1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:28:30
3 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 09:39:18
>2
そのスレが「藤原北家スレ」と化しているからだと思われる
一番発展し、史料も多いのが北家だから仕方がないけど
単独スレッドはやりすぎじゃないのかな。
「藤原氏:北家以外の3家を語る」くらいにしておくべきでは?
5 :
2:2008/04/21(月) 09:55:05
てんぷらにリンク貼れって意味だったんだ
藤原式の家を語るスレッド、って?
↓
藤原氏で貴族を代表?
↓
奈良平安時代の貴族の家について語るスレッド
↓
奈良平安時代の貴族の家政について語るスレッド
奈良平安時代の貴族の家庭生活について語るスレッド
奈良平安時代の貴族の家屋について語るスレッド
と言うとぼけた展開
7 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:33:00
まあ三家の単独スレは話題の少ないのから順に沈んでいくだろうが。
普通に考えたら京家が最初になくなるんだろうが、マニアックな興味から意外に長命になるかも。
8 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 16:35:57
百川、蔵下麻呂、種継と優秀な人材なのに、早死にが多すぎ。
9 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 19:47:51
式家って男子が少ないんだよな。
良継の息子は託美だけだし、百川の息子も緒嗣のみ。
10 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 21:21:15
逆に言えばそれだけ女子が目だった一族とも言える
11 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 23:20:45
桓武天皇を擁立したはいいが、桓武天皇即位前に
良継も百川も死んでしまったので元も子もない。
12 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 23:21:14
綱手の子孫に興味があるな。
謀反人として敗死した人物の子孫の割に結構続いている。
まあ目立った官位に就いた者がいないのは当然だけど。
13 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 10:02:07
広嗣の子孫はいないのだろうか。
綱手の子孫が生き残っている以上殺されたわけではないだろう。
系図を見るとかなり後に良継の子として別姓(確か良原朝臣)を賜姓され、
さらに10年くらい後に七位をもらった人物(以後不明)がいる。
もしかして広嗣の子とかってことはないかな?
>>12 仲麻呂の子孫も2、3系統くらいはしばらく続いている。
幼児は助命されこともあったんだろうな。
伴氏なんか謀反人の子(本人も謀反人)が少弁、孫が参議、曾孫が大納言。
ずっと後世だけど頼長の子にいたっては太政大臣。
罪が子に及ばない西洋流とは違うけど、東アジアの中では子孫に寛大かも。
義男のこと?
17 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 19:11:42
藤原仲成は785年に従五位下に叙任されているが、
12歳で従五位下は早すぎる。
桓武のえこひいき?
史料の間違い?
19 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 08:54:38
785年、桓武天皇お気に入りの藤原種継が暗殺されたため、
息子の仲成に種継への恩を授ける意味での叙位らしい。
仲成については764年生まれと774年の両説があるようだ。
764生まれの方が妥当だと思っている。
ちなみに同時期だと緒嗣(774年生まれ)が18歳で従五位下。
蔵下麻呂の五男綱継(764)が40歳、九男浄本(770)が42歳。
内麻呂(756)が26歳、長男真夏(774)は30歳、次男冬嗣(775)は32歳。
魚名の孫藤継(773)が29歳、同じく真雄(767)が37歳。
小黒麻呂の長男葛野麻呂(755)が31歳、次男道継(756)36歳、四男道雄(771)26歳。
楓麻呂の子園人(756)が24歳(直叙)。
継縄の子乙叡(761)が24歳。
巨勢麻呂の7男伊勢人(759)が45歳、十男貞嗣(759)が36歳。
21 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 18:08:01
百川か種継が長生きしていれば式家ももう少し繁栄した。
22 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 18:11:45
種継は敵が多そう。
暗殺されたくらいだし。
良継か百川が長生きしていれば
式家天国だったとは思うが。
23 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 10:56:47
式家って確か式部卿からきたんでしたっけ
24 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 14:11:10
南家の由来は武智麻呂の家が南にあったから。
北家の由来は房前の家が北にあったから。
式家の由来は宇合が式部卿だったから。
京家の由来は麻呂が左京太夫だったから。
ageて
26 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 01:00:31
種継の子孫も何かと事件な面々が揃ってるね。阿衡の紛議の火付け役の佐世とか、高麗?に内通した嫌疑を受けた元利万侶とか。
27 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 23:15:23
式家は広嗣、綱手、種継、仲成、薬子と政変での死亡率が高い
28 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 02:08:56
薬子の遺児貞本は23年間後、官界に復帰する。
薬子の変では、北家が式家にとって替わったように思われているが、
陰で冬嗣は同母兄真夏を議政官から排除する事に成功している。
冬嗣は策士。
29 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 08:11:41
薬子の先夫で貞本の父である藤原縄主(藤原式家)は
薬子の変で連座することもなく、官位もそのままだった。
それどころか、薬子の変の2年後中納言に昇進、
没後には従二位が贈られている。
30 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 12:06:02
縄主が何の連座も受けてないのは薬子とは縁が切れていたと見なされたということか。
31 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 21:43:17
政治的には今更どうでもいい存在と見なされていたのであろう。
平城&薬子の強力タッグから生まれた事件なのであって、
彼女の正式な夫が誰であったかなど、
ほとんどの人がすでに忘れていたのでは?
