邪馬台国はどこだ・小城甘木説

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1サガミハラハラ
畿内説九州説、他にも数多くの説が飛び交いながら決定的な候補地が定まらず次第に下火になっていきそうな邪馬台国論争であるが、
ここに最有力ながら一向に 受け入れられない候補地がある。
それがこの小城甘木説である。
ここでこの説が有力な節なのかトンデモ説なのか徹底して
論じようではないか。
2日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:36:03
2get!
3改め:2008/04/11(金) 20:46:33
>>1

乙!

さてさて、楽しみです♪

邪馬台国=小城甘木説、いかなるものか!
拝見させて頂きます。
4日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:47:12
>>2

哀れ
5サガミハラハラ:2008/04/12(土) 08:13:33
ここでは帯方郡から邪馬台国まで、行程に沿って説明をいたします。
「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し」
郡とは帯方郡の郡庁のあるところ、ソウル近郊(漢江南岸か?)とみてそこ
から陸路、港のある仁川へ、33.5kmである。
仁川から船で南下、錦江河口の郡山に上陸、水行は210.4kmである。
「韓国を歴て、乍は南し、乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
韓国内を南へ行き、そして東へ行く。そして倭の北岸である狗邪韓国に到る。狗邪韓国の位置についてであるが、
この場合出港地という意味でとらえた。
所は固城(コソン)である。つまりわたしは韓国内陸行説をとる。郡山から南東の参礼まで34.5km、参礼
から南下して求礼まで113.5km、求礼から東へ河東まで33.7km、河東から東へ泗川まで49.3km、
泗川から東へ固城へ28,7km。郡山から固城まで259.7kmとなる。
帯方郡治から固城まで半島部は合計503.6kmとなる。
6日本@名無史さん:2008/04/12(土) 08:45:28
邪馬台国論争はもういいよ…。
だいたい、真実はわかってるよ…。

北九州にあった邪馬台国が大和盆地に東遷した、
おそらくこれでビンゴだよ…。
吸収王朝説とか、奇説はもうごめんだよ。
7唐松山:2008/04/12(土) 13:13:00
火燎肥前國風土記 小城郡
 昔者,此村有土蜘蛛,造堡隱之,不從皇命.日本武尊,巡幸之日,皆悉誅之.因號-小城郡.
松浦郡.
  賀周里.在郡西北昔者,此里有土蜘蛛,名曰-海松橿媛.
 纏向日代宮御宇天皇景行.巡國之時,遣陪從大屋田子,日下部君等祖也.誅滅.
 時霞四含,不見物色.因曰-霞里.今謂-賀周里,霞,此云かすみ.賀周,此云かす.訛之也.

松浦から小城郡にかけて 景行の時代 叛いています、 
この辺の 整合性は?
後は サガミさんの編年をどう暦として読めるようにするか? です。
8日本@名無史さん:2008/04/12(土) 15:36:15
長崎県人の盲目のおじさんが、今の西鉄が走ってるあたりは運河で、邪馬台国は長崎(島原あたり?)にあったっていう説を支持します。
9サガミハラハラ:2008/04/12(土) 23:15:19
続いて海峡部であるが、各間が1000余里と一定であるが、地図でみるととても一定とはみえない。しかも
間にある対馬島はざっと1000里ぐらいあるのである。が、今までは皆さん気にせずすんなりと横断しているようである。
考えてみると、金海から対馬北端の鰐浦まで1000余里、ついで厳原から勝本まで1000余里、そして石田から唐津まで1000余里
合計3000余里という計算が成り立つ。つまり海峡部は3000余里である、というわけである。
これで間違いないと納得するかたは杜撰なかたである。
これでは鰐浦から厳原までと勝本から石田までの距離がぬけているです。それらを加えたら4000余里となる。
ところで、倭人伝には総里数は万二千余里と明記されているのであるが、行路記事の距離を全て加えると1万500から一万600里となり
1400から1500里たりなくなる。従来悩みの種であったのはこの1500里であった。
これはフミ国移行の日数に必要な距離であると解釈されてきたが、たかが1500里に水行20日+水行10日陸行1月ではかかりすぎである。
10サガミハラハラ:2008/04/13(日) 10:26:39
小城説での出港地は固城である。金海が出港地とされているが対馬に渡るのにわざわざ金海までいく必要はない。
狗邪韓国の都との説もあるが、なんらの根拠がない。豊富な遺跡があるだけである。
元寇のときは馬山を中心に出港している。
しかし固城から対馬小茂田浜まではざっと2千里はある。距離がありすぎるという弱点があった。
ところが倭人伝では次のようにある。
「始めて一海をわたる千余里、対海国に至る。」
始めてとあるが、既に水行したところがあったはずである。小城説では仁川から群山まで、従来説でもソウルから金海まで海を航行してきたはずである。
しかるに、始めてという語を使ったのは、沿岸航行ではなく本格的な渡海であることをさす。
それでは、本格的渡海とはどこからを指しているのであろうか。
固城は湾奥にあり、出港してからしばらくは内海を航行する。そうして、湾内の島々を抜けて、外海に
のりだす地点は、固城から68km離れた鴻島である。
11日本@名無史さん:2008/04/13(日) 10:50:28
>>9-10 アク禁になるョ?

小城とは?
小城市(おぎし)は、九州佐賀県のほぼ中心に位置する市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9F%8E%E5%B8%82

MAP(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E130.18.5.870N33.14.45.710

12サガミハラハラ:2008/04/13(日) 16:47:20
ここから小茂田浜へ54.4kmであり、これが千余里である。
それでは、固城から鴻島までの68kmはどうなるのかというと、これは省略されているのである。
陳寿の著作はハイ松之によると、「叙述が簡略すぎて脱漏さえみられること、記事が錯綜してみ順が多いこと、
あきらかに誤っていて論理的記述があること」とのべている。(ウドンゲ花咲く邪馬台国 原田実 批評社)
となると不足の1400里は、省略等されているとみられるのである。この68kmが千余里であるから残りは400里である。

13サガミハラハラ:2008/04/13(日) 17:16:32
次に倭人伝での1里は何mなのがを算出してみよう。
使うのは壱岐島と対馬南島である。壱岐島は方300里ばかりで17.1kmである。
対馬南島は方400余里で26.1kmである。
壱岐の17.1kmの3分の1を1とすると、対馬南島の26.1kmは4と少しということになり、壱岐対馬南島は3:4となり、比率が一致する。
但し壱岐は余がつかず可三百里となっていることから、300里には少したりないとみて、1里は60mぐらいとみてよいであろう。
14サガミハラハラ:2008/04/13(日) 18:56:00
小茂田浜を出て南下し豆酸崎まで17.5kmで、1里60mとするとざっと291里となる。
豆酸崎から壱岐勝本まで55.4kmで千余里とある。
勝本から島の東北端の赤瀬鼻まで9.5kmで、ざっと160里である。
赤瀬鼻から西唐津八幡町まで49.1kmで千余里とある。
上陸地は西唐津八幡町川浪商会の前の浜である。東唐津は松浦川河口で風も吹きぬけ、港としては西唐津が適している。
現代でも唐津港といったら西唐津である。
ところで狗や韓国とマツロ国は官名がないが、これは両国の都が行路上にはなかったからである。
それを区別するために官名を記述しなかったのである。
マツロ国の都はもっと東の鑑山方面であったと思われる。
15日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:23:10
サガミさんがひたすら自演するスレはここですか?
16サガミハラハラ:2008/04/13(日) 23:02:27
次に「草木茂盛し行くに前人を見ず(中略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。」とある。
東南方向に陸を行くとあるから、松浦川の川筋を東南にむかって進む。川の流域は葦や柳などの草木がおいしげり、前を歩く人がみえないくらいだという。
葦の生い茂った川原などに行ったことのある人はわかるであろうが、人の背丈以上の草丈でそれがしなだれかかるので、すぐ前を歩く人の姿が見えないことがある。
原生林を想定する人もいるようですが、原生林のなかは下まで光がとどかないため、羊歯等の背丈の低いくさや低木がまばらにはえているだけで、
意外と見通しがよい。
ここは記述どおり南東へ進むのでよい。
500里であるからざっと30kmである。到着地点は多久市南多久町下多久の延寿寺の北方である。(延寿寺と記述してきたが、その後の調査の結果都の中心はもう少し2〜300m北であるらしい。
延寿寺は都の環濠の南端のようである。)
17日本@名無史さん:2008/04/14(月) 00:03:28
過疎?
18日本@名無史さん:2008/04/14(月) 18:05:07
邪馬台国は大阪にあった
19サガミハラハラ:2008/04/14(月) 19:13:40
次は奴国である。「東南至奴国百里}とある。
定説では奴はナと発音するとなっているが、それは間違いでトと発音するのが正しい。
奴(ト)は二種の意味があり、ひとつは戸の意味でもうひとつは国の意味である。狗奴国(クト国)
は狗の国となる。宇土半島の宇土が残存地名である。
この場合は奴国とは戸口の国となる。
多久市の伊都国の都から東南に6kmぐらいのところ、肥前山口の土元付近であろう。
奴国はここを拠点に西に勢力を広げ戸万の大国となった。
しかし、この奴国へは「行」字がないのでいかない。つまり行路上にないのである。
フミ国へは「東行至フミ国百里」である。「行」があるのでいきます。
多久から東へ6kmぐらいで小城市小城町不二町に到着する。
ここは現在は平野のまんなかであるが、五万分一の地図をみると大江等海や港にかんした地名が川に沿って
ならんでいる。昔はかなり内陸まで海が入り込んでいたらしい。
となると、この大江がフミの港であったのであろう。ここから南へ20日で投馬国にいたるという。
このフミ国までの里数を合計してみよう。
合計は11897里となり12000里まで残り103里となる。1里60mとすると7kmぐらいである。
20サガミハラハラ:2008/04/14(月) 19:18:11
訂正、上記の合計は12051里となり、邪馬台国到着の里数となる。と訂正いたします。
21日本@名無史さん:2008/04/14(月) 19:28:51
22サガミハラハラ:2008/04/14(月) 22:52:55
フミ国で1万2千余里が消化できるとすれば、邪馬台国はそのフミ国に接して存在することになる。
この説は30数年も前に当時の古代史界に新風を吹き込み、センセーションを巻き起こし一世を風靡した古田武彦氏が提唱したものである。
邪馬台国はフミ国に南接し、水行十日陸行一月は総日数であるとの解釈である。
私も彼と同意見である。
ここでもう一度倭人伝の1里が何mであるのか検討してみよう。
邪馬台国の都が小城市甘木であると確信してからもう一度里数を計算していくと、どうも1里は66〜68mで、68に
ちかい値であるとおもったが、それが何に由来するのか不明であった。
ところがこれは、周尺によるものであることがわかった。東京の高校の教師である福永晋三氏は、周代の諺である
「五十歩百歩」から
周代の1里は50歩であったとして、1里67.5mとの値をだした。
これは私の予想した1里は68mに少し足りないと合致するものであることから倭人伝には周尺がつかわれていると
結論づけられるのである。
半島は周の時代から箕子朝鮮の支配下にあり、以来周尺が使用されていたのである。
23日本@名無史さん:2008/04/14(月) 23:05:24
1万2千里を邪馬台国までの距離と解釈しているようでは無理でしょう。
24サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:24:59
ここまでで、1里67.5mで里数を出してみよう。(余里は除く)(#は倭人伝では省略されている里数)
京城〜固城     7000里
固城〜鴻島    #1000里
鴻島〜小茂田浜   1000里
小茂田浜〜豆酸崎 #259里
豆酸崎〜勝本    1000里
勝本〜赤瀬鼻  # 140里
赤瀬鼻〜八幡町   1000里
八幡町から多久市下多久500里
多久市下多久〜不二町 100里
不二町〜小城甘木   #15里
合計      12014里
以上12000余里にぴたりと一致する。
25サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:41:46
次にmによる距離をだしてみよう。
京城から固城までは503.6kmである。
固城から鴻島までは68.0kmである。
鴻島から小城甘木までは227.0kmである。
京城から小城甘木までの総キロ数は798.6kmである。
しかし、海峡間は全て1000里で記されているところから、各間は67.5kmとした。結果
総キロ数は842.2kmと修正される。
これを1里67.5mでわると12477里となり12000余里となる。
ちなみに京城固城間503.6kmを67.5で割ると7460里となり7000余里にあてはまる。
26サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:46:47
訂正 24の「1里67.5mで里数を」は「省略されたと考える箇所の里数を1里67.5mでだして全体の里数を出してみると」と訂正します。
27サガミハラハラ:2008/04/15(火) 22:31:49
九州上陸後の各国間の距離(m)はつぎのとおりである。
八幡町〜多久市南多久町下多久 33.3km
下多久〜肥前山口土元 6.8km
下多久〜不二町 6.8km
不二町〜甘木  1.0km
です。

28サガミハラハラ:2008/04/16(水) 11:53:07
かくして小城甘木をもって12000余里が消化されるならば、次に記述される日数記事は別物であるとの結論にたっするものなのである。
今までは、ここで終わりにせず、さらに突き進もうというのが常識であった。
それは日数記事が距離記事の続きであるようによみとれること、つまり陳寿の記述があいまいであったことによる。
しかし日数記事には行程記事として難点がある。それはかなりの日数を進むのに到着地点寄港地が全く表示されていないことである。
となればこれは行程記事の総日数であるとよむべきなのであるが誰もみなさらにその先に進もうとしたのである。
そのために、おいおいといいたくなるような珍にして奇妙奇天烈な解釈がなされることとなった。
29サガミハラハラ:2008/04/16(水) 13:00:27
それでは小城甘木の地に邪馬台国の都であったようなものがなにかあるのか?ということになる。
一つは地名の甘木である。甘木とは天子の住むところという意味である。
一つには倭人伝の記述どおりの丘がある。桜ケ岡と言い、高さ16m東西110歩(154m) 南北137歩(192m)
である。この丘は娑婆岡とよばれ、天正のころの古文書に「人骨が発見されたことからなづけられた」とある。
また大正時代に丘の上に記念碑をたてる工事の際多くの土器と鉄刀が発見されたという。
残念ながら岡は公園の敷地内となっており、神社やさまざまな記念碑や像がたてられております。
以上が邪馬台国小城甘木説の行程説明である。
30日本@名無史さん:2008/04/16(水) 18:51:02
ピタリ合いすぎるというのもおかしいじゃないですか。
まして、1700年も前にですよ。
魏使はそんなに正確に距離をはかって行ったのですか?
31唐松山:2008/04/16(水) 19:14:46
合わなければ、間違いと言い 合えばピタリはおかしいと言う。
1歩
1歩の長さ
広大な中国で兵を動かすとき 距離を測らねば成らない、測り方
鼓笛隊の太鼓に歩調を合わせて、進軍
そうすると、1曲で何歩、何キロメートル、進んだか判る
この時の 1歩が単位となる 1歩=1メートル以上では 誰も進軍出来ない。
32河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 19:21:19
>>31

>この時の1歩が単位になる

ならない
長さの単位は度量衡で定められています。
軍隊だけのローカルルールなら別ですが
33唐松山:2008/04/16(水) 21:33:37
度量衝の元は軍隊でしょ
軍隊=国家の大事 ローカルですか
何日も行軍しても殆ど景色の変わらない広大な土地、紐を張って測量なんかしていられない。
鼓笛に合わせた歩測が 元
多少の変動は有っても あまりかけ離れたら別の単位を作る。
34河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 22:16:06
>>33

それって
みんな唐松山の頭の中で描いたものでしょ
紐を張って測量なんて
何処にて仕入れた材料ですか?
度量衡は、それに従うから意味をなすのです。

>度量衡の元は軍隊


軍隊が出来るまで
モノの長さや、区間距離を測ることをしなかったんですか?
35サガミハラハラ:2008/04/16(水) 22:23:52
以上説明いたしましたが、ここまでのところで、よろしかったら鴫沢遊児氏の古代推理
「邪馬台国への道」の邪馬台国はどこ?のアンケートにお答えください。
36日本@名無史さん:2008/04/16(水) 22:25:55
>>35
なんで?
37唐松山:2008/04/16(水) 22:39:07
軍隊の移動は、大事 ”歩”を最低単位とする距離に対応する単位が出来た。
倭国では 区間距離を測る単位が無い
よって 日にちで表した。
ヤタ鏡のヤタは 長さの単位と取れるが、せいぜい建物の大きさ寸法までで
それ以上の長い物に対応する単位は無かったと思っています。
古墳時代には、これらの単位も入ってきた。

”歩”の寸法も各自、自説にあわせて主張しているから 基本的考え方を 書きました。
紐を張って測量でなければ、三角測量? その前に 歩 でしょう。
中国4千年の歴史で 軍隊がない時代?在りました?

