謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19

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1来蔵
書き込め、書き込め、ヘドが出るまで書き込め
2日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:58:18
重複誘導
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
3来蔵:2008/05/05(月) 23:00:24
前スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090
4日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:02:10
重複誘導


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
5来蔵:2008/05/05(月) 23:04:08
参加する住人全てがスレ主です。
6日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:05:24
>>5
主旨には同意。しかし誘導。
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
7来蔵:2008/05/05(月) 23:08:29
>>6
スレの重複は承知の上や
もう謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18 はアカン
8日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:10:22
荒れたから次スレを立てて良いというルールはない。
誘導
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
9来蔵:2008/05/05(月) 23:19:20
>>8
次スレを立てても良いというルールがないのなら

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19

を引き継がない新しいスレとして
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!20を立てましょうやないか
この20は、従来のスレを全く引き継がない新しいスレや
10日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:20:46
このスレを荒らしているのは
神奈川県民(トリップ無)=三重県民=改め=ドツボ。
意図せず結果的に荒れたという体をとっているが、悪意を持って荒らしているのは明白。
その手口はいくつかあるが、
1 他説に対する罵倒、人格の攻撃。
2 スレを私物化
の二種類に大別される。

特に後者は悪質で、2ちゃんのルールを大きく逸脱した俺様ルールを強要するのが特徴。
少し2ちゃんに慣れた人間には、反論が容易であり簡単に論破できる。
だがこれこそが罠なのであって、それが証拠にドツボはいくら言っても分からない(フリをする)
人間の性質として、明らかな正論が受け入れられないことは大きなストレスだ。
説明しても説明しても、論破されても論破されても、理解しようとしない(フリをする)ドツボは人格を攻撃されることになる。
そして荒れるのだ。
考えてみればすぐ分かるが、ここまで理解力がない人間はそういない。
つまり演技と断定してよい。

なぜ故意に荒らすのか理解に苦しむ向きもあろう。
私にも真実は分からない。荒れた結果、レスが進むことを喜んでいるのかもしれないし、そもそもバトルという行為に魅力を感じているのかもしれぬ。
しかし、そんなことは理解する必要はない。
ドツボが故意にスレ荒らしを呼び込んでいる事実、この一点に注目すればよい。

監視は有効だ。上記をふまえてドツボを監視しているという意志を示すことが重要だ。
我々はドツボが故意の荒らしをやめるまで、永遠に監視する。
賛同する人は、ただ監視中と書込んでくれればい。
それが悪質な荒らしへの対処法になり得ると確信している。
11河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 20:17:46
>>1 来蔵さん、お初です。
スレ立て早々申し訳ありませんが、このスレは争いの火種になりそうだから
削除依頼して下さい



m(__)m
12来蔵:2008/05/06(火) 20:39:03
>>11

お初です。
これだけは聞けまへんな
13日本@名無史さん:2008/05/06(火) 20:44:57
重複誘導


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
14河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 21:13:13
>>12来蔵さん
先ほどはお初にもかかわらず大変失礼なお願いをしてしまいましたが、>>11のお願いは
取り下げ致します。

大変失礼しました。   以後ヨロシク。
15日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:10:44
重複誘導


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
16唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/10(土) 18:04:46
テスト 中
17唐松山 ◆GQGfJYIbrc :2008/05/10(土) 18:10:03
再度 テスト

なにしろ同名が 跋扈するもんで。
18日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:27:34
                                     
【斉】                                    
 斉(齊、せい、Qi、紀元前1046年−紀元前386年)は周代、春秋時代、
戦国時代初頭に渡って、現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。
周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜(あるいは羌)であるため
戦国時代の斉などと区別して姜斉(きょうせい)とも呼ばれる。
紀元前386年に家臣の田和によって滅ぼされた。首都は臨淄。
斉の滅亡後、同地に『蓋国』(カイ国)が建てられ、燕に従属する。
『蓋国』の南方には、『倭』と呼ばれる越国があった。現在の上海、南京の辺りである。
この『倭』も燕に朝貢していたという。
 これは『山海経』海内北経(かいだいほくけい)の
「『蓋国』は鉅燕の南、倭の北に在り。『倭』は燕に属す」 という記事に書かれている話である。
『山海経』は前漢(紀元前206年−紀元前8年)初年までには形作られ、
その後改訂が加えられていった書物であり、地理誌である。

19日本@名無史さん:2008/05/20(火) 02:27:12
前スレ使い切り間近なんでアゲ
20日本@名無史さん:2008/05/20(火) 07:44:08
重複誘導


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/
21 :2008/05/20(火) 09:46:38
>>18の斉の滅亡後『蓋国』がたてられの出典を教えてください。
22日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:01:30
「蓋国」はもとは「商蓋」つまり殷の直轄地で「現在の曲阜」だし周王朝を建てた武王の子「成王」が即位した頃の話で斉の滅亡は全く無関係。
殷が滅びたので商の字が外れて蓋国になった。
そしてここは周代に有名な「魯」になるところ。

倭人国は曲阜の南にあったことになる。
そこは殷代に人方と呼ばれていた東夷の方国で、沖縄・奄美大島まで宝貝を採りにいき殷の貨幣である貝貨を一手に生産していた殷の造幣局とも言える最も重要な方国。
しかも殷で「甲骨文字」や「とうてつ文」がでてきたのは殷代後期に人方を殷の方国に組み入れてからのことでそれ以前には甲骨文字も発見されていない。
人方のあった山東半島の付根はその前は「大シ文文化」があったところで文字もありすでにかなり甲骨文字に近づいている。

殷の末期に殷王は貝貨を独占しようと東の人方に攻め入ったところ西の背後から周連合が攻めてきて滅亡した。


23日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:13:25
重複誘導


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1211287399/

24日本@名無史さん:2008/05/21(水) 08:21:35
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1205466619/l20
重複スレ
すでにこちらが先に出されています。
削除対象です。

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209995649/

25日本@名無史さん:2008/05/22(木) 16:32:30
記念age

続きはここでっせ。
26日本@名無史さん:2008/05/22(木) 16:36:26
たった今からここは阿波帝國の植民地となった!
27日本@名無史さん:2008/05/22(木) 17:37:18
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1205466619/l20
重複スレ
すでにこちらが先に出されています。
削除対象です。

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209995649/

28ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/22(木) 22:26:35
「三国史記」の「173年に倭の女王卑弥呼が新羅(辰韓?)に使いを送る」と言う記述と
「梁書」の「178年〜184年に卑弥呼が倭の女王になる」と言う記述は
どうも怪しい気がする。
173年だったらまだ生まれてないしか生まれたばかりだし(生まれたのが175年ぐらいか)
184年の時点ではまだ10歳前後だ。
29日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:38:23
>「三国史記」の「173年に倭の女王卑弥呼が新羅(辰韓?)に使いを送る」と言う記述と

173年は卑弥呼の在位以前、これが事実なら60年後の233年かな。

>「梁書」の「178年〜184年に卑弥呼が倭の女王になる」と言う記述は
どうも怪しい気がする。

おそらく年少で擁立されたのだろう、卑弥呼の生まれは170年頃かな。

30日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:19:57
誰でもいいんだけどな〜
31重要なお知らせ:2008/05/23(金) 01:55:10
>>28-30

ここは削除依頼がでています
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1205466619/l20


誘導
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1211287399/
32日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:22:32
>>31
りょうかい!
33日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:55:25

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
34ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/23(金) 17:19:46
>>29
230年代〜240年代にかけて魏に使いを送った卑弥呼が
12代景行天皇の妹倭姫命で、
178年〜184年に即位した卑弥呼が
10代崇神天皇の妹観松姫命で、
173年に新羅(辰韓のことか?)に使いを送った卑弥呼が
9代開化天皇の妹倭迹迹姫命で、
ついでに台与が13代成務天皇の妹
五百野姫命だ…
というのは反則か?
35日本@名無史さん:2008/05/23(金) 17:23:05
反則
36日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:37:12
どちらも19ならタイムスタンプの遅い方、つまりこのスレが削除対象です。
それが2チャンネルの習わしです。これは日本史板に限らず、どこの板でも守られているルールです。

このスレを本スレに認定します。異議あるときは削除議論板までどうぞ。
アゲておきます。
3736:2008/05/23(金) 23:47:21
失礼しました。訂正します。
どちらも19ならタイムスタンプの早い方、つまりこのスレが本スレです。
それが2チャンネルの習わしです。これは日本史板に限らず、どこの板でも守られているルールです。

このスレを本スレに認定します。異議あるときは削除議論板までどうぞ。
アゲておきます。
38日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:52:18
>>34-37
誘導
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1211287399/
39日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:55:28
68 :日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:27:33
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか見ませんね。
あと、トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか判定さんとか、、、
みんなどこ行っちゃったんだろう


40迷ったら名乗らない:2008/05/23(金) 23:57:38
>>38
削除議論板へどうぞ。

日本史板@削除議論スレ
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sakud/1190110194/
41日本@名無史さん:2008/05/24(土) 03:06:06
>ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM

・・・うーんポスト白鳥庫吉とか出てこないのかしらんw

もっともポスト古田武彦ならいっぱいいそうだけどww
42おまえなめとんのか:2008/05/24(土) 06:02:04
709 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:58:22
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか
トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか
ここのスレ主なる?
710 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:59:25
あ 間違えた コピーは駄目だね
711 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 01:03:47
ここはドツボ監視委員さんがスレ主
みんな最近きてないね
712 名前:改めドツボ監視委員会 :2008/05/24(土) 01:23:40
>>711
2ちゃんねるにスレ主なんていらない。
スレ立てた>1はただそれだけの人。
「乙」の一字もらえれば恩の字。
ひろゆき曰く…
「ヒエラルキーの無いスーパーフラットな場」 らしいよw
713 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 02:07:10
>>712
監視ご苦労さんです。
じゃあ遠慮なくここもわしが立てますわ
もうすぐ終わるで
714 名前:日本@名無史さん :2008/05/24(土) 02:25:17
>>713  来蔵
900あたり越えてからでいいんじゃない?
43おまえなめとんのか:2008/05/24(土) 06:02:51
709 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:58:22
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか
トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか
ここのスレ主なる?
710 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:59:25
あ 間違えた コピーは駄目だね
711 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 01:03:47
ここはドツボ監視委員さんがスレ主
みんな最近きてないね
712 名前:改めドツボ監視委員会 :2008/05/24(土) 01:23:40
>>711
2ちゃんねるにスレ主なんていらない。
スレ立てた>1はただそれだけの人。
「乙」の一字もらえれば恩の字。
ひろゆき曰く…
「ヒエラルキーの無いスーパーフラットな場」 らしいよw
713 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 02:07:10
>>712
監視ご苦労さんです。
じゃあ遠慮なくここもわしが立てますわ
もうすぐ終わるで
714 名前:日本@名無史さん :2008/05/24(土) 02:25:17
>>713  来蔵
900あたり越えてからでいいんじゃない?
44来蔵 おまえなめとんのか:2008/05/24(土) 06:03:50
709 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:58:22
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか
トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか
ここのスレ主なる?
710 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:59:25
あ 間違えた コピーは駄目だね
711 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 01:03:47
ここはドツボ監視委員さんがスレ主
みんな最近きてないね
712 名前:改めドツボ監視委員会 :2008/05/24(土) 01:23:40
>>711
2ちゃんねるにスレ主なんていらない。
スレ立てた>1はただそれだけの人。
「乙」の一字もらえれば恩の字。
ひろゆき曰く…
「ヒエラルキーの無いスーパーフラットな場」 らしいよw
713 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 02:07:10
>>712
監視ご苦労さんです。
じゃあ遠慮なくここもわしが立てますわ
もうすぐ終わるで
714 名前:日本@名無史さん :2008/05/24(土) 02:25:17
>>713  来蔵
900あたり越えてからでいいんじゃない?

45なめとんのか?:2008/05/24(土) 06:05:13
709 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:58:22
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか
トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか
ここのスレ主なる?
710 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 00:59:25
あ 間違えた コピーは駄目だね
711 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 01:03:47
ここはドツボ監視委員さんがスレ主
みんな最近きてないね
712 名前:改めドツボ監視委員会 :2008/05/24(土) 01:23:40
>>711
2ちゃんねるにスレ主なんていらない。
スレ立てた>1はただそれだけの人。
「乙」の一字もらえれば恩の字。
ひろゆき曰く…
「ヒエラルキーの無いスーパーフラットな場」 らしいよw
713 名前:来蔵 :2008/05/24(土) 02:07:10
>>712
監視ご苦労さんです。
じゃあ遠慮なくここもわしが立てますわ
もうすぐ終わるで
714 名前:日本@名無史さん :2008/05/24(土) 02:25:17
>>713  来蔵
900あたり越えてからでいいんじゃない?
46日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:15:03
改めドツボによるコピペ荒らし 

   キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!


47ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/24(土) 22:25:35
>>41
出てきたら面白いのになー
ポスト木村政昭とポスト大杉博とかも出てきたら良いのに。
もっとも、その時は3人呉越同舟で
ポスト白鳥庫吉を叩きのめすけどねw

ポスト古田武彦なら太国さんあたりそうだろうけどね。
彼がポスト古田武彦と改名して、突然出てきたポスト安本美典と争って、
そして突然ポスト松本清張も出てきて、
反九州連合VS九州派の争いに発展したらやだなあ。

48ドツボ撲滅委員会:2008/05/24(土) 22:29:12
>>47
太国さんもいいが、九州王朝大好きさんもポスト古田たりえると思うが
49(´ω`;):2008/05/24(土) 22:37:11
>>48
九州王朝大好きさんは妄想に走りすぎ。
50改めドツボ監視委員会:2008/05/24(土) 23:27:58
>>47
そして荒れ荒れになった場に ポスト宮崎康平 が降臨w

すさんだ皆の心を沈静化させる イイ(;∀;)ハナシダナー
51日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:52:31
本スレ記念age
52日本@名無史さん:2008/05/25(日) 02:23:13
>>51

おまえ殺されてーみてえやな
53日本@名無史さん:2008/05/25(日) 02:24:28
>>51
毎日いじめたろうか?
54日本@名無史さん:2008/05/25(日) 02:26:24
>>52-53
改めドツボによる脅迫 

   キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
55日本@名無史さん:2008/05/25(日) 02:58:50
通報しました
56日本@名無史さん:2008/05/25(日) 03:45:05
朝吉くん 他所にちょっかい出してどうゆうことだ?

184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
>>180
>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
>>180
>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
>>180
>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age



57日本@名無史さん:2008/05/25(日) 03:48:46
朝吉くん 他所にちょっかい出してどうゆうことだ?

165 名前:愛媛県民 :2008/05/25(日) 00:26:25
>>160
まあムキになるな
君も尻取りに参加したまえ
166 名前:ドツボ撲滅委員会 :2008/05/25(日) 00:26:48
監視中
本スレ記念age
1>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
84 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
本スレ記念age 本スレ記念age
170 名前:シリトリ参戦 :2008/05/25(日) 01:34:30
リ→「里」→リ また「リ」だよ。
>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
>>180
>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www
本スレ記念age
58日本@名無史さん:2008/05/25(日) 03:51:09
朝吉くん 他所スレちょっかい出して報復あたりめえだろ

165 名前:愛媛県民 :2008/05/25(日) 00:26:25
>>160
まあムキになるな
君も尻取りに参加したまえ
166 名前:ドツボ撲滅委員会 :2008/05/25(日) 00:26:48
監視中 本スレ記念age
1>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www 本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
84 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
朝吉くん 他所にちょっかい出してどうゆうことだ?
165 名前:愛媛県民 :2008/05/25(日) 00:26:25
>>160 まあムキになるな 君も尻取りに参加したまえ
166 名前:ドツボ撲滅委員会 :2008/05/25(日) 00:26:48
監視中 本スレ記念age 1>私物化が悪いのか?答えろよ
ここはお前=ドツボの私物じゃないから
私物じゃない物を私物化するのは泥棒と言うw
泥棒を悪いと言うのは当たり前www 本スレ記念age
184 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
84 名前:日本@名無史さん :2008/05/25(日) 03:19:17
59ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/25(日) 07:52:01
>>50
そして皆でロマンを感じてるところにポスト井沢元彦が出てきて
「卑弥呼を殺した犯人はこの中にいる!」て言うんだよな。
60日本@名無史さん:2008/05/25(日) 08:14:22
>>59

誘導
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209573090/

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1211287399/
61日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:03:00
>>59はマルチです。
62ポスト関裕二:2008/05/26(月) 02:20:11
>>59
犯人は畿内ヤマトのトヨこと神宮皇后だ!
63日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:31:02
ひみこは役職名であり個人名ではりません
64日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:31:37
65日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:33:55
ひみこは30人くらいいました
66日本@名無史さん:2008/05/27(火) 17:25:17
歴代卑彌呼(卑彌呼=倭の女王=摂政=天皇の姉妹)

・倭迹迹卑彌呼(九代開化天皇摂政)(173年に新羅(辰韓?)に使いを送った卑彌呼)
・御真津卑彌呼(十代崇神天皇摂政)(178年〜184年の間に即位した卑彌呼)
・豊鍬入卑彌呼(十一代垂仁天皇摂政)
・倭卑彌呼(十二代景行天皇摂政)(230年代に魏と交流し、240年代に死んだ卑彌呼)
・五百野卑彌呼(十三代成務天皇摂政)(壱与)
67虹歩命:2008/05/27(火) 18:57:32
>>65
卑弥弓呼は何人くらいいたのでしょうか?
68日本@名無史さん:2008/05/28(水) 16:17:18
万世一系の卑弥呼!
69唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/30(金) 20:38:59
もん太 ヘドが出るまで 書き込んでくれ
見ているから。
70日本@名無史さん:2008/05/30(金) 20:48:16

トヨタン・・・・・・・・・・・ トヨタン……
71日本@名無史さん:2008/05/30(金) 20:48:20
>>69

ここは後回しでいいよ

何度かスルーしないといけない。
改めが考えてるはずだし、ここは任せとけばいい。
72日本@名無史さん:2008/05/30(金) 21:23:22
>>71は取り消し

唐松山さんに任せた
何かいい考えがあるんでしょう
73日本@名無史さん:2008/05/30(金) 23:51:29
>>69
唐松山君、荒らし依頼かね?
74卑弥呼:2008/05/31(土) 01:24:14
私が死んでも代わりはいるもの・・・
75日本@名無史さん:2008/05/31(土) 01:58:37
AV女優のことでしょ?>74
76唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/31(土) 12:46:25
ほら見ろ 猫またぎ のスレになっちまった。
77日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:52:59
あの、みなさん
このスレはどう取り計らいましょうか?
78日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:57:19
>>77
テンプレ不備で放置が適当では

日本史板削除議論スレより転載
[11]日本@名無史さん<sage>
2007/12/07(金) 16:06:57 HOST:124x36x111x109.ap124.ftth.ucom.ne.jp
>>10
重複スレが次スレとして再利用な場合はそうだろうけど、スレの体裁として次スレに使えない場合は、
重複スレは重複スレとしておいといて、次スレを新たに立てているのが普通じゃね?
そういう場合、次スレに改めて誘導した上で、削除依頼継続。
で、その後実際に削除が実行されているケースも、割と普通に目にするような気がするが、、、
79唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 02:24:55
猫でも何でも良い 寄ってこさせるには、

まず、サンマでも 撒け。
80日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:32:27
つカルカン
81日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:40:10
>>77-80

>>1に片付けさせとけ 



82日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:45:49
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
83日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:55:26
このスレは重複につき削除依頼がだされてます。
削除されるまで、レスは禁止。 ルールに従いましょう!

http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1125573948
84美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 19:00:08
おれ唐松山さんに、書き込めって言われたスレを間違えてたよ(^_^;)

http://s.s2ch.net/test/-6-.uaa!size=3&color=000000+ffffff+blue+red+333333/academy6.2ch.net/history/1207340005/20-23

こっちのスレに天照の足跡をかいちまった^^
85日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:49:32
このページ参照汁


◆「邪馬台国」あれこれ
http://blog.goo.ne.jp/sakura707_2006/e/889aa51197bb8adfe960791050aecf7c
86日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:25:13
ホ00063 オオンカミ モモナソヨロの トシをへて
天照の年齢は 百七十万歳 で死亡

神代の年の数え方から 勉強しないと 神代を 歴史に載せられない。
神代を人間の歴史として書いてある書物は、ホツマのみ。
年代という数字が有るから 歴史になるが 
数字のない 美濃もん太君 それは 只の お話。
87日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:42:19
ホ00063 オオンカミ モモナソヨロの トシをへて
天照の年齢は 百七十万歳 で死亡

神代の年の数え方から 勉強しないと 神代を 歴史に載せられない。
神代を人間の歴史として書いてある書物は、ホツマのみ。
年代という数字が有るから 歴史になるが 
数字のない 美濃もん太君 それは 只の お話。
88美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 21:04:17
とりあえず唐松さんに言われた事は
http://same.ula.cc/test/r.so/academy6.2ch.net/history/1207340005/20-23
に書いたっす



恵那山、御嶽山周辺の奥美濃、奥三河、信州辺りのその土地に伝わる神話や風土史を調べれば、天照や猿田彦や高天の船の事や、色々解るよ
仏教や密教伝来以前の本古来の信仰の跡の「岩磐」の遺跡も沢山あるよ


昔は「神の社(神社)」ってのは、恵那山や御嶽山や白山のように、山その物を「神の社」として巨石でその山に岩磐を作り、信仰してたよ
神社や寺の建物を自ら建てて、そこに神を祭り崇めるようになったのは仏教や密教の伝来した西暦600年頃以降だよ
89美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 21:15:36
ちなみに先代旧事紀ではちゃんと「葦原の天つ原は信州の事」としてるよ


例えば神話だとされてるニギハヤヒとかが乗って来た「高天の船」ってのも、UFOとか天から降りてきた様子とかじゃなく
昔、高原(たかはら、ようわ「こうげん」だよ)にあった湖を船で渡って来たってだけの意味だよ

あと稲葉の白兎とかに出てくる「ワニ」ってのもサメの事じゃなく、船や湖を渡る葦等で作られた細長い船の事だよ
ちなみに、そうした船を作ったり舟渡をしてた氏族の名前は「鰐氏(ワニ氏)」だよ

あと「天高原」を難しく考えすぎ
「たかはら」じゃなく「こうげん」の意味なだけだよ
「中国原(なかつくにはら)」は、「中心の国」の意味で、別にどの地域も天高原とも呼べるし中国原とも呼べる




記紀に書かれた中国原や天高原は、イザナミ達が降り立った中国原は美濃の中津の事だし、スサノオが渡った天高原は信濃の事だよ
90美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 21:31:37
>>86
歴史だってば

数字って年代の事かあ?
昔は西暦なんて暦を使って無いから、西暦で何年の事かなんて言い伝えられてる訳ないじゃん

例えば猿田彦は「庚申の年」に生まれただか死んだだか活躍しただかの人
だから記紀では「猿田彦」って書かれてるけど、例えば猿田彦の故郷の奥三河の伊勢神の周辺では「お庚申様」って名前で、猿田彦を信仰したりしてるよ

あと稲葉の白兎の話も、あれ島根の話じゃなく、奥三河にある「稲葉の素兎足(アリト)」の話だよ


「一匹の兎が鰐(ワニ)の背中に乗って、、」
って話は記紀を読んだ近代人が、間違ってそう解釈してるだけの話だよ
記紀の漢文を頼りに、そう間違った解釈をしちゃってるだけ

本来書いてある事は
「稲葉(岐阜の旧名)の氏族である兎足(アリト)が、ワニ(鰐氏達の船)に乗り海(昔、奥三河、奥美濃、信濃越境にあった湖)を渡ろうとした所、舟渡のワニ氏に騙され身ぐるみを剥がされて増水した濁流の川に流された」
それを下流の三河の氏族が助けたって話だよ

今でもその土地は兎足を助けた地から「足助」って呼ばれてるし、兎足が流れ着いた地には舟磐を奉ってるし、兎足を奉った社などもある
91美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 21:44:14
ちなみにスサノオってのは単に「諏訪の王」って意味だと思うよ

ニギハヤヒや日向三代とかの祖で葦原高原に渡ったのがスサノオでしょ?
ちなみにヤマタのオロチは、この奥美濃三河信濃越境にあった湖に住んでたとされる仙人の事だよ



あと良く「日の昇る国」って言われるけど、これも「扶桑の木(箒木、母は木)」って実在する木があって、昔は「太陽はその木から昇る」とされてたんだよ

ちなみに源氏物語や他の古書にもこの日が昇る「箒木」の事は細かく書いてあるよ

「その影は阿智までとどき、夕暮れには伊勢まで届いた」とか書かれてる

ちなみに阿智は山幸彦や海幸彦達がいた信濃の阿智村
伊勢は奥三河の猿田彦や伊勢津神らの故郷の伊勢神峠のある伊勢神の事だよ


ちなみに箒木は、阿智村の山にあって、今も現存する木だよ(ただし雷で焼けて株だけになってる)
奥美濃の伝承でも箒木の話はある(阿智とかの伝承とは少し違う話だけど。ちなみに箒木の近くの魔野って山奥に、更にデカイ切り株がある。こっちが扶桑の木の可能性もある)
92美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 21:54:01
ちなみに、奥美濃、奥三河、信濃の越境にあった幻の湖は

http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fir.nul.nagoya-u.ac.jp

これね


ただし、この大学の学者は研究結果から「500年前頃に地震により天然のダムがあった」って解釈をしてるけど、この解釈は間違いだから気を付けて欲しい

なぜこの学者が、このような解釈をしてるのかを説明すると、この大学は元々は新潟の中越地震後に、中越地震で出来た自然のダムのメカニズムなどを研究してて
「過去の大地震でも新潟の中越地震の時のように自然のダムが出来たりしてたんじゃないか?」
って事を調べる為に、奥美濃で大雨災害時に見つかった、湖底に埋まってた古木を調べに来たから、こういう解釈をしてるだけ


93唐松山:2008/06/05(木) 22:07:01
「葦原の天つ原は信州の事」
暦を作ったのは 思兼、 九州時代の話 天つ原は 天象を見る場所

思兼(手力男も含む)が 伊那の阿智に入ったのは、綏靖の時代 伊勢津彦は、
思兼の元で蟄居、
神武 崩御の時 手研耳と神八井耳の2手に分かれて争う
手研耳=母、アビラ姫=天照の血統
神八井耳=母、イスズヨリ姫=大物主の子

ハハ木は知ってるが
「その影は阿智までとどき、夕暮れには伊勢まで届いた」
夕暮れには伊勢まで…場所は? 伊勢より西?
94美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 22:11:42
だからこの大学の学者がした解釈はとりあえず「解釈」だってわかって欲しい
ややこしいけど


ただ「湖があったかどうか」って研究をした
結果は「少なくとも1500年頃以前にこの地は湖があった」って事が解ったって事
(その湖は地震による天然のダムだとか言うのは、その結果からこの学者が推測した解釈なだけだよ)


ちなみにこの湖の話はこの周辺でちゃんと伝えられてるよ
例えば上流の阿智では「竜神池と呼ばれ水を操る竜神が住んでたが、ある日、湖の底が抜け、一夜にして湖が無くなってしまった。下流の人達は濁流に飲まれてしまった」とか


下流の奥美濃では「大仙山に住む竜神様が「山が崩壊するから逃げろ!」と教えてくれたおかげで私達は高台に逃れられ助かった。あっちの○○村は全て濁流に飲まれてしまった」とかね
ちなみにこの湖(海)の下流にあたる地域(恐らく濁流に呑まれた地域)からは、地面を掘った4メートルもの地中に埋まった石塔が発見されたりしてる

昔そこに湖があった事は研究からも解ってるし、昔そこに湖があったって事は、ちゃんと伝えられて来てた事でもあるよ



いつこの湖が崩壊したのかは俺はまだはっきりは解らないけど、阿智の伝承の山幸彦の話とかは、この湖の崩壊と繋がりがある話な気がするよ


ちなみにこの湖は「海」とも呼ばれ、この湖の周辺は何故か塩田があった地や、岩塩を掘ってた場所がある
ちなみに信濃では今でも海水が湧き出る不思議な井戸がある


もしかしたらこの湖は淡水じゃなく、海水だった可能性もあるよ(だから「海」って呼ばれてたのかも)
だとしたら信濃の塩田って地名や塩を運んだと言われる古道の塩田街道の意味が解るし
95唐松山:2008/06/05(木) 22:15:24
ついでに 天押男=手研耳とユリ姫の子供
天押男の孫娘が 孝昭の妃で孝安を産む。

私の編年が有るから何時の時代の事か 判るだろ。
干支年 だけでは、60年に1回、回ってくるから 何年の事か特定しないと 歴史に成らない。
96美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 22:22:23
>>93
「夏には伊勢まで」だったかな?
古近和歌集だか源氏物語に書いてある言葉だよ

ちなみに伊勢ってのは三重県の伊勢じゃなく、奥三河にある伊勢の事だよ
猿田彦の故郷でもあり、兎足の話や、景行天皇が猿田彦を投げ入れた猿岩や猿山や猿投神社がある所
またヤマトタケルと同一視される景行天皇の息子の何とかって人の縁の場所


阿智と伊勢は昔あった湖の両岸に当たるよ
阿智と伊勢(三河)は船で往き来してたよ
だから舟渡って地名や船を繋いでた舟岩が今でもある

諏訪大明神(ニギハヤヒ)もこの湖を渡って、美濃に渡りナガツネヒコを倒してるよ
だから諏訪大明神のお祭りの時は今でも船でこの湖を渡った様子をお祭りでやってるよ

知らない人がみたら「なんでこんな信濃の山奥のお祭りで、海を船で渡る様子をやるんだろう」見たいに思うらしいね
97唐松山:2008/06/05(木) 22:23:46
昔 湖が在ったとしたら 堆積物等が残るから 特定できる、
どうせ探すなら 星池を探せ。
98唐松山:2008/06/05(木) 22:37:18
時代を間違えるな
現在の伊勢は、垂仁時代より。
99美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 22:39:27
>>97
蓄積物もあるよ
天然ダム地震の調査に訪れた大学の研究結果でも「昔この地に湖があった」って結果は出てるよ
この「海」って場所は今は美濃三河から、信濃へ続く道が通ってる
地形は「峡」だよ
両岸にある岩も何とか岩つって海だか地底にある岩盤の性質の岩らしいよ

この場所に海、もしくは湖があったのは間違い無いってば



ちなみに浦島太郎の縁の話や伝承や遺跡もこの湖の周りには多々あるよ
亀岩とか浦島太郎が海から帰って来て寝てた浦島岩とかさ
100美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 22:44:19
>>98
三重県の伊勢がでしょ?
記紀の時代は今の三重県の伊勢は伊勢って呼ばれてないすよ
信州の物部氏族の伊賀氏が治めてから「伊勢」って呼ばれるようになっただけじゃないのかな?

今の伊勢に対して昔の伊勢は「元伊勢」って呼ばれるように、元伊勢のあった地が記紀などに書かれてる伊勢の地だよ
ちなみに猿田彦が投げ殺された場所も伊勢(三河の方のね)だよ
101唐松山:2008/06/05(木) 22:46:32
旧事記を読んでいるなら
孝昭の段に
三輪(ノ)大社(おほやしろ)を建立(こんりう)し、又た内殿に於て、天照大神(あまてらすおほんがみ)
と同く大物主(ノ)大神を祭りたまふ。

大社を建立 意味は解るだろ。
102美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 22:55:07
時代や西暦何年の事かと言われると、はっきりは解らないけど(ニギハヤヒの年代は解るけど)

ホツマや記紀や先代旧事紀も、視点は違うかもだけど同じ歴史の話を書いてあるだけだよ
ちなみに記紀のイワレビコの東征の話は西暦600年頃の話で、ナガツネヒコを倒して橿原に都を移転して藤原京を築いたって話なだけだよ
ちなみにイワレビコは大和を政治的に統治はしたけど、その時に即位したのは持統天皇だよ

イワレビコは持統天皇なのか、
もしくは持統天皇とイワレビコが違う人物なら、イワレビコは宗教的地位の天皇には即位せずに、セイイ大将軍のように政治的権力を納めた地位に付いただけだよ




ホツマがイワレビコの時代を何年としてるのか知らないけど、記紀の解釈では単純にイワレビコの時代の年代の解釈がそもそも間違ってますよ
103日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:57:23
おお〜もん太くん 頑張れ頑張れ!
ここを999までもっていってくれw
104美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/05(木) 23:02:20
>>101
だからそれ畿内に移設後の事でしょ?

イワレビコとナガツネヒコの争いには宗教的対立もあったみたいだよ

畿内移設後(イワレビコ以降)は完全に仏教が伝来して来て寺院や社を立てて、神様もこっちやあっちに奉ったりとかだし


それ以前は岩磐の遺跡が残ってるように山岳信仰だよ
今でも飛騨や美濃の神社では「神社ではなく、この山全体が神の社です」って、神社を建てつつも、山岳全体を崇める信仰のままの信仰の神社も多いよ
105美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 00:24:16
>>103
うんw
ただ俺が調べたり考えたりしてるのは邪馬壹國やら卑弥呼じゃなく、あくまでも日本の歴史の事だよ^^


邪馬壹國論争は「どこが日本の発祥」見たいな言い争いにしか思えないし

俺的には日本やに日本民族に発祥も何も無いよ
ましてや大陸や朝鮮から渡って来た訳でもない(もし大陸からの移民だと言うなら、それこそ元いた大陸の場所が発祥の地な訳だし)


日本は記紀時代からずっと日本で、記紀もホツマも風土期も、俺ら日本民族の歴史書だよ

だから邪馬壹國もだけど「神武天皇からが日本の始まり」って解釈も俺は違うと思ってる
スサノオや天照やイザナキの時代も日本だよ
そして彼らも俺らと同じ日本民族であり、俺ら日本民族の歴史だよ
(もし日本民族が大陸からの移民なら、天照やスサノオやイザナキは、単なる日本列島にいた先住民で、俺らとは違う民族の話になる。アイヌ神話のように)

106日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:01:46
全然読む気になれん
107日本@名無史さん:2008/06/06(金) 03:36:33
美濃もん太は 低脳嵐 まで読んだ
108唐松山:2008/06/06(金) 18:45:42
イワレビコ=神武
イワレビコ=西暦600年頃 
何をどう解釈したら こんな数字が出てくるの?

西暦600年は 弥生時代か?
確かに 恵那山西麓の 縄文は最後まで残ったが、
これを最も遅い時期に当て嵌めても 西暦200年位だ。
109美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 18:52:20
>>108
イワレビコは橿原に都を遷都した訳でしょ?
なら藤原京の事すよ


蘇我氏が倒されて、藤原宮に遷都されたのが694年だったっけな?
110美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 19:01:10
つか弥生時代とか縄文時代って何年前の事です?
弥生時代、石器時代、原始時代、、ジュラ期や白亜期、、、、
こんなんは日本の歴史とは関係無いと思うけどな

地球の歴史とか人類発祥の歴史とかまで遡るつもりは無いっすよ
111唐松山:2008/06/06(金) 19:10:30
ほつまの暦 1=さなと
=CHOOSE(MOD((C3+66),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((C3+68),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")

イワレビコは橿原に一から 都を作った。
書記でも何でも イワレビコの条に 藤原の文字は在りません。
書記に ○○朔の文字が山ほど有る 朔とは、新月のことである 
つまり 書記は 1日単位まで 分解出来る
もん太君の 思う 正しく実在した?天皇元年1月1日朔から イワレビコ元年1月1日朔 まで何日有るか 計算。

全ての年月を正しいとすると 前660年になるのが 書記
この数字を どの様に 圧縮するか? これが 編年考。

112唐松山:2008/06/06(金) 19:17:45
書記では イワレビコ以降 親子で世継ぎを繰り返し 20,30代と続く

1才、2才で世継ぎは不可能 20日ネズミじゃ無いんだから そこん所良く吟味して。
113日本@名無史さん:2008/06/06(金) 19:28:37
がんばれがんばれ
114美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 20:46:56
>>114
暦に「朔」って字があるのは農作業や神事や祭りに適した「二十四節気」の暦を使ってた国だからだよ
日本は江戸時代までは二十四節気の旧暦を使ってた国だし
立春や冬至があるのもその名残すよ



ちなみに「天皇元年」ってのが良くわからない
皇暦の事? 「皇暦」ってのは明治政府がキリスト教の西暦に対抗して作った暦で、それ以前の日本にはそんな暦は無いよ

ホツマって「皇暦」を元に、年代計算してるんですか?
したら明治以降に定められた皇暦元年の年がが違ったら、全部年代がずれちゃうと思いますよ
115美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 21:01:37
>>115
書記でも記紀でも「イワレビコは橿原に宮を置き政治的に治めた」って書いてあるだけで
天皇に即位したとは書いて無いよ

ちなみに日本は立憲君主制の国で、権力を持ち国を納める統治者と、巫女や神子として祭事を取り仕切る祭司は別っすよ
天皇にならなくても国を治める事は出来るよ
(もちろん天皇が権力をも握り、、って事もある)


ちなみに天皇は世襲でしょ?
「天皇」って地位の人が死んだら、同じ血統をもつ子供が天皇を継ぐ

天皇在位期間が1年や2年のケースもあるよ
60才で即位して61才で死んだら1年で次の代に変わる訳だから
116唐松山:2008/06/06(金) 21:12:38
書記の何処に 立春や冬至が出てきますか?

日本書記の書かれた年代を知っていますか?

たとえば
《綏靖天皇元年 正月己卯》元年春正月壬申朔己卯。1日壬申の己卯日は、8日

神代なら
ホ29035 ヒカリかさぬる トシのカス モモナソコヨロ フチヨモモ ナソホへるまで
神武 元年なら
ホ30048 ときにカシハラ スメラキの ミヨアラタマの
スズサナト サヤヱハツヒの ヲメデタも
サナト年 1月1日サヤエ朔 と読む。

計算は、こちらの都合 
日付は日記と同じ 初めに記録されたときから有る。
117美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 21:17:39
あとイワレビコの話に出てくるナガスネヒコを殺した「ニギハヤギ」を調べたら、これ誰の事か解ったすよ
ニギハヤギは物部氏の祖で信州(諏訪)を治めてた諏訪大明神の事だよ
ニギハヤギを奉る信州の越智神社とかに、その事がちゃんと書いてあったよ

後は諏訪大明神がいつの時代の人で何をした人かを調べたら、イワレビコの話は飛鳥時代の蘇我氏や大海人皇子の頃の大化の改新(だっけ?)の話だって解るすよ

だからイワレビコ、ニギハヤギらの活躍した話の時代は特定出来るよ
118唐松山:2008/06/06(金) 21:17:50
たとえば、下記等を あさると 書記も ネット上に有るから ダウンロードして使う。
まず 日本書紀 で検索

http://www.geocities.jp/muyu123dah/siryou.html
119唐松山:2008/06/06(金) 21:24:12
新編 日本書紀
辛酉年春正月,庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮.

もう一つの 私編は お子様向け。

120美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 21:26:18
>>116
> 書記の何処に 立春や冬至が出てきますか?