32 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 16:10:55
実家の近くに広嗣を祀った神社(荒生田神社)がある
>>28-
>>29 しかし後世式家で一番繁栄しているのは、何気にその貞本の子孫だったりする。
儒者の家として一時代を築いた明衡の一族がいるし、歌人として著名な仲文もいる。
そう言えば明衡の孫娘が新田義重の母なんだよな。
新田氏は女系で薬子の血統を受け継ぐ一族というわけか…。
新田その分流(亜流?)の正田や徳川(得河)は、清和源氏の男系ではなかったのでつか
女系が式家ってあるでしょ。源氏も藤原の血筋はなんであれ崇めていたのさ。
36 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 14:36:08
単に式家の血筋というだけでなく、薬子の血筋というのがポイント高いかもね
37 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:14:17
薬子の夫縄主と薬子の変で勝利した嵯峨天皇の母乙牟漏はいとこ同士。
薬子の父種継と嵯峨天皇もいとこ同士。
薬子からみれば、夫縄主は父親のいとこ、
愛人となった平城天皇も対立した嵯峨天皇も父親のいとこ。
なんだかんだいって近い親戚同士内輪揉めであることはよく分かる。
まあ近い親戚同士じゃないと権力の中枢に近づくこと自体が困難だもんな。
くすこのへん
インカ帝国の首都クスコ
初代皇帝はマンコ・カバック
41 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:38:49
良継、百川と比べて存在感は薄いが、
いつのまにか左大臣になって首班になってる田麻呂もなかなかのやり手。
42 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:02:33
>>9 :式家って男子が少ないんだよな。
良継の息子は託美だけだし、百川の息子も緒嗣のみ。
4家の3世(緒嗣世代)男子の数は下記のとおり
あくまでこちらの資料での数字だが、この時点では
そうでもない。
南家:28名
北家:12名
式家:13名
京家: 5名
>>41 田麻呂は子供がいなかったのが残念だね。
特に娘がいれば王家の外戚となって権勢を奮うこともできたろうに。
44 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:36:28
良継や百川も娘はいるけど、息子は一人しかいない。
種継が式家の代表者になれたのは、良継や百川や田麻呂に
壮年の息子がいなかったからだろう。
45 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 12:39:35
田麻呂の子供はいたとしても早死にしたのだろう
藤原は糞
藤原小屎(おくそ)は北家だな
48 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 23:24:24
式家の家系って近世まで残ってるの?
>>47 実在の人物でしかも女の名前だったよね それ
汚物を実名につけるのってどーいう感覚だったんだろ 現代人では理解できない
ロシア人(悪魔の呪いを避けるためにわざと汚い名前にするらしい)と同じ感覚なのだろうか
50 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 18:11:26
50
藤原雲黒斎
52 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 00:13:22
式家は緒嗣以降ろくな人材がいない
53 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:21:14
政治家に限定すればな
54 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 17:19:50
京家は問題外としても南家は藤原美都子や藤原盛子のように北家と外戚関係を結んでいる
なぜ南家に差をつけられてしまったのだろうか
次男坊の房前君と長男武智麿さをは同母で仲良しだったみたい
56 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:22:55
藤原式家は薬子の変と阿衡の粉議と2度も北家に盾ついたのが響いたな
平安初期には平城、嵯峨、淳和の3天皇の外戚と他家の追随を許さなかったのに
藤原美都子はともかく、藤原盛子の頃には藤原南家は地方官にまで落ちていて
盛子は師輔の妻とは言っても受領の娘と身分は低かったがな
もはや北家もとっくに没落。なのに国民の3分の2は、相変わらず室町までの北家を信頼し切ってる中古国民(つまり北家厨)多し。あはれなり
58 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:24:40
式家で最後の公卿って誰?