38河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 23:10:42
>>37 唐松山さん

>軍隊の移動は、大事 ”歩”を最低単位とする距離に対応する単位が出来た。
倭国では 区間距離を測る単位が無い
よって 日にちで表した。
ヤタ鏡のヤタは 長さの単位と取れるが、せいぜい建物の大きさ寸法までで
それ以上の長い物に対応する単位は無かったと思っています。
古墳時代には、これらの単位も入ってきた。


これは『夷人不知里數但計以日』この一文で説明が付きます。

「里」という距離単位(三百歩為里)とするものは倭地には存在しなく、度量衡の度の存在は否定できないと


>”歩”の寸法も各自、自説にあわせて主張しているから 基本的考え方を 書きました。

おのおの好き勝手に書いていては、何時までたっても同じことの繰り返し
長さや距離については
古漢籍がありますので、そこから導くべきでしょう


ま、そもそも「歩」に寸法を求めること自体矛盾なんですがね
正しい歩とは、歩幅をモノサシに合わせることで、モノサシの代用となり
長さとして初めて活用できる

それ以外の「歩」は
単純に(あるく、あゆむ)=歩進 ですよ  軍隊の「歩」も歩進で、度量衡とは全く別物です。
39河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 23:25:26
魏晋時に書かれる、長さとしての単位「歩」とは
当時の曲尺(約24cm)に歩幅を合わせ計測したものです。
モノサシは直線の長さを計測する道具、しかし、長さを計測する対象物は決して
直線的なものとばかりは限りません。
モノサシで計測できないものの代わりが、「歩」のような身体の一部を活用した
代用モノサシ
長さはモノサシをあてないと数値化できませんから

当然モノサシの代用ですから、歩幅でも、モノサシと同じ長さにて計測しなければ
全く意味がありません。
これが 長さ代用単位「歩」です(つまり、尺の代用ですね)
40河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 23:31:00
因みに

「六尺為歩」の(歩)とは

長さの代用単位の「歩」ではなく

距離の単位「里」に活用される、距離換算単位「歩」(車輪の直径)です。



ここの扱いを間違えると、トンデモになります。
41サガミハラハラ:2008/04/17(木) 16:26:18
はかりかたの起源は、中国では人体によります。
ものさしやはかりのなかった時代には、人間の身体を基準にしてものを測った。
刊代の書「大タイ礼」や「孔子家語」などには、「指を布いて寸を知り、手を布いて尺を知り、
肘をノべて尋を知った。と述べて、古代の尺度が指や手の長さに由来することを明らかにしている。(以上角川漢和中辞典付録1307)
ただ、人体には差異があるため、時代により少しの変化があります。
秦の始皇帝のときに大幅な改正が行われ、それまでの度量衡が6倍されたといわれ、
周尺の1里67.5mも6倍され405mとなったとのことです。
42河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 16:40:09
>>41

里は度量衡では有りませんよ。

だいじょうぶですか?
43河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 16:54:06
>>41

>周尺の一里67.5m


その周尺を確認したいので、曲尺は何処にありますか?或は
その写真を掲載するサイトを教えてください。


まさか?
千里一寸の方じゃないですよね?
44日本@名無史さん:2008/04/17(木) 17:07:57
で、始皇帝で6倍されたはずの周尺が、何で倭人伝では突然先祖返りしたんだ?
45サガミハラハラ:2008/04/17(木) 17:23:33
>>42
だいじょうぶです。もののはかりかたという意味で使いました。

始皇帝のとき、ものをはかる時に使う器具を統一しましたが、間違って使ったりした人を万里の長城をつくるのに
こきつかったため、人々はそれまでの器具をすべて捨ててしまいました。
だからありません。
がしかし、角川漢和中辞典のふろくのp1311 に周代の尺は22.5cmであったとのっています。

これを見ますと、始皇帝が6倍したとは、すべてではない気がします。
今度会ったら(始皇帝に、ではありません)詳しく聞いてみます。
46河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 18:43:12
>>42

>だいじょうぶです。もののはかりかたという意味で使いました。

もののはかりかたでは『長さ』ですね
そうすると
度量衡の領域です。
なのに何故、度量衡の外にある『里』を一緒に論じるのですか?


>角川漢和中辞典のふろくのp1311 に周代の尺は22.5cmであったとのっています。

それは周時の曲尺の長さですね
それがなにゆえ『里=67.5m』に変身するのです?
さきほども言ったように、里は度量衡(度)ではありませんよ

47日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:13:46

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
48サガミハラハラ:2008/04/17(木) 20:50:03
>>46角川を読むと、里は度量衡の中に入るようによめるのは私だけでしょうか?
p1311の度量衡の表には里がのってますよ。  
49唐松山:2008/04/17(木) 21:43:37
2ヶ月くらい前のテレビ番組で山城マニアが出演していた。
その方は 地図にコンパスを当て 距離を算出、自分の歩幅で歩いた距離を測定。
その様な方法で道の無い古城へ行き、古城のサイズも歩測、

訓練すれば、歩測も使い物になる。
里は度量衡の中に入るでしょう 
中国の地図、戦国時代には在りますから 誤差は、大きくとも”里”が無くては出来ない。

倭人伝の距離と方向は 当時の地図より割り出した? 又は 書き換えられた。
この辺も考慮中。

50河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:04:35
>>48-49


せめて
漢書律暦志ぐらいは目を通して下さい。


度者(分、寸、尺、丈、引)
と、書いてありますから
何処にも『歩や里』は登場しませんから
51河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:10:28
>>48

>角川を読むと


つまり
文字を見ただけですね

貴方の小城説も、基礎のあやふやな積み木で組み立てられているのです。



>>49


推測は、永久に推測でしかありませんよ
52aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:11:45
ばんわ!

サガミハラハラさん〜書き込み終わったみたいだね!

当分はこっちのが人気でるかな。
53河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:32:26
>>48-49

http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/ftmsw3?ukey=-1278836694&path=%2F3.4&key=%A4Q%A4o%AC%B0%A4%D8&page=&dep=1&rg=14929&rg=15000


>>48
角川に掲載されてる表は、読者に対して換算値を分かりやすく纏めた
編纂する側の思惑の入った書物ですよ

つまり
味噌も糞も一緒にしたようなものです。

一般ゴミもきちんと分別すれば資源となりますが、分別せず混ぜこぜにしていればタダのゴミ
54唐松山:2008/04/17(木) 22:37:57
8タ鏡の ”タ”が出ていない
寸法ではない?

何時から ”里”は使われた?
別の 尺度が有った?
55河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:39:05
>>53のURLへはジャンプ出来ないみたいですね

スマソでした。  ではもう一度

『漢書律暦志』
http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8/%E5%8D%B7021
56河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:44:12
>>54

>何時から ”里”は使われた?
別の 尺度が有った?


『里』は距離の単位

『分、寸、尺、丈、引』は長さの単位

全然性質の違うものなんです。
だから 距離にはモノサシは存在せず、モノサシは直線的な長さを測る時につかいます。
57aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:45:12
あら?みなさんこっちですかい?
58aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:48:33
サガミハラハラさんと話してるとき、
「小城甘木説」の話になって、その流れでここのスレを作成したっぽい。

わたしも早くここへ参加したいが、まだ全部読んでないので、それからにしたい。
調べないといけないこともあるので。

59河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:59:52
>>58

>わたしも早くここへ参加したいが、まだ全部読んでないので、それからにしたい。
調べないといけないこともあるので。


既に距離でドボンしているけど、それでもいいの?
60aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 23:01:48
おやおや みつけるの早いねw


たぶん、河童さんと同じ突込みになるような・・・。


61サガミハラハラ:2008/04/17(木) 23:19:17
河童虫さん、ありがとう。熱望していた漢書、ありがたいです。
感謝感激です。
急に河童虫さんが好きになりました。
62日本@名無史さん:2008/04/17(木) 23:36:33
>>58
歓迎されているかどうか冷静に判断してみな
63ローガン:2008/04/17(木) 23:38:25
既にドボンですか!
まあ、九州説ですから。






逃亡!
64河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 23:41:22
>>63

>まあ、九州説ですから。

聞き捨てなりませんな〜
ここにもバリバリ九州説が居るんですが
65ローガン:2008/04/18(金) 00:12:50
オット!逃亡したつもりが… レスはや!

まあ、サガミ先生のお説の講演が終わってから、追い追いと…

え?もしかして、もう終わり?
66日本@名無史さん:2008/04/18(金) 00:22:35
>>62

ここは荒らすな

それにそれっておまえのことじゃん?w

67唐松山:2008/04/18(金) 18:43:23
戦国時代には、地図が作られた。とすると
距離の単位”里”を 紙?の上の長さ 尺や寸に直したことになります
度量衡に入らない 実際の里は信用おけないが 地図上の寸法は、信頼できるとか?
やはり 当時の地図上で邪馬台国を探さないと間違い。なのか?

漢書卷三  高后紀第三より
○此說非也。黃圖云長陵城周七里百八十步,因為殿垣,
○齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。
漢書卷四  文帝紀第四より
○昌至渭橋,蘇林曰:「在長安北三里。」丞相已下皆迎。昌還報
○圻亦畿字。王畿千里。不處者,不獲安居。
漢書卷六  武帝紀第六より
○初作便門橋。蘇林曰:「去長安四十里。」
○有滇池,方三百里
○作昆明池象之,以習水戰,在長安西南,周回四十里
○「脽者,河之東岸特堆掘,長四五里,廣一 二里餘, 景祐、殿、局本都作「二」

漢書より 書き出しました
長陵城周七里百八十  卑弥呼の稜も 歩測1周? 四角なら 方
丸い物を径で表した? 有るかな?
68サガミハラハラ:2008/04/18(金) 20:24:59
倭人伝の記事についてであるが、まず陳寿は倭国にいっていないのであり、晋の図書館の資料を読んで倭人伝の記事をかいたのです。
晋の図書館には漢以来の書物があり、その中からかれは選んで記事をかいたのです。
よく、倭人伝は魏使の報告書であると考える人もいるようであるが、それもあるが(私は魏使の報告書はなかったのではと思う)どちらかというと、私は
漢のときの文書を中心に書いたと思う次第であります。
69サガミハラハラ:2008/04/18(金) 20:34:35
そうすると、行路記事は漢の時代の書物から抜きがきしたのではと考えられます。
その証拠は倭人伝行路記事の里単位が魏代の長さではなく周代の長さを基準にして測量しているらしいということです。
つまり魏の人間の測量ではないということです。
70唐松山:2008/04/18(金) 20:43:38
ならばなおさら 当時の 地図で 読まなくちゃ
71河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:45:13
>>69

漢時も魏時も度量衡は変わらないし、曲尺も1pほどの違いしかない

魏王朝は後漢王朝からの禅譲引き継ぎ
だから制度も引き継ぎ、余り変化はみられない


単純な基礎を把握していないから、変な想像しちゃうんですよ
72河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:49:46
>>68

邪馬台國の資料は、紀元前108年以降の資料。

『自武帝滅朝鮮』
73河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:53:36
>>70

魏志倭人伝自体が既に地図だよ

何も絵だけが地図じゃない、文章も立派な地図になる。
74唐松山:2008/04/18(金) 21:17:19
河童虫さん 得意な 漢字で ”図”の意味を説明して下さい。
75河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 21:40:28
>>74

>河童虫さん 得意な 漢字で ”図”の意味を説明して下さい。


漢字は得意じゃないよ
得意どころか、嫌い。  嫌いだから丹念に調べているだけ


ところで
肝心の『図』の意味ですが  名詞的に使われたとき意外は『図』自体に意味は無いよ
76nanashi:2008/04/18(金) 21:56:43
なんかサガミハラ、分が悪いねえ。
がんばれ!!

でも自慰行為みたいな、意味の分かりにくい言葉を延々と羅列するんじゃなくて
唐松山氏や河童虫氏みたいに平易でわかりやすく書いてくれなきゃ、読んでるもんにはわけがわからん。
だから応援しにくい。
ま、このままでは、サガミハラ討ち死にしそうだし、それじゃ面白くないんで応援するよ。
77唐松山:2008/04/18(金) 22:04:26
こっちだって 死なれちゃ困るから お手柔らかに やっていますよ。
78河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 22:27:09
>>77

>こっちだって 死なれちゃ困るから お手柔らかに やっていますよ。


それって ある意味『生殺し』
潰すときは徹底的に
79サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:02:50
阿 沙      
80サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:04:14
>>79
tattimisudesu.
81サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:06:56
>>79misutattidesu.
82九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:23:24
>>75
>漢字は得意じゃないよ
>得意どころか、嫌い。  嫌いだから丹念に調べているだけ

好きだったら、諸橋を持っているよね?
83九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:28:20
「魏史東夷伝地図」をどうぞ。

∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵弱水∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜海
∵鮮卑∵∵∵∵∵∵∵∵夫餘∵∵∵挹婁∵∵┏┛〜〜〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵(方可二千里 戸八萬)∵北沃沮┏┛〜〜〜〜〜〜海
∵∵遼東∵∵∵∵高句麗∵∵∵∵東沃沮┏(戸五千 東北狹西南長可千里)
∵∵∵∵∵(方可二千里 戸三萬) (沃沮)┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
━━━┳──────┐∵∵∵∵∵┏┛〜南沃沮位置不明〜海
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵│∵濊(貊) ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┠──────┴┐2万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴───┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┠──────┘……………┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜↓┃∵倭人地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
84九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:30:16
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
現長崎佐賀県境┐┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┿┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵│末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓└┐∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜狗奴國領域┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │伊都國:肥前国庁跡周辺
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿現福岡熊本県境ライン
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國領域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
85日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:34:30
サガミ先生がレスしないでスルーされてるのはだーれだ?
86aratame_himiko:2008/04/18(金) 23:52:12
ン?こっちかな?

サガミハラハラさんはいるんですか?
「nanasi」が言ってるように確かに分かりにくいですよ。

奴国は何町にあたるのでしようか?


九州王朝大好きさんとその図で議論するのも新鮮で面白い。
しかし、ここでは無理かな?
87河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 00:25:00
>>82

>諸橋

諸橋買えるほど裕福じゃないし、近くの図書館に有るから必要ない。
それに、余り歴史に興味無いし、そこまで投資してイレ込む気もない
88サガミハラハラ:2008/04/19(土) 07:47:50
>>86体調不良につきうまく文章がかけず読みづらいでしょぅ。
89唐松山:2008/04/19(土) 11:07:43
>84 すごい 是が 文字のみで出来た地図というやつか
90nanashi:2008/04/19(土) 15:26:25
>>88
言い訳は良いから、がんばれ!!
91日本@名無史さん:2008/04/19(土) 15:43:06
>>84
そんな狭い所に邪馬壹國7万餘戸や投馬國五万餘戸は入らないよ。
邪馬壹國7万餘戸だけでも北中部九州は必要。
92サガミハラハラ:2008/04/19(土) 16:22:30
朝鮮には周の始まるころから、箕子というのがあり、周の文化をもって国をおさめていました。
この朝鮮国は秦漢の時代も周制を維持し、里の単位も周尺のままだったようです。
この朝鮮の長い時代に倭国までの距離が計測されたのです。
その記録を入手した漢が自国の図書館に収蔵し、それが晋につたわり、陳寿の目にふれたわけです。
倭国にいったことのない陳寿は万2千余里をはじめとする距離が課題であるとは思いもせずに、そのままのせてしまったというわけです。
93九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/19(土) 16:25:39
>>91
狭い所に邪馬壹國7万餘戸や投馬國五万餘戸が入る入らないの問題ではありません。

魏史東夷伝に間違がえた記述がないとして、
又、隋書東夷伝との整合性も合わせ、
文を図化すればこのようになったのです。

議論を続けるなら、
『♪邪馬台国 ドンと来い♪』スレか、
『※九州王朝はなかったのか?※』スレで。
94日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:32:04
なかなかの労作ですが、本スレの目的にそぐなわないと思います。新たなスレをたてて説を説明論争してははかがでしょうか?
95日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:34:42
>>94>>83>>84へのレスです。
96サガミハラハラ:2008/04/19(土) 16:50:31
戸数の問題であるが、はたしてそれらが実数であったのか疑わしい。
江戸時代の話になるが、薩摩藩は最高石高が90万石ぐらいであったが、
実石高は35万石ぐらいであったという。
となると、35万石ぐらいしか収穫のないところに90万石の国があるというのはおかしい。薩摩藩は二波九州ではなく
薩摩藩はもっと豊かなところにあったのでは?ということになる。
97河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 17:52:07
>>92

>里の単位も周尺のままだったようです。

こんなこと言ってるようじゃ、永遠に理解できませんよ
『里』と『尺』はそもそも違う概念
尺は度量衡の(度)、里は度量衡ではありません。
98日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:52:34

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
99サガミハラハラ:2008/04/19(土) 18:58:32
ここは小城甘木が邪馬台国の都であったのかどうかを論じているスレです。
倭人伝の里が周の時代のものでしるされているという話であって里が度量衡なのかどうかの論は別なのです。
里が度量衡の中にはいらないからといって小城甘木説がどうなるわけでありません。
100唐松山:2008/04/19(土) 19:12:23
里が度量衡の中にはいらなくても
距離を表す 尺度では有った事は認めないわけに行きませんから
倭人伝の 1里と同じ距離を1里とした 書籍を見つければよい
101サガミハラハラ:2008/04/19(土) 19:50:49
三国誌東夷伝に同じ距離を1里としていると解釈される文があります。
古田武彦氏の著作の中にあったように思う。
102ローガン:2008/04/19(土) 20:35:27
>>99
先生が仰る所の「周尺」なるものの詳しい考察をお聞かせいただければ幸いです。

正直、さっぱり判らないので。
103nanashi:2008/04/19(土) 20:45:44
>>96
サガミハラは基本的な歴史の知識ないなあ。
島津の石高は籾で算出してたんだよ。
知識の欠如と事実の乖離を手前勝手なオナニー妄想で埋めようとするから話しがややこしく、
説得力のないものになる。
104サガミハラハラ:2008/04/19(土) 22:38:11
>>103モミであろうが精米であろうが、90万と35万の比較ですよ。
比較の意味わかるでしょうか?
90万がモミで35万が精米なら比較になりません。
105河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 22:47:05
>ここは小城甘木が邪馬台国の都であったのかどうかを論じているスレです。
倭人伝の里が周の時代のものでしるされているという話であって里が度量衡なのかどうかの論は別なのです。
里が度量衡の中にはいらないからといって小城甘木説がどうなるわけでありません