たとえば
《綏靖天皇元年 正月己卯》元年【春】正月壬申朔己卯。1日壬申の己卯日は、8日


二十四節気では、この【春】とか【冬】とか【朔月】とかで、節句を表してるんすよ


上手く説明出来ないんでWikipediaとかで「二十四節気」とかを見て貰えれば解ると思うっす
桃の節句や節分や端午の節句や、、、日本の文化であり風習ですよ

旧暦を辞めちゃったから、このまま今のグレリオ暦を使ってると、正しい節句や立春などが何年後かには解らなくなっちゃうらしいよ
121日本@名無史さん:2008/06/06(金) 21:49:34
美濃もん太 クンは向こうの20を気にせず&遠慮せずにここをあげてくれたらいいからw
122美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 21:53:07
>>119
西暦661年 辛酉年
天智天皇(中大兄皇子)が即位

ちなみに661年の辛酉年は斉明天皇が百済救済の為に自ら筑紫の那の大津に出向き、そこに朝倉宮を建築
その2ヶ月後に突然死亡
あと新羅の武列王が死亡した年でもある

もしイワレビコが天皇に即位してるなら、天智天皇の事と思うよ
123唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/06(金) 22:00:45
桃の節句や節分や端午の節句や、、、

これらは、太陽に合わせた 祭り。
皇歴で1100年間は 「二十四節気」は 無いと思いますよ 有れば編年の役に立つ。
正月壬申朔己卯=太陰暦正月壬申新月の己卯日
是だけでは、太陽に合わせられません。そこで「二十四節気」に登場願うのですが、書かれていない。
グレリオ暦を使ってると、月と太陽を合わせる必要が無い と言う意味です。

太陰暦 1年が12ヶ月で354日位 3年位で閏年を置き 383日
19年間で閏7回 6939日
76年で6939日*4回プラス1日
これが 当時の暦法。
124唐松山:2008/06/06(金) 22:09:47
イワレビコ=神武
天智天皇に何か特別な 謂われ でも有るんですか?
と突っ込むより 神武 から天智までの 各天皇はどうなるの?

当然 神武の祖先 天照も 神話の世界の生物ですか。
125唐松山:2008/06/06(金) 22:19:45
良いですか 神武 以前に 1000年の歴史が在るんですよ その中央に天照大神が居る。

ホ28003 ヰソススの チヱのハタトシ アメかわる コヨミまだとて
モノヌシが イセにもふでて これをとふ

50章の1020年 天皇の代代り 暦未だとて 物主が 伊勢に詣でて 是を問う。
126日本@名無史さん:2008/06/06(金) 22:20:34
>>119
> 新編 日本書紀
> 辛酉年春正月,庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮.


この【辛酉年】を
・西暦661年と解釈するか
・紀前660年と解釈するか
だね


ちなみにこの頃の天皇の名前って「斉明○年」とか「天智○年」って名前から付けてない?
「斉明○年に死んだ天皇だから斉明天皇って呼ぼう」
みたいなさ


斉明天皇って呼ばれてる天皇は、記紀の仲哀天皇の話とそっくりだから仲哀天皇の事じゃないのかな?

「天皇の名前を元号とする」
って決めたのは明治時代からだから、江戸時代までは元号は別に天皇の即位や名前とは関係なく付けられてるはずだよ


神武天皇ってのの「神武」ってのも、単に元号の名前で天皇の名前じゃ無いって思うし
神武天皇って名前の天皇は、明治政府が建てた橿原神宮と宮崎神宮にしかいないもん
他の神社では「神武代に建築され」みたいに、神武って名前は元号として使われてるしさあ
127唐松山:2008/06/06(金) 22:24:49
訂正
× 76年で6939日*4回プラス1日
○ 76年で6940日*4回マイナス1日
128美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 22:35:33
>>123
皇暦なんて暦は知らないってば。明治政府が作って定めた皇暦の事ですか?

ホツマも別に二十四節気とか関係無いと思うよ


単に「記紀は二十四節気の旧暦で書かれてる」ってだけだよ
だから日付に【春】とか【朔月】とか【夏】とか節句を表した表記をしてるし
この旧暦を太国さんが勘違いして「記紀の暦は15日までの表記が殆んどだ。つまり倍暦だ」なんて言ってたんでしょ?

源氏物語だか古近和歌集でも「今年はまだ年の瀬なのに立春で、正月が愛しく、、」とかなんとか言う旧暦の事を書いた歌があるよ

記紀が書かれた時代が平安時代頃でしょ?
十二支干支やこうした暦は、この時代前後に漢から入って来たんだと思うよ
仏教や漢字とかもこの時代前後にに伝来し朝廷が普及させたんだと思うよ
129河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 22:46:39
>>128

単に「春秋体制」を見本としただけじゃないの?
130美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 22:50:41
>>125
> 良いですか 神武 以前に 1000年の歴史が在るんですよ 
まず神武時代ってのは置いといて、それは十分解ってるっす
日本の歴史は2660年より長いですよ


>その中央に天照大神が居る。

天照以前にはイザナミイザナキがいて、それ以前には国之常立命もいる


俺が言いたいのは、記紀にしろホツマにしろ日本の歴史を書いてるんすよ
「イワレビコの話からが日本の歴史。ここからが日本の始まり」
って解釈がオカシイって事を言いたいんですよ
山幸彦や稲葉の白兎はもちろん、スサノオ、アマテラスやイザナミの時代も日本の歴史すよ


国之常立、イザナミ、アマテラス、スサノオからの血統が続いてる民族が日本民族な訳だし

イワレビコからが日本の歴史って解釈はオカシイよ
記紀やホツマや他の歴史書も、ちゃんとそれ以前からの歴史を書いてる訳だしさ
131唐松山:2008/06/06(金) 22:58:36
1年の長さが 354日だったり384日だったり だから
太陽と合わせるために 24節気が 必要なの。

24節気が書かれていないのは、奈良時代以前の話。

記紀が編纂されたのは、平安時代
その干支が 古伝妄信に書いた 私の編年で読めるのは、以前から干支が記録されていた証拠
2通りの全く違う 暦法が 西暦で読める。
偶然ではありえない。
132河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 23:01:02
>>129 訂正

春秋体制・・・・・・×

春秋体裁・・・・・・○


スマソです。
133ローガン:2008/06/06(金) 23:07:50
唐松山さん太国さん。
ザの空白の四世紀であさきちさんが呼んでますのでよろしくお願いします。
私には解らないので。
134唐松山:2008/06/06(金) 23:12:28
天照も国常立も 皆さん知っているの
それに 数字(年代)を付けないと 歴史に成らないの。
此処が歴史版で在る以上 これらに 数字を付けるのが 目的の一つです。

読める 数字が 付けられるよう 努力しましょう。
135美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 23:13:20
>>129
わっかんない
記紀は江戸時代まで日本が使ってた十二支干支や、二十四節気の観念がある、いわゆる旧暦で書かれてるよ

「他国の文化伝来」って言えば聞こえは良いけど
これは言い方変えると「自国の文化の破壊」でもあるよ
ただホツマや古史古伝などで、他国文化伝来以前の日本の神代文字や山岳信仰の風習なども伝えられてるよ

記紀とかに書かれてる人名が何種類もあったりするのも、文字や言葉や名前の呼び方とかが外来文化伝来により、変わったからだと思うし

アマテラス
ヤマサチヒコ
アシハラトヨクニノヒメ

○○天皇
○○皇太子
蘇我山田麻呂
仲臣鎌足



下は外来文化伝来以降の表記や呼び名と思うよ

ウマヤドのオウジ
聖徳太子
見たいに、この時代の人は2つ呼び方があったりする気がするよ
136美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 23:22:13
>>131
そっかあ。
じゃあ干支や暦は、漢字表記になっただけで、他国から伝来して来た訳じゃなく初めから日本が使ってた暦なんだと思うっす

そういや読み方も「きのえね」とか、昔の日本語読みだしね^^
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/06(金) 23:22:34
>>133
眠いからおわり。  五王は天皇ではない。←これが要点。
昨今編年の研究をなさってるんでしょう? いい結果があると
いいですな。

今宵は要注意人物の改めがいないので、荒れなくていいな。w

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・
138美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 23:27:55
>>134
つまり「年代の特定」見たいな事ですね?

・年代の特定
・場所の特定
・人物の特定
・氏族の特定

見たいな事は出来るだけ気にして調べたりしてるよ^^
名前も複数の呼び名を去れてたりややこしいから、あれとこれは同一人物じゃないかとかさ^^


んで年代だけど、イワレビコの「辛酉年」は西暦661年の辛酉年の事と思うよ
139美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 23:44:10
逆に言えばイワレビコの東征の辛酉年を「前660年」って解釈するからおかしくなるんだと思うよ
欠史八代とか数百才の天皇とかさ

あと天皇の名前も元号と同じになるように後から付けた見たいな気がしてならないし

そもそも「天皇」って称号が出来たのが平安時代の頃なんだから、それ以前の人はその時代に「○○天皇」って名前は付いてないはずだしさ
140サガミハラハラ:2008/06/07(土) 01:05:11
倭の五王は大和の天皇ですよ。
讃=仁徳 珍=反正 済=允恭 興=安康 武=雄略
基本的な歴史事項はしっかりとおぼえましょう。
141日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:18:25
サガミハラハラ
>倭の五王は大和の天皇ですよ
 
太国 ◆yVAs7uaYlY
五王は天皇ではない。←これが要点。
今宵は要注意人物の改めがいないので、荒れなくていいな。w

この二人って仲悪いの?
まあ、どうでもいいやw

やりあうならトコトンやり合ってね。
もちろん、ここの19限定で!
ここのスレは、この二人ともんたクンに片付けて貰おう。
142唐松山:2008/06/07(土) 01:27:30
「天皇」って称号が後の時代に付けられた物でも 現在それで通って居るんだから
それで良しとしよう。 坊主が付けてくれる 戒名と思って、
辛酉年を「前660年」 これは、先に書いたように 書記の全ての日にちが在れば
前660年になる 書記や我々が間違えているわけでなく 当時の暦法により 日にちに
増し が在る。 正しい日数に直したのが 私の暦年 
修正した書記の年数と古事記の年数が同じであり 太陰暦で読める

神代は別な暦法
イワレビコの「辛酉年」は西暦661年として
並べてみて下さい。
古代の天皇の名前は、 古伝妄信に書き込んで有ります。

サガミハラハラさん 倍暦を暦に直せましたか?

143日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:40:28
みのもんたクン こっちこっち

岐阜の山でも語ってくれw

天照大神の伝承があるって本当?
どんな伝承なの?
144美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 01:55:28
>>142
> 「天皇」って称号が後の時代に付けられた物でも 現在それで通って居るんだから
> それで良しとしよう。

これには全く異論が無いです


えっとそういう事じゃなくて、神武とか斉明とか武列って年号を
「斉明7年って年号だから、この天皇は斉明天皇って名前だ」
見たいに、近年になって新たに天皇の名前が後から付けられちゃったりしてるかもって思ったんすよ


手元にある日本書記には西暦年と年号が乗ってるけど
例えば「前29年、垂仁1年、垂仁天皇即位。垂仁99年、天皇死亡」って、年号と天皇即位期間を、明治や昭和見たいに一緒になるように書かれてる



・年号の名前に合わせて後から天皇の名前を付けた
・天皇の名前に合わせて後から年号を付けた

どっちかなって思ってさ
145サガミハラハラ:2008/06/07(土) 02:01:13
>>142 倍暦の普通暦への置換は既に完成しております。
2倍年暦については「神功皇后は実在した」に著わしております。
4倍年については、講演や講義などの機会に発表しております。そのうち
出版致したいとおもっております。
146美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 02:33:24
>>143
このスレに確か書いたすよ
けど記紀にも書いてあるけど、天照やイザナミより以前に降り立ったのは国之常立だよ

ちなみに国之常立が降り立った日玉の国は美濃じゃなく飛騨だよ

あとイザナキやスサノオが登っていった神々がいる高天原ってのは多分信州の事すよ


天照の恵那山の神坂峠を登った科野の国
美濃じゃなく信州の方の氏族が天つ神の氏族すよ
147日本@名無史さん:2008/06/07(土) 02:37:13
>>144
年号(正しくは元号)は、漢の武帝の時に初めて使われるようになった。
それまでは、元号が無かったから、その時の皇帝の諡をつかって、
例えば文帝の治世の三年目なら「文帝三年」のように記述していた。

日本の元号は645年の大化が最初といわれているので、垂仁天皇の時代に元号があるはずがない。
だから、垂仁二年、垂仁三年・・・・と数える。
斉明七年というのは、斉明が元号なのではなく、
元号にあわせて天皇号をつけたのでもない。
斉明天皇の治世の七年目と言っているだけ。斉明天皇の時代、元号は停止されていたらしい。

ちなみに、昔は一人の天皇が複数の元号を定めていたが、
明治から一世一元と決まり、一代の天皇は一つの元号を使うようになったので、
昭和二年、昭和三年・・・と崩御まで数えられるが、この昭和は元号であって、垂仁二年、垂仁三年と数えるのとは
意味が全然違う。垂仁は天皇号であって元号ではない。
148美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 02:45:42
>>142
>歴代天皇を並べて、、、


の前に、天皇はどの氏族かをはっきりさせなきゃって思うよ

× 天皇は日本を統一統治した権力者
○ 天皇は天つ神からの血統を継ぐ氏族

国を治めた人が天皇なら頼朝や家康は天皇って事になるよ
けど天皇ってのはそういう意味じゃなく、天つ神の血統を継ぐ氏族が祭司として三種の神器を継承して天皇を継いでるんと思うよ
例えば出雲大社の宮司も、天皇家と同じ時代からの血統継承だし


つか日向三代やニギハヤと同じ物部氏族の血統だよね?
それとも別の氏族なの?
149美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 03:08:39
>>147
無理に元号を付けたり○○天皇って呼ぶからややこしいのかな?

天皇は権力者や統治者に付ける王や皇帝って称号じゃなく
天つ神の血統継承者の事でしょ?
例えばアメリカ人が日本を制圧統治して、新たな日本を統治する皇帝にはなれるけど、ジャーマンとして天つ神々と交信する天皇にはなれないよ
逆に言えば、天皇は別に日本を治める権力者じゃなくても、他の氏族が日本を統治してようが天皇は天皇だよ
んでもし血統が絶えた時は神代からの天皇血統は絶えるすよ

「天皇に即位」ってのも国を治めるって意味じゃなく、宗教的な儀式の意味と思うよ

仏教伝来以降と以前では宗教的な立場や意味合いもだいぶ変わっただろうしさ
例えば平安時代では天皇より空海とかの仏教徒のが宗教的な地位は高かった気がする
弘法大使なんて呼ばれて崇められてるしさ

150美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 03:25:28
もし天皇をが「日本を統治した権力者であり皇帝が天皇だ」って言うんであれば、血統や氏族関係無しに、日本を統治した奴を並べれば良いと思うよ

けど天皇は血統でしょ?
んでその血統は神武天皇からじゃなく、神代からの血統の事すよ

日向三代やニギハヤが「天つ神の子」とか「天の孫」って書かれるのも、その血統を持つ氏族だからだと思うよ

ちなみにセイイ大将軍ってのも、朝廷と縁のある血統氏族じゃなきゃダメだったみたいだよ
秀吉がセイイ大将軍にならなかったのもその為だし、家康が系譜を書き換えて血統を繋げたのもその為だって話もあるよ
151美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 04:14:18
天皇血統の由来を遡ると、神世七代や国之常立までいっちゃうから、とりあえずイザナミイザナキからで良いのかな?
んで天照

んでスサノオかな?

記紀にある天照とスサノオが揉めてた話や、誰が何処を治めなさいって言って話や、岩戸の話も、血統の正統性を伝える話を書いてるんだと思うよ

こうこうこう言う事があり、んでこの人が継承した、、、、見たいなさ


神託だっけ?
神(祖先)を降臨させて承認を得たり助言を聞いたりする儀式

山岳信仰の跡の岩磐遺跡は、たいがい山の中腹に岩戸があり、その前に祭壇である雨乞い岩が置かれてるよ

神を降臨させる儀式は記紀の天照の岩戸の話のように、シャーマンや巫女が岩戸の前で降臨の儀式をしてたんだと思うよ

ちなみに神巧皇后も天照を降臨させて神託を得て、韓半島を統治しに向かったって事が書かれてるよ


昔は天皇即位の大誉祭の儀式では、巫女に天照を降臨させて、セックスをして交わっる事で、、、
って話もあるよ

本当かウソかは良く解らないけど
152日本@名無史さん:2008/06/07(土) 04:23:30
読もうとする意欲が湧いてこない、すまん
153日本@名無史さん:2008/06/07(土) 06:11:37
邪馬台国の起源は韓国ニダ。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/07(土) 07:41:08
>>141
倭の五王は天皇ではない。当時九州は多くの小国に分立していたと
思える。そこの国王が彼ら。記紀に王号をもらったとか名づけたとか
の記事がないのではっきりしている。
155日本@名無史さん:2008/06/07(土) 09:20:11
意欲どころか最初から目もくれないことにしています。
156siraki:2008/06/07(土) 09:27:20
神祖 新羅王剣が 邪馬台国の滅亡の話を伝える..
http://enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=106005
記憶喪失症の島国馬鹿たち..orz
157美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 09:29:28
>>153
倭の女王が統治してた國の1つですよ

そもそも國ってのは「地域」の意味だよ
158日本@名無史さん:2008/06/07(土) 09:52:44
>>153 で、邪馬台国はいつから始まったの。
159美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 10:18:01
・日本人は大陸から渡来してきた
・大陸から文明が来るまで文字もなく縄文人見たいな暮らしをしてた
・弥生時代の日本は卑弥呼が治める邪馬壹國だった

こんなの全部勝手な固定観念ですよ
記紀にも書いてあるように国之常立やイザナミイザナキの時代から日本はすでに日本だよ

邪馬壹國やら朝鮮やらが日本の起源見たいな歴史解釈の方がおかしいよ
160日本@名無史さん:2008/06/07(土) 10:51:18
>>159 美、太、サ、唐 さんへ

こっちも負けるなw
161唐松山:2008/06/07(土) 11:26:13
日本という土地が有って 其所に 人が住んでいた。 10万年前でも良いが

名前のある 人間には、数字が必要なの、
名前があって 数字がなければ 只の お話。

国之常立やイザナミイザナキを 歴史に載せるためには、 数字を入れる事。
数字が入っていないから 歴史から 除外されているだけ。
162日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:00:42
縄文人は文字がなく、原始的な暮らしだったかったというのは真っ赤なウソ。
むしろ、弥生人が縄文人の高度な技術を学んで進歩したのだと思う。
163日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:04:23
アフリカの原始的な暮らしも真っ赤な嘘だしね...。

ふつーにブランド物とかもってるよ
164美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 12:06:39
>>161
どんな数字でも良いの?
例えば「イワレビコは2660年前」見たいな解釈した数字でもいいの?

弥生時代や縄文時代なんて時代こそ歴史じゃなく、ただのお話な気がするけどな
165美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 12:10:24
ちなみに国之常立が来たのは位山の伝承によれば4000年くらい前だったかな?
166日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:28:30
>>165
2600年前じゃない?
167日本@名無史さん:2008/06/07(土) 12:33:01
コテハンさんて詳しいよな

おれもそろそろコテハンにしよっかな
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/07(土) 12:38:51
国之常立が来たのは位山の伝承によれば4000年くらい前 それで良いんですよ、
そして 国之常立は 何世代何年続くのかな?
もし その時を 証明する様な出土物が有れば、良いなあ〜。
169唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/07(土) 12:45:40
ハッ まさか 
火炎土器は国之常立が作った。とか
狩猟解禁日を知るために 暦を使った。

とか言わないよね?
170美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 12:56:49
>>168
記紀で初めに登場するのはアマノミナカヌシの神らのいわゆる三柱神だよ
宇宙創造の話で、アマノミナカヌシは宇宙の中心の北極星の神

国之常立は位山の伝承によれば、明けの明星から日の車に乗って位山に降り立った神で、艮の神
だからその場所は「日玉の国」って呼ばれたんすよ
天照は恵那に伝わる伝承を解釈すれば、いわゆる大洪水後に産まれた神だよ

ちなみにエジプト文明も洪水後の文明って伝えられてるし、四大文明の発祥もすべてだいたい同じ時代が発祥だよ
3000年〜4000年前

ヨーロッパでは「オリエント」って言われて世界的に文明が始まった時代もこの時代
171日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:00:06
火炎土器を作ったのは古代諏訪の縄文人。
日本の土器文化は世界で最も進んでいました。
これを見て岡本太郎は、芸術は爆破だ!
と叫び、大阪に太陽の塔を作った。
あまりにも有名な話です。
172日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:03:57
『「魏略」と「魏書」』の違いぐらい覚えてネ!

魏略(ぎりゃく)とは、中国三国時代の特に魏について書かれた歴史書。本文は失われ、現在は逸文のみが残る。
逸文が残されているのは、『前漢書』、『翰苑』、『北戸録』、『魏書』、『法苑珠林』等である。
典略の一部として構成されたと思われ、『三国志』にも陳寿がよく魏略から引用している。
著者は魚豢(ぎょかん)である。
275年以降の記事は『三国志』には引用されていないので、恐らくこの頃に執筆を止めたか、
魚豢自身が死去したものと思われる。
魏略
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E7%95%A5

『魏書』(ぎしょ)とは、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。
二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。
本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。
魏書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8
173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/07(土) 13:09:45
お〜そうだ
その頃には 近くに湖が在ったッテ 言っていたね
地殻変動の スピードも計算しないと
1年1センチ として 4000年だから 4メートル
1年1センチ この数字は 地球物理学でも 非常に大きな数字ですよ。
174唐松山:2008/06/07(土) 13:11:04
訂正
1年1センチ として 4000年だから 40メートル
175日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:19:13
魏志の付録の倭人伝は、日本でいえば『風土記』みたいなものですから、
そういう言い伝えがあったみたいな書き方で十分なんですよ。
それを真に受けて・・・あほか?

176日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:24:43
唐松山さん、美濃もん太くん

>・・・あほか?
言われてますので言い返してやって下さい
177日本@名無史さん:2008/06/07(土) 13:45:25
こっちは日本建国史。

魏志倭人伝に記されてる、『邪馬壹國』と日本の歴史とがつながるのか?

みなさん古代史に詳しい人ばかりなのでお願いします。
178日本@名無史さん:2008/06/07(土) 14:16:16
向こうの20に遠慮せずに「age」て下さいね

現在、伊勢神宮のご神体、八咫鏡を観たものは少ない。
八咫鏡を観てみたいと思う人もいるかと思うが、単なる金属の塊では?
これについては、殻松山さんが何もかも知ってそうですね。
実際みなくても、彼に聞けば何もかも分かるはず。

八咫鏡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1
伊勢神宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
179日本@名無史さん:2008/06/07(土) 14:25:44
太国さんはどこへいった?

みんな詳しい人ばかりだよ。

わたしは温泉行くのでここらへんで失礼します・・・。
180九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/07(土) 14:27:18
『邪馬壹國』と日本の歴史とはつながります。

邪馬壹國は俀國につながり、
俀國は7世紀の倭國につながり、
倭國は日本國につながります。
181日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:44:31
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
182日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:10:46
八咫鏡にはヘブライ語で神の名前が記されているといわれています。
183日本@名無史さん:2008/06/08(日) 14:09:51
「八咫」って三本足の烏にも使われてますよね
どういう意味何だろ?やはり地名?
184日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:14:15
カラスですね。
JFLのマークにも使われている。
185日本@名無史さん:2008/06/10(火) 10:56:01
>>183
三本足の烏については、以前プラムがコメント入れていたのを見た記憶がある。
186日本@名無史さん:2008/06/10(火) 11:00:11
中国から高句麗、そして熊野へ
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/nagomi/web/nagomi03/specialfeature-p3/index.html
太陽に住む神聖な黒い鳥
http://ni-korea.jp/entertainment/essay/index.php?id=10
高句麗象徴する「三足烏」、韓国の代表ブランドに
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79526&servcode=400§code=400&p_no=&comment_gr=article_79526&pn=2
天皇即位礼に使用された袞竜衣には三本足のカラスが刺繍されている
http://www.geocities.jp/tenkai14/1-6-column.html
187唐松山:2008/06/10(火) 19:40:26
カラスは 鉱山技師=山師だと思います。
188日本@名無史さん:2008/06/10(火) 20:23:16
山伏っていう可能性は・・・ないか。
189日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:16:17
>三本足の烏については、以前プラムがコメント入れていたのを見た記憶がある。

プラムさん。三本足の烏の話聞かせてください。ところでプラムって誰?
190日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:52:12
3本目の足はチンポ。
これが立派だということは男として立派だということで、
生殖能力に優れていたということでしょうね。
より多くの子孫を残すことが姻族の繁栄につながったわけですから。
191日本@名無史さん:2008/06/11(水) 00:15:31
昔、夕暮れの動物園にいったことがあります。
驢馬の囲いに近づいていってみると、1っぴきの驢馬の後ろ脚が3本あるではないですか。
あれ、っと思ってさらに近付いていくと、真ん中のあしがするするとちぢんで普通の2本脚になりました。
真ん中の足にみえたものはさてなんでしょう。
192日本@名無史さん:2008/06/11(水) 02:45:58
山伏の可能性もありますね。
黒い服、杖をつけば足三本、熊野は山伏の本拠地
193日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:38:44
山伏は、里に下りては村の娘を襲った。
というより、村の娘もアレの大きな山伏が来るのを待っていた。
たとえば、おバカで有名なスザンヌは日本人だというけれど、
実は天狗の血を引く南蛮人との混血だと見れば全てが納得で
きる。
194日本@名無史さん:2008/06/12(木) 20:03:07
三本足の烏は、朝鮮半島でも信奉されていた。

朝鮮半島出土の冠にも彫られてる。

「八咫」は、大きさの単位のことで、親指〜人差指の間が「咫」
「大きい」という意味とも考えられる。
195日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:49:12
邪馬台国は大和なのに、どうして九州が出てくるの?
196日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:03:36
その大和が、実は九州だったからさ。
197日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:40:01
九州は倭でしょう。
しかし倭も大和も本来「やまと」とは読めない。
実にあやしい。
198日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:43:59
新東京国際空港と書いて「なりた」と読む如し。
199日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:47:56
アスカ(飛鳥)にも何か謎がありそうだよね。
200日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:53:59
斑鳩、飛鳥・・当て字が多いのは、つまり、渡来人が支配していた証拠。
201日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:58:16
支配者が交替した証じゃね?
例えば、江戸のままトウキョウと読ませたようなことが起こったとか
202唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 21:06:39
当て字が多いのは、つまり、漢字の意味と日本語の読みを、一致させようとしたため。?
垂仁の子ホムツの頃から 鳥が特異な物として出てくる、 
仁徳以降 名前に鳥の名が流行る、その流れで地名にも鳥が流行。
203唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 21:19:47
日本の古代に於いて、海洋民族系は、鳥葬で有った。?
鳥葬を調べるだけでも、かなり面白い。

ホ28277 ソトガハマ イトウヤスカタ カミのミケ はむウトウあり
ウトウとは古代どんな鳥?
日本武尊は、鳥葬?

204日本@名無史さん:2008/06/21(土) 02:54:23
結果としての鳥葬じゃないのか?

風葬すれば、虫が食おうがウジが湧こうが犬に喰い散らかされるとまずいが。
205日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:51:14
                           
★古代日本人の世界イメージ(3世紀以前)
                                
          <アヤ>(漢)
            ↑ 
          <コマ>(楽浪郡)
            ↑
         (クタラ=西部<カラ>東部=シラキ)
                  ↑
 呉国(暮れ国)←〔東シナ海〕←大八島(日本)→海(太平洋)
       
クタラ(任那)の北方にコマ(楽浪郡)があり、コマのさらに北にはアヤ(漢)がある。
こういうイメージ。


206日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:55:27
「魏」は、日本語でなんと呼ぶの?
207日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:30:53
日本書紀には聖書からのぼったくりもある。三足烏は朝鮮の
神話からのぼったくり。あまり深く考えないほうがいい。
208日本@名無史さん:2008/06/22(日) 04:05:24
209日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:03:18
720年ころ聖書が国内にあったのか? いかなる点でわかるのか?
逆に聖書のほうがぼったくったんだとも理由がたつ。
210日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:26:03
魏志倭人伝の「無文字唯刻木結繩(文字無し。ただ刻木結縄するのみ)」
のくだりが気になる。これは沖縄の文字、結縄刻木(バラサン)ではないだろうか?
そして、それは今でも注連縄として、その形だけがどこの神社にも残っているものの
文字として使われた形跡はない。つまり、邪馬台国は、沖縄にあったのだ。
211日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:34:57
梁書じゃないのか?
212日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:36:15
こっちの間違いか? そうななスマン!
213日本@名無史さん:2008/06/22(日) 07:42:13
朝からぼけてた。

梁書は 「文字有り、扶桑の皮を以て紙と為す」 だった。
214日本@名無史さん:2008/06/22(日) 08:59:27
扶桑ってミツマタのことかな?
215日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:15:12
扶桑は、竹。
奈良や京都に行けばたくさん生えている。
筍の皮に文字を書いたとすればすぐに納得。
216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/22(日) 19:28:04
「八咫」は、大きさの単位
ホ38100 オウスミコ ミノにいたりて スガタみて ひそかにめしつ
とゝまりて カエコトなさす コトシソヒ タケはヤタなり

大碓が11才の時の身長 八咫です。
この頃の民の身長も 八咫です。
八咫鴉の身長も 八咫?。
217日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:10:50
孟宗竹や真竹は室町時代あたりに日本に渡来したとおもうのだが、どの竹の筍でしょうか。
218日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:30:20
>>217
日本最古の物語といわれる竹取物語の中で、かぐや姫を嫁にほしいといった男は、
石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の5人です。
とすれば時代は7世紀末、応仁の乱の直後、天武天皇の時世かと思われます。
どんな竹だったのかは計り知れませんが、万葉集にも竹取物語は読まれていることか
ら、当時、日本にも竹はあったとするのが妥当かと思われます。
219日本@名無史さん:2008/06/23(月) 03:36:52
竹って、日本に自生してなかったの?
220日本@名無史さん:2008/06/23(月) 07:11:50
筑紫国は竹斯国って書いたよな。
221日本@名無史さん:2008/06/23(月) 09:46:39
矢竹や根曲がり竹等の細い竹や篠、笹はありました。
222日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:32:35
竹の皮に文字を書いたという説に賛成。
ただし、木簡は、保存状態によっては長い間残る場合があるけれど、
竹の皮は残らないので確かめようがありません。
考古学で古代を語ろうとすると、どうしても遺跡から出土しやすい石器
や土器、金属器が話題の中心になってしまいますが、実は絹織物や
木簡、竹簡、竹の皮、絹布に文字が書かれていたはずなのです。
223唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/25(水) 20:26:50
かぐや姫は、垂仁の娘?
224日本@名無史さん:2008/06/25(水) 20:44:34
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
225日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:04:10
226日本@名無史さん:2008/06/25(水) 22:32:40
>>223
世代的には近いがハズレ。

コテハンのくせに、それくらいのこと知らんのか?

227日本@名無史さん:2008/06/25(水) 22:52:38
コテハンだから何でも知ってるわけではない。なんでも知ってるなら
その道で博士号だ。
228日本@名無史さん:2008/06/25(水) 22:57:15
「コテハン」と一般化したのは間違いだった。

>>223
唐松山のくせに、それくらいのこと知らんのか?

229日本@名無史さん:2008/06/25(水) 23:07:45
>>228
×唐松山のくせに、それくらいのこと知らんのか?
◎唐松山だから、それくらいのこと知らんのか?
230日本@名無史さん:2008/06/26(木) 03:18:43
>>229
×唐松山だから、それくらいのこと知らんのか?
◎唐松山だから、それくらいのこと知ってて当然だろう?
231日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:58:58

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

饒速日命,天磐船に乗り
太虚をめぐりゆきて
この郷におせりと天降りたまうとき
名づけて「虚空見日本国」という

日本という名は、この人が用いた。
日本はヒノモトと読む。
東大阪市に「日下」という地名があり,饒速日尊は,ここから大和に入ったと伝えられている。
232日本@名無史さん:2008/06/26(木) 21:32:11
「天照国照彦天火明奇玉饒速日尊」
この時代から征服した部族の神々を合祀し続け、
娘を嫁がせては合体し子を産ませ、すべて天孫一族
となったのです。

ある意味、日本人は、すべて天皇の赤子。
というのも嘘ではないような気がします。
233日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:09:41
age
234唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/28(土) 16:17:29
>饒速日尊は,ここから大和に入ったと伝えられている。
饒速日尊(○代目天照)は九州で亡くなっている。
正しくは、饒速日尊の子と饒速日尊の部下。
235日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:11:35
ということは、ニギハヤヒは奈良県で神武に会ったのち九州へいったというのですか。
○代目天照って、ニギハヤヒさん男ですよね。ということは天照大神って、男女性別を問わず世襲できるということですか?
236日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:44:03
ヒント アメノタラシヒコ
237日本@名無史さん:2008/06/30(月) 01:28:29
238日本@名無史さん:2008/06/30(月) 03:51:44
九州王朝は帰れ。
239唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 21:18:58
初代天照大神は、生まれたときから男。
そして代々 おとこ。

240日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:23:15
2代目引田天功が女性に転向したようなことが、
古代にも起こったとみて間違いありません。
241のんびりひまじん:2008/07/01(火) 03:33:56
>216
原田大六という民間考古学者(といっても実力は最高レベル)が1965(昭和40)年の
平原(ひらばる)遺跡出土の
直径46.5センチの、(過去に知られなかった)途方もない、大きな鏡を破砕片から復元
円周が8アタの鏡 が本当に存在したという主張を、「実在した神話」として出版した。
http://inoues.net/museum/maebarumusieum.html

・ヤタの鏡とは、天皇家にのみ世々伝来する固有名詞でなく
円周8アタもある大きな鏡という一般名詞  ということなのだ。  同様に
・ヤサカの勾玉とは、長さ8尺もの長いひもに通した勾玉ということと知れる。
・クサナギの剣とは、風にそよぐ草をなぎ切るほどよく切れる剣 ということと知れる。
神話のあちこちに複数出現してもおかしくはない。(不審とする学者がいた。)
弥生の豪族なら、誰もが所有していること、現代のカー、カラーTV、クーラーと同様。

さらに付言すると、現在の天皇家は、弥生の豪族習慣を継承していたと認識する。
軍国主義華やかだった時代、国民に言いふらされた
「ご先祖の神様からもらった宝物(があるので、神様がついている日本は不敗)」は、神話への誤解で
自家伝来宝物の自慢話に過ぎなかった。弥生の豪族なら、各家に類似の自慢話と宝物を持った。

(お呼びでない話のようで・・・
242サガミハラハラ:2008/07/01(火) 06:32:30
奇しくも、この平原の地は神武の故郷だったの近くだったのです。山ひとつ越えた。
243日本@名無史さん:2008/07/01(火) 07:18:18
漏れはグッスリ眠った卑弥呼の脚を少しずつひらいた ↓
244サガミハラハラ:2008/07/01(火) 07:20:04
奇しくも、この平原の地は神武の故郷の近くだったのです。山ひとつ越えた。
245日本@名無史さん:2008/07/01(火) 13:33:56
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
246唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/03(木) 22:36:02
クサナギの剣とは 青銅製?か鉄製?か

スサノオの時代からの伝来なら青銅製?
垂仁時代に作られた物なら鉄製?

良く研いであれば青銅製でも髭は剃れる。
247日本@名無史さん:2008/07/04(金) 08:27:29
>>246
鉄製の十握の剣で八岐大蛇を切り刻んだときに剣が欠けたことから
草薙の剣はおそらくオリハルコン製であると思われます
248サガミハラハラ:2008/07/04(金) 10:09:19
アトランチスに出てくるオリハルコンという金属は鉄のことです。
十握の剣の刃がかけたというのは、ぶつかり具合によりかけたとみるのがよいでしょう。
249日本@名無史さん:2008/07/05(土) 15:52:33
オリハルコンはオロチョン族、つまり、スサノオによって倒された
日本の古代勢力オロチ族に繋がる。
語源は、ギリシャ語のオロス「銅」、もしくは「銅合金」を意味する。
つまり、古代日本人のルーツは、古代アトランティス大陸にあった!
これで日本語が系統不明の謎の言語だという理由も解ける。
これですべての謎が解けた!
250唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/05(土) 18:03:11
草薙の剣はクローム鍍金じゃ無いのか?
始皇帝の陵墓から沢山出土する。
隕鉄の剣は、何処かで見つけたが もう忘れた。
251日本@名無史さん:2008/07/06(日) 04:10:11
意外と石剣じゃね?w
252日本@名無史さん:2008/07/06(日) 07:59:42
神津島産黒曜石製の大剣ではないだろうか?
由緒からして鉄器時代以前からのものと推測されます。
253唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/06(日) 12:23:52
黒曜石製では、切れは鋭いが、刃と刃がぶつかれば直ぐ折れる。
石剣より、男根又はバット風の棍棒の方がより良い?
254日本@名無史さん:2008/07/06(日) 12:56:43
あれは飾物であって
七支刀と同じで戦う武器ではない。

切れ味や丈夫がどうとか議論されてる意味が不明。
255唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/06(日) 14:50:21
草薙の剣で草を薙ぎ払う、実用の武器です。

出雲の細矛は武器でなく神器?らしいが 武器として使えない理由は?
256日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:33:04
古代の鉄は葦の根にたまった褐鉄鉱が原料だから
鉄製品の量産など不可能だった。
257唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/11(金) 18:02:37
焼き畑なら ナイフ1丁でもすばらしい。
258サガミハラハラ:2008/07/11(金) 22:38:19
文献では日本での鉄の製造は、記紀の天石屋隠れの時代までさかのぼります。
かの事件のときに作った鏡は鉄製です。文献上そう読みとれます。
よって、天金山は鉄山です。佐賀県脊振山地の金山がそれにあたり、そこから流れ出した川から、
褐鉄鉱がみつかります。その褐鉄鉱から鏡をつくったわけです。
天石屋隠れは紀元前後の事ですので、日本では弥生中期には鉄の製造が始まっていたことになります。
259日本@名無史さん:2008/07/12(土) 14:49:47
>>258
>かの事件のときに作った鏡は鉄製です。文献上そう読みとれます。

どこの文面から?
260唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 16:19:38
鉄の鏡を作るためには、鉄を扱う技術の習得が先に必要
その意味では、鏃作りから更に高度な技術、剣作りと同等くらいの技術
そう考えると 銅製、
ただし隕鉄なら叩き伸ばすだけで 鏡に近づくが 隕鉄=ステンレスと考えると
道具、技術ともそれ相応に発達して無くては無理?
261日本@名無史さん:2008/07/12(土) 17:26:04
>>207
頭、大丈夫?
三足烏は中国だったとはず。「准南子」記述。それに中国南部の壁画にも描かれてるじゃん。
262サガミハラハラ:2008/07/13(日) 12:21:32
>>259
古事記天の石屋戸のところで、「天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、
伊斯許理度メ命に科せてかがみを作らしめ、」とあります。

褐鉄鉱からはどうかわかりませんが、砂鉄から鉄製品をつくるのは簡単なようですよ。
263唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 12:38:01
砂鉄から鉄製品をつくるには 1300℃の高温が必要
褐鉄鉱なら 酸化鉄を還元させるだけなので そこまでの高温は、必要ない。
それよりこの時代は、矛や剣を鋳造していた 青銅製の方が分がある。
264日本@名無史さん:2008/07/16(水) 01:45:07
age
265日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:36:34
>>263青銅の武器がのこっているのは実用にてきさなかったからです。
鉄器は破損しても何度も作りなおされて消耗されます。
266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 19:46:35
>265 鉄がそこそこ行き渡った後の時代に於いては正しい。
未だ鉄が行き渡らない時代、崇神以前の話、 イシゴリドメの話は 神武 以前の話。
267日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:44:28
出雲の国譲り神話ですが、
あれは、出雲を譲ったと同時に、東国を譲り受けたのではないかと考えられます。
つまり、出雲東遷と思われます。出雲一族は、関東の伊豆半島や東北南部会津
地方を得ている。そう考えれば、出雲族の見方が変わります。
もしかして、北条氏は出雲族だったのではないでしょうか?
268唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/17(木) 20:06:02
>出雲の国譲り神話
崇神6年秋 凶作に耐えきれなくなった大国主は崇神の宮に行き全てを崇神に譲って隠居。
その後 出雲一族は、モノノフとして活躍。
>北条氏は出雲族 これを言い出すと タケダは孝霊時代から 甲斐に入植となる。
269改め ◆PWTcGEfp1s :2008/07/17(木) 20:10:31
たまには唐松山さんスレにも書きこみましょうかw

唐松山さん〜倭人伝 日本語訳に直して説明してくださいよww





270唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/17(木) 22:03:42
>終止符21の689を読んでいただけました?
倭人伝の方向は、90度変えて読むことの正当性を 日本の書物より見つけた所です。

皆さんが倭人伝を穴の開くほど読んでるんですから 私ごときの出る幕は、有馬線。
271改めドツボ監視委員会:2008/07/18(金) 01:01:13
改めドツボ監視中…
当スレに出現確認。

>>267
記紀神話における出雲のボリュームを考える時
ヤマト建国時にただならぬ影響があったため…と考えがちだろうが

(しかも考古学的にも荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡と言ったトンデモ遺跡もあるしw)

案外、記紀編纂時に出雲がトレンドだったと言う事だったりするのではないかともw
実際、出雲大社の巨大神殿も平安時代にあったんだし…

まあ短絡的に建国の祖と結び付けない方が良いのかも…
272日本@名無史さん:2008/07/18(金) 01:42:11
出雲っていっても、いまの島根県じゃないよ。
近畿一帯を出雲と呼んでただけ。
その後、勢力が弱まり、島根に追いやられた。
だから、島根県の出雲大社が王権を持ってたわけじゃない。
273日本@名無史さん:2008/07/18(金) 01:55:06
>>272
>近畿一帯を出雲と呼んでただけ。

初めて聞いたw
その出典と言うかソースを教えてもらえないかな?