59 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 09:47:13
>>56 阿衡の紛議では別に北家に盾突いてないだろ。
むしろ忠実に基経の意向のままに行動。
60 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:50:35
>>59 藤原式家の藤原佐世はこの事件で左遷されているよ
追従したあげくに責任取らされたのか、下っ端は辛いね。
まあ自己責任のような気もしないでもないが。
62 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:08:41
追従した相手が悪かった
63 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:02:55
良継は永手、楓麻呂らに娘を嫁がせ北家と縁戚関係を築いた
64 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 20:33:56
永手は鳥養の娘も妻にしてたんだっけ。
同世代のやつの娘が好きなんだな〜。
65 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:45:26
広嗣と書いてひろしと読む名前の友人がいた。
66 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:25:00
67 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:09:34
早世した鳥養の娘じゃ政略結婚にならない
68 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:13:24
早世した兄貴の娘を娶ることで
北家の正統な後継者になろうとしたんだろ
よくある話
69 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:49:48
しかしどのくらいの年齢差があったんかの
70 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:02:52
永手の長男で鳥養女を母とする家依は
永手が30歳の時に誕生している。
鳥養は生没年不詳だが、鳥養女は永手の初婚の相手だとみられること、
遅くとも永手30歳のときまでに子を産む年齢に達していたことなどから
永手との年齢差は5歳〜10歳程度じゃなかったのか
71 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:26:06
鳥養は正室の子じゃないから嫡男だったかどうかは微妙
72 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 06:31:20
史学なんてやってる奴は無知蒙昧w
科学的実証考古学によってのみ過去の真実が証明される。
鳥養と永手の年齢差が凄かったという結論ですか。
しかし式家から全く脱線してるw
74 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 20:54:12
>71
この時代は嫡子と庶子の区別が曖昧
不比等の子供だって一番母親の身分が高いのは
不比等の異母妹で元天武妃であった五百重娘を母とする四男麻呂だが
麻呂が腹違いの兄三人を飛び越え破格な出世をしたということもない
兄弟順、次に本人のやる気次第によるとことが多い
75 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 21:13:22
広嗣は「我是大忠臣」と玄界灘に逃れた時に叫んだらしいけど
聖武天皇への反逆の意図は全く無かった、純粋に
吉備真備らを奸臣として除こうとしていた、ってこと?
それにしても真備のどこを嫌っていたのかさっぱり分からない。
76 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 21:30:14
77 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:04:16
>>76 この時代、蘇我氏出身であることが藤原氏出身であることより上のはずがない。
麻呂の母は天武天皇の夫人であったし、不比等の娘は
藤原氏出身にして皇后にまで上ったのだから。
78 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:17:26
>>75 そんなもの大義名分に決まってる。
徳川家康だって「幼君秀頼を誑かす奸臣石田三成を討つ」という名目で、
関ヶ原の戦いを起こしている。
79 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:25:24
>>75 広嗣は血筋は良い
だからこそ能力のある者は藤原氏でなくとも重用するという
聖武天皇の態度が気に食わなかったんだろう
80 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 07:42:50
>>77 いや、この時代でも蘇我氏や物部氏もそれなりに勢力はあるし、
豪族としての実質的な勢力を重視するのが現実的だろう。
形式的な権威がいくら高くても、実力が伴わないし。
81 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:52:28
>>80 武智麻呂らの母(蘇我氏)が不比等の実の妹五百重娘よりも勢力があったなんて嘘。
蘇我氏にそんなに勢力があったのならば、同時代、文武天皇の後宮に上がった蘇我氏の娘(石川氏を名乗っている)
が嬪の位をはく奪されたりせんだろう。
しかも、不比等の娘宮子はこの頃文武天皇の後宮で石川氏よりも位の高い夫人であった。
石川刀子娘の詳しい系図はわからないが、蘇我石川麻呂(持統天皇らの外祖父)の子孫であること、
不比等の妻となった蘇我氏と近い姻戚関係にあることは間違いがない。
にしても、官位を見ても麻呂は他の3兄弟より一段下には置かれてみられてたのだろうな
年齢的な問題もあるけど
『尊卑分脈』(後世の史料ではあるが)に「不比等は五百重娘を 姦 し て 麻呂を生む」と書かれたように
不比等と五百重娘の関係は周囲には良くは見られてなかったのではなかろうか
83 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:03:01
ウィキペディアに[[藤原義忠]]ができたけど、
読みは「よしただ」じゃなくて「のりただ」なんじゃなかったっけ?
84 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:11:18
>>82 五百重娘が天武天皇との間に産んだ麻呂の異父兄新田部親王は
親王としては最高位の一品に叙せられ文武天皇の補翼を命じられている
藤原氏出身の五百重娘が母親であることが麻呂の出世の遅れに影響したとはとても考えられない
兄達との年齢差、それに本人の資質
豪族の家では母親の身分よりまだまだこちらが優先されていたのだろう
って言うか、当時の貴族社会で4兄弟が議政官を同時に占めること自体が異常事態であることを理解していない奴多すぎ。
86 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 20:51:21
>>83 複数の説があるってこと。藤原愛発も名前の呼び方が多い。
武智麻呂(680生)
従五位下(705、26歳)→従五位上(711、32歳)→正五位上(?)→
従四位下(713、34歳)→従四位上(715、36歳)→正四位下(718以前、39歳以前)
→従三位(721、42歳)→中納言(721、42歳)→正三位(724、45歳)→
大納言(729、50歳)→従二位(734、55歳)→右大臣(734、55歳)→
正一位左大臣(737、58歳:死没の直前)→贈太政大臣(760)
房前(681生)
従五位下(705、25歳)→従五位上(711、31歳)→従四位下(715、35歳)→
参議(717、37歳)→従四位上(720以前、40歳以前)→従三位(721、41歳)→
内臣(721、41歳)→正三位(724、44歳)→贈正一位左大臣(死没直後)→
贈太政大臣(760)
宇合(694生)
従五位下(716、23歳)→正五位上(718、25歳)→正四位上(721、28歳)→
従三位(725、32歳)→参議(731、38歳)→正三位(734、41歳)
麻呂(695生)
従五位下(717、23歳)→従四位上(721、27歳)→正四位上(726、32歳)→
従三位(729、35歳)→参議(731、37歳)
まあ多少宇合より遅いかもしれないけど、そう大差はないような気もする。
88 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:31:08
>>87 武智麻呂が参議にならずにいきなり中納言になってるけど、
何か事情でもあったのかな?
