで、
東京の宗家の千駄ヶ谷御殿の別棟に間借りしてたケイキさんの娘らも
一応は(宗家の娘らと比較して)控えめに暮らしていたらしい。
211 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:19:39
ヘタレではない
時代に翻弄されたカワイソウな君主
ヘタレと言うより、ゴルバチョフとかそのあたりのポジションじゃないの?
天皇を戴く統一政体樹立と、対外関係の安定の必然性を理解していたから
徳川家一個の政権維持の動機では動けなかった、そこに賢さも弱さもあったと…
大河ドラマの見過ぎ
木戸に家康の再来とまで評価されたし
いや同時代の人間でそれとは全然違う評価くだしてる人もいるわけだし
木戸がそういったからと言われてもねえ
215 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 01:12:37
どっちかってーと秀忠の再来じゃねぇの
安定してる時代だったら普通の名君でしょ
216 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 20:56:01
>>215 安定しとったら慶喜は将軍になれねーだろw
家定→家茂→亀之助…
地方でもガキでも将軍が勤まる情勢なら慶喜が出る幕はない
217 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 10:23:13
慶喜がいなかったらおまえらもノンビリとニート家業もできなかったかもな
今頃人民服を着せられて農作業してるだうよ
218 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 13:04:05
慶喜は評価されるべき
本当にヘタレだったら大政奉還も逃亡もできず、幕閣や佐幕派の意見に
従うまま戦争を始めちゃってたと思う。
そしてダラダラと戦争を長引かせて日本は国力減退、政治的にも不安定。
最終的には日本は植民地化しただろう。
220 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:53:58
誰からも嫌われる男というイメージ
221 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:13:41
一橋慶喜=東照神君家康公の再来
222 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 06:58:42
223 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 08:06:09
あの状況で夜陰に乗じて逃げるのもある意味すごい
非凡である
224 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 09:21:35
鳥羽伏見に押し出す時に大坂城内に「上様を切ってから・・・」と不敬な言動が吹き出しいた。慶喜はどちらにせよ命が危なかったのだよ。
バリバリの佐幕派にとっては慶喜も敵だもんな。
それに朝敵の総大将なんて慶喜がやるわけないし。
小笠原長行の率兵上京の時にドタキャンしたのはまずかったんじゃないの?
あの後で会薩による文久政変が起きて結局長州派が一掃された。
幕府がやろうとしたことを在京諸藩にやられてしまったのは痛かった。
本当にヘタレだったら将軍にならない。
田安亀之助が15代。
228 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:13:15
本当にヘタレなら流れにまかすでしょ。
ヘタレとDQNがない交ぜな性格…ってどこかの首相みたいだな。
慶喜の娘についてだけど、筆子、経子、英子以外写真がない。
この3人は美人なのか普通なのかわからん顔をしているwww
231 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 14:09:12
>>224-225 あの時期は、幕府主流派は、南紀派だった。
慶喜は家茂急死で一時的に将軍をやります。
政局が落着いて田安亀之助が成人したら将軍職を返します。
って事だった。
家茂も遺言では、後継者に田安亀之助を指名していたのだが、
幕閣が、長州征伐の失敗の処理と薩長芸三藩の武力討幕計画に対抗するために
ここは慶喜にやらせるしかない、と判断し、とりあえず15代将軍は、慶喜に決定した。
>>230 ありますよ。
鏡子・鉄子・浪子・国子・糸子、みんな写真残ってます。
私が一番好きなのは長女の鏡子ですね。
慶喜母・吉子(つまり鏡子の祖母)と二人だけで並んで撮られた写真からは、
とても数え年13歳とは思えない大人びた艶っぽさが感じられます。
233 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 21:59:47
慶喜は完全にヘタレ!
自分が部下や兵隊になって
考えてみなよ!
やる気がなかったのは事実だが
部下を戦場にほうり出したのも
事実だ!
それでこっそり逃亡するとは…
俺が兵隊だったらこんな無責任な
大将いらねっw
234 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 09:09:25
>>233 『徳川慶喜公伝』によれば、その慶喜は戦争をしない為に大坂城に退いたというのに、総大将無視するどころか脅迫し、
京都進撃を強引にやらかしたのが会津をはじめとする主戦派なんだが。
むしろ、慶喜が「総大将を殺すと脅して戦争を始めるような連中など、知った事か」と思っているだろうし、
俺が慶喜なら「
>>233みたいな身勝手で自分勝手な部下家臣いらね」だろw。
235 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 17:49:43
大阪に引いた慶喜には
幕府が勝利する策はあったのかな?
もう勝てないと、勝手に判断して
命乞いしてるだけじゃね〜の?w
なら始めから将軍になんか
ならなけりゃいいのに…
俺には、ただ自己中な
ヘタレにしかみえんwww
236 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:22:06
>>234 薩摩の江戸での工作に激発する部下を抑えきれない、
つまり器量が無い。
それ慶喜の責任か?
238 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:03:54
池沼家定と、青びょうたん家茂の尻拭いをさせられただけなのに、ここまでひどく
言われるとは可哀想。
239 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:36:17
慶喜は、開戦をあと4ヶ月遅らせる説得ぐらい出来ないのだろうか?