どうやら
私が居ては都合悪そうな雰囲気なので、そろそろ失礼しますよ

お邪魔しました〜

でも、多少スレが活性化したでしょ
106nanashi:2008/04/19(土) 23:19:25
>>104
あらあら、あんたの脳内ではどうなってるのか知らないけど、
歴史では77万石って公称は籾の話し。
他は精米での話し。
自己弁護は後回しにして、ちゃんと勉強しなきゃ。
107日本@名無史さん:2008/04/20(日) 00:06:20
>>nanashi
サガミハラハラ先生への批判(だけならまだしも中傷も)を別ハンドルで行うのは見ていて胸糞悪いですよ。
それにバレバレだし。
少し控えられては?
108ローガン:2008/04/20(日) 00:31:37
サガミ先生!>>102の質問にお答えを願います。
109サガミハラハラ:2008/04/20(日) 09:30:16
>>103>>106薩摩藩の石高が籾によるものであるとのソースはなんでしょうか。
ウィキで薩摩藩のところをみてもなかったですが。

それに、96での問題は表だかと実収との差のことをのべているのであって、表だかがモミであろうが
精米であろうが関係はあるまい。
文意をしっかりとよみとっていただきたい。

周で使用されていた尺度のことです。
ここでの問題は私の推定した1里68m弱が福永氏が考える周の時代の1里は67.5mであるとの説に
極めて近いことから、倭人伝の里は周の時代のものであろうと考えたわけである。
半島には箕子朝鮮があり周の文化をもって国を運営していたので、周の里数であらわされているとみても
間違いはないと判断したわけである。
110nanashi:2008/04/20(日) 21:56:23
>>109
も一回言うね。
ちゃんと勉強しなきゃ。
111nanashi:2008/04/20(日) 22:06:09
>>107
議論してるだけなのに何でじゃまや中傷するの?
サガミと意見が違う私が何で悪いことなの?
あなたのご機嫌取りするために書き込んでる訳じゃないのに、
なんであなたのご機嫌を気にしなきゃいけないの?
112河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/20(日) 22:13:48
>99 :サガミハラハラ:2008/04/19(土) 18:58:32
ここは小城甘木が邪馬台国の都であったのかどうかを論じているスレです。
倭人伝の里が周の時代のものでしるされているという話であって里が度量衡なのかどうかの論は別なのです。
里が度量衡の中にはいらないからといって小城甘木説がどうなるわけでありません。

>109 :サガミハラハラ:2008/04/20(日) 09:30:16

周で使用されていた尺度のことです。
ここでの問題は私の推定した1里68m弱が福永氏が考える周の時代の1里は67.5mであるとの説に
極めて近いことから、倭人伝の里は周の時代のものであろうと考えたわけである。
半島には箕子朝鮮があり周の文化をもって国を運営していたので、周の里数であらわされているとみても
間違いはないと判断したわけである。


ダブスタですか?

>>99で、
本スレとは趣旨がちがうと言っておきながら、>>109で直ぐに度量衡に触れる
113河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/20(日) 22:18:31
貴方が自ら触れるのであるなら、徹底的に矛盾を追求する活動を始めますか?
114サガミハラハラ:2008/04/20(日) 22:45:14
>>113河童虫さん、文意をしっかりとらえておられますか?

  nanashiさん、あなたの質問は的外れでおられることに、他の方々はもう気づいておられます。
 よって、議論にはなりません。
115判定:2008/04/20(日) 23:02:36
サガミハラハラの一本勝ち
116河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/20(日) 23:37:31
>>114

では、徹底的にからみましょうか

まずは>>109の内容から
>周で使用されていた尺度のことです。

尺度と言われると度量衡の(度)、つまり漢書にしめされている(分、寸、尺、丈、引)
この(度)と「里」の関係を提示し、一里=67・5mであることの証明をしてください
なお、そのさい
当時の「里」と「度」にて表示するさいの換算値も、当時(周時)の記録にて示してください
117河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/20(日) 23:39:41
>>114

そうそう
度量衡が済んだら、間髪入れずに第二第三のネタを用意しておきますからそのつもりで
118サガミハラハラ:2008/04/20(日) 23:40:52
こんなことをからまれたってなー。何故私が答えなきゃならないの。
119河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/21(月) 00:04:14
>>118

>こんなことをからまれたってなー。何故私が答えなきゃならないの。

答えたくなければ答えなくても、それは貴方の自由です。
その自由を束縛してまで答えてもらおうなんて考えていません。貴方の判断です。
が、しかし
ここは貴方の立てたオープンスレ、そしてスレ主自らが発した主張に対する質問です。

それでも貴方には自由な選択権は存在しますよ


貴方に寄せられた質問に貴方が答えなければ、いったい誰が答えるか?と、言うような疑問は残りますが
それでも貴方には自由な選択権が存在します。
120サガミハラハラ:2008/04/21(月) 00:08:06
あなたの質問は私の主張にたいする質問ではないようにおもわれます。
私の主張にたいする質問には答えるかぎりお答いたします。
121himiko_A:2008/04/21(月) 00:15:20
まあまあ 仲良くしなよw

たぶんだが、河童氏はこの邪馬台国スレを盛り上げよう
としてるのに対し、
サガミハラハラ氏は小城甘木説のみでよいというふうに聞こえるw
122A_himiko ♪:2008/04/21(月) 00:21:04
おっと〜ズレとった〜直さなきゃww

サガミハラハラさん〜この前、私とか河童さんで話してた
「卑弥呼の墓24m説」は覚えているだろうか?

この前はサガミハラハラさんが一度レスしてどこかに行ってしまった
のでいまだに詳しくは聞けずにいる。

ここで卑弥呼の墓が「平和公園にある丘」が相応しいというところを
説明してみてはどうですか?
123河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/21(月) 00:25:01
>>120

>私に対する質問では無いように思われる。


了解しました。
では、>>109>>119のレスは偽者さんの主張なんですね?

これは失礼しました。
124河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/21(月) 00:35:41
>>121

私は別に『小城甘木説』でも何でもいいんだよ

ただね
>>1のスレタイの最後見てご覧? 本人が、徹底的な解明を望んでこのスレ立てているんだよ
だったら
徹底的に沈めてやる事も、本人に対する正当な対応じゃないかな?
125A_himiko ♪:2008/04/21(月) 00:43:13
>>29 卑弥呼の墓について
>一つには倭人伝の記述どおりの丘がある。
>桜ケ岡と言い、高さ16m東西110歩(154m) 南北137歩(192m)である。
>この丘は娑婆岡とよばれ、天正のころの古文書に「人骨が発見されたことからなづけられた」とある。
>また大正時代に丘の上に記念碑をたてる工事の際多くの土器と鉄刀が発見されたという。
>残念ながら岡は公園の敷地内となっており、神社やさまざまな記念碑や像がたてられております。

サガミさんご自身が考えた邪馬台国とする所があり、卑弥呼の墓については無理やり
当てはめたというふうに見えてしまうのは私だけ?!
154mとか192m
とそこまで大きくはナイ思います。
人骨も100体近くも見つかってないと以前言ってたかと思いますが、
腐敗してわずかしか残ってないと考えても100体近くあったような穴とか
痕跡みたいなの発見されたんですか?

126A_himiko ♪:2008/04/21(月) 00:48:46
>>124
>>1より
>それがこの小城甘木説である。
>ここでこの説が有力な節なのかトンデモ説なのか徹底して
>論じようではないか

とあるので、「徹底」して論じようではないか。

あ それと向こうのサイト頑張って入室したんだが、wajinさんからスルーw
127A_himiko ♪:2008/04/21(月) 00:50:53
私のレス〜>>121-122は誰も突っ込んでくれないのかw

もうねましょ。。。。又です zzz

128サガミハラハラ:2008/04/21(月) 08:49:04
>>121このスレの名は邪馬台国はどこだ小城甘木説です。
>>122おぼえていません。「平和公園にある丘」とはどこでしょうか?
>>125私はそこで決まりと考えていますが、他の方々は候補地の一つとみておられるでしょう。
天正のころの文献にでている話なので確認できません。
129ローガン:2008/04/21(月) 18:46:56
>>109
論拠は福永某氏の説だと云う訳ですね?
その方の著書、もしくは、関連HPなど、もしわかれば教えていただけませんか?
130サガミハラハラ:2008/04/21(月) 20:03:45
福永氏の論文は「越境としての古代」によくのっていますが、周里にふれた
論文は本になっていないとおもいます。
わたしは、氏の主宰する会で話を聞きプリントをいただきました。
HPはないと思います。
131日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:25:23

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
132ローガン:2008/04/29(火) 00:44:26
上げます!
センセの論拠は「福永某氏説」との事…
九州小城説の基本でしょうか。しかしそれを知る術もないのは、スレタイに沿ってすすめる上でいかがなものでしょう?スレ主殿。
133サガミハラハラ:2008/04/29(火) 09:38:19
確かに距離に関しては福永氏の周里を採用していますが、その経過としては、次のようになります。
対馬南島の方400余里と壱岐島の方300里の比較から1里60mぐらいとして行程記事を辿ることにより、小城甘木に到着し、さらに各間を検討し、
倭人伝の1里は68m弱であるとの結果をえました。
ところが「倭国歴訪」を出版した段階ではこの里が何によるものかわかりませんでした。
ところが、のちに福永氏が周の時代は1里67.5mであるととなえているのを知り、わたしの里と極めて近似であることから、さらに、半島では
周の流れをくむ箕子朝鮮が漢のの時代まで存在したことから倭人伝の里は周の里であるとみたわけです。

もしかりに、福永氏の説が間違いであったとしても、私の倭人伝の里は68m弱であるとの説は崩れないのであります。
134唐松山:2008/04/29(火) 10:22:44
李氏朝鮮の世界地図に載っている 日本は、90度傾いている
倭人伝の書かれた時代 地図上の日本は 可成り傾いていたのではないか?
135サガミハラハラ:2008/04/29(火) 16:58:08
>>134これは朝鮮の混一張理歴代国都之図のことであろうが、この件については、西を上にして描かれた日本の「行基図」を
不用意に挿入してしまったためであることが明らかにされた、」として」邪馬台国の会のホームページの
歴史解説の解説の混一張理ーーの項に詳しく安本先生が解説いたしております。
136ローガン:2008/04/29(火) 18:08:46
>>135
てゆうか、右隅の狭いスペースに適当に書き入れたのでしょう。
島原にあったものと、日本の向きが違いますね。
137唐松山:2008/04/29(火) 18:55:25
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/muroga/china.html

朝鮮の混一張理歴代国都之図より古い地図が有って その地図には 日本が
縦長に表記されていたため 間違えたのでは無いか 
138唐松山:2008/04/29(火) 19:13:52
いずれにしても 日本に渡るルートが2通りある
半島経由と南西諸島経由
中国本土から見た場合 半島経由と台湾経由となるわけで この双方に近い=南北に長い、
このような認識の元に 日本は書かれている。
139サガミハラハラ:2008/04/29(火) 21:20:53
他に東シナ海を直接横断する行路があります。
140改め:2008/04/29(火) 21:23:48
こっちかい〜こんばんわ

ちと質問いいですか?
じかんありますか?サガミハラハラさん
141改め:2008/04/29(火) 21:33:15
>>139
以前、卑弥呼の墓は約190メートルとか言ってたかと思います。

里=300歩の定義 はご存知だろうとは思うが、
貴方は「倭人伝の1里は68m弱」と>>133で言っている。
この矛盾はなんなんですか?説明してくれませんかね?




142ドツボ撲滅委員会:2008/04/29(火) 22:03:45
スルー汁
143河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 22:04:24
墓の規模は「長さ」

長さは、小学二年生の算数でも習ったように、計測したい対象物にモノサシをあて数値化する
だから
当時なら、24pの曲尺か、2m40pの竹サシ(丈)を使う

墓は距離じゅない
144日本@名無史さん:2008/04/29(火) 22:08:45
>>143
>墓は距離じゅない

何も10とは限らない
さすがですね
剥げ銅です
145サガミハラハラ:2008/04/29(火) 23:01:12
>>141角川漢和中辞典のふろくをみますと、歩は6尺で1尺は22.5cmとあります。
100歩で135mとなります。余歩とありますので150mぐらいとみられます。桜岡は卵型の円丘で横はざっと150mぐらいです。
たては190mあります。自然丘に手を加え墓としたもののようです。
のちに人手がはいったりしたことで岡が崩れて裾がひろがったのではと
考えています。
また拙書の計測は私の歩測(1歩140cm)からの190や150であり、きちんとした測量によるものではありません。全くの概数です。
146河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 23:07:20
>>145

角川の付録に100歩135mと書いてありますか?
絶対に書いてありませんよ。
自分の思惑を入れてはいけません。


何の為に
先日、漢書律暦志を提示したのか?
147日本@名無史さん:2008/04/29(火) 23:09:17
河童さん、さすが!!
148改め:2008/04/29(火) 23:09:53
旺文社 漢字典※付録の中国度量衡表 では、
「魏・晋 3〜5世紀」
寸・・・2.412cm
尺・・・24.12cm
丈・・・2.412m
歩・・・6尺、1.4472m
里・・・180丈、300歩、434.16m となります。100歩とは約144m。
これを倭人伝の「里」に合わせる形で六分の一すると24mとなりますが?
149河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 23:13:57
漢籍に、

「六尺為歩、三百歩為里」は、書いてありますが

「三百歩為里、六尺為歩」とは
書いてありませんよ。
150改め:2008/04/29(火) 23:15:16
>>145
河童さんみたいに言わせてもらえば、それはいつの時代の表ですか?
魏・晋 3〜5世紀のところを見て下さい。

というか、歩=8尺と言いたいのでは?
一歩は1.92m 100歩は192mとなりますが?これですよね?
151河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 23:16:53
>>148

勝手に六分の一にしてはいけません。

六分の一の根拠は?
152日本@名無史さん:2008/04/29(火) 23:19:16
河童さん、説得力あるな!!
153改め:2008/04/29(火) 23:26:18
>>151
>勝手に六分の一にしてはいけません

いまさら何をいってるんですかね?
歩・・・6尺、1.4472m
里・・・180丈、300歩、434.16m
これら単位が書かれてますが、見やすくしただけで、
歩・・・6尺
里・・・180丈、300歩 が正解です!

定義では、里=300歩
倭人伝の里とは、「一里=434.16m」が使われてるのではないというのはご存知ですよね?
434mから約六分の一された「短里」が使われてる。
よって、定義の「里=300歩」に合わせると100歩は24mとなる。
これの結果、倭人伝の墓の径とは、24mか?144mか?となるんです。




154ドツボ撲滅委員会:2008/04/29(火) 23:29:24
監視中
155サガミハラハラ:2008/04/29(火) 23:37:16
こちらの方で勘違いをいたしておりました。
卑弥呼の墓の計測は魏の時代ですので、1歩は144cmでした。
よって100歩144mですね。
間違いご指摘ありがとうございました。
156ローガン:2008/04/29(火) 23:38:20
改めさん、同意しますが、
6分の1とか短里とかは意味不明。
157河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 23:40:03
>>153


>短里

そんなもの知らないよ
誰がそんな勝手なもの作ったの?

第一、六分の一にする理由がないじゃん
そんな中途半端な数値なら、十分の一の方が
よっぽど合理的


理由がない
158河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/29(火) 23:43:00
長さは「モノサシ」使わないと
小学生に笑われれぞ〜〜
159改め:2008/04/29(火) 23:46:10
旺文社 漢字典※付録では、「歩・・・6尺、1.4472m」ですが、
どこかで「歩・・・6尺又は8尺」というのも目にしました。
だからわたしとしては、卑弥呼の墓の径とは、
24mか144mあるいは192m?という考えがあるんです。
みなさんはどれが正解と思いますが?わたしは24mが近いのでは?と思いますが?

>>156
約六分の一ということです。
里、歩にかんしてはメートルではなくあくまでも定義が優先されるべし。
160改め:2008/04/29(火) 23:50:23
>>156>>157
では貴方達は倭人伝の里とは、
一歩=434.16m と考えてるんですか?違いますよ?
倭人伝の里とは約68〜76mぐらいですよ。
そこのところ踏まえてレスして下さい。
これに関して、サガミハラハラ氏はどのように考えてるですか?
161ローガン:2008/04/29(火) 23:58:38
仰る所の「倭人伝の里」なるものがよくわからない。
162改め:2008/04/30(水) 00:02:21
しょーがないですね。
わたしと河童氏、サガミハラハラ氏のやり取りをよく見てなさいよ。
河童氏は気づいてないかもだがサガミハラハラサンは気づいてると思うので。
163ローガン:2008/04/30(水) 00:13:25
ははは、貴方たちのやり取りなんか見て何かのたしになるともおもえず…
はあ〜「倭人伝の里」ですかあ。
164日本@名無史さん:2008/04/30(水) 00:15:17
「一里=434.16m」では、
対馬海峡は三千餘里(1302Km)もある大洋になり、日本列島は太平洋の真ん中。
末盧國から伊都國までは五百里(217Km)奴國までは更に百里(260KM)、不彌國は更に百里(304KM)、「一里=434.16m」では九州は大陸となってしまう。
現実の距離で考えて、6分の1程度の短里が合理的。
165改め:2008/04/30(水) 00:24:26
また逃げられた?