>>88 史料には具体的な記述はないが
父・不比等の死んだ翌年にいきなり従三位中納言になっていることから
父親の後を嗣いでこの地位に就いたという説がある。
他の3兄弟は「藤原不比等の息子」という立場のままでは1家1議政官の原則により
出世の道が閉ざされているから、別家するというこじつけウルトラCにより参議になったと考えられる。
房前はともかく、あとの2人は官人の投票じゃなかったか?
投票結果(内訳)はわかるの?
>>91 内訳は分からない。
続日本紀の記述は位階順のようだから、得票の多い順も分からない。
ただ、同位階・同程度の官職なら先に書かれている方が得票が
多かったかもしれない。
例えば、宇合>多治比県守>麻呂(全て従三位)とか。
参議以上で投票(合議)したのかな、蘇我石川系、物部穂積系もとっくに少数派。大伴・伴系や田治比や敏達天皇子孫など旧皇族系が最大抵抗勢力(反フジワラ)W
>>93 主典以上の官人396名からの推挙による。
すなわち、(部下がいる)各省の卿などに票が集中するのは必然。
上手いことやったもんだ。
95 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:29:26
広嗣は親族への悪口で左遷されたって言うけど、
「親族」ってのは豊成や仲麻呂のことなのか?
普通に考えてその辺でしょうね。
対象は自分より地位かが高いかライバルクラスだろうから。
>>97 地元の人々から英雄は愛される!!(朝廷からきらわれても)。
99 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:17:42
左遷先なだけで別に広嗣の地元じゃない
左遷されて自暴自棄になったんだな
WW、しきけ百越え
百川
103 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:11:55
104 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 10:58:38
改革!前向きな反乱!
大塩平八郎の乱よ同じだ!
105 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:47:30
広嗣という人はよほど短気なのか?
左遷といってもそれほどでもないだろ?
都に居たい個人的理由でも有ったのか?
大和国守(今で言うところの東京都知事)→太宰大弐(福岡県副知事)
しかも、最初任官時の推定年齢が大卒程度と考えると・・・まあ切れるのも分かってあげてよ
一家の家長としては最低の軽率な行動取ったけど。
107 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:42:51
吉備真備や玄ボウが悪いんじゃなくて、
明らかに自業自得なのに死後怨霊扱いされてるんだよな。
良継や百川にとってはいい迷惑だ。
108 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 00:10:31
>>106 >大和国守(今で言うところの東京都知事)→太宰大弐(福岡県副知事)
×太宰大弐(福岡県副知事)
○大宰少弐(仮に九州管区地方局次長)
109 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 01:20:36
良継なんてもろに被害をこうむったな、確か流刑じゃないか?
怨霊さわぎもあり短期間で本官に復帰したけど
恵美押勝の乱がなかったら運命も開けなかったろう
軽率な兄貴と比べ能力は断然上
藤原うまいかい?
112 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:51:39
>>109 良継までいくとかなり腹黒いかな
広嗣の乱で流罪になった後汚名を挽回しようと
またまた仲麻呂にクーデターを企てて解官。
ここまでなら兄広嗣とやったことは変わらない。
3度目の正直というべきか、弟百川と企てた
井上内親王・他戸皇子を廃するクーデターは初めて成功。
娘の乙牟漏を自分が擁立した皇太子山部親王(のち桓武天皇)の正妃に押し込み、
これから山部親王の岳父として思うがままに政治を行うところを死去。
乙牟漏はのち桓武天皇の皇后。
113 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:46:41
良継、百川が長生きしてれば、桓武天皇は式家の傀儡に甘んじざるを得なかっただろうし
二人の死のタイミングは桓武天皇に都合が良すぎる。
114 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 21:10:49
藤原良継=没年62歳
藤原百川=没年49歳
良継や百川が早死にだったというより
当時の平均年齢からいえば政権がとれそうになったときに
すでに結構な年齢だったということか。
百川は強引過ぎた分敵も多そうだし
長生きしてもうまく失脚させられずに終われたかどうか。
自分が擁立した桓武天皇にはめられて流罪にでもなってたかもしれん。
115 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 00:53:39
良継の官位について
光仁擁立の時は平参議でその後内臣に任じられ
死亡年に内大臣に成ってる
この頃の内大臣(内臣)の職責は?