まさか記紀神話の国譲り神話から逆算で導き出したなんてオチじゃないよな?w
274日本@名無史さん:2008/07/18(金) 01:57:28
>>273

ttp://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm
出雲大神宮(丹波一の宮)

>『丹波国風土記』によれば、
>「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、
>大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。
>すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
>よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

島根県の出雲が本家だと思ってる人は、反論してみて。
275日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:05:22
島根の杵築に大国主が移されたのは、元明天皇の奈良時代。
「雲太・和二・京三」は、平安時代ね。

あと、大国主は、スサノヲ直系の子じゃないから。
スサノヲの娘と結婚してるだけ。

276日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:05:29
>>274
はあ?

何でそれが
>近畿一帯を出雲と呼んでただけ。
…の根拠になるんだ?

じゃあ元伊勢と呼ばれる地域、その出発点であった大和は古代に伊勢と呼ばれていたのか?って話だなw
277日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:07:52
>>276
島根県の出雲大社が王権を持ってたわけじゃないってのが本旨だよ。

島根県が、近畿を支配できたと思ってるの?
278日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:11:57
>>276

>じゃあ元伊勢と呼ばれる地域、その出発点であった大和は古代に伊勢と呼ばれていたのか?って話だなw

あえて主張しないけど、大和高田市には磯野って地名があるよ。
伊勢神宮宮司家・渡会氏の祖は、磯部ね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E4%BC%9A%E6%B0%8F
279日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:12:09
>>277
とにかく…

>出雲っていっても、いまの島根県じゃないよ。
>近畿一帯を出雲と呼んでただけ。
>その後、勢力が弱まり、島根に追いやられた。

この部分はデタラメの妄想だったと言う事だなw
280日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:16:32
>>279
デタラメというのはどうかね?

丹波の出雲大神宮を、どう説明するの?
そのころ、島根県には出雲大社は無かったんだよ。
281日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:30:19
>>280
仮に現在の出雲大社がその丹波の出雲大神宮が元だとしても
一神社の由来に過ぎない話。

かつて近畿一帯が出雲と呼ばれ、そこにいた勢力が島根に追い落とされた
…なんて壮大な話の根拠には到底役不足。

所詮、神社の由来から話を膨らました妄想。
282日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:40:22
>>281
島根県に王権があったとは思ってないわけね?

それならそれでいいんだよ。
だいたい、出雲王権を考える人って、島根が王権の中心だと思ってるみたいだけど、
それは、ありえないってことを言いたいだけ。
ありうるとすれば、丹波が出雲と呼ばれていたということね。

丹波がひとつの文化圏を持っていたことは否定できないでしょ?
それに、丹波の出雲大神宮の由緒を考えあわせれば、
丹波が、出雲と呼ばれた王権を持っていたことは、考えられるよ。
283日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:56:47
>>282
言っている事が良く分からん奴だなw

丹波に王権があったのかなかったのかに関らずだ…

山陰から越の地にまで分布する四隅突出型墳丘墓。
それまでの常識からは考えられなかった荒神谷や加茂岩倉遺跡。

それらから現在の島根県に王権と呼べる物を想定するに何の支障がある?

「出雲」の地名の由来とて一神社の縁起からじゃあねえ…

284日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:08:26
>>283

あれ? 島根に王権があったと思ってたわけ?
それが「出雲王権」だと?

まあ、島根の王権を出雲王権と呼ぶのは許せるとしても、
あくまで領地は山陰まで。越は同盟国。
丹波は別だから。

丹波は、もっと巨大な文化圏を持ってたからね。銅鐸という。
285日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:13:36
それと、四隅突出型墳丘墓は、丹後半島〜若狭湾には無いからね。
遺跡の出土品の豪華さも丹後半島が上で、島根のほうが下なのはわかってる?
いくら銅剣がいっぱい出てきたとしてもさ。
286日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:35:34
>>284-285
下らない…と言うか火病起こして話飛びまくりだなw

丹波と山陰がどちらが上か下か…なんて幼稚な話どうでもいいwww

近畿にいたプレ出雲(仮称w)が山陰に落ち延びたって壮大なお話は何処に言ったのやらwww


287日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:41:28
>>286

おまえの主張のほうがよくわかんねえよ。

島根の出雲王権が近畿を支配してたのか?証拠は?
288日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:51:31
>>287
つうかその質問はこっちがすべき物だなw

とにかくお前は
 「かつて近畿一帯が出雲と呼ばれ、そこにいた勢力が弱体化し島根に追いやられた」
…と言っているんだからw

で、根拠は神社の由来だけか?

妄想レベルと言われても仕方なかろうwww
289日本@名無史さん:2008/07/18(金) 03:53:40
自分で四隅突出型墳丘墓の話をふったくせに、
島根より丹波のほうが上位という事実を指摘したら「幼稚」ときた。

銅剣がいっぱいあろうが、四隅突出型墳丘墓があろうが、
島根より丹波のほうが上位なのは変わらない。

その丹波一宮が、「出雲大神宮」を名乗っていたのも、これまた事実。
当時の島根の神社は、「杵築」であって、
丹波から大国主神を島根に勧請したことで出雲大社になったと丹波国風土記にある。

つまり、丹波の神だった大国主が、島根に流刑されたってことだよ。
290日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:07:05
あと、「神無月」を島根では、「神有月」って言うでしょ?

島根に神が集まるから、神有月って言ってるけど、
ある月に、島根に神様が集まるなんて伝承は、どこの文献にもないよ。

そもそも、「神無月」は、神がいない月でなく、「神の月」という意味。
「水無月」は、水が無い月ではなく、梅雨の季節の「水の月」という意味。

「かみなつき」後世になって、「神無月」という当て字がつくられ、
島根では勝手に「神有月」として、「神が集まって会議をする月」なんて伝承ができたの。
それがまた現代人は勘違いして、島根の古代王権なんてのを想定してるもんだから笑う。


291日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:16:51
292日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:29:08
>>289
ん?
四隅や荒神谷の話を振ったのはかの地に王権を想定できうると言う事で言ったまで。
別に丹波より島根が上とか下とかそんな ”幼稚なお話”じゃ無いぞw

脊髄反射は止めようなwwww

そもそもお前の話だと神社の呼称のみならず「出雲」と言う地名まで
丹波から山陰に移されたと言う事になるのだが?

元出雲と呼ばれる神社があったからその地が出雲であったと言うのは
元々無茶な話w

「出雲風土記」に出雲は以前は○○と呼ばれていた…とか
「丹波国風土記」に丹波は以前は出雲と呼ばれていたと言う地名に関する記述があるのかい?








293日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:43:11
>>292
>「出雲風土記」に出雲は以前は○○と呼ばれていた…とか
島根の「杵築」

>「丹波国風土記」に丹波は以前は出雲と呼ばれていたと言う地名に関する記述があるのかい?
「出雲大神宮」の由緒

もっかい、読みなよ
ttp://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm
出雲大神宮(丹波一の宮)

>『丹波国風土記』によれば、
>「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、
>大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。
>すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
>よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

島根の杵築に大国主が移されたのは、元明天皇の奈良時代。
「雲太・和二・京三」は、平安時代ね。

294日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:50:30
よって、島根の出雲大社の起源も、神代までとはいかず、
建てられたのは奈良時代以降ってことになるね。

出雲大社の境内で出土した柱の根元部分は、
平安時代後期(11〜13世紀ごろ)のもの。

東大寺大仏殿が作れた時代だから、48メートルだかの神社くらい簡単に出来たろう。
邪馬台国より古代に、高度な建築技術があったとは思えないね。
295日本@名無史さん:2008/07/18(金) 04:58:44
>>293
分からんやっちゃなw

それはあくまで神社の名称のお話。

それに延喜式(平安時代)には「出雲大社」じゃなくて「杵築大社」だぞw

大体そのリンク先に丹波がかつて出雲と呼ばれていたなんて微塵も書いていないw

むしろ「由緒」に…
 >日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、
 >丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、
 >此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。
…とあるwww




296日本@名無史さん:2008/07/18(金) 05:12:24
>>295

理解力無いね。
じゃ、これ読んでみ。

出雲には、オオクニヌシはいなかった
出雲風土記に、オオクニヌシは出てこないとさ。

ttp://www.ten-f.com/ookuninushi.html

大国主が出雲の神でないなら、
丹波の出雲大神宮の大国主は、島根から勧請されたわけじゃないってこと。

出雲風土記に、大国主は出てこず、
丹波風土記には、大国主は丹波から出て行ったとある。

はじめに大国主を祀っていたのが、丹波の出雲大神宮であるのだから、
出雲の地名は、丹波が発祥ってことなんだよ。
297日本@名無史さん:2008/07/18(金) 05:22:06
ttp://www.ten-f.com/ookuninushi.html
↑にあるのは、近畿の丹波が大国主のクニで、
天津神に近畿地方を譲ったという話。
大国主は、島根に逃げ延びていたという話。

国譲り神話は、出雲のことじゃなく、近畿の話ってことだね。
これは、大いに同意するところ。
298日本@名無史さん:2008/07/18(金) 05:45:28
>>296
>出雲の地名は、丹波が発祥ってことなんだよ。

Wikiからだが…

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%83%A1
>藤原京の藤原宮の北をめぐる外濠から出た木簡に、
>「出雲評支豆支里大贄煮魚須々支」とある。支豆支里は後の杵筑郷。

まあ藤原京だから和同・奈良時代よりは前な訳でwww
299日本@名無史さん:2008/07/18(金) 05:51:21
>出雲風土記に、オオクニヌシは出てこない

そもそも大国主を各地の神々を体系化するために
記紀神話の中で創り出された存在とすれば難なく筋は通る話w

大国主と同一とされる神がどれだけいるか?
大国主の異名がどれだけあるか?

300日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:01:36
だからね、「出雲」の地名は、近畿でごく一般的だったの。

伊勢風土記(逸文)には、出雲建子命が伊勢津彦の別名として出てくるよ。
伊勢で神武と戦ったとされてるけど、
島根の出雲建子が伊勢に出張してたと思う?

近畿が、一般的に出雲という名前を使用してたの。



301日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:04:44
ttp://kamnavi.jp/en/mie/anaisi.htm

>『日本の神々6』によると、『伊勢国風土記逸文』に、
>伊賀の安志社に坐す神は、出雲の神であるオオナムチの神の子である
>出雲建子命、またの名は伊勢都彦である。

島根の出雲王国(笑)は、伊賀まで支配してたと思う?
違う。違う。近畿が、「出雲」だったの。
302日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:07:24
「出雲」が、島根の地名か、近畿の地名か?

四隅突出型墳丘墓が、近畿に無く、
島根の王権が近畿に及んでいなかったにも関わらず、
近畿の一部が出雲と呼ばれていたって理由も、ちゃんと考えてみようね。

303日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:21:22
>>300
正確には神武と闘ったんじゃなくて神武に命を受けた天日別命だな…

出雲建子命の別名が伊勢津彦と言うのも
各地の神々の体系化の中で起こった現象として考えれば良い。
ストーリーとしてオオクニヌシが海中に消えたのと似ているw

確かその逸文の後世の補注に伊勢津彦を信濃に住まわせた
…なんて話もあったはずだが
それだとタケミナカタだなwww

まあ何れにせよ出雲と伊勢のゴチャマゼの話で到底
>「出雲」の地名は、近畿でごく一般的だったの。
なんて話にはならないなwww
304日本@名無史さん:2008/07/18(金) 06:37:14
>>302
でもなあ、、、地名で言えば出雲だけじゃないんだなw

>それと云うのも、奈良盆地には、諸国の国名を負う地名が多数見受けられる。
>高取町の「吉備」の東隣には「土佐」、西隣には「薩摩」の地名があり、
>橿原市には「飛騨」があり、明日香村には「越」があり、
>桜井市には「吉備」の外に「出雲」「豊前」「備後」がある。
>天理市には「備前」「武蔵」、大和郡山市には「丹後」「美濃」、
>三宅町に行くと「但馬」「三河」「石見」がある

どうする?wwwwwwww
305日本@名無史さん:2008/07/18(金) 07:07:13
地方の風土記なのに、各地の神々の体系化の中で起こった現象かよ?www
306日本@名無史さん:2008/07/18(金) 07:09:27
>>304

それは、地方の人が移住した証だろうね。

で、丹波一の宮の出雲大神宮は、島根の人が移住してきたってことになるの?wwww
307唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/18(金) 20:17:08
>大国主は、記紀神話の中で創り出された存在ではありません。 其れが証拠に国譲りが無視されている。
>出雲の国それ以前の呼び名は サホコの国
>伊勢津彦の反乱は神武 崩御の後 手研耳に諏訪と共に合力手研耳が討たれたため 島流しに遭った。
理由
手研耳はアビラ媛の子供=天照大神の血統
神八井尊はイスキヨリ媛の子供=大物主の血統
勢力の強い大物主の血統を神武 が選択したため、天照大神の血統側の手研耳がそれを拒んだ。
天照大神の血統は、孝昭が手研耳の曾孫を娶ることで 戻る。
その代償として大物主を祀ることはもちろん 暦を大国主に分配
以後 二つの系統の暦が使われる。
最後に大物主の名前は、振根です。
308日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:06:30
>>307
>孝昭が手研耳の曾孫を娶ることで 戻る。

世襲足媛の祖祖父は、天香語山命だが、どこの系図を見てるわけ?


309日本@名無史さん:2008/07/19(土) 02:05:04
妄想妄想自慰妄想
310唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 15:23:29
まず 神武から 考昭 あたり
ほつまで
ホ29023 アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ キミトシヨソヰ 
ホ31024 フソヨトシ キミヨツギなし         神武24年   
クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに                
サミヱナツ ヤヒコのほりて おがむとき ツボネにあるを 神武32年     
タギシミコ ふかくこがれて チチにこふ
この時 手研耳はユリ媛を孕ませる。
フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ ヨソタリヒメの  考昭29年  
トシソヰぞ ムカシヤヒコに ユリヒメを たまえはうめる
アメゐだき このアメヲシオ マゴムスメ         ユリヒメ=イスキヨリヒメ
ヨソコトシ キミヱハツヒに キサキうむ イムナヲシヒト       
ヤマトタリ ヒコクニノミコ
天香語山命は、育ての親。
これで天照系統の系図が判りやすくなったでしょ。
311日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:52:02
>>310
>ユリヒメ=イスキヨリヒメ

乱暴な結びつけ方だな。
ヨリヒメなんていっぱいいるだろ。
312唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 18:15:27
ホ31025      クメがコの イスキヨリヒメ
ホ31026      ヲシモメに めせはキサキに
ホ31027      とかめられ ユリヒメとなり
ホ31028      トノイせず キサキはらみて
ホ31029      あくるナツ カンヤヰミミノ
ホ31030      ミコをうむ

私が勝手に作った訳じゃない。
皆さんの嫌いな ホツマを短縮しただけ。
天押男は、神八井と同年か一才年上。

もっと質問して 答えるよ。ただし 間違いも多いから気をつけて…

ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる 

神武 元年 大物主は近江で全国を治める。
当然神武 は、畿内大和橿原辺りの小国の王。
313唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 18:31:07
>304に 物の見方には、べつの方法もある

地名に 地方各地の名が付されている。
こんな物は、どうにでも読める
戦国時代 三成の首を取ったのは、在地の百姓 この百姓は○○守の官位(当時金さえ積めば誰でも買えた)
を持っていた(と思った)其の在地百姓の土地をこの官位で呼んだ。
全国共通で何処にでも有るから ちゃんと区分けしてネ。
314日本@名無史さん:2008/07/19(土) 18:48:20
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
315日本@名無史さん:2008/07/19(土) 20:10:11
>>312
ホツマは、8母音じゃないだろ?
だから、奈良時代以前に書かれたものじゃない。

君みたいな歴史研究家が平安時代にいて、系譜を空想して書き残しただけ。
君は、ホツマを信じて人生を無駄にしてる。

まず、ホツマは偽書じゃない証拠を出してからの話だ。
316日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:38:50
ホツマは偽書ではないと思いますよ。
もちろん、書き写すたびに、移し違い、欠落、意図的な改竄もあった
とは思いますが、全部が全部作り話というわけではないと考えます。
どこが間違っていて、どこが正しいのか、他の古文書、歴史的事実、
遺跡等考古学的な考察を加えて総合的に判断すべきだと思います。
食わず嫌いは恥です。
317日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:51:34
ホツマが記紀に反する内容だよな。聖徳太子監修で歴史書をまとめた
天皇家の記紀と内容が違うっていうんだから。

ホツマが本当だということになってきたら誰が得する?
ホツマのいう降臨地や神社の持ち主は誰よ?その地域はだれのものよ?
そいつが造らせたんだよw 
318日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:39:36
>>315

>まず、ホツマは偽書じゃない証拠を出してからの話だ。

それは逆ではありませんか?
書に対して偽書と考えるほうの一方的な説明が要求される場面です。
319日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:02:10
>>318

なぜ、記紀が偽書で、ホツマが真か、その説明も頼む。
320日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:24:13
>>319

>なぜ、記紀が偽書で、ホツマが真か、その説明も頼む。

それは唐松山氏の説明義務
貴方は唐松山氏とは別口にホツマが偽である説明義務
321日本@名無史さん:2008/07/20(日) 02:09:25
>>320
>貴方は唐松山氏とは別口にホツマが偽である説明義務

ホツマが真だと証明できないから。
以上。
322唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/20(日) 09:49:52
記紀は漢字で書かれた書物=誰にでも読め、写すことも可能
この時誤写、書き換えも
ほつま 古代文字(カナ)で書かれている=漢字に変換時の誤訳を免れる。
読める人間が少ないから 書き写しの回数も少ない。=誤写も少ない。
323日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:22:14
ということは、記紀よりホツマのほうが信頼性が高いということですね?
324唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/21(月) 12:27:05
漢字変換時の誤字、誤訳のない分 ほつまの方が信頼できる。
記紀を参考に ホツマを漢字変換したら 元の木阿弥。

!21を見てくれ。
325日本@名無史さん:2008/07/21(月) 16:37:53
古代文字だってww 偽文字じゃんよ。
だいたい偽書は鎌倉時代から地方レベルでもつくられてたからね。
結構な学者つかって、神社に文字つけたりもしてるんだよ。

大体、記紀はそれ以前の歴史書を聖徳太子がまとめたもの。
史書のソースとしてこれ以上のものはないのに。

>>322
古代文字で書かれている割に、発見がどうして最近なの?www




326唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/21(月) 17:20:03
>歴史書を聖徳太子がまとめたもの は信頼できるかも知れないが
現在伝わっている物は、何回書き写された物ですか?
誤字を修正して書き写す=この時本来の意味が失われる可能性がある。
327日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:54:28
古代文字をどうやって読んだんだ? 偽造した奴が読んだのでは?
328唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/25(金) 21:27:07
偽造した奴が読んだ←エジプト文字の事?
329日本@名無史さん:2008/07/26(土) 13:10:26
エジプト文字は、古代日本から伝わったものです。
ピラミッドも、日本で測量の起点とした神奈備山(人工の山)を真似たものだし、
エジプトの黄金、実は日本産です。
天文や暦の知識も日本が発祥の地でした。

そのことを理解すれば、古代史の謎がわかります。
330日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:59:15
>>329
そうだったのですか。驚きました。
うちの近くの三角山も実は古代のピラミッドだったのですね?
331日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:33:53
>>330その通りです。
三角山のネットワークが全国にあって、
光通信や狼煙、かがり火によって、日本全国へ数時間以内に情報が伝達できたのです。
332太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 22:49:44
吉村先生が日本古代史TV番組の中でトンカラリンの石積みが
エジプトのピラミッドと似た造りだとは云っていたな。
333改めドツボ監視委員会:2008/07/26(土) 22:58:06
改めドツボ監視中・・・

現在、敵影無し、完全沈黙。

>ピラミッド
中に剃刀を入れておくと切れ味が復活すると言う神秘のパワーがくぁwせdrftgyふじこlp;
334日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:07:26
>>332良いことに気付きましたね。
     実は吉村氏自身、日本のピラミッド建設や測量に携わった日置氏の子孫
     という言い伝えがあります。本人も知らないのではないかと思うのですが。
    ↓参考

 http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/toti.html
335日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:11:58
>>333

河童とコンビでヤフーに居るよ。
引き取ってくれ!!
336太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 23:13:52
改めは書きこみを3日休むと、休んだ奴は論破されたことになると
自認している。改めがそう書きこんでいたから改めも2回分は改めは
論破されたことになる。改め自ら、改め自身が論破された模範を示
している。
337日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:46:08
歴史を利害関係で語る人間がいなくならない限り
真実なんて目の前にあっても
我々はそれを信じさせてもらえない
338日本@名無史さん:2008/07/27(日) 13:14:17
三輪山は古代縄文人が作ったピラミッドです。
エジプトのピラミッドも古代縄文人の技術指導で作られました。
三輪山は標高467mあり、三輪山以外にも全国に神奈備型のピラミッドが多数あり
ますが、いずれの山も標高300mから500mくらいの規模です。
それに比べて、エジプトのピラミッドは、クフ王のピラミッドですら146m(建設当時)
しかかなく、近くにピラミッドの材料がないため遠方から石材を運ぶ必要があったこと
を考慮しても、規模的には日本のピラミッドよりずっと小粒であったとことがわかります。

では、なぜ縄文人は、それほど大規模なピラミッドを作る必要があったのか?建設機
械もなかった時代にどうやって作ったのか?そしてピラミッドを作った人たちはどこに
消えたのか?謎が謎を呼ぶ超古代史のミステリーです。
339日本@名無史さん:2008/07/27(日) 13:25:17
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
340愛読者:2008/07/27(日) 13:35:10
邪馬台国スレからドツボや河童が去ると、まるでゴーストタウン。
時々板ズレネタで、申し訳程度に埋めるだけか?



誰が追い出したんだよ?
追い出した奴は責任取れよな。
341日本@名無史さん:2008/07/27(日) 13:40:42
太国氏?
342日本@名無史さん:2008/07/27(日) 14:18:00
>>340

単に需要と供給のバランスが正常になっただけ。

じゃあドツボが「スレ主」に拘ってスレが乱立する等の弊害が出たとき
誰が責任をとるんだ?


343日本@名無史さん:2008/07/27(日) 14:51:23
>>340
だれか特定の個人がスレが廃れた原因のように言う人がいますが、
それこそ荒らしではないでしょうか?
スレを盛り上げたいのなら、自分でこのスレにふさわしい話題を振る
べきでは?ないでしょうか。
344愛読者:2008/07/27(日) 15:01:22
>>342
>じゃあドツボが「スレ主」に拘ってスレが乱立する等の弊害が出たとき
誰が責任をとるんだ?

スレが乱立して何か弊害が出ましたか?
弊害なんて出ていないのが本当のところでは?
345日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:07:12
>>344
2ちゃんのGLで重複スレを禁止しているのに
スレ乱立が弊害で無いと言うのなら

スレの過疎化なんかサラサラ弊害でもなんでも無い。

>>343の言うように、てめえで盛り上げろって話だなw

346日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:15:56
>>344

> >じゃあドツボが「スレ主」に拘ってスレが乱立する等の弊害が出たとき
> 誰が責任をとるんだ?
>
> スレが乱立して何か弊害が出ましたか?
> 弊害なんて出ていないのが本当のところでは?

プラム乙
347日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:24:35
プラム乙って、過疎化打開のための作戦?
ドツボやプラム、河童虫のHNを利用すればそれなりに、賑やかになるから
作戦としては結果オーライになるかも。
348日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:27:28
もういい加減にしろよ。
折角ヤフーに引っ込んで、静かになったのだから
このままそっとしておいておこうよ。
349日本@名無史さん:2008/07/27(日) 15:45:28
Yahooは2ちゃんのゴミ捨て場か?w
350どくだみ:2008/07/27(日) 16:07:55
では、ヤフーで彼らが意気投合している狗邪韓国は倭ではないという話題はどうでしょう。
私は、狗邪韓国は倭に含まれると思います。
351あまちゃ:2008/07/27(日) 16:21:26
>>350

釣られましょうか。

>私は、狗邪韓国は倭に含まれると思います。

「韓國」なのに何故?
352日本@名無史さん:2008/07/27(日) 16:48:47
韓国は日本固有の領土だったからでしょう?
353日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:01:24
韓国の大統領は毎年必ず、非公式に朝獻している。
354日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:06:28
>>352-353
kwsk
355日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:24:06
過疎ってますねage
356日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:53:11
狗邪韓国は倭に含まれるだなんて、いい加減に韓国を独立させてやれよ。
しかも、韓国は日本の植民地だなんて呪縛から、そろそろ開放してやってもいいのではないか。
357どくだみ:2008/07/27(日) 18:26:27
>>351
理由を書くのは、ちょっと大変なので、しばらく待ってね。
要は、後漢書の「去其西北界拘邪韓國七千餘里」なんだけどね。
358日本@名無史さん:2008/07/27(日) 18:59:17
>>357
後漢書で判断って、倭人伝では判断出来なく、倭人伝から約百五十年経たないと
わからない内容なのか?
359どくだみ:2008/07/27(日) 20:02:39
>>358
そうなんだよね〜。
韓伝の「南與倭接」を見れば、間に海があって接するというのはおかしいので、
半島に倭の領域があったと考えるのが極普通の解釈なんだけど、
なかなか普通の解釈が通るような状況ではないし。
倭人伝だけなら違うと言い張れば言い張れるので、
水掛け論にしかならない。
それで後漢書を援用してみた。
360日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:12:13
>>356
植民地という言い方は、いささか不適切。
当初、大陸にあった倭人の国が、大陸の騒乱を避けるため都を移した。
そうみれば、朝鮮半島は日本人の故郷。そういう捉え方もできます。
故郷に錦を飾ったと考えればよいのです。
361日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:20:38
>>359
>韓伝の「南與倭接」を見れば、間に海があって接するというのはおかしいので、
半島に倭の領域があったと考えるのが極普通の解釈なんだけど、

倭人は大海之中、後漢書でも倭は大海中となっているが
362どくだみ:2008/07/27(日) 20:21:15
後漢書に
「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也.」
とあります。
この「方角+界」という表現で示された地域が、倭の領域の内側か外側かというのが問題です。
そこで「方角+界」が何を意味するのかを検討してみました。
例えば後漢書耿?傳
「昔韓信破歴下以開基,今將軍,攻祝阿以發迹,此皆齊之西界,功足相方.」
韓信は歴下を破り、耿?は祝阿を攻めた話で、歴下と祝阿は「斉之西界」にあると言っています。
地図を見ればわかりますが、どちらも斉の領域の西部にあって、けっして斉の外ではありません。
次に魏志韓伝から
「辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之.」
馬韓はその「東界」の地を割いて秦から亡命してきた人に与えたとあります。
「東界」が馬韓の領域の外なら「割いて与える」ことはできません。
ここで「東界」は馬韓の領域内の土地であったと考える方が自然です。
結局、「方角+界」の表現は、その領域内の端を表すのであって、
領域外ではないと言えます。
だから倭國之極南界である倭奴國は、倭国の領域内であって、
倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」という記述と符合します。
同様に、其西北界拘邪韓國という表現は、
拘邪韓國が倭の西北領域の内側にあることを意味すると解釈すべきでしょう。
韓伝にある「南與倭接」という記述から、半島に倭の領域があると考えるのが自然ですが、
魏志だけではそれが拘邪韓國と断言するには少々根拠が薄いです。
しかし、范曄はそう判断していたということで、これを傍証として、
拘邪韓國は倭であったと考えていいと思います。
363どくだみ:2008/07/27(日) 20:30:14
>>356
独立云々は冗談で書いたんだろうけど、現実にそういう感情的な影響はなくはないよね。
日韓併合から千年以上も昔の事実を文献から判断するんだから、
そういう感情的なことに影響されてはいけないんだけどね。

>>361
半島に倭の領域があっても、大部分が大海之中にあるんだから、そういう記述になるでしょう。
大海之中と書いてあっても、半島に勢力範囲がないとは言えないわけです。
364日本@名無史さん:2008/07/27(日) 21:05:51
>>362
>この「方角+界」という表現で示された地域が、倭の領域の内側か外側かというのが問題です。
そこで「方角+界」が何を意味するのかを検討してみました。

後漢書に書いてあるのは「方角+界」だけではなく「方角+界+地名」
しかも、その地名の所在が問題になっていますから、「方角+界」だけを取り上げて検証しては
不十分となります。
「極南界倭奴国」と書かれていたでしょうか。
「東界其地」と書かれていたでしょうか。
其西北界拘邪韓國と書かれていたのではありませんか。
365日本@名無史さん:2008/07/27(日) 21:18:29
>>364
>半島に倭の領域があっても、大部分が大海之中にあるんだから、そういう記述になるでしょう。
大海之中と書いてあっても、半島に勢力範囲がないとは言えないわけです。

それは陳寿が文章内で「そう判断しろ」と言っているのでしょうか。
大海の中という文章に大部分とかいう曖昧な表現が含まれているとは思えません。大海の中と書いてあれば
四方が海で囲まれていると考えるのが普通の考え方ではないでしょうか。
都合に悪いからと言って、大部分という表現を付け加えるのは余りにも恣意的考えます。
366どくだみ:2008/07/27(日) 21:35:29
>>364
「方角+界+地名」で熟しません。
だから、後ろに地名がついたとしても、それで「方角+界」の意味が変化することはありません。

>>365
倭人伝には大海之中としか書いていません。
これを厳密に取って、半島に領地を持たないとすれば、
「南與倭接」は、韓は海を挟んでいるのに倭と接するという矛盾した表現になります。
あなたが河童さんなら、矛盾じゃないと言い張る所でしょうが、
河童さんでないなら議論する必要もないでしょう。
さて、先に韓伝を読んで「南與倭接」を普通に「南で倭と接している」と解釈した読者は、
その後の倭人伝の「大海之中」を読んでも、それを厳密に受け取ることはしませんよね。
これが、倭人伝が韓伝に先立って書かれていたら状況は変わりますが、
倭人伝は韓伝の後なのですから、私の恣意的な判断ではないでしょう。
367日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:05:49
偽書倭人伝の編者珍寿・・てことで合意ができつつあるようですね。
東夷伝のような付録のような倭人伝で、経歴にミソつけられてしまって、
不幸な人です。
368日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:09:24
>>366
河童さんは関係ないと思いますし、私は「狗邪韓国+其西北界」と「其西北界+狗邪韓国」では意味が違うと
のべています。
どくだみさんが示した用例は、前者である「狗邪韓国+其西北界」を用例とし示しているのです。
369日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:11:36
ヤフーの流れから行くと、河童ならここは「界」一本に絞って
くるな!
370日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:29:33
要するに陳寿は詐欺師。
見てもいないことをさも見てきたように書いて後世の歴史家を混乱させる。
記紀の編者と手口は同じじゃないですか。
こういうことだけしっかり学んだのだ。
371日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:47:30
陳寿は晋の図書館で、数多くの資料を閲覧して倭人伝をかきあげたのです。
半島にも倭国までもきていません。
こうゆうことは基本的なことなのでしっかりおさえましょう。
372日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:55:11
>>366

>さて、先に韓伝を読んで「南與倭接」を普通に「南で倭と接している」と解釈した読者は、
その後の倭人伝の「大海之中」を読んでも、それを厳密に受け取ることはしませんよね。

そのように読む日本人を対象にして編纂されたものではありませんから、
大海の中は、四方を海に囲まれた地と判断するのではないでしょうか。
373日本@名無史さん:2008/07/27(日) 22:58:22
「邪馬台国」(榎一雄)に次のようにあります。
支那書の外国関係の記事の「A国はB国に接す」とか、「A国はB国に界を接す」とかいう表現は、必ずしも常に両者の領域が文字通り接続していることを意味しない。
それはA国とB国との距離の如何に関係なく、A国とB国との間に支那人に知られている第三国のない場合にも用いられる記述の形式である。



374どくだみ:2008/07/27(日) 23:03:55
>>368
違うと仰るなら、具体的にどう違うかを貴方が示してくれなければ、
私も反論のしようがないですよ。

>>370
もともと蜀の人間なんだもの。
史記に南越列伝・東越列伝・朝鮮列伝・西南夷列伝を執筆した司馬遷とその一族や、
漢書に匈奴伝・西南夷両粤朝鮮伝・西域伝を書いた班固とその一族が、
その土地を訪れたと考える人はおりませんわな。
それで詐欺師と言われては、陳寿も浮かばれません。
375どくだみ:2008/07/27(日) 23:05:34
>>373
海を挟んでも「接」というかなあ。
明確にそうと解る例があれば、是非教えて下さい。
376どくだみ:2008/07/27(日) 23:14:15
>>372
見落としてました。

>そのように読む日本人を対象にして編纂されたものではありませんから、

の、「そのように読む」とは「南與倭接」を「南で倭と接している」と読むという意味でしょうか。
それとも、「南與倭接」を「南で倭と接している」と読むことには問題はないが、
それに基づいて「大海之中」を厳密に読まないということでしょうか?
377日本@名無史さん:2008/07/27(日) 23:14:18
>>373
以前河童も
国間に使用される「接」には二種類存在し、一つは間接、もう一つは直接と言っていた記憶がある。
378日本@名無史さん:2008/07/27(日) 23:18:00
>>375
それは河童(プラム)に対する返信であって、ここでは河童(プラム)以外
そこまで拘りを持つ住人は居ませんから。
379日本@名無史さん:2008/07/28(月) 01:28:35
やはり倭人伝とは九州のことだけだな。
380日本@名無史さん:2008/07/28(月) 10:09:52
>>375
榎は上記引用に続いて、漢書西域伝の例を引いています。
タクラマカン砂漠の南にある国々と砂漠の北にある国々とを接と表現していると。
海の例ではないですが、小国にとって砂漠は海と同じようなものということでしょう。
381どくだみ:2008/07/28(月) 17:55:05
>>380
その本を読んだことがないので質問ですが、榎さんは漢書西域伝の例を引いて、
「だから魏志韓伝の「南與倭接」は海を挟んで接しているんだ」と結論しているんですか?
それとも、魏志韓伝とは全く別の議論をしているのを、貴方が引用されたのですか?
382日本@名無史さん:2008/07/28(月) 20:00:28
>>379
プロの方ですか? 
私も同じ見方をしています。
383日本@名無史さん:2008/07/28(月) 20:09:44
今宵は古田と榎の殴り合いが見られそうだなw
384日本@名無史さん:2008/07/28(月) 20:11:42
>プロの方ですか?