この二人って・・・よく逃げるよね?
歴史とは真実を追いかけるのみ。
逃げてばかりじゃ、いつかローガンさんに追い抜かされますよ?
166日本@名無史さん:2008/04/30(水) 00:25:20
ソフトバンクの携帯電話のCMって、
日本人と黒人の子供たちの父親が犬って設定だろ。
韓国で「犬の子」を意味する「ケセッキ」って言葉は、
「この糞野郎」的意味合いの超侮辱語。
知り合いの在日韓国人が、あのCM見る度にニヤニヤしてた意味が
ようやく理解できた。

韓国人の反日は精神的に卑屈なんだよ。自分達のコミュニティでしかわからないことを
押し付けて、独り悦に浸って笑うみたいな。

韓国では、公然と外国人差別が酷いが、中でも黒人は最低ランクで忌み嫌われている。
韓国語では、ケセッキ(犬の子)が最大の侮辱。
父親が犬でしかも華麗な一族の声、母親も日本を代表する女優の一人。
その子が、黒人で長男。日本人国民的アイドルが長女。
この時点で、在日コミュニティでは裏メッセージでニヤニヤが止まらない。
馬鹿な日本人は、そんなことも気付かずソフトバンクに加入し、携帯業界を料金革命する
救世主と崇めていると、また高笑い。
167日本@名無史さん:2008/04/30(水) 02:28:40
そういえば、社長の孫正義氏は在日でしたっけ。
彼も見て笑い転げているのかね。案外彼が作らせたのかね。
168河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/30(水) 07:50:31
「長さ」はモノサシにて計測する。


「距離」は機械転がして、“チ〜ン”となったらそこが 一里


妄想語ってないで
ちゃんと勉強しなよ〜っ


漢籍は漢籍に聞く
な〜にが
「角川だ旺文社」だ
笑えるよ!
169日本@名無史さん:2008/04/30(水) 08:07:40
>>168
貴方はただ逃げまわってるだけです。

「長さ」はモノサシ  とか言って一生逃げてなされ。
170河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/30(水) 08:54:42
あほらしい


相当な低レベルだね
付き合いきれんよ(>_<)
171日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:04:25
ではさようなら。
172日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:09:11
「一里=434.16m」とする人は奴國や不彌國は何処だと考えているのだろう。
173日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:31:05
ヒント 海里
174河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/30(水) 09:32:33

小学二年生レベルが理解出来るようになるか、低レベル者が去まで
ほな
さようなら
175日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:38:18
流石のプも、スレを演出してるつもりの自演馬鹿にはお手上げだなwww
176サガミハラハラ:2008/04/30(水) 09:39:57
昔の話であるが、当時の著名な大学教授は1里4kmで計算したそうです。
それに比べれば、1里434.16mはぐっと現実味があります。
177日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:40:47
河童さん、逃げないで!!
逃げても何も解決しないよ?
178日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:41:50
「倭人伝の里」って奈良県のどこかにありそうな気がする。観覧車がまわっていて卑弥呼の墓をみおろせるとか。
179日本@名無史さん:2008/04/30(水) 09:47:09
>>177
プラムもお前の自演には付き合いきれんとよwww
180改めドツボ監視委員会:2008/05/02(金) 16:34:35
>>168 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>「距離」は機械転がして、“チ〜ン”となったらそこが 一里

おいおい、、、
記里鼓車(だっけ?)みたいなものが古代中国全土で計測に使われていたとでも?

統一された度量衡と言うのなら都に原器が一つ二つあっても意味が無い。
古代中国全土に多数の”モノサシ”が無ければ。

で、記里鼓車みたいな複雑なメカニズムを量産したと?

単純なホイールならいざ知らず、全くリアリティに欠けるお話だなwww




181河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/02(金) 17:10:57
>>180

投稿する前に、自分で自分のレスにツッコミ入れてみなされ!

連休なんだし、そのくらいの暇はあるだろう?
182唐松山:2008/05/02(金) 17:12:20
なにしろ自分の足で 歩測することを嫌う河童虫さんですから
前の人影が隠れてしまうような藪道

最初にトラクターを走らせて 藪を刈る トラクターの走行距離を読む、
ガソリンが切れたら そこから 日にちで表記。
183唐松山:2008/05/02(金) 20:01:34
距離とは、 1点と1点を結ぶ直線の長さである。
物差しでは 測れない、ただし地図の上を於いては。
やはり 当時の地図から距離を導き出したんですかネ。
184河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/02(金) 21:11:51
>>183

自分で『長さ』と言ってるじゃん

距離は点と点の間隔
その二点間を結ぶルートは無数。
185サガミハラハラ:2008/05/02(金) 21:36:28
距離がわかっていなければ地図は描けません。
これは日数でも同じことです。1日の距離をもとに何日分と描きます。
186唐松山:2008/05/03(土) 00:06:38
距離と言わずに 道程と 書いて貰わないと …
道程なら その途中で測った方向もありだ なにしろ 獣道なもんで。
これも読み替え?
187河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/03(土) 09:11:58
>>186

>獣道なもんで

又南渡一海千餘里
ここも獣道なの?
188河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/03(土) 09:20:19
距離は距離、道程は道程

道程は距離の概念の一部にすぎません。

★距離の間隔を数値に置き換える場合、そこで使われる単位は一つだけ(里)や(歩) ○○里○○歩とすることは絶対にありえない(九章算術の世界は別物)


★長さを数値に置き換える場合、そこで使われる単位は度量衡に記された(分、寸、尺、丈、引)
189橿原一派:2008/05/03(土) 15:49:32
>1日の距離をもとに何日分と描きます。


監視中

190朝吉:2008/05/03(土) 15:52:52
こんどはこっちを賑やかにするの?
仲間に入れてね



監視中
191日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:15:32
邪馬台国系どれだけあんねん
192唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/20(火) 22:36:15
約30ヶ国言うんやから 30くらいと ちゃうん。
193唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/20(火) 22:40:16
約30ヶ国 言うんやから 30ぐらいちゃうん。 国王30人
194日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:37:50
このスレも重複で削除依頼が出てるよ
195日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:59:33
あらしきたぞ上げ
196サガミハラハラ:2008/06/07(土) 02:09:15
これでーす。
197日本@名無史さん:2008/06/07(土) 07:31:48
珍説奇説、電波トンデモが飛び交う2ちゃんの
この板ですら一顧だにされない小城甘木説・・・


サガミハラハラ先生の叫びは虚しく木霊するのであった・・・
198日本@名無史さん:2008/06/07(土) 09:33:30
正論はつまらないですからね。
小城では松浦に上陸してすぐですから、ものたりないですよね。
やはり卑弥呼の都まで波濤万里を越え苦難の末たどりつくようでないと。
199日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:37:40
これも
200 ◆.L.MXSPOgc :2008/06/09(月) 21:37:21
正論?
サガミ氏の説は松浦の次の次からトンデモはいって面白いのにw
201サガミハラハラ:2008/06/09(月) 22:54:51
松浦の次の次からとは不弥国まではOKで、その先ということですね。
記述法が距離から突然日数に変化している理由がいま一つ解せないということですね。
この件については、ひとつは不弥国までの行路記事が魏使によったものではなく、箕子朝鮮時代によるものであり、陳寿はそのままのせたというこ
と、もう一つは邪馬台国の都は230年代に吉野ヶ里から小城に遷都されていたことから、以降の記述が日数で表現されることとなったということです。
さすがの陳寿も遷都があったことは知ったようなのであるが、魏使は距離を測量しておらなかったため、、不弥国から先、邪馬台国の都までの距離がわからず、ただ、不弥国
の南に直にあります、南に水行二十日で投馬国ですとこたえたものである。
そこでちんじゅはそのまま載せたものである。
これが、距離から日数に切り替わっている理由である。
トンデモではなく正論でしょう。

倭人伝の解釈において大事なことは、倭人伝が魏使の報告書にばかり依存しているという見方をすてることです。
倭人伝は(ほかのーーー伝も同じであるが)多くの資料を寄せ集め取捨選択して編集したものであるということをしっかりと認識する必要があると思います。

いままでの倭人伝研究はあまりにも魏使ということに重きを置きすぎていると思います。
202日本@名無史さん:2008/06/09(月) 23:14:28
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
203日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:14:54
>>202
ねー
コテハンなってよ
204日本@名無史さん:2008/06/20(金) 03:36:01
>>201
>記述法が距離から突然日数に変化している理由がいま一つ解せない
一番素直な解釈は、遠くて距離が良く分からなかったから日数で書いたということだと思いますが。
205河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/20(金) 06:54:51
>>201

以前、漢書律暦志のリンク先を掲示しましたよね?それを何度も繰り返し読むことによって、サガミさんの日数表記の悩みは解消されます。
206唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 21:41:46
サガミさんは、4倍暦ですよ。
日数表記も 年により違うかも。
207日本@名無史さん:2008/07/20(日) 10:37:56
小城甘木説は終わったのかな?
208日本@名無史さん:2008/07/20(日) 11:09:02
>>207
>小城甘木説は終わったのかな?

アリスがお姉さんに起こされると同時に終了しました。
「アリス起きなさい」

そう、タキシードを着たうさぎもトランプの兵隊も、全て終了したのです。
209日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:36:21

  めでたし めでたし   [完]
210 サガミハラハラ:2008/09/06(土) 12:44:30
中小路調査報告
 ここは私が伊都国の都の宮殿があったと比定した延寿寺(庄集落)の北隣の集落である。
 道路地図を見ていて偶然中小路集落の北部の八幡社の北側がガケ(土)となっていることから、この神社は丘の上にあり、これは吉野ヶ里のような墳丘墓
であったのではないかと思い今回の調査となったのである。
 ところがいってみると、神社は丘といえるような場所ではなく、神社の裏に崖はなく高さ30cmぐらいの石垣があっただけであった。
 まず多久市の郷土館の館長さんにきいたところ、八幡社ではなく天満宮であるとのこと、実際いってみたらそのように額かいてあった。
 またこのあたり一帯は、中世の多久氏の本拠地であり、館があり空堀や土塁がはりめぐらされており、かなりあらされているということであった。中世の井関異物は多いが弥生木の異物は少ないとのことであった。
 現地に行くと、カラホリの地名があり、その北側に館があったようである。河原や土師器と思われる破片が見られた。竹藪を通して土塁もみられた。
 天満宮の神社の周辺であるが、北側は丘状になっており、古墳があり6世紀ころであるという。古墳は延寿寺の北の墓地の東の林もそうであるという。
 このあたりの地勢は北部から南の多久川にむかって緩やかに傾斜しているが、神社の北部は微高地となっている。
 古墳のあたりは、竹藪などもあり、調査がむずかしかった。ちょっと入っただけでやぶ蚊にさされたり、たけが密生していてはいれなかった。)
 古墳の入口にあたる家にきいてみると、このあたりには遺跡遺物はでないとのことであった。おばあさんの息子さんが土器や石器を集めるのが好きで
盛んにでかけていってあつめてきていたというが、それも遠方で集めていて、自宅周辺は関心外であったというから、
なにも出土しなかったのであろう。
  
 遺構についても、あたりを探査してみたが、中世の遺構なのか、耕地を整備した際の区切りなのかはっきりしなかった。
 弥生の遺物についても弥生土器の破片が数点観察されただけであった。館長さんの話ではあの家のあたりが弥生遺跡であったようだとのことではあったが。
 しかし、伊都国の都はこのあたりであると考えられるので、いままでの延寿寺説は撤回し、伊都国の都は延寿寺の北方400mの
中小路集落であるといたしたい。
211唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/06(土) 19:59:53
サガミハラハラ氏の 考古学的 目に注目。
212夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/08(月) 16:51:25
>サガミハラハラ氏
あんたの説に一番近いのは藤原偉作「邪馬台国は沈まず」あたりか?
213サガミハラハラ:2008/09/08(月) 17:23:16
場所としてはね。過程がちょっと。
あと、辻直樹さんが近いですね。
214のんびりひまじん:2008/09/09(火) 02:02:22
景行天皇の18年秋7月4日、筑後の御木(福岡県三池)に百官が往来 とある。(例の「盗まれた神話」に出てくる)

中央官庁の官僚たちがハイキングに来るのだから、ここから北へ日帰り位のところに公務員宿舎や官庁街=首都があったとワシは考える。

とは言うものの、邪馬台国時代より後代だから移動した可能性もある。ともかく南限はここだ!
九州王朝説からのアプローチではあるのだが・・・
215日本@名無史さん:2008/09/09(火) 17:39:06
216唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 15:31:52
このスレの初めにも書いたが小城は、日本武尊が熊蘇を討った土地。
景行の仮御所でも何でも無い土地。
小城以西は、神功が収めた土地。

此に対する反論をお聞かせください。
217サガミハラハラ:2008/09/14(日) 00:52:31
ヤマトタケルの熊襲退治は小城から10kmぐらい東の大願寺というところらしいですよ。
ケイコウとは関係ないとかんがえます。ケイコウは315年即位です。神功のしらぎ遠征は355年です。
神功皇后は新羅から帰還、出産後ただちに畿内に出発し、小城以西は収めていません。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 11:04:10
神功皇后の収めた 田油津姫は、田平津姫の間違いで、
平戸の瀬戸を要とする松浦半島西側を収めた。
此所を収めることにより渡海用の船や人足の調達が可能となる。
なお 景行の諸県は、筑紫を出発しヒナモリ(松浦)経由で到達していますから
此方は、現在の玄海町諸津のことです。これより西側を収めたのが 仲哀、神功。
219日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:03:55
>ヤマトタケルの熊襲退治は小城から10kmぐらい東の大願寺というところらしいですよ。
何を根拠に? 単なる妄想ですか?
220サガミハラハラ:2008/09/14(日) 22:48:32
いや、そういう伝承があります。
221日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:20:03
佐賀県に人食い人種の熊襲が住んでいたなら
邪馬台国は佐賀県にはなかった。
222日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:10:41
>>220
どうゆう形で? いつごろの何という文献?
223唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 10:26:48
いいですかサガミハラハラさん
神功は、「ただ渡海したら3韓を手に入れた。」では歴史になりませんよ。
224唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 10:35:42
しかもですよ サガミ説によると神功の渡海は、4世紀中庸、
魏が滅んで80〜90年後、この間半島は、倭以下の治世、発達状況だったんですか?
「鉄は大量に産出したが、政治の空白地帯であった」わけがない。
さてどの様に乗り切るか?
225夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/15(月) 10:55:10
恥ずかしい限りで。
在野の考古学者・原田大六(畿内説)が1969年に出版した「邪馬台国論争」。
この本は従来の九州説と畿内説の両方を紹介した上で批判がされているのだが、
彼は小林行雄・田辺昭三ら当時の畿内説のドンに対してこう批判している。
「2世紀の畿内の石器文化の繁栄は畿内優勢の証拠にはなり得ない」
「畿内自立論は成り立たない」
「津田左右吉を今でも引きずって神話を検討しようとしない」
「伝世鏡理論は虚構だ」
さて、時は下って1981年。
九州説の考古学者・奥野正男が「邪馬台国はここだ」を出版。
何と、この本には上と殆ど同じような批判が展開されている。
つまり、畿内説の主流となっていた大学教授達は、
在野の考古学者に耳を傾けることなく、自分達の畿内説の精度を上げようともしなかった。
一人の畿内説論者として、全く恥ずかしく、かつ腹の立つ限りである。
226サガミハラハラ:2008/09/15(月) 13:29:27
事実なら歴史になりますよ(面白い話にはならないでしょうが)

4世紀中ごろの半島は、北半分は高句麗、南半の西北部は百済、北東部は新羅、
南沿岸部の東3分の2は倭国(大和朝廷に属す)西3分の1は独立した諸小国だったようです。
皇后が征服したのは新羅のみです。
227唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/15(月) 18:23:18
だから 魏が滅んで8,90年百済や新羅に滅ぼされず独立した諸小国で存在出来るほど
世の中 甘くない。
この間新羅と百済は領土争いをしているが、その中間に位置する諸小国がそのまま存在し続ける
のは、不可能でしょう。
228サガミハラハラ:2008/09/15(月) 21:57:06
しかし、その後の日本書紀の記事などからすると、そう考えざるをえない。
229日本@名無史さん:2008/09/16(火) 00:51:42
三足土器にスルーされた
230サガミハラハラ:2008/09/16(火) 10:21:53
>>229よかった、よかった。
231唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/16(火) 21:39:39
273年の日食を神功元年の出来事とすると まだ つじつまが合う。
魏が滅んで8年任那(崇神時代より大和と友好関係にある、ソナカチ等)は
百済、新羅より圧迫を受ける
任那より大和へ救援の依頼が来る、仲哀は九州まで出兵したが、渡海作戦に懐疑的
武内等は、仲哀説得の時間を惜しんで、渡海
任那以下の諸小国をまとめ、百済と友好条約?を結ぶ
百済は、倭国が晋国へ渡る通り道 独立して間もなくですから対峙するより得とふんだ。

この様に見れば 繋がるでしょう。
232サガミハラハラ:2008/09/16(火) 22:51:11
ところで唐松山さんは西暦201年に和歌山県小竹で日食があったことご存じですか?(理科学的にですよ)
西暦201年は日本書紀では神功皇后摂政元年にあたります。
233唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/17(水) 20:28:16
201・ 3・22 0.202 7:15:28 7:54:04 8:34:39
食率20%では小さすぎ 見過ごすレベル。
247・ 3・24 1.008 17:36:48 18:32:05 18:32:50 18:33:36 19:24:42
最大の食と共に日没 1日の長さを短くしただけ。
273・ 5・ 4 0.944 15:51:34 16:56:39 17:55:41
一度ねぐらに帰った鳥がまた起きて騒いでいる。
276・ 8・27 0.698 4:20:39 5:09:04 6:00:56
朝早すぎ
277・ 2・20 0.695 14:25:18 15:49:11 17:03:45
この日食も良い。
301・ 4・25 0.746 16:38:31 17:38:12 18:32:32
度々の日食に慣れた。
234のんびりひまじん:2008/09/21(日) 16:56:31
@日本列島は、縄文人の居住するところであった。
(ただし、縄文人は一くくりするものでなく地域的な多様性を考慮すべきだ。)
Aあるとき、北部九州に弥生人が出現した。(弥生人の前居住地は今必ずしも明らかでない。)
弥生人たちは九州の縄文人を南に追い詰めた。その一方で、
B弥生人は日本列島を東へ移住していった。その行く先は、瀬戸内から関西・東海までが明確に認めうる。

上記@ABは日本列島の現代人の遺伝子に残っている。
(縄文人対弥生人の遺伝子)
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

なお、風土病状況に追い詰められた縄文人が見える
http://www.isobe.or.jp/column/sanka/s61/s61-2.html
235のんびりひまじん:2008/09/21(日) 17:06:48
>>234を確認された諸君へ
以下のことに同意されるであろう。
・弥生時代でなく、はるか後世に異民族到来をいう江上波夫氏のキバ民族説の否定
・神武の南部九州初発説(日本書紀)の否定・・・(神武に相当する者は北部九州初発に違いない)
・南部九州初発とする水野祐氏のネオキバ民族(狗邪国)東遷説の否定

さて、サガミハラハラ氏の所説は、この検証に耐えうるであろうか?
236唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 19:25:57
@日本列島は、縄文人の居住するところであった。
●まあ そうだろうね。
Aあるとき、北部九州に弥生人が出現した。
はたして 北部九州だけ考えれば良いのか?