ストーン・ウォール号が手に入ってからの方が、戦いやすいだろ。
軍艦1隻で戦局が変えられるとか思っているのかよ。
241 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:00:19
>>236 君はもう少し勉強すべきだよ。
王政復古から鳥羽伏見が起こる間、土佐藩福井藩芸州藩がすっごい巻き返しを行っている。
その結果、辞官納地はほとんど骨抜きになった。
『岩倉具視実記』などを見ると、岩倉自身が「慶喜が軽装にて朝廷に来れば、議定(薩長と同格)として徳川家を向かえる」と言いだし、
大久保や西クがカンカンに怒って抗議しても無視したようすがわかる。
つまり、岩倉は土佐や福井に取り込まれ武力討幕派から心が離れている。
これは『徳川慶喜公伝』を書いた渋沢栄一も絶賛し、同書で岩倉は薩長の傀儡ではなかったと力説しているほどだよ。
だから、慶喜は大坂城にいたままで政治的には薩長を圧倒していた。
あとは平穏に上洛し、明治政府入りをするだけだったんだよ。
それを慶喜上洛に格好つけて兵を京都に入れようとしたのが佐幕派。
これは「軽装にての上洛に違反」しているから、約束を破ったのは徳川だと討幕派は喜々した。
西クか旧幕府軍の進撃を知って「これで勝った!」と喜んだ話しをしらんのか。
>>232 あるサイトで慶喜の娘の写真が見れました。(7人揃っている写真を)
ただ画質が悪くて顔がはっきり見えませんでした。
やはり顔をはっきり見たことがあるのは筆子、経子、英子だけです。
あなたは美術館へ言ったのですか?
243 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:48:41
徳川慶喜はやっぱり頑として薩長と戦うべきだったんじゃないのかな。
具体的に言えば大坂城を退かずに反撃するとかさ。
幕府の滅びは薄汚かった。彼は維新最大の功労者だって見方もあるみたいだけどね。
徳川幕府って誕生のときも薄汚かったけど、滅びのときもそうだった。
戦って滅びたんだったら、あとの明治時代もずいぶんと違ったんじゃないのかな。
244 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:49:51
徳川が全力で戦って滅びたら明治政府も傷ついて列強が漁父の利を得る。
245 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:45:29
>>243 わかんない人だねぇ
>>241で説明されたように、慶喜が薩長と戦う必要はまったくなかった。
慶喜はただ大坂城でじっとしているだけで、後は土佐福井などの藩が薩長を丸め込めて終わり。
兵を出す必要がどこにあんのw?。
246 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 02:58:48
このスレ見ていると、慶喜のキャラは、アニメ「鷹の爪」の総統みたいに思える。
鳥羽伏見直前、京都政界の情報を、慶喜自身はどれくらい正確に捉えていたのかな。
>>241のような佐幕派が復帰しつつあったという情報を伝えてくれる側近はいなかったのかな。
248 :
岩倉具視:2010/01/11(月) 20:51:08
だまらっしゃい土州!徳川幕府260年の悪政を思えば、怒髪天を突く思いでござる。
249 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:44:21
>>241 それを分かっていながら、薩摩邸焼き討ちで意気が上がってる部下を制御出来ない馬鹿なのよ。
口実を与えると分かっていながら抑えられんとは....とほほ
250 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 09:26:50
池沼であうあう言っていた家定、歯抜けでふがふが言っていた家茂と2代続いた
せいで、幕臣どもが勝手にやる癖がついていたんだろうな。
>>242 自分は232じゃないし、232の見た媒体も知らないけど。
古写真好きな人には知られてる新人物往来社の「幕末明治美人帖」には
鏡子、鉄子、筆子、浪子、国子、経子、糸子と、しっかり載ってるよ。
現代と美人感の相違もあり美醜感も個人差があるけれど
同写真帖に載ってる茂承の三姉妹は気品もあって綺麗だし
春嶽の四姉妹もなかなか可愛い。
252 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 14:18:25
自分かってでまわりをふりまわした印象があるね。
大久保一翁や勝海舟あたりを信頼して
彼らにまかせればよかったのに。
会津・桑名に頼って、江戸表を放り出して独断専行したら、
今度は自身が会津・桑名の暴走を止められなくなった。
254 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 16:00:38
>>249 慶喜は上方にいたから江戸は制御不能なんじゃないの?
将軍とはいえ一度も江戸入りしたことなかったし、
基本的に庄内藩に任せていたわけだから。
255 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 16:03:00
前日の大演説は
猿芝居だったのか?
256 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 13:50:23
っていうか、慶喜が幕権回復に努めているのに、幕府の人間が慶喜イジメで彼の動きを封じるようなことさえしなけりゃ幕府はもっといい方向に進んでたんじゃね?