116 :
アーイェーオーイェー俺金子フロムLA:2008/11/16(日) 01:53:00
なんでよ
>>115 准大臣といったところ。
大納言になっていない良継は右大臣以上になる資格がなかったから。
118 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 03:54:33
>>117 レスd
鎌足の例はともかく
房前(内臣)の時は太政官から独立した職権を持ってたと考えられる
平安時代中期になると(内大臣は)天皇の外祖父に与えられる名誉的地位になり
その後は常設に近い単なる第四番目の大臣になったと思う
任命の経緯から見て単なる箔付けかな?
119 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 20:43:08
>>118 房前は正三位参議が極官だったはず
天皇の外祖父として名誉的に内大臣になったのは藤原高藤ただ一人のみで
別段内大臣が外祖父の地位だったわけではない
普通は天皇の外祖父はもっと出世しているしね
高藤は傍系だったからだが
でもまあ続日本紀の薨伝読む限りはあんまり
能力や人柄は良くなかった感じだな良継は
むしろ寝技師的な印象を受ける百川の方が
皇族のウケは良かったみたい感じ
高藤以前で生前に孫が天皇になった藤原氏は良房だけなのだが。
まぁ、高藤の家系や能力の問題は否定しないが、時平の年齢と道真の出自ではどっちかを太政大臣にするのは無理な話だろう。
122 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 05:49:32
内大臣は高藤の後、次に任じられたのは兼通(50年ぐらい空いてる)
兼通(中納言)が弟兼家(大納言)を超えて関白に任ずる為の便宜上の処置
(伊ただ(まさ)死去で太政大臣は空いてるが一気に任じるのはさすがに強引すぎる)
その後は常設といっていい
良継の内臣の話に戻すと
房前の内臣は続日本紀をみれば太政官から独立した権能があるのは明らか
良継の場合の事が知りたい
123 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:45:54
>>120 良継の一人息子も緒嗣と違って優遇されてなかったみたいだしな
>>123 優遇される以前に惨めな死を遂げたけどな
125 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:39:49
>>123 良継の娘乙牟漏は桓武天皇が大層寵愛して良継の死後であるにもかかわらず皇后に立てられ、
乙牟漏が死亡した際には二百人を出家させるほどだった。
平城・嵯峨両天皇は乙牟漏の子。
生きていれば良継の子は平城・嵯峨両天皇の外戚として重用されたであろうに
壮健な男子に恵まれなかったのか。
126 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:34:10
百川も長男緒嗣は晩年に生まれてる。
田麻呂は子供がいたかどうかもわからないし、
宇合の息子達は清成と蔵下麻呂以外はあまり男児に恵まれていない。
やはり、謀叛人の弟に娘を嫁がせたい物好きがいなかったのかな?
128 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:31:13
藤原北家の藤原重国のこと知ってる?
129 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:54:48
>>128 ここは式家スレ。
北家スレもあるからそっちへどうぞ。
130 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:11:40
藤原や公家関連は、原則が北家スレ 北家スレ立てても何論議するのか不明?
132 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:35:56
ごていねいにどうもどうもホッケホッケー
あっ言いわすれたけど 奈良の法華寺はホッケ発祥の地
ホッケよりシャケのほうが美味しい。
136 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:30:52
>>127 そんなとこだろうね。種継が生まれたのも広嗣の乱以前だし。
137 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:46:36
>>135 んな、こたあない。
いうなら、マホッケよりシマホッケだろ。
138 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:15:25
>>136 そうとも言えないだろう。
宇合の八男と九男と言われる百川と下蔵麻呂は広嗣の乱のときには
まだ9歳と8歳で、当然結婚したのは広嗣の乱の後なわけだが、
ちゃんと妻や妾を持ち、子もいた。
田麻呂は広嗣の乱のとき19歳で、むしろこれ以前に結婚していても良さそうなものだが。
広嗣の乱では失脚した式家だが、光明皇太后の没後南家の恵美押勝が失脚したこともあって
不遇だった時期はそれほど長くない。
子供の夭折が続いたか、子供ができなかったかの偶然だろう。
141 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:13:03
>>138 種継の父親のようにろくに出世できなかったから
史料に残ってないだけかも。
>>141 種継の父親は広嗣に連座して無位無官で死んだというのが有力じゃなかったっけ?
藤原薬子−藤原貞本−正峯…(5代略)…敦基−女子−新田義重−女子
−武田信政−信時…(10代略)…義統−女子−近衛前子−後水尾天皇…現皇室
非常に遠回りだけど、薬子の血統は現皇室にも流れ込んでるんだな。
144 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:07:21
それだと新田義貞も武田信玄もみんな種継薬子様の子孫ってことだべ。
義重の別の娘から京極六角尼子もそうなのか。
145 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 18:36:33
藤原は糞
147 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 01:45:12
そうかね
148 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 19:19:58
149 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 12:57:39
藤原貞本の官位は?