北部九州には、出雲系が半島より入植
西側海岸地帯には 海洋民族系が水上交通を要として住んでいた。=縄文人か?
琉球列島弧もこの人々が住んでいた
この海洋系民族に移住を依頼した、弥生人グループが何組か有った。
後に手長足長蜘蛛と呼ばれたり、主として”蜘蛛”と呼ばれた人々は、初期弥生人
そこに長身を誇る。アマテラス系が暦を持って九州中部に入植
農耕地(低地)を求めて 北上 出雲系と対峙、 少数のアマテラス系は、出雲系に対し
「暦の配布」と交換条件で、筑紫に入植。
出雲系(大物主)を盟主として、発展。

ここから神武になる。
237唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/21(日) 19:47:43
神武 東征直前 32国程が連合。

暦の管理者は、アマテラスニギハヤヒ君 治世10年で崩御するのですが
后には女子しか居ません、妾の子の名ウマシマジ
ニギハヤヒは、世継ぎとして タビラツヒメに婿を取る その名神武(神武ハ後の名)
ウマシマジは、ナガスネに暦を書写させ それを持って 大和へ逃亡、
其れを追う大物主、1回目は、失敗、2度目にイツセ、神武等が 追う。

ニギハヤヒは、筑紫日向のアビラ山の神と成る、タギシミミも筑紫で生まれる。
神武の去った筑紫に本家の威光は、アリマセン。
この辺が、九州に天照大神の居ない理由の一つ。
238日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:56:23
神話をバラバラ並べても、そのまま史実とするに足らず。

そもそも天照大神は対馬の王。

神武は北部九州の役立たず退役軍人が、わずかな集団を率いて畿内に侵入したもので、
九州王国にいささかの影響もなし。
239サガミハラハラ:2008/09/21(日) 21:11:29
>>235キバ民族の否定ーー賛成です。
   神武の南部九州初発説の否定ーー賛成です。
   ネオキバ民族説の否定ーー勿論賛成です。 
240日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:05:01
>>234
支配層が弥生系だったら母系(ミトコンドリアDNA)の10%、男系(Y染色体)の90%が弥生系になっているはずなのに
現代日本人は母系ではアイヌ沖縄より韓国人に近く、男系の50%が縄文系

>大陸からやってきた渡来人と、それまでにいた縄文人が混血の割合は最近まであまり正確に分からなかった。しかし、分子生物学の進歩によって、遺伝子の解析がされるようになって段々と正確な推定がされるようになってきた

>縄文人のY染色体の異常な増殖は、弥生から古代にかけて社会の父系支配層が縄文系だったことを意味している

>Y染色体からみた人種民族集団の類似度と、ミトコンドリアや常染色体からみた類似度が異なるような例は、もう既に知られている。
>ラテンアメリカの例、散在する太平洋諸島の例、インドの例である。

>インドの場合は、3000年以上前にアーリア人(白人の一人種)が中央アジアからインドに侵入し、上層階層を形成した。
>その結果、父系は母系に比べてアーリア人が比較的に多いのである。

ttp://kuroneko.blogdns.net/HP/aicient-Japanese/Japan-Koria.htm
241日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:12:23
>240

弥生時代にタイムスリップしてDNA鑑定すればそうなるでしょ。
8世紀以降の歴史でドンデン返しがいろいろあるから、現代ではなんとも。
242日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:26:49
>>240
だから、弥生(人)縄文(人)が嘘だっつことに気づけよ。
243のんびりひまじん:2008/09/21(日) 22:37:11
>>236 >>237 >>238 >>239
ありがとう。

もともと推論めぐらす上で限度の大枠提示でした。
弥生時代に、北部九州が首都圏(鏡剣玉絹などの集中出土)であった=弥生人の列島上陸後の重要拠点
であったことも了解できると思います。
その後は、あいつぐ東方進出が続いた・・・・
(それを了解しあった上で、どういうタイミングで東遷を想定するかだけが重要点と思います。)
一方、南部九州へ追われた縄文人は帰服後、地方豪族にとどまり東方進出に参加していないだろう
ということも読み取ることができましょう。

なお、九州王朝説は基本的には正しいと思いますが、
固有名詞レベルへすぐ直結することは、いかがかと思っています。

※固有名詞:人名・地名どちらも気をつけませんと。
記紀の扱いは慎重にしたいです。(サガミハラハラさん大丈夫?)

>>237
>暦の管理者は、アマテラスニギハヤヒ君 治世10年で崩御するのですが
日本書紀で、儀鳳暦と元嘉暦とが入れ替わる時点があったと覚えていますが、
その点との関連はどうお考えですか?(別スレでしょうか?)
244日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:01:55
245サガミハラハラ:2008/09/21(日) 23:21:19
まだ固まっていないのであるが、高天原(もしくはそのモデルとなった所)は佐賀県北部の脊振山地であると、考えています。
天皇家の先祖はそこで縄文畑作等を行い生活していた日本在来種であるとかんがえます。
となると、天皇けは縄文系であるとなります。
天皇家の血筋は、源氏平氏にもみられるように、かなりの数が国内に拡散しています。
となると、日本の男子の50%が縄文系であることが納得できます。
246のんびりひまじん:2008/09/22(月) 00:13:02
>>245
サガタマガハラ説ですか?
しかも天皇家縄文人説。

天皇皇族が酒飲んで赤くならないのかナ
藤原系もわかってないと結論出ないかも とデータを読む・・・zzz
247日本@名無史さん:2008/09/22(月) 00:26:56
>天皇家の先祖

「どこまで遡るのか」にもよるでしょう。

1:出雲のいざなぎ・いざなみ
2:対馬の天照大神
3:壱岐→筑紫のににぎ命
4:糸島→畿内の神武
248日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:28:52
>>245
・まだ固まっていないのであるが、
・〜と考えています。
・〜であるとかんがえます。
・〜となると、〜となります。
・〜みられるように
・〜となると、納得できます。

妄想に妄想を重ねた論法って・・・。
妄想が根拠で論を進めていっても、誰も納得しないよ。
自分もホントは納得してないんじゃないの?

249唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 09:47:05
>暦の管理者は、アマテラスニギハヤヒ君

この頃の暦は、四分暦だと思われる、西暦一年前後の 漢でも使われていた暦の焼き直し。
現実の四分暦に19年(6940日か6939日)の空白(是をホツマは”増し”と書く)
この空白は、観天の月齢で差し込まれており 外観は、後世の「儀鳳暦や元嘉暦」に
よく似ており、「書紀は、儀鳳暦で書かれている。」と言う間違いの元凶と成っている。

250サガミハラハラ:2008/10/14(火) 14:09:01
>>248さん。妄想の意味わかってますか?
251日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:56:42
サガミハラハラさらしあげ
252日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:02:06
>>250
>>248さん。妄想の意味わかってますか?

妄想の意味を熟知しているからこそ
>>248は、ここのスレにそれを書いたんだろう。
気付いていないのはアナタだけかも
253サガミハラハラ:2008/10/14(火) 22:41:52
>>252それでは、私の水行十日陸行一月の解釈を妄想と判断した理由をご説明ねがいます。
254日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:58:32
>>253
>私の水行十日陸行一月の解釈を妄想と判断した理由をご説明ねがいます。

しらんがな
いちいち妄想を研究するほど暇人ではないぞな
誰でも一目見ただけで妄想とわかるぞな

ただ一つだけ関心するのは
そこまでの妄想に浸れる羨ましいほどの性格。
255サガミハラハラ:2008/10/15(水) 00:05:16
知らんがなって、あなたはみもしないで感性で判断するようですね。それでは論になりません。
つまり、語る資格がないといわれますよ。
それこそ妄想でかたっているといわれます。
256日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:02:00
頭のおかしな人には気をつけましょう http://www.2ch.net/before.html

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。
頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。

頭のおかしな人の判定基準

・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。

・根拠もなく、他人を卑下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を卑下することで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。

・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげてください。
257サガミハラハラ:2008/10/30(木) 21:56:30
ふと、思いついたのであるが、中小路遺跡のカラホリさんであるが、あそこを思い出してみると、カラホリさんと呼ばれる部分は道であり、道に沿って南側に土塁があった。北側は1mぐらいの高台であり、館があったようである。(瓦やカワラケの破片がいっぱいあった。)
土塁と道の間は溝状になっていた。
これは吉野ヶ里の柵土塁や堀と同じ構造である。吉野ヶ里では、外部ー柵土塁ー空堀ー居住地となっているが、カラホリサンも同じ構造である。
つまり、中世や近世の堀が土塁の外にあるのに、弥生時代の堀は土塁の内側にある。
となると、カラホリサンの遺構は弥生時代の構造をもっている、すなわち、弥生時代当時のままの姿をとどめているといってよい。
これが弥生時代につくられてそのまま残っていたとすればこれは奇跡的なことといってよいであろう。
258日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:45:04
サガミさん

サガミさんちの近所の八王子城だって1590年に落城したあと、
1951年に発掘調査が行われるまで土に埋もれていたんですよ。
弥生時代の遺構が現在まで残っているわけがないでしょう。
近年に発掘されたというならともかく。

常識的に考えてくださいよ。
259唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 20:36:32
中世の館跡が正解?

稲城≠稲わらで囲った館
稲城=土手(遠くから見ると稲を干したはぜ木に見える)
サガミさんちの近所の稲城市の京王線脇の崖を参照。
柵ははぜ木に見える。
260サガミハラハラ:2008/10/31(金) 21:10:32
土塁やカラホリさんは、中世の多久氏の居館跡のものであるいうのが、現地の博物館の人の見解でした。
私は多久氏が館を造営した際、残っていた弥生期の遺構を利用したのではないかとかんがえています。

戦国時代後期には多久氏がほろび、屋形は放置されていますから、その時の土塁が現在まで400年のこっていたことになります。
261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 22:22:33
中世の土塁は各地に現在まで残って居る
その意味ではサガミさんの見方にも一理ある。が 中世の土塁と弥生の稲城
では作りに違いがあるはず 博物館の人の見解は実地調査をした結果の結論
でしょうから 稲城との違いを解っていないと分類できない。

構造が似ているから同類と分類していませんか?
もう少し構造の分析が必要かと。

262サガミハラハラ:2008/10/31(金) 22:34:17
再訪して詳しく調査してみようと思っています。
現地で思いつけばよかったのですが、帰京してからついさきほどおもいついたものですから。
263唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 23:15:50
風土記によれば小城辺りは神功が収めた白水郎の土地と書かれています。
そうすると この土地を見るためには、崇神時代の卑弥呼?から日本武尊の記事
を含んで神功皇后まで見てください。

私は、 卑弥呼=景行ですから是なら読めますよ。
神功には渡海という大事業がありますから。「神功は、居なかった」で任那が読めるか?
再調査の前にこの辺の歴史を予測して於いて下さい。
264日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:33:40
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!21
academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214012657/223

223 :サガミハラハラ:2008/07/02(水) 14:20:06
長里短里とは、日本の邪馬台国研究の中で、里程が魏の時代の里単位ではあわないことから、それよりも短い里がつかわれていたのではないかということから、
短い里を想定し短里という用語を使用し始めたものである。確か古田武彦氏がつかい始めたのではと思います。
ただ氏の場合、行路記事は魏使の報告書からという既定概念から抜け切れず、長里短里が併用されていたとした。
対して後藤幸彦氏は倭人伝の行程記事の単位は箕子朝鮮に由来する周尺によるものであるとして、
次第にその支持をひろげている。
265サガミハラハラ:2008/11/03(月) 17:24:31
今日の午前10:30からのテレビ朝日の「まぼろしの邪馬台国」PRのなかで、邪馬台国への地図が表示されたが、
韓国内陸行となっていた。
 もはや、韓国内陸行拙はゆるぎないものとなり、水行十日陸行一月は総日数であることが公認されたのである。
266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/03(月) 17:37:27
「まぼろしの邪馬台国」は、昭和40年代
それから一歩も進んでいないのが 崇神=卑弥呼の設定。
この設定は、大正時代からか?
267日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:57:51
卑弥呼が崇神天皇だと言ってる論者は一人もいないと思うが。
268日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:33:09
まぼろしの邪馬台国って九州じゃないの?
269日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:39:03
>>265
ギャンブル依存症の人も
貴方と似たような話しをよくする。
先日いくら儲けた。昨日万券を取った。去年このレースで大儲けした。
その人から負けた話しを聞く事など、一度もなかった。
270サガミハラハラ:2008/11/03(月) 20:02:50
どうゆうところが似ているのかいま一つわからないですが。
271日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:50:48
>>270
>どうゆうところが似ているのかいま一つわからないですが。

>>265>今日の午前10:30からのテレビ朝日の「まぼろしの邪馬台国」PRのなかで、邪馬台国への地図が表示されたが、
韓国内陸行となっていた。

という番宣を

>もはや、韓国内陸行拙はゆるぎないものとなり
>水行十日陸行一月は総日数であることが公認されたのである。

という根拠にしてしまう。いや、もう藁をもすがる思いなんだろう?
272サガミハラハラ:2008/11/03(月) 23:04:26
いえ、もはや頑丈な太いロープですよ。
あの番組のスタッフはかなり斬新ですよ。
邪馬壱(旧字)国と書いて、邪馬台国と読んでいました。
273日本@名無史さん:2008/11/03(月) 23:40:41
>>272
>あの番組のスタッフはかなり斬新ですよ。
邪馬壱(旧字)国と書いて、邪馬台国と読んでいました。

斬新というよりも、かなりお気の毒と言うしかありません。
何処の世界に邪馬壱(旧字)国と書いて、邪馬台国と読む馬鹿がいますか?
274サガミハラハラ:2008/11/03(月) 23:52:56
ヤマタイ国の原文では、邪馬台国となっているものと邪馬壱国となっているものがあり、どちらが本来なのかとの論争があったことがあります。(古田武彦著 邪馬台国はなかった。)
つまり、スタッフはまぼろしの邪馬台国という番組でありながら台は間違いで壱が正しいという説をとったということでしょう。
しかしながら読みは一般的なヤマタイコクをとったものと思われます。
275日本@名無史さん:2008/11/03(月) 23:59:53
>>274
>ヤマタイ国の原文では、邪馬台国となっているものと邪馬壱国となっているものがあり、どちらが本来なのかとの論争があったことがあります。(古田武彦著 邪馬台国はなかった。)

過多な知識を少々持ったためにおきた悲劇ですね。
邪馬台国を知らない人が、紹煕本や紹興本を読んで邪馬台国と読めますか?
276日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:03:00
>>274
>台は間違いで壱が正しいという説をとったということでしょう。
反対だろう。壱とあるのは間違いで台が正しいと思うからそのように読んだんだろう。
277サガミハラハラ:2008/11/04(火) 10:10:40
なら、台とかいてある原文もあるのだからそれを表示するはずでしょう。
278日本@名無史さん:2008/11/04(火) 13:13:40
あれはね。番組のスタッフが古田かぶれだったということですよ。
279美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 14:11:16
>>274
魏志倭人伝って古代漢人が書いたんでしょ?