幕府の意向無視して抗戦した会桑その他脱走兵の馬鹿共がなぜか忠義になってて笑った
水戸家生まれで一橋家経由で将軍になったから家臣に恵まれてない。
本来なら旗本の勝海舟の出番なんかないはず。
家臣には足を引っ張られまくった感じ。
イギリス公使パークスが、本国外務省に「日本人の中で最も優れた人物」とまで
書き送ったほどの人間なのに。
260 :
日本@名無史さ:2010/02/03(水) 00:31:39
島国のとぼけふざけ平気なのに注意すべき
優れた部分もあっただろうけど、施政者として責任を真っ当する気力が無かった。
鳥羽伏見の際も、世間からどう目で見られようと、後世にどう言われようと、
もうどうでもいい、ここから逃げてしまいたいの一心だったのだろう。
後の世に弁解がましいことを言わなかったのは、
人間ができてたからでも、元君子とし立派だったからでもなく、
もう過去にとらわれて生きたくなかったから。
で、維新はもう何もかもとんでしまった心で趣味に没頭。
262 :
日本@名無史さん:2010/02/03(水) 14:18:49
へたれだな、大阪城から逃げ出しているのだから
鳥羽伏見の戦いにおける徳川慶喜は、
会津桑名両藩を排除したかっただけなんじゃないかな。
会津桑名両藩を討伐するなりして、
その後で自らは新政府に参加するつもりだったような気がする。
会津小説では一心同体のように激しく主張されているが、
この時期徳川慶喜と会津桑名は、他の政治勢力との妥協点を見つけるか独走するかで
対立を深めていた。
会桑は慶喜殺してでも抵抗しようとしてたしな
とんだ忠義だよ
265 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 14:14:40
266 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 14:56:56
>>265 そりゃ自分に同意しない奴は居ないわな。
会津桑名を排除すれば、自らの新政府入りに障害はない、と
思っていたのかもね。
だから会津桑名を巻き込んで、意図的に負けを演出したのかもしれない。
そうすれば、京都の新政府に迎えられるという思いがあったのかも。
実際は旧幕府の象徴として隠居させられましたが。
そもそも会桑が軍事力失えば新政府が慶喜に遠慮する必要がないだろうになあ
ほんとに小才子と言う言葉が良く似合う奴だ
徳川慶喜にとっての誤算は、江戸の旗本連中が
考えていたより惰弱であったこと
会桑を追放した後でも、彼ら江戸の人々にに寄りかかれば
影響力を新政府に行使できるはず、と思っていた
長年見捨てられ、急に頼ってこられた江戸にとっては迷惑な話
明治政府が関東を掃討したら、徳川慶喜は丸裸になってしまった
大政奉還したときの朝敵は毛利
王政復古の大号令の前日の朝敵は毛利
普通に江戸に帰ること考えた時点で新政府入りはもう考えてないと思うけど
会桑が巻き込まれたとか笑える。
公武合体派が巻き返してる最中で、薩摩の挑発無視してじっとしてれば良かったのに
そいつらが慶喜を巻き込んで鳥羽伏見に突入させちまったんだよ。捨てられて自業自得
薩摩藩の挑発にのった会桑や幕府が自業自得なら
真珠湾攻撃をやってしまった日本国も自業自得
なぜそこでWWUの話が?
>>267 負けを演出ってことはないんじゃない?
尾張・越前・土佐ら雄藩と薩長討幕派を離間させられれ慶喜の勝ちでしょ。
それがほぼうまくいきかけたところを西郷の脅迫的な説得で逆転されて、領地返納を迫られた。
逆上した会桑を抑えられずに開戦してしまったところで、離間の目は無くなった。
さらに軍事的に大敗を喫してしまったことで大坂にもいられなくなった。
それまでは勝ったり、負けたりでトントン。
最後の最後で何をやってもうまくいかなくなった感じだな。
275 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:24:12
幕府が弱すぎなのが痛い。
第二次征長では兵力比20倍なのに勝てず、
反省して幕府歩兵隊など日本最大となった洋式軍なども投入した
鳥羽伏見でも、3倍の兵力比なのに勝てない...。
>>263 会津桑名両藩は幕府が討幕派と平和的な政治的妥協する道を選んだ場合、
確実に立場失うから対立するのは仕方ないといえば仕方ないんだよな
両藩とも、もともと大した立場ではなかったのに、容保と定敬だけが
重責を押しつけられて、かわいそうといえばかわいそう。
孝明天皇の御宸翰を楯にして岩倉と戦え。
松平慶永の方がはるかにヘタレだと思う。
会津はやたら真面目に京を守ってただけなのに、長州に恨みもたれたって言うが
思想犯弾圧にかこつけて好き勝手してたから、在京諸藩や民衆からは一様に嫌われ者だった
京都でろくに活動してない奥羽の藩以外から同情的に見られてないのには訳がある
昨日は平成8年(1996)2月12日に亡くなられた司馬遼太郎先生の命日です。
玄人好みの慶喜を世に出してくれた、大功労者なのです。
それまであまり騒がれなかった慶喜が注目されるようになったのです。
賛否両論有りましょうが、司馬先生に感謝しましょう
>>278 長州は朝敵だから、家中揃って、慶喜みたいに謹慎しなきゃね。
征討軍と戦うなんてとんでもない。
281 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 13:27:17
慶喜は決してヘタレでへはない!
と信じたい。
慶喜の行動は謎だらけで、読む本によって捉え方が180度違うから、どれが本当かわからない
282 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 13:48:28
幕府の滅びは醜かった。鎌倉幕府を見ろ。何とさわやかな滅びであったことか。
滅びるにしたってもう少しやり方があっただろう。
かつて徳川は薄ぎたない方法で羽柴家を屠った。虫酸が走るようなおぞましいやり方でな。
二百五十年ののち、同じ薄ぎたない姿で徳川は滅んだ。譜代にすら背かれてな。因果応報だ。
男は滅びるときが最も大事だ。徳川の滅びの穢さは何なんだ。史上最低の覇府だったよ。
羽柴家は立派だった。それにくらべて徳川の醜悪なこと。城を捨てて水戸に逃げてやがる。
鎌倉、室町、江戸
どの幕府の滅び方が一番マシ?
284 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 16:43:44
>>282 ヒドい文章だ。釣りにしたってもう少しやり方があっただろう。
>羽柴家を屠った。
何で豊臣と書かん?