152 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 14:41:01
大蔵大輔
北家も第二世代は永手以外はあまりたいした相手と結婚してないような。
道長直径先祖の内麻呂・冬嗣親子の母親とかねえ。
内麻呂の外祖父は家柄は中程度だが曰く付きの人物。
冬嗣の母はさほどの家柄でもない渡来人百済永継。
そういえば、高野朝臣新笠のほかに百済永継も天皇家の先祖になるんだよな。
なぜかあまり話題にならないけど。
ほかにも間接的な渡来系の先祖はたくさんいるんだろうな。
百済永継さんって百済王家または百済貴族の子孫ですか
百済系渡来人ではあるが、百済王家の末裔ではない百済貴族の末裔かどうかは不明
父親の姓は「飛鳥部」
百済氏から内蔵寮の役人が出ていればな
157 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 13:53:52
広嗣のライバル、年齢、官位から見れば、客観的に見て北家永手あたり?
庶子家の惣領って言う立場も類似。
あとは聖武天皇のお気に入りの永手の同母弟八束(後真楯)とか。
真楯はともかく、内麻呂は三男だけど嫡男のような気がする。
藤原朝臣広嗣(?〜740:宇合の長男:母は石上朝臣麻呂の娘)
従六位上(737時点)→従五位下(737)→大養徳守・式部少輔(738)→大宰少弐(738)→
謀反(740)→処刑(740)
同母弟良継が716年誕生であり、715年以前の誕生だと思われる。
父宇合は694年誕生であり、常識的には710年頃以後の誕生だろう。
初見の位階従六位上は、祖父である贈正一位不比等の庶孫の蔭位に相当し、21歳で叙位
された後、1度目の考課の前、つまり24歳以下だったのだろう。いくら緊急時でも初叙
から1年そこそこ程度で昇進させるとは考えにくく、当時3年目か4年目で、23歳か24歳、つまり714年か715年の誕生ではないだろうか?
本来は翌738年に25歳で五位昇進の予定だったものの先取り、714年誕生と見るのが有
りそうだなとは思う。良継との年齢差も2年が自然?
大宰少弐転任は左遷と解されることが多く、謀反の原因と一つとされている。
没時最低でも26歳以上(おそらく27歳以上)であり、子供がいた可能性は高いが、いたと
しても父に連座して処刑されたのか、流刑先で死亡したのか、子孫は見えないようだ。
藤原朝臣宅美(託美:生没年不詳:良継の子(嫡子?))
正六位上(771時点)→従五位下(771)→右兵衛督(774時点)→丹波守(774)→従五位上
(776)→越前守(776)→従四位下?(極位?)→殺害(時期不明)
分脈に良継の子として見える託美と続紀に見える宅美は同一人物だと思われる。
分脈によると従四位下で長岡京で賊のために殺害されたとのこと。と言うことは、784年
から794年の間に殺害されたものか?
784年以後まで生きていれば、家柄から見て従四位下に昇進していても不思議ではないが、
776年の越前守就任以後は続紀に見えないのが不可解と言えば不可解?
父の年齢(716年誕生)から、735年頃以後の誕生だろうと思われる。
771年時点で21歳以上だとして、751年以前の誕生だろう。
771年の4年前の767年に正六位上に昇進したと仮定してみよう。
ちなみに、766年父良継は従三位昇進で767年も同様、宅美は嫡子と思われるので当時の
蔭位は従六位上になる。770年に正三位に昇進、この時の蔭位も同じ。
764年父良継は従五位上に復位?、その後従四位下に昇進。この時の蔭位は従七位上。
735年誕生として、21歳に到達の755年なら父良継は従五位下で、蔭位は従八位上。
このいずれでも767年までに通例の昇進で正六位上に達するのは困難だと思われる。
父も目覚ましく昇進していく時期なので、宅美にも特別昇進があったのだろう。
とは言え、いくらなんでも21歳で従五位下とは考えがたく、25歳程度以上として747年
以前の誕生ではないだろうか?
ただ747年以前の誕生で、784年以後に殺害されたとすれば、没時38歳以上と言うこと
になる。となると子供がいる方が自然だと思われ、男子がいれば贈従一位の祖父の蔭位を
得られ、初叙が正六位下(嫡孫)又は従六位上(庶孫)で、五位以上にはなれたと思われる。
しかも平城・嵯峨両天皇の母方の従兄弟でもあり昇進しない方が変?
しかしそれらしき人物は見あたらず、男子がなかったのか、早逝したのものか?
とにかくなんだか謎の多い人物ではある。
藤原朝臣清成(生没年不詳:宇合の子(三男か?):母は高橋笠朝臣の娘高橋阿禰娘)
無位無官?
777年没とされるが、おそらくは兄良継との混同で、誤記だと思われる。
生涯無位無官のままだったようだが、家柄から見て一定年齢に達すれば精神疾患などよほ
どの事情がない限りなんらかの官位を得るのが当然だろう。
となると若年で死亡したと考えるのが自然だと思われる。
息子種継は737年に誕生しているので、少なくとも736年までは生存していた思われる。
また種継の父として723年頃より以前の誕生だろう。
一方この当時に藤原朝臣の氏人なら、21歳に達すればほぼ自動的に蔭位を得ることがで
きたと思われるので、無位の清成は736年時点で21歳未満だったのではないか?