大陸では邪馬壹國って書いてヤマタイコクと発音はしないし
卑弥呼と書いてヒミコとは発音しないよ

大陸では
邪馬壹國→ジャア・マァア・イィン・ゴォグ
卑弥呼→ヒィ・ヤァア・ホォオ

見たいな発音になるよ

また日本見たいに発音に字を当てるって使い方は大陸ではしないし

日本は「よろしく」を発音に合う漢字を当てて夜露死苦って書いたりするけど、大陸では漢字はそういう使い方はしてない(つか出来ない)よ
280美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 14:16:21
あと大陸に置いて漢字は「主語、文法、文節、過去形、」などもろもろが無い文字だよ


だから「女王卑弥呼」って書いてあって「ヒミコって名前の女王」って解釈は間違ってる可能性もあるよ

女王、卑弥を呼ぶ
女王、卑弥と呼ぶ
女王、卑して弥(益)を呼ぶ
「女王卑弥呼」って文からは
こういう読み方も出来るよ
281日本@名無史さん:2008/11/04(火) 14:30:45
邪馬壹國→ジャア・マァア・イィン・ゴォグ

ヤア メ  イ

ヤ メ

八女
282美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 14:56:51
>>281
大陸の漢字の発音には特になんの意味も無いですよ

A→エー
B→ビー
ってのと同じ
一字に対して母音+子音からなる一音を付けて、「この字の発音は○○」って決まってる文字
小籠包→ショウ・ロォン・ポォウ

これも決められた漢字の発音を発音してるだけ

例えば「カレー」って呼ばれる料理があったとしても、それを漢字で「南蛮汁」と書いたとしたら、読み方は「ナァン・ブァン・ジュウ」としか読まない
この発音には何も意味がないよ
283日本@名無史さん:2008/11/04(火) 15:31:42
女王、卑弥を呼ぶ、なら女王呼卑弥 でないと相当な破格の文体じゃないかな?
284美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 15:46:08
>>283
漢文には決まった文法は無いよ
ただね「卑弥呼」ってのを人の名前としてる解釈が間違いかもよ
普通は名前なら「○○女王」「○○帝」とかって書くだろうし


邪馬壹國だって○○国って書き方をしてる訳だから、卑弥呼って名前の女王なら「卑弥呼女王」って書き方すると思うよ

魏志倭人伝では「国、邪馬壹」なんて書き方してないでしょ?
285太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 15:52:39
西遊記の読みすぎか〜?w  西遊記「蓮花洞」

孫悟空→孫悟→空悟 とか・・・。
286美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 16:01:47
邪馬壹國ってのも「邪馬(騎馬)の壹國」って意味かも知れないし

あと秦の始皇帝にしろ「秦始皇帝」って書いてるだけで、別にその皇帝の名前なんて書いて無くね?


ちなみに昔の日本では「○○こ・○○ひこ」は男の名前で、女は「○○め・○○ひめ」だよ
男→イワレビコ、山幸彦、清日子、ワカタラシヒコ
女→ヒルメ、イリビヒメ、イラツメ
息子→男 娘→女
だよ

287日本@名無史さん:2008/11/04(火) 16:08:25
大陸僻地ならともかく史書ではよほどの理由がないかぎりそれは異
体な筆法でしょ 絶対ないとは言わないけど
288日本@名無史さん:2008/11/04(火) 16:26:01
それに名曰卑弥呼って書いてあるから、名前は何と読むかわからん
にしろとりあえず卑弥呼以外ないよね?卑弥を呼ぶじゃなくて
289美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 16:39:43
どのみち女王の名前は「ヒミコ」じゃないと思うよ
そもそも「○○こ」や「○○ヒコ」「子」は男って意味だよ
「○○め」や「ヒメ」や「女」が女って意味

子(こ)は男
女(め)は女

息子・娘
婿・嫁
彦・姫
御子・巫女
皇子・皇女
天子・天女

「○○こ」って最後に「こ」が付く名前は昔の日本では男に付ける名前で、女で「○○こ」って名前は無いよ
「こ」は子(男)って意味で、「め」が女って意味だから


期記に出てくる男と女の名前とか調べれば解るよ
290美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 16:47:47
>>288
「卑弥呼」の呼び方は1つしか無いよ
大陸では漢字は一字一音で、全ての漢字に一音の決まった発音が付けられてるから、その発音以外では読まないよ(中国は多民族多語源だから語源の違いにより発音のニュアンスの違いはある)

卑=bai
弥=mi
呼=xia

ネットの辞書によると発音はこれだよ(なんて発音するのか良くわからないけどw)
仮に卑弥呼が人名だとしても「ヒミコ」なんて発音はしないよ
291日本@名無史さん:2008/11/04(火) 16:52:05
え?魏の時代にその発音?その音はちょっと新し過ぎないかな?
292日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:02:38
当時だとせいぜいピミフォとかビーミンファ位しか変わんないんじゃ?
ヒミホの可能性は昔から言われてるような
293美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 17:06:51
>>288
その書き方だと最後の「呼」って漢字は「〜と呼ばれ。〜と呼び」って意味の気がするんですよ

「名をいわく卑弥と呼び(呼ばれ)」じゃないのかな?

もしくは「曰」と「日」を間違えてれば「名は日の卑弥と呼び」だし
294美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 17:15:16
>>291
実際は使ってる語源により発音のニュアンスは変わるだろうしね
「龍」は北京語の発音では「ロォン」だけど日本では「リュウ」って発音になるし

ただ漢字の発音はどれも「子音+母音」で全部一緒
だから中国の漢字を発音するとあの独特の「ウァン、ウァン、ウァン」見たいなリズムにしかならないよ
麻雀やってる人は解ると思うけど
リャン、ウー、パー
チー、トイ、ツー
リャン、ペイ、コー


ショー、ロン、ポウ
ウー、ロン、チャー
テン、シン、ハン
漢字を発音するとこうなるよ

295太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 17:23:11
新羅本紀には「卑弥乎」だろう? だから卑弥じゃないだろ?
296日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:50:41
>>293
曰くが日の間違いとすれば 名呼日卑弥、の語順しかないと思いますが、
もし名○○呼という文体が当時前後に他にあれば教えてください
日は肥かもしれないというなら賛成ですw
297美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 17:51:56
>>295
中華人民共和国以降の中国は共有語を北京語に統一し、人名などには発音に似た漢字を当てて、例えば「ブッシュ→布汁」とかの発音の近い漢字を当てる使い方もしてる

ただそれ以前の中国ではそういう使い方はしてない
だからインドを南蛮って書いたり、ヨーロッパを西洋と書いたりだよ
映画のタイトルもハリーポッターは魔法少年とかってなる

シナは日本と違い表音を表す文字を持って無いから、古史はあくまでも字の意味から読み取るしかないんだよ


だから中国の書物に「秦」や「夏」などの古い国の名前が乗ってるけど、これも過去に中国にあった国の名前とは限らないんだよ
秦はローマの事を指してて、夏はアーリア国の事を指してるって言う話もあるよ
ちなみに古代の日本でもローマ帝国を「大秦」って書いてて、ローマ地方からの移民を秦氏って呼んでた訳だし

漢、随、晋、魏、燭、、
これらの国も実際にはどこの都市に朝廷を構えてた国なのかははっきり解ってないんだよ
そもそも漢の朝廷は漢城(ソウル)にあった訳で長江や北京にあった訳じゃないんだし

仮に古代漢人の朝廷がソウルにあったのなら漢人の書いた三國志伝も単に朝鮮半島の三國時代の事を書いた話な気がするし
実際に三國志を書いた漢人の司馬氏族は百済が負けてから日本に移民して来てる訳だし
298日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:02:05
孫権や始皇帝がいくら碧眼でも…それはない
299美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 18:07:14
>>296
漢文には決まった文法も何も無いよ
その書を書いた人がどういう法則や文法で漢文を使ってるかを読みといていくしかないすよ


だから三國志の中で名前を書く時に卑弥呼以外にも「王、名曰○○」って書き方してれば「ああこの人は名前を書くのにこういう書き方をするんだな」ってなる
ちなみに三國志伝に出てくる他の王の名前を「○○王」って書き方をしてるのなら、魏志倭人伝でも「卑弥呼女王」って書き方をしてなければおかしいんだよ
そもそも発音表記の出来ない漢字で、違う国の言葉の名前の表記なんて出来ないんだから、名前なんて書くんかな?

例えば「イワレビコ」って名前を漢字で書こうとしても表音表記の無い大陸漢字は表せないから「大和朝廷の天皇(王)」って書くと思うよ
漢字では音は表せないから「ヨーロッパ」って名前でも欧州って書くしか無いわけだし


「歯黒国」とか「裸国」とか、こんなのは国の名前を表音表記出来ないから、こういう表記しただけだろうし
300美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 18:15:26
>>295
「卑弥呼」でも「卑弥」でもいいすよ

ようは「卑弥呼」って部分が名前を表してるとして、それは「ヒミコ」とは読まないですよって事すよ
毛沢東を「け・さわひがし」とは読まないでしょ?

女王の名前は「ヒミコ」じゃないよ
邪馬壹國も「ヤマタイコク」じゃないよ
301日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:22:39
倭人伝は当時最高の教養がある人の文体だから一貫して名曰○○
、◎曰○○でぶれがないような。暗号みたいな春秋の筆法がある
というならまた別の問題ですが
302美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 18:23:53
>>298
エジプト、ローマ、トルコ、ギリシア、アレキサンダー、チンギスハン、モンゴル、インド、ナポレオン、、

例えば「やまさちひこ」も日本語なら「ヤマサチヒコ」とも「山幸彦」とも書けるけど
大陸では「やまさちひこ」の名前は書けないよ
仮に日本の漢字名のまま山幸彦って書くと名前の発音が「ザン・コォウ・ゲェン」ってなっちゃうし
303日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:31:38
必要あれば邪馬○○卑狗とか書いたんじゃない?ヤマサチヒコ
304日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:34:26
卑弥弓呼とかもいなかった?
305美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 18:44:16
>>301
確かに漢字は教養のある人しか使えない文字
あと表音文字である漢字の利点は、漢字を使ってる人同士ならば、言葉や語源の違う人にも意味が理解出来る所
漢字はアジア圏で普及し言葉や語源の違う民族でも漢字を使い交易や交流が出来た素晴らしい文字だと思うし

ただ中国にしろ他国にしろ日本ほど文字文化が進んで無いから、日本見たいに発音表記が出来るように音読を付けたり、我がの語源も表せるような使い方が出来てないんすよ


つか例えば「ナポレオン」って名前を漢字の意味を当てて漢字表記してみ?
すげー難しいよ
「フランス初代皇帝」って書けばナポレオンの事と解るけど、フランスってのを、どんな字にしていいか解んないし
306日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:10:45
でも万葉仮名って似たような事やってるし
渡来人が聞いたやまと言葉を漢字表記してるからね。
で、卑弥呼は肥の巫でいいの?
307日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:17:27
南歩霊怨 夜露死苦
308美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 19:41:53
>>306
日本では漢字以前から神代文字っていういわゆる表音表記のシュメール文字を使ってたからっすよ
平仮名や片仮名も漢字が伝来する以前から既にあったんじゃ無いかって思うし
和歌や短歌も表音文字じゃなきゃ書けないしさ
日本の場合は元々使ってた日本語の発音をそのまま表せる文字に、意味を表せる漢字を取り入れて、日本語の意味と音を表せる表音表意文字として使ってる国だよ

優れた文学文化があったから出来た事だと思うよ
大陸の人達はそれが出来ないからいまだに表意文字のままでしか使えて無いわけだから
309太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 19:51:59
七支刀銘文の「旨王」っていうのは銘文記述者の謎かけリドラー
だろうが、これは日(ヒ)の王(半島式で日皇)の意味なわけ。
カタカナのヒで日の読みを「旨」一字で示唆したもの。
「候王」の「候」のツクリには矢があり、ニンベンのイは↑の矢の
略字な訳でツクリの上部のユは七支刀の幹刃と枝歯をヨコ倒しに略形
としたもので、字の意義を考察すれば、つまりだ、矢的(=ヤマト)
を黙示したもの。つまり半島の連中は当時カタカナがあって、その
読みを知っていた奴だろう。だからカタカナの成立は泰始4年たる
安康元年の、それより後代ではないのだと想う。
310日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:02:44
「ヤマト」は大和の意味が読みになりました。
311日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:20:23
倭王「旨」ってのがいたんじゃないの?甘木かどっかに
312日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:57:58
百済の王を意味する「コンキシ、コニキシ、コキシ」は

「ニニギの命」の別名「アメニキシ天邇岐志,クニニキシ国邇岐志...」
の「クニニキシ」が変化し「クニキシ、クンキシ」に訛ったと思われる
志羅紀のニシキ、久多良のコニキシ、伊都国の官,爾岐ニキ、ニニギ、ニギハヤヒ
等々のニギ、ニギシは(賑わし処,国村)から古代の倭人語と思われる。

この意味からの発生で後、良き人能力の有る人文官などを「吉師」キシ、キッシ
と呼ばれる様に成る。例、王仁吉師
313太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 21:01:28
「候」の字のヘンのとなりの|は、矢の飛跡を意味する直線で
あり、これが石上神宮にあるということは、石上とは五十ノ上と
いう意味で、カタカナ五十音の意味やも知れない。矢の穂先が的に
穴を空ける意味なのか、時の安康天皇を穴穂尊という。
倍暦計算で

 泰始4年=468年=安康元年

となる。
314日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:15:24
石上神社のヒトマロの歌碑は旨王の暗号に違いないと言ってみるテスト
315太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:09:53
>>311
九州には肥の国(火の国)があるから、「旨王」のヒと読めという
日の王(半島的には日皇だが)とは九州王朝の王で、「候王」は
ヤマトの王の安康天皇という考えもありうるかも知れない。
そうだとなると、この九州王(旨王)は安康天皇あたりの時代の
九州の王だということになってくる。
なお安康天皇の宮名は石上宮である。
316日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:28:26
候王は興王安康大君で別に旨王もいたら良いと思うんだ
ただ「旨」をどう発音したものか…
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:31:59
>>314
柿本人麻呂のことはそれがしはよく知らないので、どんな歌碑なのか
も分からんが、ヒトマロの「ヒト」を思えば、隅田八幡鏡の銘文の
「・・・八月日十大王年男弟王在・・・」の「日十大王」の
『日十』とはヒトと読むべきで、八月十日と書くべきところ、逆転
で「日十」となってるわけで、この銘文はタテ書きであり、ヒトを
トヒとして人の逆さづりを示唆している。だから「日十大王」とは
人を逆さにした人間虐待の王たる武烈天皇を黙示しているのだ。
そして七支刀の「旨」がヒ(日)と読むことを見破っている。
差し障りなければ、歌碑の文を教えてくれ。
318太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:34:33
>>316
だから『旨』はヒ(日)と読ませるため、この字を書いたものだ。
319太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:36:32
興王は九州の王だよ。「康」に音韻が一致するが、安康ではない。
320!stock:2008/11/04(火) 22:42:37
てs
321太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:44:55
安康の号のほうはできたのがもっと後代ではないの??
322美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 23:17:58
>>309
その刀は百済が神功皇后に送ったものだよ
ちなみに300年頃の事
日本書記にも書いてあるでしょ
ちなみに百済ってのは神功皇后が乾国(半島)に派兵して建国した倭人の国だよ


百済や新羅が片仮名や平仮名や神代文字を知ってたとして当たり前
倭人が建国した国なんだから倭人の文字を知ってるのが当たり前だし
ちなみに半島へ派兵して神功皇后が百済を海の向こうの宮家とした話も期記に書いてあるよ


ちなみに神功皇后はこのときは半島遠征の為に筑紫に宮を構えてたよ
これを「九州王朝」と言うかどうかは知らないけど、この時代に九州に宮が置かれてた事は期記に書いてある通りだとは思うよ
323美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 23:32:21
朝鮮半島から日本と同じ古墳や鏡や遺跡が出土されるのは「当たり前」って思って下さい

前から言ってるように乾半島は神功皇后の時代に国造りとして、天高原(信州、諏訪)を納めてたスサノオの天王血統の日向三代達が納めてた土地

日本と半島に共通する遺跡や文化があるとしたら、それは日本から半島に伝わったものだよ
ちなみに稲作などもこのときに日本が半島や大陸に伝えたんだよ

百済王も新羅王も倭人で、ちゃんと天皇の血統を引いた日本人だよ
324九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/05(水) 01:38:37
>>315
>九州には肥の国(火の国)があるから、「旨王」のヒと読めという

オイオイ、この時代に片かながあったのかぁ・・・
325日本@名無史さん:2008/11/05(水) 06:55:08
七枝刀468年説は有力と思われます
326太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/05(水) 14:38:50
>>324
七支刀銘文の「旨王」からか、これを知っていたのか、隅田八幡鏡
銘文の作者は「・・・八月日十大王年男弟王在・・・」の大王名の
『日十』ヒトと読ませる工夫をしたのかも知れない。「八月十日」と
書くべきところを逆転させて『日十』としたのはこれをヒトと読ませ
たく、「十日」のはずはトヒのはずだが、同鏡銘文はタテ書きであり、
ヒトを逆さにした大王即ち人間を逆さづりにした残虐な天皇を黙示
したのである。まともに書けば作者がトッ捕まるから謎をかけたん
だろう。その大王とは武烈天皇だということになる。

これは七支刀銘文の「旨王」の『旨』をヒ(日)の王(半島式では
日皇)として天皇を示唆しているのだと想う。ということは七支刀
銘文作者がカタカナで読みを教えたものだろう。だからそのころ日本
にカタカナがあったという可能性が見えて来る。『旨』はヒと日との
合字だからだ。

梁書には顯宗天皇の時代(=499年:倍暦計算)に日本は「有文字」
だったとの説明が日本に渡っていた慧深の説明によって明記されて
いる。七支刀は467年のそれ以前、安康元年だ。499年は顯宗元年。
327唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/07(金) 20:40:35
>七支刀は467年
400年代初期 倭国は、高句麗に大敗前線の後退を余儀なくされる。
430年頃より 百済、新羅は倭と距離を置くようになる。
そして 百済、新羅は高句麗に接近 倭と国交を途絶する。
百済は高句麗に浸食され弱体化 嶋王(武寧)は倭国内の島で生まれる。

この時代に 七支刀は、無い。
328唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/07(金) 21:03:05
もん太君 北京語も広東語も同じ中国語 従って漢字で書かれた文章は
どちらでも通ずる。
しかし 口に出して読むと全く違う発音 是が中国語です。
従って 倭人から言葉を聞いた人間、その発音を漢字で記録した人間、
これらの人々の使った漢字の発音は、日本に入ってきた”漢”の発音、表記と
違う可能性がある。
329九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/08(土) 12:36:51
時代地域によって全く異なる発音。
アルファベットは同じ西欧の英独仏伊西語のごとし。。

中華同文であって、

中華同音ではない。
330日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:50:10
旨王は「うま」王と読んでもいいよな
331銀河 秋彩:2008/11/18(火) 03:55:35
【▲矛(→剣)圏・倭国・物部氏】、【●鏡圏・イ妥国→大倭国・蘇我氏】、【■銅鐸圏・公孫氏(→滅亡)】

「漢 委奴国(ゐなま)王」印の、
「委国(ゐな)」+「奴国(なら)」=「委奴国(ゐなま)」の、
「委国(ゐな→倭国)・イザナギ(統治者・男王)」側⇒東[魚是]人の銅鐸族の公孫氏を裏切る⇒
⇒(長男)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(君臨)の「邪馬壹(連合国)・筑紫平野」⇒
⇒西暦247年・「卑弥呼の死」に拠り、崩壊⇒
⇒倭王・多利思比孤⇒「倭国・九州筑紫王朝・孫(姓)・のちの天孫降臨へと=物部系(夏)」……わが国の南朝
【▲矛(→剣・倭国孝徳天皇)圏・(太伯&仲擁→孫姓→)祖神は卑弥呼・物部氏】
『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝&司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
「兵には矛・楯・木弓を用う」の【矛圏】の、卑弥呼の「邪馬壹(国)・筑紫平野(物部系)」側。
唐津湾から松浦川〜厳木川方向へ出来るだけ遡り、東南陸行に転じて五百里・伊都国(いづら)=《佐賀県小城市牛津町》
  筑紫矛の分布図
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=e9fb.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14.html
  卑弥呼の都【魏使が来るに及んで、久留米から遷都、隼人町が記載されている】・「★倭国は極南界」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t
西暦247年に卑弥呼の「以死」に依り、崩壊。
332日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:00:58
>>331

>『魏志倭人伝(通称)』に記載は明帝&司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した

銀河秋彩さん、あなたは馬鹿ですか?
333河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/11/18(火) 18:22:50
>銀河秋彩さん、あなたは馬鹿ですか?