>譜代にすら背かれてな。
それ以前に慶喜自体が戦う姿勢を見せてないんだから譜代の動向は意味が無い。
>徳川の滅びの穢さは何なんだ。
政権を返上して、城も明け渡して、見事でしょ?
>城を捨てて水戸に逃げてやがる。
上野でしょ?
285 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 17:05:51
>>284 282はちょっとおかしい人なんだよ。
ものごとを素直に見ることができない人。
ものごとを素直に表現できない人。
歴史に限らず、こういう人の目は曇りがちで、
損だと思うのだけどね。
性格的なものなんだろうか。
あいつのせいで負けたって責任転嫁したい会津ヲタに叩かれすぎだよね
このスレでよく言われるように、慶喜さんの考えを伝える人が側にいなかったのがまずいのでは。
前は、平岡円四郎、原市之進といった人がいたけど、水戸徳川家家中や御家人という、
身内に殺されてしまう有様だからね。
庄内酒井家の菅実秀が大坂に情報収集に来て、徳川方は、西国方に比べ、調略に後れを取る。
といって、嘆いていたからね。
会津・桑名両松平家は文句は言うけど、平岡や原を殺せとまでは言わなかったからな。
そりゃ、こいつらの石頭より、平岡、原のほうが機略縦横、臨機応変で、先手が取れるから。
そのくらいのことは、分かっていたのでは。
まぁ、会津松平家もタコ野郎だけどね。せっかく買った新式銃が届くまで待つとか、
長岡牧野家の河井継之助がいうとこの兵糧攻めをして、餓えたとこをを撃つとかね。
なのに、こちらから進軍すれば、福井松平家や尾張徳川家などの在京諸大名が
内応して勝てるなどと、手前勝手な見積もり描いて出て行くのだから。
挙句の果てに、負けた後になって、やっぱ兵糧攻めをすればよかったなんて。
虫が良すぎるよ。
288 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 19:58:07
>>284 >>285 関東人は三河者がお好きなようだけど、普通の人はそうじゃないでしょ。
征夷大将軍が征夷をしないなんてwww
倒幕側にすれば徳川が関白じゃなくて将軍だったのは良かったな
しょせん防衛大臣としての職でしかないから
290 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:30:50
>>284 戦わない将軍だってさwwwwwwwww
徳川だから羽柴じゃないのwwwww
豊臣だってさ。バカだねwwwwwww
大坂城から逃げておいてwwwwwww
降伏するなら大阪でしなよwwwww
追討令が出て震えてるよwwwwwww
薩長の田舎侍なんかに負けてwww
これだからバカは困るねwwwwwww
291 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:36:34
慶喜なんて最低の屁たれでしょ。
わざわざこんなクソスレ立ててどうするの?
アホなの?
292 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:39:28
>>285 この人ほんものの気ちがいだね。
気ちがいだけじゃなく頭が悪い。
性格異常だね。かわいそうにwwwwwwwwwwwwww
慶喜が戦って勝っても
会津や桑名が自分の手柄みたいにホルホルするだけだから
戦わなくて良かったよ
294 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 20:55:16
会津や桑名は鮮人だったんだ。知らなかったよ。
295 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:11:06
徳川慶喜なんて稀代の負け犬について語ることに何か意味があるんですか。
296 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:26:33
意味はあるよ。どれほど腐った犬かを語ればいいんだ。
慶喜の失敗は将軍職を引き受けたことだろう。
脳性麻痺の家定や、歯抜けの家茂がさんざんボロボロにした後じゃ、いくら慶喜を
もってしてもどうしようもないだろうに。
298 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 13:09:43
>>295 家茂じゃなく、この人が14代将軍になってたら、だいぶ違っていたのでは?
安政の大獄も起らんし、桜田門外も当然発生しない。
299 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 13:54:50
家茂をもっと暗君として宣伝すべき
こいつがリーダーシップを発揮しないから、安政の大獄を撤回して彦根藩を処罰したり、
公武合体を進めた安藤をあっさり失脚させたり、一会桑と本荘が対立したりした
幕府を構成する譜代大名は石高が少ないから、外様雄藩に太刀打ちできず、将軍という虎の威が必要になる
その将軍が右往左往して方向性が定まってないからしょうがない
300 :
日本@名無史さん:2010/02/15(月) 14:18:35
福地源一郎も言ってるが天下人が変わっただけ
足利義昭と織田信長のどちらが正しいかを議論してもしょうがない事と同じ
>>298 慶喜が14代なら少なくとも薩摩が倒幕側に転ぶことは無かっただろうしな
大政を奉還して征夷大将軍職も辞任したのに、偽勅で朝敵にされた。
この時点で朝敵は毛利なんだから。
御所に向けて発砲し、官軍に2度も逆らったのは毛利。
303 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:52:35
篤姫を見て感動した腐女子が立てたスレか?
スレタイからしてバカすぎ
また唐突だなおい
305 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 14:34:34
足利義昭と徳川慶喜が居酒屋で相席したら親友になれると思う
慶喜をけなすのは、脳性麻痺や歯抜けの青びょうたんの無能さを覆い隠すため。
家定=家重
慶喜=宗武
って感じだよ。
宗武は聡明だったけど政治や軍事よりも学者肌でそ
家重にずっと謹慎処分みたいな状態に置かれたから、学術や芸術のほうに行かざるを
得なかっただけで、自由に活動できていたらずっと違っていただろう。
素質が吉宗と似ているといわれていたんだし。
実際の政治は幕閣がとるわけだから、将軍は学者肌でもそう問題は無いんじゃないか
慶喜はその幕閣に恵まれなかったわけで
>>311 慶喜は徳川将軍としてそもそも異質なのだから、幕閣がどうのとかじゃないと思う。
鳥羽伏見の件にしろ幕閣ではなく、会桑といった雄藩に引きずられてるし。
会桑も幕府を佐けているつもりで、これまでの幕府のあり方を否定する行為を率先してやってる。
もう文久の改革の時点で老中が幕政を執る時代は終わっていた。
土井利勝か知恵伊豆みたいなのが幕閣にいたら、
会桑も自由に動けなかったと思うよ。
314 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 04:48:04
土井利勝か知恵伊豆みたいなのがいたら・・・賢侯と呼ばれてることだろうよ。
慶喜が将軍になるころには、もう幕閣とかやってる情勢じゃないんだよ。
>>185 確かに当時は共産主義思想はないが
歴史が大体史実どおりに進めばソビエト連邦が成立し
植民地日本の独立派を援助していただろう
そして独立した日本は親ソの共産主義政権となる可能性が高い
実際ベトナムはそうなったし、江戸幕府の後ろ盾だったフランスが日本の一部を植民地にすれば
戦後もフランスはベトナムでやったように無理に独立派を押さえ込み、独立派はソ連に接近したかもしれない
日本は地理的にもロシアに近いしな
もし賢候がその後に進行する事態(貢士クラスの権力奪取)の危険を理解してたら、
幕閣と雄藩がもっと早く一致点を見出していたかも知れないな。
フランス大革命の進行過程とか、あの頃紹介されなかったんだろうか。
硬直化した官僚組織ほど手に負えないものはないのは周知の通り。
あの時期の幕府を内側から革めるなど、ある意味倒幕よりも難事。
「権現の再来」は挫折したけど、権現本人でも無理かも知れんね。
江戸城に舞い戻った慶喜が小栗や勝を参謀にして巻き返せば
勝てた
しかしその時、もう恭順を決意してたからな
ヘタレッ茶ーへタレだが〜
いつまでも朝、幕の2極政治をしてたらまた今回の争いが起こる
折れの代でもう終わらせようと考えたなら
先の読める聡明な将軍であったといえるのではないか
臣下にしてみれば たまんねぇだろうが〜
しかしこうなる前に朝廷を圧倒して勝てる機会を何度もヘタレて逃してるからなあ
聡明だから負けを選んだと言うのはちょっと
その前に敵は朝廷では無い。
つーか負けるはずの無い戦いに2度も負けた後、結局巻き返したところで
まともに治まると思えないんだが、権威ガタ落ち。
江戸初期みたいな強権かざして幕威を取り戻したい保守派もいるし
開明派の幕臣によって徳川のままでも近代化できるって主張もどうかと
あそこで国譲りしてよかったよ
322 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 22:48:27
徳川達孝→側室腹
徳川達道→側室腹
池田亨子→正室腹
伏見宮博恭→側室腹
有栖川宮実枝子→正室腹
徳川圀順→正室腹
勝伊代子→正室腹
松平里子→側室腹
蜂須賀正韶→側室腹
松平斉→側室腹
大河内輝耕→正室腹(側室から格上)
四条隆愛→正室腹(略奪婚)
名和霽子→正室腹
323 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 22:40:55
徳川慶喜家って創設の必要性あったのか?
あと松戸徳川家も。
慶喜は公爵だぞ。
それなりになにかが評価されたのだろう。
松戸家の祖、昭武は水戸家の隠居でいいよなあ。
2代で男系は断絶してるし。
>それなりになにかが評価されたのだろう。
まあ、天皇&政府側からの「とりあえず、維新のときは色々あって
大変そうだったし、とりあえず、将軍だったのは事実だし
そろそろ華族に列させてやる時期かな」・・・こんなもんでしょう。
人物がすぐれてたとかそういう事ではなく、
やはり「生きてる元将軍」だからね。温情も入ってるだろう。
華族といっても、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵、
つまり、最上席なのだが?
この人が家臣の統率や世俗の評判を気にして権現でこりかたまってたら、
想像を絶する内乱になっていたところ。
妥当な評価だよ。
>つまり、最上席なのだが
勿論知っている。
それこそ「元将軍だったから」って理由も含まれるのでは。
大大名諸侯をしのぐ石高をもってた家なのだから。
大名諸侯の爵位の基準の一つに、石高があったのだしね。
慶喜が爵位を受けて参内した際に、明治帝が
「あのときはすまないことをした」と述べたのは著名な話だ。
あと新政府に参画している旧幕人脈の名誉回復運動もあったしな。
328 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 19:28:57
>>326 >この人が家臣の統率や世俗の評判を気にして権現でこりかたまってたら、
>想像を絶する内乱になっていたところ。
その通りに実行して、世を内乱に持ち込んだ会津松平も仙台伊達も、
新しい石高で華族入りを認められているのですが。
>>328 そりゃそうさ。
結果的にはそういう人たちをも押さえ込んだ将軍様と、
事情はともかく、しつこく抵抗しなかった人たちという構図。
公平に処遇されてるよ。
新政府の殿様連中に対する懐柔策はほぼ成功。
殿様やその子弟の中にも優秀な人物はいたことも結構重要なことだと思う。
殿様といえど、ハーレムでウハウハできなかった武士道はある意味すごいね。
イランやらエジプトの王侯の堕落と比べると、日本の近代化は起こるべくして起こったのだと思ってしまう。
慶喜の息子は将来の総理大臣にという声が挙がるほど期待されてた。
>>331 それが何か?