いいえ、今月ピンチで援助が目的で投稿しました。
385日本@名無史さん:2008/07/28(月) 21:29:30
やはり古田はデンパ確定だな。
386どくだみ:2008/07/28(月) 22:04:32
380さんのレスがありませんので、とりあえず所感を述べます。
現代の国家においても、AB二カ国の国境線が無人の山の中なんていうのは珍しくありません。
それでも、両国は接していると言います。
西域に点在する遊牧民の国家やオアシス都市国家について考える場合も、
二国の居住地が隣り合わせで連続していなくても両者は陸続きであり、
接と表現するのは別に異とするに足りません。
しかし、だからと言ってその表現を海を挟んだ場合まで拡張して適用するというのは、飛躍がありすぎはしないかと思います。
倭を海の中に閉じ込めなければ、無理してそんな解釈をしなくても済むでしょう。
387どくだみ:2008/07/28(月) 22:09:13
そもそも倭人伝には歴韓国とあり、韓国を歴(こえて)、狗邪韓国に到るわけだから、
これだけで、狗邪韓国が韓に含まれていないことははっきりしていると私は思います。
そこで狗邪韓国が倭だと考えれば、
1、「南與倭接」を海を挟んだ場合まで拡張解釈せずにすむ。
2、歴韓国の表現も矛盾を孕まない。
3、女王の境界の尽きる所までで30カ国となる。(ただし二つの奴国の問題は残る)
4、倭の西北界の狗邪韓国が倭であれば、極南界の倭奴国も倭であって問題ない。(後漢書)
逆に、狗邪韓国を倭ではないとすれば、
1、「南與倭接」を海まで拡張解釈しなければならない。
2、歴韓国の表現が矛盾を孕む。
3、女王国と敵対していた狗奴国を含めなければ30カ国にならない。
4、倭の西北界の狗邪韓国が倭でなければ、極南界の倭奴国も倭ではないと考えなければならない。
結局、狗邪韓国を倭と考える方が自然です。
ただこの場合、ならば何故、狗邪韓国だけ戸数や官職名などの情報を記載しなかったのかという疑問が残ります。
388日本@名無史さん:2008/07/28(月) 22:20:39
つまり、狗邪韓国と邪馬台国は、海峡を隔てず隣接していた。
はっきり言えば、邪馬台国は朝鮮半島にあったのだ!
389日本@名無史さん:2008/07/29(火) 00:21:11
古田必死だなw  必死になればなるほど笑えるのが古田節w
390どくだみ:2008/07/29(火) 00:44:03
>>389
古田節って、もしかして私のこと?
私の場合は、古田節とは無関係に、ただ素直に漢文を読んだ結果です。
邪馬台国が何処にあるかなんて考えずに、普通に魏志・後漢書の文を読めば、
狗邪韓国を倭と考えるのが、一番無理のない読解だと思いますよ。

日本史も邪馬台国関係も初心者なんで、古田さんの本は読んだことないし、
ネットで名前を見かける限り、正直あまり良い印象はない人でした。
先ほどネットで調べてみましたが、古田さんも狗邪韓国は倭だと主張してたんですね。
古田さんは九州説らしいですが、私はなんとなく畿内派です。明確な根拠は持ち合わせていません。

391どくだみ:2008/07/29(火) 03:05:06
ああ、一旦寝たのに、眠れない。ということで、徒然なるままに書き込み。
狗邪韓国とは弁辰狗邪国のことだという人が居る。
韓伝内だから狗邪韓国とは言わないんだと主張する。
だが、韓伝だから韓を省略するのなら、弁辰の条にあるのだから弁辰も省略して狗邪国のはず。
だから、韓伝だから韓は省略したという論は成り立たない。

もうひとつ。倭奴国とは書くが、奴倭国とは書かない。
弁辰狗邪国とは書くが、狗邪弁辰国とは書かない。
狗邪韓国が韓の中の一国だというのなら、韓狗邪国と書くべきだろう。
狗邪韓国では、表記法としておかしい。
馬韓・弁韓・辰韓と同じ表記法だとすれば、
狗邪韓国は三韓に匹敵する第四の韓になる。
いずれにしろ、弁辰の中の一小国とするには、狗邪韓国という表記法はおかしい。
弁辰狗邪国と狗邪韓国は別物とみるべきだろう。
392日本@名無史さん:2008/07/29(火) 06:34:37
素直に読んだ…

とかいう奴の多数はオヒネリ君やデンパ君になるという不思議
393日本@名無史さん:2008/07/29(火) 07:00:32
>>381
当然、前者です。
394日本@名無史さん:2008/07/29(火) 07:09:49
昨夜は、アクセス規制とかの表示が出て、書き込みができませんでした。
>>381
373は弁辰伝の弁辰涜盧国に関する「倭と界を接す」に関する記事でしたが、380の引用のあとに、次のように書いてあります。
魏志韓伝の始めに・・「南は倭と接す」とあるのも同様で、これは韓と倭が接壤しているというのではなく、海を隔てて接している意に解すべきである。
395日本@名無史さん:2008/07/29(火) 07:27:34
>>387 >>391
私の意見をいえば、朝鮮半島に倭を考える余地はないと思います。
倭人伝は「倭人は帯方の東南大海の中にあり」で始まります。朝鮮半島の倭などというものは全く想定されていない書きぶりです。
それに、あなたが指摘するとおり、狗邪韓国は戸数や官職名も記載されていない、倭国の扱いはされていません。
弁辰狗邪国と狗邪韓国の違いは、資料のちがいによるもので、同じ国でしょう。狗邪韓国の「韓国」は倭国でないことを明確に示すと解すべきです。
この問題には、「倭の北岸」の解釈もからみと思いますが、それはまた。
396日本@名無史さん:2008/07/29(火) 07:38:16
>>387
歴韓国は「韓国を歴るに」と読めば、気にならないと思いますが。
397美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/07/29(火) 10:45:53
ちなみに、弁辰とか弁韓とかって言う韓三国は、日本では百済や新羅って呼んでた國だよ

ちなみに百済(弁辰)を納めてたのは日本の朝廷だよ
神巧皇后が韓半島に進軍してその土地を納める話しはちゃんと記期にも書いてあるよ

弥烏邪馬國とかも日本が治めてた百済だか任那だかにある國の大陸人の呼び方だし


あと日向三代の話も日本から半島を治めに行く話だよ
新しい土地を開拓するために乾(韓)国の高千穂に降り立ったのが日向三代な訳だから
398美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/07/29(火) 12:37:22
>>317
ホツマも記期も同じ事が書いてあるだけでしょ?


ホツマにしろ記期にしろ読み手の解釈が間違ってれば、書物の内容じゃなく、解釈が間違ってるだけだよ
399美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/07/29(火) 12:44:41
例えば邪馬壹國発祥説なんて、それこそ魏志倭人伝を肥大解釈してるだけだよ


漢書とかには詳しく倭人が韓半島にやってきて韓を統治してる様子なんかも書いてあるし、そこに弥烏邪馬國があるとも書いてあるよ
記期にもちゃんと同じように日本が韓半島を治める話も書いてあるし

400日本@名無史さん:2008/07/29(火) 15:25:16
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
401日本@名無史さん:2008/07/29(火) 16:56:25
>>399
>漢書とかには詳しく倭人が韓半島にやってきて韓を統治してる様子なんかも書いてあるし

漢書に書いてあるなら、書いてある箇所を提示しなさい。

>そこに弥烏邪馬國があるとも書いてあるよ

書いてあるからなんなんだ
402日本@名無史さん:2008/07/29(火) 17:20:14
>>391
>弁辰狗邪国と狗邪韓国は別物とみるべきだろう。

そう考えてしまうのは、弁辰と書かれた意味を理解していないからそう考えてしまい、
最初から弁辰と書かれた意味を把握していれば、そんなくだらない考えはしなくて済む。

弁辰とは「弁辰與辰韓雜居」とあるように雑居地と言う意味
辰韓○○でも弁韓○○とも言えな、二種が雑居する地域と言う意味から弁辰○○という表記で書かれた。
だから雑居でない馬韓には馬辰○○や馬弁○○という表記は存在せず、○○国という表記で片付けられている
しかも弁韓と辰韓合わせて二十四国の紹介は、それを区別することなく一括りとして紹介している。
弁辰条に書かれている
○○国は、比較的雑居がみられない地域、弁辰○○国と書かれているものは雑居地域と判断し差し支えない。
だから、弁辰条に弁辰狗邪国と表記されても表記法に反するものではなく
貴方のいう
>韓伝だから韓を省略するのなら、弁辰の条にあるのだから弁辰も省略して狗邪国のはず。
だから、韓伝だから韓は省略したという論は成り立たない。

という主張は、根本的に間違っていると言う事です。
403どくだみ:2008/07/29(火) 19:24:28
>>395
結局、半島に倭の領域がないということを言うために、
「其?盧國與倭接界」「南與倭接」という表現を
海を挟んだ場合にも使えるということにしないと都合が悪いわけです。
その根拠として挙げられたのは、内陸である西域諸国の例だけで、
他に海を挟んだ例はないのでしょう?
たとえ東大の先生とはいえ、それでは河童さんの4000年に一度のご都合主義と変わりないですよ。

ついでに申し上げれば、「其北岸」の「其」は、「循海岸水行」を指しているのであって、
「倭」のことではないでしょう。
川下りを考えればはっきりするでしょう。
「海に出るには長江を下ります。その南岸には○○があります。」
こういう文章で、南岸は海の岸にはならないでしょう。
404どくだみ:2008/07/29(火) 19:34:18
>>396
>歴韓国は「韓国を歴るに」と読めば、気にならないと思いますが。

「へる」も「こえる」も同じ意味ですよ。だから歴史には、今現在のことは含まれないわけです。

>>402
これは、私の間違いでした。
辰韓の十二国と弁辰の十二国を合わせて列記しているので、
弁辰の諸国を辰韓諸国から区別するために弁辰○○國と表記していますね。

>韓伝だから韓を省略するのなら、弁辰の条にあるのだから弁辰も省略して狗邪国のはず。
>だから、韓伝だから韓は省略したという論は成り立たない。

というのは間違いですので取り下げます。失礼しました。
しかし、弁辰の諸国であると区別するために 弁辰○○國と表記しています。
決して○○弁辰國ではありません。倭奴国であって、奴倭国ではありません。
繰り返しますが、狗邪国が韓だと示すための表記なら韓狗邪国であって、狗邪韓国ではありません。
結局、狗邪韓とは、「韓の狗邪」ではなく、「拘邪韓」で一つの固有名詞とみるべきでしょう。
405どくだみ:2008/07/29(火) 19:39:15
>>403>>394へのレスでした。アンカーミスです。すみません。

あらためて>>395
大海之中に関しては、>>366に既に私の意見は書いてあります。
ここは水掛け論にしかならないので、議論しても無駄だと思います。
他の部分から固めていかないと仕様がないです。
406日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:07:06
>>404
>倭奴国であって、奴倭国ではありません。

それは間違った例えです。
倭奴国は(倭の奴国)ではなく(倭奴)国

貴方の例えは 倭奴を奴倭と言っているのです。
407日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:08:12
>>403
>半島に倭の領域がないということを言うために、
何かずいぶんと失礼な言い方ですね。榎は何のために、半島に倭の領域がないというのですか。何のためにご都合主義の解釈をしたというのですか?
納得できないというならば、そう言えば足りるはず、榎の学説を勉強もしないでご都合主義と決めつける根拠は?
>「其北岸」の「其」は、「循海岸水行」を指しているのであって
これぞご都合主義。文章的に「其の」は倭を受けるに決まってます。問題は倭国領の北岸と解釈してしまうことで、倭は方角の基点を示したにすぎないと解釈すべきなのです。
言っても、あなたでは理解できないでしょうが。
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/29(火) 20:08:41
どくだみさんへ
久しぶりに まっとうな論を拝見しました。
後は、書記のどの時代か?ですか。
409どくだみ:2008/07/29(火) 20:13:08
>>406
>貴方の例えは 倭奴を奴倭と言っているのです。

これは意味が解りません。

あなたが
>倭奴国は(倭の奴国)ではなく(倭奴)国
と仰るように、私も狗邪韓国は(韓の狗邪国)ではなく(狗邪韓)国だと考えます。

でも406さんは、すごく河童さんっぽいなあ。まあ、無粋な詮索ですが。
410日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:17:13
>>403

>南岸は海の岸にはならないでしょう。

海(川)に岸は存在しませんから、この場合の南岸は
海(川)の南に○○の岸と言う文が成立します。

はじめから(其北岸)としているところに問題があり、(其北、岸狗邪韓國)その北に狗邪韓国の岸と、和文にすべきです。
411どくだみ:2008/07/29(火) 20:24:42
>>407
>納得できないというならば、そう言えば足りるはず、榎の学説を勉強もしないでご都合主義と決めつける根拠は?

これは仰るとおり、失礼な言い草でした。申し訳ありません。
貴方の書き込みを読んで、あまりに根拠薄弱な論だと思ったのですが、
それだけで榎先生を批判するのは行きすぎですね。

>これぞご都合主義。文章的に「其の」は倭を受けるに決まってます。

なぜ決まっているんですか?倭の北岸って、論理的に意味が通りませんよ。

>>408
唐松山さん
日本史は全く門外漢なもので、どの時代かはさっぱりです。
412日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:25:31
>>410
倭人伝の文章はもっと大局的な見方で書かれているように思います。倭の北にあたる朝鮮半島の岸ということでしょう。
413日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:25:54
>>403

>たとえ東大の先生とはいえ、それでは河童さんの4000年に一度のご都合主義と変わりないですよ。

それは貴方のキャパで量ればの話であっての事ではありませんか?
ご都合主義と捉えるのは、貴方のキャパに入りきらないものであるからこその表現であって
貴方を超えるものでの話なら、十分に許容できるものかもしれません。

414どくだみ:2008/07/29(火) 20:28:36
>>410
(其北、岸狗邪韓國)の語順では、「その北に狗邪韓国の岸」にはなりません。
「狗邪韓国の岸」なら「拘邪韓國岸」です。
相変わらずのアナグラムですね。
415日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:32:30
>>412

>倭の北にあたる朝鮮半島の岸ということでしょう。

いいえ違います。
其は 循海岸水行し先にある(大海)です。

七千余里し到った大海の北に狗邪韓国の岸です。
416日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:37:05
>>414
>(其北、岸狗邪韓國)の語順では、「その北に狗邪韓国の岸」にはなりません。
「狗邪韓国の岸」なら「拘邪韓國岸」です。
相変わらずのアナグラムですね。


いいえなります。
417どくだみ:2008/07/29(火) 20:41:32
>>415
ものすごく珍しいことに、大まかながら意見が合いましたね。
正確には、七千餘里水行した先の海の北側の岸に狗邪韓国があって、
そこに到るということです。
狗邪韓国の岸ではありません。
418日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:48:38
>>394
海を隔てて接するという表現は不自然です。
朝鮮海峡は丸木舟で渡れる距離ではありません。
倭が朝鮮半島にあったことと考えるのが妥当。
419日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:51:52
>>417
>正確には、七千餘里水行した先の海の北側の岸に狗邪韓国があって、
そこに到るということです。
狗邪韓国の岸ではありません。

既に其の手前で到っています。
其が示すのは「循海岸水行歴韓國乍南乍東到」結果(大海)
420日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:55:07
>>417

>狗邪韓国の岸ではありません

では何処の岸ですか?
岸は陸地にしか存在しません。
421日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:56:57
>>418

>海を隔てて接するという表現は不自然です。

不自然、自然は人それぞれ捉え方にばらつきがありますが
422唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/29(火) 20:57:41
此処なら殆ど言うこと無し。

西暦215 崇神六十五年秋七月。任那国遣蘇那曷叱知令朝貢也。
ソナカチが狗邪韓国の使いなら。
垂仁二十七年秋八月,癸酉朔己卯,令祠官卜兵器為神幣
鉄の輸入増大、鉄製の武器を大量に作る。
西暦238年 明年春三月,辛未朔壬午,田道間守至自常世國
陳寿が大和を知る機会。
423河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/07/29(火) 21:17:50
>>416

>「狗邪韓国の岸」なら「拘邪韓國岸」です。
相変わらずのアナグラムですね。

相変わらずデジタルな考えしか出来ない人ですね〜っ 文章はもっとナチュラルにアナログで

「狗邪韓国岸」という表現は陸域に視点を置いた通常生活で使われる表現です。
自分の現在地を先ず記載し(この場合、狗邪韓国)それからその狗邪韓国域内にある細部の岸を記載し「狗邪韓国岸」という語句が出来上がるのです。
しかし
この場合の視点は大海(其)
通常、陸地とは違った大海上からの狗邪韓国の岸に対する表現です。
先ず、海(視点)から一番近い陸地は「岸」

だから 其の北に岸なのです。後はその岸が何処の岸かを補足するだけの目的で書かれています。
だから 其北岸(狗邪韓国)

424日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:26:42
>>423
>相変わらずデジタルな考えしか出来ない人ですね〜っ 文章はもっとナチュラルにアナログで

アナグラムとアナログは関係ないよw
425日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:33:01
>>423
古代は、陸路は東山道といった山岳路が中心でした。
海岸沿いは歩きやすそうで実は絶壁を越えられず、行き止まりが多かった。
海岸伝いは、渡し船なしには進めなかった。
それがわかれば、結論はおのずと見えてきます。
426河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/07/29(火) 21:33:38
>>424

洒落の分からない人ですね〜

私が普通に言葉遊びと言われて、普通に返信してもつまらないと思ったから
アナグラムを利用して(言葉遊び)アナログと答えたの
427日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:34:40
梅毒がこんなとこで天然ぶりを発揮しとるwww
428河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/07/29(火) 21:36:57
>>古代は、陸路は東山道といった山岳路が中心でした。
海岸沿いは歩きやすそうで実は絶壁を越えられず、行き止まりが多かった。
海岸伝いは、渡し船なしには進めなかった。
それがわかれば、結論はおのずと見えてきます。

ずっと海を進むから、陸路事情は関係ないよ
429河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/07/29(火) 21:43:22
>>427

>梅毒がこんなとこで天然ぶりを発揮しとるwww

そこいらで検索出来る安っぽいネタを公開している訳じゃないんだから
しっかり聴講し、頭に叩き込むように
君はこの瞬間に立ち会えた自分の運の良さを、神に感謝しなさい
430河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/07/29(火) 21:51:10
頭の硬い連中ばかりでつまらないから  帰ろう
431日本@名無史さん:2008/07/29(火) 22:25:33
>>430自分の意見と違う書き込みが続くと逃げ出すのは良くないと思う。
にんげん辛抱だよ。
432ローガン:2008/07/30(水) 00:08:09
倭人伝の地理記述の最後に「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連…」とあります。(参問は難しいですが)「絶在海中洲島之上」ですから、倭の領域が半島と陸続きだったように私的には思えません。
又、後世の記述なので無意味かもしれないですが、翰苑の注に「魏志日倭人在帯方東南〇問倭地洲島之山或絶或連周旋五千餘里」とし、「四面倶抵海」と書かれています。
倭の一部が「地続き」であれば、??です。

現代人の感覚といわれればそれまでですが、海が領域の分かれ目のように思います。

「其北岸」とは韓と倭の間にある大海の北側の岸…と考えます。

勝手な妄想ですが「参問倭地」に「五千餘里」。総道程「萬二千餘里」ですから…
「七千餘里」迄は韓の領域で 「始度一海」から倭地での道程が始まるような感じがするのですが。

お邪魔しました。
433どくだみ:2008/07/30(水) 01:36:40
>>432
本質的には、ローガンサンの指摘も大海之中の問題と同じなので、>>405>>366を御覧下さい。

私は、狗邪韓国が倭だと言っても、倭人発生以来の倭地だとは考えていません。
半島の鉄を手に入れるなどの交流があったのだから、
そのための倭人居留地のようなものではなかったかと考えています。
例えば、イギリスがインドを植民地支配しても、そこをイギリスとは呼びませんでした。
イギリスが香港を領有していても、はやり香港と呼びました。
香港という中国語名を持つから、そこは中国領だったとは言えません。
同様に、狗邪韓国と韓の字が付くからといって、それが韓の領域だとは言えません。
想像を逞しくすれば、倭人は半島の居留地を狗邪韓と称していたのではないでしょうか。
434日本@名無史さん:2008/07/30(水) 07:13:55
梅毒ちゃんまた泣きながら帰っちゃったのかwww

おもろいアフォだな
435ドツボ警戒警報発令:2008/07/30(水) 17:01:06
↑ ドツボ朝から河童煽り乙
436日本@名無史さん:2008/07/30(水) 17:50:37
おい、ドツボと梅毒の名付け親の俺に失礼だぞ。
437日本@名無史さん:2008/07/30(水) 18:04:49
そもそも倭は日本なのか?
438日本@名無史さん:2008/07/30(水) 19:01:56
邪馬台国は奈良にあったよ^^
九州とか寝言は寝てから物言ってね^^
死んでね^^
439日本@名無史さん:2008/07/30(水) 20:02:04
>>437卑弥呼もあなたのようにいたずら好きが思いついた「あだ名」だった
    のかもしれませんね。後の世では、神功皇后と呼ばれてました。
440日本@名無史さん:2008/07/30(水) 20:24:35
投馬国と邪馬台国の記述は郡から別ルートで大和に行った記述でしょう。
さすがに東を南と書くのは無理がありますし、こう解釈するのが妥当かと。
女王国というのは卑弥呼の権力の及ぶ北九州地域のことを指しているのでしょう。
つまり北九州まで万二千余里なのです。伊都国は女王国に統属するという記述もありますし、
伊都国は女王国に属しているんですしこう解釈すべきかと。
女王国という解釈を我々は邪馬台国のことだと思い違いをしているんだと思いますがね。
441史学科:2008/07/30(水) 20:31:06
邪馬台国って結局どっちなの?あんまり歴史詳しくないんだけど、ゼミで邪馬台国やっててこまってるよ。
442史学科:2008/07/30(水) 20:35:10
邪馬台国って結局どっちなの?あんまり歴史詳しくないんだけど、ゼミで邪馬台国やっててこまってるよ。
443日本@名無史さん:2008/07/30(水) 20:44:26
九州であるはずがない。一戸4、5人が住んでたとして、
七万戸なら30万人前後。さらに投馬国五万戸、奴国二万戸。
さらには邪馬台国連合に匹敵する勢力の狗奴国まですべて九州にあるなら
九州の人口は100万人くらいになるのかな?そんなにいるわけがない。
奈良時代でさえ日本の総人口は450万程度なのに、二世紀後半で九州に100万もいたわけがない。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/30(水) 21:10:58
2006年時点で九州の人口は1300万余だから、30万人の収容は容易
だということになろう。まだそれ以上も収容できるに違いない。
445日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:17:06
だろうね。
筑紫平野なら10万や20万は軽いと思う。
446日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:53:38
そういう問題ではない。とある学者が統計的見地から二世紀当時の日本の人口を計算した結果およそ150万前後とのこと。
誤差があるとしても実際このレベルだっただろう。少し多く見積もって250万ってとこでもいい。
奈良時代は戸籍から450万という数字がでてるからこの水準はありえない。
日本の総人口250万中九州に100万人?九州の邪馬台国一国で30万人?ありえんのだよ。
447日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:55:35
3万戸、5万戸、7万戸当時の日本にあるように思えない
水増しじゃないのか?
448日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:00:00
君の想像力の限界の話しているのではない。
歴史の話をしているのです。
449日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:14:57
魏志の記述を疑いだしたらきりがない。一応真実が書いてあるという前提で話しを進めないと。
畿内大和盆地全体で七万戸ならかろうじてありえるだろ。
しかし九州内の一地域ではありえない。
450日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:25:00
北九州に行ったことがないのですか?>>449
451日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:30:22
〉450

では聞くが、九州一地域の邪馬台国に七万戸あったとすれば、
畿内、吉備、出雲、丹波、東海等、全部合わせていったい当時日本にどの程度の人口がいたんだ?w
452日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:30:24
いやいや、魏志の記述が真実だという前提で進めちゃあだめだろう。
453日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:38:05
いやいや、疑いだしたら東が南の間違いだとか、一月が一日の誤写だとか、もう話しがめちゃくちゃになるからw
ご都合主義がまかりとおりすぎ状態になる。
454日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:39:35
>>451
当時は九州が日本の中心で人口も多かった。
畿内、吉備、出雲、丹波、東海等は未開の地だったとすれば納得がいきます。
455太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/30(水) 22:45:16
記紀には八百萬神と、神名とつけて人物群の数字がある。
2006年時点で1300万人余とこれを上回っているから、容易に収容
は可能。
456日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:49:58
〉454

それらの地域が未開の地だったとお思いか?w

邪馬台国はほぼ大和で間違いないだろうよ。ただ卑弥呼は女王国内の伊都国にいたんだろう。
さすがに大和にいたのでは遠すぎる。
457日本@名無史さん:2008/07/30(水) 22:57:36
信仰や信念は事実を超えるの?
458日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:00:40
はちまんぐう

ひみこ 依代 ヤハウェ
ほむだわけのみこと 男
じんぐうこうごう 母 
459日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:03:30
当時の人口がどのくらいかなどは誰にも分からない。せいぜい、遺跡の分布状態からどのあたりが多かったようだと推測するだけだ。
小山修三がまとめた弥生時代の遺跡分布状況をみれば、関東地方、近畿地方、北九州(有明海沿岸)が遺跡数の密度が高いと出ている。
しかし、これも発掘の状況などによるから、どこまで信用がおけるか分からない。
460日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:05:58
>女王国内の伊都国にいたんだろう。
伊都国は女王国に統属していた国。女王国ではない。
461日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:07:07
邪馬台国問題を論じる前に…

立場の実情チェック!

Q1 アメリカよりアジアが好きである yes or no
Q2 韓国朝鮮人は日本人と似ている思う  yes or no
Q3 九州より奈良が落ち着く yes or no
Q4 学歴は大事だと思う yes or no
Q5 宇宙人はいないと思う yes or no
462日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:15:12
>>453
いやいや、倭人伝が全て真実だったら、卑彌呼は誰だとか邪馬台国は何処だとか、誰も迷わんよ。
曹操とは誰だとか迷いようがないから、情報の精度が段違い。
463日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:17:12
3個当てはまるけど、何のチェック?
464日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:22:31
劉備玄徳や諸葛孔明の実在性を疑う人はいないのに、
同じ書物に書かれている倭の女王が実在しないというのも・・
確かに不自然ではあるな。
中国では三国志の時代は実史の時代だ。
465日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:29:24
統属するという表現も女王国により支配されているというより、
女王国に属していると解釈してもよいのではないか?
466日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:46:15
所属ではなく、従属といった意味。従って、女王国は従属した相手であり、伊都国とは別。
里数からも、そのことは裏づけられる。伊都国までは万五百里。女王国までは万二千余里。
467日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:53:29
>>462
従来は勝手に迷っているだけさ。末盧国までは問題ないのだが、誰もが伊都国は怡土だと思い込んだ。
ここから迷走が始まったわけだ。末盧国の東南五百里なのだから、本当は有明海沿岸なのだ。
そうと考えれば、大和説など成立する余地はない。南九州で決まり、それが本当。
468日本@名無史さん:2008/07/31(木) 00:05:18
     ,.イ´| ̄`ヽr<´ ̄  ̄`ヾ´ ̄ `ヽx''´ ̄「`丶、
     / _|ノ   ├〈,.-―     ;. _  ,ゞ--'、:\___lヽ
     ,':∨::\  /´ ̄  ̄`ヽ ヽ/´  `ヽ、-.、 \::::::::::',
      |、_;/ /  /´   ,.     、  、  \. \ \―|
      ’、  /  /  ,.  / / ,ハ ',.  ヽヽヽヽ  \ヾ/
      \_/:/:/:./ , / .,' / // | l | , l: | ', ',. ! l  :',!|
          |/:/::/:/:/:! l | { /|:!  l l } !ノ|::,!l | :| |::|:::::::|ノ
         |:/l/:/:::,|::|:{イ⌒lヾゝ ノノイ⌒lヽ|:::!::}:;!::l::::::/
        |::/|/l::/l';:{ヾlー''!     lー''!/リノノ/::/:l::/
          || |:/リ、|::l;ゞ ̄´´  ,.  ` ̄" ハ:lリノノノ'
          リ |' __,⊥!、 " " r===、 " " /ノノ  ||
        '/´\:: : \   ヽーノ  /`ーァ-、 ヾ、
       _ /     li : . ',.`ヽ、 _ ,.イ´ /.ノ::l|  ヽ \____
.    /'/       |l   ヽ `Y´ / './ . :l|   |、 /  /
      \l      |l,   \\_!_/ ‐ ´   、!|   | |\ ̄
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       ',.     \_:::.: : :_二二二:_: : : : .:.:.:.:::/ ,'
       ':、   ト、 ̄ ´.:.:.::::::::::.:.:.:.` ―┬ '′ /
        \  |l ヽ            l|  /
.           `/,'  ヽ \         ',/
          ∧ヽ   \ \:.:.:..    ∧
469日本@名無史さん:2008/07/31(木) 07:20:25
余里の余を考慮すれば伊都国までで十分に万二千余里に達するよ。
そもそも伊都国から女王国まで残り1500里くらいなのに陸行一月とかありえんって。
つまりどこか解釈が間違ってることに気付くべき。
470日本@名無史さん:2008/07/31(木) 08:11:31
>>469
陸行一月? それは女王国までの行程ではない。女王国と邪馬台国を混同してはだめ。間違いに気づくべき。
471日本@名無史さん:2008/07/31(木) 12:38:12
つまり女王国とは伊都国、奴国、不弥国とかここいらの国の総称なんじゃなかろうか?
特に奴国が九州の盟主だし、ここが九州の中心地だろ。
472日本@名無史さん:2008/07/31(木) 12:58:22
そうではない。伊都国には女王国から派遣された一大卒がいた。女王国以北はその一大卒に検察されていた。
伊都国や奴国、不弥国は、女王国ではなく、南の女王国に監視されていた状態なのだ。
473日本@名無史さん:2008/07/31(木) 13:41:11
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
474日本@名無史さん:2008/07/31(木) 15:06:38
いやいや、それなら南へ女王国まで千余里とか書くはず。
邪馬台国=女王国 ではないならば。その記述がないということは女王国の解釈のしかたが違うんだよ。
475日本@名無史さん:2008/07/31(木) 15:50:23
卑弥呼と台与(『三国志』では壹與)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
元々は男子を王として70〜80年経たが、倭国全体にわたって長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる
「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼を女王に共立することによってようやく混乱を治めた。
卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は
1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に
就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
-------------------------------------------------------------------------------------
南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に着く。女王の都である。官を伊支馬(いきま)、
次官を弥馬升(みます)という。その次を弥馬獲支(みまかき)といい、その次を奴佳(なかて)という。
七万戸余りある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は卑弥弓呼とは前から仲が悪かった。
   和国では、載斬(きし)、鳥越(うえつ)などを郡に派遣して、戦況を説明させた。
   郡は、塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書と黄幢を
難升米に与え、   中国が仲介にのりだしたことを、回状をつくらせて触れまわらせた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
こうした邪馬台国と狗奴国の対戦は背後に大きな原因があると見られるが、
(1)九州における海幸・山幸戦争
(2)青銅祭祀文化の廃止と銅鏡配布・古墳システムの導入
こうしたことによる軋轢があったはずである。特に近江・尾張の銅鐸産業・政治経済団体との対立は
旧職人を鏡産業に吸収すると言ったものではなく、鏡職人は九州から近畿に移動させたのであるから
大変なことであったことであろう。


476日本@名無史さん:2008/07/31(木) 16:14:35
記紀神話に銅鐸が登場しないということはその舞台が既に卑弥呼時代であり、素盞嗚命・大国主命が
馬を使用していることは馬の使用を試みる渡来系であることを意味するのであろう。そうすると、国譲り
と言うのは何であったかを考えると、大国主命の主要な版図である山陰、越前の四隅突出型古墳
地域での銅鏡の出土が少ないことが、この地方と九州近畿の銅鏡圏との対立を反映するものと
考えさせられる。ここで東海地方における素盞嗚命関連の神社の多いことを考えると、やはり、銅鐸
文化圏の銅鏡文化への完全な従属と言うことが国譲りの骨子であったと考えざるを得ない。銅鏡陣営も
多大な譲歩をし、出雲に各地神官のポストを保障した。しかし、職を失った三遠式銅鐸の職人の
大きな裾野産業は東国への移動を余儀なくされるが、東国からも押し返され行き場を失って暴徒と
化したものが狗奴族として邪馬台国に敵対するのも当然のことであろう。
477日本@名無史さん:2008/07/31(木) 16:28:02
こうした中で邪馬台国勢が建国の柱と頼んでいた大量の青銅器原料が紛失するという事件も海幸山幸
から読み取れる。おそらく荒神谷遺跡から出土した大量の青銅祭器は本来邪馬台国勢が当てにしていた
資産であったのであろう。卑弥呼が帯方郡公孫に使者を出したのは何とかして青銅原料を確保することで
あったのであろうが、帯方郡の政変によって魏と国交を持つことが出来、更に、魏から製品の銅鏡が入手
出来ることになって、卑弥呼は天佑神助と思ったことであろう。魏としても突然の出会いで知り合った、
同じような新興国であり、何とか手を組んで南方の呉への楔を打ち込むといった大義名分で、払底していた
軍事物資の輸出に踏み切ったものであろう。おそらくは後漢時代の古い史書に倭国は南北に長く、南端は
呉に非常に近いという情報を信じ、報告書等はこれに合わせて方位を決めたのであろう。
478日本@名無史さん:2008/07/31(木) 16:35:24
前置きが長くなってしまったが、卑弥呼は神武の妃にされた摂津、三嶋溝杭家のイスケヨリヒメが初代で、
倭人伝の頃は二代目あたりで、崇神の叔母、モモソヒメであったのであろう。この頃男性天皇は天下
大乱の原因となるため、女王の近衛師団長見たいなポストにあったのではなかろうか。そして、崇神が
女王の死後初めての男性天皇に就任するも天下は乱れ、トヨが再び女王となり、崇神は実質上皇の
ような地位であったのであろう。
479日本@名無史さん:2008/07/31(木) 20:57:01
日本書紀に富士山が登場しないのは、意図的に東国の存在を無視している
からだと言われている。その証拠に、40年後に編纂された万葉集には、富士
山は出てくる。つまり、卑弥呼は意図的に隠された東国の女王だったことが分かる。
480日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:12:01
意味不明。
481日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:17:31
■偉大なる韓国人(すべての起源は韓国に通ずる)

・桜の起源は韓国
・しょうゆの起源は韓国
・歌舞伎の起源は韓国
・サムライの起源(サウラビ)は韓国
・忍者の起源は韓国
・折り紙の起源は韓国
・イギリス人の起源は韓国人
・漢字の起源は韓国
・漢方の起源は韓国
・占星術の起源は韓国
・孔子は韓国人
・天皇(日王)は韓国人
・藤原氏や天皇の側近貴族は韓国人
・聖徳太子を育てたのは韓国人
・日本国を作ったのは韓国人
・中田英寿は韓国人
・シーズン42勝の稲尾は韓国人
・台湾の王健民は韓国人
・アジア文化を発展させたのは韓国人
・IT宗主国は韓国人

たぶん卑弥呼も韓国人でしょうw
482日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:31:07
倭人とは何者か?以上に、
韓国人とは何者か?が問われます。

倭人とジンギスカンの蒙古人が混血しただけでは韓国人にはなりえないし、
ユーラシア大陸の盲腸として、排せつ物が化膿した感じはありますね。


483日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:20:52
何言ってんだお前
朝鮮人はツングースと南方民族の混血であり
蒙古人はあんま関係ない
484日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:01:57
>>483遺伝学的には、日本人と朝鮮人は一番近い民族ですよ。
    海峡を越えられず半島に残った倭人も多数いたはず。
    すべての朝鮮人をツングース系とみるのは誤り。
    混血が進む前に、倭人を日本に移住させるべきかも。
485日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:14:39
>>484
でも、見た目じゃあ、九州人と朝鮮人は全然似てないなあ。
むしろ九州人は中国人との方が似てると思う。
486日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:17:56
あなたの知っている朝鮮人に似ていないというだけです。>>485
487日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:22:16
倭人伝は真実が書いてある。そう考えて、倭人伝に従ったら、どうなりますか?
488日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:30:59
>>486
朝鮮人と関西人が似ていて、中国人と九州人が似ているっていうのが実感だなあ。
関西と九州じゃあ、平均身長が全然違うと思う。駅での人波の頭の位置が違うもん。
489日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:41:03
>>488
確かに、九州に中国人系の人間が多かった、それが倭国をつくった。その後、朝鮮半島との交渉が多くなり、半島人が流入してきた。
それらの人々を本州に住まわせ、かなり自由に活動させた。そして、毛人との戦いに利用し、勢力の拡大をはかった。そんな感じがあるな。
490日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:52:20
古代中国人(秦、漢、隋)が渡って来る前から九州には渡来人達が住んでるよ
それに鹿児島の薩摩藩士の顔立ちは中国系ではない

長州藩士の顔立ちはあきらかに百済系だと学者が言っていた
491日本@名無史さん:2008/08/01(金) 01:21:24
百済に住んでいたのは倭人や漢人が中心
492日本@名無史さん:2008/08/01(金) 08:52:50
>>479
ヤヒコ神社伝承にもヤヒコが舟で鏡を持って来たという話があり、合従連衡で関東を取り込もうと
していたことは伺われる。ヤマトタケルの運動も同じだし、フツヌシも同様。こうしたことで上毛野、
上総、常陸と関係は深まり、他方秩父等は根強い抵抗を続け、会津方面にも抵抗勢力はあった
のではなかろうか。赤城山での対立の伝承がある。東海自体とか、関東にしても膨大な地域であり
そこには相互に対立する勢力が勃興してくるのは自然。その駆け引きの中で源氏とか、平家が
誕生するのであろう。
493日本@名無史さん:2008/08/01(金) 09:23:00
体毛がわかりやすいよね

ワイ人は体毛が薄い
男なのに臑毛もほとんどない

今の中国韓国人って体毛がほとんどないね

日本人は臑毛が濃い
494日本@名無史さん:2008/08/01(金) 09:26:05
源氏も平氏も秦氏
495日本@名無史さん:2008/08/01(金) 12:35:29
なんでー?
496日本@名無史さん:2008/08/01(金) 14:08:14
なんかさ、邪馬台国論争って2ちゃんでは
トンデモ満載だなw

学会では、邪馬台国=大和国でほぼ決まりなのにw
497名日本@名無史さん ::2008/08/01(金) 14:48:08
その学会とやらが一番のトンデモであることに
早く気づけよ!
498日本@名無史さん ::2008/08/01(金) 14:49:24
学会=権威が決めることにろくなものはない。
499 ◆1YjVsxkvZQ :2008/08/01(金) 15:10:28
>>490
百済は白村江の戦いで唐・新羅に壊滅的にやられている・・
その戦火を逃れた奴が日本海を隔てて渡って来たと・・
天智天皇や鎌足辺りは、明らかに百済チョン寄りだな。
蘇我氏天武天皇は新羅よりだと・・

で、邪馬台国は西都だろ?
当時の鹿児島湾は文化の流入地としてかなり栄えていたし
西都周辺の古墳群から7万戸までは行かないが、相当数の人口は居た。
歴史の深さも近くに高千穂を抱えてるし・・
九州最大級古墳のオサホ・メサホ古墳もあるし・・
この宮内庁管理の古墳は何故か、相当な学者・教授にて発掘されてるし
この邪馬台国から南の国(島)を下れば、顔に刺青をする習慣の島も出るし
間違いないだろ?
500日本@名無史さん:2008/08/01(金) 15:30:24
鎌足は百済王だ。
だと言った関という電波詩吟者が居てだな…
501日本@名無史さん:2008/08/01(金) 16:21:55
男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)
西側に位置する西都原古墳群の中心的な古墳。
4世紀末から5世紀初頭頃に築造されたと思われます。
http://www.mppf.or.jp/saito/mound/mound02.htm
つまり、卑弥呼没後一世紀半のこと。
502日本@名無史さん:2008/08/01(金) 22:44:03
>>499
西都は単なる祭祀場でしょう。邪馬台国の人々が古墳を枕に生活していたとは思えません。
都と祭祀場はかなり離れていたのでは? 王族は年に一、二度、民の暮らしぶりを見ながら(王の威厳を示しながら)、墓参りをすれば良いのです。
7万戸というのは、かなりの広さをもっていたということですよ。
503日本@名無史さん:2008/08/01(金) 22:47:22
>>499
自分は宮崎説だが西都の決定は狭すぎると思う。古墳があればいいってか?
自分が一番怪しいと思うのは北部宮崎と大分南部にまたがる西臼杵郡。

あそこの地理が一番邪馬台国の描写にふさわしいし、陸路1月の
描写に匹敵するのも、あの凄まじい山国地帯抜きでは語れんよ。

邪馬台国の「邪馬」は和語の「山」に間違いないだろ。

あと高千穂から阿蘇まで続く山脈地帯は天孫降臨や高天原などの伝説発祥の
地がウジャウジャ。なんであそこばっかり、っていう謎があるだろ。
大体、天皇家の皇祖神が出るような場所柄でもなけりゃ、九州一帯を
治めるほどの女王になれないと思われ。
504日本@名無史さん:2008/08/02(土) 00:32:08

高天原伝承は、奈良の高天彦神社が元祖ですが、何か?