ギャハハハハ―‐
334日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:30:00
>>331
おや、井沢掲示板でおなじみの銀河秋彩さんではないですか(w

2ちゃんねるに書き込んだりすると井沢掲示板の管理人さんに怒られますよ(w
335バカウヨ追放汁!:2008/11/18(火) 18:53:17
邪馬台国は西都原
336唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/18(火) 20:11:15
>>331
出雲からは、剣が出土しない?。
337日本@名無史さん:2008/11/21(金) 00:08:36
>>331
文章というのは、読んだ人に意味が伝わらなければ駄目。
338唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/22(土) 00:28:57
名前判明
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=タラシヒコ=景行
伊聲耆掖邪狗=イワカ=六雁
ついでに書紀より
卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
イヨ=五百野姫
登場人物は、是でほぼ決定。

339日本@名無史さん:2008/11/26(水) 18:24:25
どうでもいいが、サガミハラハラはどこへ行ったんだべ?
340唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/11(木) 21:16:10
もん太君 日食の話は、>>233
此所で 書紀の編年について語りましょうか?
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/11(木) 21:22:35
古代 倭国に暦は有ったか?
私は神武以前から倭国に暦が有って 太陰暦で記録された。
ただし古代の暦法は、正しい太陰暦を引き延ばした様な物である。

342唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/11(木) 21:27:57
ホツマに暦には、”増し”が有ると書かれています。
そして「書紀は、太陰暦で有る」と読める。
この引き延ばされた「書紀の太陰暦」を 正しい長さの太陰暦に直す。

どうする?
343サガミハラハラ:2008/12/11(木) 21:40:49
あのー、スレ違いではないでしょうか
344唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/11(木) 21:50:11
サガミさんが 自分の編年を暦に直して掲載してくれるまで、やる。
サガミさん 私が「暦に直して下さい」とお願いしたとき 「直せるハズだ。」
で終了していないんですが?。
345唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/11(木) 22:00:49
書紀を真っ直ぐ読んでいるサガミさんが
「太陰暦で書かれている書紀を圧縮して太陰暦で読めなくした。」ではマズイ。
「その検証をこれからやろう」言うんです。
346サガミハラハラ:2008/12/11(木) 22:42:44
>>344新しく「日本書紀の年代を考える」のスレをたてましたのでそちらで話合いましょう。
347日本@名無史さん:2008/12/19(金) 18:47:20
戸数や里程里数に拘る必然性は無用と、かつ無意味と考えます。
何故なら、帯方郡から狗邪韓国の里程か七千里、対馬國まで千里、壱岐国まで
千里、末盧国まで千里、ここまでで、一万里です。
明帝紀においては、洛陽から遼東までの里数は四千里と明記してあるのです。
地図帳を開いて見るならば、『誇張誇大』は明らかです。
したがって、魏晋短里説は誤りであることも、ここに明白です。
陳寿は漢書を意識対抗して書いたはずです。漢書には西域伝が有りますが
三国志には西域伝はなく、その代わり立てられたのが東夷伝であります。
司馬懿の好敵手の曹真(曹爽の父)が活躍したのが西域であり、
大月氏国と魏が友好関係になったという理由を加えても自然です。
しかし、大月氏国への距離、大月氏国の戸数に対比させるため、
東夷諸国の距離、戸数を大月氏国と同格にしなければ晋帝室の名誉にかかわります。
なにせ、東夷諸国の平定は、司馬懿並びに晋帝室にとって、司馬氏創業記念の地です。
倭人伝に限らず、東夷諸国の記事に誇張が多々あるのは、当然でありましょう。
348日本@名無史さん:2008/12/19(金) 18:53:51
サガミハラハラ氏のぼやきスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1152467000/l50
349日本@名無史さん:2008/12/20(土) 07:49:26
>>347
それで誰が得するの? もう死んでた人?
350日本@名無史さん:2008/12/20(土) 09:09:29
>>349

司馬氏ですよ。
司馬氏の祖先は代々周王室に仕えていたという誇りがありますからね。
祖先の出自が身分の低い、成り上がりの漢帝室や魏帝室なんぞより、
我が司馬氏は周以来の名門という自負を持っていたわけですから。
351日本@名無史さん:2008/12/23(火) 10:42:11
>>347 
>東夷諸国の距離、戸数を大月氏国と同格にしなければ晋帝室の名誉にかかわります。
司馬氏の功績を高めるために嘘の数字を書いた? 朝鮮半島へは軍隊まで派遣していて
大勢の者が実態を知ってんだぜ。数字をいじったら、すぐにばれて権威を失墜するだろ。
権威を高めるためなら、絶対にばれないようにするはず。少しは考えろよ。
352日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:57:20
>>351
陳寿は荀勗に左遷させられた理由をご存知ですかな?
353日本@名無史さん:2008/12/23(火) 16:38:20
>>352
あいにく荀勗とはつきあいがないんでね。岡田英弘のこじつけぐらいしか知らんな。
354日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:41:11
>>353
>あいにく荀勗とはつきあいがないんでね。

ちょwwwwwww
355日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:02:58
サガミ氏が立てたスレッド

日本書紀の年代を考える
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1229002826/
356日本@名無史さん:2009/01/17(土) 08:48:45
清水守民氏の北九州説には説得力がある。
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/
357日本@名無史さん:2009/01/20(火) 21:13:28
>>356
こんなインチキ話題にすんな。
おまえ、誰にも相手されないからって自作自演すんな。
358日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:59:45
邪馬台国は奈良県桜井市だよ。
359日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:47:55
サガミハラハラはどうした?!

スレ立て主が逃亡しては意味がないではないか!
360日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:31:30

へんじ が ない

ただの しかばね の ようだ

361サガミハラハラ:2009/01/28(水) 22:32:01
別に逃亡してはおりません。
小城甘木説にたいしての御批判弱点誤認等およせください。
362日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:48:12
>>361
まず最初にですが、「伊都国」=タク と読むのが理解できません。

伊 の文字はどう解釈されるのですか?
それとも、伊 は英語のTheのような「冠詞」という事ですか?

ご教示くださいませ。
363サガミハラハラ:2009/01/30(金) 10:04:28
伊都はイタと発音しました。
これと現代地名のタクとの関連はちとわかりません。(糸島半島にも多久がある)
イ(ヰ)のつく地名は出石、因幡、出雲、石見、壱岐、イト(リッシン遍に台と土)、伊邪(弥永の弥)、伊都とあります。
倭は古くはイ(ヰ)と発音していたので、これら地名のイ(ヰ)は倭国のという意味かもしれません。
都はタと発音し、国を意味するとのことです。
となると、伊都とは倭の中心国家であったとも解釈できます。
倭人伝においても伊都国だけ、邪馬台国以外で王が存在していたことは、かつての栄光を認められていたからでしょう。
364日本@名無史さん:2009/01/30(金) 18:52:45
「伊」の字は神の意志を伝える聖職者、あるいは治める人の意を表す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
365サガミハラハラ:2009/01/31(土) 07:11:26
中国からみて外国の地名等は当て字であり、意味とは原則無関係です。
よって、伊都国のイも適当な当て字であり聖職者等をあらわすものではありません。
ウィキをよんでみましたが、ひどいものですね。
もっと知識のあるひとが書くべきでしょう。
366日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:31:32
>>365
では、「国」を「ク」と読むあなたも同類ですね。
367日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:16:16
>>361
>小城甘木説にたいしての御批判弱点誤認等およせください。
投馬国や邪馬台国への日数を妙な読み方をしていることですね。
不弥国までの里数と投馬国や邪馬台国の日数は、基本的に同じ意味(距離の
表示)です。そこをごまかしては、真実は分かりません。
368日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:18:45
サガミハラハラ、またもや逃亡か。
369日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:00:49
佐賀】元教え子の16歳少年にわいせつ行為した女教師、「合意の上」だったので処分保留に★2
1 :出世ウホφ ★:2007/10/19(金) 18:29:19 ID:???0
女性教諭、処分保留に=元教え子へのわいせつ事件−佐賀

10月17日21時0分配信 時事通信
元教え子の男子高校生(16)にわいせつ行為をしたとして、佐賀県青少年健全育成条例違反で
逮捕された佐賀市立中学校の女性教諭(42)について、佐賀地検は17日、処分保留とした。
同地検は「倫理的、社会的に非難されるが、高校生を強引に連れ出したわけでなく、
合意の上での行為だった」などとしている。
一方、同地検は高校生との深夜同伴について、同条例違反罪などで教諭を略式起訴。
佐賀簡裁は同日、罰金10万円の略式命令を出した。 

最終更新:10月17日21時0分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071017-00000181-jij-soci

元ニューススレ
【社会】教え子の高校1年生にホテルでみだらな行為 女性教諭を逮捕…佐賀 [09/27]
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1190895228/l50

県警少年課と武雄署は27日、教え子だった佐賀市内の高校1年生の少年(16)にわいせつな行為をしたとして、
小城市小城町畑田、中学校教諭下村紀子容疑者(42)を県青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕した。
容疑を認めているという。
調べでは、下村容疑者は25〜26日にかけて、少年が18歳未満であることを知りながら、唐津市内の
ホテルでわいせつな行為をしていた疑い。今年3月ごろから数回にわたり、関係していたという。

2007年09月27日20時49分 朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0927/SEB200709270002.html
370日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:11:49
サガミはほんとに逃亡したままだな。死んだんか?
371サガミハラハラ:2009/02/08(日) 20:07:08
今曲学の徒さんのHPの掲示板で太国さんと死闘をくりかえしております。
372日本@名無史さん:2009/02/09(月) 08:09:01
>>371
もうねアホかとバカかと。
373サガミハラハラ:2009/02/09(月) 20:27:44
まあそう言わず、あなたも参戦してくださいよ。
374日本@名無史さん:2009/02/10(火) 02:10:28
曲学の徒さんのHPって何?
375日本@名無史さん:2009/02/10(火) 08:07:39
>>373
太国なんてのと論戦したところでねえ。。。

そうそう、サガミハラハラさん、
「周防娑婆」「佐波氏」について調べたことがありますか?

桜ヶ岡の前の地名「娑婆岡」の由来がわかりますよ。

ちなみに娑婆(しゃば)はサンスクリット語でsaha(サハー)の当て字ですが、
saha(サハー)の本来の意味は「大地」「陸地」「大陸」と言う意味ですが、

インド仏教で「この世は苦しみに満ちた世界」と定義したために
本来の意味から外れて曲解されてしまった言葉です。

せめてサンスクリット語の辞典などで本来の意味を調べてから発言してください。
376サガミハラハラ:2009/02/10(火) 10:02:10
つまり、娑婆とはモガリを行うまたは行ったところということですね。

娑婆となづけた当時のひとが、本来の意味を正確に理解していたのかということになります。
377サガミハラハラ:2009/02/10(火) 12:04:37
曲学の徒さんのHPは
「日本建国史」です。TOPの黄色い枠内の掲示板をクリックしてください。
古事記の崇神崩御年は---の項目です。
378日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:11:35
>>376
サガミハラハラさん、
周防の佐波(さば)一族がどういった経緯で九州に来たのか、
そして佐波一族がどこに布陣したのか、分かってますか?
379サガミハラハラ:2009/02/10(火) 21:06:06
その件初耳です。よろしくご教授ください。
380日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:44:48
>>379
佐波氏 で調べればいろいろと出てきますが。
381サガミハラハラ:2009/04/17(金) 07:30:05
周尺1里67.5mで伊都国の位置を検討しているのであるが、唐津から東南500里の多久市中小路には該当するような遺跡がない。
田に本茂氏によると、周ヒ算経を研究して周里76〜77mを出したというが、これだと多久盆地の巨大遺跡である
牟田部遺跡になるのであるがどうであろう。検討してみる価値がありそうである。
382日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:12:05
>>374
おまえ、そんなのも知らなくてよくも参加してるな。
383サガミハラハラ:2009/05/19(火) 20:21:50
さる5月17日に宇佐神宮で開かれた「第5回全日本邪馬台国論争大会」ですが、参加されたかたおられましたら
様子を教えてください。できましたら詳しくお願いします。
384日本@名無史さん:2009/06/02(火) 11:43:43
385日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:33:07
× 田に本茂氏

○ 谷本茂氏
386サガミハラハラ:2009/06/14(日) 13:26:35
夏が来ると思い出す。
抜けるように青い空、強い日差しの中、一面の青田の中に
それはあった。
農道にはまるでしきつめたように弥生土器が散乱していた。ここには巨大遺跡が存在したのだ。

私が邪馬台国の都の一端にたっしたのは平成12年の8月12日のことであった。
今年もまたあの暑い夏の日が来る。
387サガミハラハラ:2009/06/14(日) 13:28:54
上記の平成12年は平成3年の間違いです。
失礼いたしました。
388日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:28:33
こんなの見つけたhttp://www.catv296.ne.jp/~sensyo/yamataikoku-yasumotosetu.htm
参考になるぞ
389サガミハラハラ:2009/07/13(月) 07:28:34
安本先生は、甘木・朝倉説と称しているが、朝倉市甘木であるから朝倉甘木とするのがよいとおもうのであるが。
私の説は小城市甘木であるから、小城甘木説と称しているのであるが。
どちらにしろ、邪馬台国の都は天城という地名のところにありそうですね。倭人伝の旁国も含めて、
九州では王の住むところを甘木(アマは天子のことキはおられる所の意)といっていたようです。
390サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:41:42
11月8日 九周国立博物館開館4周年記念特別展でアマチュアの発表会(邪馬台国の)があるらしい。
またつまんないところが邪馬台国だと篤くかたるんだろうな。
もう決着がでているというのに。
しかも邪馬台国小城甘木説を知っている人が二人もでるようだ。どこを邪馬台国と主張する気だろう。
391日本@名無史さん:2009/11/14(土) 07:16:25
あっそう
392日本@名無史さん:2009/11/15(日) 18:38:06
九州説って九州でしか発表の場が無いのかなwww
393日本@名無史さん:2009/11/15(日) 18:58:46
俺は佐賀だけど位置的に小城が邪馬台国はありえないと思う。
394日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:07:00
邪馬台国「四国・徳島」説
http://www.youtube.com/watch?v=O3fHE7Kn4Qc
395日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:18:30
>>392はいそうです。他は纏向邪馬台国一色です。
396日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:53:41
文献中心の小城甘木説、考古中心の纏向説の2極化となっています。
しかし、纏向の方は大型建物とはいっても、邪馬台国とか卑弥呼とかをあらわすものはなにもないですね。
397日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:28:51
>>395
それは事実誤認。
四国説も有力だよ。
398日本@名無史さん:2009/12/26(土) 18:26:52
まあ、見てると、無罪がわかりきった事件を先輩の面子を保つために、
証拠を捏造までする検察、警察と同じように見えるw

80年前ぐらいだったのか、出土が乏しく、分析科学も未発達だった当時、
直木とか言う京大の先生が三角縁・・・説を出しちゃった(w)

直木の弟子が直木を守り、直木の弟子の弟子はその師を守る・・・
うそにうそを重ねて
これが80年近くくりかえされてきた

考古学教室は京大にしかない
大手新聞の記者も含めて日本の考古学関係のポストは
全て京大の考古学教室が握っている
「茶色の巨塔」とでもいうべきか

考古学教室が東大にもなかったのが日本の不幸をもたらした
東大も、昔、法医学教室が同じワルさをしたが
京大考古学教室、厚生省、検察、東大法医学教室・・官僚という意味で何の変わりはありはしない