妻との確執もあり、薬に逃げ
その死因は薬の乱用のため・・・と言われている。
気の毒な早世だったよな
ハレムであれ大奥であれ、莫大な金を無意味に消費していることには変わりないけど
334 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 12:14:10
徳川慶喜は、家茂から引き継いだ江戸幕府から、自らが島津久光から奪った京都の政権(一会桑)に
政府としての枠組みを移そうとしていた、
つまり、不効率な大奥などの切捨てを狙っていた、と考えるのは間違いだろうか。
335 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 21:57:48
玉砕覚悟で江戸城に篭城したらどれくらい持ちこたえることができたのだろう?
>>333 ま、それはそうだろな。
江戸城大奥で生まれた将軍に名君はいない(家光や綱吉をどう見るかは微妙だけど)。
紀伊や水戸といった尚武の気概を残した藩から将軍が迎えられ、新しい血と新しい人材が吹き込まれる。
これは封建制ならではだろ。
きちんと知れば知るほど「慶喜はヘタレ」だということが
わかってしまうから、いくら頑張って擁護しても徒労に終わるだろう。
>>338 多くの人が苦しんでる病気の名前をだすなんて
なんて失礼な奴なんだろ・・・
慶喜みたいに、毛布にくるまって
震えながらビスケットでもかじって泣いてなよw
それが当たり前の心情だろう。
敗軍の将として、どんな処遇が待ってるのかわかったもんじゃないのだから。
それでも、なみいる家臣団の猛反対を押し切ってまで、
大政奉還を受け入れた。
そして、当時世界でも有数の人口密集地である江戸を戦火から守った。
全部、史実だ。
江戸時代に毛布とビスケットがあって
前の最高権力者が愛用していたとは知らなかった
東北戦争で薩長新政府軍は乾パンを食べてましたよ
あれもビスケットかも
>>341 毛布とビスケットの話は、
へたれ慶喜が大阪沖から軍艦で江戸の逃げ帰ってきたとき
駆け付けた幕臣から差し出されたものです。
ヘタレちゃんご愛食は豚肉。
「豚肉だべる一ツ橋様→豚一様」
>>342 それは誰かは失念しましたが、進取の気鋭に富む有名な商人の誰かが
軍事にも向く保存食ということで売り込んで導入されたのです。
344 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 02:30:01
慶喜は首切られる覚悟で謹慎蟄居したんでさ。
命たすけるから無血開城しろといわれて従ったんじゃないのであってね。
命が助かる見込みとかなにも無かったんでさ。
戦争しなかったわけだが、命が惜しかったからではないのは明らかだ。
命が惜しかったらむしろ江戸に官軍を迎え撃って戦争したんじゃないの?
違う?
動機はどうあれ腹を据え覚悟を決めて謹慎蟄居、
無血開城したのはまちがいない。
へたれかなのかね。
>>343 乾パンは銀座風月堂のご主人さんですよ
これで財を成し、現在の洋菓子老舗の地位を得ました
>>344 斉昭の倅で、
有栖川宮家の外孫だから天子に向かって弓をひかない。
無理矢理朝敵だもんな。
慶喜の息子のうち、二人が薬で自殺している。
しかも両方とも女性問題絡み。
慶喜の親である烈公はほとんど色情狂。
マイナス要因が非常に多い人ではある。
348 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 22:49:53
江戸城無血開城では慶喜が首切られる可能性はそうとうに高かった。
命が惜しいならむしろ徹底抗戦しただろう。
朝命には彼としては逆らえないことであったのだろう。
朝廷をめぐる政争で敗れたのは慶喜の責任。
彼幕府と徳川家家臣にたいする責任があるのだから、
それについて議論があるのは当然だ。
しかし、命が惜しくて降伏したとか
そういう意味でのへたれだったとは思えない。
何、いちいちアゲてるんだか。しかも、美化レスw
慶喜擁護ヲタも必死なんだな。
自分の処断は無いとふんだうえでの謹慎だろう。
命は助かる目算あっての恭順。
そういう先は読める、お利口な人だから。
何をいちいちアゲてるんだか。しかも、美化レスw
慶喜擁護ヲタも必死なんだな。
自分の処断は無いとふんだうえでの謹慎だろう。
命は助かる目算あっての恭順。
そういう先は読める、お利口な人だから。
351 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 23:17:44
>>35 「自分の処断は無い」と踏んだのはなぜで
そんな事実があったの?
史実にもとずいた根拠を言ってごらん。
かってな想像を根拠に「命は助かる目算あっての恭順」なんて議論になってないの。
わからない?