505日本@名無史さん:2008/08/02(土) 01:35:02
高天原=葛城=奈良県御所市高天

天武天皇が隠したかったことは
天照国照彦(火明命)=アマテルの直系の子孫である尾張氏の存在。

出雲の国譲りとは、
出雲国王の大国主命が、娘婿である大和国王の火明命に降伏した出来事。
よって、火明命と大国主の娘の間の子供ある香山命に
倭国皇位は継承されなければいけない。
そして、その後もずっと...その男系子孫に受け継がれていくべきだった。

しかし、この火明命の弟には、ニニギ命がいて、
彼は大和朝廷の日本全国支配のために、九州高千穂に派遣される。
このニニギ命の曾孫が、後に大和本国に呼び戻される神武天皇である。

そして、その神武天皇の子孫は、大和王朝宗家である火明命の子孫を
補佐して政治を行っていたのだが、途中、その地位を奪ってしまった。
このへんが欠史八代の部分であり、魏志倭人伝の倭国大乱の部分である。
506日本@名無史さん:2008/08/02(土) 02:51:57
>>505
だいたいあってるんだけど、
大国主が出雲国王ってのは違う。

島根は古代から日本を支配するような力は無い。
大国主というは、もっと近畿一帯を支配していた王。
その中心が、丹波国一宮の出雲大神宮(祀神・大国主)な。

「出雲」「大国主」の名前は、もともと丹波で使われてた名称で、
丹波から島根に大国主を勧請したのが、島根の出雲大社で、
それ以前の出雲大社は「杵築大社」と呼ばれ、出雲とも大国主とも関係が無かった。

出雲風土記には「オオクニヌシ」は登場しない。
『八雲たつ』と言ったのはヤツカミズオミツノミコトである
出雲の国を造ったのもヤツカミズオミツノミコトである
越の八口を退治したのは、オオナモチノミコトである

507 サガミハラハラ :2008/08/02(土) 08:27:06
奈良県御所市高天の地名は本来、高間とするべきところを高天原の高天をとりいれたものでは。
508日本@名無史さん:2008/08/02(土) 13:59:04
>>507
では高天彦神社はどう説明する?
509日本@名無史さん:2008/08/02(土) 17:07:03
サガミハラハラさん、邪馬台国の所在地と高天原の所在地は別問題ですよ。

卑弥呼と天照大神が別人だってことくらいは、あなたも認めるでしょ?
510日本@名無史さん:2008/08/03(日) 03:00:40
>>504

違いますが。

高天原伝説の発祥は 阿蘇の幣立神宮です。 「高天原 日の宮」といいます。
本州の伊勢神宮と同じく九州の中央構造線上に建てられたとこ。

あとまあ、西臼杵郡の高千穂とはいうが「久士布流多気」っつーたら
久住岳(くじゅうだけ)だろ。九州で一番高い山脈だ。

高天って意味わかるか?高いところにあるんだよ。
九州でいったら阿蘇〜高千穂〜九重高原 あのあたりだな。

奈良みたいなとこが高天原なわけねーだろ。馬鹿?
511日本@名無史さん:2008/08/03(日) 03:34:31
>>508
説明もなにも、あそこの地名は「たかま」じゃん。
全国で「たかま」ってつく地名はたくさんあるんだがw
知ってるか?高いとこにある平地を「高い間」の意味で「たかま」と呼ぶ。
まさに御所市のたかまのことね。ただ高天と無理やり当て字してるよね。
512日本@名無史さん:2008/08/03(日) 03:35:14
高間彦
513日本@名無史さん:2008/08/03(日) 10:58:03
>>510
「老馬識途という中国では有名な故事の一節だが、後半では、この投降は桓公を砂漠で迷路に引き込む
ための孤竹国の偽計で途中まで成功したが、孤竹国から徴発した老馬が孤竹への帰路を記憶しており、
桓公は危機を脱して孤竹国を討伐したという話である。
 皮肉なもので山戎は、この後も一世紀以上存続するが、この討伐によって孤竹国は壊滅的な打撃を受
けて歴史から消える。おそらく燕国に吸収されたのだろう。だが、その一部分は東に逃れて朝鮮国に合流、
あるいは朝鮮国を立てたのかもしれない。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kozoku/kozoku5-kochiku.htm
現代中国語ではクチューであるが、山戎の倫理観の高さは日本人と共通するものがあり、おそらくは、
九州に降臨、コシの国に移住し、後の継体王朝を出すのであろう。
参考 孤竹gu1zhu2
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kozoku/kozoku5-kochiku.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O226R100.HTM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%A4%B7%E3%83%BB%E5%8F%94%E6%96%89
http://www001.upp.so-net.ne.jp/tomiyan/kotenpage12.htm
514日本@名無史さん:2008/08/03(日) 11:31:22
>>510

阿蘇の幣立神宮って、
延喜式では何位なの?


515日本@名無史さん:2008/08/03(日) 12:14:29
日本で三社 三大宗廟といえば

伊勢神宮 石清水八幡宮 賀茂神社(現在の上賀茂神社と下鴨神社)
516日本@名無史さん:2008/08/03(日) 12:22:10
三社託宣といえば賀茂神社の変わりに春日大社がはいる。

伊勢神宮 石清水八幡宮 春日大社
517日本@名無史さん:2008/08/03(日) 14:01:16
それは奈良の高鴨神社の事だろ?
中鴨は丸無視?
518 サガミハラハラ :2008/08/03(日) 14:49:14
>>509高天原の天孫降臨は西暦42年で邪馬台国卑弥呼は238年となり、200年ほどの時代差がありますが、場所が隣接している(高天原は脊振山地で邪馬台国はその南麓の佐賀平野)ので
双方関係した人や事象はあります。
私は高木の神は邪馬台国の王であったのではとかんがえます。勿論天照大神は高天原の王です。
天照の息子のオシホミミは高木の神の娘を嫁にしていますから、天皇の先祖は高天原と邪馬台国の血をひいていることになります。
しかしそれは卑弥呼の邪馬台国の200年も前のことです。

邪馬台国は佐賀県の小城甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡です。
519日本@名無史さん:2008/08/03(日) 14:59:49
公園内に卑弥呼の墓?w
520日本@名無史さん:2008/08/03(日) 15:40:36
>>511
あの奈良県御所市高天は王族葛城氏発祥の地。
金剛山の峯に広大な草原の高天原が広がり、
狩猟民族のヤジリが多数発見されている。
高天彦神社はその護神である。
雄略天皇はこの近くで一言主(事代主?)と問答をしたという神話もある
521日本@名無史さん:2008/08/03(日) 16:39:30
>>518
サガミハラハラさん、
あなたは、九州の邪馬台国と畿内の大和王権は並立して存在したと認めたはず。
そして、九州の邪馬台国は衰退し、畿内の大和王権に飲み込まれたとも認めた。

それなのに、畿内の大和王権が祖神とするタカミムスビや天照大神や高天原を九州起源とするのは、
矛盾してますよ?

もうすこし、冷静に自説を構築してください。
522日本@名無史さん:2008/08/03(日) 16:54:33
                              
シラキの第7代王(イセ・キミ)の時代に、ケリン(辰韓)との戦争が始まったようだ。
                             
■古代カラにおけるシラキ王統と、その敵=ケリンの王統

―−−【シラキ王統】――【ケリン王統(金氏)】
 初代−稲飯命
 2代− 鋤命
 3代−受利命(日本に帰国)

以後は、
シラキ日本府の長官。
       
 4代−ダケ公(ヤマト朝廷が派遣)
 5代−ハサ公
 6代−キマ公
 7代−イセ公      初代王−金・閼智王(キム・アルジ)[ケリン国=辰韓を建国]
 8代−アタラ公     2代王−金・勢漢王(セハン王)
 9代−バキュウ公    3代王−金・阿道王(アド王)
10代−ナケ公      4代王−金・首留王
11代−ジョフン公    5代王−金・郁甫王
12代−テンケ公     6代王−金・仇道王
13代−ジュレ公     7代王−金・味鄒王(ミチュ王)
14代−キリ公      8代王−金・末仇王
15代−キケ公      9代王−金・奈勿王(ネムル王)[国号をケリンからシラに変える]
            10代王−金・実聖王(シルソン王)
            11代王−金・訥祗王(ヌルジ王)[金奈勿の息子]
           <以後、新羅滅亡(935年)まで金氏の王統が続く・・・>
523日本@名無史さん:2008/08/03(日) 17:29:22
>>520
いや、それぐらい知ってるけどさ。だから何?
所詮、奈良の地主神じゃん。お膝元なんだから、それくらい
持ち上げられて当然だろ。
524日本@名無史さん:2008/08/03(日) 17:54:20
>>523
何言ってんの、生理?
525日本@名無史さん:2008/08/03(日) 18:01:08
生理っつのは、高間彦神社w
526日本@名無史さん:2008/08/03(日) 18:09:56
石清水八幡宮が伊勢神宮に次いで第二の宗廟なんだよ、八幡大神としてな。
八幡宮の総本社の宇佐神宮じゃなくね。

つまり、お膝元にて誰を祭っているかで由緒は関係ないわけ。
そんなの当たり前なのにいちいち説明しないとわからない
>>520みたいな馬鹿が居て大変。
527 サガミハラハラ :2008/08/03(日) 18:24:05
いやいやそれはこういうことです。
天孫であるニニギノ命は脊振山地北麓の支配者となり、一時はかなりの勢力まで発展したのですが、
やがて、かつての同輩である邪馬台国と衝突し、本家は滅ぼされてしまいます。
残って分家は仲間を連れて東の奈良県へと移住します。やがて近畿を中心に勢力を拡大し、3世紀末には九州をも
支配することになったのです。高天原を滅ぼした邪馬台国は紆余曲折を重ねたのち衰退し、その衰退の極に達したとき、
タイミングよく大和の勢力が九州までのびてきたわけです。
もしその時期が邪馬台国の最盛期であったなら、邪馬台国と大和は西日本で大衝突をしたことでしょう。
幸い平和裏に大和の支配下にはいったことから、記紀にこれといった記述がないわけです。
528日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:56:13
>>527
>いやいやそれはこういうことです。

おまえの辻褄合わせはどうでもいいんだよ。
ようするに、「高天原も九州にあってほしい」という結論ありきの考えだろ?

いったい、どこに>>527を証明する考古学上・文献上の証拠があるんだ?

科学的な実証と、思い込みによる願望とは、区別して考えなさい。

弥生時代末の時点で、九州と畿内が「同じ神話を共有していた」としたなら、
文化的に互いに無関係のクニとは言えない。
しかし、弥生時代末の近畿は、九州と違って銅鐸を祭祀していた。
明らかに、信仰する対象は九州と近畿で違うんだよ。

もし、銅鐸祭祀を終わらせたのが、九州からきた勢力だと考えてるなら、
弥生時代末の時点で、九州から近畿〜東海にかけて同じ「高天原神話」を共有していたことになる。
ならば、文化的に別々のクニとは言えない。
九州から近畿〜東海にかけて「同じ神を祖神とする一つのクニ」ということになる。

つまり西日本全体がひとつの「邪馬台国」になるわけだ。




529日本@名無史さん:2008/08/04(月) 11:07:03
530日本@名無史さん:2008/08/04(月) 12:29:45
もう擬似現実、妄想の世界だなこれはw
531サガミハラハラ :2008/08/04(月) 12:41:14
私の高天原論はあってほしいという思い込みの願望によるものではありません。
文献上と地勢学上の科学的考察から確信しているものです。
考古学的に否定したいのなら、ほってみたが何も出ないと否定してほしいものです。
発掘もせずに考古学上といわれても論議できないでしょう。
畿内を同一文化といいますが、九州と同一なのは畿内のほんの一部であります。
わたしは邪馬台国(九州)東遷説はとりません。九州の一部が東征して近畿の一部に入植したとの東征説です。
東遷であるならば、近畿はただちに九州と同一文化となるでしょうが、小集団が東征し初期は近畿のほんの一部を支配しただけですので、
ほかの部分は従来の銅鐸祭祀の文化圏なのです。
ですから九州と近畿のほんの一部が共有していた文化であり、しかしながら両者は通行していなかったので同じ国ではないのです。
532日本@名無史さん:2008/08/04(月) 13:53:15
>>531

高天原は、九州発祥というあなたなりの根拠があるようだけど、
稲作文化発祥地・渡来人の故地と考えれば、朝鮮半島にも中国にも高天原発祥の地を求めることができるわけだが、
なぜ、朝鮮半島や中国ではなく、九州と考えるのか?

また、奈良には高天彦神社が存在するが、
高天彦神社は、九州から移設されたものと考えるのか?

高天原にいたはずの「ウズメ」や「手力雄」を祀る神社が九州のどこにあるのか?
「ウズメ」や「手力雄」を信仰する集団がいなければ、高天原神話は存在しえない。
現在、ウズメを祀る神社は、猿田彦命を祀る三重県など近畿を中心として存在する。
手力雄神社は岐阜県にある。
イザナミの墓の伝承地は、山陰と三重県にある。

九州から「小集団が東征した」というには、
高天原にまつわる神の信仰が近畿に広がりすぎてると思うがね?
どうやって、整合性を保つつもりかね?

高天原神話が九州発祥というなら、その痕跡が九州にどれほどあるのか、聞かせてもらおうか?



533日本@名無史さん:2008/08/04(月) 14:08:08
高天原神話発祥地がどこかにあるならば、最低でも、
イザナギ・イザナミ・天照大神・スサノヲ・ウズメ・手力雄という神がそろって居ないといけない。
上記の神を信仰していた集団がいなければ、神話は生まれないのだから。

九州にそういう土地があるなら、そこが発祥地と言えるかもしれないが、
残念ながら九州の中では聞いたことは無い。

しかし、九州を除く西日本というエリアに拡大すれば、
高天原に登場する神を祀る神社のあるエリアと重なるんだよ。
同時に、銅鐸を信仰してたエリアとも重なる。
つまり、銅鐸信仰と高天原信仰は、同一と考えてよい。
日向への天孫降臨は、近畿から日向へのニニギの西征というべきものとすれば矛盾は無い。

さて、どう反論するつもりかな?>サガミハラハラ

534日本@名無史さん:2008/08/04(月) 14:49:14
東征は?
535日本@名無史さん:2008/08/04(月) 16:08:25
>>531 サガミハラハラ
>考古学的に否定したいのなら、ほってみたが何も出ないと否定してほしいものです。

おいおい、無茶を言うなw

立証すべきは説を唱えた方で、仮説を立証する為に発掘して考古学的裏付けを提出すべきだろう。

「否定したかったら掘って何も出ないことを確認して来い」
じゃあ言ったモン勝ちじゃねえかwww
536日本@名無史さん:2008/08/04(月) 16:22:56
>>526
そんな事を言ってるのはお前だけ
恥ずかしい 勉強をやり直せ
暑くなると 時々出て来るんだよなぁ
まぁ信じているからしょーがないけど
説明しても分からないんだろうな
537日本@名無史さん:2008/08/04(月) 16:28:42
そもそもおめーら正気か?と・・・

「高天原」なんざあ、あくまで観念上の存在。

スサノオは高天原から出雲に降り立ち
天孫降臨でニニギは日向に降り立った。
(ニニギらを先導したサルタヒコは伊勢に降りた)

出雲の近く?日向の近く?
・・・んなもんネタにマジレス状態、意味無しw

高天原の伝承があったとて後世の後付け。

考古学的証明?
遺跡が出てきたとして、一体何をもって高天原の証拠とする?

神武東征の痕跡が考古学的に辿れて、それがその高天原にも見られると言うのなら証拠ともなろうが・・・

まあ一回アタマ冷やせとwww

538日本@名無史さん:2008/08/04(月) 16:33:15
もちろん、「高天原」が神々の故郷という概念は、
天武天皇以後の概念だって事は常識。

しかし、その常識を(勉強不足ゆえに)理解できないやつが、
九州だなんだと言ってるだけ。

百歩譲って、弥生時代から「高天原」という概念があったとしても、
九州ではありえないということだ。
イザナギ・イザナミ・天照大神・スサノヲ・ウズメ・手力雄をセットで祀ってる地域なんて、
九州には無いんだからな。
539日本@名無史さん ::2008/08/04(月) 17:32:24
「高天原」は九州以外は考えられないけどなーー
540日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:02:43
ああだこうだと妄想言ってるくらいならさっさと箸墓でも発掘できるように
みんなに宮内庁に嘆願でもしろよ。もう意味がないんだよこういう不毛な議論は。
新しい発見でもでてこんかぎり延々不毛なループになるだけ。
馬鹿だよそんなこと毎日してるやつらは。
541日本@名無史さん:2008/08/04(月) 23:47:38
>>540
何言ってんの、生理?
542日本@名無史さん:2008/08/05(火) 02:07:54
もうひとつ、高天原が、決定的に九州じゃない理由をおしえてあげるよ。

高天原と書いて「タカアマハル」って読んだことある?ないね?

九州では、原は「ハル」と読む。
高天原が九州なら、祝詞でもなんでも「タカアマハル」「タカマガハル」と呼び伝えられるはず。
「ハル」と読まれないなら、高天原は九州発祥では無いということ。

高天原が九州なんて説は、どこからでも簡単に崩れる。


543日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:03:28
基地害が必死 
544日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:06:43
記紀を読んだことがあるなら高天原の場所を、この日本の大地で
探そうとしている時点で理解してない。

ここでなぜか必死で九州じゃないことを書いているやつがいるが
ただの強迫観念だろう。奈良でも三重でもありえない。
545日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:20:52
>>542
すごく頭悪いw 24時間生理なんだろw
高天原は明らかに意味上の当て字。音読みでなく。わかる?w
そして書物を編纂し伝えたのは朝廷。わかる? まだわかってないだろ。

奈良にいる学者達が自分らで意味で当てた漢字のものを
九州言葉で読ませて全国に伝えるわけがない。

そして高天だとか、高天原などの地名が付いているのも意味が全くない。
かえってそこが一番偽者。

大和とかいてヤマトとは読まないの。本当は。当て字なの。
わかる?w わかるひとにはわかるが>>542には理解不能w



546日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:30:35
>>542
外国の日系三世とか四世だったら、日本語の発音変だろう。
九州から畿内に移って数世代たったら「ハル」が「ハラ」に変化してても何の不思議もない。
とはいえ、高天原は神話だろう。九州だとか違うとか、そんなの意味無いと個人的には思うよ。
日本人の起源は複数だろう。だったら、神の故郷も複数だ。
複数人のエピソードが大岡越前に集約されて名奉行になったように、
高天原もそうやって成立したんだと思うよ。
547日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:35:05
>>544
「高天原は九州」とか言ってるやつをあぶりだしてるだけさ。

根底にあるのは、トンデモ東遷説の安本美典と同じ発想なんだよ。
皇国史観への漠然とした反発。

サガミハラハラは、東遷説じゃないとか言いながら、安本美典と同じ轍を踏んでる。
「九州から神話が伝播した」と考える根っこは同じなんだよ。
同時に「畿内から九州に神話が伝播した」という発想はゼロ。

サガミハラハラだって、畿内の大和王権が九州を征服したと認めているのに、
なぜ、「畿内から九州に神話が伝播した」という可能性をゼロと考えるのか?
根拠を聞きたいものだ。
548日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:38:44
>>545
>そして書物を編纂し伝えたのは朝廷。わかる? まだわかってないだろ。

おまえが、東遷説なのは理解した。

それで、東遷があったのは、いつ? 考古学的根拠は?


549日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:41:32
高天原という場所は、どこにあろうが「高天原」などという地名ではなく、
その漢字の訓読みの「たかあまはら」などのような発音をする場所でもない。

神々が居た場所だから「高天原」とつけただけ。そして>>542に補足すると

九州というところは、音読みで漢字を意味なく綴った地名が多く
(例:宇佐 耶馬 阿蘇 玖珠 安心院) 

あるいは意味漢字に、無理やり元の音読みを当てる地名が多い。まるで
大和をヤマトと読ませたようにな。 有名どころでは
篤姫で有名な指宿(いぶすき)とかあるだろ。鉄輪(かんなわ)とかなw 
550日本@名無史さん:2008/08/05(火) 03:43:24
>>548
君、狂ってるね。
東遷説じゃないし、そんなのどうでもいい。

何なの?その東遷説とやらに対する恐怖感は。だから頭がおかしいの?
551日本@名無史さん:2008/08/05(火) 04:33:42
>>550

高天原神話発祥地がどこかにあるならば、最低でも、
イザナギ・イザナミ・天照大神・スサノヲ・ウズメ・手力雄という神がそろって居ないといけない。
上記の神を信仰していた集団がいなければ、神話は生まれないのだから。

九州にそういう土地があるなら、そこが発祥地と言えるかもしれないが、
残念ながら九州の中では聞いたことは無い。

まさか「高天原」という名詞だけ九州で生まれたなんて言うまいな?
552日本@名無史さん:2008/08/05(火) 04:37:20
馬鹿丸出し。
553日本@名無史さん:2008/08/05(火) 04:41:07
>>542 とか >>547 を書いてる哀れな奴はさあ、九州高天原説やら
東遷説ってのにもの凄い脅迫観念があるんだよね。それが自分で気づいてないから哀れw

>>547「九州から神話が伝播したと考える」奴なんて居ないよw 君以外はw
記紀は日本中から各地の伝承を集めて編纂したものなんだよ。
九州から持ってきた伝承もそりゃあるでしょ。読めばわかるよ、九州満載じゃん。
朝廷出版ですからw 神話広めたのはそりゃ朝廷ですよ。
554日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:01:07
>>553
>>547「九州から神話が伝播したと考える」奴なんて居ないよw 君以外はw

サガミハラハラがいるよ?
彼は、高天原=九州説ですから。
555日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:06:41
ホント、邪馬台国に関係ないよなw

高天原は実在する場所として記紀に書かれておらず、どこから伝承を引っ張ってきたのか
勝手に創造したのか知らんが。オリジナルは高天原という名前ではないことが
確か。

そこに、高天彦神社をもってくるなら由緒より、葛城族や鴨族のことを
もっと掘り下げるべき。大体、地元ですよ。 
556日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:12:16
まあ >>527のサガミハラの説は酷いなw

で、
>>531
>文献上と地勢学上の科学的考察から確信しているものです。

・・・要するに
「記紀神話を元ネタに地図とにらめっこして話作りました」
って話なだけだろ?w

で、逆切れで
「否定するなら掘り返して見て何も出ないことを確かめて来い」
ときたもんだwww
557日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:17:40
大体、記紀は聖書や仏典のパチリがあるので日本国内より世界各国の
伝承を集めたと言っていいでしょう。そして偽コピーする。
例えば三足烏は中国や高句麗、ギリシャ神話に出てくる。

そして、鴨(族)が祖先はカラスなどという。マジw
(鴨関連神社は名神大社%
558日本@名無史さん:2008/08/05(火) 05:35:58
>>555
うん、賀茂氏や葛城氏については掘り下げたいね。

しかし、そこに東遷説がでしゃばってくると、すべてブチ壊しになるんだよ。
ほんとにタチが悪い。
やつらは、なんでもかんでも九州発祥にしたがるからな。
559月光仮面:2008/08/05(火) 08:05:37
東アジアなどの鳥トーテムの起源は天神、死後の天上界への再生といった考え、又、龍、蛇等は
地母神への回帰が基本にあり、地母神は農業牧畜と言うのではなく、地下資源、青銅器、土木等と
時代的に関連しているようだ。例えば、古墳の場合、埋葬部を墳頂におくのと、甕棺、横穴のように
土中に深く置くのとの違いが背後にある死生観の差を表し、トーテムと同じ機能を果たしている。
こうした意味で神武神話は古墳時代初期のものであり、王権が定着すると共に大地への回帰と再生
の横穴式となり、ソフト的にも仏教のようなものを求めるようになってくる。時代的には隋、唐時代に
仏教、景教、ケン教等さまざまなものが取り込まれたようである。記紀はこうした「文明開化」を背景に
編集されたものなので、神の子を産むという意味が神社によっては不倫の子を生むといった誤解
を生んでいるのであろう。
560日本@名無史さん:2008/08/05(火) 14:42:59
>>558
君が頭悪いのは、九州説も東遷説も、そしてその他多くの説も
説や解釈や展開によっては
可能性や議論の余地がたくさんあるのに

一つか2つの特定の説と場所に固執して、狂ってるとしか思えない
ような執拗さと恐怖観念によるレスの応酬に陥ってる。

トンデモと本当に思うならほっときゃいいのにw 君以外は放ってるみたいだよ。
自分は東遷もサガミも、アホらしくて何のレスもしていない。
君はすごく真に受けているようだね。
561日本@名無史さん:2008/08/05(火) 15:20:51
高天彦神社は葛城氏、つまり武内宿禰を始祖だとする一族で蘇我氏の一族でも
ある。
最盛期には平安時代の藤原氏みたいなもんだよ。怖いものなし。世は思うまま。
武内宿禰といえば、神功皇后だが、応神天皇がこいつらの子だという
噂がいつも伝承とともにつきまとっているね。

蘇我氏は仏教伝来に一番力をいれたよな。そして仏教伝来の300年前に生きた
応神天皇がいきなり八幡神として出てくる。それを始めた欽明天皇も蘇我一族。

もっと書けるが飛ばす。高天彦神社の由緒読んだか?
葛城王朝とか言ってるねw 素晴しい。そうすると高木の神ですよ。
金剛山と葛城家の神。
高木の神は九州からやってきた神様です。東とか遷とか使いませんけどね
安っぽい言い方だよね。東とか遷とか征とか使うの。
562日本@名無史さん:2008/08/05(火) 15:22:10
長文が嫌なんでではしょりすぎたけどな・・
563日本@名無史さん:2008/08/05(火) 15:35:13
葛城氏も蘇我氏も衰退とか滅亡とかしましたな。
ところで高皇産霊尊ですが大分県に多く祀られていることで知られている。
神功皇后と応神天皇を祭った八幡の宇佐神宮といい実に謎の多いとこですね。
564日本@名無史さん:2008/08/05(火) 16:18:06
まぁしょうがないなぁ〜
周りが見えなくなっちゃてるんだろう
『邪馬台国は無かった』派支持!ガンバレ!!
565日本@名無史さん:2008/08/05(火) 16:36:23
邪馬台国宇佐説が、ファビョってるな。

だいたい、宇佐は秦王国と呼ばれた渡来人の土地なんだから、
宇佐を邪馬台国だということは、邪馬台国が渡来人によって出来た国と言うようなもの。
566日本@名無史さん:2008/08/05(火) 16:41:05
もっとも、宇佐に多く住み着いた渡来人が、
そこで倭人を率いて邪馬台国を作ったとしても、おかしな話ではないけどな。

ついでに、八幡=やばた=邪馬台国とつなげてみたらどうだい?
567日本@名無史さん:2008/08/05(火) 17:14:56
しかし、応神東征説がインチキなのは、
神功皇后が近江を地盤とする息長氏の出自なことを無視してるところだな。
武内宿禰も、地盤は葛城を中心としてるから、
どう逆立ちして考えても、応神が九州から東征したなんて話にはならない。
近江が大和の権力を剥奪したというならありえるがな。




568サガミハラハラ :2008/08/05(火) 17:56:59
高天原が半島や中国ではいけないのかについてであるが、それは高天原という地名と地勢にある。
高い天(これも高いところにある)にある原であるから、高地で広い平地のところであるということは十分想像できる。
その点、高いといっても北アルプスは候補地とはなりえない。
ただこの高天原という名称は畿内でつくられた可能性はある。九州での正式名称ではないかもしれないということである。
わたしは魏志倭人伝のその余の旁国の巳百支国であるとかんがえる。

「ウズメ」と「手力雄」の信仰集団がないと、何故高天原神話が存在しえないのか、その理由がわかりません。
569日本@名無史さん:2008/08/05(火) 19:25:13
>>568

>高天原が半島や中国ではいけないのかについてであるが、それは高天原という地名と地勢にある。
高い天(これも高いところにある)にある原であるから、高地で広い平地のところであるということは十分想像できる。


君はなかなか面白い事を言うお人だ。強烈なデンパおじさんだね?
漢字を音借していた時代に、高天原を漢語で解釈してしまう大胆さに呆れたよ。
570サガミハラハラ :2008/08/05(火) 20:58:56
高天原の表記は、訓読みができた時代以後ですよ。
571サガミハラハラ :2008/08/05(火) 21:35:02
>>533のしかし九州を除く云々については論理の飛躍がありますね。

考古学的な裏付けについてであるが、物事の事実の立証にはかならずしも考古学的証拠が伴うものではありません。
たとえば、私の故郷の生地は、家は取り壊されまったくの更地になっています。それでは私がその地にすんでいたという証拠は発掘により考古学的証拠によって証明されるでしょうか。
どんなに丹念に発掘してもわたしがそこに居住していたという証拠はでてこないでしょう。
わたしがそこに居住していた証拠は市役所の登記簿や戸籍票や学校の名簿等によるしかないでしょう。
考古学は万能ではないのです。

>>542確かに近年において、九州では原をハルとかバルと発音しますが、これは太古でのそうだったのでしょうか。太鼓はハラで、後年バルに変化したという可能性もあります。
畿内から九州に神話が伝播したのかについては、北部九州福岡市西区山門)に居た神武は、東の奈良に少人数で
移住しました。
そのとき、彼自身の先祖に関する事象を記憶として持っていきました。それがのちに晋倭となった8または神話の部分もある)
天皇家の勢力が拡大するにつれ、その伝承の神々が西日本のあちこちにまつえあれるようになりました。(権力者におもねる意味でまつったり、権力者の親族親戚が地方に
派遣されたとき神をもってい神社をたてた。)

大和が九州を制圧した際、または記紀の編纂の際、天皇家の先祖がどこにいたのか、どうなったのかについては、伝承としてほとんど残っていなかったであろう。
その数少ない伝承のなかから、神話に登場する舞台を設定していったわけである。
そのとき天孫降臨の場としてえらばれたのが南九州なのです。そしてそれに沿って仁じゃや伝承があてはめられていったわけです。

>>556地図とにらめっこして、とありますが、わたしが脊振山地が高天原ではときづいたのは、
地図ではなく、拙著にも書いたように、佐賀県立博物館の佐賀県立体模型からです。脊振山地の模型と原田大六氏の糸島天孫降臨の地の説からです。

邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
ただいま邪馬台国小城甘木説宣伝強化月間中です。
572日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:41:38
>>565
>邪馬台国宇佐説

はっきり言っておくが違う。大体、高天原の話も高天彦神社の話も
邪馬台国には全く関係ないんだが。

宇佐は明らかに皇祖神を祭っており、自分は邪馬台国や卑弥呼は全く古代朝廷との
繋がりがないと見ているほうなんでね。

大体、九州の壱岐・対馬出身ではないか(つまり渡来系かも)ともいわれ
大分とも繋がりの深い高皇産霊尊を神と崇める金剛・葛城の高天彦神社の話を
持ち出してきたのは自分ではないし。

それにしても、どんな話題にしても東遷説とか宇佐説とか邪馬台国にしか
結びつける強迫観念しかないくせに、邪馬台国とは関係のない高天原の話を
もってきて執拗にレスし始めたのは誰だよw
573日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:56:20
>>565
あんた大丈夫か?渡来人といえば、まず蘇我氏だろ。
そしてここで話題になっている高天彦神社も葛城一族。蘇我氏繋がりだよ。
そして応神天皇と宇佐。バッチリ繋がってるぞ。

そして秦王国といえばまず吉備なんだが?
宇佐は辛島氏と、新羅から来たアカルヒメがメインwだろ。
宇佐神宮に比売神社だし。秦氏ももちろん深く関連するよ。
秦氏が賀茂氏とも非常に繋がりが深いのは知ってんのか?

しかしこの話題は広がりがすぎるので邪馬台国の話から逸脱しすぎると
思う。そしてはっきりいって、この話題、邪馬台国と関係ないと思う。

関係ないからこそ、関係させようとさせている輩どもはどんどん
トンデモ話になってきているんだよ。
574日本@名無史さん:2008/08/06(水) 00:36:27
高天彦神社は皇別葛城氏(葛城臣)じゃなくて神別葛城氏(葛城直=葛城国造)だろ
575日本@名無史さん:2008/08/06(水) 00:55:16
>>573

関係ない話をしてるのはおまえだろうが。

宇佐を持ち出したのは何故だ?
576日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:06:07
>>561

>高木の神は九州からやってきた神様です。

前の話では、葛城氏や賀茂氏の話をしてたのに、
いきなり高木神が九州から来たなどと飛躍した話をしはじめたのはおまえだろう。

1、葛城には事代主という立派な神がいるが、高木神との関係は?
2、高木神が九州出自という根拠と、高木神が九州で祀られた年代はいつ?
3、事代主が葛城で祀られた年代はいつ?

おまえは、何一つ論考してないだろ?

さらには、賀茂氏が秦氏と関係してたとも言うが、
関係をもった年代はいつなんだよ?
年代を語らずに、アレとコレが関係してたなんて話は無意味だよ。

577日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:13:20
>>575
関係ない話を持ち出した奴に付き合うと関係ない
方向にいってしまうだけ。宇佐の話をまだしたいの??執拗だな。驚き。
俺はこの辺でやめようと思ってたのにな。

>>573
その2つの葛城氏は後で繋がるよ。そして延喜式がつくられた
のは繋がったとっくに後だよw 
578日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:23:07
>>576
高天彦神社の話をしてるんだよ。
だれかが話し始めた割にわかってないから。

葛城氏 賀茂氏 秦氏 蘇我氏 高木の神(高皇産霊神)

この繋がりを全く知らないとは勉強不足すぎて呆れるw
この邪馬台国スレを説明で埋めるよりは専門スレつくるか?

君のすべての質問は記紀読むか高皇産霊神を祀ってる大分県や筑紫の
神社の由緒でも片っ端から読めよ。

579日本@名無史さん:2008/08/06(水) 01:55:25
>>578

専門スレつくるほどじゃない。

葛城には「事代主」という神がいるが、おまえは、一切触れてない。

この件だけで、おまえの勉強不足が露呈されている。
「事代主」の論評を抜きにして、賀茂氏は語れない。
高木神が神武が祀った神だとしても、神武東征が真実かどうかもわからない。

どうやら、神武東征は真実だと思ってるようだが、
結局、高天原が九州にあった=高木神は高天原の神=だから、高木神は九州の神=だから、東征も真実。
という思い込みが基礎にあるわけだろ?
580日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:03:17
>>579
大丈夫か? 神武東征?? 高天原九州??? 誰も言ってない。
お前はさあ、 妄想やめろよ、まず。 仮想敵つくって興奮してんの?

まず人のレス読むことから始めような。全く読まず妄想で話進めてるからwwww


581日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:20:57
>>579 「事代主」の論評入りの賀茂氏を語れよ。高天彦厨は
一度もまともな文章も書いてないからぜひ聞きたいね。だって秦氏繋がり知らなかったんでしょw

興奮して神武東征とか脈絡なく別の話題出して詭弁に走る癖は直さないと基地害か
詭弁屋にしか見えないぞ。
582日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:49:42
日本書紀には事代主の孫は鴨王ってかいてるけど?

秦氏が葛城にからんでくるのはずっと後だろ。
583日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:56:48
あと、なんだろうねえ、賀茂氏と秦氏が関係あるっていっても、
渡来人が葛城に多く入植していたという意味以上の関係があるのかどうか微妙だねえ。

秦氏と賀茂氏が同祖というわけでもないしな。
上のほうで「アカルヒメ」と言ってることから、また珍妙な思い込みをしてるのかもな。
584日本@名無史さん:2008/08/06(水) 13:11:12
地元民だけど
高天にいた狩猟民族葛城氏が
山を下り、鴨氏を取り込んで勢力拡大の基礎になった
と、何故かお坊さんに聞いたことがありますw
585日本@名無史さん:2008/08/06(水) 14:38:45
>>582
秦氏が葛城にからんでくるのはって何?賀茂氏のほうだが。
この高天彦厨の「事代主」論評入りの賀茂氏を語るってこの一行か?ww

しかもその後の権力構成からいって秦一族がただ「住んでた」ぐらいで
済むわけないだろ。昔からある伝承にすぎないが、背景として十分考慮すべきだろ。

>>583
珍妙とは?? 
秦氏といえばまず吉備、宇佐といえば秦氏というより辛島氏(秦一族ではある)
そんなわかりきったことさえ知らない人がいたから説明しただけだが。

アカルヒメ(天之日矛の妻)は、記紀の神話記にも出てくるが
辛島氏が持ち込んだ比売信仰と関係しているという説もあるので宇佐の
メインである比売神社と関連して書いただけだが。
586日本@名無史さん:2008/08/06(水) 14:50:55
>>584
あ、それ。
それが高天彦神社で高皇産霊尊を奉斎している理由だろ。
葛城一族の祖神だとしているんだよな。
そして山を降りてきてから鴨族と手を組んだと。。
587日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:01:50
>>584

その葛城氏が、神武のモデルだろうね。
高天(高天原)にいた狩猟民族が、ちょっと東に勢力を伸ばして橿原に居ついたのがイワレヒコなんだろう。
スケールはだいぶ小さいが、「東征」と言えなくもないな。
588日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:17:36
御所市北部の鴨族と、金剛山麓で狩猟民族だった葛城氏が組んで
クニを形成。

これが記紀の神武東征? すごいトンデモ説がwwwwwwwwwww
589日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:18:53
>>584
こんなトンデモ基地害が高天彦神社や葛城氏を語るとは。
マジで冒涜。罰が当たるぞ。
590日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:23:44
そういや、高皇産霊尊が対馬の神とかいう人はどうした?

高皇産霊尊が朝鮮から来たと言いたいならはっきり言えばいいのに。
591日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:36:37
大和国の国造が葛城国造。
高皇産霊尊を始祖と奉る。

葛城氏の後裔は5世紀に隆盛と衰退、滅亡。

記紀が編纂された時期を考えても
明らかに神武のモデルには成り得ない。
592日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:39:43
可哀想にな。
葛城氏も高皇産霊尊もこんなアフォなトンデモ基地害に
勝手な妄想に使われて汚されてさあ
しかも今度は朝鮮だと。

記紀嫁。
593日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:43:19
ちょっと待て。
壱岐・対馬がいつ朝鮮なんだ?
高天彦罰当たり厨は朝鮮の脳みそなんだ。だから頭おかしいんだね。

日本が朝鮮を支配したことがあっても、朝鮮が日本の領土を支配し
朝鮮と呼ばれたことはない。バッカじゃねーの?
>>590お前は日本から出てけよw 
594日本@名無史さん:2008/08/06(水) 15:58:54
>>593

>>572に言えよ。
高皇産霊尊を渡来系だと言ってるぞwwww
595日本@名無史さん:2008/08/06(水) 16:24:14
ここで高天原だといっている金剛山というのは
朝鮮の山の名前なんだけどねえ。
ま、それはおいといて。

>>594
そういう伝承も各地にあるのは事実なわけで。
だからといって誰も断言も比定もしてないが。

論破されたら朝鮮認定行為。さすが壱岐と対馬が朝鮮なんていう
頭だな。

しかも記紀に神として出てくるような渡来系の氏はれっきとした
日本の古代豪族のうちだろうww。
596日本@名無史さん:2008/08/06(水) 16:32:25
なんかあなたの話に洗脳されそう!支持!!
597日本@名無史さん:2008/08/06(水) 16:59:32
高皇産霊尊は、朝鮮の神なんだ〜。そうか〜。
598日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:14:47
高皇産霊尊を祖神とする葛城氏が山に
朝鮮の名前をつけて高天原と断定してるからね。

渡来系だと推測されても文句は言えないだろうよ。
599日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:16:25
結局>>595は、朝鮮が高天原だと言ってるわけだろ?

くだらん。
600日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:21:35
でも、日本の神々が朝鮮半島由来だと聞くと、妙に納得するよね。

実際に、韓国人も自分の土地が高天原だと思ってるわけだし。
601日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:23:24
高天彦神社は「高天」を「タカマ」と読ませ、高天原をタカマハラと
読ませる。これは、もともと高原や高い場所を意味する「高間」であって
「高天」は後付けでは。

古事記に「訓高下天云阿麻下效此」とあり、天はアマと読むように
指定がある。

記紀で出てくる「高天原」とは別物だという証拠ですな。
602日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:25:12
>>599
高天彦神社 
603日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:28:43
高天彦神社のある場所は渡来系かもしれませんが、

記紀の高天原とは関係ありません、ってことじゃないの?
604日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:33:49
高天原の「天」を「アマ」と読まない時点で偽モノ(失礼w)
おらが神の高天原だいっ!!って奴かな、これは?
605日本@名無史さん:2008/08/06(水) 17:39:33
古代日本語は、二重母音はひとつになります。
したがって、「タカアマハラ」は、「タカマハラ」と呼ぶのが、本来の古代からの言い回しなのです。

もっと勉強しましょう。

>>601は、「訓」を指定してるだけ。
606日本@名無史さん:2008/08/06(水) 18:19:43
葛城氏を渡来系と定めて、高天彦神社を渡来系にしたい人がいるみたいだね。
607日本@名無史さん:2008/08/06(水) 19:07:52
何かを渡来系ってことにすると、古代の秘密を大発見したような気持ちになるものさ。
608日本@名無史さん:2008/08/06(水) 20:26:10
>>588
再び地元民です。
鴨は御所北部ではなくて南部ですよ。

因みに下鴨(鴨都波神社)は御所市の中心部で警察署の前です。
あと、中鴨(御歳神社)は高鴨と下鴨の間に位置してます。
609日本@名無史さん:2008/08/06(水) 20:35:57
なんで朝鮮と同じ名前の金剛山なんて名づけるんだよ・・・
610日本@名無史さん:2008/08/06(水) 20:38:59
それは仏教伝来の後の話だから別だよ
611日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:03:16
延喜式神名帳の式内社で

壱岐・対馬だけで併せた数が53社(壱岐24・対馬29)
そのうち名神大社12

612日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:28:08
後裔の葛城氏は蘇我氏? 
葛城郡ですよん。
蘇我氏は仏教信仰だし
金剛山と名付けたのはやはり渡来系だから?
613日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:32:13
あ、後裔は間違い。
後裔の葛城氏のほうが、タカミムスビを
祖神に祭ってるほうだ。
614日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:37:30
祖神とはいえ、地主神ではないよね。
615日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:44:03
葛城氏の武内宿ネの末裔が蘇我

仏教伝来後に大国主時代のままだった山の名を
中国や朝鮮の山の名に変えたんだそうな
616日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:50:25
葛城氏は天孫族。ニニギの直系というのは事実なのですか?
617日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:53:54
長スネ彦は葛城氏だろうね。
神武が生駒〜金剛山の何処かから攻め込んだときに
侵入を許さなかったのだから
618日本@名無史さん:2008/08/06(水) 21:58:01
>>616
事実など誰にもわかりようがないし、例えばそんな有力豪族に
自称されて逆らえる奴など居ないと思う。

どこかの伝承や由緒を信じて 記紀を読んでればいいんじゃね?
619日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:15:42
記紀に書かれてるのは葛城襲津彦だけでしょ?
これも蘇我の葛城氏のほうだよね。

実在されると有力視されるのは
百済記にも名前があるからだとか・・
620日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:20:45
ちゃんと読めばわかる。
何で分からないんだろう?
621日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:22:01
記紀も延喜式も最古というわりに時代が遅すぎるよ。
そしてそれ以前の書物の写しが何もないのが怪しすぎ。
歴史は勝ったもの勝ち、そしてその勝者の歴史は意外に浅いと見た。




622日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:24:14
>>605
訓を指定してるんだから
その通りに読まないといけないのにタカマのほうは
読まないよな。
623日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:56:44
高天原は タカマガハラって読んでるけどね
624日本@名無史さん:2008/08/07(木) 03:45:13
>>622
国語辞典では「原」を「はら」と訓じてるのに、
九州では「はる」と呼ぶのと同じことです。
625日本@名無史さん:2008/08/07(木) 04:12:32
>>616
>葛城氏は天孫族。ニニギの直系というのは事実なのですか?

そうですよ。
葛木御縣神社は、ニニギを祀ってますから。

高天彦神社が、そもそもの高天原伝承地なので、
天孫降臨神話も葛城氏が作ったものです。

「祖先が遠くの地からきた(遠くの地=九州)」というプロットは渡来人から借りたものでしょう。
が、葛城氏が渡来人というわけではありません。
葛城襲津彦は日本人として書かれてますから。

記紀では、渡来系は渡来系と明記されてます。
渡来人のほうが、尊敬されてた時代ですからね。
626日本@名無史さん ::2008/08/07(木) 16:49:11
>高天彦神社が、そもそもの高天原伝承地なので、
>天孫降臨神話も葛城氏が作ったものです

1つの空想として認識しましょう。
何事も断定はよくない。
627日本@名無史さん:2008/08/07(木) 17:29:08
しかしスレタイと関係無い話が続くね
628日本@名無史さん:2008/08/07(木) 18:32:09

邪馬台国九州説をとるなら、
畿内に大和王権、九州に邪馬台国と、それぞれクニが発展したと考えなくてはならない。

高天原が九州発祥などと考えてしまうと、
宗教的に九州と畿内が一体化してしまうということ。
それはつまり「邪馬台国連合」は九州と畿内を含めた西日本全体の連合国ということになる。

諸君は、そういう風には考えたくないんだろ?

629日本@名無史さん:2008/08/07(木) 18:49:43
1、弥生時代末の九州は銅矛文化、出雲〜近畿は銅鐸文化であり、
九州と近畿の宗教は異なっていた。

2、九州勢力が東征したという証拠は無い。

3、イザナギ・イザナミ・ウズメ・手力雄・天照大神などの日本神話主要の神は、九州では祭られていない。

123から、高天原信仰は、九州を除く、近畿の信仰の集合体の産物と断言できる。
同時に、銅鐸を祭祀していた地域とも重なる。

弥生時代末に、九州と近畿で宗教が異なっていたなら、
宗教的統一が図られた邪馬台国は、朝鮮半島と直接往来のあった九州ということになる。
同時に、近畿には大和王権が生まれており、高天原信仰が形成された。

後に、九州の邪馬台国は衰退し、近畿の大和王権と合併した。
これ以上、シンプルな説明は無い。
630日本@名無史さん:2008/08/07(木) 18:56:38
高天原は近畿発祥としたほうが邪馬台国九州説に有利。
もちろん、畿内説でも問題ない。

高天原が、九州発祥とすると、「東征説」を採用する必要がある。
しかし、そのような珍説は、もはや通用しない。

「高天原は九州発祥ではない」ということが理解できましたか?
631日本@名無史さん:2008/08/07(木) 18:59:13
>>629
>九州勢力が東征したという証拠は無い。
考古学的にみれば、銅鐸は埋められている。銅鐸とその後の文化との連続性も認めがたい。
したがって、銅鐸文化は亡んだと推認できる。
文献学的には、倭王武の上表文に「東は毛人を征すること五十五国」とある。東征の証拠と言えよう。
632日本@名無史さん:2008/08/07(木) 19:04:26

>>631は分裂症なのか?

九州王朝で東征説かよwwwwww
633日本@名無史さん:2008/08/07(木) 19:39:21
後の大和朝廷に伝わる3種の神器の宗教的扱いは
北部九州の遺跡のいくつかで出土しているが、
それに対応するものは近畿の遺跡では出土していない。

3種の神器を祭祀の道具とする大和朝廷は九州からの
流れと考えた方がすっきりする。
634日本@名無史さん:2008/08/07(木) 20:14:13
>>632
九州王朝説ではない、九州に倭国王朝があったと考えるのだ。
635日本@名無史さん:2008/08/07(木) 22:04:12
大和とは吉備。神武東遷は、吉備が九州王朝を滅ぼして、
九州王朝の忘れ形見神武を大和に移し、天皇、つまり、
司祭王として祭ったということです。
倭国大乱の時期、九州王朝は、たびたび吉備を襲ったけ
れど、吉備は高地性集落を作り、狼煙を通信手段とし、敵
の襲来に備えた。そして勝利したのが吉備。
箸墓が造られた弥生末期に高地性集落は消滅している。
636サガミハラハラ :2008/08/07(木) 23:04:10
九州・畿内二極論について。
九州の一部の小集団が畿内に侵入したが(西暦131年に神武橿原にて即位)ただちに畿内を平定したわけではない。
徐徐に勢力を拡大していったのであるから、初期には畿内にほとんど九州の痕跡を残すことはなかった。
大和朝廷が畿内に勢力を確立したのは開化天皇のあたりからであろう。
それまでは、畿内に九州にたいするような国家が存在していたか不明で小国家が林立していたようであるが、文明は九州とことなるようであるから、
それで二極といえるかという問題はあるが。

邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡(本来は桜岡さくらおか)です。
637神奈川県民:2008/08/07(木) 23:26:46
>>627-636 重複誘導
終止符スレ[19]は既に終わってます。
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1211287399/

こちらの現行スレ[22]へ移動して下さい。
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!22
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1216123442/
638日本@名無史さん:2008/08/07(木) 23:49:35
>>630
>高天原は近畿発祥

不可能。ありえないよ。記紀読んだことないんだろ。

高天原としての場所を特定するならで記紀を読んだことあるなら
わかるはずだが日本国内ではないはず。
九州本土や本州の畿内などもってのほか。馬鹿じゃねーの?
639神奈川県民:2008/08/08(金) 00:02:49
>>638

こちらの現行スレ[22]へ移動して下さい。
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!22
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1216123442/

640日本@名無史さん:2008/08/08(金) 01:48:59
三輪の大神神社はさあ、
宇佐で宇佐氏に乗っ取られてどっかいった大神氏のじゃないの?
これって移設?三輪山も亀山を彷彿とさせるよな。

641日本@名無史さん:2008/08/08(金) 01:57:05
>>635
まあ確かに吉備も寄ったよな。

記紀の神武東遷記は本当に事細かでよくもまあ、ってぐらい
よく書いてるな。記紀に出てくる人物・話がでっち上げだと思うか?

実は年号以外はほぼ本当の話でしかも編纂されるホンのちょっと前だったりしてw
って思うんだけどな。50年ぐらい?wwww
642日本@名無史さん:2008/08/08(金) 01:59:09
大和朝廷が成立されたのが3世紀なら
なんで6世紀初頭まで300年も歴史書も
歴代の中国の国や皇帝との交流も空白になってんの?
やっぱりでっち上げか?

643日本@名無史さん:2008/08/08(金) 02:27:10
>>642
良い着眼点ですね。ただ、間違いがあります。6世紀初頭ではなく7世紀末と言うべきでしょう。
644日本@名無史さん:2008/08/08(金) 03:00:05
>>642
逆に訊きたいが、
国内におけるこれまでの文書木簡などの発掘成果なんかから推量して、
3世紀から6世紀までの日本に、
暦年を用い、文字によって実録的に歴史を記録するという文化があったと思います?
別に大和じゃなくても、九州でも吉備でも出雲でも良いんだけど。
それとも、そういう文化は各地にあったけど、のちの大和朝廷によって片っ端から抹消されちゃった?
645日本@名無史さん:2008/08/08(金) 05:31:07
倭王武の上表文や刀の銘文を忘れているのでは? それらは、倭国大王家や豪族が歴史を記録する能力を十分に有していたことを示していると見るべきです。
だいたい、古事記や日本書紀がいきなり書かれるというのはおかしいでしょう。その百年、二百年前にも記録があったにちがいないのです。何らかの意図で消されたということですね。
646日本@名無史さん:2008/08/08(金) 07:23:40
天皇記の事か
647日本@名無史さん:2008/08/08(金) 10:00:17
刀の銘文を持ち出すなら、初代倭王は大彦になるな。
648日本@名無史さん:2008/08/08(金) 16:57:29
649日本@名無史さん:2008/08/08(金) 19:08:39
>>645
『日本書紀』冒頭の神代紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物が多数存在したことを示している。
『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。」とあり、この時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本書紀)」と相反する書物が残っていたが、
ヤマト王権のよって処分されてしまったようだ。
650日本@名無史さん:2008/08/08(金) 21:54:34
儒教の影響を受けていることが分かる。
天皇の徳をもって東夷を教化すべく書かれた書物。
そんなもの信じてどうなるのだ?
651日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:28:54
オリンピックにうつつを抜かして日本史スレは置き去りですか?
652日本@名無史さん:2008/08/09(土) 12:17:49
どちらかと言えば、うつつはオリンピックだろ
653あげ:2008/08/13(水) 18:02:53
ドツボとかプラムとかサガミとかモン太とか太国とかと
交じりたくない人はこのスレを使おう
654日本@名無史さん:2008/08/13(水) 18:24:01
>>653
逆だろう?

ここをドツボとかプラムとかサガミとかモン太とか太国とかの隔離スレにするしかないだろう。
少なくともドツボとかプラムはいつこのスレに戻ってくるか分からん。
655日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:49:17
卑弥呼の時代にも、渡来系の人や文化を巧みに取り入れて成長した部族と、
異文化を受け入れることができず、排除しようとして逆に滅ぼされたり、辺境
の地へ追いやられた部族もたくさんいたと思われます。
いま、日本を支配している部族は、主に、大陸系の稲作文化を取り入れて、
扶養力を高め、子孫を増やした部族です。
このスレにいるのは、多分、ミクシーのような共同体にはなじめない部族
の子孫だろうと思われます。
656日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:49:49
終止符22は死んだようだねw
657日本@名無史さん:2008/09/01(月) 00:04:00
まあ「悪は必ず滅びる」っちゅうことやねw
658日本@名無史さん:2008/09/01(月) 14:51:47
終止符スレ群は、どうせ、ドツボが乱立させたもの。
終止符打てずに乱立しちゃった奴が大マウケといえましょう。
こんなスレには、蝿や蛆虫も夏祭もプラムも寄り付きません。
659日本@名無史さん:2008/09/01(月) 15:03:47
今やプラムはヤフーがメインのようだし。
660日本@名無史さん:2008/09/01(月) 15:52:46
ドン来い 誰か立てないかな
661日本@名無史さん:2008/09/01(月) 15:58:49
卑弥呼が誰って卑弥呼は卑弥呼じゃん
662日本@名無史さん:2008/09/01(月) 23:09:15
やっぱ四国でしょ。水行と陸行は併記で合算ではない

ソース:テレビ
663日本@名無史さん:2008/09/02(火) 06:24:38
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。
664日本@名無史さん:2008/09/02(火) 07:27:48
九州にも畿内にも邪馬台国があり卑弥呼がいた。
邪馬台も卑弥呼も固有名詞じゃなく普通名詞と解けば不思議じゃない。
中国史料はそれを混同してしまった。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/02(火) 07:37:48
裴世清はドジの畿無い説の元祖のようなお人。その断定は失敗。彼の日本へ
来たころは九州にあった女王国の情報はすでに隠没していて、当時の日本人でも
存在が正確に取れていなかったということだ。それは採用するのは失敗だ。
信用してはいけない。ドジといっても裴世清をけなしているわけではない。彼
でも、残念ながら真が取れなかったということ。
666日本@名無史さん:2008/09/02(火) 11:19:48
>>663
>行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であったはずはない。
隋書の伝えるところをみると、使者(裴清)は4月中に倭王に会っているはず。
一方、日本書紀によると、京に到着したのは8月。これを見逃してはいけません。
裴清は倭王に会った帰りに大和にも寄った、日本書紀はそう言おうとしているのでは?
667日本@名無史さん:2008/09/02(火) 13:38:09
まだ言ってるのかwww
九州王朝とかwww

証拠無しの妄想はどこまで続けるの?
ひょっとして今も女王国ってあるのwww?
668日本@名無史さん:2008/09/02(火) 14:22:50
さあ存在してるかもよ。
九州のどこかの神社で親魏倭王の金印を密かにご神体に伝世してる所が。
669日本@名無史さん:2008/09/02(火) 21:18:58
>>668しかし、金印なんて金さえあればいくらでも作れる。
    むしろ模様の多い鏡より作るのは簡単だったと思われます。
    しかも、金印を削って不純物の混入量の検査をするなど、科学的
    に同し金で作られたかどうか調べてもいないのではないのか?
670日本@名無史さん:2008/09/03(水) 06:44:15
今より昔の方が金は大量にあったろうな。
このままとり続けるとあと17年(だっけ?)で
金が地球から無くなるんだって。

昔の人、使いすぎ
671日本@名無史さん:2008/09/03(水) 12:24:59
なくならないって
単に加工物になるだけで
672日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:31:36
田中貴金属店や三菱マテルアルの金庫の中と、日本銀行の地下金庫の中と・・・
局地的に偏在しているだけなんじゃありませんか?
673日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:10:31
そもそも邪馬台はヤマトの当て字。   をはり
674日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:37:28
675日本@名無史さん:2008/09/04(木) 05:20:01
おまえらに言っておくが、高天原は
延喜式では、葛城=高天原とされている。

ニニギ命は、葛城から九州の高千穂に派遣された傍系皇族にすぎない
676日本@名無史さん:2008/09/04(木) 06:01:12
奈良県御所市高天の高天原ですね
677日本@名無史さん:2008/09/04(木) 14:05:08
邪馬台国って魏志倭人伝では邪馬壱国(邪馬一国)と表記されているだろう。
卑弥呼が死んで次代になれば 邪馬弐国、邪馬参国・・・10代目の邪馬十国が大和朝廷になったんじゃないだろうか
678日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:20:36

ダメだ・・・もう我慢の限界・・・なにこの糞スレ・・・・

もうね、金融工学を学んでる自分からすると馬鹿馬鹿しくて観てられないのね・・・
高卒中卒の人は楽しめるかも知れないけど、自分は無理っすわ・・・

っつーことで落ちるわw あとは高卒&中卒の諸君で楽しんでくれやノシ

679日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:45:28
>>678
毎回のコピペ乙です。
680日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:52:18
↑ニート(笑)
681日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:22:07
すっと前から言っているのだが

古代日本は、祭祀王(宗教的権威)と世俗王(政治的権力)に分かれていたんだろう?
だからこそ、一部、記紀の記述に大混乱が生じている。

記紀というのは、基本的に、こういう
祭祀王と世俗王の二頭体制というのを否定して
中国型の皇帝制度を導入しようとしたわけだから
皇帝らしきものが二人いるなんて問題なんだろう?

魏書でも、卑弥呼が鬼道をやって、
それを実際の政治を行っていた男弟がいたとある。

で、天武天皇が隠したかったのも、こういう二頭体制で
神武皇統というのは、高い確率で世俗王だったんだけど、
おそらく、祭祀王の流れを受け継ぐ家系というのが別に存在し、
その一族のことを古事記で記述を弱めた。

(しかも、こういう、宗教権威と政治権力の2頭体制の場合、普通は
宗教権威のほうが、政治権力よりも、形式的には地位が上というのは洋の東西の共通。
欧州では、ローマ教皇>皇帝 だし、中世日本では、天皇>征夷大将軍 だった。)

だから、後世の歴史家が大混乱している。
682日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:58:10
683日本@名無史さん:2008/09/08(月) 09:44:50
駅にいったら吉永小百合さんのポスター、この秋は邪馬台国が話題になるのでしょうか?
ブームを狙って出版も増えるでしょうかね。
しかし、卑弥呼を霊視したとかの外国人の本、笑ってしまった。
マスコミ関係者からある程度の情報を聞いてかいたのだろうけれど、マスコミは畿内説有利ですからね。
とんでもない赤恥をかいってしまったわけです。
684日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:21:53
さぁ、赤恥とは言い切れないよ。
北九州か南九州か四国か畿内か
まだ何処かわからないのだから
685日本@名無史さん:2008/09/08(月) 18:12:45
少なくとも、畿内や四国ではありません。南九州もだめだね。
とくに山口なんてトンデモの極みですね。
686日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:22:06
ま、一番赤っ恥なのはサイキバ君だけどなw
687日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:38:42
>>685
なぜそう言い切れるのか
根拠や証拠を教えてください。

まさか予想や妄想のトンデモですか?
688日本@名無史さん:2008/09/08(月) 21:15:23
邪馬台国は北部九州だというのは自明の理ですよ。
ただ結論がでてしまうと、死屍累々となりますから、皆さん互いに必死の抵抗をしているだけなのです。
689日本@名無史さん:2008/09/08(月) 21:23:05
>>688
結論はわかりましたから
その結論が出るまでの過程を
書き込みして下さい。

単なる思い込みやデンパ小説の受け売りでない事を祈ります。
690日本@名無史さん:2008/09/08(月) 21:30:07
邪馬台国九州説を語る人はボルネオのジャングルへ行って
樹にぶら下がってろ!
691日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:04:36
>>690
> 邪馬台国九州説を語る人はボルネオのジャングルへ行って
> 樹にぶら下がってろ!

何でさ?
692日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:13:42
>>691
邪馬台国九州説を語る人は猿より馬鹿だから猿のマネをすると賢くなる。
693日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:50:14
>>692
> >>691
> 邪馬台国九州説を語る人は猿より馬鹿だから猿のマネをすると賢くなる。

35点。
694日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:13:06
そもそも邪馬台国畿内説はヤマタイとヤマトが似ていることから唱えられたものです。
そしてこれを主張するために倭人伝を自己に有利になるように書き換え(南を東とか)たりしたのです。
他の説は論外です。
695日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:14:21
九州説もヤメイ国と八女が似ている
696日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:31:22
>>694
九州説の俺が言うのは何だが、

んな、安直な説の始まり方
なんかあるかよwww馬鹿か?
697日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:52:38
いや、本当ですよ。邪馬台国研究は語呂合わせからはじまったのです。
倭人伝の国名を国内(北部九州)にあてはめていったのが最初です。
その最初の人物は新井白石です。
698日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:44:02
>>694 の言う事はあながち間違っていないと思うw

で、九州説は本居宣長が皇国史観の動機からから邪馬台を山門の文字に当てたとwww
699日本@名無史さん:2008/09/09(火) 16:24:22
>>698
宣長は熊襲偽僭説ですから山門とは言わなかったと思いますが。
700日本@名無史さん:2008/09/09(火) 17:16:40
701日本@名無史さん:2008/09/09(火) 19:59:29
紀記よりまず先に
当て字から始めたとかwww
702サガミハラハラ:2008/09/09(火) 20:27:54
そうなんです。新井白石は江戸時代の知識をもって倭人伝の国名を北部九州の地名にあてはめ、
方角にはいっさいむとんちゃくで、大和を邪馬台国としたのです。
703日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:25:03
>>702
アホか。

はいせいせいが、ヤマトに来たとき、
「邪馬台国はどこですか?」と、倭国のみんなに聞いてまわった後、
九州じゃなくて畿内でした、って報告したんだよ。

どうして九州の人間は、「邪馬台国は九州じゃけん!」と言わなかったんだ?

704日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:28:17
>>703
> >>702
> アホか。
> はいせいせいが、ヤマトに来たとき、
> 「邪馬台国はどこですか?」と、倭国のみんなに聞いてまわった後、
> 九州じゃなくて畿内でした、って報告したんだよ。
> どうして九州の人間は、「邪馬台国は九州じゃけん!」と言わなかったんだ?

ハァ?
705日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:40:05
>>702
あの、神社や神話や記紀は
新井白石さんの後で創作されたものなんですかwww?出雲も?
古墳は明治政府が特定したものではあるが、明治に土を盛って作ったものではないよね?
新井白石の後に出来たものこそが九州説ではないのですか?

最近見つかったマキムクの堀はアレですか?ユンボで掘って捏造したわけですかw?

706日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:55:08
「邪馬台国」はなかった。
文献上存在したのは
邪馬臺国と邪馬壹国だけ。
臺と台は別字
707日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:09:53
一般人として言わせてもらうと、
もう ヤマト国の当て字でいいんじゃないかw?

後に大和朝廷になったって言うのが
一番、普通に納得できるな。
708太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/09(火) 22:19:25
考えがお粗末だな。ヤマトの国名、意味とかが時代によって違いが
あるようなのだ。その考えが失敗の畿内説に行き着くわけ。そうじゃ
なんだよ。
709日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:21:48
『そうじゃなんだよ』とは?
710太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/09(火) 22:28:30
だから九州が真だよ。京都は東京都ではないしオーストラリアは
オーストリアでないし、愛媛県は愛知県でもない。
倭人伝には邪馬壹国の他に「邪馬国」がある。これは当時国名に
『邪馬』の冠のつくのが複数あったことを物語っている。それに伝
は邪馬臺国にはなっていない。「邪馬壹国」であり、ヤマトとは
読みが違うのである。
711日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:33:59
邪馬台国は陳寿の頭のだけにだけに存在した仮想の女王国。
そんな妄想に踊らされている日本人を目を細めて見ているだろうな。
712太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/09(火) 22:40:25
陳寿は日本人をどこで見てるんだ?
713日本@名無史さん:2008/09/09(火) 23:21:38
草葉の陰からではないの?
714日本@名無史さん:2008/09/09(火) 23:34:36
日本人だと思ってみてはいない。
中国の東の島に住んでる
原住民だと思って見ていた。
なぜなら、日本と言う国はまだなかったからだ。
文章にするに当たって、
倭国という仮の名を中国人が勝手に付けただけ。
715日本@名無史さん:2008/09/10(水) 18:15:12
女王国を九州宮崎(日向)と比定したい。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美大島の西対岸)
の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されていた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。北部九州は雪が多く冬も寒
いが宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。よって、
女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里にまた国があって、全て倭人が住んでいると記載されており、
四国(伊予)がその比定地と推測されるが北部九州には比定する地がない。
716日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:12:15
>>715

日向は、神武が出て行った後なので王権はありません。
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 22:03:29
神武は卑弥呼の時代ではないから、王権があってもおかしくない。
卑弥呼は神武より200年余後だ。
718日本@名無史さん:2008/09/10(水) 22:44:31
>>715
万二千里をどのように解釈しますか?
719日本@名無史さん:2008/09/11(木) 06:15:01
>>718
萬二千(余)里は漢書西域伝でも記載されているとおり、はるか絶縁の地に
表現されている。トルコやカシミールなど(松本清張説ですが)

魏志も漢書を意識して作成されているはずなので、何百何千まではほぼ正しい
里数かもしれませんが、「七万戸」を含めて、○萬は虚数と判断したほうが
よいと思われ・・ 
720日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:00:37
宮崎説に賛同。
記紀の史実とも合致する。
すなわちヒミコはアマテラス
721日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:39:57
本居宣長あたりまでは、普通に畿内説だったんだろう。
記紀の年代観を信じていたから。

卑弥呼の時代は、神功皇后の時代に重なる。
本居宣長もその年代観を基にしていたからこそ、卑弥呼は九州の女酋で、
神功皇后の名を騙ったとせざるを得なかった。
大和朝廷はすでに存在していたわけだから、倭王を名乗れる人物は、
大和朝廷の大王以外にはありえないわけだから。

>>720
記紀の記述とは一致しない。天照大神は高天原にいた。天孫・邇邇芸命は
高天原から日向に降りてきた。
天照大神イコール卑弥呼とすれば、卑弥呼は日向にはいない。
722日本@名無史さん:2008/09/11(木) 14:08:42
723日本@名無史さん:2008/09/11(木) 18:08:59
>>719

「千」も怪しい。
千里馬、千里眼と言う言葉が有るように、
千は概数の代表格。
724日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:35:40
結局、歴史とは、正しいかどうかではなく、
いかに正しく見せるか、本当だと信じさせるかの世界。
ある意味、選挙に似ている
725日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:56:44
>>715
私も宮崎が女王国であってもおかしくないと思いますが、
宮崎って不思議なくらい考古学者達から無視されてますよね。


726日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:01:57
>>725
> 私も宮崎が女王国であってもおかしくないと思いますが、
> 宮崎って不思議なくらい考古学者達から無視されてますよね。

ならば、宮崎がいかに素晴らしいところか、目一杯訴えたら如何?
727日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:25:37
宮崎は、西都原古墳群に目が行くからだめなのだ。
本当に重要なのは、生目古墳群!
728日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:24:18
1965年に発見された平原遺跡1号墓(福岡県前原市有田)は
幅2メートル前後の周溝を巡らす14.0メートル×10.5メートルの墳丘墓で
4.5×3.6メートルの墓壙(ぼこう)に、長さ3メートル、幅0.75メートルの丸木舟のような割竹形木棺を納めている
前方後円墳と比べると極小サイズだが、副葬品の内容はこれに勝るとも劣らない。

 銅鏡40、素環頭大刀(そかんとうたち)1、ガラス製の勾玉(まがたま)3、管玉(くだたま)30以上、小玉500以上、連玉886個、メノウ製管玉12、耳■(じとう)(ピアス)2…
…中でも鏡の数は国内最多で、直径46.5センチ、重さ約8キロの内行花文(ないこうかもん)鏡5面は中国にも例のない世界最大の大鏡だ。

 年代は前原市教委が1999年まで行った再調査で、隣接する2号墓の遺構や土器と比較した結果、弥生終末期(2世紀末〜3世紀初頭)と判明した。
この時期の墳墓で1号墓をしのぐ副葬品を持つものは国内になく、伊都国は、弥生終末期においても引き続き倭国の盟主たる地位を維持していたように見える。

729日本@名無史さん:2008/09/12(金) 06:18:49

>>726
>ならば、宮崎がいかに素晴らしいところか、目一杯訴えたら如何?

3世紀半ばにそこそこの繁栄があればOK? もしかして、今の時代に繁栄して
なければ比定地候補に該当しないとか??



730日本@名無史さん:2008/09/12(金) 11:55:59
記紀の物語の筋は、高天原→日向→大和の順に進んでいる。

また、饒速日命は高天原→大和。

古墳という観点から見ると、宮崎は、九州では質・量ともにぬきんでている。
大和は、さらにその上を行く。
しかし、弥生時代後期を見ると、両方ともさえない。

その意味では、日向と大和は似ていると言えなくもない。

>>728
熊本県菊池市のうてな遺跡でみつかった方形周溝墓は、一辺が34mで平原遺跡
よりもかなり大きい。副葬品は盗掘されていることもあるし。
うてな遺跡の方形周溝墓は、まだたくさん埋もれていると考えられている。
731唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 10:00:51
高天原→筑紫の日向→大和の順に進んでいる。
732日本@名無史さん:2008/09/13(土) 11:05:27
さらに大和→三河→江戸の順でさらに進んで日本を支配したのが藤原氏。
733日本@名無史さん:2008/09/13(土) 11:38:15
日本人の源流の一つが現在の中国南部長江流域だとすると、
高天原(華南)から上海・五島列島を経由して筑紫の日向(北九州)へ
734日本@名無史さん:2008/09/13(土) 12:03:55
昔から高天原は葛城山。
735日本@名無史さん:2008/09/13(土) 12:41:02
>>734
地元民だが高天原は金剛山麓だよ
736唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 12:47:11
ホ25222 トヨにきはひて ムヨロトシ へてもアソクニ またこえず …
こゝにもムヨロ トシをへて シガのカミタは まだみてずまだみてず ツクシのミヤに
うつリます 
ムヨロトシ=6年
神武が日向宮崎には 「居なかった」と言いたい訳ではない、当時の日向はシラスと降灰により
痩せた土地であり、中心に成れる土地では無かったと。
737日本@名無史さん:2008/09/13(土) 12:47:50
>>735
金剛山は、昔は高天山と言ってたんだよね。

>>731
コテハンのくせに平気でウソをつくな。出雲をなぜ飛ばす?

高天原→出雲→筑紫の日向→大和の順だ。

つまり、

高天原(大和)→日本海側→出雲→筑紫の日向→瀬戸内海側→大和と、一周して西日本を平定したわけだ。



738日本@名無史さん:2008/09/13(土) 13:35:40
高天原は韓国だろ?
そして八百万の神様が韓国人
739日本@名無史さん:2008/09/13(土) 13:57:36
孫呉から来たんだよ。
雲南省では今でも日本の古い社にそっくりな屋根の高床式の建物に住み、金印も見つかっていて
南のベトナムにはに飛鳥に見られる
亀石や猿石のようなものが田んぼの畔にゴロゴロある。
740日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:05:28
今、雲南あたりにいる民族は古代には中国の沿岸地方に居住していた
というのは現代中国史では常識なんだが・・
百越、という漢民族ではないたくさんの東南アジア系民族だね
741日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:11:07
中国の歴史学や考古学は1960年代の文革で20年も大学が閉鎖に近い状態
大学教授は収容所行き、学生は地方に下放されて、事実上学界は研究がストップ状態
やっと教授や学生が大学にもどり研究を再開できたのが80年代半ば
それ以降、遺伝工学の研究、発掘などにより以前のような「日本人の先祖は半島人」という
在日一辺倒の研究からやっと大陸と日本に関する研究ができるようになってきた
が、素人研究者はいまだに30年前40年前の研究を基にしたトンデモ本に
犯されてることが多いよね
742日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:15:45
稲の伝来についても、
北朝鮮は寒すぎて稲作は不可能だったみたいね。
稲のDNAでも、ジャポニカ固有のDNAは朝鮮北部には無く、中国南部にある。

韓国人は、稲が日本から伝わったなんて絶対認めないだろうけど。
743日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:31:38
僕は、高天原に住んでいるんだけど、昨日千葉に行ってきた。なかなか住み
やすいところだなと思った。神奈川にも行ってみたがなかなかいいな。
埼玉は海がないのであまり住みたくないな。

このように書くと、高天原が千葉でも神奈川でも埼玉でもないことがわかる。

つまり、記紀で登場する地名のうち、高天原以外の地名の場所は当然高天原
ではない。逆に、地名の登場しない地域が高天原の可能性がある。

要するに、記紀に地名の登場しない福岡、大分、佐賀、熊本、長崎あたりが
高天原の可能性が高い。
考えてみれば、出雲や日向についてあれほど詳しく書かれているのに、
その間にあって、間違いなく古代の中心地であったこの辺りが記紀に登場
しないというのは考えられない。

実は、高天原としてちゃんと登場しており、中心地だったのだ。
744日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:39:34
>>743

>要するに、記紀に地名の登場しない福岡、大分・・・

ハァ?

サイキバ君のライバル登場かw
745日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:59:43
>>743

イザナギは黄泉から帰る途中の九州でミソギをしてアマテラスとスサノヲとツクヨミを産んでますが?

つまり、九州は高天原ではないですね。
746唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 18:32:25
アマテラス 九州北部
スサノヲ 出雲に下り大物主の先祖となる
ツクヨミ 日田の朝日宮かも?

九州に高天原がないと 年1回?の集合場所は?
747日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:51:35
748日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:39:05
日田(日高)→飛騨
749日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:44:56
いよう、美濃もんぷち
750日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:57:37
安本美典は、今は「敏達以前の天皇の平均在位年代は10年」と言うやりかたで、
神武=280年代説を唱えている。
しかし、昔は「雄略天皇以前の天皇の平均在位年代は10年」と言うやり方だった。
雄略天皇が少なくとも470年代に実在したことは明らかなので、後者の方が自然で良いと思うのだが。
(なお、前者で行くと神武即位は285年になり、後者だと279年になる。)
(どれも誤差の範囲で、どちらでも神武即位を280年代に求められるのだが、279年は厳密には270年代である。)
(そこが安本には気に入らなかったのかもしれない。)
ところで、この「雄略以前平均在位年代10年説」を、彼は
「雄略天皇から奈良時代の終わりまでの天皇の平均在位年代は約10年」と言う文章と共に紹介した。
安本としては、雄略天皇(の後)から、と言う風に言いたかったのであるが、
何せ書き方が紛らわしいので、数学者橋田慶造は、雄略天皇の在位年代も信用できるとして計算を行った。
その結果、安本美典の計算には大きな誤差が存在し、孝元天皇の姉妹倭迹迹日百襲姫命が3世紀中ごろの人物になった。
(実際、451(雄略天皇の即位年)から神功皇后を天皇と数え、16ずつ引いていくと、卑弥呼の活躍した年代と孝元天皇の年代が重なる。)
他、坂田隆氏の計算によると、卑弥呼は景行天皇の姉妹倭姫命になると言う。
また、崇神天皇の没年は戊虎寅年と伝えられており、それを元に378年を没年とすると、
卑弥呼はニギハヤヒ王朝の女性となる。
751太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 22:13:49
倍暦計上にて、以下のとおり判明。

雄略即位=470年  雄略元年=471年(稲荷山鉄剣銘文の辛亥年)

神武即位元年=西暦元年

崇神即位元年=237年=景初元年  同崩御=259年
752日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:18:38
>>750
在位平均年代は不確定要素が多いですね。
即位があいまいな天皇、神功皇后は天皇か、後世は生前退位がある。
二度即位した天皇もいる、実権を持たない時代は同視できないなど・・

ということで、参考程度にした方がよいですね。
崇神即位は3世紀初め〜半ばという年代になるというレベルでは、
同意できます。
753日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:45:12
そうですね、それが彼の説の致命的な欠陥なのですね。
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 22:54:29
吉永小百合の卑弥呼姿は、あまりにも本物とくい違いがありすぎて
残念だな。映画だから美麗にしないと客の入りに響くのでやむを
えないだろう。ムーのマクモニーグル氏の透視の卑弥呼絵像も全く
本物と似ておらず、かつ記者連の畿内説誘導からの先入観のためか、
氏の錯誤があったんだろうが、これまた残念だ。
755日本@名無史さん:2008/09/13(土) 23:47:34
いよう、インチキタイムトラベラー
756日本@名無史さん:2008/09/14(日) 00:32:27
>>754
ムーは知らんな。
マクモニーグルはどんなこと言ってた?
757サガミハラハラ:2008/09/14(日) 00:41:48
マクモ二ーグル君、私のところに聞きにきていれば、こんな恥をかかずにすんだのに。
残念なことである。
758日本@名無史さん:2008/09/14(日) 03:38:27
彼は真っ白な知識のままで彼なりの見解を示したのだ。
誰も彼を批判することは出来ない。

特にそば屋ハラハラのようなデンパ漬けの奴にはな。
759日本@名無史さん:2008/09/14(日) 06:01:30
外国人霊能者のリサーチ能力をなめるなってことだ。
それで何億も稼いでるんだからな。
760日本@名無史さん:2008/09/14(日) 06:18:27
>>758

> 特にそば屋ハラハラのようなデンパ漬けの奴にはな。

 「そば屋」って、どこから出てきたネタなのw
761日本@名無史さん:2008/09/14(日) 09:54:30
巨人のハラハラのように東海大相模出身なんですか?
762日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:01:23
>>760
信州そば サガミ をググればわかる
763日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:08:53
>>762

当方は東京なので関西ローカルはワカランw
764唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 10:47:18
>倍暦計上にて、以下のとおり判明。
>崇神即位は3世紀初め〜半ば

書記の編年を”倍暦”で計算しても 暦に直せない。
崇神記を読んでも ”3世紀初め〜半ば”を支持する記事が無い
崇神5,6年の記事は、新羅西暦192,193年の記事に相当する 此を支持するのが
崇神11年春 ”異族多帰”で考古学が言う 2世紀末巻向に各地の土器。
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:53:30
女王国の所在にグズッていた唐松山さんだから、そんな編年は自説に好都合の
考えから滲み出た錯誤であり、もはやあきれるばかりだ。
766日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:14:17
>>763
それだけわかってれば よろしい
767唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 11:27:44
不都合な太国説とは、違う。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 11:52:49
古代天皇家のシノギは種貸し屋
5,6月は田の繁忙期 この時期に宮中で大きな行事を執り行うと、”実入り”に影響する。
依ってこの時期の記事が書記には少ない。(ある意味当たり前)
この季節は 空亡とか訳のわからない 太国説。
太国倍暦計算とは
上の位(年の干支)が合ったから正しいとしているが、
下の位(朔)の段になると 全く合わせることも出来ない。

769日本@名無史さん:2008/09/14(日) 12:08:21
不都合な事実を伝える書物をすべて焼き払ったのが
大和朝廷の最大の功績。ここまで徹底してやればたいしたものです。
770日本@名無史さん:2008/09/14(日) 12:21:01
「しのぎ」とは磯城のワケ王朝が領民から「しのぎ=税」を取ったことに由来する。
771日本@名無史さん:2008/09/14(日) 12:59:31
大化の改新から太宝律令の間に
かなりの捏造があっただろうね。

少なくとも蘇我は葛城大王家の末裔だったと思う。
だから天皇しか出来ないはずの
催しが出来たり、天皇記を所持していたのではないだろうか?
772唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 13:19:51
書記のねつ造は 4世紀
この間を 神功、応神、仁徳の3人で埋めてしまったため、
再現出来ない。
5世紀の間違いは、書記の誤用。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 13:37:23
>>768 ww
朝廷は農民ではな〜い。ww

そうだろう。朔は後付けだから当然だな。それこそ当たり前。ww
774愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/14(日) 14:36:48
>>764
>崇神5,6年の記事は、新羅西暦192,193年の記事に相当する

畿内から新羅まで混乱といえば「倭国大乱」でしょうね。ところが
三国史記・新羅本紀
第八代阿達羅尼師今二十年(173年)夏五月倭女王卑彌乎遣使来聘
とあり、卑彌呼はとっくに即位しています。
不自然ではないでしょうか?
775太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 14:44:07
唐松山さんは大間違いをしてるよ。準318年説だから失敗なわけ。景行の九州行幸
に関して女王国西征説のようなおかしな考えを決行したから沈没!
776サガミハラハラ:2008/09/14(日) 14:47:38
卑弥呼即位173年説は12年まちがっています。
卑弥呼の新羅遣使は185年です。
777愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/14(日) 15:09:45
>>728
山鹿市の「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」も注目ですね。
時代は違うがチブサン古墳、オブサン古墳などもあり、面白い所のようです。
では、ZZZ・・・・
778唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 15:47:15
朔を後付けとするとそれに連動する年の干支も後付け これらを差し引いた後に残る物。
後に編年の証拠として使える物は 記事だけですよね〜。
編年の証拠として使える記事 193年=崇神6年や273年=神功元年など

この両方を否定してしまったら 太国説は成り立たない
それとも 成り立たないから正しいとするのが 太国説!。
終止符付けてあげましたョ〜。

準318年説だから失敗なわけ←これって誰のどんな説?
畿内が大乱に巻き込まれたことはない=畿内安寧。
畿内安寧の記録の裏に”乱”があるのでわざわざ「畿内安寧」と記録される。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 16:28:43
年は新月とは直接のものではないね。間接だよ。直接は月だろうが。あんたは
316年なんだろう? だから準だと言ったわけ。
780唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 16:29:43
192年≒崇神6年
2世紀末≒崇神11年異族多帰
238年≒田島守≒卑弥呼の遣使
273年=日食≒神功元年
書記の記事をこの様に対外記事等で対応していることを第1条件とし、
この数字を一定の法則の下に割り出す。
私の法則とは、 太陰暦で読めること。
この法則の下で造った編年は、古事記(出雲暦)のラインが別にあることを浮き出す。
出雲暦は、考昭元年丙寅より 伸長されることなく使われる。
日本の暦はこの二通りで読める。
書記の編年だけでなく出雲暦も一緒に批評してください。

781太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 16:42:42
ホツマのどこに、神功元年に日食があったというんでしょうか? それとも他の
古文献でしょうか? 阿達羅二十年=173年 の記事から、唐松山さんは編年を
振り出しに戻ってやり直しするべきだね。おそらく貴殿の編年は現段階で、失礼
ながら滅茶苦茶に間違ってると思う。女王国西征説のような考えで、景行の九州
行幸を西征にして、朝廷の女性を卑弥呼に考えちゃうから、この妄想で失敗を
したんだと観てよい。
782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 17:43:50
太国説で阿達羅20年=173年の記事は何処に差し込みますか?
懿徳年代ですかそれじゃあ 書記に記事が無くても仕方ないか。

景行の九州は、行幸ですか 良いですな〜 魏の使者も九州観光行。天下太平。
1年の長さが120日とかでは、1日に3度も日が昇るということですか。
太国説で西暦に確定出来る(対外記事等で)所はありますか? 多分ないはず、

783唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 17:59:46
>年は新月とは直接のものではないね。間接だよ。
太陰暦では、新月のことを朔と言い月の始まりである。
太国説は、太陽暦?
それなら話は簡単 1年を365日として計算してください。
1年が365日で計算できない?
2倍暦の時は、365日で2年とする 3倍暦の時は365日で3年とする
並べて発表してくださいョ。
私だって解ってますよこんな暦が作れないことは、当然太国さんは、自分の編年ですから
こんな暦も試作していると思いますが、それを出さずに 年数、年度は正しい、と
唱えている以上 出す義務がある。
784唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 18:08:04
太国さんへ 言い忘れた。
書記は朔で書かれており 全て新月として書かれておりますので
書記=太陰暦→太陽暦→通常暦(伸長されていない太陽暦)
この順番で直さないと正確さに欠ける。
この順番を踏んでいなければ、多分やり直し。

785唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 18:23:16
太国さん そろそろ白状しますか?
太国説は、天皇を初めとする各世代間で世継ぎが出来るか?
そして異常な長寿や幼くて出産が無いことを条件に、
各天皇治世をかけ算で圧縮しただけの物。であると
依って 1年の長さや季節は考慮されていません。
これ以上の言い訳を重ねなくてはならない 個々の編年は出来ない。と

それでも太国説は正しい。 もう3流宗教ですな。
786太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 21:14:57
孝元天皇立太子年=173年=阿達羅20年

と、こういう計算結果だね。倭国大乱での

 孝靈天皇山陰行幸=孝靈45年=176年

の3年ばかり前だよ。〜大乱のスキに乗じて

 月支国船団出雲侵攻=孝靈61年=182年

がある。大陸の光和年間だぜ。
787太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 21:22:30
倭人伝
「其国本亦以男子為王 住七、八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子
 為名曰 卑弥呼」

 帥升生口献上=107年

 107+70=177年=孝靈天皇山陰行幸の翌年
 107+80=187年=孝靈天皇崩御年

だから倭国大乱時は孝靈天皇の代のあたりだね。
788太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 21:27:53
唐松山さん
富士山噴火も調べたほうがいいぜ。当時の九州が倍暦をやっていたか
どうかは不明だよ。さらに九州の一部だけ倍暦をしていたか、全然
やってないなかったかも知れないし、畿内と同一暦法かどうかもわか
るまいがね。
からかうのはおやめ下さい。1日に3度日が昇るなんて言った覚え
はありませんぜ。拙者はもん太君ではないよ。
789日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:36:05
江戸あたりまで1年365日じゃなかったんでは?
戦国時代とかはよく閏年とか閏月とかよく出てきますよね?
季節の辻褄合わせによく利用されていたみたいですね。
790太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 21:37:24
>>783
神武当時は1年が1月〜4月までしかなかったということだよ。その
文証が神武即位から崩御まで5月以降の記事がまるで無い。1日に
3回も太陽が東から昇るというものではないぜ。

1年が4ヶ月だよ。神武紀の即位〜崩御間はそうやって彼らは過ごし
ていたんだよ。だから今の1年が当時の3年だったのさ。で、神武
のその時は1ヶ月は14日間ではなく30日(あるいは28日か?)丸々
あったわけで、これが次代からの八代間とは違うわけだ。しかし
神武即位前は通常暦法で、ごく当たり前の暦法をやっていたんだよ。
倍暦の不便さをいやがってか次代の神沼河耳尊は即位を待たず、神武
崩御直後に元の通常の暦法に戻したんだよ。だから神武葬になると
4月を超えた5月以後の月の9月となっている。よ〜く考えたまえ。
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 21:54:38
>>785
世継ぎは履中まで日本武尊を挟み、継続だよ。日嗣が横行きの兄弟
継承となったのは履中→反正からのことだ。ホツマはそうで
ないのか?

>圧縮
あれ? 拡張とか言ってなかったの? もん太氏かな?
だから那珂とか伴の主張の辛酉革命なんか日本では起こって
ないようだし、どうやらそれは間違いなわけ。真は大陸半島の古文献
が通常暦で行使されていたのに、当時の日本側(畿内朝廷)は倍暦
を採用していたから、むこうとこっちの古文献の年代に大幅なズレが
出来上がってしまってたもので、それに気づかずにいたか、舎人親王
一派が日本も通常暦としかの念頭しかないから、大陸半島と日本の
暦法の不合理で苦心惨憺していたのさ。それで当時はあんたの大好き
な干支の二字で年代をやっていたから「甲子」と「乙丑」と1年でも
ズレれば、厳しい漢字二字はアラビア数字とは違い、視覚上どうして
も大違いに見えてしまう。それで合っているように見えるには干支の
数字60かその倍数でやらないと合ったことには首肯できにくい。
それで倍数でズラして卑弥呼に見える神功皇后と合わせる素振りで
120年移動させて紀に書きこんだのが例外はあろうが大筋だよ。あと
120年のところ少し増減が出るのは、倍暦年代経過での偏差だよ。
792夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/14(日) 22:46:41
原田大六説(卑弥呼=倭迹迹日百襲姫)の概要
雄略以前の天皇の平均在位年数は、橋田慶造の16年を使用する。
そうすると、百襲姫の兄弟である孝元天皇の在位が239〜255年となり、
卑弥呼が活躍した年代に合う。
そこから、卑弥呼の宗女台与が開化天皇(255〜271)の姉妹倭迹迹姫となり、
その前に王に支配権を握ろうとしたが失脚した男が開化天皇となる。

これが原田の年代の概要である。
この説に従うと、古代では天皇よりもその姉の方が権力が強かったという事になる。
(一般にこの女性達は天皇の妹と解釈されているが、それは記紀に天皇の後に名前が記されているだけの事で、妹と書かれているわけではない。)
もちろん記紀にはそんな事は書かれていないが、男尊女卑の風潮に合わせて変えたと考えることも出来る。
また、平均在位16年で行くと、神武天皇は127年から143年の天皇となる。
この時期のいずれかに神武東征が行われたわけである。
2世紀に起こった出来事でこれと関係のありそうなものと言えば倭国大乱であるが、
これの年代は、数字だけを見ると146年を遡るものではなく、神武天皇とは無関係に見える。
しかし、各歴史書の倭国大乱の記事を見ると、時代が下るごとに倭国大乱の年代も新しくなっていることが分かる。
後漢書が146〜189年、梁書が178〜184年と言う具合である。
では、倭国大乱が記録されている書物の中で一番古い「三国志」にはどう書かれているか。
要約すると「男子の王から70〜80年後」である。
では、この男子の王とは何者か。面土国の帥升だと言う説がある。
これをとると倭国大乱は177〜187年という事になる。
しかし、帥升は漢委奴国王のような金印を貰っておらず、ただ彼から生口を送って謁見を頼んだだけである。
このことから、当時の中国では帥升を倭国王として認めていなかったと見てよい。
では男子の王とはだれか。帥升ではないとすると、漢委奴国王しかいない。
つまり、「男子の王から70〜80年」とは、漢委奴国王の57年から70〜80年後という事になり、
倭国大乱の年代は127年〜137年の間の出来事となる。
これは先に出した神武天皇の在位年代の中に納まる。
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 23:41:00
倍暦計算にて

 孝元在位 188〜206年

 神武即位 西暦元年  と判明。
794日本@名無史さん:2008/09/14(日) 23:53:06
神武即位年は古事記も日本書紀も微妙にはぐらかしている。
記紀の編者は君たちが考えているよりずっと頭が良くて、
緻密な計算の基、後世の批判を巧みにかわせるように書い
ている。君らの知能指数では、謎ときは無理。
795太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 23:58:45
それはお前の豆脳のことだ。
796サガミハラハラ:2008/09/15(月) 00:17:26
わたしはしっかりとときました。千数百年にわたる書紀の編者の謎解きを見事にときました。(復元日本書紀紀年法)。
神武即位年はAD131年秋年前期です。
797日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:19:15
>>796素晴らしい!倍暦とか言ってる人とは大違い。
798太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 07:13:41
>>797
お前何も読んでないな? 倍暦のこともからきし知識が0だろう? その人は
倍暦肯定論者だね。
799唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 10:08:23
太国さんは、1年365日の中で記事の偏向を問題にしているが、
神武〜成務までは、各天皇の治世中の年度別の偏向に注意を向けるべきだ。
1〜5年目位までは、毎年記事が有るのに崩御直前の年に記事がない、
成務のように1〜3年目で後は、61年の崩御 これ程大きな空白が有るのに
全ての年が有ったとしてしまうから、1年の長さが120日とかトンデモ説になり破綻してしまう。
サガミハラハラ4倍暦もかけ算で圧縮しているので、やはり暦に直せない
いくら私が質問してもトボけて、回答なし。
暦に直せない圧縮は、間違い 早く軌道修正をしてください。
800サガミハラハラ:2008/09/15(月) 10:14:38
そうです。私は倍暦肯定論者です。
復元日本書紀紀年法も倍暦により復元したものdす。
801日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:26:16
私は3倍4倍とは行かないまでも、1年が365日では無かったんではないかと思います。
そうでないと昔の人は超長寿になってしまう。

1年365日だと、
もはや人ではなくなる武内宿禰とか卑弥呼とか霊長類ヒト科を超えている。

2代目3代目が居たとか妄想を論ずる人もいるが、
証拠も無く、トヨは第何代卑弥呼ではなくトヨだとなっている。
上にも書いている人がいるが、天皇の御世でも閏を使って
季節の辻褄合わせを江戸になるまで使用していた。
天皇が絶対ではないこの時代、誰が暦を制定していたか?

多分、中国の人間か日巫女だろう。魏の時代は殆どが三国時代。
暦は国によって違っていた。戦国時代も織田信長は天皇の暦を無視して自分の暦をごり押ししていた。

1年は365日という固定概念で居ると普通は、年齢のことで混乱するものだがどうだろう?
802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 10:47:20
1年が365日(太陽暦で)でも 10年と書かれた空白が実は、差し込まれた空白
(此方は日単位で計算された日数)であった。
そして各天皇治世年数に19年*n回の空白を差し込んでいる。
これで月齢に対してもウソは付いていない。
1年の長さも月齢も 太陰暦で読める。
この方法が私の”増し暦”です。
ただし この様な増しが行われなくなってからも 天皇の聖寿は、30才位加増されている。注意してください。
803日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:57:56
地球の公転速度は激しく変化していますからね。
いまから2000年前の卑弥呼の時代には、1年は
180日だった可能性もあります。

また、卑弥呼の時代は1日が48時間だったとすれ
ば、公転速度が変わらなくても、1年は180日とい
うことになります。

他の可能性としては、地軸の傾きが変化したり、
地軸そのものが移動していて、日本は赤道直下
の高原地帯にあり、季節の変化がほとんどなか
ったという仮定することもできます。

さらに想像力を働かせれば、地球の近くをブラック
ホールが通過し、その影響で時空の歪みができた
なんてSFみたいなことは起きていないという証拠
はないのです。
804唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 10:58:11
この様な治世任期途中で年数を加増した形跡を書記の中で探すと、
景行40年 太歳 是年哉
神功19年 太歳 是年哉
「 太歳 是年哉」の記事は通常天皇即位の年にありますが、任期途中にも
この様に有る=天皇の代替わりの事ではない。
では何のことか?と考えると 年数の加増 暦の点検 の2点が浮かぶ。
805唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 11:04:20
訂正
×神功19年 太歳 是年哉
○神功39年 太歳 是年哉
神功ではよく解らないが 景行40年この年は日本武尊が景行28年に九州から帰って
直ぐに関東行きを告げられた年です。
28年=40年でもおかしくない。
806唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 11:15:19
さらに
垂仁90年トコヨ国行きを命じられた田島守 帰ってきたのは、景行元年
一応10年が過ぎていますが ホツマには、この10年の旅行期間を9ヶ月24日と書いてあります。
ホツマでも垂仁90年に出発景行元年の帰国にも拘わらず、9ヶ月24日後と書かれている。
これらを満たすには、年の増し。
807唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 11:25:23
まだあるよ
神武前記 ?こんな字だっけ。
伊予で3年、吉備で5年増す(数字に確信なし)と書かれている
これを実際に「伊予や吉備で過ごした」と取るでしょうが
この時代よその軍隊を何年間も養う余力が有ったと思います?
808日本@名無史さん:2008/09/15(月) 12:04:54
凍傷よ
独りで暴走するなw笑いが込み上げてくるw
809日本@名無史さん:2008/09/15(月) 13:05:43
倍暦説にせよ、唐松山説にしろ嘘くさいな。
信じる気にはとてもならない。
記紀の欠史八代は、すべて作り話としたほ
うが合理的なようです。
810サガミハラハラ:2008/09/15(月) 13:13:30
倍暦とは原始的な暦(といえるかどうか)であって、せいぜい月あたりまでで、それも1年は何月といったような正確さもなかったと思います。

伊予ではなく安芸です。倍暦ですので全部で8年ぐらいです。
出発時はせいぜい十数名であったのではとおもわれます。数年滞在したのは募兵のためではなかったかとおもわれます。
募兵に成功したのはおもにキビの地であったとおもわれます。古墳時代初期のキビとの文化的交流をみればそう考えられると思います。
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 13:34:25
>差し込まれた空白
差しこんだんだはなく、唐松山さんのやり方が間違ってるから年数不足とかに
なるわけだ。そこを間違いだと思わず恣意的に空白に埋めるから成ってるわけ
だが、所詮間違い分増し等を入れねばならんわけよ。間違いだと覚って振り出し
に戻り、編年をやり直すべき。
812太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 13:43:49
>作り話
それは紀の伝説といえる神武より手前の太古は史実でない可能性は
あろうが、年月日のある神武以後はイカサマではないね。津田病に
罹患している状況がある。だいたいそこんところを作れば、公文書
偽造罪で舎人親王一派は準死罪でひとたまりもない。そんな利害も
彼らには少ないようなことをやって、島流し、火あぶりまで行くかは
わからんが、桑原桑原で八王朝相撲のようなマネはやるわけがない。
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 14:13:22
唐松山さん
現今の大相撲は1場所が15日間しかないんだよ。20日間も30日間も
無い。貴殿はこういうのでさえも30日あったと思うのか?ww
30日間も1場所はやってないんだよ。ウソだと思うなら現今の
星取表を多数集めて調べてごらん? 30日が千秋楽というのは無い
からねぇ。w 大相撲は現今は1場所が15日なんだよ。さっきの奴が
欠史八代間は作り話の八王朝相撲の造作だとかの旨主張していたが、
それはわきにおいて、この八代間の補史取り票相当の日数統計表を
あんたももう何回も拙者の提示で見ていただろうが、ここでは14日間
なんだよ。ということは当時の1場所にあたる1ヶ月が14日間で終了
してたんだという考えが最も妥当であり、真なんだよ。
それを直視しないで、あまりありえないような特殊な状況からの
論述にて否定をしても、まずその論が外れになるのは当選確実だ。

それは草相撲とか、昔の大相撲は9日間だったとか別だろうがねぇ。
ここの9日間が15日間に伸びたんなら、八代のころは14日間で後代
にて30日間まで伸びたことと似たようなもんではないかね。だから
もん太氏の否定の30日固定の言い分は、こういう事例からも信用でき
ないのだ。
814日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:31:30
日本書紀は組織的な歴史捏造だったというのが定説です。
もちろん全てが嘘というわけではなく、自分たちに都合の
悪い事実のみ隠蔽したり改竄するといった手の込んだ手口
だった上、徹底して証拠隠滅を図っている。
しかも、それが時の権力者の手でやるわけだからそれを
裁く裁判官などいない。

日本が太平洋戦争で敗けなければ、いまだに日本書紀は
一字一句間違っていないことになっていたかもしれない。
815日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:33:47
日本書紀が捏造というのなら、どうして捏造しなくてはならなかったのかを
説明しなくてはならない。

たとえば、神武東征。大和に都する大和朝廷が、日向出身の神武天皇を初代
とし、大和の長髄彦を滅ぼして政権を樹立したという話をどうして作る必要が
あったのか。

天から大和に下りてきて、そこから全国に覇権を広げたという話では
どうしていけないのか。むしろ、そういう筋を作るのが自然ではないのか。

不自然な神武東征にこそ、真実があると思うのだが。
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 16:00:31
>>814
雄略、武烈の大悪は都合のいい事実なのか? こんなのがあって、徹底して隠滅
などやったとは言えない。おまけに皇族の殺人、浮気等うんと書いてある。
つまり君の主張は妄想なんだよ。
817唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 17:36:47
紀=書紀による編年(元年)
墓標の記載のない天皇の墓標は、皇暦

西暦  天皇        治世  増し 皇暦 出雲干支
93年 孝昭天皇元年 26年 57年 83  丙寅
93年 出雲歴のはじまり   丙寅
119年 孝安天皇元年 26年 76年 102 紀
145年 孝安戊午年1月9日77 墓標   戊午
145年 孝霊天皇元年 19年 57年 76 紀
163年 孝霊丙子年2月8日55 墓標   丙子
164年 孝元天皇元年 19年 38年 57 紀
180年 孝元癸巳年9月3日46 墓標    癸巳
183年 開化天皇元年 5年 55年 60 紀
188年 崇神天皇元年 28年 40年 68 紀
190年 開化癸卯年4月9日40 墓標    癸卯
216年 垂仁天皇元年 23年 76年 99 紀
225年 崇神戊寅年12月7日42 墓標   戊寅
239年 景行天皇元年 22年 38年 60 紀
261年 成務天皇元年 4年 57年 61 紀
265年 景行戊午年11月7日86 墓標    戊午
265年 仲哀天皇元年 9年 0年 9 紀
274年 神功皇后元年 50年 19年 69 紀
324年 応神天皇元年 43年 0年 43 紀
361年 応神甲午年九月 古事記、墓標  甲午
367年 仁徳天皇元年 33年 54年 87 紀
386年 仁徳己未年8月15日83 墓標   己未
394年 仁徳丁卯年八月 古事記  丁卯
399年 履中壬申年1月5日64 古事記、墓標  壬申
400年 履中天皇元年     6年 紀
818唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 17:49:58
書紀の編年がねつ造であったら
書記と関係ない資料とこれ程良く対応する物でしょうか?

ハラハラさん 暦もなく年の数だけ積み上げるしかも数百年 文字がなければ不可能。
文字があれば、暦を使っています。出来事の記録も採る。
これで、ハラハラ説も崩壊。

書記に書かれた出来事を、正しい暦に直せるのは、私の”増し暦”のみ。
書紀のみで編年を考えるから(片眼だから)物がよく見えない。

819唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 17:57:05
天照大神の弟に月読がいる、この名前は、この時代から 太陰暦が導入されていたことを示唆する。
820唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 18:03:18
昔の大相撲は一場所7日間でしたよ。

書紀の分析に間違った手段を選べば、記事と年代が合わない。当然ですよね。
書紀がめちゃくちゃではなく 解析方法が間違っていることに 気づいてください。
821サガミハラハラ:2008/09/15(月) 18:03:41
sと黄が編纂されたころは、かなりの文書があったようです。
書紀にも一書に曰くとあるでしょう。墓標はなかったと思います。
古事記干支をも私は使っています。古事記干支が倍暦であることを発見したことにより、
復元日本書紀紀年法を完成させることができました。
822太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 18:12:44
>>820
あぁ7日間かね? そっちの相撲の知識は未熟のところがあるので、
それがそうなら7日間に訂正させていただくが、そういうことを
よく知ってるなら、なおさら拙者の言いたいことが分かろうという
ものだよ。現今の場合は15日間しかない。30日は昨今の星取り表を
うんと集めてみてもだ。1場所は15日間なんだよ。欠史八代の日数
統計表の日取り表を貴殿は拙者からイヤになるほど見ているから、
貴殿の30日八代当時当時あったという考えは、まず成立はせんね。
823日本@名無史さん:2008/09/15(月) 18:22:11
天皇の祖はチョンと聞いてやって来ました。
824日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:27:15
日本書紀を読むときは、すべてが真実だとして思って読むのではなく、
常に疑いの目を持って事実確認をしなさいと言っているだけです。
過度に依存することも、すべてを否定することも正しい態度ではない。
825日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:33:48
特に欠史8代については、当時、記紀の編者にすら正しい知識
がなかった。そのため無理やり繋いだ感があることは否めません。
それをすべて正しいものとして、倍暦というトンデモ説で辻褄を合せ
ようとするから誰にも信じてもらえず、孤立してしまうのです。
記紀の一部に誤りがあることを素直に認め、正しい部分、誤ってい
る部分の切り分けすることのほうが大事だと思わないのか?
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 21:47:18
>>825
欠史八代が欠史なのは当時大陸半島側が通常の暦法を行使して
いたのに対し、日本側が倍暦を行使していたため、倍暦を知らなん
だ舎人親王一派が、双方を見比べて大いなる年代のズレ、断層が存在
したために、それを調整するために四苦八苦たものであり、とりわけ
年代の大幅なズレが八代間に集中してしまったため、そこの間の史実
の書きこみを保留、避けたたもので、このため八代間はほとんどその
書きこみが空白になったものである。
倍暦がトンデモなどは大トンデモであり、どうせお前の考えはいずれ
はスミに追いやられるだろう。孤立どころか、倍暦肯定者はけっこう
いると思うぜ。
827日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:51:32
記紀や先代旧事本紀、古語拾遺などの多数の文献の著者は
一致して、同じ骨格の歴史を書いている。

紀の「一書」なども含めるとその数倍の文献が一致して、同じ骨格の
ストーリーに従って、細部の違いを主張しあっている。

この状況で、ストーリーの骨格を信頼しないというのは変だわな。
828日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:56:20
>>827欠史8代の部分を除けば、その通りです。
829日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:03:37
欠史8代とは言うけれど・・・・
初代から3代までは、記紀や先代旧事本紀でストーリーが確認できる。
6,7代あたりからは、崇神や取り巻きの祖先として系譜が明記されている。

となると、4、5代の部分が系譜の厚みがないという位のことだろうが、
わざわざ架空の天皇を1、2名入れる必然性もないんじゃないか。
830日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:28:39
>>829つまり、あなたは、その間、天皇が1,2人いたことは認めるわけですね?
    その点をはっきりしたほうがいいですよ。
831太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 22:44:00
日野郡誌には倭国大乱のためと思われる

 孝靈天皇山陰行幸=孝靈四十五年=176年

の記録の詳細がある。別に八代間の記事は記紀だけではない。

さらに日御崎神社社記には、大乱に乗じての

 月支国船団出雲侵=孝靈六十一年=182年

の記録がある。これなど神風で船団は壊滅したとかの話だ。

ほかにも、富士山南麓大淵丸公園には、孝靈世の大噴火と
なる約1800年前の溶岩樹型が残存している。いろいろと八代間の
ブツ、古文献等はあるわけだ。
元吉原の富士見屋には過去に「富士山禅定図」というものがあり、
これには孝安92年の富士山湧出縁起の記載があるという。
832日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:05:17
833銀河 秋彩:2008/09/16(火) 13:24:02
2チャンネルは、この程度か。

情け無い奴ら馬鹿りだな。(笑)
834夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 14:54:07
>>833
と言いつつここで罵倒して発散することが
彼の日課となっているのだろう。
835日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:34:44
「古事記はモンゴル語で書かれている」東大教授が新説発表
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1221500761/
836日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:40:26
>>1
朝鮮人

by 南朝鮮人
837日本@名無史さん:2008/09/16(火) 18:10:53
>>833
エロ河童探してんの?ここには居らんで!
838唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/16(火) 20:45:28
わたしは、次のように見ています。
安寧(治世11年間)の子供は、懿徳(治世5年間)と孝昭(治世26年間)
懿徳も孝昭(懿徳と腹違いの弟)も安寧年間中の誕生
安寧と懿徳は同じ暦を使用したため 11+5=16年間 この割り振りは、推定
安寧が10才位で天皇となる、 安寧3才位で天皇を継ぐ
考昭6才位? 考昭もっと若くして位を継ぐ→旧事記参照のこと
考昭の后は、手研耳のひ孫。


839太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 20:49:33
孝昭は懿徳の子。兄弟継承は履中〜反正〜允恭からだ。記紀双方
同一見解。それに違えると妄想沈没船で一巻のオワリ。
840日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:40:41
当時は『大王』と言う確固たる地位は無かったと思う。
だから子供が大王になるというのは領土を守るということに関しては危ないのではないか?

それで必然的に兄弟間の継承が行われたのではないかと思われる
841唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/17(水) 19:43:57
201・ 3・22 0.202 7:15:28 7:54:04 8:34:39
273・ 5・ 4 0.944 15:51:34 16:56:39 17:55:41
201年の食率20%は小さく曇っていれば、解らないレベル。

当時の天皇家(大王)のシノギは、種貸し屋
種まきや田植えの日時も教示、指定しての 種貸し 種を借りず日時を合わせてくる
”まつろわぬ人々”を力で従わせる。
こんな状態なので、暦は秘匿事項 不定期的に不規則な年数を暦に挟み込み
暦の構造を解析出来なくする、=増し
長脛彦は九州で暦を写し取り大和へ逃げる 九州王朝は、是を許さず軍を差し向ける。
スサノオの悪行位 追放で済むが 暦の盗難は、許さない。

暦の秘匿さえ守れていれば、天皇が3才でも可
大国主が国譲りを余儀なくしたのは、凶作
大国主は考昭時代より独自の暦を発行していた。そこに大凶作
暦の発行主である大国主は、責任を取り辞任 崇神に後を託す。

842太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/17(水) 19:53:40
兄弟間もモメ事は多かったはずだぜ。子でなくて兄弟にすれば安泰
とは必ずしも言えない。
843日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:10:58
>>841

月齢だけわかれば稲作には十分だよ。
844日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:14:09
>>841
出雲とは、現在の出雲地方だけではなく鳥取から京都にかけての
日本海側の広い地域だったと推定できます。ですから、凶作で種籾
が返せなくなったために国譲りをしたといった消極的な理由ではなく、
もっと前向きな意図を持った集団移住だったと考えるべきだと思うの
です。
つまり、関東平野はエデンの東だったのではないでしょうか?
例えば、満州開拓団、北海道屯田兵、ブラジル移民のように・・一攫
千金の夢を見て移り住んだのが関東だったと思います。
実際、肥沃な土地を手に入れた者は、強大な富を築いたはずですし、
アメリカの西部開拓のゴールドラッシュのようなこともあったかも
しれません。

あなたは、考え方が前向きじゃありませんねぇ。
845日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:27:53
>>844
>出雲とは、現在の出雲地方だけではなく鳥取から京都にかけての
>日本海側の広い地域だったと推定できます。

それはウソです。
出雲では四隅突出型墳が作られてましたが、丹波・丹後にはありません。

また、日本書紀の出雲大神宮と言えば、丹波一宮の出雲大神宮のことであり、
島根の杵築大社のことではありません。

正しくは、丹波一帯が出雲であり、丹波の大国主は島根に追われたのです。
846日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:41:11
>>845しかし、国を譲ったのではなく、希望を持って自分の意思で関東に
移り住んだという説には同意してほしいものです。
847日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:10:50
>>846

関東平野に移り住んだのは、伊勢湾〜濃尾平野の人々です。

848唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/17(水) 21:15:16
大国主は、近江に居て 日本海側から大阪辺りまでを収めていた
丹波辺りは孝霊以降大和に近い
192年の冷夏は、新羅において4月1尺の積雪(太陽に直すと5月末から6月にかけて)
この凶作で大量の餓死者がでる 翌年新羅6月(太陽8月)倭人千余が新羅に (途中で没したのは?)
この状態ですから 大国主がノイローゼになってもおかしくない。
大国主=大物主=スサノオの系譜=出雲 島根はスサノオ時代の居所

関東の開発は日本武尊関東東征の折りの差配
主として多摩山地東側に入植(屯倉の設置)
849日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:47:51
それでは、出雲は国弓弦をしてどこに移り住んだのですか?
秋田ですか?
850日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:02:35
国譲りをしてどこに行ったのですか?
851日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:29:52
大国主は、丹波から島根に追われた。
島根にはスサノヲが祭られていたが、大国主にとってかわった。
ちなみに大国主とスサノヲは直系の血族ではない。
852日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:32:01
  金印>銀印>銅印>泥印  中世の琉球(金メッキ銀印)

日本は古代より金印(公印)>韓国は泥印(公印)銅印(私印)であり
中世の地位は琉球(金メッキ銀印)>朝鮮,銅印(公印)でしたとさ。
哀れ韓国。
http://www.geocities.com/lookeast20022002/wa.html
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfriend&page=13&nid=50586

「倭国」・・「漢委奴国王」・金印
「邪馬台国」・・「親魏倭王」・卑弥呼,金印紫綬
「クシャン朝」・・「親魏大月氏王」・ヴァースデーヴァ(波調)金印紫綬
「雲南,滇王」・・「滇王之印」・金印
「光武帝の子」・・「廣陵王璽」・金印
853日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:25:03
諏訪の上社の祭神は建御名方富命、この神は出雲の大国主神の子なのではないのですか?
854日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:08:33
>>853
そのへんの事情はもっと複雑だよ。

諏訪の金刺氏は、神武天皇の弟の神八井耳を祖にしてる。

855日本@名無史さん:2008/09/18(木) 07:24:28
弟? 子供では?
856日本@名無史さん:2008/09/18(木) 13:18:57
建御名方富命は事代主命と兄弟で大和の大物主の子。

アマテラスの国譲りの際に
信州諏訪に逃げた神。
857日本@名無史さん:2008/09/18(木) 21:32:45
>>856それなら、出雲人が関東に移り住んだという説は正しいのですね?
858日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:00:04
なぜ出雲にこだわる?
大物主は国譲りを大和でなされたというのに。

出る雲 山蜘蛛の国の出雲は黄泉の国。
大物主の霊は黄泉の国の出雲に奉られた
859日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:25:46
>>857
「出雲人」ってなんだよ?

「島根人」だったら、それは違うぞ。
860銀河 秋彩:2008/09/19(金) 05:14:44
>「出雲人」ってなんだよ?

一言で言えば、「出雲(いずも)」=【伊都(いづ)・喪(も)】

注) 『魏志倭人伝(通称)』の「伊都国」の読みは「いづら」
861銀河 秋彩:2008/09/19(金) 05:15:18
>「出雲人」ってなんだよ?

一言で言えば、「出雲(いずも)」=【伊都(いづ)・喪(も)】

注) 『魏志倭人伝(通称)』の「伊都国」の読みは「いづら」
862日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:14:18
二回も書かんでも
最初から読まないので、おk
863日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:40:37
864日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:59:41
今来てる、台風13号も奈良県内だと雨がポツポツどころか、
曇ってるだけで傘無しで家に帰れます。
吉野山系があるために台風の雲が奈良には入れず避けて通るようです。

こういう地域性が山神信仰を始めたり
都を置いた原因なのかもしれませんね。
865唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/20(土) 12:34:52
太国さん太国説の矛盾点を質問します、まず下記
○648戊申  265乙酉  景行誕生
○731辛未  293癸丑  景行即位
○742壬午  298戊午  日本武尊誕生
△742十二年秋七月,熊襲反之,不朝貢. 八月乙未,朔己酉,幸筑紫.〜19年まで
○744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕
△755 廿五年秋七月,庚辰朔壬午,遣武內宿禰
△758廿八年春二月,乙丑朔,日本武尊奏平熊襲之
○769己酉  312壬申  仲哀誕生
○773癸丑  314甲戊  日本武尊没
○781辛酉  318戊寅  成務立太子
○790庚午  322壬午  景行崩御

○ は 太国さんの 倍暦より、それに △この時代の出来事を書き込んだ
疑問点
武内宿禰は 何歳で東北巡視の旅に出ましたか?
日本武尊は、何歳で熊襲平定?