まあ、当分は、このまま世の中をだまし続け、
あと何10年たってホトボリがさめるころ
九州説がいつのまにか当然になってるんだろう

NHK教育なんかで、今やっと昔の三鷹事件の無罪の証拠が少しづつひっそりと語られ始めている

399日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:53:06
九州説論者は大嘘つきだという良い見本だな

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E
400日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:55:28
ついでにこっちも貼っておくか

ttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/archaeology/
401日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:42:34
  
402日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:48:55
純度99・3%の象嵌太刀が造れる 先進国ヤマタイの技術? まさか魏王様のプレゼントだったとは

403日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:16:44
あけましてヤマタイ
404日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:13:50
純金もみけしサヨクあげ
405日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:38:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
406銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:34:17
  【▲矛圏】
『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝と司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
(▲傍流)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(物部系)の「邪馬壹(連合国)」
西暦247年3月24日の「日の入り時の日食」=【卑弥呼=壹与の死を揶揄】
⇒《筑紫平野・久留米高良山(天武が築いた、神籠石あり)》

西暦247年崩壊【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、東行百里の「不彌国」=【魏の城塞都市(木柵)・吉野ヶ里】
「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」=『魏志倭人伝(通称)』
 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
=【ガラス管と剣が副葬の「1002号墳」が卑弥呼(難升米)の墓・径百歩】


  ▲卑弥呼の都・直接統治国「壹国(薩摩)★倭国は極南界」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

407銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:35:14
【▲矛(→▲剣)圏・倭国(九州筑紫王朝)・物部氏】、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、一旦滅亡。
「日出處天子(南朝の後継を名乗った、泉蓋蘇文=天武)致書日没處天子(北朝・隋の煬帝)無恙〜」
「倭王・多利思比孤」=【『万葉集』の「軍王」、のちに、天武天皇】は、こちら側。
天武は、(復活)倭国王。

以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
  《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。

  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
《計・万五百里》=「伊都国(いづら)」。
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
        卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。
408銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:39:34
邪馬台国・【銀河秋彩説】

 【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕
=(臺倭=大倭国→日本国)大和朝廷】側

  【●鏡圏】
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
 (●本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】こちらが【のちの大和朝廷(いわゆる天皇家)】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】

  ●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春(河内王陵の辺り)
  ≒現京都郡みやこ町御所ケ谷(台与以後の、推古天皇代に神籠石を築く)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm

幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 −254年)の
在位が短く、晋側の(邪馬壹→)倭国(山の井)に再び覇権が戻った為、邪馬台国の覇権も短かった。

以後東晋末期西晋265年司馬炎に朝貢する。
以降、「白村江(はくすきのえ)の戦い」が終わるまで、「邪馬壹」の後身・倭国側に覇権。
409銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:41:08
  【邪馬台国の後身・大和朝廷】

【鏡圏・イ妥国(臺国・九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)

  【(裏は)大倭国・九州近江(&豊国)王朝・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】=『万葉集』より
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝、・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝(曹芳)・中国北朝】を下に曳いている。

曹芳(そう ほう、ピン音;Cao F?ng、232年 - 274年)は、字は蘭卿。
三国時代の魏の第3代皇帝(在位:239年 - 254年)で、通常は「斉王芳」と呼ばれる。
410河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/01(月) 21:16:08
ZANさん み〜つけた。
411サガミハラハラ:2010/05/07(金) 13:46:34
邪馬台国小城甘木説のレスです。
412日本@名無史さん:2010/05/07(金) 14:36:34
何で日野市に?下九沢のほうが税金安いでしょ。
413サガミハラハラ:2010/08/27(金) 16:48:53
>>412
なにね、いろいろありましてね。
ここが終の住みかとなりそうです。
414日本@名無史さん:2010/08/30(月) 00:48:21
日野市って年金を全く納めていない在日に
全額支給してるんだっけか
415サガミハラハラ:2010/08/30(月) 08:44:35
きたばかりでそのこと知りませんでした。
違法ならさっそく抗議したいと思いますので、抗議に行ったり訴訟になってもかてるだけの証拠情報を教えてください。
416コラム2:2010/08/30(月) 14:51:01
邪馬台国は宮崎平野にあったと思います。
魏志倭人伝が正しいとすれば、そうなります。一度にその理由を書き込めないので
ので、佐賀平野には伊都国があったと言うことから書き込みます。
伊都国は一般に「糸島」と言われていますが。間違っているとしか思えません
奴国も福岡市と言われていますが、これも間違っている事になります。
その理由@
一大国(壱岐)から末盧国(松浦)に着いて、更に末盧から東南へ陸を行く事500里
で伊都国に着くとなっています。
伊都国を糸島とすると、なぜ陸行で500里も歩かなければいけないのか?
一大国(壱岐)から船で直接、糸島にいけます。さらに一大国(壱岐)から博多湾に入れば
奴国(福岡市)にも行けます。なのにわざわざ陸行する必要があったのか?
これはやはり、魏志倭人伝を信じて末盧国(松浦)から東南に500里(1里=100メートル前後として)
いくと佐賀平野になります。
理由そのA
福岡の志賀島から「漢委奴国王印」が発見されました。後漢の時代のものですが。
時代は「魏」の前時代ですから国名は同じとしますと。
一般に「漢に親しむワ(倭)のナ(奴)の国王印」と読まれています。が
これは「漢に親しむ委奴(イドorイト)の国王印」と読むのではないでしょうか。
とすると、糸島〜福岡市あたりはイト国(委奴国)があったのではないでしょうか。
そして、倭国連合に属さない国と考えます。朝鮮系?狗邪韓国系?
伊都国を糸島にしたのは誤りで、糸島は委奴国(イドorイト)だったのではないでしょうか。
同じ読みかををする国は他にもあります。倭人伝にソナ国(姐奴国・蘇奴国)
理由そのB
日本書紀(第8巻仲哀天皇)には、伊覩県(イトノアガタ)についての記載があります。
AD400年頃、神功皇后が五十迹手(イソテ=人)の働きをほめて、その国を
伊蘇国(イソ国)と呼んだが、今は(日本書紀の発刊時720頃)誤って
伊覩と呼んでいる。・・・とあります。
その後756年〜768年にかけて糸志摩に怡土城(イト城)が中国式山城として
きずかれています。
よって、伊都国は今の糸島に比定してしまう事に疑問があります。
417コラム2:2010/08/30(月) 22:28:39
サガミハラハラさん何か言って。
勝手に先に進みます。甘木説について。
甘木付近は、魏志倭人伝に出てきます。「女王国より北の国は記載できる。」の中の
巴利国(ハリ)じゃないでしょうか?今の地名では「杷木」あたりではないでしょうか。
なお、甘木付近には大和郷(奈良)とよく似た地名が数多くあります。
また、地理的位置関係のよく似ています。
具体的には、甘木付近名(大和名)の順で似た地名をランダムに記載します。
筑前高田(大和高田)朝倉(朝倉)香山(天の香山)池田(池田)三井(三井)
鷹取山(高取山)笠置山(笠置山)御笠山(三笠山)長谷山(長谷山)山田(山田)
田原(田原)久留米(久米)玖珠(国樔)加美(賀美)雲堤(雲梯)三輪(三輪)
春日(春日)野方(額田)平群(平群)などなど。90箇所ほどあると言われています。
九州説だと甘木付近が邪馬台国だと言いたいくらいです。
しかし、魏志倭人伝に従うと地理的に合わなくなってしまします。
418コラム2:2010/08/30(月) 22:29:19
そこで、神武天皇の東征を「記紀」に読みます。
古事記=日向を出発し筑紫に行く。途中、豊国の宇佐により、その地より移りて
    筑紫の岡田宮に1年、それから安芸の国のたぎりの宮に7年、それから吉備の国の
    高島宮に8年。・・・となっている。
日本書紀=日向を出発し速吸の門(豊後水道?)筑紫国(?)の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。
     その次に安芸国の埃の宮に到る。それから吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。・・・とあります。

神武東征が有ったとすれば、東征の為の兵士を募ったと思います。邪馬台国より北の国21カ国。
投馬国、奴国(2度でてきますが)、伊都国、不弥国、一大卒。九州の軍勢を整えるの筑紫に滞在して。1年くらい
かかったのではないでしょうか。モチベーションを高め、連帯感を高め。意義深い滞在だったのではないでしょうか。
畿内に政権を樹立したときに、この筑紫滞在の人材を政治高官にしたはずです。権力中枢で畿内(大和)の
地名選定をするとき、その共通認識を筑紫時代(朝倉、甘木、杷木、久留米)に置いて、地名にしたのではないでしょうか?
勿論、想像に基ずくものです。
吉備、安芸も支配下にして(出雲の支配下には少してこずっています)畿内に東征したのだと思います。
畿内の方が人口も多く、今となれば文化遺産(3世紀後半〜4世紀前半)も多く。九州より都会(?)だったかも
しれません。しかし、戦は戦慣れした兵士(倭大乱)と武器によってするものです。3世紀後半〜4世紀前半の武器が九州で多く
畿内で少く発見される事実はどうしようもありません。
これは、明朝(漢民族が数億人)を清朝(満州にいた女真族60万人)が征服したことにも伺えます。
419サガミハラハラ:2010/08/30(月) 23:43:17
朝倉周辺の畿内と似た地名については、畿内の地名を九州の朝倉あたりに移植したものだと思います。
後世でも、地方豪族のなかには、京になぞらえて、地元の地名をつけたりということがよくみられます。
420コラム2:2010/08/31(火) 00:51:39
書き込み拝見。
畿内(大和郷)=奈良盆地は関西の航空地図を見ると良く分かりますが。
東西20km南北に30km程でしょうか?そして一国なのです。
その一国の地名が、九州ではもっと広範囲になります。
筑紫(杷木、甘木、朝倉、久留米)と特定しましたが。地名としてはこの範囲に
収まりません。
筑後川沿いの平野を見てみますと、東西30km南北35km程(佐賀平野は含まず)
あります。この範囲を一国の地方豪族が収めたとは言い難い。
伊都国から東南100里(約10km)で奴国。東へ100里で不弥国と100里を
隔てて国があることがわかります。
少なくとも、6国は考えられます。
あくまで、魏志倭人伝からですが。
躬臣国(クシ国)=玖珠。巴利国(ハリ)=杷木。不弥国=久留米。奴国=八女、柳川、大川あたり
支惟国(キイ)=基肄(きい)城付近(筑紫野市、大宰府)。鳥奴国(ウナ)=鳥栖市
これらの国から選定地名なのです。
421コラム2:2010/09/01(水) 20:08:32
神武東征の事は主旨と異なりますね。邪馬台国の比定に限定しましょう。
魏志倭人伝より、行程表を漢文のまま記載します。
@至倭循海岸水行歴韓国乍南東到其北岸狗邪韓国七千餘里
A始度一海千餘里至對馬国
B又南渡一海千餘里名日瀚海至一大国
C又渡一海千餘里至末盧国
D東南陸行五百里到伊都国
E東南至奴国百里
F東行至不弥国百里
G南至投馬国水行二十日
H南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月

畿内説は@〜Hを連続読み(方角がでたらめ、距離も疑問あり)
九州説は放射読みをしなければ、東シナ海上に出てしまいます。
放射読みの根拠は「到」と「至」の使い分けです。
狗邪韓国と伊都国に行くには、到るになっています。
422コラム2:2010/09/01(水) 20:10:10
そして、A〜Cまでは始度や又で文をつないでいます。D・・到伊都国
は「到」で締めくくる。連続読みで良いと思う。
E〜Hは始度や又で文をつないでない。
更に、Eを読むと。東南に奴国があるよ、100里かかるよ。
と言うふうになります。表現の仕方が@〜Dまでと異なる。
更に、E〜Gまでは、距離と戸数、長官と副官だけの情報になります。
伊都国に居る、帯方郡の常駐使者か一大率にでも聞けば分かるような
簡素な情報である。A〜Cでは草深いとか、良く潜るとか、田は少ない
など風俗が記載されている。E〜Gは行っていないと推測できる。
Hの邪馬台国になると、やたらと詳しくなります。特に、
「キョウ、橘、山椒、茗荷はあるが食べて美味しいのを知らない。」は、
行かないと分からない情報になっている。そもそも橘など冬が寒い
奈良盆地に自生していたか疑問。楠木もしかり。蛇足。
さらに蛇足。投馬国は薩摩半島にあった国。蘇の付く国が3箇所出てきますが、阿蘇山の麓の国と思っています。すると桜島や阿蘇をみて
珍しいから、火を噴く山があるとか記載するでしょう。
行程としては伊都国から邪馬台国に直行している。E〜Gは国々ありを
放射的に説明しているだけ。クライマックスは邪馬台国だが。
そもそも魏志倭人伝の正式な呼称は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」で
ある。「魏国の本で、国より東にある夷な所の(儒教に組しない野蛮な、
朝鮮も含む所の)倭人編」と言う程の意味。倭の紀行編であり、
邪馬台国の紹介編じゃない。倭・倭人と表記しても倭国とは一度
も表記されていない。30国が朝見にくる倭人が住む所の総称が
倭である。曹操の後の皇帝にヒネモス暇話として語った事であろう。
詳細は邪馬台国の風俗に(これは現代でも面白い紀行文ですね。)
なんとも、わが国は文字も知らず、草深い鄙なる島国だったことか。
三度、蛇足。
423コラム2:2010/09/01(水) 21:53:25
伊都国からそれぞれ放射読みすると。

●伊都国 ➝ 東行100里 ●不弥国(久留米ro朝倉夜須町あたり)
↓   ↘ 東南行100里 ●奴国(八女 柳川 大川 筑後あたり)

南へ水行10日(後で述べますが、熊本平野を遠ざけて沖乗りした。)
↓     (島原半島から天草諸島を手漕ぎの舟でどんぶらこっと)        
(八代or水俣or出水か?)
↓  ↘
↓  陸行一ヶ月(末盧国で言う「草木多く前行く人も見えない」獣道
↓    ↘   を霧島山系(えびの高原=標高1200m)を縫う
↓     ↘  ようにして。)
↓      ●邪馬台国(宮崎平野のどこかに) 

南へ水行10日
●投馬国(薩摩半島のどこかに)

ここで、伊都国の情報を記載します。
千戸余りが住んでいて、代々王がいるが、皆女王国に統属しいている。
魏の地方官で帯方郡(今のソウル付近)の使者が常駐している所
女王に属する国々を検察するために、常に一大率をおいて統率している。
諸国はこれを畏れている。
一大率は女王が魏都や帯方郡、諸韓国へ見朝に使わす時
帯方郡の使者が倭を訪問した時、大勢で港に出迎え文書や
贈り物を調べて届けさせる。
424コラム2:2010/09/04(土) 00:55:15
相模原腹さんへ。
邪馬台国を宮崎と比定して、小城甘木説を否定しょうと思ったのですが、
あまりのも狭義過ぎてあほくさくなりました。
もう少し、大らに読めませんか。
あきらかに距離の表示はいい加減ですよ。狗邪韓国から対馬、壱岐末廬を全て
1000余里で終わらせる倭条ですよ。あきらかに違うと言うことぐらい
どんなに素人でも解ることです。
狗邪韓国をどこだと比定しているのか?北岸をどう処理しているのか?
北岸でしょう。巨済島(朝鮮国)とか馬韓海峡(下関)とか言ってほしかった。
せめて「『三国志』魏書東夷伝・韓伝」も読んでほしかった。
尺度はどうでもいいのです。里=68mでも、67.5mでも4kでも。
参考までに、「『三国志』魏書東夷伝・韓伝」から韓国を説明した文章を紹介
して、このスレから撤退します。
韓国は帯方郡の南にあって、東西は海に限られ、南は倭と接し。その広さは
縦横4000余里とありますよ。対馬の船越は舟を担いで渡ったので船越。
古文をもう少し読み込んでくれ。記紀もふくめて。
神武なんて、BC600年の人とされて居る。時代が合うはずがない。
考古学は想像力。畿内説のように地面を掘りくりかえして、親魏倭王印でも
探せばええねん。そんなもん持ち運べるやろ。魏が滅んだときに価値が無くなる。
本当に価値があるのは、
邪馬台国の使者(率善中郎将)がもらった印綬に価値があるんちゃいまっか?
さよなら。
425日本@名無史さん:2010/09/04(土) 01:44:24
八代に国が明記されてないってちょっと考えられんな
426日本@名無史さん:2010/09/04(土) 06:34:36
神武東征にこだわる奴ほど、神武東征がなんなのか理解していない。
神武東征にあたって、ワカミケヌ(神武天皇)の大義名分が何なのか?
それを理解しないといけない。
かれは、私の先祖は、大阪湾からみて東の
葛城地方(高天地方)にあると告白している。
427日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:59:34
神武東征は植民の歴史
葦原中つ国平定ののち、しばらくの平和が訪れ、増えすぎた人口が北九州から
東へ流入しはじめた。神武の家系はまず南九州へ移住し、熊襲と交わったのちに
ヤマト(山門)へ移住したため、天孫降臨と神武東征を区別して描いている。
植民としては後期に当たり、初期植民者と入植について争った。

428日本@名無史さん
>あきらかに距離の表示はいい加減ですよ。狗邪韓国から対馬、壱岐末廬を全て
>1000余里で終わらせる倭条ですよ。あきらかに違うと言うことぐらい
>どんなに素人でも解ることです。
何を言いたいのか、はっきりせんな。何が明らかに違うというんだ?