今時慶喜ヘタレとか言ってるのって自称佐幕派の古臭い会津ヲタぐらいなもんじゃね
自分の持論と違う説を説かれて、反論の仕様が無いからといって
相手を会津ヲタと断定するのも情けないものだよ・・・
慶喜程の尊皇派なら恭順しようとしない連中を率先してふんじばって差し出すべきだった
高須の馬鹿兄弟を外にほっぽり出したのが最大の失敗。あそこで拘束して引き渡せば終わってた
>高須の馬鹿兄弟
・・・ちゃんと名前くらい書いてやりなよ。
356 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 10:08:34
また、歯抜けの青びょうたんヲタか
早乙女貢が熱っぽく語った松平容保候紅顔の超美少年説って、あの写真一枚のことなのだろうか。
老人になった顔は、陰険爺としか見えないのだが。
358 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 23:24:30
慶喜は期待に反してたいしたやつじゃなかったのだろう。
京都で天皇あるいは朝廷の御前で、将軍が諸侯と同じ席でやりあうなんて
将軍権威の失墜じゃないの。
慶喜はそこを全然わかってないのが痛い。
しかしヘタレかといえばそうは言えない。
命がおしければむしろ戦争しただろう。
命をすてる覚悟がなければ城も江戸も明け渡せない。
本来は首を切られてもおかしくなかった。
西郷もそのつもりだった。
山岡鉄舟と勝海舟が交渉してぎりぎりで慶喜の首はつながった。
慶喜は命が惜しいとかそういうヘタレではない。
359 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 23:40:02
能力はあったけど
計画通りに進まないと全てを投げ捨ててしまう完璧主義
相手を配慮しない自己中心主義 が命取りになった。
本人が前面に出て相手と議論し、戦争指揮も行うという点に関しては、
将軍継嗣問題の時点から、実力のある将軍への待望論の具現者であった立場を考えれば
当時の新しい将軍のあるべき姿であったとはいえると思う。
>>359 >本人が前面に出て相手と議論し、戦争指揮も行うという点
ナポレオン三世みたいだな
>>358 いつも同じような内容の、同じような文面なので
必死さがアリアリなんですけど・・・
スレタイ見て、おそらく論じられているだろうと思ったことが、
>>169-186と、
>>315ぐらいしか触れられてなくて拍子抜けした。
薩長と幕府の全面戦争になってたら、どっちが勝っても、戦費の負債を理由に財政顧問派遣されるだろ。
で、財政面からコントロールされて、日本の政府(どっちであったとしても)は何もできなくなって、
やがて、国内の治安を保てなくなって、「統治能力なし」ってことで植民地化だろ。
実際、まったく同時期に、ベトナムは、この流れに従ってフランスの植民地になった。
家茂だったら、腰を抜かしてあうあうふがふがして、逃げ出すことすらできなかったろう。
>>362 当たり前すぎて・・・。
てか、それは勝海舟あたりの意見で、慶喜本人が同じ事を考えていたかは疑問。
まずは保身。次に尊王というポリシー。三番目に列強への警戒心。といった具合が慶喜の心中だったろうと。
>>364 その思い込みの根拠は?
なんで当たり前?
>>365 なにをムキになってんのか知らないけどさ、慶喜は保身の人だよ。
もし、列強の干渉を恐れているなら、鳥羽・伏見敗戦の時点で大坂城を開城して許しを請うとか、そういう方法もあっただろう。
やっぱり保身だよ。そうでないと最前線の大阪城から逃げ出した理由がつかない。
戦わないという意思表示のために大阪城を出るなら、むしろ京に行くという手もある。
慶喜は頭のいい人だったようだから、『泥水をすすってもやり遂げるんだ』みたいな
ことは嫌だったんでしょう。常にある程度の体面が保たれている状態で無いと
動きたくないみたいな。
鳥羽伏見で戦ったことで幕軍の体面は立ててやったぞ。後はオレは知らん。
とまあこの程度じゃない?
368 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 03:24:22
結論
岩倉と西郷がクソ
大阪城は不敬者が将軍を殺してでも抗戦とか言い出す危険地帯だったからな
感情に任せて動こうとする暴徒の群れの中だし逃げ出したくもなる
家臣たちに信頼されない薄っぺらい人格の持ち主だったんだな
水戸から一橋、そして徳川宗家と転じた人だったから、
心の底ではみな『他所者』と思っていたと思う。
何のかんの言って、最後は血筋なんだよね、封建制って。
本当に開明的な人は、乱世には能力第一と思っていても、
平時の価値基準に縛られている人は多いでしょう。
今だって取引先から優秀な人を連れてきても、
『うちのやり方はこうだから』みたいに言って疎外して行くのはよくあること。
そんなもんじゃない?だからこその逃亡劇。
後年慶喜は、『鳥羽伏見で突撃と言っても、後ろから弾丸が飛んできただろう』
と回想していませんでしたか?
372 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:31:04
age
373 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:36:24
豚一がただのへタレなのは、窮乏に明け暮れる元家臣の傍らで自らは道楽三昧の静岡での隠居生活が証明。
374 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:46:18
慶喜は他にどうする必要がある?
徳川宗家は他人に譲ってしまったのだし、
徳川家が護ってきた藩主たちは皆明治新政府に華族として迎えられた。
下っ端の武士の生活の心配をしろと?
東京へ移住した元藩主たちすら、そんな奴らの心配などしていない。
徳川家が藩主たちを護ってきたってギャグですか?
376 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 08:33:14
まあ、260年間、主君として「本領安堵」をしてやってはいるな。
そういう意味だろ?
377 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 15:57:36
徳川慶喜ってただの風見鶏のご都合主義のへタレ。
天狗党に始まり、会津・桑名、最後は幕府・幕臣。
自身の立場が悪くなるとあっさり見捨てた。
内乱による植民地化を憂いた?
だったら、さっさと家臣や会津桑名の助命を条件に腹切ればいいジャン。
劉備の侵攻を受け、民を巻き込みたくないとあっさり開城降伏した劉璋の方がマトモ。
378 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 21:01:47
天皇マンセーで反幕の水戸家に生まれた男を
あろうことか将軍にしたのが間違いの元
一橋家が明屋形になっているとき、誰を当主にするかという話になる。
その結果慶喜がやってくるのだけど、水戸斉昭には子供は沢山いるわけ。
またいくら水戸家が一橋に当主を送り込みたいと思っても、幕府の意向で
全て決まる。
慶喜は大勢の一橋相続候補者の中から選ばれたわけ。決して対抗馬がいなかったのではない。
つまり一橋に将軍継嗣が出せる資格があり、少しでも優秀な人間を一橋の当主に
送り込んで将軍にしようという周囲の思いの産物。
言うなれば見込み違いだっただけ。へたれかどうかは関係ないこと。
一ツ橋家相続にあたって、その人物の教養知識人柄だけで
選択がなされたわけでは無いだろうに・・・。
政治力や根回し力ってものの威力も大きいだろ。
慶喜に関しては「優秀報道作戦」が仕掛けられたような雰囲気だけどね。
慶喜が一橋を継いだのは、1847年のこと。1837年生まれだから僅か10歳ほどのころ。
将軍家慶も存命でその子家定も病弱ながら西の丸に住んでいた。
この状態で最初から一橋出身の将軍を想定していたとは思えない。
せいぜい将軍家の身内を、空席にするよりは優秀と思われる人間で埋めておこう程度だったのでは?
水戸斉昭は女狂いの噂があるほどの女好きで子も多かったが、
正室の吉子女王との間の男子は水戸藩主を継いだ慶篤と、その弟慶喜だけ。
水戸藩主を約束されている嫡男慶篤を他家へ養子にはやれないし、
正室腹の男子がいるのに側室腹の男子を名門一橋家に優先的にやるわけにもいかないから
慶喜が一橋家の養子となったのは必然的だったのでは?
家慶が多くの側室たちとの間になした子は、家定を除いてすべて20歳まで育たずにに夭折。
世子徳川家定(当時は家祥)はこのときすでに24歳だったが、病弱で、
正室鷹司任子はもとより大奥に仕える多くの側室候補の誰との間にも子をなしてなかった。
この時点で次代養子のことを誰も考えてなかったかどうかはわからんがな。
家定が3人目の御台所篤姫と結婚したころには、家定はまだ32歳だったにもかかわらず、
皆諦めモードで次代将軍をどこから迎えるかばかりを考えてたみたいだし。
12代将軍家慶の御台所有栖川宮喬子女王と慶喜の母有栖川吉子女王が姉妹だったのが、慶喜の一橋家継承の決め手の一つのはず。
家慶と喬子女王の夫婦仲は良かったみたいで、その縁が強かったとか。
頭はいいかもしれんがへタレは間違いない
385 :
日本@名無史さん:2010/08/21(土) 22:47:31
昭致と名乗ったのはどの時代なんだ?
水戸藩の部屋住み時代に元服したのか?
386 :
日本@名無史さん:2010/08/21(土) 23:02:18
尊皇派だった慶喜が有ろう事か朝敵にされたんだ。
そりゃ逃げるだろ。
慶喜は朝廷と戦う意志は皆無で、飽くまでも反幕派薩長と抗戦しようとしただけだし。
387 :
日本@名無史さん:2010/08/21(土) 23:19:24
北方謙三の小説読みなよ
慶喜のヘタレは偽装だってことがわかるよ
小説ww
錦旗を偽造した岩倉は国賊ということですね
家慶のお呼びで一橋家に入らなかったら、
一生部屋住みでおわったのだろうか。
正室の子なのに
弟の昭武の代わりに、最後の水戸藩主でしょう。
何歳まで部屋で待ってんだよw
慶篤にも男子がいて、昭武とは2歳しか違わない。
393 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 02:12:36
>何歳まで部屋で待ってんだよw
井伊直弼みたいなパターンだってあるじゃん。
394 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 07:08:02
結果的には最高レベルの勝ち組に入るよね
395 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 09:42:19
>>386 同意だな。
徳川慶喜が薩長と戦えば、どちらが勝っても大きく疲弊するから、英国かフランスの植民地になってたかもな。
>>377 徳川慶喜は屁たれかもしれんが、日本を救った人物なのは間違いないよ。
徳川慶喜が戦う決意をしたのなら・・・・・
1)双方決着が付かず疲弊して東日本・西日本に分裂し、双方が英仏の支配下に、の可能性あり。
2)どっちか勝っても大きく疲弊し植民地支配になってた、かも。
アジア・アフリカは、外国勢が内乱を利用して植民地下していった経緯があるのだから。
日本を救うために戦を避けたのかどうかは微妙であるが
小栗忠順が徹底抗戦を主張したらしい。フランスが資金から武器から丸抱えする条件で。
当時の日本は列強のバクチの対象でした。勝てば親の総取り。
だから英仏が薩長と幕府に接近して行っただけのことで、この初期投資は
日本を総取りしない限り回収できないというオチ。
決して慈悲の心で支援しているのではない。
岩崎が新政府にカネを出したのもこれと全く同じ。賭けに勝って新興財閥ながら、
日本一の財閥になったというわけ。
そうなると徹底抗戦していたら、例えどっちが勝ってもその支援国に
いいようにされた可能性は強いですね。
399 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 14:21:12
エロ将軍
>>393 有栖川宮の外孫が30才過ぎて部屋住みか。
異母兄弟がそうそうたる家を継いでいるのに。
401 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 23:33:18
>>396 >日本を救った人物
・・・ですかw
じゃあ、篤姫サマサマと同じなんですねー
>>400 斉昭が、慶喜をお控えにしておく方針だったからありうる。
養子の行き先がなかった井伊直弼と一緒にしてるだけで
もうなんだか