この様な疑問点が各天皇の各所に有ります、この疑問に理のある数字で
理のある回答を出さないと、各天皇の疑問点も「それ相応」と受け取ります。
866日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:34:01
>>864
当時、リアルタイムでグローバルな視点を持つ能力なんて考えられん
現在だって、情報無しで奈良に居て
尾鷲の豪雨を知る事は出来ない。
867太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 15:04:12
>>865 唐松山さん
それは外行できますよ。あなたの子供は旅行に行けないんですか?
当時は結婚だって10歳ちょっとでやってるでしょうし、立太子だって1桁世代
でやってますよ。天皇、大臣の取り巻きが事実上外行で手伝ってるんですよ。
付き人は大勢連れてるでしょう。皇女和宮も万の付き人で江戸へ行ったんで
しょう? クマソ平定なんて日本武尊というより配下の連中の力ですよ。ただし
14,15歳くらいになれば、尊も若殿的に采配をやったでしょうがね? 尊は16歳位
で死亡してますよ。このことは過去にもう書きこんでますよ。
それより垂仁は殉死をやめて埴輪にしたのに、景行世あたりに殉死をやって
る卑弥呼の時代を当てることこそ間違いじゃないですかねぇ? その矛盾が
おかしいと改めずに、奇怪な卑弥呼西征のような貴方しか思い起こさない突飛
な論を立てるということはもう、沈没ですね。
868太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 15:06:21
>>867 訂正
× 天皇、大臣の取り巻きが
○ 尊、大臣の取り巻きが
869愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/20(土) 18:58:11
>>820
唐松山さん
>昔の大相撲は一場所7日間でしたよ。

江戸時代から相撲は10日で「一年を 十日で暮らす いい男」年2場所になって二十日。
1場所の日数は1923年から11日、1937年から13日、1939年から15日。
戦争末期の1945年6月のみ7日、戦後初期は10日、11日、13日など、
1949年5月から15日間となりました。
また場所数も増え、1958年から年6場所となりました。
詳しくはウィキペディア「大相撲」参照。
870唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/20(土) 19:56:19
大相撲は、10日でしたか 15日より短かった事は覚えているが…

太国さん 
744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕
755 廿五年秋七月,庚辰朔壬午,遣武內宿禰
三倍暦なら3〜4才 まだ元服前の子供 「宿禰」を語る事は無い。
この年齢で東北迄 歩行による旅行 巡視には幼すぎる 
日本武尊は熊蘇平定で16才が 14才ぐらいで仲哀を生む そして16才ぐらいで死亡ですか
小碓16才で熊蘇平定 元服して日本武尊を名乗る。その前の子作りですか
書紀を読み替えている訳ですが 日にちを圧縮すると同時に記事年齢を 平均して圧縮すると
書紀の内容から外れてしまう。
子作りの年齢も 景行と日本武尊では、1世代分の開きがでてしまう。
現代なら いざしらず 当時としては、如何な物か?
崇神もそうですね。


871唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/20(土) 20:04:22
愛知県民さんも太国説でない 倍暦をお考えのようですが、
倍暦では 太陰暦に直すことが 困難である
そして 書紀の記事を読み替えないと 合わせることが出来ない場合が往々にして在る。

心して編年してください。
872太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 20:05:45
確かに今はモンゴル場所、ロサンゼルス場所があるから、そういう
特殊な遠征の場所とかなら1場所15日間にこだわらんだろう。

それは現代の考え方を古代もそうあらねばならないと思ってるから、
そんなはずはないなどと考えちゃうわけ。それは当時のそういう
仕来たりがあったという考えは持っておくべきだよ。なお日本武尊
が子を産んだんではなかろう。w 彼と寝た姫だよ。ww
徳川の将軍でも生まれて間もなく将軍位に就いていたお方がいるんで
ないの? でも政治はその取り巻きだよん。今なんか1桁世代でも
航空機で世界旅行へ親と一緒にうんと行ってるぜ。
873唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/20(土) 20:13:25
太国さん
471年雄略天皇=稲荷山鉄剣銘の 正当性を大彦から 語ってください。
1代平均が37年?の正当性を。
874太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 20:20:15
日本武尊は16歳位で死亡だよ。だから日本童男とかの別名がある。
若いころの遠方鎮圧は彼の取り巻きが実際はやったわけだが、彼らは
家来だから尊がしたことになるわけ。しかし14、15歳あたりになっ
たときは、尊自らもう指揮は取れるよ。それより以前は家来が働い
たわけだな。景行が尊を怖がっていたのか、目障りだったのか?
そういう事由で尊にあれやれこれやれと難題を押し付けたのかも知れ
ない?宿禰はいずれ重臣となる未来があり、天皇と同じ日に生まれ
たとかで幼少のころから学ばせるためとか、広く見聞させて重用させ
んが為のやり方なんだろう? まぁそんなところだな。
875唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/20(土) 21:15:07
広く見聞が3,4才の旅行じゃ 何を学んだか? おんぶにだっこで旅を続けた?
日本武尊の熊蘇平定が16才と言われている
それに対し 太国説は、少し早すぎる それに対し
これ以降の出来事が少ない 書紀にも書かれていないと言えばそれまでだが
では何故 各天皇の中盤以降は記事が少ないのか?
空白のン十年は実在したとする編年は、前半に記事の圧縮をしなければならない。
空白のン十年は空白の差し込みとすれば この辺の矛盾の解消になる。
そして 書紀の記事は、これ程の空白を挟みながら前に進んでいる。
空白=停滞か 空白=差し込み か?
876曲学の徒:2008/09/20(土) 22:20:14
卑弥呼の墓発掘プロジェクトをご支援ください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/keizibann/Project-H.html
877日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:41:14
>>876

それ、場所どこなんだよ?
不親切だな。

葛城が邪馬台国というのは同意だが。
878日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:00:52
葛城は葛城、邪馬台国ではない。
古事記や日本書紀が、葛城隠しをするから、
そういった妄想を抱くものも多くなったわけです。
879太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 23:13:30
>>875
だからそれが現今の考えを古代もそうだろうと押し付けるから
おかしくなるんだよ。父子継承が仁徳まで続いてるのに疑念が
あるとかいう妄想もそれと似た類だよ。
日本武尊は「童男」とちゃんと記紀のあのへんに書かれて
いるだろう。だから少年で活躍してたからそんな名前なわけだ。
女装できたのもそのためだろう? だから武内宿禰も似たような事
由からの旅行だろうよ。今も子供連れで外国旅行をみんなやってる。
880サガミハラハラ:2008/09/20(土) 23:33:15
確かに古墳であろう。そして径百余歩であろう。
しかし、それが卑弥呼の墓であるためには、その場所が倭人伝の指し示す邪馬台国でなければならないのです。
邪馬台国である証明はできているのでしょうか?
881日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:37:14
どうして葛城が邪馬台国だとダメなの?
882銀河 秋彩:2008/09/20(土) 23:47:38
馬鹿たれ日本@名無史に言ったのでは無い。(笑)
883太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/20(土) 23:49:22
>>873
37年? どこからそんな数字が出るんだろう?
幼少で結婚もあるわけだし、神武や家康のように晩年で子を造るよう
な事例もある。即興単純計算だから参考まででどう左右するかまだ
わからんが、

 (471−237+1)/8≒29.37

だな。いささか長いようだが、日本武尊ころじゃ3代分でおかしく
なるんでないの?
崇神以前で平均をとったら25年余だったから、これもおかしく
ないし、鉄剣のほうも変動か何らかの要因で許容範囲に収まると
観たい。それに履中〜允恭とか、以下兄弟継承もあるし、左右され
よう。年子もあろうか?
884愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/21(日) 00:52:24
>>873
横レスですが
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/12-3tetukenn.htm
より。

銘文に記された意冨比こ(おおひこ)は、乎獲居臣(おわけおみ)から数えて7代前の人物である。
また「獲加多支鹵大王」が雄略であれば、乎獲居臣は雄略と同時代の人であることはいうまでもない。

一方『勘注系図』に興味深い記述がある。
彦火明十四世孫、川上眞稚命(かわかみまわかのみこと)の妹、竹野姫命(またの名大倭姫)を大比昆命(おおひこみこと)の妃とするのである。

また『勘注系図』によると、丹波国造海部直阿知(たんばのくにのみやっこあまべあたえあち)という人物は雄略の時代の人である。
阿知は、雄略から逃れてきた、後の顕宗(けんぞう)、仁賢(にんけん)となる、億計(おけ)と弘計(をけ)の二人をかくまい、逃亡を助けるのである。
したがって、阿知は雄略とほぼ同時代の人である。
『勘注系図』では十四世孫川上眞稚命、に続く系譜上の人物として、この阿知まで8代にわたる人物名を記す。すなわち川上眞稚命は阿知の7代前の人である。

奇しくも『勘注系図』と稲荷山鉄剣系譜は、雄略と同時代の人物から「おおひこ」まで、同じ世代数を数える。
共に雄略の時代からさかのぼること、7世代前に「おおひこ」なる人物の存在を記すのである。
885愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/21(日) 01:10:07
追伸。
『勘注系図』には誤りもあり、十四世孫川上眞稚命は八世孫倭得魂命またの名川上眞若命と同一のようです。
こうしないと整合性が取れません。
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/6-5syuusei.htm
886愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/21(日) 01:57:49
曲学の徒さんは、年代的にはあまり違和感が無いですね。
そうかと言って畿内説はどうかと思いますが。
887日本@名無史さん:2008/09/21(日) 02:45:44
系図とかまで調べていったら普通、畿内説に落ち着くだろ。

888日本@名無史さん:2008/09/21(日) 05:27:15
それが天皇も貴族も系図たどれば九州に行き着いちゃうんだよ。
889日本@名無史さん:2008/09/21(日) 06:23:03
倭人伝の数字はどうも眉唾物。
距離や邪馬台国の戸数など。
そういうことからして、卑弥呼の墓の径百歩余を鵜呑みにしてもいいのかなと
ちょっと疑問に思う。
890日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:32:45
>>889
距離とか戸数とかは信憑性ないよね。
あてになるのは風俗、生活ぐらいじゃない?

891日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:35:49
>>888
初耳だ、北朝鮮の主体思想みたいな話だ。
古墳時代の皇后に九州出身者は1人もいない。
892日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:05:34
>>889 >>890
自分が比定したいところに持って行くのに都合が悪いというだけね。
893日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:55:02
>>890
風俗についても
「有無する所、タン耳・朱崖と同じ」とあるように
中国の海南島あたりの習俗と混同している可能性は良く指摘されるところ。

基本的に中国の側の記事と日本の側の記事に分け
前者はまあ正確だろうと言うのが
畿内説・九州説に関らず大方の認識ではないのかな?wwwwwwwww
894日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:41:18
>>893
風俗まで信憑性がないとするとし、中国の側しか正確でないとすると
あなたは何を根拠に邪馬台国について考察してるんですか?
895日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:15:48
>>894
3世紀古代日本の状況からだなw

無論それはあくまで「蓋然性」の範疇を超えるものではないがww

まあ九州から「奴婢百人の殉葬」の跡を伴う3世紀頃の墓なんて物でも出てきたら
九州説に鞍替えするんでそん時はヨロスクw

勿論そんな時は来ないだろうとは思っているがwwwwwwwwwwwwwww
896日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:57:06
>>888

神武は九州だろうが、ニギハヤヒが九州出身かは不明。
ニギハヤヒと天火明が同一だと言ってるのは、物部氏だけ。
物部氏が天皇の外戚になったのは、神武よりずっと後から。
天火明を祖とする海部氏・尾張氏は近畿の大豪族。
神武より先に大和に君臨していたのは、明らかにカモ氏。
神武より後で、九州出身の豪族が天皇家の外戚にも臣下にもなったことがない。
神武が日向で娶った妃の子のタギシミミは殺されてしまう。
897愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/21(日) 14:43:51
翰苑
「憑山負海、鎮馬臺(上部は「去」)以建都。」
「邪届伊都、傍連斯馬。」
その注として廣志逸文
「[イ妾]國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、百女國以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、」
ここから
「邪」=「[イ妾]」=「倭」
「馬臺」=「面土」=「末(盧)」
898愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/21(日) 15:01:50
また考えてみます。
ZZZ・・・・
899唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 16:14:04
237年は、太国説崇神元年 崇神10年には、大彦とその子供が崇神に使えている。
503癸未  206丙戌  孝元崩御 ここで1代誤魔化している。
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:05:46
>>899
それがしも親父が30歳のとき生まれた。それがしが35歳で結婚したと
して36最あたりで子ができる。別におかしくはないだろう。こういう
場合もあるわけだ。
杖刀人のことから雄略と銘文は言えることは矛盾がない。即興で
やったんだから、ゴマ化しだとか、そんなにムキになるな。
だいたい神武が50歳ばかりで結婚してるわけだし、家康だってその
ように歳を食ってたんだろう?w
だからおかしくはないよ。日本武尊も童男と記紀のそのへんにあだ名
的に云われているわけだから、10歳代での活躍だよ。ということは、
家来が実質上やりくりしてたわけさ。江戸城造るにも実際は大田氏
もそこにいたわけだが、実は多数の左官がやってくれたわけよ。
矛盾なし。
901太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:09:20
>>900 訂正
× 36最    ○ 36歳
902唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 17:45:33
453癸巳  190庚午  開化誕生
大彦は、開化より年上、同年生まれとしても (471−190)/8≒35
35年で継いでいる。1代位35年で継いでも8代の平均値では、支持できない。
子作りと築城を一つで考える 太国説 ですか。
903太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 17:53:33
>>902
だからそれはあんたの現代的頭での考えが古代もそうだとせねば
ならないという拘束が妄想になるわけ。日本武尊はちゃんと「童男」
と書かれてるから、ちいともおかしくはない。あんたが大人でなけれ
ばならないと考えるのが、現代もそうなら昔もそうだとの即断が運
のツキなわけ。
904唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 18:12:45
471辛亥年を認めると
1157丁亥  521辛丑  繼體即位
継体の即位年に 西暦の干支(471辛亥のライン)では無い。
民は最新の西暦干支を使っていたが、書紀の記録には、使われなかった?
もし書紀の編纂時に書き換えた 西暦507丁亥年辛酉朔 この朔を
521 辛丑年辛酉朔と書き換えるには、
14年間で60の倍数で無ければならない、(書紀は、緻密な太陰暦で書かれている。)
通常書紀の伸長は加算することにより成り立っている、この後
1196丙辰  536丙辰  宣化元年=西暦536丙辰年2月壬申朔に 軟着陸しなくては成らないが
軟着陸不可能です。



905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 18:27:56
書紀の暦は、宣化元年=西暦536丙辰年2月壬申朔以前
履中元年庚子年春二月,壬午朔迄は 最低暦として読める。
太国さん 最低ここまでは、暦として読めるように圧縮しなければ
支持を得られない。
471年時点で西暦の暦が使われていたことを認めているのですから。

906唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 20:07:42
終いよければ全てよし。 ここが正念場です。 
太国さん がんばれ。
907太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/21(日) 20:23:52
おかしなことを云うねぇ〜?
西暦の暦が使われていた?? そんなことを云ってなかったと思
いますがねぇ? でもそれを肯定できる可能性はありましょう。

 神武即位=西暦元年

ならば、そのころから西暦を把握していたという論の成立はあり
えるという可能性はあります。紀の神武即位が前660年の辛酉にて
書かれているんだから、西暦元年も辛酉だし、紀の原書に辛酉即位
とでもあったということは十分ありえます。そこで舎人親王一派は
初代天皇でありここは動かせないとして、干支が辛酉になる前660年
の辛酉固執で書きこんだということになりえますよ。
908日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:47:26
西暦は無いわ
909日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:04:13
910日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:37:21
邪馬台国では紀元前から西暦(太陽暦)を使っていた。
矛盾するようだけれど、キリストは卑弥呼のひ孫。
邪馬台国が滅んで卑弥呼の子孫の一部は
大陸に渡ったとすれば、すべて説明がつく。
911日本@名無史さん:2008/09/22(月) 13:07:12
な、な、なんの説明ですか・
912日本@名無史さん:2008/09/22(月) 13:13:30
紀元前に西暦を使うなら
なぜ紀元「前」なのwwwww
913日本@名無史さん:2008/09/22(月) 13:41:29
紀元前の倭には、イエス・キリストの生誕を予言し得る者がいたのであった・・・
914日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:17:18
>>913
そうだよ。東方の賢者とは倭人の意味だし。
915日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:31:08
賢者と預言者は、ちゃう
916日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:35:35
聖徳太子と秦氏はネストリウス派キリスト教徒。
917日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:41:37
太子が仏教を推奨した意味を述べよ。
918日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:54:14
仏教を推奨したのは蘇我氏。
919日本@名無史さん:2008/09/23(火) 00:08:01
太子が仏教を17条の憲法に載せた意味を述べよ。
920日本@名無史さん:2008/09/23(火) 00:43:22
太子が実在したと思ってるの?
921日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:17:51
>>920
太宰府にいたよ
922日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:18:55
実在しないとでも思ってるの?
923日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:21:12
実在したという証拠は?
924日本@名無史さん:2008/09/23(火) 05:39:21
実在しないという証拠は?
925日本@名無史さん:2008/09/23(火) 07:28:19
キリストは日本で死んだという伝説が十和田湖にある。
926唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 10:37:50
太国さん 書紀編纂者舎人親王一派?は
宣化元年=西暦536丙辰年2月壬申朔 この数字は、誤魔化していません。
そして 雄略元年=西暦507丁亥年辛酉朔なら 誤魔化しは有りません。
太国説1157丁亥  521辛丑  繼體即位 だと
継体元年521辛丑から宣化元年536丙辰迄の間に 521−507=14
14年間圧縮しているのが 太国説 この14年間の圧縮を 朔で説明してください。
471年辛亥時点で中国の干支を使っていることを支持する太国説ですから、
継体元年丁亥年辛酉朔が 中国干支継体元年=辛丑年である説明を求めているのです。

ここが数字で説明できなければ、太国説に数字的裏付け無し。
927唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 11:13:38
神功五十五年(乙亥)百済肖古王死す(日本書紀)
百済近肖古王死す(三国史記・乙亥 375年)

神功六十四年(甲申) 百済貴須王死す(日本書紀)              
百済近仇首王死す(三国史記・甲申 384年)

太国さん 書紀編纂者舎人親王一派?は上記の様に 神功39年以降は、
中国の干支と同等であるとして 書紀を編纂しています。
書紀編纂者か太国氏又は、両方に間違いがあります。
書紀編纂者の間違いとすると太国説は、破綻。
なにしろ書紀編纂者は、「元の歴史的長さを知っていてそれを伸長した。」が
太国説ですから。
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 11:58:27
唐松山さんよ
干支の逆算と朔の逆算とは水と油のごときものですよ。それを混ぜようっていう
のがあなたの考えのうまくないやり方だ。

梁書には齋の 永元元年=499年 に沙門慧深の乙祁(オケ=顯宗天皇)の記事が
あり、3年乙祁は国政を顧みなかったという話が載っている。これは皇位を兄の
仁賢と相方遠慮していたことを意味するのだろう。結局折れたのか兄の命で弟が
即位したわけだが、あんたの考えじゃぁ

 499年=武烈即位の翌年=武烈元年

となり、とうに顯宗、仁賢もこの世にいない年だぜ。ww
それとも倍暦でない何らかの圧縮があるんだと云うのかね?ww

拙者の倍暦だとちゃんと合う。ほらっ

 499年=永元元年=顯宗即位元年
929唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 13:22:06
沙門慧深が齋の国に渡ったのは、梁書に書かれた「乙祁」の時代を下ること
15年後(顯宗天皇=485〜487)であった。
この間沙門慧深は、倭国と連絡を取っていない。
930太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 13:30:27
ならば乙祁は武烈なのか?w
931唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 13:40:02
上記の様な読み方も出来るわけであり、渡った年のことと書かれているんですか?

それよりも 太国説は、数字的裏付けの出来ない理論、編年であることを。
吐露した方が大きい、
太国説は 数字解析の出来ない(数字的裏付け皆無)編年であり 破綻。
最低1つ位は、2,3倍を支持する記事を見つけないと。


932太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 13:44:33
ほほぅ〜?? 15年も慧深は中国人に日本のことを黙ってたんで
すか? 密航でもしてたんですかな?w ならば15年後でも話は匿名
しかありえんでしょう? 合法なら、帰国次第珍しくて注目され
るし、日本という外国のことをうんとしゃべりますよ。
933唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 13:44:53
間違えた。
乙祁なる名称が 499年に国内で使われていたとする証拠は?。
絶対にない。
934唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 13:50:45
慧深が斉国に渡って直ぐに斉国語を喋れ、斉国人の質問に答えられた。
と見るより 何年間も学問をし 斉国人から一目置かれるようになってからの話
と見る方がより自然。
935唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 13:51:47
>933は、私の間違い 取り下げます。
936太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 13:53:12
唐松山さん
証拠と云ったら、もうあなたは追い詰められてるということですよ。

古代の資料は少ないんだから、証拠と言い出せばどんな学者でも古代史の大半
は証明なんかできっこないでしょうな?古代史討論は刑事事件の裁判ではないで
すよ。あれは万一被告人の無実を着せないための厳格なチェックであって、その
万一でも失敗は許されないことからの、不必要でも証拠証拠で固めて無実の
可能性を排除する目的からのものでしょう。古代史にそれをやったら、貴殿でも
それがしでも死ぬまで言い合って止まらんでしょうが。ごく当たり前の考察で
不合理を排除するやり方がよろしいと想いますがねぇ・・・?
937太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 13:56:18
>>934
それでも15年は遅すぎますよ。せいぜい2〜3年が限度でしょう。元相撲取りの
露鵬、白露山も15年くらい必要になるんですか?
938日本@名無史さん:2008/09/23(火) 15:36:04
相撲取りは2、3年ではない。
15歳〜30歳過ぎまでだ。
939唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 15:51:20
表・泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀
16日が丙午なら 朔は、辛卯となる 月を5月として
泰■四年を探すと 西暦326年 東晉明帝太寧4年となる。

つまりだ 太国さんの編年には、この様な数字的裏付けが 皆無。
940唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 17:13:34
読めない文字を、強引に読み下して 読める文字を無視したのでは、正しいと言えない。
東晉明帝太寧年間 西元323年4月22日(星期一) 〜 326年3月19日(星期六)
元年3月戊寅朔…12月甲辰朔 この数字から4年辛卯(16日丙午)を探せば有ります。
東晉海西公太和年間 西元366年1月28日(星期六) 〜 371年12月22日(星期四)
元年1月庚子朔…12月庚午 この数字から4年辛卯朔(16日丙午)は無い。
941太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 17:28:19
>>940
あなたこそ例の欠史八代の日数表の月後半を全く無視してますね。w
これで正しいと言えるのですか??

同表の月後半の傍半カメラには全く半認の姿は有りません。
そこは有倍が無いんですがねぇ。
942太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 17:30:39
>>940
その話、途中日数の空白があったらもう〜おじゃんですがね?
943太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 17:39:38
>>939
いままで各統計表を書きこみましたが、その殆どが月後半あたりが
0に近いですよ。干支が空回りでは合うわけが無いでしょうがね?
この前も書きこみましたとおり、グレゴリオ暦でも1582年では日数
の空白虚無日がありますし、古代ローマに遡れば逆に1年が445日
あった年もあるそうです。そういう不規則な状態が古代日本にも
あったのかと考えれば、同多数の表によれば月後半がほぼ0に近い
天皇の治世が崇神とかを除いて多々あるのをが確認できることは、
あなたの日数干支は合ってないことは風前の灯火の如く確か
ですよ。
944唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 18:00:12
七支刀 に書かれた年号は、大陸中国のものと判断する
中国の数字にも 空白を求める 太国説。

あまりにも酷い。
945唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 18:16:56
欠史八代の日数表の月後半を全く無視
4世紀が欠史八代の時代ではなく、大陸や半島との交流が頻繁に行われた
時代であることを無視しています。そして
「欠史八代の日数表」成るものは、月後半の記事を無視する事でできあがったもの。
平安時代でも宮中の行事は、月前半に偏る
この偏りは、「異常である」とし 「夏の盛りに新年を祝う」のが 太国説

946唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 18:39:31
どうしても 空白の疑問に言及するなら
各天皇の治世後半の空白の方が大きい。
そして この空白の間には 何の変化も認められない。
治世前半の半年余りを圧縮するより 整合性がとれる。
947太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 19:55:51
あなたは天皇治世の末期あたりに空白があることを重視していて、
先の日数統計表の月後半のほぼ無記述状態を何故軽視するのか?
こういう点があなたの恣意的考えのある場所ですな。
以前から幾度も言いましたように、天皇の死は暗殺、自殺等以外は
動かせませんよ。月後半に死亡が無いのは貴方の説明では通らないで
すね。

七支刀の泰□四年はそんな年ではないでしょう? 倍暦計上にて

 泰始四年=468年=安康元年

が正解だと想いますね。これも元年ですね。梁書のあれも元年、
また稲荷山鉄剣の干支も〜これさえも元年を指していますよ。
948太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 20:07:27
>夏の盛りの新年
ありうることですよ。開化天皇は春日宮なのに春でもない11月即位
です。孝安天皇も1月即位のくせに秋津島宮ですからねぇ。当然
夏に正月はありえますね。
949日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:35:17
でたらめな暦は、暦がなかったのと同じ。
それをあったとするために倍暦4倍暦を捏造するのは誤り。
かれらは、自分の都合しか考えていないのだから。
950唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 20:42:20
北魏文成帝和平年間 西元460年2月8日(星期一) 〜 466年1月31日(星期一)
西暦460年 1月甲子朔…12月己丑
この数字を持ってしても468年に辛卯朔は、有りません。
この朔は、323年3月戊寅朔と 同列です。

開化天皇はカスガ宮=春日は当て字。
カス=春と読む 読み方でもあるんですか?
又は カス=春の意味? かすみ=春なら解る。
951日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:50:13
春日宮の春日は、土地の名前だろ。

冬に宮を置いたら冬日宮になるのか?
夏日宮や秋日宮はどこにあるんだ?

バカか?
952唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 20:50:21
開化天皇当時 春は、野焼き(種付け前の焼き畑)で 霞んでいたことは、認めますよ
それと 春日宮は、春の象徴とは 違うでしょ。
せいぜい 春日宮の建てられた位置が煙の集合場所だとか 
そんなもんで 煙にまかれる 唐松山では、有りません。
953日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:51:30

暦とかの話題は俺は全然ワカランが、気になったからレス。

>>950
春日は元々、「はるひ」と読む。
が、霞処(かすが)という言葉の枕詞なので、

春日(はるひ)の霞処(かすが)

と通用されていた。
元々枕詞だった物が主体語を食ってしまって、
春日を「かすが」と読むようになったんだよ。

同じく枕詞が主体語を食ってしまった例として、
長谷と七夕がある。

長谷(ながたに)の初瀬(はつせ) →長谷(はせ)
七夕(ななゆう)の棚旗(たなばた)→七夕(たなばた)

日本語って面白いだろ?
954唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 21:00:56
太国さんに教えてあげる
焼き畑の土地に最初に生える(有害植物)は、萩や唐松。
萩=藤の木。
955日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:05:56
だから、春日は土地の名前であって、宮が置かれた季節とは関係ないっつの。
956日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:06:13
いや、一次遷移で唐松も萩も生えねぇよ
957唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/23(火) 21:10:44
お〜 はせ が有ったか
958日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:49:12
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 21:52:03
>>951
だったら ↓ は月後半がないのか? どうだ? 説明してみろ。

【紀の欠史八代の即位、立太子、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


この ↑ 厳粛な紀の記述をよ〜く眺めてから能書きを云え。
これは当時の1ヶ月が1日〜14日間だったということの文証なのだ。
お前の小賢しい文句位では動かないね。1ヶ月間が2週間しかない
のであれば、夏の正月はありうる事だな。それとも紀はデタラメか?
960太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 22:08:11
>>939
「太寧四年」だって?ww
いいかい七支刀はX遷検査で□の部分はノギヘンだと判明しているん
だそうだぜ。それで『寧』の字でいいのかね?www
こっちはそれでも反論できるぞ。
961太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 22:16:05
>>960 訂正
× X遷    ○ X線

この件、唐松山さんはもう沈没!!

962日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:18:36
>>959

意味がわかんない。
昔の暦は、一ヶ月が2週間しかないっていいたいの?
だったら、1年は24月ないとダメじゃん。
どこに、「14月3日」とか「21月9日」なんて記録が残ってるわけ?
963太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/23(火) 22:25:19
>>962
君は美濃もん太氏でないのか?wwwwwwwwwwwwwwww
14月とか21月っていうのは紀に記述ないから大間違いだな。
ということは、当時の1ヶ月は現今の半月だったということだ。
つまり2倍暦をやってったのさ。だから夏に正月があったことは
可能性が充分ありうる。
964日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:42:17
2倍暦だってさ(笑)

一ヶ月が2週間だと365日で24ヶ月になるが、
1年は12月までしかないから、
12ヶ月(183日)で1年とし、
365日で2年という計算なのか?
なんだその数字合わせは。

一ヶ月が2週間という数え方はいいとして、
どこに、12ヶ月で1年と数える要件があるんだ?
965日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:03:02
>>954
www
23月6日誕生日なんで
祝ってくれやwwwww

おまいの一年長すぎwwww
966日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:48:35
古瀬絵理 『スイカップ』
http://suikup.free.fr/
967日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:29:56
元々1年は12ヶ月だと、誰が決めたんだろ・・・
968日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:10:47
>>967
お月さまが決めたの
969日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:11:30
月の満ち欠けがおよそ12回あるからだろ。

太国は自然の摂理を無視している。
970日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:16:14
一ヶ月は月が一回満ち欠けする周期。春夏秋冬が一巡りする間に、それが12回だから一年が十二ヶ月になったんだろうね。
一ヶ月を月の満ち欠けから切り離して、春夏秋冬のサイクルを無視して一年を考えるなら、
一年が十二ヶ月である理由は何処から持ってくるのかな。
971日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:41:28
初期の暦は、植物のサイクルに日を加えたもの
月は天候次第で何日も見えない日が続くが、日の明るさは毎日休まず確認出来る。
だから
植物のサイクルと日を無視したものは
暦とは言わない。
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 07:45:12
>>964
>6段目まで
 そのとおりだよ。
>どこに
 >>959を厳粛に見て考察するに、さらに
 紀には13月,14月,15月・・・24月という記述は全く無い。ということは当然
 12月までしかないということだから、当時は1年が現今の半年だったという
 ことになる。よって現今の1年は当時では2年経過していたということである。
973日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:55:31
>>972
一年と一歳は別物。
当時の一年が現在の二年分になろうとも、歳が動かなければ人の年齢は変わらない。
そのへん考えているのかな?
974日本@名無史さん:2008/09/24(水) 08:59:23
>>973は訂正

「当時の一年が、現在の二年」ではなく


「当時の二年が、現在の一年」
に訂正だわ
975日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:15:54
これで倍暦は沈んだな。
976太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 11:10:28
>>973 >>975
そういうことは>>959の説明が合理的に出来てからモノを云ったほうがいい。
977日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:18:20
>>976
個人的な解釈が関与したしたものをどんなに出されても意味ないです。
たまたま日が偏ったと解釈する事と、何らかわりはないからね。
978日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:31:22
やはり倍暦は沈んだな。
979日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:36:07
倍暦は結果へ導くためのつじつま合わせと理解出来ました。
980日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:43:01
>>976も、ここまで否定されれば本望だし、成仏できるだろう。
981日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:55:16
1年の計として全国に「大歳祭」があるわけだが、
1年に2回「大歳祭」があるならば2倍暦を認めよう。

が、しかし、1年に2回「大歳祭」をやってるような神社は無い。
982日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:20:24
>>981
あるわけないよ、倍暦なんて数字合わせの脳内妄想なんだから
983太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 14:44:20
>>977
>偏った
具体性がまるでない。>>959月後半は主流煙どころか副流煙もな〜い。
偏ったなどはお前の気休めの詭弁だな。wwwww
>>959表を見て、その傍半カメラの月後半は半認の姿はまるでな〜い。つまり
お前の言い分では月後半には有倍が全く無〜い。お前は何故そこに半認が写って
ないかの合理的理由が偏るなどとのたわ言で終結している。同表の日の有倍は
全て表左半分に集結していてそこに日骸者と半認がいたこととな〜る。
つまり同表は1日〜14日の2週間の月前半に半認がいた事を認めるほかはな〜い。
お前には半認を探す捜左員の職はさせられない。
984日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:53:15
確認するのは面倒だから>>959の統計は正しいものとする。
日付がランダムに当てられた場合の1〜14日に当てられる(15〜に当てられない)確率は、簡単化の為凡そ1/2とする。

統計の47項目が全て1〜14日になる確率は(1/2)^47=1/(1.4*10^14)
140兆分の1の確率で偶然偏ったってのは余りに非現実的だから、何らかの意図があったと見るのが自然ではある。
ただそれが倍暦であるとは一意には定まらない。根拠がやや薄弱に過ぎる。
985日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:54:28
>>983
下らない当て字でごまかさないで下さい。
下らない当て字なんてしていると、余計必死さが滲み出てきます。
986日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:01:46
>>983には
根本的な暦の発生から倍暦使用に至までのプロセスを説明
してもらいましょう。

>>983どうぞ
987太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 15:14:31
>>984
欠史八代の天皇はその全てが月前半に死亡している。こういうように
8人も連続して月前半に死亡するとは多大連続の自殺、暗殺があっ
た以外には極めて考えにくい。つまり意図で月前半に全員死ぬなど
とは通常の頭で考えてありっこはない。これは当時1ヶ月が2週間
しかなかったんだよ。つまりだ現今の半年が当時の1年だったという
ことなのだ。すなわち2倍暦法を行使していたのだよ。
988太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 15:24:43
>>982
いくら ↓ お前が抜かしても下表はお前にはどうにもならないよ。

【紀の欠史八代の即位、立太子、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0
2日 2  16日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0
        29日 0
        30日 0

これは当時2倍暦法を行使していたからだよ。当時の1年は現今の
半年だったということ。1ヶ月は当時は2週間だな。
989日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:28:19
>>987
それはあくまで結果から導いたものだ
一年を半分にしたら、人の力ではどうすることも出来ない、自然のサイクルはどうなるんだ?
それとも記紀だけに用いられた、書物上の現実とは乖離した特殊事情なのか?
990太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 15:39:01
>>989
結果がどうのというより、8人の天皇が全員月前半に死ぬなどと
いうことがありえないだろう? 自殺暗殺だったら当然月前半に
死ぬようにはできるが、まさか全員がそうだったとは貴殿だって
肯定はしないと想うがねぇ? それをそうだと云うなら、拙者は
貴殿と論議はもうしないがねぇ? だと説得できないし・・・。
そういう全他殺等の超特殊なことは可能性としてはあるわけだが、
まず外れだと想うよ。
ということはだ、当時は1年が現今の半年分だったと考えるほうが
安全だね。また貴殿が紀の内容をデタラメだと言うなら、これも
もう論議は諦めるがねぇ。w
991日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:54:00
>>990
暦の話しをしているのに、全く暦について触れようとはしないのは何故ですか?
992太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 16:23:23
【紀の欠史八代の即位、立太子、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0
2日 2  16日 0     当時の ↓ カレンダー 月の暦
3日 3  17日 0     の例(1ヶ月が14日間)
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0     日 月 火 水 木 金 土 
6日 3  20日 0          1 2 3  4  5
7日 2  21日 0      6 7 8 9 10  11  12
8日 3  22日 0      13 14
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0      書きこみの関係↑で数字のズレが
11日 4  25日 0      不可抗力で出ます。
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0
      29日 0
      30日 0


なお2倍暦は暦の話。話してないなどとはこれまた滑稽だな。ww
993太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 16:28:19
2倍暦の話は暦の話だよ。暦について触れてないなどとは、もう
奴の頭がおかしいのだろう? Pu!wwwww

それよりよ〜く上表を拝んだほうがいい。wwwww
994日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:58:15
>>988
即位・立太子・立后の日程は人為的に定めるので、意図的に月の前半を選んだとも言えるので、証拠能力なし。
崩御のみ、人為的ではないということもできる。
しかし、一ヶ月が半分だったと主張するには、8例ではあまりにも数が少ない。
しかも、崩御に関しては、実際に死んだ日と記録された日が同じとは限らん。
例えば春秋左氏伝隠公三年に
三月壬戌に天王が崩御したが、庚戌のこととしてしらせてきたので庚戌と記録する。
という文がある。
結局、たった8例だけのあやふやな根拠で、一ヶ月が15日だったと主張する暴論と言わざるを得ない。
995太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 18:06:02
>>994
現今でもそんなことが8回もあるのかねぇ? それはたまにはマグレで
そういうことはあるだろう。 古代史では刑事事件級の証拠までは
論議では必要はないぜ。あれは毎回回数を多大に重ねて刑事裁判を
やってると、たまに無実の罪を有罪としてしまう危険があるからだ。
だから本人の一生に多大なる不利益を蒙らせることになるから、厳格
な証拠が必要なわけで、これはもう証拠証拠で固めなければ無実の
者を死刑台に送り込む可能性が、万でもやってると出てくるおそれが
相当出るからだ。古代史はそこまでは必要はないね。それは証拠が
固まればなお可だがね。8回も日付を変えることはまずないぜ。お前
の云ってることは例外中の例外なわけ。そういう滅多に起こりえない
ことがお前の一本的な蜘蛛の糸的言い逃れさ。www
だいたい余の説に証拠などと云ってくるということは、余の論が威力
あるからであり、よ〜く映画、TVの犯人が結末で証拠を示せと
豪語するようなのと似たような弁だ。www つまりお前が追い詰め
られている証拠のようなものだぜ。wwwwwwwwwwwwww
余の論に対する反論の実力が一本的蜘蛛糸のみの薄弱品であるから、
証拠の語でもってカバーしてるだけ。
おさみしい抵抗なわけだよ。Pu!! wwwwwwwwwww
996太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 18:26:15
>>994
天皇が連続で八代間全部月後半に死ぬことは自殺、暗殺以外は通常
の頭を以ってしては考えられない。たとえお前のいう死亡日ズラし
があったとしても1個くらいだろう? 国書はそんなにいい加減な
デタラメでは殆どないと想うぜ。
今日は墓参に行って来たが、うちの墓の墓碑銘には7,8人の享年
月日が書かれてある。しかしそれが全部月前半に死んではいないし、
お前の言うような死亡日ズラしなどはなく、みなその日に死んだウソ
のない記載だよ。お前の言うことが誇大視するわけに行かないのは、
ま〜ずお前の墓の墓碑銘とかをうんと調べてみろ。年月日のゴマカシ
など利害が少ないから、墓碑銘書きこみで不正やる奴なんかはいない
ぜ。お前自分の反論に自信があるなら、お前の家と親族の墓の鬼籍
に入った人の年月日を調べろ。wwお前はそれをすまいがねぇ?お前
からして、調査をやる前に死亡月日のウソの墓碑なんか無いと腹内
で自認するだろうからなぁ。wwwww

ただしお前の反論のようなことは1件別に知っている。これは古田
先生が半島の嶋王の墓誌を調べたところ干支の改刻で1年ズレてたと
いう。嶋王は日本人のような者だから、倍暦を当時知っており、それ
を誤記と倍暦を知らない人物か?が、改刻で直したんだろうと想う。
しかしこういうことは滅多にはないよ。
997日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:28:23
太国は、「大歳祭」が1年に二回ある例を探してきたまえよ。

「○○神社では、春と秋に大歳祭が行われてる」って例を、挙げてくれ。
998太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/24(水) 18:30:16
大歳祭のことでのみにて倍暦を否定するのは即断もいいところだぞ。参考で
調べてるなら、あんたがやれよ。
999日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:31:38
>>996
アンタの「考えられない」なんて主観はどうでもいいのだよ
妄想だったらなんでもこじつけられる。
1000日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:33:52
>>998

降参か?

アホ。
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