となると717年以後の誕生となる。これは良継の一つ下となり問題はない。
田麻呂の兄らしいので、異母兄弟として同年があり得るとして722年以前の誕生だろう。
737年の疫病で父宇合と同時期死亡ってあたりが妥当なところか?
たまたま子の種継が出世したため名前が残ったが、そうでなければ他の2人同様無名のま
ま終わったかもしれない。
藤原朝臣綱手(?〜740:宇合の子(五男?四男とも))
無位内舎人?(740時点)→謀反(740)→処刑(740)
兄広嗣の謀反に参加し、兄とともに処刑された。
内舎人であれば、都にいるのが当然だと思うが、なぜ広嗣の元にいたのか不明。
特に許されたのか、なにかの用でたまたま(あるいは計画的に)大宰府にいたのか?
没時無位らしく、蔭位をもらえる21歳には達していないと考えると20歳以下、一方謀反
際に一方の指揮官となっており、名目的なものだとしても15歳以上だろう。つまり15歳
以上20歳以下として、721〜726年誕生だろう。
子として菅継がいることを考えれば、725年以前あたりの誕生か?
田麻呂(722誕生)が四男とされるので、その弟だとすれば722年以後の誕生となる。
なお妻は秦朝臣朝元の娘。子に菅継、孫に周防守真野麻呂と、系図にはある。
藤原朝臣菅継(菅嗣:?〜791:綱手の子:母は秦朝元の娘)
従六位下(773時点)→従五位下(773:4階昇進)→常陸介(774)→兵部少輔(777)→
民部少輔(781)→従五位上(783)→主計頭(783)→右大舎人頭(783)→治部大輔(784)→
大宰少弐(784)→正五位下(786)→従四位下(789)→左京大夫(789:右京大夫とも)→
陰陽頭(790)→従四位下右京大夫(没時)
父は740年9月没で、どう考えても741年以前の誕生だろう。更に当時父は20歳以下だ
った思われるので、そんなに遡るとも思えない。740年頃の誕生か?
父は無位の謀反人だが、祖父宇合の蔭位が得られたとすれば、正三位の庶孫として正七位
上に叙されたこととなる。蔭位が与えられたかどうか不明だが、そうでなければ773年ま
で(推定年齢30代半ば)に従六位下に昇るのは困難だと思われる。
770年の称徳天皇の死亡で父が反抗した聖武天皇の系統が皇統からはずれたことで、出仕
を許されたのだろうか?もう少し早く仲麻呂失脚後あたりとも考えられるが。
790年に陰陽頭を兼ねた時は左京大夫となっており、左右どちらが正しいか不明?
従兄弟種継とほぼ同年輩と思われ、式家としてはこの世代の数少ない人材なのだが、全然
ぱっとしない、無能だったのか、やはり父が謀反人だったのがまずかったのか?
式家は737年誕生の種継と760年誕生の縄主の間がすっぽり抜けているみたいなのが問題
だったんじゃないかって思えてきた。
高島正人の説だったかと思ったが、広嗣の乱に連座して処刑されたか配流中に死亡した可能性(当然、その際に官位は剥奪されている)もある。>清成
どちらにしても、現職の議政官の息子で自身も息子を儲けているような人物が無位無官というのはおかしな訳で
能原宿禰長枝(生没年不詳:良継の子:母は蓼原氏)
能原宿禰(806−809)→従七位上(810−823)
公卿補任の良継(宝亀8年)の記事に見える。それによると、10歳にならないうちに父が
薨去し、無姓だったが、大同年間に能原宿禰を賜姓され、弘仁年間に従七位上とある。
これに従えば769年以後778年までの誕生と言うことになるが、表現上10歳に近い年齢
とは思われ、770年前後の誕生だろう。
どういう事情かは不明だが、贈従一位内大臣の子とはとても思えない冷遇。
正式に子として認められていれば、蔭位で正六位下になれるので落差が大きい。
なお母方の蓼原氏は、東漢氏系で忌寸らしいが、せいぜい下級官人しかだしていないらし
い弱小氏族。妻や側室と言うより、女中(当時の用語じゃないが)に気まぐれに手をつけた
だけって言うイメージか?
166 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 22:42:36
綱手が史料に残っているんだから、清成が広嗣の乱に連座して死んだのなら
尚更史料に残ってないとおかしいだろう。
167 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 19:58:10
>>166 「続日本紀」編纂時の政治的な改竄ですね、わかります。
綱手の子孫は影響力発揮するほど出世してないもんな。
橘朝臣奈良麻呂の最後が不明なのも似たような理由かな。
綱手の子孫が残ったということ自体が感慨深いよね。
広嗣のそれが全く残っていなということと比較しても。
今も京都に居るの? 子孫さん
171 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:25:25
能原長枝って良継に認知されてなかったんじゃないの?
庶子とはいえ嵯峨天皇の外戚が従七位上なんてどう考えてもありえない。
まあ認知はされてないだろうね。
されてれば少なくとも藤原朝臣姓は名乗れるはず。
ときどき母方の姓を名乗っていたから父方に改めたいとか言う申請がある。
だいたい2、3代あとの子孫の申請だから真偽不明だけだ。
たぶん口実に使ってるんだろうな。
173 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:47:32
何でそこまで冷遇したんだろうな。宅美死後は良継の唯一の息子なのに。
公卿補任にしか見えないみたいだから実在してないのかも?
あるいは、良継とは無縁だとか。
補任編纂時に能原氏の子孫がどうにかして潜り込ませた嘘記事って可能性も。
どうせ大勢には影響ない部分だし。
175 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 11:05:42
名前の残っていない宇合の2人の息子とか、田麻呂に子供がいない事とか
式家は謎が多いな。
ついでに種継の子(おそらく三男)の湯守は、何かの過ちがあって除籍されているが、
その際に井手宿禰を賜っている。
こっちは続紀の記事だから実在だし、親子関係も間違いないだろう。
それぞれの死没記事に、仲成が種継の長男、縵麻呂が次男、世嗣が四男とあり、
湯守は時期的に世嗣よりは年長と思われるので三男だろう。
どうも式家は変な事件に巻き込まれることが多い。
書き忘れ、時期は延暦6年(787年)。
世嗣は779年誕生なので、787年時点ではまだ数え年9歳で、
それより幼い子に罰せられるような過ちがあるとは思えない。
179 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:40:44
式家は変な事件に巻き込まれる(って言うか巻き起こす?)は、
伝に偏屈だの狷介だの愚鈍だの書かれるは、
なんかそう言う血筋なのかなあ?
なにかにだけ夢中で出世に興味がないとか書かれた人もいたような?
まあ主流になれなかったから、よく書いてもらえないだけかも?
180 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 21:54:51
北家では魚名、南家では仲麻呂、雄友と
式家だけが殊更に事件を起こしやすいわけでもない。
式家初期ははかなり武張った家系のようだ。
まず初代宇合からして征夷に活躍して勲二等(たぶん勲二等第1号)。
宇合没後長男広嗣がいきなり謀反、実際に武力行使して敗北処刑。弟綱手も兄に従い同じ運命。
末子蔵下麻呂は、藤原仲麻呂の乱の際に武将として活躍し、五位から一気に従三位に昇進。
さらに勲二等に叙される。親子での勲二等は他は坂上大宿禰苅田麻呂・田村麻呂親子だけだろう。
次男良継も同じ時に勲四等となっている。
曾孫の仲成も謀反人として処刑。ただしこっちは実際には武力行使はしていない。
182 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:34:57
蔵下麻呂は武人の鑑
良継も仲麻呂の乱の時に別働隊を指揮して、美濃で仲麻呂の家来を血祭りに挙げんだよな
良継の変で、一切知らぬ存ぜぬでしらを切り通したのもカッコいいね
恐らく尋問の際に拷問も受けたんだろう
そーいう人間が後に権力握ったりするわけで、奈良時代はやっぱ平安時代とは一味違うw
184 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 18:25:05
奈良時代の公家は平安時代と違ってちゃんと武力を持ってるからな。
185 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:56:08
式家の子孫って中世にはいたの?公家・武家問わず。
蔵下麻呂の子孫が儒家として中世まで続いてます
>>186 ありがとうございました。
>>143にもある新田義重の生母も出た、藤原明衡の系統ですね。
188 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 11:45:53
なんていう苗字?
189 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 23:38:04
直江家は京家末裔を名乗っていたが、式家末裔を名乗った家ってあんまり聞かないな。
真備に指図されてた武将の中の中の一人が一応倉下麻呂?
191 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 23:12:54
蔵下麻呂どころか豊成も永手も出てきてない
192 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 10:09:25
広嗣は一応出たけどフェードアウトだったな。
式家ファンからすればその死くらいまではちゃんと描いてほしかった。。
193 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:07:51
百川は出てほしかった
194 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:13:28
>>181 >式家初期ははかなり武張った家系・・・・
式家の家風でなくて、その時代の特徴だね。貴族階級の文武が未分化だった。
貴族階級でも戦闘指揮者に必須の乗馬術を会得していた。それが、顔に白粉を
塗り、牛車に乗る文弱貴族に変質していったのは、平安期の何年頃からなのか?
195 :
日本@名無史さん:2010/06/19(土) 11:40:17
平安中期の式家出身の藤原忠文も武将。
196 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 20:07:49
>>196 藤原良継の変
天平宝字7年(763年)に藤原良継が佐伯今毛人、石上宅嗣、大伴家持の3名と共謀して藤原仲麻呂(恵美押勝)の暗殺を企てたとされる事件のこと。
198 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 23:14:37
>>197 そんな事件があったのか。式家って血の気の多い奴揃いだな
199 :
日本@名無史さん: